前回までは、戦国末の天正年間に金毘羅大権現の基礎を確立した宥盛の手腕について見てきました。その中で疑問に思ったのは、生駒藩が金毘羅に、度重なる寄進をおこなった理由です。その背景にあったものを探ってみることにします。
そこには、オナツという女性の存在が浮かび上がってきます。
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生駒家の讃岐入国 父親正と子一正
天正十五年(1587)8月、前任の仙石氏・尾藤氏が一年にも満たない間に改易された後に、讃岐国領主として入ってきたのが生駒親正(六十二歳)一正(三十三歳)親子です。この生駒家の下で讃岐の国は戦国時代の荒廃から抜け出す道を歩み出していくことになります。次の戦いに備えて、引田・高松・丸亀の3つの城の造作が進められます。そのような国づくりの中で、関ヶ原の戦いを迎えることになります。生駒家も「生き残り戦術」として信州の真田家と同じように、父親正が豊臣方へ、子一正が家康方につき戦うことになります。結果は豊臣方の敗北で、父親正は蟄居を余儀なくされ、実権を握った一正は戦後に丸亀城から高松城に拠点を移し、新しい国づくりを継続していきます。
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一正の愛したオナツとその子左門
 一方、男盛りの一正は讃岐入国後にオナツ(三野郡財田西ノ村の土豪山下盛勝の息女)を側室としていました。オナツは一正の愛を受けて、男の子を産みます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになり、元服後に腹違いの兄・京極家第三代の高俊に仕えることになります。寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。
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それでは、オナツと金毘羅を結ぶ糸はどこにあったのでしょうか?
   それはオナツの実家である財田村の山下家に求められます
山下家は戦国時代に一条家(現四万十市)に仕えていた武将のようです。主家の一条家が長宗我部元親に滅ぼされた後に財田にやって来て、勢力を養ったようです。財田において長宗我部と戦ったとの言い伝えが残っていないことから、親長宗我部派であり、土佐軍と共にやって来て「占領軍たる長宗我部軍の在地化」した勢力のひとつと考える研究者もいるようです。とにかく戦国の世を生き抜いた財田の武将・山下盛郷が山下氏の始祖でになるようです
 山下家の二代目が盛勝(オナツの父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久でオナツの兄です、父と同様、郷司となり西ノ村で知行200石支給されます。しかし、彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
 一方、オナツの弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この盛光の息子が宥睨です。宥睨は、宥盛死後にその後を継いで金毘羅の院主となります。
つまり、生駒藩の殿様である一正の寵愛を受けるオナツと、当時の宥睨は姻戚関係では「甥と叔母」という関係にあったわけです。
宥睨の弟・盛包は兄宥睨が金毘羅の院主となった慶長十八年(1613)ごろに、河内村の屋敷を引き払って金毘羅の門前町に移ってきます。この家が金光院住職里家の大山下となります。そして、後には山下家が金光院院主の座を世襲していくことになります。
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オナツの甥・宥睨を支える血脈の形成
こうして慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨には、出里の山下家の叔母オナツを中心とする心強い「応援団」がいたようです。そのメンバーを確認しましょう。
生駒藩では一正は慶長十五(1610)年に亡くなっていますが、
①一正の未亡人オナツ
②オナツの息子で藩内NO2の石高を持つ生駒左門、
③一正との間に生まれていた息女、
④③の息女の夫生駒将監
⑤③と④の長男生駒河内
など山下家ゆかりの人が大きな権勢を誇っていた時期なのです。これが金毘羅への度重なる寄進と後援につながったようです。
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 山下家の宥睨と宥盛の関係は?
宥盛(在職慶長五年~十八年)は、金毘羅大権現の基礎を築き、象頭山の守護神・金剛坊として奥社に祀られている人物ですが、宥睨とも姻戚関係がありました。それを見ておきましょう。
 宥盛の父は井上四郎右衛門家知といい、生駒家家臣で東讃川鍋村で四〇〇石を知行していました。宥盛が出家したので弟である井上家之が跡を継ぎますが、天和元年(1618)大坂夏の陣で討死にしてしまいます。弟・家之の妻は、三野郡詫間町の山地右京進の娘です。そして、その姉は詫間の山地家からオナツの弟の盛光のもとに嫁ぎ宥睨を産むのです。
 なかなかややこしいのですが、宥盛にとって宥睨は「弟の妻の姉の息子」という義理の甥関係になるのでしょうか。どちらにしても、両者には婚姻関係があります。このような姻戚関係も宥睨が金光院住職となる際には、力を発揮したのかもしれません。もちろん、オナツを通じての生駒家の後押しが金毘羅に対してあったはずです。
 同時に、宥盛も宥睨の背後にあるオナツを中心とする山下家の「血」の力に「期待」していたはずです。それに応えるだけの成果を、挙げたからこそ宥盛は次期院主に宥睨を指名したのだと私は思います。
 
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さて、生駒藩の寄進時期とオナツのに関係する事項を並べて、
        「色眼鏡」をかけて見てみましょう
天正15年(1587)8月、生駒親正(六十二歳)一正(三十三歳)親子が入国。
天正15年(1587)生駒親正、松尾村20石寄進。
天正16年(1588)生駒一正、榎井25石寄進。
天正17年(1589)生駒一正、小松村5石寄進。
         一正がオナツを側室とする。
慶長 5年(1600)オナツが実家(財田西ノ村)で一正の子・左門を出産
慶長 5年(1600)生駒一正、院内31石寄進。関が原の戦い
慶長 6年(1601)生駒一正、金毘羅42石寄進。
   生駒一正、三十番神社改築。
慶長 8年(1603)観音堂改築 丸亀城竣工。
慶長12年(1607)生駒一正、高篠村30石、真野10石、買田村10石、真野5石寄進。
慶長15年(1610)一正死亡 正俊が生駒家継承
慶長18年(1613)オナツの甥・宥睨が金光院の住職就任(以後32年間)
慶長18年(1613)生駒正俊、寄進状。
元和 4年(1618)生駒正俊、院内73石、苗田村50石、木徳村23石、寄進。
元和 6年(1620)生駒正俊、鐘楼堂建立。
この頃、オナツの産んだ左門は、腹違いの兄の京極家第三代高俊に仕えるようになる。
元和 7年(1621)正俊が36歳で死去 生駒高俊が幼くして継承、五条村へ100石寄進。
元和 8年(1622)生駒高俊、寄進。合計330石となる。
寛永17年(1640)お家騒動(生駒騒動)発生、生駒家は出羽国矢島へ配流
     (1645)金光院院主 宥睨死亡
①第1期は、天正年間です。生駒家の入国の天正十五(1587)年1月24日から始まり、3年連続します。田地の所在場所は、松尾村・江内村(榎井村)・小松村と象頭山の山麓のかつての小松庄に集中します。しかし、これは国内安堵のためであり、他の神社仏閣と比べて飛び抜けているという印象は受けません。
②第2期は、慶長年間前半です。関ヶ原の戦の後に集中します。これは、一正が実権を握り戦勝への御礼と「オナツの男 子出産祝い」ではないでしょうか。この辺りからオナツの意向を感じます。
③第3期は、慶長年間後半です。オナツからの宥睨への「院主就任祝い」ではないでしょうか。
④第4期は、元和年間です。第三代の正俊が急死した後の、弔意の性格と同時に、オナツにすれば息子左門が元服し 家禄に付くことが出来た返礼もこめられているのでは?
以上、私の大胆な推察(独断)でした。
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改めて生駒家の寄進高を見て思うのは?
①生駒家の金毘羅に対する330石という寄進は、ずば抜けて多くトップです。
②2番目に多いのが勝法寺(興正寺)の150石で、これは三好実休の時代からの寄進で例外的です。
③3番目は生駒家の菩提寺法泉寺の100石です。
④国内で古い由緒を誇る国分寺・誕生院でも60石程度。
⑤仙石家からは100石の寄巡をうけていた白峰寺・田村神社は50石で、親正ゆかりの弘憲寺と同じ。
⑥以下、屋島寺が43石、水主明神の35石、引田八幡宮30石、滝宮27石、威徳院20石、根来寺18石と続きます。
 金毘羅へは、寛永年開になっても祭祀料50石が寄せられていたので、生駒家からの寄進は実際は380石であったと考えてもいいようです。生まれたばかりの金毘羅神に、生駒家が寄進を重ねたのはオナツの力もあったのでしょうが、それだけで説明できることはできなようです。
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参考文献  金比羅領の成立  町史ことひら3 42P~

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