瀬戸の島から

2019年07月

 五重塔解体修理調査から分かることは?
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 本山寺の五重塔については、柱の銘文や寺記録から、当時の住職頼富賓毅の発願により、日清戦争が終わり下関条約が結ばれた1895(明治28)年に斧初めを行い、15年後の1910(明治43)年に上棟式を行ったとされています。それが事実なのか、今回の解体修理と同時並行で行われた資料整理の中で「発見」された「五重塔付帯資料」で年代順に確認していくことにしましょう。1895年の「本山寺伽藍村本坊改造図」には五重塔が描かれています。
完成は1910年では?と最初は驚きます。
しかし、この図をよく見ると、五重塔は他の建物よりやや薄く描かれています。おそらく、今後の予定としての「改造図=(完成予想図)」として、プロモート用に作成されたようです。
1895年は建設が始まった年です。次の資料は、新たに見つかった五重塔の建立に関係する版木4枚です。写真は版木から刷られたものです。

①これは五重塔の初重上棟式の版木です。

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版木は縦53.5cm、横32.2cm、厚さ3.5cmです。
文字はかなり大振りで、文字のない部分は縦方向の荒い削り、文字周辺は横方向の細かい削りを施し、文字を削り出しています。
右上と左下には意図的に削り残した部分があり、印刷物(紙)を取りやすいようにしているようです。
この版木には
旧十月廿八日九日(明治31年)
但雨天順延
五重大塔初重上棟式
三野郡 本山寺    とあります。
中央に五重大塔初重の上棟式を行うこと、
右側に上棟式は旧暦の10月28日、29日に執り行うこと、
雨天の場合は順延すること、左に住所と寺名が入れています。
五重塔初重上棟式の案内のためのチラシ作成に作られたのもののようです。明治28年に着工して3年目のことです。工事は順調に進んでいるようです。
②これも五重塔の初重の棟式の時のものです。
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縦34.0cm、横12.0cm、厚さ2.0cm。 
旧十月廿八日九日 但雨天延期
 五重大塔 初重上棟式御歓人名簿
 三野郡 本山寺
写真からわかるように①の版木に比べると文字はかなり小振りですが、①と同時期に作られたものです。
中央に初重の上棟式の寄附者者の名簿を作ること、
右に上棟式は旧の10月28日、29日に執り行うこと、
雨天の場合は順延すること、左に住所と寺名が入れられています。以上から五重塔初重上棟式の名簿作成のためのもののようです。

③は五重塔の二重上棟式に係るものです。

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縦40.1cm、横24.3cm、厚さ2.1cm
奏楽大法會大雨順延
五重大塔第二重上棟式
四國第七十番讃岐國三豊郡
旧十月廿六日 本山寺」
とあり、中央に五重大塔二重の上棟式を行うこと、
右に音楽を奏で盛大な大法要を執り行うこと、
大雨の場合は順延することや
(明治33年)旧暦10月26日に執り行うこと、が彫られていまあす。五重塔二重上棟式の案内のためのチラシ作成用の版木のようです。

④は三重上棟式の時のものです。

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縦23.5(;m、横15.5cm、厚さ1.5cm。
文字はかなり小振りで、縦方向の細かい削りを施し、版面右側に完成五重塔を、左側に細かい文字を削り出しています。
宝飯印陀羅尼脛日…
明治二十八年   初斧
仝 三十一年十月 初重上棟
仝 三十三年十一月二重上棟
仝 三十六年 二月三重上棟
とあり、ここから建設経過を確認することができます。
今までの物とは異なり、中央左に五重塔内に戒名か姓名を書く枠が白く空けられています。
右に宝飯印陀羅尼経の功徳を解き、
五重塔上棟式のこれまでの経緯が書かれ、住所・氏名か先祖の戒名改名を書くと所が空けられています。五重塔にこれを納め「現当二世の勝果を懇祈」すると記されています。三重上棟式典に集まった多くの庶民は、この用紙に自分の名前を書き、祈りを捧げたのでしょう。そして、完成を祈って寄進も行ったのでしょう。庶民への寄進を呼びかけを行いながら資金集めを行った様子がうかがえます。
 
 同時に、1904(明治36)年に3重まで棟が上がった事が分かります。ここまでは、一つの層につき2~3年でできあがり、塔が立ち上がって行く様子が分かります。資金集めに苦労して、建設中断が常態化していた善通寺の五重塔に比べると、順調な行程です。
 ところが、ここから逆風が吹きます。この式典後に日露戦争が勃発するのです。寄付金集めを行える時勢ではなくなります。戦争は五重塔の建設には逆風になります。資金集めなども一時的にはストップしたようです。

中断を乗り越えて、1910年に「上棟式」を行っています。

最初、私は「1910年(明治43年)に五重塔は完成した」
と勘違いしていました。 
 しかし、上棟式時点で「残工事見込」として 
塔内造作、本尊鋳造費、
 上棟式大供養料、
 九輪(相輪)銅鋳造費、記念碑 
 弘法大師四国道開御修行御銅像建設、諸雑費」
を挙げた資料があります。
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さらに明治43年9月の古写真を見ても、長く突き出た花畦はあるようですが、「相輪」は写っていません。この時点では、実は五重塔としては完成していなかったのです。  

それでは、相輪はいつ塔の上につけられたのでしょうか?

関連画像

今回の解体修理で相輪が塔から下ろされました。その際に相輪(九輪)宝輪との側面の銘文に次のような文字が刻まれているのが確認されます。
五重大塔九輪大正四乙卯年壱月六日鋳造
四國霊場七十番香川蘇三豊郡山本村
準別格本山七賓山本山寺
現住権大僧正頼富貴毅
この銘文には、1915(大正4)年1月の日時が刻まれています。ここから相輪は1915年の年度当初に出来上がったことが分かります。つまり五重塔に相輪が載せられ「完成」したのは1915年ということになります。

ちなみに相輪は、普段は塔の上にありますのでその大きさが実感できません。しかし、青銅製で作られた相輪は巨大で、作るにも巨額の費用が必要でした。幕末から建造されていった善通寺の五重塔は、相輪制作費用が集まらず十数年も相輪がないままの「未完成状態」が続いたのです。

今まで見てきた史料から五重塔が立ち上がって行く姿を年表にすると次のようになります
1896年    明治28年    建設開始初斧
1899年  明治31年10月  初重上棟
1901年  明治33年11月 二重上棟
1904年  明治36年2月  三重上棟
1910年  明治43年    第四・五重の上棟式 上棟式
1915年  大正 4年1月    相輪が載り完成
五重塔に関しては「相輪・玉垣・基壇」の木製模型が残っていました。
大きさは
相輪模型が全高1,618
玉垣模型が1辺60.8cm、高さ13.6cm
基壇模型が1辺cm、高さ8.4cm
です。そして箱書きや模型に直接記された墨書の内容から、制作年が基壇模型が明治39年、玉垣模型が明治43年であることを知ることができます

 相輪模型については、

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上部から宝珠、受花、竜車、九輪(宝輪)、受花、伏鉢の各部位が精巧に作られています。しかし、完全に残っているではなく、九輪(宝輪)については、総数9個のうち上位から5~7番目の3個がありません。水煙はすべて失われています。

 基壇模型については、

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上面が蓋様の形態となっていて、取り外すこで内部を見通すことができる構造となっています。
4辺の中央部に階段があること、
手摺の挿入孔が4隅の4ヵ所と各辺の4ヵ所の合計20箇所に開けられていること、
基壇の側面が湾曲状の形態を示すこと等から、
実際の実物の建築を想定した非常に精緻な造作と評価されています。

なぜ、こんな精巧な模型を作ったのでしょうか。

 報告者は「これらの模型は、実際の五重塔の建築に際して試作された見本品」と考えているようです。同時に「施主の建築についての強いこだわりを窺い知ることができる貴重な物件」とします。
私は、当時の時代的な背景から次のような推論を考えています。
1904年 三重上棟の直後に日露戦争が勃発して、資金集めは中座を余儀なくされます。つまり、工事がストップしたようです。
基壇模型の制作年である明治39年は、このような時期に当たります。そこで大胆に推理するなら、住職頼富賓毅は仕事のなくなった宮大工に相輪模型と基壇模型の作成を依頼したのではないでしょうか。
何のために依頼したかと言えば、
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私はこれらは見本であると同時に「プレゼンテーション用資料」として用いられたのではないかと考えます。当時の住職頼富賓毅の強い願いによって三豊の地に五重塔の建設が始まるのは、日清戦争後のことです。檀家の理解と支援を受け、さらに「講」システムを活用し、住職自身が島根・鳥取などの遠方にも赴いて寄進を呼び掛けます。
 各地での「講」集会に赴いた住職頼富賓毅が、この模型を用いて未完成部分の相輪や基壇などの今後の建設計画を説明し、同時に三豊に初めて建立される五重塔の完成に寄与できる喜びを説き、寄進を勧める姿が私には思い描かれます。 
 その際に、この模型を用いて目に見える形で、信者たちに今後の建設予定を説明するのは大きな効果があったのではないでしょうか。
「この相輪鋳造・基壇作成に、みなさんの喜捨が使われます。大きな功徳となり、先祖の霊もお喜びになります 」
という呼びかけは、独のルターが批判した免罪符販売の修道士の文句と重なりますが、信者の心をつかむ武器となったのではないでしょうか?。
  この模型の効果を見て、1910年(明治43年)玉垣模型も制作されます。1910年は、第4・5重の上棟式が挙行された年です。その竣工後に、仕事が終わった宮大工に頼んで制作されたのではというのが私の推論です。
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 最後に、五重塔の初重の野地板に墨で文字が書かれているのが見つかりました。
「為先祖代々」「阿部口口」「為 家内安全/備後国/同行二人」
「兵庫県年向郡西角村卜岡田政雄」
『為先祖累代菩提也 備中國伊月郡 施主 池口口口口』『口先祖代々佐賀口肥前国藤口口口』
「先祖累代菩提也」『口口 豊田郡一ノ谷村口口口口』
「中田栄三郎」『山口岩五郎』「為先祖代々」
「為先祖代々 重松愛太郎」
 墨書には、まず「為先祖代々」と書かれ、次に奉納者の出身地と氏名が記されています。ここから先祖供養のための奉納と考えらます。また住所の記載には「豊田郡一之谷村」、「那珂郡」、「寒川郡」など県内の住所もありますが小数で、県外のものが多く「同行二人」、「七人同行中」とあることから、四国巡礼中の遍路たちが係わったことが考えられるようです。
 奉納時期は、この五重塔建設が始まる明治28年の明治31年の初重上棟の間です。おそらくこの間に本山寺に参拝した遍路さんたちによって奉納記載されたたものでしょう。今でも、四国巡礼を行うと、瓦などの寄進をおこない自分の名前を墨書することが行われています。ここからは、百年前の五重塔建設でも同じような資金集めの方法が取られていたことが分かります。
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1913年(大正2年)12月20日には予讃線が観音寺まで開通し、煙を上げて蒸気機関車が走るようになります。その向こうに、相輪が載った五重塔が三豊の地に姿を現します。
それは1915年大正4年のことでした。
約百年前のことになります。百年の年月を経て三豊のランドマークタワーとしても親しまれてきた本山寺の五重塔。
今回の解体修理で、次の百年へと受け継がれていくことになります。
私たちが残していかねけらばならいないものとは何かを考えさせられます。

四国霊場根香寺 牛鬼はいつ、どのようにして生まれたの?

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根香寺にはゆかりの怪物がいます。牛鬼です。
今では、境内に立つブロンズの牛鬼像の方が、本尊の千手観音より有名だという話まであります。確かに、千手観音は秘仏で33年毎の開帳ですから・・・
さて、この牛鬼像には原型となった二つの絵があることをご存じでしょうか?それがこの絵図です。
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牛を思わせる頭部で、2本の角に鋭い牙と爪を持ち、全身は毛に覆われ、両脇には羽のようなものが描かれています。  この絵には右下に署名も、制作年月日も記されています。そこから文化五年(1808)に石田雪眼が描いたものとわかります。ただ、雪眼の経歴等は分かりません。

根香寺にはいつの頃からか次のような話が伝えられています。

400年ほど昔の戦国末期のことです。
牛鬼が根香寺付近に現れて田畑を荒らしていました。
弓の名手であった山田蔵人高清が討ち取ろうとしますが、
なかなか姿を見せません。そこで、根香寺の本尊千手観音に祈願したところ、とうとう21日目の満願の日に目を光らせた牛鬼を見つけることができました。
飛びかかってくる牛鬼に高清は矢を放ちます。
3つめの矢が牛鬼の口中に刺さり、牛鬼は悲鳴を上げて逃げました。高清が血の跡をたどっていくと、定が渕というところで牛鬼が死んでいました。高清は牛鬼を供養するために角を切り取って奉納しました。
退治した牛鬼の姿を掛け軸にしたのが、上の絵のようです。
そして、奉納された牛鬼の角も寺には、伝わっています。
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根香寺に伝わる牛鬼の角

牛鬼を退治した山田蔵人については

高松市塩江町の岩部に墓碑があり、文禄三年(1594)の年記が刻まれています。また白峯寺の住職・増真上人について記した「増真上人伝」(『香川叢書』)には増真の叔父と記されれて、天正・文禄・慶長頃の人で弓を得意としたことが伝えられています。実在した人物のようです。
高松藩家老の木村黙老の伝える牛鬼は?

「山田藏人の牛鬼退治」が根香寺の「公式見解」だとすると、もうひとつの話が記録に残されています。それは、高松藩家老の木村黙老が残した随筆『聞くまゝの記』に、寺の伝説とは別の話が次のように記しています。
文化年間(1804~18)の末頃、香西村の猟師徳兵衛が、根香山の谷川で眠っていた怪獣を鉄砲で撃った。海中にも住んでいた生物らしく、角に牡蟻の殼などが付いていた。高松藩士の久本某がその形を写して関西の博物学者に鑑定してもらったが、正体はわからなかった。
という内容です。
 根香寺に伝わる「角」も海から上がってきたことを思わせるものであり、伝説に比べると時代が近く内容も具体的で、こちらが事実に近いような感じがします。
 黙老は、同書に牛鬼の図も写しています。そこには、口角の牙がなく、手首の爪の描き方が異なるほか、足も蹄風ではなく五本指を描くなど寺に残る絵図とは違います。写し違いとも考えられますが、別の牛鬼図があった可能性もあります。

 牛鬼については、安永五年(1776)刊行の鳥山石燕著『画図 百鬼夜行』に三本爪に鋭い牙をもっだ牛鬼図が紹介されています。
伝説上の怪物を描くにあたって、このような図が参考にされたのかもしれません。
文化五年(1808)に石田雪眼が描いた牛鬼図は、今に伝わる根香寺の牛鬼の視覚的イメージを最初に作りだした作品と言えそうです。そういう意味では根香寺の「牛鬼の誕生画」と言えそうです。
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大正時代に描かれた牛鬼図

約百年後の大正時代末に描かれた「牛鬼図」です。

江戸時代の石田雪眼の牛鬼図をもとに、約百年後の大正時代末に描かれた「牛鬼図」です。体毛が薄くなりモコモコ感を余り感じなくなります。哺乳類から爬虫類への退化?、別の言い方だとぬいぐるみのかわいらしさが残る牛鬼から、悪魔のイメージへと変化して行ったような印象が私にはします。そして、背景に根香寺のシンボルで境内の大榛が描かれます。この寺と関連性が強く打ち出されてきます。
 作者である桃舟の経歴は分かりません。
しかし、この牛鬼図のほかにも、この寺に残る「根香寺境内図」や「良覚像二心」「浄心院像」(齢)を描くなど、大正時代末期に根香寺ゆかりの作品をまとめて制作したことが分かります。
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 現在の「ゆるキャラ」のように新しいキャラを生み出すことで「話題」を提供し、寺の知名度アップと参拝客の増加を図る戦略がとられたのかもしれません。
 200年前に生み出されたキャラクターが、今も人々に話題を提供し続けています。

参考文献 香川県立ミュージアム 調査報告書第4号(2012年)

この寺には、納経所の裏に五大明王堂があります。

恵峰さんと巡ろう 四国おへんろ|瀬戸マーレ vol.50

その内陣最奥の壇上に中尊不動明王を中心に、等身の不動明王と四天明王が横一列に並びます。
東方に降三世(ごうさんせ)
南方に軍荼利(ぐんだり)
西方に大威徳(だいいとく)
北方に金剛夜叉(こんごうやしゃ)
の各明王(みょうおう)の豪華キャストたちです。
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根香寺の四天明王たち

 明王は、明(みょう)(真言(しんごん)ダラニ)を唱えながら拝むと、霊力がアップすると言われます。どの明王も、救いがたい愚かな衆生を教化するため、いずれも光焔を負います。忿怒表情ですざましく、幾つもの手が武器を振りかざします。
あらゆる悪魔的な力を打ち破るため、怒髪(どはつ)天をつき、多面(ためん)、多臂(たひ)、多足(たそく)の非人間的な姿で表現されます。
 護摩の炎の中で極彩色の五大明王の目がぎらぎらと輝きます。
忿怒の怒りの表情に、思わずおそれ畏怖を感じます。
鎌倉時代の昔、この山深い根香寺の堂の中で、五大明王を前にして護摩(ごま)をたいて祈祷し、行場を廻る辺路修行を行う修験者たちがいたのです。

  これまで護摩堂の明王たちは、まず不動様が先に作られ、その後で四天明王が安置された考えられてきました。時期的には、不動さまが南北朝頃、四大明王が鎌倉時代とされてきました。「中世に遡る等身の五大尊像」として昭和44年には県の指定有形文化財を受けています。
 台座の構造劣化など寄る年月に明王たちも苦しむようになり、平成十六年より1年に一仏ずつ解体修理が行われました。その結果、不動明王像と四天明王の大威徳明王像から像内墨書や納入文書が見つかりました。
さて、そこには何が書かれていたのでしょうか?
また、そこから何が分かってきたのでしょうか。
真ん中の不動さまから、報告書にそって見ていきましょう。
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不動明王(根香寺)
顔は正面を向き、ほぼ直立して岩座上に立つ。
頭部は巻髪、萍書、左耳前に髪を緩り束ねて垂らす。
正面巻髪の間に、頭飾をあらわす。頭飾は、扇形の線帯に列弁文を重ねた花文で、冠帯はつくらない。
面部は、額に水波相をあらわし、両目は見開いて眼目し、
口をへの字に曲げて左牙を下出、右牙を上出する。
三道相。耳は耳孔をつくらず、耳采環状貫通とする。
左手はやや前方に出しながら垂下し、全指を曲げて祠索(両端に三鈷形と杏葉形の金具を取り付ける)を握り、右手は腎を外に張って曲げ、剣(刀身に樋を刻み、柄を三鈷形とする)を執る。条帛、裳、腰布をつけ、腕・腎・足に釧をつける。
光背 迦楼羅焔光            ’
台座 岩座 枢座 長方形
松平初代藩主頼重が、この不動明王に「霊験あれば示し給え」と祈念したところ、この不動がやおら立ちあがったという伝説が伝わります。それも「ほんまかな」と思えてくるお不動様です。

そして今回の解体修理で像内を開くと・・・・・・
背中や腰の内側には墨書がびっしりと書かれていました。
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根香寺不動明王の像内腰部墨書
何が書かれているのか・・ 
  奉造立等身不動明王
  夙聞大聖明王者大日如来教令輪
  身魔界降伏之忿怒尊也故現
   口口罪垢常念奇口
  覚位霊観夢依宿願集
  口(裏)因模尊鉢等生恵黄口(賞)
  口口平等利益敬白 弘安九年磐二月廿五日奉介御身
  ここには、不動明王が大日如来の化身であること、忿怒の形相の所以など、そのありがたさが書かれています。
そして最終行に弘安九年(1286六)の年号が見えます。
ここからこのお不動さんの制作年が鎌倉時代13世紀末と判明しました。この時期は、香川県の寺院建築で唯一国宝に指定されている本山寺の本堂が建設中だった頃になります。

   寺伝では、開基智証大師によって彫られたと伝わります。
しかし、前回も述べたとおりこの不動が創建時からここにあったは思えません。根香寺は、戦国末期と江戸時代前期に2度の大火にあって伽藍が焼け落ち、寺宝も失っています。智証大師像や毘沙門天さまと同じく、後からやってきた仏様と考えるのが自然です。
それでは、どこからやってきたのでしょか。
このお不動さんの由来を示す資料は、今のところないようです。
次に四天明王を見てみましょう。 まずはメンバー紹介から始めましょう。
降三世(ごうさんせ)明王像です
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      根香寺の降三世明王像
四面、八腎。顔は正面、左右両脇、後に各一面。
各面単髪、地髪マバラ彫り、皆、左右こめかみの髪際は炎髪。各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。馨の根元にも山型飾(背面を除き、紐二条を結ぶ)を付す。各面ともに天眼をあらわし、両目は眼目。上歯上牙で下唇をかむ。
三道相。耳は耳孔をつくり、耳采環状貫通。鼻孔をつくる。
左右第一手は屈腎して、胸前で左手を上にして手首を交叉して甲を重ね、第五指を絡めて第二指を立て他は曲げ、降三世印とする。
第二、三、四手は、第一手の後方の上中下の位置で屈腎し、各持物をとる。
左第二手は三鈷杵、第三手持物(弓)は亡失、
第四手は龍索、右第二手は五鈷鈴、
第三手が箭、第四手は剣を持つ。条帛をかけ、裳(右柾)をつける。裳の前裾は、大腿部を巻きこんで、左右脹脛を通って外へ翻る。腰布を巻いて正面で結ぶ。
左足は伸ばして大自在天の右胸を、右足は膝を軽く曲げて鳥摩妃の左手を踏んで立つ。左足の第一指を反らす。胸飾、腕・腎・足に釧をつける。
天座 岩座上に大自在天と烏摩妃を配する。大自在天は頭を左方へ向けて岩上に仰向けに横臥し合掌する。顔を正面に向けて目を見開き眉をしかめ、口を軽く開く。地髪は平彫、単馨を結う。条帛をかけ、裳、腰布をつけ、正面で結ぶ。 
烏摩妃は頭を右方へ向けて、右手を岩上について上体をささえて横臥し、左手は体側に沿わせる。
右足を大自在天の右足の上にのせる。
頭飾をつけ、地髪はマバラ彫り、髪を肩上でゆるく持ち上げ単馨を結う。髪髪をU字に垂らす。大袖の衣に鰭袖の衣を重ね、腰紐を結ぶ。
光背 輪光・火焔付 台座 岩座枢座 長方形
 降三世明王は、顔が3つ、手が8本で、足下に大自在天(だいじざいてん)とその妃の烏摩(うま)を踏んでいます。これは、欲望にうずく世界、物質にとらわれる世界、意識にこだわる世界の煩悩を降伏(ごうぷく)する明王と信じられています。この三世界の主である二天をも降伏することから降三世の名がついているといいます。

軍荼利(ぐんだり)明王像

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 一面、八腎。単馨、地髪マバラ彫り。
天冠台をつけ、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。
その根元に山型飾を付し紐二条がめぐる。
左右こめかみ髪際、耳後及び後頭部は天冠台上から炎髪をあらわす。各面ともに天眼をあらわし、両目は眼目。
上歯をみせ、牙を上出す。
三道相。鼻孔、耳孔をつくり、耳采環状貫通。
第一手は左右とも第一、五指をおって掌を内に向け、
胸前で左手を上に交叉する。
ほか三手は、第一手の後方の上中下段に配される。
左第二手は輪宝、第三手は三叉鉾、第四手は
右第二手は三鈷杵をとり、第三手は掌を前に第二指を上に立て、他の指は第一指を内に握り、第四手は掌を前に向けてひろげる。条帛をかけ、裳をつけて、その正背面に獣皮(各頭付、正面虎、背面豹)を重ね、腰布をまわして正面に花結びをみせる。
裳裾の翻る様は降三世に同じ。
獣皮正面では頭を下に向けた二匹の蛇が交叉する。
左足は伸ばし、右足は膝を曲げて軽く上げ、いずれも第一指を反らして蓮華座を踏む。
胸飾をつけ、頚元に二匹の蛇を絡ませ、各手に腎釧をつけ、
各手と足首に蛇が巻きつく     
光背 輪光・火焔付台座 岩座柾座 長方形
 軍荼利明王は、すざましいお顔に目が3つ、手が8本。
12匹の蛇が、脚・首・手に巻きついています。
軍荼利(甘露をたたえた瓶)の甘露で種々の障害を除いてくださるといいます。五大明王から私がすがる仏を選べと言われたら迷わずこの方を選びます。 

金剛夜叉明王像 

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三面、六腎。各単馨、地髪マバラ彫、
左右こめかみ上髪際と後頭部、耳後より炎髪をあらわす。
各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾、愕の根元に山型飾と紐二条を結ぶ。
本面は天眼と四目、左右脇面は天眼と二目、天眼のほかは皆瞑目。各面とも開口し、上歯牙と舌をのぞかせる。
三道相。本面は耳孔をあけ、三面とも耳采環状貫通。
鼻孔をつくる。
第一手左は腹前に屈腎して五鈷鈴を、
右は胸前に屈腎して逆手に五鈷杵をとる。
第二・二手は、第一手の後方上下に配して屈腎し持物をとる。
左第二手は輪宝、第三手は、右第二手は三鈷剣、第三手は箭をにぎる。条帛をかけて、裳(右粁)をつけ、腰布を巻いて正面で結ぶ。
裳裾の左右に翻える様は降三世に同じ。
左足を伸ばし、右膝を曲げて、前傾姿勢をとり、各蓮華を踏んで立つ。胸飾、腎・腕・足に釧をつける。
光背 鳶光・火焔付 台座 蓮華座岩座枢座

 金剛夜叉明王は顔が3つで、その中の中心の顔には目が5つあります。手は6本。金剛杵(しょ)の威力をもつ夜叉の意味で、人の心の汚れた欲心を食い尽くし、真実の悟りにいたらせるといいます。この明王の名前がつけられた有名な「戯曲」がありますね。

大威徳明王像

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六面、六腎、六足。各面単馨、地髪平彫り、左右こめかみの髪際と両耳後から、頭上面はさらに後頭部に炎髪をあらわす。
各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。
頭上面の馨根元に山型飾を付す。
各面ともに天眼をあらわし、両目は瞑目。
本面は開口(上歯牙・下牙)、左脇面開口(上歯牙・下牙)、右脇面閉口(上歯牙)。頭上正面開口(工歯牙・下牙)、左は開口(上下歯・上牙)、右は閉口(上歯牙)。
いずれも三道相をつくる。
本面と両脇面は耳采環状貫通、頭上面は耳采不貫とする。
耳孔はつくらない。左右第一手は胸前にて、各第三指を伸ばして相合わせ、他の指は組み合わせて掌を合わせる。
第二、三手は屈腎して、第一手の後方で上下に配し持物をとる。左第二手は三叉鉾、第三手は輪宝、右第二手は三鈷剣、第三手は如意棒をとる。
条帛をかけ、裳(右任)をつけ、腰布を巻いて、結び目を正面にみせる。裳裾は各膝頭を包みながら覆い、一部は左右足の前方に垂れ、後方では左右足裏から翻る。
左第一足を珈し、他は垂下して水牛の背にまたがる。
胸飾、腕・腎・足に釧をつける。
牛座 正面を向いて、鱒る。光背 輪光・火焔付
台座 枢座 長方形
大威徳明王は、水牛に乗っているので間違うことはありません。
一切の悪毒龍を調伏する大威徳のある明王です。六面・六臂(ぴ)・六足で水牛にのっていて、農耕の仏ともいわれ農民たちの信仰を集めました。
そして、「お宝」は、この大威徳明王像から発見されました。
この像内の背部からは貼付けた文書、牛座からは墨書と納入文書二種が出てきたのです。それを見ていくことにしましょう。
大威徳明王像一、像内背部貼付文書
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五大尊四鉢ノ内大威徳明王施主 
  松平讃岐守様也 
  昨者京七條大佛師 
  左京法眼康知弟子佐々木内近作之也
  康知(開山従定朝廿四世運慶より十九代孫也
  天和参歳抄三月拾日
  将運綱儀公  大佛師内近

  帝 今上皇帝
  右之御取次木食専心坊様也
  大威徳明王座像弐尺弐寸五分
  うしあり
ここから、四天明王は高松藩初代藩主松平頼重が護摩堂本尊として京都の仏師に作らせたことが明らかとなりました。その取り次ぎをおこなったのが「木食専心」であったとも記されています

 そのうち最後の大威徳像は天和三年(1683)に、京都七条大仏師康知の弟子である佐々木内匠の作であること、他の三像は大仏師久七の作でことが分かりました。そして仏師の住所も「綾小路烏丸東入丁大仏師久七」と分かります。この明王たちの「誕生地」を訪ねることも出来ます。

 ちなみに大仏師久七の作品としては、

万治三年(1660)の金剛峯寺真然大徳坐像と、寛文十三年(1672)長野県千曲市長雲寺の愛染明王坐像が確認できるようです。近世京都の仏師には全国のお寺から注文が入っていたことが分かります。長雲寺愛染明王像と根香寺降三世像を比べて、専門家は次のように指摘します。
顔の表現には相通じるものが感じられる。開口と閉口という差、また十年という制作時期の差があるが、頬骨を高くしてこめかみを引き締めた面相のバランス、目を瞑らして眉間につくる瘤、こめかみから立ち上がる炎髪と髪際の処理などの表現には、同一作者ゆえの傾向がみてとれるだろう。
根香寺の四大明王像は、東寺講堂の明王像に似ていると言われてきました。
東寺像と比較すると、手勢、持物に違いはありますが、動きや姿勢はほぼ同じです。東密の四大明王像をモデルにしているようです。それも、大仏師久七が東寺の「お抱え仏師」であったことが分かると「なるほどな・・」と合点がいきます。 
しかし、専門家は「降三世明王像は、東寺像と異なる様相」があると指摘します。
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根香寺の像は、体の色が群青色ではなく、右は黄、左は緑、背面は紅色と塗り分けて「派手」です。
降三世の四面の色を明記した経典としては
「金剛頂喩伽降三世成就極深密門」(不空訳)があります。そこには「降三世喩伽、二羽印営心、慧手持五鈷、努腎如下擬、次箭剣直執、定上五鈷鈎、次弓次執索、皆直引腎持四面正青色。右黄左緑色後紅、咸忿怒」と記されています。
体の色については「四面正青色。右黄左緑色後紅」とあり根香寺の降三世さんの方が「原典に忠実」です。他にも東寺像では、右足が烏摩妃の乳房を踏むのに対して、根香寺像は、烏摩妃が左手(掌を上に向けている)で受けていることがわかります。
 つまり、この像に関しては全て東寺像を「コピー」した訳ではないようです。
なぜ降三世は、独自色が強いのでしょうか?
専門家は、それを大威徳の次の墨書銘に求めます。
讃州右京大夫様/護摩堂之御本尊也」とあり、この四大明王の造立は、高松藩主初代松平頼重が護摩堂の本尊として発注した物であることが分かります。

そこで五大明王像の経緯を見ていきましょう 

まず根香寺に現存する史料から始めます。
 根香寺の近世期の縁起には「青峰山根香寺略縁起」及び「讃岐国根香寺記」があります。前者は五世俊海が、後者は第六世受潤が延享三年(一七四六)に著した物です。この両縁起には寺の創立由緒を智証大師とする意図が強くあると言われます。
例えば
「不動明王像も本尊千手観音像とともに智証大師の作である」
とします。前回に見てきたようにこれは歴史的事実ではありません。
今、見ておきたいのは近世期の根香寺の動向です。
「慶長年中には讃岐国主であった生駒一正により本尊千手観音像と不動明王像を拝顔して敬信し、二尊のために堂于を建て替えた」
といいます。そして高松藩主初代松平頼重が延宝年中に住持龍海へ命じて金堂、五大尊堂(護摩堂)、祖師堂、僧坊などを建立させ、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の四明王を造立し不動明王とともに五大尊としたと記します。松平頼重が施主となって護摩堂本尊として造立したという銘記の内容と一致します。
 この寺の中興の祖とされる龍海については元文六年(1742)「浄行院龍海和尚伝」があり、それにも四大明王像は頼重の造立であると伝えます。ただし五大尊は「祈祷所本尊」であり、二代頼常によって根香寺へ移されたとします。
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また天保四年(一八三三)の「青峰山根香寺由緒等書上控」に、
不動明王は「智護大師之真作、殊二霊威新故、御下屋敷江御勧請(延宝年中)三間二五間之護摩堂御建立有之、御安置候而」と記されています。
根香寺にあった不動明王が、頼重の下屋敷に建てられた護摩堂に安置されたことが分かります。
さらに「由緒等書上控」は
仏工「法橋治部」に命じて降三世など四大明王を造らせて五大尊とし、龍海と了尊の2人に預けた」
「国家安全御武運長久」のため、長日の護摩供、正、五、九月は百座の護摩修行を仰せ付けられた」
「頼重没後の元禄年中に、二代頼常が五大尊を根香寺へ移した

と記します。
 下屋敷とは、頼重が居住した宮脇の下屋敷と考えられます。
先ほどの「龍海伝」にいう「祈祷所」とは、この下屋敷護摩堂を指すようです。頼重自らが下屋敷に護摩堂を建立し、根香寺から移した不動明王像に、京都の仏師に依頼した四大明王を加えて五大尊として祀り、国家鎮護のために護摩法をさせたということになります。隠居後にもかかわらず頼重は、自分が祈祷するための環境を、日常寝起きする下屋敷内に整えたということです。つまりプライベートな祈祷環境を整えたのです。彼は、そこで日常的に祈祷を行っていたのかもしれません。頼重の信仰世界が少し見えてきたような気もします。
   どちらにしても、これは金毘羅大権現保護や仏生山建立などの寺院保護や再興の域を超えています。頼重が根香寺のお不動さまに強く惹かれたことは事実のようです。
下屋敷に五大堂を建て祀ることを進言した宗教的指南役は?
そのプラン全体を考えたのは誰か。
牛座内の納入文書等には「此御本尊御取次木食専心様」とあります。頼重の宗教的ブレーンは「木食専心」のようです。しかし、今の段階ではこの人物についての資料は見つかっていないようです。降三世像を東寺講堂像のモデルからグレードアップし、四面の色、持物を「原典」通りにしたのは、五大尊の「霊力アップ策」だったのかもしれません。
 どちらにしろ江戸時代を通じて、密教系の加持祈祷・護摩が頼重に見られるように支配層の上層部の信仰心を捉えていたことが分かります。根香寺の四大明王は、鎌倉時代の不動明王に祈りを捧げるようになた頼重が京都の仏師に作らせ下屋敷に安置したものなのです。

参考史料
香川県立ミュージアム 調査研究報告第4号 根香寺の彫刻調査
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本堂の毘沙門天立像はどこから来たの?

県立ミュージアム調査研究報告第4号(2012年)は、根来寺の総合調査報告です。仏像については、本尊の秘仏千手観音像(重要文化財)と仁王門の仁王像をのぞく、本堂三件、大師堂五件、五大堂四件の調査が行われています。
さて、専門家が書く仏像の調査報告書というものはどんなものだと思いますか?
この調査の中で一番古いとされた本堂の毘沙門天立像についての報告書を、写真と見比べながら見てみましょう。  
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本堂の毘沙門天立像

兜をかぶる。頭頂に宝珠をおく。
顔はやや左方に向き、目は眼目して見開き、口を閉じる。
上半身に大袖、鰭袖の衣をまとい、下半身に裳、袴を着け、沓をはく。
頚当、胸甲、龍手、脛当、全身に表甲を着る。
胸甲は、二重線帯で縁取りの楕円形、
背面にまわる表甲から太めの帯がのびて胸甲と連結する。
表甲は、背面の背と腰から、正面の大腿部を包み込む。
表甲は、正面中央にて右椎し、その上に前楯を重ね、甲締具でしめる。
表甲の下縁は、直線的に背面に連なる。
なお、背面には獣皮をかけない。
腰帯に帯喰(巻髪、髭あり、上下牙、歯をみせる)をつけ、
前楯上部は円形、下端は長方形なだらかに垂下し、翻転なし。
腰帯は捻りながら腰をまわり、天衣をまわしかける。
左手は屈暫し宝塔をささげ、右手は高く挙げて三叉戟を執る。
左足に重心をおいて、身体は穏やかな動きをとり邪鬼を踏まえて立つ。 
邪鬼は開口する。                         光背 火焔付輪光、柄付台座 長方形振座、岩、邪鬼
この文章だけを読むと、素人には何のことか分かりません。
しかし、写真と見比べながらひとつひとつの部位を確認していくと、専門家が仏像を見るポイントがどこにあるのかはなんとなく分かってくるような気もします。
あくまで気持ちだけですが・・・。、
仏像を頭から足先まで各部位や着衣、形体などを単文でコンパクトに記していきます。ある意味「機械的」です。
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この毘沙門天立像はもともとは「四天王像のうちの多聞天像」?

 この報告書では、本堂の毘沙門天立像はもともとは「四天王像の多聞天像」ではなかったのかと指摘します。多聞天像は、兜をかぶり、左手で宝塔を捧げ、口を閉じているスタイルが平安時代中期に定着します。また、うごきがが穏やかで、各部の彫りも浅く、裳裾にボリュームをもつ姿も、平安時代中期の和様化か進められた四天王像に通じるようです。
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 また、眉間の瘤、瘤の左右から上方へ皺を刻むという表現方法も、東寺講堂像や六波羅蜜寺像の多聞天と同じ表現です。ただ腹部が絞られて肉感が押さえられて少々スマートな感じや、着甲の表甲、下甲の正面合わせ目の作り方に甘さが出てきているので、時代はやや下がり十世紀末以降とします。 つまり、この仏はもともとは独尊ではなく四尊セットの四天王の一人だったと多聞天ではないかとその「出自」を推測します。  

ここで、私が疑問に思ったのがこの寺の由緒書や(『南海通記』)の記述です

そこには天正十三年(1585)の長宗我部軍の侵入により、ほとんどの堂宇および仏像、寺宝が焼失したと書かれています。その2年後の天正十五年に生駒氏が讃岐国に入り、生駒一正により慶長年間に寺領寄進と復興が行われます。「根香寺記」「略縁起」「由来」「翁嘔夜話」等)。
 そして、本格的な復興が行われるのは、水戸からやってきた松平頼重の時代です。頼重は、当時真言宗であった根香寺を天台宗に帰宗させ、京都聖護院宮の末寺とし、寺内各堂宇の新造や道具類の寄進など再興に力を注いだとされます(「根香寺記」「略縁起」)。
 しかし、享保三年(1718))に再び大火災に見舞われ、堂宇や生駒氏領知宛行状、縁起等を失ったといいます。その後、宝暦期になってから五代藩主頼恭による大規模な再建が行われたことが寺伝来棟札などから分かります。現在の根香寺の原型は、この時に作られたようです。
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 解体修復以前の毘沙門天立像
さて、天正と享保の2度の大火を経て、仏像は残ったのでしょうか?
特に享保の大火は一番に持ち出すべき、生駒氏の領知宛行状や寺の縁起まで失っています。本尊やその他の仏像類は況んやです。
全てが焼け落ちたと言われるのに「毘沙門天立像」があるのはどうしてでしょうか
  この像以外にも先日紹介した開祖智証大師(円珍)像も、その像底に元徳三年(1232)の年号が入っています。これも焼けずに残ったと考えるのは不自然です。
私の郷土史の師匠の言葉によると「仏さんがもともとからそこに座っていたとおもたらいかん。
仏さんは、後からやってくることもある。」
というのです。
つまり本殿の創建時からいた仏と、あとからやってきた「伝来仏」の2つがあるのです。
四国霊場などには近世以後の寺の隆盛とともに、周辺の廃寺となった寺から幾つもの仏が集まってきて、そのためのお堂が建てられるということが起きてきます。仏もお金のあるところに集まってくるのでしょうか? 仏像が「歩く」とすれば ・・
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 讃岐国分寺から根香寺へ移されたと伝えられる如来形立像

根香寺の毘沙門天立像は、どこからやってきたのでしょうか。

『下笠居村史』(昭和三十一年)には、この仏像は「祖師堂安置」と書かれています。しかし、今は本堂に安置されています。
この寺の住職が書いた「青峰山根香寺記」には「大師開基時 安多聞天像 今所存像是也」とあり、智証大師がこの寺を開いた時に「多聞天像」を安置した。それが現在の「毘沙門天」だと記します。
毘沙門天像は根香寺創建期以来のものとしますが、もともとは多聞天像だったというのです。
それに対して、増田休意編の「三代物語」明和五年(一七六八)には、天正十三年(1585)の兵火により本尊千手観音像及び諸仏像、経巻、什物や曼荼羅とともに灰煌に帰し、わずかに残るのは法華経と弘法大師の袈裟のみだった。そこで本尊千手を根香と白峯の間にある吉水寺から移した」と記され、さらに、この毘沙門天も「吉水寺四天王之一也」と記しています。
  この記述と、先ほど見てきた「この仏はもともとは独尊ではなく四尊セットの四天王の一人」だったという説は補完しあいます。
ちなみに吉水寺は根香寺近くにあった寺で、根香寺、白峯寺などと同じ霊木で彫った仏像が安置されていたと伝えられます。江戸時代には廃寺となっていたようですが、先日紹介した「根香寺古図」にも縁の深い寺として創建時の景観の中に描かれています。
以上から次のような推論ができます。
①根香寺の本尊千手観音(重文)と毘沙門天立像は、吉水寺にもともとはあった。
②中世末までに吉水寺や根香寺も衰退した。
②江戸時代になって松平頼重によって、寺内各堂宇の新造されその際に、吉水寺の仏像類が根香寺に移された。
しかし、これに対しては次のような疑問が投げかけられることが予想されます
① 天正十三年の兵火で根香寺は焼け落ち全てを失ったというのに、近くにある吉水寺は難を逃れたというのか?
② 松平頼重の復興事業の中で吉水寺から仏像が移されたのなら享保三年(1718)の再度の大火災では、どうして焼失しなかったのか? 


   根香寺の毘沙門天立像は何者なのでしょうか?
 謎の多い仏です。
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 根香寺の縁起について、霊場会のHPには次のように紹介されています。

 空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとします。その一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法をしたと伝えられている。
 その後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れたさい、山の鎮守である市(一)之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう告げられた。
すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。この霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けたことから、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったという

ここには
①空海が修行の地として花蔵院を建立し、
②その後に円珍によって観音霊場として千手院が建立され、
③この両者を併せて根来寺と呼ばれるようになった
と云います。ここには「空海創建=円珍中興説」が記されています。ところが江戸時代後期に、当時の住職によって書かれた「青峰山根香寺略縁起」には、次のように書かれています。
当山は西は松山に続き、北は海門に望み香川阿野両郡の分域なり、閻閻東南に折乾坤日夜に浮ふの絶境なるを以、吾租智澄大師はしめて結界したまひ、七體千手の中千眼千手の聖像を以安置したまひ、更に山内鎮護のため不動明王を彫剋して安置す、
ここには空海は、登場しません。円珍が開祖で不動明王を作って安置したとされ「円珍単独創建説」記されています。つまり江戸時代に根香寺は「空海創建=円珍中興説」から「円珍単独創建説」に立場を変えたようです。そこにはなにがあったのでしょうか。歴史的に見ていくことにします。

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 智証大師座像(根来寺蔵) 頭は、円珍のトレードマークの卵形

この寺の歴史は、資料的にどのくらいまでさかのぼれるの?
根香寺 智証大師底書

「智証大師像」の底の銘に鎌倉時代の年号が見えます 
    讃州 根香寺
   奉造之 智澄大師御影一林
   大願主 阿闇梨道忍
   佛 師 上野法橋政覚
   彩 色 大輔法橋隆心
   元徳三年 八月十八日
「根香寺」の名を記録上確認できるのは、この智証大師像の像底銘にある元徳三年(1233)が最も古いようです。ここには
①阿闇梨道忍が当寺へ奉献したこと、
②制作仏師は上野法橋政覚、
③彩色は大輔法橋隆心
であることが記されています。円珍を開基とするこの寺の立場が、鎌倉時代まで遡って確認できる史料となります。
②次に古い文書は、根香寺に両界曼荼羅が奉納された時の願文(「束草集」所収)で、正平十二年(1357)です。
③そして、応永十九年(1411)に京都北野経王堂で行われた一切経写経事業に根香寺住侶長宗が参加している記録です。
これらの資料から根香寺は、少なくとも鎌倉時代末期頃までには一定の活動を行う寺として成立していたことが分かります。
 寺の規模は、九十九院の子院を従え、寺領平石千貫を有したと由緒書は記します。江戸期の地誌によれば香西等に名残を示す地名があったらしく、かなりの規模を有した寺院であったと考えられます。
この寺を考える上で手がかりになるのが「根香寺古図」です。

根香寺古図左 地名入り
根香寺古図
この絵図は根来寺縁起を絵図化して描いたもので、江戸時代末の作とされています。ここに描かれている物語を、絵解きしていきましょう。物語のスタートは①一ノ瀬神社から始まります。讃岐の山岳信仰の聖地巡礼中の円珍(智証大師)の登場です。

根香寺古図左 一ノ瀬神社
根香寺古図拡大 市之瀬明神と円珍との出会い
①「右下 対面する二人」は、青峯山の鎮守である市之瀬明神の赤い鳥居の前にやって来た智証大師は老翁に出会います。老翁は市瀬(一ノ瀬)明神の化身している姿です。円珍は、老翁に導かれて蓮華谷の山上に向かいます。

根香寺古図 根来寺伽藍
根香寺古図 根香寺本堂部分

②二人は「左上 枯れ木」に移動します。
ここには枯木を囲んで立つ二人と、本堂の前に立つ二人の姿が描かれます。ここにあった枯木は、不思議な光と香気を放つ霊木でした。老翁は、この霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう円珍に告げます。円珍は、その教え通りに千手観音像を彫り本尊とし、ここに「千手院」を建てて安置します。
   ここからは山岳仏教の行場として開かれる以前に、地元の神が存在したことが分かります。そして、その神が仏教寺院建立に協力したことが語られるのです。
③「本堂の下方に束帯姿の人物」は、平安の時代に菅原道真が遊覧したという景勝地、天神馬場を書き込んだものとされます。絵図ですから、時空を超えていろいろな「人と物」が書き込まれます。

根香寺古図 滝と行者

ここで研究者が注目するのは、「滝と行者」です。
根香寺からは架空の大きな滝が流れ落ちています。その滝の横を行者道が続きます。その道を大きな荷物を背負った修験者が上っていきます。
ここからは根香寺と修験道の関わりが見えてきます。この絵が書かれた江戸末期は、根香寺は醍醐寺と共に修験道の拠点である聖護院門跡の末寺でした。滝や行者の姿が描き込まれているのは、山岳信仰、修験道の行場としての根香寺の姿を示していると研究者は考えています。

根香寺古図右 地名入り
根香寺古図 右側 ふたつの塩田が見える

生島湾には塩田が描かれています。

享保年間に作られた旧塩屋塩田と、天明八年に開かれた生島塩田です。この寺の創建時にはなかった江戸時代の景観です。さらにこの絵図には月や雪山、雁など濠湘八景を思わせる物が描き込まれています。この地域の地誌「香西雑記」(寛政八年)は、この地の美を八景になぞらえて愛でています。それがこの絵の中に描かれている可能性もあると専門家は指摘します。
 以上見てきたように、江戸後期に寺の縁起を説明するために書かれた絵図には、いろいろなものが描き込まれています。その中で、当時のこの寺の指導者たちは、自分たちのルーツが「修験道」にあることを意識していたと思えます。 

寺に残る仏像や画から推察できることは?

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不動明王二童子

この寺の絵画作品のうち、制作年代が中世のものと考えられのは、七件あるようです。そのうち3点までが不動明王です。これもこの寺の性格を表しています。不動明王は修験者の守護神で、肌身離さず修験者が身につけていた明王です。
 室町時代の「不動明王像」は、滋賀・園城寺(三井寺)にある墨画の「不動明王像」(重要文化財)に様式が似ており、同寺の長吏を務めた行尊の筆と伝えられるなど三井寺とこの寺とのつながりをうかがわせるものです。天保四年(1833)の記録には、根香寺が天台宗三井寺派であったことが記されています。

以上から根来寺は、辺路修行の行場から発展したことが窺えます。
そして、宇多津・坂出の海岸線の行場である城山や聖通寺、沙弥島、本島が真言山岳密教の拠点醍醐寺の開祖である理源大師の伝説に彩られているのに対して、この青峯周辺は天台宗三井寺の智証大師の伝説によって彩られているように私には思えます。

根香寺の不動明王二童子について

剣と索絹を持って岩座に立つ不動明王の両脇に、金剛棒を持つ制旺迦と、衿掲羅の二童子が描かれています。痛みがひどくよく分かりませんが、不動明王は天地眼に左上と右下の牙を出しているようです。頭のてっぺんに蓮華を載せて、髪はカールして左肩に辨髪をたらしています。衣は鳳凰や雲などの文様が描かれています。
二童子の制旺迦は、朱の濃淡をつけながら体が塗られています。、目や口は墨で、力強いく描かれています。それに対して衿翔羅は、体が白色で塗られ、墨の細筆で目鼻や髪を繊細に描かれています。下の方には波らしきものわずかに見え、三尊が海上の岩座に立っていることが分かります。根香寺にもう一幅伝わる「不動明王二童子像」と同箱に収められていて、箱書にある「智証大師筆」の画像が本図にあたるとされています。

参考文献 

近世百姓の生活はどのようなものだったのでしょうか。 

中世は絵画といえば、西洋と同じで仏画や宗教画が中心でした。
庶民の姿が描かれることは殆どありませんでした。しかし、西洋では近世になるとフィレンツェでは大富豪の依頼に基づいて肖像画が描かれ始めます。そして、ネーデルランドのアントワープでは、大商人がパトロンとなり自らの生活を描くことを画家に求めるようになります。
「ブリãƒ\ーゲル 農民の踊り」の画像検索結果
ブリューゲルの農民の踊り
ヴァン=ダイクらは油絵によってキャンバスに富豪の生活を描き、それらは発注者である中産階級の居間の壁に掲げられたりするようになります。さらに進んでブリューゲルは中世の画家たちが「貧しく猥雑」として見向きもしなかった農民たちを描き始めます。絵画に描かれる対象がぐーんと広がったのです。
 同時期の日本でも、その流れは安土桃山時代を境に大きく転換し、現世の風物や人間を描く世俗画が描かれるようになります。農村もまた描写対象になり、一双の屏風に農村の四季を描く「耕作図屏風」や絵巻物形式の「耕作絵巻」が作られるようになるのです。その中の代表的な作品「豊年万作の図」を眺めていて楽しくなってきましたので紹介したいと思います。

「豊年万作の図」 作者は浮世絵師 歌川貞吉です。

「歌川貞虎‐1豊年万作の図」の画像検索結果
     「豊年万作の図」原図は3枚続きです。

 「豊年万作の図」は、農業を教える教養画とされ、農業を知らない町方の商人たちの「教養絵巻」の役割も果たしたようです。そういう意味では、今私たちが見ても、近世百姓の稲作農業を知るのに役立つ絵図と言えます。
原図は3枚続きです。右の方から見ていくことにしましょう。

1 右上図 まず、右側は春から夏の農作業が描かれています

「 豊年万作の図 歌川貞虎」の画像検索結果
  ①モミ乾し ④苗を運ぶ男 草取りをする女 

画面の上方には富士の雄姿が見えます。富士山は五穀豊穣を司る神の象徴として、江戸の浮世絵農耕図には定番だったそうです。讃岐ならば飯野山や羽床富士などのその地域の富士山が描き込まれたことでしょう。
ここには、稲荷神社と大きな倉が3つ並んでいる庄屋の家が背景に描かれています。この絵図の発注者の館かもしれません。
①作業のスタートは上段右の「もミを日にほす絵」で、赤子連れの夫婦が俵を開け広げるところから始まります。水に漬けておいた種籾を日に干して発芽を促します。
④苗取りの上には、苗を運ぶ半裸体の男がいます。

2 右下図 モミまき 苗取り 代掻き

「 豊年万作の図 歌川貞虎」の画像検索結果
②種籾干しの次は、その下の男が[たねをまく(種を蒔く)図」です。
③そして、左の「苗取の図」へとコマが移動します。
⑤飯椀を頭に乗せ、薬缶をもった女性があぜ道を行く姿が大きく描かれます。その先を行く子どもは先導しているのでしょうか。この後、昼食か小休止になるのでしょう。
 絵巻物と同じように、同一場面に異なる時間推移が描かれます。
現在のマンガのコマ割りとは少し違いますので、最初は違和感があるかもしれません。

3 中央下図 代掻き 千羽漕ぎ 俵詰め

「 豊年万作の図 歌川貞虎」の画像検索結果
⑥その左に手前の本田では、馬に引かせて代掻き作業が進みます。
 馬の轡に結ばれた手綱を引くのは子どものようです。一人前に馬を誘導しています。子供も大切な働き手だったことが分かります。
⑦代掻きの隣は、千羽漕ぎを使う女性が描かれています。
⑧その上には俵詰め作業です。
⑦⑧は秋の収穫シーズンの最終工程です。
その間の行程はどこに?

4 中央上図 田植え 草取り 踏み車

関連画像
この間の夏の行程は中央奥に描かれています。
⑦苗代で苗が育ち、本田の代かきが終ると、いよいよ田植えです。
 横一列に並んだ早乙たちの田植え姿が遠望できます。その上には高く鶴?か鷺が舞っています。稲がもっとも水を必要とするのは、苗の育つ田植えの時期と穂に実が付く彫刻み期です。だから、田植えはちょうど雨の多い梅雨に合わせて行われました。
⑧田植え後は田の草取りと田水の調節に作業の中心は移りますが中心的な作業となります。④の苗運びの半裸の農夫の向こうで、水田に入って農婦が腰をまげているのは草をとっているようです。除草は、一番草、二番草、三番草と何回もやらなければなりません。
⑨ 田植え作業の左には、踏み車による田への水取り作業も描かれています。これもも暑い夏に向かっての野良仕事でした。

一番左の絵図には、稲の実りから収穫が描かれています。

 刈り取られた稲は農家の庭先で脱穀作業に掛けられます。詳細に農具が描かれています。
「稲をこく図」では千歯扱き、
「もミをうつ図」では唐棹、
「もミをする図」では石臼。
図がかすれて見えにくのですが「ミにてふく図」では箕が使われています。
しかし、籾殻と玄米を選別する「唐箕」は見あたりません。
「3 中央下」で見たように俵詰めされた玄米を蔵に納め、春から続いた米作りが終わるのです。

ちなみに最終段階の「御上納米拵え」は、千羽漕ぎは女性が担当していたことが分かります。脱穀作業も明らかに女性がリードしています。これは、稲刈りが男ないしは男女共同であったことと対照的です。どうも西国・東国を問わず、この仕事は女性が上手だったようです。同時に、男尊女卑が強まる明治以後よりも女性の役割が大きかったことがうかがえます。
 「豊年万作の図」は蔵入れの図で終了します。
こうしてみるとこの絵図が「農作業の絵解き図」であったことがよく分かります。
 江戸時代のお寺のお坊さんが、文字が読めない庶民に「地獄絵図曼荼羅」を示しながら地獄のイメージを植え付けたように、この絵図でコメ作りの概要を知ることが出来たようです。そういう意味ではよくできた「教材」と言えます。

この絵図を当時の文字資料と突き合わせってみましょう。

絵図の書かれた加佐郡西部(現京都府)の山八川流域村々の事例を見てみましょう。ここには同時期の各村から大庄屋(上野家)宛に提出された報告書が残っています。例えば「豊年万作の図」の第一場面だった種籾関係の記事を探すと、
三月二二日に「種そろへ(種揃え)、池へ付く(浸く)」
とあります。種籾の池への浸種は、発芽を促すためのもので、田植え予定日(5月の夏至)から逆算して53日前までに行うのが決まりで、それが3月22日になります。
 三週間ほどの浸種の後、 日に干して苗代への種蒔きとなります。こちらは田植えから30日前の4月22日前後になります。そして、5月12日から田植えが始まります。田誉え初日のあらましは次のようです。ちなみに、文中の暦は旧暦ですので一月ほど遅くなります。
5月11日 (男は)前日に胆き聯した田を彰で均す。女は植付けをする。植えた傍へ柴肥(しばごえ)をどっさりと入れる。植え始めの日を「さひらき(早開き)」といい、苗二把を洗い、神酒とともに明神に御供えする。
「豊年万作の図」でもそうでした、田植えは女性の役目でした。
肥料として柴肥(低木の若葉)を大量に投入することにも注目しておきましょう。これが草刈り場の入会権の問題として、後々重要なポイントになります。

 当日の作業終了後、豊作を祈願して苗二把と神酒を氏神社の熊野神社に奉納します。田植えはこの日から一週間、早稲・中稲・晩稲の順に進められます。田植えの終了日は、田の神が昇天する「さのぼり」と呼ばれ、苗三把と神酒を明神に奉納します。田植え後の中心作業の草取りは、6月に始まり7月25日の盆の頃まで続きます。農作業が神事と結びついているのもポイントです。

 これも「豊年万作の図」には描かれていませんが、主に女性の行う「下木刈り」も大切な農作業でした。村山に生える柴や草の刈り取りで、7月5日に始まり20日間ほど続けます。これらを腐らせて作った肥料は、二毛作の麦作り用の肥料として使われました。すでにこの時点から、秋の麦作りの下準備が行われているのです。

一枚の絵図から色々なことに合点がいくようになります。
同時に新たな疑問も沸き出してきます。
私にとっては下草刈りの意味がそうでした。
それは、また別の機会に・・

参考文献 水本邦彦 「村 百姓達の近世」 岩波新書













  

  本山寺 その起源を奥の院  興隆寺石塔群を見ながら考える
 
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五重の塔から見る本山寺本堂

  本山寺の改修が終わったばかりの五重の塔に登って、鎌倉時代の国宝の本堂を見ながら、この寺の起源について私なりに考えました。その視点は宗教史家の五来重の次の勧めです。
「四国霊場に行かれたら、まず奥の院を訪ねてください。そうすると、そのお寺の本質がよくわかると同時に、四国遍路とはいったいどういうものかが分かります」
この言葉に導かれて、本山寺の奥の院に行ってみましょう。しかし、本山寺には、妙音寺宝積院と興隆寺跡の2つの奥の院があるようです。妙音寺については
「讃岐で最初の古代寺院妙音寺を作ったのは丸部臣氏?」
でも述べましたので、今回は興隆寺跡を訪ねてみましょう。
「西讃府誌」には興隆寺と記され、本尊は薬師如来が安置されていたとされています。
やってきたのは、興隆寺の谷の入口にある延寿寺です。
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延寿寺

七宝山の南東麓にあり、昔から桜の名所として知られています。
確かに、眼下には古代に忌部氏が開いたという笠田の美田が広がります。

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         延寿寺から見る笠田方面
ここは明治6年(1873)6月26日、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言が発せられた所でもあるようです。その直後に、下高野村の矢野文治がこの寺で早鐘を鳴らし続けて人々を集め暴動にかりたてたことが、西讃血税一揆(竹槍騒動)の発端になったといわれています。矢野文治は、金倉川の処刑場で打首となっています。農民たちを一揆に駆り立てたのは明治政府の「重い地租・義務教育・徴兵制度(血税」などの新政策と戸長への不満が重なったものと言われます。彼らへの黙祷もこめて御参りします。
歴史のある大きなお寺ですが無住の気配でした。

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このお寺から西国参りのお地蔵さんに導かれて車道を登って行くと、石塔が残る廃寺跡に導いてくれます。 

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興隆寺跡の入口

西讃府誌に記載されている興隆寺は, 本山寺の奥の院で本尊薬師如来が本尊であったと記されます。伽藍跡は、今は鬱蒼たる樹木や雑草の中に花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在していしています。
 
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興隆寺の石塔群
 石塔群は何百年もの歴史を経てきたとは,とても思えないほど状態が良いのです。こんなに状態のいい石塔がこんなに多く並んでいるのを見るのははじめてです。
どうして、保存状態がいいのでしょうか?
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興隆寺跡の石塔群
それは凝灰岩の岩壁を掘り窪め、そのひさしの下に置かれてきたため、原形に近い状態です。
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興隆寺跡の石塔群

約20m下の下段に下りてみましょう。

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          興隆寺跡の石塔群(下段)
  上段に比べて、下段はひさしがありません。そのためここは風化が進んでいます。上段よりは見劣りがするかなと思いながら、中央部分を見ると・・・そこにいたのは不動明王です。

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           興隆寺跡の不動明王
顔を真っ赤にした忿怒の形相のお不動様が、ど真ん中に鎮座します。それを囲むように左右に五輪塔約30基が並んでいます。

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興隆寺跡にある石塔群

興隆寺跡にある石塔群は108基あり
、製作年代は鎌倉時代後期から室町時代末期の約200年の長期間にわたって継続的に造立されたものです。ひとつひとつをじっくりと眺めていると、それぞれの石塔が各時代の風格をただよわせ、中世における石塔様式の流れが少しは私にも分かってくるような気もします。

高瀬町柞原寺の石塔
 
これらの石造宝塔の特徴は、讃岐形宝塔とは一味違った三豊形宝塔の流れを汲んでいるとされます。ここにある石塔の祖型的なものが高瀬高校の隣にある柞原寺にある石塔です。凝灰岩製宝塔の塔身部に方形の開口部(納入穴)があり、遺骨や遺髪などを納めたと考えられます。しかし、今は地蔵菩薩がその中に祀られています。興隆寺跡にある宝塔も柞原寺の影響をうけているというのです。  

興隆寺跡に多くの石塔が並んでいるのはどうしてでしょうか

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 本山寺のご詠歌は
本山に誰か植ゑける花なれや 春こそ手折れ手向にぞなる
です。もともとは、これは奥の院興隆寺のご詠歌であったことが考えられます。「手向にぞなる」と詠んでいるところをみると、おそらく奥の院は、弥谷寺と同じように亡くなった人の供養の寺の性格もあったのかもしれません。そこから鎌倉から室町時代にかけて、大勢の人が死者供養のためにここに登って、五輪塔をあげたと考える研究者もいます。
  一方、残された興隆寺の縁起や記録などから、石塔群は出家修行者の行供養で祈祷する石塔と考える研究者もいます。一番下の壇に不動明王(座像)を中央にして、左右に五輪塔約30基が並んでいることもその説を裏付けます。
本山寺の奥の院であったという妙音寺・興隆寺の前後関係を確認しましょう
12世紀 妙音寺本堂の本尊  本尊の木造阿弥陀如来坐像
12世紀~15世紀 興隆寺跡にある石塔群が継続的に造立
1300年 本山寺本堂建立(国宝)  
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天霧城主の香川氏の墓石とされる五輪塔群(弥谷寺)

三豊地区で五輪塔が数多く並ぶのは弥谷寺です。弥谷寺の石造物については、次のような時代区分がされていることは以前にお話ししました。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地に天霧石の五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所に石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
弥谷寺 阿弥陀如来磨崖仏 1910年頃
阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)

弥谷寺に阿弥陀三尊の磨崖仏が姿を現すのは鎌倉時代のことです。
阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯は「九品の浄土」と呼ばれ、阿弥陀信仰の聖地でした。そのような環境を作り上げたのは、修験者や高野聖などの念仏行者です。彼らは周辺の村々で念仏講を組織し、弥谷寺の「九品の浄土」へと信者たちを誘引し、その中の富者を、高野山へと誘ったようです。同じような動きが七宝山周辺でも行われていたようです。
弥谷寺 穴薬師
穴薬師堂の石造物(弥谷寺 Ⅱ期の地蔵物とされる)

少し視点を変えて、グーグル地図で七宝山全体を眺めながら考えて見ましょう。
「高屋ç\žç¤¾ã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ

南北に延びる七宝山の南端の山が稲積山です
この山は神が天上から降り立った甘南備山で、山頂には高室神社の奥社が鎮座します。かつて、私が山登りのトレーニングのゲレンデとしてザックに砂を入れて登っていた時代は訪れる人もあまりいませんでした。背後から車道でついて「天空の鳥居からながめる有明海」の絶景がSNSで評判になってからは、新たな人気スポットになっているようです。確かに、ここから西から有明海、そして財田川に沿っての三豊平野は、稲作が西から伝わったルートを目で見れる絶景ポイントです。その稲積山からさらに南に伸びる半島の先、かつては島だった琴弾山の麓に、四国霊場観音寺はあります。ここは、神仏分離の行われる明治以前までは、琴弾八幡神社の神宮寺でした。

①七宝山地図

七宝山は、その名の通り弘法大師が七つの宝を埋めたという伝説があります。そして「不動の滝」は弘法大師修行の際、この岩に不動明王の像を刻んだことに由来していると伝わります。  弘法大師が修行したかどうか別にして、このあたりが修験者の行場であったことはうかがえます。
  四国霊場観音寺から高室山を経て不動の滝、そして石塔群が残る興隆寺にかけては行場が点在しています。中世は、行者たちによって辺路修行が行われた場所と考えられます。その行者たちが行供養で祈祷する石塔が興隆寺の石塔群ではないかと私は考えています。
さらにイメージを広げて想像するなら、こんなストリーも考えられます。
 燧などを越えて修験者が有明浜に降り立ちます。仏像のかたちをした石が辺賂の海で拾われ、その石をまつったところが奥の院となます。これを拝む人には、仏様が海のかなたからやってきて福を授けてくださる。そこにお堂ができます。 さらに、辺路修行で訪れた修験者や禅宗の旅僧がしばらくそこに留まってお守りをします。
  四国遍路の寺の中には、明治までは次の人が来て半年なり一年なりお守りをするというように、旅僧が交代でお守りをしていた寺がたくさんあります。
こうして、辺路修行の拠点となった寺院は信者を増やし、土地の有力者を庇護者に加えながら中世には大きなお堂をもつ寺院へと成長していきます。そして、海から上がった石をまつったところや、行場は奥の院と呼ばれるようになります。
 本山寺の奥の院も、七宝山の辺路修行の拠点や地元有力者の祖先崇拝熱の高まりで寺勢を拡大したのでしょう。そして、中世の商業活動の活発化と共に、街道から離れ地理的にも参詣に不便だということで、財田川と二宮川が合流し、伊予街道が走る街道筋に、13世紀末にお寺を移したのではないかというのが私の推測です。
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興隆寺跡から本山寺に移された五輪塔
本山寺は四国の八十八か所では、唯一馬頭観音が本尊です。
本尊の馬頭観音に対して、脇侍は阿弥陀如来と薬師如です。
阿弥陀如来は妙音寺、薬師如来は興隆寺の本尊です。つまり、ふたつの奥の院本尊であった仏を、馬頭観音が率いているということになります。ここには、現在の本堂が建立された13世紀末の本山寺を取り巻く 事情反映されているのでしょう。
 馬頭観音を本尊とする寺は、四国では珍しく四国霊場の中では本山寺だけだそうです。牛馬の安全を折る信者集団が本山寺の「変身」の主体となったのでしょうか。
馬頭観音はもともとは釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされます。そして、次のような本地垂迹が語られるようになります。
権化が牛頭天王=蘇民将来説話の武塔天神薬師如来垂迹スサノオ本地
牛頭天王は、京都東山祇園播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社天王社で祀られるようになります。これを進めたのが修験者や廻国の念仏聖のようです。
「馬頭観音」を祭った讃岐の寺社としては、滝宮神社があります。
滝宮神社は、神仏分離以前には牛頭天王神(
ごずてんのう)と呼ばれていました。菅原道真の降雨成就のお礼に国中の百姓がこの神社で悦び踊った。これが滝宮念仏踊りとされています。牛頭天王神(滝宮神社)の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院です。 龍燈院も馬頭観音を本尊として、馬頭観音の権化である牛頭天王を神社に祭っていたようです。同じような動きが現在の本堂が建立された時期に起こっていたのではないかと私は考えています。

 長宗我部侵攻時に兵火を免れたのはどうして?

 もうひとつの疑問点が「天正の兵火」と言われる土佐の長宗我部軍の侵攻の際に、なぜこの寺が兵火に会わなかったのかということです。讃岐の近世資料を見てると「長宗我部軍の侵攻によって焼かれた」と書かれた由緒書きを持つ神社仏閣の多さに驚き、最近はあきれるようになってきました。しかし、この本山寺は兵火にあっていません。だから国宝の本堂が残っているのです。
それならなぜ本山寺は兵火に会わなかったのでしょう。言い伝えでは
「住職を刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れた。この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれています。その後、「長法寺から「本山寺」と名を改めた」と伝えられます。
これは、江戸時代に作られた「伝説」です。
 長宗我部郡の侵攻の際に焼き討ちに遭っていないのがはっきりしているのは、三豊では本山寺、中讃では小松尾寺金光院(現金刀比羅宮)です。小松尾寺は長宗我部占領下に会って、その占領政策に協力し、寺の指導者にも元親側近の修験者が就任しています。
 三豊における占領拠点はどこにあったのか?  
この質問に対して、それは「本山寺」であったと言える状況証拠はいくつかあります。しかし、この話はまたいつか・・


  

どうして明治になって五重塔が建てられたのか

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解体修理が終わった本山寺の五重塔 スリムな印象を受けます
 
 本山寺の五重塔は、三豊平野の中にすくっと立ちランドマークタワーの役割を果たしてきました。遍路道を歩いてくると大和の古寺巡礼のように平野のただなかに立ち、古色蒼然として立派に見えます。本堂が鎌倉時代の国宝建築ですから「五重塔も鎌倉時代のものです」と言われても素人の私は「ああそうですか」と応えてしまいそうです。しかし、この塔の建立は明治43年3月(1910)の造営で約百十年前のものです。後で訪れる善通寺の五重塔のと建設期間は重なる部分があります。
 建設時期を聞いただけで、多くの疑問点が私には涌いてきます。

同時期に建立された善通寺の五重塔は、難産の末

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 幕末から明治にかけて建てられた善通寺の五重塔 

以前に、このブログに述べたとおり、善通寺の五重塔の建立は、明治維新を挟んで発願から完成まで62年がかかっています。資金不足に見舞われ、工事が度々中断するのです。勧進をしながら資金を集め、建設を再開し、資金がなくなると中断ということが繰り返されます。
 例えば1882年(明治15年)に五重上棟が上がって以後は、17年間ストップします。塔の一番上に載せる青銅製の相輪を発注する資金がないのです。そのため相輪がないままの姿で、その間放置されます。勧進等によって資金が集まり、相輪が載せられて完成するのは1902(明治35年)のことです。善通寺という末寺を幾つも持つ大寺でさえ五重塔建立というのは大変な事業でした。
 その善通寺の苦労を身近に知りながら、本山寺が三豊に新しく五重塔を建てようとしたのはすごいと思います。
これを勧めた住職さんとは一体何者なのでしょうか?
私の第1の関心は、そこにありました。
 五重塔内部を見学して下りてきた時に、参加の質問に答えていた研修者らしき女性に、次のような質問をぶつけてみました。
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「善通寺の五重塔建設が難渋するするなかで、建設しようとしたのはどうしてですか?」
 すると彼女は次のように応えてくれました。
「住職さんの人柄と熱意による所が多いのではないでしょうか。当時の住職は頼富実毅(よりとみじっき)です。この人について残された資料に当たって見たのですが、この人の存在が五重塔建立に大きな役割を果たしていると思うようになりました。この人なしでは、この五重塔は生まれなかったのかもしれません。」と話してくれます。

この女性が整備委員会委員長の建築家・多田善昭氏の娘さんで、整備委員会の事務局的な役割を担っている方であることを後で知りました。

住職の頼富実毅(よりとみじっき)とは何者なのでしょうか?

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 境内の中に祀られる頼富実毅像
彼は幕末、ペリーがやって来る7年前の1846(弘化3)年に香川県さぬき市富田南川で生まれます。生まれながら盲目だった実毅は、幼い頃より遍路として四国巡礼を重ねていたようです。そして、四国五十九番伊予国分寺を巡礼後に、突然に目が見えるようになったといいます。その恩に報いるため、仏門に入り堂宇の復興を志すようになります。
 11歳で出家し、佐伯旭雅,雲照,竜暢に師事します。後には、大坂に書塾をひらいていた讃岐出身の藤沢南岳の元でも漢学や書を学びます。その後、高野山で本格的な修行を重ね、僧侶としての名声を高めていきます。彼の高野山での業績のひとつは、明治期の高野山大学の創立に尽力を尽くしたことがあげられます。
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 「当山中興の祖 大僧正実毅像」と刻まれています

高野山時代に五重塔建設の認可を得た頼富実毅

 同時に、彼は初志通りに高野山で五重塔を建立する計画を進めます。五重塔の建設というのは、江戸時代以前は自由に寺院が造れるものではありませんでした。皇室の許可を得て、初めて建設が可能になったのです。例えば幕末から工事が始まった善通寺の五重塔は、皇室からの建設許可を得て工事が始まった最後の塔のようです。
 明治になってからは、国の認可が必要でした。
頼富実毅は、明治政府との多岐にわたる交渉の末に建設認可を得ていたようです。そのような中で、かれは故郷の讃岐の本山寺住職となるのです。彼は国の五重塔建設認可状を胸に抱きながら三豊の地にやって来ます。そして、五重塔をこの地に建立していくのです。
 末寺もない地方の寺院が五重塔を建立するというのは無謀にも思えます。

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五重塔建設を可能にしたものは何だったのでしょうか?


 それは「人の輪(和)」であったようです。
まず、本山寺の檀家集団でした。新しく高野山からやってきた住職の人柄や深い知識に強い信頼感を抱いていったようです。そして住職の五重塔建立という「初志」に理解を示し、全面的な協力を行って行くようになります。
 今回の平成の改修も、その費用は4億円と言われます。
この五重塔は国宝でも重文でもないので国や県からの補助はありません。これを、地方の一寺院が負担するというのは並大抵で出来ることではありません。それをやり遂げたという背景には明治の建立の時と同じく、檀家集団の理解と協力なしでは考えられないことです。
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 本山寺の「般若の風」と地域や檀家との結びつき

この寺では、大般若経六百巻が村回りをしていました。大船若緑六百巻を全部読むことはできませんから「転読」します。「転読」というのは、六角経蔵、あるいは八角経蔵をぐるぐる回すことです。チベットでもお経を回す信仰があります。お経を一巻一巻広げて転がして、十人なら十人の坊さんが並んで、それぞれ三行か五行ずつ読んでいくのがかつての日本の転読でした。折り本の先を扇形に開いて、片方からサラサラと広げては、その間に七行、五行、三行と読んでいきます。それが悪魔払いだとされて、般若声といわれる大きな声で机をたたいて読んでいくことが行われていました。

本山寺では、戦前まではお経を担いで村を回る「般若の風」が行われていました。
これも村を回ってお経を読むのですから広い意味では「転読」です。しかし、全てのお経を持って行くのは大変なので、住職が理趣分という四百九十河巻のうち一冊だけもって七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。それを「般若の風」といって、風に当たれば病気にならないという信仰がありました。そういう村の家々との関係や檀家との関係を大切にしてきた伝統が、この寺にはあります。そして、今でも住職さんは檀家との関係を非常に大切にしていると周りの人たちはいいます。
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建設費は、どのように集められたのでしょうか?

  江戸時代以後に盛んに行われていた「講」システムが活用されていたことが分かってきました。整備委員会では将来の国の重文指定に備えて、建物だけでなく五重塔建立に関する文書類の保存・整理も平行して行ってきました。その結果、寄付金を「講」という形で西日本全域に呼び掛けていることが分かる文書類が出てきたのです。資金を提供した「講」の責任者の子孫を訪ねて島根や鳥取方面にも出向いて確認したといいます。
 丸亀港の太助燈籠が江戸の商人たちの「講」で建設されたのは、よく知られています。その後、幕末から建設の進む金毘羅山の旭社や善通寺の五重塔も「講」システムを使って、全国の信者に喜捨を呼び掛けています。そのシステムが、本山寺でも使われたようです。
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 しかし、このシステムが機能するためには、いくつかの条件が必要です。例えば「知名度」です。金比羅さんや善通寺は、全国的な知名度という条件をクリアするかもしれません。しかし、「本山寺」はどうでしょう。「四国霊場」という枕詞が付けば少しは、上がるかもしれませんがクリアという訳にはいかないのではないでしょうか。
これに関して、住職の頼富実毅自身が山陰などにも足を運び、各地の講で法話を行い、資金集めに尽力したことが残された文書からも分かってきました。彼は、当時は権(ごんの)大僧という立場でしたが遠方に出向くことも厭わなかったようです。
 このような尽力の結果、善通寺の五重塔が明治維新の混乱を挟んで62年の歳月を経て難産の末に完成したのに対して、本山寺は14年で完成するのです。

  どんな棟梁が腕を振るったのですか

  頼富実毅住職は高野山の人脈を通じて、小豆島の宮大工の棟梁を紹介されたようです。 整備委員会委員長の建築家・多田善昭氏は、宮大工・平間美能介の子孫を訪れた際のことを次のように記しています。
本山寺五重塔解体・保存修理を進めていく中、当時の住職 頼富実毅住職と平間美能介・勝範棟梁との想像を越えた情熱と斬新さを感じていました。
 長田住職とともに、曾孫さん夫婦とお子さんたちを訪ねました。福岡市中央区渡辺通にて桜もち、おはぎ、きな粉もちなどを手作りされている「平間まんじゅう店」の店舗やお座敷には、かつての大工棟梁の作品も大切に飾られていました。
百年以上大切に資料を保管されていたこと、偶然にも工事の事を知り、またすぐに連絡をくださったこと … よいご縁が重なっていきます。
… 今回、五重塔含む社寺建築物や洋風建築物の図面を見せて頂いたことで、良いものをつくる前向きで挑戦的な強い意志を改めて感じました。謎の多かった木部接合の工夫に関しても、納得できる部分がありました。 

  平間美能介棟梁は、この五重塔の建設の後は大阪を中心に活躍するのですが、残した建物の多くは大型の洋風建築部であったといいます。宮大工としての技量を活かしながら、それを様式建築に活かしていく才能と開拓心を持っていたようです。

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 整備委員会委員長・多田善昭氏のスライドより
 
こうして、こんもりした本山寺の境内の森の中に五重塔が姿を見せるようになります。五重塔は、明治29年(1896年)の着工から14年の年月をかけて完成します。
塔が立ち上がっていく様子を見ておきましょう
明治二十九年 八月に着手、
  三十一年十一月第一層、
  三十三年 九月第二層、
  三十六年二月第三層、
  四十三年三月第四層、第五層が落成。
明治36(1904)年からは、一時的な中断もあったようです。それは日露戦争が勃発したからです。戦争遂行と戦後の混乱のために中断期が生まれたようです。しかし、日露戦争後は戦勝碑が各村々に建てられていくように、五重塔の建立についても追い風となったようです。時運も塔建立に一役買いました。

落慶法要には5万人が集まり、塔の歓声を祝ったといいます。
三豊に初めて姿を見せた五重塔は多くの人に「誇り」を抱かせると共に、陸のランドマークタワーとしての役割を果たすようになります。総工費は十万百十一円二十二銭七厘。棟梁は、前述したように平間美能介勝範と多田寅市です。

本山寺五重塔 江戸と明治の建築技術の共存

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この五重塔の建立年代は明治です。そのため江戸時代から引き継ぐものと、明治の近代的な要素の二面性が見られると専門家は指摘します。
 懸垂構法の心柱、各階に床を張り参拝者を登らせる仕組み、装飾的な組物などは、いずれも江戸後期に生み出されたものです。
一方、木部接合の工夫として尾垂木はボルトで固定されていることが分かりました。旧軍施設などの洋風建築にも生かされた、いかにも明治建築らしい技といえます。
 
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 また、五重の小屋組から賞で吊られた心柱は、地面まで伸びず二重の床で止まっています。そして心柱の底には大量の「経石」がでいっぱい入った「重量箱」が取り付けられていました。「経石」は参拝者や「講」のメンバーが祈りを込めてお経の一文字を書き、寺に納めた小石です。塔建設に喜捨した信者のものだと思われます。これも今までにない「明治の工法」です。
また、雨戸瓦の葺き方には、三豊地域の特色がみられ「地方色」と言えます。
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さてこの五重塔を見上げて私が感じるのは「スリムで華奢な印象」「エンピツやロケットのように細い」「ミニスカートをはいた細身の女性」という印象です。実際に、登って見ると狭いのです。善通寺に比べると1/4の平面面積になるそうです。  

どうして細身の五重塔が建てられたのでしょうか

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一般的に五重塔は、飛鳥時代から江戸時代にかけて新しいものほど、細身になっていくことが知られています。それには倒れにくくする建築技術が必要です。上重の屋根を大きくして細長く建てることことが大工の技量の見せ所でもあったようです。江戸時代以降の新しい塔は、法隆寺五重塔など古い塔に見られるどっしりとしたものよりも「細いスリムな塔」を棟梁たちはめざしていたようです。
  昭和に入ると古今集よりも万葉集の益荒男ぶりがもてはやされるようなります。五重塔もどっしりと安定感のある法隆寺や醍醐寺など古い五重塔を手本にして建立される傾向が強くなります。昭和になるとヒョロ高い不安定な見た目の五重塔は、建てられなくなります。
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塔にもデザインの「流行」があるようです。そういう意味では、この本山寺五重塔は「スリム型の最終形体」と言えるのかもしれません。最後の例として非常に貴重といえます。
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礎石から相輪先端までの高さは31・5メートル。
和様を基調とした本瓦ぶきで、江戸期までの伝統に忠実な建築法が随所に見られるほか、獅子鼻や龍頭といった装飾が細かに施されていて、平成26年1月に市文化財に指定されています。
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善通寺の五重塔は明治期のものですが、重文指定になっています。改修の終わったこの塔についても、近いうちに重文指定がされることが確実視されています。そのためにも下手な改修はできないという気合いが関係者にはあったようです。
 建築家や大学教授、寺関係者でつくられた整備委員会は「歴史的、文化的な価値を損なうことなく、次の百年に残せる保存法を検討していく」ことを基本原則として、改修にとりくんできたようです。それは地域の宝、地域のシンボルを残し、活かす方策にもつながる道なのでしょう。
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おつきあいいただき、ありがとうございました。

本山寺の本堂・仁王門の折衷様式は、どこからもたらされたのか

文化財協会の研修で改修が終わったばかりの本山寺の五重塔と善通寺の五重塔を見に行くことになりました。明治以後に作られた讃岐の五重塔を実際に見て、登って内部まで身近に観察し、ふたつの塔を比較しようとする企画です。しかも、案内してくれるのは改修工事を進めた設計事務所の責任者の方です。ホイホイと付いていくことにしました。
 また、本山寺には香川県では2つしかない国宝建築物の本堂と重文の仁王門、さらに登録文化財に指定されている建物が境内には並びます。それらも新たな目で見てみましょう。
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まずやってきたのは、本山寺。迎えてくれるのは仁王門です。
 近世の大形化した仁王門に見慣れていると小さく感じるかもしれません。見所はと聞かれると
「いろいろな様式が取り入れられ、瀬戸内の寺院らしい折衷様式の仁王門」
と言うことになるようです。詳しく見てみましょう。
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柱は円柱で前列・中列・後列にそれぞれ四本づつ合わせて十二本の使われています。まん中の柱が本柱で、前後別の柱は控柱で八本あり入脚門と呼ばれます。控柱には天竺様式の粽があります。切妻造、本瓦葦、軒は二重繁垂木、組物は和様三ツ斗です。
肘木の両端には禅宗様式の象鼻に似た絵様繰形があります。
木鼻の上には天竺様(大仏様式ともいう)の特色である皿斗が見られます。和様、唐様や天竺様の手法を多く取り入れて、それを大胆奇抜に組合せていています。

「宮大工の腕が存分に発揮されている」とも言えますが、私には良い意味で「遊んでいる」とも思えます。
 その「折衷感=ごちゃ混ぜ感」が全国的にも類例がなく貴重だと言われているようです。

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なぜ、全国でも珍しい折衷様式の門や本堂がここに建てられたのでしょうか?
 ある宮大工は、次のように瀬戸の寺を勧めます
 国宝、重要文化財というと、まず頭に浮かぶのが奈良、京都ですが「鎌倉、室町時代」という中世の建築を見るのなら、瀬戸内をお奨めします。
兵庫県小野市の浄土寺浄土堂から始まって、山陽道の福山の明王院・尾道の浄土寺などの中世のいいお寺がいくつもあります。播磨の浄土寺浄土堂は、東大寺大仏殿を再建した重源が残した数少ない天竺様の建物です。尾道の浄土寺の本堂は東大寺大工が奈良からやってきて造っています。
 尾道の浄土寺本堂に残っていた棟札には、大工藤原友国、藤原国貞という名前が残っていて、藤原という立派な姓まである東大寺大工のようです。この二人が奈良から呼ばれて、はるばる尾道までやってきて、浄土寺本堂を建てたのです。
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その仕事ぶりを専門家は次のように評します。
東大寺の真似をしないで、自由な発想で仕事をしている。東大寺を真似したようなところはまったくない。やればできたはずなのに、していない」
というのです。しかも、和様の中に天竺様を取り入れた折衷様にして、実によく整った姿の本堂を造っています。この本堂と、その隣にある阿弥陀堂の軒反りは「中世建築を代表するほどの美しい」と言われます。
二人の大工は、なぜ、東大寺の真似をしなかったのでしょうか。
 現在の宮大工の一人は次のよう推理します
奈良からはるかに離れた尾道の地に来たことで、普段の枠を離れて仕事をできたからではないか。格式が高く、何かと規制も厳しかった奈良から離れて、尾道にやって来たことが規制から離れて、自由な発想で仕事をできたのではないか
 職人にとって一番幸せなのは、思う存分に仕事ができることでしょう。しきたりや決め事から離れて、思う存分に瀬戸内海の港町で仕事をしたのではないでしょうか。それが新しい折衷様式を生み出す原動力になったのかもしれません。
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 仁王門の中には木造金剛力士立像(県指定重要文化財 平成9年5月23日)指定がにらみを効かせています。

   本山寺の本堂についても見ておきましょう。
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「桁行五間に梁間五間の規模で、屋根は本瓦葺きの一重寄棟造。正面に三間の向拝がつけられた中世密教本堂の典型
もともと、この本堂は正応年間京極近江守氏信の寄進にと伝えられてきました。しかし、昭和28年2月からの解体修理の際に、礎石に
「為二世恙地成就同観房正安二年三月七日」(1300年)
という墨書銘が発見され、鎌倉時代後期の正安2年(1300年)に建てられた事が分かりました。そして修理が完了した昭和30年に国宝指定がされました。
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 その際に、墨書銘より「末清および国重」という二人の宮大工によって建てられた事が分かりました。その後の研究で、この二人は奈良の宮大工で、奈良の霊山寺本堂や、西の京の薬師寺東院堂を手がけていることも分かってきました。
 ちなみに、本山寺の本堂は尾道の浄土寺に40年近く先行することになります。最初、私は尾道の浄土寺の動きが先行し、本山寺が影響を受けたのだろうと考えていました。しかし、それは逆なのです。可能性としては、本山寺の方が浄土寺に影響を与えたと考えるべきなのです。その意味でもこの本堂は「折衷様遺構の最古」と言えるようです。
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 今は海は人々を隔てるものと写ります。しかし、当時の瀬戸内海は、人々を隔てる物ではなく人と物を結びつけるものだったのです。三豊と福山・尾道は廻船を通じて海でつながっていました。仁尾の港と尾道の数多くの船が行き来していたことが資料からも明らかになっています。
 ここからは私の想像ですが、今までにない不思議な形をした本堂が讃岐の本山寺に現れたという噂は、尾道にも伝わっていたかもしれません。それを聞いて、浄土寺の住職や奈良きた棟梁がこの三豊の地まで見学に訪れる。そして「うちも本山寺のように折衷でやってください。おまかせします」なんて言ったかも・・・・
そんなストーリを考えると楽しくなります。

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 そのような流れの中で、この寺の本堂・仁王門を考えて見たときに「瀬戸内海式の和唐折衷様式」というのは納得のいく話です。 

本堂の外陣で住職から次のような話を伺いました

昭和の解体修理の時は「建設当時の姿にもどす」というのが原則でした。そのため内陣に置かれていたいろいろな付属品などは取り払いすっきりしました。
当時の住職が、修理終了間際に「外陣の畳はいつ入るのですか」と問うと、「鎌倉時代の寺院には畳はありません」と言われたそうです。その後、寺のお金で畳は用意したということです。
外陣が当時の真言のお寺さんとしては広いようで、そこに鎌倉時代の「仏教の庶民化」という流れが出ているそうです。
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時間が来てしまいました。
今日はここまでです。
五重塔については、また次回に

参考文献 松浦昭次 宮大工と歩く千年の古寺

飯山町三谷寺 なぜこんなに多くの建物が建っているの

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三谷寺入口
初めてこの寺を訪ねたときにはいくつかの驚きがありました。
まず額坂線から鉄門に入り、仁王門から境内に至までの長さです。それは雲辺寺の徳島県側からの参道を思い出させるような道のりでした。「かつての寺域は広いぞ」と予感しました。

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三谷寺山門
そして階段を登り中門を抜けて境内に入ったとき、その広がりと本堂の背後のいくつかのお堂の数に驚かされました。驚きは、疑問に転化します。
なぜ、ここにこれだけの伽藍をもった寺院があるの? 
この寺院に興味を持ちだしたのはそれからです。いくつかの資料を読む中で、おぼろげながら分かりかけてきたことを私なりに書き留めておきたいと思います。テキストは「飯山町史186P 三谷寺の隆盛」です。
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三谷寺境内への階段
この寺は、真言宗御室派に属し、宝珠山世尊院と号し、本尊を十一面観世音菩薩としています。地元の人たちは世尊院と呼んでいるようです。
寺の歴史を知るためにはまずは定石通り、由緒書を見てみましょう。
この寺の由来は「西三谷寺縁起」として、香川叢書第一巻に次のように記されています。
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夫れ宝珠山西三谷寺に、開基行基菩薩、皇王の聖武の賜を受けて、教法を揚す。
先に王幾において四十九箇の霊区を営み、後に諸国において幾許の精舎を建つ。中就くに讃州鵜足県東坂元の郷宝珠山は、彼の師の開基する処なり。通れば天平のころ、天下庖癈疾甚だ起て、四民倶に之を愁う。翁(かたじけなく)も聖武帝宣旨を下して、当寺其の懇祈を致す。ここにより甚だ効験を得たり。これより以降八葉山施無畏寺の号、世に声(な)る。
然る後、吾が弘法大師、当寺の境内において、弥勒の宝堂を建て、四十九院を営む。是れ即ち上生経の説、四十九重微妙の宝宮。文。兜率天七宝台の摩尼殿というべきや、
 又、奥の院巌中には薬師の像を安んじ、大師作。護摩山上には不動の梵焼供を修め、宝珠巌下には無償の珍宝を埋む。これいうところの三谷の権輿にして、一山不朽の標幟深いかな。爰に以って寺を弥勒院と称す。
また、皇王が十六代四条院の国母、操璧(草壁)門院の勅願処として、鎌倉の二位の尼公楼門を修建し、梵宇を修理す。この時、弥勒院を転じて浄興院新長谷寺と号す。其の後、後宇多・後嵯峨・亀山の三帝相続いて伽藍の俎壊を補い、又、この代の間、浄興院を異にして、影向山無量寿院と改む。其れ斯の如くの名藍勝地、知らざるべからず、あおがざるべからず。
 近日、天正年中、土佐の長曽我部宮内の少輔元親、乱を企て、坊舎仏閣を臓く焼尽せしむ。比しがたし、安禄山が反逆にも過ぎたり。爾と雖も本尊の霊十一面。今に新たに、擁護の神、古より益々。冥に前の国主生駒一正公に託して、寺院不朽の米穀を寄附せしむ。惜かな、星霜年古、伽藍又亡敗す。悲しいかな、寺跡草生い、仏塔辣 に覆り。(後略)
 
意訳変換しておくと
 宝珠山西三谷寺は、聖武天皇の賜を受けて、行基菩薩が開いた寺院である。勅命によって、全国を四十九ケの霊区に分け、その後に諸国に精舎を建立した。讃州鵜足県東坂元の郷宝珠山は、この時に行基が開基した。天平のころに、庖癈(天然痘)が大流行し、四民は苦しんだ。聖武天皇は宣旨を下して、当寺に祈願を命じた。その時に大きな効能があったので、以降は八葉山施無畏寺の号は、世間に知られるようになった。
 その後、弘法大師が当寺の境内に、弥勒菩薩の宝堂を建て、四十九院の伽藍を調えた。これが上生経の説、四十九重微妙の宝宮。文。兜率天七宝台の摩尼殿と云われるものである。さらに奥の院の巌中には、大師自作の薬師如来像を安置し、護摩山上には不動の梵焼供を修め、宝珠巌下には無多くの珍宝を埋めた。このような三谷の隆盛は、一山不朽のごとく思えた。ここに至って、寺を弥勒院と称すようになった。
 また、16代四条院の国母、操璧(草壁)門院の勅願処となって、鎌倉の二位の尼公楼門を修建し、梵宇を修理した。この時に、弥勒院から浄興院新長谷寺と号すようになった。その後、後宇多・後嵯峨・亀山の三帝が続いて伽藍整備を行った。この代の間に、浄興院から影向山無量寿院と改めた。こうして、当時は名勝地として、知らぬ者がないほどになった。
天正年間になって、土佐の長曽我部元親が、侵攻して当寺の坊舎仏閣をみな焼尽した。これは唐の安禄山の反乱とも云えるものであったが、前藩主の生駒一正公の時に、本尊の霊十一面を新たに安置し、古よりの神々も次第に復活させた。そして、寺院経営のための寺領も寄附された。ところが星霜年古して、伽藍は次第に放置され、悲しいかな、寺跡草生い、仏塔は辣に覆われている。(後略)

要約しておくと
①聖武天皇の賜を受けて、行基菩薩が開いた寺院
②天平年間に、庖癈(天然痘)大流行の時に、祈祷効能を示し世間に知られるようになった。
③弘法大師が弥勒菩薩の宝堂を建て、四十九院の伽藍を調えた。
④弘法大師は、奥の院の巌中に大師自作の薬師如来像、護摩山上には不動の梵焼供を修め修験者の拠点として繁栄した。
⑤北条政子の修復援助を受け、諸国長谷寺のひとつとして存続、
⑦寺名が弥勒院に改名され、さらに、弥勒院から浄興院新長谷寺へと改名
⑧後宇多・後嵯峨・亀山の三帝が続いて伽藍整備が行われ、浄興院から影向山無量寿院と改めた。
⑨天正年間になって、土佐の長曽我部元親が、侵攻して当寺の坊舎仏閣をみな焼尽した。
⑨前藩主の生駒一正公の時に復興され、寺領も寄附された。
⑩以後は寺勢が衰え、伽藍は次第に放置され、寺跡草生い、仏塔は辣に覆われている。

この縁起は、寛政十年(1798)に三谷寺が焼失し、仁王門・鐘楼堂だけが残っていたのを、11世法純によって諸堂が再興された時に書かれたもののようです。

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三谷寺
  最初に開祖として天平年間に行基が出てきて、次に空海が発展させたと説かれます。
私の郷土史の師匠は「行基開祖、空海発展」という由緒書きは後世の作り話が大半。系図作成のように、寺の由緒書きを頼まれた連歌師なんかが使う手口。つまり、資料がない、書くことがないのでこう書かざるえんのや。これは、古今東西一緒。西洋の教会も中国のお寺も同じや」だそうです。
 
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三谷寺境内
私が注目するのは、③④⑤の次の部分です。
「空海(弘法大師)が弥勒堂を建立し、真言密教の修行道場として隆盛」
「護摩山上には不動の梵焼供を修め」
 ここからこの地が不動明王を祭り、護摩を焚く「山伏寺」の性格を持っていたことが分かります。今でもこの寺の奥の院として岩屋薬師の行場があり、ミニ三十三観音等霊場巡りで結ばれています。
三谷寺
三谷寺周辺

 周辺地図を見ても「護摩岳」「宝珠山」「三谷寺奥の院」という行場を示す地名が残っています。また、西北の黒岩天満宮や地蔵堂周辺には「石切場跡」が残っています。石工技術と修験者は、切り離せない関係にあることは以前にお話ししました。「石切場や石造物制作現場」があったところには、多くの石工職人たちがいて、その多くが修験者(衆徒)であったと研究者は考えています。そういう視点で、この寺を見ると、金山から五色台にかけては、中世の石切場が点在しています。それが石造物として周辺ばかりでなく、瀬戸内海を通じて広範囲に提供されていることが弥谷寺などからは分かってきました。同じような動きが三谷寺周辺にも見えて来ます。

 以上から中世の三谷寺は、修験者の拠点となる寺院で、勧進僧達がいくつもの院房を周辺に構えていたこと、彼らの勧進・交易活動で財政基盤が調えられ、伽藍整備が行われたと私は考えています。寺名が変化していくのも、院主たちによる連合経営だったので、各院坊の勢力関係によって、寺号(呼名)が変化していくのは、中世山岳寺院ではよくあることです。
三谷寺をもう少し広い範囲で見ておきましょう。
 三谷寺の背後は城山に続きます。城山周辺の中世修験の行場ルートを、次のように私は考えています。
本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 城山 → 金山 → 八十場 
これが坂出中辺路(坂出修験道ルート)で、そのルート上に三谷寺は位置します。ここでは三谷寺が、中世山岳寺院として修験者たちの拠点寺院となっていたという仮説を提示しておきます。
しかし、これについては次のような疑問が出てきます。
①本島・沙弥島・聖通寺は、醍醐寺の聖宝(理源大師)を重んじますが、城山の三谷寺には、聖宝は登場しません。これをどう考えればいいのでしょうか。
②中世に勢力を拡大していく五色台の白峰寺との関係。どうも白峰寺と三谷寺の修験者たちは、競合関係にあり、白峰寺に勢力を奪われていった気配がします。それが、中世末から近世への三谷寺の衰退と関わっているのではないかと、私は推測します。

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三谷寺大師堂
 城山周辺からは色濃く修験者(山伏)の匂いを感じます
大胆に仮説を立てるなら近世以前は、聖通寺も三谷寺も山伏寺だったのではないかと思うようになりました。ついでに加えると、後の金毘羅さんに「変身」していく小松尾寺の別当金光院にも同じ匂いを感じますし、嶋田寺もそうです。ここに共通することは、高野山で学んだ修験者が住職となっていることが共通します。
  少し筆が走りすぎたようです。
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次に、三谷寺の創建を考古学的に見てみましょう。

 三谷寺からは平安時代後期の瓦窯跡が見つかっています。現在は築石のために見ることはできませんが、坂出市郷土資料館の資料によると窯跡は三基あり、東から1号窯、2号窯、3号窯と名づけられています。この内、1号窯の瓦は均正蓮花文軒平瓦で平安時代後期ころのものされ、創建時の三谷寺の瓦を焼いたものと考えられています。これ以前の白鳳や天平の瓦は境内からは見つかっていません。つまり、この寺の創建は平安後期と考えるのが妥当のようです。

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 三谷寺
その後、北条政子による修復の援助を受け、諸国長谷寺のひとつとして存続したのち、天正ごろ、長宗我部氏の兵火にあって荒廃したと記されています。これに対して飯山町誌は、もうひとつ別の由緒を紹介します。
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それは法然の高弟長西(ちょうさい、元暦元年(1184年) - (1266年2月12日))が讃岐に建立した西三谷寺が、この寺だったのではないかという仮説です。
『本朝高僧伝』覚明の項には、次のように記されています。 
長西、覚明と号し讃岐の人。九歳にして京に上りて業を菅家に聯(なら)う。十九にして世を厭う、源空(法然)を大谷寺に拝して、薙髪従事して六時称号す。時に空公七十。空の帰寂に及び乃ち諸寺に遊で、広く教乗を問う。出雲路の住心大徳に謁して、台教を聴く。泉涌寺俊菖律師にまみえ、止観及び戒範を受く、深草の道元禅師に参り、教外の旨を探る。又、同門衆に依って念仏の法義周遍習串す。後、故郷に還り、西三谷寺を開て浄土の法を弘む。又、京師に上て、城北の九品寺を閥て日夜専修す。都下の絡自憧々として門にそう。(中略)
 釈覚心、惧舎を反覆し、釈論を玩索す。長西の嘱を受けて、西三谷寺に居し、浄土の義を説く。弟子西学兼承有り。
意訳変換しておくと
 長西は覚明と号し、讃岐の人である。九歳で京に上って菅家で学問を習ったが、十九の時に出家した。大谷寺の源空(法然)を師として、髪削ぎ、南無阿弥陀仏を唱える。法然が70歳で亡くなると、諸寺に出かけて、広く知識を得ようとした。出雲路の住心大徳からは、台教を学んだ。泉涌寺俊菖律師からは、止観や戒範を授かった。深草の道元禅師からは、教外の旨を探った。また、同門衆に対しては念仏の法義について述べた。その後、故郷讃岐に還り、西三谷寺を開いて浄土の教えを拡げた。その後再び京に上って、城北の九品寺で日夜専修した。都下の人々は、絡自憧々として門にそう。(中略)
  釈覚心は、師の長西から教えを受けて、その命で、西三谷寺に留まり、浄土の教えを説いた。それを弟子西学が受け継いだ。

ここには「西三谷寺」という寺が出てきます。これは山田郡三谷(現高松市三谷町)に対しての呼称で、江戸期には山田郡にも三谷寺があったので、混同を避けるために「西三谷寺」が使われたと飯山町史は指摘します。
 どちらにしても法然門下の長生は、浄土宗九品流の派祖になった高僧です。
この長西が西三谷に一寺を建立したというのです。それを信じるならば、「法然 → 長西 → 釈覚心 →西学」という浄土宗の流れをひく寺院が三谷寺であったことになります。浄土宗の教えを説く念仏聖(高野聖)たちが、中世には各地で念仏信仰を拡げ、各郷村に信者を増やしたことは以前にお話ししました。そのような念仏聖の拠点でもあったことになります。このことと最初に述べた「修験者の行場としての三谷寺」という性格は、なんら矛盾するものではありません。
 このような念仏聖の活動を背景に、法然の讃岐流配に伴ういろいろな説が生まれてくると私は考えています。これをまとめておくと
①三谷寺は、平安末に遡る山岳寺院で、多くの修験者や聖の活動拠点であった。
②それが高野聖が念仏聖化することで、三谷寺も阿弥陀信仰の拠点寺院となった。
 
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三谷寺
 
 中世に隆盛を極めた三谷寺が、どうして衰退したのでしょうか?
縁起には天正年間のこととして、次のように記します。

「土佐の長曽我部元親、乱を企て坊舎仏閣を臓く焼尽せしむ。比しがたし、安禄山が反逆にも過ぎたり。」

戦国末期の土佐勢力の被害を中国唐王朝の安禄山の乱に例えます。長宗我部元親を悪者に仕立てるのは、江戸時代後半以後の讃岐の歴史叙述パターンです。つまり、「天正年間までは寺社は平穏 長宗我部の兵乱で焼き討ち・荒廃」という形式です。これは「信長の比叡山焼き討ち」への仏教勢力の怨嗟と同じパターンです。
 それは、さておき三谷寺のその後の動きを、飯山町誌は次のように3段階に分けています。
〈衰微期〉 松平氏による寺領の召し上げ、堂塔の破壊、無住時代など、寺が衰微した時期で、ほぼ十七世紀代がこれにあたる。
〈再興期〉 中興八世住職寂巌、十世住職法如の努力による堂塔の修復、松平氏から寺領70石余の寄附、不動院、極楽寺の再興など、昔日の面影を取り戻した時期で、ほぼ18世紀代がこれにあたる。
〈興隆期〉 久米寺の再興、随喜心院の室兼帯など、再興期を経て、寺が興隆した時期で、幕末までの19世紀代がこれにあたる。
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それでは、いつだれが、どのようにして三谷寺を復興したのでしょうか?
 八世住職寂巌が大内郡引田浦の積善坊よりやってくるのは元禄四年(1691)のことです。寂巌は住職にあること24年で隠居しますが、その後も没するまで、半世紀の間三谷寺の復興に邁進します。延享元年(1744)に十世住職となった法如も約50年間、そのほとんどを住職として寺の再興に努めます。つまり寂巌、法如の百年の間に、諸堂の修復が行われ、寺は現在の伽藍の基礎を築いたのです。 

寺の再興は、寺の経済力と結びついています。

まず記録から寺領の拡大を探ってみましょう。
 寂巌が住職になった時、山門内に四反四畝の土地がありましたが、確定した寺領ではありませんでした。そのため寂巌は粘り強く高松藩に働きかけて寺領への認可を勝ち取ります。寂巌はまた、当時の有力寺院が行っていたようように自力での新田開発に努めます。開発した田地は藩の検地を受け、寺領として寄附してもらうことを繰り返しています。
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三谷寺
法如も寂巌の方針に従い、山林の自力開発に努めたようで、宝暦七年(1757)五町二反九畝の新開地が検地を受け、高五七石八升三合が藩の寄附を受けて寺領となっています。
  この寺の「由来帳」には
「寛政十午年火災ニテ焼失スル」
とした書き込みが何カ所かにあります。この時期に伽藍の大半が焼け落ちたようです。しかし当時、寺は経済的に安定していました。
 例えば
天明二年(一七八二)「銀札六十貫目」(金一〇〇〇両)
寛政五年(一七九三)「銀札四十貫目」
を「郷中救方」として藩に差し上げています。
安永八年(一七九七)には不動院
寛政二年(一七九〇)には極楽寺
を再興しています。更に多くの山林を所有していました。また、有能な住職が長きに渡って信者を指導しており、信頼感も得ていました。さらに西日本一帯の修験道の人たちの支援を求める理源大師講等を組織して、広く資金を集める人脈もありました。このような経済的な豊かさが短期間の再建を可能にしたと考えられます。三谷寺は以前にも増した規模で復興するのです。どちらにしても真言系修験者のお寺なのです。
  
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それが今に伝わる三谷寺の伽藍です。
しかし、月日は過ぎ建物郡に痛みが多く見られます。一つの寺と檀家では、維持が難しい規模の建物の数のようにも思えます。この伽藍群が讃岐の宝として、次の世代に伝わっていって欲しいと願わずにはいられません。

参考文献 飯山町誌190P

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