瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

講演に使ったパワーポイント資料をアップしていこうと思います。

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妖怪街道の子泣き爺

台風通過直後に野鹿野山に原付バイクツーリングをしました。大歩危の遊覧船乗場を過ぎて、藤川谷川に沿って原付を走らせます。台風直後で川にはホワイトウオーター状態で、勢いがあります。本流を流れる川は濁っていますが、支流の藤川谷川に入ると台風直後の増水にもかかわらず透明です。この川沿いの県道272号線は、いまは「妖怪街道」として知名度を上げています。

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ヤマジチ
街道の最初に登場する看板は「歩危の山爺」です。
この物語は、村に危害を加える妖怪を退治したのは「讃岐からきた山伏」とされています。ここからは、讃岐の山伏がこの附近まで入ってきて行場で修行したり、布教活動を行っていたことがうかがえます。

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妖怪街道の山向こうの土佐本山町には、神としてまつられた高野聖の次のような記録が残っています。
ヨモン(衛門)四郎トユウ
山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキ
をくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置
きのをつにツキ ヘび石に ツカイノ
すがたを のこし
とをのたにゑ きたり
ひじリト祭ハ 右ノ神ナリ
わきに けさころも うめをく
わかれ 下関にあり
きち三トユウナリ
門脇氏わかミヤハチマント祭
ツルイニ ヽンメヲ引キ
八ダイ流尾 清上二すべし
(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年)
    宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、奥大田へやって来た。そこに杖を置いて木能津に着いて、蛇石に誓い鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。
聖が祀ったのは 右ノ神である。
その脇の袈裟や衣も埋めた。分家は下関にある吉三という家である。子孫たちは門脇氏の若宮八幡を祀り、井戸(釣井)に注連縄を引き、八大龍王を清浄して祀ること
 この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」と祀ったと記されています。
 土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社と研究者は考えています。ここからは、本山にやって来た高野聖が自分の形見をのこして、それを聖神として祀ったことが分かります。

本地垂迹資料便覧
聖真子(ひじりまご)

 この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑の跡があとが斜面いっぱいに残っていたと云います。その畑の一番上に、袈裟と衣を埋めたというのです。そこには聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)が残っているようです。ちなみに四国遍路の祖とされるは衛門三郎です。衛門四郎は、洒落のようにも思えてきます。

本山町付近では、祖先の始祖を若宮八幡や先祖八幡としてまつることが多いようです。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
 川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行の跡だった研究者は考えています。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡であるのと同じです。妖怪街道沿いにも、そんな修験者や聖たちの痕跡が数多く見られます。彼らの先達として最初に、この地域に入ってきたのは熊野行者のようです。

熊野行者の吉野川沿いの初期布教ルートとして、次のようなルートが考えられる事は以前にお話ししました。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社を勧進し拠点化
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして、瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④一方、土佐へは北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
 熊野行者たちは、断崖や瀧などの行場を探して吉野川の支流の山に入り、周辺の里に小さな社やお堂を建立します。そこには彼らが笈の中に入れて背負ってきた薬師さまや観音さまが本尊として祀られることになります。同時に彼らは、ソラの集落の芸能をプロデュースしていきます。盆踊りや雨乞い踊りを伝えて行くのも彼らです。また、今に伝わる昔話の原型を語ったのも彼らとされます。各地に現れた「熊野神社」は、熊野詣での際の道中宿舎の役割も果たし、孤立した宗教施設でなく熊野信仰ネットワークの一拠点として機能します。

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 熊野行者たちは諸国巡礼を行ったり、熊野先達を通じて、密教系修験者の幅広いネットワークで結ばれていました。例えば、讃岐の与田寺の増吽などの師匠筋から「大般若経の書写」への協力依頼が来ると引き受けています。このように阿波のソラの集落には、真言系修験者(山伏)の活動痕跡が今でも強く残ります。

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野鹿池の龍神

 話を元に返すと、妖怪街道と呼ばれる藤川谷川流域には、このような妖怪好きの山伏がいたのかも知れません。
彼らは、庚申信仰を広め、庚申講も組織化しています。悪い虫が躰に入らないように、庚申の夜は寝ずに明かします。その時には、いくつも話が語られたはずです。その時に山伏たちは熊野詣でや全国廻国の時に聞いた、面白い話や怖い話も語ったはずです。今に伝えられる昔話に共通の話題があるのは、このような山伏たちの存在があったと研究者は考えているようです。
修験役一覧
近世の村に定住した山伏の業務一覧
今回訪れた妖怪ポイントの中で、一番印象的だった赤子渕を見ておきましょう。
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車道から旧街道に入っていきます。この街道は青石が河床から丁寧に積み重ねられて、丈夫にできています。ソラの集落に続く道を確保するために、昔の人達が時間をかけて作ったものなのでしょう。同じような石組みが、畠や神社の石垣にも見られます。それが青石なのがこの地域の特色のように思います。五分も登ると瀧が見えてきました。
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赤子渕
台風直後なので水量も多く、白く輝き迫力があります。

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滝壺を巻くように道は付けられています。これは難工事だったとおもいます。そこに赤子の像が立ってました。
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なにかシュールで、おかしみも感じました。瀧は爆音で、大泣き状態です。滝上には橋がかかっています。この山道と橋が完成したときには、この上に続くソラの集落の人達は成就感と嬉しさに満ちあふれて、未來への希望が見えて来たことでしょう。いろいろなことを考えながらしばらく瀧を見ていました。

「赤子渕」が登場する昔話は、いくつもあるようです。
愛媛県城川町の三滝渓谷自然公園内にもアカゴ淵があります。ここでは、つぎのような話が伝えられています。
  
むかしむかし、赤子渕は生活に困り生まれた子を養うことができなくなった親が子を流す秘密の場だった。何人もの赤子が流されたという。その恨みがこの淵の底に集まり真っ赤に染め、夕暮れ時になると赤子の淋しそうな泣き声が淵の底やその周囲から聞こえてくるという。

信州飯田城主の落城物語では、赤子渕が次のように伝えられます。
 天正10年2月(1585)織田信長は、宿敵甲斐の武田氏打倒の軍をついに動かした。飯田城主の坂西氏は、木曽谷へ落ち延びて再起をはかろうと、わずかな手勢と夫人と幼児を伴って城を脱出した。しかし逃げる途中で敵の伏兵に襲われ、家臣の久保田・竹村の2人に幼児延千代を預け息絶えた。延千代を預かった2人は、笠松峠を越して黒川を渡り、山路を南下したが青立ちの沢に迷い込んでしまった。若君延千代は空腹と疲れで虫の息となり、ついに息が絶えてしまった。その後、この辺りでいつも赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった。
「赤子なる淵に散り込む紅つつじ昔語れば なみだ流るる」

    赤子渕に共通するのは、最後のオチが「赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった」という点です。その前のストーリーは各地域でアレンジされて、新たなものに変形されていきます。
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  藤川谷川流域のソラの集落・ 旧三名村上名(かみみょう)に上がっていきます。
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  管理されたススキ原が広がります。家の周りに植えられているのは何でしょうか?

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上名の茶畑
  近づいてみると茶畑です。旧三名村はお茶の産地として有名で、緑の茶場が急斜面を覆います。それが緑に輝いています。

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山城町上名の平賀神社

  中世の讃岐の仁尾と土佐や西阿波のソラの集落は「塩とお茶の道」で結ばれていたことは以前にお話ししました。
仁尾商人たちは讃岐山脈や四国山地を越えて、土佐や阿波のソラの集落にやってきて、日常的な交易活動を行っていました。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、そこで生産された塩は、讃岐山脈を越えて、阿波西部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていました。その帰りに運ばれてきたの茶です。仁尾で売られた人気商品の碁石茶は、土佐・阿波の山間部から仕入れたものでした。
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。
古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡昼間に入り、そこから剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。その東の三名では、仁尾商人たちが、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたのです。
 山城町三名周辺は、仁尾商人の商業圏であったことになります。
そのために「先達」として、讃岐の山伏が入り込んできていたことも考えられます。取引がうまくいく度に、仁尾商人たちは、山伏たちのお堂になにがしのものを寄進したのかもしれません。

それは、天正2年(1574)11月、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳に、長宗我部元親とともに仁尾商人の名前があることからも裏付けられます。
豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が見えます。

阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場で国宝の本堂を持つ本山寺(三豊市)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。 空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
個人タクシーで行く 四国遍路巡礼の旅 第70番 本山寺 馬頭観世音菩薩 徳島個人中村ジャンボタクシーで行く四国巡礼の遍路巡り 四国36不動 曼荼羅霊場  奥の院
本山寺の本尊は馬頭観音

本山寺は、もともとは牛頭大明神を祀る八坂神社系の修験者が別当を務めるお寺でした。この系統のお寺や神社は、馬借たちのよう牛馬を扱う運輸関係者の信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたと研究者は考えています。

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山城町上名の茶畑
「塩とお茶の街道」を、整理しておきます。
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷や阿波三名などに頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域や阿波三名などの山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。

今は山城町の茶葉が仁尾に、もたらされることはなくなりました。
しかし、明治半ばまでは「塩と茶の道」は、仁尾と三名村など阿波西部を結び、そこには仁尾商人の活動が見られたようです。それとリンクする形で、ソラの修験者たちと仁尾の覚城寺などは修験道によって結びつけられていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
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