納経帳の歴史について、以前に次のようにまとめました。
①近世初期の「四国辺路」の記録には納経帳は出てこないこと。
②納経帳を早くから残しているのは六十六部であること。
③四国遍路は、六十六部の影響を受けて、18世紀の後半から納経帳を持ち始めたこと。
④その背景には、納経しなくても納経印がもらえるようになったことと、納経帳自体が「ありがたいもの」とされるようになったことがある。
六十六部 納経帳最御崎寺
明和6年(1769)に浄円坊という六十六部廻国聖が残した納経帳
土佐室戸の最御崎寺の本尊や正式名称・山号などが記される

 世の中が落ち着いて天下泰平の元禄時代になると、多くの六十六部が現れます。彼らは大量の納経帳を残していますが、そこからは次のような活動状況が分かります。
①納経帳に記されている寺社数は200~700
②一国当たり3~10ヶ寺を廻り
③巡礼期間は3年~10年
④四国霊場は、ほとんどすべてを廻っている
金泉寺・大麻比古神社の納経
                明和6年(1769)に六十六部廻国聖が残した納経帳
書かれている内容は次の通りです。
右が金泉寺
「奉納大乘妙典/本尊釈迦如来/阿州龜光山/金泉寺/行者丈」、日付は「九月八日」
左が大麻比古神社
「奉納/阿波一国一宮/大麻彦神別當/霊山寺/行者丈」、
日付は「丑ノ九月八日」
中央の宝印は「弌乘院」 左下は「竺和山」
六十六たちは、どんな経典を納めていたのでしょうか?
納経帳には、奉納した経名、本尊名、寺院名などが墨書や印判で記されています。納経帳に記された奉納経名を見てみると、18世紀初期ころまでは、大乗妙典(法華経)と普門品(法華経第二十五「観音経」)を、巡礼先に応じて使い分けていたようです。具体的には、有力な社寺には大乗妙典を、それ以外の寺社には普門品を奉納していました。ところが、 1730年代後半ころからは、奉納経典として大乗妙典だけが記載され、普門品は姿を消していきます。さらに1760年代以降になると、奉納経名も記載されなくなります。
長崎街道49~大乗妙典六十六部塔とお地蔵様と | 長崎ディープ ブログ

この変化は、何を意味するのでしょうか。
「実際には経典を奉納しなくなった」と研究者は考えているようです。法華経は八巻からなる大冊です。本版印刷のものであっても、数百におよぶ寺社にこれをすべて奉納するのは簡単なことではありません。納経する寺社数が100以下だった時期ならともかく、巡礼する寺社数が700近くに増えると、それも難しくなっていったはずです。そこで納経帳に奉納経典を大乗妙典と記しますが、実際には奉納しなくなります。そして、時間が経つと奉納経典も記載しなくなるという経緯をたどるようです。
   六十六部の残した納経帳から白峯寺に関する部分を研究者が一覧表にしたのが下図です
白峯寺 六十六部の納経帳
白峯寺に関する六十六部納経帳の記述内容一覧
期間は、正徳元年(1711)から明治15年までの納経帳です。。
最初の正徳元年の納経帳には、洞林院が出てきます。洞林院は、近世始めに生駒家の支持を受けて、白峰寺一山の支配権を握った院房です。院主別名のもとで、勧進方式で伽藍の整備を進めて、白峰寺を復興します。「洞林院者本尊千手観音也」とあるので、洞林院の本尊は千手観音であったであったことが分かります。

白峯寺 十一面観音
白峯寺の十一面観音菩薩

次に宝暦3年(1753)の納経帳には、「崇徳院陵廟所 綾松山白峰寺役人」と記されています。
崇徳院陵とのつながりが強調されています。ちなみに、もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししました。白峰寺が、そのお株を横取りしているように見えます。
約30年後の天明2年(1782)には「千手院宝前」として「千手院」という寺名が登場します。
これは一山の本尊である千手観音をさすようです。以後は版木押しの「本堂千手院」という名称が数多く見られます。そして、江戸時代を通して、「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」を強調して、それをセールスポイントにしていたような印象を受けます。
明治を向かえると、版木で押された内容は次のように目まぐるしく変化していきます。
明治7年までは 「奉納経 本堂千手院宝前 崇徳天皇御廟所 讃州白峯寺 政所」
明治9年 「崇徳帝御陵所」
明治10年 「奉納経 四国第八十一番霊場 本尊千手観音大悲殿 讃州白峯寺執事」
明治15年 「奉納経 本尊千手大悲閣 讃岐国白峯寺」
このように頻繁に納経印の内容が変化します。これは以前にお話しした明治維新の神仏分離・廃仏毀釈に伴う、白峯寺の混乱を反映しているようです。
明治元年には、崇徳上皇の御霊が京都に新設された新御陵に移されます。その結果、「崇徳天皇御廟所 政所」とは名のれなくなり、「御陵所」にせざるえなくなります。
明治6年には、白峯寺住職が還俗して崇徳帝山陵陵掌となり、寺が無住となります。そのため急遽洲崎寺から橘渓道を招いて住職につきます。明治11年には、頓證寺が事比羅宮(金刀比羅官)によって摂社化されて、建物や所属の物品が事比羅宮に移管されてしまいます。この時に多くの宝物品が事比羅宮に移されたます。この時期の出来事については『神仏分離資料』に詳しく記されていて、以前にも紹介しました。
以上、六十六部が残した納経帳で白峰神社について書かれた部分を歴史順に見てきました。ここからは、江戸時代の白峯寺が 「崇徳天皇御廟所 政所」を寺のセールスポイントしていたことが分かります。それだけに、明治の神仏分離で「御廟所→御陵」となり、寺から完全に分離されたことは大きな打撃であったことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献