瀬戸の島から

2019年09月

 
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金刀比羅宮の例祭は10月10日に行われるので地元では「十日(とうか)さん」と呼ばれています。神仏分離以前の金毘羅大権現時代の大祭は、お山の上で行われていた御頭人さんを中心とする祭礼行事でしたが、明治の神仏分離御によて一新されます。新たに麓に神事場が造成され、神幸(お下がり)とよばれる祭礼行列が金毘羅山から下りてくる姿になりました。この行列のひとつの呼び物が香川県内の各所から出仕された数多の奴振りの競演です。
 なぜ奴行列が、御神幸(お下がり)を先導するようになったのでしょうか?
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 私は小さい頃に、江戸の町火消しが金毘羅信仰に関わるようになって、灯籠などを寄進するようになった頃に行列に参加するようになったのがきっかけと近所の物知りおじさんに教えられた記憶があります。それ以来、そう信じてきたのですが近頃、どうも怪しく思うようになってきました。奴行列についての報告です。
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 奴行列は、大名行列をモチーフにした仮装行列が起源のようです。
  江戸時代の武士の従者(武家奉公人、奴さん)が挟箱・立傘・台笠・毛槍などを持って行列するものを奴行列といい、そのうち毛槍などを振り回したり投げ渡したりする所作を伴うと奴振りと分類されているようです
かつて民俗芸能の分野では、奴踊に分類されて説明されていたようですが、奴踊は素手で輪になって踊ります。それに対して奴振りは、特定の道具を持って所作をしながら移動するので、いまでは「行列風流」ととらえられているようです。
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民俗学は奴行列を、どう分類しているのでしょうか
 奴振りは、挟箱、毛槍、立傘、台笠の四つの道具を、奴がどれかひとつを持ちます。
挟箱とは衣類をいれるための箱で、一本の棹がついて片方の肩に乗せて運びます。行列の先頭にある場合は先箱、後ろにある場合は後箱(跡箱)などとも呼びます。
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毛槍は、長柄の槍の穂に、毛鞘をつけたもので、ヤクの毛の色によって白熊、赤熊、水鳥の羽の場合は白鳥毛、黒鳥毛、巨大な場合は大鳥毛などと呼びます。
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立傘は差しかける傘に袋を掛けたもの、台笠は頭に被る笠に長柄をとりつけ、袋を掛けたものです。
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奴振りに焦点を絞って祭礼行列を区分すると次の3つに分けることができます。
①行事の列(神官や僧侶の供揃え
②警固の列(行事を警固する武将の供揃え
③出し物の列(行列風流・見世物・趣向としての奴振り)
まず①は、奴行列の本質は主人に対する供揃えです。
これは神官、僧侶の格式を高める装置にもなったものです。
例えば、野辺送りの葬列に奴振りがみられた時代がありました。祭りを賑やかす行列仕立てが、しめやかな葬列行列に加わるというのは、今の私たちから見るといかにも不釣合いに思えるかもしれません。しかし、葬列つまり導師の僧侶の格式を表す供揃えとして奴なのです。僧侶の供揃えに奴行列がつく事例は、近江の湖東地域の寺院に伝わる近世文書でも確認できます。そこでは、葬列の一部に御導師人足や寺人足と呼ばれる僧列があり、奴行列がみられます。また、大阪の神社では、祭礼の際に葬儀業者が中心になって奴振りがおこなわれてきました。大阪の葬儀業者は、もともと大名行列の人足方であったことが分かっています。日常から神社仏閣等に出入りし、祭礼の際に棒頭として采配を振るい、奴行列をはじめさまざまな人足を手配したのです。この棒頭は、大阪天満宮は駕友、御霊神社は熊田屋、難波神社は阿波弥、熊野神社は平久と決っていました。そのため大阪のキタとミナミでは、奴振りの所作が異なったといいます。
 大阪の葬列に登場する奴振りは、死者へのセレモニーと、清浄なる神事との間を自在に行き来する身体は、葬列を構成する僧列の供揃えであることと、大名行列の人足方という葬儀業者の出自とに裏打ちされた上に成り立っていたといえます。
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②は江戸時代に①の行列を警護する役として派遣された警護の武士の行列です。
今風に言うとパトカー、警察騎馬隊の随行ということになるのでしょうか。奈良の春日若宮おん祭や、諏訪大社の御札祭では、武士の行列を模した奴振り行列が仕立てられています。それが江戸の明暦頃には、仮装の風流として祭礼行列にも取り入れられます。その後、独特の所作が「流行」し、歌舞伎舞踊に影響を与え、大名行列でも重宝されるようになります。
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③は、奴振り行列の所作を人々に見せるために、出し物として行列に取り入れられたものです。
伊勢の津八幡祭礼では、江戸初期の明暦年間(1655~58)には「大名行列の真似」が行列風流として登場していましたが、今は絶えているようです。どうして途絶えたのでしょうか?「所作を伴わない仮装行列(奴行列)たったため、飽きられたのだ」と研究者は考えています。
20160503053813292毛槍
奴振りの所作が、いつどのように始まったのでしょう?
 オランダ通詞のケンペルの日記から、元禄四~五年(1691)には奴が腕を水平に伸ばしたりして歩いてたことが印象に残ったのを面白く書いています。また、明和八年(1771)には奴の槍投げが禁止されています。禁止されると云うことは、そういう行為が行われていたということですから十八世紀前半に徐々に、奴がいろいろな所作を行うようになってきたことが分かります。
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さぬき市男山神社の奴道具
香川県は全国最多の奴行列王国?
 奴行列は、近世に北海道から鹿児島県まで、ほぼ全国に分布しており、500以上が報告されています。その中でも、香川県が最も濃密に分布しており、80近くあるようです。香川県に次いで多いのは鳥取県29、北海道26、大分県24、熊本県32、愛媛県22、京都府20、石川県が20例ですから、香川県はダントツの一位で「奴行列密集県」とも言えそうです。その中でも高松市香川町の「ひょうげ祭り」や三豊市山本町の「菅生神社の奴行列」は、市の無形民俗文化財に指定されています。
 奴行列(奴振り)はいろいろな名前で呼ばれているようです。
香川県の場合は、大名行列、奴、奴道中、奴子行列、鳶奴、道中奴、傘まわし、挟箱、投げ奴、子供奴、挟箱、練物、投げ奴、おはこ、とりけ、白熊、鳥毛、大練り、ヤッシッシ、ひょうげ祭りなど、名前を聞いただけでは何か分からないものまであります。

「奴行列は大名行列の仮装行列」といいました。
それを裏付けるかのように
「高松藩から道具一式をいただいた」(坂出市王越町木沢の奴)
「もとは高松藩の鳶奴」(丸亀市郡家町神野神社の奴)
といった伝承をもつ奴がいくつもあります。
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坂出市大越の喜佐渡神社の鋏箱 高松松平藩から下賜されたと伝えられ「三つ葵」紋が入る
香川県の奴振りの特色は、毛槍が中心と言えるようです
d_3_3_a毛槍

 毛槍は形状・素材によっていろいろな呼び方があり、混乱しそうです。そこでとりあえず、柄の先端部に動物の毛がついてふさふさしているものを毛槍、鳥の羽根を植付鳥槍仮名付けて分けておきましょう。
 まず引田の奴に代表されるような鳥毛槍のみのものは東かがわ市に多く見られます。他は諸道具の中のイッポン(一本道具)と呼ばれる巨大な粟の穂のようなものがあるぐらいで、他は毛槍ばかりです。毛槍・鳥毛槍は、槍の投げ渡しがポイントです。掛け声をかけながら数歩進んでは、投げ渡すします。奴の道具立てはこの他に、はさみ箱・ し槍・薙刀・台傘立傘などがあり、大きな奴になると貝吹きやぞうり、傘まわし、提灯持ちなどがつくところもあります。
 はさみ箱は単に奴といえばこれを指すところも多く、芸としては前後にゆすってカラカラと音をさせたり、受け渡しをする程度です。その中で三豊市山本町神田の立石奴はオハコ(お箱)といってはさみ箱がさまざまな芸をします。全部で十二の芸があるそうで、県下では他に見られないめづらしいものです。
槍や薙刀は行列の先頭で、道中の清めとするものとされます。
薙刀は行列に先立って曲振りをし、それから芸がはじまります。三木町などでは天狗が薙刀と拍子木を持っていて柝を打って先導役を務めるところもあります。
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まんのう町諏訪神社の念仏踊りの薙刀
槍には先端が蒲の穂のようになったものと、丸い球状のものがついたタマヤリ、それに六角や八角の台状のものがついた天目槍がある。
 いずれも出発に先立って場を清めますが、左右に数回振って出発するところもあれば、立って振り、しゃがんで振りとていねいに行う組もあり、さまざまです。
 傘まわしは傘振りともいい、たたんだ唐傘をバトンよろしくさまざまに操りながら行列を進む芸です。またぞうりは近年ほとんど見られなくなりましたが、両手に各々紙緒のぞうりを一足づつ持ち、芸をしながら進みます。
 高松市鬼無町山口に伝承されていた大奴では、トウニンサン(頭家の主)の前や神前で奉納する芸をトリマイといい、この時には傘とぞうりが中心だったようです。
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 丸亀市や善通寺市の一部では、お下がり前や御旅所で奴道具を円錐状に立てかけ、その周囲をまわりながら歌をうたうところがあります。飯山町東小川では甚句を歌い「ここらあたりで甚句はやめて 当世はやりの早口と切りかえよ」というと今までとは逆まわりになり、早口にかわります。甚句は七七七五調の短い文句、早口は長いものが多く、ちょっぴり艶ぽいものです。
 さぬき市寒川町神前の男山神社では奴は氏子各集落からその年に当った役を出していますが、この内、提灯持ちが当った地区は子どもが掛けあいで歌をうたい、その歌は毎年新しく創られたオリジナル新作です。
「奴振り用具」

 奴の奉納組織はお宮付きで、氏子地区が順番に出すという形式のものが多いようです。
東かがわ市あたりでは、獅子と同じように集落単位で奴を出すところもあるようです。またさぬき市の神前地区や造田地区では氏子各地区が奴を分けて奉納するという形式で、はさみ箱だけは決まった地区が奉納するという形式のようです。
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小豆島では奴のことをネリといいます。
 福田のネリは薙刀が中心で奉納されます。また池田のネリは奴行列の最後尾にその年に話題になったものなどを造って乗せたダシが出ます。池田のネリも歌いながら道中をしますがやはり艶笑的なものが多いようです。
さて、小豆島のヤッシッシです。
名前の響きだけでも面白いし、一度耳にしたら忘れません。ここでは毛槍を持って所作をしながら輪になって踊ります。奴振りと奴踊が融合版です。ヤッシッシは、赤揮に白足袋、頭に鉢巻きをした姿で、毛槍は柄が短く、いわば大名行列の奴振りパロディ版なのかもしれません。
「ここから江戸まで三百里、どうーしてーや、はだかで道中なるものか、どういうこっちゃな、やーし^-し」
「あねさんそこらにおらんすな、どうーしてーや、おいらの赤ふんすぐとれる、あぶないごっちゃな、やーしーし」
といった歌詞に合わせて踊りますが、なんとも面白い。
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ひょうげ祀り 
おどけるとか、滑稽という意味の「ひょうげる」を冠した高松市香川町のひょうげ祭りはパロディ版の最たるモノです。挟箱の棹部は青竹で箱部は金紙を貼ったもので、毛槍も青竹の先に、傘状の藁束を取り付けたものです。
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一応、毛槍の投げ渡しの所作はあります。ひょうげ祭は、奴振りだけでなく、神幸行列のすべての道具、衣装がパロディであり、庶民のユーモアと風刺とおおらかさを感じるユニークな祭礼行列です。これを始めた先祖に、最敬礼です。
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 ことしも各地の奴たちが登場する季節が近づいてきました。

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参考文献 香川・瀬戸内の風流 祭礼百態

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本妙寺
坂出から丸亀を結ぶ宇多津の旧街道を宇夫階神社を目指して歩いていると、いろいろな宗派のお寺さんが並びます。お遍路さんで賑わう郷照寺を通り越して、歩いて行くと広い参道が山に向かって伸びています。その向こうには城郭のような石垣が見えます。
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日隆像(宇多津の本妙寺) 

気まぐれに入っていくと二つの大きな銅像が山門入口で迎えてくれました。一方は日蓮、そしてもう一方は日隆と刻まれています。日蓮は、私にも法華教の開祖と分かります。しかし、日隆ってだあーれ?という印象でした。日隆という未知の人物とともに、本妙寺という寺に興味を覚えました。法華教だから鎌倉時代の東遷御家人として、東国からやって来た秋山氏に関係があるのかなくらいに思ったのを覚えています。
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本妙寺の日蓮と日隆像
 その後、何度か史料も中でこの本妙寺に出会う中で、日隆の果たした役割や当時の法華教団の動きなどがおぼろげながら私にも見えてくるようになりました。ということで、日隆という人物と本妙寺について、参考文献をもとにまとめておくことにします。

本妙寺には、日隆自筆の文書が幾つか伝わっています
まず宝徳二年(1450)2月に定めた讃州宇多津弘教院法度の條書には次のように記されます。
  定 讃州宇足津弘教院法度條々事
   一 無退転可有弘通事
   一 守本寺之大旨、可為壇那成敗事
   一 寺家造栄之事、惣壇那而可取成事
   一 公事等出来之時者、惣壇那而可為勤仕事
   一 時之住持於旦那而不可相計事
    右、守此旨、師壇共卜不可有聞如、
    但、寺家之事者、惣旦那中一味同心経談合、可然様可被相計者也、の為後代所定如件
  宝徳二年二月下旬
  摂州尼崎本興寺住持 日隆(花押)
ここには日隆が宇多津弘教院に下した法度状です。
退転なく弘通することと、
本寺たる本興寺に従うこと、
寺家のことは、惣檀那と相談しておこなうこと、
などが定められています。
最後の日隆の肩書きに注目して下さい。尼崎の本興寺の住職となっています。つまり、この法度(信仰誓約書)は、弘教院と呼ばれていた法華堂に集う法華信者たちに、尼崎・本興寺の日隆が下したものです。年号のある宝徳2年(1450)の時点で、宇多津法花堂(弘教院)が尼崎本興寺との間に本末関係を結び、日隆のもとに帰属したことがわかります。

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本妙寺山門
また、第三条に「寺家造栄之事」とあります。ここからは、この頃に弘経院では本堂などの建築工事が予定されていたことがうかがえます。そしてその2年後に、次のような日隆から寺号授与状が下されています。
 右所授与如件
 授与之 寺号事  宝徳年七月下旬
  本門法華宗      日隆(花押)
  可称 本妙寺  讃岐国宇多津
寺号を「本妙寺と称すべし」と寺号が授与されています。この文書は、先の法度状と同筆で、日隆自筆とされています。2年前には宇多津の弘教院という法華堂に集まる法華信徒(檀那)集団という段階から正式の寺号を持つ本妙寺へとグレードアップしています。

宇多津 本妙寺
 本妙寺

さて、日隆とは何者なのでしょうか?最初に年表を掲げておきます
至徳 2(1385)年 越中国浅井島村に桃井右馬頭尚儀公の子として生。
応永 5(1398)年 14歳で京都妙本寺で得度
応永25(1418)年 妙本寺退出後、河内三井村に難を避ける
応永27(1420)年 尼崎に本興寺建立の端緒を得、
応永30(1423)年 摂津守護細川満元の支援により尼崎に本興寺を興す。
応永32(1426)年 越中国に向い、色ケ浜における祈祷により禅宗金泉庵義乗を改宗させ、さらに敦賀では真言宗大正寺円海を帰伏させて本勝寺を得た。
永享 元(1429)年には京に本応寺を再建
永享11(1429)年には、河内に布教して加納の法華寺を得る
永享 5(1433)年 京都本能寺を創建した。
文安 2(1445)年 宇多津船籍の兵庫北関通関数が47隻 宇多津は讃岐随一の港町
宝徳 元(1449)年 西国布教を志し、牛窓本蓮寺を改宗させ、
          備中高松では川上道蓮を教化して本隆寺を建立し、
            讃岐宇多津に本妙寺建立の基を開き、
            帰っては兵庫の久遠寺を末寺とした。
宝徳二年(1450)年2月 日隆が讃州宇多津弘教院へ法度の定書下す
宝徳 2(1451)  堺に顕本寺を建立。
寛政 5(1464)年 尼崎にて八十歳にて没 
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本妙寺

日隆は法華宗の開祖日蓮の時代から百年以上後の人物のようです。彼は、当時の法華宗を「習損い」と批判し、法華宗再興運動を進めます。上の年表をからは各地に布教し、多くの寺院の建立や復興を行っています。その数は、近畿一円から北陸、岡山・讃岐方面にかけて計14カ寺を数えます。その拠点になったのが京都本能寺と尼崎本興寺です。ここを拠点として、敦賀、河内、堺、兵庫、牛窓、宇多津などの交通の要衝の地に寺院を配置し、弟子、信者などを得たことが分かります。晩年は、尼崎の本興寺に入り膨大な著作の執筆活動と弟子の養成に尽力し、81歳の生涯を閉じます。
 本門法華教では、日隆を「蓮師後身 本因下種再興正導 門祖日隆聖人」と呼ぶそうです。
「蓮師後身」とは「日蓮聖人の生まれ変わり」という意味です。日蓮が亡くなったのが弘安5年10月13日で、その約101年後の至徳2年10月14日に日隆が誕生したことによるようです。宇多津の本妙寺の山門の前に、日蓮と日隆の大きな像が立ち並んでいる訳がなんとなく分かってきました。

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本妙寺から聖通寺山方面
ここまで見てきて私が疑問に思ったこと
①なぜ尼崎を拠点としたのか?
②なぜ瀬戸内海の港町である牛窓・備中高松・宇多津・兵庫に布教活動を行ったのか
③日隆の教えを受入れて信徒集団を構成した人たちは、どんなひとたちだったのか
④瀬戸内海布教のための教団組織は

疑問を解くために、日隆の伝記書から瀬戸内海への布教についてみてみましょう。
 本能寺・本興寺開祖日隆大聖人略縁趣(日憲)
大上人(日隆)は本興寺居たまへて 是より弘法を西国ひろめんとほっしたまへて まづ兵庫の津(神戸)に行せたもふて町宿をもとめたもふ 処宿の宅主あしらい鄭重也 翌日わかれをつげて曰く 予深くなんじが厚志をかんずるゆへに此物を預る但 風呂鋪也 他日我かえりきたるまでつつしんで防護せよと 
 
西国弘法(布教)は、拠点である尼崎の本興寺から出発します。まずは西国から海のハイウエーである瀬戸内海東へ登る船が立ち寄らなければならなかったのが兵庫(神戸)港でした。ここには東大寺の「海の関所」が置かれ、大坂に向かう船はここで関銭を納めるシステムが当時はありました。そんなこともあって兵庫港は平清盛以来、瀬戸内海における最大の交易都市でした。
 この宿の主人との間の風呂敷袋を預けるエピソードが挿入されます。これが久遠寺建立へとつながります。

 是より西国趣二せたもふて まづ備中の国新庄村にいたりたもふ 村中の酋長 川上道蓮・江本蓮光といふ 七月にせったい供養をおこのふ 大上人此供養のかりや入らせたもふて右の酋長のものと清談の時をうつしたもふ 酋長大上人をとものふて我家に帰り本門の深秘をとききかせたもふ所 信伏随喜して蓮光道蓮力をあはせ仮に堂をいとなみ 村中の老若をあつめ聞法結縁をせしめさせたまへ一村こぞって受戒して則一院を創々する 是本隆寺と号(略)

 兵庫(神戸)港から向かったのは牛窓かとおもいきや備中の新庄村です。今は総社ICの近くで海岸線から遠く離れているように思えます。しかし、この付近は古代の吉備王国の核心部で「吉備の穴海」と呼ばれる入り江がすぐ近くまで入り込んでいました。その海が新田開発されるのは江戸時代になってからです。中世は児島湾から足守川を逆上れば、本隆寺の背後の庚申山のすぐ東の川港に着くことができました。そういう意味では、ここも水運を利用すると便利な場所だったようです。そこでは、村長の蓮光道蓮力をはじめ村人の心をつかみ「一村こぞって受戒」し、本隆寺が開かれます。

 是より讃州卯辰の浜つかせたもふて 大きに宗風を振はせたもふて 周く撃毒破則一院を創たもふて本妙寺と号

宇多津での布教活動に触れているのはこれだけです。讃岐の法華集団と云えば、東遷御家人の秋山氏が建立した三豊の本門寺が「皆法華」の隆盛を誇っていましたが、そこには立ち寄った気配はありません。備讃瀬戸を超えて宇多津の地にやってきます。ここでも布教活動の成果として「一院を創った」とあります。これが最初に見た宇足津弘教院なのでしょう。

享徳二酉年大上人 尼崎へ帰らせたもふ また御かえりがけ兵庫旅宿したもふて亭主御たいめん遊はされし所 亭主大きによろこび先達御預居しもの取出し大上人へ差出 大上人笑はせたもふて亭主まことに正直の人也 今よりして正直やと致べくよし仰ければ 難有請受申てけて、ここにおいて大きに宗義をとなへ一寺建立ある すなわち久遠寺坊舎十二宇

   そして、吉備・讃岐への布教活動を終えて尼崎に帰っていくのですが、その際に立ち寄るのが兵庫港です。そこで風呂敷を預けた宿の亭主を信者にし、久遠寺を建立させます。
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本妙寺(宇多津)
日隆が布教対象としのは、どんなひとたちだったのでしょうか
日隆が瀬戸内海への布教活動を行った同時代の史料として「兵庫北関入船納帳」があります。これは、文安二年(1455)3月3日から12月29日までに摂津国兵庫津の北関を通過した船舶の船籍地・積載品目・数量・関料・納付月日・船頭・船主(問丸)の各項目を列記した記録簿(通行記録)です。この船の船主(問丸)の中に日隆聖人と関係がある人物名があるのが分かってきました。例えば問丸として記されている「衛門太郎」は、日隆が宝徳三年(1451)12月3日に曼荼羅本尊を与えた「信男衛門太郎 法名道妙」と同一人物のようです。
また船頭と記されている「衛門二郎」も、聖人自筆の「寺領屋敷地所当収納日記」中に永享二年(1430)11月28日付で京の千代寿に土地を売却した「奈良屋衛門二郎」と一致します。。
 「兵庫北関入船納帳」には記されていませんが、「衛門五郎」にも注目点があります。
「衛門五郎」についてみると嘉吉三年(1441)七月下旬に、聖人より曼荼羅本尊を授与された「信男妙浄衛門五郎」(本能寺蔵)です。彼は「収納日記」の中で、日隆に本興寺敷地として五貫文で屋敷地を売却した者として記されています。このことから、衛門五郎は初めは日隆に対してビジネス相手として対応していた関係が、時を経るに従って信者の立場に変ったのではないかと研究者は指摘します。
 もしそうであるなら、日隆の信者獲得や瀬戸内海沿岸布教について、具体的な姿が浮んできます。こんなSTORYが作れないでしょうか。
日隆の信者たちの中に、町衆と呼ばれる富裕な商人たちがいました。その金持ちとは、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭などです。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を願い、支援したかもしれません。

 岡山牛窓の本蓮寺については、堂塔が整備できたのは石原氏の貢献が大きかったと伝わります。
石原氏の一族の石原遷幸は土豪型船持層で、船を持ち運輸と交易に関係したようです。石原氏の一族が自分の持ち舟に乗り、時折、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくというSTORYは考えられることです
 このように日隆が布教活動を行い新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆の何らかのつながりのあったことることが見えてきます。
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宇多津湊 「讃岐国名勝図会」巻之10、江戸後期、松岡信正画

それでは、当時の商業交易圈と信仰伝播の方法の関係を探っていきたいのですが、
その前に問丸とは何かを「学習」しておきます。
古代の荘園の年貢輸送は、荘園領主に従属していた「梶取(かじとり)」によっておこなわれていました。彼らは自前の船を持たない雇われ船長でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、問丸の手が必要となるのです。
荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
 このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。先に述べたように、日隆の信徒の中にはこのような裕福な問丸達がいたようです。そして、彼らは牛窓と同じように讃岐の宇多津で海上交易に活躍する人々と人的なネットワークを張り巡らし、情報交換を行っていたのでしょう。
その中に服装や宗教などの文化情報も含まれています。あらたな流派の宗教活動についても強い好奇心と関心を彼らは持っていたはずです。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、日隆の瀬戸内海布教活動は行われたというのが私のいまの仮説です。
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本妙寺
最後に、日隆がこのような布教活動を行ったのはなぜでしょうか?
日隆が尊敬する大覚大僧正の跡をたどたのではないかというのが一つの考えです。ルート場には、妙顕寺末からの転派寺院が多くあることから想像されることのようです。
もう一つは、先師の大覚大僧正が布教と共に妙顕寺維持のための銭貨を集めて本寺に送った例があります。これを知っていた日隆は65歳という高齢ながら、本興寺や本能寺護持や勧学院運営のための財源確保というような目的もあったのではないかと考える研究者もいるようです。そうだとすれば布教活動だけでなく「募金活動」も含まれていたということになります。そして、それならお金を持っている人が多く住んでいる瀬戸内海の各港町を訪れたというのもよりリアルに納得できます。

  参考文献 小西轍隆 日隆聖人の瀬戸内海沿岸布教についての一試論
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 讃岐で一番古い寺院と云えば? 
昔は、国府の置かれた府中の開法寺が讃岐で一番古いと云われていた時期もあったようですが、今では妙音寺が讃岐最古の古代寺院とされているようです。妙音寺と聞いても、馴染みがありませんが、地元では宝積院と呼ばれています。四国霊場第70番本山寺の奥の院でもあります。
まずは現場に足を運んでみましょう。
 四国霊場本山寺は国宝の本堂と明治の五重の塔で知られていますが、その奥の院と言われる妙音寺まで足を伸ばす人はあまりいません。本山寺が平地に建つ寺とすれば、妙音寺は丘の上に建つ寺という印象を受けます。「広々とした沃野が展開し、そこには条里制の遺跡が現在している」というイメージではありません。妙音寺の北側の尾根上では、古墳や8世紀代の遺物を出土した茶ノ岡遺跡やがあることから、低い平な尾根の上に古代集落が存在したようです。
「香川県妙音寺」の画像検索結果
さて、古代寺院を攻める場合には瓦が武器になりますが、古代瓦は私のような素人にとってはなかなか分かりにくので簡単に要約します
①妙音寺出土の軒丸瓦は6種7型式が出てくる
②この中で一番古いものは十一葉素弁蓮華文軒丸瓦M0101モデルの「高句麗系」のデザイン
③このM0101モデルは、大和・豊浦寺出土瓦とデザインが似ている
④作成時期は「瓦当の薄作りや、丸瓦を瓦当頂部で接合するといった技法の特徴は7世紀前半的だが、文様の構成や畿内での原型式からの変容が著しい点」
を考えると年代的には、630年代末~670年代頃の作成が考えられるようです。つまり壬申の乱に先行する形で建立が進められたことになります。
続いて登場するタイプが軒丸瓦MO102A ・ B型式とM0103型式です。

 これらは百済大寺で最初に使われた「山田寺式」の系譜に連なる瓦です。
ところで、これらの軒丸瓦はどこで生産されていたと思われますか
妙音寺の瓦は隣の三野町の宗吉瓦窯で焼かれていましたが、そこでは藤原京の宮殿造営のための瓦も同時に焼いていたのです。つまり妙音寺用のM0102A・Bや同103モデルは藤原宮軒丸瓦6278B型の瓦と同じ場所で同じ時期に作られていたことになります。
 妙音寺から出土した瓦は、650~670年代の幅の始まり、90年代にほぼ終了したと考えられるようです。ここから建立もこの時期のこととなります。瓦が年代をきめます。
 妙音寺の創建時に高句麗式と山田寺式の新旧の2つの瓦が使われていることをどう考えればいいのでしょうか。
新旧の瓦に年代差があるのは、出来上がった建物毎に瓦を焼いて、葺いていったということでしょう。古代寺院の建設は、まず本尊を安置する金堂から着手するのが通例です。そうだとすれば、最初の「高句麗系」瓦は金堂に、次いで「山田寺式」瓦はその後に出来上がった塔や回廊・中門に葺かれたと考えられます。

 その場合、垂木先瓦や隅木先瓦が使われているので、塔が建立されていたと研究者は見ています。讃岐で垂木先・隅木先瓦が出土した寺院は妙音寺のみで、讃岐最古の寺院にふさわしい荘厳がされたようです。
なぜ地方豪族達は、競うように寺院を建立し始めたのでしょうか? 
  その謎解きのために目を美濃国の周辺に移してみましょう。
壬申の乱後に成立した天武朝になると、各地域の豪族はステイタスシンボルとして寺院建立が進められます。その背景は、地域で確立した強大な生産力でしたが、さらなる目的は官僚機構への参入でした。そのモデルが美濃の川原寺式軒瓦を持つ古代寺院です。美濃地域の古代寺院の建立は7世紀中頃に始まり、最初は3か寺ほどでした。尾張・伊勢の場合も同様です。ところが7世紀後半になると、川原寺式軒瓦で葺かれた寺が一挙に17か寺にも急増するのです。この傾向は尾張西部や伊勢北部の美濃に隣接する地域でも見られます。これは一体何が起こったのでしょうか?
  
それは壬申の乱に関係があるようです。
 天武天皇の壬申の乱の勝利への思いは強く、戦いに貢献した功臣への酬いは、さまざまな功賞として表されました。その論功は持統天皇へ、さらに奈良時代に至っても功臣の子々にまで及びました。例えば、乱でもっとも活躍が目立つ村国男依〔むらくにのおより〕は死に際し最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立を認めたのです。美濃や周辺の豪族による造寺に至るプロセスには、壬申の乱の論功行賞を契機として寺院を建立し、さらなる次のステップである央官僚組織への進出を窺うという地方豪族の目論見が見え隠れします。
 このような中で讃岐の三豊の豪族も藤原京造営への瓦供出という卓越した技術力を発揮し「論功行賞」として妙音寺の造営を認められたのではないでしょうか。
ちなみに、かつての前方後円墳と同じく寺院も中央政権の許可無く造営できるものではありませんでした。また寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていたとされます。どちらにしても中央政府の認可と援助なくしては寺院はできなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す物として機能します。
妙音寺の瓦は、どんなモデルなの
妙音寺の周辺には忌部神社があり「古代阿波との関係の深い忌部氏によって開かれた」というのが伝承です。果たしてそうなのでしょうか。讃岐で他の豪族に魁けて、仏教寺院の建立をなしえる技術と力を持った氏族とは?
 先ほど、これらの瓦は宗吉瓦窯で生産されたこと、その中でも創建期第2段階に生産されたM0103モデルは藤原宮式の影響を受けていることを述べました。研究者は、そこから進めて「藤原造宮事業への参画を契機に妙音寺は完成した」と見るのです。
 「 宗吉瓦窯」の画像検索結果
 妙音寺の創建第1段階の「高句麗系」瓦は、畿内では「型落ち」のデザインでした。
そして第2段階の妙音寺の所用瓦も最新形式の藤原宮式でなく、デザイン系譜としては時代遅れの「山田寺式」なのです。藤原京に船で運ばれるのは最新モデルで、地元の妙音寺に運ばれるのは型落ちモデルということになります。これは何を物語るのでしょうか。
 こうした現象は、政権中枢を構成する畿内勢力とその外縁地域との技術伝播のあり方を物語るもののなのでしょう。もっとストレートに言えば畿内と機内外(讃岐)との「格差政策」の一貫なのかも知れません。
 三野の宗吉瓦窯を経営する氏族と妙音寺を建立した氏族は同じ氏族であった可能性が高いと研究者は考えています。それにも関わらず中央政権は、讃岐在住の氏族への論功行賞として妙音寺に最新式の藤原宮式瓦の使用を許さなかったとしておきましょう。
「 宗吉瓦窯」の画像検索結果
 


  
参考文献
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

四国学院のキャンパス内を南海道が通っていた?
古代善通寺地図

南海道想定ルート 四国学院のキャンパス内を横断している

四国学院の図書館新築に伴う発掘調査が2003年に行われました。その際に出てきた条里制の溝が南海道に付属する遺構ではないかとされています。その後、飯山町のバイパス工事に伴う遺構からも同じような溝が検出されました。その溝は条里制に沿って飯山町と四国学院を東西に一直線に結んでいることが分かりました。ますます古代南海道跡であるとの「状況証拠」が強まりつつあります。

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 飯山町岸の上遺跡の推定南海道の溝跡
旧来は南海道は、伊予街道と同じで鳥坂峠を越えているとする説が有力でした。しかし「考古学的発見」がそれを塗り替えています。どのような形で南海道のルートは明らかになっていったのでしょうか? 
四国学院大学は、戦前には旧陸軍第十一師団の騎兵隊の兵舎があったところです。
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現在でも二号館やホワイトハウスは騎兵隊の建物をそのまま使っています。戦前は、ここで馬が飼われ広い敷地では騎兵訓練が行われていたのです。
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   我拝師山をバックに建つホワイトハウス 旧騎兵隊施設
そのキャンパスの中に新しい図書館を建設することになり、発掘調査が2003年に行われました。考古学の発掘調査からどんなことが分かったのでしょうか? 
普段は、あまり読まない発掘調査報告集のページをめくってみましょう。
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新設された図書館
古代は、四国学院がある所はどんな場所だったのでしょうか?
調査報告書は、図書館敷地(発掘現場)周辺の現在地勢を確認していきます。それによると、この付近は旧金倉川の氾濫原西側の標高約31mの微高地の上にあります。北西約500mにある善通寺旧境内よりも約5m高いようです。
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また、発掘後に新しくできた図書館の東側には今は人工の小川が流れています。ところが古代にも、ここには旧金倉川の旧河道があったことが分かりました。その伏流水は、今でも四国学院敷地東側の市道の暗渠になった溝の中を流れているそうです。
 遺跡の西側は、護国神社・旧善通寺西高校の間には道路を挟んで約1,5mの高低差があり、小河川(中谷川)が流れています。この河川が遺跡の西端を示しているようです。南側は、市道拡張時に立会調査を行った結果、ここからも旧河道が出てきました。この旧河道が、この遺跡と生野本町遺跡を区切っていたようです。
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 以上から、この遺跡は東西南の三方を河川で区切られ微髙地にあったようで、
学校敷地の北西側を中心に東西400m、南北250mの範囲に広がっていると考えられます。この内2003年の調査区は図書館建設予定地全域で、広さは南北41.5m、東西33mでした。
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ホワイトハウスとその隣の図書館

時代順に発掘現場を覗いてみましょう。
第1期:弥生時代後期 灌漑用の溝のみ 住宅地はなし
 遺物が出てくるのは、弥生時代後期からです。この面からは竪穴住居など集落に直接かかわるものは出てきませんでした。しかし、注目すべきは「溝3」で、北西から南東万向に横断し、幅約2m、深さ0.5mで、断面V字状で非常に深く溝内からは弥生土器が出土しています。この溝は、この遺跡の500㍍北にある旧練兵場遺跡の濯漑用の溝と規模・形状が似ています。「溝3」が濯漑用の幹線水路で、そこから導水する水路が幾本も伸びていたようです。
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ここで思い出したのが善通寺一円保絵図(上図)です。
これは中世に起きた水争いの裁判の際に、当時の名主達が作成したと云われています。真ん中にあるのが善通寺で、三層(?)の本堂と、二重塔(多宝塔?)が現在地に描かれています。そして、その西方には誕生院も姿を見せています。有岡大池を源流とする弘田川が誕生院の裏を弘田川が流れています。注目すべきは東南(地図左上)の水源です。これは現在の壱岐と二頭の湧水と考えられています。ここからの水が用水路を通じて西に流され、条里制に沿って北側に分水されている様子がうかがえます。特に二頭からの導水された水は東中学校の前を通って、四国学院の南に導かれていたように思えます。

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一円保絵図の拡大図
このような灌漑設備が弥生時代後期に遡る可能性があります。四国学院内のこの溝を流れていたを流れていた水は二頭湧水からもたらされ、旧練兵場方面に導水された可能性があることを記憶に留めておきます。
本論に戻りますが、この時代の四国学院キャンパスは水田でした。人が住む集落は北側の現在の市街地周辺にあったようです。
第II期:7世紀前半~中葉    集落が形成される時期です。
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 蘇我氏が全盛を誇る7世紀前半に、水田だった所に竪穴住居・掘立柱建物、大規模な溝が相次いで現れます。しかも竪穴住居が6基が同時期に作られます。主軸を同じくする掘立柱建物3棟も作られ、また小規模な掘立柱建物や柵列も作られ集落としての姿が整います。これを「四国学院村」と名付けておきましょう。
注目したいのは、掘立柱建物を壊して短期間の内に条里地割に沿って集落内の建物が計画的に配置・整理されている点です。これは条里地割りのに伴う「開発整備」が行われたと見ることができます。
 もうひとつの注目点は東西に掘られた溝が、条里地割りである溝1の南側約9.0mに平行している点です。これを両側の溝に挟まれた部分の解釈として、余剰帯や道であった可能性が考えられます。これが南海道に結びついていくのです。
第3期:7世紀後半~末   竪穴住居などの建物はほとんどが廃絶
 遺構としては溝は3本残りますが、四国学院村の建物はほとんどが姿を消します。つまりこの時期には集落としての機能は終わり、溝のみが残っていたようです。
近 代
古代後半から近世にかけての遺構は全くでてきませんでした。田畑などに利用されていたようです。明治後半になると、この場所は旧陸軍の用地として使用されることになります。この時期の遺構として掘立柱建物が出てきました。この建物は2間×4間の大型のもので柵で区切られていることなどから、第十一師団騎兵隊の兵舎や厩舎と考えられます。

以上から四国学院大学構内遺跡は7世紀前半から中葉が遺跡の中心であったと考えられるようです。この時期に竪穴住居、掘立柱建物、溝が一斉に展開します。そして7世紀後半になると急に姿を消すのです。
四国学院側 条里6条と7条ライン
この時期の様子を善通寺周辺遺跡と比較してみましょう。
 近接する遺跡として、南西約0.3kmの位置に所在する生野本町遺跡があります。旧善通寺西高校のグランド作成の際に発掘されたこの遺跡は、柵で囲まれた条里地割と平行あるいは直交する溝が出てきました。報告者は、この溝を区画溝群と評価し、7世紀後半~8世紀前半の時期としています。また、この遺跡の柵列を掘立柱建物の一部と解釈すると約50㎡に復元でき、郡衛など官衛的要素を持った建物群と考えることもできる遺跡です
 さらに、南接する生野南口遺跡からは、40㎡を超える庇付大型掘立柱建物が出てきました。転用硯も出土しているので、二つの遺跡を含むこの一帯は、庶民が居住する集落とは異なる性格をもつと考えられ、多度郡衛の関連施設と推定されます。そうだとすれば空海の先祖達は、国造としてここで多度郡の政務を執っていたのかもしれません。伝えられるように空海が香色山の麓の佐伯家本宅で生まれたとすれば、そこから空海の父は、ここまで通っていたことになります。

 一方、四国学院大学構内の遺跡では、最大の掘立柱建物でさえも約25㎡程度で、大型の掘立柱建物の基準(40㎡以上)には及びません。統一性のない建物配置からも「官衛的要素」は見られず一般集落であったようです。ただし、一般集落からは出てこない「異質な遺物」が出土しています。
「四国学院村」から出てきた珍しいものは?
 土師質土玉・フイゴの羽口・須恵器・円面硯・瓦が出てきました。
 土師質土玉は竪穴住居の竃中から出土しました。住居を廃絶する時に祭礼用具として使用されたものと考えられます。このような風習は古墳時代にもみられ、旧練兵場遺跡の古墳時代の住居の竃中からも土玉が出てきました。住居を壊して土に返す際に、土玉を置いて祈るという風習が四国学院にあった村にも継続されているようです。
 フイゴの羽口は、住宅内や溝から破片が出土しています。関連遺物と考えられる鉄犀が溝から、砥石が竪穴住居から出土しました。しかし、点数が少ないことや周囲に炉跡遺構も確認されなかったことから、精錬・鍛冶などの製作集団による工房があったとは言えないようです。集落内での日常的な道具の製作など小規模に操業されていたと考えられています。
遺物からみた「四国学院村」の性格は?
硯や瓦の存在は、当遺跡の性格を知る上で重要です。硯は、文字が読み書きできる高位の一部の者しか持てなかったものです。また瓦は、中村廃寺出土瓦と同箔ですが出土個数が少なく、ここにに瓦葺の建物があったとは考えられません。屋根瓦としてではなく、何らか別の理由でここに運び込まれたものでしょう。どちらにしても、ここに住んでいた人が仲村廃寺と何らかの関係があったことは考えられます。
 以上から、この遺跡あるいは周辺に仲村廃寺と関係のある集団の拠点があったことがうかがえます。その集団とは、善通寺地区の「王家の谷」である有岡地区に首長墓である前方後円墳を東西に一列に並べて何世代にも渡り造営し続けた佐伯氏以外には考えられません。佐伯氏は、仏教が伝わるといち早く古墳造営から古代寺院建立へと切り替え、中村廃寺を造営します。その瓦制作にこの村の住人達も関わっていたのかも知れません。
発掘された溝と条里制の地割の関係を探っていくと
 
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これで普通の発掘報告書は終わるのです。ところがこの報告書の凄いところはここからです。図書館敷地に残る溝が、多度郡の条里制の地割のどの部分に当たるのかを丁寧に当てはめていったのです。それが南海道発見につながる糸口となって行きます。
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赤い実線が条里制地割 点線が南海道推定ルート

 
調査区域である図書館敷地の南端には、条里型地割に平行する溝があることが分かりました。この溝が条里型地割であることを、どうすれば証明できるのでしょうか? 細かいデーターを地図上に落とし込んだ結果、溝は坪界溝とほぼ合致することが分かりました。すなわち、東西方向の溝が里境の溝だったのです。
 次に発掘調査により検出した条里型地割の遺構などを元に、さらに大縮尺の地図にはめ込みると、東西方向の溝は多度郡六里と七里の境の溝であったことが分かりました。
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ピンクの部分が南海道 幅は8~9㍍ その両側に溝がある

さらに、先行する研究者は南海道を次のように想定していました
鵜足郡六里・七里境、
那珂郡十三里・十四里境、
多度郡六里・七里境を直進的に西進し、
善通寺市香色山南麓にいたる直線道路を想定。(金田1987)
つまり、この溝が多度郡の六里と七里の境界であるとすれば、予想していた南海道の位置とピッタリ合うことになります。そして道の両側には溝があるのです。
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 以上の想定を、出てきた溝と合せてみると・・・
① 溝1南側の溝状遺構群を一連の遺構としたときの幅は?
  幅は東側で9m、中央付近で約8.5m、西側で約8.5mと、ほぼ平行しています。
② 県内で発掘された南海道駅路推定地の幅約12m、三谷中原遺跡の幅約10mよりは細いものの、他の伝路が幅6m程度の所もあるので、この遺構か南海道であった可能性は否定できないと結論づけます。
発掘調査報告会の時点で注目されたのは?
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「空海の生まれた時代の村か 佐伯氏の村か」などの新聞の見出し記事に見られるとおり、空海との関連についてでした。南海道についてはあまり関心は持たれなかったのです。ところが、後の発掘で飯山町のバイパス工事現場でも同じような南海道推定ライン上に二条の平行する溝が検出されたのです。そして、その地点と善通寺の四国学院の溝とは一直線につながることが分かってきたました。こうして旧来の鳥坂峠越えの伊予街道=南海道説は舞台から姿を消しつつあります。それに代わって条里制沿いに側溝をもつ9~6㍍の大道が南海道であることが定説になってきました。
その発見のきっかけが四国学院の図書館工事に伴う発掘調査だったのです。

参考文献  県教委 四国学院大学校内遺跡 発掘調査報告書2003年


   海岸線が高松藩から金毘羅さんに寄進された!    
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江戸時代の後半の文政八年(1825)の2月に、高松藩は金毘羅大権現へ宇足津の寄洲を寄付します。高松藩からの通知には、次のようにあります。
「此度、殿様御心願在らせられ候二付き、鵜足郡土器村川裾より阿野郡堺迄之内海辺砂州 金毘羅神領御供用二土地寄進遊ばさるべきべき旨仰せ出され候二付き、其の段金光院え申し渡し畝間、郡奉行所役人指しだし取調の上、際面札立て右土地引渡申すべく候」
殿様(松平頼恕)の心願によって海辺砂州が寄付され、金毘羅大権現の金光院に寄付されたという札が立てられたようです。寄州とは、河口や海岸などに、土砂が風波で吹き寄せられてできた州のことで、宇多津には大束川河口に広い寄州があったようです。
その範囲はどのくらいなのでしょうか?
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「年来実録」には次のように示されています。
南境は都て浪打ち際 東西長六百三拾三間、西境は土器村海手一開水門より弐拾間東にて北江五拾弐間除地見通し長三百八拾間、東境は川口番所裏西石垣より西江拾四間除地見通し長弐百九拾間、北境「東西見通し長五百八拾八間」
これによると南側は全て波打ち際での長さが約1,3㎞の海岸線です。北側は西は土器村の水門から東は川口番所裏の石垣まで約1,2㎞、両横の長さは約0・6㎞×0・76㎞のいびつな長方形で、相当に広い土地です。現在の宇多津駅から役場辺りまでのエリアになりそうです。その年の九月二七日には高松藩役人と金光院役人との間で引き渡しが行われ四方に杭打ちが行われました。
しかし、この土地は「鵜足津浦海辺、南境波打際・・」とあるように海浜です。
鵜足津湊、道場寺 第四巻所収画像000015
宇多津湊 道場寺(郷照寺) 金毘羅名所参拝絵図より
そんな海岸を高松藩は、金毘羅さんにどうして寄進したのでしょうか?
文書には続けて次のようにあります。
「鵜足津御寄付土地、追々開き立て(開発)候て、百姓共住宅井びに土地支配の義共、鵜足津村役人にて取り扱わせ、川口出入り等の義ハ、時々村役人より申し越し候ハ切手等指し出し申さるべく」
「収納方の義は、開発の上追て申し達すべく候」と「開き立て」=「開発・埋立」して、百姓=住民達の住宅にして「川口出入」=「新港」構想があったようです。
 この時期の讃岐をめぐる状況を見て見ましょう。
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幕末の丸亀湊 福島と新堀の二つの湊が整備されている
お隣の丸亀藩では、延享元年(1744)に金毘羅参詣船が就航して以来、上方からの金比羅参詣客が増えます。それに対応して文化三年(1806)には福島湛甫を完成させ、参拝客の急増に対応し、丸亀が参詣の湊として急速に発展していく時期です。丸亀湊の賑わいを見て、高松藩にも金刀比羅参拝の拠点湊を開き観光振興策の一つにしようとしたのではないでしょうか。そこで白羽の矢が立ったのが宇多津。宇多津は高松藩内では、金毘羅に最も近い湊です。ここを参詣客の玄関口として発展させようとする計画が生まれたと考えても不自然ではありません。
 その際に、取られたのが開発方法は高松藩が直接に工事を進めるものではありませんでした。「海岸線」を金毘羅に寄進し、埋立から開発までを「民間資本」の活用で進めようとしたのです。こうして、この年九月二十七日に高松藩の役人と金毘羅の別当・金光院の双方の重役が立ち会い土地の引渡が行われます。そして「間数四方へくい木打ち廻り」が行われたのです。

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  ところが、この土地は思わぬ方向に動き始めます
稲毛家文書の文政八年二月廿日に、次のような記事が見えます。
「金毘羅神領御寄附二付き、郷中金毘羅信こふの者より材木明俵等寄進致し候由ニテ日々賑々敷」
鵜足郡内で金毘羅信仰の厚い者達が寄進された土地を埋め立てようと材木や土砂の入った空俵などを持ってきて賑わうようになったというのです。
 これに対して藩側は
「全ク寄進致し候 事口ゆへ指留め候儀二「及ばず」とし「若者共はて成る衣類位の品ハ見免しあまり増長致さざる様」
にと、若者らに対しては派手な衣類などにならないようにと指示しただけで、作業を黙認します。その結果、次第に
「若者共そめき上方に流行の砂持ち様の真似ヲ以て花美過ぎ候」
と、寛政元年(1789)に大坂で起こった砂持明神騒ぎの様相に似てきたのです。
DSC03695宇多津

大坂で起きた砂持明神騒ぎとはなんでしょうか
 大坂の港や堀は上流からの土砂堆積で少しずつ埋まっていきます。そのため定期的に土砂などを浚える必用がありました。この作業を「砂持ち」と呼びました。
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 こうした大工事には、古代に古墳の石室の巨石や石棺の運搬や大坂城築城の巨石運搬と同じように修羅を大勢の人間が曳く作業が伴います。
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これは昔から土木作業という範囲を超えた祭礼行事の側面を持っていました。都市で修羅を曳くのは、お祭りなのです。近世の砂持ち作業も単なる土木作業に留まることはありませんでした。都市住民は、この機会に囃子屋台や仮装行列が繰り出し祭礼行事化していきます。
川や堀ざらえで取り除いた土砂はどうしたのでしょうか。
各町組の氏子らが川ざらえで出た多量の土砂は、最初は寺社の整地に使われていたようです。それが新開地の埋立に使われるようになり大規模化します。
下の絵は寛政元年(1789)5月下旬から大坂玉造稲荷で熱狂的な賑わいで行われた「砂持」の様子を描いたものです。
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この絵は、町単位でそろえられた纏と法被(はっぴ)が描かれています。砂持ちに参加した人々は、砂持ち大明神を担ぎ出し、町毎の幟を立て、太鼓や鉦を打ち鳴らして加勢します。ここからは、砂持ち大明神のパレードに町々が競い合った様子がうかがえます。
 川ざらえの土砂運搬である「砂持」は、しだいに祝祭的な要素を加えていきます。
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 「砂持」は、さらえた土砂を新開地や神社へ運ぶという作業を祭礼行事(パレード)に変えて行きました。人々は鳴り物入りで踊りながら熱狂してパレードした様子が伝わって来ます。さらに時代が進むと山車も登場しますし、「仮装」も行われ、祭礼空間が産みだされています。
 広島も太田川の河口にデルタ地帯の上に造られた城下町です。
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ここでも川底に堆積する土砂を除く川ざらえが欠かせません。絵図は幕末の文久2年(1862)に広島城下の町衆が砂持加勢の土ざらえの土砂を運搬する手伝いと称し、新しいお祭りを作り出します。この絵図は、城下の各町による仮装行列を描き出したもので、互いに趣向を競い合った「砂持ち風流」の様子が見て取れます。
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このような砂持ち大明神と埋立がリンクして役人から見れば「不穏な動き」が醸し出される要素があったのです。
 当時の宇多津の動きを「歴世年譜」は次のように記します。
「城下ノ者ハ土俵ヲ車輿牛馬二積ミ 各邑ノ旗幟ヲ建テ種々ノ紛議ヲ演ジ 鉦鼓管弦且ツ奏シ且ツ行キ往来織ルカ如夕日夜絶エズ」
各村々がのぼり旗を立て、仮装行列化し、鉦や太鼓で囃し立てる光景です。大坂で風流として流行していた風俗が宇多津にも現れていたことが分かります。高松藩の為政者には「統制できない不穏な動き」の前兆と写ったことでしょう。「まずい」というのが正直な反応だったと思います。以後、高松藩は厳しい申し渡しなどで規制を強めます。その結果、騒ぎは次第に収まっていったようです。しかし、民間の力による埋立開発=新港建設という計画は頓挫してしまいます。「歴世年譜」には
「後、藩政二窮乏ヨリシテ 埋立ノ議ハ亦止ミテ行ハレス」と記されています。
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嘉永五年(1852)に金光院は次のように再度の開発計画を高松藩に申請します
「先年源態様ヨリ御寄付二相成り候 宇足津村寄洲、此の度御一手ヲ以て御開発の義、先達て御書面ヲ以て御伺の趣」。
 これに対して高松藩の回答は以下のようなものでした。
(前略)右場所先年御寄付相成り候義二付き、今度御開発成され度き段は、御尤もの義二これ在り候処、天保十三寅年異国舟渡来の節、海岸防禦の義二付き、公辺より格段厳重の仰せ出されこれ在り。国々海岸の絵図取り調べ、井びに浅深も相量り、船付きの場所より城下陣屋迄の里数、或は兼ねて人数指し出し置き候台場遠見番所の類迄も、認メ加へ指し出し候様二と御指図これ在り。則ち巨細の絵図面出来、公辺え御届け相成る。
 右二付き此の御領分東西御人数、御備台場等の義迄御届け二相成り、右寄洲の場所は御領分境の義、別して厳重の御備場所二相成り居り候間、当時二おゐてハ、同所御開発の義は、兎角御挨拶及び難き義二御座候。先ず暫く御見合わせ相成り候様致し度く御座候。」
意訳すると「天保13(1842)年の異国船渡来により幕府は、海岸防御のため各地の沿岸の実情調査し絵図作成を命じた。高松藩もこれに応じて詳細な数字を書き込んだ絵図をすでに提出している。また宇足津寄洲は丸亀藩との境にあって重要な場所となっている。このような状況下においては開発を許可することはできない」との回答です。

 こうして高松藩の「民間活力の導入」という宇多津新港の建設は「砂持ち大明神」さわぎと異国船到来という事態中で立ち消えとなったのです。
小藩ながら新湊建設を成し遂げたのが幕末の多度津藩です。
多度津20111115_054609375
幕末に完成した多度津湊
この結果、多度津湊には幕末から明治にかけて金毘羅参拝客が急増します。
同時に新港に出入りする船舶も急速に増加し、明治には讃岐第1の港湾施設に成長していきます。そこで資本蓄積を行った地元資本は多度津七福神と呼ばれ、景山家の下に結集し新たな投資先を求めて行くようになります。それが多度津の近代へ脱皮・成長へとつながります。そういう意味では、新港計画が挫折した宇多津と成功させた多度津のターニングポイントはこの辺りにあったのかも知れません。
参考文献 丸尾寛 宇多津への金比羅神領寄進の影響について 







         

   今では、太鼓台と聞くと蒲団型や屋根型のものだけを思い浮かべがちです。でも、太鼓台が現れた時には、櫓型・四本柱型・平天井型などの多様な太鼓台があったようです。そのような中で、大坂の難波神社の祭礼に布団太鼓台が現れ、19世紀初頭には大型化して行きました。
f6b9a9a9ふとん太鼓か?/摂津名所図会
         19世紀初頭 難波神社の布団太鼓
それが瀬戸内海の交易を通じて津々浦々の港町の祭礼記録に布団太鼓台が登場するのは、早くて18世紀前半、讃岐から東伊予では、18世紀後半になるようです。そこでは「神輿太鼓」と書かれていることが多く、担ぐ祭礼奉納物として神輿に御供していたようです。
 瀬戸内海で、初めて「太鼓台」と表記した一番も古い記録は天保5年(1834)のもので、これは姫路市の屋台(神輿屋根型太鼓台)の大工図面に書かれています。
 三豊の近隣地方での太鼓台関連の記録で古い物を並べて見ると、次のようになります
「神輿太鼓」寛政元年  (1789)伊予三島、
「ちょうさ太鼓」寛政元年(1789)大野原、
「神輿太鼓」文化3年   (1806)川之江、
「太鼓」文化5年     (1808)伊吹島、
「ちょうさ太鼓」文化6年 (1809)観音寺、
「輿太鼓」文化10年   (1813)琴平、
  これらは「太鼓」とは記されていますが「太鼓台」とは書かれていません
香川県下に太鼓台は、どれくらいあるの?
 いま、讃岐の太鼓台は、約350台ほどだと云われています。
地域別では西讃(観音寺・三豊)が最も多く155台、
中讃(坂出・丸亀・善通寺・宇多津・多度津・琴平・まんのう)の101台、
東讃(高松・さぬき・東かがわ)の42台、
小豆島と直島地区で52台で、
讃岐の西部が太鼓台密度が高いようです。
中・西讃及び小豆島では、大型で豪華な形態が多く、
東讃や島嶼部では、比較的簡素な太鼓台
があるというのも特徴のようです。香川県は人口や面積の上では規模は小さいが、こと太鼓台に関しては、大変盛んな土地柄のようです。
太鼓台はどのようにして讃岐にやってきたのでしょうか?
 太鼓は当初は大坂などに、直接注文したようで、その記録が伊吹島(観音寺市)に残っています。その太鼓台新調の記録を見てみましょう。燧灘に浮かぶ伊吹島は、財力のある網元や廻船の船主が多くいる豊かな島でした。そこには多くの水主や網子たちが集まり賑わいを見せていたのです。そして、これも大坂との海のルートの結びつきを通じて、大坂難波神社の太鼓台が「勧進」されたようです。
 伊吹島には上・中・下の3つの組がありますが、それぞれの組にのこる「太鼓寄(記)録帳からは、新たな太鼓台の発注についての記事が残っています。
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たとえば、 文化5年(1808)の上若(上ノ町)の「太鼓寄録帳」には文化6年(1809)に
「太鼓新に拵る者也」
とります。ここからは初めて作ったのか、以前からあったものを作り替えたのかは分かりません。この時は、伊予の大嶋(新居大島)の大工に製作させたことが記されています。
 また、約50年後の安政4年(1857)にも
「太鼓新二拵替二付諸入用」
とあります。この時には、大坂や京に本体から布団、太鼓、金具、幕まで一揃えを発注し、地元の船で取りに行っているのです。伊吹島が漁業のみならず廻船などの交易においても、大坂と海でストレートに結びついていたことをうかがわせるエピソードです。
 また、中組(中之町)は天保4年(1833)から記録が始まっています。その年に大坂で太鼓台を新調しています。そして12年後の弘化2年(1845)には、太鼓台を入れる蔵を新築しています。太鼓蔵には文政6年(1823)銘の「太鼓水引箱」があるので、この時は作り替えの記録のようです。
そして伊吹島の下組の記録です。
ここには安政3年(1856)の太鼓台の新造に関する見取図と見積書が残っています。
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見積先は大坂の呉服太物商平井小橋屋(おばしや)です。
  幕末の伊吹島の八幡神社の祭礼には3つの組から布団太鼓台が担ぎ出されて賑わいを見せていたようです。そして、ある組が大坂に新調すると他の組も競い合うように、新たな太鼓台を発注しています。そして、その発注先は大坂なのです。難波神社に奉納されていた太鼓台と同じスタイルの物が見取図が、制作元から送られています。そして、制作元は以前に発注した組のものよりもより、大きく豪華な太鼓台を提案し、依頼側の要望に応えようとしたはずです。
荘内半島の箱浦の惣社宮に、奉納されていた太鼓台です。
 
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この太鼓台は本体・装飾の刺繍幕・保管箱などの全ての制作年代が分かっている貴重なものです。
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太鼓台本体と初代蒲団は明治8年(1875)、
掛蒲団が明治14年(1881)、
水引幕が明治29年(1896)、
二代目蒲団が明治41年(1908)です。
これらを見ると、明治時代を通じて箱浦の人たちが太鼓台の懸装品を整えらていったことがわかります。
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また、この太鼓台がつくられた時代は、西讃や東予の太鼓台が巨大・豪華へ発展した時代にあたります。その過程をうかがえる貴重な存在と研究者は指摘しています。そいう意味ではこの太鼓は「明治期の基準太鼓台」と言うべき遺産のようです。
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この地区では三豊では珍しく「ちょうさ」と呼ばずに屋台とよんできました。この太鼓台が箱浦に姿を見せたのは、明治維新後で、もう150年ほど前のことになります。
 明治中期になると、三豊の太鼓台は、競うように巨大化し華美に突き進んでいきました。その流れの到達点に現在の太鼓台はあるのかも知れません。そのような中で明治初めの太鼓台がこうして残っていると云うことはありがたいことです。百年前の古い太鼓台の装飾品などが残っているというのは希有なことです。
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この太鼓台は、制作年代が判明している装飾品がたくさんあります。
特に「刺繍太鼓台」が特徴である北四国で、時代確証のある古い刺繍作品をまとう箱浦屋台は資料的価値が高いと研究者は云います。
 幕末から明治初期に架けて、備讃瀬戸の沖を行く大型廻船の望める荘内半島の先端近くで登場した箱浦の太鼓台。この太鼓台がまとう太鼓台・古刺繍は、今は見えなくなってしまった瀬戸内海をめぐる各地域の太鼓台のつながりやの関連性を無言で語りかけているのかも知れません。
 特に掛蒲団4枚「泗呑歌子・源頼光一渡辺綱・坂川金時」は印象的な図柄で、大江山の鬼退治で構成されている。箱地区ではちょうさてはなく、屋台と呼んでいた また、屋台の太鼓をたたく子どもたちは獅子舞の太鼓打ちも兼ねていて、唐子風の衣装を着ていたそうです。

箱浦の太鼓台から20年後の明治中期から後期につくられた太鼓も保存されています
 三豊市山本町の河内神社に奉納された太鼓台です。
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用具を入れた長持ちや箱には「明治26年|】久保上組」「明治35年東雲」などの銘があります。これは、愛媛県四国中央市(旧伊予三島市)の東雲の地名です。他に「明治四十四 新細工」「昭和4稔 大喜多本家寄贈」などの銘を持つ長持ちなどもあります。明治44年(1911)に、香川県一の大地主と言われた地元の大喜多本家が伊予三島の久保上組より購入し、河内上組に寄付されたと伝えられています。

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本体には豪華な彫刻が彫られていて、水引幕は志度の海女の玉取図、掛蒲団は虎図です。
太鼓台の大型化が一歩進んで展開した東伊予で、新たな太鼓台の新調の際に、古い物を売却したのでしょう。 そして、河内に迎えられて新たな地で奉納されることになった例です。

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 このように、太鼓台の新調と中古品の売買等が各区で行われるようになったのも近代の特徴です。それが太鼓台文化圏の広がりにつながったとも言えます。
       太鼓台(ちょうさ)年表
宝暦8(1758)  姫路市松原八幡神社 神輿太鼓3台の記録。太鼓台最古の記録
寛政元(1789) 「神輿太皷」として1台が奉納。旧・伊予三島市(四国中央市)
寛政元(1789) ちょうさ太鼓/旧・大野原町(観音寺市) ★大野原八幡神社(1802)の記録の中にあり。
寛政6(1794) 神輿太鼓/呉市豊浜町斎島 ★島で初めての神幸を記録した板碑の裏面に記録あり。
寛政10(1798) ふとん太鼓/大坂・難波神社  『摂津名所図会』(秋里籬島・竹原春朝斎)★太鼓台は「先進地・大坂」の蒲団型。この時代の最も豪華な部類の太鼓台
文化2(1805) 太鼓/観音寺市伊吹島下組  ★蒲団枠保管箱が蒲団枠と共に現存
文化3(1806) 神輿太鼓/旧・川之江市(四国中央市) 「祭礼行烈次第」に、神輿太鼓が5台記録
文化5(1808) 「太皷寄録帳」太鼓/伊吹島上組  ★文化6年(1809)に太鼓台を新調
文化6(1809)  ちょうさ太鼓/観音寺市 庄屋関連古文書  
文化9(1812) 小豆島町・亀山八幡宮奉納絵馬 ★薄く平らな三畳蒲団の太鼓台が5台
文化10(1813) 輿太鼓(ちょうさ)/琴平町 ★大井祭礼に奉納
文政3(1820) 櫓/旧・豊町沖友(呉市) ★水引箱箱に「三井納」(大坂・三井呉服店)の記載
文政5(1822)  太鼓/新居浜市  ★「船大工仲間永代迄の諸覚帳」新居浜太鼓台の初見
文政6(1823)  太鼓/伊吹島中組 太皷水引箱  ★水引幕を保管する道具箱
文政6(1823)  ちょうさ/観音寺市  ★雲板箱タテ・ヨコ107×40㌢、深さ3~40㎝
文政8(1825)  四つ太鼓/旧・保内町雨井  ★明石から積み下ってきた鉢巻蒲団型の太鼓台
文政8(1825) 千載楽/倉敷市下津井松島 太鼓の胴内記録 ★小型の千載楽が現存
文政8(1825) みこし太鼓/西条市  一宮神社文書 ★素人大工の拵えたみこし太鼓が登場
文政10(1827)  神輿太鼓/新居浜市  ★一宮神社文書祭礼行列の華美を諌めている。
文政10(1827)  ★シーボルト編纂『日本』全1㌻に、太鼓台(コッコデショ)のイラストあり。
文政年間(1818-30) 屋台/たつの市 阿宗神社奉納絵 ★馬播州では珍しい五畳蒲団の太鼓台
天保元頃(1830頃) 松原八幡宮絵巻 屋台/姫路市 
天保4(1833)   「太皷入用帳」 /新居浜市 ★新居大島・中之町太鼓台記録
天保4(1833) 太鼓台/伊吹島・南部 ★「太皷帳」新調時の記録
天保5(1834)  大工資料  ★「太皷台」表記の初見粕谷宗関氏著『故郷に神の華あり』(2005刊)
天保6(1835)  ちょうさ/三好市池田町馬路 ★衣裳水引・天蒲団 入箱讃岐(大野原)と阿波の太鼓台交流がうかがえる。
天保6頃(1835頃) みこし/西条市・伊曾乃神社 ★祭礼絵巻(2巻)に詳細画像…
天保9(1839)  どんでん/岡山市牛窓本町  
天保13(1842)  櫓/旧・豊町沖友(呉市) 奉納絵馬  ★平天井型の太鼓台
天保期(1830-44) ふとん太鼓/堺市・開口神社  ★豪華な祭礼行列の最後尾に、小さな蒲団型の太鼓台が2台
弘化元(1844)  ちょうさ/旧・山本町(三豊市) 「割帳」  ★西側太鼓台新調時の記録文書
嘉永5(1853)  櫓太鼓/今治市・大浜八幡 奉納絵馬 ★平天井型太鼓台
安政元(1854)~明治12(1879)頃 高価な装飾刺繍の貸し借りが、祭礼日の異なる地区間で盛んに行なわれていた。★大野原・下木屋太鼓台の古記録に、「損料」として毎年のように記載されている。(かきふとん・蒲団・金縄等)
安政3(1856)  太鼓台/伊吹島・下組 古文書「覚」  ★太鼓台新調の見積書と粗(あら)図面
安政4(1857)  太鼓台/伊吹島・下組 古文書「積り書覚」  ★前年に続く追加購入
安政5(1858) ちょうさ/三好市山城町大月 古刺繍 ★蒲団押さえ四隅の瑞雲形刺繍の裏に、墨書
安政5(1858)  ちょうさ/旧・大野原町田野々 道具箱 ★「関谷」と書いた道具箱が数点伝承
慶応3(1867)  櫓太鼓/今治市波止浜 龍神社祭礼絵馬  ★舁棒のない三畳蒲団の太鼓台
明治4(1871)  太鼓/まんのう町木ノ崎 掛蒲団保管箱 ★刺繍図柄は曾我物語「和田酒盛」
明治8(1875)  箱浦屋台/旧・詫間町箱(三豊市) 平桁保管箱

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参考文献 香川県立ミュージアム   祭礼百態

   中世の祭礼行列では 神輿を先導するのが太鼓の役目
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奈良の転害会は、宇佐八幡神が東大寺に勧進された神迎えの様子を再現した祭礼です。今では明治の神仏分離で、行列はなくなり祭式のみが転害門で行われています。東大寺の鎮守神手向山八幡宮には、この絵巻が伝わっています。そして嬉しいことにデータベースで祭礼の巻物を見ることが出来ます。奈良女子大学学術情報センターhttp://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y12/y12/ 
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これを見ると、和楽を奏でる楽人たちに続いて楽太鼓が進みますが、大きいためでしょうか輿に乗せられています。そして、そのすぐ後に神輿が続きます。
images「転害会図絵」
ここでは太鼓は神輿の先導役です。太鼓台の歴史が古い天神祭の催太鼓(もよおしだいこ)、生國魂神社の枕太鼓、杭全(くまた)神社の太鼓台などは、今でも神輿の先導役です。そして太鼓を担う人物の社会的地位は、他の練物よりも高いとされます。また、催太鼓の「催」には「お知らせ」の意味があり、生國魂神社の枕太鼓は、かつては「報知太鼓」と呼ばれていました。祭礼行列における太鼓の役割は「神輿の触太鼓」だったようです。
  太鼓台のルーツは神輿の到来を告げる触太鼓。
3888-荷太鼓
祭礼行列に太鼓が登場したときには、木枠に吊しただけの荷太鼓だったのかもしれません。太鼓が大型化する中で、輿に乗るようにそして、単純な枠式太鼓台が登場するようになります。
「神輿の到来を告げる」の時代の太鼓の叩き方はどうだったのでしょうか。
中世の流れをひく太鼓台の太鼓は、遠音がさすように一音一音が丁寧に打ち込まれます。江戸時代も同じような打ち方がなされていたようです。前回紹介した大田南畝(蜀山人)の日記『芦の若葉』には、享和元年(1801)の天神祭の催太鼓の「音」が記録されています。そこには「まどをに(間遠に)」とあり、一音一音の間隔をあけて打たれていたことが分かります。祭礼行列における初期の太鼓台の役割は、人々を囃し立てるのではなく、人々にカミの到来を知らせるために音を遠くに伝えることだったと研究者は考えているようです。
   太鼓をたたく乗子(のりこ)の装束と作法を見て見ましょう。
太鼓を打つ乗子の多くは子供です。
「化粧を施し投頭巾をかぶって艶やかな装束をまとう」
「地面に足をつけずに大人に肩車されて移動する」
といった多くの太鼓台に共通する「ルール」は、山車の囃子方というよりも、神事に向かう神役のようです。乗子は、他の祭礼と同じく無邪気な子供でなければなりませんでした。化粧・装束による「変身」は、カミに仕えるため、あるいは神聖な祭具に触れる資格を得るためなのかもしれません。太鼓台に上がるためには神聖さを求められたのです。
emaki_heian5a草岡神社 Personal Page

生国魂祭の祭礼行列の「報知太鼓」です。
08071106枕太鼓
触れ太鼓ですからパレードの先頭を行きます。その際に、前後左右に太鼓台が揺さぶられる中、願人(がんじ)と呼ばれる若衆が激しく太鼓を打ち鳴らします。願人の背もたれが大きな枕に似ているところ枕太鼓と呼ばれています。
太鼓を叩くことには、邪気を払う意味があります。願人の装いは「晴着」と呼ばれ、赤い頭巾をかぶり、瓢箪模様の法被を着ています。

研究者は太鼓台の進化を、右図のように考えています。
 
file太鼓台のルーツは神輿の触太鼓
       荷太鼓 → 枠付太鼓台 →布団太鼓台
生国魂祭の太鼓台は布団太鼓台になぜ進化しなかったのでしょうか?
太鼓台はもともとは神社に一台が基本でした。ところが神社付きの太鼓台に加えて、各組から寄進された太鼓台が増えるに従って、神輿の先導という役割を離れて、地車のように複数台が現れる祭りも多くなっていきました。
 そういう意味では生国魂神社系の祭りは太鼓台は一台だけですから、華美豪華さを競う会うこともなく形態はシンプルなままです。そして「進化」の方向は、担ぎ方や荒ぶれ方などの所作に向かいます。
一方、難波神社は、各組からの太鼓台の寄進を許したのです。
その結果、難波神社の太鼓台は何台もの太鼓台が祭礼に参加し、華美豪華と巨大化という「進化」の道をたどることになったのではないでしょうか。そして、18世紀末には巨大な布団太鼓台が姿を現すのです。
こうして18世紀半ばには、枠式太鼓台に布団以外にも、櫓や屋根等のいろいろなものが上に乗ることになります。そして時間と供に、太鼓台は各神社・地域毎に多様化していったのです。
前回紹介した18世紀末に大坂難波神社の大祭に奉納された布団太鼓台の拡大部です。これが瀬戸内海の各地にどのように伝播し、その姿を見せているのか見て見ましょう。
太鼓打ちの乗子の所作
  下図はペリー来航直前に今治市の大浜八幡神社に奉納された絵馬に描かれた太鼓台です
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    難波神社のものから50年後になります。枠付太鼓台から布団太鼓台への「進化途上」にありそうな絵です。柱は細く、布団も重ねてはないように見えます。しかし、打ち手は4人です。描き手は裸ではありません。揃えた装束と黒い足袋がきれいです。
瀬戸内海を抜けて長崎のものを見て見ましょう。
2長崎くんち・樺島町コツコデショ (文政10年1827頃 シーボル 
シーボルト編纂した絵図には 、文政10年(1827)頃に長崎くんちに登場した布団太鼓台が描かれています。布団は赤と黒の2重ですが、側面の布団には白い牡丹の刺繍が見えます。また担ぎ手が半裸ではなく装束が統一されているのが国際都市長崎らしいところでしょうか。しかし、足は裸足のようです。担ぎ棒は、四方に伸びて大人数で架けると供に、狭い路地に入って行くことはなかったようです。
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  大坂から瀬戸内海に展開した布団太鼓台。
a9b3b5fb太鼓伝播図
幕末から明治時代初期の太鼓台の大きさは、いまのように大きなものではなかったようです、飾り幕は薄めで天幕も現在のような膨らみを持っていませんでした。
 ところが、ある場所で巨大・豪華化が始まるのです。それは、住友家の手で進められた別子銅山の近代化の波が富をもたらした新居浜でした。産業が発展し、地域が潤うにつれて太鼓台を所有する各地域の対抗意識も高まります。そして太鼓台は明治中期以降から急速に大型化するようになるのです。同時に飾り幕は縫いの発達とともに豪華に、艶やかになり天幕も膨らみを持ったものを付けるようになりました。
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 しかし、太鼓台の飾りが豪華になり、大きさも大型化するということは、その建設費用や太鼓台を担ぐためのかき夫の数が多く必要になるということです。別子銅山からもたらされる富と、そこに集まる人々は、その壁を「財力」と「腕力」で越えていったのです。
 今では、長い担ぎ棒に150人もの男衆がついて、巨大な布団太鼓台は差し上げられています。
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参考文献 観音寺太鼓台研究グループ 太鼓台文化の歴史










        讃岐のちょうさ(布団太鼓台)は、いつどこからやってきたのでしょうか。
f6b9a9a9ふとん太鼓か?/摂津名所図会
それに応えてくれるのが摂津名所図会の中にあるこの絵です。この「図会」が刊行されたのは寛政10年(1798)ですから、今から二百年余り前の太鼓台が描かれています。太鼓台が現れているのは御堂筋に面する現在の難波神社の祭礼です。大坂のど真ん中に当たります。多くの男達に担がれた太鼓が左から右へと移動して行きます。確かに布団をのせた私たちが見慣れた太鼓台です。
左下隅は階段になっています。階段の先では担手の男達が顔洗いにやってきています。つまり、これは雁木(がんぎ)のようです。先ほど云いましたように難波神社さんの近くですから、西横堀川か、長堀川か、そのあたりの浜(川岸)を移動しているようです。手前の欄干は、川に架かる橋でしょうか。ここからも太鼓台を眺める人たちがいます。しかし、天秤棒を背負って足早に橋を渡っていく姿も書き込まれています
 前を行く大きなふたつの提灯には「太鼓]の文字がみえます。その左手隣には赤い大きな笠の下に女性と子どもがいます。これはどんなシーンなのでしょうか?
 今まで太鼓を叩いていた子ども達に、お母さんやおばさんが笠を差し掛け「ようやった、ようやった」という感じで、子供を褒めたり世話しているのではないでしょうか。 
太鼓打ちの乗子の所作
 
太鼓台の中を拡大してみると、子供が4人で四方から太鼓をたたいています。向こう側の2人は鉢を振り下ろし、手前の2人は鉢を掲げています。これは早打ちではなくどーんどーんとゆっくりと刻むように太鼓を打っているように見えます。背中を向けた子供は投げ頭巾をかぶっています。この投げ頭巾は白色のようです。
 積み上げられて布団を見て見ると模様があるようにも思えます。「雨龍の刺繍」が入っていると指摘する研究者もいます。
 蒲団太鼓を舁いている人たちは、ふんどしに足袋姿で、ほぼ半裸です。よくみると刺青の入った人が何人かいるようです。 絵図史料からは、大坂の布団太鼓台についてのいろいろなことが読み取れます。
ところが、このの祭礼行事を見ていた同時代人が書き残した日記があるのです。
その人物とは大田蜀山人、あの狂歌で有名な人です。
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彼は江戸のお役人で、享和元年(1801)3月から翌年の3月までの1年間を大坂銅座御用で勤めます。53歳ぐらいの時のことだったようです。南本町5丁目の宿舎から今橋の銅座へ出勤しますが、お勤めは朝8時から午後2時まです。その後はフリーなので、大阪中を見物して歩きまわっています。そして『蘆の若葉』という日記を残します。これは当時の大坂の様子がよくわかって研究者には有り難い史料のようです。その中に船場の三神社である御霊神社、坐摩神社、難波神社の夏祭りの見物記があります。
大田蜀山人が残したの難波神社の祭礼見物記の見てみましょう。
6月21日 晴 晩雨又晴 仁徳天皇稲荷明神(難波神社)の祭なりとて、
人家の軒に菊桐の紋つけたる桃灯をかかぐ。祭わたるべき大路は、埒をゆひてみだりに人を通さず。家々の前にも手すりをまうく。博労町のほとり見にまかりしに、所謂だんじりのごときものに似て、檜皮ぶきなる上に、錦の茵五ツばかり重ねしきて、下には童部ども筒長き頭巾きて、中に大きなる太鼓をすへ、めぐりよりこれをうつ音かしがまし。きほひ、いさめる若きものども二三十人ばかり、此車をひかんとて、先にたちて、てうさや、ようさやと口々によぶ。そのあとより、れいの俄といふものあまた来たりしかど、ここの心をわかたねばかひなし。ややありて太鼓の音聞こゆるに、かの猿田彦の神馬に乗りてわたる。(後略)
意訳すると
  6月21日に 難波神社の祭り見物に出かけた。人家の軒に菊桐の紋が入った提灯が下がっている。神が渡る大路は、人は入ることはできない。家々にも手すりが置かれている。神社周辺の博労町の運河のほとりを見に行ったが、だんじりに似ているが、檜皮ぶきの上に錦の座布団が5つほど重ねられて、その下では童が筒の長い帽子をかぶって、中に大きな太鼓をすへ、周りからこれを打つ音が大きく響く。
気負い立ち、勇み立つ若者が2,30人ほどこの車を曳こうと、先に立って「ちょうさ ようさ」と口々に叫ぶ。その後から「俄」と呼ばれる者達がやってきた・・・・ 
以上から分かったり、疑問におもえることを箇条書きすると
① だんじりとはちがう、布団太鼓台が出ていたこと
②筒の長い帽子をかぶった童子がと大きな太鼓を周りから叩いていたこと
③若者達のかけ声が「てうさや ようさ」であったこと
④「車をひかんとて・・」は、太鼓台を担いでいたのではなく、曳いていたのか?
この中で③のかけ声は、私には「ちょうさや よらさ」に聞こえます。讃岐の西部では布団太鼓のことを「ちょうさ」とよびますが、これに通じるのではないかと思っています。
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さてもういちど絵図に返りましょう。
向こう側の商家では、幕を張り、提灯を吊し、屏風を立てています。そしていろいろなものが担手に振舞われています。なにが、振舞われているのでしょか
①奥の緑内では家の奥さんらしき人と担ぎ手が、お茶を飲みながら談笑しています。
②店の前や中から「どうぞこちらで休んでくだされ」と言わんばかりに手招きをしている人が何人もいます。
③ 店の前に出された縁側では、スイカを食べている担ぎ手がいます。
④その奥から、旦那さんとその仲間たちが豪華な部屋で見物しています。そこに親しげに話しかける笑顔のひき手と笑顔で返す旦那さん。身分を超える一面が、この時代から祭にはあったのかも知れません。
「川で顔を洗う人、太鼓打ちの少年の交代、スイカが準備されたお店」などから考えると、ここは太鼓台の休息場所のようです。そしてそれは、運河に面した大店の家と云うことになりそうです。
d0508b5f大坂にも車楽(だんじり)があった/摂津名所図会
最後に絵図の右上からの文字史料を見ておくことにしましょう。
祭日神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。周禮に云(いハく)、韗(うん)人太鼓を昌(はる)にかならず春三月の節啓蟄の日をもってす。
注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。」
と記されています。
 まず、太鼓が神輿を先導するお先太鼓の役割をしていることが記されます。続いて、中国の周礼には太鼓が雷声の発するを表していると云います。難波の太鼓は数百の雷鳴のようで、天地に轟くように大きな音が響き渡るというのです。当時の人に布団太鼓が迫力ある夏の催し物として好まれた様子が伺えます。
18世紀末の大坂で布団太鼓台が登場しているのは分かりました。
そして、それがどのように運営されていたのかもかすかに見えてきました。
次は、どのようにして瀬戸内海の港に伝播拡大していったかを探りたいと思います。
a9b3b5fb太鼓伝播図

参考文献  近江晴子 大坂三郷の氏神さんと夏祭り

   前回は高松市の石清尾八幡神社の祭礼行列を見てきました。
そこには、庶民が関わるにつれて、より賑やかになる祭礼の歩みが見られました。今回は、高松という瀬戸内海の城下町で行われるようになった祭礼行列が、いつ、どこからやって来たのかを探ってみることにします。            
  柳田国男は、「祭り」と「祭礼」を区別しています。
彼は神を迎え、祭り、神人共食(神への供え物をおろして人々も食べる)して、神を送る行事を「祭り」ととらえます。「祭り」は密室空間で特定の人たちだけが「神事」に関わり、時間帯もほとんどが夜に行われました。近世になって、そこに見物人が登場することで、神々だけでなく見物人を喜ばせる趣向である「風流」が広まり、見物人を意識した「祭礼」が昼間に行われるようになったと言います。
 今、私たちが見ることのできる太鼓台やお船、だんじり、獅子舞、奴などの「祭礼風流」は、見物人の目を意識しながら、工夫と趣向を凝らし変化させてきた結果ともいえるようです。
ところで香川・瀬戸内地域の祭礼」に影響を与えたのはどこの祭りなのでしょうか?
  それは
①京都の祇園祭 
②大阪の天神祭 
③宮島の管絃祭
三つの要素が強いと研究者は指摘します。
確かに、祇園祭に見られる山鉾は、山口祇園(山口県)や尾道久保祇園(広島県)、堺の開口神社八朔祭(大阪府)などに「移植」され、そこに根を下ろして行きます。
直島(香川県)の太鼓は、明治時代の初め頃に天神祭をならって始めたと伝えられます。また、瀬戸内各地に見られる船渡御の祭礼は、天神祭や厳島の管絃祭などの影響があるようです。
00016397祇園祭礼図屏風
    祇園祭礼図屏風に描かれた山車   江戸時代前期  

 祭礼風流は瀬戸内へ、どのように伝わったのか?
 平安時代中期、京都では疫病を鎮めるために御霊会が行われるようになります。やがてこの御霊会が祇園社に定着して、京都に最初の都市祭礼・祇園御霊会が生まれます。そして、目の肥えたみやこびとの目を意識したさまざまな芸能と混じり合い、趣向を凝らした風流が行われていきます。この祇園御霊会が祇園祭へと展開します。この屏風は、前祭の山鉾巡行を描いたものですが全部で23基の山鉾が描かれています。
祇園祭礼屏風絵

 このような山車(だし)を自分の国に持ち帰って「移植再現」使用とする試みが始まります。まずそれは、室町時代の守護大名たちの手によって行われます。
次の絵を見て下さい。大きな山車が連なる姿が描かれたいます。しかし、これは京都ではありません。山口の祇園祭の様子を昭和43年頃に描いたものです。
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  山口祇園祭屛風 昭和 山口歴史民俗資料館蔵
 山口市にある八坂神社は、応安2年(1369)大内弘世が京都八坂の感神院(八坂神社)から祇園社を勧請したと伝えられます。そして、その祭礼である山口祇園祭は、長禄3年(1459)に始まったとされ、都の祭礼が瀬戸の地方都市へ伝わった代表的な例です。
「明治百年記念」の注記があるので、昭和43年前後の作品ですが、神輿や山鉾のほか、鷺舞や趣向を凝らした造り物などがみえます。
 近世に瀬戸内の城下町で、京都や大阪から伝わった山車が「変化・成長」していきます。山・鉾・屋台などの設えやそこに据えられた人形などをはじめ、獅子舞や奴振り、狂言・踊りなどの芸能、仮装行列や曲芸など、いろいろな要素を貪欲に取り入れました。そして、衣装や設えは派手になります。また、夜には提灯などの灯りが祭礼風流として重要になっていきます。
次に設えの巨大化する姿を姫路の祭礼に見て見ましょう。
播磨国総社三ツ山祭礼図屏風
      播磨国総社三ツ山祭礼図屏風  江戸時代中期 

 戦国末期の天正9年(1581)に、姫路城の城下町建設にあわせて、播磨国の総社射楯兵主神社が現在地に遷されます。そして、新しくできた神社の祭礼には、門前に今まで見たとのないような3基の巨大な置山が姿を現します。この屏風は江戸時代中期の三ツ山大祭を描いたものです。画面下側に3基の巨大な置山(左から小袖山、五色山、二色山)が目を引きます。
c0149368_1643696播磨国総社三ツ山祭礼図屏風
             現代の置山
もともと「山」(だし)は神霊の依代として神聖なものでした。ところが、時がたつとともに姿が人型化するようになり、人形の飾り付けが行われるようになり「風流」となります。
  そして、近世に大坂城の大石を船で運び、修羅で引っ張ったような興奮が祭礼の山車にも取り込まれて行ったのではないかと私は想像しています。
「祇園祭の山車 + 大坂城の巨石運び= 博多の曳山?」
という図式が浮かんでくるのですが・・・。どちらにしても、ここには、あらたな祭礼文化の誕生が感じられます。
kan1宮島管弦祭

陸のパレードのルーツが祇園祭だとすれば、
海のパレードのルーツは、宮島の管弦祭です。
images厳島神社

管絃祭は平安時代に都の貴族の間で盛行した管絃(雅楽演奏)の舟遊びを、平清盛が厳島神社の祭礼に取り入れたものだとされます。もともとの管絃祭は旧暦6月17日の夜、沿岸の神々に管絃奏を捧げる形で行われていました。管絃船が瀬戸の港から集まった船を従えての瀬戸内海一の海のパレードが行われていたのです。管絃船の周りには、それに随行する観覧船や美しく飾られた御供船が海上を埋め尽くしました。
もうひとつの船のパレードが大坂の天神様の祭礼船渡でした。
1戎島天満宮御旅所p0030063[1]

 これは江戸時代の天神祭を描いたものです。
難波橋の乗船場から川を下り、戎島の御旅所までのルートを2つの神輿や催太鼓などを乗せた御幸船がパレードします。その船渡御の風景が、祭り見物を楽しむ人々とともに生き生きと描かれています。
img_1大阪天満宮が所有する舟形山車「天神丸」

そして、ここではこんな立派な舟形山車も出現していました。
 宮島の厳島神社の管弦祭と大坂天神様の渡海は、瀬戸内海に投じられた二つの石として、その祭礼の波は津々浦々の港町まで伝わります。そして、これを参考にした海の祭礼行列が生まれてきます。
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  大避神社祭礼絵巻  弘化2年(1845)赤穂市立歴史博物館蔵
 千種川河口の港町として、昔から重要な役割を果たしてきた兵庫県赤穂市坂越にある大避神社の船祭を描いた絵巻です。船渡御を行う船の構成をみると、擢伝馬・獅子船・頭人船7艘・楽船・御座船・供奉頭船・警固船・歌船の姿が見えます。これらが列を整え、坂越湾頭の生島の御旅所まで船渡御(船のパレード)です。向こうの岸に、石垣のように見えるのは人の頭です。人垣なのです。多くの人たちが出て賑わった様子がわかります。
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 長門国の二宮である忌宮神社(山口県下関市長府)の天保11年(1840)の祭礼の様子を伝えるものです。上段が「陸渡御」で、町内を進む神輿や行列と各町から出された山車のが見えます。それぞれの山車上部には趣向を凝らした造り物があります。
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下段が「船渡御」(海のパレード)で、神輿が乗る船を各町の船が取り囲む様子が描かれています。海上から花火が打ち上げられ、華やかな祭りの風情が伝わってきます。
 これも瀬戸内海の最重要港としての下関と大坂の海の交易なくしては生まれなかったものでしょう。海の祭礼では
「管弦祭 + 天神祭」=「瀬戸内の港の祭礼行事」
という伝播ルートが見えてきそうです。
 こうして、城下町や拠点港の都市型祭礼だけでなく周辺部の港や内陸部の村々にも祭礼行事が伝播していったことがうかがえます。
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     諸国御祭礼番附 江戸時代 高松市歴史資料館蔵
 江戸時代の後半頃の諸国の祭礼番付です。行事が伊勢両宮御祭や尾張津島祭、山城葵祭が江戸の天王祭礼などが年寄り、出雲大社祭・京都吉田祭が勧進元として特別別扱いです。そして東之方、西之方に分け主な祭礼が列記されます。東之方(関東)では江戸の山王御、神田御祭、赤坂氷川御祭、常陸の水戸御祭などが上位にみえます。西之方(関西:左)では京都の祇園御祭、大坂の天満御祭、、安芸の宮島管弦祭とともに、讃岐の金毘羅御祭の名前も挙げられています。
こうして、江戸時代後半には各地で風流化がすすんだ結果、特色のある祭礼が営まれるようになっていったのです。しかし、それは案外新しくて、江戸時代後半から幕末に架けてのことだったことが分かります。
96a1ce祇園祭礼図屏風

参考文献 香川県立ミュージアム 祭礼百態

  
石清尾八幡
             
高松の石清水八幡宮では、江戸時代から10月に大きな祭礼行列(パレード)が行われてきました。どんな行列だったのでしょうか。行列を描いた絵図を見ながら探ってみることにしましょう。
 水戸黄門(光圀)の兄で水戸徳川家から高松藩主になった松平頼重は、石清尾山上にあった石清尾八幡宮を、寛文六年(1666)に、現在地に遷し、高松城下町の氏神(総鎮守)と定めました。 以後、秋の大祭には多くの人たちが参拝し賑わうことになります。ところで江戸時代の石清尾祭は、旧暦八月十四・十五日の八幡宮放生会、生きものを放つ殺生禁断の祭りでした。しかし、この様子は史料がなくてよく分かりません。
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史料が増えてきて様子が分かり出すのは、江戸後期に藩の援助のもとで、城下町の各町が何らかの形で参加する惣町祭礼になってからのことです。そして民衆へ祭礼参加によって祭事の風流化がすすんだとされます。それでは、そこで繰り広げられたパレードの様子を見ていくことにしましょう。
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 この「石清尾八幡宮祭礼図巻」図巻は、松平家の殿様のお兄さんが書いたものです。
名前を松平頼該(いかく)といい、号は金岳・左近と称した人物で文人として高い評価を受けています。殿様の兄ですから注文制作ではありません。幕末の石清水八幡の祭礼を正確に書き留めようとする記録画的なものです。実際に現場で見て描いたらしくて、綱に引きずられて転んでいる犬や、風に幕がめくれる様子も描き込まれています。非常に写実的なのです。ちなみにこの絵巻は、高松藩から模写を許されたものが石清水八幡に伝わっている物です。原典は県立ミュージアムにあります。
images石清尾八幡

 石清尾祭の行列空間は、神社と御旅所間の直線距離550㍍という短い区間でした。その間を、町方出し物や神輿が移動していきます。図巻は、祭礼行列順に描かれています。上巻には飾船と囃子屋台、下巻は両当屋による大名行列練物とおさきら、神社祭器などの行列と神輿渡御です。

まず先頭に登場してくるのは飾舟です。
飾船は参勤交代の際の御座船を真似たものとされています。子ども達に曳かれて飾り舟が登場します。子ども達は櫂を片手に持ち、踊っているようにも見えます。それぞれの船の下には白い波濤が描かれた青幕が張られています。最初、私は「船には車が付けられてそれを、子ども達が曳いている」と思って見ていました。ところがまくれ上がった垂れ幕の中から足が見えるのです。船は担がれているのです。
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  船の中がどうなているのか「透視」してみましょう。
  船内の真ん中に丸い大きな鋲打太鼓が吊るされています。二人で両面をバチで叩くのでしょう。船の構造は、二本の丸柱が貫通しています。船体の長さは約三間(5、5㍍弱)、高さ一間半(2.7㍍強)で、幔幕や垂れ幕はいずれも金糸・銀糸で刺繍され、船具は箔を置いて飾られました。そして、太鼓の前方を三人、後方を四人ずつが、左右二列になって片手に竹杖を持って、肩で担いでいるのが分かります。船の前方には柄杓を持つ人が乗っているので、全部で十五人が船内と船上に見えます。
 幕末の飾船に関して、別の資料では
「乗組十人、船昇き十人、擢指し十人、小繋四人、鐘附役十人、
 惣警固四人の計四十八人」
と構成メンバーを記しています。乗組十人と船担き十人が船上に乗ったり、船内に入ったようです。つまり「底抜け」なのです

  ちなみに、石清水八幡祭礼に用いられていたという飾舟が今でも現役で活躍しています。
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高松市香西本町の宇佐八幡宮に奉納される2隻の船の一つで小船と呼ばれる飾舟です。
この船には、明治9年(1876)の墨書銘があります。
「石清尾八幡宮の祭礼に奉納されていたお船を譲り受けた」
と伝えられているそうです。船は木造で、船首には鯛を抱えた恵比寿神の人形が座り、水押なども螺銀で飾られています。
  どちらにしても「底抜け船」ならば引っ張る必用はないのです。どうして子ども達が綱で引っ張っているのでしょうか?  祭りの雰囲気を高めていくパフォーマンスとしておきましょう。
もういちど図巻に返りましょう。
「石清尾八幡宮祭礼図巻」zumaki-01

先頭の船では擢振りの子ども十一人と大人が曳き、子どもの赤い化粧廻しが鮮やかです。確かに祭りに彩りを添えています。船正面の唐破風で面取られています。その後の船内には、弓や毛槍などが船内に立てられています。進行方向を変えるためでしょうか、艦附役が側面を押している姿も見られます。
二番目の船は十二人の擢振り子どもが曳いています。
先頭の大人は擢を抱えた擢指しでしょうか。速度が速すぎるのでしょうか、艦につないだ綱を艦附役が後方に曳いて速度を調節しているようにも見えます。
三番目の先頭は毛槍を担いで走っています。
十五人の擢振り子どもが綱を曳いていますが、小児は大人の肩に乗ています。下の青幕には、二尾の大鯛が飛び跳ねるように描かれていて勢いが感じられます。この船では、幕が開かれて船曳の一人が外に出てきました。その際に、船内の担いでいる姿が見えています。この船の後方の艫(とも)につないだ2本の綱を黄色い法被の艫付き役が曳いています。ついつい早くなるのを押さえる役割が必用なのでしょう。
4番目の先頭は瓢箪をつけた吹き流しを担いで走ります。
しかし飾船の曳き手はいません。やはり、進行速度が早過ぎるのでしょう、倒れながら後方に曳いています。その後ろで、七人の擢振り子ども(二人は大人に肩車される)が走って追いかけています。
5番目の船は、今までの飾船より小ぶりで「川船」のようです。
曳き綱もありません。ここまでが、各町から出される飾舟です

 十五日渡御の際には、飾船は先陣を切り、神社石段下から馬場先の御旅所まで、約五丁(五五〇㍍弱)の大通りを、のど自慢が太鼓に合わせて
「高砂や尾上の松も年ふりて相に相生ふ相生の松」
などの船唄を歌いながら進みます。そして、船内に入った担ぎ手が
「怒濤を乗り切る船の如く、揺すりに揺すり、揉みに揉んだ」
と記されます。
 飾舟の次に描かれているのが囃子屋台です
「石清尾八幡宮祭礼図巻」zumaki-02

まず、最初に現れる屋台は、青竜刀が飾られた本鍛冶屋町のものです。しかし、担手は担いでいません。休憩中のようです。こんな所まで描くのが当時の絵巻としては珍しい所のようです。
 次の囃子屋台を見ると屋台の両側面には二本の昇き横棒が通されて四人が担ぎ、担ぎ手は杖をついているのが分かります。内部は徒囃子であり、屋台下には草履や下駄が見えます。江戸祭礼などの底抜屋台と同じようです。
 3番目は大きなエビ、4番目は虎と下幕は虎に合わせた竹藪に筒、6番目の屋根は玩具がいっぱい書かれて、側面は障子仕立てです。7番目は猫足の唐風台上に朱房が垂れた龍ででしょうか。十一番目の巨大な筆が乗っています。
いったいこの屋台は何に使われたのでしょうか?
屋台は「練物」とも呼ばれ、屋根の下に幕を垂れ、屋台の上には人形か、造り物を飾りました。屋台の床下に囃子方が入って肩で横棒を担ぎつつ、歩きながら囃します。上に乗せた飾り物により、人形屋台・造り物屋台と呼ぶこともあったようです。
 行列は夕刻前には神社に帰るので 御旅所滞在は4時間程度です。私は、この間に御旅所周辺で「開演」されたのではないかと思っていました。ところが、そうではないようです。
 別の資料では、大祭当日の丸亀町・百聞町の六力町の様子が次のように記されたいます。
是の町ぐ羅綾の衣装我劣しと戯場なす、多く恋の為に身を省ス、武士或ハ熱情の達引坏、種七の仕組、これ高松の一流と謂へし

とあり、街角が劇場となったと言います。踊屋台では武家物や色恋物が演じられたのです。演じる演目に従って「エビ」「トラ」「筆」が屋台の上の看板には大きく描かれていたようです。図会では百間町以外にも他に五ヶ所で演じられるとあります。つまり、踊屋台は神輿渡御の後ろにただついたわけではなく、町の中心部や出した町の各所に移動し、演じられた「移動舞台」だったのです。

「底抜け移動屋台」が、いまでも活躍している所があるようです。
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 1年交代に行われる女木島と男木島の大祭は行われます。そこに登場する囃子屋台です。床が張られてなくて高松の石清尾八幡と同じようなスタイルです。中に入る鉦や締太鼓の囃子方の子どもたちは、屋台の移動にあわせて歩きながら演奏します。屋台内の後方には色とりどりの布を垂らして飾っています。
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 下巻は大名行列から始まります。
「石清尾八幡宮祭礼図巻」zumaki-03

先頭に登場するのは、前垂れが「の」字が染め抜かれるので、当屋となった野方村の人たちのようです。先頭より御幣持二人、台傘、挟箱四人、立傘四人、白熊四人、鳥毛四人(交互に投げ渡しの曲芸)、大鳥毛五人、長刀持一人、鉄鮑六人、弓四人、神馬が行きます。そして最後が輿に乗り朱傘が差しかけられた少年おさきら(弓箭を負う)です。そこには「の」字の大団扇が差し掛けられます。
 
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次に続く大名行列は、
御幣持二人、弓矢四人、挟箱四人、台傘・立傘四人、白熊四人(交互に投げ渡しの曲芸)、鳥毛四人、大鳥毛四人(回転させる曲芸)、長刀持一人、鉄砲四人、弓四人、刀筒四人、騎馬武者一人が行きます。そして、神が着いている「おさきら」が輿で進みます。これにも大団扇が差し掛けられます。
   
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2つの大名行列に模した「おさきら」さんが行くと、後は神社側の祭器行列と神輿渡御です。
  
 榊 猿田彦面(三方に載せた天狗面)、鉾二振、四神鉾、神馬、馬乗、大拍子、楽太鼓 雅楽系太鼓横笛(神楽笛・竜笛・能笛のいずれか) 笙 横笛 神楽鈴の巫女 横笛 銅拍子 担い太鼓 御幣と神主の三組 太刀持 神主4人 二本差しの警固、鳳輦、石清尾八幡宮石鳥居、
そして絵師「金岳」落款と同朱印が記されます。

前回には中世の神仏混淆時代の寺社の祭礼の行道に、獅子頭が参加していたことをお話ししました。それが、近世後半になると庶民への祭礼へ参加の度合いが強まり、パレードへの参加が獅子以外にも増えていったことがこの図巻からは分かります。
パレードは「飾船→屋台→大名行列→神社祭器・神輿」の四部構成と言えます。
ここには、中世にはなかった要素が3つ入り込んでいます。
この構成を見ても、静かだった祭りは時代が下るとともに派手でにぎやかになっていったことが分かります。庶民は、祭りを楽しもうとさまざまな工夫をし、趣向をこらし、新しい風をとり入れて、前よりはより楽しいものにしようとしたのでしょう。
 ある村では獅子舞をとり入れ、ある村では奴を、太鼓台を、そして城下町という都市でも飾舟や屋台・大名行列などを取り入れてバラエティに富んだものとなっていきます。そして、祭りはいよいよ楽しいものになってきたのです。
 さまざまな試みが積み重なって、今の祭りの姿になってきたことがわかります。


参考文献 香川県立ミュージアム 香川・瀬戸内の風流 祭礼百態

      
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 私は獅子舞の始まりを、江戸時代の始め頃とおぼろげながら考えていました。
しかし、獅子舞が舞われるようになるのは、もっと後の江戸時代も後半の19世紀になってのようです。それも各集落が獅子を持つようになるのは、明治になってからの所もあるようです。
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村の神社に、獅子が登場するようになる前と、登場してからの変化について見てみます。
 江戸時代に「村」が成立し、近世の神社が讃岐の地に姿を見せるようになるのは18世紀あたりでしょうか。現在に残る各神社の棟札を見てみると、延喜式内神社などの古社を別にすると、社殿や拝殿が建てられるようになるのは18世紀頃のようです。
 もちろんそれまでも「氏神としての神社」はあったのでしょうが、社殿や拝殿を玉垣、鳥居などが整備されていくのは江戸時代後期から明治になります。このような神社のハード面の整備が先行します。そして祭礼が大衆化し、その目玉として獅子舞が登場するという運びになるようです。
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 前回に紹介したように中世15世紀半ばに琴弾八幡神社(観音寺市)の太鼓に合わせて舞う獅子現れ、江戸時代の18世紀後半に式内社・黒島神社(観音寺市池之尻町)に、紙製獅子頭を使った獅子が現れ獅子舞へと「変身」していきます。古社に導入された獅子たちが周辺の新設された神社に姿を現すのは19世紀になってからです。
祭礼記録に獅子たちが残した痕跡を追ってみましょう。 
県下の神社には、獅子舞の経費に関わる文書が数多く残されています。これらの文書を見ていくと、いつ頃に獅子舞が祭礼に定着していったのかが分かります。
その中には、獅子舞の数が増え奉納順を争ったり、新しい芸を稽古したりしことも記されています。

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       綾川町 文政9年 北の宮獅子ほうが(奉賀)帳      
 神社付き獅子(=トウヤ獅子)から組持ちの寄進獅子へ
綾川町の北宮八幡神社には、文政9年(1826)年に獅子頭をつくった時の寄付に関わる記録類が残っています。それによると当屋や獅子舞を4組が交替で務めていたようで、「当屋入目」の記録の翌年に「獅子入目」の記録があります。ここからは当屋があたった翌年に、獅子舞の役目が回ってきたことがうかがえます。
 注目したいのは、江戸時代後期のこの時代には、各組で獅子を持っていたのではないということです。つまり獅子頭は、最初は神社が購入した「神社付き獅子」を、各組が順番で担当していたのです。それが次第に、それぞれの組が持つようになります。なお、これより先の文化12年(1815)の当屋入目にも獅子が出てくることから、この時に「神社付き」獅子用具一式がつくり替えられたようです。ちなみに費用は「銀百八拾目 獅々かしら」とあり高価なものであったことが分かります。
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男山神社蔵(さぬき市寒川町年)では、今でも、各組から出される獅子とは別に「当番獅子」と呼ばれる獅子が奉納されています。当番獅子の順番がくると、自分の組の獅子と当番獅子の二頭をつかいます。これは、神社付獅子を氏子の組が輪番でつかう江戸時代の古いかたちが残っているのでしょう。県内には、他にも宮獅子、当番獅子と呼ばれる神社付の獅子だけを氏子が交替で奉納を続けている神社もあるようです。
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 もう一度整理すると、一番古い形としては神社や氏子全体で持っていて、順番に奉納当番が廻ってくるトウヤジシとかトウバンジシと呼ばれる様式です。でも、次に廻ってくる順番を待ちかねた「獅子ホッコ達」がお金を出し合ってこしらえたり、暮しに余裕ができてきた集落や、モッタサンと呼ばれる旦那衆が居る地区では「うちでも出さんか」といって単独でこしらえるところも出来てきたのでしょう。
 先ほども出てきた綾川町あたりでは、集落持ちの獅子をキシンと呼ぶそうです。これはトウヤ(陶屋・頭屋)獅子に対する言葉で、トウヤジシが祭りの神役の一つとして奉納するのに対して、キシンはすなわち寄進で、氏子から自主的に奉納するということからきた呼び名のようです。この他にも大字(江戸時代の旧村)全体で出す獅子や、広い範囲(数地区連合)で持っている獅子もあり、これらも古い形でなのでしょう。
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北宮八幡神社の獅子入目人別割付帳
獅子舞の役割は?
綾川町陶の北宮八幡神社の獅子入目人別割付帳天保3年(1832)には、獅子役割として、獅子遣・太鼓打・曲太鼓・鉦・摺鉦・狸々舞などの役が記されています。この記録からは、獅子遣に2名の名前があり「二人遣い」だったことが分かります。また、獅子舞に「狸々舞」という獅子あやしのような芸が付いていたようです。
また、天保7年(1836)の記録には「ならし」と呼ばれる獅子舞の稽古について「獅子拍子始テミタチ流二相改候二付彼是ならし夜数例年より席数余分二相成候」などとあり、ミタチ流という新たな獅子舞の芸に改めたために稽古数が増えたことを記しています。私は祭礼の奉納のための獅子舞ですから先祖から受け継いだ物を大事に継承しているものとばかり思っていました。ところが、旧来の流派から新たな流派に変更することも頻繁に行われているのがうかがえます。
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             「獅子三頭始より究書」
獅子舞の奉納順番をめぐって争った高屋神社
嘉永3年(1850)の坂出市高屋町に「獅子三頭始より究書」と題された記録があります。もともと高屋神社には獅子が1頭だけでした。ところが、やがて南北2頭になって争いが起きるようになり、ついには獅子舞が奉納できなくなる事態になります。そこで嘉永3年(1850)に遍照院の仲裁で、もう1頭新設してより3頭に別れて奉納することになりました。獅子の数が1頭から2頭へと増えたことで、その順番をめぐって争いが起こっていたようです。神社で1頭の獅子しかいなかった頃には、起きなかった争いが何頭もの獅子が登場することで、奉納順や位置をめぐっての争いが各地でおきたことが残された文書から分かります。
獅子舞をめぐる取り決めを額にして随身門に掲げた国分八幡宮
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         国分八幡宮獅子順番定書(上)と追條目(下)
国分八幡宮蔵(高松市国分寺町)の定書も、安政6(1859)年の幕末期のものです。獅子舞を出していた下所・大東・東奥・馬場の4組では、神前の席順で争論が絶えませんでした。そこで安政6年(1859)未年と翌申年の奉納場所を取り決めたものがこれです。
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「追條目」は、定書を定めたのに翌年にまた争いが起こったので、獅子奉納については総代頭と相談して争いのないようにすること、獅子舞の宰領等は羽織袴で来るようになどと定められています。威儀を正して、争いの起きないように監視せよと言うことでしょうか。この神社では、この定書を額にして随神門に掲げてきました。争いの激しさと、それを収めるための智慧がうかがえます。
 ところが同社に伝わる「祭典奉納獅子席次帳」(昭和10年・1935)によると、その後も争いは絶なかったようです。そこで明治22年(1889)には、祭礼前日のトウヤ、当日の神殿前、お旅所それぞれの獅子組の奉納席順を定めています。また、昭和15年(1940)には、江戸時代に取り決めた6ヶ條の追條目で獅子舞奉納についての責任の所在などについて、坂出警察署国分駐在所巡査の立ち合いのもと協定をしているのです。獅子舞をどの場所で奉納するか、何番目に奉納するのかは獅子組にとって非常に重要だったのです。
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獅子頭の大型化は?
 江戸時代後半の天保年間に由佐の大溝の人たちによってつくられた「由佐古河の大獅子」と称される獅子頭です。獅子が各神社に姿を見せるようになった2百年前には獅子頭の大型化という現象も見られるようになりますます。現在の獅子頭は明治24年(1891)につくり替えられたものと伝わり、頭には「大正十口年」「昭和五十一年修繕/三豊郡三野町丸岡光信」などの銘があります。修理が重ねられて百年以上も使われてきたことが分かります。
 冠綴神社の祭礼には、池内大獅子(ともに県有形民俗文化財)と夫婦獅子として供奉されます。高さ90cm、幅160cm、奥行100㎝ 重さ50kg、油単の長さ12mで、運行には25人ほどの人手が必用です。
昭和の獅子舞大会がもたらした物は?
昭和になると獅子舞がさらに風流(ふりゅう)化しショウアップされるようになります。それが獅子舞大会の各地での開催でした。
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        県下獅子競技大会の優勝旗 昭和6年(1931)
 昭和6年に昭和天皇の御大典記念事業として多度津町に桃陵公園が開園します。その記念行事として「桃陵公園開園記念県下獅子競技大会(第1回)」(多度津商工会)が開かれ、ます。その時に優勝した家浦二頭獅子舞(三豊市仁尾町)が保存する優勝旗です。これをきっかけに開戦までは、県内各地で獅子舞大会が開かれるようになります。各獅子組は、県内から集まった獅子組との競演によって刺激を受けることになります。獅子頭や油単にも贅がこらされ、演技方法にも今までにないものが取り入れられ、獅子舞の「差別化」が進みます。この上に、現在の獅子舞はあります。そういう意味では獅子舞の歴史は、そんなに古い物ではないといえるのかもしれません。
さまざまな油単(ゆたん)
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          獅子舞油単  奥村定義製作(宇多津町) (戦後)
 獅子舞の胴をあらわす布は、香川県では油単(ユタン)、着物(キモノ)、幕(マク)などと呼ばれます。栗林公園の民芸館が所蔵するのり染の油単は、香川県の伝統的な絵模様の一つです。獅子油単の絵模様は、武者絵や龍虎などの絵模様が多いのですが、他にも毛模様や神紋などを配した油単、馬のたてがみを植えた油単も現れ、趣向が競われるようになります。
大漁旗が継ぎ当てされた油単
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 坂出市の白峰宮に奉納している原獅子舞保存会が使用していた稽古用の油単です。
古くなった油単に大漁旗の継ぎ当てされています。
戦争中は獅子舞が中止されていましたが、戦後になると混乱の中でも獅子舞を復活しようとする動きが出てきます。しかし、物がありません。最初は布団地の布を急造の油単にして復活させます。それでお花を集めてお金を貯め、新しい油単や獅子頭を購入したというところが多いようです。用具が十分でなくても獅子舞の復活を望んでいたのでしょう。
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  神風号東京-ロンドン間最短飛行時間樹立記念 白方自治会蔵(さぬき市鴨庄)
 さぬき市鴨庄の白方自治会の獅子に使われていた油単です。昭和12年(1937)に、朝日新聞社の「神風号」が東京-ロンドン間の最短時間新記録樹立(51時間19分23秒)しました。これは当時の日本にとっては、大きなニュースとして報じられ国民の心を揺さぶりました。それをテーマに図案化された油単です。中央は飯沼操縦士と塚越機関士で、当時のヒーローとなりました。油単には、社会の流行テーマも取り入れたのです。それは、中世以来の祭礼の風流(ふりゅう)化の流れを受け継いだ物なのでしょう。
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      獅子舞油単(乃木希典)  陶大宮八幡神社西川南組(祓川町)
 善通寺第11師団初代師団長として香川県にもゆかりの深い乃木希典の騎乗姿を図案化した油単です。乃木将軍は国定教科書に取り上げられるなど知名度も高く、庶民にも親しまれる人物だったので、英雄視されて油単にも登場しています。しかし、近代人が油単に登場するのはごく稀です。
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        虎頭の舞用具    東かがわ市白鳥虎頭舞保存会蔵
 東かがわ市の白鳥神社には獅子頭でなく虎頭舞が奉納されます。和唐内、虎つかい、鉦打ち、太鼓叩き、笛吹き 笹張り、拍子木、頭取で構成されます。面白いのは近松門左衛門の「国姓爺合戦」にちなんで、歌舞伎の趣向を取り入れて、隈取りをした少年扮する和唐内が虎を退治するストーリーが演じられるのです。大正11年(1922)に摂政宮であった昭和天皇が陸軍大演習の視察のため来県したおりには、善通寺第11師団で演じたようです。県内には、三本松・富田・津田でも虎頭が舞われていますが珍しいものといえます。

さて獅子舞がさかんに舞われる讃岐ですが、いろいろな問題に直面しています。
さきほど、大漁旗を貼り縫いして油単にしていた原集落では、それ以後も子舞存続のためのさまざまな取り組みをしています。
昭和30年(1955)頃、戦後休止していた獅子舞を青年会で復活。
平成10年(1998)若者不足により青年会による獅子舞奉納を中止。代わって年齢制限のない保存会発足。同時に中学・高校生による後継者育成開始
平成15年(2003)中学生、高校生による獅子舞開始
平成16年(2004)女子中学生による獅子舞(つかい手)開始
平成17年(2005)太鼓打ちに小学生女子児童がデビュー。
 原獅子舞保存会をはじめ、県内の多くの獅子組で、地域社会の変化に対応したさまざまな工夫が重ねられているようです。
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参考史料 香川県立ミュージアム 香川・瀬戸内の風流 祭礼風流

         
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    讃岐は獅子舞王国?
 田んぼの畦に彼岸花が咲くことになると、讃岐の里は秋祭りに向けた準備が進められていきます。讃岐のお祭りで演じられる芸能の代表格といえば獅子舞でしょう。獅子舞は県下全域に広がっていて、その数はうどん屋さんと同じ約800頭が「生息」していると言われます。「獅子生息密度」の高さは、全国のベストテンの上位にランクされ、富山県とトップ争いをしているそうです。(出典不詳・・・)
 獅子はいつ、どこから、何のためにやってきたのでしょうか? 
讃岐では、室町時代には獅子頭が祭礼に現れていたようです。南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた
というあまり目出度くない記事ですが、これが一番が古いようです。ちなみにこの犯人は捕まったと、後にでてきます。この縁起の永和元年(1375)には
「放生会大行道之時獅子面を塗り直した
と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。
 香川県内の古い神社には、中世の木製獅子頭が伝わっています。
 東かがわ市の水主(みずし)神社は、中世は四国の熊野信仰の中心拠点として機能し、それを背景に登場した勧進僧の増吽が阿波や吉備、瀬戸の島々の寺社を再興します。その河口の三本松も重要な港町でした。
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「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭
 ここにはは、県内で一番古い年代の入った木造獅子頭(県有形文化財)があります。
上顎裏側に文安五年(1448)に三位公全秀によってつくられ、文明四年(1472)に彩色されたと墨で書かれています。
銘文には「奉安置獅子頭事」とあります
が、胴衣を縫い付けた孔も残り、獅子頭内側には、上下顎をつなぐ軸棒のほか、上方にもう一本横棒が渡っており、そこを持ち手として獅子頭を扱ったと考えられます。「安置」するだけでなかったようですが激しく頭を振り回すような機能はありません。パレードへの参加用のようです。
次の訪れるのは善通寺と琴平町の境にある大麻神社です。
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 大麻山を甘南備山とする式内社大麻神社(善通寺市)に伝わる木製の獅子頭です。
下あごが失われているために少し見慣れない感じもしますが、形状などから水主神社の獅子頭とおなじく室町時代、ひょっとするとそれ以前の鎌倉時代のものと考える研究者もいるようです。そうだとすれば「現存する県内で一番古い獅子頭」ということになります。残念ながら下顎をなくしているが惜しまれます。この木造獅子頭は、江戸末期の『西讃府志』巻第五六にも「大麻神社所蔵之獅子頭圖」として上顎部のみが描かれています。
よくみると
後の方に、油単を縫い付けたと思われる小穴が7ヵ所ほどあるのが見えますか?
これもパレード用と考えられています。
祭礼行列の参加以外にも、獅子の出番が出てきます。
享徳元年(1452)に書かれた観音寺の『琴弾八幡宮放生会祭式配役記』には、行道の「獅子首二人」とは別の姿を見せます。それは「舞車」の上で舞う「師子舞」です。獅子が稚児「楠法師」と褐鼓舞(小さな鼓=掲鼓を胸に付けて打つ舞)を演じるのです。これは当時の都で、風流(ふりゅう)拍子物として人気のあった流行物です。新しい芸能の流れを汲んだ獅子の姿です。
  そんな中で登場してくるのが紙製の獅子頭です。
 紙製の獅子頭で一番古いのは式内神社の黒島神社(観音寺市池之尻町)に残るものです。江戸時代中期の宝暦八年(1758)の銘があります。
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この獅子頭の内部は「土」の字型の木組構造です。その構造は現在の獅子頭の持ち手と同じです。紙製の補強のための縦材を持ち手に利用することで、獅子頭を片手で持つことできるようになりました。これは紙製という軽量化とあわせて、獅子を使いやすくしたはずです。獅子が激しく動き舞えるようになったのです。
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 この黒島神社の獅子頭とセットで「稚児頭巾」と呼ばれる赤い紐飾りのついた円錐状の笠が残っています。これは先ほど見た琴弾八幡神社の「獅子が稚児と舞う褐鼓舞」の際に稚児がかぶっていたものではないでしょうか。観音寺に伝わった中世の風流踊りが近世三豊の地域に、祭礼の中で広がって行ったのではないかと私は考えています。
その際に紙製の獅子頭が果たした役割は、決して小さくないような気がします。芸能性に富んだ獅子舞が生まれた要因の一つかも知れません。

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 香川県の獅子舞の大きな特徴は、獅子頭が紙製ということです。
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紙製の獅子頭は、型にあわせて和紙を張り重ね、漆を塗ったり毛を植え込んだりして仕上げます。伝統的工芸品の「讃岐獅子頭」を見てきた私は、「獅子頭は紙製(張り子)」という思い込みありました。ところが差に非ず。全国的には獅子頭は木製が主流でないようです。
 たしかに紙製獅子頭も全国各地にあり、型抜きや竹骨組など形状や構造も様々なものがあるようです。しかし、香川県以外で二人立ち獅子舞で紙製獅子頭を使うのは、松山・徳島・播磨等の瀬戸内圈、と臼杵・宇土・熊本等の九州の一部、ほか京都・和歌山・静岡・長野・岩手等にも点々と広がる程度です。しかも、局所・散在的で香川ほどの分布密度はないようです。「紙製の獅子頭」というのは讃岐の大きな特徴のようです。

最後に、獅子頭の成長ぶりをもう一度確認しておきましょう。
 中世は 小豆島肥土山の祭礼のパレードに参加する獅子
 中世末は観音寺琴弾八幡の太鼓に合わせて舞う獅子
 近世は 紙製獅子頭の登場で舞い踊る獅子へ 
これを祭礼の風流(ふりゅう)化と言うそうです。
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参考文献 高嶋 賢二 香川県の獅子舞と獅子頭 
           香川県立ミュージアム「祭礼百選」所収





   仁尾のボラ地曳網とは?
  釣り人にとってボラは人気のない魚のようです
しかし、冬のボラは「寒ボラ」と呼ばれて美味しく、脂も乗って刺身にすると多少歯ごたえもあって真鯛とも似ています。
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金毘羅名所参拝図絵に描かれた仁尾

燧灘に突き出る荘内半島の仁尾では戦前まで地曳網でこれを捕獲していました。

冬のボラは群になって一か所に留まる習性があります。仁尾と大蔦島と小蔦島に囲まれたマエカタと呼ばれる地先の海域には冬場になると、ボラが集まってきました。その群れは寒くなるにつれて大きくなり、翌年の3月の彼岸ごろにはいなくなりました。この間、ボラの群れを散らさないために、この海域は禁漁となり、船舶の侵入も禁止とし、密漁を防ぐために番船に自炊用具を持ち込み、昼夜監視を続けたともいいます。ボラの群れ大きくなりすぎると他に移動してしまうこともありました。また、雨や風の影響で移動が早まることもあるので、地曳網を入れる時期を慎重に判断したようです。地曳網の全長は約1200メートルと長いもので、網地は木綿で網目は、細かいものを使用しました。ボラは動きが激しく網目を抜けやすいためです。
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父母ゲ浜とその向こうに浮かぶ大・小の蔦島
 地曳網を入れて引き揚げるまでには4時間ほどかかりましたので、潮が満ちるまで網を曳く広さと勾配のある砂浜が必要した。最も適したのは小蔦島の砂浜だったようです。
 こうして、仁尾の海に「冬網」と呼ばれるボラ地引き網が牽かれる日がやってきます。
仁尾町大北集落・恵比須神社のボラ地曳網の絵馬
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ここには明治41年(1908)2月21日と昭和8年(1933)12月5日にボラ地曳網の絵馬が奉納されました。明治の者は香川県立ミュージアムに収蔵されて、ここの社殿内に掛けられているのは昭和のものです。絵馬には天神山と弁天山の間で網を曳く場面が描かれています。いつもは小蔦島の砂浜で網を曳いていたそうですが、この時は湾内にスナメリが侵入し、これに追われてボラの群れが逃げてきたために、ここで網を牽くことになりました。大漁で網が裂けましたが10万匹のボラが捕れる豊漁でした。
その大漁を神に感謝してこの絵馬は奉納されたものです。
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 絵馬の左側には縦書きで網元の吉田家のマタナカの屋号に続いて「冬網連中 周旋人 河田輝一」と記されています。私は、この人が網元と思いましたが、そうではないようです。
「冬網」はボラ地曳網の呼び名で「周旋人」は絵馬奉納の世話人のことです。仁尾のボラ地曳網の従業員には、網元に年中雇われている「内人」と、地曳網の時にのみに参加する「網子」がいました。周旋人の河田輝一は「内人」にあたる人物で、この人が絵馬奉納を網元に持ちかけたそうです。
 絵馬の下側には右から「内人」七人、中央に一五人、左に九人の名があります。左端には絵馬に文字書きした「書記」の名が見えます。生存者からの聞き取りによると中央の15人は「網子」、左の9人は「網子」とは別に網を曳きに来た人で、いずれも誰の名を記すかは、すべて「内人」で相談して決めたといいます。
網元の吉田熊吉の名はなく、その子の久吉の名はあります。どうしてでしょうか?
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 息子久吉は、現場の指揮者として名が記されたようです。
絵馬奉納は網の従業員の「共同行為」として行われます。網元の吉田熊吉はこの神社の鳥居に願主として名前が刻まれています。つまり、奉納物の種類により奉納行為がランク付けされていたようです。
 これは近世以降のイワシ地曳網の絵馬にも見られる現象で、網漁の絵馬の多くは従業員が共同で奉納するような「庶民的な奉納物」だったのです。
 そういえば、戦前の三豊女学校の講堂建設に際して、建物自体への寄付金を出しているのは、西讃一の大庄屋と言われた山本町河内の大喜多家や仁尾の塩田王の塩田家など、三豊の名家に限られていたのを思い出します。その次のランクはピアノなどの備品を寄付していました。ここにも寄付の種類にランク付けがありました。
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網漁の絵馬は全国的にも少ないようです。
それが、仁尾では同じ神社に、二度も奉納されたのはどうしてでしょうか?
仁尾と蔦島の間の海には、集まってきたボラの大群を地引き網で一網打尽にすることができる「特殊海域」でした。この時のように驚異的な大漁を、もたらすこともありました。
しかもその場所は、自分たちの住んでいる目の前の海なのです。網が入れられる日には、この絵馬にも描かれているように、地元の人たちがギャラリーとして取り巻いたのです。その中での記録的な大漁。それは漁に関わった人たちをはじめ、浜の人たちまでも喜びに包みこむ大イベントとなったはずです。その渦中にいた「内陣」たちが大漁を喜び祝う気持ちと神への感謝を込めて、先例にならって絵馬を奉納させたのだと思います。

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参考文献
真鍋 篤行 仁尾のボラ地曳網と絵馬 香川歴史学会編 香川歴史紀行所収

        
前々回に、金毘羅大権現に3000両の高灯龍を寄進した東讃の砂糖関係者のお話をしました。
今回は砂糖生産と藩の統制システムやそこで活躍した仲買人について見ていきます。
 江戸前期において長崎貿易に金貨の流出は深刻な問題でした。その打開策として徳川吉宗は、享保改革の一環として輸入品の国産化を奨励します。砂糖もその一つでした。近世初期から薩摩藩では西南諸島で黒砂糖が製造されていましたが、輸入砂糖の中心は白砂糖でした。白砂糖は自前では作れなかったのです。そのために製糖技術の研究が求められます。各藩の「研究開発」の結果、いくつかの藩で和製砂糖が製造されるようになり、輸入砂糖を凌駕していくことになります。
その一つが高松藩です。
高松藩中興の祖と言われる五代藩主松平頼恭は、足軽出身の平賀源内など「異能」な人材を登用し、次の時代を切り開く「研究開発」体制を作ります。藩医池田玄丈に研究を命じた砂糖生産は、弟子向山周慶により実現します。寛政元年(1789)に初めて製造された黒砂糖は、5年後には大坂に白砂糖が積送られます。そして文化元年(1804)頃には、江戸でも良質な白砂糖の産地として知られるようになります。生産量は和製砂糖産地のなかでも飛び抜けて多く、大坂市場での市場占有率は54%を占める年もありました。
 その後、さらに生産量は増え、ペリーが来航するころから明治維新の幕末が最盛期にあたります。そのため幕末の高松藩は経済的に豊かで「雄藩」としての存在感があったようです。
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 これに先立つこと30年ほど前に高松藩は砂糖を財政難解決の糸口とするため、領内に砂糖会所を設置し、大坂への積出を目的とした流通統制に乗り出します。ここまでは先日述べた通りでで、くどいようですが「復習」でした。
 高松藩砂糖の領外積出の中心は白砂糖です。
砂糖生産は、
①甘藷(サトウキビ)生産・
②甘藷を砂糖車で絞る白下糖生産
③白下糖を押舟で圧搾し分蜜する白砂糖生産
の三工程に分けられます。
大坂市場への白砂糖と白下糖の出荷比率をみても、白砂糖の占める割合が97パーセントと極めて高いのです。
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砂糖車を牽く水牛(沖縄)
 私は、甘藷を栽培した村で、農家が白砂糖の製造を一貫して行っていたのかと思っていました。ところがそうではないようです。近隣の村々や他郡と甘藷や半製品の白下糖を売買しているのです。つまり砂糖生産の最終段階「③白下糖を押舟で圧搾し分蜜する白砂糖生産」は、どの村でも行われていたわけでないようです。白下糖までしか生産していない村が四割もあるのです。
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        白下糖 
文久二年(1862)に鵜足郡の村々で製造された白砂糖の99パーセントは、大坂や他領に船で積出されています。しかし、半製品である白下糖の85%は領内で売りさばかれています。白下糖は村内で白砂糖にされなかった場合は、領内に白砂糖の原料として流通していたことがわかります。
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      押船(白下糖を圧搾し分蜜する)
領内で流通したのは、白下糖にだけではありません。
高松藩では、甘瀧苗・甘蕨・砂糖類(白砂糖・白下糖・蜜)・砂糖車・製法諸道具等の砂糖生産に関わるものが、領内全域で盛んに流通していました。藩も「製造技術」保守のために、砂糖車や製法諸道具の領外への売渡は禁じていましたが、領内での流通は認めていました。しかし、誰もが自由に売買できたわけではありません。封建社会に「経済の自由」はなく、統制の対象になります。 
砂糖に関わる製品・原料・機材の販売・流通の販売権を与えられたのが砂糖仲買人です
これは許可制で冥加金を納め砂糖仲買株を与えられた者たちです。慶応元年の阿野郡北一三か村の砂糖仲買人は114人いたようです。そのうち、林田村は26人、坂出村は18人、乃生村は14人と、特に多いようです。
 安政四年に乃生村庄屋が郡大庄屋に宛て、乃生村の新蔵への砂糖仲買人株の下付を願出た文書が残っています。この村は早くから甘藷苗の産地として知られ領内全域に売さばいました。砂糖生産が盛んになるにつれて、甘藷苗がの需要が高まり、販路の確保のために砂糖仲買人の増員を望んでいることが分かります。
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           砂糖車
 林田村は、元治元年(1864)には67%もの甘藷作付率を誇り、170挺の砂糖車を持つ砂糖生産の盛んな村でした。砂糖車の所持は、これも許可制で冥加金を納め砂糖車株を下されたものに許可されました。藩の砂糖生産最盛期にあたる安政三・四年には、砂糖車の譲渡や新車株などの株所得が頻繁に行われています。株所得や譲渡は、その年の甘藷の収穫状況を見ながら行われていたようです。砂糖車株の譲渡とは、砂糖車の一式売渡しのことで、村内だけでなく他村や他郡に売られたり、買ってきたりしています。砂糖生産の器械は、売り買いが頻繁に行われています。
砂糖類だけでなく砂糖車株の譲渡にも砂糖仲買人が関わっていたようです。
また、坂出村は製塩業が盛んでした。甘藷の作付率は元治元年に27%とあまり高くありませんが、砂糖組船や砂糖仲買人が多数存在する砂糖積出地として栄えていようです。そのため村内での砂糖生産高よりも、領内から購入した砂糖を集約し、積出す港で取扱高が圧倒的に多く、砂糖仲買人が活躍する機会が多かったのです。
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  幕末の砂糖生産は、投機的要素が強かったようです。
盛んな領内流通を背景に各村々の農民は、高松藩が定めた統制ルールに従い積極的に砂糖生産に携わっていきます。そして、投機的な動きも見せるほどに成熟していたのです。  このような砂糖生産や流通に関わる人々によって作られた金比羅講が、集金マシンーンとして機能し多額の金額を集め、高灯龍という幕末のモニュメントを寄進したのでしょう。

しかし、甘藷栽培に関わる人たちの多くは、安定した経営基盤を持たない小規模な農民でした。彼らは、甘藷栽培だけにしか関わることはできませんでした。資金の必要な加工や販売過程には入り込むことはなかったのです。安政五年の開港により和製砂糖は衰退の途を歩みはじめます。そして砂糖生産に携わる農民も、その影響を受けることになるのです。明治期の讃岐の砂糖産業を待ち受けていたものは非情でした。

参考文献 宇佐美尚穂 高松藩の砂糖栽培 香川歴史学会編香川歴史紀行所収

 
  丸亀市の今津町で江戸時代に庄屋を務めた横井家の倉から出てきた文書が香川県立文書館で公開されるようになりました。その中から新しく分かったことが紹介されていました。見てみましょう。 
横井家について
横井家の先祖は香川郡東横井村(高松市香南町)に住し、讃岐守護細川氏の重臣であった尾池氏に従う土豪クラスの武士だったようです。天正年間の長宗我部侵攻の際には、当時の当主であった横井元正がこれと戦ったことが分かる文書もあります。 面白いのは「征服」された横井元正が秀吉軍の四国侵攻の際に、その手引きをしたことを示す文書も残っているのです。これは天正一三年五月四日付け丹後守(正元)宛ての羽柴秀吉書状案です。
どのようにして正元は秀吉からの書状を得たのでしょうか?  
「長宗我部元親」の画像検索結果
          長宗我部元親
当時の情勢を見てみましょう。長宗我部家の記録には次のように記されています。
天正六年(1578)四国制覇を目指し、讃岐侵攻を開始した元親は、6年後の天正12年月には東讃岐の十河存保の十河城を攻め落とした。城主の存保は、かろうじて脱出した。
この合戦以後の讃岐は、すべての勢力が土佐軍の下に従い、支配下に入った。さらに翌13年春までに伊予を攻め、河野氏をも破った。こうして元親は、ほぼ四国も掌中に入れた。
 ã€Œé•·å®—我部元親 讃岐侵攻」の画像検索結果
はたして土佐側史料の通りに、讃岐も伊予もて完全に討ち滅ぼされ支配下に収まったのでしょうか?伊予では、河野氏サイドの史料研究から道後地域を中心にゲリラ的な抵抗運動が続いたことが分かります。そんな中で、讃岐の反長宗我部の抵抗運動の具体的な活動をうかがえるのが、横井家の史料なのです。
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   長宗我部元親 初陣像
秀吉の四国征圧作戦の開始
 織田信長の後継者となった羽柴秀吉は、長宗我部元親が四国征圧を果たした翌年の天正13年春から本格的な四国攻略に取り掛かかります。安芸の小早川家の4月13日付文書によれば、秀吉は小早川隆景に近く自らの四国出馬を伝え万全の準備を命じています。
 黒田孝高には「5月3日」を「XーDAY」として、四国上陸のための準備を進めるように指示します。さらに、側近の一柳(市介)のに宛てた秀吉の朱印状が伊予小松一柳文書に伝わっています。そこには次のようにあります。
「急度申遣候、掲長曽我部為成敗来月(5月)三日四国出馬渡海候、就者其方人数半分召連、至明石可着陣候、則船等申付候、不可有由断候也、」
 5月3日に長宗我部征伐のための四国へ軍を海を越えて渡らせる。そのため保有戦闘員の半分を引き連れて明石で待てという内容です。これと同じ日付の文書が横井家に残る横井元正宛ての文書です。横井家のものは秀吉朱印でなく花押ですが、その内容は一柳文書と同じで「来月三日」の四国渡海による作戦開始を伝え、讃岐の丹後守(横井元正)に具体的な作戦行動を指示したものです。そのミッションとは、小豆島方面に滞陣する仙石権兵衛の四国渡海の案内手引きをせよということです。
 長宗我部軍の下で雌伏し、密かに刀を研いでいた横井氏など反長宗我部勢力の情報を、秀吉方は掴んでいたのでしょう。何度か情報交換の後に、横井氏等に内応工作が進められたことがうかがえます。これを待っていたかのように、横井元正は書状を受け取ると同時に、仙石氏の讃岐上陸に備えるための行動を開始したことでしょう。
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長宗我部元親は、どのように動いたのでしょうか
 元親は、阿波の岩倉に着陣していたと言われます。元親の下には秀吉軍が伊予と阿波及び讃岐の三方面から、しかも同時に攻め掛かってくるとの情報が既に伝えられていました。
それに対する防戦戦略について家臣団の意見の不統一もあったようで、戦意は上がりません。
 そんな中で、秀吉軍の上陸決行予定日が突如延期されます。理由は、秀吉のちょっとした病にあったようです。あるいは、朝廷・公家等から親征中止の要請があったことも原因かも知れません。
 しかし、約一月遅れの6月16日には、秀吉は四国征討軍の総大将である弟秀長に総軍発進を命じます。諸史料からも阿波・讃岐・伊予の三方面からの四国総攻撃はいずれも、6月16日に開始されたと記されています。
そして、あっけなく2ケ月後の8月6日の和議成立で四国攻めは終了します。横井氏の長宗我部氏に対するゲリラ戦術も勝利の旗が揚がり、雌伏の時は終わります。
短期間で長宗我部征討作戦が終了したのは、なぜでしょう?
それは、伊予における状況と同じように、讃岐でも長宗我部の支配体制が確立していなかったからではないかと研究者は見ているようです。
 確かに、長宗我部の侵入が早かった中讃や三豊では、統治のための坪付が行われたことが確認できます。そして、新たに土地を給付された土佐方の武将等が領主として所領経営を始めていたのです。「長宗我部による讃岐支配の実態」という視点での研究はあまりされていません。近年に高瀬町誌が「長宗我部が残した物」として、町内の土佐神社や土佐の武将による農業経営などに光を当てているのが異色です。
 長宗我部軍は引き上げても、そのまま讃岐に残って定着しようとした人たちはかなりいたようです。
例えば元親の側近として従軍してきた修験道僧侶の宥厳は、金毘羅さんの金光院院主を任されます。そして、土佐勢の撤退後も象頭山に留まり、新たに領主してやって来た生駒家などとの関係を結んでいき金毘羅発展の基礎を築いていきます。また、その後の宥睨は、土佐からの移住者である山下家の出身です。山下家は、長宗我部侵攻前後に三豊市財田に定住していた家系です。このように西讃においては長宗我部が引き上げた後も讃岐に残り、郷士としての力を維持し、寺院や神社を残した勢力はいくつもあったようです。
 しかし、占領が始まったばかりの東讃地方では、時間的に見て坪付けに至るなど統治政策を開始するまでには至ってなかったようです。
それは伊予の状況と共通する情勢で、残存勢力の「ゲリラ戦」などもあり「掃討作戦中」であったという所でしょう。そうだととするならば、食糧確保や山城構築・陣形整備など防備体制の整備は、もちろん進んでいなかったでしょう。それが土佐軍が徹底抗戦を行わずに、戦闘の短期終結となった一因といえるようです。そのような混乱の中での反長宗我部への抵抗運動を担ったのが横井家の先祖・横井元正だったようです。
 さて、秀吉からの朱印状を受け取った横井元正は、どのようにして仙石氏の讃岐上陸作戦を手引きしたのでしょうか。そして、その恩賞は?
 残念ながらそれを伝える文書は残っていません。小説家のように想像力を膨らませて各自のSTORYを描くしかないようです。

参考文献 
唐木 裕志   「四国渡海」と讃岐の土豪横井氏 天正一三年羽柴秀吉発給の新史料について
                        香川歴史学会編 香川歴史紀行所収

  イメージ 8 
幕末に四国の金毘羅門前町の丸亀街道の一里塚に、姿を現したのがこの高灯籠です。
この灯籠の建設資金
総工費3,000両は、寒川を中心とする東讃岐の砂糖作りに関わる人たちの寄進で賄われました。これだけの募金が集められた高松藩の砂糖産業について見ていきましょう。
 砂糖は、讃岐三白の一つとして塩と綿とともにその名が知られるようになります。現在でも、高級甘味料「和三盆」として生産が続けられています。
関連画像
和三盆糖
砂糖生産の始まりは?
 讃岐国は昔から水不足に悩まされてきました。この克服のために、高松藩五代藩主松平頼恭は干害に比較的強いサトウキビ(甘薦)の栽培に注目し、鹿児島藩からの技術導入を図ります。藩命を受けた藩医池田玄丈や大内郡湊村(東かがわ市湊)の医師向山周慶ら多くの人々の努力によって、サトウキビの栽培、製糖の技術や砂糖づくりの道具が確立されていきます。そして領内各地に砂糖の生産・製造が広まります。特に大内・寒川・阿野郡で盛んになります

ちなみに、甘藷植え付け面積の推移をみると、
天保五年(1835)1210町
弘化元年(1844)1750町、
嘉永元年(1848)2040町、
安政三年(1856)3220町、
安政五年(1858)3715町
と着実に増加しています。
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サトウキビを絞る砂糖車
 高松藩で生産・製造された砂糖は、寛政六年(1794)に大坂、文化年間(1804)には江戸に積み出された記録があります。さらに販路が紀伊、明石や尾道などの瀬戸内沿岸、酒田・出雲崎・温泉津など日本海沿岸まで拡がったことが、各地の湊町に残る廻船問屋の顧客名簿である「諸国御客船帳」から分かります。
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 文化十一年(1814)に江戸の小川顕道が書いた随筆集『塵塚談』では、讃岐国産の白砂糖は
「白雪の如く、舶来にいささかおとらず」
と、高い評価を受けるようになります。
さらに大坂市場でも高い市場占有率を誇るようになり、天保元年(1830)から同三年までの白砂糖の大坂への積登量の平均は、積登高全体の54%のシェアを高松藩が占めています。この背景には「樽一杯の砂糖が樽一杯の銭」と云われるほど砂糖が利潤の高い商品作物であったからです。
 さて、文政初年の高松藩の財政というと、
水害や旱ばつによって年貢収入が減り、さらに江戸屋敷での経費もかさみ、財政は火の車状態でした。このため大坂の商人から多額の借金があり、その借金の返済も天保三年には返済猶予を願うほどでした。まさに多重債務状態にあったのです。
 
そこで高松藩では財政難の克服のため砂糖に注目します。
砂糖売り上げの利潤を、借金返済に廻す流通統制を始めます。この流通統制は文政二年(1819)に始まりますが、砂糖会所を設置するなど大坂の砂糖市場を利用して、利益を上げようとするものです。この「流通統制」は大坂の砂糖市場との結びつきを強めながらも、荷主や船主の裁量で大坂以外でも売り捌くことまでは制限したものではありませんでした。「緩やかな統制」だったのです。
 この政策が結果的にはプラスに働き、利潤を求めて全国各地に高松藩の砂糖が流通していくもとになります。こうして高松藩は財政難を解消し、天保末ごろには軍用資金や災害備金を貯えるまでになります。明治維新の廃藩置県の際は、高松藩から香川県へ多額の引継金があったほどです。
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 ところで、砂糖流通は船が担っていました。
砂糖を運ぶ船を砂糖船といい、その中で藩から公認された船を砂糖組船と呼びました。砂糖組船は各浦に設けられ、五艘一組で組織されます。こうして浦々の砂糖役人と大坂の砂糖商人が砂糖市場や砂糖船の活動を通じて深く結びつくようになります。
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そのつながりを東讃の港に残る常夜燈や玉垣に見てみましょう。
天保14年の大内郡引田浦の波止普請にあたっては、引田村庄屋や浦役人だけでなく、引田浦の砂糖組船、隣郡の寒川郡津田浦の砂糖船持中、大坂砂糖問屋や大坂砂糖会所からも寄付が寄せられています。
同浦の氏神である誉田八幡宮に現存する嘉永六年(1853)奉納の玉垣は、大坂渡海船持中が世話人となり大坂砂糖問屋嶋屋奥兵衛・阿波屋儀助・丸屋喜之助か奉納しています。そのp5年後の安政五年(1858)に建てられた大鳥居にも、寄付者として大坂砂糖問屋の名が見えます。
 引田浦の隣村の馬宿浦(東かがわ市馬宿)の山王宮にある天保一三年の常夜燈も、大坂砂糖問屋の丸屋喜之助や馬宿浦砂枡組船中・渡海船持中が奉納したものです。
 大内郡三本松浦(同市三本松)の前山天満宮にも嘉永四年大坂砂糖問屋佐野屋繁蔵から奉納された玉垣が残ります。
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このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金毘羅山の金光院に提出されます。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、高灯籠の寄進を願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。
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そこには、砂糖産業が船によって支えられているという意識があったように思えてきます
 
 サトウキビの生産にあたって、サトウキビの苗は香川郡香西浦(高松市香西本町など)や阿野郡乃生浦(坂出市王越町)から移入されました。また油粕や干鰯などの肥料、中和剤となる牡蝸殼は、備前・備中国から船で運ばれてきました。砂糖産業に関する生産・製造に関する材料も船で運ばれていたのです。
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 高松藩の財政を支えた砂糖の流通は、船が担っていたと言えます。
讃岐国は全国的な市場である大坂に近いだけでなく、平野が狭い分、各湊が後背地に比較的近い、つまり生産地と積出港が近接しているという地理的条件も砂糖の生産と流通に適していたと研究者は指摘します。
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参考文献 萩野 憲司 讃岐三白「砂糖」の流通 香川県歴史学会編香川歴史紀行

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崇徳天皇(すとくてんのう)とは - コトバンク

瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の 
           われても末に あわむとぞ思ふ
 この歌は「小倉百人一首」の一首で、今は渓谷の瀬が大きな岩によって分け隔てられている。しかし、引き裂かれた二人も未来には会えるときがきっと来ると歌った恋歌と言われます。この歌の作者こそが、後に大魔王と称されるようになる崇徳院なのです。
この落差はどうして生まれたのでしょうか?
 中世になると、強い怨念を持って死んだ者が天狗になるという考え方が生まれて来ます。
仏教の悪魔的存在の魔縁も、怨霊の化した天狗と見なされるようになります。『保元物語』(鎌倉初期)によると、崇徳院は怨念の為に、経文に血で呪文を記し、生きながら天狗となったといいます。日本の怨霊を語る際に、トップバッター的な存在が崇徳上皇なのです。彼は
「日本内乱を司る荒ぶるる禍御魂」
「天下大乱を画する天狗評定の主催者」
「本邦の魔を統べる大魔王」
というキャッチフレーズで語り継がれていくことになります
E2 天狗になった天皇. - 日本の伝説 異界展
 いったい彼に何が起きたというのでしょう。
 崇徳院は、父の鳥羽上皇から疎まれ不遇の時を過ごします。というのも母は鳥羽院の皇后璋子ですが、伝説では実は崇徳院は鳥羽院の子ではなく、待賢門院と白河院との子で、そのため鳥羽院は彼を「叔父子」と呼んだとされます。
鳥羽上皇と崇徳天皇の対立 | 日本の歴史 解説音声つき
このようなことから崇徳院は、異母弟である後白河天皇との対立し、保元の乱を起こします。そして敗北し、讃岐に流されるのです。せめて、自らが写した経典だけでも都へ帰して欲しいと大乗経を都へと送るのですが、後白河方によって突き返されてしまうのです。
 それもそのはず、崇徳院は、五部大乗経を血書で写経していたのです。
 崇徳院からすれば心底からのお詫びをしめしたものだったのかもしれませんが、宮廷では恐れ怪しみます。五部大乗経の写経は絶大な功力があるとされ、本職の僧侶でさえ一部でも読破すれば、満貫の難解長大な経典といわれ、五部全て写経すれば願うこと適わざることなきとされる霊験現かなお経だったようです。
 これは何かの呪いではないかと疑われたのは当然といえば当然でしょう。
「後世のためにと書きたてまつる大乗経の敷地をだに惜しまれんには、後世までの敵ござんなれ。さらにおいては、われ生きても無益なり」
と絶望した崇徳院は髪も爪も切らず、生きながら凄まじき姿へと変貌します。そして、崇徳上皇は
「日本国の大魔縁となり、皇(すめらぎ)を取って民となし、民を皇となさん」

と、舌の先を食いちぎり、その血を以て大乗経に呪詛の誓文を記して海に沈めたたのです。
 その様子を『源平盛衰記』は
柿の御衣の煤けたるに、長頭巾を巻きて、大乗経の奥に御誓状を遊ばして、千尋の底に沈め給う。 その後は御爪をも切らせ給わず、御髪も剃らせたまわで、御姿を窶し悪念に沈み給いけるこそおそろしけれ」
と記し、『保元物語』は
「生きながら天狗の姿にならせたもうをあさましき」
と表現します。
悲劇の崇徳上皇 - さわやか易(別館)
天狗になった崇徳上皇

ちなみに、後には後白河院の病気や平清盛の死についても、崇徳院の祟りのせいだと京の人々には信じられるようになります。祟りを怖れた後白河院や平氏は、讃岐院と呼んでいた崇徳上皇に「崇徳院」の名を贈ったり、慰霊のための寺(頓証寺、後白河上皇)を建立したり、陵へ参拝するなど、崇徳院の御霊を鎮めるために様々な行為を行っています。これも菅原道真の御怨霊対策の時と同じです。
崇徳院のTwitterイラスト検索結果。
崇徳上皇

 長寛2年(1164年)崇徳院は九年の流亡の後に崩じます。
 『源平盛衰記』によればその葬儀の際に、柩から血が溢れ出し、柩が置かれた石を真赤に染めたといいます。その場所には「血の宮」の地名が残されます。朝廷側の検視を受けるため御遺体を八十場の泉に約20日間にわたって浸したともいいます。上皇の死因は軍記物語にも『白峯寺縁起』にも記されていません
これに対して「上皇暗殺説」がいつの時代からか語られるようになります。崇徳上皇の死の原因を暗殺とするものです。
まず、崇徳上皇と関連のある坂出市の松山地域の歴史を編んだ『綾・松山史』を見てみましょう。そこには次のように記されています。
「暗殺説は『讃州府誌』という書物にあり、上皇の悲運の最後を綴った数少ない史伝とし、人間的な悲劇性から生まれた庶民伝承
としています。
しかし、本当に庶民の間で伝え受け継がれてきた話なのでしょうか。
出典とする『讃州府誌』は、大正四年(1915)に刊行された史書で、暗殺場面を次のように記します。
『讃州府志』 御崩御   
院ノ御崩御ニ付テハ記スダニモ恐レ多キ事ドモナルガ、本書原本ノ記スル所二依バ長寛二年八月二十六日二條帝陰ニ讃ノ士人三木近安(保)ナル者ニ命シ戕(しょう)セシム 時ニ近安驄馬(そうば=青馬)ニ乗リ紫手綱ヲ取テ鼓ヲ襲フ 院知リ玉ヒ急ニ之ヲ避ケ路ノ傍ノ大柳樹ノ穴ニ匿レ玉フ 近安之ヲ探シ索メ執テ之ヲ害シ奉リ遂ニ崩ス 御年四十六 是ニ因テ三木姓ノ者、驄馬紫衣ノ者、白峯ヘ上ルヲ得スト云フ
暗殺については「本書原本ノ記スル所二依バ」と前書きがあります。つまり讃州府志は江戸時代の『夜話』の内容を、ほぼそのまま書き写したもので、フィルドワークなどを行って伝承を採録したものではないようです。その「原書」とは「翁のう夜話」(以下夜話)という江戸時代の延享2年(1745)に出された讃岐の地誌・史書です。これを高松松平家の伝来本で、該当箇所を読み下すと次のようになります。
長寛二年八月二十六日帝二条院陰に讃之士人三木某者に勅して讃岐院を栽せしむ。三木氏騎馬に騎りて鼓岡を襲う。讃岐院急に之を避く。その路の傍に柳樹あり。大きさ合抱にしてその後ろは朽ちて孔をなし僅かに以って身を容れるべし。廼ちその中に匿れ気をふさぎ息もせず。三木氏これを索むに甚だ務め遂に執らえてこれを害す

 讃州府誌の内容と、ほとんど変わりません。
確かに暗殺説の「原典」は夜話のようです。内容を見てみると、暗殺者の名前や日時などが非常に具体的に記述されています。上皇が逃げた先が大きな柳のむくろであったことも記されています。しかし、あまりにもリアルで具体的すぎるのです。戦記物のノリで脚色されたことがうかがえる史料です。また、その根拠とした史料も示されていません。語り伝えられてきた事とも書かれていません。仮に口承なり、伝承なりの史料が伝わっていたら『夜話』以前の史書・地誌等で触れられておかしくないのですが、それも見当たりません。
夜話を書いたのは?
 『夜話』の著者は菊池武賢で、父の増田正宅の見聞録を武賢の兄である増田休意が増補し、その記録をもとに武賢がまとめ直したものです。兄の休意が別にまとめた『三代物語』にも、これとほぼ同じ文章が載せられています。そして両書から約百年後の『全讃史』にも同じ内容が掲載されますが、その内容には全くといっていいほど差がないのです。これは「伝承」としては不自然です。
 また、菊池兄弟の著した『夜話』や『三代物語』には、それ以前の讃岐の地誌・歴史書に見られない事項が、根拠なく史実かのように記述されていることが多々あるようです。そのため崇徳上皇の暗殺話も、両書で形が整えられたと推測されます。このように「暗殺説」は、江戸時代中期の憶説で「創作」されたものと研究者は指摘します。
ところが江戸中期に創作された「暗殺説」が世間に広がる時がやってきます。
 日清日露戦争後、日本は皇国史観による忠君愛国にもとづく歴史教育が本格化する一方、王政に関係するものを顕彰するようになります。そのような中で大正2年(1913)の「名蹟名勝天然紀念物保存法」が制定されます。
 崇徳上皇の顕彰運動と讃州府誌発行や柳田碑文建立の前後を年表にしてみましょう。
大正2年 崇徳上皇750年忌祭。近隣市町村長が出席し盛大に開催
大正4年「讃州府誌」刊行 「夜話」を引用し「上皇暗殺説」を記載
大正8年 史蹟名勝天然紀念物保存法制定。崇徳上皇関連地が指定候補になる
大正8年 八十場の泉の横に県社白峰宮碑
大正9年 白峰寺参道入口に白峰宮殯殿遺蹟碑建立
大正9年 高屋神社に御棺基石碑建立
大正10年「柳田」碑建立
大正11年 昭和天皇が摂政として讃岐を訪れ、白峯陵を参拝
このように大正時代には、崇徳上皇への崇敬や顕彰の動きが高揚して行くのです。例えば、上皇の行在所は江戸末期までは、八十場の崇徳天皇社とされていました。
白峰宮(明ノ宮) (香川県坂出市西庄町 神社 / 神社・寺) - グルコミ
八十場の崇徳天皇社
しかし、崇徳上皇の顕彰運動が高まる府中村では、鼓岡神社を上皇行在所の場所として社、鳥居などを整えていきます。

「府中は讃岐国府があった雄所ある地だ。加えて「崇徳さん」が住まわれていたとなれば、恐れ多くも有難いことだ」

という願い共に「地域興し」の狙いもあったようです。
有力者も行政も支援する官民一体の運動の結果、いつの間にか「鼓岡」行在所説が世間に認知されていくようになります。そして江戸末期まで広く認識されていた「明の宮」天皇社=行在所の伝承は「変化」していくことになります。
鼓岡神社 - 香川県坂出市 - 八百万のかみのやしろ巡り
  さて、年表の最後に出てきた「柳田」碑とは何でしょうか。
この碑はJR予讃線の線路脇にあります。私が最初にこの碑と出会ったのは国府周辺を散策していたときでした。説明板がないために、最初は何の碑なのかは分かりませんでした。ネットで検索する内に坂出市の観光パンフレットに、写真入で「上皇の暗殺場所」と説明されているのに出会いました。「夜話」の中に、上皇が危険を察して逃げ出した際に柳の大木があった所で、この中に隠れていたところ見つかったとされる所です。つまり「暗殺現場」ということになるのでしょうか。それを記すために建立された碑文が「柳田」碑なのです。
  
 高揚する顕彰運動の中で、高松高等女学校教官などを務めた赤松景福は、
大正五年に次のように言っています。
(香川新報「鼓岡霊蹟顕彰誌」・「府中史蹟」)。
讃岐の史跡を語るならばまず府中村の史跡を探討すべきである。将来学生が修学旅行でここを訪れるのは学問に大いに資するところがあるが、施設がなくては益がない。まずは石標・石碑などの置き、訪問者によくわかるように便利を図ることが差し当たりのことである」

と暗殺場所への石碑設置の必要性について力説します。こうして5年後に「柳田」碑は設置されます。
 石碑などは、それが設置されるとそれにまつわる話が視覚化され、場所の固定化が進みます。そしてそれが「遺跡」と混同されてしまう恐れも出てきます。それは百年後の我々が郷土の歴史像を形作っていく際の「反面教師」にはなるかも知れませんがプラスとはなりません。石碑の設置やその後の利用に際しては充分な配慮が必要な所以です。
最後に、現在の史書は「上皇暗殺説」に対して、どのように向き合い、どんな記述をしているのかを見ておくことにしましょう。
戦後に出された『府中村史』では、暗殺については
「推測想像した話で、根本史料に出ていない」とさらりと退け、柳田という地名については「崇徳天皇が身を隠し遊ばれた大きな柳があったというので柳田と称する」

と記すのみです。『香川県史2 中世』では、

「崇徳上皇の讃岐配流についてはほとんど伝承あるいは伝説に類するものであって、正しい史実を確定するのは難しい」

として、暗殺説はもとより多くを記述していません。
 「歴史は事実に即して叙述される」のは当然です。しかし、史料がなくて史実が分からない部分については語れないことになり「空白」ばかりとなります。その結果、謎の3世紀、空白の世紀、邪馬台国の卑弥呼探しのように、いくつも「憶説」が生まれ飛び交うことになります。そして、年月が経つと「上皇暗殺説」ように伝承や伝説として安易に処理されることにもなります。

 「地域史の叙述に当たっては、空白をそのままにしておくのではなく、諸説を検証し、その結果を記しておく姿勢も必要」

と研究者は振り返っています。上皇暗殺説は、江戸時代に仕込まれた種が、大正時代に無批判に取り上げられ、石碑となりました。「諸説を検証し、その結果を記しておく姿勢」がなかった結果、現代にまた「再生」されつつある説なのかもしれません

参考文献 大山真充 伝説と地方研究 香川歴史学会編香川歴史紀行所収

 
 善通寺の五岳山と大麻山の間の有岡は、古代の「王家の谷」です。神が天から下ったおむすび型の甘南備山がいくつもぽかりぽかりと並び牧歌的にも感じられます。天孫降臨の主は大麻山の頂上近くの野田野院古墳に葬られ、以下磨臼山古墳から大墓山古墳に至るまでいくつかの首長墓の前方後円墳が東から西へと一直線に続きます。この首長墓の子孫と目される佐伯氏が、古墳に変わって建立したのが善通寺であるというのが定説となっているようです。
  さて、今日のお題はその首長墓たちではなく宮が尾古墳です。
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この古墳は装飾古墳に分類され線刻画が石室に刻まれている古墳として有名です。装飾古墳が残っているのは四国では香川県だけのようで、七基、坂出市に四基で西讃の丸亀平野縁辺に集中しています。
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 その中で宮が尾古墳には、玄室奥壁の大きな一枚岩に、上から人物群・騎馬人物・多くの人が乗船した船・船団などが、玄室と羨道の西側側壁には三体の武人像が線刻されています。どれを見ても幼稚園児が書いたような絵で、発見当時は「後世の落書き」とも思われたこともあったようです。
 確かに、同時期の大陸の古墳の壁画には比べようもありません。
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 しかし、よく見ると武人は髭を結い、腰にベルトを付けて柄頭に大きな装飾の付いた太刀を帯び、下半身はズボンのような着衣で靴を履いている様子まで、硬い岩に描き上げています。騎馬人物も馬には面繋・手綱・鞍(前輪・後輪)・鐙・障泥などが細かく描かれていて、船も何艘もあり船団を形成しているようです。今では、宮が尾古墳の線刻図は、このように数多くの情報が含まれた貴重な絵画資料と見なされ、歴史的評価も高いようです。
さて、この絵は何を物語っているのでしょうか?
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いろいろな仮説が出されてきました。その一部を紹介しましょう。
時間的な推移と共に上のシーンから①→②→③→④と進みます。
仮説A 大陸からの渡来、騎馬民族征服説
①戦いで敗れた部族が部族長の死を悼んでいる
②祖国を追われて船で海を越えて新天地へやって来た
③新兵器の馬を連れてきて「騎馬戦術」で征服者となった
④九州から瀬戸内海を経て大和に上陸し政権を樹立した=騎馬民族征服説
仮説② 高句麗・好太王との交戦説(戦前は「朝鮮討伐」として)
①高句麗・好太王との戦いの戦死者
②ヤマト政権は朝鮮半島の権益拠点の加耶地方を防備のために海を越えて出兵
③その際に騎馬技術を習得
④多くの「戦利品」とともに凱旋」
この2つのSTORYが代表的なものでしょう。
共通するのは、朝鮮半島に深い関わりがあることを示しているのではないかということです。
 近年、この絵の一番上の場面に関する興味深い説が出されています。古代の葬儀場面ではないかというのです。
最上部に描かれた人物群をよく観察してみてください。
ここには5人の人物と1つの構造物が描かれています。
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①この場面の中心は人物群の中央に描かれた小さな家のような構造物です、
②その前では二人の人物が直立し両手を大きく広げて向かい合っています。何かの儀式を行っているようです。あるいは右の人物は横たわる死体と考える研究者もいます。
③その右上方には三人の人物が描かれていますが、両手は下ろしていて、そこで行われている儀礼を見守っているように見えます。
人物たちの行動の違いが描き分けられています。
 この古墳の線刻画の発見後に、同じ大麻山東麓の南光古墳群や夫婦岩1号墳でも線刻画が確認されました。そこに描かれていたのは宮が尾古墳の奥壁に描かれた小さな家のような構造物でした。
 善通寺の線刻画の「構造物」と同じようなものが描かれている群集墳があります。
大阪府柏原市の高井田横穴群です。
ここには横穴墓の数は162基、線刻壁画が描かれた古墳が27基もあります。壁画に描かれているのは、人物、馬、船、家、鳥、蓮の花、木、葉、意味不明の記号とさまざまで、何を描いたのか理解できない線刻もたくさんあります。
27基の横穴墓の中でもっとも有名なのは、第3支群5号墳です。
玄室(げんしつ)から入口を見た場合の羡道(せんどう)の右側にあたる壁に、船から下りてくる人物が描かれています。
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一番上には、両端が反り上がったゴンドラ型の「船に乗る人物」が描かれています。この人物は左手に槍あるいは旗と思える棒状のものをもって船の上に立ち、丈の長い上衣を幅広の帯でしめ、幅の広いズボンも膝の部分で縛っています。
船の両端には二人の小さな人物が描かれていて、右側の人物は碇(いかり)を引き上げ、左側の人物はオールを漕いでいるようです。
その左には「正装の人物」が描かれています。
船に乗っている男と同じ服装をしていますが、先のとがった靴を履き、耳の横で頭髪を束ねた美豆良(みずら)という髪型をしているのが分かります。
その下の人物は「袖を振る女性」で裳(も)と呼ばれるひだのあるスカートをはいています。「船に乗る男」を出迎えるように、あるいは見送るように、盛んに両手を振っています。 
  瀬戸内海を航海し難波の港に到着姿か、西に向けて出航していく姿か、どちらにしてもここにも船と航海が描かれています。
さて、ここの線刻画にも善通寺と同じように小さな家のような構造物が描かれている古墳がいくつかあります。調査報告書では、それを「殯屋(もがりや)」と想定しています。
 それは古事記にも登場する喪屋とそれに伴う葬送儀礼が思い起こされます。貴人が亡くなった時その場に喪屋を立て、遺体を安置し、その場で様々な葬送儀礼が行われました。民俗事例でも墓上施設として殯屋の残存形態として様々な形状のものが報告されています。

ポピュラーな物としては、円錐形に竹や木を立てて周りを木の葉などで覆うようなものが知られています。善通寺市や高井田で見られる小さな家のような構造物の線刻画は、それに似ています。善通寺の南光古墳群の線刻では、小さな家のような構造物だけで、人物は描かれていません。
殯屋は死者を外敵から守る魔除けと、被葬者を封じる両方の性格を持っていたとされます。その効果を古墳の内部に持ち込むために、このような絵が描かれたと研究者は考えます。つまり、宮が尾古墳の壁画は殯屋とその周辺で行われた葬送儀式が描かれたものであり、善通寺市内の他の装飾古墳は、殯屋だけを描いたのではないかというのです。殯屋は細い本や竹を立てて、その周囲を縄や木の葉で覆う構造です。その竹や木にも霊力が宿ると考え、それらを壁画に描くことによって殯屋の霊的な力を石室にも持ち込もうとしたというのが「葬儀・殯屋説」です。
 坂出市の樹葉文のグループの場合は、
殯屋をおおって聖なる木の葉を壁面に描くことで、石室に殯屋と同じような性格を持たせようとしたのではまいでしょうか。善通寺の南光古墳群では殯屋が中心に描かれ一部に樹葉文も見えます。坂出市の鷺ノロー号墳には樹葉文が中心に描かれ、その間に横倒しになった小さな家のような構造物の線刻も見えます。
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坂出市の鷺ノロー号墳の樹葉文は殯屋?
さて、この線刻画を描いたのはだれでしょうか?
その人物もこの絵の中に描かれています。どの人物だと思いますか。
ひとり離れている一番左の人物が、この葬送儀式を執り行うシャーマンです。彼(彼女)が葬送儀礼を主導し、線刻画も描いたのです。そこには、地域毎のシャーマンの個性が表れます。同じ死生観を持ち、葬送儀礼を司るシャーマンでも、どこに重点をおいて描くのか、絵の上手下手などの「個性」があらわれ表現の違いが生まれてきます。しかし、共通の死生観や葬儀儀礼をもつ「同族」と思っていたはずです。
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最後に大阪府柏原市の古墳群の中で、最も古いとされる高井田山古墳について見ておきましょう。
この古墳は横穴公園整備事業の作業中に高井田山の頂上で見つかったもので、5世紀後半から5世紀末にかけて築造された直径22mの円墳です。石室は薄い板石を積み上げた初期横穴式石室で「近畿地方では最も古い横穴式石室」とされます。副葬品の中に、古代のアイロンと言われる青銅製の火熨斗(ひのし)が出てきました。火皿に炭火を入れて使われたと見られており、日本で2例目の出土品です。
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 ここを調査した柏原市立歴史資料館の桑野一幸さんは、次のように言います
「ここで見つかった横穴式石室は、出土した須恵器から判断すると、5世紀末のもの。しかも、百済の影響を直接受けています。つまり、最古級の畿内型横穴式石室なんです。そして韓国のソウルに、可楽洞、芳夷洞という百済の古墳がありますが、ここの横穴式石室と似ています。」
 つまりこの古墳は、6世紀頃に百済から直接畿内に渡来した首長の墓と考えられるようです。そのような氏族と同じ死生観や葬儀儀礼をもつ一族が善通寺周辺にいて、そのシャーマンが古墳の石室に線刻画を刻んだというSTORYが考えられるようです
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参考文献 笹田 龍一 香川県下の装飾古墳に見られる葬送思想 香川歴史紀行所収


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