瀬戸の島から

2018年06月

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国市池と爺上山

国市池(くにち)池の誕生については、次のような話が伝わっています。
江戸時代のはじめころの話です。武士たちは、戦の練習をかねて、タカ狩りということをしました。山などで、タカを飛ばせて、ウサギやイノシシなどの動物を見つけ、大勢の武士たちが戦のときのように大声をあげながら、追いかけて獲物を補らえるのです。お殿さまは、狩りのじょうずなタカをもとめていました。

あるとき、村の庄屋さんから、
「タカを捕らえて差しだした者には、お殿さまからほうびをくださる」
ということが、お百姓さんたちに知らされました。
しばらくして、ある日、笠岡のお百姓さんで、じさえもんという人が、タカを捕らえて、庄屋さんの家へ持ってきました。そして、
「山でタカをつかまえたんじゃ。お殿さまに差し上げてくだせえ」
    「タカを捕らえて差しだした者には、お殿さまからほうびをくださる」
ということが、お百姓さんたちに知らされました。

「どれどれ、おお、元気のよいタカじゃ。お殿さまも喜ばれるじゃろうて」
そう言って、庄屋さんは、タカを持って、お城へ行きました。

それから、しばらくして、ある日、じさえもんさんは庄屋さんのところへ呼ばれました。
庄屋さんがじさえもんさんに言いました。
「喜びなされ、じさえもんさん。お殿さまからほうびとして土地をくだされたぞ。五丁池の下のところに、まだ田んぼにしていない土地がある。そこを田んぼにして米を作りなさい、というお知らせじゃ」
「ありがとうごぜえます」
と、お礼を言って、じさえもんさんは、庄屋さんの家を出ました。

「まだ田んぼにしてないっちゅうたら、どんな土地じゃろか」と、気になりましたから、五丁池の下のところの土地を見に行きました。そして、おどろきました。そこには小さな池がいくつもあって、とても田んぼにできるような土地ではありません。
じさえもんさんは、急いで庄屋さんの家へもどって、言いました。
「庄屋さま、せっかくじゃけれど、あの土地はもらってもこまります。いま見てきたんですが、わしがひとりの力で田んぼにでけるような土地ではないですけん。お返しでけるんじゃったら、返したいんでごぜえますが……」
「そうかあ。しかし、困ったことよのう、せっかくくださったものをお返しするのは。まあ、おまえがそういうのだから、お城へ取りついでみよう」
そう言って、庄屋さんはお城へ行き、じさえもんさんの気持ちを伝えました。
それからまた、しばらくして、ある日、じさえもんさんは庄屋さんのところへ呼ばれました。
「お城からお知らせがあったぞ。おまえには別の土地をくださることになった。あの土地は大きな池にして、新名や下高瀬のほうの田んぼまで水を引けるようにするそうじや」
まもなくして、庄屋さんが言ったように、お城から役人がやって来ました。その役人の指図で、小さな池を取りこんで大きな池に作りなおす工事が始まりました。

そういうわけで坊主池・新名池、上池、盆の池などの小さな池を取りこんで大きくしたのが今の国市池です。なぜ、国市池という名がついたのかですって?

それは、そのあたりの池の世話をしていたのが国市さんという人だったのです。それで国市池と呼ばれるようになりました。   
   高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会平成15年
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国市の誕生物語を、史料で見ておきましょう。
国市池は3段階を経て現在の姿に成長しています。
 
戦国時代も終わりを迎えようとする慶長年間  1597年
焼け落ちた柞原寺の再建が進められる中、讃岐の大名としてやってきた生駒親正です。彼は戦乱の世が終わったことを示すために、大土木工事を讃岐各地で進めます。代表的な土木工事が丸亀城の築城と大池の築造です。
三豊では柞原寺西側に大池を作ることになりました。
10国市池形成図

その際に、堤防をこの丘からまっすぐに西に伸ばすため、新名池の半分は切り取られてしまいました。新名池を切り取って西に延びた堤防は、現在の1/3程度の長さでした。これが、国市池の東半分の誕生プロセスです。国市池の向こうに、4つの池(坊主池 下池 上池 古池)は、そのまま残りました。
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        冬の国市池 (西香川病院から)
この時に出来上がったのが、現在の国市池の東半分です。
仮に、これを旧国市池と呼ぶことにします。この時は国市池の西側には、4つの池(坊主池 下池 上池 古池)が残りました。つまり、旧国市池と併せて5つの池がモザイクのように並んでいたのです。

 生駒騒動で生駒藩が取り潰された後に、丸亀藩主としてやってきたのが京極氏です。丸亀藩の課題は、財政安定化のための大規模な新田開発でした。そのため三豊では、三野湾の干拓と大野原の灌漑工事が行われます。こうして、三野湾を水田に姿を変えていく大工事が進められます。三野津・吉津などから高瀬川河口に至る海が、広大な水田となります。平和になり明るい未来が見えてくる。希望の星の工事。人々が望んでいたことです。しかし問題は農業用水の確保です。どこから引いてくるのか? どうするか頭を抱えていたところ・・。
解決の糸口を示すこんな記録が残っています。

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国市池堤防の法華石

鷹を献上した褒美にいただいた土地が国市池の拡大用地に・・
「笠岡村七尾原の治左衛門は触れに従い、鷹狩り用の鷹を捕らえて献上した。その褒美として、比地中村五町池下の未墾地が与えられた。しかし、そこは作付けもできないほどの悪田だったので、返上申し上げた。
それを聞いた殿様が調べさせ、その地形。地勢が分かると・
『それでは、そこに池を築き吉津・下高瀬・松崎新田の用水とせよ』といわれた。こうして国市池増築は、藩の難局打開の事業と位置づけられ進められた。
こうして堤防が吹毛の山まで伸ばされていくことになります。
同時に堤防のかさ上げ工事も進みます。工事の結果、以前にあった4つの池は、池床や用水路に変わりました。。低地に住んでいた農家十数戸も、移住させられました。(中村古事記)。
新しく出来た大池の恵みを受ける村は、比地中村・新名村・下高瀬村・吉津村・松崎村の広域にまたがりました。新しく開かれた三野干拓の水田は、国市池からの水があったからこそ豊かな実りを実現させることができたのです。

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満々と水を満たす国市池を見て、
「その水未釣れば、13162坪(三四町三反8畝二二半)という大池となり、周囲一里余り、まさに海をみるようである」

と書き残されています。そこからは、この大池を作り上げ遠く三野の新田を潤すシステムを作り上げ完成させた喜びの賛歌が聞こえてくる気がします。

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さて、この大池のネーミングには、こんな話もあります。

 満濃池は高松藩に属します。丸亀藩内で、一番の大池であることから「国一池」と呼ばれることになりました。この名称は明治まで約200 年にわたって使われました。しかし、明治になって「国で一番ではない」とのことで、少しへりくだって「国市池」と改めたというのです。どちらが正しいのか、私に判断する材料はありません。

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21世紀の国市池

400年以上に渡って大切な水をため続けた国市池
香川用水が利用できるようになり、少しづつその役割も変わってきました。大池の一部を埋めて公共スペースとして利用しようとする動きが進みます。まず、
西香川病院
そしてB&G
そして、高瀬高校の野球グランド、陸上部の第二グランド
これらは国市池の池を埋め立てて利用しているものです。
そして、池の周囲の道は散策路として整備され、ウオーキングを楽しむ人々の姿が増えている国市池です。
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国市池と爺神山(高瀬高校前より)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

丸亀平野のため池はいつできたの?

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 丸亀平野を空から見るとため池が多いのに、改めて驚かされます。
この一つ一つのため池にも歴史があり、先人達の血と汗で維持されてきたようです。

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香川清美の「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)から学んだことを最初にまとめておきます。
香川氏は、昭和二十七年七月に三回にわたって発生した洪水範囲を調査し、丸亀平野の洪水路線を明らかにしました。洪水範囲と弥生遺跡の立地、ため池の配置を地形図に落としていく中で、次のような事に気付きます。
①丸亀平野の弥生遺跡は、洪水路線に隣接する微高地に立地
②ため池が洪水路線に沿って連なっている。それは「鈴成りひょうたん」のように鈴成りになっており、水が引き氾濫が終わって最後に残る水溜りの位置にある。
④これらのため池は、築造技術からみると最も原始的な型のものである。
⑤「鈴成りひょうたん」状に連なったため池は、稲作が始まった時には取水のための「しがらみ堰」だった。それが後の時代にため池へと「成長」した。
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 山麓ため池の発生過程は?

      亀田隆之は、古代の用水開発の発展過程を、四段階にわけて次のように述べています。 
① 第一段階は、弥生時代の水田耕作が微高地を拠点にして、その背後の低湿地で始められた
 ② 第二段階 低湿地は、河川氾濫で水害を受けやすいため山麓部に次第に移住していく
 ③ 第三段階 谷あいでのため池築造が始まる。その時期は、古墳が造られる時期と同じ時期で四世紀ごろである。
④ 第四段階 五世紀になると大きな前方後円墳に象徴されるように労働力の組織化が可能になり、平野部において治水灌漑工事が大規模に行われるようになる。
①従来の(山麓台地)→(平野への移動)説を否定して
②平野の微高地→ 山麓台地 → 平野の制圧説提唱した。
 こうみてくると山麓ため池の発生は、第三段階の四世紀ごろになります。

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丸亀平野の山麓ため池と古代遺跡の関係で注目されるのは?

    丸亀平野の西端に連なる磨臼山・大麻山・我拝師山・天霧山の山麓丘陵地帯ですが、この一帯は平形鋼剣・銅鐸の出土をはじめ、多くの弥生遺跡が確認されています。その分布と密度からこの一帯は、讃岐でも有数の弥生文化の隆盛地と考えられています。

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    同時にまた磨臼山の遠藤塚を中心に、讃岐でも有数の古墳の集積地です

 この一帯は、山麓台地での耕地開発とため池水利の発生があったと考えられる痕跡があります。『讃岐のため池』第一編は、この地域の山麓ため池を分類して、「谷頭小ため池」「谷側ため池」「堰き止め池」と名づけ、次のように定義しています。
①谷頭小ため池とは、山麓の小さな谷間を堰き止めて作られたた流域面積の狭い小ため池である。
②谷側ため池は、谷川本流を直接堰き止めないで、谷川本流からはずれた谷側の山ひだを堰き止め、谷川に取入堰を設けて水を導き貯水をしているため池である。この種のため池は山麓に限らず平地にも見受けられる。この型のため池は、洪水時の決壊を避けるための知恵を働かせて作られたものである。
③堰き止め池は、谷川本流を直接正面から堰き止めたため池で、上流域からの流出水を全部受け入れる構造である。現在では、山麓部でこれが発達して重ねため池になっている事例が数多く見受けられる。 
  築造技術の難易度では、谷頭小ため池が難易度が低く、これを原型に発達したものと考えられます。いずれにしてもこうした谷頭小ため池・谷側ため池は、山麓丘陵地帯でのため池水利の原初形態を伝えるものです。現在讃岐の各地には、山麓のひだを利用して無数の小ため池がはりついています。これらのいくつかは、弥生の末期から古墳時代前期に、既にその原形を形づくられていたのではないかと思われます。そんなことを考えながらため池を眺めていると、池が何かを語りかけて来るかのようにも思えてきます。

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   ため池の中に出水(湧水)があるものも多いのです。

 湧水を包み込むような形で堰堤を築くことは、湧水のうまい利用法です。それは古代人が考えたことでしょう。出水の湧出水を貯める小さなため池は、古代にまで遡ることが考えられます。そしてこのタイプのため池は、山麓だけでなく、丸亀平野の出水周辺でも造られたとと推察できます。そんな池は、丸亀平野には数多くありそうです。
    
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  満濃池は修築と決壊を繰り返して現在に至っています。
「満濃池 歴史」の画像検索結果

空海が築池別当を勤めて改修した30年後には、満濃池は再び決壊します。そして、改修されますが平安末期に決壊すると、以後は江戸時代初期に修復されるまで450年間、満濃池は姿を消していました。中世の鎌倉・室町時代は武士集団の分立、抗争が続き、復旧工事を行う労働力の組織化を行えるシステムが働かなくなったのが原因です。そのため旧満濃池の底地は、耕地化され集落ができていたようです。これを江戸時代末期の文書では「池内村(いけのうち)」と記しています。
 その間のことを資料的に確認してみようと思います。
 
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「萬之池」は、旧満濃池が再開発されて荘園となったもの

 嘉元四年(1305)六月十二日 昭慶門院御領目録 竹内文平旧蔵文書『香川県史8資料編 古代・中世史料』香川県 昭和61年 
 一 讃岐国(中略) 万之池 泰(秦)久勝   
   亀山上皇が、皇女の喜子内親王に譲った「昭慶門院御領目録」の中の讃岐の条には、飯田郷をはじめ29の郷と保の名が記されています。そこには、良野郷や良野新名、万之池等の郷名が見えます。そして、良之郷の下には行種、万之池の下には秦久勝という知行人(土地を治める人物)の名が記されています。ちなみに秦久勝は、讃岐国の分国主亀山上皇の随身です。

「萬之池」は、旧満濃池跡が再開発されて荘園となったもので、後の「池内村」の呼称であったと考えられます。
良之郷と良野新名、萬之池はその地を領有していた開発領主が、国司の苛酷な収奪から逃れるために土地を亀山上皇に寄進し、その後領主である泰久勝が、上皇の荘園の荘司として現地を支配していたようです。つまり、満濃池決壊後に底地の再開発が行われ、14世紀初頭には荘園化され上皇に寄進されていたわけです。

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その後、萬濃池は上賀茂神社の荘園になります。

京都の上賀茂神社の「賀茂別雷神社文書」(第一史料纂集古文書編 続群書類従完成会(昭和63年)には、その後の「萬濃池」のことがうかがえる3つの資料が載せられています。そのひとつは、受請者「瀧宮新三郎」が荘園主の京都の上賀茂神社に提出した年貢請負の契約書で、次のように記されています。

長禄二年(1457)五月三日
 讃岐国萬濃池公用銭送状送り参らす御料足事 合わせて六貫六百文といえり。ただし口銭を加うるなり。右、讃岐国萬濃池内御公用銭、送り参らすところくだんのごとし。                    
                    瀧宮新三郎      長禄二年五月三日            賓明(花押)
      賀茂御社

内容は「萬濃池」の領地を請け負いましたので、その年貢として銀6貫600文を送金します。ただし「口銭」料も入っています。とあります。「口銭」は手形決済の手数料です。この時代には、すでに手形決済が行われていました。
 この文書からは荘園主が亀山上皇から上賀茂神社に変わり、請負者も泰久勝から瀧宮新三郎に変わっていることが分かります。瀧宮新三郎という姓から、請負人は現在の滝宮を拠点とする綾氏系統の武士団の統領かもしれません。続いて60年後には、瀧宮新三郎に代わって、栗野孫三郎が萬濃池代官職請文を提出しています。

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次の史料は、永正十七年(1520)四月十六日 栗野景昌讃岐国萬濃池代官職請文です。
賀茂御社領讃岐の国萬濃池の内面競望申すにつき、御補任を成し下され候。畏み存じ候。しかれば、御公用の事は、毎年四月中旬に六貫九百文、はたまた、十一月中に五貫八百文分、京着定め、社納申すべく候。
万一無沙汰申し候はば、かの代官職の儀御改替あるべく候。
その時一言の子細申すべからず候。よって後日のため請文の状くだんのごとし
                    栗野孫三郎
 永正十七年四月十六日         景昌(花押)
  請負人名が栗野孫三郎に代わって上賀茂神社に提出した文書で
「毎年四月中旬に六貫九百文、十一月中に五貫八百文分を手形で京の上賀茂神社に送ること、もし契約を守らないときには代官職を罷免させられても文句をいうことはありません」
と記されています。
 ここで目にとまるのは、請負料が60年間に比べて年間6貫600文から12貫700文の約2倍に引き上げられていることです。これは旧萬濃池の荒地開発が進み、領地の価値が上がったことが背景にあるのかもしれません。
上記の文書と同日発行でセットになっているのが、次の文書です。
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永正十七年四月十六日 讃岐国萬濃池公用銭請文
請乞い申す、賀茂御社領讃岐国萬濃池の内御公用の事、栗野孫三郎御代官職として、毎年四月中旬に六貫九百文、はたまた、十一月中に五貫八百文申し請けらるところ、万一無沙汰の儀これあらば、私として、御神事前に社納申すべく候。
なおもって難渋候はば、堅く御催促に預かるべく候。
よって後日のため請文の状くだんのごとし
                はたすハふ守
  永正十七年四月十六日     安家(花押)
  これは「はたすハふ守」の上賀茂神社への「保証書」です。
「もし、請負人の栗野孫三郎が契約を守らないようなことがあれば、督促し年貢を遅らせます。」と請負料納入の保証をしています。このように鎌倉から室町に掛けて、萬濃池跡地は開発され田地化が進み、讃岐の請負人が支配する荘園となっていたことが分かります。
しかし、「池内村」という地名はでてきません。池内村でなくではなく「萬乃池」です。 「池内村」と表記されているのは、下の「讃岐国絵図」(丸亀市立資料館所蔵・江戸時代初期)が初めてのようです。
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「讃岐国絵図」(丸亀市立資料館所蔵・江戸時代初期)
上図の中央の金倉川を、源流にさかのぼっていくと小判型の中に「池内」と記されています。この絵図では、村名が小判型で示されていますので「池内」は村名です。江戸時代初期に作成されたこの絵図には、中世の荘園から発展してきた旧満濃池内の村落が「池内村」と呼ばれていたことを証明する根本史料になります。
この後の寛永年間(1633)に西嶋八兵衛による再築がなされ、中世の池内村は姿を消すことになります。そして、満濃池が450年ぶりに姿を現し、近世が始まります。


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参考史料 田中健二(香川大学名誉教授)「江戸時代の開発」の講演資料による

庚申待とその建塔の目的は? 

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本来の庚申待ちには、祖霊供養または先祖祭の目的とおなじで、先祖の加護によって厄難をのがれ、豊作を願うのが目的がありました。これが仏教化すると「七難即滅、七福即生」というようになり、七色菓子が必須の供物となります。また六道の苦をのがれるという信仰も生まれてきたことが『庚申尊縁起』には見えます。
 山伏達の指導で、仏教唱導に利用されたことがうかがえます
この縁起には庚申の十徳が次のように挙げられています
一に諸病悉除、
二に女子悪子を生まず、
三に寿命長遠、
四に諸人愛敬、
五に福徳円満、
六に三毒消滅、
七に火難水難を除き、
八に盗人悉除、
九に怨敵退散、
十に臨終正念
このように莫大な庚申の利益をうけるためには、精進潔斎をしなければならないと説かれます。
扨テ庚申祭ノ前夜ヨリ肉食五辛ヲ断チ、
精進潔白ニシ重不浄ノ行ヲナサズ、
とあり、とくに「不浄ノ行」という男女同会を禁ずるタブーがきびしかったようです。近世の『女庭訓大倭嚢』には、 
庚申の日 射緋いいの日 男女さいあいを致し候へば二天ながら大毒にて、年をよらせ命短くなし。病者になり候。
若し其夜子種定り候へば、その子一生巾開病者に候か、盗人か大悪人かに候。
むかしより例ちがひ申さぬ禍にて候まま、能そ御つつしみあるべく候。
とあり、庚申の夜のタブーは有名です。しかしこのタブーは興味本位にかたられるだけです。なぜタブーなのかという考察がなされていません。
別の視点から見ていくことにしましょう。
先祖祭の代表的な祭として新嘗祭があります。
祭りの前一ヵ月間の致斎(ちさい)は厳重でした。この新嘗の先祖祭は、民間では仏教化して「大師講」とよばれ、その夜は祖霊の来訪を待って徹夜し、大師風呂という風呂を立てて潔斎しました。
また、新嘗の夜には男女が別々の家に寝たことをしめす『万葉集』(巻十四)の歌があります。  
 誰そ 此の屋の戸押そぶる 擁獣に
         我が背を遣りて 斎ふこの戸を
という歌は、新嘗の祖霊祭には夫を他所へやって、妻一人が忌み箭って祖霊をまつったことを示しています。しかし、奈良時代にはこのタブーを無視して、女一人の家に入ろうとする不埒な輩がいたことを、この歌は伝えています。
「庚申は日木固有の祖霊祭(先祖供養)の一つの形態」
とという視点からすれば、庚申の夜のタブーは、この祖先祭の名残りと考えられます。

   「庚申塔」の画像検索結果  

庶民の庚申真言の唱え方について

 この唱え言は、山伏の方で
オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ

いう真言に変えます。これは「マイタリヤ」すなわち弥勒菩薩(マイタレーヤ)と庚申を同一視する信仰をあらわします。これに添えて、諸行無常の四句偶を唱えたのです。
だから、庚申信仰を通して諸行無常の仏教の根本教理を自覚させ、合わせて先祖祖雲の供養をしたことがわかります。ここにも庶民教化に山伏が影響力を持っていたことが分かります。 
三猿の起源は?
 それでは貴族たちの庚申の礼拝対象は何だったのでしょうか。
貴族達はこれは三尺虫を礼拝するのでなくて、これを追い出そうとする祭でした。
「三尸虫(彭侯子、彭常子、命児子)よ、真暗なところへ向かって、我が身を離れ去れ」

というのですから、守庚申とは眠らずに夜明しをして、三尸虫が身を抜け出さないようにするという教説ともちがうようです。
 ここでも別の視点から見てみましょう。
「三尸虫を離れ去らしむ」という志向が庚申塔の三猿になっていると考えられないでしょうか。猿は庚申の申(さる)とも関係があるけれども、これを三匹とするのは三尸虫を「去る」ことを寓したものではないでしょうか。だから三猿は、すべて否定的にできており、災禍を見ず、災禍を言わず、災禍を聞かずという意味なのだと推察しています。

庚申の鶏は?

 庚申塔の鶏は夜を徹しての行事であるので、夜明けを告げる鶏をあらわします。、同時に鶏の鳴声ですべての禍が去ることもあらわしています。よく昔話にあるように、鬼は鶏が鴉けば夜が明けないうちに立ち去るというのも、この意味です。この鬼は常世、または幽冥界(黄泉)へ去るので鶏は「常世(常夜)の長鳴鳥」といわれます。「庚申塔」の画像検索結果

庚申の本尊は?

 庶民の側の庚申には礼拝対象があります。
庚申講には庚申の本尊というものがあって、神式ならば「庚申」または「猿田彦大神」という文字の掛軸です、仏教式ならば「青面金剛」という仏像の掛軸です
いずれにせよ庶民の庚申講には、神なり仏なりが存在して、これをまつり、供養することによって禍を去り豊作を得ようとしたことが、貴族の守庚申とまったくちがう点です。 
庚申の神を「猿田彦大神」とするのは、申と猿の相通からきた
ことはもちろんのことです。が、そればかりではなく天孫降臨のとき、その道の露払いをしたとあるように、禍をはらう力がこの神にあるとされたからでしょう。したがって、この神は「道の神」として道祖神ともなります。
 しかしそれよりも重要なのは、猿田彦神は「大田神」ともよばれて、「田の神」すなわち豊作の神とされることです。庶民のあいだの庚申講は、後世になるほど豊作祈願が強くなります。そのために「田の神」と同格の猿田彦神を、庚申講の本尊として拝んだのです。貴族の信じた三尸虫説とはまったく異質的な庚申信仰でした。
 そこにいるのは決して外来の神ではなくて、農耕を生活の手段とする日本固有の神でした。

 日本人の固有信仰では「田の神」は山から降りてくるものであって、田圃の耕作が済めば山へ帰る神と信じられていました。だから冬は「山の神」となり、春から秋にかけては「田の神」として耕作を護るとされます。これが「山の神・田の神交代説」という考え方です。
 猿は「山の神」の化身として山王ともよばれるので、猿田彦という神名は「山の神」と「田の神」の二面性をあらわし、豊作祈願の庚申講の神たるにふさわしいとかんがえられたのでしょう。

 庚申信仰の仏教化も猿田彦神の神道化も職業的僧侶や神官のかんがえたことです。
どちらの
場合でも民衆は、庚申は豊作の神と信じていました。その豊作も庚申講で供養する先祖のおかげと信じていました。そのため庚申講には念仏がつきものでした。だから庚申塔には「申待供養」とか「庚申供養」という供養の文字を入れることが多いのでしょう。祭の本尊は猿田彦でも青面金剛でも、これを通して先祖をまつり、そのおかげて 豊作を得ようという信仰構造が、庶民信仰というものです。

庚申信仰の拡大の上で山伏の果たした役割は?

 この庶民の信仰をよく理解して、これに沿うように庚申信仰をひろめ、民間の庚申講を結成させていったのが修験道の山伏です。かれらは神仏も区別せずに礼拝したので、両部神道に近付きやすかったようです。ことに真言密教系の山伏は伊勢系の両部神道を根底とした習合思想をもっていたために、伊勢神道の豊受大神即金剛神の理論に『陀羅尼集経』の「大青面金剛呪法」をとりいれて、日本独自の庚申本尊六腎青面金剛神像をつくりあげていったのではないでしょうか。



従来の庚申信仰の説明は、道教の三尸虫説だが・

 庚申信仰については、従来は次のように説明されてきました。
中国の道教では、人間の体には三尸虫というものが潜んでおり、それが庚申の夜には体をぬけ出し天に上り、その宿り主の60日間の行動を天帝に報告するという。
そうするとたいていの人問は人帝の罰をうけ命を縮める。 だから庚申の夜には寝ずに起ていなければならない。
そのためには講を作って、一晩中詰をしたり歌をうたったりしているのがよい。
「庚申塔」の画像検索結果

 しかし、三尸虫説からだけでは庚申信仰は捉えきれないし、説明しきれないようです。例えば
なぜ庚申塔をつくるのか、
なぜ庚中塔や庚中塔婆を立てるのか、
これに庚申供養と書くのか、
庚申と猿や鶏の関係は何か、
庚申に七の数を重んずるのは何故か、
庚申年の庚申塔に酒を埋めるのは何故か
などの疑問が説明できません。
そこで、庶民信仰の視点から見直していこうとする動きがあります。その代表的な存在である宗教民族学者の五来重の主張の結論部を提示します。
① 庚申待は、庶民信仰の同族祖霊祭が夜中におこなわわていたところに、道教の三尸虫説による守庚申が結合して、徹夜をする祭になった。
② この祭りにはもとは庚中神(実は祖霊)の依代(よりしろ)として、ヒモロギの常磐本の枝を立てたのが庚申塔婆としてのこったのである。これがもし三尺虫の守庚申なら、庚申塔婆を収てる理由がない。
③ 庚申塔婆も塔婆というのは仏教が結合したからで、庶民信仰のヒモロギが石造化した場合は自然石文字碑になり、仏教化した塔婆が石造化した場合は、責面金剛を書いた板碑形庚申塔になった。
庶民信仰から「庚申待」を解釈すると、荒魂の祭で先祖神祭り
 「庚申塔」の画像検索結果
60日ごとに巡ってくるの庚申の日に、当番の宿に講中があつまって夜明しをするのが庚申待です。もともと「侍」には日待、月待などがあって、月の出を待つように解されますが、本来は夜通しで神をまつることを待と言いました。すなわち「待」は「祭」のことです。
 すでに民間にあった日待や月待の徹夜の祭が、修験道の影響で庚申待になったります。これは室町以降のことでしょう。その間には、先祖の荒魂をまつる「荒神」祭があり、音韻の類似から庚申に変化していきます。というのは、古くは「庚申」も「かうじん」  と発音したからです。そのために庚申待の神を、荒神の仏教化した忿怒形の青面金剛として表現されるようになります。 

庚中待の源をなす日待、月待は何か?

 庶民の庚申待が荒魂としての先祖祭であったとおもわれるのは、一つには庚申待には墓に塔婆を立てたり、念仏をしたりするからです。信州には庚申念仏といわれるものがあり庚申講と念仏講は一つになり、葬式組の機能もはたしています。
 日待は農耕の守護神として正月・五月・九月に太陽をまつるといわれ、のちには伊勢大神宮の天照皇大神をまつるようになります。夜中に祭をするというのは、太陽の祭ではなくて祖霊の荒魂の祭であった証拠です。そして月待ち七月二十三夜の月をまつるというけれども、これもお盆の魂祭の一部

 日待や霜月祭(新嘗祭または大師講)で、まつっていたものを、庚申の日にかえたものです。
もとから夜を徹して祭をおこなっていました。庚申の晩に宿になった家は、庚申の掛軸(青面金剛)を本尊として南向きに祭壇をかざり、数珠やお経を出し、御馳走をこしらえて講員を待ちます。
全員が集まるとまず御馳走を頂戴してから、水や椋の葉で体をきよめ、それから「拝み」になります。講宿主人の「先達」で般若心経を読んでから「庚申真言」を唱えます。
 これは、 オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ
 または、 幽晦青山金剛童。
を少なくとも108回となえるだけでなく、その数だけ立ち上かってからしやがんで、額を畳につける礼拝をくりかえします。この苦行は、六十日間の罪穢れを懺悔する意味であります。 

「庚申塔」の画像検索結果

これは先祖祭にともなう精進潔斎にも共通するものです。

 もともと祖先の荒魂に懺悔してその加護を祈ったのが、荒魂を荒神としてまつり、これを山伏が修験道的な青面金剛童子に代えたものと推定できます。このあとで「申上げ」と称して、南無阿弥陀仏の念仏を二十一回ずつ三度となえる所もあります。この念仏というのは、念仏講が庚申講と結合したことをしめすものです。
 このことから、この講は遠い先祖も近い祖霊もまつっていたことが分かります。
念仏によって供養された祖霊はやがて神の位になったことをしめすために、七庚申年になると「弔い切り塔婆」である庚申塔婆を立てたと考えられます。「弔い切り」というのは年忌年忌の仏教の供養によって浄化された霊は、三十三年忌で神になり、それ以後は仏教の「弔い」を受けないというのが庶民信仰です。
「庚申塔」の画像検索結果

 神の位に上った祖霊は神道式のヒモロギによってまつられるが、このヒモロギが常磐木の梢と皮のついたままの枝です。これを仏教または修験道式に塔婆とよんだので、庚申塔婆となりました。このようなヒモロギが変化して、やがて「板碑」(いたび)になったとき、これに半肉彫で青面金剛が浮彫された石塔が、庚申石塔なのです。このように自然石文字碑と青面金剛板碑とのあいたには、大きな区別があります。
庚申塔婆が青面金剛板碑となる過程について

「庚申塔」の画像検索結果
 五来重氏は、石造塔婆のひとつである板碑の「五輪塔起源説」も否定して、ヒモロギから板碑が発生したことを結論づけます。
 そして庚申待ちについて
一本の常磐木の枝をヒモロギとして立て、そこに祖霊を招ぎおろして祭をする、原始的な同族祖霊祭が庚申待(庚申祭)の本質
と指摘します。


 奥の院の行場から発祥した寺イメージ 1


この寺には結願によってあげられた松葉杖とか金剛杖、笈、あるいはギブスなどがたくさんあります。結願寺とは、遍路の間に使ったものを全部そこに納めて帰るところです。巡礼・遍路の間に身につけたものを全部そこに置いて帰ります。
大窪寺の歴史はよくわかりません。
『四国領礼霊場記』の縁起によると、行基が開山してその後、弘法大師が中興したというありきたりの縁起になっています。本尊は弘法大師が作ったということになっています。薬師如来です。
 奥の院の岩窟は、崩れたものとみえまして、奥行きはあまり深くありません。現在は、女体山に伸びる「四国の道」が通っており、ハイキングコースとしても親しまれています。女体山からの高松側の景色は絶景です。この山も岩場が多く行場になりそうな所がいくつもあります。
 弘法大師が、ここで求聞持法を修行したと伝わります
地理的な条件からいって、弘法大師が阿波の大滝嶽、あるいは土佐の室戸岬で求聞特法を修行したこととあわせて考えると、弘法大師が帰省するのは善通寺ですから、善通寺から阿波の大滝嶽、そこから土佐の室戸岬に行くにはどうしてもここを通らなければなりません。したがって、お寺の発祥は修行者が奥の院を開いて、やがて霊場巡礼が始まるようになると、山の下に本堂を建てた。
『四国損礼霊場記』には「大師 いき木を卒都婆にあそばされ」とあります。
その後の歴史はまったく不明です。

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最初から結願所というわけではありません。

八十八か所の結願寺になっていますが、最初からそうであったのではありません。特別の意味があるとは考えられません。
 元禄年間に高野山の宝光院主の寂本が『四国遍礼霊場記』を書いた時には、讃岐一国については善通寺か1番で、大窪寺を二十五番の結願寺としています。
 『四国損礼霊場記』は、ここは四国全体のではなくて、讃岐の結願寺であり、四国全体の結願書ではないと断っています。このように大窪寺の結願寺は絶対的なものではなかったのですが、現在はここが四国霊場の結願寺となっています。
 
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 山岳寺院として盛んな時代があったらしく、東西南北に数十町を隔てて山門跡

多宝塔も寛文年間の初年までありました。寺中四十二坊があったといわれています。中世にこの寺を外護したのは寒川郡の郡司藤座元正と国司古家公とされていますが、時代、伝ともに未詳です。どういう人物であるのか、よくわかりません。 
お堂は江戸時代初期の本堂が正面上壇にあって、吹放の礼室と中段と奥殿からなっています。
かなり念入りなお堂です。奥の多宝塔に薬師如来の本尊があります。ただ、参拝するところは吹放の板敷で、真ん中が外陣に当たる中殿といっているところです。
三段構えになっているのは非常に珍しい例です。

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奥殿は二層の多宝塔で、その中の薬師さまは薬壷のかわりに法螺貝をもっています。

これは修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものだとおもわれます。阿弥陀堂があります。これも向かって左にあって、阿弥陀像が根本本尊です。
 奥の院の本尊は阿弥陀。それを下ろしてきて本堂としたのが阿弥陀堂です。奥の院はいつでも発祥になりますので、奥の院の本尊が下におりたとすれは、やはり阿弥陀堂が根本です。また、本坊を遍照光院といっているので、大日如来をまつったことも確かです。いろいろの坊やお堂が分離併合されて、現在の堂宇になったものとおもわれます。

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 奥の院は、大窪寺入口の左の山道を十五町ほど登った小さな平地にある岩淵で、一間と二間の内陣に三間四方の外陣を張り出してあります。平地は不等辺三角形の三十坪ぐらいで、多くの石仏があります。内陣は半は淵内にあって、阿弥陀さんの石像、弘法大師の石像をまつっています。
 行場と修験道者の姿が濃くうかがえるお寺です。

五来重:四国遍路の寺より

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    前神寺-もともと常住(成就)にあった寺で奥社は石鎚山

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 現在、六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として一派をなし、独立寺院になっています。しかし、明治以前の神仏分離前までは石鎚信仰の中核的なお寺でした。
 お寺も、現在のロープウエイを下りた成就に中社があり「常住」と呼ばれていました。そこに常住僧がいたのです。
 神仏分離で、石土という名前は仏教的な要素が入っていると言うことで石鎚神社と呼ばれるようになりました。仏教から分離しようとしたからです。
 その後に石鎚神社は、前神神社の中社の上に新たな神社を作りました。それが現在の成就社です。ちなみに、前神寺は西条の里に下りて、現在地に新たな境内を整備しました。

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御詠歌は
「前は神後ろはほとけ極楽の よろづのつみを砕くいしづち」です。
「いしづち」の「つ」は「の」、「も」は霊ですから、石の霊です。石鎚山はほとんど木の生えない岩峰です。 歴史をさかのぼって、もとは何であったかということを究めてから論じるとすれば、奈良時代の『日本霊異記』は「槌」という字を使って、「石槌神」がこの山にいると書いています。
 また『日本霊異記』では、寂仙菩薩が石鎚山を開いて修行したとされています。
 寂仙菩薩は聖武天皇のころの人だと書かれているので、弘法大師から見れば五十年ぐらい先輩に当たります。そういうものを追って、弘法大師は辺路の修行をしました。
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 石鎚山は西日本随一の名山ですから、特別の修験道が発達しました。
上社は弥山、つまり石鎚の頂上にあります。
現在は露坐の石上大神三体が立っています。
昔は銅の祠の中に三体の蔵王権現がまつられていたという記録があります。
それが石土大神の本地仏だったわけです。  

中社のある「常住」は、今は成就へ

 中社は、先ほど述べたようにロープウエイの成就駅の標高1450㍍のところにあります。石鎚頂上から約500㍍ほど下ると、あとはずっと平地が続いて、常住からまた急に下がりますから、いちばん北の端にあるのが常住です。
江戸時代から成就という字が書かれていますが、もともとは常住です。
 石鎚山の山頂は、冬は雪に閉じ込められて住めませんから、常住に留守居の坊さんがいて、お経を読んだり、花を上げたりして、山頂の神様をおまつりしていました。こういう坊さんを常住僧あるいは山龍僧と呼びまして、その場所がすなわち常住です。山岳寺院の成立の事例を見ると、中腹の中社がいちばん先にできています。

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 下社は現在の里前神寺の権現神殿といわれるものです。

神仏分離以後、成就の前神寺の境内にあった権現神殿が石鎚神社になって、戦後、その上のところを整地して現在の石鎚神社ができました。
那智神社と青岸渡寺が後ろ表になっているのと同じように、もとは神社と寺院は全く相接していたわけです。  
前神寺は石鎚権現社の別当職を勤めました。
明和六年(一七六九)の『石鎚山先達惣名帳』 に六十二の先達を支配した連名があるので、江戸時代の中ごろには前神寺が石鎚修験の先達を支配していたことがわかります。そのころは里前神寺が霊場になっていますが、本来、前神寺は石鎚修験の中心的な神社でした。
 同時に、里前神寺は納経所であって、前神寺に遍路の札を打つと、石鎚山に登ったことになります。『四国偏礼霊場記』も、ここにお参りした場合は上まで登らなげればいけないと書いています。

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お参りする場合は、大和の大峯山や伯者の大山と同じように、六月一日から三日までの間に登らなければなりません。その間が山開きです。その三日問を除いては、山を閉ざしたのでした。
 現在は七月一日から十日間のみ山開き、それ以外は山を閉ざしています。石鎚山に登るときぱ、夜中に松明をともして、峰の間を「ナムマイダソボ」という掛け声をかけて登りました。それより上は無言で登ります。

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 三十六の行場は、最近ではほとんどなくなってしまいました。
石鎚神社で調査したものが『石鎚山旧跡三十六王子社』に出ているので、かなり厳しい行をしながら登ったことがわかります。『四国偏礼霊場記』は、これをしないと本当は前神寺の札を打つたということにはならないと書いています。   

奥の院にこそ四国遍路の意味があります。

それを江戸の時代の中ごろから忘れてしまいました。
王子、王子でなんらかの修行をしながら、山頂から海を拝してくるのが本来の修行であり、遍路の原形でした。石鎚山の山麓には、石鎚信仰に関係のある寺がたくさんありました。ことに西条市北川(喜多川)の法安寺と大生院の正法寺は、灼然または上仙(常仙)を開基とする古代寺院です。そのほか、大保木の天河寺、樫原の極楽寺、古坊の横峰寺がありました。天河寺は現在はありません。極楽寺は石鎚山口にあります。

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 石鎚山別当職を確保したのは、常住にあった前神寺でした。

これは石鎚山山頂にいちばん近いところにあったので、前神と称したからです。したがって、奥前神寺が里に下って里前神寺になると、ほかの寺も別当を名のるようになりました。それで江戸時代には訴訟などもあったようです。
 
  『四国偏礼霊場記』を見ると、権現さんが前神寺の本尊です。
ここでいう寺は庫裡のことで、本堂ではありません。それが霊場の実際の姿だとおもいます。江戸時代に入ってから、それぞれ本堂を建てて寺の体裁を整えますが、もともとは権現が霊場です。そのほかのものは納経を受けたり、宿坊となって霊場が成り立っていました。したがって、奥の院に参らなければ意味がないわけです。

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   最後に三十六王子の話をいたします。

①福王子は、現在はわかりまぜん。
②檜王子は、現在でも檜という地名が残っているので、そこにあったことがわかります。
③大保木王子は、扇王子だったかもしれません。現在も地名が残っています。
川の上の断崖から下をのぞく「覗き」の行がありました。
魔除げとして扇を上げる行は、どこの山にもあります。
④綾掛王子。⑤細野王子は、逼割禅定かありました。
⑥子安場王子には、覗きの行と元結掛かありました。
大峯の石休場は、石の上に腰をおろして休むことができるところですから、小休場ではないかとおもいます。元結掛というのは、山に登るときに元結の注連を首にかけて参って、下りに木に掛けることです。

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⑦黒川王子⑧今宮王子。黒川という集落も今宮という集落も山先達の村で、黒川と今宮が主導権を争った時代があります。もとぱここに山案内人がいたわけです。
黒川王子も今宮王子も覗きの行と垢離行がありました。このように、王子ごとに行をします。 登山道にかかると、非常に急坂になります。
⑨四手坂王子は女人禁制の権現堂があります。
四千坂というので、幣を立てたのだとかもいます。少豆禅定王子には小豆の数取りによって念仏を唱える行があったのだろうとおもいます。禅定は苦行のことです。
⑩今王子はわかりません。
⑩雨乞王子。⑩花取王子は常磐木を取って神に捧げる行があったところです。花とは常磐木をいうのです。⑩矢倉王子の修行形態はわかりません。

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 成就に近いところに行くと、

⑩山伏王子と女人結界の⑥女人返王子があります。
⑩杖立王子は、もっていった金剛杖を立てて帰るところです。
成就には⑩鳥居坂王子と⑩稚子宮鈴之巫女王子があります。ここは巫女がいたのだとおもいます。西之川集落のもう一つの登り口には、⑥吉几王子、⑩恵比寿王子、⑩刀立王子、⑩御鍋の岩屋王子があります。これは脇道になります。

 登山道を登る途中で、夜明峠から左に折れると、天柱石の下に⑤お塔石王子があります。おそらく昔は、天柱石という高い柱のような石に抱きついてめぐる行道があったと考えられます。
天柱石には窟の中に⑩窟の薬師王子があるので、窟に龍る行もあったようです。
祈滝王子には滝行がありました。登山道に戻ると、八丁坂王子、前社ヶ森王子(現在は禅師ヶ森)、大剣王子、小剣王子、古森王子、早朧王子(天狗)をへて、夜明峠王子となります。
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ここで夜を明かしてご来光を仰いで登ったといわれています。
 ここから一の鎖、二の鎖、三の鎖を修行して、弥山頂上に登り、来迎谷の裏行場王子で「水の禅定」があるといいますが、その方法はわかりません。最後に、天狗岳王子で危険な行があったということが調査によってわかっています。

吉祥寺 石鎚信仰の担い手の一つだったお寺

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 六十三番の古祥寺も町の中にあるのであまり霊場らしくありません。
が、もとは本格的な霊場でした。このお寺には奥の院といわれるものが二つあります。その一つの柴井という泉あとのもので、古い奥の院は坂元山にあります。
国道から坂元に入って、三六ハメートルの山を越えたところが石鎚の登山道です。
現在は前神寺から、福王子、檜王子を通って石鎚山に登りますが坂元山から入ると海岸から一直線に南に登れます。そういう意味では、石鎚山信仰の山伏の本拠になったところが坂元山だとかもいます。

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   『四国偏礼霊場記』は縁起について次のように記しています。
当寺むかしは今の地より東南にあたり、十五町許をさりて山中にあり。
堂塔輪奥として梵風を究む。天正十三年毛利氏当所高尾城を攻るの時、
軍士此寺に濫入し火を放ち、此時本堂一宇相残り、仏具典籍一物を存せず哉撤す。
それより今の地に本尊を移し奉る。本尊毘沙門天坐像、大師の御作なり。
寺を去事一町許上に、柴井と号し名泉あり。大師加持し玉ひ清華沸溢る。
村民大に利とす。
 お寺の本堂の屋根や塔がそびえているのを「輪奥」といって、滅びたお寺を形容するのに使われる言葉です。
「梵風を究む」は、仏教的な風格があるということです。
 吉祥寺は小早川隆景が高尾城を攻めたときに、放火によって焼けました。
このとき移された場所は、大師堂のあった場所だとおもいます。
坂元山にあったときの本尊毘沙門天坐像がここに移されました。
「清華」は清らかな泉という意味です。柴井という名泉があったと書いていますが、現在でも柴井の信仰が残っています。
水がないときは柴の青葉を取って手をもむと清められるというので、柴手鉢といっていますが、槙尾山にも弘法大師の柴于鉢があります。

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山門の左に大師堂、天神、毘沙門堂、右に庫裡があります。

吉祥寺ですから、もとは毘沙門天ではなくて坂元山にあった山岳寺院の吉祥天を本尊としただろうとおもいます。しかし、現在は毘沙門天を本尊として、脇侍に吉祥天と善賦師童子を配しています。
 弘法清水の場所に建てられた大師堂と吉祥天・毘沙門天をまつった吉祥寺が合体して、現在地にお寺の伽藍を営んだものと考えられます。
 坂元山が奥の院ですから、現在は遺跡等は何もなくて、みかん山になっています。
このあたりは、瀬戸内海の島々が一望のもとに見えて、海を信仰の対象とする辺路信仰のお寺があったことを再認識できる場所です。
 ところで国道に洽って坂元という集落がありますが、そこではなくて、南にニキロほど山に登った長谷という集落のみかん山になっているところが坂元山です。海岸からほとんど一直線に登りまして、標高は三六ハメートルです。
 この山を越えると黒瀬峠に出て、前神寺・石鎚神社から石鎚山に登る登山道と交わります。ですから吉祥寺は、石鎚系の修験の寺であったといって差しつかえないとおもいます。
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 山内には二十一坊もあったようですが、現在の旧址はそれほど広くありません。
寺伝では小早川隆景に焼かれてのちの江戸時代の万治二年に、末寺檜本寺と合併したと伝えています。檜木寺は、石鎚山登山道の檜王子を管理する寺であったとおもわれます。
 
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ここには成就石があります。

成就石は高さ1メートルぐらい、真ん中に10センチほどの穴があいていまして、目をつぶって金剛杖を突いて歩いていって、うまく穴を通れば願いがかなうという庶民信仰です。
 目隠しをした人が歩いている絵が「一遍聖絵」に出てきますから、目をつぶって歩いて、石に抱きつくことができると願いがかなうという信仰があったようです。
 吉祥寺にも成就石があることから、このような信仰が遍路の寺にもあったことがわかります。

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吉祥寺の本尊が毘沙門天ですから、毘沙門さんのお話をいたします
室町時代になると、鞍馬寺の毘沙門天が福の神になり、その信仰を受けていたるところで毘沙門天が福の神になったようです。さらに、毘沙門天と吉祥天、あるいは毘沙門天と弁財天が夫婦だといわれるようになって、七福神の中に毘沙門天と弁財天が加わったという過程が考えられます。
 じつは七福神は日本の神様二体・インドの神様二体・中国の神様二体ですから、六福神です。日本は恵比寿と大黒天、インドは毘沙門天と弁財天、中国は布袋と福禄寿です。福禄寿は寿老人とも呼ばれたので、福禄寿と寿老人ぱ一体の神様です。
 平等に二体ずつ取ったのに、福禄寿と寿老人が別になって七福神になってしまいました。その中に毘沙門天と弁財天が入るのは、鞍馬寺の毘沙門天の福神信仰からきたものと考えられます。

 宝寿寺-札所となる一の宮
 
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六十二番の宝寿寺は町の中にあって、家並に埋没してしまっているといっては、言葉が過ぎるかもしれませんが、そんなふうです。
 宝寿寺の御詠歌は非常に古い御詠歌だとかもいます。
「さみだれのあとに出でたる玉の井は 白坪なるや一の宮かは」
という御詠歌は、かなり古いかたちです。
御詠歌から、このお寺はもとは白坪というところにあり「一の宮」と呼ばれていた。白坪にあったときは、玉の井という霊水が湧いていたということがわかります。

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 縁起には、かなり古い時代に「伊予一之宮」の法楽所として成立したと書かれています。神様にお経を上げることを法楽、お経を上げるところを法楽所と呼びました。宝寿寺は香園寺の旧寺地があった大日と、川を隔てた中山川の河口の白坪に、まず建立されました。ここも海に近かったとかもいます。

 聖武天皇が金光明最勝王経を奉納して、道慈律師という人が講讃させたと縁起に書いてあるので、道慈あるいは大安寺と関係があったのかもしれません。
道慈律師は、中国に渡って十八年留まったのち、
養老元年(七一七)に翻訳された、いわばホットニュースのような求聞持法をもって翌年養老二年に戻ってきた人です。
   中国で善無畏三蔵が、養老元年に当たる年に虚空蔵求聞持経を訳経したことは、はっきりしています。善無畏三蔵は密教八祖の一人で、インドから中国に来てたくさんの密教教典を訳しました。善無畏三蔵が翻訳した密教教典は「雑密」と呼ばれています。虚空蔵さん、薬師さん、あるいは吉祥天のような一つ一つの仏様について、それぞれ功徳や拝み方を説いたものが雑密です。
  
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 次に出てくる不空三蔵という人は、『大日経』や『金剛頂経』を訳します。

このお経は、仏様を曼荼羅の中に配列して、この仏様はこの位置だ、この仏様は阿弥陀様と同じだ、この仏様は大日如来と同じだという理論を付けて整理したものです。このころになると、雑密はすでにほとんど翻訳し尽くされました。仏像を拝観するときの唱え方を書いたものなどは、殼初に翻訳されています。
 だいたい宗教の始まりは、人間の苦痛をいかにして救うかということで、すでに正倉院に残されている写経に出ているほどで、中国でも朝鮮でも日本でも、自分たちを幸福にずるもの、苦痛を除くものが殼初に翻訳されたことがわかります。 
ところが、弘法大師以前に仏様の配列ができました。
弘法大師は善無畏のあとで中国に来た不空三蔵あるいは一行阿闇梨か翻訳したお経をもって帰ります。雑密は、それぞればらばらです。弘法大師がもって帰ったものは統合したものですから、思想になります。これが密教の二つの流れです。いま曼荼羅、曼荼羅と申しますが、これは思想としての密教ですから、わかったようでわかりません。なぜこの仏様はここで、どうしてこの仏様はここでなければならないかということはやはり謎です。 

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  空海以後の密教が正統密教だといわれています。
 
しかし、正統というと、ほかのものはみな異端になってしまいます。
そこで「両部密教」とも呼ばれています。金剛界・胎蔵界に配列するのを両部と呼びます。雑密は材料です。両部密教はそれを整理して、摩利支天のような天部はいちばん外のところに配列される、明王はその次に配列される、その次は菩薩が配列される、真ん中には如来が配列される、如来の間に菩薩や天部が配列されるという構造になったものです。
 善無畏三蔵が翻訳した虚空蔵求聞持経という呪術的なお経を道慈律師が日本にもって帰ると、燎原の火のごとくに広がりました。養老三年(七一九)に白山を開いた泰澄という実在の人物が、求聞持法をやっていることはまず間違いありません。
 日光を開いた勝道上人も求聞持法をやった記録があります。山伏をしていて文章が書げなかった勝道上人は、人を介して日光山を開いた由来を作文してくれと弘法大師に頼んでいます。
伝言を頼まれたのは下野国の国博士として下ってきていた尹博士という人です。尹博士は、おそらく「イソ」という音をもっか名前の人だったとかもいます。下野から帰ってきた尹博士の伝言を受けて、弘法大師が代わりに作文した文章が現在でも碑になって日光に残っています。
 こういうことから、弘法大師の同時代の山岳修行者の間で、求聞持法が非常に流行していた大ことがわかります。おそらく宝寿憚にも求聞持法が伝えられたために、道慈律師がここで講義をしたという話が残ったのだとかもいます。
 天養山という山号は、鳥羽上皇のころ、天養元年(一一四四)に洪水で流された伽藍を再興したということから付けられたといわれています。
 

  このお寺が一の宮と呼ばれたのは非常に大事なことです。

現在も門前の標石に「一国一宮別当宝寿寺」と彫ってあります。
四国では阿波も土佐も伊予も讃岐も一の宮はぜんぶ札所になっています。
 『四国偏礼霊場記』は、次のように書いています。
  
  此寺本尊、十一面観音なり。惣て聞所なし。推て一の宮と号す。
  いづれの神といふ事をしらず。
  一の宮記に当国の一の宮越智郡大山祇の神社とあり。即三島明神なり。
  当所もむかしは十町余も北にありしを、近来此所に移ぜりとなん。
  今は鎮守と号する一祠ときこゆ。是一の宮の余烈にや。 
 何も縁起はわからない、無理に一の宮といっているだけで、別に理由はないと書いていますが、辺路の信仰からみると、十分に納得できます。現在の寺地から北十町ートル)あまりの海岸(白坪)に大山祇神社を勧請し、これを一の宮としてあがめ、ここを霊場としたことは十分に理由があることです。
 今治市内の別宮が大三島大山祇神社を勧請して、その別当寺に南光坊があるように、白坪の一の宮の別当寺が宝寿寺です。
   
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この寺は中山川の河口にあったために、洪水にしばしば流されたようです。
天正年間に豊臣秀吉の四国攻めのときに荒廃し、寛永年間(二(二四i四四)に一柳氏が再興したとき現在地(予讃線の伊予小松駅前)に移されました。大正十年(一九二一)にもう一度移しだのは、おそらく鉄道の線路か駅にかかってしまったために、もう少し南の駅前に移されたのだとかもいます。
 このお寺は江戸時代にも無住時代があったので、四国遍路の行者宥信上人が住み込んで、付近の人に勧進しながら再興しています。明治維新で廃寺になったときも、同じように四国遍路の行者大石置遍上人が再興しています。それが大正十年に移転して現在の寺院になったわけです

香園寺の本堂は二階

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香園寺という寺名は、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀山という山号からきたものと考えられます。香園寺となったのは、教王院の「きやうわう」が「けうわう」から「けんをん」となり、「香苑」と変おったわけです。教という宇は、かかしは「けう」と読みました。教王は大日如来です。大日如来を本尊としていることから、教王院という名前が出たのだとおもいます。

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「後の世をおもへば詣れ香園寺 とめて止まらぬ白滝の水」
という御詠歌の中に「後の世」とありますが、栴檀の林でお釈迦様を火葬にしたら煙が非常にいい香りがした、その栴檀が山号になったというのが「後の世」の意味でし太う。そのあたりを考えないと、四国霊場のお寺の名前の意味はわかりません。
 「とめて止まらぬ白滝の水」と詠んだのは、
  このお寺の奥の院が白滝不動というお不動さんのあったところだからです。
奥の院の白滝不動から登って、横峰寺に上がります。
途中まではハイキングできますが、先はちょっと道が細くなります。逆に横峰から下ってくると白滝不動に出ます。ここは、奥の院に行ってみないと霊場はわからない、ということが実感できる非常に幽逞なところです。
 
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香園寺はモダンな建物でして、三階建ての二階が本堂で、
二、三百の椅子席、三階が五百名収容可能な宿坊となっております。
しかし、奥の院はじつに幽遼な昔ながらの感じがします。
ここには滝の水の信仰があって、広島や岡山からも信者が来るので、昔の遍路さんは奥の院まで行ったのだとおもいます。滝の水で手を清めると、お参りした実感がしみじみと湧いてきます。

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 縁起では、弘法大師がここを通りかかったときに栴檀の香りがしたので、大日如来を安置して教王院と号しかとなっています。ただ、この寺がもとあった場所は奥の院ではなくて、奥の院の反対側の海岸です。いまも予讃線の線路を越した北側に大日という地名が残っていて、お寺はそこから移ったという記録があります。
 そこにあった大日堂が、白滝不動で修行する人たちの納経所になって、やがて大日如来を本尊とするお寺になり、大日如来だから教王院と称し、現在の香園寺になったわけです。

 『四国偏礼霊場記』は、その他の縁起はわからないと書いているので、書いた方はもとはどこに寺があったかということを調べなかったようです。大日という場所は中山川の下流のデルタにあるので、昔は大日あたりまで水が来ていたのかもしれません。
 
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  ところが、だんだん北に向かってデルタが延びたために、現在は大日と民家の間はIキロぐらい離れています。全部草原ですから、あとがら延びてきたデルタであることがわかります。したがって、海岸にまつられていた大日如来が辺路信仰者の信仰を得て、白滝不動に合わさっていったのだろうとかもいます。

 御詠歌にある「白滝の水」は奥の院の「白滝不動」ですが、ここを奥の院とするのは、石鎚山の別当だった横峰寺との関係を示しています。昔は六十一番香園寺で札を打つということは、白滝不動で滝垢離をとることだったようです。いまでは香園寺から約ニキロ山に入った白滝不動に車で入れるようになりました。

 六十四番の石鎚山前神寺の明和六年(一七六九)の『石鎚山先達惣名帳』に香園寺の名が見えます。それ以外にお寺の記録を残した文献はありません。古くは苑という字が使われますが、明和六年には園という字が使われています。
 中世の海岸の辺路修行は、のちに山岳宗教の修験道に吸収されたかたちとなりました。山岳修行が山の神様を拝かのに対して、辺路修行は海の神様を拝みます。海洋宗教である辺路修行と山岳宗教の修験道が結合したかたちを最もよく示しているのが香園寺だとかもいます。

 また香園寺には、弘法大師がこの地に巡錫されたときに、難産に苦しか女を見て加持したところ安産できた。それで「子安大師」と呼ばれて、安産祈願の寺になったという寺伝があります。そうして全国に子安講ができて、非常に賑わっていたことが今日のお寺のすがたに関連しているとみるべきでしょう。

四国霊場60番 横峰寺 奥の院は石鎚山 

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 六十番横峰寺の奥の院は西日本随一の高峰の石鎚山(1982㍍)ですから、奥の院に参拝しようとすれば石鎚山に登らなげればなりません。石鎚信仰がよく残っている霊場の一つが横峰です。
 横峰寺の縁起には、役行者が星ヶ森で練行中に石鎚山頂に蔵王権現を見た、
蔵王権現の尊像を、行基菩薩が大日如来の胸中に納めて寺を建てた、
と書かれています。本尊の大日如来の胸の中には役行者が刻んだ蔵王権現があるので、山頂本尊は吉野蔵王堂と同じ三体の蔵王権現です。修験道には、本尊を複数でまつる性格があって、いまでも過去・現在・未来の三体をまつっています。

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 神仏分離以後の前神寺の蔵王権現も三体蔵王権現です。

 もとは山開きのときは、常住まで三体蔵王権現が上がりました。
神仏分離以後は、神社のほうは別に石土大神をまつるようになりましたが、じつは石土大神のほうが古いわげです。石土といったのは、この山が木の生えない岩峰だったからです。「いしづち」の「つ」は「の」という助詞、「ち」は霊のことですから、石の霊が龍る山だという意味です。 
なぜ現在は石鎚神社と呼ばれているかといいますと、
石土という名前は仏教的なことが伝えられているというので、仏教から分離しようとしたからです。仏教的な石鎚信仰が奈良時代の説話を集めた『日本霊異記』の最後の説話と、「六国史」の中の『文徳天皇実録』に出ています。

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   まず『日本霊異記』のほうから見ていくことにいたします。
 伊予国神野郡部内に山あり。名づけて石鎚山と号す。
是れ即ち彼の山に石槌神あるの名也。
其の山高節にして、凡夫登り到ることを得ず。
但、浄行人のみ登り到りて居住す。
昔諾楽宮廿五年天下治しし、勝宝応真聖武太上天皇の御世、
又同宮九年天下治しし、帝姫阿倍天皇(孝謙女帝)の御世、
彼の山に浄行の禅師ありて修行す。其の名を寂仙菩薩となす。其の時世の人、
道俗、彼の浄行を尊む。故に菩薩と美称す。
 ここにみえる「登り到ることを得ず」とは、登れないという意味ではなくて、登らせないという意味です。ただ、浄行人として承認を得た人だけが登りました。この文章によると、すでに弘法大師より前に寂仙菩薩という方がこの山で修行していたことがわかります。 
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帝姫天皇の御世、九年宝字二年歳の戊戌に次れる乍、
寂仙禅師、命終の日に臨んで、録文を留めて弟子に授げて告げて言はく
「我命終より以後、廿八年の間を歴て、国王の子に生まる。名を神野となす。
是を以て当に知るべし。我寂仙なることを」云々といふ。
然るに廿八年を歴で、平安の宮に天下治しし山部天皇(桓武天皇)の御世、
延暦五年歳の丙寅に次れる年、則ち山部天皇皇子(嵯峨天皇)を生む。
其の名を神野親王と為す。
嵯峨天皇の親王時代の名前と石鎚山のある場所の郡名が偶然にも一致したので、生まれ変わりだということになりました。 
 
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次に『文徳天皇実録』を見ることにいたします。

  
故老相伝ふ。伊予国神野郡に、昔高僧、名は灼然なるものあり。
  称して聖人と為す。弟子、名は上仙なるものおり。
  山頂に住止して精進練行すること、灼然より過ぐ。諸鬼等皆順指に随ふ。
  上仙嘗て従容として、親しか所の檀越に語って云く、我もと人間に在り。
  天子と同じき尊にあつて、多く快楽を受く。その時是の一念を作す。
  我れ当来(将来)に生まれて天子と作ることを得んと。
  我れ今出家し、常に禅病を治するに、余習遺るといへども、気分猶残る。
  我れ如し天子とならば、必ず郡名を以て名字と為さんと。
  其の年上仙命終す。是より先、郡下の橘の里に孤独の姥あり。
  橘の躯と号す。家産を傾け尽して上仙に供養す。
  上仙化し去るの後、競に審に問ふを得れば、泣俤横流して云く。
  吾れ和尚と久しく檀越と為る。
  願くば来生にありて倶会一処にして相親近することを得んと。
  俄に躯亦命終せり。其の後幾ばくならずして天皇誕生す。
  乳母の姓神野と有り。
  先朝の制、皇子生まるるごとに、乳母の姓を以て名と為す。
  故に神野を以て天皇の譚と為す。後に郡名を以て天皇の譚と同じ。
  改めて新居(新居浜)と名づく。このとき夫人、橘夫人(檀林皇后)と号す。
  いはゆる天皇の前身は上仙是なり。橘の躯の後身は夫人是なり。
 この文章から、弘法大師より前にすでに石鎚山が霊場として知られていたことがわかります。弘法大師も『三教指帰』という自叙伝の中で、尼さんの話を出したりしていますから、石鎚山で修行した弘法大師はそのことを知っていたとおもいます。
こういう話が伝説になって伝えられていたわけです。

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横峰のいちばんの霊場は星ヶ森です。

 横峰寺は前神寺と別当を争っていました。
どちらかというと、横峰のほうが登りやすかったようです。役行者の話が出る星ヶ森という奥の院を信仰の対象にする場合は星ヶ森を通り、弘法大師を信仰の対象にする場合は石鎚山を通ることになります。
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『四国偏礼霊場記』は、上仙を石仙菩薩という名前にして、石仙菩薩の開基だと述べています。 
当山縁起弥山前神、三所同本を用ゆ。
 此縁起、石鉄権現の事、役の行者の事、井に石仙の
  事を書たり。其文神奇孟浪なり。
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「弥山」は石鎚山の頂上のことです。
御山と書いて「ミセソ」と読んでいたのを、須弥山に合わせて「弥」という字を使うようになったわけです。「孟浪」は、でたらめという意味です。
『四国偏礼霊場記』では、弥山(石鎚山)の縁起も前神寺の縁起も横峰寺の縁起も同じ本を用いている、いろいろでからめなことを書いたのは縁起の筆者の累(嘘を言った罪)であると書いています。
 『四国偏礼霊場記』の筆者は、『日本霊異記』や『文徳天皇実録』にも上仙のことが書いてあるのを知らなかったようです。縁起のほうが、むしろ正しいといわざるをえないようです。

参考文献 五来重:四国遍路の寺
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国分寺-最勝院の薬師堂が本堂 

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なぜ四国の霊場を、八十八にしたかというのもよく聞かれる問題です。
 華厳宗の場合は十一の倍数を尊んで、六十六、九十九億、七十七天王などといっておりますから、そのあたりからきたものと考えています。
 国分寺と一の宮は四国ではいずれも霊場となっています。これは辺路修行が六十六部回国のように、国めぐりの性格をもっていたからです。しかし、天平年間に建立された国分寺が堂塔を残しているのは非常に稀であって、讃岐の場合はそのひとつです。
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  国分寺の全部が残ったわけではなくて、国分寺の中の一支院や一坊が残って、国分寺という名前を名乗っています。伊予の国分寺の場合も、民家の間に西塔の礎石が残っていることから考えると、国分寺伽藍の周囲にあったいくつかの坊が、国分寺の名を称していたということがわかります。

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現在は、最勝院の薬師堂を本堂として国分寺の名を称しています。
このほか、大事堂、金毘羅堂、庫裏、書院があります。お寺の縁起によると、智法律師が住持をしていたときに弘法大師がやってきたとされていますが、弘法大師が来た可能性はあるとおもいます。そういう縁起があるだけで、戦乱によって何回も焼かれたために、そのほかのことはよくわかりません。

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仙遊寺 もとは泉が涌くという泉涌寺です。 

 
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五十八番の作礼山仙遊寺は、栄福寺からごく近いところにあって、その間の距離は1キロ足らずではないかとおもいます。栄福寺は勝岡という八幡さんの丘の麓にありますが、仙遊寺はその丘と相対する山の上に建てられています。表参道から登ると非常に急な坂を登らなければなりません。そこから二〇〇メートルほど下ると弘法大師の加持水があります。縁起では、仙人が遊んだから仙遊寺だとありますが、そうではありません。もとは泉が涌くという泉涌寺です。
 
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  原始修験道の時代の信仰は?

日本の山岳宗教の歴史では、仏教をはじめとする外来の宗教の影響を受けない時代を原始修験道と呼んでいます。そういう時代は山の神や海の神や川の神々を御参りしていました。お寺もないころですから、洞窟の中に籠もって、神と一つになる修行をしました。そのためにすべての穢れを落とさなければなりません。山なら滝に打たれる、海なら潮浴びをするというような苦行をして人間の穢れをすべて取り去ることにより、人間に神が乗り移ると考えられました。 
これが憑依現象です。
山岳宗教では「ヒヨウエ」といっていますが、密教的にいうと即身成仏です。
神様が乗り移って、人が神の言葉を語るのですが、穢れていては神様が移ってくれません。そこで、無垢な子ども、機れのない少女、あるいは苦行によって穢れをぜんぶ落とし人に神様の霊が入ると考えたのです。伊勢の斎宮の場合も同様で、斎宮の語る言葉、すなわち託宣が神の言葉です。こういう構造をもったものを原始修験道と呼んでいます。
 
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 次の段階になると、託宣の方法に道教的・陰陽道的なものが混じってきます。
たとえば、星をまつったり、中国やインドにはいるけれども、日本にはいない龍をまつるようになるのが、初期修験道の段階です。
 さらに、役行者のころからそこに密教が大ってきます。平安時代に成立した密教を主体とする山岳宗教を中期修験道と呼んでいます。中期修験道の段階で醍醐の三宝院、園城寺、聖護院のような本山ができて教団化されていきました。
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 原始修験道や初期修験道においては厳しい辺路修行をしました。
平安中期、修験道が理論化されるにつれてい原始的な山岳修業者に代わって学問する人、あまり苦行をしない人々によって、たとえば三十三か所が開かれます。
 それ以前は役行者を除くと無名の人が多く、歴史の中に埋没しています。しかしその時代こそ本来の山岳修行・山岳宗教、辺路修行・海洋宗教が盛んだった時代です。
 まだ仏教の色彩がそう濃厚にならない時代の修行者を仙人と呼ぶ場合があります。仏教が入ってくると、行者あるいは修験者という名前で呼ばれるようになりました。
  
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お寺では仙人から仙遊寺という名前ができたといっています。

 しかし、泉から出てきた信仰だとおもいます。
霊水が湧くといわれるところは、だいたい弘法大師が活躍したところです。
弘法井戸とか大師井戸と呼ばれるものは、弘法大師と加持水が結びついた伝承です。弘法大師が現実にそういうことをされた場合もあり、されなかった場合もあるのですが、それは議論する必要のないことだと私はおもっております。

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   海洋信仰の時代は、修行者が海の見える山頂から海を礼拝しました。

志摩に行くと、和具という海女の本拠地に八大龍王に火を上げる燈籠が現在も残っており、辺路修行者が火を焚いて海神に捧げたのだということが分かります。
 志摩今熊野では、江戸時代の中ごろから末にかけて富士浅間信仰が非常に盛んになります。富士浅間は富士山が見える範囲内における海上生活者の信仰対象です。
 富士山は、山だから山の信仰だろうとおもわれるかもしれませんが、そうではなくて海の信仰です。晴れていると大工崎から富士山が見える、あるいは船が沖に出ると見えるといっています。富士の神様が浅間さんで、本地仏は大日如来です。
 弘法大師の場合も、海に向かって火を上げたと自叙伝に書いています。
辺路修行で海を礼拝したということはまず間違いありません。
 
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海を礼拝する方法が足摺という方法です。

 のちになると、人に出し抜かれて残念だといって、駄々つ子のように駄々を踏むことだと解釈されます。すでに『平家物語』のころでさえ、海を拝む宗教があったことが忘れられてしまっています。その点では伝承は、千年前に忘れられたものを明らかにすることができるありかたい資料です。偉い坊さんや偉い学者の書いたものには出てこなくても、庶民の伝承を集めていくとわかってきます。
 そうすると、厳島神社の鳥居が海の中にある理由もわかります。いまは逆になって船で海に出て拝がむのだといっていますが、海を拝んでいたことは確かです。

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海のかなたを礼拝する山ですから、作礼山というのだとおもいます。
 山頂の石塔は経塚でしょうか。
『四国偏礼霊場記』はこのあたりの素晴らしい景色を次のように描写しています。 
遠く洽海を望めば島嶼波に認べり。左は今治の金城峙つ、
  逸景いづれの処より飛来、惟画図に対するごとしとなり。
 現在の本堂は昭和二十八年(一九五三)に再興されたもので、古いものではありません。

延命寺-宝冠の不動明王

 
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五十四番の延命寺は、五十三番の円明寺と同じ名前だったといわれています。
明治以後に同じ名前では困るというので、延命寺と直したとことがはっきりしています。
 今治から北のほうに半島が延びており、その半島と大三島の間が難所の来島海峡です。延命寺の奥の院は、眼下に来島海峡を望む山の上にあります。現在は山全体が公園になっており、車で楽にあがれますが、頂上の旧跡のあるあたりへは入れません。一歩一歩ふみしめて登ると、辺路の代表的な所だと思われてくる場所です。

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  延命寺の山号を近見山といっているのは、奥の院のある山が近見山だからです。
「くもりなき鏡の縁とながむれば 残さず影をうっすものかな」
という御詠歌の「鏡の縁」は、弧になってずっと見えている海岸線をさしているのかもしれません。ここからすべての景色が見えるということを、詠んだものかとおもいます。
 薬師如来を拝むお寺であれば、鏡に罪・機れ、病気を移して薬師様に受け取ってもらって治してもらうということで、病気平癒のために鏡を納めることがしばしば行われています。鏡と薬師如来が結びついていることはわかりますが、延命寺の本尊は不動明王です。ただ、もう一つ薬師さんがあるので、あるいはそれかもしれません。
 本堂の左手に薬師如来をまつる含霊堂(位牌堂)があるので、ぞれが御詠歌の鏡だとすれば、非常に古い御詠歌になります。
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 薬師如来を考えるならば、山の上から見ると、海岸が鏡の縁のように見える、海も山も海岸も全部、影が映って見えるという意味かとおもいます。難所を通る場合、月明りのない夜は航海が非常に困難ですから、おそらくこのお寺の常夜灯は、来島海峡を通る船の目印になった重要な灯台ではなかったかとおもねれます。

 そのために、このお寺はもとは円明寺と呼ばれました。

 薬師如来の円と燈火の明を結んで円明寺だったとおもいますが、五十三番の円明寺と混同するので、延命寺と改めたのです。本堂の左手にある含霊堂がまつっている薬師如来示おそらく奥の院の本尊です。これが辺路の寺と薬師の関係です。
 そうすると、含霊堂も山上から下ったわけです。
  
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 このお寺の本尊は宝冠の不動明王です。

 大日如来と合体した宝冠の阿弥陀如来はたまにありますが、宝冠の不動はめったにありません。それが延命寺の本尊になっています。山伏などが「大日大聖不動明王」と称えて行をするのは、大日如来と不動明半が一つになっているわけです。
 したがって、大日如来の宝冠を不動さんがかぶっているというかたちをとっているのだとかもいます。
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ここの伝承を総合すると、近見山の周りに非常にたくさんの堂があったようです。
 周りの堂舎は、もっぱら学僧だもの勉強の場でありました。その証拠の一つは、鎌倉時代に東大寺の高僧凝然が留錫して『八宗綱要』を書いたといわれていることです。「八宗綱姿」は、比常山でも高町山でも、昔の坊さんが勉強するときは、かならず素読をさせられた名著です。仏教の知識を得るのはこれを読むことから始めるのがいちばんいいのですが、漢文ですから、仮名で書いてあるものなら『沙石集』のような簡単なものを読むのがいいとかもいます。
 凝然は、たくさんの著書を残しています。
ここで『八宗綱要』を書いたということは、凝然が勉強をしている坊さんたちに講義した講義録とも考えることができるのです。そういう場所の中に、不動さんを本尊とする不動院がありました。阿弥陀様を本尊にする支院とか弥勒さんを本尊にする支院など、支院がたくさんあって、その一つの不動院の建物が比較的しっかりしていたために、長宗我部氏支配のころ焼かれたときに本尊をここに収容することになったのだとおもいます。
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南光坊ー大山祗神社の別宮

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南光坊は大通智勝如来という非常に珍しい仏様を本尊にしています。
法華経にはある上子様が非常に仏教に帰依していて、難行苦行の末に過去七仏というお釈迦様の前の仏様のひとつである大通智勝仏になったと書かれています。これが大三島の大山祗神社の本地仏であったために、大山祗神社の別宮の南光坊にまつられたのだとおもいます。
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明治に神仏分離以前は、納経受付は神社がしていました。
別宮そのものがやっていたので境内に神社と坊が共存していたことになります。
しかし、神仏分離以降、大山祗神社の別別宮と南光院の間には道路が通されて分けられてしまいました。かつて光明寺と太子堂は、それぞれ独立の建物だったようです。大山祗神社にお参りすることが札を打つことだったので、光明寺は札所として関与しなかったのが最初の姿です。今は光明寺と太子堂がいっしょになって南光坊を称しています。
大山祗神社は武蔵坊弁慶の頚鎧や義経の鎧があったりして、武具の美術品の所蔵で有名です。ここも遍上人にとっては先祖の地ですから、晩年になって、ここを訪ねて大念仏をしています。  
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大山祗神について『四国偏礼霊場記』は次のように書いています。 

聖武天皇の御平天平五年に顕はれ玉ふ。
伊豆の国賀茂郡摂津国嶋下郡及び当郡、おのおの社あり。
三所は共に一神なり。当社より愕豆のくにへ移り給はらん。
神道史の研究者は、大山祗神は本花開耶姫のお父さんで、山の神様だ、その親子関係で最初は九州にあったのだろうと説明しておりました。が、最近の民俗学の立場では、山の神はすべて大山祗神だと考えています。どこの山にも山の神がいるので、特定の神様ではなくて、山の神の総称が大山祗神です。「やまつみ」の「つ」は「の」、「み」は神様です。それに美称として大を付けているのです。 

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大山祗神は山の神であるけれども、同時に海洋安全の神様でもあるのです。
島にある山の神は海を守ります。山の神も海洋神です。
したがって、別宮の札所であるということは、もとは大三島まで渡って札を打っていたと考えられます。『四国偏礼霊場記』は別宮は非常に古いように書いていますが、おそらく河野氏が非常に盛んになる鎌倉時代だとかもいます。
 それ以前は辺路修行ですから、島に渡る一つの辺路修行を示していると考えられます。大三島にあった二十四坊のうち八坊だけが別宮に移ります。そのころは宮司も別宮に近いところに屋敷をもっていて、大三島で行事があるときに渡っていったといわれています。
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泰山寺ー海の神は山の神

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 仏教以前にわれわれの遠い祖先は、何を信仰していたのか?

何に祈りを捧げていたのかは、辺路を考察することによって明らかになってくるのです。五十六番の金林山泰山寺は、正しくそういうところです。
泰山寺は松山から車で三十分ぐらいの道路に面した平凡なお寺で、もとはうしろの金輪山(金林山)に奥の院があったようです。 
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 『四国偏礼霊場記』は高野山の学僧が書いたものですから、なかなかの名文です。 
 此寺大師の開基ときこゆ。隆弊しらず。本尊地蔵菩薩大師の御作なり。
 蔀堂蕭条として、樹木おほし。簸落山華を帯、野風をのづから往来、
 数家の田村斜陽に対す。
 「隆弊しらず」は、この寺の盛衰を知らない、つまり歴史がわからないという意味です。「蔀堂」は茅葺きのお堂のことで、木がたくさん生えた寂しいところだったようです。「簸落」は、生け垣、「山華」は山の花という意味ですが、山茶花ではないかとおもいます。生け垣があったり、茅葺きのお堂があって、田んぼの中には二、三軒の家が西日を浴びて建っている寂しい情饌が描写されています。
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 山号の金林山は奥の院があった山の名前で、ほかのお寺にもよく見られるように、奥の院はかつて山の上あるしは険しい崖の上にあって、麓に納経所があったのでした。納経所には留守居の坊さんがいて、集印帳に判を押したり、遍路をしている人を泊めたりもしたわけです。

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  奥の院は海の神様をまつっています。

ただし、日本神話の中では、このあたりで出てくる神は、むしろ山の神としての性格が非常に強く見られます。天孫朧朧杵尊の子どもの彦火火出見尊の奥さんの豊玉姫、その子どもの鵬顛草葺不合尊の奥さんの玉依姫、ふたりとも海の神の娘です。
 そうして玉依姫と鵬鸚草葺不合尊との間にできた子どもが神武天皇ですから、神武天皇は山の神と海の神から生まれたということになります。ちなみに彦火火出見尊は、海彦・山彦神話の山彦です。山の神と海の神、山の信仰と海の信仰が合体していることは明らかです。
  瓊瓊杵尊は、最初は大山祗神の長女の磐長姫を娶ります。
ところが、醜い娘だったので返してしまって、妹の木花開耶姫を娶ります。
そのとき磐長姫は「自分を娶れば人間の寿命は長かったのに、木花開耶姫をもらったために人間の寿命は短くなった」といったそうです。
その磐長姫(阿奈波大明神)を泰山寺の奥の院でまつっていたということは、海の神でありながら山の神としてまつられているということです。
 
阿奈波大明神の本地は十一面観音ですから、奥の院には十一面観音をまつる龍泉寺と仙住院がありました。仙住院の不動明王は霊験あらたかで、狐憑きが落ちるという信仰があったようです。金輪山は大して高い山ではありません。最初は金輪山に登って行場をめぐって、麓の泰山寺に納経の札を納めて帰るという遍路のしかたをしていたとかもいます。
  
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龍泉寺と仙住院が修験道信仰によって成り立っていたことは、

十一面観音のほかに弘法大師、役行者、醍醐派の修験道を始めた聖宝理源大師、醍醐派でまつられている石鎚大神をまつっていることからわかります。そのほか、海の神様である弁財天をまつっています。さらに、山伏善海の遺言と称する縁起があるるといわれています。
 五十二番の太山寺も山の神様をまつっているので、泰山寺ももとは同じように太山寺といったのだとおもいます。ところが、同じ名前のお寺がいくつもあると煩わしいので、「太」という字を「泰」という字に変えました。
 そうすると、お産が安らかだということで、安産の信仰ができました。安産の地尊をまつって、「女人泰産」から泰山となったようです。したがって、現在の泰山寺の本尊は地蔵菩薩です。山麓の地蔵堂が宿坊と納経所を営んだ結果、独立して霊場になったとかもおれます。
 
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 くどく申しますが、奥の院あるいは辺路時代に戻ってはじめて遍路の意味がわかるのです。遍路の真髄を味わうためには、奥の院に登らなげればなりません。全部でなくても、奥の院をいくつか回ってみると、遍路とはこういうものだということがわかります。
     五来重:四国遍路の寺より

栄福寺-石清水八幡宮の別当寺

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五十七番の札所は、江戸時代までは石清水八幡宮でした。

明治時代の神仏分離以後、石清水八幡宮の別当寺が栄福寺という寺名を名乗ったのです。このように札所のお寺が意外に新しいという場合もあります。お寺の名前の由来は不明です。
 栄福寺は泰山寺からニキロぐらい離れたところにあります。泰山寺が山麓の集落にあるのに対して、栄福寺は八幡さんのある小高い丘の登り口に建っています。
 このように別当寺が札所になった例はかなりたくさんあります。しばしば神仏分離と申しますが、神仏分離以前はどちらかといえば神に重点を置いた信仰です。八幡様の中では宇佐八幡が縁起のうえではいちばん中心ですが、系統がいくつかあります。そのひとつに薩摩と大隅の境にあった大隅八幡がありますけれど、現在は鹿児島県の隼人町に入っています。

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 八幡さんは南のほうの海から島づたいに入ってきた神様です。

 宇佐八幡の場合も、御許山という山の笹の葉の上に幼児になって現れた神様を鍛冶翁という鍛冶屋さんが見つけたという縁起があるので、鉄の文明とともに渡ってきた朝鮮半島の神様だと考えています。高良八幡はKorea(朝鮮)から来た可能性があります。福岡県の久留米の場合は高良八幡、炭鉱地帯の田川に近い八幡は香春八幡と称しております。KOREAという言葉は高麗からきていますから、朝鮮半島から渡ってきた神様だというのが一つの説です。

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  もう一つは、南方から渡ってきた神様だという説です。

いずれにしても海の神様でありまして、海辺でまつられる場合が非常に多いわけです。志摩を歩いていると、海岸にある神社がほとんど八幡さんなので驚かされます。ただし、八幡さんが海の向こうから来たとはいわないで、海上安全の神様ということになっております。応神天皇がお腹の中にいる間に神功皇后が新羅遠征をしたというので、神功皇后あるいは応神が海上の神様になって、海上安全の神様として祭られています。が、海の向こうから来た神様、海洋宗教の神様だと考えられるものが大部分です。
 大分県の国東半島にも、王子八幡宮、奈多八幡宮、片竹八幡肖、伊石八幡宮など、海岸の八幡がいくつもあります。奈多八幡宮は大きな八幡様で宇佐八幡の別宮になっています、か、おそらく灘だとおもいますから、やはり海岸の神様です。砂浜に八幡さんがあって、沖に八限を建てています。したがって、奈多八幡はあきらかに海洋信仰であり、辺路信仰です。
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 栄福寺の石清水八幡さんもやはり海洋信仰です。

 縁起では、行教という坊さんが宇佐八幡にお参りしたところ、八幡さんが衣の袖に移って都に上りたいと託宣した、そこで都に上って、いま石清水八幡がある男山まで行ったら、八幡さんがここに鎮まるといったので、現在も男山にまつっているとされています。
 じつは、宇佐八幡はとても託宣の多い神様で、大仏造営のときの託宣は研究者のあいたで大きな課題になっているぐらいです。大神杜女という巫女が「自分は宇佐八幡である。奈良の大仏を造るのを手伝いたい」といったという話があります。杜女は巫女の称号です。大きな行列をつくって奈良に入る前に薬師寺で休んだのが薬師寺の休岡八幡、手向山に鎮座したのが干向山八幡です。
 ところが、それから三年ほどだつと、鹿島の神官が「この託宣は贋である」と発言します。あわれ杜女は島流しになったという記事が『続日本紀』に出ています。

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このように、宇佐八幡は託宣によって移動する神様です。

 行教が宇佐八幡を男山八幡に移したという話を縁起に語らせているのは、海を移動してきた八幡を表現したいのだと考えられます。正史には出てきませんが、行教が貞観元年(八五九)に宇佐八幡の神託によって山城の男山に八幡を移すときに、内海の海上が荒れてこの地に漂着した。そして山容が男山に似ていたので八幡を山頂にまつったということをいっております。
 この縁起に先立って、弘法大師がすでに海中出現の阿弥陀如来を感得したという話があるので、それと行教の話とが重なったわけです。八幡の御本地は阿弥陀如来ですから、阿弥陀如来を本尊として神宮寺ができました。この丘を勝岡といったので、勝岡八幡宮とも石清水八幡宮とも呼ばれています。阿弥陀如来をまつっていた阿弥陀堂が本地堂で、阿弥陀堂が現在の栄福寺になったということがわかります。

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 口碑によると、八幡は今治の巽(東南)の海岸の衣干というところで、海から上がったとされています。一方は行教という坊さんの固有名詞を出し、一方は名石なき海女が海岸で八幡さんを拾い上げたということになっていますが、口碑に物語性を加えて行教がまつったということになっているのでしょう。
 このように、海から上がった神様、海から上がった仏様、海のかなたから来た神様という伝承があるのは、日本の周囲がすべて海だったということで、山の宗教が成立する前に海洋宗教が存在していたということを示しています。
  
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栄福寺の阿弥陀堂のようなところは、もとは本地堂と呼ばれていました。

山岳寺院には本殿の横に必ず本地堂があります。
八幡さんもそうですが、山岳寺院は神社中心です。神仏分離のときに役人はそれを知らなかったのだろうとかもいます。別当寺は神社に付随したもので、本体はあくまでも神様です。神社の横にある本地堂は小さいものです。お坊さんは本地堂にも、神社にもお参りします。それが別当の仕事でした。お宮さんの横に別当寺を建てて、山伏なり坊さんなりがいたのが本地堂です。そういう関係を栄福寺はよく示しているとおもいます。
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『四国偏礼霊場記』は、さらに次のように記しています。  

山麓に弥陀堂を構ふ。彼地の極楽寺に異ならず。 
牛玉堂、大塔のあと及び三所に華表のあと等歴然たり。
凡城南男山の風景をのづからあり。(中略)
祭礼三ヶの神輿をわたし奉る。四十余町の京浜衣干に至る。
 「彼地」は、石清水八幡です。
「彼地の極楽寺に異ならず」とあるので、京都の石清水八幡宮の別当寺の極楽寺と同じような関係だと述べているのです。そのほか、牛玉堂や大塔がありました。
「華表」は鳥居です。三か所に鳥居があったと書いていますから、大きなお宮さんなのです。つまりこのあたりきっての大きな八幡様らしく、おまつりのときは、八幡様がお上がりになつた海岸に出ていっておまつりをしました。お旅所というのは、だいたいもとの奥の院で神が出現した場所です。お寺の縁起は行教の話を述べていますが、東浜の衣干に上がったという地元の伝承のほうがはるかに真実性があります。

 このように分析して考察していきますと、札所のお寺のできる必然性などもご理解いただげたとおもいますが、そういう点で、栄福寺はわりあいわかりやすいお寺です。
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円明寺ー賦算札のこと 

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「仲遍路」の札のあるのが五十三番の円明寺です。

太山寺と同じ西山の北側に位置しているので、奥の院はみな同じ峰だとかもいます。峰が平らなところに下がってきたところにあったようですから、このお寺は海に近かっかようです。
 縁起はほとんど未詳ですが、もと和気西山の海岸にあった寺で、これも辺路の寺であったことを示しています。奥の院は聖武天皇勅願によるとされていますが、海に面しか辺路修行者の聖地であったに相違ありません。
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 奥の院の光景は、いまも大師堂の西壁に打ちつけられている絵馬に見ることができます。ただし、住職に案内してもらわないと、なかなか気がつかないようなところです。大きい絵馬ですが、退色して、墨の描賜が残っているのみですが、昔は堂舎もかなりあり、五重塔もあったことがわかります。 
いずれにしても、以前の境内跡が海に近かったことは、はっきりしています。
いまの場所は、海とは反対側に下りてしまいました。海は西側で、お寺は西山の東側の集落の中にあります。このお寺の本尊は阿弥陀如来ですから、おそらく海上生活者の供養仏としての信仰があったのだろうとおもいます。海で死んだ人を恵比須様と呼び、恵比須様を供養すると豊漁になるということから、現在でも豊漁祈願のために南無阿弥陀仏という札を海に流しています。時宗では、賦算札という「南無阿弥陀仏」と書いた小さな札を流したり、人に与えたりいたします。  
 
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時宗を開いた一遍上人も賦算をして歩きました。

その図が『一遍聖絵』の中にたくさん出ています。
いまの時宗の本山は、神奈川県藤沢市の遊行寺で、そこにいる遊行上人が管長さんです。もとは遊行上人に任命されますと、お正月に1回しか自坊の遊行寺に帰社できません。あとは、常に遊行しないといけません。それもなかなかたいへんなことでして、三年か五年くらいで譲ってしまうようです。ただし最近では、あまり遊行しないようですが。 
 管長さんが遊行されるのは、たいてい漁村です。不漁に苦しむ村から祈願を頼まれると、大勢のお坊さんと船に乗り込んで札をを流すのです。念仏が大漁の祈願に使われるのは、海で亡くなった人の供養になるからです。
 そういう信仰を、阿弥陀如来を本尊とする海岸のお寺に見ることができます。

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   ここでもよっと脱線して、伯者大山へ行ってきたお話をいたしまし上う。
応永五年の『大山寺縁起』という非常に優れた絵巻がありましたが、残念なことに昭和初年に焼けてしまいました。幸いにして、模写が東京国立博物館に残っています。その中に難破した漁船がほのかな明かりを見て、そちらに進んでいくと大山の火だった、それで助かったという霊験談が語られています。

海で働く人々の信仰を、海岸の寺に結びつけているのです。

最近では、奥の院も火を焚かなくなりました。
志摩の青峰山という朝熊山の前山で少し海岸に近い山ですが、海からかよく見えるし、海もよく見える霊場です。そこも本尊さんが海からあがったという伝承をもっています。
 そこには火焚岩という大きな岩があって、そこで火を焚いたこともはっきりしています。ところが、火を焚くと山火事になるそうで、いまでは焚かないと聞きました。さらに高い観音岩というところにピークがあって、最近ではそこに柱を立てて電灯をつけるようになりました。ところが、うっかりつけ忘れたりすると「和尚さん、火が消えていますよ」とお寺へ漁民から電話がかかってくるそうです。それくらいみんな頼りにして、火を大事にしているのです。
 したがって、辺路修行者が海から見える聖なる火を焚くということは、十分理由のあることです。 金刀比羅さんの奥の院の常火堂の常夜灯も信仰対象です。そういう海洋信仰の構造の中の重要な部分として奥の院を考えなげればなりません。
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円明寺には寺宝とし遍路の納札があります。

弥勒菩薩の種字(シンボル)を書いて、その下に「奉納四国仲遍路同行二人 慶安三年今月今日、京樋口平人家次」と書いてあります。こういう人たちはあらかじめ納札を三十枚なり五十枚なり、あるいは八十八枚作って、それを納めて歩きました。
何月何日にそこに行くかわからないので、今月今日と書いておくと、好都合なのです。
 この家次という者が、奥州平泉の中尊寺にも納札を納めているという事実がわかりました。双方に納めた年月が二十二年隔たっています。ときどき遍路に出たのか、巡礼に出てから、二十二年以上回っていたのかわかりませんが、四国遍路と同時に平泉の中尊寺までお参りしていた人が江戸時代の初期にいたことが分かります。この事実には胸を打たれるものがあります。 
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問題は「仲遍路」です。
弘法大師の場合は太平洋岸を室戸岬から禅師峰寺、竹林寺、青龍寺と回っています。
青龍寺は本当に辺路だという感じのするところです。青龍寺は龍神を拝むことが寺の名前になりました。奥の院の下には龍の窟があり、海岸が龍の浜であり、宇佐の町から青龍寺のある半島まで渡るところが龍ノ渡です。すべて海神を信仰対象にしたお寺であることがわかります。
 ここを通って足摺岬に行きました。
岩屋寺は弘法大師の修行の跡として欠くことができません。
岩屋寺を通って石鎚山に登ります。石鎚山に登ったことも、弘法大師は自分で書いています。そうすると、四国のほぼ半分を回ることになります。太平洋岸から瀬戸内海までショートカットして回ったのが、中辺路でぱないかとかもいます。
 さらにいえば、青龍寺からいちばん近いのは岩屋寺ですから、岩屋寺までショートカットするとちょうど半分ぐらいです。そういうめぐり方が中辺路ではなかったかとおもいますが、いまのところ、もうひとつ傍証が出てきません。

境内には切支丹灯龍があります。

   戦国時代の終わりのころに河野氏が滅亡して、加藤嘉明が入ってきます。
慶長五年白に加藤嘉明が、関ケ原の合戦に出ている間に、河野氏の遺臣が加藤嘉明を追い出そうとして反乱を起こしました。観音堂の十一面観音は、河野氏の遺臣たちのための供養仏だといわれています。
境内には切支丹灯龍があります。これも厳密にいえば切支丹灯龍であるかどうかは不明です。織部灯龍が、しばしば切支丹灯寵だといわれているからです。どうももうひとっマリア観音、切支丹灯龍と断定しにくいのです。純粋のマリア観音なら子どもを抱いた像が彫り込んであります。

太山寺―鎌倉時代の本堂 

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 松山の西に一つの山脈があります。せいぜい標高二、三百メートルと大して高くないのですが、屏風のように松山市街と海とを隔てています。山の麓にある五十二番の太山寺と五十三番の円明寺は、いずれも山の頂上に奥の院をもっています。太山寺は山懐に抱かれているので、奥の院はすぐそばですが、円明寺は和気という集落へ移りましだから、奥の院までかなり離れています。 
太山寺の御詠歌も新しいとおもいます。「太山へのぼれば汗のいでけれど 後の世思へばなんの苦もなし」という御詠歌は、いささか低俗にすぎるものがあります。
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 太山寺については、『四国偏礼霊場記』に次のような縁起が出てきます。 
当寺は天平勝宝年中聖武天皇の御建立なり。本尊は行基菩薩唐土より得玉へる十一面観音の小像なるを、長六尺の尊像を作り、其中に納められしとなり。

 いわゆる腹寵の仏像だというのは非常にありうることだとかもいます。
多くの霊場の仏像は、かつて修行者がもっていた笈本尊といわれる小さな本尊を腹脂にして作られています。このお寺は小さな仏像を本尊にして、奥の院で行をしていた修行者が始めたものだということを忘れないように、笈本尊を入れて作っているという縁起は信ずるに足るとおもいます。
  
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ここには非常に古い仏像と古い建物が残っています。

 本堂は鎌倉時代の建物で、霊場の中でも屈指の古建築です。 
縁起としておもしろいのは、豊後の国の真野長者の伝承です。ちょうど松山と相対して佐賀関があって、そのちょっと南に臼杵があります。
この臼杵の石仏は、真野長者が作ったという伝承があります。
満月寺には、延野長者の夫婦の石像と石仏を作ったといわれる法蓮土人の石像と、合わせて三つの石像があります。真野長者はもとは炭焼小五郎という炭焼きであったが、そこへ都から下ったやんごとなき姫君が嫁入りをした。持参金に小判をもってきたけれども、炭焼小五郎はこんなものは山に行ったらいくらでもあるといって、買い物に行く途中で小判を傑にして池の白鳥に当てた。帰ってきて「あんなものはいくらでもあるから捨ててきた」といった。なるほど金の山だったということで長者になったという話があります。
 炭焼きは、燃料のための炭を焼いているわけではありません。
増蝸で鉱石を溶かすための炭を焼くのが、主な仕事でした。そういう精錬法がなくなりますと、炭は塩焼きの薬として使用されます。暖房用としては、ごく少なかったようです。炭焼きですから、鉱山に関係があって金持ちになったのだとおもいます。
縁起では、豊後の国の真野長者が、船で高浜沖を通っているときに難破しそうになったが、十一面観音に助けられた、あとのほうでは御光で助けられたとなっています。そこで、滝雲山の山頂に一寺を建立して、その尊像を安置します。現在はありませんが、『四国偏礼霊場記』には滝があったと書かれておりまして、太山寺があるあたりを滝雲山と呼んだようです。
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滝雲山は三つの峰から成っていて、第一の峰が経ヶ森です。

そこに本尊の十一面観音があったというので、現在は大きな石像の十一面観音を建てています。登るのがたいへんですから、下から見ましたが、下から見て十分、見えるだけの大きな石像です。山頂は二九〇メートルくらいあるそうで、テレビ塔が立っています。   
第二峰は、護摩ヶ森です。
室戸岬にも弘法大師護摩壇岩があります。辺路修行者は聖なる火を焚いて、海のかなたにいる龍神に捧げました。それを龍燈といいます。聖なる火を焚くということがあったことは、ほぼ間違いありません。
 海洋宗教においては、火を焚きます。神の永遠不滅のシンボルともなりますから、その火を消すことはできません。そういうことで、厳島の弥山の頂上に「消えずの火」を焚いた霊火堂があるわけです。頂上に登ると、霊火堂に大きな鉄瓶がかかって、丸本が焚かれています。それを飲むと長命になるというので、広島からも飲みにいくそうです。   
第三の峰が岩ヶ森です。
これは岩石から成り立っているピークだろうとおもいます。
こういう三つの峰に包まれたように現在の太山寺があります。太山寺に本当にお参りしようとすれば、経ヶ森まで、できれば護摩ヶ森から岩ヶ森まで回って、はじめて霊場に参ったということになるわけです。
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山頂寺院が現在のところに下りたのは、

平安時代の中ごろの康平五年(一〇六二)だと書いてあります。
どういう資料があって書いたのかわかりませんが、少なくとも鎌倉時代に現在の本堂ができたのは確実です。その後、荒廃したのを河野氏が嘉元三年(一三〇五)に復興します。重要文化財になっている現在の本堂はそのときのもので、非常に立派な鎌倉時代の建築で作山寺は二つに分かれています。
 一つは、本坊庫裡のあるところです。一つは、いろいろな堂のあるところです。
江戸初期の絵では、堂が三つ描かれています。おそらく交代で住職を勤めただろうとおもいます。本堂のあるところは、本坊庫裡から約二、三百メートル上がったところです。その中間に門前町がありました。これはかなり変則です。門前町の茶店の一軒が遍路宿を経営していまして、古く珍しい建物として残っています。
 このように、ぽつんと離れていて日常の火から遠かったことが、鎌倉時代の建物が残った一つの理由だろうとおもいます。本堂は南向きで、その向かって右側に護摩堂があります。聖徳太子信仰があったようですが、その理由はわかりません。

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それから、稲荷社があります。

 稲荷は稲荷山のような山の上にできることもありますが、海辺にもたくさんあります。稲荷は食べ物の神様だということです。田んぼの食べ物は稲です。山の食べ物を豊かにする山の神が稲荷になる事例もあります。畑の食べ物を守ってくれれば、野神になります。海の食べ物を守ってくれる神様がいれば海の稲荷になります。それは恵比須になったり、稲荷になったりするのです。
   稲荷のいちばん古い名前は何かということまで追究すると、食の根「けつね」です。食のことを「け」といいます。「つ」は「の」です。根は先祖ということです。じっは大阪の言葉が正統の古語なのです。「きっね」のほうがむしろなまっているのですね。食の根を「けつね」といったのがいちばん古い稲荷の言葉で、けっして動物の狐をいうのではありません。動物の狐は別の理由から稲荷に習合してきます。

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 ここは太子信仰の盛んなところで、最近になって八角の夢殿が建てられています。それから、霊場寺院では死者供養も行われますから、位牌堂を兼ねた十王堂があります。大師堂のほかに厄除大師があります。真野長者堂は非常に古い建物です。
 古図によると、もっともっとたくさんの建物があったようです。

 太山寺には、寛永十七年の納札と、承応口年二月吉日の「奉納七ヶ所辺路同行五人」という納札が残っています。いずれも板札です。
   これは七か所だけの辺路修行があったことを示しています。
あとでお話する円明寺の「仲遍路」という納札を見ても、全部回るのではなくて、中辺路という修行のしかたがあったことがわかります。
 私は、七か所でも結構だとかもいます。それよりも、奥の院まで上がってみてはじめて辺路・遍路の実塙かわくのですから。ぜひ奥までお上がりいただきたいものです。
五来重:四国遍路の寺より
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石手寺―衛門三郎の伝説

 
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石手寺は、衛門三郎の伝説があるところです。
本尊は行基の作と伝えられる薬師如来です。八十八か所の本尊でいちばん多いのは、病気を治してくださる薬師如来です。
 出雲の一畑薬師の例で言いますと、額堂にいて祈願する人が、明け方になると磯に下りて海藻を拾って薬師さんに上げるのです。それがいちばんの供養だといわれています。海のかなたから寄ってくるのが薬師だということを、これは示しています。 

石手寺は、もとは安養院というお寺でした。

そのため「西方をよそとは見まじ安養の十に詣りて受くる十楽」という御詠歌があります。
極楽に行くと十の楽しみがあるそうだが、安養寺に参れば極楽の十楽を受けることができる、という意味です。
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 四十七番の八坂寺にも衛門三郎の伝説があります。

 食べ物を求めた托鉢僧に乱暴をふるまったため、衛門三郎の八人の子どもが頓死したというものです。石手寺の縁起では、衛門二郎が石手寺の開創の伊予の国司の河野氏の子どもとして生まれ変わってきたことになっています。
当国浮穴郡花原の邑に右衛門三郎といふ人あり。四国にをいて富貴の声聞あり。
貪欲無道にして、神仏に背けり。男子八入ありしに、八日に八人ながら頓死す。
異説あり。是より発心し仏神に帰し、家を捨、霊区霊像を遍礼せり。
阿州焼山寺の麓にて恙を抱て死に臨めり。時に我大師ここに至り玉ひて、
発心修行の事を歎じ、汝当来の願ひいかがととはせ玉へば、
この国にて河野氏に勝れる人なし。われ彼が子に生れん事を欲すとぞいひげる。
大師小石に右衛門三郎と名を書付に賢らしめ玉ふ。既に命をはりて其所に葬る。
いまに其塚あり。扨月日をへて国司河野氏の男子に生る。彼石を左の手に握れり。
右衛門三郎の後身なる事、人みなしれり。其名を息方と号す。
羊砧円沢のためしよりも正し。此息方当社権現を崇敬し、神殿拝殿再興し、
手に握る所の石を宝殿に納めて、後世に伝ふ。
 罰が当たって八人の男の子が一日に一人ずつ死んでいったので、衛門三郎は発心して四国八十八か所を回りました。ここから八十八か所の始まりは弘法大師だという説と並んで、衛門三郎だという説が出てきます。「恙」は病気のことです。恙なしというのは病気がないということです。
「歎じ」は嘆くのではなくて賛嘆するという意味です。
弘法大師は、衛門三郎が悪逆無道であったけれども、発心して諸国をめぐって修行したことを賛嘆したわけです。来世はどうしたいかと聞くと、河野氏の子に生まれ変わりたいといいました。

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  伊予の名門となる河野氏が、伊予の北半分の国司の地位を鎌倉幕府から与えられるのは壇ノ浦の戦いのときに、源氏方に付いた恩賞です。ところが、承久の変のときに後鳥羽上皇に付いてしまったので、河野氏は没落します。その結果、名前だけは残りました。
 その時の通信は、奥州江刺に流されますが、長男の通広が伊予に留まって坊さんになりました。その子ども、すなわち通信の孫が一遍上人です。これも出家して太宰府の聖達上人に弟子入りします。
 この経緯から「衛門三郎の伝説」が生まれたのは河野氏が没落する以前の承久の変より前の話として、この縁起を受け取らないと「河野氏に勝れる人なし」というわけにはいきません。
 
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鎌倉時代に安養寺から石手寺に変わります

 当時は熊野十二所権現を勧請し、寺坊六十六を数える大寺でした。
 記録をたどると、村上天皇の天徳二年(九五八)に伝法濯頂が行われ、源頼義、北条親経に命じて伽藍を建立し、永保二年(一〇八二)には天下の雨乞いを行ったということになっています。平安時代から鎌倉時代にかけて、かなり栄えた寺であったと想像できます。
寛治三年(1089)に弘法大師御影を賜って御影堂を建てました。これが大師堂です。永久二年に頼義の末子親清か諸堂を修復します。源氏の勢力が伊予に及んでいたので、安芸の宮島と同じように源氏の勢力で諸宗が修復されました。
治承元年(1177)には高倉院から大般若経が施入されています。
元久元年(1204)に十二社権現の祭礼を行ったという記録があるので、このころ熊野権現が勧請されたのではないかとかもいます。それ以前の勧請ではありません。
熊野権現を別当として守るお寺が石手寺ですから、熊野権現が主体で、別当寺はそれに付随したものでした。今治の南光坊も同じような成立のしかたをしています。
弘安二年に十六王子ができたというのも、熊野の王子十六社をここに招いたからとおもわれます。
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熊野の王子はたいへん難しい問題です。

 かつては神様の御子だ、熊野の新宮と那智の神様は伊井諾・伊井再命だから、王子は天照大御神をまつったものだという説が通説でした。しかし、そういうものではなくて、海の向こうから来る神様を王子とではないか、天照大御神というのはむしろ不自然で、常世に去った神悌が夷というかたちで残ったのではないか。子孫を保護するという意味で、食べ物を豊かにする神として戻ってくる。例えば、恵比須様は豊漁の神ですから、そのほうが自然です。 
境内の水天堂には干満水があります。
土間だけの粗末なお堂に、甕が一つ置いてあって、半分ぐらい砂利が入ってします。そこに入っている水は干潮のときはひたひたで、満潮のときはいっぱいになる、といわれていますが、お寺が海とつながっている海洋宗教の寺であることを示しています。
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石手寺の境内は雑然としています。

 雑然としたお寺は庶民が近づきやすい。浅草みたいに、石手寺にも仲見世があって、昭和のころにしか見たことがないようなものが売られています。
 正面に本堂があります。本堂の中には最近作った仏像をたくさん並べています。
円空仏とまぎらわしいようなものが、いっぱい並べてあります。
 本堂の右のほうに大師堂があります。大師堂の左手の裏に兜率天洞という地獄めぐりが造られていて、まっ暗闇の中をめぐって歩くのです。阿弥陀堂は、安養寺の残ったものです。三重塔は鎌倉時代の復興です。それに経蔵、護摩堂、弥勒堂、水大京と並んで、建物はいちおう七堂伽藍がそろっております。
 このお寺は松山市内にあるので、ずいぶん人々に親しまれています。
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繁多寺 一遍上人の学問寺 

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 東山の北側に行くと五十番の繁多寺があって、その隣に桑原八幡があります。
四国には八幡さんがらみの寺がたいへん多くて、石竹八幡、先祖八幡、地主八幡など、亡くなった先祖か八幡としてまつります。阿弥陀八幡などもまつられています。東山をめぐって、二つのお寺と二つの八幡があるのは、東山が聖地であったということです。   

繁多寺の奥の院は山の上のお堂でした。

昔は東山の頂上に、修行者のいるお寺かお堂があったわけです。
そこからは松山の西のほうの海が見えます。やがて大勢の信者ができて、修行者に病気を治してもらったり、占いをしてもらうようになりました。
そして、東山の行者たちが里の信者に招かれて、つまり、田んぼや畑のところに下りてきたのでしょう。山の上の寺に対する畑の寺ということから繁多寺という名が付いたとおもいます。ちなみに、そのあたりは畑寺町といわれています。
 
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行者が山の上で拝んでいたのはおそらく薬師如来です。

 南のほうに下りたのは阿弥陀如来、北のほうに下りたのは薬師如来で、薬師如来を本尊にして現在の繁多寺の伽藍ができました。ここにお参りする場合は、ぜひ山の上まで登ってみる必要があります。

   ここの御詠歌は成立年代が不明です。新しいとおもうものが古かったりします。
万こそ繁多なりとも怠らず 諸病ながれと望み祈れよ」
とご詠歌の中に「もっぱら事務繁多です」というかたちで使われる「繁多」という言葉が入っているところをみると、どうも新しいようです。
「諸病ながれと望み祈れよ」というのも、調子が低すぎますね。
 四国遍路のお寺の縁起は、孝謙天皇、称徳天皇、元明天皇と、はるか奈良時代までさかのぼります。縁起つくりの名人がいて、諸国をめぐりながらお寺の需要にこたえて縁起を作ったという話があります。江戸時代に家系図つくりの専門家がいて、「源氏にしましょうか、平家にしましょう」といったそうです。縁起もそういうものかもしれません。
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 繁多寺の縁起は、江戸時代の初期に霊場を記録した『四国偏礼霊場記』に出ているもの以外はほとんどありません。孝謙天皇の勅願によって開かれて、坊舎が三十六坊あったというのも、ちょっと定かではありません。本尊は行基の作だ、とくに護摩堂の不動明王は伝教大師が作ったものだというのは、そう書いてあるだけで、これも信用できないとかもいます。

この寺の由来を考察しますと、

 浄土寺と日尾八幡、繁多寺と桑原八幡があるので、もとは山から海を拝むという山岳信仰から出発したものでしょう。南の谷が空也谷であると同時に、繁多寺は一遍上人の学問寺だといわれています。時宗では一遍上人の学問寺として非常に重んじています。浄土寺に空也上人の木像があるのと同じように、繁多寺には一遍上人の木像があります。一遍上人は、空也の足跡を慕って歩くとたびたびいっておりますから、こんなかたちになったのでしょう。
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 『四国偏礼霊場記』では、鎌倉時代の中ごろの弘安年間に、聞月という住持が復興した。そののち荒廃して、江戸時代に入って龍孤(龍湖)という比丘が本願となって堂舎を修復した。それが現在のお堂だ、本堂、護摩堂、求聞持堂、仁王門、熊野権現、池中弁天堂があったとされています。
いまは本堂の左のほうの護摩堂は毘沙門堂になって、右のほうに弘法大師の大師堂があります。本堂に向かって左手に、本堂と見まがうばかりの唐破風をもった大きな建物があります。これは聖天堂(歓喜天堂)で、徳川四代将軍家綱が拝んでいた歓喜天をいただいて造ったといわれています。どういう縁故で歓喜天をもらったのかわかりませんが、龍孤が歓喜天の行者だったということに関係があるのかもしれません。
   
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歓喜天は非常に怖い仏様です。

ひとたびこれを拝み始めると、一生涯拝みっづけなければなりません。
途中でやめれば、罰が当たるといわれています。龍孤は命がけの聖天講の行者でしたから、あるとき家綱の念持仏を下賜されて、それでこのような大きな歓喜天宰が造られたのだとおもいます。
 本堂の前からは、海がよく見えます。東山の上からはもっとよく見えるので、辺路としての奥の院であったことが十分に推定されます。

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  海岸山岩屋寺 
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海から遠いのに山号は「海岸寺」

 岩屋寺は、石鎚山の南側の山懐に包まれていますから、海が見えません。
しかし、岩屋寺の山号を海岸山と付けたのは、やはりわけがあったのです。
 寺峰と洞窟が辺路修行の行場であったことは、海岸山の山号で知ることができますが、その由来として弘法大師が詠んだ歌があります。
いまの不動さんを歌った御詠歌の前に、「山高き谷の朝霧海に見て 松吹く風を波にたとへむ」という御詠歌がありました。
谷間に朝霧が立ちこめている有様は、まるで海原のようだ、だからここは海岸山だといっています。また、江戸時代の絵によると、岩屋寺にも龍燈杉があったことがわかります。したがって、海のかなだの龍神に火を捧げたといういわれもあり、海岸山と名づけたことは明らかです。

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岩屋寺はもう一つの特徴をもっています。
岩屋寺の右のほうの金剛界の峰の下に、本堂の不動堂と大師堂が並んでいます。
あたりは岩壁で、不動堂のすぐ横に仙人窟という大きな洞窟、
その少し上に阿弥陀窟という洞窟があります。
そのほか、「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟があります。窟だらけの山を子細に見ていくと、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。
これは命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐった行道の痕跡だと思われます。
 
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 『四国偏礼霊場記』には、次のように書かれています。 
不動堂の上の岩窟。をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり。
長四尺あまり。銅像なり。于に征鼓を持。是を阿弥陀といふ。
凡そ仏は円応無方なりといへども、諸仏の顕現、四種の身相、
経軌に出て伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり。
むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。
 岩屋寺は不動堂が本堂です。「征」は念仏のときに下げてたたく鉦です。
征を下げた阿弥陀様はありませんので、おそらく空也の像ではないかとかもいます。円応無方は融通無碍と同じ意味で、丸くて何にでも応じて形を変え、定まった姿がないことです。仏様は三角にも丸にも空也にも親鸞聖人にもなるわけです。
仏の現れた姿はお経や儀軌に出ている、自分勝手に伝えるわけにはいかない、空也上人の像を建てて、これは阿弥陀様だというのはいけないと書いています。
 阿弥陀様は、江戸時代か鎌倉時代か定かではありませんが、まだ道があったころ納めた仏様で、行けなくなったので、飛んできた仏様だということになっています。
しかし、もとは人間が行って納めたに違いありません。
そういう行道があったということは、ここで辺路修行をしていたということです。

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 海岸に烏帽子岩のような岩と洞窟があると、洞窟に寵って岩をぐるぐる回る行をした痕跡が各寺の奥の院に見られます。
 日本は非常に長い海岸線をもった国です。ひとびとが内陸部で耕作をして住石以前のこと、岸に貝塚をたくさん残しながら生活していました。そういう時代に信仰の対象となったのは、海のかなたです。 海のかなたは常世と呼ばれました。常世は永遠なる世界、年を取らない世界です。二十歳で死んだ人は、いつまでたっても二十歳です。
 海岸で生活していた時代の死者の葬法は水葬だったとおもいます。
水葬された霊は海のかなだの常世に留まります。しかし、だれもそれを見たことがありません。みんな常世がどういうところか興味があるので、だれかいってきた人がいないと困るわけです。
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雄略天皇の二十二年に常世にいってきた人の名前が出てきます。

時代がひとつの物語を生んだということでしょう。その人の名は余社郡の管川の浦嶋子で、綿津見神の化身の亀に連れられて常世にいってきたというのです。また、海の神様のいる常世にいくには、何かいいことをしてお迎えを受けなければいけないということから、亀を助けたという話になっております。
 室町時代にできた御伽草子では、それが浦島太郎の話になりました。
  古く『日本書紀』では、海神そのものが女です。
海神の娘といっていますが、じつは女の神様が亀に化身して陸の男と婚姻したわけです。浦島太郎が亀を助けて船に乗せたらたちまち女に変わって、夫婦になって一緒に海神の都に行ったという話になっています。
 海神の都がのちにいう龍宮です。
『日本書紀』では蓬莱と書いて「とこよ」と読ませています。
『万葉集』の歌も『丹後風土記』も同じですから、そのころは龍宮という言葉はありません。
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龍宮という言葉が出るのは室町時代の御伽草子です。

 なぜ龍宮という発想になったのかをいろいろ考えると、法華経の巻五の提婆達多品に出てくる龍王の成仏の話がもとになっているようです。
 『風土記』などにも、海のかなたからいろいろなものがやってくるという話が出てきます。いちばんよくやってくるのは弥勒と夷です。夷は、のちになると恵比寿というめでたい字を当てたために違った感じになりますが、遠いところから来た者、つまり外国人ですから、やはり海のかなたから来るわけです。そして、陸にいる者が魚がたくさん欲しいとおもえば豊漁をもたらし、豊作にしてほしいとおもえば豊作の神になりました。お金が欲しいという要求に応じてくれるのが十日戎の戎様です。夷は民衆の要求に応じていろいろな働きをすると考えられました。

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 ところが、蓬莱という宇を書いたので、『史記』に出てくる徐福になってしまいます。徐福も海のかなたから子孫を助けにくる神様です。和歌山県新宮の駅前に徐福の墓がありますが、日本の海岸に三十にも及ぶ徐福伝説があるのは、海のかなだの祖先の霊が助けにくるという考え方があったからです。

   海洋宗教では、病気を治してほしいと願う者には、神様が薬師として現れます。
一つの決まつたかたちでは民衆のあれこれの要求に応じきれませんので、庶民信仰の仏や神はどんどん変身します。豊作にしてほしいと願うと、神様は稲荷として現れ、お金が欲しいといえば恵比寿として現れます。そういう融通無碍なところが、民衆に好まれるのです。
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そういう来訪神の考え方から辺路修行が生まれます。

海のかなたに向かって礼拝すると、要求をなんでもかなえてくれるということになりました。ただし、要求する方法があります。それが命がけの行なのです。漁師が恵比寿様をまつるときは、海に入ってたいへんな潔斎をします。海に笹を二本立ててしめ縄を回して、海に入って何べんでも潮を浴びます。それを一週間なり二十一日間続けて、はじめて神様が願いごとを聞きとどけてくださるのです。
 四国の霊場寺院の由来には、そういう行を専門に行う辺路修行者が開いたという由来があります。辺路修行者が命がけで海岸の岩をめぐったり、ときには自分の身を犠牲にしたりしたのは、そのためです。
   遍路のもとの言葉が、辺路だということがだんだんわかってきました。
紀州には大辺路・中辺路として辺路の名が残っています。現在は熊野詣には使われなくても、ずっと辺路や王子が分布しています。王子神社が太地にも串本にも周参見にも残っています。海岸の王子には、かなり大きな神社が建っているところもあります。熊野三山に参るのは、たいへん古いことのようですが、それよりも前に辺路があって、熊野三山詣は辺路の一部を利用したわけです。

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 四国でも同じように辺路修行が行われていて、その一部を青年時代の空海が越えています。『今昔物語集』は、「四国ノ辺路卜云、伊予、讃岐、阿波、土佐ノ海辺ノ廻也」と書いています。 
 「一遍聖絵」に戻りますが、ちょっと面白い話をご紹介しましょう。
  岩屋寺の巌窟に仙人が籠もる話です。
 仙人は土佐の国の女人なり。観音の効験あると聞きで、かの巌窟に寵り、
五障の女身を厭離せむ為に、経典を読誦しけるが、
法華三昧成就して飛行自在の依身を得たり。(中略)
又、四十九院の岩屋あり。父母の為に極楽を現じ給へる跡あり。
ここには非常に珍しいことに女の仙人が出てきます。
女の仙人の話は『今昔物語集』に少し出てくるだけで、極めてまれです。
五障のある女の身を捨てて、女も仙人になれるということ自体が非常におもしろいとおもいます。法華経を読誦して、法華経の行が完成すると、自由に飛行することができる肉身を獲得するのだといっています。その仙人を普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っている、このお寺にそういう仏が出現したと書いています。
 
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「一遍聖絵』の詞書に「仙人利生の為に遺骨を止め給ふ」とあります。

 仙人が自分の遺骨を人々が礼拝して功徳が得られるようにと願ったことがわかります。そこから少し上がったところに仙人入定窟という洞窟があります。さらに五輪塔が一つあって、枯れてしまった木が一本あります。これが生木塔婆と呼ばれる生きている木を塔婆の形に削って、文句を書いたものです。
 生木塔婆は大窪寺など、ほかのお寺にもあります。
江戸時代の記録が生木塔婆と書いているのは「碑伝」というものを忘れてしまったことを示しています。洞窟に寵って苦行するときに、二股になった木を選んで、それを削って、自分がこの洞窟に胆ってどういう修行をしたか、これで何回目だということを書いて納めた一種の記念碑のようなものを碑伝といいます。

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 大峯山随一の秘所といわれる「笙の窟」に籠もった山伏が、笙の窟の能りぱ四度目だということと、自分と同行者の名前を書いた碑伝を、たまたま前鬼森本坊が採集しました。現在は文化財になって奈良国立博物館に寄託されていますが、このことからも碑伝を仙人人定窟に留めていたことがわかります。お寺ではそこには柿経まであったといっています。  

納経所が霊場ではありません。

 ここでみんな集印帳に判を押してもらって帰ってしまいますが、ここを上かって白山の峰から逼割禅定まで修行しなければ、辺路修行としての遍路は完成しないわけです。多くの参拝者も岩屋寺に行かれますが、逼割にまで行く人は極めて少ない。行こうとしても、あまりにも危険ですから、お寺の住職の許可を得ないと行けません。
よほど精神統一して登らないと、こんな危ないところはないとおもうくらい危ないところです。
 このように、従来は説明できなかった問題が海洋宗教という問題からわかってきます。同時に、四国遍路の謎を解く一つの方法にもなるわけです。

参考史料 五来重:四国遍路の寺

大宝寺は、もともとは岩屋寺と一つのものでした。

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町の中にある大宝寺の裏山を五㎞ぐらい行くと岩屋寺に出ます。
 この道は、今はほとんど使われなくなりました。この道を終えると『一遍聖絵』の岩屋寺の景色が見られます。これは四国霊場中の圧巻です。また、『一遍聖絵』の傑作の一つになっています。
 一遍聖絵』の詞書は、一遍の実子の聖戒が書きました。
聖戒は一遍が還俗したときに生まれた子どもで、お父さんの弟子になって十六年間お父さんと一緒に歩いています。しかし、その間に親子の名乗りをしなかった。死ぬ前に呼んで話をした以外は特別扱いしなかったというので、江戸時代から石童丸と刈萱道心の話昿一遍と聖戒の関係を下敷きにしたのだといわれています。
 聖戒は自分のお父さんの十六年の足跡を絵師を連れて歩きました。最近、円伊という絵師がどういう人であるかということもわかってきました。なかなか位の高い坊さんである円伊にその都度スケッチさせています。
 
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 このように、大宝寺と岩屋寺を奥の院と札所という関係に見立てたので、両方を合わせて菅生の岩屋と呼んでいました。その間にもう一つ古岩屋という非常に大きな洞窟があります。一遍が寵ったのはどちらかわかりませんが、寺伝では古岩屋ではないかといっています。いずれにしても、大宝寺と古岩屋と岩屋寺は一連の行場になっていました。
  
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 「一遍聖絵』は「菅生の岩屋」として大宝寺と岩屋寺の縁起を書いています。
普通、四国霊場の縁起は元禄元年に書かれた『四国偏礼霊場記』によっていますが、幸いにも大宝寺と岩屋寺については鎌倉時代の『一遍聖絵』の詞書が残っています。
 『四国偏礼霊場記』には、次のように書かれています。
此寺は文武天皇の御宇、大宝元年四月十八日、
猟師山中に人しに、岩樹撃動して紫雲峯渓に満、一所より光明閃射せり。
其所を訪ふに、忽ち一仏像あり。
即十一面観音也。生ぜる菅を斑まします。其所に就て堂やうの事をいとなみ、
菅を掩、安置し奉り、其猟師といへるもの、白日に天にのぼれり。
是を高殿明神と斎祀す。菅を斑ましますが故に、菅生山と号し、
大宝年中の事なるが故に大宝寺と称す。
 文武天皇の大宝元年は701年で、藤原京の時代です。
猟師が山の中に入ったところ、岩や木の間から光がさしていた。そこを見ると仏像があったといいますから、感得の縁起です。光るものがあったり音がしたり、つまり何らかのお示しがあって、行ってみたらそこに仏像があったというのを仏像を感得するといいます。
 「一遍聖絵」では、猟師は弓と矢をもっていたので、弓を柱にして、自分の着ていた蓑をかけて仏像をまつってお寺を建てた。両三年を隔てて行ってみると菅の根が生えて茂っていたと書いています。菅が生えたお寺だというので、最初は菅生寺と呼ばれたお寺が、のちに岩屋寺と大宝寺に分かれたわけです。大宝寺は、このことが大宝年間のことなので年号をとって、大宝寺としたと書かれています。
 その仏像は十一面観音で、『四国偏礼霊場記』では、菅を敷いて仏像を置いた、簡単なお堂のようなものを造って、さらにその上を菅で覆って安置し奉った。その猟師は天に昇って神様になった、それが高殿明神だと書いています。これは『一遍聖絵』に出てくる野口の明神と同じものを指しているとおもいます。

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 寺伝によると、元禄年間(一六八八-一七〇四)に本堂を中心に、向かって右に赤山権現と天神社、向かって左に三嶋大明神、耳戸明神、阿弥陀堂、文殊堂、百々尾権現社が一直線に並んでいたとされています。
 そのほか弁天社や十王堂、十二坊がありました。現在は十二坊はありません。
『四国偏礼霊場記』の挿絵には、登ってくる入口に一ノ王子、ニノ王子という王子社が出てきます。これも現在はありません。
 
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  じつは、山岳宗教の前に辺路をめぐる行がありました。
これがやがて辺路が遍路に変わります。
『今昔物語集』では辺地と書いていますが、江戸時代半ばに「辺路」が「へんろ」と読まれるようになり、文字も遍路に変わったのだろうとされています
 四国遍路の札所は海岸や島にあったり、海が見えたりして、海岸となんらかの関係をもっていることが条件です。太龍寺や焼山寺はかなり山の中にあるのに、ちゃんと海が見えます。   

参考文献 五来重:四国遍路の寺    

薬王寺-金剛界を表す喩祗塔

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 二十三番の薬王寺は厄落としの寺で今は有名です。
境内には喩祇塔がすっくと建ち、この寺の景観が整いました。
喩祇塔は三五メートルというたいへん高い塔なので、ここではいちばん目立ちます。
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 高野山に行きますと、根本大塔というのがあります。
根本大塔というのは曼荼羅の中心にあって、大日如来の心臓部です。そこに大日如来がいるということになっています。喩祇塔も同じことです。高野山の根本大塔は胎蔵界を表し、喩祇塔は金剛界を表します。高野山には皆さんの目につかないところに喩祇塔示あります。
中院御坊が龍光院というお寺になっていて、喩祗塔はその裏山にあります。これを小
塔といっています。大塔・小塔を両方合わせて胎蔵界・金剛界になるわけです。

玉厨子山-薬王寺の奥の院は行場

 玉厨子山は二十三番の薬王寺の奥の院で、五四三メートルの秀麗な山です。
日和佐の港からも見えるので、日和佐港に入港する船の目当てとなっています。
 ここは薬王寺から五キロもありますが、薬王寺が火災のときに本尊がここに飛んだといっています。しかしそうではなくて、ここから本尊が薬王寺へ来たわけです。
再建される本堂の後堂に後ろ向きで帰ってきたそうで「後向薬師」として後から拝むようにできています。頂上から少し下った所に、上人入定塚があるので、漁民の安全を願って入定した上人があったのでしょう。
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遍路道が尾根筋だったときは、その尾根筋に旧道が付いていました。
玉厨子山と薬王寺と日和佐沖の立島は一直線上にあるので、立島を王子として、薬王寺と玉厨子山がまつられたのだとおもいます。海のかなだの常世の神を信仰していたときは、まず上陸した島を王子の島と呼んでいたことがだんだん分かってきました。

その道筋は、次のような経路をたどることが多いようです
① 王子の島から霊場に上がる。
② 一足飛びに海の神が山の神になる。
③ 途中に静かな山があると、その山に止まってそれから上に行く、
④ 寺ができると下りてくる
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 『阿波名所図会』には「霊山にして大道心の法師にあらざれば住しがたし」とあります。頂上から少し下がって日和佐の見えるところに上人入定塚があるので、漁民の安全を祈って入定した上人があったのだろうとおもいます。
 旧国道はその麓を通り、西河内から登ることができます。
しかし、遍路道が尾根道だった山の神が寺に戻ってくるという構造が縁起の中に出てきます。こういうところが奥の院になると、修行の場所になりました。ここもかなり険しい岩山ですから、命がけで修行する者が行道修行などをして、ついにそこで入定していますが、いまでは入定者の名前もはっきりわからなくなりました。
 

太龍寺-有名な求聞持堂は本堂の横にある

 
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この寺について『四国偏礼霊場記』にも、おそらく室町時代の初めのころにできたとおもわれる『阿波国太龍寺縁起』にも、太龍寺の舎心山という山号の本当の意味を書いています。舎心というのは心を緩めるという意味です。

 しかし、『阿波国太龍寺縁起』を見ますと、本当は身を捨てるほうの捨身だということがわかります。捨身の行われた岩を捨身岩といいます。行場にはどうしても跳ばなければ渡れない大き石があります。その間を跳ばなければなりません。飛び損ねると落ちて死にます。こういうところの行は一回では済みません。何回でもぐるぐる回るわけです。今は、南側に本が生えているので気がつきませんが、木の間を出ると断崖絶壁になっていて、行くだけでも危ないところです。ここは海からよく見えますから、火を焚けば太平洋を通る船から見えるでしょう。
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弘法大師の辺路修行ではかならず行道と捨身をしています。

弘法大師が生まれた善通寺の西に我拝師山という山があって、ここも捨身ケ岳があります。ここは落ちたら死ぬところです。空海が捨身をしたことは『阿波国太龍寺縁起』にも出ています。  
観ずるに夫れ当山の為体。嶺銀漢を挿しばさみ、天仙遊化し、薙嘱金輪を廻て、龍神棲息の谿。(中略)速やかに一生の身命を捨てて、三世の仏力を加うるにしかず。即ち居を石室に遁れ、忽ち身を巌洞に擲つ。時に護法これを受け足を摂る。諸仏これを助けて以て頂を摩す。是れ即ち命を捨てて諸天の加護に預かり、身を投じて悉地の果生を得たり。(中略)是れ偏に法を重んじて、命を軽んじ身を捨てて道に帰す。雪童昔半偶港洙めて身を羅刹に与うるや。
 ここに弘法大師の捨身のことが書かれています。
「一生の身命を捨てて」というのは、捨身をすることです。自分の命を仏に捧げることによって水遠に生きることができるのです。石室は龍の窟です。こういうように書いてあるので、捨身の行をしたことがわかります。そして、石室とか巌洞とか三重霊剛が出てきます。戦前の地図には龍の窟が出ていましたが、戦後の地図には出ていません。縁起に出ております弘法大師が行をしたところを、セメント会社に売ってしまって、窟はつぶされてしまいました。
 つまり、捨身山(身を捨てる山・捨身の行をする山)が舎心山(心を休める山)となってしまいました。
   
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嶽は別なところだという説も出ていますが、ここであることは間違いありません。
弘法大師は、大滝嶽で求聞持法をしたと書いています。
太龍寺も虚空蔵菩薩が本尊です。虚空蔵菩薩を本尊とする寺かあるところは、求聞持法をしたところです。虚空蔵菩薩は虚空のすべての力を蔵するので、虚空蔵菩薩に願えばなんでもかなえられる、求聞持法という法を修すればすべての記憶がよくなるといわれてします。
『三教指帰』には「即ち一切の教法の文義諧記することを得」と書いてあります。
 これは記憶力が良くなるということです。お経も注釈も全部暗記することができます。弘法大師はこのころ十八歳ですから、記憶力のよくなる法と聞いて、若さにまかせておもい込んでしまって、大学を捨てて修行に入ってしまうわけです。
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 太龍寺の堂舎はなかなかよく整っています。

さすがに山中の大霊場は伽藍も大きく、仁王門、六角経蔵、護摩堂、本坊、本堂があり、池の中には弁天をまつっています。立派な多宝塔がいちだんと高いところにあり、その後ろに中興堂、大帥堂があります。本堂の横の求聞持堂は、日本でいちばん有名な求聞持堂です。ということは、いちばん修法者が多いということです。求聞持堂があるので有名なのは厳島の弥山、それから高野山真別所の求聞持堂です。
 南舎心岩には不動堂が載っています。また天照大御神をまつる神明頁があります。北舎心岩には大黒堂がまつられています。これも行道にかならずあるものです。
北舎心岩の大黒堂の周りに行道の跡があります。求聞持法をやるところには行道の跡がありますが、そうおもって見ないとなかなか気がつきません。
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参考文献 五来重:四国遍路の寺

 

鶴林寺の寺名の由来は、

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弘法大師がこの山で修行中に二羽の鶴が仏像を木の上で守っているのを見つけた。
その仏像をおろすと黄金の地蔵菩薩像であった。大師はそれを胎内仏にして地蔵菩薩を作って、それを本尊とする寺を建てたということになっています。
じつは、鶴林というのは、お釈迦さんが亡くなった場所です。
したがって、お釈迦さんが亡くなった場所を寺号とし、説法した場所霊鷲山を山号にしておりますから、あきらかに釈迦信仰の寺だと考えられます。かつてこの寺が地蔵菩薩の前にお釈迦さんを本尊とする寺だったということがわかります。
 お釈迦様が亡くなられたのは践提河という川のほとりです。
お釈迦様はその川を渡るときに水を飲もうとされました。水を飲めば治ったらしいのですが、そのとき川上を牛の大群が横切っために、川の水が濁ってしまって飲めなかった、そのまま向こう岸に上がって草の上に横たわり一昼夜を過ごされて2月15日の明け方に娑羅双樹の林の中で亡くなったくなったと涅槃経には書いてあります。
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 現在、これが娑羅だという木かありますが、たんなる夏椿で娑羅双樹とは違います。仏教経典では娑羅樹の間に寝て、涅槃と同時に娑羅双樹が鶴のように真っ白になったと書かれているので、釈迦の涅槃を鶴林というのです。
 つまり鶴林寺の鶴林というのも釈迦ですし、霊鷲山は釈迦のいちばん大事な最後の説法をした場所です。そういうことで、現在本尊は地蔵菩薩ですけれども、もとは釈迦を本尊とする寺だったと推定できます。
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「しげりつる鶴の林をしるべにて 大師ぞいます地蔵帝釈」という御詠歌は、
鶴の林をしるべにお大師さんが、ここにいたという意味だとおもいます。
 地蔵というのは地獄の救済の仏です。
また帝釈天は閻魔さんの代わりの仏で、天といいますからインドの神様ですが地獄の裁判官ということになっていて、だいたい閻魔さんと同じです。そういうことで、地蔵と帝釈天というから、地獄谷の信仰があったのかもしれません。しかし、これは現在は失われてしまっているので、御詠歌も意味がとれなくなっています。
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順路をたどっていきますと四国霊場をめぐる遍路の謎が解けてきます。
 焼山寺山は西北西、太龍寺山は南東南、鶴林寺山は正東です。空海の青年時代の修行路はこの二つの山を経て、二十三番の日和佐の薬王寺で海岸に出て、それから海岸をずっと室戸岬まで出ていったものと推定できます。
 こういう順序で弘法大師が歩いたとすると、恩山寺のようなお寺は、その他の理由で札所になったと思います。空海の時代は、立江寺まで海岸だったと推定できますが、恩山寺の麓までまで水がきています。そして、恩山寺から真東に見える金磯という磯が本尊が上がった奥の院ということになります。
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「四国偏礼霊場記」は、縁起として、

弘法大師がこの山で修行中に、本尊降臨杉で二羽の白い鶴が翼で何かを覆い護るのを見た、登ってみると黄金の地蔵菩薩像があった、大師はこの小像を胎内仏として長三尺余の地蔵菩薩像を彫刻して、これを本尊とする一宇の寺を建てたと伝えています。本堂の裏にある本尊降臨杉という杉の巨木は本当に見事です。太龍寺、焼山寺とともにまことに立派な杉があるお寺です。鶴が本尊を護っていたということから鶴林寺と命名したといわれています。
 その後、真然僧正が七堂伽藍を完成したという話は、おそらく弘法大師の高野山の話をもってきたのだとおもいます。弘法大師が開いた高野山の七堂伽藍が完成するのは、弘法大師の甥御さんの真然僧正のときです。各宗の祖師は、自分の身内に俗別当と称する寺の財産の計算係をさせたりしています。東寺の俗別当は弘法大師の母方の甥に当たる一族で、今でも続いています。
 それと同じように、真然を高野山の跡継ぎにします。最初はもう一人の甥(知泉)を跡継ぎにしたのですが、この人は37歳で亡くなってしまいます。高野山の歴史を見てとってきたといえます。
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 もともとの釈迦信仰は源頼朝・義経の信仰あたりから地蔵信仰に変わります。

阿波の領主三好長治、蜂須賀家政の保護を受けますが、本尊が「矢負地蔵」と呼ばれているのは、地蔵が戦争のときに義経の身代わりになって矢を受けてくれたというので、身代わり地蔵の信仰があるからです。
 さらに、伊勢の神主が暴風で小松島まで流されたときに、船を守ってくれたのが鶴林寺の地蔵だということから、「波切地蔵」という名前ができました。
 このように、地蔵そのものも霊験が多いというので信仰されました。ところが、釈迦のほうは、仏法を説いたという以外はあまり奇瑞のない仏さんです。奇跡、奇瑞、霊験がないと、信仰が生じがたいのです。
 
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地蔵菩薩以前に鶴林寺に釈迦如来がまつられていたと仮定すると、
 法華経と涅槃経を信仰する修行者の開いた山だということができます。
そういう古代寺院があったところに地蔵信仰が入ってきたものとおもわれます。
 もうひとつは、山岳信仰です。山の中に地獄谷があるので亡くなった人の霊魂が地獄で   受げる苦しみを代わってくれるという信仰があったのかもしれません。
この山の狩人が猪を射たとおもって一つの堂に入ると、地蔵菩薩の像に矢が当たって血を流していたという話は、山の神、あるいは地蔵の代受苫信仰です。その狩人が発心入道するということは、すなわち狩人の地蔵信仰が釈迦信仰にとって代おったと考えてよいのです。
 また、これが山人、修験の信仰であったことは頼朝寄進の錫杖があったことに表れています。頼朝のころにこの地蔵を守っていたのは、山岳宗教か修験山伏であったということも推定できます。
 また、伊勢の神官の福井氏の船が、暴風にあって難破しそうになったとき、この地蔵菩薩が出現して小松島に導いてくれたというのも、鶴林寺の火が見えたということをいっているのだとかもいます。そうすると、これは海洋宗教に関係があります。
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縁起では伊勢の紀伊の神主福井氏は、毎年灯明料を寄進したということになっています。この山の常灯明が海から見えて、それに導かれて助かった、それで伊勢の神官が以後毎年、灯明料を寄進したということになれば話はつながります。 

堂舎でいちばん古いのは本堂です。

慶長五年(一六〇〇)にできた建物が現在残っています。札所の建物はたいてい古いものは残っていませんが、このお寺はよく残っています。
 鎮守は熊野神社で、古い熊野信仰は海の信仰と考えてよいのですが、文政十年(1828))に再建されたものですから、あまり古くありません。本堂をもう一つ上がりますと聖天堂がありまして、ここは山神をまつったと考えられる場所です。
庫裡の半分は坊さんの住まいになり、半分は持仏堂を兼ねた大師堂です。庫裡の玄関の横に納経所があります。大師堂の右に続いて護摩堂があります。
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 いちばん古い遺物は圭頭型の高さ1メートルの町石です。
お寺の説明でぱ南北朝時代のものだといっています。高野山の町石は鎌倉時代ですが、南北朝時代の町石というのはわりあい多いものです。
 

母養山恩山寺宝樹院

 
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ここの特色は、非常にクラシックだということです。
 辺路という海岸をめぐる信仰としては、最も典型的な奥の院が海辺にあります。
恩山寺の本尊は薬師如来です。海岸の奥の院のほうも薬師如来だったとおもいますが、現在では弁天さんになっています。
 もとは女人禁制で、いまも十九番の立江寺への花折坂は女人禁制です。
この寺が衰えたときに大師が再興して母公の終老の地としました。
お母さんが善通寺から出てきて、ここに来た、母の没後、その御遺骨をこの山中に埋め、石塔を立てたといわれています。大師堂の横に弘法大師御母公の供養塔示あります。
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『四国偏礼霊場記』には、
「当寺は聖武天皇の勅に因て行基が造立し、大日山福生院密巌寺と名け、七堂甕を並べ雲に連る」とありますが、山の上ですから、それほどの名跡ではありません。
 霊場の中には学問寺といって学者・勉強する人が集まるお寺がありますが、ここはその学問寺だったようです。
いくばくならざるに時と移り、衰耗に及ぶ。時我大師登臨して再興しとし、御母終老の地とし、遂に御母の骸骨を山中に埋み、御墓を築き、石碑を立玉へり。
母養恩山の名是よりときこゆ
『四岡偏礼霊場記」には
「立江寺の道の方をつるまき坂といふ。几下にくろ藪といふあり。大師御誕生の時のむっきを几藪におさむといひ伝となり」とあります。
「くろ藪」は女人結界で、ここで花折または柴立の供養をしたと考えられます。
これ以上登れないから、そこで供養したので、花折といいました。
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 お寺からの説明をうけないとなかなか気がつきませんが、現在は本堂は頂上にあって、ここから小松島港が見下ろせ、奥の院と称する金磯の弁大森も見えます。
宝樹院のあった位置には十王堂があります。金磯がこのお寺の奥の院の場所ですから、ここに行ってみる必要があります。

行ってみると、現在は地続きになっていますが、金磯はもとは島であっただろうと考えられるところです。恩山寺のある山のすぐ下に源訟紆丿叫鎖としう仏かヤハッしる尚づこの山の朧まで水が来ていて、いま全部平野になっているところは海だったと考えて差しつかえありません。
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 弁天森の海中には、伊勢の二見浦の夫婦岩のような大きな岩があります。
伊勢の神宮も東に当たるところに大きい岩があって、そこに洞窟があります。
この場所は修行者の朧る洞窟と行道岩があるので、海洋宗教の霊場の条件を満たしています。行道というのは、これをぐるぐると回る行です。この寺の奥の院は、東のほうの海岸にある金磯の弁天森ですから、海岸に奥の院をもつ霊場として、屋島寺、八栗寺、伊予宇和島の龍光院などとともに注目に値するところです。

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立江寺-子安地蔵で有名  イメージ 1

ご詠歌は「いつかはわが住まいに弘誓の舟に乗ってお参りにくるであろう」
という意味ですが、いつかではなくて、この御詠歌をとなえている人は、いまそこに来ているわけです。弘誓の舟というのは、わが寺に御参りする人は、願いをかなえてやろうという誓いを立てたというのが弘誓で、これを舟にたとえたわけです。

 山号が橋池山ですから、大きな江、つまり海の湾を渡ってお参りするところだったかとおもいます。しかし、現在は橋池山とはいうものの池もなければ橋もありません。寺の説明では、恩山寺から立江寺までの道が二十町ぐらいあるから、橋が九つあったとのことですが、ちょっと無理があるとおもいます。あるいは寺地が移ったのかもしれません。
 縁起では、聖武天皇勅願で建てられたが、本尊地蔵菩薩は天皇の皇子の御平産の御願のためとされています。これは縁起に入れるにはたいへん都合がいいんです。聖武天皇はお子さんがたぐさん生まれましたが、お育ちになりませんでした。いちばん最後に基皇子という方が五歳くらいで亡くなります。そこで、阿部内親王という方を女帝にしたのが称徳天皇です。
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このような事情から子安地蔵ということになりました。

子安地蔵は立江寺と伊予の六十一番の香園寺に作られています。
戦前まではお産は危険をともなうものでした。
ですから、子安観音の信仰は強く、全国的な信者がいました。
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最初の本尊さんは、小さい閻浮檀金(えんぶだんごん)という像でした。

それを弘法大師が六尺の像に作ってまつります。最初の寺は、現在地から四〇〇メートルほど西の奥谷というところにありました。これが山の中のお寺で、もとの寺を奥の院としています。いま古い宝塔があります。ここを立江寺の奥の院としていますが、山の上に登れば海が見えます。現在地は村の人家の真ん中のたいへん狭いところにあります。この地に寺を建立したのは江戸時代で、藩主蛙須賀家正の建立です。
現在の本堂は万治二年(1659)の建物です。

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 恩山寺から立江寺まで九つの橋があるとのことですが、境内には橋池山の山号に当たる橋はありません。門前町に面した仁王門を入ると、正面に本堂があります。それに対して大師堂と多宝塔があります。本堂の横に観音堂と護摩堂、庫裡、客殿があります。
四国偏礼霊場記』によると、昔は八町四方の寺だったけれども、同書が書かれたころは1町半四方といいますから、いまよりも広かったようです。この本の著者も自信がなかったとみえて「此寺は聖武天皇の御建立との縁起あるよし」断定を避けています。
「境内かかしは八町四方となん。今は壱町半四方ほどあり。
本尊地蔵菩薩、是は聖武天皇御子達平産侭御願にて作らせたまふ尊像なり。
故に子安の尊像と号す。此類諸州におはぎ事なり。」
 これを見ると、あまり信用してなかったようです。
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井戸寺-三つの信仰対象 

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お薬師さんを7体も揃えた寺

十七番の井戸寺とは俗称で、正式には明照寺といって、本坊のあるところを真福院と呼んでいます。『四国偏礼霊場記』では、すでに瑠璃山明照寺真福院となっています。
 たいへん珍しいことに、このお寺は七仏薬師を本尊にしています。
ここの七仏薬師は元禄年間ごろの仏像です。まん中に一体、その両脇に三体ずつ、全部で七体の薬師さんを本尊にしているのは非常に珍しく、近畿地方でもほとんどありません。「七仏薬師法」というのがありますが、その場合は画像を掛けますから、木像をそろえるということはありません。

薬師さんを七体もそろえたお寺がどういう成立の寺かというこかとを考えてみたいとおもいます。このお寺には、七仏薬師堂のほかに六角堂に十一面観音像があるのが一つの問題です。それから、井戸寺と呼ばれるお大師さんをまつったお堂があって、「水大師」とも「目限大師」ともいわれます。それから、このお寺の右手のほうに八幡さんがあります。
「四国飼礼貳場記」では、八幡さんもこの境内の中に入っています。
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1つの境内の中に三つの信仰太守対象があるわけです。
 阿波の藩主の御殿の門といわれる門から入ると、本堂、庫裡、水大師、六角堂があります。昔は大きな伽藍入口に馬場があって、そこに松並木がありました。もちろんいまはありませんで、みな人家になっています。
 
元禄ごろにできた御詠歌は、
「影をうつして以れば井戸の水 むすべばむねのあかやおちなむ」となっています。
結ぶというのは飲むことです。井戸寺の井戸に自分の面影を映してみると罪が滅びる、その水を飲むと自分の胸の中の煩悩の垢も落ちてしまうという歌です。いまでもお遍路さんは、映れば健康になるといって、ここにお参りするときに、みんなこの井戸に自分の影を映しています。
 この井戸と同じお堂の中に石像の弘法大師像(水大師)がまつられています。それを歌っているので、御詠歌からいうと井戸寺です。
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しかし、本尊さんはどうも明照寺の本尊さんのようです。

 縁起は、聖徳太子の開創とも、弘法大師の開創ともいっています。
のちになって弘法大師信仰が八十八か所の信仰を一貫したころから、弘法大師開創ということができて、どこでも弘法大師開創もしくは弘法大師再興となっています。
 また、たいへん多い聖徳太子開創という縁起は、すなわち飛鳥・白鳳の発祥であるということを示しています。聖徳太子開創といわれますので、たぶん飛鳥・白鳳の池なり塔なりをもった寺城があったと考えてよいでしょう。
 一町(約一〇九タートル)四方と書いていますが、一町四方ぐらいに収まることは収まりますから、そういうお寺だったわけです。縁起では三町四方、あるいはおそらく大きなことをいって、八町四方などというのが出てきます。しかし、多くは一町四方で、ここもおそらく一町四方ぐらいになるとおもいます。実測で二町四方あっただろうと考えられる善通寺は弘法大師誕生のお寺ですから、特別大きいわけです。

 弘仁六年(八一五)に弘法大師が開創したというのは、弘仁六年は弘法大師がよく旅に出たと考えていい年なので、具合よく六年と定めたのでしょう。本堂横の六角堂に安置されているのが弘法大師植から彫られて一木造りの異形な相貌をした十一面
観音だといわれています。これも本尊だというのですから、この寺は二つの寺が合併したものであることは容易に想像できます。
十一面観音を本尊とするお寺はおそらく八幡さんの別当寺ではないかとおもいます。つまり、十一面観音を本尊とするお寺と、七仏薬師を本尊とれるお寺の二つの寺が一緒になったのです。 

弘法大師がこのとき錫杖で掘ったのが「面影の井戸」で、

同時に自らの姿をこの井戸水に映して石に彫ったのが「日限大師」あるいは「水大師」と呼ばわる石像大師像だとされています。
 その後、南北朝の初めの14世紀後半のの細川頼之の兵乱で寺は焼失します。
天正十一年(1583)には、戦国時代には阿波三好氏と長宗我部の戦いで焼失します。
江戸時代に入ると徳島藩の蜂須賀光隆により復興されたといっています。
中世のことがほとんどわからなくて、近世になってからまたわかるということは、中世には古代寺院が滅びてのちに小さいお寺ができた、と考えてよろしいとおもいます。

こういうところからこのお寺の歴史を分析していきますと、

この寺の正式な寺号は明照寺、俗称は井戸寺となっていますが明照寺と井戸寺は別寺であったともいえます。井戸寺という名前が大師伝説の弘法井戸からきていることはいうまでもありません。これこそ庶民信仰のお寺なのです。
それ以前の七仏薬師のお寺のほうは、組織的に発掘が行われていないので、飛鳥・白鳳のどちらともいいかねます。瓦が出てくるとお寺の年代がわかりますが、出ないうちは何ともいえません。だいたい飛鳥・白鳳に建てられたお寺は、どこでも寺号も創始者もわかりません。ただ、諸般の事情から考えてみますと、渡来人の建てたお寺が多い。奈良時代以前には、大きな富を蓄えるには開墾や灌漑の技術を持っている渡来系の人たちが大きな土地を所有する、いわば財閥でした。文化意識も高かったので大陸にあるような伽藍を自分の財力で建てたというのが一般的です。
 井戸寺にあります石像の大師像は、なかなか珍しいものでして、
これを「水大師」とか「日限大師」というのは、まったくの庶民信仰です。いちばん古いのは水大師の信仰です。水が信仰対象になるのがいちばん古くて、泉があるところを聖地として寺ができました。
ヨーロッパでも有名な伽藍(カテドラル)はかならず泉をもっておりまして、泉の神様としてマリアがあります。日本の場合は、泉の仏様として弘法大師がまつられています。みな一つの法則のようなものがあって、それで割りつけていくとよくわかります。このような庶民信仰の井戸が、札所としてお堂をもつに至ったものであろうとおもわれます。
 これは中世に荒廃したというよりも、大師堂と井戸だけだった霊場が、近世になってから明照寺と合併して寺院のかたちを整えたということでしょう。
「面影の井戸」は、水神が井戸にいるという信仰から、井戸そのものが神として信仰対象になり、それが大師伝説に移行したわけです。
「面影の井戸」は、日限を限って祈願すれば霊験あらたかであるとされています。
たとえば、一週間という日にちを限って断食をするなり断ちものをするという日限信仰が信じられていたわけです。
 明照寺の方は、七仏薬師を本尊とする寺と十一面観音を本尊とする寺の合併と推定されます。その場合、井戸寺の右隣に八幡社があることは無視できません。明照寺の本坊が真福院に違いないのですが、明照寺または真福院がおそらく八幡社の別当だった時代があったはずです。飛鳥・白凰の寺のときには明照寺はありません。中世以降、別当寺が合併して明照寺になりました。
 この小さな寺に七仏薬師が本尊となっている謎も、古代には薬師を本尊とする巨大な白鳳寺院があったことを想定すれば容易に解釈がっきます。
 神通力があって、光を放っているその仏を信仰すれば吉祥が多い、憂いもなくなるというような功徳を七体の薬師に分けて、別々の信仰対象にしたわけです。全部合わせて完全になります。仏さんはすべて光明を放ちます。薬師さんの場合は、光を放つということを「瑠璃光」といっています。
 これを総称して、「七仏薬師法」という密教修法の本尊としています。天台密教のほうではとくに盛んにやりましたが、真言のほうではほとんどやりません。四箇秘法の一つの七壇の御修法は、壇を七つにして、修法者が七人そろって行いますから、よほど大きなお寺でないとできません。 
七仏薬師法は、息災と増益の秘法として『平家物語』にも出てきます。
『太平記』でも、安産を祈るときに修されています。本来は薬師信仰だけでしたが、密教が入ってから、ここに七仏薬師を造立するぐらいの一族がまだ健在だったとみえて、一体の薬師をこの時代に修築していたことがわかります。
 本尊は平安時代に七仏薬師に変わりました。そのほかに、火災で焼けるまでは七仏阿脈陀があったそうです。九体阿弥陀または七仏阿弥陀がまつられたとすると、たいへん大きなお寺ですから、相当な大寺院であったことが想像されます。 
このほかに十一面観音を本尊とする寺が併祀されています。
これが八幡さんの別当寺だろうとおもいます。いずれも大寺院が護持の豪族の没落後に、弘法井戸の庶民信仰に支えられて存続したものです。伽藍は壊れてしまったけれども、弘法さんの井戸があると言うことで御参りが続き、札場霊場として残ったわけです。井戸寺は古代から続いた霊場だと考えても良いと思います。

観音寺-もとは小さなお宮の別当寺

十六番の観音寺は、もともとは小さな村の中のお寺でした。その辺にあるお寺となんら変わりはありません。そばにある大御和神社という国府に所属していたらしい大きなお宮の陰に隠れて、なおさら小さく見えます。
その土地の村の鎮守さんの別当寺が八十八か所をそろえるときに割り込んできた
と言われます。この前にお話した十三番の大日寺も村の鎮守さんの別当寺でしたが、観音寺はそれよりももっと小さなお宮の別当寺です。

 観音寺の本尊は千手観音です。
「忘れずも導き給へ観世音 西方世界弥陀の浄土へ」という御詠歌は、
観音は阿弥陀から導かれる、観音を介して阿弥陀に頼んだという意味です。
縁起は、聖武天皇勅願によって開創されたと伝えています。
弘仁七年に弘法大師が彫刻したといわれる千手千眼観世音と、脇侍に不動明王と毘沙門天をまつっていますが、不動明王と毘沙門天を観音さんの脇侍にするのは非常に古い組み合わせです。
 中世に荒廃して、江戸時代に藩主蜂須賀光隆によって再興されました。このときの住職は宥雄という人物です。
観音寺には霊験談として、大正二年(1922)に盲目の遍路が開眼した、あるいは明治二十七年(一八九四)に邪険な女性の遍路が大火傷をしたという話が伝えられています。
歴史としては、元禄元年の『四国偏礼霊場記』には次のように記されています。
寺大師ひらき給ふ名藍なり。朱堂華間軒をかさね、棟を比ぶ。本尊御長六尺に作り、本堂に安置。脇士不動毘沙門なり。
然といへども日月の物を磨す。堂舎廃毀し、一宇なを全からず。
蔀宕夜月すさまじく、人まれにして満鰯苔花あざやかなり。
州の太守光隆公信義ありて、双方腫を企てり。
故に住持宥雄此廃替を太守に説、太守早く肯ひ万治年中修復せられしとなり。
今の堂の南の方半町ほどさりて、むかしの大門の跡あり。
東西には坊舎のありし跡おほく見ゆ。

 同書より三十五年ほど前に書かれた『四国辺路日記』によると、三町四方ぐらいのお寺だったようです。現在はびっしりと家が立ち並んでいます。
また、観音寺は中世は衰退していたことがわかります。
現在の境内は村の人家の間にわずかな空間を保持しています。
道路に面して山門があり、寺その正面に本堂、その右に大師堂、左に庫裡、納経受付所、右の隅のほうに八幡宮があります。八幡宮は寺の管理でなく、村人のまつる社です。別に世話人もあるというので、この寺の前身は八幡宮の別当であったろうとおもいます。
 讃岐の一宮寺のように、明らかに大社の神宮寺であったところありますし、村の社の別当寺で札所になる寺もあります。十三番の大日寺は、かつての阿波一の宮神社の別当寺であったといいますが、阿波一の宮神社は大麻比古神社ですから、ここを一の宮というのはおかしいわけです。実際は村社の別当です。
 このように、四国霊場寺院は神仏分離以前の神仏混淆の信仰のもとに維持されてきましたが、人為的、政治的に神仏が分けられ、同一境内が分割管理されている霊場がたくさんあります。それは十二番の焼山寺に行くとすぐわかります。焼山寺境内の十二社神社もその例に湘れず、神社はけっこう壊れています。

 おそらく伊予の四十一番の龍光寺がもとだったとおもいますが、ところが、龍光寺といってもちっとも地元の人にはわかりません。お稲荷さんが本尊ですから、稲荷寺と呼んでいるのです。これは次の十七番の井戸寺と明照寺のような俗称と正式の名前の関係です。
 稲荷寺に入ってみますと、正面にあるのは稲荷神社です。神仏分離のときに、神社に本堂を取られてしまいました。石段の右のほうにある大師堂だけが残って、それを本堂にしています。ところが、稲荷神社は類廃そのもので、旧本堂はひどく壊れてしまいました。
ここなどは神仏分離でお寺が得をして、神社が損をしたひとつの例です。
 四十三番の明石寺も境内が二つになりました。右のほうが熊野十二社権現、左のほうが明石寺で、熊野権現の信仰が中世まで行われていたので、邨の大木があります。お寺のほうは繁昌しています。明石寺の境内を二分して、一方には熊野十二社権現の社殿が並んでいますが、大きな熊野権現は遍路も参らないのでさびれたままになっています。
 こういうお寺は、幸いなことに八十八の集印をする人があって、計画的に参らないといつまでたっても抜けたままだというので参ることになる。それによって、生き長らえているという感じです。これが巡礼というものの姿です。

国分寺-本尊は薬師如来

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 多くの国分寺は釈迦如来を本尊にしていますが、ここ十五番国分寺の本尊は薬師如来です。 
 「うすく濃くわけく色を染めぬれば 流転生死の秋の紅葉ば」
という御詠歌の意味もよく分かりません薄く染めたり、濃く染めたり、いろいろに分けて染めたから、秋の紅葉は薄い紅葉も濃い紅葉もあるんだろうと、生死流転の秋に一生を表したものです。秋は冬に向かっていきます。その秋の紅葉には薄いものもあれば濃いものもある、安楽な死もあれば、安楽でない死もあるという意味をこめたのかもしれませんが、よくもからない御詠歌です。
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 ここは天平九年(七三七)国分寺造立の詔によって、諸国に建立された国分寺の一つですが、その後衰退してしまいます。『四国偏礼霊場記』は次のように記しています。
いはんや千年に及ぶの今の世、小堂一宇、薬師の像を安じ、一嗚呼。
睨僣ざんか冷霞寸る叩八べたり。今此曲T’たわずらのろしに   の客僧ヽ示智の月を友とし、竹窓の風にひとり臥、
 元禄元年(一六八八)に『四国偏礼霊場記』が書かれたころは、小堂一宇しかなかったようです。その後、現在の国分寺のかたちになって復興しました。
 浪というのは食べるという意味です。霞を食べるのは山伏ですから、かつてはここも山伏の寺でした。一人の山伏が留守居をしていて、苔むした道を照らすところの月を友とし、竹で作られた窓を通って入ってくる風を受けながら一人臥すと書いているので、この人もなんとも衰えたものだとおもったのでしょう。
 
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『四国偏礼霊場記』の挿図も弥勒堂一宇に草堂があるだけで、十二個の礎石を記し、塔跡の基壇を描いています。いま礎石は一個だけ残っています。

 寛保元年(一七四一)の十月に蜂須賀藩の郡奉行の速水角五郎という人が、小松島本川にある丈六寺というこのあたりきっての曹洞宗の名刹にいた吼山養師和尚に命じて、堂宇を再建させて曹洞宗寺院としました。
したがって、現在は曹洞宗です。そののち、19世紀初頭に増築されたのが現在の伽藍です。
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   山門の正面に二層楼の本堂があります。
国分寺は二層だったろうといわれているので、そういう形にしたようです。天平時代(七二九-四九)には裳階が出ていました。法隆寺の金堂も裳階を出しているので二川に見えるのと同じです。ここは二階づくりです。
 本堂の左手に、鈍楼と国分寺の礎石一個と四国ニト四回巡礼供養塔があります。
この礎石は塔の心礎でしょう。本堂の右于に改築前の小さな堂が残っていて、鳥居沙摩明王堂となっています。これが寛保元年以前のお堂です。
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鳥居沙摩明王は殲れを祓う仏様だといわれているので、禅宗ではよく便所にまつります。大日経という密教のお経に出てくる鳥居沙摩明王は、汚いものをすべて食べてしまう、糞尿も食べてしまう仏様だということで便所にまつります。どういうわけか、札所霊場に鳥認沙摩明王堂ができています。
 その堂と本堂の間に不動明王と毘沙門天、恵比須神、耳大師の小像がまつられ、明王堂の隣に十王堂と鎮守堂があります。その南に大師堂があって札所となっています。鎮守には歓喜天(聖天)と白山大権現と秋葉大権現と喩伽大権現がまつられています。喩伽大権現をまつっているのは非常に珍しいことです。関東地方では天狗さんを喩伽大明神といっています。岡山県児島半島にも埃伽山という山があって、その近くに山伏の本拠の熊野神社があるので、そういう関係から古い天狗信仰があったのではないかとおもいます。
          
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常楽寺―奥の院の十一面観音と立木地蔵 

十四番の常楽寺の御詠歌は
「常楽の岸にはいつかいたらまし 弘誓の船に乗りおくれずば」です。
常楽寺の名前を取って常楽と詠んでいます。
常楽我浄といって、永遠に変わらない楽じみです。
永遠の仏である弥勒菩薩に救われれば常楽の岸に着くことができる。
しかし、それも弘誓の船に乗り遅れたらダメだ、乗り遅れなかったら行けるといっていますが、弘誓の船というのはどういう船かわかりません。
おそらく信仰すれば、それが船なのでしょう。

 縁起は、弘法大師が弥勒像を作り、真然僧正という弘法大師の甥に当たる人が金堂を建てたと書いています。真然僧正は高野山の伽藍を完成した人です。
講堂、三重塔、仁王門を建てたという祈親法師は、高野山が焼けたときに伽藍全体を再建した人ですから、高野山の伝記をこちらへもってきたのでしょう。この講堂、三重塔、仁王門を建てたといういささか大げさな縁起は、高野山の縁起を真似た疑いが濃いとおもいます。

『四国偏礼霊場記』も『四国辺路日記』も縁起を記さず、草堂一宇としているので、近世初期は荒れ寺であったことがわかります。
 歴史としては、『四国偏礼霊場記』に「此寺本尊弥勒菩薩、大師の御作也、むかしの本堂七間四方と見たり。いまに石ずへ存せり」とあります。この礎石は、いまは見えません。
「其他坊舎の跡皆あり、今茅堂の傍、一庵あり。人ある事をしらず」と書いているので、住職もいなかったようです。
 さらに、「古句を思ひ出、愧帳八興亡無二問処へ黄昏啼殺。樹頭。鴉」と書いています。惘帳は、たいへん嘆かわしいという意味です。啼殺は鳴き殺すということですが、やかましく鳴いているということだとおもいます。この寺が興ったり亡びたりしたのはその歴史をたずねるところもない、夕方、木に止まった烏が鳴いているだけで入っ子一人いなかったとあるので、いかに荒れていたかということがわかるとおもいます。
 現在は入口の石段を登っ正面奥に本堂があります。これも明治初年期頃のものと思われます。右手に愛染堂、大師堂、地蔵堂、庫裡が並んでいます。
 大師堂の前に一位の大木があります。一位の木をアララギともいいますが、これに向かって祈れば眼の病が治るというので、「アララギ大師」といっています。一位は神主さんの笏を作る木です。ここでは一位の木を箸にして分けてくれます。
 

ここには奥の院があります。

奥の院の成立にはいろいろなものがあるということを考えなければいけません。
隠居寺が奥の院と称している場合もあって、八十七番の長尾寺などは隠居寺を奥の院といっています。大日寺の奥の院のように、もとそこに寺があったという旧寺地を奥の院とすることもあります。
 ここの場合は、よくわかりません。札所を二か所もっているとお賓銭も二倍になりますから、番外札所のようにして、奥の院をまつっていたのではないかと私はみています。ここの奥の院をおすすめするひとつの理由は、十一面観音が非常に古い、たぶん平安時代だと考えられるからです。それから地蔵堂の地蔵さんが、立木の中に彫り込んでありまして、そのからくりを知りたいものとおもっております。 
立木に仏を彫るのは遊行者に非常に多い一つの伝統です。
円空も大木を彫って、仁王さんにしています。
飛騨高山の千光寺というところの山門は、立木に仁王を彫っています。木瞼行雄という人も各地で立木を彫りました。
山梨県下にもたくさん立木を彫っているところがありますが、みんな枯れてしまっています。その人たちは枯れるとおもわないで、仏が生きているということを示そうとおもったのでしょう。生きた木に彫った仏ならば、仏さんが生きているだろうという遊行者の伝統があったのではないかとおもいますが、よくわかりません。

大日寺-本尊は大日如来ではなく十一面観音

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 この寺は大日寺といいながら、本尊は十一面観音です。
もともとここは、一宮寺という別当寺で大日如来をまつっていました。
いまはその山を奥の院と称しています。
後に、一宮神社の横にこの寺を持ってきて十一面観音を本尊としました。
大日寺という名前を変えたらまぎらわしくなかったでしょうに、寺名はそのままで観音をまつっています。
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大日寺は鮎喰川の川岸の、本当に狭いところにある札所です。
 「四国偏礼霊場記」は、大栗山華厳院大日寺としながら、「一之宮にある故、一ノ宮寺と云」と書いています。元禄元年(一六八八)の段階では大日寺とも一宮寺ともいっていたようです。ところが『四国辺路日記』は「一ノ宮」として大日寺を扱っておりません。
 『四国辺路日記』が書かれたのは承応二年で、『四国偏社霊場記』は元禄元年に書かれています。この35年ほどの間に大日寺が別当となり札所となったことを推定することができます。『四国辺路日記』では、神社のほうに札を納め念誦読経しています。
 『四国辺路日記』には次のように記されています。
「一宮、松竹ノ茂タル中二、東向二立玉ヘリ。前二五間斗ノッリ橋在リ。
拝殿左右三間宛也。殿閣結講也。本地十一面観音也。札ヲ納メ、念誦看経シテ、 扨本来ル道工阪テ、件ノ川ヲ渡テ野坂ヲ上ル事廿余町、峠二至テ見「阿波一  国ヲー目二見ル所也」
「五間斗ノソリ橋」も神社の境内です。これを見ると、童学寺越を越えて藤井寺に出ていったことがわかります。このように、近世初期まで諸国一宮は霊場でした。
 旧寺地が奥の院となっており、鮎喰川の対岸に海見という集落にありますが行場はないようです。
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 堂舎は、鮎喰川沿いに焼山寺に入る県道の南に神社、北に大日寺と二分されています。本堂は東向きで大師堂は南向きにあり、その隣が納経所です。非常に狭い寺地に多くの石造物があります。
 なお阿波の一の宮は、大麻比古神社(別当は一番の霊山寺)ですが、『四国偏礼霊場記』は、ここを一の宮という理由は不明だと書いています。

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 讃岐の一宮寺のように、明らかに大社の神宮寺であったところあります。
しかし、この寺はかつての阿波一の宮神社の別当寺であったといいますが、阿波一の宮神社は大麻比古神社ですから、ここを一の宮というのはおかしいわけです。
実際は村社の別当です。
 このように、四国霊場寺院は神仏分離以前の神仏混淆の信仰のもとに維持されてきましたが、人為的、政治的に神仏が分けられ、同一境内が分割管理されている霊場がたくさんあります。それは十二番の焼山寺に行くとすぐわかります。
焼山寺境内の十二社神社もその例にもれず、今は神社はけっこう壊れています。

焼山寺

御詠歌は「後の世をおもへば苦行しやう山寺 死出や三途のなんじよありとも」です。
 苦行をしようとおもうということと焼山寺をかけて、ちょっと駄洒落のようになっています。「なんじよ」というのは、どういうふうにあろうとも、どんな具合であろうともという意味を俗語で表したものです。死出の山や三途の川はもっと苦しいんだろうけれども、後の世をおもえばこの山で苦行するのが焼山寺だといっています。ここには非常に厳しい行場がありますが、現在は自然遊歩道になってたいへん歩きやすくなりました。

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 焼山寺と太龍寺と鶴林寺は深山に孤立した霊場なので、四国遍路の難所に数えられています。横峰寺、讃岐の雲辺寺の三か寺は「遍路ころがし」といわれる危険な山でした。遍路が転落して死んだことから、「遍路ころがし」という名前が付いたとおもわれます。
 しかしこのような山こそ、登ってみれば霊場の感を深くします。われわれはその山気に打たれ、罪や心な浄化されたと感じます。これが霊場というものです。いまは、だいたい寺まで車が登ります。難所こそ、来てよかったと特別の感慨にひたれるところです。
 いいところだけを選んで霊場を回られるようおすすめします。本当の霊場といえるとろは二十か所ぐらいでしょうか。そういうところをお回りになると、遍略のありがたさ、あるいは弘法大師の偉大さを感じます。もっとも、そういうところほど難所になっているわけです。

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 空海自身は善通寺から阿讃国境の山脈を越えて一路南下し、吉野川を渡り、藤井寺からこの山道に入ったと推定するのが自然です。藤井寺自体が独立の行場であったというよりも、焼山寺の入口とすることで意味があります。藤井寺に八畳岩という行場があります。しかも、行場の奥の院の本尊が虚空蔵ですから、焼山寺の虚空蔵さんをここで人々が拝んでいたわけです。したがって、ここから入っていくということに意味がありました。


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 現在では焼山寺が伝えた公的な縁起はなくなっています。

焼山寺という名前は、山に住む毒龍が火を吐いて、全山を火の海にしたので焼山というのだとなっています。しかし、そういうことはありえません。もちろん龍などは実在しませんから、毒龍が火を吐いて、全山を火の海にしたという縁起の奥に何か歴史的事実がかくされていると考えるべきなのです。
 縁起というのはいつもそうです。何もないところに話はできません。
歴史がまずあって、神話・伝説、寺社縁起を子どもたちにもわかりやすいようにお話にしたのが昔話です。最初の起こりはちいさな事実ですから、その事実を掘り起こしていくのが昔話の研究であり、伝説の研究であり、神話の研究であり、同時に寺社縁起の研究です。焼山の場合もあとで述べるような事実がありました。

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 山に入ろうとすれば垢離を取らないといけないというのは、山の神秘を守っている人たちがいたからに違いありません。その人たちが、「おいおい、そんな機れたからだでこの山に登ったら、かならず山神が怒るぞ」といったのです。
 山に登るためには、山の神聖を守っている山人に対して、自分はこれだけの精進潔斎、これだけ仏教の修行、密教の修行をして山に登るんだ、あんた方よりも自分のほうがはるかに行ができているんだ、それでは鉄鉢を飛ばしてみせようか、というどとで鉄鉢を飛ばすような一つのマジカルな密教の奇瑞を見せて、相手を説得するという手続きが必要でした。生半可な腕前では山人に追い払われますから、相手を説得するだけの行と力が要ります。また、昔はそういう力を付けるために修行をしたわけです。それは切羽詰まった修行です。

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いちばんの条件は、垢離を取って穢れを祓うということです。

精進がじゅうぶんでないと山の神が怒るというので、かならず垢離を取りました。
いまも毒龍の窟が残っていますが、頂上に近い毒龍の窟から毒龍が飛び出して大師に襲いかかった。大師が仏を念ずると虚空蔵菩薩が出現したというのは、弘法大師が虚空蔵の求聞持法を修めたことを示しています。虚空蔵菩薩が毒龍を岩屋に封じ込めて、その害を絶ったので、この山に登ることができた。大師が虚空蔵菩薩を本尊とする寺を建立したのが焼山寺であると伝えています。 
摩盧山という山号は、音を写したものであることは明らかです。
 縁起は、摩澄山という山号は火を消すための水輪を意味する摩戚から出たものだといっていますが、われわれのサンスクリットの知識からしますと。これを翻訳すると「凶心なるもの・凶暴なるもの・人を殺すもの」という意味です。∃Q2ならば「不毛の地・水のないところ」といり意味ですから、凶饗なものがいる山という意味で摩戚山といったのだろうとおもいます。
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この山は縁起の解釈によって弘法大師の登山修行を論証できます。
 それはこの山には行場が存在し、頂上の奥の院に虚空蔵をまつることによって、ここで求聞持法が行われたことを証明することができるからです。焼山寺の頂上に登りますと、もと虚空蔵菩薩をまつっていたという場所があって、現在は蔵王権現をまつっています。ここまで登るのはIキロ半ぐらいですから、ゆっくり登れば登れます。山全体が自然遊歩道になっていますが、山を全部回るのはなかなか困難かもしれません。
 さて、頂上から少し下がったところに、もとの護摩堂があります。頂上で火を焚いて求聞持法を修行したわけです。求聞持法は虚空蔵菩薩を本尊とします。百日の間に虚空蔵菩薩の喜言を百万遍唱えると、虚空蔵菩薩の力が自分に加わって、すべてのものを暗記することができるといわれました。 
本来の地蔵はけっして死んだ人の地蔵ではなくて、宝の仏様です。
土地の中にある鉱物資源でもなんでももっているわけです。それと同じように、虚空蔵は上のほうのすべての功徳をもっています。空にはあまり宝はないかもしれませんが、虚空はすべてのものを生かします。したがって、虚空がすべてのものを蔵するごとく、頼んだことはなんでもかなえてくれる仏様が虚空蔵菩薩です。
虚空はアーカソダあるいは貯蔵するといいます。
W Akagagarbhaが虚空蔵菩薩の梵語の名前です。
阿弥陀仏の名前を南無阿弥陀仏と唱えるように、それを真言にしますと、功徳をいただきたいというのを、「オン・バサラーアラタソノウーソワカ」といいます。
 たいへん唱えにくい真言ですが、それを一日一万遍唱えると、百日目にかならず虚空から星が天降るけれども、その行が生半可であれば、天降ってこないといわれます。
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縁起のもう一つの解釈は、

 この山の山人が修行者の入山を拒否したことが、龍によって入山を妨げられたという話になったという解釈です。山人に対して密教修行者が行力を示すことによって服属させ、従者として食物を運ばせて、食物を補給する力を三面黒天としています。
 三面大黒天はインド以来、厨の神様です。
いまでも比叡山の厨房(台所)には三面大黒天がまつってあるように、食物を補給するのが三而大黒天です。焼山寺にも毒龍の窟前に大黒天堂の跡があります。大黒天堂は寺のほうに移り、本堂の左にあった大師堂を右に移して、大師堂の奥に大黒天堂を建てていました。大黒天の信者が非常に強いので、そういうことにしたといっています。
 山人が入ってきた行者なり高僧なりに服属しますと、その人の行をサポートして、食物を運んだり、水をくんだりしてくれます。それが「採菜・拾薪・汲水・設食」です。食べ物を採ってくれたり、柴灯護摩のために薪を集めてくれたり、水をくんだり、食物を設けるのが山人の仕事です。高野山に弘法大師が入ってくると、山人がそういう仕事をして弘法大師の行を助けた、その山人の後裔が高野山を支えたということも最近わかってきました。

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 真正の霊場には必ず行場があります。

行場のない霊場はいささかあやしい霊場です。
現在は町の中にあるけれども、山の上に奥の院がある、そこに行けば行場があるというところもあります。本当の遍路をなさる方は、奥の院を聞いて、奥の院を回らないといけません。私がそのことの大事さをいうものですから、だんだんと八十八か所でも行場を掘り起こすようになりました。
八四国霊場記に次のように書かれています。
奥院へは寺より凡十町余あり。六町ほど上りて祇園祠(八坂)あり、後のわきに地窟あり。右に大師御作の三面大黒堂あり。是より上りて護摩堂あり。是よりI町許さりて聞持窟、是よりあがりて本社弥山権現といふ。是は蔵王権現とぞきこゆ。下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん。地池と云あり。二十間に三十間もありとかや。
 祇園祠は現在は不動尊をまつっています。奥の院までは、十町では足りません。
もっと長いです。不動尊をまつる祇園祠、地窟、三面大黒堂、護摩堂など、道具だてはみなそろっています。弥山といっているのは頂上のことです。弥山という字を書くので須弥山のことだとお寺で書いたりするようになりますが、弥山と書いて「ミセソ」と読みました。安芸の宮島の山上を弥山と呼ぶのは頂上という意味です。伯者大山で弥山といっているのも頂上ということです。
 弥山が頂上で蔵王権現だといっていますが、お寺でもはっきりと、もとは虚空蔵菩薩をまつりたといっています。「下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん」というのは見つけることができませんでした。岫池という二十問に三十問のずいぶん大きな池があったたようですが涸れたとみえて、今はありません。
 これよりも35年ほど前に書かれた「四国辺路日記」には、次のようにあります。
扨当山二囃ノ院禅定トテ、山卜二秘所在リ、同行数卜人ノ中占、引導ノ僧二白銀二銭口遊シ、作ノ三面彼憎ご呻/呻ソ先達トシテ山ドツ巡礼ス。右山八町、先、ヤソクニ大師御ノ大黒ノ像在リ。毒岫フ封シ廓玉フ岩屋舟。求聞持ソ御修行ナサレタル所モ在。前二赤井(関伽井)トテ清水在リ。山頭二(蔵王権現立玉ヘリ。護岸ヲ修玉ヒシ檀場在リ。
 ここに出てくる先達を山先達といいます。
いちばん大きな龍王窟は、おそらく山人の住んでいた窟であろうとおもいます。
山人はそういうところに住んでいて山の神聖山人は、ときどき村に下って家々を祓い清めたり、祝福の言葉を述べたりしました。いま山からもって下りて家々に配っているものとして、近江地方では椋の枝があります。立山あたりでは、もとは椋とか榊をもってきたのでしょうが、のちになると立山の山伏が薬草を札に付けて配るということに変化してきます。これも、もともとは人の家づとで、それで十分生活ができたわけです。山人が山づとあるいは家づとをもって定期的に立山の信仰圈を回ったのが、いまの配置売薬の元だといわれています。いまは売薬業者が自動車で薬をもってきて配付して行きますが、もともとは山伏の山づとです。その前は杖をもっていったりしています。
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本堂に向かって右に大師堂、左に三面大黒天堂があり、その左に庫裡があります。
右に少し離れて社神社があります。これは神仏分離後、村の竹林に移りました。
寺が刈らなくなったので荒廃しています。八十八か所の霊場の鎮守は、みなこのように荒れていますが、無理な神仏分離の結果といえましょう。
 大師堂の前には鐘楼と石造宝塔や板碑等の石造物があります。 
衛門三郎の遺跡として、杖杉庵が登山路のなかほどにあります。
 衛門三郎の杖立杉かおりまして、ここに終焉を遂げた衛門三郎の杖を墓標にしたら根づいたとしています。これは、空海の修行に従者があったことを想像させるものです。百日間の求聞持法をする場合、自分で木の実を集めたり、山の芋を掘ったり、野草を集めたりして食事を作るわげにはいきませんので、そういうものを運んでくれる従者が必要でした。山人がそれをしたとすれば、それを大黒天としてまつるということがあったとかもいます。
 衛門三郎が国司の子どもに生まれたいといったので、死ぬときに石を握らせてやった、間もなく伊予の国司に子どもが生まれた。なかなか手を開かないので、無理やり開いてみたら、石を握っていた。すなわちこれが五十一番の石手寺の開創であるという話になってくるわけです。衛門三郎の伝承は、従者の存在を考えるうえで非常に大事なものです。

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五来重:四国遍路の寺より

藤井寺 本尊の薬師如来は四国最古

 
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 弘法大師は太龍寺や室戸で修行を行ったと自ら書いています。その際のルートとして考えられるのは、故郷の善通寺から大窪寺に出て、そこから切幡寺に下がってきて、吉野川を渡り、この藤井寺をから焼山寺に登って行くルートです。それは現在の歩き遍路のルートと重なってきます。

 焼山寺は一つ飛び離れた山の中ですから、どっちからどう行っても、かなり戻ります。そういう場所ですから、巡礼は焼山寺に行って、それから十三番の大日寺に戻ってきて、徳烏の郊外をぐるっと回つて、小松鳥に出ていくということになります。 
  
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藤井寺は禅憎がいたところです。

本尊は薬師如来で、臨済宗妙心寺派です。
御詠歌は[色も香も無比中道の藤井寺 眞如の波の立たぬ日もなし」です。
無比は実際には無非と書かないといけません。
「色も香も無比中道」というのは、華厳経の中にある文句で、中道を説いた部分に「一色一香無非中道」という文句が出てきます。
 中道というのは、実践することによって、いいとか悪いとか、あるとかないとかという対立概念をすべて超えてしまうということです。中道という覚りを覚りきらないときは、それぞれ区別があって、これは好きだとか嫌いだとか、いいの悪いのという差別をもってしまうけれども、中道という覚りを覚ってしまうと、すべてが平等になり、差別を超えてしまうというのです。
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 「二色一香」は、色と香だげをいっているのではありません。
色・声・香・味・触という人間の五感が、それぞれ中道になるという意味です。
われわれが見たり聞いたり触れたりするものが、すべて覚りになるわけです。
 仏教という宗教が言葉をもてあそぶといわれる所以は、言葉がきれいすぎて上滑りするのではないかとおもいます。お説教でも学問のある和尚さんの話よりも、木訥な人の話のほうがよく身にこたえます。
それはさておき中道とは覚りの一つの別名だとおもいます。それがこの歌の意味です。
 藤井寺では何かあっても水が流れても、すべて中道だといっています。
この寺のご詠歌は「一色一香無非中道」という華厳経の言葉を入れた、なかなか難しいものですが、何かあってもすべて中道だという意味です。
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 縁起では弘法大師修行のところだといっています。

その遺跡が寺の後ろの八畳岩というところに残っていて、立派な杉の本があります。そこから焼山寺に行く道があるので、若き日の弘法大師が善通寺から焼山寺を経て室戸岬への辺路修行をした可能性があります。その場合はかならず通過しなければならない道です。
 
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  平安時代にはよほど栄えたらしく、本尊の薬師如来像はたいへん立派です。
久安四年(1148)という平安末期の年号が入っていて、もちろん重要文化財です。しかし、それ以外のことは不明で、天正年間の兵火ののちは復興も遅かったようです。
 『四国辺路日記しには
「地景尤殊勝也、二千門モ朽ウセテ礪ノ残リ、寺楼ノ跡、本堂ノ礪モ残テ所々二見タリ、今ノヅ(二問四面ノ草堂山、・……庭ノ傍二容膝斗ノ小庵在、其内方法師形ノ省一人出テ、仏像修川ノ勧進ツ云、各奉加ス」
とあるので、たいへんながめがいいところだったようです。
しかし、お寺も礎だけ、本堂も礎だけです。お寺というのは最初は庫裡です。
たいへん小さな庵があって、その後ろに仏像の破片が山のように積んであると書いているので、朽ちるままに放置しているというか、復興しなかった。廃屋がっぶれるようにこのお寺もつぶれてしまいます。
そこ一人の禅僧あるいは山伏がやってきて、この仏像だけでも復興したいというので遍路の者にお金を勧進したりして、みんなが勧進したわけです。
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 それに対して後の『四国偏礼霊場記』のほうは、禅僧がいて堂も禅宗風に造られていると記しています。『四国辺路日記』が書かれて『四国偏礼霊場記』が書かれるまでの35年余りの間に復興が進んだようです。
 その後、天保二年(1831)に焼失しますが、間もなく再建されたのが現本堂です。禅僧による復興ということは、雲水修行の間に無住の堂に留守居に入って、信者を獲得して復興すれば、その寺は禅宗になるので、修験山伏が寺をもっことは近世は少なくなります。
そのかわり修験山伏は神主になります。つまり、神社の別当寺に入って坊さんと神主とを兼ねる者が現れたわけです。

   切幡寺 流水濯頂会で有名
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 御詠歌は「欲心をたゞ一筋に切幡寺 のちの匪障りとぞなる」です。

 これは欲心を切り捨て、もし切り捨てなければのちの世まで障りになりますよという歌です。
 切幡寺の縁起については、一人の機織り女が機を織っていると、弘法大師が着物の綻びをつくろう布を所望したので、女は惜しげもなく機にかかっている布を切って差し上げた。その女が「千手観音で皆を救ってあげたい」というので、大師がすぐに像を刻むと千手観音になったというものです。
 しかし、実際には機の布を切るということは、幡をあげることだったとおもいます。
『四国偏礼霊場記』は、その縁起を
「此所は伝て云、大師初てこゝにいたり給ふ時、天より五色の幡一流降り、山の牛朧にして皿幡ふ右しらず、下は此山に落ちけり。怪異の事なれば、是を伝んとて、大師寺を立、切幡け玉ふとなん」と書いて、さらに「是より海を望む、頗る絶景なり」と記しています。
 
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  霊場寺院は、前がどうであったかということを考えないといけません。
ここには水神の信仰がありました。山の信仰には、山の神の信仰と水の神の信仰の両方があります。ここにはまず水神信仰があって、水神に御幣をあげました。幣といわれるものは、本来は麻です。麻の幣を立てて神様にあげていたのが、のちになると麻の布にたり、さらに木綿の布になったわけです。
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そういう古い礼拝のしかたをするのはお稲荷さんです。

お稲荷さんを拝むのに、山の奥に入っていって幣を立てた、布を立てて拝んだということが『今昔物語集』に出ています。いまは赤い幡のところもあるし、白い幡のところもありますが、お稲荷さんには幡をあげます。幡をあげるというのは、もともと幣をあげることです。それが切幡寺の幡です。ですから布を織る機ではなくて幡だとおもいます。
 一般には機を織っていた女が大師のために機の布を切って差しあげたので、この寺名があるといっています。しかし、布は幣の古態で、水神のに献ずるものであったといわれます。稲荷に幡をあげるのもこれですから、仏教以前の信仰が生きていたわけです。 
  所には仏教以前の信仰も残っています。死者供養をするような札所の信仰も、仏教以前の信仰が残っているものと考えて差しつかえありません。
  
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 切幡寺には流水濯頂会があります。

龍王信仰のある加持水の湧く経木場で、経木をあげて亡くなった人の供養をするわけです。流れ潅頂は四国をめぐっているとそこかしこで見られます。切幡寺の流れ灌頂は、もともとはお産で亡くなった人の菩提のためだといわれています。
 できれば亡くなった人が身に着けていた布を一尺四方ぐらいに切って、4本の足を付けて加持水に浸し、かたわらに杓を置いて、通る人ごとに水をかげてもらいます。

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 切幡寺の場合はすべての死者の供養のための流水面頂となっているようです。
流水腹頂には別の行事もあります。たとえば水で亡くなった人のための供養も流水濯頂です。ですから漁村などで亡くなる人があると、流水面頂をします。流水濯頂は中国では水陸会といわれました。京都の黄葉山ではお盆のときに宇治川に船を浮かべて塔婆を流します。いろいろなかたちがあって、布を垂らす流水濯頂もあれば、塔婆をあげるものもあります。

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 これは精神的に清めるのですが、精神的に清めましたというだけではいけません。それをなんらかのかたちに表すところに庶民信仰があるのです。インテリは「水をかけなくても清めてやろうとおもっただけで清まるではないか」といったりしますが、やはりかたちに表すと言うことに意味があります。切幡寺の流水濯頂はこのあたりでは非常に大きな行事になっています。
 『四国辺路日記』には「本堂南向、本尊三如来、二王門、鐘楼在、寺「妻帯ノ山伏住持セリ」とあるので、山伏がここにいたことがわかります。山伏はだいたい妻帯しています。

 法輪寺-釈迦の開いた転法輪から

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正覚山法輪寺は、転法輪から寺の名前が付いたとおもわれます。

仏教では説法をすることを法輪を転ずるといいます。
つまり、仏法を広めることを輪を転がすことにたとえて、転ずるといいますから、転法輪となるのです。
 転法輪を最初に問いた人は釈迦如来です。
釈迦は小さな王国の太子でしたが、山の中に入ってしまいます。
そして、尼連作河というところで五人の同志とともに修行をしていました。
しかし、どうしても覚ることができないので、釈迦はひとりで陸に上がって、菩提樹の下に座って瞑想いたします。そこでようやく覚ることができたのです。その覚りを自分で味わっておりますと、神様が大勢現れて、お前の覚りはひとりのものではない、広めなくてはならないといわれました。しかし法輪を転ずる相手がいないものですから、水の中に入って苦行中の五人を呼んで、自分の覚りの内容を話しました。
 苦行が辛くて逃げだしたとおもっていたお釈迦さんが、非常に立派な仏教の覚りを語って聞かせましたので、五人はそろって、お弟子になりました。六人の中で釈迦だけが覚れて、あとは弟子になったのです。
 
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それが仏教教団のはじまりとしてのサソガです。

 サソガを音訳して漢字にすると僧伽となります。
サソは同じという意味ですから、サソガは心を同じくする者という意味で、坊さんという意味ではありません。僧という字はサンと読みます。僧という字がニソペソですから、坊さんだと勘違いしますが、そうではありません。音を借りただけです。
 転法輪の説明をしましたが、転法輪で覚りを開いたということで正覚山という山号になります。正覚山は転法輪から出たもので、もとは白地山といったと書かれています。
 
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 御詠歌は、「大乗のひばうもとかも翻へし 転法輪の縁とこそきけ」

 小乗の教えを撤去することが転法輪です。
ありがたいお釈迦さんは立派な覚りを開いたといっているけれども、あとの連中は小乗だということです。
「大乗のひばうもとかも翻へし」というのは、大乗のほうから見た小乗に対する誹諧を翻し、転法輪の縁であるというふうに理解すべきだというのが「転法輪の縁とこそきけ」という意味です。
 なかなか仏教の知識に明るい、よい御詠歌です。

 念仏講などでは御詠歌を何の気なしに唱えていますが、御詠歌を通して仏教の理解なり信仰の理解なりができるとおもいます。御詠歌を年寄りの趣味と軽んずる人がいますが、やはり法を説くための因縁です。ですから坊さんが御詠歌を理解する力をもっていれば、正しく仏教の縁になります。
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   お釈迦様の転法輪は小乗だということを、ここでは大乗といったのです。
自分が覚ることによってはじめて他を覚らせることができるのです。
いっぽう、自分たちが覚ることはあとまわしにして、まず一般民衆を覚らせてやるというのが大衆部の主張です。じつは覚れるのだけれども、覚る一歩手前の人間に留まっていて救おうというの菩薩です。
 仏であるけれども、人間であるというのが菩薩という言葉の意味です。
ボーディは覚り、サットヴアふ生き物あるいは存在するものという意味です。
サットヴアをよく有情と訳しまして、菩薩を翻訳すると覚有情です。
菩薩という字そのものに意味はありません。

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法輪寺は縁起不明です。

本尊の釈迦如来は珍しい寝釈迦という涅槃像です。
涅槃像を拝む場合を考えますと、ひとつの流れがあります。
弾僣という人の系統はみな涅槃像を拝みます。
ただ、ここがそうであるかどうかはわかりません。

 四国霊場の中でも、七十二番の曼荼羅寺と七十三番の出釈迦寺は、どちらも山号が我拝師山で、我拝師山が礼拝の対象になっています。我拝師山というのは、弘法大師がお釈迦さんに会いたいといって崖から飛び下りて、天人が足を受けたので助かったという物語があるところです。ですから、釈迦崇拝です。

 それと同じような流れの中で、法輪寺も釈迦崇拝です。
釈迦崇拝は、涅槃像と出山の釈迦を拝みます。痩せおとろえて山から出てきた釈迦が、出山の釈迦です。その流れがこの中に入っているのではないかとおもいます。
 縁起は不明ですが、本尊も御詠歌も釈迦崇拝を表しているので、熊谷寺と同じく法華持経者の寺であったとおもわれます。とくに釈迦を拝むのは法華経です。

法華経というのは近世に入りますと、弾誓流の専修念仏者は釈迦の檀特山の久郷を苦行をに真似るようになり、出山の釈迦と寝釈迦を礼拝しました。近世の仏足石もこの和の釈迦崇拝片行者によって造立されたものと考えられます。
 仏教は苦行を否定すると一般にいわれますが、日本では法華経を読誦する行者は、あえて山林に入って苦行しました。その苦行から出てはじめて転法輪があるので、転法輪を略して法輪寺としたわけです。
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 歴史はよくわからないので、これも『四国偏礼霊場記』によるほかはありません。
『四国偏礼霊場記』は、本尊は「大師の御作、釈迦如来壱尺五寸の像ましませり」と書いていて、お寺の環境を
「深巷人なくして幽思きはまらず。樹木こゝろあるがごとく、うき世の塵もわするばかり也。今を見てむかしをおもふ。世のうつりかはるならひかくのごとし」
と描写して、たいへん寂しいお寺だ、人けがないところだ、昔は栄えたのだろうけれども、いまはすっかり衰微してしまっていると書いています。
 

   

熊谷寺-御詠歌からわかる千部法華会

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八番の熊谷寺は海洋宗教の辺路のお寺らしく海が見え幽逡で、しかも僧坊のあるお寺です。 本尊は千手観音です。千手観音は海や湖に関係があるところにたくさん見られます。千手観音の立像が帆掛け舟のように見える、手がいっぱい付いているのが扇形の帆を掛けたように見えるところから、海辺の千手観音には海の信仰、あるいは船の信仰が係わっているのかなと想像したりします。
 
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熊谷寺には千手観音と同時に補陀落信仰があります.

これもやはり海の信仰です。したがって、補陀落渡海をする人は、この千手観音の像を船の舶先に付けて、風を待っていました。季節風を待っていたのでしょうが、風が同じ方向に三日も四日も一週間も吹くような気象条件のときに船出したと、平安時代の『台記」に書かれています.
 熊谷寺も海が見えますので、千手観音が海の観音としてまつられていました。
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ご詠歌の「薪とり水 熊谷の寺に来て 難行するも後の世のため」
には少し意味があります。この歌だけでは、どうして熊谷寺で薪をとるのだ、薪をとって売っていたのかということになってしまいます。しかし、このお寺には千部法華会があったという記録があるので、「薪とり」の意味がわかるのです。そういうものを踏まえて御詠歌が作られています。
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薪を取ることがすなわち難行苦行なのです。

 日本人は苦行の宗教として法華経を受け容れました。
日蓮は、法華経を読むということは迫害されることだという意味のことを何回もいっています。迫害を受けること自体が法華経を読むことだ、経文を理解することではないといっているのは、鎌倉時代の思想として非常におもしろいとおもいます。

 奈良時代以前から山岳修行者が法華経を読んでいた形跡があります。
平安時代に入りますと、法華経を実践する法華経の行者が現れます。
平安時代末期の今様の中に「妙法習ふとて、肩に袈裟掛け年経にき、峯にのぼりて木も樵りき、谷の水汲み、沢なる菜も摘みき」とありまして、薪をとったり、菜を摘んだり、水をくんだりして、自分のお師匠さんなり仏さんなりにお仕えして、はじめて法華経が自分の身に付いたという歌があります。
その歌を歌いながら、法華八講という法華経の講説をするのですが、みんなが薪を担いで本尊さんの周りをぐるぐる回るのを「薪の行道」といいます。
 それが御詠歌にある「薪とり」の意味です。
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四国の札所にまで法華経実践の千部法華会の思想が入っていたというのは、たいへんおもしろいことです。薪をとって水をくんだという「みずくむ」を「みずくま」とかけて、「水熊谷の寺に来て」となるわけです。それは同時に難行苦行ですから、「難行するも後の世のため」、難行をするのは現世のためでもあり、後の世のためでもあるという意味になります。
水をくむということから水熊谷の熊谷となったのに、この寺の縁起では、弘法大師が山中の闘伽ヶ谷という泉で熊野権現に会ったという話になっています。

ここは非常に水の豐かなところで、二つの大きな川が左と右のほうに流れています。そしてかなり坂を下りた低いところにお寺があります。その水源の闘伽ヶ谷で熊野権現に出会ったということから、また小さな熊野社もあるので、ここにも熊野の影響が及んでいるといえましょう。妙法は法華経の妙法で、妙法山は那智から海のほうに登る山です。したがって、法華経を実践する人々が熊野を開いたといっていいわけです。
  
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熊野信仰が非常に強いのは東北地方です。

 陸路を歩いていたのでは、あのように広まるわけはありません。仙台の西の名取の熊野神社は大きな神社ですが、そういうところは船で行ったらすぐの近いところです。それから、非常に熊野信仰の強いのは隠岐島です。これも船を考えないといけません。鎌倉時代にはすでに沖縄に熊野神社がありました。那覇でいちばん大きなお宮の波上宮は岬の突端にあります。
 こうしたものを縁起にするときは、弘法大師が熊野権現に出会って、という話になりますが、事実としては熊野からきた山伏たちがこういうところに寺を開いたのでした。
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修験のもつ寺に行きますと、仏像はたいてい小仏像です。

 修験たちは笈の中に小仏像を入れて持ち歩きました
山伏が落ちついて寺を開く場合は、大きな本尊を彫刻したり、あるいは彫刻してもらって、自分が携帯していた仏像を胎内仏として納めてまつりました。

 『四国徊礼霊場記』は、この寺の境内の幽逡をほめて「谷ふかく、水涼し。南海一望に入」と書いています。この場合の南海は紀伊水道です。
 鎮守は熊野社と八幡社で、このことからも修験によって維持された霊場であることがよくわかります。かなり坂を登らなければならないお寺ですが、登ると本堂があって、さらにもう一つ上に大師堂があります。

このお寺の信仰行事に法華千部読誦による開帳がありました。

これを何年かに一度やっていたけれども、『四国偏礼霊場記』を書いたお坊さんが行ったときは、毎年やらないと、とても寺が維持できないというので毎年開帳していたと書いています。
 坂の途中に羅漢堂と多宝塔がありました。ところが、本堂もすべて昭和二年に焼けて、昭和十五年に再建されました。

   浄土寺の落書
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浄土寺

 
四十九番の浄土寺は落書で非常に有名です。
厨子に室町時代ごろの遍路の落書があります。本尊は釈迦如来です。
孝謙天皇の勅願で行基菩薩が作ったという縁起は信用がおけませんが、鎌倉時代に再興されたことは事実です。

   このお寺を保護したのは、河野水軍の河野氏です。
 河野通信という武将が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。熊野水軍が五百隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍は二百五十隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。 
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浄土寺
 河野氏は大三島の大山祗神を一族の氏神にして、守護であると同時に神主を兼ねました。神主は普段は大三島にはおりません。承久の変が起こると、通信は二人の子どものうち長男は京方、次男は鎌倉方に味方させて、自分は長男とともに京方に付きました。承久の変が京方の敗北に終わっても、源頼朝による伊予半国の守護に任ずるという約束は守られます。
通信は斬罪から逃れて、奥州の北上のあ屹りに流されて、そこで死にました。いまの江刺市と北上市の境にある聖塚が通信の墓ではないかとされています。
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 『一遍聖絵』には、河野通信の孫の一遍上人がお祖父さんの墓を弔いに行って、行道念仏をしたときの景色が描かれています。一遍上人が坊さんになったのも、承久の変で家が没落したからだ、非常に武士的な気迫をもった坊さんであったのも、武将の家に生まれたからだという説もあるくらいです。
  浄土寺に空也上人がしばらく留まっていたということから、浄土寺と浄土寺の西の日尾八幡という非常に大きな八幡さんとの間の、みかん畑になっている谷が空也谷と呼ばれています。

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本堂の中には室町時代初期ぐらいの空也上人像があります。

 こういう伝承があるところは、空也聖(阿弥陀聖)がいたところです。伝説では空也の墓は八つも九つも数えられていますが、それもおかしなことです。
空也聖は念仏を唱えながら諸国を歩いて、空也上人とほとんど同じことをしています。空也が亡くなったときに作られた『空也誄』という非常に信憑性のある伝記には、空也上人は峠で人馬が苦労していると、鍬をもって平らげて通りよくしたということが書かれています。
  やがて空也聖が遊行をやめて定住するようになると、葬式を執り行う村が生まれました。そこには空也の墓と称するもの、あるいは空也堂と称するものがあります。
 その村の人たちは本当に空也がそこに埋まっていると思って拝んでいたようです。空也聖たちは多少差別されたので、精神的なよりどころとして空也の墓谷や、空也堂を建てていたと解釈して間違いありません。
 空也堂にまつっていた阿弥陀さんを三蔵院、あるいは三蔵寺と呼ばれた日尾八幡の別当寺に移して浄土寺という名前に変えたのではないかと推察できます。
 そう考えないと、お釈迦様をまつったお寺を浄土寺というのはおかしいわけです。
浄土寺という名前に変わったのは、むしろ阿弥陀様の信仰が強かったということを示しています。
 
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 本堂の本尊の厨子に、室町時代の辺路修行折の落書きあり。

これは国宝ですから、めつたに拝観できません。
 大永八年(1528)の年号が書かれた落書には、「金剛峯寺谷上惣識善空、大永八年五月四日」と書いてあります。高野山には、現在でも谷上という場所があります。そこの惣識とあるので、大永八年五月四日に善空という大が代表してお参りしたということだとかもいます。
 その次は「金剛峯寺満口口同行六人、大永八年五月九日」という落書です。
現在のお遍路さんは、菅笠や札ばさみに「同行二人」と書いています。これは、一人でも弘法大師と二人で歩いているという意味ですが、昔は一人だけれども弘法大師と二人だ。したがって、三人で回ったら同行六人だという数え方はしないので、実際、六人で回ったようです。
 その次は「享禄四年七月廿三日 筆 覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」とあるので、四人で参っています。その中でこの落書を書いた人物は覚円だとみずから語っております。
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 江戸時代に入ると、遍路という字と辺路という宇が混じって使われるようになります。そして、元禄年間以降になると遍路に変わります。
その次の落書には、「四国辺路同行四人川内口津住口覚円廿二歳」と書いてあるので、前の筆者と同じ筆者がもういっぺん自分の年を宣伝するために書いたものかもしれません。
 その次に「三川同行口口遍路大永五年二月十九日」という落書の三川は三河です。
 その次は平仮名混じりで「四国中えちぜんのくに一せうのちう八いさの小四郎」と書いてあります。「一せうのちう」というのはよくわかりませんが、越前の国の一つの荘の役をしていた八いさの小四郎という者が四国中を参ったということだとおもいます。
 
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そのあとに「四国中辺路」が出てきます。

「四国中辺路口善冊口辺路同行五人のうち阿烏名東住人口大永七年七月六日」の烏は州と同じですから阿烏は阿波です。
 それから、「書写山泉俊長盛口口大永七年七月吉日、なれ大師辺照金剛」という落書もあります。みんなでいろいろと書いたものです。

西林寺-杖淵の泉

 
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四十八番の西林寺の本尊は十一面観音です。
江戸時代初めの『四国偏礼霊場記』には
「杖淵と塀を隔ててお寺がある。本堂、鎮守がある」と書かれています。弘法大師が杖で湧かしたという杖淵という泉(弘法清水)から約二〇〇メートル離れたところに、現在の寺地があります。杖渕を奥の院としているのは、霊場寺院が変遷しか一つの実例だとおもいます。
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 鎮守は熊野三所権現です。
『四国偏礼霊場記』には「杖の淵と名づく。かかし大師此所を杖を以て加持し給ひければ、水道騰して玉争ひ砕け」とあるので、弘法清水という大師の杖の信仰からできた寺であることがわかります。
 そうすると、泉のほとりに小さな大師堂あるいは観音堂があって、そこにたまたま住んでいた勧進聖がいちばん都合のいい場所を選んで、いまの西林寺をつくりあげたということになります。いわば土地を買ったということかもしれません。
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縁起にも歴史にもそのことは出てきませんが、おそらくそういうことで、現在の寺址が杖淵から二〇〇メートルほど北西になったのだとおもいます。杖淵を奥の院としているのは旧址だからです。おそらくもとは観音堂か大師堂で、大師堂が現在の寺地の観音堂と合併して札所とたったものとおもねれます。

 『四国偏礼霊場記』では、寺と杖淵とは隣り合わせで、塀を隔てた位置にあり、本堂のほかには鎮守があるだけで、大師堂は描かれていません。つまり、もともとぱ別の寺であったものが、のちに杖淵にあった大師堂と観音堂が一緒になって、西林寺を名乗るようにたったわけです。

  四十七番の八坂寺と番外寺院徳盛寺は、衛門三郎の出身地争いをしています。
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衛門三郎は、はじめ悪人でしたが、のちに改心して四国遍路をした、四国遍路の開創だといわれている人です。衛門三郎は弘法大師にめぐり合って、弘法大師に看取られて死にました。焼山寺の麓にある銀杏の生えた庵で死んだということになっています。
 もちろん彼は架空の人物ですが、この伝承は弘法大師の辺路修行にお供をした者があるということを暗示しています。修行者はひとりでは何もできません。食べ物を用意してくれたり、行の準備をしてくれたりする人達が必要です。サポートする者としては、修行者に帰依してお供をする道心、修行者がかわいがっていた童子と呼ばれる(あるいは行場にいちばん近い村の人々などです。衛門三郎は道心に当たります。)
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 『弘法大師伝』の中に、室戸で弘法大師をサポートした者として愛慢愛語菩薩が出てきます。愛慢愛語菩薩は夫婦であるともいかれています。こういう者がもとになって、衛門三郎の伝承ができたのでぱないかとおもいます。 
八坂寺と徳盛寺が、衛門三郎をたがいに争っているのは、ちょっと頬笑ましいものがあります。八坂寺は、地獄極楽堂という信仰と教訓を兼ねたような施設を造っています。
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   八坂寺の本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代のものだということで、重要文化財に指定されていま すので、なかなか拝観できません。ここをまつったのは八坂氏という山伏と伝わります。

熊野十二所権現をまつったということですから、やはり熊野信仰がここに及んでいたことがわかります。松山に南から入ると、浄瑠璃寺、八坂寺、西林寺、浄土寺があり、一つ山を越えると繁多寺、町に入ると石手寺と六か寺が固まっています。西林寺もよくわかりませんが、浄土寺と並べて考えますと、浄土寺は西林山三蔵院浄土寺と西林を名乗っているので、あるいは両方がダブつているのかもしれません。どちらも周囲がすっかり開発されてしまいました。
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勧進聖達の活動と浄瑠璃寺

 
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四国に来た無名の遍路が帰るところもないので、空き寺があるとそこに寄って、空き寺を復興するために勧進をしました。新しく寺を建てるには費用が要ります。
写経をするにしても、紙や筆や硯を買う費用が必要です。
写経僧に法華経八巻なり大般若経六百巻を書いてもらうためには、お金や米を集めなければなりません。それをするのが勧進です。本来は、お前さんは念仏をしなさいと勧めることが勧進だったとかもうのですが、しかし、物を集めることも勧進です。

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 たとえば行基菩薩が山崎の橋を架げたり、木津の橋を架けたりするときも、労力を提供する人を食べさせなければなりません。もちろん材料として材木も買わなければなりません。お金平物を集めるために、これに参加した人にはこういういいことがあり、参加しなかった人にはこういうたたりがあると説いたのが、『日本霊異記』に残っている行基集団の勧進の説話だとおもいます。
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 浄瑠璃寺は元禄年間(一六八八-一七〇四)の山火事で延焼し、本尊や脇仏などをのぞいてほとんどが焼失しました。その後、尭音というお坊さんが願主となって天明年間(一七八一-八九)に再建したという伝えがあります。浄瑠璃寺に行くと、その本堂が現在も残っています。尭音は、土佐街道の八か所に橋を架け たということで、現在、松山にいちばん近いところに供養塔が建っています。
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 『四国偏礼霊場記』も、困ったとみえて「此寺興廃しらず。おしむべし」と書いています。したがって、縁起未詳です。
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 長尾寺 もともとは志度寺と同じ寺?
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長尾寺
 
八十七番は補陀落山長尾寺です。長尾寺の中の観音院が現在本坊ですので、長尾寺観音院と「観音院」がうしろに付きます。天台宗です。補陀落山という山号がつくのはだいたい海岸のお寺で、八十六番の志度寺も補陀落山志度寺です。ですから、山号が同じということは、もとは同じ寺だったと推定できます。 
御詠歌は
あしびぎの山鳥の尾の長尾寺 
秋の夜すがらみ名をとなへよ
『四国損礼霊場記』によりますと、だいたい寺というは行基菩薩なりの開基、あるいは弘法大師の開基ということであり、この寺もその例にもれず、次のように記されています。
「聖徳太子開建ありしを、大師(弘法大師)霊をつゝしみ紹降し玉ふといへり」

聖徳太子と弘法大師を登場させるのは、もうひとつ縁起のはっきりしないことを示していると研究者は考えます。 推論すると、志度寺は熊野水軍の瀬戸内海進出の拠点港に開かれた寺のようです。それは補陀落渡海と観音信仰からも裏付けられます。その行者たちは、行場として女体山に大窪寺を開きます。志度寺と行場を結ぶ東西のルートと南海道が交わる所に、志度寺の行者の一つの院が分かれてできたのが長尾寺と研究者は考えています。
 縁起では、「
聖徳太子が始めて、弘法大師が修補した、本尊は弘法大師が作った」とあり、はっきりしないということを押さえておきます。
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 本尊の観音さんの立像は長三尺二寸、あまり太きくありません。 
大師の作也。又、阿弥陀の像を作り、傍に安じ給ふ。鎮守天照大神なり。 さし入るに二王門あり。
 熊野行者たちによって開かれた志度寺は、後には高野聖の拠点となり、死者供養のお寺になり、阿弥陀信仰が広がります。そのため分院であった長尾寺も阿弥陀信仰の拠点となります。阿弥陀の像を作った、そして観音さんのかたわらに安置したとあります。ここからも熊野行者から高野聖へ修験者の信仰が交代したことがうかがえます。
研究者が注目するのは、鎮守が天照大御神だということです。
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長尾寺
現在は長尾街道沿の街道に面して仁王門があります。

 中に入ると広い池がありますけれども、門のあたりは狭くて、両側に店屋がすぐ追っています。いまの池のあるあたりは、もとは遍路の宿で森の茂った境内だったようです。いまでも老松のみごとな庭園があります。龍や蛇が石の住に巻きついて、本尊さんを龍も蛇も拝んでいます。けれども、中世には寺が荒れていたようです。
『四国遍礼霊場記』が書かれた江戸時代の初めぐらいは、たいへん寂しい寺であった。お香やお灯明もしばしば絶えがちであったと書いています。
 戦国から安土桃山時代にかけては遍路どころではありませんが、世の中が落ちつくにつれて遍路が盛んになります。『四国損礼霊場記』が書かれたのは元禄元年です。このころにはまだ寂しいお寺であったようです。
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 江戸時代の末のころになると、遍路はふたたび衰えて、明治の初めぐらいには無住のところが多かったようです。八十八か所の中の半分ぐらいは無住だった。そこへ遍路で行った者が落ちついて、やがて住職になったというところがあります。あるいはゆかりの寺から住職が来て、そこで寺を興隆したということもありました。

 『四国領礼霊場記』は、慶長年間(1596~1615年)のころに生駒親正が豊臣秀吉から讃岐をもらって、名刹再興をしたと書いています。その次に松平氏が来るわけです。長尾寺は慶長年間ごろに再興されたものとおもわれます
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長尾寺本堂

この寺の奥の院は玉泉寺で、俗称「日限地蔵」です。

 現在でも、長尾寺の住職が隠居したら玉泉寺に入るという隠居寺になっているそうです。また、長尾寺の山号が志度寺と同じ筒陀落山であることとあわせて考察すれば、志度寺の一院が独立したという推定ができます。
87番奥の院(曼荼羅9番) 霊雲山 玉泉寺
 玉泉寺
志度寺にたくさんあった何々院、何々院の中の一つが独立して海岸から町のほうに出ていった。奥の院にあった寺が南のほうに出ていって、街道筋に長尾寺ができた。すなわち志度寺は海岸から2㎞奥まで寺域であったと考えてよいでしょう。

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この寺には、一月七日に「会陽」という行事があります。

この会陽は岡山県の西大寺の会陽と響きあっています。
つまり、長尾寺の会陽の音は西大寺のほうで聞こえる。西大寺の会陽の音は志度寺や長尾寺に響いてくる。その晩、耳を地面に付けて、足会を聞いた会は幸運があるということが、江戸時代の俳句の歳時記に善いてあります。
 四国の霊場で会陽の残っているのは善通寺と長尾寺だけです。
おそらくこれも志度寺にもとあったものを、長尾寺が継承しているのだとおもいます。
 会陽について筒単に説明しておきます。

岡山県側では、お年寄りは「エョウ」とはいわないで「エイョウ」と発音します。たいていこういう庶民参加の行事は、掛け声を行事の名前にするのです。
 西大寺の場会は、シソギ(神木・宝木)と称する丸い筒を奪い会います。
もともと筒は二つに割れています。その中に牛王宝印を巻いてあります。
それを二本入れてあります。それを筒状のもので覆って、その上をまた牛玉宝印で何枚も糊で貼っていって、離れないようにして、筒のままで何万という裸男の中に放り込む。奪い会っているうちに割れてしまうので、最後に二人の人がこれを手に入れることになります。まれに割れずに手中にいたしますと、モロシソギといって二倍の賞品がもらえます。
 長尾寺の絵巻物、で「会陽」を見ると、西大寺と同じように、やはり串牛玉をたくさん上から投げています。ですから、たくさんの人がそれを拾っていくことができます。牛王宝印というのは本尊さんの分霊です。分霊をいただいて自分の家へ持って帰っておまつりをすると、観音さんの霊が自分の家に来てくださるということになります。
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長尾寺境内
餅撒きというのがありますが、これも御霊を配る神事です。

 手わたしでいただいたのでは福がありません。
投げてもらって、みんながワーッと行って取る。争うということに功徳を認める。それが会陽というものの精神です。どうして会陽というかといいますと、西大寺の場合を見ればよくわかります。西大寺の場合はシソギ投下、牛玉宝印を投げ下ろすまで、それに参加する人々は地押しをしなければいけません。その地押しのときに「エイョ、エイョ」という掛け声をかけます。
 観音堂の横に柱が西本立っています。それはいまでも変わらないようです。
そして、梯子に手を掛けて、「エイョウ、エイョウ」と地面を踏む。近ごろは「ワッショイ、ワッショイ」になってしまったようですが、お年寄りたちは「エイョウ」といったと話しておられます。それは地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのと同じことです。これに手をかけるのは力士が鉄砲を踏むのと同じです。相撲と起源を同じくします。
 四股を踏むのは悪魔祓いの足踏みです。
その足踏みが「ダダ」です。東大寺のお水取の場合はダッタソといいます。これをダッタソと発音しますので、ダッタン人の舞楽というような説ができました。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となります。           
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 そういうことで、長尾寺の会陽は志度寺の会陽が分離して長尾寺に継承された可能性があるので、長尾寺はもとは志度寺と同じところにあったと考えられます。志度寺と長尾寺の一体性は十分に考えられることです。

 長尾寺の鎮守が天照大御神であるということは、いろいろな解釈ができます

天照大御神は熊野では「若宮」としてまつられています。
もちろん、若宮は天照大御神ではないのです。熊野の三所権現はただの熊野権現です。新宮・本宮・那智の三所のほかに、横に若宮の御殿が独立している重いお宮です。
 ところが、熊野の信仰がでぎたとぎに、新宮のほうは伊井諾尊、那智のほうは伊非再尊ということにしたために、若宮は伊許諾・伊井再尊の間に生まれた子どもということになって、天照大御神になったわけです。
 そういういきさつがありまして、実際には若宮といわれるものは若王子だったのです。若一王子というものが三所権現のなかに入ったのです。那智と新宮と本宮とで位置はそれぞれ変わりますが、権現がそろうことは変わりがありません。
 若宮すなわち若王子の「王子」は海の神様です。
 したがって、長尾寺の鎮守は海の神様だということが推察されます。伊予のあたりのお寺には札所に王子があります。西行が善通寺の西にある我拝師山について書いたものの中にも「わかいし」とあるので、西行のころには、まだ若一王子が札所にあったことがはっきりしていました。
 こういういくつかの事例から、歴史的には長尾寺も志度寺の一部であって、志度寺が分離してここに来て、観音信仰と補陀落信仰とが奥までもってこられたのだという推論ができます。

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お堂については、仁王門が阿讃街道に面しています。

そこに石徐という石の柱があります。徐とは柱という意味です。
その柱にお経が書いてあるというので緩徐ともいいます。たいへんに珍しいことに、弘安六年と弘安九年の二本の経徐が残っています。お経の文字はほとんど読めませんが、年号だけは読めております。重要文化財になっています。

 本堂に向かって右のところに大師堂と薬師堂があります。
薬師信仰は海の薬師が非常に多い。その薬師信仰があるということにも、志度寺との関係が考えられます。
札所になりますと何宗でも大師堂ができます。
領主の命令によって真言宗から天台宗に変わりました。
真言宗のお寺には、常行堂はありません。常行堂は必ず天台宗にあるお堂ですので、そのときに建てられたものだろうと推定されます。しかも、志度寺に法草堂があって、常行堂のほうが分かれて長尼寺に来たと考えられます。法草堂と常行堂はいつでもペアになってあるものです。
 比叡山では現在、西塔の向かって左側に常行堂、向かって右側に法草堂があります。ここで法華ハ皿講、常行三昧が行われます。
常行三昧というのは、真ん中に阿弥陀さんを置いて念仏をうたう堂僧が、その周囲を回りながら念仏を唱える。常行三昧はやがて不断念仏というものになります。
 不断というのは、常行三昧は九十日間ずっとやめないというのが伝統だからです。したがって、ここに勤める堂憎は専門の念仏のうたい手です。そういう者が十二人なり二十四人なり四十八人なりが詰めていまして、交代で不断念仏をうたいます。こういうものができましても、江戸時代になると実際には行われないのです。

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 江戸時代になると、寺の伽藍の体裁として天台寺院だったら常行堂がある。そういうことで常行堂は建ちますが、とりたてて修行はなかったようにおもいます。ですから、ここに常行堂があるということは天台宗に変わったときに造られたと考えられます。 それから、天満天自在天堂があります。これは菅原道真をまつったものです。
特別の意味はありません。

おもしろいのは風呂があるということです。

 別所が少し離れたところにあります。大きなお寺がありますと、そこに奉仕する人たちの住むところを別所といいます。同時に、そこを風呂地といったりします。
 紀州の由良に、興国寺といって、たいへん大きなお寺がありますが、この寺に別所があります。別所に風呂という場所があります。風呂に四人の虚無憎がいました。
これが尺八の虚無僧の始まりです。いろいろな記録や興国寺の伝承にそうあります。
 このへんはちょっと謎があります。全国どこに行っても、虚無憎がいたところを風呂地といいます。虚無僧と呼ぼれる寺の奉仕者が、アルバイトというか、風呂を沸かして、人々を入れて収入としていたと考えられます。
 最近では福島の会津あたりにたくさんの風呂があり、虚無僧がいた。のちになると虚無僧そのものが尺八を吹くより風呂のほうに転業してしまうということが研究者によって明らかになっています。
 長尾寺の別所の場合は、蒸風呂で、風呂は小さいものです。薪で石を焼いて、それを水の中に放り込むやりかたでした。

五来重:四国遍路の寺より

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 郷照寺は八十八か所の中で唯一の時宗のお寺です。

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一遍上人は四国の人ですから、しばしばこういうところを歩いたにちがいありません。また最後の遊行を前にして、自分の郷里伊予に帰ったこともはっきりしています。亡くなる一年前に帰って、郷里のあちらこちらにお参りしています。

 武具が非常に多いので有名な大三島の大山祗神社にお参りしたりして、それから十六年に及ぶ最後の遊行に出発します。善通寺から郷照寺を通りすぎて、淡路島から明石に渡って、神戸まで行って正応二年二二八九)八月末に亡くなっております。
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郷照寺は、もとは道場寺と呼ばれていました。

寺は海に臨んだ高台ですが、昔はすぐ下まで海であったといわれています。
正面に庫裡、客殿、庭園があります。納経所は寺他の石段の上にあります。
本堂は東向きに建っていて、その前に庚申堂があります。
本堂の後ろの高いところに大師堂があり、その裏に淡島堂(粟島明神堂)と稲荷社があります。淡島堂は以空上人が建てたということがはっきりしています。
以空上人は、五剣山ハ栗寺に弁財天をまつった人です。

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 縁起は、霊亀年間(七一五-一七)に行基菩薩が開削して、もとは仏光山道場寺
と名づけたと書いています。
 弘法大師が再興し、尊心憎都、通苑阿闘茶などが住んだといいますが、現在は時宗で一遍上人の止住を伝えています。一遍は四国の松山の人で、善通寺に参詣して阿波から淡路へ越えたことがあるので、ここを遍ったことは確かです。
天正年間(一五七三-九二)の長宗我部氏の兵火で焼けたあと、江戸時代に再興して藩主の保護を受けました。書院にはすばらしい庭園があって、名石や名木があります。
 
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郷照寺は宇多津の港に臨む高台にあって、仏光山の名のごとく灯台の役を果たしました。あるいは庚申堂の常夜灯であったかもしれません。庚申信仰は念仏信仰です。
昔はお葬式を手伝いあうのが庚申請でした。
庚申念仏のために人々が集まる道場が道場寺になったようです。
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このあたりは秘事法門が多いといわれるのは、このような念仏信仰が真言念仏・秘密念仏化したものがベースにあるのかもしれません。
 庚申堂本尊も密教の青面金剛です。もとは庚申請の掛軸を出したり、七色菓子を出したりしたかもしれません。現在は大師信仰だけになりました。

 ハ栗寺 聖天堂が大にぎわい
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八十五番のハ栗寺について「四国辺路日記」は、このように書いています。 
本堂は南向、本尊千手観音、大師大唐ノ時、唐より粟子ヲハツ、海上ニ投玉フ。 仏法繁昌ノ霊地ト可成所ニ至テ、生成セョト約束シ玉フ。
此系数万ノ波濤ヲ唆テ、此嶋二流留ルト也。
八本ノ栗本生成テ、大師阪朝ノ後、当国ニ至テ尋付玉テ御覧スルニ、
此嶋ニ業八木生ナリ。
 近世の縁起には、本尊はもとは十一面観音で、高松の殿様が本尊を変えたと書いてあります。
大師が唐に行くときに栗を投げたというのは、帰ってこられるかどうかという一種の占いだったとおもいます。占いとして海上に栗の実をハつ投げて、栗が着いたとこそに自分が帰ってお寺を建てると約束しました。
「唆テ」は「凌テ」です。「数万ノ波濤」は数万里という意味です。
海を隔てた唐から日本に流れて、この島に流れ寄ったと伝えられています。
栗は、よく占いに出てきます。
のちになると、弘法大師の法力だとされ、弘法大師の投げた栗がこの栗だ、
しかも一年間に二度もしくは三度実をむすぶという二度栗伝説・三度栗伝説が生まれます。
 こういう弘法大師伝説の一つのタイプを縁起に使って、この場合は栗の生えたところに仏法が繁昌するという話にしたわけです。それがハ栗寺の起源です。
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 この説のほかに、もう一つ、奥の院に登ると非常に眺望のいいところですから、ハつの国が見える、ハ国寺がハ栗寺になったのだという縁起もあります。

  峯ハ大磐石、金輪際より出生テ、形如五鈷杵。
 ハ栗寺の奥の院は五つの峰からできていて、密教の法其の五鈷のような形だと書いています。しかし、現在は峰は四つしかなくて、元禄十一年(一六九九)と宝暦三年(一七五三)の地震と風で落ちたと書かれています。
 五剣山ですから、一つの峰を剣と呼んで、一ノ剣、ニノ剣、三ノ剣、回ノ剣、五ノ剣があります。いちばん高かった五ノ剣は半分から崩れたと伝えています。
頂上は普通の修験の山では馬の背という行場に当たります。せいぜい五〇センチぐらいの本当に狭い道で、両側は断崖ですから、心がよほど平静でないと危険です。そこを通るときには、「南無大師遍照金剛」と唱えます。

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 昔は五剣山の麓に四十八のお寺があったと伝わります。
その一つで、本坊として残ったのが千手院で、それを全体の名前としてハ栗寺千手院と呼ばれるようになりました。 
絶頂は彼磐石ノ五鈷形二上ル間、中々恐キ所ナリ。
 いま遍路の方はほとんど登れません。というより、転落事故も起きているので、登らせないように「危険につき登山禁止」になっています。
 当山権現は蔵王権現です。
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 しかし、本格的な辺路修行では、ここを回ってさらに竹居観音まで回ったと考えられます。それが山と海との行道です。四国遍路の寺には山のほうを金剛界とし、海のほうを胎蔵界とするという名づけ方があります。幸いハ栗寺にはその伝承が残っていて、竹居観音を奥の院としてお参りしています。ここの 場合は潮垢離をとるということも行道の目的だったでしょう。
竹居観音の海で潮垢離をとって山をめぐる、めぐり終わったらまた潮垢離をとる、
まためぐるという行道をしていたことが推定されるような場所であります。

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 ハ栗寺の本堂は観音堂でして、正面に観音堂、その右手に大師堂があります。
五剣山は、四つの峰と瘤がつながっており、三ノ剣といわれる蜂の下の大きな洞窟の中に宝飯印塔があって、その下が本堂の観音堂で、その横に大師堂があります。
霊場であれば、どこでも本堂と大師堂は並んでいます。
 ところが、聖天堂のほうに大勢のお参りがあるわけです。
聖天堂は大きな岩の洞窟の中に建物が半分入っている、T字形になった撞木造のお堂です。現在のハ栗寺は聖天さんの信仰のほうが大きくなりました。大阪の生駒でも聖天さんは商売繁昌の神様として信仰されています。もう一つは、縁結びということでお参りが多いのです。

 
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聖天さんをまつる人は一生涯拝まなければいけません。

途中でやめたら逆にその人が災いをこうむります。
功徳も多いけれども崇りも恐ろしいということになっています。
住職は毎日、聖天供といって、朝早く起きて聖天さんの像に油を温めてかけなければなりません。それから、歓喜団という中にあんこを入れて油で揚げた歓喜天の団子を毎朝あげなければなりません。それをずっと続けているそうです。
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 ハ栗寺には半分は岩窟の中に入ったお堂に天狗さんがあって、ここからIノ剣に登っていきます。ここにはいろいろの洞窟があります。第一宮の洞窟は求聞持窟とも考えられますが、いまは以空上人をまつっていて 「以空上人様」と書いてあります。

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以空上人は、紀州の淡島神社から出て行った「淡島願人」

淡島願人は病気平癒の祈願のために女性や子どもが身につけたものを預かったり、死んだ子どもの菩提を弔うためにおもちゃなどを預かって、淡島神社まで運びました。そして一年に一回の祭にそれを海に流していたのです。
 のちになると淡島さんが神社になってしまいました。
神社ももってくれば預かるようですが、本殿が非常に立派になって、もとの庶民信仰的な気分はなくなりました。各地に淡高堂ができて、それを中心に活動しています。神仏分離以前は全国に淡島願人がいました。
 願人というのは代わってお願いする人、つまり代願人です。
鞍馬願人も鞍鳥山に代わってお参りする人です。
淡島願人も鞍馬願人も江戸にちゃんと出張所かあって、江戸時代には江戸を中心に活動していました。淡島願人は明治以前はそれほど卑しめられなかったようですが、どちらかというと放浪者としてここへ来た人が聖天を拝んだのではないかと考えられます。
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この山は次々といろいろな霊能者が出ています。

 大正年代ぐらいには泉聖天が繁昌しました。
中世は無辺上人が再興したといわれています。
おそらく以空以前に無辺という者が聖天の信仰をもって信者を集めて、その次に以空上人が来たとおもわれます。
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 お寺に残っている境内図では撞木造の聖天聖が洞窟にさしかけたようになっています。聖天堂の上に三重塔が描かれていて、その横を奥の院への道が通じています。奥の院というのは五剣山です。「山絵図」を見ると、山の状態がたいへんよくわかりますが、そこここに何々窟と書いてある文字は、ほとんど剥落 して読めません。
 

窟には二つの用途があります。

一つは住むところ、一つは本尊を安置するところです。
それから、室戸岬の洞窟にはお供の人が住めるようなところがもう一つ付いています。修行者はお供の者に炊事をしてもらって、そこで食事をしながら行道をしたり火を焚く行をしたとおもわれます。室戸岬の場合は、その窟が「みくりや洞」、いまの「みくろ洞」です。
 弘法大師のお供をしたみくりやの神様が、のちに愛慢愛語という名前で高野山の奥の院に仏縁としてまつられたことが中世の記録に出てきます。現在は愛慢愛語のかわりに味試地蔵がまつられています。いま御供所の横に官試地蔵がまつられているのは、かつての「みくりや洞」がそれを表しています。
 
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もう一つは、一夜建立の洞といっている細い洞窟に本尊の虚空蔵菩薩をまつっていました。つまり虚空蔵が保存されている一夜建立の洞と、みくりや洞と、神明窟、それから何もない洞、この4つの洞があります。
 ハ栗寺の洞窟の場合はおそらく居住区です。
籠りのある小さな洞窟は真言を繰る洞だったようです。
現在では七番目の行者の像があります。

        

 国分寺-古代寺院を彷彿とさせるお寺

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 四国の各県の国分寺と一の宮は、みんな札所になっています。六十六部は、神社である一の宮も全部回ったので、そういう伝統が遍路にも残ったということでしょう。
日本全国六十六か国の一の宮を回る伝統が、四国では四か国の一の宮を回ることになりました。そして、幸いなことに四国は四か国とも旧国分寺の境内をそのまま使って新しい国分寺ができています。
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伊予の国分寺の場合は、いまは薬師さんの薬師寺だけが残って、伽藍跡としては100メートルほど離れた人家の間に、塔の礎石が残っているだけです。讃岐の場合は、自然環境もすっかりそのまま残りました。しかし、創建寺の金堂と塔は残っておりません。講堂があった位置に現在の国分寺の本堂があります。もっとも、その本堂は鎌倉時代の建物です。
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 国分寺が衰えた理由は簡単でして、国家が造ったものは国家が面倒を見きれなくなるとつぶれてしまいます。ここに官寺大寺の盛衰の大きな原因があります。
 国家によって建てられ、国家によって保護され、国家によって維持されたものは、国家の保護がなくなれば衰えてしまいます。それと同じことは国分寺の場合にもいえます。国分寺は国費によって建てられ、国々の国司が国衛稲(国司のところに収納する租税)の一部を国分寺と国分尼寺に分けていました。佐渡や若狭の場合は全く跡形もなくなって、別なところに国分寺という名前のお寺が造られました。幸いなことに、四国の場合は、昔の寺他の近く、もしくはもとあった場所にあります。

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 奈良西大寺の指導下に、本堂は再建されました。

中世の讃岐国分寺は、権力と結び付きを強くした真言宗を堕落したものと見なし、南都(奈良)西大寺の叡尊から始まる教団(真言律宗)とのつながりを強めていきます。南都西光寺は仏教の根本である戒律を重んじ、真言律宗の大きな課題として各地の国分寺復興に積極的に取り組みます。その、再建方法が資金や資材を広く集める勧進(かんじん)という方法でした。こうして、西大寺の指導下に、讃岐国分寺の本堂は再建されます。再建場所は、8世紀の講堂礎石の上でした。それは、真言律宗の「原理主義」を体現したものかもしれません。本堂は、豪快な木組みによる高く広い空間を作る、簡素な折衷様で、南都の技による建築の流れをみることができます。
 この時期は寺社の再興・創建が相次ぎ、多くの堂塔や社殿が建てられました。讃岐に現存する建築としては、讃岐国分寺本堂・観音寺本堂・本山寺本堂・屋島寺本堂などがあります。これらは折衷様(せっちゅうよう)あるいは新和様(しんわよう)と呼ばます。東大寺の再建や鎌倉の禅宗寺院などで取り入れられた新たな技術と様式が、従来の和様と融合してできた様式です。その建設には多数の職人が必要で、畿内から来たと思われる棟梁や上級の職人の下で地元の職人が働き、新たな技術と様式を地元の職人たちは吸収していったのでしょう。
 屋根に葺かれる瓦も、それまでの青味がかった灰色から黒色の燻し瓦へと変わっていきます。軒丸瓦の文様は、それまでの蓮華文から三つ巴文へと変わっていきます。こうした変化は、地元の瓦職人たちが担いました。    

 讃岐の国分寺は、そのたたづまいがよく残りました。

 金堂と七重塔さえあったら奈良時代の国分寺もこういう状態ではなかったかとおもわれるぐらい、たたずまいがよく残りました。礎石も金堂と塔の礎石はほとんど完全に残っています。
 本尊は本来は釈迦如来だったはずです。
ところが、鎌倉時代に復興したときに国分寺の千手院だけが残って、講堂跡にできたのが現在の千手観音を本尊とする国分寺の本堂です。古代寺院だったということもあって、たいていのお寺は境内の主要な場所に庫裡を堂々と建てたりするのに、ここの国分寺の場合は、お寺の管理をする庫裡や納経所などは築地塀の外に控えめに配置されています。
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ご詠歌は
「四を分け野山を凌ぎ寺々に 記れる人を助けましませ」で
国分寺を読み込んで、「四を分け」と家っています。
四つの国を分けて遍路が野山の苦しみをしのぎながら寺々をめぐっている、訪れた人をそれぞれの寺の本尊さんが助けてあげてください、という意味だとかもいます。
幼稚なようですが、味わってみるとなかなか味のある歌です。

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聖武天皇の発願で天平十三年(741))国分寺建立の勅によって、国中一四一か寺ずつの金光明四天王護四之寺と法華滅罪寺が建てられました。これは家大寺と法華寺の関係にもなります。いずれも国家を守護するということを目的にしてできたものです。
 国分寺の建立は、天平九年(737)以降の疫病と国作を鎮めるためだとされています。庖疸の流行は、藤原四家がそれぞれ当主を失ってしまうくらいの疫病でした。それを鎮めるためだとされています。
 が、実際は良弁らの建言で、中国が大雲寺を国々に建てたのに依って、国家統一を目指したものでしょう。その結果、各国に一つずつ国分寺を建て、中央の奈良に東大寺を建てたのです。
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 各国の国分寺の本尊は釈迦如来です。

梵網経に読かれているように盧舎那仏を中心にして、その周りに百億の出生の釈迦がいるとすれば、盧舎那仏を中心とする一つのヒエラルヒーというか、一つの組織ができます。
 西国直二郎先生は、これが目的だったという説を出して、梵網経をそのまま東大寺と国分寺の関係に広げています,現在では、それに添えて法華経による死者の魂の滅罪を願ったのが国分尼寺だということに落ちついています。
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 国分寺は本尊の釈迦牟尼像一丈六尺と大般若経六百巻を供えました。
大般若経は、国家的な災い、たとえば災害や怨言を鎮めたりする力かあるというので、各国の国分寺に大般若経六百巻を供えるように命令しています。国分寺建立の記には、本尊を納める金堂と七重塔を造り、「金光明最勝王経」と「読華経」とを供えて、これを読誦しなさいということも記されています。
 しかも、造る場所は「好処を選べ」と命令しています。
土地によって場所が違いますが、だれが見てもいい場所を選びなさいということで、奸処が選ばれました。しかし、旧址がそのまま現在の国分寺として保存された例はあまり多くありません。
その中では讃岐国分寺と土佐四分寺と阿波国分寺はよく残されていて、四国の場合は四か寺とも八十八か所の霊場になっています。
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 現在の讃岐国分寺は、山を北に背負って南に開いた位置にあります。
しかも、境内の外に出ると淵ケ池という大きな池まであって、かりに人家がなかったら極楽の姿を呈するような場所です。背後の山は国府台という丘陵で、もう少し北に行くと五色合があります。

縁起には、大蛇退治の読が出てきます。

聖武天皇の勅願で行基菩薩が開基となって建立された、千手観音を本尊としたとありますが、実際には釈迦如家を本尊です。のちに弘法大師が中興したといっているのは、霊場としての意味をもたせるためでしょう。
 ただ、ここは弘法大師が生まれたところからあまり遠くなく、讃岐国府にも近いので来たことはあったかもしれません。司馬遼太郎氏は『空海の風景』の中で、弘法大師がここへ来たと書いていますが、そういう想像をさせるような場所でもあります。
 本尊は弘法大師が修補したとされています。
現在の本尊は平安時代末期ぐらいのものだとおもいます。しかし、一木ですから、中期のものかもしれません。
 国分寺に関しては次のような伝説があります。安原淵に大蛇がいて人々をとって食べた。戸継三郎という者が大蛇退治に出かけたが、大蛇が銅鐘を頭に載せて浮き上がってくるので、なかなかしとめることができない。そこで千手観音を念じたら退治することができたので、鐘を大蛇から取って国分寺に納めたということになっています。
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国分寺の縁起の半分は鐘の由来に割かれています

 国分寺の奈良時代の銅鐘は重要文化財に指定されています。
 この鐘を慶長十四年(1609)に高松藩主生駒一正が高松城の時鐘(時を知らせるための鐘)にしたところ、鐘の崇りがあったので、国分寺に戻されたという記録があって、実際に国分寺に戻っています。
 慶長十四年二月の「高松城に鐘を納めよ」という文書と、三月の「鐘を返すから受け取れ。そのかおり領主の煩いを治すように祈りなさい」という文書があるので、鐘を国分寺から高松城にもっていったら、生駒一正が病気になってしまって、鐘の崇りだと考えて返したことが証明されます。したがって、これは縁起でも伝説でもなくて事実です。
 そのころの武士たちは縁起をかつぎました。
豊臣秀吉も善光寺如来を京都へ移したら病気になったので、すぐ返したという事実があります。
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  国分寺は五色合の南の国府台の南麓にあります。

 古代国分寺の旧地を占める閑寂な境内です。広い境内に点在する奈良時代の礎石と亭々たる古松が美しく、旧国分寺の七重塔の礎石十五個と金堂の礎石三十三個は、いずれも奈良時代の巨大な礎石です。どこの国分寺も七重塔を復興したところはありませんが、讃岐の国分寺の場合は石造七重塔があります。鎌倉時代には領主のあつい保護があったようで、金堂も石造七重塔も鎌倉時代です。
 ただし、慶長年間以前の古文書がないので、庇護者の名前はわかりません。
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 鐘松には重要文化財の奈良時代の銀鎖が残っています。
金堂跡の東に地蔵堂、その東の築地塀の外に、庫裡、納経所、大師堂があります。
金堂址と池を隔てた講堂址に建てられた現国分寺千手院の本堂は、九間四面の鎌倉時代の建築です。本尊は一木造の平安時代の十一面千手観音です。

 このお寺は板壁に遍路の落書があるので有名です。
しかし、これは一般に公開しておりません。松山の円明寺の銅板納札は「四国仲遍路」と書いてありますが、国分寺の落書は平安時代以来使われている辺路を使って「四国中辺路」と書いてあります。
 紀州の中辺路もこの字を使っているので、もとは遍路を辺路と呼んだことは明らかです。やがて道路という文字の言まで「ヘンロ」と読まれ、さらに八十八か所を全部回るということから「遍路」と変わります。そうなると、「ヘジ」ではなくて「ヘンロ」と読むようになったのです。
 国分寺の落書は、永正十年(1513)のほかに、大永年(一五二八)、天文七年(一五三八)、弘治三年(一五五七)があるので、室町時代ごろになってから出てきます。
辺路が海岸の修行であるのに対して、中辺路は内陸の修行を意味しているという説を完全な定説とするわけにはいきませんが、紀州の中辺路も内陸の修行を中辺路といっていますから、この落書の場合も内陸の修行と解釈できるかとおもいます。


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金倉寺
金蔵寺の本尊は薬師如来です。
古代寺院の本尊は、薬師如来が非常に多いようです。八十八か所のうちで、海岸のお寺約三十か所の本尊が薬師さんです。その理由は、海のかなたの常世から薬師如来、すなわち民衆を肋けてくれる神かやってくるという信仰があったからです。ここには熊野信仰との神仏混淆が背景にあるようです。薬師如来と熊野行者の活動は重なり合う部分が多いようです。熊野行者が背負ってきた薬師如来がそのまま本尊になっていることが多いようです。金倉寺も道隆寺も善通寺も、本尊は薬師如来です。
ご詠歌は
「まことにもしんぶつそう(神仏僧)を開くれば 真言加持の不思議なりけり」
でなんだかよくわからない御詠歌です。「しんぶつそう」は神仏憎という字を当てるほかないようです。

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金倉寺境内
 金倉寺に行って、南の門から入ると広揚があります。
左に八幡さん、右に弁天さんがあって、突き当たりが薬師さんをまつっている本堂です。それに対して、向かって右に常行堂の庫裡(納経所)、左に鬼子母神堂と大師堂があります。善通寺あるいは善光寺に同じく東向きに大師堂があって、十字に交差する伽藍配置です。

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太子堂

大師堂には、弘法大師像と智証大師像を安置しています。

金倉寺は、弘法大師のお姉さんが嫁いだ和気氏(因支首氏)の氏寺だということになっています。
善通寺の空海の佐伯家と、金蔵寺の和気家は近隣の豪族同士、婚姻関係で結ばれていたことになります。また、境内には隣接し新羅神社も鎮座し、渡来系の性格がうかがえます。

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新羅神社
そこに生まれたのが智証大師円珍ですから、智証大師は弘法大師の甥ということになります。しかし、智証大師が開いた天台宗寺門派では、弘法大師の甥とはいっていません。そのあたりに天台宗のこだわりがありそうです。

 金倉寺には「金蔵寺文書」が残っています。
 この文書は中世文書だけでも約百通あります。これも『香川叢書』に入っていますが、「金蔵寺縁起条書案」という金倉寺の縁起を箇条書きにした下書きが残っていました。それによると8世紀に金輪如意を彫刻して道場を建て、自在王堂と称しました。その大願主は景行天皇十三代の子孫の道善という人で、智証大師の祖父になります。そのため、最初は金倉寺とは呼ばずに道善寺と呼んだというのです。しかし、当時の正式文書からは円珍の祖父は、道麻呂であったことが分かります。

円珍系図1

智証大師(円珍)と天台宗の関係は?

 伝教大師のお弟子さんの義真は渡来人で、伝教大師が入唐したときに通訳をした人です。この人が比叡山の第一代目の座主になります。智証大師はそこへ入って出家して円珍と称します。
 そのうち846年に入唐を思い立ち、853年に晩唐時代の唐に入り、858年に帰朝します。そして、和気宅成の奏上によって、仁方元年に和気道善が建てた自在王堂の敷地三十二町歩を賜って、859年に道善寺を金蔵寺と改めたと「金蔵寺立始事」に書かれています。これは中世の文書ですから、確実性が高いと考えられます。
 智証大師は寛平三年(894)に79歳で入寂しました。
 
智証大師像 圓城寺

円珍坐像 卵型の頭がトレードマーク

実は「金蔵寺文書」は金倉寺にはありません。

どういう経過をたどったかわかりませんが、高野山の金剛三昧院に所蔵されています。そのほか、応水入年(1402)に薬師如来の開帳が行われたということも出てきます。この時の開帳のときに、本尊さんから胎内仏が出たようです。
「金蔵寺衆徒某目安案」によると、鎌倉時代末期の徳治三年(1308)3月1日の火災で、金堂、新御影堂、講堂以下が焼けています。したがって、金堂の薬師如来が出現したと書いてあるのは、本尊が焼けてしまって、胎内から腹頷りの金銅の薬師如来が現れたことをいっているのでしょう。

 善通寺の本尊も薬師如来です。

善通寺の現在の本尊は室町時代の作ですが、創建時の薬師如来は白鳳期の塑像です。泥で造った薬師如来ですから、首が落ちてしまって、白鳳期の特徴をもった塑像の上面だけが残りました。かなり大きなものです。白鳳期のものは塑像が多くて、大和の当麻寺の金堂の本尊の弥勒如来もご面相が非常によく似た白鳳期の塑像です。

 薬師といっても、弥勒と同じようなお顔をしています。
塑像の白鳳期仏はほかにもたくさんあります。観音さんだといわれている大和の岡寺の本尊さんも塑像です。その胎内に、今は奈良博物館に陳列されている白鳳期の作品として、いちばん愛らしい仏様が入っていました。焼けたりして塑像が崩れると、その中から金銅製の飛鳥仏や白鳳期仏が出てくることがあります。「金蔵寺文書」の記録も、それを指しているのだと考えられます。

 応永十七年の「金蔵寺評定衆連署起請文」では、師衆、親子、兄弟の偏頗を禁じています。えこひいきをしてぱならないといっているので、弘法大師の肉親が高野山で寺務別当として経済的な事柄を扱ったのと同じように、肉親による寺務が行われたことが想像されます。
 智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写

円珍坐像(江戸時代の模写)
起請文の中で、神様に熊野三所権現と若王子があることも注意すべきものです。

評定衆は十か院坊にわたっているので、三十か寺か五十か寺かわかりませんが、かなり多くの院坊を擁していたことが考えられます。
 先達、御子(巫)、承仕、番匠、加行法師、寺宗門徒など、お寺の使役者が挙がっているので、山伏や童子か隷属していたこともわかります。
 享禄三年(1530)前後の「綸旨案」では、金倉上下庄が国威寺領であったことが分かります。
京都の国威寺の荘園として讃岐に金倉寺があって、円満院門跡の支配を受けていました。さらに、同じ天台宗の三十三所の一つの長命寺と関係があったことも出ています。
円珍系図1

円珍系図 (俗名広雄 父は宅成 祖父は道麻呂)
 
智証大師の祖父は和気道麻呂(通善)について
 宝亀五年(774)に、この寺を開いたのは智証大師の祖父和気通善なので通善寺と呼んだという伝承があります。これは善通寺が善通寺と呼ばれたのと同じことです。しかし、通善は道善の誤りでしよう。
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金倉寺前の道しるべ

 醍醐天皇が金倉寺と改め、南北ハ町・東西目町の境内に百三十二坊あったという伝承もありますか、これではあまりにも大きすぎるような気もします。のちに南北朝、永正、天文の争乱で縮小・衰退していたのを保護したのが高松藩主の松平頼重です。
金蔵寺
金倉寺
 金倉寺の大師堂の前のところに、平安時代末期から鎌倉時代初期ぐらいの多宝塔が残っています。
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高照院天皇寺は、滝を水源とする霊水信仰が源

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 七十九番の余輩山高照院は非常に特色のあるお寺です。別名を天皇寺といいます。
本尊は十一面観音で、ご詠歌は

「十楽の浮世の中を尋ぬべし 天皇さへもさすらひぞある」

 意味は、流刑となっていた崇徳上皇がここで亡くなられて、死骸をしばらく水に漬けて腐敗を防いだという伝承があり、浮世には十楽というものがあるそうだが、十楽をすべて全うできる天皇でさえもこういうところをさすらったのだという歌です。

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 流刑の際に、崇徳上皇はお寺の少し北を流れる綾川という川をさかのぼって白峰に入ったといわれているので、この近くにしばしば足を運んだことは事実でしょう。

 お寺は、現実には四つに分かれています。
寺地に入っても、庫裡と本堂や大師堂のあるところまでが非常に遠い。それは、その間に、金山権現という神社があったからです。つまり神社によって、庫裡と本堂のある場所が二区に分けられているのです。
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 境内から西に行くと泉の水源に当たる金山という二八一メートルの山があります。そこが奥の院です。弘法大師に金山権現が現れて舎利を与えたというので、金華山摩尼珠院といいました。これがもとの山号です。『金華山摩尼珠院」は奥の院であると同時に、もとの寺地でした。現在は広場になっている正面に金山権現がまつられていて、金山がもとの信仰対象であったとおもわれます。
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『四国辺路日記』には次のように記されています。

① 佐留礼親王が八十余人の兵とともに悪魚退治にぎて、魚の毒気に当てられたのを、坂瀬明怖が八十場の泉という霊水で蘇生させたこと。
② 弘法大師がこの泉のほとりに十一面観音と阿弥陀如来と愛染明王をまつったのが高照院の起源だとしています。
③ 佐留礼親王ではなくて日本武尊だと書いてあるものもありますが、いずれにしても霊水信仰から出発しています。
④ この泉の水源に薬師如来の石像を安置して、これを闘伽井としました。
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崇徳天皇の御遺体を八十場の水に浸したという伝えがある。

 夏には石清水が流れ込む泉に、トコロテンが浸してあって、箱から押し出して酢をかけて食べます。地元では「八十場の(やそば)のトコロテン」と親しまれています。清水の落ち込みを聞きながら食べるところてんの味は趣があります。
 御遺骸を八十場の水に浸し、京都に通知し、勅許によって白峰山で荼毘に付したというのは、ここで殯をしたことを表します。そのためこの寺の別名は天皇寺と呼ばれるようになります。

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 天皇の御遺骸を安置したところに、明治になって京都に作られた白峰宮と同じ名前の神社が建てられています。
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この寺が金山にある行場から出発したことだけは確かです。

したがって、この滝を水源とする霊水信仰からいろいろの伝承が付随したのだろうと考えられます。金山の中腹にあったころは、常夜灯が海から見えたので、高照院と呼ばれていました。奥の院からは、東北に白峰山と五色台が見えます。その間に崇徳上皇が上陸されたといわれる綾川が流れています。
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『四国辺路日記』には金山薬師、野沢の井が出てきます。

 この日記には八十場を野沢と書いています。毒の魚を殺した菩提のために寺を建てた「魚ン御堂」ともあります。魚を捕る漁師さんたちが、魚供養に建てたというのがこのお寺の一つの特色です。捕った魚の供養をしなければ食べない、あるいは食べれば供養をするというのが魚供養です。
 三重県熊野市には百八本の鯨の供養の碑が立っておりますが、百八という数が煩悩の数に当たるからでしょう。鯨を食べても供養する心を忘れないのが日本人です。

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 白峰寺は、智証大師の旧跡だとされています。

 智証大師は弘法大師の甥ですが、天台の密教を始めました。
弘法大師と同じような業績、あるいは思想をもっていた人ですから、辺路修行もしたとおもわれます。讃岐には智証大師の旧跡だという伝承をもった寺として、金倉寺、道隆寺、白峯寺、根香寺があります。一応、弘法大師を立てていても、実際には智証大師がすべてやったという縁起になっています。

 白峯寺は谷を寺地にしています。
山門は非常に高いところにあって階段を下りてから本堂のあるところに上がっていきますから、水の信仰がありました。そこで、大和の室生寺あるいは高野山と同じように弘法大師が如意宝珠を埋めたので、水が湧きだすようになったという伝承が生まれます。白峯寺も弘法大師が宝珠を埋めたということをまずうたっています。

 が、のちに智証大師がこの山の山上の瑞光を見た、山の神に導かれてこの山に寺を開いたと伝えています。したがって、山の上で光が輝いたこと、あるいは火を焚いて海岸から見えるようにしたことがわかります。
 白峯寺には、もう一つ、瀬戸内海の海上に光を放つ流木があったので、それを引き上げて千手観音を刻んで本尊としたという話があります。流木を上げたという伝承の場所が、白峯寺の海の辺路のほうの霊場です。そこが奥の院といわれています。

 いまは山の神は相模坊という天狗だといって、相模坊天狗をまつっています。それが奥の院であることは明らかです。
 相模坊という天狗は山の神様です。
それと恨みを抱いて魔縁になった崇徳上皇とが一つになりました。
謡曲でも相模坊と崇徳上皇を別にしたり一緒にしたりしています。
1191年(建久2)に崇徳上皇陵の傍らに建てられた御影堂が建立されます。
以後、白峰寺は御影堂を新たな信仰の場として、そこに寄せられた近在の所領を経済基盤として、中世的な転換を行っていきます。
 崇徳上皇は、没後の早いうちから怨霊と化したことが京都の貴族たちの間で信じられていました。西行の来讃もその霊を鎮めることが目的の一つと言われます。このため御影堂=頓証寺の建設と整備は、京都の貴族たちの肝入りで行われます。
その結果、京都の影響を受けているものが白峰寺の周辺には次のように残ります。
①白峯寺境内と周辺に13世紀の花崗岩製で畿内的な形をした石塔が集中すること。
②白峯寺・青海神社・神谷神社などの高屋・松山郷に13~14世紀の畿内的な舞楽面や木鉾・鼓などの舞台道具が残っていること
①石塔は、西大寺に所属していた伊派の石工が地方で活動を始めるのよりも早い時期の作品です。そこには真言律宗の勧進とは異なる頓証寺=京都貴族による崇徳慰霊という成立事情が反映されていると見てよいでしょう。

           

 道隆寺-山伏が再興した寺

道隆寺の建立者道隆と善通寺の建立者善通は兄弟?

七十七番桑多山道隆寺の本尊は薬師如来です。
御詠歌は「ねがひをば仏道隆に入りはてて菩提の月を見まくほしさに」
道隆というこのお寺を建てた人の名前を詠み込んだ歌です。
「道隆寺文書」(『香川叢書』史料篇②収)には
①14世紀初頭(一三〇四)の発願状があって、沙弥本所(山伏)による寺の由来が記されていること。
鎌倉時代末期の嘉元二年に、領主の堀江殿が入道して、本西と名乗ったこと。
③讃岐国仲郡鴨庄下村地頭の沙弥本所は、庄内の道隆寺を氏寺として崇敬してきたが、その由来をたずねると、内大臣藤原道隆と善通寺の善通は兄弟であること
がこの縁起は書いています。

道隆の兄の善通は善通寺の善通と云います。
 大領は郡長さんに当たりますから、多度郡の郡長さんが善通寺の善通で、お寺を再興したので功徳といっています。善通は白鳳期の「善通寺」を再興した人です。しかし、この人物が空海の父や祖父とは別人であることは「善通寺」のところで述べました。
①兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。
②ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
③道隆寺は、もともとは法祖宗か何かのお寺でしたが、その後衰退します。
④それを山伏の本所が再興したので、山伏の所属する真言宗になりました。
⑤本堂と御影堂と本尊、道具、経論、などが建立され伽藍が整備できたようです。

白鳳期ごろのお寺は、渡来人が建てた寺が多いようです。

現在の飛鳥・白鳳期の寺址は、三百か寺ぐらい数えられますが、これはやはり渡来人が建てたと考えられます。飛鳥・白鳳期にかけて秦河勝が山城平野を開拓。それに南のほうでは、稲荷山を建てた秦中京伊侶具が非常に富み栄えました。秦中京は秦の本家という意昧でしょう。
 ここにひとつ濯漑の問題があります。
渡来人が日本人を使いながら、潅漑用水を造ってつぎつぎと開拓を行うことができたのは、水準器をもっていたからです。水がどちらに流れるかを水準器で測りながら用水路を造っていきます。当時は、日本人にはその技術がありません。そのうちに日本人もすっかり習得してしまったので、渡来人は不要の存在となり、次第に没落します。そうして、白鳳期のお寺もだんだんに衰退していったのです。
やがて勧進聖やその地方の援護者なりが出てきて、これを再興します。道隆寺にもこんな構図が考えられます。
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 道隆寺の縁起は、次のような悲しい物語です。

もと一大桑園があったが、大平時宝(七四九―五七)のころに、和気道隆が誤って乳母を弓で射殺してしまいます。その菩提のために、桑の木で薬師如来を刻み小堂を建てます。その後、弘法大師が薬師如来の大像を刻んで、桑の木で作った小さな薬師如来を胎内に納めて本尊とします。一方で、観音の像を刻んで観音堂の本尊としたということになっています。

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しかし、現実には

白鳳期の寺を道隆という山伏が再興したとするのが事実。

資料から推察できるのは次のようなことです。
 この寺は、和気氏が俗別当として、管理権を手中にしていました。
和気氏は、智証大師の和気氏と同族です。その関係から智証大師は、ここに五大尊示伽・降三世・軍茶利・会剛夜叉・大威像)の像を刻んだとされています。しかし、智証大師は平安時代初期の人で、金堂の中にあるのは鎌倉時代の五大尊ですから、この話は時代がずれています。
 道隆寺でおもしろいのは、中世に何度も田地寄進が行われ、弘法大師の御影供(弘法大師の三月二十一日の法要)、伽藍三時供養法、道隆寺鎮守花会(法花会)、一切経供養会、焙魔堂供養などが行われていることです。特に戦国時代の16世紀初めのの阿弥陀堂、阿弥陀像造立は、この寺の隆盛ぶりを示しています。

 
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これらは道隆寺が山伏寺になってからのことです。

道隆寺の住持が塩飽島に聖宝尊師のお堂建てています。
聖宝尊師は、醍醐寺の像験道の開祖に当たる方です。
これは道隆寺がこのあたりの山伏を支配していたことを示しています。
「道隆寺文書」によって室町時代の、大峰の入峰を捨身といっていたことがわかります。この文書以外ではまだ見たことかありません。
この文書では修験について、次のようなことも書かれています
入峰するということは自分の身を捨ててしまうことだ、死ぬことだと考えていたことがはっきり文章になっています。山に人るのは死ぬことである、よって山から出てきたときは生まれ変わっていると、修験の本質についてもきちんと書かれています。 そういう意味で、「道隆寺文書」は修験道の史料としても非常に貴重です。


 

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