瀬戸の島から

2008年04月

随想 膝の上第15話小さなお袋
鮠沢 満 作
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当時は女としては大柄だった。
なのに母が小さくしぼんでしまった。
先日、久し振りに実家に帰った。
真っ先に感じたこと。
それはお袋が小さくなったということ。
私の印象の中にあるお袋は、骨格がやや太くがっちりとした体躯の持ち主であった。
今思えば、お袋だけに限ったことではなかったかもしれない。
実家の周囲は田圃だらけ。
どの家も百姓を生業としていた。
力仕事を要求される仕事だけに、百姓女はみながっちりとして逞しかった。
それでもお袋は当時としてはやはり大柄な部類に入っただろう。
兄と私はこのお袋と親父の立派な体格と健康をもらった。
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 年取った今は、身体もあちこちがたがきて、野良仕事も思うようにならず、
家族が食べる野菜を少々作ることと、
農家には相応しくない広さの枯山水の庭掃除に明け暮れる毎日である。
百姓家に枯山水の庭という取り合わせは妙な感があるが、
実を言えば親父は百姓でありながら、華道と茶道の師範免状を持っていた。
彼は、日々の生活は質素を旨とし、飾りを捨て去ったわびさびの世界に生きていたように思う。
そんな中、芸術的生き方を求めていた。
中でも四季の風流を楽しむ感性を大切にしていた。
これを私は親父から引き継いだ。
その親父が大切にしていた庭を、今はお袋が守っている。
国家公務員である兄は、なかなか多忙で、庭の世話まで手が回らない。
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 お袋というと、私の脳裏に登ってくるものがある。
「東京? お前、東京へ行くと殺されるぞ」
「イギリス? そんな遠いところに一人行くなんて無茶や。殺されるぞ」
 お袋がかつて私に言った言葉である。
私が大学生のときだった。
私にしてしてみれば、もう大学生。
しかし母にしてみれば、まだ子供。
今もってその状況は変わっていない。
私は五十路を過ぎた。
兄も同じ。
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でも、お袋にしてみれば、子供はいつまで経っても子供。
その子供がいつしかお袋を追い抜いてしまった。
そう身体の大きさで。
子供が大きく成長するのに反比例したように、
お袋はどんどん小さくなっていった。
まるで今だに私たち兄弟が、お袋から乳をもらうみたいに、
お袋の身体から栄養を摂り続けている。
もしかするとそうなのかもしれない。
つまり、身体の栄養ではなく、心の栄養。
子供は大人になって、自分で独り立ちしているつもりでも、
親からすればまだまだ子供。
子供たちは親から目に見えない形でサポートされているのに
気が付いていないのかもしれない。
特に、核家族化が進む昨今では。
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「もういつお迎えがきてもおかしくない。もう八十五やしな。
 お前な、ちゃんと最後まで勤め果たさなあかんで。
最近、生徒殴ったり、飲酒運転したりして、よう先生が新聞に出とる。
母ちゃんはそれだけが心配や。
ええな。悪いことはするなよ」
一昔前、私が外国に出るとき、
「お前、そんなところに行くと殺されるぞ」
と必ず言っていたが、今はこれが口癖である。
よほど私の面つきがよくないらしい。
これでも親父とお袋の力作のはずなんだけどなあ……。
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 ひょっとすると、お袋は子供のことを心配するあまり
身体がしぼんでいったのだろうか。
とにかくお袋の身体がどんどん小さくなっていくのを見るのは、
やはり子供として忍びない。
いつまででもそばにいてほしいと願うのだが、こればかりは無理。
せめて生きている間だけでも、親孝行をしたいと思う。
というのも、やがて私もしぼんでいく日を迎えるからである。
 親は子供に身体と心の栄養を与えて、小さくなっていく。
でも、いつまでたっても大きな親に違いない。

随想 膝の上第14話 紅葉狩り
鮠沢 満 作
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まさしく全身すっぽりと紅葉に呑まれていた。
気が付けば、紅葉の絵の具の中を泳いでいるのだった。
最初は頭でその美しさを噛み砕いていた部分があったが、
こういう場合考えるという行為そのものが野暮で無意味、
途中から感覚的に理解するというものに変わった。
 ときどき自分が変身したくなるときがある。
そんなこと根本的にはできっこないのに、それをしたくなるのが人間。
特に私のように少年返りした大人はその傾向が強い。
叶わぬ願望とでも言うのだろうか。
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でも、少しくらいなら心の持ちようでそれもどうにかなる。
疲れてへとへと。
一歩たりとも動きたくない。
ご飯も食べたくない。
蒲団にもぐり込んで、四肢が退化するほど寝たい。
もう自己変革もへったくれもない。
こういう末期的状況でも、自分が少しでも打ち込めるものに、
まあ試しにやってみるか、と自己投入してみると、
意外に普段と違った自分を発見し結構変身できる。
当然のことながら、一時的なことではあるが……。
持続性のある変身を望むなら、それ相応の覚悟と努力、さらに代価が伴う。
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 私はよく自然の中に自分を放り出してみる。
すると、自然というものがこれほど繊細で優しいものかと気付く。
その逆もある。
言葉にはならないほどよそよそしくて冷たく、
ときには抗いがたい猛威を振るってくることもある。
たとえ後者の場合であっても、人間は心のどこかに自然を求め、
その懐の中で癒されようとしているのではないか。
かく言う私もその一人である。
多分、その理由の一つに自然が嘘をつかないというのがあるのだと思う。
嬉しいとき寛大に他者を慈しみ、腹が立ったら烈火の如く怒る。
人間のように、相手によってあの手この手と使い分け、
計算高く振る舞ったりはしない。
だから真意を推し量る手間も不要だし、余計な気を遣うこともない。
目に映る現象そのものが事実であり、それをもたらす秘められた力こそ真理である。
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 余計な気を遣わないでのんびりくつろげるところ? 
確かこれによく似たものが……そうだ、家族だ。
でも昨今のニュースを見ていると、
丸い心がギザギザになってしまうような事件が後を絶たない。
ギザギザどころか、干からびてひび割れさえしてくる。
肉親同士がいがみ合い、殺し合う。
もう家族が家族でない。
換言すれば、他人同士の集団生活、異物同士の同居。
このコンクリートのような無機質の空間に見え隠れするものは明らかだ。
言葉を忘れ、視線を合わさず、自分の世界にこもる。
いつしか煩わしいことから目をそむけるあまり、生き方そのものを喪失する。
自分が生きているのか、はたまた生かされているのか、それさえも定かでない。
温かい感情を滋養にすくすく育っていない人間は、
心に巣くった空虚を埋めるのに暴力に走る。
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囲炉裏を囲んで肩を寄せ合い暖を取る。
熱い鍋物をフーフーと息を吹きかけながら口に運ぶ。
孫がおじいちゃんの膝の上で、大きな目をぱっちり開けて、
揺れる火を眩しそうに眺めている。
こんな風景はもう日本では見られなくなってしまうのだろうか。
もしそうだとしたら、私たちは途轍もなく大切なものを失おうとしていることになる。
ちょっぴり貧しい。これが一番。
ちょっぴり幸せ。これで満足。
疲れた自分を少し休めてみませんか。
小さな止まり木でもいいじゃないですか。
そばに誰か寄り添ってくれる人がいればなおさらいい。
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今は紅葉の季節。
木々が、山々が、錦の衣にすっぽり包まれている。
あなたも一枚の葉っぱになってみてはどうですか。
あなたも一本の木になってみてはどうですか。
そしたら少しは装いを変えることができるかもしれません。
装いが変わると、気持ちも変わって内面も変わる。
ひび割れた心に潤いという潤滑油を流し込むことができる。
子供だましみたいですけどね。
 ちょっぴり貧しい。これが一番。
 ちょっぴり幸せ。これで満足。
  

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