瀬戸の島から

2019年04月

近世初頭の金毘羅さんは、どのように見られていたのでしょうか?

「修験道 天狗」の画像検索結果
 
当時の参拝姿を描いた絵図には、ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿が描かれています。江戸時代の人々にとって天狗面は、修験道者のシンボルでした。
 幕末の勤王の志士で日柳燕石は次のような漢詩を残しています
夜、象山(金毘羅さんの山号)に登る
崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
満山の露気清に堪えず、
夜深くして天狗きたりて翼を休む
十丈の老杉揺らいで声有り
 ここにも天狗が登場します。当時の人々にとって、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象であったようです。

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金毘羅宮奥社 ここには天狗となった宥盛が祭られている
金毘羅神(大権現)を、金光院は公式にはどんな神だと説明していたのでしょうか。
薬師瑠璃光如来本願功徳経には、次のように記されています。
「爾時衆中有十二薬叉大将俱在会坐。所謂宮比羅大将...」
薬師如来十二神将の筆頭に挙げられ、
「此十二薬叉大将。各有七千薬叉以為眷属。」
金毘羅神は、ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのKUMBHIRA(クンビーラ)の音写で、薬師如来十二神将(天部)の筆頭で、「宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅」と表記されます。十二神将としては宮比羅大将、金毘羅童子とも呼ばれ、水運の神とされていました。つまり仏教の天部の仏のひとつということです。
新薬師寺 公式ホームページ 十二神将
新薬師寺のクビラ大将

それがインドから象頭山に飛来したというのです。ところが金毘羅に祭られていた金毘羅神とクビラ大将とは似ても似つかない別物でした。江戸時代の金毘羅の観音堂近くに祭られていた金毘羅神を見た人たちは、次のような記録を残しています。
「生身は岩窟に鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える」
これは、役行者や蔵王権現など修験道の神そのものです。その金比羅神が象頭山の断崖の神窟に住み着きます。その地は人の立ち入りをこばみ、禁をやぶると暴風が吹きあれ、災いをもたらすと説きます。今日でも神窟は、本殿背後の禁足林の中にあり、神職すら入れないようです。 ã€Œé‡‘比羅ç\žã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ 
金毘羅大権現像
 ギメ東洋美術館

最初にこの金毘羅大権現像を見たときは、びっくりしました。まるでドラゴンボールのサイヤ星人の戦士のように思えたからです。神様と思い込んでいたから戸惑ったので、最初から仏を守る天部の武人像姿と思っていれば違和感なく受けいれられたのかもしれません。
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本殿から奥社に向かう参道の入口

つまり、金光院は金毘羅神について、次のようにふたつの説明を使い分けていたようです。

①幕府・髙松藩などへの説明 インドより渡来したクビラ神②実際に祭られていたのは  初代院主宥盛の自らが彫った自像

金毘羅神が修験者の姿をしていると伝えられたのはなぜ?

 それは山内を治めていた別当・金光院の初期の院主が修験道とかかわりが深かったからです。例えば、現在の奥の院に神として祀られている金毘羅神は、慶長11年(1606)、自らの姿を木像に刻み、その底に「入天狗道沙門金剛坊像」と彫り込んでいます。
 この金剛坊像、すなわち宥盛の像は、元々は現在の本殿脇に祀られていましたが、参拝者に祟るため、観音堂の後堂に祀りなおされ、最終的には奥社に祀られます。
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金毘羅宮奥の院 岩場は修験者等の行場でもあった
奥社は、金比羅信仰以前から修験者の行場として聖地だったところです。列柱岩が立ち並んで切り立っていて行場には最適です。宥盛も修験者として、ここで業を行っていたのかもしれません。

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金毘羅宮奥の院の威徳巌
 神窟の暴風や金剛坊の祟りにみられる神秘的な信仰要素は、修験特有のものです。このように金毘羅信仰の誕生には、山岳信仰や修験道の要素が入り込んでいます。この二つの信仰が合わさって、風をあやつる異形の天狗となり、海難時に現れ救済する霊験譚や海難絵馬に登場するようになったのかもしれません。
五来重(仏教民俗学)は修験道について、次のように述べています。
「天台宗、真言宗の一部のようにみられているけれども、仏教の日本化と庶民信仰化の要求から生まれた必然的な宗教形態であって、その根幹は日本の民俗宗教であり神祇信仰である」
 修験道の解明は日本の庶民信仰(金毘羅信仰を含む)の解明につながるとの思いが託されているようです。

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 磐の上には烏天狗と(左)と天狗(右)がかけられています。
明治の神仏分離で金毘羅大権現を初め、修験道色は一掃された金毘羅さんです。しかし、ここにはわずかに残された修験道の痕跡を見ることができます。  

奥社に祀られる 金光院別当宥盛(ゆうせい)の年譜

①高松川辺村の400石の生駒家・家臣井上家の嫡男として生まれる。高野山で13年の修行後に真言僧
②1586(天正14)年 長宗我部の讃岐からの撤退後に高野山より帰国。
 別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
③1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
    堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける。 金比羅神の「由来書」作成。金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
④修験僧としてもすぐれ「金剛坊」と呼ばれて多くの弟子を育て、道場を形成。
⑤土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首につかせる。   
⑥真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る  高野山南谷浄菩提院の院主兼任
⑦三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと切り替えていく作業を行う。
⑧1606(慶長11)年 自らの岩に腰を掛る山伏の姿を木像に刻む
⑨1613(慶長18)年1月6日 死亡
⑩1857(安政4)年 朝廷より大僧正位を追贈され、名実共に金比羅の守護神に
⑪1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」
⑫1905(明治38)年 神殿完成、これを奥社と呼ぶ
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金毘羅宮 巌魂神社(奥社)
ちなみにこの厳魂神社を御参りして、記念に私が求めたのは・・・

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このお守りでした。
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天狗が描かれ「御本宮守護神」と記されています。宥盛は神となり守護神として金毘羅宮を守っているのかもしれません。

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金刀比羅宮大門
金比羅大芝居が始まる頃が、金毘羅さんの櫻の見頃になります。
いつものように原付バイクで、牛屋口経由の近道ルートでアクセスするとここに出てきます。ここは五人百姓のひとつ笹屋さんのお店。
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振り返ると石段が続きます。
そしてお目当ての桜も満開。
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金刀比羅宮大門
すぐ大門が迎えてくれます。
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金刀比羅宮大門
大門をくぐると・・・

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金刀比羅宮 五人百姓
大きな朱色の傘 の下で「こんぴら飴」を売るのが見えてきます。
これが金毘羅の「五人百姓」です。「五人百姓」は、金刀比羅宮から大門(二王門)内の飴売りについて独占的営業権を持っていてます。金毘羅大権現の神事祭礼に関与し、神役を勤めてきた特定の家筋(山百姓)であるとされています。
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金刀比羅宮 五人百姓と桜の馬場
しかし、近年新しい考えが出されています。「五人百姓」は、金比羅さん成立以前からあった御八講(法華八講)の神事の時から関与をしていたのではないかという説です。

金毘羅名所図会 五人百姓
山門内の五人百姓の飴売り図(金毘羅山名所図会)
「金比羅神」は近世に創り出された流行神です。
もともと、真言宗松尾寺があり、松尾寺の守護神(鎮守)の一つとして金毘羅神が祀られるようになります。その金毘羅神が近世に流行神となり、金毘羅大権現として大いに繁栄したというのが歴史的事実のようです。金毘羅・金毘羅神(クンピーラ)とは本来はインドの土着神で仏教とともに伝来し、仏法の守護神の仏として祀られ、金比羅大権現に成長していきます。日本の所謂「神」とは何の関係もありません。
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金刀比羅宮 桜の馬場

桜の馬場はまさに「桜のトンネル」状態になっています。
聞こえてくるのは、中国語が多いようです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
金毘羅大権現に奉納された天狗面

金比羅神登場以前のこの山は、どうだったのでしょうか?
鎌倉期には西山山麓に称明院、山腹に滝寺があり、もともとは観音信仰の霊場であったようです。そして、これらの霊場は修験道者の行場センターでもありました。初期の金比羅信仰の指導者となった僧侶達も多くが修験道者です。その一人は、神として奥社に祀られています。奥社にはその行場の岸壁に天狗の面がかけられています。これが何よりの証拠です。天狗は修験者の象徴です。

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奥社の岩場に架かる天狗面
それでは古代から中世に、この山に修験者が入ってくる前はどうであったのでしょうか?

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修験者の宥盛が厳魂彦命(いずたまひこのみこと)として祀られる「厳魂神社」=奥社

 行場を求めて山に入る修験者と在地の「百姓」(中世的意味での)との間には、最初は軋轢があったようです。それが空海伝説にも数多く伝えられています。対立を越えて、両者が共存していく術が創り出されていったのでしょう。修験者と「在地百姓」の関係が「五人百姓」の起源だという説です。

金毘羅神
金毘羅大権現(松尾寺)まさに天狗

「五人百姓」も、もともとは象頭山(琴平山を含む大麻山塊周辺部)一帯で狩猟を業とする「百姓」を先祖にもつ人々でなかったのではないかというのです。
 従来は「百姓」は農業従事者と理解されてきました。しかし、中世では、単なる農民ではなく「百の姓」つまり、農業者、漁業者、技術者(職人・芸人)など広く一般の民衆を指す言葉でした。そうすると「山百姓」とは、象頭山(金毘羅大権現)の山の百姓であるとも考えられます。
 また、飴売りについても「五人百姓」が近世以来、独占販売権をもっていたようではないようです。
独占販売権について書かれた史料は次の1点だけです
①天保四年(1833)12月1日付けの山百姓嘆願書に「従来御当山御神役」を勤めていることと「先年より御門内にて飴商売後(御)免」(琴陵光重『金毘羅信仰』S24)

 ここからは、独占的飴売りと「五人百姓」とをストレートに結びつけるのは気が早いと研究者は指摘します。むしろ、五人百姓は金毘羅大権現の神役を勤めてきたことから得た利権であると見た方が自然だと云うのです。

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「五人百姓」が持つの神役の役割を探ることが必要です
五人百姓は金毘羅神事において重要な役割を果たしてきました。
なかでも金毘羅大祭会式の10月11日の夜に本殿で行われる秘密神事は注目されます。現在でも神官が蝶(ゆかけ=生乾きの獣皮で作った革手袋)で頭人の頭を撫でる所作があります。この秘儀は、古老の伝として、次のように伝えられます。
「・・・この行事は、以前三十番神を祀ったおかり堂(三十番神社)で、五人百姓の関与のもとに行われ、頭人のクライオトシといっていた。また、ここでの行事が、最も重要なものであった」という。さらに、「・・・頭人たちは、血生ぐさい牛革を頭につけられるのをきらった」ともいう。
土井久義氏(「金刀比羅宮の宮座について」『日本民俗学』31号)
最後にもうひとつ絵図を見ておきます。これは10月10日の祭礼の際に、観音堂のまわりを神官や五人百姓たちが「行堂=行道=行進(パレード」する姿が描かれています。
金毘羅名所絵図 大祭観音堂の儀式
金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
金毘羅大権現の本堂ではなく観音堂の周りを行道することからも、金比羅の大祭がもともとは観音堂に対する祭りであったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのは、側面の何かを担いでいる人達です。これが五人百姓だといいます。何を担いでいるのかは、よく分からないのですが「奉納品」だと研究者は考えています。つまり、金毘羅大権現がこの地にやって来る以前から、五人百姓と修験者たちは信仰によって結ばれていたことになります。
この辺りに「五人百姓」の意味が隠されているようです。
このように「五人百姓」は金毘羅信仰の導入以前からあった御八講(法華八講)の神事の時から関与しています。彼らは中世後期まで象頭山一帯で狩猟を業とする「百姓」を先祖にもつ人々でなかったかと研究者は考えています。そうだとすれば、琴平山の先住者であり、祭祀権を含む中世「こんひら」地域の在地領主であった可能性が高いことになります。

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大門からの遠景

そんなことを考えながら五人百姓の今の姿をみまもっていました。
参考史料  唐木裕志  讃岐国中世金毘羅研究拾

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