瀬戸の島から

2020年02月

         
2高群逸枝
  高群逸枝が娘時代に四国遍路を行っていることを知りました。彼女が日本の「女性史学」の創設者であり、詩人でもあったくらいの知識しか持ち合わせていなかったので、大正時代に若い女性がなんで、四国遍路なの?というのが最初の感想でした。
その疑問に答える前に彼女の生い立ちを見ておきましょう。
 
2高群逸枝2
 生い立ちから遍路行まで 観音の子として誕生
高群逸枝(1894~1964)は、熊本市南郊の農村で、小学校の校長を務める勝太郎、登代夫妻の長女として日清戦争が始まる年に生まれます。夫妻には3人の男の子が生まれましたが、いずれも育たなかったたようです。そこで、一姫二太郎式の考えから、筑後大和郡の清水観音に女児出生の願をかけます。勝太郎夫妻の願い聞き届けられ、天は初観音の縁日(正月十八日)の女児を授けます。こうして生まれた逸枝は父母から
「観音の子とよばれ、その待遇を受けて育つ
として育てられたようです。
 逸枝は、学校長を務める父の転勤で農山村を転々としながら育ちます。母登代は、結婚してから夫に学問の手ほどきを受け、塾生に教えるほどの素養の持主だったようです。幼い娘には、昔話や物語を語り聞かせたといいます。逸枝の「夢みる人」という資質は、母に負うところが多かったようです。
最初に簡単な年譜を示しておきます
1909年 熊本県立熊本師範学校女子部入学
1910年 師範学校退学
1912年 熊本女学校4年に編入
1913年 熊本女学校修了。鐘淵紡績に女工として就職
1914年 西砥用尋常高等小学校の代用教員に就任。
   のち、父が校長をしている佐俣小学校へ転属
1916年 父と共に払川小学校へ転属。橋本憲三と文通を開始
1917年 教職を辞職し、熊本市専念寺で新聞記者修行に専念
1918年 四国巡礼に出発。九州日日新聞に『娘巡礼記』を連載
1919年 九州新聞で『愛の黎明』を、大阪朝日新聞に破調短歌を投稿。憲三と婚約
1920年 上京。世田ケ谷村の軽部家に寄宿。母の登代が死去
1921年 『新小説』4月号に長篇詩『日月の上に』掲載。熊本県八代郡弥次海岸に転居
1922年 再び上京
1927年 父の勝太郎が死去
1930年 平塚らいてうらと無産婦人芸術連盟を結成、『婦人戦線』を創刊

最初の疑問「なぜ若い女性が四国遍路に出かけることになったのか?」にもどりましょう。
  逸枝が満23歳を迎えた大正6年(1917)、ヨーロッパでは第一次大戦のまっただ中でロシア革命が勃発する年になります。日本が戦争景気で好景気に沸いていた時期でもあります。この年に、後に夫になる橋本憲三との出会い、その恋愛問題に悩むことになります。一方秋には、教職を辞して、九州日日新聞社に入って新聞記者になろうとしますが失敗。「一週間も二週間も食べない」と自伝に記すほどの窮乏生活に陥ってしまいます。
①日に三度血書を届けたというH青年からの求愛
②恋愛関係にあった憲三との仲のこじれ
③転職の失敗
などの問題が渦巻いて、どうにもならなくなったようです。
「憲三からは冷やかにあしらわれ、H青年からは逃げきれず、職なく、飢え、人生と生活とのいっさいに追いつめられた敗北からの捨身の脱出」とも、「無銭旅行の、生死さえも運命の手にゆだねる出発」
と自伝には記されています。まさに「戦局打開」のための「転戦」が四国巡礼だったのかもしれません

 逸枝は、最初は花山院の御遺蹟である西国三十三ヶ所の巡礼を最初は考えたようですが、立案過程で経済的な理由から、より近場の四国八十八ヶ所になったようです。御詠歌だの御和讃だのを見せられると、その気になって胸が躍り、和讃の一節を参考に四国遍路の準備を始めます。先達から宿の心得も聞きます。
 和讃の一節
 麻の衣にあじろがさ
 背に荷俵三衣のふくろ
 足中草履をめし給ひ
 首にかけたる札ばさみ
 縦6寸に幅2寸
 金剛杖を右につき
 左のみ手に数珠を持ち

 準備した遍路の旅装、携帯品
 一、つま折れの菅笠               |
 一、おひづる(背には亦条を入る)
 一、脚絆、足袋、草鞄、手貫
 一、札挾み(縦6寸巾2寸)
 一 袋((紙インク、ペン、書籍、着更、小刀、印、諸雑品)
そして、彼女なりの次のような「出発の哲学」を掲げます。
「刻々の推移に不安をもこたず、
欲するものを率直にもとめ、
拒まれれば去り、
生命に執着しない。」
これを胸にして四国に向けて出発します。それは 大正7年(1918)の6月のことでした。
 
2高群逸枝24

一笠一杖、四国に向かう  
 堀場清子氏は、この旅立ちを
「無」に立って出てしまう 「捨身」で人生をきりひらく』
と評します。
「無」に立って出てしまう……こうした捨身の行為を逸枝は生涯に何度も敢行して人生をきりひらき、自伝の中で『出発哲学』とそれを名付けている。だがその決然たる信念とはうらはらに、巡礼初日の彼女は、ハンカチを顔にあて、好奇の目や囁きの間をぬけていく。沿道の人々は彼女を暖くもてなし、巡礼になるような人じゃないと不審がり、由ある家の家出娘だろうから保護せねばと相談したりする。」
 周りの好奇な視線や質問に対しては、こんな話をしたようです。
「私が生まれる時に母が、観音様に『此子を丈夫に成長さして下さいましたら屹度(きっと)一人で巡礼いたさせますから』と誓った事(その前幾人もの子供がみんな亡くなつたから)を話した。此れは事実である。私の母は大の観音様信心である。」
と逸枝は答えるようになります。そして、豊後を目指す道筋での彼女は、こんな歌を詠んでいます。
 さびしさは 肥後と豊後の 国ざかい 
       境の谷の 夕ぐれのみち
 そして四国目指して前に進んで行くにつれて、胆がすわっていきます。意気軒昂と歩いていると夕暮れ、一人の老翁に呼び止められます。それが伊藤宮次老人でした。
2娘遍路
熊本から別府までの行程
大正7年(1918)6月4日、熊本の寄寓先の専念寺を出発し、大阿蘇の連山を目に歩き始めます。
6月4日 熊本出発。途中、歳を18と偽る。大津泊。
6月5日 立野、梅原広一宅泊。
6月6日~阿蘇郡坂梨村浄土寺2泊。坂本元令様に感謝。
6月8日~竹田、新高野山(瑞泉寺)にて宿泊を断られ、岡本村狭田、古谷芳次郎宅2泊。
6月10日~東大野村中井田、伊藤宮次(伊東宮治)老人(73歳)に出会い、同宅長期滞在。老人は観音を夢見し、高群を垂迹者と理解し、女王さまのように扱われる。しかも、四国への同行を申し出る。サンチョパンサの登場。
7月9日~伊東老人と中井田から汽車で大分に向かう。大分市塩九升町、伊東老人の親戚、阿部宗秋宅。
逸枝は、伊東老人との出会いをこんなふうに記しています。
見知らぬ国の山路にはかなく行き暮れた旅の娘に、温い一夜を恵んでくれた孤独の老人(73歳)が、夢に観世音のお告げを得たとて、繊弱い処女を護るべく私に従い、共にへめぐった四国八十八ヶ所、四百里、行乞と野宿の一百日の思い出を、昨日のことのようにも思い出す止とができる。 
老人は観音を夢見し、高群を垂迹者と思い込み、女王さまのように扱います。そして、四国への同行を申し出るのです。実際、この伊藤老人は同行中には
彼女に対して主従の礼をとり、炊事にも手を出させず、一緒に食事をとらなかった。荷物は一人で背負い、彼女には修業(行)させず、会計をつかさどり、宿に着けば、まず塩で彼女の足をもむ
ほど誠実に逸枝の面倒をみたようです。私に言わせれば、若き娘のドンキホーテーとサンチョパンセのような関係にも思えてきます。
 この伊藤老人との出会いとその後を、河野信子氏は次のように記します。
高群逸枝は巡礼の過程で、なま身のままで、土地のひとびとの幻想をさそいだしてしまったようだ。(中略)九州山地の街道で、以後同行することになる伊藤老人にであい、観音の化身と思い込まれてしまった。また、その地の近郷近在のひとぴとは、彼女の杖にふれると病気がなおる信じてあつまってきた。本人にとっては、地から湧きでたような珍事にはちがいないが、私には察しがつく。おそらく、少女高群逸枝の全身からあふれでる雰囲気が、(中略)霊気を漂わせていたことであろう。
  こうして「若き教祖とその老僕」の四国巡礼の旅が始まります。
肥後から豊後までの徒歩行で、遍路の記を寄せるとして新聞社から「前借り」としてもらった稿料10円もすでに使い果たしていました。しかし、彼女の前に進む決意は萎えません。
「妾は飽くまで八十八ヶ所の難を踏破せばならぬ。」
「行かう、行かねばならぬ。無一文でも行かねばならぬ。八十八ヶ所の霊場、わが為に輝きてある」
ジャンヌダルクかドンキホーテか迷うような姿に、私には思えます。
九州から船で八幡浜へ
7月14日  午前3時大分出航。佐賀関経由の「宇和島丸」にて八幡浜入港。この地の大黒山吉蔵寺(当時衰微していた37番岩本寺から3500円で本尊と納経の版を買い取り、37番札所の権利を得たとされる)を訪問、1泊。
7月15日  逆打ちとして43番明石寺を目指して出発。なぜ逆打ちとしたかの理由は語られない。道を間違えて大窪越えの難路で、野宿。
 逆打ちで伊予の地を南に
「四国来るー四国来る 眼前に聳立する是れ四国の山にあらずや。九州か四国か四国か九州か、故郷か旅か故郷か。胸轟かすひまも無く佐田岬から八幡浜へ、上陸は午前十一時頃」
とあり、佐賀関経由の宇和島運輸の汽船「宇和島丸」で初めて四国の地を踏む娘らしい感動が伝わってきます。
  八幡浜で一泊して、7月15日が四国遍路のスタート日になります。
 なぜか「逆打巡礼」で、四十三番の明石寺をめざします。なぜ逆コースを選んだのかは何も触れられていません。初日から道に迷います。仕方がないので大窪越えの難路をたどることになり、急坂蕗で疲れ果てたうえに、初日から野宿となります。その様子を、次のように記します
凸凹の石多き草地に野宿する。石を掘り出し、毛布を敷き、草鞄を脱ぎ、脚絆を解けば、足の痛みが襲ってきて一歩も歩けない。看物を被って蚊を防ぎ眠る。初めは昏々として深く、次にしだいに苦しくなる。目覚めれば、蟻、毛虫の類もじやもじゃとと私の上をを這いまわっている。
着物も髪も露でシトシトだ。
月が寂しく風は哀しく、ああ私はいったいどうしてここに坐つているのか。この月、この風、熊本やいかに。これから先何百里、かよわい私に出来る事であらうか。
ああ泣いて行かう。いえ、花を摘んで歌つていかう。
足は痛いが立たねばならぬ。
み仏よ助け給ひてよ。
道は一すじ、疲れは疲れを生み、目を上げるとまるで世界が黄色になつてグルく廻転している様だ。
(1918年7月15日大窪越えにて)
 次の日も野宿と前途の多難を予想させまする。
  野宿も大変、食事も粗末、加えて難路の連続。そこへ柏坂の難所。
「山に山あり、峯に峯あり。越えもて行くほどに、おりしもあれ、銀雨くずれきたりて、天地花のごと哄笑す。請うらくは駿馬と鞭をあたえよ」という急坂を、
「此所を柏坂と云ふ。急坂二十六町、風が非常に荒く吹さ出した。汁も熱もすっくり吹き放され且笠や侠まで吹き捲くられる。面白い!風に御して坂道を飛び下る。髪を旗のやうに吹きなびかせつつ、快活に飛び行く私を、お爺さんはハラハラした顔付で見送り乍ら杖を力に下って来られる」
と笑い飛ばしながら通り過ぎて行きます。
そして、四十番観自在寺では本堂での通夜、
「本堂の大きな古い円柱が月光の中に寂然と立ってゐる。虫が鳴く、風が響く、世界は宇宙は、人は、私は、みんな夢だ、夢の様駱。」
との感慨に浸る。
 逆打ちの土佐から阿波への道。
ここで逸枝は約2か月もの日数を費やし、その間様々な体験を重ね、若い感性で見聞を広めています。
その行程と主な出来事は次のようになります。
7月16日 卯之町経由で43番明石寺を巡拝。歯長峠の山中、小屋を見つけて軒下で野宿。
7月17日~42番仏木寺、41番龍光寺を巡拝して宇和島到着。(約17kmの歩行)個人宅泊。雨天のため連泊。
7月21日 宇和島出発。柏坂の手前、畑地村にて野宿。(約20kmの歩行)
7月22日 雨中の柏坂越え。初めて海を見る。夕刻40番観自在寺到着。夜が更けるまで光明真言を唱え、本堂軒下に通夜。
7月23日 深浦という一小港に至る。「大和丸」という蒸気船で土佐片島港(宿毛)まで乗船。恐ろしき遍路の目(注1)に出会う。39番延光寺拝礼。門前の寺山屋という木賃宿に宿泊。翌日は風雨強く連泊。
7月28日~延光寺→市野瀬→大岐→足摺(38番金剛福寺)→大岐→市野瀬の打戻りに4日かかり。市野瀬1泊、大岐2泊。7月31日に真念庵到着。
8月2日 市野瀬を出発し、伊豆田越えをして、四万十川を渡船で渡って、入野の浜にでる。この狂波怒涛に、残してきた恋人の思いを重ねる。この浜で野宿。
3日 土佐佐賀を通過し、単調な歩行でお爺さんを困らせたり、熊井のトンネルの反響で遊んだり、…。岩本寺の手前で野宿。
4日 37番岩本寺を参拝。仁井田村平串(土讃線仁井田駅の近く?)の宿屋に宿泊。
5日~七子峠を登り、下りは不動が滝(滝に不動尊を安置)ルートで、土佐久礼で宿泊。
6日 須崎から36番青龍寺まで船便を利用しようとしたが、時間が合わず須崎にて宿泊。ルートは記述なく、36番青龍寺に参拝したとの記述もなし、高岡(土佐市)にて2泊。
10日 35番清滝寺を参拝。
11日 福島から渡船で36番青龍寺を参拝。夕刻34番種間寺を参拝。宿も満室で断られ、寺の通夜も断られるが、大師堂できちんと腰掛けて一睡もせずに夜明かしする。
12日 33番雪渓寺参拝。種崎の渡船で浦戸湾を渡る。
13日、三里村(高知市内)吹井屋に宿泊。たった2kmしか歩いていない。 
14日、32番禅師峰寺、31番竹林寺を参拝、市内の本屋で長居したりして、五台山村の大前屋宿泊。お爺さんに用事ができて、長逗留。
28日 高知を出立。逗留中にお爺さんだけで30番善楽寺、29番国分寺を納経していたので、直接28番大日寺を参拝。赤岡を過ぎ、夜須の遍路宿に宿泊。
29日 風雨の中を出立するが、体調が悪く安芸の手前の町で宿泊。この日、親切なお爺さんとは撫養(鳴門)で別れ、一人旅することを決心する。
30日 安芸川の橋が落ちていて、2里上流の橋まで迂回。27番神峰寺のふもとの坂元屋に宿泊。
31日 27番神峰寺を参拝。宿がなく、金剛頂寺手前の浜で野宿
9月1日 26番金剛頂寺、25番津照寺を経て、砂浜を歩き、山によじ登り24番最御崎寺を参拝。山を下り有るか無きかの道を辿るが、お爺さんが疲れ果て、また野宿。雨に降られ仮小屋に避難するが、雨漏りひどく、涙も出ない。
土佐の遍路道をゆく中で見えてくるものは?
土佐は「50町1里」(一般に36町1里)で、他国と基準がちがうのです。土佐を行く遍路達が辟易とし、苦渋、疲労困悠もするのは、土佐の距離基準が他国とはちがうのです。
「市瀬(市野瀬)出初日は大岐に一泊、此所から足摺山へは四里だと云ふ。但し五十町一里での四里である。(中略)一寸の休息もしないで、打ち通しに大岐まで帰り着いたのが午後九時何分、宿の人達は、驚愕する。なぜなら、弱々しい私が山坂越を八里(三十六町一里に換算して十一里四町)歩き通したと云ふ事が実際不思議」
だと人々が驚いたと記されています。
「足摺岬の金剛福寺へ参る時には、大岐からの往復八里を飛ぶように歩いて、老人を弱らせています。土佐の旅では
『愛せねばならぬ、愛せねばならぬ一切は私の愛人だ…』
と、一心不乱に念じながら歩いたといいます。長い道のりを、ゆき会うすべての人々にむかって、「一切愛」の実践を試みながら彼女は苦しい旅を続けています。
 土佐の遍路道は、川が多く、川を渡ることにも難渋しています。
雨のため舟渡しもできず川止めをされたり、橋の決壊で迂回させられたりなどして、なす術もなく日数を重ねるしかありません。
「濁流滔々として、渡らるべくも見えざれど、熟練せる船頭により難なく対岸に着くを得たるは幸ひだった。
とも記します。そして9月19日には、とうとう
「四国は川がうるさくて困る。少し荒い雨が降っても川止めだ。まるで昔の旅行同然」
だと嘆きだします。
   ただ、雨での足止めが、多くの遍路や地元の人との接触のきっかけとなっています。
 遍路同士で話すと
「方々の国から集まつてゐるだけに言葉が大変面白い。(中略)殊に四国に入って初めて聞いた『哺うし』だの『あいあい』だのたまらなく懐かしい響きが、こもって聞こえくる。」
と言葉への感覚が磨かれていきます。

山頭火32
 そして土佐の自然に感動しています。
快絶!白浪高く天に躍りて飛沫濠々雲煙の如し。
何ぞ其の壮絶なる嗚呼何ぞ其の暫く無言、
わが身直に狂濤に接す。
あはや!足土を離れて、飛ばんとす其間髪をいれず、
『何を?』お爺さんに引止められ愕然として我に返り、
太平洋の狂波怒濤と自分の魂が一致した瞬間に恐ろしさを感じる
伊藤老人の静かな寝姿に
海と夕やみと、七十三の萎びた老人の亡骸の寝姿と一私は静かな落ちついた心で『死』を考えていた。
 昭和4年記の「遍路の秋」で逸枝は、四国遍路の思い出を次のように記しています。
「四国の秋は美しい。私はうはには、忘れがたいものが多い。いつか折りがあったら、またぜひ行ってみたいとおもっている。こんどはたれとも連れ立たずに独りで。そしてやはり遍路になって。」
 
若い娘にとって、宿は苦労の連続でした。
 娘と云うことで断られたこともしばしばです。そんな中で見つけた遍路宿は、
「此宿こそ如何にも蛆が湧いてゐさうな不快な宿である。寧ろ海辺の野宿のほうがいいと思うほどで、入浴もせず、食事も取らず、お茶も水も駄目の夜を過ごす。
真野俊和氏は、当時の遍路宿について次のように記します
「往時の遍路宿・木賃宿のすさまじさは、全部が全部ではないにしてもたいへんなものだったようだ。(中略) 遍路宿は木代の最低が8銭から、高いのは25銭ぐらいまでのひらきがあったという。こんな最低クラスの木賃宿も二人は当然のことながら何回かとまりあわせた。」
「此頃警察が八釜(やかま)しくなりまして、善根にでもお泊めすると拘留だの科料だのと責められます。お気の毒だが納屋でよろしいか」と聞かれて、うなずくと農家の老爺に案内された所は、厩と隣接しており、異臭が鼻をつく宿であったりもします。
なんでも見てやろう、何でも一度は受けいれようとする姿勢でのぞむと見えてくるのは
  まず、「遍路の墓」の見方が変わってきます。
「遍路墓でことにあわれなのは、道中、あるいは丘辺、あるいは渚辺の土まんじゅうの上などに、ただ笠杖などの差し置かれてある光景である。さらにあわれなのは、現実に生命の終わる日までたえず巡礼をつづけているお遍路さんたちのことだろう。」と日記に記します。
『あゝ遍路の墓 何と云ふ懐かしい美し墓の姿であろう。
永久に黙然として爾来数知れずその前を通り行く遍路の群を眺めて立つてゐ。」
「遍路のみ墓よ、さらば静かにおはせ。生より死へ…有為より無為へ…道は一路で有るを。」
「あゝ大悟徹底とは大なる諦めで有る事を、今に及んで知る事が出来た。」
遍路道の傍らの墓に対しても、視線を配りリスペクトする力が養われていきます。
  その2は、お大師様にまつわる伝説の多さに対する驚きと興味です。
それらを細かく、時に粗らくとり上げて
「何れその中に八十八ヶ所中の伝説一切を詳しく調べた上で折を見て書くことにしよう」
と若者らしい学究的な意欲も見せます。また、生意気な娘らしい言葉も並べます。一方で、逸枝は
「わが求むるものは愛なり。妾は今まで非常に苦悶しぬ。(中略)妾は一切 に愛せられつつ楽く茲にあり。」
との高みに達していきます。

9月 阿波から瀬戸内へ
2日、尻水村にて宿泊。
3日、宍喰の善根宿に宿泊。
4日、四方原村(阿波海南駅近く)に宿泊。名にし負う阿波の八坂八浜を越え、牟岐の先に宿泊。6日、23番薬王寺参拝、近くの旅館に宿泊。
7日 新野町豊田(現阿南市)、木元徳三宅に宿泊。
8日~ 高群が一人旅をすると漏らしたため、お爺さんが怒って、高群を宿に残してどこかへいってしまう。
11日、20番鶴林寺の手前までいったお爺さんが戻ってくる。
19日 22番平等寺参拝。さらにあえぎつつ登り21番大龍寺の奥の院に至る。那珂川の渡船(現在は橋がある)が川止めであろうと言われ同所て宿泊。
20日21番大龍寺を参拝。さらに20番鶴林寺を参拝。山を降りて農家の納屋にて眠れぬ一夜を過ごす。
21日~28日、19番立江寺を参拝。
「朝から晩まで歩き続けに続けて18番恩山寺から1番へ一瀉千里、其間に有名な12番焼山寺の山道も極めて無事に抜けてしまった。」とだけ28日の記事に記して、その間の詳細な行程は記録されていない。
29日、引田を朝早く出発し、夕方88番大窪寺参拝、寺を下りて宿泊。
30日、4里半歩いて87番長尾寺を参拝。さらに歩くととがった八栗山、平坦な屋島を見る。
10月1日 86番志度寺参詣の記述なし。85番八栗寺の山を登り、84番屋島寺を参拝。高松手前の木賃宿に宿泊。(83番から72番に関する記述なし)
6日 71番弥谷寺を参拝。長居している間に、お爺さんを見失う。お爺さんは、高群が先に行ったものと思い、先を急いだ。その日、別々に宿を取るが、翌朝、無事再会。(70番から50番に関する記述なし)
14日、今治を出発し3ケ所の札所を巡拝。菊間の町を抜けて、「あさましき家」に宿泊。
翌日は道後の旅人宿ではお遍路さんお断りと宿泊を断られ、「また汚い宿」に宿泊。
16日、51番石手寺、50番繁多寺、49番浄土寺、等6ケ所を参拝し、泥濘の三坂峠を越える。
17日 45番岩屋寺を参拝、畑の川という宿駅(現在の民宿和佐路あたり)に宿泊。
18日、44番大宝寺を参拝、本願成就。最初に野宿した滑稽な思い出がふと胸に浮ぶ。
    行かう!行かう!行かねばならぬ。私の厳かな戦場に。
19日 内子の近くの善根宿に宿泊。
20日 八幡浜に向かう途中、女の乞食遍路に出会い、金を無心され、残っていた10銭を喜捨。
    残金は1銭5厘となった。八幡浜の三津山という木賃宿に滞在。
24日、11時ごろ御荘丸という汽船の三等室で八幡浜を出航。佐賀関に上陸し、宿泊。しばらく大分で休養する。
12日 中井田の伊東老人宅に戻っている。
18日 この日、阿蘇を歩いている。
20日 熊本に帰着。

  結願に向けて瀬戸路を行く  
 南四国路の難渋に比べて、瀬戸内に入ってからの遍路行は比較的順調に進んだようです。
 秋風ふかくなりて、道も寂しくなりぬ。寺のあまたを経めぐり、石多き谷をわたり、日没寺の垣根の輝きに心ひかれなどするほどもなくて、讃岐なり。伊予なり。屋島に源平餅を食うべ、高松の木賃宿に虱を漁り、根香山のほとりに崇徳上皇の遺跡を訪ね、十月十四日ともなりぬれば、今治の町を出でて、松山街道をたどる。菊間町を過ぐれば海なり

 10月18日、今回の本願成就となる四十四番大宝寺に詣でて、八十八ヶ所を打ち納め、「夢の様な長旅もいよいよお了ひだ」と記し、この遍路行で出会った人々を回想しています。
 此度の旅行は色んな人々を私に見せてくれた。易者だの僧侶だの浮れ節屋だの煙管の棹がへだの鋳掛屋だの一様々な人々が住んでゐるものだ。
(中略)京都の人(中略)にお会ひした。その人からは色々な世間物語りも聞かされたし、般若心経だの十一面観世音陀羅尼経だの頂いた。六十位の人で発句に趣味を有たれてゐなさるさうな。其外数々のお寺を巡るうちには、色々な若い僧侶の人にお会ひしたり、可なりに複雑な詩の様な事件が私を追つかけたりしたが、振り返る事なく流るゝ様に、それが旅人の常で有る。可憐な少女や慕はしい老尼や懐かしい婦人や、然うした人々とも残る処なく、すっぱりと別れて了った。
 讃岐では、崇徳帝の御遺跡地及御陵にも参拝し、善通寺から金毘羅さまにもお詣りしたが、其帰りの汽車の中では芸者の方とも近づきになった。世間には実に色んな人々が住んで居る。そして其人々は各自に色んな思想界なり、道徳界なりを形造っては生きてゐるのだ。(中略)
兎に角面白い世の中である。
  出発したときの混沌としたカオスを突き抜けたようです。生きていく勇気をもらった四国遍路だったのでしょう。逸枝自身も
「私はこの遍路によって、心身の鍛練を得たことが多い。」
と述べています。
  大正7年(1918)、老翁と連れ立った白無垢の遍路姿の娘が四国の地を歩く。無からの出発という若い彼女の感性が多くのものを吸収していきました。一度きりの遍路でした。しかし、後々になっても遍路にかかわる思いを綴っていることからも、彼女の遍路に関する思いが強かったことがうかがえます。
 『九州日日新聞』に掲載された「娘巡礼記」の評判は、どうだったのでしょうか?
24歳のうら若き女性が時に野宿をし、
「冷えてコツコツの御飯に生の食塩では、食うにも何も咽喉を通らない苦労の旅」
は評判となり、105回の連載道中記となります。これで逸枝の名も知られるようになります。
 逸枝が橋本憲三と双方の両親の祝福をうけて約婚したのは、遍路行の翌年の春でした。この夫妻の二人三脚の生活が、後の逸枝の大作を生むことになります。
逸枝が四国の遍路路を歩いたのは、一回限りでした。けれど遍路への思いはやみがたかったようです。機会があればいつでも旅に出ることを望んでいたといいます。諸般の事情が許さなかったのです。

 昭和13年(1938)に出版された「お遍路」には、次のように記されています
どんな不信な者でも、足ひとたび四国に入れば遍路愛の雰囲気だけは感ぜずにはいられまい。ここでは乞食同様のみすぼらしい人であろうが、癩胤で不当な虐げを受けている人であろうが、勝ち誇った富家のお嬢さんであろうが、互いになんの隔たりもなく、出会う時には必ず半合掌の礼をする。これは淡々たる一視平等の現われで、世間的な義理や人情の所産ではない。」と云い、最後に「遍路には祖互愛念平等愛と犠牲愛との三つが、現に完全に行はれてゐる。」と結んでいます

参考文献
参考文献 平成12年度 遍路文化の学術整理報告書「四国遍路のあゆみ」
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1山頭火
 種田山頭火(1882~1940)は、少年期に母が自殺します。それがその後の人生に大きく影を落としました。そこから生れた「原罪」意識は、根が深ければ深いほど、悲しみは深く、そこから抜け出すことは難しかったようです。彼は二度にわたり四国遍路に旅だっていますが、母の位牌を背にしての遍路でした。その軌跡をたどってみましょう。
その前に、山頭火について「復習」しておきましょう。          
 種田山頭火は山口県生まれで、旧制山口中学校を卒業し、早稲田大学文学科に入学します。しかし、母親の自殺以来、次第に家が乱れ家運が傾くとともに、山頭火自身も心身に変調をきたすようになります。そのため卒業4か月前に退学・帰省し、父とともに酒造業を始めます。明治の地方の有力者にとって「酒の蔵本」というのは「憧れ」であったようです。
その後の経過を年表的に辿ってみましょう
明治44年(1911)酒造業は失敗し、一家は離散。山頭火は、妻子とともに文学の友を頼って熊本で額縁店を開業しますが、酒色に溺れ東京に出たりしています。

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大正3年(1914)から小豆島出身の荻原井泉水(図表3-2-6)に師事して、自由律俳句誌『層雲』に投稿を繰り返えすようになります。当時、この雑誌のスター的な存在が尾崎放哉でした。
大正13年(1924)、感ずるところあって熊本の曹洞宗報恩寺望月義畷諏尚につき禅を修行、
大正14年 出家得度し、耕畝と名づけられます。
大正14年 熊本県鹿本郡植木町の観音堂守を命ぜられ赴任します。しかし、1年2か月で、行乞流転の旅に出ます。この年は大正から昭和へと年号が替わった時で、
1尾崎放哉
尊敬する尾崎放哉が小豆島で亡くなった年でもありました
尾崎放哉は東大出のエリート行員でしたが酒で失敗し、職を転々と替わるようになり、最後は死に場所を求めて荻原井泉水をたよって小豆島にやってきます。そんな放哉を、井泉水は檀那寺の西光寺の庵のひとつ「南郷庵」に住まわせ面倒をみます。
1尾崎放哉.j22peg
放哉は、ここで死に際の命が最後に輝くかのように「入れ物がない 手で受ける」など多くの優れた歌を残します。最後のものが「海も暮れきる」です。井泉水は「弟子」に当たる放哉と山頭火を次のような言葉で評しています。
放哉は、晩年をひたすら坐りつづけて一歩も門外に出ず、
山頭は歩きつづけて老を迎えた。
11山頭火
山頭火は大正15年(1926)から昭和14年(1939)までの間、九州・山陽・山陰・四国地方から遠く木曽路、北陸路、東北地方までと広範囲の行乞・遍歴の旅を行っています。この旅について、山頭火は次のように語ります。
 私は元来旅がすきです、あてのない旅、気兼ねのいらない自由な旅に自分の後半生をゆだねてしまった。人に迷惑をかけず隅の方で小さく呼吸してゐる。これが現在の私です。まあいわば『イボ』のやうな存在です、癌になれば大いに迷惑をかけるが小さな『イボ』なれば迷惑にならないと思ふ
分け入っても分け入っても青い山   
笠にとんぼをとまらせてあるく
だまって今日の草靫をはく
ほとほととして木の葉なる
 これがいまの生活です、
一種の性格破産者とも思ってゐる、
しかし自然を心ゆくまで見て歩くうち芭蕉、
一茶に通じるものを感じるが二人の境地に達するまでには至らない
私には山田洋次が生み出した「男はつらいよ」の寅さんに通じるものがあるように思えてきたりします。ここには先ほど見た「兄弟子」の尾崎放哉の「生き方、死にざま」が深く影響しているように思えます。小豆島を訪ね放哉の「死にざま」と残した作品を確認して、自分のこれからの生き方を見据えたのではないでしょうか。
1山頭火32323
山頭火が松山にやって来たのは?
昭和14(1939)10月1日、弟子に当たる野村朱鱗洞(図表3-2-6)の墓参と、四国遍路のために山頭火は松山にやって来ます。松山への旅立ちの朝に、次のように知人に語ったと伝えられます。
 山頭火が旅立ちの荷物の整理をしていた。そのとき、風呂敷の中から真白い布に包んだ小さいものが畳の上に落ちた。彼はそれを両手で拾い上げ、拝むようにした。それは山頭火の自殺した母の位牌であった。彼は「わしは長い旅に出る時は、いつもこの位牌を負うて母と共に旅をしていた」と言い、彼が11歳の3月6日のことを「その日、わしらは近所の子供たちと、裏の方の納屋で芝居ごっこをして遊んでいた。ところが母屋の方がさわがしいので走って行ってみると、お母さんが、井戸からひきあげられて、筵をかけられていた。僕は母に抱きついて、どんなに叫んでも母は歯をくいしばってて冷たい体となり、返事がなかった。その時の恨めしそうな顔が、澄太君まだ時々幻のように浮かんでくるのだよ。母は33歳だった。」
 この母の死に対して、金子兜太氏は、
「少年期に、母を理不尽に失った(奪われたというべきだろう)ものの喪失感の激しさを思うわけだが、その死の理由が痛ましく、そのうえ死体を目撃していれば、それはどうしようもない酷さの記憶と重なる。からだの芯が裂かれているような、それこそ痛覚を超えた真昼のような状態-それだけに激痛と虚脱がたえず意識されているような状態にちがいない。」
と述べています。
 山頭火の母への想いを、彼の日記に見てみましょう。
 昭和13年の母の命日には
「亡母四十七回忌、かなしい。さびしい供養、彼女は定めて(月並の文句で云えば)草葉の蔭で私のために泣いているだらう。うどん供えて、母よ、わたくしもいただきます」
 翌年の四国遍路に旅立つ昭和14年には、
「転一歩 母の四十八回忌、読経しつつ香の立ちのぼるけむりを見ていると、四十八年の悪夢が渦巻くようで、限りなき悔恨にうたれる。」
と書き残されています。母の死に対する想いの強さが伝わってきます。
母の位牌を背に、山頭火の行き着く先は四国でした。
昭和十四年の秋、山頭火は生涯最後の旅に出発します。それが二回目の四国遍路でした。最初の四国遍路は昭和2年~3年のことで、中国、四国、九州地方一円の前後7年間にわたる壮絶な行乞大旅行のひとこまでした。この時には四国八十八ヶ所をすべて順拝したようです。しかし、残念なことに彼自身の手で、その記録が焼かれています。そのため詳しい足跡は分かりません。ちなみに先述した俳友尾崎放哉の墓参のために小豆島を訪れているのもこの時のことのようです。
 ヨーロッパではヒットラーのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まっていた昭和14年(1939)10月に、種田山頭火が松山にやって来ます。地元紙『海南新聞』は「俳僧種田山頭火 飄然俳都を訪問 故野村朱鱗洞氏墓に参詣」の見出しで次のように報じています。
 中央俳壇層雲派の験将として、最近その名を謳われている漂泊の老僧種田山頭火氏が去る一日へいぜんと俳都松山をおとづれ、弟子の昭和町松山高商教授高橋光洵斎氏宅にわらぢを脱いでいる。氏はかつて明治末葉のホトトギス派爛熟期に自由律俳句を高唱し、また本社俳壇の選者と十六吟社を主宰していた故野村朱鱗洞氏と同志で、日本俳壇の新運動に従事してゐた。(中略)
佛門に帰依して諸国巡禧と俳諧に安住の地を求めて居る、来松の動機も同志朱鱗洞氏の霊を慰めるためで二日石手寺の墓所を訪ひ今は亡き親友の前に心からの回向を捧げた。8日頃まで滞在のうえ高橋教授と四国巡禧の旅に出護する予定である。
 新聞では「故野村朱鱗洞氏墓に参詣」と書かれていますが、実際には石手寺の過去帳には朱鱗洞の記録はなく墓も分からなかったようです。そこで、山頭火はささやかな自然石の墓の前に立ち、「ここで拝んでおきましょう」と言って礼拝したようです。
 その後、朱鱗洞の墓探しが始まり、新立の阿扶持墓地にあることがわかり、小雨降る中を山頭火、は墓参りを改めて行ったようです。その時の様子が書き残っています。
 山頭火が置き忘れていた遍路笠と杖を持って家を出たのが夜の十時半頃だった。雨気を孕んだ険悪な空模様である。高橋の門前までくると、暗闇の中から「ぬっ」と酩酊して体を扱いかねるような格好で山頭火が現れた。近寄って墓が見付かったことを告げると、右手を高く挙げ「よかった、ありがとう」と云った。座敷へ上り経過を話すと、山頭火は感動のためかむしろ険しい顔付きをしていた。明朝、墓詣りをしてから出立するとばかり思っていたところ、「いや、僕はこれから詣ります。そしてその足で遍路に出ます」と云って、帯をしめ直しはじめた。もう十一時を過ぎているし雨模様でもあるのにと皆んなで止めたが、山頭火はこうと決めたら変改する人ではないと思って、遍路荷を背負い笠をかぶって外へ出た。山頭火はその恰好がおかしいと笑った。高橋さんも袋を一つ肩にして私に続いた。山頭火は奥さんに別れを告げて、杖をついて出てきた。
 (中略)山頭火から線香を受けとり墓に手向け、山頭火がチンチンと鉦をたたき、三人で般若心経を誦えた。何分にも真暗なので目には見えなかったけれども、山頭火は朱鱗洞のお墓のあたまをゴシゴシと何度も何度も撫ぜさすり、涙をこぼしている気配が私に伝わってきたのでした。
 その後、三人は、雨の降りしきる中を松山駅へと向かいます。着いたのが10月6日の夜中の午前1時10分だったようです。
その墓参の日(6月5日)発行の『海南新聞』の記事の一節には
「また氏は酒も好物だといふ木賃を払ってあまれば酒に換へて陶然となる、世の中にも慾望を断ったものが飲む酒の味はまた格別だと云っている」
と酒好きの山頭火の一面も報じています。
   山頭火の四国へんろ道中記
 この時の四国遍路は10月6日に松山を出発し、1ヶ月後の11月16日に高知で挫折することになります。その記録である『四国へんろ日記』は、11月1日に撫養を出発して、徳島に入ろうとする日から始まっています。つまり、出発から1ヶ月間のことが書かれていません。松山を出てからの遍路模様を『ひともよう』で追ってみると次のようになるようです。
 10月8日、山頭火は六十一番香園寺で、俳句誌『層雲』(昭和14年11月号)に次のような近況を報告しています。
「伊予小松よりーお元気でせうか、私は今幾十年ぶりで四国の土をふみました。松山でやっと朱鱗洞君の墓を見出しました、層雲原稿としてお目にかけます。」
松山から今治を経て伊予西条に向かっていたようです。
10月14日に香園寺を出た山頭火は、後から追ってきた高橋一洵らとともに伊予西条を訪ね、また各地の札所を巡っています。
19日には讃岐の本山寺から知人に次のような便りを出します。
「おかげで巡拝の旅を続けてをります、三角寺で高橋さんとも別れてからは遍路らしくなって毎日歩いてをります、雨中の雲辺寺拝登は苦しかっただけ、また感銘ふかいものがありました、その日の一句、
「雲がちぎれると 山門ほのかに」
上り下り五里の間、誰にも逢ひませんでした。、句はたくさん出来ますけれど自信のあるものはなかなか生れてくれまん。おはがき二通ありがたく拝見いたしました。奥様へもお子さま方へもよろしく、そのうちまた、
(本山寺にて 種田生)」
 ここからは、三角寺から阿讃国境の雲辺寺を越えて讃岐路に入り、10月19日には三豊の本山寺にいたことが分かります。

山頭火32
10月21日 小豆島に渡っています
前回訪問から10年余を経ています。尾崎放哉への報告を兼ねた墓参だったのでしょう。翌朝、山頭火は放哉が死を迎えた南郷庵の背後の広い墓地を「大空放哉居士」の墓を求めて歩きます。やっと見つけた墓の裏には、次のように刻まれていました。
「居士は鳥取市の人尾崎秀雄、某会社の要職に在ること多年、後其の妻と財とを捨てて托鉢を以って行願とす。流浪して此島に来り南郷庵を守る、常に句作を好み俳三昧に入れり、放哉は其俳号也 哉は其俳号也 享年四十二歳」 
 師の荻原井泉水が5行書きで彫らせたものです。
死に場所を小豆島に求め、小さな庵で海を見つめながら「暮れ」きった放哉。これを見て山頭火は、何を感じ、何を思ったのでしょうか。

1尾崎放哉.j2peg

 山頭火の最後の旅行となる四国遍路では、僧形で托鉢し喜捨を受けたり、友情の宿に恵まれ、路銀を与えられたりしてきた自分を責めて、僧形を捨て、無帽で、あわせ一枚にヘコ帯という乞食姿で遍路の旅を行います。命を捨てる覚悟で「柳ちるもとの乞食になてて歩く」覚悟を固めたようです。南郷庵では次の句を残しています。
   風ふけばどこからともなく生きてゐててふてふ
   死をひしひしと水のうまさかな
そして、阿波に入ってから「四国へんろ日記」を記し始めます。それを一覧にすると次のようになります。
月日 天候 遍路中の山頭火の心情などを示すことば       距離 宿泊地  
11/1  晴 (宿)旅のわびしさせつなさを感ぜしめるに十分 7里 小松島      
11.2 快晴 風呂なし。(昨夜も)水で体を拭いたが肌寒を感ず8里 星越山麓
11.3  晴(宿)夜具も賄もよかった。(風呂)うれしかった。8里 牟岐  
11.4  雨   どしや降り、吹きまくる烈風。お鮨一皿接待。6里 甲の浦
11.5  快晴  行乞のむつかしさ。行乞に自信をなくしてしまった。5里 佐喜浜 
11. 6 曇・時雨 室戸岬は真に大観。(亀を見に)婆さん、ありがとう。6里室戸    
11.7  快晴 (宿)待遇も悪くない。求むるものは与へられる   4里 羽根 
11.8  晴一曇 (今日こそアルコールなし)よく食べ、よく寝た。 6里 伊尾木
11.9  曇一雨 (よい宿)きれいで、しんせつでしづかでまじめで。13里 和食
11.10  晴   母子から十銭玉頂戴。この十銭が私を野宿から助けてくれた
      (郵便局)期待したものはなかった。がっかりしたい  8里 高知
11.11  晴  人さまざま、世さまざま。身心のむなしさを感じる。      高知
11.12  晴  歩いても歩いても、何を見ても何を見てもなぐさまない。 高知
11.13  晴  食べて泊るほどいただくまで、3時まで行乞。            高知
11.14     澄太君からも緑平老からも…どうしてだよりがないの 高知
11.15  快晴 明日からは野に臥し山で寝なければならないだらう。 高知
11.16  晴一曇 思ひあきらめて松山へいそぐ、製材所の倉庫で寝る。8里 越智  
11.17 曇一時雨 行けるところまで行く心がまへでー。    4里 川口(善根)  
11.18   快晴 山のよろしさ、水のよろしさ、人のよろしさ。行乞。4里 川口(善根)
11.19  快晴  宿屋といふ宿屋ではみな断られた。   7里 落出(大師堂)  
11.20   晴   五日ぶりの宿、五日ぶりの風呂、よい宿のよい風呂。6里 久万
11.21      人のなさけにほだされて旅のつかれが一時に出た。 松山(友宅)  

この工程表を見ながら気付いたことを挙げていきましょう
①10月21日に小豆島を出た10日後には、大窪寺から阿波に入り小松島までやってきたことが分かります。その後は順調に進み室戸岬を越えて、高知に入っています。ところが高知で6連泊して動かなくなります。どうしてでしょうか。
②彼が酒を飲まなかったのは11月8日だけのようです。「今日こそアルコールなし よく食べ、よく寝た」とありますから。死に向かって歩き続けるという覚悟でも酒だけは手放せなかったのです。これも放哉と同じです。
③無一文で遍路に出ていますので「行乞」で喜捨を頂かないと宿賃も酒代も出ません。「行乞」(托鉢?)を行いながらの遍路旅です。しかし、11月5には「行乞に自信をなくしてしまった。」と記します。
「遍路宿の宿銭はどこも木賃30銭に米5合、米を持っていないと50銭払はなければならない」
と記されています。つまり「宿賃80銭+酒代」を「行乞」(托鉢?)で得なければ遍路は続けられなかったもです。野宿はほとんどしてないので「収入」は毎日あったのでしょう。しかし、「行乞」はやりたくないというのがホンネです。11月10日の
「(郵便局)期待したものはなかった。がっかりした」
というのは、郵便局留めで送られてくるはずの期待したもの(金銭)が届いていなかったことの反応のようです。高知で「行乞」をしながら待ちますが「待金来たらず」でした。そこで遍路を中断し、土佐街道を松山に向かう道を選ぶのです。このあたりが山頭火らしい弱さで、私が好きなところです。
1山頭火32323

このあたりのことを大山澄太氏は次のように記しています
この旅は世間からは、ほいとう(乞食)扱いにされ、宿にも泊りにくい五十八歳の老廃人の旅と見るべきである。筆致は淡々としているが、よく味読すると、涙の出るような修行日記である。彼は
この旅で心を練り、ずい分と、体を鍛えさせられている。果たせるかな土佐路に入ってからいよいよ貰いが少くなり、行乞の自信を失った、頼むというハガキを、柳川の緑平と、広島の澄太に出した。高知郵便局留置と言うので、二人は彼の言うて来た日に着くように為替を切って送金したのであるが、彼の足が予定よりも早すぎて、高知に四日滞在してそれを待ったがなかなか着かない。そこでへんろを中止して仁淀渓谷を逆って久万から松山へと道を急いだのであった。
こうして山頭火は、遍路道をショートカットし久万経由で松山を目指します。
その途中の川口では、それまでの「行乞」の倍近い1升5合の米が短期間で集まるのです。彼は上機嫌で
「山のよろしさ、水のよろしさ、人のよろしさ。」
と詠います。これは、今は川口の仁淀川の支流に句碑となって建っています。遍路ルートを離れた所の方が遍路には優しかったようです。こうして山頭火の2回目の四国遍路は終わります。
この旅が彼に作らせた句をいくつか抜き出してみましょう
香園寺   朝焼けのうつくしさおわかれする
      秋空ただよふ雲の一人となる
太平洋に面して 
      石ころそのまま墓にしてある松のよろしさ
      ひなたまぶしく飯ばかりの飯を
野宿    寝ても覚めても夜が長い瀬の音
1山頭火3232

松山に帰ってきた山頭火は、関係者によって整えられた「一草庵」に住むことになります。
遍路行の翌年(昭和15年)母の命日の3月6日の日記には
「亡母第四十九回忌、……仏前にかしこまって、焼香謳経、母よ、不孝者を赦して下さい」
と記しています。ある研究者は
「この克明に記録された日記の底流として貫かれているものは、母の自殺の痛恨である。(中略)
十一歳の山頭火に仮借容赦もなく焙印されたこの痛ましい原風景は、捨てても捨てても捨て切れない。焼いた日記は灰となって一陣の風に消散烏有、痕をとどめないが、この惨絶の原風景はいよいよ鮮明である」
と評します。
 山|頭火の書き残した『短豊』には、
「私はどんなに見下げられても平気だ、私は人間とて無能無力であることを自覚してゐるから、何のねうちもない自分であることを悟っているから。」
「山頭火よ、にかへれ、愚を守れ、愚におちつけ!
を守る一貧乏におちつく 無能無力に安んずる おのれにかへるー」
などの言葉があります。この中には「愚」という言葉がよく使われています。この言葉は山頭火が自分自身に呼びかけたものかもしれません。だとすれば、2回目の四国遍路は、禅僧の僧形をかなぐり捨て、その恩恵をも拒み、真に「愚」に生きようとして、「愚」に徹しきれなかった遍路行脚ではなかったのかとも思えてきます。
 山頭火の日記は、四国遍路の終わった翌年の昭和15年10月6日で終わっています。そして5日後の11日、「伊予の国で死にたい」と言った願い通りに、念願の松山の地で死を迎えます。
1山頭火33

 自由律俳句運動をひっぱって行った尾崎放哉と種田山頭火
二人に共通するのは、酒のために家族に捨られ、身の置き場がなくなり流浪の道をたどらざる得なくなったことです。そして死に場所を放哉は、小豆島に、山頭火は四国・松山に求めたのです。それを黙って受けいれる懐の深さが、小豆島や松山にはあったのだと私は思っています。それが最後の輝きを発するチャンスを二人にあたえたのです。それは、四国遍路の「おせったい」の心に通じるものかもしれないと思うようになったこの頃です。
参考文献 平成12年度 遍路文化の学術整理報告書「四国遍路のあゆみ」
  

      

 
7仁尾
仁尾町の沖の燧灘に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進した島の一つです。 荘園が置かれると荘園領主と同じ神社を荘園に勧進するのが一般的でした。こうして、大蔦島に京都の賀茂神社が勧請されます。そして14世紀半ばに、対岸の仁尾の現在地に移されます。以後、仁尾浦の住人は、京都賀茂社の神人(じにん)として社役を担うようになり、特別の権威を持ち交易や通商、航海等に活躍することになります。このことについては、以前にお話ししましたので、今回は中世仁尾の景観復元を、例のごとく香川県立ミュージアムの冊子で見ていくことにしましょう。
7仁尾2
 仁尾を巨視的に見ておきましょう。
瀬戸内海に鬼の角のように突き出た庄内半島の西側の付け根にあるのが仁尾浦です。庄内半島の東側が粟島から塩飽諸島や直島諸島など「多島海」なのに対して、仁尾のある西側は、燧灘に伊吹島がぽつんと沖に浮かぶだけです。そのために冬は北西風が強く、強い波風が海岸に襲いかかってきます。しかし、仁尾浦は、庄内半島の湾岸最奥部にあることと、その前に浮かぶ大蔦島・小蔦島と磯菜島(天神山、昭和前半期には島であった)が天然の防波堤となり港を守ります。そのため「西風が吹いても入港できる西讃唯一の港」と云われる天然の良港でした。
 一方、託間の南の三野津湾は中世までは奥深く海が湾入していたことが分かります。海岸線は吉津付近にまで入り込んできていました。古代の吉宗で焼かれた瓦も、この湾に入ってきた船で藤原京に向けて運び出されていったのでしょう。古代の三野郡の津であった三野津は吉津と呼ばれるようになり、江戸時代初期まで港湾集落として機能していたことがうかがえます。
 吉津は、高瀬川流域の内陸部との繋がりが強かった港湾であったようです。それに対して、詫間は多量に生産される塩を瀬戸内海沿岸各地に積み出す拠点港だったようです。そういう意味で託間は、讃岐の外に向かって開かれた港です。
 中世の仁尾浦は、背後の三方をすべて山地に囲まれていて、西の海だけが開かれている地形になります。しかし、三野郡とは、詫間峠越えで詫間に通じ、南側の仁尾峠越えで吉津や高瀬などにつながっていました。また、詫間から加嶺峠越えで仁尾に入る道路は、西に突き出す八紘山に沿って浜に延びますが、その西麓付近に「境目」という地名が残っています。この加嶺峠越えの道路が詫間荘と草木荘との境界線と重なっていたと研究者は考えているようです。
 仁尾浦を鳥瞰すると、核となる施設は二つあるようです。
その一つは京都から大蔦島に勧請され、一四世紀に対岸の仁尾村に移転されたと伝えられる賀茂社であり、一五世紀にはその境内の一角に神宮寺もありました。
北部の古江が初期仁尾の拠点? 
下の地図で分かるように、今は仁尾の海岸部は埋め立てられていますが、明治三〇年代の海岸線は、50㍍ほど内側にありました。特に、北部の「古江」は深い入り江で、磯菜島(天神山)とその沖合にある大蔦島とによって風波を防ぐ天然の良港でした。上賀茂社の供祭人たちが、最初に活動の拠点としていたのは、大蔦島・小蔦島沿岸海域からこの「古江」一帯にかけての海域・諸浦であったと研究者は考えているようです。
7仁尾3

 仁尾の海岸線 実線が近世・点線が中世の海岸線
「古江」の南に拡がる仁尾浦の中心部分について見てみましょう
  覚城院はもともとは  草木八幡宮の別当寺?
もう一つは11世紀半ばの創建、で約二百年後の寛元年間の再建とされる覚城院です。この寺は、もともとは草木荘内にあった伝えられます。一時衰退した時代があり、応永三三年(1418)讃岐・大川郡で活動中の熊野系の僧増吽の勧進によって中興されて、今日に繋がる基礎が築かれたとされます。永享二年(1430)には、覚城院は23の末寺があり、その中に賀茂社神宮寺や塔頭と見られる宮之坊も含まれていました。仁尾の賀茂社の別当寺となったのは、増吽の勧進による再興の際のことだったと研究者は考えているようです。
 しかし、この時の覚城院は現在地にあったわけではないようです。永享二年当時、覚城院の僧宗任が「託間庄草木覚城院」と称し、さらに文明17年(1485)の細川元国が発した禁制には「江尻覚城院」と書かれています。つまり、この時期には、草木荘の江尻にあったようです。
江尻周辺を地図で見てみると、江尻川が大きく蛇行して海に注ぐ河口にも近く、その対岸には、草木八幡宮やその供僧の地蔵坊や千台寺もあり、かつて覚城院が草木八幡宮の別当寺であったという伝承に納得します。覚城院が現在地に再移転したのは、戦国末期から近世初頭のことのようです。
 それに伴って草木八幡宮の別当寺は、覚城院から吉祥院に交代したのでしょう。その他の中世以来の寺院を見てみると広厳院・新光坊・常徳院・金光寺・蓮花寺・多聞寺・如観寺・道明寺などがあり、このうち広厳院・新光坊を除くすべての寺院が八紘山西麓を南北に縦貫する街路の東側に並んでいます。この南北街路が「常徳寺敷地」の西の堺とし「大道」、「覚城院御堂敷」西の堺として見える「大道」にあたるようです。この道筋の起源は、15世紀初頭まで遡れることになります。この「大道」をもう少し追いかけて見ると、賀茂社の東側を通過したあと、北東に向きを変え、詫間峠越えの道路となって詫間へ通じていたと考えられます。その道筋の近くには、「こうでんじ原」[ぜんこうじ原]という地名が残り、覚城院末寺の金伝寺・善光寺があったようです。
  いままでの仁尾の街道レイアウトをまとめておきましょう
①基本街路は詫間峠越えで仁尾と詫間を結ぶ「大道」
②集落北部に神宮寺と賀茂社が鎮座し、南部には草木八幡宮の別当寺であった覚城院があった
③詫間荘と草木荘の境界とされた加嶺峠越えの道路が仁尾浦を南北に分ける。
④その道路沿いに道明寺があり、高瀬・吉津から仁尾峠越えで仁尾浦南部(もとは草木荘域)に入る道路の途上に草木八幡宮や吉祥院があった。
⑤さらに広厳院・新光坊が15世紀前半から現れ、その門前を起点に「大道」と平行する道路割が見られる
⑥この道路の西側に綿座衆の拠る「中須賀」があったことから、仁尾浦の町場集落は二本の南北街路と三本の東西街路を基本とする港湾都市に成長していた
15世紀半ばに、仁尾浦の神人たちが香西氏の非法を訴えた文書の中で、
「地下家数、今者現して五六百計候」
と主張しているのも、誇張ではなく、それなりに根拠のある数値だったようです。
中世仁尾の港湾は、どこにあったのでしょうか。
先ほどの地図を見ると中世の海岸線は、賀茂社門前まで海が迫り、その東側の広厳院・新光坊を起点とする南北街路の西側近くには砂浜が拡がっていたようです。そして、加嶺峠越えの道路が浜に突き当たる地点の北側に綿座衆のいた中須賀があります。ここからは、港湾機能を持つ浜の一つは、このあたりにあったと研究者は考えているようです。
 しかし、賀茂社の北側には「大浜」という地名もあります。
この付近は磯菜島の島影で、仁尾浦の中でも最も風波が穏やかなところのようです。仁尾浦の核である賀茂社があること、その賀茂社との関係から「大浜」と呼ばれていたことなどから、仁尾浦の港湾の中心となっていたのはおそらくこの周辺と研究者は考えているようです。海岸部が埋め立てられた現在でも、この「大浜」の沖合に「仁尾港」やヨットハーバーが立地しているのは単なる偶然だけではなさそうです。
  もう一つ注目されるのは江尻川河口付近です。
江尻川の下流は、現在でも満潮時なら小舟なら草木八幡宮の近くまで遡れます。かつてはもう少し西側を流れていた形跡があり、西からの風波を防げる河口は船溜まりとして利用されていた可能性があります。しかし、この河口は現在は「父母が浜」として人気スポットになっているように広い干潟が広がり港の機能は果たせません。中世においても港湾としては不向きだったようです。石清水の神人たちが上賀茂社供祭大(神人)らが作り上げた仁尾浦の中に組み込まれていったのは、おそらく彼らの活動舞台である「港の優劣」にもあったのかもしれません。
 参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開


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香川県立ミュージアムの特別展『海に開かれた都市~高松-港湾都市九〇〇年のあゆみ~』で提示された一五世紀~一六世紀前半の宇多津の景観復元図を見ていくことにしましょう
この復元のためには、次のような作業が行われているようです。
①幕末の『讃岐国名勝図会』・『安政三年奉納宇夫階神社に七』・『網浦眺望 青山真景図絵馬』から町割など近世後期の景観を復元する
②そこから延享二年(1745)頃に作られた古浜塩田、浜町・天野新開を消す
③塩田工事と同時に行われた大束川河口部の付替工事を、それ以前の景観にもどす
④伊勢町遺跡発掘調査から近世前期にできた形成を消す
⑤大足川を近世以前の位置にもどす
これらの作業を経てできあがった14世紀の復元図を見てみましょう。
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①青ノ山北麓と聖通寺山北端部を突端部とし、大きく湾入するように海域が入り込む
②その中央付近に大束川が流れ込む。
③河口入江には東と西に突端した砂堆がある(砂堆2・3)
④大束川河口部をふさぐように砂堆が細長く延び(砂堆I)、先端付近では背後に潟がある
⑤砂堆Iの海側には遠浅地形が広がっていた
⑥居住可能なエリアは、青ノ山山裾とそこから海際までの緩斜面地と砂堆、
⑦平山では聖通寺山と平山の山裾の狭陰な平坦地
                
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宇多津の中心軸(道路)は?   両端には宇夫階神社と聖通寺が鎮座します
①宇多津の中心軸は、西光寺がある砂堆Iの真ん中を東西方向伸びる道路である。
②河口部は、深く入り込んだ入江に沿って聖通寺山の麓の平山まで続く。
③内陸部へ伸びる南北道路は、砂堆1の付根で東西道路と交差し東西・南北の基軸線となる。
④東西道と南北道の交差点付近に港があり、海上交通と陸上交通の結節点となり最重要エリアになる
④東西軸は丸亀街道、南北道路は金毘羅街道へと継承されていく主要路である。
宇多津の東西に位置する聖通寺と宇夫階神社を見ておきましょう
宇多津対岸の聖通寺建立時期の古さは何を物語るのか?
 大束川の河口は深く入り込んだ入江となっていて、宇多津と聖通寺山とは湾で隔てられていました。その山裾に修験道の醍醐寺開祖・理源大師と関係が深いとされる聖通寺(真言宗)があります。寺伝では貞観10年(868)の創建、文永年間の再興を経て、貞治年間に細川頼之の帰依を受けて復興したとあります。創建時期が、宇多津の諸寺院よりもはるかに古いことが気になります。
  また、長享二年(1488)に常陸国六反田(茨城県水戸市)六地蔵寺の僧侶が聖通寺で書写したという記録が残っています。聖通寺は、各地の僧侶が集まる様々な書籍や情報を所蔵した「学聞所」であったようで、理源大師も若い頃にこの寺で学んだと伝えられます。道隆寺や金蔵寺なども学問所であったと云われ、諸国からの修験者たちがやってきたお寺です。この寺も奥の院は、聖通寺山の山中に有り、大きな磐座(いわくら)が聖地となっていたようです。同時に、この地域には沙弥島・本島・聖通寺山・城山と理源大師に関係の深い「聖地」が残っていて、修験者が活発な活動を行っていた所でもあるようです。
宇夫階神社も勧請時期は古く、聖通寺の同じ時期に従五位に叙せられています
この神社は、産土神として古くから宇多津の総鎮守的な存在です。復元地図で見ると、大束川を挟んだ宇多津の領域の両端に宇夫階神社と聖通寺が鎮座していることになります。ここからも宇多津における両者の重要性がうかがえます。九世紀後半の宇多津において、この両者が登場してくる「事件」があったのかもしれません。
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 宇多津の中世集落は、どのあたりにあったのでしょうか
①東西・南北道路が交差する場所(集落I・現西光寺周辺)
②郷照寺の門前周辺で砂堆1と砂堆3が形成する湾入部の一番奥の付近(集落2)、
③砂堆Iの背後の潟周辺で、長興寺(安国寺)の門前周辺(集落3)、
④宇夫階神社の門前で、砂堆3の付根(集落4)
の4つに分かれて集落があったようです。伊勢町遺跡の調査報告書には、各集落が港湾施設(船着場)を伴っていた可能性が高く、『兵庫北関入船納帳』にある「中丁」「西」「奥浜」という三つの集落の存在との対応関係」があることを記しています。

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そして、さらに次のように推論しています
①「中丁」は集落I、
②「西」は集落2ないし4、
③「奥浜」は集落3ないし2
に当たると研究者は考えているようです。
 集落の性格は、内陸・海上交通の結節点にある集落1が宇多津の中心集落で『兵庫北関入船納帳』に出てくる「弾正」という物は、ここを本拠地に活動したと推察します。さらに、集落1には、鍛冶屋等の職人が居住し、大規模かつ多様な漁労活動を行っていたことや、一部にはいち早く「灯明皿」を使うなど「都市的なスタイル」を取り入れた「先進的生活」を送っていた人たちが生活していたようです。このように港湾施設を伴う4つの集落が複合体として、宇多津という港町を形成していたと研究者は考えているようです。

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中世の船着き場の変遷 
中世宇多津の港(船着場)は、どんなものであったのでしぃうか?
伊勢町遺跡からは、14世紀初めの石を積み上げた護岸と、16世紀の礫敷きが出てきました。石積み護岸は絵画資料では『遊行上人縁起絵』など、一五世紀の室町期になって描かれるようになります。絵画からは石積み護岸は、一五世紀代に定着したと研究者は考えているようです。ここからは海際の集落が港湾施設を持ち、それが石材を用いて整備されている点です
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  宇多津への寺社勢力の進出の背景は・
 東西道路の背後の青野山の山裾や、南北道路の高台、砂堆Iの背後の潟(河口部)に各宗派の寺院が立ち並んでいるのが分かります。このような景観は『義満公厳島詣記』や文献資料からも分かりますし、今でも同じ光景を見ることが出来ます。宇多津に、これほど多くの宗派の寺院がそろっているのはどうしてなのでしょうか。
 その背景には、港町宇多津の経済力の高さがあったのでしょう。瀬戸内海の港町への布教方法を見ると、そこに住む人びとを対象とした布教活動とともに、流通拠点となる港町に拠点をおいて円滑に瀬戸内海交易を行おうとする各宗派のねらいがあったようです。僧侶は、中世の荘園を管理したように、港町の寺院を「交易センター」として管理していたのです。
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各宗派の進出状況を時期別にまとめると、次のような表になります
①鎌倉期には真言宗寺院、
②南北朝~室町前期には守護細川氏と関連が深い禅寺、
③室町後期にも細川氏の帰依を受けた法華宗寺院、
④戦国期には浄土真宗寺院
が年代順に建立されていて、各宗派の寺院が段階的に進出したことが分かります。一度に姿を現したのではないのです。このことは13世紀後半~16世紀代を通して、宇多津が成長し続けたことを物語ると同時に、各時代の歴史的なモニュメントとも言えます。
本妙寺(法華宗)の建立については以前も取り上げました。
この寺はの開祖日隆は、細川氏の保護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教活動を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立します。いずれも内海屈指の港町で、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動を展開したことがうかがえます。細川氏が本妙寺を保護していたことは、守護代安富氏が寺中諸課役を免除したことからも分かります。(『本妙寺文書』)。
戦国期には青ノ山南東麓にあった寺院が、西光寺と名前を変えて町内に移転してきます。
 西光寺は、それまでの寺院が青ノ山の山裾に建立されていたのに対し、河口の港のそばに寺域を設けます。
その背景には、浄土真宗寺院の海上流通路掌握といった動きがうかがえます。西光寺は石山合戦に際して本願寺顕如の依頼に応えて、物資を援助をするなど、経済力も高いものがあったようです。
これらの14世紀後半期の法華宗寺院、15世紀後半期における浄土真宗寺院の動きは瀬戸内海各地の港町と同時進行の動きで、当時の瀬戸内海港町で共通する動向だったようです。
宇夫階神社の担った役割は?
宇多津では、このように多くの宗派が林立したために、住民がひとつの寺院の下に集まり宗教活動を行い結集の機会を作り出すことはありませんでした。集落や諸宗派・各寺院の檀家といったレベルのちがう単位がモザイク状に並立した状況だったのです。
 こうしたある面でばらばらな集団単位を結びつける役割を担ったのが宇夫階神社だったようです。
この神社は、祭礼をとおして複数の集落や単位を統合させる宇多津の重要な核として機能します。そのことは、宇多津の中心軸である東西道路の西端正面に鎮座する立地が示しています。総鎮守的な単一の神社であるを宇夫階神社は宇多津の大きな求心力として機能していたようです。
領主勢力は、直接的に宇多津を支配していたのか?
 宇多津には守護所が置かれたと云われますが、これについては研究者は慎重な態度のようです。『兵庫北関入船納帳』にみる国料船や本妙寺・長興寺・普済院・聖通寺等守護細川氏との関わりが深い寺院の建立・再興などに、守護勢力の影はうかがえます。しかし、宇多津町内に城郭があった形成はありません。封建勢力が港町宇多津への直接的支配権を持っていたとは云えないようです。
 守護所跡と考えられる円通寺・多聞寺、南隆寺の城郭的施設も領主勢力の居城としては、根拠が弱いのです。集落内にも領主の平地居館は、見当たりません。つまり、守護を中心とした領主勢力の宇多津への直接的な関与はあまり感じられないのです。それよりも寺社勢力や「弾正」や「法徳」などの有力海運業者を通じて間接的に関与していたと研究者は考えているようです。

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隣接する港町 平山の役割は?
 湾内を隔てて、聖通寺山の麓にある平山も港町だったようです。『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てきます。宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。自立した港ですが、機能面では連動した相互補完的関係にあったと研究者は考えているようです。
平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)、
聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
が想定できるようです。
 『兵庫北関入船納帳』の記載からも平山に本拠地を置く船主の姿がいたようで、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。また、宇多津よりも沖合いに近い立地や、広域的な沖乗り航路とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。
川津と宇多津の関係は?
 一方、宇多津は後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業者がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港でもあったようです。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘であったことを考えると宇多津は、荘園の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。  
このように広いエリアからの集荷活動を行い、塩飽諸島、児島を経由して備前に通じる備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する要衝に位置する利点を最大限に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

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     江戸時代になっての宇多津は?
 天正期には豊臣配下の仙石氏が平山に聖通寺山城を築きますが、それも一時的でその後にやって来た生駒親正は、讃岐支配の新たな拠点として高松と丸亀に城を築城し、城下町を開きます。その際に、宇多津や平山からは多くの寺院、町が高松と丸亀に移転させました。港町宇多津は重要な属性を失うことになります。その背景には商人の街である港町宇多津が、新たな領主にとっては解体すべき対象であったのでしょう。同時に、宇多津から「引抜」いていかないと、新たな城下町として高松や丸亀の建設は難しかったとも考えられます。
 大足川の埋積作用は河口部や砂堆前面を着実に埋没させて行きました。讃岐を代表する港町宇多津は、政治的経済的な中心性だけでなく、港湾機能も奪われていくことになり、やがて地方的な港町になっていきました。
江戸期になると高松藩米蔵が設置され、新たな展開をむかえます。
高松藩米蔵は、東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に置かれるますが、宇多津は他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。れにともない現在の地割が整備されていきます。
 しかし、大束川の堆積作用は、港に深刻な状況をもたらします。それを克服するため18世紀前半には、他の港町に先駆けて湛甫形式の港湾施設を完成させ、港湾機能の維持に努めます。しかし、やがては金比羅詣での船が寄港するようになった多度津や丸亀にその役割も譲ることになります。
  参考文献
                中世讃岐と瀬戸内世界 所収  
              中世宇多津・平山の景観 松本和彦

   
4M22317E260r
江戸時代の讃岐を描いた絵図は、北の岡山県上空あたりから俯瞰する視点で描かれたものが多いようです。この地図も、そのパターンで下側(北)に、瀬戸内海やそこに浮かぶ小豆島が細長く描かれています。その上(南)が屋島・志度になるようです。そして、一番東(左)にある湊町が引田になります。引田が「讃岐の東の端」と云われる所以でしょう。
 しかし、それは高松を中心とした見方です。引田は北に播磨灘が開け、沖には淡路島・鳴門海峡が眺望できる位置にあります。視点を変えると、近畿圏に一番近い湊町なのです。その地の利を生かして、古くから海運業が盛んな土地柄だったようです。
 おきゆく船がこの港には、立ち寄らなければならない理由がありました。
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讃岐国名勝図会の引田
 幕末の「讃岐国名勝図会」には引田のことを、
当国東第一の大湊にして大賈大船おびただしく漁船も多し、諸国の船出入絶すして、交易、士農工商備れり」
と記します。江戸時代は引田浦は「当国東第一の大湊」で、廻船業や漁業が発達し、上の絵図のような街並みや立派な神社仏閣並ぶ湊町でした。引田の廻船は、瀬戸内海はもちろん江戸・九州・北国へ讃岐の特産品の砂糖や塩などを運んでいたことが分かってきています。
「名勝図会」を見ると、手前に大きな寺院があり、その向こうに密集する家並みと帆を下ろして停泊する廻船が描かれています。海運と結びついた引田浦の姿をよく描かれています。もうひとつ見逃してはならないのが港の向こうの山の上にある引田城跡です。この城の城下町として現在の引田の街並みが整備されたことは前回お話ししました。今回は、引田港の繁栄の背景を探ることです。
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 瀬戸内海南航路における引田が重要な港であった理由は?
 ペリーがやって来る約10年前の江戸末期に、引田港を利用する諸国入船の船主などから波戸を築いてほしいとの要望書が出てきます。これを受けて引田浦の商人たちにより波戸工事が計画されます。この頃に行われた丸亀藩や多度津藩の港湾整備などの「公共事業」は、藩主導ではなく富商が中心になって講を組織して行うのが一般的になっていました。「民間資本」の導入なしで、藩単独では大きな公共事業は行えない時代になっていたのです。幕藩体制は行き詰まり、未来を切り開く公共建築物を作ることもできないほど藩財政は行き詰まりを見せていたようです。引田の波戸工事も「民間資金導入による建設」が行われることになり、資金集めのための趣意書が廻されます。
  「讃州引田浦湊普請御助情帳」には、波止建設の必要性を次のように記しています。
「(前略)其向ふ名高き阿波の鳴門にて、諸国の船々此鳴門を渡海いたさんとする時、則此山下に繋て、潮時を見合すに随一の処也」
とあり、引田港は鳴門海峡を抜けるための「潮時を見合すに随一」の港で、重要な潮待港であることが強調されています。この「募金活動」に対して、屋島西岸の浦生や寒川郡津田浦、阿波国の大浦・撫養・粟田村、大坂砂糖会所や大坂砂糖問屋など讃岐国・阿波国・大坂の大坂への航路を中心とする地域からの寄付が集まっています。寄付のあった地域が引田浦の商人・廻船業者の商業取引のエリアであり、特に砂糖に関わる主要取引先であったようです。同時に、海上交易活動に携わる人たちにとって引田の「潮待ち港」としての重要性がよく認識されていたことも分かります。

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近代に入っても引田の潮待ち・風待ち港としての重要性は変わらなかったようです。
『香川県引田港調書』の「引田港ノ現状及将来」の項には、引田港と鳴門海峡の関係が次のように記されています。
 瀬戸内海ノ関門タル鳴門海峡渡航セントスル船舶ハ、海上静カナルトキト雖モ必ズ引田港湾二潮待チ又ハ潮造り卜称シ、仮泊セザルベカラズコトニナレリ(鳴門潮流干満ノ関係上)、況ンヤ天候険悪二際シテハ、避難寄港スベキハ引田港ヲ除キテ他二求ムルコトヲ得ザルナリ、

 戦後の『引田町勢要覧』(昭和27年〈1952)でも、前年の引田港には年間貨客船1795隻(汽船274)隻・機帆船(1521隻)、漁船10552隻(機帆船3816隻・無動力船6736隻)、避難船285隻(機帆船60隻・無動力船225隻)の入港を記録しています。戦後直後には漁船の6割は無動力船であったことに注意してください。
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南海道に通じる瀬戸内海南航路と鳴門海峡
 鳴門海峡は両側は瀬戸内海と紀伊水道で、干満の差によって大きな渦潮が発生するため「海の難所」として船乗りには恐れられてきました。しかし、潮の流れをうまく利用すれば「海のハイウエー」にもなり、古くから重要な交通路として利用されてきました。
   鳴門海峡の潮待ち港という役割は、古墳時代に瀬戸内海南航路が開かれて以来、引田が果たしてきたことかもしれません。吉備勢力のテリトリーである瀬戸内海北航路を使わずに瀬戸内海を通過するルートを開くことは、ヤマト勢力の悲願でした。その先陣を果たし、南航路を切り開いたのは紀伊を拠点とする紀伊氏であったようです。紀伊氏は日向勢力と協力しながら讃岐・愛媛・豊前・豊後の勢力を懐柔し、この航路を開いていきます。津田古墳群の勢力もその先兵か協力部隊であったのかもしれません。このルートを通じて、朝鮮半島で手に入れた鉄が畿内に運ばれていったのでしょう。吉備方面を通過する瀬戸内海北航路と同じく、讃岐沖から鳴門海峡を抜けて紀伊や摂津に抜ける南航路も重要な役割を果たしていたようです。どちらにしても、早くから鳴門海峡を通過する瀬戸内海南航路は開かれ、この航路をなぞるように「南海道」は整備されたと私は考えています。
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中世の瀬戸内海航路が分かる資料としては朝鮮の高申叔舟が成宗二年(文明三年(1471))に著した『海東諸国紀』があります。ここには載せられた「日本本国之図」には、播磨灘と紀伊水道を通る海路として次の3つの航路が描かれています。
①和泉・紀伊と淡路を結ぶ二つの海路、
②讃岐から淡路島西岸を経て兵庫に通じる海路、
③阿波から淡路島東岸を経て兵庫へ通じる海路
ルート②は、淡路島西岸を通る航路のため秋から冬にかけては、強い北西の季節風が吹くため、安全面で問題がありました。昭和になっての動力船の時代にも、引田と大阪と結ぶ定期航路の客船は、春・夏は淡路島の西岸各港に寄港しながら北上しますが、北西の季節風が強く吹く秋から冬にかけては、ルート変更して淡路島の東岸を航行していました。つまり、ルート②は春から夏までの季節航路で、それ以外の季節はルート③の鳴門海峡を抜けるコースに、季節的な使い分けが古くから行われていたようです。もちろん、畿内を結ぶ瀬戸内海のルートで最も一般的なのは、山陽沿岸の瀬戸内海北航路ですが、四国北岸から鳴門海峡を通る瀬戸内海南航路もサブルートとして使用されていたのです。
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ちなみに鳴門にはふたつの海峡があります。
ひとつは渦潮で有名な「大鳴門」です。これに対して大毛島・高島・島田島と対岸の撫養の間には100~500mの水通のような小鳴門海峡(小鳴門)があります。小鳴門海峡は大鳴門ほど潮流が速くないので、古代から小鳴門も海路として利用されてきました。
 引田の船乗り達は、は鳴門海峡を通過することを「鳴門をおとす」といい「何時ごろおとす(何時ごろ通る)」や「大鳴門おとすんかヽ小鳴門おとすんか(大鳴門を通るのか、小鳴門を通るのか)」と表現していたそうです。動力船で引田から鳴門まで約一時間くらいの距離であったようです。
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船はどのようにして鳴門海峡を越えていたのでしょうか?
 引田の元船大工や元船員は次のように話しています。
①満潮のときに紀伊水道から瀬戸内海に流れ込む海流にのって入り(南から北への流れ)、
②干潮のときに、瀬戸内海から流れ出す海流に載って紀伊水道に出る(北から南への流れ)。
③満潮の上、北西の風であれば海が荒れるが、北西の風でも干潮であれば逆に追い風となる
など、潮流や風により航行が大きく左右されたようです。

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 高松方面から鳴門海峡を通過するのは干潮のときで、それまで船は引田港で潮待ちすることになります。志度や津田、三本松などの港もありますが、引田ほど天然の入江が発達した潮待ち・風待ちに格好の港はないと船乗り達は云います。四国(特に東讃地方)の北岸を通ってきた船が、潮待ち・風待ちした港が鳴門海峡から海上の直線距離で約25㎞のある引田港だったのです。昭和三〇年代まで引田で潮待ち・風待ちをしている船の船員が、買物や飲食する姿が多くみられ賑やかだったといいます。
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 中世の瀬戸内海航路はどうだったのでしょうか?
 中世の瀬戸内海を行き来する交易船は、順風であれば帆走し、風が悪ければ漕ぎ、暴風雨に遭えば船を港に引き上げて避難する、そんなことを繰り返しながら海を進んでいきました。まさに、潮まかせ、風まかせのために潮待ち、風待ちのために、多くの湊に寄港しながらの航海だったのです。
 動力船が普及した1960年代でも、激しい流れに逆らって海峡を乗り切るのは難しく潮待ち・風待ちを必要とした船もありました。鳴門海峡は「阿波の鳴門か、銚子の口(千葉県銚子市)か、伊良湖渡合(愛知県渥美半島)の恐ろしや」と、船乗りに恐れられた全国有数の海の難所だったのです。
 その難所を抜けるには、引田港で潮待ちして情報やアドバイスを得てから鋭気を養って出港していく必要があったのでしょう。
参考文献 
萩野憲司 中世讃岐における引田の位置と景観  
中世讃岐とと瀬戸内海世界 所収

     前回、讃岐中世の港町めぐりで引田を紹介したら、もう少し詳しく知りたいというリクエストを頂きました。そこで、引田について見ていきます。引田は、戦国末に生駒氏が讃岐領主として入ってきて最初に築城したところで、城下町も整備されたようです。そのために、生駒氏以前と以後では、街の姿が大きく変わりました。生駒藩以前と、新たに引田城が築かれた後の引田を比べることで見えてくるものを探したいと思います。
1引田城3

 まずは現在の引田を見ておきましょう。
引田の目の前は播磨灘が広がります。かつては島だった城山に向かって南東から北西に弓なりに海岸が湾曲します。地図だけ見ていると、伯耆の米子から境港に伸びる弓ヶ浜とよく似ているように見えてきます。
3引田

平成10年(1998)に、この弓なりの上に位置する本町三丁目で、防火水槽設置工事が行われました。その掘削断面から、ここが砂堆であることが分かりました。引田の街は、大きな砂堆(砂堆1)の上に形成されているようです。砂堆上には海岸線に沿って、北から川向、小海川を挟んで松の下、魚の棚、中ノ丁、本町一丁目~七丁目、木場(きば)、大明神などが並んでいます。
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 小海川河口部をはさんで北側(川向側)と南側(松の下側)では、北側の方がやや高いことから、北側がより安定した地形のようです。砂堆の最も高い所を、通る旧街道が縦断するように伸びて松の下、中ノ丁、本町一~七丁目の街並みが続きます。この旧街道は、昭和30年代に新しく国道11号線が開通するまでは阿讃の主街道で、この街道に面してマチスジ(町筋)、オカと呼ばれる商家や住宅が建ち並ぶ商店街を形成されていました。
中世引田の復元図から見えてくることを挙げておきましょう。
砂堆Iの上に街並みが形成され、その東西両側に向かって地形は広がっています。
②砂堆Iの西側には潟湖跡(潟湖Ⅰ)があります。
『元親記』では土佐の長宗我部群が「引田の町」を囲んで陣取ったとあり、続いて「本陣と町の間に深き江」があり、潮が満ちているとありました。引田の「町」と城は、「江」によって隔てられていたことが分かります。
③この「江」は城山の南側にある安戸から引田港まで入り込んでいた潟1と砂堆2のことで、現在は陸地となっていますが、明治までは塩田だったようです。
④この「江」は安戸塩田(砂堆3)で作られた塩を引田港まで運ぶ運河でもあったと地元では伝えられています。中世には小型船の往来や船着場として利用していたようです。
⑤『元親記』に記された引田の「マチ」は、引田城と「江」の対岸の宮の後や川向の集落Iと集落2にあたるようです。ここは安定した地形ですから、当時の引田の港町があったのはここのようです。

5引田八幡神社
⑥川向の亀山と呼ばれる高台に、引田の氏神である誉田八幡宮が鎮座します。この八幡宮は延久元年1069)に現在地に遷座したと伝えられます。県の自然記念物に指定の社叢が生い茂っているため、今は引田港は見えません。が、かつては眼下に引田港が見下ろせたはずです。この八幡宮は海上の安全を願って建立されたもので、航海や漁師にとって当て山となっていたようです。

5引田7
 今の八幡宮本殿は南面していますか、かつては北面していたと伝えられています。それはこの神社の北側に引田城があったからでしょう。八幡宮が北面していたは、引田城に向かって鎮座していたということになります。ここにも八幡宮が引田沖や潟1を往来する船の管理や引田城の鎮護を担う役割があったことがうかがえます。この神社を中心に、中世の港は形成されていたようです。
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⑦当時の引田の町の中心は、この八幡宮周辺の川向や宮の後でした。現在の中ノ丁から本町があるマチ(砂堆1)には、家屋は少なかったようです。
⑧今度は西南の塩屋方面を見てみましょう。ここには低湿地でかつての潟(潟2)が埋積したものとのようです。この潟の西には塩屋や小海(おうみ)という製塩やその景観を表す地名が残っていて、古代・中世にはここまで海が入り込んで入江を形成してたことがうかがえます。『入船納帳』にみえる引田船の塩は、この塩屋付近で作られたのかもしれません
引田が大きく変化するのは、生駒親正の引田城の築城です 。
讃岐領主として、やってきた生駒氏は最初に引田の城山に築城を始めます。一緒にやって来た家臣団も生活のためには屋敷を構えなければなりません。城下町の整備は火急の重要課題です。引田には、その際の屋敷割りが、現在の町割や地名に残っています。

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 引田の城下町復元図から見えてくることを挙げてみましょう。
碁盤目状の町割りがされている。
②道幅は狭く十字路も筋違いになっているところがいくつかある
③本町六丁目には箸箱町と呼ばれる地域がある。これは建物の並びが、箸箱の蓋のように出し入れできるのが一方だけで行き止まりとなっていることを表すもの。
以上からは城下町として、防衛上のために造られていることがうかがえます。
 その他にも引田のマチには魚の棚や草木町、大工町といった城下町によく見られる市場や職人町を示す地名も残ります。また中ノ丁や本町というように村役人や町人・商人が居住する地域や、寺町のようにまとまって寺院が配置された地域もあります。
引田城下町の中心はどこだったの?
 生駒親正が引田城の後に築いた高松城下や丸亀城下では、侍屋敷が並ぶ地域を一番丁や二番丁のように「丁」、町人町を「町」と表記して区別しています。引田の中ノ丁も武家町であったと考えられます。中ノ丁には生駒時代に庄屋役を仰せつかり、以降明治まで引田村庄屋を勤めた日下家や、松の下には先祖が生駒氏に仕えたという佐野家や岡田家などの有力商家がありました。これらの家が中ノ丁や松の下に集まっていることは、この地区が引田の政治の中心であり、城下町がここを中心に整備されたことがうかえます。本町は北から一丁目・二丁目・三丁目……七丁目と並びます。これは北側の中ノ丁を基点に、順序に付けられたと考えられます。
 さらに北後(きたうしろ)町や南後(みなみうしろ)町は地名からすると、中ノ丁や大工町・草木町から次第に広がっていった地域のようです。このように引田城下町は中ノ丁を中心に町が展開していったと研究者は考えているようです。

 生駒氏以前の中世の引田は、集落1と集落2にあたる川向や宮の後が町の中心でした。それが生駒親正による城下町の整備で、砂堆の南側にも家臣団の屋敷が「町割り」されて建ち並ぶようになります。そして、町の中心が松の下や中ノ丁に移ります。川向は「川の向こう」という意味ですから小海川の南側の地域が中心となってから使われるようになったのでしょう。
 また北面していた八幡宮を、南面に改めたのも生駒親正と伝えられます。南面させて引田のマチを望む方向に変えたのは、八幡宮の役割が引田城の鎮護から引田のマチの鎮護に変わったことを示しているのでしょう
 復元図には魚の棚や草木町・大工町といった城下町によく見られる市場や職人町が見えます。魚の棚には江戸後期まで魚問屋があったようです。また、本町の旧街道に面したマチスジは近世にも数十件の商家が建ち並び、最近まで商店街を形成していました。ここに住んでいた商工業者たちが、このマチの経済的な役割を担っていたようです。
引田の寺町は?           
寺町には積善坊(真言宗)・善覚寺(浄土真宗)・萬生寺(真言宗)の三つの寺院が一列に建ち並んでいます。小規模ですが寺町を形成していたようです。積善坊は、もともとは内陸部の吉田にあったがいつのころか現在地に移り、天正年間の長宗我部勢の兵火により焼失したようです。それを生駒親正が修復したといいます。
 善覚寺も小海にあったのを明暦年中(1655)゛に中興沙門乗正が現在地に移したと伝えられます。萬生寺は天文10年(1541)に当時引田城主であった四宮氏の菩提所として建てられたという縁起が残ります。
 このようにそれぞれ異なる縁起を持つ寺院が寺町に集まっていることは、誰かが意図的に移転・配置したのでしょう。寺町は引田では、西の入口にあたります。東の入口にも本光寺(真言宗)があります。東西入口に、防御施設として寺院が配置されたようです。
 このように引田は、生駒親正による都市計画により城下町が整備され、町の中心が移り武家町や職人町・商人町・寺町が形成されたことが分かります。
 しかし、生駒親正の都市計画は町割の整備だけではなかったようです。最も大事業でだったのが小海川の付け替え工事でした。
 小海川は川向と松の下を隔てるように流れます。この川は、今は丘陵部に沿って直線的に播磨灘に流れていますが、元々は安戸方面(潟1・砂堆3)に流れて「運河」の役割も果たしていました。それを砂堆Iを切り開いて直線的に海に出るルートにしたようです。これだけ見ると、この河口が果たしていた運河や船着き場の役割が果たせなくなることになります。
なんのための大規模な河川付け替え工事だったのでしょうか?
潟1と砂堆2・砂堆3にあたる小海川の旧河道の安戸には、明治44年(1912)まで塩田があり、大正年間に耕地整理が進められ現在は田地となっています。つまり旧河道は塩田に姿を変えたようです。
  大内郡松原村(東かがわ市松原)の教蓮寺に伝わる享保11年(1726)の『松雲山教蓮寺縁起』によると、
天正15年(1587)に生駒親正が引田に入部した際、播磨国赤穂から人民数十人を松原村に移住させ、塩浜を拓いたと記します。同じように引田の安戸でも、赤穂から住民が移住して塩田を造ったと伝わっています。中世以来、引田では塩屋(潟2)で製塩が行われていましたが、より海水を引き入れやすい安戸(潟I・砂堆3)で大規模な製塩を行おうとしたことがうかがえます。小海川の付け替え工事は、安戸への淡水の流入や洪水の被害を防止し、新たな塩田開発のためだったようです。
 さらに安戸だけでなく『元親記』でみた「江」も塩田に拓いた可能性もあります。安戸塩田の開発の背景には、塩屋の潟が上流からの埋積で埋まり塩田が仕えなくなった可能性もあります。
 小海川の付替工事は、塩田開発だけでなく、潟を排水することによる水害防止、そして堀として城下の防御の三点が考えられます。小海川付け替え工事に関する文献史料はありません。そのため年代などは明確にできませんが、この工事は生駒親正の城下町の整備と同時期に行われ、以前からあった製塩業を城下町の重要産業として発展させたと研究者は考えているようです。

引田に残る伝承からも、生駒親正による城下町の整備をうかがえるものがあります。
坂ノ下にある岩崎観音には、次のような伝承が伝えられます。
この辺りは船泊まりで、餓鬼が度々出没していました。生駒親正が引田にやって来たときに、この訴えを聞き、安全を願って祠を建て、聖観世音を安置した。これが岩崎観音である
というものです。ここには「岩崎観音付近が船泊まり」だったとあり、小海川が付け替えられる前の景観を裏付けるものとなります。同時に、小海川旧河道(潟I)には、船が行き来していたこと分かります。
 また八幡宮の秋祭りには、引田の各地区で獅子連や奴連が、大明神にあるお旅所まで旧街道往復2㎞を練り歩きます。八幡宮に奉納される奴の起源は、天正年間に生駒親正によって八幡宮が再建されたのを喜んだ引田の人々が「やり踊り」を奉納したのが始まりと伝えられています。ここにも数百年経った現在も引田の人々の記憶に城下町整備を行った生駒親正が「郷土の恩人」として、後世にも語り継がれています。

 ところで生駒親正が引田を拠点としたのどのくらいの期間だったのでしょうか?
資料的には数力月で引田から宇多津に移っています。彼の引田時代はきわめて短期間でした。引田から宇多津に移った理由は『生駒家始末興廃記』には次のようにあります。
生駒雅楽頭近規ハ、永禄・元亀・天正等之兵乱、太閤秀吉公幕下に属し、数度之武功依之有、天正十五年讃岐之守護尾藤甚右衛門没落之跡 高十七万六平石受封して、讃岐国大内郡引田之城え入部被成候所、引田ハ国之東端ニて、西方難治より、鵜足郡聖通寺山の城に居住、此城往昔仙石権兵衛殿築被申由伝候、然ルに近規国政被仰付るに、当国先々衆呼出し、相応之扶助を宛て国務被仰付、当地境内狭故、天正十六年、香東郡野原庄二初て城を築、天正之頃迄は、在々小城共多故、海辺仁保・多度津・笠居・津田・三本松・引田杯船付二ハ商売人有之、其外在々分散して繁昌之地も多くハなし、
ここには次のようなことが記されています
①生駒氏が秀吉から讃岐国領主に任じられ、最初は引田を拠点とした
②しかし「引田は讃岐の東端で、西方が治め難し」として 宇多津の聖通寺山に移ったこと
③さらに聖通寺山では手狭になったために香東郡野原(高松)で新城に着工したこと
④天正の頃までは仁保(仁尾)・多度津・笠居・津田・三本松・引田が有力な港町で、ここに商人達がいたようです。この引田の商人たちが居住していたのが『元親記』で仙石氏に包囲された引田の町なのでしょう。

 引田か短期間で拠点を移動させた理由は、次の2点のようです
①引田は瀬戸内海東部での軍事拠点としては機能するが、讃岐を治める拠点としては東に偏りすぎていること、
②本格的な城下町建設には、砂堆Iの地域は狭すぎて大規模な埋め立て造成工事を行わないと、岡山や姫路のような城下町は造れないという地形的制約があった
とされているようです。 
 生駒親正は引田から移った翌年の天正2(年(1588)には香東郡野原に高松城の築城に着手します。
そして慶長2年(1597)には丸亀に高松城の支城を築き、ここには親正の子・一正を入れます。これは西讃地方の支配のための支城的な役割もありました。東讃地方にも支城が必要であるという認識があったようです。当時は、関ヶ原の戦い直前で、臨戦態勢が整えられていく時期でもあります。
 享保年間(1716)の『若一王子大権現縁起』や寛政四年(1792)の『小神野夜話』では、慶長年間に生駒甚助(一正の次男)が大内郡一万石を領し、引田城に拠ったとあります。引田城が東讃地方の支城として整備が続けられたことがうかがえます。
 また発掘調査によっても数多く出てくる瓦は、関ヶ原直前のもので、入部当時のものではないことが分かってきました。引田城や城下町の工事は、関ヶ原の直前に活発化したと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと
①中世の引田の町は、八幡宮周辺を中核として川向や宮の後に集落があり、現在マチと呼ばれる中ノ丁から本町がある砂堆には集落が限定的であった。
②駒親正の引田城と城下町の整備により景観は一変する。
③町の中心が八幡宮周辺から現在のマチに移り、武家町や職人町・商人町、そして寺町が計画的に配置された
④小海川付替え工事が行われ、安戸塩田の開発などの殖産事業も実施された。
⑤しかし、生駒氏の拠点は短期間で宇多津を経て高松に移された。⑥そのため引田城や城下町整備は、関ヶ原直前から本格化した
以上、生駒氏による引田の城下町整備についてでした。
萩野憲司 参考文献中世讃岐における引田の位置と景観  中世讃岐とと瀬戸内海世界 所収
1584 天正12 (甲申)
 県内  6・11 土佐の長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡
 1585年 天正13 (乙酉)
   4・26 仙石秀久および尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し屋島に上陸,喜岡城・香西城攻略
   5・15 仙石秀久,阿波より讃岐に引揚げ牟礼・高松に陣取る(仙石家譜)
   7・25 秀吉と長宗我部軍との和議が成立し,長宗我部元親は土佐へ退却
   7・- 仙石秀久,秀吉から讃岐を与えられる.ただし2万石は十河存保の支配
   仙石秀久,抵抗した香東郡安原山百姓100余人の首領13人を聖通寺山麓で処刑する
   この年 フランシスコ・パシオ,上京の途中塩飽に寄る(イエズス会日本年報)
1586年 天正14 (丙戌)
   12・13 仙石秀久,戸次川で島津軍と戦って大敗し,十河存保ほか多くの讃岐武將戦死
   12・22 仙石秀久,戸次川の戦いでの不覚を責められ豊臣秀吉とり讃岐国没収
   12・24 尾藤知宣,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる
1587年 天正15 
   6・- 尾藤知宣,日向国根白坂の合戦で豊臣秀吉の怒りをかい讃岐国没収
   8・10 生駒親正,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる(生駒家宝簡集)
   8・17 加藤清正,讃岐の平山城(聖通寺城カ)を生駒親正に引き渡す
   12・- 播磨国赤穂から数十人が白鳥の松原に移住し塩田を開く(教蓮寺文書「教蓮寺縁起」)
1588年 天正16 (戊子)
   この年 生駒親正,香東郡野原庄の海浜で高松城築城に着手する
1589年 天正17 (己丑) 2・晦 豊臣秀吉,塩飽1250石の領知を船方衆650人に認める
   3・- 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
   この年 豊臣秀吉の北条氏討伐に際し,塩飽船,兵糧米を大阪より小田原に運ぶ,
1591年 天正19 (辛卯)9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年 文禄1 12・8 (壬辰)
   3・- 生駒親正・一正父子,秀吉の命で5500人を率いて朝鮮半島へ出兵する
   10・23 豊臣秀次,塩飽に大船建造を命じ船大工・船頭を徴用
1594年 文禄3 (甲午)生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
   10・16 豊臣秀吉,生駒一正に来春の朝鮮出兵のための水主・船の準備を命じる
   7・12 夜,大地震.田村神社の神殿壊れる(讃岐一宮盛衰記)
1597年 慶長2 (丁酉)
   2・21 生駒一正,朝鮮出兵で第7番に属し,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣
   生駒親正,一正と計り,西讃岐支配のため亀山に城を築き,丸亀城と名付ける
   この頃 生駒藩の検地が始まる
  1600年 慶長5 (庚子)
   6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため家康軍に従い関東に赴く
   7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,騎馬30騎を参陣
       この後,高野山に入り家康に罪を謝る
   9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
   9・- 生駒親正,高野山で出家
 生駒藩,香西加藤兵衛(往正)ほか20名を登用し,佐藤掃部に「国中ノ仕置」を命じる
1601年 慶長6 (辛丑)
1602年 慶長7 (壬寅)
    生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
    播磨国の人々が坂出(内浜・須賀)に移住する(西光寺文書)
1603年 慶長8 (癸卯)
   2・13 生駒親正,高松で没する.78歳
1605年 慶長10 (乙巳)
   9・- 生駒一正,初めて妻子を江戸へ住まわせる(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
1609年 慶長14 (己酉)
   5・23 生駒一正,妻子を江戸に住まわせたことにより,徳川秀忠より「半役」
       (国役を半分にする)を申しつけられる(生駒家宝簡集)
   2・2 生駒一正,国分寺より梵鐘を召し上げ,その代りとして荒田1町を寄進
   3・14 生駒藩,国分寺へ梵鐘を返却する(国分寺文書)
   この年 生駒一正,親正の菩提のために弘憲寺を建立し,寺領50石を寄進する
1610年 慶長15 (庚戌)
   (2)・8 駿府に参勤していた生駒一正,名古屋城築城を急ぐため名古屋へ赴く
   3・18 生駒一正没する.56歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   4・- 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.
この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1611年 慶長16 (辛亥)
1613年 慶長18 (癸丑)
   10・1 徳川家康大坂征討の出陣を命じ,大坂冬の陣おこる.
   11・1 生駒正俊,大坂木津川口に陣をしく(徳川実紀)
   11・17 生駒正俊,住吉で家康に参見する.家臣森出羽・生駒将監・萱生兵部の活躍めざま しく家康・秀忠より感賞される
   8.- 全国的に踊りが広がり,これを伊勢神踊と号する(讃岐国大日記)
   10・25 大地震起こる(讃岐国大日記)
1596~1615年 慶長年間
   この頃 生駒藩,高松城下魚棚の住人の一部を野方町に引き移し,水主役を勤め
       させる(英公外記)
   この頃 金倉(蔵)寺の諸堂が復興する(金倉寺文書「由緒書」)
1615年 元和1 7・13 (乙卯)
  政治・経済
   2・12 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により塩910石を大坂城へ納め
       る(菅家文書)
   3・22 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により薪3500束を大坂城へ
       納める(菅家文書)
   4・6 徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
   夏   生駒正俊,大坂夏の陣で徳川方につき,軍用金5000両を家臣に配分して
       生玉庄に陣取る(生駒記)
   5・7 大坂城落城
   (6)・13 一国一城令により丸亀城廃城
1621年 元和7 (辛酉)
   6・5 生駒正俊,没する.36歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   7・- 生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見

                                
 「兵庫北関入船納帳』(文安二年〈1445〉には、中世讃岐の港町として、引田・三本松など17の港町が記されています。これらの港町について、中世の地形を復元した作業報告が香川県立ミュージアムから出版されています。復元されている港町を見ていくことにします。
その前に、準備作業として「中世港町の要素」とは何かを押さえておきましょう。
 中世港町を構成する要素としては、次の六つです。
  ①船舶が停泊できる場所……   繋留岸壁、桟橋等
  ②積荷の積み下ろしのできる場所…… 荷揚げ場
  ③船舶の港湾周辺での航行の目標…… 寺社、城郭等
  ④港湾内施設の管理事務所……   寺社、居館、城郭等
  ⑤港町を横断もしくは縦貫する街路
  ⑥内陸部へのアクセス方法……    道路、船舶
 作業の手始めとしては、後世の干拓や埋立地を地図上で取り去り、現地でわずかな起伏等を観察します。それを地図上に復元していく根気の要る作業です。その結果、見えてきたことは、讃岐の中世港町は、次の2つがあるところに成立していたことが分かってきたようです
入り込んだ内湾する浜
②それに付随する砂堆(小規模な砂丘)
 穏やかな瀬戸内海とはいえ、天然の波止的な役割を果たす砂堆は港には有り難い存在だったのでしょう。砂堆は、海浜部の波が運ぶ砂が堆積するものと、河口部の河川が運ぶ砂が堆積するもののふたつがあります。内湾する浜と砂堆と、周辺に展開する集落について「復元地図」を見ていくことにしましょう。
 1 引田
3引田

 引田は「兵庫北関入船納帳』文安二年(1445)以下「人船納帳」)には、この港の積荷としては、塩・材木などの記載が見えます。景観地図からは大きく内湾した浜の北西部に突き出た半島の付け根あたりに中世の港が復元できます。現地踏査の結果、現在の本町周辺から北の城山に向かって、砂堆状の高まりが確認できるようです。この砂堆は、本町周辺では狭い馬の背状になっていたことがうかがえるようです。また、砂堆の北端の誉田八幡神社付近には安定した平坦地が広がります。
DSC03875引田城
 戦国時代末期に讃岐に入封した生駒氏が最初に城を築いた城山は、北西からの季節風を避ける風よけとしては有り難い存在です。こうしたことから中世の港湾施設は、現在の引田港付近にあったと研究者は考えているようです。また、この港の管理権は誉田八幡神社が持っていたと推測しています。
港からのアクセスについては、砂堆を縦断する街路を南に抜け、南海道へ接続していたようです。
また、誉田八幡神社の北から西にかけては、近代以前には、塩田が広がっていたこと、現在も水はけの悪い水田が広がることなどから、当時は、干潮時に陸地化する潟湖のような状態であったと考えています。さらに本町周辺の砂堆の西側にも低湿地が広がっていたようで、「入船納帳」に見られる積荷の塩は、このあたりの低湿地で生産されていた可能性が高いようです。
  引田は、古代から細長い砂堆の先に伸びる丘陵が安定した地形があって、その上に土地造成と町域の拡大が進められてきたようです。それは住民結合の単位としての「マチ」の領域、本町一~七丁目などに痕跡がうかがえます。このように中世の引田の集落(マチ)の形成は誉田八幡神社周辺を中心に、砂堆中央から基部に向けて進みますが「限定的」だったようです。つまり狭すぎて、これ以上の発展の可能性がなかったとも言えます。そのために戦国末期に讃岐にやって来た生駒氏は、最初に引田城に着手しますが、後には丸亀・高松に新城を築くことになるようです。
 引田は瀬戸内海を睨んだ軍事拠点としては有効な機能をもつものの、豊臣大名の城下町建設地としてはかなり狭く線状都市です。大幅な人工造成を行わなければ近世城下町に発展することはできなかったようです。
 三本松
3三本松
 三本松は、湊川河口と与田川河口との間でJR三本松駅周辺に中世の港があったようです。現地を詳細に観察すると、次のような事が見えてきます。
①三本松駅の北側に大きな砂堆1が確認できる
②現在の三本松港の東側の海岸線に、砂堆状の高まりが二つ(砂堆2・3)ある
③砂堆2・3の後背地はかなり地割が乱れているので、湊川に連続していると考えられる
④当時は湊川の河口部が現在よりもかなり東西に広がっており、河口部の縁辺に砂堆2・3が形成された
⑤砂堆2の後背地は、砂堆Iとの切れ目につながり、砂堆1の東側に大きく湾入した部分がある。
⑥この付近(現在の西ノ江付近)に港湾施設があった
⑦集落は、砂堆Iを南北に横断する街路(本町筋)とそれに直交する街路(中町筋)に沿って広がっていた。
 港湾施設へのアクセスについては、砂堆Iの後背地にも河川状の低地があり、阿波街道(南海道)からは離れているので、内陸部との交通は不便だったことがうかがえます。しかし、河川水路の利用という点から見れば、湊川上流には水主神社があり、与田川上流には与田寺などの有力寺社があります。三本松湊は、これらの寺社が管理をおこなっていたと研究者は考えているようです。

 3 志度
3志度
 志度は、海女の玉取伝説で有名な志度寺付近が、港として考えられています。
現在の弁天川やその支流の流域は浅い入江や低湿地であったようで、一番奥は現在の花池あたりまで深く入り込んでいました。入江の入口は弁天川の河口付近で、そこにはランドマークとして弁天島があったことになります。今では埋め立てられて陸地化して、ただの丘ですが、この島は「志度道場縁起」などでは、島として描かれています。また、河口付近の低湿地では、製塩が行われていたようです。
 志度寺が位置する大きな砂堆の海側に広がる浜が、港としての機能を果たしていた
と研究者は考えているようです。ここでもその中央部の志度寺が、港を管理する役割も担っていたのでしょう。港湾施設へのアクセスについては、西側から砂堆の中央部を縦断するように街路2が志度寺へ通じているので、これが主要アクセスとなっていたのでしょう。
 4 宇多津と平山
3宇多津
 宇多津は、中世においては細川氏の拠点として讃岐国における政治・経済の中心地でした。
この港町は、坂出市の綾川河口にあった松山津が、綾川の堆積作用で古代末期に港として機能しなくなったのに代わって台頭してきたようです。港の位置は、青ノ山の裾部あたりから東側の大束川河口にかけて、現在の西光寺周辺に小規模な浜が想定されています。
 平山は、聖通寺山の西側、大束川の河口の東側に広がる入江を港として利用していたと考えられます。平山と宇多津は、それぞれ丘陵を背後に持ち、丘陵にはさまれた大束川の河口は、波や風の影響が少なくいい港だったようです。特に宇多津は、中世から続く寺社が多く集まって、中世は讃岐の文化的な中心であったことは、以前紹介した通りです。
仁尾                                       
3仁尾
仁尾は燧灘に面して、いまは夕日が美しい町として有名になりました。
かつては 「兵庫北関入船納帳』には「仁保」とも書かれていたので広島県の仁保とされていましたが、その後の研究で、三豊市仁尾町であるとされるようになりました。この港は、平安時代に賀茂神社の「内海御厨」として設定されるなど、古くから栄えており、近世では、「千石船が見たけりや、仁尾へ行け」とまでいわれるほどの繁栄ぶりだったようです。
 現在の仁尾は、干拓や埋立で海岸線が大きく海側へ移動していますが、中世ごろは賀茂神社境内から南へ延びる街路付近が海岸線だったようです。当時の港としては、古江と呼ばれている北側の入江から海岸線に沿った場所が考えられます。南側は、江尻川河口付近まで延びますが、この川は河口から少し内陸部に入ったところで、大きく屈曲しているので、河口から北側に大きな砂堆があったことが推測されます。この砂堆の中央を縦断するように伸びる街路Iが主要な街路として機能していたようです。
 仁尾については、北側に賀茂神社、南側の江尻川河口付近に草木八幡神社があり、それぞれの別当職である覚城院、吉祥院などの寺社が多く残ります。かつては、この両社は対立・拮抗を関係にあったようで、両社の勢力範囲の境界付近には「境目」という字名も残っています。

中世讃岐の港町を類型化してみると
1 類型I(松山津・三野津)
 氾濫を繰り返す河口部が大きく入り込んだ入江に港湾機能をもつ港です。砂堆は小規模で、元々はは河口奥に港湾機能があったのが、堆積作用で河口が埋没し、次第に船の出入りに支障をきたし、衰退していった港です。古代の港に多く見られ、松山津や三野津があてはまります。松山津は讃岐国府、三野津は宗吉窒跡との密接なつながりありました。しかし、古代末期の内陸部での完新世段丘崖の形成など、大規模な地形環境の変化で、河口部の埋積が急速に進み、港としては姿を消していきました。
3綾川河口復元地図
2 類型Ⅱ
 小さな河川の河口部に位置し、大きな砂堆の内側の入江に港湾機能を持っていた港です。砂堆や内湾部の入江の状況により、3つに細分化しています。
Ⅱの①型 砂堆の上に集落が広がり、内湾部に港湾機能をもつ港です。三本松・方本(屋島)・観音寺などがこれにあたります。
3観音寺

Ⅱの②型 砂堆が波止の役割を果たし、砂堆上には集落がないもの。その多くは、後背地に山を控え、海との間の狭い平地に集落が展開します。そのため、内陸へのアクセスが難しい港になります。庵治・佐柳島などがこれにあたります。

3庵治
Ⅱの③型 大きく内湾した入江に砂堆が付随し、河川の河口部に港湾機能をもつ港です。砂堆の外側にも船舶の停泊機能があり、複合的な港湾施設になり、その後の発展につながった港です。宇多津・野原(高松)がこれにあたります。

 以上を見てきて、改めて気付いたことをまとめておきます。
①見慣れた現在の港を基準に、中世の湊をイメージすると見えてこない
②河口やその周辺には砂堆が形成され、それが港の機能を果たしていた。
③港は港湾関係者や船乗り、交易者・商人などが「混住」する異空間を形成する
④港を管理するのは、管理能力のある僧侶達で寺院や神社が管理センターの役割を果たす
⑤中世後期には、交易ルートが布教ルートとなり各宗派の寺院が進出してくる
⑥政治的な勢力は港を直接支配下には置けていない
こんなところでしょうか。
 参考文献  北山健一郎 中世港町の地形と空間構成 「中世讃岐と瀬戸内世界」所収
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Ⅰ大野原八幡神社
明治35年(1902)の『香川県讃岐國三豊郡大野原村 鎮座郷社八幡神社之景』です。ここには約120年前の大野原の八幡神社が描かれています。神社の建物、玉垣、石垣等の配置がよく分かりますが現在とあまり変わらないようです。本殿の後ろに碗貸塚古墳があるのですが、それを書き手は意識しているようには見えません。古墳の開口部のあたりを見ると、土塀巡らされて、石垣の中央部には縦長の巨石があるように見えるのが、今とちがうところでしょう。
この図中には「椀貸塚ノ縁由」として
「相傅ノ昔 塚穴二地主神在リテ 太子殿卜云フ 神霊著シキヲ以テ庶テ穴二入ルモノナシ・・」
と記されています。 ここには「椀貸伝説」とともに、横穴(古墳石室)が「奥の院」として神社の聖域とされ人々の信仰を集めてきたことが分かります。椀貸塚古墳は、大野原八幡神社の本殿の後に神域として祀られ続けて来たのです。そのために、近世の大野原開発の際にも破壊を免れたと言えます。しかし、無傷で残っているのではないようです。古墳と現在の建築物等の関係はどうなっているのか、測量図をみながら再度確認しておきましょう。
1碗貸塚古墳1

碗貸塚古墳の測量図を見て分かることを挙げておきます
①直径37.2mの大型円墳の墳丘高は現状値で9.5mあり、盛土築造である。
②墳丘周囲には二重の周濠と周堤がある。内濠と周堤の幅はほぼ同じで約8m。
③周濠を含めた墓域の直径は70mあり、その占有面積は約3,850㎡。
④石室は両袖式の大型横穴式石室。羨道十前室十玄室(後室)複室構造。
⑤石室規模は全長14.8m、玄室長6.8m、玄室最大幅3.6m 玄室高3.9m、玄室床面積24.6㎡。玄室空間容積は72.7㎡で、全国規模の容量をもつ。
⑥表面観察では葺石や段築は確認できない。
⑧東側には、後から作られた岩倉塚古墳がある。
⑨墳丘南側には大野原八幡神社の本殿、
③東側も応神社と小学校の校庭として削られている。
④北側の周壕は慈雲寺墓地となっている
大野原古墳群調査報告書Ⅰ」は、新たな発見として周堤・周壕をもつ古噴であったことを挙げています
中期古墳の前方後円墳では、伝応神陵や伝仁徳陵のように外堤がめぐり、水をたたえている姿をすぐに思い出します。大型の前方後円墳と周壕は、セットとして私たちにインプットされています。しかし、古墳後期になると外堤は姿を消していきます。逆に、古墳後期の大型円墳に周堤があるのは珍しくなるようです。数少ない周堤を持つ大型円墳に共通するのは、国造クラスの各地域の最有力者の墓に用いられているのです。椀貸塚古墳は、巨大な石室と周堤を持ちます。さて、どんな人物が葬られたのでしょうか?
  碗貸塚古墳の復元イメージは、こんな姿になるようです
1碗貸塚古墳2
 椀貸塚古墳は、複室構造の横穴式石室で、これは九州に系譜がたどれるようです。また周堤をもつ大型円墳は豊前や日向に多いようです。ここでも三豊の古墳は、九州との関係を濃密に漂わします。
復元イメージ図から私がすぐに思い出したのは、下の日向の西都原古墳群の鬼の舌古墳です。
1鬼の窟古墳

 こんな古墳が30年おきに3つ大野原の扇状地台地に並んで作られたのです。これは近くの南海道を通る人たちや瀬戸内海をゆく船からも見えたようです。まさに、三豊の新しいモニュメントだったのです。
1周堤古墳
この時期の後期首長墓で周堤をもつ古墳は、九州の西都原古墳群の大型横穴式石室を持つ206号墳のように国造クラスの抜きんでた首長の古墳に限定されます。そこから大野原の首長は「四国地域の大物」よ想定できるようです。
1大野原古墳 比較図

  碗貸塚古墳の次に作られたのは、平塚・角塚のどちらなのでしょうか? 報告書は
「玄室側壁の石積みの段数の変化では、椀貸塚古墳5段→平塚古墳4段→角塚古墳1段となり、段数の減少傾向が認められ、同時に使用石材の巨石化と壁面の平滑化が進行している。」など5つの点を挙げて、
築造順を「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」としています。
さらに、大野原古墳群のモデルになったのは母神山錐子塚古墳で、それを継承していると研究者は考えているようです。
それでは平塚から見ていきましょう。
 平塚は、八幡神社の御旅所で祭りの舞台にもなります。そのために神輿台や参拝道が作られ封土が削られて薄くなり、石室へ水が浸入しているようです。

1大野原古墳 平塚
①直径50.2mの大型円墳
②墳丘高は現状値で約7m。
③墳丘周囲には幅8.4mの周濠が廻り、それを含めた直径66.7m、その占有面積は約3,490㎡。
④墳丘の大部分は盛土で築造れ、段築・葺石・埴輪は見られない。
⑤両袖式の大型横穴式石室で、玄室の下半1/3程度は流土で埋没。石室規模は、全長は13.2m、玄室長6.5m、玄室最大幅3m玄室高2.6m、玄室床面積18.3㎡、玄室空間容積41.3㎡
次に角塚です。この古墳はその名の通り方墳であることが分かりました。
昭和30年頃に撮影された航空写真では円墳に見え、現在の噴丘表面の大部分は昭和の造成で作られたものであるため方墳か円墳か分かりませんでした。報告書はトレンチ調査から次のように方墳と判断しています。
①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長ヱ4mの規模であり、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳であること
大野原の3つの古墳群の特徴は、何なのでしょうか?
報告書は次のように指摘します。
「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」
さらに、次のような点を挙げます。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
どちらにしても、6世紀後半から7世紀前半にかけて椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と順番に首長墳が築造した大野原勢力の力の大きさがうかがえます。中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に、大野原を拠点とする勢力は讃岐という範囲に留まらず、四国地域内においても突出した存在であったようです。
四国最大規模の巨石墳群としての大野原古墳の他地域へ与えた影響は?
 讃岐で最初に横穴式石室を導入したのは丸山古墳です。しかし、それに続く盟主墳は採用していません。それが築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期に、重なるように横穴式石室墳が姿を見せるようになります。
 この時期の石室は、それぞれが特徴的で個性的な様式でモデルがなかったようです。石室用材は小形で、玄室床面積も10㎡を超えるものはありません。

1大野原古墳 比較図
 それが母神山の瓢箪塚古墳に続く盟主墳の錐子塚古墳に大型横穴式石室が採用されます。複室両袖型石室で、玄室床面積は12㎡を越え、玄門部と羨道部に立柱石を内側に突出させて配置するタイプです。このタイプの石室が大野原古墳群に引き継がれていきます。そして、使用石材の大型化、前室と羨道の一体化と連動した羨道規模の長大化などの流れができあがります。
「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」の変化の中で作られた様式が讃岐各地の石室に導入されていったと研究者は考えているようです。例えば、国府が築かれる綾川下流域では、痕跡化した複室構造を認める新宮古墳、前室と羨道は一体化するが羨道天井部を一段下げて高架した綾織塚古墳など、これらには大野原古墳群からの影響がうかがえます。新宮古墳や綾織塚古墳を経て、醍醐2号墳で「完成形」に至るのですが、それは大野原古墳群がたどったルートと同じです。このように讃岐各地の大型石室墳は、大野原の石室がモデルになっていると研究者は考えているようです
 また築造された当時は、椀貸塚、平塚は讃岐最大規模石室をもつ古墳でした。角塚古墳の築造段階も、この大きさの石室は他にはなかったようです。このように「讃岐における横穴式石室の構築、なかでも大型石室墳の構築は大野原古墳群が主導」したと評価することができるようです。
 ところが7世紀後半になると大野原勢力の活動が低調化します。
 確かに南海道が通過し、柞田駅や柞田郷の設置され、古代寺院である青岡大寺(安井廃寺)が建立されます。しかし、それまでのように讃岐の他地域に比べて突出した存在ではなくなります。
対照的に三豊北部の三野郡には、活発な活動を示す勢力が現れ、輝きを増していきます。四国最初の古代寺院・妙音寺を建立する勢力です。この勢力は妙音寺の岡の下を流れる二宮川流域を勢力としてした集団で、畿内型横穴式石室を持つ延命古墳を築いた後は、いち早く古代寺院建立に着手します。その際に必要な瓦生産を開始した宗吉瓦窯跡は、その後藤原宮瓦の生産を始め、官営工房としての役割を担うとともに、今は丸亀平野の池の中に塔石だけが残る宝憧寺にも提供するようになります。

1三豊の古墳地図
 つまり、大野原の勢力が角塚という末期古墳の築造を行っていたときに、三豊北部の勢力は古代寺院の建立を始めていたのです。それだけではなく中央政府の技術支援を受けて、最新鋭「宗吉瓦」工場を三野に誘致し操業を開始し、藤原京に送り出すという国家事業にも参加していたことになります。
 つまり、7世紀後半の「大化の改新」から「壬申の乱」に架けての時期に、三豊の中心は大野原から笠田・三野に移ったのです。蘇我氏へのクーデター、壬申の乱における天武派と天智派の対立などが地方政治にも影響を及ぼしたことが考えられますが、これ以上の深読みは控えておきましょう。
参考文献 大野原古墳群Ⅰ 観音寺遺跡発掘調査報告書15



 大野原古墳群がある三豊平野南部の地理的な概観を「復習」しておくためのメモと、前回の補足になります。
 
1大野原地形
大野原古墳から南を見ると雲辺寺山(911m)がゆるやかにそびえ、阿讃山系の連なる山脈の盟主の姿を見せます。この山に源を発する祚田川は、五郷の谷間を抜けると扇状地を形成します。その扇状地の中央部の標高30mに大野原古墳群は3つ並んであります。瀬戸内海燧灘の花稲の海岸線までは西方向へ約2.5km、扇状地がはじまる讃岐山脈の山麓部までも同じく約2.5kmで、扇状地のちょうど中間になります。
 祚田川水系に広がる五郷・萩原・紀伊・中姫地区や海岸線に沿う花稲地区は近世以前から開かれた地域のようです。特に花稲はこの地区の港として、瀬戸内海交易を古くから行ってきた記録が残っています。
 大野原地区は、江戸時代に生駒藩の西島ハ兵衛が井関池の築造し、それに引き継ぎ、近江からやって来た平田与一左衛門等が苦闘の末に、この地を拓き現在の美しい田園風景の礎を築いた土地です。讃岐期の小雨に加えて、扇状地であることからの水不足に苦労し、それを長年にわたる地域の人々の知恵と努力によって、現在のレタスやタマネギのブランド産地へと育ててきた歴史があります。
 大野原町の地質は、次の4層からなっています

1大野原地形3
①雲辺寺山など讃岐山脈を造る海底堆積物の和泉層群、
②五郷山公園や大谷池周辺の湖沼堆積物の三豊層群、
③山麓の丘陵及び台地を形成する洪積層、
④平野部の沖積層
 香川県全体の基盤である花岡岩類は、西南日本内帯の領家帯に属する古い岩石です。もともとは地下の深いところにある地層ですが、観音寺市母神山(池之尻町など)や琴弾山(八幡町・有明町)などのように地上に露頭しているところがあります。大野原では丸井北付近でわずかに見られるだけです。ちなみに、三豊では、讃岐岩質安山岩などの讃岐層群が地上に姿を見せていません。そのため飯野山のような「おむすび型」の山がありません。

 和泉層群が形成されたのは、中生代の終わり頃の白亜紀の後期(約7,000万年前)とされています。
この層は和泉山脈から淡路島の南端、阿讃の県境を走り愛媛県の高縄半島から松山に至るまで、中央構造線の北側に沿って300 kmにわたって続いています。讃岐山脈は、この層によってできていて、砂岩層と泥岩層が互い違いに重なった層を形成しています。そのため五郷ダムや豊稔池、井関池水門では、アンモナイトやイノセラムスなどの化石が出てきます。
  第三紀鮮新世(約700万年~200万年前)から第四紀の初め頃に湖が香川から大阪方面に及ぶ淡水湖が形成されていた時代に、三波層群が堆積します。
三豊層群は粘土、砂、礫などからなる軟泥で、花岡岩及び和泉層群の岩石からできています。図2の通り、三豊層群は、井関から丸井まで雲辺寺山麓に台地上に広がっています。ここからは、メタセコイヤの球果や葉の化石が出てきます。
  新生代・第4紀・洪積世(200万~1万年前)には、雲辺寺山を造る和泉層群が浸食され山麓に堆積した洪積層が形成されます。
 この地層が和泉層群及び三豊層群を不整合におおっていて、径2~5cmから人頭大の和泉砂岩、泥岩を主とした礫層からできています。この礫層は、礫の風化が進んだいわゆるくさり礫なので赤色土化しているところもあり、内野々、福田原、丸井のミカン畑あたりで多く見られます。
 大野原地域の平地部は沖積世(約1万年~現在)に、柞田川(全長16 km、流域面積61㎞)と唐井手川の堆積作用による扇状地が海岸近くまで達したものです。平地部の地下は沖積層(厚さ5~20m)、洪積吐堆積物(厚さ10~30m)、三豊層群(厚さ40~80m)、及び基盤の花岡岩からなっているようです。

 地質的なことを整理すると、改めて「大野原(おおのはら)」という地名がつけられた訳が分かるような気がしてきました。つまり、この地域は柞田川の扇状地の上にあり、水はけも良い地域なのです。そのため弥生人が瀬戸内海を西からやって来て、稲作を行うには不適な地域であったということになります。そのため近世に用水路がひかれるまでは「大きな野原」だったようです。
 三豊平野に海から最初にやって来た弥生人は、まず財田川河口の後背地で稲作を初め高屋地区に集落をつくり、そこを母集落として財田川の上流の微髙地や河岸段丘上に子集落を形成していったのでしょう。特に私が注目したいのは二宮川流域です。この源流には大水上神社が鎮座します。弥生の時代から信仰を集めた神社だと私は考えています。
さて、ここからは三豊平野の墓域変遷についての前回の補足です。
 ここまでは柞田川の北と南では弥生時代における開発発展のスピードが異なったことの背景を、地理的な要因から推察してきました。モノから考えても、弥生時代の青銅器祭儀である銅鐸・銅矛・銅剣が出てくるのは財田川・二宮川流域です。柞田川より南からは出てこないことは前回もお話ししました。
 いくつかの集団に分かれて「青銅器祭礼」を行っていた財田川流域の諸集団を、最初に統合したのは誰でしょうか?
それが三豊平野最初の前方後円墳である青塚古墳に眠る首長と私は考えています。そのパートナーが財田川河口の港を押さえた丸山古墳の首長だったのではないでしょうか。青塚と丸山古墳は、古墳時代中期の同時代に築かれたとされます。青塚は内陸部の前方後円墳、丸山古墳は財田が倭寇の港に位置する讃岐最初の横穴式石室を持つ円墳です。両者は、多度津と善通寺の関係のように「本拠点と外港」的に棲み分けて共存・補完関係にあったと推測します。
 同時に両者の古墳の石棺は、九州から運ばれてきた阿蘇石の石棺が使われるなど古墳築造に、九州的要素が強く見られます。背景には、宮崎の西都原や阿蘇を拠点とする勢力との緊密な関係があったのではないかと考えられます。もっと具体的に云うと「紀伊氏」の南瀬戸内海ルートの拠点地として、財田川河口は機能していたのではないかということです。
 その後、この勢力は青塚から母神山へ墓域を移動させて、前方後円墳のひさご塚古墳を築きます。
この古墳は「総合運動公園」の自由広場の南東の竹藪のなかにあります。この周辺には多くの円墳があり古墳群を形成します。いくつかの土盛りが見え隠れするような気配ですが、表示がなく特定の古墳を見つけ出すのは難しいようです。
 ひさご塚古墳は報告書によると「墳長44m/後円部径26m/高さ5.7mの前方後円墳で、長さ18mの前方部はくびれ幅16m/先端幅23mとバチ型。後円部・前方部とも2段築成。盾形周濠あり、円筒・朝顔形埴輪あり、葺石なし」と記されます。6世紀前半の築造が考えられていますが、この時代には古墳統制が緩和されたようで、一時停止されていた前方後円墳の築造が地方で復活する時期です。同時代の前方後円墳としては善通寺地区に「王墓山古墳」「菊塚古墳」、西隣の伊予・宇摩地域に「東宮山古墳」「経ヶ岡古墳」があります。王墓山や菊塚古墳は、横穴式の前方後円墳で石室構造などに九州的要素が漂います。このひさご塚も同じように横穴式石室を持っているのではないかと研究者は考えているようです。
 善通寺地区では以前お話ししたように、「善通寺の王家の谷」である有岡地区に数世代の前方後円墳がならびますが、母神山にある前方後円墳はこの古墳のみです。
 標高九ニメートルの母神山には、丘陵の西半分を中心に約50基、さらにその麓に数基単位で古墳が分布し、母神山古墳群とよばれ、三豊平野に現存する群集墳では最大規模のものです。古代、この山は先祖を祀る聖地だったから「母神山」と呼ばれるようになったのかもしれません。数多くある古墳の中に唯一の前方後円墳が、この瓢箪(ひさご)古墳です。大規模な円墳群に一基のみの前方後円墳があるのは、珍しいようです。
母神山に次に作られる首長墓は横穴式石室を持つ円墳の鑵子塚古墳になります。
この古墳も石室は、後の讃岐の巨石墳の石室のモデルになったとも考えられるようです。そして、まだ九州的な要素を多分に持つ古墳です。
 そして、次世代のリーダーは墓域を母神山から大野原の扇状地の中央に移す決断を行います。
そこに最初に姿を見せるのが碗貸塚古墳になります。
そして、三世代に渡って6世紀後半から7世紀半ばにかけて
「碗貸塚 → 平塚 → 角塚」
と3つの巨石墳を継続して築いていくことになります。それは、中央では蘇我氏が権力を握って行く過程と重なります。
 
 三豊平野の墓域の変遷をまとめると以下のようになります。
①古墳前期 財田川河口の鹿隅鑵子塚古墳が三豊平野最初の古墳
②古墳中期 財田川河口の丸山古墳(地区最初の横穴式)
      財田川中流の青塚古墳(地区最初の前方後円墳)
③古墳後期 母神山のひさご塚古墳(前方後円墳)
      母神山の鑵子塚古墳 (横穴式巨石墳の登場)
      大野原の碗貸塚古墳 (最大の横穴式石室)
④古墳末期 大野原の平塚
      大野原の角塚
⑤古代寺院の建立 青岡廃寺の建立(紀伊氏の氏寺?)

三豊平野を時計の針のように北から南へ回ってきて大野原にたどりついたことになります。
しかし、多くの謎は解けないままです。
①まず、この勢力が母神山から大野原に墓域(聖地)を移したのはどうして?
②東伊予勢力と一体化していたというこの勢力の基盤は?
③粟井地域に勢力を持っていたという忌部氏との関係は?



         
1高屋神社
            
 観音寺市は讃岐の西の端で、西に燧灘が開けています。古代は、その海から稲作も伝えられたようです。室本遺跡出土の「鋸歯重弧文壷」等からは、弥生時代の籾後がついた壺も出土しています。
 有明浜に上陸した弥生人は、財田川やその支流の二宮川などの流域に遡り、稲作農耕を初め集落を形成し、青銅器祭儀を行うようになります。
観音寺地区の青銅祭器分布を、見てみると次のようになります。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
ここからは、銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」がそろっているのが分かります。こんな地域は全国でも、善通寺と観音寺くらいで、非常に珍しい地域のようです。北エリアには3種の祭器を用いる3種の祭儀集団がいたことがうかがえます。
もうひとつは、青銅器が出ているのは柞田川の北側のエリアで、南側の大野原エリアからは見つかっていないことです。
さて、これらの集団の関係は「対抗的」か、「三位一体的連合体」の、どちらであったのでしょうか?
これを考えるために善通寺市の様子を見てみましょう。
善通寺・瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口と中細形銅矛1口が出土し、出土地は分かりませんが大麻山からは大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。
我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されたことから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀のあったと研究者は考えているようです。
 同じように三豊平野中央部北エリアにも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルが異なる3集団があり、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成して行ったと推測できます。
 一方、柞田川の南側の大野原エリアは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。ここでは、祭器を持たず北エリアに従属する集団があったようです。つまり、三豊平野では進んだ北側、遅れた南側(大野原)という構図が描けるようです。
   
 観音寺で最初の古墳は、鹿隈錐子塚古墳(高屋町)のようです。
  近年の考古学は、卑弥呼後の倭国では「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた、その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められたと考えるようになっています。国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けてヤマトや吉備を中心とする各勢力は手が結び、同盟下に入ります。讃岐に作られた初期の前方後円墳群は、その同盟に参加した首長達のモニュメントとも言えます。それは津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せます。中期になると平野を基盤にした豪族諸連合の統合が成立したことを象徴するように、各平野最大の前方後円墳が築造され、その後は善通寺市域を除いて前方後円墳の築造は終わります。前方後円墳は豪族の長の墓として始まり、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わると研究者は考えているようです。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、初期や前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、善通寺と同じテンポで後期に入っても前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、前方後円墳は終了し、それを継いで横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
   三豊では前方後円墳は古墳中期になって登場するのです。遅い登場です。
1青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が築造されるのは、青塚古墳です。
一ノ谷池の西側のこんもりとした鎮守の森が青塚古墳の後円部です。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、現在でも地域における「祭祀センター」の役割を果たしているようです。墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m/長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、前方部は失われました。後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡ていました。幅1.2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在しています。
 この青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。発掘調査がおこなわれていないため、埋葬施設は不明です。しかし、縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者が大和志向でなく、九州の勢力との密接な関係があったことをうかがわせます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと思われます。

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 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺の有明浜の円墳・丸山古墳です。
この古墳は初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在が見えてくるようです。

1母神山
 古墳後期に入ると北エリアの母神山に前方後円墳・瓢古(ひさご)塚古墳が現れます。
この古墳も青塚古墳と同じように周濠(幅3~4m)を巡らし、墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lmの規模で、同時期の首長墓とされます。母神山唯一の前方後円墳で、埋葬施設は不明ですが、同時期の善通寺市の王墓山古墳のような横穴式石室を持っているのではないかと研究者は考えているようです。周濠からは一般的な円筒埴輪のほが須恵質の円筒埴輪や須恵器片などが出土しています。
 位置的にも青塚古墳に近接するので、青塚古墳の首長権を継承するリーダーのものと研究者は考えているようです。
つまり、三豊平野においては、古墳中期になって青塚 → 瓢箪塚と続く前方後円墳群が形作られていたと考えられます
  母神山は、その名の通り母なる神の山で、祖霊の帰る山として信仰を集めていたようで、6世紀前半になると、50基を超える古墳群が作られ、県内屈指の後期古墳群になっていきます。
   そのような古墳群の中に、6世紀後半には円墳の錐子(かんす)塚古墳が築造されます。
  この古墳は「総合運動公園」のスポーツ・グラウンドに隣接する公園の中に整備・保存されています。梅の時期には、良い匂いが漂います。前方後円墳のひさご塚から200mほどしか離れていませんので、ひさご塚と同一の首長系列に属する盟主墳と見られ、6世紀後半の築造と考えられています。
 径48m/高さ6.5mの円墳で、全長9.82mの両袖型横穴式石室が南に開口していますが、入口は鍵がかかって入ることは出来ません。羨道・前室・玄室を備えた複式構造ですが前室は形骸化し、羨道[長さ1.2m×幅1.45]、玄室[長さ5.6m×幅2.55m×高さ3.2m]です。何回かの盗掘を受けていますが、出土遺物は豊富です。金銅製単鳳環頭太刀柄頭1、鞘口金具1、三葉環頭柄頭1、鍔1、鉄刀2、銅鈴6、飾り金具4、刀子1、鋤先1、鉄鏃・玉類・須恵器などです。
 石室については前室に短い羨道がつけられる構造であり、その祖形は山口県防府市の黒山三号墳に求められるようです。石室全体は「端整に構築され美しささえ感じられる」と研究者は云います。この石室こそが讃岐の後の横穴式石室のモデルになったと研究者は考えているようです。以上をまとめておくと
①三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
②三豊平野では前方後円墳の築造は、他地域よりもワンテンポ遅れて中期に始まる
③善通寺と同じテンポで後期に入っても前方後円墳を築造し続ける。
④6世紀中葉になって、前方後円墳は終了し、それを継いで横穴式石室を持つ円墳の築造が始まる。
⑤それが母神山・鑵子塚古墳
鑵子塚古墳は、後期の母神山古墳群の草分けとなります。
前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、三豊平野の北エリアの豪族長の墓域は母神山から動くことはなかったようです。しかし、この古墳に続く首長墓は、母神山からは姿を消します。そして、墓域は柞田川の南エリアである大野原に移ります。
錐子塚の次の首長墓は南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。
それまで豪族長の墳墓のなかった南エリアに周濠の径が70mもある県下最大の横穴式石室墳が突如出現します。それまで、大型古墳を築造できなかった後進エリアの大野原に碗貸塚が現れる背景は何なのでしょうか?
 かつては、柞田川の北側の大野原に突然現れた巨石墳は「ヤマト勢力が讃岐の西端に打ち込んだ楔」であり「ヤマトの屯倉」的な性格で、在地性ない中央勢力であると考えられたこともありました。しかし、考古学の立場から調査報告書は
「錐子塚→椀貸塚→平塚→角塚」
の順で、同一勢力の首長墓として築造されたと記します。
  つまり、母神山勢力に敵対的な勢力が突然に大野原に現れたのではないのです。母神山を自分たちの御霊が帰る霊山として信仰していた集団が、柞田川を越えて大野原に進出し、そこに巨大横穴式石室を持つ古墳を築き始めたのです。母神山勢力の発展拡大と研究者は考えているようです。
 そして、新天地の大野原の地に、次のような順に巨石古墳を築いていきます。
①貸椀塚古墳が6世紀後半、
②平塚が7世紀初め、
③角塚が7世紀の前半。
 特に、最初に作られた椀貸塚は、玄室の規模が、玄室長6.8m、最大幅3.6m、最大高約3.9mもあり、床面積は22.3㎡、容積では約80㎡になります。これを四国内の古墳と比べると、母神山錐子塚クラスが床面積10~12㎡程度で、貸椀塚は、倍の規模になっています。畿内中枢部の横穴式石室と比べて見ても床面積では、奈良見瀬丸山古墳(約30㎡)、石舞台古墳(27㎡)、吉備地域では例外的に巨大な横穴式万石室であるコウモリ塚占墳(28㎡)など、遜色がないことが分かります。
1大野原神社
 江戸時代初期の開墾が始まって間もない正保2年(1645)の『大野原開墾古図』です。古図の中心部には大野原八幡神社とその背後に描かれているのが椀貸塚古墳のようです。こんもりとした墳丘とそれを取り巻くような周濠らしきものが見えます。これが、紙資料で確認できる椀貸塚の初見のようです
 40年後の貞享2年(1685)の『御宮相績二付万事覚帳』に神社の修理を行った時の記録が残されています。その中の「地形之覚」には神社を拡張したことが次のように記されています。
「‥拾三間四尺 但塚穴の口きわより玉垣のきわまで 今までは塚穴石垣きわより玉垣まで拾弐間弐尺」、
「一 塚穴二戸仕ル筈・・」
「一 塚穴之左者廣ケ石垣も仕筈」
「一 右両方之堀り俎上者塚之両脇又者馬場の両脇小塚ノ上取申筈」
とあり神社にある塚穴=椀貸塚古墳の当時の状態がうかがえます。
「古今 讃岐名勝圖綸』にも次のような記載があります
  八幡幡社 大野原八幡宮の社後椀貸穴の上にあり 一説に或内なる於社なりと云いかか走手侍。」
「塚穴十一と其塚説 相傅此地開拓の時百七十蛉ある中今中の残るは柘貸平塚角塚豆塚。傅口椀塚は地主神を太子殿と称し穴へ入者なし 村人椀を得んことを乞へは倍せり 一時中姫人此塚上に在す感神祠に用あり食叛吾悉皆借て事足せり後に村人借て一箸を失せり 夫より止と云営時開墾の時此穴に入る人あり 神人告て八幡を祭れと依て 此穴を奥の院と云。」

  ここには「椀貸伝説」とともに、大野原開墾の際に古墳の横穴石室に入った人に「神人告て八幡を祭れ」「此穴を奥の院と云。」と記され、横穴が「奥の院」として神社の聖域とされ人々の信仰を集めてきたことが分かります。今も椀貸塚古墳は、大野原八幡神社の本殿の後に神域として祀られています。

 明治時代の資料には、明治35年(1902)の『香川県讃岐國三豊郡大野原村 鎮座郷社八幡神社之景』があり
神社の建物、玉垣、石垣等の配置が詳細に描かれています。椀貸塚古墳の開口部の付近は、土塀が設けられ、石垣のほぼ中央部には縦長の巨石が存在しているが現在と異なる点です。この図中には
「椀貸塚ノ縁由」として「相傅ノ昔塚穴二地主神在リテ太子殿卜云フ 神霊著シキヲ以テ庶テ穴二入ルモノナシ・・」
と記されます。
1碗貸塚古墳1

調査報告書の碗貸塚古墳の測量図は、いろいろなことを教えてくれます。分かることを挙げておきます
①碗貸塚古墳の横穴石室自体が「奥の院」とされ、信仰対象となっている。
②墳丘南側には大野原八幡神社の本殿、東側には応神社が設けられ、墳丘は開削されている。
③東側も応神社と小学校の校庭として削られている。
④墳形・規模直径37.2mの円墳で、外周施設として二重周濠と周堤があった。それを含めると範囲は径70mになり、占有面積は約3,850㎡の大きな古墳だった。
⑤碗貸塚古墳の東に、後から作られた岩倉塚古墳がある。
⑥表面観察では葺石や段築は確認できない。
1碗貸塚古墳2
  復元するとこんな姿になるようです。どこかでみたような姿です・・・
 
1鬼の窟古墳
宮崎県西都原古墳群 鬼の窟古墳
西都原でみたこの古墳が思い出されます。どちらにしても、ここに3つ並ぶ巨石墳のうちで最初に作られた碗貸塚古墳は九州的な要素が色濃く感じられます。それが平塚・角塚と時代を下るにつれてヤマト色に変わって行くようです。その社会的な背景には何があったのでしょうか?
それでは最後に、母神山から大野原に連綿と首長墓を築き続けて来た古代豪族は?・
大野原古墳群の被葬者像については、紀氏が想定されてきました。
周辺に「紀伊」「木の郷」の地名が残り、また『和名抄』に刈田郡紀伊郷や坂本郷(紀氏と同族の坂本臣との関係)が記されているからでです。そして、紀氏は、紀伊や和泉から西方、阿波や讃岐にひろく分布を広げていて、瀬戸内海の南岸ルートを押さえた豪族ともされます。
 大野原古墳群の最後の巨石墳墓である角塚古墳の被葬者が埋葬されたのち、孝徳朝の立評により刈田評が成立したというのが定説で、その子孫が評督、さらに郡領になったと研究者は考えているようです。その段階の紀伊氏の拠点は大野原古墳群から1km東北にあたる青岡廃寺の周辺にあったと推測されています。
次回は大野原の3つの巨石墳を見ていくことにします。
  
参考文献 大野原古墳群Ⅰ 観音寺遺跡発掘調査報告書15
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 幼い頃の空海は、我拝師山で「捨身」を行ったと伝えられています。西行もそのことを知っていて、捨身行を「追体験」するために、この山の麓に庵を結んで「修行」しています。我拝師山は、霊山・聖地として古くから修験道の信仰を集め、中世にも多くの修験者が行場としてしていたようです。切り立った瀧(断崖)に建つ奥の院は、行場の雰囲気今でも残ります。そこには、消え去ろうとしている遺跡もあります。そんな中から今回は、磨崖に刻まれた石塔と石造物をご紹介しようと思います。 
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 出釈迦寺からの参道をあえぎあえぎ30分も登ると鞍部にたどり着きます。ここまでは許可があれば車でもやってこれるようです。ここが五岳山の縦走コースでハイキングには、もってこいの山道ですが、かてはこの道が修験者達が弥谷寺から七宝山を経て観音寺へと「辺地」修行を行うのに利用した道だと私は考えています。ここから見上げる奥の院は、城塞のようにも見えます。
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ゆるぎ石
本堂へ上る参道の南側に、ゆるぎ岩と呼ばれる大きな岩があります。この岩自体が磐座で、仏教以前の弥生時代からの信仰対象になっていたのかもしれません。しめ縄が架けられて、なかなかいい雰囲気です。その前の石柱には「磨崖 五輪塔 室町時代初期」とあります。周りを見回しますが、どこにも五輪塔はありません。そして「磨崖」という言葉に気づきました。この岩に掘られているのです。よく見ると五輪塔が見えてきました。

1出釈迦寺奥の院石造物1
 帰ってきて「出釈迦寺調査報告書」を見てみると、この磨崖五輪塔のことが次のように記されていました。
 五輪塔の総高は、134.5cmを測る。
空輪は、上部および左側の欠損が著しいため不明瞭であるが、おおむね高さ30.0cm、最大径はほぼ中央付近で26.0cmを測る。ほぼ円形で頭頂部の突起はやや大きめに成形している。空輪と風輪の境界は浅い凹線となっており、別石を意識して表現された可能性がある。
風輪は、高さ14.0cm、最大径は中央よりやや最上部で6.0cmを測る。(中略)
火輪は、中央での高さが22.4cm、最大幅47.2cmを測る。屋根の降りは緩やかで、やや外反する。軒の正面は表現されていないが、側面は表現されており、軒口は垂直に切られている。軒下端は弧状を呈し、真反りとなる。火輪と水輪の境界は表現されていない。
水輪は、高さ30.1cm、最大径が中央付近で39.8cmを測り、やや算盤形に近い球形を呈する。水輪と地輪の境界は、弱い凹線によって区別されている。
地輪は中心部で高さ29.5cm、残存状況の良い左端で8.0cm、最大幅50.0cmを測る。おそらく欠損部を復元すると火輪幅と同程度になると思われる。壁面の形状に制約されたためか、やや歪な形状となっている。右下部は壁面の盛り上がりが少なく、半肉彫ができずそのまま収束している。
  こんなところに五輪塔が刻まれていたことは知りませんでした。石柱の存在があっても、よく見ないと見えてきません。700年あまりの歴史の中で消えていこうとする遺構です。どんな人が、どんな思いで、ここに彫り込んだのでしょうか。
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さらに参道を登っていくと岩盤が削平されて粟島神社が建てられています。その崖状の壁面にも「磨崖 五輪塔」の石柱が建っています。
1出釈迦寺奥の院石造物2
  近寄ってよく見ると五輪塔はふたつ並んでいて、右側を東塔、左側を西塔と呼んでいるようです。
これも報告書には次のような紹介があります。
 東塔は、総高90.6cmを測る。
空輪は、高さ19.0cm、最大径は下端付近で17.0cmを測る。西塔と比較して細長く中心線がずれるなど、歪な楕円形を呈する。風輪は別石表現されている。高さ11.3cm、最大径は上側で20.6cmを測る。風輪株は火輪上側に入り込む。
火輪は、高さ26.5cm、最大幅45.0cm(反転値)を測る。
西側は欠損のため輪郭のみが確認できる。屋根の降りはほぼ直線的である。軒の正面は表現されていないが、側面は表現されており、軒口はほぽ垂直に切られている。軒下端は弧状を呈し、真反りとなる。
水輪は、左側が大きく欠損しているため不明瞭であるが、高さ23.8cm、上端直径21.0cm、下端直径23.0cm(直径はいずれも反転値)、最大径が中央やや下側で30.0cm(反転値)を測り、やや下膨れの球形を呈する。地輪は高さ11.0cm以上、幅58.5cm以上を測る。地輪幅は明らかに火輪幅より大きい。地輪は、他の部位よりも浅めに刻まれている。下側および左右両側は、岩盤の割れや剥離などによって不明瞭である。あるいは、刻んだ当初から割れ岩盤の形状を意識して刻まなかった可能性も考慮する必要がある。また地輪の左側面は、前述の通り西塔地輪側面と共有する。
 西塔は、総高80.8cmを測る。
空輪は、高さ13.9cm、最大径は下端付近で18.0cmを測る。右側が剥落しているために不明瞭ではあるが、おおむね歪な円形となる。風輪は別石表現されている。高さ11.1cm、最大径は上側では21.1cmを測る。風輪下部は火輪上側に入り込む。
 火輪は、高さ25.4cm、最大幅45.3cmを測る。屋根の降りは若干外反する。軒の正面は表現されていないが、側面は表現されており、軒口は斜め外方へ切られている。軒下端は直線である。水輪は、高さ20.2cm、上端直径28.4cm、下端直径30.0cm(反転値)、最大径が中央付近で31.3cmを測り、筒型の形状を呈する。地輪は高さ12.3cm以上、幅62.0cm以上を測る。
地輪幅は明らかに火輪幅より大きい。
東塔同様、地輪は他の部位よりも浅めに刻まれている。下側および左側は、岩盤の剥離などによって不明瞭である。あるいは東塔と同じく、刻んだ当初から岩盤の割れ目の形状を意識して刻まなかった可能性も想定できる。また地輪の右側面は東塔地輪左側面と共有する。側面線は、上側9.0cmまでしか区画されていない。
 刻印の状態からふたつの五輪塔の先後関係は、西塔(左)が先に掘られて。その後に東塔が出来たようです。
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淡島神社の上には釣鐘堂が改修され、その南側には捨身した空海を救うために表れた釈迦如来が金色に輝いています。
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新しい奥の院のスターのように見えます。
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 北側には「層塔」が「再建」されて姿を見せていました。
かつては、この層塔は倒壊してばらばらになって釣鐘堂の脇に、パーツとして置かれていました。由来を知る信者は「五輪さん」と呼んで信仰対象にしていたのですが、何十年(?)ぶりで組み合わせて再建されています。
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 高さ390.0cm以上、最大幅50.0cmで下側は地中に埋っているため、正確な高さは分かりません。。側面は四方に蓮華紋が大きく刻られています。同じような層塔は、善通寺誕生院層塔や多度津町海岸寺奥ノ院層塔にもあります。 この石材は、天霧山・弥谷山から運ばれた石材が使われています。

1出釈迦寺sekizoubutu 4
   ここからは、多度津が正面に見えます。いまでも、この奥の院周辺に並んでいる玉垣等の寄進者名は多度津の人たちの名前が多いようです。古代以来、この山の北側の多度津方面から霊山として信仰されたことがうかがえます。
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 奥の院本堂から我拝師山へ鎖場を越えてを登ると、弘法大師の捨身誓願の聖地とされているわずかな平地に出ます。

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ここが「捨身ケ瀧」になるようです。ここには宝塔があります。
1出釈迦寺4

最初に見たときには、何か分かりませんでした。
宝塔は基壇、基礎、塔身がきちんと組み合っているのですが笠がないのです。高さは79cm 基壇幅60cmの方形で側面で、内部は刳り抜きがあります。石材は、これも天霧石のようです。
1出釈迦寺54.$PG
ここで修行を行いながら修験者が磨崖に五輪を刻み、天霧石で刻んだ石造物をここまで運び上げてきたのでしょうか。
笠がなくなったかたりで捨身が瀧にある宝塔は、直立した円柱形の塔身で、天霧石製宝塔と研究者は考えているようです。
それでは作られたのはいつ頃なのでしょうか?
①鎌倉時代後期から南北朝時代の天霧石製石造物に一般的な〈天霧A〉の石材であること、
②肩の張った格狭間文様が4面に表現されていること、
③天霧石製宝塔の形態・法量で共通点が見られること、
以上から鎌倉時代後期~南北朝時代の14世紀代と研究者は考えているようです。
1出釈迦寺4
香川県の石切場
 
14世紀は、白峯寺などの石造物が近畿産から地元の天霧石製に替わっていく時期でもあるようです。
白峯寺には十三重塔がふたつ並んでありますが、先に作られた塔は弘安元年銘の花崗岩製で近畿産です。後に作られたのが地元の天霧山産の石材が使われています。このふたつの塔は、よく似ていますから後から作られた天霧石製は、花岡岩製のコピーだと考えられます。天霧石製は13世紀初頭から、それまで白峯寺に作られていた大和風の石造物を模倣して、近畿産に替わって製品を供給し始めます。こうして天霧石製に、大和石造物の特徴が取り入れられていきます。この前後に天霧石製は、讃岐西半分に流通エリアを拡大します。
1出釈迦寺2
天霧産石造物の瀬戸内海沿岸地域分布図
15世紀になると讃岐を超えて、天霧産の石造物は瀬戸内海各地に流通領域を広げていくことになります。それが近世になると豊島石の石造物に受け継がれます。
 出釈迦寺の奥の院の石造物も天霧山を拠点とする石工集団の活動が活発化する14世紀頃のもののようです。
ちなみに西讃地方に残る鎌倉時代後期から南北朝時代の天霧石製石造物には次のようなものがあるようです。
①丸亀市中津八幡神社宝塔、
②善通寺市善通寺三帝御廟宝塔、
③多度津町光厳寺宝塔、
④多度津町仏母院宝塔塔身、
⑤三豊市大北墓地宝塔2基
1出釈迦寺奥の院
 石造物の中で石塔は数が少ないと云われます。
その石塔がここに建てられたのはなぜなのでしょうか?
さらに基壇、基礎は内部が刳り抜かれて空洞にしている可能性もあるようです。そうだとすれば納経などが行われていた可能性もあります。この五岳の峰続きの香色山からは、有力者の経塚が出土しています。行場・修験道・経塚という3つが、ここでもパーツとしてそろったことになります。

 〈参考文献〉
海逼博史・松田朝由2008
「西讃岐における中世石造物の特質一善通寺旧境内所在の石造物を中心にー」
   

   




    
1出釈迦寺6
  空海は善通寺に生まれ、真魚として育って行ったとされます。
真魚にちなむ場所がいくつも善通寺には語られていますが。その中でも真魚が「捨身」を行ったというのが我拝師岳の岩場(行場)です。久しぶりに、この行場に行ってみて、改めて出釈迦寺と奥の院(捨身ゲ瀧)の関係について分からないことが多いことに気付きました。最近、出釈迦寺の調査報告書が出ていたので読んでみることにしました。その読書メモです。
 出釈迦寺が創建されたのはいつ?
 出釈迦寺は、善通寺の背後にそびえる五岳の主峰・我拝師山の北麓にある四国霊場第73番札所です。山号は我拝師山求聞持院です。五岳の主峰名である我拝師と、空海が出家する原因となった「求聞持法」がくっつけられた山号です。
「山号や本尊に求聞持が付けられている札所は、かつて求聞持法の厳しい修行が行われた霊山である」
と私の師匠は云います。この山も修験者達の修行の場であったことが山号からもうかがえます。
 
1出釈迦寺奥の院
出釈迦寺の奥の院 背後の山が我拝師山
西行も、修行した我拝師山(出釈迦山)
西行の「山家集」には、札所は我拝師山の山腹、現在の奥の院があるところだと記されています。また、山上には基壇と塔の基礎が残っており、以前は塔がそびえていたとも記されます。つまり、近世以前には、現在の境内地に伽藍はなく、空海の「捨身修行」の場である険しい岩場(捨身ゲ瀧)を経て、我拝師山へと登るのが修行僧たちの辺寺修行であり、行道聖地のひとつだったようです。
 近世の文献の中に表れた出釈迦寺を見ておきましょう。
○『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)
曼荼羅寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。此寺二荷俵ヲ置テ出釈迦山ヘ上ル、寺ヨリ十八町ナリ。
出釈迦。先五町斗野中ノ細道ヲ往テ坂ニカカル、少キ谷アイノ誠二屏風ヲ立タル様ナルニ、焼石ノ如二細成が崩カカリタル上ヲ踏テハ上り上り 恐キ事云斗無シ。
 漸峰二上り付、馬ノ頭ノ様成所ヲ十間斗往テ少キ平成所在、是昔ノ堂ノ跡ナリ。釈迦如来、石像文殊、弥勒ノ石像ナド在。近年堂ヲ造立シタレバ一夜ノ中二魔風起テ吹崩ナルト也。今見二板ノワレタルト瓦ナド多シ。爰只曼荼羅寺ノ奥院卜可云山也。夫ヨリ元ノ坂ヲ下テ曼荼羅寺二至ル。是ヨリハ町往テ甲山寺二至ル。日記ニハ善通寺ヨリロ町、善通寺ヨリ甲山寺二口町卜有リ、夫八出釈迦ノ東ノ坂ヲ下テ善通寺へ直二行タル道次ナルベシ。
この澄禅の「四国辺路日記」(承応二年:1653)には、出釈迦寺の記述はありません。出てくるのは曼荼羅寺だけです。その中に「此寺二荷俵ヲ置テ 出釈迦山ヘ上ル」とあり、荷物を曼荼羅寺に預けて奥の院に登ったことことが記されます。
 続けて、空海が真魚と呼ばれた幼少期に捨身ヶ嶽から身を投げ釈迦如来に救われ、仏門への帰依のきっかけとなった我拝師山との由来譚が記されています。ここからも江戸初期には、出釈迦寺の姿はまだなく、空海聖跡として我拝師山へ(出釈迦山)に登って参拝することが修行の一環とされていたようです。

○『四国辺路道指南』(真念 貞享四年:1687)
 七十三番出釈迦寺 少山上堂有、ひがしむき。
本尊釈迦 秘仏、御作。まよひぬる六道しゆじやうすくハんとたつとき山にいづるしやか寺 ほかに虚空蔵尊います。
 此寺札打所十八町山上に有、しかれども由緒有て堂社なし。ゆへに近年ふもとに堂井に寺をたつ、爰にて札をおさむ。是より甲山寺迄三十町。広田村。
とあります。ここからは札所は奥の院である禅定にあったのを、遍路が険しい道を登らなくても御札がもらえるように、江戸時代はじめに宗善という人が麓の現在地に伽藍を整備したと記されています。つまり、近世までは現在の奥の院付近が札所で、現在地には伽藍はなかったことを裏付けます。また、奥の院は出釈迦寺のものではなく曼荼羅寺の管理下にあったことが分かります。

○『四国偏礼霊場記』(寂本 元禄二年:1689)
  我拝師山出釈迦寺
 此寺は曼荼羅寺の奥院となん。西行のかけるにも、まんたらしの行道所へのぼるは、よの大事にて、手を立たるやうなり、大師の御教書て埋ませおはしましたる山の峰なりと。俗是を世坂と号す。其道の程険阻して参詣の人杖を拠岩を取て登臨す。南北はれて諸国目中にあり。
 大師此所に観念修行の間、緑の松の上白き雲の中釈迦如来影現ありしを大師拝み給ふによりて、ここを我拝師山と名け玉ふとなん。山家集に、その辺の人はわかはしとぞ申ならひたる、山もしをはすて申さずといへり。むかしは塔ありきときこへたり。西行の比まではそのあとに塔の石すへありと
なり。是は善通寺の五岳の一つなり。
むかしより堂もなかりきを、ちかき比宗善という人道のありけるが心さしありて。麓に寺を建立せりとなり。
此山のけはしき所を捨身が岳といふ。大師幼なき時、求法利生の御こヽろみに、三宝に誓ひ捨身し玉ふを、天人下りてとりあげけるといふ所なり。西行歌に
 めぐりあはん事のちぎりぞたのもしききびしき山のちかひみるにも
西行旧墟の水茎の丘は、万陀羅寺の縁起に載といへども此所にあり。
ここには出釈迦寺が元々は曼荼羅寺の奥の院(遙拝所)であり、大師捨身誓願の地としての由緒はあるが堂社はなく、近年、曼荼羅寺から少し登った山の上に「宗善という入道」によって堂社が建立されたことが記されています。
 これに関しては、浄厳が天和二年(1682)三月二十一日に出釈迦寺虚空蔵堂の観縁の序を撰したとの記録が「浄厳大和尚行状記」(総本山霊雲寺・河内延命寺:1999年)に見られようです。この虚空蔵堂の創建は、宗善による出釈迦寺整備の一環であったことがうかがえます。現在の出釈迦寺の寺院としての創建は、このあたりに求めると研究者は考えているようです。
1出釈迦寺2

「四国偏礼霊場記」の挿図には、塀などの境内を区画するようなものはありません。ただ本堂を含む二棟の建造物が描かれているだけです。
しかし、近世後半になると、伽藍が整備されたようで「四国遍礼名所図会」(寛政十二年:1800)には、本堂や大師堂、鐘楼が認められ、客殿や庫裏が描かれています。また、境内地を石垣で保護し、石段による参道も整備されていいます。しかし、山門はありません。
1出釈迦寺 金比羅名所図会

幕末の「金毘羅参詣名所図会」(暁鐘成 弘化四年:1847)には、絵図と共に出釈迦寺について次のように記します。
 曼荼羅寺の奥院といふ 三丁ばかり奥にあり
七十三番の霊場の前札所なり 近世宗善といへる入道ありてここに寺を建立すといふ
本尊  釈迦牟尼仏 弘法大師の作 秘仏なり
大師堂 本堂に並ぶ
茶堂  門内の左にあり
鐘楼  門内の右にあり僧坊にならぶ
 原の札所と言ふは十八丁上の絶頂にあり然るに 此所に堂社なく其道険阻にして諸人登る事を得ず 故に後世此所に寺をたてて札を納めむとぞ
捨身ケ嶽  山上の険しき所をいふ大師口口ける口時求法利生の御試しに三貿に誓ひをたて捨身口口口を天人下りて取上げらるといふゆへにかく号くとぞ
世坂 峯に登る険路をいふ 諸人杖をなげ岩を取て登臨すといふ
山家集 
まんだらじの行道どころへ登るは世の大事にて手をたてたるやうなり大師の御経書き埋ませおはしましたる山の嶺なり坊の卒塔婆一丈ばかりなる壇築きて建てられたりそれへ日毎に登らせおはしまして行道しおはしましけると申し傅へたりめぐり行道すべきやうに壇も二重に築きまはされたり登るほどの危うさ殊に大事なりかまへて這ひまはりつきて廻り逢はん事の契りぞ頼もしき厳しき山の誓見るにも  西行
出釈迦山  我拝師山のことなり大師此山に修行したまひし時雲中に釈迦如来出現まゐらせるを大師拝したまふ由へに号すとぞ
山家集
やがてそれが上は大師の御師に逢ひまひらせさせおはしましたる嶺なり わかはいしさんと其山をば申すなりその逼の人はわかいしとぞ申し習ひだる山文字をばすてて申さずといふ
大塔菌趾  山上にあり今八其趾のみなり西行のころまで八其跡に礎石ありしとなり
山家集    行道所よりかまへてかきつき登りて嶺にまゐりたれば師に逢はせおはしましたる所のしるしに塔のいしずえはかりなく大きなり高野の大塔ばかりなりける塔の跡と見ゆ苔は深く埋みたれども石大木にしてあらはに見ゆと言ふ

西讃府志』(:京極家編纂 安政五年:1858)
出釈迦寺我拝師山卜読ク、真言宗誕生院末寺、本尊釈迦佛、八十八所ノ一、
相傅フ昔空海、求法利生ノ願ヲ雙シ此山二登り法ヲ行フノ時、憚尊旁昇トシテ出現セリ、因テ一寺ヲ創造シテ我拝師山出釈迦尊寺卜云、或曼荼羅寺ノ奥院トモ云
 ここにも修行中の空海がここによじ登り、絶壁から身を投げたところ釈迦如来が出現し、それを拝んだことから一寺を創建し我拝師山出釈迦寺となったこと、また曼荼羅寺の奥の院とも言われていたと記されています。
3 近代以後に独自の宗教活動を展開し始める出釈迦寺
 出釈迦寺は、江戸時代は曼荼羅寺や善通寺の住職が兼任するなどその影響下にあり、独自性をみることはできません。ところが近代に入ると、「中興開山」とされる勝岳が登場し後には、自立した寺院としての活動を展開するようになります。
  これを示す資料が、明治二十九年(1896)の銅版画です。
東京精行社が制作・刊行したもので、香川県内では二十九葉の銅版画が確認されている。そのうちの1枚が出釈迦寺境内を示した「我拝師山出釈迦寺之図」で、境内の様子が描かれています。これには、客殿の東側に大きな空間が広がり、現在とはかなり違った様子がうかがえます。
1出釈迦寺建造物表
 このような状況の中、出釈迦寺は、大正十一年(1922)に境内の火災により、庫裏や客殿、大師堂が燃え落ちます。被災後すぐに庫裏、客殿などの改修・再建届が提出され、昭和四年(1929)に竣工します。そして3年後の昭和7年には、奥之院本堂の改築が出願され、同十年に上棟され、現代のような山上と山麓の一体となった寺院構成ができあがります。

1出釈迦寺4
 大正から昭和の初めにこれだけの伽藍を一気に作り上げていく信者集団とそれを指導する住職がいたのでしょう。
 昭和初期には、奥の院禅定に一年間に十数万人の参拝者が訪れたり、奥の院に何日も参龍する者もいたりした、との記録があります。四国遍路の寺というよりも「空海の捨身修行の行場」として、この寺を参拝する信者達が多数いたことが分かります。
230七箇所参り

 中讃の人たちは戦後も「七ケ寺参り」を、行っていました。
農閑期にお弁当を持って朝早く家を出て、
善通寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 
→ 海岸寺道隆寺 → 金蔵寺 
の七ケ寺を歩いて回るのです。江戸時代の記録にも記されています。これも「辺地めぐり」の一種だと私は考えています。
 民衆が七ケ寺めぐりを始める前から中世には修験者達が、これらの寺と行場を巡っていたと思うのです。それを民衆が巡るようになり、江戸時代後半になると金比羅詣でにやってきた参拝客までがこのルートをめぐり始めます。金比羅参りが終わった後は、善通寺に行き・曼荼羅寺・出釈迦寺から弥谷寺・海岸寺を経て丸亀港に帰り船便で帰路に就くという「巡礼」です。それを勧める案内書やパンフレットも江戸時代に丸亀港に着いた参拝客に無料で渡されていました。
233善通寺 五岳

 そして、出釈迦寺は近世に新たに独立した寺院ですが、近代になると捨身が瀧を「行場聖地」として目玉にして独自性を売り出す戦略をとったのだと思います。多くの霊場が「奥の院」を忘れたかのように見える中で、奥の院との結びつきを強調することが独自性につながったのかもしれません。
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参考文献 出釈迦寺調査報告書 香川県教育委員会 2018年
 

高松城絵図11
幕末の天保年間の高松絵図です。「軍事機密」のためか高松城の中は空白です。東西南北の市街エリアを確認しておきましょう。
西に向かっては海沿いに扇町あたりまで街道が伸びています。
南は東西に走る石清水八幡神社の参道を越えて、家並みが続いているようです。石清水神社の北側には、この神社の社領が広がっていて市街地の形成を阻んでいるようにも見えます。
さて、江戸時代の高松が明治になってどう変わったのかを、次の3枚の絵図と比べながら見てみましょう。
Ⅰ 明治15(1882)年の『讃岐高松市街細見新図』
Ⅱ 明治28(1895)年の「高松市街明細全図」
Ⅲ 大正10(1921)年の『高松市街全図』
 

1高松市明治18年
江戸時代の地図が海川(北)が上に描かれているのに対して、明治のものは逆転して海側が下に描かれています。明治維新は、天地がひっくり返るほどの大変動だったのかもしれません。

天保の絵図18と比較すると、お城の東西の港もまだ健在でこの時点では埋め立てられてはいません。鉄道の線路も見えません。明治になっても、街並みに大きな変化はないようです。

明治のⅠ・Ⅱの絵図から読み取れることを挙げておくと
①中堀の西部は、現在の高松市西の丸町に続いていたこと
②外堀は西の丸町と錦町の境の道路から,片原町・兵庫町の北部を抜け,北浜港に続いていたこと。
③明治15年のⅠと藩政時代の絵図とあまり変化はない。
④明治28年のⅡ「高松市街明細全図』と現在を比較すると,城下町の東部,町屋があった片原町,百聞町,大工町,今新町,御坊町,古馬場町,通町,塩屋町,福田町,丸亀町、中新町、南新町、田町,兵庫町,古新町,磨屋町,紺屋町あたりは明治時代の大部分の道路が残っていて、江戸時代の地図を重ね合わせることができる
⑤侍屋敷があった番町2~5丁目付近は、変化が激しく現代と明治時代の道路は一致しない。

1高松市明治28年
 Ⅱの明治28(1895)年の『高松市街明細全図』は高松築港の工事が始まる直前の地図です。
①波止場が海に大きく伸びていますが、西浜舟入(堀川港),外堀,中堀の姿がまだ残っています。
②石清水八幡宮の奥(宮脇2丁目)には姥ゲ池という大きな池があったことが分かります。
③この池から流れ出す川は、石清水八幡宮の北に広がる社領を用水路としても機能していたことがうかがえます。この社領が現在の香川大学キャンパス等になったようです。
④大正の絵図Ⅲには、社領が宅地化した結果、この池が縮小されているのがうかがえます。そして、現在はこの池は姿を消しています。
1高松市大正
今から約百年前の大正10(1921)年のⅢの絵図になると大きく変化します。
①西側から丸亀からの鉄道と徳島線が南側を迂回して港周辺まで伸びています。
②路面電車が高松駅から栗林公園まで南北に延び、そこから長尾・志度方面に走っています。
③お城周辺を見ると西浜舟入(堀川港)は埋め立てられています。そこに高松駅が作られているようです。
④Ⅰには残っていた南側の外堀も埋め立てられたようです。
現在の街並みと比較すると、街路は曲がりくねっています。路面電車の線路も屈曲が何カ所もあります。この絵図に描かれた高松市街は、空襲によって焼け野原になり、その後に整備され生まれ変わったことが分かります。

1HPTIMAGE
Ⅱの明治28年の絵図と現在の地図を重ね合わせたものです。
①広角レンズで遠くからながめると、高松駅は西浜舟入を埋め立てた上に建てらたことがよく分かります。
②西部の石清水八幡宮社領が現在の香川大学のキャンバスになっていることがうかがえます。
1 高松城54pg
さて、今度はズームアップしてお城を見ていくことにします。
まず外堀はどこにあったのでしょうか?
外堀は南は片原町商店街・兵庫町商店街の北側の店舗が外堀の位置だったようです。⑤の中央通り沿いの発掘調査で、堀跡が確認されています。また、片原町商店街の東端と東浜港を結ぶラインと、③の兵庫町商店街の西端からJR高松駅方面へ延びる斜めの地割が、それぞれ東西の外堀にあたると考えられます。ここからも外堀は東西の浜港とつながっていたことが分かります。 
1 高松城4pg

高松城絵図に現在の主要な道路を書き入れる上図になります。
①中央通りが西の丸の東側を南北に貫いています。この地図からは西の丸の北の海の中にホテルクレメントが建っていることになります。そして、先ほど見てきたように本丸西側の内堀が埋め立てられて、琴電の線路と駅舎があります。
②高松駅は外堀の東側の西浜舟入を埋め立てられた場所にあります。
③東西に走る瀬戸大橋通りは、中堀を埋め立てなかったために中堀の東側のフェリー通りの交差路で妙に屈曲することになりました。もし東からの道に併せれば南側の中堀も埋め立てられていたかもしれません。
④ 中堀の西側は埋め立てられ現在はパークホテルやエリヤワンホテルが建っています。内堀も西側は、琴電電車の建設の際に埋め立てられ、線路がひかれ駅舎が建てられています。この内側は内町と呼ばれ武家屋敷が並んでいたことになります。
1 高松城p51g

さて東の丸はどうなっているのでしょうか?
①東の丸の東側の中堀は、埋め立てられてフェリー通りになりました。
②東の丸の北側には、レグザムホールがあり、その南には県立ミュージアム、その南に城内中学校がかつてはありました

高松城の推定面積は約66万平方メートルで、現在の玉藻公園の約8倍、東京ドームに換算すると約14個分(グラウンド面積では約50個分)の広さになります。こうして見ると往時の高松城が、とても広かったことが分かります。
参考文献
森下友子
   高松城下の絵図と城下の変遷  
香川県埋蔵物研究センター紀要Ⅳ



 
HPTIMAGE
「讃岐高松丸亀両図 高松城下図」(絵図4)

 寛永19(1642)年に松平頼重が高松に入り,生駒藩は高松藩となりました。松平頼重は城や町の整備を行ったことが『小神野夜話』には記されています。「讃岐高松丸亀両図 高松城下図」(絵図4)の製作年代は不明ですが,絵図内容より松平頼重入部直後に作られたものと考えられているようです。そのため『生駒家時代高松城屋敷割図』(絵図2)と比較してみても高松城内部にはあまり変化はありません。中堀に架けられた橋の北側の門東側は対面所ですが、西側の屋敷には変化があります。門の西側から近習者屋敷・局屋敷と記されていた屋敷が『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)では鷹匠・厩となっています。
高松城江戸時代初期
「高松城下図屏風」(絵図5)
「高松城下図屏風」(絵図5)が、いつ、何のために、誰によって描かれたのかについては、はっきりしません。しかし、作られたのは明暦2年(1656)前後のものと推定されているようです。この絵図は『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)よりも新しい絵図で、この時点で松平頼重によって次のような改築が行われたことが分かります。
①南にあった橋がなくなり、高松城西側に門と橋ができています。
②内堀と中堀の間の南部には局,厩,鷹匠の屋敷がありました。それが『高松城下図屏風』(絵図5)では、内堀と中堀の間の西部は北側に侍屋敷があり,その南側に馬が描かれ,厩と思われる建物があります。厩が,西側に移動したようです。おそらく,西側に橋がかかったためにの移動でだったのでしょう。
③「高松城下図屏風』(絵図5)では、海手門の外側は新たに埋め立てられ,瀬戸内海に向かってコの字型に張り出しができ,石垣が巡らされています。
④この張り出しの東側の「いほのたな町」の北側に、新しく波止場が作られています。
高松城絵図6
「讃岐国高松城図」(絵図6)
絵図6にも中堀の西側に橋が描かれています。
その橋の東側には蔵が見えます。海手門の外側には北海に向かって張り出しがあり,中堀の東側に波止場があり、西浜舟入と中堀の間に米蔵と注が記載されています。のちに,東の丸が築造され,米蔵は東の丸に移されますが、それ以前は西浜舟入と中堀の間にも米蔵があったことが分かります。
「讃岐国高松城図」(絵図6)では、中堀の南側の両角に櫓が新たに姿を見せています。築造年代は不明ですが、この櫓は「高松城全図」(絵図21)から烏櫓,太鼓櫓であることが分かります。。
寛文11年(1671)になって高松城の新郭である東の丸が築造されます。
東の丸の築造直後に製作された絵図はありません。東の丸が描かれた最も古い絵図は、享保年間(1716~1736年)の「高松城図」(絵図7)です。この絵図と「高松城下図屏風」(絵図5)を比べてみての変化点をまとめると次のようになります
①中堀の東側の侍屋敷であったところに東の丸が築造され、その東に隣接する魚の棚町の西半分に堀が掘られた
②海手門の北東側か埋め立てられ,北の丸が築造された。
③東の丸・北の丸には次のような櫓が築造された。
 東の丸の南東角は巽櫓,北の丸の北東角は鹿櫓,北西角は月見櫓や続櫓
④それまでは中堀の南側には太鼓御門があり,橋が架かっていて,城の南側から出入りをしていたが,東側に架け替えられている。東側に架け変えられた橋が旭御門。
DSC02528
高松城の改築について『小神野夜話』では次のように記しています
「二の丸先代は中の門に橋有て,太鼓矢倉中門の東へ少寄て有之,東の角は折にて有之,角に先代之屋形有之,御玄関西向に成,桜御門は北面に成,桜の馬場西南の角に家老之小屋四軒有之候所,東御門新に明き中の御門橋を引,中の矢倉,東の矢倉,東の角今の太鼓の櫓に引き,家老の小屋は武具蔵になり,屋形の跡は今腰掛建申候。西御門は北の角櫓の下に有之候所,只今の所へ引申候。」
「ニノ丸へ御屋形引,海手へ出候門,只今の中御門に相成,北新曲輪 今之水御門,月見櫓,鹿之櫓,黒門,多門,作事魚棚の入川,北浜等,新規に被仰付候
御入部三年目に御普請初り,先二の丸より斧初め、次に御玄関落間一番に建ち申候」

ここからは
①中堀の橋が東に架け替わり櫓が移動したこと
②内堀と中堀の問は武具蔵になり,西御門は現在の場所,つまり西側の外堀の中央付近に移ったこ
③屋形が二の丸に移動し,北の丸,北の丸の水御門・月見櫓・鹿櫓や,東の丸の作事丸・米蔵丸・北浜などが新たにできたこと
松平頼重が入部して3年目に城内の改築を開始し、工事は継続して行われていたようです。
  
DSC02527
                    
 今度は城下町の様子を見てみましょう。
「高松城下図屏風」(絵図5)は松平頼重時代の始め頃,江戸にいることの多い頼重や家臣団の政策協議の資料として明暦2(1656)年以前に製作されたとも言われています。この絵図の頃は城下の
西端は蓮華寺・王子権現付近(現在の高松市錦町2丁目),
東端は通町付近
であることがわかります。
『小神野夜話』には城下町の拡大について
   街並みも東は今橋切にて,松島之家は一軒も無之由,
西はかしの屋の前石橋迄にて,王子権現は野中に御座候。
段々家立まし,今之通相成申候
 この記述から,街並みは東は今橋で切れて,西は吉祥寺の南の王子権現(錦町2丁目)あたりまで広がっていたようで、「高松城下図屏風」(絵図5)の描写と一致します。
東部の東の端には大きな川が描かれています。この川は仙場川のようです。
後世になって仙場川の北端には新橋が架かりますが,絵図5には新橋はまだ描かれていません。新橋の南に架かる今橋は見えます。仙場川の西岸には石垣による護岸整備が行われていて、通町の東側から北東方向に比較的大きな川が石垣のほうに向かって流れています。仙場川の東側は、松島町ですが今橋よりも北側は海が続きます。しかし,海岸に堤防は描かれていません。自然海浜のようです。ちなみに寛文7(1667)年には松島の沖合から西潟元まで堤防曜防が築かれ,新田が開発されたことが『英公外記』に記されています。

(絵図5)のと享保年間の下図『高松城下図』(絵図7)には約半世紀の隔たりがあり,城下町の様子もかなり変わっているようです。 
高松城 絵図7PTIMAGE

享保年間の「絵図7」をみると東端に仙場川が描かれています。
仙場川は南から北に向かって,瀬戸内海に注ぎ井口屋町の東側には新橋が描かれています。新橋が架かっていることからも松島の沖合が干拓されたことがうかがえます。
   仙波側の西側、現在の高松市築地町付近も大きく様変わりしています。通町の東側を流れていた川は町割りに沿って通町に平行に南から北に流れ,新塩屋町の南側を直角に曲がり,西から東に流れて仙場川に注いでいます。また,この流路と仙場川との間に流れていた小川はなくなっています。このあたりは(絵図5)では田畑が広がり,農家がぽつぽつとある程度でしたが『高松城下図』(絵図7)では,新通町・新塩屋町が新たにできて町屋になっています。南の方には深妙寺が姿を現しています。河川改修の結果,東方にも城下が広がったようです。
 ここでも新橋が架かっているということは、松福町は享保年間にはすでに干拓されていてことになります。また,新橋の北側の東浜も北西側と東側が埋め立てられ,新たに材木町が見えます。

 お城の東の丸の東側を見てみましょう。          
 東は『生駒家時代讃岐高松城屋敷割」絵図2では、城下は蓮花寺あたりまででした。それが享保年間の「絵図7」では、ほのたな町と記されていた町人町の北側が埋立てられ新たに北浜ができてきます。そして、北浜の北西角には波止場が見えます。
  西は「高松城下図屏風』(絵図5)では、蓮華寺付近まででした。
それが享保年間の「高松城下図」(絵図7)では、摺鉢谷川の東側まで城下が拡大しています。「絵図5」では高松城の外堀,船蔵の西側は侍屋敷でしたが,享保年間の「絵図7」では、その一部が町人町に変わり,西通町が形成されています。さらに,鉄砲町・高嶋町・木蔵町・西浜と摺鉢谷川の東まで町屋が連続しています。
 また,蓮華寺の西側には愛宕神社があり、その西に材木蔵があり,材木蔵の西側には港と波止場があります。この港は現在の扇町1丁目で、盲学校の北側付近になります。
  南西部にも侍町が拡大されています。
享保年間の「高松城下図」絵図7には,船蔵の南側から天神社の西側,九番丁まで侍屋敷が描かれていて,現在の香川大学の東端と高松市街の南部を走る観光通りまで市街地が広がったことが分かります。なお,船蔵の南西が浜ノ丁,その南側が北一番丁になります。

 これらの城下町の拡大については,「小神野夜話」には     
「御家中も先代は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,御入部巳後大勢之御家中故,新に六番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷に被仰付,・・・」

とあるので松平頼重の入部頃に,六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場・築地・浜の丁が新たに侍町になったようです。『高松城下図』(絵図7)の描写のように、侍屋敷が拡大していることが分かります。
『高松城下図屏風』(絵図5)では西浜舟入の北西にも侍屋敷が広がっていました。それが「高松城下図』(絵図7)では、北の1区画の侍屋敷と2軒の寺がなくなっていて,船蔵になっています。この船蔵の西側,蓮華寺の北側には新たに波止場ができています。そして蓮華寺と船蔵の間は侍屋敷に変わっています。なお,この2軒の寺は真行寺と無量寿院で、真行寺は御船蔵造営のため延宝2年(1676)に西の浜に、無量寿院は浄願寺の近くにそれぞれ移転したようです。ここから,船蔵が作られたのは延宝4(1676)年以後のことになります。 
西浜舟入と中堀の間は「高松城下図屏風」(絵図5)ではずらりと侍屋敷が並んでいました。
西浜舟人の東岸の北端には波止場があり,波止場の東側にはL字状に石垣が巡らされています。その内側には大きな侍屋敷がありました。ところが享保年間の「高松城下図」(絵図7)ではこのL字部分は埋め立てられて,大久保飛弾の屋敷地が西浜舟入の東隣に南北に長く伸び,その北東隣に西御屋敷があります。そして,中堀の西の橋の西側付近は空地となっています。
 このことも「小神野夜話』には、次のように書かれています
「船蔵大久保主計屋敷に有之候処,今之御船引申候、今之御船蔵之場所には真行寺・無量寿院有之候処,無量寿院は先代今之処へ引候跡開地と相成り居候,真行寺は御舟蔵西之角に有之候処,今之所へ引,跡御舟蔵に相成,只今之通りに御座候。船倉之跡屋敷に被仰付,八左衛門奉行にて大屋鋪と成,大久保主計に被下候,大概右之趣,役所之留ならびに林孫左衛門物語取合実説記置申候」
とあり,元の船蔵は大久保主計(飛弾)の屋敷となり、今の船蔵の場所には真行寺・無量寿院があったことが記されています。
 西浜の海岸縁には『高松城下図屏風』(絵図5)では真行寺と無量寿院が描かれています。2軒の寺のすぐ東側に南から北に流れる流路がありますが,享保年間の「高松城下図」(絵図7)では船蔵の西側,これらの寺があった場所に付け替えられています。流路の変更は新しい船倉建設に伴うものなのでしょう。
城下町の南東部にあった「馬場」について,         
①「高松城下図屏風」(絵図5)には勝法寺の南側には数頭の馬が描かれていますから,馬場があったようです。その南側は堀割りで,堀割りのさらに南は侍屋敷が東西に並んでいます。
②享保年間の「高松城下図」(絵図7)になると,勝法寺の南方に東西に並ぶ侍屋敷は見えますが,馬場はなくなっています。そして、馬場の北側にあった勝法寺が南部に寺域を広げ,御坊町も南部に拡大しています。
③「高松城下図」(絵図7)では,馬場は浄願寺の西に移動しています。

城下町の南への拡大を見てみましょう。
①「高松城下図屏風」(絵図5)では、町人町は高松城の外堀の常盤橋から南に続いています。その南限は高松市古馬場町付近で途切れていて,町人町がどこまで続いているのか不明でした。
②それが『高松城下図』(絵図7)には、現在の高松市藤塚町付近まで町屋が描かれています。丸亀町・南新町・下町・伊賀屋町・亀井町・田町・新町・ハタゴ町が見えます。

高松城絵図9
  享保年間以後の絵図で,最も古い絵図は元文5(1740)年に描かれた『元文5申年6月讃岐高松地図」(絵図9)があります。
享保年間の「高松城下図」(絵図7)と絵図9とでは四半世紀の隔たりがあります。
(絵図9)の東端には,仙場川が描かれていて,享保年間の絵図と同じように新橋が描かれています。その北には、八丁土堤と呼ばれた堤防が描かれています。この土堤は現在の福岡町付近の干拓のため築かれた堤防ですが、築造年代は分かりません。しかし、この絵図に描かれていることから享保年間(1716~1736年)以降で、元久元(1740)年以前には築造されたことが分かります。
高松城絵図9の2
「高松城下図」(絵図7)には外堀と中堀の間で,中堀の西門の外側は,西御屋敷と大久保飛騨の屋敷ですが,「元文5申年6月讃岐国高松地図」(絵図9)以降の絵図には,大久保飛騨屋敷の東隣は御用地または原となっています。『小神野夜話』には
「西御門外に家老屋敷二軒有之。引候て,壱軒之跡は今の下馬北かこひに成申候,一軒の跡は,十本松有之候場所に相成申候、外堀之際にも内馬場之通り並松有之候処,不残御伐らせ被遊候」
とあり,家老の屋敷が二軒あったが移動して,1軒の跡は馬の牧場,もう1軒の跡は10本の松が植えられたと記します。
高松城絵図9の3
 享保年間「高松城下図」(絵図7)と(絵図9)を比べると侍町の規模が縮小しています。
城下町の南東の福田町と南新町に挟まれた東西に並ぶ侍屋敷がなくなり,代わって古馬場町となっています。これについて「小神野夜話』は
「今之古馬場勝法寺南片輪,安養寺より西の木戸迄侍屋敷本町両輪,北片輪之有候処、享保九辰,十巳・十一午年御家中御人減り之節,此三輪之侍屋敷皆々番町へ引け,跡は御払地に相成,町屋と相成申候,享保十一,二之比と覚え申候,本町之南輪には,鈴木助右衛門・小倉勘右衛門・岡田藤左衛門・間宮武右衛門,外に家一二軒も有之候処覚候得共,幼年の節の義故,詳には覚不申候,北輪は笠井喜左衛門・三枝平太夫・鵜殿長左衛門・河合平兵衛。北之片輪には栗田佐左衛門・佐野理右衛門・飯野覚之丞・赤木安右衛門・青木嘉内等、凡右の通居申候,明和九辰年迄,右屋敷引五十年に相成候由,佐野宜休物語に御座候」
とあり,享保11(1726)年頃に,御家人が減ったことにより,勝法寺に南側にあった侍屋敷が町屋になったようです。これが現在の古馬場町のようです。古馬場は、もとは侍屋敷街だったのです。
侍屋敷から町人町になったのは古馬場だけではないようです。
「元文5申年6月讃岐国高松地図』(絵図9)をみると,浜の丁の蓮華寺の西に1軒の侍屋敷,蓮華寺の東の6軒の侍屋敷,船蔵の南の11軒の侍屋敷、城下の西端の南北に並ぶ侍屋敷の1列がなくなっています。このことについて『小神野夜話』は
「北海手東西之はと崎よりならびに蓮華寺之東,侍屋敷北手之土手を築,土手並木を植え候事,元禄十丑年七月大須賀小兵衛列座にて,主馬柘植安左衛門被仰渡,右安左衛門下知にて出来申候,並松も大木に成居申候処,享保五年之頃より北汐当強く相成,家中住かたく(難く)北六間引,土手松も汐に押し倒し土手も崩れ,石垣にて漸留り申候,右屋敷,同十二年正月に被仰付,六月迄に引申候」,
「浜之町土手は,我等若盛り迄は,土手下へ沖より汐満申事は夢々無之,西の波戸中程迄汐つかり申事覚へ不申候,東の船蔵の波戸は,三十年巳前迄は五十間の波戸,中程迄汐来り候,其後段々汐まして北の土手を打崩し候故,侍屋敷住居成不申,弐十七年以前に裏がわ六軒は引く申候。
材木蔵も八間南へ引,旁致候へは,次第に北のあて強く相成申候,‥」
とあり,元禄10(1697)に蓮華寺の東の侍屋敷の北に土手を築いたが,享保5(1720)年頃より,北から吹く潮が強くなり,享保12(1699)年に海岸縁の6軒の侍屋敷は移転し,材木蔵は八間ほど南に移動したことが記されています。このあたりは昔から冬の北西風が吹き付ける風の強いところだったようです。
高松城絵図10
        
寛政元(1789)年に描かれた鎌田共済会郷土博物館『寛政元年高松之図』(絵図10)と「元文元年申年6月讃岐国高松地図』(絵図9)を比較すると変化はあまりありません。
最後に、江戸時代末期の19世紀の絵図は3枚あります 。


(1804~1818年)に描かれた『文化年間讃州高松城下絵図』(絵図
高松城絵図11
これらの絵図には東浜の北に新湊町があります。新湊町は文化元(1804)年八代藩主松平頼儀の時代に,東浜の北に造成された町です。この町の北端に神社が記されています。これは東浜町から移された恵比寿神社のようです。
高松城絵図15
 このあたりを詳細に描いた絵図は鎌田共済会郷土博物館所蔵の「高松新井戸水元並水掛絵図」(絵図15)がります。これは文政4(1821)年に作られたもので,新井戸から配水する上水道を描いたものです。この絵図にも新湊町や恵比須神社が描かれています。江戸時代末期の『讃岐国名勝図会』にも新湊町の北側に蛙子社が詳しく描かれています。
高松城下町2

以上をまとめると、高松城及び高松城下町は以上のように移り変わってきたようです。
①高松城が築城後,最も変化するのは松平頼重の東の丸築造をはじめとした改築である。
②それまでの生駒藩時代には高松城の東西は浜が広がっていたが、浜を干拓したり,護岸工事を行なった。
③その結果,城下町が東西に拡大し、西は摺鉢谷川、,東は仙場川まで広がった。
④生駒藩時代の城下は高松城の外堀内にも侍屋敷があり、町屋を囲うようにコの字に侍屋敷が配置されいいった。
⑤城下の規模は東西8㎞、南北6㎞であった。
⑥松平高松藩になると城下も拡大し,松平頼重の時代には城下の南西部に侍屋敷が拡大して番丁まで広がった。
⑦しかし、享保年間には御家人が減少したため,城下の南東部の侍屋敷や馬場を縮小した
⑧代わって町屋となったため,外堀の南東は町屋ばかりになり,侍屋敷は南西部に配置された。
⑨南西部の侍屋敷の中でも西端の一部はなくなり,田畑となった,

絵図の紹介をしてきましたが急ぎ足になりすぎたのを少し反省しています。
参考文献
森下友子
   高松城下の絵図と城下の変遷                              香川県埋蔵物研究センター紀要Ⅳ

  
HPTIMAGE高松

 
高松城下を描いた絵図資料は25点、19種類あるそうです。これらの絵図には高松城及び高松城下が描かれています。これらを製作年代順に並べて見比べてみると、どんなことが分かってくるのでしょうか。まずは生駒藩時代の二枚の絵図を見ていくことにしましょう。
 高松城は生駒親正によって天正16(1588)年,香東郡野原庄の海浜に着工されました。
高松城の地理的要害性ついて『南海通記』は
「此ノ山ナイテハ此ノ所二城取り成シ難ク候、此ノ山アリテ西ヲ塞キ、寄口南一方成ル故二要害ヨシ,殊二山険阻ニシテ人馬ノ足立ナク,北ハ海ニ入テ海深ク,山ノ根汐ノサシ引有リテ,敵ノ止り居ル事成ラズ,東八遠干潟 川人有リテ敵ノ止ミガタシ,南一ロノ禦計也,身方干騎ノ強ミトハ此ノ山ノ事也」

とあり、北は海岸で,東は遠浅の海岸が広がり,西は山が迫っており,山の麓は浜が広がる要害の地に築かれたことを指摘します。
 最も古い絵図は寛永4(1627)年に記された『讃岐探索書』の絵図(絵図1)のようです。
これは題名からうかがえるように幕府隠密が書き残した報告書で、絵図のほかに高松城の他にも町の広さなどが記録されています。当時は生駒藩時代で外様大名でなので監視の目がそそがれていたようです。隠密は次のように高松城を絵図入りで報告しています。

1讃岐探索書HPTIMAGE
天守閣は三層で,三重の堀をもつ。内堀の中に天守のある本丸があり,堀を挟んで北側に二の丸,東に三の丸がある。天守の西側の西の本丸は多聞で囲まれ,南西・北西・北東の角に二重の矢倉がある。二の丸は矢倉で囲まれていて,北角には矢倉が2つある。二の丸と内堀を挟んで西側にある西の丸の北側は塀で、北の角には屋敷があり,南の角に矢倉が2つある。しかし、中堀の石垣は6~7間が崩れて放置されている。海側にも海手門と矢倉があり,その東側には塀が続いているが、土が剥げ落ちている。
 また海側には海手門があった。中堀の東南付近には対面所がみられるが,この北側には堀を挟ん
で三の丸との間に門がある。三の丸は東南角に二重の矢倉があり,矢倉に続いて30間の多聞が続く。海の方にも矢倉があり,塀が巡っているが塀は崩れかかっていた。
 
1生駒藩時代
お城周辺の拡大図
これは高松城のことを記した一番古い史料になりますが,築造開始より年数が経過して,土塀や石垣は相当傷んでいて、それを放置したままになっていたことがうかがえます。藩内のお家騒動が激化してそれどころでなかったのかもしれません。
「讃岐探索書』は、城下の周辺ついては次のように記します
城下は城の西側,南側,東側に広がっていて、東10町(約1km),北南6町(約650 m)程度の広さで,800~900軒の家が並んでいる。城下町の東西には潮が入る干潟が広がり,南側は深田であった。 
 ここからは高松城の西と東はすぐ海浜で、東西の町は小規模で、南に向かって城下町は発展していく気配を見せています。町屋数は900軒前後であったといいます。公儀隠密の描いた「絵図1」は略図で、高松城下の町の名や,その広がりなどについては詳しくは分かりません。しかし、東西に干潟が広がる海岸の先端にお城が築かれていたことは分かります。
1HPTIMAGE
これに対して『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)は詳細に描かれています。
この絵図を見て気付くことを挙げておくと
①城と港(軍港)が一体化した水城であること
②中堀と外堀の東側には町人街があること
③外堀の南に掛けられた橋に続いて丸亀町がまっすぐに南に続いていること
外堀の南と西にはは侍屋敷が続きます。侍屋敷は外堀内が108軒、外堀西が162軒で、重臣屋敷は中堀の外側に沿って配置されているのが上図から分かります
町筋を見ていくと東西に5筋、南北に7筋の通りが配されています。注目しておきたいのは東側の外堀の内側には、町屋があることです。これらは特権的な保護を受けていた気配があります。町屋の総数は1364軒になるようです。公儀隠密の報告から10年あまりで1,5倍に増えていることになります。急速な町屋形成と人口の集中が起きていたことがうかがえます。
 東西南の町屋を見ておきましょう。
 東部は町屋が広がり,いほのたな町・ときや町・つるや町・本町・たたみみ町などの町名が見えます。外堀の東側は東浜舟入で,港ですが舟入の東側にも町屋が広がり、材木屋、東かこ(水夫)町があります。
 南側には丸亀町,兵庫かたはら町,古新町,ときや町,こうや(紺屋)町,かたはら町,百聞町,大工町,小人町が続きます。この数からも城下町は南に向かって伸びていった様子がうかがえます。
 城下の東には通町,塩焼町が、城下のはずれには「えさし町」が見えます。
絵図の西端は、現在の高松市錦町に所在する見性寺付近で、東端は塩焼町で,現在の高松市井口町付近にあたります。
 南端には三番丁の寺町が見えます。そこには西からけいざん(宝泉)寺・実相寺、脇士、浄願寺・禅正寺・法伝寺・通明寺・福泉寺・正覚寺・正法寺の寺院がならび南方の防備ラインを形成します。なお「けいざん寺」は宝泉寺のことで、二代住職が恵山であったことから人々は「けいざん寺」と呼んだようです。
 この南にはかつては堀もあったようで、それが埋め立てられて「馬場」となったとも伝えられます。それを裏付けるように厩,かじや町が描かれ,南東部には馬場があり,その南には侍屋敷があります。この辺りは、現在の高松市番町2丁目で、高松工芸高校の北側あたりから御坊町にかけてになります。
「生駒家時代高松城屋敷割図』(絵図2)には三番丁が描かれていますので、この時代に城下はこの辺りまで広がっていたようです。
しかし、高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

とあり,松平頼重の頃に六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場が新たに侍町になっことが記されています。つまり、それまでに五番丁まであったと記します。生駒藩時代に、どこまで城下が広がっていたのかは、今の史料でははっきり分からないようです。
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 この「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのでしょうか。研究者が注目したのは、中堀と外堀の間の西上角にあった西嶋八兵衛の屋敷が
描かれていることです。彼は藤堂家から派遣されて、讃岐のため池築造や治水灌漑に大活躍した讃岐にとっては「大恩人」です。西嶋八兵衛は寛永4(1637)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあって、その後に大本寺は建立されたと,大本寺の寺伝が記します。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 ここでもう一度「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2)をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作された研究者は考えています。まるで推理小説を読むような謎解きは、私にとっては面白いのですが、こんな作業を重ねながら高松城を描いた19種類の絵図を歴史順に並べらる作業は行われたようです。

 生駒騒動で生駒氏が改易された後,寛永19(1642)年,高松城に入部した松平頼重は寛文10(1670)年に高松城の天守閣の改築をし,翌年には新しく東の丸を築造しています。東の丸があるかどうかが絵図をみる際のポイントになるようです。東の丸があれば、松平藩になってからの絵図と言うことになります。
1高松城 屋島へ
それでは、この絵図はどうでしょうか?
「讃岐高松丸亀両城図 高松城図』(第6図 絵図3)も製作年代がありません。東の丸が描かれていないので寛文11(1671)年以前のものであることは間違いありません。この絵図は、高松城下町は略されていますが、周辺への街道が描かれています。周囲をみると屋島(八嶋)島の状態で陸と隔てられ、屋島と高松城は湾として描かれています。また,志度へ向かう道が2本描かれています。1本は東浜より湾を渡って屋島の南に抜け,牟礼・志度方面へ向かう道,もう1本は長尾街道と分岐し,海岸線を経由して屋島の南で前者の道と合流する道です。この道のすぐ北側は海で,湾状となって描かれていますが,この辺りは西嶋八兵衛によって寛永14(1637)年に干拓が行なわれた場所になります。ところがこの絵からは干拓の様子が見えません。ここからこの絵図は生駒藩時代のもので,西嶋八兵衛が干拓を行う寛永14(1637)年より前のものと研究者は推理します。
 
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第8図「讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)です。
 この絵図と先ほどの「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)を比べると、2つの相違点に気がつきます。一つは(絵図2)では東浜舟入の東側は「東かこ町」でした。この東の海岸をみると,塩焼浜と記され,浜が広がっている様子が描かれています。一方この絵図4では、東かこ町側の海岸は直線的に描かれていて、絵図の着色から石垣の堤防が築かれたことがうかがえます。
 2つめは、この「絵図4」では西浜舟入の侍屋敷の西側には町人が見られますが『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)では町人町は描かれていませんでした。ここから『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2』より新しいものと研究者は考えているようです。
 それでは『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は生駒藩時代,高松藩時代のどちらをを描いた絵図なのでしょうか?
 松平頼重が高松城に入城するのは寛永19(1642)年で,『生駒家高松城屋敷割図』(絵図2)の製作の3~4年後です。東浜の海岸の石垣工事や,西浜町人町の建設などの工事は大工事であり,これだけの工事を3~4年間で行なうのは難しいようです。『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は、松平頼重入封以後の高松藩時代のものと考えるほうが無難のようです。
 なお,明暦元(1655)年松平頼重が五番丁に浄願寺を復興します。浄願寺は寺域も広く「高松城下図」(絵図7)など後世の絵図にも大きく描かれています。しかし、この「絵図4」には浄願寺は描かれていません。これも明暦元(1655)年以前のものとされる理由のひとつです。
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  以前に生駒藩の高松城の建設は従来考えられていたような秀吉時代のことではなく、関ヶ原の戦い後になって本格化したと考えられるようになっていることをお話ししました。それは発掘調査から分かってきたお城の瓦編年図からも裏付けられます。
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 そして、新たにやってくる新領主・松平頼重のもとで高松城はリニューアルされ、城下は新たな発展の道を辿ることになるようです。

   前回は3世紀後半に前期の前方後円墳を積石塚で造営した坂出周辺の次の3つの勢力を見てきました。そのうちの
①金山勢力(爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳,横山経塚1号~3号墳,横峰1号・2号墳)
②林田勢力(坂出平野北東)
の集団は,5世紀になると前方後円墳を築造するだけの勢力を保つことができず,小規模古墳しか造れなくなっていることが古墳編年表からも分かります。その背景には、ヤマト政権の介入があったのではないかと考えらることを紹介しました。
 かつては「前方後円墳」祭儀を通じて同盟者であった綾川周辺の首長達の子孫は、ヤマト政権からは遠ざけられ勢力をそぎ取られていったのです。これは西日本においては、よく見られる事のようです。
 さて、かつての首長達に替わって勢力を伸ばす集団が現れます。新興勢力の新たな首長は6世紀後半頃には、前方後円墳の築造をやめて、大型横穴式石室の築造を始めます。これを古墳編年表で確認すると大型横穴式石室を築造した地域は,5世紀後半に有力古墳を築造した地域とは重ならないことが分かります。改めて「勢力交替」が行われたことがうかがえます。新たなリーダーとなった3つの勢力を見ておきましょう
坂出古墳3

  平野南西端部の勢力は、
白砂古墳から新宮古墳まで有力古墳を,4世紀から6世紀にかけて一貫して造り続けています。この集団が最も強い勢力をもち,坂出平野における指導的地位を持っていたと考えて良さそうです。
 平野南西部の勢力は、
4世紀には勢力が弱かったのが、王塚古墳の時期(5世紀後半頃か)以降になって勢力を伸ばし,大型横穴式石室をもつ醍醐古墳群を作り上げます。巨石墳を集中的に築造した6世紀末頃から7世紀前半にかけて大きな力を持っていたようです。
 平野南東端部の勢力は,
弥生時代後期から墳墓を築造していたようですが、4世紀から6世紀中頃までは勢力は強くありませんでした。それが6世紀末になって穴薬師(綾織塚)古墳を築造し,勢力を強化したようです。
坂出古墳編年
 これに対して,平野北東部(雌山周辺)に古墳を築造した集団は、4世紀には積石塚の前方後円墳を築造し勢力を保持していたようですが、5世紀以降になると徐々に勢力を失い、6世紀末以降には弱体化しています。

羽床盆地の古墳
坂出周辺部の羽床盆地と国分寺を見ておきましょう。
羽床盆地では,快天塚古墳を築造した勢力が4世紀から5世紀後半まで盆地の指導的地位を保っていました。この集団は,快天山古墳の圧倒的な規模と内容からみて,4世紀中頃には羽床盆地ばかりでなく,国分寺町域も支配領域に含めていたと研究者は考えているようです。このため国分寺町域では、4世紀前半頃に前方後円墳の六ツ目古墳が造られただけで、その後に続く前方後円墳が現れません。つまり、首長がいない状態なのです。
羽床古墳編年
 その後も羽床盆地北部では、大型横穴式石室が造られることはありませんでした。羽床勢力は6世紀末頃になると勢力が弱体化したことがうかがえます。坂出地域と比較すると,後期群集墳の分布があまり見られないことから、坂出平野南部に比べて権力の集中が進まなかったようです。そして、最終的には坂出平野の勢力に併合されたと研究者は考えているようです。

国分寺の古墳
 国分寺町域は、4世紀前半頃に小さな前方後円墳が築かれますが,先ほど述べたように快天山古墳を代表とする羽床盆地の勢力に併合され,古墳の築造がなくなります。
 以上をまとめると,阿野郡では6世紀末頃には坂出平野南部に大型横穴式石室を築造した三つの集団が勢力をもち、全域を支配領域としていたと研究者は考えているようです。注目しておきたいのは、これはヤマト政権における蘇我氏の台頭と権力掌握という時期と重なり合うことです。
綾川周辺の三つの集団は,7世紀中頃以降になると古墳を造ることをやめて,氏寺の建立を始めます。
平野南西端部に古墳を築造した集団は7世紀中頃に開法寺
南西部に古墳を築造した集団は7世紀末頃に醍醐廃寺
南東端部に古墳を築造した集団は7世紀後半に鴨廃寺
この三つの寺院は奈良時代にも存続していますから奈良時代にも勢力をもっていたことが分かります。
れでは綾川周辺に巨石墳を造り、氏寺を建立する古代豪族とは何者でしょうか?
  文献史料見る限りに,7世紀後半から8世紀以降の阿野郡の有力氏族としては綾公しかいません。
  これについては
  ①三つの集団はそれぞれ別の氏族であったが,その中の一つの氏族だけが残ったとする解釈
  ②三つの集団を総称して綾氏と呼んでいた
 の2つが考えられます。
 三つの集団のそれぞれが建立した開法寺,醍開醐廃寺,鴨廃寺については綾南町陶窯跡群で瓦が一括生産され,各寺院に配布されています。このことは,綾南町陶窯跡群の経営管理権を,これら3寺院を建立した集団が持っていたことがうかがえます。
 また、この三つの集団は綾川周辺の約3km四方ほどの狭い地域に近接して古墳群(墓域)を営んでいました。坂出平野の中で近接して居住していたため,日常的に密接な交流があったことがうかがえます。そうした関係を背景にしておそらくは婚姻関係を通じて,綾氏として一つの擬似的な氏族関係を作り上げていたと考えられます。6世紀末頃になると綾氏は羽床盆地,国分寺地域へも勢力を拡大し,その領域が律令時代に阿野郡と呼ばれるようになったというストーリーが描けそうです。
   以上のように、綾氏は坂出平野南西端部(新宮古墳)に古墳を築造した集団を中心として,平野南部に三つの古墳群を築造した集団からなり,古墳時代初期まで系譜をたどることができることになります。さらに,平野東南端部の方形周溝墓は,弥生時代後期まで系譜が遡る可能性もあります。そうだとすれば,綾氏は古墳時代のある段階に外部から移住してきた氏族ではなく,この地域で成長した氏族だといえます。
 綾川河口の綾氏の成長を古墳から見てきました。
ここまでやって来て気づくことは善通寺の佐伯氏との共通する点が多いことです。佐伯氏も中村廃寺と善通寺のふたつの氏寺を建築しています。接近して建立されたふたつの古代寺院は謎とされますが、佐伯氏という氏族の中の「本家と分家」と考えることも出来そうです。同じく時期的に隣接する王墓山古墳と菊塚古墳の関係も、佐伯氏の中の構成問題とも考えることもできます。

こうして、綾川流域を支配下に治めた綾氏は大束川河口から鵜足郡方面への進出を行い、飯野山周辺へも勢力を伸ばしていくことになります。同時に、讃岐への国府設置問題においても地理的な優位性を背景に、自分の勢力圏内に誘致をおこない、讃岐の地方政治の指導権を握ったのかもしれません。さらに、白村江敗北後の軍事的緊張の中で造営された城山城建設にも中心として関わっていたかもしれません。そのような功績を通じて綾川上流に最新のテクノロジーをもつ須恵器・瓦の大工場を誘致し、その管理・運営を通じてテクノラートへの道も切り開き、在郷官人としても活躍することになります。
 そして、平安末期からは武士化するものも現れ、讃岐最大の武士団へと成長していきます。それが香西・福家・羽床など一門は、出自は綾氏と信じられていたのです。そこに「綾氏系譜」が作られ、神櫛王伝説が創作され、一門の団結を図っていこうとしたのでしょう。どちらにしても綾氏は古代から中世まで、阿野郡や鵜足郡で長い期間にわたって活躍し一族のようです。
参考文献
渡部 明夫      考古学からみた古代の綾氏(1)    綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-
    埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


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