瀬戸の島から


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神野神社 満濃池堰堤の背後の岡に鎮座
満濃池の堰堤の背後の岡に、神野神社が鎮座します。この神社の古い小さな鳥居からは眼下に広がる満濃池と、その向こうに大川山が仰ぎ見えます。私の大好きな場所のひとつです。

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神野神社からの満濃池と大川山
 この神野神社は延喜式の式内神社の論社(候補が複数あり、争論があること)でもあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴 象頭山八景(1845年)

この神社は、上の絵図のように戦後までは満濃池の堰堤の西側にありました。江戸時代には「池の宮」、明治当初は「満濃池神」と呼ばれてきたことが残された資料からは分かります。神野神社と呼ばれるようになったのは、明治になってからのようです。どうして、神野神社と呼ばれるようになったのでしょうか。そこには、式内社をめぐる争論が関わっていたようです。

P1160049 神野神社と鳥居
神野神社の説明版
 神野神社について満濃町誌964Pには、次のように記されています。
①伊予の御村別の子孫が讃岐に移り、この地方を開拓して地名を伊予の神野郡に因んで神野と呼び、神野神社を創祀したという。②これに対して神櫛王又はその子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社であるともいわれている。二つの説は共にこの神社が、この土地の開拓に関係のある古社であることを物語っている。③更に神野神社は、満濃池地の湧泉である天真名井に祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社であるという説がある。
 ④808(大同三)年に矢原正久が、別雷神を現在地の東の山上に加茂神社として祀ったのは、満濃池地を流れていた金倉川の源流を鎮め治めるためであったと思われる。821(弘仁十二)年に空海によって満濃池の修築が完了したので、嵯峨天皇の恩寵に感謝した村人が、嵯峨天皇を別雷神と共に神野神社の神として祀ったと伝えられる。
 ⑤その後「讃岐国那珂郡小神野神社」として、式内社讃岐国二十四社の一つに数えられるようになった。『三代実録』によると、正六位上の位階を授けられていた萬農池神が、881(元慶五)年に位階を進められて従五位下になっている。満濃池築造後は、祭神はすべて池の神として朝廷の尊信を受けたのである。
⑥1184(元暦元)年に満濃池が決壊して後も、この地の豪族であった矢原氏の歴代の人々が、山川氏の人々と共に神野神社を崇敬して社殿の造営を行ってきた。現在、神野神社の社宝として伝えられている金銅灯寵の笠(第二編扉写真参照・室町時代に作られた)にその期間の歴史が刻み込まれている。
⑦1625(寛永二)年、生駒氏の命によって満濃池の再建工事に着手した西嶋八兵衛は、まず「池の宮」の神野神社を造営し、寛永八年に満濃池の工事が完成して後は、神野神社もまた「池の宮」としての威容を回復したのである。
⑧その後、1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われ、
⑨1953(昭和28)年の満濃池の大拡張工事で、池の堤に近い山の上の現在地に移転したのである。
⑩その間に、1869(明治二)年からの満濃池再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門と、榎井村庄屋長谷川佐太郎の二人を祀った松崎神社を、神野神社の境内に建立した。
⑪現在の神野神社は満濃池を見下ろす景勝の地にあって、弘法大師像と相対している。
社前には、1470(文明二)年に奉献された鳥居(扉写真参照)が立っている。
神宝として伝えられている宗近作の短剣は、宝暦十一年の幕府巡見使安藤藤三郎・北留半四郎・服部伝四郎の寄贈した大和錦の鞘袋に納められている。
以上から読み取れることを要約しておくと次の通りです。
神野神社の創建については、次の3説が紹介されています。
①伊予からの移住者が伊予の神野郡にちなんで神野と呼び、神野神社を建立した
②神櫛王の子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社
③満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社

①の「神野」という地名については、古代の郷名には登場しないこと
②神櫛王伝説は、綾氏顕彰のために中世になって創作されたもので古代にまで遡らないこと。
以上から③の民俗学的な説がもっとも相応しいものように私には思えます。

④空海の満濃池改築以前に、矢原氏が賀茂神社や神野神社を建立していた
⑤「神野神社」が古代の式内社であった
⑥中世の「神野神社」は。矢原氏によって守られてきた。
⑦江戸時代になって生駒藩の西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された。
⑧堰堤改修に合わせて池の宮も改修が行われてきた。
⑨1953年の昭和の大改修で、現在地に移された
⑩明治の再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門や榎井村庄屋長谷川佐太郎などが合祀された

以上をみると、満濃町史に書かれた神野神社の由来は、別の見方をすれば矢原家の顕彰記でもあることが分かります。
④⑤⑥では、満濃池築造以前から矢原氏がいたこと、古代から矢原氏などの信仰を受けて神野神社が姿を現し、式内社となっていたとされます。
ダムの書誌あれこれ(17)~香川県のダム(満濃池・豊稔池・田万・門入・吉田)~ 2ページ - ダム便覧
満濃池史22Pは、空海と矢原氏の関係を次のように記します。

空海派遣の知らせを受けた矢原氏は空海の下向を待った。『矢原家々記』によると、空海は弘仁十一年四月二十日に矢原邸に到着している。空海到着の知らせを受けた矢原正久が屋敷のはずれまで空海をお迎えに出たところ、空海は早速笠をとり、「お世話になります。池が壊れてはさぞお困りでしょう。工事を早く進めるつもりです。よろしくお願いします」そう丁寧に挨拶をされたという。正門も笠をとってから入られたということで、それ以来、矢原家の間をくぐるときは、どんなに身分の高い方でも笠をとってから入ることになったという話が伝えられている。空海が到着したとき、築池工事は既に最後の段階に近づいており、川を塞き止めて浸食谷の全域を池とする堤防の締切工事だけが残っていたと考えられている.
 
 ここでは後世に書かれた『矢原家々記』の内容を、そのまま事実としています。ここから読み取れることは、矢原家が空海との結びつきを印象付けることで、自分たちの出自を古代にまでたどらせようとしている「作為」です。古代に矢原氏がこの地にいたことを示す根本史料は何もありません。後世の口伝を記した『矢原家々記』を、そのまま事実とするには無理があります。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池下の矢原家住宅と諏訪明神(讃岐国名勝図会)
矢原氏は、近世の満濃池池守の地位を追われた立場でもあります。そのため満濃池の管理権を歴代の祖先が握っていたことを正当化しようとする動きがいろいろな所に見え隠れします。そのことについて話していると今日の主題から離れて行きますので、また別の機会にして本題に帰ります。
まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 寛永年間(1624~45年)
池の宮が最初に登場するのは、上の絵図です。
これは1625年に西嶋八兵衛が満濃池再築の際に、描かれたとされるものです。ここには、堤防がなく、④護摩壇岩と②池の宮の間を①金倉川が急流となって流れています。そして、堰堤の中には「再開発」によって、⑤池之内村が見えます。②の池の宮を拡大して見ます。
池の宮3
            満濃池営築図の池の宮
よく見ると②の所に、入母屋の本殿か拝殿らしき物が描かれています。鳥居は見えません。ここからは由緒には「西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された」とありますが、池の再築以前から池の宮はあったことになります。
 ③には由来の一つに「満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社」とありました。中世に再開発によって生まれた「池之内村」の村社として、池の宮は「水の神を祀る神社として、中世に登場したのではないかと私は考えています。それが満濃池再築とともに「満濃池神」ともされます。こうして、満濃池の守護神として認知され、満濃池の改修に合わせて、神社の改修も進められるようになります。それを由緒は、「1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われた。」と記します。しかし、近世前半に満濃池が描かれた絵図は、ほとんどありません。絵図に描かれるようになるのは、19世紀になってからのことです。満濃池が描かれた絵図を「池の宮」に焦点を当てながら見ていくことにします。

金毘羅山名勝図会2[文化年間(1804 - 1818)
満濃池 (金毘羅山名所図会 文化年間1804~19)
この書は、大坂の国文学者石津亮澄、挿絵は琴平苗田に住んでいた奈良出身の画家大原東野によるものです。『日本紀略』や『今昔物語集』を引用し、歴史的由緒付けをした上で広大な水面に映る周囲の木々や山並み、堰堤での春の行楽の様子を「山水勝地風色の名池」と記します。上図はその挿絵です。東の護摩壇岩と西側の池の宮の間に堰堤が築かれ、その真ん中にユルが姿を見せています。その背後には、池面と背後の山容が一体的に描かれます。添えられた藤井高尚の和歌には、次のように詠われています。

 「まのいけ(満濃)池の池とはいはじ うなはらの八十嶋かけてみるこゝちする」
 金毘羅名所図会 池の宮
満濃池池の宮拡大 (金毘羅山名所図会)
池の宮の部分を拡大して見ると、堤防から伸びた階段の沿いに燈籠や鳥居があります。その後に拝殿と本殿が見えます。こうして見ると、
本殿や拝殿の正面は、池ではなく、堰堤に向かって建っていたことが分かります。ここでは、滝宮念仏踊りの七箇村組の踊りも、滝宮に行く前に奉納されていたことは、以前にお話ししました。


満濃池遊鶴(1845年)2
象頭山八景 満濃池遊鶴(1845年)
この時期の金毘羅大権現は、金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石畳や玉垣などが急速に整備され、面目を一新する時期でした。それにあわせて金光院は、新たな新名所をプロデュースしていきます。この木版画も金堂入仏記念の8セットの1枚として描かれたものです。 これを請け負っているのは、前年に奥書院の襖絵を描いた京都の画家岸岱とその弟子たちです。ここには、堤の右側に池の宮、その右側には余水吐から勢いよく流れ落ちる水流が描かれています。満濃池の周りの山並みを写実的に描く一方、池の対岸もきちんと描き、池の大きさが表現されています。後の満濃池描写のお手本となります。ちなみに、次の弘化4年(1847)年、大坂の暁鐘成の金毘羅参詣名所図会は、挿絵作家を連れてきていますが、挿絵については上の「象頭山八景 満濃池遊鶴」の写しです。本物の出来が良かったことの証明かも知れません。 
img000027満農池 金毘羅参詣名所図会
 金毘羅参詣名所図会 弘化4年(1847)
この絵からは、やはり鳥居や本堂は堰堤に向いているように見えます。そして地元の出版人によって出されるのが「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)です。

満濃池(讃岐国名勝図会)
満濃池「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)
梶原藍渠とその子藍水による地誌で、1854年に前編5巻7冊が刊行されますが、後は刊行されることなく草稿本だけが伝わることは以前にお話ししました。俯瞰視点がより高くなり、満濃池の広さが強調された構図となっています。これを書いたのは、若き日の松岡調です。彼は明治には讃岐の神仏分離の中心人物として活躍し、その後は金刀比羅宮の禰宜となる人物です。
 次の絵図は嘉永年間の池普請の様子を描いたものです。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池普請図(嘉永年間 1848~54)
この時の普請は、底樋を石材化して半永久化しようとするものでした。しかし、工法ミスと地震から翌年に決壊して、以後明治になるまで満濃池は姿を消すことになります。右の池の宮の部分を拡大して見ます。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(池の宮) - コピー
満濃池普請図 池の宮拡大部分 嘉永年間
ここにも燈籠や鳥居、そして拝殿などが見えます。同じ高さに池御領の小屋が建てられています。この後、堤防は決壊しますが
  次に池の宮が絵図に登場するのは、明治の底樋トンネル化計画の図面です。
軒原庄蔵の底樋隧道
満濃池 明治の底樋トンネル化図案
底樋石造化計画が失敗に帰した後を受けて、明治に満濃池再築を試みた長谷川佐太郎が採用したのが「底樋トンネル化案」でした。それまでの余水吐の下が一枚岩の岩盤であることに気づいて、ここにトンネルを掘って底樋とすることにします。その絵に描かれている池の宮です。
長谷川佐太郎 平面図
明治の満濃池 長谷川佐太郎によって底樋が西に移動した
ここでは、それまで堰堤中央にあった底樋やユルが、池の宮の西側に移動してきたことを押さえておきます。
大正時代のユル抜きの際の3枚の写真を見ておきましょう。

ユル抜きと池の宮3 堰堤方面から
大正時代の満濃池ユル抜き
堰堤の西側に拝殿と本殿がつながれた建物があります。あれが池の宮ようです。堰堤には、ユル抜きのために集まった人達がたくさんいて、大賑わいです。

池の宮2
大正時代の満濃池のユル抜き風景
角度を変えて、池の宮の上の岡から移した写真のようです。左側が堰堤で、その右側に池の宮の建物と森が見えるようです。拝殿が堤防に併行方向に建っているように見えます。手前下で見物している人達は笠を指しているので雨が降っているのでしょうか。そのしたに流れがあるようにも見えますが、余水吐は移動して、ここにはないはずなのです。最後の一枚です。

大正時代のユル抜き 池の宮
大正時代の満濃池のユル抜き風景と池の宮
手前の一番ユルに若衆がふんどし姿で上がっています。長い檜の棒で、ユルを開けようとしています。それを白い官兵達が取り囲んで、その周りに多くの人達が見守っています。背後の入母屋の建物が池の宮の拝殿だったようです。明治以後、1914年に赤レンガの取水塔が出来るまでは、こうして池の宮前でユル抜きが行われていたようです。取水塔ができてユルは姿を消しますが、池の宮は堰堤の上にあったのです。それが現在地に移されるのは、戦後のことです。そして、池の宮の後は、削り取られ更地化されて、湖面の下に沈んでいったのです。
今日はこのあたりにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池名勝調査報告書 2019年3月まんのう町教育委員会



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地元の研究者を招いて、小さな講演会兼学習会を2ヶ月に一度開いています。今回のテーマは「讃岐鉄道と明治の近代化」です。講師の松井さんは、社会人として香川大学の大学院に入られて、このテーマについて研究を重ねて論文を出された方です。濃いお話が聞けるはずです。会場はまんのう中学校に隣接する建物です。興味があり、時間的に都合の付く方の参加を歓迎します。

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琴平と高松の人達を案内して、満濃池を「散策学習」することになりました。そのために説明に使う絵図をアップしておきたいと思います。これらの絵図をスマホで見ながら、説明等を行いたいという目論見です。まず、ため池の基本的な施設を確認しておきます。

ため池の施設
ため池の施設
蓄えた水は、③ユル→② 竪樋→③底樋→④樋門を通じて用水路に流されます。また、満水時のオーバーフローから堤防を守るための「うてめ(余水吐け)」が設けられています。

 底樋1
              仁池の底樋

現在のため池に使われている底樋です。コンクリート製なので水が漏れることもありませんし、耐久性もあります。しかい、江戸時代はこれが木製でした。満濃池の底樋や 竪樋の設計図が残されています。

満濃池底樋と 竪樋

文政3年の満濃池の設計図です。底樋にV字型に 竪樋がつながれて、堰堤沿いに上に伸びています。その 竪樋の上に5つのユルが乗っています。別の図を見てみましょう。

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       讃岐国那珂郡七箇村満濃池 底樋 竪樋図
同じ構造ですが、
底樋には木箱のような樋が使われていたことが分かります。そして堤防の傾斜にそって 竪樋がV字型に伸ばされ、丸い穴が見えます。その穴の上にユルからのびた「スッポン(筆の木)」と呼ばれる大きな詮がぶら下がっています。これで穴を塞ぐというしくみです。底樋や竪樋は、当時の最先端技術でハイテクの塊だったようです。畿内から招いた宮大工達が設計図を書いて、設置に携わりました。


満濃池樋模式図
満濃池の底樋と竪樋・ユルの模式図

この模型がかりん会館にはあります。

満濃池 底樋・ 竪樋模型
満濃池の底樋と竪樋・ユル(かりん会館)
水が少なくなっていくと、上から順番にユルが抜かれていきます。満濃池のユルは、どれくらいの大きさがあったのでしょうか
 大正時代のユル抜きシーンの写真が残されています。

大正時代のユル抜き 池の宮
取水塔が出来る以前のユル抜きシーン 後が池の宮

 この写真でまず押さえておきたいのは、ユルの背後に池の宮(現神野神社)の拝殿があることです。池の宮の前に、ユルがあったことを押さえておきます。ユルに何人もの男達が上がってユルを抜こうとしています。赤や青のふんどし姿の若者達が 竪樋に長い檜の棒を差し込んで、「満濃のユル抜き どっとせーい」の安堵に合わせて、差し込んだ棒をゆっくりと押さえて、てこの原理で「スッポン(筆木:詮)」を抜き上げたようです。それを多くの人たちが見守っています。
 ユルがなくなったのはいつなのでしょうか?

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満濃池の取水塔(1914年)
 取水塔ができるのが大正3年(1914)で、今から約90年前です。それまでは、江戸時代以来の木製ユルが使われていました。

満濃池赤煉瓦取水塔 竣工記念絵はがき1927年
満濃池の赤レンガ取水塔

 次に満濃池の歴史を見ていくことにします。
満濃池は空海が築いたとされます。それを描いた絵図を見てみましょう。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海の満濃池改修の想定画(大林組)

 大手ゼネコンの大林組の技術者たちが描がいたものです

A 空海が①岩の上で護摩祈祷していますこの岩は後には、「護摩壇岩」と呼ばれることになります。

B アーチ状に伸ばされてきた堤防が、真ん中でつながれ、③底樋が埋められています工事も最終局面にさしかかっています。

C 池の内側には ④竪樋と5つのユルが出来上がっています。

D 池の中の⑤採土場からは多くの人間が土を運んでいます。E 堤防は3人一組で突き、叩き固められています。

堤防の両側は完成し、その真ん中に底樋が設置されています。 竪樋やユルも完成し、すでに埋められているようです。
 日本略記によると空海が満濃池修復を行ったのは弘仁(こうにん)2年821年の7月とされます。
約1200年前のことです。ところが
、空海が再築した満濃池も、平安末期には決壊して姿を消してしまいます。そして、池のあった跡は「再開発」され、開墾され畑や田んぼが造られ、「池之内村」が出来ていたようです。ここでは、中世の間、約450年間は満濃池は存在しなかったことを押さえておきます。
 17世紀初頭に、その様子を描いたのが次の絵図です。

まんのう町 決壊後の満濃池

 満濃池跡 堰堤はなく、内側には村が出来ている

A ①金倉川には、大小の石がゴロゴロと転がります。

B 金倉川をはさんで左側が④「護摩壇岩」、右側が②「池の宮神社」

C ③が「うてめ(余水吐)」跡で、川のように描かれています。

D 堤防の内側には、家や水田が見える。これが⑤「池之内村」。ここからは、池の跡には村が出来ていたことが分かります。

ここに満濃池を再築したのが西嶋八兵衛です。

西嶋八兵衛

西嶋八兵衛
西嶋八兵衛の主君は、伊賀藩の藤堂高虎です。当時は、西嶋八兵衛は生駒藩に重臣として出向(レンタル)を主君から命じられていました。このような中で、讃岐では日照りが続いて逃散が頻発します。お家存続の危機です。これに対して、藤堂高虎は農民たちの不満や不安をおさめるためにも、積極的な治水灌漑・ため池工事を進めることを西嶋八兵衛に命じます。こうして、西嶋八兵衛のもとで讃岐各地で同時進行的に灌漑工事が進められることになります。彼の満濃池平面図を見ておきましょう。

西嶋八兵衛の平面図2

西嶋八兵衛の築造図

①護摩壇岩(標高143㍍)と西側の池之宮(140㍍)の丘をアーチ型の堰堤で結んでいる。

②底樋が118m、竪樋41m 堤防の長さは約82m

③その西側に余水吐きがある。

こうして西嶋八兵衛によって、満濃池は江戸時代初期に450年ぶりに姿を見せたのです。彼の業績は大きいと私は思っていますが、その評価はもうひとつです。江戸時代は忘れ去れた存在になっていたようで、そのため正当な評価はされていなかったことが背景にあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴(まんのう町教育委員会)
こうして西嶋八兵衛によって、阿讃山脈の山麓に巨大な池が姿を現します。これは文人達にも好んでとり上げられるようになり、あらたな「観光名所」へと成長して行きます。そして池の俯瞰図が描かれ、その背後に詩文が添えられたものが数多く発行されるようになります。

当時の底樋や竪樋は木製でした。そのため定期的な改修取り替え工事が必要でした。

満濃池改修一覧表
満濃池改修工事一覧表 21回の工事が行われている

底樋を取り替えるためには、堰堤を一番底まで掘り下げる必要があります。そのためには多大の人力が必要になります。満濃池普請には、讃岐全土から人足が動員されました。
その普請作業の様子を見ておきましょう。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池
御普請絵図
この時の嘉永年間(1848~54)の改修工事は、底樋石造化プランを実行に移す画期的なものでした。そのため工事の模様が数多く残されています。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(護摩壇岩) - コピー
満濃池
池普請 高松藩と丸亀藩の監視小屋

①護摩壇岩側には、「丸」と「高」の文字が掲げられた高松藩・丸亀藩の監督官の詰所

②軒下に吊されているのが「時太鼓」。朝、この太鼓が鳴り響くと、周辺のお寺などに分宿した農民たちが、蟻のように堤防目指して集まってきて仕事に取りかかった。
③小屋の前で座って談笑しているのが、農民達を引率してきた庄屋たち。藩を超えた話題や情報交換、人脈造りなどががここでは行われていた。
④四国新道を築いた財田の大久保諶之丞も、明治の再築工事に参加し、最新の土木技術などに触れた。同時に、長谷川佐太郎の生き様から学ぶことも多かった。それが、後に彼を四国新道建設に向かわせる力になっていく。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(底樋) - コピー
底樋に使う石材が轆轤でひかれています

下では石を引いたり、整地する人足の姿が見えます。彼らは藩を超えて讃岐各地から動員された農民達で、7日間程度で働いて交替しました。手当なしの無給で、手弁当で周辺のお寺や神社などの野宿したようです。自分の水掛かりでもないのに、なんでここまえやってきた他人さまの池普請をやらないかんのかという不満もありました。そんな気持ちを表したのが「いこか まんしょか まんのう池普請」でというザレ歌です。
現場を見ると、底樋の石材化のために四角く加工された石柱が何本も運び込まれています。牛にひかせたもの、修羅にのせたものをろくろを回して引っ張りあげる人夫達。川のこちら側では、天下の大工事をみるために旦那達がきれいどころを従えて、満濃池の普請見物にやって来ているようです。

満濃池決壊拡大図 - コピー
満濃池の中を一筋に流れる金倉川と「切堤防」
ところがこの時の底樋石材化プランには、工法ミスと大地震が加わり、翌年夏に堰堤が決壊してしまいます。そして、その後明治になるまで、決壊したまま放置されるのです。上の絵図は、空池となった満濃池跡を金倉川流れている姿です。
IMG_0010満濃池決壊と管製図
満濃池堰堤決壊部分、下が修理後の姿
満濃池が再築されるのは、幕末の混乱を終えて明治になってからです。
再建の中心として活躍したのは榎井の庄屋・長谷川佐太郎でした。
彼は「底樋石材化」に代わって、「底樋隧道石穴化」プランで挑みます。それは、うてめ(余水吐け)部分が固い岩盤であることを確認して、ここに隧道を通して底樋とするというものです。成功すれば、底樋のメンテナンスから解放されます。

軒原庄蔵の底樋隧道
明治の満濃池底樋隧道化案
この経緯については、以前にお話ししたので省略します。完成した長谷川佐太郎の平面図を見ておきましょう。

長谷川佐太郎 平面図
満濃池 明治の長谷川佐太郎の満濃池平面図

①旧余水吐き附近の岩盤に穴を開けて底樋を通した

②そして竪樋やユルも堤防真ん中から、この位置に移した。

③そのため一番ユルは、池の宮前に姿を見せるようになった。

④余水吐きは、現在と同じ東側に開かれた

大正時代になると、先ほど見た取水塔が池の中に姿を見せます。

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満濃池
取水塔(1914年)

約90年前に姿を見せた取水塔です。この取水塔によって、 竪樋やユルも底樋に続いて姿を消すことになります。引退した後のユルの一部がかりん会館にありますから御覧下さい。


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ユルの先に付けられていたスッポン(筆木)
実際に見てみると、その大きさに驚かされます。また下の 竪樋は厚い一枚板が使用されています。ここからごうごうと、水が底樋を通じて流れ出ていました。
 江戸時代と現在の満濃池の堰堤を断面図で比べて見ます。

満濃池堤防断面図一覧
満濃池堰堤の断面図比較

戦後1959年になると、貯水量の大幅増が求まれるようになります。そのために行われたのが堰堤を6m高くし、横幅も拡げ貯水量を増やす工事でした。断面図で比較しておきましょう

①が西嶋八兵衛 ②が昭和の大改修 が1959年の改修です。現在の堰堤が北(右)に移動して、高くなっています。この結果、池之宮(標高140m)は水の中に、沈むことになります。それよりも高い護摩壇岩(標高143m)は、今も頭だけ残しています。これも空海信仰からくるリスペクトだったのかもしれません。

満濃池 1959年版.jpg2
959年改修の満濃池平面図

①護摩壇岩は小さな島として、頭だけは残した。

池の宮は水没(標高140m)し、現在地に移転し、神野神社と呼ばれるようになった。

③堰堤の位置は、護摩壇岩の後に移され、堤防の長さも81㍍から155㍍へ約倍になった。

そして堰堤のアーチの方向が南東向きから南西向きに変わりました。この結果、堰堤に立つって讃岐山脈方面を見ると正面に大川山が見えるようになった。
最後に、明治初年に満濃池が再建される際に書かれた分水図を見ておきます。

満濃池分水網 明治

満濃池水掛村々之図(1830年)

これを見ると満濃池の分水システムが見えて来ます。
満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は「水路」ではなかったようです。
②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。そして、水掛かりの天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。

③私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時代が長くありました。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされたピンク領土を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。

④丸亀平野全体へ用水路網が整備されていますが、丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部に位置し、水不足が深刻であったことがうかがえます。

まんのう町・琴平町周辺を拡大して見ましょう。

満濃池分水網 明治拡大図


①満濃池から流れ出た水は、③の地点で分水されてます流れを変えられました。ここに設けられたのが水戸大横井です。現在の吉野橋の西側です。パン屋さんのカレンの裏になります。

②ここでは、コントロールできるだけの水量を取り込んで④四条公文方面に南流させます。一方、必要量以上の水量は金倉川に放水します。そのため夏場は、ほとんどの水が④方向に流され、金倉川は涸川状態となります。④方面に流された水は、五条や榎井・苗田の天領方面に、いくつもの小さな水路で分水されます。この絵図から分かるのは、この辺りの小さな水路は満濃池幹線から西に水がながされていることです。

③さらに④の高篠のコンビニの前で分水地点でされます。④南流するルートは公文を経て垂水・郡家・田村・津森・丸亀方面へ水を供給していきます。

⑤一方、④で北西に伸びる用水路は天領の苗田を経て、⑤で再び金倉川に落とされます。そして、⑥でふたたび善通寺方面に導水されます。
 当たり前のことですが用水路が整備されないと、水はきません。西嶋八兵衛の活動は、満濃池築造だけに目がいきがちですが、同時に用水路整備も併行して行われていたはずです。

西嶋八兵衛の満濃池と用水路

西嶋八兵衛の取り組んだ課題は?

 中世までの土器川や金倉川・四条川は幾筋もの流れを持つ暴れ川でした。これは、下の地図からもうかがえます。それをコントロールして、一本化しないと用水路は引けないのです。

満濃池用水路 水戸
国土地理院地形図 土地利用図に描かれた水戸周辺の河川跡
そのための方法が、それまで土器川と併流していた四条川を③の水戸大横井で西側へ流すための放水路としての「金倉川」の整備です。そして、それまでの四条川をコントロールして、「満濃池用水路化」したと私は考えています。「消えた四条川、造られた金倉川」については、新編丸亀市史の中でも取り上げられています。
さらに推測するなら、空海もこれと同じ課題に直面したはずです。
つまり、用水路の問題です。空海の時代には、大型用水路は以前にお話ししたように丸亀平野からは出てきていません。出てきてくるのは、幾筋もに分かれて流れる土器川、金倉川です。また、条里制も川の周囲は放置されたままで空白地帯です。土器川をコントロールして、満濃池からの水を何キロにもわたって流すという水利技術はなかったと研究者は考えるようになっています。そうすると空海が満濃池をつくっても丸亀平野全体には、供給できなかったことになります。空海が改修した満濃池は、近世に西嶋八兵衛が再築したものに比べると、はるかに小さかったのではないかと私は考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 満濃池史 満濃池土地改良区50周年記念誌
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満濃池堰堤図2
満濃池堰堤周辺図
 前回は、説明だけで歩かないまま終わってしまいました。昨日・今日と実際に、琴平や高松の人達と歩いてきたので、その報告記を載せておきます。スタートは堰堤の東端の①余水吐け(うてめ)です。

満濃池余水吐け
満濃池余水吐け 満水時にオーバフローする
満濃池に御案内すると、「今はどのくらい水が溜まっている状態なのですか?」とよく聞かれます。この余水吐けを水が越えていれば満水状態と云うことになります。それでは、ここから流れ出た水は、どこにいくのでしょうか?それをたどって見ることにします。

 満濃池 高松藩執政松崎渋右衛門の辞世の歌
明治の満濃池再築の功労者・松崎渋右衛門の辞世の歌 
余水吐けの後に神野神社への階段があります。その東側に、松崎渋右衛門の歌碑があり、その横に散策路の入口があります。この散策路に入っていきます。      

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堤防から下に続く散策路

標高差30mほどで堰堤から金倉川まで下りてきました。
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満濃池堤防下の遊歩道
堤防の下まで下りてきました。正面に満濃池の堰堤が見えます。


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        下から見る満濃池の堰堤
正面が堰堤です。現在の堰堤は、1959年の嵩上げ工事で、6m高くなり、32mの高さがあります。見上げるような感じです。

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満濃池余水吐の排水口
ここで左手を見上げると、岩盤があり、その上に穴が空いています。これが先ほど見た余水吐きの出口になります。満水で余水吐きを越えた時には、次のような光景が見られるようです。
満濃池余水吐きからの落水
余水吐け出口からの落水(満濃池のまぼろしの瀧?)
この光景は、満濃池が満水になって大雨が降った後でないと見れません。そのため年間で十数回程度で「幻の瀧」とも云われています。興味のある方は、チャンスをみて見に来て下さい。

満濃池 現状図
満濃池堰堤周辺の構造物位置
位置を確認しておくと、③の余水吐きから神野神社の下に掘られたトンネルと経て、この岩場を金倉川に向かって流れ落ちていることになります。さて、正面の堰堤に視線をもどしてみます。


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 石垣が積み上げられ、穴が空いている部分があります。これが満濃池の⑤樋門です。用水塔から取り込まれた水は、ここから流れ出てくることになります。

IMG_2743
6月13日の満濃池のゆる抜き
IMG_2773
満濃池の樋門
ここで質問 江戸時代の樋門は、堰堤のど真ん中にありました。それが、どうして右端に移されたのでしょうか?
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
江戸時代最後となった嘉永年間の工事も、底樋は堰堤の真ん中に据えられています。しかし、現在の満濃池の樋門は西側にあります。

満濃池 1959年版.jpg2
1959年の嵩上げ工事後の満濃池
 それは明治の再建工事の際に、岩盤にトンネルを掘って底樋とする「底樋トンネル化」が採用されたからです。そのため固い岩盤がある現在のルートが選ばれます。上図のように、取水塔と樋門はトンネルで一直線に結ばれるようになります。樋門が西側にやってきたのは、明治の「底樋トンネル化」プランの結果のようです。

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満濃池樋門(ひもん)と登録有形文化財プレート
樋門の説明文を拡大してみます。
満濃池樋門2
満濃池底樋の登録文化財認定の説明文
ここからは、次のようなことが分かります。
①満濃池の底樋管は、軒原庄蔵によって掘られた。
②全長197mで、取水塔と樋門が底樋隧道で結ばれている
③抗口には列柱レリーフなどの装飾が施されている
①の軒原庄蔵の掘った「底樋隧道」とは、どんなものだったのでしょうか?
軒原庄蔵の底樋隧道
       満濃池 軒原(のきはら)庄蔵の掘った「底樋石穴」
岩盤に底樋用の石穴を開ける工事は、寒川郡富田村の庄屋、軒原庄蔵が起用されます。彼は寒川の弥勒池の石穴を貫穿工事に成功した実績を持っていました。上図を見ると木製底樋に竪樋がV字型に伸ばされ、その上にユルが5つ組まれています。一番上のユルが一番ユルです。それは、「池の宮」の前に位置しています。また底樋トンネルも「池の宮」の地下を通っていることが分かります。
 取水塔が出来る前のユル抜きの写真を見てみましょう。
池の宮の前の一番ユル
       満濃池のユル抜き 取水塔ができる前
①ユルの上に多くの人足が上がって、ユルを抜こうとしている。それを見守る見物人
②背後の建物が池の宮、白い制服姿が官兵・軍人(?) 池の宮の前にユルがあったことが分かる。
③この後、大正14年に取水塔ができて、木製のユルは姿を消した。
満濃池堤防断面図一覧
現在の堰堤(1959年)は、6m嵩上げされている
前回に戦後の改修でも、堤防が嵩上げされたことをお話ししました。その嵩上げ中の写真を見ておきましょう。

満濃池1951年本堤
昭和26(1951)年の満濃池堤防

1952年満濃池
昭和27(1952)年の満濃池堤防
1953年満濃池堤防
昭和28(1953)年の満濃池堤防
堤防が年々嵩上げされていたことが分かります。同時に、堰堤工事のために周辺の山から土が切り出されていたようです。

DSC03848
昭和
26(1951)年 満濃池の工事現場

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蛍の里公園からの満濃池堰堤
今回は満濃池堰堤の下側を散策してみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池史



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オリンピック青少年センター
明治神宮に隣接するオリンピックセンターからバスで移動してきたのは
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日本青年館
全国民俗芸能大会にお呼ばれしてやってきました。この大会には、第40回大会にも参加しています。今回が第70回と云うことなので、約30年ぶりの参加になります。前回には、小学生の小踊りで参加していた子ども達が、いまは保存会の中心として担っていく存在になっています。

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午前中の10:30からリハーサルなので、9時に楽屋入りして着付けや化粧を開始します。

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日本青年館の楽屋での着付け
今年は4回目のお呼ばれ公演なので、着付けなどの準備もなれてきて、スムーズに進みます。


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後部客席からの入場
今回も入庭(いりは:入場)は、客席側からです。リハーサルなのでお客さんは入っていません。
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露払いを先頭に、ステージを一周して後方に一列に並びます。全国民俗芸能大会1
佐文綾子踊由来口上(保存会長)
この大会では、公演だけでなく「記録に残す」ということも目的のひとつになっているようです。そのため保存会長の口上などもリハーサルでは省略なしで、全部読み上げられました。できるだけ本番に近い形で、記録にのこしておきたいそうです。

綾子踊り由来昭和14年版
       雨乞踊由来(尾﨑清甫書:昭和14年版)
これを全部読み上げると、6分少々かかるので、短縮バージョンで対応することになりました。次は、棒と薙刀が踊る場所を演舞で確保します。そして、問答がはじまります。これも修験者たちの流儀を受け継いでいることは以前にお話ししました。民俗芸能を媒介した修験者や聖の存在が垣間見えます。

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棒と薙刀の問答
棒薙刀問答 尾﨑清甫まとめ版
棒薙刀問答(尾﨑清甫筆:昭和14年)
 いよいよ踊りのはじまりです。

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芸司(げいじ)の次の口上とともに踊りが始まります。
薙刀問答4 芸司口上1
芸司口上(尾﨑清甫筆:昭和14年)

普段は小踊りの子ども達は6人なのですが、直前にインフルエンザ感染などで、3人で踊ることになりました。

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「善女龍王」などの幟も2本、総勢34名でいつもの半分程度の編成になっています。
民俗芸能大会2
芸司の周囲に左から太鼓・鉦(僧服)・拍子(大団扇)・一番右が姫姿の大踊りが配されます。

民俗芸能大会4
芸司の左側

民俗芸能大会5
下手で待機する薙刀・露払い・幟持ち・法螺貝吹


民俗芸能大会6

本番の時間は50分です。最後に本番に向けての入場・立ち位置の確認が行われました。

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花笠を脱いで、最後の踊りの確認

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地唄の音量調整も行われます。
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余裕の笑顔です。準備完了

控室に帰って弁当を食べていると、記録のための係員がやってきて、用具や楽器を見せて下さいとのこと。廊下の床に団扇などを並べて寸法をはかり、イラストに書き上げていきます。

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団扇の寸法をはかり、イラストを仕上げていく記録員
研究者に聞くと、写真よりもイラストの方が特徴がよく掴めるそうで、図版に残しておくのも大切な作業のようです。

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質問を受ける太鼓
一方で、太鼓や笛・地唄などは、いろいろな質問を受けていました。
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質問を受ける笛
昼食後13:00開演。そのトップが佐文綾子踊りでした。残念ながら本番の写真は撮れていません。50分の公演後に、別室で文化庁や青年館などから表彰を受けました。

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いただいたペナントや感謝状
ペナントには第70回とあります。

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帰ってきて前回の平成2年にいただいたものを見てみると「第40回」とあります。佐文綾子踊りが、踊り継がれていることを実感できる記念品でもあります。30年間の間に、継承関わった人たちに感謝しながら青年館を後にしました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  まんのう町の教育委員会を通じて、町内の小学校から綾子踊りのことについて話して欲しいという依頼を受けました。綾子踊保存会の事務局的な役割を担当しているので、私の所に話が回ってきたようです。4年生の社会科の地域学習の単元で、綾子踊りを取り上げているようです。「分かりやすく、楽しく、ためになるように、どんな話をしたらいいのかなあ」と考えていると、送られてきたのが次の授業案です。

綾子踊り指導案

これを見ると6回の授業で、讃岐の伝統行事を調べています。
その中から佐文綾子踊を取り上げ、どのように伝えられてきたのか、どう継承していこうとしているのかまでを追う内容になっています。授業方法は子ども達自身が調べ、考えるという「探求」型学習で貫かれています。私の役割も「講演(一方的な話)」が求められているのではないようです。授業テーマと、その展開部を見ると次のように書かれています    
綾子踊りが、どうして変わらずに残ったのか考えよう。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
→ 何かで途絶えるかもしれないとおもったからじゃないかな
→ 忘れないようにしたかったから 口だけだと忘れてしまいそうだから
→ でも、どうしてここまでして残そうとしたんだろうか
→ それを保存会の方に聞いてみよう!
この後で、私の登場となるようです。さて、私は何を話したらいいのでしょうか?
尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊りの文書

ここで私が思い出したのは、1934(昭和9)年に、尾﨑清甫が書残している「綾子踊団扇指図書起」の次の冒頭部です。

綾子踊団扇指図書起
綾子踊団扇指図書起
 綾子踊団扇指図書起
 さて当年は旱魃、甚だしく村内として一勺の替水なく農民之者は大いに困難せる。昔し弘法大師の教授されし雨乞い踊りあり。往昔旱魃の際はこの踊りを執行するを例として今日まで伝え来たり。しかしながら我思に今より五十年ないし百年余りも月日去ると如何なる成行に相成るかも計りがたく、また世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。
 また人間は老少を定めぬ身なれば団扇の使う役人、もしや如何なる都合にて踊ることでき難く相成るかもしれず。察する内にその時日に旱魃の折に差し当たり往昔より伝来する雨乞踊りを為そうと欲したれども団扇の扱い方不明では如何に顔(眼)前で地唄を歌うとも団扇の使い方を知らざれば惜しいかな古昔よりの伝わりし雨乞踊りは宝ありながら空しく消滅するよりほかなし。
 よりてこの度団扇のあつかい方を指図書を制作し、千代万々歳まで伝え置く。この指図書に依って末世まで踊りたまえ。又善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
                                    昭和9(1934)年10月12日
 綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
   綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

小学4年生に伝わるように、超意訳してみます。
 今年は雨がなく、ひでりが続いて、佐文の人たちは大変苦しみました。佐文には、弘法大師が伝えた雨乞い踊(おど)りがあります。昔からひでりの時には、この踊りを踊ってきました。しかし、世の中の進歩や変化につれて、人の心も変わっています。そんな踊りで雨が降るものか、そんなのは科学的でない、と反対する人達もでてきて、佐文の人たちの心もまとまりにくくなっています。そして、ひでりの時にも、雨乞踊りがおどられなくなります。そのまま何十年も月日が過ぎます。そんなときに、ひどい日照りがやってきて、ふたたび雨乞踊りを踊ろうとします。しかし、うちわの振(ふ)り方や踊り方が分からないことには、唄が歌われても踊ることはできません。こうして、惜(お)しいことに昔から佐文に伝えられてきた雨乞踊りという宝が、消えていくのです。
 そんなことが起きないように、私は団扇のあつかい方の指導書を書き残しておきます。これを、行く末(すえ)まで伝え、この書によって末世まで踊り伝えてください。善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
ここには、「団扇指南書」を書き残しておく理由と、その願いが次のように書かれています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
   尾﨑清甫「綾子踊り団扇指南書」の伝える願い
  綾子踊りの継承という点で、尾﨑清甫の果たした役割は非常に大きいものと云えます。彼が書写したと伝えられる綾子踊関係文書のなかで最も古いものは「大正3年 綾子踊之由来記」 です。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊り由来記
ここからは、大正時代から綾子踊りの記録を写す作業を始めていたことが分かります。
次に書かれた文書が「団扇指南書」で、1934(昭和9)年10月に書かれています。ちょうど90年前のことになります。この時点で、綾子踊りの伝承について尾﨑清甫は「危機感・使命感・決意・願い」を抱いていたことが分かります。彼がこのような思いを抱くようになった背景を見ておきましょう。
1939年に、旱魃が讃岐を襲います。この時のことを、尾﨑清甫は次のように記しています。

1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
  字佐文戸数百戸余りなる故に、綾子踊について協議して実施することが困難になってきた。ついては「北山講中」として村雨乞いの行列で願立て1週間で御利生を願った。(しかし、雨が降らなかったので)、再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが、利生は少なかった。そこで旧暦7月29日に大いなる利生があった。そこで、俄な申し立てで旧暦8月1日に雨乞成就のお礼踊りを執行した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中(国道377号の北側の小集落)」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

先ほど見た「団扇指南書起」には、次のようにありました。
「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見と行動が分かれていたことがことが見て取れます。そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
尾﨑清甫
尾﨑清甫
5年後の1939(昭和14)年に、近代になって最大規模の旱魃が讃岐を襲います。
その渦中に尾﨑清甫はいままでに書いてきた「由来記」や「団扇指南書」にプラスして、踊りの形態図や花笠寸法帳などをひとつの冊子にまとめるのです。この文書が、戦後の綾子踊り復活や、国の無形文化財指定の大きな力になっていきます。

P1250692
尾﨑清甫の綾子踊文書を入れた箱の裏書き
最後に、小学校4年生の教室で求められているお題を振り返っておきます。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
これについての「回答」は、次のようになります。
①近代になって科学的・合理的な考え方からすると「雨乞踊り」は「迷信」とされるようになった。
②そのためいろいろな地域に伝えられていた雨乞い踊りは、踊られなくなった。
③佐文でも全体がまとまっておどることができなくなり、一部の人達だけで踊るようになった。
④それに危機感を抱いた尾﨑清甫は、伝えられていた記録を書写し残そうとした。
尾﨑清甫は、佐文の綾子踊りに誇りを持っており、それが消え去っていくことへ強い危機感を持った。そこで記録としてまとめて残そうとした。
讃岐には、各村々にさまざまな風流踊りが伝わっていました。それが近代になって消えていきます。踊られなくなっていくのです。その際に、記録があればかすかな記憶を頼りに復活させることもできます。しかし、多くの風流踊りは「手移し、口伝え」や口伝で伝えられたものでした。伝承者がいなくなると消えていってしまいます。そんな中で、失われていく昭和の初めに記録を残した尾﨑清甫の果たした役割は大きいと思います。

綾子踊り 国踊り配置図
綾子踊り隊形図(国踊図)
これを小学4年生に、どんな表現で伝えるかが次の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 アオバト飛来 大磯町・照ヶ崎海岸:東京新聞 TOKYO Web
塩分補給のために深山から岩礁に飛来するアオバト
 四国山脈の奥に棲むアオバトは、塩水を飲むために海の岩礁に下りてきます。野鳥観察が趣味だったころに、豊浜と川之江の境の余木崎にやってくるアオバトたちを眺めによく行きました。波に打たれながら海水を飲むアオバトを、ハラハラしながら見ていたのを思い出します。アオバトと同じように、人間にとっても塩は欠かせないものです。そのため縄文人たち以来、西阿波に住む人間はアオバトのように塩を手に入れるために海に下りてきたはずです。弥生時代の阿波西部は、讃岐の塩の流通圏内だったようです。その交換物だったのが阿波の朱(水銀)だったことが、近年の旧練兵場遺跡の発掘調査からわかってきたことは以前にお話ししました。
 つまり、善通寺王国と阿波の美馬・三好のクニは「塩=朱(水銀)」との交換交易がおこなわれていたようです。阿讃の峠は、この時代から活発に行き来があったことを押さえておきます。
 7世紀後半に丸亀平野南部に建立された弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺の白鳳時代の瓦は、同笵瓦でおなじ版木から作られていたことが分かっています。ここでも両者の間には、先端技術者集団の瓦職人集団の「共有」が行われていたことがうかがえます。以上をまとめると次のようになります。
①弥生時代の阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていた
②善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が運ばれ、加工・出荷されていた。
③丸亀平野南部の弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われている。
 このような背景の上に、中世になると阿波忌部氏の西讃進出伝説などが語られるようになると私は考えています。 
 そのような視点で見ていると気になってきたのが国の史跡となっている三加茂の丹田古墳です。今回はこの古墳を見ていくことにします。

丹田古墳 位置
           三加茂の丹田古墳
 三加茂から桟敷峠を越えて県道44号を南下します。この道は桟敷峠から落合峠を経て、三嶺ふもとの名頃に続く通い慣れた道です。加茂谷川沿の谷間に入って、すぐに右に分岐する町道を登っていきます。
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丹田古墳手前の加茂山の集落
 加茂山の最後の集落を通り抜けると、伐採された斜面が現れ、展望が拡がります。そこに「丹田古墳」の石碑が現れました。
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           丹田古墳の石碑 手前が前方部でススキの部分が後方(円)部 
標高220mの古墳からの展望は最高です。眼下に西から東へ吉野川が流れ、その南側に三加茂の台地が拡がります。現在の中学校から役場までが手に取るように分かります。この古墳から見える範囲が、丹田古墳の埋葬者のテリトリーであったのでしょう。

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丹田古墳からの三加茂方面 向こうが讃岐山脈

 この眺めを見ていて思ったのは、野田院古墳(善通寺市)と雰囲気が似ていることです。
2野田院古墳3
     野田院古墳 眼下は善通寺の街並みと五岳山

「石を積み上げて、高所に作られた初期古墳」というのは、両者に共通します。作られた時期もよく似ています。彼らには、当時の埋葬モニュメントである古墳に対してに共通する意識があったことがうかがえます。善通寺と三加茂には、何らかのつながりがあったようです。

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帰ってきてから「同志社大学文学部 丹田古墳調査報告書」を読みました。それを読書メモ代わりにアップしておきます。
丹田古墳調査報告 / 森浩一 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

丹田古墳周辺部のことを、まず見ておきましょう。
①丹田古墳は加茂山から北東にのびる尾根の先端部、海抜約220mにある。
②前方部は尾根の高い方で、尾根から切断することによって墳丘の基礎部を整形している。
③丹田古墳周辺の表土は、丹田の地名が示すように赤土である。
④丹田古墳南東の横根の畑から磨製石斧・打製石鏃・打製石器が散布
⑤加茂谷川右岸・小伝の新田神社の一号岩陰からは、多数の縄文土器片が出上
 丹田古墳とほぼ同じ時期に築かれた岩神古墳が、加茂谷川の右岸高所に位置します。丹田古墳と同じ立地をとる古墳で、丹田古墳の後継関係にあった存在だと考えられます。前期古墳が高い所に作られているのに対して、後期古墳は高地から下りて、流域平野と山地形との接触部に多く築かれるようになります。すでに失われてしまいましたが、石棚のある横穴式石室をもった古墳や貞広古墳群はその代表です。貞広古墳群は、横穴式石室の露出した古墳や円墳の天人神塚など数基が残っています。
 以上から三加茂周辺では、初期の積石塚の前方後円(方)墳である丹田古墳から、横穴式石室をもつ後期古墳まで継続して古墳群が造られ続けていることが分かります。つまり、ひとつの継続した支配集団の存在がうかがえます。これも善通寺の有岡古墳群と同じです。

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                                丹田古墳の後円部の祠
丹田古墳の東端には、大師の祠があります。この祠作成の際に、墳丘の石が使われたようです。そのため竪穴式石室にぽっかりと穴が空いています。

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石室に空いた穴を鉄編みで塞いでいる

古墳の構築方法について、調査書は次のように記します。
①西方の高所からのびてきた尾根を前方部西端から11m西で南北に切断されている。
②その際に切断部が、もっとも深いところで2m掘られている。
③前方部の先端は、岩盤を利用
④後円(方)部では、岩盤は墳頂より約2、2m下にあり、石室内底面に岩盤が露出している
⑤墳丘は、岩盤上に積石が積まれていて、土を併用しない完全な積右塚である。
⑥使用石材は結晶片岩で、小さいものは30㎝、大きなものは1mを越える
⑦石材の形は、ほとんどが長方形

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墳丘に使用されている石材

⑧くびれ部付近では、基底部から石材を横に5・6個積みあげている
⑨その上にいくに従って石は乱雑に置かれ無秩序になっていく。
⑩墳丘表面は、結晶片岩に混じって白い小さな円礫が見えます。これは、下の川から運び上げたもののようです。築造当初は、白礫が墳丘全面を覆っていたと研究者は考えています。

国史跡丹田古墳の世界」-1♪ | すえドン♪の四方山話 - 楽天ブログ
            白く輝く丹田古墳
そうだとすれば、丹田古墳は出来上がった時には里から見ると、白く輝く古墳であったことになります。まさに、新たな時代の三加茂地域の首長に相応しいモニュメント墳墓であったと云えそうです。

⑪古墳の形状は、前方部先端が一番高く、先端部が左右に少しひろがっている箸墓タイプ
⑫墳形については、研究者は前方後方墳か、後円墳か判定に悩んでいます。
次に、埋葬施設について見ておきましょう。
 先ほども見たように、石室部分は大師祠建設の際に台座の石とするために「借用」された部分が小口(30㎝×50㎝)となって開口しています。しかし、石室字体はよく原状を保っていて、石積み状態がよく分かるようです。
丹田古墳石室
丹田古墳の縦穴式石室

①右室底面の四隅は直角に築かれて、四辺はほぼ直線
②規模は全長約4,51m、幅は東端で約1,32m、西端では約1,28m
③石室の底面は、東のほうがやや低くなっていて、両端で約0,26mの傾斜差
④この石宝底面の傾斜は、尾根の岩盤をそのまま、利用しているため
⑤高さは両端とも1.3mで、中央部はやや低く約1,2m
⑥石室底面は墳頂から約2.2m下にあり、石室頂と墳頂との間は約0,85m
⑦石室の壁は墳丘の積石と同じ結品片岩を使い、小口面で壁面を構成する小口積
⑧底部に、大きめの石を並べ垂直に積み上げたのち、徐々に両側の側面を持ち送り、天井部で合わせている。
⑨つまり横断面図のように合掌形になっていて、 一般的な天井石を用いた竪穴式石室とは異なる独特の様式。
⑩については、丹田古墳の特色ですが、「合掌形石室」の類例としては、大和天神山古・小泉大塚古墳・メスリ山古墳・谷口古墳の5つだけのようです。どうして、このタイプの石室を採用したのかは分かりません。
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ここで少し丹田古墳を離れて、周囲の鉱山跡を見ていくことにします。
①からみ遺跡 海抜1300mの「風呂の塔かじやの久保」にある銅鉱採堀遺跡
②滝倉山(海抜500m)
③三好鉱山(海抜700m)跡
①風呂塔かじやの久保は、奈良朝以前の採掘地と研究者は考えているようです。鋳造跡としては長善寺裏山の金丸山があります。ここの窯跡からは須恵器に鋼のゆあか(からみ)が流れついている遺物が発見されています。
 また三加茂町が「三(御)津郷」といっていたころは東大寺の荘園でした。その東大寺の記録に「御津郷より仏像を鋳て献上」とあります。ここからは加茂谷川の流域には、銅鉱脈があり、それが古代より採掘され、長善寺裏山の鋳造跡で鋳造されていたという推測ができます。残念ながら鋳造窯跡は、戦中の昭和18年(1954)に破壊されて、今は一部が残存するのみだそうです。

三加茂町史 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 三加茂町史145Pには、次のように記されています。

かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  つまり、丹田古墳の被葬者が三加茂地域の首長として台頭した背景には、周辺の銅山開発や銅の製錬技術があったいうのです。これは私にとっては非常に魅力的な説です。ただ、やってきたのは「漢民族」ではなく、渡来系秦氏一族だと私は考えています。
本城清一氏は「密教山相」で空海と秦氏の関係を次のように述べています。(要約)
①空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
②泰氏の基盤は土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
③その中には鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
④空海は民衆の精神的救済とともに、物質的充足感も目指していた。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑤空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内にある。
⑥例えば東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神)。これも秦氏を意識したものである。
空海の満濃池改修も、秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑧空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。例えば秦氏族出身の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑨平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が8名もいる。
⑩讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した寺社である。
⑪金倉寺には泰氏一族が建立した新羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係も深い。

2密教山相ライン
  四国の密教山相ラインと、朱(水銀)や銅などの鉱脈の相関性

以前に、四国の阿波から伊予や土佐には銅鉱脈が通過しており、その鉱山開発のために渡来系秦氏がやってきて、地元有力豪族と婚姻関係を結びながら銅山や水銀などの確保に携わったこと。そして、奈良の大仏のために使用された銅鉱は、伊予や土佐からも秦氏を通じて貢納されていたことをお話ししました。それが、阿波の吉野川沿いにも及んでいたことになります。どちらにしても、阿波の加茂や郡里の勢力は、鉱山開発の技能集団を傘下に抱えていたことは、十分に考えられる事です。

丹生の研究 : 歴史地理学から見た日本の水銀(松田寿男 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 松田壽男氏は『丹生の研究』で、次のように記します。

「天平以前の日本人が「丹」字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は「に」と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ「そほ」には「赭」の字を当てた。丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう。

丹田古墳の「丹田」は赤土の堆積層をさします。
ここには銅鉱山や、朱(水銀)が含まれていることは、修験者たちはよく知っていました。修験者たちは、鉱山関係者でもありました。修験者の姿をした鉱山散策者たちが四国の深山には、早くから入っていたことになります。そして鉱山が開かれれば、熊野神社や虚空蔵神が勧進され、別当寺として山岳寺院が建立されるという運びになります。山岳寺院の登場には、いろいろな道があったのではないかとおもいます。  
 同時に、阿波で採掘された丹=朱砂は、「塩のルート」を通じて丸亀平野の善通寺王国に運ばれ、そこで加工されていました。善通寺王国跡の練兵場跡遺跡からは、丹=朱砂の加工場がでてきていることは以前にお話ししました。丹=朱砂をもとめて、各地からさまざまな勢力がやってきたことが、出てきた土器から分かっています。そして、多度津の白方港から瀬戸内海の交易ルートに載せられていました。漢書地理志に「分かれて百余国をなす」と書かれた時代の倭のひとつの王国が、善通寺王国と研究者は考えるようになっています。善通寺王国と丹田古墳の首長は、さまざまなルートで結びつきをもっていたようです。
以上をまとめておきます
①阿波の丹田古墳は高地に築造された積石の前方後方(円)墳である。
②すべてが積石で構築され、白い礫石で葺かれ、築造当初は山上に白く輝くモニュメント遺跡でもあった。
③これは、丹田古墳の首長が当時の「阿識積石塚分布(化)圏」に属するメンバーの一人であったことを示すものである。
④特に、三加茂と善通寺のつながりは深く、弥生時代から「塩=鉱物(銅・朱水銀)」などの交易を通じて交易や人物交流が行われていた。
⑤それが中世になると、阿波忌部氏の讃岐入植説話などに反映されてきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳島県教育委員会 丹田古墳調査報告書
三加茂町史 127P 丹田古墳

石堂山3
石堂山
前回までは、阿波石堂山が神仏分離以前は山岳信仰の霊山として、修験者たちが活動し、多くの信者が大祭には訪れていたことを押さえました。そして、実際に石堂神社から白滝山までの道を歩いて見ました。今回は、その続きで白滝山から石堂山までの道を行きます。

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笹道の中の稜線歩き 正面は矢筈山
白滝山と石堂山を結ぶ稜線は、ダテカンバやミズナラ類の広葉樹の疎林帯ですが、落葉後のこの季節は展望も開け、絶景の稜線歩きが楽しめます。しかも道はアップダウンが少なく、笹の絨毯の中の山道歩きです。体力を失った老人には、何よりのプレゼントです。ときおり開けた笹の原が現れて、視界を広げてくれます。

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正面が石堂山


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  白滝山から石堂山の稜線上の道標
「石堂山 0,7㎞ 白滝山0,8㎞」とあります。中間地点の道標になります。
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振り返ると白滝山です。
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白滝山から東に伸びる尾根の向こうに友納山、高越山
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矢筈山と、その奥にサガリハゲ
左手には、石堂山の奥の院とされる矢筈山がきれいな山容を見せてくれます。そんな中で前方に突然現れたのが、この巨石です。

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近づいてみると石の真ん中に三角形の穴が空いています。

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中に入ってみましょう。
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巨石の下部に三角の空洞が開いています。
これについて 阿波志(文化年間)は、次のように記します。

「絶頂に石あり削成する如し 高さ十二丈許り 南高く北低し 石扉あり之を覆う 因て名づけて石堂と曰う」

意訳変換しておくと
石堂山の頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにもある。南側の方が高く、北側の方が低い。石の扉があってこれを覆う。よって石堂と呼ばれている。

  ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんで巨石があり、北側の方が高い。
②巨石には空間があり、石の扉もあるので石堂と呼ばれている

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北側から見た石堂
この石堂が「大工石小屋」で、この山は石堂山と呼ばれるようになったことが分かります。同時にこれは、「巨石」という存在だけでなく「宗教的遺跡」だったことがうかがえます。それは、後で考えることにして、前に進みます。

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 石堂と御塔石(石堂山直下の稜線上の宗教遺跡)
石堂(大工石小屋)からひとつコルを越えると、次の巨石が姿を見せます。
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お塔石(おとういし:右下祠あり) 後が矢筈山 
山伏たちが好みそうな天に突き刺す巨石です。高さ約8mの方尖塔状の巨石です。これが御塔(おとう)石で、石堂神社の神体と崇められてきたようです。その奥に見えるのが矢筈(やはず)山で、石堂神社の奥の院とされていました。

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御塔石の石祠

御塔石の右下部には、小さな石の祠が見えます。この祠の前に立ち「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。そして、この祠の下をのぞくと、スパッと切れ落ちた断崖(瀧)になっています。ここで、修験者たちは先達として連れてきた信者達に捨身行をおこなわせたのでしょう。それを奥の院の矢筈山が見守るという構図になります。

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石堂山からのお塔岩(左中央:その向こうは石堂神社への稜線)
先ほど見た阿波志には「絶頂に石あり 削成する如し」と石堂のことが記されていました。修験者にとって石堂山の「絶頂」は、石堂と御塔石で、現在の山頂にはあまり関心をもっていなかったことがうかがえます。

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お塔石の前の笹原に座り込んで、石堂山で行われていた修験者の活動を考えて見ました。 
 修験者が開山し、霊山となるには、それなりの条件が必要なでした。どの山も霊山とされ開山されたわけではありません。例えば、次のような条件です。
①有用な鉱石が出てくる。
②修行に適した行場がある。
③本草綱目に出てくる漢方薬の材料となる食物の自生地である
①③については、以前にお話ししたので、今回は②について考えて見ます。最初にここにやってきた修験者が、天を突き刺すようなお塔岩を見てどう思ったのでしょうか。実は、石鎚山の行場にも、お塔岩があります。
石鎚山と石土山(瓶が森)
 伊豫之高根  石鎚山圖繪(1934年発行)
以前に紹介した戦前の石鎚山絵図です。左が瓶が森、右が石鎚山で、中央を流れるのが西の川になります。左の瓶が森を拡大して見ます。

2石鎚山と石土山(瓶が森)
    石鎚山圖繪(1934年発行)の左・瓶が森の部分 

これを見ると、瓶が森には「石土蔵王大権現」とあり、子持権現をはじめ山中に、多くの地名が書き込まれています。これらはほとんどが行場になるようです。石鎚山方面を見ておきましょう。

石鎚古道 今宮道と黒川宿の繁栄様子がはっきり記されている
石鎚山圖繪(1934年発行)の右・石鎚山の部分

 今から90年前のものですから、もちろんロープウエイはありません。今宮から成就社を越えて石鎚山に参拝道が伸びています。注目したいのは土小屋と前社森の間に「御塔石」と描かれた突出した巨石が描かれています。それを絵図で見ておきましょう。
石鎚山 天柱金剛石
「天柱 御塔石」と記されています。現在は「天柱石」と呼ばれていますが、もともとは「御塔石(おとういし)」だったようです。石堂山の御塔石のルーツは、石鎚山にあったようです。この石も行場であり、聖地として信仰対象になっていたようです。こうしてみると霊山の山中には、稜線沿いや谷川沿いなどにいくつもの行場があったことがうかがえます。いまでは本尊のある頂上だけをめざす参拝登山になっていますが、かつては各行場を訪れていたことを押さえておきます。このような行場をむすんで「石鎚三十六王子」のネットワークが参道沿いに出来上がっていたのです。

 修験道にとって霊山は、天上や地下にあるとされた聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝は天界への道、
④奈落の底まで通じる火口、断崖(瀧)
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界とされました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったようです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされます。境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。
 その山が、年に一度「開放」され「異界への入口」に立つことが出来るのが、お山開きの日だったのです。神々との出会いや、心身を清められることを願って、人々は先達に率いられてお山にやってきたのです。そのためには、いくつも行場で関門をくぐる必要がありました。
 土佐の高板山(こうのいたやま)は、いざなぎ流の修験道の聖地です。
高板山6
高板山(こうのいたやま)

いまでも大祭の日に行われている「嶽めぐり」は、行場で行を勤めながらの参拝です。各行場では童子像が迎えてくれます。その数は三十六王子。これも石鎚三十六王子と同じです。

高板山11
          高板山の行場の霊像

像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。一ノ森、ニノ森では、入峰記録の巻物を供え、しばし経文を唱えます。
高板山 不動明王座像、四国王目岩
               不道明坐像(高板山 四国王目岩)
そして、各行場では次のような行を行います。
①捨て宮滝(腹這いで岩の間を跳ぶ)
②セリ岩(向きでないと通れないほど狭い)
③地獄岩(長さ10mほどの岩穴を抜ける、穴中童子像あり)
④四国岩、千丈滝、三ッ刃の滝などの難所
ちなみに、滝とは「崖」のことであり水は流れていません。
行場から行場への道はまるで迷路のように上下曲折し、一つ道を迷えば数ヶ所の行場を飛ばしてしまいます。先達なくしては、めぐれません。

高板山 へそすり岩9
高板山 臍くぐり岩
石鎚山や高板山を見ていると、石堂山の石堂やお塔石なども信仰対象物であると同時に、行場でもあったことがうかがえます。

 それを裏付けるのがつるぎ町木屋平の「木屋平分間村絵図」です。
木屋平村絵図1
        木屋平分間村絵図の森遠名エリア部分

この絵図には、神社や寺院、ばかりでなく小祠・お堂が描かれています。そればかりか村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。その中には,村人がつけた河谷名や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数も含まれます。それを登場数が多い順に一覧表にまとめたのが次の表です。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観一覧表

この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。そして、巨岩にはそれぞれ名前がつけられています。固有名詞で呼ばれていたのです。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
          三ツ木村と川井村の「宗教施設」
 ここからは、木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。同じようなことが、風呂塔から奥の院の矢筈山にかけてを仰ぎ見る半田町のソラの集落にも云えるようです。そこにはいくつもの行場と信仰対象物があって「石堂大権現三十六王子」を形成していたと私は考えています。それが神仏分離とともに、修験道が解体していく中で、石堂山の行場や聖地も忘れ去られていったのでしょう。そんなことを考えながら石堂山の頂上にやってきました。

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石堂山山頂
ここは広い笹原の山頂で、ゆっくりと寝っ転がって、秋の空を眺めながらくつろげます。

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しかし、宗教的な意味合いが感じられるものはありません。修験者にとって、石堂山の「絶頂」は、石堂であり、お塔石であったことを再確認します。
 さて、石堂山を開山し霊山として発展させた山岳寺院としては、半田の多門寺や、井川の地福寺が候補にあがります。特に、地福寺は近世後半になって、見ノ越に円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺院に成長していくことは以前にお話ししました。地福寺は、もともとは石堂山を拠点としていたのが、近世後半以後に剣山に移したのではないかというのが私の仮説です。それまで、石堂山を霊山としていた信者たちが新しく開かれた剣山へと向かい始めた時期があったのではないかという推察ですが、それを裏付ける史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

関連記事

石堂山
石堂神社から石堂山まで
つるぎ町半田の奥にそびえる石堂山は、かつては石堂大権現とよばれる信仰の山でした。
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標高1200mと記された看板
 現在の石堂神社は1200mの稜線に東面して鎮座しています。もともとこの地は、半田と木屋平を結ぶ峠道が通じていたようです。そこに石堂山の遙拝地であり、参拝登山の前泊地として整備されたのが現在の石堂神社の「祖型」だと私は推察しています。県道304号からアップダウンの厳しいダートの道を越えてくると、開けた空間が現れホッとしました。東向きに鎮座する本堂にお参りして、腰を下ろして考えます。

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 スチールの鳥居が白く輝く石堂神社

 かつて石堂山は、明治維新の神仏分離までは、石堂大権現と呼ばれていました。金比羅大権現と同じように、修験者が信仰する霊山で、行場や頂上には様々な神々が祀られていました。

石堂山2
石堂神社からの石堂大権現の霊山
そのエリアは、風呂塔 → 火上山 → 白滝山 → 石堂山 → 矢筈山を含む一円だったようです。このエリアを修験者たちは行場として活動していたようです。ここで修行を積んで験を高めた修験者たちは、各地に出向いて信仰・医療・広報活動を行い、信者を増やし、講を組織します。そして、夏の大祭には先達として信者達を連れて、本山の石堂大権現に参拝登攀に訪れるようになります。それは石鎚参拝登山と同じです。石鎚参拝登山でも、前神寺や横峰寺など拠点となった山岳寺院がありました。同じように、石堂大権現の拠点寺となったのが井川町の地福寺であり、半田町の多門寺であることを前回にお話ししました。
 先達山伏は、連れて来た信者達を石堂山山頂近くの「お塔石」まで導かなければなりません。そのためには参拝道の整備ととともに、山頂付近で宿泊のできる施設が必要になります。それはできれば、朝日を浴びる東向きの稜線上にあることがふさわしかったはずです。そういう意味では、この神社の位置はピッタリのロケーションです。

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明るく開けた石堂神社の神域
  現在の石堂神社には、素盞嗚尊・大山祇尊・嵯峨天皇の三柱の祭神が祭られているようです。

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石堂神社拝殿横の祠と祀られている祭神
しかし、拝殿横の小さな祠には、次のような神々が祀られています。
①白竜神 (百米先の山中に祭る)
②役行者神変(えんのぎょうじゃ じんべん)大菩薩
③大山祇命
どうやらこの三神が石堂大権現時代の祭神だったようです。神仏分離によって本殿から追い出され、ここに祀られるようになったのでしょう。
役行者と修験道の世界 : 山岳信仰の秘宝 : 役行者神変大菩薩一三〇〇年遠忌記念(大阪市立美術館 編) / ハナ書房 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
役行者(えんのぎょうじゃ)

②の役行者は修験道の開祖とされる人物で、「神変」は没後千年以上の後に寛政2年(1799年)に光格天皇から送られた諡号です。
③の大山祇命(オオヤマツミ)の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味で、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くでも主祭神として祀られています。石堂大権現に祭る神としては相応しい神です。

問題は①の白竜神です。竜は龍神伝説や善女龍王伝説などから雨乞いとからんで信仰されることがあるようですが、讃岐と違って阿波では雨乞い伝説はあまり聞きません。考えられるのは、「白滝山」から転じたもので、白滝山に祀られていた神ではないのかと私は考えています。「百米先の山中に祭る」とあるので、早速行って見ることにします。

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石堂山への参道登山口(石堂神社の鳥居)
 持っていく物を調えて、参拝道の入口に立つ鳥居をくぐります。もみじの紅葉が迎えてくれます。

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最初の上りを登って振り返ると、石堂神社の赤い屋根が見えます。
そして前方に開けてきたのが「磐座の広場」です。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群

石灰岩の大小の石が高低差をもって並んでいます。古代神道では、このような巨石には神が降り立つ磐座(いわくら)と考え、神聖な場所とされてきました。その流れを汲む中世の山伏たちも磐座信仰を持っていました。
金毘羅神
天狗姿で描かれた金毘羅大権現
 修験者は天狗になるために修行をしていたともいわれます。そのため天狗信仰の強かった金毘羅大権現では、金毘羅神は天狗姿で描かれているものもあります。修験者にとって天狗は、憧れの存在でした。

天狗 烏天狗
霊山に宿る仏達(右)と天狗たち(左)
聖なる山々に棲む天狗が集って集会を開くのが「磐座の広場」でした。決められた岩の上に、決められた天狗たちが座するとされました。修験者には、この磐座群に多くの天狗達が座っていたのが見えたのかもしれません。それを絵にしてイメージ化したものが金毘羅大権現にも残っています。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
 金毘羅大権現と天狗達(金毘羅大権現の別当金光院が出していた)

つまり、石堂神社の裏手の山は上の絵のように、石堂大権現と天狗達の集会所として聖地だったと、私は「妄想」しています。そうだとすれば、石堂大権現が座ったのは、中央の大きな磐座だったはずです。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群(石堂神社裏)

ここも修験者たちにとっては聖なる場所のひとつで、その下に遙拝所としての石堂神社が鎮座しているとも考えられます。
下の地図で①が石堂神社、②が白竜神の磐座です。

石堂神社

ここから③の三角点までは、標高差100mほどの上りが続きます。しかし、南側が大規模に伐採中なので展望が開けます。

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南側の黒笠山から津志獄方面
南側の山陵の黒笠山から津志獄へと落ちていく稜線がくっきりと見えます。
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黒笠山から津志獄方面の稜線

いったん平坦になった展望のきく稜線が終わって、ひとのぼりすると③の三角点(1335、4m)があります。

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三角点(1335、4m)
この三角点の点名は「石小屋」です。この附近に、籠堂的な岩屋があったのかもしれません。
 この附近までは北側は、檜やもみの針葉樹林帯で北側の展望はききません。その中に現れた道標です。

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林道分岐まで2㎞とあります。分岐から石堂神社までが1㎞でしたから、石堂神社から1㎞地点になります。
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          小さな二重山陵がつづく
この附近は南側(左)がミズナラやダケカンバの広葉樹、北側(右)が檜やモミなどの針葉樹が続きます。その間に小さな二重稜線が見られます。これは矢筈山の西側稜線にも続いています。 二重稜線とは、稜線が二重に並走し,中間に凹地が出来ている地形で、時に沼沢地や湿地などを生み出します。そのため変化のある風景や植物環境が楽しめたりします。
 標高1400mあたりまでくると大きなブナが迎えてくれました。

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ブナの木
この山でブナに出会えるとは思っていなかったので、嬉しくなって周辺の大きなブナを探して見ました。石堂山の大ブナ紹介です。

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後は黒笠山

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稜線上のブナ 私が見つけた中では一番根回りが太い

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ブナ林の中から見えた吉野川方面
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拡大して見ると、
直下が半田川沿いの集落、左手が半田、右が貞光方面。その向こうに連なるのが阿讃山脈。この範囲の信者達が大祭の日には、石堂山を目指したはずです。

石堂神社

④のあたりが大きなブナがあるところで標高1400mあたりの稜線になります。④からは急登になって、南側からトラバースするようにして白滝山のすぐ南の稜線に出て行きます。そこにあるのが⑥の道標です。
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白滝山と石堂山の分岐点。(林道まで3㎞:
地面におちた方には「白滝山 100m」とあります
笹の中の歩きやすい稜線を少し歩くと白滝山の頂上です。
P1260144
白滝山頂上
白滝山頂上は灌木に囲まれて、展望はいまひとつです。あまり特徴のない山のように思えますが、地図や記録などをみると周辺には断崖や
切り立った岩場があるようです。これらを修験者たちは「瀧」と呼びました。そんな場所は水が流れて居なくても「瀧」で行場だったのです。白滝山周辺も、白い石灰岩の岩場があり「白滝」と呼ばれていたと私は考えています。つまり、石堂山系の中の行場のひとつであったのです。そして、この山から北に続く火上山では、修験者たちが修行の節目に大きな護摩祈祷を行った山であることは以前にお話ししました。
石堂山から風呂塔
北側上空からの石堂山系俯瞰図
 今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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11月の連休は快晴続きで、9月末のような夏日の日が続きました。体力も回復してきたので、久しぶりに稜線を歩きたくなり、あっちこっちの山々に出没しました。前回紹介した石堂山にも行ってきたので、その報告記を残しておきます。この山は明治の神仏分離までは「石堂大権現」と呼ばれ、修験者たちの修行の場で、霊山・聖地でした。
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石堂山直下の 「お塔石」
頂上直下の 「お塔石」がご神体です。また、山名の由来ともなった石室(大工小屋石:石堂)もあります。「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には多くの白衣の行者たちが、この霊山をめざしたことが記されています。彼らが最初に目指したのが、つるぎ町半田と木屋平の稜線上に鎮座する石堂神社です。グーグルに「石堂神社」と入れると、半田町経由の県道304号でのアプローチルートが提示されます。指示されるとおり、国道192号から県道257号に入り、半田川沿いに南下します。このエリアは、かつて端山88ヶ所巡礼のお堂巡りに通った道です。見慣れたお堂に挨拶しながら高清で県道258号へ右折して半田川上流部へと入っていきます。

半田町上喜来 多聞院.2

上喜来・葛城線案内図(昭和55年5月5日作成)
以前に端山巡礼中に見つけた43年前の住宅地図です。
①は白滝山を詠んだ歌です。
八千代の在の人々は 
   仰げば高き白滝の映える緑のその中に 
小浜長兵衛 埋けたる金が 
   年に一度は枝々に 黄金の色の花咲かす
このエリアの人々が見上げる山が白滝山で、信仰の山でもあり、「黄金伝説」も語り継がれていたようです。実際の白滝山は③の方向になります。石堂山は、白滝山の向こうになるので里からは見えないようです。
②は石堂神社です。上喜来集落の岩稜の上に建っていたようです
⑥の井浦堂の奥のに当たるようですが、位置は私には分かりません。この神社は、稜線上にある石堂神社の霊を分霊して勧進した分社であることは推察できます。里の人達が白滝山や石堂山を信仰の山としていたことが、この地図からもうかがえます。
⑦には「まゆ集荷場」とあります。
現在の公民館になっている建物です。ここからは1980年頃までは、各家々で養蚕が行われ、それが集められる集荷場があったということです。蚕が飼われていたと云うことは、周辺の畑には桑の木が植えられていたことになります。また、各家々を見ると「養鶏場」とかかれた所が目立ちます。そして、いまも谷をつめたソラの集落の家には鶏舎が建ち並ぶ姿が見えます。煙草・ミツマタ・養蚕などさまざまな方法で生活を支えてきたことがうかがえます。

多門寺3
多門寺とサルスベリ
この地図を見て不思議に思うのは、多門寺が見えないことです。
多門寺には室町時代と伝えられる庭と、本尊の毘沙門天が祀られています。古くからの山岳信仰の拠点で、この地域の宗教センターで会ったことがうかがえます。

多門寺
多門寺の本堂と庭
前回もお話ししたように、石堂大権現信仰の中核を占めていた寺院が多門寺だと私は思っています。その寺がどうしてここに書き込まれていないのかが私には分かりません。県道258号を先を急ぎます。

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風呂塔・土々瀧への分岐点
多門寺の奥の院である土々瀧の灌頂院への分岐手前の橋の上までやってきました。ここで道標を確認して、左側を見ると目に見えてきたのが次の建物でした。
半田川沿いの旅籠
          土々瀧への分岐点の旅館?
普通の民家の佇まいとはちがいます。拡大して見ると・・

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謎の旅館
旅館の窓のような印象を受けます。旅館だとすると、どうしてこんなところに旅館が建っていたのでしょうか。
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謎の旅館(?)の正面側

私の持っている少ない情報で推察すると、次の二点が浮かんできました。
①石堂大権現(神社)への信者達の参拝登攀のための宿
②多門寺の奥の院灌頂院への信者達の宿
謎の旅館としておきます。ご存じの方がいらっしゃったらお教え下さい。さらに県道258号を登っていきます。

四眠堂
四眠堂(つるぎ町半田紙屋)
 紙屋集落の四眠堂が道の下に見えてきます。
ここも端山巡礼で御世話になったソラのお堂です。これらのお堂を整備し、庚申信仰を拡げ、庚申講を組織していったのも修験者たちでした。
 霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)などの念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動をおこなうようになります。阿波の高越山や石堂山周辺が、その代表です。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していきます。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、そのテリトリーを示すものではないかと私は考えています。

端山四国霊場 四眠堂
端山四国霊場68番 四眠堂
四眠堂の前を「導き給え 教え給え 授けたまえ」と唱えながら通過して行きます。半田川から離れて上りが急になってくると県道304号に変わります。しかし、県道表示の標識は私は一本も見ませんでした。意識しなければ何号線を走っているのかを、気にすることはありません。鶏舎を越えた急登の上に現れたのがこのお堂。

庚申堂 半田町県道304号
半田小谷の庚申堂
グーグルには「庚申堂」で出てきます。

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           半田小谷の庚申堂

   高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったと考える研究者もいます。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たしていたのです。その核となったのがこのようなお堂だったのです。
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最後の民家
 上に登っていくほどに県道304号は整備され、走りやすくなります。植林された暗い杉林から出ると開けた空間に出ました。ススキが秋の風に揺らぐ中にあったのがこの民家です。周囲は畑だったようです。人は住んでいませんが、周辺は草刈りがされて管理されています。「古民家マニア」でもあるので拝見させていただきます。

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民家へのアプローチ道とススキP1260095
庭先から眺める白滝山
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庭先からの吉野川方面
この庭先を借りて、お茶を沸かして一服させていただきました。西に白滝山が、北に吉野川から讃岐の龍王・大川、東に友納山や高越山が望めます。素晴らしいロケーションです。そしてここで生活してきた人達の歴史について、いろいろと想像しました。そんな時に思い出したのが、穴吹でも一番山深い内田集落を訪れた時のことです。一宇峠から下りて、集落入口にある樫平神社でお参りをして内田集落に上がっていきました。めざす民家は、屋号は「ナカ」で、集落の中央という意味でしょう。この民家を訪ねたのは、屋敷神に南光院という山伏を祀(まつ)っていることです。先祖は剣周辺で行を積んでいた修験道でなかったのかと思えます。
 村里に住み着いた修験者のことを里山伏と呼ぶことは先ほど述べました。彼らは村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 この家の先祖をそんな山伏とすれば、ひとつの物語になりそうな気もしてきます。稜線に鎮座する石堂大権現を護りながら、奥の院である矢筈山から御神体である石堂山のお塔岩、そして断崖の白滝山の行場、護摩炊きが山頂で行われた火揚げ山を行場として活動する修験者の姿が描けそうな気もします。

石堂山から風呂塔
     矢筈山から風呂塔までの石堂大権現の行場エリア
ないのは私の才能だけかもしれません。次回はテントを持ってきて、酒を飲みながら「沈思黙考」しようと考えています。「現場」に自分を置いて、考えるのが一番なのです。
 この民家を後にすると最後のヘアピンを越えると、道は一直線に稜線に駆け上っていきます。その北側斜面は大規模な伐採中で視界が開け、大パノラマが楽しめる高山ドライブロードです。

石堂山
県道304号をたどって石堂神社へ
稜線手前に石堂神社への入口がありました。

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県道304号の石堂神社入口
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石堂神社への看板
ここからは1㎞少々アップダウンのきついダートが続きます。

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石堂神社参のカラマツ林
迎えてくれたのは、私が大好きな唐松の紅葉。これだけでも、やってきた甲斐があります。なかなか緊張感のあるダートも時間にすればわずかです。

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標高1200mの稜線上の石堂神社
たどりついた石堂神社。背後の木々は、紅葉を落としている最中でした。
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拝殿から鳥居方向
半田からは寄り道をしながらも1時間あまりでやってきました。私にとっては、快適な山岳ドライブでした。これから紅葉の中の稜線プロムナードの始まりです。それはまた次回に。

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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地福寺(井川町井内)
以前に、地福寺と修験者の関係を、次のようにまとめました。
①祖谷古道が伸びていた井内地区は、祖谷との関係が深いソラの集落であったこと
②馬岡新田神社と、その別当寺だった地福寺が井内の宗教センターの役割を果たしていたこと
③地福寺は、剣山信仰の拠点として多くの修験者を配下に組み込み、活発な修験活動を展開していたこと
④そのため地福寺周辺の井内地区には、修験者たちがやってきて定着して、庵や坊を開いたこと。それが現在でも、集落に痕跡として残っていること
③に関して、剣山は近世後半になって、木屋平の龍光寺と、井川の地福寺によって競うように開山されたことは以前にお話ししました。見ノ越の剣神社やその別当寺として開かれた円福寺を、剣山の「前線基地」として開いたのは地福寺でした。
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地福寺が見ノ越の円福寺の別当寺であることを示す

地福寺は、箸蔵寺とも緊密な関係にあって、その配下の修験者たちは讃岐に信者たちを組織し「かすみ」としていたようです。そのため讃岐の信者達は、地福寺を通じて見ノ越の円福寺に参拝し、そこを拠点に剣山での行場巡りをしていました。そのため見ノ越の円福寺には、讃岐の人達が残した玉垣が数多く残っています。丸亀・三豊平野からの剣山参詣の修験者たちの拠点は、次のようなものであったと私は考えています。
①金毘羅大権現の多聞院 → ②阿波池田の箸蔵寺 → 
③井川の地福寺 → ④見ノ越の円福寺」
そして、この拠点を結ぶ形で西讃地方の剣山詣では行われていたのではないかと推測します。

それでは③の地福寺が剣山を開山する以前に、行場とし、霊山としていたのはどこなのでしょうか。
それが石堂山だったと私は考えています。
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石堂山山頂
石堂山

石堂山は、つるぎ町一宇と三好市半田町の境界上にあります。

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石堂山のお塔岩

頂上近くにある 「お塔石」をご神体とする信仰の山です。石鎚の行場巡りにもこんな石の塔があったことを思い出します。修験者たちがいかにも、このみそうな行場です。

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         石堂山のお塔岩の祠
お塔岩の下には、小さな祠が祀られていました。この下はすぱっと切れ落ちています。ここで捨身の行が行われていたのでしょう。

この山には、もうひとつ巨石が稜線上にあります。
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阿波志(文化年間)には、次のように記されています。
「絶頂に石あり削成する如し高さ十二丈許り南高く北低し石扉あり之を覆う因て名づけて石堂と曰う」
意訳変換しておくと
頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにも達する、北側の方が低く、石の空間があるので石堂と呼ばれている。


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石堂山の石堂

ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんだ巨石が並んで建っている。
②その内の北側の方には、石に空間があるので石堂と呼ばれている
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大工小屋石
つまり石堂山には山名の由来ともなった石室(大工小屋石)があり、昔から修験道の聖地でもあったようです。

「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には白衣の行者多数の登山者が、この霊山をめざした記されています。
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また石室から西方に少し進むと、御塔(おとう)石とよばれる高さ約8mの方尖塔状の巨石がそびえます。これが石堂神社の神体です。また石堂山の南方尾根続きの矢筈(やはず)山は奥院とされていました。この山もかつては石堂大権現と呼ばれ、剣山を中心とした修験道場の一つで、夏には山伏たちが柴灯護摩を修行した行場であったのです。

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石堂山方面からの白滝山

 白滝山(しらたきやま 標高1,526m) は、東側の頂上直下附近は、石灰岩の断崖や崩壊跡が見られます。修験者たちは、断崖や洞窟を異界との接合点と考えて、このような場所を行場として行道や瞑想を行いました。白滝山周辺の断崖は、行場であったと私は考えています。
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              白滝山山頂
 白滝山からさらに北に稜線を進むと火打山です。
火上山・火山・焼ケ山というのは、修験者たちが修行の区切りに大きな火を焚いて護摩供養を行った山です。石堂山からは東に流れる吉野川が瀬戸内海に注ぎ込む姿が見えます。火打山で焚いた護摩火は海を行く船にも見えたはずです。
 火打山につながる「風呂塔」も、修験者たちが名付けた山名だと思うのですが、それが何に由来するのかは私には分かりません。しかし、この山も修験者たちの活動する行場があったと思います。こうして見ると、このエリアは次のような修験者たちの霊地・霊山だったことがうかがえます。
「風呂塔 → 火上山(護摩場) → 白滝山(瀧行場) → 石堂山(本山) →矢筈山(奥の院)」から

ここを行場のテリトリーとしていたのは、多門寺(つるぎ町半田上喜来)が考えられます。
多門寺
多門寺(つるぎ町半田上喜来)
このお寺は今でも土々瀧にある奥の院で、定期的な護摩法要を行い、多くの信者を各地から集めています。広範囲の信者がいて、かつての信徒集団の広がりが垣間見えます。この寺が山伏寺として石堂神社の別当を務めたいたと推測しているのですが、史料はありません。また、最初に述べた地福寺からも、水の口峠や桟敷峠を越えれば、風呂塔に至ります。つまり、地福寺が見ノ越を中心に剣山を開山する以前は、地福寺も石堂山を霊山として、その周辺の行場での活動を行っていたというのが今の私の仮説です。

 最後に石堂山から東に伸びる標高1200mの稜線に鎮座する石堂神社を見ておきましょう。
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石堂神社

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東面して鎮座する石堂神社
この神社も神仏分離以前には、石堂大権現と呼ばれていたようです。そして夏には、山伏たちが柴灯護摩を修行していたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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        表紙 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会
  以前に『金毘羅参詣名所図会』が、弘化4(1847)年に大坂の戯作者暁鐘成(あかつきかねなる)によって出版されたこと、その際に絵師も連れて、2ヶ月間の讃岐取材旅行の上で書かれていることをお話ししました。すると、「金毘羅参詣名所図会を現代語訳で読んでみたい」というリクエストをいただきました。私も現代語(意訳)と絵図をアップしておくことは意味のあることだと思うので、少しずつ載せていくことにします。しかし、巻頭からではなく、私の興味関心のあるところからアトランダムになります。悪しからず。


金毘羅絵図幕末

 初回は、金比羅の金倉川にかかる鞘橋から金光院までにします。

鞘橋 金毘羅参詣名所図会
鞘橋(金毘羅参詣名所図会)
鞘橋 
此の地の惣名を松尾といふ。故に寺を松尾寺といひ、又此所より出る人多く松尾氏あり。又家号を松尾屋となのる者多し。然れども昔より御神号を所の名にいひつたへ、只一円に金毘羅といひならはせり。 

売物の称にいふ
さやは橋の名につけて
真こゝろ見せの賑ひ
絵馬丸
意訳変換しておくと
この地の地名は松尾という。そのため寺は松尾寺で、この地には松尾氏の姓が多い。また家号を松尾屋と名のる者も多い。しかし、昔よりの御神号である金比羅の名をとって、いまではこの一円を金毘羅と呼んでいる。 

鞘橋祭礼屏風図鞘橋沐浴図
元禄時代の金毘羅祭礼屏風図の鞘橋 
橋の下の金倉川で沐浴する参拝者

金毘羅参詣名所図会の数年後に出される讃岐国名勝図会の鞘橋を見ておきましょう。
金毘羅門前町 阿波町 鞘橋 頭人行列
鞘橋(讃岐国名勝図会)
讃岐国名勝図会では、瀬川神事の際の行列が鞘橋を渡る様子が描かれています。
鞘橋 明治中頃
明治中頃の鞘橋

DSC00639琴平鞘橋とバス
現在地の神事場入口に移築された鞘橋
 唐破風造(からはふづくり)・銅葺の屋根を備えるアーチ型の木造橋。刀の鞘を連想させるその形からそう呼れています。橋の下に柱がないのも特徴で、川の上に浮かんでいるようにみえるので「浮橋」ともよばれました。現在のものは明治2年(1869)の改築に際し阿波鞘橋講中より寄進されました。明治38年に現在地に移築された後は神事専用の橋となっており、祭典奉仕の神職や巫女が渡るだけになりました。
金毘羅門前 鞘橋から内町 1880年

鞘橋を越えると内町です。
2-18 鞘橋 

内町 
鞘ばしの西詰より小坂までの間をいふ。左右旅宿屋軒をならべ何れも家建奇麗なり。坂の傍に庚申堂あり。右の向ふを壇の上といひ、此所に地蔵堂あり。此の辺至って繁昌なり。
十二景之内 五百長市 
半千長市座  高下巧成隣  無意弄煙景  潭諸待価人
一之坂
大坂ともいふ。此の坂の間、左右名物の飴売店多し。詣人は家土産に需むること愛宕山の樒(しきみ)、大峰の陀羅尼助に異ならず。
愛宕町
大坂の少し前より左へ入るところをいふ。此の町よりあたご山見ゆるゆへ斯くはなづけり。
意訳変換しておくと
内町 
鞘橋の西詰から小坂までの間を内町という。左右に旅宿屋が軒をならべるが、どれも建物が奇麗である。坂の登り口庚申堂がある。右の方に向かう道筋を壇の上と云い、ここには地蔵堂がある。この辺りは、いたって繁昌している。

(金毘羅)十二景の内の「五百長市」にあたる。  
半千長市座  高下巧成隣  無意弄煙景  潭諸待価人 
一之坂
大坂とも云う。この坂の左右両側には、名物の飴売店が多い。参拝者が家土産に買い求める姿は、愛宕山の樒(しきみ)、大峰の陀羅尼助と同じである。
愛宕町
大坂の少し手前から左へ入った町筋を愛宕町という。この町から愛宕山が見えるので名付けられた。

2-17 愛宕山
金比羅の愛宕山(金毘羅参詣名所図会2巻)
2-13 金毘羅愛宕山
金毘羅参詣名所図会(2巻13)
天神社
愛宕町の正面にあり。中央に天満大自在天神、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町より向ふに見ゆる山也。山上に愛宕山大権現の社あり、金毘羅山の守護神すみ給ふ山にて魔所なりといふ。
箸洗池
愛宕の山中に巨巌ありて是に一つの小池あるをいふ。此の水いかなる早魃にも乾くことなし。是十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨るを、守護神拾ひあつめ此の池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこび給ふといひつたふ。ゆへに箸あらひの池と号す。
十二景の内
箸洗清漣(はしあらいのせいれん)             林春常
一飽有余清  波漣源口亨  漱流頻下箸  喚起子十刑情
意訳もあまり必要ないようなので、このあたりは省略します。愛宕山については、現在は忘れ去られた存在になっていますが、もともとは修験者の愛宕山信仰の聖地で、山頂にも「愛宕大権現」が鎮座していたようです。金毘羅市中の警察・行政権を握っていたのは多聞院です。多聞院は全国からやって来る山伏たちを保護していたようで、愛宕山周辺には修験者たちが数多くいた気配がします。幕末には、阿波の箸蔵寺の山伏たちとの交流・連携もあった気配がします。
 愛宕山の向こう側の佐文には「ごま(護摩)谷」という地名も残っていて、護摩木を提供する山もあったようです。愛宕山については、関心があるのですが、切り込んでいく史料がなくて「停滞」しています。今後の課題です。さて、金毘羅参詣名所図会は、鐘楼・仁王門の手前までやってきました。ここで清少納言が登場します。

鼓楼 飴茶屋 清少納言古墳 金毘羅参詣名所図会

清少納言古墳(金毘羅参詣名所図会)
清少納言古墳
一の坂の上、鼓楼の傍にあり、近年墳の辺りに碑を建てり。
〔伝に云ふ〕往昔、宝永の年間、鼓楼造立につき此の墳を他に移しかへんとせしに、近き辺りの人の夢に清女(清少納言
)の霊あらわれて告ける歌にうつゝなき跡のしるしを たれにかはとわれじなれど有りてしもがなさては実に清女の墓なるべしとて本の儘にさし置れけるとぞ。
〔図癸〕清少納言古墳  桧扇とおぼせ手向の渋団   
                         長門国筆舎
象頭山八景 清氏塚秋雨 

まきあけし小簾のみゆきに古つかの
      ふりかはりぬる秋のむらさめ
侍雪中宮彼一時
空智孤塚象山陸
昔日無人買馬骨
千今秋雨為君悲 
        梅隠 
2-14 清少納言現る
清少納言が霊夢にあらわれる(金毘羅参詣名所図会2巻14)
清少納言塚のいわれについては、以前お話ししたので省略して、仁王門をくぐって行きます。

仁王門 金毘羅参詣名所図会
二王門 坊中 桜並樹 竹薗 神馬舎 茶堂(金毘羅参詣名所図会)

門内の左右は石の玉垣が数十間打続き、其の内には奉納の石灯籠所せきまでつらなれり。其の後には桜の並樹ありて花盛りの頃は、吉野初瀬も思ひやらるゝ風色あり。

花曇り人に曇るや象頭山                      讃陽木長


普門院 - コピー
金毘羅参詣名所図会2巻16
普門院 右塚のむかふにあり、則ち坊中なり。
二王門
一の坂の上にあり、金剛神の両尊を安す。象頭山の額は竹内二品親王御筆なり。
桜馬場
二王門を入り左右桜の並木連れり。晩春の頃は花爛慢として美観なり。十二景の内にして左右の桜陣と題す。此の間、石灯籠数多且つ石の鳥居あり。
真光院 万福院 尊勝院 神護院
桜の並木の右にあり、左の後は竹藪なり。
十二景之内 左右桜陣                            林春斉
呉隊二姫笑 椰宮千騎粧 花顔誇国色 列対護春王
同     後前竹囲                            全
移得渭川畝 湘孫胎版多 百千竿翠密 本未葉森羅

別業
坂を上りて左の方にあり、本坊の別荘なり。景の内にして幽軒梅月と題す。
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桜の馬場
仁王門をくぐると坊中で、現在はここで五人百姓が赤い大きな傘を広げて金比羅飴を販売しています。

1 金毘羅 伽藍図2
金刀比羅宮の建物変遷
その右手に、かつては普門院・真光院 万福院・尊勝院・神護院の5つの院房がならんでいました。これらが金光院に奉仕する形で、金毘羅寺領の運営は行われていました。明治以後の神仏分離で、これらの5つの院房は「廃仏」で姿を消します。今は、金比羅教本部や宝物館などが建っています。
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桜の馬場

 仁王門を越えての空間は石畳と玉垣、そして灯籠がならぶ石造物の空間です。
このエリアは両側に桜が植えられて「桜の馬場」ともいわれて、春には桜並木となります。この桜の馬場は、次のように阿波の人達の寄進で整備されたものです。
①文政三年(1820) 阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848) 阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860)  石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862)  阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
ここからは、阿波の殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという寄進僧の変遷が見えます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことが分かります。三好の敷石講は、5年間をかけて桜の馬場に石畳を完成させています。
『金毘羅参詣名所図会』が、公刊されたのが弘化4(1847)年のことですから、その時点では玉垣などはできていましたが、石畳はまだ姿を見せていなかったことになります。以前にお話ししたように、金毘羅さんの石段や石畳、そして石造物がすべてのエリアで調えられるようになるのは、案外新しく幕末になってからのようです。
今回はここまでとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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佐文賀茂神社での練習風景

綾子踊りの概要は次のような流れです。

 薙刀持と棒持が中央に進み出て、口上を述べて薙刀と棒を使い、次いで地唄が座につき、芸司が口上の後歌い出し、踊りが始まります。

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賀茂神社への奉納

芸司は先頭で「日月」を書いた大団扇をひらかして踊り子踊、大踊、側踊の踊り子が並んで踊ります。踊り場の周囲を棒で垣を作り、四方には佐文村雨乞踊と、昇龍と降龍の幟の旗をおし立てた中で、「水の踊り」 「四国船」 「綾子踊」「小津々み」「花寵」 「鳥寵」「たま坂」「六調子」「京絹」「塩飽船」「忍びの踊」「かえり踊り」の十二段の地唄が歌われます。

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佐文綾子踊 芸司と太鼓

囃子は、太鼓、笛、鉦、鼓、法螺貝であって、シンプルで単調な踊りが続きます。ただ眺めていると変化もなく単調で眠くなってきそうです。

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佐文綾子踊(賀茂神社にて)

しかし、伝わる歴史を紐解くと節ぶしに、村人の雨乞いの悲願がこもり、天地の神がみにひと露の雨を降らせ給えと祈る心がにじみ出てくるようにも思えます。終わりに近づくにつれて、テンポが少しは焼くなり踊りは早くなります。

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佐文綾子踊の芸司と小踊り(佐文賀茂神社にて)
  
 尾﨑清甫の残した「綾子踊由来記」には、その由来について次のように書かれています 。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版) 
夫れ佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名則四十九名の事 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 
当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して

綾子踊由来記 それ2
綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版)
茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山の噺の内彼の僧は、此旱魃甚だ敷く各地とも困難の折柄当家の水利は如何がと尋ねられし故綾は自分の家には勿論困難なるが 当村としても最早一杓の水さえ無く空しく作物を見殺しにするより外に詮術なし 誠に難儀至極に達し居る旨を答たるに僧は更に今雨が降らば作物は宜布乎(宜しいか)と問わるる故綾は今幸い雨降りたらば作物は申すに及ばず、万民の為喜は何と喩え難き旨を答えたるに 僧は我れ今雨を乞わんと曰ければ 綾は之を怪み 如何程大徳の僧と雖も此の炎天に雨を降らす事は六ヶ敷(むずかし)く想と申しければ 僧の申さるるには如何に炎天なりと雖も 今我言う如く為せば 雨降る事疑いなしとの言なれば綾が貴僧の言は如何なる事なるか 出来得ずんば 何なりとも貴命に従う可しと②僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし。而して其の踊りをするには多くの人を要する故 村内にて雇い来たれとの言に
綾は命の通り人を雇わんと 所々を尋ね廻りしも干ばつの折とて何れも力の及ぶ限り田畑

綾子踊由来記 夫レ版3

作物の枯死を防ぐに忙しく 各家とも不在なれば帰りて其の由を報じつれば僧は更に 然らば此の家には小児幾人なりしやと問わるる故 綾は六人ありと答えければ 然らば其の児六人と汝等夫婦と我れと九人踊るべし 只此の外に親族の者を雇い来たれとの事に 綾は一束奔に兄弟姉妹合わせて四五人呼びたれば、僧は吾先ず立ちて踊る故に 汝等ともに踊るべしとて踊り始め愈々二夜三日の結願の日となりたるとき 僧の言わるるには蓑笠を着て団扇を携えて踊るべしとの言なる故 綾はあやしみ此の炎天に今直に雨降る事など有間敷く 蓑笠とは何の為ぞと中しつれば 僧の言わるるには否決して疑うべからず先ず踊れ而して踊り最中にして雨降り来りとて決して止めるべからず 若し踊りを中止するときは雨人いに少なし故に蓑笠を着して踊り 雨降り来りと雖も踊り終るまで止めることなく大いに踊れとの言いに 綾は仮令如何程の大雨降り来ればとて決して中止申さずと答えければ 先ず小児六人を僧の列におき ③僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き 親類の者に
綾子踊由来記 夫レ版4

太鼓鉦を持たせ其の後に置き 地歌を歌つて大いに踊りたるが 不思議なる哉 踊り央(なかば)にして一天俄に掻き曇り 雨しきりに降り来れば一同は歓喜の声諸共に踊りに踊りたり 雨亦次第に降りしきり篠突く如く大雨の音や、鉦の響きと相和して滝なす如く 勇ましさいわん方なく遂には山谷も流れん計りなりき 茲に踊りも堪え難くなりぬれば太鼓の音は次第に乱れ 終りの一踊りは唯急ぎ急ぎにて前後を忘れ 早め早めの掛声にて人いに踊りに踊りたり 此の雨ありたれば四方の人々馳せ来り 
 我も踊り彼も踊れと四方に立囲い踊りたり 此の因縁に依りて昔も今も側踊りの人数に制限なし 誠に善女龍王の御利生は何に喩えんものもなし
 唯勿体なし恐れ多き事となり 而して綾親子の者は踊り踊りて後に人聖僧に向い 歌または踊りの意味等を詳しく教え給えと乞いつれば 僧は乃詳しく教授し終えて将に立ち帰らんとせられ 綾及び小児等の名残りを惜しむ事尚乳児の慈母に離るるが如しければ 僧いとも哀に思われ 吾れ去りたるとても決して悔ゆる
綾子踊由来記 夫レ版5

事勿れ若し末世に到り如何なる干ばつあるとも 一心に誠を籠めて此の踊りをなせば必ず雨降るべし 然れば末世までも露疑わず 干ばつの時には一心に立願し此の雨乞いを為すべし 此の趣き末代まで伝えよと言い給いて立ち去り 
 後を見送り姿は霞の如く見えけん 因りて彼の聖僧こそは弘法人師なりと言い伝え深く尊び崇めけり 佐文綾子の踊りと言うは此の時より始まりたることにて世人の能く識る所なるが 干ばつの時には必ず此の踊りを行うを例とせり 而して綾子の踊りと称える名も此の因縁によりて名付けられしものなりと云う。
十郷村人字佐文
  尾崎 清甫    写之 印

意訳変換しておくと
佐文村に佐文七名という七軒の蒙族、四十九名がいた。昔、千ばつがひどく、田畑はもちろん山野の草や木に至るまで枯死寸前の状況で、皆がても苦しんでいたこその頃、村には綾という女性がいた。ある日、仏道によって、生きとし生けるものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させようと、四国を遍歴する僧がやって来た。僧は、暑いので少し休ませてもらいたいと、綾の家に入った。綾は快く僧を迎え、涼しい所へ案内をしてお茶などをすすめた。僧は喜んで喫み、色々と話をした。その中で、一千ばつがひどく、各地で苦しんでいる状況だが、綾の家の水利はどううかと尋ねられたので、綾は、「自分の家ももちろん、村としても一杓のよも無いひどい状況で、作物を見殺しにするしかない。本当に苦しい」と答えた。
すると僧は、「今雨が降ったら、作物は大丈夫になるか」と尋ねたので、「今雨が降ったら、作物はもちろん人々は喜ぶでしょう」と綾はと答えた。その答えに僧が「私が今、雨を乞いましょう」と言うので、綾は怪しみ、「いくら大きな徳がある僧でも、この炎天下に雨を降らせるのは無理と思います」と答えた。すると僧は、「今、私の言うようにすれほ、雨がが降ること間違いなしです」と言うので、綾は「できる限りやってみます」と答えた。僧は「龍王に雨乞いの願をかけ、踊りをすれば、間違いない。この踊りをするには多くの人が必要なので、村中の人たちを集めなさい」という。
 そこで綾はあちこちと田津根香寺歩いたものの旱魃から作物を守ろうとするのに忙しく、だれも家にはいない、帰ってきた綾が、誰もいないことを倍に話すと、「では、この家には何人子どもがいるか」と尋ねた。「六人」と答えると、「ではその子六人と綾夫婦と私の九人で踊りましょう。その他親族を集めなさい」と言う。綾は、走って兄弟姉妹合わせて四・五人呼ぶと、僧が「まず私が踊るので、皆も一緒に踊りなさい」と踊り始めた。二夜三日踊って、結願の日となっても雨は降りません。なのに僧侶は「今度は蓑笠を着て、団扇を携えて踊りなさい」と言う。綾は「この炎天下に雨が降るわけでもないのに、蓑笠は何のためですか」と怪しんで訊ねます。
「疑わず、まず踊りなさい。そして踊っている最中に雨が降っても、踊りを止めないこと。踊りをやめると、雨は少なくなるので、蓑笠を着て踊り、雨が降っても踊りが終わるまで止めずに、大いに踊りなさい」と僧は云います。綾は「例えどんな大雨が降っても、決してやめません」と答えた。まず子ども六人を僧の列に並べ、僧自らが芸司となって左右に綾夫婦を配置しました。親類の者には大鼓、鉦を持たせてその後ろに配し、地唄を歌つて大いに踊った。すると、不思議なことに、踊りの半ばには一天にわかに掻き曇り、雨が降り出したのす。 みんなは歓喜の声を上げながら踊りに踊った。雨は次第に激しくなり、雨音が鉦の響きと調和して、滝のように響きます。ついには山谷も流れるのではないかと思う程の土砂降りとなり、踊るのも大変で、太鼓の音も次第に乱れていきました。終わりの一踊りは、急いでしまい前後を忘れ、早め早めの掛け声の中で大いに踊った。・降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯があり、昔も今も側踊りの人数に制限はない。
善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。

踊りが終わってから、歌や踊りの意味などを詳しく教えてもらいたいと僧に乞うと、詳しく教えてくれ、帰ろうとした。綾や子どもたちが、赤ん坊が母親から離れがたいように名残を惜しむようすを見て、僧は心動かされ、「今後どのような千ばつがあっても、 一心に誠を込めてこの踊りを行えば、必ず雨は降る。末世まで疑うことなく、千ばつの時には一心に願いを込め、この雨乞いをしなさい。末代まで伝えなさい」と言って、立ち去った。
 見送っていると、まるで霞のような姿だったので、この僧は、弘法大師だと言い伝えられるようになり、深く尊び崇まれるようになった。佐文の綾子踊りと言うのは、この時から始まり、皆の知るところとなった。千ばつの時には必ずこの踊りを行うこととなり、綾子踊りと言うのも、ここから名付けられた。
  この由来書は、華道師範であった尾崎清甫氏によって戦前に書き写されたものです。

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尾崎清甫の残した文書
また、綾子踊りの地唄や踊り編成などの史料は、すべて彼が書き写したり、記録したもので尾崎家に現在でも保存されています。ちなみに「綾子踊り」は三豊の大水上神社周辺の各地域でも「エシマ踊り」として踊られていた形跡はあるのですが、記録として残っているのは佐文地区だけになっていました。それが国の無形文化財指定の決め手になりました。そういう意味でも尾崎氏の功績は大きいと言えます。

 P1250692
尾﨑清甫の文書箱の裏書き

この口上書を読んで気になる点を挙げておきます。

①「聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者遍歴の僧侶」とあります。綾子踊りを伝えたのは遍歴の僧侶(聖・修験者)とされます。
②「僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし」からは、空海の善女龍王信仰に基づく雨乞い踊りであることが分かります。
③「僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き」とあります。ここからは廻国修験者(聖)が、このおどりを綾子夫婦と六人の子ども達に伝授したことが記されています。つまり廻国聖が「芸能伝播者」であったことになります。
「因りて彼の聖僧こそは弘法人師なり」と、弘法大師で伝説に附会されていきます。

百石踊り 駒宇佐八幡神社(ふるさと三田 第16集)( 三田市教育委員会 編) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

風流踊りの芸司について、兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊を見ておきましょう。

ここでは芸司は「新発意(新人僧侶)」と呼ばれています。その衣装は、白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧姿です。右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都の姿を表したものであると伝えられます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などの祭礼や芸能に関わっていたことは以前にお話ししました。百石踊りや綾子踊りの成立過程に、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。
新発意役(芸司)の持ち物を見てみましょう。
百石踊り - marble Roadster2
百石踊の新発意役(芸司)
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。民俗芸能にみられる「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。新発意役は僧形をし、聖の系統を表す大きな団扇や瓢箪・七夕竹などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べたりします。これは綾子踊りの芸司と同じです。
 しかし、時代の推移とともに新発意役の衣装も風流化し、派手になっていきます。僧形のいでたちで踊る芸能は少なくなり、麻の裃から、今では滝宮念仏踊のように金色の裃へと変わっていきました。これも「風流化」のひとつの道です。しかし、被り物・採り物だけは今でも、遊行聖の痕跡を伝えています。それは綾子踊りの芸司も同じです。
以上から綾子踊りの成立については、次のような要素が盛り込まれていることがうかがえます。
①芸能伝播者としての廻国僧(修験者や聖)
②歌われる歌詞の内容は中世の閑吟集にまで遡る
③雨乞い信仰としての善女龍王
④弘法大師伝説
私は最初は、①②から綾子踊りの成立は風流踊りに起源を持つもので、中世にまで遡れるものと考えていました。しかし、③は近世後半、④の弘法大師が伝えたというのも、歌詞内容が閑吟集などに出てくるので、中世の流行(はやり)歌で、弘法大師が教えたものではありません。同時に、弘法大師伝説が讃岐の民衆に拡がるのは案外遅くて、江戸中期以後になるようです。そうすると、この由来が書かれた時期は、案外新しいのではないかと思うようになりました。

イメージ 8
佐文綾子踊(まんのう町佐文 賀茂神社)
もうひとつ疑問なのは、この踊りを伝えられたのは綾子だったはずです。綾子が芸司を務めるの相応しいと私は感じます。ところが綾子は登場しません。どうしてなのでしょうか?
一つの説は、江戸幕府の芸能政策の「女人禁止令」です。中世の風流踊りには女性が登場していました。出雲の阿国の歌舞伎も女性が中心でした。しかし、江戸幕府は風紀上の問題から女性が舞台に上がることを禁止します。神に奉納される踊りなどからも女性が除かれていきます。こうして、綾子も踊りの場から遠ざけられたということは考えられます。

P1250667小踊り
佐文綾子踊の構成人数(尾﨑清甫写)小踊六人とある

もうひとつ私が気になるのが次の記述です。
先ず
小児六人を僧の列におき、僧自ら芸司となりて
左右には綾夫婦を置き
 
親類の者に太鼓鉦を持たせ其の後に置き」
①小児六人とは、小踊り
②は、芸司のあとに中団扇をもって控える拍子2人
③は親類のものが鉦太鼓
 ここからは、綾子踊りの中心部は、綾子の一族によって占有されていたことになります。つまり、この踊りがもともとは村の人々の合意の上に、始まったものでないことがうかがえます。綾子の家族と、親類の者達で踊られ初め、最初は参加していなかった人々は、雨が降りそうになってから参加したというのです。これは村の風流踊りとして根付いたものではなかった、突然に一部の一族によって踊られ始めたことを伝えている気配があることを押さえておきます。また。小踊六人がなぜ女装するかについては何も触れません。

P1250641
綾子踊りの写文書を残した尾﨑清甫
  この由来書をはじめ、綾子踊りの史料は戦前に尾崎清甫によって書き写されたものです。
P1250689奉納年月日
綾子踊り控記録」
その中に「綾子踊り控記録」として、過去に踊られた年月日と記録が次のように記されています。
① 文化十一(1814)年六月十八日踊
② 弘化三(1846)年 午 七月吉日
③ 文久元(1861)年 子 七月二十八日 延期と相成り 八月一日踊る成り。
④ 明治八年 七月六日より大願をかけ、十三日踊願い戻し。又、十五日、十六日、十七日、踊り、二度の願立てをなし、二十二日目の二十七日、又、添願として神官の者より、自願かけ身願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり
⑥ 大正元年 旱魃。それより三ヶ年の旱魃につき、大正三年七月末日に踊り、御利生あり
ここからは次のようなことが分かります。
A 一番古い記録は19世紀初頭であること。
B 江戸時代の記録は日付だけで内容がないこと。
C 明治8年に雨乞いのために、何度も願掛けをして踊られたこと
D 旱魃の度に雨乞い踊りとして踊られた回数は、少ないこと

昭和9年由来書写後記

昭和9年7月16日の実施記録には次のような興味深いことが書かれています。

⑦ 昭和九年七月十六日 旱魅につき加茂神社にて踊る。大字佐文戸数百戸以上なるにつき、踊りの談示和合、難致に依り、北山講中として村雨乞踊りの行列にて、一週間の願を掛け祈念をなし、一週間にて御利生の雨少なし、再願を掛けた後、盆十六日に踊りまた御利生の雨少なし。それより旧七月二十九日大なる雨降り来り、それより俄に諸氏申し立てにより、旧八月朔日にお礼の踊りを執行せり。
仙峰斎  尾崎 清甫 之写置也。
意訳変換しておくと
 昭和9(1934)年7月16日 旱魅になり、加茂神社で踊った。大字佐文は、①戸数百軒以上になって、踊り実施に向けた合意が困難になってきた。②そこで、(佐文全体ではなく)北山講中(組)として村雨乞踊りの行列を一週間行って、願を掛け祈願した。しかし、一週間では御利生の雨は少なかった。そこで、再願を掛け、盆の8月16日に踊ったが、御利生の雨は少なかった。しかし、旧7月29日に恵みの大雨となった。そこで、お礼踊りを奉納しようということになり、旧八月朔日に雨乞い成就のお礼の踊りを(佐文全体で)行った。
  尾崎清甫がこれを書き写し置いた。
この記録は、どこかで聞いた話です。最初に紹介した綾子踊りの「由来口上書」と話の要旨がよく似ています。それは、次のような点です。
綾子踊りの最初は村人は畑仕事に忙しくて踊りには見向きもしなかったこと。そのため、綾子一族のみで踊ったこと。それが大雨を降らしたので、周りの人々もその輪の中に飛び込んで、ひとつになって踊ったこと。

P1250640
文書は最後に「仙峰斎 尾崎清甫 之写置也」とあります。
尾崎清甫氏が原本を書き写したことを示します。しかし、その原本は存在しません。原本がいつ頃書かれたものなか、またどこに保存されたいたのかも分かりません。そうなると、この文書類の中には尾崎清甫氏による「創作」もあったのではないかとも思えてきます。
以上 「綾子踊
由来口上書」を読みながら私が考えたことでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊の里 佐文誌

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 西讃府誌と尾﨑清甫
佐文綾子踊の書かれた史料
綾子踊についての史料は、次の2つしかありません
①幕末の西讃府志の那珂郡佐文村の項目にかかれたもの
②佐文の尾﨑清甫の残した書類(尾﨑清甫文書)
前回は、この内の②尾﨑清甫が大正3年から書き付けられ始めて、昭和14年に集大成されたことを見てきました。この過程で、表現の変化や書き足しが行われ、分量も増加しています。ここからうかがえることは、尾﨑清甫文書が従来伝えられてきたように「書写」されたものではなく、時間をかけながら推敲されたものであるということでした。西讃府誌の記述を核に、整えられて行ったことが考えられます。今回は、西讃府誌と尾﨑清甫文書を比較しながら、どの部分が書き足されたものなのかを見ていくことにします。

西讃府志 綾子踊り
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

まず、西讃府誌に綾子踊りについて何が書かれているのかを見ておきましょう。(意訳)
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる踊りがある。これにも滝宮念仏踊りと同様に下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠を被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。踊り始める前には、薙刀と棒が次のような問答を行う。

以前に紹介したので以下は省略します。
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その構成は形態は、下知(芸司)・女装した踊子(小踊)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒の問答・演舞がある
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている。

以上から西讃府誌には、次の3つの史料が掲載されていることを押さえておきます。
A 棒薙刀問答 B 芸司の口上 C 地唄12曲

残されている史料から引き算すると、これ以外のものは尾﨑清甫の残した文書の中に書かれていることになります。縁起や由来、各役割と衣装・持ち物などが書き足されたことになります。

尾﨑清甫史料
綾子踊に関する尾﨑清甫の残した文書

 前回に見た尾﨑清甫が残した史料は、そのような空白を埋めるものだったと私は考えています。しかし、大正3年から書き始められ、昭和14年にまとめられたものとでは、相違点があることを前回に指摘しました。それは由来書についても、推敲が重ねられ少しずつ文章が変化しています。それを次に見ておきましょう。

綾子踊り由来大正3年
綾子踊
由来 大正3年版
迎々 佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名の頃 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ凡愚済度の為め 四国の山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山(以下略)
綾子踊り由来昭和9年版
綾子踊由来 昭和9年版

 大正3年と昭和9年の由来に関する部分の異同は、
②「七家七名の頃」→「七家七名之頃 即ち七×七=四十九名」
の1点だけです。
綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊由来 昭和14年版
それが昭和14年版になると①と③が推敲されます。③は、それまでは「聖僧」がへりくだって「凡愚済度」のためと称していたのを、「衆愚済度」に改めています。これも弘法大師信仰を考えてのことかもしれません。小さな所ですが、ここでも推敲が繰り返し行われています。
この他、西讃府誌と「雨乞踊悉皆写」の相違点で気づいた点を挙げておきます。

西讃府誌と尾﨑清甫の相違点

以上をまとめたおきます。
①綾子踊りには、西讃府誌と尾﨑清甫の残した文書しかない。
②西讃府誌以外の記載は、尾﨑清甫が大正3年から書残したものである。
③それを昭和14年に、すべてまとめて「雨乞踊悉皆写」として記録に残している。
④その経過を見ると、加筆・訂正・推敲・図版追加などが行われている。
⑤以上から
「雨乞踊悉皆写」は書写したものではなく、尾﨑清甫が当時踊られていた綾子踊りを後世に残すために新たに「創作」されたものである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

  県ミュージアムの学芸員の方をお誘いして、綾子踊史料の残されている尾﨑家を訪問しました。

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尾﨑清甫(傳次)の残した文書類
尾﨑家には尾﨑清甫(傳次)の残した文書が2つの箱に入れて保管されています。この内の「挿花伝書箱」については、華道家としての書類が残されていることは以前に紹介しました。今回は、右側の「雨乞踊諸書類」の方を見せてもらい、写真に収めさせていただきました。その報告になります。
 以前にもお話ししたように、丹波からやって来た廻国の僧侶が宮田の法然堂に住み着き、未生流という華道を教えるようになります。そこに通った高弟が、後に村長や県会議員を経て衆議院議員となる増田穣三です。彼は、これを如松流と称し、一派を興し家元となります。その後継者となったのが尾﨑清甫でした。

尾﨑清甫
尾﨑清甫(傳次)と妻
清甫の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されていて、 明治24年12月、21歳での入門だったことが分かります。師匠の信頼を得て、清甫は精進を続け次のように成長して行きます。
大正9(19200)華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任
大正15年3月 師範免許(59歳)
昭和 6年7月 准目代(64歳)
昭和12年6月 会頭指南役免状を「家元如松斉秋峰」(穣三)から授与。(3代目就任?)
昭和14年 佐文大干魃 綾子踊文書のまとめ
昭和18年8月9日 没(73歳)
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  箱から書類を出します。毛筆で手書きされた文書が何冊か入っています。
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  書類を出して、箱をひっくり返して裏側を見ると、上のように書かれていました。
  尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊関係の史料

  何冊かの綴りがあります。これらの末尾に記された年紀から次のようなことが分かります。
A ⑩の白表紙がもっとも古くて、大正3年のものであること
B その後、①「棒・薙刀問答」・⑤綾子踊由来記・⑥第一図如位置心得・⑧・雨乞地唄・⑨雨乞踊地唄が書き足されていること
C 最終的に昭和14年に、それまでに書かれたものが③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられていること
D 同時に⑪「花笠寸法和」⑫「花笠寸法」が書き足されたこと
  今回は⑩の白表紙で、大正3年8月の一番古い年紀のある文書を見ていくことにします。
T3年文書の年紀
        綾子踊り文書(大正3年8月版)
最初に出てくるのは「 村雨乞位置ノ心得」です。

T3 村雨乞い
 「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
一、龍王宮を祭り、其の左右露払い、杖突き居て守護の任務なり。
二、棒、薙刀は龍王の正面の両側に置き、龍王宮並びに地歌の守護が任務なり。

T3
    「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
三、地歌の位置、厳重に置く。
四、小踊六人、縦向かい合わせに置く。
五、芸司、その次に置く。
六、太鼓二人、芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人、太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
八、鼓二人、鉦の後に置く。
九、大踊六人、鼓の後に置く。
十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。

 この「村雨乞位置ノ心得」で、現在と大きく異なるのは「十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。」の記述です。  五人の誤りかと思いましたが、何度見ても五十人と記されています。また、現在の表記は「側踊(がわおどり)」ですが「外踊」とあります。これについては、雨乞成就の後に、自由に飛び込み参加できたためとされています。
「村雨乞位置ノ心得」に続いて「御郡雨乞位置ノ心得」と「御国雨乞位置ノ心得」が続きます。ここでは「御国雨乞位置ノ心得」だけを紹介しておきます。

T3 国雨乞い

T3 国雨乞2
御国雨乞位置ノ心得(大正3年版)
一 龍王宮を祀り、その両側で、露払い、杖突きは守護が任務。
二 棒、薙刀が、その正面に置いてある龍王宮、地歌の守護が任務。
三 地歌は、棒、薙刀の前に横一列に置く。
四、小踊三十六人は、縦四列、向かい合わせ  干鳥に置く。(村踊りは6人)
五、芸司は、その次に置く。
六、太鼓二人は芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人は太鼓の後におき、その両側に笛二人を置く。
八、太鼓二人は、鉦の後に置く。
九、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十、鉦二人は大鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
十一、鼓二人は、鉦の後に置く。
十二、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十三、鉦は太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置き、その両側に大踊二人を置く。
十四、鼓二人は鉦の後に置き、その両側に大踊四人を置く。
十五、大踊三十六人は、鼓の後に置く。
十六、側踊は、大踊の後に置く。

同じ事が書かれていると思っていると、「四 小踊三十六人」とでてきます。その他の構成員も大幅に増やされています。これは「村 → 郡 → 国」に準じて、隊編成を大きくなっていたことを示そうとしているようです。これを図示したものが、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には添えられています。それを見ておきましょう。

綾子踊り 国踊り配置図
    昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置
これをすべて合わせると二百人を越える大部隊となります。これは、佐文だけで編成できるものではなく「非現実的」で「夢物語的」な記述です。また、綾子踊りが佐文以外で踊られたことも、「郡・国」の編成で踊られたことも記録にもありません。どうして、こんな記述を入れたのでしょうか。これは綾子踊りが踊られるようになる以前に、佐文が参加していた「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の隊編成をそのまま借用したために、こんな記述が書かれたと私は考えています。
綾子踊り 国踊り配置図下部
昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置

同時に尾﨑清甫は、「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の編成などについて、正確な史料や情報はなく、伝聞だけしか持っていなかったことがうかがえます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3
佐文誌(昭和54年)の御国雨乞位置
「一 龍王宮を祭り・・」とありますが、この踊りが行われた場所は、現在の賀茂神社ではなかったようです。
大正3年版にはなかった踊隊形図が、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には、添えられています。この絵図からは、綾子踊が「ゴリョウさん」で踊られていたことが分かります。「ゴリョウさん」は、かつての「三所神社」(現上の宮)のことで、御盥池から山道を小一時間登った尾根の窪みに祭られていて、山伏たちが拠点とした所です。そこに綾子踊りは奉納されていたとします。
 「三所神社」は、明治末の神社統合で山を下り、賀茂神社境内に移され、今は「上の宮」と呼ばれています。その際に、本殿・拝殿なども移築されたと伝えられます。とすると当時は、祠的なものではなくある程度の規模を持った建物があったことになります。しかし、この絵図には、建物らしきものは何も描かれていません。絵図には、「蛇松」という枝振りの変わった松だけが描かれいます。その下で、綾子踊りが奉納されています。

綾子踊り 国踊り配置図上部

 また注意しておきたいのは、「位置心得」の記述順が、次のように変化しています。
A 大正3年の「位置心得」では「村 → 郡 → 国」
B 昭和14年の「位置心得」では「国 → 郡 → 村」
先に見たとおり、大正3年頃から書き付けられた地唄・由来・口上・立ち位置などの部品が、昭和14年に③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられています。注意したいのは、その経過の中で、推敲の形跡が見られ、表現や記述順などに異同が各所にあることです。また、新たに付け加えられた絵図などもあります。
 綾子踊の文書については、もともと「原本」があって、それを尾﨑清甫が書写したもの、その後に原本は焼失したとされています。しかし、残された文書の時代的変遷を見ると、表現が変化し、付け足される形で分量が増えていきます。つまり、原本を書き写したものではないことがうかがえます。幕末の「西讃府誌」に書かれていた綾子踊の記事を核にして、尾﨑清甫によって「創作」された部分が数多くあることがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

林求馬 大塩平八郎の書
大塩平八郎の書(林求馬邸)
前回は多度津奥白方の林求馬邸に、大塩平八郎の書が掲げられていることを紹介しました。
  慮わざれば胡ぞ獲ん
為さざれば胡ぞ成らん
(おもわざればなんぞえん、なさざればなんぞならん)
意訳変換しておくと
考えているだけでは何も得るものはない。行動を起こすことで何かを得ることができる

「知行一致」「行動主義」と云われる陽明学の教えが直線的に詠われています。平八郎の世の中を変えなくてはならないという強い思いが伝わってきます。これが書かれたのは、大塩平八郎が大坂で蜂起する数カ月前で、多度津町にやって来たときのものとされます。どうして、大塩平八郎が多度津に来ていたのでしょうか?
今回は、平八郎と多度津をつないだ人物を見ていくことにします。テキストは「林良斎 多度津町誌808P」です。

大塩平八郎の乱(日本)>1

多度津で湛浦の築造工事が行われている頃の天保6年(1835)、大塩平八郎が多度津にやってきています。
平八郎は貧民救済をかかげ、幕府に反乱を起こした大坂町奉行の元与力です。多度津にやってきたのは金毘羅参りだけでなく、ある人物に会いにやって来たようです。それが林良斎(りょうさい:直記)です。林良斎は、多度津の陣屋建設に尽力した多度津藩家老になります。彼が林求馬邸を建てた養父になります。

林良斎

林 良斎については、多度津町史808Pに次のように記されています。
文化5年(1808)6月、多度津藩家老林求馬時重の子として生まれる。 通称は初め牛松、のち直記と言い、名は時荘、後に久中、隠居して良斎と改めた。字は子虚、自明軒と号した。父時重は厳卿と号し、文化4年多度津に藩主の館を建て、多度津陣屋建設の基礎をつくった。母は丸亀藩番頭佐脇直馬秀弥の娘で、学問を好み教養高い婦人であった。父求馬時重は、伊能忠敬の測量に来た文化5年9月良斎の生後わずか3か月で死去し、兄勝五郎が家督を継いだ。文化14年(1817)勝五郎は病と称して致仕したので、10歳にして家督を継ぎ、藩主高賢の知遇を得て、文政9年家老となり、多度津陣屋の建設の総責任者として、文政11年(1828)これを完成した。ときに林直記は弱冠21歳であった。多度津藩は初代高通より代々丸亀の藩邸に在って、政を執っていたのであるが、文政12年6月、第四代高賢はじめて多度津藩邸に入部した。多度津が城下町として発展するのはこの時からである。

林良斎全集(吉田公平監修 多度津文化財保存会編) / 松野書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

ここからは次のようなことが分かります。
①父時重は良斎の生後3か月の時に、陣屋建設途上で亡くなったこと
②兄に代わって10歳で家老職を継ぎ、陣屋建設の総責任者となり、21歳で完成させたこと。

そして天保4年(1833)、26歳のとき、甥の三左衛門(林求馬)に家督を譲ります。
良斎の若隠居の背景は、よく分かりません。自由の身になった彼は天保6年(1835)、大阪へ出て平八郎の洗心洞の門を叩き、陽明学を学びます。その年の秋、平八郎が良斎を訪ねて多度津に来たというわけです。このときは、まだ湛浦(多度津新港)は完成していないので、平八郎は、桜川河口の古港に上陸したのでしょう。二人の年齢差は、14歳ほど違いますが惹きつけ合う何かがあったことは確かなようです。
林良斎の名言「聖人の学は、無我を以て的となし、慎独を以て功となす」額付き書道色紙/受注後直筆(Y1082) その他インテリア雑貨 名言専門の書道家  通販|Creema(クリーマ)
良斎の言葉
良斎は「中斎(平八郎)に送り奉る大教鐸(きょうたく)の序」に次のように記しています。

 「先生は壯(良斎)をたずねて海を渡って草深い(多度津の)屋敷にまでやって来てくれた。互いに向き合って語ること連日、万物一体の心をもって、万物一体の心の人にあるものを、真心をこめてねんごろにみちびきだしてくれた。私どもの仲間は仁を空しうするばかりで、正しい道を捨てて危い曲りくねった経(みち)に堕ちて解脱(げだつ)することができないでいる。このとき、先生の話をじっと聞いていた者は感動してふるい立ち、はじめて私の言葉を信用して、先生にもっと早くお目にかかったらよかったとたいへん残念がった。」

 翌年の天保7年(1836)にも、良斎は再び大坂に行って洗心洞を訪ね、平八郎に教えを乞いています。
この頃、天保の大飢饉が全国的に進行していました。長雨や冷害による凶作のため農村は荒廃し、米価も高騰して一揆や打ちこわしが全国各地で激発し、さらに疫病の発生も加わって餓死者が20~30万人にも達します。これを見た平八郎は蔵書を処分するなど私財を投げ打って貧民の救済活動を行います。しかし、ここに至っては武装蜂起によって奉行らを討つ以外に解決は望めないと決意します。そして、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、窮民救済を求め、幕政刷新を訴えて、天保8年3月27日(1837年5月1日)、門人、民衆と共に蜂起します。しかし、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまいます。平八郎は数ヶ月ほど逃亡生活を送りますが、ついに所在を見つけられ、養子の格之助と共に火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。明治維新の約30年前のことです。
この大岡平八郎の最期を、多度津にいた良斎はどのよう感じていたのでしょうか?
 それが分かる史料は今は見つかっていません。ただ、良斎はその後も陽明学の研究を続け、「類聚要語(るいしゅうようご)」や「学微(がくちょう)」など多くの著書を書き上げます。「知行一致」の教えのもとに、直裁的な蜂起を選んだ大岡平八郎の生き方とは、別の生き方を目指します。
弘濱書院(復元)
再建された弘浜書院(林求馬邸)

 39歳の秋には、読書講学の塾を多度津の堀江に建てています。
その塾が弘浜(ひろはま)書院で、そこでまなんだ子弟が幕末から明治になって活躍します。教育者としては、陽明学を身につけ行動主義の下に幕末に活躍する多度津の若者達を育てたという評価になるようです。この弘浜書院は、現在は奥白方の林求馬邸の敷地の中に再建されています。そこには「自明軒」という扁額が掲げられています。これは大塩平八郎から贈られたもので、林良斎が洗心洞塾で学んでいたとき、平八郎が揮号(きごう)したものと伝えられます。良斎の教えを受けた人々の流れが、多度津では今も伝えられていることがうかがえます。思想家としては、良斎は陽明学者としては讃岐最初の人だとされ、幕末陽明学の讃岐四儒と称されるようになります。

良斎の残した漢詩「星谷観梅歌」を見ておきましょう。(読み下し文)
星谷観梅歌     林良斎
明呈夜、天上より来る     
巨石を童突して響くこと宙の如し
朝に巨石を看れば裂けて二つと為る   
須愈にして両間に一梅を生ず      
恙無(つつがな)きまま東風幾百歳
花を著くること燦々、玉を成して堆(うづたか)し
騒人、鐘愛して清友と称ふ 
恨むべし一朝、雪の為に砕かる    
又、他の梅を聘したひて嗣と為す
花王宰相をもて良き媒(なかだち)と定む      
我、来りて愛玩し聊(いささ)か酒を把れは
慇懃に香を放ち羽杯を撲(う)つ        
汝も亦、天神の裔なることを疑はず
風韻咬として、半点の埃(ちり)無し
 高吟して試みに問へども黙して答へず
唯見る、風前の花の嗤ふが如し
良斎は、大潮平八郎が没してから12年後の嘉永2年(1849)5月4日、43歳で没しました。
田町の勝林寺には良斎の墓が門人達の手によって建立されています。
 多度津町家中(かちゅう)の富井家には、大塩平八郎の著書といわれている「洗心洞塾剳記(せんしんどうさつき)」と「奉納書籍聚跋(ほうのうしょせきしゅうばつ)」の2冊が残されているそうです。いずれも「大塩中斎(平八郎)から譲られたものを良斎先生より賜れる」と墨書きされています。ここからは、この書が大塩平八郎が良斎に譲ったもので、その後に富井泰藏(たいぞう)に譲られたことが分かります。
林良斎~シリーズ陽明学27 - 読書のすすめ

 良斎が亡くなると、その門弟の多くは池田草庵について、学んだ者が多いようです。
但馬聖人 池田 草庵 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典 さん
池田草庵は但馬八鹿の陽明学者で、京都で塾を開いていましたが、郷里の人々の懇望で、宿南の地に青然書院を開いて子弟に教えていました。良斎の人柄に感じ、生前には書簡で親睦を深め、自らの甥、池田盛之助を多度津の弘浜書院に行かせて学ばせています。ここからは、弘浜書院と青繁書院とは、人的にも親密に結ばれ活発な交流があったことがうかがえます。
 池田草庵は名声高く、俊才が集まり、弘化4年(1847)から明治11年(1878)までの青鉛社名簿には、多度津から入門者が次のように記されています。
讃岐多度津藩士 林求馬・岡田弥一郎・庭村虎之助・古川甲二郎
白方村高島喜次郎 藩医小川束・林凝・名尾新太郎・服部利三郎・塩津国人郎・野間伝三・大久保忠太郎・河口恵吉・早川真治
以下は明治以後)
菅盛之進・名尾晴次・字野喜三郎・畑篤雄・菅半之祐・神村軍司・大久保穐造・長野勤之助・小野実之助・奥白方村山地喜間人。

   良斎の影響で多度津の向学に燃える青年たちが京都に出て学んでいたことが分かります。

以上をまとめておくと
①林家は多度津藩の家老の家柄で、林求馬の祖父や養父である良斎が多度津陣屋建設に尽力した。
②良斎は、若くして家老として陣屋建設の責任者として対応したが完成後は若隠居した
③良斎は26歳で、大坂の大塩平八郎の門を叩き、陽明学を学び交流を深めた
④そのため良斎の元には、大庄平八郎の書や書物などが残り遺品として、現在は林求馬邸に残っている
⑤良斎は、教育機関として弘浜書院を開設し、行動主義の陽明学を多度津に広めた。
⑥この中から登場する若者達が明治維新の多度津の躍進の原動力になっていった。
⑦良斎の後、林家を継いだ甥の林求馬は、幕末の混乱期に多度津藩の軍事技術の近代化を進めた。
⑧長州遠征後の軍事衝突に備えて、藩主や家老の避難先として奥白方が選ばれ、そこに新邸が建設された。
⑨それは明治維新直前のことで、明治になって林家はここで生活した。
⑩そのため、林家に伝わる古文書や美術品が林求馬邸に、そのまま残ることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 多度津町誌808P

まんのう町文化財協会の仲南支部の秋のフィルドワークが多度津の林求馬邸と合田邸になりました。その「事前研修資料」として、林求馬邸をアップしておきます。
香川県の近代和風建築 : ShopMasterのひとりごと

テキストは「香川県の近代和風建築 香川県近代和風建築総合調査報告書113P 林求馬邸 香川県教育委員会」です。 

 林求馬5
林求馬邸は、幕末の嘉永4年(1851)から慶応4年(1868)の間に、多度津藩家老を務めた林求馬(1825~1893)の屋敷として奥白方に建てられたものです。それを聞いて最初に私が疑問に思ったのは次の二点です。
①どうして、海の見えない奥白方に建てたのか
②どうして明治維新間際の時代に、建てられたのか
①の奥白方に建てられたのは、幕末の軍事情勢の中で、海からの艦砲射撃を受ける可能性が出てきたためです。多度津港のそばにあった陣屋では、それを防ぎきれません。多度津藩は、幕末に軍備の近代化を進める一方、土佐藩に接近し、倒幕の動きを強めていました。そのような中で、丸亀藩や高松藩に比べると、強い軍事的な緊張感を持っていたことは以前にお話ししました。そのような中で、藩主や家老の避難場所として奥白方に白羽の矢が立ったようです。ここは、瀬戸内海の展望を楽しむための別荘や保養施設ではなかったこと、非常時のための待避場所(下屋敷)として急遽建設されたことを押さえておきます。
林求馬広間2
林求馬邸座敷
②の建設時期については、座敷の天丼裏に、嵯峨法泉院の祈祷札があります。
そこには「慶応3(1867)年6月」という年号が記されているので、鳥羽伏見の戦いの始まる直前に、この建物が完成していたことが分かります。まさに江戸幕府が倒れる前年に、新築された建物ということになります。
 廃藩置県後に、家老の林求馬は免官となります。
その後は林求馬は、この建てられたばかりのこの家を自邸として使います。その後も子孫が居住して建物が維持されてきましたが、1960代から無住となりました。その後の活用化を年表化しておきます。
1977年、林家より林求馬邸の土地建物が寄付され、財団法人多度津文化財保存会が設立
1983年、周辺整備を終えて、一般公開開始
1986年 求馬の養父林良斎が開いた私塾弘濱書院が敷地内に新築復元
1995年 南土蔵を改造した資料展示館がオープンし、林家に伝わる書画や古記録類なども公開
弘濱書院(復元)
弘濱書院(復元)
「香川県の近代和風建築」には、この建物について、次のように記します。

林求馬平面図
林求馬
邸平面図
林求馬邸の敷地面積は1,646㎡で、敷地南辺に表門を開く。門の北側に、西から主屋(座敷棟)、頼所、管理棟を建て、門の北東に弘濱書院、その南に展示資料館を建てる。
林家には、明治20~30年代初頭の屋敷の様子を描いた銅版画(鳥睡図)が伝わり、ほぼ建築当初の敷地内の様子を知ることができる。また、昭和30年発行の『白方村史』には内部の見取図が記されている。それらの資料と、現状の平面図を比較すると、頼所から西側部分は建築当初に近い状態で現存していると考えられ。東側部分は、家族の居住空間で、生活様式に合わせて改変が加えられたたと思われる。かつて台所や湯段があった場所に、現在は弘濱書院が建設されている。現在資料館となっている南土蔵、管理事務所とつながる東西の土蔵2棟は建設当時から現存するものと考えられ、土蔵をつなぐ部分は昭和になってから増築されたものという。

林求馬正面

 表門は、建設時に、陣屋から移築したものと伝えられ、その両脇に続く土塀は建設当時からあったが、昭和57年の修理時に腰部を海鼠壁とした。敷地南辺以外の土塀は現在失われている。
林求馬玄関

主屋は、入母屋造、妻入で正面に入母屋造の屋根を持つ大玄関が付く。屋根はいずれも本瓦葺、外壁は黒漆喰塗りである。
林求馬大玄関

大玄関の式台の奥に、8畳間があり、その両側に6畳間がある。板敷きの廊下が東西に通り、それをはさんで北側に14畳の広間、その東に6畳の枠の間と8畳の座敷が配置されている。
IMG_0006林求馬

広間は西側に、8畳の座敷は東側にそれぞれ床の間を配置し、北側は背後の山を借景にした庭を望むことができる。大玄関は、藩主のための玄関で、座敷は藩主との対面の場、広間は多くの家臣が集まる場所として作られたものであろう。従者は、大玄関の東側にある小玄関から出人りし、控の間に入る。
林求馬邸 | 香川県の多度津町観光協会
頼所(よりしょ:白壁の建物)

 民衆の用件を聞く場所として使われた頼所は、つし2階建、入母屋造、本瓦葺、妻入で、外壁は白漆喰塗りで、下部は海鼠壁(当初は縦板張り)とする。戸口を入ると土間で、奥に板の間及び廊下が続き現在の事務宇、その奥の土蔵へとつながる。
頼所の出入口の木戸には、内側から相手を確認するための小さなのぞき窓がついており、 2階の窓かららも人の出入りを確認できる。2階は、天丼を張らず、主に収納場所として使われていたと考える。
IMG_0004林求馬
林求馬邸

内部に陳列されている物を簡単に見ておきましょう。

林求馬邸 文化財図録


林求馬 広間
林求馬邸内部
林求馬 ふすま絵図
立屏風
林求馬 備前焼唐獅子
藩主から送られた備前焼の唐獅子
林求馬 龍昇天図
龍昇天図
しかし、林求馬邸のなかで一番大切にされているのは、この書のようです。
大塩平八郎の書 乱の前年
大塩平八郎の書
慮わざれば胡ぞ獲ん
為さざれば胡ぞ成らん
(おもわざればなんぞえん、
なさざればなんぞならん)
意訳変換しておくと
考えているだけでは何も得るものはない
行動を起こすことで何かを得ることができる
「知行一致」「行動主義」と云われる陽明学の教えが直線的に詠われています。平八郎の世の中を変えなくてはならないという強い思いが
伝わってくるような気がします。これが書かれたのは、大塩平八郎が大坂で蜂起する数カ月前で、多度津町にやって来たときのものとされます。どうして、大塩平八郎が多度津に来ていたのでしょうか?
それはまた次回に・・・

林求馬 古文書
林求馬邸に残された古文書
林求馬邸について、まとめておきます。
①この建物は、薩長と幕府の軍事衝突が間近に迫った時期に、藩主や家老の避難先として奥白方に建設された建物である。
②そのため華美な装飾や不用な飾りは見られず、シンプルで機能重視で建てられている。
③しかし、近世の武家屋敷の様式を継承し、大小の玄関や広間・座敷など主要な部分が良好に保存されている。
④東西に一直線に廊下を配置した間取りは改築の痕跡がなく、建築当初からのものと考えれる。
⑤座敷など「表」の部分と、台所など「奥」の部分とを分離し、円滑な行き来を重視した機能的な配置である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県の近代和風建築113P 林求馬邸  
「白方村史」(白方村史編集委員会1955年)
「林家所蔵文化財図録」(多度津文化財保存会2003年)

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地元で超少人数の「学習会」を開いています。今回は白川琢磨氏のお話が聞けることになりました。私たちだけで聞くにはもったいない機会なので、みなさまにもお誘いします。
 最近の金毘羅神研究者達は、この神様が近世に現れた流行神だと考えているようです。そして金毘羅神を象頭山に根付かせた宗教勢力は、修験者たちだったとします。こんぴら町誌もこの立場です。そのあたりのところを、宗教民俗学の立場からお話ししていただけるようです。私も白川先生の書いたものから、いろいろなことを学ばせていただいています。興味関心のある方は、是非おいでください。歓迎いたします。
 会場は満濃中学・図書館に併設されているスポーツセンターまんのうの会議室です。会費は資料・会場代200円。

白川先生の金毘羅大権現成立過程を紹介したもの。

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「風流踊のつどい In 郡上」
やってきたのは岐阜県の郡上市。郡上市では「郡上踊り」と「寒水の掛踊り」のふたつの風流踊りがユネスコ認証となりました。それを記念して開かれた「風流踊のつどい In 郡上」に、綾子踊りもお呼ばれして参加しました。
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       郡上城よりの郡上市役所と市民ホール
2台のバスで総勢43名がまんのう町から約8時間掛けて移動しました。
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          郡上市役所と市民ホール
やって来たのは、市役所の下にある市民文化ホール。前日に、会場下見とリハーサルを行い、入庭(いりは)の順番や舞台での立ち位置、音量あわせなどを行いました。長旅の疲れを郡上温泉ホテルで流し、「郡上踊り」や「寒水の掛踊り」の役員さん達の親睦会で、いろいろな苦労話を聞いたり、情報交換も行えました。

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綾子踊の花笠(菖蒲の花がさされます)

8日(日)13:00からの開会式後のアトラクションで舞台に立ちます。小踊りの着付けには、1時間近くの時間がかかります。

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着付けが終わった大踊りの高校生と小踊り

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僧侶姿の鉦打ち姿の保存会長
今回は会場からの入庭(入場)でした。
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佐文綾子踊(郡上市)
残念ながら踊っている姿を、私は撮影できませんでした。動画はこちらのYouTubeで御覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=-_tNK3DKbqU

前日のリハーサルでは、問題点が山積み状態だったのですが、本番では嘘のようにスムーズに進みました。わずか20分の舞台は、あっというまでした。着替えの後で、郡上市長さんからお礼の言葉をいただき、記念写真を撮りました。
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佐文綾子踊保存会(郡上市文化ホール)
 「風流踊り In 郡上」に招待していただいたことに感謝しながら
帰路に就きました。

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     佐文と象頭山
  佐文集落と 象頭山(左手中央の鎮守の森が賀茂神社)
「こんぴらふねふね」で有名な四国金毘羅さんが鎮座するのが象頭山。その象頭山の南側に、私たちのふるさと佐文はあります。佐文は小さな盆地で、水利の便が悪く水不足に悩まされててきました。その歴史は、日照りとの闘いの歴史でもありました。その地で踊り継がれてきたのが綾子踊りです。
綾子踊り 善女龍王
佐文綾子踊の善女龍王の幟
その謂われが次のように伝えられています。
 むかし、佐文七名といって七軒の豪族があったところ、綾という女がいた。ある旱魃の年に、草木も枯死寸前となり、村人は非常に苦しんでいた。ある日、諸国遍歴の僧に綾が住民の苦しみを話したところ、僧は住民をあわれみ、龍王に願いをこめて雨乞踊りをすれば降雨疑いなしと教えた。そこで村人を集め旅僧自ら芸司となり、綾夫婦の鉦、太鼓にあわせて踊ったところ、俄に一天かき曇り、滝の如く雨が降った。それより干天の年には、この踊りを行うことを例としてきた。以来、この踊りを踊ると、恵みの雨があったので、だれ言うことなく綾子の踊りとして現在に伝わっている。
 十二段の踊りを、笛・鉦・太鼓・鼓・法螺貝などに合わせて踊る節々に、先祖から受け継がれてきた雨乞いへの願いを感じます。綾子踊りを踊ることは、佐文地区に住む私たちにとっては、故郷に生きる証のようなものです。この踊りを途絶えることなく次世代へ伝承していきたいと思っています。

綾子踊り11
佐文賀茂神社への入庭(入場)
地元での2年に1度の公開公演では、隊列を組んで氏神さまの鎮守の森を目指して歩いて行きます。入場順は次の通りです。
露払 榊の枝をもって、道中を浄めながら会場に先導します。
幟  一文字笠に羽織姿で「佐文村」の幟に行列が続きます。
警固  五尺二寸棒を持って、踊り場の場所確保と警備を行います。

綾子踊り 山伏
手前が上り龍、青いのが台笠
幟(雲竜上り)  雨を呼ぶ龍善女龍王の昇り龍の姿です。
 (雲竜下り)  大雨を止ませる下り龍が続きます。

綾子踊り 棒と薙刀
薙刀と棒振りの清めの演舞・後に青い台笠
 棒振りと薙刀は、演舞と問答で踊る場を確保するとともにで会場を浄めます。
台傘  烏帽子をかぶり、ちはえを着た神職姿で、台笠を持ちます。

綾子踊り入庭 法螺・小踊り
法螺貝吹き
頭巾に袈裟の山伏姿です。踊りへの山伏たちの関わりが感じられます。
綾子踊り 役名入り
踊り位置(一番前が小踊り)
 中央に芸司、その両脇に拍子、その前が小踊り、手前が地唄
芸司全体の指揮者です。もともとは踊りを伝えた諸国遍歴の僧です。大きな団扇には日と月が書かれています。

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芸司と拍子(日と月の団扇を持つ)
拍子は、 中団扇と榊をもって踊ります。榊は龍王宮への御供えです。
太鼓 は、袴姿に白たすき掛けで黒足袋です。太鼓を肩からつるします。
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鉦(僧侶姿)
鉦は、僧侶姿で、白衣、茶の麻衣、黒足袋で、袈裟を架けて鉦を持ちます。一遍時衆の風流念仏踊りの影響がうかがえます。
鼓は、裃、袴姿で白足袋に、小脇差しを指します。
笛は、黒紋付きの羽織袴で、黒足袋に諸草草履を履きます。

綾子踊り入庭 小踊り
小踊り
小踊   花笠に小姫女仕立てで、小学生が踊ります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
綾子踊りの入庭
地唄 麻の上下に小脇差姿で、一文字笠をかぶって、青竹の杖を持ちます。         

綾子踊り 大踊り
大踊り
 大踊りは、大姫仕立てで帯は女物のはせ帯です。団扇には、面に雨乞い、裏に水と書かれています。今は中学生が演じています。

   綾子踊り 側踊り
            
側踊
 側踊は浴衣姿で紙つきの竹皮の笠を被ります。側踊は人数にきまりがありませんでした。雨乞い成就の時には、多くの人が参加して面白おかしく踊ったようです。

最後に全体の配置を見ておきます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3

綾子踊り「御国雨乞踊りの位置」佐文史誌177P
この絵図は、戦前に尾崎清甫氏が写したとされものです。「御雨乞踊り」とあり、郡・村で踊られる時と場所で、編成規模が違うことを伝えています。しかし、この規模については、疑義が残ります。それについては別の機会にお話しします。

綾子踊り 隊列表
現在の綾子踊りの役割位置
綾子踊り 全体後方から
綾子踊り 全体配置

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

綾子踊り碑文


参考文献
佐文誌167P
雨を乞う人々の歴史 綾子踊

 滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り(滝宮牛頭天王社)

 天保12(1841)年7月に、滝宮念仏踊りをめぐって北条組と那珂郡七カ村との間で争論が起きます。
当時の青海村庄屋渡辺駒之助から大庄屋を通じ高松藩に次のような訴願が提出されています。「天保十二年七月 念仏踊一件留 口上」(『綾・松山史』)です。
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
当村念仏踊当年順年二付、当月二十五日踊人数之者召連、同日早朝滝宮迄罷越居申テ、七ケ村念仏踊済、当村念仏踊候儀ニ付七ケ村村念仏踊済相待居申候所、同日9ツ時分過済ニ付当郡大庄屋中初私共郡中 同役共、人数引継イ入場仕掛候処に付、双方除合(排除)卜相見へ棒突二先フ払ハセ、二王門前へ帰掛候二付、双方除合入場仕候テ踊済候処、大庄屋中ヨリ被申聞候者、御出役所へ先例之通申出仕候哉卜尋御座候二付、踊人数夫々目録今朝組頭ニ持セ御出役所迄相納候段申出候処、尚又右御出役所へ、罷出候様被仰聞ニ付、私義茂七郎同道仕御出役人宿迄罷出申候所、右目録指出候ヘハ則御届相済候義ニテ、前々ヨリ前段御届ハ不仕段御答仕候義二御座候、前々ハ七ケ村踊人数者、前夜ヨリ人込居申候二付、早朝滝宮踊済来候処、当年ハ如何之次第二御座候哉、九ツ過迄も相踊不申二付、当郡踊り人数之者共私共極早朝ヨリ入込相待居申候得共、前願之次第二付大二迷惑仕候、当郡者同日鴨村迄罷帰り、同村ヨリ氏部西庄迄相踊申日割二御座候処、当年ハ右の次第二付一統加茂村迄罷帰候処及暮、其日滝ノ宮計ニテ相済申候、
一 七ケ村念仏踊滝ノ宮踊人数者不残引取、村役人計り右様跡へ相残り居申義二付、私共踊人数引纏罷出申途中ニテ行合候様相成申候、大庄屋中私共罷出候義ハ多人数他郡越踊二参候義二付、右人数召連警固之為罷出候義と相心得罷在候処、七ケ村連も右同様と存候処、右の通踊人数引払候跡へ相残、市立多人数之中ヲ棒突ヲ以片寄可申由、先ヲ払ハセ打通候義、不得其意存申候、当郡ハ多人数引纏入場二相掛候二付、片寄候義も難出来存候得共、当年ハ存不寄義二付、双方除合無難二相済候得共、以後者右様当郡之邪魔致不申様 被仰付置可被下候様 宜奉願上候、以上
  意訳変換しておくと
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
今年の滝宮への念仏踊奉納は、当村が順年でしたので、7月25日に踊人数を引き連れて、同日早朝に滝宮に参りました。七ケ村念仏踊が終わった後が当村の念仏踊の順番なので七ケ村念仏踊が終わるのを待っていました。同日9ツ時分過ぎ(13時)にやっと終了し、阿野郡大庄屋をはじめ郡中の役共が、踊衆を引き連れて入場しようとすると、那珂郡の付役人と双方で小競り合いが起きて、棒突に先払をさせて、二王門前へ退場しようとしました。この小競り合いについて踊り奉納終了後に、大庄屋から聞き取り調査があり、先例通り御出役所へ報告することになりました。
 踊り人数などについては、目録で前日に組頭に持参させて出役に届け出るのが決まりです。ところが私(義茂七郎)が役人宿に出向いて問い合わせたところ、目録は提出されていないとのことです。以前は七ケ村も踊人数者を、前夜の内に報告していました。しかし、今年はその報告がありませんでした。そればかりか、(予定時刻を大幅に超えて)九ツ過迄(昼過ぎ)までも踊り続ける始末です。
 当阿野郡の踊り組の者達は、早朝から滝宮にやってきて待機していたのに、大迷惑を蒙りました。
当方の北条踊りは、滝宮への奉納終了後に、その日のうちに鴨村まで帰って、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を例年予定しています。ところが七ケ村の遅延行為のために、加茂(鴨)村まで帰ることが出来ず、この日は滝宮だけになってしまいました。
一 七ケ村念仏踊は踊り終了後に、踊り手たちが残らず退場した後、七ケ村の村役だけが残ったのを確認した上で、私ども北条組は入場しようとしました。大人数の観客の間を入場するために、警固の人数を引き連れています。これは七ケ村組も同じと心得ています。
 私たち北条組が入場しようとすると(七ケ村役員は、市が立つほど多くの人数がひしめく中を棒突を先頭に、打ち払いながら退場しようとしました。そこで入場しようとする北条組と衝突し、小競り合いとなりました。入場中の当方に、除き合いを仕掛けてくるのは、はなはだ迷惑な行為です。以後は、このような当郡の邪魔をするようなことがないように、お上から仰付いただきたい。
宜奉願上候、以上

この「口上」は青海村庄屋から大庄屋を経て、藩に提出されたものです。いわゆる正式文書になります。北条組の言い分は、次の2点にあるようです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊り 那珂郡七ケ村の構成村と役割一覧

第一は、「七ケ村」が定めを守っていない点を指摘しています。
①例年なら前日に踊込人数目録が提出されるはずなのに、今年は届けられていないこと
②「七ケ村」組が、終了時刻を大幅にオーバーしても踊り続けたこと
③そのため北条組の踊りの開始が、午後からになり、当日の滝宮からの帰り掛けに奉納する予定であった鴨・氏部・西庄村の村社への奉納が出来なくなったこと。
つまり、七ケ村のルール違反に、北条組は大迷惑をこうむっていたとします。
第二は、「七ケ村」役人の横暴ぶりを指摘してます。
七ケ村の踊りが終わるのを、いらいらしながら待っていた北条組に対して、七ケ村は謝罪もせずに退場しようとします。しかも「七ケ村」村役人が棒引き(警護人)に先を払わせながら群衆を払い分けて出て行こうとします。それに対して入場しようとする北条組の先頭の棒引きは、応戦しないと責任問題になります。売られた喧嘩は買わなければならないのです。そこで両者のあいだに「除け合い」(小競り合い)が発生します。

この史料からは、次のようなことが分かります。
①七ケ村組と北条組がセットで同年に、滝宮に踊り奉納を行っていたこと
②北条組は七ケ村組の奉納中は別所で待機し、終了後に入場する手はずとなっていたこと
③北条組は、滝宮2社への奉納後に、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を予定していたこと
④棒引き(警護)は、先払役で実際に群衆を払い分けていたこと。
 この北条組の訴えについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは史料が残っていないので分かりません。
 幕末に岸の上村(まんのう町)の庄屋を務めた奈良家には、多くの文書が残っています。
その中に「滝宮念仏踊行事取遺留」には、文政9(1826)年から安政6(1859)年までの、13回にわたる七箇村組念仏踊の記録が綴りこまれています。筆者は、岸上村の庄屋奈良亮助とその子彦助の二人です。この綴りの冒頭には、次のように記されています。

 正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、夜半からの豪雨で、綾川は水嵩の増した。橋のない時代のことで、七箇村組は対岸で水が引くのを待っていた。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた北条念仏踊組が、滝宮神社の境内に入場しようとした。これを川の向こう側から見ていた七箇村組の衆はいきり立った。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、北条組の小踊二人を切り殺した。この事件後、北条組は48人の抜刀隊に警固されて、七箇村組とは順年を変えて踊奉納をすることになった。そして、両踊組の間には根深い対立感情が横たわるようになった。

 私は、これは事実を伝えるもので、警護役というのは、実際に起きた事件を教訓をもとに、各組でつけられていると思っていました。しかし、だんだんとこの記述については、次のような視点から疑念を持つようになりました。
①神前で神の子とされる子踊りの幼児を斬り殺しているにも関わらず、その後も朝倉家が久保宮の神職を続けていること。普通ならば厳罰に処せられるはずである。
②高松藩初代松平頼重が滝宮念仏踊りを復活させるのは、慶安三年(1650)年七月のことで、事件のあった正保二(1645)年には、中断期に当たること。
つまり、この年には高松藩では各念仏踊の滝宮へ奉納は中断していて、踊り込みはなかった時期になります。どうして200年後の七ケ村組の記録は、あえて北条村との関係を悪く記す必要があったのでしょうか。
  奈良家文書の「滝宮念仏踊行事取遺留」には、次のようにも記します。(意訳)
 文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂した。分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れがあった。岩崎平蔵は、「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、これを認めた。しかし、踊組の内には根強い反対意見もあって、岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力が生まれた。
 
 しかし、前回見たように北条組は、寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われています。それは文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からもうかがえます。奈良家文書が記すように「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂」という事実は確認できません。

  天保12(1841)年7月に、北条組が那珂郡七カ村を訴えたことについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは分からないとしました。しかし、次の天保15(1844)年の順年にはある変化が起きています。踊りの奉納日が次のようになっています
①北条組  7月24日
②七箇村組   25日
 ふたつの踊組の奉納日が別の日になっています。また、24日が雨天で、踊奉納ができなかった場合には、北条組は25日の七箇村組の後庭で踊ることとされています。これは、前回の北条組の訴えを受けての高松藩の対応策だったことがうかがえます。
 その次の順年である弘化4年(1847)年を見ておきましょう。
 この順年は、七ケ村念仏踊組は7月14日に大洪水があって、土器川が大破したので、各村社への巡回を中止し、滝宮両社と金毘羅山の奉納踊だけにしています。注目しておきたいのは、久保神社の宮司朝倉石見が、高松藩の命令で笛吹株を召し上げられていることです。代わって真野村から元次郎が担当しています。浅倉石見は、正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時に殺傷事件を起こしたとされる子孫になります。
   以上見てきたように、どうも奈良家文書の念仏踊りの北条組との関係について記した部分については、北条組に残る文書と整合性がとれないものがあるようです。

以上をまとめておきます
①正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、七箇村組と北条念仏踊組の間に殺傷事件があったと奈良家文書は伝えること。
②しかし、これについては高松藩による滝宮念仏踊り復活以前のことで、中断時期にあたり疑問が残ること
③北条組は、寛政6(1794)年に調停書で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われるようになる。
④北条組については、文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からも円滑に運営されていたことがうかがえる。
⑤岸の上の奈良家文書は、「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂し、ひとつが七ケ村の後で踊るようになった」と記すが、史料からは確認できない。
⑥天保12(1841)年7月に、那珂郡七カ村のルール違反を北条組が高松藩に訴える。
⑦その結果、次回からは両者の奉納日が24日と25日に分かれることになった。
⑧またその次の順年には、久保宮の神職の宮座株が没収されている。
 奈良文書の七ケ村組と北条組との諍いについては、綴りの表紙として後世に書かれたものです。19世紀になってからの北条組からの藩への控訴を、過去にまで遡らせて偽作した疑いがあると私は考えるようになりました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 江戸時代の高松藩では、次の四つの踊組が滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)に風流念仏踊を奉納していました。           奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「賞・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町)   「丑・辰・未・戊」の年
この中の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、全体では3グループで三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。。

前回は、19世紀初頭に起きた北条踊りを巡る争論の調停書を見ながら、北条念仏踊りについて、次のようにまとめておきました。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②これらの10ヶ村で担当役割や人数や各寺社への奉納順が決められていたこと。
③7月25日の滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社25ヶ所へ奉納が行われていたこと
④役割配分や奉納順をめぐって争論が起きたが、それを調停する中で運営ルールが形成されたこと
⑤北条組の主導権を握っていたのは、青海・高屋・神谷村の三ヶ村であったこと
⑥その傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
⑦以上からは、北条念仏踊りは神谷神社周辺の中世在郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったこと
⑧そのプロデュースに、滝宮(牛頭天王)社の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしていたこと

今回は、その後の史料でどんな点が問題になっているのかを見ていくことにします。

坂出 大藪・林田
阿野郡北条 高屋・青海村

調停書が出されて約10年後の文政元(1818)年7月の書簡史料には、次のように記されています。
一筆啓上仕候、然者、滝宮御神事念仏踊当年順番御座候、前倒之通来廿五日踊人数召連滝宮江人込御神事相勤候様仕度奉存候、御苦労二奉存候得共、各様も彼地者勿論郡内御出掛被成可被下候、右為可得其意如此御座候、以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
七月十二日
渡辺与兵衛 様
渡辺七郎左衛門 様
尚々、村々仲満共出勤の義并に出来之幡・笠鉾等、才領与頭相添、来二十四日朝正六ツ時神谷村神社へ相揃候様御触可被下候、又、道橋損の分亡被仰付可被下候、
  意訳変換しておくと
①一筆啓上仕候、滝宮の神事念仏踊の当年の当番に当たっています。つきましては従来通り、7月25日に踊り込み員数を引き連れて、滝宮神前での奉納を相務めるよう準備しております。ご多用な所ではありますが、みなみな様はもちろん、郡内から多くの人がご覧いただけるよう、御案内いたします。以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
なお、村々から参加者や幡・笠鉾など、道具類などについては組頭などが付き添うことになっています。24日早朝六ツ時に、神谷村神社に習合するように触書を廻しています。
又、滝宮に向かう街道や橋などの損傷があれば修繕するように仰せつけ下さい。

滝宮への踊り込みは7月25日です。その2週間前の7月12日に、高屋・神谷・青海の各村庄屋の連名で大庄屋の渡邉家へ送られた書簡です。準備状況と、当日の出発時刻が大庄屋に報告されています。また、滝宮への街道で道路や橋に破損がある場合には、修理するように依頼しています。まさに、村々を挙げて一大イヴェントで、参加者には晴れ姿であったことがうかがえます。

この報告に対しての大庄屋渡辺家からの指示書が次の書簡です。
②以廻申入候、然者、三ケ庄念仏踊当年者順年二付、踊候段申出候、依之先例の通滝宮始村々江各御出勤可有之候、且定例出来り之幟・傘鉾も才領与頭相添、来二十四日正六ツ時神谷氏宮迄御指出可有候并に念仏踊通行の道橋等損有之候ハバ取繕等の分前々の通御取計可有候、
一 先年ヨリ右踊者、三日ニ踊済来候所、近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも無益之失脚不少義二付、当年ヨリ滝宮江者之中入込、未明ヨり踊始候様致度候、兼テ三ケ村江者、右之趣申付御座候、各ニも朝七ツ時迄二御出揃可有之候、為其如此申入候
渡辺与兵衛
七月十四日
鴨   氏部   林田 西庄  江尻   福江 坂出  御供所
右村々政所中

  意訳変換しておくと
③各庄屋からの書簡報告で以下のことを確認した。当年の滝宮への踊り込みは三ケ庄(高屋・神谷・青海)が順年で、先例の通り、滝宮や各村々への村社への奉納準備が進められていること。これについては、従来通りの幟・傘鉾を準備し、これに組頭が従うこと、24日六ツ時(明け方4時)に神谷神社に集合すること、念仏踊が通行する道や橋の修繕整備などを行う事。

一 もともと北条組の念仏踊は、各村社への踊りも含めて3日間で終了していた。それが近年になって4日かかるようになってきた。巡回日数が一日延びると費用も増大する。その対応策として今年からは夜中に滝宮入りして、未明から踊り始めることとする。(そして、滝宮から帰った後で、予定神社の巡回を確実にこなすことにする。)このことについては、かねてより三ケ村へは伝えてある。他の八村の政所(庄屋)も朝七ツ時(午前3時頃)には集合いただきたい。

以上のように、この年は滝宮での念仏踊の日程の短縮が図られたこことを押さえておきます。
現代と江戸の時刻の対応表 | - Japaaan
 
3ケ村庄屋からの書簡を確認した上で、従来と異なる日程変更を申しつけています。
それは、従来からの踊り奉納は次のように決められていました。
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行い、その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社

ところが「近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも・・・」と、3日でおこなっていた巡回が4日かかるようになったようです。これは、各村で行われる風流念仏踊り奉納が、庶民の楽しみでもあり、なかなか「打ち止め」できずに伸びたことが考えられます。
 以前に見たように高松藩から大政所の心得として下された項目の中に、「村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮すること」とありました。渡邉家の大政所は、これを忠実に守ろうとしたようです。そのために、未明3時頃に集合して、滝宮に入って早朝から踊って、阿野郡に帰ってから、その日のうちに奉納先寺社を確実に巡回できるようにしようとしたようです。
 そのため未明から踊り始めること、そのため当日の神谷神社への集合が変更したことの確認を再度、責任村の三ヶ村の庄屋に通達しています。
 ここからは風流念仏踊りが庶民の楽しみで、できるだけ長く踊っていた、見ていたいという気持ちが強かったことがうかがえます。もともとは雨乞いのためではなく、各郷村で踊られていた風流踊りだったのです。人々にとって、楽しみな踊りで雨乞いに関係なく踊られていたからこそ起きることです。雨乞いのために踊られると言い始めるのは、史料では近代になってからです。
それでは、雨乞いはどこが行っていたのでしょうか?
 高松藩の公式な雨乞祈祷寺院は、白峯寺でした。最初に高松藩が白峰寺に雨乞いを命じた記事は、宝暦12年(1762)のものです。雨が降らず「郷中難儀」しているので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。こうして白峯寺には、雨乞い祈願の霊地として善如龍王社が祭られるようになります。
P1150747
白峯寺の善女龍王社

19世紀になると、阿野郡北条の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、白峰寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。そして周辺の村々からの奉納物や寄進物が集まるようになります。
 ここで確認しておきたいのは、北条念仏踊ももともとは雨乞い踊りではなかったということです。
雨乞いは、高松藩の決めた白峰寺の験のある僧侶の行う事です。験のない庶民が雨乞いが祈願しても、効き目はないというのが当時の人々の一般常識でした。だから、験のある修験者や聖に頼ったのです。当時の庶民は、雨乞いのために念仏踊りを踊っているとは思っていなかったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊
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滝宮念仏踊り 滝宮神社への踊り込み(讃岐国名勝図会)
近世はじめの生駒藩の時代には、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
                                                                  奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。②③④については、以前に何度か紹介しましたが、①の北条組については、何も触れられませんでした。新しい坂出市史を眺めていると、北条組のことが紹介されていました。読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、「坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り」です。

坂出市史1
坂出市史
北条組が、どんな村々から構成されていたのかを見ていくことにします。  
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の組織表

 坂本組や七箇村組・鴨組などは、中世のいくつかの郷からなる宮座で構成されていました。そのため近世では10ヶ村近くの村々から構成されていたことは以前にお話ししました。それでは、北条組はどうなのでしょうか。

阿野郡北条の郷
中世阿野北条の郷名

 寛政2(1791)年12月、北条組内の高屋・神谷村と青海村の間で各村社へ念仏踊り奉納順等をめぐって争論が起きます。その御裁許が寛政6(1794)年8月に関係各村に通達されています。これが「念仏一件留」(白峯寺所蔵)で『坂出市史』資料に収録されています。
この争論の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
踊順左之通                 
一 滝宮二社     七月二十五日
一 前日廿四日  神谷村笠揃仕、夫ヨり清立寺、高屋村氏神二社、白峯青海氏四社、高屋浜塩竃大明神并遍照院
一 廿五日 滝宮二社、鴨村一社、氏部村一社、西庄三社
一 二十六日 坂出一社、福江村弐社、江尻村壱社、林田村四社
右之通古来より御神事相勤来申候、尤、御法度絹布も御座候得共、持来并借用来申候、以上、
寛政三亥年十二月  
      高屋村       久次郎
           神谷村政所          恒蔵
                青海村政所兼務      渡辺五郎右衛門
右の通り御尋ニ付 御役所江指出申候
  意訳変換しておくと
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行う。
②その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社
以上の通り、古来より御神事として奉納してきた。なお御法度の絹布も着用するので、持参・借用については黙認願いたい。以上、
ここからは、北条組は24日に神谷神社から村社などへの巡回奉納が始まり、中日の25日早朝に滝宮に踊り込み、その帰りに鴨・氏部・西庄の神社に奉納しています。そして、最終日26日に、坂出・福江・江尻・林田の各神社に奉納しています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図(江戸時代前期)

ここからは次のようなことが分かります。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社への奉納が3日間で行われていたこと
③傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
④阿野郡の北の内、乃生・本沢は、入っていないこと
 以前に坂本念仏踊が、もともとは鵜足都内の、川津郷・坂本郷・小川郷・二相郷の計10ケ村からなる踊り組だったことはお話ししました。これは、那珂郡七箇村組や多度郡鴨組も同じです。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
北条念仏踊りも、神谷神社の周辺の郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったことが裏付けられます。そのプロデュースに、滝宮の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしたと私は考えています。
 滝宮念仏踊りは、もともとは、各郷社に奉納される風流念仏踊りでした。それが滝宮神社に踊り込むようになります。その際に、もめるのが村社の巡回順番です。順番や役割をめぐってどの組でも、争論が起きています。争論の末に、順番が明記されてルールになっていきます。
 それでは北条組は、各村々のどんな寺社を巡回して念仏踊りを奉納していたのでしょうか?

坂出 大藪・林田
阿野郡北図拡大(青海・高屋・林田周辺)
調停書の「念仏踊行列の定并に村々列左の通」は、次のように記します。   
右の通の行列ニテ、郡内宮々踊村々割之列
神谷村先備之分
神谷村  五社大明神     同 村  立寺
氏部村  鉾宮大明神     林田村  祇園宮
江尻村  広瀬大明神     鴨 村 加茂大明神
西庄村  別宮大明神
〆 八ケ所
高屋村先備之分
高屋村  春日大明神      同 村 崇徳天皇
同 村  塩釜大大明神  同 村 遍照院
林田村 惣社大明神 同 村 弁才天
坂出村 八幡宮 西庄村 国津大明神
〆 八ケ所
青海村先備之分
青海村  白峯寺        同 村  崇徳天皇
同 村  春日大明神      同 村  荒神
同 村  厳島大明神      林田村  牛頭天皇
福江村  魚御堂
〆 七ケ所
ここからは、3ヶ村の担当が次のように決めらたことが分かります。
①滝宮神社は、神谷・高屋村
②滝宮天満宮は、青海村
③各村々の寺社については、神谷・高屋・青海が上記のように分担して指揮をとる
④具体的な奉納寺社の名前が挙がっているが、多いのは3ケ村で、他の村は1ヶ所のみ。
坂出 鴨
阿野北絵図(神谷・鴨・氏部・西庄)

以上からは、10ヶ村がフラットな関係でなく、3ケ村(神谷・高屋・青海)の指導権で運営管理されていたことがうかがえます。ここでも争論を経て、ひとつのルールが定着していく過程が見えて来ます。
坂出 上鴨神社
鴨村の上賀茂神社(坂出市)
 こうして見ると北条念仏踊の一団は、坂出市内の合計23の寺社 + 滝宮の2社 =25社を、旧暦の7月25日前後の3日間で巡回し、踊り奉納していたことになります。真夏の炎天下の中を徒歩での移動は、なかなか大変だったことでしょう。それを多くの村人が鎮守の森で待ち受け、楽しみにしていました。地域の一大イベント行事でもあったのです。

滝宮念仏踊 那珂郡南組
那珂郡七箇村組の諏訪神社への奉納図 
以前にお話ししたように、七箇村組の諏訪神社(まんのう町真野)への奉納図には、周囲に有力者の桟敷小屋が建ち並んでいます。桟敷小屋は、宮座の名主などだけに許された権利で、財産として売買もされていたことは以前にお話ししました。ここからも念仏踊りが、もともとは中世の風流踊りに由来することがうかがえます。多くの村人が待つ各村々の鎮守の森に、踊りが奉納されていたことを押さえておきます。
 次に北条念仏踊りの準備品目・出演人数・衣装などを見ておきましょう。寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
① 幟木綿拵 拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江
② 笠鉾      壱本    加茂村 但、上花色水引金揮、
一 ほら貝吹  拾弐人  此人数増減御座候、神封左に在り
一 日の丸  壱本  神谷村
念仏音替印立申候、并に本太鼓順年二両村替合申候、太鼓打出不申村ヨり指出申候、
一 半月    壱本    青海村
一 長刀振    弐人    神谷村 高屋村 但、其足并木綿立付着用仕候、
③大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、
一 入場太鼓打 壱人    神谷村  但、年齢拾弐、三歳素麻帷子紅たすき、嶋絹立付着用、
一 太鼓持   壱人     同村 但、木綿薫物着用、
一 同鼓打       神谷村 高屋村
 但、帷子麻上下着用、三ケ村ヨり勝手次第出来り増減御座候、
一 笛吹 弐人  但、右同断、
一 下知 壱人    高屋村
 但、帷子緞子、無袖羽織・袴着用、脇折・大団・念仏音替下知仕候、
一 本太鼓打 壱人  高屋村 神谷村
 但、年齢拾四、五歳帷了縮緬単物、太鼓掛縮緬、足元嶋絹立付着用、
一 同 供  壱人  後追役 但、持道具団、木綿単物仕着せ、
一 上ヶ場貝吹 壱人 神谷村 但、帷子絹、羽織小倉立付着用、
④ 小踊    廿人  高屋村 神谷村 青海村
 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用、
⑤ 警固    三拾人  高屋村 神谷村 青海村  
 但、帷子絹、羽織・袴着用、杖
⑥ 鉦打    五拾八人  高屋村 神谷村 青海村
 但、単物帷子、羽織立付着用、
⑦ 輪踊    百二十人  高屋村 神谷村 青海村
 但、帷子、木綿単物、笠二色紙切かけ、団壱木ツヽ持、
⑧ 固役         大政所 小政所
 但、帷子麻上下刀帯仕来申滝宮相済、郡中ハ絹羽織踏込着用、
①の「一 幟木綿拵  拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江」というのは、「南無阿弥陀仏」と書かれた木綿の幟を準備するのが「氏部村以下の6ヶ村 × 2本=12本」ということです。
滝宮念仏踊り 正徳の昔(一七一一年)から踊り場にたて続けられている北村組の幟

北村組の幟(正徳元年1711年以来使用されてきた幟)

②は「上が花色で水引・金揮の笠鉾1本」を準備するのが、加茂村担当ということになります。
滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
坂本組の赤い笠鉾
以下、「備品関係」物品があげられ、準備する村名が記されます。
③「一 大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、」の「大打物(おおたちもの)」は「太刀、槍、薙刀(なぎなた)などの長大な武器の総称」です。
「神谷村・高屋村・青海村の三村 × 8人 =24人」で「但し、刀の柄に二尺(約60㎝)をつけ、団扇を1本持つ」とあります。このように全体数と、それを担当する村名、そして但書きが続きます。
④の「小踊 廿人 高屋村 神谷村 青海村 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用」は、子踊りに三ヶ村から20人 年齢は7・8歳で、以下着用衣装が記されています。
人数が多いのが⑤ 警固30人 ⑥鉦打 58人 ⑦ 輪踊120人で、この3役だけで208人になります。総数は三百人を越える大部隊です。この中心は、高屋村 神谷村 青海村の「三ヶ村」です。ここからは、北条組はこの三ヶ村を中心に、風流念仏踊が踊られるようになったことがうかがえます。
⑥の固役には、阿野郡の大政所と小政所が並びます。そして衣装は、滝宮で踊る場合は、帷子(かたびら)麻の上下で帯刀します。郡内の村社巡回奉納の時は、絹の羽織踏込の着用です。以上が、役割と担当村名でした。
滝宮神社・龍燈院
滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
 滝宮神社は、明治以前は天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれていました。
今でも地元の人達は滝宮神社とは呼ばずに「てんのうさん」と親しみを込めて呼ぶそうです。この神社を管理運営していたのが別当の龍燈院でした。滝宮神社と天満宮は、龍燈寺管理下にひとつの宗教施設として運営されていました。それが、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消し、ふたつの神社が残ったことになります。

龍燈院・滝宮神社
両者に挟まれるようにあった龍燈寺

  滝宮牛頭天王(権現)とよばれた滝宮神社は、その名の通り牛頭天王信仰の宗教施設で、牛や馬などの畜産などに関わり、馬借などの運輸関係者や農民達の強い信仰を集めました。同時に、滝宮牛頭天王はスサノオの権化ともされ「蘇民将来伝説」とも結びつけられて流布されます。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
四国霊場本山寺の本尊 馬頭観音
 中讃の牛頭天王信仰の拠点が滝宮神社で、三豊の拠点が四国霊場の本山寺でした。
本山寺の本尊は馬頭観音で、多くの修験者や聖達がこの札を周辺地域に配布していたようです。滝宮神社の別当寺は龍燈寺も、聖達の集まる寺でした。その名の「龍燈」とは熊野信仰で海からやってくる龍神の目印として掲げられた灯りのことです。この寺が、もともとは熊野信仰と深く結びついた寺院であることがうかがえます。熊野行者の拠点だった龍燈寺は、中世には修験者や聖達のあつまるお寺になっていきます。彼らは「牛頭天王=スサノオ」混淆説から「蘇民将来の子孫」のお札や「苗代や水口」札を配りながら農民達の信仰を集めるようになります。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札

滝宮の龍燈院の牛頭天皇信仰の拡大戦略は、次のようなものだった私は考えています。
①龍燈寺の社僧は(修験者や聖)たちは、丸亀平野の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集め信者を増やした。
②その際に、彼らはいろいろな情報だけでなく、風流踊りや念仏踊りを各村々に伝える芸能プロデューサーの役割も果たした。
④聖達の指導で、風流踊りは盆踊りとして踊られるようになった
⑤盆踊りとして踊られるようになった風流念仏踊りは、滝宮(牛頭天皇)社の夏祭り(旧暦7月25日)に奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、滝宮に念仏踊りを奉納していた鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだったことになります。牛頭天王の信者達が、自分たちの踊りを滝宮神社に奉納していたと私は考えています。

滝宮神社と龍燈院(明治になって)
滝宮神社と龍燈院(明治になっての在りし日の龍燈院絵図)
       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り
関連記事

          
  宝永の大地震については、以前に次のような事をお話ししました。
①牟礼町と庵治町の境にある五剣山の南端の五ノ峰が崩れ落ちて「四剣山」となってしまったこと。
②高松城下町に津波や倒壊家屋など大きな被害が出たこと
③海岸沿いの新田開発地帯で液状化現象が数多く発生したこと
今回は、それから約150年後の安政の大地震を、坂出の史料で見ていくことにします。テキストは「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」です。

安政東海地震・安政南海地震(安政元年11月5日) | 災害カレンダー - Yahoo!天気・災害

安政の大地震とは、次のような一連の地震の総称のようです。
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)- 日米和親条約締結。
1854年7月9日(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(巨大地震)。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(巨大地震)。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日)- 豊予海峡地震。
1855年1月15日(安政元年11月27日)- 安政に改元。
1855年2月7日(安政元年12月21日)- 日露和親条約締結。
1854年旧暦の11月4日午前10時頃、駿河湾から熊野灘までの海底を震源域とする巨大地震が発生します。それに続いて30時間後の5日午後4時頃、今度は紀伊水道から四国沖を震源域とする巨大地震が続いて起きます。駿河トラフと南海トラフで連動して起きたブレート境界地震で、いずれもマグニチュード8・4と推定されています。関東から九州までの広い範囲で大津波が押し寄せます。4日の地震では、東海道筋の城下町や宿場町が大きな被害を受けます。5日の地震では、瀬戸内海沿いの町々でも家屋の倒壊や城郭の損壊が相次ぎ、紀伊半島や四国では10mを超える大津波に襲われます。津波は瀬戸内海や豊後水道にも及んだとされます。

東海地震と南海地震の連携
 東海地震と南海地震のダイヤグラム
東海地震と南海地震は、引き続いて起きる傾向があるようです。
この時も、東海地震の翌日に南海地震が起きています。この地震が起きたときは、年号はまだ嘉永7年でした。それが地震直後に、年号が改められて「安政」となります。ペリー来航で世の中が揺れる中での天変地異に民心も揺らいだようです。
3坂出海岸線 1811年
塩田が出来る前の1811年頃の坂出村
江戸時代末に宮崎栄立が著した『民賊物語』には、坂出市域の状況が次のように記されています。

①十一月四日昼四ツ時地震、五日昼七ツ時二大地震イタシ家二居ル者無シ、夫ヨリハ度々ノ地震ユヘ坂出村ノ者ドモ大ヒニ恐怖シテ野宿イタシ、六日ニモ亦々以前ノ如ク西ノ方ヨリドロドロ卜鳴来ツテ、地震止ネバ村中家々二小屋ヲ掛ヶ人々ハ其中二居レリ
 
意訳変換しておくと
11月4日昼四ツ時(10時頃)地震発生、
翌5日昼七ツ時(16時頃)に、今度は大地震が起こり家の中には誰もいない。それから度々の余震が続き、坂出村の人々は恐怖で、家に帰らずに避難し野宿した。六日にも西の方からどろどろと大きな音が続いた。地震が止まないので、村人は小屋掛けして、その中に避難している。

   ここからは東海地震と南海地震が連動して発生したことが分かります。余震におびえる村人達は仮小屋を建てて「野宿」しています。

②  五日ノ大地震二付坂出村ノ破損ハ左ノ如シ 
新浜分ハ、大地裂ケ石垣崩レ、沖ノ金昆羅神ノ拝殿崩レ、橋モ二箇所落テ、塩釜神ノ石ニテ造リタル大鳥居折レタヲレタリ、其外ニ人家破損セサハ更二無シ、塩壺釜屋二損セフハ無ユヘ新地ハ村中ノ大破卜申スベシ、其次ノ破損ハ新開、東洲賀、中洲賀、其次ノ破損ハ西洲賀、内濱也、大破モアレバ小損モ有シガ、是ハ家々ノ幸不幸卜云ベシ、其次二新濱分ハ家二居憎キ程ノ大大地震タレドモ、瓦一枚モ損無ケレバ有難キトテ喜バヌ者ハ喜バヌ者ハ無ク、其内ニ谷本澤次郎居宅ハユガミ出来土塀等モ崩レシカバ先二大破卜中ス也、屋内横洲ノ在所ハ新濱同様ノ由ニテ格別損ジハ非ズシテ喜ビ居ケル也

   意訳変換しておくと
②  五日の大地震の坂出村の被害状況は次の通りである。
 新浜では、大地が裂け石垣が崩れ、沖の金昆羅社の拝殿が壊れた。橋も二箇所で落ち、塩釜神社の石の大鳥居も折れた。その他の人家には被害はない。塩田の塩壺・釜屋の被害もないようだが新地は村中が大破している。その次に被害が大きいのは新開、東洲賀、中洲賀、、次が西洲賀、内濱となる。大破した家もあれば、小破ですんだ家もある。これはその家々の幸不幸と云うべきだろう。新濱分は、大地震だったが瓦一枚の被害も出ていない。これを有難いことと喜ばない者はいない。その内の谷本澤次郎の居宅は、家が歪んで、土塀も崩れたので大破とした。屋内横洲の在所は、新濱と同じように格別の被害はなかったと喜んでいる。
ここでは坂出村の被害状況が述べられています。
地域のモニュメントでもある金毘羅神の拝殿が崩壊し、橋が落ち、塩寵神社の大鳥居が折れています。被害は、エリアで大小があるようです。
坂出村は、近世になって塩田開発が行われ、そこに立地した村です。埋め立て状況によって、地盤の強度に差があったことがうかがえます。これは後述する液状化現象とも関わってきます。

製塩 坂出塩田 久米栄左衛門以前
久米栄左衛門以前の坂出塩田
③ 大坂ハ夏六月十五日大地震ノ時二市中ノ者ドモハ老若男女トモ、船二乗ツテ地震ノ災ヒヲ遁レタレバ、此度モ夏ハ如ク皆々船二乗ツテ居タル所、其員数ハ知レ難ク、死骸ノ川辺ニ累々トシテ山岳ノ如ク、其時二坂出浦ノ船大坂ノ川二在ツテ破船シタルハ左ノ如ク
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
以上大破之分
右入福丸ノ居船頭ハ横洲ノ駒吉、灘吉丸ノ居船頭ハ新地ノ松三郎、弁天丸ノ居船頭ハ新地ノ和右衛門 其時ノ船頭ハ和右衛門ノ甥佐之吉也、灘吉丸弁天丸ノニ艘ハ大破ニテ作事二掛ラズ、入福丸ハ大坂ニテ作事イタシ国へ帰リタリ、三艘トモ木津川二居レリト云
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
以上小破之分
右ハ少々ノ損シユヘ作事シテ国へ帰ル、此四艘ハ安治川二居レル由坂出船都合七艘也、大小ノ破損二逢ヘドモ船頭ヲ始メ水主及ヒ梶取二至るマデ死亡ノ者一人モ無ク皆々帰リテ申しケルハ、本津川ニハ死人多ク安治川ハ少シ、大坂帳面着ノ死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
   意訳変換しておくと
③ 大坂では夏六月に発生した伊賀上野地震の時に、老若男女が船に避難して難を逃れた。そこで今回も前回の時のように、多くの人々が船に避難した。そこへ津波が襲いかかり、多くの死者を出した。その数は数え切れないほどで、死骸が川辺に累々として打ち寄せられ山の如く積み上がった。
この時に、坂出浦の船で大坂に入港していて、大破した船は次の通りである。
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
この内、船頭は、入福丸は横洲の駒吉、灘吉は新地の松三郎、弁天丸は新地の和右衛であった。
灘吉丸と弁天丸の2艘は大破でも修理せず、入福丸は大坂で修理して坂出に帰ってきた、三艘ともに木津川に停泊中だったと云う。
以下の4艘は小破であった。
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
この4艘は、損傷が小さかったので修理して、坂出に帰ってきた。この四艘は安治川にいたという。以上、坂出船は合計で七艘、震災時に大坂にいたことになる、それぞれ大小の破損を受けたが船頭を始め、水夫や梶取に死者はおらず、みな無事に帰ってきた。彼らが伝えるには、本津川の方に死者が多く、安治川は少ないとのこと。大坂からの帳面には、死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
大坂の木津川と安治川

④ここからは、大坂での大地震の時に、坂出村の廻船7艘が大坂の安治川と木津川に寄港中であったことが分かります。
坂出村からは「塩の専用船」が大坂と間を行き来していたようです。旧暦6月は真夏に当たるので、塩の生産量が増える時期だったのでしょう。それにしても、この日、坂出村の船だけで七艘が入港していたのは私にとっては驚きです。中世には、塩飽などの塩船団は、何隻かで同一行動を取っていたことは以前にお話ししました。ここでも二つのグループが船団を組んで、木津川と安治川に入港中だったとしておきます。
 また、6月の地震の時に船に逃げて難を避けた経験が、今回は大津波でアダとなったことが記されています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図 ③が坂出村
④ 庄屋・阿河加藤次ヨリ来ル御触ノ写シ左之如ク
一筆申進候、然者此度地震ヨリ高波マイリ候様イ日イ日雑説申シ触候様者有之愚味ノ者ヲ惑ハシ候事二可有之候哉、イヨイヨ右様ノ次第二候ハバ御上ニモ御手充遊バシ一同江モ屹度御触レ在之候事二可有之候間、左様風説構ハズ銘々ノ仕業ヲ専二相働キ盗人ヤ火事ノ手当無油断心掛ケ、此節ハ幸卜人々ノ迷惑を不構諸色直段上ケ致候者ハ迫々御札シ御咎モ可相成候間、随分下直二商ヒ大工左官日雇賃モ御定ノ通リ可致、併シ此節すみかノ事二付働キ振二寄り少々之義ハ格別ノ事二候、夫々心得違ヒ無之様早々村々江御申渡可被成候、此段申進候 以上、
森田健助
鎌田多兵衛
本条和太右衛門サマ
渡辺五百之助サマ
右之通り御触在之候段、大庄屋中ヨリ申来候間、其組下ヘ早々御申渡シ可破成候、以上、
阿河加藤次
十一月十五日
内濱  新濱
屋内  洲賀
新地
       意訳変換しておくと
藩の手代 → 阿野郡大庄屋渡邊家 → 坂出村庄屋阿河加藤次のルートで廻されてきた触書きの写しを挙げておく。
 一筆申進候、今度の地震で高波(津波)が押し寄せるという雑説(流言)があるが、これは愚味者を惑わすフェイクニュースである。これについてはお上でも対応を考えて手当して、一堂へも通知済みである。よって、怪しい情報に迷わされずに各々の仕業に専念し、盗人や火事に対して油断なく心がけること。このような非常時には、これ幸と人々の迷惑を顧みずに、法令を犯す者も出てくる。それには追って高札で注意する。商いについても大工・左官・日雇の賃金も規定通り従来の価格を維持すること、ただし、住居については火急のことなので、その働きぶりで少々のことは大目にみる。以上、心得違いのないように、早々に村々に通知回覧すること。

④ ここからは坂出でも、多くの流言飛語がとびかっていたことがうかがえます。
これに対する高松藩の対応が、藩の手代→大庄屋→坂出村庄屋・阿河加藤次からの触れというルートで流されています。その中には、物価高騰への対策や大工・左官・日雇などの賃金の高騰防止策も含まれています。

讃岐阿野北郡郡図2 坂出
阿野北郡郡図

⑤先日ノ大地震二坂出村ニハ怪我人マタハ死人など一人モ無キ事ハ、是ヒトヘニ氏神八幡ノ守護二依テヤ、掛ル衆代未曾有ノ大地震二不思議卜村中ノ者ドモ危難ヲ遁レタル御祀卜申シテ、近村ノ神職ヲ頼ミ、十一月十五日ノ夜八幡神前二在テ薪火ヲ焼テ神へ御神楽ヲ奏シ承リタリ
一 同月十六日村中ノ者、小屋ヲ大半過モ取除申セシ所二、晩方二地震イタシ、夜二入ツテ大風吹出シ次第卜募り、雪交ヘ降り地震モ度々也、其夜之風ハ近年二覚ヘザル大風ナリ
一 村方庄屋ヨリ申越タル書付ノ写、左ノ如シ
一筆申し進候、然者今度地震二付御家中屋敷屋敷大小破損ノ義在之候哉、兼テ暑寒等モ勤相ハ無之筈二候エドモ、中ニハ近規格段懇意ノ向等ヘハ相互ヒ見舞ヒ等二罷り越シ候面々モ有之候エバ近親タリトモ一切見舞ヒニ不罷越様、右ノ趣キ御心得早々村々へ御申シ通可被成候、以上、
十一月十六日出
( 中略 )
  意訳変換しておくと
⑤先日の大地震で坂出村では怪我人や死人が一人も出なかった。これはひとえに氏神の八幡神の守護のおかげである。未曾有の大地震にも関わらず村中の人々が危難から救われたお礼にをせねばならぬとして、近村の神職に頼んで、10日後の15日の夜に八幡神前で松明を燃やして、神楽を奉納することになった。

一 その翌日16日になって、村中の者が、避難小屋の大半を取除いた所、晩方に再び地震があった。さらに、夜になって大風が吹出し、次第に強くなり、雪交ヘ降りとなった。その上、余震が何度もあった。この夜の風は、近年で最も強いものであった。
一 村方の庄屋の回覧状写には、次のようにしるされていた。
一筆申し進候、今回の地震について、家中屋敷でも大小の破損があった。中には格段に懇意にしている家に見舞いに行きたいと考える人達もいたが、近親といえども今回は見舞いを控えている。このような心得を早々に村々に伝えるように、以上、
十一月十六日出( 中略 )

ここからは次のようなことが分かります。
A 今回の大地震で坂出村では死人が一人も出なかったこと。
B それを神の御加護として、御礼のために八幡神社で神楽奉納が行われたこと。
C 家中屋敷も被害が出ているが、見舞いは控えるようにとの通達が出されていること
  雨乞いのお礼のために踊られたのが、滝宮(牛頭天王)社に奉納された念仏踊りでした。同じように、神の加護お礼に、神楽が奉納されています。天変地異と神の関係が近かったことがうかがえます。

坂出風景1
坂出
墾田図
⑥十一月二十二日地震ヲ鎮ンガ為ノ祈祷トテ坂出八幡宮ニテ村中ニテ村中安全五穀豊饒ノ大般若経フ転読ス
評曰く、当国高松大荒レ死人多ク有ル由、土佐大荒レ、阿波大波打死人多ク出火焼亡所モ有、伊豫大荒レ、紀伊モ大荒レ、播磨大荒レ、明石最モ大荒レ、家々皆潰レ人麿ノ社ノミ残ル、備前備中モ大荒レ、其中塩飽七島ハ地震少々ニテ島人ハ憂ヒ申サス、中国西国九州二島ノ地震ヲ云者アラ子バ其沙汰ヲ聞カズ、
     意訳変換しておくと
⑥11月22日、地震を鎮めるための祈祷として、坂出八幡宮で安全五穀豊饒のために大般若経の転読を行った。
評曰く、讃岐高松は地震で大きな被害を受けて死人も出ている。土佐大荒、阿波では大波(津波)で多くの死者が出た上に、出火で焼けた処もおおい。伊豫大荒れ、紀伊モ大荒れ、播磨大荒れ、明石は最も大荒レ、家々が皆潰れて人麿社だけが残った。備前・備中も大荒レ、塩飽七島は地震の被害が少なく、島人も困っていない。中国・四国・九州の島の地震については、情報が入ってこないので分からない。
  大般若経の転読は、大般若経六百巻を供えた寺社で行われていた悪霊や病気払いの祈祷です。
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から
大般若経転読
別当寺の社僧達が経典を、開いて閉じで「転読」します。この時に起こる風が「般若の風」と云われて、効能があるものとされてきました。坂出八幡宮にも大般若経六百巻があったことが分かります。
一 江戸目黒御屋敷二居ケル近藤姓ノ書状左ノ如ク
筆啓上…(中略)…去ル四日ヨリ五日エ古今稀成ル大地震ニテ高松城内フ始メ御家中町内郷中二至ルマデ潰レ家転ビ家怪我人又ハ死人其数知レズ、誠二御国中ノ義ハ何トモ筆紙二難書候由、宿元ヨリ委ク申参シテ夥シキ御事二奉存候、此元ニテモ去四日ヨリ五日ヘハ大地震ニテ大混雑イタシタル義高松ノ宿元ヘ委ク申し遣ハシ置候間、御城下へ御出掛被成候エバ御間可被成候、御伯父サマノ居宅ハ地震ノ破損如何二御座候哉、格別成ル御イタミ所ハ無之義候力、且ハ御家内サマ方ニテ御怪我ハ無之力、年蔭大心配申し上候、誠二近年ハ色々ノ凶事バカリ蜂ノ如ク起こり候エバ、何トモ恐日敷事ニ奉候先ハ蒸気卜地曇トノ見舞ヒ芳申し上度如此御座候、尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
近藤本之進
十一月念三日
坂出村
宮崎善次郎サマ
人々御中
      意訳変換しておくと
江戸目黒屋敷の近藤姓からの書状には、次のように記されていた。
筆啓上…(中略)…去る4日から5日にかけて今までにない規模の大地震で、高松城内を始め家中や町内郷中に至るまでに、家屋が倒壊したり、負傷者や死者が数え切れないほど出ている。国元の惨状は筆舌に現しがたいことなどが書状で伝えられています。こちらも四日から五日には、大地震で大混雑になったことについては高松の宿元へ書状で書き送った。さて、高松城下へ御出かけの際には、伯父さまの居宅の地震被害の様子がどんな風なのかお聞きおきいただきたい。格別な被害がないかどうか、或いは家内の方々に御怪我はなかったのか、など大変心配しております。誠に近年は色々と凶事ばかり続き、何とも恐ろしい気がします。まずは蒸気(ペリー来航)と大地震の見舞い申し上げます。尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
遠く離れた江戸との連絡は、飛脚便で取れていること。しかし、情報が少なく親族の安否や被害状況の確認がなかなか取れずに、心配していることがうかがえます。
⑦ 同月二十五日昼四ツ時分ヨリ地鳴ヤラ海鳴ヤラ山鳴ヤラ何トモ知レ難ク坂出ノ人々大ヒニ心配セル所二昼九ツ時二雷一声鳴ツテ大風大雨地震セシカバ新地ノ者ドモ大ヒニ畏恐レテ背々岡へ逃上タル、是ハ大坂ノ如キ津波ヲ恐レテ船二乗シ者一人モ無シ
一 十二月朔日、新濱中トシテ村中祈祷ノ為二翁ガ住ケル門前二金毘羅神ノ常夜燈ノ有ツル所ニテ地震ヲ鎮メン連、岩戸ノ御神楽ヲ神へ奉ツル員時ノ祈人ハ川津村大宮ノ神職福家津嘉福、春日ノ神職福家斎、御神楽阻話人ノ名前ハ左ノ如ク 
藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平 勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅人権現ノ御鎮座ノ社地ハ申スニ及ハズ、室橋ノ内ハ柳モ地震ノ損ジ無キハ御神徳二依ルユヘトゾ云、尊卜候ベシ候ベシ、四条村榎井村ハ大荒レノ由ヲ聞ク、
  意訳変換しておくと
⑦ 11月25日昼四ツ時分から地鳴やら海鳴・山鳴などの何ともしれない音がして、坂出の人々を不安にさせた。昼九ツ時になって、雷鳴とともに、大風大雨に加えて地震も起きた。新地の人達は、これに畏れて岡へ逃げた。しかし、大坂のように津波を恐れて船に乗る者は一人もいなかった。
一 12月1日、新濱では祈祷のために翁が住んでいる門前に金毘羅神の常夜燈が建っている所で、地震退散のために、岩戸神楽を神へ奉納することになった。祈人は川津村大宮の神職福家津嘉福、春日の神職福家斎、神楽世話人の名前は次の通り。藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅大権現の鎮座する社地を始め、その寺領には地震の被害がなかったのは、御神徳によるものだと皆が噂する。金毘羅さんの威徳は尊ぶべし。ところが寺領と隣接する四条村や榎井村は大きな被害が出ていると聞く。
地震から20日近くたっても余震が収まらないので、人々は不安な毎日を送っているのが伝わってきます。
そんな時に人々が頼るのは神仏しかありません。無事祝いと称して、八幡さんに神楽を奉納し、地震退散のために、「般若の風」を吹かせるために大般若経の転読を行います。そして、今度は金比羅常夜燈の前で、地震を鎮めるために岩戸神楽の奉納が行われています。
それでも余震は続きます。しかし、人々も経験に学んでいます。大坂のように、地震があっても船に逃げる人はいないようです。岡に逃げています。坂出村なので、聖通寺山に避難していたのでしょうか。
⑧ 十二月三日夜四ツ時、地震ヤル
一 同月七日ノ夜、村中横洲祗園宮へ横洲ノ者祈祷トシテ御神楽ヲ奉マツル
一 同十四日ノ境二、地震マタ、其夜ノ八ツ時二人ヒニ地震雨是ハ、先月五日以来ノ大地震卜沙汰スル也、
評曰く、十一月五日ノ大地震二先君源想様ノ御実母 善心様御義早速二御林ノ御別館へ御立除ノ由也、然ル所二、同月二十五日マタマタ高松大ヒニ地鳴セル、晩方二成ルト雖トモ止ス、請人恐レケル時二誰申ストモ寄り浪ノ此地へ打来ラントテ主膳様ヲ始メトシテ御中屋敷大膳様 御大老飛騨様等御方々サヘ津波ヲ恐レテ疾ニモ御屋敷ヲ御立給ヒテ南方フ指テ御出テ有リツルハ定メテ御林ノ御別館へ御入り有リテ 善心様卜御一行二成ラセラレタラン、弥、津波来ラバ内町ノ者ハ危シト俄カニ騒キ立テ、先ハ老人或ハ小供又ハ病者婦人杯ノ足弱キ者トモフバ所々縁ヲ求メ、外町へ出シ、男子ハ居宅ヲ守り、夜ヲ明シタル、
評曰く、先日大地震ノ時、当浦ニモ津波気色少シハ有シヤ、汐引マジキ時二引キヌ、満マジキ時二大ヒニ満レハ、矢張り津波ノ気色ヤラント新地ノ者ノ沙汰ナリ、
又評曰く、三木牟祀村ノ五剣山昔ノ地震二一剣ノ峯ノ崩レタリ、又当年ノ大地震ニモ峯ノ崩レタルト也、何レノ峯ヤラ知ラズ、( 後略 )

  意訳変換しておくと
⑧ 12月3日夜四ツ時、地震発生
一 同月7日ノ夜、横洲の祗園宮へ横洲人々は祈祷として神楽を奉納した
一 同14日ノ夜、8ツ時に地震が起きた。これは先月5日以来の大地震であった。
評曰、11月5日の大地震に高松藩先君の実母・善心様は早速に栗林の別館へ避難されたようだ。
25日に高松では地鳴がして、晩方になっても止まない。この時に、誰ともなく津波が高松にも押し寄せるのではないかという噂が拡がった。そのため主膳様を始めとして中屋敷の大膳様や大老飛騨様なども、津波を恐れて屋敷を立ち退き、かねてより指定されていた栗林の別館へ避難した。そして善心様と合流した。
 これを聞いて津波が襲来すれば内町の者危ないと、人々も騒ぎたて、まずは老人や小供、病者・婦人などの足の悪い者は縁者を頼って、外町へ出し、男子は居宅を守って、夜を明した。
評曰く、先日11月の大地震の時には、坂出浦にも津波の気配が少しはあったが、引き潮時分であったので被害はなかった。もし満潮時であれば、矢張り津波の被害もあったかもしれないと新地の者たちは沙汰している。
評曰く、三木と牟祀村の五剣山は、昔の地震の時に、一剣の峯が崩れた。今回の大地震でも峯が崩れたと云う。それがどの峰なのかは分からない。
   地震から1ヶ月近くたっても余震はおさまりません。余震におびえる人々の心は、フェイクニュースを受入やすくなります。山鳴り・海鳴りが止まず夜を迎えると、津波がやって来るという噂が高松城下町で拡がったようです。そのため城主達一族が栗林の別邸に避難します。それを見て、人々も不安に駆られて避難を始めたようです。
安政の大地震は、11月中旬になってもおさまる気配はなかったようです。
地震の被害状況を調べた「綾野義賢大検見日誌」(『香川県史』10)には、次のように記されています。
二十三日晴、暁のほと地小しく震ふことふたゝひ、卯の下下りにまた御米蔵に至て貢納を見、巳のはしめにうた津を出、坂出村に至れハ本条郡正か子出迎たり、この頃の大震に坂出・林田なと瀬海の所、地大にさけ人家やふれくつれしもの少からすと聞へしかは、それらを見んと、本条から案内にて坂出・江尻・林田・高屋・青海なと南海の地をめくり見る、坂出・林田地さけ堤水門なとくつれ橋落、またハ土地落入りし処もあり、地さけて初のほとハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まヽなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し、されと人家少けれハ家くつれしものは最少し、江尻・高屋・青海なとハ、坂出・林田にくらふれハやゝゆるやかなり、申之刻はかり青海村渡辺郡正
か家に入てやとる、戊の刻はかりに地また震ふ、家外にかけ出んと戸障子ひきあけしほとなり、夜半の頃、また少しふるふ、
十四日、晴、巳の下りに青海村を出、国分に昼食し、黄昏家に帰入る、夜半小震、
  意訳変換しておくと
23日晴、早朝暁にも小しく地面が揺れる。卯の刻に宇多津の米蔵に着いて納められた米俵などの貢納を検見する。巳の始めに宇多津を出発して、坂出村に着いた。本条郡正が出迎え、今回の大震で坂出・林田などの海際の村では、地面が裂け、人家が倒壊したものが少なからず出たことを聞く。その被害状況を見ようと、本条の案内で坂出・江尻・林田・高屋・青海なの地を巡る。坂出・林田の地割れ、堤水門などの決壊、橋の陥落、または土地が陥没した所がある。地が裂けた所は、水が吹出したのか、白砂を吹出したかのように見える所がおおい。これらの様子は、高松よりも多い。しかし、人家が少ないので倒壊家屋の数は高松よりも少ない。江尻・高屋・青海などは、坂出・林田に比べると、被害は少ない。申刻頃に、青海村の渡辺郡正の家に宿をとる。戊の刻頃に、また震れる。家外に駆け出ようと戸障子を引き開けようとしたほどだった。夜半の頃、また少し揺れる。
24日晴、巳の下りに青海村を出て、国分で昼食し、黄昏に家に帰入る、夜半小震、
この史料は、阿野郡北の代官綾野義賢が郡奉行として、大検見を実施したときのものです。
安政元年(1864)年11月23~24日の坂出市域の被害状況と余震の内容が詳細に記録されています。ここから分かることを整理しておくと
①宇多津の米蔵に被害はなく、年貢の米は従来通り収納されていること
②坂出周辺の地震の被害状況を、自分の目で確認していること
③それを「地大いにさけ、人家やぶれ・くづれしもの少からず」「地さけ、堤水門などくづれ、橋落、またハ土地落入りし処もあり」と記録していること
④「地さけて初のほどハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まゝなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し」と、地面が裂けて水が噴き出したり、白砂が吹き出す液状化現象をきちんと捉えていること
⑤余震におびえながらの生活が続いていること
以上の一つの史料で読み取れる内容から指摘できることをまとめると次の二点です。
以上の記録からは次のような事が見えて来ます
①藩当局の周知・連絡が「藩 → 大庄屋 → 各村の庄屋 → 民衆」というルートで伝えられていること。藩の触書などは書写して残している人もいたこと。
②大地震からの不安からのがれるように、仏や神頼みが地元から起こっていること
③大坂で船に避難したひとが大きな被害となったことは、すぐに坂出に伝わっていること。地震の教訓を坂出の人々が活かしていることが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

坂出市史1
坂出市史
参考文献
「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」
関連記事

坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
大庄屋 渡辺家
阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、代々の当主が書き残した「御用日記」が残されています。
渡邊家は初代嘉兵衛が1659(万治2)年に青梅村に移住してきて、その子善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)になります。その後、1788(天明8)年に阿野北郡大政所(大庄屋)になり、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられています。渡部家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「大庄屋御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。

御用日記 渡辺家文書
御用日記(渡辺家文書)
 この中に「庄屋の心構え」(1825(文政8年)があります。

「大小庄屋勤め向き心得方の義面々書き出し出し候様御代官より御申し聞かせ候二付き」

とあるので、高松藩の代官が庄屋に説いたもののを書写したもののようです。今回は高松藩が、庄屋たちにどのようなことを求めていたのか、庄屋たちの直面する「日常業務」とは、どんなものだったのかを見ていくことにします。テキストは「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」です
 高松藩の代官は、庄屋にその心構を次のように説いたようです。
・(乃生村)庄屋は、年貢収納はもちろん、その他の収納物についても日限を遵守し納付すること
・村方百姓による道路工事などについては、きちんと仕上げて、後々に指導を受けたりせぬように
・村方百姓の中で、行いや考えに問題がある者へは指導し、風儀を乱さないように心得よ
・御用向きや御触れ事などは、早速に村内端々まで申し触れること。
・利益になることは、独り占めするのではなく、村中の百姓全体が利益になるように取り計うこと。
・衣類や家普請などは、華美・贅沢にならないように心がけること
・用水管理については、村々全体で取り決めて行うこと
・普請工事については優先順位をつけて行うこと
ここからは法令遵守、灌漑用水管理、藩への迅速な報告、賞罰の大庄屋との相談、普請工事の誠実な遂行、藩からの通達などの早急な伝達・周知、などの心得が挙げられています。
これに他の庄屋に伝えられていた項目を追加しておきます。
⑩何事についても百姓たちが徒党を組んで集会寄合をすることがないようにする。(集会・結社の取り締まり)
⑪道や橋の普請などに、気を配り
⑫村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮し
⑬小間者に至るまで、村の百姓達の戸数が減らないように精々気を付け
⑭村の風儀の害となる者や、無宿帳外の者については厳重に取りしまること
ここからは、年貢を納めることが第一ですが、それ以外にも村方のことはなんでも庄屋が処理することがもとめられていたことが分かります。
それでは、庄屋の年間取扱業務とはどんなものだったのでしょうか?
文政元(1818)の「御用日記」に出てくる「年間処理事項」を挙げて見ると次のようになります。
正月
  古船購入願いを処理、
  氏部村の百姓の不届きの処理、
  用水浚いの願いの処理
  白峯寺寺中の青海村真蔵院の再建処理
2月 郡々村々用水浚いの当番年の業務処理
  青海村の上代池浚い対応処理
3月 二歩米額の村々への通知、
  江戸上屋敷の焼失への籾の各村割当処理、
  林田村の百姓が養子をもらいたいとの願いの処理
  吹き銀、潰れ銀売買について公儀書付の周知と違反者への処理
  村人間の暴行事件の対応・処理
  政所(庄屋)役の退役処理
  捨て牛の処理
4月
藩の大検見役人の巡検への対応
他所米の入津許可の処理
新しい池の築造手配
5月
他所米入津の隣領への抜売禁上の通達処理
郷中での出火
神事、祭礼などでの三つ拍子の禁止申し渡し
村人のみだりに虚無僧になることの禁上の通達
普請人夫の賃金待遇処理
6月
高松松平家中の嫡子が農村へ引っ越すことについての対応、
出水浚・川中掘渫などの検分と修復のための予算処置
五人組合の者共の心得の再確認と不心得者の取締り
昨年冬の高松藩江戸屋敷焼失についての大庄屋の献金額の調整
7月
御口事方が林田裏で行う大砲稽古への手配
盆前の取り越し納入の手配
遍路坊主の白峰境内での自殺事件の処理
正麦納の銀納許可について対応
村人の金銭貸借への対処
殺人犯の人相書きの手配
三ヶ庄念仏踊りの当番年について、氏部など各村への連絡
照り続きにつき雨乞修法の依頼
北條池の用水不足対応
香川郡東東谷村の村人の失踪届対応
商売開業願への対応
盗殺生改人の支度料処理
8月 他所米の入津対応や御用銀の上納対応
9月 大検見の役人への村別対応手配
10月 高松と東西の蔵所へ11月収めの年貢米(人歩米)納入について藩からの指示の伝達
11月 年貢米未進者の所蔵入れの報告
   阿野郡北の牢人者の書き上げ報告
12月 村人の酒造株取得と古船の売買
以上を見ると、自殺・喧嘩・殺人から養子縁組の世話、池や用水管理・雨乞いに至るまで、庄屋は大忙しです。以前にお話したように、庄屋は「税務署 + 公安警察 + 簡易裁判所 + 土木出張所 + 社会福祉事務所」などを兼ねていて、村で起こることはなんでも抱え込んでいたのです。だから村方役人と呼ばれました。村に武士達は、普段はやって来ることはなかったのです。ただ、戸籍書類だけは、お寺が担当していたとも云えます。
讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録 <収蔵資料目録>(瀬戸内海歴史民俗資料館 編) / はなひ堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋
瀬戸内海歴史民俗資料館編
『讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録』1976年)。

  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
  江戸時代は、藩などの政策や法令は、文書によって庄屋に伝達されます。また、先ほど見たように庄屋は村支配のために、さまざまな種類の文書を作成し、提出を求められます。村支配のためや、訴訟・指示などの意思表明のためにも、文書作成は必要不可欠な能力となります。文書が読めない、書けないでは村役人は務まりません。年貢納税にも高い計算能力が求められます。
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。例えば、村の事案処理には、先例に照らして物事を判断することが求められます。円滑な村の運営のために、記録を作成し、保存管理することが有効なことに庄屋たちは気づきます。その結果、意欲・能力のある庄屋は、日常記録を日記として残すようになります。そこには、次のような記録が記されます。
村検地帳などの土地に関するもの
年貢など負担に関するもの
宗門改など戸口に関するもの
村の概況を示した村明細帳や村絵図など
境界や入会地をめぐる争論の裁許状や内済書、裁許絵図
これらは記録として残され、庄屋の家に相伝されます。こうして庄屋だけでなく種々の記録が作成・保存される「記録の時代」がやってきます。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。

村では、藩の支配を受けながら村役人たちが、年貢の納入を第一に百姓たちを指導しながら村政に取り組みます。百姓たちも村の寄合で評議を行いながら村を動かしていきます。

  大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓

 というのが高松藩の農村支配構造です。
大庄屋の渡辺家の「御用日記」(1818)年の表紙裏には、次のように記されています。
御年寄 谷左馬之助殿(他二名の連名)
御奉行 鈴木善兵衛殿 
    小倉義兵衛殿中條伝人 入谷市郎兵衛殿
郡奉行 野原二兵衛 藤本佐十郎 
代官  三井恒一郎(他六名連名) 
当郡役所元〆 上野藤太夫 野嶋平蔵
当時の主人が、高松藩との組織連携のために書き留めたのでしょう。この表記は、各年の御用日記に記されているようです。このような組織の中で、庄屋たちは横の連携をとりながら、村々の運営を行っていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」

 
「金毘羅名勝図会」(1819)に描かれた多度津港を紹介しました。すると、その後に出された「金毘羅参詣名所図会」で、多度津の名勝が紹介されている部分を見たいというリクエストがありましたので、資料としてアップしておきます。なお、金毘羅参詣名所図会の閲覧方法については、以下の方法があります。
① 香川県立図書館デジタルライブラリーで「金毘羅参詣名所図会」と検索すれば、すべてを閲覧できます。
②書物としては、歴史図書社 昭和55年発行  (古本屋価格5000円~)
多度津で金毘羅参詣名所図会に挿絵が載せられているのは、以下の4枚です。
①海岸寺本坊
②白方屏風ヶ浦と海岸寺奥の院
③多度津湊
④道隆寺
それでは、①の海岸寺から、絵図と意訳変換文のみを紹介していきます。 
多度津 海岸寺
海岸寺(金毘羅参詣名所図会)

海岸寺2 金毘羅参詣名所図会
海岸寺本坊
本  坊 奥ノ院の境内とは離れて別に伽藍がある
方丈客殿 庫一長・大師堂などがある。
   海岸寺奥の院 金毘羅参詣名所図会
海岸寺奥の院
海岸寺奥の院
奥 院 弘法大師の幼児尊像で、長二尺あまりの大師誕生の尊像で、大師35歳の時の自作という。
脇 壇 左右に大師の父母の木像が安置されている。
大師堂 本堂のそばにあって、正面が弘法大師の像、左右に薬師・観音を安置。これは天霧城主であった香川山城守の念持仏と云う。
浴巾掛松 大師堂の前にある松で、大師が幼稚の時に浴巾を掛けたまう松と云う。今は枯れて、雨覆いを作りって若木を植えてある。

DSC03821

雨乞寺蔵 早魃の時に雨乞いを祈念する。霊験あらたなりと云う。
DSC03827

産湯水(海岸寺奥の院)
産湯水  大師誕生の時に産湯として使った清水。眼病者が、この清水で洗えばすぐに治癒するという。
子育観音 産水の傍にある。
産盥 大師が誕生の時につかった盥だと云う。近頃、ここに納めて参観が禁止されている。五岳山善通寺は誕生院と号し、大師誕生の旧地だと云う。ところが海岸寺も誕生の古跡と主張する。どちらが本当なのか分からない。一説には大師の御父、佐伯善通は多度郡の郡司を領し、今の善通寺で生活していたが、郡港の白方にも別宅を持っていて、弘法大師はそこで生まれたという説もある。
海岸寺や仏母寺は、近世初頭から「弘法大師生誕の地・屏風ヶ浦」
を名のっていました。そらが幕末に善通寺から訴えられて、「弘法大師生誕の地」を名のることが禁止されたことは以前にお話ししました。海岸寺には、備前や安芸・石見からの修験者の先達に伴われた信者達が集団で参詣にきていたことは以前にお話ししました。どちらにしても、このふたつの寺は、もともとは修験者の寺だったようです。

DSC03862
熊手八幡宮
屏風が浦の多度津街道沿いにある。多度津から十丁程で、乾方になる。
本社  祭神応神天皇
末社  本社の傍らに数多列す。
神興合・鐘楼・随身門  額に弘法大師産の神社とある。
熊手八幡の別当寺が仏母寺でした。

多度津湛甫 33
多度津湊 
   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。
道隆寺 金毘羅参詣名所図会
       桑田(そうでん)山明王院道降寺                      

(本堂裏の道隆塚)前の標石には「道隆親王の塚」とあるが、道隆は親王ではない。道隆寺は四十三代元明天皇の時代に、和気の道隆という人物が創建したと伝えられる。

道隆寺 道隆廟
開祖道隆公(道隆寺)
道隆は景行天皇十二世の末裔で、父は那珂郡木徳の戸主和気淳茂の次男である。かつて道隆の所有する北加茂の土地に、千株の桑を植えた。これが「讃岐国の桑園」と呼ばれるものである。この桑園の中に一丈五尺の大木あった。種々な怪奇現象が起こるので、この木を伐って薬師如来を彫刻させて、小堂を作りて安置した。道隆は、日夜これを拝んだ。そして、神護二丙午年秋七月十五日午之刻、年齢99歳で亡くなった。
 その孫の朝祐が、延暦十二癸来年なって、霊魂のお告げを聞いて、弘法大師に会った際に先祖のことをかたり、例の桑の大木から作った仏を見せて、小像なので、もっと大きな仏像を造って欲しいと大師に請うた。大師は、その先祖供養の篤信に感じ入り、長二尺五寸の薬師如来を造り、今までの桑仏をその仏の胎中に納れ、永世不失の秘仏とした。
 こうして朝祐は深く仏教に帰依し、髪を剃って戒をうけ出家した。そして、家財・財宝を捨てて、住居をお堂として大師が造った木尊を安置して、大師を供養した。そして、境内四町四方を伽藍として堂塔を建立した。先祖道隆の名前を寺号とし道隆寺とした。弘仁末年朝祐人道、大師を請じて結縁灌頂が執行された。遠近の数多くの僧侶や民衆が道隆寺に集まり、市を為すほどであった。この時に寺を十余宇作って、群参した人々を入れた。

道隆寺薬師堂
道隆寺薬師堂(戦前の絵はがき)
 その後、道隆寺は学問寺として仏法繁興の区となり、弘法大師の弟である真雅僧正や、後には聖宝尊師もこの寺の住職を務めた。ところが兵火に罹り、殿堂は悉く焼失し、現在では、昔の繁栄ぶりを想像することもできない。しかし、往古の繁栄ぶりと伝える遺具や什宝は、数多く残されている。それはあまりに多いので、ここでは省略する。

DSC05233多度津賀茂神社
多度津の賀茂神社


祭神  鴨大明神を祭る。
道隆寺寺記には次のように記されている。村上天皇天暦元丁未年春二月、那珂郡真野の池(満濃池)の堤が崩壊することが数度に及んだ。そこで、興憲に詔して、地鎮と鎮守明神の遷宮を執り行わさせた。これが道降寺第七世と云われる。
義経寄附状  義経が屋島島合戦の際に、当社で祈願を受けた。翌年、戦勝祝いとして神納した寄附状である。
大般若経  武蔵坊弁慶が寄進した伝わる。右当社の什宝とし、虫千の砌拝見せしむ。
道隆寺伽藍の図の末尾に)
備中の国より此の寺に来りて、大師の忌に四国遍路の旅人に、飯菜をととのえて施しける供養にあひてはるばると吉備の中山なかなかに 高きめぐみと仰ぐもろ人            未曽志留坊
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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暗夜行路

第一世界大戦の前年の1913(大正2)年2月、志賀直哉は尾道から船で、多度津港へ上陸し、琴平・高松・屋島を旅行しています。

そのころの直哉は、父親との不仲から尾道で一人住しをしていました。30歳だった彼は、次のように記します。

『二月、長篇の草稿二百枚に達す。気分転換のため琴平、高松、屋島を旅行』

この旅行を基に書かれたのが「暗夜行路」前編の第2の4です。この中で、主人公(時任謙作)は、尾道から船で多度津にやってきます。「暗夜行路」は私小説ではありませんが、小説の主人公の讃岐路は、ほぼ事実に近いと研究者は考えています。今回は、暗夜航路に描かれた多度津を当時の写真や資料で再現してみたいと思います。
瀬戸内商船航路案内.2JPG

まず、暗夜行路に描かれている多度津の部分を見ておきましょう。
「①多度津の波止場には波が打ちつけていた。②波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。
 謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に歩いて行った。③丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。それを登って行くと、上から、その船に乗る団体の婆さん達が日和下駄を手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三四間後を先刻の商人風の男が、これも他の客から一人離れて謙作を追って急いで来た。謙作は露骨に追いつかれないようにぐんぐん歩いた。何処が停車場か分らなかったが、訊いていると其男に追いつかれそうなので、③彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。
もう其男もついて来なかった。④郵便局の前を通る時、局員の一人が暇そうな顔をして窓から首を出していた。それに訊いて、⑤直ぐ近い停車場へ行った。
 ⑥停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、⑦普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」
多度津について触れているのは、これだけです。この記述に基づいて桟橋から駅までの当時の光景(文中番号①~⑦)を、見ていくことにします。
DSC03831
多度津港出帆案内(1955年) 鞆・尾道への定期便もある

①多度津の波止場には波が打ちつけていた。
前回に見たように、明治の多度津は大阪商船の定期船がいくつも寄港していました。多度津は高松をしのぐ「四国の玄関」的な港でした。多度津港にいけば「船はどこにもでている」とまで云われたようです。中世塩飽の廻船の伝統を受け継ぐ港とも云えるかも知れません。
 
 瀬戸内海航路図2
瀬戸内商船の航路図(予讃線・山陽線開通後)
多度津港は尾道や福山・鞆など備後や安芸の港とも、定期船で結ばれていました。当時、尾道で生活していた志賀直哉は、精神的にも落ち込むことが多かったようで、気分転換に多度津行きの定期船に飛び乗ったとしておきましょう。

尾道港
尾道港(昭和初期)
 尾道からの定期船は、どんな船だったのでしょうか?

1920年 多度津桟橋の尾道航路船
 1920(大正8)年に多度津駅内の売店で売られていた絵はがきです。多度津桟橋に停泊する二艘の客船が写されています。前側の船をよく見ると「をのみち丸」と船名が見えます。こんな船で、志賀直哉は多度津にやってきたようです。

 多度津の波止場は、日露戦争後に改修されたばかりでした。
天保時代に作られた多度津湛甫の外側に外港を造って、そこに桟橋を延ばして、大型船も横付けできるようになっていました。平面図と写真で、当時の多度津港を見ておきましょう。
1911年多度津港
明治末に改修された多度津 旧湛甫の外側に外港を設け桟橋設置

暗夜行路には「②波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。」と記します。

1911年多度津港 新港工事
外港の工事中写真 旧湛甫には和船が数多く停泊している

 旅客船が汽船化するのは明治初期ですが、瀬戸内海では小型貨物船は大正になっても和船が根強く活躍していたことは以前にお話ししました。第一次大戦前年になっても、多度津港には和船が数多く停泊していたことが裏付けられます。

1920年 多度津港
多度津港(1920年頃 東浜の埋立地に家が建っている)
 1920(大正8)年に多度津駅内の売店で売られていた絵はがきです。
暗夜行路③「丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。」

多度津外港の桟橋2
多度津外港の浮き桟橋 引き潮時には、堤防には急な坂となる
浮き桟橋から一文字堤防への坂を登って、東突堤の付け根から東浜の桜川沿いの道を急ぎ足であるいて、郵便局までやってきます。

多度津港 グーグル
現在の旧桟橋と旧多度津駅周辺

郵便局は商工会議所の隣に、現在地もあります。このあたりは、ずらりと旅館が軒を並べて客を引いていたようです。
多度津在郷風土記
「在郷風土記 鎌田茂市著」には、次のように記します。
 大玄関には、何々講中御指定宿などと書いた大きい金看板が何枚も吊してあり、入口には長さ2m・胴回り3mにも及ぶ大提灯がつるされ、それに、筆太く、「阿ハ亀」「なさひや」など宿屋名が書かれてあった。
 団体客などの時は莚をしいて道の方まで下駄や、ぞうりを並べてあるのを見たことがある。夕やみのせまって来る頃になると、大阪商船の赤帽が、哀調を帯びた声で「大阪・神戸、行きますエー」と言い乍ら、町筋を歩いたものである。
 また、こんな話を古老から聞いたことがある。多度津の旅館全部ではないだろうが、泊り客に、この出帆案内のふれ込みが来てから、急いで熱々の料理を出す。客は心せくのと、何しろ熱々の料理で手がつけられないので、食べずに出てしまう。後は丸もうけとなる仕組みだとか。ウソかほんとかは知らない。
 主人公は、並ぶ旅館街で郵便局の窓から顔を出していた閑そうな局員に道を尋ねています。どんな道順を教えたのかが私には気になる所です。郵便局から少し北に進むと、高松信用金庫の支店が建っています。ここには、多度津で最も名の知れた料亭旅館「花菱(びし)がありました。

花びし2
多度津駅前の「旅館回送業花菱(はなびし)

多度津に船でやって来た上客は、この旅館を利用したようです。花菱の向こうに見える2階建ての洋館が初代の多度津駅です。花菱と多度津駅の間は、どうなっていたのでしょうか?

花びし 桜川側裏口
多度津の旅館・花菱の裏側 桜川に渡船が係留されている
多度津駅側から見た花菱です。宿の前には立派な木造船(渡船)が舫われています。駅前の一等地に建つ旅館だったことがうかがえます。

多度津駅 渡船
初代多度津駅前の桜川と日露戦争出征兵士を載せた渡船(明治37年 

渡船には、兵士達がびっしりと座って乗船しています。外港ができる以前は、大型船は着岸できなかったので、多度津駅についた11師団の兵士達は、ここで渡船に乗り換えて、沖に停泊する輸送船に乗り移ったようです。「一太郎やーい」に登場する兵士達も、こんな渡船に乗って、戦場に向かったのかも知れません。

明治の多度津地図
1889年 開業当時の多度津駅周辺地図(外港はない)

 志賀直哉は、花菱の前を通って、金毘羅橋(こんぴらばし)を渡って多度津駅にやってきたようです。当時の多度津駅を見ておきましょう。
DSC00296多度津駅
初代多度津駅
初代の多度津駅は、1889年5月に琴平ー丸亀路線の開業時に建てられた洋風2階建ての建物でした。
初代多度津駅平面図
初代多度津駅平面図(右1階・左2階)
1階が駅、2階は讃岐鉄道の本社として利用されます。

P1240958初代多度津駅

P1240953 初代多度津駅
初代多度津駅復元模型(多度津町立資料館)
ここから丸亀・琴平に向けて列車が出発していきました。そして、ある意味では終着駅でもありました。
多度津駅 明治の
明治22年地図 多度津が終着駅 予讃線はまだない

P1240910 初代多度津駅

DSC00303多度津駅構内 明治30年
初代多度津駅のホーム
 志賀直哉が多度津にやって来たのは、大正2年(1913)2月でした。
この年の12月には、初代多度津駅は観音寺までの開通に伴い現在地に移転します。したがって、志賀直哉が見た当時の多度津駅は、移転直前の旧多度津駅だということになります。初代度津駅は浜多度津駅と改称され、その後に敷地は国鉄四国病院用地となり、さらに現在の町民会館(サクラート)となっています。

暗夜行路の多度津駅の部分を、もう一度見ておきましょう。
⑥停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、⑦普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」

⑥からは1Fの待合室には、ストーブが盛んに燃やされていたことが分かります。「⑦普通より少し小さい汽車」というのは、讃岐鉄道の客車は「マッチ箱」と呼ばれたように、小さかったこと、機関車も、ドイツでは構内作業用に使われていた小形車が輸入されたことは以前にお話ししました。それが、国有化後も使用されていたようです。

讃岐鉄道の貴賓車
        讃岐鉄道の貴賓車
暗夜行路に登場する多度津は、尾道から金毘羅に参詣にするための乗り換え港と駅しか出てきません。しかし、そこに登場する施設は、日本が明治維新後の近代化の中で到達したひとつの位置を示しているようにも思えました。

JR多度津工場
初代多度津跡のJR多度津工場

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
ちらし寿司さんHP
https://www5b.biglobe.ne.jp/~t-kamada/
https://tkamada.web.fc2.com/
大変参考になりました。
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DSC03831

約70年前(1955年)の多度津港の「出帆御案内」の時刻表です。
ここには、関西汽船と尼崎汽船の行先と出帆時刻・船名が次のように掲げられています。
①志々島・粟島  つばめ丸
②六島(備後)  光栄丸
③笠岡          三洋丸
④福山 大徳丸
⑤鞆・尾道 大長丸
⑦大阪・神戸   明石丸
⑧神戸・大阪   あかね丸
尼崎汽船は3便で
⑨笠岡      きよしま丸
⑩福山 はつしま丸
⑪瀬戸田 やまと丸(随時運航)

1955年の多度津港は、東は神戸・大阪、西は福山・鞆・尾道・瀬戸田まで航路が延びて、定期船が通っていたことが分かります。現在の三原港(広島県)や今治港(愛媛)のように、いくつも航路で瀬戸の港と結ばれていた時代があったようです。そんな時代の多度津港を今回は見ていくことにします。テキストは「多度津町誌629P  明治から大正の海運」です。
 まず幕末から明治にかけての瀬戸内海海運の動きを見ていくことにします。
 徳川幕府は、寛永12年(1625)以来、海外渡航用の大型船の建造を禁止していました。しかし幕末の相次ぐ外国船の来航に刺激されて、嘉永6年(1853)9月、大船建造の禁令を解きます。そして、各藩に対して大型船建造を奨励するとともに、外国より汽船を購入することを奨励するようになります。毛利藩が若い高杉晋作に上海へ艦船購入に行かせるのも、坂本竜馬が汽船を手に入れて、「海援隊」を組織するのも、こんな時代の背景があるようです。
 その結果、明治元年(1868)には、洋式船舶の保有数は次のようになっていました。
幕府44艘、各藩94艘、合計138艘、 1万7000トン余り

 明治維新政府にとっても商船隊の整備充実は重要政策でした。そこで、次のような措置をとります。
明治2年(1869)10月、太政官布告で個人の西洋型船舶の製造・所有を許可
明治3年(1870)1月 商船規則を公布して西洋型船舶所有者に対して特別保護を付与
1870年 築地波止場前を行く汽船
        築地波止場前を行く汽船(1870年)

このような汽船促進策の結果、明治4年3月までには、大阪だけで外国人から購入した船舶は16隻に達します。買入主は、徳島藩、広島藩、熊本藩、高知藩などの7藩、民間では大阪商人や阿波商人、土佐佐藩士岩崎弥太郎の九十九商会など数名です。これらの船は、各藩と大阪の間を往復して米穀その他の国産物を運ぶようになります。

瀬戸内海航路の汽船 1871年
瀬戸内海航路の汽船(1871年) 
こうして、大阪を起点として、各藩主導で次のような定期航路が開かれます。
大阪~徳島間
大阪~和歌山間
大阪~岡山間
大阪~多度津間
大阪~長崎間
旧高松藩主松平家も、讃岐~大阪間に金比羅丸を就航させています。
金刀比羅丸は、慶応4年ごろに高松藩が大阪藩邸の田中庄八郎に命じて神戸港で建造し、玉吉丸と命名した貨客船です。暗車(スクリュー)推進の蒸気船で、2本マストのスクーナー型で帆装し、40馬力でした。それが明治4年の廃藩置県で、香川県に引き継がれ、旧藩主の松平頼聡他2名に払い下げられます。それを金刀比羅丸と改称し、取り扱い方を田中庄八に委嘱し、大阪~神戸~高松~多度津間の航海を始めたようです。

品川沖の東京丸(三菱商船)1874年
1874年 品川沖の東京丸(三菱商会)

 この頃に、多度津では宮崎平治郎が汽船取り扱い業を開業します。そして凌波丸(木製、81屯)を購入して、大阪から岡山・高松を経て多度津に寄港し、更に鞆・尾道にまで航路を延ばしていました。その2、3年後には、大阪の川口屋清右衛門、神戸の安藤嘉左衛門と田中庄八の3人は共同して三港社を創立し、大阪の宗像市郎所有の太陽丸(木製、67トン)と飛燕丸で阪神・多度津間を定期航海を行うようになります。
 ここでは、明治初期には旧藩の所有船が民間に払い下げられて、大坂航路に投入され、瀬戸内海の各港と畿内を結ぶ航路が開けたことを押さえておきます。

横浜発の汽船 三菱商会
1875年 横浜発の汽船(三菱商会)
瀬戸内海を行き交う蒸気汽船が急増したのは、明治10年(1877)の西南の役前後からでした。
この内乱は、兵員や他の物資の輸送で海運業界に異常な好景気をもたらします。そして、次のような船会社が設立されます。
岡山の偕行会社
広島の広凌会社
丸亀の玉藻会社
淡路の淡路汽船
和歌山の明光会社、共立会社
徳島の太陽会社
この時期に新たに就航した汽船は110余隻、船主も70余名に達します。この機運の中で多度津港にも、寄港する汽船の数が急増します。明治14年ごろの大阪港からの定期船の出船状況を、まとめたものが多度津町史632Pに載せられています。

1881年 大阪発出船の寄港地一覧1
1981年 大阪出港の汽船の寄港地一覧表
ここからは次のようなことが分かります。
①大坂航路に就航していた汽船のほとんどが、多度津に寄港後に西に向かっている。
②岡山・高松よりもはるかに多度津に寄港する船の方が多かった。
③多度津には、毎日3便程度の瀬戸内海航路の汽船が寄港している
   山陽鉄道が広島まで伸びるのは、日清戦争の直前でした。
明治10年代には、瀬戸内海沿岸は鉄道で結ばれていなかったので汽船が主役でした。その中で多度津は「四国の玄関」として多くの汽船が寄港していたこと押さえておきます。
明治十年代の多度津港について『明治前期産業発達史資料』第3集 開拓使篇西南諸港報告書(明治14年)は、次のように記します。
多度津港
愛媛県下讃岐国多度郡多度津港ハ海底粘上ニシテ船舶外而水入ノ垢フ焚除スルニ使ニシテ毎年春2月ヨリ8月ニ至ルマデノ間タデ船ノ停泊スルモノ最多ク謂ハユル日本船ノドツクトモ称スベキ港ナリ又小汽船は毎月2百餘隻ノ出入アリ又冬節西風烈シキ時ハ小船ハ甚困難ノ処アリ港中深浅等ハ別紙略図ニ詳ナリ
戸数本年1月1日ノ調査千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人 北海道ヨリハ鯡〆粕昆布数ノ子ノ類フ輸入シ昆布数ノ子ハ本国丸亀多度津琴平等2転売ス鯡〆粕ハ本国那珂多度三野豊田部等へ転売ス。
 物産問屋3拾9軒 問屋ハ輸入ノ物品フ預り仲買ヲシテ売捌カシムルノ習慣ナリ。 定繋出入ノ船舶3百石以下5拾5艘アリ 北海道渡航3百石以上2艘アリ(中略)
地方著名産物1ケ年輸出ノ概略ハ砂糖凡8万4千5百斤 代価凡5万7千7百5拾式円5拾銭。綿凡式万目 代価凡1万円ニシテ砂糖ハ北海道又ハ大阪へ売捌 綿ハ北海道又西海道へ輸出ス
近傍農家肥料ハ近来鯡〆粕ノ類多ク地味2適セシヤ之フ用フレバ土質追々膏艘(こうゆ)ニ変シ作物生立宜ク随テ収獲多シ

  意訳変換しておくと
多度津港
愛媛県(当時は香川県はなかった)多度郡の多度津港は、海底が粘土で船に入った垢を焚除するために、毎年春2月から8月まで、「タデ船」のために停泊する船が数多い。そのため「日本船のドック」とも呼ばれる港である。小汽船の入港数は、毎月200隻前後である。ただ、冬の北西季節風が強い時には、小船の停泊は厳しい。港の深度などは別紙略図の通りである。
 多度津の本年1月1日調査によると、戸数千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人
 北海道からは、鯡・〆粕・昆布・数ノ子などが運び込まれ、この内の昆布・数ノ子は、丸亀・多度津・琴平などに転売し、鯡〆粕は、那珂多度郡や三野豊田郡など周辺の農村に転売する。物産問屋は39軒 問屋は、搬入された物品を預り、仲買をして売捌くことが生業となっている。
  出入する船舶で、3百石以上の船が55艘、北海道に渡航する300以上が2艘ある(中略)
特産品としては、砂糖が約84500斤 代価凡57752円、綿約2万目 代価凡1万円。砂糖は北海道か大阪へ、綿は北海道や西海道へ販売する。近来、周辺の農家は、肥料として鯡・〆粕を多く使用するようになったので、地味は肥えて作物の生育に適した土壌となっている。
ここからは次のようなことが分かります。
①船のタデや垢抜きのために、多度津港に寄港する船が多く、「和船のドック」とも呼ばれている。以前に金毘羅参詣名所図会の多度津港の絵図には、船タデの絵が載せられていることを紹介しました。明治になっても、多度津港は「和船のドック」機能を継続して維持していたことが分かります。
②北海道からの数の子や昆布、鯡〆粕が北前船で依然として運び込まれていること
③それを後背地の農村や、都市部の金毘羅・丸亀などに転売する問屋業が盛んであること
④特産品として、砂糖や綿が積み出されていること

西南戦争を契機に、旅客船の数が急速に増えたことを先ほど見ました。
1993年 三菱と共同運輸の競争
1883年 三菱と共同運輸の競争を描いた風刺画
 汽船や航路の急速な増加は、運賃値下げ競争や無理なスピード競争での客の奪い合いを引き起こします。そのため海運業界には不当競争や紛争が絶えず、各船主の経営難は次第に深刻化していきます。
この打開策として打ちだされたのが「企業合同による汽船会社統合案」です。
 明治17年5月1日、住友家の総代理人広瀬宰平を社長として、50名の船主から提供された92隻の汽船を所有する大阪商船会社が設立されます。この日、伊万里行き「豊浦丸」、細島行き「佐伯丸」、広島行き「太勢丸」、尾道行き「盛行丸」、坂越行き「兵庫丸」の木造汽船5隻が大阪を出港します。
大阪商船
         大阪商船会社のトレードマーク
その船の煙突には、大阪商船会社のトレードマークとなる「大」の白字のマークが書き込まれていました。
 大阪商船の開業当時の航路は、大阪から瀬戸内海沿岸を経て山陽・四国・九州や和歌山への18航路でした。

大阪商船-瀬戸内海附近-航路図
大阪商船の航路
このうち香川県の寄港地は小豆島・高松・丸亀・多度津の4港です。その中でも多度津港は9本線と1支線の船が寄港しています。高松・丸亀・小豆島が2本線の船だけの寄港だったのに比べると、多度津港の重要性が分かります。この時期まで、多度津は幕末以来の「四国の玄関港」の地位を保ち続けています。

希少 美品 大正9年頃(1920年) 今無き海運会社 大阪商船株式会社監修 世界の公園『瀬戸内海地図』和楽路屋発行 16折り航路図  横120cm|PayPayフリマ
大阪商船航路図(大正8年)讃岐の寄港
 旅客輸送の船は、明治20年前後からはほとんどが汽船時代に入ります。
しかし、貨物輸送では、明治後期まで帆船が数多く活躍していたことは、以前にお話ししました。明治になっても、江戸時代から続く北前船(帆船)が日本海沿岸や北海道との交易に従事し、多度津港にも出入りしていたのです。
 たとえば北陸出身の大阪の回船問屋西村忠兵衛の船は、明治5年2月25日、大阪から北海道へ北前交易に出港します。出港時の積荷は、以下の通りです
酒4斗入り160挺。2斗入り55挺
木綿6箱
他に予約の注文品瀬戸物16箱・杉箸2箱
2月28日兵庫津(神戸)着 3月1日出帆
3月3日 多度津着 
多度津で積荷の酒4斗入りを102挺売り、塩4斗8升入り1800俵と白砂糖15挺を買って積み入れ、8日出帆
ところが3月21日長州福浦を出港後間もなく悪天候のため座礁、遭難。(西村通男著「海商3代」)
ここからは、明治に半ばになっても和船での北前交易は行われており、多度津に立ち寄って、塩や砂糖を手に入れていることが分かります。ところが、日本海に出る前に座礁しています。伝統的な大和型帆船は、西洋型船のような水密甲板がなく、海難に対して弱かったようです。そのため政府は、西洋型船の採用を奨励します。その結果、明治十年代には西洋型帆船が導入されるようになりますが、大和型帆船は、伝統的な航海技術と建造コストが安かったので、しぶとく生き残っていきます。そこで政府は、明治18年からの大和型500石以上の船の製造禁止を通達します。禁止前年の明治17年には、肋骨構造などで西洋型の長所を採用しながら外見は大和型のような「合の子船」とよばれる帆船が数多く造られたようです。大正初めまで、和船は貨物輸送のために活躍し、多度津港にも入港していたことを押さえておきます。ここでは明治になってすぐに帆船が姿を消したわけではないこと、
  明治20(1887)年ごろより資本主義的飛躍が始まると、海運業も大いに活気を呈するようになります。
京極藩士冨井泰蔵の日記「富井泰蔵覚帳」には、次のように記されています。
「今暁、船笛(フルイト)高く狼吠の如き、筑後川、木曽川、錦川丸の出港なり。本日三度振りなり。近村の者皆驚く」

 ここに出てくる筑後川丸(鋼製、694屯)、木曽川丸(鋼製、685屯)、錦川丸(木製、310トン)は、大阪商船の定期船です。そのトン数を見ると、700屯クラスの定期船で、明治初めから比べると、4倍に大型化し、木製から鋼製に変わっています。
 明治27年の大阪商船航路乗客運賃表によると、大阪ー多度津間の運賃は、次の通りです。
下等が95銭
中等が1円
上等は1円5銭
別室上等は2円
明治30年10月発行の「大日本繁昌記懐中便覧」には、当時の多度津の様子を次のように記されています。

多度津ハ(中略)、港内深ク,テ汽船停泊ノ順ル要津ナレバ水陸運輸ノ使ナルコー県下第1トナス。亦夕金刀比羅官ニ詣ズル旅客輩ニ上陸スベキ至艇ノ地ナレバ汽船′出入頻はなシテ常ニ煤煙空ヲ蔽ヒ汽笛埠頭ニ響キ実ニ繁栄の一要港卜云フベラ」

意訳変換しておくと
多度津は、港内の水深が深く、汽船の停泊に適した拠点港なので、水陸運輸の使用者は県下第1の港である。また金刀比羅宮へ参拝する旅客にとっては、上陸に適した港なので汽船出入は多く、常に汽船のあげる煤煙が空をおおい、汽笛が埠頭に響く。これも繁栄の証というべきである。

この他にも、香川県下の汽船問屋・和船問屋の数は、高松に8軒、坂出に1軒、小豆島に11軒、丸亀4軒で、多度津は25軒だったことも記されています。

山陽鉄道全線開通
山陽鉄道全線海開通
明治24年に山陽鉄道の姫路・岡山間が開通し、更に同34年には下関まで延長開通します。 
 それまで西日本の乗客輸送の主役だった旅客船は、これを契機に次第に鉄道にとって代わられていきます。それを年表化してみると
1895(明治28)年  山陽鉄道と讃岐鉄道の接続のために、大阪商船は玉島・多度津間に定期航路開設
1896(明治29)年 善通寺に第11師団が設置。2月に丸亀~高松間が延長開通。
1902年 大阪商船が岡山・高松間にも航路開設
1903年 岡山・高松航路を山陽汽船会社が引き継ぎ、玉藻丸を就航。同時に尾道・多度津間にも連絡船児島丸を就航。
1906年 鉄道国有化で航路も国鉄へ移管。
      尾道・多度津鉄道連絡船は東豫汽船が運航。
1910年 宇野線開通によって宇野・高松間に宇高鉄道連絡航路が開設

ここからは大阪商船が鉄道網整備にそなえて、鉄道連絡船を各航路に就航させ、それが最終的には国鉄に移管されていったことが分かります。
高松港築港(明治36年)
高松築港旅客待合所(明治36年頃)
このような動きを、事前に捕らえて着々と未來への投資を行っていたのが高松市です。
高松は、日露戦争前後から、大正時代にかけて数次にわたり港の改修、整備に努めます。その結果、出入港船が増加し、宇高鉄道連絡船による岡山経由の旅宮も呼び込むことに成功します。こうして金毘羅参拝客も、岡山から宇野線と宇高連絡船を利用して高松に入ってくるようになります。
高松港 宇高連絡船 初入港(明治43年)
明治43年 宇高航路の初航海で入港する玉藻丸

高松・多度津港の入港船舶数の推移からは、次のようなことが分かります。
多度津・高松港 入港船舶数推移

①高松港入港の船舶数は、大正時代になって約7倍に急増している
②それに対して、多度津港の入港船舶数は、減少傾向にある。
③乗船人数は明治14年には、高松と多度津はほぼ同じであったのが、大正14年には、高松は6倍に増加している。
④貨物取扱量も、大正14には高松は多度津の約8倍になっている。

四国でも鉄道網は、着々と伸びていきます。
昭和 2年に、予讃線が松山まで開通
昭和10年までには高徳線は徳島まで、予讃線は伊予大洲まで、土讃線は高知須崎まで開通.
宇高連絡航路には貨車航送船が就航。
こうして整備された鉄道は、旅客船から常客を奪って行きます。これに対して、大阪商船は瀬戸内海から遠洋航路に経営の重点を移していき、内海航路の譲渡や整理を行います。しかし、そんな中でも有望な航路には新設や、新造船投入を行っています。
昭和3年12月新設された瀬戸内海航路のひとつが、大阪・多度津線です。
大信丸 (1309トン)と大智丸(1280トン)の大型姉妹船が投入されます。この両船は昭和14年に、日中戦争の激化で中国方面に転用されるまで多度津港と大阪を結んでいました。
 昭和10年ごろの多度津港への寄港状況は、次のように記されています。
大阪商船                                          
①大阪・多度津線
(大阪・神戸・高松・坂出・多度津)に、大信丸と大智丸の2隻で毎日1航海。
②大阪・山陽線
 大阪・神戸・坂手・高松・多度津・柄・尾道・糸崎。忠海・竹原・広・音戸・呉。広島・岩国。柳井・室津・三田尻・宇部・関門に、早輌丸・音戸丸・三原丸のディーゼル客船の第1便と、尼崎汽船の協定船による第2便があり、それぞれ毎月十数回航海。
③大阪と大分線
大阪・神戸・高松・多度津・今治・三津浜・長浜・佐賀関・別府が毎日1便寄港.

瀬戸内海航路図2
瀬戸内商の船航路図

この他に、瀬戸内商船が多度津・尾道鉄道連絡船を毎日4便運航していました。 しかし、花形航路である別府航路の豪華客船は高松に寄港しましたが、多度津港には寄港しません。また、昭和初期から整備に努めてきた丸亀・坂出の両港が、物流拠点として産業港に発展していきます。その結果、多度津港の相対的な地盤沈下は続きます。
 最初に見た多度津港の「出帆御案内」の航路も、戦前のこの時期の
航路を引き継いだもののようです。

DSC03831

 日中戦争が長期化し、戦時体制が強化されるにつれて船舶・燃料不足から各定期航路も減便されます。
その一方で、旅客、貨物量は減少せず、食糧や軍需物資の荷動きは、むしろ増加します。特に、大平洋戦争開戦前の昭和15年度は、港湾の利用度が飛躍的に増加し、乗降客が56万を突破し、入港船舶は2万5000余隻と戦前の最高を記録しています。これは善通寺師団の外港としての多度津港が、出征将兵や軍需物資の輸送に最大限に利用されたためと研究者は指摘します。

瀬戸内商船航路案内.2JPG

 戦時下の昭和17年2月になると、燃料油不足と効率的な物資輸送確保のために、海運界は国家管下に置かれるようになります。内海航路でも「国策」として、船会社や航路の統合整理が強力に進められます。その結果、大阪商船を主体に摂陽商船・阿波国共同汽船・宇和島運輸・土佐商船・尼崎汽船・住友鉱業の7社の共同出資により関西汽船株式会社が設立されます。

Kansailine


こうして尾道・多度津鉄道連絡航路を運行してきた瀬戸内商船も、関西汽船に委託されます。そして、昭和20年6月に多度津―笠岡以西の瀬戸内海西部を運航する旅客船業者7社が統合されて「瀬戸内海汽船株式会社」が設立されます。尾道、多度津鉄道連絡船は、この会社によって運航されるようになります。

 戦争末期になると瀬戸内海に多数投下された機雷のため、定期航路は休航同然の状態となります。
その上、土佐沖の米軍空母から飛び立ったグラマンが襲来し、航行する船や漁船にまで機銃掃射を加えてきます。こうして関西汽船の大阪~多度津航路も昭和20年6月5日以降は運航休止となります。多度津港を出入りするのは、高見~佐柳~栗島などの周辺の島々をつなぐ船だけで、それも機雷と空襲の危険をおかして運航です。ちなみに、この年には乗降客は7万9000余名、入港船舶は5000余隻に激減しています。しかもこの入港船舶のほとんどは軍用船や空襲避難のために入港した船で、定期船はわずか524隻です。それも周辺の島通いの小型船だけでした。関西汽船などの大型定期船はすべて休航し、港はさびれたままで8月15日の敗戦を迎えたようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌629P  明治から大正の海運」

 今回は湛甫完成後の多度津の繁栄ぶりを見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」です。
 北前船航路図

①北前船は春2月ごろ、大坂で諸雑貨・砂糖・清酒などを買い積み出港
②瀬戸内海の港々を巡りながら、塩荷などを買い込みながら下関に集結。
③冬の最後の季節風を利用して、日本海沿岸の諸港に寄港し、荷の積み下ろし(売買)をしながら北海道へ向かう。
④北海道で海産物を買積み、8月上旬ごろに北海道を出発して夏の南東風の季節風をはらんで一気に下関まで帆走
⑤手に入れた商品を、どの港で売るかを状況判断をしながら、荷を神戸・大坂方面へ持ち帰る。
このように北前船は、荷の輸送とともに商いをも兼ねた船でした。

鰊漁粕焚き
鯡(にしん)粕焚き

北前船で特に利益があったのは、北海道の鯡〆粕・昆布でした。
北前船の活躍が活発化したのを受けて、丸亀藩や多度津藩は新しい湛甫築造をおこなったことになります。多度津湛甫の完成は、天保9年(1838)年のことです
19世紀半ばになると、 讃岐三白といわれた砂糖・綿・塩なども北前船の取扱商品になっていきます。
讃岐三白を求めて多度津の港に寄港する舟も増えます。丸亀や多度津の湛甫構築も、金毘羅参拝客の誘致以外に、商品経済の受入口として港湾整備するというねらいが廻船問屋たちにはあったことを押さえておきます。
  多度津の回船問屋かつまや(森家)に残る史料を見ておきましょう。
「清鳳扇」と題する海路図は、まず見開きに「針筋早見略」があって津軽半島から北海道の松前半島への次のような針路が説明されています。
本州北端の津軽半島、小泊港より鯵ケ沢、男鹿半島、飛島、栗島、佐渡沢崎、能登塩津、平(舶)倉島、七ツ島、福浦、隠岐、三保ケ関、 笠浦、 宇竜三崎、 湯津、 浜田、津島

それと日本海を南下する針路が示されています。この海路図は、安政五年(1858)のもので、かつまやの盛徳丸が使っていたものです。また、次のような21反帆の千石船仁政丸の往来手形もあります。
 反帆船仁政丸、沖船頭森徳三郎、水夫十人、右は私方持船で乗組一統は宗旨万端改め済みで相違ありません。津々の関所はつつがなくお通しドさい。
元治元年六月 大阪 綿屋平兵衛
これらの北前船は、松前島(北海道)の海産物を多度津に運び、その見返り品として洒、衣料、雑貨の輸送にあたっていたことが分かります。森家には「松前落御家中家名並列席の記」や「箱館港出船許可書」などが保存されています。ここからは、廻船問屋森家の船が北前船として、幕末に蝦夷との交易を行っていたことが分かります。

多度津廻船船の積み荷と水揚げ場
船の積み荷と水揚げ場、積み入れ場などを記載した資料

石州浜田港(島根県浜田市)回船問屋但馬屋の「諸国御客船帳」には、次のように記されています。
幕末から明治に初期にかけて、記載されている讃岐廻船は307艘。その内、多度津の船は8艘。東讃では三本松や津田浦の船が多く、西讃では栗島や浜村浦の船が多く寄港。浜田での讃岐船の売買積荷商品は、
①揚げ荷(売却商品)は 讃岐特産物の「大白・大蜜・焚込」の砂糖と塩、それに繰綿が若千
②積荷商品(買上商品)は、塩鯖・鯖・平子干鰯・扱芋・鉄・半紙などの石見の特産物


多度津 廻船問屋塩田屋土蔵
「塩田家(煙草屋)」の土蔵
北前船で財を成した廻船問屋としては、多度津七福神のひとつである「塩田家(煙草屋)」が有名です。塩田家には北前船の積み荷を集積するために使用した土蔵が今でも残されています。

魚肥料

江戸末期になると、綿花などの栽培に、農家は大量の魚肥(金肥)を使うようになります。
最初は、瀬戸内海の千鰯が中心でしたが、北前船の出入りで、羽鰊・鯡〆粕などが手に入るようになると、魚肥の需要はさらに高まります。多度津には干鰯問屋が軒を並べ、倉庫が甍を競うようになり、丸亀港をしのぐようになります。こうして多度津の問屋はヒンターランドの多度郡や那珂郡の庄屋や富農と取引を活発に行い繁盛します。

江戸時代後期の多度津の様子について、柚木学「讃岐の廻船と船持ちたち」(多度津文化財16号 1973年)は、次のように記します。
「廻船問屋には、かつまやを始め米尾七右衛門・蛭子辱伊兵衛・竹景平兵衛などがあり、またよろず問屋・千鰯問屋中には、油屋佐右衛門・松尾屋清蔵・島屋係兵衛・煙草屋仙治・柳屋次郎七・茶屋儀兵衛・浜蔵屋四郎兵衛・尾道屋豊蔵・伏見屋一場太郎・同山屋武兵衛・松島躍惣兵衛・大黒膵調兵衛など七十余軒」

 また多度津町誌270Pには、角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋にあった多度津問屋中のメンバーを、次のように挙げています。
油屋佐右衛門・中屋佐七・松嶋屋惣兵衛・煙草屋仙治・戎屋祖右衛門・嶋屋徳次郎・尾道屋豊蔵・湊屋義之助・木屋槌蔵・舛屋仙古・柴屋文右衛門・神原治郎七(柳屋)・金屋源蔵・工屋榮五郎・阿波屋甚七・海老屋与助・油屋平蔵・松尾屋久兵衛・竹屋清兵衛・北屋辰適蔵・伊予屋五右衛門・古手屋佐平・柳屋常次郎・入江屋喜平・茶屋儀兵衛・伊予屋伴蔵・尾道屋彦太郎・茶屋七右衛門・三井屋弁次郎・中屋民蔵。備前屋伝五郎・菊屋治郎兵衛・嶋屋治助・工屋伝右衛門・伏見有屋吉蔵・松尾屋清蔵・輌屋半蔵・麦屋芳蔵。大津屋善治郎・松崎屋排治・唐津屋長兵衛・井筒屋和平・舛屋久右衛門・木屋万蔵・播磨屋和古。塩飽屋弥平・岡山屋武兵衛・出雲屋長兵衛・伏見屋嘉太郎・播磨屋岩右衛門・中村屋紋蔵。塩飽屋岩吉・松島屋新七・竹嶋屋槌蔵

多度津 本町
多度津の町割り

角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋に70軒余りの問屋が立ち並ぶようになります。こうして多度津の街並みは、金毘羅街道沿いに南へと伸びていきます。

多度津の街並み
多度津本通りの街並み

これらの多度津の問屋中(仲間)の名前は、当時造られたのモニュメントにも残されています。
 弘化二(1845)年に落成した金刀比羅宮の旭社(当時金堂)の建立寄進帳に、多度津魚方中(926匁)と並んで「金二十一両寄進多度津問屋中」と名を連ねています。慶応二年(1866)藩主主京極高琢寄進の石灯籠一対の裏手石垣を奉納しています。

04多度津七福神


北前船の活躍した時代は、江戸時代後半から明治中期まででした。
明治に入ると西洋型帆船、明治中期以後になると汽船が参入するようになります。しかし、北前船を駆逐したのは鉄道でした。鉄道の全国整備が進むにつれて、北前船は姿を消して行きます。しかし、海運で蓄積した富を、鉄道や水力・銀行設立などの近代化に投資していくことによって、多度津は近代化の先頭に立つのです。
今回は、ここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」
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金毘羅参詣名所図会
暁鐘成(あかつきかねなる)の「金毘羅参詣名所図会」弘化4(1847)

以前に幕末の「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854))の出版までの経緯をみました。今回は、それよりも少し早く刊行された「金毘羅参詣名所図会」を見ていくことにします。  テキストは「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要」です。

 『金毘羅参詣名所図会』の出版は、弘化4(1847)年です。
作者の暁鐘成は、幕末の大坂の出版界では最も人気のある戯作者で、浮世絵絵師でもあったようです。その出版分野は、啓蒙書、名所図会、洒落本、読本、有職故実、随筆、狂歌など広範囲で、博覧強記ぶりが知られます。彼が40歳という脂ののりきった時に、取り組んだのが「金毘羅参詣名所図会」ということになります。これは、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。その序文には、次のように記します。

今年後の皐月のはじめなりけん、たまもよし狭貫なる象頭山にまうで、みな月の末までかの国わたりにあそび、名くはしき海山けしきあるところどころ、あるは神廟・仏室のたぐひ、あるは宮闕のあと、古戦場など、人のまうでとはんかぎり、玉鉾の道をつくし、夏草のつゆもらさず、その真景を画にうつさせ、かつ古歌・旧記および土人の口碑も正しきは摘みとり、すべてことのさまつばらにかきのせ六巻となし、金毘羅参詣名所図会と号く。(中略)
弘化三とせの長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
  意訳変換しておくと
今年の5月始めに、讃岐の象頭山金毘羅山に詣で、6月末まで讃岐国中を巡った。名所と云われる海山や神廟・仏室の類い、あるいは古戦場などまで、人の行きそうな所のかぎりまで、夏草の梅雨まで、その景色を絵に写させた。また、古歌・旧記や現地の碑文なども正しく読取り、すべてのことを子細に載せて六巻にまとめ、金毘羅参詣名所図会と名付けた。(中略)
弘化三年長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
ここからは、次のようなことが分かります。
①暁鐘成は弘化3(1846)年の閏5 月から6 月末までの2ヶ月間、画家の浦川公佐を連れて讃岐国を訪れて現地調査をおこなったこと。
②名のある海や山などの景勝地、神社仏閣、宮城跡、古戦場を名所として取材した。
③古歌や古典籍類の記述や、土地の人の話・伝承なども正しいものは記載した
 現地調査を行った旧暦6月は、現在の7月にあたり、猛暑に苦しめながらの取材旅行だったようです。現地踏査と絵師の絵をまとめて、出版に漕ぎつけたのが翌年の春になります。その第一巻冒頭に、次のように記します。
①「円亀の津に渡るハ多くハ詣人浪華より船にて下向なすにより先船中より眺望の名所を粗出せり」
②「摂播の海辺ハ先板に詳なれバ、是を省き備前の海浜より著すなり」
意訳変換しておくと
①「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
②「摂津・播磨の海辺については既に出版されたものに詳しく記されているので、この図会では備前の海辺から著すこととした」
金毘羅参詣名所図会 「浪華川口出帆之図」
「浪華川口出帆之図」(金毘羅参詣名所図会)
こうして、1巻冒頭には「浪華川口出帆之図」、つまり大坂の河口を発した船出図からスタートします。そして、その次は備前国の歌枕である「虫明の迫門」に一気に飛びます。それを目次で見ておきましょう。

金毘羅参詣名所図会 第1巻目次
金毘羅参詣名所図会第1巻目次

目次の「各名勝」を、谷崎友紀氏が地図上に落とした分布地図です。
金毘羅参詣名所図会 第1巻分布地図
赤点が1巻に出てくる名所分布位置です。大坂にひとつぽつんと離れてあるのが先ほど見た「浪華川口出帆之図」になります。そして、次が「虫明の瀬戸」です。そのほとんどが備前沿岸部か島々になります。そして、船からみた湊や島の様子が描かれていて、船上からの移り替わるシークエンスを追体験できるように構成されています。これまでにない試みです。

虫開の瀬戸 金毘羅参詣名所図会第1巻
虫明の瀬戸 金毘羅参詣名所図会
2巻以後の巻ごとの名所色分けは、次の通りです。
金毘羅参詣名所図会 名勝分布地図
2巻 橙色 丸亀 → 金毘羅 → 善通寺
3巻 黄色 善通寺→ 弥谷寺 → 観音寺
4巻 黄緑 仁尾 → 多度津 → 丸亀 → 宇多津
5巻 緑  坂出 → 白峰  → 高松
6巻 青  屋島

2巻の名所は橙色で、丸亀湊から金毘羅大権現を経て善通寺までです。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
丸亀港(金毘羅参詣名所図会)
冒頭は、丸亀湊への着船から始まります。備讃瀬戸上空から俯瞰した構図で、金毘羅船が丸亀港に入港する様子や、その奥にある町と城の様子が描かれています。そのあとは、上陸した参拝客がたどる金毘羅街道沿いの名所が取り上げられています。そして、目的地となる金毘羅大権現と境内の建物が取り上げられます。ここからは以前にお話ししましたので省略します。 
3巻は、分布地図では黄色で、善通寺近くの西行庵から始まります。それから西に向かい弥谷寺、三豊の琴弾八幡宮や観音寺のほかに、伊吹島、大島といった讃岐国西部の島々が取り上げらます。
4巻は黄緑で、讃岐の三豊の仁尾の浦(三豊市)から始まります。

仁尾の港 20111114_170152328
仁尾の浦(金毘羅参詣名所図会)
ここでは、島々のほかに海中にみえる特徴的な奇巌なども取り上げられています。それから海岸沿いに東へ向い、海岸寺、多度津、宇多津などが紹介されます。さらに、飯野山を経て、崇徳天皇の過ごした雲井御所の旧跡(坂出市)までが記載されています。
 5巻が緑で冒頭が、綾川です。
白峯寺や崇徳天皇陵の記載がみられる。さらに東へ向かい、札所である国分寺・根来寺などを経て、鷲田の古城(高松市東ハゼ町)までが取り上げられています。
 最終6巻は青で、石清尾八幡宮から始まり、高松城、屋島が取り上げられます。
岩瀬尾八幡 讃岐国名勝図会
石清尾八幡宮(金毘羅参詣名所図会第6巻)
屋島では、源平合戦にまつわる旧跡が紙面の多くを占めています。この巻は、平家一門が逗留したとされる六萬寺(高松市牟礼町)で終わっています。

屋島山南麓、古高松、吉岡寺、鞍懸松img35
屋島山南麓(金毘羅参詣名所図会)

『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所の地理的範囲を、整理しておきます。
①「金毘羅参詣名所図会」という書名ではあるが、金毘羅大権現以外の名所も取り上げている
②瀬戸内海沿岸の名所を中心に記載している
③金毘羅・善通寺以外では、内陸部の名所は取り上げていない
④屋島から東部は取り上げられていない
⑤四国霊場札所がよく取り上げられている
①については、丸亀に上陸した金毘羅参詣客は、金毘羅山だけでなく善通寺・弥谷寺・海岸寺・道隆寺という「七ケ寺参り」を行っていたことを以前にお話ししました。十返舎一九の弥次さん・喜多さんもそうでした。ついでに何でも見てやろうという精神が強かったようです。そのため観音寺や仁尾などの海沿いの名勝地も含めたのかもしれません。
④については、『名所図会』の作成段階では、続編を作るつもりだったようです。冒頭に次のように記しています。

「其境地を妄失して朧気なるハ、図を出さず。且炎暑の苦熱に労れて碑文など写し得ざるあり。則ち雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石の類ひなり。是等ハ再回彼土に渡海し、委く写して拾遺の編に詳かにすべし」

意訳変換しておくと
「各名所を訪ねたが記憶が曖昧なところ、炎暑のために碑文などが写せなかった所がある。それは、雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石などである。これらについては、再度訪問し、写して拾遺編(続編)で詳細にするつもりである」

 しかし、続編が出版されることはありませんでした。
 各名所には、どこが選ばれているのでしょうか、また。その「選考基準」は何なのでしょうか? 谷崎友紀氏は、次のような表を作成しています。
金毘羅参詣名所図会 名所属性
金毘羅参詣名所図会の名所属性別分類表
A 最も多いのは③「堂塔伽藍 196ヶ所」、その次が②「神社仏閣 90ヶ所」で、寺社関係の名所が多い
B その次に多い④「旧跡 90ヶ所」には、源平合戦の古戦場などが含まれる。
 上位3つは③②④が圧倒的に多いことをここでは押さえておきます。『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所は、寺社と旧跡が中心だと研究者は判断します。
 
下表は研究者が、構図を近景から超遠景の4 つに分類したうえで、名所の属性別に集計をしたものです。
金毘羅参詣名所図会 名所構図

ここからは次のようなことが分かります。
①伝承と寺社が突出して多いこと
②3番目に多いのが和歌関係、4番目が旧跡
③構図をみてみると、最も図絵の多い伝承は近景・中景の構図で描かれている
④寺社は、すべて遠景で描かれている。
④の寺社を遠景で描くのは、『都名所図会』で秋里籬島が最初に用いた手法と研究者は指摘します。鳥瞰図のように俯瞰的な視点で描くことで、堂塔塔頭を含む寺社を1枚の絵におさめることができるようになりました。
伝承は、旧跡にまつわる過去の様子を想像で描いたものです。
例えば、丸亀の光明庵で法然が井戸を掘ったという伝承や、屋島合戦で那須与一が扇を射る様子がこれに当たります。鐘成自身が取材に訪れて目にした名所の様子ではなく、伝承上の場面を近い視点から描いています。
『金毘羅参詣名所図会』を見ると、海辺の風景が多いのに気づきます。
海上からの風景は1巻、陸上からの風景は 3・4 巻に多く載せられています。大坂から丸亀へ向かう1巻では、実際に船上からみた風景が描かれています。
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下津井 金毘羅参詣名所図会第1巻

また西讃(現在の観音寺市・三豊市)の名所を取り上げた3・4巻では、海岸からみた風景が描かれています。
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鯛網(金毘羅参詣名所図会)
とくに海上からの風景には、海や山といった自然景のほかに、湊の様子、家々が建ち並ぶさま、停泊・航行している船、塩浜で塩をつくっている人々の生活といった人文景・生活景が描かれています。

このような図絵の上部には和歌が添えられています。

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善通寺五岳 筆の山(金毘羅参詣名所図会)

名所として描かれた風景に和歌を付けるのは、『都名所図会』からの伝統のようです。しかし、金毘羅参詣名所図会の風景は、自然景と人文景・生活景が入り混じった風景で、少し色合いが異なるようです。
以上見てきたように描かれた対象は,伝承と寺社が多く,信仰的な要素が強いようです。しかし、「新しい風景の見方の萌芽」が見られると研究者は指摘します。歌枕と旧跡をもとめて旅をしていた旅人たちは,伝統的な風景観から脱却し,自然の景観を美しい風景としてもとめるようになります。
 その萌芽が「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」だと谷崎友紀氏は指摘します。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022
「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」(金毘羅参詣名所図会)

 鷲羽山の扇の峠からみたもので、「近代的な風景観の萌芽」とも云えます。ほかにも,海上から湊を望む図絵には,停泊する船や建ち並ぶ家々といった人文景と,塩浜の製塩業や漁業の様子といった生活
景が描かれており,ここでも和歌に表象された風景ではなく,実際の風景が名所として描かれていた。

以上を整理しておくと
①「金毘羅参詣名所図会」は、弘化4(1847)年に、大坂の暁鐘成によって出版された
②彼は、出版のために絵師を伴い約2ヶ月間、讃岐を現地調査した。
③備前からはじまり 丸亀 → 琴平 善通寺 → 観音寺 → 庄内半島 → 多度津 → 丸亀 → 坂出 → 高松 → 屋島の順に、讃岐の名所をセレクトして6巻の絵図とした
④しかし、屋島以東や内陸部は取材対象とはならず、名勝も描かれいない
⑤名勝に選ばれたのは、「神社仏閣・堂塔伽藍・旧跡」が多い。
⑥しかし、美しい自然の景観や、シークエンスを描くなど、伝統的な名所旧跡紹介から抜け出そうとするものもある。

この「金毘羅参詣名所図会」の公刊の数年後に出版されるのが「讃岐国名勝図会」になります。

讃岐国名勝図会表紙

讃岐国名勝図会は、金毘羅参詣名所図会が取り上げられなかった屋島以東の名勝からスタートします。そして、西讃の名所については出版されることはありませんでした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要
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  前回は南鴨念仏踊りについて、次の点を史料で押さえました。
①南鴨念仏踊りは賀茂神社に多度郡全体の宮座で構成された人々で奉納された風流念仏踊りであったこと。
②生駒藩は念仏踊りを保護し、滝宮(牛頭天王)への踊り奉納を奨励していたこと。
それが高松藩になると、南鴨組の念仏踊りは滝宮への奉納がされなくなります。その背景を今回は史料で見ていくことにします。   

多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

テキストは「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」です。  ここには、前回に紹介した入谷外記とともに、生駒藩の尾池玄番が登場します。 彼は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。

年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言

七月朔日(1日)       玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

  多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)
⑨尾池玄番の通達を受けて、辻五兵衛が庄屋仲間の二郎兵衛にあてた文書です 。
尚々申上候 右迄外記玄番様へ被仰上御公事次第 被成可然存候事御神前之儀候間前かた御吟味御尤に候。殊に御音信として御たる添存候。后程懸御目御礼可申上候
以上
貴札添拝見仕候 然者滝宮神前之念仏に付御状井源兵衛殿此方へ御越添存候
一 七ケ村と先さきの御からかい被成
候時山田市兵衛門三四郎滝宮之甚右衛門我等外記様御下代衆為御使罷出申極は多度郡南条外記様御代官所儀に候へは其時重而之儀被成何も公儀次第被成候へと外記殿下代衆も被仰候付而其通皆々様へも申渡候。於有之違申間敷候。 外記様玄番様へも被仰上前かと御吟味被成候事御尤に存事に候。猶委は此源兵衛殿へ申渡候 恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡               
 二郎兵衛様江御報
  意訳変換しておくと
外記様や玄番様に申し上げた神事の順番について、以前のことを吟味した上でしかるべき措置を指示をいただいた。添状まで文書でいただいているので、後日御覧に入れたい。
 以上
書状を拝見し、滝宮神前での念仏踊り奉納について、御状と源兵衛殿方へ添状について
一 七ケ村との今後の対応について
山田市兵衛門三四郎、滝宮の甚右衛門と我等と外記様の御下代衆が一致して対応している。多度郡南条の外記様の御代官所が公儀として下代衆も仰せ付け、その通りを皆々様へも申渡しました。 これについて私たちが異議を申すことはありません。 猶子細は使者の源兵衛殿へ申渡しております。
恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡 二郎兵衛様江御報
  ここからは次のようなことが分かります。
①前回に、多度郡の鴨組と那珂郡の七箇村組との間に、踊りの順番を巡って争いがあったこと
②それについて、鴨組から「外記様や玄番様」を通じて前回の調停案遵守を七箇村に確認するように求めたこと
③その結果、納得のいく回答文書が「外記様や玄番様」からいただけたこと
讃岐国絵図 多度津
多度郡の村々(讃岐国絵図)

鴨組からの要求を受けて、7月20日に尾池玄番が多度郡の大庄屋たちに出したのが次の文書です。
 尚々喧嘩不仕候様に事々々々々可申付候長ゑなと入候はヽまへかとより可申越候   以上
態申遣候 かも(加茂)より滝宮へ二十五日に念仏入候間各奉行候ておとらせ可申候 郡中さたまり申候ことく村々へ申付けいこ可出申由候 恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殿
松井左太夫殿
  意訳変換しておくと
くれぐれも(滝宮への踊り込みについては)喧嘩などせぬように、前々から申しつけている通りである。  以上
態申遣候  加茂から滝宮へ7月25日に念仏奉納について各奉行に沙汰し、郡中で決められたとおり村々での準備・稽古を進めるように申しつける。恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殴
松井左太夫殿
大意をとると次のようになるようです。
「踊りの順番については、七箇村組に前回の調停書案所を遵守させるの心配するな。喧嘩などせずに、しっかりと稽古して、踊れ」
 
尾池玄番は、奉納日が近づいた7月20日にも、次のような文書を出しています
尚々於神前先番後番は くじ取可然と存候
もよりに真福寺へ入可申候 委此者可申候 以上
書状披見候
一 当年滝宮へ南鴨より念仏入候由先度も申越候 然者先年七ケ村と先番後番之出入有之処に羽床の五兵方被罷出其年は七ケ村へおとらせ候へ、重而はかも(加茂)へ可申付との曖に而相済由承候処則五兵方へ申理状を取七ケ村政所衆へつけ可申候。同日(滝宮牛頭)天王様之於御前圏取可然存候。
一  たヽき鐘かり申度由候 町に而きもをいり候へと仁左衛間申付候
一 刀脇指今程はかして無之候。 但股介に申付かり候へと申付候。 委は此者可申候 恐々謹言
七月二十五日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦

  意訳変換しておくと
くれぐれも神前での踊り奉納の先番後番の順番は、「くじ」によるものとする。これについては、真福寺に伝えているので、子細は真福寺の指示に従うこと。
書状披見候
一 今年の南鴨の念仏踊奉納については、先般も伝えたとおりである。先年、七ケ村と順番を巡って喧嘩出入があった折りに、羽床の五兵衛の調停でこの年は七ケ村が先に踊ることで決着した。重ね重ねこの件については、五兵衛に申送状を七ケ村の政所衆へ届けさせる。同日(滝宮牛頭)天王様の於御前で確認されたい。
一  叩き鐘の借用について申し出があったが、準備を仁左衛門に申付けてある。
一 刀脇指については、今は貸し与えてはいない。ただし、股介は貸し与えることを申付けている。  子細は、使者に伝えているので口頭で聞くように 恐々謹言
七月二十日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦
奉納が25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。

 尾池玄蕃の発信文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日)  尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認

以上からも、生駒藩の玄蕃などの現地重役の意向を受けて、滝宮念仏踊りは開催されていたことが分かります。そして、役人と龍燈院という個人的な関係だけでなく、生駒藩として政策的に龍燈院を保護していたことが裏付けられます。

龍燈院・滝宮神社
    手前が滝宮(牛頭天王)社、その向こうが別当寺の龍燈院

ところが、次の高松藩が成立した年の文書からは、南鴨組の踊りの奉納が停止されたことがうかがえます。滝宮(牛頭天王)社の別当寺龍燈院の住職が、南鴨の責任者に宛てた文書を見ておきましょう。
尚々貴殿様御肝煎之所無残所候へとも御一力にては調不申候由候尤存候。 来年は是非共被入御情に尤存候。今回はいそかしく御座候間先は如此候郡中御祈念申候間左様に御心得可被成候。来年は国守御付可被成候間念仏も相調可申と存事に御座候 以上
     
御状添拝見申候 就其念仏相延申候左右被成候、祝言銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造に請取申し候。則御神前にて念比祈念仕候来年は念仏御興行可被成候。 何も御吏へ口上に申渡候間不能多筆候 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
意訳変換しておくと
貴殿様は人の世話をしたり、両者を取り持ったりする肝煎の役割を果たされている重要な人物であることを存じています。そんな貴殿様でも、今回のことについては、力が及ばないことは当然のことです。来年は(鴨組の)踊り奉納が復活できると信じています。今回は、明日の奉納を控えての忙しい時期ではありますが、多度郡のことを祈念いたします。来年は御領主さまも鴨組の参加を認めることでしょう。 以上
     
なお書状・添状を拝見しました。念仏踊り奉納は延期(中止)になりましたが、お祝いの銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造を請取りました。御神前に奉納し、来年は念仏御興行が成就できるように祈念いたします。文字で残すと差し障りがあるので、御吏へ口頭で伝えています。 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
ここからは次のようなことが分かります。
①寛永19(1642年)7月24日に、龍燈院住職が南鴨組の責任者に出した書簡であること
②前半は鴨組の踊り奉納が、何らかの理由でできなくなったことへの詫状的な内容であること。
③後半は、奉納日前日の7月24日に、これまで通りに南鴨組が奉納品を納めたことに対する龍燈院住職から礼状であること。
ここからは、それまで奉納していた南鴨組の踊りが、高松藩主の意向で踊り込みが許されなくなったことがうかがえます。その背景には何があったのでしょうか?
  龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを「西四郡」のみで再興させ、その通知高札を7月23日に掲げた
松平頼重が踊り込みを認めた「西4郡」の踊組とは、以下の通りです。
①綾郡北条組(坂出周辺)
②綾郡南條組(綾川町滝宮周辺)
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)
④那珂郡七箇村(まんのう町 + 琴平町)
ここには、多度郡の南鴨組の名前はありません。
南鴨組の名前が消えるまでの経緯を、私は次のように想像しています

 寛永19(1642年)5月28日、高松藩初代藩主として松平頼重が海路で高松城に入り、藩内巡見などを行って統治構想を練っていく。このような中で、滝宮(牛頭天王)社の念仏踊り奉納のことが耳に入る。頼重が、気になったのが他藩の踊組があることだった。那珂郡七箇村組(構成は高松藩・天領・丸亀藩)は、大半が高松藩に属すから許すとしても、南鴨組は丸亀藩の踊組だ。これを高松藩内の滝宮神社への奉納を許すかどうかだ。丸亀藩の立場からすれば、自藩の多度郡の村々が他藩の神社に奉納するのを好ましくは思わないだろう。隣藩とのもめ事の芽は、事前に摘んでおきたい。南鴨組からの踊り込みについては、丁重に断れと別当・龍燈院住職に指示することにしよう。

こうして、中世以来続いてきた南鴨組の滝宮牛頭天王への念仏踊りの奉納は、以後は取りやめとなった。以上が私の考えるストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)
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南鴨念仏踊
南鴨念仏踊組は、かつては滝宮への踊り込みをおこなっていたと伝えられています。しかし、近世の高松藩の関係文書を見ると、南鴨組の念仏踊りが奉納された記録はありません。また南鴨組は、どのくらいの村々によって構成されていたのでしょうか。その辺りを、史料で見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」
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まず、元和2年の多度郡大庄屋の伊次郎兵衛の各庄屋への触書を見ていくことにします。
以上
一筆申入候 乃当年たきノ宮ねんふつ(滝宮念仏)あたりとしの由申候。唯今迄は草木能様に見申し候。ねんふつの儀弥入候て可然かと存候。いかヽ各々被存候哉。御かつてん候はヽ名付所にてんをかけ可給候返事次第吉日以寄相御座候様左右可申候 為其申触候 恐々謹言
           伊次郎兵衛
六月十一日               正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
  意訳変換しておくと
 一筆申入れる。今年は鴨組が滝宮念仏(踊り)奉納の当番年となっている。念仏の踊り込みについて、どう考えているのか、各々の意見をお聞きし、その上で返事したいと思う。ついては、吉日に集まって協議したいと思うので、その触書きを回覧する。 恐々謹言
            伊次郎兵衛
六月十一日                正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
触状の回覧先は次の通りです。
元和2年の次郎兵衛の各庄屋への触書

回覧状が廻された村々の庄屋の一覧になります。これが滝宮念仏踊の鴨組の構成村であったが分かります。その村々を見てみると、北鴨と南鴨だけではありません。白方を除く多度津のほぼ全域と、善通寺から多度郡の最南端の大さ(大麻)までを含んでいます。

多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)

ここからは次のようなことが分かります。
①元和2(1612)年の生駒藩の時代には、鴨組も滝宮牛頭天王(現滝宮神社)への念仏踊りの奉納を行っていたこと。
②踊り込みには当番組があって、何年かに一度順番が回ってくること
③念仏踊り鴨組は、現在の「多度津町 + 善通寺市」の広範な村々で構成されていたこと。
私はこの史料を見るまでは、鴨組の念仏踊りが滝宮に奉納されていたことについては、確証が持てませんでした。しかし、この史料からは生駒藩時代には、鴨組は踊り込みを行っていたことが分かります。同時に、中世の多度郡の中心的な郷社は賀茂神社であったこと。その賀茂神社に、多度郡の有力者が宮座を編成し、念仏踊りを奉納していたことがうかがえます。これは以前にお話した鵜足郡の坂本念仏踊り、那珂郡南部の七箇村念仏踊りと同じです。つまり、中世に起源を持つ風流踊りということになります。

讃岐の郷名
讃岐の古代の郡と郷

 滝宮念仏踊りには、以前にお話ししました。
①滝宮牛頭天王の夏祭りの旧暦7月25日に奉納された踊り念仏であること
②それを差配していたのは、別当寺の龍燈院の社僧であったこと。
③龍燈院は、牛頭天王のお札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を、社僧達が配布し財政基盤としていたこと
④滝宮牛頭天王へ踊りを奉納する各組は、その信者であったこと
もう一度、回覧状の内容を見てみます。
これを見ると従来通りの奉納するというのでなく、どうするかを協議するために事前に集まろうという内容です。ここからは、従来通りの踊り奉納について、異論がでていることがうかがえます。それの原因については、ここからは分かりません。
 次に10年後の元和8(1622)年の入谷外記文書を見ていくことにします。
以上
来二十五日滝之宮へ両鴨村より念仏入候に付郡中としてけいこ(稽古)彼是肝煎肝要に候。為其に申遣候也
(入谷)外記 
七月五日         盛正(花押)
多度郡政所中江
意訳変換しておくと
以上
来月の7月25日は滝宮へ両鴨村が念仏踊りを奉納することになっている。(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要である。そのことを申伝える。

書状の主は「外記」とあります。外記は、生駒藩要職にあって那珂(仲)郡と多度郡の管理権を握っていた入谷外記のことのようです。興泉寺(琴平町)は、当時の那珂郡榎井村の政所を勤めていたとされ、寛永年間(1624~44)の政所文書を伝えます。その中に、寛永6(1629)年滝宮念仏踊で、七箇村組と坂本組との間に起こった先番・後番の争いを扱って和解させた「入谷外記書状」があるようです。どちらにしても入谷外記は、生駒藩の中枢部にいた人物です。その彼が多度津の政所の中江氏に対して「滝宮念仏踊りについて、しっかり準備・練習して奉納せよと」と書状を送っています。ここからは、生駒藩が念仏踊りの奉納に対して、強く肩入れしていたことがうかがえます。別の見方をすると、入谷外記と龍燈院の住職が懇意であったのかもしれません。
 もうひとつ穿った見方をすると、先ほど見たように元和2(1612)年には、滝宮への踊奉納について、不協和音が組内で出ていた気配がありました。それを見越して、入谷外記が龍燈院の住職の依頼を受けて「しっかり準備・練習して奉納せよと」という文書を差し出したのかも知れません。
 入谷外記の達しを受け手の庄屋たちの動きが分かるのが「小山喜介文書(元和8年)です。
尚々御請所御蔵入共に早々十二日に南鴨へ御より候て御談合可有候。くわしくは後々以面可申入候
以上
南鴨念仏之儀に付而けき殿より御状廻申候 左様候へは来十二日に南鴨へ御より候て万事御談合可被成候、外記殿もはじめての儀候間一入念を入候へと被仰侯間其心得尤に候
此廻状名ノ下に皆々判被成候へく侯。 すなはちけき殿御めにかけ可申候  以上
       元八        小山 喜介 (花押)

意訳変換しておくと
今回の念仏踊り奉納について、7月12日に南鴨へ集まって協議したい。詳しくは、後日顔合わせしたときにお伝えする。 以上
南鴨組の念仏踊りについて、外記殿から御状廻が届いた。このことについて12日に南鴨へ集まったときに談合(協議)したい。外記殿も、はじめてのことなので入念に準備・稽古するようにと書き送ってきた。その心遣いはもっともなことだ。なお、この廻状名の下に皆々の判を(花押)を入れて欲しい。これも外記殿に御覧いただくつもりだ。
大庄屋の小山 喜介が触書を廻した一覧表は次の通りです。

小山 喜介が触書を廻した一覧表
「小山喜介文書(元和8年)の庄屋触状の回覧先一覧
多度郡 明治22年
多度郡の村々

   元和2(1612)年の構成メンバーと比べると、白方3村が加わっています。文中の「はじめてのことなので入念に準備・稽古せよ」という指示は、新加入の白方三村への指導を云っているのでしょうか。外記からの指示文書には「(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要」ともありました。ここからは、それまでは白方三村なは、参加していなかったのが、この時点から参加するようになったこと。初めてのことなので「(多度)郡中として稽古せよ」ということになるのかもしれません。
7月12日の会合で決定した各村の「滝宮念仏道具割」を一覧化したものが下図です。
南鴨組滝宮念仏道具割
南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
ここからは次のようなことが分かります。
①鴨組と呼ばれていたが、ほぼ多度郡全域の村々で構成されていたこと。
②各村々に踊り役やその人数が割り当てられていたこと。
③宮座による運営だったこと
④費用は村高に応じて、米高割当が決められていたこと

  「南鴨組」という名称から多度津の南鴨の人達だけによって、編成されていたように思いがちですが、そうではないようです。以前にお話しした坂本組・七箇村組と同じく、かつての郷社に各村の名主達などの有力者が宮座を編成し、奉納されていたことが分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の踊り編成表

多度津町史には南鴨念仏踊りのもともとの奉納先は賀茂神社の摂社牛頭天王だったと記されています。滝宮神社も神仏分離以前は牛頭天王社でした。
牛頭天王と滝宮念仏踊りの関係をもう一度整理しておきます。
①滝宮(牛頭天王)社を管理していたのは、別当寺の龍燈院。
②龍燈院の社僧(山伏)たちは、お札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を周囲の村々で配布していた
③彼らは宗教者であると同時に、芸能保持者で祭りなどのプロデュースを手がけたこと。
④当時讃岐でも大流行していた時衆念仏踊りを祖先供養の盆踊りや祭りの風流踊りにアレンジして、取り入れたのも彼らであること
⑤念仏踊りを滝宮に奉納していた踊組エリアは、滝宮牛頭天王の信仰エリアであったこと
このような関係を多度津周辺に当てはめてみると次のようになります
①中世に復興された道隆寺は、海に開けた交易センターの機能を果たした。
②多くの廻国修行者の拠点となり「学問寺」の役割も果たした。
③高野聖などの真言系の聖が、時衆系阿弥陀信仰をもたらし周辺で民衆の供養を営むようになった
④観音院は、堀江集落の墓地に建立された観音堂に住み着いた聖の活動からスタートした。
⑤播磨の広峯神社は、牛頭天王信仰の中心地であったが、そこから讃岐に廻国修験者(御師)がやってきて、牛頭天王信仰を拡げる。
⑥賀茂神社の中にも牛頭天王の摂社が勧進され、そこに奉納するために念仏踊りがプロデュースされる。
⑦鴨念仏踊りは、丸亀平野の牛頭信仰の拠点である滝宮に奉納されるようになる
     今回はここまでとします。続きは次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」

 昨年11月30日付で、佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、白川正樹会長が授与式に参加していだいてきました。そこ書かれていることを、翻訳アプリに読ませると次のように表示しました。

P1250238
風流踊り ユネスコ無形文化財認証状 
ユネスコ無形文化財リストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。「風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。日本の提案により「風流踊り」の登録を認証します。
UNE事務局長 刻印日2022年11月30日
登録名は「Furyu-odori」です。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。
この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、文化庁の認可状です。
P1250236

ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」と明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
  全国の風流踊りを一括して、ユネスコ登録を実現させるというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てこないので、別途証明するために文化庁が発行した証書ということになるようです。
佐文綾子踊年表 重要無形民俗文化財指定に伴う後継者育成事業が今の綾子踊を支えている : 瀬戸の島から
 忘れられていた綾子踊りを「再発見」して、世に出してくれたのは中央の民俗芸能の研究者です。
幕末に編纂された西讃府誌に載せられていた綾子踊歌詞が、中世に成立していた閑吟集の中にあることを見つけます。そして、中世の風流踊りの流れを汲む踊りとして評価します。それを受けて、国や県が動き出すことになります。その中で大きな意味を持ったのが「国の重要無形民俗文化財指定(1976年)」だと私は考えています。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①国の補助金で伝承者養成事業を行うこと
②その成果として、隔年毎の公開公演を佐文加茂神社で行うこと
③全国からの公演依頼への補助金支出
④公開記録作成と「佐文誌」の出版
 こうして隔年毎に公開公演を行うこと、そのために、事前にメンバー編成を行い、踊りの練習を行うことが慣例化します。これが回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。

P1250078
綾子踊り(財田香川用水記念館にて)
 また、小踊りには小学生6人が、大踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという経験が蓄積されました。かつて小踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

 今年は、10月に郡上八幡、11月には東京の第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)の公演が予定されています。
33年前の第40回大会に出演し、この場で小踊を踊った小学生が、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。小・中学生達に大きな舞台に立つ経験を積むことも、綾子踊を未來につないでいく大切な手段のひとつだと思っています。綾子踊へのさまざまな人達からの支援に感謝します。
 

多度津藩の湛甫築港と、その後の経済的な効果については以前にお話ししました。しかし、それ以前の多度津の港については、私にはよく分かっていませんでした。多度津町史を見ていると巻頭絵図に、文政元年(1818)石津亮澄「金毘羅山名勝図会」の多度津港の様子が載せられていました。今回は、この絵図で湛甫築港以前の多度津港を見ていくことにします。テキストは「多度津町史510P  桜川の港510P」です。多度津港については、江戸前・中期に関する史料がほとんどなくてよく分からないようです。
確かな史料は、「金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)に描かれた多度津港です。この絵から読み取れることを挙げておきます。
金毘羅名勝図会
金毘羅名勝図会 多度津町史口絵より

此津も又諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなしく大都会の地にて、舟よりあかる人昼夜のわかちなし。湊は大権現祭場の旧地にして、磯ちかき所に影向の霊石あり。九月八日の潮川の神蔓、いにしへは此津にて務めしか、後神慮によつて、今の石淵にうつれり。されとも例によつて、此地より汐・藻葉を今もかしこにおくれり。又祭礼頭屋の物類いにしへの風を残して、此津よりつくり出す。其家を工やといふ。

  意訳変換しておくと
 多度津も諸国からの金毘羅舟が出入りして、丸亀と同じように、舟から揚がる人が昼夜を分かたず多く、繁盛している。湊は金毘羅大権現の祭場の旧地にあたり、磯に近い所に影向の霊石がある。九月八日の潮川神事は、古にはこの津で行われていたという。それが現在では金毘羅石淵に移された。しかし、今でもここで採った藻葉を金毘羅に送っている。又、祭礼頭屋で使う物類も古の風を残して、多度津で作られた物が使われている。その家を「工や」と呼ぶ。

①「多度津の港参拝舟入津」として、港の賑わいぶりと紹介する絵図であること
②手前には大型船の帆だけが描かれているが、港には着岸できず沖合停泊であること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)
       多度津港 金毘羅名勝図会の右側拡大部分

③桜川河口西側の堤防が沖に向かって伸ばされ、北西風を遮断する機能を果たしていること
④河口西側堤防の先端附近に高灯籠と港の管理センター的な役所が描かれていること
⑤河口から極楽橋までの桜川西側に小舟が停泊し、雁木(荷揚用階段)がいくつも整備されていること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」(1818)
      多度津港 金毘羅名勝図会の左側拡大部分
⑥桜川東側には接岸・上陸機能はないこと
⑦桜川河口西側の岩壁に沿って、金毘羅街道が南に伸びていること、その街道の背後に町屋が形成
⑧桜川河口東側の突端附近に金毘羅社が鎮座し、その前に白い燈籠が2つ建っている
⑨桜川河口東側は砂州上で、そこに陣屋が造営され、周辺に家臣住居が集まっていること
⑩金毘羅に続く街道の先にポツンと見える鳥居が鶴橋の鳥居?

この絵図からは1818年の多度津港は、桜川河口の金昆羅社から極楽橋にかけての西河岸に雁木が整備され小舟が接岸できる港湾施設であったことが分かります。これは多度津湛甫(新港)以前の絵図ですが、この時点で、すでに金毘羅参詣船や廻船などがかなり寄港していたことがうかがえます。
 私が分からないのは、陣屋ができるのは文政十年(1827)11月のことですが、それ以前に書かれたとするこの絵図に陣屋が書き込まれていることです。今の私には分かりません。
もうひとつ不思議なことは、多度津の街並みと背後の山々が整合しないことです。
例えば、多度津港背後の多度津山(元台)がきちんと描かれていません。そして、金毘羅街道が向かう金毘羅象頭山がどの山か分かりません。鶴橋鳥居のはるか向こうの山とすると、左側の山々が説明できません。多度津から南を望めば、大麻山(象頭山)と五岳が甘南備山として続きます。これがきちんと描かれていなということは、絵師は現地を訪れずことなく他人の描いた下絵に基づいて書いたことが考えられます。地元絵師の下絵に基づいて、有名絵師が「名勝図会」などを出版していたことは以前にお話ししました。

次に工屋長治によって描かれた「多度津湊の図」(天保2年(1831)を見ておきましょう。

「多度津湊の図」(天保2年(1831)
   天保2年工屋長治の多度津絵図

 1818年の金毘羅名勝図会と比較すると、つぎのような変化が見られます。

多度津絵図 桜川河口港
       天保2年 工屋長治の多度津絵図(拡大図)

①桜川河口東側が浚渫され広くなっている
②桜川河口東側の金毘羅社の先に着岸施設が新たに作られ、舟が停泊している。
③極楽橋周辺には、大型船も着岸しているように見える
④桜川河口西側の湾には、一文字堤防など港湾施設はないが、多くの舟が接岸せず停泊している
ここからは、①②のように桜川河口の東側にも接岸施設が新たに設けられ、③極楽橋まで中型船が入港できるように改修工事が行われたことがうかがえます。しかし、④にみられるように、河口外の西側湾内には入港待ちの舟が停泊しています。つまり、オーバーユース状態となって、入港する舟を捌ききれなくなっていたことがうかがえます。
 街並みも桜川河口を中心として、金毘羅街道沿いに北へと延びている様子が描かれています。

丸亀湊 金刀比参拝名所図会
丸亀藩の福島湛甫と新堀湛甫(讃岐国名勝図会)
多度津藩の本家である丸亀藩は、文化3年(1806)に福島湛甫を築き、入港船の増加に対応しました。
しかし、金毘羅舟の大型化が急速に進み、この湛甫では底が浅く、大船の出入りは潮に左右され不便でした。そこで天保3年(1832)に、第3セクター方式で新堀湛甫を開きます。これが金昆羅参詣客の定期月参船のゴールに指定され、参拝客が急増します。多度津藩も、金比羅参拝客の急増を黙って見ているわけにはいきません。そこで動き出したのが多度津の民間業者たちです。

 「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」には、多度津湛甫の着工までの経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、天保五年(1834)
に浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請された。それを家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

この工事については以前にお話したので、建設過程や工事費捻出については触れませんが小藩にしては不相応の大工事で、本家様(丸亀藩)は、事前相談がなかったと終始、非協力的だったようです。
 
 暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記します。
多度津湛甫 33
多度津湛甫 (金毘羅参詣名所図会)
   此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、人船の便利よきが故に湊に泊る船著しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆることなく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。且つ亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。

  意訳変換しておくと

   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。

ここからは九州などの西国からの金比羅詣での上陸港が多度津であったことが分かります。
それを裏付けるのが安政6年(1859)9月、越後長岡の家老河井継之助の旅日記「塵壷」です。
塵壺

ここには金毘羅参詣で立ち寄った多度津のことが次のように記されています。
多度津は城下にて、且つ船附故、賑やかなり、昼時分故、船宿にて飯を食ひ、指図にて直ちに船に入りし処、夜になりて船を出す、それ迄は諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船附の杵へ様、奇麗なり。

意訳変換しておくと

多度津は城下町であると同時に、船附(港町)であるので賑やかである。昼頃に、船宿で飯を食べて、指図に従って船に入りって休息し、潮待ちする。夜になって、船を出す。それまでの間、乗船客が博打をして、うるさくて眠れない。先述したように。玉島、丸亀、多度津の港は、奇麗に整備されている。

慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復しています。その帰途、多度津港に上陸、金毘羅参詣をしたときのことを旅日記「東帰日記」に、次のように記します。

多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして見え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、数十の船此内に泊す、凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。

   意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路様の御城下である。お城は平城で、海に面している。松が深く茂り、その内は見えないが、城の東(西の間違い?)に湊はある。防波堤を周りに巡らして、入口が三つある。全町は、2丁(220m)はあろうか。堤防はすべて石垣切石にて、誠に見事である。数十の船がこの港内に停泊している。大坂から西国への便船で、四国路(備讃瀬戸南)を航行するほとんどの舟が多度津港に入港する。その内のほとんどの船客が、金毘羅参詣者である。この舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するという。外舟にもこの例多し。

これらの記録は、19世紀にあって多度津港が多くの船や金昆羅参詣船の寄港地としての繁盛しているようすを伝えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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天保2年 工屋長治の多度津絵図(多度津町誌表紙裏)

参考文献      
「多度津町史510P  桜川の港510P」

 京都大学蔵の来田文書(天文14年1545)には、丸亀平野の熊野行者の残した次のような「道者職売券」があります。

「右の①御道者、②代々知行候と雖も、急用有るに依りて米弐百石、③堺伊勢屋四郎衛門に永代替え渡し申す処、実正明白也」

意訳変換しておくと
「右の御道者(熊野行者)は、②代々にわたって以下の知行(かすみ)を所有してきたが、急用に物入りとなったので米二百石で、堺伊勢屋四郎衛門に永代に渡って売り渡すことになった。実正明白也」

①「右の御道者」とは、熊野三山に所属する山伏で熊野道者(行者)のことです。

熊野牛王(クマノゴオウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
熊野牛王(護王ごおう)
熊野道者は熊野信仰護符の熊野牛王(護王ごおう)を配って全国を廻国していました。熊野行者の行動範囲や信者組織は「なわばり化」して、財産となり売買の対象にもなっていたことは以前にお話ししました。それは「知行」とか「かすみ」と呼ばれるようになります。熊野行者たちも、時代が下ると熊野を離れ有力者を中心に元締めのような組織が形成されるようになります。この史料で登場するのが③「堺の伊勢屋四郎衛門」です。
この売買証文は②「代々知行候と雖も、急用有るに依りて米式百石」とあるので、自分の「かすみ」を「米2百石」で「永代替え渡し(売買)したことが分かります。
それでは、売り買いの対象となった「かすみ」はどこなのでしょうか?この文書のはじめに、次のような地名が出てきます。
一、岡田里一円
一、しもとい(?)の一円
一、吉野里一円から、 池の内(満濃池跡の村)
……大麻、中村、弘田、吉原、曼茶羅寺、三井之上、碑殿と続いて
一 山しなのしよう里(山階、庄)一円。 
一、見井(三井)の里一円。……此の外、里数の附け落ち候へども我等知行の分は永