金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。
弁才天画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めた書かれています。ここからは、もともとは春日社に伝わっていたものであることが分かります。
春日社にあった弁才天十五童子像がどうして、金刀比羅宮にあるのでしょうか。今回は、その伝来について見ていきたいと思います。テキストは「羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57」です。

金刀比羅宮の弁財天画を見る前に、弁財天の歴史について簡単に見ておきます
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ヒンズー教の現在のサラスヴァティー(弁才天)

弁財天の起源はインドです。古代インド神話でサラスヴァティーと呼ばれた河の神は、後になると言葉の神ヴァーチュと結び付いて、学問、叡知、音楽の女神となり、最高神ブラフマー(梵天)の妃の一人とされるようになります。それが仏教にとり入れられると、仏教名を弁才天、妙音天、 美音天などと呼ばれるようにます。さらに財宝神であることが強調されるようになると、弁財天と書かれるようになります。神も進化・発展します。その上に、『金光明最勝王経』は、弁才天を美神とか戦闘神であると説き、弓、箭、刀、鉾、斧、長杵、輪、霜索を持つ8つの手があるとします。後世にいろいろな効能が追加されていくのが仏像の常です。二本の手では足らなくなって8本になります。
かつての横綱、若乃花・貴乃花の手形石、意外と小さい - Photo de Mimurotoji Temple, Uji - Tripadvisor

日本で盛んに信仰されるようになるのは、宇賀弁才天です。
水神の白蛇や、その白蛇が発展を遂げて生まれた老翁面蛇体の宇賀神を、頭上に戴くのが宇賀弁財天です。宇賀神は稲荷信仰を混淆して生まれました。稲を担った老翁姿の稲荷神と、水神の蛇が結合したのが宇賀神となるようです。整理しておくと
宇賀神  = 稲荷神(老翁姿)+ 水神(蛇=龍)
宇賀弁才天= 宇賀神     + 弁才天
こうしてとぐろを巻いた蛇と老人の頭を持つ宇賀神を頭上に頂く宇賀弁才天が登場してきます。
弁才天と宇賀神

これが鎌倉時代末期のようです。弁才天の化身は蛇や龍とされますが、これはインド・中国の経典にはありません。日本で創作された宇賀弁才天の偽経で説かれるようになったようです。
弁才天3

 初期の宇賀弁才天が8本の手に持つのは『金光明経』に記されるように「鉾、輪、弓、宝珠、剣、棒、鈴(鍵)、箭」と全て武器でした。ところが、次第に「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなり、商人達に爆発的に信仰が広がります。

弁才天には「十五童子」が従います。
これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれます。

弁才天十五童子像3

絹本著色の弁才天十五童子像として代表的なものをあげると、
金刀比羅宮蔵弁才天十五童子像(鎌倉末期)
京都上善寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
近江宝厳寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
大和長谷寺能満院蔵天河曼荼羅(室町時代)
などがあります。これらの絵に共通する点は、主尊の弁才天と眷属神の十五童子(十六童子の場合もある)を中心に、龍神やその他の神々が描き込まれていることです。
弁才天十五童子像

        大阪府江戸前~中期/17~18世紀
      岩座の弁才天と十五童子を表す立体曼陀羅
弁才天十五童子像2

金刀比羅宮の弁才天画像を見てみましょう
残念ながら画像を手に入れることはできませんでした。あしからず。岩の上に立つ一面六臀の弁才天を中心に天女のまわりを眷属神の十五童子がかためます。画像の上方の五つの円相の中には釈迦・薬師。地蔵。観音。文殊という春日明神の本地仏が描かれています。春日社の祭神の本地仏は、武甕槌命(本地は釈迦)・経津主命(薬師)・天児屋根命(地蔵)・比神(観音)とされます。祭神は一神一殿の同じ形の、同じ大きさの社殿に祀られています。ただ、文殊だけは一社だけ離れて若宮社に祀られています。

弁才天立像
武人的な要素の強い弁才天

日本三弁天と称しているのは、次の3社でした。
近江の都久夫須麻神社
鎌倉の江の島神社
安芸の厳島神社
神社が弁才天信仰の中心となったのは、弁才天が神仏習合したからです。弁才天の頭上には白蛇(宇賀神)と華表(鳥居)がのっています。

弁才天2
白蛇はさらに発展し、老翁面蛇体の宇賀神としてソロデビューしていきます。日本三弁天の神社の影響もあって、春日社でも宇賀弁才天を祀るようになったようです。頭上に、水神・食物神とされる宇賀神をいただく宇賀弁才天を祀ることは、多くの荘園を持つ春日社にとっては大切な要素です。雨が降らないと稲は育ちません。荘園経済の上に基盤を置く春日社にとつては死活問題です。そのため水神である宇賀弁才天を祀るようになったのでしょう。

弁才天画像を春日神社から手に入れたのは松尾寺住職の宥天です。彼の在職期間は、1824~32年まででした。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現を求めていました。そのために、寺社は境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。
金毘羅本社絵図


 金毘羅大権現の別当寺松尾寺では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。毘沙門天は『法華経』、弁才天は「金光明経』、大黒天は『仁王経』の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。
 生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったはずです。足らないのは、弁財天です。宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったという推理が浮かんできます。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて祀られます。そこに祀られたのが春日社から購入した宇賀弁才天画で、三天講の本尊の一つだったようです。

文化十年(1813)には、金毘羅大権現の門前町である金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。
さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天が福徳の仏して、熱心に拝むよようになります。
3分でわかる弁財天とは?】ああっ幸福の弁天さまっ!のご利益や真言|仏像リンク

 弁財天はインドではもともとは川の神、水の神で水辺に生活する神とされていました。そのためいつのまにか雨と関連づけられ雨乞いにも登場するようになります。
松尾寺でも江戸時代には雨乞いが行われています。
宇賀弁才天木像及び弁才天十五童子像画像は、雨乞いにも活躍したようです。奥社からさらに工兵道を進むと、葵の滝があらわれます。ここは普段は一筋の瀧ですが、大雨が降った後は壮観な光景になります。かつては、ここは山伏たちの行場であった所です。私も何度かテントを張って野宿したことがあります。夜になるとムササビが飛び交う羽音がして、天狗が飛び回っているように思えたことを思い出します。
善通寺市デジタルミュージアム 葵の瀧 - 善通寺市ホームページ
葵の瀧

 流れ落ちる屏風岩の下に龍王社の祠が置かれます。ここが金毘羅大権現の祈雨の霊場で修験を重ねた社僧達がここで雨乞いを祈願したと私は考えています。宇賀弁才天が祀られるようになると、水の神である宇賀弁才天も雨乞い祈願の一端を担うようになったのでしょう。

四国のお寺には、かつては雨乞い神の善女龍王が祀られていた祠が、いつのまにか弁財天を祀る祠になっている所がいくつもあります。神様や仏様にも流行廃れがあり、寺社はあらたな神仏の「新人発掘」を行いプロモートの努力を続ける努力をしていたのです。それを怠ると繁栄していた神社もいつの間にか衰退の憂き目にあったようです。そういう意味では、江戸末期の金毘羅大権現の別当たちは、「新人発掘」に怠りがなかった。そのひとつの象徴が三天講の企画であり、そのための宇賀弁才天画の購入であったとしておきます。


以上をまとめておくと
①江戸時代になると商売繁盛の神として宇賀弁才天が信仰を集めるようになる。
②金毘羅大権現の別当金光院も、宇賀弁才天を勧進し三天講の開催を始める
③そのため宇賀弁天の本尊が春日神社から求められ、三天講の縁日の時には開帳されるようになる。
④宇賀弁天は、水神でもあったため雨乞い信仰の神としても信仰を集めるようになる
⑤その結果、それまでの善女龍王竜王に宇賀弁天がとって代わる所も現れた。
⑥江戸時代の庶民派移り気で、寺社も新たな流行神を勧進し信者を惹きつける努力を行っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57
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