土讃線が琴平から讃岐財田駅まで伸びたのはいつ? 

1889明治22年5月21日に、丸亀・琴平を結ぶ讃岐鉄道が開通します。多度津駅構内での式典に参列した大久保諶之丞は祝辞を述べ「鉄道四国循環と瀬戸大橋架橋構想」を披露します。そして、8年後には高松へと線路は延びていきます。
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右下に豆機関車が終点琴平駅に煙をあげて走っているのが描かれている

 しかし、琴平から南へ線路は伸びていくのは約30年後の大正年間になってからです。まずは、琴平ー讃岐財田間が始まります。そして、それが猪ノ鼻トンネルを越えて池田へとつながり、さらに大歩危の渓谷を越えて土佐とつながっていきます。それは昭和の初めのことになります。土讃線の進捗状況をまずは年表で確認しておきましょう。
1919 大正8年3月 琴平-土佐山田間の路線決定
1919 9月 実測開始 
1920 2月 高松-琴平間の「コトデン鉄道申請」に免許状の交付。しかし第一次世界大戦の不況下で着工は大幅遅延
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催
1920 4月3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 5月21日 琴平-讃岐財田間開通 琴平駅が移転。
1929 昭和4年4月28日 財田-阿波池田間完成。
1935 11月28日 小歩危でつながり、全通。
 路線決定から測量を経て、起工式が行われ着工するのが1920年4月3日でした。その日を間近に控えた琴平では、祝賀のための準備が進められています。当時の新聞は、次のように伝えています。
大正9年(1920年)3月29日付け 土讃鉄道起工決定せる余興と装飾プラン(意訳)
琴平町での土讃鉄道起工祝賀については、理事者を始め一般町民も含めて準備にいそしんでいる。宴会は1日午後1時より町立公会堂で開かれ、鉄道院総裁を始め朝野の有力者300名を招待している。そのための余興及町内の装飾は次のようなものが準備中である
一曰より三曰間煙花百発打揚げ
一曰より三曰間東西両券芸妓手踊
一曰は公会堂、二曰は琴平駅前に花相撲
一曰 昼小学生の国旗行列・夜提灯行列
三曰 本社支局主催のマラソン競争
一曰より三曰間 町内各戸丸金印入の旗を町内的に立て軒提灯を出す
前記の内祝賀宴会は晴雨に拘らず行ふも其他は雨天順延す
坂町の装飾は松の枝に短冊を附し軒下に吊す
内町は町の所に構造電気を作り夫れに千燭光の電燈を点す
小松町は町内軒から軒へ万国旗を廻す
通町は上組は花の棚中組下組は花章
神明町も桜の花傘
金沢町は桜の腹這,
新町旭町は桜の大造花

 花火に・芸子の踊り・マラソン・国旗や提灯行列、そして街毎の趣向を凝らした飾り付けと、祝賀式を盛り上げようとするプログラムが目白押しです。そして、当日の起工式の様子は次のように奉じられています。
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着工記念行事 屋台と芸子さんのパレード?
 
大正9年(1920年)4月3日付け 起工祝賀会
美を尽くした土讃鉄道起工祝賀会は、春雨煙る琴平の名物呼物のマラソソ競争は三日に挙行 
琴平町は一日午後一時より町立公会堂にて土讃鉄道起工祝賀会が開かれた。公園入口は線門を設け「祝鉄道起工」の扁額を掲げ、公会堂前には高く万国旗を掲げ、その入口は丸金の旗を交叉し、堂内には無数の万国旗を蜘線手に吊り、沢原町長の式辞・来賓の祝辞があり、式は終了した。それより会場を琴平座に移し、宴に入り東西両券芸妓の手踊数番が舞われた。その後、散会したのは午後四時なりし。

 工事はどこを起点にスタートしたの?

 こうして4月3日に、工事は着工します。工事を請け負ったのは京都の西松組でした。工事は、どこから進められたのでしょうか?
着工から半年あまり経った進捗状況を次のように伝えています。
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三坂山踏切からの象頭山と土讃線

 大正九年(1920)10月13日付け 土讃線鉄道工事進捗 
土讃線の延長工事は、三坂山から七箇村帆山新駅までの一里半(約6㎞)の工事は、すでに八分程度は終わっている。三坂峠西端から琴平新駅構内までの工事も半分程度は終了している。工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。また、新駅から旧線の分岐点である大麻の工事は、来月下旬頃に着工予定である。
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土讃線の切通作業とトロッコによる土砂の運搬

 この記事からは「三坂山」が起点になっていることが分かります。ここを起点に線路の土盛り用の土砂を「トロッコや豆機関車」で、それぞれ東西に運んで線路を延ばしているようです。そして、新琴平駅から北の旧線路との分岐までは、この時点では未着工で、「来月下旬に着工予定」とされています。
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さて、それでは「三坂山」とはどこでしょうか?

三坂山は、琴平の東南の土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する辺りの南側にある小さい丘のような山です。すぐ東側を金倉川が流れています。ここは、丸亀平野の南端にもあたり、目の前には平野が広がり、かなたに讃岐富士(飯野山)が見通せる眺めのいい所です。
 現在、この山の裾を走る土讃線に立つと、この三坂山の先端を削って線路を通したことが分かります。その際に、削り取られた土砂が随時伸びていく線路を「トロッコや豆機関車」で運ばれたのです。 「一挙両得」の賢い工法です。
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着工から1年あまり経過した進捗状況を見てみましょう

大正10年(1921年)五月三〇日付け 土讃鉄道工事進捗、
土讃鉄道琴平・財田の5里の工事は、京都の西松組が請負って、昨年3月に起工し、この10月竣工予定である。鉄路の土盛と築堤及橋梁台は殆ど全部終えて、目下の所、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りしている。既に大部分埋立たてられており七月中には竣工予定である。
 また、塩入・財田間約四哩の土工も西松線が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷手押土運車を運転して土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である。
 ここからは「新琴平駅の土盛り作業」が行われていることが分かります。そう言えば、現在の琴平駅は、琴電琴平駅方面から見ると、道が緩やかに上がっています。これは、もともとの自然立地ではなく、この時に「土盛り」作業をして高くしたようです。その土は、三坂山の切通しから「豆機関車」で運ばれてきたものだったのです。

なぜ琴平駅は土盛りし、高くする必要があったのでしょうか?

 コトデンとの関係だったようです。
土讃線の着工前の1919年9月、高松の大西虎之助、多度津の景山甚右衛門、坂出の鎌田勝太郎ら県内の財界人によって高松-琴平間の「電気鉄道敷設免許申請=コトデン」が出され、翌年二月に免許状の交付されます。路線図を見ると、土讃線の新琴平駅とコトデン琴平駅の手前で両線がクロスすることになります。つまり、両線のどちらかを高架させる必要があったのです。そのために土讃線を土盛りして、その下にコトデンを通過させるという案が出されたのではないでしょうか。
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土讃線の下をくぐるコトデン電車 このために琴平駅から北は土盛りされた

その結果、土讃線の新琴平駅は土盛りして高くして、北から入線する線路を迎え入れる構造に設計されたと考えられます。
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「農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定」 

新聞記事の後半で、面白いのはこれです。確かに香川用水が確保される前は「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。当時の様子がよく分かります。
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一直線に描き込まれた土讃線と新駅。

そして、工事開始から4年目の春、

琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。

大正12年(1923年)5月21日開業 琴平-財田開通記念間開業  土讃鉄道琴平財田間開通記念版 
徳島へ=高知へ=一歩を進めた四国縦断鉄道
琴平・讃岐財田間は今日開通 香川・徳島の握手は大正十六年頃の予定。
 総工費百三十万円 土讃線琴平財田間8里は21日開通となった。この工事は大正9年3月に起工し、第1工区琴平・塩入間と大麻の分岐点から琴平新駅までは京都市西松組が25万余円で請負い10年6月に竣工。
 また第2工区塩入・財田間も同組が四十三万円で請負い10年2月起工し11年年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設や琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の主任三原技手で、途中から佐藤技手に引き継がれた。
 新線は善通寺町大麻の大麻神社前の旧線分岐からスタートして、阿讃国道を横切って東進し、金倉川を横切って琴平山を右手に眺めつつ横瀬の橋上を走って、昨年11月に移転した榎井村の新琴平駅へ到着する。
 この新駅は平屋建てであるが米国式洋風の建物で工費は13万円。これは新線総工賃の1割に当たる。まさに関西以西においてはまれに見る建物である。琴平駅の跨線橋はこの4月に工賃2万円で竣工した。
 
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旧線の分岐点となった大麻神社前の踏切です。それまでは右傾斜していたのが左傾斜に変わりました。ちなみに右側の道路は、旧コトサン電車の路線跡です

総工費130万円の内訳で分かるのは、一割13万円が新琴平駅舎、第1区間(琴平・塩入)が25万円・第2区間(塩入・財田)が43万円・琴平駅の跨線橋が2万円です。
 新琴平駅が「関西以西においてはまれに見る建物」として金比羅さんにふさわしい駅舎として特別扱いで建造されたようです。また、財田川や多治川の鉄橋や大口や山脇の長い切り通し区間があった第2区間の方が経費がかかっています。
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移転した新琴平駅

さらに、琴平以南の土讃線沿線を次のように紹介します。

新琴平駅から財田に向かう乗客は列車を乗り換えて、琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ岸の上を経て真野に達す此間二里半程少し登りつつ田の中を南行する。
左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入、り福良見を過ぎ十郷村字帆山にある塩入駅に着く。この塩入駅は、里道を西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道に達するので便利の地である。この駅から満濃池へは、東方十五六町の距離で七箇村の福良見・照井・春日・本目へは距離がわずかである。
 附近の産物は木炭薪米穀類である。塩入駅から西に向かい十郷村を横断し後山大口を経て大口川を越える。この間は約二哩。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上りつつ五十五尺の高い切取や高い築堤の上を走りつつ、橋上から眺めも良い財田川を渡り百六十五間の長い切取を過ぎて一哩程進んで西向し山脇に入る。多治川を渡ると間もなく三豊郡財田村字荒戸にある讃岐財田駅に着く…(以下略)
これを読むと沿線沿いの風景が百年前の風景とあまり変わらないようにも思えてきます。
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財田川に架かる土讃線鉄橋工事

開通当時の時刻表は
下り
琴平発 
五時47分▲七時六分▲十時廿五分▲十二時五十分▲四時五十分▲七時廿五分 
塩入発
五時五十五分▲七時廿八分▲十時五十分▲一時八分▲五時十二分▲七時四十三分
讃岐財田着 
六時十分▲七時四十五分▲十一時八分▲一時廿三分▲五時三十分▲七時五十九上り列車
讃岐財田発 
六時25分▲八時廿分▲十一時四十分▲三時三十分▲六時▲八時二十分
塩入発 
六時四十分▲八時三十五分▲十二時二分▲三時五十二分▲六時一五分▲八時三十九琴平着 六時53分▲八時四十八分▲十二時十六分▲四時六分▲六時二十八分▲八時55分

 一日6便の折り返し運転のようです。琴平・讃岐財田が30分程度で結ばれました。これによって財田駅は終着駅・ターミナル駅としての機能をもつ駅として賑わうようになります。人ばかりでなく、郵便も荷物も駅は扱います。この時期の財田駅の駅員数は45名と記録にはあります。池田・高知方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えたのです。その「宿場街」として財田の戸川はさらに発展していきます。
 しかし、それはつかの間の繁栄でした。6年後に猪ノ鼻トンネルが完成し、池田への鉄路が開かれると財田駅は終着駅から通過駅へと変わります。人々は列車に乗ったまま財田を通過して行くようになるのです。
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盛土された新線を善通寺に向けて走る蒸気機関車 後には象頭山