大きな屏風絵が金刀比羅宮に残されたいます。
この屏風絵は二双から成り、「清信筆」の署名と「岩佐」(方印)、「清信」(円印)の押印がありますので、作者が狩野休円清信であることがわかります。描かれた時期は、元禄年間(1688~1703)とされています。
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 二双になっているのは、二王門から上のところを描いた山上の図と、二王門から下を描いた山下の図とに分かれているからです。屏風絵のテーマは、十月十日の金刀比羅宮の大祭で、頭人行列を中心に金毘羅の町のにぎわいが描かれています。この絵を見ながら、今から約三百年前の元禄時代の大祭で賑わう金毘羅の門前町の様子を見てみましょう。 
DSC01397大門祭礼図

日蓮の命日であるお会式(えしき)と金毘羅さんの関係は?
汪戸時代のはじめになると全国の大きな寺社のお会式(えしき)、御開帳の祭礼に盛大な市が立つようになります。お会式(おえしき)は、日蓮の命日の10月13日にあわせて行われる法要のことです。日蓮の命日の前夜(10月12日)はお逮夜(おたいや)と呼ばれ、各地から集まった信徒団体の集まり(講中)が、行列し万灯や提灯を掲げ、纏を振り、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えながら境内や寺の近辺を練り歩きました。古くは、提灯に蝋燭を灯し、団扇太鼓を叩きながら参詣する簡素なものだったようです。それが、江戸末期から明治時代に町火消たちが参詣に訪れるようになると纏を振るようになり賑やかになったようです。日蓮宗の寺では、境内に鬼子母神を祀る場合が多く、鬼子母神の祭りを兼ねる場合も多いようです。また、寺によっては花まつりではなく、お会式や千部会に稚児行列が出る場合があります。
 どうして日蓮のお会式が金毘羅大権現に関係あるの?
  戦国末期に、インドからこの山に招来した金毘羅神は新参者です。信仰する信者集団もいなかったために法華宗の祀った守護神である三十番社の祭礼を、奪って金比羅堂の祭礼に「接ぎ木」するという荒療法を行いました。そのために金毘羅大権現の大祭には法華八講の祭礼が色濃く残るとともに、開催日も日蓮の命日であるお会式前後の十月十日になっているようです。
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 十月十日の祭礼当日の門前町ことひらを見ていきましょう
 高松道からやって来た頭人行列の動きに合わせて東(右)から西(左)に町並みの様子をたどります。まず行列は木戸をくぐります。ここが天領である池料と金毘羅社領の境でした。
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この木戸は、ここからが社領の入口であることを示す役割を持っていました。この木戸を抜けると金毘羅領です。図には、頭人の奴行列の道具を持って金毘羅領に入ろうとしているところが描かれています。それを参拝者が、道の端に寄って、行列を眺めています。
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すぐに鳥居が迎えてくれて、その手前で北からの道が合流しています。ここが丸亀街道の終点になります。丸亀街道からの参拝客を併せて、より大きくなった人の流れは、西(左)へと進みます。
新町の街並み
 この辺りは「新町」と呼ばれる町で、延宝3年(1675)に天領との土地交換で新しく寺領になった所です。それから20年余りで、道の両側には、板屋根の店棚がすき間なく並ぶ門前町を形成しています。地替えは、金毘羅さんには大きなプラスになったようです。 

新町の店は、道に面したところに簡単な棚を作り、その上に商品を並べているようです。よく見ると店の奥行は浅く、間取りは一部屋ほどですぐ裏に抜けます。裏は庭になっていたり、畑になっていたりします。この時期の新町は「新興商店街」で大店のお店はなく小さい店が並んでいたようです。
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 新町の町並みを木戸口の辺りから順にみてみましょう。
道の南側(下方)には、小さな宿屋と思われる家が並んでいます。屋根は板葺きがほとんどで、その中に茅葺きの屋根がポツンポツンと混じっています。その中には、生け花を飾った床の間のある部屋をもつ家や、主人と思われる人が魚を料理している家、食事の用意をしている家、参詣の旅人らしい人が横になり休んでいる家などが鞘橋まで続きます。
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 向かいの家並み(上方)の家並みでは
木戸口のところからめし屋、うどん屋と並び、丸亀道で一旦途切れます。そして、鳥居から魚屋、古着屋(服屋?)、道具屋(小間物屋?)、さらに同じような品物を並べた古着屋と続いて、屋根の付いた鞘橋のたもとにやってきます。
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 鞘橋のたもとに来たところで、川を見ると・・。裸になって泳いでいる人が・・・
最初、この絵を見たときの私の感想です。これは素人の見方です。
本当は金毘羅山に参拝するために、ここで身を清めているのです。鞘橋の下は、沐浴(コリトリ)場として神聖な場であったことを、この絵から知りました。
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鞘橋のたもとのところにも南からの道が合流しています。これが阿波からの阿波街道です。こちらからもたくさんの参詣人がやって来ています。阿波道の角のところには陶器屋が陶器類を並べています。
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身を清めて鞘橋を渡ると、町並みの南側には宿屋と思われる家並みが続いています。
 さらに西(左)へ進むと、この辺りから内町に入ります。
道の南側は宿屋(茶屋)がずっと続いています。入母屋の瓦屋根で立派な建物で、大きな庭もあります。内町は、「高級旅館街」として門前町の中心的な町として栄えていきます。先ほどの新町の宿屋は板葺屋根でしたので「格」が違うようです。後の史料からは茶屋二七軒、酌取旦雇宿六軒の計三三軒があったことが分かります。 「讃岐国名勝図絵」に
「南海中の旅舎、三都に稀なる規模にて当地秀逸と謂べし」と讃えられた「とらや」
は延享四年(1747)に入口・玄関の普請が分限不相応として閉門を命じられ、破風・玄関・式台を取り除いてやっと許された大旅館でした。その他にも、芳橘楼(ほうきつろう)・余島屋などの大旅館と共に、天保の打ちこわしで破壊対象になる米屋・酒屋・油屋などの大商店が軒を並べていました。
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 南側に対して、北側は鞘橋を渡ったすぐのところが服屋(古着屋か)です。その横に、北から合流する道があります。ここが多度津街道のゴールです。多度津道沿いの店は、角が服屋です。その隣(絵で見ると奥側)には、馬方が馬を数頭休めています。馬継所なのかもしれません。残念ながら、そこから奥はきちんと描かれていません。道を挟んだ向かい側は、煎餅らしいものを焼いている店があります。参詣客が、店主に注文しているようにも見えます。何を焼いているか分かりませんが、気になるところです。

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その隣の多度津道と本道との交差する角に当たる所は、惣菜屋(めし屋?)のようです。食べ物を売る見せも多いようです。
一方北側を見ると、惣菜屋の隣は、弓師の店です。続いて、小間物屋、道具や、二軒分の家が空いて、桶屋と続きます。 
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そして、西へ進んでいくと登り坂になって行きます。坂の両側にも、食べ物屋、うどん屋、宿屋、うどん屋、服屋、あめ屋と続きます。
参道の上り口に当たるこの辺りには札場があったので、札ノ前町と呼ばれました。
そして、その上には大門までの両側に階段状に町が形成されます。札之前町には一一軒、坂町には四軒の茶屋がありました。この両町は、参詣客が両側を見ながら参道を登って行く所で、土産物屋や飲食店が建ち並んでいます。
 代表的な土産物には、上鈴(神鈴了延命酒・薬草・金毘羅団扇・天狗面・白髪素麺(宝暦十=一七六〇年、素麺師かも屋甚右衛門が移住し、製造が始まったと伝えられる)・びっくりでこなどがありました。なかでも、金毘羅大権現の神徳を象徴する土産として特に有名になったものに、大門付近などで売られた金毘羅飴があります。あめ屋の向かい、少し斜め上辺りから南西(左)に、伊予からの道(伊予街道)が合流しています。
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伊予街道沿いの町並みが谷川町です。
 延宝三年の地替図では本殿への参拝道が脇道で、伊予街道の方が本道のように描かれ、谷川町が奥の広谷墓地に向かって伸びて賑わっている様子が描かれていました。それから30年余りで状況は逆転して、この屏風絵では参詣道の方がはるかににぎやかになっているようです。谷川町は伊予街道のゴール地点として食べ物屋が建ち並んで、にぎやいだ雰囲気があります。                                                                                    
 これより上、大門(二王門)までは坂町です。
この町並みには宿屋と思われる店がずっと並んで描かれています。大門を入ると、そこは山上と呼ばれる境内です。これからは金光院家中の家が続きます。
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芝居小屋が並ぶ金山地町の賑わい
 さて山上の様子は、またの機会にして、ここからやってきた道を鞘橋まで引き返します。
先ほど見た高級旅館の裏が入っていくと、賑やかな呼び込みの声や音楽が聞こえてきて、芝居小屋が姿を見せます。 ここが金山寺街です。参拝を済ませた客が、願を掛け終えた安堵感・開放感に浸りながら精進落としをする場所です。この辺りは金山寺町と呼ばれ、かつては金山寺というお寺があったと伝わりますが史料は残りません。
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 街に入ると、ちょうど歌舞伎小屋が立ち、中では歌舞伎が演じられているようです。常設の芝居小屋である金丸座が建つのは百年後のことです。
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さらに奥へ行くと、浄瑠璃を演じている小屋もあります。道を挟んだ向かい側には、別な歌舞伎小屋も見えます。参詣客は、歌舞伎・浄瑠璃などを十分に楽しんで、あとそれぞれの村、家へ帰っていったのであろう。この屏風絵には、金毘羅の大祭の賑わいがリアルに描かれています。

  この屏風絵が描かれた元禄年間(17世紀末)の金山寺町の広場には、所狭しと小屋が架けられ、芝居が興行されていたのです。
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 江戸中期以降、全国に131か所もの歌舞伎小屋が散在していました。
その場所と規模を伝えるものに「諸国芝居繁栄数望」(天保十一年子之十一月大新板)という芝居番付が残っています。そこには金毘羅大芝居は金沢・宮島などと並んで、西の前頭六枚目の最上段に「サヌキ金毘羅市」と名前が載っています。ここからは金毘羅の芝居が西国における第一級の芝居として、高い知名度と人気があったことが分かります。
 井原西鶴の「好色一代男」の中にも、安芸の宮島と金毘羅の賑わいを、旅芸人に語らせるシーンがあります。元禄年間おいては、金毘羅の賑わいは有名であったようです。しかし、それに引かれて東国から参拝者が押し寄せるようになるのには、まだ百年の歳月が必要でした。
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 この絵からは人寄せのために芸能や見世物などが催されにぎわうこんぴらの様子が伝わって来ます。金毘羅信仰が盛んになるにつれて、市立と芸能は共に栄え、門前町ことひらは一層繁栄するようになっていった様子が分かります。
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参考文献 金毘羅門前町 町史ことひら 127P~

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