瀬戸の島から

2020年04月

4 塩飽大工
  
前回は「塩飽大工」という本に導かれながら島の大工の活動を見てきました。そこからは明治当初の塩飽では700軒を越える家が大工を生業としていたこと、それは3軒に1軒の比率になることなど、大規模な大工集団がこの島々にはいたことを見えてきました。塩飽は人名の島、廻船の島でもありますが、大工の島でもあったことが改めて分かりました。
3  塩飽 戸籍$pg

もう一度、明治5年の壬申戸籍に基づいて作られた上表を見ていきます。
ここには各浦毎の職業別戸数が数字化されています。例えば、本島の笠島(上から3番目)は、(カ)列を見ると人名が95名がいたことが分かります。ここが中世以来の塩飽の中心であったことが改めてうかがえます。(イ)列が大工数です。(エ)が笠島の全戸数ですので、大工比率は(オ)38%になります。
大工比率の高い集落ベスト3を挙げると、
①大浦 65%、 72軒
②生ノ浜61%  43軒
③尻浜 58%  28軒
で3軒に2軒は大工という浦もあったようです。
「漁村だから漁師が住んでいた」
という先入観は捨てないと「海民」の末裔たちの姿は見えてこないようです。ちなみに小坂浦は漁業230軒で、大工数は4軒です。そして、人名数は0です。ここが家船漁民の定着した集落であることがうかがえます。
 人名の次男たちが実入りのいい宮大工に憧れて、腕の良い近所の棟梁に弟子入りして腕を磨き、備讃瀬戸周辺の他国へ出稼ぎに行っていたことを前回はお話ししました。
どんな所に出稼ぎに行っていたのでしょうか?
備讃瀬戸沿岸地域の棟札調査からは、塩飽大工の活動地域が見えてきます。
4 塩飽大工出稼ぎ先

表の見方の説明のために、本島の泊浦(上から4番目)を見てみましょう。泊浦は本島の南側に開けた集落で、中世以来讃岐とのつながりの強い集落です。ここには50人の大工が明治5年にはいました。
彼らの先輩たちが残した寺社建築物が、どこに残っているかがわかります。
「倉敷・玉野」、「浅口倉敷」と讃岐の三野郡(現三豊市)の3つのエリアが群を抜いて多いようです。この3つが泊の大工集団のお得意さんであったことが分かります。
他の大工集団の動きを、「塩飽大工」では次のように指摘しています
・本島笠島  
総社市新本地区と井原市に多い。井原は大津寄家が大規模で参画人数が多くなっている。
・本島大浦  倉敷市に集中し、備中国分寺五重塔(総社市)に関与
・本島生ノ浜 倉敷市と総社市が多い。橘家の活動が大きい。
・本島尻浜  岡山県を広く活動。矢掛の洞松寺、大通寺が目立つ。
・本島福田  矢掛町、笠岡市が多い。明治には丸亀もあり
・広島    讃岐が多い。東坂元村(丸亀市)へ移住した都筑家の影響か?
・高見島   倉敷市に限定し、中でも連島地区が多い。
 この表から塩飽大工の出稼ぎ先について見えてくることは
①圧倒的に倉敷市が多く、次に総社市で、このふたつで5割を超える
②備前池田領、讃岐松平領など「大藩」が少ない。
③浦によって、出稼ぎ先が固定している。
④17世紀までは讃岐への出稼ぎが多く、18世紀になると備中が全体の7割近くを占める
  これらの背景を研究者は、次のように分析します。
①②については、岡山・高松の大きな藩はお抱えの宮大工集団がいるので、塩飽大工に出番はなかった。
③については、例えば本島泊浦から三野郡に29の寺社の建造物を建てているが、それは、泊浦の山下家が高瀬、三野、仁尾へ移住し、移住後も島からの出稼ぎが続いたため。
 各浦の宮大工集団には、お得意先ができてテリトリーが形成されていたようです。それでは、讃岐を活動の舞台とした泊浦の山下家の動き追っていくことにします。
4塩飽大工 山下家

山下家は上から4番目になります。その寺社建築は
①17世紀初めに極楽寺(牛島)から始まり
②以後は、讃岐の仁尾で、八幡神社(仁尾)→賀茂神社(仁尾)を手がけるようになります
塩飽大工で最も多い建築物を残す大工集団で、活動期間が長く人数も多かったため次のような分家が出ています
もう少し詳しく山下家本家の活動について見ておきましょう

4 塩飽大工 極楽寺
牛島極楽寺 「無間(むげん)の鐘」
丸尾家と同じくこの島を拠点としていた長喜屋宗心が1677年に寄進したという梵鐘
①1620元和6年 極楽寺(与島)建立から聖神社まで80年間で16の建造物造営、 極楽寺は、牛島を拠点に活躍した塩飽廻船の丸尾家の菩提寺です。檀那は丸尾家で、財力に任せた寺社建築を、棟梁として出がけたのでしょう。この時の経験や技術力が後に活かされます。
②与島での仕事と同時進行で仁尾でも活動しています。
 高見島や粟島での神社の仕事を請け負った後で、仁尾から依頼が来るようになります。1631寛永8年から60年間の間に、仁尾の賀茂神社・履脱(くつぬぎ)八幡神社に6つ建造物を造営・再建しています。与島での仕事と並行する形で仁尾でも神社建築を行っています。後には羽大神社と恵比寿神社も再建します。
③1671延宝2年 地元泊浦の木烏神社再建
④1687貞享4年 冨熊八幡神社(丸亀市) 本殿、1707宝永4年 同拝殿建立。
⑤1710宝永7年 高瀬(三豊市)の森神社を建立。
⑥1822文政5年 沙弥島(坂出市)の理源大師堂建立
 泊山下本家は泊浦に住みながら三野の仕事場に、長年船で出向いていたのでしょう。もちろん毎日「通勤」出来るわけはありません。三豊に家を構え出張所のような存在ができ、それが、高瀬、三野、仁尾へ移住し、分家(支店)となっていったようです。
高瀬山下家の活動について
山下家本家から分かれた泊山下分家は、九兵衛実次に始まり、理左衛門実義、小左衛門実重と続きます。この家系の理左衛が寛文年間(1670年頃)に高瀬へ移住し、高瀬山下家が始まったようです。
泊山下分家の実績を詳しく見ておきます
 棟札による高瀬山下家の建造物
 氏名      居住 建造年     建造物      所在  
山下理左衛門実義 新町 1671 寛文11 弥谷寺千手観音堂 三野町
山下理左衛門真教    1676 延宝4 八幡宮      高瀬町
山下七左衛門   新町 1681 延宝9 弥谷寺御影堂   三野町
山下七左衛門   新町 1683 天和3 弥谷寺鐘楼堂   三野町
山下利左衛門豊重    1696 元禄9 賀茂神社長常   仁尾町
山下理左衛門豊重 新町 1699 元禄12 賀茂神社社殿   仁尾町
山下利左衛門豊重 下高瀬新町1702 元禄15 履脱八幡神社拝殿 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下甚兵衛理左衛 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛    新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村  1710 宝永7 森神社      高瀬町
山下理左衛門豊重 新名村  1716 享保元 善通寺鐘楼堂   善通寺市
山下甚兵衛賞次  新名村  1718 享保3 宗像神社     大野原町
山下甚兵衛賓次  新名村  1718 享保3 中姫八幡神社   観音寺市
山下利左衛門豊重 新名村  1722 享保7 賀茂神社長床   仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村  1723 享保8 賀茂神社幣殿拝殿 仁尾町
山下甚兵衛賞次  新名村  1724 享保9 千尋神社    .観音寺市
山下利左衛門   新名村  1724 享保9 千尋神社     観音寺市
山下理左衛門豊之 新名村  1734 享保19 賀茂神社釣殿   仁尾町

ここから琴平移住?
山下太郎右衛門  苗田村  1760 宝暦10 善通寺五重塔(,建始)琴平町
山下理右衛門豊春      1823 文政6 石井八幡宮拝殿  琴平町
山下理右衛門豊春      1824 1文政7 石井八幡宮    琴平町
                琴平綾へ改名
越後豊章    高藪町  1837 天保8 金刀比羅宮旭社  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1841 天保12 金刀比羅宮表書院 琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1849 嘉永2 金刀比羅宮寵所  琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮米蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮通夜堂 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮法中部屋琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1854 嘉永7 金刀比羅宮廻廊  琴平町
綾九郎兵衛門豊矩 高藪町  1857 安政4 金刀比羅宮宝蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6 金刀比羅宮奥殿  琴平町
綾九良右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6 金刀比羅宮高燈寵 琴平町
綾坦三      高藪町  1875 明治8 金刀比羅宮神饌所 琴平町
綾坦三      高藪町  1877 明治10 金刀比羅宮本宮  琴平町
  (作成:高倉哲雄)
①高瀬山下家の三野郡最初の作品は、弥谷寺千手観音堂(三豊市三野町・1671寛文11年)のようです。
この棟札の高瀬山下家の棟梁の居住地は「新町」とあるので、すでに下高瀬新町に移住していたようです。それから25年後に利(理)左衛門豊重が棟梁として仁尾の賀茂神社(三豊市仁尾町1696元禄9年)を建てています。仁尾へは元禄までは山下本家が直接に出向いていましたが、この時から以降は、高瀬分家が仁尾を担当するようになります。これは、40年間も続く大規模で長期の仕事だったようです。
仁尾の仕事の後に、高瀬山下家の棟札が見つかっていないようです。
分家と考えられる新名村を居住とする棟梁の名前はありますが、高瀬新町の山下家の棟梁の棟札は三豊では見つかりません。高瀬山下家「空白の90年」が続きます。この時期の高瀬山下家は困窮していたようです。その打開のために、金毘羅さんの麓の苗田(のうだ)へ移住したのが太郎右衛門です。
 彼は、善通寺に売り込みを行って受け入れられ、善通寺五重塔(三代目)の材木買付に関わったことが、再興雑記(1760宝暦10年)に出てきます。ただし、五重塔の棟札には彼の名がありませんので、棟梁格ではなかったのでしょう。
 これをきっかけに高瀬山下家は再興の機会をつかんだようです。
石井八幡宮(琴平町苗田)の棟梁として理右衛門豊春が棟札に記されています。しかし、これには彼の居住地は記されていませんので、苗田に住んだ太郎右衛門の系なのか、高瀬の系なのかが分かりません。
 1831天保2年に、金毘羅大権現の旭社(旧、金光院松尾寺金堂)の初重上棟の脇棟梁に綾九郎右衛門豊章の名前が見えます。
4 塩飽大工 旭社

これは山下理右衛門豊章が金光院の山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。
 豊章という名前からは、豊春の子ではないかと研究者は推測していますが、確証できる資料はないようです。その子の豊矩がは、高燈寵を建て、明治になると名を坦三と改めて、金刀比羅宮本宮の棟梁を務めています。

4 塩飽大工 旭社2
  以上から幕末に金毘羅さんで活躍した大工のルーツは、
塩飽本島泊の山下家 → 高瀬山下家 → 琴平へ移住し改名した綾氏
塩飽大工の系譜につながるようです。

  次に【三野山下家】 を見てみます。
三野山下家の過去帳が下表です。
4 塩飽大工 三野山下家

①最も古い棟梁は弥平治(1697元禄10年11月13日)になるようです。屋号が大貴屋となっていて、本来の屋号塩飽屋ではないのですが元禄以前に汐木(三豊市三野町)へ移住していたようです。
②棟札に初めて名が出るのは、吉祥寺天満宮(1724享保9年)の山下治良左衛門です。その後、吉祥寺と本門寺のお抱え大工のような存在として、両寺院の建築物を手がけています。そして、江戸末期には領主が立ち寄るほどの格式の家になっていたようです。
最後に仁尾山下家を見ておきます 
4 塩飽大工 仁尾山下家

仁尾と塩飽の関係は、1631寛永8年の賀茂神社鐘楼堂に始まり、それ以後賀茂神社天神拝殿(1694元禄7年)までは泊山下家が出向いています。そして、1696元禄9年賀茂神社長常からは、高瀬山下家に代わっています。仁尾居住の山下家とはっきりしているのは賀茂神社門再建(1800寛政12年)の藤十郎からです。
 仁尾山下家には安左衛門妻佐賀の位牌(1804文化元年没)が残ります。この位牌から安左衛門または子の藤十郎がこれより一世代前に、塩飽本島から仁尾へ移住したと推測できます。ただ、仁尾山下家は高瀬から分家移住という可能性もあるようです。
 仁尾と塩飽大工の関係は350年以上も続き、確かなものだけでも履脱八幡神社、賀茂神社、金光寺、吉祥院、常徳寺、羽大神社、恵比寿神社があります。仁尾の寺社建築の多くは、塩飽大工の手によって建てられたようです。
最後に三野山下氏が残した本門寺の建物を見ておきましょう

4 塩飽大工 本門寺
  本門寺は高瀬大坊と呼ばれる日連正宗派のお寺です。この寺は東国からやって来た秋山氏が建立した寺で、西国で最初に建立された法華宗寺院の一つとされます。広く静かな境内には山門、開山堂、位牌堂、客殿、御宝蔵(ごほうぞう)、庫裡など、立派な堂宇が建ち並んでいます。この寺には、次のような棟札が残り、三野山下家との関係を伝えます。
1726享保11年 前卓  工匠    山下治良左衛門藤原義次
1727享保12年 宝蔵  大工頭領  山下治良左衛門吉次 

1781天明元年 本堂  棟梁    汐木住人山下浅治郎
          旅棟梁同所 山下吉兵衛 山下守防
          後見 丸亀住人 三好与右衛門宣隆
           丸亀住人  藤井善蔵近重
          大工世話人 比地村 九左衛門
1811文化8年 大法宝蔵 大工棟梁 山下治良左衛門暁清 
1819文政2年 庫裡 棟梁禰下治郎左衛門暁次
           後見 森田勘蔵喜又      
1822文政5年庫裡 棟梁 山下治郎左衛門暁次
           後見 藤井善蔵近重      
しかし、この中で現存するのは本堂だけのようです。

4 塩飽大工 本門寺2
「桁行5間 梁間5間 入母屋造 向拝1興 本瓦葺 総欅造」
日蓮聖人の御影が座すので御影堂とも呼ばれ、本門寺一門の本堂として御会式を始め重要な儀式が行われる所です。建て始めから棟上げまで58年もかかっています。
「塩飽大工」には次のように紹介されています
側面は角柱、正面は円:札、組物は出組。中備墓股は波や草花文様が凝っており風格がある。長押と頭貫の間を埋める連子と、両併面の荘重甕が上品である。軒二軒角繁(のきふたのきかくしげ)。妻飾りは二重虹梁大瓶東で、結綿は鬼面が虹梁を噛む。虹梁間の慕股は、二羽の島が羽を円形に広げて向かい合う二つの円と一羽が大きく羽を円形に広げた一つの円で珍しい。隅垂木を担ぐ力士像は良い表情をしている。向拝は角柱、組物は連三斗、正面墓股の龍や木鼻の獅子は躍動感がある。内部にも木鼻の獅子や墓股など外部と同系の彫刻が施されている。

 隅垂木を担ぐ力士像は近重作と銘があります。後見人の藤井善蔵近重が彫っているようです。
 以上をまとめると
①塩飽大工は浦毎に大工集団として棟梁に率いられて活動した
②讃岐三野郡には、本島泊の山下家の大工集団がやってきて島嶼部の粟島などの神社を手がけた
③その後、仁尾や託間の寺社建築を手がけ、出稼ぎ先に定住する分家も現れた
④高瀬山下家は、琴平への移住し綾氏と改名し、金毘羅大権現の旭社(小松尾寺金堂)の棟梁として活躍
⑤三野山下家は、日蓮宗本門寺のお抱え大工として活躍
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会

  下の表は明治5年の壬申戸籍に基づいて作成された集落別職業別戸数です。
3  塩飽 戸籍$pg

塩飽の各集落の職業別戸数にもとづいて、地区ごとの大工比率が出されています
(イ)は大工数で総計は707人
(エ)が地区戸数で塩飽全体の総戸数が2264戸
(イ)÷(エ)=(オ)で、全体で31%、3軒に1軒が大工
ということになります。
細かく見ていくと本島の大浦・尻浜・生ノ浜、広島の茂浦・青木・市井、豊島の7集落は、半数以上が大工です。漁民の数と大工の数が、ほぼ一緒なのです。漁民の多い本島小阪、佐柳島、瀬居島には大工が少ないようです。
 私は塩飽の大工について、次のように考えていました。
廻船業で活躍した人たちは、海上運送業業の不振と共に漁業に進出するようになった。同時に、造船業に従事していた船大工が宮大工や家大工に「転進」したと、勝手に考えていました。しかし、この表からは私の予想しなかった塩飽の姿が見えてきそうです。
塩飽の大工集団がどのように形成されたのかを探ってみましょう。
まずは塩飽に木材加工職人や船大工が大量に入ってきた時代があります。その時代のことを見てみることから始めましょう
文禄元年の豊臣秀次の塩飽への朱印状に、塩飽代官に朝鮮出兵に向けての「大船」を作ることが命じられたことが記されています。時の代官は、そのための船大工や木材を集めます。この時代の塩飽や小豆島は、キリシタン大名の小西行長の支配下にありました。堺の通商ネットワークに食い込んでいる小西家によって各地から船大工をはじめとする造船技術者たちが塩飽本島に集められ、大船建造のための「造船所」がいくつも姿を現したのでしょう。そこでは朝鮮出兵のための軍船が造り続けられます。
3  塩飽 関船

この時には「関船」という軍船を短期間で大量に作ることが求められました。そのため技術革新と平準化が進んだと研究者は考えているようです。
  この時に新開発されたのが「水押(みよし)」だと云われます。
3  塩飽  水押

水押は波を砕いて航行することを可能にし、速力が必要な軍船に使われるようになります。それが、江戸初期には中型廻船にも使われるようになり、帆走専用化の実現で乗員数減にもつながります。船主にとっては大きな経済的利益となります。これが弁才船と呼ばれる船型で、塩飽発祥とも言われますが、よく分かりません。
3  塩飽  弁財船

この弁財船をベースに千石船と呼ばれる大型船が登場してくるようです。
 江戸時代になると塩飽は、廻船業を営む特権的な権利を持ちます
 そのために造船需要は衰えません。また、和船は木造船なので、海に浮かべておくと船底に海草や貝殻が生じ船脚が落ちます。それを取り除くためには「船焚(タデ)」が必要ですし、船の修繕も定期的に行なわなければなりません。
4 船たで1
船焚(タデ)で船底を焦がして、フナムシを駆除
牛島の丸尾家や長喜屋などの大船持になると、専用の修繕ドッグを持っていたと伝えられます。このように塩飽には、大小の船持が多くの船舶を持っていて、高い技術を持った船大工も数多く揃っていたのではないでしょうか。そこで作られる廻船は優れた性能で、周囲の港の船主の依頼も数多くあったのかもしれません。こうして、近世はじめの塩飽には、船大工が根付く条件が備わっていたのではないかと研究者は考えているようです。
  塩飽の造船所については、ドイツ人医師・シーボルトが「江戸参府紀行」に、次のように書き残しています
 文政九年(1826)6月12日の本島・笠島港の見聞です。
 六フイートの厚さのある花崗岩で出来ている石垣で、海岸の広い場所を海から遮断しているので、潮が満ちている時には、非常に大きい船でも特別な入口を通って入ってくる。引き潮になるとすっかり水が引いて船を詳しく検査することが出来る。人々は丁度たくさんの船の蟻装に従事していた。そのうち、いく隻かの船の周りでは藁を燃やし、その火でフナクイムシの害から船を護ろうとしていた。
  ここからは次のような事が分かります。 
①花崗岩の石垣で囲まれた造船所ドッグがあり、潮の干満の差を利用して入港できる
②引潮の時に何艘もの船がドッグに入って艤装作業が行われている
③藁を燃やし船焚(タデ)作業も行われている
造船所の構造と船タデの様子が、よく分かります。そして、ここは下関と大阪の間で、船を修理するのにもっとも都合のよい場所だという註釈まで加えられているのです。笠島浦に行った時に、この「造船所跡」を探しましたが、いまはその跡痕すらありませんでした。ちなみに、備後の鞆には残っているようです。

4 船たで場 鞆1
            鞆の船焚場跡

従来の説では、塩飽の宮大工は船大工が「陸上がり」したものだと云われてきました。
 塩飽で船持が鳴りを潜めた時代に、船大工から家大工への「転身」が行なわれたというのです。造船や修繕の需要が少なくなって、仕事がなくなった船大工が宮大工になることで活路を見い出したという説です。瀬戸内海を挟んだ岡山県や香川県には、塩飽大工が手がけた社寺が幾つも残っています。それらの寺院や神社建築物の建立時期が、塩飽回船が衰えた18世紀半以降と重なります。

3 吉備津神社
 例えば、岡山県吉備津神社がそうです。
備中一の宮にあるこの建物は鳥が翼を拡げたような見事な屋根を持ち「比翼入母屋造吉備津造」で名高いものです。この本殿・拝殿の再建・修理が宝暦九年(1759)から明和六年(1769)にかけて行なわれています。そのときの棟札には、泊浦(塩飽本島)出身の「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」と工匠の名前が墨書されています。
 
4 塩飽大工 棟札
吉備津津神社本殿修造の棟札。
下部中央には「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」の名がある(岡山県立博物館蔵)


以前にも紹介しましたが、善通寺の五重塔も塩飽大工の手によるものです。幕末から明治にかけて長い期間をかけてこの塔を再建したのも塩飽大工左甚五郎です。
  彼らは浦ごとに集団を組んで、備中や讃岐から入ってくる仕事に出向いたようです。それが次第に仕事先の丸亀や三豊の三野、金毘羅あたりに定住するようになります。このように塩飽の宮大工が、船大工に「転身」したという従来の説は、大筋では納得のいくものです。しかし、これに対して「異議あり」という本が出ました。これがその題名もそのもの「塩飽大工」です。この本は、地元の研究会の人たちによる備讃瀬戸沿岸の塩飽大工の手による建築物の調査報告書的な書物です。
4 塩飽大工
その中で、調査を通じて感じた「違和感」が次のように記されています。
自分の家を家大工に立てさせた宮大工
 塩飽本島笠島浦の高島清兵衛は宮大工で、1805文化2年に月崎八幡神社鐘楼堂(総社市)を弟子の高島輿吉、高島新蔵とともに建ています。同じ文化2年に清兵衛の自宅を、隣浦の大工妹尾忠吉に建てさせているのです。その棟札に宮大工の清兵衛一族の名はないというのです。つまり、宮大工として出稼ぎに出ている間に、島の自宅を地元の家大工に建てさせているのです。ここには、船大工、宮大工、家大工の間に、大きな垣根があったことがうかがえます。宮大工が片手間に民家を建てることや、船大工が宮大工の仕事に簡単にスライドできるようなものではないようです。それぞれの仕事は、私たちが考えるよりもはるかに分化し、専業化していたようです。
その例を、この本ではいくつかの視点から指摘していますので見ていきます。
例えば、技術面でも船大工と宮大工に求められたものは異なります
船大工は秘伝の木割術に基づき、材の選定、乾燥、曲げ、強度、耐久性、水密と腐食防止等、高度な設計技術と工作技術が求められます。舵・帆柱等は可動性、内装には軽さと強さといった総合的な技術が必要であることに加えて、莫大な稼ぎにかかわるため短期間で完成させなければならないという条件があります。
宮大工は、本堂のような建造物を、数十年という長い年月をかけて、神仏の坐する場所にふさわしい格調と荘厳に満ちたものにする専門技術が求められました。そこには彫刻技術が必須です。
 船は木材の曲げと水密技術が多用されます。それに対して寺社は、曲りを使わずに屋根の曲線は精密な木取りで実現します。宮大工は船大工に比べて非常に高価ないい大工道具を使ったといいます。船は実用性優先で、寺は崇高で洗練されたものでなけらばなりません。
 このように見てくると、従来から云われてきた
「塩飽大工は船大工の転化で、曲げの技術を堂宮造りに活かした」
という説は成り立たないと「塩飽大工」の筆者は云います。棟梁格が臨機に船大工と宮大工を兼ねたということは考えられないとして、塩飽には宮大工と船大工の二つの流れが同時に存在していたとします。
 ただ、小さな民家の場合は、船大工でも宮大工でも片手間で建てることができます。船乗りという仕事は、海の上で限られた人数で、船を応急修繕しなければならないこともあります。みんながある程度の大工技能を持っていたようです。江戸中期までは、冬場は船が動きませんでした。仕事のない冬の季節は、大工棟梁のもとで働く「半水半工」が塩飽にはいたかもしれません。
 ① 廻船業の視点からの疑問
 塩飽の大型船は確かに1720享保5年を境に急激に減っています。
  この背景には幕府の城米の輸送方針の変化があったようです。
 塩飽全体の廻船数は
正徳三年(1713) 121艘
享保六年(1721) 110艘
明和二年(1765)  25艘
寛政二年(1790)   7艘
確かに北前船は激減していますが、実は塩飽の総隻数は漸減なのです。 
3  塩飽人口と船数MG

これは塩飽船が北前船から瀬戸内海を舞台とする廻船に「転進」したことがうかがえます。
塩飽手島の栗照神社を調査したある研究者の報告を紹介します。
北前船の絵馬が5枚あるというので出向いたところ、文化初年(1805頃)を下らない1500石積の大型弁才船が描かれてるものがあったようです。これは北前船の船型ではなく、奉納者はすべて大坂の船主で、船は大坂を拠点にする瀬戸内海の廻船であったことがうかがえます。報告者はこう記します。
「弁才船というのは型の呼称であって、北前船というのは北陸地方を中心とする日本海沿岸地域の廻船の汎称である。戦後日本海運史研究で北前船が一躍表面に出て、北前船が戸時代海運を代表する廻船だったかのように誤解されてしまい、いつの問にか弁才船即北前船と錯覚する向きも出てきた」
 つまり江戸後期になると、弁才船の多くは大坂を拠点に瀬戸内海を走るようになっていたというのです。

3  塩飽  弁財船2
弁財船
その多くは船主が大坂商人で、借船あるいは運行受託になっていたと研究者は考えているようです。
 塩飽の1790寛政2年、400石積以上の廻船数はわずか7隻と記されています。しかし、「異船」が57隻もあります。「異船」と何なのでしょうか?これが持ち主は大坂商人で、乗り組んでいたのは塩飽の船頭に水夫たちだったのではないか、それが東照神社絵馬のような船ではないかと筆者は推測します。
 全国各港に残る入船納帳や客船帳は、江戸中期以降塩飽船の数が減ることを「塩飽衰退の証拠」としてきました。確かに塩飽船主でないため塩飽とは記録されませんが、船頭や水主に塩飽人が混乗する船は多かったと考えられます。
 以上のように塩飽船籍の船は減ったが乗る船はあったので、水主の減り方は緩やかだったとするのです。
明治5年時点でも、塩飽戸数の1割にあたる210戸が船乗りです。文化、文政、文久、万延といった江戸後期の塩飽廻船中が寄進した灯篭や鳥居が、そこかしこにあることからも、塩飽の海運活動の活発さがうかがえます。
次は乗組員(水主)の立場から見てみましょう。
 船乗りは出稼ぎで、賃雇いの水主です。彼らにとって乗る船があればよいのであって、地元船籍にこだわる必要はありません。腕に覚えがあれば、船に乗り続けられます。賃金の面でみても、水主の方が魅力的だったようです。塩飽の水主は多くが買積船に乗り、賃銀に歩合の比率が大きかったため、固定賃銀の運賃積船よりも稼ぎが多かったようです。塩飽の船乗りは、船主は代わっても船に乗り続けていたのです。
 塩飽牛島に自前の造船所を持っていた塩飽最大の船主丸尾家は、
 江戸中期になると、拠点を北前船の出発地である青森へ移します。それは、船造りに適したヒバ材が豊富なで所に造船所を移すというねらいもあったようです。与島にも1779安永8年頃に造船所を造っていますが、そこは小型船専用でした。千石船が入ってくるのは船タデと整備のためだったようです。
 司馬遼太郎の「菜の花の沖」には、廻船商人の高田屋嘉兵衛の活躍と共に、当時の経済や和船の設計・航海術などが記されています。そこにも大型船の新造は、適材を経済的に入手でき、人材も豊富な商業都市・大坂で行われていたことが描かれていました。経済発展とともに大量輸送の時代が訪れ、造船需要は拡大しました。このような中で、塩飽の船大工が考えることは、仕事のある大阪へ出稼ぎやは移住だったのではないかと作者はいいます。確かに塩飽に残り宮大工に転じたと考えるよりも無理がないかもしれません。ちなみに、200石以下の小型船は塩飽でも建造され続けているようです。機帆船や漁船は昭和40年代まで造られていて、船大工の仕事はあったのです。
 船大工は家大工よりも工賃が高かった
 大坂での大型弁才船の船大工賃は家大工に比べて4割程度高かったと云います。塩飽でも1769明和6年に起きた塩飽大工騒動に関する岡崎家文書に、当時の工賃が記されています。
船大工は作料1匁8分、
家大工・木挽・かや屋は1匁7分とある。
日当1分の差は大きく、これも船大工からの転業は少なかったと考える根拠のひとつとされます。この額は、大坂の千石船大工に比べると半分程度になるようです。塩飽の腕のある船大工なら大坂へ出稼ぎに出たいと思うのも当然です。家大工との工賃差が大坂より小さいのは、塩飽では小型船しか作らなくなっていたからでしょう。
誰が大工になったのか
 最初の疑問である
「浦の3軒に1軒は大工の家」という背景をもう一度考えて見ます。これは、は江戸を通じて大工が増え続けた結果だと作者は推測します。その供給源は、どこにあったのか、何故増えたのかを考えます。
人的資源の供給源は「人名株を持った水主家の二男三男」説です。
  以前見た資料を見返してみましょう。
  元文一(1727)年、対岸の備中・下津井四か浦は、塩飽の漁場への入漁船を増やして欲しいと塩飽年寄に次のように願い出ています
 塩飽島の儀、御加子浦にて人名株六百五拾人御座候右の者共へ人別に釣御印札壱枚宛遣わせらる筈に御座候由、承り申し候、六百五拾人の内猟師廿艘御座候、残りは作人・商船・大工にて御座候、左候へば御印札六百余も余慶有るべきと存じ候……。
  ここでは下津井の漁師たちが「塩飽は好漁場を持っているのに人名の船は2艘しかなく、残りは「作人・商船・大工」だと云っています。
  明和二(1765)年の廻船衰退の際の救済申請所には、塩飽の苦境が記されています。
 島々の者 浦稼渡世の儀、先年は回船多く御座候に付、船稼第一に仕り候得共、段々回船減じ候に付、小魚猟仕り候者も御座候。元来小島の儀に御座候得者、島内に渡世仕り難く、男子は十二三歳より他国へ罷り越し、大工・・
と、塩飽には仕事がないので12、3才から宮大工や家大工の弟子になり、棟梁について他国へ出稼ぎに出ていると、島の困窮を訴えっています。
 ここからは塩飽には18世紀から大工が多くいたことが分かります。この上に次のようなストーリーを描きます
① 島には古くから続く宮大工家があった
② そこに人名株を持った次男・三男が預けられた
③ 素質のある者は宮大工になり、並の者は家大工になった。
④ 名門宮大工家には弟子たちが養子入りした事例が多いのは、技術の伝承目的もあった
  このようにして、宮大工の棟梁が住む浦には大きな大工集団がうまれていったのです。
塩飽本島の春の島巡礼をお接待を受けながら歩いていると、大きな墓石に出会います。
3  塩飽  人名墓
幕府はたびたび
「百姓町人の院号居士号は、たとえ富有者や由緒有る者でも行ってはならず、墓碑も台石共で高さ4尺(約121cm)まで」
と、「墓石制限令」をだしています。しかし、水主家や大工家の墓は、この大きさを超え名字を記したものが数多くあります。このような大きな墓が建てられること自体、宮大工の人名の家は裕福だったようです。
  以上をまとめておきます。
①秀吉の朝鮮出兵の際に、塩飽は関船の造船拠点となり、多くの船大工がやってきた
②短期間で大量の関船を造るために「水押」などの新技術が採用された
③江戸時代になっても塩飽は廻船拠点として、造船・修繕需要があり船大工は定着していた。
④これに対して、宮大工の系譜を引く集団も中世以来存在した。
⑤廻船業が普請になると、廻船業者の次男たちは宮大工の棟梁に預けられた
⑥浦毎に組織された大工集団は、備前・備中・讃岐の寺社建築に出稼ぎに呼ばれるようになる
⑦その結果、腕の立つ棟梁のいる浦には、その弟子たちを中心に大工集団が形成された。
こうして形成された山下家の大工集団からは、出稼ぎ先の三豊に定着し、三野の本門寺や仁尾の寺社の建築物を手がける者もあらわれます。そして、その中からは以前に紹介したように、琴平に移住して、旭社(旧金堂)建立の際には棟梁として活躍する者もあらわれるのです。
   備讃瀬戸の真ん中の塩飽に住んで、周囲の国々をテリトリーにして活躍する宮大工集団がいたのです。それが明治の戸籍には痕跡として残っているようです。

参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会

塩飽勤番所
「1150石の領主」となった塩飽人名には、どんな里役(義務)があったのでしょうか?
 戦時においては船を持って参戟し、この軍隊や城米を目的地まで運ぶのが、御用船方を命じられた塩飽の役目でした。注意しておきたいのは「水軍」ではなく「輸送部隊」であったことです
 この外に長崎奉行の送迎があります
 長崎は江戸時代には、唯一外国に開いた貿易港です。その長崎奉行は長崎の市政や貿易を担当し、九州大名の監督や密貿易の取締りにあたる長官です。定員は二人で任期は一年、交替で長崎に赴任しました。塩飽は承応三(1654)年以来、交替する奉行を大坂から小倉まで送り、さらに任期を終えた奉行を待って、大坂まで送迎するのも御用船方の任務でした。これには50人前後の水主(かこ)が、2ヶ月近く動員されています。
 また、朝鮮通信使400人ほどの使節団が、将軍の代替わりごとに来日します。
江戸時代を通じて12回来ていますが、この使節団を大坂川口から淀まで、川船で輸送することが塩飽に命じられました。塩飽か実際に出動したのは、享保4年、延享5年、宝暦14年の三回です。享保のときには、大坂で5671の水主を雇い、延享には銀三八貫目余、宝暦には銀四〇貫目余が支出されています。その外、城普請の資材の運搬とか、幕府が派遣する上使の運送などの御用を務めています。
   北前船 塩飽廻船の栄光
  当時の「大量輸送」の主役は船です。研究者の計算によると、千石石の米を輸送するのに、
①1000石 ÷ 馬一頭の積載量四斗(俵二俵) 
          =12500頭の馬と同数の馬子
②1000石 ÷ 千石船 =1艘
という計算になります。千石船は、乗組員が十数人で動かせます。食事・宿泊費を考えると、輸送距離が長くなっても、船の方が断然経済的です。酒田港で船積みされた城米は、日本海、瀬戸内海を通って大坂へ、更に江戸へとつなぐ西廻り航路によって輸送されるようになります。この航路は、約1300キロの長距離です。しかし、太平洋側の東廻り航路より安全で、運賃も米百石について
①東廻りの22両2分
②21両
1両ほど安かったので、日本海側の物資は西廻り航路が選ばれるようになります。これらの船が金になる物資を積んで瀬戸内海を上っていくのです。一艘の北前船が寄港するだけで、その港は潤いました。
塩飽廻船の最盛期を過ぎていますが、正徳三年(1713)の記録によれば、
①当時の塩飽船数総数   476艘で、
②150石積~200石積 112艘
③200石積~300石積 360艘
で、毎年7万石の東北の城米を運んでいます。往路には塩、砂糖、織物など瀬戸内の産物を積み、帰路には、米以外に魚肥、塩干魚、昆布などを買い入れています。
 当時の塩飽の人口は10723人、そのうち船稼者3460人です。それでも船乗りが足らなかったようで、北岸の備中児島から多くの水主を雇っています。
3  塩飽人口と船数MG

     しかし、塩飽廻船の全盛期も元禄年間くらいまででした。
諸国廻船を使って、町人が塩飽廻船よりも安い運賃で城米の運送を請け負い始めたのです。享保五年に幕府は、北国・出羽・奥州の城米の東廻りによる江戸への廻米を江戸の廻船問屋筑前屋作右衛門に命じ、翌年には越前の城米も西廻りによる運送も彼に命じます。つまり城米の運送を町人に請け負わせることにします。これまでの城米の「雇直送方式から請負雇船方式」へ切り換えられたのです。城米運送の御用船として塩飽廻船の持っていた特権はなくなります。船賃競争に破れた塩飽の廻船数は、西回り航路の舞台から時代に「退場」していくことになります。
 牛島の廻船は享保六年は43嫂ありました。しかし、7年後には約半分の23嫂に激減しています。この背景には幕府の城米の輸送方針の変化があったようです。
 塩飽全体の廻船数は
正徳三年(1713) 121艘
享保六年(1721) 110艘
明和二年(1765)  25艘
寛政二年(1790)   7艘
と急激に減っています。これは塩飽の地域経済に大きな影響と変化をもたらします。
明和二年(1765)に勘定奉行に差し出した書状には
 島々の者浦稼ぎ渡世の儀、先年は廻船多くご座候に付、船稼ぎ第一につかまつり候えども、段々廻船減じ候に付、小魚猟つかまつり候者もご座候、元来、小島の儀に候えば、島内にて渡世つかまつり難く、男子は十二三歳より他国へまかり越し、廻船、小船の加子、または大工職つかまつり、近国へ年分渡世のためまかりいで候、老人妻子ども畑作渡世っかまっり候
 とあり、
①かつては、廻船が多く船稼ぎで生活していたこと
②ところが廻船業が衰退し、漁場を行う者や
③島には仕事がないので、島外に出て水夫や大工になること
など、かつての塩飽の栄光も影を失って、寛政期の困窮の時代を迎えることが分かります。
塩飽の人名制度について、もう一度見ておきましょう
 秀吉は塩飽領1250石を650人の船方に与えました。人名と呼ばれた人たちは、もともとは本島・牛島・与島・櫃石島・広島・手島・高見島の七つの島に住んでいましたが、後に沙弥島・瀬居島・佐柳島や石黒島を開拓移住したので、最終的には11の島で暮らしていました。
 人名が最も多いのは本島の305人で約半数が本島にいました。本島と広島は浦毎に配分し、その他の島では、島毎に配分しています。その保有状況は、地区によって違っていて、一人一株の所もあれば、地区全体で共有している所もあります。また、分家や譲渡によって、一株をいくつにも分割している例もあるようです。つまり人名株を持っている人は、650人よりも多いことになります。
 これについて、享保六年に支配役所へ差し出した書付に
 役水主六百五拾人の事 役水主の儀、先年より家きまりおり申す儀はご座無く候、役目勤めかね申す者は、段々差し替え申し候、この儀常々年寄、庄屋よく吟味つかまつる事にご座候、人数の儀は浦々高に割符つかまつり、何拾人と申す儀相きまりおり申し候
とあるように、非常時の動員に対して、650人分の水夫を準備しておくことが第1に求められたことのようです。
人名組織の年寄について
 4名の年寄は、泊浦と笠浦のそれぞれの名家が世襲したようです。彼らは朱印状を守り、大坂奉行所からの通達などの政務を行いました。非常時には年寄が庄屋を集めて協議し、決定し難い事項は大坂奉行所へ申し出て指示を受けました。
 年寄の下に浦毎に庄屋・組頭が置かれていたようで、次のような文書があります。
 島中の庄屋拾八人ご座候、組頭と申す儀は浦々にて百姓の内二三人宛 組頭と定め置き、庄屋に相添え御公用ならびに浦の用事相勤め申し候 但し、二三年宛順番につかまつり候、右組頭共相替わり候節は、庄屋方より年寄共方へ相断り申し候、庄屋共の儀は、先年より代々家相続相勤め居り申す者共多くご座候、是又、よんどころなき儀ご座候て、庄屋役指し上げ候者ご座候節は、年寄共吟味の上指図つかまつり候
意訳すると次のようになります
 庄屋は18人、組頭は浦毎に2,3人で庄屋を助け、協議しながら浦運営に当たっている。ただし、2,3年毎の輪番制で、交替する場合は庄屋より年寄りに相談がある。庄屋はほとんどが世襲しているが、やむを得ず庄屋役を召し上げる場合は、年寄りと協議の上で行っている。
さらに次のように記します。
① 年寄職は、本島で一番大きい笠島浦、泊浦のどちらかから出すのが慣例になっている
② このふたつの浦には組頭は置いていない。
③ 庄屋には役料をだしているが、組頭は無給である。
 天領としての支配は、大坂川口奉行、大坂町奉行が交互に行っていたようです。これらの支配所からは毎年、見聞使が視察に来て、諸島を巡見しています。
塩飽の人名組織の財政については?
塩飽の表高は1250石ですが朱印状により幕府には、一文も納める必要はありません。全て島内で裁量に任されていたようです。それらは積み立てられて、つぎのような項目に支出されました。
①長崎奉行役の賃金
②島中の者が御用のため大坂へ出張雑用、
③島内の会合の必要経費
この他に「小物成」収入として、山林からの山手銀、塩浜年貢、網の運上銀があります。この中で最大の収入となったのは、島外からの入漁者や島内の人名網元への運上銀でした。
3 塩飽運上金

この額が年を追って増加し、幕末頃には銀96貫と、総収入の7割を越えるようになったことは前回お話ししたとおりです。
 年と共に幕府からの総員命令で支出は増え、赤字財政が続き、人名からの臨時徴収によって補てんするようになります。廻船業が順調なときならある程度の負担は、本業のもうけで埋め合わせが出来ました。しかし、その本業が成り立たなくなった状態では、負担が増えることに絶えられなくなる人名たちも出てきます。こうして、人名の間で財政問題をめぐる保守派と改革派の対立が顕在化するようになります。
 改革派が直訴で要求したことは?
 巡見使がやって来ることを知った改革派の人名達は、笠島浦の小右衛門、惣兵衛を中心に、泊浦の来迎寺に集まり、この機会に島中の窮状を訴え、人名組合の公費削減や年寄の不正支出について巡見使に直訴することを申し合わせます。
 1789年4月19日、御料巡見使一行が、丸亀から笠島浦の宿舎に入ります。翌日から船で塩飽諸島を巡回し、25日には巡見を終えて、次の巡見の地直島へ向かって出港していきました。当日の船数は、御召船一般、御先乗船一般、漕船六般、御供船三般、御荷物船三般、台所船一般、合計15艘と記録されています。この時の巡見使は、天領である塩飽 → 直島 → 小豆島という巡検が予定されていたようです。巡見使の後を追った小右衛門、惣兵衛の二人は、小豆島の土庄で面会を求め、塩飽の庄屋、水主百姓惣代の連印による「乍恐奉願上口上」と題された願書を提出します。その内容は、
①島入用の支出を抑えること、
②年寄による島入用の流用を禁ずること、
③島財政を圧迫する年寄の大坂への出向を減らすこと
などで、年寄の不正流用追求や、人名の負担を軽減するために人名組織の改革を求める内容でした。この願書は、巡見使の取り上げるところとなり、塩飽の年寄をはじめ庄屋、年番が大坂へ呼び出されて取り調べを受けます。そして、3年後の寛政四年(1792)5月3日「御仕置御下知書」が出されます。下知書は、関係者に以下のような処分を下しました。
①塩飽の四人の年寄は「役儀取り上げ押し込み」
②大坂支配所の与力二人は「追放」、同心四人は「切米取り上げ」
③塩飽の庄屋達は「過料」。
これに対して直訴した二人は
「直訴は不埓であるが、個人の身勝手に行ったものではないからと「急度叱り置く」
と微罪に終わりました。
 当時は松平定信による寛政の改革が進行中です。「政治刷新」を標榜する当局は、不正役人の処分を厳格に行ったようです。また、訴えた二人に越訴の罪を問わなかったことは、年寄りたちの不正を認め、訴訟の正当性を認識したもので、改革派寄りの「判決」だったと研究者は考えているようです。
 「判決」の中で、四人の年寄役については、財政実状を把握せずに無駄な支出を増やし濫費を行った責任が問われています。つまり、訴願の発端は財政問題でしたが、その人名組織の運営ををめぐる年寄役の行動が問われる内容となっています。この直訴事件の「判決」を受けて、人名組織の改革案が話し合われ次のような新ルールが決まります。
①いままで年寄の自宅で政務をとっていたのを、新しく役場を建て、年寄はここで執務する。
②年寄役場の中に「室蔵」をつくって織田信長以来の朱印状を保管する
③年寄の四人制を二人制の年行司に改め、会計担当の庄屋を常勤させて年寄の相談に応じ、決裁し難いことは、惣島中の会合で決める。
④年寄の世襲制を廃止し、一代限りで退役する。
そして新しい年寄(2名)と会計担当に次の3名が入札(選挙)で次のように選ばれます。
牛島の丸尾喜平治              塩飽きっての船持
笠島浦 高島惣兵術            困窮直訴の代表者
泊浦  石川清兵衛            人名の最も多い泊浦の年番
新しい「年寄役場」は寛政十年(1798)6月4日に落成式を迎えます。これが現在の塩飽勤番所で、事件中に仮安置していた郷社八幡宮から、朱印状を移して年寄が勤務することになります。朱印状は御朱印庫と呼ばれる石の蔵に保管されるようになります。勤番所の建物は、新政を象徴するモニュメントでもあるようです。しかし、その後の人名組織の辿った道のりを見てみると、疑問に思えてもきます。
 当時の風潮の中では、旧年寄たちは、旧来の伝統に守られた権威と保守派の人脈の上に立っていました。しかし、入札(選挙)によって選ばれた新年寄には、権威もなければ組織だった人脈もないのです。
 以後、人名組織の中では庄屋や年番の発言力が増し、後ろ盾を持たない年寄を軽視した訴訟事件や、年番招集の会合が公然と行われるようになります。これを「民主的」と呼ぶことも出来るでしょうが、年寄に対抗する人名達の発言力が強くなり、対立含みで運営が行われていくことになります。地域の有力者による「密室政治から開かれた政治」への代償を支払うことを余儀なくされるのです。
 参考文献  木原教授(香川大学)塩飽廻船と勤番所
 (『受験講座・社会』第110号。福武書店、1985年)
                                                

        
  中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海から離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で、本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆でした。その上、「人名」という特権も手に入れます。
3  塩飽地図
 豊臣秀吉は、650人の軍役負担の代償として、2150石(塩飽諸島全体の石高)の領地権を保障する朱印状を出しました。この特権は人名権と呼ばれ、以後家康にも継承されます。こうして、塩飽諸島は大坂町奉行所に直轄する天領ですが、人名権をもつ島民によって自治が行われるようになります。
しかし、この特権の中に周辺の漁業権も含まれていたことはあまり知られていません。
3 塩飽境界図
塩飽(涌)は、塩(海流)が涌き、魚が豊富な備讃瀬戸に位置します。その広い海域の漁場占有権を、塩飽は同時に手に入れていたのです。この塩飽の独占的な漁場エリアが上の地図です。「山立て」の技法で、遠くの山など目印になるものをいくつも組み合わせる形で塩飽の漁場権は設定されています。そのため非常に複雑で、私は何度見ても理解できません。まあ、それは別に置いておいて、今回は塩飽人名の独占漁場をめぐる問題を見ていくことにします。
        塩飽の人名は、漁業はやらなかった。
 塩飽の周りは好漁場が広がる海でしたが、人名達は当初は漁業を行っていませんでした。それは人名達が海民として、航海技術を武器に廻船業で莫大な富を手にしていた経済的優位が背景にあります。
 彼らは、島中(とうちゅう)と称する自治組織を作って島の政務を行いました。「人名」たちは、株を持たない漁師らを「間人(もうと)」と呼んで差別しました。間人には御用船方となる権利がなく、それに伴う朱印高の配分や島の自治に関わる権利もありません。一方で、人名は水夫役の徴用を間人に肩代わりさせ、その費用の一部を負担させることもしています。
「人名たるものは魚を獲ったりはしない」
というヘンなプライドが漁業への進出を妨げていたようです。

元文一(1727)年、対岸の備中・下津井四か浦は、塩飽の漁場への入漁船を増やして欲しいと塩飽年寄に次のように願い出ています
 塩飽島の儀、御加子浦にて人名株六百五拾人御座候右の者共へ人別に釣御印札壱枚宛遣わせらる筈に御座候由、承り申し候、六百五拾人の内猟師廿艘御座候、残りは作人・商船・大工にて御座候、左候へば御印札六百余も余慶有るべきと存じ候……。
この口上には、塩飽の人名650人の内に、漁師の船は2艘しかない。残りは、商船や大工である。されば人名の漁業権は、600以上あまっているはずだと云っています。
 そして、人名の漁業権を保障する「釣御印札」を売って欲しい、あるいは賃貸して欲しいと持ちかけています。ここからは、18世紀になっても人名達の中で、漁業に従事している者は非常に少ないことが分かります。それを対岸の下津井の漁民達は羨望の眼差しでみているような感じです。「漁業権を使わないのなら売ってくれるか貸してくれ」ということのようです。
   それでは、豊かな海はどう利用されていたのでしょうか。
3  塩飽漁場地図
それは、下津井の漁民が申し出たように、周りの漁民から入漁料を取って使わせていたのです。
   廻船業の衰退と漁業運上
3 塩飽運上金

 これは「塩飽島中請払勘定帳」で、漁業運上金(入漁料収入)の人名組合の財政収入に占める割合を示したものです。享保年間には、わずか6%だったものが19世紀の天保年間になると約50%、そして幕末の慶応年間になると70%を越える比重になっています。
  漁業運上収入(入漁料収入)が、大きく増えた背景は何なのでしょうか。
 そこには、塩飽を取り巻く経済状況の変化があったようです。享保期の幕府による廻米政策の転換が引き金でした。これによって、塩飽に繁栄をもたらした廻船業は、急速に衰退します。これは、人名達に大きな打撃を与えます。
明和二(1765)年の次の史料に、当時の塩飽の苦境が記されています。
 島々の者 浦稼渡世の儀、先年は回船多く御座候に付、船稼第一に仕り候得共、段々回船減じ候に付、小魚猟仕り候者も御座候。元来小島の儀に御座候得者、島内に渡世仕り難く、男子は十二三歳より他国へ罷り越し、
意訳すると
①島々の人名達は、かつては廻船業で稼ぎも多かった
②最近は、廻船は少なくなり、漁業を生業とする者も出てきた
③小さな島なので仕事がなく男は12、3歳になると他国へ出て行く
このような状況が、人名たちがそれまで見向きもしなかった漁業への進出背景にあったようです。
    人名達は、どのようなかたちで漁業に参入したのでしょうか
塩飽の領海では、次の四種類の漁業が行われるようになります。
 ① 人名による大網(鯛・鰆)    、   `
 ② 人名を中心とした小漁業
 ③ 小坂浦(本島)の手繰漁業
 ④ 下津井四か浦など他領漁民の領海内操業
  まず①の人名の大網経営を見ておきましょう
3 塩飽 鯛網3

①は、高級魚の鯛・鰆網漁です。これは何隻もの船や何十人もの労働力が必要な漁法でした。そのため家族経営的な家船漁民が手が出せるものではありません。そこで、人名による入札請負制が行われたようで、有力な人名が落札します。しかし、実際に操業するのは、熟練したよその業者たちが請け負ったようです。人名が落札した物件を、下請け業者にやらせるシステムです。幕末の史料からは落札人として手島の人名・藤井家の名前が見えます。
  藤井家に伝えられる「大漁覚帳」からは、人名の網漁経営が分かります。
①漁の期日や番船の手配についてたびたび寄合が開かれた
②漁獲物をどのように分配したか
などが詳しく記されています。漁獲物の配分は次のように行われています。
①本方(請負人)は、役魚・本方分を合計した66%
②網方(直接操業者)は34%パーセント
③本方の40%(全体の26、4%)が番船(監視船)費用
番船は漁場での違法操業者の摘発や、漁獲量のチェックなどを任務としています。番船の監視で漁獲高が正確に把握され、魚一匹まで正確に記録して配分されています。番船は、下請け業者を監視する役割も果たしていたようです。
 こうして人名は落札すると自分の手は使わずに、下請けさせるという方法で「漁業に進出」する方法をとるようになります。人名としての特権を、充分に活用していると云えるのかもしれません。そして、入札金は人名組合に入漁料収入として納めます。許可する漁場と網を増やせば増やすほど人名組合の収入は増えます。
        幕末の塩飽漁業の問題は?
 当時最も高価に取引されたのは鯛・鰆でした。そのため人名達は、この鯛・鰆網の操業の邪魔にならない限りで、その他の入漁を許してきたようです。しかし、幕末になると鯛・鰆網の優先待遇を脅かす動きが出てきます。
① 塩飽人名の新規漁業の出現・発展と、漁業者の増加
② 小坂浦漁業の新しい動向と人名漁業との対立
③ 他領漁民との紛争、とくに下津井大畠村との相論
 廻船業の衰退は、人名達の中から大工や他廻船の乗組員に転職をさせる一方、漁業をほとんど行わなかった人名の浦々にも、一部半農半漁の漁場に従事する者が増えてきたことは、お話した通りです。
 嘉永二(1849)年の塩飽の浦別漁船数の総数は811艘ですが、これは百年前と比べると大幅に増加しています。新規参入の入名達が小漁業を始めたことがうかがえます。
  
3 塩飽 流瀬網
 問題は新規参入漁民の漁法でした。「打流瀬網漁」という網を使うのが当時の主流でした。
これは袋網の両方に袖網をつけ、風力や潮力を利用して引く底引網の一種のようです。安友5(1858)には塩飽島内で200以上の流し網を行う船があり、その中心は瀬居島と佐柳島でした。そして、この運上金も人名組合の大きな財源になってきます。
 そうなると「流瀬網」VS「鯛・鰆網」という漁場での新たな紛争が多発するようになります。
これは「小資本の人名」 VS 「大資本の人名」という構図でもあります。人名間でも両極分解が進み、両者の対立が目に見える形で現れ始めました
寛政七(1795)年には、高見島の鯛網漁場を侵犯したということで、佐柳・高見両浦漁民の間で紛争が起きます。これに対して島中年寄り達は、流瀬網は鯛網代場に入らぬようにとの裁定を下しています。
 
3 塩飽  鯛網2

  以上をまとめておきます。
①塩飽には土地以外にも好漁場の漁業権が認められいた。
②人名達はそこで漁業をすることはなく、他地域の漁民から入漁漁をとって資金としていた。
③幕府の廻船政策の変更で、塩飽の優位が崩れる塩飽廻船業は苦境に陥った
④そこで、漁場が見直され、新規に漁業に参入する人名が現れる
⑤資本を持つ人名は、鯛・鰆網漁の操業権を落札し、業者に下請けさせた。
⑥資本を持たない人名は、新漁法である流瀬網漁を行うようになった
⑦流瀬網と鯛・鰆網は操業場所や時期が重なり人名同士の対立も招くようになった。
   参考文献  浜近仁史 近世塩飽漁業の諸問題   丸亀市史
 

 

               

6塩飽地図

西行が備中真鍋島で詠んだ中に
「真鍋と中島に京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわくの島に渡り、商はんずる由中けるをききて、真鍋よりしわくへ通ふ商人は、つみをかひにて渡る成けり」

とあります。ここからはしわく(塩飽)が瀬戸内海を航行する船の中継地で、多くの商人が立ち寄っていたことが分かります。平安期には、西国から京への租税の輸送に瀬戸内海を利用することが多くなります。そのため風待ち・潮待ちや水の補給などに塩飽へ寄港する船が増え、そのためますます交通の要地として機能していくようになったようです。
 時代は下って『イエズス会年報』やフロイスの『日本史』に、塩飽は常に「日本著名なる」としてされ、度々寄港している様子が報告されています。このように、塩飽は古代から瀬戸内海における船の中継地として栄えてきました。その塩飽の水軍について見ていきます。
       塩飽荘の立荘と塩生産 
海上交通の要地には、早くから荘園が立荘されます。塩飽もそうです。初見は保元元年(1156)の藤原忠通書状案言に添えられた荘園目録に「塩飽讃岐国」と見えます。塩飽荘は藤原頼通の嫡子師実のころには摂関家領となっていて、その後、次のように所有権が移ります
 摂関家藤原忠実 → 愛人播磨局 → 平信範女 

そして、源平合戦の時には、平氏の拠点となっています。平氏が摂関家領の塩飽荘を押領していたのかもしれません。
 鎌倉時代末期には、北条氏の所領となりますが、建武の新政で没収され、南北朝の動乱を経て、幕府より甲斐国人小笠原氏に与えられたようです。当時の塩飽荘の実態は分かりませんが、『執政所抄』の七月十四日御盆恨事の項に
塩二石 塩飽御荘年貢内」

とあるので、年貢として塩が納められていたことが分かります。
 また『兵庫北関入船納帳』からは、塩飽の塩がいろいろな船によって大量に運ばれていることが分かります。塩飽も芸予諸島の弓削荘と同じように、「塩の荘園」だったようです。
 塩の荘園であった塩飽の海民は、塩輸送のため海上輸送にたずさわるようになります。「瀬戸内海=海のハイウエー」のSA(サービスエリア)として、多数の船舶が寄港するようになります。塩飽の港まで来て、目的地に向かう船を待つという資料がいくつもあります。塩飽はジャンクションの役割も果たしていました。
 また、通行に慣れない船のためには、水先案内もいたでしょう。こうして、塩飽の海民は海上に果り出す機会が多くなり、やがては自らの船を用いて航行するようになります。船は武装するのが当たり前でした。自然に「海賊衆」の顔も持つようになります。これはどこの海の「海民」も同じです。この時代の海民は専業化していません、分業状態なのです。

3 塩飽 泊地区の来迎寺からの風景tizu

海賊討伐をきっかけに備讃瀬戸に進出した香西氏
 
藤原純友の乱以前から瀬戸内海には「海賊」はいました。平清盛が名を挙げたのも「海賊討伐」です。鎌倉時代中ごろになると、再び瀬戸内海に海賊が横行するようになります。そこで寛元四年(1246)讃岐国御家人・藤左衛門尉(香西余資)は、幕府に命じられて海賊追捕を行っています。この時のことが「南海通記』に次のように記されています。
 讃岐国寄附郡司、藤ノ左衛門家資兵船ヲ促シ、香西ノ浦宮下ノ宅二勢揃シテ、手島比々瀬戸二ロヨリ押出シ 京ノ上茄ニテ船軍シ、柊二降参セシメ百余人ヲ虜ニシテ京六波羅二献シ、鎌倉殿二連ス、北条執事感賞シ玉ヒテ、讃州諸島ノ警衛ヲ命ジ玉フ、家資即諸島二兵ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽二我ガ子男ヲ居置テ諸島ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、是宮本氏高原氏ノ祖也―又宮本トハ家資居宅、宮ノ下ナル欣二宮本ト称号スル也。

 『南海通記』は、享保四年(1719)に香西成員が古老たちの聞き書きを資料に著した書で、同時代の記録ではありません。また滅び去った香西一族の「顕彰」のために書かれているために、どうしても香西氏びいきで、史料的価値に問題があると研究者は考えているようです。しかし、讃岐にとっては戦国時代の資料では、これに代わるものがないのです。「史料批判」を充分に行いながら活用する以外にありません。

3 香西氏 南海通
南海通記

 ここでも香西氏の祖にあたる香西家員が登場してきます。内容に誇張もあるようですが『吾妻鏡』の記事と同じような所もあります。確認しておきましょう。
①讃岐の郡司である藤ノ(藤原)左衛門家資が海賊討伐のための兵船出すことを命じた。
②香西ノ浦宮下に集結し、海に押し出した。
③京ノ上茄(地名?)で戦い、百人余りを捕虜にして京都六波羅に送った
④鎌倉殿に連なる北条執事は感謝し、讃州の島々の警護役を命じた
⑤香西家資は諸島に兵を駐屯させ、直島塩飽には息子達を派遣して支配させた。
⑥これが塩飽の宮本氏や直島の高原氏の祖先である。
⑨香西氏の子孫は、宮ノ下(神社下)に館があったので宮本と呼ばれるようになった
  以上からは
①香西氏は海賊討伐を契機に備讃瀬戸に進出した。
②海賊を討伐し、備讃瀬戸エリアの警備をまかされた
③警備拠点として直島・塩飽に館を構えた
④海賊退治を行った香西家資の子が塩飽海軍の宮本氏の祖
⑤宮本氏により塩飽の海賊衆は統轄されるようになる。
これが塩飽海賊草創物語になるようです。

3  塩飽  山城人名墓

こうして、香西氏の子孫である宮本家が塩飽海賊=海軍のリーダーとして備讃瀬戸周辺に勢力を伸ばしていくようです。しかし、塩飽海賊衆が史料上に名を表わすようになるのは南北朝期に入ってからです。

3 香西氏
 
朝鮮の使節団長と船の上で酒を飲んだ香西員載
 以前にも紹介しましたが、室町時代に李朝から国王使節団がやってきています。その団長である宋希璟(老松堂はその号)が紀行詩文集「老松堂日本行録」を残しています。ここには、瀬戸内海をとりまく当時の情勢が異国人の目を通じて描かれています。
 足利将軍との会見を終えての帰路、播磨(室津)から備前下津井付近を通過します。目の前には、本島をはじめとする塩飽諸島が散らばります。海賊を恐れながらびくびくしてた宋希璟の船に、護送船団の統領らしき男が乗り込んできて、一緒に酒を飲もうと誘ったというのです。男は「騰貴識」は名乗りますが、これは香西員載のことのようです。彼は、将軍から備讃瀬戸の警備を任された香西氏の子孫に当たるようです。「老松堂日本行録」からは「騰貴識=香西員載」が警国衆を率いる立場にあったことが分かります。この時期の塩飽や直島は香西氏の支配下にあり、水軍=海賊稼業を行っていたことが分かります。
 15世紀の香西氏に関する資料をいくつか見ておきましょう。
①1431年7月24日
 香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。 香西氏は、この時まで丹波の守護代を務めていたことが分かります。
②嘉吉元年(1441)十月 「仁尾賀茂神社文書」
 讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。
                  
③同年七月~同二年十月(「仁尾賀茂神社文書」県史11 4頁~)
 仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護 細川氏に訴える。
②からは香西氏が三豊の仁尾の浦代官を務めていたことが分かります。先ほどの朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は用船を命じられています。これは、浦代官である香西氏から命じられていたようです。
③は父(元資)が亡くなり、子の香西豊前になって、仁尾ともめていることが分かります。香西氏が直島・塩飽などの備讃瀬戸エリアだけでなく、燧灘方面の仁尾も浦代官として押さえていたようです。仁尾は軍船も出せますので、燧灘エリアの警備も担当してたのでしょう。
④長享三(1489)年八月十二日(「蔭涼軒日録」三巻) 
 細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
同年八月十三日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻四七一丁三頁、
 
④からは応仁の乱後の香西氏の隆盛が伝わってきます。
香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、以後も細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げます。当主の香西元資は、香川元明、安富盛長、奈良元安と共に「細川四天王」と呼ばれるようになります。その頃に開かれた「犬追物」には香西一族が300人も集まってきて、細川政元と交遊しています。
  いつものように兵庫関入船納帳で、塩飽船の入港数と規模を見ておきましょう。
兵庫北関2
上から2番目が塩飽です    
①入港数は、宇多津について讃岐NO2で37回です
   ②船の規模は300石を越える大型船が8隻もいます。船の大型化という時代の流れに、最も早く適応しているようです。
  積み荷についても見ておきましょう。
3 兵庫 
③ 塩が飛び抜けて多く「塩輸送船団」とも呼べるようです。
④その他には米・麦・豆などの穀類に加えて、山崎胡麻や干し魚もあります。
能島村上氏による塩飽支配
 細川政元の死後、周防の大内氏が勢力を伸張させるようになります。永正五年(1508)に大内義興は足利義枝を将軍職につけ、細川高国が管領、義興が管領代となります。義興は上洛に際し、東瀬戸内海の制海権の掌握のために次のような動きを見せます。
①三島村上氏を警囚衆として味方に組み込みます。
②さらに、大友義興は能島の村上槍之劫を塩飽へ遣わして、寝返り工作をおこないます。
これに対して、香西氏は細川氏から大内氏に乗り換えます。
そして、塩飽衆も大内氏に従うようになったようです。大内義興の上洛に際し、警固衆として協力した能島村上氏に、後に恩賞として塩飽代官職が与えられています。こうして、塩飽は能島村上氏の配下に入れられます。この時期あたりから能島村上氏の海上支配エリアが塩飽にまでのびていたことが分かります。塩飽は香西氏に属しているといいながらも、実質は能鳥村上氏の支配下におかれるようになったようです。
大友氏は、積極的な対外交易活動を展開します
 大内義興は、明へ貿易船を派遣して、その経済的独占をはかろうとするなど交易の利益を求め、活発な海上活動を展開します。その中に村上水軍の姿もあります。当然、塩飽も動員されていたことが考えられます。
永正十七年(1520)朝鮮へ兵船を出した時、塩飽から宮本佐渡守・子肋左衛門・吉田彦右折門・渡辺氏が兵船三艘で動員されています。この時期には、備讃瀬戸に限らず朝鮮海峡を越えて朝鮮・明へも塩飽衆の活動エリアは拡大していたようです。これが倭寇の姿と私にはダブって見てきます。
村上武吉の塩飽の支配 
永正年間(1504~)には能島村上氏が塩飽島の代官職を握り、塩飽はそれに従うようになります。それから約50年後の永禄年間に村上武吉宛の毛利元就・隆元連署状がだされています。そこには
「一筆啓せしめ候、樹梢備後守罷り越し候、塩飽迄上乗りに雇候、案内申し候」
とあり 能島の村上武吉に塩飽までの乗船を依頼しています。
また、永禄末期ごろに、豊後の大友宗麟の村上武吉宛書状には、大友宗麟が堺津への使節派遣にあたり、村上武吉に対して礼をつくして堺津への無事通行の保証と塩飽津公事の免除とを求めています。
  これらから能島村上武吉が塩飽の海上公事を握っていたことが分かります。
村上武吉は、塩飽衆へ次のような「異乱禁止命令」を出しています
「本田鸚大輔方罷り上においては、便舟の儀、異乱有るべからず候、其ため折帯(紙)を以て申し候、恐々謹言、 永禄十三年
塩飽衆が備譜瀬戸を航行する大友氏の船に異乱を働いていたことを知り、これを止めさせる内容です。備讃瀬戸の制海権を握り、廻船を掌握していたのは村上武吉だったのです。堺へ航行する大友船にとって、塩飽海賊のいる備譜瀬戸は脅威エリアでしたが、これで塩飽衆は大友船には手が出せなくなります。
天正九年(1581)の宣教師ルイス・フロイスの報告書によれば、塩飽の泊港に入港したときのこととして、能島村上の代官と、毛利の警吏がいたと記しています。
 村上武吉の時代には、能島村上氏の制海権は、西は豊後水道から周防灘、東は塩飽・備前児島海域にまでおよんでいたことになります。備譜瀬戸の塩飽を掌握下におくことは、東西の瀬戸内海の海上交通を掌握することになります。そのためにも戦略的重要拠点でした。このように戦国時代の塩飽は、能島村上氏の支配下にあり、毛利氏の対信長・秀吉への防衛拠点として機能していたようです
 児島合戦に見る塩飽衆の性格は? 
 戦国末期になると、安芸の毛利氏は備中・美作を攻略し、備前にも侵入しようとします。当時備前は浦上宗景・浮田直家の支配下にありました。元亀二年(1571)勢力回復をはかる三好氏は、阿波・讃岐衆を篠原長房が率いて児島へ出陣します。この戦いを児島合戦と呼び、阿讃衆騎馬450、兵3000が出陣したと伝えられます。
 香西元歌(宗心)は、児島日比浦の四宮隠岐守からの要請で参陣します。この時に、香西軍の渡海作戦に塩飽衆が活躍したと云います。香西氏が古くから塩飽を支配しており、香西軍の海上勢力の一翼を担ったのが塩飽衆であっことは触れました。
 塩飽の吉田・宮本・瀬戸・渡辺氏は、直島の高原氏とともに船に兵や馬を乗せて瀬戸内海を渡ったのです。当時の児島は「吉備の穴海」と呼ばれる海によって陸と離れた島でした。そのため水軍の力なしで、戦うことはできなかったようです。塩飽を味方につけることは最重要戦略でした。この時には、塩飽に対し事前工作が毛利方からも行われていたようです。毛列氏は村上水軍を主力に水軍を編成しますが、塩飽衆もその配下に組み込まれたようです。
小早川陸景が配下の忠海の城主である乃美(浦)宗勝へ送った書状に
 「塩飽において約束の入、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすベしは、申すに及ばず」
とあります。毛利氏の塩飽衆を陣営に抱え込み、敵側の兵船とならないよう監視するとともに、塩飽衆と宇多津のかかわりを恐れていたことがうかがえます。水軍なしでは戦えない瀬戸内海の状況を示すと同時に、備讃瀬戸における塩飽衆の存在の大きさが分かります。
  塩飽衆は「水軍」ではなく「廻船」?
 児島合戦を見ていて分かるのは、塩飽は参陣していますが、それは兵船の派遣であり、海上軍事力としてはカウントされていないことです。操船技術・航行術にたけた海民集団ですが、軍事カというより加子(水夫)としての存在が大きかったように見えます。言い方を変えると、船は所有していますが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員はいなかったと研究者は考えているようです。
村上氏が塩飽支配を行ったのは、一つに塩飽衆の操船・航行術の必要性と、加子・兵船の徴発にあったと思えます。瀬戸内海制海権を握りたい能島村上氏にとって、備讃瀬戸から播磨灘にかけて航行することの多い塩飽船を支配下に組み込めば、下目から上目すべての航行を操ることができることになります。
 また別の視点から見れば、瀬戸内海東部航路を熟知していない能島村上氏には、熟知している塩飽衆が必要だったとも云えます。先ほど見たように『兵庫北関入船納帳』に出てくる塩飽船の数は、讃岐NO2でした。商船活動が活発な東瀬戸内海流通路を握るには塩飽衆が必要だったのです。それは、次に瀬戸内海に現れる信長・秀吉・家康も代わりません。彼らは「朱印状」で保護する代償に、御用船や軍船提供を塩飽に課したのです。しかし、水軍力を期待したものではなかったようです。近世になって「水軍」という言葉が一人歩きし始めると、中世の「塩飽水軍」がいかにもすぐれたものであるかのように誇張されるようになります。
 村上水軍と塩飽水軍は、同じものではありません。前者は強大な海上軍事カをもつ集団なのに対して、後者は 海上軍事力よりも操船技術集団と研究者は考えているようです。

 






   
3 家船jpg
 前回は、安芸からやって来た家船漁民が、丸亀の福島町や宇多津などの港町に定住していくプロセスを見ました。今回は、彼らを送り出し側の広島の忠海周辺の能地・二窓を見ていきたいと思います。
  家船漁民は、家族ごとに家船で生活し、盆と正月に出身地(本村)に帰る外は、新たな漁場を求めて移動していきます。そして、漁獲物の販売・食料品の確保のための停泊地に寄港します。それが讃岐では、丸亀や宇多津であったことは前回に見た通りです。しかし、漁場と販路に恵まれ、地元の受け入れ条件が整えば、海の上で生活する必要もなくなります。陸に上がり新たな浦(漁村)を開きます。瀬戸内の沿岸や島には、近世中期以降に、家島漁民によって開かれた漁村が各地にあります。
家船漁民の親漁港(本村)は?
能地(三原市幸崎町)、
二窓(竹原市忠海町)
瀬戸田(豊田郡瀬戸田町)
豊浜(同郡豊浜村)
阿賀(呉市)
吉和(尾道市)
岩城(愛媛県)
3 家船4
などが母港(本村)になるようです。家船漁民は「海の漂泊民」と云われ記録を残していませんから謎が多く近年までよく分かっていなかったようです。それが見えてくるようになったのはお寺の過去帳からでした。そのお寺をまずは見てみましょう。 
 能地は忠海にある小さな港町です。
今では能地港には漁船の姿はほとんどありません。海には大きな造船所が張り出しています。海のすぐそばまで山裾が広がり、かつての海を埋め立てた所にJR呉線の安芸神崎駅があります。ここから北に開ける谷沿いに上がっていくと、小高い山の上に立派な臨済宗のお寺があります。
 この寺が家船漁民達の菩提寺である善行寺のようです
3 家船 見晴らし能地の善行寺
家船漁民の人別帳が残る善行寺
この寺は臨済宗で、15世紀後半に、豪族浦氏によって建立されたと伝えられています。浦氏は沼田小早川家の庶家(分家)で、小早川勢の有力な一族でした。「浦」を名乗った姓からも分かるように、小早川勢の瀬戸内海進出の先駆けとなった一族のようです。特に水軍史上で名を残したのは浦宗勝です。

3 浦氏
浦宗勝
彼は、1576(天正四)年の木津川口海戦では毛利方水軍勢の総帥をつとめて、大活躍しています。かつてベストセラーになった『村上海賊の娘』でも、木津川海戦での戦いぶりは華々しく描かれています。
 能地と二窓の海民がこの浦氏が建立した寺の檀家になったのは、
浦氏の直属水軍として働いたからだと研究者は考えているようです。安芸門徒と云われるように、広島は海のルートを伝わってきた浄土真宗の信者が多く、海に関わる人たちのほとんどが熱心な浄土真宗の門徒でした。ところが、この地では漁民も臨済宗の檀家だったようです。小早川の一族には臨済宗の熱心な信者が多く、その水軍の傘下にあった水夫たちも自然に善行寺の檀家になったようです。
小早川氏→浦氏→能地・二窓の水軍衆というながれです。
 関ヶ原の戦いで敗北し、浦氏直下の水軍も離散します。彼らの多くも家船漁民として、瀬戸内海にでていくことになります。その際にも彼らは臨済宗の善行光の門徒であり続けたようです。
 善行寺の『過去帳』には、死亡した場所が『直島行』とか地名が記録されています。
ここからその人物がどこで亡くなったが分かり、彼らの活動範囲を知ることができます。その地名を分布図に落とし、彼らの近世から明治にかけての展開の様相を明らかにした研究者がいます。それによると、 ふたつの浦の漁師の活動範囲は、東は小豆島から西は小倉の平松浦までに広がっているようです。
二窓の家船漁民の「出稼ぎ先」死亡地がわかる初見は、次の通りです
備前が1719(享保4)年に『備前行』
讃岐が1721(享保6)年 讃岐
備後が1724(享保9)年 備後『草深行』、
安芸 が1724(享保9)年 安芸『御手洗行』『大長行』
で、18世紀初頭の享保年間から、他国での死亡事例が出てきます。この時期に、家船漁民の他国での操業・定着が始まったと研究者は考えているようです。しかし、その数は多い年で8件、平均すると各年2件ほどです。この時期の「移住者」は少ないようです。
 それが百年後の19世紀代になると激増します。
1800-24年の間に222件、うち出職者85件、
1825-49年の間に423件、うち出職者266件
1850-74年の間に552件、うち出職者275件
となっており、幕末期における他国への「出稼ぎ」数が急増していることが分かります。
移住者が急増する要因や背景は何だったのでしょうか?
 よその海に出かけ操業したり、定着する場合は、先方の漁民の障害にならない配慮が必要でした。そのため初期には、芸予諸島の大三島や高縄半島の波方・菊間浜村・浅海・和気浜・高浜・興居島・中島などの地元漁民があまりいないところに「進出」したようです。「入植」を許した村々では、家船漁民を定着させることによって、目の前の地先漁場を確保しようとする思惑もありました。しかし、18世紀初頭までの陸上がりして定住した例は限られていました。それまでは、遠慮しながら陸上がりして定着していた状況が一変するのは18世紀後半になってからです。
変化をもたらしたのは海の向こうの中国清朝のグルメブームです
①中国清朝の長崎俵物の高価大量買い付け
②幕府による全国の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)の割当、供出命令
③浦々での俵物生産体制の整備拡充
 当初幕府は、各浦々の生産可能量をまったく無現した量を割り当てました。例えば松山藩は総計4500斤のノルマを割当られますが、供出量できたのはその半分程度でした。このため責任者である幕府請負役人や長崎会所役人は、何度も松山藩にやって来て、目標量に達しない浦々に完納するように督促します。尻を叩かれた浦の責任者は「経験もない。技術者もいない、資金もない」で困ってしまいます。
 
3 iesima 5
海鼠なまこの腸を取り去り、ゆでて干した保存食「いりこ」(煎海鼠・熬海鼠)を製造しているところ。ここでは津島国の産業として紹介されている。いりこは、調理の際に再び水煮して軟らかくして食した。古来より珍重されていた食物であり、特に江戸時代中期以降は、対清(当時の中国)輸出の主要品目であった。人参のように強壮の効果があるとされていた。

一方、忠海の近くの能地・二窓は、煎海鼠(いりこ)生産の先進地域だったようです。
製造業者は堀井直二郎、生海鼠の買い集めは二窓東役所。輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所と分業が行われ、割当量以上の量を納めています。つまりここには、技術者とノウハウがそろって高い生産体制があったのです。
この状況は家船漁民にとっては、移住の好機到来になります。
各浦は、先進地域から技術者・労働者として家船漁民をユニットで大量に喜んで迎え入れるようになります。大手を振って大勢の人間が「入植」できるようになったのです。現在のアジアからの実習生の受入制度のを見ているような気が私にはしてきます。
迎え入れる浦は定住に際しては、地元責任者(抱主)を選ばなければなりません。抱主が、住む場所を準備します。舵主は自分の宅地の一部や耕地(畑)を貸して生活させることになります。そのため、抱主には海岸に近い裕福な地元人(農民)が選ばれたようです。その代償に陸上がりした漁民達は、がぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などを肥料として抱主(農民)に提供します。こうして、今まで浦のなかった海岸に長崎貿易の輸出用俵物を作るための漁村が18世紀後半に突如として各地に現れるようになったのです。
 直島の庄屋と二窓庄屋のやりとり文書から見えてくることは?
 直島の庄屋三宅家に残る文書には、家島漁民の所属をめぐる対立が記されています。二窓の庄屋から
「二窓から出向いた漁師たちを、人別帳作成のために生国に帰して欲しい」
と帰国日時を指定した文書が届きます。家船漁民は移住しても年に一度は二窓に帰ってこなければならないのがきまりだったことは先ほど述べました。
 なぜ一年に一度帰らなければならなかったのでしょうか?
最大の理由は「帳はずれの無宿」と見なされないためです。1664(寛文四)年に各藩に宗門奉行の設置が命じられ、その7年後には、宗旨人別改帳制度が実施されるようになりました。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人に捕らえられたりするようになりました。人別帳に載せてもらうには、本人確認と踏み絵の儀式が必要でした。
 もうひとつは、檀家の数を減らさないという檀那寺の方針もあったのでしょう。こうして「正月と盆に帰ってこなければならぬ」というきまりを、守るように厳命されていたようです。
 しかし、出ていた漁民からすれば、二窓に「帰省」しても家があるわけではありません。親族の家にも泊まれない漁民は、港に係留した船に寝泊まりしようです。漁民が出稼先で死亡した場合も、むくろは船に乗せて持ち帰られて、能地で埋葬されたようです。遠いところから帰ってくる場合は、防腐剤としてオシロイをぬり、その上で塩詰めにして帰ってきたといいます。そして、葬式や追善供養も檀那寺の善行寺で行われました。貧しい家船漁民の遺体は寺の墓地ではなく、浜辺に埋められたとも云われます。本村を出て何世代目にもなっている漁民もいます。人別帳作成のためだけには帰りたくないというのがホンネでしょう。
 このような家船漁民の声を代弁するように幕府の天領である直島の庄屋三宅氏は、次のような返事を二窓に送ります。
数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴 之者共に有り之』
御公儀半御支配之者共』
ここには「能地からの出稼ぎ者は長年にわたり、直島で長崎俵物を幕府へ納めている者たちであり、鑑札も頂いている。幕府、代官には彼らを半ば支配する道理があり、直島には彼らを差配する道理がある」というものです。
 そして二窓漁民たちは
『年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』
と、御用の煎海鼠の生産者であり、2月から7月までは繁忙期であり
『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』
として人別帳作成のための生地への「帰国」を断っています。直島にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならない存在となっていたことが分かります。
 二窓からやってきている漁民にすれば、真面目に海鼠を捕っていれば収入もあり、直島の庄屋にすれば、幕府から「ノルマ達成」のためには出稼ぎ漁民の力が必要なのです。両者の利害はかみ合いました。
 そして家船漁民は生国の元村へ帰えらなくなります。
直島庄屋は次のような内容を、二窓浦役所に通告しています。
①今後は寄留漁民に直島の往来手形を発行する
②直島の寺院の檀家になることを許す
これは直島庄屋の寄留漁民を『帰らせない、定着させる』 という意志表示です。
家船漁民は、正式な定着を選んだ経済的な背景は?
①年貢を二重に納めなくても済むという経済的理由です。それまでは、漁場を利用する場合には、運上を納めた上に、本籍地の二窓にも年貢を納めていました。
②入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなります。
結局直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の寄留漁民が二窓浦役所に納税しなくなり、人別帳からも外れていきます。それは、移住先に檀家として受けいれる寺が現れたということになるのでしょう。
このような「本村離れ」の動きが能地の善行寺の人別帳からもみることができるようです。
 1833(天保4)年の『宗旨宗法宗門改人別帳』の記述からは、地元の能地・二窓東組の浜浦役人に厳しく申し付けられていた
『年々宗門人別改并増減之改』
 『一艘も不残諸方出職之者呼戻シ、寺へ宗門届等に参詣』
という義務、つまり「年に一回は生地に帰り宗門改を受けよ」という義務が守られなくなっていることがうかがえます。そのため藩は
『諸方出職(出稼ぎ)之者共 宗旨宗法勤等乱ニ付』
と判断し、能地の割庄屋、二窓の庄屋、 組頭と善行寺住職に対して「廻船による『見届』実施」を命じています。つまり、宗門改監視船を仕立て出稼ぎ現場まで行って、確認させると云うことです。
 期日は、1833年2月-7月6日。実際に「見届」に行くのは、能地では組頭を、二窓では役代のものをそれぞれ付添として同伴させ、住職自らが「廻船=巡回」しています。そして「出稼ぎ先」を訪れた住職は、次のような『条目』を申し付けています。
①漁師に対しては、本尊を常に信心せよ。
②死亡者は、たとえその年に生まれた子であれ連れ帰れ
③正月・盆の宗門届は固く勤めよ
④先祖の法事、それが赤子であれ、決してうやむやにするな。
⑤寺の建立・修復の時ならず、心付けを行うこと。
⑥年に一度は、五人組を通じて人別帳を提出すること。
⑦往来手形を持たない者は出職先に召置くことはできない。
⑧宗旨宗法を違乱なく守れ。
その後で、全ての船からも『請印』をとり、『条目』に違反する『不埒之方角』の者からは『誤証文』を差し出させ、以後の規則遵守を確約させています。こうして実施された「迴船」の記録が、次のように3冊分にまとめられて残っています。
一巻『当村地方・浜方、二窓地方 渡瀬、忠海、小坂』
二巻『能地浜浦諸方出職之者』
三巻 『二窓浦諸方出職之者』
この巻末には、『人別帳』の由緒や作成経緯とともに、船頭数つまり筆数と、成員数の総計が記されます。それによると
『能地浜浦』  在住者142筆、646人
『二窓地方』 在住者54筆、246人
『能地浜方諸方出職者』420筆、2053人
『二窓浦諸方出職者』192筆、 1013人
となっています。ふたつの浜浦をあわせた『諸方出職(出稼ぎ)者』の人数は、在地者(地元で生活する人)の三、四倍になります。
(小川徹太郎『越境と抵抗』 P194~201)
以上を私の視点でまとめておくと
①戦国時代の忠海周辺は小早川配下の水軍大将であった浦氏の拠点であった。
②小早川ー浦志ー忠海周辺の水夫は、宗教的には臨済宗・善行寺の門徒であった
③関ヶ原の戦い後に、毛利方についた浦氏水軍も離散し、多くが海に生きる家船漁民となる
④優れた技術を活かして、新たな漁場を求めて瀬戸内海各地に出漁し新浦を形成する
⑤長崎俵物の加工技術を持っていた家船漁船は、その技術を見込まれて集団でリクルートされるようになる。
⑥次第に彼らは生国の善行寺の管理から離れ、移住地に根ざす方向を目指すようになる。
少し簡略すぎるかもしれませんがお許しください。

最後に、二窓の漁民の移住・出漁(寄留)地の一覧表が載せられています。讃岐分のみを紹介します。河岡武春著『海の民』平凡社より
二窓漁民の移住・出漁(寄留)地
 国 郡 地名   移住    出漁(寄留) 初出年代 筆数  
讃岐国小豆郡小豆島 安政6(1859)  3 享保18(1733) 32
  〃   小部            天保2(1831)  2
  〃  小入部?           天保元(1830)  1
  〃   大部            嘉永5(1852)  1
  〃   北浦  安政3(1856)  6 文政2(1819)  4
  〃   新開  嘉永4(1851)  5 天保12(1841)  7
  〃   見目            天保6(1835)  2
  〃   滝宮            文政5(1822)  1
  〃   伊喜末 嘉永2(1849)  1 天保7(1836)  3
  〃   大谷  文政2(1819)  7 延享2(1745) 15
  〃   入部  天保13(1842)  7 文政11(1828) 31
  〃   蒲生  安政6(1859)  2 安政5(1858)  1
  〃   内海            文政9(1826)  5
讃岐国香川郡直島  弘化3(1846)  3 延享2(1745) 25
讃岐国綾歌郡御供所 嘉永3(1850)  6 天保4(1833) 11
  〃   江 尻 安政5(1858)  1 文久2(1862)  3
  〃   宇田津           文化3(1806)  2
讃岐国仲多度郡塩飽           文久2(1862)  1
     塩飽広島 嘉永4(1851)  2 天保6(1835)  3
     塩飽手島 嘉永2(1849)  3 享保18(1833) 34
  塩飽手島カロト           文政11(1828)  4
  塩飽手島江ノ浦           天保5(1834)  2
      鮹 崎           文政6(1823) 11
      後々セ           文政6(1823)  1
      讃 岐 嘉永4(1851)  3 享保6(1721) 34
 讃岐国 合 計    13例  49  25例  236

これを見て分かることは
①小豆島・塩飽の島嶼部が多い。特に小豆島の「辺境」部の漁村は、ほとんどが家船漁船によって作られた
②塩飽は、豊島の多さが目につく。
この当たりはまた追々に、見ていくことにしましょう。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 愛媛県史 民俗編
シー



3 家船3

村上海賊衆の水夫達の行方については、史料がないのではっきりしたことは研究者にも分からないようです。しかし、想像を巡らせるなら「海賊の末裔」「水軍の敗残兵」としてひどい目にあわされたのではないかと思います。周辺の島々で住み着いて暮らしていくとしても、農耕する土地もなければ、船に乗る以外にこれといった技術もありません。そこで、小さな舟に乗り漁民として生計を立てる者が多かったようです。しかし、好漁場には古くから漁場権があります。新たに漁を始めた新参者が入って行くことはできません。そこで船に寝泊まりしながら漁場を求めて遠くの海まででかけます。船に乗って生活しているので、家船(えぶね)漁民とよばれるようになります。

3 家船6
 広島県因島の家船(昭和25年頃)
村上水軍の水夫達の末裔とも云われる家船の漁師動きを 物語風に再現してみましょう。
 漁業権がないため目の前の海で操業できない新参漁師達は、新たな漁場を探して、一家で船に乗って出かけて行きます。漁場に出会うと水や薪を補給し、網を干したりするキャンプ地を開きます。それは、先住者との対立を招かないために、目の届きにくい岬の磯などに小屋掛けされました。時と共にそのキャンプ地を拠点に陸上がりして、仲間達を呼び寄せ、次第に小さな集落をあちこちの浦浜に作るようになります。新参者の零細漁民としてさげすみの目で見られることが多かったので、陸上がりしてもあまり「本村」の村人とは交わらずにひっそりと住んでいました。また農民は、漁民と混在することを嫌がって土地を提供しません。そのために。海沿いの条件の悪い狭い所に密集して住むことになります。当初は、このように本浦と「棲み分け」て、関係もほとんど持たなかったようです。
  浦にも幕藩体制が力が及ぶようになると・・・
鎖国体制が進むと幕府は造船・海上運送・廻船難破などについて統制を強化します。各地の浦浜には、浦方取締りを箇条書きにした「浦高札」が立てられるようになります。そして、毎年のように「船改め」を行い、漁業権についても法的規制を強めていきます。農村支配だけでなく「浦方」と呼ばれた海村にも浦庄屋が置かれるようになり、加子(水夫)役や、海高と呼ばれる漁業租税が漁民に担わせるようになります。
 課税できるのは定住し、戸籍が作られてからです。しかし、家船漁民は定住しないので、どこの海にいるか分かりません。そのため水夫役米は納めていませんでした。藩としては、いつも海上にいる彼らの所在を掴むことが出来ないし、全体から見ると少数・少額なので放置していたというのが実情かも知れません。家船漁民の姿が讃岐の史料にも出てくるようになります。
200年ほど前の『金毘羅山名所図絵』には、次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる。
意訳すると
①塩飽の漁師は、丸亀沖の船を住み家としていること
②夫は漁師、妻は夫の獲った魚を頭上の籠に載せて丸亀城下を行商して売り歩くこと
③その代金で、米酒や薪などから絹まで買って船に帰る
とあります。
 補足すると、塩飽は人名の島で漁業権はありますが、漁民はいませんでした。人名達は漁民を格下として見下していたようです。この文章の中で「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師ではありません。これは塩飽沿岸で小網漁をしていた広島県三原市幸崎町能地を親村とする家船漁民のことをさしています。

3 家船4
 「船をすみかとし」て漁を行い、妻は丸亀城下で頭上の籠に魚を入れて行商を行っていたようです。最大の現金収入は、一本釣りのタイ漁で、釣った鯛は海上で仲買船に売って大坂に運ばれました。彼らの中には塩飽周辺で操業し、次第に近くの港の民家を船宿にして風呂や水や薪の世話を頼んだりする者も現れます。更に進んで、讃岐の港町に密かに家を持つ者も出てきます。丸亀駅の北側の福島町には、家船漁民の家がたくさんあったと云われています。
3 家船5

家船漁民の讃岐への定住 
家船漁民の中には、讃岐への移住を正式に願い出る者も出てきます。
宝暦九年(1759)に、宇多津村庄屋豊島孫太夫、浦年寄清太夫・佐市郎あてに出された「願い上げ奉る口上書」の内容は、次のような「移住申請」です
 宇多津ニて住宅仕り猟業仕り良く願い上げ奉り候、猟場の儀は右塩飽四ヵ所、島は申すに及ばず、御領分ノウ崎俵石より大槌鳥を見通し、西は丸亀詫間村馬の足目まで猟業仕り来たり候二付き、外漁師衆の障りは相成し申さざる様仕り来たり申し候、尤も生国へも一ヵ年の内一度づつは託り戻り申し候得共、大方年中船住居ニて暮し居り申し候ゆえ、寺用の事典御座候原は御当地南隆寺様へ御願い申し上げ来たり候、右住宅の義は御影ニて租叶ひ下され候はば、御当浦の御作法仰せ付けられ候通り少しも違背仕る間敷候、並びに御用等御座奴原は、何ニても相勤め申し度く存じ奉り候、生国の義胡乱が間敷思召し候弓ば、目.部厚―びニ付
 守旧九年卯二月計四日 芸州広島手繰り九右衛門
                    長作
                     徳兵衛
   意訳すると
①私は宇多津に住宅を持ち、漁業を行うことを許可していただけるよう願い出ました。
②猟場は塩飽諸島をはじめ、東は大槌島から西は庄内半島で、讃岐の漁師の邪魔にならないように行っています。
生国に1年に一度は戻りますが、ほとんどは船の中を住居にして暮らしていますので、葬儀などで寺に用事が出来たときには、南隆寺様でお世話になっています。
④宇多津に住宅を持つことがかないましたら、ご当地の作法を守り、破ることはしませんし、御用はきちんと勤めさせていただきます。なにゆえ許可願えますようお願い申し上げます。
    以上のように広島領の手繰り漁師九右衛門ら三名が宇多津浦への定住を願ったものです。
    この願いに対して、次のような許可認定が行われています。
   一筆申し達し御座候、其の浦辺ニて船住居致し罷り在り候芸州二窓浦の漁父九右衛門・長作・侭兵衛、右三人の者其の浦へ住居致し良く侯二付き、先達てより度々願い出候処、此の度国元の送り状持参致し、願い出侯趣余義無く相聞き申し候、願書の通り承り届け申し候二付き、其の浦蛸崎へ住宅指し免し申し候、其の段右漁夫共へ申し渡さるべく候、尚又、御帰城御参勤の御用は申すに及ばず、小間立て水夫御用等の節は差し支え無く罷り出、相勤め申すべく候、尚又、其の浦方作法の義違背無く相守らせ申すべく、此の段申し達し候、以上
日付けは  宝暦九年三月十五日、
差出し人は 御船蔵会所
宛先は   宇多津浦豊島孫太夫、浦年寄清太夫・佐市郎です。
 この文書のやりとりからは次のような事が分かります。
①家船漁民が宇多津を拠点に「手繰り」漁を行なっていた
②彼らは一年に一度は生国に帰るが、ほとんどを船で生活していた
③生国は広島領の二窓浦であること
④定住願いは前々から度々出されていてやっと認められたこと
⑤宇多津の漁民が参勤交替の御用船の水夫として、使われていたこと
こうして、正式の手続きを経て市民権を得て、殿様の参勤交替の水夫の役目も担うようになったようです。海賊禁止令で村上衆が離散してから約200年の歳月を経て、新たな新天地の正式のメンバーになる者もでてきたようです。
 しかし、このような例は少なかったようです。『検地帳』や『差出帳』には、家船漁師が定住した後でも一般漁民より格下に位置づけられいます。百姓株を持った村仲間としては扱われることはなく、村の氏神の祭礼にも参加できませんでした。
 結婚相手も家船漁民同士に限られました。
本浦の娘と家船漁民の若者のロマンスが生まれることはなかったようです。そのために金毘羅大権現の大祭の夜が、家船漁民の大婚活行事になっていました。こんぴらさんで出会った男女が、契りを交わし夫婦になるのです。これは面白い話ですが、以前にお話ししましたのでここでは省略します。
  家船漁民の浦は、「かわた」として特定の地域に囲い込まれ、それがあちこちの島々に点在している被差別部落の起源となったと考える研究者もいます。
   以上をまとめてみると、次のようになります
①村上海賊衆の水夫達は、家船漁師として海に生きようとする者もいた。
②漁業権のない彼らは、船に寝泊まりしながら遠くの新しい漁場を開拓した
③初期につっくられて遠征先の小屋掛け集落は、先住者の「本浦」とは没交渉であった。
④しかし、高い技術力を活かし出稼ぎ先にいろいろな形で定住するものが現れた。
しかし17世紀半ばまで移住は、細々としていたようです。それが大きく変化し、大勢の人間が移住をはじめるようになります。次回は、その動きを追ってみます。
以上です。おつきあいいただき、ありがとうございました。

  

3村上武吉水軍43
前回は村上水軍の領主達の末裔を追いかけました。
今回は、その下の武将や下級水夫層の行く末を探ってみようと思います。
 天下を取った秀吉が、海賊禁止令を破った能島村上に対して徹底した弾圧解体作戦でのぞんだことを前回はお話しました。能島水軍の水城は焼き払われ、首領の武吉は瀬戸内海から引き離されるように九州小倉に連れて行かれます。海賊達は「失業」し、ばらばらになります。警固衆として雇い入れていた多くの大名たちも秀吉の威光を恐れて、海賊衆をリストラし見捨てます。ここに能島村上は拠点と総領を奪われ「海賊組織」は完全に「企業解体」させらたのです。そして村上衆の離散が始まるのです。
そんな中で村上水軍に属していた一族が、讃岐に、「亡命」してきます。
江戸時代の葛原村の庄屋に成長する木谷家です。その子孫である名古屋大学の歴史教授が、その後の木谷家の歩みを本にまとめています。
3村上水軍木谷家3

以前にも紹介しましたが、ここでは木谷家の「讃岐移住」に絞って見ていこうと思います。
 木谷家の「讃岐移住」は天正15(1588)年の「刀狩り・海賊禁止令」前後と伝わっているようです。当時は、秀吉の天下統一が着々と進むなかで、海賊への取締りが強まる時期でした。その時代の流れをひしひしと感じ、将来への不安が高まったのかもしれません。特に能島を拠点にする村上武吉の配下の有力武将は、ことさらだったでしょう。彼らが、山が迫る安芸沿岸や狭い芸予の島々をいち早く見限り、海に近く、金倉川の氾濫で荒野となっている多度津葛原村に新天地を求める決断をしても、決して不自然ではありません。
それでは、なぜ移住先に多度津を選んだのでしょうか?
 木谷家は、なんらかの関わりが西讃地方にあったのではないかと私は考えています。
  第1の仮説は、戦争による木谷家武士団の讃岐遠征の経験です。
毛利側の史料『萩藩閥閲録』には、次のような記録があります。
天正五年(1577)、讃岐の香川氏(天霧山城主)が阿波三好に攻められ頼ってきた。これに対して毛利方は、讃岐に兵を送り軍事衝突となった。これを多度郡元吉城の戦い(元吉合戦)とする。元吉城は善通寺市と琴平町の境、如意山にあった。
 同年七月讃岐に多度津堀江口(葛原村の北隣)から上陸した毛利勢の主力が、翌月この城に拠って三好方の讃岐勢と向き合った。毛利方は小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくり、元吉城麓の戦いで大勝をおさめた。毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた

 この戦いを「元吉合戦」と呼んでいますが、背景には石山合戦があります。
当時の毛利方の戦略課題は石山本願寺支援のために、瀬戸内海支援ルートを確保することでした。そのために、織田と結ぶ三好勢力を讃岐から排除する必要があったと研究者は考えているようです。
 
3櫛梨城
ちなみに元吉城とされる櫛梨山からは調査の結果、大規模な中世城郭跡が発見され、これが本吉合戦の舞台となった城であることが分かってきました。この時期に、毛利の大規模な讃岐侵攻作戦が行われていたのです。

3 櫛梨より
櫛梨山から善通寺方面をのぞむ 本吉合戦の舞台 
 注目したいのは次の二点です
①毛利方が小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくった
②毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた
 遠征軍の中に村上水軍の部隊があります。そして、戦後に一部兵力を残して引き上げています。この中に木谷家の一族がいたのではないでしょうか。あくまで私の想像(妄想)です・・
どちらにしても、木谷家には、多度津周辺についての情報があったと思います。金倉川流域の荒れた土地を眺めながら、ここを水田にすれば素晴らしい耕地になると思った先祖がいたと想像します。同時に、讃岐側の有力者との人間関係ができたのかもしれません。

3 葛原八幡神社3
葛原八幡の大楠
  第2の仮説の手がかりは、移住を行った1588年という年です。
その前年に、秀吉が讃岐領主に任じたのが生駒親正です。親正は讃岐にやって来る前は、播州赤穂の領主で対毛利攻略の要員として備前・備中を転戦していました。その過程で、生駒家の家臣団の誰かと親密になったという筋書きは考えられます。知行制の行われていた生駒藩で、金倉川流域に知行地を持つ有力武将をたよって讃岐にやってきたというのが第二の仮説です。いつもの通り、裏付け史料はありません。

3 葛原八幡神社4
 
木谷一族が庄屋に成長していった背景は何か?
 芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに一族意識で結ばれいた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに、あるいは別々に讃岐・葛原村に移住してきたようです。時期は、海賊禁止令が出た直後のようです。武将として蓄えた一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら豪族あるいは豪農として、一般農民の上に立つ地位を急速に築いていきます。特に目覚ましかったのが北條木谷家です、
年表で追うと
1611年 村方文書に葛原村庄屋として九郎左衛門(22代)の名があります。
1628年 西嶋八兵衛が廃池になっていた満濃池の改修に着手
1631年 満濃池の改修が完了
1670年 村の八幡宮本殿が建立、棟札に施主・木屋(木谷)弥三兵衛の名あり
以後、村人から「大屋」とあがめられた北條木谷家は、庄屋をつとめることになります。

3 葛原 金倉川
生駒藩の「旧金倉川総合開発プロジェクト」
『新編丸亀市史』は、満濃池の再築の前に、事前の用水整備工事の一貫として旧四条川の流れを金倉川の流れに一本にする付け替え改修を行ったことが記されています。その結果、流路の変わった金倉川の旧流路跡が水田開発エリアになります。水田が増えると水不足になるので、廃川のくぼ地を利用して千代池や香田池(買田池)などのため池群が築造されます。これらの開発・灌漑事業にパイオニアリーダーとして活躍したのが木谷家の先祖ではなかったのでしょうか。
ちなみに、当時は生駒藩の時代で大干ばつに襲われた後の復興が、藤堂高虎の指示の下に急ピッチで行われていました。その責任者が藤堂家から生駒家監督のために派遣されていた西嶋八兵衛です。かれが短期間の内に、満濃池をはじめ60あまりの大池を築造していた時期です。
3 葛原 千代池pg
木谷家が改修を行った千代池
生駒藩は「新田は開発者のもの」と新田開発を後押しします。
この時期に新田開発を行った家が庄屋となっている場合が、土器川や金倉川流域では多いように思います。木谷家もそのような生駒藩の「金倉川総合開発プロジェクト」を推進する旗頭として、多くの新田を手にしたのでしょう。1670年には、葛原村に八幡本宮が建立されますが、これは「金倉川総合開発」の成就モニュメントだったと私は考えています。

3 葛原八幡神社
葛原八幡神社
以上をまとめておきましょう。
①海賊禁止令が秀吉によって出された辱後に、村上水軍の木谷家の2軒が讃岐に移住してきた。
②彼らは「元安合戦」か「生駒氏」を通じて、金倉川流域について事前知識をもっていた。
③生駒藩の新田開発・ため池築造事業に乗じて、金倉川流域の葛原地区の新田開発を行った。
④その結果、短期間に有力者になり村の庄屋を務めるまでになった。

 芸予諸島で村上武吉のもとで海賊稼業を務めていた一族が、中世からの近世への激動の中で、讃岐に新天地を求め帰農し、新田開発を行い庄屋へと成長していくストーリーでした。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献「讃岐の一豪農の三百年・木谷家と村・藩・国の歴史」

 塩飽衆は、中世から近世への激怒期の中を本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切りました。「人名」して特権を持つだけでなく、「幕府専属の船方役」として交易活動を有利に展開する立場を得ました。それが、多くの富を塩飽にもたらしたのです。ある意味、海賊衆の中では「世渡り上手」だったのかもしれません。
 それでは村上水軍の領主たちは、どんな選択を選んだのでしょうか
3村上水軍
まずは能島の村上武吉の動きを見てみましょう。
 村上水軍の運命を大きく左右したのは、秀吉が出した海賊禁止令です。前回も触れましたがこの禁止令は天正十六(1588)年に、刀狩令と一緒に出されています。全国統一をすすめてきた秀吉にとって「海の平和」の実現で、全国的な交易活動の自由を保証するものでした。ある意味、信長が進めた「楽市楽座」構想の仕上げとも云えます。そして「海の刀狩り」とも云われるようです。
 しかし、海賊衆にとっては、「営業活動の自由」の禁止です。水軍力を駆使した警固活動や、関役・上乗りなどの経済的特権も海賊行為として取り締まりの対象となりました。

3村上武吉水軍3
 
村上武吉は、これに従いません。秀吉の命に背いて密かに関銭を取り続けます。秀吉は激昂し、武吉の首を要求しますが、この時も小早川隆景の必死の取り成しで、どうにか首はつなぎとめることができたようです。
3 村上水軍 海賊禁止令
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町)で起きたのは曲事である。
一 海で生きてきた者を、その土地土地の地頭や代官が調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊が生じた場合は、地域の領主の責任として、土地などを取り上げる
 天下を取った秀吉は、能島村上を名乗る海賊衆に対して徹底した弾圧解体作戦でのぞみます。能島の水軍城は焼き払われます。
3村上水軍nosima 2
武吉の拠点 能島
海賊達は「失業」しますが、多くの大名たちは秀吉の威光を恐れて、警固衆として雇い入れていた能島海賊衆を見捨てます。そんな中で陰に陽に武吉を庇ったのは小早川隆景だったようです。そのために隆景までもが秀吉に睨まれて、彼の政治的立場も一時危うくなりかけたことがあったようです。しかし、隆景は最後まで義理を通して武吉を守ります。そのためか村上水軍の記録には、
隆景評として「まことに智略に富み人情厚き武将だった」
と記されています。小早川隆景が筑前に転封されると、武吉も筑前に移ります。 
3村上武吉水軍43

 能島村上は拠点と総領を奪われ「海賊組織」は完全に解体させらたことになります。多くの「海賊関係者」が「離職」するだけでなく、住んでいた土地も住居も奪われます。こうして村上衆の離散が始まるのです。それは、後に見ることにして武吉のその後をもう少し追いかけます。
 筑前に移った武吉ですが、秀吉が朝鮮攻めで名護屋城に行くために筑前に立ち寄る際には「目障りになる」と、わざわざ長門の寒村に移住させられています。そこまで秀吉に嫌われていたようです。秀吉の死で、ようやく気兼ねすることがなくなります。
武吉の晩年は周防大島
 晩年は、毛利氏の転建先である長州の周防大島の和田に千石余の領地をあたえられます。ここが武吉の最後の住み家となったようです。海賊大将の武吉は、関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰れることはありませんでした。
3村上武吉墓2
菩提寺と墓は次男景親が和田に建立しています。武吉の墓と並んで妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻の墓で、大島出身の女であったようです。
 以後の能島村上氏は、毛利家に使える御船手組頭役して生きていくことになります。つまり、毛利の家臣となったのです。天下泰平になると、この家の当主達は伝来する水軍戦術を兵法書にしたためます。これが今に伝わることになるようです。
3村上水軍3
 一方、いち早く秀吉側についたのが来島村上氏です。
時代は、石山合戦の「木津川(きづかわ)口海戦」までもどります。この時に村上武吉の率いる毛利水軍にコテンパンにやられた信長は、秀吉に命じて、村上水軍の分断工作を行わせます。秀吉が目がつけたのは、来島村上でした。巧みな工作が成功し、天正十年(1582年)三月、来島の村上通総は、本能寺の変の直前に信長方に寝返ります。これに対して能島、因島、毛利の連合軍は、来島村上氏の居城や各地の所領を一挙に攻撃します。村上通総は風雨に紛れ、京都の秀吉の陣を目指し脱出する羽目になります。
 天正十二年(1584年)、信長死後の跡目争いに勝ち残った秀吉は、その傘下に入ってきた毛利氏に対し、来島と改姓した通総を伊予国に帰国させることを命じています。通総は、秀吉に気に入られて「来島(正しくは来嶋)」の名を与えられ、歓喜した通総は翌年の秀吉の四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒をつとめ活躍します。伊予の名族・河野氏を滅ぼし、新たな領主となった通総は、鹿島(現北条市)を居城に風早郡、旧領野間郡とあわせ一万四千石の所領を与えられることになったのです。これは来島村上「水軍=海賊」が、秀吉によって大名に取り立てられたということになるのでしょう。
 元「村上海賊」の来島通総は、秀吉の九州征伐や小田原征伐にも水軍を率いて従軍し、各地で戦功をたてています。朝鮮出兵にも水軍として出陣し、李氏朝鮮の李舜臣(イ・スンシ)率いる水軍との間で何度も戦っています。しかし、朝鮮火砲の威力と砲艦「亀甲船」の登場による火力の差で、日本水軍は連敗を続けます。来島村上一族の多くが、異国の海で命を失っています。
 来島氏は、関ヶ原合戦で一時西軍につきました。
3村上kurusima水軍3

そのため翌年に、豊後国森藩(大分県玖珠郡玖珠町)一万四千石へと転封となります。取りつぶしにならなかっただけでも幸いだったかもしれませんが、瀬戸内の「海賊」の旗を掲げ続けた最後の村上氏は、周りに海をもたない山間の地に移ることになったのです。そして名前も来島氏から「久留嶋(くるしま)」氏と改称することを余儀なくされます。こうして来島通総の子孫は、海と「海賊」の名を捨てることで、山の中で近世大名へと脱皮していきます。

3 村上来島陣屋kurushima-jinya_01_2146
来島氏の陣屋跡

●最後に因島の村上氏を見ておきましょう
海賊大将の能島村上武吉は、秀吉の横槍を受けて、瀬戸内海から追放されてしまいましたが、因島村上氏は小早川隆景に属して「海の武士」として因島・向島を領有していました。そのため、その後も勢力を維持することができました。
 しかし、慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦い」で、毛利輝元は豊臣方の総大将を務めました。その結果、毛利氏は長門と周防の二国以外の領地はすべて没収処分されます。多くの家臣団が、毛利氏に従って長門に移住していきました。因島村上氏も芸予諸島から立ち去ることを余儀なくされます。その後、子孫は能島村上氏系船手衆の支配下に入り、代々世襲して明治維新に至ったようです。

以上を、総括すると
「海賊禁止令」後の村上水軍の末裔は、次のような路を歩んだことになります。
①来島村上    秀吉に従って大名となる
②能島・因島村上  毛利の家臣となる
しかし、これは豊臣権力と妥協して生きのびた武将クラスの藩士です。村上水軍の実戦部隊だった下級水夫たちの末路は、どうなったのでしょうか。次回は、それを探って行くことにします。

参考文献 橋詰 「中世の瀬戸内 海の時代」

 
塩飽勤番所

 塩飽本島の春の島遍路に参加し突然の雨にあいました。雨宿りのために緊急避難したのが塩飽勤番所でした。誰もいない中、寒さに震えながら最終便のフェリーを待っていました。少し落ち着いてきたので、管内を見せてもらって驚いたのは「信長・秀吉・家康」の三人の朱印状がここにはあるのです。
3塩飽 朱印状3人分

びっくりしました。もちろんホンモノは塩飽勤番所に御朱印蔵と呼ばれる蔵を作り、石の櫃の中に入れて保存されています。なぜ、ここに3人の朱印状があるのだろう。彼らにとって、塩飽の重要性とはなんだったろうかという疑問が私の中でわいてきたのを思い出します。そんなわけで長年放置されてきた疑問に向き合うことにします。

 まずは塩飽本島の地理的・戦略的な位置について確認しておきましょう。

3 塩飽 tizu
備前・備中と讃岐との真ん中にあるのが塩飽です。瀬戸内海を行き来する船を監視するには、塩飽を押さえれば北側を航行しようが南側を航行しようが監視しやすい島です。室町時代は、細川家が備中と讃岐の守護を世襲化し、この本島を中心に瀬戸内海西部を押さえていました。その力が弱まってくると、新たな勢力による争奪戦が始まります。そして、西から芸予諸島の勢力が及ぶようになります。
  〔屋代島村上文書〕細川高国宛行状
 今度忠節に就て、讃岐国料所塩飽代官職のこと、宛て行うの上は、いささかも粉骨簡要たるべく候、なお石田四郎兵衛尉申すべく候、謹言
  卯月十三日       高国(花押)
 村上宮内大夫殿
  花押の主は細川高国で、室町幕府の管領です。「讃岐国料所代官職のこと」とありますが、幕府の直轄地とし村上宮内大夫を塩飽代官に命じたことを示す文書です。代官に任じられた村上宮内大夫は能島村上氏の頭領のようです。当時は因島・来島・能島村上を三島村上と呼び、そのうち最も勢力をもっていたのが能島村上です。この史料からは16世紀の初頭には、塩飽諸島は能島村上氏の支配下にあったことが分かります。
3塩飽地図
  次の史料は塩飽が村上武吉の支配下にあった事を示すものです。
〔野間文書〕村上武吉書状
 本田治部少輔方罷り上らるにおいては、便舟の儀、異乱有るべからず候、そのため折帯をもって申し候、恐々謹言
    永禄十三年
     六月十五日        武吉(花押)
      塩飽島廻舟
時代が下って戦国時代のものです。花押は能島村上の当主・武吉のものです。豊後の戦国大名大友氏の家来である本田治部少輔が都へ上るので、「便舟の儀、異乱有るべからず」と船の便を図ってやるように、村上武吉が塩飽に命じています。ここからも塩飽は、引き続いて村上水軍の支配下にあったことが分かります。信長の勢力が瀬戸内海に及ぶ以前は、塩飽は村上水軍の傘下にあり、命令を受ける立場であったことを確認しておきましょう。
その上で信長の朱印状を見てみましょう。
信長朱印状
堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
  (松井友閃)
   宮内部法印

 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。実物は初めて見ました。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。この朱印状についての従来の説は、
 船から七五尋の範囲は塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろという特権をもっていた。その
「触れ掛り特権」を信長が再確認したのだ、
といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。「触れ掛か特権」とは
「堺港への上り下りの塩飽船は航行中にても碇泊中にても船網七五尋の海面を占有することのできる権利」
で、これを侵したものに対しては「成敗」することを塩飽側に認めたものされてきました。しかし、「触れ掛り」特権を示す史料はありません。言い伝えをもとに「触れ掛り」特権を塩飽衆が主張してきたにすぎないようです。
 そのために再検討が必要だと研究者は考えているようです。
まず、朱印状の出された背景や時期を考えなければならないというのです。時期は、石山本願寺との宗教戦争の真っ最中です。本願寺は生き残りのために、各地へ檄を飛ばして兵糧や軍資金を納入しろと命じます。それに応えて、讃岐からも宇多津の西光寺は、青銅七〇〇貫・米五〇石・大麦小麦一〇石二斗を搬入しています。それに対しての本願寺から礼状が残っています。
 また広島の「安芸一向宗門徒」は、毛利氏と結んで村上水軍の船で大坂へと攻め上り、木津川で信長軍を打ち破ります。それに対して、信長は鉄でできた船を建造して村上水軍に大打撃を与えます。これを石山戦争と呼んでいます。
 瀬戸内海は村上水軍が制海権を握っています。信長は毛利の村上水軍に対抗する海軍力を、東瀬戸内海で作らなければならなかったのです。そこで塩飽に目をつけます。東瀬戸内海の流通圏を握った者が、この戦いに勝てる。そして、天下布武の近道になる。塩飽を抱え込めば、それが可能になると信長は判断したのでしょう。そのような状況下で、この朱印状は出されています。このような背景を押さえて上でもう一度この朱印状を見てみると、以下のような不審点がでてくるようです。
①宛先が塩飽中宛でない。塩飽に対して出された文書でない
②「成敗すべき」とは塩飽船が成敗権を持っていることになるが、当時の法制からみて考えられない。
 以上からこの朱印状の内容は
 塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入に関しては問題なく対処せよ、もし勝手な行動(本願寺に味方する)をしたならば成敗することを、堺奉行の松井友閑に達したもの
  つまり塩飽船の自由特権を認めたものではなく、非本願寺勢力であることを確認した内容とします。 塩飽船は信長の支配下に組み込まれたのです。信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による瀬戸内海の流通路の封鎖をはかり、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとしていたのです。その責任者である松井友閑に、この朱印状は宛てられています。
 塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。その確認のために、出されたもので塩飽に特権を認めたものではないとします。どちらにせよここで確認しておきたいのは、塩飽は村上側から信長側に移ったということです。以後、信長方の有力船団として働くことになります。
 
 現在塩飽動番所には、次の5点の朱印状が保管されています。
   発行年月      発行者    宛先
 ①天正 五年三月二十六日 織田信長 官内部法印・松井有閑
 ②天正十四年八月二十二日 豊臣秀吉 塩飽年寄中
 ③文禄 元年十月二十三日 豊臣秀次 塩飽所々胎生、代官中
 ④慶長慶長二十八日    徳川家康   塩飽路巾
 ⑤寛永七年八月十六日   徳川     塩飽路中
    
 ②の秀吉の朱印状は天正十四年のものです。
               (仙)
    今度 千(仙)石権兵衛尉俄豊後へ遣わされ侯、然者当島船の事、用捨を加え侯といえども、五十宛乗り候船十嫂分担越すべく候、則ち扶持方下され候間、壱嫂二水主五人宛まかり出ずべく侯也、
      八月廿二日      (秀吉朱印)
    
             塩飽年寄中
3塩飽 秀吉朱印状

「九州討伐」のために千石権兵衛尉(仙石秀久)の軍を豊後へ輸送するために、50人乗る船を10艘、一艘に水主5人を塩飽から出すように命じたものです。仙石秀久は、讃岐領主に任じられたばかりで、塩飽もその領内にありました。彼は九州攻めの四国総大将として出陣し、戸次川の戦いで大敗し失脚していきます。その九州攻めに際しての輸送船の手配命令書です。秀吉の支配下に置かれ、戦いのために船と水主を出すように軍役が課せられているのが分かります。
    薩摩攻めの時には
 御兵狼米ならびに御馬・竹本・その外御用道具、大坂より仙台(川内)へ塩飽船にて積廻し侯様にと、四年寄中へ御付けられ、早遠島中へ船加子の下知これ有り」
と、兵器等の後方支援物資の輸送を塩飽船が担当しています。注意しておきたいのは、村上衆と違っているのは、「水軍ではなく海運」に従事していることです。実際の戦闘には参加していません。
 このように、九州攻め以降は秀吉の支配下に組み込まれ、関東の小田原の後北条氏攻めにも太平洋を越えて兵糧米の輸送を成功させています。
3 塩飽 軍船建造
朝鮮出兵の軍船の建造を命じられた塩飽
 天正十九年(1591)秀吉は朝鮮侵略の準備として、全国の大名に船舶の建造を命じています。その一貫として、塩飽で船の建造が始まります。大船建造のためには、舟大工・船頭の技術者が必要となります。そこで、奉行を派遣して職人の徴集を行っています。塩飽に置かれた代官が技術者の募集活動を行った文書が残っています。
  秀吉の甥の秀次の出した朱印状も残されています

3塩飽 秀次朱印状
 ⑥文禄二年(1593)の朱印状です。引退した秀吉に代わって秀家の名前で出されています。朝鮮出兵で多くの兵士が傷ついたのでしょう。その医療部隊として医師35名が佐賀の名護屋城に派遣されることになったようです。そのための船を準備するように命じられています。船の大きさまで指示されています。宛先は「しわく船奉行」となっていますので、この時期には塩飽に、代官が置かれ直接支配が行われいたことが分かります。
3 塩飽AA高部ね
このように塩飽船は、大坂と名護屋を結ぶ連絡船として徴発されたようです。塩飽船奉行の管理下で、瀬戸内海を通じての大坂・名護屋の間の物資・軍兵輸送を塩飽船が担当していたことが分かります。この総括責任者が小西行長になるようです。塩飽は、この時期瀬戸内海航路の管理センターの役割を果たしてのです。他の港とは比較にならない程多くの船と水夫を出しています。まさに中央政権の直接支配下に軍港・後方支援センターとして組み込まれ、多くの人とモノが行き交ったようです。
次が家康の朱印状です

3塩飽 家康朱印状

    関ヶ原の戦いに勝利した直後に出されています。豊臣方は敗れますが、その勢力は西日本には残っています。家康の当時の戦略課題のひとつは「瀬戸内海防衛体制の強化」でした。毛利・島津などの豊臣恩顧の大名たちが刃向かった時に備えるために、沿岸の防衛体制を築く必要がありました。瀬戸内海沿岸の徳川方の大名たちが、海に浮かぶような「水城」を築くのは家康の意向ではなかったかと私は考えています。讃岐を安堵された生駒氏が高松城の築城に本気で取りかかるのも、関ヶ原の戦い以後のことのようです。
 そのような中で、塩飽の戦略的な価値に家康も気づきます。「塩飽を味方につけたい」ということで、塩飽に朱印状が出されます。そして、検地を行って2150石を船方650人に宛行うのです。
 これは秀吉の朱印状を引き継ぐようですが、「六五〇人」は舟方の総数を示すものではないようです。塩飽に対する軍役負担として650人を命じたものと研究者は考えているようです。つまり塩飽においては、いついかなる場合でも650人の舟方が軍役に出ることを義務づけられていたということです。650人は、特定個人をさすのではなく、軍役負担数を示すと研究者は考えているようです。その扶持米として2150石が与えられたのです。秀吉の時の朝鮮出兵などへの動員は、これに基づいた「軍役負担」だったとようです。この650人が江戸時代には「人名」と称されるようになっていきます。そして人名制という新たな制度で、塩飽は統治されていくようになるのです。
以上のように三つの朱印状が塩飽に残っているのは「信長・秀吉・家康」が塩飽の戦略的な価値を理解して、味方に引き込もうと力をそそいだ結果だったようです。確かに、人名という権利は保障されました。しかし、塩飽船の自由な航行は終わります。
 「海賊禁止令」をどう受け止めたのか?
少し時間を戻します。秀吉は天正十六(1588)年に、刀狩令と一緒に「海賊禁止令」をだしています。これは信長以来の「楽市楽座」政策の延長上で「海の平和」を実現するためのものでした。まさに天下統一の仕上げの一手です。これを村上武吉や塩飽衆は、どのように感じたのでしょうか。
海賊衆にとっては、「営業活動の自由」の禁止を意味するものでした。「平和」の到来によって、水軍力を駆使した警固活動を行うことはできなくなります。「海の関所」の運営も海賊行為として取り締まりの対象となったのです。村上武吉は、これに我慢が出来ず最後まで、秀吉に与することはありませんでした。
 これに対して塩飽衆はどうだったのでしょうか。彼らのその後の歩みを見てみると、「海賊禁止令」を受けいれ秀吉の船団としての役割を務め、その代償に特権的な地位を得るという生き方を選んだようです。それは家康になっても変わりません。それが人名や幕府の専属的海運業者などの「権利・特権」という「成果」につながったという言い方もできます。 
 どちらにしても、中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海をから離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのようななかで、本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆だったようです。
 参考文献 橋詰 「中世の瀬戸内 海の時代」

    
 船乗りたちにとって海は隔てるものではなく、結びつけるものでした。舟さえあれば海の上をどこにでもいくことができたのです。海によって瀬戸内海の港は結びつけられ、細かなネットワークが張り巡らされ、頻繁にモノと人が動いていたのです。中国の「南船北馬」に対して、ある研修者は「西船東馬」という言葉を提唱しています。東日本は陸地が多いから馬を利用する、西日本は瀬戸内海があるため船を利用するというのです。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg
     「兵庫北関入船納帳」にみる大量海上輸送時代の到来
 室町時代になると、商品経済が発達してきます。そこで一度に大量の荷物を運ばなければならないので海運需要は増え、舟は大型化することになります。「兵庫北関入船納帳」を見ると400石を越える舟が讃岐でも塩飽と潟元には3艘ずつあったことが分かります。

3兵庫北関入船納帳.j5pg
  「北関入船納帳」には、どんなことが書かれているのか

3兵庫北関入船納帳
①入船月日
②舟の所属地
③物品名 
⑤関税額(文)と納入日時 
⑥船頭名 
⑦問丸名
の7項目が記されています
    具体的に、宇多津の舟を例に見てみましょう。 
②宇多津
③千鯛 
 甘駄・小島(塩)  ④百石  
 島(小豆島)    ④百石     
⑤一貫百文  
⑥橘五郎     
⑦法徳
   六月六日
北があれば当然南もあります。これは兵庫関所のある宇多津舟の項目です。当時は奈良春日大社の別当であった興福寺が南関所を管理していたようです。明治維新の神仏分離で、文書類は春日大社の方へ移されました。
②一番上に書いている宇多津、これが船籍地です。
港の名前ではなく船が所属している地名です。現在で船には必ず名前が付いています。その船の名前の下に地名が書かれています。その地名が船籍地です。ですから、その船に宇多津の船籍地が書かれていても、すべて宇多津の港から出入りしているわけではありません。
③その次に書かれている干鯛は、船に積んでいる荷物のことです。
備讃瀬戸は鯛の好漁場だったので干した鯛が干物として出荷されていたようです。その次の小島は「児島」です。これは、これは地名商品で、塩のことです。「島」は小豆島産の塩、芸予諸島の塩は「備後」と記されています。ちなみに讃岐船の積み荷の8割は塩です。
④次の廿駄とか百石というのは塩の数量です。
⑤その下の一貫百文、これが関税です。関料といいます。
⑥橘五郎とあるのは船頭の名前です。
⑦最後に法徳とありますが、これが問丸という荷物・物資を取り扱う業者です。六月六日と書いているのは関料を納入した月日です。
  実物の文書には、宇多津の地名の右肩に印が付けられているようです。その印が関料を収めたという印だそうです。この船は五月十九日に入港してきて、関料を納入したのは六月六日です。その時に、この印はつけれたようです。
「北関入船納帳」には、17ヶ国の船が出てきます。
そのうち船籍地(港)名は106です。入関数が多いベスト3が
①摂津②播磨③備前で、第四位が讃岐です。

国ごとの船籍地(港)の数は、播磨が21で一番多く、讃岐は第二位で、下表の17港からの船が寄港しています。
兵庫北関1

その17港の中で出入りが一番多いのが宇多津船で、一年間で47回です。一方一番少ないのが手島です。これは塩飽の手島のようです。手島にも、瀬戸内海交易を行う商船があり、問丸や船乗り達がいたということになります。

3 兵庫 
  積み荷で一番多いのは塩        全体の輸送量の八〇%は塩
塩の下に(塩)の欄があります。これは例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、塩の産地を示したものです。地名指示商品という言い方をしますが、これが塩のことです。瀬戸内海各地で塩が早くから作られていますが、その塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。「塩輸送船団」が登場していたようです。そして、塩を運ぶ舟は大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。

中世関東の和船

 通行税を払わずに通過した塩飽船
兵庫湊は関所ですから、ここより東に行く舟はすべて兵庫湊に立ち寄り、通行料を支払わなければならないことになっていました。しかし、通行料を払いたくない船頭も世の中にはいるものです。どんな手を使ったのでしょうか見てみましょう。  
 摂津国兵庫津都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく償旨 讃州塩飽嶋中へ相触らるべく候由なり、冊て執達くだんのごとし
   (文明五年)十二月八日   家兼
      安富新兵衛尉殿
 応仁の乱の最中の文明五年十二月八日付けで、家兼から安富新兵衛尉宛への書状です。家兼は室町幕府の奉行人、受取人は讃岐守護代の安富新兵衛尉です。内容は、兵庫関へちゃんと関税を払うように塩飽の島々を指導せよ内容です。この時期に税を払わず、関を通らないで直接大坂へ行った塩飽の船がいたようです。この指示を受けて、2日後の十二月十日に元家から安富左衛門尉へ出したのが次の文書です。
 〔東大寺文書〕安富元家遵行状(折紙)
 摂津国兵庫津南都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく候由、今月八日御奉書かくのごとく、すみやかに塩飽嶋中へ相触れらるべしの状くだんのごとし
 文明五年十二月十日      元家(花押)
   安富左衛門尉殿
なぜ幕府から讃岐守護代に出された命令が2日後に、塩飽代官に出せるのでしょうか。京都から讃岐まで2日で、届くのでしょうか?
それは守護細川氏が京都にいるので、守護代の安富新兵衛尉も京都にいるのです。讃岐の守護代達やその他の国の守護代達も上京して京都に事務所を置いているのです。言わば「細川氏讃岐国京都事務所」で、守護代の香川氏・安富氏などが机を並べて仕事をしている姿をイメージしてください。幕府から届けられた命令書を受けて、京都事務所で作成された指示書が塩飽の代官に出されているようです。
 室町幕府役人(家兼) → 
 讃岐守護代 (京都駐在の安富新兵衛尉)→ 
 塩飽代官  (安富左衛門尉)→
 塩飽の船頭への注意指導
 という命令系統です。同時に、この史料からは塩飽が安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽と云えば私の感覚からすると丸亀・多度津沖にあるから香川氏の支配下にあったと思っていましたが、そうではないようです。後には安富氏に代わって香西氏が、塩飽や直島を支配下に置いていく気配があります。
 話を元に戻して・・・
「入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます
国料とは、関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である十川氏と香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。それは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。
   もう一つ過書船というのがあります。
これは積んでいる荷物が定められた制限内だったら税金を免除するというしくみです。塩飽船の何隻かは、この過書船だったようです。しかし税金を支払いたくないために、ごまかして過書船に物資を積み込んで輸送します。しかし、それがばれるようです。ごまかしが見つかったからこんな文書が出されるのでしょう。「行政側から「禁止」通達が出ている史料を見たら裏返して、そういう行為が行われていたと読め」と、歴史学演習の授業で教わった記憶があります。塩飽船がたびたび過書船だと偽って、通行税を支払わないで通行していたことがうかがえます。
 次に古文書の中に出てくる讃岐の港を見ていきましょう。
 
7仁尾
中世仁尾の復元図
 まず仁尾湊です 仁尾には賀茂神社の御厨がありました。
海産物を京都の賀茂神社に奉納するための神人がここにいました。海産物を運ぶためには輸送船が必要です。そのために神人が海運業を営んでいたようです。残されている応永二十七年(1420)の讃岐守護細川満元の文書を見てみましょう。
【賀茂神社文書】細川満元書下写
兵船及び度々忠節致すの条、尤もって神妙なり、
甲乙人当浦神人など対して狼籍致す輩は、
罪科に処すべくの状くだんのごとし
  応永廿七年十月十七日
                    御判
    仁尾浦供祭人中
 「兵船及び度々忠節致すの条」とは、細川氏が用いる輸送船や警備船を仁尾の港町が度々準備してきたとのお褒め・感謝の言葉です。続いて、賀茂神社の「神人」に狼藉を行うなと、仁尾浦の人々に通達しています。これも「逆読み」すると、住民から「神人」への暴行などがあったことがうかがえます。住民と仁尾浦の管理を任されている「神人」には緊張関係があったようです。「神人」は、神社に使える人々という意味で、交易活動や船頭なども行っているのです。
 ちなみに、この文書が出された年は、宋希璋を団長とする朝鮮使節団が瀬戸内海を往復した年です。使節団員が一番怖れていたのは海賊であったと以前お話ししましたが、その警備のための舟を出すように讃岐守護の細川光元から達しが出されています。仁尾はいろいろな物資を運ぶ輸送船以外にも、警備船なども出しています。そういう意味では、細川家にとって仁尾は、備讃瀬戸における重要な「軍港」であったようです。

6宇多津2135
中世宇多津 復元図 
讃岐にやって来た足利義満を細川頼之は宇多津で迎えた
〔鹿苑院殿厳島詣記〕康応元年(1389)
ゐの時ばかりにおきの方にあたりて あし火のかげ所々に見ゆ、これなむ讃岐国うた津なりけり、御舟程なくいたりつかせた給ぬ、七日は是にとゝまらせ給、此所のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり、ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり、磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ、すこしひき人て御まし所をまうけたり、
鹿苑院殿というのは室町幕府三代将軍足利義満のことです。康応元年(1389)3月7日 将軍足利義満が宇多津に引退していた元管領の細川頼之を訪ねてやってきます。訪問の目的は、積年のギクシャクした関係を改善するためで、厳島詣を口実にやってきたようです。二人の間で会談が行われ、関係改善が約されます。その時の宇多津の様子が描かれています。
「港の形は、北に向かって海岸線に沿って人家が並び、東は尾根が北に長く伸びている。港の海沿いには古い松並木が続き、多くの寺の軒がほのかに見える。」
 当時の宇多津は、元管領でいくつもの国の守護を兼ねる細川頼之のお膝元の港町でした。
「なぎさにそひて海人の家々ならべり」と街並みが形成され、
「磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ」と、海岸沿いの松並木とその向こうにいくつもの寺の伽藍立ち並ぶ港町であったことが分かります。しかし、守護所がどこにあったかは分かっていません。義満と細川頼之の会談がどこで行われたかも分かりません。確かなことは、細川頼之が義満を迎えるのに選んだ港町が宇多津であったことです。宇多津は「北関入船納帳」では、讃岐の港で群を抜いて入港船が多い港でもありました。
 その宇多津の経済力がうかがえる史料を見てみましょう。
 〔金蔵寺文書〕金蔵寺修造要脚廻文案
 (端裏書)
「諸津へ寺修造の時の要脚引付」
当寺(金蔵寺)大破候間、修造をつかまつり候、先例のごとく拾貫文の御合力を預け候は、祝着たるべく候、恐々謹言
 先規(先例)の引付
  宇多津 十貫文
  多度津 五貫文
  堀 江 三貫文
資料③は、大嵐で金蔵寺が大破したときに、その修造費を周辺の3つの港町に求めた文書です。
 宇多津は十貫文(銭1万枚=80万円)、多度津が半分の五貫文、堀江が1/3の三貫文の寄付が先例であったようです。今でも寺社の寄付金は、懐に応じて出されるのが習いです。そうだとすれば、宇多津は多度津の倍の港湾力や経済力があったことになります。

 多度津は西讃岐の守護代香川氏の居館が現在の桃陵公園にありました。
山城は天霧城です。港は、桃陵公園の下の桜川河口とされています。西讃守護代の香川氏の港です。守護の細川氏から京都駐屯を命じられた場合には、この港から兵を載せた輸送船が出港していたのかもしれません。その時の舟を用意したのは、白方の山路氏だと私は考えています。山路氏については、前回見たように芸予諸島の弓削島荘への「押領」を荘園領主から訴えられていた文書が残っています。海賊と「海の武士」は、裏表の関係にあったことは前回お話ししました。
   もうひとつが堀江津です。聞き慣れない港名です。

3 堀江
堀江は、中世地形復元によると現在の道隆寺間際まで潟(ラグーン)が入り込んで、そこが港の機能を果たしていたと研究者は考えているようです。その港の管理センターが道隆寺になります。このことについては、以前紹介しましたので省略します。ちなみに古代に那珂郡の郡港であったとされる「中津」は、港町の献金リストには登場しません。この時代には土砂の堆積で港としての機能を失っていたのかもしれません。
 宇多津の経済力が多度津の2倍だったことは分かるとして、金蔵寺の復興になぜ宇多津が応じるのでしょうか?金蔵寺と宇多津を結ぶ関係が今の私には見えてきません。

3 塩飽 tizu

    キリスト宣教師がやってきたシワクイ(塩飽)
「耶蘇会士日本通信」(永禄七年)には塩飽のことが次のように書かれています
 フオレの港(伊予の堀江)よりシワクイ(塩飽)と言ふ他の港に到りしが、船頭は止むを得ず回所に我等を留めたり。同所は堺に致る行程の半途にして、此間約六日を費せり。寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり、今日まで日本に於て経験せし寒気と比較して大いに異れるを感じたり。
 シワクイに上陸し、我等を堺に運ぶべき船なかりしが、十四レグワを距てたる他の港には必ず船があるべしと聞き、小舟を雇ひて同所に行くこととなせり。此沿岸には賊多きを以て同じ道を行く船一隻と同行せしが途中より我等と別れたり。我等は皆賊の艦隊に遭遇することあるべしと思ひ、大なる恐怖と懸念を以て進航せしが、之が為め途中厳寒を感ずること無かりしは一の幸福なりき。
我等の主は目的の地に到着するごとを嘉みし給ひ、我等は堺に行く船を待ち約十二日同所に留まれり。
フオレとは伊予の堀江、シワクイが塩飽のことです。伊予の堀江から塩飽まで六日間かかった。塩飽は堺へ行く途中の港だというように書いています。堺へ行く舟は、必ず塩飽へ立ち寄っています。これは風待ち・潮待ちをするために寄るのですが、目的地まで直行する船がない場合、乗り継ぐために塩飽で船を探すことが多かったようです。以前紹介した新見の荘から京都へ帰る東寺の荘官も倉敷から塩飽にやってきて、10日ほど滞在して堺への船に乗船しています。
宣教師達が最初に上陸した港には、堺への船の便がなく、「十四レグワを距てたる他の港には必ず船がある」と聞いて小舟で再移動しています。 レグワについて『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のようにあります
   レグアは、スペイン語・ポルトガル語圏で使われた距離の単位である。日本語ではレグワとも書く。古代のガリア人が用いたレウカ(レウガ)が元で、イギリスのリーグと同語源である。一般に、徒歩で1時間に進める距離とされる。現在のスペインでは5572.7メートル、ポルトガルで5000メートル。距離は国と時代によって異なるが、だいたい4キロメートルから6.6キロメートルの範囲におさまる。
 14レグワ×約4㎞=56㎞
となります。これは塩飽諸島の範囲を超えてしまいます。最初に着いた港は塩飽諸島にある港ではないようです。「寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり」というのも讃岐の風景にはふさわしくない気がします。近隣で探せば、赤石や石鎚連峰が背後に控える今治や西条などがふさわしく思えます。そこから14レグワ(56㎞)離れた塩飽に小舟でやってきたと、私は考えています。

「此沿岸には賊多き」と海賊を怖れているのは、朝鮮からの使節団も同じでした。宣教師達も海賊を心配する様子が克明に記されています。また「日本の著名なる港」との記述もあり、塩飽の港が日本有数の港であったことが分かります。塩飽という港はないので、本島の泊か笠島としておきます。

 以上をまとめておくと
①北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されている
②讃岐船の積荷の8割は「塩」で、大型の塩専用輸送船も登場していた。   
③兵庫湊の関税は、守護や守護代の積荷を運ぶ舟には免税されていた。
④免税特権を悪用して、兵庫港を通過し関税を納めない舟もあった。
⑤仁尾は賀茂神社の「神人」が管理する港で、細川氏の「軍港」の役割も果たしていた。
⑦讃岐にやって来た将軍義満を細川頼之が迎えたのは宇多津の港であった
⑧金蔵寺の修繕費の宇多津の寄付額は、多度津の倍である
⑨中世の中讃地区には、堀江湊があり道隆寺が交易管理センターとなっていた
⑩九州からやってきたキリスト宣教師は、塩飽で舟を乗り換えて上洛した
⑪塩飽は「海のハイウエー」のSA(サービスエリア)でありジャンクションでもあった。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

  「海民」は、どんな活動をしていたのか?
室町時代になると、瀬戸内海を生活の場として生きる「海民」の姿が史料の中に見えるようになります。彼らは、漁業・塩業・水運業・商業から略奪にいたるまで、いろいろな生業で活動します。しかし、荘園公領制の下の鎌倉時代には、彼らの姿はありません。荘園公領制の下では農民との兼業状態だったので、見えにくかったのかもしれません。それが南北朝の内乱を経て荘園公領制が緩んでくると、海民たちは荘園領主からの自立し、専門化し活発な活動を始めるようになります。瀬戸内海の「海民の専業化」過程を見てみることにしましょう。
まずは、海運業者です。海運業者といえば「兵庫北関入船納帳」
3兵庫北関入船納帳

 「兵庫北関入船納帳」には、文安二(1445)年の一年間に東大寺領兵庫北関(神戸市)に入船した船舶一般ごとに、船籍地、関銭額、積荷、船頭、問丸などが記されています。この史料の発見によって、船頭がどこを本拠にしたのか、何を積んでどのような海運活動を行っていたのかなどが分かるようになりました。 例えば讃岐船籍の舟を一覧表にすると次のようになります。
兵庫北関1
ここからは中世讃岐で、どんな港活動していたのか、また、その活動状況が推察できます。ここに地名がある場所には、瀬戸内海交易を行っていた商船があり、船乗りや商人達がいた港があったと考えることができます。
  芸予諸島の伊予国弓削島(愛媛県弓削町)を拠点に活動した船頭を見てみましょう。
3弓削荘1
弓削島は「塩の荘園」として、多くの塩を生産して荘園領主東寺のもとへ送りつづけていました。鎌倉時代になると、弓削島荘からの年貢輸送は、梶取(かんどり)とよばれる荘園の名主級農民のなかから選ばれた、操船に長けた人たちが「兼業」として行っていたようです。
 彼らは、中下層農民のなかから選ばれた数人の水夫とともに100~150石積の船に乗りこみ、芸予諸島から大坂をめざします。輸送ルートは、備讃瀬戸・播磨灘・大坂湾をへて淀川をさかのぼり、淀(京都市伏見区)で陸揚げするのが一般的だったようで、所要日数は約1ヵ月です。
siragi

  それが室町時代には、どのように変化したのでしょうか。 
貨客船の船頭太郎衛門の航海
 弓削島船籍の船は、「兵庫北関入船納帳」には、一年間に26回の入関が記録されています。
2兵庫北関入船納帳2
同帳記載の船籍地は約100が記されていますが、そのうちで二〇位以内に入る数値です。ここからも弓削島は、室町中期のおいては、ランクが上位の港であったことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」には船頭の名前もあります。そこで弓削籍船の船頭を見ると九名います。そのなかでもっとも活発に航海しているのは太郎衛門です。「兵庫北関入船納帳」から彼の兵庫湊への入港記録を拾い出してみると、次のようになります。

3弓削荘2
 積荷の「備後」というのは、塩のことです。塩は特産地の地名で呼ばれることが多く、讃岐の塩も方本(潟元)とか島(小豆島)と記されています。備後・安芸・伊予三国にまたがる芸予諸島も、古くから製塩の盛んな地域で、その周辺で生産された塩は「備後」という地名表示でよばれていたようです。
  太郎衛門の航海活動から見えてくることを挙げていきます。
定期的に兵庫北関に入関しています。
1~2ヶ月毎にはやってきています。弓削から淀までの航海日数が約1ヶ月でしたので、ほぼフル回転で舟はピストン輸送状態だったことが分かります。これを鎌倉時代と比べると、かつては梶取(船頭)が百姓仕事の合間をぬって年一回の年貢輸送に従事していました。しかし、室町時代の太郎衛門の舟は、定期的に弓削と京・大坂の間を行き来するようになっています。
北西風が吹き航海が困難とされていた冬の3ヶ月は動いていませんが、それ以外は約2ヶ月サイクルで舟を動かしています。専門の水運業者が定期航路を経営しているようなイメージです。
②太郎衛門の積荷はすべて備後=塩で統一されています
 専門の水運業者とはいっても、現在の宅急便のように何でも運んでいるのではないようです。弓削島周辺の塩を専門に運ぶ専用船のようです。塩の生産地という背景がなければ、太郎衛門のような専業船乗りは登場してこなかったかもしれません。専業船と生産地は切り離せない関係にあるようです。
③積載量が150~170石と一定しています。
 これは、太郎衛門の船の積載能力を示しているのでしょう。彼の舟が200石船であったことがうかがえます。この時代の200石舟というのは、どんなランクなのでしょうか。讃岐の舟と比べてみるましょう。
兵庫北関2
ここからは200石船は、当時としては大型船に分類できることが分かります。太郎衛門は大型の塩専用船の船長で経済力もあったようです。
   客船の船長と運航 
「兵庫北関入船納帳」とは別に、畿内方面からの下り船に対して税を課した記録も東大寺には残っています。「兵庫北関雑船納帳」で、ここには「人船」と記された舟が出てきます。これは客船のようです。船籍地は、堺(大阪府堺市)、牛窓(岡山県牛窓町)、引田(香川県引田町)、岩屋(兵庫県淡路町)なが記されています。ここからは室町時代になると客船が瀬戸内海を行き交っていたことがうかがえます。
   戦国時代天文十九(1550)年に瀬戸内海を旅した僧侶の記録を見てみましょう。京都東福寺の僧梅霖守龍の「梅霖守龍周防下向記」で、ザビエルが鹿児島にやって来た翌年の九月二日に、京都を発ち、十四日に堺津から舟に乗っています。乗船したのは「塩飽の源三」の十一端帆の船です。その舟には
「三〇〇人余の乗客が乗りこみ、船中は寸土なき」
状態であったと記します。短い記述ですが、このころの瀬戸内の船旅についての貴重な情報です。ここから得られる情報は
一つは、船頭源三の本拠、塩飽(香川県)についてです。
塩飽は備讃瀬戸海域の重要な港ですが、同時に水運の拠点でもありました。上の「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積みこんだ塩飽船が37回も入関しています。上の表を見ると200石積み以上の大型船が17隻、400石以上の超大型船も3隻いたようです。この大型船の存在は、塩飽の名を瀬戸の船乗り達に知らしめたのではないでしょうか。
 2つめは、源三の船は300人を乗せることができる十一端帆の船だったことです。 十一端帆の船とは、どの程度の大きさなのでしょうか。積石数と趨帆の関係表(『図説和船史話』至誠堂1983年)によると
①九端帆が100石積、
②十三端帆が200石積
程度のようです。源三船は積載量に換算すると100~200石積の船だったようです。
   室町から戦国にかけては、日本造船史上の大きな画期と研究者は考えているようです。
商品流通の飛躍的な進展や遣明船の派遣数の増加などにで船舶が急激に大型化します。そして構造船化された千石積前後の船が登場するのもこの時期のようです。その点では、源三船は従来型の中規模船ということになるのでしょう。それに300人を詰め込み「船中は寸土なき」状態で航海したのでから、今から見ると定員オーバーで乗せ過ぎのように思えたりもします。しかし、それだけの「需要」があったということになります。塩飽の船頭源三のような客船は、このころには各地にみられるようになっていたようです。
   守龍が帰路に利用した船の船頭は「室の五郎大夫」でした。
3室津

「室」は室津(兵庫県室津)のことで、古代からの瀬戸内を航行する船舶の停泊地として有名です。南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が並んでいます。室津が当時の人びとに兵庫とならぶ船頭の所在地として知られていたことが分かります。このとき守龍は、宮島から堺までの船賃として自身の分三〇〇文、従者の分二〇〇文を室の五郎大夫に支払っています。
1文=75円レートで計算すると 300文×75円=22500円
現在の金銭感覚で修正すると、この3倍~5倍の運賃だったようです。当時の船賃は、現在からすると何倍も高かったのです。自分と従者では船賃が違うのは、この時代から一等・二等のようにランクがあったことがうかがえます。瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして「客船」を運航する船頭たちが現れていたのです。

3兵庫北関入船納帳4
  客船のお得意さんは、どんな人たちが、何のために利用していたのでしょうか。
もっともよく利用していたのは京都や堺の商人たちであったようです。彼らは南九州の日向・薩摩にやってくる中国船から下ろされた「唐荷」を堺まで運んで莫大な利益を得ていました。その際に、利用したのが室や塩飽の客船だったのです。
 梅霖守龍が「室の五郎大夫」で京に戻った翌年の天文二十年九月、陶晴賢が主君大内義隆を攻め滅ぼします。西瀬戸内海の実権を握った晴賢は翌年に、厳島で海賊衆村上氏が京・堺の商人から駄別料を徴収するのを停止させます。その見返りとして京・堺の商人たちに安堵料一万疋(100貫文)を負担することを要求します。
 この交渉にあたった厳島大願寺の僧円海です。彼は陶晴賢の家臣に対して海賊衆の駄別料徴収を禁止したため逆に海賊船が多くなり、室・塩飽の船にたびたび「不慮の儀」が起きて、京・堺の商人が迷惑していると訴えています。ここからも京・堺の商人が室・塩飽の船を利用していることが分かります。このように、室・塩飽の船頭たちは、
大内氏(陶晴賢)ー 海賊衆村上氏 ー 京・堺の商人
の三者の複雑な三角関係を巧みにくぐりながら瀬戸内海で活動していたようです。
  室・塩飽の船頭の活動は、戦国末期から織豊期にかけてさらに広範囲で活発化します。
信長は石山本願寺との石山合戦を通じて、瀬戸内海の輸送路の重要性を認識し、村上水軍への対抗勢力として塩飽を影響下に置き、保護していきます。秀吉の時代になってもそれは変わらず「四国征伐」の際に豊臣方の軍隊や食料などの後方物資の輸送に活躍します。それは「九州征伐」でもおなじです。
 天正14(1586)年 讃岐領主仙石秀久は、豊後の戸次川の戦いで薩摩の島津氏に大敗します。この時に土佐の長宗我部などの四国連合部隊を輸送したのは、塩飽の舟だとされています。これは「朝鮮征伐」まで続きます。このように、信長・秀吉にとって毛利下の村上水軍に対抗するために塩飽の海上輸送能力が評価され、それが江戸時代の「人名」制度へとつながります。
3村上水軍2

  海民から海賊 、そして海の武士へ飛躍した村上氏
  室町期に活発に活動をはじめたのが海民の「海賊」行為です。
海賊行為は最初は、瀬戸内各地の浦々や島々ではじめられたようです。弓削島荘などもその一つです。南北朝の動乱の中、安芸国の国人小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に入部させています。そして下地を東寺の役人に打ち渡すことに成功していますが、それに要した費用を計算した算用状の中に、「野島(能島)酒肴料、三貫文」とあります。これを野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。
  このように海賊能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力として姿をあらわします。
 しかし、それだけではありません。この警護活動から約百年後の康正二(1456)年には、安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、讃岐国の海賊山路氏とともに、村上氏は弓削荘を「押領」している「悪党」と東寺に訴えられているのです。ここからは能島村上氏には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
①荘園領主の依頼で警固活動をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園侵略に精を出す海賊
 同じ弓削島荘には、海賊来島村上氏の先祖らしき人物たちの姿も見えます。
①応永二十七(1420)年に、伊予守護家の河野通元から弓削島荘の所務職(年貢納入を請け負った職)を命じられた村上右衛門尉、
②康正二(1456)年に東寺から所務職を請け負った右衛門尉の子の村上治部進
この二人は、「押領」を訴えられた能島村上氏とは対照的に、荘園の年貢納入を請け負うことによって、より積極的に荘園経営にかかわろうとしています。
  荘園の「押領」や年貢請負とは別に、水運に積極的にかかわろうとする海賊もいました。
弓削島の隣の備後国因島(広島県因島市)に拠点をおく因島村上氏です。15世紀前半に、高野山領備後国太田荘(広島県世羅町・甲山町付近)の年貢を尾道から高野山にむけて積み出した記録(高野山金剛峯寺文書)があります。因島村上市の一族が大豆や米を積んで、尾道から堺にむけて何回も航海しています。
 
 また前回に紹介した朝鮮国使として瀬戸内海を旅した宋希環の記録に、帰路に蒲刈(広島県上・下蒲刈島)に停泊した時のことが詳しく書かれていました。
 そこには同行した博多商人・宋金の話として次のようなことを聞いたといいます。瀬戸内海には東西に海賊の勢力分布があり
「東より来る船は東賊一人を載せ来たれば則ち西賊害せず、西より来る船は西賊一人を載せ来たれば則ち東賊害せず」
という海賊の不文律があるというのです。ここには、瀬戸内海を東西に二分した海賊のナワバリの存在、そのナワバリを前提とした海賊の上乗りシステムが示されています。
 同行していた博多の豪商宋金は、銭七貫文を払って東賊一人を雇っていましたが。その東賊が蒲刈島までやってくると西賊の海賊のもとに出向いて話をつけたので、宋希環は蒲刈の海賊とさまざまな交流を持つことになったのは前回紹介しました。
   この蒲刈の海賊は、下蒲刈島の丸屋城を本拠とする多賀谷氏とされます。
多賀谷氏は、もとは武蔵国を本貫とする鎌倉御家人でした。一族が鎌倉時代に伊予国北条郷(愛媛県東予市)に西遷し、さらに南北朝期に瀬戸内海へ進出して海賊化したようです。東国武士が西国で舟に乗り海に進出し、海賊化したのです
 宋希璋の記述からは、航行する船舶から通行料を徴収していたことが分かります。このように海賊の活動する浦々は、兵庫北関のような公的に認められた関とは異なる「私的な海の関所」があったようです。瀬戸内海では、海賊のことを「関」と呼ぶこともあったようです。
 以上のように、瀬戸内海では「海民」が、荘園の警固や「押領」、年貢の請け負い、さらには水運活動、黙綴(通行料)の徴収などさまざまな活動を展開していたことが見えてきます。
   強力な水軍力を有する村上水軍の登場 
戦国時代になると、浦々、島々の海賊が離合集散を繰り返しながら、さらに広範囲な海域を支配し、強力な水軍力をもつ勢力が台頭してきます。それが芸予諸島から生まれてきた、能島、来島、因島などの三村上氏です。

3村上水軍
 戦国期の能島村上氏は、単に本拠をおく芸予諸島ばかりでなく、周防国上関、備中国笠岡(岡山県笠岡市)、備前国本太(岡山県倉敷市)、讃岐国塩飽(香川県)などにも何らかのかたちで影響力を持っていたことがうかがえます。この範囲は、中部瀬戸内海をほぼ包みこんでしまいます。瀬戸内海が西日本の経済の生命線なら、それを握ったのが村上水軍と云うことになります。彼らは平時には、上乗りとよばれる警固活動をおこない、戦時には、水軍として軍事行動を展開することになります。つまり、彼らは「海の武士」でもあったのです。
やっと村上水軍の登場までたどりつくことが出来たようです。
今日はこのあたりで、
おつきあいいただき、ありがとうございました。

  老松堂日本行録 【ろうしょうどうにほんこうろく】を読む
 
1 日本行禄
         
江戸時代の朝鮮通信使のことはよく知られるようになりましたが、それに先立つ室町時代に李朝から国王使節団がやってきています。そして、その団長が詳しい記録を残しています。宋希璟(老松堂はその号)の紀行詩文集「老松堂日本行録」です。ここには、瀬戸内海をとりまく当時の情勢が異国人の目を通じて描かれています。見ていくことにします
当時の日朝関係と使節団団長の宋希璟を調べておきましょう
1419年(応永二十六)、朝鮮は倭寇の根拠地をたたく目的で対馬を攻撃します(応永の外寇)。
1応永(おうえい)の外寇img_0-9

朝鮮水軍の対馬攻撃は室町幕府に強烈な衝撃を与えたようです。
倭寇鎮圧は理解できるがどうしてこの時期なのか。
朝鮮側の真の目的は何か、何を意図しているのか。
さらに「朝鮮が攻めてくる」
「対馬が取られた」
「九州で合戦が始まった」
「婦女子が拉致された」
などの謀略まがいの怪情報、不安、不信や恐怖をあおる悪質なデマ、中傷が京都の町に渦巻きます。足利幕府は朝鮮の真意を探らせるため、大蔵経を求めるという口実で使節団を派遣し、内実を探らせます。これに対して李朝は、宋希璟を日本回礼使として日本使節団の帰国に同行させます。その時の見聞を団長の宋希璟が記録したものです。
1
世宗
漢陽(ソウル)を出発する際に、世宗から
「他国へいくに、詩は以って作らざるべからず」
と教えられ、
「出城の日より復命の時に至るまで、浅酬を揆らず、凡そ耳目に接するものあらば、皆記してこれを詩とすると云うのみ耳」
という覚悟で記録したのが、この「老松堂日本行録」です。行程は次の通りで9ヵ月余りの日本出張です。
1月15日 ソウル出発
3月 4日   博多着
4月21日 京都に到着
6月16日 将軍足利義持に謁見
6月27日   京都出発
10月25日 ソウル帰着
それでは「瀬戸内海」に絞って見ていきましょう。
 3月4日、博多に入った一行は大歓迎を受けています。宋希璟は、正式使節団の団長として身分を示す玉の飾りと冠をつけて、法螺貝を吹く螺匠4名をはじめ供の者を率いてパレードを行っています。日本側の警備兵が左右を守り、しずしずと進む行列は、当時の博多の人々にとっては大変めずらしいもので、老若男女から僧尼にいたるまで、路をうずめてこれを見たと記します。現在のエンターテイメント的イヴェントの側面があります
 江戸時代の朝鮮通信使の先駆けにもなるようです。後の通信使がそうであったように、僧を中心に多くの文人と交わり詩文を交わしています。とくに対外貿易や外交に携わっていた宗金や陳外郎の息子である平方吉久とは、頻繁に会い、情報を交換したようです。
 当時の博多は国際都市で、中国・朝鮮をはじめ異国人が数多く住んでいたようです。百年ほど後の記録には、次のように記されます。
博多の東門外に百人以上の唐人が住み着き、妻子とともに家を構えている、日本の女を妻にしている者もいる
異国人が渡来し、倭人とともに貿易に携わり、国籍や民族を超えて東アジアの海を行き来していたことがうかがえます。
国際的な経験と知識をもって、外交と貿易に活躍したのは僧侶です
以前に禅宗僧侶の弁円(諡・聖一国師)の活動ぶりを紹介しました。彼も博多商人の保護を受けて宋に渡り禅宗を学び「聖一派」を開いていきます。留学僧として学んできた禅僧は、知識と語学力や医学・薬学の知識をもつ専門家でもありました。彼らを政治家や商人達が放っておく筈がありません。通訳から外港・貿易指南として、側近に登用するとともに宗教的な保護を与えたのです。
 そんな中で当時の博多で知られていたのは宗金です。
彼は僧籍の商人で、この数年後には図書倭人の地位をえて、朝鮮貿易に力を発揮します。早田左衛門太郎等とともに、銅2800斤を輸出し、綿紬2800匹を博多に持ち帰ったといわれます。彼は、管領斯波氏の朝鮮貿易をも請け負い、1447年には総勢50人を率いて朝鮮に渡った記録も残っています。
 こうした宗金の活躍は、この時の博多での宋希璟との交わりから生まれた信頼関係が背景にあるのではないかと研究者は考えているようです。宋金一族はその後も、朝鮮や明との貿易にたずさわり、息子の性春・孫の茂信も博多を代表する商人として活躍します。
ここでは博多が当時の東アジア貿易センターの日本側の窓口だったことを押さえておきます。
 宋希璟が博多に滞在したのは20日あまりです。京都に使者が上り、将軍義持から折り返し上京の許しが出るのを待っていたのです。博多ー京都の往復が早船で20日ということになります。3月24日に、志賀島から出発しています。
  瀬戸内海で一番怖れていたのは?
 船は、赤間関を経て春の瀬戸内海に入っていきます。京都に到着したのが4月21日ですから、1ヶ月近い瀬戸内海の船旅の始まりです。穏やかな瀬戸内海は、時として悪天候や強風も襲いかかってきます。しかし、宋希璟が一番怖れているのは海賊だったようです。将軍・義持は、多くの護送船をおくって使節団一行の警護を固めていますが、不安でならなかったようです。
 赤間関を発するとすぐに海賊の偵察船らしい小船がやってきます。源平の合戦で有名な壇ノ浦に停泊しますが、夜中に怪しい声がして眠れません。朝になって、その正体をしるとただの雉(きじ)の声です。知らない海ををゆく者の気持ちは、不安でいっぱいです。
 室積を過ぎて、遠くに村の火をみたときも
「海辺にすむ人たちは皆海賊である。だから村の火をみても心は安らかではない」
と書いていま。                        
 当時の「海賊」たちは、足利幕府のゆるやかな支配の網のなかで活動していますから外国使節団を襲うほどの「無法者」ではなかったと私は考えていました。
 しかし、これ以前の1395年の回礼使は、安芸国高崎(広島県竹原市)あたりで海賊に襲われ、携えてきた贈り物や食糧、衣服にいたるまで一切を奪われたと云います。護衛の船がついていても、当時の航海技術では風向き次第で船団がばらばらになり、孤立することもあったようです。警護の隙があれば、襲いかかってくる海賊達はいたようです。
そんな時に、危険水域近くで、一艘の小船が矢のように近づいてきます。一行は鼓をうち、旗をふり角笛をふき、鐸をならして精一杯応戦します。甲をかぶり、弓を手にして船上に立ちます。海賊の船にも、人が麻のように立ち並んだと記します。この時は幸い亮況と宗金の船2艘が、すぐに駆けつけて事なきをえたようです。
 その後は、大きな騒動もなく尾道、日比、牛窓、室津をすぎ、各地の寺を訪れながら、4月16日兵庫港(神戸)に入ります。博多を出たのが3月14日でしたから、ここまでが約1ヶ月です。春が深まっていきます。
   京都の室町幕府の外交・交易担当者は?
 4月21日、京都に入った宋希璟は、魏通事天の家に宿泊します。
魏通事天は、実に数奇な運命をたどった人でした。
彼は、1350年頃(元末)の生まれの中国人ですが、子どもの頃、倭冦によって日本に連れさられてきたようです。しかし、なにかの事情で朝鮮にわたり高麗末の大貴族李子安の奴となります。李子安は、中国にも聞こえた優れた文人で、『陶隠集』という文集があるようです。この人に仕えて才能を見込まれたのでしょう。回礼使に従って日本にむかいます。そこで、たまたま中国からの使節に見出され、中国人であることが分かると、中国に連れて帰られます。時代は、すでに明となっていましたが洪武帝に謁見し、帝の命令によって再び日本に送還されて、室町幕府の通事として活躍することとなります。
 時の将軍義満は、永楽帝に親書をおくり、対明貿易の道をひらくことに大いに心をくだいた人でしたから、魏天は働き場所を得て、水を得た魚のように大活躍します。日本人の妻をめとり、娘をふたりまでもうけます。時は移り、この当時は対明政策に消極的な義持の天下となっていました。彼にとっては困難な外交交渉が続いたに違いありません。魏天もすでに70歳をすぎていました。
 彼は、宋希瑳の一行が宿舎の冬至寺についたと知ると酒を持って迎えに来て自宅に招待します。魏天は若いころ身につけた朝鮮の言葉をわすれず、宋希璟と旧い友達のようこに自由に話し、昔を懐かしがったそうです。
その日、もう一人やってきたのが陳外郎です。
彼は博多商人の平方古久の父です。彼の父陳延祐は帰化中国人でした。元朝が滅びた時、礼部員外郎であった延祐は、日本に亡命し博多に住んだようです。延祐は、多才な人で特に薬学にくわしかったので、足科義満に再三上洛をもとめられますが、応じることはなかったようです。
 しかし延祐の子宗希が、父に代わって上洛し、父の中国での官職名「外郎」を名乗り、医学・薬学の専門家として、室町幕府に重く持ち抱えられました。陳外郎は、さらに遣明使に同行して、中国の薬学を学び、秘薬霊宝丹を持ち帰ったとされます。その後の外郎家は代々医を業とし、さまざまの薬を生み出し。毎年1月7日、12月27日には将軍に謁し、薬を献上することが慣わしとなっていました。
   宋希璟の訪れたころの初代外郎は、すでに五十をすぎていたかもしれませんが、魏天とともに、中国通として、足利幕府の外交の上でも大きな役割を果たしていました。外郎が父延祐の医業を、平方吉久が祖父の博多商人としての貿易業を受け継ぎ、京・博多という当時の政治・ 経済の中心にあって、父子連携して、日本の外交を担っていたことが分かります。    
 このように、博多や京都の室町幕府周辺には中国や朝鮮のことを深く知る帰化人やハーフがいて、重用されていたことが分かります。そして、彼らが朝鮮からの国王使節団に接近して関係を持とうとしていたこともうかがえます。
 さて京都での外交交渉については省略して、返りの瀬戸内海航路に目をやります。
 6月27日深夜、宋希璟の一行は、将軍義持の書簡を持って淀川を下ります。瀬戸内海をゆっくりと、むかって船をすすめますが
7月8日、尾道まで進んで「風に阻まれ、賊に阻まれて」、
7月22日まで停滞です。この間、尾道の天寧寺の住職と役僧・梵道と親しく交わります。この時、希環がは次のような詩の序文を二人に送っています。意訳するとだいたい次の通りです。
  大抵の僧侶には2つの問題がある、
ひとつは行いを偽って人を惑わすことであり、もう一つはその言葉を偽って自らを利することである。このことは中華世界にも見られる。しかしたとえ中華世界ではなく、外国であっても、その言動に誤りがなく道に近ければ、ともに語り合うに足りる。日本の仏教は町でも村でも信奉されており、あちこちに寺があり僧侶の数が一般人の倍もいる。いま旅の途上で語り合うと、その優しい言葉は実に行き届いている。言葉は違うけれども、その理は私だちと共通する。まして朝鮮と日本は、古くから隣り付きあいをしてきた。今、朝鮮国王の命を受けて、平和と友好の旅をして、二師と会うと。、旧知の友と会うようだ。いま、ともに寺を訪れ、また船上に会って、行き来をして美しい松や竹、海や山を目にし、香をたいで茶をいれて、詩を交わし。秋を楽しんでいる。とても楽しい。
 一方に、海賊あり、嵐がありますが長閑な交流の風景です。異国人であり、儒者でもある宋希璟が、懐の深い、広い視野をもって禅僧たちと交わっているのがわかります。
 瀬戸内航行のハイライトとなるのは、翌日の蒲刈での体験です。
同行した博多商人の宋金から次のように教えられます。
蒲刈島を境に海賊の縄張りは東西に分かれる。そこで、あらかじめ金を払って東の海賊を一人乗せておけば、西の海賊にも東の海賊にも襲われることはない。蒲刈のあたりが瀬戸内の東西を分かつ関所だ
 あらかじめ金を払って東の海賊を一人乗せておけば、西の海賊にも東の海賊にも襲われることはないというのです。この金は、一種の通行料であり、警護料なのでしょう。そこで、宋金のはからいで銭7貫文(7000枚・現在の相場で約60万円)を払い、一人の海賊が乗りこんできます。その賊は「私がいるから安心しなさい」といって海賊の家に向かいます。そして交渉が成立すると、しばらくして海賊たちが小舟に乗ってやってきて、宋希璟の船が見たいというのです。
 その時の海賊のリーダーを次のように記します
魁首の一僧は甚だ奇異で、起居言変りて吾人と異なるなし
つまり僧侶の姿をして、朝鮮語を流暢に操ることができ、宋希璟も彼と「欣然として酬答」したというのです。そして「家に来て一緒に茶を飲もう」と誘います。普段は海賊に対する警戒心の強い宋希璟が、これに応じようとして、周囲に制止されるほど、僧(首領)の振る舞いが洗練されていたようです。それほど朝鮮の文化・教養を身につけていたのです。
海賊の魁首は、その素養をどこで身につけたのでしょうか?
 瀬戸内海の海上勢力と朝鮮半島との密接な交流があったことがうかがえます。当時、蒲刈の領主は多賀谷氏です。多賀谷氏は守護大名・大内氏に属していて、蒲刈船も大内氏の物資を積載して運行してたことが『兵庫北関入船納帳』から分かります。大内氏は赤間関などを拠点に朝鮮貿易も行っていて、海賊衆である多賀谷氏や蒲刈の「海賊」たちも朝鮮貿易に関わっていたと考えられます。その中で朝鮮語や挑戦的な文化素養を身につけたのではないでしょうか。
 どちらにしても、当時の海賊(海の民)のもうひとつの顔が見えてきます。彼らは海の武士で有り貿易業者であり、「海の関所」の管理人であったようです。
 彼らには国境に囲まれた陸の国家とは別に、玄界灘や東シナ海によって結ばれた海の世界があったことがうかがえます。「倭寇」と呼ばれる人々には、陸に住む人々とは違った掟とネットワークがあったと研究者は考えているようです。
 彼らは、多国籍集団で、日本語のみならず朝鮮語や中国語をあやつり、民族の梓を越えて行動していたのでしょう。その本拠となっだのが、済州島であり対馬であり、北九州であり瀬戸内海であったのでしょう。彼らにとって海に国境はなかったのです。そして、言葉や民族は関係ないのです。同じ船に乗って活動すれば「みな兄弟」だったのかもしれません。宋希璟は、まさにそんな倭冦の縄張りを旅していたのです。
 宋希璟がさらに船を進めると、赤間関で三甫羅(サブロウ)という日本名をもった朝鮮人に出会います。当時の瀬戸内には朝鮮語を解する日本人や、日本の名前をもう朝鮮人が、ごく普通に暮らしていたようです。
 讃岐の舟が塩や米・赤米・薪を積んで兵庫湊や神崎・堺を往復していた時代、そして、西大寺律宗や日蓮宗・弁円の臨済宗僧侶の弁円が聖一派などが瀬戸内海に交易ネットワークを形成し、拠点港に寺院を建立していた瀬戸内海世界の背後には、こんな国際的な環境があったようです。
参考文献  樋口淳 老松堂の見た日本 
          

   
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『八坂神社(祇園社)記録』(増補続史料大成)
 (応安五年(1372)十月廿九日条)
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。

前回は、この史料から京都の祇園社(八坂神社)の社領となっていた大野荘(三豊史山本町)の代官が年貢を手形で決済したことを見ました。今回は大野荘の管理にあたっていた武士をを追いかけてみます。
「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」
とあります。ここからは「際符=手形」を近藤氏の家臣が、八坂神社から年貢督促のために派遣された社僧伊予房と同道して上洛したことがわかります。そして、大野荘の管理を行っていたのが近藤氏であったようです。
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 室町時代に応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」には「藤原氏近藤、讃岐二宮同麻」とあって、室町期には二宮、麻のふたつの近藤氏がいたことが分かります。
①二宮近藤氏は、大水上神社領を中心とする二宮荘を根拠地
②麻近藤氏は、麻を拠点に勝間、西大野に所領を持っていた
この史料に出てくるのは②の麻近藤氏のようです。
近藤氏がどのように「押領」したのかを年表で見ておきましょう。
讃岐守護の細川氏の下で、北朝方として活動していたようです。
1354 文和3 8・4 
幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田における新宮三位房の濫妨停止を,守護細川繁氏に命じる
1355 文和4 7・1
守護細川繁氏,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の下地を祗園社執行顕詮に打渡すよう,守護代秋月兵衛入道に命じる
同年7・4近藤国頼,祗園社領西大野郷の年貢半分を請負う
1361 康安1 7・24
細川清氏,細川頼之と阿野郡白峯山麓で戦い,敗死する.
 10・- 細川頼之,讃岐守護となる
1363 貞治2 8・24 
足利義詮,祗園社領三野郡西大野郷における近藤国頼の押領停止を,守護細川頼之に命じる
14世紀半ばの祇園社領大野郷では、新宮三位房による濫妨(乱暴)が行われており、これに手を焼いた祇園社は幕府に訴え出ています。この訴えに対する幕府の対応は、新宮三位房を排除し、代わって麻の近藤国頼に代官職を任せるというものでした。これが近藤氏の大野郷進出のきっかけとなったようです。
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近藤氏の麻城へ「たけのこ道」を行く
 しかし、その8年後の貞治二(1363)年には、近藤国頼は祇園社に訴えられ「押領停止」を、命じられています。これを命じているのが新しく讃岐守護になった細川頼之です。この時期から近藤氏による「押領」は始まっていたようです。そして、その後も八坂神社と国頼の争いは続きます。

1368 応安1 6・17 守護細川頼之,祗園社領西大野郷の下地を領家雑掌に打渡すよう,守護代細川頼有に命じる. 
   9・20 守護代細川頼有,重ねて祗園社領西大野郷における近藤国頼代官の違乱を止め,下地を領家雑掌に打渡すよう,守護使田村弥三郎入道・大庭六郎左衛門入道に命じる
1369 応安2 9・12 守護細川頼之,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行うよう口入する.
  12月13日,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行う
応安元(1368)年、細川頼之は調停に乗り出します。領家職の下地を渡付するように近藤国頼に守護使を通じて命じます。その一方で翌年に頼之は、国頼の言い分にも耳を傾け、近藤国頼の代官職継続をはかります。国頼は年貢の三分の一を代官得分とするという条件で代官職請負契約を結んでいます。

細川頼之1

 この文書の端裏には「矢野左衛門口入大八色云し」とあり、矢野遠村の仲介で近藤氏と八坂神社の和解がおこなわれたことがうかがえます。守護の細川頼之が近藤国頼の権益確保を図ったのは、当時の讃岐をめぐる軍事情勢が背景にあった研究者は考えているようです。

細川頼之4略系図
当時の政治情勢を年表で見ておきましょう。
1371 応安4 三野郡西大野郷,大旱魃となる
 1372 応安5 伊予勢(河野軍)侵入し,讃岐勢は三野郡西大野郷付近に布陣
1377 永和3 細川頼之,宇多津江(郷)照寺を再興
1379 康暦1 3・22 細川頼之,一族を率い,讃岐に下る
 諸将,足利義満に細川頼之討伐を請い,義満は頼之の管領を罷免
1388 嘉慶2 この年 幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の役夫工米の段銭を免除
1389 康応1 3・7 守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を宇多津の守護所に迎える
1392 明徳3 3・2 守護細川頼之没し,養子頼元あとを嗣ぐ
伊予河野氏が西讃に侵入してきた
 細川頼之が調停に乗り出した応安元(1368)年は、後村上天皇が亡くなり南朝が吉野に拠点を移し、南北間の抗争が再燃する時期です。細川頼之にとって、予想される伊予との抗争に備えて、西讃の武将達との関係強化に努める必要がありました。
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 伊予の河野氏は、一時的には九州に逃れていましたが、この年に伊予に戻り、南朝方として反撃を開始します。そして応安五(1372)年には、讃岐に侵攻し、大野郷に布陣するのです。先ほど見た祇園社への年貢が手形で納められたのは、この年のことなのです。近藤氏にとっては、まさに寺領が他国者によって踏み荒らされる状況でした。

DSC05491麻城

一方讃岐守護の細川頼之は、管領として河内・伊勢等での南朝軍との転戦で、地元讃岐に援軍を派遣できません。讃岐の武将達は苦しい戦いを強いられます。にもかかわらず近藤氏ら西讃の武将達は、侵入してきた伊予軍を大野荘近辺で迎え撃って、そこからの進軍を許しませんでした。ある意味で細川頼之の「恩=土地」に対し、近藤国頼が「忠=軍事力」で「奉公」し、「一懸命」を実践する時だったのかもしれません。 
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その後、讃岐細川方は攻勢に転じて、逆に伊予領内に侵入していきます。
①応安八(1375)年に伊予三島社に細川頼之の願文が納められていること
②永和三(1377)年に伊予府中の能寂寺に細川頼之が禁制が出していること
などから讃岐勢力が、伊予の府中あたりまでを勢力圏にしていたことが分かります。
細川頼之 54
西条周辺までが細川氏の支配領域に含まれている

以上をまとめておくと、
①当時の讃岐は、伊予河野氏と抗争中で、そのためにも近藤氏のような西讃の国人を掌握しておく必要があった。
②その一貫として、細川頼之は大野荘をめぐって対立していた近藤国頼と八坂神社の間を取り持ち、調停した
となるようです。

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伊予との「臨戦状態」の中でも、大野荘は京都の八坂神社に対し、年貢、灯油、仕丁を負担したことが『八坂神社記録』の応安四年と五年の両年の記録に記されています。灯油は現物で祇園社に納めています。これは西大野郷内の名(地区)ごとに徴収されたものです。また、祇園社に労役として奉仕する仕丁も近藤氏は出していますが、それがしばしば逃亡しており、その都度、祇園社は近藤氏に通報しています。近藤氏は、祇園社と対立をはらみながらも、祇園社への宗教的な奉仕は果たしていたようです。
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 室町期の近藤国房
 近藤氏の菩提寺である財田の伊舎那院からは
「大平三河守国房法名道覚 応永元年七月二十四日」
と没年を書いた竹筒が出土しています。これは麻近藤氏の国頼の次の世代の当主・国房のことだと研究者は考えているようです。
 また、讃岐国内の段銭徴収の際に、金蔵寺領名主、沙汰人に対し、段銭徴収方式を条々書にしている文書があります。段銭は一段当たり三〇文が徴収されており、寺社領、御料所、同所々人給分も除外しないなどの事柄が記されています。この中には近藤国房が守護細川氏の使者としてこの旨を申し入れたことが記されています。細川氏の讃岐家臣団の中で、近藤氏がある程度の立場にあったことが分かります。
 国房の居城については『西讃府志』には、知行寺山城(現山本町大野・神田)の城主として大平伊賀守国房の名前が記されています。この城を根拠地として西大野郷を支配していたのかもしれません。
 ところが明徳四(1394)年に、国房は西大野郷を押領した罪に問われて、所領を没収されてしまい、その翌年に死去します。今まで見てきたように近藤氏の大野郷への「押領」は、昔から続いてきたことなのに、なぜこの時には「所領没収」という厳しい処分が出たのでしょうか。今の私には分かりません。
 国房の次の当主・国有は、西大野の上村を領有したといいます。
「大野村両社記」には、大野は上下に分かれ、下村は祇園社の負担に応じなかったと記します。上村については、麻近藤氏を通じ年貢が納入されたようです。文安三(1446)年には、麻近藤氏にあてて、10貫文の受け取りが祇園社から出されています。年貢額が70年前の応安年間の半額になっています。荘園領主側の立場の弱体化がここにもうかがえます。しかし、半額にはなっていますが麻近藤氏が年貢を、祇園社に送り続けていることがうかがえます。以前見た長尾の荘では、14世紀に入ると醍醐寺三宝院には未払い状態が続いていたことを思い出すと対照的です。それだけ、国房の時の西大野押領による領地没収処分がの効き目が継続していたのかもしれません。別の視点からすると祇園社の方が幕府への影響力が強かったのかもしれません。あるいは、大野郷に勧進された祇園社への信仰が高まり、それが本社への「納税」を自主的に行う機運を作り出すようになったのかもしれません。単なる想像で裏付けの史料はありません。 
 国有の時代は、所領を没収され経済的にも苦しい状況に近藤氏は追い込まれていたようです。
この時代にこんな讃岐侍の話が広がりました。
「麻殿」という讃岐の武士が京都で駐屯していた。「麻殿」は貧しいことで知られ、「スキナ」を「ソフツ(疎物)」としていた。人々の嘲笑をかっていることを知った麻氏は
「ワヒ人ハ春コソ秋ヨ中々二世の「スキナノアルニマカセテ」
という和歌を詠んだ。これに感じ入った守護細川満元は、旧領を返還した。田舎者と馬鹿にされていたが、和歌のたしなみの深い人物であった。
というのです。
ここからは次のような事がうかがえます
①近藤氏のような讃岐武士団が細川氏に従軍し、京都にも駐屯していた。
②京での長期間の駐屯で、教養や遊興・趣昧など教養を身につける田舎侍も現れた。
③「旧領返還」されたのは、大野の代官職のことか?
④ 細川満元の時代とあるので、麻近藤氏の国有が最有力。
それを裏付けるように、
①享徳三(1454)年に、足利義政から近藤越中守(麻近藤氏)に対して、西大野郷代官職と勝間荘領家職の安堵
②文明五(1473)年には、祇園社から十年契約で、二〇貫文の年貢を請負
とが記録されています。これが、かつて没収された「旧領の返還」だったのかもしれません。
 その後の近藤氏は・  
 応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」に麻近藤氏のものが見えます。また、細川政元の命で阿波・讃岐の兵は、伊予の河野氏を攻撃します。この戦いに麻近藤国清も参加していましたが、戦陣中に伊予寒川村で病死しています。
近藤国敏は阿波三好氏と連携強化
 その次の国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。これが近藤氏衰退のターニングポイントになります。近藤氏が阿波三好氏と結んだのに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
    織田信長=天霧城の香川氏  VS 阿波の三好氏=麻近藤氏
この結果、敗れた三好側についた近藤も所領を没収されます。それが香川氏配下の武将たちに与えられたようです。近藤氏の勢力は、この時期に大きく減退したと考えられます。
 近藤氏の没落 
 そして、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まり、讃岐の戦国時代は最終段階を迎えます。麻城は、侵攻してきた長宗我部の攻撃を受け落城したと伝えられます。近藤家の城主国久は、麻城の谷に落ちて死んだと伝えられ、その地は横死ヶ谷と呼ばれています。
 高瀬町史には長宗我部元親の家臣に与えられた所領に麻、佐股、矢田、増原、大野、羽方、神田、黒島、西股、長瀬といった近藤氏の所領が記されていることが指摘されています。近藤氏は長宗我部元親と戦い、所領を失ったようです。その所領は土佐侍たちに分け与えられ、土佐の人々が入植してきたようです。その後の近藤氏の様子は分かりません。しかし、近世の神田村に神主の近藤氏、同村庄屋として近藤又左衛門の名が見えます。近藤氏の末裔の姿なのかもしれません。

以上を、私の想像力交えてまとめておくと次のようになります
①麻地区を拠点としていた近藤氏は、14世紀半ばに京都祇園神社の大野荘の代官職を得ることによって大野地区へ進出した
②讃岐守護の細川頼之は近藤氏など西讃地方の国人侍と連携を深め、伊予勢力の侵攻を防ごうとした。
③そのため伊予勢力の圧迫がある間は、細川氏は近藤氏などを保護した。
④大野荘から京都の祇園神社に年貢が手形で運ばれたのもこのような伊予との抗争期のことである。
⑤この時期から荘園領主の祇園社と代官の近藤氏の間では、いろいろないざこざがあった。しかし、伊予との緊張状態が続く中では、細川頼之は祇園社からの訴えを聞き流していた。ある意味、近藤氏にとってはやりたい放題の状況が生まれていたのではないか。
⑥平和時になって、これまで通りの「押領」を続けていたが「所領没収」の厳罰を受ける。
⑦この処罰の効果は大きく、以後近藤氏は15世紀後半ころまで、年貢を祇園社に納め続けている。
⑧大野郷と祇園社は近世に入っても良好な関係が続く背景には、近藤氏の対応があったのではないか。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 高瀬町史

                          

       
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大野の須賀神社(祇園さん) 
前回は年貢計算書でしたが、今回は手形決済です。年貢を手形決済で行ったのが大野荘です。大野荘は、財田川が山域から平野部に流れ出す三豊市山本町の扇状地に開けた地域で、洪水に苦しめられた所です。ここは京都祇園宮の社領でした。荘園ができると、本領の神々が勧進されるのが常でした。大野郷では京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)を産土神と勧進します。香川郡に大野があるので、これと区別するために西大野と呼ばれたようです
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大野郷の祇園神社
 貞享5(1688)年の当社記録『大埜村両社記』には
「古老相伝ヘテ曰夕、昔牛頭天皇アリ。光ヲ放チテコノ山上ノ北二飛ビ来タル。其所今現ニアリ、コレニヨリ宮殿ヲカマエ、コレヲ祀ル」

とあります。毎年京都の祇園宮への王経供養のための御料として指定されてからは、隆盛を極めたようです。

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『大埜村両社記』には
「大埜地五百石ヲ以テ社領二付シ、七坊ヲ割テ神事ヲ守ル。富栄知ル可キナリ。大社タルヲ以テ毎歳洛ノ祇園ヨリ燈料胡麻三解ヲ課ス
とあり、毎年本宮である京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。今も、この胡麻を収納したと思われる字上岡・字上川原・字南川原の三ヵ所に塚が残っています。
  この程度の予備知識を持って「八坂神社記録」を見てみましょう。
『八坂神社記録』(増補続史料大成) (応安五年(1372)十月廿九日条)
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。
 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。14世紀後半の南北朝時代の記録になります。一行目に
  「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」
とあります。ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。前回見た長尾荘が醍醐寺三宝院に納めていたのは、米麦の現物納入でしたから、こちらの方が進んでいたようです。
ぜに 

 銭一貫=銭千枚ですから納めるべき年貢は銭二万枚です。当時の銭は、日本では鋳造されずに中国の宋銭や明銭を海外交易手に入れて、国内で「流用」していました。そのため何種類もの中国製銅銭が流通していましたが、どれも同価値扱いでした。重さは、十円王より少し重くて一枚五グラム程度です。そうすると、2万枚×5グラム=100㎏になります。100㎏の硬貨を讃岐から都まで運ぶのは、現在でも大変です。
 そこ代銭納の登場です。これは年貢を現物で納めるのに対して、銭で納めることです。しかも、実際には実物の銭は動きません。手形決済システムなのです。
  伊予房という人物が出てきます。
この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来ています。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、自分で払うことになります。
「今年年貢当方」で、八坂神社に納められる分は二十貫。
「この内一貫在国根物」とあり、「根物」というのは必要経費です。つまり、食事をしたり、泊まったりというその必要経費に一貫を使いました。
「又一貫上洛根物に取ると云々。」 
これは上洛、つまり都に運ぶ費用になります。ですから合計二貫文が引かれ、都合十八貫文になります。その後に「この際符」という聞き慣れない言葉が出てきます。後に見ることにして先に進みます。

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」

近藤という人物が西大野荘の代官
です。近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符」で年貢を持参して一緒に、上洛することになったようです。ところが、
「今日近藤他行、明日問答すべきの由伊子房申す」
とあり、どうやら今は近藤氏がどこかへ行って不在であるので、明日協議を行うことになったといいます。
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ここまでを整理すると、
①この年は荘園領主の使が、十八貫の年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符」で、京都に持参することになった。
  さて「際符」とは、なんでしょうか?
「際符」は正式の名称は割符と書いて「さいふ」と読むそうです。「さきとる、さく」という意味で「さいふ」となります。符というのは札の意味で、今の為替と同じです。この時代は「加わし」と呼んでいたようで、それが「ためかえ」で、「かわせ」に変化していくようです。ここでは「際符=為替」としておきます。つまりは、「遠隔地取引に用いられる信用手形」=「手形決済」です。この時代すでに讃岐の西大野と都の間では、手形決済が行われていたことになります。
それでは、この手形は誰が発行したのでしょうか?
また、どうやって換金したのでしょうか?
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)

「際符」は、運送業者を兼ねた商人である問丸が地方の荘園で、米・麦などの年貢を購入し、代金相当の金額と京都・山崎・堺などの替屋(割符屋)の名を記した割符を荘官に発行します。荘官は、都の荘園領主のもとへ割符を届け年貢の決済を行うというシステムのようです。荘園領主は受け取った「際符」を替屋に持って行って支払日の契約を取決め、裏書を行い(裏付け)を行い現金化したようです。
 この時も讃岐財田大野で問屋が発行した「際符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやってきたのです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符」に書かれている内容は
①金額 銭十八貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
のみが書いてあったと研究者は考えているようです。ちなみに実物は、まだ見つかっていないそうです。このように代銭納というのは、実際に現金(大量の銅銭)を動かすのではなく手形決済という方法で行われたようです。確かに都まで、大量の銭を運ぶのは危険です。二十貫文=100㎏の銭は腹巻きにも入れられませんし、運ぶのは現実的ではありません。決済のためには責任者が都まで出向く必要はあったようです。
 大野荘でも代官を務める地元の近藤氏と、荘園領主の八坂神社との関係は悪化していきます。そこには、やはり「押領」があったからです。以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
次回は近藤氏が大野荘をどのように「押領」していったのかをもていきます。
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参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)

 

南北朝後の長尾荘の領主となったのは醍醐寺三宝院です。三宝院には長尾荘に関する史料が残されています。その史料から長尾荘の所務請負の状況を研究者が整理したのが下表です。
(備考の番号は、三宝院文書の整理番号)

長尾荘 長尾荘の所務請負の状況
            
上表で応永四年(1397)に、荘園管理を請け負った僧・堅円法眼(判官)が残した長尾荘の年貢納入の決算書が残っています。どんなふうに年貢が決められ、どんな方法で京都に送られていたのかが見えてくる史料です。まずは史料を見ておきましょう。
応永四年(1397)讃岐国長尾庄年貢算用状(三宝院文書)
讃岐国東長尾 応永3未進分 御年貢事
 合
一、米六十五石五;十一石一斗 海上二分賃これを引く。
  尼崎まで 残る五十四石四斗、この内十五石太唐米
一 麦三十四石内 六石海上二分賃、これを引く、尼崎まで
  残る廿八石、この内一石二斗もみ、麦不足、これを入る
  又五十四石四斗内 海上二分賃、 
  尼崎より京都まで九石六升六合
  定御米四十五石三斗三升四合
  又ニ十八石内 海上二分賃、
  尼崎より京都まで四石六斗 六升八合
  定麦二十三石三斗三升二合
都合六十八石六斗六升四合 京定め右、算用の状くだんのごとし。
 応永四年二月十六日 光長(花押)
 長尾荘の現地管理者堅円法眼が荘園領主の醍醐寺三宝院に年貢を運んだときのものです。何にいくらいったという計算をしています。運ばれた年貢は米と麦です。
  まず、「米六十五石五斗内」とあります。
一石は百八十㍑、だいたいドラム缶一本分です。
  「十一石一斗、海上二分賃これを引く、尼崎まで」、
 どこの湊から出たのは分かりませんが津田港か三本松、或いは引田が候補地になるのでしょう。そして、尼崎へまず運んでいます。そして「海上二分賃」とあります。これが船賃だそうです。
定額料金制度でなく、積荷の2割が運賃となるのです。ここからは、当時の運送業者の利益が大きかったことがうかがえます。船主に大きな富が集まるのも分かります。積荷の2割が輸送代金とすると

 積荷六十五石五斗×0,2=13石

になるはずですが、決算書には「十一石一斗」となっています。だいたいの相場が1/6ぐらいだったとしておきましょう。この時代はそろばんもまだ入ってきていないようです。占いの時に使う棒みたいな算木をおきながら計算しています。計算結果もよく間違っているようです。
2 赤米
太唐米=赤米
太唐米は何でしょうか?
  「残る五十四石四斗」で、この内「十五石太唐米」と出てきます。
これは「赤米」と呼ばれる米だそうです。これが讃岐で赤米栽培が行われていたことを示す最初の資料になるようです。室町時代に讃岐で赤米が栽培されていたのです。赤米は、今では雑草扱いにされて、これが田圃に生えていたらヒエと一緒に抜かれるでしょう。赤米はジャポニカ米でなく、インディカ米です。粒が長い外米の一種で、病害虫や塩害に強い品種です。そのため、海を埋め立てた干拓地の水田には向いた米だったようです。特に三豊で作られていたことが分かっています。

2 赤米2

 ここでは普通の米が足りなかったから、十五石太唐米(赤米)を足しておいたと記されます。
  「麦が三十四石、六石海上二分賃、これを引く、尼崎まで」

三十四石に対して六石、六分の1近くが運賃です。こうして船で、尼崎まで運びました。そこからは、川船に乗せ替えて京都まで運びます。次は川船の運賃計算です。

  「又五十四石四斗内、河上二分賃、尼崎より京都まで、九石六升六合、定御米」

納める年貢の量(=最初に積んだ米量)から、船運賃を次々に引かれていきます。そして、残ったものが東寺に納められたようです。尼崎から京都まで、川舟で運びますがこれには何回もの積み替えが必要でした。その都度、運賃計算が行われ、東寺に納める年貢は少なくなっていきます。
一番最後の「都合」というのは、すべて合わせてという意味です。ここでは合計という意味になるのでしょうか。

「都合六十八石六斗六升六合」

のはずですが、ここでは、四合になっています。「京定め」とありますが、これが荘園領主の三宝院に納めるべき年貢の量です。
 当時の年貢計算は、「京定め」から逆算して都に着いたときこれだけ必要だから、川での運賃を足す、海での運賃を足す、讃岐から運び出すときには、これだけの量を積んでおかなければならないとうい計算方法のようです。ここからは、年貢が、運ぶ側が運賃も人件費も負担する原則であったことが分かります。律令時代納税方法を継承しています。それを計算したのがこの算用状です。この計算ができるのはある程度の「教育」が必要になります。これができるのは「僧侶」たちということになるのでしょう。
 算用というのは決算のことです。で、結局運賃がこれだけ要りました、最終的にこれだけ納めることになりました、というのを示しているようです。ただ、こういう形で米や麦を運ぶというのは大変なことだったので、次第に銭で納める代銭納に換わって行きました。次回は、代銭納について見ていこうと思います。
長尾荘 古代長尾郷
古代の寒川郡長尾郷の周辺郷
さて、この頃の長尾荘を取り巻く情勢はどうだったのでしょうか
 讃岐の守護職は室町時代を通じて管領の細川氏が世襲しました。守護職権を代行する代官として守護代があり、東讃の守護代は安富氏でした。津田・富田中・神前の境界となっている雨滝山(253m)にある雨滝城が、安富氏の城跡です。また、長尾荘は、建武の新政の挫折によって幕府に没収された後に醍醐寺三宝院が管理するようになったようです。
長尾荘 昼寝城


   このくらの予備知識をもって、年表を見てみましょう。
1389 康応1 3・7 
守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を宇多津の守護所に迎える
1391 明徳2 4・3 
細川頼之,足利義満の招きにより上京する.
1392 明徳3 3・2 
守護細川頼之没し,養子頼元あとを嗣ぐ
足利義満の政権が安定して、失脚していた細川頼之を宇多津に迎えにやってきた頃です。
1396 応永3 
2・19 
安富盛家,寒川郡造太荘領家職を200貫文で請け負う
2・19 石河浄志,寒川郡長尾荘領家職を200貰文で請け負う
4・25 醍醐寺三宝院領寒川郡長尾荘の百姓・沙汰人,同荘領家方を年貢400石・ 公事物夏麦62石ほかをもって請け負う
この年 若狭堅円法眼が長尾荘沙汰人・百姓等にかわり,領家方を請け負う
1397 応永4 2月 長尾荘から年貢納入(讃岐国長尾庄年貢算用状)
12月 長尾荘の給主相国寺僧昌緯,同荘の地頭・沙汰人・百姓等が除田・寄進・守護役などと称して給主の所務に従わぬことを注進する.4年・5年両秋の年貢は,百姓逃散などにより未納
1398 応永5 2・15 長尾荘の百姓宗定・康定が上洛して昌緯の年貢押取・苅田等を訴える
長尾荘をめぐる事件を年表に沿って追ってみます
14世紀末(1396)2月19日に、守護被官の
沙弥石河浄志が、200貫文で請負います。しかし,わずか2ヶ月後には村落の共同組織である惣の地下請に変更されます。請負条件は、年貢米400石・夏麦62石・代替銭25貫文の契約です。ところがこれも短期間で破棄され、今度は相国寺の僧昌緯に変更になります。荘園請負をめぐって、有力名主と地元武士団、それと中央から派遣の僧侶(荘園管理役人)の三者の対立が発生していたようです。
翌年12月には、昌緯が醍醐寺三宝院に次のような注進状を送っています。
①地頭・沙汰人らが地頭・下司・田所・公文の「土居」「給田」,各種の「折紙免」,また「山新田」などと称し,総計73町余を除田と称して,年貢の納入を拒否している
②「地頭土居百姓」は守護役を果たすと称して領家方のいうことに従わない
③領家方の主だった百姓36人のうちの3分の1は、公事を勤めない
④守護方である前代官石河氏と地頭が結んで領家方の山を勝手に他領の寺に寄進してしまった
⑤百姓らは下地米90余石について,前代官石河氏のときに半分免が行われ,残る40余石についても去年より御免と称して納入を行わない
ここには、守護や地頭をはじめとする武士の介入や,農民の年貢減免闘争・未進などの抵抗で、荘園管理がうまくいかないことが書かれています。
  これに対して農民達は、昌緯のやり方に対して逃散で対抗し、この年と翌年の年貢は納めません。さらに農民代表を上洛させて、昌緯の年貢押取などを訴えるのです。その結果,昌緯は代官を解任されています。
 室町時代初期の長尾荘に次のような問題が発生していたようです。
①現地での職権を利用して在地領主への道を歩む地頭
②百姓達の惣結合を基礎に年貢の未進や減免闘争
③請負代官の拒否や排除を行うまでに成長した農民集団
このような動きに領主三宝院は、もはや対応できなくなったようです。そこで,現地の実力者である地頭寒川氏に荘園の管理をいっさいゆだねることにします。そのかわり毎年豊凶にかかわらず一定額の年貢進納を請け負わせる地頭請の方法を採用します。
 寒川氏は寒川郡の郡司を務めてきた土着の豪族で,当時は讃岐守護の細川氏の有力な被官として主家に従って各地を転戦し,京都と本国讃岐の間を行ききしていました。
 当時の東讃岐守護代・寒川出羽守常文(元光)は,京都上久世荘の公文職を真板氏と競っていた人物で、中央の情勢にも通じた人物です。現地の複雑な動きに対応できなくなった三宝院は,守護細川氏の勢力を背景に荘園侵略を推し進める寒川氏に,その危険性を承知しながらも荘園の管理をまかせざるを得なかったのでしょう。
1399 応永6 2・13 
長尾荘地頭寒川常文,同荘領家職を300貫文で請け負う
1401 応永8 4・3 
相国寺僧周興,長尾荘を請け負う(醍醐寺文書)
1404 応永11 7・- 
寒川元光(常文),東寺領山城国上久世荘公文職を舞田康貞に押領されたことを東寺に訴える.以後十数年にわたり寒川氏と舞田氏の相論つづく(東寺百合文書)
1410応永176・21 
寒川常文,三宝院領長尾荘領家方年貢を260貫文で請け負う
 こうして応永6年に寒川常文は,300貫文で請け負うことになります。ところが寒川常文は、早速300貫文は高すぎると値切りはじめ,やがてその値切った年貢も納めません。そこで三宝院は、領下職を寒川常文から相国寺の周興に、変更し同額の300貫文で請負いさせています。
 しかし、これもうまくいかなかったようです。9年後の応永17年には再び常文に260貫文で請負いさせています。40貫の値引きです。ところがこれも守られません。三宝院の永享12年12月11日の経裕書状案には
「年々莫太の未進」
とあるので、長い間、未納入状態が続いていたことが分かります。所領目録類に長尾荘の記載はされていますが、年貢納入については何も記されなくなります。おそらくこの頃から,長尾荘には三宝院の支配は及ばなくなり、寒川氏に「押領」されたことがうかがえます。

   14世紀末・足利義満の時代の長尾荘の情勢をまとめておくと
①台頭する農民層と共同組織である惣の形成と抵抗
②武士層の荘園押領
などで荘園領主による経営が行き詰まり、年貢が納められない状態が起きていたことが分かります。
 最初に見た「讃岐国長尾庄年貢算用状(三宝院文書)」は、長尾荘から三宝院に年貢が納められていた最後の時期にあたるようです。こうして荘園からの収入に頼っていた中央の寺社は経済的な行き詰まりを見せるようになります。その打開のために東大寺は、末寺への支配強化をはかり、末寺の寺領から年貢を収奪するようになります。そのために苦しめられるのが地方の末寺です。中世・善通寺の苦闘はこのようにして始まります。

参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)
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引田 新見1
 信長が桶狭間で勝利し、華々しく戦国時代の舞台に登場してから数年後の永禄九(1566)年のことです。備中新見荘から勤めを終えて、京都の東寺に返っていく二人の荘園管理官がいました。彼らは新見から高梁川を川船で下り、河口の倉敷から塩飽本島を経て、讃岐の引田への帰国ルートをとります。これは、現在の「出張」ですから旅費請求を行います。その記録が東寺に残っていました。名付けて「備中国新見庄使入足日記」です。実務的な記録で、宿泊場所や宿代・船賃など最少限度のことしか書かれていないのですが、深読みするとなかなか面白いのです。前回は引田までを見てきました。
今回は引田から淀川中流の石清水八幡までの記録を見ていくことにします。最初に引田からの全文を出しておきます
十月十九日  十文  宿賃
廿日より廿四日迄
     百六十文  兵後(兵庫=神戸)にて旅篭
   壱貫百五十文  しはく(塩飽)より堺迄の舟賃
二十五日夕  二文  さかい(堺)にて夕旅篭
二十六日   四十文 同所  旅篭
二十七日朝  
   二文  旅篭  同所
   三文  はし舟(渡船)賃 兵後(兵庫)より堺へ上り申す時
   百文  さかい(堺)よりを坂(大坂)迄 駄賃
   貳百文 を坂よりよと(淀)迄 舟賃
   十二文 森口(守口)旅篭 同日
廿七日夕、八日朝
   四十文 ひら方(枚方)朝夕旅篭
廿八日 十二文 やはた(石清水八幡)にて 旅篭 同日
新見を出発したのが9月21日でしたから1ヶ月を費やして、兵庫まで帰ってきました。
淀川3

「壱貫百五十文、しはく(塩飽)より堺迄の舟賃」
とあります。塩飽(本島)から引田・兵庫を経て堺までの船賃が一貫百五十文です。倉敷ー塩飽間が百五十文でしたから、それを加えると堺までの1貫三百文ということになります。一貫は千文ですから、倉敷ー堺は千三百文の船賃ということになります。
これは、今のお金に換算するとどのくらいになるのでしょうか?
塩飽から引田への船上で買った米一升が12文でした。当時は、米一石=玄米150㎏=銭一貫=銭千枚が米の相場のようです。そこで一斗=十五キロ=百文になります。一升=十文ですから船上で買った一升=十二文という相場は、少し高いようです。しかし、船の上という状況を考えると、売る側の立場が強くなりますから高かったのかも知れません。

淀川6
1升=10文の相場を尺度にして考えましょう。
今は、米は安くなって道の駅などで生産者から買うとコシヒカリ30㎏=8000円が私の周りの相場です。しかし、20年ほど前は倍くらいの値段でした。計算しやすく10㎏=5000円とします。すると一斗(15㎏)=七千五百円=100文となります。一文は75円になります。そうすると一泊二食の宿代が十文=750円になります。宿代の値段が今と比べると格段に安く感じます。
 別の尺度で見てみましょう。宿泊費をモノサシにして比較しす。現在の出張旅費を1泊7500円として、当時の宿泊費10文と同価値とすると、7500円=10文と置きます。そうすると一文は750円で、米基準の10倍になります。
これで倉敷ー堺間の船賃1300文を現在価格に変換すると
①1文=75円レートでは 1300文×75円= 97500円
②一文=750レートでは 1300文×75円=975000円
レート的には①が納得のいく相場のようです。
2つめの疑問は、宿代に比べると船賃が高いのはどうしてなのかという点です。
例えば、倉敷ー塩飽は二人分で150文です。宿泊費が一泊10文ですから、船代の方が宿泊費よりも数倍高いことになります。今の私たちの感覚からすると船代は高額な感じがします。瀬戸内海交易の利益率の高さはこんな所にあるのかもしれません。
ぜに 
3つめの疑問は、重い銭をどうやって持参していたのかです
船賃だけでも銭1300枚です。宿賃を合わせると3000枚近い銭が必要になります。当時の銭は、中国から入ってきた宋銭・明銭でいろいろな種類の銅銭が流通していましたが、1枚の平均の重さは5グラム程度でした。10円玉が4㌘ですから、それよりも少し重かったようです。3000枚となると、どのくらいの重さになるのでしょうか・
5グラム×3000枚=15㎏
ふたつに分けて分担して持っても、一人7,5㎏の重さになります。当時、荘園の決済には手形がありましたが、船賃支払いに手形が使えたとは思えません。また、江戸時代なら金貨がありますが、この時代は銅銭のみの流通です。素人の私の疑問です。どちらにしても、相当な量の荷物をもっての旅だったようです。そのために陸上を行くときには人夫や馬を雇っています。
 「疑問の脇道」から本道へもどります。
「廿五日夕方、さかい(堺)にて夕旅龍」
 夕旅龍というのが、分かりません。しかし、次の「廿六日、四十文、同所、旅龍」あるので、堺で1泊目、2泊目、3泊目したのでしょう。1泊目は、夕旅龍で二十文、次の日は連泊で一日中いるので四十文となるのでしょうか。夕方から泊まったら半額だったとしておきます。しかし、倉敷や塩飽などでは一泊10文だったことを思い出すと、堺は一泊二十文で、倍の値段です。この時代にも「地方格差」があったようです。
「廿七日朝、廿文、旅龍」で出発いたします。
 「二文、はし舟賃」で、また渡し船に乗っています。兵後(兵庫)より堺へ上り申す時」と但し書きがありますから、大坂湾を横切って堺に渡ったときに上陸時の渡船代でしょうか。
「百文、さかいよりを坂(大坂) 駄賃
明治時代になから、「大阪の阪の字は、土に還る」と嫌われて、「阪」が使われるようになります。もともとは土偏の坂です。「堺よりを大坂迄、駄賃」とあります。駄賃は馬借への支払いなので、馬で陸上を行ったことになります。この旅には珍しい歩きです。地図を見れば分かるように、大和川は江戸時代になって流れを大きく変えられています。それまでは上町台地に行く手を遮られて北上して、現在の大阪城の北側で淀川と合流していたようです。

淀川7
ちなみに、この当時は大阪城はまだ姿を見せず、ここには石山本願寺が巨大な要塞のような姿がまわりを睥睨するかのようにあったようです。それを仰ぎ見ながら二人は大坂の船乗場へと急いだのかもしれません。
 次に「貳百文、を坂(大坂)よりよと(淀)迄」とあります。
大阪から淀まで船で、淀川を上ったようです。この時代から20年もすると秀吉が、伏見城を建て京と大坂を結ぶ淀川水運が整備されます。そして江戸時代になると旅客専用の「三十石船」が登場します。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれ、別名を過書船とも云われていました。
淀川5
全長五十六尺(約17㍍)幅八尺三寸(約2.5㍍)乗客定員28人~30人、船頭は当初4人と決められていたようです。 大阪には4つの船着き場(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)があり、上り船は、十一里余(約45㌔)の行程のほとんどは綱を引いて上ったようです。綱を引く場所は9カ所あって、どこからどこまでと区間が決められていたようです。そのため進むスピードは、のんびりしたものだったようです。
   船賃は江戸の享保の頃では、上り172文、下り72文との記録が残っています。労力がかかる分だけ上りの方が高いようです。この旅行者も淀までの船賃に一人百文を支払っています。百年以上を経ているのに、物価が上がってないのでしょうか。戦国時代の船賃とあまり変わっていません。
 江戸時代には朝早く出て夕方には伏見に着く便が多かったようですが、この時代はそんなにスムーズには進みません。
         十二文 森口(守口)旅篭 同日
廿七日夕、八日朝 四十文 ひら方(枚方)朝夕旅篭
 廿八日     十二文 やはた(石清水八幡)にて 
             旅篭 同日
と淀川を上る途中で泊まったところが記されています。森口(守口市)、ひら方(枚方)に泊まっています。一日で淀川を上るのではなくあちこちで泊まり、泊まり、上っていくようです。

なぜこんなに遅いのでしょうか?

川の上流に向かっての舟が曳かれているからのようです。
近代になって鉄道網が整備されるまでは、川が大きな輸送路でした。今では想像もつかないような所に川港があって、周辺の物品を河口の湊まで運んでいたのです。カヌーで中四国の大きな川を下っているとそんなことが見えてきました。例えば、吉野川中流の阿波池田町までは川船が上がってきていました。諏訪神社のすぐ下が川港で、そこを起点に池田町のかつての街並みは形成されています。そして流域からは藍が川船に乗せられて出荷されていったのです。このルートをカヌーで下るのは瀬がなく、流れが緩やかなためにあまり楽しい川下りにはならなりません。しかし、川船の船頭達は下っただけでなく、返荷を積んで上ってこなければならなかったのです。
高梁川3

 帆を上げてすーっと上っていくのは写真の中だけです。引っ張らなければなりません。人とが牛が船に付けた綱を引っ張って行きます。
淀川 『ヴォルガの船引き』(1870年~1873年)、イリヤ・レーピン画
           ロシア ボルガの船曳

流れの速い瀬の横には、舟を引っ張るための道がありました。一番有名なのが、この淀川の曳舟です。船が汽船になるまでは人間が引っ張っていたのです。
淀川曳き舟3

 廿八日 十二文    やはたにて 旅篭 同日
二泊して、やはた(八幡)に着きます。石清水八幡のある所です。ここに泊まっています。一応、ここをゴールにしたいと思います。
旅程図を見ながら振り返ってみましょう。
引田 新見1
備中の新見庄を出発した二人は、高梁川を舟で下って松山を経て高山に至ります。高山から倉敷までは陸上を、荷物を人夫に運んでもらっています。倉敷からは舟で、塩飽(本島)、讃岐の引田を経て兵庫・堺に至り、堺から大坂までは駄賃をはらって荷物は馬に乗せて歩いています。そして大坂からは淀川の川船に乗ります。これを見ると、ほとんど舟利用で、陸上交通を使っていないのです。
①高梁川の河川交通、これを用いて下る。
②次に瀬戸内海の海上交通を用いて堺まで行く。
③それから淀川の河川交通を用いまして、淀まで上る。
陸上交通と水上交通を組み合わせて移動しています。
巨椋池


 もうひとつ淀の重要性が見えてきます。

畿内の水運拠点には、瀬戸内海側に次の4つの湊がありました。
大阪湾に兵庫の津
神埼の津
渡辺の津
ここに入ってきた船の人とモノは、淀川を使って淀まで上ります。淀には、巨椋池がありました。今ここは、京都府の浄水場になっているようです。山崎のサントリーの工場の反対側に石清水八幡宮がみえます。その間には大きな池がありました。これが巨椋池です。この池に、瀬田川、宇治川、鴨川、旅川、本津川が流れ込んでいました。奈良盆地の川で、この巨椋他にそそぎ込まない川は、大和川しかありません。ということは、この淀川を遡って巨椋池まで行き木津川を遡れば、奈良盆地へ行けることになります。逆に京都へ行こうとすれば鴨川を遡ればいいわけです。それから琵琶湖方面へは宇治川、瀬田川を上れば行けます。逆に山陰側は、桂川を遡り、大井川へ入って行きます。そして丹波へ抜けることができます。つまり巨椋池は、河川交通のロータリー的な地理的役割を持っていたようです。
淀川曳舟
 こうしてみると、奈良や京都は淀川を通じて、瀬戸内海と結びついていたことになります。
だから引田周辺で取れた薪が、瀬戸内海を舟で運ばれ、京まで送られるということも可能だったのでしょう。穀倉類だけでなく薪などの生活物資に至るまで、瀬戸内海沿岸から運び込まれていたようです。その意味では、奈良の都も平安京も「消費都市」という性格は同じです。淀川水系を使って瀬戸内海と結びついていました。瀬戸内からの「供給」なしでは成り立たない都だったのです。奈良も京都も、瀬戸内海の方を向いた都と云えるようです。
参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)


桶狭間の戦いが行われて数年後の永禄九(1566)年、備中新見から京都までの移動記録があります。「備中国新見庄使入足日記」です。高梁川を遡った新見は、京都の東寺の荘園でした。そこでこの荘園と東寺との間には人とモノの行き来があり、それを記録した文書ももたくさん残されています。この文書は新見荘を管理するために派遣されていた役人が、都へ帰ってくるときの旅費計算記録です。だから途中でいくらかかった、どこに泊まっていくらかかったという旅費計算がしてあります。お金が絡むことなので、丁寧に書かれています。しかし、残念ながらそれ以外の記述は何もありません。実に実務的な文書ですが、このコースの中に何故か讃岐が出てくるのです。
 戦国時代の旅費計算書を見てみましょう。
新見庄を出発して高梁川を下って松山、それから高山、それから倉敷、塩飽、引田、兵庫、堺、大坂、守口、枚方、淀、八幡(石清水八幡宮)というルートです。
引田 新見1

永禄九年(1566)備中国新見庄使入足日記
教王護国寺(東寺)文書
永禄九年九月廿一日使日記
廿一日、二日 十六文  新見より松山へ参候、同日休み
廿八日     三文 人夫 高山より舟付迄

 「永禄九年九月廿一日使日記」、これがタイトルのようです。
9月21日に新見を出発しています。歩いての移動ではありません。高梁川の川船で下っていくのです。
高梁川3
廿一日、二日、二日間で十六文、日付の後には費用が書かれます。ここでは松山の宿代のようです。
「新見より松山へ参候、同日休み」
とあります。松山は「備中松山」で今の高梁のことです。ここで休憩のようですです。

高梁川1
高梁と高梁川
どうして松山で休息し、長逗留するのでしょうか。
当時は、松山に備中の国の守護所がありました。そこで、挨拶に上がったようです。守護所関係者に黙って通過というわけにはいかないのでしょう。ちなみに当時の備中守護は京兆家の細川氏で、本家の方の讃岐の宇多津に守護所を構える細川家の分家筋にあたるようです。そのため備中と讃岐の間に開ける備讃瀬戸は、細川氏の支配下にあったことになります。つまり、瀬戸内海の海上交通を細川家は真ん中で押さえることができていました。
備中松山というと、ずいぶん内陸に引っ込んでいるように見えますが、実は高梁川を使っての川船で瀬戸内海につながっていたことが分かります。

高梁川2
廿八日 三文 人夫 高山より舟付迄
「廿八日三文」、これは人夫賃です。荷物を運んでもらってます。
舟付というのは船着場のことです。高山は総社市高山城(幸山城・こうざんじょう)の近くにあった川港のようです。標高162mの山城からはゆっくりと流れ下る高梁川は眼下に見えます。重要輸送ルートである高梁川防備の戦略的な位置にあります。倉敷の手前までやってきたようです。
「廿八日夕、九日朝、四十文、旅籠、舟付迄」。
28日は高山に泊まって、翌日に旅籠をでて船着場に向かい、再び川船で倉敷に向けて下っていきます。

1 塩飽本島
塩飽本島(上が南)

倉敷から塩飽へ
廿八日 百五十文 倉敷より塩鮑(塩飽)迄
九月晦日より十月十一日迄、旅篭銭 四百八十文 
          十文つゝの二人分
十二日 十二文 米一升、舟上にて
  高山を朝に出て、高梁川を下り、その日のうちに倉敷から塩飽へ出港しています。倉敷より塩鮑(塩飽)迄の百五十文と初めて船賃が記されます。高梁川の川船の船賃は書かれていません。
ここまでは、船賃が請求されていないのはどうしてでしょうか?
高梁川は、新見庄の舟で下ってきたようです。鎌倉時代の史料から新見庄には、荘園に所属している水夫がいたことが分かります。カヌーで高梁川を下ると分かるのですが、この川は緩やかな川で初心者クラスでも川下りが楽しめます。特に高梁から下流は瀬もほとんどなく、ゆったりのんびりとした流れです。ここを昔は川船が行き来たことが納得できます。新見・松山・高梁と倉敷は高梁川でつながっていたことがよく分かります。
十文つゝの二人分
というのは二人で移動しているので経費はすべて二人分です。宿賃はどこの宿も十文です。そして150文が倉敷から塩飽までの二人分船賃です。宿代に比べると船賃が高いという気がします。塩飽のどこに着いたのかは何も書かれていません。しかし、当時の様子から考えると本島北側の笠島集落が最有力のようです。

本島笠島
「九月晦日より十月十一日迄、旅寵銭」、
9月29日から10月11日まで、塩飽での長逗留です。
ここで疑問
①なぜ塩飽にやって来たのでしょうか? 
牛窓方面から室津と山陽道沖合航路を進まないのでしょうか?
②なぜ塩飽で11日間も留まるのでしょうか。
①は、倉敷から塩飽への船賃は150文と記されますが、塩飽から次の寄港地までの船賃はありません。ここから先ほどの川船と同じように東寺の持舟を利用したことが考えられます。
本島笠島3

②については
当時は「定期客船」などはないので、商船に便乗させてもらっていました。当時の塩飽諸島は瀬戸内海という交易ハイウエーのサービスエリア的な存在で、出入りする商船が多かったのでしょう。そこに寄港する便のある東寺所属の商船の到着を待っていたのかもしれません。
十二日 十二文    米一升、舟上にて
 同日  五文     はし舟賃
十三日 舟二文    旅篭 引田
十四日  二文    同所    
十五日  二文    同所
   四十二文   米三升五合 たうの浦にて
十六日より十九日迄  同所
十九日 十文     宿賃
廿日より廿四日迄 百六十文   兵後(兵庫)にて旅篭
 壱貫百五十文 しはくより堺迄の舟賃
塩飽(本島)から引田へ
12日になって「舟の上で米を1升買った」とあります。ここから12日、塩飽のどこかの港から出港したことが分かります。
同日12日の「五文 はし舟(端舟)賃」とは、
端舟は、はしけのことのようです。港まで入港できず沖で待つ客船への渡賃が五文のようです。どこに着いたのかは翌日の旅籠代の支払先で分かります。なんと引田です。

引田 新見2
京都に向かうのにどうして引田へ?
  引田は讃岐の東端の港町です。今では香川の「辺境」と陰口をいわれたりしていますが視点を変えて「逆手にとって発想」すると、近畿圏に一番近い港町ということにもなります。そして、背後には古代のハイウエー南海道が通ります。そのため、都と讃岐の往来の一つの拠点が引田でした。
例えば
①平家物語の屋島合戦への義経ルート、
②鎌倉時代の南海流浪記の道範ルート、
など、讃岐への入口は引田です。

siragi
   引田の地理的な重要性について
引田は、南海道と瀬戸内海南航路という陸上交通と海上交通が連結ポイントになっていたようです。讃岐の人が都へ上ろうと思ったら、引田まで行けばいいわけです。そこまで行くのは、自分で歩いいく。これは、ただでいけます。そして引田から舟に乗るのです。宇多津あたりから乗ると、宇多津から引田までの船賃がかかります。だからなるべく東の方へ、東の方へと歩いて行く。そして、引田から乗るというのが中世の「作法」でした。
中世の和船
 「兵庫関雑船納帳」に出てくる引田舟を見てみましょう
当時、兵庫津(神戸港)には、海の関所が設けられていました。これを管理していたのは、東大寺です。後に春日大社、興福寺も加わります。この文書は、東大寺の図書館に残っていたもので、室町時代の終わり頃の文安二年(1455年)のものです。ここには、小さな船についての関税の台帳が載っています。一艘につき一律四五文の関税が課せられています。
『兵庫関雑船納帳』(東大寺図書館所蔵)
(文安二年(一四四五)七月)廿六日(中略)
四十五文 引田 人舟 四十五文 大木五六ハ 人舟 引田
四十五文 引田 四郎二郎    大木ハ五ハ
「人舟」とあるのは、人を運ぶ船、
「大木五十ハ」の「ハ」は一把二把の把だそうです。一束が一把になります。
大木五十把とは、何を運んでいたのでしょうか。
この舟は薪を運んでいたようです。都で使うための薪が、瀬戸内海沿岸の里山で集められ、束にして船で都に運ばれていたのです。木を運ぶ船という意味で木船と呼ばれていたようです。都の貴族達の消費生活は、燃料までもが地方からの物品によって支えられていたことが分かります。日常品が大量に瀬戸内海を通じて流通していたのです。
兵庫北関1
   兵庫北関を通過した舟が一番多い讃岐の港は?
  この表からは宇多津・塩飽・島(小豆島)に続いて、NO4に引田が入っていることが分かります。その数は20艘で、宇多津や塩飽の約半分です。
兵庫湊に入ってきた讃岐船の大きさを港毎に分類したのが下の表です。
兵庫北関2
200石を越える大型船が宇多津や塩飽に多いのに対して、引田は50石未満の小型船の活動に特徴があるようです。
  どんなものが運ばれていたかも見ておきましょう。
兵庫北関3
  積み荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の八〇%にあたります。
ちなみに塩の下に(塩)とあるのは塩の産地名が記入されていたものです。例えば「小豆島百石」と地名が書かれていて「地名指示商品」と研究者は呼んでいるようです。これが塩のことです。塩が作られた地名なので、( )付きで表しています。

中世関東の和船
  関東の中世和船
 こうしてみると讃岐の瀬戸内海港とは「塩の航路」と呼べるような気がしてきます。古代から発展してきた塩田で取れた塩を、いろいろな港の舟が運んでいたことが分かります。塩を中心に運ぶ「塩輸送船団」もあったようです。それは片(潟)本(古高松)・庵治・野原(高松)の船で、塩専門にしており、資本力もあったので、持船も比較的大きかったようです。
 話を引田に戻すと、引田にも中世から塩田があったので、地元産の塩を運ぶと同時に、周辺の塩も運んでいたようです。こうして引田湊は、港湾管理者としての役割を担っていた誉田八幡神社を中心に、商業資本の蓄積を進めていきます。この旅行者達がやってきてから20年後には、秀吉のもとで讃岐領主となった生駒親正は、この引田に最初の城を構えます。それは、東讃一の繁栄ぶりを見せていた湊の経済力を見抜いたからだと私は考えています。
   引田で長居しすぎたようです。結局10月12日に塩飽からやってきて、19日まで引田に逗留していたようです。引田の交易上の重要性を再確認して、今日はこれくらいしにします。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 県立文書館紀要3号(1999年)

                          

      
三野平野2
前回に続いて、三野郡を見ていきます。まず復元図からの古代三野郡の「復習・確認」です
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺付近から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。
⑥南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
⑦南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
⑧郡境と南海道を基準ラインとして条里制が施行されたが、その範囲は限定的であった。
以上のように古代三野郡は、古墳時代の後期まで古墳も作られません。そして、最後まで前方後円墳も登場しない「開発途上エリア」でした。それが7世紀後半になると、時代の最先端に並び立つようになります。
三野郡発展の原動力になったのが窯業です。
このエリアには、火上山西麓を中心とした地域(三豊市三野町)と東部山南西麓(同市高瀬町)に窯跡が見つかっています。これらは7つ支群
瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻
の各支群)に分かれていますが、全体を一つの生産地と捉えて「三野・高瀬窯跡群」と研究者は呼んでいるようです。
発掘から分かった各窯跡の操業時期を確認しておきましょう。
第1段階(6世紀末葉へ一7世紀初頭)
 十瓶山北麓の瓦谷支群(1)で生産が始まる。
第2段階(7世紀前葉)
 瓦谷支群での生産停止と野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
 野田池支群での生産拡大と、道免(3)・高瀬末(5)群の生産開始、
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)
 道免・野田池の2支群での生産継続。宗吉瓦窯継続
第5段階(8世紀前葉~中葉)
 道免・野田池の2支群での生産継続。青井谷支群(4)での生産開始
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
 青井谷支群での生産拡大。五歩田支群(6)での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
 青井谷支群での生産継続。上麻支群(7)での生産開始
  6世紀末から始まって10世紀まで400年近く三野郡では、土器や瓦が作り続けられていたことが分かります。そして、窯跡は

瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)
と移動していったことが分かります
どうして窯跡(生産現場)は移動していくのでしょうか。
移動の方向は海岸線から離れて、次第に山の奥へと入っていくようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は次のように云います
 窯相互の間隔から半径500mが指標。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えると三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされた
  須恵器窯は、燃料として大量の薪を必用とします。そのため周辺の山林の木材を伐り倒して運ばれてきました。そのために木がなくなると木がある山の麓に移動して新たな窯場を作る方が、生産効率がよかったのです。そのために木を求めて、奥へ奥へと入っていったようです。そして、その跡には丸裸になった里山が残りました。当時の須恵器や瓦生産の背景には、里山の伐採と丸裸化があったようです。そして、これが大量の土砂を三野津湾にもたらし堆積し、陸地化を急速にもたらすことになったのは、前回にお話ししました。
東大寺に運ばれた三野郡の檜
 これに加え、7世紀半ばの東大寺大仏殿の建設には、高瀬郷から木材(ヒノキ)が供給されています。使える木材が三野郡で残されていたのは、毘沙古山塊(標高231m)と、その東側で多度郡に接している弥谷山塊(標高381.5m)だけにしかなかったようです。このふたつの山は、弥谷寺周辺の死霊のおもむく聖地や甘南備山(なんなび)とされていた霊山で、伐採が禁じられていたのかもしれません。そして、北側が瀬戸内海に面し、南西側は「浅津」という地名があるように三野津湾に近く搬出にも便利です。おそらく須恵器生産用の「陶山」と、東大寺材木用の「楠山」とは分けられて管理されてたはずです。保護されてきた檜も、東大寺建立という国家モニュメントのために切り出され、海に浮かべて運ばれていったのでしょう。
 このように8世紀には、周辺の里山の木材も資源としての重要性が高まり、管理強化が行われるようになった気配があります。
  窯跡の移動に関して、研究者は次のように指摘します。
①窯場の移動は、製品搬出に便利な河川や谷道沿いに行われている。
②7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、
③8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にあった。
③窯場をできるだけ高瀬郷内に設定するような傾向がある。
  このように先行する須恵器窯業を受けて、宗吉瓦窯跡が登場します。
三野 宗吉遺2

この瓦工場は、当時造営中の藤原京に瓦を大量供給するために作られた大規模最新鋭の瓦工場で、それまでの須恵器窯とは、スケールも技術も経営ノウハウも格段の違いがあります。地元の氏族が単独で設置運営できる代物ではありません。氏族が中央権力に働きかけて最新の瓦工場を誘致してきたということが考えられます。設置に当たっては、中央からの技術者集団がやってきて取り仕切り、完成後の運営も行ったと考えられます。
三野 宗吉遺跡1
 立地は、藤原京に送り出すために船舶輸送を考えて、三野津湾の奥の海岸線近くに設置されます。しかし、気になるのが燃料である薪の確保です。今までは、薪を求めて窯は奥地に入っていました。それが海岸線に工場を作って確保できるのでしょうか?

 宗吉瓦工場は、郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が行われたようです。それまでの須恵器窯は、移動をしながらも高瀬郷内に置かれています。つまり高瀬郷内を基盤とする氏族によって担われていたことがうかがえます。しかし、藤原京への瓦供給という国家プロジェクトに関わることによって、この勢力は高瀬郷以外への権益拡大を図っていったようです。
そして、須恵器生産でも次のように競合するライバル達を8世紀初頭までは凌駕していたようです。
①競合する三豊平野南縁の辻窯跡群(三豊市山本町、刈田郡)を7世紀中葉には操業規模で圧倒
②讃岐最大の須恵器牛産地・十瓶山窯跡群(綾川町陶)よりも、8世紀初頭までは規模で勝る
③8世紀以降は十瓶山窯が優位になり、10世紀前葉には格差がさらに大きくなる
④10世紀中葉以後、三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小
10世紀近くまで高瀬郷では土器生産が行われ、周辺の山の木が伐採が続いたことになります。
製塩用の薪を提供する山が汐(塩)木山
平城宮木簡には阿麻郷(託間郷?)で塩生産が行われたことが記されます。「藻塩焼く・・」と詠まれたように製塩にも、大量の薪が必要でした。三野津湾西側の山名「汐木(しおぎ)山」は、そのための山として古代から管理されきた山であることがうかがえます。
森林管理センターとしての密教山岳寺院の登場
 このように窯業や製塩業の操業のためには、大量の薪が必要で、そのためには山を管理しなければならないという発想が生まれてきます。条里制施行で田畑の管理は、机上では行えるようになりましたが山野は無放置だったのです。それに気付いた勢力が行ったことが山野の管理センターとして寺院を山の中に建立することだったようです。いわゆる山岳密教寺院の登場です。若い頃に讃岐山脈を縦走していて気付いたのは、山頂にお寺がぽつんぽつんとあったことです。
 西から稜線上に次のような山岳寺院が並びます。
 雲辺寺 → 中蓮寺(廃寺)→ 尾野瀬寺(廃寺)→中村廃寺 → 大川寺(廃寺)→ 大滝寺
これらの寺は、その山域の「森林管理センター」の役割も果たしていたのではないかと思うようになりました。管理人は真言密教の修験者たちということになるのでしょう。同時にこれらのお寺は、孤立化していたのではなく修験者のネットワークで結ばれ、ある程度一体化していたと思われます。
中世の熊野詣での行者たちは、里に下りることなく阿波の鳴門から伊予の八幡浜まで、山の上をつなぐ修験者ルートで行くことができたと云います。そのルートを唐に渡る前の若き空海が歩いたのかもしれません。最後は妄想気味になりました。
最後にまとめておくと
①古代三野郡には須恵器窯跡が数多く見つかっている。
②これは同時に操業していたものではなく、スクラップ&ビルドを繰り返した結果である
③その背景には、燃料の薪確保のために海際から次第に山の奥に入っていった経緯がある
④そのような中で藤原京への瓦提供のために宗吉瓦工場が誘致される
⑤これは当時のハイテク産業で、超大型の工場であった。
⑥この工場誘致を進めた勢力は、三野郡の有力者に成長し、讃岐で最初の古代寺院妙音寺を建立することになる。

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐藤 竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

     
1三豊の古墳地図

まず古代三野郡を取り巻く旧地形を見ておきましょう。
①北部で袋状に大きく湾入する三野津湾と、そこに注ぐ高瀬川旧河口部の不安定な土地(低地)
②南部で宮川・竿川が財田川に合流する地点周辺に広がる低地
①・②ともに条里型の施工は、中世になって行われたと考えられ、平野部に古代の集落は見つかっていません。現在のように平野が広がり、水田が続く光景ではなく、三野平野は古代は入江の中だったようです。これに、古代以前の集落遺跡の立地を重ねると、せまい耕地と、それを取り巻く微髙地にポツンポツンとはなれて集落が散在していたようです。
三野 宗吉遺跡1

宗吉窯から見る三野津湾
三野津湾の新田化は近世になってから
 三野津湾には、高瀬川と音田川が注いでいますが、流れが急で大量の土砂を流域に運びました。高瀬川は三野津湾に注ぐ手前で、葛ノ山(標高97m)と火上山から南西に延びる支丘(標高100m前後)が、行く手をふさぐように張り出しています。しかも、ここが音田川との合流点です。
DSC00012
合流点に建つ横山神社
そのためこのあたりから上流は、土砂が堆積し湿地になっていたようです。この付近の字名「新名」は、中世以降の開発であることをうかがわせます。ここには条里型地割が引かれていますが、その施行は中世にまで下がると研究者は考えているようです。
DSC00016
「新名」付近に溜まった土砂は河口部まで続き、三角州と自然堤防を形作ります。この自然堤防上に、鎌倉時代末期に建立されるのが日蓮宗の本門寺です。つまり、本門寺の裏は海で舟でやってこれたのです。三野津中学校は海の中でした。
DSC00055
本門寺付近を流れる高瀬川
 土砂の流入を加速化したのが伐採による「山野の荒廃」だったようです。そのため三野津湾は土砂で埋まり、近世にはそこが干拓され新田化されることになります。そして現在の姿となります。

DSC00076
 以上のような環境は、古代の稲作定住には不適です。
西からやってきた弥生人達は三豊平野・丸亀平野では、それぞれ財田川や弘田川の河口に定住し、次第にその流域沿いにムラを形作っていき、それがムラ連合からクニへと発展していきました。しかし、三野エリアでは平野が未形成で、ムラが発展しにくい環境であったようです。これが三野地区の停滞要因となります。そのため古墳を作る「体力」がなかったのです。これでは、前方後円墳もできません。ある意味、ヤマト政権にとって経済的・戦略的意味がない地域で「空白地帯」として放置されたのかもしれません。

三野平野1
復元地形に古墳を書き入れたものが上図です。
 三野郡域には前期末の矢ノ岡古墳と、葺石と埴輪列を伴う中期後半の円墳・大塚古墳以外に、3~5世紀の前期・中期古墳がありません。古墳の築造が活発になるのは、6世紀中葉のタヌキ山古墳を始まりとして、6世紀後葉~7世紀前葉に限られます。また前方後円墳もないのです。これも生産力の未発展としておきましょう。
古墳時代後期になって現れた三野エリアの古墳を見ておきましょう。
11のグループに分けられますが、この中で石室の規模から「準大型」にランク付けできるのは石舟1・2号墳(麻地区Ⅶ群)・延命古墳(XI群)の3つだけです。石舟古墳は玄室天丼石を前後に持ち送る穹寫的な構成から丸亀平野南部地域との関係性を、また延命古墳は片袖式で畿内的な要素を指摘できると研究者は指摘します。また古墳が集中する地域は、IV~Ⅵ群がまとまる高瀬郷域周辺であり、高瀬川旧河口域が中心地域と考えられます。しかし、この地域では大型とされる延命古墳や石舟古墳群(麻地区)は、中心部から離れた外縁にあります。なぜ中心部から遠く離れた所に、大型古墳が作られたのでしょうか。課題としておきましょう。

南海道と三野郡の設置 地図の太い点線が南海道です
南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
②南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
③郡境と南海道を基準ラインとして条里制引かれたが、その範囲は限定的であった。
 「和名類聚抄」には、三野郡は
勝間・大野・本山・高野・熊岡・高瀬・託間
の7郷が記されています。この他に、阿麻(平城宮木簡)・余戸(長岡京木簡)の2郷が8世紀の木簡には記されているようです。しかし、余戸郷の所在地については手がかりがありません。阿麻(海)郷は、託間郷と同じが、その一部である可能性が高いと研究者は考えているようです。
古墳時代以後の三野郡内の「生産拠点」を地図に書き入れたのが下図です。
三野平野2
まず古代の三野郡の復元図から読み取れることを重複もありますが確認しておきましょう。
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。

三野 宗吉遺跡1
ここからは、生産地拠点が三野津湾沿岸と河川流域の丘陵部に展開していることが分かります。その生産拠点を押さえておきます。
須恵器生産地の三野・高瀬窯跡群は、三野津湾の南・東側と高瀬川上流域丘陵部(託間・高瀬・勝間郷)
宗吉瓦窯跡は、三野津湾南岸部の丘陵地帯(託間郷)に立地。
 郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が可能になって以後は大量生産が実現
③高瀬郷内の東大寺の柚山は、三野津湾北側の毘沙古山塊周辺
④阿麻郷での塩生産は、山名「汐木(しおぎ)山」より、三野津湾から荘内半島沿岸部にかけての塩田を想定
⑤865年(貞観7)に停廃された託間牧は、妙見山の北東麓の本村中遺跡を想定。轡(くつわ)や鏡板などの馬具が出土
 こうした沿岸部と周辺の開発に対し、南海道以東(以南)の阿讃山脈までつながる広大な山間部では、生産・原材料供給地としての役割をこの時点においては果たしていなかったようです。
 7世紀前半までは「低開発地域」であった三野郡に、突然に讃岐で最初の仏教寺院が建立されるのはどうしてなのでしょうか。また、それをやり遂げた氏族とは何者なのでしょうか?
参考文献 
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
 

                        

近世の三豊郡内では仁保(仁尾)港・三野津港・豊浜港が廻船業者の港として繁盛したようです。中でも仁保港は昔から仁尾酢、仁尾茶の産地で、造酒も丸亀藩の指定産地となっていました。そのため出入りする船も多く「千石船を見たけりや仁尾に行け」といわれたようです。
DSC07201
湛甫があった観音寺裁判所前 
 仁尾に比べて、観音寺港はどうだったのでしょうか。
江戸時代の観音寺港の様子を見ていきます。
観音寺港は、財田川が燧灘に流れ込む河口沿いにいくつかの港が中世に姿を見せるようになることを前回は見ました。江戸時代の様子は「元禄古地図」を見ると、今の裁判所前に堪保(たんぽ=荷揚場)があり、川口(財田川)に川口御番所があったことが分かります。
DSC07205

「官許拝借地」の境界碑が残る湛甫周辺
 各浦には、どのくらいの船があったのでしょうか
  上市浦  加子拾弐軒  舟弐艘
  中洲浦  加千  九軒 舟六艘
  仮屋浦  加千 廿七軒 舟六拾五艘
  下市分  加子  六軒 舟拾七艘
       加千  八軒 漁舟十五
  漁船の数も大小ふくめて総数九〇嫂程度で、その中の65隻は伝馬船であったようです。多い順に並べると仮屋の65隻がずば抜けて多いようです。仮屋は、現在の西本町にあたり、財田川の河口に近く当時の砂州の西端にあたる地域です。東側が「本町」で、漁師たちが作業用の仮屋を多く建てていたところが町場になった伝えられるところです。この地域に漁業や櫂取りなど海の仕事に携わる人々が数多くいたようです。
また、17世紀後半の元禄4年に琴弾神社の別当寺であった神恵院から川口番所に出された文章には次のようにあります。
 伊吹島渡海之事  
     覚
 寺家坊中並家来之者 伊吹嶋江渡海仕候節 
 川口昼夜共二御通可被下候 
 御当地之船二而参候ハ別者昼斗出船可仕候
   元禄四辛未三月     神恵院 印
      観音寺川口御番所中
 右表書之通相改昼夜共 川口出入相違有之門敷もの也
   元禄四年     河口久左衛門 判
           野田三郎左衛門 判
   観音寺川口御番所中

神恵院は、伊吹島の和蔵院を通じて伊吹八幡神社を管轄する立場にありました。伊吹島と観音寺の間には頻繁な人と物の交流が行われていました。その際にいつしか、財田川の河口の番所を通過しない船が現れれるようになってきます。室本港などが使われたのかもしれません。深読みすると、番所に分からないように、モノや人が動き出したことをうかがわせます。そのような動きを規制するためにこの「達し」は出されたようです。この「指導」により今後は番所を通過しなければならないことが確認されています。このように観音寺港に「舟入」を管理する番所が置かれていることは、交易船の出入りも頻繁に行われていたことがうかがえます。
それでは当時の伊吹島の「経済状況」は、どうだったのでしょうか
伊吹島の枡屋の先祖は北前船で財を成し、神社に随身門を寄付しています。弘化禄には
「1702年(元禄15)八月伊吹神門建立、本願三好勘右衛門、甚兵衛」
とあり、三好勘右衛門と甚兵衛の両人が伊吹島の八幡神社の門を寄進したと記します。二人は、後の枡屋一統の先祖に当たる人物で、二隻の相生丸を使って北前交易を行い財を成し、随身門を寄進したと子孫には語り継がれているようです。
この三好家には、寛保年間の文書が残っていて、取引先に越後(新潟)出雲崎の地名や、越後屋・越前屋・椛屋等の問屋名が記されています。 
出雲崎で伊吹島枡屋八郎が取引した商品
観音寺 港2
 
積み荷には、薩摩芋・黒砂糖・半紙・傘・茶碗等で、これらを売って、米を買い求めています。この米を大阪市場に運んでより高い利益を上げていたのでしょう。このように、当時の塩飽諸島が北前交易で栄えていたように、伊吹島も交易で大きな富を築く者が現れ「商業資本蓄積」が進んでいたと云えるようです。
 ちなみに枡屋一統というのは、伊吹島の三好家のグループで主屋・北屋・中等の諸家がこれに所属していたようです。この一族によって、昭和43年に島の八幡神社の随身門の修理が行われたと云います。
このような伊吹島の北前交易による繁栄を、対岸の観音寺も見習ったようです。18世紀半ばになると、観音寺船の北前航路進出を物語る史料が出てきます。
 
観音寺 港3
 浜田市外ノ浦の廻船問屋であった清水家に所蔵されている客船帳「諸国御客船帳」です。これには延享元年(1744)から明治35年(1902)の間に入港した廻船890隻が記載されています。国別、地域別に整理され次のような項目毎の記録があります。
出(だ)シ、帆印(ほじるし)及び船型、船名、船主、船頭名、船頭の出身地、入津日、出帆日、積荷、揚荷、登り、下り、出来事(論船、難破船、約束など)。この港に近づいてきた船の帆印を見て、この船帳で確認すれば、どこのだれの船で、前回はどんな荷を積んできたのかなど、商売に必要な情報がすぐに得られるようになっています。商売に関わる大切な道具なので、大事に箱に入れ保管されていました。
  この船帳には「観音寺港所属船」として6隻が記されています。
   (貨客船)   かんおんじ
住徳丸 近藤屋佐兵衛様  文化五辰五月十六日入津
            くり綿卸売・あし・干鰯卸買
     文右衛門様  同 二十一日出帆 被成候
西宝久丸 旦子屋彦右衛門様文政四巳四月廿二日入津   
伊勢丸 根津屋善兵衛様  弘化四未六月十七日登入津 
             大白蜜砂糖卸売
             十九日出船被成候
伊勢丸 瀬野屋伊右衛門様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売
天神丸 びぜん屋宇三郎様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売 
     宮崎屋利兵衛様
観音丸 あら磯屋忠治郎様  天保四巳三月廿八日下入津 くり綿売
 
ここからは次のような事が分かります。
①18世紀末の寛成年間から天保年間に岩見の浜田港に観音寺船籍の北前船が6隻寄港している
②同一の船主船が定期的に寄港してたようには見えない
③綿・砂糖・塩を売って何日かの後には出港している
④入港月は3月~6月で、讃岐から積んできた物産を販売している
⑤観音寺に北前交易に最低でも6人の船主が参加していた
   つまり、自前の船を持ち北前交易を行う商人達が観音寺にもいたことが分かります。彼らのもたらす交易の富が惜しげもなく琴弾神社や檀那寺に寄進され、観音寺の町場は整えられて行ったのでしょう。
観音寺 交易1

  19世紀になると、大阪と観音寺を結ぶ定期航路的な船も姿を見せます。京都・大阪への買付船につかわれた観音寺中洲浦の三〇石船
  この船は、漁船として登録されていますが三〇石船です。帆は六反から八反ものが多く、船番所で鑑札を受ける際に、帆の大きさによって税金(帆別運上)を納めることになっていました。税率は「帆一反に付銀三分」とされていたようです。
この船は、広嶋屋村上久兵衛と仮屋浦山家屋横山弥兵衛の共有船でした。1804年(享和4)、に大坂への航海がどんな風に行われたのかが記録として残っています。この時にこの船をチャターしたのは「観音寺惣小間物屋中」で、その際の記録と鑑札が、 観音寺市中新町の村上家に残っていました。
観音寺 舟1
表には
讃州観音寺中洲浦 船主久兵衛
漁船三拾石積加子弐人乗
享和四子年正月改組頭彦左衛門
とあり、船籍と船主・積載石30高・乗組員2名と分かります。
裏には
篠原為洽 印
戸祭嘉吉 印
享和四甲子年正月改
観音寺 舟
記録からは、
①観音寺小間物屋組頭格の下市浦の嘉登屋太七郎が音頭を取って
②下市浦から菊屋庄兵衛・塩飽屋嘉助・辰己屋長右衛門の三名、
③酒屋町から広嶋屋要助・広嶋屋惣兵衛の二名、
④上市浦から森田屋太兵衛・山口屋嘉兵衛・広嶋屋儀兵衛、荒物屋佐助の四名、
⑤茂木町から大坂屋林八二一野屋金助・大坂屋嘉兵衛・山口屋重吉の四名、
⑥計一五名が仕入・買積船としてチャターし、
⑦運賃や仕入買品物の品質責任・仕入支払金は現金で支払うこと
などを事前に契約しています。
つまり、小間物屋組合のリーダーが組合員とこの船を貸し切って、大阪に仕入れに出かけているのです。
同時代に伊吹のちょうさ組は太鼓台を大阪の業者に発注し、それを自分の船で引き取りに行っていたことを思い出しました。「ちょっと買付・買物に大阪へ」という感覚が、問屋商人の間にはすでに形成されていたことがうかがえます。
観音寺 淀川30石舟
淀川の30石舟

 当時は大阪からの金比羅船が一日に何隻もやってきくるようになっていました。弥次喜多コンビが金比羅詣でを行うのもこの時期です。民衆の移動が日常的になっていたことが分かります。
 ちなみに、この船も日頃は金毘羅船だったようです。現大阪市東区大川町淀屋橋あたりの北浜淀屋橋から出航し、丸亀問屋の野田屋権八の引合いで丸亀港に金毘羅詣客を運んでいたのです。丸亀で金毘羅客を降ろした後は、観音寺までは地元客を運んでいたのでしょう。丸亀と 観音寺の船賃は、200文と記されています。
80d5108c (1)
弥次・喜多が乗った金比羅船
   安芸・大島・大三島への地回り定期航路
 瀬戸内海の主要航路からはずれて、地廻り(地元の港への寄港)として伊吹島にやってくる北前船もあったようです。しばらく、地元での休養と家族との生活し、船の整備などを行った後に出港していきます。そのルートは、円上島・江ノ島・魚島の附近を通り、伯方島の木浦村沖を通り、大島と大三島の開から斎灘へ出るコースがとられたようです。

観音寺 舟5
 
地図を見ると仁尾や観音寺が燧灘を通じて、西方に開けた港であったことが分かります。このルートを逆に、弥生時代の稲作や古墳時代の阿蘇山の石棺も運ばれてきたのでしょう。そして、古代においては、伊予東部と同じ勢力圏にあったことも頷けます。
   このことを裏付ける難破船の処理覚書があります。
「難破船処理の覚書」1760年(宝暦10)11月30日です
一、讃州丸亀領伊吹嶋粂右衛門船十反帆 船頭水主六人乗去ル廿三日却 伊吹嶋出船 肥前五嶋江罷下り僕処 憚御領海通船之処同日夜二入俄二西風強被成 御当地六ツ峡江乗掛破船仕候 早速御村方江注進仕候得者 船人被召連破船所江御出被下荷物船具ホ迄 御取揚被下本船大痛茂無御座翌廿五日村方江船御漕廻シ被下私自分舟二而為差 荷物も無御座候故 何分御内証二而相済候様二被仰付 可被下段御願中上候処 御聴届被下候所 奉存候 積荷明小樽 菰少々御座候処 不残御取揚被下船具ホ迄少茂紛失無御候 船痛 所作事仕候而無相違請取申候得者 此度之破船二付 御村方江向 後毛頭申分無御座候以上
  宝暦十辰年十一月枡日
            水子 善三郎
            〃  忠丘衛
              ” 万三郎
              ” 太兵衛
              ” 藤 七
            船頭 粂右衛門
   木浦村庄屋 市右衛門殿
       御組頭中
意訳すると
讃岐丸亀藩伊吹島の粂右衛門所有の十反帆船(二百石船)が船頭水主6人を乗せて11月23日に伊吹島を出港して肥前五島列島に向けて航海中に、今治藩伯方島付近に差しかかったところ、突然に強い西風に遭い、座礁破船した。村方へ知らせ、積荷や船具は下ろしましたが、幸いにも船の被害は少なく、25日には付近の港へ船を廻航しました。自分の船でありますし、積荷も被害がありませんので、何分にも「内証」(内々に)扱っていただけるようお願いいたします。
 と船頭と船員が連名で木浦村の庄屋に願い出ています。
この書面を添付して、木浦村の庄屋は、
①難破船の船籍である伊吹島の庄屋
②今治藩の大庄屋と代官・郡奉行
に次のように報告しています

  右船頭口上書之通相違無御座候 以上
 橡州今治領木浦村与頭  儀丘衛 印
           同 伊丘衛 印
          庄屋 市右ヱ門印
   讃州丸亀御領伊吹嶋庄屋
        与作兵衛殿

右破船所江立合相改候処 聊相違無之
船頭願之通内証二而相済メ作事
出来二付OO同晦日 出船申付候 已上
         沖改 庄屋   権八 印
         嶋方大庄屋  村井 嘉平太印
辰十一月晦日
         嶋方代官手代 吉村 弥平治印
         郡奉行手附  木本五左衛門印
  伊吹嶋庄屋
      与作兵衛殿

このように、伊吹島の200石の中型船が九州の五島列島との交易活動を行っていたことが分かります。同時に海難活動について、国内においての普遍的な一定のルールがあり、それに基づいて救難活動や事後処理・報告がスムーズに行われていることがうかがえます。
 明治時代になっても地域経済が大きく変化することはありませんでした。鉄道が観音寺まで通じるのは、半世紀以上経ってからです。それまでは、輸送はもっぱら船に依存するより他なかったのです。そこで地元資本は海運会社を開設し、汽船を就航させ、大阪への新たな航路を開くのです。観音寺からも仁尾や多度津を経て大阪に向かう汽船が姿を現すようになります。
 鉄道がやってくるまでの間が観音寺港が一番栄えた時かもしれません。
 参考文献 観音寺市誌 近世編

    
観音寺湊 復元図1

中世の観音寺湊の復元図です。この湊が河口に浮かぶ巨大な中洲に展開していたことが分かります。
琴弾八幡宮とその別当寺・観音寺の門前町として発展した港町
 観音寺は讃岐国の西端の苅田郡(中世以降は豊田郡に改称)に属し、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世には町場が形成されていたようです。
観音寺琴弾神社絵図
鎌倉後期の「琴弾宮絵縁起」には、琴弾八幡宮が海辺に浮かぶ聖地として描かれています。聖地は人の住むところではないようです。この絵図には、集落は描かれていません。今回は、川のこちら側の人の住む側を見ていくことにします。
観音寺地図1
 財田川と手前の一ノ谷川に挟まれた中洲には、いくつかの浦があり、それぞれに町場をともなって港湾機能をもっていたようです。中洲と琴弾神社と、財田川に架かる橋で結ばれます。この橋から一直線に伸びる街路が町場の横の中心軸となります。そして、中洲上を縦断する街路と交差します。中洲上には「上市や下市」と呼ばれる町場ができています。

観音寺 琴弾神社放生会
 享徳元年(一四五二)の「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(資料21)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。放生会の祭には、各町場の住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたようです。町場を越えて人々を結びつける役割を、琴弾神社は果たしていたようです。
そして各町場は、財田川沿いにそれぞれの港を持ちます。
 文安二年(1455)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記されています。財田川の背後の耕作地から集められた物資がここから積み出されていたことが分かります。そして、いつの頃からかこの中洲全体が、観音寺と呼ばれるようになります。
 かつて財田川沿いには、船が何隻も舫われていたことを思い出します。その中には冬になると広島の福山方面からやって来て、営業を始める牡蠣船もありました。裁判所の前の河岸も、かつては船の荷揚場であったようで、それを示す境界石がいまでも残っています。その側に立つのが西光寺です。立地ロケーションからして、町場の商人達の信仰を一番に集めていたお寺だったことがうかがえます。
 中世の宇多津や仁尾がそうであったように、中核として寺院が建立されます。寺院が、交易・情報センターとして機能していたのです。そういう目で観音寺の財田川沿いの町場を歩いてみると、お寺が多いのに気がつきます。さらに注意してみると、西光寺をはじめ臨済宗派の寺院がいくつもあるのです。気になって調べてみると、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)に属するようです。私にとって、初めて聞く言葉でした。
「聖一派」とは? 
またどうして、同じ宗派のお寺がいくつも建立されたのでしょうか?  国史辞典で開祖を調べてみると
弁円(諡・聖一国師)が京都東福寺を中心に形成した顕密禅三教融合の習合禅
②弁円は駿河国(静岡県)に生まれ,5歳のときに久能山に入り教典,外典の研鑽に努める
③22歳で禅門を志し,上野長楽寺に臨済宗の栄朝を訪ね
④嘉禎1(1235)年4月34歳で入宋。臨済宗大慧派の無準師範に7年間参学,
⑤帰国後,寛元1(1243)年,九条道家の帰依を得て、道家が建立した東福寺の開山第1世となる。
⑥入院後、後嵯峨,亀山両上皇へ授戒を行い、東大寺,天王寺の幹事職を勤める
 当時の朝廷・幕府・旧仏教へ大きな影響力を持った禅僧だったようです。さらに、東山湛照,白雲慧暁,無関玄悟など,のちの五山禅林に関わる人たちに影響を与える弟子を指導しています。この門流を彼の諡から聖一派と呼んでいるようです。
  ここでは教義内容的なことには触れず、弁円の「交易活動」について見ておきましょう。
淳祐二年(1242)、宋から帰国して博多に留まっていた彼のもとに、留学先の径山の大伽藍が火災で焼失した知らせが届きます。彼は直ちに博多商人の謝国明に依頼して良材千枚を径山に贈り届けています。弁円から師範に材木などの財施がなされ、師範からは円爾に墨蹟その他の法施が贈られています。ここには南宋禅僧が仏道達成の証しになるものをあたえると、日本僧が財力をもってその恩義に報いるというパターンがみられます。
 日本僧が財力を持って入宋している例は、栄西や明全・道元らの場合にも見られるようですが、円爾にもうかがえます。彼の第1の保護者は、謝国明ら博多の商人たちで、その支援を受けて中国留学を果たしたのです。そして、資力に任せて最先端の文物を買つけて帰国します。その中には仏典ばかりではく流行の茶道具なども最先端の文物も数多くあったはずです。大商人達たちに布教を行うと同時に、サロンを形成するのです。同時に、彼は博多商人の宋との貿易コンサルタントであったと私は考えています。これは、後の堺の千利休に至るまで変わりません。茶道は、交易業者のたしなみになっていくのです。博多商人の船には、弁円の弟子達が乗り込み宋への留学し、あるときには通訳・医者・航海祈祷師としての役割も果たしたのではないでしょうか。それは、宋王朝に対する対外的活動だけではなく瀬戸内海においても行われます。
 こうして、円爾弁円(聖一国師)を派祖とする聖一派は、京都東福寺や博多を拠点として、各港町に聖一派の寺院ネットワークを形成し、モノと人の交流を行うようになります。観音寺が内海屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の禅僧が博多商人の船に乗ってやって来て、信者を獲得し寺院が創建されていったと考えられます。
 これは、日隆が宇多津に本妙寺を開くのと同じ布教方法です。
日隆は、細川氏の庇護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立しています。いずれも内海屈指の港町であり、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動が行われています。お寺が日宋貿易や瀬戸内海交易のネットワークの中心になっていたのです。その中で僧侶の果たす意味は、宗教的信仰を超え、ビジネスマン、コンサルタント、情報提供など雑多な役割を果たしていたようです。
伊予への弁円(聖一国師)の門下による聖一派の布教を見てみましょう。弁円の師弟関係が愛媛県史に載っています。

観音寺 弁円

①山叟恵雲は
正嘉二年(1258)入宋、円爾門十禅師の一人で正覚門派祖、東福寺五世で宇摩郡土居町関川東福寺派大福寺は、弘安三年(1280)に彼によって開かれたと伝えられます。
②弁円の高弟癡兀(ちこつ)大恵は、
平清盛の遠孫で、東福寺九世で没後仏通禅師号を賜わっています。彼は保国寺(西条市中野、東福寺末)の中興開山とされ、その坐像は重要文化財に指定されています。伊予に巡回してきた禅師を迎えて開山としたと伝えられます。しかし、禅師の伊予来錫説については否定的見解が有力で、臨済宗としての中興開山は二世とされる嶺翁寂雲であると研究者は考えているようです。
③孫弟子に鉄牛継印は、
観念寺(東福寺末、東予市上市)の開祖とされます。もとは時宗による念仏道場だったようですが、元弘二年(1332)元から帰朝して間もない鉄牛を迎えて中興し禅寺としたと伝えられます。鉄牛は諱を継印、越智郡の菅氏の生まれです。晩年の祖師弁円に学んだ後、元王朝に渡り帰朝しています。
④悟庵智徹(ごあんちてつ)近江の人で、
豊後を中心に九州に布教の後で、宇和島にやってきて正平20年(1365)に、西江寺を開きます。また、西光寺も同じような由来を伝えます。
⑤伊予に最も深い関係をもつのは弟子南山士雲の法系のようです。
彼は北条・足利両氏の帰依を受けた当時のMVPです。伊予の河野通盛が遊行上人安国のすすめで南山士雲の下で剃髪して善恵と号したと云われます。この剃髪によって河野通盛は、足利尊氏の知遇を得て、通信以来の伊予の旧領の安堵されたと『予章記』には、次のように記されています。
 建武三年(1336)、通盛は自己の居館を寺院とし、南山士雲の恩顧を重んじてその⑥弟子正堂士顕を長福寺から迎えて善応寺(現東福寺派、北条市河野)を開創した。ちなみに、正堂士顕は渡元して無見に参じて印可を受け、帰国後当時長福寺(東予市北条)にあった。善応寺第二世はその法弟南宗士綱である。
 河野通盛は、足利尊氏への取りなしの御礼として、建立したのが北条市の善応寺のようです。しかし、正堂士顕が長福寺にいたことを記すのは『予章記』のみのようです。同寺の縁起には、河野通有が、弘安の役に戦死した将兵を弔うため、士顕の弟子雲心善洞を開山として弘安四年(1281)に開創したと伝えますが、年代があいません。
⑥正堂士顕を招請開山として応永二一年(1414)に中興したと伝えるのが宗泉寺(美川村大川)です。しかし、正堂士顕の没年は応安六年(1373)とされますので、これも没後のことになります。
⑦南山士雲の弟子中溪一玄は、暦応二年(1339)開創の仏城寺(今治市四村)の開山に迎えられています。さらに、河野通盛によって中興したとされる西念寺(今治市中寺)は、南山士雲を勧請開山としますが、事実上の開山はその法孫枢浴玄機のようです。
 このように中世の伊予には、弁円(聖一国師)の弟子達が多くの寺院を開いたことが分かります。
1高屋神社
高屋神社から望む観音寺市街
讃岐の西端で燧灘に面する観音寺は、西に向かって開かれた港で、古代以来、九州や伊予など瀬戸内海西部との関係が深かった地域です。伊予での禅宗聖一派ネットワークの形成が進むにつれて、その布教エリア内に入ったのでしょう。それが観音寺町場に、聖一派の禅宗寺院が建立された背景と考えられます。
 しかし、なぜいくつもの寺院が必要だったのでしょうか。
宇多津の日蓮宗寺院は本妙寺だけです。しかし、伊予の場合を見ていると、宇和島や今治・北条市などには、複数の聖一派寺院が建立されています。周辺部への拡大とも考えられますが。観音寺では、各町場毎に競い合うように建立されたのではないかと私は考えています。
観音寺の旧市街の狭い街並みを歩いていると、瀬戸の港町の風情を感じます。
観音寺 アイムス焼き

古くから続く乾物屋さんには、伊吹のいりこをはじめ、酒のつまみになるいろいろな乾物があります。アイムス焼き物や山地のカマボコ、路地の中の柳川うどんなどを味わいながらの町場歩きは楽しいものです。そんな町場の荷揚場に面して禅宗聖一派の西光寺はあります。ここがかつての伊予の同宗派の拠点の一つで、ここに禅僧達がもたらす情報やモノが集まっていた時代があったようです。
 以上、これまでのことをまとめておきます。
①中世の財田川と一ノ谷川に挟まれた中洲に、琴弾神社の門前にいくつかの町場が形成された
②定期市から発展した上市・下市・今市などの町場全体が観音寺と呼ばれるようになった。
③各町場は、それぞれ港を持ち瀬戸内海交易を展開した。
④中世には各宗派のお寺が建立されるようになるが、臨済宗聖一派のお寺がいくつかある
⑤これは開祖弁円(聖一国師)の支援者に博多商人が多かったためである。
⑥博多商人の進める日宋貿易や瀬戸内海交易とリンクして聖一派の布教活動はすすめられた。
⑦伊予は開祖弁円の弟子達が活発に布教活動を進め、各港に寺院が建立された。
⑧そのような動きの中で燧灘に開かれた観音寺もそのネットワークに組み込まれ、商人達の中に信者が増えた
⑨それが観音寺にいくつもの聖一派のお寺が作られる背景である

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。

13世紀半ばに、柞田荘が比叡山の日吉社領となり立荘されるまでの過程を見てきました。最後に、日吉神社がどのようにして、柞田荘を支配したのか、その拠点はどこにあったのかを探って見ることにします。

柞田荘 日吉神社2
  日吉神社が分祠される
有力貴族や神社に荘園化されると、その氏神が分祠されるのが通常です。例えば藤原氏は春日神社を、賀茂神社の社領となった仁尾には賀茂神社が分祠されます。柞田荘は日吉神社の社領となったので、当然日吉(枝)神社がやってくることになります。
 『香川県神社誌」には、
「当社は柞田荘が日吉社の社領となったことを契機として分祀された」と記します。編纂当時の氏子は、字下野・八町・油井・大畑・上出在家の390戸とありで、旧柞田村内の神社としては、式内社とみられる山田神社の915戸に次ぐ規模です。荘園化されて以後に荘政所が設けられたとすると、荘園領主である日吉社を分祀した山王の地が候補の第一となると考えるのは当然です。このため
荘政所の一番候補は、荘内の字山王に鎮座する旧村社日枝神社周辺とされてきました。
   国道11号から少し入った所に大きな樟が何本も繁った中に立派な社殿があります。となりには延命寺の境内が隣接します。本殿の裏が、お寺の本堂のようになっています。神仏習合時代は、延命寺が別当寺であったのでしょう。それが明治の神仏分離によって引き離された歴史が伝わってきます。
 神域の前には大きな広場があり、ここが祭礼の時には何台もの「ちょうさ(太鼓台)」が集まってくるのでしょう。この真ん中にある樟の下に「柞田駅」の道標(説明版)が立てられていました。
柞田荘 柞田駅

柞田駅跡と大きな字では書かれていますが、よく読むと「この付近にも柞田駅があったと伝えられます」と断定はしていません。どこにあったかは分かっていません。
しかし、南海道がどこを通っていたかは、次第に明らかになってきました。かつては「伊予街道=南海道跡説」が称えられていましたが、今では南海道は別のルートであったことが分かってきています。太点線が南海道推定ルートになります。高速道路よりもまだ東になります。
柞田荘 日吉神社
  次の候補は「公文明」という小字名です。
これは、日枝神社の北東で柞田川の北側になります。南海道には近い場所です。『香川県神社誌』には、字公文明には、荒魂神社が祀られていたと記します。現在の公文明神社が鎮座する所です。公文名とは、郷や荘などの官人である公文に職分として給付される給田畠からなる名(名田)の呼び名です。ここから、その近辺に公文が住んでいた館があったと研究者は考えているようです。
  13世紀の柞田荘で起きた殺人事件から分かることは?
 柞田荘が立荘されて約30年後の弘安6年(1283)、柞田荘で殺人事件が起きます。これを朝廷に訴えた文書が残っています(祝部成顕申状(『兼仲卿記』紙背文書)
 訴えた人   日吉社の祀官成顕
 訴えられた人 祀官成顕の兄・成貫
 罪状     兄成貫が柞田荘の地頭弘家と地頭代政行と「庄家」に乱入し、成顕の代官仏縁法師を斬り殺した
この殺人事件からは次のような事が分かります。
①近江の日吉社の祀官成顕は、代官仏縁法師を派遣して柞田荘を管理させていた
②代官仏縁法師は「庄屋」で「業務」を行っていた。庄屋が支配拠点であった
③加害者の「弘家」は、柞田荘の地頭。姓は不明。
④近江日吉神社から派遣されていた代官と地元の地頭の間での対立があった背景にある
 13世紀末には、地元「悪党」の台頭で次第に「正常な経営」ができなくなっていることがうかがえます。
 この殺人事件から約60年後のち、南北朝時代の貞和4年(1348)5 月27 日の讃岐守護細川顕氏遵行状には、柞田荘地頭の名前が記されています。そこには
岩田五郎頼国・同兵庫顕国
とあります。また嘉慶元年(1387)11月26日の細川頼有譲状(細川家文書)に
「くにたのちとうしき ゆわたのそうりやうふん」(柞田の地頭職岩田の惣領分)
という地頭の名前が見えます。殺人事件で訴えられた「地頭弘家と地頭代政行」も、この岩田氏の先祖になる人物かもしれません。
 どちらにしても、14世紀には柞田荘の地頭職を岩田氏が世襲するようになり「押領」が行われ、日吉神社の柞田荘経営は困難になっていったと研究者は考えているようです。

  殺人現場の「庄屋」は、柞田荘の「現地支配機関」の荘所・荘政所?
それでは殺人事件の現場となった「庄屋」は、どこにあったのでしょうか?それが先ほど第2候補に挙げた公文明神社です。ここは地図で見ると分かるように、南海道より1〜2坪の近い距離です。南海道と柞田川右岸に沿うことから、柞田駅はここにあったと考える研究者もいます。そして、柞田駅の建物が荘所に転用されたします。立荘後に、すでにあった屋敷を荘政所として使っていたという推察です。このためここが第2候補になるようです。
 ただ次のような問題が残ります。
柞田荘の東側の境界線がほぼ南海道と重なるのに「大路」・「作道」・「大道」などの表記はまったく残っていないことです。たとえば康治2年(1143)8 月19日の太政官牒案(安楽寿院古文書)には、寒川郡富田荘の四至に
「西は限る、石田郷内東寄り艮角、西船木河ならびに石崎南大路南」
弘長3 年(1263)12月日の讃岐国留守所下文写(善通寺文書)には、多度郡生野郷内善通寺領の四至に
「東は限る、善通寺南大門作道通り」、「北は限る、善通寺領五嶽山南麓大道」と、
南海道らしき道が出てきます。
しかし、柞田荘では巽の膀示を打った地点で、単に「道」とのみ書かれているだけです。つまり、南海道と見られる道が 柞田荘内に取り込められているのです。南海道が活発に利用されていたのなら、荘園に取り込まれることはなかったはずです。前回に柞田荘の東側の境界が推定南海道のルートであることを見てきましたが、実際には「南海道」をイメージさせる用語は出てきません。「紀伊郷界」などとしか記されていないようです。
これは何を意味するのでしょうか。
①現南海道推定ルートが間違っている
②南海道の主要機能は、この頃にはほかのルートへ移動していた
というところでしょうか。
南海道は多度・三野両郡境を大日峠で越えていますが、鎌倉時代末期以降、それとは別に両郡境を鳥坂峠で越える「伊予大道」が重要度を増したようです。そして、伊予大道が幹線道路として用いられるようになったことが考えられます。
 確かに母神山の西側の南海道推定ルートを辿ってみると、舌状に張り出した丘をいくつも越えていかなければならず高低差があったことが分かります。それに比べて、現国道11号に隣接して伸びる伊予街道は平坦です。利用者にとっては、伊予大道の方が数段便利だったと思います。直線をあくまで重視した南海道は、利用者の立場に立たない官道で、中世には使われなくなった部分がでてきていたようです。
  以上、柞田荘全体をまとめておくと以上のようになります。
①柞田荘の荘域は、中世的郷である柞田郷の郷域を受け継いだものである
②そのため耕地だけでなく燧灘の漁業権までも含みこんでいた。
③周辺の郷・荘との境界線は、郷界線がそのままつかわれている
④境界は、条里施行地域においては、里界線や官道が用いられている
⑤条里制外で、南方の姫江庄と接する地域においては別の基準線が用いられていた。
⑥柞田郷は、柞田荘の立荘で消滅し、その領域支配は柞田荘に引き継がれた。
⑤柞田荘の拠点である庄家(荘政所)は、「伊予大道」に面した日枝神社の近くの「山王」にあった。
⑥13世紀には南海道はすでに「廃道」状態になっていて、柞田荘に取り込まれている。
⑦南海道に代わって伊予大道が幹線として利用されるようになっていた。

    参考文献
 田中健二  日吉社領讃岐国柞田荘の荘域復元

 
柞田荘 四方標示

前回は柞田荘の立荘が、どんな人たちの手で進められたのかをみてきました。今回は、荘園の境界を見ていくことにします。この荘園は柞田郷がそのまま立荘されたようです。だから、柞田郷の境界が分かると荘園のエリアも分かることになります。
柞田荘 地図

それでは、まず柞田荘の「四至」をもう一度確認しておきましょう。
 注進言上す、日吉社領讃岐国柞田庄四至を堺し、膀示を打つこと。
 一、四至
東は限る、
 紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。
南は限る、
 姫江庄堺 西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。
北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。その堺東西行くの畷まさにこれを通す。
膀示四本                                             
一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならびに本郷・坂本郷・当庄四の辻これを打つ
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
   その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。
一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹島を限る。
   南は姫江庄内埴穴堺。北は当庄園生村堺。
一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。
   鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。
 次のような手順で境界が決められ、東西南北に膀示四本が打たれたことが分かります。
①東の境界線は「紀伊郷境」、北の境界線は「坂本境」で北と東の郷境線が交わる「艮(うしとら)角に「膀示」が打たれます。
②そして、この場所は苅田郡の条里制の「五条七里一坪」の「田地」の中だと記します。
三豊の条里制研究の成果は「五条七里一坪」が現在のどこに当たるかを教えてくれます。現在の柞田上出東北隅、西部養護学校の南側にあたります。地図に艮「五条七里一坪」を書き入れてみると次のようになります。
柞田荘 郡境12

 艮膀示は現在の西部養護学校の東側になります。
この地点の説明が
「紀伊郷並びに山本郷、坂本郷、営庄(柞田荘)、四の辻これを打つ」
です。ここは確かに辻(十字路)になっています。ここに膀示が建てられたのです。どんなものだったのかは分かりませんが、石造のかなり背の高いものだったと勝手に想像しています。

柞田荘 艮付近

艮膀示が打たれた場所は、南海道に面した地点であったようです。
四国の条里制については、次のようなプロセスで作られたことが分かっています
①南海道が一直線に引かれる。
②南海道に直角に郡郷が引かれる
③郡郷に沿って東から順番に条里制の条番が打たれる
④山側(南)から海側(北)に、里番打たれる
三豊においても南海道に直角に三野郡と苅田郡の郡郷が財田川沿いに引かれます。そして、この郡郷に平行に条里制工事は進められていったと研究者は考えているようです。どちらにしても南海道や条里制、そして郷の設置は、非常に人為的で「自然国境的」な要素がみじんも感じられません。

柞田荘 艮付近2
南海道が通過していた艮ポイントとは、どんな場所だったのか探ってみましょう。  
南海道は本山付近で財田川を渡ると、国道11号と重なるように南西へ進みます。国道はパチンコダイナム付近で向きを少し変えますが、南海道はあくまで一直線に進んでいき、現在の西部養護学校付近の艮ポイントまで続きます。地形的には東から伸びてくる舌状の丘陵地帯をいくつも越えて行くことになります。近世の新田開発やため池工事で南海道は寸断され、姿を消していきます。ただ、観音寺池と出作池の間の堤防は、かつての郡郷で南海道跡のようです。この堤防には鴨類が沢山やって来るので、よく鳥見に出かけた思い出があります。この堤防からの景色は素晴らしく、古代の三豊の姿を思い描くには最適の場所です。ここからは東に母神山がすぐそばに見えます。その裾野には、三豊総合運動公園の背の高い体育館があります。公園の中には、以前お話しした6世紀後半の前方後円墳・ひさご塚古墳や横穴式円墳の鑵子塚古墳を盟主とする多くの古墳群が散在するのです。仏教伝来以前の古墳時代の人たちは、死霊は霊山に帰り、祖霊になり子孫を守ると考えたようです。母神山もその霊山であったと私は思っています。
 一ノ谷の青塚 → 母神山のひさご塚・鑵子塚 → 大野原の3つ巨大横穴式古墳
は、同一系統上に考えられ、同一氏族によって造り続けられたと研究者は考えているようです。そうだとすれば、先祖の作った古墳を眺めるように南海道は母神山のすぐ側を通り、そして、大野原の3つの古墳の中を縫うようにルート設定が行われたことにもなります。
 この地域の南海道工事に関わった氏族として考えられるのは・? 現在の所最有力は、紀伊氏ということになりそうです。紀伊氏の先祖が造営してきた古墳に沿うように、南海道があることの意味を考える必要がありそうです。話が飛んだようです。ここでは柞田荘のエリア策定にもどります。

   東南コーナーは「巽(たつみ)角井下村」
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。

巽角は井下村の姫江荘との境の路に打った。路は柞田荘のものである。巽膀示が打たれた場所を上の地図で見てみましょう。分かりやすくするために近世の柞田村の境界線がと南海道が太線で入れてあります。なお、高速道路が出来る前の地図です。
柞田荘 巽

  土井池をぐるりと囲むように旧柞田村と旧大野原村の境界は引かれていたようです。しかし、古代の境界線は直線です。ここから北西の坤角に向かって伸びていきます。
柞田荘 境界3

  巽角(東南)の境は大野原十三塚と柞田の接する辺り

「その境路の巽角これを打つ」とは、どういう意味なのでしょうか。「路は営庄(柞田荘)内なり」と、道の内側に打った、つまりこの道が杵田荘のものだと主張しているようです。この「境路」とは、どんな道なのでしょうか。私は、艮角と同じように、南海道であったと思います。南海道が艮ポイントからからこの巽ポイントまで、真っ直ぐにつながっていて、これが紀伊郷との境界になったのではないでしょうか。南海道の外側に境界線を打てというのは、
南海道はこっち側だとの主張が通ったように思えます。
柞田荘 巽1

南海道は、ここから大野原の3つの古墳に向かってまっすぐに伸びていきます。
  乾(北西)膀示 浜辺にどうやって境界を引いたのか?
一本 乾(いぬい)角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を記しこれを打つ。
 乾(北西)膀示(北西コーナー)は、鈎洲浜に乾膀示を打たと記されます。鈎洲浜(カギノスハマ?)は、当時は何もない砂浜の上で海岸線だったようです。現在、ここがどこに当たるのかも分かりません。
柞田荘 乾20
ここは当時の海岸線だったようです。「海面は参里を限る」とあり、燧灘の海の領有権が認められています。一里がほぼ四キロですから三里で十ニキロでおおよろ伊吹島までになります。この記事から、作田荘は、沖へ三里まで領海を持ち、独占的な漁業が営めたことになります。
次の記述は私には意味不明でした
「ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。」
 研究者は次のように説明してくれます。
畷ナワテは、四条畷というように畦道のこと。浜上の鈎洲浜(カギノスハマ?)は、古作と呼ばれている昔耕作されていた田畑の海側にある。そのため坂本郷とこの荘園との境界に、標識を打ちたいが何も目印がない。そこで行ったのが、次の作業で
①艮膀示(本)と古作畷(末)は坂本郷と杵田荘の境界になっている。
②そこで、本末の両方で狼煙をあげる。
③そして鈎洲浜(カギノスハマ?)の海際を南北に歩く
④陸の方を見ながら移動するとふたつの狼煙の煙が重なりる地点がある。
⑤ここが艮膀示と古作畷の延長線上になるので、ここに乾榜示を打つ。
⑥こうして鈎洲浜に乾膀示が打たれた
この方法は「見通し」といわれて古墳時代にはすでに行われていた測量方法のようです。その「見通し」技法が使われたことが分かります。
   柞田荘は、海にも領有権を持っていた。
 四至では、
「西は限る、大海 海面は伊吹島を限る。」
とあります。乾については
「海面は三里を限る。」
と注記されて、西に広がる燧灘の沖合3里の伊吹島までの海面が立荘されています。
 さらに「実検田畠目録」には、9町余りと5町余りの「網代寄庭二所」が設定されています。ここから「地先水面が四至内として領有されていたこと。そこには「網代」=漁場が設定されていたと、研究者は考えているようです。そうだとすれば柞田は、燧灘に特権的な漁場を持っていたことになります。貢納品を日吉神社に運ぶには海路が使われたでしょうから湊も整備されていた可能性が出てきます。
 なお、伊吹島については、「八幡祀官俗官并所司系図」には、鎌倉時代には石清水社領となっていたことが記されています。さらに、燧灘に面して北から賀茂神社領の仁尾湊、琴弾神社の観音寺湊があったことが分かっています。これに加えて、日吉神社領の柞田湊が交易・漁労の拠点として機能していたことになります。
柞田荘 地図

  東西南北の「角石」(コーナーストーン)をもう一度確認しておきます
時計回りに見ると、①艮(北東)・②巽(南東)・③坤(南西)・④乾(北西)の4ポイントです。
①艮ポイントは、紀伊・山本・坂本3郷と柞田荘との四つ辻に当たる刈田郡5 条7里1坪に
②巽ポイントは、井下村のうち、姫江荘との境界となっている道のさらに東南の角に打たれている。
③乾ポイントは、北側の坂本郷と南側の柞田荘の境となった鈎洲浜に打たれた。
④坤ポイントは、姫江荘内埴穴と園生村との境となっている浜の上に打たれた。

柞田荘 境界
  坤は野都合辺りで埴穴(大野原花稲)と園生村(柞田油井)の境。

しかし、疑問がひとつ浮かんできます。
「東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。」
ここには「苅田川」と聞き慣れない川の名前が出てきました。和名抄に出てくる刈田郡と同じ名前です。しかし、今は苅田川という川はありません。あるのは柞田川です。どう考えればいいのでしょうか?
  研究者は次のように考えているようです。
 柞田川というのは、もとはその郡名にちなんで苅田河と呼ばれていた。しかし、平安時代末期成立の『伊呂波字類抄」に「刈田郡国用豊田字」と見え、「苅田郡」から「豊田郡」に郡名が変わった。そのため苅田郡という呼称が使われなくなると共に、「苅田河」も、いつの時代かに柞田川と呼ばれるようになった。
  つまり今、柞田町のど真ん中を流れている川が古代は苅田川だったということです。そして、この柞田川流域に、ほぼ真四角な形で柞田荘は広がっていたようです。もちろん海のエリアを除くとですが・・・
  以上をまとめておくと
①柞田荘は、古代の柞田郷の郷域を受け継いだものである
②そのため耕地だけでなく燧灘の漁業権までも含みこんでいた。
③周辺の郷・荘との境界線は、郷界線がそのままつかわれている
④境界は、条里施行地域内では里界線や官道が用いられている
⑤条里制外の姫江庄と接する地域においては別の基準線が用いられている。
⑥柞田郷は、柞田荘の立荘で消滅し、その領域支配は柞田荘に引き継がれた。



1大野原地形

讃岐の西の端で燧灘に面して柞田(くにた)荘という荘園が鎌倉時代にできます。その立荘プロセスを追ってみます。
 1 柞田荘はどこにあったの
  柞田町は観音寺市街の南側にあった町名です。古代の『和名抄』の刈田郡の中にあった柞田郷が荘園になった歴史を持ちます。そのために境界ラインが条里制を使って区分けされたようで、いまでも真っ直ぐなところが多いのが地図を見ると分かります。また、柞田郷全体が荘園化され柞田荘になったと研究者は考えているようです。
なお『和名抄』に見える刈田郡の6郡とは次の通りです。
①山本郷は三豊市山本町山本
②紀伊郷は観音寺市木之郷町
③柞田郷は同市柞田町
④坂本郷は同市坂本町
⑤高屋郷は同市高屋町
⑥姫江郷は旧大野原町中姫および旧豊浜町姫浜
  2 讃岐国柞田荘は、いつ、だれによって立荘されたの?
 建長8 年(1256)8 月29日の日吉社領讃岐国四至膀示注文(『続左丞抄』所収文書)に
「去る三月十四日 宣旨により、国使を引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわんぬ。」
とあるので、3 月14 日のことと分かります。そしてその年の夏8月に、讃岐の酷使(役人)立ち会いで、境界線を定め、その4角に膀示(コーナーストーン)を打ち終わったことが報告されています。
柞田荘 境界1

  3 日吉神社の荘園にされるいきさつは?
鎌倉時代末期の元応元年(1319)10月、日吉社領の由来と領主を書き上げた「日吉山工新記」(『続群書類従』に
「讃岐国柞田庄 二宮十禅師大行事長日御供。十禅師不断経二季大般若料所。後嵯峨院御寄付。」
とあります。この史料からは、柞田荘の領有を巡って争いがあり、最終的に後嵯峨上皇より日吉社へ寄付され、建長8 年3 月14 日の宣旨により立荘が公認されたようです。
 ところが、現実はもっと複雑です。実は、九条家の文書の中にも
「朴(柞)田庄 日吉申日御供に寄せらる」
とあるのです。讃岐国内には、「朴田」という地名は、他にはないので「柞田」の誤記と考えられます。とすると、後嵯峨上皇による日吉社への寄付以前に、柞田荘は九条道家より同社へ寄進されていたことになります。 承久の乱後の朝政を主導した九条道家は、当時の讃岐国の知行国主でもありました。彼が讃岐の知行国主であったのは寛喜元年(1229)より建長4 年(1252)に死去するまでの間で、その間に、興福寺領寒川郡神崎荘、石清水社領三野郡本山荘などの荘園を寄進・立荘しています。彼は、四条天皇の外祖父、鎌倉将軍頼経の父という立場で権勢を誇りますが、最終的には執権北条氏に幕府転覆の嫌疑を掛けられ失脚します。道家死去の翌年建長5年の正月、讃岐国は後嵯峨上皇の院分国とされました。このような情勢を見ると、九条道家による柞田荘の寄進・立荘は宣旨を得るなど正式な手続きを経たものではなく、知行国主としての私的なものであったと研究者は考えているようです。
道家の死後、日吉社より後嵯峨上皇に対し、柞田荘の社領としての存続が申請されます。そして、あらためて正式に寄進・立荘の手続きが取られたようです。
  4 荘園化の作業のためにどんな人がやってきたの?
 柞田荘の立荘が認可されると、今度は立券・荘号のための作業が行われます。そのために、日吉社の社家(社務の執行者)の使者が、太政官の担当事務官等とともに讃岐の国府にやってきます。南海道を陸路やって来たのか、瀬戸内海を海路で坂出の松山・林田港国府へやってきたのか興味がわきますが、それを明らかにする史料はありません。彼らは、地元の国府の在庁官人をお供にして現地へ向かい、収納使・惣追捕使・図師などを指揮して、立荘予定地の検地を行なったようです。
 こうした検地によって作られたのが「日吉社領讃岐国柞田庄四至膀示注文」(「続左丞抄』所収文書)と「実検田畠在家目録」になるようです。この2点の文書と添えられた「指図」(柞田荘の絵図)にもとづいて、柞田荘の立券・荘号を認可する手続きが取られました。
  5 どのようにして柞田荘の境界線がひかれたの?
「日吉社領讃岐国柞田庄四至膀示注文」を見てみましょう
 注進言上す、日吉社領讃岐国柞田庄四至を堺し、膀示を打つこと。
一、四至
 東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。
   以南は姫江庄堺。
   南は限る、姫江庄堺
   西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。
   北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。
   その堺東西行くの畷まさにこれを通す。
   膀示四本
一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならび
   に本郷・坂本郷・当庄四の辻これを打つ
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
   その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。
一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹島を限る。
   南は姫江庄内埴穴堺。
   北は当庄園生村堺。
一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。
   鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。
   田畠以下取張(帳)目録一通。
一、 右、去る三月十四日
   引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわんぬ。
   よって注進言上くだんのごとし。
  建長八年八月二十九日 国使散位布師
       散位藤原「朝臣資員」(裏花押)
       散位藤原「朝臣長知」(裏花押)
     官使右史生中原「久景」
     社家 
四至(シイシ)と読みます。東西南北の境界です。
膀示四本(ボウジヨンホン)と読みます。現在もあちこちにボウジという地名が残っています。榜示は境界標識です。これを4本打った場所が記されています。
地図に示すと次のようになるようです。
柞田荘 地図

6 最後に花押(サイン)しているのは、どんな人?
一番最後に「散位藤原朝臣資員」の名前と裏花押があります。ここだけ筆跡が違います。本人のサインです。その下の花押は裏側に書かれています。この藤原資員というのは讃岐の国の役人です。この人は綾氏系図の中に、新居氏として名前があるそうです、讃岐藤原氏は、古代豪族綾氏の系譜をひく一族が中世に武士化して讃岐藤原氏を名乗るようになったと云われます。讃岐では一番勢力のあった武士団ですが、その中に新居氏がいて、国分寺町の新居に地名が残っています。そこにいた豪族です。つまり、讃岐藤原氏の在庁官人が柞田に出向いて立ち会い、サインしているということになるようです。

柞田荘 立荘續左丞抄  国史大系所収000002
その下に散位藤原朝臣長知という名前もあります。
ここも本人のサインがあります。こちらも同じく綾氏系図に載っている人物で、羽床氏になります。綾川中流の滝宮から羽床に架けて勢力を張っていた武士団で羽床城が拠点でした。その羽床氏の先祖になるようです。新居氏も羽床氏も在庁官人として国府に務めながら武士団を形成していたようです。彼らは荘園を立てるときも讃岐の国の役人として出張し、これで間違いがないと二人がサインをしています。
 国府のある讃岐府中から観音寺の祚田までは、南海道を馬を飛ばしてやってきたのでしょうか。この時期には、帯刀していたのでしょうか。いろいろな疑問が沸きますが、それに答える史料はありません。
 下から二番目の「官使右史生中原久景」が京都からやって来た中央官僚になります。そして比叡山日吉神社からも役人がやって来て立ち会っています。一番最後に「社家」というのが見えます。日吉大社は比叡山の守護神ですので、神仏習合のもとでは比叡山の僧侶が管理しています。つまり柞田荘は比叡山の管理下に置かれたということになるのでしょう。やってきた「社家」は僧侶であったのではないかと私は考えています
   この境界線の確定作業につづいて、検地を行います。その際に、建長四年の検地による確定面積が借用されて使われたようです。それらを集計して土地台帳に当たる田畠在家目録が作成されます。
同実検田畠在家目録
 (朱)「この一紙各々破損す。」
 (注進す)建長八年田畠・(在)家・網代・荒野等目録)
 (合)
一、作田百二十三町二段百二十歩 去る建長四年匚
一、作畠四十二町二段百七十歩
  在家五十宇 上八宇 中六宇 下十七宇 下々十九宇 網代寄庭二所 
一所九町余り。
一所五町余り。
    荒野百余町 林野江海池溝淵河などなり。
このようにして、境界内の土地の耕作面積などが記されます。その上に、絵図も作成されています。しかし、この絵図は残念ながら伝わっていないようです。

柞田荘 四方標示

今回はこのくらいにします。次回に柞田荘の「四至」をもう少し詳しく見ていくことにしましょう。
参考文献 田中健二    日吉社領讃岐国柞田荘の荘域復元


前回は、途中から金毘羅さんの方へ話が進んでしまって、仏生山のことが尻切れトンボになってしまいました。仏生山門前町の発展に素麺屋さんが大きく寄与していることに前回は触れました。これは、私には面白い話なので、今回はもう少し追いかけて見ます。
    仏生山の素麺業者の願いをうけて享保13年に、法然寺が郡奉行へ出した次のような要望書があります。
門前町人共五拾九年前素麺の座下し置かれ候、近年別而困窮に及び候得共、是れを以て渡世の基二仕り、只今迄取続き罷り在り、偏えに以て開祖君御源空(法然)の程愚寺に於ても在り難く存じ奉り候、然ルニ近年出作村下百相村二而素麺致す二付き、町人共難儀の筋(中略)
申し出候、右隣村の義、近年乍ら致し来たり杯と名付け捨て置き候而、畢竟、龍雲院様(松平頼重)成し置かされ候御義相衰え候段、千万気の毒二存じ奉り候、其の上町人共末々門前居住も仕り難き由の申し立て、尤も以て黙正し難き趣二候段、則ち町人共願書(下略)
意訳すると
①仏生山門前では、59年前に素麺座をつくり共存を図ってきたが近年困窮化している。
②素麺業は藩祖松平頼重のお陰で発展してきたもので、その素麺業が衰えてしまっては困る
③原因は出作村や下百相村での新たな素麺業者の競合
④仏生山素麺業の継承、発展のための保護をお願いしたい
 郡奉行の方では、法然寺や門前素麺業者の意向をくんで、近隣業者の水車のひとつを運転停止にするという措置で、紛争を収めています。この史料からは、いろいろなことがうかがえます。
①まずは、素麺業者の数の増加ぶりです。
59年以前から素麺座があったと云います。しかし、それは寛文十年に当たり、松平頼重によって法然寺が建立された年です。建立当初から素麺座があったとは考えられません。まあ、城下から四・五人の素麺屋を仏生山に移住させて座をつくらせたと考えておきましょう。それが、約60年後には、50人に増加しています。10倍強の増大ぶりで、頼重の「仏生山特区振興策」のたまものかもしれません。同時に座を作り、ギルド的な規制で新規参入者を入れないという動きも見えます。50軒という数字は、幕末まで変わらないことがそれをうかがわせます。
② 次に注目すべき点は、「近年出作村下百相村七川素麺致す」と書かれている所です。
出作村も下百相村も仏生山門前に隣接する村です。とくに下百相村からは平池の水掛りをうけています。隣接する村が仏生山門前の素麺業の活況を見て、新規に参加してきたのです。この動きに対して素麺座の方は、ギルド的閉鎖性から法然寺の力を借りて抑圧する方向に動いていたことが分かります。
 約120年後の天保十三年(1842)に、今度は平池水掛り村々の百姓と素麺業者との間で紛争が起きます。
その決着の際に、浅野村の水車持主三人(素麺業者)が出した詫び状の一札をみて見ましょう。
       一札の事
 平池用水ヲ以て私共渡世致し候義、本掛り衆中丿故障等者之れ無き義与相心得、種々身勝手二趣不束の義致し候所、用水御指支えの趣、卯七月願書の通り、夫々御願い出二付き、水車御指し留め御封印御附け置き成され候上、御役人中様御入り込み、達々御吟味仰せ付けられ、平池用水の義者御収納(水田)第一の義二付き、御普請等仰せ付けられ候義二而、水車の用水与申す義者毛頭之れ無き段、尚、達々仰せ聞かされ二付而者、前件の趣二言の御申し訳相立ち申さず、不調法至極恐れ入り奉り後悔致し罷り在り候、然ル所、本掛り衆中丿水車取り除ケ候様御願い出二付、甚心配仕り候趣、達々御願い申し上げ候所、此の度、岡村庄屋丸岡富三郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿、右始末、本掛り衆中江御掛合下され候所、取除ケ御願いの義者、御扱い人衆中様江御任せ下され候由、在肛難き仕合せ二存じ奉り候、左の条以来相守り申すべく候(下略)

これをみると、「御取調べの節御指し留めに相成」りとして、これ以前の文化年間にも紛争が起きていたようです。その時は、水車がひとつだけ運転停止になったと記します。
意訳すると、
「私どもは平池の水を使って渡世(稼業)いたしてきました。そのことが本掛りの方々に大層迷惑をかけていたとも知らずに水車を動かしていたわけですが、用水に支障がおこっているため水車の封印を願うという天保十四年七月の本掛りの方々の願書で、役人衆が見分に来ました。その際の吟味で平池用水は年貢収納第一のためのものであって水車の用水ではないことが十分にわかり、これまでのことについては誠に申しわけなく後悔いたしております。
 ですが、本掛り衆の願い出ている水車撤去については困ったことと心配しておりましたところ、岡村庄屋丸岡富一二郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿が掛け合い、取り除いていただきました事について、まことにありがたき幸せと感じ入り、以後は取り決めを遵守していく所存であります。

素麺業者の「違法行為」を認めた上での詫び状的な内容です。
「平池水掛り衆が水車の取り除ヶを訴える程の一種々身勝手』とあり、百姓の中には水車の撤去を主張する者もいたようです。そこまで百姓を怒らせた背景には、素麺業者の中に
①水車の大きさを次第に大きくしていったり、
②新しい井手を勝手に作って水を流したり、
③水車を新しく建てる際に道を勝手に潰したり、
④ひどいものは、用水を水車小屋の中へ引き込む形にして水車を廻したりする者がいた
からのようです。
   素麺の需要増大と用水問題の発生
 これを逆に考えれば、水車稼働能力を高め小麦粉の増産を求められていたことになります。そこまでして、生産しなければ需要に追いつかないという実情があったのでしょう。その傾向は、文化年間ごろあたりから始まったようです。
 先ほど見た享保十三年の紛争の際には、水車の一つが運転を停止するといった形で妥協したわけですが、その後は素麺業者にとって有利な状況が続いていたようです。その背景には、前回に見たように、松平頼重が門前を繁栄させるために素麺業者を呼びよせたという「始祖物語」と、法然寺の素麺業者保護という背景があったからでしょう。そして素麺需要の増大に対し、素麺業者らは「種々身勝手」なやり方で、その生産量を増やしていきます。

4344098-05仏生山
仏生山
 どうして文化年間ごろから素麺需要が伸びたのでしょうか?
まず、考えられるのは法然寺への参拝者の増加です。文政五年の開帳では、「御触」の中に次のように記されています。
「此の度、仏生山開帳二付き、参詣人多く之れ在るべく候、就中、他国ぶも参詣人之れ在り、貴賤群衆致すべく候」
「先年御開帳の節なども右場所二而一向参詣ノ衆中休足も仕らず模寄々々二至り恰」
と、開帳のたびに以前にまして、参詣人が増えていったことがうかがえます。また、開帳時以外のふだん時でも、参詣者が多くなっていたことが次のように記されています。
 金比羅石燈篭建立願願い上げ奉る口上
 私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、之れに依り申し合わせ、少々の講結び取り御座候而、何卒道印石燈篭建立仕り度存じ奉り候、則ち、場所・絵図相添え指し出し候間、願いの通り相済み候様、宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、已上
 文化七午年十月 香川郡東大野村百姓 半五郎
                   政七
    政所 文左衛門殿
これは仏生山から一つ村を隔てた大野村の百姓半五郎と金七が連名で提出した道印「石燈篭建立願い」です。その建立理由には、
家近くに仏生山から金毘羅への街道があるが、遠方の旅人がよく迷い込んで難渋している様子をよく見る。そこで、講をつくり、その基金で道標・石燈篭を建てて旅人が迷わないようにしたい
というものです。
 仏生山から金毘羅へむかう参詣者・旅人が増えていることを示す史料です。ちなみに、この石燈篭は今でも建っているそうです。
 金毘羅や法然寺などの寺社への参詣の増加という風潮
18世紀後半頃から湯治、伊勢参り、西国巡礼、四国八十八力所巡拝など、庶民が旅行に出るという風潮が広がります。法然寺も「聖地巡礼」のひとつになっていたようです。それは「法然上人遺跡二十五箇所巡拝」と関係します。この巡拝は、18世紀半ばの宝暦年間にはじまります。法然の五百五十回忌が宝暦11年(1762)にあたることから、それを記念する事業として始められたようです。「遺跡二十五箇所巡拝」の25という数字は、『仏教大辞典』によると
「源空(法然)示寂の忌日たる正月二十五日、或は念仏来迎の聖衆たる二十五菩薩などの数に因みたるものなるべし」
とあります。この25霊場は、
一番 作州誕生院 
二番 讃州仏生山法然寺 
三番 播州高砂十輪寺
と続いて、以下摂州→摂津国→大坂→紀州→大和→京都と各浄土宗の寺を巡拝し、第二十五番に大谷知恩院で完了するというルートです。法然寺は、この二番目の霊場に当たるようです。
 宝暦ごろからはじまった法然霊場巡りは、19世紀の文化年間ごろに、最も賑わいを見せるようになります。この頃は、四国八十八ヵ所の霊場巡拝や金毘羅参りも盛んになる時代です。これらの聖地を行楽を兼ねて巡拝することが、全国的に盛んになったのでしょう。そのような中で、法然寺門前も急速に繁栄していき、素麺業も発展します。その結果が
①素麺材料の小麦の増産
②水車の稼働率の向上と大型化
③用水の確保 
④平池の農業用水の権利侵犯と争論発生
という流れとなって現れたようです。
仏生山の繁栄は、周囲の出作村や百相村に波及していきます。
天保五年(1834)百相村の内の桜の馬場・出作村の下モ町(両町とも仏生山門前の続き)との氏子惣代が提出した口上書です。
  願い上げ奉る口上
私共氏神膝大明神定例九月十三日御祭日二而御座候、右祭礼の節者神勇のための檀尻二而花笠踊、仏生山町続き百相村の内桜ノ馬場、出作村の内下モ町二而都合二つつゝ古年仕成二御座候処、(中略)
右下モ町・桜ノ馬場与申す場所者 仏生山町同様二而店々商イ等の義茂御免遊ばされ、尚又桜ノ馬場二於て人形廻シ万歳芸等古年者御願済み二而土地賑いのため春秋仕来たり居り申し候、(中略)
且右場所町並二居り申し候者共商イ等仕り、当時相応の渡世も出来、一統御国恩の程在り難く存じ奉り候、尚又町内障り無く相暮らシ居り申し候義、全く氏神の御与刄奉り候聞、祭礼の節、神勇のため檀尻踊の義御免遊ばされた・・
「仏生山町続き」に注意しながら意訳してみましょう
①神膝大明神定例祭には、仏生山町続きの百相村の内桜ノ馬場出作村の内下モ町も参加してきた。
②このふたつの町は仏生山と同じように商いの特権を与えられてきた
③そのため「賑わい創出」のために人形回しや演芸なども春秋に行っている
④ふたつの村は仏生山と共に商いを行い、発展してきた
と「仏生山との一体性」を強調します。
この口上書には「付札」があり、それには本文に続いて次のように記します。
仏生山同様与申す義者、恐れ乍ら龍雲院様(松平頼重)仏生山御建立の節、百相村の内新開地仏生山江御寄附遊ばされ、当時仏生山町の場所汪居宅等仕り候者者御年貢諸役等御免二仰せ付けられ候由、下モ町桜ノ馬場同様二仰せ付けられ候哉の御模様二而兎角土地祭茂仕り候様二与御趣意二而、本文申し上げ候通り、桜ノ馬場二人形廻シ井万歳芸等土地賑いの為め、御免遊ばされ、庄屋御取り上げ下され候、土地の由申し伝え候間、何卒格別ヲ以て加文、願いの通り相済み候様宜しく願い上げ奉り候
この内容は、
①下モ町と桜ノ馬場は法然寺建立の際に頼重が寄進した新開地に含まれている
②仏生山門前同様に年貢諸役が免除された土地である
③だから人形廻し・万歳芸なども土地賑いのために許されていたのである
という主張展開になっています。そのままこれが事実であるとは云えないようですが、仏生山の影響を受けて享保十三年に「出作村下百相村」で素麺を始めたというのは、この付近なのかも知れません。寛文年間以降、仏生山の門前が次第に拡大し、祭礼を通して周辺の町並との一体化の風潮が進んでいったようです。

以上をまとめると
①松平頼重は仏生山の門前町作りについてもプランを持っていた。
②門前町形成のパイオニアとなったのは素麺業者である。
③彼らは松平頼重の保護を受け、急速にその数を増やし座を形成し特権擁護を図った
④急速な素麺業の発展の背後には、庶民の参拝熱の高揚があった
⑤周辺にも素麺業を始める者が現れ、門前町の拡大が始まる
⑥その際に周辺の商人も特権確保のために昔から仏生山の一員であったと主張するようになる
⑦こうして、周辺地域の仏生山化が進む
4344098-06仏生山法然寺
法然寺
讃岐の門前町は、藩の保護の下で発展していった例が多いようです。特に、高松藩初代藩主松平頼重の貢献は大きかったことが仏生山からも分かります。
参考文献     
丸尾 寛  近世仏生山門前町の形成について

 
1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重は、下館藩主を経て高松にやって来てきます。その際に、新たな国作りの構想を既に持っていたような気配がします。高松城の天守閣の造営、石清尾神社や法然寺の建立などは、基本構想として彼の頭の中には早い時期にあったのではないでしょうか。それは
「讃岐全体を安泰に統治していくためにはどんな仕掛けが必要なのか」
という政策課題に沿ったものだったのでしょう。例えば、
①天守閣造営は領民に対しての藩主としての権威を示す統治モニュメント
②石清尾神社や法然寺の建立は鎮護国家を目的にした神道・仏教の宗教モニュメント
とも見えます。また、金毘羅へも多大の寄進を行ったり、諸々の保護を与えたりしているのも政治的な意味が漂います。
高松 仏生山1
高松松平藩の菩提寺 仏生山法然寺
 松平家は法然寺・金毘羅・白鳥神社に厚い保護を加えます。
そのため、この三つは寺社として讃岐で屈指の門前町に発展します。門前町というのは、お寺や神社に奉仕する人々のためのモノや人が集まり、お参りする人々へいろいろな物やサービスを提供するために職人・商人などが集まってできあがった町です。金毘羅さんを見れば分かるように、その施設が広がり・参詣人が増えることで、町の規模は大きくなっていきます。これらの宗教政策と同時進行で、高松城下の整備も進められていきます。

仏生山13
法然寺は、松平頼重によって出来上がったお寺です。
頼重は、法然寺を松平家の菩提寺とし造営に取りかかり、寛文八年に着工し2年後に完成させています。この寺は頼重の宗教政策の大きな柱となるべくつくられたと研究者は考えているようです。
たとえば、この寺の寺格を上げるためにいろいろ工作しています。
その一つが「一本寺」という格です。
どこの寺にもつかず、法然寺そのものが本山であるということです。そのために、まんのう町の子松庄にあった生福寺というお寺を探し出します。この寺は、その昔、法然上人が京都で流罪になり、まず塩飽に流されて、そこでしばらく過ごした後、子松の庄に流されて住んだという寺です。ここで法然上人は教えを広めていたわけです。浄土宗の中では、ひとつの「聖地」です。
4344098-06仏生山法然寺
法然寺
法然寺建造の経緯は、「仏生山法然寺条目」の中の知恩院宮尊光法親王筆に次のように記されています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳すると
①浄土宗の開祖法然上人が建永元年に法難を受けて土佐国(現在の高知県)へ配流されることになった。
②途中の讃岐の国で九条家の保護を受けて塩飽庄から小松庄でしばらく滞在する。
③小松庄に寺が建てられ念仏三昧の道場となった。
④その後戦乱によって衰退し、わずかに草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影ばかりが残っていた。
⑤寛永年中に松平頼重が東讃岐に入部して高松藩が成立する。
⑥頼重は法然上人の旧跡を興して仏生山へ移し、仏閣僧房を造営して新開の田地を寺領にして寄進した
ということになるようです。移転前は生福寺と呼ばれていましたが移転後の跡地には後に寺が建てられ現在に至っています。
頼重公は、まんのう町にあった生福寺を仏生山へ移すプランを実行に移します。

仏生山11
 どうして浄土宗の寺が選ばれたのでしょうか?
それは徳川宗家の菩提寺増上寺が、浄土宗だからでしょう。本家の水戸家も浄土宗です。ですから高松松平家も浄土宗のお寺を菩提寺にしなければいけないのです。 その意味で、頼重公は浄土宗・法然の跡にこだわったようです。
 同時に、高松藩の菩提寺である以上、讃岐にそれまであった寺よりもはるかに寺格は高くなければならなかったのです。菩提寺をそれまでにない寺格の寺にすることで、松平家を頂点とする寺のヒエラルヒーが形作られることになります。これも封建社会においては重要な宗教政策だったのでしょう。
  「讃州城誌」には
国中之れ在る仏作ノ仏像御集め遊ばされ候間、寺御指し置き遊ばされ候」
とあり、讃岐中の優れた仏像を集めて法然寺に置くことも、頼重は行ったとあります。頼重の法然寺に対する思い入れの深さがうかがえます。
 享和二年(1802)の「寺格帳」には、浄土宗寺院のランク表が載せられています。
NO1 芝増上寺
NO2 京都の知恩院、京都黒谷の金戒光明寺、浄華院
NO3 仏生山法然寺
となっていて、全国でNO3というランクです。
仏生山4

もう一つ法然寺の格の高さをあらわすのに「常紫衣」があります。
お坊さんの着る衣は格で決められているそうですが、紫の衣が着られるのは一番格が高いようです。法然寺の僧はいつも紫衣を着てよいとされていました。さらに寺格を高めるものとして、「朱印状」が与えられています。そして将軍へのお目見えが許されていました。
 頼重は法然寺を、このいうな「格」でランクアップを図り、全国NO4のランクにまで高めていたようです。このように、法然寺は頼重の宗教政策の一環として建立され、育成されたのです。
 ちなみに、法然寺建立より前の1644年に新しく寺院を建てることを制限するなどの布令が幕府より出されます。その令が出されて二ヵ月後に造営に取りかかっています。

仏生山12
造営に当たって、頼重はじめ家臣達が造営地をめぐってもめています。
「御霊屋御建ナサレ候ニツキ 仏生山や船岡ヤ両所者可然卜御評議有之 仏生山お究只今ノ通御普請仰せ付け」
とあり、仏生山の地に建てるか、船岡山の所へ建てるかでもめたようです。結局、仏生山という名前から仏生山に決まったことになっています。本当でしょうか?別の理由があったんではないでしょうか。

4344098-05仏生山
仏生山 
考えられるのは交通の要地、地理的戦略価値です。
江戸時代には仏生山の近くに阿波へ抜ける、阿波本道があったのではないかといわれています。そうだとすると、船岡山より仏生山の方が交通の上からは重要な位置にあったといえます。寛政年間の「御用留」(別所家文書)の中には、讃岐に来た阿波の商人が仏生山の宿屋に泊まっている事例がかなりあります。文政年間に仏生山には宿屋が5軒にあったので、そこに泊まったのでしょう。このことも仏生山の交通上の重要な位置を示す一つといえるかもわかりません。
仏生山法然寺十王堂

   頼重公のころ、讃岐と阿波では「走り人」という現象が時々おこっていたようです。
「走り人」というのは、困窮し逃散や流人した農民をさしたようです。高松藩二代目頼常の時に、阿波との間で取り交わした「走り人」についての処置マニュアルが残っています。阿讃の間に緊張感のようなものがあったようです。そういった人々を監視するには、やはり街道沿いの交通の便がよい仏生山の方がいいという判断があったのではないでしょうか。阿波を意識した要地なのです。

仏生山法然寺2
法然寺から高松城の常磐橋まで御成街道が作られます。
法然寺は北側から見ると、お墓が並んでいて、お寺そのものです。しかし、阿波からやって来る人から見える南側は、石垣が積まれお城のように見えます。つまり阿波から見ればお城になり、防御の役割を担います。一方、高松城は水城ですので、海からの防御を果たします。海からの防御高松城の新たに出来上がった天守閣と阿波からの防御法然寺、そしてこの間を御成街道が結ぶという一本の戦略ラインが引かれたことになります。ほとんど同じ時期に完成した天守閣と法然寺の間には、頼重の中では強い政治的関連があったように思います。
「讃州城誌」には、「仏生山法然寺 御代々ノ御寿城、英公御築き遊ばされ候」とあり、頼重は、法然寺を高松藩の南方方面の出城と考えていたよいう説は、私には説得力があります。
仏生山10
 
 頼重は仏生山門前町の育成のために何をしたか? 
頼重は、法然寺に次のような寄進を行います。
①朱印地        300石
②法然寺師弟家来賄料  250石
③鎮守膝宮入目     200石
などで合計750石を寄進しています。さらに、「法然寺條目」の中にみられるように
「当山霊宝等諸人拝見所望之れ有らば之れを拝せしむべし、其の香花代は住持受納すべき事」
として他の収入、散銭などによる収入も認めています。こうして寺野家財政的な基礎を作った上で、門前町の整備を進めます。
 「法然寺條目」の中には次のように記されています。
「門前町屋敷は地子等之れを免許す、諸事方丈より支配の町年寄両人に申し付け、町の儀万事私曲無き様相計らうべき事」
とあるように、門前の住人は税を免除し、すべての事が不正がないよう取り計えと、門前への住居奨励を行っています。
 しかし、門前町への人々の移住は進まなかったようです。
頼重の時から約200年近く経った天保十四年(1843)に仏生山町の素麺業者が連名で提出した口上書の中に次のような記述があります。
 恐れ乍ら私共家業の義素麺仕り(中略)
右素麺職の義 御当山御建立の最初御門前町並家造り仰せ付けられ候得共、其の頃は今の町並の地 野原二而御座候ヲ新た二右の土地高下ヲ切りならし候迄二而今此の所ハ船着き候与申す二も之れ無く渡世仕るべき便り一向御座無く候二付き、当所江参る人一切之れ無く(下略)
  意訳すると
①法然寺造営が始まったころは今の町並はなくて野原であった
②土地の高低を切りくずして平らにした野原で、しかも船を着けるところもないため(荷物の運搬にも不自由で)商売をする方便もない
③法然寺へ参拝する人は、全くないといった状況だった。
 それを頼重がいろいろと考えて、次のような手を打ったと記します
御上様(頼重)二も御苦労二思召され 幸イ素麺所二遊ばされ度御目論見二而御山の鎮守ヲも三輪三嶋春日三社ヲ御勧請遊ばされ候与申すも是れ何れも素麺所の御門前繁昌の事ヲも思召され候由」
  然ル所当所素麺屋御座無く候二付き、御城下二罷り有り候素麺屋四五人引越し仰せ付けられ、右の者共ヲ頭取二成され、諸人江相勧メ難渋の者江ハ元手ヲも御貸し下され、其の上右素麺屋の義 御領分中御指し当り二相成り素麺ヲ家業二仕り候義 仏生山限り候旨仰せ付けられ候間、御城下ヲ始め近郷の諸人御門前二住居相望み候者共多く相成り、尚又、素麺粉の義 浅野村平池尻三冊水車御願い申し上げ候処、速々御免仰せ付けられ下され素麺粉右の車二而挽き立てさせ候二付き、至而弁利二相成り候間、益諸人思い付き宜しく、夫丿連年打ち続き土地繁昌仕り候(下略)
意訳すると。
①そこで頼重公が素麺業者を4,5軒寄せ集めた。
③さらに素麺所の神様、三輪三嶋春日の三社を勧請した
④さらには、資金不足の者には貸付援助もおこなった
素麺粉は浅野村の牛池尻で水車を利用する許可が下りて技術革新がすすんだ
⑥これを契機に
、素麺産業は繁盛するようになった
⑥その結果、次第に仏生山に住むことを望む者が増えた。
と、自分たち素麺業者が仏生山発展の原動力であったと主張しています。ここからは、仏生山の地域発展のために頼重が素麺産業の移住定着事業を行い、素麺にゆかりの深い三輪神社を勧進するなどの「地域振興策」や優遇策がとられたことがうかがえます。
 このような門前町への「移住奨励策」は金毘羅にも見られます。讃岐藩主となった仙石秀久は、門前に商人を集めるために税金をただにしたりして、町を賑わわせる政策をとっています。

この他にも、道路工事に関しても、頼重は次のような指示を出しています。
「町幅六間与仰せ付けられ候も、左右ノ弐間宛の目板ヲ出し、中弐間往来ヲ明け置き、人馬通し申すべきため」
ということで、門前町の大通りを作り時に、道幅六間の内左右から弐間ずつ目板を出して、残りの二間を人馬が通る往来としておくようにといった指示もなされています。これが、仏生山のその後の発展に大きく寄与することになります。
 法然寺を支える組織は?
 この寺の組織は、住職の方丈、その下に天台・真言・浄土宗などの各宗派から召し抱えた道心(ここまでが僧侶)が十二人いて、さらに用人・小姓・医師などで構成されております。これが「寺役人」です。しかし、寺だけでは経営が成り立たたないので、周りに商人などを置いて、経営が成り立つような仕組みを作っていくことになります。それが門前町が発達していく原動力になります。
 
仏生山6

 素麺業の成立は、17世紀後半の寛文・延宝年間のころのようです。その後、享保十二年(1728)ころに、今度は素麺業者が訴えられます。素麺業というのは、うどんと同じでかなりの水を必要します。そのため近くの平池から引いた水を使っていたようです。周囲の村々も、法然寺が朱印地ということや寺のもつ高い格式などからあまり抗議はしなかったようです。しかし、日照りの時にも遠慮せずに水を使うことに、周辺の百姓も我慢できなくなったようで、両者の問に争論が起こります。その争論に際して、素麺業者側から出されこの訴状が残っています。その中で素麺業者は
「我々は法然寺とともに発展した由緒正しいものであるから、水は勝手に使ってよい」
と主張しています。この時には、素麺業者の数は50軒と記されています。 半世紀ほどの間に、10倍に増えたことになります。この数は、幕末くらいまでほとんど変わっていません。門前町に賑わいをもたらす「重要産業」に育っていたようです。
高松 仏生山2
仏生山の「にぎわい創出事業」ひとつとして、松平頼重は涅槃会と彼岸会の時に芝居興業を許したようです。
その上演のために「芝居土地」と呼ばれる「除地(空地)」が設定されています この土地は、
①上町に南北四十八間、東側・西側とも奥行きが三十間ずつ
②中町に南北百十六間、東側・西側とも奥行きが三十間ずつ
との二か所あったようです。どちらもかなり大きなものです。しかし、この敷地全体に芝居小屋が建っていたのではないようです。幕末の弘化二年(1845)の「御用留」(片岡家文書)の中に芝居小屋の平面図があります。そこには「十八間に二十間」と書かれていますから、小屋掛けした舞台のみの面積で、客席は野外という感じだったようです。金毘羅の金丸座が出来る以前の公演方法と同じやり方のようです。
  芝居以外にも見世物興行も行われていたようです。
文政四年(1807)の見世物興行興業の様子については法然寺の「御開帳記録」(『香川県史 近世史料』収載)にも載せられています。そこには、
西横町で薬売り人形廻し、物まね、軽業で、小屋の大きさは五間と六間から十間で七十二間
と記されています。
 芝居小屋が常設的に作られて賑わいを増すのは文化・文政期以後のことのようです。ただ、幕末ころからは、秋祭りなどで檀尻芝居の興業が盛んに行われるようになります。これは、太平洋戦争前まで続いていました。

仏生山8
 仏生山法然寺門前に商店は何軒くらいあったのでしょうか?
 片岡家文書の中から拾い出した史料には、文政十年ころの時点で、
①法然寺に関係した役人の家が28軒
②素麺業者が五〇軒以上、
③薬屋が一軒
④米屋11軒
⑤木綿屋4軒
⑥太物関係四軒
⑦宿屋五軒
⑧筆・墨屋一軒
⑨酒屋一軒
⑩油屋一軒
で合計106軒になるようです。100軒を越える商店が軒を並べる門前町だったのが分かります。そこに何人暮らすんでいたのかは猪熊家文書「御寺領人別改指出帳」の寛政三年(1792)のものには、法然寺領の人口が合計で434人と記されています。
 法然寺門前は、町ですので単婚家族が多いく一家族の平均がだいたい4人と考えると、
人口434人÷世帯人数4人=約百世帯
という数値になります。これは、先ほどの史料に現れた店数にほぼ一致します。ここから200年前の19世紀前後のころの法然寺門前は、人口が400人以上で家屋は百軒程度のまちであったと研究者は考えているようです。
 松平頼重が法然寺を建立したときには、高松に続く新道が作られ、その周囲は野原や田んぼが続いていた所が、四・五軒の素麺業者を誘致することから始まって、百数十年後には百軒を越える町へと発展していたことになります。これは。自然発生的に起きたことではなく、政策として作り出した成果と云えます。

仏生山14
拡大・延長する門前町仏生山
 19世紀前半の天保三年の別所文書には
「檀笠三万花笠吊リ 仏生山町続き百相村之内桜之馬場出作村之内下モ及ブ」
と書かれています。ここからは仏生山の町続きである百相村の桜之馬場と出作村二つ仁生山の門前と同じように、花笠を吊るようになっていると記されます。つまり仏生山と一体化して同じ様な行事を行うようになっているのです。門前町が街道沿いに「点」から「線」と伸びていく様子が分かります。
さらに「附札」の所には、次のように記されています。
龍雲院様(松平頼重)仏生山御建立之節、百相村之内新開地仏生山江御寄附遊ばされ、当時仏生山町之場所に居宅等仕り候者者御年貢諸役等御免二仰せ付けられ候由、下モ町桜之馬場同様二仰せ付けられ哉之御模様二而」
意訳すると
①松平頼重が仏生山を建立したときに、百相村の新開地を仏生山に寄付した
②仏生山に居宅を構える者には年貢諸役の免除を行った
③以前はそうではなかったが、いつのまにか仏生山の町続きとして、百相村と出作村が仏生山同様に免除扱いをうけるようになった
 ここには「仏生山=年貢諸役免除」と「免税特区」にされたために、時代と共に周辺地域もそのエリアに入り特権を手に入れていく過程がうかがえます。つまり「周辺エリアの仏生山化」が税制においても起きていたようです。
このプロセスを法然寺の開帳という視点から見てみましょう。
別所家文書「文政六年御用留」の中には、次のようにありますす。
「此の度仏生山御開帳二付き、参詣人多く之れ有るべく候、就中他国よりも参詣人之れ有り、貴賤群集致すべく…」
ここからは他国からの参拝者を含めて、非常に大勢の人が集まってきている事がわかります。研究者は、文政六年(1826)という年に注目します。この年は例年より大きな催し物が前年から年を跨いで進められたようです。そのため金毘羅の方まで案内の立札(高札)が立てられ、大規模に行われたようです。
 高松城下の京浜で町年寄を勤めた鳥屋の「触帳」(難波家文書)の中には
「二万人から三万人の人々が開帳参詣に来るので、火の用心や盗賊などの用心をするように」
といった触れがあったと記されています。
 19世紀前半には、金毘羅大権現や善通寺などでも定期的に「ご開帳」が行われるようになり、何万人もの人々が参拝に訪れるようになります。つまり、寺社は大イヴェントの場になり、そのプロモターの役割も果たすようになるのです。そして、この開帳で集まった寄進の金品が寺社運営の重要財源となっていくのです。そのため、門前町にはイヴェント時だけに使われる空間や建物が準備されるようになります。その代表が小屋掛けの芝居小屋です。これが「イヴェントの恒常化」と共に、金毘羅に金丸座が登場するように、常設小屋へと発展していきます。「讃岐名所図絵」に描かれている仏生山は、そんな賑わいを見せるようになった幕末の姿のようです。
人々は何を求めてご開帳にやってきたのでしょうか
それは「信仰」のためでしょう。しかし、それだけとは、私には思えないのです。確かに法然寺の宝物の公開を許可する条目もあるので、参詣の人々が宝物を拝観し、その霊験にあやかることで病気平癒などを願ったことは間違いありません。
DSC01329
しかし、元禄時代の「金毘羅祭礼図屏風」の高松街道から参詣に来た人々の流れを見ていると、別のものも見えてきます。
①まず新町の鳥居をくぐり、
②さらにその先の金倉川に架かる鞘橋のたもとで沫浴をして精進潔斎

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③前夜は酒も飲まずに潔斎
④翌朝宿を出発して、仁王門のところからは裸足になって本殿まで登り参拝

そして参拝後は「精進落とし」なのです。宿で大宴会です。花街へ繰り出す人たちもいます。
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内町の背後の金山寺町には歌舞伎や人形浄瑠璃・見世物小屋が小屋を広げています。まさにエンターテイメントのオンパレードです。日頃は、体験できないことが見聞きできるアミューズメント施設でいっぱいです。神聖で禁欲的な参拝だけなら庶民がこれほど金比羅詣でを熱望したとは思えません。参拝後の精進落としを楽しみにやってきた人たちも多かったと私は思います。その意味で、 近世の門前というものは「癒し」の場であったと研究者は考えているようです。
 寺社の神域そのものが浄化の作用の場であり、その中で門前町は宿泊はもちろん、精進潔斎し、さらに「精進落とし」をするという機能を持っていたのです。もっとオーバーな言い方が許されるなら門前町全体で、輪廻転生、再生という循環機能を果たすシステムが出来上がっていたのかもしれません。
 ある意味、現代人が
「四国霊場巡りの後は、道後温泉に入って・・・」
と願うのと同じような行動パターンが形作られていたような気がします。
 こうして「信仰+精進落とし」という願望をかなえることが門前町や寺社に求められるようになります。その充実度を高め参拝客を呼び込むための「産地間競争」が繰り広げられるようになります。その要求に最もうまく応え続けたのが金毘羅さんであったと私は考えています。
参考文献     丸尾 寛  近世仏生山門前町の形成について

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