瀬戸の島から

2017年03月

  昨年は伊吹と粟島の島巡礼に参加。袋に入りきらぬような接待の品々を持ち帰る人たちを横目に、来年こそはと「リベンジ」に燃える我が配偶者。今年の島巡礼の日程に合わせて仕事のスケジュールも組んである力の入れよう。今年のスケジュールは以下の通り

 3月31日(金) 本島
 4月15日(金)~17日(日) 伊予大島
 4月17日(月) 広島
 4月27日(木) 伊吹島
 4月29日(土) 粟島 
まずは、今年最初の島巡礼となる本島に出向くことになった。
天気予報は9時頃から雨、気温は前日より10度近く下がり、2月下旬の冷え込みになるという。が寒さにめっぽう弱い配偶者が、やめようとは云わない。それならばと準備を整え、はやる気持ちを胸に丸亀港を目指す。港の近くの市営駐車場はガラガラ。スンナリ駐車でき、往復1100円の切符を握りしめて7:40分の本島行フェリーに乗り込む。すでに客室に入れないほどの巡礼者で埋まっていた。

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本島行きフェリー乗場(丸亀港)
おもいおもいのスタイルで本島をめざす。自転車を持ち込む人も
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 春風陽光の中、桜の花を眺めながらのんびりと島時間を体感しながらの島遍路という思惑とはちがってきていることを、甘く見ていた我々であった。


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外の温度は4度、冷たい風を避けながらデッキで30分の船旅を楽しむ?(耐える)

 本島港に着くと、港に案内テントが立ち、地図が配布され、フェリーで到着した人たちは瞬時の内に逃散した。みんな同じ方向に向かうものとおもっていたので少々当惑。何回も巡礼を行っている経験者や、島出身者の方の「故郷帰り」のついでも多いようだ。
 

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本島港
小雨の中、フェリーから急ぎ足で下船していく巡礼者たち

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人影が少なくなったフェリー乗り場に「レンタサイクル」の看板を発見。乗り場には、多くの自転車が残っている。竹富島でレンタサイクルのお世話になった配偶者は、これがええ」と指さす。昨年の粟島と同じ、歩き遍路からサイクル遍路に転身。

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本島で借りた自転車

 
雨がぽつぽつと落ちてくる中、雨具を着てスタート。まずは一番札所を目指す。1番から6番までは島の東北部の街並み保全地区である笠島周辺にあるようだ。地図を見ながら道標と登りを頼りの巡礼オリエンテーションサイクルの開始である。

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 塩飽勤番所の前を通過し
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最初の接待所は山根地区の文化センター(公民館?)の番外お接待所。

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建物入口横に臨時の参拝所が設けられている。昨年の教訓から
「我々はものもらいではない、へんどではない。あくまでも巡礼参拝者である。だから接待所では、せめて賽銭と般若心経を上げよう」

ということで配偶者と意見が一致。まずは、礼拝。
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読響が終わるのを待っていたかのように「お接待どうぞ・・」の声がかかり、テーブルにつく。ここでは手作りの赤飯と「こんこ(沢庵漬」が振る舞われた。「どこからきたんな」という挨拶から始まり、いろいろな話題に話が移る。
本島で感じたのは、地域全体で手作りの接待準備が行われているということ。市販の菓子やジュース等もあったが、手作りの赤飯を頂いた所も多かった。「昼飯前」に赤飯を頂き一番札所を目指す。
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坂の上の長徳寺
 遠見山展望所に続く急登を自転車を押して登る。
配偶者は「これなら電動自転車にしといたら好かった」と呟く。
しかし、それもわずか5,6分で長徳寺は見えてきた。
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長徳寺
下から見ると石垣の上に立つ砦のような印象を受ける境内。

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一番に目につくのはモッコクの巨木。枝を伸びやかに一杯に広げた姿が見ていて気持ちいい。参拝を済ませ、ここでも接待を受けて境内を散策する。

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お堂には藤原期の仏像が開示されている。

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長徳寺本尊
この島は、瀬戸内海交通の要衝として早くから九条家の荘園となり、その縁で土佐流刑に処せられた法然が立ち寄るなど、人と物と富の大動脈として資本蓄積も進んだ島であった。そのため古くからの寺院も多く、文化財に指定されている多くの仏像が残る。しかし、参観できるのは島遍路の行われるこの日だけという寺院も多い。この日に参拝すれば、普段は見ることの出来ない仏達に出会えることも、本島巡礼の楽しみの一つかもしれない。
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 雨が本降りになりだした。しかし、巡礼は始まったばかり。さてどうなることやら。
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県会議員時代の 増田穣三について

 明治37年に「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という本が出版されている。
当時の香川県の政治経済面で活躍中の人物を1人2Pで風刺を効かして紹介したものである。その中に増田穣三も次の肩書きで紹介されている。これを見ながら、増田穣三の県会時代を垣間見てみよう。

讃岐電気会社社長 県参事会員 増田穣三先生 イメージ 1

躰幹短小なるも能く四肢5体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いて讃岐電気会社社長たる地位を表彰す、増田穣三先生も亦好適の職に任じられたるもの哉。
 村長としての先生は夙に象麓の柳桜を折り、得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの、出でて県会議員となり参事会員の要地を占めるや、固より以て玉三の金藤治の如く、堀川の弁慶の如き硬直侃鍔の理屈を吐かざるも、萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なきは八百屋の献立の太郎兵衛に肖、また7段目の平右衛門に類するなきが、而かも先生義気の横溢する、
 知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、当に作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る、事茲に及びて侠名豈獨り幡随院長兵衛の占有物ならんや。義気将に畠山庄司重忠の手に奪ふを得べし。
 入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや必
 先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か、伝説す頃者玉藻城下に於いて頻りに其美音を発揚するの機会を得と、真ならんか羨望に堪えざる也。妄言多謝

 まずは増田穣三の風貌が「躰幹短小」「秀麗の面貌」「鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪」と簡略にが描写されており興味深い。
 「得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」は、若い頃に徳島からやってくる人形浄瑠璃に魅せられて興味を持ち、玄人はだしの腕前であったと伝えられる。また、華道(未生流)も若くして免許皆伝の腕前であった。風流人としての「粋さ」が伝わってくる。

  県会議員としては「萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なし」というのが増田穣三の流儀のようである。
 しかし、議会内の活動状態については「先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か」と紹介している。また、「香川新報」も「県会議員評判録」で「議場外では如才ない人で多芸多能。だが、議場では、沈黙しがちな議員のなかでも1、2を争っている」と、議場における寡黙さを強調する言動が記されている。
 県会での政治的立場としては「知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る」と裏工作には積極的に動いたようだ。同期初当選である丸亀出身の白川友一議員とともに堀家虎造代議士の下で、様々な議会工作に関わったことがうかがえる。
 例えば、明治36年11月に政友会香川支部から多くの議員達が脱会し、香川倶楽部を結成に動いた「政変」の際にも、堀家虎造代議士の指導下に実働部隊として動いたのは増田穣三や白川友一 ではなかったのか。この「論功行賞」として、翌年の県会議長や堀家虎造引退後の衆議院議員ポストが射程範囲に入ってくるではないか。
この本が出版された翌年M38年11月 穣三は県会議長に選任された。 
穣三が議長に選出された11月1日の第7回通常県会の模様を香川県会史は、次のように記している。
 山田利平太(綾歌郡)は議長に増田穣三(仲多度)を指名し、全員が異議なく了承。議長に推薦された増田穣三が「諸君のご推薦にあずかり議長の職を汚します。補佐あらんことを希望します」とあいさつをした。その後、副議長選出については議会の承認のもと、増田穣三議長が佐野新平(大川)を指名。また、名誉職参事会員も同様に6名を指名       香川県会史(990P)

 そして次のような議題が新議長の下で審議された。
1 小野田元煕知事の議案説明
2 粟島海員学校・丸亀女学校・高松商業等4校の県立移管問題 財政上延期かどうか
3 女学校の寄宿舎建設延期
4 職員の給与増額
5 韓国への漁業者移住促進

議員としては「口数が最も少ない議員 議場外での裏工作が得意」と表された穣三であるが、議長としての議会運営ぶりはどうだったのだろうか。次のような資料が残っている。
 中学校寄宿舎の建築問題をめぐって、建設積極派と建設消極派が協議を重ねた。

この時、膠着した事態を打開するために、増田穣三議長自らあっせんに乗り出して、異なる二つの意見の調整に努めた。その結果、建設を進める方向で話かまとまり、長年、結論が出なかったこの問題は、一気に議決へと向かった。実直かつ寡黙な議長であり、議員から「1つ1つの審議に時間がかかりすぎる。もう少し手際よく進めてほしい」との要望が出るほど、丁寧な議事進行を心がけた。 
 丁寧な議会運営に心がけ、対立点を見極めた上で妥協案を示すソフトな対応ぶりがここからはうかがえる。

 順風満帆な議員生活とは半面、「電気痛の痛苦」が穣三に襲いかかってくる。
当時、彼が関わっていた当時の新産業「電灯会社」誕生までの苦難と、彼の経営者ぶりを見ていくことにしよう。

  増田穣三の同期代議士 三土忠造と白川友一について

 日露戦争後の1907年(M40)は、増田穣三にとって大きな岐路に立たされた年であった。まず、前年1月に5年間務めた讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の社長職を辞している。(実質的には更迭?)
 続いて、3月には七箇村村長を退任。そして、翌年9月の第3回県会議員選挙に、現職議長でありながら出馬せず8年間にわたる県会議員時代にピリオドを打つ。村長・県会議員・社長という公職を全て辞してどこへ向かおうとするのか。譲三49歳である。

 その後、5年後の1912年(明治45・大正1年)5月)に行われた第11回衆議院議員選挙出馬までの足取りをたどる資料が見つからない。何をしていたのか分からないのだ。ミッシングリングである。今後の課題としたい。

 電力会社経営の失敗を背負って「傷心の日々」だったのか?
 いや、未生流華道の家元として中讃から、阿讃の山を越えて三好方面へ出稽古に出向き、浄瑠璃をうなる日々を送っていたのかもしれない。これで、政治家生命も絶たれて「引退」と思いきや、もう一度出番が訪れる。
1912年 三土忠造・白川友一と共に衆議院議員に初当選。
   当時の香川の選挙区は、高松・丸亀の両市を除く郡部は、大選挙区制であった。この時、政友会から初当選したのが三土忠造・白川友一・増田穣三の3人であった。
この内、三土忠造は、伊藤博文の眼鏡にかなって、
併合前の韓国政府の学政参与官となり、教科書の編纂、学校制度の制定等に手腕を発揮していた。その能力を買われて伊藤の勧めで総選挙出馬のために職を辞し帰国し政友会の候補として、郷里香川県から打って出た。
 三土を支援したのが多度津の景山甚右衛門である。景山は、これを機に衆議院議員を「卒業」し、地盤を三土に譲って全面的支援を行った。三土は「洋行帰りのニューフェイス」であり、「伊藤公の目にとまって朝鮮で働いてきたサラブレッド」というので評判が良く二位で当選している。この後、三土は当選を重ね政友会の重鎮に成長、重要な大臣ポストを歴任していくことになる。
 ちなみに、三位当選したのが増田穣三。丸亀市区から当選したのが白川友一であった。
まんのう町造田出身の衆議院議員 白川友一について
白川友一

 白川友一は1873年(M6)6月11日、まんのう町(旧琴南町)造田出身で父安達小平太、母カノの四男として生まれた。譲三よりも15再年下になる。友一が生まれたときに父小平太は讃岐における明治期最大の民衆蜂起である「西讃血税一揆」の指導者の嫌疑をかけられ入獄中で家計困難な状態にあった。そのため友一は「進学」を条件に養子に出て白川姓を名乗ることになる。立身出世のための勉学への道を諦めずに歩み通し、朝鮮での投資活動に成功し銀行家として地盤を固めていた。
 譲三と共に県会議員に初当選したのが明治32年(1899年)
二人は「同期生」として政友会に属し、堀家虎造代議士を支えていく。そして12年後の明治45年には、そろって衆議院議員に初当選する。譲三の「政治パートナー」して、歩むことになる白川友一について年表で見ておこう。
873年(M6)6月11日、(旧琴南町)造田で生まれる。
1885年12歳で小学校修了。
     成績優秀のため卒業後同校で1年間教鞭をとる。
1886年13歳の時、富豪で質屋を営む横山初太郎の養子となる。
     しかし、京都遊学の願いがかなえられず離縁。
1888年15歳で陸軍の予備校だった成城学校幼年科に入る。
     幼年科・青年科を修了。何回も士官学校の入学試験を
受けたが、身体検査で不合格となる。
1892年父母に連れ戻され、仲多度郡南村(丸亀市杵原町)の白川家の養 子となり、雪泳と結婚。
21歳で南村の収入役、
24歳で七九銀行の支店長となり、次いで高松讃岐銀行専務取締役となる。
1899年26歳で県会議員に選出され8年間活動する。
 日清戦争後の朝鮮半島を県会議員として視察し「有望な市場」であることを認識。朝鮮における運輸、土木、建設の設請負業などさまざまな事業経営に乗りだし、日露戦争後には、中国東北部(満州)にも拡大し、土木建設会社を経営し成功を得る。
丸亀ー下津井間の「金比羅参拝ルート」の賑わい保持を目的に下津井鉄道会社設立時に筆頭株主(500株)として、初代社長に就任
その後も、丸亀市、下津井港との連絡船設備の整備充実などを進めた。
1911年(M45)5月の第11回選挙で衆議院議員に、増田穣三とともに初当選
 当選の年に「軽便鉄道助成法助成法」が成立するが、この成立の中心的な役割を果たしたのが、「衆議院一年生」の白川友一である。「下電社長」という立場から全国の中小の鉄道会社の要求をまとめたもので、この法案成立の結果、全国に続々と生まれつつあった軽便鉄道に政府助成が下りるようになった。この他「軽便鉄道」のみならず運輸・交通を中心に彼が「業界団体の利益代表」として行った衆議院での質疑・要求内容が資料として国会図書館に残っており、政治家として数々の業績を見ることが出来る。
白川友一
下電下津井駅(跡)の白川友一像
  これに対して譲三の国会での痕跡は、ほとんど残っていない。
彼の国会での質問等について国会図書館に資料検索してもらったが出てこない。国会においても県会と同じくで「寡黙な議員」であったようだ。

大浦事件と白川友一

 しかし、ここから白川友一や増田穣三にとって、舞台が暗転する。
それは、第一次世界大戦が始まる1914年に起こる。昭和の「ロッキード事件」と同じように、独での収賄事件調査が飛び火して、シーメンス社による日本の政府高官への収賄事件が明るみになる。この収賄事件を背景に、野党政友会による内閣への攻勢が勢いづく。これに対して大浦兼武内務大臣は、衆議院選挙において大規模な選挙干渉で応じる。丸亀市の選挙区では、内閣に協力的であった白川友一の依頼を受けて、対立候補である加治寿衛吉候補に対し、圧力をかけ立候補を断念させる工作を行う。これが、選挙後に国会に告発される。
 さらに、前年の「2ケ師団増設」問題でも、大浦内相から当時は野党政友会に属していた白川友一や増田穣三を通じて、政友会内の議員に対して与党案に賛成するように工作。つまり、野党政友会の分断工作のために、内務大臣より買収資金が流れたことが判明する。その政友会の切り崩し舞台の中心となったのが白川友一であり、盟友の増田穣三も深く関わる。
 関係議員が逮捕拘束され、白川友一は翌年には議員を失職し、政治声明は断たれた。
明治37年香川新報発行
「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」の中の白川友一の紹介
「年壮にして気鋭覇気」で「技量、其の精神力は旺盛で、その根気強さは讃岐人においては稀に見る人物」と持ち上げ「営利と名声」の「二兎を追う」ゆえに心を悩まされるのではないか。あなたは「花より団子」で名誉は捨てて、営利追求に絞っては、いかがと揶揄されている。
 大浦事件を契機に政界から「追放」された彼は、この「助言」通り「一兎」を追う者へ姿を変えていく。

大浦事件後の白川友一 「一兎を追う」ものへ転身
 この後、彼は3度全国版の一面に登場する。
1921(大正10).3.20 東京日日新聞には
「セ軍の五百万円は日本金貨となる。朝鮮銀行が買い取って造幣局で鋳造」
という大見出しで、ロシア革命の際に反革命側のセミヨノフ将軍が持ち出した金塊横取事件に関わる黒幕として登場。
また1922.10.7(大正11)  大阪朝日新聞では
「武器問題 知らぬ存ぜぬ一点張 問題の白川友一氏語る」
「ゆゆしき失態を演じた武器売渡事件」

の見出しで、日本軍の保管武器が軍閥張作霖軍に売り払われた事件の黒幕として追求を受けている。
さらに、1930.12.1(昭和5)  大阪時事新報では、
「阪神地方を中心に未曾有の薬品大密輸」
「飛行便を利用して疾風迅雷の大活動
首魁乾某風を喰って高飛び 事件伏木にも波及」
との見出しで、大連市内を拠点に国禁ベンモル(モルヒネ)の密輸事件で、
「本事件の一方の旗頭と目されるのは、往年大浦事件に絡って議員買収の張本人となった香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)で峻烈なる検挙の手が延びたのを知ると同時に、到底逃れ能わざるを覚悟して、罪の裁きをうくべく已に自首して出た」と、
その経過が大きく紙面を割いて紹介されている。この記事の中の「香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)」は、白川友一である。
後の裁判では懲役1年6月が求刑されている。
  以上 3記事共に「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫より」

 大浦事件後に白川友一が「大陸浪人」として「雄飛・暗躍」していた姿が紙面から垣間見える。まさに「名声」を追うことを求めず、「花より団子」「営利一番」に切り替わった姿をみる思いがする。
 ただ、彼は1926年(大正15年)に、坂出と琴平を結ぶ「琴平急行電鉄」申請が出されると会社設立のための支援を積極的に行い、資金提供等の協力を惜しまなかったという。郷土香川の鉄道発展への志は、持ち続けていた。
さて、大浦事件の後の増田穣三は、どうしていたのであろうか。

参考資料
 青木栄一 「下津井鉄道の成立とその性格」
  「讃岐人物風景17」 四国新聞 昭和62年刊行
下津井電鉄「下電50年の歩み」 
      所収 「白川友一自叙伝記」「白川友一事業概略」
     「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」 明治37年
       「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫」

   土讃線開通と増田穣三
「土讃線ルート」の決定には、増田穣三が大きな政治力を発揮したとされている。
その一例として次の新聞記事を見てみよう  
 「四国の群像69 増田穣三 土讃線ルートに政治的手腕」
              (朝日新聞1981年7月19日)
ドドーン、ドン」空に花火がこだまし、芸者の手踊りや花相撲が繰り広げられ、夜のちょうちん行列に琴平の町は三日間にわたる祝賀行事でにぎわった。香川県内の土讃線琴平-讃岐町田間の起工式があった大正9(1920)年4月1日のことだ。当時土讃線のルート決定に際し、以下の3案を巡り激しい陳情合戦が展開された。
1 高松から清水越えで徳島県脇町ー池田に至るルート。
2 西讃の観音寺ー池田間。
3 中間の琴平ー池田の現路線
それぞれの関係町村は地元選出国会議員を先頭に徳島県側の町村と連携し、鉄道院・国会へあの手この手の猛運動を続けた。それが現在の路線に決まった裏に。仲南町出身の増田穣三の政治的手腕が大きく影響した。
 中略  
増田穣三は、香川県議になって住居を高松市に移し、第十三代県議会議長を務める。次いで衆院議員へと、舞台が大きくなるにつれ、策士ぶりを発揮した。土讃線のルート決定に先立つ明治32,3年ごろ、徳島ー池田間の軽便鉄道敷設権を、徳島県出身の内務大臣らが取得した。これが実現すれぱ、香川県からの土讃線ルートも大きな影響を受けた。そこで、善通寺にあった旧陸軍十一師団の乃木希典師団長に「徳島ー池田軽便鉄道敷設に異議を唱えて欲しい」と申し入れた。
 土讃線が琴平ー池田ルートに決まった理由の一つに善通寺第十一師団と金刀比羅の存在が挙げられる。それだけに、軍部の意向をくんだ増田穣三の政治判断がルート決定に大きな影響を与えた。
 と、当時の路線決定の経緯を紹介した上で「現路線に決まった裏に、増田穣三の政治的手腕が大きく影響」と評価している。

 この記事の下敷きになっているのが従兄弟の増田一良(いちろ)によって語られた回顧談である。

 増田一良は、譲三の15歳年下の従兄弟になる。
二人は旧仲南町春日出身で、一良が増田家本家、穣三はその分家の跡継ぎの関係だ。一良は譲三の後ろ姿を追いかけるように、七箇村村会議員を経て村長・県会議員へと進み、地域の発展に貢献した。さらに譲三が師範であった未生流の活花や浄瑠璃の弟子でもあり、ふたりのつながりは、地縁・血縁的なもの以上に深いものがあった。
 その増田一良が、晩年に増田穣三について語った回顧談が仲南町史に収められている。土讃線誘致に関する部分を見てみよう。  

「塩入駅名の弁」(仲南町史1008P)で、増田一良は次のように述べている

土讃鉄道の建設については激烈なる競争運動あり。当時の記憶をたどり述べんと思う。
此の鉄道には3線の候補ありて、東讃方面は高松から清水峠を経て徳島県脇町に出て西、池田に至る線、仲讃としては多度津琴平間既成鉄道あるを以て琴平町を起点とて塩入越を経て池田町に至る線、又、西讃に於ては観音寺町より曼陀越を経て池田町に至る線にして、何れも帝国議会及鉄道院に請願陳情、国会議員間も亦、百方手を尽したるものにして東讃は高松選出田中定吉代議士を基とし、東讃選出代議士外有志、中讃にありては仲多度郡選出増田穣三代議士を首とし綾歌郡選出大林森次郎代議士及丸亀市選出加治寿衛吉代議士外有志、西讃に於ては三豊郡選出松田三徳代議士を首として、元代議士高橋松斉氏、観吉寺町長西山影氏外有志等、特に松田氏の如き所属政党を脱し鉄道院総裁後勝新平伯の傘下に走るなど、激烈な誘致合戦の末に、現路線に決定した。
 この回顧談にはいくつかの疑問点が出てくる。それを洗い出してみよう。

 第一に「土讃線」誘致合戦が行われた時期はいつなのか

1889 明治22年5月 讃岐鉄道琴平~多度津開通 
1890 高松・阿波脇町間の鉄道建設計画で実地調査の結果、
   脇町線建設は困難との調査報告が柴原知事より提出(讃岐日報) 
1893 鉄道院が線路調査に際して、高松-箸蔵間は猪鼻線として計上
1912 第11回衆議院議員選挙執行.増田穣三初当選 
1914 徳島線が延長し池田まで開通し、阿波池田駅設置。
12月二個師団増設案成立のために大浦内相が政友会議員に買収工作実施
1915 3月 第12回衆議院議員総選挙で大浦内相による選挙干渉激化
    白川友一・増田穣三共に当選後に大浦事件に関わり逮捕・拘束
    9月 第9回県会議員選挙実施 増田一良 次点で落選   
1916 1月 白川友一衆議院議員の当選無効確定し補充選挙実施
1917 12月 塩入線鉄道期成同盟会をつくり貴衆両院へ請願書提出
 塩入線の速成を貴衆両院へ請願書提出することとなり塩入線鉄道期成同盟会をつくり会長に堀家嘉道副会長に沢原頁岩を選定した。(町史)
1919 3月 琴平-土佐山田間が鉄道敷設法第一期線に編入=路線決定
   9月 県会議員選挙で増田一良初当選
1920 1月 実測開始、豊永を境とし、土讃北線は多度津建設事務所担当
  4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)

この年表からは
1917年に塩入線鉄道期成同盟会設立、
1919年には路線決定、
1920年工事開始という動きが分かる。すると誘致合戦が行われたのは1917年前後から本格的に動き始めたようだ。  

 まず路線決定を行う鉄道省の思惑を見ていきたい。

 鉄道省は琴平起点の土讃線ルート(財田猪ノ鼻線)を早い時期から本命と考えていた。その背景には、
第1に、1889年に鉄道が琴平まで延びていること。
第2に、第11師団が善通寺に置かれていること。
第3に、池田ー財田間がもっとも山間部が短く、かつトンネルの長さも短くてすむこと
第4に、四国新道沿いであり工事にも利便性が高いこと
など、外のルートにくらべて優位性が高く早い段階からこのルートを「既定路線」として考えていたようだ。それを裏付ける記述がまんのう町周辺の町誌にいくつか見いだせる。
例えば財田町誌には、琴平まで鉄道が開通した段階で「四国新道」沿いに池田に通じる「猪ノ鼻ルート」建設が当然とされており、そのための誘致運動を行った記録はない。増田穣三や一良が行ったという塩入ルートに関しては「そのような誘致運動があったことは、仲南町誌を見て知った」と記されている。
 また三好町誌や池田町誌にも1914年に開通した徳島線が、池田で土讃線と結ばれることは当然と考えられていたことが記されている。三好側が七箇村塩入と箸蔵を結ぶ塩入ルート建設運動を働きかけた見当たらない。

 仲多度に設立されたという「塩入線鉄道期成同盟会」も、

「塩入線」と名付けた運動団体の存在を示す当時の新聞記事や資料などから私は見つけ出すことが出来ない。その名前があるのは仲南町誌のみである。鉄道促進運動を担った仲多度地区の議員達は「猪ノ鼻ルート」を念頭に置いて運動を行っていたように見える。誘致運動で「塩入ルート」を考えていたのはごく一部だったのではないか。 

最後に、誘致運動が佳境であった1917年前後の増田穣三の置かれていた政治的な状況を見ておこう。

譲三は、前々年に衆議院議員総選挙後の大浦事件に関わり白川友一等と共に逮捕・拘束されている。白川友一は議員を失職。その後、穣三は不起訴には終わったが同僚の政友会の議員を政府資金を用いて買収を行ったという事実は残った。政友会の同僚議員の目は冷たかった。このような中で表立った政治活動を行うことは難しく「政治的謹慎状態」が続いていた。そして、次期総選挙には出馬せずに政界からの引退という道を選ぶことになる。このような中で「塩入線誘致運動」の先頭に立って旗振りを行う状況にはなかったと思われる。
 つまり「塩入線誘致合戦」に増田穣三が積極的に動ける状態ではなかった。一良も1915年の県議会初挑戦では落選しており、誘致運動が展開された時期には県議会議員ではない。
 以上のような背景を考慮に入れると「塩入線鉄道期成同盟会」→ 増田一良 → 増田穣三 を通じて誘致運動が増田穣三を中心に推し進められたという状況は考えにくい。  

増田穣三が乃木希典に土讃線建設について要望陳情を行ったという話について

  乃木希典は1889年(明治32)年に善通寺第11師団長に就任。一方、増田穣三は3月に県会議員に初当選し、4月に七箇村長にも就任している。穣三は七箇村村長として、設置が決まったばかりの善通寺第十一師団の練兵場建設に「援助隊」募り派遣した。その助力に対して師団より村長宛の感謝状をもらっている。各施設の建設が進む中で、師団長として陸軍中将乃木希典が任地に善通寺に赴任する。この時期、穣三は県議会の副議長や参事議員を務めており、公的な行事で乃木師団長と出会うこともあり顔見知りとなっていたことは考えられる。
 土讃線に関する陳情が行われたとすればこの時期であるが、前述したようにこれは土讃線誘致運動の時期よりも十数年早い段階のことである。土讃線誘致にからんで乃木希典に陳情を行ったということないようである。しかも、陳情を行ったのは土讃線のことではなく、徳島線に関することである。   
増田一良が回顧している徳島ー池田軽便鉄道敷設権について見ておきたい。
此時最も難問題として起たのは徳島県出身の元内務大臣、芳川顕正伯の主唱によって徳島、池田間に軽便鉄道敷設権が認可されたことだ。これ実現すれば香川県よりの三線ともその影が薄くなり大いなる影響を及ぼすことが考えられる。そのためこれを打破する事が最も重要となった。しかし貴衆両院通過成立したものを取消す事は勅命によるか参謀本部の異議による外道なく窮余の考として堀家、三谷、松浦、増田等共に第十一師団を訪つれ参謀長に面談協力を求めた。しかし、乃木閣下は軍人が政治に容喙するは良くないとの信念を待ち、「吾々は何共申上兼ぬるか資格を離れ個人としては高知との短距離の結び付は固より望む所である」との事にて期待した回答を得ることは出来なかった。また、これも増田代議士へ報告せり。
 其後伝聞する所によれば乃木中将上京となり参謀本部の抗議によりたる者か徳島池田間軽便鉄道は実現を見す沙汰止となれり。
  一良の回顧談の「此時最も難問題として起た・・・」の部分は「塩入線誘致運動」に続けて載せられている。最後の部分が「また、これも増田代議士へ報告せり。」で終わっているために塩入線誘致の際のことと誤解されやすいが、これは乃木師団長在任中のことであり、誘致運動佳境の十数年前のエピソードである。
 しかも、内容は徳島線の軽便鉄道敷設権認可に関わることである。その後、徳島線は1914年に池田まで開通しており、土讃線の路線決定に影響を及ぼす要因とはなっていない。あるとすれば池田で土讃線と結ばれるというのが鉄道院の既定路線であったということである。
 長々と述べてきたが以上から推察すると、「増田穣三が土讃線のルート決定に大きな政治力を発揮した」「塩入線誘致運動を進めた」ということを裏付ける史料は、穣三の従兄弟の増田一良が「仲南町誌」作成の際に語ったことに基づくものに限られるようだ。「塩入ルート」が、路線検討の対象となったかどうかは、今後の検討課題としたい。  

  一良は自分の回顧を次のように閉めている

欺の如くして獲得したるものにして塩入と云う名の広く知れ渡りたる関係上、福良見、小池、春日の三部落を隔たて一里以上離れたる十郷村帆山に設置されたる駅の名を塩入と名づけたるは増田穣三の銅像を駅構内に設置と共に意義を得たるものにして適当なる所置と信す。
 尚ほ塩入線の決定に附ては第十一師団の軍事上の観点と金毘羅宮の所在地琴平町を起点とする所に潜在の大なる力のありたる事を認むべきと思ふ茲に其経過関係の概要を述べて参考に資す。                     増田一良回顧談 昭和四十年六月

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