瀬戸の島から

2020年03月

ペリー来航の翌年の嘉永七年(安政元年1854年)の「安政寅の大決壊」で満濃池は姿を消します。これは天領榎井村の庄屋長谷川喜平次が永久的にと考えて底樋を石製する試みが「技術的な問題」から裏目に出て漏水、決壊になったからのようです。以来、満濃池は修築されないまま明治維新を迎えます。
決壊中の満濃池
決壊中の満濃池 池の中を金倉川が流れている

前回にみたように再建できないのは3つの要因があったからです。
①庄屋長谷川喜平次と農民集団との対立
②高松・丸亀・多度津藩の再建に向けての足並みの乱れ。
③幕末期の政治動乱
このような障害を乗り越えて、満濃池が再築されるのは明治維新後になります。満濃池の再築に向けた動きを追ってみましょう。
金蔵寺の「金虎」こと、和泉虎太郎の満濃池再建の嘆願
 
満濃池 和泉寅次郎
幕末に、金蔵寺村に和泉虎太郎という砂糖の製造と販売を手掛ける豪商がいました。虎太郎の父は助左衛門で、代々の農家でした。虎太郎の代になって、讃岐三白の一つの砂糖に目を付けて砂糖製造業を起こし、傍ら砂糖商を営むようになります。これが当たり、彼は「砂糖長者」になったようです。
 虎太郎は文政十四年(1831)3月3日の雛節句に那珂郡金蔵寺村に生まれます。長谷川佐太郎の四つ年下で、明治維新を36歳で迎えた世代になります。生家は普通の農家だったようですが、当時讃岐で栽培が始まったサトウキビ栽培に乗り出します。商才に長けていたようで、次第に砂糖の製造、卸売買を始めて急速に利益を拡大するようになります。
 大阪の砂糖市場でも有力な実力者で砂糖価格を左右したとさえ言われます。つけられたニックネームが「金虎」で、巨万の富を持つ男と云われるようになります。ちなみに彼が寄進した石灯籠が現在のJR琴平駅前の広場に今もあります。
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決壊後の満濃池 池の中央を金倉川が流れる
 満濃池が決壊したまま放置されて10年近く経ち、何度かの日照りが襲いかかってきます。池がなくなったことで、水不足はさらに深刻化します。さらに大雨の毎に、金倉川水系では洪水が起きるようになります。多目的ダムのように、満濃池は治水機能も果たしていたのです。このように農民の辛酸さを目の当たりにして、虎太郎は再築に向けて動き始めます。
 まず、関係各藩を訪ね奔走して修築の急務を訴えます。しかし、時代は幕末。各藩の最重要課題は富国強兵・軍事の近代化で財政逼迫で、再築に向けての支援は得られません。当時の大規模公共事業をみると、各藩の手によって行われたものは少ないのです。例えば丸亀藩や多度津藩の新港建設などは「民間資本の導入」でまかなわれています。社会資本の投資事業は民間主体になっていたのです。このあたりに、封建社会の行き詰まりが現れています。
 「金虎」こと虎太郎も、自前での資金集めに動き出します。
決壊から10年を経た元治元年(1864)に、大坂に向かい、そこで豪商「住屋」の総帥白川彦三郎を説得して満濃池修築の借款を確約させます。これを各藩に伝えて、工事着工を願い出ますが高松藩は同意しません。折角、資金は準備できたのに、藩が許さないのです。
 彼はそれでもめげずに、翌年五月に今度は京都に行き、密かに知人を通じて宮中に嘆願して、満濃池再建の許しを得ようとします。幕府でなく朝廷に嘆願するというのが時代を表します。
この時の仕様見積書には
揺樋の儀は従来に顧み、弥勒池同様に池の生岩を彫り抜く積もり
とあります。ここからは、弥勒池で軒原庄蔵が成功させた岩盤に穴を開けて底樋とする方法を考えていたことが分かります。
第五項には、次のように記します。
「積高入用銀は、大坂銀主より借り入れ、水掛かり村々にて引請証文を差し入れ、元利を払い納める」

これは当時の大阪商人の町人引請新田の構想の一部をコピーした条文で虎太郎自身が考えたものではないようです。

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 朝廷からの虎太郎宛返書

この嘆願書にたいして、朝廷は
「願い入れのこと不充分なので天領の人を一人加えて、図面書類を揃えてもう一度上京するように」
という但し書を付けて返還しています。
                                     (斎部薫著『讃岐国満濃池通史』)
 「天領の人を一人加えて・・」というのは当然です。彼は所謂、第三者的な存在でしかありません。満濃池の普請は、池の領天領の大庄屋が代々担ってきたのです。榎井村をはじめとする池の領が当事者として再建に向けた声を上げないと、着工への道は開かれないのです。しかし、池の領では、前回の工事を巡って、長谷川喜平次と百姓の間に大きな亀裂が入っていました。その傷が癒えるのには時間と世代交代が必要だったのです。
 虎太郎は明治11年9月16日、他界します。61歳でした。
虎太郎が朝廷に嘆願してから数年後に大政奉還が行われ、新しい明治の時代が開かれます。                   
長谷川佐太郎、倉敷県庁に満濃池再築の嘆願書提出
満濃池 長谷川佐太郎
 新政府の樹立を待っていたかのように慶応四年(1868)3月、榎井村百姓総代の長谷川佐太郎は倉敷に設けられた新政府の弁事伝達所に次のような嘆願書を提出します。
   恐れながら嘆願奉り候
 讃州那珂郡満濃池は千年以前より開墾したところで、古書にもその名が多く見受けられます。十四年前に堤防が消失し、廃池となりました。この池の掛り高はおおよそ三万五千石、内二千百八石はただいま天領となっており、榎井、五条、苗田の三村でございます。その属しているところは高松、丸亀、多度津三藩の領分でございます。右の池廃絶以来三村の百姓の用水の手当はなく、五穀の植え付けに困窮しております。旱魅の年は村は赤地となり一粒も育ちません。
大雨の節には濁水膨張し、良田が流失してしまいます。それに付き、三村の民申し合せ、度々幕吏に願い出ましたところ、とにかく等閑(ものごとをいい加減にすること)に打棄てられ遂に今日に至っています。
 高松、丸亀等の領分には処々に清水もあり、かつ領主より小池の築造があり、その手当もあります。三村には水溜の地がありません。故に年々疲弊し、最早や必死の場合に至っております。
 今般大政御一新御改革と承りお願い申しあげます。何卒天威を以て、三藩に仰せつけ、満濃を旧来に改修相成りますことを、謹んで願い奉ります。
  慶応四年(1868年)辰之月(三月)
   天領讃州那珂郡榎井村  百姓総代 佐太郎
弁事御伝達所
ここには、満濃池が十四年前に決壊して廃池となってからの水掛かりの事情が述べられており、池御料三か村の農民の困窮が伝えられています。そして「今般大政御一新御改革」となった機会を捉えて新政府に嘆願しています。最後は「何卒天威を以て三藩に仰せつけられ」てと、高松・丸亀・多度津の三藩に改修工事の着手を命じて欲しいと結びます。つまり、改修の主体は三藩なのです。三藩の協議で出資配分が決まらないと着工は出来ません。国は補助金も出しません。
 最後に「天領讃州那珂郡榎井村百姓総代 佐太郎」と署名しています。前回の満濃池普請の責任者である長谷川喜平次が亡き後に就任した天領の榎井村の庄屋です。彼の登場で、前回の普請の確執が取れていきます。阻害要因①を越えることが出来ました。
 年号が慶応から明治へと改まった明治元年(1868)9月16日付けで、倉敷の弁事御伝達所は長谷川佐太郎に
「願いの通り倉敷県へ申し聞かせ置き候間、同県へ伺出るべく候事」
と通達しています。こうして、倉敷県は中央政府の許可を受けて、高松藩、丸亀藩、多度津藩に対して、早急に満濃池の改築に着手するよう働きかけます。しかし、幕末から明治への政治的な混乱の中で、優先順位は決して高くないうえに、多度津藩は水掛かりについて従来より公平でないとの不満を持っていて、三藩の意見はなかなか一致しません。佐太郎は、私財で各藩の間を斡旋し、たびたび倉敷県庁にでかけて情報交換や陳情を繰り返します。そのような活動の中で、強力な支援・協力者に出会います。それが高松藩の執政で農政長を兼ねていた松崎渋右衛門です。彼の支持を得て、着工に向けての具体的な動きが始まります。
高松藩執政松崎渋右衛門の決意が着工への道を開く
 翌年の明治2年(1869)6月、長谷川佐太郎は松崎渋右衛門とともに満濃池を視察します。その際に。旧堤防の西隅が自然の大岩盤であることに気付きます。ここに隧道を掘り抜いて底樋にすれば、揺替普請の必要がなくなり、堤防の決壊も免れるとふたりは確信します。渋右衛門の指示に従い佐太郎は倉敷に行き、参事の島田泰雄に事情を説明し賛同を得ます。
 それまでは、前回の底樋の石造化の失敗から木樋にするか、石樋にするかについて、意見の対立が関係者の中にありました。これに対して、高松藩の執政であった松崎渋右衛門が
「底樋を石穴にして、その成否については高松藩が責任を持つ」
と腹をくくって決断したのです。これが多度津藩との関係で逡巡していた丸亀藩をようやく池の改築に協力する方へと向かわせます。
こうして明治2年(1869)9月16日に、満濃池の底樋工事が始まります。しかし、底樋のみの単体工事で、堰堤は工事はこの時点では未着工です。
  
満濃池 軒原庄蔵
弥勒池の軒原庄蔵像
 岩盤に底樋用の石穴を開ける工事は、寒川郡富田村の庄屋、軒原庄蔵が起用されました。
彼は寒川の弥勒池の石穴を貫穿工事に成功した実績を持っていました。満濃池にやって来ると、現地を丹念に調査し、大岩盤がすべて岩石であり、中に土を含んでいないことをチェックした上で関係者に報告しています。
満濃池 軒原庄蔵2

 工事主体は、高松藩が主となり、丸亀藩がこれに協力して進められる形で進められました。高松藩の執政職の松崎渋右衛門が工事を推進する立場にいるはずでしたが、着工のときには、彼の姿はありませんでした。工事着工に先立つ9月8日、彼は高松藩内の権力抗争で城内で反対派のテロにあいます。彼の決断がなければ、着工はさらに伸びていたでしょう。

満濃池底樋石穴図(想像)
満濃池底樋石穴(想像図)  

佐太郎は後に、神野神社境内に渋右衛門をたたえて神祠を建立、松崎神社として彼を神として祭っています。神野神社は今日、池畔の高台に移転され、水面を見下ろしています。

 待望の工事開始 長谷川佐太郎、再びの嘆願
 松崎渋右衛門の志を受け継ぎ、高松藩の郡司谷本宗次郎を中心に、その年の末には底樋については成功のめどがたちました。しかし、丸亀藩にはまだまだ石樋への不安が強く、築堤工事の着手ができない状態でした。
そこで長谷川佐太郎は翌年の明治三年(1870)に、再び倉敷に赴き、両藩の堰堤着工を嘆願書にして次のように提出しています。
満濃池 軒原庄蔵4
  讃岐国那珂郡の満濃池は廃池となって以後、その堤防修築のことについて、たびたび嘆願(嘆き願う)してきた。(これまでの領主は)領内隅々まで熟知することが不充分であったため、十年以上を経ても毎年水干(洪水と日照り)により損失が少なくなく、百姓一同の疲弊は頂点に達し、必至困苦していた。
(明治維新で)政情が一新され、下層の人々の苦情を深く憐憧(憐れみ品物を恵む)して下さることとなった折から、嘆願を聞いて下さることとなった。さらに高松藩にあっては厚い思し召しにより堤防を修築し、丸亀藩も(困窮のことを)熟知して下さり、すでに昨年八月中に底樋用の石穴を掘り始めてくれたことは、非常に有り難く幸せに思っています。
 これは(高松・丸亀)両藩が引き請けてくれたもので、石工・人夫なども昼夜にわたり働いてくれたので、すでに相当なほどまで掘りおこされています。これまでの様子から来る三月中旬頃には、完成しそうであります。そのような状況でありますので、その他の部分についても早々に修築していただけるものと思っています。
 当用水はだんだんと(完成が)近付いていますが、万一今年に干魅(日照り)がおこった場合は、水の手当てがさし当たってないならば疲弊も極まって、百姓はもはや(それを)凌ぐ方策も尽きて難渋することになります。
 かねて(高松・丸亀)両藩においても、その点を深く慮って、前条のように昼夜にわたり人夫を出していただいている中に、些細な管見(自分の見識)を促し、お願い申し上げるます。まことにもって恐れ入ることでありますが、猶この上精々大急ぎで修築していただき、日ならずして総て完成させて、水を蓄えることが出来ますよう、恐れながら早々に(高松・丸亀)両藩に掛け合って下さったならば、広大のお恵みとして誠に有り難き幸せに存じます。依ってこのことを嘆願申し上げます。
    以上。
        総代 長谷川佐太郎   印
        倉敷県御中 
満濃池 軒原庄蔵3

嘆願書は採用され、佐太郎は直ちに帰村します。
倉敷県庁では、佐太郎の嘆願書を受け取って、民部省と大蔵省に次のような伺いをたてています。
      伺
 萬濃池のことに付き、別紙の写しの通り十数年来修築をなさず因循に打ち過ぎてい費用の程度については、別紙絵図面の附紙の通り、用水の流れの末端の村々は(その費用の負担は)除外したく、このことを嘆願致します。かつ前文の如く、丸亀・多度津二藩は藩論も一定せず因循に打ち過ぎ(経過し)ています。何分にも実地(現地)の水掛かりのない村々は、除外してよろしいのでありましょうか。今般右の積書の巻末に、旧例のお手当人足の割合を計算した費用の程度並びに減額した費用の程度の両方を記載して差し出しましたので、(その)手当てを渡して下さるように致したくお伺いします。
 なおまた丸亀・多度津二藩の説諭談判折り合い(解き諭すための話し合い)のつかない場合には、手当てを渡して下さる以外に、米金の拝借をお願い致したく、何分にも(何卒)、四月中に是非とも(堤防の)成功を遂げなかった(完成させなかった)ならば、(程なく)梅雨の季節に立ち至る(重大・深刻な状況になる)ので、土木工事が出来なくなるために、至急その段取りを運びたく(工事を開始したく)、このことをお伺い致します。
         三月
               倉敷県庁
 民 部 省
 大 蔵 省

内容は「用水の流れの末端の村々は(その費用の負担は)除外」あつかいしたいという伺いです。具合的には負担金の割り当てに応じようとしない多度津藩を除外する形で進めてよろしいかというものです。
この倉敷県庁の伺いに対して、両省から次のような指令が出ています。
     指令
 書面満濃池の普請のことは、大阪土木司へ見聞(分)する(立ち会い見届ける)よう伝達しているので、申し合わせて取り計らうこと。
        牛(明治三年)三月
こうして、多度津領を水掛かりから除外する形で着工することになります。そして、多度津藩12村8715石が満濃池の水掛かりから離脱します
工事費用総額は?
  工事はその後順調に進み、明治3年(1870)3月15日に底樋の石穴が貫通。6月6日には築堤が完成します。
築堤工事に従事した人夫は合計14万4916人。
総工費は38000両
現在ならば国からの援助金が半額はあるように思いますが、この時代はそんなものはありません。当時の小学校建設と同じで、全額地元負担です。高松藩と丸亀藩が支出することになります。工事が進むと資金が不足してきます。長谷川佐太郎も私財1万2000両を支出したと云われます。比較のために事例をいくつか並べてみましょう。
戊辰戦争で朝敵になった高松藩の新政府への献金 12万両
金毘羅大権現の明治政府への献金が        1万両
金毘羅金堂(現旭社 )           3,8万両
金毘羅高灯籠                0,7万両
佐太郎の支出金がいかに大金だったか分かります。単純に比較はできませんが今日の十数億円に相当すると云う研究者もいます。二千石以上の富豪と云われた長谷川家の田地は、この池普請の出費で人手に渡り、ついに貧窮したのです。 
 ちなみに、この工事に若き人夫として参加していたのが大久保諶之丞です。この労働現場で彼は築堤工事や土木工事の技法を身を以て学びます。同時に、長谷川佐太郎を中心とする人々の満濃池再築に架ける使命感や情熱を体感したのではないかと、私は想像しています。それが大久保諶之丞して、後の四国新道建設へと向かわせる導火線になったのではないかと思うのです。その意味で、諶之丞は長谷川佐太郎の志を継いだ次の世代といえるのかもしれません。
嘉永7年(1854)の破堤から16年目に再び甦みがえった満濃池の規模です。  
貯水量 五八四万六、〇〇〇トンに増大
堤長 四十五間半(八二・八一メートル)
堤高  十三間 (二三・六六メートル)
天幅   八間 (一四・五六メートル)
敷幅 六十五間 218・3メートル)
(石穴の底樋)
長さ 三十間五尺三寸 (五六・ニーメートル)
竪樋との接合部分(木樋)七間(一二・七四メートル)
石穴の内径(高さ)三尺五寸 )
幅  三尺 (〇・九一メートル)
(竪樋(木造尺八樋)
長さ 十八間 (三二・七六メートル)に縮少。櫓を四個にして。上より一番、二番と数えるように改める。
以上をまとめると、満濃池再築の3つの障害は、次のような形で乗り越えられていったことになります。
①新しい指導者 長谷川佐太郎の登場
②明治維新政府という中央政権の登場
③明治政府による高松・丸亀藩への指導
④最後まで反対した多度津藩の排除
次回は、再築工事をなしとげた長谷川佐太郎について、もう少し詳しくみていきたいと思います。
満濃池年表 満濃池名勝調査報告書181Pより 

1849年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋前半部を石製底樋に改修。所要人員249,890人。
「満濃池御普請所絵図」が嘉永年間(1848-1854)に成立
1853年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋後半部を石製底樋に改修,
1854年 6月の伊賀上野地震の影響で、7月5~8日、満濃池の樋外の石垣から漏水。8日には櫓堅樋が崩れ、9日九つ時に決壊。満濃池は以降16年間廃池。
1866年 洪水のため満濃池の堤防が決壊して金倉川沿岸の家屋が多く流失し青田赤土となる。 長谷川佐太郎、和泉虎太郎らが満濃池復旧に奔走する。
1855 安政2 長谷川喜平次、満濃池復興のために奔走
1859 安政6 満濃池の官を始め近隣各宮で念仏踊を行う
1860 安政7 倉敷代官大竹佐馬太郎が長雨洪水による被害状況を巡察
嘉永7年(1854)以降、明治2年(1869)以前、「讃岐国那珂郡満濃池近郷御料私領絵図」が作成される。
1863 文久2 11月、長谷川喜平次、満濃池復興、意志半ばで病没(67歳)
1863 12月29日、高松藩、幕領満濃池付属地及び五條・榎井・苗田と金毘羅社領を、治安上高松藩の管轄にすることを請い、許可される(歴世年譜)
1865 金倉寺村の豪商和泉虎太郎、朝廷に満濃池再築の嘆願書提出。
1866 満濃池決壊中で治水機能が果たせず、金倉川沿岸の家屋が多く流失し青田赤土となる。長谷川佐太郎、和泉虎太郎らが満濃池復旧に奔走。
1868 1月、和泉虎太郎のもとに朝廷より池御料の関係者と共に書類と図面を持参するようにとの内命書届く。3月5日、池御料、一時土佐藩預かり地となる。
 3月、榎井村戸長長谷川佐太郎、新政府の弁事伝達所へ満濃池再築の嘆願書提出。(丸亀県史)
 7月、和泉虎太郎、朝廷の命に従い上京。再度、満濃池再築を嘆願。
 9月16日、長谷川佐太郎のもとへ満濃池再築聞届けの返書が届く。
 9月、池御料倉敷県となる。倉敷県に満濃池再築の命が下る。
1869 高松藩執政松崎渋右衛門、長谷川佐太郎と満濃池視察。底樋を石穴穿整に決定。
 8月、満濃池、石穴穿撃工事に寒川郡富田村庄屋軒原庄蔵を起用。
 8月9日、満濃池の復旧工事着手。
 9月16日、底樋となる石穴穿撃工事に着手。(丸亀県史)
1870 1月、丸亀藩の一部に満濃池底樋について石穴穿盤を危惧する声があり、築堤工事に着手できず。1月、榎井村の長谷川佐太郎が満濃池修築の促進を高松・丸亀両班に掛け合ってほしい旨、倉敷県庁に嘆願(丸亀県史)
 1月、満濃池の堤防工事着手。(満濃池通史)
 2月、倉敷県、長谷川佐太郎の嘆願書を民部・大蔵省に上申。倉敷県参事島田泰雄、池御料来訪。丸亀藩を説得。
「満濃池之図」「満濃池水掛村々之図」作成。
 3月15日、満濃池の石穴底樋貫通。
 6月3日、満濃池堤防復旧。水容量584万6,000m3。
 6月、榎井村の長谷川佐太郎が満濃池修築の功により餅米10俵を賜る。(高松県史)
 7月3日、満濃池修築完工。(丸亀県史)
鵜足郡八か村3,160石、多度津藩領12か村8,075石2斗の水掛かりが満濃池水掛かりから離脱。以後、満濃池水掛かりは24,579石となる。
大阪土木司が満濃池井手筋を検分する。
参考文献 満濃池史

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ペリーがやってきて幕末の動乱が始まるのが嘉永六(1853)年です。この年、讃岐満濃池では底樋を初めて石材化する工事が終わります。ところが翌年、ゆる抜きも無事終え、田植えが終わった6月14日に強い地震が起こります。それから約3週間後の7月5日昼過ぎに、修築したばかりの満濃池の底樋の周辺から、濁り水が噴出し始めます。 そして7月9日、揺(ユル)が横転水没し、午後十時ごろ堰堤は決壊します。
 この時の破堤の模様について、史料は次のように記します。
「堤塘全く破壊して洪水氾濫、耕田に魚龍(魚やスッポン)住み茂林に艇舟漂ふ。人畜の死傷挙げて云ふべからず。之を安政寅の洪水と云ふ」
とあり、下流の村々は一面が泥の海となりました。特に金毘羅市街は大きな被害を受けました。
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決壊後の満濃池 池の中を金倉川が流れている 
このことについては以前に「満濃池の歴史NO6 幕末の決壊は工法ミスが原因か?」で触れましたので省略します。
 今回はその後。十数年にわたって満濃池が決壊したまま放置されたのはどうしてかを見ていこうと思います。別の言い方をすると、どうして満濃池は、再築できなかったのかということになります。
   満濃池決壊後、長谷川喜平次は普請失敗の責任を問う声にひるむことなく復旧を計画します。2年後の安政三年(1856)に竪樋と櫓の仕替普請について、倉敷代官所の許可を得ています。それを受けて10月には、竪樋十一間半(約21㍍)の入札を大阪で行い、
材料費銀十六貫七百匁、
大工手間賃銀一貫百十三匁
丸亀港から普請場までの運搬
人足賃銀四貫七十九匁四厘
合計二十一貫八百九十二匁四厘
を灘屋吉郎右衛門が落札しています。しかし、この普請計画は実行に移されることなく立ち消えとなっていきます。
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立ち消えになった背景を考えたいと思います。
まず見ておきたいのは、以前紹介した嘉永六(1853)年の工事終了後に、天領の榎井村の百姓惣代が、榎井村の興泉寺を通じて倉敷代官所へ出した文書です。ここには次のように願い出ています。
 A、石樋変更後は、水掛りの村々だけで行う自普請になる予定であった。しかし、四年前の普請で行った石樋への箇所が、折れ損じている事が判明した。そのため材木を加え補強したが、不安であるので、もし折れ損じる場所が出てきた場合は、自普請ではなく従来通り国役で普請を行ってほしい。

 B、喜平次は池に「万代不易」の銘文が入った石碑を建立しようとしているが、既に折れ損じが生じ、材木を差し加えている状態であるのに、なにが「万代不易」であるか、建立を中止してほしい。
 他にも破損した石樋の様子や、その後の対処についてより詳細に記載し、工法の問題点を指摘している次のような文書もあります。(直島の庄屋である三宅家の文書)
1 石樋の接合のために、前回の普請箇所を掘った所、土圧等により石樋の蓋の部分が十三本、敷石が三本破損していたことが判明した。これは継口の部分だけで、さらに奥の方はどのくらい破損しているか分からない。
2 さらにその後、蓋の上下に補強用の桟本を敷き、その上に数千貫の大石を置くも、桟本が腐って折れると、上に置かれた大石の重さで蓋石が折れ、石樋内に流れ込み、上が詰まってしまい崩れるであろう。
 新工法への不安と的中
 このように普請中から新工法へに対して関係者や工事に携わった百姓達からは
「破損部分が見つかっており、それに対して適切な処置ができておらず、一・二年以内に池が破損するだろう」
という風評が出ており、人々が心配していた事が分かります。つまり、木樋から石樋に変えた画期的な普請は、工事終了後には関係者の間では「不良工事」という認識があったのです。
それなのに長谷川喜平次は「万代不易」の銘文が入った石碑を建立」しようとしている。これをやめさせて欲しいと、地元の榎井村の百姓総代から嘆願書が出されています。工事に不備があることを長谷川喜平次が知っていた上で、「丈夫に皆出来」と代官所に報告していたのなら責任を追及されるのは避けられないでしょう。百歩退いても、当時の榎井村の百姓達は喜平次に対して、不信感を持ち反発していたことは、この嘆願書からうかがえます。指導者と百姓の間に、すでに亀裂ができていたのです。
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 実際に満濃池が決壊し、下流域に大きな被害をもたらします。特に琴平市街は鞘橋や多くの家屋が流されるなど大惨事となります。こんな時に「不良工事」の責任者として、喜平次は指弾されたでしょう。その喜平次が再び音頭をとって満濃池修築すると云っても、池の領や金毘羅領をはじめとする地元の目は冷たく見放すだけだったようです。地元は大きく割れました。
 現代の世論なら
「決壊原因を明らかにし、工事責任者が責任をとるのが先決。その上で新たな体制で、新たな指導者の下で工事を始めるべき」
という声が出てきそうです。つまり、長谷川喜平次に代わる指導者が現れないと、満濃池再築は進まないという状況になったようです。ある意味、「世代交代」が必要だったのです。それには時間が必要でした。

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長谷川喜平次は那珂郡榎井村に生まれ、通称倉敷屋喜平次と呼ばれました。
里正(庄屋)を務める一方、雨艇と号し、俳句にも才を発揮しています。底樋を石製にするアイデアを出し、実行に移した喜平次の夢は実現したかのように思えましたが、わずかで崩れ去り、復旧を見ずに失意のまま世を去りました。文久二年(1862)67歳の生涯でした。
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長谷川喜平次については、後世の評価は2つに分かれるようです。
ひとつは、水利組合関係や公的機関のパンフレットの立場です。ここには「新たな工法にチャレンジしたパイオニア」として、満濃池修築史の重要人物として描かれます。地元の「満濃町誌」や残された記念碑も、この立場です。
もうひとつは、批判的な立場です。
これは地元榎井や金毘羅領に残る記録に多いようです。特に、決壊の被害が大きかった金毘羅(琴平)では、その責任を問う声が強かったことが背景にあるようです。
 復興が進まなかったもうひとつは、多度津藩の動向です。
多度津藩は、この時期に陣屋・新港の建設などで経済的な活況を呈するようになり、軍備の近代化を最優先課題として、丸亀藩からの自立路線を歩むようになります。藩内での改革気運の高まりを背景に、従来の満濃池の水掛かりに慣習に対する不満が爆発します。
 丸亀平野の西北端に位置する多度津藩は、満濃池の水掛かりではありましたが、水配分では不利益を受けていました。負担は平等に求められるのに、日照りの際などには水は届きません。

  多度津藩領奥白方村の庄屋であった山地家には、満濃池決壊翌月に書かた嘆願書があります。これには、容易に満濃池普請に応じる事はできず、何年か先に延ばしにしてほしい旨が嘆願されています。前回普請からからわずかでの決壊でまた普請となれば、連年の普請となります。それは勘弁してくれ。というホンネが聞こえてくるようです。そして多度津藩は、この機会に満濃池の水掛かりから離脱する方向に動き始めます。この影響を受けて丸亀藩も、早期復興には動けなかったようです。
丸亀藩領今津村の庄屋である横井家に残された史料には、今津村の満濃池普請に対する意見が次のようにはっきり述べられています
普請からわずかで決壊したことと、普請が続き疲弊していることを述べ、はっきりと「迷惑」と書き、再普請に対して露骨な嫌悪感を表しています。さらに場合によっては、多度津藩と同様に満濃池水掛りを離れる事を藩に願い出ています。
 一方、高松藩は早期の修築を当初は考えていたようです。
ところが天領や多度津・丸亀藩の動きを見て早期復興は無理と判断します。安政五年(1858)には那珂郡内の小池を修築し、干ばつに備えることを優先させます。
 例えば、嘉永七年の大地震で堤防の一部が決壊した買田池の改修です。底掘普請に銀六十貫目を貸し付け、三十余石の田地を与えて池敷を増し、水掛かりを3000石から8500石にする大改修を、53000人の人夫を動員し、藩の郷普請として行います。また吉野村の木崎に新池を築き、深田の大池を移築し、七箇村の三田池の増築も行います。(『満濃池記』)
 このように決壊直後の史料から、満濃池復興に対しては、前回の工事を巡っての対立や、各藩領内それぞれの思惑が異なっている様子がうかがえます。このような状態では復興のめどは立たちません。
 もうひとつは、幕末の混乱期に突入したということです。
多度津藩はすで財政改革を行い富国強兵・兵器の近代化を進め、動乱に備える体制をいち早く形作っていきます。そのような中で丸亀・高松藩も満濃池再築の優先順位は低くなります。結果として幕末の混乱期に満濃池は、決壊したまま放置されることになったようです。
 満濃池が再び姿を見せるのは、明治維新で維新政府という中央政府が成立して以後のことになります。そして、それを進める新たな人物達が地元に登場してくるのを待たなければならなかったようです。それが喜平次の遺志を受け継ぐ長谷川佐太郎でした。
参考文献   満濃池史所収 江戸時代の満濃池普請


      
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満濃池改修図

生駒藩時代に西嶋八兵衛によって再築された満濃池が、その後どのように維持されていったのかを見ていくことにします。『政要録写』『満濃池史要』からは、江戸時代の満濃池普請記録が下のように定期的に行われていたことが分かります。
満濃池普請表1
満濃池普請表2
○が御用普請 ◎が国普請 三重○自普請 ※( )内の数字は揺の耐用年数を概算したもの
 ○御用普請とは?
 材木や鉄類などの材料費と人夫の扶持米を幕府が負担し、池御料の年貢米によって賄われた普請。
 ◎国普請とは?
高松藩領、丸亀藩領、池御料、金比羅社領の四者が負担した普請
 自普請  
水掛かりの石高割りで農民が負担した普請。
 
この表からは次のようなことがうかがえます。
①平均すると10年に1回は池普請があったこと。
②底樋交換工事は、17世紀は15年毎だったのが、18世紀以後は半世紀に一度になっていて耐用年数が延びている。「技術改良」があったようだ。
③底樋は、工期が長くなるので前半・後半部の2つに分かて実施されている。
④17世紀は御用普請であったのが、18世紀には国普請になり、幕末には自普請で行われるようになっている。
なぜ定期的な「池普請」(改修工事)が必要だたのでしょうか?
ため池には水を抜くための取水施設として「底樋」と「竪樋」があります。
ため池底樋
底樋は箱状のもの、丸太をくり抜いたものや素焼の土管などが使われ、池底から勾配をつけて設置されます。「竪樋」には土手の内側に傾斜にそって設置し、いくつかの揺(ゆる)が設けられており、水位に応じて取水するようになっています 満濃池のように大きなため池は「竪樋」に「揺木」(「筆木」)で栓をして、これを引き抜く足場を設け、数人がかりで「揺る抜き」をしていました。

満濃池底樋と 竪樋
満濃池 文政3年の底樋と 竪樋
 木製樋管は腐りやすいので、その防止策として底樋の最末端に水だまりを設け、底樋を常に水に浸かるようにしていました。木材の代わりに、石材が利用されるようになるのは幕末になってからですが、これも石材化の最初の普請では「不良工事」となって接合部からの漏水し、決壊を招いています。抜本的な解決は鉄筋コンクリート管の登場まで待たなければなりませんでした。木が使われている以上は定期的に交換する必要がありました。そのためには堰堤を堀り、底樋を交換し、再び埋め直すという作業が求められたのです。これを怠ると堰堤は決壊します。
ため池底樋3
現在のため池の底樋
 人海戦術で行われた築堤工事
堰堤工事は、土を運んで突き固めるという繰り返しなので、大人数が必要でした。堤体の突き固めは、次のふたつの作業が行われます。
①棒・杵を用いて堤防を突き固める「千本搗き」「杵搗き」
②シテ振りとよばれる先導が多数の人足を前後左右に追い回し足で踏み固める「踏み締め」
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「杵搗き」と「踏み締め」
大きなため池の最難関は、工事中の洪水処理でした。
今ではダム建設の際には、本体工事に先立ち工事中の洪水を工事現場から逃がすための仮排水路を設けています。が、河川本流を堰き止めるような満濃池のような大きなため池では、仮の排水路を設けることは無理でした。そのため堤の両側から築き上げ、まん中の部分は最後まで水路として残しておいて最後に一気に締め切るという方法がとられていました。満濃池の仁寿3(853)年の工事では最後の締め切りにの際に
「夫役6,000人を発し、10日を限り力をつくして築き、俵ごも68,000余枚に砂土をつめて深処をうずめた」
とあります。堤の中央部は短期間に一気に築き上げるために、一番もろく堤防の弱点で、決壊の原因となったようです。
満濃池  竪樋.寛政jpg

 満濃池の底樋と揺替(寛政11年)
底樋や揺に使われた木材は
 初期の承応三年(1653)までの材料は、ほとんどが松材だったようで、耐用年数が短かったことが先の史料からも分かります。
竪樋は尺八樋と言われる構造で、慶長13年(1608)に河内国狭山池で「枝付尺八樋」が初めて使われるようになった新技術でした。そのため充分に使いこなせず最初の頃は、構造的に問題があったようです。
大阪で求めて、運ばれてきた木材
 万治元年(1658)の普請からは、耐用年数の延長と経費節減のために、底樋などの主要部分には草槙や檜のような高価な良材を使うようになります。良材は、周辺の山にはないので、大阪市場で買い求めるようになります。大阪町奉行所の「町中入札」で落札した材料は、落札者が海路丸亀港へ回送。それを普請方が受け取り岸上村の普請所まで運ばれます。樋大工も、備中・備前の先端技術をもった大工を呼び寄せています。ここからは満濃池のユル換え工事は、当時の最先端の技術と材料・職人が関わるトッププロジェクトだったことが分かります。

 しかし、時代を経るにつれて太い良材が手に入らなくなります。
そのため宝暦十二年(1762)からは、槻や栂を主要部分に使うようになります。主要部以外には使う松材は、満濃池に近い鵜足郡長尾村の御林(藩有林)から伐り出されています。次第に運ぶのに便利な近くの御林が選ばれるようになり、嘉永六年(1853)の普請には、中通村から切り出されたものが使われています。

満濃池ユル換え工事宝暦
満濃池 宝暦のユル換え平面図
 底樋の長さは六十五間(182メートル)、それを高さ十二間半(23メートル)の堤防の底の部分に敷設します。この底樋普請は前半と後半の二回の工期に分けて行われています。2回に分ける理由は
①工期が長くなり、その問に暴風雨や洪水に襲われる危険があったことと、
②年内には終わらないと、池に水を溜めることが困難になるため
だったようです。

満濃池普請5
満濃池底樋(文政2年)
普請は八月末から始められ、年内か遅くとも翌年の正月中には終わるように計画されていました。

 普請の際の労力は讃岐各地から集められた百姓達でした。
庄屋に引き連れられてやって来た百姓達は、付近の村々の農家に宿泊し、約五日間決められた規則に従って働きます。御用普請や国普請、自普請の種類は違っても、結局は農民の労力に頼るはかなかったのです。
満濃池池普請文政3年
満濃池普請図(文政3年)

文政十年の揺替普請(自普請)について
 文政十年(1827)の揺替普請の記録が残っています。それによると動員された「のべ人数」は底樋後半と竪樋櫓仕替で約25万人に上ります。夫役は水掛かりの石高に応じて配分されていて、高百石について約700人となっています。

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       満濃池ユル替工事の動員人夫数確認図 
一日にどれくらいの人たちが動員されたのでしょうか
たとえば文政十一年の冬の動員人数をみると、
  文政十一年正月十日 高松領十郡    六百七十人
            西   領   六百七十三人
              合計   千三百四十六人
      正月十二日 高松領十郡   九百九十三人
            西   領   九百九十三人
              合計   千九百八十六人
      正月十三日 高松領    千二百七十五人
            西領     千二百七十五人
              合計   二千五百五十人
      正月十四日 高松領      千四百二人
            西   領    千四百二人
              合計    二千八百四人
 となっていて、一日2000~2500人程度が動員されています。正月を越えての普請作業なので、工期終了間際のことだったのでしょう。これより遅くなると田植えまでに、満水にならなくなる可能性が出てきます。工期日程に間に合わせるための最後の動員だったかもしれません。ここから一日の動員数を2000人とすると、工期期間が9月からの4ヶ月間なので、
2000人×120日=24万人という数字が出てきます。
これを、どのように振り分けて動員したのでしょうか。
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満濃池人数改図(各村からの動員人夫数が確認されている)
桂重喜著『讃岐の池と水』で見てみましょう。
「高百石に付き約700人」の人夫割当を行ったようです。当時の田畑一反歩の平均石高を約一石一斗とすると、一反歩割当人夫数はのべ約8人となり、一戸当たりの耕作面積を五反歩とすると、一戸当たり「のべ人数38人」の割当となるようです。普請に出向いた百姓は、1回について最低十日は普請小屋に滞在し、使役に従事しなければならなかったので、一戸当たりの割当人夫38人ということは、普請の年はこれを三、四回は繰り返さなければならなかったことになります。これを村役人は、各戸に分配負担させていったのでしょう。
 しかし、百姓の方も心得たもので、一家の労働の中心となる担い手は避け、老人や年少者を差し出していたようです。嘉永二年(1849)の底樋仕替普請の際に丸亀藩が出した「定書」には次のように記されています。
「満濃池御普請中、私用の者は申すに及ばす、無益の人足差出し仕りまじく候事」

逆読みすると老人や年少者などの「無益の人足」が差し出されていたことがうかがえます。
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 行こうか、まんしょうか、満濃の普請、百姓泣かせの池普請

 と謡われた里謡が残っています。その実態を探って見ましょう。
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 私は最初は、満濃池普請は水掛かりの地域だけ、つまり丸亀平野の百姓達だけに割り当てられていたのかと昔は思っていました。ところが今見てきたように、そうではないのです。東讃の農民も、三豊の農民も割り当てられていたのです。つまり、讃岐国中の百姓達による普請工事だったのです。自分たちの田んぼに引かれてくる水のことならやる気も出るでしょうが、他人の田んぼのための池のために動員されたのです。これが驚きの一つでした。

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満濃池普請図右側(嘉永年間 始めて石底樋が使われている)
 各地からの村々の農民の動員や引率・管理など普請人足の統率を担ったのは庄屋たち村役人でした。人足の確認、扶持米などの受け取りと支給などにあたっています。
 たとえば、ペリーがやって来る4年前の嘉永二年(1849)の普請時には、高松領分で池普請に当たったのは那珂郡、鵜足郡の庄屋の中から一名、他の八郡の庄屋の中から一名が交替で普請場に詰め、指揮にあたっています。その際の庄屋の服装と満濃池までの行列についても藩から厳しく規定する次のような文書が残っています。
一、行列は馬または駕龍は勝手次第。
二、両掛、雨具を備え、若徒、槍持ち、草履取りを従えること。
三、衣類は越後平地の帷子、絹の羽織、川越正徳平の袴または葛の野袴、または紋付綿服、帯刀のこと。
   普請が始まると、普請場には役人の出張小屋や普請小屋、大工小屋などが建てられます。

満濃池普請小屋図1
満濃池小屋掛図
満濃池の場合は高松藩、丸亀藩、多度津藩の他に池御料、金毘羅社領など複雑に分かれていました。そのため現場には、各藩が別々に小屋掛けをしていました。
大野原からやってきた池普請組
 大野原(観音寺市)の井関村庄屋・佐伯家には、文政三年(1820)の池普請に参加した当主・民右衛門が残した「満濃池御普請二付庄屋出勤覚書」があります。

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 満濃池普請図左側(嘉永年間 始めて石底樋が使われている)

この記録から池普請に動員された農民達について見てみましょう。
この時の普請は、堤の外側を掘り下げ、木製底樋の半分を交換するものでした。現在の観音寺市大野原町を含む豊田郡和田組の村々からは、約三百名の人々が駆り出されています。その監督役として、民右衛門は箕浦の庄屋小黒茂兵衛と満濃池に出向きます。九月十二日の早朝出立した民右衛門は、財田川沿いの街道をやって来て昼下がりに宿泊地に指定された骨山(旧仲南町帆山)に到着します。そして、丸亀藩役人衆への挨拶に行っています。

決壊中の満濃池
幕末の満濃池決壊時の地図
(池の中を金倉川が流れている 朱色部分が丸亀京極藩)

 なぜ、満濃池に近い福良見に丸亀藩は、現地事務所を置かないのかと思いました。
調べてみると帆山までが丸亀領で、その向こうの福良見は高松領でした。ここが高松藩と丸亀藩の国境だったのです。そのため丸亀藩の東端の帆山(ほのやま)に現地事務所は置かれたようです。
 三豊からやてきた百姓は、帆山など周辺の寺院などに分宿し、食事は自炊です。ある意味、手弁当による無償動員なのです。
 翌日、工事現場への集合は太鼓の合図で行われます。
周囲に分宿していた人々が集まり、蟻が這うように見えたと記します。
十三日は、雨天で工事は休み
十四日もぬかるみがひどく休日
十五、十六両日は工事を実施。
和田組村々の人足は、三班に分かれて工事を行っています。
ところが和田組の人夫が立入禁止区域に入って、用を足したことを見咎められ、拘束されるという事件が発生します。これを内済にしようと、民右衛門は奔走。池御料側、櫛梨村庄屋庄左衛門らの協力により、ようやく内済にこぎつけるのです。そのためか、十六日は、櫛梨村と和田組村々の人足が、同じ班に入って作業を行っています。同日昼下がり、民右衛門は五日間の役目を終え、夜更けに帰宅しています。庄屋として責任を果たし、安堵したことでしょう。

満濃池底樋石造化工事
満濃池底樋石造化工事 
 三豊の百姓にとって、自分たちの水掛かりでもない満濃池の普請で、しかも寝泊まりも不便な土地でただ働きをさせられるのですから不満や不平が起きるのは当たり前だったのかも知れません。しかし、一方で民右衛門のように「事件」を通じての他領他村の人々との交流が生まれ、人的なネットワークが形成されるきっかけにもなりました。また満濃池普請という当時の最先端技術についての情報交換の場になり、地元でのため池工事や土木工事に生かされるという面もあったようです。  
   一方、自ら進んで池普請に参加する人たちもいました。
  塩飽の与島の島民たちです。
満濃池とは関係のない塩飽諸島の島民たちがなぜわざわざ普請にやってきたのでしょうか。しかも自発的に。与島には、
「満濃池の普請に出向かないと、島の井戸が干しあがる」
という言い伝えがあったようです。島民のほとんどが真言宗であり、信徒として空海と満濃池、島民との繋がりが生まれたのかもしれません。しかし、本当のところは分かりません
参考文献   満濃池史所収 江戸時代の満濃池普請 

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西嶋八兵衛60x1053
 
最初に 村治圓次郎の『西嶋八兵衛翁』で彼の略歴を見ておきましょう。
慶長元年(1596)遠州(静岡県)浜松で生まれた(八兵衛自身の由緒書などの史料には記載なし)幼名は之尤(ゆきまさ)で、八兵衛は通称です。木端の名を持ち、晩年は拙翁とも号する文人でもありました。
八兵衛の父は、西嶋九郎左衛門之光で、藤堂高虎に仕えていましたが、年老いたため浜松で隠居生活に入ったようです。
慶長17年(1612)、八兵衛が満16歳の時に、父は息子を高虎へ出仕させようと駿府(静岡市)に行き、家老藤堂古采女(采女元則)の斡旋で、父の跡を継ぐ形で高虎に仕え始めます。父子共に高虎の家臣となります。当時、家康は駿府を隠退の地として、江戸城から移っていました。藤堂高虎もそれに付き添うように、駿府に屋敷を設けていたようです。
生駒藩 藤堂高虎
藤堂高虎

八兵衛は、最初は高虎の右筆(近習役・記録役)として仕えたようです。
 関ヶ原の戦いや大坂の陣で高虎の傍らにあって、戦闘の記録を担当しています。達筆な筆跡の文書が伝わっています。同時に、高虎の身近に仕えて、次第にその信頼を得るようになっていったようです。
 主人の藤堂高虎は、秀吉の弟秀長に仕えていた頃から和歌山城・今治城を築き、次第に「築城の名人」と云われるようになり、家康の下では江戸城・丹波亀山城(京都府亀岡)・安濃津城(三重県津市)・伊賀上野城など数多くの城を築城しています。八兵衛もまた経験豊富な高虎の側に仕え、土木現場の実情や技術者集団に接する中で、築城や土木工事に関わる諸知識を身につけていったようです。
 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。
高虎は、この時に八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。
生駒親正

生駒親正
  生駒家と藤堂家には、強い絆が結ばれていました。
藤堂高虎は仕えていた秀長(秀吉の弟)が亡くなり、その甥で養子の豊臣秀保も文禄4年(1595年)早世すると、高野山で出家して隠遁生活を送っていました。その将才を惜しんで「復職」の説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名に「再就職」することができたのです。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。
  これ以外にも生駒家と藤堂家は秀吉の子飼い大名という出身ながら、関ヶ原の戦い前後の大政治変動を巧みに泳ぎ抜けた経歴などに似通ったところがあります。そして、両藩共に外様ながら家康からも一目置かれる雄藩だったのです。特に藤堂高虎は、秀吉の弟の秀長の家老に任ぜられていましたが、処世にはなかなかの練達者で、秀吉の死後はぴったりと家康に密着し、外様大名の中では最も家康の気に入られる存在になっていきます。この変わり身のうまさを「風見鶏」とも揶揄されたりもするようです。

生駒騒動 関係図1
 生駒・藤堂家の関係は、その後もいろいろな形で婚姻関係が結ばれるようになります。三代目正敏には高虎の養女が嫁いできます。正俊は、藤堂高虎の娘を夫人としていたのです。生駒藩四代目として生まれてきた高俊は、藤堂高虎から見れば「孫」に当たります。両家は親戚で、強いパートナーシップをもつようになります。
そのような中で生駒藩に危機が訪れます。
三代目正俊が元和7年に36歳で亡くなるのです。正俊には、たった一人の男の子・小法師(高俊)がいましたがやっと11歳でした。当時の幕府は家光の「外様取りつぶし策」の全盛時代でした。幼年の藩主の場合には、責任ある統治が出来ないとの理由で大幅に領土を削られた例もありました。
 そこまで至らなくても幼年藩主の場合は、監督のために幕府から毎年国目付をつかわすことになっていました。その際には、歓迎儀式やなどで格式張った気づかいが求められます。どちらにしても生駒藩としては避けたいところです。
 何らかの不利益な措置が幕府によってとられるのではないかという危惧が、生駒藩内に漂いました。そんな中で藤堂高虎は生駒藩のために一肌脱ぎます。自らが生駒藩の幼い藩主(孫)の「後見人」となって、支えることを幕府に申し出ます。家康の信頼の厚かった藤堂高虎の申し出に幕臣達も動けなかったようです。こうして藤堂藩の家臣達が「客臣」(レンタル家臣)として送り込まれることになります。
西嶋八兵衛4
西嶋八兵衛
高虎が家中から選んで、諸事の目付として讃岐につかわしたのが西嶋八兵衛です。
 西嶋八兵衛は讃岐に4回派遣され、19年間を過ごしたようです。
 一番最初に西嶋八兵衛が讃岐にやって来たのは、正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者とでした。そこで、高虎の下で鍛えられた事務処理能力を遺憾なく発揮して、煩雑な事務を処理し、きちんと高虎に報告します。
 その後、後見人である藤堂高虎の目付的な客臣が高松藩に派遣されることになります。その際に、高松藩側からは、この時の手腕や人柄を高く評価して、西嶋八兵衛の再度の来讃を求めたといいます。高虎も西嶋八兵衛は、子飼いの側近で信頼も厚い人物だったので異論はありません。こうして西嶋八兵衛の二回目の来讃が実現します。
 八兵衛の普請奉行としての二回目の来讃は、寛永二年(1625)のことです。
彼が30歳の時のことで、サラリーは500石で、三年間滞在となります。彼の屋敷は、城内には確保することが難しかったようで、当時の城下町最南端であった寺町のさらに南側に構えられました。今の四番丁小学校の西北角に当たります。幕末の「高松城下町屋敷割図」に、大本寺は「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」との注釈がつけられています。
生駒藩 西嶋八兵衛の元屋敷大本寺
大本寺には「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」と記されている
彼は日蓮宗の高僧、日省上人に帰依していたようで、屋敷跡に大本寺は建立されたと寺伝には記されています。四番丁小学校は、そのお寺の境内に明治に建てられます。
生駒 大本寺

ちなみに「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、西嶋八兵衛の屋敷が記されています。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
その位置は、中堀に面する一番西側で重臣層と肩を並べるロケーションです。この屋敷割図が作られた時点では西嶋八兵衛がVIP待遇であったことが分かります。少し回り道をします
「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのかが分かりませんでした。そんな中で、この西嶋八兵衛の屋敷から作られた年代が明らかにされました。その過程を見ておきましょう。西嶋八兵衛は寛永2(1625)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあったこと、その後に大本寺は建立されたことが,大本寺の寺伝にあることは前述しました。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では、寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作されたと研究者は考えています。
 八兵衛がやってきた寛永二年(1625)は、大変な年でした。
「寛永三年閏四月七日大雨あり爾後 雨なきこと九十五日、秋七月十五日に至る田毛皆枯死し民人飢餓に迫りて餓死する者多し」

ここには
「寛永3年(1626)4月、大風雨となり、その後、7月に至るまで雨がなく干ばつとなった。稲は枯死し、人々は飢餓に瀕した。」
とあります。年代順に並べると
寛永2年(1625) 秋に大地震 西嶋八兵衛が来讃
寛永3年 大暴風雨、次いで大干ばつ、三か月という長期日照りで作物全滅、餓死者発生
寛永4年 大地震、暴風雨による風水害、収穫皆無
寛永5年 満濃池再築に着手
と、自然の猛威が連続して襲いかかってきたことが分かります。。稲が実らず、五穀も残らず、百姓らの困苦は一方でなく、他国に逃散する者も出てくる始末です。藩の存亡の危機でもありました。首席家老の生駒将監は、必死に対応に努めたようです。
  このことは藤堂藩から来ている目付の西島八兵衛は、当然に高虎に報告します。それを受けて、高虎は家老の将監や生駒家の重臣らに、次のように指示します。
「今日第一の急務は、灌漑の便をよくし、百姓共を落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、当地にいる頃郡奉行をつとめ、それらのことに巧者の者である故、家老らよく西島と心を合わせて事を運ぶよう」
 生駒家の重臣らは西島に、この指示書を見せて頼みこんだのではないでしょうか。高虎からの指示でもあり、生駒家の重臣らの頼みもあります。また、目の前の百姓らの困窮を視ているし、やれるという自信もあったのでしょう。西島は、
 「かしこまった。やってみましょう」
 と答えたのでしょう。そして、讃岐国内を巡って現地を見た上で、各地のため池と用水路の築造計画を立てます。
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況
寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任
1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。
1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ
1631年、満濃池の再築完了。
1635年、神内池を築く。
1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。
1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
なぜ短期間に、集中してこれだけの工事が行われたのでしょうか?
それは生駒藩が「自然災害による藩存亡の危機」という状況にあったからだと私は思っています。何もしないで座していたのでは、未来に希望を持てない百姓達は讃岐から「逃散」しています。その流れを食い止めるためにも、後見人の藤堂高虎が西嶋八兵衛にやらせろと命じてきたのです。
 危機の中で、未來に希望の持てる大土木工事を行うというのは、有能な政治家がとる方策です。その危機管理責任者に藤堂藩からレンタル派遣されていた西嶋八兵衛が就いたのです。そして、彼を危機感で団結した家臣団や百姓が担いだのだと私は思います。
 こうして、三谷三郎池(現高松市内)の嵩上げも行われ、続いて寛永5年には源平合戦の中で決壊放置されていた満濃池の修築にかかります。満濃池は400年以上、姿を消し、池の中は再開発され「池内村」が形成されていたのです。この再築については、以前触れましたので、ここでは省略します。
西嶋八兵衛 香東川
 八兵衛は多くのため池を作る一方、讃岐特有の天井川の改修にも尽くしています。
洪水を防ぐために香東川の堤防を付け替えたり、高松の春日新田の開発など、あらゆる方法で開田を進めます。香東川の付け替え、堤防づくりでは堤防に「大萬謨」の石碑を建てた伝えられます。大正時代の水害で河川敷きからこの石碑が出てきました。鑑定などの結果から八兵衛の直筆とされています。 
 満濃池築造のはじまった寛永4年に高俊は15歳になります。
生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
藤堂高虎の子の高次が烏帽子親となって元服させ、一字を与ええて高俊と名乗らせます。そして、高虎は生駒家に対する幕府の覚えをよくするために、高俊と老中首席の土井利勝の女との婚約をとりもちます。後見人としての高虎の生駒家にたいする心づかいは、細やかです。
  若き藩主と幕府老中の娘との結婚が執り行われた年には各地で進めたため池が完成します。水源確保や暴れ川のルート変更などによって新田開発は一挙に進みます。この新田開発を推進したのが、生駒家に再雇用された讃岐侍たちであったことは前回お話ししました。開発した土地が知行地として認められたために、土着勢力は争って新田開発を行います。それが出来ない他国侍からの不満が生駒騒動の要因になっていくのです。
どちらにしても、この時点では生駒藩では太閤検地後の知行制から俸給制への切り替えがきちんと行われていなかったようです。武士達にはサラリーでなく知行地が与えられていることを示す史料が残っています。
生駒藩 西嶋八兵衛知行地
例えば上のグラフは、丸亀平野の苗田村(現琴平町)に知行地を持つ家臣団を示したものですが、西嶋八兵衛もこの村に知行地があったことが分かります。ちなみに西嶋八兵衛が讃岐を去る直前の知行高は1000石にまで加増されています。
生駒藩知行地2

西嶋八兵衛の進める灌漑・治水工事について、批判的な藩士もいたようです。
 「百姓は飢え疲れている七、無用な工事をおこして、民を虐げる」
 「農事の水利のことのみを目的としている故、国の要害はまるで失われてしまう」

1630年に藤堂高虎が江戸で亡くなります。
その前に西嶋八兵衛は、江戸に出向いて讃岐の状況を報告する一方、帰国願いを再度願いでたようです。高虎の後を継いだ高次は、このあたりのことを承知していたようです。しかし、生駒藩で重要ポストを占めるようになった西嶋八兵衛は、後見人である目付としては最適で、これに代わる人物はいません。
「八兵衛は帰りたがっているが、生駒家の様子を見ると、当分は西島がいて目を光らせていたほうがよさそうである」
と高次は考えたのではないでしょうか。
 ちなみに西嶋八兵衛が伊賀に帰ることが聞き届けられるのは、生駒騒動の勃発直前のことでした。「沈みゆく生駒丸」からの脱出だったのかもしれません
  高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐国の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。
これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。こうして、西島は五百石の加増を受けて、藤堂家からの目付として讃岐駐在をつづけることになります。覚悟を決めた西嶋八兵衛は、いよいよ満濃池再築に向けて動き出すのです。
 西嶋八兵衛のから目から見た当時の生駒藩の政策課題は何だったのか?
それはやはり「知行制からサラリー制へ」の移行、讃岐侍や有力農民による自由な開発に規制をかけること。つまりは家臣団と土地を切り離させること、藤堂藩の事例からそれが藩主権力の強化につながることを熟知していたはずです。そういう目で、生駒藩を見た場合に「危うい藩」と見えたはずです。ため池や治水は完成し、新田開発は行われて石高は増えていますが、それが領主の懐には入ってこないシステムが温存されているのです。これは時代に逆行した制度だったのです。それが保守派の動きで進まない生駒藩は「危うい」と思っていたはずです。
讃岐を去って伊賀に帰った後の西嶋八兵衛は?

西嶋八兵衛 伊賀市
 生駒騒動が始まる前に伊賀に帰ってきた八兵衛は、正保2年頃までの5年間ほどを妻子とともに津の妻の実家である藤堂仁右衛門高経(義兄)の下屋敷で過ごしていたとされています。
 この間に、生駒藩は取りつぶしとなり、松平藩への引渡し作業が行われます。その際に、高松城や讃岐のことを熟知する人物として彼に白羽の矢が当たり、上使案内役として讃岐入りします。これが4度目の来讃となります。この時に高松城や城下町、あるいは自分の屋敷跡をどのような思いで見つめたのでしょうか。心血を注いで立て直した生駒藩がなくなったことへの思いは、いかばかりであったことでしょうか。中国の文人達ならその思いを漢詩に託して詠んだことでしょう。しかし、西嶋八兵衛が四度目の来讃で残した俳句は伝わっていません。
正保2年(1645)、八兵衛は、藩主藤堂高次のもと1000石の江戸家老加判役となります
この頃、藤堂藩支配地の伊賀や伊勢でも大干ばつに襲われ、被害も甚大になって農村の疲弊が著しくなります。高虎の跡を継いだ2代目藩主高次は、農村部の復興を目指し、正保3年(1646)に江戸より帰国します。八兵衛も共に帰国し、伊賀でための新設29池、修理14池を行ったと伝えられます。さらに、翌年からは新田開発を始めます。
 その業績を受けて、慶安元年(1648)、52歳で、城和加判奉行に任ぜられました。
これはは大和・山城に広がる藤堂藩領約5万石の支配地を預かる奉行職です。一時、伊賀奉行も拝命したようですが、52歳の慶安元年(1648)から81歳の延宝5年(1677)の引退まで約29年間、城和奉行として執務します。引退して3年経った延宝8年(1680)3月20日、亡くなります。享年84歳。
 ここからは若い時代に藤堂高虎のもとで学んだ築城術を、讃岐の地でため池の築造に活かし、その経験を晩年には、故郷の伊賀の地に還元した姿が見えてきます。
西嶋八兵衛は文人でもあり、俳句や書にも秀でて流麗な筆致を残しています。
 彼の墓は伊賀上野市紺屋町の正崇寺にありますが、脇に正五位の贈位の碑が建っている。大正四年になって香川県の上申で叙位されたようです。ちなみに八兵衛を祭った神社は香川県にはありません。彼が神となって敬われることはなかったようです。ただ、津市高茶屋の水分神社だけです。彼のことが後の讃岐では忘れられた存在となっていたことが分かります。自分の親分の政治家の銅像を建てようとするのは近代に流行になりますが「讃岐の大恩人・西嶋八兵衛」の銅像が讃岐に建てられることはなかったようです。
 満濃池を作ったのは空海と云われますが、これは「空海伝説」です。史料的に、それを裏付けるものは現在の所ありません。研究者は「空海が造ったと云われる満濃池」という言い方をします。その意味では、現在の満濃池の直接の築造者は、西嶋八兵衛に求められると云っても過言ではないように思います。しかし「空海築造」は云われても、西嶋八兵衛による再築を語る人は少ないようです。
 「そんなものだよ歴史は・・・」と八兵衛は、つぶやいているかもしれません。

参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

   

 

                    
前回は生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。それでは、これらの重臣達がどのようなプロセスを経て党争の渦中に引き込まれて行くのかを見てみましょう。
生駒騒動 関係図1
11歳で即位した4代藩主の生駒高俊を取り巻く勢力関係を、確認しておきましょう。
①「後見役」の藤堂高虎・高次の生駒藩への影響・介入
②生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)の本家(藩主)の専制政治への牽制
③譜代家臣と地元採用の讃岐侍との土地開発をめぐる対立
④生駒一門衆と家臣重臣団との権力闘争
このような思惑が渦巻く中で、若き藩主高俊は20歳を越えると、1632年(寛永9)には家中の人事を刷新し、自らの意志で藩政を行う姿勢を見せ始めます。

生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
  4代目生駒高俊
しかし藩政の意志決定は、惣奉行と譜代の重臣である生駒一族(生駒左門・生駒将監・森出羽)からなる年寄であり、今までの経過から幕府と藤堂藩の意向が強く働く人たちでした。
 このため高俊がやったことは、彼らに変わる自前のブレーンを作って自分の意見を藩政に生かすことです。そのために江戸藩邸で前野助左衛門を重用し、国元(讃岐)の年寄・惣奉行とは別の重臣層を形成していきます。しかしこれは、一つの藩に、国元と江戸屋敷の二つの政策決定機関が生まれることになります。そして、これがお決まりのお家騒動へとつながる道とつながります。

生駒藩屋敷割り図3拡大図
生駒家の重臣達の屋敷配置
 このような四代目高俊と江戸家老・前野の動きは、「後見人」の藤堂高虎とその息子の高次にとっては想定外だったようです。
藩内の家臣団の対立を視て、後見人の藤堂高次は1634年(寛永11)に、高俊に対して家中のことは何事も年寄と相談して決めるように意見しています。また、同年に前野・石崎も年寄と相談の上でなければ高俊に会わないことを誓わされています。しかし、高俊=前野・石崎体制は次第に権勢を強め、この体制で藩政が取り仕切られていくようになります。そして、彼らは藩財政の根本的な転換に着手します。
つまり、知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。以前にも紹介しましたが高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあり,
生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
など、太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたようです。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きも各地で見られるようになります。
生駒氏国人領主
生駒氏は讃岐に入ってきた際に、旧守護代の香川氏や香西氏の家臣たちを数多く採用して、支配の円滑化を図りました。
 例えば三豊の三野氏は、天霧城の香川氏の下で、多数の作人を支配していた国人領主でした。しかし、秀吉時代になっての太閤検地によって、これはひっくり返されます。太閤検地、刀狩で、土地制度は、領有制から領知制に変わります。国人侍の所領と百姓は切り離され、その土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。
  しかし、三野孫之丞は、700石もの自分開(新田開発)を行っています。三野氏の一族の中には624石の新田を持っている侍もいます。この広大な新田を、三野氏はどのようにして開いたのでしょうか。どちらにしても、生駒藩では豊臣政権以降の太閤検地に伴う土地制度改革が徹底していなかったようです。この現実は、讃岐国人層出身の侍にとっては「新田開発の自由」です。しかし、他国より所領の百姓と切り離され移り住んだ侍たちには百姓を勝手に動員できないので、自分開などできません。
 そうした中で、先ほど述べたように寛永期に入ると若い藩主の後ろ盾に前野、石崎両家老が権力を握ります。
それまでの讃岐出身の奉行層(三野氏、尾池氏等)が更迭され、新たに他国組に政権が移ります。そして、土地制度に関する抜本的な政治改革が進められます。新政権についた彼らからすれば、地侍出身者のみが可能な新田開発、お手盛りの加増は、百姓層との関係を持たない他国出身の侍にとっては「不公平で反公益」的なもので、是正しようとするのは当然です。自分開の新田開発では収穫量が増えても、藩の収益とはなりません。藩の蔵入り増にはならず、財政収入増大にはつながりません。幕命による土木事業や江戸屋敷の経営等で苦しい生駒家の財政を救うことにはならないのです。
 新たに藩政の舵取りを担うことになった前野と石崎は、藩の事業として、百姓層を主体に新田開発(知行文書で新田悪所改分と記され、百姓層の所有に帰したもの)を行い、個人による「自分開」を制限します。これは、自由に新田開発を行い知行地を増やしてきた讃岐出身の侍(かつての国人領主)や生駒氏一門衆にとっては、自分たちの利益に反するものでした。
 彼らは、太閤検地以後も、自分の知行所の百姓を使って自分開を行てきたのです。藩の新田開発は、同じ開墾でも、主体と利益者が異なります。前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。これは家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向にほかなりません。歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。
 これに対して、三野氏や山下氏など讃岐侍たちの描いていたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役するものです。つまり、時代の流れからすると「逆行」です。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択を迫るようになります。このような土地政策をめぐる対立が背後にあり、事件が起きます。

1637年(寛永14)に生駒藩の借財の肩代わりとして、前野派政権が石清尾山の松を江戸の材木屋が伐採したことを、生駒一門衆は取り上げて反撃を開始します。
その先兵となったのは、政権の座を奪われていた年寄・生駒将監の息子である生駒帯刀です。彼は江戸へ赴き、幕府老中土井利勝(高俊の義理の父)や藤堂高次などへ、前野らの所行を非難する訴えを提出します。
 この訴えに対する幕府の評議は長引き、翌年には、江戸家老の前野助左衛門が死去してしまします。このため幕府は、生駒帯刀に対して訴えを取り下げさせ、事態の収拾を図ろうとしました。この時点までは、幕府は生駒藩の存続を考えていたことが分かります。

一方、国元の讃岐では、助左衛門の息子の前野次太夫らと生駒帯刀らの対立は続いていました。
1640年(寛永17)には、前野次太夫・石崎若狭と生駒帯刀は「喧嘩両成敗」で藤堂藩に預けられることになりました。これに反発したのが前野派の家臣で、彼らのとった行動は過激でした。藩士と家族約4,000人が、5月に江戸と讃岐から立ち退くという形で「集団職場放棄」という抗議行動を起こします。この時に讃岐を去った家臣達を各大番組所属で分類したのが下のグラフになります。灰色が残留組、青色が讃岐退去組で、次のような事が云えます。
生駒騒動の残留藩士グラフ
生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)は、ほとんどが残留している。
讃岐退去者は石崎・前野・上坂組に多い。
これは、讃岐地侍衆を多く抱え、新田開発を進めていた生駒衆門派と、百姓達を使っての新田開発を行うことができない他国組(前野・石崎派)の対立の構図がうかがえます。
また、立ち退きの人数が家臣の約半数に達することは、藩主高俊=前野の政治路線に賛同していた家臣も多かったことが分かります。ここからは生駒記や講談ものに記されているような単純な「生駒帯刀忠臣説」「藩主無能説」は、成り立たないようです。
また、生駒帯刀の怖れていたことは、次の2点が考えられます。
①惣領家である藩主に権力が集中し既得権益が奪われること
②具体的には新田開発の禁止や知行制廃止
 戦国時代末期には、どんな小領主であっても所領をもつことが当たり前で、「一所懸命」こそが自らの拠りどころだった記憶が、当時の家臣達には、まだ残っていたはずです。その中で、太閤検地以後進められた武士のサラリーマン化は、堪え難いものだったのかもしれません。特に多くの知行地をもつ家臣ほど抵抗感は強かったでしょう。しかし藩主の側から見れば、これは権力専制化のため、近世の幕を開くためには避けて通れない道だったのかもしれません。
参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

 
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『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』です
この絵図の特徴は、その名の通り家臣団の屋敷がぎっしりと書き込まれた平面図であることです。外堀、内堀の内側はもちろん、外堀の南と西にも侍屋敷が続きます。侍屋敷は外堀内が108軒、外堀西が162軒で、重臣屋敷は中堀の外側に沿って配置されているのが上図から分かります
 今回はこの絵図を見ながらどんな家臣が、どこに屋敷を構えていたのかを見ていくことにします。
 外堀の内側に並ぶ屋敷を、研究者が石高で色分けしたのが下の絵図です。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
①1000石以上 オレンジ色
②500石以上   紫色
③300石以上  緑
④300石以下  黄土色
この絵図からは、次のような点が見て取れます
①中堀の外側には1000石以上の家臣団の屋敷がならび、敷地が広い。
②その姓を見ると「生駒」が多く、藩主につながる生駒一族の屋敷と思われる
③外堀の南側入口にも家禄の多い家臣の屋敷が5軒並ぶ
西嶋八兵衛の屋敷が外堀西側の入口角に見える。
もう少し詳しく生駒藩の重臣達の屋敷を見ていくことにしましょう
多くの写本がある生駒家侍帳(分限帳)には、全ての家臣団(生駒宗家の直臣)の氏名が、その役職、知行高と共に記されています。いくつかの写本中には、知行高を記した数値の横に、小さな文字で知行内に含まれる自分開の新田に関する注記もあります。これと、上の屋敷割図をリンクさせながら、重臣達の屋敷を見ていきましょう。
「生駒家侍帳」は、今で云うと家臣団名簿になります。
ここには、生駒家に仕えた百数十名の家臣団の名前があります。しかし、注意しなければならないのは、ここにある名前は「直臣」だけです。封建制度のセオリーである
「王の家臣の家臣は、王の家臣ではない」
を思い出さなければなりません。つまり、各重臣が抱える家臣は「直臣」でないので、ここには名前がでてきません。生駒時代になって讃岐の地侍達がリクルートされますが、生駒家の家臣に採用された場合が多かったようです。生駒家に直接採用されなければ、この分限帳には載っていません。大手企業と、下請け企業の社員の関係になるのかもしれません。
戦闘ユニット「大番組」にみえる生駒藩の重臣達は?
生駒藩では大番組と呼ばれる戦闘ユニットが、総知行高一万石平均で構成されていました。各ユニットの兵力は、三百人から五百人で、九つの正規ユニットがありました。予備ユニットとして三組、そして、槍隊、弓隊、鉄砲隊と、作事・普請といった工兵隊から、軍役衆が構成されていました。その大番組のユニットを見ていくことします。

生駒藩屋敷割り図3拡大図
①生駒隼人組 
四代藩主壱岐守高俊の弟、生駒隼人(通称:西ノ丸殿)のユニットです。藩主の弟ということで、屋敷は城内の西の丸にあります。他の生駒姓の屋敷よりも広さもロケーションも群を抜いているようで「家格NO1」と云えそうです。しかし、藩の実権は、生駒將監(生駒帯刀の父)が握っていました。
与力は、安藤蔵人(1000石)で、侍数26人。彼らの平均知行高は、253石。この組内には安藤氏を名乗る侍が5名いましたが、生駒騒動の際には、その全てが生駒家を去っています。そういう意味では安藤家は、反生駒帯刀派に色分けされるようです。
 生駒隼人の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しているようです。これは生駒甚介(三代藩主正俊の弟、左門の異母兄弟)から引き継いだようです。勘介は引田城主として、東讃岐を支配していましたが、大坂の陣の際に豊臣方に加勢し破れて、引田に戻ります。しかし、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。その所領を生駒隼人が引き継いだようです。
②生駒將監(生駒帯刀の父)が預かる組。
この屋敷は、中堀の南門を守る形で立地します。北側と南側の通路の両方に屋敷は面し、入口も両方に持つ構造で、特別な役割を持たされていたことが想像できます。この家はもともとは、初代親正の兄弟の創始と云われ、当時は將監、帯刀父子が家老として藩政を掌握していたようです。家格意識が高く尊大であったため譜代の家老連との対立が絶えなかったと云われます。後世の史料には
「家臣としての分を忘れ、宗家(生駒本家)を倣い、子の帯刀に至っては、その妻に大名家の姫を望んだ。この幕法をも無視した非常識極まる要求に反対した江戸家老、前野助左衛門、石崎若狭の両名は、この後、將監、帯刀父子に深く恨まれる。これが後の生駒騒動の発端となる」
と批判的に記されています。生駒騒動の発火点は、この家にあるようです。
 この組の特徴としては、次の2点が挙げられるようです。
①尾池氏、河田氏、佐藤氏、吉田氏、加藤氏、大山氏、今瀧氏など、讃岐武士が数多くリクルートされている。
②生駒騒動の際に、職務放棄して讃岐を去った立退者がいない
                ③生駒左門組(三代藩主正俊の異母弟)
私が最も興味を持っているのがこの組です。屋敷は城内の東側で中堀に面するロケーションで、敷地面積はNO3くらいでしょうか。
この屋敷は二代目一正とその側室との間に生まれた左門に与えられたものです。
  左門の母・於夏は、三豊財田の山下家出身です。そして、彼女の甥が金毘羅大権現の別当を務めるようになります。於夏は、生駒家の中に外戚・山下家の太い血脈を作り出していきます。於夏の果たした役割は想像以上に大きいようです。左門の母於夏について見ていきましょう。
  2代藩主・一正の愛した於夏とその子左門
 一正は讃岐入国後に於夏(オナツ・三野郡財田西ノ村の土豪・山下盛勝の息女)を側室として迎えます。於夏は一正の愛を受けて、男の子を産みます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになります。彼は成人して、腹違いの兄の京極家第三代の高俊に仕えることになります。
 寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり。「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。
   同時に、金毘羅大権現への保護を進めたのも於夏です。
於夏と金毘羅を結ぶ糸は、どこにあったのでしょうか?  それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
 一方、於夏の弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。  宥睨が金毘羅の院主となった慶長十八年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。そのメンバーを確認しましょう。
①一正未亡人の於夏
②藩主一正と於夏の息子で藩内NO2の石高を持つ生駒左門
  左門には、異母兄弟として生駒甚介がいたことは先ほど紹介しました。しかし、勘介が大坂の陣に参加し、敗軍の責を被り自刃した後は、左門が生駒氏一門衆筆頭となったようです。
 この組には、讃岐出身の三野氏が四人いるほか、山下権内(150石)の名があります。この人は、三野郡の財田西村に自分開の知行所を持っているので、於夏の実家の山下家に連なる人物であったことがうかがえます。また、豊田郡中田井村の香川氏とも関係が深いなど、西讃・三豊地区との関わりが見えます。他に、この組の重要な特徴として、自分開の新田1144石があることを研究者は注目しています。
於夏と一正との間に生まれた於夏の娘山里(左門の妹)について
 山里は京都の猪熊大納言公忠卿に嫁しますが、故あって懐胎したままで讃岐に帰えってきます。離縁後に讃岐で産んだ子が生駒河内で、祖父一正の養子として3160石を支給されます。つまり、左門と生駒河内は「伯父と甥」関係になります。そして、生駒河内出産後に山里は、家老の生駒将監(5071石)と再婚し、生駒帯刀の継母となります。こうして
③於夏の娘山里が離婚後に産んだ生駒河内(一正の養子)
④於夏の娘山里の再婚相手である生駒将監と、その長男・帯刀
   こうして「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀」を於夏の血脈は結びつけ、生駒氏一門衆の中に、山下氏の人脈(閨閥)を形成していきました。この血脈が大きな政治的な力を発揮することになります。その結果、もたらされたひとつが生駒家の金毘羅大権現への飛び抜けた寄進です。この背後には、於夏の血脈があると研究者は考えているようです。
  もうひとつは、讃岐の土着土豪勢力との接近・融合を進めたのが生駒左門に連なる勢力ではなかったかということです。
於夏の実家である山下氏は、この時期に新田開発を活発に行い、分家を増やしています。山下家に代表されるように、土着勢力からリクルートされた家臣達は、新たな開発を行い自分の土地とすることが生駒家では許されていたようです。この「自分開の新田」は、加増の対象となります。 そのために積極的に新田開発を行います。知行に新田(自分開)が含まれる侍は、生駒騒動の際に、讃岐を去ることはなかったと研究者は指摘します。

生駒騒動の残留藩士グラフ
 地元勢力を活用し、新田開発を積極的に行うグループと、それができないグループとの間に政策対立が起きたことは推測できます。それが後の生駒騒動につながっていくひとつの要因と研究者は考えているようです。
 ここでは土豪勢力をとりこみ、新田開発を活発に行ったのが山下家の於夏の血脈でつながる
「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀
の生駒一門衆であったことを押さえておきます。これらの派閥からは、生駒騒動の時に藩を出て行く者は、ほとんどいなかったのがグラフからも読み取れます。
次に藩を飛び出して行った重臣達を視てみましょう。
生駒藩屋敷割り図3拡大図

④前野助左衛門組
 屋敷は「屋敷割図」では前野次太夫と記され、中堀南の重臣屋敷群の一角を占めています。前野助左衛門は石崎若狭と共に江戸家老を勤めた人物です。
 前野助左衛門と石崎若狭は、生駒家の譜代ではありません。もともとは豊臣家の家臣で「殺生関白」と呼ばれた秀次の老臣・前野但馬守長泰の一門でした。秀次が秀吉の怒りに触れて自殺した時、長泰も所領を奪われて両人ともにも浪人の身となります。かねてから前野家が生駒家と親しい関係だったので、生駒家を頼って讃岐にやってきたようです。初代親正は、秀長の下で一緒に仕えた前野長泰の子息の前野助左衛門と石崎若狭を息子一正の家臣としてとりたてます。両人とも相当才気があり、勤務ぶりも忠実であったため、一正の気に入られ千石の知行をあてがわれて、さらにその子の正俊付となります。
 両人は正俊の江戸参観には供をして、諸家への使者などを勤めます。豊臣秀次の老臣であった前野家どいえば、豊臣時代にはよく知られた存在で、親しくしていた因縁があるので、どこの藩でも大事にしてくれて、諸藩と関係もそつなく果たします。
ちなみに前野の母は、織田家中で勇猛を馳せた佐々成政の妹です。また、前野の男子の内、一人は、阿波蜂須賀家に仕えています。
生駒家家臣 前野助左衛門
 生駒記などでは、前野助左衛門、石崎・若狭は、悪役を振り当てられていますが、実際のところはそうともいえないようです。例えば、各部隊ユニットを預かる大番組の高禄者たちの中で「分散知行」に徹しているのは前野助左衛門だけです。そこには彼が地方知行制から切米知行制へ切り替えを目指していた姿をうかがうことができます。藩政改革を藩主から託された前野は、国元に石崎と上坂を置き、自分は江戸家老として連携を密にしていきます。また、年寄の森出羽の息子で江戸在府の森出雲を、自らの派閥に引き入れることに成功します。こうして、生駒一門衆への対決姿勢を強めていきます。
 助左衛門亡き後は、息子治太夫が江戸詰家老職を継ぎます。代が変わっても生駒衆門派と前野派の対立は収まらず激化します。そこで、生駒帯刀は、主君高俊を動かして、石崎、前野両人を罷免する動きに出ます。罷免された両者は激怒し、一類の者をはじめ家臣あげて脱藩、離散するという「職場放棄=讃岐脱出」という集団行動にでるのです。
 生駒家では幕閣のとりなしを依頼しますが「武士団の集団職場放棄」というショッキングな行動に対して、さすがに藤堂高次、土井利勝の力量でも幕府を抑えきれません。寛永17年7月、幕府は讃岐生駒藩十七萬千八百石を取りつぶします。関係者への措置は以下の通りです。
①藩主は出羽国(秋田県)由利郡矢島へ移され、堪忍料一万石
②前野治太夫、石崎若狭は切腹。
③上坂勘解由、森出雲守両者は脱藩した家臣と共に死刑
④石崎八郎右衛門、安藤蔵人、岡村又兵衛、小野木十左衛門ら、前野氏に使えた一類の人々も徒党を組んで国を走り出た罪で、いずれも死刑。
⑤生駒帯刀は忠義の心から事を起したとはいえ、家老としての処置を誤ったという理由で出雲国(島根県)松江藩に預けられ、五十人扶持。しかし、仇討ちに遭い万治2(1659)49歳で死去。

森出雲組 
生駒一族を除くと家臣筆頭の知行(3948石)を誇る組です。
この屋敷は西浜船入(港)に面し、西門守備の要の位置にあります。森氏は生駒家譜代筆頭の家老ですが、生駒氏一門衆の家老、生駒將監、帯刀父子と対立し、生駒騒動では讃岐を退く道を選びます。
 出雲の父は出羽、妻は前野助左衛門(伊豆)の娘です。そのため出雲は、前野次太夫とは義兄弟の関係に有り、ここも血縁関係で結ばれた一族を形成します。
この組には、戦国時代に西讃岐守護代の香川氏の筆頭家老を勤めた河田氏の嫡流である河田八郎左衛門がいます。八郎左衛門も、生駒騒動では土着侍でありながら、生駒家を去る道を選んでいます。。他にも、高屋、林田、福家氏など、東讃岐守護代香西氏の家臣たちも、この組に属していたようです。この組の特徴は、所属の家臣団が、生駒氏一門衆旗下の大番組のように同一氏族に集中していないことです。いろいろな侍衆の寄せ集め的な性格のようです。
   与力は、生駒氏の縁者、大塚采女(500石)で、侍数21人で、平均知行高は267石。
⑥上坂勘解由組 
 屋敷は森出雲の隣にあたり、西浜船入と外堀の間にある西門を守るコーナーストーン的な位置にあります。上坂勘解由は、西讃の豊田郡にて2170石の一括知行地を持っていました。このような知行形態は、他にはないものでこの家の特別な存在がうかがえます。
 勘解由は、寛永四年には、三野四郎左衛門と並んで5000石を給されています。上坂氏の母国は近江で、勘解由は、遠く古代豪族の息長(おきなが)氏の系譜を引く湖北の名門出身と名乗っていました。この一族の持城の一つが琵琶湖東岸の今浜城で、後に秀吉が長浜城と改名し居城にします。 生駒騒動の時には、盟友の石崎、前野の両家老をかばって、譜代筆頭の家老、森出雲と共に生駒家を立ち退きます。上坂氏の娘は、前野次太夫の妻で、両家は婚姻関係で結ばれていました。
 上坂氏一門は、西讃岐の観音寺では、太閤与力の侍です。
与力侍とは、生駒家を監察・管理するために秀吉が配置した役職です。上坂氏の居城は観音寺殿町の高丸城(観音寺古絵図)で 、現在の一心寺周辺とされます。もともとこの城は、戦国時代の天霧城主香川信景の弟景全が、築城した居館で観音寺殿といわれていたようです。それが天正7年(1579)の長宗我部元親の侵攻の際に香川氏は無血開城し、兄弟共に土佐勢に従いました。その後は、秀吉の四国侵攻を受けて、兄弟で元親を頼り土佐に落ち延びました。
 この城は、天正15年生駒氏が讃岐守に封ぜられた時、秀吉によって1万石を割いて大阪の御蔵入の料所にあて、観音寺城が代官所にあてられました。しかし、豊臣氏の滅亡により廃城となったようです。
 家臣団構成は、森出雲組と同じように、いろいろな一族の寄せ集め的な性格です。
生駒藩屋敷割り図拡大図4

石崎若狭組 
江戸家老を勤めた石崎若狭が預かる組です。
屋敷は外堀南側に面して、大手門の守備を念頭に置いた屋敷配置がされているようです。石崎若狭は寛永四年には2500石を給されていて、1000石の前野伊豆(助左衛門)とは、家中での立場が少し違っていたようです。石崎家は、元和六年に断絶した出石の田中吉政の家中から、生駒家に移った武士達のひとつのようです。
与力は下石権左衛門(500石)。侍数19人。
 旗下侍18人の平均知行高は278石で、大番組中、最も高い。
 
浅田図書組 
知行2500石を有する浅田図書が率いる組。
 この組は、先代の右京の時代に新参家臣として取り立てられますが、大坂の陣で勲功のあった萱生兵部と対立するようになります。家臣団のほとんどは兵部に与しますが、右京は藩政の後見役である藤堂高虎の支援を取り付けて反対派に打ち勝ちます。浅田右京は、讃岐武士である三野四郎左衛門や、高虎から讃岐に派遣された西嶋八兵衛・疋田右近とともに、惣奉行(国家老に相当)を務めるようになります。この党争の中で、讃岐の小領主の流れをひく有力家臣が数人没落しました。代わって藤堂高虎の讃岐支配に同調した家臣が取り立てられることになったようです。
 しかし、この屋敷割図が作成された頃は、奉行を勤めた浅田右京は失脚し、図書が後を継いでいますが、家中の重要ポストには就けてなかったようです。
宮部右馬之丞組 
知行1998石を有する宮部右馬之丞が率いる組で大番組中、最も小さな組です。与力は、佐橋四郎右衛門(400石)。侍数は14人である。
 屋敷の割当は、郭内屋敷三軒、西浜屋敷六軒。
 旗下侍13人の平均知行高は、232石。

生駒藩の屋敷割図から生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。
講談的な「勧善懲悪」的な生駒騒動物語には、その背景に
①土地問題をめぐる政策対立
②藩主への権力集中に反発する生駒衆一門の反発
③幕府・藤堂藩の介入
などがあったことがうかがえます

参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

高松城1212スキャナー版sim

 高松城下図屏風を眺めていると新しい発見が、どこかに見つかります。そんな楽しみ方を紹介してきましたが、今日は「数量的な視点」で見ていきたいと思います。
高松屏風図2
研究者によるとこの屏風に描かれた侍屋敷数は170軒程度、
人物は1033人だそうです。それを分類すると
①刀を差した人物が388名、
②裃を着けたものが60名程度
描かれた人物の4割近くが武士で、ほとんどが南から北の縦方向に動いています。向かっているのはお城です。つまり、登城風景が描かれているようです。
女性と分かるのは84名。
そのうち48名は、頭に荷物を載せたこんな姿で描かれています。
高松城下図屏風 いただきさん
大きな屋敷の前を三人の女が頭に荷物を載せて北に向かって歩いて行きます。外堀の常磐橋を越えて連れ立って歩いて行きます。
場所は現在の三越前付近です。
さて、ここで質問です。
頭に載せて運んでいたものは何でしょうか?
頭に荷物を載せて運ぶというのは、かつては瀬戸内海の島々では普通に見られた姿でした。
彼女らが頭に載せているのは「水桶」だそうです。井戸で汲んだ水を桶に入れて、こぼさないようにそろりそろりとお得意さんまで運んでいるのです。城下町の井戸は南にありました。そのため彼女らの移動方向は南から、海に近い侍町や町屋へと北に動いているようです。男が担ぎ棒で背負っているのも水のようです。
1水桶
松平頼重の業績のひとつが城下に上水道を敷いたということです。
 当時は江戸に習って、どこの城下町にも上水道がひかれるようになっていました。しかし、高松の特長は、地下水(井戸)を飲料水として城下に引いたことです。これは日本で最初だったようです。
井戸として利用されたのは次の3つです。
「大井戸」
瓦町の近くに大井戸で、規模を小さくして復元されて残っています。
「亀井戸」
亀井の井戸と呼ばれていました。これは五番丁の交差点を少し東へ行くと、小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっています。
「今井戸」
鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥にあります。「水神社」の小さな祠があります。ビルの谷間の小さな祠です。
この3つの井戸から城下に飲料水を引きました。これが正保元年(1644年)のことです。
 高松城下図屏風は謎の多い絵図で、作成年月は記入されていませんので、いつ書かれたのかも分かりません。しかし、水桶を頭に水を運ぶ姿が書かれていることから上水道が出来る前に描かれたと考えることはできそうです。つまり、高松城下図屏風が書かれたのは1644年より以前であったという仮説は出せそうです。
高松城下の人の動きは南北が主
水桶を頭に置いて女達が南から北へ移動しているように、牛や馬を連れて農村からやってくる農民たちも、ほとんどが縦方向(南から北)の街路に沿って描かれています。 高松城下町は南北縦方向の軸が重要であったようです。
これをどう考えればよいのでしょうか。
 城下町が作られる以前の、中世に野原と呼ばれた頃から続く、港町の性質を受け継いでいるのではないかと研究者は考えているようです。その他の瀬戸内海の海に開けた城下町も南北方向の動きが主軸のようです。港町と後背地の関係が基本になっているのでしょう。それは中世・古代と変わりない構図のようにも思えます。

    
高松城下図屏風 東部(地名入り)
               高松城下図屏風 東部(クリックすると拡大します)
『高松城下図屏風』を眺めていると、海に向かってお城がむきだしのように見えます。海だけではありません。外堀の水は、兵庫町や片原町の方まで入り込んでいます。外堀と東浜船入の境には橋が架かっていますが、両者はつながっています。東舟入(港)には多くの船が入港して、大混雑しています。港を拡大して見てみましょう。
高松城下図屏風 東浜船入
この部分からは東浜船入りの次のようなことが分かります。
①港の入口は、石積みで補強されている
②東側岸壁に船番所が設置され、背後は町屋が続く
③西側岸壁には松が植えられ緑地帯となっている。
④緑地帯の背後には町屋がある。
⑤港の一番奥は橋で、橋の向こうは外堀に続いている。
⑥外堀には船の姿は見えない。外堀進入禁止?
⑦港入口の西側(右)にも船揚場がある
気になるところを見ていきましょう。まず船番所をのぞいてみましょう。
高松城下図屏風 船番所
拡大するとここまで細かく描き込まれていることが分かります。
それだけに実物を見ているといろいろなことが見えてきたり、想像・妄想したりして楽しくなります。この船番所では、入港してきた船の管理が行われていたようです。格子越に番人の姿も見えます。気になるのは、ぞの向こうの軒下に立っている女性です。やって来る船を待ているのか、常連さんを誘いに来たのか、それとも遊女なのか、・・・妄想が広がってきます。船番所の背後には、材木屋、東かこ(水夫)町の町屋が広がります。
 この船番所の下の岸壁につながれている船①も怪しいのです。
高松城下図屏風 東浜船入の船

拡大するとこんな感じです。石積みされた岸壁です。そこに浮かぶ船には、苫がけされた屋根があります。弥次喜多が金毘羅参拝道中に、大阪から乗ってきた金比羅船とよく似ています。船の後尾には「白旗」。なんの目印なんでしょうか、私には分かりません。そして、男が中央から顔出して「どうもどうも・・」という感じ。さらに舳先には横たわる女性。「私はもう寝ますよ」という風情。この船をどう理解すれば良いのでしょうか?
どう見ても漁船ではありません。金比羅船のように近隣の港を結ぶ乗合船なのでしょうか。それとも遊女船なのか。これも妄想が広がります。
次に見ておきたいのが西岸壁背後の町屋です。
高松城下図屏風 船揚場
この岸壁には松が植えられグリーンベルトのように描かれています。注目しておきたいのは、背後に町屋があることです。ここは外堀の内側に当たります。そこに町屋があるのです。ここ以外に外堀の内側に商人居住エリアは、高松城にはありません。この場所は、東が船入港、北が船揚場で回船業や問屋にとっては、絶好の立地条件です。このエリアの商人達が特権的な保護を受けていた気配があります。
最後に屏風に描かれた船揚場が、現在はどんな場所なのか行って見ることにしましょう
この図屏風には地名や道名は記されていません。そのため現在のどこに当たるのかは、すぐには分かりません。特定方法には、いろいろな方法がありますが、その一つは、他の絵地図と比べてみることです。
高松城下図屏風 北浜への道1
『高松城下図屏風』と明治の地図を、次のポイントに絞って比べてみます
緑のAの外堀の北側(下の方)のトライアングル区画
オレンジBのトライアングル区画
高松城下図屏風 船揚場への道2
二つの地図を比べると
緑のトライアングルAは西本願寺別院出張所が、。
オレンジのトライアングルBは金刀比羅神社が 
それぞれ高松城下図屏風と明治地図の両方にあるので、双方の「三区画」は、同じ場所だということになります。
そうすると矢印→①②を辿って行けば、船揚場に到着できるということになります。高松城下図屏風で、辿ってみると
高松城下図屏風 船揚場への道3
①の南から通じる道は現在のフェリー通りになります。東側の町屋の店先にはいろいろな物が並べられています。コーナー①の店は魚屋さんのようです。このあたりは、明治には魚屋町と呼ばれていたようです。ちなみに道の西側は県立ミュージアムの手前になります。①で右に曲がって、次の突き当たりを左(北)に進むと②に出ます。
高松城下図屏風 船揚場への道4
矢印②の木戸らしきものを抜けると、そこは海で「物揚場(ものあげば)」で船が係留され、木材のようなものが積まれています。

ところが、これを明治の地図で見てみると、景色が変わっています。海が埋立てられて、ピンクの船揚場だった所には、建物が建っています。その東側の通りは「北浜材木町」と記され、海際には、魚市場と神社が見えます。江戸時代には「物揚場(ものあげば)」だったところは「本町二番地」となっています。現在の地図で見てみましょう。

高松城下図屏風 船揚場への道5
ピンク部分が江戸時代の物揚場で、それが後に埋立てられ「本町二番地」という地番がつけられたようです。そして、北側に建立されたのが「えびす神社」だったということになります。現在の「北浜町」という町名も、「本町2番地」が江戸時代まではウオーターフロントだったのが、本町の「北」の「浜」を埋め立てでできた「町」なので「北浜町」と呼ばれるようになったのでしょう。
 本町の住人によると
高潮の時には、潮は北浜町を越えて上がってきていたが、「本町二番地」の手前で止まっていた
と言い伝えられているようです。「本町二番地」は、物揚場でその前は海はだったのです。そして海から運ばれてきた材木がここに下ろされていた場所だったようです。
 それでは、ここが埋め立てられたのはいつ頃のことなのでしょうか
高松城下図屏風 船揚場への道6

 元文5(1720)の「高松城下図」の東浜舟入付近の拡大図です。ここからは
①本町の北側が埋め立てられ「北濱町」「下横町」
②東浜もあらたに「地築」ができている
 高松城下図屏風から80年近く経った時点では、北側の海は埋め立てられたようです。私は明治になって埋め立てられたと思っていたので、江戸時代にもウオーターフロント開発が行われていたことは驚きでした。江戸時代から高松城下町の海への膨張は続いていたようです。
参考文献 井上正夫 「古地図で歩く香川の歴史」所収
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高松屏風図3
 高松城下図屏風には「鍛冶屋町」「紺屋町」「磨屋町」「大工町」と職種のついた町名がいくつもあります。これを見て、同じ職業の人たちを集められ住まわせる「定住政策」がとられたのだろうと思っていました。角川の地名辞典にも「それぞれの職種の「職人町」の名称に由来する」と説明されてます。
高松城下図屏風 鍛冶屋町・紺屋町
しかし、「町名=職人町起源説」に異論を唱える研究者もいます。
その理由として「高松城下図屏風」の紺屋町や鍛冶屋町を見ても、雰囲気が伝わってこないというのです。兵庫町から南へ3本目の筋に当たる「紺屋町町」を見てみましょう。ここは、以前見たように通りの南側が寺町になります。境内の周りが緑の垣根で囲まれているのが寺院群です。 一番西側(右)が法泉寺です。そして、その南に鍛冶屋町が東に伸びます。
 この二つの通りを眺めると、特徴の無い板葺屋根の家が続きます。どの家も奥に庭(家庭菜園)を持っているのが分かります。しかし、紺屋や鍛冶屋らしきの姿は見えません。家の中で作業しているので、描けなかっただけなのでしょうか。鍛冶屋なら煙突が見えてもいいはずですが・・
「紺屋町」にも、染物を干しているような姿はありません。他の町を見てみましょう。
 「古馬場」あたりには、染めた布を干している様子が見えます
高松城下図屏風 古馬場2
上の絵は高松城下図屏風の現在の古馬場あたりです。寺町の南に馬場があり、武士が「乗馬訓練」を行っています。その南には松平頼重時代になって作られた掘割が見えます。その堀の南側には、干し場があり、色々な色に染められた反物が干されているように見えます。
 ちなみにその向こうは侍町(現古馬場)ですが、家並みを見ると藩士が住んでいる家には見えません。この絵の侍町は、西側は白壁で瓦屋根の立派な屋敷が続きますが東側は、板葺きやかやぶき屋根の家並みです。東西に「格差」が見られます。
 ひとつの仮説として、もともと紺屋町にいた染め職人たちが幌割完成後に作業に必要な水路を求めてここに移動してきたという説は考えられそうです。後で検討してみましょう。今は次へ進みます。
外堀の東側の部分の瓦町の拡大図です。
高松城下図屏風 大工町2
外堀は埋め立てられ現在の瓦町商店街になっています。外堀の内側には松が植えられています。そして、外堀の外側には、ここにも反物が干されています。拡大してみると・・
高松屏風図2
私は最初は洗濯しているように思いました。しかし、今までの「状況証拠」からすると、これは反物を洗っていると考えるのが正しいようです。この付近には紺屋があったのでしょう。紺屋の「立地条件」に洗い場は必要不可欠です。洗い場として外堀や掘割が利用されていたようです。ただ、反物を洗うのは真水でなければならいないのではという疑問は残ります。だとすれば、外堀の塩分含有率は低かったのでしょうか?
さて、最初に返ります。先述したように、次のような仮説が考えられます。
仮説① 高松城ができた頃に、紺屋町・鍛冶屋町に住まわされた「紺屋」や「鍛冶屋」といった職人の集団は、松平頼重時代には「転居」した。そして、職種を示す町名だけが残った。

これに対して城下町が出来る以前の先住職業者の住居に由来するという説が出されています。この説を見ていきましょう。
高松城築城以前に「野原」という港町があったことは以前に紹介しました。少し復習しておきます。
野原・高松復元図カラー
15世紀半ばの『兵庫北関入船納帳』には、「野原」から兵庫北関に入ったに交易船がについて、例えば文安二年(1455)3月6日の日付で次のような記録があります。
  野原
   方本(潟元産の塩のこと)二百八十石  八百廿文
   三月十四日  藤三郎  孫太郎
これは、野原からの船が方本(高松市の潟元)の塩二百八十石を運び込み、船頭の藤三郎が北関に八百二十文を納めた記録です。ここからは「野原」から、畿内に向かって交易船が出航していたことと、野原に交易港があったことがわかります。
   近年の発掘調査で高松駅前付近からは、古代末から中世の護岸施設を伴う遺跡が発見され、野原が港町であったことが裏付けられています。また高松城西の丸の発掘調査からも井戸・溝・柱穴・土坑(大型の穴)等多数の遺構が確認されており、中世にはここに集落があったことが分かってきました。
高松城下図屏風 野原濱村无量壽院瓦
「野原濱村无量壽院」と銘のある瓦
特にその中でも注目すべきは「野原濱村无量壽院」(「无」は「無」の異体文字)と刻まれた瓦が出てきたことです。ここから、中世の高松駅付近の地名が「濱村」で、西の丸は「無量壽院」跡に建てられたことが分かります。もっと過激に書くと「生駒氏の高松城築城は中世の港町「野原濱村」を壊して築城」されていたと云うことになるようです。従来云われてきたように、何もない郷東川の河口に城が築かれたのではないようです。
高松野原復元図
永禄八年(1565)『さぬきの道者一円日記』(冠綴神社宮司友安盛敬氏所蔵)を見てみましょう。
この史料は、お伊勢さんからやってきた先達が残した史料です。野原とその周辺の人だちから伊勢神宮の初穂料として集めた米・銭の数量が記録されています。ある意味では集金台帳です。その中に、野原のなかくろ(中黒)という地名が出てきます。
 正藤助五郎殿 やと おひあふき 米二斗
檀家の名前と伊勢からの土産、そして集金した初穂料が記録されています。
 先ほど見た野原濱町(高松城西の丸)の集金記録もあります
高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
一  野原 はまの分 一円
 こんや(紺屋)太郎三郎殿 おひあふき(帯扇) 米二斗
     同   宗太郎殿   同  米二斗
       (中略)
 かちや(鍛冶屋)与三左衛門殿 同  米二斗
     同    五郎兵衛殿 同  代百文
伊勢神宮の先達が「集金」して回るのは、地元の有力者たちです。ここからは、野原のはま(濱)には、「紺屋」や「鍛冶屋」という人たちがいたことが分かります。
 この「こんや(紺屋)太郎三郎」と紺屋町を結びつけることが出来るのではないかと研究者は考えます。つまり「紺屋町」の地名は、染物の「職人集団」がいたからつけられたのではなく、中世から野原にいた有力商人の「こんや(紺屋)太郎三郎」が住んでいたところが「紺屋町」と呼ばれるようになったと考えるのです。
 そんな例は、よくあるようです。例えば東京の皇居の西の方にある「麹町」という地名は、そこで商売をしていた「麹屋」という商人の屋号に由来しています。そのあたりに麹屋ばかりがひしめいていたのではありません。
 「こんや(紺屋)太郎三郎」のかつての本業は染物業だったのかもしれません。しかし、多角経営で成長していくのが中世の有力者達です。彼は「野原濱村」の代表的地元有力商人で、交易業も営み船持ちだったのかもしれません。必ずしも「染物屋」だけではなかったと思います。
 以上から次のような結論が導き出せます。
①「紺屋町」は「染物屋」ばかりが建ち並ぶ染物業「専科」の職人町でなかった。
②色々な商工業者の集まる普通の町だった。
③その中に「こんや(紺屋)太郎三郎」という有力者ががいたので紺屋町と呼ばれるようになった。
「鍛冶屋町」も同じように考えられます。町の名前は、必ずしも専門職人の町を意味しないことは、他の城下町の研究からも分かってきています。

DSC02531
 しかし、城下町の東の方には、「いおのたな町(魚の棚町)」があります。ここは『高松城下図屏風』の中でも、「魚の棚」の名称どおり、ズラリと魚屋が並んでいます。ここは町名と描かれている内容が一致するようです。

参考文献 井上正夫 「古地図で歩く香川の歴史」所収
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高松城下図屏風3
県立ミュージアムにある「高松城下図屏風」の精密コピーを眺めながら、今日も高松城下を探ってみます。 
寛永19(1642)年に松平頼重が高松に入り,生駒藩は高松藩となりました。この「高松城下図屏風」が、いつ、何のために、誰によって描かれたのかについては、はっきりしません。しかし、作られたのは入部から14年後の明暦2年(1656)前後と研究者は考えているようです。
『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』と比べると、どんな変化が城下町の南には見られるのでしょうか。
高松城侍屋敷図. 生駒藩jpg
「屋敷割図」は、讃岐のため池灌漑に尽力した西嶋八兵衛の屋敷も書き込まれているので、1638年頃のものだとされています。作成目的はその表題の通り「生駒藩藩士の住宅地図」で、これを見ると、だれの屋敷がどこにあって、どのくらいの広さかすぐに分かります。この「住宅地図」で城下町南端の寺町を見てみましょう。
生駒家時代讃岐高松城屋敷割図 寺町

   南部を拡大して「中央通り」を、縦軸の座標軸として書き入れてみます。そして寺町周辺を探すと、外堀南西コーナーから県庁方面へ南に伸びる道(現在は消滅)の一番南に「けいざん寺」と書かれた広い区画が見えます。これが前回紹介した法泉寺です。当時の二代住職が恵山であったことから「けいざん寺」と呼ばれていました。
 注目したいのは、その南の三番丁にの区画に記された文字です。「寺・寺・寺・寺・寺・寺」と寺が6つ記され、現在の中央通りを超えて、お寺が並んで配置されていたことが分かります。
個別の寺院名は記されません。まあ家臣団の「住宅地図」ですから作成依頼者にとって、寺は関係なかったのかもしれません。
 ここから分かることは、生駒時代は三番丁の南に配された寺院群が南の防備ラインであり、ここで城下町は終わっていたということです。今の市役所や県庁がある場所は、当時は城外の田んぼのド真ん中だったようです。
  それから約20年近くを経て描かれた「高松城下図屏風」には、このあたりはどのように描かれているのでしょうか。
高松城下図屏風 寺町2
 高松の南部への発展は、どのように進んだのでしょうか?
高松城下図屏風を見ると、次のような事が分かります
①寺町の南に、新たに街並みが形成されている
②丸亀町の東側の「東寺町」の南には堀が出現している。
③その堀の南側にも白壁の屋敷群が立ち並んでいる。
ここから松平頼重がやった南方方面防衛構想は、
①防備ラインである寺町の南に新たに堀(水路)を通して
②堀の南に侍屋敷群を配置し
③西寺町の南に、広い境内を持つ大本寺(現四番丁小学校)や浄願寺(現市役所・中央公園)を配置。
④仏生山に法念寺造営
これらによって南方方面への防衛力を高めたと考えられます。
  高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には、この時期のことについて次のように記します。
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,
(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあります。ここからは、私は次のように推察しています。
①生駒藩時代は時代に逆行した知行制を温存したために、高松に屋敷を持つ者が少なかった。
②あるいは屋敷を持っていても、そこに住まずに知行地で生活する者が多く城下町の経済活動は停滞気味であった。
③結果として、城下町の拡張エネルギーは生まれなかった。
④また、知行制をめぐる政策対立が生駒騒動の要因のひとつと考えられる
⑤松平高松藩は検地を進め、家臣団のサラリー制を進めたので城下町に住む家臣は増え、町の膨張傾向が高まった。
そして南に向かって、六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場にも新たに侍町が整備されたようです。ちなみに三番「町」でなく、「丁」が使われているのは生駒氏のマチ割りの特色だそうです。生駒氏が関わった引田や丸亀も「丁」が使われているようです。ここから築城に独特の流儀を生駒氏は持っていたと考える研究者もいるようです。
 前回に触れた浄願寺が現在の市役所や中央公園を境内として整備されたのも、この時代のことになります。屏風図には寺町の南に大きな境内が見えます。

次に丸亀町の東の寺町(東寺町)を見てみましょう。
高松生駒氏屋敷割り 寺町2
この生駒時代の屋敷割図から見えてくることは
①瓦町から数えて南へ四本目の東西の通りの北側に寺が配置され寺町を形成。
②寺町の南側の通りは「馬場」と書かれています。
③その南の並びは「侍屋」とあります。
④しかし、馬場と侍町の間に堀割はありません。
この部分を『高松城下図屏風』と比較してみましょう。
高松城下図屏風 馬場
なんとここには本当に馬を走らせている武士の姿が描かれています。ここは「馬場」だったようです。勝法寺の南側にも数頭の馬が描かれています。その南側は堀割りで,堀割のさらに南は白壁の侍屋敷が東西に並んでいます。そして、馬場の南に堀が姿を見せています。この堀割は松平頼重時代になってから南方防衛ライン強化のために新たに作られたようです。
この馬場は、現在のどこにあったのでしょうか?
高松には「古馬場」という地名があります。古馬場といってすぐに連想するのは、私は「飲み屋街」の風景です。このあたりで武士達が乗馬訓練を行っていたのです。ならば馬場跡は、古馬場にどんな形で残っているのか探ってみましょう。
「北古馬場」と「南古馬場」の通りを見ていくことにします
高松古馬場 現在
 現在の「南古馬場」の通りは丸亀町をはさんで、その西側の道とは、まっすぐにはつながっていません。よく見ると、「丸亀町」のところで①のように「ズレ」ているのが地図から分かります。
高松古馬場 明治
明治四十二年の『高松市街全図』にもおなじようにな①の小さな「ズレ」は、見ることができます。そして①の町名は「古馬場町」と記されています。
高松城下図屏風 古馬場
丸亀町の「ズレ」に着目して『高松城下図屏風』を見ると、①の堀の南の東西の通りがやはり「ズレ」ています。ここから現在の南古馬場の通りが①の侍町南側の道であるようです。だとすれば、生駒時代は、ここが高松城下の最南端だったので、南古馬場は『高松城最南端通り」と呼ぶことも出来そうです。
同じような要領で北古馬場について探ってみましょう
②の堀に面した南側の道は、丸亀町のところで、突き当たりになっています。これは明治42年の『高松市街全図』の「北古馬場」と同じです。ここから②の道は、現在の「北古馬場」の通りだと分かります。
 現在の「北古馬場」の通りの北側の店の並びは「堀(水路)」、そして、水路を埋め立ててできたのが、今の「北古馬場」の飲食街の「北側」の店並びということでしょうか。
 馬を走らせていた馬場は、堀の北側でした。ということは現在の古馬場地区一帯というのは、「馬を走らせている場所」の南側の地帯で、「堀の南の侍町」になります。以上から「図屏風』の中の「馬を走らせている場所」は、現在のヨンデンプラザの東あたりと研究者は考えているようです。
さて、この馬場はいつ消えたのでしょうか?
享保年間の「高松城下図」には、勝法寺の南方に東西に並ぶ侍屋敷は見えますが,馬場はなくなっています。そして、馬場の北側にあった勝法寺が南部に寺域を広げ,御坊町も南部に拡大しています。そして「高松城下図」では,馬場は浄願寺の西に移動しています。有力寺院の拡大によって、馬場は境内に取り込まれていったようです。
高松城絵図9
 元文5年の「高松地図」には、それまで掘割の南側にあった侍町がなくなっています。代わって古馬場町と名付けられ町人町となっています。これについて「小神野夜話』は、この理由を次のように記します。
「今之古馬場勝法寺南片輪,安養寺より西の木戸迄侍屋敷本町両輪,北片輪之有候処、享保九辰,十巳・十一午年御家中御人減り之節,此三輪之侍屋敷皆々番町へ引け跡は御払地に相成,町屋と相成申候,享保十一,二之比と覚え申候,本町之南輪には,鈴木助右衛門・小倉勘右衛門・岡田藤左衛門・間宮武右衛門,外に家一二軒も有之候処覚候得共,幼年の節の義故,詳には覚不申候,北輪は笠井喜左衛門・三枝平太夫・鵜殿長左衛門・河合平兵衛。北之片輪には栗田佐左衛門・佐野理右衛門・飯野覚之丞・赤木安右衛門・青木嘉内等、凡右の通居申候,明和九辰年迄,右屋敷引五十年に相成候由,佐野宜休物語に御座候」
ここからは以下のようなことが分かります。
①享保11(1726)年頃に,御家人が減ったので,勝法寺に南側にあった侍屋敷は番町へ移した。
②その跡は払い下げて町屋となり古馬場町と呼ばれるようになった。
ちまり古馬場は、もとは侍屋敷街だったのが、享保年間に払い下げられ町人町となったようです。かつて武士達が馬を走らせていた馬場は乗馬訓練していた空間は、四国有数の夜の繁華街になっています。

参考文献 井上正夫 「
古地図で歩く香川の歴史」所収



高松屏風図3
    
  今回は「高松城下図屏風」の中の寺町を見ていきたいと思います。
外堀南側から真っ直ぐに南に伸びる丸亀町通りからは東西に、いくつかの町筋が伸びています。西側には、兵庫町,古新町,磨屋(ときや)町,紺屋(こうや)町が見えます。一方東側には、かたはら町,百聞町,大工町,小人町が続きます。城下町は南に向かって伸びていたことが屏風図から分かります。
「生駒家時代高松城屋敷割図』には、南の端に三番丁が描かれています。その頃の高松城下町は、法泉寺の南の筋あたりが城下町の南端でした。今の市役所や県庁がある場所は、当時は城外の田んぼのド真ん中だったようです。
 高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあり,
①生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
と記されています。三番丁あたりまでだった街並みが、六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場にも新たに侍町が開けたようです。
高松城下図屏風 寺町
 外堀の西南コーナーの「斜めの道」を南に進みます。この道は丸亀町通りと並行して南に伸びる「3本目」の道なので仮に「3本目」道と呼んでおきます。この道を南に行くと、その先に緑の垣根に囲まれた区画が見えてきます。ここが三番丁の寺町エリアのようです。拡大してみ見ましょう。
高松寺町3
寺町の一番西が法泉寺で、そこから東にお寺が東に向けて建ち並びます。その南が東福寺です。四番丁小学校は大本寺の跡に建っています。さらにその南の市役所は浄願寺跡だったところになるようです。
寺町の寺院群を江戸末期の絵図で見てみましょう。
1高松 寺町2
おきな本堂と伽藍、広い境内を持った寺院群が並んでいます。
高松城下図屏風では西から宝泉寺・行徳院、地蔵寺、正覚寺・
その南に東福寺・大本寺などが建ち並び南方の防備ラインを形成します。
1高松寺町1
さらに東には、徳成寺・善昌寺・本典寺・妙朝寺の4寺が並びます。この寺の並びの南側が寺町、その東側は加治屋町と記されています。この絵図では、方角や位置が分かりません。そんな時は明治の地図と比べてみると、見えてくるときがあります。
  「明治28年高松市街明細全圖」で寺町を見てみましょう
高松市街明細全圖明治28年
地図をクリックすると拡大します
日清戦争が終わった年に作られた市街図からは、次のようなことが分かります
①高松城の外堀は、まだ健在
②丸亀通り北の常盤橋を渡った突き当たりが県庁だった。隣は今と同じ裁判所。
紺屋町と三番丁の間に寺町は形成されていた。
④明治になっても街並みや道路に大きな変化はない。
⑤寺町の一番西の法泉寺の境内が飛び抜けて広い。ここに山田郡の郡役所が置かれ、マッチ製造所も見える。
大本寺の元境内に4番丁小学校ができている。
⑦地図上の南西角に高等女学校(現在の高松高校)
⑧現在の中央公園は浄願寺の境内であった
⑧丸亀町通りの東側にも寺町があった。その南が古馬場町である。
それから約30年後の大正12年の高松市街図です。
高松市街地図 大正
①法泉寺前を通る赤い実線は路面電車の線路。停留所「法泉寺前」が設置された
②寺町の各寺院境内の北側が一律に狭くなっている。(原因不明)
③四番丁小学校の南の浄願寺に市役所ができた
④市役所の南の浄願寺境内に高等小学校が出来た。現在の中央公園
⑤市役所の東の北亀井町の「尚武会」は意味不明
寺町のお寺の中でも最も広い境内を持つのが宝泉寺でした。
高松宝泉寺 お釈迦

このお寺は、弘憲寺と共に生駒家の菩提寺で、宇多津から高松城築城時にここに移されます。二代目一正と三代目正俊の墓所となり、寺名も三代目正俊の戒名である法泉に改められます。しかし当時は、二代住職が恵山であったことから人々は「けいざん寺」と呼んでいたようです。
高松宝泉寺鐘
生駒氏の菩提寺であることを物語るもののひとつに鐘があります
文禄の役(西暦1592年)に朝鮮に出陣した時、陣鐘として持参し、帰国後、この寺に寄進したと伝えられるものです。
 高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』には、この鐘について次のように紹介されています。
この銅鐘は、総高87センチ、口径53センチ、厚さ5.5センチ、乳(ちち)は4段4列の小振りの銅鐘である。もと備前国金岡庄(岡山県岡山市西大寺)窪八幡にあったもので、次の銘が刻まれている。
「鎌倉時代の元徳(げんとく)2年(西暦1330年)の青陽すなわち正月に、神主藤井弘清と沙弥尼道証の子孫が願主となり、吉岡庄(金岡庄の北方)の庄園の管理人である政所が合力し、諸方十方の庶民が檀那(だんな)となって銅類物をそえ、大工(鋳物師)宗連(むねつら)以下がこれを鋳た」

 生駒氏は讃岐にやって来る前は、播磨赤穂領主で備前での戦いにも参加していました。その時の「戦利品」を陣鐘として使っていたのかもしれません。「天下泰平」の時代がやって来て、菩提寺に寄進したのでしょう。どちらにしてもこの寺は、生駒氏からさまざまな保護を受けていたようです。それは、明治には山田郡の郡役所も設置されるほどの広大な境内を持っていたことが地図からも分かります。
4343291-05宝泉寺
宝泉寺(大きな松で有名だった)
日露戦争後には香川県出身将兵の忠魂碑として釈迦像が建立され「法泉寺のおしゃかさん」として市民にも親しまれていました。
当時の地図には境内に「釈迦尊像」と記されています。また、第一次世界大戦中の1917年(大正6年)5月20日に開通した路面電車がこの寺の前を通り、停留所「法泉寺前」も設置されています。
 このお寺に大きな試練が訪れるのは第2次世界大戦末期です。1945年(昭和20年)7月4日未明の「高松空襲」で、ほとんどが焼失します。
高松宝泉寺釈迦像

南門は必死の消火活動で残ったようです。忠魂碑として建てられた大きな釈迦像も奇跡的に被弾せず無傷で残りました。海まで見える焼け野原となった高松市内で「法泉寺のおしゃかさん」は、どこからも見えて、その変わらぬ姿は市民の心のよりどころになったといいます。
高松宝泉寺 門
 戦後の都市整備計画の区画整理は、この寺に大きな犠牲が迫ります。広い境内は「県庁前通り」と「美術館通り」で四分割されました。そのため釈迦像や生駒廟と共に本堂は約70㍍東の現在地へ移転し、再建されました。現在の境内は、往時から比べると大幅に縮小しています。
 その他のお寺も従来の場所での再建を諦め、他所に移って行くもの、境内を縮小し再建費を工面するものなど、存続のためのための苦労があったようです。
 法泉寺の東側にあった道は、『高松城下図屏風』の中では、中央の丸亀町の通りから数えて西へ三本目の南北の通りです。そのまま北に進むとお城の外堀の西側の「斜め道」に出て、西浜船入(港)に通じていました。この通りは、今では宅地になって消えてしまいました。しかし、法泉寺より南側の部分、つまり東福寺と四番丁小学校の間だけは残りました。四番丁小学校の西側の道路は、四百年前のままの位置にあるようです。
 もうひとつ気になるお寺が 浄願寺(じょうがんじ)です。
高松浄願寺
中央公園の中にある浄願寺の記念碑
この寺も法泉寺と同じように生駒氏が宇多津から高松へ引き抜いてきたお寺です。高松を城下町にしていくためには、文化水準の高かった当時の宇多津からいくつかの寺院を移さなければ、城下町としての体裁が整わなかったようです。丸亀から町人を「連行」したのも「城下町育成」にとって必須の措置と当時の政策担当者は考えていたようです。
4343290-27浄願寺
浄願寺
 浄願寺はもともとは、室町時代中期に宇多津に創建された寺でしたが、生駒親正が高松城築城時に高松に移します。しかし、その後火災で全焼していまいます。それを救ったのが、高松藩初代藩主として水戸から入封した松平頼重です。頼重は、高松藩主の菩提寺として再興しますが、その際に五番丁に土地が与えられました。以後は隆盛を極め、広い境内に伽藍がひしめく状態だったようです。
 明治になると高等小学校が境内の南にできます。ここには菊池寛が通学していたようです。さらに日清戦争後の1899年(明治32年)には、高松市役所が北古馬場町(現・御坊町)の福善寺から境内の北側へ移ってきます。つまり、現在の高松市役所と中央公園が浄願寺の境内だったということになります。
 この寺にも高松空襲は襲いかかります。戦後は、番町二丁目に移動して再建されました。ちなみに、中央公園には、浄願寺跡地の石碑と浄願寺ゆかりの禿狸の像があります。
高松城下町イラスト

 寺町について見てきましたが「高松城下図屏風」には、寺町の南には堀が描かれています。これも寺町を城下町高松の南の防備ラインと考えていたことを補強するものです。いざというときには、藩士達には集合し、防備する寺院も割和えられていたのかもしれません。しかし、その堀も後には埋め立てられて「馬場」となったとも云われます。次回はその「古馬場」についてみていきます。
参考文献 井上正夫 むかしそのまま 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収




高松城122スキャナー版sim
『高松城下図屏風』
『高松城下図屏風』は高松藩初代藩主が作らせたと云われる屏風図です。江戸屋敷に置かれて、高松に馴染みのない江戸詰の藩士たちと政策協議する際の史料としても使われたと私は妄想しています。この屏風の精巧なコピーは県立ミュージアムにもありますが、まずその大きさに驚かされます。
高松屏風図2
次に、その精巧さです。道並み、街並みがしっかりと描きこまれ、屋敷の主である藩士名まで分かります。寺院の本堂の位置や塀の形まで描かれています。さらに目をこらすと道行く人たちや外堀で洗濯(?)している女(?)まで見えてきます。

この屏風図に描かれた高松の町が今はどうなっているのかを何回かに分けて探ってみたいと思います。その手始めに高松城下町の「座標軸」をつかんでおくためのトレーニング・クイズです。
設問1 屏風図上に、次のストリートを書き入れなさい。
①丸亀通り
②中央通り
③兵庫町通り
④瀬戸大橋通り
⑤フェリー通り
ちなみに、①以外の通りは江戸時代にはなく、後世に姿を見せた物ですから屏風図には書き込まれていません。そういう意味では難易度はかなり高いクイズです。
高松屏風図4

答えは屏風図を参考に、見ていきましょう。(クリックすると拡大します)
①の丸亀町通りは、外堀の架かっている常磐橋が起点になります。
1高松城 外堀と常盤橋

その橋を渡って真っ直ぐに南の方(屏風では上の方)に伸びているの赤く囲んだのが丸亀町です。この町は、その名の通り生駒氏が丸亀城を廃城にした際に、保護を与えて丸亀から連れてきて住まわせた商人が住んだ町と云われます。位置的には4百年前と変わっていないようです。
高松屏風図3
中央通りは、この位置になるようです。
  丸亀町通りから数えて南に延びる道の1本目と2本目の間を抜けていきます。兵庫町通りを真っ二つに分断して作られたことがよく分かります。中央通りは高松大空襲で焼け野原になった後、戦後の整備計画で、都市の基軸線として姿を現しました。
なぜ丸亀通りを中央通りにしなかったのでしょうか?
  それは高松城との関係があったからでしょう。もし丸亀通りを「中央通り」とすると、上の地図でも分かるとおり高松城の核心部を突き抜けていくルートになります。そうなれば高松城は大きなダメージを受けたでしょう。もう一つは、高松駅と港を起点した都市整備が考えられたためだと思います。中央通りは、内堀の西側を通って駅や港に通じるように設計されました。高松城にとって影響が一番少ない形でした。
1 高松城4pg
③の兵庫町通りには、以前お話ししたように外堀を埋めた後に作られたました。
外堀は現在の姿は次のようになっています。
南側は片原町商店街
北側が兵庫町商店街
1 高松城54pg
この地図の⑤の中央通り沿いの発掘調査で、堀跡が確認されています。片原町商店街の東端と東浜港を結ぶラインと、③兵庫町商店街の西端からJR高松駅方面に伸びる斜めの地割が、それぞれ東西の外堀にあたると考えられます。

DSC03617
③の斜めに伸びる西側の外堀が気になります。
以前私は、外堀は「東西の船入(浜港)とつながっていた」と書きました。確かに、東側は直角に曲がって東浜船入を通じて海につながっています。西側は西北に向かって斜めに伸びています。しかし、よく見ると西側の外堀と西浜船入(港)とはつながっていないのが分かります。どうしてなのでしょうか。つながらせると潮の満ち引きの影響を受けて外堀に流れが生じ「運河」として、使いにくくなるからだと今は勝手に解釈しています。

高松城外堀西側
さて、外堀部分(斜め道)の「今」は、どうなっているのでしょうか
香川県警北署の西約百メートルにゼネラルのガソリンスタンドがあります。高松駅から県庁方面に向かう人たちは、この前の「県庁前通り」を南進していきます。グーグル地図で見ると、このガソリンスタンドを起点に、スタンドを挟むように両脇から「斜めの道」が2本南南東に伸びています。なんでこんなに隣接したところに2本の道が必要なの?と疑問に思う道です。
1 高松城 外堀と西浜

手前が西浜船入で向側は外堀跡の斜め道
 これが外堀跡の現在の姿なのです。
堀だった両側の一部が細い道となり、その中には住宅やビルが建ってしまったようです。ここが外堀の西の終点だったとすれば、ここから高松駅にかけては西浜船入りの港があり、多くの船が出入りしていた場所なのです。
DSC03618
そしてお城の西口でもあったのです。そこを今は瀬戸大橋通りが東西に走り抜けています。

1 高松城 外堀と西浜
西浜船入と外堀の最終地点

参考文献 井上正夫 高松の「ヘンな道」 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収

   

 

   
坂出風景1
「坂出墾田図」
今から約190年前の文政12年(1829年)坂出塩田が3年余の月日と久米通賢の辛苦によって完成します。これを記念して藩主松平頼恕は「坂出墾田碑」を建立します。建てられた場所は新たに開かれた塩田の境で、墾田地の東西中央にあたる天神社境内です。絵図の中央に白く輝く石碑がそれです。同時に広がる塩田光景も記念に描かれました。それがこの絵図になります。

坂出墾田図.2jpg
 この絵を見ると遠くに瀬戸内海と沖の島々、そして手前に広がる塩田、そして塩田の間には塩を運び出すための運河と船が描かれています。運河の入口には灯台の役割を果たす常夜灯も描かれています。ここが後の坂出港の入口になっていくのでしょうか。
 そして、一番手前に東西に伸びる当時としては広い街道と、そこを行き交う人々や大八車を押す人まで描かれています。高松ー宇多津街道なのでしょう。
 視点を少し変えると塩田を消した地点までは、この時までは海だったということになります。改めて、現在の坂出がかつての海を埋め立てた場所に立地していることが分かります。
坂出墾田図
もう少し絵をアップで見てみましょう(クッリクで拡大します)
 左下部分には家が密集し集落が形成されています。その家の並びは、左下から石碑のある右上中央の方向へと伸びています。そして、家並みは運河を越えてさらに北東へと「斜め」に伸びています。この家の並び方向は、運河や塩田の堤防の方位軸は違う方向になります。これを便宜上「斜め道」とよぶことにします。

坂出墾田碑23

天神社境内にある坂出墾田碑
この絵図に描かれているのは、坂出のどのあたりなのでしょうか?
『阪出墾田図』の中心部には、白く輝くように大きな「坂出墾田碑」が描かれています。この石碑は、坂出商工会議所の東の天満宮に今も建っています。そのために、この位置が特定でき次のような事が分かります。
①石碑の前の東西に伸びる運河が埋め立てられ現在の旧国道11号になる。
②石碑の下の方(南)に描かれている広い道は、現在の京町商店街から元町のアーケードに続く東西の道の二百年前の姿である。
 
坂出斜め道1

「斜め道」は現在の地図では、どのあたりになるのでしょうか?
絵図で集落が並ぶかまぼこ形の微髙地「斜め道」は、現在の地図では、
八幡神社→ 白金町→ 寿町 → 本町 → 元町
と続き、坂出駅前から北への通り、つまり「坂出停車場線」のところでいったん途切れます。京町には微髙地はありません。しかし、延長線上には「潮止神社」があり、その神社裏へと続く細い道と、つながります。ここからは、今の「潮止神社」の裏へへと元町からの「斜め道」は続いていたようです。

坂出潮止神社

微髙地上にある潮止神社
「斜め道」沿いに民家が建ち並んでいたのはどうしてでしょうか?
それは「斜め道」が海岸線背後の微髙地であったからだと研究者は考えているようです。塩田完成後も、海水が引き込まれる周辺の塩田よりも「少しだけ高い」場所なのです。そのカマボコ型の地形の上に家が並んで建てられたようです。そのため「斜め道」は、周辺に対して少し凸型になっていることが今でも視認できます。
  戦後になって瀬戸内海から塩田は姿を消しました。海辺にあった塩田は工業用地になったり、宇多津のように宅地化し、道路がタテヨコに真っ直ぐと「スッキリ」した姿に変身しました。坂出も同じような歩みを見せました。しかし、坂出の「斜め道」の痕跡は残り、周りとの違いが際立つことになりました。隠れていた歴史があぶり出されたのかもしれません。
坂出近世海岸線復元図

 この「カマボコ型の微髙地=斜め道」の果たした役割は?
 かつての坂出の海岸線は、坂出駅よりさらに南まで入り込んでいたと云われます。現在では山の麓になっている場所に、「福江」とか「新浜」というかつての湊を示す地名が残っていることからもうかがえます。また地元では、坂出高校の北側の道筋が昔の海岸線で、附属小学校の前を通りさらに北西方向に伸びている道が、その昔の海岸線の延長だと言い伝えられているようです。今の地図で見ると、その道(上の地図の青線)は途中から北上して、問題の「斜め地帯」の根元につながっていきます。
 昔の入江(湊)と「斜め地帯」との関係は?
「斜め地帯」は、坂出に塩田が開かれる以前の突堤ではないかと考える研究者もいます。聖通寺山方面から伸びてきた「微髙地=斜め道」は、天神社の南まで続き、そこで途切れて潮止神社からまた姿を現します。この突堤に守られたのが福江湊ということになります。
 それでは、この突堤はいつ頃出来たのでしょうか? 
これは人工的なものではなく潮の流れで自然にでき上がった「中州」の微髙地で、古代に遡ると考古学者たちは考えているようです。この微髙地の背後に潟湖的な入江があった可能性があります。
3坂出湾2
福江湊とされる文京町の遺跡と当時の海岸線
  以前、坂出の福江湊のことを「坂出の福江湊は、綾氏の鵜足郡進出の拠点だった?」で次のように紹介しました。
  福江湊について、発掘調査報告書は「福江の景観復元」を次のように述べます
「角山北東麓から西に伸びる浜堤げ前縁を縄文海進時の海岸線とし、以後の陸地化も遅く、古代にも浅海が広がる景観
であったこと
 海岸線沿いの微髙地である浜堤には文京町二丁目遺跡と文京町二丁目西遺跡があります。文京町二丁目遺跡からは7世紀前葉以降の製塩土器と製塩炉や8世紀の須恵器も出土しているようです。文京町二丁目西遺跡では、8世紀中~後葉を中心とする土器や、畿内産の9世紀の緑粕陶器や中世後半までの土器、さらに多量の飯蛸壷が出土しています。飯蛸壷漁が行われていたのでしょう。ここからは東西を山に挟まれて北向きに湾入する復元景観も含めて考えれば、8世紀中葉以降には港湾機能をもった集落があったと研究者は考えているようです。それは、『綾氏系図』にも[福江湊浦]と記されているので、これを書いた作者は福江を港として認識していたことと符合します。
史料としては時代が下りますが『玉藻集』(延宝5年、1677)に天正7年(1579)、
香川民部少輔が宇多津に着いて、そこから居城の西庄城に帰るくだりがあり、「中道」と呼ばれる海側の浜堤を、潮がひいていたのでなんとか渡ることができたこと、「中道」と陸地側の浜堤Aとの間が足も立たない「深江」である
ことが記されています。
この「深江」が「微髙地=突堤」が途切れる所で、入江への入口となっていたのではないでしょうか。
坂出墾田

   以上をまとめると次のようなことが類推できます。
①古代において文京町2丁目あたりが海岸線で、7世紀後半には「浜堤A」の微髙地に集落が形成されていたこと
②浜堤A上には漁労営む集落が形成され、後には交易活動も展開していたこと
③これの港湾施設(福江湊)が讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話の重要なステージであること
④福江湊を拠点に綾氏は、川津方面に進出し大束川流域に勢力圏を拡大したこと
⑤戦国時代末期には、浜堤に「中道」が通っていたが、浜堤が途切れていて干潮時でないと通行不可だったこと。
⑥浜堤が途切れたところがあり、入江の入口のようなところがあったこと。
坂出墾田図.233jpg
  こんなことを頭に入れてもう一度「坂出墾田図」を見てみると、坂出も町は坂出湾の奥深くの港町からスタートし、海を埋め立て海に向かって発展していったことが改めて分かります。

     参考文献 井上正夫 坂出の斜め地帯 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

           
丸亀絵図5
『讃岐国丸亀絵図』(正保年間一六四四~一六四八年)です。
この城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させたものです。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。その他にも城下の町割・山川の位置・形も載されています。丸亀藩も幕府の命を受けてこの絵図を提出したと思われます。原図サイズは、東西217cm×南北255cmとかなり大きなものです。
  この絵図を見ていると私には分からないことがいくつもあるのですが、それは今は置いておいて基本的なことを確認しておきます。
①丸亀城下町は北に開ける瀬戸内海を意識した城造りがされている。そのため町割りも北には伸びているが東・西は外堀の外は田んぼや畑が広がっていた。
②西側には西南に延びる金毘羅街道沿いに市街位置が形成されている。
③外堀と汐入川を結ぶ運河は、現在の北向地蔵菩薩堂の所で直角に曲がり、城乾小学校の西側を通って汐入川とつながっていた
④汐入川河口は西から東に流れ現在の港公園付近を経由して海に流れ出ていた。
以前に、丸亀駅の北側は汐入川の河口で、その向こうには長い中洲があったこと、そこに人が住むようになり町になり、金比羅船が着く港が作られ大いに繁栄するようになったことをお話ししました。この上の地図では河口の右手(西側)の砂州にあたります。
今回は上(南)に向かって、城の方へ真っ直ぐに伸びている「運河」(水路)について見てみましょう。
この『讃岐国丸亀絵図』には「船入」書かれていることから城下町の奥深くまで船が入りこめるように、運河のような港がつくられていたようです。
丸亀市実測図明治
この「船入運河」は、現在のどこにあったのでしょうか? 
この絵図だけ見ていては分からないので、明治34年の『香川県丸亀市実測全図』と比べてみましょう.。明治34年と云えば日露戦争直前で善通寺に11師団が設立された直後になります。現在の東中学校や大手前高校、消防署・警察署丸亀城には、丸亀連隊が置かれ
明治天皇も視察に訪れたりしています。城の東側(労災病院周辺)には、広大な練兵場があったことが分かります。また、丸亀から高松への鉄道も開通し、丸亀駅も現在地点に移転しているので、江戸時代と現在を比較する際の「座標軸」の役割を果たしていくれるので私は重宝しています。
この地図で注目したいのは次の3点です
①汐入川は丸亀駅のすぐ裏を西から東に流れている
②東に流れる汐入川が直角に流れを返るあたりから南(上)が埋めたてられて「船入運河」が姿を消している
③埋め立てられた上を高松行きの鉄道が通っている。
丸亀市が西汐入川の附け替えと港湾の大改修に着手するのは、日露戦争後のことです。この時点では汐入川は江戸時代と同じ流路でした。
  この地図から推察できるのは、埋め立てられた「船入運河」が流路を東から北にかえるポイントの南への延長線上にあるということでしょうか。17世紀と20世紀の地図を拡大して比較してみると次のようになるようです。
丸亀実測図拡大版
この『香川県丸亀市実測全図』では「船入運河」の細長い港は線路より南(上)は埋め立てられています。その埋められた部分が、この地図でどこに当たるのでしょうか。ふたつの地図を眺めてみると現在の本町通りあたりまでが、埋め立てられた部分になりそうです。
丸亀城下町比較地図1
 現地調査を行って見ましょう。
線路上に「停車場」とあるのが丸亀駅です。駅前の本町通りに百十四銀行支店と記されています。現在はここには、ホテルアルファーワンが建っています。その西通は富屋通りで、南へ行くと妙法寺方面です。この通りは今でも健在です。さて、めざすホテルの東側の通りに入っていきます。はすかいの十字路を越えて丸亀市の商店会連合会事務局の前をなおも進むと、突き当たりになります。そして、左折(東)方向にしか進めない「L字道」になっています。

丸亀福島・新堀
手前左が新堀港・右が福島港 城方向に真っ直ぐ「船入運河」が伸びている
丸亀新堀湛甫3
上の拡大図

 そして、東に進むと、すぐに通町商店街に出て、そこで再び突き当たりとなってしまいます。その突き当たりからさらに東の松屋町の方へ進もうとすると、いったん右折してから、すぐに次の角で左折するというルートをたどらなければなりません。城下町として整然と区画された町割りの中で、この「L字道」は少し「ヘン」です。「地図上の比較 + 現地調査」の結果から「このL字道は、船入運河(港)の終点のコーナーであった」という結論が引き出せそうです。
2丸亀地形図
 江戸時代は、本通りの「ラーメンきらく」あたりまで港が入り込んでいたようです。明治になって鉄道が高松に伸びる頃になって、港の奥が埋め立てられ、本町通りは東に延びて通町で松屋町の方につながりました。しかし、運河によって隔てられていたために埋め立てた後に、本町通りは通町のところで突き当たって、そこから先は道が作られなかったということになります。

丸亀新堀1
 通町の真ん中あたりまで運河が入り込んで、船が出入りしていたということは新鮮な驚きです。満潮になると底の浅い川船に積み替えられた荷物が運ばれてきて、ここから荷揚げされていた光景がかつては見られたのかもしれません。
 丸亀も瀬戸の城下町として目の前の海に向かって開かれた町であり、直接に城下町の真ん中まで船が入ってくることの出来る港湾施設があったようです。

参考文献 井上正夫 丸亀本町通りの東はし 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収

 

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  金毘羅船々
  追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
  廻れば四国は
  讃州那珂郡象頭山 金毘羅大権現
  一度廻れば

この歌が生まれたのは、大阪と地元のこんぴらさんのどちらかはっきりとしないようです。資料的にたどれるのは金毘羅説です。しかし、各地から金毘羅参詣客が集い、そして舟に乗って一路丸亀に向け旅立ってゆく金毘羅船の船頭が歌ったという話には、つい納得してしまいます。
しかし、実際には
   追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
とは船は進まなかったようです。
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西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」
といった記述がみられます。
さらには、高砂から乗船しながら
「四日ハッ時頃迄殊之外逆風二付、牛まど村江舟右上り」
と、
逆風のために船が進まず、途中の牛窓で舟をおりて陸路を下村まで行き、そこから丸亀へ再び海を渡ったこともあったようです。この際に
「四百八拾文舟銭。剰返請取。金ひら参詣ニハ決而舟二のるべからず
と船賃の残額も返してくれなかったようで大いに憤慨しています。
追い風に風を受けてしゅらシュシュであって、向かい風にはどうしようもなかったようです。
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大坂から乗船したケースも見ておきましょう。
道頓堀の大和屋弥三郎から乗船した金比羅船の場合です。
「六日朝南風にて出帆できず、是より舟を上り、大和屋迄舟賃を取返しに行
と道中記に記されています。大阪湾から南風が吹かれたのでは、船は出せません。船賃を取り返し、陸路を進む以外になく、備前片上
から丸亀に渡っています。瀬戸内海でも、いったん風が出て海が荒れれば、船になれない人たちにとっては生きた心地がしなかったようです。
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陸路中心の当時の旅において、金比羅船は「瀬戸内海クルージング」が経験できる金毘羅参詣の目玉だったようですが、楽な反面「危険」は常に感じていたようです。少し大げさに言うと、危険きわまりない舟旅を無事終えて金毘羅参詣を果たせたのだという思いが、航海守護の神としての金毘羅信仰をより深くさせたのかもしれません。
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 金毘羅舟が着く讃岐・丸亀港の近くに玉積神社(玉積社)が鎮座します。この神社は
「天保年間新堀堪甫築造の際の剰土を盛りたる所に丸亀藩大坂蔵屋敷に祀りありし神社を奉遷した」
と伝わります。『讃州丸亀平山海上永代常夜燈講』という表題を持つ寄付募集帳には、
「御加入の御方様御姓名相印し置き、家運長久の祈願、丹誠を抽で、月々丸亀祈祷所に於て執行仕り候間、彼地御参詣の節は、私共方へ御出で下さるべく候。右御祈禧所へ御案内仕り、御札守差し申すべく候」
とあって、この神社が「丸亀祈祷所」と呼ばれていたことが分かります。
この玉積社は、なぜ丸亀港の直ぐ近くに鎮座するのでしょうか?
それは、金毘羅詣での参詣者が無事丸亀に上陸できたことを感謝し、そして金毘羅参詣を終えた人々が再び乗船するに際して舟旅の安全を祈る、そんな役割を担っていたのかもしれません。同じ役割を持った神社が大阪にもあります。
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 今は韓国や中国からやってくる観光客にとって人気NO1の大坂道頓堀の近くには法善寺があります。狭い法善寺横町を抜けていくと現れるこのお寺には今でも金毘羅が祀られています。
江戸時代に法善寺の鎮守堂再建の際に「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつけられています。金毘羅大権現の「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。どちらにしても、法善寺が金毘羅神を祀っていたのは間違いないようです。
  それではなぜ法善寺が金毘羅を祀っていたのでしょうか?
19世紀初頭に人気作家・十返舎一九が文化七年(1810)に出版した道中膝栗毛シリーズが『金毘羅参詣続膝栗毛』です。ここでは主人公の弥次郎兵衛・北八は、伊勢参宮を終えて大坂までやってきて、長町の宿・分銅河内屋に逗留して、そこからほど近い道頓堀で丸亀行の船に乗っています。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われていますから、この時代の金毘羅参詣客の多くは、大坂からの金毘羅舟を利用したようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。
しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
つまり、もともとの船場は大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・北が利用した時代には、金毘羅舟の乗船場はから道頓堀・長堀の方へ移動していたようです。その後の記録を見ると「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、はるかに道頓堀の方が多くなっています。
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法善寺の金比羅堂の大祭
   つまり法善寺のある道頓堀は金毘羅船の発着所に近かったのです。丸亀港の玉積社と同じように金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、法善寺に金比羅堂が建立されたと研究者は考えているようです。いずれにせよ、法善寺の金毘羅が讃岐へ向かう旅人達だけでなく、多くの大坂市民の信仰をうけていたこと間違いありません。

金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛に描かれた金比羅船
江戸の大名屋敷に祀られた鎮守が流行神化していきます
高松松平家や丸亀京極家は江戸屋敷に金毘羅を祀っていました。これが江戸における金毘羅信仰の発火点になったというのが現在の定説のようです。高松藩や丸亀藩の屋敷では、毎月十日金毘羅の縁日に裏門を開放して一般庶民の参詣を許し、縁日以外の日には裏門に賽銭箱を置いて、人々はそこから願掛けを行なったようです。このような江戸庶民の金毘羅信仰の高まりが、丸亀の新堀湛甫(新港)を「江戸講」という民間資金の導入手法で成功させることにつながったと云えます。
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 それでは大坂の場合はどうでしょうか?
   江戸時代の大坂の祭礼行事一覧で例えば6月の欄を見てみると次のような祭礼が並びます
「宇和じま御屋しき祭」(六月十一日)
「出雲御屋しき祭」(六月十四日)
「なべしま御屋しき祭」六月十五日)
中国御屋しき祭」(六月十五日)、
「阿波御屋しき祭」(六月十六日)
「筑後御やしき祭」(六月十八日)
「明石御やしきご(六月十八日)、
「米子御やしき祭」(七月十九日)
ここからは江戸と同じように、大坂でも各藩蔵屋敷に祀られていた鎮守神が祭日には、庶民に開放されていたことが分かります。
さて10月の蘭を見てみると「千日ほうぜんじ」をあげたあとには、一つ置いて「丸亀御屋しき」・「高松御屋しき」と見えます。『摂津名所図会大成』には、 
金毘羅祠 同東丸亀御くらやしきにあり 
     毎月九日十日諸人群参してすこぶる賑わし
金毘羅祠 常安裏町高松御くらやしき二あり 
     霊験いちじるしきとて晴雨を論ぜず詣大常に間断なし殊に毎月九口十日ハ群参なすゆへ此辺より常安町どふりに夜店おびたゝしく出て至つてにぎわし又例年十月十日ハ神事相撲あり
とあります。ここからは江戸だけでなく、大坂でも蔵屋敷に祀られた金毘羅を毎月の縁日に庶民に開放することで金毘羅信仰がひろまっていたことがうかがえます。しかし、蔵屋敷に祀られた金毘羅は大名のものであり、縁日以外は庶民に開放されませんでした。
ところが、金毘羅信仰の高まると、庶民達はいつでも参拝できる金毘羅を自分たちの力で勧請します。法善寺の金毘羅もその一つと考えられます。『浪華百事談』には、「持明院金毘羅祠」について、次のように記されています。
「生国魂神社大鳥居の西の筋の角に、持明院といふ真言宗の寺あり、其寺内に金比羅の祠あり。其神体は京都御室仁和寺宮より、当院へ御寄附なりしを、鎮守とせしにて今もあり。昔は詣人多き社にて、上の金比羅と称す。当社をかく云へるは、法善寺の内の金比羅を、下の金比羅といひ、高津社の鳥居前にある寺院に祭るを、中の金比羅といひ、此を上の社といひて、昔は毎年十月十日の会式の時、衆人必らず三所へ参詣せしとぞ。余が若年の時も、三所へ詣る人多く、高津鳥居前より此辺大ひに賑はしき事なり。今は参詣人少き社なり」
この史料は大坂には、
上の金毘羅 生玉持明院
中の金毘羅 高津報恩院
下の金毘羅 法善寺
とそれぞれの寺院の中に勧進された金毘羅が上・中・下とならび称されて大坂市中の三大金毘羅として崇敬されていたことを教えてくれます。このような金毘羅信仰の高まりを背景に、金比羅講が組織され、多くの寄進物や石造物がこんぴらさんにもたらされることになるようです。「信仰心信者集団の中で磨かれ、高められていく」という言葉に納得します。

参考文献 北川央 近世金比羅信仰の展開

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「象頭山祭礼図屏風」に描かれた遍路達が物語るものは?
 「象頭山祭礼図屏風」は、十月十日の金毘羅大会式の当日を描いた六曲一双の大きな屏風です。神前に出仕する上頭・下頭の行列が、参詣客の詰めかけた境内の諸堂、芝居・見世物等で賑わう町方の様子とともに描かれています。元禄年間の17世紀末に描かれたもので、文献の乏しい時代の絵画史料としては、かけがえのないものです。研究者によると、この中に遍路姿の参拝客が合計で10人描かれているといいます。
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 戦国時代の荒廃からまだ立ち直っていない承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳が綴った『四国遍路日記』には、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録があります。
 それから約30年後の元禄二年(1689)版行の『四国遍礼霊場記』には
「金毘羅は順礼の数にあらずといへども、当州(讃岐)の壮観、名望の霊区なれば、遍礼の人、当山に往詣せずといふ事なし
とあります。ここからも金比羅詣でにやってきた人たちが、善通寺や弥谷寺・海岸寺の「七箇所参り」=「ミニ版の四国巡礼」を行っていたように、遍路たちも金毘羅大権現にお参りに来ていたことが分かります。元禄年間に、金比羅さんの大祭に四国遍路の姿が描かれていても不思議ではないようです。今でも、金比羅さんでは歩き遍路の姿を時々見かけます。

大祭5
西国巡礼者は金毘羅大権現にもお参りしていた
 四国遍路が西国巡礼の影響をうけて笈摺を着用することになったのもこの頃のようですから、「象頭山祭礼図屏風」に四国八十ハケ所を巡拝する遍路が描かれていても不思議ではないようです。
 さて、西国巡礼者達がその巡礼の途中で金毘羅に立ち寄るようになるのは19世紀初頭前後からのようです。そして金毘羅参詣が西国巡礼中の一つのコースとして定番化します。西国巡礼の途中で、足を伸ばして四国に渡り金毘羅にも参っていくようになるのです。
IMG_8108象頭山遠望
江戸時代の巡礼者達は、札所から札所へと番付順に忠実に巡礼を続けるだけでなく、危険を回避するためにたとえ番付が逆になろうとも迂回をしたり、巡礼途中で高野山等の有名な寺社へ立ち寄ったりします。さらには、大坂市中で芝居見物して長逗留する人たちまでいました。私たちが考えるようなストイックな遍路姿とは異なる、非常に生き生きとした貪欲な巡礼者像が見えてきます。
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 東国からやってきた伊勢・西国巡礼の社寺参詣ルートは?
①「伊勢 十 西国巡礼ルート」
往路東海道を伊勢神宮に向かい、一番青岸渡寺より順次西国三十三所霊場を巡り、中山道を復路とする
②「伊勢参宮モデルルート」
往路東海道を伊勢神宮に向かい、伊勢より奈良・大坂・京都の社寺を巡り、中山道を復路とする
の二つが基本コースだったようです。これに次のようなオプションルートが加えられます。
③金毘羅参詣を加えた「普及型」、
④安芸の宮島、岩国の錦帯橋見物を加えた「拡張型」
  ここからは東国からの参詣旅行者が伊勢神宮や西国札所、あるいは高野山・金毘羅・善光寺等の有名諸社寺を一つの巨大ルートとして旅していた分かります。これらのルートの中に金毘羅や四国遍路も入っていたのです。
z金毘羅大権現参拝絵図 航海図

西国巡礼者の道中記から金毘羅参詣ルートを見てみると
9割以上が金毘羅までやってきているようです。西国巡礼者の金比羅詣でのコースは、播磨の高砂の船宿の用意した金比羅船で丸亀へ渡り、丸亀からは丸亀街道を金毘羅へと向かいます。その場合も金毘羅参詣だけ済まして四国をあとにしたのはわずかです。多くは空海の生誕地で四国霊場の聖地善通寺や弥谷寺をも併せて参拝し再び丸亀に戻っています。
13572十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛

以前お話しした十返舎一九の弥次喜多コンビの歩いたコースです。これは「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」と題された道中案内図が何種類も残っていることとからも裏付けできます。
 
230七箇所参り
喩伽山蓮台寺と金毘羅大権現の両参り
 丸亀に戻った巡礼者達は、再び船に乗りこみます。
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向かう港は、児島半島の下津井・田ノロや牛窓・赤穂、そして室津が多かったようです。この中で特に多いのが児島半島へ渡っている西国巡礼者が多いのです。児島半島に彼らを引きつけるものがあったからです。それが楡伽山蓮台寺でした。金毘羅に参った西国巡礼者の半分は、行きか帰りかいずれかに喩伽山に参詣しています。

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喩伽山蓮台寺は、心流修験と称された修験道本山派内の有力集団が、その本拠児島半島に勧請した熊野三山のうち那習山に比定された寺院で、ここも金毘羅さんと同じく修験者達のメッカでした。彼らは
金比羅参詣だけでは「片参り」に過ぎず、金毘羅参詣者は必ず楡伽山へも参詣せねば本当の功徳は得られぬ
と喧伝するようになります。
 この「両参り」用の道中案内図が「象頭山楡伽山両社参詣道名所旧跡絵図」です。こうした宣伝が効いたのか、多くの金毘羅参詣者か行きか帰りに必ず児島半島を通過して行くようになります。後には、これを見て阿波の箸蔵も「金比羅さんの奥社」を称え「両参り」を宣伝するようになり、参拝客を急増させることに成功したことは、以前にお話ししたとおりです。
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 東国からの西国三十三所巡礼者は、その巡礼の途中で四国に渡り金毘羅参詣を行っていたことをお話ししました。彼らは播磨の高砂からコースを外れて讃岐丸亀に渡った訳ですが、金比羅詣が終われば、西国巡礼ルートに戻らなければなりません。
それではどこで「巡礼ルートに復帰」したのでしょうか? 
それは西国巡礼で一番西の札所になる第二十七番札所書写山円教寺です。児島半島の蓮台寺に「両参り」を済ませた後には、姫路の書写山へと足を進めました。東国からの西国巡礼者のルートを確認しておくと次のようになります。
①東海道で伊勢神宮へ
②高野山へ
③西国巡礼ルート開始 
④高砂から丸亀へ金比羅船で金毘羅大権現へ
⑤善通寺七ケ寺巡礼
⑥丸亀から児島半島の蓮台寺へ
⑦山陽道を経て姫路・書写山へ
という回遊ルートを巡っていたようです。 
また、西国巡礼を行わずに金比羅詣でや四国遍路を行う人たちもいました。彼らのとったコースは以前紹介したように和歌山から阿波の撫養に渡り、金毘羅をめざしたようです。
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どちらにしても、私たちが現在行っているひとつの目的地を目指す短期間旅行とは、スタイルがちがうのです。四国遍路にしても札所だけを訪れるのではなく周辺の神社仏閣を、貪欲に訪れていることが分かります。現在の「旅行」感覚で見ていると、見えてこないものがいっぱいあります。
参考文献 北川央 近世金比羅信仰の展開

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現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。しかし、明治の神仏分離までは金毘羅大権現が祭神でした。それではこの神社に祀られていた金毘羅大権現とは、どんな姿だったのかのでしょうか。金比羅については次のように云われます。
「サンスクリット語のクンビーラの音写で、ガンジス河に棲むワニを神格化した神とされる。この神は、仏教にとり入れられて、仏教の守護神で、薬師十二神将のひとり金毘羅夜叉大将となった。また金毘羅は、インドの霊鷲山の鬼神とも、象頭山に宮殿をかまえて住む神ともいわれる」
つまり、もともとはインドではヒンズーの神様で、それが仏教守護神として薬師十二神将のメンバーの一員となって日本にやってきたものと説明されてきました。
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それでは、金毘羅大将は十二神将のメンバーとしては、どこにいるのでしょうか? 
最も古い薬師十二神将であると言われる薬師寺のお薬師さんを守る十二神将を見てみるとお薬師さんの左手の一番奥にいらっしゃいます。彼の本地仏は弥勒菩薩です。インドでは、彼の家は「象頭山」とされるので、讃岐の大麻山と呼ばれていた山も近世以後は象頭山と呼ばれるようになります。

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確認しておくと以下のようになります。
 クンピーラ = 薬師十二神将の金毘羅(こんぴら・くびら)= 象頭山にある宮殿に住む
 
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十二神将の金比羅(クビラ)大将

しかし、こんぴらさんが祀っていたのは、この金比羅大将とは別物だったようです。松尾寺の本堂の観音堂の後に金比羅堂が戦国末期に、修験者達によって建立されます。
金比羅堂に祀られていた金毘羅大権現像はどんな姿だったのでしょうか?
江戸時代には、金毘羅を拝むことのできませんでした。しかし、特別に許された人には開帳されていたようで、その記録が残っています。
  『塩尻』の著者天野信景は、次のように記します。
金毘羅は薬師十二神将のうちのか宮毘羅(くびら)大将とされるが、現実に存在する金毘羅大権現像は、
薬師十二神将の像と甚だ異なりとかや」「座して三尺余、僧形なり。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所戴の頭巾を蒙り、手に羽団を取る」
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  天和二年(1682)岡西惟中の『一時随筆』の中で
「形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也、巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也、本地は不動明王とぞ、二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢咤伽、権現の自作也」、
  延享年間に増田休意は
「頭上戴勝、五智宝冠也、(中略)
左手持二念珠・縛索也、右手執二笏子一利剣也、本地不動明王之応化、金剛手菩薩之化現也、左右廼名ご伎楽伎芸・金伽羅制叱迦也」、
 
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金光院が配布していた金毘羅大権現
幕末頃金毘羅当局者の編んだ『象頭山志調中之能書』のうち「権現之儀形之事」は
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠ハ索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽伎芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子伎芸ハ制叱迦童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神肺是也」
と、それぞれに金毘羅大権現像を記録しています。これらの史料から分かることはは金毘羅大権現の像は、十二神将の金比羅神とはまったくちがう姿だったことです。その具体的な姿は
①頭巾を被り
②左手に念珠、
③右手に扇もしくは笏を持ち、
④伎楽・伎芸の両脇士を従える
という共通点があったことを記録しています。ここからは江戸時代金比羅山に祀られていた金毘羅大権現像は「今の修験者」「今時之山伏のごと」き姿だったのです。それは役行者像を思い描かせる姿です。

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松尾寺に伝わる金毘羅大権現 
これを裏付けるように『不動霊応記』では
「金毘羅大権現ノ尊像ハ、苦行ノ仙人ノ形ナリ、頭二冠アリ、右ノ手二笏ヲ持シ、左ノ手二数珠ヲ持ス、ロノ髪長ウシテ、尺二余レリ、両ノ足二ハワラヂヲ著ケ、頗る役行者に類セリ
といった感想が記されています。金毘羅大権現像を見た人が「役行者像とよく似ている」と思っていたことは注目されます。
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  記録に残された金毘羅大権現像について、もう少し具体的に見てみましょう。
①頭巾は五智宝冠に、
②左手の念珠は縛索に、
③右手の扇または笏は利剣に、
④伎楽・伎芸の両脇士は金伽羅・制叱迦の二童子
以上から姿をイメージすると、不動明王とも言えます。確かに金毘羅大権現の本地仏は不動明王とされますので納得がいきます。しかし、役行者像に付属する前鬼・後鬼についてもこれを衿伽羅・制叱迦の二童子とする解釈もあるようです。どちらにしても「役行者と不動明王」の姿はよく似ているのです。
 江戸時代に大坂の金毘羅で最も人気を集めた法善寺でした。
その鎮守堂再建の際に、「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつきます。いわゆる「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。

金毘羅大権現2
 これ以外にも役行者像を金毘羅大権現像と偽る贋開帳が頻繁に起きます。讃岐本社の金毘羅大権現像自体も、役行者像そのものではなかったかと思わせるぐらい似ていたことがうかがえます。ただ、琴平の金毘羅さんには金毘羅大権現以外に、役行者を祀る役行者堂が別にあったようなので、金毘羅大権現イコール役行者と考えるのは、少し気が早いようです。しかし、役行者堂についても『古老伝旧記』では
役行者堂 昔金毘羅古堂也 元和九年宥眼法印新殿出来、古堂行者に引札い」
と記しています。かつては「役行者堂は金毘羅の古堂」だったというのです。これも注目しておきたいポイントです。
1新羅明神
新羅明神
 この他にも金毘羅大権現の正体を新羅明神に求める研究者もいます。
確かにその姿はよく似ています。役行者は新羅大明神から作り出されたというのです。そうすると次のような進化プロセスが描けます。
新羅の弥勒信仰 → 新羅大明神 → 役行者 → 金毘羅大権現・蔵王権現
そして、新羅大明神には讃岐・和気氏出身の円珍の影がつきまといます。今も和気氏の氏寺であったとされる金蔵寺には新羅神社が祀られています。和気氏に伝わる新羅大明神の発展型が金毘羅大権現であるという仮説もありそうですが、今は置いておきましょう。
1蔵王権現
このように役行者像に似ている金毘羅大権現像を祀る象頭山ですが、この山は役行者開山との伝承を持ちます。弥生時代から霊山であったようで、中世には山岳信仰で栄えた修験道の行場となります。そのため戦国時代末期の初期の金光院別当は、すべて修験者出身です。

 長宗我部元親に従軍して土佐からやって来て、金光院別当として讃岐における宗教政策を押し進めたのが土佐出身の修験者宥厳です。彼は土佐郡占領下での実績を買われて、長宗我部軍が撤退した後も別当を引き続いて務めます。そして、松尾寺や三十番社との権力闘争を勝ち抜いて行きます。それを支えたの弟弟子に当たる宥盛です。彼は、生駒家と交渉を担当し寄進領を確実に増やすなどの実務能力に長けていたばかりでなく、修験者としても名声が高く、数多くの弟子達を育て各地に金毘羅大権現の種を飛ばすのです。その彼が死期を悟り、自らの姿を木像に刻んだ時に
入天狗道沙門金剛坊(宥盛)形像、当山中興権大僧都法印宥盛
と彫り込んだと伝えられます。この天狗道に入った金剛坊の木像には、後にいろいろな尾ひれが付けられていきます。例えば、生きながら天狗界に入ったと伝承で有名な崇徳上皇の怨霊が、死去の翌年、永万元年(1165)に、その廟所である白峰から金毘羅に勧請されたとの伝承が作られます。そして金毘羅=崇徳院との解釈が広まっていくのです。それでなくとも修験の山は天狗信仰と結びつきやすいのに、それが一層強列なイメージとなって金毘羅には定着します。「天狗のイラスト」が入った参詣道中案内図が作成され、天狗の面を背負った金毘羅道者が全国各地から金毘羅を目指すのも、このあたりに原因が求められそうなことは以前お話ししたとおりです。
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 もう一度、こんぴらさんの本堂に祀られていた金毘羅大権現像について見てみましょう。
江戸の初めに四国霊場が戦乱から復興していない承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳については以前に紹介しました。彼の『四国遍路日記』には、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録があります。
「金毘羅二至ル。(中略)
坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ」
ここには、観音堂が本堂で、その奥に金比羅堂があったことが記されます。そして金光院住職宥典が特別に開帳してくれ、金毘羅大権現像を拝することができたと書き留めています。ここで注目したいのは2点です。ひとつは
「権現ノ在世ノ昔 此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り 此社壇二安置シ 其後入定シ玉フ」
とあることです。つまり安置されている金毘羅大権現像は、この山を開いた人物が自分の姿を掘ったものであると説明されているのです。
 2点目は金毘羅大権現の左右には「不動・毘沙門」の二躰が祀られていたことです。
つまり、金毘羅堂には金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天が三点セットで祀られていたのです。そして、金毘羅大権現像は金毘羅山を開いた人物が自らの姿を掘ったものであると言い伝えられていたことが分かります。ここまで来ると、それは誰かと問われると「宥盛」でしょう。
さらに『古老伝旧記』は金光院別当の宥盛(金剛坊)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
 ここには金剛坊の御影修験之像が観音堂裏堂(金毘羅堂)に安置されていると記されています。以上から金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、金毘羅別当の宥盛であったと私は考えています。それをまとめると次のようになります
①金光院の修験者達は、その始祖・宥盛の「祖霊信仰」をはじめた。
②その信仰対象は宥盛が自ら彫った宥盛像であった。
③この像が金毘羅大権現像として金毘羅堂に安置された。
④その脇士として不動明王と毘沙門天が置かれた
その後、生駒家や松平家からの保護を受けるようになり「金比羅」とは何者かと問われた際の「想定問答集」が必要となり、十二神将の金毘羅との混淆が進められたというのが現在の私の「仮説」です。
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神仏分離で金毘羅大権現や仏達は、明治以後はこの山ではいられなくなりました多くの仏像が壊され焼かれたりもしました。
金毘羅堂にあった金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天の三仏トリオは、どうなったのでしょうか。
金剛坊宥盛は、現在は祭神として奥社に祀られています。その自作の木像も奥社に密かに祀られているのかもしれません。
それでは脇士の不動明王・毘沙門天はどうなったのでしょうか。この仏たちは数奇な運命を経て、現在は、岡山の西大寺鎮守堂に「亡命」し安置されています。これについては別の機会で触れましたので詳しくはそちらをご覧ください。
img003金毘羅大権現 尾張箸蔵寺
金比羅さんから亡命した西大寺の「金毘羅大権現」(不動明王)
現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。
大物主命は、奈良県桜井市の大神神社(通称、三輪明神)の祭神として有名で、出雲大社の祭神・大国主命の別名とされています。明治になって、大物主命にとって代わられたのは所以を、どんな風に現在の金比羅さんは、説明しているのでしょうか。

金刀比羅宮 大物主尊肖像 崇徳天皇 M35
   天台僧顕真が「山家要略記』に智証大師円珍の『顕密内証義』を引いて、
「伝聞、日吉山王者西天霊山地主明神即金毘羅神也、随二乗妙法之東漸 顕三国応化之霊神」
と、「比叡山・日吉山の地主神は金比羅神」であると記します、
これを受けた神学者の古田兼倶は『神道大意』に次のように記します。
「釈尊ハ天地ノ為二十二神ヲ祭、仏法ノ為二八十神ヲ祭り、伽藍ノ為二十八神ヲ祭リ、霊山ノ鎮守二金毘羅神ヲ祭ル、則十二神ノ内也、此金毘羅神ハ日本三輪大明神也卜伝教大師帰朝ノ記文二被い載タリ、他国猶如也、何況ヤ吾神国於哉」
と最澄が延暦七年(七八八)比叡山延暦寺を建立する際、その鎮守として奉斎した地主神・日吉大社西本宮の祭神大物主命が金毘羅神だと位置づけます。
  そしてこうした見解は、さらに平田篤胤に受け継がれていきます。「玉欅』の中に
「彼象頭山と云ふは……元琴平と云ひて、大物主を祭れりしを仏書の金毘羅神と云ふに形勢感応似たる故に、混合して金毘羅と改めたる由……此は比叡山に大宮とて三輪の大物主神を祭りて在りけるに彼金毘羅神を混合せること山家要略記に見えたるに倣へるにや、然ればこそ金光院の伝書にも、出雲大社。大和、三輪、日吉、大宮の祭神と同じと云えり」
 と記します。平田篤胤の明治以後の神道における影響力は大きく、
「象頭山は元々は「琴平」といって大物主を奉っていた。象頭山は元々は大物主命を祀っていたが、中世仏教が盛んになるにつれて、その性格が似ているため金毘羅と称するようになった」
という彼の主張は神仏分離の際には大きな影響力を発揮します。金毘羅大権現が「琴平神社」と改められるのもこの書の影響が大きいようです。   しかし、研究者は、金毘羅以前に大物主が祀られていた史料的証拠は一切ないと云います。
むしろ神道家たちが金毘羅神に大物主を重ねあわせる以前は、象頭山には大物主と関係なく金毘羅神が鎮守として祀られていたのは見てきたとおりです。それを、神道家が逆に『山家要略記』等を根拠に金毘羅神とは実は大物主であったのだと、金毘羅=大物主同体説を主張してきたと研究者は考えているようですようです。

 
5善通寺2
善通寺東院の巨楠
江戸時代の善通寺は、丸亀藩の祈祷所でもありました。そのため正月などには藩主の武運長久や息災延命、領内の五穀豊穣の祈祷などを行なって、祈祷札を年頭の挨拶に届けていた記録が残っています。その中に雨乞祈願の記録があります。
 善通寺の「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱の中には丸亀藩からの依頼を受けて善通寺の僧侶たちがが行った雨乞い祈祷の記録が、約80件ほあります。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)の約150年に約40回の雨請祈祷が行われており、およそ4年に一度の頻度で雨乞が行われていたようです。

5善通寺
善通寺境内の善女龍王社
 雨乞を行なった場所は、善通寺境内の善女龍王社か丸亀城内の鎮守亀山社・天神宮のどちらかです。そこで行われていた祈祷とはどんなものだったのかについては、以前お話ししましたので簡単に「復習」しておきます。

5善女龍王4jpg
祈りを捧げるのは、善女龍王です。
善女龍王は清滝大権現のことで、もとはインドの沙渇羅竜王という竜神の娘で仏教の守護神として長安の青竜寺の守護神として祀られていたとされます。空海は唐から帰朝後に、この神を高尾の神護寺に勧請して真言密教の発展を祈願し、この神が海を渡って日本へ来ます。そこで青竜の二字に「さんずい」をつけて清滝としたといわれます。つまり善女龍王は空海によって「清滝さん」となり、雨乞いの神として信仰をお集めるようになっていきました。

⑤善女龍王5
神泉苑で請雨法
善女龍王は、どんな姿をしているのでしょうか?
 弘法大師が天長元年(八二四)に神泉苑で請雨法を行ったとき愛宕山山上に顕れた善女竜王の姿を弟子に写させたといわれています。その姿は、善女竜王像や善女龍王龍王社という形で高野山に残っています。
5善女竜王社への行き方
高野山の善女龍王社
そして、善通寺の東院境内には今も善女龍王を祀った祠が池の中にあります。ここで雨乞い祈祷が行われていました。

5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善女龍王像 
三豊の真言宗寺院でも善通寺に習って雨請祈祷が行われるようになったようで、本山寺(豊中町本山)にも善女龍王像が祀られています。安置されている鎮守堂の材の墨書には「天文二年」(1547)とありますから、戦国時代の16世紀中頃には行われていたことがうかがえます。
5善女龍王

 威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)には江戸時代の善女龍王の画幅や木像があります。ここから善女龍王への信仰が広く民衆に広がっていたことがうかがえます。
5善女龍王45jpg

 地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっているので、19世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも知られていたことがわかります。
5善通寺22
綾子踊りの幟
今までのことをまとめて、その先の「仮説」まで記してみると次のようになります。
①空海によって善女龍王が将来され、清滝権現として雨乞祈祷信仰を集めるようになった。
②善通寺にも高野山を通じて招来し、丸亀藩の要請を受けて雨乞い祈祷が行われた。
③三豊地区の真言寺院でも善女龍王をまつる雨乞い祈祷が行われた
④祈祷で効果が無ければ、村挙げての「雨乞い踊り」も行われた
⑤讃岐の二宮である大水上神社では「エシマ踊り」が雨乞い踊りとして奉納された
⑥その流れを汲む風流踊りの一つが国無形文化財に指定されている綾子踊りである。

 
DSC01386多度津街道1
 城下町丸亀の港は、上方や中国筋からの金比羅詣で参拝客が多く上陸するところでした。とりわけ、下津井と丸亀間は中国地方と四国地方を結ぶ上で距離が短く、その上、島も多いので安全性が高く往来する船が多かったようです。そして、陸に上がると丸亀から金毘羅の間は、整備された丸亀街道で結ばれていました。そのような地理的な好条件を背景に、丸亀藩は金毘羅参拝客の呼び込み政策を積極的にとります。
 真念の『道指南』には、
「摂州大坂より讃岐丸亀へ渡海の時ハ、立売堀丸亀屋又左衛門・同藤兵衛かたにて渡り様可相尋。白銀弐匁、丸亀まで船賃、但海上五拾里。」
とあります。丸亀に船で渡たる時には、大坂の立堀売丸亀屋又左衛門あるいは丸亀屋藤兵衛に相談をするようにと案内しています。
 天保7年(1836)3月、丸亀に着船した武蔵国中奈良村庄屋の野中彦兵衛は、持参の寺往来手形を番所へ出し、さらに1人前世話料として銭105文ずつを差し出して、丸亀西平山町の備前屋の世話で次のような「(船)揚り切手」を手に入れています。
     覚貫
武州旗羅郡中奈良村重蔵同行弐人
右当地着船仕、往来手形所持見届ヶ船揚申處相違無御座候、已上
  天保七年    讃州丸亀
    丙申      吉岡惣八 印
   三月七日占百五十(日)之内
 四ヶ国御番所衆中
DSC01232
 
同じ年に四国遍路した松浦武四郎は次のように記します、
「下津井の湊に(中略)船を求て海上七里、船賃七十弐文、切手銭十三文、毎夜出船有、渡海し、(中略)
故此四国の内二而頓死、病死等二而も有而は、其所の例を受べき手形を持、別て此丸亀二而船上り切手と云るものをもらひ行ことなり。其切手は上陸の上問屋に行、船改所二国元の寺、往来を書認めもらふこと也。右之代銭八十五文也。此の船揚りを持たざるものは、土州甲の浦の番所等二而甚陸ケ敷云て通さゞること也。故二遍路の衆は皆失念なく此湊ニ揚り切手を取行かるべし。」

 彼は下津井港から船で丸亀港にやって来ています。その船賃は72文・切手銭13文を支払います。その上に遍路途上で亡くなった場合に備えて「死手形」が必要だといいます。特に、丸亀港で「揚り船切手」を手に入れておくことがポイントであると強調しています。これは、以前お話ししたように、土佐藩は遍路の長逗留や遍路乞食の活動防止策として入国の際に「上り船切手」の提示を求めるようになっていました。これがないと入国を認めなかったのです。
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 金比羅参拝の拠点となる丸亀は当時、多くの参拝客が大坂からやってきました。しかし、東国から金毘羅参拝客は、「一生に一度のことだから、伊勢も宮島も金比羅も四国遍路もすべて一緒に、この際に巡ってやろう」と考えている人たちも多かったのです。金比羅詣客と四国遍路を明確に区分することは出来ないようです。
 さて丸亀で船から上陸した四国遍路をめざす人たちは、多度津の七十八番道場寺から札打ちを始めたようです。幕末の嘉永・安政期になると東国から伊勢や高野山・熊野を経てやってきた人たちは紀州加太浦を経て志度港に上陸し、高松からの参詣道を利用するルートが多く使われるようになります。そのため、志度寺を札打ち始めとする遍路も増えます。
1丸亀城
丸亀城と城下町と港 
天明年間(1781~89)に成立したといわれる丸亀藩法制の「古法便覧」の中に、下のような公設の遍路屋についての史料があります。  
一、遍路屋事、元文五さる十一月、役中より覚書を以御伺候所被仰付、西平山熊野屋孫兵衛明地所望いたし、弐間・五間之長屋建る右代銀七百目、入札落に成り申也、宿守居へ候事、
一、遍路屋は町会所所持也(中略)
一 遍路家は町内三浦より建候也
元文5年(1740)11月に、丸亀藩の許可を受け、城下町中と三浦地区によって、丸亀城下の西平山に遍路屋が建てられたことや、そこには宿守りが置かれ、町会所が運営に当たっていたとことが分かります。
230七箇所参り

さらに翌年7月には、藩から三浦地区に次のような運営規則が通達されています。
一廻国辺路(遍路)人宿
 右往来手形寺手形相改相違無之候晋一夜泊可差置、依勝手逗留頼候共、二夜与指置申間敷事
一木賃壱人前宵越三拾銭以下可取候、其外ハ取間鋪事
一米塩味噌等調候ハゝ外方高直二無之様二仕売可申事
     (中略)
一辺路人之中病人成者貧賤之者ハ別而いたはり可申事
一船二而来候ハゝ川口二おゐて往来手形出させ見届相違無之候ハ二番所江其段相断船方可揚、出船之節茂右同様二可相心得事     (後略) (「丸亀城下御定目」)
意訳すると
①遍路屋では往来手形、寺請手形を改め間違いがなければ一泊を限りに認めること、身勝手な頼みなで連泊させないこと。
②木賃は一人30文以下、米一塩・味噌などは他の店より高く売らないこと
③遍路のうち病人や貧窮の者には格別にいたわること
④舟でやってきた者は川口で往来手形を改め、問題がなければ川口の番所へ報告してその者を上陸, させること、出船のときも同様にするよう心得る
など細かく定められてます。米・塩などについても暴利を得ることを禁じるなど遍路に対する「お接待マインド」がうかがえます。。
 この定目(規則)は町奉行からて大年寄を通じ、丸亀城内14の町内の21の年寄と、三浦の3人の庄屋通達して、それぞれの請け判がとられています。城内全体に周知させています。
丸亀地形図
 この2年後の1744年には、大阪江戸堀の明石屋によって金比羅参拝船が運行を開始します。金比羅船が追い風に帆を上げて、大挙してやってくる時代が幕明けるのです。その流れに乗って四国遍路もやってきます。丸亀藩は金毘羅参拝客の誘致に積極的に動いていますが、四国遍路に関しても目配りしていることがうかがえます。そして、その姿勢は「お接待マインド」で、排斥の姿勢ではなかったようです。

4北前船

高松藩の物乞い禁止令               
高松城下の様子を知るものとして、文化12年(1815)8月に、町年寄に藩が出した次のような史料があります。
廻国並びに四国辺路(遍路)之類、御城下江大込候義兼而停止之事二候所、近頃猥り二町方江大込、就中他所乞喰辺路之類多入込、托鉢致候様二相聞候、向後右様之類惣而他国者与見受物貰之類江一向手之内之合カヲも遣申間敷候、畢竟町方二而托鉢有之候故、多入込候義と相見候開堅相守可申候、若心得違之者も有之托鉢於遣者、屹度咎可申付候、(後略)
(「高松町年寄御用留(抄)」)
意訳すると次のようになります。
従来から遍路の城下への入り込みは禁じているが、近頃乞食や遍路が城下に多く入り込んで盛んに托鉢をしていると聴く。今後は乞食遍路の類や他国者で物乞いをする者に対しては、一切布施をしてはならない。もし心得違いの者がいれば、今後は罰する
という達しです。この達しの末文には、この達しの趣旨はすでに天明5年(1785)や寛政7年(1795)にも触れ達しているが、それにもかかわらず、近年心得違いの者もあって徹底していないので重ねて通達すること、本家は言うまでもなく裏だな・借家に至るまで趣旨を徹底するようにと、厳しく申し渡しています。
 ここからは18世紀末から19世紀にかけて金比羅参りや四国遍路が盛んになるにつれて、四国に「滞留」し、高松周辺でも「遍路乞食」をするものが増えていることが分かります。これは当時の四国各藩の抱える共通の問題だったようです。

4弁財天Ueno_junks
 しかし、その対応策はそれぞれの藩で異なりました。
最も強硬策をとったのが土佐藩で入国制限から、大地震の後は入国禁止へと進みます。そして、それは明治後にも引き継がれ高知県では、遍路排斥が地方行政の手によって進められたのです。
 ところが阿波や讃岐は「遍路乞食」の禁止通達は何度も出されるのですが、土佐のように入国制限や禁止策までには居たらないのです。そのため現場の村役人が対応に苦慮していることを窺わせる史料が阿波藩などには残っています。
 逆に阿波藩や讃岐では、なぜ遍路排斥を行わなかったのかというのが次の疑問点となります。
しかし、現在の私にはそれに答える材料はありません。あしからず・・・
 参考文献 「四国遍路のあゆみ」
    平成12年度遍路文化の学術整理報告書

     
3松尾峠1から

宇和島藩と小山関所
 土佐の西端の宿毛と伊予の国境に松尾峠があり、そこには土佐藩の松尾坂番所(宿毛口・松尾番所)と宇和島藩の小山番所が設置され、入出国者に目を光らせていました。天保7年(1836)に四国遍路をした武蔵国幡羅郡中奈良村庄屋の野中彦兵衛は、小山番所の手続きについて次のように記しています。

「伊予国入口御番所、小山村二宇和島御城主御高十万石、伊達遠江守様御番所口上り切手往来御改、其上被仰渡候趣左二 辺路(遍路)道斗通べし、脇道ハ相成不申、当御領分日数七日限り、止宿ハ相対二而宿取、若し差支候節ハ村々庄屋へ相懸り、泊り可申長」

と、切手改めの上、脇道を通らずに遍路道のみを通行して7日以内に藩領内を通過するように申し渡されています。土佐藩と同じような規制があったようです。25日、彦兵衛は、この切手を東多田番所で差出しています。宇和島藩領内の通過に要したのは4日でした。

3松尾番所跡.32jpg


元縁10年(1697)8月の宇和島藩が東多田番所宛てに通達した「定」の第4項には、
「辺路(遍路)之儀ハ其所から之手形証文を改、槌成事二候ハヘ通可申事」
とあって、手形証文(切手)を検査して、確かであれば通行させよ命じています。ここには遍路の通行に関しては制限していないようです。ただ、第1項には、次のようにあります。
「番所之事、御領中江出入之者可為相改事二候、天下往還之旅人相留候事ニ無之候、然れども御領ハ往来之道筋と申二者無之候、若土佐国江相通由断候ハバ、道筋を承、小山樫谷之内へ通り手形遣可相通事」

ここからは、土佐へ行く一般の旅人には、「通り手形」(通行証・切手)を番所で発行していたようです。先ほど見た天保7年(1836)の野中彦兵衛の場合には、遍路にも切手を発行し、通行日数制限を行っていますから土佐に習って、幕末が近づくに従って遍路に対するも取り締まりが厳しくしなっていったことがうかがえます。

3小山番所跡
 同じ年に四国遍路を行ったのが松浦武四郎です。彼も
「東たゞ村、村端、番所、宇和島領是限り也。此處二而出入のものを改(め)り。
(中略)此領分廿一里を七日の内に通らざるものは陸奥ケ敷(ムツカシク)云う也」
と、「領内通過7日」とされていたことが記され、先ほどの史料内容を裏付けるものになっています。
3松尾番所跡2

 大洲藩の規制は? 
大洲藩に入ると、鳥坂番所があります。この番所はもとは鳥坂峠にありましたが天保年間に久保に移ってきます。先ほど見た野中彦兵衛や松浦武四郎も、この番所を通過したはずなのですが、彼らの記録には、一言も触れていません。大洲藩領には霊場札所は一か所もないので、「通過地点」という感じだったのでしょうか。
安永5年(1776)11月に藩が村役人心得として大洲藩が通達した書付写しの一部です。
(前略)
一、虚無僧其外廻国辺路(遍路)浪人体之旅人、従公儀被仰出候趣、猶又急度可相守事  
 附、村々により辺路(遍路)宿相究候事、延享二丑ノ年停止申触候得共、今以村により有之様二相聞候、向後急度差留候、間取り小百姓共不同無之様宿可申付事、
 はり札ニ、辺路定宿之儀、先年伺之上無拠聞届ケ置候村々ハ只今迄之通たるへき事
(後略)            (「上吾川宮内家文書」)
ここには領内の村々においては遍路宿を営むことは禁止していたはずだか、近年その筋の許可もなく勝手に遍路等の旅人に宿を提供する者がでてきているとようだ。延享2年(1745)に禁止されたことであり、重ねて禁止の旨を徹底するようにと命じています。なお許可済みの遍路宿については従前通りであると、小さな紙札に書かれてこの文書に貼り付けられていると記されています。
 封建時代は移動の自由も、営業活動の自由もありませんでしたから勝手に遍路宿を営むことも許されなかったようです。

3四国遍路道
  松山藩の遍路寛大策と道後温泉
鴇田峠(ひわだ)を境に大洲藩領から松山藩領久万山に入ります。
天保14年(1843)阿波名西郡上山村の前庄屋粟飯原権左衛門一行は、次のような通行切手を与えられていました。
   覚
遍路街道之外
久万山日数五日切
阿州名西郡上山村権左衛門十二人
         松山領久万山
   辰三月六日    改所 印

この文章は「不可入遍路街道之外」で「入るべからず」が省略されています。つまり、久万山の通過には、遍路道のほか脇道に入らないことと5日の日数制限があったことが分かります。
同じようなものには「松山領野間郡県村庄屋越智家史料』にもあります。この切手を発行した改所は『海南四州紀行』の一節に、「坂ヲ越テニ名二至り出店、即チ改役所ヲ兼貿」とあり、松山藩領に入る手前の浮穴郡二名村に改役所があったと記します。 なお、久万山とは、今は久万高原一帯を指し、古くは久万郷ともいい、大半は松山藩領でしたが、一部の二名村などは大洲藩領でした。

3松尾峠から2
 三(見)坂峠を越えて松山城下に近づきます。
四国遍路の記録を残した遍路達が必ず触れているのが道後温泉のことです。この温泉には遍路優待の定めが古くからあったようです。名湯と知られた道後に入れることは、長い旅をしてきた遍路達にとっては何よりの楽しみであったようです。
道後温泉郷に止宿する遍路の数は多かったようです。

3松山
 元禄15年(1702)編集の「玉の石」(道後最古の観光案内書、著者は僧曇海)には、
「四国遍路、七ヵ所参、三十三番じゅんれい、同行幾人にても勝手次第一宿するなり」

とあります。ここからは、四国遍路や七ヵ所参り、松山西国巡礼の人々には、道後で自由に一宿できる「特別待遇」があったようです。 遍路が優遇されたことについては、『伊予道後温泉略案内』(宝暦から明和年間〈1751~72〉には、
「遍路は3日間は湯銭いらず」
とあり、元禄5年(1692)の松山城下某の『四国遍路日記』にも
「遍路ハ三日でゆせんをとらず」
とあります。
江戸時代中期までは、四国遍路は3日までは湯銭が免除されていようです。「ただ風呂」だったのです。3日を越えての湯治になると「一まわり」(6日)24文、燈明銭12文を支払わねばならない規定です。
 ところが、幕末になってくると、この遍路に対する優待制度も終わります
明王院公布の定書には、次のように変化します。
「四国遍路や通りかかりの者は3日間に限って止宿湯治を許可、また遍路ののほか身なりのよろしからざる者や病気の者は養生湯に限っての入浴を許す」
 ここには遍路でも身なりの良くない「遍路乞食」は「養生湯」のみの入浴に制限されるようになります。その背景には、四国遍路自体の「質的変化」があったようです。すなわち、職業的遍路や故郷のムラを追われる形で死出の旅路をたどる病気遍路の大量出現などです。これに対して、一般の湯治客からの苦情もあったようです。このころになると湯治宿と遍路宿の「差別化」も進み、遍路が一般旅館に泊まることは難しくなったことがうかがえます。

3道後温泉

 幕末の世情騒然の時期になると、松山藩でも遍路や旅人に対して警戒心を強めるようになります。 
 文久2年(1862)には、郡方への取り締まり心得の中で、
「遍路体穏成(たしかなる)者ハ宿致させ候共、村役人江申届取計可申」
とあり、遍路で確かな者には一宿を与えてよいが、必ず届け出するよう求めています。また、城下へのよそ者の立ち入りについても規制を強化しています。同年5月の布告では、他国からの長逗留者を取り締まることに加え、遍路については
「古来より御免之遍路道ハ遍路者止宿之儀、前々御法も有之候儀二付、猥ケ間敷(みだりがましき)儀無之様可致事」
と従来からの法を守るように求めます。 同じ年の6月には
「商人並びに遍路物真似師風之者共、猥二御城下徘徊為致間敷候」
と承認や遍路の城下での自由な活動を禁じます。そして
「無宿並に札取二無之遍路乞食之類者、直二追払可申事」
と、順拝納札をしない遍路風の乞食などは追い払うよう厳しく命じています。松山でも土佐と同じく「遍路乞食」が増えていたのを、幕末の混乱期になると危機意識から排外意識が高まり遍路排除の機運の方向へ動いたことが分かります。

4小松藩1

  小松藩の会所日記に記された四国遍路
伊予小松藩領1万石の「会所日記」は、色々な意味で貴重な資料です。小松藩は農村16か村、享保17年の人口が11,200人、推定戸数が2,570戸前後で、丸亀藩の支藩である多度津藩と同規模の藩です。

4小松藩2
小松藩の「会所日記」によっていろいろなことが分かってきました。例えば、ここには領民からの伊勢参りや四国遍路への参拝許可記録が残されています。それを見てみると
19世紀の40年間の小松藩の遠隔参詣者総数は5,593人でその内訳は、
伊勢参宮1,700
四国遍路1,925人、
厳島参詣1,835人
でこの三つで大部分をしめていること事が分かります。年平均140名程度がこれらの遠隔参拝に出ていたことになります。ところが、万延元年(1860)には、一人の参宮・遍路・厳島参りいません。これはどうしてでしょうか。たぶんうち続く不作で農村荒廃し、藩が「参詣禁止令」を出したと考えられます。
4小松藩3
四国遍路に出かける季節は?
 参詣時期については、宝暦の末(1764)までは、参宮・遍路は田植え後が多かったのですが、天保の初め(1830)になると、年初めと田植え後がほぼ並びます。それ以降幕末までは、年初に旅立つようになっています。田植え後から年初めへと旅立ちの時期が移動した理由は今のところ分かりません。
 農民は金毘羅参拝よりも四国遍路に出かける方が圧倒的に多かったようです。その時期は閑期に集中し、農繁期に激減するという季節的特徴があったようです。また、年によって増減があります。凶作等の場合は、藩の参詣統制が強化され、時には全面的禁止になる場合もあったようです。例えば享保17年(1732)、伊予は飢饉による大きな被害を受けますが、小松藩でもわずか1万石の小藩から仙人足らずの餓死者を出しています。人口の1/10にあたります。あった。飢饉のあった年の「会所日記」には、遠隔参詣者として一人の記載もありません。4年後になってやっよ一人の名前が記されるようになります。ここにも凶作・飢饉の影響がうかがえます。天保4年は(1833)は不作で米価が高騰した年ですが、翌年の参詣総数は77名と例年の半分になっています。
 これに対して、豊作後の文化9年(1812)には270余名を数える人たちが参拝願いを出しています。このように農民を中心とする近世の参詣は、作物の豊凶・農村の景況に強く左右されていたことが分かります。
4小松藩5

以上、伊予の各藩の遍路対応策を見てきましたが土佐藩に比べると寛容な感じがします。特に松山藩の道後温泉への「無料入湯」などは、他には見られない優遇策です。このため松山周辺には数多くの「遍路乞食」が「不法滞在」していたことがうかがえます。そして、幕末の対外的な緊張関係が高まると世の中は排外的な動きを強め、遍路に対しても排除・排斥の方向へ動き出していったことが分かります。

参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書

 土佐は遍路にとっては「厳しい国」だったといわれるようです。
その理由として、挙げられるのが次の3点です。
①札所の数が少ないので道のりが長いこと、
②大河や海岸線が長く難路が多いこと、
③藩の取り締まりが他国・他藩とべて厳しかったこと
土佐藩には早くから厳しい通関規則があって、国境通過の厳しく制限されていました。しかし、四国遍路などの巡礼には特例を設けていたようです。寛文4年(1664)の布告を見ると
「辺路は其身自国の切手見届け、吟味の上にて通し申すべき事(三谷家文書)」
とあって、手続きも寛大にして通行を認めていたようです。
  元禄3年(1690)の道番所定書では、遍路が入出国できる関所を次のように限定するようになります。
 辺路(遍路)は其身之国手形見届札所順路二候条、甲ノ浦口・宿毛口から入可申事。其外之通口方ハ堅可指止。右東西弐ヶ所之番所方添へ手形を出し、出国之節番人受取置通可中事。 右元禄三午三月晦日 (「憲章簿」辺路之部―)
甲浦口から入境して西に向かうのを順行、
その反対に宿毛口から入境して東に向かうのを逆行
と呼び、このふたつの関所以外からは遍路は土佐に入ることは「堅可指止」と禁止とします。しかし、国手形さえ持っていれば入国を認め「添手形」を発行したことは変わりません。国手形というのは、生地の身分証明書のようなもので、これさえ持っていたら甲浦の番所で添手形(通行許可証)を付けてもらって、土佐国内を巡拝して、宿毛口(松尾坂)番所で添手形を返却すればよかったようです。
  寛延2年(1749)5月2日の定書には
「四国辺路日数百日迄之暇聞届申定」
とあり
「右は詮議之上今日相極、向後右日数願書にも相記載候様、先遣役へ申付置候事」
とあります。
ここからは、藩当局が藩内の人々の四国遍路日数の上限を百日以内に制限していたことが分かります。つまり、土佐の人が四国遍路をする場合は百日以内で帰ってくることを義務づけられていたのです。
享保4年(1719)12月、郷浦・町方に対し次のような改め方を指示します。
他国から入来候辺路(遍路)・六拾六部等改様之事
 右は甲浦、松尾坂両於番所往来切手・宗旨于形見届之上、疑敷者二而無之候ハ犬番人共から可申聞趣は、辺路札所国中之順路従是凡七拾八里有之間、今日から日数三拾日限可被通候。尤一宿之村々二而、庄屋・老改之日次を請可通候。素脇道通り候儀は堅法度二候。(中略)
ここからは、他国からの遍路が甲浦・松尾坂番所から入国する際に、番人から申し渡されたことは、
①土佐藩領内の通過日数を入国から30日以内とする
②遍路途上で一宿した村々では所持の切手に、庄屋から日付と著名、判形をもらう、素通り法度(厳禁)
③日数の遅延とか無益の滞留・脇道の通過などは禁止
という3点です。
土佐領内の滞在日数やルートが新たに指定されています。
こうして土佐藩の遍路取り締まりは強化されていきます    
寛文3年(1663)以降、土佐藩では遍路に対する規制として、出入国改め方、通過日数制限や日時改め方の遵守、脇道通行の禁止、無切手者の取り締まりなどを、繰り返し布令がでています。それだけ問題が多発していたことがうかがえます。そして文政年間以降になると、藩から出される通達はますます細かく、厳しい方向に向かうようになります
 文政2年(1819)には、四国遍路や七ヶ所遍路の出立・帰郷の際に趣向を催すことや、遍路に対する堂社・居宅・道筋においての接待なども、禁止されるようになります。
「時節柄を省みず不心得・不埓な行い」
と、云われるようになります。もっとも遍路順路での托鉢に対して、1銭あるいは握り米等を与えることは、昔からの「せったい」なので差し支えないとしています。
遍路の「多様化」 脇街道に出没する「遍路乞食」
 遍路の通る道は、東の甲浦口と西の宿毛口の指定された街道に限られていました。しかし、遍路の中にはこの規則を無視して他の脇道へ潜行する者も出てきます。信仰的な巡礼よりも生きていくための「物乞いや商売」に重きを置く遍路が現れていたのです。そのため土佐藩は脇道の通行を禁止する通達を、たびたび出しています。何度も出されると云うことは、禁令が守られていなかったことを示します。
天保5年(1834)3月の郡奉行布筈には
「潜行する遍路については、隣村の庄屋と詮議のうえ、問題の無い者へは入国禁止を言い含めて近くの国境より追放せよ」
などの対処法が指示されています。
その年の11月には、一般領民に次のような布令が出されています
遍路の風体をした者が各地に姿を見せ奇妙な行動をしている。医師のまねごと、占い師めいた仕業で庶民の悩みに乗じて金銭を詐取する者がある。弘法大師の灸点などと唱えて人心を惑わす者もある。これは風教の上にも甚だ好ましからとであるから、遍路道はいうに及ばず、脇道であっても取り締まりを厳重にするように」
領民に注意を促したものですが、医師・占い師・灸師の真似事を行う遍路がいたことがうかがえます。遍路姿の「多様な職業人」が村々に入り込むようになっていたのです。
天保7年5月には、
遍路を装って潜入し強盗に変じて治安を乱す者がある、疑わしき者は即刻召し捕りを命じるように
との戒告が出されています。
天保9年(1838)4月には、遍路の激しい流入による社会不安や混雑を防ぐために、取り締まりを厳重にし、他国遍路の入国については、その条件を次のように明確にします。
       覚
四国辺路之儀は元来宿願之子細に依而国々霊場令順拝事にて、往古より御作法を以て通入被仰付置候処、近年右唱計にて専ら乞食同様之族余計入込み、動は不法之儀有之不而己、老幼並病体之者共数百人行掛り令病死、実に御厄介不絶事に候間、猶又此度詮議之上別紙之通廉々相改様被仰付候条、聊か他念無之様改方之作配可有候。已上
   他国辺路之事
生国往来手形、並納経、其余四国路外之者御船揚り切手持参之事。
路銭相応持参之事。
六拾六部廻国之儀は東叡山御定目、並三ッ道具所持之者。
右夫々所持不致者は通し人不相成、右之外病症顕然にて歩行確に不相調者、並老極幼年者共壱人立罷越候者勿論通入不相成、 (後略)     (天保九年)
 ここには近年、遍路と称して乞食同様の者が多く入り込み、不法を働く者のほか老人年少者、病気の遍路が立ち寄って数百人の死者が出るなど、在所に迷惑がかかる者が増加した。そこで今後は、次のものを持っていない場合は入国させない。
①生国往来手形と納経、四国外の者については船揚り切手を所持していること、
②相応の路銀を持っていること。
③六十六部廻国者は東叡山御定目、三ッ道具を所持している者
そのほかに、病症があるものや歩行困難な者や老人や極年少者の単独遍路、身分不相応な所持品を持つ者も通さない。
以上のことをが道番所と郷民に通達されています。幕末が近づくにつれて遍路取り締まりはますます厳しくなっていきます。

四国遍路では、城下町は遍路は通過禁止でした。
例えば真念の「道指南』でも、
「かうち(高知)城下町入口に橋あり。山田橋といふ。次番所有、往来手形改。もし城下にとどまる時は、番所より庄屋へさしづにて、やどをかる。」
とあって、宿を借りる場合には、庄屋の許可がいることが記されています。一般的には、札所は城下周辺にあるので、城下そのものは迂回して通過していたようです。これは、松山以外のその他の城下町も同様です。
城下町の中にあるお寺は、札所にはなっていません。遍路道は城下町を通らないで迂回します。ここからは、城下町が成立した後に遍路ルートは整備されたことがうかがえます。
高知城下が遍路往来禁止になっていた史料です。
「御家中並に町方四箇村において、夜分辺路(遍路)体の者見逢候はば生国の往来切手、並に日次等相改め、疑敷箇条於有之は勿論、疑敷個条無之とも夜分往来又は町端等にて臥り居り候者共は、手寄りの町郷庄屋へ預置き其旨相達し申尽事。但し本文の者夜分五ッ時(午後八時)より内に見逢はぱ日次等相改め、御作法の日数も過ぎ申さず、図らず道に踏迷ひ候て夜に入り申す様の儀、疑敷事跡相見えず候はば、街道の方へ追払ひ申すべく候事」。
  ここには城下において夜に遍路を見た場合には、小国往来手形や日次(宿泊履歴帳)をチェックし、疑いの有無にかかわらず最寄りの町役人宅に連行せよとあります。夜間の高知城下町への遍路の侵入は厳しくチェックされていたようです。
土佐国境の番所手続きを遍路道中記で見てみましょう。
天保7年(1836)遍路の武蔵国中奈良村の野中彦兵衛は、土佐に入り「土佐之国御関所甲ノ浦東股御番所右三月十四日頂戴仕候」
と甲浦の番所で切手と日付帳面を貰い受け、土佐国を遍路します。
その土佐通過の切手及び日付帳面には次のように記録されています。
     切手(印)
 武州旗羅郡中奈良村
一、遍路弐人       彦兵衛
             重蔵
 但し、三月十四日甲ノ浦東股於御番所二相改今日右日数三十日限り松尾坂江参着之筈
右之通委細中含メ候条、尤村々二猶又念入相改メ可申候、尤札所順路之義者御法度之旨申聞候也
 申ノ三月十四日
        和田惣右衛門 印
  甲浦右松尾坂通迄
    順路道筋庄屋衆中(印) 
  覚
 右弐人 三月十四日
  伏越御番所口入也
        北川逸平 印
     入切手弐数也
 右弐人 三月十五日
        出申候 佐貴演
  佐貴ノ演村 同所庄屋寺田房五郎
   (以下略)
 末尾の(以下略)のあとには、前の部分と同様に「右弐人」に「出足の日付」、「庄屋姓名の自署」が順番に、土佐を出る4月22日まで並んでいます。以前見たように土佐藩領内を通過する遍路は、当日宿泊地の村役人(庄屋)の承認印をもらわなければならないという通達が守られていたことが分かります。
そして「右御日附帳面を申四月廿二日ハッ時、松尾坂御番所へ上ル」とあって、彦兵衛は切手と帳面を宿毛国境にある松尾坂番所に差し出して、土佐国を通過し、伊予国に入っていったことが分かります。
 もう一つの例を見ておきましょう。
文化元年(1804)の伊予久谷村円福寺の僧英仙による紀行記録『海南四州紀行』です
これには英仙と弟子の胎仙は土佐甲浦の番所で、役人から右の照暗状(手形・切手・証明書)というものを渡されます。後は自分で小紙6枚を、日限書に綴じ添えます。それを毎日、道筋にあたるそれぞれの村の庄屋へ行って、日付を書き込んでもらいながら遍路を続けています。
右二人出足 五月廿四日 白浜
右二人出足 同廿五日 椎名村
右二人出足 同廿六日 羽根村
(中略)
右二人出足 六月八日 姫ノ井
右二人出足 同九日  宿毛浦
といった記録が並びます。5月23日に甲浦番所から土佐に入国し、6月9日に宿毛の番所に着き、添え手形を返して出国しています。土佐通過に要した日数は17日です。土佐藩の「通過制限日数」の上限は30日でしたから、天候等にも恵まれれば20日以内では通過できたようです。日数制限は、必要日数の倍くらいに定められていたようです。
 ペリーがやって来た翌年、嘉永7年(1854)11月4日、西日本に大地震が発生し、高知には大きな被害をもたらします。
幕末の南海大地震です。このため土佐藩では、四国遍路をはじめ他国人の入国を禁じる措置をとります。その年の11月14日付けの藩通達には
此度之大変(大地震)のために往還の道路が大破し、遍路などが通行しがたいので遍路の入った所の村役人は覚書を添えて、各村々順送りで最寄りの国境から遍路を送り出すように
と命じています。
 こうした措置はしばらく続いたようです。
「藤井此蔵一生記」の文久2年(1862)の条に、藤井此蔵の娘しほが、この年3月10日に6人連れで四国遍路をして、4月9日に30日振二帰村した記事には、
「去る嘉永七寅歳十一月大地震より、土州へは辺路(遍路)一圓入れ不申、只今にては三国漫路に相成候て。歎ヶ敷事也。」
と記し、地震から8年経っても土佐への入国禁止措置がまだ続いていたことが分かります。この期間は土佐を除く「三国漫路」だったようです。

  四国遍路の対応に苦慮し「遍路排斥策」を採っていた土佐藩にとっては、大地震は「遍路入国の全面禁止」策を打ち出す契機になったのかもしれません。土佐藩は地震被害を理由に、その後もなかなか遍路の入国再開を許さないのです。このような動きは明治維新後も続きます。土佐藩内部にあった四国遍路遍路排斥論は、明治になっても役人に引き継がれていったようです。
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書

 江戸時代には「移動の自由」はありませんでしたから、自由に旅することは出来ませんでした。移動は制限されていたのです。しかし、伊勢参りや金比羅参りなど、社寺参詣については「聖なる行為」として寛容だったようです。人々は、参詣にかこつけてぞくぞく国を出るようになります。それが江戸末期の「ええじゃないか」につながっていきます。金比羅詣でが大賑わいになる18世紀後半には、四国遍路にも農民・町人等などの庶民が数多くやってくるようになります。
それでも、社寺参詣への旅立ちには数々の「障害」がありました。
例えば農閑期以外の旅立ちは許されませんし、貢納未納者、負債者等には認められません。日数制限・人数数制限などの「規制」が多くの藩で採られていたようです。特に江戸後半になると各藩の財政は「火の車」状態で、四国遍路への旅立ち制限も強化され、ついには全面禁止に踏み切る藩も出てきます。しかし、抜け道はいろいろあったようです。
 受けいれ側の四国各藩の「遍路対応策」を見ていくことにします。それでは最初は、阿波藩からスタートです
 遍路に寛大な阿波藩
 次の史料は阿波藩が出した、貞享4年(1687)7月28日付けの書付の一節です。
一 他国右参辺路人同行之内相煩候欺(中略)
辺路(遍路)人之儀 寺請状井四国之内於何国同行之内病死仕候共為同行取置 其所之奉行不及申庄屋五人与村人へも六ヶ敷事懸間敷候(中略)
寺持之出家外ハ俗人男女又者道心法主或ハ百人之内九拾人も貧賤之町人土民 殊更其内奥州九州辺からも罷越候 路銀丈夫二不持鉢二相見辺路之内於所々乞食仕四国廻り候様二相見へ候へは待合候得とも路銀丈夫二不持候ヘバ至其時難儀可仕候(中略)
此度之趣急度改候而自古之辺路修行之障二成候ハバ環而如何に候(後略) (「阿淡御条目 百」 貞享四年)
 これは、徳島藩が病気遍路などについての取り扱いを示したもので、病人の村方滞在や病死遍路の取り扱いについて、地方に迷惑が及ばない程度の処置を示しています。現実には病死した遍路を夜間ひそかに隣村内に遺棄したことが多かったようです。
 また、遍路の9割は「貧窮の町人や土民であり、路銀の持参も僅かだから、そのうちには乞食となって四国廻りをするものも少なくない」と藩が見ていたことが分かります。        
 大坂から渡海してくる遍路については、藩から業務委託されている絨屋弥三右衛門と阿波屋勘左衛門が遍路手形を発行することになっていたようですが、中には「不法入国者」もあったようです。 正規の関所を通らずに入国してくる遍路は、「棄民」的な故郷から疎外された遍路たちでした。諸藩からすれば最も入国させたくない存在であったはずです。しかし、同時にこの種の遍路を冷遇しすぎると、藩内の良からぬ情報を他藩に広められたり、場合によっては悪評が公儀に知れわたることも怖れなければなりません。そのためには、江戸時代の前半には、ある程度の遍路に対する優遇策を採った藩もあります。
御国中へ他所右罷越候辺路病気にて郷中滞留仕罷有節向後日数十日過候者応日数壱人に壱人扶持宛可被下置候条被得其意此段兼而可被申付候(後略)
 (「阿淡御条目 百」元禄三年)
ここには、他国からやってきた遍路が阿波藩領で病気になったら、郷中に10日以上滞留した場合は、看病人に対し日数に応じて1人に壱人扶持を与えると記されています。そして本文では、事実海部郡奥浦での病死遍路の看病に対する扶持を与えるよう命じているようです。藩による「遍路救済事業」が行われています。
 
しかし、他国遍路に対して寛大な措置を指示する藩に対して、遍路に対応する現場の町役人からは困惑の様子がうかがえる史料があります。下の史料は、宝永5年(1708)6月の藩通達です。十七番井戸寺と十八番恩山寺の間で、徳島城下を通過する遍路の処置について、二軒屋の町役人が行った問い合わせに対する藩側の回答です。
諸国右参候 四国修行(遍路)人宿借り申度旨願候へとも借シ不申候ヘバ 往還之道二笈等指置何ケと横領申候 右様之義如何仕哉と弐軒屋年寄五人与笹部忠介方へ申出候 故杉浦吉右衛門粟田仁右ヱ門申談廻国之修行宿借シ不申様有之候而は修行之道断絶仕義二候 右修行人本之庄屋又ハ大坂之宿主等往来手形所持仕者之義ハ一宿之宿ヲハかし 右様之手形ヲも不持者ハ宿借シ不申様二可有御座哉と宝永五子ノ六月廿三日山田織部殿へ相伺候

この史料の舞台は、徳島城下の南端にあたる二軒屋で、南の郷村部から城下町への出入口になります。戦前までは木賃宿などが数多くあった所です。古くから遍路たちもこの付近に宿泊することが多かったようです。ここで「四国修行人(遍路)宿借り申度旨」の願いというのは、遍路宿への宿泊のことではなく、民家への「善根宿」の提供を遍路が願い出ていることを述べているようです。町民が善根宿を拒否すれば、民家の軒先などで仮宿をしたり、物品の横領など悪業を働く遍路もあって、その取締りに困っているので、処置を藩に問合せたようです。現場の町役人が期待したのは、「厳しく取り締まり立ち退きさせよ」という内容を期待したはずです。
 ところが、藩の回答は意に反したものでした。
「宿借シ不申様有之候而は修行之道断絶仕義二候」として、往来手形を所持してる遍路には「一宿之宿ヲハかし」と、善根宿を提供せよとの内容です。そして、手形のない遍路には宿を貸さないようにと答えるのみです。これでは、町役人は困ったはずです。無手形の遍路に対する取締まり強化を求めたのに「無手形遍路に宿を貸してはならない」というだけでは、何の解決策にもならないからです。これでは、現場の責任者に悪質な遍路の取り締まりや排除はできません。
 なぜ徳島藩は、遍路に対して強力な取締り策をとらなかったのでしょうか? となりの土佐藩は抑制策や厳しい取り締まりを行っています。阿波藩と土佐藩の遍路対策は対照的です。

   阿波番所の遍路チェックは?
天保年間になると金毘羅詣客が激増します。大坂から金比羅船でやってくる参拝客は、丸亀に上陸して、金毘羅街道を歩き始めます。その中に、天保7年(1836)3月7日に、丸亀に上陸して金比羅には向かわずに遍路路を歩きはじめた男がいました。武蔵国旗羅郡中奈良村の野中彦兵衛です。彼は丸亀から東に向かって遍路を始めます。その動きを追ってみましょう。
 彼は讃岐の大窪寺に参拝すると、讃岐坂本を越えて、大坂口の阿波番所で入国審査を受けます。その際のことを次のように記しています。
「阿州境 大坂、右大坂二おいて松平阿波守様御役所有之、国往来・丸亀上り切手、御引合せ御吟味之上」
と諸切手改めの上で、
「如此二御添書被下通る、阿州出ル時差上可申御事」
と出身国・氏名・日時・番所名の記された簡単な添え書きをもらったと記しています。
 御印 覚
 武州旗羅郡中奈良村
 男弐人    重蔵
        彦兵衛
 申三月九日改メ
       大坂口 御番所(御印)
そして、3月14日に宍喰で阿波から出国する際に
「阿州御番所大坂口から頂戴仕ル御切手、申ノ三月十四日志々具ゑ(宍喰)の御関所へ上ケテ通ル」
と記し、大坂番所で渡された切手(添え書き)を、宍喰番所に提出して通過しています。今の出入国申請書にあたる書類なのかもしれません。宍喰にある土佐と阿波の境目の番所は「古目御番所」
と呼ばれていました。
大坂口の番所に関しては、江戸後期のものと思われる次のような興味深い文書があります
 高松藩と境を接する大坂(口)番所を控えた板野郡吹圧呵の組頭庄屋吉田次郎兵衛は、郡代奉行に宛てた遍路取り締まり強化策を、次のように願い出ています。
近年四国辺路体之者御国へ入込、専徘徊仕、随而土州表之義は路銀無之辺路は御境目紘之上、直に追返候趣に候、右に付御国へ立帰り前段之懸りに候得は、辺路体之内には盗賊も紛込候義も可有之候、依之所々御境目等におゐて路銀無之乞食之辺路、老若男女不限直に追返し候様、於然は盗賊究りにも罷成、自然と減じ可申候条、究り方之義存寄可申上旨被仰付奉畏乍恐左に奉申上候
          (年不詳)
  意訳すると
近ごろ四国遍路の入国が激増しているが、土佐藩では国境の番所で路銀を持たない遍路を追い返し入国させないため、阿波国に滞留する始末である。その中には盗賊が紛れ込んだりしている状況も生まれている。土佐が行っているように、境目番所でも路銀を持たない乞食遍路についてはどうか。そうすれば盗賊も自然に減少するであろう。と土佐と同じような厳しい対応を求めています。具体的には以下の3点です。
一 御境目往来筋住居仕居申百姓共へ 逸々被仰渡乞食辺路体之者見及候節直に 追返候様兼而被仰付置度御事
一、山手村々五人組共へ被仰忖、月々相廻り制道仕候様被仰忖度御事
一、村々番乞食共往来筋並抜道等相考、乞食体之者又は胡乱成体之者行逢候節、御境目迄追戻し候様被仰忖度御事、大坂口御番所讃州より四国辺路通り筋に而御座候へは、四国辺路に相紛、乞食体之者入込申様に相聞へ申候、右御番所におゐて念を入相改候様被仰忖度御事
右之通究り方山手村々へ被仰忖候はゝ自然と薄さ可申と奉存候に忖右之段奉申上候(後略)
                   (年不詳)
要点は
①境目や往来筋の百姓たちに、乞食で遍路の体裁をした者を追い返すよう前もって命じておくこと、
②山手の村々の五人百姓へは月々見回りを強化して、道筋をよく抑えさせること、
③村々の番には乞食の体裁をした者や胡乱(うろん)者に行き会ったら境目まで追い戻すように命じ、大坂口番所にても念を入れて遍路改めをおこなうこと
 ここからは当時の阿波では悪質なニセ遍路も横行していたようで、藩境に設置されていた番所では、村役人たちもその処置に対して「もう少し強硬な対応を」という意見を持っていたことが分かります。
   このように幕末が近づくにつれて遍路の数も多くなり、さまざまな人たちが遍路として流入してくるようになったことが分かります。これに対して、阿波藩は土佐藩のようになかなか強硬策打ち出さなかったようです。そのため現場の役人からは「もっと強い措置を!」を求める声が上がっていたようです。

次回は、阿波とは対照的に対遍路強硬策をとった土佐藩を見ていくことにします。
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書


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明治初期の四国遍路の停滞要因は次の2点だと云われています。
①神仏分離令と廃仏毀釈運動による札所の衰退
②地方行政の担当者による遍路の排斥政策
前回は①について見てみましたので、今回は②について見ていこうと思います。3土佐史料
明治維新後、地方行政は四国遍路をどのようにあつかったのでしょうか。
それを見ていくの参考になるのが『近世土佐遍路史料」です。これは個人が集めた資料を謄写版刷りしたもので、まさに「明治前期の遍路事件簿」とも言えるものです。この資料集を見ていくことにしましょう。
 明治初めの高知藩では、遍路に対するそれまでの政策を踏襲しています。例えば、遍路の出入りは東の甲浦口と西の松尾坂口に制限し、その他の国境を通るのは許していません。
  (明治元年)十一月廿三日
 四十杖之上 向後御国禁足 立川口御堺目方追払
       紀州有田郡黒井村 忠口
       信州水内郡柳本村 口蔵
       予州仁井郡大吹村百姓 政口娘つる
右は四国霊場為順拝今十月阿州路方地名不存御堺目を潜り入来 追々欠連二相成袖乞等を以罷越中岸本浦二おゐて被差押段重御国法相背不埓之至二付如此①           (当罰者縮帳)
この史料は明治元年(1868)の秋に、伊予土佐街道の笹ヶ峰越を超えて、土佐の立川に入って袖乞い(物乞い)しながら遍路を続けていた3人の遍路についての処置報告です。捕まって杖打ち40回の体罰を受けたうえで、立川口から伊予へ国外追放となっています。

 続いて明治2年と明治5年の事件を見てみましょう。
  (明治二年)十二月七日
  一 死鉢無別儀
       播州揖東郡太田村 善口郎
右者今十二月四日病気之鉢二而長浜村往還端二罷在 同村五人頭作次行掛り同礼蔵後家ふぢ方へ連行医療を受遣ス中 
翌朝相果候旨届出於地下掛合之者共為遂吟味処右善口郎義 四国霊場順拝御境目を忍入来 順路中病気相発趣右病中及発言旨申出於存命は遂吟味当罰被仰付筈之処令死失二付如此  (当罰者縮帳)
  (明治五年)二月十三日
 四十笞罰申付筈ノ所 廃失者二付被差免本県へ被差返
遍路が長浜村(現高知市)の道ばたで行き倒れになったというものですが、調べてみると「四国霊場順拝御境目を忍入」と、「不法入国者」であったことが分かったようです。本来は四十笞罰」ですが病人のために免じて国外追放にしたようです。決められた関所以外から入った者は、笞罰の上に国外追放になっていたようです。
   阿州妙道郡榎本東口郎伜
            道学寺弟子 口坊
   紀州有田郡土居村 芳江衛門娘 口江
       勢州桑名 立花屋勘口娘 し口
病気二有之右四国霊場為順拝罷越於諸々袖乞致し貰受品長浜村神社におゐて炊仕成致す処火不始末を以 右社為及焼亡段不念之至二付如是           (罰帳)
 これは、阿波と紀伊の3人の遍路が長浜村の神社において袖乞いでもらったものを炊事したところ、火の不始末によって神社を焼失させたという内容です。遍路が神社などに、たむろすることは問題になっていたようで、一宮神社(現在の土佐神社)から土佐藩に、遍路が社内に勝手に泊まったり火を焚いたりすることに対して、「立入禁止」にしてよいかと聞き合わせる伺書も残っているようです。一宮の場合は、江戸時代末までは三十番札所でしたし、城下町近郊という立地条件からも、物乞いをする遍路が集まりやすかったようです。
次は明治元年と明治7年の「犯罪」事件です。
  (明治元年)七月四日
 百杖両腕焼印之上 重テ御国禁足
 松尾坂御境目方追払
      御国禁足者 予州宇和島郡平磯村 久蔵
右は去ル丑年以来霊場順拝として都合三度御国内江忍入時二禁足を以御境目占追払被仰付といへとも又候入来り 於山田村二被差押処右順拝中今六月佐喜浜井佐古郷二おゐて麦三升余盗取代束而拾六匁余二売捌其他手結浦人家二忍入金壱両三歩壱朱盗取右金銭令所持罷在段禁足之身柄をも不顧
度々御境目を犯し剰令盗業事共重々不届之至二付如此
                   (当罰者縮帳)
これは霊場巡拝を理由に、三度密入国を繰り返しては、その都度追い払われてきた伊予宇和島の久蔵という男が、懲りずに高知県に入り込んで麦3升余りを盗んで売りさばいたり、金1両3歩1朱を盗み取ったりしたため、杖打ち百回のうえ両腕に焼き印を入れて以後入国を禁じたと報告されています。
 「自分儀七歳ノ節父母二連ラレ四国地順拝致シ居り八才ノ節途中二於テ両親共病死致シ 夫ヨリ辺路鉢二相成住所不定諸所浪々中 本年六月中御当国へ立込ミ山分筋二於テ功能無之丸薬ヲ取拵へ愚民ヲ惑カシ 諸所二於テ價三円計りノ丸薬売渡シ候事右之通相違不申上候   以上
   明治七年十一月  喜口元口吉」
 「伊予国松山産 無籍人 喜口元口吉
功能ナキ丸薬ヲ売利徳ヲ得ル者雑犯律違令重キニ擬シ
懲役四十日」⑥                (罪按)
この明治7年の史料は、両親が病死し身寄りのなくなった伊予松山生まれの喜口元口吉という男が遍路姿て効能のない丸薬を売ったため、懲役に科したというものです。この場合は、自らの犯罪のために遍路という習俗・信仰を利用していたともいえます。結果として、他国からの遍路に対する地域の人々の不信感をかきたてることになったかもしれません。
行政による遍路抑制策
 明治3年(1870)10月14日に、六十六部を禁止する太政官布告が出されます。中世以来の回国巡礼である十六部の禁止は、米銭などの施し物を乞う行為が乞食と同様に考えられた結果だと云われます。この禁止令は、各地方の巡礼対策に大きな影響を及ぼします。続いて同月28日には虚無僧が禁止され、翌年11月9日には僧侶の托鉢が禁止されます。托鉢については、明治14年になって、解除されますが、近代国家をめざす日本の指導者層からすれば、袖乞いはもちろん托鉢も物乞いをして歩く行為に変わりはなく、
「文明国家にふさわしくない禁止すべき野蛮な行為」
と思われていたようです。
こうした中で四国各県の行政当局は、遍路に対しどういう対策をとったのでしょうか
高知県では、明治5年2月に、次のような禁止令を出しています
遍路乞食体ノ者ハ所在村役人二於テ之ヲ国境ヨリ追放チ且ツ人民タルモノ総ヘテ右体ノ者へ施物等ヲナスモノアルヲ禁ズ
此節他県管轄遍路乞食体ノ者入来徘徊致シ候趣ニ付 戸長以下什長二至迄精々遂不審印鑑所持不致者ハ戸長作配ヲ以最寄御境目ヨリ追払之首尾有之筈
但捕卒巡卒共見逢次第取計候時ハ戸長へ引渡 右同断作配ノ筈窮民礼不願受者袖乞不相成候二付 当県他県ノ無差別縦令遍路体ノ者タリトモ右札所持不致者へ食物米銭等総テ手ノ内ノ施致シ候議 決而不相成旨諸所へ掲示可致事⑧
                  (高知県史料三)
内容を確認しておくと
①県内を徘徊する遍路・乞食体の者のうち印鑑を持だない者は、戸長以下が最も近い県境から県外に追放せよ
②袖乞いをする者のために「窮民礼」を発行し、これを持たない者の物乞い行為を禁止する
しかし「窮民礼」が、どこがどのようにして発行していたのかは記されていません。
同じ年の秋、香川県からも同じような内容のものが出されています
  仏法に沈溺するの情より、遷路乞食等ヘー銭半椀の小恵を施し乞食等も亦甘んじて小恵に安んじ、更に改心の期なし。却て害を招く基と相成、甚以宜しからざる儀に付、今後右等小恵を施し候儀堅く不相成万一右の令にそむく者これあるにおいては、爾後其者厄介に申付儀もこれ有るべく候条、何も心得違いこれなき様致すべき事。

家に袖乞いにやってきた遍路に施物を与えた場合は、その者の厄介に申し付けるというのです。、これが当時各地でとられた方策のようです。京都府や埼玉県でも同様の事例があります。明治5年6月の『広島新聞』6号には、埼玉県の農業某が食を乞うて来た者に施しをなし、かつ軒下に止宿せしめた廉によりその者を厄介として申し付けられたという事例が挙げられています。
3土佐史料2
 明治6年4月と11月には、愛媛県からは次のような布告が出されています。
  明治六年四月
  愛媛県布達番外 正副深戸長エ
遍路物貰等之儀ハ夫テ不相成段兼テ御布達ニモ相成居候處 此節二至テモ猶旧習ヲ存シ四国順拝杯卜唱へ人之門二立テ食ヲ乞ノ類全ク野慢ノ弊風ニテ其醜態不可云モノ也、又食ヲ与ルモノハ佛説之所謂後生之為坏卜心得候ハ必竟姑息ノ私情ニシテ 却テ人民保護ノ障碍タル事無論二候 條深々ノ長タル者此理ヲ篤卜了解シ、遍夕管内ノ人民二説諭シ、向後屹度心得違無之様厚ク注意致シ、
右義ノ者ハ見富り次第速カニ呵責放逐シテ片時モ管内二置ヘカラス、モシ食ヲ興ル者ハ送り付ノ入用等出費中付且品ニョリ屹度可及沙汰候條此旨蓬々無洩可鯛示候、尤右等ノ儀ハ医長戸長ノ責二候條説諭於不行届ハ其役前ノ落度タル可キ者也

①遍路物貰(ものもらい)については度々、禁止令を出してきたがいまだに後を絶たない
②家々の門に立って食を乞う行為は「野慢ノ弊風」、後生のためなどと考えて食物を与えるのは「姑息ノ私情」であり、「人民保護ノ障碍タル事」である
③区長・戸長に対しては、遍路に食を与える者があれば県外へ送り出す際の負担を申し付けよ、
④与えた品物によっては厳しく取り調べを行え
と通達を守らせようとしています。しかし、その結果はかんばしくなかったようです。わずか7ヶ月後には、次のような通達が出されています
  明治六年十一月三十日  愛媛県布達第百三拾九号
本年四月番外ヲ以遍路物貰ノ儀及告諭置候處今以徘徊致候者有之、右ハ全ク姑息ヲ以食物等與ヘ候者有之ヨリ立入候儀二付 以后一銭一飯卜雖遍路乞食二與フル者ハ厳重二捜索シ兼テ相達候通原籍へ送り立候 人足ヲ始総テノ旅費ヲ為差出可中且原籍無之向ハ其家工附籍可申付候事
ここには、一銭一飯といえども遍路物貰いに施しをする者に対しては、遍路を送り帰すための一切の費用をを負担させる。それだけではなく、遍路が原籍のない放浪者であった場合は、その家に「附籍」を申しつけるという風に変化しています。4月のものに比べると文章全体にかなり強い調子が読み取れます。その家の戸籍入れるというのは、香川県の「厄介」よりも厳しい措置のように思えます。
 同様の布達は、翌年(1874)3月にも出されます。さらに12月には
「乞食物貰ノ儀二付旧県以来毎々相達候次第有之、猶又昨六年四月布達ノ趣モ有之候處自然等閑に相成此節往々徘徊致哉二相聞以ノ外ノ事二候」
と記して、去年の4月に通達をを出しているにもかかわらず遍路を称する物貰いが徘徊しているとして、よそから来る遍路を追い払うことの必要性と、施しを行う者への処罰を重ねて強調しています。
 何度も同じ禁止令が出されるのは、それが守られていない証拠であることを歴史文書は教えてくれます。ここでも当局の禁止にもかかわらず遍路に対して施しを続ける者が極めて多かったことがうかがえます。長い歴史の中で育まれた「おせったい」の心は、通達では禁止できなかったようです。付候事
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  行政の遍路抑圧策に答える民間の動き
四国各県の行政機関は、強硬な遍路対策を取ったにもかかわらず、多くの人々によって遍路に対する施しは続けられてきたことを見てきました。しかし、『近世土佐遍路資料』あったように盗みを行う遍路、ニセの丸薬を売りつける遍路などは地元民の眉をひそめさせたであろうし、結果として、他国からの遍路に対する地域の人々の不信感をかきたてることになりました。地方行政当局が遍路に対して強硬な政策をとった背景には、知らない人物が村に入り込むことによる治安悪化を恐れる地元民衆からの、一定の支持があったも考えられます。
 明治9年(1876)、高知県日高村の植田直吉は、大小区公撰民会に次のような議案を提出します。
「辺路物乞イ風体ノ者ハ時態二不都合ノ所業」とし、さらに「遍路風体の者たちもいったんは御布告(明治5年の禁令か?)で姿を消したが、また近ごろ各地にあらわれ始めている。彼らは村はずれの川原や堂社にたむろして、昼間は家々をまわって米や金を乞うては、ついでに家の中をうかがい、病人でもあれば占いや祈祷などでとりいろうとする。また夜になると作物を盗もうとする泥棒同様の者も少なくない。今後この区内ではそのような者たちをいっさい近づけないようにすれば、やがて自然と立ち退くだろう。」
という意味のことを述べたうえで、最後にこう結びます。
「禍ヲ招カサル先キニ安寧取締ノ覚悟肝要タルヘキ衆議希望シ候也」
これはムラの治安維持を求る村民の側からの遍路排斥の動きです。
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このような動きは愛媛県でも見られます。
    定   愛媛県県村
遍路乞食其他物貰へ金穀食物等相与へざるは勿論、宿泊等決て致させ申まじく、万々一此約定を犯すものは近隣より直責し大井分署へ引出すものとす。若し物貰来た其場に居る申は共に引出可申。又強談する場合に至りては、近隣或は組合にても村内のものへ呼掛、共に尽力し、立退かざるときは速に警察へ連絡すべし。其者出頭せざれば分署へ急報し警官の指揮を受くべきものとす。⑩
    乞食施興禁過規約 愛媛県桑村郡宮之内村
                  明治十九年六月
第三條 遍路乞食二ハ金銭米麦ハ勿論何品ヲ問ハスー切施与セサルモノトス
第四條 前条ノ約二違ヒ施与セシモノアルヲ見留タルトキハ直チニ組長二申告スルモノトス
第五條 規約二違ヒ米麦物品施与セシムルモノアルトキハ違約者二於テロ施人身分二係ル諸費一切ヲ負複弁償セシムルモノトス
第七條 違約者無資カユシテ諸費弁償シ能ハサル者ハ金額ノ多寡二応シー日己上五日以内力役セシメ之ヲ償シムルモノトス
第九條 遍路乞食体ノ者村内二徘徊スルヲ目撃スルトキハ速二戸長役場又ハ分署又ハ巡回ノ巡査二申告スルモノトス
ここには、地方行政当局の意を「忖度」した村の指導者が「遍路排除」運動を指導しているのがうかがえます。これらは村民からの同意を得たのでしょう。その内容は「遍路乞食」にお金や食物を与えないように申し合わせるとともに、遍路に対する警察の介入を積極的に求めているのが注目されます。特に県村では、施しを行たり宿泊させたりした者に対して、隣近所の者がその責任を問うて警察に引き出すとしています。宮の内村では、違反者が弁償としての費用を出せない場合は力仕事を課すとあります。これらの決議や規約がどこまで厳密に守られたかについては分かりませんが、四国巡礼の遍路にとっては「世知辛い世の中になった」と感じたことでしょう。
      高知県「土陽新聞』の遍路排斥論
明治半ばを過ぎると、維新の混乱が収まるとともに猛威を振るった廃仏毀釈の嵐も過ぎ去り、四国を訪れる遍路は次第に回復してきました。しかし遍路の増加は、地域によっては大きな問題になっていきます。そのことを示しているのが、明治19年(1886)5月に3日間にわたって高知県の『上陽新聞』に連載された「遍路拒斥すべし」と題し、遍路の拒絶・排斥し物乞いを追い払うことを強く求めた次のような論説です。
 まず冒頭で「遍路乞巧拒攘論」を持出さし事態は切迫しているとして
「遍路には相応に旅金をもって身成も一通整へて来るもあれども、其れにしても真に祈願の為めに来るは少く。つまらぬ事にて来るもの多きことなり。、 其の大半は旅金も携へず穢き身成にて朝より晩まで他人の家に食を乞ふて廻り。巡拝も祈願も何んの其の主(もっぱ)らは四方八方を食ひめぐるに在り。」
と、遍路の大半が祈願のためではなく物乞いであると主張します。
そして遍路がやって来る弊害を3点挙げます。
まず、甚だ危険なるは悪病の蔓延を媒介すること是なり。特にコレラ病の如きは尤も不潔に取り付き易き先生にして遍路のごとき者が績々他県より侵入し来るときは之れを蔓延せしむること必然の勢なり。」
次に、他人の家に食を乞ひ得る所不十分にして糊口に難渋するに至っては、変じて強盗となり強盗と為り極めて凶悪の行いを為す者あり。(中略)是れ第二の大害也。」

さらに「老体の者や幼弱の者は或は食に尽きて餓死すえうものもあるべく。或は病に罹りて病死するもあるべく。寒中に於ては凍死する者も間々之れあり。概して行倒れと云ふ者が多く有ることなり。ソシテ其の行き倒れがあれば必ず戸長場の厄介と為る。戸長の厄介は即ち人民の迷惑なり損害なり。是れ第三の大害なり。」
要約すると
①伝染病の媒介
②強盗などの発生、治安の悪化
③行き倒れの処置の問題
この3点から遍路が大きな社会不安の根源になるというのです。
 では、どうしたらいいというのでしょうか?  対策として挙げるのは次の4点です
①「県下の各町村津々浦々までいづれも其の町、村、津、浦、の申合せを為し彼の遍路に対しては一切何物をも恵与せざることと致し。
②「町村津浦の國道とか蘇道とかに富たる處を除き其他へは遍路乞食は一切立入らしめざること」
 遍路がやって来ても、食を乞う所も身を置く所もないような状態して、これを2・3年続ければやがて来なくなるだろうします。
③県境付近い巡査に命じて他県から侵入しようとする遍路物乞いを捕えて先の事情を告げ、
「公然の道路を往来する人の自由なれば敢て威権を以つて汝等を遮るにはあらざれども迂闊に往くなれば却って困るやうになるだらうから成る可くならば往かないが宜しからふ」
と説得させる。・・・是れ第三の方法なり。」
④四国内にとどまらず日本の大政府に法律を作り、遍路なり何なり卒然他人の門内に侵入して食物其他の物品を乞ふことを制止させられんことを欲する也。」
以上4点を解決策として主張します。
 そして最後に、
「今の遍路乞巧の如きは宜しく拒斥すべし逐攘すべし。由し彼等に於て益々土佐の国を鬼國などと評すれば評するに任かすべし。遍路輩に物を与へざるが為めに鬼の名を受くるが如ぎこ我が土佐の國の一向頓着せざる所なり。」
と、断固たる口調で遍路の排斥を繰り返します。
これが新聞の「社説」として載せられます。

 これを載せた『上陽新聞』とは、どういう新聞なのでしょうか?
当時、自由民権運動を推進した政社として立志社は有名です。その出版部門から「海南雑誌」と『土陽雑誌」という啓蒙雑誌が出されていました。この2誌を統合して明治10年(1877)から新たに発行されたのが「土陽新聞』です。民権思想を盛り込んだ刊行物としての水準は高く、高知の人々の政治的自覚を促す上で大きな役割を果たしたとされます。
 その誌面に載せられたこの論説は、4面から構成される紙面の第1面下段にあります。紙面上からも力を入れて書いた文章であることがうかがえます。無署名ですので誰が書いたかは分かりませんがこの新聞の主筆として専ら筆を執っていたのは、『東洋大日本国国憲按』の起草で知られる民権家植木枝盛(1857~1892)です。状況的には、彼が書いた可能性が高いと思えます。少なくとも植木枝盛の同意の上に書かれたものであるとは云えます。

 自由民権運動の中核的な新聞だけに、筆者は貧民が多数発生するような当時の社会自体の問題についても言及しています。しかし、施しを乞うて生活する遍路について、
「強壮にして働きを為せば出来る者が食を乞うて来たからと云って恵与するが如きは決して宜しからざることなり。又初めより他人を的にして食を乞ふで廻るが如き者をば、之れに何も与へざれば止めるやうに為るべけれども与ふるときは、何時迄も他人を的にして乞食を止めず。」
と記し、遍路の大半は怠惰から慟かない者だという考えが見て取れます。この筆者の排斥論には「働こうとしない」人々に対する嫌悪感が根底にあるようです。
 「働かず者、食うべからず」という「論理」は、日本の近代化を指導した知識人階級に共通する意識だったようです。ここには「弱者」への視線はありません。
 食を乞いつつ旅を続けた人々について、真野俊和氏は次のように述べています。
「私たちの文化のなかで、かつて乞食とは単なる貧民のことではなかった。(中略)
定住農民の対極にあって独自の文化の創造者でもあった。その意味で彼らの存在はまさに文化英雄の名にふさわしい。(中略)
しかし、遍路であれその他の巡礼であれ、あるいは旅芸人・渡り職人であれ、旅の中で食を乞う流民たちは、近代社会の中ではもはや厄介者にすぎない存在になりつつあった。

論説掲載のちょうど1か月前、4月9日の『朝野新聞』は「浪遊者処分法」を制定して乞食を北海道に送りこんで、土地開墾を行わせる案が検討中であると報じています。これを先の論説と併せて考えると「浮遊民の有効活用で近代国家建設」というシナリオを、時の政府は考えていたことが見えてきます。

県による遍路に対する取り締まりの実行                  
 もう一度、「土陽新聞』の論説にもどりましょう。この提言に対して、どんな反応があったのか。それについては5月22日「上陽新聞」雑報の欄に、
遍路拒斥すべし乞巧逐攘すべしとは、本社の痛論する處なるが、聴くところによれば我高知警察署に於ても、今度各警察署及び交番所の巡査に命じ、物乞いの徒は見当たり次第に之を所轄警察署に連れ来り一日一銭八厘づつの食を与へ置き、五日或は十日留置き、其の集る本籍へ追ひ返すことにせられしとか、誠に斯くの如くなれは、今後懸下に此奴等の跡を絶つに至ることにて頗ぶる結構なる次第也」
と、掲載から1か月もしないうちに警察が積極的に動き出したことを伝えています。4日後の5月26日には、
「本県警察署にて遍路乞食の徒は残らす本籍に追ひ返さるることになりし由、前号の紙上に記載せし、いよいよ昨日より之を宣行あることとなりて、現に高知警察署乃一手にて同日東西へ護送せられし分二百名にも及ひしと云ふ」
と報じています。これが事実だとすれば、かなり厳しい措置がとられたことになります。おりしも京都・東京では、この時期に同時進行で虚無僧の取り締まりが行われていました。
 遍路に対する取り締まりは、その後も後も続いたらしく、明治23年5月27日の『上陽新聞』では、
「客月廿日より三十日まで県下各警察署並びに分署に於て取扱ひたる遍路乞食放還者にして県内市町村役場へ交付し若しくは国境より放還したる人員は、合計273人」
と伝えています。その10年余り後の明治34年3月21日にも「本年2月1日より十日迄各警察署に於て追ひ払ひたる遍路乞食の数381人」
という記事が見えます。
 これについてある研究者は
「明治の歴史の暗い断面を覗かせるものだ。これを仮に、高知県内の当時の乞食遍路の総数に近いものとし、また四国の平均値と仮定すれ四国全体でで1100名~1500名以上となる」
と推測しています。
 高知県から遍路物乞いを一掃するという目的の下に始まった編組排斥運動ですが、本当に効果があったのでしょうか。
 明治34年(1901)2月21日には、次のような記事が載せられています。
「是迄市外柳原のほとりに露を敷寝の草枕で敢果なき夢を結び居たる遍路乞食は其数5名程度なりしが此の程に至り滅多に頭数が殖えたるにより、昨日或物好きが数へ見たるに正しく31人ありたり、警察署にて遍路狩りを執行し日数も未だ経たざるに斯く多人数となったるは抑も何ゆゑにや」
と、警察が遍路狩りを行って、まだ間もないにもかかわらず、高知市郊外の柳原に集まる遍路の数が31名に増加したのはどうしたことかという疑問を呈する記事が載っています。
 さらに同年12月24日の記事には、
「愛知県丹羽郡岩倉町酒井鍬吉といふは、四国辺路となりて合力を乞ひながら歩き廻る中、県下長岡郡某村駐在巡査の遍路狩りの獲物となりし処、此奴遍路の僻に仲々理屈をこねる奴にて
阿方(あなた)は何故に私の旅行を妨げますか。旅行は私の自由で御坐ります
と云張り後免警察署に連れ来られし後も頑として不服を唱ふる所により種々申聞たるも聴かす出高の上検事局及び警察本部へ警官の取扱を不法なりとして訴へ出でた」
とあり、反発する遍路も現れ、警察も手を焼いている様子を伝えてます。これを見ると、遍路取り締まりの効果があがっているとはいえないようです。

その後、遍路に対する取り締まりは、どうなったのでしょうか?
以前紹介した高群逸枝は『娘巡礼記』(1918年)の中には、遍路の取り締まりについて次のような話が出てきます。彼女と同行の伊東老人が、高知県の三十九番延光寺の経営する木賃宿に、同宿6人で滞在するこになったときのことです。
「彼等の云ふ所では、遍路する者は幾らお金持ちでも日に七軒以上修業しなければ、信心家とは云へないさうな。而も其の事は法律上からは禁ぜられて有る。
四国を十何回巡ったという愛知の人は、次のように語る。
「それは、出雲へ参拝の途であった。ふと或る家で修業してゐると、巡査に見付かつて逃げるに逃げられず遂に捕まって了ひ、暫らく警察署に留置され、或る処に護送され、一週間馬鹿馬鹿しい目にあわされた事が有ったことだ。
 又宿毛でも同じ目に合ひ伊予境まで追ひやられた事もある。そこで信心と法律とは矛盾してる形だから変だ。つまり四国遍路のお修業は公然の秘密になつてゐる。」
ここでいう修業とは、托鉢のことのようです。
徳島県では、二十番鶴林寺の山を下りた二人が村の人に宿を尋ねると善根宿を行っている農家を紹介してくれたのですが、そこの親切そうなお爺さんは、
「此頃警察が八釜(やかま)しくなりまして善根にでもお泊めすると拘留だの科料だのと責められますからお気の毒だが納屋でよろしいか。」
と、声を低めて言うのである。

 遍路旅の終わり、九州に渡るために愛媛県八幡浜の木賃宿に滞在中に、二人は実際に「遍路狩り」に遭遇しています。その時の様子を、高群は次のように詳細に記録しています。
 しばらくさわいでゐるうちに階下で警官の声がする。
 老人と娘?然うか。一寸来いと云って呉れ」
 二階から下へよび出され見ると二人の巡査さんで有る。
一人は上り口に腰掛け、一人は土間に立っている。
『ナニ此の娘?此りやお前の孫か。原籍氏名を述べろ』
まるで罪人扱ひだ。
 (中略)
『娘、お前は何の為め出て来た』
大喝が私の方にまはつて来た。
「心願が御座いまして」
『名は? もう一度云って見ろ』
「逸枝と申します」
二人はジロジロ私を見てゐたが暫くすると、
コラ遍路。お前達は何か。矢つ張り遍路姿か」 
此度はお爺さんに切尖(きっさき)が向く。
「へえ、お大師さまに詣るのだから遍路姿でなくちや仕方ありません」
「馬鹿、遍路と云ったが何うした。貴様腹を立てたんか。
幾ら身分は有っても遍路ぢや」
「オイ詰まらない。行かう」
二人はサツサと出て行って了った。
私も其屋二階に引返した。
 何だか滑稽なやうな。
でも彼れが警官の職責かなぞ思って、微笑んでゐると、お爺さんはプンプン腹を立てている
 「人を罪人だと思ってやがるが何だ あの横柄な態度は」
    (中略)
「けふは遍路狩だつせ。何人も警察ひかれたや云ひまつせ」
 浮かれ節屋さんが帰って来て、一同に告げ知らせる。
其晩は、道理で盲女の遍路さん遂々捕つて回置場へひかれたと云ふ事が分った。捕ったが最後国境まで護送されて追つ払ひとなるのだと皆が話している。
逸枝と二人の警官とのやりとりは、話がかみ合っていなくて漫才のやりとりのようで面白いのですが、遍路取り締まりの生々しい様子がうかい知れます。これは10月23日のことですが、この年は7月から米騒動が起きて、寺内正毅内閣が崩壊しています。愛媛県下でも8月には郡中町(現伊予市)の騒動を最初として何件かの暴動が続いていました。八幡浜でも小さな騒擾があったようなので、警察も治安維持に神経を遣っていたことが分かります。
 
 昭和になって書かれた遍路記からは、取り締まりに遭遇したという記述は見られなくなります。
遍路の取り締まりがいつまで続いたかはよく分かりません。しかし、地方行政機関による一連の政策が明治前期の四国遍路停滞の一つの大きな原因となり、後の時代まで継続的に行なわれていたことは事実のようです。
   いまでは「お接待の心でおもてなし」と行政が音頭取りをしています。しかし、かつては行政は、四国遍路に対する圧迫・取り締まりを行っていたという事実も知っておいてよいでしょう。


慶応4年(1868)9月に元号を明治と改元、欧米の文化・制度を積極的に取り入れて、明治維新の大変革が始まります。封建制度が崩れて藩境の関所が取り除かれたことは、手形無しでどこでも自由に通行できる時代がやってきたことを意味します。「移動の自由」を庶民が手に入れたのです。ところが、明治前期には遍路の数は減少して一時的に停滞期を迎えます。どうしてでしょうか?
 遍路の動向を知るために、幾つかの札所に残る過去帳から1,345名の遍路を抽出してグラフにまとめたものを見てみましょう
2グラフ1
このグラフからは次のようなことが読み取れます
①18世紀後半から遍路の数は増加傾向を見せ始め
②19世紀前半にピークを迎える
③明治初期には1/3に激減する
 2グラフ12
西国巡礼の数を比較してみると、次のような事が分かります
①天保期の巡礼者の増加率は四国遍路の方が大きい
②明治維新前の政治的混乱で巡礼者は四国は半減、西国は1/4に激減する
③明治になって、西国に回復傾向は見られるが、四国遍路にはみられない。
この2つのグラフから分かることは、明治前期はしばらく停滞の時期が続いていたということです

明治前期の遍路の停滞の要因は何だったのでしょうか?
それは、次の2点のようです。
①神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動による札所の衰退
②地方行政の担当者による遍路の排斥政策
  今回は①の神仏分離・廃仏毀釈運動が札所に与えたダメージを見ていくことにしましょう。
 遍路行の第一の目的は、言うまでもなく札所において読経・納経し、札を納めることでしょう。いまの寺社ブームも、納経帳と朱印帳がなければ、これほどまでには成長しなかったかもしれません。納経・朱印を目的に多くの若者達が各地の寺社を訪れる時代がやって来ています。もし、その寺社が「明日から朱印は押せないよ」と云われれば、人気寺社を訪れる朱印マニアの人たちはがっかりすると同時に、参拝客も激減することが予想できます。
 明治維新には、そんな状況が現れたと云うことです。
その原因は「廃仏毀釈」です。札所の多くが衰退したり、廃寺となって一時的に消滅してしまったのです。やってきた巡礼者は納経も朱印ももらえません。神仏分離については、以前にお話ししましたので簡略に記しておきます
①外来宗教である仏教と日本固有の神に対する信仰を調和・合体させる神仏習合が進んだ
②この正当化のために、神はもともとは仏であって衆生を救うために仮に神の姿で日本に出現したという本地垂迹説が広がった。例えば、天照大神の正体(本地)は、実は大日如来だとされた。
③この結果、神を祭る神官よりも仏をいただく僧侶の方の立場が強くなる。
④こうして江戸時代には、幕藩体制と結びついた寺院が、別当寺・神宮司など呼ばれ神社の管理を行っていた。僧侶が神社を管理していた。
 ところが、幕藩体制の崩壊・明治政府の成立とともに一変します。明治政府は近代国家の出発に際して、王政復古・祭政一致の方針を取り、天皇の神権的権威のもとに神道の国教化を掲げます。
その最初の政策が「神仏分離」だったのです。
 まず、神社にいた別当や社僧としての僧侶を認めません。
彼らの還俗と僧位僧官の返上を求めたのです。これに真っ先に答えたのが奈良の興福寺の僧侶達です。一斉に春日大社の神職に変身します。うち捨てられた興福寺は、廃寺のような存在となって荒れ果てていたことは有名です。
 これに続いて、讃岐の金毘羅大権現の社僧も神官になり、琴平神社と名前を改め、大権現は追放します。このように僧侶達が雪崩を打って神官になった結果、神宮寺などは廃寺になる所が数多く現れたのです。
土佐で神社が札所だった所は?
元禄2年(1689)に刊行された寂本の『四国偏礼霊場記』には、札所として「仁井田五社」「石清水八幡宮」「琴弾八幡宮」など神社名が記されています。また近藤喜博氏は、神仏習合的色合いの濃かった札所として、一番・二十七番・三十番・三十七番・四十一番・五十五番・五十七番・六十番・六十四番・六十八番の10か所を挙げています。これらの札所は神仏分離で、今までは神社とその別当寺が一体化していたのが分離されます。そして、寺院である別当寺が正式な札所なります。例えば
①土佐の仁井田五社は、別当寺である岩本寺が三十七番札所となり、
②伊予清水八幡宮については別当をつとめる山麓の寺が栄福寺として五十七番の札所へ
③讃岐の琴弾八幡宮は、別当寺の神恵院が六十八番札所へ
こうして現在のような、八十八ヶ所の札所が全ては寺院で構成されるようになります。それでは高知と愛媛の状況を見てみましょう。

  廃仏毀釈の展開と札所 高知県の場合
土佐藩は、比較的規模の大きな寺院は檀家が少なく、藩主の保護のもとで広い寺領を持っていました。大きな寺は庶民的性格を持っていなかったのです。四国遍路の札所でも、堂塔が壊れたりすると、檀家である藩主の手によって修理が行われています。
 ところが維新後、高知藩の「社寺係」となった国学者北川茂長は、きわめて強力な廃仏政策をとります。まず明治3年(1870)に廃仏的意図を持って、寺院から土地山林を没収し、僧侶の還俗を要請する布告を出します。さらに旧藩主山内家自身が、それまでの仏葬祭をすべて神葬祭に変更するのです。山内家の菩提寺として寺領100石を有していた真如寺は還俗し、神官として教導職をつとめるようになります。殿様の菩提寺が廃寺になります。
 これを見て士族のほとんどが神葬祭に転向し、庶民に対しても神葬祭が勧められます。真如寺の跡地は神式葬祭場になってしまします。このような風潮の中で廃絶する寺院が続出し、土佐国内の寺院総数615の約3/4にあたる439寺が廃寺になるのです。
 四国遍路の札所については、土佐16か寺中、津照寺、大日寺、善楽寺、種間寺、清瀧寺、延光寺の7か寺から廃寺の届出が出されます。届け出のない札所も、実質的には廃寺に近いものもだったようです。
明治4年に高知藩では、神葬祭を広め、あわせて廃寺となって失業した僧侶を救済するために、彼らを「神葬祭式取扱」に任命して神葬祭を行わせています。しかし、翌年5年9月には一斉に罷免しています。これについて、ある研究者は次のように記しています。
「華々しく(?)開始された神葬祭式も、たいして効果があがらず、この時をもって終止符がうたれたと考えたい。」
このころから高知県における廃仏の動きは収束していったようです。どちらにしても神仏分離の展開で、札所の寺院が廃寺状態で機能しなくなっていたのは事実のようです。
 明治11(1878)になって島根県から来た遍路の小須賀おもとの納経帳を見ると、そこには二十五番「旧津寺」、三十五番「旧清瀧寺」とあるので、まだこれらの寺が廃寺のままであったことが分かります。三十三番は高福寺(雪蹊寺の古称)となっていますが、ここも廃寺同然になっていたようで、納経事務を竹林寺で代行しています。
 これら寺院の名称が復活していくのは明治10年代以降です。
①雪蹊寺は明治12年、
②種間寺・清滝寺は明治13年に
③岩本寺も明治22年(1889)
に一応の復興にこぎ着けたようです。

讃岐の七十六番金倉寺で、このころ広がった霊験話を紹介しましょう。
明治10年に、不自由な両足で四国遍路を回っていた男が讃岐の金蔵寺で、突然に足が直り、立って歩けるようになります。この男は、和歌山県の北岡増次で、その霊験話はたちまち四国各地に広まります。その後も彼は遍路を続け、四国中の善根宿などで歓待を受けます。その彼が翌年に金蔵寺に送った手紙には、善根宿は土佐が最も熱心なことや、土佐では位牌を焼き捨ててなくなった家が多いので仏法のありがたさを説いて位牌を作り、私戒名を授けたことなどが記されています。
ここからも、過激な廃仏毀釈の熱狂が冷めた後の土佐の反動がうかがえます。しかし、廃物の動きが収まった後も、その傷跡はかなり後の時代まで残ったようです。
例えば、明治40年,室戸岬の最御崎寺を訪れ滞在した小林雨峯は、この寺の衰退ぶりを嘆いて、日記に次のように書き残しています。
其の僧坊伽藍の荒廃衰残の状 大抵の人は皆慨嘆の声を洩らすのが普通である。(中略)
荒廃せる坊中にあつて再興のためによく種々の困難に凌ぎつつある住僧の辛抱強きには驚嘆せざるを得ないんだ。風吹き雨降りし一日、雨滴は本尊前の縁板を流れて居る。予の臥つて居る室の一角の天井板は全く傾いてしまって、それを仰臥して見つめて居ると、将に落ちんとする状がある。
杉の帯戸の向かひの座敷は全く跡形なく荒廃し戸を開く事も出来ぬ始末である。日本有数の霊場と日本有数の廃坊を余は室戸崎に於て見るのである。」
廃仏の嵐が過ぎ去っても、寺院の復興は一朝一夕にできなかったことが分かります。明治の時代を通じ、各札所で経済的に厳しい状況が続いていたのです。
 平成の時代になってようやく解決に至った「三十番札所の問題」
これも神仏分離・廃仏毀釈がおおもとの原因でした。江戸時代に出版された遍路関係の著作物によると、もともと三十番札所は「土佐国の一宮」、すなわち高鴨大明神社(現在の土佐神社)でした。その別当寺として神宮寺と長福寺(善楽寺)があったようです。ところが神仏分離で、まず神宮寺を善楽寺に合併させ、続いて善楽寺を廃寺とする措置がとられます。そのため、ふたつあった別当寺が両方ともなくなってしまいました。
 そこで善楽寺の本尊は二十九番国分寺に合祀され、三十番の納経は国分寺で兼ねることになったのです。ところが明治9年(1876)に安楽寺(高知市洞ヶ島町)が旧善楽寺の本尊を国分寺から移して、ここを三十番の札所とします。
 昭和になると一宮村の有志連中が旧善楽寺跡に善楽寺(高知市一宮)を再興して三十番札所とします。その結果、ふたつの三十番札所が並立することになってしまいました。こうして、両寺の間で三十番札所をめぐる争いが起こり、長い間、高知を訪れる多くの遍路を迷わせてきたのす。この問題はが解決したのは、平成の代になってからでした。三十番札所は善楽寺、安楽寺はその奥の院ということで決着したようです。

 愛媛県の状況   明治初期の札所の経済的な困窮
愛媛県における神仏分離・廃仏毀釈の動きは土佐に比べるとはるかに穏健に進められました。しかし、六十二番宝寿寺のように檀家を持ちながら一宮神社と分離後に廃寺とされ、明治10年になって再興されたという札所もあります。
 ここでは明治期の札所を経済的な側面から見てみましょう
 上知令によって寺領は没収され、札所を経済的困窮に追い込まれます。例えば上知については、明治4年(1871)に
「社寺領現在ノ境内ヲ除くノ外一般土地 上知セシツ…」
という命令が出されます。さらに、地租改正の際には境内付属地までを含めた上知が命令されます。明治4年の旧松山藩領寺院の上知記録を見ると、寺領の推移は次のようになります。
①石手寺は、 4町6反 → 1町8反
②番繁多寺は、4町9畝 →   4反8畝
③太山寺は 10町   →約1町です。
②③は1/10になっています。それまでムラの庄屋と同じ位の田んぼを持っていた大寺院が、持っている田畑を政府に奪われたのです。経済基盤を失い、今までのような財政運営が出来なくなり困窮化する札所が続出するのは当然です。

 また、檀家のいない寺は廃寺にすべしという命令が出されます。
五十五番南光坊は、大三島神社の神宮寺で檀家は持ちませんでした。そのため4・5軒の家に頼んで檀家になってもらい廃寺をまぬがれたと云います。栄福寺も住職が還俗していなくなり、なんとか新しい住職がやって来ますが、寄付を頼む檀家がなく、茶碗や鍋さえ整わないという時期があったといいます。
 四十六番浄瑠璃寺では、住職が庫裡の裏を畑にして芋などを植えてしのいでいたが、とうとう耐え切れず出て行ってしまい、無住になったので檀家総代が建物を管理し、葬式や法事の際には近所の寺から僧侶に来てもらっていたと云います。遍路が納経を頼みに来た時には、近所に住んでいた総代が出て行って朱印を押したそうです。このような経済的な困窮が札所を襲い、後継者もいなくなってしまいます。
 石鎚信仰の中核だった前神寺・横峰寺と廃仏毀釈
 愛媛で最も大きな打撃を受けたのは、六十番横峰寺・六十四番前神寺のふたつの札所でしょう。江戸時代半ば以降、石鎚山の別当職を争ってきた両寺ですが、金毘羅大権現と同じく「石鎚大権現は神にはあらず」という明治政府の前に廃寺の憂き目を見ることになります。
 前神寺の札所の特徴は、石鎚修験道の核として蔵王権現を祀ってきました。ところが明治3年(1870)の神祇官通達で
「仏像と判断される蔵王権現は祭るに及ず」
という決定を受け取ります。つまり、蔵王権現を祭る前神寺の存在そのものが否定されたのです。これに対して住職は、権現像を山上に安置して庶民の信仰維持を図り、行政に抵抗します。ところがその最中の明治5年に本堂と庫裡が火災で消失しています。そこで無住になっていた末寺の医王院に移り、権現像は封印して地元の戸長に預けられました。3年後には、県から正式に廃寺通達が送られてきます。これに対して、寺側は裁判を起こして抵抗しますが決定は変わりませんでした。
しかし、その後も檀家総代から寺の存続を求める嘆願書が提出され続けます。明治12年には檀家は協議の上で「前神寺復旧出願」を提出します。これには180余戸の檀家の祖霊祭祀に支障が出ていることや六十四番札所としての数百年来の信仰の問題などを述べたうえで、次のように記されます
寺号ニテ御差支ノ廉モ有之候ハバ 御指揮二従ヒ前寺卜改寺号仕候ナリトテモ 再興一寺建築願ノ趣御採用ノ程奉懇願候
これに対して県は
「故寺号ニテハ差支ノ儀有之候条、前寺毎号候儀卜心得ベシ」
と回答し、前神寺では許さないが前上寺なら許そうという条件で再興が認められます。そこで、現在地にとりあえず前上寺(ぜんじょうじ)という名称で再建します。前神寺にもどるのは、それから10年後のことです。
 横峰寺も石鎚神社西遥拝所横峰社となって、廃寺になってしまいます。
檀家は六十一番香園寺の檀家とされます。六十番札所がなくなってしまったので、同じ小松町の平野部にある清楽寺に札所が移されました。そのためこの時期の納経帳には、六十番札所として清楽寺の印が押されているようです。
 横峰寺も前神寺と同じ時期の明治10年に地元の檀家総代より再建願いが出されます。そこには
「二百三十余戸ノ檀中一同(中略)香園寺へ埋葬相頼来候共 
遠隔之地ニシテ実二困入夙夜悲難仕候」
と記されて、香園寺が村から遠すぎるために葬式の際などに大変困っていることを訴えています。そのうえで、
「一寺永世維持方法相調ント勉励シ(中略)今年二至り五百円二満ツ(中略)反別五町村中共有地二罷在候 間土地上木共永世寄付仕候条偏二再建之旨奉懇願候]
と、寄付金を集めて、村の共有地も寄付すつもりなので、ぜひとも寺の再建を認めて欲しい訴えています。
 こうして翌年には、愛媛県令から再興を認める決定を引き出します。横峰寺は、明治13年にまずは大峰寺という名称で復活します。その後の清楽寺との協定で、清楽寺は前札所ということになり、六十番札所は山の上に戻ってきました。横峰寺の旧称に復帰するには、さらに30年近くの年月が必要でした

以上、神仏分離が札所に与えたダメージを土佐と伊予について見てきました。この打撃のために札所は廃寺になったり、無住となって札所の機能が果たせなくなった所が数多く出てきたようです。それが明治初期の四国遍路の激減につながったというのがまとめになるのでしょうか。
  讃岐や阿波にの神仏分離政策については以下の関連記事をご覧ください。タグ「讃岐の神仏分離」
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
        平成12年度遍路文化の学術整理報告書
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