瀬戸の島から

2017年04月

まんのう町佐文に伝わる如松流華道
 増田穣三が宮田の西光寺(法然堂)の住職園田氏実(法号波法橋、流号如松斉)から華道を学び、若くしてその継承者になったことは前述した。代議士を引退した後の穣三は「家元」として「活花指導に専念した」と伝えられている。どんな活動が行われていたのだろうか、そしてその後の流派は、どうなっているのだろうか。今も譲三が家元であった「如松流」を掲げる華道の流れが佐文にあると聞いて訪ねてみた。
琴平方面から観音寺方面に国道377号を2㎞ほど行くと国重要民俗文化財「綾子踊りの里」として知られる佐文盆地が広がる。
 旧土佐伊予街道が金比羅さんに向けて、その中央を通っている。その旧街道沿いにある尾﨑家の玄関には、3代にわたる華道師範の「看板」が掲げられている。これを見て、最初に私が気づいたのは「未生流」ではなく嵯峨流とともに「如松流」という流派を名乗っていることだ。如松とはもちろん法然堂の住職であった如松斉のことである。つまり、未生流から独立し新たに如松斉がおこした「新流派」を継承しているのだ。
一番左が尾﨑傳次(号清甫)のものである。
彼は明治3年3月29日生まれで、増田穣三よりも13歳年下になる。傳次が生まれた翌年明治4年に如松斉は法然堂を出て、生間の庵に隠居して華道に専念する。その庵に多くの者が通い如松斉から未生流の流れをくむ華道を学んだ。
 幕藩体制の身分制度社会の下では、いろいろな事が禁令として定められていた。例えば丸亀藩では、百姓が家に花や木を植え育てることも
「百姓が米作りに専念することに差し障りがある」
と禁止していた。明治を迎え、花を育てることも活花を楽しむこともできる世の中がやってきた。時代の新しい流れ「新流行」が、ここでは活花であったのかもしれない。
如松斉から手ほどきを受けた高弟の中に、佐文の法照寺5代住職三好霊順がいる。
如松斉の顕彰碑裏面の発起人一覧の中に増田穣三、田岡泰に続いて3番目に彼の名前は刻まれている。霊順は、如松斉から学んだ立華を、自分の寺のある佐文の地で住民達に広げていった。 
 その際に今の私たちの感覚と違うのは、華道を学びに来たのが男達であったことだ。農作業等が終えた男達が寺に集まり、自分たちが集めてきた花や木を花材に花を生けた。「華道」のために男達が集まり、そこから新たな文化が芽生えていく様子が垣間見える。丹波からやって来た如松斉の華道は、こうしてこの地の人たちに受けいれられていった。
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 尾﨑傳治も若いときから法照寺に通い霊順から手ほどきを受けた。
そして、入門免許を明治24年12月に21歳で得ている。その際の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されている。
 この前年には、如松斉の七回忌に宮田の法然堂境内に慰霊碑が建てられている。この免状からは、穣三が未生流から独立し「如松流」の第2代家元として活動していたことが分かる。

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尾﨑傳次は、その後も熱心に如松流の華道の習得に努めた。

そして、増田穣三が代議士を引退後には直接に様々な教えを学んだ。
 尾﨑家には、傳次が残した手書きの「立華覚書き」が残されている。その中には、師である増田穣三の活けた作品を写生したものも含まれているかもしれない。
 孫に当たる尾﨑クミさんの話によると、祖父傳次が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあるという。
 また、如松流の創始者である如松斉が住職を務めた「法然堂の市」の際には、門下生がその成果を発表する華道展が毎年開かれていた。そこには増田穣三の門下生達の作品が多く展示された。
 その準備等を取り仕切ったのが尾﨑傳次ではなかったのか。そして次第に、譲三の信頼を得て門下生の中でも「高弟」に当たる地位と役割を果たしていくようになる。
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尾﨑傳次(清甫)
 傳次はその後も精進を続け、大正九(1920)年には、華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任する。
一方、大正15年3月に師範免許(59歳)を、続いて昭和6年7月に准目代(64歳)、最後に昭和12年6月には会頭指南役の免状を、「家元如松斉秋峰」(穣三)から授かっている。
昭和12年というと増田穣三の最晩年にあたり、翌年には銅像が建立される時期である。
「如松斉流」の第3代家元を、譲三は誰に譲ろうとしていたのかも気に掛かるところである。
 傳次は戦中の昭和18年8月9日に73歳で亡くなる。
その前年2月に、長男である沢太(号湖山)に未生流師範を授けられている。沢太は小さい頃から父傳次より如松流の手ほどきを受けていたというから、代替わりという意味合いもあったのかもしれない。
 その後、沢太は戦後の昭和24年9月には荘厳華教匠、昭和25年10月には嵯峨流師範と未生流以外の免状を得て、昭和27年には香川司所評議員、33年には地方幹事に就任し、未生流のみならず香川の華道界のために尽力した。
 戦後、農村では食糧増産のために熱気ある時代が訪れ、青年団や婦人会活動などの「新農村文化活動」が芽生えてくる。そんな中で、再び男達が花を活けることを楽しみ出す。自分の花器をしつらえ山から切り出してきた木や庭から摘んできた花を活ける。その輪の中の中心で指導を行ったのが尾﨑沢太であった。沢太は青年団に招かれ若い青年達に活花の手ほどきを行ったという。

 考えてみれば、幕末に丹波からやって来た法然堂の住職がもたらした未生流華道の流れが、増田穣三を経て、尾﨑家に伝わり、佐文の地に広がり、今も受け継がれている。「如松流」の看板が掲げられていると言うことは、様々な意味があることに改めて考えさせれた。

上海発 烏鎮行きの乗合周遊バスのチケットを170元でゲットし、高速をノンストップ90分でやってきた烏鎮。東柵前の駐車場で集合時間15:30を確認し解散。
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 入ってみての印象は、人が少ない、きれいに修復がされ、建物も手が入っている(暦年風化が感じられない) 生活感が漂っていない。
良くも悪くも、映画のセットの中に入ったような空間。しかし、水郷をとりまく水路や店舗、住居等は本当に能く保存されている。興味深いものばかり

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東西に通る水路に面して、水面に張り出すように家々が並ぶ。水路の北側にメインルートが通っているようだ。
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東の「川港」には雁木の広場。ここからいろいろな交易品が積み出され、その一部は大運河を通って北京へ向かったのだろうか。
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水路奥のメイン通路を歩く。冬期のためか閉じられた家が多い。生活感のない家が多い。開演して間もないせいか人通りも疎ら・・・しかし、午後を過ぎると「遠足」の児童達などでいっぱいに・・・
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坊の境に立つ門(?) 
通り沿いにかつての豪商の店舗や住居を利用した博物館がいくつかあり、その内部構造などをみることもでき興味深い。
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しかし、ここの売りはやはり「水郷」
この水路が主役のように思える。水路に架かる橋の上から家並みや行き交う船を眺めていると飽きない。
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日溜まりの橋の上は人気ポイント。だが一月の風は冷たく長くはいられない。
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歩いていると絵になる景色ばかり。
船に乗ってみることする。
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乗り場の船だまりから出航。
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観光シーズンは大混雑の烏鎮もこの時期は、閑散として船も私たち二人で貸し切り状態。手こぎ船がゆったりと水路を進みます。時間までがゆっくり刻まれているかのような感じがしてきます。

上海発 烏鎮行きの周遊乗合バスのチケットを手に入れるまで

高松発上海行の春秋航空のチケットを手に入れ、LCCなるものを体験するのが目的のひとつ。上海で5泊するが、どこへ行くかは決めていない。
水郷の西糖に行きたいとホテルの受付に相談すると、ここへ行けとカードを書いてくれた。
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「上海旅遊集散中心」で地下鉄1号線の上海体育館駅で下車し6号出口から地上に出よ。そして西糖行きの旅遊バスのチケットを手に入れよというミッションであった。
非常に分かりやすい。9:10分に出発予定であるから1時間前にはホテルを出た方が良いと、全て日本語で話してくれる。30年前の中国のホテルとは大違い。
感謝 謝々
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翌朝、教えられたとおり地下鉄1号線の上海体育館駅6号口より出ると体育館が現れ、さらに歩くと
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道の向こう側に「上海旅遊集散中心」らしきものが見えてきた。

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案内板の通りエスカレーターで下りると、そこが周遊バスのチケット売り場だった。
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 西糖行のばすがあることも確認し、ホテルで書いて貰ったカードを見せて、「ここに行きたい。2枚欲しい。」と日本語オンリーで押す。
すると「没有」の一言
冬期平日は西糖行きは運行していないとのこと。
うーん 道は閉ざされたかと思いきや
「9時出発の烏鎮行きならあと2枚ある。どうするか。」との誘い。
我々は、西糖に是非行きたいわけではない、
何処か行くところはないか、郊外の水郷の何処かへ行こうか・・的な感じであるから
その誘いに飛びついた。こうして手に入れたのがこれ
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値段は170元 しかも烏鎮東柵入場券と各施設への矛盾の生家などの入館券も付いている。日本の業者が扱っている「専用車+ガイド+昼食」付チケットに比べると1/3程度という優れものだ。
しかし、入れるのは東柵のみ、西柵には入れないということのようだ。
座席番号は1号車のNO10。どんなバスが現れるのかと期待大で待っていると
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やってきたのは、これ。
そして乗り込んだのは
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定員10名。確かに私たちが最後の2人だったようです。
私たち以外は8人の団体グループのようで車内は賑やか・・・
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西糖行きが急遽、烏鎮行きとなった水郷巡り。
体育館を右手に見ながら「バス」は出発。
ちなみに、運転手さんは冬でも窓を開けて走る。暖房は入れない。耐寒訓練も兼ねたバスツアーとなった。
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途中でどこかで休息するかと思いきや時速120㎞で走り続け90分で到着。
確かに烏鎮東柵前の入場口前の駐車場だ。集合時間を確認し、バスは何処かへ消えていった。
後は各自でどうぞというスタイル。
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こうして我々は烏鎮まではやってくることが出来た。
さてこれからどうなりますやら・・・・

宇和海の日本一細くて小さい(?)運河

遅い桜前線が四国に上陸したのを聞いて宇和海で3日ほど過ごした。
その中で出会ったのが地元の人たちが「日本一細い運河」と称する小運河。
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 宇和海というと私のイメージするのは「入り組んだリアス式の海岸と点在する漁港、その背後に天まで届くかのように伸びたみかん畑。」
写真にすればこんなイメージだ。

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 八幡浜から宇和島までの海沿いの国道378号は、タイト&ロング&ワイニングロードで手応え充分。
岬を越えると入江には集落。これがリズミカルに続く。
そんな中で奥南の奥浦で出会ったのがこの運河
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ちょうど2隻の漁船がスピードも緩めずに運河を通過していった。

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白い軌跡が運河に広がる。何か心が躍る。
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遙か遠くに付きだしているのが佐田岬の突端。
リアス式の入り組んだ半島をぐっると迂回するのを避けるために1960年代になって、宇和海では3つの運河が作られたという。もうひとつの運河にも行ってみる。

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やって来たのは三浦半島の細木運河。
北側の宇和島湾と北灘湾を結ぶ小運河だ。
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橋の上から北側には佐田岬が思ったよりも近く見える。海は青く透明度も高い。
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南側には、山桜を背負った蒋渕(こもぶち)小学校がランドマークタワーのように立つ。
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食事のために立ち寄ったこもてらすの海に突き出したテラスから望むとこんな光景になる。
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運河と知らなければ、離れていた島を橋が結んで陸続きになった図と思えるだろう。
そんな小さな運河を漁船が頻繁に行き来する。
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私にとって贅沢な空間と時間を過ごす。
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帰路、半島のスカイラインからは満開に近づく山桜の向こうに、宇和島に寄港していたクルージング船が出航して行くのが見えた。

沖縄石垣島 石垣港で離島航路を行き交う船を眺めました。

今回の石垣・西表への旅のミッションの一つが石垣港の出船入り船をウオッチングするというもの。そのために選んだのが港に東面して立つ東シナ海ホテル(「本名」はイーストチャイナンシ・ホテル)。その部屋に4泊して見えた物の報告です。
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目の前一杯に石垣港が広がります。
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離島ターミナルまでは歩いて1分。
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真西に落ちていく太陽の方向に西表 与那国島があります。

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翌朝、明るくなる7時頃から離島航路の始発便の高速艇が次々と出航していきます。
その数の多さは「日本一」かもしれません。目を覚まし活気づく港です。
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港の主役は高速艇です。西表や竹富以外にも多くの島を結んでおり、便数も多い。
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しかも、ここでないと見えない船もあります。
大型巡視船が10隻近く停泊しています。尖閣諸島警備のために投入された大型巡視船がここに配備されています。そのため、海上保安庁の配備人数がもっとも多い港の一つのようです。
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瀬戸内海ではなかなか見られない光景です。
同時にここが「国境」に近い島であることを改めて気付かされました。


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散歩していると港の入口に、大きな客船を発見
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 台湾や香港からのクルージング船だそうです。船が入ってきた日は、街は観光客で一杯になります。多くの外貨が落ち、島が潤っていることが感じられます。
「離島で人口が増加しているのは、日本中で石垣と西表だけ」という話が納得できます。
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サザンゲートブリッジの盤には西に向かって台北まで270㎞ 香港まで1100㎞ とあります。ちなみに東京までは約2000㎞。那覇よりも台北の方が近い。
国境の無い時代、ここは東シナ海の港と深く結びついていました。
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サザンゲートブリッジから見えたこの船。
「はてるま」と船名が見えます。波照間島と石垣港を結ぶ定期船です。

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その向こうには、もう少し大型の定期船が停泊しています。
与那国島を結ぶ「よなくに」です。私が宿泊している7日間は動きませんでした。
波が高いため欠航状態にあったのかな?

活気ある南の島の港の船の出入りを眺めるという願いがかなった旅になりました。

西表島 ピナイサーラよりの帰路

冷たい北西の風が吹き付ける3月初旬。ピナイサーラへのカヌーでアプローチ編を前回は紹介。今回はその帰路編です。
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昼御飯にコッフェルで作っていただいたそうきそばは出汁も麺も最高。冷えた体によくしみ通りました。感謝。
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でこぼこの巨木のゲートを通って

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15分足らずでカヌー係留地に帰ってきました。

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帰りは配偶者は、インストラクターと同乗。
相変わらず口は回るがオールは回りません。
それでもすいすいと進みます。
帰りはゆっくりと木々を観察しながら進みます。
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下るにつれて川幅も広くなります。
マングローブのおかげで風も受けません。
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ここが合流点。右に行くと河口です。
左に入り支流を遡ります。
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追い風を背に受けて漕がなくても進むほどでした。

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そして、ゴール。上陸です。
これで午前の部は終了。後半は、鍾乳洞の探索だそうです。
さてどうなることやら・・・・

沖縄西表島 カヌーで遡って、ピナイサーラ(滝)まで

海中道路から見えるピナイサーラ(滝)に、カヌーでアプローチするというツアーに参加しました。お世話になったのは「おさんぽ気分さん」。

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河口から遡るのかと思いきや、山の中に入っていきます。自動車を下りて川に下りていくと「カヌー基地」があり乗船。
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早朝から入っていた修学旅行の女子高生たちが帰ってくるのと出会いました。
この辺りは「上流」で川幅も狭くいっぱいいっぱい。
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二人乗りのカヌーを選んだのですが前に乗った配偶者は、漕ぐ気はなし。
運転手は君だ、写真を撮るのは私だという感じ。
マングローブの根がよく発達しています。
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合流点まで下って、別の支流を遡ること40分。
前方に沖縄では一番、落差の大きい滝が見えてきました。
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カヌーを係留して、ここからは歩き始めます。

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大きな盤根を持った木が行く手に現れます。

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彫刻のフォルムを思わせる巨木も現れます。
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そしてピナイサーラに到着。
強い北西の風で滝が斜めに落ちていきます。
後半は次回へ

愛媛宇和海 遊子水荷裏(ゆす みずがうら)の段畑  

      じゃがいもの収穫・運搬風景


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  水荷浦の一番奥の畑のお堂に通じる道を登っていきます。

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4月所従の陽光の中、
岩場を登るように手を使いながらソラに続く段畑の道をたどると・・
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葉が黄色くなったジャガイモの収穫作業が始まっていました。
畑から掘り出された芋は、モノレールに乗せられて麓へ
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土から掘り出され昔ながらの藁駕籠に入れられたジャガイモは、春の光がまぶしそう。
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お堂の上の芋たちはまだ葉っぱが青々、まだまだ土の中で過ごします。
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階段があるので昔ながらに前後に振り分けて背負棒で背負って下ろします。
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自動車の入ってこれない狭い通路は、運搬車で・・
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そして軽トラの荷台に運ばれてきました。
畑から掘り出されて、ここまでだけでもこれだけの手間がかかります。
北海道の十勝で見た機械掘りのジャガイモ収穫作業とは大違いです。
小さいけれど宇和の直射日光と海からと石垣からの反射光を浴びたジャガイモは美味しいそうです。
今年は4月16日が「ふるさとだんだんまつり」。
そこで売られるために、これからが収穫が本格化するようです。
 

愛媛県宇和海 遊子水荷裏(ゆすみずがうら)の段畑

宇和島の南に西に突き出す三浦半島。そこに段畑が残るという。暖かくなってきた4月の初旬に訪ねてきた。

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遠景はこんな感じ。近くから見てみよう。
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水荷裏のだんだん茶屋までやってきた。
見上げていても、もうひとつ印象が沸いてこない。やはり登ってみないと・・。
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高くなるにつれて前の海が青く輝き出す。石灰質系の白い石垣とじゃがいもの緑とが目にしみる。
海に向かって立つ半円形のコロッセウムのようにも見えてくる。

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青い空に向かって、石垣にははしごがかかる。ソラへのはしごだ。
ここでも畑に出かけることを「ソラに行く」と言ったという。
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こんどは要塞の城壁のようにも見えてきた。あっちこっちの千枚田も見てきたが、狭さと石垣の高さは半端でない。
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近世に真鰯の浜として開かれた半農半漁の浦が食糧確保のために少しづつ開いた畑は戦後の食料不足期にはまさに天に到った。琉球芋から養蚕のための桑畑、戦後には麦畑から現在では早堀のジャガイモへと畑の主役を替えながら

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今では想像も付かない多大の労働力が、この畑に投入された。一枚の写真がそれを私たちに伝える。
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私の好きなお堂が見える。お堂に続く道をたどる。
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前に広がる海にはさまざまな養殖筏が浮かぶ。
若い頃は海に出て魚を相手に、老いては段畑に上がり畑を耕して生きてきたという。
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ジャガイモの葉が黄色くなっている。収穫のシーズンを迎えているようだ。
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お堂の向こう側に続く段畑では収穫が行われていた。
収穫・運搬の様子は、次回に


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  一番札所の長徳寺からさらに登ると、右に笠島への分岐が分かれる。左には、新しいお手洗いが完成間近。

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それをさらに登ると遠見山展望台への階段道が分岐する。

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5分ほどで巨石がむき出しになったかつての修行場であり、修験道者が火を燃やし目印や狼煙ともしたのではないかと思える「火打山」が2番札所。

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ここから展望台を経て笠島に下りていく散策路も整備されいるが階段道なので自転車では通行不可。いったん「新築手洗い所」のある笠島分岐まで引き返し、急坂をブレーキを一杯にしめながら下りていく。


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 すると、ブルーシートを張った接待所が見えてきた。ここの接待所でお話を伺うと塩飽大工の仕事ぶりを5年かけて調べ上げ、今春出版したばかりとか。早速、買い求めてお土産とする。善通寺や吉備国分寺の5重塔から金比羅山の朝日社、吉備津彦神社等、塩飽大工の仕事ぶりと痕跡を時間をかけて明らかにした労作だ。

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 笠島の家並みをいったん抜けて集落の西外れに、次の第3番の弥陀堂はあった。
お堂の中では、雨を避けて地元の「女子衆(おなごし)」さんたちが、食事中。
かつては、いろいろな講行事がここで行われたいたのだろう。
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ここの阿弥陀入来座像も市文化財で、こんな機会でないと拝ましていただくことはできない。改めて接待に対して共々感謝。

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笠島の家並みを抜けて専称寺へ向かう。
雨の中、笠をさしたお遍路さんが三々五々連れ立って遍路道を歩いて行く。
こんなにわか「タクシー」に出会った。これだと何人でも乗れるし、雨対策にシートも完備し狭いところにも入り込める。 島にはよく似合う。
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専称寺手前のお堂が4番札所。
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雨の中、次々と参拝者が訪れる。島出身の人たちの再開の挨拶話が弾む。
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第5番札所専称寺は、流刑となった法然が九条家の保護で一時、滞在した所とも伝えられ法然受難の聖地として、法然信仰者から「聖地」ともされているお寺。

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法然関係の書物を集めた一室も設けられていた。

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欄間には西条出身の彫刻師による見事な天女が舞っていた。
ここもかつて何回か訪ねたことはあるが内部に入り参拝させていただいたのは今回が初めて。
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雨宿りもかねて縁で休んでいると、島を一巡してきた人たちがひっきりなしに訪れてくる。西回りで回ると、笠島方面が最後になるようだ。春休みなのでお爺ちゃんやおばあちゃんに連れられたお孫さん達の姿も多い。

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寺の前の道には年寄りを務めた笠島の吉田家の大きな墓が並んでいる。

ここまでで札所めぐりは5つのみ。
しかし、雨は激しくなり、気温も4度まで下がってきた。濡れ鼠になって巡礼を続ける信仰心が残念ながら我々にはない。笠島の街並みをぶらりぶらり歩くことに「転身」することにして、昼食場所をさがすことにした。



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