瀬戸の島から

2017年12月

  明治20年の第一次移住団が抱えた3つの問題とは?

 明治二十年に三橋移住団を送り出した後の西讃四郡の北海道開拓移住計画は、停滞する。その理由は、
1 開拓予定地の洞爺湖畔の主要部分が風致林として貸付対象からはずされていたこと
2 第一次移住団の入植後三年続けて大霜により大不凶に見舞われたこと、
3 送り出し側の諶之丞が讃岐新道や讃岐鉄道の請願、愛媛県会議員と身辺に重要な仕事をかかえていたこと。


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 まず第1点の点について
到着した向洞爺の土地が期待した湖畔ではなく、湖から離れた丘陵地帯で会ったことと、当初予定の広さが確保できていなかったことは移住団の中に、失望落胆を感じる者もでてくる。その気持ちを振り払うかのように、5月9日には貸付指定地の一の原、二の原を視察、小屋掛けを行い、5月31日からは開墾を始めた。
 しかし「岩倉日記」には、
明治20年7月15日「今日長船ぬけて居ず」、
     8月13日「長船、岩田分を戸割致し」
とある。早くも離脱者が出たのだ。

さらに第2点は、追い打ちをかけるように続いた天候不順や大霜による大凶作だ。 
 明治二十一年の北海道勧業年報には、向洞爺に入った三橋移住団の状況が次のように記されている。(意訳) 
虻田郡向洞爺の移民は、明治20年に初めて愛媛県下(当時は香川県を併合)からの農民21戸75人(男39人女36人)で移住し開墾に従事している。翌21年に移住した者は9戸40人(男23人女17)人で向洞爺、「ケップチ」、「ホロノツプ」の3ケ所に散居しており、開墾地は併せて43町町4畝歩、耕牛2頭、耕馬5頭で、その他の農具を用いて開墾を行っている。本年もまた不幸にも霜害を被り、馬鈴薯は三分ノ作であるが、その他はほとんど収穫がない。移民管理者及室蘭郡役所も奨励慰撫を怠らないようにしており、14戸を除いて「移住の意志が挫けないように頑張ると云っている。」と報告されている。
 
また、明治24年の三橋政之から大久保諶之丞への書簡で

「20年の先発者連中は、それまでの三ヶ年連年の凶作でいろいろ負債を負っています。昨年の豊作分の収穫物は、借金を返すのに足るか足らないかになりそうです。」

と書き送っている。
移住初年度の20年~22年の3年間は収穫皆無であり、借金をしながら開墾に当たっていた様子がうかがえる。 

開拓団長の三橋政之は、この苦境を打開するために奮闘する。

 まず、移住初年の秋に郷里香川県に一時帰り、西讃4郡の郡長や大久保諶之丞等有志に対し移住団の苦境を報告して救済・支援を訴えている。ここでも政之の元邏卒総長や郡長としてもキャリアは生かされた。そして、復活した香川県の県会議員として四国新道や讃岐鐡道建設に邁進していた大久保諶之丞とも、今後の対応や支援計画が話し合われたはずである。後に、二人の間にやり取り得された書簡を読むとそのことが窺える。しかし、その具体的な内容までは分からない。
  郷里讃岐において「後方支援体制」を固めた三橋政之が再び向洞爺に帰ってくるのは翌21年4月23日のことである。この時には、8戸の移住者を連れ帰っている。

そして三橋政之は開拓地の貸付地の拡大認可のために動き出す。

それを支援したのが当時、壮瞥や留寿都で大規模な土地の払い下げを受け、牧場経営のための開拓を始めたばかりの橋口文蔵や建部彦麿である。橋口文蔵は、19年2月北海道庁理事官、20年からは札幌農学校長を務めていた北海道の高官で、24年8月依願退官している。建部は、その部下で開拓地の責任者を務めていた。政之は、向洞爺の中継小屋のある壮瞥小屋との行き来を通じて、建部との交流をもち、そして橋口の支援を得るようになった。
 その結果、明治23年に湖畔十四万坪は、三橋移住団に貸し付けされることとなった。この湖畔の土地が、香川県財田町の宝光寺から招いた住職が開いた宝光山徳浄寺が立つ現在の「財田」である。


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大久保諶之丞による第2次移住団の出発

 入植以来の払い下げ地の認可問題という障害を、乗り越えたことで大久保諶之丞が動き始める。おそらく政之が帰郷した折に話し合われていたのであろう。諶之丞は23年4月に第2次移住団を送り出す。先発移住者の家族など18戸72人が多度津港を出発する際の模様を、諶之丞は新聞社に次のように報告している。  
見送り人は数百にも達した。琴平町枡久桜で神官宮崎康斐氏の手により霊鳩の絵像を渡され、移住団一同はそろって金刀比羅神社に参拝し、本殿で金幣式を執行。社務所で酒飯の饗応を受け、讃岐鉄道琴平駅で豊田元良ほか各郷里の立会人と別れ、特別切符で多度津港塩田回漕店で休息。その後、那珂多度郡書記、多度津町役場職員の送辞、豊田元良から一同へ贈物を受取、大滝丸に乗り込んだ。
 大久保諶之丞、二十三年四月二日「北海道移住者出発の景況

この第二次移住団の団長格は、追上出身の稲田新八である。

 新八は、仲多度郡十郷村追上稲田嘉市の三男であり、兄民治は追上組長、弟常七は一年後の明治24年に新八を頼って北海道に移住している。新八の父稲田嘉市の妻サヨは、謳之丞の父森治の実弟田中歳三の次女にあたり、謳之丞と新八とは従兄弟になる。読み書きそろばんに巧みな新八は、諶之丞家で長年「番頭」をしていた。大久保家にとっては「キーパーソン」的な人物を、送り込んだことになる。


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 新八自身が、諶之丞に充てた開拓団の状況伝える書簡が残されている。また政之から諶之丞への書簡の中にも「新八と協議して」「新八からお聞きでしょうが」という文言が多く現れる。新八の報告を受けて、諶之丞は金銭面も含め支援の可否を決定していたことが推察できる。そのため新八は「監視・報告役」としての役割を担っていたとも言われる。

 23年4月に第2次移住団を迎えた向洞爺。
その秋、はじめてこの地は大豊作になる。

その様子を三橋政之は大久保諶之丞への書簡にで次のように報告している。(意訳)
 三橋政之の書簡 NO4   明治24年1月30日発    情況報告
 昨年の農作は移住以来初めての好結果を得ました。その原因を分析すると、昨年は季候が非常に温暖で、積雪も前年に比べると数寸少なく、その結果、消雪も意外に早くて、作付も早く出来ました。秋の降霜も前年に比べれば約三十日も遅く、その結果、作付したものは種類を問わず皆豊熟しました。
 また今年の季候も昨年同様で降雪もわずかで、目下の季候は順当で本年も豊作を得る事は疑いありません。以上の次第に付、移民等も本地において農業で前進の目的を達すべしと大いに奮発し心を起こして勉強罷在候に付、開墾も大いに進歩するであろうと楽しみにしています。昨年の周旋で移住した者達は、実に僥倖な年に移住しましたので先発隊とちがい困難の情を知らずに、速に生計の途に付いておりますのでご安心下さい。昨年の移住民の中で、実に見込なき人物もおります。(これは稲田君より報告済みだと思いますので申しません)。
 先発者連中は、それまでの三ヶ年連年の凶作でいろいろ負債を負っていますので、昨年の収穫物は負債を償却するに足るか足らないかになりそうです。以下略
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  この大豊作のお陰で、移住団は最初の関門を越えることができた。
「向洞爺は大豊作 豊穣の地」という報告を受けて、大久保諶之丞は明治23年秋から冬にかけて第3次移住団の募集を開始する。そこには、今までにない数の移住者が応募してくる。

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 讃岐からの移住団をひきいてやって来た三橋政之について

三橋政之について「讃岐移民団の北海道開拓資料」の中に詳しい紹介があった。この本は大久保諶之丞の末裔の方が諶之丞に関する北海道開拓移住関係の貴重な書簡や資料をまとめて出版されたものだ。その中に、「洞爺村史」の中の三橋政之に関する部分が全文掲載されている。以下、紹介する。
三橋政之(伝四郎)の父は、間宮藤兵衛光庸といい丸亀藩士であった。
間宮家は丸亀藩士で郡奉行などを代々勤める百三十石の家柄であった。政之は二男で嘉永元年(一八四八)一月十一日に生れ伝四郎と名付けられた。兄は光輝、弟は後に政之と共に北海道へ移住し開拓功労者のひとりとなった間宮光貫である。
 一方、養子先の三橋家は藩主京極氏の古い家臣で、佐々木京極といわれた近江時代から仕えていたといわれる。
洞爺の倉庫の中から発見された柳行季の中から出てきた三橋家の系図では、  藩主に従って丸亀に移って来た時から書かれている。
 三橋家の丸亀初代は、三橋安太夫政宗で百三十石、寛文四年二六六四)に病死している。このあと、丸亀三代政常が亡くなった時、甥の敬英が養子となったが、跡目相続の遅れで、新知といって新しく禄を受ける形になり、半分の七十石になった。

 次の正為は、大目付などを勤めて功績があり、加増されて九十石、伝四郎が養子にいった時も禄はそのままで、養父の武太夫政一は、普請奉行を経て大目付を勤めていた。
 政之の叔母のヤエは初め常代のち吉といった。
同じ藩の侍である三橋武太夫政一のところへ嫁いでいたが、子どもがなかったので、自分の兄の光庸に頼んで、伝四郎を跡とりにすることにした。
伝四郎すなわち後の政之は養子として三橋家を継ぐことになった。
 当時の武士の家は、丸亀城の城郭の中に建てられていた武家屋敷の中にあった。三橋の屋敷はこの城の東郭の中で、もとの三番町といったところにあった。敷地は三九一坪で、伝四郎の控によると、

「私居宅、四開梁に桁行七間、南手へ五間、東手へ四間、両様共、尾ひさし付き、何年の頃取建候や、手暦相わかり難く候得共、余程、年古く相見え・…:」
と記している。伝四郎はこの家で育った。

同四年、伝四郎十才のときには、藩から貰う家禄の六割が天引されるという非常手段がとられた。生活が苦しくとも武士の対面は保たなければならない、しかも藩の内外は尊王攘夷の問題で、ようやく騒がしくなってきていた。伝四郎が育ったのはこの様な時代で、今のように恵まれた時代ではなかった。
三橋政之は必死になって文武の修業にとりくんだようである
彼は、当時の武士の子どものしきたりに従って、藩校の正明館で学問を学び、また鉄砲、槍、剣術などを師範のところへ通って修業したものと思われる。文久三年二八六三)十六歳になった時、芸州(広島県)へ剣術修行に出ている。
 政之は剣道の達人であると書かれているものがあるが、後に土肥大作事件で生死を賭けた働きや維新後の邏卒や県役人の経歴などを検討してみると、度胸もあり腕の立つ人物であったことは間違いない。彼の開拓に於ける不届の闘志と、不動の信念は、実にこの剣道の修業時代に形づくられたものといえる。

 文久三年(一八六三)八月京都の勢力の中心になっていた尊王攘夷派を、公武合体派がまき返して主導権をとった。丸亀藩は、藩主が上京し皇居の警備に当たることになった。藩では藩士の中から精鋭22名を選抜し上京させた。この中に伝四郎の兄、間宮庵や土肥大作らと共に十六歳の伝四郎が加えられた。この中では、もっとも年は若く、伝四郎にとっては最初の危険な運命との出合いであった。藩からは出発の祝として、酒一斗、干鯛五枚が下賜された。この一行は無事に年末にかけて帰藩している。
 元治元年(一八六四)八月藩は堀田嘉太夫、間宮藤兵衛、原田丹下の三名に宛てて、高島流練達の土の取立てに付いて文書で命じている。
 操練世話方 大塚秀治郎、間宮庵、原田八朔、三橋伝四郎など十六名 同 肝 煮 土肥大作など五名

伝四郎が、藩主の朗徹に正式に御目見を許されたのは、慶応元年(元治二年)正月であった。慶応三年五月父の武太夫政一は隠居を許され、伝四郎は二十才で家督を相続した。正式の名前も政之とすることを許され、そのまま九十石を受け継ぐことができた。同時に御側小姓、江戸勤番を仰付けられた。伝四郎は江戸藩邸に勤めること数ヶ月、藩主朗徹に従って京都へ向うことになった。

 慶応三年秋、朝廷では諸大名を京都に召集してその意見を聞き、幕府の大政奉還後の政治の方針を決めることにし大名招集の大号令が下った。
 「慶応三年。朗徹候江戸に在り。11月16日。迅速上京の命を蒙りしも、時恰も病獅に在りしを以て、漸く少癒を得て、十二月二十一日、江戸を発し、翌四年(明治元年)正月四日、池鯉鮒駅に至る頃、京都騒擾の報を得、急行して江州柏原駅に到るや、宿病復に発して進むを得ず。乃ち同駅附近清滝村の所領に入りで病を療する数日、同月十五日、京都に入りで西陣本條寺に宿す。時に京都鎮静に帰し、王政維新に際会す。』 
(丸亀藩事蹟)

 朝廷側と幕府方の決戦は朝廷側の大勝利に終り、丸亀藩は危い橋を渡らずに済んだのである。官軍の東征は二月、江戸城明け渡しは四月十一日であった。         
 慶応が明治という年号に改められたこの年十一月、伝四郎は藩主の養嗣子久之助の御膳番の兼任を命ぜられた。久之助は、後の子爵京極高徳で、政之が死ぬ最後まで尽力をした北海道京極農場の主となった人である。
 明治二年二月、京極朗徹は版籍奉還の願いを朝廷に提出、六月、朗徹は丸亀藩知事に仕命された。十一月、伝四郎は「先役中勤労も有之」として、これまでの功績が認められ侍番所次席を命ぜられ、ついで同三年四月、常備隊令士となった。

  土肥大作襲撃事件で武勇を示し、一躍時の人に

  明治4年旧丸亀藩士五十一名が、県の政治の視察にきた県出身の民部省の役人、土肥大作を斬ろうとして、その邸を軋撃する事件が起きた。新時代になって藩が県となり、禄の保証も心細くなった士族の人々にとって生活の不安と困窮は甚だしいものがあったに違いない。このことが県政に対する不満と結びつき、形をかえて土肥大作に向けられてきたのである。
 事件は七月十日、夜十一時頃に起きた。

『悪政の罪は、土肥大作にある。小身者が出世して藩政を専断したことに原因がある。大作を斬るべし』

と、五十人組は大作の宿舎へ斬り込んできた。
大作方には大作は勿論、伝四郎をはじめ腕の立つ者が多かったので、五十人組はついに退けられてしまった。翌十一日暴徒は全部逮捕され、投獄、家禄召しあげの上、それぞれ懲役、閉門、差控えを命ぜられることになった。
七月十二日、丸亀県は事件の顛末を中央政府へ急いで届出ている。
  死傷人氏名                 `
 一、土肥大作方
    極浅手    土肥大作
   土肥大作方に寄留書生
    深手     三橋伝四郎
    同      佐治与一郎
    同      百々 英夫
    深手     田中  鍛
    浅手     守武政一郎
 二、五十一人組方(氏名略)
    即死     三名
    深手     四名
    浅手     五名
    極浅手    一名
 県庁は公式には謹慎を申し渡し、知事は内々に見舞金を下している。
 三橋伝四郎
 去る十日、土肥大作宅江寄宿申、多人数暴人、及刃傷候趣、尚可承札義有之候に付、於自宅相慎可罷在候之事。  辛未(明治四年)七月十二日      県庁
 なお、伝四郎の控によると、
  「七月十日夜、土肥大作方にて不慮之儀有之、翌十一日、知事様より御内々金十両、養生料として被下、尤御住宅にて御家令、堀田清四郎より大塚一格迄渡に相成、同人を以御請中上候」
  辛未 七月二十五日
 中央政府はこの事件について、折返し土肥大作には金百円を賜って災難をねぎらい、三橋伝四郎外五名の者には、その相応の手当として治療、慰労など、優遇措置を取るように示達した。

 この明治初年の大事件は、讃岐地方の人々を驚かすとともに伝四郎の名を知らぬ者はないようになった。
しかし伝四郎にとって、降りかかった火の粉をはらうために止むを得なかったとはいえ、多くの人を死傷させる立場になったことが、あとあとまで心にかかったに違いない。政之の宗教心の篤いことや、後年になってもこの事件を語りたがらなかったので、洞爺では全く知られていなかったことからも、政之の心中を察することができる。
 土肥大作は、このあと民部省に戻り、その後各県の参事を歴任した。明治五年、新治県の参事となり、土浦へ赴任するが、時勢をなげいて三十六歳の働き盛りで切腹して果てている。

 政之の謹慎の解けたのは明治四年十二月五日である。
土肥大作事件で重傷を受けた政之の体もすっかり快復していた。 政之は県庁に出仕し、十四等出仕、聴訟課付、丸亀出張所詰を申付けられた。聴訟課というのは、警察と裁判の両面を担当する所で、この頃はまだ両者は分離していなかった。
 第一次香川県は徳島の名東県に合併し、明治六年七月二日、政之は聶卒総長に任命された。邏卒総長というのは現在の県警本部長のような職務である。 

邏卒早朝として「血税一揆」の鎮圧に功績

 明治六年、西讃地方は日照りが続き、田植えの水にも困る状態であった。ちょっとしたことが原因で農民暴動が起つだ。六月二十七日に始まり、七月六日に鎮定されるまで参加者約二万、二名の週卒が殺された。学校、役所、寺院などが多く焼かれ、民家と合わせ五九九戸が災害を受けた。
 丸亀、多度津では邏卒総長、三橋政之の指揮のもとに旧藩士二百余名で抜刀隊を組織し町の郊外で暴徒が町に入るのを防ぎ、また数人を捕えたので、暴徒は逃げ市中は幸いにその災害を免かれた。県では政之の働きに対し、感状と慰労金五円を付与している。

明治八年、第二次香川県が設置されたとき、政之はその職を辞任し、その後京極家の一等家徒を勤めることになった。
明治九年、香川県は愛媛県に合併された。同11年十二月十六日、愛媛県は政之に県庁出頭を命じ、那珂多度郡長に任命した。時に政之は満三十歳になろうとしていた。郡区町村編成法の発布により、那珂、多度の二郡を以て一郡とし、丸亀に郡役所を置いて監督機関とし、県政の円満な施行を図ろうとしたのである。  

郡長として香川県独立への願いと士族の救済

 明治十六年十一月十日、願に依って本官を免ぜられるまで五年間郡長として勤めた。この間にもっとも苦心したのは税金の問題であったのではないかと思われる。
 地租改正に伴う地租不納者に対する取扱いの配慮、営業税を納める営業者への心得方について各町村へ指令している。明治13年の愛媛県の決算報告では、香川側の収めた税金十九万円余に対し、香川の為に使われたのは十六万円余で差引三万円も伊予側か吸いとったという計算になる。
讃岐人としての政之は、この間に立って戸長会議、町村連合会の組織づくりをしながら、交通、通信、産業、教育など、各般の問題について丸亀を中心とする郡の発展に心魂を砕いた。
 明治十五年、郡の庁舎の借入料金の増額を県に事前に相談しないで、取計ったとして謹責を受けたりするが、これも政之の讃岐人としての人情の現れではあるまいか。

三橋政之の北海道開拓への思い

三橋政之は「讃岐分離の建議書」を中央政府の山鯖内務卿に提出したが、請願は却下されている。このあと五年、明治二十一年には愛媛県から分離し三度香川県が発足するが、このとき政之はすでに北海道の地であった。
 郡長を退職した政之は、郡長の時代から考えていた北海道移住の計画を練るかたわら、弟の光貫とともに士族の事業応援をしたようである。
士族や、狭い土地で苦しむ農民の救済のために、自ら移住することを決意し、明治十九年、知人を北海道に派遣して向洞爺の地を撰定し、郡役所とも協議を重ねていた。翌二十年、郡役所では各村々の戸長を通じて移住者を選び、ついに政之を団長とする二十二戸(政之書翰によれば二十三戸)八十九人の北海道向洞爺移住団が結成された。
 この時の郡長は政之の後任で同僚の豊田元良であった。
豊田元良は、明治十四年、三豊郡長となり、明治十六年十一月より十七年三月まで、仲多度郡長を兼ね、後任の福家清太郎が十七年十月死亡により、三豊郡長より転出、同十八年三月より二十三年十一月まで再び仲多度郡長を勤め、後は三豊郡長に転出、明治三十二年丸亀に市政を施いた時、初代市長となった人である。
 明治20年3月29日 三橋開拓団は盛大な見送りを受け丸亀港より神戸行きの汽船に乗り込んだ。政之40歳であった。

追記 
三橋政之の子政道は、十五歳の時に父に従い洞爺に赴き、同時に向洞爺に入植した堤清造の長女サワを妻とし、その間に生まれた政美は公選による洞爺村初代村長となった。その子三橋健次氏も村長であった。なお三橋政之の長女シズヱは京極高直夫人である。
三橋政之は、同農場内における小作人募集の件で上京中に発病して明治二十九年十一月三日死去した、と言われている。
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明治20年 向洞爺開拓団の結成と大久保諶之丞

 この時期、香川県は消えていた。愛媛県と合併され、県庁は松山に置かれていた。三豊選出の県会議員となった大久保諶之丞は、県議会に出席するために松山まで通った。多度津の景山甚右衛門により多度津ー琴平間に鉄道ひかれ、琴平で開かれた祝賀会で大久保諶之丞が「瀬戸大橋構想」をぶち上げたのもこの頃でもある。

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湖畔から洞爺湖を眺める大久保諶之丞
(実際は諶之丞は、この地を訪れたことはない。)

 この時期、旧丸亀藩内の仲多度・三豊郡では北海道への開拓団編成が進められていた。その斡旋委員を務めていたのが大久保諶之丞であり、実務の中心にいたのが三橋政之である。彼は、旧丸亀藩士で藩主のそば近くに使え、維新後は県警察幹部や那珂郡長を歴任した人物である。香川県の復活と共に職を退き、郡長時代より関心のあった北海道開拓に身を投じていく。その考え方や生き様に、興味を抱かせる人物だ。
 彼は大久保諶之丞と入念な計画と協議を行って準備を進め、移住団を編成し団長としてこれを率いる。副団長には実弟の間宮光貴が補佐し、23戸89人が北海道に向けて出発していく。明治20年の春のことである。

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 この開拓団に十郷村(旧仲南町 現まんのう町)で教員をしていた岩倉三代古という人物が、団員として参加し死去するまでの日記を残している。その中に成功地代価分の支払を受けることとが記されていることから、団員の中では特別な身分であったと思われる。
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 開拓団はどのようにして洞爺湖北岸まで旅したのであろうか。
「岩倉日記」には、その旅程が次のように記されている。
明治20年
3月26日 戸長の井上典平からの北海道開拓移住依頼を承諾。
  28日 自宅を出発して丸亀郡役所に寄って生田公より激励を受け、南條町・旅館「筆の山」に泊まる。その道すがら大和屋にて目出度酒肴をなめ、買物を済ませ、人力車で中府に至る。丸亀堀ばたにて支度。
団長の三橋政之君に粗菓献上、代価は30銭、宿代は3銭。牛之助と一緒であった。
  29日「筆の海」で拵えして、午前9時より郡役所で荷造。
     10時20分生田君より餞別15円23銭を受取る。
牛之助と別れ、11時より築島で郡長及び諸係の諸君各村戸長等より離杯を賜わる。花火が上がり、歓声が轟き天を動かした。
     午後3時 丸亀港より平辰丸へ乗船し神戸へ。

 出発に際しては、郡長や戸長からの見送りを受け、送別会も開かれ「公的移住団」の扱いを受けていたことが分かる。この席に大久保諶之丞もいたのだろうか。

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向洞爺の湖畔

以下、神戸からの旅程を簡略に示すと次のようになる

30日 午前3時  神戸港着。駒屋庄五郎方泊。
31日 正午    神戸港から大汽船「新潟丸」(長さ70間、横9間)に乗船。
4月1日 午後4時 横浜港着。船内二泊。
  3日 正午   横浜港出発。
  4日 正午   陸前の萩の浜港に着。大森平助方に宿泊。
  5日 午前5時 萩の浜港出発。
  6日 午前6時 函館港着。内田利平方に四泊
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有珠山展望台より

 10日 午後6時 函館港から「矢越丸」に乗船。
     「開拓秘録」では、百トン位の小蒸気船「矢越丸」とある。
 11日午前7時  紋瞥着。小野貫一郎方へ。
     さらに、長流川沿いを辿って壮瞥の小野の支宿に到着。
 13日  三橋政之の指示で、「湖水南を開削に着手す」。
 滝裏で、倉庫仮小屋工事に着手。
 28日 新倉庫上棟。大も荷物も収容。
  この間に湖上を渡る和舟を白老のアイヌから買受け、回漕し て、22、23日をかけて長流川を壮瞥まで曳き上げる。壮瞥から湖畔までの十数丁の山越しは、道がなく人の肩で担ぎ上げて湖面に浮かべた。荷物を小野から新倉庫に運ぶ一方、別部隊は向洞爺に小屋(「岩倉日記」では、長船の小屋)を建てた。この小屋を出先小屋にして湖畔から1里ほど離れた開拓地二の原に小屋をかける準備をした。

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 このように最初に入植したのは、現在の大原地区周辺の一の原、二の原という高地だった。
  5月10日 二の原の家を上棟させる。
  5月31日 開墾開始。雪は残るが播種期も迫っていたので、共同開墾法で手起しで進めた。 残雪の中、開墾に着手したのは5月31日。讃岐を出てちょうど2ケ月後になる。

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 入植した「洞爺」は、アイヌ語で「湖水の陸岸」を意味する「トヤ」に由来する。洞爺湖北岸沿いの下台地で、美しい湖水に向かって南傾斜し、台地は羊蹄山麓まで続く広い原始林が続いていた。気候は、内浦湾の影響を受け春先はやや不順だが、晩秋は良好で、農業に適した気候条件の土地だと事前調査では報告されていた。

 洋式の犂、牛2頭、馬6頭を購入し約46ヘクタールの耕地を開き、ばれいしょ・大豆・小豆・きび・あわなどの種をまきました。
 しかし、9月末の大霜で枯死。その後の2・3年間も同じような凶作にみまわれ、離村する者も相次ぐ。 紋別・室蘭へ出かせぎに行かなければ生活の糧を得ることができない状況が続く。移住団の門出は、多難であった。

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明治24年2月8日付 三橋政之の大久保諶之丞宛書簡には次のように記します。 
「初年20年は四郡にて23戸の移民にして、そのうち豊田郡から移住せし者独身者二名は移住後間もなく失踪帰国す。残る21戸の内にても同居同産の者あり。一戸体裁をなしたるものは17戸ばかり。21年は8戸ばかり、22年は坂下孫二、大西鉄造、23年は稲田君初め貴兄の御周旋にて移せし者のみ」

         参考資料 馬見州一「双陽の道」
   

略年表

1887年(明治20年) - 香川県旧丸亀藩士三橋正之ら22戸76名大原地区に移住、「洞爺村」開基。
1889年(明治22年) - 第2次移住民80数戸が湖岸に移住。香川地区の開拓開始
1907年(明治40年) - 日露戦勝記念として、湖畔33ヶ所に観音堂をたてる
1908年(明治41年) - 洞爺初の動力船「金湖丸」就航。(公共交通の開通)
1920年(大正9年) - 虻田村(現・洞爺湖町)より分村、「洞爺村」となる。(人口 : 3,220)
1953年(昭和28年) - 役場庁舎(現在の「洞爺湖芸術館」)落成
1975年(昭和50年) - 香川県財田町と姉妹町村になる。(人口 : 2,597)
1977年(昭和52年) - 有珠山噴火(1977年 - 1978年噴火)。
2004年(平成16年)4月30日 - 「とうや水の駅」本館完成、営業開始
2006年(平成18年)3月27日 - 洞爺村と虻田町が合併し、洞爺湖町を新設合併。
          これにより洞爺村は廃止。

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