綾子踊り 塩飽船
 
綾子踊り 塩飽船
しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ 津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ 津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
塩飽船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も塩飽船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われています。
港に入ってくる碇泊した塩飽船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりだというのです。

「梶を押へて名告りあふ」の類例を、見ておきましょう。
①しはくふね(塩飽船)かや君まつは 風をしづめて名のりあをと 花ももみぢも一さかり ややこのおどりはふりよや見よや いつおもかげのわすられぬ…(天理図書館蔵『おどり』・やゝこ)
②しわこふね(塩飽船)かやきぬ君松わ かち(梶)おをさへてなのりあう(越後・綾子舞、嘉永本.『語り物風流二』・常陸踊)
③イヨヲ 塩飽船 彼君まつわ/ヽ イヨヲゝ梶をしつめて名乗りあふトントン(土佐手結・ツンツクツン踊歌・塩飽船)
④四百(塩飽)船かよ君まつは 五百舟かよ君まつは 梶をしづめて名のりあふ(『巷謡編』安芸郡土佐おどり・十五番 おほろ)72
⑤しわこおぶね君待つは 風をひかえておまちあれ(兵庫。加東郡・百石踊・しわこ踊『兵庫県民俗芸能誌』)

「名告りあお」は、船同士で、相手を確かめる約束事だったようです。
説教浄瑠璃「さんせう(山椒)太夫」では、夜の直江浦沖で、人買船同志が相手をたしかめあう場面があります。そこでは自分を名告り、相手の存在もたしかめています。

「塩飽船かや君待つは」の展開例を、研究者は次のように挙げられています。
①兵庫県・加東郡・東条町秋津 百石踊(『兵庫県の民俗芸能誌』
一、しわこおぶね(塩飽船) 君待つは 風をひかえておまちあれ
二、心ないとはすろすろや 冴えた月夜にしら紬
三、抱いて寝た夜の暁は 名残り惜しやの 寝肌やうん
四、君は十七 俺ははたち  年もよい頃よい寝頃
五、こなた待つ夜の油灯は 細そて長かれとろとろと
港の女と船乗りが奏でる港町ブルースの世界につながりそうです。

  ここで思い出されるのが「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」です。
法然上人絵図 室津の遊女
「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」
 この絵図は、讃岐に流刑となる法然上人の舟が室津を出港する場面を描いているとされてきました。この絵図からは、次のようなことが分かります。
①当時の瀬戸内海を行き来していた中世廻船が描かれている。
②船には、法然一行以外にも、商人たちなどが数多く乗船している。
③この船は塩飽までいくので、塩飽廻船として瀬戸内海を行き来していたのかもしれない。
一隻の小舟が近寄ってきます。乗っているのは、友君という遊女です。当時室津の町は、瀬戸内海でも有数の港町で、都からの貴人を今様や朗詠などで接待することを仕事とする遊女が多くいたようです。友君も、源平合戦で没落した姫君の一人とされます。

法然と友君の間で次のような事が話されたと伝えられます。
友君が遊女としての行く末への不安を拭うことができず、法然上人に、次のようにを尋ねた。
「私のこれまでの行いによる罪業の重さは承知しております。どうすればこのような身でも、死後の救いの道は開かれるのでしょうか」
法然上人は、「たしかに、あなたの罪は軽くない。ほかに生きる道があれば生き方を変えるのもひとつ。もし変えることができないのであれば、阿弥陀さまを信じてひたすらにお念仏を申しなさい。阿弥陀さまは罪深いものこそ救ってくださるのです。決して自分を卑下してはいけません」
友君はその答えに涙を流して喜んだ。その後、彼女は出家して、近くの山里に住み念仏一筋に生きて往生を遂げたとされる。
   つまり、この場面は出港する法然上人が船上から友君を教化する場面だとされます。高僧に直接話しかけることが難しかったため、友君は舟に乗って上人のもとまで向かったというのです。

法然上人絵伝を読む - 歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー
 
しかし、「塩飽船」の歌詞などから推測できるのは、このシーンは「出船」ではなく、「入港」場面ではないのかという疑問です。
つまり、「しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ」シーンが描かれているのではないかということです。 
  神崎も、神埼川と淀川の合流地として、また瀬戸内海と京を結ぶ港として栄えた港町です。平安時代には「天下第一の楽地」とまでいわれていました。ここでは法然と遊女の話が次のように伝えられます。

 神崎の湊に法然さまが乗った舟が着いたときのことです。宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました。舟には他に吾妻・刈藻・小倉・大仁(あるいは代忍)という四人の遊女が乗っていました

 ここで注目したいのは、「宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました」とある点です。これも見方を変えると「君まつは 梶を押へて名乗りあふ」のシーンになります。そういう目でもう一度、室津の遊女船を見てみると、梶を押しているのは、女(遊女)です。

道行く人たち―法然上人絵伝 : 座乱読無駄話日記live
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
以上から、これは瀬戸の港町で一般的に見られた遊女船の名告りシーンと私は考えています。
当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。
遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 舵を取ったのは一番の年長者の「老」で、少が一座の主役「若」に笠を差し掛けます。主役の遊女は、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘うのです。
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このような場面を歌ったのが「塩飽船」ということになります。
 そうだとすると、遊女は法然上人に身のはかなさを身の上相談しているのでなく、船のお客に対して「どうぞお上がりになって、休んでいかれませんか」と「客引」していることになります。

法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
そういう目で船上の法然を見てみると、確かに説法をしているようには見えません。困惑している様子に見えます。

港に入港する船は、「塩飽船」→「堺船」→「多度津船」の順番に詠われます。塩飽と多度津は備讃瀬戸の海上交通の重要な港町でした。堺は繁栄ずる瀬戸の港町の頂点に立つ町です。綾子踊りで一番最初に踊られる「水の踊り」にも、登場していました。

三味線組歌では、次のような類例があります。
堺踊りはおもしろや、堺踊はおもしろや、堺表で船止めて、沖の景色をながむれば、今日も日吉や明日のよやあすのよや、ただいつをかぎりとさだめなのきみ(『日本伝統音楽資料集成』(3)

瀬戸内海の港町へ、船が入港しそれを出迎える遊女船の出会いシーンがうかがえます。今までに見てきた綾子踊歌の中の「四国船」「綾子」「小鼓」「花籠」「たまさか」「六調子」、「塩飽船」は、この続きになります。そういう意味では、瀬戸内海を行き来する船と港と船乗りと女達の「港町ブルース」であると私は考えています。廻船の航海活動が風流歌から連続性をもって見えてきます。


『巷謡編』土佐郡神田村・小踊歌・じゆうごかへり踊・豊後(『新日本古典文学大系』・64巻)には、塩飽が次のように歌われます。
○備後の鞆をも今朝出して ヤアー 今は塩飽の浜へ着く
○塩飽の浜をも今朝出して  ヤア今は宇多津の浜へつく
  広島県の鞆の浦 → 塩飽へ → 讃岐宇多津へと、潮待ちしながら航海を続ける廻船の姿が歌われています。

室津の遊女
揚洲周延筆「東絵昼夜競」室の津遊女(江戸時代)

以上をまとめておくと
①「塩飽船」に歌われる「梶を押へて名乗りあふ」というのは、入港する船とそれを迎える遊女船の名乗りのシーンを歌ったものである。
②当時は入港する船を、遊女船が出迎え招き入れたことが日常的に行われていたことがうかがえる。③江戸時代の御手洗などでも、このような風習があったので近世になっても遊女たちが「梶を押へて名乗りあふ」ことは行われていた。
④そういう目で、「法然上人行状絵図」の室津での遊女教化場面は、「見送りシーン」でなく、遊女の名告シーンとも思える。

  どちらにしても「塩飽船」というフレーズが、中世には瀬戸内海を行き来する廻船の代名詞になっていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献