瀬戸の島から

金毘羅さんや善通寺、満濃池周辺を中心とした讃岐の歴史について、読んだ本や論文などを読書メモ代わりにアップしています。コメントは歓迎ですが、お返事はしません。以前に本文を書くよりもコメントの返事をする方に時間を取られるようになって中断した経験がありますので、・・・悪しからず。しかし、コメントは読ませていただき、励みとしています。

 伊勢御師1
檀那宅を土産を持って訪れる伊勢御師 (江戸時代)
 戦国時代の16世紀になると多くの伊勢御師が全国各地を訪れ、人々を伊勢参詣ヘと誘うようになります。讃岐にも伊勢御師がやってきて、勧誘活動を行っていたようです。

伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~(前編)@ブラタモリ - メランコリア

それが分かるのが、冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」です。
この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成され、それから約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。この内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の旦那(道者)の家々を巡って、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。これを今回は見ていくことにします。テキストは「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」です。

高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
「さぬきの道者一円日記」
「さぬきの道者一円日記」は、次のような体裁になっています。
①一 さぬき 野原  なかくろ(中黒)里  一円
     数あふき  百五十本入申候
②正藤助五郎殿  やと(宿)③おひ(帯)あふき(扇)米二斗
是 藤 殿      おひ あふき のし(熨)斗本   代三百文
     小刀                同百文
六郎兵衛殿    おひ あふき        米二斗
助左衛門殿       同                    米二斗
ここには次のような項目が記されています。
①地域名         ここでは野原中黒里
②人物(寺社)名     旦那名
③御祓大麻配布の有無と伊勢土産の種類
④代価(初穂料)、
の順で整然と記されていて、日記というよりも帳簿に近い印象を受けます。土産の品目は、帯上崩・小刀などの衣類や器物、焚斗(焚斗飽)・鶏冠(鶏冠莱)などの海産物が中心です。土産は「御師が旦那に配布する、という行為自体が重要であり、それが初穂徴収という枠組みを保証している」と研究者は考えています。

伊勢御師 さぬき檀那と初穂
「さぬきの道者一円日記」 野原周辺の檀那リスト

 上表からは野原中黒里に12名(坊)の旦那がいて、そこに伊勢土産の帯や扇を持って廻ったことが分かります。野原中黒里から記述が始まるので、岡田大夫が最初に上陸したのは、野原中黒里と研究者は考えています。
伊勢御師 野原目黒
華下天満宮(高松市片原町) 中黒里

 中黒里は、華下天満宮(高松市片原町)の古名「中黒天満官」にその名残りがあります。
中世の中黒里は、中世復元図によると旧香東川の河口の中洲で、「八輪島=八幡島(ヤワタジマ)」と呼ばれる聖地でもあったようです。その北側に中世の野原湊はあり、活発な海上交易活動が展開されていたことが発掘調査から分かっています。

野原・高松・屋島復元地形図jpg

旧香東川河口の中洲にあった野原中黒里

そういう意味では、中黒里は髙松平野で最も活発な活動を行っていた港の背後にあった集落になります。畿内と行き来する廻船も数多く出入りし、梶取りや海上交易業者なども数多く生活する「港湾都市」的な性格をもっていたようです。
野原の港 イラスト
中世野原湊の景観復元図

伊勢御師の岡田太夫は、畿内から船でやって来て、野原湊に上陸し、ここを起点に讃岐の旦那衆を巡ったのでしょう。「正藤助五郎殿  やと(宿) おひ(帯)あふき(扇)米二斗」とあるので、正藤助五郎の家を宿としたことが分かります。

伊勢御師 野原復元図2
中世野原周辺の復元図 無量寿院(談義所)があった

 中黒里の旦那の中には「談義所」と記されています。これは讃岐七談義所として有力寺院であった無量寿院のことです。周辺にもいくつもの坊があり、そこに住む僧侶(修験者?)たちは、伊勢信者でもあったようです。当時は神仏混淆で、僧侶というよりも修験者たちで神仏両刀使いだったのです。
   野原・高松復元図カラー
中世野原の景観復元図
岡田太夫は、次のようなルートで旦那の家を廻っています。
①野原郷内を巡り、坂出上居里・円座里・岡本里・井原里と高松平野を南下
②阿讃山脈に近い鮎滝・安原山・岩部里・塩江・杵野・内場といった山間部を巡回
③そこで反転して下谷・川内原・植田里などの丘陵地帯を抜け、
④高松平野中央部の下林里・山良里・由良池の内・下林里・大田里・松縄里を北上
⑤現在よりも内陸側へ大きく湾入していた古・高松湾沿いの今里・木太西村里に出る。
⑥内湾する海岸沿いに東行し、高松里周辺を巡回
⑦その後、狭い海峡を渡り屋島の方本里・西方本を訪れ
⑧再び高松里に戻り牟礼里・庵治里・馬治・鎌野里。原里と庵治半島を時計回りに巡り、志度ノ里に至る。
⑨さらに門前の志度ノ里寺中から南下して西沢里・造円里・宮西里・井戸里に至り
⑩そこから西行して池戸里・亀田里・十河里。前田里・山崎里。六条里・大熊里に出た後、港町香西里に至る。
⑪香西里から南下し、新居里・国分里・福家里を巡った後、備讃海峡に突き出した乃生嶋里に出て、讃岐を離れる。

伊勢御師 檀那廻りルート
伊勢御師岡田太夫の巡回ルート

 全行程は約190km(約47里半)、巡った郡は5郡、村落の数は61、旦那の数は304名(寺社含)になります。こうしてみると伊勢御師の活動は、一つの村だけではなく、広い範囲をカバーしたものだったことが分かります。当時の社会で荘郷や領主を超えて、これだけの村をめぐり歩いてたのは、彼らのような御師(修験者)をおいて他にはなかったと研究者は指摘します。熊野・伊勢御師の活動は、もともとは信者獲得のために必要な知識として貯えられたものです。しかし、それを村の側から見れば、修験者は、村内の家格や身分秩序について把握し、またそうした情報を行く先々で広く伝達して廻る者としての役割を呆たしていたとも云えます。
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  網野善彦氏は『無縁・公界・楽』の中で、修験者や聖の勧進行為が鎌倉末期から、幕府や朝廷の権威を背景に棟別銭の徴収という形をとるようになったことを指摘しています。例えば応永19年(1412)、幕府が備前や越中などに懸けた東寺修造料棟別銭が、備前では児島熊野山の五流山伏、越中では二上山の山伏が徴収担当者に指名されています。
なぜ修験者が棟別銭を徴収することができたのでしょうか。
「菅浦文書」は、中世村落に対する棟別銭賦課の事例として有名です。その中の棟別掟では、村内の家が「本家」「かせや」「つのや」に分けて格付けされています。ここからは、棟別銭を徴収するためには、家数の把握や、家の格付け、財産についての知識(戸籍や土地台帳)が必要だったことが分かります。熊野修験者などは、先ほど見たように讃岐でも御師として檀那の間を廻り、護符を配ったり、初穂料や祈疇料を得たりしていました。こうした活動を通して修験者は、家の大小、貧富、身分といった情報を集めていたと研究者は考えているようです。
伊勢御師 檀那を迎える伊勢御師2
伊勢詣でにやってきた檀那を迎える御師(江戸時代)
  熊野・伊勢の修験者の場合を見ておきましょう。
修験者(山伏)が御師として、全国に散らばる先達として、信者との間に師檀契約を結んでいたことは以前にお話ししました。御師や先達は、檀那が本山に参詣する際には宿泊をはじめとする便宜を図ってやりました。また檀那の間を廻って巻数・護符・祓などを配り、代償として初穂料や祈疇料を得ています。伊勢御師の檀那衆は、室町時代になると在地領主層だけでなく、農村の中にも広く存在していたことは、先ほど見たとおりです。
伊勢御師 伊勢講
伊勢御師講社
大量の檀那売券には「一族・地下」「地下・一族」という語句が現れてくるようになります。有力百姓の間にも伊勢信仰は広がっていたのです。伊勢御師の修験者たちは、これらの檀那衆を毎年廻って初穂料を集めていたのです。これは村全体から徴収するものではありませんが、恒常的に棟別銭を徴収する体制を熊野・伊勢の御師たちは持っていたことになります。それは、熊野・伊勢のシステムを真似て初穂料を徴収していた地方の神社の修験者たちにについても云えることです。修験者(山伏)たちは、「廻檀」という旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通していたと研究者は考えています。

広峯神社 <ひょうご歴史の道 ~江戸時代の旅と名所~>
播磨広峯神社(姫路市)

地方の修験集団の例として、牛頭天王を祀る播磨広峯神社(姫路市)を見ておきましょう。
その社家の一つ肥塚氏は、鎌倉末期より御師として播磨・丹後・但馬・因幡・美作・備中などの諸国で檀那を獲得していました。肥塚氏が残した檀那村付帳には、諸国の諸荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといつた情報まで記されています。例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見てみると、現在の小字集落にはぼ相当する.村が丹念に調べられて記録に残されています。広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んでいたのです。

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熊野・伊勢御師や修験者たちは、檀那からの初穂料徴収を行っていました。そのためには、旦那廻りのための情報を蓄積する必要があり、村々に家がどのくらいあるのかなども情報として得ていました。修験者たちが持っている情報を活かして、棟別銭を賦課しようとする支配者が現れても不思議ではありません。
五流 絵図
児島五流修験

応永十九年(1413)9月11日、幕府は東寺修造料として、出雲に段銭、丹後・越中・備前・備後・尾張に棟別十文の棟別銭(家毎への課税)を命じています。備前での棟別銭徴収を請け負ったのが「児島山臥方」です。「児島山臥(伏)方」は、児島五流修験のことです。山伏集団が一国の棟別銭集金機構として機能しているのです。それについては、また別の機会に

以上をまとめておくと
①16世紀半ばの戦国時代に、伊勢御師が野原(髙松)にやってきて、周辺の伊勢信者の檀那衆へ伊勢土産を配り、初穂料を集めて廻っていこと。
②その際に残された記録からは、御師のたどったルートや村々・お土産の種類・初穂料の種類などが分かる。
③そのエリアは現在の高松市周辺にも及び、小領主層や海運関係者・商人・有力農民などが信者となっていたこと。彼らを結ぶのが御師であったこと
④御師は旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通すると同時に、村々をつなぐ存在でもあった。
⑤村々の鎮守やお堂にいた在地の修験者たちも、このネットワークを支える存在であった。
⑥こうして修験者のネットワークを通じて村々の寺社もは結びつけられていったこと。
⑦備前では児島五流の修験者ネットワークを利用して棟別銭が徴収されたこと。
⑧修験者ネットワークをうまく利用し、政治に利用しようとする戦国大名がでてくること
⑨それが土佐の長宗我部元親であり、金毘羅神保護も修験者による流行神創出を支援するという意図があったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」
榎原雅治 山伏が棟別銭を集めた話 日本中世社会の構造
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