瀬戸の島から

2019年12月

          
4空海真影3
弘法大師空海御影

  京都の本寺である東寺と、讃岐国衛の圧迫を受けて財政的に困窮し、風で倒れた五重塔もそのまま放置されるような状態であった善通寺。それを僧侶達は「末法」の現れと悲憤・悲嘆しました。そのような中で善通寺に追い風が吹き出します。それが「空海伝説」の都での広がりと、それれに伴う支援者たちの形成です。
まず弘法大師伝説について見てみましょう。
空海のことが今昔物語や他の文献にも登場し始めるのは、11世紀になってからです。ある意味、空海は忘れられていました。それが空海伝説の広がりと共に「復活」してきます。そして「弘法大師誕生の寺」として中央でも注目されるようになります。空海の時代から善通寺が生誕地として注目されていたわけではないようです。時間をかけてゆっくりと、弘法大師伝説は語り継がれ広がり、王侯貴族に広がっていったのです。
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 空海の御影信仰とは?   
空海は承和二年(八三五)3月21日に亡くなったのではなく、高野山奥の院で生きなからに入定して、今なお衆生済度のために活動している

という入定信仰がよく知られています。中世に東寺を中心に広がったのは、御影(肖像)信仰で、肖像のなかに空海の精霊が宿っているという信仰です。東寺における御影信仰は、延喜十年(910)の御忌日に、長者観賢によって東寺濯頂院の壁面に描かれた空海の肖像を本尊として行われた御影供にはじまるようです。鎌倉時代にはこれが国家的行事に発展します。こうして御影信仰は、平安後期から鎌倉前期にかけて、朝廷・公家・武家の間に広く行き渡っていきました。
「御影の中に、空海の精霊が留まっている」という信仰が広がると、「空海自身の筆で描かれた自画像こそ、最大の霊力がある」と思われるようになるのは自然です。善通寺には、この自筆自画像=御影があるとされていたました。
4空海真影
弘法大師御影(善通寺様式)

 これを拝みたいという上皇が現れます。後鳥羽上皇です。
 その時に、善通寺に逗留していた高野山の高僧宥範は、その経緯を次のように記しています。

 空海御影の上洛を善通寺に求めたのは後鳥羽上皇自身であり、善通寺の僧たちは上古以来御影を堂からお出ししたことない旨を申し上げて再三辞退した。が、度々の仰にことわりきれず、御影を奉戴して上京した。上皇は御拝見ののちに、絵師に命じて御影を模写させ、また生野郷の田地六町を寄進した。
 
 寺伝によると、承元三年に土御門天皇がこの御影を拝覧した時、画中の空海がまたたきをしたので、瞬目空海の御影と名付けられたと記します。このような、空海真筆御影に対する信仰が、本寺の東寺や随心院の頭越しに、直接善通寺に対する尊崇に結びついて行きます。これが中世における善通寺の発展に、大きな役割を果たします。 これを契機に、善通寺への寄進等が増えていきます。
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 後鳥羽上皇の寄進から40年後の宝治三年(1249)三月、善通寺領を大きく前進させる国司庁宣が出されます。
その内容は2つで、
その第一は、寺領の近辺を憚らず猟をするものが多いので、猪や鹿が善通寺の霊場に逃げ込み、猟師がそれを追ってきて殺害し、浄界に血を流すことがある。まことに罪業の至りであり、寺辺の殺生は法によっても戒められていることであるから、生野郷の西側に四至を定め、その内を善通寺領に準じて殺生禁断の地とするというものです。

 四至とは東西南北の境界のことで、国衛で定めている境界は、
4空海真影
東は善通寺南大門作道を限り、
西は多度こ二野両郡の境の類峰の水落を限り、
南は大麻山峰の生野郷領分を限り、
北は善通寺領五岳山南麓の大道(南海道?)
を限るとあり、これのエリアを示したのが上の地図で、なかなか広い地域になります。この地域がそのまま善通寺の領地となったわけではありませんが、寺の霊域と定められ、善通寺の宗教的支配地となったといえるでしょう。

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善通寺御影堂
 第二は、国が所有している田地21町を善通寺の修理料として寄進するというものです。
織田信長のルーツ越前劔神社とは?比叡山を焼いた信長の祖先はなんと神主だった - ほのぼの日本史

この寄進を行ったのは、讃岐知行国主になった前関白九条道家です。道家は鎌倉の三代将軍源実朝が暗殺されたあと、都から下って将軍職を継いだ九条頼経の父でもありました。いわゆる実力者です。道家は善通寺が衰え廃れていることを聞き、驚いてこの寄進を行ったといっています。そうして寄進田地に対しては、次のように命じたとされます。
国衛も本寺も妨げをしてはならず、「只当寺進退と為して其の沙汰致さしむべし」、すなわち一切善通寺の管理・支配にまかせるべきである

 この田地は善通寺の堂塔の修理料として、国の租税を免じられたところという意味で「生野郷修理免」とよばれました。  これを「空海伝説信奉者による善通寺応援団の形成」と私は考えています。
一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保と生野郷修理免


 善通寺がこの地域で直接支配できたのは10数町の免田だけで、あとは殺生禁断という形の宗教的支配と地域内の荒野開発権です。ここにはなお多くの国司支配の公田が残っていて、有力武士の所領地も存在していました。そのため支配権をめぐる争いはその後も絶えなかったようです。しかし、「末法」の最悪状態を抜け出す道筋が見えてきたようです。
 
4善通寺御影堂4
善通寺誕生院境内

良田(よしだ)郷郷務の寄進
 文永十年(1273)の蒙古来襲に対して、神社仏閣は国家の求めに応じて救国のための祈祷等を行います。その結果、「神風」の助けもあって撃退されます。このような中で、社寺への「論功行賞」も行われます。善通寺も、弘安三年(1280)11月、朝廷に良田郷西側の寄進と、あわせて大嘗会役や造内裏役など公領・荘園を問わず国中に課せられる国役の免除を申請しました。

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寺の請願書には次のように記されています。
当寺は弘法空海誕生の霊地であり、功徳、霊験他に勝る寺である。その功力をもって先皇後嵯峨上皇の御菩提をとむらうために亀山上皇より良田郷郷務を寄附されて以来、金堂・法華堂の一八人の僧が、金堂においては金剛胎蔵両部の行法を修し、法華堂においては長日法華三昧を勤め、毎月の上皇の御命日には不断光明真言法を勤行している。
 さらに祥月命日の二月十七日には満寺の衆徒によって曼荼羅供ほかを勤修するなど「偏に先皇を訪い奉り、仏道を増進」することに勤めてきた。
 これらの仏事をいっそう盛んにするために、良田郷西側の地について、「大嘗会役夫工造内裏以下恒例臨時勅院事大小国役、国司大勘ならびに別当の妨げを停止し、金堂法華両堂供僧等進退領掌せしめ、永く未来際を限り牢龍(ろうろう)有るべからずの由」の宣旨を下されたい
 この請願でまず、目にとまるのは「金堂・法華堂の一八人の僧」とあり、僧侶スタッフが18人いる大寺であったことです。次に、注目されるのは、国司大勘ならびに別当の妨げを停止し」と国司や本寺随心院の干渉を止めさせる宣旨をいただきたいと述べている点です。ここには、本寺の干渉を受けない、自らの寺領を持つことを主張しています。いわば善通寺の独立宣言です。
 善通寺が弘法空海の誕生地であること、そして「荘厳(仏像・仏堂を飾る仏具・法具)・梵閣・仏像皆是れ空海の御作として奇異の霊験を施す」という空海との特別な関係があるという自覚・覚醒が背景にあるようです。そこには、歴史においては本寺より勝った寺なのだという自負や、それにふさわしい地位を与えられて当然だという「自尊心」も感じられます。

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戦前の善通寺御影堂
 善通寺の申請は弘安四年(1281)八月の官宣旨(朝廷からの命令)によって認められました。これは、北九州に来襲した元と高麗の連合軍が大風雨によって壊滅した翌月のことです。この支配権は良田郷領家職とよばれていて、個々の田地の所有権ではなく、一定の領域に対する支配権です。弘安四年の官宣旨には、この領域の境界が次のように記されます。
東は金倉寺新免絵図通を限り、
西は善通寺本寺領(一円保のこと)境を限り、
南は生野郷境を限り、
北は葛原郷(現多度津町内)境を限る
とあります。領域内の田地は、約四七町余りになるようです。良田郷領家職は、良田荘ともよばれています。こうして善通寺は小さいながらも荘園領主となったのです。このような寺領拡大をもたらしたのは、空海の誕生所であることと、御影信仰が両輪として働くようになった結果だったといえます。
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 善通寺領の発展の当時の政治的・社会的背景は?
  それは第一に、蒙古襲来があげられます。
蒙古来襲の危機が高まると、幕府・朝廷は防衛体制を固めるとともに諸社寺に異国降状の祈祷を命じました。善通寺の古文書のなかに、建治二年(1276)8月21日付けの蒙古人治罰の祈祷を行った報告書があります。
  蒙古人治罰御祈祷事
          御影堂衆
  毎日三時五檀法 金堂衆
          法花堂衆
  大般若不退転読 供僧分
  仁王経長日読誦 職衆分
  薬師経観音経  交衆分
  尊勝陀羅尼千手陀羅尼 行人、
右、勤行の意趣は、公家武家御願円満のおおんため、蒙古人治罰御祈祷致す所也
    建治二年八月二十一日
これによれば、御影堂・金堂・法花堂の供僧が毎日朝・昼・夜の三度五壇法を修して五大明王に敵国調伏を祈るほか、寺僧らが手分けしてさまざまな修法を行い、蒙古人治罰を祈っていたことがわかります。二度にわたって来襲した蒙古軍がいずれも大風によって撃退されたことは、神仏の加護によるものだと信ぜられ、社寺に対する尊崇が高まり、領地などが寄進されました。善通寺の良田郷領家職や艘別銭徴収権の獲得などもこの気運にのったものと思われます。

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もうひとつの理由は、大覚寺統の後嵯峨上皇、亀山上皇、後宇多上皇が、相次いで讃岐の国主となったことです。
 三上皇は院政の主で、そろって真言密教を深く信仰し、善通寺の援助者でした。良田郷の荘園化、禁野関料の権利も三上皇の善通寺保護がなければ、実現が難しかったと研究者は考えているようです。
 特に後宇多上皇は、徳治二年(1307)ごろに東寺造営の大勧進であった泉涌寺(京都市東山区)の素道(そどう)上人に命じて善通寺五重塔の再建を計画しています。崩ずるに先だって作成した21箇条の御遺告の第18条には「善通・曼荼羅両寺および誕生院を興隆」と遺言として残しています。

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 善通寺東院の南大門を入った左手の大楠の近くに三基の宝塔があります。
これは中世の善通寺の発展を支援した後嵯峨・亀山・後宇多三上皇の遺徳をたたえるために建立された宝塔で、三帝御陵とよばれています。この宝塔について善通寺市のHPには次のような文章が添えられていました。
この宝塔は、はじめは旧伽藍(212㍍×212㍍)の西北隅にありましたが、境内縮小のあおりで境内の北西約1.4kmの現・善通寺市中村町宮西に移転されました。この地には現在でも御陵地と呼ばれる一区画があります。その後の享保年間(1716~1735年)に、境内の北西側隣接地、(旧富士見町)の遍照院跡地に再度移転しました。さらに昭和39年2月に現在の場所へ移転しました。このように3基の石塔は移転を繰り返しながらも、祭祀が継続されていたことが伺えます。

4三帝御廟4
善通寺の三帝御陵
以上をまとめると、鎌倉時代後半の善通寺の寺領の拡大には次のような背景・要員があった。
① 空海伝説=大師信仰の王侯貴族への広がり
② 善通寺の御影信仰と皇族からの保護寄進
③ 蒙古撃退後の社寺への論功行賞
④ 讃岐の国主となった三上皇(後嵯峨・亀山・後宇多上皇)の支援保護
4三帝御廟1

参考文献 鎌倉時代の善通寺の姿 善通寺史所収
関連文書

一円保絵図 原図
一円保絵図
善通寺宝物館には、一円保絵図と云われる絵図があります。

一円保絵図 東部
一円保絵図トレス図

寺の伽藍と背後の五岳山、周辺に広がる寺領を描いた縦約80㎝横約160㎝の絵図です。もともとは善通寺の本寺であった京都山階の随心院に保管されていたようです。それが明治40年(1907)に善通寺に持ち帰えられ、現在では重要文化財に指定されています。絵図は小さくたたんで表紙がつけてあり、表紙をあけたところに、次のように記されています。

「徳治二年(1307)丁未十一月 日 当寺百姓烈参(列参)の時これを進(まい)らす」「一円保差図」

「差図(指図)」とは絵図面のことです。
この記入から、この絵図が鎌倉時代末期の徳治二年に善通寺寺領の農民たちが京都に上り、随心院に提出したものであることがわかります。この地図がどうしてつくられ、京都の本寺に保管されていたのでしょうか?この絵図を見ていくことにします。

善通寺一円保の位置
善通寺一円保の範囲

まずこの絵図に描かれている鎌倉時代末期の善通寺の伽藍をみてみましょう。

一円保絵図 中央部

 絵図は普通の地図とは異なって南が上になっていて、北から南を見る形になります。
右が西、左が東です。絵図の東より、やや南側(上側)に善通寺の伽藍が描かれています。ちなみに、絵図の方形は106㍍×106㍍で一坪にあたります。青く塗られているのは、川や用水路のようです。詳しく描かれています。制作意図と関係があるようです。
まずは善通寺の伽藍にズームインしてみましょう
善通寺一円保絵図
善通寺一円保絵図 

①境内は二町(212㍍)四方で塀に囲まれています。ここが多度郡条里の「三条七里17~20坪」の「本堂敷地」にあたる場所になります。
②東院境内の上方中央の長方形の図は(G)南大門で、傍に松の大樹が立っています。
③南大門を入ったところに点線で二つ四角が記されています。二つめの四角は(K)五重塔の基壇で、まん中の点は(J)塔の心礎のようです。五重塔は延久二年(1070)に大風のために倒れてから、そのあと再建されていないようです。
④中央にあるのは(A)金堂で、『南海流浪記』には
「二階だが裳階があるので四階の大伽藍にみえる」
とあります。この絵図では三階にみえます。

zentuji128一円保差図
善通寺一円保絵図 善通寺伽藍部分
一円保絵図 善通寺伽藍

⑤金堂の下にあるのは(E)講堂で、『流浪記』に破壊して後、「今新に造営された」と記されている建物です。
⑥絵図でみると、善通寺の伽藍配置は門・塔・金堂・講堂とならびますので四天王寺式の配置であったことが分かります。
⑦金堂の右下にみえるのは(F)常行堂で、塔と同じく延久の大風で倒壊しましたが、道範が訪れた時には新しく造営されていました。
⑧『流浪記』には、金堂の左下に描かれている二重の宝塔に、大師の御影が納められているとあります。その後御影を安置する(B)御影堂が建てられました。金堂の左に見える建物がそれです。⑨宝塔は、寛文の絵図では法花(華)堂となっています。
⑩講堂の左にあるのは(C)護摩堂、右にあるのは閻魔堂で、境内の右上隅に柴垣様のもので囲まれているのは(M)鎮守五社明神、その下に(L)鐘楼がみえます。

17 世紀の讃岐国善通寺における西院伽藍の変遷について4

⑪伽藍の右(西側)中央から直線の道がのびており、その先にあるのが(I)誕生所です。
⑫左右に囲む塀のある門を入ると三方に柴垣を廻らせた境内があり、中央に御堂が建っています。道範が鎮壇法を修して造営し、木彫の大師像が安置された御堂でしょう。左に小堂、右に石塔が二基描かれています。
⑬誕生院の裏の小山は八幡山で、山上には弘法大師の出身氏族である佐伯氏の祖先をまつる祖廟堂があり、遊園地が設けられて、家族連れのピクニックなどに最適の地でした。今は、削られて駐車場になっています。
⑭八幡山のうしろの山が香色山で、麓の安養院は善通寺の子院の一つです。
⑮香色山のうしろの山は筆ノ山、そのうしろの山は行道所のある我拝師山で、他の山々は略されているようです。
一円保絵図 有岡大池
善通寺一円保絵図
 次に善通寺の周囲の一円保寺領を見てみましょう。
 絵図に引かれている縦横の線は条里の区画です。これを前回に示した寺領条里図とくらべると、ほとんど一致します。ここからは12世紀に国司藤原経高によって善通寺の周辺に集められた一円化寺領が、そのまま一円保になったことがうかがえます。
3善通寺HPTIMAGE
善通寺一円寺領坪付図

 よく見ると善通寺周辺の寺領は詳しく描かれていて、境内の東側の地域(現赤門筋)には、特に家が多く描かれています。この辺りは現在でも市の中心地で、早くから住居地として発展していたようです。

善通寺一円保の位置

この地域と境内周辺の地名を見ると
「そうしゃう(僧正)」
「そうつ(僧都)」
「くないあしやり(宮内阿閣梨)」
「ししう(侍従)」
「あわのほけう(阿波法橋)」
などの僧名を思わせる注記が見えます。
一円保絵図 北東部

そこに住んでいる僧侶の房があったのではないかと研究者は考えているようです。善通寺には「安養院、玉泉院など四九の子院が寺領内にあった」と伝えられています。子院は有力な僧の住房から発展したものが多く、絵図の僧房の中にも、のちに子院になったところがあるかもしれません。

 「行政機関」を探してみましょう
絵図の左上のところに「田ところ」とあります。これは田所で、寺領の田地を管理する役人です。絵図の右下の曼荼羅寺の上には「そうついふくし(惣追捕使)のりよう所(領所)」という記載があります。惣追捕使も寺領役人で、領内の治安を担当します。
 公文とあれば、そこが年貢収納などに当る公文という役人がいたところで、寺領役人の中心地だったことが分かるのですが、この絵図では公文は見当たらないようです。
  絵図左下のまん中あたりに石塔が描かれています。
これは遊塚(ゆうづか)と呼ばれていました。空海が真魚と呼ばれた子供の頃よく遊んだところで、仙遊原と名付けられ、その古蹟を伝えるために建てられた塔です。伽藍の左上にみえる「くらのまち(倉の町)」は年貢類を納める倉のあったところ、左端の木が描かれている坪の下にある「とうし くらのまちりよう(当寺倉の町領)」は、倉の維持に必要な費用を出す領地のようです。


  絵図の左側下半分に、宗光、光貞、利友、重次など人名のような記載があります。
これは名田で、年貢・公事(雑税・労役)の割り付け単位になったようです。名田につけられた名前は名田からの年貢・公事の納入責任者で、名主といいます。名田が成立したころ(平安末、鎌倉初期)には、実際にその名の名主が年貢の納入責任を負い、名田の管理経営も行っていたようです。しかし、時代が経つにつれて名主の名前も変わり、田地も切り売りされたり、質入れされたりして所有者がばらばらになって、次第に名田の名前はただの地名のようになっていきます。
 それでも、旧名田からの租税は名主の家柄のものがとりまとめて納めていたようです。彼らは当時も、村落の中心的地位にいたようです。この絵図は周辺の荘園との水争の解決を本寺に求めて上京する際に作成されたものと研究者は考えています。絵図を持って上京し、随心院に列参したのも彼ら名主だったのかもしれません。
 絵図の同じ部分に寺家作と記されているところは寺の直属地です。といっても善通寺が下人などを使って直接経営しているのではないようです。寺領内の小農民(小百姓)に土地を貸し小作化していたようです。名田内の田畠も小百姓によって小作されていたところが多かったようです。
1087壱岐湧
「壱岐湧」

 善通寺周辺の田畠は2つの水源から流れ出る水によってうるおされています。
 一円保絵図 有岡大池

水源の一つは図の右上に①「ありを口(か)」と記されている池で、この周辺は「古代善通寺王国の王家の谷」でいくつもの前方後円墳がならぶ聖域です。大墓山古墳と菊塚古墳の間の谷を流れる弘田川の源流をせき止めた池が有岡大池です。この池が古くから造られていたことが分かります。ここから流れ出す②弘田川は、現在でも誕生所の裏を通って、多度津の白方で瀬戸内海に流れ出ています。

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二頭出水
 もうひとつの水源は、絵図の左上(東)にみえる3つの出水(湧水)です。

一円保絵図 北東部

「をきとの」
とみえるのは、生野町木熊野神社の南側にある「壱岐湧」とよばれている出水です。その東は字がかすれていて読めませんが「柿俣の井」で、磨臼山の東麓にある出水のようです。3つ目は名前は記されていませんが、現在の②二頭出水だといわれます。絵図からは、水が用水路を通じて西に流され、条里制に沿って北側に分水されている様子がうかがえます。四国学院の図書館建設に伴う発掘調査からは、北流して旧練兵場方面に導水されていたことを推測させる弥生後期の用水路跡もでてきています。これらの湧水が弥生時代以来の善通寺周辺の水田の重要な水源であったことが分かります。古代善通寺の発展の原動力となった湧水群です。

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 五岳の我拝師山
善通寺文書のなかに、善通寺の住僧たちの訴えを裁いた国司庁宣があります。
その第三条に、善通寺の寺領の用水は生野郷の「興殿と柿俣」の出水に頼っていて、もしこの出水からの用水が来なかったら寺領の田んぼは干上がってしまうという訴えがあります。ここからは、出水周辺の勢力からの供水妨害があったことがうかがえます。善通寺の管理権は、東の出水付近までは及んでいなかったようです。

一円保絵図 現地比定
善通寺一円保の範囲

3つの出水は寺領の外、国司支配下の公領生野郷にあります。有岡の大池も国衛の築造でしょう。

そうすると用水の確保は讃岐国司との交渉になります。善通寺だけの交渉では相手にしてもらえず、本寺の随心院にのり出してもらわなければなりません。善通寺寺領の百姓の上京は、その請願陳情のためだったのではないかと研究者は考えているようです。そう考えれば、絵図に両水源とそれからの用水の流れが丁寧に描かれている理由が見えてきます。絵図は、説明資料として作成されて京都に持参され、これに基づいて状況説明が京都の本寺に行われたのではないでしょうか。善通寺周辺が詳しく書かれているのに、曼荼羅寺周辺の寺領の描き方が簡単なのは、両水源からの水掛りに無関係だったからと考えれば、納得がいきます。
1善通寺
江戸時代の善通寺伽藍と五岳
 善通寺一円保絵図は、誰が書いたのか?
 この絵図は五岳山の山容のタッチとかラインに大和絵風の画法が見て取れます。これは素人の農民の絵ではありません。それでは誰が描いたのでしょうか。研究者は「絵図の作成には善通寺が関わっていた」と考えているようです。例えば、この京都陳情から6年後の正和二年(1313)に作られた豊中町本山寺の二天王像の彩色は善通寺の絵師正覚法橋が行っています。善通寺には、専属の絵師がいたのです。それだけの要員と組織があったことが分かります。

一円保絵図 現地比定拡大
善通寺一円保の比定図拡大

 また、一円保の領主である善通寺は、農民の実状がよくわかっていたはずです。絵図の作成ばかりではなく、農民らの上京にも協力したのではないでしょうか。鎌倉後期の一円保では、名主層を中心に、用水争論などで力を合わせる村落結合が形成される時期になります。善通寺は領主であると同時に、その「財源」となる村落を保護支援する役割を果たしていたようです。同時に農民たちの精神的拠りどころにもなっていたのかもしれません。

   こうして、11世紀後半からの末法の時代に入り、本寺の収奪と国衛からの圧迫で財政的な基盤を失い、伽藍等も壊れたままで放置されていた善通寺に、反転の機会が訪れます。それは一円保という形で寺の周辺に寺領が定着していくのと足並みを揃えるかのように始まります。
参考文献 鎌倉時代の善通寺 善通寺史所収


  
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讃岐国司藤原経高は、なぜ寺領の集中、一円化を行ったのでしょうか。
 平安時代の末の11世紀後半になると律令制度の解体に対して、中央政府は租税改革を行い増税政策を展開します。それまでなかった畠地への課税、在家役の徴収などの新たな課税が地方では行われるようになります。これは、善通寺のようなわずかな寺領からの収入に頼り、国衛の支配に対しても弱い立場にある地方寺院にとっては、この新しい課税政策はおおきな打撃となったようです。
 善通・曼荼羅寺の本寺である東寺も、国に干渉して末寺寺領を保護するほどの力はありません。そればかりか本寺維持のために善通寺などの末寺からの年貢収奪に力をそそいでいたことは、前回に見たとおりです。また善通寺や曼荼羅寺としても、寺領耕作農民の年貢怠納や「労働力不足」に悩んでいました。
 一方、讃岐にやって来た良心的な国司の立場からすると、租税の取り立てだけがその役目ではありません。国内の寺社を保護し、興隆を図ることも国司の大切な勤めです。まして善通寺のような空海ゆかりの寺です。準官寺として国の安泰を祈る役目を担っている寺院を、衰退させることは重大な職務怠慢にもなりかねません。
3善通寺4images
このような中で打開策として実施されたのが善通寺寺領の一円化です。
 これは古代以来、ばらばらに散らばっていた寺領を善通寺周辺に集めて管理し、財源を確保しようというものでした。この一円寺領の状態を示すのが久安元年(1145)十二月に国・郡の役人と善通寺の僧が作成して国衛に報告した善通・曼荼羅寺寺領注進状です。
 東寺末寺 善通曼荼羅両寺事
 口口中村・弘田・吉原三箇郷内口口口口口口
 口口口口段二百二十歩
 常荒二段   (荒廃してしまった畑)
 畠六十八町二段百八十歩
 作麦三十七町九段百口口歩
 口口丁九段
 常荒十九丁四段  
 河成一丁三段    (河成=川洲になってしまった田畠)
 四至(境界)   (東西南北四方の境界)
 限良田郷堺 
 限口口郷堺
 西限三野郷堺 
 限中津井北堺
在家拾五家   (一円保の耕作担当農家15軒=労働力)
 仲村郷 正方 智円 近貞 国貞 清成 正宗 清武 喜楽 嬬
 弘田郷 貞方 末時
 吉原郷 貞行 近成 円方 真房
 善通寺
    仲村郷五十九丁五段
    田代二十丁三段六十歩
    見作九丁九段百八十歩
    年荒十丁三段二百三十歩   (年荒=休耕地)
    畠三十八丁七段百二十歩
    作麦十九丁一段三百歩
    年荒十四丁二段六十歩
    河成四段百八十歩
    在家九家
 三条
  七里
  二坪一丁七  公田二段半見作也 年荒七段半  作大貞末
  三坪一丁七  公田定見作四段 年荒六段    作大正方
  四坪一丁七  公田定見作 年荒一段
        畠七段 作麦六段        作大正方
     (中 略)
  十七、一丁  本堂敷地 (三条七里17坪)
  十八、一丁  同 敷地
  十九、一丁  同 敷地
  廿、 一丁  同 敷地
    (中 略)
    八里
二坪一丁  公田定年荒      作人友重
三,一丁  公田八反年荒     在所為貞
      畠二反麦之
四、一丁  公田七反見作一反年荒六反 作人友重
      畠三反年荒
    (中 略)
 右、件の寺領田畠、去閏十月十五日御庁宣に依れば、件の二箇所先例に任せ本寺に付し其の沙汰せしむ可きの状、宣する所件の如し者(ということであるので)、寺家使相共に注進せしむる所件の如し、
久安元年十二月 日 
       図師秦正清
       郡司綾貞方在判
       寺使僧胤口在判
             国使
                大橡綾真保在判
                散位中原知行在判
 この史料には何郡何条何里何坪と記されていることと、多度郡の条里制が明らかになっていますので、記された耕地場所が分かります。この注進状に記された耕地の条里呼称を、坪ごとの作人と合わせて条理の上にあらわすと次の図のようになります。
この史料と図から分かることをまとめてみましょう。
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①史料には三条七里17~20坪が「本堂敷地」とあります。絵図で見ると敷地は4坪で212㍍×212㍍の2町四方の面積が善通寺の伽藍であったことになります。現在の約2倍の伽藍だったことが分かります。
②散在していた寺領が、三条七里の善通寺と六条八里の曼荼羅寺の周辺に集められたことがよく分かります。
③坪の中に記入されているのが住人ではなく耕作者です
④寺領の中に仲村と弘田郷の境があるので、仲村・弘田・吉原の三つの郷にまたがっています。
⑤境界(四至)は、東は良田郷、西は三野郡、北は中津井北、南は生野郷に接しています。
⑥吉原郷の六条八里十八坪、方一町の本堂敷地が曼荼羅寺。
⑦一円保の田地面積を合計すると三七町三段一八〇歩。
⑧「常荒二段」とあるのは、荒廃して耕作できなくなった田地。
⑨畑地は総面積六八町二段一八〇歩で、常荒一九丁四段、その他氾濫などで川洲になってしまった田畠(川成)が一町三段あります。各坪は大部分が、田と畠の両方を含んでいます。この時代は、全ての土地が水田化されてはいません。畑作地が多く残っていたことが分かります。
⑩年荒と記されている所は休耕地。この時代は灌漑未整備や農業技術が未発達で連作ができなかったため、ある期間休耕にする必用があったようです。
⑪善通・曼荼羅寺領の場合、休耕しているのは田が21町八段あまり、畠が20町五段もあります。
⑫実際に作付されて収穫のあった見作地は、田が14町三段ほど、畠が28町一段です。
⑬在家一五家とあるのは、寺領域に住家をもつ農民が15五家あり、彼らに課せられる在家役が善通寺に納入されていたようです。
 一円化寺領のねらいは? 
 一円化された寺領をみると、土地と労働力がセットになって寺のまわりに配置されたことが分かります。これがもたらすプラス面としては、次の2点が考えられます。
①分散していた寺領が、国司の権力によって善通寺と曼荼羅寺の周辺に集められて支配がしやすくなった
②田畠数も増加し、15軒の農家も土地に付属して、徴収も行いやすくなった。 
これだけ見ると、これを実施した讃岐国司に善通寺は大感謝したと思われます。
その思惑通りに進んだのでしょうか?
善通・曼荼羅寺が置かれていた困難な状況は寺領一円化によって一挙に解消したのでしょうか。事態はそれほど簡単ではないようです。
 久寿三年(1156)五月に国衛に差し出した文書のなかで、善通・曼荼羅寺所司は散在寺領の時と一円寺領の時との地子物の徴収について、
「右件の仏事料物等、一円に補せられざる時に於いては、寺領夏秋の時、検注を以て地子物を勤仕せしむ。而るに一円せらる後は、彼の起請田官物の内を以て勤仕せしめ来る処に」

と述べています。一円化が行われる以前の散在寺領の時は、寺領を夏と秋の二回調査して年貢の額を決めて徴収していたが、一円化された後は、起請田から徴収された官物の内から納入されるようになったというのです。官物とは、国衛が支配下の公領から徴収する租税、起請田とは、官物の徴収責任者がそこからの官物の納入を神仏に誓って(起請して)請け負った田地のことです。
 つまり、一円化寺領からの地子物の徴収は、直接善通寺あるいは東寺によって行われるのではなく、国衛が、起請田として定めた田地(これが一円寺領とされたもの)から官物を徴収し、その内から一定額を寺に地子物として送ってくるということのようです。善通寺は徴税作業に直接に関わることがなくなったのです。
 そうすると、善通・曼荼羅両寺の周辺に集められた土地は、名目的には寺領とよばれていますが、租税・課役の徴収などの実質的支配は国衛によって行われていたようです。これは寺領いうものの、実態は公領です。寺領の面積が拡大したようにみえるのも、実は国衛が善通寺に渡す官物の額が従来の寺領地子額に見合うように、起請田の広さをを設定したためではないかと研究者は考えているようです。

保延四年(1228)に讃岐国司藤原経高は、国司の権限によって、散在寺領を移し替えて両寺の周辺にまとめました。その目的を整理すると
①寺領を寺周辺の一定地域にまとめて設定することで、
②その地域内に住居を持つ住民に課せられる在家役を寺側に納めさせて、
③寺家の修理・雑役不足の問題を解決し、
④農民に対する支配力の弱い善通寺による年貢徴収に代わって、国衛が寺領耕作農民から徴収した官物のうちの一定額を年貢として善通寺に送付する
⑤以上の「改革」で善通寺の財政を安定させようとした
⑥国衛が間に入ることによって、本寺(京都東寺)の過重な収奪をコントロールしようとした
以上の一円化政策について、研究者は
「善通寺と曼荼羅寺が追い込められていた状況を打開する適切な措置」

であった評価します。後の鎌倉時代にはこの一円化が善通・曼荼羅寺の中心寺領の基本的枠組となっていくのです。

 しかし一円化政策は、次の二つの大きな問題があったようです。
①寺の収入は、善通・曼荼羅寺が直接一円寺領を耕作している農民から地子を取り立てるのではなく、国衛が徴収した官物のなかから寺側と約束した額を取り分けて送ってくるという形で得られたこと。

 これは国司が代わり国衛が約束を守らず、納入物を送ってこなければ、その収入は途絶えてしまうことになります。

②一円化政策は、国司の権限によって行われたことです。中央政府の法令ではありません。彼のあとに就任した国司が、違う考えを持っていたら、同じく国司の権限によって、一円寺領を解消することもできます。

この問題はまもなく現実のものとなったようです。
 経高の次の国司は、一円化政策を引き継ぎました。しかし、その次の代の国司は、政策を変更し、一円寺領を解消し、もとの散在寺領に返してしまいました。久寿三年の解状で、善通・曼荼羅寺所司は、引用した文章に続けて次のように言っています。

「散在せらるるの間、その沙汰無きの間、もっとも仏威絶えるに似たり、ここに一円を留め散在さるれば、本の如く彼の留記帳顕然なり。件の地子物を以て勤仕せしめんと欲す。」

 一円化政策が取り止めになり、国衛からの納入物の送付という沙汰(処置)が無くなった善通・曼荼羅寺は、寺の留記帳(資財帳)に記載されている元の散在寺領から地子物を徴収しようとしました。しかし寺領一円化の間に、寺は徴税に関わっていませんでした。ふたたび散在した寺領に対する寺の支配力はすっかり弱まっていました。
 さらに、一円寺領が取り消されて寺の周辺が元の公領にもどったため、寺領の中に生活していることで寺に与えられていた15家の百姓の労働力が得られなくなります。逆に寺の周辺に居住する僧たちに公領在家役がかかってくるようになります。このため僧たちの多くが、重い負担に堪えかねて逃亡して、残ったわずかの住僧たちによって仏事が営まれる有様になります。この様子を善通・曼荼羅寺所司たちは、
「上件の条々非例の事、国衛の焉めには畿ならずと雖も、御寺の焉めには三百余歳を経し恒例の諸仏事等まで欠怠せるの故、最も愁うべく悲しむべし

 これらの在家役や国役は国衛にとっては、何ほどの額ではないけれども、寺にとっては三百余年も続いた仏事ができなくなってしまうほどの打撃なのだと、非痛な叫びをあげ、悲憤をつのらせています。
 僧侶達は「末法の時代」に入ったという時代認識がありました。自分たちの善通寺を取り巻く状況こそが「世も末」に思えたはずです。前回にお話ししたように、その現実への悲憤と逃避のために、香色山山頂に経塚は埋められたのかもしれません。
 このように設置当初の一円保は、国司交代の度に設置と廃止を繰り返します。これが制度として定着するのは、もう少し時間が必用でした。
 この頃、平安時代も終わりに近づき、都では平氏が保元の乱(1156))、平治の乱(1159)に勝利して、ライバルの源氏を倒し、栄華の道を進もうとしていました。そして讃岐国では、善通寺が、本寺と国衛の支配の間にはさまれて、苦難の道を歩んでいたのです。

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参考文献 平安時代の善通寺の姿 善通寺史所収


     
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 古代善通寺王国の中心であった旧練兵場遺跡の背後にピラミダカルな美しい山容で立つのが香色山です。古代の人々は、この山と背後に重なる五つの峰を五岳(ごがく)山と呼び聖域として見てきたようです。「香色山遺跡群調査」では、この山頂に弥生時代後期の集団墓と平安時代の経塚群が報告されています。
今回は古代末期(11世紀後半)の経塚について見ていこうと思います。
 善通寺の駐車場の後から整備された遊歩道を15分も登れば、山頂に立つことができます。展望は素晴らしく善通寺の東西の伽藍や、その向こうに真っ直ぐに讃岐富士に向かって伸びていく条里制の跡の道路が見えます。戦前は、11師団が丸見えなので「軍事機密」防衛のために一般人は、この頂上には立つことが許されなかったと言われますが、それが納得できる展望です。

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山頂は木が茂っていないために、風や雨による土砂の流れ出し、至る所に岩盤が露出しています。そして「聖地」らしくいろいろな石造物が建てられています。例えば、空海の生家・佐伯氏の祖廟碑もあります。これも興味深いのですが、今回は素通りして、不動明王と愛染金剛王に目を向けます。
この二明王の後の石碑には次のような内容が刻まれています。
「再埋経画之銘併序(再び経画を痙(埋)めるの銘並びに序)として、「寛政壬子(1792)二月にこの地を掘削した際に、経石の中から嚢に納められた銀製経画三点が偶然発見された。嚢が壊れていたものは経画も傷んでいたが、賓が無事なものは経画も完全に残されていた。その大きさは径三寸(約9cm)・長さ一尺(約30cm)である。同年六月に再び同じ場所に埋め戻し、像(二明王像)をこの上に安置した。」
と刻まれ、碑銘奥書きには
「寛政壬子秋九月・誕生院権僧正寛充誌」
とあります。

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 ここからは江戸時代にここから「経塚」らしきものがすでに「出土」していたこと、それを誕生院の僧正が埋め戻し、その上にこの二つ明王様を建てたことが分かります。平成8年になって、土砂の流出で激しくなり遺跡の状態が危惧されたために発掘調査が行われました。その結果、4つの経塚が出土しました。
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経塚とは仏教における末法思想による危機感から、仏教経典を後世に伝え残すことを目的に、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡です。見晴らしの良い丘陵上や神社仏閣など聖地とされる場所に造られるので、そのような場所では数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。この近くでは、まんのう町の金剛院で数多くの経塚(鎌倉)が発掘されています。

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善通寺の西に連なる五岳山 一番手前が香色山
 この調査で4つの経塚が山頂で確認されました。
そのうちの一号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には十二世紀前半の経筒が納められていて、上の石郭からは十二世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。調査の結果、この経塚は善通寺の関係者が平安時代の後半頃に造営したもので、下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」であると研究者は考えているようです。こんな上下2段スタイルは全国初のようです。
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
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香色山1号経塚
調査報告書には副葬品について、次のように記します
経筒  
経筒には銅を鋳製して作る銅鋳製経筒と、銅板を丸めて作る鋼板製経筒の2種類がある。今回発見された経筒は鋼板製経筒の典型的な例であるとともに、銅鋳製経筒と比べて小形のものの多い鋼板製経筒の中にあって、銅板の厚いこと・作りの丁寧なこと・紐の精巧なことなど、屈指の鋼板製経筒と言うことができる。
なかでも鉦の精巧さは注目に値する。一般的には、銅鋳製・鋼板製を問わず、宝珠形の鉦が付くが、本経筒例では、宝珠の下に受花と反花を置く本格的な宝珠鉦となる。これは時代の古さを示すとともに、この後に四国の経塚に流行する火災宝珠鉦経筒の先駆けをなすものとして注目される。
太刀  
経塚の副納品にはしばしば刀剣類を見ることができる。
その多くは刃渡り30cm以下の短刀である。今回も短刀はたくさん発見されているが、中に太刀が含まれている。経塚からの太刀の出土はきわめてまれで、今までに岡山県小山経塚、広島県宮地川経塚、兵庫県江ノ上経塚と出土地不明の奈良博所蔵品の4例が知られるだけである。瀬戸内沿岸の経塚に特徴的な副納品であることが知られるとともに、四国では初めての出土例となる。
  いずれの出土例にあってもU字形に折り曲げられていることが注目される。
副納品の構成  
一般的な経塚の副納品としては、鏡・合子・銭貨などが知られる。ところがこの香色山経塚の下部石郭においては、鉄製の太刀と短刀だけという特殊なあり方が注目される。副納品用と思われる副郭内にも短刀が重なって置かれるのみであった。他に有機質の副納品のあった可能性は考慮しなければいけないが、太刀の出土も見られるところから、利器に重点を置いた副納品構成が伺われる。あるいは願主なり檀越なりの在俗者の性格に関わる特殊性と考えることもできる。

  報告書は
①  経筒の精巧さを指摘し「屈指の鋼板製経筒」とします
② 副葬品に太刀があったこと、それも折り曲げられれていること 
③ 以上から有力な願主の存在がうかがえるとする。
 
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香色山山頂に、このような経塚を造った時代は?
 古代善通寺には創建当時、四町四方の境内に金堂や大塔、講堂、法華堂、西塔、護摩堂その他、四十九の僧房があったといわれています。ところが十一世紀末頃になると、前回にお話ししたように
①本寺の京都東寺による収奪
②讃岐国衛による負担強化
で、善通寺は圧迫を受けるようになり、それまでの繁栄に大きく影が差すようになりました。
 天永三(1112)年)、善通寺の門外不出の太鼓一面が国衛によって会料の名目で押収されてしまいます。この時に善通寺所司が本寺の京都東寺に宛てた報告の最後には
「世は已に末世に及び、仏法凌遅すと雖も、大師の御遺跡法燈の光未だ消えず」
と記しています。この後、寺は土地や農民に対する支配力を失って行きます。やがて貴族の世から武家政権に支配権が移つり、古代の秩序が崩れていき、その上に立っていた古代寺院は衰退していくことになります。
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この経塚群は、この混乱期にあたる平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「一等聖域」という歴史的環境から、
「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」
と研究者は記します。
  この時期は、善通寺周辺に勢力を置いていた佐伯一族や善通寺の僧侶達にとっては、先ほど見たように悲憤な状態にありました。この社会的な混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」としてとらえる僧侶や貴族は多かったようです。
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 経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて香色山山頂に経塚を築いた集団の当時の心情は、悲しみや怒り、或いは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。この山に登って来て、自らの書写した経典を経塚に埋めた人々の思いはどんな物であったのか。未来のために、あるいは現世のために聖地である香色山山頂に経塚を造り続けたのでは、そんな時代背景があるようです。
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参考文献 香色山経塚 調査報告書
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藤原道長全盛期の11世紀の半ばまでは、準官寺としてまた東寺の末寺として、寺領や仏事において順調に発展してきた善通寺です。ところが11世紀後期になると、いろいろな困難が降りかかり、前途に陰りが見えてくるようになったようです。その困難の一つは、本寺である東寺の支配強化(圧迫)にあるようです。
東寺の財政政策の転換は、末寺の善通寺を圧迫しました
 東寺の財政は、丹波国大山荘や摂津国の荘園からの年貢収入もありましたが、その多くは国家から与えられた封戸に頼っていました。東寺の封戸は遠江国一五〇戸、伊豆国五〇戸など約一千戸ほどが与えられていましたが、11世紀の後半になると、律令体制の緩みで封戸収入が全く入らないようになります。そのため東寺は堂塔の荒廃や仏事の減退がひどくなってきたようです。そこで東寺は、財政の中心を封戸から荘園や末寺の納入物に移すことで、体勢を立て直す方針に転換します。こうして、荘園や末寺への支配強化の手始めとして、本寺から別当と呼ばれる全権委任者が派遣されるようになります。

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東寺からやって来た別当がどんなことを行ったか見てみましょう。
「見納二十二石九斗二升七合、已に別当御運上、別当御方々用途料十六石八斗五升」
この別当というのが、東寺から善通寺管理のために派遣された僧のことです。彼は延与という名で別当職として延久三年十一月に善通寺に下ってきました。着任するやいなや善通寺に納入されていた田地子四七石五斗七升七合のうち、二二石九斗二升七合を京都に送ってしまいます。更に一六石八斗五升を、別当及び別当に付き従っていた人々の用途料として消費しました。そのため善通寺が費用として使用できる地子米は、残った七石八斗だけになってしまいます。別当延与は、畠迪子(年貢)においても、納入された六石三斗のうち三石を京都に運上しています。
 現在風に言うと、支店の売り上げ利益を本社からやってきた支店長が吸い上げて、本社に相違金しているようなイメージでしょうか。支店では活動資金すら不足する状況になります。善通寺の仏事や修理ができなくなります。善通寺では、延久二年(1070)に大風で五重塔一基と三間一面の石川彭が倒れてしまっており、塔の再建は無理だが常行堂は何とか建て直そうと、古材木を集めて修造に取りかかる手はずになっていたようです。ところが、延与の地子(年貢)収奪のために、それも不可能になりました。

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 このような別当の「非道」に対して善通寺の僧侶達も黙っていたわけではありません。
延久四年の二月に上京して、東寺長者を兼ね、延与の非道を止めさせてくれるよう訴えました。その訴状には次のように書かれています。
「件の延誉(与)非道を宗と為し、全く燈油仏聖(仏供)ならびに修理料等を留め置かず、茲に因って寺中方々仏事、堂舎の修理等ほとんど欠怠す可く(なおざりになり)、その中大師御関日料(御忌日料)なお以て押し止む(支出しない)、況んや余の仏事をや(他の仏事はなおさらである)」
 しかし、改まることはなかったようです。これは別当の行っていることは、「末寺(支店)から富を吸い上げて本寺(本社)を守る」という東寺の財政政策に基づいていたのですから。本展の指示通りに支店長は動いていたのです。

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 善通寺は、この後もたびたび本寺や国司に対して訴えをくり返したようです。しかし、改善はされません。それどころか、12年ほどたった応徳元年(1084)十一月、
京都の讃岐国司(遙任)から讃岐の留守所(国衛)に次のような文書が届きます。
「本の如く別当の所勘(管理)に随って雑事を勤行すべし」とあり、国府は善通寺に「本別当を以て寺務・雑事を執行せしむべし。」
との命令を伝えてきました。こうして、財政部門や寺務を完全に東寺から派遣される別当に掌握されたのです。これ以後、善通寺は東寺の末寺として支配されることになります。善通寺の寺領からの収入が、京都の東寺に流れるようになります。

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次に別当による経営のための組織改編が行われます。
11世紀末以後の文書には「善通曼荼羅寺所司」とあるので、善通寺と曼荼羅寺が一つとして経営されていたことが分かります。所司の構成員は、天治元年(1214)の「善通曼荼羅寺所司等解」によると権別当二人、上座・寺主・都維那の「職名」が見えます。これらの権別当以下は善通寺、曼荼羅寺の僧が任命されていますが、この上に立つ本別当の地位には本寺である東寺の僧がすわり、両寺を支配したようです。

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11世紀末期のもう一つの大きな問題は、地方政治の変化です。
11世紀になると貴族、大寺社の所領である荘園の増加に対して、中央政府は国司に対して国衛領の減少をくい止め、国の財政を維持するように指示します。特に藤原氏を外戚としないで即位した後三条天皇は、記録所という役所を設けて積極的に荘園整理に着手し、国司の荘園圧迫が強化されるようになります。
 このような荘園圧迫策が善通寺の寺領にも及んでくるようになります。
11世紀初めには、国司が国役公事と称して、雑役を善通寺の僧侶への課税追加
11世紀後半には、それまで無税であった荒廃した水田を畠地にした「春田」への課税追加
12世紀初めには、在家役として、住家や屋敷地、畠地などを単位として、田畠以外の桑・苧麻・漆等の畠作物や手工業品、労役などを取り立て開始。
善通曼荼羅両寺所司の国衛(留守所)への訴えによると、曼荼羅寺の域内に住む百姓に対して牛皮・鹿皮・会料米などの雑役や春田分の労役が課せられているのが分かります。両寺所司らは、このような国衛の課税増徴が続けば法華八講や彼岸会などの仏事ができなくなってしまうと訴えています。
11世紀後半から12世紀にかけて善通寺は難しい状況に追い込まれ、苦難の梶取を迫られていたようです。
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りに、風流歌が踊られるのか?



 
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11世紀の初めに藤原道長が
この世をば我世とぞ思う望月の かけたることもなしと思えば
 と、藤原家の威勢を詠んだ同じ年の五月十三日に、善通寺の政安という僧が、四ヶ条の請願を京都の東寺に提出しています。その請願書から当時の善通寺の姿がぼんやりとみえてきます。最初に
「讃岐国多度郡善通寺 寺司解し申し請う(お願い申し上げる)本寺裁の事」
とあります。ここからは東寺が善通寺の本寺となっていることが分かります。東寺は弘仁十四年(823)に嵯峨天皇より空海が賜わり、高野山とならんで真言密教の根本道場とした寺です。京都駅の南西にあり、新幹線からも日本一の高い五重塔が見えますし、「見仏記」ファンには見逃すことの出来ない仏さんの宝庫です。どうして善通寺が当時の末寺になったのかは、よく分からないようです。まあ、東寺は空海が真言密教の根本道場として定めた寺ですし、善通寺はその大師が誕生した寺ですから、本末関係が生まれても不自然ではないでしょう。
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 善通寺は官寺化されていた。         
政安の東寺への請願書の第二条には、
  「右の寺(善通寺)代々の国掌御任の中、二十八箇寺の内として、国定によって公役を勤行す」
とあります。この頃は、国司が定めた公役を行う寺院が讃岐には28あり、善通寺もその一つだと言っています。古代の寺院は鎮護国家ですから、その使命は、国家の安泰と繁栄を祈ることです。そのため聖武天皇は奈良の都に大仏を建立し、全国に国分寺と国分尼寺を設置しました。天皇や国家によって建てられ国家の保護をうける寺院を官寺といいます。平安時代になると、国分寺だけでなく、地方豪族が建てた私寺が官寺に準ずる地位を与えられ、鎮護国家の祈祷を命じられる例が多くなりました。これを定額(じょうがく)寺というようです。
 善通寺は、初めは空海の生家・佐伯氏が建立した氏寺でした。
それを空海が整備再建したとされています。つまり、佐伯氏の私寺としてスタートした善通寺が、この時点では準官寺の扱いを受けるようになっていたようです。これには本寺の東寺の強力な後押しがあったのかもしれません。平安時代の中期から後期にかけて、政界や宗教界に空海の親戚筋の人が出ていることからも善通寺は大きな力を持って活動していたことがうかがえます。
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「国定によって公役を勤行」とありますがが、課せられた「公役」とはどんなものだったのでしょうか?
まずは、「国家安泰、鎮護国家」の祈祷を勤行することです。善通寺も、平安時代や鎌倉時代の文書に、
「就中(とりわけ)、当国殊に雨を祈らしめ給うに、此の御寺の霊験掲焉なり(いちじるしい)。掲って代々の国吏皆帰依致さしむ」
「代々の国掌(国司)御祈祷の拗(その場所)、国土人民福田成熟の霊験地なり。これに由って、国郡共に仏事ならびに修理を勤仕せしめ給う所なり」
といった文言が見えます。ここからは讃岐国内の祈雨や豊作の祈祷を行って霊験があり、国司や民衆の信仰をうけていたと自ら述べています。
 この公役には、他にもいろいろな雑役が含まれていたようです。善通寺はそれらの負担を「本寺の勢いに依って」免除されていました。ところが、去年(寛仁元年)、国司がほかの寺々と同じように雑役を課してきたので、もとのように免除になるように本寺の東寺の力で取り計らってもらいたいというのが、政安の申請書の2番目のお願いです。
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中央の有力寺院と地方寺院が本末関係を結んだ場合、プラスの面とマイナスの面があったようです。
 プラスの面をあげれば、この場合のように本寺の力で、租税免除などの特権を手に入れたり、国司の横暴を排除することもできる場合がありました。地方の寺院は、課税やその他の点で国司の支配を強く受けます。しかし国司は中央政府から与えられている権限によって支配しているわけですから、地方寺院が直接国司と交渉しても、その支配を変えさせたり排除したりすることはできません。やはり朝廷にも大きな影響力をもっている東寺や興福寺などの大寺院に頼って、中央政府-国家に働きかけてもらうのが、要求を実現する早道だったようです。善通寺の要請の多くが、朝廷や国に対してではなく、まず本寺の東寺に宛てて出されているのは、そんな事情があるようです。

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 東寺への申請書の第一条と第三条には善通寺の寺領のことが記されています。
当時の善通寺の寺領は、多度郡と隣の那珂郡に散らばっていたようです。これらの寺領がどのようにして成立したのかは分かりません。考えられるのは建立した佐伯一族からの寄進です。寄進された土地は、もともとは租税がかかっていましたが、定額寺に認められ、国の保護を受け、仏事や修理のために寺領の租税が免除されるようになっていたようです。
当時、善通寺は寺領から年貢として二〇石あまりを徴収していたことが史料から分かります。ところがこの政安の申請書によると、
寺領を耕作している農民たちは、年貢を納めなければならないという心がない。ある農民などは、一町の田地を耕作していながら地子は全く納めていないという有様である
と記しています。
 善通寺領の田畠の耕作は、寺直属の下人に農具を与えて耕作をさせるというような直接経営ではなかったようです。寺領の周辺に住む農民に田地を預けて作らせる預作(小作のこと)だったようです。そのため農民たちは国衛領の農民で、公領の田地を耕作しており、そのかたわら善通寺の寺領も小作していたのです。その結果、荘園領主直属の小作人ではなく、自立性の強い農民だったことがうかがえます。善通寺領への年貢を、なかなか納めなかったのもそんな背景があったようです。

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善通寺の寺司である政安の申請状は、第四条で次のように請願しています。
善通寺は讃岐国内で一、二と言われる寺で、建立の堂塔房舎の景観は他の寺より勝っている。が、田畠の地子が乏しいため、雑役を勤める下人は一人もいないという実状である。そこで本寺から国に頼んで、浮浪人を二〇人ほどを寺に下し給わって寺の修理や雑役に使うことができるようにしていただきたい

という内容です。
 善通寺の伽藍が讃岐でNO1を争うほどに整備されていたことが、ここからはうかがえます。創建から300年近くを経て、準官寺化されここまでは順調な発展ぶりだったようです。
 しかし、問題もあったようです。当時は善通寺が、農民から年貢を取りたてる事はできますが、彼らを雑役に使うことはできませんでした。だから必要な雑役人(労働力)は賃金を払って雇わなければなりません。そのためには年貢が入らなければ、それもできないということになります。そこで申請書の第四条のポイントは、寺で自由に使える労働力が欲しい。東寺の方から二十人ほどの浮浪人を使えるように讃岐国府に働きかけて欲しいというものでした。
以上、寛仁二年(1018)の政安の東寺宛ての解状(申請書)からは次のようなことが分かりました
①善通寺が、東寺の末寺として、また国の準官寺として発展してきたこと、
②寺領耕作の農民の年貢怠納や、寺の修理や雑役のために働く雑役人の不足に悩まされていた
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 平安時代の善通寺では、どんな仏事が行われていたのでしょうか?
 先ほどの申請書から約40年後の天喜四年(1056)に善通寺の役僧たちが作成した「善通寺田畠迪子支配状」が残されています。ここでの「支配」とは、仕事を配分するという意味です。「田畠迪子支配状」とは、年貢を仏神事料や修理料などに配分してそれぞれの勤めを行わせるために作成されたもので「予算配分書」的な文書のようです。ここからは当時の善通寺で行われていた仏事の様子がうかがえます。どんな仏教イヴェントが行われていたのが見ていきましょう。
免田地子米ならびに畠迪子物等を以て仏神事を勤修すべき支配勘文の事 
合(計) 四十八石六斗  
田地地子(年貢) 米三十二石二斗  
畠地子(年貢) 十六石四斗
  
修理料  十六石九斗 
道観聖人忌日料 五斗
「予算配分書」ですから仏事や修理の費用として配分される田のと畠の地子(年貢)の総額が最初に記されています。収入総額四八石六斗のうちの、一六石九斗が修理料に充てられ、残りが仏事の費用に充てられています。田地の迪子(年貢)は三二石二斗で、40年前が二〇石でしたから約1,6倍に増えています。「寺領内の未墾地の開発が進んだ」「新しく田地の寄進や買得などがあった」としておきます。畠も田地も開発が進められて、耕地面積も大幅に増加したようです。  
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①「春秋大門会 祭料一石三斗 毎月八日御仏供六斗 定灯油一斗八升」
 春秋大門会祭というのは、春と秋の二季に南大門あたりで行われていた祭りとしか推測のしようがありません。毎月八日の御仏供六斗、常燈油一斗八升(各一年分)が計上されています。四月八日がお釈迦様の誕生日なので、供物を捧げ、燈明を点していたようです。
②「 大師御忌料 二石 二斗仏供 八斗八大師御霊供八前科 一石僧供御酒料」
 空海の入定は承和二年(835)三月二十一日で、この大師御忌日の法会は、大師ゆかりの善通寺にとって最も重要な行事であったはずです。東寺ではこの日、御影供といって大師の画像(御影)を供養する法会が行われるようです。善通寺でも、二斗の仏供は大師直筆と伝えられるいわゆる瞬目の御影に供えられていたのかもしれません。
 次の「八大師」もよく分かりませが、研究者は
「真言密教を伝えた伝持八祖、竜猛、竜智、金剛智、不空、善無畏、一行、恵果、空海の八祖」
ことと推測します。真言宗寺院では、八祖の霊前に各一斗ずつ八斗の供物を今でも行うようです。一石の僧供は、仏事を勤めた僧に対する費用で、御酒料の名目で出されています。それに似たようなことが行われていたのでしょう。
④「修正月料四石五斗 三箇日夜料
    一石大餅百枚料 燈油一升五合直三斗
    一石八斗僧供料」四回
    一石五斗導師御布施
修正会ですが、これは年の始めに天下太平・五穀豊穣・万民快楽などを祈願する法会で、元日から三日間ないし七日間行われたようです。善通寺では三日の夜に行われ、その間の仏供として大餅百枚(地子一石)、燈明(燈油一升五合、地子三斗で購入)が供えられています。勤仕の僧への供養料が一度について五斗、別に食費として粥料一斗、計一石八斗、法会全体を首座として主導する大導師の御布施が一石、初夜の導師の御布施五斗、総計四石五斗が修正月料として計上されています。

⑤  御八講料八石五斗 五斗仏供十坏料 講師御布施八石
 御八講というのは法華八講のことで、法華経八巻を朝と夕に一巻ずつ、四日問にわたって講説したようです。講師は八人で、その御布施が一石ずつ計八石、仏供は五斗を8つに分けて盛って供えたようです。
⑥  二八月三箇日夜 不断念仏料三石六斗 仏供料三斗十二坏料 僧供料三石
絶間なく称名念仏を唱え続けることを不断念仏というようです。そのための行事が二月と八月にそれぞれ三日間行われています。その費用として、仏供料三斗、僧供料三石、別に非時料つまり食事料三斗が支出されています。
⑦ 西方会料七石 一石法花(華)経一部直巳畠 
  五斗阿弥陀仏ならびに同経直巳畠地子
  仏供一石 講師布施一石 講師五斗 楽所ならびに御人等録物三石
西方会というのは、その名称からして西方極楽浄土を祈念する仏事だろうと研究者はいいます。この行事のために、法華経一部が畠迪子一石、阿弥陀仏像と阿弥陀経が畠迪子五斗で購入されています。この時期に新しく始められた仏事のようです。仏供一石、講師布施一石と五斗のほかに楽所や舞人などに対する録物三石が支出されています。ここからは、当時の善通寺には「楽団」があり音楽や舞を伴ったにぎやかな行事が、新たに生み出されていたようです。「伽藍が讃岐で1,2位」と言われるくらいに立派なことと合わせて、仏事も充実しており、衆目を集める寺院であったことがうかがえます。

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最後に次のような起請文がついています
右、免田地子ならびに畠地子等支配定むる所の起請件の如し、賦剋田見作畠見作増減有る時に於ては、相計って勤修に立用すべし、寺家司この例を以て永く惜留すること無く之を行え、若し留貪の司有らば住持三宝大師聖霊護法天等澄明を垂れんか、若し起請に誤らずして仏神事を勤修する司は、世々生々福徳寿命を身に受け、後生は必ず三会期に値遇せしめん、後々の司この旨を存じて、
敢て違失せざれ、故に起請す、
    天喜四年十二月五日 
     住僧  在判
     大法師 在判
     大法師 在判
     大法師 在判
     証成大行事
      大麻(おおあさ)大明神
      雲気(くもげ)明神
      塔立(とうりゅう)明神
      蕪津(かぶらつ)明神
     判
 件の地子物等、支配起請勘文に任せ在地司ならびに氏人等澄を加署す、
     勘済使綾  在判
     惣大国造綾 在判
文末に「故(ことされに)に起請す」とあるのは、この配分に不公平がないこと、この配分を受けたものは怠りなく仏神事を勤修することを神仏に誓ったことばです。当時の起請文の最後につけられる常套句です。証成大行事としてあげられている大麻大明神ほか四柱の神々は、その誓いをうけて確かなものとする神々です。

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大麻神社と雲気神社は、式内社として善通寺の南に鎮座する神社です。
 同時にこのうち大麻大明神、雲気明神、蕪津明神は大歳明神、広浜明神と共に善通寺の鎮守神で、五社明神として境内の大楠の下に今でも祭られています。ここには仏教がこの地に現れる以前の「神々の連合」が垣間見える気もします。つまり、佐伯氏の勢力範囲が大麻神社や雲気神社にまで及んでいたことを物語るのではないか。ここは、古墳時代のこの地の豪族連合の合同神祭りが行われていた聖地で、そこに仏教寺院が建立されたのではないかという妄想を私は抱いています。
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参考文献 平安時代の善通寺 善通寺史所収

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佐伯直氏廟 香色山

空海を生み出した佐伯氏とは、どんな豪族だったのでしょうか?

その辺りを、資料的に確認していきたいと思います。同じ佐伯でも佐伯部・佐伯直・佐伯連では、おおきくちがうようです。 
まず、佐伯です。               
「部(べ)」または「部民」とは、律令国家以前において、朝廷や豪族に所有・支配されていた人たちを指します。佐伯部については、長いあいだ、井上光貞氏の次の説が支持されてきました。

 佐伯部とは五世紀のころ、大和朝廷の征討によって捕虜となった蝦夷をいい、佐伯部という名をおびた半自由民とされたうえで、播磨・安芸・伊予・讃岐・阿波の五力国に配置され、その地方の豪族であった国造家の管理のもとにおかれた人々であった」

この説では、捕虜となり、瀬戸内海沿岸地域に配置された蝦夷の子孫ということになります。しかし、この佐伯部=蝦夷説は、佐伯部が軍事的な部であることを主張するために蝦夷の勇猛さにあやかり、七世紀後半に作られた伝承と今では考えられているようです。
 代わって次のような説が一般的です。
「(佐伯部は)対朝鮮半島との緊張のなかで、瀬戸内海地域に「塞ぐ城」として設置されたとは考えにくく、大和政権が西国支配を確立していく過程で設置されたとみるべきであり六世紀初め以前に設置された」

 6世紀に佐伯部が設置されたとするのなら、有岡の地に築かれた王墓山古墳や菊塚古墳の埋葬者が「佐伯部を管理する国造」たちで佐伯直と呼ばれたいう説も成立可能な気もします。
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          佐伯直氏廟 香色山
 つぎは、佐伯です。
佐伯直(あたい)は
「佐伯部(軍事部隊?)を管理・支配していたのがその地方の豪族であった国造家であり、その国造家を佐伯直と称した」
とされます。空海の生家である讃岐国の佐伯直家も、かつて国造家といわれたこの地方の豪族であった、といわれています。この空海の生家を豪族とみなす説は、佐伯直=国造家=地方の豪族の図式にピタリとはまります。
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香色山からの善通寺市街と飯野山

 最後は佐伯連です。
佐伯連は、中央にあって諸国の佐伯直を統括していた家と考えられてきました。
佐伯連は、壬申の乱後の天武十二年(684)十二月、大伴連らとともに「宿禰」の姓をたまわり、佐伯宿禰と称するようになります。この中央で活躍していた佐伯連(のちの宿禰家)は、大伴宿禰の支流にもなります。つまり、大伴氏は佐伯宿禰の本家にあたる一族になるわけです。
次に確認しておきたいのは、これらの3つの佐伯はまったく別物だったと言う点です。
  地方にいた佐伯直と中央で活躍していた佐伯連、のちの佐伯宿禰とは、おなじ佐伯と言いながら、まったく別の家でした。つまり、讃岐の佐伯直と中央の佐伯連(宿禰)とのあいだには血のつながり、血縁関係はまったくなかった、と研究者は考えているようです。
 しかし、平安初期のころになると、佐伯とあれば直・連(宿禰)の関係なく、同族であるとの意識が強くなっていたようです。むつかしい言葉で言うと「疑似血縁的紐帯」で結ばれ一族意識を持つようになっていたということでしょうか。
 例えば空海も、天長五年(828)二月、陸奥国に赴任する佐伯蓮の本家に当たる伴国道に詩文を贈り
  貧道と君と淡交にして玄度遠公なり。絹素区に別れたれども、伴佐昆季なり。
と、大伴と佐伯とは同じ祖先をもつ兄弟である、と記しています。空海も佐伯と、その本家に当たる大伴家の一族意識を持っていたことが分かります。
 しかし、実際には同じ佐伯でもその後に「直」「連」「宿禰」のどの姓(かばね)が来るかで大違いだったのです。
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善通寺誕生院

 佐伯家系を知る根本史料は「貞観三年記録」 
空海の兄弟などを知るうえでの根本史料となるのは『日本三代実録』巻五、貞観三年(861)十一月十一日辛巳条で、「貞観三年記録」と呼ばれている史料です。
 当時の地方貴族の夢は、中央に出て中央貴族になることでした。そのために官位を高めるための努力を重ねています。佐伯家も、空海の兄弟達が中央で活躍して佐伯直鈴伎麻呂ら11名が宿禰の姓をたまわり、本籍地を讃岐国から都に移すことを許されます。その時の申請記録が残っています。
 「貞観三年記録」にどんなことが書かれているのか見ておきましょう。
前半は、宿禰の姓をたまわった空海の弟の鈴伎麻呂ら十一名の名前とその続き柄と、佐伯家の本家である大伴氏の当主が天皇への上奏の労をとったことが記されます。後半は、大学寮の教官の一人・書博士をつとめていた空海の弟・佐伯直豊雄が作成した官位などを望むときに提出する願書と、その内容を「家記」と照合し、勅許に至ったことが載せられています。
 
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善通寺東院 本堂

その中の空海の先祖の部分を意訳要約すると次のようになります。
①先祖の大伴健日連(たけひのむらじのきみ)は、景行天皇のみ世に倭武命(やまとたけるのみこと)にしたがって東国を平定し、その功績によって讃岐国をたまわり私の家とした。
②その家系は、健日連から健持大連公(たけもちのおおむらじのみこと)、室屋大連、その長男の御物宿禰、その末子倭胡連へとつながり、この倭胡連(わこのむらじのきみ)が允恭天皇の時に初めて讃岐の国造に任ぜられた。
③この倭胡連は豊男等の別祖である。また、孝徳天皇の時に国造の称号は停止された。
 これだけ読むと讃岐国の佐伯直氏の先祖について記したように思えます。しかし、これは中央で活躍していた武門の名家・大伴氏に伝わる伝承を「流用」したもののようです。大伴家は佐伯氏の本家であるという意識を空海が持っていたことは先ほど述べました。そのため本家と考えられていた大伴家の話を「流用」しているのです。ともあれ、内容を少し詳しくみておきましょう。
   ①段の前半、景行天皇の時に、大伴健日連が日本武尊にしたがって東国を平定したことは、『日本書紀』にだけみられる記録です。
 この記事について、歴史家は次のように述べます。

「これらは伝承であって史実ではなく、大伴連の家につたえられた物語であった。大伴氏が、主として軍事の職掌を担当するようになってから、こうした話がつくられたのであろう」

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善通寺東院 本堂

 つぎは①の後半、東国を平定した勲功によって讃岐国を賜り私の家としたことです。
景行天皇時代の讃岐国における佐伯、および国造についてみると、
『日本書紀』巻七、景行天皇四年二月甲子(十一日)条に、天皇が五十河媛を妃として神櫛皇子・稲背入彦皇子を生み、兄の神櫛皇子は讃岐国の国造の始祖となり、弟の稲背人彦皇子は播磨別の始祖となった
とあります。
 また、同天皇五十一年八月壬子(四日)条には、
  日本武尊が熱田神宮に献じた蝦夷等は、昼となく夜となくやかましく騒ぎたてた。倭姫命の「彼らを神宮にちかづけてはならない」との言葉にしたがい、朝廷に進上して三輪山のほとりに安置した。ここでも神山の樹をことごとくきり、近隣にさけび騒いで、人々から脅れられた。そこで天皇は、蝦夷はもとより獣しき心あって、中国(うちつくに)に住まわせることはできない。彼らの願いのままに畿外にすまわせなさい」と命じた。これが播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の佐伯部の影である。
とあります。
 この佐伯部の話は、佐伯部が軍事的部であることを主張するために蝦夷の勇猛さにあやかり、七世紀後半に作られた伝承であることは最初に述べました。
 以上より、この①の段落は大伴家の伝承にもとづいて記された記事であり、讃岐佐伯家の史実とみなす訳にはいかないと研究者は考えているようです。しかし、ここからも当時の空海の兄弟達が自分たちが大伴家とつながりのある一族で、ここに書かれた歴史を共有する者達であるという意識をもっていたことはうかがえます。
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五岳山 大墓山古墳より

 「貞観三年記録」にみえる空海の兄弟たち 
「貞観三年記録」には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内十一人の名前とその続き柄が、次のように記されています。
 讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位上佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿禰の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき。
ここに名前のみられる人物を系譜化したものが下の系図です。
1佐伯家家系
佐伯直氏系図
このなか、確かな史料によって実在したことが確認できるのは、空海の弟鈴伎麻呂だけのようです。彼については『類聚国史』巻九十九、天長四年(八二七)正月甲申(二十二日)条に、諸国に派遣した巡察使の報告にもとづいて、その政治手腕が高く評価され褒賞として外従五位下を授けられた諸国の郡司六人のなかに「佐伯直鈴伎麿」の名前があります。
ここから中央政府に提出した一族の構成は正しいもので、「空海の一族は郡司の家系であった」という説は、正しかったと言えるようです。そして、空海には多くの兄弟がいたことが確認できます。
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この佐伯家一族を系譜を見ながら気づくことは 
①倭胡連公と空海の父である佐伯直田公とのあいだが破線です。これは実際の血縁関係がないからだといいます。ここで系譜が接がれているのです。つまり大伴健日連-健持大連-室屋大連-御物宿禰-倭胡連公までは、中央で活躍していた佐伯連(のちの佐伯宿禰)が大伴氏から分かれるまでの系譜です。先ほども述べましたが佐伯連氏は、武門の家として名高い大伴氏の別れで、天皇家に長くつかえてきた名門です。
 先述したように、同じく「佐伯」を称しながらも、中央で活躍していた佐伯連氏と地方に住んでいた佐伯直氏とのあいだには、直接の血のつながりはなかったというのが定説です。そのため、倭胡連と田公とを実線でつなぐことはできないようです。
②従来はこの点があいまいに考えられてきたようです。
「倭胡連公は是れ、豊男等の別祖なり」

と記されているのに、讃岐国の佐伯直氏の先祖と大伴家がひと続きの系譜とみなされてきました。

 倭胡連公(わこのむらじのきみ)とは何者なの?                           
  倭胡連公が讃岐国の佐伯直氏の先祖ではなく、中央で活躍していた佐伯連、のちの佐伯宿禰氏の初祖にあたるようです。「倭胡」は『大伴系図』などに「初めて佐伯の氏姓を賜う」と記されている「歌」と同位置人物であるという説が支持されるようになっています。
 このことを「貞観三年記録」は「倭胡連公は、是れ豊雄らの別祖なり」は、まさしく(大伴)豊雄らとは血の繋がらない、佐伯連(のちの宿禰)の始祖のことを指しているようです。だから「倭胡連公」と讃岐佐伯家田公一門との系譜を、実践でつなぐことができないと研究者は考えているようです。
 そうすると、佐伯連の初祖と考えられる倭胡連から空海の父・田公までのあいだが、「貞観三年記録」にはスッポリ欠落していることになります。
田公の先祖を記す史料は他にもあって、その一つが三河国幡豆郡の郡司のながれをくむ家につたえられたといわれる『伴氏系図』です。そこには、下のように空海の父・田公から六代さかのぼる世代がみえます。
1佐伯氏
伴氏系図

しかし、この『伴氏系図』も「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれていると研究者は考えているようです。

その理由の一つは「平曽古」「平彦」にはともに「連」とあり、つぎの「伊能」「大人」には「直」とあって、高い姓から低い姓に「降格」されている状態になります。もう一つは、「平曽古連」の尻付きに「安芸の国厳島に住す」とあり、「伊能直」の尻付きに「讃岐国多度郡の県令」とあって、姓とともに住所も変わっていることです。この二つのことから、「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれていることは間違いないとします。
  もうひとつの疑問は、大伴氏の系図には、空海の父・田公は「少領」であった記されていることです。
ところが政府に提出された「貞観三年記録」の田公には、位階も官職もまったく記されていないことです。「選叙令」の郡司条には、次のような郡司の任用規定があります。

 凡そ郡司には、性識清廉にして、時の務に堪えたらむ者を取りて、大領、少領と為よ。強く幹く聡敏にして、書計に工ならむ者を、主政、主帳と為よ。其れ大領には外従八位上、少領には外従八位下に叙せよ。其れ大領、少領、才用同じくは、先ず国造を取れ。

ここに、少領は郡司の一人であり、その長官である大領につぐ地位であって、位階は外従八位下と規定されています。田公が、もし少領であったとすれば、必ず位階を帯びていたと思われます。
 しかし、「貞観三年記録」には田公の官位がないのです。政府への申請書に正式の官位が記されていないというのは、そこには記せなかったということでしょうか。
 史料の信憑性からは、「貞観三年記録」が根本史料ですぐれています。よって、空海の父・田公は無位無官であった、とみなしておくしかないというのが研究者の立場のようです。
 高い位階を帯びる空海の兄弟たち   
「貞観三年記録」に登場する人物で、信頼できるのは空海の父田公以下の三代にわたる十二名だけということになるようです。その系譜をもう一度見てみましょう。
1佐伯家家系

 先ほどもいいましたが空海の父である田公には、官位などは一切記されていません。ところがその子ども達の位階は、もし地方に住んでいたとするならば、異常ともいえるほど極めて高いと研究者は指摘します。位階の高い順に整理してみると次のようになります。
 外従五位下  鈴伎麻呂
  正六位上  酒麻呂
  同     豊雄(書博士)
  同     道長(空海の戸主)
  従六位上  貞持
  同     豊守
  正七位下  魚主
  従七位上  葛野
  従八位上  粟氏
  大初位下  貞継
 「選叙令」の基準では、郡司の長官である大領の官位は外従八位上であり、次官である少領は外従八位下と規定されていす。この基準から考えると、空海の兄弟達は郡司など問題にならないくらい、高い位階を持っていたことが分かります。 特に、外従五位下の鈴伎麻呂、正六位上の酒麻呂と豊雄、従六位上の貞持と豊守などは、中央の官人としても十分にやっていける位階を持っています。彼らの官位は中央官位の三十の位階では、従五位下は十四番目、正六位上は十五番目、従六位上は十七番目になります。例えば、国司なら大国の二番目のポストである介と中国の守に、従六位上で上国の介につけたことになります。
 もちろん位階を得ることがが、すぐに官職につくことではなかったので即断はできません。しかし、空海の甥・豊雄は、正六位上で都の大学寮で書博士として活躍しています。

1弘法大師1

空海の兄弟たちは、なぜ高い位階を持つことができたのでしょうか。
 第一は、位階を得るだけの経済力を持っていた、ということでしょう。
弘仁十二年(821)五月、満濃池の修築別当として空海の派遣を要請したときの多度郡司らの申請書(解状)に、次のように願いでています。
 請う、別当に宛てて其の事を済わしめよ。朝使并びに功料もっぱら停止するを従(ゆる)せ。

この「朝使井びに功料もっぱら停止する」とは、空海が別当として池堤の修築にあたるなら、造池使の派遣は不要であり、修築にかかる工事費・労賃・食料費などの一切の費用を、讃岐国の国衛財政から支出することも不要である、と地元の郡司らが申しでているわけです。
つまり「その一切を地元で負担する」ということです。ここからは、池の恩恵を一番こうむっていた多度郡一帯、なかでも当地の豪族と考えられてきた佐伯直氏が、この地域におおきな土地を持ち経済力を有していたかがうかがえます。

1善通寺宝物館8
真魚像
 第二は、空海の母が阿刀氏の出身であったことです。
 しかし、讃岐国に阿刀氏が住んでいたことは、資料的には確認されていません。空海が誕生された奈良末期、阿刀氏の一族は平城京・河内国渋河郡跡部郷(現在の八尾市植松町一帯)・摂津国豊島郡(大阪府豊能郡)・山城国太秦を中心に居住しています。
①畿内の阿刀氏と空海の父・田公が婚姻関係を持っていた、
②空海の教養が桁外れに高かったこと、
このふたつをどう考えればいいのでしょうか?
空海を送り出した讃岐国の佐伯直氏は、郡司というよりも、空海以前から中央への官人を出していた氏族ではなかったかと考える研究者が出てきています。どうやら空海の父・佐伯直氏は早くから中央を志向し、畿内にでて活躍していたのではないか、との推測もできます。それが、空海の父が阿刀宿禰の娘を娶っていたことからもうかがえると研究者は考えているようです。

 空海の父と母の出会いをどう考えるのか?
讃岐と摂津のあいだの古代遠距離結婚が可能なのか?
という疑問が沸いてきます。これについて以前に記しましたので今日はこの辺りで・・
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
参考文献 善通寺の誕生 善通寺史所収
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善通寺はいつ、誰が建立したのでしょうか。創建には次の3つの説があります。
①大同二年(809)に弘法大師によって創建された 
   → 空海建立説
②弘法大師の父佐伯善通が創建したとする説
   → 空海の先祖(父善通)建立説
③佐伯の先祖が建立し、空海の修造説       
   → 先祖建立説  + 空海修繕
それぞれの説を見ていくことにしましょう。
第一の大師建立説は、
寛仁二年(1018)五月十三日付で善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状に、
「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」
とあります。ここにはただ「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。
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第二の空海の先祖建立説は、
延久四年(1072)正月二十六日付の善通寺所司らの解状に
「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」とみえます。
 また、高野山遍照光院に住した兼意が永久年間(1113)に撰述したといわれる『弘法大師御伝』にも
「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」
とあります。
   鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。
それは承元三年(1209)八月日付の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)で、
「佐伯善通建立の道場なり」とあります。
 以上、今日のこる善通寺に関する史料のうち、最古の文書には大師建立説がみられましたが、その後は大師の先祖が建立したとする説が有力視されてれてきたことがわかります。ただ注意しておきたいのは、鎌倉時代には先祖の名を善通としますが、善通を大師の父とはみなしていないことです。

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 以上の二つの説を足して割ったのが、第三の先祖の建立、大師再建説です。
そのもっとも古い史料は、仁治四年(1243)正月、大伝法院との騒動によって讃岐に配流された高野山の学僧道範の『南海流浪記』です。そこには、
「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」
とあります。
ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名と記されています。なお、道範は文暦元年(1234)七月、仁和寺二品親王道助の教命をうけて『弘法大師略頌紗』を撰述し、そこには、さきにあげた『弘法大師御伝』の一文が引用されています。したがって、『南海流浪記』の記述は「善通寺は先祖の建立」説をふまえて書かれていることは間違いないと研究者は考えているようです。
  ここまでの史料は建立者については触れていますが、いつ建てられたのかについては触れていません。
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しかし、江戸時代中期になると空海の父善通建立説が登場します
『多度郡屏風浦善通寺之記』には建立の年次が次のように明記されるようになります。
 弘法大師は唐から帰朝された翌年の大同二年(807)十二月、父佐伯田君(ママ)から四町四方の地を寄進され。新しい仏教である密教をあますところなく授けられた師・恵果和尚が住していた長安青龍寺を模した一寺の建立に着手した。この寺は弘仁四年(813)六月完成し、父の法名善通をとって善通寺と名づけられた
   ここで弘仁四年の落成と善通寺が父の法名にもとづいた命名であったことを記します。そして江戸時代の『多度郡屏風浦善通寺之記』にもとづく説が、現在の善通寺の公式の見解となっています。そのため由緒やパンフレットでは「空海建立 善通=空海の父」と記されることになります。
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 しかし、これは今までに見てきた史料から問題・矛盾があることがすぐに分かります。
第一には、空海が三十一歳のときに正式の僧侶になるために提出した戸籍に出てくる戸主の名は道長です。この度牒はいまは厳島神社に残っています。これは奈良時代の史料であり、根本史料になります。戸主とされている道長は、お父さんかお祖父さんの名前だと研究者は考えています。資料的には、道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。そして、古い平安・鎌倉時代の史料に「善通=空海の父」とは記されていません。
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第二には「善通=空海の父」説の成立年代が江戸時代中期ときわめて新しいことです。
平安・鎌倉期の史料に書いてあることを、江戸時代の後の資料に基づいて否定することは、歴史学的には「非常識」と言えます。
また、考古学的な視点からしても、善通寺の境内からは奈良時代前期にさかのぽる瓦が出土し、塑造の薬師如来像面部断片も伝えられています。つまり、空海が誕生する半世紀前から佐伯氏の氏寺は建っていたというのが考古学の現在の答えです。
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  空海は現在の西院にあった佐伯氏の館で生まれ、そびえ立つ五岳と氏寺・善通寺を仰ぎ見ながら真魚は育った。自分の家の氏寺は遊び場で本堂や諸堂、そこにある本尊、そこにいる一族の僧侶たちは身近なものであったと、私は考えています。なお、真魚は母の実家阿刀氏の拠点である摂津で生まれたという説も出されていますが、ここでは触れません。
白鳳時代に建立された善通寺の姿は?
道範の『南海流浪記』には、鎌倉時代の金堂について次のように記されます。
金堂ハ二階七間也。青龍寺ノ金堂ヲ模セラレタルトテ、二階二各今引キ入リテモゴシアルガ故ニ、打見レバ四階大伽藍ナリ。是ハ大師御建立、今現在セリ。御作ノ丈六薬師三尊、四天王像イマス。皆埋仏ナリ。後ノ壁二又薬師三尊半出二埋作ラレタリ。七間ノ講堂ハ破壊シテ後、今新タニ造営、五間常堂同ク新二造立。
 意訳すると
金堂は、長安の青竜寺に習った様式で二層になっているが、裳階があるために四層の大伽藍に見える。これは大師が建立したものである。空海作の丈六の薬師三尊、四天王が鎮座するが、全て「埋仏」である。後ろの壁には薬師三尊が半分だけ土に埋まっていて、半分だけ上に出ている。金堂の後の七間の講堂は壊して、新たに「五間常堂(常行堂?)」を造立した。

白鳳期のお寺が地震などで壊れたときに、本尊の薬師如来や四天王などが建物の中に埋まっていたを掘り出して祀っていたことが分かります。それが半分だけ埋まっている状態なので「埋仏」と呼んでいたようです。本堂が崩れ落ちた中から本尊を掘り出して、祀ったものだったのでしょう。
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 善通寺は、奈良時代に火災にあって、長い間放置されたままの状態にあって、仏も「埋仏」となっていたのが、鎌倉時代初期にやっと再建されます。しかし、この金堂も戦国時代の永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され埋もれたのを首だけ掘り出したものが、現在の宝物館にある仏頭のようです。
 『南海流浪記』には
四方四門に間頭が掲げられていて、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあった。善通之寺ハ大師御先祖ノ俗名ヲ 即寺号ト為ス云々、破壊之間、大師修道道立之時」とあり、善通は空海の父ではなく先祖の聖の名前だろうと言われていたこと、壊れたのを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったようだ
と記します。
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現在の金堂は元禄時代に再建されたもの
東院の金堂は戦国時代の永禄元年(1558)の阿波から侵入した三好実休の兵火で焼けてます。それが再建されるのは、約140年後の江戸時代も天下泰平の元禄時代になってからです。それが現在の金堂です。
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この金堂再建の際には、境内に転がっていた
白鳳期の礎石を使って基壇を作りました。
そのために、現在の本堂の基壇の中には、何個かの古代寺院の礎石が顔をのぞかせています。礎石は花尚岩や安山岩製で、柱座がはっきりと浮き出ているのですぐに見つけることができます。金堂基壇の正面側・西側・東側にある礎石の柱座の直径は65㎝、北側の柱座の直径は60㎝もあります。この礎石の上に、空海が仰ぎ見た白鳳期の古代寺院が建っていたようです。
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 西側に見える礎石の柱座の周囲には、配水溝かあり塔心礎ではないかと考えられています。そうすれば五重塔もあったことになります。この金堂の下には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにも思えます。でもいまは、江戸時代初期の本堂が建っておりますから残念ながら取り出すことはできません。
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 元禄十一年の再建された際には、大きな土製仏頭が出てきたようです。
目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と研究者は考えているようです。鎌倉時代に道範が見た本尊と考えられます。どんな印相をしていたのかなどは分かりません。しかし、これが本尊の薬師如来の仏頭なのかもしれません。青銅製や木像でない塑像を本尊というのがいかにも地方の古代寺院という感じが私にはします。この薬師本尊を真魚も拝みながら育ったのかもしれません。
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   以上をまとめると
①7世紀後半の白鳳時代に佐伯氏は最初の氏寺・伝導寺を建立した
②しかし、短期間で廃棄され、白鳳から奈良時代に現在地に善通寺が移された
③空海が生まれた時に氏寺はすでにあり、善通寺と呼ばれていた
④平安時代に崩壊し、本尊薬師如来などは半分埋まり「埋仏」状態であった
⑤鎌倉時代初期に、長安の青竜寺に似せて再建され、埋仏もそのまま祀られた
⑥戦国時代16世紀半ばに兵火で焼け落ちた
⑦江戸時代の元禄期に再建されたものが現在の金堂である
以上 最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
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参考文献 善通寺の誕生 善通寺史所収
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王墓山の墳丘の麓にある箱形石棺  
「古代善通寺の王家の谷=有岡」に、王墓山と菊塚の横穴式石室を持つふたつの前方後円墳が相次いで造られたのが6世紀後半のことでした。しかし、それに続く前方後円墳を、この有岡エリアで見つけることはできません。なぜ、古墳は築かれなくなったのでしょうか?
 その理由に研究者たちは、次の2点を挙げます
①646年に出された「大化の薄葬令」で墳墓築造に規制されたこと
②仏教が葬送思想や埋葬方法の形を変えて行った
こうして古墳は時代遅れの施設とされたようです。変わって地方の豪族達が競うように建立をはじめるのが仏教寺院です。
古墳時代末期に横穴式の大型古墳群がある地域には、必ずと言ってよいほど古代寺院が存在する」
と研究者は言います。各地の豪族は、権力や富の象徴であり地域統治のシンボルであった古墳築造事業を寺院建立事業へと変えていったのです。
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 それでは豪族達は、自分の好きなスタイルの寺院建築様式や、仏像モデルを発注できたのでしょうか。
そうではなかったようです。前方後円墳と同じく寺院も、中央政権の許可なく建立できるものではありませんでした。寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては、作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていました。中央政府の認可と援助なくしては、寺院は作れなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す威信財として機能します。
 前方後円墳がヤマト政権に許された首長しか建設できなかったこと、その大きさなどにもルールがあったことが分かってきています。つまり、前方後円墳は地方の首長の「格差」を目に見える形で示すシンボルモニュメントの役割を果たしてもいたと言えます。このような中央政府による「威信財(仏教寺院)」管理で地方豪族をコントロールするという手法は、寺院建立でも引き続いて行われます。
3妙音寺の瓦

 例えば壬申の乱の勝利に貢献した村国男依〔むらくにのおより〕は死に際して、最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、氏寺の建立を許され下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立は認められています。地方豪族が氏寺を建てたいと思うようになった背景には、寺を建てることで、さらなる次の中央官僚組織への進出というステップにを窺うという目論見が見え隠れします。
3宗吉瓦2
 その例が、多度郡のお隣の三野郡で丸部氏が讃岐最初の古代寺院を建立するプロセスです。丸部氏は、天武朝で進められる藤原京造営に際して「最新新鋭瓦工場=宗吉瓦窯跡」を建設し、瓦を供出するという卓越した技術力を発揮します。中央政府は「論功行賞」として、丸部氏が氏寺を建設する事を認めます。こうして、讃岐で一番最初の古代寺院・妙音寺(三豊市・豊中町)が、姿を見せるのです。これを手本にして、佐伯氏の氏寺の建立は始まったと私は考えています。佐伯氏の氏寺建立のプロセスを見ていきましょう。
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  佐伯氏の最初の氏寺は  伝導寺(仲村廃寺)
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、考古学が明らかにした答えとは異なるようです。善通寺の前に佐伯氏によって建立された別の寺院(Before善通寺)が明らかにされています。その伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。
 発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。

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仲村廃寺の軒丸瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。瓦の一部は、先ほど紹介した丸部氏の宗吉瓦窯で作られたものが鳥坂峠を越えて運ばれてきているようです。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。
ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。
この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
ここまでは、有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したと受けいれやすい話です。

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墓地の中に散在する仲村廃寺の礎石

 ところが話をややこしくするのが、時を置かずにもうひとつの寺を建て始めるのです。
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善通寺の軒丸瓦
それが現在の善通寺の本堂と五重塔のある東院に建立された古代寺院です。そして、善通寺東院伽藍内からも伝導寺と同じ時期の瓦が出てくるのです。中には伝導寺と同じ型で模様が付けられたものも出てきます。これをどう考えればいいのでしょうか。考えられることは
①伝導寺も善通寺伽藍の創建も白鳳時代で、同時代に並立した。
 しかし、伝導寺と現在の善通寺東院は、直線にすると300㍍しか離れていません。佐伯氏がこんな近い所に、ふたつの寺を同時に建立したのでしょうか。前回に紹介した大墓山古墳と菊塚古墳は非常に隣接した時代に造営されたことをお話ししました。そして、被葬者は佐伯一族の中の有力一族の関係にあったのではないかという推察をしました。ここでも、本家と親家のような関係にある人物がそれぞれ氏寺を建立したという仮説もだせますが・・・何か不自然です。
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②白鳳時代に伝導寺が建立されたが短期間で廃寺になり、今の伽藍の場所に移転した
 善通寺伽藍内で発見された白鳳時代の瓦は、廃寺とした伝導寺から再利用のために運ばれ使われた。この仮説には、移転の原因を明らかにする必要があります。
.1善通寺地図 古代pg
  伝導寺の南にあった3つの遺跡を見てみましょう。 
  ①生野本町遺跡は、善通寺西高校のグランド整備に伴う発掘調査で出てきた遺跡です。
溝状遺構により区画された一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。遺跡の存続期間は7世紀後葉~8世紀前葉であり、官衛的な様相が強い遺跡である。

  ②生野本町遺跡の南 100mに は生野南口遺跡が 位置する。
ここでは 8世紀前葉~中葉に属する床面積40㎡を越える庇付大型建物跡1棟、杯蓋を利用した転用硯1点が出土している。生野本町遺跡に近接し、公的な様相が窺えることから、両遺跡の有機的な関係が推測できる。
 そして、文献学的な推定からこの付近には南海道が通っていたとする次のような説がありました。
南海道は、多度郡条里地割における6里と7里の里界線沿いが有力な推定ラインである。13世紀代の善通寺文書には、五嶽山南麓に延びるこの道が「大道」と記載されてる。
 
 ③これを裏付ける考古学的な発見が、四国学院大学構内遺跡から出てきました。
この遺跡は、南海道推定ライン上にあるのですが、そこから併行して延びる2条の溝状遺構が見つかりました。時期的には7世紀末~8世紀初頭で、この2条の溝状遺構は南海道の道路側溝である可能性が高いようです。また、ここからは伝導寺で使われた同じ瓦がいくつか出てきています 。  
この3つの遺跡について述べられているキーワードを、取り出して並べてみましょう。
①7世紀後半という同時代に同じ微高地の位置するひとまとまりの施設
②計画的に並んだ同じ大きさの大型建物群
 → 官衛的な様相が強い遺跡
③延床400㎡の大型建築物
 → 地方権力の拠点?
④遺跡の間を南海道が通っていた           
 → 多度郡の郡衛が近くにあるはず
⑤伝導寺の瓦が出土
  → 佐伯氏の氏寺・伝導寺の建設資材の保管・管理
⑥どの建築物も短期間で消滅
これらを「有機的な関係」という言葉でつなぎ合わせると、出てくる結論は何でしょうか?
それは、四国学院キャンパスから南にかけての微髙地に多度郡の郡衛施設があったということ、そして、佐伯氏の館もこの周辺にあったということでしょう。
それを研究者は次のような言葉で述べます
   この様相は、官衛や豪族による地域支配のため新たに遺跡や施設が形成されたり、既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡とみると整合的である。

要は、研究者も、7世紀後半には多度郡の郡衛がここにあったと考えているようです。
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以上から7世紀後半の善通寺の姿をイメージしてみましょう。
 条里制の区割りが行われた丸亀平野を東から一直線に、飯山方面から五岳を目指して南海道が伸びてきます。それは四国学院大学キャンパスの図書館あたりを通過してさらに、西へ伸びて行きます。その南海道の北側に、大きな集落(旧練兵場遺跡)が広がり、その集落の東端に、この地域で初めての古代寺院・伝導寺が姿を現します。そこから600㍍ほど南を南海道は西に向けて通過します。南海道に隣接するように北側には倉庫群(四国学院遺跡)が立ち、南側には多度郡の郡衛とその付属施設が並びます。そして、その周囲のどこかに佐伯氏の館があった・・・

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多度郡の郡衛の北に姿を現した古代寺院。これは甍を載せた今までに見たことのないような大きな建造物で、中には目にもまばゆい異国の神が鎮座します。古墳に代わる新たなモニュメントとしては最適だったはずです。佐伯の威信は高まります。
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佐伯氏の居館は、どこにあったのでしょうか?
  従来説は、
  ①佐伯氏の氏寺は現在の善通寺伽藍で、佐伯氏の居館は現在の西院であった
 
でした。  しかし、以上の発掘調査の成果を総合すると

  ②佐伯氏の最初の氏寺である伝導寺が建立され頃、佐伯氏の拠点は生野本町遺跡付近(四国学院の南)にあった

  ③そして伝導寺の廃絶と善通寺伽藍への移転に伴い、佐伯氏の活動の拠点も今の誕生院の場所へ移動した と考えられるようになっているようです。
 ここで、残された問題に帰ります。
なぜ伝導寺が短期間で廃棄されたのかです。
 この問題を解くヒントが、実は3つの遺跡の中に隠されています。それは、
「④三つの遺跡の建築物は、建てられて短期間で姿を消している。
ということです。これは伝導寺とおなじです。何があったのでしょうか?
7世紀後半の南海沖地震の影響は?
災害歴史の研究が進むにつれて
「白鳳時代半ばを過ぎた頃、四国地方は大地震による大きな被害を受けた」

という説が近年出されています。
「日本書紀」の巻二九、天武十三年(678)10月14日の記録に
「山は崩れ、川がこつぜんと起った。もろもろの国、郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺の塔、神社など、破壊の類は数えきれない。人民のほか馬、牛、羊、豚、犬、鶏がはなはだしく死傷した。このとき伊予温泉は埋没して出なかった。土佐の国の田50余万頃が没して海となった。古老はこんなにも地が動いたことは、いまだかつて無かったことだと言った。」
とあります。
 続いて十一月三日には
「土佐の国司が、大潮が高く陸に上がり海水がただよった。このため調(税)を運ぶ船が多く流失したと知らせてきた。」
ともあり、10月14日の地震により発生した津波の被害の報告のようです。7世紀後半に何回か大きな地震が起きていたようです。「伊予」「土佐」でも大きな被害が出ていることから、讃岐の善通寺市付近でも、戦後の南海地震と同じような被害があったのではないかと研究者は考えています。
 伝導寺が姿を見せた頃は、佐伯氏の居館は生野町本町遺跡付近にあった?
 先ほど見てきたように、この遺跡は白鳳時代の初め頃(七世紀後半)に成立し、白鳳時代末頃(八世紀初め頃)には廃絶しています。寺の移転に併せるように現在の西院に佐伯の居館も移転したようです。これも同じ地震被害に関連するものではないか、と研究者は推測します。確かに、戦後の南海地震規模と同規模の揺れなら善通寺にも被害があったでしょう。実際に多度津からの金毘羅街道の永井集落に立っていた鳥居は根元からポキンと折れています。建立されたばかりの寺院に、大きな被害が出たことは考えられます。
王墓山古墳や菊塚古墳の報告書には、大地震によると考えられる石室の変形が見られるとしています。善通寺市周辺における奈良時代以降の大地震の記録は残っていませんから、これらも白鳳時代の大地震によるものではないかといいます。
 こうした白鳳の南海大地震の被害を受けて、佐伯家の主がその対策をシャーマンに占なわせた結果、新しい場所に寺も本宅も移動して再出発せよという神託が下されたというSTORYも充分に考えられるとおもうのですが・・・・
  以上が現時点での伝道寺短期廃棄説の仮説です。これにて一件落着!

と言いたいところなのですが、そうはいかないようです。
伝導寺跡からは平安時代後期の瓦が出土するのです。これをどう考えればいいのでしょうか?
普通に考えれば、この寺は平安末期まで存続していたということになります。しかし、寺として存続していたのなら瓦が別な場所で再利用されることはありません。とりあえず次のように解釈しているようです
「奈良時代の移転に伴い伝導寺が廃絶した後、平安時代後期になって伝道寺跡に再び善通寺の関連施設が置かれたのではないか」
しかし、今後の発掘次第では「解釈」は変わっていくことでしょう。

   以上をまとめておくと次のようになります。
①7世紀後半に佐伯氏は、初めての氏寺・伝導寺を建立した
②この建立には三野郡の丸部氏の協力があった
③伝導寺建立後に南海道が整備された。
④現四国学院大学の図書館付近を東西に南海道は走っていた
⑤その付近には、多度郡の郡衛や付属施設が建ち並び、佐伯氏の館も周辺にあった。
⑥しかし、天武十三年(678)10月14日の「天武の南海大地震記録」によって大被害を受けた
⑦そのため建立されたばかりの伝導寺や郡衛・館も廃棄された。
⑧そして、新寺を現在の善通寺東院に、郡衛・館を現在の西院に移動した
これが空海が生まれる半世紀前のこの地域の姿だと私は考えています。  
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。

  2有岡古墳群2jpg

古代人には、次のような死生観があったと民俗学者たちは云います。

祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、
死後はその霊山に帰り御霊となる

御霊となって霊山に帰る前の死霊は、霊山の麓の谷に漂うとかんがえたようです。また、稲作に必用な水は霊山から流れ出してきます。その源は祖先神が御霊となった水主神が守ってくれると信じていました。
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五岳の南側麓の有岡地区
 練兵場遺跡群から南西に伸びる香色山・筆ノ山・我拝師山の五岳と、その南の大麻山にはさまれた弘田川流域を「有岡」と呼んでいます。このエリアからは住居跡など生活の痕跡があまり出てきません。それに比べて、多くの古墳や祭祀遺跡が残されています。ここからは霊山に囲まれた有岡エリアは、古くから聖域視されていたことがうかがえます。古代善通寺王国の首長達にとって、自分が帰るべき霊山は大麻山と五岳だったようです。そして、ふたつの霊山に囲まれた有岡の谷は「善通寺王国の王家の谷」で聖域だったと、私は解釈しています。
1善通寺有岡古墳群地図
 善通寺王国の王家の谷に築かれた前方後円墳群
 有岡地区には弥生時代の船形石棺に続き、7世紀まで数多くの古墳が築かれ続けます。大麻山の頂上付近に天から降り立ったかのように現れた野田院古墳の後継者たちの前方後円墳は、以後は有岡の谷に下りてきます。そして、東から西に向かってほぼ直線上に造営されていきます。それを順番に並べると次のようになります。
①生野錐子塚古墳(消滅)
②磨臼山古墳
③鶴が峰二号墳(消滅)
④鶴が峰四号墳
⑤丸山古墳
⑥王墓山古墳
⑦菊塚古墳
地図で確認すると先行する古墳をリスペクトするように、ほぼ直線上に並んでいるので、「同一系譜上の首長墓群」と研究者は考えているようです。この中でも有岡の真ん中の丘の上に築かれた王墓山古墳は、整備も進んで一際目を引くスター的な存在です。

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王墓山古墳
 王墓山古墳は、古くから古代の豪族の墓と地元では伝えられてきました。
そのため山全体が王(大)墓山と呼ばれていたようです。大きさは全長が46m、後円部の直径約28mと小型の前方後円墳です。大正時代には国によって現地調査が行われ、昭和8年に刊行された「史蹟名勝天然記念物調査報告」に国内を代表する古墳として紹介されています。
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王墓山古墳の横穴部 

この古墳の最初の発掘調査は、1972年度に実施されました。当時は、墳墓全体がミカン畑で、所有者が宅地造成を計画したために記録保存を目的として調査が実施されたようです。ところが開けてみてびっくり! その内容をまとめておくと
①構築は古墳時代後期(六世紀後半)
②全国的に前方後円墳が造られなくなる時期、つまり県下では最後の前方後円墳(現在では菊塚がより新しいと判明)
③埋葬石室は県下では最も古い形態の横穴式石室=前方後円墳の横穴式石室
④玄室内部からは九州式「石屋形」が発見。→九州色濃厚
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「石屋形」というのは、当時の私は初めて耳にする用語でした。
これは石室内部を板石で仕切り、被葬者を安置するための構造物だそうです。熊本を中心に多く分布するようですが、四国では初めての発見でした。石室構造は九州から影響を受けたものです。ここに葬られた人物は、ヤマトと同じように九州熊本との関係が深かったことがうかがえます。埋葬された首長を考える上で、重要な資料となると研究者は考えているようです。
 王墓山古墳は盗掘を受けていたにもかかわらず、石室内部には数多くの副葬品が残されていました。その副葬品は、赤門筋の郷土博物館に展示されています。 
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ここの展示品で目を引くのは「金銅製冠帽」です。
冠帽とは帽子型の冠で、朝鮮半島では権力の象徴ででした。冠帽を含め金銅製の冠は国内ではこれまでに30例程しか出ていません。ほぼ完全な形で出土したのは初めてだったようです。しかし、出土時には、その縁を揃えて平らに潰して再使用ができないような状態で副葬されていました。権力の象徴である冠は、その持ち主が亡くなると、伝世することなく使用できないようにして埋葬するというのが当時の流儀だったようです。
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善通寺郷土博物館
 王墓山古墳の副葬品で、研究者が注目するものがもうひとつあります。
それは、多数出土した鉄刀のうちのひとつに「銀の象嵌」を施した剣があったのです。象嵌とは刀身にタガネで溝を彫り金や銀の針金を埋め込んで様々な模様の装飾を施すものです。ここでは連弧輪状文と呼ばれる太陽のような模様が付けられていました。刀身に象嵌の装飾を持つ例は極めて少なく、これを手に入れる立場にこの被葬者はいたことがわかります。
 6世紀後半、中央では蘇我氏が台頭してくる時代に有岡の谷にニューモデルの横穴式前方後円墳を造り、中央の豪族に匹敵する豪華な副葬品を石室に納めることのできる人物とは、どんな人だったのでしょうか。
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 「この人物は、後に空海を世に送り出す佐伯氏の先祖だ」

と研究者の多くは考えているようです。
 大墓山古墳と奈良斑鳩の法隆寺のすぐ近くにある藤ノ木古墳の相似性を研究者は次のように指摘します。
 王墓山古墳と同じように六世紀後半の構築である藤ノ木古墳でも冠は潰されて出土していて、同じ葬送思想があったことがわかります。また、複数出土した鉄刀の1点に連弧輪状文の象嵌が確認されているほか、複数の副葬品と王墓山古墳の副葬品との間には多くの類似点があることが判明しています。そのため、王墓山古墳の被葬者と藤ノ木古墳の被葬者の間には、何かつながりがあったのではないかと考えられています。
ロマンの広がる話ではありますが、大墓山はこのくらいにして・・・

王墓山ほどに注目はされていませんが、発掘で重要性ポイントがぐーんとあがった古墳があります。

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 それが菊塚古墳です-もうひとつの佐伯氏の墓?
この古墳は、有岡大池の下側にあり、後円部に小さな神社が鎮座しますが、原型はほとんどとどめていません。これが古墳であるとは、誰もが思わないでしょう。しかし、築造当時は、弘田川をはさんで王墓山古墳と対峙する関係にあったようです。全長約55mの前方後円墳で、後円部の直径は約35m、更に周囲に平らな周庭帯を持つため、これを含めると全長約90m、幅は最大で約70mという大きさで、大墓山より一回り大きく「丸亀平野で一番大きな古墳」だということが分かりました。
 発掘前は、その形状から古墳時代中期の構築ではないかと考えられていたようです。しかし、後円部に露出した巨大な石材の存在や埴輪を持たない点などから、王墓山古墳よりやや後に作られた古墳であることが分かりました。そして平成10年の発掘調査によって、王墓山古墳と同じ横穴式石室で、その中に「石屋形」も見つかりました。
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一番右側が「石屋形」
 石室上部は盗掘の際に壊されて、石室内部も多くの副葬品が持ち去られていました。しかし、副葬品の内容や石室の規模・構造などから、王墓山古墳と同様に首長クラスの人物の墓とされています。さらに石室や副葬品の内容を検討したところ、ふたつの古墳が築かれた時期は非常に近いことが分かりました。ここから大墓山と菊塚に葬られた人物は、6世紀後半の蘇我氏が台頭してくる時代に活躍した佐伯一族の家族の首長ではないかと研究者は考えているようです。

1菊塚古墳

 有岡の小さな谷を挟んで対峙するこの二基の古墳を比較すると、墳丘や石室の規模は菊塚が一回り大きいようです。それが両者の一族内での関係、つまり「父と子」の関係か、兄弟の関係なのか興味深いところです。
 有岡の谷に前方後円墳が造営されるのは、菊塚が最後となります。そして、その子孫達は百年後には仏教寺院を建立し始めます。その主体が、佐伯氏になります。大墓山や菊塚に眠る首長が国造となり、律令時代には地方や区人である多度郡の郡司となり、善通寺を建立したと研究者は考えているようです。つまり、ここに眠る被葬者は、弘法大師空海の祖先である可能性が高いようです。

参考文献 国島浩正 原始古代の善通寺 善通寺史所収


   
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  考古学の発掘調査報告書は読んでいて、私にとってはあまり楽しいものではありません。その学問特性から「モノ」の描写ばかりだからです。そのモノが何を語るのか、そこから何が推察できるのかを報告書の中では発掘者は語りません。それが考古学者の立ち位置なのだから仕方ないのでしょう。だから素人の私が読んでも「それで何が分かったの?」と聞きたくなる事が往々にしてあります。

善通寺史(総本山善通寺編) 書籍
 そんな中で図書館で出会ったのが「善通寺史」です。
この本は善通寺創建1200年記念事業として総本山善通寺から出版されたものですが、書き手が地元の研究者で、今までの発掘の中で分かったことと、そこから推察できる事をきちんと書き込んでいます。「善通寺史」の古代編を読みながら「古代善通寺王国」について確認しながら、膨らましたし想像やら、妄想やらを記したいと思います。
1旧練兵場遺跡89
まず丸亀平野における稲作の開始です
  丸亀平野の中でも、善通寺市付近は、稲作に適した条件を満たしていたようで、弥生時代に大きく発展した場所のひとつです。漢書地理志の「分かれて百余国をなす」と記された百余りの国のひとつだったかも知れないと近頃は思うようになりました。
丸亀平野で稲作を始めた弥生時代前期の遺跡としては
①丸亀市の中ノ池遺跡、
②善通寺市の五条遺跡
③善通寺市から仲多度郡にかけて広がる三井遺跡
などが平野の中央に散らばる形で、多数の集落遺跡が知られています。私は、これらが成長・発展し連合体を形成して、善通寺王国へ統合されていくものと考えていたのですが、どうもそうではないようです。この本の著者は次のように述べます。

  「それらの集落遺跡はその後は存続せず、弥生時代中期になると人々の生活の拠点は現在の善通寺市の低丘陵丘陵部に集まり始める」

弥生前期の集落の多くは長続きせず、消えていくようです。その中で、継続していくの旧練兵場遺跡群のようです。この辺りは看護学校・養護学校・大人と子どもの病院の建設のために、発掘が毎年のように繰り返された場所です。その都度、厚い報告書が出されていますが、目を通しても分からない事の方が多くてお手上げ状態です。そのような中で「善通寺史」は、この遺跡に対して、次のような見方を示してくれます
1旧練兵場遺跡8
 旧練兵場跡出土の大型土器
もともとの「旧練兵場」の範囲は「国立病院+農事試験場」です。
そのため今までは「旧練兵場遺跡」と呼ばれてきました。しかし、
「近接した同時期の遺跡すべてをあわせて、旧練兵場遺跡
と呼んではどうかというのです。つまり、周辺の遺跡を含め範囲を広げて、トータルに考えるべきだというのです。確かに、報告書の細部を見ていても素人には分からないのです。もっと巨視的に、俯瞰的に見ていく必用があるようです。それでは、発掘順に遺跡群見て行く事にしましょう。

古代善通寺地図

1984年発掘 遺跡群西端の彼ノ宗遺跡
この遺跡群の中で最初に発掘されたエリアです。弥生時代中期から後期にかけての40棟以上の竪穴住居と小児壷棺墓一五基、無数の柱穴と土坑群がみつかり、その上に古墳時代の掘建柱建物跡二棟とそれに伴う水路が出てきました。また二重の周溝をもつ多角形墳の基底部など夥しい生活の痕跡が確認されています。ここからは、弥生から古墳時代にまで連続的に、この地に集落が営まれており、人口密度も高かったことが分かります。

1仙遊遺跡出土石棺(人面石)059
入れ墨を施した人の顔
 1985年発掘 彼ノ宗遺跡から東に約500m程の仙遊町遺跡   
ここは宮川うどんから仙遊寺にあたるエリアで、ここからは弥生時代後期の箱式石棺と小児壷棺墓三基が発見されています。このエリアは「旧練兵場遺跡内の墓域」と考えられているようです。また、箱式石棺の石材には、線刻された入れ墨を施した人の顔の絵がありました。
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『魏志倭人伝』には、倭国の入れ墨には「地域差」があったことが記されています。香川や岡山、愛知で発見されている入れ墨の顔は、よく似ています。また入れ墨石材の発掘場所が墓や井戸、集落の境界など「特異な場所」であることから入れ墨のある顔は、一般的な倭人の顔ではなく特別な力を持ったシャーマン(呪い師)の顔を描いたものではないかと考えられています。香川・岡山・愛知を結ぶシャーマンのつながりがあったのでしょうか?
旧練兵場遺跡地図 

 もうひとつ明らかになってきたのは、多度津方面に広がる平野にも数多くの集落遺跡が散在することです。
1987年発掘 旧練兵場遺跡群から北方五〇〇mの九頭神遺跡、
 弥生時代中期から後期頃の竪穴住居や小児壷棺墓・箱式石棺墓等が確認されました。
九頭神遺跡から東には稲木・石川遺跡が広がります。ここでも弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居群や墓地、中世の建物跡などが多数確認されました。さらに、中村遺跡・乾遺跡など多数の遺跡が確認されています。
これらの集落遺跡に共通するのは「旧地形上の河道と河道の間に形成された微高地」に立地すること、そして「同時期に並び立っていた」ことです。また、そのなかには周囲に環濠を廻らせたムラも登場しています。 このように同時並立していた周辺のムラ(集落遺跡)も含めてとらえようとすると「旧練兵場遺跡群」という呼び方になるようです。  
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
旧練兵場遺跡周辺の弥生遺跡
旧練兵場遺跡は古代善通寺王国の中心集落だった
この遺跡の報告書を読んでみましょう。
このうち善通寺病院地区とされる微高地の 1つ では南北約 400m、 東西約 150mの範囲において中期中葉か ら終末期までの竪穴住居跡 209棟 、掘立柱建物跡 75棟、櫓状建物跡 3棟、布掘建物跡 4棟、貯蔵穴跡、土器棺墓などを検出している。他の微高地 も同程度の規模 を持つため、本遺跡が県内でも最大級の集落跡であるといえる。そうしてこれ らの遺構群は、まとまりごとに見られる属性の違いか ら機能分化が指摘 されている。
また出土遺物にも銅鐸、銅鏃、銅鏡などの青銅器、鉄器、他地域か らの搬入土器など特殊なものが数多く見られる。「旧練兵場遺跡群」(10と 近接する遺跡 (稲木遺跡、九頭神遺跡、今回報告す る永井北遺跡など)の関係については 「大規模な旧練兵場遺跡を中心 として、小規模な集落が周辺に散在する景観を復元できる」 とされ、本遺跡の周辺地域で集中して出土する青銅器を継続して入手 した中心的な拠点であつたことも指摘 されている。こうした様相から地域の中核をなす遺跡 と位置づけられている。
この遺跡が弥生時代の讃岐における最大集落であり、他地域との活発な交流・交易が行われていたようで、その中から威信財である青銅器も「継続して入手」していたと記します。

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この拠点集落が祭器として使用した青銅器について見ておきましょう。 善通寺市内から出土した青銅器の代表的なものは、次の通りです。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
①与北山の陣山遺跡で平形銅剣三口、
②大麻山北麓の瓦谷遺跡で平形銅剣二口・細形銅剣五口・中細形銅鉾一口の計八口、
③我拝師山遺跡からは平形銅剣五口・銅鐸一口、北原シンネバエ遺跡で銅鐸一口
など、数多くの青銅器が出土しています。
こうしてみると香川県内の青銅器の大半は善通寺市内からの出土であることが分かります。善通寺の讃岐における重要さがここからもうかがえます。青銅器が出土した遺跡は、善通寺から西に連なる五岳の丘陵部にあたります。これらの青銅器は、旧練兵場遺跡群や周辺部のムラが所有していたものが埋められたものでしょう。

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 九州や大和の遺跡でも、青銅器は大きな集落遺跡の近くから出てきます。このことから善通寺周辺のムラが、祭礼に用いた青銅器を、霊山とする五岳の山々の麓に埋めたと考えられます。この時点ではムラに優劣関係はなく並立的連合的なムラ連合であったようです。それが次第にムラの間に階層性が生まれ、ムラの長を何人も束ねる「首長」が出現してくるようになります。
1善通寺王国 持ち込まれた土器

 こうしたリーダーは3世紀後半になると、首長として古墳に埋葬されるようになり、大和を中心とする前方後円墳祭祀グループに参加していきます。
首長の館跡などは、まだ善通寺周辺では見つかっていません。「子どもと大人の病院」周辺は、新築のたびに発掘調査が進みました。しかし、その東側には広大な農事試験場の畑が続きます。この辺りが善通寺王国の首長の館跡かなと期待を込めて私はながめています。

1旧練兵場遺跡3

 卑弥呼が亡くなった後の三世紀末頃に、首長墓は前方後円墳に統一されていきます。
墓制の統一は、これまで多くのクニに分かれていた日本が、前方後円墳に関わる祭礼を通じて、ひとつの統一国家となったことを示していると研究者は考えているようです。敢えて呼び名をつけるなら「前方後円墳国家の出現」と言えるのかも知れません。善通寺周辺部でも、三世紀後半に旧練兵場遺跡群を中心に飛躍的な発展があったようです。

旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡
 それを大麻山に作られた埋葬施設の変化から見てみましょう。
 古代人には「祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、死後はその霊山に帰り御霊となる」という死生観があったといわれます。大麻山は、祖先神の降り立った霊山で、自分たちもあの山に霊として帰り子孫を見守る祖霊となると考えていた人たちがいたようです。大麻山中腹では、卑弥呼と同時代のものと思われる弥生時代後期末頃の箱式石棺墓群が三〇基以上も確認されています。この中には、積石を伴うものや副葬品として彷製内行花文鏡がおさめられたものもあります。
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有岡大池から仰ぎ見る大麻山
 大麻山を霊山と仰ぎ見て、そこに墓域を設定したのはだれでしょうか。
 それは旧練兵場遺跡の首長たちだったようです。彼らが霊山と仰ぐ大麻山に、箱式石棺墓を造り始め、最終的には野田野院古墳へとグレードアップしていきます。

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大墓山古墳後円部の裾部分から出てきた箱形石棺
善通寺の前方後円墳群は、野田院古墳がスタートです。
それに先行するのが、弥生時代の箱式石棺墓になります。この間には大きな差異があります。社会的な大きな転換があったこともうかがえます。しかし、その母胎となった集落はやはり旧練兵場遺跡であったことを押さえておきます。

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    大麻山8合目の野田院古墳 向こうは善通寺五岳
 いよいよ野田院古墳の登場です。
改めて、その特徴をまとめておきましょう
①大麻山北西麓(標高四〇五m)のテラス状平坦部という全国的にも有数の高所に立地する
②丸亀平野では最古級の前方後円墳である。
③前方部は盛土、後円部は積み石で構築されている。
 野田院古墳は、特別史跡の指定に向けて発掘調査が行われました。
その調査結果は、研究者も驚くほど高度な土木技術によって古墳が造られていたことを明らかにしました。「傾斜地に巨大な石の構造物を構築する際に、基礎部を特殊な構造に組み上げていることで、変形や崩落を防いでいる」と報告書は述べます。

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野田院古墳(後円部が積石塚、前方部が盛土)

この技術はどこからもたらされたのか、言い方を変えれば、
この技術をもった技術者は、どこから来たのでしょうか?
 「古代善通寺王国」では、稲木遺跡で弥生時代後期末頃の集石墓群が確認されているようです。しかし、

「小規模な集石墓が突然に、大麻山の高い山の上に移動して、構築技術を飛躍的に進化させて野田院古墳に発展巨大化した」

というのは「技術進化の法則」では、認められません。
 類似物を探すと、海の向こうです。朝鮮半島ではこの頃、高句麗で数多くの積石塚が作られています。研究者は、善通寺の積石塚との間に共通点があることを指摘します。渡来説の方が有力視されているようです。
2野田院古墳1
野田院古墳
 野田院古墳の首長は、何者か?
  野田院古墳には、継承されている部分と、大きな「飛躍」点の2つの側面があります。継承されているのは、霊山の大麻山に弥生時代の箱式石棺墓から作られ続けた埋葬施設であるということでしょう。「飛躍」点は、その①技術 ②規模の大きさ ③埋葬品 ④動員力などが挙げられます。
 別の言い方をすれば、今までにない技術と動員力で、大麻山の今までで一番高いところに野田院古墳を作った首長とは何者かという疑問に、どう答えるのかということだと思います。
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 手持ちの情報を「出して、並べて推測(妄想)」してみましょう。
①丸亀平野では最古級の前方後円墳であり、霊山大麻山の高い位置に作られている。
 ここからは、並立する集落連合体の首長として、今までにない広範囲のエリアをまとめあげた業績が背後にあることが推測できます。その結果、今までの動員力よりも遙かに多くの労働力を組織化できた。それが古墳の巨大化となって現れた。

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②造営を可能にする技術者集団がいた。先ほど述べた高句麗系の集団の渡来定着を進め配下に入れた豪族が、「群れ」の中から抜け出して、権力を急速に強化した。
③ヤマト政権から派遣された新しい支配者がやってきて、地元首長達の上に立ち、善通寺王国の主導権を握った。それが、後の佐伯氏である。
今の時点での私の妄想は、こんなところです。 
支離滅裂となりましたが、今回はこれまでにします。
最後までおつきあいいただいてありがとうございました。
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参考文献 笹川龍一 原始古代の善通寺 善通寺史所収


         
1四国遍路日記

17世紀半ばに澄禅が残した『四国辺路日記』は、四国遍路の最古の資料のようです。
  まずは澄禅という人物について、見ていきましょう。
 澄禅(1613-1680)は、江戸時代の初期に生まれて元禄を前に68歳で亡くなっています。その期間は大坂夏の陣の辺りから、天下泰平の元禄の手前の当たります。彼は肥後国球磨郡の人で、20歳頃に京都智積院の学寮に入り仏道修行を積みます。一時、肥後に里に帰り地蔵院を継ぎますが、太守の接待や檀家とのやりとりなどにストレスを感じ「煩わし」として、ひそかに郷里を逃れます。そして学業に精進する道を選びます。ここからは、世事に疎く名利を厭う、彼の生き方がうかがえます。
1澄禅 種子集

 澄禅の種子字
 再び上洛したて澄禅は、梵語学の研究に打ち込みます。
そして、刷毛書梵字の祖といわれるまでになり、『悉曇愚紗』2巻をはじめ多くの著作を残しています。また、僧侶階層でも門下数千と伝えられる運敞能化の高弟、智積院第一座もつとめていたようです。ここからは、彼が中央でも名が知れた学僧であったことが分かります。
そのような中、澄禅は智積院第一座(学頭)の地位にありながら四国巡礼に旅立って行きます。
41歳のことでした。そして、1653年7月18日から10月28日までの100日間にわたる詳細な遍路紀行を残します。
 この日記は、宮城県の塩竃神社の文庫の中から写本が発見されました。その巻末に、徳田氏が正徳4年(1714)に写して「右八洛東智積院ノ中雪ノ寮、知等庵主悔焉房澄禅大徳ノ日記也」と書き加えられています。ここからこの日記が、澄禅のこした「四国巡礼日記」であることがわかります。またこの日記の写本奉納記朱印等から、もともとは江戸期の古書収集家村井古巌の収書中にあったものが、実弟の忠著によって、天明6年(1786)冬に塩竃神社に奉納されたことがわかります。
 この日記は、澄禅という当時としては最高レベルの学識豊かな真言僧によって書かれています。そして伝来も確認できる一級史料のようです。そのため研究者は
「内容もまた豊富で、四国遍路記の白眉とも言うべく、江戸時代前期の四国遍路に実態を最もよく伝えるのみならず、関連部門の史料としても価値のあるもの」
と評価しています。
  この日記を読んでいるといろいろな気になる事が出てきます。
17世紀半ばの霊場の姿が、どんなものだったのかに焦点をあてて見ていきます。
 高野山を7月18日に出発して、和歌山から淡路島を平癒して、24日に徳島の持明院(現廃寺、跡に常慶院滝薬師)に到着しています。そこで、四国遍路の廻り手形を受け取ると共に、霊山寺(一番)から回るより井土(戸)寺(十七番)からスタートした方が良いとのアドヴァイスをもらっています。
 澄禅は、真言宗の高僧でしたから各地の真言寺院からの特別な「保護や支援」を受けていることが分かります。当時の一般の一般遍路衆と比べると、比較にならい好条件だったようです。城下町の持明院に泊り四国遍路の手形を受け、いろいろな情報を受けています。宿泊だけでなく、大師御影像の開帳や、霊宝類の拝観といった面にも、特別の配慮に預かったことが分かります。
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 それでは巡礼第1日目に訪れた霊場の姿を見てみましょう。
 澄禅の遍路は徳島市から始まっていますが、先ほど見たように回る順番は持明院のアドバイスを聞いて、一番霊山寺からでなく、井土寺(十七番井戸寺)から打ち始めています。井戸寺までは、伊予街道(国道192号とほぼ並行)を行ったようです。
   17番 井土寺
堂舎悉(コトゴト)ク退転シテ昔ノ(礎)ノミ残リ、二間四面ノ草堂在、是本堂也。本尊薬師如来也。寺ハクズ家浅マシキ躰也。住持ノ僧ノ無礼野鄙ナル様難述言語。
堂舎悉(コトゴト)ク退転とあります。【退転】を広辞苑で調べてみます。
〔仏〕修行して得た境地を失って、低い境地に転落すること。
澄禅は「退転」を、この意味で使っているようです。
 昔の礎石だけが残り、小さな草葺きのお堂が本堂であり、そこに薬師如来が安置されている。寺は荒れ果て、住職は「無礼野卑で言語に尽くしがたし」と記します。真言宗のエリート学僧である澄禅の怒りをかうような事件が起きたのかも知れません。この記録には住職に関する記述も記されていますので注意しながら見ていくことにします。
 最初に訪れた霊場がこの様でした。彼にとってはショックだったかも知れません。
昔の礎石があるので、それなりに歴史のあったお寺だったようです。しかし、
寺ハクズ(屑家 浅マシキ躰(体)」だったのです。
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続いては16番観音寺です。
本尊千手観音 是モ悉ク退転ス。少(ママ)キ 草堂ノ軒端 朽落テ棟柱傾タル在、是其形斗也。昔ノ寺ノ旧跡ト見ヘテ 畠ノ中ニ大ナル石共ナラ(並)へテ在、所ノ者ニ問エハ イツ比より様ニ成シヤラン、シカト不存、堂ハ百性(姓)共談合シテ 時々修理ヲ仕ヨシ。
ここもことごとく「退転」状態です。小さな草葺堂の軒は朽ち落ちて柱も傾いています。昔の寺の跡らしき礎石が畑の中に並んでいます。近くにいた人に聞いても「いつ頃からこんな状態になったのか分からない、お堂は百姓たちと相談して、時々修理している」とのこと。そして、住職については何も記しません。記されていないのは、基本的に無住で住職がいないということのようです。 巡礼を初めて2つの霊場を訪れた結果がこれです。
15番 国分寺に向かいます
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本尊薬師、少キ草堂是モ梁棟朽落テ 仏像モ尊躰不具也。昔ノ堂ノ跡ト見ヘテ六七間四面三尺余ノ石トモナラヘテ在、哀ナル躰也。
かつての国分寺も、小さなお堂の梁や軒が朽ち果てています。仏像も壊れ、手足がありません。昔の堂跡を見ると、大きな礎石が並んでいるのが哀れになってくると記します。
14番 常楽寺、
本尊弥勒菩薩 是モ少(小)キ草堂也。
ここまで来ると口数も少なくなるように記述も少なくなってきます。ここも小さなお堂に弥勒菩薩が座っています。無住で住職はおらず、荒れ寺であったようです。35年後の『四国偏礼霊場記』にも
「其他坊舎の跡皆あり、今茅堂の傍、一庵あり。人ある事をしらず
と書かれているので、その後も住職がいなかったようです。

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13番一ノ宮(大日寺)
松竹ノ茂タル中ニ東向ニ立玉(給)ヘリ、前ニ五間斗(ばかり)ノソリ橋在リ、拝殿ハ左右三間宛也。殿閣結講也。本地十一面観音也。
 一ノ宮とありますが、阿波一宮は大麻山にありますので、村の一宮です。その一宮の別当寺が大日寺だったようです。ここではじめて「殿閣結構」と、まともな伽藍が出てきます。
 澄禅から30年後の寂本『四国徧禮霊場記』(1689年)でも、
常楽寺は「茅堂の傍一菴」
国分寺は「小堂一宇」
観音寺は「堂舎廃毀」などと
荒れた様子が記されています。
現在の国分寺のように、古い礎石が本堂の周囲に並ぶ風景が、どの寺にも見えたのです。傾き架けた本堂と呼ぶにはあまりに小さな草庵に本尊だけが安置され、住職もいない姿だったようです。
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 なぜ、この寺だけが伽藍が整っていたのでしょうか?
それは一宮神社の別当寺であったことが考えられます。檀家を持たず寺領も失った霊場が荒れたままで放置された状態にあったのに対して、神仏習合下では神社の別当寺にたいしては村人達は信仰を捧げ、伽藍を維持したのではないかと私は考えています。
初日に廻った5ケ寺の内、四ヶ寺までが「退転」状態でした。一日が終わって、宿に入ったときに、澄禅はどんな思いでいたのでしょうか。ある意味、呆然としたのではないでしょうか?。
 翌日7月26日 遍路2日目の澄禅を追いかけます。

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11番 藤井寺
本堂東向本尊薬師如来 地景尤殊勝也。二王門朽ウセテ礎ノミ残リ、寺楼ノ跡、本堂ノ礎モ残テ所々ニ見タリ。今ノ堂ハ三間四面ノ草堂也。二天二菩薩十二神二王ナトノ像、朽ル堂ノ隅ニ山ノ如クニ積置タリ。庭ノ傍ニ容膝斗ノ小庵在、其内より法師形ノ者一人出テ 仏像修理ノ勧進ヲ云、各奉加ス。
本堂は東向きで本尊は薬師如来、ロケーションは素晴らしい。仁王門は朽ちて礎石だけが残る。鐘楼や本堂の礎石も所々に残っている。残った本堂の隅に二天・菩薩・十二神将・仁王などの仏像の破片が山のように積んである。朽ちるままに放置してきたので、廃屋がつぶれるように、このお寺もつぶれてしまった。庭の隅に小さな庵があり、そこから一人の禅僧あるいは山伏がやってきて、この仏像だけでも復興したいという。訪れた人たちが勧進していた。
 泰平の時代になって半世紀が経っていますが、藤井寺に復興の兆しはささやかなものでした。法師が一人のみで小庵に住んで、この寺を守っていたようです。
 それから35年後に書かれた『四国偏礼霊場記』では、禅僧がいて堂も禅宗風に造られていると記しています。この間に復興が進んだようです。禅僧による復興ということは、雲水修行の間に無住の堂に留守居に入って、信者を獲得して復興したのかもしれません。そうすると、その寺は禅宗になります。
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藤井寺から遍路転がしと言われる急坂を登って山上の焼山寺へ向かいます。
    12番 焼山寺
本堂五間四面東向本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルカ縁ノ下ニ古キ瓦在、棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知、堂ノ右ノ傍ニ御影堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ 先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由、鐘ノ銘ニ見ヘタリ、當院主ハ廿二三成僧ナリ。
 本堂五間四面で、本尊は虚空蔵菩薩である。いかにも古風な造りである。昔はかわらぶきの屋根であったらしく、縁の下には古い瓦が置いてある。棟札は文字が消えて、いつ修理したのかも分からない。お堂の右に御影堂があり、守護神は熊野権現だ。鐘も鐘楼もなくなっていたのを、先代法師が再興したことが鐘の銘から分かる。今の院主は若い僧である。
ここからは本堂と御影堂、そして復興された鐘楼の3つの建造物があったことが分かります。本堂は、かつては瓦葺だったようですが、この時は萱葺きになっていたようです。

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恩山寺
 大道より右ノ谷エ入事五町斗ニシテ 二王門在リ、夫より二町斗リ行テ寺在、
寺より右坂ヲ一町斗上テ本堂ニ至ル。本堂南向本尊薬師如来、右ノ方ニ御影堂在、其傍五輪ノ石塔ノコケムシタル在、此ハ大師ノ御母儀ノ御石塔也。地景殊勝ナル霊地也。寺ハ真言宗也。坊主ハ留主也。
この寺は仁王門があり、本堂・御影堂などがそろっており、住職もいたようです。山上の寺院は兵火を避けられたようです。

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  立江寺
本堂東向本尊地蔵菩薩、寺ハ西向、坊主ハ出世無学ノ僧ナレトモ 世間利発ニシテ冨貴第一也。堂モ寺モ破損シタルヲ此僧再興セラレシト也。堂寺ノ躰誠ニ無能サウ也。
住職は無学だが「世間利発で富貴第一」と記します。真言宗のエリート僧侶である澄禅から見ればそう見えたのでしょう。しかし、壊れていた堂や寺を再興させた手腕はなかなかだと、その経営手腕を認めているように思えます。故郷のお寺の経営に嫌気がさして飛び出した彼には、できない芸当だったかもしれません。どちらにしても、独力で復興の道をたどっていたのがこの寺のようです。
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  鶴林寺
山号霊鷲山本堂南向 本尊ハ大師一刀三礼ノ御作ノ地蔵ノ像也。高サ壱尺八九寸後光御板失タリ、像ノム子ニ疵在リ。堂ノ東ノ方ニ 御影堂在リ、鎮守ノ社在、鐘楼モ在、寺ハ靏林寺ト云。寺主ハ上人也。寺領百石、寺家六万在リ
 寺領百石の大寺らしい伽藍だったようです。本尊も立派ですし、本堂・御影堂・鎮守社・鐘楼も備わっていたようです。
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大龍寺 
山号捨身山本堂南向 本尊虚空蔵菩薩、宝塔・御影堂・求聞持堂・鐘楼 鎮守ノ社大伽藍所也。古木回巌寺楼ノ景天下無双ノ霊地也。寺領百石六坊在リ。寺主上人礼儀丁寧也。
  大龍寺も鶴林寺と共に山上に大きな伽藍を持ち、兵火にも会わなかったようです。そしてここも百石という寺領を与えられています。焼山寺との格差が、どうしてつけられたのか気になるところです。

平等寺
本堂南向二間四面本尊薬師如来、寺ハ在家様也 坊主□□ 。 

平等寺は「在家のよう」と記され、お堂やその他については何も記されていません。
薬王寺

本尊薬師本堂南向。先年焔上ノ後再興スル 人無フシテ今ニコヤ(小屋)カケ也。
二王門焼テ 二(仁)王ハ 本堂ノコヤノ内ニ在、寺モ南向 是ハ再興在テ結構成。

この寺は火災にあったばかりで、再興途上にあったようです。仁王門は焼けて仁王像は、本堂の中の仮小屋に保存してある。庫裡は再興が終わっていたようです。
 
一方、恩山寺、鶴林寺、太龍寺は寺観が整っているような様子が伝わって来ます。薬王寺は火災で仮設の本堂であることが記されていますが、庫裏は再興されていたようです。

薬王寺からは長い海岸線を歩いて、土佐の室戸岬を目指します。
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讃岐の大窪寺から再び阿波に帰ってきた澄禅の姿を、10番切幡寺から霊山寺まで追って見ます。
  10番 切幡寺
本堂南向本尊三如来、二王門鐘樓在、寺ハ妻帯ノ山伏住持セリ。
切幡寺は、本堂・仁王門と鐘楼は残っていたようです。そして、住職は妻帯の山伏だったと記します。修験者が誰もいなくなった霊場に留まり、住職化していく姿はこの時代の自国霊場にはよくあったようです。ここでも山伏と遍路の関係が垣間見れるようです。 

9番 法輪寺
本尊三如来、堂舎寺院悉退転シテ小キ草堂ノミ在リ。
    三如来とは「釈迦・弥陀・薬師」の3つの如来のことのようです。ここも「小キ草堂」で住職はいません。
  8番 熊谷寺
 普明山本堂南向本尊千手観音、春日大明神ノ御作ト云。像形四十二臂ノ上ニ又千手有リ、普通ノ像ニ相違セリ。昔ハ當寺繁昌ノ時ハ佛前ニテ法花(法華)ノ千部ヲ読誦シテ 其上ニテ開帳シケルト也。近年ハ衰微シテ毎年開帳スル也 ト住持ノ僧開帳セラル拝之。内陣ニ大師御筆草字ノ額在リ、熊谷寺ト在リ、誠ニ裏ハ朽タリ。二王門在リ、二王ハ是モ大師御作ナリ。
 このお寺では、法華千部読誦による開帳が行われていたようです。これを何年かに一度やっていたけれども、毎年やらないと、とても寺が維持できないというので毎年開帳していた記されます。
 法華経を読誦する行者は、あえて山林に入って苦行しました。鎮守は熊野社と八幡社なので修験によって維持された霊場であることがうかがえます。ここにも熊野修験者の影が見えます。

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  7番 十楽寺
是モ悉ク退転ス。堂モ形斗、本尊阿弥陁如来 御首シ斗在リ。(7)
「堂モ形斗」とあるので、形ばかりのお堂のようです。本尊の阿弥陀如来は「御首斗在リ」とありますので、首のところしかなかったようです。現在の十楽寺には立派な本尊さんがありますから、よそから古いものをいただいてきたということになるようです。ここからは、仏像もあっちこっちに移動していることが分かります。
 ちなみに、三十五年ほど後の『四国偏礼雲場記』には、このお寺はかなり復興して立派だと記されています。澄禅の時代は戦乱が収まっても、まだ遍路をするような十分な余裕がなかったようです。それが元禄年間が近づいてくると、遍路も多くなり、復興も軌道に乗り始めてきたことが分かります。
  6番 安楽寺、
駅路山浄土院本尊薬師如来、寺主有リ
  5番 地蔵寺
無尽山荘厳院、本堂南向本尊地蔵菩薩、寺ハ二町斗東ニ有リ。當寺ハ阿州半国ノ法燈ナリ。昔ハ門中ニ三千坊在リ、今モ七十余ケ寺在ル也。本堂護摩堂各殿 庭前ノ掛リ高大廣博ナル様也。當住持慈悲深重ニテ善根興隆ノ志尤モ深シ。寺領ハ少分ナレトモ天性ノ福力ニテ自由ノ躰也。(5)
  4番 黒谷寺、
本尊大日如来、堂舎悉零落シタルヲ當所ニ大冨貴ノ俗有リ 杢兵衛ト云、此仁ハ無二ノ信心者ニテ近年再興シテ堂ヲ結構ニシタルト也。
  3番 金泉寺、
本堂南向本尊寺三如来ト云トモ 釈迦ノ像斗在リ、寺ハ住持在リ。(3)
 
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2番 極楽寺
本堂東向本尊阿弥陁、寺ハ退転シテ小庵ニ 堂守ノ禅門在リ。(2)
  ここも退転して小庵に堂守の禅宗僧侶が住み着いていたようです。阿弥陀さまと禅僧の取り合わせを研究者は次のように考えているようです。
「禅門というと禅僧のように聞こえますが、実は雲水系の放浪者です。中世には雲水のかたちをした放浪者がたいへん多くて、たとえば放下という者が念仏踊をして歩きました。本来は「ホウゲ」ですが、遊行者としては放下あるいは放下僧と呼んでいます。こういう僧が放浪しながら回っていって、住みよいところがあるとそこに定住したのです。
  (中略))
  『四国偏礼霊場記』によると、「いつの比よりか、禅門の人住せり」とあるので、本来は阿弥陀堂であったところに禅門が住んでいたようです。ここはそういう小さなお堂が霊場となった例で、その都度、希望者が堂守りとして住み込んでいます。このように雲水が、本堂と庫裡を建てて住職をすれば禅宗寺院になったはずです。ところが、札所は大師信仰ですから、現在は高野山言言宗に属する言言宗の寺院となっています。
  1番  霊山寺、
本堂南向本尊釈迦如来、寺ニハ僧在。

讃岐の大窪寺から讃岐山脈を越えて、切幡寺に入り霊山寺でゴールになったようです。
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澄禅の日記から各霊場の建物を見てみて分かることは、阿波の札所は「退転」=荒れ果てている寺が多かったということです。
阿波の二十三の霊場中の十二か寺が「退転」状態で、無住の寺もあります。
なぜこんなに荒れていたのでしょうか?
その理由として考えられるのが戦国時代の被災でしょう。土佐の長宗我部元親による天正(1573~92)の兵火で焼失したことが考えられます。寺伝等によると、霊山寺、極楽寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、法輪寺、藤井寺、大日寺(一ノ宮)、常楽寺、国分寺、観音寺、井戸寺、恩山寺、立江寺、太龍寺、平等寺の十六か寺が被災しています 。吉野川下流域は長宗我部侵入時と、秀吉軍の侵入期の2度に渡って戦場となりました。特に、澄禅が最初に回った井戸寺から一ノ宮にかけては、四国征圧の命を受けて、侵入してきた羽柴秀長との一宮城の攻防(1585)で主戦場になったあたりになります。この地域にあった寺の被害は甚大だったことが想像できます。
 江戸時代なって戦乱が収まって、半世紀たっていますがほとんどの寺が放置されたままで復興がすすんでいない状態です。また、寺により復興がすすんでいる立江寺や黒谷寺は「民間資本の導入」という形で進められていたようで、この辺りがお隣の讃岐とは違うところです。
 讃岐は、戦国末に秀吉から支配を任された生駒氏が保護政策を行い、格式を持つと考えられた寺社に寺領を寄進し、復興を援助していきます。その保護政策を、後からやって来る領主達も踏襲した結果、戦乱からの復興が早かったようです。阿波は、蜂須賀家の「復援助計画」がなく、この時点では「放置」されたようです。
 さて、土佐の状態はどうだったのでしょうか。それはまた次回にするとして・・・
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もう一つは、寺のあり方です。
 古代に国家によって作られた国分寺は、中世にはほとんどが荒廃します。
国家が面倒をみなくなると維持できないのです。例えば、奈良の元興寺は南都七大寺随一といわれたお寺ですが、国家が面倒をみなくなって、室町時代に一揆によって本堂が焼かれてしまうともう復興できません。江戸時代まで残った塔も雷火で焼けてしまいました。同じように、権力者なり町豪なりが一人で建てたお寺も、大檀那が死んだり、その家が没落したりすると、どうなるか。それは廃藩置県後の各藩の菩提寺の姿を見れば分かります。
 つまり、檀家が組織されず、地域の人々の支援も受けられな寺は、復興の道が開けなかったのでしょう。その点、近世に「道場」を中心に寺が組織された浄土真宗の信徒には、「我々のお寺」という意識が信徒に強く、焼け落ちたまま放置される寺はなかったようです。これが近世はじめの四国霊場の姿のようです。
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もうひとつ私が感じることは、中世の辺路修行の拠点としての機能が霊場からなくなっていることです。
澄禅は真言高僧ですが密教系の修験者ではありません。そのために行場を廻って行道をした気配はありません。行場である奧の院を訪れた様子も見られません。ある意味、現在の霊場巡りと一緒で、お寺を廻っているのです。ここからはプロの修験者が修行のために行場をめぐるという中世的な雰囲気はなくなっています。澄禅の後からは、四国巡礼を行う高野山の僧侶が何人も現れ案内書が出され、道しるべも整備されていきます。そして、それに導かれて素人の遍路達が四国巡礼を歩むようになるのが元禄年間のです。その機運にのって、霊場は復興していくようです

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6大興寺 明治の伽藍図

前回までは、大興寺の歴史や伽藍変遷について見てきました。今回は、報告書を見ながら実際に諸堂を廻ってみたいと思います。その前に「復習」しておくと
①太興寺は白鳳期の古代寺院からスタートしている
②中世期は、熊野権現の別当寺として修験者達の拠点でもあった
③戦国期に衰退し、江戸時代になって現在地に移転してきて伽藍整備が進んだ
④それを勧めたのは現在の房号となっている山伏寺の泉上坊である。
⑤よって、建造物は江戸時代後期のものがほとんどである。
⑥仏像も近世以後のものが多いが一部平安期に遡るものもある。
以上の予備知識を頭の中に入れて「見仏記」を始めましょう。

6大興寺2
まず駐車場から下りて迎えてくれるのは仁王門です。
 この仁王門には棟札が残されていて、寛政8年(1796)に再興されたことがわかります。報告書には、その特徴を次のように指摘します。
「建物の各様式は、江戸時代中夜期の特徴をよく現し、後期の装飾性の高い建物への移行を検討する指標になる建物]
「禅宗様を多分に取り入れた折衷様式が18世紀以降盛んに使われて定形化していく過程の位置基準」

 仁王門前には寛政元年(1789)の銘のある石造物に、
「再興 仁王尊像井門修覆為廻国中供養」とあり、仁王門の修覆記念碑と考えられます。
ここからはこの仁王門が、寛政元年に長崎廻国の大助が中心となり、仁王門の修覆に取り掛かり、8年後の寛政8年に完成したとものと考えることができます。全国を廻国する勧進者のネットワークの力で二百年以上前に建立されたもののようです。

6大興寺8
仁王門の阿吽の金剛力士像に、御挨拶します。報告書には次のように紹介されています
力感にあふれた写実的な造形は、鎌倉時代中ごろの制作とみられよう。
本像にみる塊量性の強さは、当代に流行した慶派風の引き締まった体躯の力士像とは異質であり、やや古風な趣きのあることが指摘されよう。寛政2年(1790)に彩色がなされ、門の修理がなされたことは木札2と門前の石碑から知られ、肥前長崎の安藤大助が本願主とする廻国行者たちの助力によるものであった。現状は彩色がほとんど剥落しているが、吽形の鼻孔内には朱彩が残る。
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つまり、この仁王さん達は、大興寺が現在地にやって来る前の古い伽藍にあった仏達ということになります。戦火の中で仁王門は焼かれても、僧侶達によって運び出され隠されていたのかもしれません。「古風な趣」の仁王さんと評されていますが、確かにボデービルダーのような筋肉隆々感はありません。そして、作られた鎌倉時代には朱で彩られていたようです。
6大興寺3
仁王門をくぐると正面に三段の石段が迎えてくれます。
報告書は、この石段についても「調査」しています。その石段にお付き合いします。仁王門から真っ直ぐに本堂に登って行く上図の黒く塗られた部分が凝灰岩が用いられている石段です。3つの石段の内、下段と上段が凝灰岩製の切石、中段が花岡岩の切石を使用していようです。下段の凝灰岩は、よく見ると風化が進み、ひび割れたりすり減ったりして、歴史を感じさせてくれます。
6太興寺切石

さて、ここから専門家の分析を聞いてみましょうです。
 この石段に使用されている凝灰岩には、
小豆島の西の豊島(てしま)で産出される「豊島石」
三豊と仲多度の境にまたがる天霧山で切り出された「天霧石」
の2種類が確認できる。
この2種類の石材の特徴は、
「豊島石」が「含有する黒っぽい安山岩が均質で、長石を含む」
「天霧石」が「含有する灰色っぽい安山岩が不均質で、長石が少なく、火山灰が多い」特徴を持つ。
 この特徴から、石段を詳細にみると、下段は左側に砂岩製の耳石を確認するが、ほとんどが「豊島石」であることが解る。また、上段は左右に「豊島石」の縁石及び耳石を確認するが、これ以外は「天霧石」であることが解る。
 県内の石塔などの石造物に使用する石材として、「豊島石」は15世紀後半から使用が確認でき、以降多用される。一方、「天霧石」は鎌倉中・後期からの使用が確認でき、17世紀に盛行することが確認されている。  大興寺の石段も当初は「豊島石」を使用していたが、のちに「天霧石」を使用したことが伺われる。
つまり、大興寺で諸堂が相次いで建立され、伽藍整備が進んだ17世紀後半に、ちょうど「豊島石」「天霧石」が石造物に多用されていると指摘します。この下段と上段の石段の整備は、本堂・大師堂の建立に伴い、境内の整備の一環として、構築されたものと研究者は考えています。
 大興寺境内では、この他にも、次のような所に凝灰岩の切石が使われています
仁王門の基壇前面の縁石
弘法大師堂の基壇右側の縁石
天台大師堂の基壇前面の縁石
庫裡門の基壇前後の縁石
の4ヶ所で、これらは全て「豊島石」の凝灰岩です。この4ヶ所以外は、花崗岩の切石を使用されています。
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報告書では、さらに話を進めて花崗岩の切石で境内を整備した時期がいつなのか探ります。
棟札からは寛保元年(1741)に本堂を再建、天保15年(1844)に屋根の修復を行ったことが分かります。江戸時代後半のこの時期に、風化した凝灰岩に替えて、花岡岩の切石で補修したと研究者は考えているようです。
 何気なく踏んで歩いている石段にまで、研究者は「調査研究」の視線を注いでいるようです。あらためて二百年ほど前に、瀬戸内海の島で切り出され、ここまで運ばれてきた石段の上を歩いているのだと、言い聞かせながら石段を登って行きます。
6大興寺18弘法大師堂.jezupg

石段の下の段を上って辺りを見回して欲しいのです。このあたりは平地になっています。
前回見てもらった僧寂本によって書かれた『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)の太興寺です。この平地に、この時点では大興寺があったことが分かります。また、太子堂や天台堂がここに下りてきた時期もありました。今は何もなくなって参道のみとなっています。
6大興寺1.本堂jpg

階段を登り切ると正面に本堂が迎えてくれます。
○本堂は、以下のような建立・改修を経てきた事が残された史料から分かります。
慶長2年(1597)に仮堂を建立して以来、承応2年(1653)を経て、
寛文9年(1669)に本堂を建立し、
寛保元年(1741)に、薬師堂(本堂)が再建
天保15年(1844)に屋根の修復
  しかし、調査報告書は「寛保元年(1741)の、薬師堂(本堂)再建説」に「異議あり!」として、次のような見解を示します。
  本堂の細部の様式をみると、寛政8年(1789)に再建された仁王門の頭貫や大斗の木鼻と酷似しており、安直に寛保再建を肯定することはできない。天保棟札にあるように、屋根勾配の緩い箇所や、日当たりの悪い面の修理が行われたこと、同時に仁王門や鐘楼堂の瓦修理も行われたこと、さらに江戸後期の瓦の品質があまり良くないことを考慮すると天保15年の50~60年前に再建されたものと考えられる。
  つまり、仁王門の修理と同じ時期の寛政8年(1789)に再建説を唱え、再建時期を50年遅らせるべきだとしています。どちらにしても、約四百年前の仮堂建立から現在まで、本堂の位置はほとんど動いてないようです。
6大興寺1
 報告書は本堂の総合所見を次のように述べます    
 内部については、内陣・後陣境の組物等に改修の痕跡がある。(中略)
中央来迎壁上部の天女の彫刻が江戸末期のものと推測できることから、弘法大師堂が建設された慶応元年頃に大きな改造が行われたと考える。
 平面形式では、一正面柱間は中央間から外へ柱間を落とし、側面は正面一間通りを礼堂的な外陣、内竃部分二間は床を上げて、建具で仕切り、柱間を外陣よりやや広くしている。後陣は外部からは半丸柱で二間とするが、内部は一間扱いとなり、外観上は五間堂であるが、梁間の空間は四間と考えられることから、密教建築の流れといえなくもない。どういった意図でこの平面計画としたかは定かではないが、興味深いところである。
 当本堂は、県下でも数少ない五間堂の遺構で、内部空間の扱いも密教系仏堂の流れがあり、内陣廻に改造がみられるものの、細部の様式も含め近世後期の特徴ある建物の一つに数えることができる。
次の3ポイントを頭の中に入れておきます
①江戸末期の弘法大師堂建設の際に、大きな改造が行われている
②内部空間に密教的な流れが感じられる
③五間堂は県下でも数少ない近世後期本堂である
さていよいよ本尊様にお会いしたいのですが・・・
残念ながらこの寺の本尊は秘仏という事で、お会いする事は出来ないようです。
6大興寺本尊薬師如来
大興寺本尊薬師如来坐像
写真と報告書で本尊にお会いしに行く事にします。
 薬師如来坐像が本尊です。報告書の所見を読みます
 (前略)
 右肩部から先の腕部は別材を寄せ、腹前で膝前部の横一材を寄せ付ける。左手首は体亙に差し込み、薬壷を掌上に置く。現状の仕上げは体部金泥衣部漆箔かとみられるが、仔細に観察すると大衣部には赤みが感じられるので、朱彩色の名残りとすれば、当初は朱衣金体像であった可能性がある。
 本像の造形は肩張り緩やかに肥痩なく均整良くまとめられ、全体に彫りの抑揚は少なく穏やかなで優美な印象が強い。この作風は平安時代に流行した、いわゆる定朝様に範をとったものといえる。等身で像ながら割り首としない一木割矧造の技量や、また、頭体の一材共木観をも伝えるものとしても興味深い作例といえる。
 定朝様は、平安時代中後期において全国的に風廊するが、木像面部にみる瞼の柔かな盛り上がり方や眼嵩の特徴ある窪み、あるいは豊かに張る頬の様子や整えられた衣文などからすれば、その制作年代は定朝活躍の時期に近い11世紀中後半ころかと推測される。
 この寺にある仏像は、平安時代3点、鎌倉時代4点、室町時代1点、江戸時代29点で、金銅製の神仏習合時代の懸仏中尊1点以外は、すべて木彫と報告書は記します。
平安期の仏さんのひとつで「11世紀中頃の定朝様の観音坐像」です。
6大興寺薬師本尊2g
 なぜ、お薬師さんがこの寺の本尊なのでしょうか?
 それは、まずここには熊野権現が勧進され、熊野神社が鎮座したからです。
神仏習合の時代には、熊野権現の本地仏は薬師さまでした。そこで熊野権現を勧進した行者は、この地の有力者の保護を受けつつ、熊野神社を建立し、別当寺として太興寺を建て、社僧として別当職を勤めるようになったというのが私の想像です。この仏も仁王さまと同じく戦果を逃れて、太興寺がここに遷た以後は、この本堂に秘仏として座っていらっしゃるのでしょう。 
  観音坐像の脇士として、両脇に立っているのが毘沙門天と不動明王です
報告書を見てみましょう。
6太興寺HPTIMAGE
不動明王立像は両眼開目して、

牙上出し、巻毛、頂蓮をつける。右手を垂下して剣を執り、左手は屈劈して絹索を握る。着衣の彫りは浅く、忿怒相も控えめであり、制作は平安時代後期期とみられるものである。

6太興寺
毘沙門天立像は、
現状では後世の修理を受けて粗い彫り口を呈する状態にあるが、頭部天冠台に遺された、列弁の内側に花弁型の飾りをあしらう形式は、平安時後期の特徴的な意匠であり、本像の制作年代を示しているものとみられよう。
中尊の左右に不動明王と毘沙門天天像を配する形式は、比叡山横川の観音堂に起源するとされるが、薬師如来が朱、衣金体であることころと併せて尊像構成も天台の系譜をひくものかと推測される。
本尊の薬師さんを、修験者の守護神である不動さんと毘沙門さんがお守りするというのも、いかにも密教修験者の寺らしい取り合わせだと思います。
この他に本堂には、江戸期の十二神将やかつて焔魔堂に祀られていた閻魔十王と奪衣婆の十一体も同居していて、にぎやかな雰囲気です。
6大興寺7 地蔵堂前
 報告書が気にしているのは「正面外陣に安置される地蔵菩薩立像」のようです。
 ほぼ等身大の地蔵さまについて次のように記します
作風と構造から江戸時代中ごろ以降とみられる。外陣に安置されることは客仏である可能性が高く、旧所在が不明なのは大いに不審である。像高からしてあるいは中世に所在した旧大興寺の本尊であった可能性もあるのではなかろうか。
 
私は、近世の絵図に仁王門前に描かれている「地蔵堂」に祀られていたお地蔵さまではないかと思っています。近世には地蔵信仰が庶民に広がり、新たに地蔵を祀る地蔵堂が霊場にも姿を見えるようになります。
6大興寺13

境内を歩いて感じる事は、直線的で近世近代的な伽藍配置であることです。それは、この寺が近世後半になって新しい場所で新しい伽藍が作られていったのですから当然かも知れません。しかし、江戸時代後半に出来上がった本堂には、平安期の観音様と不動様・毘沙門様がいらっしゃいました。
  以上、本堂まで見てきましたが今回はここまで
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
6大興寺5弘法大師

参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年
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6大興寺 明治の伽藍図

これは今から約120年ほど前の大興寺の伽藍図です。
日露戦争直前の明治末にあたる時代で、神仏分離を経た境内の姿が描かれています。これを見ると中央に本堂、本堂から見て右に大師堂、左に天台堂があります。大師堂前には茶堂、手洗が、天台堂前には地蔵菩薩立像、鐘楼が描かれています。
さらに左に客殿、庫裡などの建物があります。伽藍配置は、本堂と大師堂、天台堂が横一線に並び、前側に茶堂、手洗、鐘楼が並んでいます。階段を下ると右側に護摩堂があり、左側は竹藪です。また、仁王門前の境内外には地蔵堂が描かれています。
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この明治35年の絵図と現在の大興寺境内の建物配置は、基本的には同じことが分かります。この百年間は伽藍配置は大きく変わっていないようです。ただ現在は茶堂、護摩堂、地蔵堂がなくなっています。例えば、現在の仁王門の川の向こう側に立っていらっしゃる地蔵さまは、この絵図の右下地蔵堂にあったものかも知れません。
6大興寺13
かつての地蔵前に立つお地蔵さん
私が、気になるは本堂の左の社です。
明治の神仏分離の跡なので、境内の外にあるようにも見えますが、この社が熊野権現です。鳥居があるのが分かります。この社は熊野権現が勧進されもので、その別当寺を勤めていたのが大興寺だったことは前回にお話ししたとおりです。そういう意味では、この寺の原点はこの熊野権現の社であったともいえます。それは、蔵王権現の本地仏が薬師如来で、このお寺の本尊として祀られていることからも分かります。推測を交えて言うのなら、かつては熊野権現は北面して鎮座し、それに仕えるように北へ延びる参道の西側に本堂や太子堂・天台堂が並んでいたとも考えられます。
6大興寺2.熊野権現
一番上の段に鎮座する熊野神社
 戦国から近世、そして神仏分離後の近代までのこのお寺の伽藍配置を今回は見ていきたいと思います。
 中世の大興寺は、往時真言24坊、天台12坊の合計36坊が萱を連ね、真言天台二宗が兼学したという珍しい性格のお寺として隆盛を極めたと伝えられていますが、資料的な裏付けはありません。しかし、現在の大興寺境内にはは本堂に向って左側に弘法大師堂があり、右側には天台宗第三祖の智顎を祀る天台大師堂が並んであります。また、研究者は
「本尊脇侍が不動明王と毘沙門天と天台様式であり、真言天台二宗の兼学の名残を留めている」
と、その可能性は残します。

6大興寺2
そして報告書は、太興寺の伽藍変遷を追いかけます。
頼りにする史料は、棟札と紀行文です
①慶長2年(1597)の棟札には
「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」「諸堂大破 而瑕(仮)堂建立」
とあります。ここからは末寺の「泉上坊」と「乗林坊」が願主となり、生駒家が讃岐領主になって世情が安定した時期に「仮堂」を建立したことが分かります。
②僧澄禅によって書かれた『四国遍路日記』(承応2年(1653)には
 大興寺は「小松尾寺」と記され、説明文は「本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。」とあります。戦国時代の混乱で衰退したこのお寺は、江戸時代に入っても、仮堂状態で「寺は小庵」だったことが分かります。

6大興寺18弘法大師堂
 ちなみに澄禅は、荒廃していた周辺の霊場を次のよう挙げています。( )内は霊場番号
出釈迦山(我拝師山、十三番出釈迦寺=曼荼羅寺の奧の院)が「吹崩」
崇徳天皇(白峯宮、現在の七十九番高照院天皇寺はが「退転」
大窪寺(八十八番、)が「本坊ばかり」
金蔵寺(七十六番金倉寺)や道隆寺(七十七番)は「昔は七堂伽藍」として衰微したことをにおわせてはいますが、「荒廃」しているとは書いていません。ここからは、讃岐の霊場が土佐や伊予などに比べると、領主の保護政策によって戦乱からの復興が早かった事が分かります。
 その中でも大興寺は、復興が遅れたようで「小庵」と記されています。つまり、この寺は領主の保護寄進を受けるようなランクの寺ではなかったことを物語ります。
この報告書には
「慶長2年(1597)~承応2年(1653)までの56年間大興寺は、諸堂が大破した後、主要な建物として仮の本堂「薬師」のみの小庵のような状態であった」
と述べます。
「遺跡略記」には、
「今の薬師堂(本堂)建立は寛文九己酉年、塩飽島において、奉加の力を得、二間半四方建立成就せしものなり」
とあります。ここからは、澄禅が訪れた16年後の寛文9年(1669)に薬師堂が塩飽衆の寄進によって建立されたことが記されます。

6大興寺17.jpg鐘楼脇から本堂の右手に天台大師堂
 さらに「今の御影堂は寛文十一辛亥年二間四方、真価、自分建立す」とあり、薬師堂(本堂)建立に続いて2年後の寛文11年(1671)に御影堂が建立されたようです。
 以上をまとめると次のようになります。
慶長2年(1597)~寛文8年(1668)  瑕(仮)堂(小庵)
寛文9年(1669)~寛文10年(1670)  薬師堂(本堂)建立
寛文11年(1671)            御影堂建立
 元禄年間を前に、世の中が落ち着くにつれて、薬師堂(本堂)と御影堂が建ち並ぶ伽藍配置に復興していったことが分かります。しかし、そのレイアウト配置については報告書は「不明」とします。

 それから16年後に、この寺を参拝した僧真念の『四国辺路道指南』(貞享4年(1687))には、
「六十七番小松尾山東向き。豊田郡辻村。本尊薬師 坐長二尺五寸、大師御作」
と記すのみです。ここには薬師堂(本堂)・御影堂など、諸堂についての記述はありません。本堂についてのみ、今と同じ「東むき」の建物配置であったことが分かります。
さらに2年後に、僧寂本によって書かれた『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)には
「小松尾山大興寺、此寺大師弘仁十三年に開聞し玉ふとなり。そのかみは七堂伽藍の所、いまに堂塔の礎石あり其隆なりし時は、台密二教講学の練衆蝗のごとく群をなせりとなん。豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。
 本尊薬師如来、脇士不動毘沙門立像長四尺、皆大大師の御作。十二神各長三尺二寸、湛慶作なり。
本堂の右に鎮守熊野権現の祠
左に大師の御影堂、大師の像堪慶作なり。
天台大師の御影あり、醍醐勝覚の裏書あり。大興寺とある額あり、従三位藤原朝臣経朝文永四丁卯歳七月廿二日丁未書之、如此うら書あり。是経朝は世尊寺家也、行成八世の孫ときこゆ。むかしのさかえし事をおもひやる。ちかき比まで宝塔・鐘楼ありとなり。」
と、以下の挿絵と共にまとまった記述を残してくれています。

6大興寺18弘法大師堂.jezupg
この挿絵を見ながら内容を確認していきます。
①弘法大師開祖で、かつては七堂伽藍の大寺でいまに礎石が残る
②隆盛を極めた時代には、台密二教(天台・真言)の学徒が蝗(いなご)のごとく群をなして、この寺にやってきて学んだ=学問寺であった。
③本堂の右(本堂に向って左側)に鎮守熊野権現の祠、
④本堂は左(本堂に向って右側)に御影堂と並んで建っていた。
別当寺の本興寺は本堂の下の段にあった
伽藍配置は、現在と変わっていない事が挿図からも分かります。ただし、仁王門はありません。
 次に、110年後の『四国遍礼名所図会』(寛政12年1800)を見てみましょう。
当院も大師の御建立也。本尊薬師、脇士仏各大師の御作なり。
詠歌 植おきし小松尾寺をながむれば法のおしえの風ぞふきける
本堂本尊薬師如来坐像、脇士不動明王御長四尺、毘沙門天各大師御作、十二神御長三尺弐寸、湛慶の作、相生の松本堂の前に有、大師堂本堂より石だん下り、仁王門。」
と記します。
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ここでも挿絵を見ながら諸堂を確認していきましょう。
①本堂右(本堂に向って左側)に鎮守熊野権現の社が一段高い所にあります。
②本堂(薬師堂)には薬師の脇士として不動明王と毘沙門天が祀られます。これは、修験道系の山岳信仰の寺院に共通することです。ここからは、このお寺が「山伏寺」的な性格を持っていた事がうかがえます。
③本堂左(本堂に向って右側)には建物が描かれていません。今まであった大師堂は石段を下り、右に描かれています。
④参道の左側には入母屋造の建物と茅葺の細長い建物が描かれています。
⑦表記や挿図から、仁王門、鐘楼、茶堂が確認することができます。
明治以後の百年間には、伽藍には大きな変化がなかったようです。しかし、それ以前の江戸時代には復興過程を通じて、伽藍配置は大きく変わって来た事がうかがえます。

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最後にQUESTION? 
大興寺は、いつ、誰の手によって現在地に移動してきたのでしょうか?
これについては、既に示した史料から推察する事が出来ます。
①慶長2年(1597)の棟札の「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」「諸堂大破而瑕 (仮)堂建立」とありました。ここからは「諸堂大破した後に瑕堂を建立」したことが記されています。そして、その願主は末寺の「泉上坊」と「乗林坊」です。
②前回示した周辺に残る古い地名で「泉上坊」がどこにあったかを探すと、それは大興寺の現在地周辺にあります。
つまり、近世初頭に大興寺の復興を担ったのが「泉上坊や乗林坊」で、その拠点近くに仮堂を建立したと私は考えています。つまり、古代中世の大興寺が現在地へ遷ってきたのは、近世初頭なのだと思います。
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 「移転」を行った「泉上坊」と「乗林坊」とはどんな性格の宗教者だったのでしょうか?
さらに推測を重ねますが、それを考える材料は
①「近世の太興寺が萩原寺の末寺に属し、現在は真言宗善通寺派に属していること」
②「雲辺寺との関係の深さ」
です。ここからは、真言系密教寺院の色合いが感じられます。「泉上坊」と「乗林坊」は、修験者のお寺だったと私は考えています。同時期に象頭山で金比羅を勧進して、金毘羅大権現を生み出していったような修験者がここにもいたのかもしれません。
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最後に、このお寺の伽藍配置の変遷を推察して終わりとします
①熊野行者によって勧進された熊野権現が一番高い所に社として祀られた。
②熊野権現の本地仏である薬師如来をまつる薬師堂が本堂として、一段下の壇に建立された。
③本堂両脇に弘法大師と天台宗の御影堂が並んだ
④さらに一段下に、別当寺である太興寺があった。
⑤さらにその一段下の小川に石橋が架けられ仁王門が姿を現した。
⑥一段下にあった大興寺が本堂の北側に庫裡と共に移動した
⑦仁王門前に地蔵堂が建立された。
以上、長い間、お付き合いいただいてありがとうございました。
次回は伽藍配置の変遷を、残された木札、石造物から確認して行きたいと思います。
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参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年
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地元では小松尾寺と呼ばれているこの四国霊場。
前後の雲辺寺や観音寺・本山寺・弥谷寺などに比べると、私には、もうひとつこの霊場の性格が見えてこないのです。別の言葉で言うと特色がないというか、印象に残らない札所です。立地条件も由来もよく分からないというのが正直な所でした。そんな中で、正式な調査報告書が近年に出ましたので、読んでみる事にします。お付き合いください。
まずは太興寺の歴史についてです
 このお寺は、四国八十八ヶ所霊場第67番札所の寺院で、真言宗善通寺派に属し、山号は小松尾山、院号は不動光院、坊号は泉上坊とします。本尊は薬師如来で、弘法大師の作とされます。
現在配られている『説明書』には次のように記されています。
「天平14年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1km北西に建立され、延暦11年(792)大師(空海)の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(822)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられています。」
 一方、大興寺所蔵の『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』には
「当山は七堂伽藍の霊跡で、弘仁13年(822)に弘法大師によって草創された」とあります。
どちらも弘仁13年の弘法大師の関与を記します。
 
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太興寺周辺の字切図
また、字切図に「大興寺」の小字名や、隣接して「鐘鋳原」の小字名が残り、その周辺から古瓦が出土しています。このことから『説明書』にあるように、元の大興寺は現在地よりも約1km北西にあったことがうかがえます。元の大興寺と推定される周辺からは、十三葉細素弁蓮華文軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦などの古瓦や鴎尾も出土していて、時期は白鳳期とされています。
お寺や神社は、古くからその地にあって動かないという意識が私の中にはありました。しかし、いろいろな史料を読んでいく内に、お寺は頻繁に動いていることが分かってきました。
現在の「学校」が町村合併の跡で、頻繁に統合移転を繰り返している姿とダブってきます。
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 このような言い伝えや縁起、出土遺物から研究者は次のように考えているようです。
①現在地よりも、北1キロに古代の大興寺は建立された
②弘法大師の創建か、再興かは別にして弘法大師と係わりのある寺院であること
③「大興寺」の小字名が残る区画白鳳期の古瓦が出土していることから、白鳳期に大興寺が建立されていた。
④これを裏付ける資料としては、平安時代後期(11世紀中後半頃)の作とされている割首としない一木割矧造の本尊薬師如来坐像がある。
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これを読んで初めて知ったのが、この地から白鳳期の瓦が出土していた事です。
まず私の興味は、「その古代寺院を建立したのは何者か? なぜこの地建立したのか?」という点に向かいます。
この地は、阿讃山脈の手前にそびえる菩提山(標高312.0m)から舌状に三豊平野に延びる低い丘陵上にあります。ちなみに菩提山は、条里制の基準線になった古代からの霊山でシンボル的な山だと考えられます。
 この付近の古代豪族として名前が挙がるのは、まずは讃岐忌部氏です。
忌部氏については、以前に述べましたので詳しくは、そちらをご覧ください。ここでは、忌部氏の氏神が粟井神社であること、母神山の群集墳の一部も忌部氏のものと考えられていることです。そして、古代苅田郡の南部は忌部氏によって開発されてきたとされています。その忌部氏の氏寺と考えることができそうです。粟井神社ー母神山ー太興寺というトライアングル地帯が忌部氏のテリトリーではなかったかとも思えてきます。
 そして、そこから見上げる菩提山、さらに上にある雲辺寺は霊山として信仰の対象であったという想像も生まれます。その霊山の行場をやってきた熊野行者が廻り始める。それは、観音寺から七宝山 → 弥谷寺寺 → 我拝師山(五岳) → 善通寺への辺路行道とつながっていく。その四国辺路を行道する若き日の空海の姿があったのかもしれません。想像力が私の中では、生まれ育っていきます。妄想をたくましくして「忌部氏の古代寺院 空海の辺路修行」という言葉をインプットしておくことにします。
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 太興寺の出発点となった古代寺院は、現在地ではなかったようです。
「元の大興寺は現在地よりも約1km北西」ということで、地図で確認しておきましょう。現在の場所で言うと、国道377号の南側の丘陵の突端になります。現在はここに、小さな庵が建っています。ロケーションは最高です。一ノ谷池の向こうに三豊の平野が広がり、その向こうには七宝山の連なりが望めます。
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古代太興寺跡周辺に建つ庵
ここは古代寺院の建立地としては納得のいくロケーションです。
太興寺に関する中世の資料は、あまりありません。 
  中世の遺品としては、
①鎌倉時代後期文永4年(1267)銘のある藤原経朝筆の「寺号扁額」
②建治2年(1276)の銘のある「木像天台大師像」「木像弘法大師像」、
③鎌倉時代末期康永3年(1344)6月26日の銘のある「青蓮院尊円親王の書状」
が所蔵されています。
①の「寺号扁額」は木額で、正面に「大興寺」と刻み、背面には「文永四年丁卯七月二二日丁亥書之従三位藤原朝臣経朝」と刻まれており、1267年に藤原経朝が奉納したものです。
鎌倉時代には京まで、このお寺の名声伝わっていたのかも知れません。『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』や『寺格昇格勧進之序』に「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍を誇った」とあるのも誇張とばかりは思えません。
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これ以外の中世史料はないのですが、前後の時代から次のような「状況証拠」は得られます。
 まず最初に紹介したこの寺の説明書には
「熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として・・・ 建立」
とありました。この寺が、熊野権現の別当寺として建立されたことが記されています。それを裏付けるように、現在の本尊の薬師如来は熊野権現の本地仏でもあります。
 さらに『四国偏礼宣揚記』の挿絵では、石段正面に薬師堂があって、大師堂と熊野権現並んで祀られています。太興寺は、その石段の下にあります。ここからも熊野権現が本尊で、その本地仏を祀る別当寺が太興寺だったことがうかがえます。中世の太興寺は、熊野社と本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が集まり住む僧侶集団全体が大興寺と呼ばれたようです。どちらにしても、太興寺も神仏習合のお寺で、初期には熊野行者の役割が大きかったのではないでしょうか。
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もうひとつ太興寺で、注目しておきたいのが菩提山です。
粟井村誌(昭和24年)の「粟井村有名地図」によると、菩提山頂上に「無量寺跡」、「佐々木神社跡」があったと次のように記します。
「無量寺跡」については、粟井町竹成にある薬師堂の沿革に「菩提山無量寺は元天台宗であったが天正の乱にかかりお堂をはじめ全部焼けてしまい、本尊と脇立(行基菩薩の作)を寺よりやっと持ち出すことが出来た。その後天和三年竹成薬師堂を建ててここにおまつりした。」とある。
また、廃寺の跡として菩提山無量寺は、「菩提山の上にあり、其の開いたはじめははっきりしない。別荘(土佛庵)の釈迦像、竹成の薬師像(薬師堂)はこの寺にまつってあったものといわれる。徳賢寺由緒の中に合田小三郎、年をとって天台宗の菩提山無量寺に入って僧となり重海という。その子善阿は徳賢寺を開いた人である。その後土佐の長宗我部元親によって焼きはらわれた。」とある。
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現在の菩提山の頂上について、報告書は次のように記します。
東西幅が約142.0m、南北幅約20.0mの東西に長い平坦地があり、やや西寄引こ北方向に東西幅約15.0m、南北幅約10.0mの突出部を持つような、ちょうど凸状を呈する平坦地が確認できる。(中略)
 しかし、礎石や瓦片などの「無量寺跡」と結びつく痕跡は確認できなかった。
 大興寺から菩提山間及び菩提山山頂で明確な遺構を確認していないが、「寺岡」から続く「蓮花」「れんごう」「奥蓮花」「菩提」などの小字名や「無量寺」が天台宗であったことから、大興寺との関係が推測できる。
報告書は、菩提山頂上には、長宗我部元親の侵入によって焼かれたと伝わる天台宗の無量寺の存在を裏付けています。この寺の存在は、太興寺の役割や性格を考える上で重要な意味を持っていると私は思っています。
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    本日はこれまで。中世まで太興寺のまとめです
①太興寺の起源は、白鳳期の古代寺院にまで遡れる可能性がある
②古代寺院の建立地は現在地よりも北西へ1㎞
③中世には天台・真言のふたつの学問寺として「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍」を誇った総合寺といわれるほど隆盛をきわめたとされるが資料的な裏付けはない。
④中世の太興寺は、熊野権現の別当寺であり、修験道の社僧達の拠点でもあった。
次回は、近世の伽藍復興について見ていこうと思います。

 
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空海が阿波の大瀧山にやってきたころには、すでに修行を行っていた先行者がいました。空海が四国における行者のパイオニアではありません。空海は修行者の群れの中に身を投じた若き行者でした。
 当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
そこで静に禅定(瞑想)することです。行場で修行するという事は、そこで暮らすということです。当時はお寺はありません。生活していくためには居住空間と水と食糧を確保する必用があります。行場と共に居住空間の役割を果たしたのが洞窟でした。阿波の四国霊場で、かつては難路とされた二十一番の太龍寺や十二番の焼山寺には龍の住み家とされる岩屋があります。ここで生活しながら「行道」を行ったようです。
4 阿州太龍寺岩谷図(龍の岩屋)

 行道の「静」が禅定なら、「動」は「廻行」です。
神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回ります。修行者の徳本上人は、周囲500メートルぐらいの山を三十日回ったという記録があります。歩きながら食べたかもしれません。というのは休んではいけないからです。
 円空は伊吹山の平等岩で行道したということを書いています。
「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになっています。江戸時代には、ここで百日と「行道」することが正式の行とされていたようです。空海も焼山寺山や大瀧山で、虚空蔵求聞持法の修行のための「行道」を行い、室戸岬で会得したのです。
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仏教以前の人たちは、洞窟をどのように見ていたのでしょうか?
 古代の人々は、洞窟は死者の荒魂が出入りする他界への通路(関門)と信じていました。その関門を守るために悪魔、毒龍、毒蛇、鬼などが住むとされてきました。
 『本朝法華験記』(上巻十四話)の「志摩国窟洞宿雲浄法師」は、熊野から志摩への辺路をゆく途中で、海岸の大岩洞に一夜宿り、大毒蛇に呑まれかけた話です。このとき岩洞は、生臭かったとあります。それは、沖縄や南西諸島の海岸洞窟が、風葬洞窟にもちいられたことを思い起こさせます。洞窟に悪魔、悪霊とそのシンボル化された毒龍、毒蛇が住むという説話には、古代原始葬法の追憶と残像があると研究者は考えているようです。
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 また、洞窟が黄泉に通じる関門であったことを思い出させます。
有名な『出雲国風土記』(出雲郡宇賀郷の条)の「脳(なづき)の磯」の「黄泉(よみ)の穴」の伝承です。その遺蹟とされる猪目洞窟(島根県平田市猪目)からは舟型木棺が出土しています。このように古代の洞窟観は黄泉への通路であり、毒龍や毒蛇が住むと思われていたのです。
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そこへ行者達は入っていって、じっと座って禅譲しているのです。
これを見た人たちは
「行者達が、何らかのスーパーパワーで魑魅魍魎を封じ込めたに違いない、彼らは強力な呪力を持つに違いない」
と信じるようになったのかもしれません。窟龍り修行者を支持し、信者が集まってくるようになることは、近世にも見られます。
 しかし、原始修験道の孤独な修行者の窟龍りは、その信者たちによって寺院が建立されると忘れられ、ただ毒龍を封じ込めたという伝承だけが残ります。そして、それが無名の修行者であれば、「それは弘法大師であった」という縁起になっていったようです。
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太龍寺は、青年時代の空海が求聞持法修行をした山と研究者も考えているようです。
ただ空海は「大瀧(おおたき)」獄と書いていますが、現在の寺名は「太龍(たいりゅう)」寺で、山も太龍寺山(602メートル)になっています。いつ山名は変わったのでしょうか? それは後で考えるとして・・

4太龍寺縁起表紙
太龍寺縁起は東寺の賢宝の著した『弘法大師行状要集』応安七年(1374)に引用されているので、これ以前の作であることは確かなようです。
 この中には
「鎌倉末期ごろには太龍寺には滝があった」
と記されています。瀧を落ちる「水はインド雪山の無魏池の水が流れて来た」と密教的縁起らしく大法螺を吹いていますが・・
 さらに、寺から辰巳(東南)に三重の霊窟があると記します。これが今は、なくなってしまった滝近くの「龍の窟」で、この窟が「太龍寺」と呼ばれるようになった所以のようです。
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 その理由は先述したように
「龍を封じ込めたという窟は、山麓や海辺の人々からおそれられた洞窟に修行者が寵って、龍を恩寵神にした」

という言い伝えがあったからでしょう。
しかし、それが忘れられて「龍の窟」の名だけがのこったようです。この寺はこの「龍の窟」によって寺名をつけていますから「弘法大師窟龍り」の伝承は、かなり後まであったようです。 
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   現在のこのお寺の山号は「舎心」山で、舎心というのは心を緩めるという意味です。
 しかし、鎌倉時代にの『阿波国太龍寺縁起』には「捨身」山と記されています。もともとは、身を捨てるほうの捨身だということがわかります。前回の我拝師山でも述べましたが、捨身の行われた岩を捨身岩といいます。行場にはどうしても跳ばなければ渡れない大き石があります。その間を跳ばなければなりません。飛び損ねると落ちて死にます。これが「捨身」行です。こういうところの行は一回では済みません。何回でもぐるぐる回るわけです。
 空海が、この山でも捨身をしたことは『阿波国太龍寺縁起』にも出てきます。
観ずるに夫れ当山の為体、嶺銀漢を挿しばさみ、天仙遊化し、薙嘱金輪を廻て、龍神棲息の谿。(中略)速やかに一生の身命を捨てて、三世の仏力を加うるにしかず。
即ち居を石室に遁れ、忽ち身を巌洞に擲つ。時に護法これを受け足を摂る。諸仏これを助けて以て頂を摩す。是れ即ち命を捨てて諸天の加護に預かり、身を投じて悉地の果生を得たり。(中略)是れ偏に法を重んじて、命を軽んじ身を捨てて道に帰す。雪童昔半偶港洙めて身を羅刹に与うるや。

「一生の身命を捨てて」というのは、捨身をすることです。自分の命を仏に捧げることによって水遠に生きることができるのです。石室は龍の窟です。そして、石室とか巌洞とか三重霊剛が出てきます。戦前の地図には「龍の窟」が出ていましたが、今はありません。セメント会社に売ってしまって、窟はつぶされてしまったようです。

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 つまり、捨身山(身を捨てる山・捨身の行をする山)が、いつの間にか舎心山(心を休める山)となってしまったようです。この山で虚空蔵求聞持法を修したことは、空海自筆の「三教指帰』にも記されています。現在、太龍寺には本堂の南に立派な求聞持堂があります。

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 行場をもう少し絞り込んでみましょう。
それは、「南の舎心」「北の舎心」という二つの舎心岩(捨身岩)と研究者は考えているようです。今は「舎心」と表記されていますが、もともとは「捨身」です。ここは捨身行が行われた行道行場だったようです。
太龍寺伽藍

 絵図右下隅の北舎心岩の上のお堂は、お寺では大黒天堂らしいと伝えます。これは焼山寺三面大黒天の岩からしても、考えられる事のようです。ここは岸壁で空中に橋が架けられています。
 また絵図左上には「南捨身」が描かれ。ここも空中を橋が結んでいます。ここから空海は、南舎心岩と北舎心岩の二つの岩の行場を周りながら行道をおこなったと研究者は考えているようです。
また、中央下には「大瀧」が描かれています。
『阿波国太龍寺縁起』には「三重之霊窟」と書かれています。
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研究者は、今はなくなってしまった洞窟と、そこで行われた「行道」についてを次のように推論しています。
「龍の窟」は、上下に三段に三窟があったものとおもわれ、それは石灰岩質の崖にはよくできる窟である。おそらくその傍か内部を大滝が落ちていたので、「大瀧嶽」の名があったものとおもわれる。しかしカルスト地帯の常として水脈が変化すると滝は涸れ、龍の窟だけのこったために、大瀧嶽は太龍寺となったろうというのが、私の結論である。

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 研究者は「瀧」にこだわっているようですが、古代の行場は水が流れてなくても断崖絶壁を「瀧」と呼んで地中の異界へ通じる関門=行場と考えていました。だから水が流れる流れないにこだわる必用はないように私は思っています。
さらに、この寺の奧の院と大龍寺山について次のように述べます。
この寺の奥之院は補陀落山といって、太龍寺山の最高峰である。この補陀落山からは太平洋が足下に一望できる。これが辺路修行の寺の重要な条件であり、この山の中腹に南舎心岩も龍の窟もある。南舎心岩の上からは東方に紀伊水道が望まれ、橘港の島々が見える。
 したがってこの岩の上で求聞持法を修すれば、東方の空に虚空蔵菩薩のシンボルである、明星(明星天子)を拝することができよう。このように海を拝み、明星を拝むことのできる山は、辺路信仰と山岳信仰の結合をしめすものとかんがえられる。太龍寺の奥之院が補陀落山であることは、その痕跡の一つとみとめることができる。
 おそらくここで修せられた昔の求聞持法は、龍の窟を出て、南舎心岩に登って、虚空蔵菩薩の真言を一万遍唱えて、夜明けには明星を拝して、その後に舎心岩の南の大巌塊の崖の上から海を拝し、次いで補陀落山に登って南方補陀落浄土を拝んでから、龍の窟に帰ったであろう。
 南舎心岩の南の大巌塊は、南側が直立の崖で、覗きの行ができそうな所であるから、『阿波国太龍寺縁起』にある空海の捨身行は、ここからかもしれないという気がする。この崖の上から大きな島が見えるが、これは牟岐港の沖の大島とおもわれる。この島は天禄三年(九七二)の『空也誄』に、出てくる湯島(紀伊水道の伊島説があるが、これは土佐から遠い)にあたる。
 まさに太龍寺の補陀落山から拝む補陀落観音浄土であったろう。
 このように「窟龍り」の洞窟である「龍の窟」と、求聞持法の禅定地である大滝寺山山頂をめぐる行道ルートが示されます。同時に山頂が補陀落山であり、海の彼方に補陀落観音浄土の島もみえるようです。
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    求聞持法に欠かせないもうひとつが聖火です。
 求聞持法は「行道」修行と「火を焚く」修行がセットになっていたことは、前々回の焼山寺山の所でお話ししました。古代の行者達は、不滅の聖なる火を「海の神」に捧げるために焚きました。
 その痕跡が、この山にも龍燈伝説として残っています
柳田国男の『神樹篇』に「龍燈松伝説」には、この山について次のような一節があります。
 阿波那賀郡見能林村の津峰権現と、同郡加茂谷村舎身山大龍寺との両所は、何れも除夜の晩に山の頂上へ龍燈が上った(阿州奇事雑話) 大龍寺にはおかかと云ふ山中第一の名木があったのを、大仏殿建立の為に豊太閤の時に伐ったと言へば、今では其龍燈も昔話であろう。
 太龍寺に大杉に龍燈が上るという話は、昔は有名だったようです。この杉は弘法大師の杖が成長したという杖立伝説もあったようです。ここには空海の辺路修行と龍燈の関係がうかがえます。
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 もともとは、辺路修行者が海の彼方の常世に向かって聖火を献じました。
ところが、時代が下って「常世」を龍神(海神)の都、龍宮とするようになって、この聖火は龍神に献ずる燈となっていきます。
 空海修行のころには、常世は法華経信仰や密教信仰の影響で龍神になっていたようです。この火は求聞持法修行が行われている霊山では、百日間は消すことはなかったとされます。毎日、霊山に燃やされる聖火を、麓の人々はどんな気持ちで仰ぎ見たでしょうか。
 沖の漁夫や航海者は、夜はこの火を望むことができました。そのような山の峰や巨木は昼には、航海や漁の目印になります。漁夫や航海者は、この火によって修行者の存在を知って参詣し、加護を願うとともに、危難にはこの聖火を念じるようになったというSTORYを考える事が出来ます。実際に、嵐に遭って助かった船は、土佐の青龍寺奥之院のある岬の不動尊に碇を献上しています。
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 原始の海洋宗教では、修行者が海の彼方の龍神のために燈を献ずることでした。それは海辺の洞窟や岬の上で柴を焚くことから、燈龍と呼ばれ、後の常夜燈やお燈明に「変身」していきます。そのような火が焚かれなくなると、危難のときの幻の火に変化し、また龍神の献ずる火があったという話に転換したようです。
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空海という名前についての違和感
 かつて空海という名前を、西安に再建されたばかりの青竜寺で現地の管理人に紙に書いて示したときに、驚いたような顔で「人の名前か?」と問い直されたことを思い出します。当時の中国の人たちにとって「空海」という沙弥名は、掟破りの変な沙弥名に思えたようです。確かに、空海という名前は僧侶の名前としては異質です。
 空海も最初からこの沙弥名を名乗っていたようではないようです。古い大師伝である「金剛峯寺建立修行縁起』に、空海がはじめ無空と称し、次いで教海と名乗り、また如空といったのちに、最後に空海と改めたとあります。その背景には、この大龍寺山や室戸岬で空と海を対象としての四国辺路修行の果てで、空海が選んだ沙弥名と考えれば、彼にふさわしいとも思えてきます。

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以上 今回の要点をまとめておきます
1 辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 行道=「窟龍り」の禅定 + 神木・神岩の廻り
3 虚空蔵求聞持法= 行道 + 聖火(→龍燈伝説へ)
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族

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 善通寺の西に並んでいる山々を五岳(ごがく)と呼びます。東から香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山のことで、我拝師山はその中央に象の頭のようなどっしりとした山容で聳えています。
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  この山の麓や谷間からは、数多くの銅剣や銅鐸類が出土しています。また、現在の農事試験場から「子どもと大人の病院」に架けては、改築工事で地下を掘る度に遺物が出土していて、この辺りが「善通寺王国の都」があった所と研究者は考えているようです。ここから見上げる五岳は、霊山としては最高です。五岳の盟主である我拝師山が古くから霊山として崇められてきたことは、この山を見ていると納得できます。
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 この山には早くから行者たちが入ってきて修行をおこなっていた気配があります。そして、空海もこの山で「行道」し、「捨身」を行ったという話が伝わっています。

まず、幼い空海(幼名・真魚)の捨身伝説を見てみましょう。
ある日、真魚(まお)は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。
 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。
 空海が真魚と呼ばれた幼年期に、雪山(せっちん)童子にならって、山頂から身を投げたところ、中空で天人が受け取ったいう「捨身ヶ嶽」の伝説です。
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4 捨身ケ嶽というのは捨身の行場ということです。
 『日本霊異記』には、奈良時代の辺路修行者が実際に捨身をしたことが、いくつも記されています。本元興寺の稚児が身を投げたという記事が、平安時代の中期ごろに、醍醐天皇の皇子重明親王が書いた『史郎王記』という日記の中にも出てきます。この頃は、盛んに捨身が行われていたようです。そのため養老二年(718)に出された養老律令の坊さんと尼さんを取り締まる「僧尼令」の第二十七条に、「焚身捨身を禁ず」という条があります。
 焼身自殺が焚身、高いところから飛び下りることが捨身です。惜しげもなく命を捨てる修行者が多く出たので、法律で禁止しなければならなくなったのでしょう。
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   今も大峰山で行われている「覗き」の行は、捨身の形を変えたものかも知れません。
 命綱はありますが、突き出されたときにひやっとします。そのときに新しい魂が入って生まれ変わるのだといいます。「覗きの行」は、「捨身」を真似て安全を確保した上で「擬死再生」を体験させているのかもしれません。死んでしまったら元も子もないので、死の一歩手前ぐらいの体験をさせて「生まれ変わった」とするようになったのでしょう。「今日は、これくらいでゆるしてやろか」というところでしょうか。
 死に向き合うという宗教体験をすることによって、今までとは違う自分に気づき、新しい何かを自分のものとすることがあります。現実の見方が変わり「自己確立」への道が開かれるということもあります。
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  さて、事件は現場で起きる、現場を見てから話を進めよという原則に従って、捨身ケ岳に行って見ましょう。まずは、出釈迦寺にお参りします。境内には私の知らない間に、こんな太子像がありました。ここでも空海は、虚空蔵求聞持法の修行を行ったようです。空海の行場であるという事を、お寺は掲げています。

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 この寺は、かつては捨身が嶽の遙拝所でした。それが発展してお寺に成長してきました。
出釈迦寺の本堂から整備されたアスファルトの急坂を30分ほど登ると、我拝師山と中山の鞍部にある奥の院行場・根本御堂に着きます。
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空海からおよそ3世紀後に西行も、ここへやってきて修行を行っています。
彼は鳥羽院に使える武士でしたが、23歳で出家し、高野山で修行を重ねて、真言宗の行者になっていました。西行は、仁安2年(1167)50歳の10月、空海ゆかりの讃岐の地へ修行のためにやってきます。最初に白峯にある崇徳院の墓に参ります、もうひとつの旅の目的は崇徳上皇の怨霊を沈めるためだったようです。その後、この山の麓に庵を結んで2年ほど滞在していたようです。その時に、我拝師山の捨身ケ嶽を訪れています。
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鉄の鎖をつたって登って行くと自然の石を利用した護摩壇があります。
ここからは北側に瀬戸内海が広がります。ここで聖なる火を焚いたのでしょう。
西行の『山家集』によると、捨身が嶽は「曼荼羅寺の行道所」と記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経かきて(埋)うづませめるおはしましたる山の嶺なり。はうの卒塔婆一丈ばかりなる壇築きてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおよしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、壇も二重に築きまはさいたり。のぼるほどの危うさ、ことにに大事なり。かまえては(用心して)は(這)ひまわりつきて   
廻りあはむ ことの契ぞ たのもしき
きびしき山の  ちかひ見るにも
①行場へは「世の大事にて手を立てたる」ようで、手のひらを立てたような険しい山道を大変な思いで登った
②行場には、空海が写経した経典が埋めてある
②高さ3mほどに土を盛った壇が築かれており、空海が毎日登って修行したという言い伝えがあった。
③めぐり行道のために二重の壇が築かれていた二つの壇がある
と記しています。
ここからは西行の時代には、捨身が岳が空海の青年時代の行道修行の遺蹟とされていたことがわかります。

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「登るほどの危ふさ」ときたら大変なものであり「構えて這ひまはり付きて」(這うようにしてしっかりしがみついて)壇の周りを廻ったと記します。
西行も、空海に習って壇の周りを行道していることが分かります。
 廻り行道は、修験道の「行道岩」とおなじで、空海の優婆塞(山伏)時代には、行道修行が行われていたようです。空海も、この行場を何度もめぐっる廻行道をしていたのでしょう。西行は我拝師山の由来として、行道の結果、空海が釈迦如来に会うことができたと次のように記します
 行道所よりかまへて かきつき(抱きついて)のぼりて、嶺にまゐりたれば、師(釈迦)にあはしましたる所のしるしに、塔をたておはしたりけり、 後略
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西行はなぜ我拝師山にやってきて、2年もここで修行するつもりになったのでしょうか?
『山家集』の「善通寺・我拝師修行期」には何度も「大師」(=空海)が出てきます。
先ほど述べたように、西行は、空海が行ったと信じて、3mもの高さの壇に登り、這い回るようにして修行しています。空海が捨身して釈迦如来に逢ったという捨身ヶ嶽に、しがみつくようにして登っています。西行は、空海と自分を重ねることで、空海に対して身体的な共感を作りだし、その境地に少しでも近付こう・理解しようとしているように見えます。それが、真言行者である西行にとって、宗教的修行だったのかもしれません。
 相手に近付く・理解するために疑似体験をする方法は、今の私たちも行っています。福祉教育で行われる車椅子体験などもそうかもしれません。スポーツ等であこがれのプレーヤーに近付くために、同じ練習法を取り入れるというのも同じです。状況を重ね、身体的に何とか共感を図ろうと試みることは、他者を理解し、精神的な距離を近付けるための、ひとつの方法論なのでしょう。
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話がわき道に逸れてしまいました。空海に視点をもどします。
  行道修行は、もともとは洞窟に龍る静的な禅定と、動的な行道を交互にくりかえすものです。
 四国の辺路修行者は我拝師山に来れば、西行のように近くに庵を営んで、静に禅定します。そして、一日に三回から六回の勤行には、鉄鎖をよじ登って捨身行の形をしたり、頂上で塔をめぐったりの行道をしたようです。
 
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 北から見れば平凡な山ですが、西面と南面は厳しい岩稜で霊山で「四国の辺地」の修行所に選ばれたのも納得がいきます。多分、ここでは南面の絶壁に身をのり出して、谷底をのぞく「覗きの行」が行われていたのでしょう。この「覗き」の捨身行があったから、空海七歳の捨身伝説が生まれてきたと研究者は考えているようです。

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 どちらにしろ西行がやってきた12世紀後半は、プロの修験者達が我拝師山で修行をおこなっていたことは確かなようです。そして、行場のルートは、この山から弥谷寺へ、そして七宝山へとのびていたようです。
 以前にも紹介しましたが『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎」
とあます。ここには、大師(空海)が「七宝山修行」を創始した記されています。そして、空海が観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から弥谷寺・五岳の行場を「辺路修行」しながら、山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼があったのです。
 このルートは、中世のプロの修験者の辺路修行ルートですから、山の中を行く獣道のような「辺路道」で、近世後半の「遍路」たちが歩いた遍路道とは異なるものでしょう。しかし、道は違ても観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルートは存在していたのではないでしょうか。そして、今は忘れ去られた行場がこれらの山中には埋もれていると私は想像しています。

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  空海がここで修行したとすれば、いつでしょうか?
捨身が嶽に登って、ボケーッとしながら考えた「仮説」を最後に示します
平城京の大学に上がる前に、佐伯家の氏寺・善通寺の僧侶(佐伯家一族)から影響を受けて雑密の影響を受け、ここで虚空蔵求聞持法の初歩的な行を行っていた。

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大学をドロップアウトして、その報告のために善通寺に帰省し、僧侶として生きていく事を親族に告げて、ただちに我拝師山で修行に入った。その後、大瀧・室戸への本格修行に出た。

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大学ドロップアウト後に、吉野金峰山で修行し、自分なりの一応のめあすができて善通寺に帰ってきた。そして、我拝師山での修行をしながら一族の同意を取り付け、四国巡礼に旅立った。

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大学ドロップアウト後は、佐伯家とは連絡を絶ち、各地での修行に没頭した。そして、遣唐使の一員になるために僧籍を得る必用があり、この時に善通寺には帰ってきた。遣唐使に選ばれるまでの期間に、生家(佐伯家)の「裏山」である我拝師山や弥谷寺、七宝山までの行場を廻った。
捨身ケ嶽で修行もせずに、ボケーとこんなことを、考えていました。
以上・・
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族
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2焼山寺1
    焼山寺の御詠歌は
後の世をおもへば苦行しやう山寺 死出や三途のなんじよありとも
 
です。苦行をしようとおもうということと焼山寺をかけて、ちょっと駄洒落のようになっています。「なんじよ」というのは、どういうふうにあろうとも、どんな具合であろうともという意味を俗語で表したものです。死出の山や三途の川はもっと苦しいんだろうけれども、後の世をおもえばこの山で苦行するのが焼山寺だといっています。

2焼山寺2

 ここには「遍路転がし」の辛さを「死出や三途のなんじよ(難所)=「苦行」と捉えているようです。この詠歌を思い出しながら、昔の遍路も「遍路転がし」を登ったのでしょう。
   しかし今は「四国の道」として整備され、たいへん歩きやすい自然遊歩道です。山歩きに慣れた人なら「遍路転がし」というのは、大げさな表現に聞こえるかも知れません。

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まずは、この寺の縁起を見てみましょう

 弘仁五年(814)に空海がこの山に登ろうとしたとき、毒龍が住んで火を吐き、全山火の海のようであったので焼山と呼んだという。空海が虚空蔵求聞持法を修すると、この火は消えて霊地となった。
 そこでこの山を摩盧山(まろさん)と名づけ、寺を焼山寺といった。摩盧とは梵語水輪の義、すなわち火伏の意味であるという。この毒龍を空海が封じた岩窟があり、その岩頭に空海は三面大黒天を彫刻して祀った、
とあります。

91横倉山
縁起の中にある「全山火の海」を、どう考えればいいのでしょうか。
奥之院の山頂からは、紀淡海峡の海が真東に見えます。この山頂で火を燃やせば海峡航行の船からも見えることになります。燈寵杉も龍燈杉、龍燈松も、現実には山頂の石上や岩窟の中で聖火を焚いたものと研究者は考えています。
 これが辺路信仰では、海中の龍神が山上の霊仏に燈明を献ずるという伝承に変化します。実際には修行者は、この聖火を常世の海神「根の国の祖霊」に献じていたのです。
 このような聖火は『三教指帰』(序)に、

望ム 飛炎ヲ於鑚燧  (燧を鑽る=すいをきる)火打道具を打ち合わせて火を発する。

とあるように、鑚燧で火をきり出し、大きな炎を上げたのです。そのためには、キャンプファイヤーのようにかなりの柴や丸太を積んだことでしょう。柴燈(さいとう)護摩というのは、この聖火を焚く方式が、修験道儀礼の中にのこったものと考えられます。ここから龍神の清浄な聖火なので斎燈(さいとう)と呼ばれ、薪に則して柴燈(さいとう)と書かれるよになったと研究者は言います。

2焼山寺4 奥の院へ

焼山寺の縁起は、
毒龍として表現していますが、これはインドの降魔の説話や絵によったものです。
これは、一面では煩悩雑念の克服、解脱をあらわしたものでしょう。
「毒龍が住んで火を吐き、全山火の海のようであったので焼山」
というのは、行者達の聖火のことと研究者は考えているようです。
さらに「毒龍」を岩窟に封じ込めたというのは、もともと山人(先行宗教者?=地主神)が住んでいた岩窟を空海に譲り、他の窟に移らせたという事実が背景にあるのではないかも指摘します。
 つまり、山人=毒舵の長の龍王が龍王窟に住んでいたのを、これを空海に譲って他に移った。その移ったところが奥之院にちかい不動窟で、今は崩落して浅くなった岩棚窟と、毒龍を封じたという岩の裂け目のような狭い窟がある。そこに三面大黒天が祀られているというのです。つまり、これが先住者であり、地主神であるということになるようです。
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  権現を山頂に祀った行者達は、そこで山が焼けてるようにみえるくらい火を焚いたようです。
  なんのために山頂で火を燃やしたのでしょうか?
 当時の修行は、火を焚くことが1つの条件だったようです。例えば、求聞持法の修行を行うためには節目では、火を焚くことが求められました。だから火を焚かなければ修行になりません。つまり、求聞持法と火を焚くということは一体化していたわけです。
 もともと火を焚くのは、海の神に捧げるためでした。
そのために海の向こうの神仏に届かなければなりません。大きな火を焚けば焚くほど、遠いところからみえて、海の神が喜ばれると思っていたようです。また、火を焚く場所は、よく目立つ岬の突端や岬の洞窟、霊山の頂上などが選ばれました。
 しかし、いつでもどこでも焚くのではなく、重大な修行や祭にだけ焚いたようです。そして、次第にその意味も、煩悩を焼尽するとか、自身火葬をするとか、災厄を焼きはらうというように変化していきます。しかし、柴を積みあげて焚き、遠くからも見える方式は変わりません。これを遠くから見たとき、山が焼けているように見えたから、この山は焼山の名がついたと研究者は解釈しているようです。
 焼山寺山の山頂には、いまは祠もあり、樹木が繁っています。しかし、聖火を焚いた時代は、まわりの樹を伐って山頂を裸にして、四方から見通せるようにして炊きあげたのではないでしょうか。時代を経て、聖火を焚かなくなると、山中の高い木に燈龍をあげたり、石燈龍の常夜燈に形が変わって行ったようです。
 このような柴燈による海の聖火は、平安時代まではさかんであったようです。空海も室戸崎、大瀧嶽やこの焼山寺山でも、節目節目には山頂で火を焚いたのです。それが変質して、今の焼山寺の「縁起」に伝わっているのかも知れません。
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 行者たちの聖火は海の神達に捧げられたものでした。
が、沖行く船からもよく見えました。それはまさに山が燃えているように思えたかも知れません。夜間に紀淡海峡から西を見ると焼山寺の火が見え、東を見ると紀伊の犬嗚山七宝滝寺の上にある燈明の火が見えるので、これを目印に舟は航海するようになります。もう一つ、北のほうの淡路の光山千火寺の常夜灯も航海の目印になったようです。
 しかし、最初は航海者のために火を焚いたわけではなかったようです。海の神に棒げるために焚いた火が、たまたま航海者の目印になって航海を安全にしたのです。のちにはそれが目的になって、やがて常夜灯が現れ、灯台になっていくようです。 金毘羅信仰の「海の神様」も象頭山の奥社の灯りを目印とした船乗り達の信仰が支えとなったのかも知れません。
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 以上を整理すると、
①辺路修行者が求聞持法修行をすることと、「飛炎ヲ於鑚燧ニ望み」聖火を焚くこととは同じ修行プロセスだった。
②そのため焼山寺山の山頂に求聞持法本尊の虚空蔵菩薩を祀つり、山頂で聖火をを焚いた。そのため焼山と呼ばれるようになった
③時代を経るにつれて求聞持法(経典)だけを重んじ、聖火(火を焚くこと=実践)を軽んずるようになった。
 そして聖火信仰は柴燈護摩として修験道儀礼にのみ残った
④「焼山」は、船乗り達の航海の目印となり信仰を集めるお寺も現れた
 

2焼山寺龍王窟

それでは、焼山寺山の行場を、一巡してみることにしましょう。
 焼山寺山の洞窟は龍王窟といい、かなり大きな窟があります。          
大瀧寺の「龍の窟」とおなじように、焼山寺とは谷をへだてた向山の中腹にある北向きの窟です。正面の幅は12メートルで、高さ2,5メートル、奥行は4メートルで、中央に禅定石とおもわれる長方形の台石が据えられています。その上に、いまは小祠が祀られています。 
2焼山寺龍王窟 
 かつては、行場の近くの洞窟が行者達の居住地域でした。現在のような本堂や諸堂、庫裡などはありません。山と洞窟と巌石、巌壁だけがあり、その中で修行者は行を重ねたのです。
 そうすると、この龍王窟は高さ30メートルほどの大きな岩壁の下に開口していて、その上から尾根道を山頂の奥之院に通ずる道と、谷道をいまの焼山寺まで出て、そこから急坂を奥之院に登る道とがあることがわかります。
 しかし寺のなかった時代には、この尾根道と谷道をつないで、龍王窟と奥之院を周回する行道路があったこと見えてきます。この道を周回しながら辺路修行をおこなっていたようです。
2焼山寺龍王窟.2jpg
さらにこの辺路は、閉じられたものではありませんでした。
 以前に、阿波の忌部修験のメッカである高越山を紹介しました。その高越山の中世文書『阿波国摩尼珠山高越寺私記』によれば、この寺は役行者の開山で、弘法大師求聞持法修行の山であるとして、次のように続けます。
 密祖弘法大師 有秘法修働願望 参拝此山 (中略)
故ニ虚空蔵求聞持法一百万遍呪、日夜精進誦得大悉地 
刻彫尊木像 是行者ノ形像ト大師ノ御影也 其像巍トシテ 而安座セリ也
 とあって、空海伝説を語ると共に、その後も求聞持法の霊場であったことを記します。つまり、焼山寺と高越山、そして讃岐の第八十八番大窪寺や阿波の大瀧寺をつなぐ求聞持法修行の道があったことが見えてきます。これらの山は、空海が求聞持法を修行し、火も焚いた霊山だった可能性があると研究者は考えているようです。それが、四国遍路への道へと繋がって行くのかも知れません。

2焼山寺 本尊虚空蔵菩薩
焼山寺の本尊 虚空蔵菩薩
  約三百年前の江戸時代初めの「四国霊場記」には焼山寺は、次のように書かれています。
 奥院へは寺より凡十町余あり。六町ほど上りて祇園祠(八坂)あり、後のわきに地窟あり。右に大師御作の三面大黒堂あり。是より上りて護摩堂あり。是より十町許さりて聞持窟、是よりあがりて本社弥山権現といふ。是は蔵王権現とぞきこゆ。下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん。地池と云あり。二十間に三十間もありとかや。
 祇園祠は、現在は不動尊を祀っています。奥の院までは、十町(1㎞)では行けません。もっと長いでしょう。不動尊をまつる祇園祠、地窟、三面大黒堂、護摩堂など、道具だてはみなそろっています。弥山といっているのは頂上のことです。

2焼山寺5
 弥山が頂上で蔵王権現が祀られているといいます。しかし、お寺では、もとは虚空蔵菩薩を祀ったといっています。そして、今の本堂の本尊は虚空蔵菩薩です。虚空蔵菩薩が本尊のお寺では、虚空蔵求文法の行が行われたと研究者は考えているようです。
また寺に所蔵される正中二年(1325)の文書には、次のように記されています。
  焼山寺免事
   合 田弐反内 壱反権現新免   在 鍋
          壱反虚空蔵新免  坪 石
 蔵王権現上山内寄来山畠内 古房野東任先例 
 蔵王権現為敷地 指堺打渡之畢但於四至堺者使者等先度補任状有之
 右令停止万雑公事可致御 祈勝之忠勤之状如件
    正中二年二月 日
  宗秀奉
 ここからは当時、寺には修験の守護神・蔵王権現も祀られていたことが分かります。現在の奥社に祀られているのは蔵王権現です。蔵王権現を祀るのは、吉野金峯山の真言系の修験者達と言われます。天台系の熊野修験者が多かった阿波では、この寺は少数派だったのかも知れません。

2焼山寺3

 しかし、「十二所さん」と呼ばれる小堂にある十数面の懸仏は、専門家によると
「熊野曼荼羅式のもので、南北朝・室町時代を降らない」
とします。熊野や吉野の修験者が共に、修行に励んでいたのかも知れません。どちらにしても、鎌倉時代には焼山寺にすでに修験道が浸透していて、南北朝・室町時代にも修験者達が活発に活動していたことがうかがえます。以上をまとめておきます。
①この山は霊山として地元の人々の信仰を集める山であった
②そこに空海伝説が付け加えられ、獄像菩薩・蔵王権現が祀られて修験者の山となった
③中世を通じて修験者の修行の山として機能した。
2焼山寺5 奥の院へ
江戸時代になると阿波蜂須賀家からの寄進を受けて、伽藍は整備されていったようです。
そして、霊山として周辺の里人の信仰をあつめて、季節の節目の祭礼には麓からの参拝者も集めていたようです。
 江戸時代後半に、この寺は大きな変動の時を迎えます
 近世後半に龍光寺が忌部十六坊から自立して剣山修験を「開発」します。すると、その剣講の有力寺院として、焼山寺や柳の水庵の修験関係者が協力するようになります。それは、この地方に剣山先達や剣山関係世話人などが他地方に比べると、圧倒的に多かったことからも分かります。
文化九年(1812)元木蘆洲によって書かれた「燈下録」には、剣山について次の様な記事があります。
 剣山は木屋平山龍光寺の奥山なり・・・(中略)
樹木なき所より臨み見れば、東は高越山、奥野明神の峯見ゆる二峯の間より逼に焼山寺山の弥山さし出たところ・・・ 

剣山の頂上はかつて「小篠」と呼ばれていたようで、この小篠に対して焼山寺山は弥山という立場であったようです。焼山寺と同じく神山町にあり、焼山寺の下寺的存在であった柳の水庵には剣山登山第一の鳥居がありました。これには、この地が剣参拝へのスタート地点であるという意味合いがあったようです。
 こうして、焼山寺周辺の修験者たちは周辺の村々を周り、剣講を作り、多くの信者を伴って剣登山参拝の先達を務めたのです。彼らの存在なくしては、剣山に多くの信者達が参拝する事はなかったでしょう。
2焼山寺12番 焼山寺 奥の院 弥山権現
 しかし、奇妙な現象が起きます。剣山登山が盛大になればなるほど、焼山寺山に登る人は少なくなったようです。つまり、焼山寺山の霊山としての価値は下落したということになるのでしょうか。新たに霊山化した剣に吸い上げられていくストロー化現象が起きたとも言えます。
 こうして、焼き山寺は藤井寺から登ってくる遍路以外は、参拝者がいない霊山になっていったようです。地元の修験者達は剣講の先達として、信者達を剣山に送り込み続けたのでした。この寺の周辺に、近代に至るまで多くの修験者(剣先達)がいたのは、そんな背景があるようです。
2焼山寺9

参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族所収 131P
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近世後期の剣山修験道については

虚空蔵菩薩についてはこちらを

 

              
1横倉山
仁淀川からのぞむ橫倉山
 土佐の霊峰といわれる横倉山(774㍍)は高知市の西にあり、安徳天皇御陵参考地とされます。以前に安徳天皇伝説が
物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町(横倉山)
へと土佐の霊山をつなぐように伝えられている事。このルートを使って宗教活動を行っていたのが、物部いざなぎの修験者達ではなかったのかという仮説をお話ししました。
今回は、その伝説の終着地点(?)の横倉山を見ていきたいと思います。
 阿波祖谷より国境尾根を越えて、土佐の物部に入り、物部川と仁淀川沿いに歩くと横倉山にやってきます。安徳帝は、横倉山で正治二年九月八日 二十三で崩御したと伝えられます。
1 横倉山R2ss
橫倉山
この山の祭祀遺跡は、安徳帝行在所説に付会されること多く、山号ミタケ山も御嶽と表記されています。まず、安徳帝以前の山の様子を見ておきましょう。
 安徳帝以前から修験の山であったとするのが「八幡荘伝承記」で、次のように記します。
土佐国司惟宗朝臣永厚の子康弘の次男経基は、この一帯で別府の氏姓を称して勢力を拡大していた。経基は大昆羅祖蔵権現を尊び山伏修行をしていた。天暦八年六月別府荘奥山谷深く登りつつ本尊を鎮座すべく決心した。そして家人為右衛門及び喜全坊を、大和へ上らせ、自らも大昆羅坊・山律坊と称した。そして山頂で天神の詔を聞いたのである。
天神は「みだりにこの山には人誰も入るものでなく、吾ただいま降りて天地の礼法を伝ふ」として祭地と祭神を告げる。
 そこで、次のように神仏を祀った 
①桜に柏の木の森があって、日向の滝と称する東の嶽には、大日大乗不動明王・紀国日前大明神を
②檜の森があって日室の滝と称する中央(南)には、紀国日像神とて天照大神の荒御魂の分霊・本尊大日如来を
③水無滝のある西嶽には阿波の人津御魂神・大田氏神・薬師如来をこれら三滝大権現、三滝三聖大権現を祀ったのは天徳元年十二月であった。
  ここには、ミタキ山は三嶽山と表記し、横倉山祭祀の始まりと伝えます。11世紀半ばに修験道関係の仏が祀られ、修行の場となったと言うのです。今は、本宮西方の住吉社のある嶽を黒嶽とよんでいます。しかし「御嶽神社記」には
「黒嶽に安徳帝の念持仏の不動像と鏡を納めた」
と黒嶽の名が出てきます。どちらにしても、これが「三嶽勧請伝承」です。ここからは安徳天皇が葬られたとする時代よりも2世紀ほど早い時点で、この山は修験者達によって開かれていたことになります。

 横倉山のことを金峯山とも呼びます。
 吉野の金峯山は空海が修行した霊山です。また、醍醐寺を開いた聖宝も金峰山で修行しました。吉野は弥勒にはじまる法相宗の道場でしたから末法思想が盛んになると、その奥の金峰山は弥勒下生の地とされるようになります。そして藤原道長など貴族の間で御岳詣が盛んに行われます。道長は、修験で知られた観修に祈祷をさせてもいます。

1横倉山蔵王権現立像 2
 
 金峰山には、金剛蔵王権現がまつられました。
 これが平安末になると、金剛蔵王権現を役小角が金峰山上の岩から導き出したと神格とする信仰を生み出します。こうして、金峰山には山上・安禅・山下の蔵王堂、石蔵寺・一乗寺などの寺院が建立され、白河上皇・堀河上皇・鳥羽上皇らが御幸するようになります。
 後には、この山で修行した修験者達が各地に散らばり、霊山を開き蔵王権現を祀るようになります。横倉山も、吉野金剛山で修行を積んだ修験者が、大きな影響力を持った時代があったようです。そのために、この山も金峰山と呼ばれるようになったのでしょう。それを資料的に見ておきましょう。「土陽淵岳誌」延享三年(一七四六)に

 里人曰く権現尤霊験アリテ 怒ヲ発スレハ山必鳴ルト云 曰自古伝ヘテ 此山二金石ヲ伏ス  金気抑彭シテ外へ発セサレハ 則震動雷ノ如シト云ヘリ

と「金石ヲ伏ス  金気抑彭」と金峯山についての伝承があります。
文政八年(1825)「横倉山考証記」には、金峯山御岩屋御宝殿と記した各棟札が以下のように伝えられています。
文明十六年(一四八四)横倉蔵王権現宮
天正十一年(一五八三)ざわうごんげん(=蔵王権現)
元禄十七年(一七〇四)社家改記録に「蔵王権現神体大小五但シ唐金」「唐金ノ如ク 鏡ナル像ヲ鋳タル」
と蔵王権現像が作られた事が記されています。

橫倉宮3
橫倉宮の鳥居
「八幡荘伝承記」による金峯山勧請由来は、次のように記します。

「文明十四年(1482)別府十二社権現宮 三嶽山総山焼はげとなりたる時焼失し 新宮建立、同十六年大和国金峯山権現勧請

ここからは、横倉山に金峯山蔵王権現がやって来たのは天明16年(1484)で、そのきっかけは、2年前の「焼はげ=大火」の原因を占った結果「金峯山を勧請すべき」と出たからのようです。
 ちなみに横倉権現は現在は、横倉宮となっていて、現地の説明版には次のようにあります。

橫倉宮4
祭神は安徳天皇、本殿は春日造り、拝殿は流れ造りです。由緒は正治二年(1200)八月八日、安徳天皇は二十三歳で山の上の行宮で亡くなられ、鞠ヶ奈路に葬られた。同年九月八日、平知盛が玉室大神宮とあがめて横倉山頂に神殿を建てて祭る。
 歴代領主が崇拝し、しばしば社殿の修改築をした。現在の建物は明治30年(1897)頃の改築で、以前は横倉権現と言ったが、明治4年に御嶽神社と改め、昭和24年(1949)12月二十三日天皇崩御七百五十年祭の時に横倉宮と改められた。
  ここには安徳天皇以前のことには、触れられていません。そして、安徳帝を祀る神社が安置された事からスタートします。ちなみに安徳天皇を12世紀の時点で祀った事は、残された根本文書には何も記されていないことになります。そして最後に、明治の神仏分離に触れています。ここからは蔵王権現は、明治の神仏分離によって安徳天皇を祀る神社に「変身=リニューアル」されたことが分かります。もともとは、橫倉宮には蔵王権現が祀られていたのです。
 「歴史の重層性」を、改めて思い知らされます。そして、明治以後の神道界では金峯山という名前も、避けられるようになり横倉山が「正式名称」となったようです。

1横倉zinnzya 下社山4
             横倉神社(下宮)

 麓にある横倉神社(下宮)を見てみましょう。

下宮は南北社二つあり、北社を金峯神社と称していました。明治の神仏分離後に、横倉神社と改称し、明治14年に南社の横倉大権現を合祀して現在に至っています。文禄四年の「金峯山御岩屋御宝殿」棟札は、頂上本宮にあったものですが、この棟札からは、この頃までは横倉山を金峯山と呼んでいたことが分かります。
横倉権現の痕跡をもう少し探してみましょう
1横倉山蔵王権現立像 吉野金峰山寺
吉野金剛山寺の蔵王権現
 山上の本宮が鎮座する崖下の岩屋からは、古銭や興矢根などが多く発見されています。ここからは、金峯山信仰と密接な関係があったことがうかがえます。
さらに、ここには檜材一木造の「木造蔵王権現立像」(高さ55㎝)が今に伝えられています。蔵王像は全国的にも珍しいもので、県下では唯一のものです。研究者は次のように評します。

「その表情も力強い忿怒の表現を見せ、古拙ではあるが形制よりして藤原時代に遡るもので、平安末修験道造像の古例として注目されている」

(高知県文化財調査報告書11集・文化庁文部技官倉田文作氏)と評する逸品です。この蔵王像は、横倉山の金峯山信仰が古くからあったことを示します。
1横倉山 杉原神社 熊野
橫倉宮
残されたその他の修験関係の遺品としては、次のようなものがあります。
①蔵王権現の本地仏である釈迦如来を表現した銅板線刻如来鏡像(平安後期作)
②蔵王権現立像と一連の天部形立像・男神倚座像・騎馬神像
③線刻地蔵菩薩鏡像(大平神社蔵)
④懸仏9面(鎌倉時代~南北朝時代)
⑤修験の行場に置かれた鉄剣(鎌倉時代)
⑥中国宋の湖州鏡(大平神社蔵)
⑦経塚関係の遺物として経筒(平安後期~鎌倉時代)
⑧経筒の外容器の陶器、副納品の土器
これらを見ても、安徳天皇伝説につらなるものはないようです。

1横倉神社

 蔵王権現に遅れて勧進されたのが熊野権現です。「八幡荘伝承記」には、次のように記します。

別府氏十代高盛は延暦寺に詣で仏事を修し、嘉承二年(1107)帰国、坊名を然天坊崇真と号す。永久二年(1114)二月紀州熊野宮に参詣し権現尊勧請、四月末帰国し仮の宮を造り納め、保延三年(1137七)吾川山荘高峰別院(現黒森山という)に安置した。

「高吾北文化史」には治承三年(1179)蓮池家綱が建立した別府十二社権現と、熊野権現とが文安元年(1444)に合祭されて横倉山大権現宮と改称したと記します。

81横倉山

以上から横倉山には、三嶽大権現、熊野権現、金峯山蔵王権現が順番に勧進され安置されていたことが分かります。
年代記銘がある最古のものは保安三年(1122)の経筒です。これを、基準に前後の事項を、資料から拾い年代順にまとめてみます。
天暦九年(955)経基家人為右衛門・喜全坊を大和へ
天徳元年(959)東西中の三嶽に神仏勧請、三嶽大権現と称す
永久二年(1114)高盛が熊野に詣り、熊野権現勧請仮宮に奉置
保安三年(1122)本宮に経筒を奉ず
保延三年(1217)熊野権現吾川山荘高峰別院に納む(黒森山)
治承三年(1179)蓮池家 綱別府十二社権現を三嶽山に建立
文治元年(1185)安徳帝横倉山へ
正治二年(1200)安徳帝崩御
文安元年(1444)別府十二社権現、高峰別院熊野権現とを合祭
文明十四年(1482)三嶽山焼け別府十二社権現焼失
文明十六年(1484)大和金峯山権現勧請
天正三年(1575) 別府山延命院横倉寺建立
 この年表からは安徳帝以前から横倉山は、信仰の山で修験者の活動拠点であったことが改めて分かります。そこへ吉野の金峰山の蔵王権現、ついて熊野権現が勧請されたのです。

1横倉山s
橫倉山の平家穴

しかし、いつのころからかこの山から修験者の姿は消え、安徳天皇伝説が急速に広がり始めます。
それでは横倉山で修験者が活動したのは、いつ頃までだったのでしょうか?
 源平の争い、南北朝時代など中世は戦乱が相続き、人々が不安におののいた時代でした。そんな時に、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えます。さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されます。源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからなのでしょう。土佐も同様で、修験者の活躍できる機会がいろいろな方面に広がっていました。長宗我部元親も修験者達を側近に用いて、情報収集や外交、教育などのブレーンとして活用していた事が知られています。
1横倉山.3jpg
かむと獄石鎚神社

江戸時代に入ると、幕府は修験道法度を定め、修験者を次のどちらかに所属登録させます。
①聖護院の統轄する本山派(熊野)
②醍醐の三宝院が統轄する当山派(吉野)
そして、両者を競合させる政策をとります。この結果、諸藩でこの両派の勢力争いが起きるようになります。土佐では山内藩の保護を受けたのは本山派でした。そして、保護を失った当山派は幕末には土佐から姿を消す事になります。
 また幕府は、修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとしました。こうして修験者達は全国の行場を渡り歩く事が出来なくなります。各派の寺院に所属登録され、村や街に根付いた修験者は、それぞれの地域の人々によって崇拝されている山岳で修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになるのです。そして、村々の加持祈祷や符呪など、いろいろな呪術宗教的な活動を行うようになります。
1横倉山 安徳天皇伝説4
橫倉宮
以下は私の仮説です。
 このような中で大きな打撃を受けたのが物部いざなぎ流の修験者たちではなかったでしょうか。
安徳天皇伝説が伝わる
「  阿波祖谷の剣山 →  物部の高板山 → 土佐横倉山  」
は、いざなぎ流修験道の活動ルートであり、
物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町のルート
はいざなぎ流の太夫たちの活動領域ではないのかという仮説を最初にお話ししました。
 この仮説の上に立つと江戸幕府の修験道法度は、修験者の各地遊行を禁止するものでした。この結果、物部修験者の活動は大きな制約を受けたはずです。それまで、頻繁に行き来していた物部と横倉の修験道ルートが閉鎖されたとすれば、横倉山の修験道の衰退は理解できます。
91横倉山
橫倉山からの展望 左が仁淀川
この山は、江戸時代には、山内家・家老深尾家の祈願所として、その命脈は保ちます。がこの山が修験の山であったことは忘れられていきます。
 明治の神仏分離で、このお山は大きく姿を変えたのはお話ししました。
明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかるとして修験道を廃止します。そして修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。全国各地の修験者が依拠した諸山の社寺でも、神社に主導権をにぎられていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。

1横倉山4

 国家神道のもとでこの山は、安徳天皇伝説で染め上げられていく事になります。

 

 
虚空蔵山7

虚空蔵山(こくぞうさん) 675mは土佐市、須崎市、佐川町の境にまたがり、どこからみても形のよく、眺望も素晴らしい山です。こんな山は古代から甘南備(カンナビ)山として崇拝されてきました。
霊山は、死後は死霊として山岳に帰り、清められて祖霊からさらに川神になって帰ってくる山でした。
年間の行事をとって見てると、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんど甘南備山と関係しています。山やそこにいるとされた神霊は、里人の一生にまた農耕生活に大きな影響を与えてきました。

虚空蔵山9
 山は、里人に稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されました。
山から流れる水は飲み水としても、用水としても里人にとって命の源でした。こうしたことから山にいる神を水を授けてくれる水分神として崇める信仰が生まれます。水分神の信仰は、竜神とされることも多く、蛇や竜がその使いとして崇められることもあります。
漁民たちも山の神を航海の安全を守ってくれるものとして信仰しました。
これは山が航海の目標になったからです。中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳は、航海の目標として崇められた山として有名です。この虚空蔵山は「土佐の開聞岳」として、東シナ海を越えた交易ネットワークのひとつの拠点「燈台」の役割を果たしていたのではないかと私は考えています。
虚空像山1
 この山には次のような「徐福伝説」が伝わります。
 その昔、不老長寿の妙薬を求めて、秦の始王帝が日本の国の仙人が住んでいるという、不老長寿の地にある霊山に部下を遣した。暴風雨に遭い土佐の宇佐に漂着した彼らは、この虚空蔵山に登って祈願したが仙人には会えず、携えていた宝を埋めて紀州へ向けて去って行った。その宝は「朝日さす夕日輝く椿のもとにある」と伝えられる

遠い昔の蓬莱山の伝説が「埋められたお宝」と共に今に伝わります。
仏教が伝わる以前は、この山は何と呼ばれていたのか、今になっては知りようもありません。
虚空像山2
古代から霊山として信仰されてきた山に、仏がやって来るとどうなるのか?
この山の三角点のすぐそばに虚空蔵菩薩が祀つられています。虚空蔵山という名前は、弘法大師がこの山に虚空蔵菩薩を祀ったという由来から来ているようです。
それでは虚空像菩薩とは、どんな仏さんだったのでしょうか?
虚空像菩薩は地蔵菩薩とペアでした。大地を表す「地」と「蔵」、これが地蔵菩薩です。
これに対して、虚空蔵とは宇宙のような無限の知恵と慈悲が収まっている蔵(貯蔵庫)のことです。虚空蔵菩薩は、人々の願いを叶えるために、それらを蔵から取り出して与えてくれる、とっても優しい菩薩さまです。今風に言うと「まるでドラもん!」ということで、仏教界のネコ型ロボットかもしれません。奈良時代から人気があったようで、空海によって中国から密教がもたらされる前から、無限の記憶力を得て、仏の知恵を体得できるという「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」の本尊でした。

虚空蔵菩薩2
神護寺の虚空蔵菩薩
 空海は若い頃に、室戸岬の御厨人窟(みくろど)と呼ばれる洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をやりました。するとある日、突然口の中に光りが飛び込み、その瞬間に「空」と「海」が輝いて見え、求聞持法を会得して無限の智恵を手に入れたと言われます。空海の名もそこに由来すると言われます。空海が密教を開眼するようになるきっかけは、虚空蔵菩薩との出会いがあったからです。そのような「空海伝説」の上に、この山に虚空蔵菩薩はもたらされたのでしょう。
 もともと虚空蔵菩薩は、吉野山で真言系の山岳修行者が守護仏としてきた仏です。
 先ほども述べたとおり、空海をはじめ山岳修行者が山中で虚空蔵求聞持法を修行することも多かったようです。こうしたこともあって、伊勢の朝熊山をはじめ当山派の修験者の霊山では本尊を虚空蔵菩薩としている所が多いようです。前回は土佐の霊山は、熊野系の本山派の修験者達によって開かれたところが多いことをお話ししましたが、この山は虚空像菩薩をお祭りするので真言系当山派の拠点であったことがうかがえます。

虚空蔵菩薩

霊山は時代と共にリニューアルされて姿を変えていきます。
 この山の山上一帯には、石鎚神社への鉄鎖、石室の通夜堂、御手洗池、弘法大師の岩屋などがあります。その他、精進ヶ岩、クロウ嶽、神武天皇のいたオオネギ(王が畝に来たの意)、附心の滝など、神と仏のワンダーワールドなお山です。
 山の形は双耳峰なので鉾ヶ峰とも呼ばれ、西峰に石鎚神社、東峰に虚空蔵菩薩が鎮座します。虚空蔵堂は、頂上近い崖下にあって、広い境内には通夜堂、変事があれば必ず揺るぐという大きな揺るぎ石もあります。戸波村史によると本尊は一尺五寸の木立像。文政七年(1824)の棟札あり、伊勢朝熊山より勧請されたといいます。ここにも、当山派の修験者(山伏)達の姿が垣間見れます。
虚空蔵山10
西方峯には石鎚神社が勧進されています。
これは石鎚信仰が盛んになる近世以後に安置されたようです。土佐の石鎚参拝は、仁淀町の安居渓谷を経て手箱山・丸滝山を経てのルートが一般的でした。このルートを経て、近世末期から近代には、先達に導かれて多くの信者達が、お山開きには参拝に訪れました。そして、信者達は自分たちの地域で石鎚山がよく見える山の山頂に遙拝所を開き、石鎚権現(蔵王権現)を勧進するようになります。この山にもある石鎚神社も、そのような経緯を経ているようです。
虚空像山の石鎚権現2
 虚空蔵山の八合目あたりの平坦地をシオリガ峠と呼びます。
海辺から担ってきた塩を求めて、塩市がここで開かれていたからだとも、戦国時代は草刈場で、その争奪戦のあったところだともいわれています。
 しかし、名前の由来は、このシオリガ峠が土佐市から佐川方面への主要往還であったことから、道祖神として柴折峠が本来の語意だと研究者は考えているようです。
 縁日は春秋の彼岸中日で春を大祭とし、かつては近郊はもちろん、窪川町・葉山村・室戸方面からの参詣者もあったそうです。麓下の家々は縁者知人を招いての酒宴で賑わったといいます。
虚空像山4
 虚空蔵堂では「大世の引き分け」と称する作占いが行われていました。
 紙片に早稲、中稲、晩稲などと記して祈祷・数珠三昧をして、数珠に付着した品種を植付作柄としました。いただいた護符を田畑に立て、また堂床の土を持ち帰り田畑に入れます。こんな慣習からか、お参りした人たちの世間話から稲作が話題となるのは自然で、知り合いになった参拝者の家を、後日訪ねて行き種籾を交換したそうです。このような中から生まれた高知生まれの品種が「虚空蔵」・「福七」だそうです。
 またこの山は、雨乞祈念の場ともされています。里人が「虚空蔵は百姓神、作神、作仏」だというように作神的な性格がうかがえます。これは山上の地蔵信仰と共通するようです。

虚空像山の石鎚権現
 虚空蔵山の第二の性格は祖霊信仰です
 麓下の集落では旧七月十六日を虚空蔵の夏祭りが行われていました。夕方になると老若男女が山を登り、山頂に立っつと眼下四方に盆のホーカイ火(送り火)が数限りなく揺れてみえたそうです。その揺れる灯り見ながら霊を送ったといいます。
 中腹にある静神部落の明治28年生れのお爺さんは
「小さい頃、盆の十三、十四、十五日の夕方には仏さんを迎えに行くと言って、松明をもやし山に登った。十六日は仏を見送るのだといって、松明を持たずに登った」
と、話していたそうです。十六日登山は仏送であったようです。
この山には、いろいろな風習が他にも伝わっていたようです。
 秋彼岸には彼岸講といい、永野地区では十軒前後で講を作り、その宿元が代参する習慣がありました。その夜は山頂のシキビを手折り持ち帰り、トーヤの床にさし、燈明を燈じ、講組の者が集まって小酒宴を開いたそうです。
 卯月八日にも、頂上で茶をいたくために山に登りました。節分には年替りの日として、一年間の加護の礼と翌年の庇護を願うて登ります。信者であれば一度は命拾いできるといい、彼岸前日から当日にはかつては青年団が登山、キャンプをしていたそうです。これもかつて村人が通夜堂で寵った風習の延長だったのかもしれません。
 ここには仏教以前の霊山への祭礼の形が、見え隠れしているようです。里人が霊山と崇めていた所へ、聖や修験者たちが仏を勧進し、宗教的な重層性を重ねていったことがうかがえます。
 なお、本堂の虚空蔵仏は丑寅(鬼門)の方に向いて立っているそうです。
虚空蔵山8

参考文献 大山・石鎚と西国修験道所収  高木啓夫     土佐の山岳信仰
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土佐神社4
土佐神社
高知の神社で他県から勧請されたものを数えると、熊野系が128社と圧倒的に多いようです。その他では金峯(吉野)36社、石鎚が12社と続きます。熊野神社が数多く見られるは、土佐特有の現象です。
  それでは熊野行者達が、どのようにして土佐に熊野権現を広めていったのでしょうか。その前に「仮説」を示しておきます。
空海以前の辺路修行者による行場・霊山の開発
プロの修験者の辺路修行社の巡礼・廻国
熊野修験者による熊野詣で
有力豪族の熊野行者保護と熊野権現の勧進
江戸時代の土佐藩の本山派修験道保護と当山派の衰退
土佐神社1
土佐神社(高知市)

 まず土佐郡一宮の土佐神社を見てみましょう。
 ここは旧国幣中社の名社で、土佐最初の国造小立足尼の祖先一言主神を祀っています。
土佐神社祭神
土佐神社の祭神は、一言主神

 社伝では、雄略天皇が大和の葛城山で狩をした時に、一言主神が神異を顕わした(大王家と同格の振る舞いを行った?)ために、この地に移し祀った(流刑?)と伝えます。土佐郡には葛木男神社、葛木眸神社の両式内社がありますが、どちらも葛城山の伝承と結びつけられています。土佐に移住した加茂氏や葛城氏の一族布氏が、祖神を祀ったものと研究者は考えているようです。

土佐神社2

 ここからは、熊野・吉野(大峰)と並ぶ本山派修験の中心的な修行道場である葛城の神々が早い時点から土佐に祭られていたことが分かります。これは、土佐での熊野行者たちの伝播を、助けることになったでしょう。
 古代から聖や修行者が集まった土佐の寺院を挙げて見ると、次のようになります。
①空海が修行窟とされる室戸岬の最御崎寺(東寺)
②最御崎寺の本寺とされる金剛頂寺(西寺)、
③熊野の若一王子宮の神宮寺である長岡郡本宮町寺家の長福寺
④中国の五台山になぞらえられた高知市の五台山竹林寺
⑤修行僧善有によって開かれた安芸郡の妙楽寺
⑥補陀洛渡海信仰とむすびついた足摺岬の金剛福寺
 これらを見てみると室戸岬・足摺岬、その中間に位置する吾川郡秋山村の種間寺など補陀洛渡海の伝承と結びついた寺院が岬や海辺近くにあることに気付きます。室戸岬から足摺岬に到る海岸線は「辺路修行」の道で、後には「四国遍路道」となっていくと研究者は考えています。これに対して、奥地ある寺院や霊山を見ておきましょう。
⑦安芸郡和田に比定される妙楽寺、
⑧香美郡の高板山や石立山、
⑨長岡郡の白髪山、
⑩土佐郡の土佐山の長泉寺
⑪石鎚山系につらなる瓶ヶ森、
⑫高岡郡の横倉山や虚空蔵山、
⑬幡多郡の白皇山や篠山
これらの山々は、現在でも信仰されている霊山です。このように古代土佐の山岳信仰には、次の2種類があると研究者は指摘します。
A 海岸に面した岬や小丘
B 内陸の諸山

1香我美史 若一王子
 
 熊野信仰は、だれがどんなルートでもたらされたのでしょうか。
まず、最初に土佐に勧進された4つの熊野権現を見てみましょう。
①高岡郡越知村の横倉山、
②長岡郡寺内の吾橋庄、
③香美郡の大忍庄、
④幡多郡の伊与木近辺
橫倉宮2
橫倉山
このうち最も早いのは横倉山への勧請で、保安三年(1122)です。
 この熊野権現は横倉山南の本社で、今は北の本社には、吉野の金峰山の蔵王権現が勧請されています。つまり、横倉山は最初に真言系修験者がやってきて、吉野金峰山の蔵王権現を祀り、その後に熊野修験者がやってきて熊野権現を祀ったということになるようです。横倉山については、複雑なので、また別の機会に触れたいと思います。先を急ぎます。

豊楽寺 大豊町寺内
長岡郡寺内(大豊町) 豊楽寺は熊野信仰の拠点

 吉野川の大歩危の上流に位置する長岡郡寺内にあった吾橋庄は、のちに熊野権現領となります。
 この庄の長徳寺に伝わる平安末期の安元二年(1176)十二月三日付の文書には、次のように記されています。

「土佐国庁、北条吾橋山、奉免長徳寺 并王子殿四至内……」

ここからは、12世紀の吾橋庄に熊野王子社が勧請されていたことがわかります。そして、このエリアの熊野信仰拡大の拠点となっていくのが、国宝の薬師堂を持つ豊楽寺です。

豊楽寺 大豊町寺内2
豊楽寺の薬師堂

 土佐における熊野権現社領の代表的なものは大忍荘ですが、そこに勧進された熊野権現神です。

若一王子宮1 香南市
若一王子宮(香南市)

 村上永源上人が紀州熊野から御厨子を背負ってきて、この地に勧請したと伝えられるのが若一王子宮です。弘安九年(1286)には、禅源が、さらに文保三年(1319)には、その子増源がこの社の別当を務めています。永源上人に供奉して、この地に来た山伏の子孫と称する家が六軒あり、紀州の熊野と同様に鳥喰いの神事を伝えていたそうです。

香南市 若一王子宮1
若一王子宮(香南市)

 同じ頃、南国市の田村庄にも、熊野先達入交源六兵衛沙弥浄円によって若一山東光寺が建立されています。このように土佐への熊野権現の伝播にあたっては、背景に次のようなうかがえます。
①荘園などを媒介とした熊野との社会経済的関係
②熊野聖・山伏・熊野比丘尼などの勧進活動
③それにもとづく師檀関係の成立

次に13世紀から16世紀にかけて、勧進された熊野権現です
①文治二年(1186)平家の家臣大野源太左衛門紀州熊野より新宮を勧請(熊野神社。安芸郡馬路村)
②元亨元年(1321)安田三河守元高、紀州熊野から熊野権現を勧請(熊野神社、安芸郡中山村大字別所宇鍛冶屋敷)
③建武年間(1334~)藤原朝臣長山信濃守信安、神託により熊野より勧請(熊野神社、高岡郡東津野村)
④文亀二年(1502)源重隆、新宮三所権現を再興.
 これよりさき延徳四年(1492)に豊後入道次男が同社別当職となっている(新宮神社、長岡郡十市町)
⑤永正年間(1504)領主隠岐守元国勧請(若一王子宮、吾川郡芳原村)
⑥永正十六年(1519)別当珍光阿闇梨再興、願主は泰氏茂親(本宮神社、土佐郡旭町)
⑦大永五年(1525)大峰先達長泉坊、長徳寺を再興
⑧弘治三年(1557)藤原資重、嫡子弥陀保子丸、二男重家入道沙弥良範か建立(熊野神社、幡多郡山中村)
⑨永禄二年(1559)真福寺権大僧都昌誉法印再建.当初は十二人の山伏が熊野から勧請したという(十二所権現、高岡郡北原村)
⑩永禄四年(1561)長曾我部元親勧請(若一王子、香美郡王子村)
⑪天正年間(1573)蚊居太子楠女勧請(熊野神社、長岡郡新改村)
⑫天正三年(1575)長曾我部元親勧請(熊野神社、長岡郡大篠村)
①②③④⑤⑧⑩⑫は土豪または武将やその関係者による勧請、
⑥⑦⑨は山伏、⑪は熊野比丘尼の勧請と考えられるものです。
吾橋庄のある長岡、大忍庄を持つ香美、横倉山を含む高岡などに熊野権現が増えています。これらの場所が熊野行者の活動拠点であったと推察できます。

 土佐は遊行宗教者や戦いに敗れたり、種々の事情で放浪の生活に入らざるをえなかった人が訪れて定着することが多かった土地です。
行基や弘法の巡錫伝説、『今昔物語』にあげられている醍醐寺の観幸、信濃の猟師であったが発心して出家した工藤大主、さらには重源、一遍、一向なども土佐を訪れています。また、俗聖などが土佐を訪れて、生をおえることも多かったようです。このため、やってきた聖をまつったり、御霊神の類にも遊行者をまつったものが見られます。
  熊野聖・山伏・比丘尼をはじめとする遊行者が、土地の土豪達と結んで熊野権現をはじめとする諸社を勧請するのに、大きな役割をはたしたことがうかがえます。
熊野信仰が広まるにつれて、土佐から熊野に参詣に行く人もでてきたようです。
応永25年(1418)幡多郡の瑳詑山住職が熊野参詣の先達職に任じられています。
永享 9年(1437)香曾我部氏の一族西山氏が、熊野参詣の費用を作るために地頭職を売ったことを示す文書が残っています。
文明十年(1478)十月 熊野那智の御師実報院に伝わる「米良氏諸国檀那帳」には、同院が玉井から土佐・八木氏を檀那として十三貫文で譲り受けたことが記されています。
慶長四年(1599) 熊野那智の潮崎氏は、それまで所持していた土佐国の長曾我部、香曾我部、一条、浅野一門、中村姓、ふく井姓、蓮池姓、きら氏の檀那株を新宮御師方に売却しています。
  このように中世末期には、那智や新宮の御師と土佐や他地域の先達、土佐の土豪を中心とする檀那の三者の関係が成立していたことをしめす文書があります。
  土佐からも先達である熊野行者に導かれて、熊野詣でを行う土豪達がいたのです。先達と檀那の関係は、現在のツアー旅行のツアコンとお客の関係ではありません。先達を師とする「師弟関係」のようなものでした。熊野への長い旅を通じて、強い人間的な信頼関係を先達と檀那は結ぶ事になります。檀那達を熊野へ導いた修験者の社会的な地位は高かったのです。その御礼として、熊野権現を自宅周辺に勧進し、氏神とすることもあったようです。
 近世土佐の修験道は本山派が優位になっていきます。
 研究者によると土佐には、江戸時代の初めには、250人、幕末には150人位の修験者がいたようです。例えば幡多郡では、本山派は中村の龍光院を中心に、聖護院院家の播州の伽耶院に属し、当山派は寺山の南光院に支配されていました。そして龍光院は40人、南光院は20人の修験者をその支配下においていたようです
 しかし、幕末の文久四年(1864)に江戸幕府に出された「霞書大略」には、土佐は伽耶院の「霞」(テリトリー)で、当山派の修験者はいないと報告されています。ここには、真言系当山派の土佐における凋落が進んだことがうかがえます。この背景には、土佐山内藩の本山派保護策と当山派への冷遇策があったようです。そのため、幕末には当山派は土佐藩から一掃されていきます。
 本山派聖護院所蔵の「院家院室末寺修験頭分書上帳」には、近世末期の本山派修験の拠点寺院が各国ごとに記されていますが、土佐に関しては次の通りです。
 直末院   佐川        安楽院    
 準年行事  土佐郡江之口村   明星院    
 準年行事  香美郡香宗土居村  龍蔵院    
 準年行事  安芸郡和倉村    改宝院
    準年行事  幡多郡中村     龍光院  
    準年行事  安芸郡伊尾喜村   寿福院  
    準年行事  吾川郡長浜村    常楽院  
これらが聖護院側から見た土佐の本山派修験の支配層だったようです。

 

   
高板山5
多くの霊山が行場としての機能を果たさなくなって久しくなりますが、今なお修験者の行場としてその命脈を保っているのが土佐の高板山(こうのいたやま)です。この山は高知県の物部川の上流にそびえ、一ノ森、ニノ森、三ノ森を併せて高板山と呼びます。北は阿波との国境尾根で、かつては平家伝説のある祖谷地方との婚姻も行われるなど交流が行われていました。そのためか物部にも安徳帝潜幸伝説があり、横倉山に至った安徳帝は、再び高板山に還幸されてこの山で崩御したとされます。
高板山6
 高岩山の一ノ森には剣のように切り立った四国岩とよぶ嶽が屹立します。ここから帝は、四国をながめたので「四国王目岩」と名付けられたいます。また、ここには「三種の神器」の内の神鏡を埋められたと伝わり、不動明王が祀られます。
高板山9四国王目岩
 ニノ森は平坦地で、帝の行在所であり、陵墓で、伊邪那岐命を祀ります。ここは別名は御天上ともいい、別に聖大権現を祀っていましたが、その社地が「不入ず」であったために、麓の笹部落に移したと言います。ニノ森、三ノ森には高板大権現が鎮座すると伝えられ、中腹の高板神社(旧称高板大権現)が遥拝所であったようです。ここには通夜堂もあり、これより先が女人禁制になります。
高板山3
 縁日は春秋の四月、十月の九日から十日両日で、九日は通夜があります。順を追って祭礼を見ていきましょう。
①夜は採燈護摩を焚きます。以前は六角形であったようですが、今は四角形の井桁組みになっています。
②唱文のあと五方に矢を放ち、太刀で九字を切ったのち点火されます。
③やがて導師が経木を投じ、続いて修験者が願立て(家内安全など)住所氏名を書いた護摩木を火中に投じられます。
④この間、導師は印を結び、太刀で九字を切りつつ祈祷、やがて火伏せの太刀を振ります。
⑤参寵者は、右廻り三回の火渡りを行います。
⑥続いて通夜堂でも壇護摩が焚かれ、この間参寵者の数珠繰りがなされる。百人前後の人びとの群がる大きな数珠です。
高板山1
嶽めぐり
 祭礼日には、奥の院への「獄めぐり」も行われていたようです。記録によって「獄めぐり」をたどってみましょう。奥の院まで約八キロメートル、帰路は約五キロメートル、先達に伴われて、各行場で行を勤めながらの参拝で、所要時間六時間。信者は白装束の石鎚信者が多かったようです。嶽めぐりの道筋には、童子像が迎えてくれます。その数は三十六王子。
像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。
一ノ森、ニノ森では、入峰記録の巻物を供え、しばし経文を唱えます。
その間に捨て宮滝(腹這いで岩の間を跳ぶ)
セリ岩(廣向きでないと通れないほど狭い)
地獄岩(長さ10mほどの岩穴を抜ける、穴中童子像あり)
そして、四国岩、千丈滝、三ッ刃の滝などの難所が続きますあります。
滝とは「崖」のことであり水は流れていません。
行場から行場への道はまるで迷路のように上下曲折しており、一つ道を迷えば数ヶ所の行場を飛ばしてしまいます。先達なくしては、めぐれません。

いざなぎ流の里  物部町2

当時の人たちはどんな気持ちで山をながめ、お山開きにやって来ていたのでしょうか?
 修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていました。天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。この場合には、神や仏は山上の空中に、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道とされ、
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
 
高板山11

山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、おそれられました。このような場所は行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったのです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされました。狐・蛇・猿・狼・鳥などの人里の身近かな動物も、神霊の世界と人間の世界をむすぶ神使として崇めおそれられたのです。境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。
 その山が、年に一度「開放」され「異界への入口」に立つことが出来るのが、お山開きの日だったのです。ワンダーランドに行くようなワクワクした気持ちで、参拝した人たちもいたのではないでしょうか。
高板山10
  高板山の現在
 高板山は現在は神池、椿佐古部落で祭祀されていますが、もともとは、安丸部落の安丸家が祭祀していました。安丸家は大和国から入国、安丸城主となりその後、江戸時代には笹・明賀地区の番所役人であったようです。そして、安丸城八幡宮とともに高板山を祭祀していました。高板山に「いざなぎ流」太夫が、関与していたことは明らかです。
 今では場所も分からなくなった「御つるい」という祭地では、「ミタツ天王」「丸し天王」「十万八天宮」を祀っていたと言われます。修験者たちは役行者を始祖として祀りますが、物部の祈祷集団いざなぎ流は「丸し天王=摩利支天」を祖神して祀っていたようです。
 しかし、現在は聖護院門跡から公認された修験道国峰修行の道場で、大聖不動明王を本尊する修験道場(行場)となっているようです。
いざなぎ流6

  「いざなぎ流」とは、なんなのでしょうか。
 「いざなぎ」とは「いざなぎ祭文」に登場する「いざなぎ様(大神)」に由来するようです。その祭文には、日本に生まれ経文の修行を始めた占い上手の「天中姫宮(てんちゅうひめみや)」が登場します。彼女が人を救うための祈祷(呪術)を求めて天竺にわたり、「いざなぎ大神」から人形祈祷や弓祈祷などの祈祷法を習い日本に伝えた、ということが語られています。
これが「いざなぎ流御祈祷(ごきとう)」です。これは古い「民間信仰」史料として貴重とされ、国重要無形民俗文化財に指定されてます。宗教なのですが組織はありません。「太夫」がさまざまな知識を習得し、管理しています。世襲制ではなく、なりたいものが師匠に弟子入りをして伝授するという形式です。太夫は普段は、林業や農業に従事し、依頼があると出かけていきます。
いざなぎ流5
 太夫の役割は4つあり、
氏神や家の「神祭り」、
病気治しの「病人祈祷」、
弓を叩いて神憑りし託宣(占い)をする「祈祷」、
山の神や水神をなだめ、自然災害を防ぐ「鎮め」
です。
いざなぎ流3

その中の病人祈祷の「盛りかえの法」には、次のように記されています。(意訳)
一斗二升、一貫二百匁の供物をし、神木十二の幣、大木七ツ幣、小木九ツ幣で祭壇をしつらえる。そして盆の中央にオテン様のお米と称して米粒を少々盛る。
その周囲には十二ヶ月に擬えて米粒を十二盛りにする。
そして各々の上に一文銭を置く。
まず祈祷は病人の生死から判じる。
病気を克服できるものなれば、オテン様の米粒が一文銭の穴から立てるのである。
日天様に生死をうかがうのである。
いくら祈念しても生と出なければ祈祷はそれで終わる。
米粒が上向けば続いて「盛りかえ」の祈禧に移る。
十二ヶ月の米粒のいずれかが上向くまで祈祷は続く。
上向いた月によって何歳まで生きると判じる。
つまり病人の黒星を白星にかえる、いわば命をつなぐ法が「盛やかえの法」である。
もうひとつ紹介します。 いざなぎ流祈祷の基本である「米占い」です。
米粒を入れた盆を祈念しつつゆすり、
その米粒の描く形状によってどこの何神の崇りと判じる。
災厄の根元を判じるのである。
そこで災厄を、除くには湯祈祷、憑物などには火祈祷などと具体的な祈祷となる。
この米占いは元来巫女の職分であって、かつてはこれをなす老女が行っていた。
このように物部地方の祈祷は、米占いを基盤にいろいろな祈祷法があります。
いざなぎ流2

また、「湯立て」もします。これは「湯立て神楽」と呼ばれています。
湯立てをすることから考えて、西日本地域では湯立てをおこなう神楽が非常に多いので、そのような神楽の流れを汲んでいることがわかります。こうしたいわば導入的な神楽をした後に、「本神楽」に入ります。本神楽は、家で祀っている神々のための祭りで、「御崎様の神楽」や「天の神様の神楽」「ミコ神様の神楽」など、家によって多少違いがみられますが、次々におこなっていくわけです。このような神楽の舞台には、「白蓋」と呼ばれる、一種の天蓋がつるされ、神楽はその下でおこないます。
いざなぎ流4

ここで前回にお話しした、土佐の旧香北町や仁淀町に伝わる安徳天皇伝説を思い出してください。「湯の沸いた時に神を招く=湯立の信仰」がありました。そして、物部では、今でも湯立の卜占と清祓がいざなぎ流によって行われているのです。ここからは
香美郡物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町
へとつながるいざなぎ流の太夫たちの移動がうかがえることを、お話ししました。別の形で言うと
阿波祖谷 →  物部の高板山 → 土佐横倉山
の安徳帝潜幸伝説の残る山々は、いざなぎ流修験道の活動ルートであり、テリトリーであったのではないでしょうか。
高板山4

 物部川と仁淀川の上流の霊山を見ていると、いざなぎ流修験者の痕跡が浮かび上がってきたようです。

参考文献 参考文献 高木啓夫  土佐の山岳信仰 大山・石鎚と西国修験道所収

 

  
高峰神社
 かつては、山それ自体に神霊が坐し、その聖なる地を不入(いらず)といい、鬱蒼とした茂みが村々のあちこちにありました。明治元年の神仏分離令の際に、村々の神社を「取調報告」するようにとの通達が全国に出されます。しかし、神社と言っても山そのものを信仰していた村では、本殿も拝殿も御神体もありません。これに対して土佐藩は
神体無キ神社等ハ、向後鏡・幣ノ内ヲ以神体卜致シ可レ奉祭候事
鏡・幣を今後は身体とせよ通達しています。同時に、小さな祠や神社は集めて合祀するように指示しています。
例えば旧幡多郡敷地村五社神社は、
「五社大明神 無宮 右勧請年歴不相知 山を祭り来」
と神社明細帳にあります。また旧土佐郡土佐山村菖蒲の山祗神社は近辺の山神八社を合祀したもので、いずれも「古来以 神林祭之」のように山を神として祀っていたのです。
 このように、特定の神体も安置せず山そのものを拝んできた姿をみることができます。それは山に対する最も素朴な信仰の形でした。
黒尊渓谷6

山の神霊はいろいろな姿となって現れます。
旧幡多郡西土佐村黒尊山では、次のような「桃源郷」が物語られていました。
黒尊山の神は大蛇で霊験ありよく願を叶えていた。
元禄の頃という。農夫、一羽の山鳥を追って宮林に入り、なおも追いゆくと一つの楼門に至り、宮殿は金銀の壁、琥珀の欄干、陣口の簾、五色の玉の庭のいさごを敷きつめていた。
 黒尊神は農夫の常々黒尊山を崇拝するを労い饗応の善美を尽し、巻物一巻を授け、決して他言せざる由を告げる。里に帰ってその巻物の事を問われて、すべてを口外してしまう。とたちまち農夫乱心し躍り上りて
「我こそ黒尊の神なり、おのれ人に洩すな堅く申含めしを早くも人に語りしか」と大いに怒り掻き消すごとく行方知れずになったという。
黒尊渓谷2
白髪の老翁も山神の化身としてよく語られます。土佐郡本山町白髪山の神は
背長七尺有余 御眼ハ日月ノ如ク輝キ 御鼻ハ殆高ク 御顔色赤面ニテ 左ノ御手二鉾ヲ持 右ノ御手二三ツ。亦逆木ノ杖ヲ突キ 巌上孤立チ給フ 御容鉢実恐シキ尊像
であり、猟神的性格をみせます。
3黒尊渓谷
工石山は雨乞信仰の霊山のようです。
各地に工石山という名前が付いた山があります。例えば旧土佐郡土佐山村高川前工石山、同村中切中工石山、旧長岡郡本山町奥工石山ですが、これらの山には雨乞伝承があります。例えば前工石山では
「妙タイト申大岩有 之右岩ノ内二三尺四方斗雨露之不掛所有之、其所ヲ左ノ通相唱候由、妙タイヒジリ権現無宮神体無之」
と伝えられます。奥工石山も
雨乞霊験あり 汚すことあれば神怒にあう」と言います。
5黒尊渓谷
 土佐は「海の国」ですから、高山の巨岩が光り輝いて舟を導いた因縁を語る話が多く伝わります。また、神聖な山(カンナビ山)を拝んでいた遥拝所が祭地となった所も多くあります。先ほど述べた前工石山や中工石山も、もともとは奥工石山の遥拝所であったようです。土佐町の三宝山も本川村稲叢山の遙拝所だったと言います。しかし、時の流れとともにいつの間にか、本山の方の祭祀伝承は忘れられ、遥拝所があたかも昔からの祭地であったごとく思われるようになります。
 石鎚神社勧請地も土佐の各地にありますが、その多くはかつてあった高峰から麓へと下ろされています。鉄鎖だけが山頂で錆びたままになっているという姿が各地で見られます。
  それは近世になって山岳修行を忘れて、里に留まり加持祈祷に専念した修験者の姿にダブって見えてきます。

幡多郡100景1
 次に県西部に多い「地蔵を祀る霊山」を見てみましょう
  旧幡多郡十和村高森山にも地蔵が祀られていました。旧三月、七月二十四日を縁日として、大人相撲がありました。シメアゲと称して、土俵の注連縄を取り除く時に三人組合せの相撲が取られたようです。三人相撲は、起源は神相撲で、神に捧げられたものあったのでしょう。また神社からいただいた幣を田畑の地神に立てます。これを「鎮めの地蔵」とよんでいたようです。
幡多郡100景3
  佐川山は幡多郡大正町奥地にあり、この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵があります。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
 これらの山々のさらに奥地の高岡郡祷原町雨包山、星ケ森にはエビス像があり、やはり作神信仰がみられます。祷原地方は、社家掛橋家を中心に橘家神道の盛んな地方ですので、地蔵信仰の作神的要素がエビス神と結合していたものと、研究者は考えているようです。
黒尊渓谷4
 地蔵由来はさらに発展・変化を見せるようになります。
佐川山ではいつの頃からか、山が荒れに荒れ、死者など不吉なことの続くと、毎月二十四日をモソビ・或いはタテビ(休日)と呼んで、山仕事一切を休みとするようになります。もしこの禁を犯せば、山の怪に遭うといわれ、この日は地蔵さんが獣を自由に遊ばす日だとされるようになります。毎月二十日の山ノ神祭りよりも地蔵の崇りを畏れ、この日は炭竃の火を見る時は、事業所(営林署)に勧請している地蔵に線香をあげ許しを乞うてからでないと竃に近寄らなかったと伝えられています。

五在所の峯
 旧高岡郡窪川町と幡多郡佐賀町の境に五在所の峰があります。
ここには修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。矢のあとがあることから「矢負の地蔵」とも呼ばれていました。この山はもともとは不入山で、小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は修験や両部の祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。
 昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
高峰神社2
 土佐にも豊作祈願の対象となる穀霊信仰の山々が多いようです
穂掛けの風習と稲作を司る神の伝承が豊富に伝わるのは旧土佐町芥川の三宝山高峰神社です。三宝山と名がつけば稲作信仰があると見てまず間違いないと研究者はいいます。
稲が稔ると祈願成就の供物として、引き抜いたままの稲穂を社殿に吊り掛ける「掛穂」の風習がこの神社には残っています。今では高知は、ビニールハウス全盛ですのでハウスの床土を持ってきて拝殿下に撒く人もいます。掛穂については次のような伝承が伝えられています。
 いつの頃か芥川主水なる者、猪猿多くて作を損なうので作小屋を山中に造り、夜夜に猪猿を追い払っていた。ある深更に小屋の棟から大きな足が下ってきた。主水これを弓矢で射んとしたところ、我は三宝山に仕える者であるが、この山の大神は作物豊熟守護し給う神であるから、もうここに来る必要はないと告げ、鐘、太鼓を響かせて山上に去って行った。
 主水は伏拝して直に帰宅し再び作小屋に来ることもなかった。さて秋の穫り入れ頃に来てみると猪猿の害少しもなく豊作であったので、その初穂を山頂の大檜に掛け献じた。これより年々大歳の夜に掛穂をする風が生じた。
高峰神社3
こうして
「御社ハ無之シテ大三輪神社ノ如ク 只御山一体ヲ社トシテ 各遥拝ヲシタリ 又大檜ヲ神体卜祭リタリトソ」
といわれ豊受神を祀りはじめたと記されます。
 この高峰神社は、旧本川村稲叢山を本宮としています。
 稲叢山については次のような話が伝えられます
夏は雨と霧に隠れて樹木茂りて闇く、冬は雪降りて常に白く、村人これを不入山とも呼ぶ。もし入る者あれば七日の精進が必要であった。当時、高峰神社は、稲叢山の遥拝所であったが、養老年間のことという二百歳まで生きた十郎、九郎、粟丸の三兄弟が稲叢山の神々を勧請したという。
 またある年大いに不作で三宝山に参り立願したところ、老人どこからともなく現れ、「粟一升を汲み切りにして蒔けよ、すれば秋には三石三斗三升穫れよう。その返礼には粟の神楽を致すべし、其の神楽の法は、清浄な所に竃を築き三升炊ぎの羽釜に三升三合三勺の粟をコシキに入れ 十二返洗って蒸し、湯のわき上る時に神々を招けば神等勇み給う」と告げて姿を消したという。
 ここから三升三合三勺を穫った時は、必ず粟神楽を奉納したと伝えます。この竃を築いた所が芥川の竃森といいます。 稲叢山の名称は稲に似た草の自生するためとされ、これが稲叢山の神々や山人の食料でした。
高峰神社4
さらに次のように続けます
 ある年に栗ノ木部落の住人太郎平なる者、これを刈取らんと鎌かけるや、たちまちに山は鳴動して暗闇となり、大いなる翁が現れて鎌を奪ったという。それより鎌取り山神と申して祀り栞ノ木に小社を建立したという。
 安芸郡下の藤右衛門なる者、ある年に半分ほど稲刈りをしたが平年の半分ほどしかない。加治子米の減量を願い出たが許されず稲穂と鎌を持って三宝山に詣でたところ、老翁現われその鎌を片手に叢中に消えて行った。家に帰ると刈り残した稲は重く垂れて満作になっていたという。それ故か、毎月三日の日の出時に鎌の手を休めば朝日のごとく栄え、三宝山に詣る者一生食物に不自由せずという。
 以上の伝承で注意したいのは、鎌が物語られていることです。これは恐らく鍋釜の釜からの付会伝承で、湯の沸いた時に神を招くのは、湯立の信仰に基づくものと研究者は考えているようです。
鉢が森2
旧香北町鉢ケ森は安徳帝伝説の地ですが、帝の兜の鉢を埋めた話が伝わります。
 山の主とよぶ妖怪変化を鎮めるために「兜の鉢」を埋め山祇命草野姫命を奉祀したというのです。ここには「兜の鉢」が祭祀具として語られています。
また安徳帝御陵参考地の横倉山に接する高岡郡仁淀村都にも帝の奉持されたという釜跡があります。これら釜や鉢は、湯立祈祷用の祭具であったと研究者は考えているようです。

鉢が森大権現1
これら伝承地の峰々へと続く香美郡物部村では、今でも湯立の卜占と清祓が行われているからです。そこには
香美郡物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町
へと四国山地の山々を湯立を伴った宗教者が移動していったことがうかがえます。それは恐らく物部地方のいざなぎ流と密接な関係ある一団だったのではないかと研究者は考えているようです。彼らが、これら山々の村人たちの山への信仰に大きな影響を与えたようです。阿波祖谷から土佐横倉山に至る安徳帝潜幸伝説の残る山々は、特定の宗教者達で結ばれた信仰の道だったのかもしれません。
黒尊渓谷8

参考文献 高木啓夫  土佐の山岳信仰 大山・石鎚と西国修験道所収 

 

                 
                    

      
高越山11
                                      
 阿波にはいくつかの霊山と呼ばれる山があります。
たとえば、古来祖霊があつまる所とされている神山町の焼山、阿南市の太竜寺山、阿波郡市場町の切幡山、板野郡上板町の大山などが挙げられますし、漁民の信仰をあつめた阿南市津の峯町の津の峰なども霊地です。やがてこれらの霊山の中には、海を越えてやって来た熊野派修験者が、吉野川に沿って活動を展開して、修験の霊山となったところもあります。修験の霊山に「弘法大師伝説」が、付け加えられ四国霊場に「成長」していったお寺もあります。前回は、讃岐山脈の大滝山を取り上げました。そして、大滝山は、高越山と仲が悪かったという話を紹介しました。
高越寺絵図1
 今回は、大滝山のライバルだった高越山を見ていきます。
 高越山は忌部氏とむすびついて「忌部修験」ともいえる独自の修験を生み出した山です。この山の修験道との結びつきは古く、剣山以前から盛えた修験の霊場です。これに対して大滝山は、前回紹介したように空海や聖宝の活躍をとく真言修験の山です。そして、どうやらこの両山は中世から近世にかけて、阿波の修験道を二分する勢力を持っていたようです。
 
高越山1

高越山は吉野川の流れる山川町にそびえ立つ1123メートルの高峰で、古くから「阿波富士」と呼ばれる眺めのいい山です。里の人たちが仰ぎ見る甘南備山として、古くから信仰を集めた霊山であることが一目見ると分かります。今は林道をたどれば里から1時間足らずで山の南側の駐車場にたどり着くことができます。境内から見える景色は絶景で、眼下を「四国三郎」吉野川が西から東へ悠々と流れていきます。遠く鳴門の潮路をへだてて、淡路島の山波や、その向こうの紀伊半島まで望むことができます。
 しかし、昔は下から歩いて登って来ました。

高越山4

途中の「万代池」の周辺には行場が見られます。この池から東に200メートルほど小路を行くと、「覗き岩」の行場があります。これは山腹に数百メートルの岩波があって、岩上に腹這って覗くのでこの名があるそうです。この岩場には鉄梯子が架けられていて、行者や元気な若者はこの梯子で上り下りしていたようです。

高越山3
 本道に戻ってさらに登ると、「黒門」があます。この辺りから左へ小路を入れば、「せり割り」の行場です。十余メートルの二つの大岩がせり割りを造って切立っています。参拝者達は、この割れ目を登り、二つの岩石にかけた丸木橋をわったといいます。これも行の一つだったのでしょう。 ここからは、寺に近く鐘の音が頭上に響いてきます。
高越山5

 山門の下は御影の石段、数十段、仁王の門をくぐると敷石が正面の本堂に通じています。
昭和十四年一月二十八日に大火があり、立ち並んでいた本堂・拝殿・回廊・通夜堂・庫裏・大師堂が焼失。わずかに仁王門・鐘楼が災難から免れました。仁王門の階上におかれていた重要文化財「涅槃図」や、その他の寺宝は助かったそうです。
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  この本堂は昭和24(1949)年に戦後の物資の乏しい中、地元の人々の強い願で再建されました。先ず第1に感じるのは、本堂が見慣れないスタイルだということです。よく見ると、本殿に前殿を接合し,前殿に向拝を付けて建立されています。
高越寺2

じっくりと見ていると大きな唐破風は、堂々と力強く感じます。きらびやかな装飾が目をひく本堂には,金剛蔵王尊脇仏として千手観音と修験者のヒーローである役行者が祀られています。本殿入り口の扁額は木彫で,15代藩主蜂須賀茂昭の直筆といわれています。国内安定化の一貫でしょうが、江戸時代には阿波藩からの保護もありました。
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 本堂の彫刻群は美馬郡(現美馬市)脇町拝原,十世彫師三宅石舟斎の大作です。これは石舟斎最後の作品となったようです。山門は,第28世良俊上人の起請によるもので,県下五大重層門の一つとされています。この寺院への人々の信仰の強さが伝わって来ます。
高越寺1

このお寺の「修験道の伝統」は、いつ頃から始まるのでしょうか?
 寛文五年(1665)、高越寺の住僧宥尊によって書かれた「摩尼珠山高越寺私記」には、次のように記されています。
「天智天皇の御宇、役行者基を開き、山能く霊神住む。大和国吉野蔵王権現の一体、本地に分身し、体を別って千手千眼大悲観世音菩薩となる」

 ここからは、江戸初頭ころの、この寺の姿がうかがえます。役行者ー吉野蔵王権現という修験道の流れが見られます。      
 
IMG_2665

さて、この寺のことをしるした最初の記録は、密教小野流のうちの金剛王院流の祖として知られる聖賢の『高野大師御広伝」(元永元年[1118])のようです。ここには阿波国高越山寺(現在の高越寺)について、次のように記します。
大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々」

 ここからは高越寺は四国霊場ではありませんが、12世紀初頭に大師信仰の霊場として存在していたことが分かります。大師信仰のあるこの寺が、どうして四国八十八霊場にならなかったのかは、私にとっては大きな謎のひとつです。
高越寺4

次に古い史料は南北朝の14世紀後半のものです。
鎌倉時代から江戸時代にかけて、高越山の麓で高越寺の下寺的存在として活躍した良蔵院と呼ぶ山伏寺がありました。この良蔵院の所蔵した古文書が「川田良蔵院文書」として「阿波国徴古雑抄」の中に紹介されています。この文書の最も古いものが、貞治三年(1364)の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」です。「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」とは、「檀那を譲り渡す」ということで、檀那株の売買は修験道の世界で一般に行なわれていました。ここからは鎌倉時代には、高越山の麓には何人もの修験道がいて、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに連れて行っていく「熊野行者」たちがいたことが分かります。同時に、高越山周辺は修験道の聖地となり修験者達のさまざまな宗教活動が展開されていた事がうかがえます。

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 次に、高越寺の名前が見えるのは、戦国時代の天文二十一年(1551)の「天文約書」のようです。その全文を紹介します。
   定条々
  阿波国 念行者修験道法度之事
一、喧嘩口論可為停止之事  
一 庸賊道衆なふるへがらす之瀋
一、淵国一居住之 山伏駈出之励、於国中二特料仕義可為停止、但遠国之衆各別也
一、其音行者之内、大峰之願参御座侯所、為余人不可到之事                 
一、於念行者之内、何之衆成共、立願被服侯共、其念行者二可被上之事
一 御代参之事、大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越何之御代参成共、念行者指置不可参之事
一、御沙汰事、依方聶買不申、御中評儀次第二可仕侯、此人数何様之儀出来候共、注進次第二飯米持二而可打寄事
右条々、従先年有来候雖為御法度、近年狼二罷成候条、得国司御意相改侯間、此度能々相守候事尤二侯。若、於相背者、御衆中罷出可為停止者也。依而如件。
    天文弐拾壱壬子年十一月七日
 会定柿原別当坊 岩倉白水寺 大西畑栗寺 河田下之坊 麻植曾川山 牛嶋願成寺 浦妙楽寺 大粟阿弥陀寺 田宮秒福寺 別宮長床 大代至願寺 大谷下之坊 河端大唐国寺 高磯地福寺 板西南勝房 板西蓮花寺矢野 千秋房 蔵本川谷寺 一之宮岡之房 合拾九人
  ここでは、阿波の念仏修験道者の法度(禁止)項目が、一堂に会した修験者達によって再確認されています。内容から当時の修験者の様子を知ることができます。ここで注目したいのは。法度6条です。ここには修験者が檀那衆に頼まれて代参する霊山としてあげられているのが「大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越」の5つなことです。ここには石鎚や剣はありません。剣山が修験者にとって霊山として開発されるのは近世も後半になってからだったことは、以前に述べました。 
 また合意した19寺の中に、前回に大滝山の下寺的存在であったと紹介した「岩倉白水寺」が2番目に見えます。そして、大滝寺の名前は見えません。

高越山行場入口
 また高越寺には室町時代を降らないと思われる木造の理源大師像があります。この像は等身大の立派なお姿で、前後の二材矧ぎという古風な寄木造りです。ちなみに理源大師は、醍醐修験道の開山者で、修験者の崇拝を集めていました。こんなに立派な像は、県内には他にはありません。
 また、このころから高越寺は、東の大峯に対して自らを西山と呼びはじめています。
このような「状況証拠」から、高越寺は中世阿波国における修験道のメッカであったと研究者は考えているようです。
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修験道は、どういう風に高越山に根付いたのでしょうか?
高越山をとり巻く地域は、麻植郡山川町・美郷村・美馬郡木屋平村などです。これらの地は古代、忌部氏領域であったとされます。中世にそれらの地域を支配したのは、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。

山﨑忌部神社1
忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
山﨑忌部神社3 天岩戸神社の神籠石(こうごいし)

 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。
この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
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 こうして「忌部修験道」とも呼ぶべき修験道の阿波的な形態が生まれます。羽黒山・英彦山・白山などと同じ成行きと言えます。修験道が背負うべき神が、阿波では忌部の神となったのです。
江戸時代に書かれたと思われる「高越大権現鎮座次第」には冒頭に次のように述べています。
吉野蔵王権現神勅に曰く。粟(阿波)国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め諸神達の集る高山なり。我も彼も衣笠山に移り、神達と共に西夷北狭を鎮め、下城を守り、天下国家の泰平を守らんと宣ひ、早雲松太夫高房に詰めて曰く。
 「汝は天日鷲命の神孫にて衣笠の祭主たり、我を迎え奉れ」と、神記にて、宣化天皇午八月八日、蔵王権現御鎮座也。供奉に三十八神一番は忌部孫早雲松太夫高房大将にて大長刀を持ち、御先を払ひ、雲上より御供す。此の時震動、雷電、大風大雨、神変不審議之御鎮座也。蔵王権現高き山へ越ゆると云ふ言葉により、高越山と名附たり、夫故、高越大権現と奉
  中候。……
とあります。「吉野蔵王権現が衣笠山(高越山)に降臨した際、天日鷲命の神孫である忌部の孫の早雲松太夫が御先を払って雲上より御供した」という表現は、先ほど述べた「修験道が忌部の諸神と融合した」ということと重なります。
 江戸期の享保年中(1716~36)に、阿波国内神名帳作成をきっかけとして、「忌部公事」と呼ぶ問題が起きます。
これは『延喜式神名帳』の忌部神社の正統を決める事件でした。その際に自らが正統だと名乗り出た多くの神社の中に、高越大権現も入っていました。当時の神仏習合の有り様をよく示しています。
高越山8


参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道
 

 

                                     

 
大滝山5
          
  なだらかに続く阿讃の山脈(やまなみ)は、どれが頂上か見分けのつきにくい山が続きます。その中で一番高い龍王山と相栗峠をはさんで、並び立つのが大滝山(946m)です。この山の北側周辺は、藩政期から高松藩からの寄進を受け、大滝寺のひろい社領として護られてきたために、上部はいまでもよく自然林が残されています。

大滝山2
 大滝山の最高点は神社裏のピーク(946m)です。しかし、残念ながら山頂付近はヒノキが大きく繁り何も見えないので、訪れる人はあまりありません。多くの人が目指すのは、県境尾根を西に進んだ三角点のある城ケ丸です。なだらかで整備された尾根道はには、大きなブナも見えます。讃岐の尾根道で見られるのはここだけではないでしょうか。他にもケヤキ、アカガシ、ヤマザクラなどが茂り、森林浴には最適です。香川県側は「大滝山自然休養林・県民いこいの森」として整備されていますので、森林浴には最適です。

大滝山4
 ここまで書いてきてハイキング案内のようになっていることに気付きました。
今日は、修験道の拠点寺院であった大滝寺について、見ていきたいと思います
ここには現在、山頂に西照神社とその下に大滝山がありますが、明治以前の神仏分離以前は、このふたつは一体の施設で、僧籍を持つ修験者が管理していたようです。
「大滝寺縁起」によると、
①奈良時代に行基菩薩が香川県塩江より来山、この寺を建立したこと、
②平安期の初め延暦十年(791)空海が来山、修行し、
③空海が西照大権現の尊像を彫刻し、法華経出現品を一石毎に一字記し堂の左右に納めた
と記します。
 「行基ー空海」開山というのは、真言寺院の一般的な創建由来ですが、郷土史家や地元の人達の中には、この「空海伝説」を積極的に肯定する人も多いようです。
 というのは、空海の書である
『三教指帰』の中の「阿州大滝岳に求聞の法を修め……」
とある大滝岳を、この大滝山とみなすからです。
縁起は、また天安三年(859)の聖宝の登山を力説します。現在、寺の西方にある高野槙は、聖宝お手植であることや、聖宝にちなんだ男女の厄除厄流の行事が行なわれていることが記されています。

西照神社1
 どちらにしても「聖」伝説が色濃く漂うお寺なのです。
 阿波の美馬町郡里に願勝寺というお寺があります。
古寺で、いくつもの文化財があり、寺独自の記念館も整備されています。
この寺には中世以来、大滝寺と深い法縁関係があったことを示す史料があります。戦国末期の文禄三年(1594一五九四)に書かれた「願勝寺歴代系譜」です。この系譜は、当時の住職快盤によって記されたものです。その第六代智由上人の項に、大滝寺に関する記述が見えます。
…後空海上人モ阿波二来り 当福明寺(願勝寺の旧名)二留錫シテ 護摩堂ヲ立テ 本尊不動明王ヲ自作、爾来真言密宗二改ムト云、其比、空海上人 阿波卜讃岐中山ナル大滝ノ峯ニ登り 国土安全ノ祈ヲナスノ処 不思議ノ老翁忽然卜現レ、我是汝が遠祖天忍日命ノ神使也卜。
 空海曰く 其神跡イヅレナルヤ。翁曰 即此処也卜 古塚ヲ七つ其形バ古十墓 変シテ古塚二入テ身ヲ隠ス扨コト故アラ卜此処 一草庵ヲ構 其霊ヲ祭ル 其草庵後 一大滝寺卜改 其神ヲ西照権現ト号ス・智由ノ弟子智信坊ヲ以テ此寺ノ法燈ヲ続カシム
中略……国司藤原道雄西照宮二神田ヲ寄附スト云。
 空海が願勝寺で修行後に大滝峯に登って「老翁」に出会い、西照権現を祀るためにそれまであった庵を大滝寺と改めたとします。ここからは、ふたつのお寺が修験道の流れをくむ寺で密接な関係にあったことがうかがえます。
大滝山3
 もうひとつは、天正三年(1575)の阿波法華騒動です。
これは「中世阿波宗教史 最大の騒動」といわれれます。
騒動のきっかけは、戦国大名の三好長治が日蓮宗に熱烈に帰依して、阿波国内の一般庶民にまで、法華に改宗を強制したことに始まります。彼は堺の妙国寺の僧三百余人を阿波に派遣し、他宗寺院に改宗の折伏を働きかけたのです。この時に、最も果敢に抵抗を示したのが真言山伏たちでした。三千人の山伏達が、三好氏の居城勝瑞の城下で大デモンストレーションを行います。

三好2
「願勝寺歴代系譜」には、その時の様子が次のように記されています
第二十五代快弁上人の項に、
 …又五郎勧メニヨリ長治公(義賢の子息)日蓮宗二帰依シ 同三年(天正三年)ニハ 阿波国中生レ子迄一人モ残ラス日蓮宗ニナシ 法花(華)経ヲ戴カセント泉州堺ノ妙国寺、経王寺、酒塩寺ノ三ケ寺ヲ阿波へ招待シテ 本行寺二住セシメ、法華坊主三百人南方北方手分シテ 士農工商ノ隔ナク残ラス法華経ヲ戴キ 法華宗トナルノ時、滝寺ノ上人ハ 上命辞シ難シト直二改宗シテ法華宗ノ弟子トナル。
 願勝寺快弁ハ 法華坊主ヲ相手トシテ問答ヲナスト雖、時ノ権威二当り難シト弟子三人ヲ連テ其夜二立退キ高野山二登り法華退治ノ計議ヲナス。此時阿波国中二真言坊主ハ願勝寺ノ外ナシト上方迄モ風聞ス。
 快弁ハ高野山ニテ法華退治ノ一策ヲ儲ケ。阿波へ帰りテ同意ノ寺院ヲ訪ラヒ密事ヲ談シ、阿波国ノ念行者数多クノ山伏ヲ催シ、持妙院へ訴訟シ、日蓮宗対シ不当状ヲ三尺坊二持タセテ本行寺へ遺ス処、妙国寺普伝上人返答延引、ヨツテ法華坊主ヲ打殺スベシト我々三千余人ノ坊主ハ 此度ノ法華ノ為ニスト無鉢二本行寺へ押入り騒動二及フ。
 其魁トナル人々二ハ 大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻植曾川山、牛ノ島ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大粟ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノ至願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大唐国寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮華寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ。
 忌部郷忌部十八坊ヲ始 其余ノ神宮寺別当附属ノ修験神坊ノ行者共ハ 此事二与セズト雖、国中ノ騒動大方ナラス、是事ヲ聞テ三好家ノ大老篠原自遁馳来リ、種々曖ヒニヨツテ妙国寺、経王寺、酒塩寺等ヲ初メ此外三百人法華坊主ヲ森志麻守請取テ船ニテ上方へ送リケレハ、篠原自遁真言宗ノ寺々ヲ呼出シ、夫レ元ノ宗旨ヲ守ルベシトノ厳 命ニヨツテー旦(其騒動治リ……(後略)
 
 この中の法華教反対運動の中心として活動した寺院の中に、大滝寺の下寺的存在であるお寺がいくつかあるようです。それらの中に、先ほど見た願勝寺や
脇町方面からの登山口の岩倉の地にあった白水寺(岩倉の坊)があります。これらの反対運動の背後に、大滝寺があったことがうかがえます。同時に、大滝山が中世の修験道山伏の一中心でもあったことも分かります。
三好氏1

 一方で、修験道でも「忌部十八坊」や「滝寺ノ上人」は、反対運動に参加しなかったようです。これは忌部十八坊が修験道の世界において、大滝山の系統と別系統であり、対立関係にあったことを示しているのではないかと研究者は指摘します。忌部十八坊は「忌部氏」を祀る地方的な修験道であり、中央(高野山)と連がる大滝山とは、相入れない一面をもっていたようです。

大滝山集落1
 ちなみに、大滝修験道と忌部修験道(高越山)には、こんな話が残っています。
大滝山と高越山は仲が悪く、再三にわたり「石合戦」をしたというのです。
高越山から投げた石が大滝寺の床下にあるとか、脇町や隣接の阿波町のあちこちに残っているという話が伝わっています。また逆に、大滝山から投げた石は、高越山まで届かず「拝原」と呼ぶ地にあるとかいわれます。この石合戦の背景には、大滝山と高越山をそれぞれ拠点とする山伏が修験道の世界では属する集団を別にして仲が悪かったということなのでしょう。
 岩倉の白水寺は江戸時代には愛行院と称し、この地方の修験道の一方の旗頭でした。
『阿波志』には
「愛行院、岩倉村に在り白水寺と称す、天文約書に見ゆ。泉あり白くして甘し、優婆塞居る、租及び丁役を除す」
と課役が免じられていたようです。白水寺は「願勝寺歴代系譜」のほか、高越山の概で記した天文約書にも見えているので、中世以降には、大滝寺に代わって修験道の世界で活躍したお寺であったようです。

大滝寺2
  江戸時代の大滝寺は? 
 大滝寺は寺伝によると、江戸時代にはこの地方の支配者稲田氏から禄を与えられます。
その他にも、西照神社の峰より東へ八丁、西へ八丁、それから麓に至るまで寺領として認められたといいます。また、寺の裏手(北側)も高松藩より権現林として寄附されていました。さらに同藩から供米として五十石を与えられていたと記します。
 その結果、山頂の伽藍の建築物としては、登山道には鳥居の数が十八基、寺域には西照大権現一宇、竜王堂・観音堂・不動堂・護摩堂・奥院に熊野十二社大権現などのほか、多数の建物があったと記します。今日に残された自然環境は、この時の寺域のようです。当時の盛大さがしのばれます。
大滝寺3
 
しかし、明治の神仏分離によってお寺と神社は分けられ、お寺は下に下ろされました。そして、多数あったという伽藍の建築物も地に帰り、ケヤキ、アカガシ、ヤマザクラやブナなどの巨木が茂る神域として私たちを迎えてくれます。

参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道
 

 

                                     

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