瀬戸の島から

2020年06月


5c引田

引田の中世の賑わいぶりや近世の引田城には、これまでも何回かお話ししてきました。今回は、引田の城下町について書かれた論文を見ていきたいと思います。テキストは「木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討 香川県埋蔵物文化材調査センター紀要Ⅶ  1999年」です。

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近世城下町の特徴について、研究者は次のようなポイントを挙げます。
①兵農分離と商農分離が進められ、城・重臣屋敷・一般武家屋敷・足軽屋敷・寺社・商人町・職人町が綿密な都市計画(町割)によって配置されている。
②同業者を集住させるため「鍛冶町」「大工町」といった町名がある。
③防御要地や城郭弱点に寺町が「要塞」として配置される
④街路幅が狭く、T字路・カギ型・喰違や袋小路がある。
⑤城下町全体を堀や上塁などによって囲む。
⑥京都の町割をまねて、碁盤日状の整然とした町割を形成
⑦長方形の街区が街路に面して並び、奥行の深い短冊形の町屋敷が続く
⑧街路両面に町屋敷が一体となって町を構成する両側町の形態をとる
以上の8点が指摘されています。 
これらの特徴が引田城に見られるのでしょうか。各項目をチェックしていきましょう。
⑦の町割・屋敷割りを、まず見てみましょう。

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 砂嘴の上に立地していますので少し湾曲していますが、長方形の街区が積み重ねられた構造です。敷地は街路に面する間口が狭く奥行の深い短冊形の屋敷割になっています。長方形街区の長辺の方向は一定ではありませんが、全体としては計画的な町割となっています。ここからは、誉田八幡官付近から南方の足谷川付近までの町割は、同時期に普請されたと研究者は考えているようです。

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②の町名を見てみましょう。
 引田の街は現在は「引田町引田○○番地」で登記されていますが、「松の下」などの町名が残っているところもあります。それを、住宅地図などから挙げると
「松の下」「魚の棚」「久太郎町」「大工町」「草木町」
「北後町」「南後町」「北中の丁」「南中の丁」「寺町」
「大道一~四丁目」「本町一~五丁目「本町六丁目浜」
「本町六丁目岡」「本町七丁目」

などがあります。このうち「大工町」は各地の城下町に見られる職人町名です。また南北の「中の丁」のみ「町」ではなく「丁」の字を使っています。生駒親正によって建設された高松城下や九亀城下では,侍屋敷を一番丁、二番丁と呼んでいます。全国的にも武家町が「丁」、町人町が「町」を用いていた例があるようです。引田町も「丁」は武家町であった可能性があります。
 「中の丁」には近世に大庄屋であった日下家があり、他地域に比べると屋敷面積が広いようです。重臣たちの住居エリアであったことがうかがえます。
第7図は、研究者が地域の人たちからの聞取調査で作成した「町」の範囲のようです。「松の下」と「魚の棚」がひとつになって「松魚」と呼ばれたりして正確でない所もあるようですが⑧の両側町のスタイルであることが見て取れます。

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③の寺町については、積善坊・善覚寺・高生寺の三寺が一列に並び「寺町」を形成します。
第9図で見ると、寺町の位置は、高松からの讃岐街道が引田の街に入る入口付近になります。
寺社が要地や城郭の弱点と思われる場所に複数まとまって配置
という寺町の規定に当てはまる要衝になる場所です。この3つの寺院の沿革についてはっきりしたことは分からないようです。しかし、三寺はすべて真言宗の寺院です。生駒親正は、讃岐に入部するにあたり讃岐が弘法大師生誕の地であることから真言宗に改宗したことが知られています。真言宗派による国内統治策の一貫だったのかもしれません。
また、誉田八幡宮の南には別当寺で真言宗の城林寺がありました。
 しかし、明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。この寺の唐破風造りの玄関が寺町の積善坊に移築されています。その差物上部には生駒家家紋の「生駒車(波引車文)」の彫物があります。この家紋は『讃羽綴遺録」よると文禄・慶長の役以降に生駒家が使っていたものです。誉田八幡宮別当寺の城林寺は、生駒家ゆかりの寺であったことがうかがえます。
次は④の「街路幅が狭く,街路をT字路・カギ型・喰違いにしたり袋小路にしたりしている」です。
敵の進入路と第1に考えられるのは街道筋です。引田城の場合は、
A 高松側や阿波側から街道筋を通り
B 御幸橋で小海川を渡り
C 引田城へ
というルートになります。
第9図A地点を見ると、それに備えて二つのT字路が造られていのが見て取れます。また道幅は狭く、十字路の多くは筋違いになっているため周囲の眺望がききません。砂嘴が湾曲していることもあって見通しが効かず、よそ者は道に迷いやすい街並みです。これらは城下町として、生駒氏が意図的に造りだした可能性が高いと研究者は考えているようです。


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  砂嘴を開削した小海川河口部は、次のような点から内堀としての性格をもつと考えられます。
①誉田八幡神社の南側が城主の居宅や上級家臣の居住区である可能性が高い
②河川は砂嘴を横切っており、砂嘴を最短距離で開削していない。これは両岸の町割の方向と合致する
つまり、砂嘴を通した小海川が内堀で、その北側が重臣たちの居住区エリアであり、そこに港もあったということになります。そして、城下町の建設と流路変更は同時期に行われた可能性を指摘します。

第8図は「沖代」の地籍図の部分です

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ここには周囲の地割とは異なる細長い地割が積み木のように重なっています。これは何を意味するのでしょうか?研究者は

「周囲の水路とは異質な幅広の堀状の水路が存在」

を読取り、これを「堀の痕跡」であると推察します。堀状の地割の方向は、城下町の地割の方向と一致します。そして、南側の条里型地割や潟湖跡地の水田地割とは不連続です。このことも城下町外側の堀の痕跡説を補強します。
 城下町南端を区切るように足谷川という小河川が流れています。
 この流れも一部丘陵を開削開削した人工河川だと研究者は指摘します。足谷川の河道はもとは第2図Cの位置であったと推定され,第8図の細長い地割がその痕跡と云うのです。そうであれば小海川や古川の流路固定と同時期に足谷川も流路が変更・固定され、周辺の水田開発が進行ます。そして、その後に現在の流路に付け替えられたことが地割の前後関係から推察されるようです。足谷川は、城下町建設以後に流路変更が行われたことになります。

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   以上から引田城の囲郭ラインは次のようになります。
①東は瀬戸内海
②北と西は砂嘴背後の低湿地という自然地形を利用し,
③砂嘴を開削した小海川河口部が内堀
で総構えの構造となっていたと推定できます。このような構造は戦国末・織豊期の特徴です。
 引田の街は城下町としての性格を持っていることが分かります。

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10図は現在の小海川の流路南側の10cm等高線図です。これは各水田の標高をもとに作られたもので微起伏が等高線で示されています。小海川は左から右へ流れています。ここからは、次のようなことが読み取れます。
①現在の小海川は古川に向かって流れてる
②しかし、低い所に向かって流れるのではなく、一番高いところを通過している
 これは何を意味するのでしょうか。
もちろん、天井川となって周囲に土砂が堆積して標高が高くなっているということもあるでしょう。しかし、これは河道が人の手によって作られ固定されたことを示していると研究者は考えています。
 もう一度確認すると現在の流れは、北側の丘陵の裾に沿って直線状に流れ、砂嘴と西からの丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいるのです。一番狭くなっている所から下流の河道左岸には、幅広の堤防が築かれています。このような小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に排水することを目指したものと推察できます。

 小海川の旧河道であった安戸・松原には明治末年まで塩田が拡がっていました。
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白鳥町の教蓮寺の享保11(1726)年の教蓮寺縁起には,天正15(1587)年に生駒親正が旧任地の播州赤穂郡の人たち数十人を白鳥松原に移住させ、製塩を始めたことが記されています。また寛永19(1642)年の「讃岐国高松領小物成帳」には松原・安戸に塩222石3斗が課せられています。ここからはこの地域で製塩が行われていたことが分かります。引田に近い阿波国撫養でも天正13(1585)年に、播州龍野から阿波に転封された蜂須賀家政が,播州荒井から2人の製塩技術者を招き塩田開田を始めています。近世初頭の瀬戸内海沿岸の大名にとって製塩は、最重要の殖産事業でした。
引田町歴史民俗資料館に「旧安堵浦及浜絵図」が保管されています。
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これは引田塩政所(庄屋)であった菊池家が所蔵していたもので「天明八年」(1788年)の記載から18世紀後半以降の安堵(戸)浦の塩田が描かれています。絵図中央に「大川」という(旧)河川が右から左へ流れ、左の河口部には塩田を守るために石垣堰堤が築かれています。
そして(旧)と括弧書きにしてあります。これが小海川の旧河道である大川の当時の姿のようです。大川は締め切られて現在の小海川と連続していなかったことが分かります。  川のひとつの流れは誉田八幡と引田城の間から引田港へ抜け、河口部は「江の口」と記されています。
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写真6は、河口付近を拡大したものです
大川の河口部沿岸は堤が築かれ、各所に石水門やユルが描かれています。満潮時に大川を上がってくる塩水を引き入れる入浜系塩田が開かれていたことが分かります。引田の塩田開発当初の状況がうかがえます。ここからは、小海川の流路を変更することによって、淡水の流入や洪水による被害を防止し、本格的な塩田開発が行われたことがうかがえます。小海川のルート変更は、
①引田城の防衛ラインである内堀
②引田城下町の洪水対策
③旧河口(大川)の安堵への本格的製塩の殖産
という「一挙三得」を実現したものだったようです。
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以上のように,引田城下町は小海川のルート変更とともに備された可能性が高いと研究者は考えます。
 生駒親正は引田に入部した翌年に、高松城の築城を開始します。しかし、引田城がこの時に1年未満で完成したとは云えないようです。生駒親正が本格的に高松城の築城を始めるのは、発掘調査の瓦の出土量などから関ヶ原以後であることが分かってきました。それ以前の政治情勢を考えると
①秀吉生存中は、朝鮮出兵で多額の戦費が係り、藩主も不在であったこと
②天正年間では大名たちの国替えが頻繁に行われ、腰を落ち着けての国作りや城作りに着手していないこと
というこたが指摘されます。慶長2(1597)には、支城として丸亀城を築き、嫡子・一正に守らせています。高松城だけでなく支城を築き一門を配しています。引田城も同様の性格があったようですが、ここに本格的な城が築かれるのも関ヶ原以後のことになるようです。
白鳥町の与田神社の『若一王子大権現縁起』は享保年の記載があることから18世紀以降のものとされますが、ここにはつぎのようなことが記されています
「 銀杏樹在 寒川郡奥山長野。因国君生駒讃岐守俊正公弟,
生駒甚助某受 封於大内郡而居引田与治山城
慶長十九年 応大坂召予兵而往拠城 明年元和元年夏五月七日城陥。於是甚助逃帰而匿奥山
俊正公属関東 故尋求執而誅之 葬諸銀杏樹下
意訳すると
銀杏の木が寒川郡の奥山長野にある。讃岐国藩主生駒俊政の弟・生駒勘助は、大内郡引田与治山城を治めていたが、慶長十九年の大坂の陣に豊臣方を支援し、大阪城に参陣するも破れ、明年元和元年夏五月七日に大阪城が陥落すると讃岐に逃げ帰り、引田の奥の山に逃げ隠れた。藩主俊正は関東の家康方についたので、弟での勘助を探索し捕らえ誅殺した。そして銀杏樹下に葬った。

とあります。「讃羽綴遺録』にも、生駒甚助が大坂夏の陣の際に、豊臣方につき元和元年に讃岐国において誅殺されるという記載があります。
 ここからは生駒甚介(三代藩主正俊の弟)は、引田城主として、東讃岐を支配してことが分かります。そして大坂夏冬の陣には、大阪城に立て籠もったというのです。生駒藩藩主の兄弟の間にも「路線対立」があったようです。大阪城陥落後は、引田に戻りますが、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。
 その所領を継いだのが生駒隼人になります。
 生駒隼人は、四代藩主壱岐守高俊の弟になります。引田城は代々藩主の弟が守るお城であったようです。彼の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しています。これは引田城の「城主」であったからでしょう。彼の下に配された侍数は26人ですが、生駒騒動の際には、その全てが集団ボイコットに参加し、生駒家を去っています。讃岐に根付いていない在地性弱い外来の侍集団であったことがうかがえます。
どちらにして、生駒藩では知行地制が根強く残り、引田城は藩主の弟が「城主」として治められていたことがわかります。つまり、関ヶ原以後に、「城主」となった「藩主の弟」たちがお城はともかく、城下町については整備したとも考えられる余地は残ります。

  関ヶ原前後に高松城も含めて、近世的城郭を3つ同時に整備する背景には何があったのでしょうか?
生駒親正の構想は
中央に高松城、
西讃の丸亀城
東讃の引田城
を配して、讃岐防衛と瀬戸内海交易ルートの確保にあった思われます。しかし、3つの城の建設が関ヶ原の戦いの前か、後かで仮想敵勢力は変わってきます。
①関ヶ原の前に築城されたとすると、秀吉の死後の東西抗争に備えてということになります。
②関ヶ原の後だとすると、家康の意をくんで毛利や島津の西国大名への備えのため
ということになるのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①生駒親正は讃岐における最初の拠点を引田に置いた
②引田城の本格的な整備は関ヶ原の戦い前後に始まる
③引田は、マチ割り、寺町・職人町・街路構造等に近世城下町の要素もつ
④引田城下町の整備は小海川の付け替えと密接に結びついている
⑤新しく開削された小海川は「内堀 + 運河 + 洪水対策 + 旧河道河口の塩田化」など多くのプラス面をもたらした。
⑥生駒藩では、引田城には藩主の弟が入り大内郡を「城主」として治めた。
⑦引田城主の生駒勘助は大坂の陣では豊臣方について参戦し、大阪城落城後に逃げ帰り切腹した。

ここからも生駒藩では知行制が温存され「城主」や家臣団の「自由度」が高かった気配が感じられます。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討     

本山寺五重塔

本山寺では、五重塔の平成大修理に併せて調査が行われてきました。現在の五重塔は、今から約120年前の明治24年(1891)から25年間、住職を務めた頼富実毅が取り組んだ本山寺復興事業の一貫として建立されもので、着工から上棟式まで14年を要した難事業であったことは以前紹介しました。今回新たに庫裏西側の倉庫などから五重塔関係の記録資料が発見され、調査報告書が最近出されました。その報告書を見ていくことにします。
 まず「五重大塔上棟式記録」の原本が見つかっています。その結果、明治の五重塔建立の過程が詳しく分かってきたようです。
例えば、五重塔建立に使われた用材について記した記録です。

本山寺五重用材設計書

この「五重大塔第5重用材設計書」には、五層目に必要な部材の大きさ・数・代金を書き上げています。木材の種類別に書き上げていますが、照合すると実際に用いられている樹種と必ずしも一致しないようです。ここに書かれているのは見積書段階のもので、実際の施工時に変更が加えられた所が多数あるようです。「予定(計画)は未定、決定に非ず」という所でしょうか。資金的な問題もあったのかもしれません。
本山寺五重塔用材

また用材を購入した木材店からの本山寺への送り状もあります。一本一本の用材の長さや種類が記され番最後に久土山支店の名前が見えます。銘木の産地として有名な和歌山県伊都郡九度山の材木屋から仕入れたことが分かります。この他に、日向国延岡(現 宮崎県延岡市)・伊予国宇摩郡上分(現 愛媛県四国中央市)からの用材送り状が残っているようです。
建立費用の調達について
以前の段階では寄附金の募集については、分からないことが多くて想像を交えた話になりました。しかし、今回の史料発見で詳細まで分かるようになったようです。
  明治29年(1896)7月6日付で、本山寺住職頼富実毅から香川県知事宛に提出された五重大塔建築費用の寄附金募集願からは、次のような事が分かります。
①五重塔の建築が同年七月四日付で認可されたこと
②その直後に寄附金募集について認可を願い出ていること
③目標額が47469円94銭7厘で、そのうち6000円は予約申込がすでにあること
④目標額の内の三万円を香川県下で募集すること
⑤それ以外の17000円余りを、他府県下や四国巡拝等の参詣者から募集すること
などの計画であったようです。しかし、募金開始から6年後の明治35年の時点では、寄附金は目標の1/3に満たなかったようです。
 そこで、頼富実毅住職が自らが募金活動を行っています。
①頼富実毅住職による諸病の加持祈祷
②弘法大師四国道開御修行尊像の各地出張
③四国八十八カ所巡礼砂踏み
④各地への説教活動
などの活動で信者からの寄附を募っています。頼富住職は、目に障害を持っていましたがそれを押して自ら、岡山・愛媛・島根・山口・福岡・大分の各県に赴い募金活動を行っています。しかし、旅費など支出の方が収入より多いときもあり、この県外募金活動がうまく言ったとは云えないようです。時期も日露戦争の開戦と重なり、思うように募金は集まらず収支差引は211円で、「派出スルモ甚夕宜カラス」という結果になっています。

本山寺寄付
  資金調達のために本山寺が講元となって組織されたのが講(保存会)です。
講組織については、本山寺信徒総代など関係が深い人々を中心に組織され、会員の出資金を利殖したり、落札金との差額を五重塔保存のための積立金としたりすることによって、確実に費用の調達につなげています。保存会(講)組織が、集金マシーンとして機能したようです。
今回の発見の中には、明治末期から昭和後期の162枚の写真もありました。

五重塔や本堂、二王門、大門、大師堂など境内の建造物が写されています。また法要の様子や大勢での記念撮影、住職頼富実毅の肖像や本山寺以外の場所での写真もあります。
まずは五重塔上棟式の行列写真を見てみましょう。
本山寺五重塔上棟式の行列写真1

①提灯・幡を先頭に、羽織袴姿の楽人たちが雅楽を奏でながら進んでいきます。
②その後には人力車に乗った稚児と、母親と手を繋いだ稚児たちの姿が見えます。
③その後には日の丸が掲げられています。
④背後の山並みは、七宝山のようです。
⑤ 「五重大塔上棟式記録」には、パレードのスタート地点は「荻田宅」とあります。荻田家から本山寺までの上棟式行列を写したもののようです。
本山寺五重塔上棟式の行列写真2

⑥信徒に担がれた興に乗った僧侶(頼富実毅)が行きます。
⑦後にはまだ人が続きます。大勢の人々が練り歩き、沿道には観衆も見えます。1枚目の写真より畦の上の見物人は増えているようです。
五重塔上棟の法会として、明治43年12月10日に行われた「稚児行列」のようです。
本山寺五重塔から本堂へ架けられた仮設橋

この写真はパレードを終えた行列と観衆たちが境内に入ってきて大群衆となっています。向かって右側が本堂で、左側に五重塔があります。本堂から五重塔へは仮設の橋が架けられ、読経を終えた正装姿の僧侶たちが右から左へと動いていきます。
 庶民にとってはメインイヴェントの「棟上げの餅投げ」が、いよいよ始まる直前の写真です。裸祭のような熱気が伝わってきます。
本山寺餅投げ

 これは五重塔の上から境内を撮影した写真です。十二堂の脇に組まれた櫓に人が登り、櫓の周りには数百人以上の群衆がいます。「投餅・投物」が行われる直前なのでしょう。

本山寺大門

今回、私が一番興味を惹かれたのがこの写真です。
大門です。正面の仁王門ではありません。旧伊予街道側からの入口にある門です。第一次世界大戦直前の大正三年(1913)の大門移設時の写真のようです。この写真の裏には、当時の長田玄哉名誉住職のメモ書きとして、この大門が宝光寺(岡山県瀬戸内市牛窓町)より移築されたと記されているというのです。大門は海を渡って、吉備から運ばれてきたもののようです。境内整備計画の一環として移築されたのでしょう。
本山寺大門札2


写真の左側にある立札を拡大すると
「当郷一ノ谷 大門一建立 施主荻田才助
と読めます。一ノ谷村の荻田才助が、この大門を牛窓から移築し建立寄進したことが分かります。
荻田才助とは何者なのでしょうか?
荻田は村会議会が初めて開かれた明治23年5月に、豊田郡一ノ谷村の初代村長を務めた人物です。先ほど見た五重塔の上棟式行列は、荻田才助の家がスタート地点となっていました。五重塔建立や営繕費などとして、荻田の金や米の借用証が今回出てきました。大正3年11月には、五重大塔用費として本山寺は荻田から二十円を借用しています。言うなれば地域の有力者であると同時に、檀家集団や講運営のリーダーとして、住職を支えてきた人物だったのかもしれません。彼によって牛窓から移築され、当時のメイン道路であった伊予街道側に新たな入口が開かれたようです。
本山寺大門2
現在の大門
 

戦時下では、総動員令の下に「全てを戦場へ」のスローガンの下に、数多くの金属類が供出されました。
昭和18年2月、県下から集められた銅像の壮行式(除魂式)が高松城跡桜の馬場で行われます。
本山寺金属供出

この時の様子を写したものがこの写真です。ここには桜馬場に集められた約70点の銅像が写っていてます。この中に本山時から供出された頼富実毅像・牛像・修行大師像・楠木正成像・馬像などがあったようです。
写真の上には、次のような書き込みがあります。
「此ノ外 宣徳火鉢60ケ  菱灯籠一ケ  大線香立(直径3尺五寸)(本堂向拝ニアリシモノ) 五倶足―二組  鐘カネ半鐘  仏具等其ノ数百已上(以下判読不能)」
 本山寺が数多くの銅製品を供出したことが分かります。騎馬銅像・牛銅像・修行大師像は、供出直前の5月10日に本山寺で、「記念写真」が撮られています。お別れをした後に送り出されたようです。

以上をまとめておきます。
①明治に三豊の地方寺院が伽藍整備計画の一環として、五重塔の建立を計画した
②建設費用は約5万円で、県内外での募金活動を展開した
③日清・日露戦争の戦争の状況の中で、住職と一番になった檀家や保存会(講)は資金調達に成功④15年の歳月の後に明治末に五重塔を完成させた。その時の様子が写真に残っている。
⑤伽藍整備計画の一環として、大門が岡山県牛窓のお寺から移築された。
⑦この結果、本山寺は五重塔のある札所として三豊を代表する寺院となっていった。

  以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。

 参考文献    
本山寺五重塔の平成大修理に伴う文化財調査報告書(第2報)
 香川県立ミュージアム調査研究報告第10号(2019年3月)

宝永地震の際の高松城下町での倒壊被害について、史料を見てみましょう。
「小神野夜話」
往来一足も引かれ不申候 侍中両側之土塀と土塀と大方打合候程に覚候由 
「宝永地震当日は、往来に一足も行くことができず、武家町の土塀と土塀が打ち合うように倒れた。」
とあります。土塀は現在の鉄筋の入っていないブロック塀と同じだったようです。
  「随観録」
一 天守櫓 屋根瓦落 壁損申候 
一 多門ニケ所転懸申候 其外之多門少々ひツミ屋根瓦落壁大破仕候           
一 城内石垣並惣塀所々崩れ申候
一 城内潰家十九軒 此外二三之丸惣塀大破仕候
一 城内櫓一ケ所崩れ申候
一 潰家九百弐拾九軒 内四十五軒家中 
  六百四拾九軒町弐百三十五軒郷中
一 家中町屋建家数百軒大破
一 土蔵十ハケ所 川口番所三ケ所崩れ申候
一 死人弐拾九人 内九人男 廿人女
一 怪我人三人 内二人男 一人女
   以上
 この史料は高松藩から幕府へ提出したもののようで、被害状況が詳しく記されています。まず最初に挙げられるのが天守閣や石垣、城門・櫓などお城の被害であることが「封建時代」ということを改めて感じさせてくれます。天守櫓の屋根瓦が落ち壁が傷いたり、櫓も崩れるなど高松城自体にも大きな被害を受けたようです。しかし、「潰家九百弐拾九軒」とあり
倒壊 929軒
大破  数百軒
死者  29人(男9、女20)
被害が最も多かった場所が、城下の町屋で、高松藩全体の倒壊家屋の約七割を占めています。これは町屋の半分以上の割合になるようです。
  「翁謳夜話」(35)
  北浜魚肆瓦屋咸崩壊圧死者甚衆
 北浜の魚店(魚屋町)の瓦葺きの家はみな崩れ、圧死者が多く出た
と具体的な倒壊被害の場所や様子が分かります。藩は防火対策のために瓦葺建造物の建設を政策的にすすめていたようですが震災には、屋根に重い瓦の乗った家屋の方が倒壊率は高かったようです。死者の多くは、家屋崩壊による圧死者だったようです。
高松城122スキャナー版sim

 『増補高松藩記』には5年後の正徳元年(1712)の地震の時にも、魚屋町だけ76人の死者が出たとあります。また「小神野夜話」によると、享保三年(1718)元旦の大火では火が魚屋町に移ると大勢が助からないと、高松藩の役人を慌てさせたことが記されています。魚屋町は、店棚などの建物が多く建てられ、人口が密集しいる上に、袋小路の多い町並みで避難が難しかったことがうかがえます。災害に対して構造的な弱さがあると認識されていたのでしょう。魚屋町の住人は、広い場所に逃れることができなかった事が、他の町より圧死者数が多くなった要因と研究者は考えているようです。

高松城下図屏風 北浜への道1

 地震発生は昼の2時です。人々が「経済活動」を行っているときです。これが深夜であったなら寝込みを襲われて圧死者はもっと増えていたかもしれません。地震による火事の発生については触れられていません。
高松城下図屏風 船揚場への道3

 高松城下の流言飛語(フェイクニュース)は?
 地震直後は情報が空白となり、心理的にも不安になります。そのためいろいろな流言飛語が自然発生すると云われます。関東大震災の時の「朝鮮人暴動」の流言などが有名ですが、この宝永地震の時の高松はどうだったのでしょうか
     「翁謳夜話」
 都下流言某日将復大震海水溢 漂殺人 於是衆人皆匈々不得安枕 仮設草舎而寝臥且備米嚢海水溢則将斉去遁于山上
意訳すると
 再度大地震が発生し、大揺れに揺れて津波を起こし死傷者を出すという流言が飛び交った。そのため多くの人は安心して眠ることも出来ない。仮設の草葺小屋で生活を行い、さらに再度の津波に備え、非常用の米袋を用意し、いざという時には山の上に避難する準備をしている。

 2㍍近い津波は人々に大きな恐怖を植え付けたようです。今度は津波で多くの人が流されるという噂におびえています。津波に備えて非常用持ち出し袋も準備しています。流言が広がることで、人々は不安になり、混乱が発生していることがうかがえます。

高松藩の対応は?
 宝永地震の時の藩主は、第三代松平頼豊です。この地震は、藩主となった三年後のことでした。松平頼豊の治政は、宝永地震だけではなく、火事や風雨害など数多くの自然災害に悩まされたようです。
 地震当日の宝永四(一七〇七)年十月四日、松平頼豊は、参勤交代で江戸にいました。そのため高松での地震には遭っていません。
高松藩では、被災者に対してどのような対応を取ったのでしょうか
  「恵公実録」
(十月)十一日賑賜損屋者有差
11日地震で家が倒壊した者に米や金などが与えられ救済措置が施された
  「翁謳夜話」
  命有司書壊屋鯛之以金若穀各有差示
 地震後、役人に倒壊家屋の被害状況を調べさせ、被害に応じて金や日米を支給した
  「小神野夜話」
家中町郷中破損之家多く御座候由過分之御救米も被下候由
家中や郷中には、破損した家が多いので、藩から被災家屋それぞれに過分の御救米が与えられた
以上から高松藩では、地震発生から一週間以内に被災者に対する救済体制を整えていたことがわかります。高松藩は、この地震の前から多くの自然災害に襲われ、その対応経験がありました。いわば危機対応のマニュアルが準備されていたのかもしれません。それが迅速な対応となって現れたとしておきましょう。
 後の安政南海地震の際には、寒川郡長尾西村の庄屋をつとめた山下家の文書等からわかるように、高松藩内の村々の庄屋が、それぞれ村内の被害状況を詳細に調べ、藩に報告をしています。しかし、この地震の時には、村々の庄屋がどのように動いたかが分かる史料はないようです。
 宝永地震は、余震が長く続きます。翌年の夏頃になり、ようやくおさまります。やっと人々は、通常の生活に戻る事ができたのは約1年後のようです

3回にわたって300年前の大地震の被害と影響を見てきました。
最後に、その被害をもう一度まとめておきます
①五剣山のひとつの剣であった峰を崩落させ、見なれた故郷の山を姿を変えた。
②干潟を埋めて干拓された新田では、液状化現象が起こった
③夜には1,8㍍ほどの津波がやってきて、防波堤が数多く壊された
④高松城の天守閣の瓦が落ちたり、壁や櫓が崩れるなどの大きな被害を受けた
⑤瓦葺きの家を中心に900軒以上の家屋が倒壊した。その内、城下町内では600軒に及ぶ。これは半数以上の家屋が倒壊したことになる。
⑥北浜の魚屋町は道が細い道が入り組み袋状になっており、逃げ場の無い人たちが倒壊で多くの死者を出した。
⑦しかし、死者は全体で29人と以外に少ない
⑧高松藩は藩主は参勤交替で不在だったが、1週間後には救援活動を始動させている

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

 震度7の地震で発生した「液状化現象」とは - ウェザーニュース

巨大地震に液状化現象はつきものと、今では認知度は高いのですが、江戸時代には大地が割れ、水が湧き出すのはまさに「天変地異」で人々を驚かしたようです。残された記録には、液状化現象が次のように記録されています。
 「翁謳夜話」
  地裂水湧 漂所爆稲瀕 河海軟沙地特甚
 地面が裂け、水が地面から湧きだした所は、瀬のようなった。河や海付近の地盤が軟らかい地では特に被害が激しい
     「消暑漫筆」
 土地われて白キ水流れ出 後二鼠色成何共合点不行髭生候由(中略)其土地に生へたる髭のやうなる物にて小児輩とりて翫ひと遣しよし合点のゆかぬものなりとなり
土地が割れて白い水が流れ出て、その後にねずみ色の髭のようなものが生えてきた。その土地に生えた髭のもので、子ども達が玩具のように遊んでいるが、これが何か分からない。
  示神野夜話
  地割白水流レ 後地鼠色二成 毛なとはへ申候
 三つの史料には、地面が裂け、水が噴き出す液状化現象が記されています。しかし、「消暑漫筆」・「小神野夜話」には、「鼠色」のなんとも分からない「髭」・「毛」が生えていると記します。「消暑漫筆」には、「鼠色の髭」を子供達がとって遊んでいるともあります。「鼠色の髭」状のものとは何でしょうか?
「地震時に砂が地下水とともに噴出する噴砂現象」
と研究者は考えているようです。宝永地震の時には高松でも、液状化現象や噴砂現象が海岸・河川付近の軟らかい土地で発生したようです。


詰田川橋付近では地割れが起こり、液状化被害が発生した?
地割被害については、次のように具体的な地名も記録されています。
 「翁謳夜話」
 地裂水湧漂所爆稲瀕河海軟沙地特甚 故木田冷(詰田)川東大路柝六尺  余山下堅厚粘土雖柝不甚

 先ほどの液状化現象の続きには、具体的な地名が「木田冷(詰田川」と記されています。現在の高松市木太町の「詰田川」です。その次の「東ノ大路」は、江戸時代初期、高松藩初代藩主松平頼重の時に整備された「志度街道(下往還)」になるようです。
 意訳すると次のようになるのでしょうか。
詰田川の東側の志度街道が裂けて、液状化か起こり水が湧き溢れている。その地割れの広さは、六尺(約一八〇センチ)余にもなる。

 「翁嬉夜話」(松平家本)
 山田郡木太(木田)郷冷(詰田)川橋東半町許大道
 柝水溢広六尺余 余親見之 
 几海浜河辺沙上 多柝若山下粘土則否
 同じ「翁謳夜話」ですが写本の際に、加筆が行われたりして細部が異なるものがあります。この「翁謳夜話」(松平家本)では、地割れが発生した場所は「木太(木田)郷冷川(詰田)側橋東半町許の大道」とあり、詰田川橋の東側約55㍍付近の志度街道と、より詳しく記されています。そして、「余親見之」とあり、筆者自身が見に行って、その状態を観察したと記しています。
「翁謳夜話」の筆者である菊池武賢(黄山)は、讃岐の歴史を代々調査研究していた木太村の増田一族の出身です。「三代物語」を編纂した増田雅宅(休意)の弟になります。養子に出る前は、菊池武賢も本太村に在住し、生活をしていたのでしょう。菊池武賢は元禄十(1697)年生まれなので、10歳の時に宝永地震に出会ったことになります。家の近所で起こった地割れを実際に自分の目で見たのでしょう。それを後に記述したという事になります。
HPTIMAGE高松

  なぜ詰田川橋で液状化現象が発生したのでしょうか?
 高松市木太町内を通る志度街道(現在の県道155号牟礼中新線)は、現状からは考えにくいのですが、高松市内から屋島へ海岸沿いに伸びる街道でした。江戸時代以前の天正年間の復元図を見ると、現在の高松城と屋島の間は「玉藻浦」と呼ばれる入り江で、その奥には「遠干潟」が広がりっていました。入り江は高松市南部に食い込み、現在の本太町の内陸部付近まで海岸線が入り込んでいたようです。
高松天正年間復元図1

 「遠干潟」は、どのように「新田」開発されたのかを史料は、次のように語ります
 「翁謳夜話」(松平家本)
(寛永)十四年 築堤障海水為田 
 福岡木大(木田)滑浜冨岡春日村小地名是也
 今並為熟田民大頼其利到于今称之
  意訳すると
 (寛永)十四年に堤防を築き海を塞ぎ、新田にした。
 福岡・木大(木田)・滑浜・冨岡・春日村の地名となっているところがそうである。いまは美田となって民は大いに潤っているが、その利益はここに始まる。

野原・高松復元図カラー
入江の奥が屋島の潟元(方本)、その対岸が詰田・春日川河口 

 寛永年間には旱魃や自然災害で飢饉が多発して、生駒藩は危機的な状況に追い込まれます。その打開のために生駒藩の幼い藩主の祖父で「後見人」であった伊賀藩主藤堂高虎家は、西島八兵衛を讃岐に派遣します。そして、新田開発や数多くのため池を造らせて、藩内を一つにまとめ危機打開を図ります。その時に、それまで遠浅の海岸であった場所に防潮堤を築き、海水の流入を止め、新田を開く工事が行われます。それが現在の高松市上福岡町、木太町付近で、寛永十四(1637)年のことになるようです。
 史料の「木太滑浜」とは、現在の木太町洲端地区になります
「洲端」という言葉のとおり、ここは川が海へ流れ込む際に形成される「洲の端」であったようです。西島八兵衛の干拓事業により、遠浅の海岸付近が田地に変り、今では大いに稲作が行われていると、この史料には記されています。

宝永地震における高松藩の被害状況
初代高松藩主松平頼重の新田開発
「英公外記」
此年松嶋すべり之沖より潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松島木太春日之潟新開成る 
下往還より南手之新開ハ先代之時西島八兵衛が築し所なり
 文頭の「此年」とあるのは、寛文七(1667)年で、高松藩初代藩主の松平頼重の治政になります。西は松島から東は潟元までという長い防潮堤を築き、大干拓を行ったことが分かります。これで沖松島・本太・春日の地に新たに田地が開かれます。
 2行目には、下往還(志度街道)より南に作られた「新開」は、松平頼重の時に作られたのではなく、それ以前の寛永年間に西島八兵衛が行った干拓事業の際に、作られた場所であると記されています。松平頼重は、生駒家が出羽国へ転封した後も防潮堤を築き続け、さらに大規模な干拓・新田開発の事業を行ったようです。

高松野原 中世海岸線
 「翁謳夜話」
修山田郡下大路 寛永十四年 西嶋之尤築堤 障海水為稲田 其隠曰下往還今又修之為大路
 松平頼重は西島八兵衛により作られた下往還(志度街道)を大規模改修し、藩内の街道整備も行います。志度街道は「翁謳夜話」の慶安元(1648)年の記事によると、干拓の為に造られた防潮堤上を通っていました。
 つまり、180㎝の地割れを起こした詰田川橋付近は、かつては遠浅の海岸付近であったのです。その地を人口的に埋め土地を形成し、その上に堤を作り街道を通しました。そのために軟弱な地盤が地震による激しい震動で、地割れや液状化被害が発生したようです。現在でも液状化現象が起きているのは、臨海部の埋め立て地帯です。埋め立てから何十年も経つと、そこが海であったことを忘れてしまいますが、地下水脈は脈々と生きています。現在の地形だけを見て、安全だと判断は出来ないようです。こんな所にもハザードマップ作成の必要性があるようです。
高松地質図

 讃岐でも津波被害はあった?
  「翁嬉夜話」
  来日夜小震数矣 潮汐高于恒五六尺堤防多潰
その日の夜に小さな揺れが何度も起きて、潮位がいつもより5・6尺(180㎝)ほど高くなり、上がり堤防が多く壊れた。
とあります。
  「消暑漫筆」
  高潮来り平地之上深事六尺
  通常の潮位より六尺程高い潮が来たと
記されているます。ここからは巨大な地震では、瀬戸内海にも高さが約180㎝の津波が押し寄せ、港の堤防の多くを破壊したことが分かります。ちなみに、この年の秋台風で大雨・洪水で高松では、堤防が壊れたり、人家の浸水被害が出ていました。そのダメージから回復しないところへ追い打ちをかけるように、津波が襲いかかってきて、堤防の多くを壊したようです。

高松 地震の被害
液状化現象が起きやすい場所
以上をまとめておきます。
①寛永地震では高松でも液状化現象や津波が発生している
②液状化現象が発生しているのは江戸時代に開かれた「新田」に集中している
③詰田川周辺の「新田」は、江戸時代以前は干潟であった
④夜になっても余震が続き、180㎝の津波も発生。多くの防波堤が壊された。

おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 芳渾直起 宝永地震における高松藩の被害状況 香川県文書館紀要18号 2014年

 今から約300年前に起きた宝永の地震は、讃岐にも大きな被害を与えたようです。そのため被害の様子が記録として,数多く残っています。宝永地震を史料から見てみることにします。
四国八十八ヶ所】第八十五番 八栗寺・八栗山・五剣山 香川県 ツツジ ...
八栗寺山門からの五剣山
 高松市牟礼町と庵治町の境にある五剣山は、その名の通り五本の剣が天を突き刺すように並ぶ山容でした。しかし、今は南端(右)の五ノ峰が崩れ落ちて「四剣山」となっています。この五ノ峰を崩れ落ちさせたのが地震のようです。当時の資料を見てきましょう
五剣山1

  現在の五剣山は5つ剣には見えないようです。
それでは地震で、崩れ落ちたのはどこなんでしょうか?
 崩壊前と崩壊後の五剣山の姿を比較できる絵図があります。崩壊前の五剣山を描いた絵図「四国礼場記」を見てみましょう。
五剣山2

    これは地震前の元禄年間に、高野山のエリート学僧寂本が四国をめぐり執筆した霊場誌です。本堂の後に天を指すように五剣山が立ち、そこには洞窟があり峰の頂には社が勧進されている様子が描かれています。北側(左)から順番に一の峰、二の峰と呼ばれていたようです。この絵図で見ると真ん中のひときわ大きい峰が3の峰と思っていましますが、これが4の峰になります。そして、南端(右)の二つに分かれた峰をまとめて5の峰と呼んでいたようです。

 山と寺の名前の由来を、寂本は次のように記します。
 空海は思いを凝らして七日間、虚空蔵聞持法を修した。明星が出現した。二十一日目に五柄の剣が天から降った。この剣を岩の頭に埋めたことから、五剣山と呼ぶようになった。空海は千手観音像を彫刻して、建てた堂に安置した。千手院と号した。
 この山に登れば、八国を一望に見渡せるため、「八国寺」とも呼ぶ。空海が唐への留学で成果を挙げられるか試してみようと、栗八枝を焼いて、この地に植えた。たちまちのうちに生長した。そこで八栗寺と名を改めた。
 中央の峰に祀られていたのが蔵王権現です。
この峰には七つの仙窟があり、そこには仙人の木像や、五智如来が安置されいたと云います。蔵王権現を祀ることから石鎚山と同じ天台系の密教寺院であったことがうかがえます。中央には、空海が岩面に彫り込んだ高さ一丈六尺の大日如来像があり、そこで空海は求聞持法を行った岩屋があとも記します。  絵図ではひときわ高く太く描かれた真ん中の峰が蔵王権現が祀られた峰にあたるようです。
五剣山3

崩壊後の五剣山を描いた絵図を見てみましょう。

伽藍背後の五剣山を見ると、北側の4つは変わらないようですが南端の五の峰がポキンと折れて、平たくなっているように見えます。ふたつの絵図の比較から姿を消したのは、五の峰だったようです。
五剣山6

 宝永地震は、宝永四(1707)年10月4日未刻(午後2時頃)に発生しました。
規模は、マグニチュード8・6、震度最大6(推定)で、我が国最大級の巨大地震とされます。足摺岬沖から御前崎に至る南海トラフ沿いの全海域を巻き込んだフィリピン海プレートの沈下にともなう海溝型地震とされています。
 この地震による被害は、北陸地方から九州地方まで広い範囲に及んでいて、死者は推定2万人とされます。地震後には道後温泉などの各地の温泉の湯が一時的に出なくなり、49日後には富士山が大噴火し、宝永火口をつくります。讃岐では、この年は3月に地鳴か起こり、8月・9月には大雨や大風が発生、そして10月にこの地震です。この時期は旱魃も続き、社会不安が広がったようです。

五剣山9

  当時の人たちは、どんな記録を残しているのか見てみましょう
  「翁賜夜話」)
  五剣山一峯崩墜 火光如電響驚数里  
「地震発生とともに、五剣山の一峰が崩壊した。その際、火柱が電光のように立ち、数里にわたる轟音が響いた」

  「嘉永七寅年地震記写」
  平水時代右祖父之若盛り二相当り申候 其両八栗山五剣山之内東壱剣崩れ申候と申候
祖父の若い頃のに、五剣山の内の東端の山稜が崩れたと云っていた。この史料が書かれたのは、嘉永七(1854)年の安政南海地震の後に書かれています。宝永地震を体験した祖父からの聞き伝えを記しているようです。地震で崩れた場所は「東壱剣」と具体的な崩落場所を記述しています。

   「消暑漫筆」
   五剣山 一眸崩れ墜たるも此日の事なり
この史料も「嘉永七寅年地震記写」と同じように、後の時代に両親からの聞き伝えで、宝永地震の当日に五剣山の一峰が崩れたとしています。
このように多くの史料が五剣山は、宝永地震の際に、一峰が崩落したと記しています。

   「恵公外記」
   八栗山之嶽三ケ所大石落申候
  「八栗山の嶽の三ケ所が崩落し、大石が落ちた」と、短く記します。その崩落した峰のことには触れずに「三ヶ所から大石が落ちた」とあるので、他の峰でも崩落があったようです。
 
 宝永地震以前にも五剣山は、崩落していた
『讃岐国名勝図会』亘五剣山の記述
  往古 五剣完かりしが元禄十一年五月十一日より雨降同廿一日まで止ざりけるとき 廿日の暁五剣の内一峯北嶽中頃まで倒け其下に 大石ありしを五十間ばかり落し 其谷石に埋れけるされど権現の社は恙なかりける 其後宝永四年十月四日未の刻大に地震して東一峯また折れ北へ落る火光雷のごとく数里へ聞こえ夥しき音しけるとなむ
意訳すると
昔、五剣揃っていた元禄11(1698)年5月11日から21日まで、雨が降り止まず、地盤が緩み、5月20日の早朝にの五剣の内の一峰が北嶽中腹まで倒れ、巨石が落下し谷を埋めてしまった。しかし、権現の社は無事であった。その後、宝永4年10月4日午後2時頃、大地震が起きて東一峰が折れて北へ落ちた。その時には火柱がたち雷のような轟音が数里に渡って鳴り響いた。

 この元禄11年の長雨による崩落のものなのかどうかは分かりませんが、一・ニノ峰の麓にある中将坊の堂裏や、その周辺には上から転がり落ちてきたと思われる巨石がごろごろしています。この史料からは宝永地震の時のものばかりでなく、それ以前に崩れ落ちてきたものもあることが分かります。
 地震により、山崩れが起こり、五ノ峰がなくなったという事は、当時の人々には驚きと強い印象を与えたのでしょう。多くの人たちが記録として残しています。

五剣山8断面図

どうして崩れ落ちたの?
 五剣山・5の峰の崩壊原因を研究者たちは、どのように考えているのでしょうか。五剣山は,火山活動でできた花崗岩を基盤として、その上に凝灰岩、更にその上に火山角礫岩が乗っかっている構造のようです。
そして標高 300mより上は,火山角礫岩が断崖となっています。この火山角礫岩層は,間に凝灰岩層を水平にサンドイッチのように挟む形で、屏風のようにせせり立っていたようです。五の峰は、他の峰が幅があるのに比べて山頂部で 5~7mの幅しかありませんでした。塔のように細くせせりたっていたのです。

五剣山の崩落石
 崩落した巨石は、どこに転がっているのか

五剣山10

 崩れ落ちた岩塊(青い点)は、五の峰の北東側(地点 A右側)と南西側(地点 B左側)に転がり落ちて沢の下で集まっているのが分かります。このうち,地点 Aのものは、五の峰北部から、地点 Bのものは,五の峰北部と南部から落ちてこの地点まで転がってきたと研究者は考えているようです。
五剣山7崩落石

 また、五の峰以外の沢にも、大きな石が転がり集まった場所があります。この時の地震だけでなく、崩落が続いていることがうかがえます。
五剣山崩落イメージ

 どうして五の峰は崩れ落ちたのか?
 先ほどもお話ししたように、五の峰山頂の崩落面は火山角礫岩中を上と下から凝灰岩層が挟むサンドイッチ状態になっていました。長い間の浸食で、凝灰岩層には水平割れ目ができて、上に乗る火山角礫岩は浮石状態になります。それが、巨大地震の揺れで揺さぶられて、崩れ落ちたというシナリオのようです。
 それを裏付けるように、今でも五の峰北部山頂には崩落をまぬがれた東へ転倒した石が残っているようです。
公式Webサイト】五剣山八栗寺とは|第85番札所 五剣山観自在院 八栗寺

以上をまとめると次のようになります
①五剣山の峰は、中新世の火山活動から生まれた火山角礫岩からできている.
②宝永地震で崩壊した五の峰は,他の峰と比べて非常に細く屏風岩のようにせせり立っていた.
③崩壊前の絵図にから五剣山の五の峰には2つのピークがあった
④宝永地震時に、五の峰北部は北方(庵治側),南部は南方(牟礼側)方向に崩落した
⑤五の峰の火山角礫岩層は,凝灰岩層が入り込んで分離面と成り浮石状になっている.
⑥山頂部に残っている転倒した火山角礫岩塊から,峰は墓石が転倒するように崩壊した

見なれた山が大きく姿を変えたことは地元の人たちにとっては、大きな驚きとショックをもたらしたのではないかと思います。また、この山を霊山として修行の場としてしていた修験者たちにとっても、大きな衝撃だったでしょう。しかし、八栗寺や修験者たちの当時の対応を記録した史料は、現在の所は見つかっていないようです。

「巨大地震」という視点で歴史を見直してみると、讃岐も無縁ではないようです。
①宝永地震   宝永 4(1707)年10月4日)
②安政南海地震 嘉永 7(1854)年11月月5日)
③昭和南海地震(昭和21(1946)年12月21日)
約100~150年周期で巨大地震に襲われているようです。早ければ今世紀の半ばには、五剣山の一つの峰を突き崩したような地震に見舞われる可能性があるようです。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香川大学工学部「1707 年宝永地震による讃岐五剣山の山体崩壊 」

 海民から海賊へ、そして海の武士へ
  室町期に活発化するのが海民の「海賊」行為です。その中で「海の武士」へ飛躍したのが芸予諸島能島の村上氏です。このような「海賊=海の武士団」のような性格の勢力は讃岐にもいました。それが多度津白方や詫間を拠点とした山地氏のようです。 今回は讃岐の海賊・山地氏を探ってみましょう。テキストは「田中健二 中世讃岐の海賊について 白方の山路氏」 香川県文書館紀要」です 

塩の荘園弓削(ゆげ)庄を押領した海賊たち
 海賊行為は南北朝の動乱の中で活発化します。
芸予諸島の弓削島は、塩の荘園として京都の東寺の荘園でした。しかし、南北朝以後になると小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に派遣し、荘園下地を獲得することに成功しています。それに要した費用を計算した算用状の中に、能島村上氏が次のように登場します。

野島(能島)酒肴料、三貫文」

これは、野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。 このように能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力の姿で記録に残っています。

3弓削荘1
 ところが約百年後の康正二(1456)年には、村上氏は押領側として、次のように記されています。
東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一〔康正三年(1456)村上治部進書状〕
弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに、(あきの国)小早河少泉方、(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路方、(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉、山路ハ細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、御さいそく二よつて公物等をもさた申候ハヽ、少分にても候へ、とりつき可申候
 ここには、応仁の乱の直前にの1456(寛正3)年に、島の経営を任されていた東寺の僧が弓削島から塩が納入されない背景を報告しています。その理由として挙げているのが、周辺勢力のからの押領です。押領者として挙げているのが次の3者です
①(あきの国)小早河少泉(小泉)氏
②(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路(山地)氏、
③(いよの国)能島両村(村上氏)
  5年後にも、次のような記録があります
東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一 〔弓削島庄押領人交名案〕
一、弓削島押領人事、①小早川小泉方、③能島方、②山路方三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之、寛正三年(1462)五十七

①の小早川少泉(小泉)氏は、後の毛利元就の息子隆景が養子として入ってきて、大大名に成長していく小早川氏の一族です。小早川氏が三原を拠点に、東寺の荘園を横領しながら芸予諸島に勢力を伸ばしていく様子がうかがえます。
③は能島ですから能島村上氏のことです。後の海賊大将といわれる村上武吉が登場してくる所です。
京都・東寺献上 弓削塩|弓削の荘

 安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、能島村上氏と共に、讃岐国の山地氏は弓削荘を「押領」している「悪党=海賊」と東寺に訴えられています。村上氏は百年前には警固役だったのが、応仁の乱の前には押領(海賊)側になっています。ここからはこの時代の「海賊」には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
   ①荘園領主の依頼で警固をおこなう護衛役(海の武士)
 ②荘園押領(侵略)を行う海賊
 香川県の研究者が注目するのが「(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路(山地)方」です。
この「さぬきの国しらかた」とは、現在の多度津町白方のことです。ここからは15世紀後半の讃岐多度津白方に、山地氏という勢力がいたこと、芸予諸島にまで勢力を伸ばして弓削島を横領するような活動を行っていたことが分かります。そのためには海軍力は不可欠です。山地氏も「海賊」であったようです。

3 天霧山4
  香川氏の天霧城

 気になるのが白方の山地氏と多度津の香川氏の関係です。
香川氏は、讃岐守護細川氏の下で西讃の守護代を務めていました。居館を現在の多度津桃陵公園に置き、堅固な山城を天霧山に築いて丸亀平野や三野平野に睨みをきかせていました。山地氏の拠点白方は、そのお膝元になります。

3白方Map

 白方は、弘田川河口にあった古代多度郡の港です。
古代善通寺勢力の外港は白方港でした。盛土山古墳を初めとする古墳群が港周辺の小高い丘に並びます。弘田川の堆積作用を受けて、港としての機能が低下し、ラグーンの入江奥の堀江港にその地位を譲ります。堀江港の管理センターの役割を果たしたのが四国霊場道隆寺だったことは以前にもお話ししました。

3 堀江

 戦国時代の末期に、信長との石山合戦の戦局打開のために毛利軍が讃岐に押し寄せてきます。信長方の阿波三好勢力と元吉(櫛梨)城をめぐって戦った元吉合戦ですが、その際に毛利軍が上陸してきたのは堀江港でした。桃陵公園下の多度津の港が本格的に活動を始めるのは近世以後のようです。多度郡の港は 
①古代 白方港 → ② 中世 堀江港 → ③近世 多度津
と変遷していることは以前にお話ししました。

3 天霧山5

   話を山地氏と香川氏の関係に戻しましょう
 瀬戸内海の海の関所の通行記録である『兵庫北関入船納帳』には、多度津港を母港とする船も記録されています。多度津の船は、香川氏管理下にあって、京都在住の守護細川氏にいろいろなものを送り届けたので免税扱いとなっています。ここで注意したいのは、守護代香川氏の便船を動かしていた船乗りたちは、どんな海民たちだったかということです。第1候補は、白方を拠点とする山地氏ではなかったのかと研究者は考えているようです。
 以上から推察できることをまとめておきます。
①山地氏は詫間城を本拠にしながら、香川氏の配下として天霧城の外港である白方を守っていた
②山地氏は香川氏の水軍の指揮官で、近世の船手に当たる存在だった。
3 天霧山2

研究者は、山地氏について史料的に次のように裏付けます
  『讃陽古城記』香川叢書二
一、同池戸村(三本松)中城跡 安富端城也、後二山地九郎右衛門居之、山地之先祖者、山地右京之進、詫間ノ城ノ城主ニシテ、三野・多度・豊田三郡之旗頭ノ由
一、三野郡詫間村城跡 山地右京之進、三野・多度・豊田三郡之旗頭ナリ、後香川山城守西旗頭卜成、息山地九郎左衛門、三木郡池戸村城主卜成、香川信景右三郡之旗頭卜成、生駒家臣三野四郎左衛門先祖也
意訳すると
三本松の池戸村の中城跡は安富城の枝城で、後に山地九郎右衛門が居城とした。山地氏の先祖は、山地右京之介で詫間城の城主で、三野・多度・豊田三郡の旗頭役であったという。
三野郡詫間村の城跡は、山地右京進の城で三野・多度・豊田三郡の旗頭で、後に西讃守護代の香川氏の配下になった。息子の山地九郎左衛門は三木郡池戸村の城主となり、香川信景の旗頭であった。これが生駒家の重臣三野四郎左衛門の先祖である。
『翁嘔夜話』讃州府志の三野郡の項目
山地右京進城
在詫間、至山地九郎左衛門、徒千三木郡池戸城、天正十三年没、其臣冒姓、子孫於今為庶、秋山、山地泣原甲州人、従細川氏而来
意訳すると
 山地右京進の城は詫間にあり、山地九郎左衛門の時に、三木郡池戸城に移った。天正十三年の戦役で没落し、一族は下野した。秋山・山地氏は、もともとは甲州出身で、守護の細川氏とともに讃岐にやって来た

以上のように近世になって書かれた上の二つの資料からは、次のようなことが読み取れます。
①山地氏は甲斐国出身の武士で、右京進の時に三野郡詫間城が本拠
②山地右京進の時に、西讃守護代の香川氏の配下へ
③その子の九郎左衛門の時に、三木郡池辺城へ移動
④山地氏は、秀吉の四国制圧で没落
⑤生駒氏に重臣として登用された三野四郎左衛門は山地氏の子孫
疑問になるのは、どうして山地氏が詫間から三本松へ移されたかです。それはひとまず置いておいて先に進みます。
山地氏が香川氏の臣下となったとありますが、別の資料で確認します。
「壼簡集竹頭」所収文書 東京大学史 高知県立図書館原蔵
〔香川信景感状写〕
去十一日於入野庄合戦、首一ツ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也、
天正十一年五月二日           信景
山地九郎左衛門殿
(注記)
高知山地氏蔵、按元親庶子五郎次郎、為讃州香川中書信景養子、後因病帰土佐、居豊岡城西小野村、元親使中内藤左衛門・山地利奄侍之、此九郎左衛門香川家旧臣也、利奄蓋九郎左衛門子手、
  この文書は、注記に見えるように、香川氏と共に高知に亡命した山地家に残されていたものです。内容は天正11年(1583)4月21日に行なわれた大内郡入野庄での合戦で、山地九郎左衛門が挙げた軍功を香川信景が「首一ツ討捕、無比類働神妙候」と賞したものです。ここからは山地氏が香川氏の配下にあったことが分かります。
 この中に見える九郎左衛門は『讃陽古城記』と『翁嘔夜話』から山地右京進の息子で、三木郡池戸城へ移り天正十三年に没したと記されていた九郎左衛門と同一人物のようです。山地家は右京進のあとは、九郎左衛門と左衛門督の二家があり、九郎左衛門の子孫は香川信景の養子に従い土佐へ亡命し、左衛門督の子孫は讃岐に残ったようです。
 讃岐に残った一族が、先ほど資料で見た「生駒家で重臣に登用された三野四郎左衛門」の祖先になります。 
 山地氏も香川氏の家臣団に編入されていたことが分かります。

 山地氏は海賊であると同時に、香川氏の「水軍」部隊として活躍していたことが分かります。
九郎左衛門が詫間から三木郡へ移住したのも、香川氏の命令だったのでしょう。当時の香川氏の課題は、東讃の十川氏や阿波の三好氏と対立をどう有利に運ぶかでした。そのために海軍力を持ち機動性の高い山地氏を東讃に送り込んだと研究者は考えているようです。この文書では九郎左衛門が大内郡で戦い、その論功行賞を香川氏が行っています。戦った相手は、十川氏や三好氏だったのではないでしょうか。

3 天霧山からの庄内半島
天霧城より望む備後福山方面

山地氏が香川氏直属の海軍として、あるいは輸送部隊として活躍したと推察できる資料として、研究者は次の資料を挙げます。
18世紀初頭の『南海通記』の「細川晴元継管領職記」で、今からちょうど500年前のことが次のようにあります。
永正十七年(1520)6月10日細川右京大夫澄元卒シ、其子晴元ヲ以テ嗣トシテ、細川讃岐守之持之ヲ後見ス。三好筑前守之長入道喜雲ヲ以テ補佐トス。(中略)
讃岐国ハ、(中略)細川晴元二帰服セシム。伊予ノ河野ハ細川氏ノ催促二従ハス.阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将ヲ合セテ節制ヲ定メ、糧食ヲ蓄テ諸方ノ身方二通シ兵ヲ挙ルコトヲ議ス。其書二曰ク

出張之事、諸国相調候間、為先勢、明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候ハ猶香川可申候也、謹言
七月四日               晴元
西方関亭中

  此書、讃州西方山地右京進、其子左衛門督卜云者ノ家ニアリ。此時澄元卒去ョリ八年二当テ大永七年(1527)二(中略)
細川晴元始テ上洛ノ旗ヲ上ルコト此ノ如ク也。
この史料は、管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について当時の情勢を説明した内容で3段に分けることが出来ます。
 まず一段は澄元の跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。
 第2段に「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用します。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」
 というのですが、これだけでは何のことかよく分かりません。
発給元は細川晴元 宛先は「西方関亭中」とあります。これも謎です。最後に晴元書状については、
「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。

 宛先の「西方関亭中」とは誰のことでしょうか。
研究者や次のように解読していきます。
中世の讃岐国で「西方」と呼ばれるのは、室町時代以降は、両守護代安富・香川両氏の管轄地をそれぞれ東方、西方と呼んでいるようです。つまり、西讃地方の「関亭中」となります。
それでは「関亭中」とは何のことでしょうか。
宛先の「○○中」の表記は、たとえば、名主中、年寄中のようにある集団を指すようです。現在の「○○御中」と同じ使い方です。最後に残ったのは「関亭」です。これは、「関立」の誤読だと研究者は指摘します。それでは「関立」とは何でしょうか.
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書一九九七)の第六章「海賊と関所」に次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
「関立」(海賊)を「山立」(山賊)と比較すると、「山立」は縄張りとしている山を通行する人々から「山手」という通行料を徴収します。それに対して「関立」は「海手」を徴収します。つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。
 「関立」とは海賊のことのようです。
ちなみに、小豆島の明王寺釈迦堂の瓦銘には「児島中、関立中」と刻まれています。これは、今風に訳すると、児島中は備前児島の海賊、そして関立中は小豆島の海賊ということになります。小豆島にも海賊=海の武士集団がいたようです。

 宛先の「西方関亭中」は「西方関立中」で「西讃の海賊へ」ということになります。
そして、書状が山地家に保管されていました。これは「西方関亭中=山地氏」ということでしょう先ほどの細川晴元の書状を「超意訳」すると
「軍勢の準備が出来たので、明日そちらに向かわせる。輸送船を準備し早急に瀬戸内海を渡り畿内に輸送するように命じる。このことは香川氏の了解も得ている。
ということになります。
 ここからは 
①守護細川氏 → ②守護代香川氏 → ③水軍 山地氏
という封建関係の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。
 讃岐には塩飽の島々以外にも、海賊はいたようです。

以上をまとめておくと
①山地氏は、塩の荘園弓削庄を押領する海賊であった
②一方で詫間城主として、西讃守護代香川氏に仕える「海の武士団」でもあった
③山地氏は香川氏の海軍・輸送船団として、管領細川氏の軍事行動を支えた。
④山地氏の拠点港としては、天霧城の麓の白方港が考えられる。
⑤山地氏は香川氏の対三好・十川戦略のために三本松に拠点を構え戦った
⑥長宗我部の讃岐侵攻の際には、香川氏と共にその先兵を務めた
⑦秀吉の四国制圧で、山地氏の本家は香川氏について高知に亡命した
⑦山地氏の分家は、讃岐に留まり生駒藩では重臣として登用されるものもいた。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
橋詰茂 「室町後期讃岐国における港津支配」    四国中世史研究1992年
田中健二「中世讃岐の海賊について 白方の山路氏」 香川県文書館紀要
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 寺や神社の文化財を調査する時に、役に立つのが「宝物目録」のようです。今ある宝物と、過去に「宝物目録」のリストに挙げられたものを比べれば、その目録が作られた時に、どんな文化財があったか分かります。そして、うまくいけば宝物がどのような場所に安置されていたのかも分かります。さらに、それがどんな由来で、伝来したのかも見ることができます。寺社調査の「有力史料」が、宝物目録と云われる所以です。今回は、善通寺の宝物リストを見ていきましょう。
   テキストは 渋谷 啓一 「 善通寺出開帳記録から見る「宝物」の形成  」 香川県歴博調査報告書2009年  です。

第11回先達車遍路 in 善通寺♪ : 四国八十八ヶ所お遍路日記
瞬目大師

 善通寺にはいくつかの寺宝目録があるようです。
その多くは、寺の縁起や由緒を語る『多度郡屏風浦善通寺之記』などと同じ木箱に納められています。なかでもいちばん規模の大きな目録は近代、大正五(1916)年に作成された目録で、動産登録的な意味合いがあるようです。これを見ると、善通寺が所有する当時の宝物・文化財が一目で分かります。
 一方、江戸時代に作成された寺宝目録としては、ご開帳の時に出品した宝物を載せたものがあります。
 今回とりあげる寺宝目録は、
①元禄九年(1696)の「霊仏宝物之目録」
②宝暦九年(1759)の「霊像宝物目録」
のふたつです。①を元禄版、②を宝暦版としておきます。どちらも出開帳の時の目録ですので、当時の善通寺の宝物の全部を含んでいるとは限りません。しかし、それだけに選りすぐれの宝物たちが選ばれています。それを見ることによって、当時の善通寺当局の自らの宝物への意識がうかがえるというのが研究者の思惑です。
目録を見る前に、善通寺の出開帳の様子と、再建への動きを見ておくことにしましょう
 江戸時代になり天下泰平の世の中になり、戦国の時代が遠くなる17世紀半ばになると江戸や大坂、京都などで各寺院の秘仏を公開する出開帳が盛んに行われるようになります。
 その目的は、都市の住人の参詣を催し、収益をあげることでした。寺院の中には、戦乱の中で伽藍を失った所が数多くありました。しかし、寺領を失った寺院は経済的困窮から伽藍再建が進まなかったようです。そんな中で、次のような有力寺院が開帳による復興費用工面という手法を取り始めます。
東日本大震災復幸支縁「信州善光寺出開帳両国回向院」(平成25年4月27 ...
延宝四年(1676) 石山寺が、江戸で行った出開帳
元禄五年(1692) 善光寺の出開帳
元禄七年(1693) 法隆寺の江戸出開帳
 法隆寺は聖徳太子信仰の中心地で、この出開帳でも聖徳太子信仰を中心に出品宝物が選ばれ、多くの信者が訪れ、期待してた以上の収益をあげ、堂宇復興に成功します。このような動きを見て、善通寺も動き始めます。
回向院 出開帳
         「江戸名所図会」の回向院開帳の様子
 中世以来、聖徳太子信仰と弘法大師信仰は「太子信仰」として一連のもののように広まっていました。法隆寺の出開帳が聖徳太子なら、善通寺は「弘法大師誕生の地」として、弘法大師信仰を目玉に据えます。今まで進まなかった金堂復興資金を、江戸や上方での出開帳でまかなおうとしたのです。
情報紙「有鄰」560号|出版物|有隣堂 - Part 2
元禄の出開帳のスケジュールは次の通りです。
①元禄 9(1696)年に江戸で行われ、
②元禄10(1697)年3月1日 ~ 22日まで
          善通寺での居開帳、
③同年11月23日~12月9日まで上方、
④元禄11年(1698)4月21日~ 7月まで 京都
⑤元禄13年(1700)2月上旬 ~ 5月8日まで
          播州網干(丸亀藩飛地)
以上のように3年間にわたり5ヶ所で開かれています。
 結果は大成功で、この収益により工事中の金堂復興は順調に進み、元禄13年には、京都の仏師に依頼した本尊薬師如来坐像が納められ、15年6月には完成の結縁潅頂が執り行われ9月に結願しています。寺領からの収入だけでは、再建は難しかったはずです。元禄の本堂再建は、出開帳という都市住民の信仰心と寄進に支えられて、とんとん拍子に成就したたようです。

 さて、残る課題は五重塔です。
 再建の動きは、金堂が復興した直後から始まりますが、今度は順調には進みません。その動きは「善通寺大塔再興雑記」に、詳しく記されています。最初、住職の光胤は多宝塔での再建を目指したようです。それが三重塔に変更され、光国が住職になると五重塔での再建計画にグレードアップされていきます。そのため当初予定した建設資金よりも大幅にふくれあがります。
 そのような中で宝暦12年(1762)に、桃園天皇から五重塔再建にむけての許可が下ります。再建工事は進み、天明八年(1788)に上棟、文化元年(1804)に入仏供養をおこない完成という形で進みます。
この五重塔の再建でも、善通寺は出開帳をおこなっています。
①元文5(1740)年 江戸・京・大坂での出開帳
②宝暦5(1755)年 善通寺での開帳
②宝暦6(1756)年 網子での出開帳
  多くの人々が住む都市へ出かけていって開催される出開帳は、いろいろなリスクをともないます。宝物輸送や管理・警護、開催準備、など、ややもすれば出費がかさみ、時には赤字に終わる場合もあったようです。出開帳の場合、成功(=教線拡大と収益確保)するためには、多くの人々が共鳴し賛同してくれるような「大義名分」が必要です。そのためには開帳趣旨をはっきりとさせて、そのねらいにあった出品宝物を選ぶことが求められます。
高野山・奥之院(その6)・・・大師入定信仰: 倫敦巴里

 善通寺の場合は、弘法大師信仰が売りです。

弘法大師空海が誕生した善通寺の復興が趣旨です。具体的には第一期は金堂の復興、第二期は五重塔復興ということになるのでしょう。そのためには「弘法大師空身誕生の地にふさわしい出品リスト」が必要になります。具体的に云えば、次のようなものが宝物(展示品)が欲しいところです。
①空海幼少期の姿
②父母の姿
③幼少期の事績にまつわる霊宝
④誕生地ゆえの信仰資料(後世の優れた作品など)
 つまり、このようなねらいのもとに、どんな宝物がそろえられたのか、そこに善通寺当局の主張や意識が見えてくると研究者は考えているようです。

残された「元禄目録」のデザインを見てみましょう

DSC04184

 寸法は、縦約30㎝ 横172㎝の折本装で、表紙には紺紙を用い銀で秋草が描かれています。表紙中央やや上に標題「霊仏宝物之目録」を打ちつけています。本文の料紙は雲母入りの紙が使われます。
 首題は
「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」、

末尾に「此目録之通、於江戸開帳以前桂昌院様御照覧之分 如右」とあります。
DSC04188

ここから元禄九年(1696)の江戸出開帳の際に、桂昌院の御覧に際し作成された目録のようです。
うだ記紀・万葉/桂昌院
桂昌院(家光側室で、5代将軍・綱吉の生母で、大奥の実権者

 桂昌院に見てもらうために料紙を切り継いで、出開帳出品についても吟味が十分なされたことがうかがえます。料紙に薄墨の界線がひかれ、36件の宝物が記され、それぞれの宝物についての注記(作者・由来・形状品質など)が書かれています。
 次に宝暦目録をみてみましょう。
 こちらは善通寺の手控えとして書き出されたものです。
表紙には標題が「善通寺誕生院霊像宝物之記」と墨書されています。
冒頭は「勅願所讃岐国屏風浦五岳山功位大領佐伯善通之寺 御誕生院霊一宝警目録」と書かれています。裏表紙見返り部分に。次のように記されます。
「右九番之縁起ハ、宝暦六子年於播州網干津ノ宮開帳ノ時、筆記シテ示之。
 宝暦五亥年於寺門開帳之時ハ十四番トセリ。木像大師護摩堂並毘沙門・吉祥天・渡唐天神右五ヶ所二分ツ故ナリ。散失センコトヲ恐レテ令浄書之一帖トスルナリ
 宝暦九己卯年十月 日 権僧正光国識
            右筆 宇佐宮僧真境
別表に掲げた四十六件の宝物を、1番から9番までのグループ(輸送時の収納櫃のグループ)ごとに記し、注記を宝物名称の後に付けています。第三番のグループの末尾には
「各々善通寺奥院七種宝物なり」
とあり、初めて「七種宝物」という呼び方が登場します。善通寺にとって重要な意味をもつ宝物という意味なのか、いくつかの宝物名の右上に墨色の「○」印が記されています。

 掲載されている宝物リストについてみてみましょう。
善通寺宝物リスト
左側の元禄目録は、
1~6までは彫刻
7~18までは書画
19に「稚児大師像」があるものの
20~24は工芸品、
25~34は経典(書跡)
35・36は古文書・絵図
と全部で36です。それがジャンル別に区分されて並べられています。各ジャンル内では「大師作」と伝わるものをまず最初に持ってきて、その後の配列は年代順です。
 彫刻については、幼少期の空海像・空海の請来品を、メイン宝物と考えていたようです。この目録からは、ジャンル別に配列されたはいますが、誕生地にまつわる「大師作」ものを選定の第一基準としてリストアップしていたことが分かります。
 選出と配列論理は、この目録の提出先である桂昌院に、出開帳趣旨に賛同してもらうためのものだったのでしょう。出開帳の趣旨に一番近い論理構成が、このリストだと善通寺側は考えていたのでしょう。
 次に、約半世紀後の宝暦目録をみてみましょう。
 宝暦目録は奥書にあるように網干の出開帳時の梱包リストです。
一番から九番までのグループに分けて、箱に詰められたようです。そのため、内容面よりも形状面など櫃への収納が優先されての配列になっているようです。結果といて、配列論理から出開帳の趣旨を探るのは難しいと研究者は考えているようです。
 しかし、第二番に「瞬目大師」(10)、第三番(11~19)には、中世文書や、一字一仏法華経序品をはじめとする「七種宝物」が配置されています。第四番には両親像(20・21)が続いており、内容面でみてみると、このI群が「誕生地」善通寺出開帳の主軸になるようです。
 また、先に述べた「○」印の宝物は、10・14・15・16・17・18・37・42・43で、
①出開帳の主軸となる一群
②後半に配置された善通寺創建時の資料
③中世の盛時を物語る資料(亀山院の寄進と伝える紺紙金泥法華経)
になります。元禄期の第一基準であった「大師作」の宝物は、振り分けられており、重要度の基準が変わってきたようです。
 両者のリストをつき合わせて、元禄期になかったものが、宝暦期には選ばれた宝物を研究者は探します。
そして、20・21の「讃岐守佐伯善通公御影」と「阿刀氏御影」の空海の両親像に注目します。このふたつの像は、明和八年(1771)の銘をもつ厨子に入れられて、現在まで保管されてきました。この保管用厨子は、宝暦期の開帳後に作られたもののようです。像については、制作年代は作風から江戸時代前半期のものとされます。ちょうど五重塔建立のための第二期出開帳が行われていた時期と重なります
。前回にはなかった両親の像は、第二期の出開帳のために作られたようです。「空海誕生の地」にとって、幼少期の空海の姿とともに、両親の姿も必要と考えるようになったのでしょう。「弘法大師誕生所」を強調するためのアイテムのひとつともいえます。
一字一仏法華経序品
 一字一仏法華経序品

次に研究者が注目するのは「七種宝物」という言葉の登場です。
 現在の弘法大師空海ゆかりの「七種霊宝」は、
①一字一仏法華経序品
②金銅錫杖頭(いずれも国宝指定)
③仏舎利
④袈裟
⑤水瓶
⑥鉢
⑦泥塔
の七件だそうです。ところが宝暦目録の「七種宝物」と、現在のものとはちがうっているものがあるようです。⑥の鉢はリストになく、幼少期の空海が作ったといわれる⑦泥塔は、両目録ともに、他の「七種宝物」から離れて配置されています。ここからは「七種宝物」は、江戸時代にはまだ特定化していなかったと研究者は考えているようです。
金銅錫杖頭2
 宝暦の第二期出開帳にあたり、江戸や上方の都市住民に「弘法大師誕地」をアピールするためのプロモート戦略として「七種宝物」という概念が新たに作り出されたのかもしれません。それは、瞬目大師に続く新しいアピールポイントになっていきます。
金銅錫杖頭

 以上をまとめておくと
①善通寺では、17世紀末から金堂と五重塔の復興が課題となった。
②そのための建設資金集めのために、出開帳という新手法がとられた③出開帳には、目玉となる宝物が必要となった。
④そのため出開帳の趣旨に合う「宝物」が「創」られ、エピソードが付けられていった
⑤それが空海の父母の像であり、「七種宝物」という概念だった
そういう目で見ると、善通寺が次の二つを主張するようになるのも、江戸時代の後半からだった事に気がつきます
①父善通のために空海が建立した寺が善通寺
②空海の母は、玉依御前
 これも出開帳のアピールの中で生まれ、高揚した意識かもしれないと思うようになりました。
参考文献
渋谷啓一 善通寺出開帳目録から見る「宝物」の形成 
    香川県歴史博物館調査研究報告第三巻2007年


四国霊場の結願寺である大窪寺本堂に安置される本尊、木造薬師如来坐像は20年ほど前に修理が行われ、その際に学術調査も実施されようです。その報告書には修理前と修理後の姿が載せられています。
3大窪寺薬師如来坐像1
大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
この姿を見てまず思ったのがなにか飛鳥仏のような感じ・・・
それと右手の指が折り曲げられて「おいでおいで」をしているように私には見えました。それと、座高が高そう、逆に言うと頭が小さいのでしょうか、胴が長いのでしょうか。
全体から受ける印象は、明るく、田舎っぽく、のほほんとして感じです。見ていると何となくほのぼのした気持ちにさせてくれます。
こんな印象を受けるお薬師さんの調査報告書を見ていきます。
1 基礎データ 総高 170,8㎝ 像高89,3㎝
2 本体、カヤ材  螺髪、ヒノキ材。
3 構造 一木造り、彫眼。
 報告書は「本体材は、半径70㎝以上の丸太を十文字に四分割した「四分一(しぶいち)」材であると云います。このお薬師さんは、左腕の前腕部をのぞくと、その他の部分は、縦一材から掘り出されたものだということです。右手も、後から付けられたものではないのです。頭や胴と一緒に、一つの木から掘り出されたようです。4等分した材から、生み出されたのですから直径140㎝以上のカヤの大木ということになります。

 そして、この仏さんは大手術を受けているようです。
「両脚付け根より少し上の位置で胴部を輪切り
にされているというのです。切目は「正面では腹部下寄りから左袖口(地付きより一五・六㎝の高さ)」の所にあるようです。どうして?
 疑問は置いておいて、前に進みます。
4大窪寺薬師背面
         大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
 後姿を見ると、肩から背中に、虫に食べられた穴が至る所に見えます。修理では、虫穴をふさぐとともに、虫損を受けてへこんだ彫刻を、木屎漆で補足したようです。

4大窪寺薬師底面

 底を見ると、平ノミで平らに削られています。寄木造りでなく、一木造りなのがよく分かります。 中央に円穴(直径八・二㎝、深さ1・0㎝)が開けられています。何のためなのでしょうか? これもよく分かりません。

4大窪寺薬師頭部
      大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)

それでは、専門家の解説を聞かせてもらいましょう。
 本像は、頭部が小さく、上半身の伸びやかな体つきを示す。
両肘の左右への張り出しは小さく、ポーズにはいくぶん硬さも感じられるが、上半身を反り気味にして胸を張った姿勢には威厳がある。肉身部・衣部ともに彫刻面の抑揚は少ないが、肉身部は要所を彫り込んで、引き締めている。
   肉馨は低く、螺髪の額へのかぶりも少ない。
面貌は、眼瞼裂を少しうねらせ、口もとを引き締める。その表情には、端厳な趣とほのぼのとした明るさが感じられる。顔面の造形は、曲面と曲面の境目を明瞭に区切った硬い彫り口を示す。
両目は、まぶたのふくらみがごく少なく、目頭では浅く彫り出された上下の眼瞼裂が重なり、蒙古裴があらわされる。
鼻は、角のたった硬い形が印象的である。鼻梁は下端まで平らに削られ、その左右の稜線は眉の稜線とつながる。プロフィールでは、鋭角に尖った鼻先と、下唇を突き出した「受け口」の輪郭が印象的である。

4大窪寺薬師側面
 
 本体と共木より彫出された右手も、特徴的な形を示す。
一般に如来像の右手は、掌を正面に向けて立て、全指を伸ばす形にあらわされることが多い。これに対し、本像の右手は、第二指以下の指先をほぼ直角に揃えて屈し、第一指も少し前方に差し出して、手のひらの前の小空間を包み込むような形にあらわされる。手のひらも厚く、手指も太く、重たげな造形を示す。
着衣は、肉身に密着するように、総じて薄手にあらわされる
背面では、左肩より垂れる袖衣末端部に、左肘の出をあらわしたとみられるコブ状の隆起がつくられる。しかし、この隆起は、左側面から見ると、左腕の輪郭より後方に位置しており、左肘とは関係しない不思議なふくらみになっている。そこに、肉身どこれを包む着衣との関係を現実的にあらわそうとする意識をもちながら、それを合理的な立体に表現しきれなかった、作者のジレンマが看取される。円錐台状に裾を拡げた脊部の造形にも、同じような不自然さを指摘することができよう。
   衣部の彫刻面は、総じて起伏が小さい。
衣文の断面には丸みが少なく、平坦な段差状の表現が目だつ。ことに右肩や背面では、圭角だった硬い表現がみられる。これに対し、腹部や両脚部では、やや角を丸めた段差状の衣文線と、稜線を立てた衣文線とを交互に配した衣文表現がみられる。
4大窪寺薬師正面
修理を終えて新しい台座に座った薬師如来

全体を押さえた上で、自分流に今度は見ていきます
やはり、頭は小さいようです。全体のバランスから見てもそう見えます。お顔の特徴は鼻です。
①「鼻梁を平らに削り、その左右に両眉り続く稜線を立てる鼻の形」②「おいでおいで」の右手
は、法隆寺の銅造観音菩薩立像(伝金堂薬師如来脇侍、月光菩薩)など、飛鳥時代後期に同じような特徴を持った仏さんがいらっしゃるようです。第1印象として飛鳥仏のようだと感じたのは、的外れでもなかったようです。
 このお薬師さんの特徴的な鼻や右手のスタイルは、当時の法隆寺再建期(670~711年)に造られた「童顔童形」像と似ている所があると研究者は考えているようです。
 その一方で
「頭が小さく腹部を引き締めた体つき、胸を張った堂々とした姿勢、肉身の起伏を意識した着衣の表現」

などは、薬師寺金堂の銅造薬師如来坐像など天平時代(710~784年)の仏たちにも似ているとします。つまり、この仏さんは全体として天平様式を基礎にしながら、細かいところは飛鳥時代後期から天平時代後期にかけてのさまざまな要素を含み込んでいると研究者は考えているようです。

 このお薬師さんは、カヤの大木が使われています。
奈良の都では、針葉樹を使った木彫像は唐招提寺の天平後期の仏像群のように、8世紀後半からあらわれるようです。そんなことも考え合わせると、この仏さんが造られたのは、8世紀半ば以降になるようです。讃岐の豪族たちが次々と氏寺を建立し、聖武天皇が国分寺建設に取りかかる時代です。その時代に、讃岐の地で造られた
「部分的に飛鳥の雰囲気を残す、保守的な作風」

を残す仏さんと云えるようです。
 そのためか、着衣の一部には不合理な表現ありますが、顎を引き、胸を張って威儀を正した姿にもかかわらず、明るくのどかでおおらかな印象をうけるのでしょう。
4飛鳥仏ぽい地方仏

 このお薬師さんのもつ「保守的な作風、明朗な雰囲気、段差状の硬い衣文表現」とよく似たものを探すと、多田寺(福井県)の十一面観音菩薩立像(図5)や円満寺(和歌山県)の十一面観音菩薩立像(図6)があるようです。これらも地方で造られた仏たちです。

どうして「大手術」されたのか
 この仏は「縦一材の一木造り」です。それが胴部を輪切りにされていることは最初に触れました。切断面は、写真では見えませんが左袖口を通り、胴部を一周しているようです。研究者は、次のような理由を挙げます。
 ①切断面を境に、上半身の向きや傾きを調整する
 ②切断面を削り込んで、上半身の長さを短縮する
 ③切断面より像内にある節や枝などを除去する
 ④切断面より像内に小空間を設け、像内納入品を納める
 ①②は外観上のことです。③④は内部構造に関わる理由です。頭が小さくて、胴が長すぎるためバランスをとるために切断したというのが私の仮説なのですが、それも今となっては分かりません。

このお薬師さんの伝来は?
  最後に、この仏がどうして大窪寺にいらっしゃるのかを考えておきます。
まず、最初に考えられるのが「伝来説」です。
この仏像が造られたのが奈良時代の8世紀半ば頃とすると、それは讃岐に山岳密教寺院が姿を現す前になります。大窪寺が姿を現す以前に、このお薬師さんは作られていたことになります。どこかの氏寺に本尊としてあったものが、後世の大窪寺の隆盛の中で伝来したことが考えられます。つまり、この仏は大窪寺のために作られた仏ではないことになります。
もうひとつは、大窪寺の起源を8世紀半ばまで辿れるとすることです。まんのう町の国指定中寺廃寺は、空海の時代に活動を行っていたことが発掘調査から分かってきています。同じように、大窪寺もその時代まで遡ることが出来れば、本尊薬師如来は建立以来のものとすることができます。それが可能かどうか見ておきましょう。
①本尊の薬師如来が、奈良時代後期か平安時代前期とみるれること
②弘法大師所持の伝来を持つ鉄の錫杖も、平安時代前半期に遡ること①②を、大窪寺の創建時期のものと考えると、空海の山林修行時代と同時代のものとなります。この他にも阿弥陀如来立像は11世紀、四天王像四体は11世紀末頃の作と見ることができるようです。
 以上からすると大窪寺は、平安時代初期には、かなりの規模の山岳寺院であり、平安時代後期には、さらに発展していたと考えることは出来そうです。
この大窪寺の伽藍の立地をみると、寺の背後には大きく女体山が迫っています。そこには行場であった窟から形成された奥院があり、蔵王権現なども祀られています。澄禅『四国辺路日記』には、
本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二塔在、半ハ破損シタリ。是も昔は七堂伽藍ニテ十二坊在シガ、今ハ午縁所ニテ本坊斗在。大師御所持トテ六尺斗ノ鉄錫杖在り、同法螺在り.同大師五筆ノ旧訳ノ仁仁王経在り、紺紙金泥也。

とある。また寂本「四国偏礼霊場記』には、
此寺は行基吉薩ひらき給うふと也。其後大師興起して密教弘通の道場となし給へり。本尊薬師如来座像長二尺に大師作り玉ふ。阿弥陀堂はもと如法堂也。
(中略)多宝塔、去寛文の初までありしかど壊れれたり。むかしは寺中四二宇門塙を接へたりと、皆旧墟有。
(中略)奥院あり岩窟なり、本堂より十八町のはる。本尊阿弥陀・観音也。大師此所にして求聞持執行あそばされし時、阿伽とばしければ、独鈷をもて岩根を加持し給へば、清華ほとばしり出となり。炎早といへども涸渇する事なし。また大師いき木を率都婆にあそばされ、また字もあざやかにありしを、五十年以前、野火ここに人て、いまは木かれぬるとなり¨(以下略)

とあり、七常伽藍が整い、四十二宇もある大寺であったが、現在(元禄時代)では、その多くが旧蹟を残すのみであると記します。そして本堂から十八町の所に奥院があり、弘法人師が求聞持を修したところであるとします。
 さらに大窪寺には、江戸時代前期ころに描かれたとみられる「医王山之図」が残されています。図を見ると、右下部に大門が描かれ、上に向かうと中門四天王に・御影堂・鏡楼・経堂・毘沙門堂・阿弥陀堂・大塔・塔・孔雀堂が続き、薬師堂(本堂)に至たる緒堂が描かれます。その右にもおびただしし数の堂宇が描かれている。これは子院を表しているようです。これだけの僧侶(修験者)がいたことになります。
 図の上部は山岳部であるが、そこには『四国遍礼霊場記』に記されていた独鈷水、奥院とともに弁才天、蔵王権現、青龍権現が山中に散在しています。これは江戸時代以前の大窪寺の景観を示しているようです。
 ここには背後の山に、奥院をはじめとする蔵王権現、青龍権現などが祀られ、さらに岩窟も描かれていることです。これは大窪寺が山岳修験の修行の場であったことを物語っています。女体山という呼称も、栃木県男体山との対比が連想され、いかにも山岳宗教の霊山であることを主張しているようです。
 残された遺物などと併せて考えると、山岳修行の地として弘法人師の時代まで遡ることができると研究者は考えているようです。

 そんな説を読みながらもう一度大窪寺の薬師如来を見ていると、ウルトラマンに見えてきました。ウルトラマンは仏像のお顔を模したものと聞きました。飛鳥仏と天平仏がミックスされたような讃岐で作られた薬師如来坐像が大窪寺にはあります。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
 松田誠一郎    大窪寺本尊の薬師如来坐像について
       香川県歴史博物館 調査報告書第三巻2007年


4 松尾寺

 琴平町の金丸座の下にある真言宗松尾寺は、現在でも「金毘羅大権現を祀る寺」という看板を掲げています。
松尾寺
明治の神仏分離の際に、象頭山金毘羅大権現の別当寺の金光院や塔頭の僧侶が還俗し、神社化するなかで、松尾寺(普門院)は時流に従わずに金毘羅大権現を仏式で祀り続けようとします。そのため松尾寺と金毘羅宮の間では、明治末に裁判にもなっています。
 神仏分離の廃仏毀釈の際には、山内の諸堂宇にあった仏さんのいくつかが難を逃れて「避難」してきています。その中に、弘法大師坐像があります。調査の結果、この像の内側には造立銘記が発見されました。そこから文保三年(1319)正月に二人の仏師によって作られたことも分かってきました。今回は、この弘法大師座像をみていくことにします。
テキストは 「三好 賢子  松尾寺木造弘法大師坐像について 県ミュージアム調査研究報告第2号 2010年」です。この報告書を片手に見ていくことにします。 
予備知識として、次の4点を抑えておきます。
①銘がある弘法大師像としては、県内最古のもの
②後世に表面を彩色され、本来の風貌からやや遠のいている
③しかし、まなざしが穏やかで、他の像にはない温和な親しみやすい顔立ちである
④平成21年3月に、県指定有形文化財の指定を受けた。
4 松尾寺弘法大師座像

まずは全体像について、テキストには次のように記されています。
 椅子式の林座に践坐する通例の弘法大師像で、胸をはって上体を起こし、顔は正面を向き、視線をやや下方に落とす。頭部は円頂、後頭部下位はわずかに隆起し、首元はなだらかにつくる。鼻は鼻先の丸みが強く、鼻孔をあらわし、口は小さめで唇も薄く、一文字に結ぶ。
右手は強い角度で屈腎して胸前で五鈷杵をとり、左手は膝上におろして数珠をとる。
着衣は、内から覆肩衣、措、袈裟をまとう。覆肩衣は領を重ね合わし、ゆるくつきあわせて胸元を大きくひらく。腹部中央に祖を結びとめる紐をのぞかせる。左肩にはまわしかけた袈裟をとめる鈎紐をあらわす。
体幹部の正中線からみて頭部はやや左に傾いている。眉はわずかな稜線でうっすらとあらわされ、彩色が落ちた現状では眉の存在を捉えにくい。鼻はそれほど高くなく、鼻先が肉づさのよい団子鼻であり、目が上瞼線をゆるやかに下げ、耳や眉とともに左右非対称であることなどもあって、理想的に整えられた顔というよりは、現実的に存在するかのような人間味をもった顔貌である。 
【品質構造】
 ヒノキ材 寄木造 玉眼嵌入 本堅地彩色仕上げ
 空海の統合性(一)|高橋憲吾のページ -エンサイクロメディア空海-

 空海の肖像(御影)は、「真如親王様」と呼ばれる形式が多いようです。真如親王が書いたと云われる高野山御影堂の根本像のスタイルです。それは、やや右を向いて(画面では向かって左へ顔をむける)椅子式の鉢座に座って、左手に五鈷杵、右手に数珠をとる姿です。
 彫像も真如親王様のスタイルが多いようですが、向きが横ではなく正面を向くものがほとんどです。しかし、彫刻は、生きて永久の瞑想に入ったとする入定信仰を、具体的に意識させるために正面に向けた姿となっていることが多いようです。

4 松尾寺弘法大師座像2
 この像も、着衣方法などは真如親王様と同じで、テキストは次のように解説します。
胸元をひろく開けて覆肩衣を着し、腹部に祐の結び紐をのぞかせ、袈裟は偏祖右肩にまとい、左肩に袈裟をとめる鈎紐をあらわす。また、袈裟は左肩にて懸け留められる部分の下方の端が、左腕外へもたれ、その下にまわされている袈裟(かけ初めの部分)は、下端が右は膝頭にかかって膝下に垂れ込み、左端は膝前に畳まれている。このような左腕にかかる袈裟の処理は、画像・彫像を問わず空海像に共通してみられるものである。
 胸前から左肩にかかる袈裟が上縁を折り返し、その縁端が波うつようにたわむのも、空海像に共通してみられるものだが、本像では、わずかにうねる曲線の表現にとどまる。近い時期のものとして、和歌山遍照寺像や奈良元興寺像と比較してもその違いは明らかである。

 研究者にとって袈裟の表現が気になるようです。
「左肩の袈裟が波打つようにたわむ」表現が乏しく、絵画の描線のような硬さをぬぐいきれないと云うのです。さらに全体を通してみても、衣文や衣の動きには誇張的な表現もないかわりに、メリハリの効いた躍動感も乏しい。動的というよりは静的であり、穏やかにまとめられている」

このような印象を受けるのは、仏師が画像を手本に造ったためではないかと研究者は考えているようです。

  さて、この像の面白いのはここからです。  像の底です。
一木造りではなく、いろいろな木が寄せられて作られている寄木造りあることが、板から見るとよく分かります。内部は空洞で、底が半月型の底板がはめられていたようです。これは、後世にはめられたします。
4 松尾寺弘法大師座像3

その底板を外して中を見ると・・・・
4 松尾寺弘法大師座像4

びっしと文字が書かれています。墨書銘です。そして、この中央付近には、後世に入れられた木製五輪塔が打ちとめられ、その五輪塔の側面にも墨書銘が記されていました。
 まず、体内に書かれた墨書名は見てみましょう。
4 松尾寺弘法大師座像t体内銘4
    
 文字は、像の背面部を、平らに彫り整えたところへ墨書されています。筆は一貫していて、制作当初の造像記とみて間違いないと研究者は判断します。一番右側の一行が「讃岐国 仲郡善福寺 御木願主」と見えます。
ここには次のように記されていました。
 讃岐国 仲郡善福寺 御木願主
     弘法大師御形像壹鉢
右奉為 金輪聖皇天長地久御願圓満 公家安穏 武家泰平常國之事 留守所在庁郡内郷内庄内安楽 寺院繁昌惣一天風口(寫)四海口(温)泰乃至法界衆生平等利益也敬白 
大願主夏衆 偕行慶 偕宗円
文保三年己未正月十四日造立始之
大佛師唐橋法印門弟           
    法眼定祐
   小佛師兵部公定弁
 像の内部の造立銘記を見ていきましょう。
先ほど見たように「讃岐国仲郡 善福寺 御本願主」で始まります。最初にあれ?と思うのは。願主が「善寺」でなく「善寺」なのです。この寺は、角川地名辞典やグーグル検索でも出てきません。史料にも出てこない、私の知らない未知の寺です。こんな寺が中世の仲郡にはあったようです。
 研究者は「讃岐国仲郡善福寺御本願主」は「弘法大師」にかかる修辞句で「善福寺本願主の弘法大師」となるとします。善福寺という寺は弘法大師を本願主とする由緒をもっていたことになります。ここからは、願主は善福寺までは分かりますが、作られた本像がどこへ安置されたのかは分かりません。どうして、善福寺が大師本願寺だという由緒だけを書く必要があるのでしょうか。安置先が書かれないのは不自然です。
 研究者は、銘記の書き振りを再度確認し「讃岐国仲郡」「善福寺」「御本願主」の語句それぞれは間をやや離して記されていることに注目します。そして「讃岐国仲郡善福寺」「善福寺御本願主」と二つの語句を記すところを、「善福寺」の語が重なるのを避けたのではないかという「仮説」を出しています。そして「讃岐国仲郡善福寺、当寺御本願主」と理解し、弘法大師本願の善福寺が、自分の寺に安置したとします。しかし、この善福寺についてはこれ以上は分かりません。

造られた年については「文保三年(1319)己未正月十四日造立始之」とあります。
当時の仲郡や多度郡の宗教界の様子を年表で見ておきましょう。
1300 正安2 3・7 本山寺(現,豊中町)本堂(国宝),造営される.
1307 徳治2 11・- 善通寺の百姓ら,寺領一円保の絵図を携え,本寺随心院へ列参する
1308 延慶1 3・1 金蔵寺,火災にあい,金堂・新御影堂・講堂以下の堂舎が焼失する
   この年 僧宥範,善通寺東北院に入る(贈僧正宥範発心求法縁起)
1310 延慶3 3・- 善通寺蔵銅造阿弥陀如来立像,鋳造される.
1312 正和1 10・8 三野郡本山寺二天像,造り始める.130日で完成
1324 正中1 この年 白峯寺十三重塔.建立される.
1326 嘉暦1 この年 熊手八幡宮(現,多度津町)五輪塔,建立される.
1330 元徳2 4・8 僧隆憲,三野郡詫間荘内仁尾浦の覚城院本堂の再建
1336 建武3 2・15 足利尊氏,那珂郡櫛無社地頭職を善通寺誕生院宥範に寄進
1341 暦応4 7・20 守護細川顕氏,宥範に善通寺誕生院住持職を安堵
1338~42      善通寺誕生院宥範,善通寺五重塔などの諸堂を再興

すぐに気がつくのは、現在の四国霊場の本山寺の本堂が建てられ、二天像が造られるなど活発な造営活動を展開しています。それ以上に目立つのが善通寺です。14世紀の前半は、宥範が登場し、善通寺の復興を進めている時です。この弘法大師像が造られたのも、中世の善通寺ルネサンス運動の流れの中でのことのようです。

願主として「大願主夏衆 偕行慶 偕宗円」と記されています。
これについては、研究者は次のように読み取ります
①「大願主夏衆」は「偕行慶」「偕宗円」両者にかかるもので、どこの寺院に属する僧かは分からない。「夏衆」は寺院によって、夏安居の修行僧をさす場合と、諸堂に勤仕する堂衆などのうち、仏への供花の役割を担った偕をさす場合のふたつがある。
②両名は「大願主」であったが、ほか複数の願主もいた可能性もある。願文のいう、公家の安穏、武家の泰平、讃岐国、そして留守所も在庁も、郡、郷、庄内いたるところすべての安楽を願うといった内容は、多くの僧俗が願主となっていたからだと思える。
③本像の造立には、地域の多くの僧侶や信者が関わっていたことが考えられる。
そして、この像が作られた時には、体内に造仏に関係した人々の名を記した納入品などが入れられたと研究者は考えているようです。

4 松尾寺弘法大師座像5

 次にこの像を作った仏師について見てみましょう。
「大佛師唐橋法印門弟 法眼定祐 小佛師兵部公定弁」と記されます。しかし「定祐」「定弁」の二人の仏師については何も史料がないようです。四国内では「定」をがつく仏師として、嘉暦二年(1327)二月、金剛頂寺板彫真言八祖像の大仏師法眼定審がいます。彼は院保の師事してに従っての造像が知られ、院派仏師のひとりのようです。また、正応四年(1291)四月、禅師峯寺金剛力士像の仏師・定明がいます。しかし、二人共に「定祐」「定弁」との関連性はないようです。地方仏師として「定」の名を冠して活動した一派が、活動していたのかもしれませんが、現在の所は分かりません。

体内からは,木製の五輪塔が出てきました。
4 松尾寺弘法大師座像体内五輪塔4
四本出てきたのではありません。それぞれ別の角度から写しています。一番右側の正面に書かれた文字を見てみましょう。
まず上から梵字五字でキャ、カ、ラ、バ、ア)で、五輪法界真言で。東方のことのようです。
その下に
権大僧都宥盛逆修 善根 

とあります。宥盛と云えば、金毘羅さんの正史が金毘羅大権現の開祖とする人物です。現在の金毘羅宮でも、その功績をたたえて彼を神として、奥社に祀っています。奥社に祀られているのは、宥盛です。
  これが入れられたのは、いつなのでしょうか?
「右側面」には、梵字五字で北方と記され、その下に
慶長九(1604)年甲辰三月廿一日敬白

と記されています。宥盛の活躍した年代とぴったりとあいます。
 これはいったいどういうこと? どうして宥盛の名前が入った五輪塔がでてくるのでしょうか。
五輪塔と一緒に二つ折りにして収められていたのが次の文書です。

4 松尾寺弘法大師座像体内 宥盛記名4

  これも分かりやすい字体で、私にも読めそうな気がするくらいです。花押と重なっていますが、その上の二文字は宥盛と読めます。研究者は、先ほど見た五輪塔とこの文書の筆跡は同一人物だと判断しています。つまり、宥盛自筆の文書であり、宥盛の花押ということになります。ふたつは、慶長九年(1604)、空海忌日の3月21日に、金光院住職宥盛が書いたものにまちがいないようです。

木製五輪塔の納入文書にの内容を見てみましょう
 敬白真言教主大日如来両部界会一切三宝境界而
 奉採造弘法大師一鉢並三間四面御影堂一宇常山中古開山沙門権大
 僧都法印宥盛令法久住志深而偏咸端権現御前カタメ祈諸佛
 加被権現御前ヒレフス或時権現有御納受神変奇特顕ワル
 誠照不思儀一天是故一拝暫所望起叶悉地壹不崇哉不可仰
 々々々文爰貴賤上下投金銀弥財事春雨之閏似草木
 爰以僧都宥盛無比誓願ヲマシテ堂社佛閣建寺塔
 造佛像常山一カ建立畢如斯留授縁待慈尊成
 道春而已
   于時慶長九甲辰三月廿一口]常山中古開山沙門法印宥盛
                      (花押)
  奉供養佛舎利全粒二世安全所
これを入れたのは、先ほど見たように、象頭山金光院の宥盛です。
弘法大師像に奉採造(彩色)し、併せて三間四間の御影堂を山内に再建したとあります。その際に、宥盛自らが金毘羅大権現の御前で諸仏に祈ったようです。ここからは、弘法大師像が再興(本当は新建立?)された御影堂本尊として開眼されたことが分かります。「奉採造」とあるので、今の表面彩色は、この時に施されたようです。 

この像の足取りを整理しておきましょう
①弘法大師像は「文保三年(1319)」に仲郡の善福寺に安置
②慶長九年(1604)、金光院住職宥盛によって新しく建立された御影堂の本尊として再デビューした。その時にお色直しされた。
ということでしょうか。
次の疑問は、どうして、金毘羅大権現にやってきたのかということです
  「仏像は栄えるお寺に自然と集まる。それは財力のあるお寺なので、集まってきた仏さんたちのお堂をつくることもできる。いまの四国霊場のお寺が良い例ですわ」

というのが私の師匠の言葉です。この大師さんは、善福寺が廃寺となり、勢いの出てきた金光院に移ってきたようです。それが宥盛の時代であったという所が私には引っかかります。
 金光院の宥盛について「復習」し、ひとつのストーリーを考えます。
流行神としての金比羅神を造りだし、金比羅堂を建立したのは、長尾城主の弟と云われる宥雅でした。しかし、宥雅は長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命を余儀なくされます。変わって金光院院主の座についたのは、元親に従っていた土佐出身の修験者宥厳でした。土佐勢が引き上げ、宥厳も亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、堺に亡命していた宥雅は、後を継いでいた宥盛を生駒藩に訴えます。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束のできた金比羅堂のお金を送らない
②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、
③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。
④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
 宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。新興勢力の金光院が成り上がっていくためには、山内における「権力闘争」を避けることができなかったことは以前お話ししました。
 このような「闘争」の結果、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位が確立して行ったのです。宥盛の金光院を発展させるための闘争心を感じます。当時に「無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った」という宥雅の指弾からは、追放したり、廃寺に追い込んだ寺から仏像・仏具類の「財宝」を「収奪」したことがうかがえます。善福寺から奪ってきた弘法大師像を本尊として、新たな信仰施設を「増設」したのではないかとも思えてきます。
 当時の宥盛の布教活動は、非常に活発なものであったようです。金比羅神は何にでも権化する神なのです。それは、時として弘法大師にも権化したのかもしれません。

  大師堂は明治維新まで境内にあったようです。
志度の多和神社社人で高松藩皇学寮の教授であった松岡調が、金刀比羅宮に参詣したおりのことを『年々日記』に記しています。明治二年(1869)四月十二日条によると、神仏分離で神社化の進む境内を見て
「護摩堂・大師堂なと行見に内に檀一つさへなけれ

と記しています。ここからは大師堂はあったことが分かります。しかし、その中に安置されていた弘法大師像は、この時すでに外へ移されていたようです。「内に檀一つさへなけれ」と堂内は空っぽだったと伝えます。
 松岡調は、翌年には金刀比羅宮の禰宜に就任し、実質的な運営を彼が行うようになります。
明治5年5月になると、県にお伺いを立てて「入札競売を行い、売れ残った仏像・仏具は焼却処分にして宜しいか」と、問い合わせています。そして、県からの許可を得た6月末から仏像仏具などの競売が行われます。
松岡調の『年々日記』の明治5年6月から7月にかけては、次のような記述があります。(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕
6月5日 今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり
7月10日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ   
7月11日 御守所へものセり、十字(時)のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、

7月19日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、
7月21日 御守処へものセり、今日又商人つとひ来て、とかく云のヽしれハ、入札と云事をものして、刀、槍、鎧の類を金三十両にてうり、昨日庁へ書出セしを残置て、其余のか百幅にもあまれるを百八十両にてうり、又大般若経(大箱六百巻)を三十五両にて売りたり、今日にてワか神庫の冗物ハ、大かたに売ハてたり  
    
7月23日 御守所へものセり、元の万燈堂に置りし大日の銅像を、今日金六百両にてうれり

 ここには具体的に買手がついたものとして、次のようなものが挙げられています。
①梵鐘が、榎井村の行(法)泉寺へ227円50銭で
②両界曼荼羅が善通寺へ金20両で
③刀、槍、鎧の類が金三十両で落札され
④万燈堂にあった大日入来の銅像は金六百両で
 そして買い手のなかった仏像・仏具類は焼却されます。この中に、松尾寺の弘法大師像は入っていなかったのです。
どのようにして松尾寺にもたらされたのでしょうか?
①松尾寺が入札し、買い受けた
②混乱の中で密かに、松尾寺に運び入れた。
先ほどの入札売買リストの中に弘法大師像はありませんでした。それ以前に、すでに松尾寺に運び込まれていたのかもしれません。
最後に、この座像のたどった道をまとめておきます。
①14世紀に善福寺
②17世紀初頭に金毘羅大権現の金光院へ 
③明治の神仏分離で松尾寺へ
という変遷になるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 三好賢子 松尾寺木造造弘法大師坐像について
    県ミュージアム調査研究報告第2号 2010年

1丸亀城3

天正十三年(1585)、豊臣秀吉が四国を統一した時からが近世の始まりといわれます。秀吉が讃岐国を託した仙石氏と尾藤氏は、両者とも九州遠征に失敗し、短期間で罷免されます。
その後に生駒親正が天正十五年(1587)8月10日に讃岐領主としてやってきます。戦乱で荒廃していた讃岐国は生駒家によって、立て直されていくことになります。まさに讃岐の近世は生駒家と共に幕開けると云ってもいいと思うのですが、後世の評価は今ひとつ高くありません。それは、次にやって来る松平頼重の影に隠されたという面があるのではないかと私は思っています。

 生駒親正は、まず東讃の引田にやって来て城作りを始めます。
しかし、引田はあまり東の方に寄り過ぎると考えたのでしょうか、短期間で放棄して次候補を物色します。さてどこに城を築こうかと考え、宇多津の聖通寺山は狭過ぎる、丸亀はちょっと西に寄り過ぎ、由良山は水が足りないなどと考え、最後に決めた所が野原庄、現在の高松城がある所に決めたようです。この辺りのことは以前にお話ししましたので省略します。野原庄での城作りは天正十六(1588)年から始まったとされますが、近年の発掘調査から本格的な築城は関ヶ原の戦い後になると研究者は考えているようです。
  南海通記は、高松城は着工2年後の1590年には完成したとありますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままです。文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。天守台の解体修理に伴う発掘調査からは、大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と報告書は指摘します。つまり、入国して10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたと考古学的資料は示しているようです。織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は、関ヶ原の戦い以後に行われた可能性が出てきたようです。そして、同じように発掘調査から引田城も関ヶ原以後に、本格的に整備されたようです。
次に丸亀城がいつ築城されたのかを見てみましょう
   丸亀は、慶長二年(1597)に城の築城にとりかかったと「讃羽綴遺録」・『南海通記』・「生駒記」などに書かれています。これが現在の「定説」のようです。
年表で当時の政治情勢をを見てみましょう。
1590年天正18 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
1591年天正19 9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年文禄1 12・8 生駒親正・一正父子,5500人を率いて朝鮮半島出兵
1594年文禄3 生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
1597年慶長2 2・21 生駒一正,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣する
   春   生駒親正,一正と計り,亀山に城を築き,丸亀城と名付ける

 しかし、年表を見れば分かる通りこの時期は、秀吉の朝鮮出兵の時期と重なっています。多くの兵士が長期に渡って朝鮮半島で戦っています。軍事遠征費に莫大な費用がかかっている上に、親正や一正父子も兵を率いて遠征し讃岐には不在なのです。この様な中で、丸亀に新城を築くゆとりがあったのでしょうか。それに高松城も、まだ姿を見えていません。
 築城が急がれる軍事的な背景や緊張関係も見つかりません。 秀吉没後の慶長3年8月18日(1598年9月18日)以後に、東西の緊張関係激化に対応して築城したというのなら理由もつきますが、・・・・。
関ヶ原の戦い前後の生駒藩の動きを年表で見ておきます
1598年慶長3年9月18日)秀吉没
1599年 生駒藩の検地が始まる〔慶長7年頃まで〕
1600年慶長5 6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため従軍
 7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,
     騎馬30騎を参陣させる.
 8・25 生駒一正,岐阜城攻撃の手柄により,徳川家康より感状
 9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦する
 9・- 生駒親正,高野山で出家し家康に罪を謝る
1601年慶長6 生駒一正,家督をつぎ家康より讃岐17万1800石余を安堵
     生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280人を丸亀城下
     へ移住させる
1602年慶長7 生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1603年慶長8 2・13 生駒親正,高松で没する.78歳

弘憲寺(生駒親正夫妻 墓所)「香川県指定史跡」 香川県高松市 ...
生駒親正夫妻墓所(高松市弘憲寺)

  生駒家も真田家と同じように、父子がそれぞれ豊臣と徳川に別れて付いて、お家の存続を図っています。そのお陰で、一正は家康より讃岐国を安堵されます。そして、一正は丸亀城から高松城に移り、父に代わり正式に領主となります。
生駒一正 - Wikipedia
生駒一正

 この時に新領主となった一正に、家康が求めたこと何でしょうか。
それは、次の戦争に向けた瀬戸内海交易路の確保のための、海軍力増強と防備ラインの構築だったのではないでしょうか。周囲の姫路城や岡山城などの瀬戸内の城主は一斉に、水城の整備・増強を始めます。先ほど見たように発掘調査によっても高松城は、関ヶ原の戦い後に岡山城との同版瓦が使用されています。ともに、徳川時代になって作られているのです。姫路城には、強力な水軍基地があったことも分かってきました。この様な中で、生駒家は引田城の整備を行っています。丸亀に新城を築くとすれば、この環境下ではなかったかと私は考えています。ちなみに「讃羽綴遺録」では、丸亀城築城を関ヶ原の戦い後の、慶長7年としています。

生駒さんの丸亀城とは、どんな姿だったのでしょうか?
資料①「讃州丸亀城図」とある図面が生駒さんの丸亀城です。
1 丸亀城 生駒時代

 この絵図は、東京目黒の前田育徳会尊経閣文庫に所蔵されていたようです。「前田」と云えば、加賀百万石の前田家です。前田家の五代藩主前田綱紀が古今の書を広く収集し、それらの収集した書物を「尊経閣蔵書」といい、その文庫を「尊経庫」と呼んでいたようです。その中で、城絵図は有沢永貞という人が中心になって集めています。有沢は文武にすぐれていた金沢の藩士で、藩内にこの人に武芸を習わなかった者はいないとまでいわれていたようです。その人が絵図の収集にも精力的に動きました。そして、現在に伝わっています。

 丸亀城は亀山という山に築かれています。この山の岩質は輝石安山岩で、五色台や飯ノ山のと同じ系統の岩で、堅くて割れるとが非常に鋭い岩になります。
城図からは、次のような事を研究者は読み取っています。
①真ん中の黒く囲まれたのが郭一で、今でいえば本丸で、まん中に天守台があります
②図の左側が東で、天守台は入口が東向きにあり、今のお城と異なります。
③天守台を囲んだ郭一の南側から東側・北側にかけて二の郭が取り囲んでいます。
④さらに東側に郭があり、これが三の郭です。
⑤三の郭の南に続いて四の郭があります。四の丸は今はありません。
⑥二、三、四の郭があって、南西に大手門があります。
⑦三の郭の東北端と西北端から山麓へ石垣があり、北側の中腹くらいから平地になっており、ここが五の郭で、山下屋敷といわれた所です。
後に山崎さんによって、再築される丸亀城との比較は次回に行います。次に、お城ができた頃の丸亀城周辺は、どんな状態だったかを見ておきましょう。生駒藩お取りつぶし直前の寛永十七(1640)年「生駒高俊公御領讃州惣村高帳」を見てみましょう。
   鵜足郡
一 高百七袷貳石八斗八升      三浦
  高合 貳万貳千百六播八石四斗五升五合
 那珂郡
一 高四百六石八斗九升一合                  圓龜(丸亀)
一、高八百Ξ拾Ξ石四斗九升Ξ合    柞原
一 高八百三石八斗         田村
 鵜足郡の三浦は、予讃線の北側の西平山、北平山、御供所にあたる所です。ここで172石の米が取れたようです。そして圓龜(丸亀)には、406石余の土地があったと書かれています。今の丸亀の町は、お城周辺以外は、ほとんど田んぼだったということになりそうです。
 次の田村は現在の田村町で田村池周辺ですが、この村高が「八百三石八斗」とありますから、丸亀は、田村のほぼ半分くらの石高だったようです。
「讃岐国内五万石領之小物成」には「小物成」が記されています
小物成ですから雑税、米以外の税金になります。
  「銀子弐百拾五匁  圓龜村  但横町此銀二而諸役免許」

とあり、丸亀は215匁の銀を納め、これで横町は諸役を免除されていたことが分かります。また、
「米三石  圓亀村  但南条町上ノ町 此米二而諸役免許」
とあります。米三石を納めることで、南条町の上ノ町は諸役が免除されていたようです。それから「宇足郡之内」とある中に
一、干鯛(ほしたい)千枚  三浦運上
一 鰆之子百五拾腸     同所
とあります。三浦は先ほど見たように平山町や御供所のことです。ここからは干鯛と鰆の子が納められています。鰆の卵は、からすみにされて珍重されていたようです。江戸での贈答品にしたものでしょう。この地域が漁師町であったことがうかがえます。

亀山の小さな山の上に、お城が乗っていたのは、わずかの間でした。大坂夏の陣のあと軍事緊張がなくなると、幕府は一国一城令を出します。その結果、寛永初めころまでに丸亀城は廃城となったようです。
寛永4(1627)の8月に幕府隠密が讃岐を探索し、高松城と城下町の様子についての報告書が「讃岐探索書」として残っています。そこには高松城については、当時の状態が破損箇所も含めて詳細に絵図を付けて報告されています。しかし、丸亀城については、なにもありません。隠密にとって「報告価値なし」と判断したようです。関ヶ原の戦い後に、西国大名への備えとして作られた丸亀城は、ここに役割を終えたようです。
 ちなみに、この年の生駒藩の蔵入高は「9万4636石3斗4升,給知高12万63522石9斗8升」と報告されています。隠密は必要な情報を集めて、幕府に報告しています。ちゃんと仕事をしていたようです。
以上見てきたように、生駒さんは関ヶ原の戦い前後に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。讃岐への定住覚悟ができたのは関ヶ原後で、その時期から3つの城の工事が本格化したようです。
今回はここまでで、おつきあいいただき、ありがとうございました。

 1882年(M15)年12月30日の早朝に、大型ヨットが高松港にやって来ます。極東冒険旅行を行っていた英国の探検家ギルマールー行の船でした。彼が高松城で撮った4枚の写真を見てきました。今回は最後の1枚を見ていきます。
 
撮影場所の太鼓楼の位置と撮影方向を確認しておきましょう。

6 高松城 俯瞰図16

桜馬場の東南角に、当時あったのが太鼓櫓です。そこからカメラを南に向けて撮っているようです。そこには眼下の中堀は写っていません。中堀に面した侍屋敷が一番前面にあります。そして、侍屋敷の向こうに外堀があり外堀沿いに瓦町と常磐町が東西に伸びます。
写真は太鼓櫓から丸亀町方面(南側)を望んで撮影されています。
6 高松城 ケン写真2拡大4

研究者は、この写真を次のように分析しています。
①手前に写真には見えないが中堀に面した街路(御堀端)があり、その背後に武家屋敷が広がり、さらに外堀外側に町家と寺町が見える。
②背景中央には紫雲山がそびえ
③右手前に見える建物群は、江戸詰めの下級藩士の家族が住まう「江戸長屋」である。
④この屋敷地は旧大手門の前面にあたり、生駒家時代には重臣三野四郎左衛門や前野治太夫の屋敷があった。
⑤松平家に替わってからも藩主一族の松平大膳屋敷の東隣、重臣谷蔵人屋敷の西隣という重要な位置にあり、
⑥享保年間の「高松城下図」には「御用屋敷」と表記されている。
⑦絵図で「江戸長屋」と見えるのは、文化年間の「讃岐文化年間高松御城下絵図」が初見で、その後幕末を経て明治二十八年の市街地図を最終とする。
⑧おそらく元来は藩の重臣の屋敷であったものを、後に何らかの事情で藩が接収し、江戸長屋としたのであろう。
6 高松城 7

 つまり写真に写っているのは「江戸長屋」で、それはかつての重臣の広大な屋敷地であった敷地に街路を付けて分割して「長屋」化したものだというのです。
6 高松城 江戸長屋3拡大4

  研究者は、次に写真に写っている建物を平面図に起こします。
6 高松城 江戸長屋4

 写真の撮影内容と平面図を比較しながら次のように分析します。
①江戸長屋の北面(手前、図1-1・2)と南面(奥、図1-3)に長屋建物がある。北面の長屋建物は海鼠壁をもち、二棟が並んでいるが、西側建物(図1ー2)の妻壁に梁が露わになっており、柱に貫穴が見られる
②また東側建物(図1-1)の地形石が建物の外(西)側に飛び出すなどの不自然な点がある
 ここから前面の東西の長屋は、もともとは一棟の長屋建物であったと考えます。さらにこれらの建物は、かつてここが重臣の屋敷だった時に建てられたものを「転用」していると推察します。
 再度確認すると、生駒時代や松平時代初期のおおきな屋敷地が、後の時代に分割され、敷地内に街路通されます。この街路は幅三間程で、江戸長屋の中央部を屈折しながら南北に貫いています。また東西方向に細い路地が分岐します。その形状は明治28年の市街地図と一致するようです。
 平面図を見ると、街路の西側に土塀で区画された宅地が八単位(図1-a~h)あることが分かります。そこに主屋と付属屋が配されています。宅地の主屋には、草葺屋根が二棟(図1-4・5)見えます。そのうちの一棟(図1-4)は、瓦葺の庇を葺き下ろす「四方蓋造」です。草葺屋根は、南側の別の武家屋敷の主屋にも見えます。

6 高松城 江戸長屋2拡大4

 御堀端手前の街路には、五~六条ほどに盛り上げられた畝と作物が見え、畑として使用されているようです。畝の間には、石組みの井戸も見えます。
 おそらく敷地のまわりを囲む海鼠壁の長屋建物は、御用屋敷になった時に設置されたもので、その内側の建物のほとんどは江戸長屋の施設と研究者は考えているようです。確かに、建物の傷み具合から見ると、明治時代になって新築されたものではないようです。

武家屋敷の背後には、間口四間程度の町家が東西(左右)に続きます。
6 高松城 瓦町常磐町

外堀に面した町人地の片原町と兵庫町だ。写真には写っていないが、これらの町家の存在によって外堀の位置が想定できる。
と研究者は云います。規則的に東西に並ぶ町屋の存在から外堀の位置が確認できるようです。私には、もうひとつ分かりません。
また、次のようにも指摘します。
 これらに直交して、南北方向に連続する町家がある。周囲よりひときわ高く立派な町家が多いことから、城下の大手筋だった丸亀町と考えられる。第百十四国立銀行(現・百十四銀行高松支店の場所)はこの頃、既存建物を借りて営業しており、この写真のいずれかが該当するものと思われる。
 
同じように丸亀町通りの家並みも分かるといいます。 
丸亀町の北側(手前)のふたつ並ぶ二階建の洋館については、次のように云います

6 高松城 高松郵便局

 この2棟は丸亀町の北側延長上にあり、片原町・兵庫彫の町家よりもわずかに北側にあるため、外堀に架かる常盤橋よりも内側の旧武家地(内町)にあることが読み取れる。手前の建物は東(左)面に玄関庇があり、背後の建物も東(左)面にベランダがあることから、ともに東側をファサード(正面)としたことが分かる。つまり、常盤橋近くの街路西側に面して洋館が建っていたことになり、ほぼ現在の高松中央郵便局の場所に比定できる。(
 
 高松郵便局と考えられる洋館の細部については、次のように指摘します
①手前の洋館は漆喰塗りの外壁に寄棟屋根を乗せており、軒直下には分厚いコーニス(軒蛇腹)とデンティル(歯飾り)を巡らせている。
②外壁の四隅には付け柱か色漆喰による隅石がデザインされているようである。
③窓は床面から立ち上がる内開きのフランス窓で、その物外側に外開きの鎧戸(隙間が開いて通気性のある戸)が取り付けられている。
③背後の洋館は、正面側に深い軒を支える支柱が見え、ベランダを構成している。
目立つのが、その手前の白い大きな切妻屋根の建物です。
トタン葺きのようにも見えますが板葺だと研究者は云います。どちらにしても大きさの割には「簡易構造」のようにも見えます。よく見ると東(左)側の妻壁に四本の支柱に支えられた「櫓」が立ち上げられているようです。そうだとすると、この建物は芝居小屋と考えられます。内町には、明治14年に開業した芝居小屋・旭座があったといいます。その位置は
「常盤橋」「現在の高松郵便局のある場所」
とされていて、この建物の位置とほぼ一致するようです。自由民権思想家である中江兆民らがここで演説会を開き、明治を代表する俳優・川上音二郎が壮士芝居を演じたという旭座のようです。
 このように常盤橋周辺の内町や丸亀町には、郵便局や銀行、遊興施設(芝居小屋・料亭)などが姿を見せ、新たな市街地景観を作りだしていたことがうかがえます。
町家の遙か向こうに高い屋根の寺院建築が連なるエリアがあります。

6 高松城 法泉寺遠望


 城下町の南側の防衛ラインとして造られた寺町です。大きな本堂をもつ寺院に無量寿院・興正寺別院・法泉寺などがあります。写真にも寺らしい建物がいくつか見えます。寺町の一番西側の法泉寺の本堂が見えているようです。この寺は生駒家の菩提寺として作られ、広大な境内を持っていたことは以前お話ししました。
 また、旭座の遙か向こうに巨木が何本か立ち並んでいるのが分かります。これが現在の中央公園付近にあった浄願寺です。この写真が撮られた明治15年には、境内に香川郡役所と高松中学校が置かれていたようです。
「高松中学校の校舎本館は明治6年に建てられた二階建の擬洋風建築であるが、浄願寺の松林背後にかろうじて二階部分をのぞかせている」
と、研究者は教えてくれるのですが、私の写真ではそこまでは確認できません。しかし、逆に、そこまで映り込ませている写真家の技量は高かったということなのでしょう。

最後に、4枚の写真から見えてくる高松の街並みを見ておきましょう
6 高松城 ケン写真2拡大2

 町家は、本瓦葺・漆喰壁の塗屋造の中二階で、上の下横町に見られるような一階庇の高さを揃えた統一的な景観になっています。初代藩主松平頼重の時に高松城下町を描いた「高松城下図屏風」(慶安・承応頃)には板葺・土壁の平屋の町屋が続いていましたが、250年程の間に、瓦葺き、二階建てに変わってきたことが分かります。
6 高松城 江戸長屋5
「高松城下図屏風」の町屋は板葺き・平屋
この変化を後押ししたのは、享保三年(1718)の高松大火などの度重なる火災だったと考えられます。防火対策として塗屋造十瓦葺が当局から推奨ないし強制された可能性があるようです。
 城内の「東ノ丸」は、不思議な性格を持ちます。

6 高松城 ケン写真2
 東ノ丸は海側は、堅固に造られています。しかし、写真で見た通り町家と接する東面と南面は、低い石垣上に土塁があるだけです。多聞櫓は乗っていませんでした。これでは中堀を挟んだ北浜の町家からは、内部が丸見えだったはずです。北浜から東ノ丸北半部に入る枡形も形式的なもので、実戦性はありません。つまり、城下に対して「開放的な空間」のようにみえます。どうしてでしょうか?
 それは、ここにあった米蔵の運用上のためだったと研究者は考えているようです。
 年貢米の集積と上方への輸送のために港(内町港)が使われました。東の丸の作事舎は、資材や労働力の確保のため中堀を挟んだ町人地・北浜界隈との結び付きなくしては運用できなかったようです。そのために、隣接する港や町人地に対して開かれた構造を採らざるを得なかったのでしょう。そのために本来の軍事施設という性格が時代と共に薄れていったと研究者は考えているようです。

最後に4枚の写真から高松の「近代都市」への萌芽を探してみましょう
 明治期になって建てられた建造物が集中する地域は、次の3ヶ所でした。
①常盤橋周辺、
②内町港口から北浜恵美須神社にかけての地域
③東浜港口と八重垣新地、
それらの性格は
①は旧武家地の再開発であり、公共建築(高松郵便局)と商業施設の混在した街並みが形成されていました。武家地と町人地を繋ぐ常盤橋周辺が新たな市街地形成の求心力をもった地域であったことを窺わせてくれました。
②・③は港湾の開発で、
②では海運(汽船)・漁業(魚問屋・魚市場)の拠点、
③では新たな遊興地である遊郭が形成
されていました。汽船の寄航地である内町港は、江戸時代以来の港に「田中の波止」が加えられた程度で、ヒルー・ギルマールが乗ってきた大型ヨット(客船)は、沖合に停泊していました。
 ここからは、明治15年の段階では、汽船が安全に停泊できる泊地もなかったことがうかがえます。本格的な市街地と港湾の近代化は、第三次香川県が成立し、鉄道網と港湾がセットで整備されていく明治二十年代以降になるようです。

おわりに
 香川では、明治十年代の営業が確認できる写真師は1名しかいないようです。明治15年の高松では、写真自体が珍しいものだったのです。香川の写真師が野外で撮影した明治前半の写真は、ほとんど見つかっていないようです。これは、湿板で風景を撮影できる技術を持った写真師が香川にはいなかったためだと研究者は考えているようです。
6 高松城 天守閣1
 それに対して、幕末から明治前期にかけて、外国人向けに販売された写真は、数多く見つかっています。しかし、香川県内のものになると少なくなります。あってもほとんどは金刀比羅宮や寒霞渓など名所の写真です。
 今回発見された写真は、撮影年月日もはっきりしている上に、細かいところまではっきりと識別できます。これほど鮮明に高松城・城下をとらえたものは、今までにありませんでした。
 四枚の写真は、城郭を中心とする江戸時代の姿と、それを突き崩し始めた近代都市としての高松城下の姿が重なって写し込まれていました。

   参考文献
野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号2006年

        ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真―マーケーザ号の日本旅行
 
 1882(M15)年の年の瀬も押し詰まった12月30日の早朝に、見なれぬ英国の大型ヨットが高松港にやって来ました。この船に乗っていたのがケンブリッジ大学医学部を卒業した後に、ヨットでの極東探検を行っていたギルマールー行です。船には、高松城の「撮影」許可のための外務省の係官や横浜で活躍する写真技師も乗せていました。
 ギルマールたちは高松城で写真を撮ると、その日の午後には出港していきます。まさに、高松城を撮るためにやってきたかのようです。それでは、いったい何枚の写真を撮ったでしょうか?

6 高松城 ケン写真2

 4枚です。
桜馬場からの天守閣
桜馬場の太鼓櫓から屋島方面
天守閣からの屋島方面
太鼓櫓から南方面
の4枚だけなのです。それほど湿板写真を撮るのは、手間と労力が必要とされたが分かります。今であれば、スマホで何百枚も撮影したかもしれません。前回は、この4枚の写真の内で①の天守閣を見ました。今回は、残りの3枚を見ていくことにします。

6 高松城 
②桜馬場の太鼓櫓から屋島方面(クリックで拡大します)
  桜の馬場南東の太鼓櫓(現在は同地に艮櫓が移築されている)から屋島の方向(東)を望んで撮影されています。目の前に東下馬、左側に東ノ丸(作事丸)が見え、その背後に下横町・北浜町などの内町、東浜界隈が見えます。
現在の地図で位置を確認しておきましょう。
6 高松城 6

①東下馬は、現在の高松城への東入口である桜門の外側になります。駐車場になっているあたりです。かつてここは登城の際に、その家臣の供が控える所で、「腰掛」がありました。写真にはありません。撤去された後のようです。

6 高松城 ケン写真2拡大1

 堀端に植えられた松の大木は、東下馬の目印として江戸時代の絵図にも描かれていますが、一部は伐採されて石垣石材とともに積み重ねられています。
 東下馬の左側(北)の②中堀には、土橋が架かっています。これが東の丸(作事丸)と繋がる橋ですが、よく見ると、真ん中どころが壊れているようです。作事丸の南東隅には巽櫓がありましたが、櫓台が残るだけです。
③東の丸の櫓台手前の低い石垣上には、土塁があります。もともとは土塁の上に土塀があったようですが、そこには松の大木が何本も茂っています。これは、明治になっての変化ではないように見えます。江戸時代のうちに土塀は、撤去されていたようです。
6 高松城 ケン写真2拡大2
中堀の向こうは下横町・北濱町
 目を転じて、中堀の向こう側の町屋を見てみましょう。
この中堀が現在のフェリー通りになります。中堀の向こう側に見える町屋は④下横町のようです。この町屋について、研究者は次のように、述べています。
①町家は中二階で、軒裏の垂木を塗り込める塗屋造である。
②間口・屋根高にはばらつきがあるが、通りに面した一階庇は高さが揃えられており、統一的な景観がある。
③町家の表構えは店名か屋号を書いた障子戸を伴う開放的な町家と出格子窓が連続する閉鎖的な仕舞屋風の町家がある。
④仕舞屋風町家には、同一棟が均等割りされた長屋形式のものと、間口六同程度の大型建物がある。
  私には詳しくは分かりませんが、写真からは瓦葺きの2階建ての町屋が奇麗に並んでいるのが分かります。
中堀の雁木のある風景
 町家の前の中堀には、緩やかな勾配の石積みが見えます。大型石材の平坦面を揃えて法面として並べて、階段状になっています。⑤「雁木」(荷揚げ場)のようです。ここまで船が入り、荷物の積み下ろしを行っていたようです。雁木の後ろには、⑥材木や薪などが積まれています。この辺りは材木町として発展してきたことを、思い出させてくれます。
 これらの町家の背後に、北浜恵美須神社が見えるといい
「入母屋屋根をもつ拝殿の前面には唐破風の車寄せが突き出し、拝殿背後には一段高く本殿が立ち上がる。拝殿・本殿は、昭和二十年七月の高松空襲で焼失した。」
と研究者は記すのですが私には分かりません。
 
 北浜恵美須神社門前の街路を京(右方向)に進んだところには、東西主軸の長大な建物が見えます。平屋ですが軒は高く、道向かいの町家の棟高ほどもあり、かなり大型の建物のようです。明治28年の市街地図では⑦北浜材木町の魚市場となっています。この辺りは、鮮魚店も多かった所です。
6 高松城6 天守閣の展望pg
写真③ 三ノ丸御殿・東ノ丸・港
 本丸天守から屋島を望んで撮影されています。
手前から三ノ丸、北ノ丸、京ノ丸(米蔵丸)、北浜港界隈、京浜湊界隈が見えます。太鼓楼からの写真②と重なる部分がありますが、海(北)側の高い位置から撮影されているので、城内と港の様子がよくわかります。
三の丸御殿
 天守閣からは、三ノ丸の①御殿(披雲閣)が直下に見えます。写真では、雁行する建物が入り組んで組み合わされているのがよく分かります。
 御殿の正面中央(右側手前)には、式台と広間からなる②「御玄関」と、その背後の「黒書院」があり、これらの儀礼空間が表御殿の中心舞台になります。いずれも屋根は檜皮葺ですが・・・よく見ると檜皮がなくなって垂木と野地板が露わになっていて痛々しい感じがしてきます。
 このほか正面東側には、やや簡素な檜皮葺で本瓦葺の庇がついた「表坊主部屋」「大納戸」や、本瓦葺の「奉行部屋」・「年寄部屋」「大老部屋」などの役所並びます。 まさに権力中枢を構成する建物群です。
 役所の横には、本瓦葺の入母屋屋根に煙出しが付いた建物が異彩を放っています。これが③「御台所」で、その後に檜皮葺の「御料理間」があります。これら表御殿の背後に、中・奥御殿の殿舎が並びます。いわゆる殿様のプライベート空間にを構成する建物群で、平屋建の数寄屋なども見えます。
 全体としては屋根の傷みが目立ちます。玄関や役所・台所の出入口付近には、草が繁茂しています。建物としては、陸軍管理下でも使われずに放置されたままであったような感じがします。
6 高松城 ケン写真2拡大3
北の丸・東の丸 
 三ノ丸御殿の左後方に④北ノ丸が見えます。城外方向の東面と北面には石垣上に漆喰塗りの多聞櫓が巡らされ、その北東隅に鹿櫓が建ちます。また東ノ丸に接したところには、櫓門があります。
 東ノ丸は、海に接した北面だけ漆喰塗りの多聞櫓があり、北東隅に建つ艮櫓と北ノ丸との間を繋ぐ役割を果たしています。幕末の絵図では、艮櫓から南(右)側には土塁上に土塀があり、これが写真②に写された巽櫓へと延びていたと云います。しかし写真③では、写真②と同じ様に、石垣上の土塁上には土塀はなく、松の大木が生い茂っています。
内町港周辺
 更に遠くの場外を見ていきます。艮櫓北(左)側の海域には、内町港から延びる二本の波止が見えます。手前側は江戸時代からある波止です。奥側の小船が繋がれた波止は、旧藩士の田中庄八が明治13年に作った「田中の波止」(一文字波止)だそうです。田中は、高松に汽船を寄航させるために、私費を投じて全長136mの波止を造ったようです。 
写真の一番右手奥が八重垣新地で、そこに長大な建物が見えます。いったい何なのでしょうか?
研究者は、この1枚の写真から、つぎのような情報を読み取ります。
①周囲の波止との間に、柵らしいものがあり、港との間を隔てている。
②二階の階高が高く、板戸ないし格子戸を伴う部屋が並んでいるように見える。
③入母屋屋根の軒が長く伸び、戸の前は廊下(濡れ縁)になっている
④廊下沿いに座敷が並ぶような間取りである。
以上から、八重垣新地に立地するということから考えて、明治7年以降に建てられた遊興施設の可能性を指摘します。さらに長大な建物の南(右)側には、二階の高い和風建築(間口五同程度)が東西に軒を連ねます。窓の配置から、同じ規模の部屋が並列しているように見えることを加えて、遊郭の可能性を指摘します。明治当初に、ここにはおおきな遊郭があったようです。
 港周辺の船は、櫓を漕ぐ小舟が圧倒的に多いようで、帆船は港の沖合に二隻見られるだけです。このうちの一隻が、ギルマールのヨットのようです。
以上、天守閣と太鼓楼から当方の屋島方面をみた写真を「読み」ました。年の瀬の12月30日に高松城内で4枚の写真は日本人の写真技師臼井によって撮られたようです。そこからは140年前の高松城周辺の様々な情報が読み取れるようです。
参考文献
野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号2006年

   

 

 
6 高松城 天守閣2
今まで一番古いとされてきた天守閣の写真

2005(H17)年3月に、ケンブリッジ大学図書館が、高松城の写真を所蔵しているということが分かりました。それは、写真集の出版準備を進めていた平凡社より県立ミュージアムへの問い合わせがきっかけだったようです。問い合わせの内容は、同大学所蔵の写真のうち「名古屋城」というタイトルがつけられた写真があるが、高松城の間違いではないかというもので、合わせて「讃岐高松」というタイトルがついた写真3枚が送付され、現在の場所等が分かれば教えてほしいというものだったようです。
 「名古屋城」というタイトルが付けられた写真は高松城天守閣の写真であり、残り3枚は高松城内から城下を撮影したものと分かりました。明治初期の高松城天守閣の写真は、それまで一枚しか見つかっていませんでした。
6 高松城 4

1882年の高松城の天守閣から見ていくことにしましょう。
テキストは「野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年」です
 
6 高松城 天守閣1
 三ノ丸外側の曲輪・桜の馬場の桜門のあたりから本丸天守を撮ったものです。今まで知られていた写真と同じ方向・角度で撮られています。三層四階地下一階の天守です。外壁の白い漆喰のはげ落ちている所も同じです。ここからは、ふたつの写真は、ほぼ同じ時期に撮影されたことが分かります。
 研究者は次のように指摘します。
「最上階(四階)の東面南隅外壁と、二階東面北側の連子窓周辺の漆喰損傷状況を見ると、従来の写真の方がケンブリッジ大学の写真よりもわずかに剥落が進行していることが分かり、先に撮影されたようである。」
ということで、高松城天守閣を写した一番古い写真となるようです。
この写真からは、次のような特徴や状態が見て取れるようです
①初層が石垣から大きくせり出していること、
②三層の四階が三階よりもはみ出す「南蛮造」であること
③初層・二層の軒裏には軒と壁を斜めに架け渡す方杖で、
④四階の飛び出した床は二段に重ねられた片持梁で支えられている
⑤外壁は漆喰が剥落し、初層には小舞が露出している箇所もある
⑥大棟がへたっている以外は軒の歪みも少なく、構造自体はさほど老朽化していない
天守の西側に重なって見えるのが本丸です。
ここには、地久櫓などと天守を連結する多聞櫓が巡っていたと云われます。しかし、写真の左端に見える本丸南東隅には多聞櫓はありません。天守曲輪手も見えません。そこには、草が生い茂っています。明治になって、破却されたようです。
 また天守台右奥に見えるニノ丸東面には、石垣上に漆喰塗りの白い土塀が見えます。しかし、それも奥(北)側の黒櫓に近い箇所では倒壊したまま放置されているようです。 研究者は
「このほか、ニノ丸北西隅に建つ二層の廉櫓がおぼろげながら見える。」
と云うのですが私には分かりません。

6 高松城 天守閣3
現在の天守閣跡の石垣 

この写真を撮影した英人旅行家ギルマールは、『旅行日誌』の中で、高松城の荒廃ぶりに強い興味を示しています。この写真からも天守閣の壁や披雲閣の屋根など老朽化が見て取れます。桜馬場も草や芝木が伸び放題です。ギルマールは
「草木があまりにも生い茂っているので、我々は道に迷ったほどである」
と記しいます。大がかりな撮影道具を持って歩くのは難しく、機材を設置して撮影が出来る場所も限られたようです。
 明治を迎えた時にすでに老朽化していましたが、陸軍が使用しなくなって以降、さらに荒廃が進んだようです。
 この写真が撮影されたのは明治15年ですが、その2年後の明治17年には取り壊されます。三ノ丸御殿が取り壊された時期については分からないようですが、この写真には写っていますから明治15年まではあったことが確認できます。天守閣と同時期に取り壊されたと考えられます。

6 高松城 天守閣1
 
この写真の右側の石垣上に見えるのが三の丸の多聞櫓のようです。
写真には入っていませんが、多聞櫓はさらに右側に伸びて三ノ丸正門である桜御門に繋がっていました。
「節子下見板の外壁と垂木を波形に塗り込んだ軒裏は、桜御門と同じ」

と研究者は指摘します。多聞櫓は、三の丸南東角の龍櫓を起点に北と西に延びていたようです。
6 高松城6 天守閣3

 私が興味があるのは実は、お城よりもこれを撮した人たちです。
どんな人たちが、どんな目的で高松までやってきて、この写真を撮ったのでしょうか。今ではスマートフォンの普及で写真撮影は日常化していますが140年前には、写真撮影は高度な最先端技術でした。この時期、日本ではまだ乾板が普及していなくて、湿板がつかわれていたようです。これには、撮影器具が数多く必要でしかも大型です。そのため野外撮影は事実上はできなかったようです。そのためギルマールが高松城で撮った写真も4枚だけです。
 4枚の写真がどのようにして撮られたのか見ていくことにします。
高松城天守閣を撮した写真は、ヒルー・ギルマール(1852~1933)が、ケンブリッジ大学地理学部に寄贈したものです。
 彼はケンブリッジ大学で医学博士の学位を取得しますが、医師にはならず、旅行家、博物学者、地理学者として世界各地を旅行し、後半生は地理学関係の出版・編集などに携わったようです。
 彼を旅行家として有名にしたのが、30歳の時に自前のヨット・マーケーザ号での冒険旅行でした。その旅行記『マーケーザ号のカムチャッカおよびニューギニアへの巡航‥台湾、琉球およびマレー群島の記述を含めて』が高く評価されます。彼は『旅行日誌』をつけ、家族などに宛てた手紙も保管するように依頼しています。ここからは最初から旅行記として出版するつもりで、詳細な記録をしていたようすがうかがえます。このため日本旅行中に撮影された写真の撮影場所や撮影日が特定できます、このことが、写真の持つ史料的価値を非常に高いものにしていると研究者は考えているようです。

ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真 マーケーザ号の日本旅行の通販/臼井 ...

彼の記録からその足取りを追ってみると、次のようになります
1回目は、明治15年6月28日から琉球滞在を経て、7月4日から29日間マーケーザ号を横浜に碇泊させ関東近辺を旅行、その後函館を経てカムチャッカ半島に向かって出港するまでです。
その行程は横浜をスタートして、宮ノ下、箱根、吉田、河口湖、甲府、昇仙峡、甲府、鰍沢、身延山、富士川、蒲原、鎌倉、横浜と廻っています。
2回目は、カムチャッカから
9月27日 函館に戻り、
10月6日 横浜に至る。
そして東京から日光、下諏訪などを経て名古屋に至り、伊勢、和歌山を経て、神戸に碇泊し、その間京都・奈良・大阪を回り、瀬戸内海へと進みます。高松に立ち寄った後に宮島、松山を経由して九州に向かい、伊万里・長崎・熊本を回り、
翌明治16年1月31日に長崎から中国に向けて出発するという行程です。さすが英国の貴族の「冒険旅行」です。当時の日本人の残した、こんな旅行記や冒険記はありまでん。
2度目の日本滞在中に立ち寄った場所は次の通りです。
横浜、東京、宇都宮、日光、妙義山、碓氷峠、下諏訪、飯田、時又、天竜川、二俣、名古屋、瀬戸、横浜、伊勢、勝浦、那智、大島、神戸、京都、琵琶湖、奈良、神戸、高松、宮島、松山、伊万里、長崎、熊本、阿蘇山、栃木、長崎を訪れています。
   高松への寄港は2度目の滞在中に神戸から宮島へ向かう途上のことだったようです。
 全ての場所で撮影しているようではありません。写真として残っている被写体は、次の通りです。
第一国立銀行、増上寺、不忍池、浅草寺、吹上御苑、鎌倉大仏、鶴岡八幡宮、富士屋ホテル、東照宮、名古屋城、伊勢神宮、京都御所、西本願寺、三十三間堂、方広寺の梵鐘、清水寺、東大寺、興福寺、春日大社、大阪城、高松城、厳島神社、伊予松山城、熊本城
  これらは、ギルマールが撮影したものと私は思っていました。ところがそうではないようです。
日本人の写真技師を雇い入れて、同行させているのです。
 ギルマールの旅行に随行したのは、横浜の写真師臼井秀三郎です。
彼の正確な生没年は分かりませんが、伊豆下田の生まれで、同じ下田出身で、文久二年(1862)に横浜で写真館を開業した下岡蓮杖の弟子です。臼井は、師匠の下岡蓮杖より写真術を学び、遅くとも明治8年には横浜で開業していたことが分かっています。
 臼井がギルマールの旅行に随行することになったきっかけは、ギルマールが初めて横浜に上陸した際に、琉球で撮影した乾板の現像を写真館スティルフリート&アンダーセン(日本写真社)に依頼したことから始まります。この写真館の写真師ジョンー・ダグラスは、臼井に写真術を教授した人物です。臼井を雇用した経緯の詳しいことは分かりませんが、乾板の現像を依頼したことをきっかけに、ギルマールが日本人写真師を求めていることを知ったダグラスが臼井を紹介したというストーリーが考えられます。
 帰国後の出版を考えていたギルマールが、日本の写真を大量に持ち帰るためには、日本で写真師を雇う必要がありました。そうすればギルマールにとって、自分の仕事を軽減し、質の高い写真を手に入れることができます。一方、外国人向けに、日本の名所写真を販売していた臼井にとっては、販売できる写真の種類を増やすチャンスです。両者にとって悪い話ではありません。
 
ヨットで高松にやって来た

6 高松城6 天守閣の展望pg
高松城天守閣からの屋島方面の展望 ギルマールの大型ヨットが停泊中

こうして年の瀬も押し詰まった明治15年12月30日の早朝に、神戸からギルマールー行を載せたヨットが高松港に到着します。そして『旅行日誌』の中で、高松港出発時刻を2時30分と記していますので、高松滞在は数時間程度だったようです。その大部分は撮影にかけられたのでしょう。同行した写真技師の臼井は、湿板の技法で撮影したと研究者は考えているようです。
アウトプットの手段として写真を意識する - ミニ企画展「はい、チーズ ...
この撮影技法は、よく磨いた透明なガラス板にコロジオンを塗布し、それを硝酸銀に浸して感光性を持たせ原板とします。乾燥すると感光性がなくなるため、濡れているうちに撮影・現像を行わなければなりません。野外での撮影には、薬品や暗室を携帯する必要があり、かなりの労力と技術が求められます。そのため、野外の建物などを撮った写真は非常に少ないようです。
湿板 乾板 鶏卵紙 白金紙 ピーオーピー ブロマイド紙
 ギルマールたちのヨットには、神戸から外務省の野口と小林という人物が同行していたようです。イギリスから日本へ向かうギルマールー行が、シンガポールで、駐オランダ公使の勤務を終えて帰国途中の長岡護美と知り合い、日本旅行中に役立つ紹介状のようなものを書いてもらっていました。 高松城の写真撮影の際にも、仮に陸軍や県の管理が厳しくとも、外務省の役人が二人も同行してれば、城内への立ち入りや、天守閣や櫓からの撮影も現地の許可が下りたのでしょう。
 『旅行日誌』には、撮影が終わった後に、
「骨董品をいっぱい積み込んで高松を出発した」
「我々が出かけるところはどこでも群れをなした」
とあり、ギルマールたちが、城下を歩き、骨董品を買い集めた様子がうかがえる。しかし、城下で撮影された写真は残っていません。臼井らが同行しなかったのかもしれません。

6 高松城4 天守閣3

最後に、当時の高松城の置かれた状況を見ておくことにしましょう
 高松藩は、1870(M3)年9月に、早くも老朽化した城郭楼櫓の撤去を願い出ています。翌年の4月に再度願い出て許可を得て、壊す前に最後に城内を一般公開しています。
これで建物が壊され撤去されていれば、更地になっていたはずですが、そうはならなかったようです。城内の建物を取り壊す前に廃藩置県を迎え、1871年8月、高松城は兵部省に移管されます。そして、大阪鎮台第二分営が城内に設置されることになったのです。
 2年後の1873年には、鎮台配置が改められ、全国に六鎮台十四営所が設けられます。このときには、高松の大阪鎮台第二分営は廃止され、丸亀に営所が設置されることになります。営所指定されなかった高松城郭は廃城とされ、入札による払下げが行われることになります。
高松城は営所とされなかったのに、廃城にはならなかったようです。どうしてでしょうか?
 これは、丸亀への移転に時間がかかったためのようです。丸亀営所が完成し、高松から丸亀へ軍隊が移転したのは翌年の1874年12月になります。そして、1875年8月に、丸亀歩兵第十二連隊が編成されます。そのうち第三大隊は、1879年6月まで高松に分屯します。
 以上見てきたように、高松城の天守閣や櫓は、明治初頭に老朽化による取り壊しが決定していたのに実行されずに、その後1879(M11)年まで陸軍によって使用されていたようです。
 ギルマールが訪れたのは、その4年後のことになります。つまり、陸軍が去って無人の施設で管理もされずに放置されて4年経っていたのです。桜馬場に草木がぼうぼうと茂っているのも納得がいきます。

 日清戦争を前にした1889(M21)年5月、鎮台制度は師団制度に改編され、全国18ヶ所に連隊所在地を指定します。このとき、陸軍省の管轄とされた22の城郭以外は、払い下げられることになります。高松城は、旧藩主松平頼聡に払い下げられます。
 松平家へ払い下げ後も、しばらくは放置されたようです。
 1902(M35)五年に、初代藩主頼重を祭る玉藻廟が造営され、同年桜の馬場を中心に第八回関西府県連合共進会が開催されます。その翌年に松平家の家督を相続した頼寿は、高松城を整備し、積極的に活用することによって、旧領地における基盤を確立する方向を示します。こうして前時代の遺物となってしまった高松城は、旧藩主である松平家に払い下げられた後に、再び利用の道が開かれることになります。
 ギルマールたちが見た高松城は、陸軍による使用も終え、利用価値をすべて失い、打ち捨てられた、最も荒廃した時期の姿だったようです。
 参考文献
野村美紀・佐藤竜馬
明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について
香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年


神櫛(かんぐし)王墓 : 四国観光スポットblog

 天皇・皇后や皇子などの墳墓である「陵墓」は全国で894基あるそうです。香川県にあるのは崇徳天皇の白峯陵だけとおもっていたのですが、もうひとつあるようです。それが神櫛王墓のようです。崇徳天皇は保元・平治の乱での讃岐流配や怨霊のトップスターとして有名で、その陵についても西行の『山家集』や上田秋成の『雨月物語』などに出てきますので知名度は高いようです。
 これに対して神櫛王は、どうでしょうか。ほとんどのひとが知らないのではないでしょうか。
神櫛王墓 | 眩暈の森
『日本書紀』には第21代の天皇の景行天皇の皇子の一人として「神櫛皇子」と記されています。また讃岐国造の始祖とされていますが、その事績などの記録が全くありません。そのため彼が讃岐の古代史を語るときに登場することはほとんどないようです。
 陵墓に指定されている神櫛王の墓とされるものは、高松市北東部の高松町と牟礼町の町境にあります。
全長約175㍍の小さな山全体が墓とされ、北・東部には濠状の窪みがめぐり、頂部に四角錐状に石が積まれています。ここはもともとは「大墓」と呼ばれていました。それが明治になって、手を入れられ「神櫛王墓」とされます。
どうして、ここが神櫛王の墓になったのでしょうか?
讃岐の食文化ゎ日本一ィィィィッ!:【古高松学】その7 ♢「神櫛王墓 ...

古代の史料において神櫛王がどのように記されているかを、見ておきましょう。
 神櫛王(神櫛皇子・神櫛別命・神櫛命、死後は讃留霊王)は、景行天皇の皇子とされ『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』などにその名が見えます。『古事記』と『日本書紀』とでは母も、始祖伝承も次のように異なります
①『日本書紀』は讃岐国造の始祖
②『古事記』では木国及び宇陀の酒部の祖
 讃岐国造に関しては、『先代旧事本紀』「国造本紀」には軽嶋豊明朝御世(=応神天皇(景行天皇の二代後)の時代に、神櫛王の三世孫である須売保礼命を定めたとあります。
 古代の天皇等の陵墓に関しては、『延喜式』「諸陵寮」に神武天皇から光孝天皇までの歴代天皇・皇后等の陵七十三基、皇子・皇女等の墓四十七基が記されていますが、この中に神櫛王の墓は出てきません
 紀記の神櫛王について確認しておくと次のようになります
①紀記の両者の記述内容に大きな違いがあること
②書かれているのは「系譜」で、治績は一切ない
③墓についての記述もなし
 神櫛王の父とされる景行天皇は『古事記』・『日本書紀』では十二代天皇となっています。十代は初めて国を治めた天皇として書かれている崇神天皇で、十六代は中国の史書に見える倭の五王の「讃」とされる仁徳天皇です。
讃岐国造から考察 ① | コラクのブログ

景行天皇は、この二人の間の四世紀中頃の人物ということになります。彼の崩御干支は『古事記』・『日本書紀』に書かれてはいません。さらに「大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ)」という和風謐号は、後世に作られた可能性が高いことから、現在の古代史研究では実在が疑問視されている人物のようです。父が実在しなかったとなると、皇子である神櫛王もいなかった可能性も出てきます。また、この時代の陵墓なら大型の前方後円墳が想定されますが、ここからは埴輪などの遺物は一切見つかっていません。この丘は古墳ではないようです。
 神櫛王について触れている古代の関係史料を、確認しておきましょう。
①『日本書紀』景行天皇四年二月甲子条
 次妃五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。其の兄神櫛皇子は、是讃岐国造の始祖なり。
②『古事記』景行天皇条
 吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶して、生ませる御子、櫛角別王、(中略)、次に神櫛王、(中略)其れより余の七十七王は、悉に国国の国造、亦和気、及稲置、県主に別け賜ひき。(中略)、次に神櫛王は・・・
③『先代旧事本紀』「国造本紀」
 讃岐国造 軽嶋豊明朝御世、景行帝見神櫛王の三世孫須売保礼命を国造に定め賜う。
④『先代旧事本紀』「天皇本紀」景行天皇条
次妃五十河媛神櫛皇子を生めり。次稲背入彦皇子。(中略)
  神櫛別命悶四。稲背人彦命。(中略)
  五十河彦命諸叶心。(中略)櫛見皇命詣。
⑤『新撰姓氏録』和泉国皇別
 酒部公 讃岐公と同じき祖。神櫛別命の後なり。
⑥『新撰姓氏録』右京皇別下 
 讃岐公 大兄彦忍代別天皇の皇子、五十香彦命船勁の後なり。続日本紀に合えり。
⑦『続日本後紀』承和三年(八三六)三月戊午条
 外従五位下大判事明法博士讃岐公永直、右少史兼明法博士同姓永成等合わせて廿八姻、公を改めて朝臣を賜ふ。永直は是れ讃岐国寒川郡の人なり。今、山田郡の人、外従七位上同姓全雄等の二姻と、本居を改め、右京三条二坊に貫附す。永直等の遠祖は景行天皇第十の皇子、神櫛命なり。
⑧『日本三代実録』貞観六年(八六四)八月条
 右京の人、散位従五位上讃岐朝臣高作、右大史正六位上讃岐朝臣時雄、右衛門少志正六位上讃岐朝臣時人等に姓を和気朝臣と賜ふ。其の先は景行天皇の皇子神櫛命より出づるなり。

神櫛王について触れている平安時代までの史料は以上です。ここからは神櫛王について記されているのはその系譜だけで、具体的活動や墓については、なにも書かれていないことが分かります。
 ところが江戸時代になると、彼の住んでいたところやその墓の場所まで記した歴史書が出てきます。
今度は近世の資料を順番に見ていきましょう。

6 讃岐国大日記
『讃岐国大日記』
 慶安四年(1651)までのことを編年体形式で記した讃岐の歴史書で、石清尾八幡宮祠宮である友安盛員によって承応元年(1652)に書かれたものです。この書は、多くの写本が伝わっていて、『香川叢書』第二にも載せられています。
 また、これとは別に歴博に五冊の写本が保管・所蔵されているようです。これらについては資料番号を用いて「歴博914号本」、「歴博915号本」「歴博916号本」、「歴博617号本」、「歴博27号本」と便宜的に呼ばれているようです。
 これらの記された神櫛王に関する事項は次のようになります
①叢書本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。讃留霊公五代孫日向王阿野北条阿野南条郡境国府依令居住給、彼両郡号綾郡」
②歴博九一四号本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
③歴博九一五号本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
④歴博九二(号本 景行天皇条
 日本紀曰、神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
⑤歴博五一七号本 景行天皇条
  同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。皇子、讃岐国造之始祖也。日本紀日、讃留霊公五代孫日向王阿野北條阿野南條郡境国府依令居住給、彼両郡号綾郡卜云云。

ここまでの5冊は、神櫛王に関する記述が景行天皇条のみで、シンプルで、記述内容に大きな変化はありません。内容が変わってくるのは次からです。
⑥歴博二十七号本
 景行天皇条
  同帝神櫛皇子、父景行帝、母五十媛。此皇子、讃岐造之始祖也。大系図景行帝妃五十媛、生神櫛皇子稲背人彦皇子。其兄神櫛皇子、是讃造始祖。弟稲背入彦皇子播磨国別始祖。
  讃岐公系図
 是ヨリ絶諸家ノ譜中、而不分明。後ノ人考侯ツ。山田、三木、寒川、改公賜朝臣家廿八畑其大後家尚多。植田、三谷、十河、一姻別同。
 仁明天皇条
 同帝承和三年三月十九日(中略)
永直等遠祖景行天王十七皇子神櫛命見続日本紀神櫛王被封讃岐造、止住山田郡。陵在牟礼高松間謂王墓(後略)
⑥の歴博27号本には仁明天皇条も加えられ、神櫛王の子孫や墓の位置まで加筆されています。時代が下るにつれて、記事が加えられるのは、何らかの意図があってのことです。この本は加筆が進んだ「異本」とも呼べるものです。しかし、神櫛王墓についての世間の見方がどう変化してきたかを見る上では、注目される資料です。

なんでも鑑定団では、「箱書きが大事だ」とよく言われます。古書もその伝来が問題になります。
これら諸本の「伝来」を、研究者は次のように確認します。
①の「歴博914号本」は高松藩松平家の伝来で、書写年代は分かりませんが「考信閣文庫」という押印があります。考信閣は第九代高松藩主松平頼恕が、天保六年(1835)に梶原藍渠の『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要紀』)の正確を期すために西の丸に建設した建物で、翌年正月には「考信閣文庫」という銅印が作られたようです。その印が押されているので、この書が高松藩で保管されていたことが分かります。伝来のはっきりした信頼がおける書物です。
②の「歴博915号本」も高松松平家の伝来で、表紙に「中山城山書入本」と記された付札があり巻末に城山の践文があります。中山城山は『全讃史』を著した人です。彼が持っていた本のようです。
④の「歴博916号本」は本奥書に、本文と同筆で「承応元年仲春日 石清尾神主 従五位下藤原盛員謹書 讃岐国大日記巻終」と記され、奥書は本文とは異筆で「享和二年中山氏隆助写之」とあります。中山氏隆助については分かりませんが、享和二年(1802)に書写された本のようです。
⑤の「歴博517号本」は奥書がなく、年代は分かりません。
そして、問題の⑥の「歴博27号本」です。この奥書には
「寛政六寅龍集 晩冬三日書畢 美作屋清兵衛」
とあります。この美作屋清兵衛については何も分かりません。伝来がはっきりしない怪しいと思われる本になります。

 次に、これらの書物の記述内容を見てみましょう。
 歴博27号本の奥書を史実とするならば、本書ができた承応元年(1652)以後、美作屋清兵衛によって寛政六年(1794)に書写されるまでの約140年間の間に、大幅な加筆がなされたと推定できます。この間には、いくつもの地誌・歴史書が作られています。
それらと比較すると
①景行天皇条の記載は『南海通記』からの引用
②仁明天皇条の内容は「三代物語」『翁堰夜話』の引用
して「美作屋清兵衛」が加筆したと研究者は考えているようです。南海通記の影響力やおそるべし!です

 歴博27号本のもつ意義は、その内容よりはむしろ、神櫛王に関する認識が18世紀末には、このような形として定着しつつあったことを示していることにあるのかもしれません。
讃岐府志 2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
2 『讃陽箸筆録(讃岐府志)』
 この書は延宝・天和年間(1673)頃に、高松藩儒臣七條宗貞によって讃岐の歴史・人物・陵墓などについて書かれたものです、神櫛王については
「神櫛、為国造祖、或曰、景行之皇孫」
と記載されているのみで、陵墓の項には何も触れられていません。
Amazon.co.jp: 南海通記eBook: 香西成資, 竹田定直: Kindleストア

4 『南海治乱記』 ・ 『南海通記』
 両書とも香西成資によって著された四国を中心とした軍記物です。『南海治乱記』は、成資が幼少の頃から聞き知った話を歴史的に配列し、寛文三年(1663)に執筆したもので、刊行は半世紀後の正徳四年(1714)になります。
 一方『南海通記』は『南海治乱記』の巻初に、四国における歴史や系譜など三巻を加えるとともに、他巻も増補し、宝永二年(1704))に一応完成しますが、白峰寺に奉納されたのは15年後の享保四年(1719)になります。
 最初に書かれた『南海治乱記』には、神櫛王は出てきませんが、後になって加筆された『南海通記』には巻之二の旧姓考に「讃岐山田郡神櫛王記」という一項が入れられ、次のように神櫛王を登場させています。
日本書紀曰、景行天皇、妃五十河媛生神櫛皇子稲背入彦皇子。其兄神櫛皇子是讃岐国造之始祖也。弟稲背入彦皇子是播磨別之始祖也。
  6 神櫛王系図

  上のような系図を入れて、次のように解説します。
神櫛王は讃岐国山田郡に封ぜられ屋島の浦に止まり、その後讃岐ノ君と称したと世に伝えられているが、成務天皇四年に国郡に長を立て、県邑に首を置くとあることから、この時に神櫛王は山田郡に封ぜられ、政務を執ったのである。
 『続日本後紀』承和三年の記事に見えるとおり讃岐公永直・永成ら二十八個が神櫛王の子孫である。そして山田郡植田郷は地勢堅固で土地は豊かであるから、一姻はここに居を定めて代々住み、その後裔が分かれて神内、三谷・十河の三家となったのである。 

この『南海通記』の記載から、戦国時代から江戸時代にかけて神内、三谷、十河の三氏がその始祖を神櫛王と称していたことがわかります。山田郡に封ぜられ屋島の浦に止まったという伝承も、この三氏の祖先伝承として語られていたものを、成資が聞き取り『南海通記』に書き込んだようです。
 
しかし、ここでも神櫛王の墓については、何も出てきません。
『南海治乱記』巻十二「阿讃考」及び『南海通記』巻十五「阿讃考三」の「元親自阿州来讃州記」に次の記述があります。
 高松ノ東二大陵アリ 何ノ王ノ陵卜云コトヲ知ラズ
其傍二佐藤継信ヲ葬リタル塚アリ
 そばにあるという佐藤継信の墓は、現在では高松市屋島東町と高松市牟礼町(神櫛王墓の南東50㍍)の二ケ所にありますが、前者は寛永二十年(1643)に松平頼重が新たに造らせたもので、後者も現在地の西に接する平田池の位置にあったとされているようです。池と神櫛王墓は隣接していますから、ここに出てくる大陵が現在の神櫛王墓の丘陵を指すようです。
 この記述は、長曾我部元親が天正十一年(1583)讃岐を攻めた際に、法橋という僧侶が元親に屋島近辺の説明をしたものです。ここからは、戦国時代末期には、地元では王の墓という意識はあったものの、その被葬者が誰であるのかは分かっていなかったことがうかがえます。そして、この逸話がそのまま採録されています。成資が『南海治乱記』を書いた時にも、被葬者は未定であったのです。被葬者が神櫛王という伝承があれば、必ず書いたはずです。
6 神櫛王三代物語jpg

 『三代物語』『翁嘔夜話』
 この書は、神櫛王墓について最初に書かれたものです。『三代物語』は増田休竟によって明和五年(1768)にできた地誌で、郡ごとに神社・名所等についてその歴史・由来などが書かれています。著述の経緯については、増田休意、増田正宅(休意の父)、菊池武信(休意の祖父)の三代が、見聞してきたもののうち重要なものを数百件集めて三巻となしたという断りがあります。
 一方、『翁嘔夜話』は、休意の弟である菊池武賢が延享二年(1745)に完成させたものです。内容は讃岐の地誌で『三代物語』と重なる所が多いようですが、古代から高松藩五代藩主までの歴史が加わっている点が大きな違いです。著述の経緯については、休意の父が書き記し、休意もまた父の意思を継ぎ記録を続けてきました。ある日休意は、弟の菊池武賢のところに今までの記録類を持ち込み校合するように依頼し、武賢は断れずに引き受け完成させ、これに休意が『翁躯夜話』と名付けたというものです。しかし、この本にはそれまで書かれていなかったことが、あたかも古くから云われてきたように紛れ込まされていることが多いのです。要注意の資料です。

6神櫛王4

 その中で神櫛王墓に関する記載は「歴代国司郡司村主田令」の条に次のような内容があります。
①神櫛王が郡司として山田郡を治めたこと、
②その墓は三木郡牟礼郷にあり王墓と呼ばれていること
が簡潔に書かれています。
 神櫛王が山田郡に居住したということが記されたのは『南海通記』に初めてでした。それが広まっていったようで、さらに「発展」してこの書では牟礼の王墓が神櫛王のものとされるようになります。
わざわざ「青墓・大墓」は王墓の転誂だとわざわざ説明しています。王の墓であることを改めて強調する効果をねらったようにも見えます。ここからは、この古墳が当時は青墓と呼ばれていたことが分かります。
 
 現在の神櫛王墓は、かつて地元の人たちの墓地だったようです。
ここにあったという石仏が高松市牟礼町松井谷墓地に移されています。その石地蔵の背面には次のように刻まれています。
   宝永二(1705年)乙酉
   施主牟礼村信心男女
   奉造立青墓地蔵尊
         願主同村最勝寺堅周
  七月二四日
 この石仏は、神櫛王墓の丘陵から明治期の修復時にここに移転されたものです。これ以外にも元禄十六年(1703)の年号が刻まれた花崗岩製の野机もあります。ここからは現在の神櫛王墓の丘陵が江戸時代には村民の墓地として利用されていたことを示しています。
 
6 讃岐廻遊記
 この本は讃岐の名所旧跡を紹介したもので、進藤政重によって寛政十一年(1799)に発行されていますが神櫛王墓についてはなにも触れていません。

7 讃岐志
 『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要記』)を著した梶原藍渠が、その編集の傍ら文化・文政年間の十九世紀初め頃に著述した讃岐の地誌です。ここには三木郡の陵墓の項に次のように記されます。
  王墓 在牟礼村神櫛王墓也 有大楠樹

 すでに牟礼の王墓が神櫛王の墓ということが一般に広まっていたようです。「有大楠樹」と大きな樟があったことを報告していますので、作者自ら訪れたようです。信頼性があります。
全讃史 標註国訳(復刻讃岐叢書 1)(中山 城山 / 青井 常太郎 校訂国 ...
8『全讃史』
 中山城山によって天保二年(1832)に編まれ、天保十一年(1840)に改訂された讃岐の歴史書で、全一二巻の大著です。神櫛王については巻二の「人物志上」、墳墓については巻十の「古家志」に次のような記述があります。
 ①人物志上「讃岐国造世紀」
 景行帝更に神櫛王に命じて、其政を検せしめたり。国造本紀に云く、軽島の豊明の朝の御世に、景行帝の児神櫛王三世の孫、須責保疆命に国造を定め賜へり。蓋し讃岐の国造此より始るか。殖田氏の譜を閲するに、曰く人王十二代景行帝第十七の皇子神櫛命を山田郡に封じ、屋島の下に止ると。蓋し今の牟礼の墟を云ふ。(中略)神櫛王蔓じ給ひ此を牟礼に葬りまつる。今の王墓是なり。
 ②古家志
  王墓 津村の東に在り。二つの立石あり。一は則ち高五尺七寸、一は則ち高四尺三寸。皆北面して面に星辰の象を刻せり。或人云ふ。是れ蓋し神櫛王の墓なりと。伝えて言う。昔、此の墓、鳴動して己まざりき。安部清明之を符して止みき。其の言う所の符とは、蓋し星象を刻せるなり。而も何者か櫛王たるを知ざらん。城山逸民因って之を考えるに、書記に日く、景行天皇は八十余子ましまして、日本武尊、稚足彦天皇を除く外の七十余子は、皆国郡に封ぜられて、各々其の国に如くと。

 又云ふ。神櫛皇子は、其れ讃岐国造の始祖なりと。国造本紀に云う。軽島豊明の朝心昌の御世、景行帝の児神櫛王三世孫を讃岐国造に定め給ふと。公家大日記に云う。神櫛王及び稲背入彦は釆を山田郡に食み、屋島の下に止ると。然らば則ち大なる者は神櫛王の墓にして、小なる者は須売保礼命の墓なり。

この特徴は、今までの地誌・歴史書に較べると墓の内容が具体的になっている点です。星辰の象を刻んだ立石が二基あることに注目し、それぞれの被葬者の比定を試みています。そして、大きい立石を神櫛王の墓としています。

6 神櫛王墓石?jpg
 作者の城山はこの書とは別に「全讃聞見録」も書いていますが、そこには、神櫛王墓の二基の立石の上図を残しています。この立石を誰がいつ、どのように据えたのかは分かりません。墳墓に墓標を置くことが一般化するのは江戸時代になってからで、明治初期に丘陵全域が神櫛王墓として修造される直前までは、丘陵は墓地として利用され多くの墓石が林立していたことは先ほど述べた通りです。この二石は、それらの中でも大きく目立つものだったののかもしれません。
 ここからは中山城山に、古墳の概念がなかったことがうかがえます。「墓=墓石」なのです。
それが当時の讃岐人の「王墓」に対する認識だったようです。
讃岐国名勝図会(梶原景紹著 松岡信正画) / 古本、中古本、古書籍の通販 ...

9 讃岐国名勝図会
 『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要記』)や『讃岐志』を著した梶原藍渠とその子藍水によって編まれた地誌で、嘉永六年(1853)に完成します。全一五巻の巻三の三木郡牟礼村の項に神櫛王について次のように記されます。
王墓 同所、往来の傍ら岡にあり。相伝ふ、神櫛王山田郡を治めたまひ、この郡に崩じここに葬りしゆゑ王墓とはいえり。往古、牟礼・高松の村民、五月五日この地にて飛棟相撃、これを印人撃といふ、けだし戦場の遺事ならん、今は絶えたり。
 神櫛王は、景行天皇の皇子、母は五十河媛、讃岐国造なり。寒川・三木・山田諸郡に苗裔多し。植田・神内・十河氏はその裔なり。今王の墓といへる物二基あり。おもふに一基は武鼓王を祭りしならん。
 右の王墓の説明の前半部分は『翁嘔夜話』三木郡条、後半の神櫛王の系譜部分は同書の山田郡を参考にしたようです。王の墓が二基あると言うのは『全讃史』の解釈を踏襲しています。二基のうち一基の被葬者を、武鼓王としている点がこの書の独自性です。
 ちなみに、崇徳暗殺説を最初に出しているのもこの本です。

 神櫛王墓が作り出された過程と背景
 以上のように讃岐近世の地誌・歴史書を見てみると、『翁躯夜話』が神櫛王墓に触れた最初のもので、これ以後「牟礼の王墓」が神櫛王の墓とされ、地誌・歴史書に広がっていく過程を見てきました。それを研究者は次のように整理しています。
   「第一期」(17世紀まで)
神櫛王について地誌・歴史書に取り上げられているが、その内容は古代の史料の範囲内である。後
に神櫛王墓となる丘陵は地元では王の墓であるという見方はあるが、それが神櫛王とは結びついていない段階。
   【第二期】(18世紀初め)
 神櫛王が山田郡を治めたということが広まり始めた段階です。この時期には神内、三谷・十河の三族において、神櫛王を始祖とする祖先系譜が作られ、これを香西成資が『南海通記』に採録し、神櫛王が山田郡を治めたということが讃岐の歴史の一部となっていきます。しかし、墳墓についてはまだ特定されていない段階で、後に神櫛王墓となる丘陵は村民の墓地として利用されていました。
  「第三期」(18世紀半ばに墓が特定される段階)
『翁嘔夜話』が初めて「墓は三木郡牟礼郷にあり王墓と俗称される」と記し、18世紀末には『讃岐国大日記』の写本にこのことが書き加えられ、それ以後も「讃岐志」などで取り上げられ広がっていく段階です。
   「第四期」(19世紀前半の時期)
 『全讃史』において墓地の中にある二つ墓石が注目され、大きい方が神櫛王の墓とされます。

 以上のような過程を経て、地元の人たちが立石を神櫛王の墓と語り伝えるようになったようです。しかし、そうなっても藩の記録や地誌・歴史書を見る限り神櫛王墓が特別な扱いを受けた様子は見られません。村民の墓地の中に、神櫛王の墓石はあり、村民の墓石と並び立っていたようです。

 ところで香川県のもう一つの陵墓である白峯陵は、高松藩においては初代藩主頼重が手を入れ修築します。五代藩主頼恭は、600年忌にあたり宝暦十三年(1763)にも修繕され、石灯寵一対が奉納されています。これを神櫛王墓と比べると、対照的に見えます。
 高松松平家は、水戸徳川家の分家であり水戸本家の学風、思想を継承しているとされます。水戸一族の家訓である「天朝に忠ならしむる」という尊王思想を受け継いたはずです。しかし当時の尊王思想は、天皇に対する崇拝の念であって、皇子・皇女にまでは及んでいなかったようです。それが高松藩の神櫛王墓の扱いからうかがえます。

 神櫛王墓は、皇子の墓としては最も早い時期に修造の決定が政府によって行われています。明治政府は、明治四年二月に太政官布告を出し、后妃・皇子・皇女の調査を始めます。それより前の明治2年に、神櫛王墓は新政府に修理伺いを出して、明治3年9月には工事が終わっているのです。この早さは、異様に見えます。どうして、こんなに早かったのでしょうか・

 江戸時代の陵墓の探索・修復は、天皇陵を主な対象として何度か行われていました。そして安政期には調査の精密度が増し、文久期には内容・規模が大幅に拡充され、一定の形式が整えられていきます。
 明治四年の布告は、江戸時代の「実績」を踏まえたものだったようです。その調査には「石碑・石塔・位牌の存在や古文書・古器や古老の言い伝え」などの6項目についての報告が求められています。これらに携わったのは、讃岐の神仏分離政策の大本締めとして活躍した多和神社の神主・松岡調であったことは以前お話ししました。彼は、東讃の神社全てを訪ねて、その祭神などをチェックし、仏教色の強い祭神を本殿から排除する作業を行っています。これらの作業は彼にとっては「讃岐宗教史」を学ぶフィルドワークの機会となり、彼の学問的な知見を飛躍的に向上させることになります。
 その後、松岡調は金毘羅宮の禰宜として、そこに琴平に神道の香川県惣社の指導者として、明治の宗教政策を指導していく立場に立ちます。当時の彼の手元にも、神櫛王墓の扱いについての公文書は回ってきたはずです。それへの対応をどうするかを決定する立場にあったのが彼だと私は考えています。あるいは、政府の調査を見越して神櫛王墓の修造を行わせたのも彼かもしれません。
 松岡調は、神櫛王墓のことをよく知っていたはずです。私たちが今までに見てきた資料も古文書を集めを趣味としていた彼の手元にはあったでしょう。新政府が求めた6つの調査項目である「石碑・石塔・位牌の存在や古文書・古器や古老の言い伝え」などは、彼ならすぐに書けたはずです。
 つまり江戸時代に積み上げられ集積された神櫛王墓の情報と松岡調の存在が神櫛王墓修造の決定を早めた要因のひとつだったのではないでしょうか。
 

  以上、高松方面での神櫛王伝説とその墓について見てきました。
全体をまとめたおきます
①紀記には、神櫛王は系譜だけが書かれ、悪魚退治やその墓などについては書かれていない。
②中世になって綾氏が神櫛王(讃留霊王)を、始祖とする「綾氏系譜」が作られる。
③ここに初めて「悪魚伝説」が登場し、綾氏に繋がる武士団の顕彰物語として広がる。
④高松方面では、神内、三谷・十河の三族が、神櫛王を始祖とする祖先系譜が作られる
⑤香西成資の『南海通記』にも採録されし、神櫛王伝説が広がる
⑦江戸時代後半になると牟礼の丘陵墓地が神櫛王墓とされるようになる。こうして出来上がった神櫛王墓は、明治になるといち早く王墓に指定され宮内庁の管理下に置かれることになる。
⑧並んでいた墓石や石仏は、王墓エリアから取り除かれる
⑨戦前には皇国史観の元で讃岐始祖「神櫛王」の墓として、歴史教育などでも必ず取り上げられるようになる
⑩戦後の皇国史観排除によって、神櫛王の比重は低下し、彼が歴史的に取り上げられることはなくなった。そのため神櫛王が何者であるのか、王墓がどこにあるのかも触れられることはなくなった。

参考文献 大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

2善女龍王4
 雨乞の竜として最も有名なのは、善如竜王です。無形文化財の讃岐の綾子踊り奉納の際にも「善女龍王」の幟を持った参加したことが何度かあります。しかし、その頃は「善女龍王」がいったい何者で、どんな姿をしているのかも知りませんでした。
 善通寺の境内を歩いていて善女龍王を祀る祠と池がある事に気付いてから、これが空海の祈雨祈願と密接に関係する神であることを知りました。そのことに付いては、以前にお話ししました。

2善女龍王 神泉苑2g

善如竜王は、空海が天長元年(824)に京都の神泉苑で祈雨を行った際に現れ、雨を降らせたとされ「空海請雨伝承」として伝わっています。
神泉苑-京都市 中京区にある平安遷都と同時期に造営された禁苑が起源 ...

 この話については、どうも後の「創作」と考える研究者の方が多いようです。その「創作話」が空海伝説とともに発展していきます。
 この話の中に登場する善如竜王が果たした役割としては、次の二点があります。
①善如竜王が棲む神泉苑が祈雨を行うのに最もふさわしい場所である
②空海が勧請した竜であることから、真言宗が神泉苑での祈雨に最も深く関わるべきである
 この話を聞くと、以上のふたつが自然に納得できるのです。そういう意味でも善如竜王は空海請雨伝承において、重要な役割を果たしています。

2善女龍王2

 それでは、善女龍王とはどんな姿をしているのでしょうか?
分からなけば辞書をひけという教えに従って、密教学会編『密教大辞典』(法蔵館、1983年)で「善如竜王」を調べてみると、次のようにあります。
[形像]御遺告には、彼現形業宛如金色、長八寸許蛇、此金色蛇居在長九尺許蛇之頂也と説けども、世に善如竜王として流布せるものは女形にして、金色の小蛇を戴き宝珠を持てり。

とあり、『御遺告』には蛇の姿で表されているが、世に流布しているものは女形であると記されています。グーグルで「善女龍王」を画像検索すると、女性の姿で描かれているのが殆どです。ところが男性形のものも少数出てきます。2善女龍王 神泉苑g
 例えば、高野山に残されている平安時代後期作の善如竜王の図は、唐風の礼服姿の男神像です。ここからは善如竜王は次の3つの姿があるようです
①へび
②男性の唐風官人
③女性の龍女
いったい、どうして3つに描き分けられるのでしょうか。権現のように姿を変えるのでしょうか。そこがよく分かっていませんでした。今回は、そこを探ってみます

 空海の伝記類の中で初めて善如竜王が登場するのは『御遺告』のようです。
 (前略)従爾以降。帝経四朝 奉為国家 建壇修法五十一箇度。亦神泉薗池辺。御願修法祈雨霊験其明。上従殿上下至四元 此池有竜王善如 元是無熱達池竜王類。有慈為人不至害心 以何知之。御修法之比託人示之。即敬真言奥旨従池中 現形之時悉地成就。彼現形業宛如金色 長八寸許蛇。此金色蛇居二在長九尺許蛇之頂也。(後略)

 ここには祈雨祈願場所として神泉薗が聖地であることと、そこに住む善女龍王の姿は「八寸ばかりの金色の蛇で九尺ばかりの蛇の頭の上に乗っている」と記されます。ここには、人間の姿ではなく、男神・女神という表現もありません。つまり蛇なのです。
 この『御遺告』の記述が、その後の空海の伝記類にも受け継がれていきます。平安時代から江戸時代にかけて成立した数多くの伝記類のほとんどは、善如竜王の姿を『御遺告』の記述のままに受け継ぎます。『御遺告』が空海の遺言として信じられてきた所以でしょう。ここでは、伝記類には善如竜王は、蛇の姿として描かれていることを押さえておきます。
12世紀半ば頃に、善如龍王を男性として描いた絵図が現れます。


2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図 

これは高野山にある絵図で『弘法大師と密教美術』には、次のように解説されています。
冠をいただき唐服を着けた王族風の男性が、湧き上がる雲に乗る姿を描く。左手には火焔宝珠を載せた皿を持つ。その裾を見るとわずかに龍尾がのぞいており、空海と縁の深い善女竜王であると判明する。善女竜王図は、天長元年(824)空海が神泉苑において雨乞いの修法(ずほう)を行った際に愛宕山に現れたと伝わる。『高野山文書』の古い裏書によれば、本図は久安元年(1145)に三井寺の画僧定智によって描かれたことがわかる。
 
 12世紀の半ば頃には、高野山では善女龍王を男神として描くようになっていたようです。これは、雨を降らせる龍神(蛇)が権化し、人間に似た神として描かれるという変身・進化で真言密教の修験道僧侶の特異とするところです。この絵を掲げながら祈雨が行われたのかもしれません。
 この高野山の善女龍王の模写版が醍醐寺に2つあるようです。

2善女龍王 醍醐寺2
 
これが建仁元年(1201)の模写版です。
2善女龍王 醍醐寺22

上のもうひとつは、さらに模写し着色したものです。
50年前に絵仏師定智が描いた高野山の「善女竜王図」と細かい所まで一致します。ここからは、次のような事が分かります。
①それまで蛇とされていた善女龍王が12世紀中頃には、唐の官僚姿で描かれるようになった。
②醍醐寺は、高野山のものを模写したものを、無色版と着色版の2つ持っていた
どうやら醍醐寺でも祈雨は行われるようになっていたようです。 
2 清滝権現
善如竜王と密接な関係にあるのが、醍醐寺の清滝権現です。
『密教大辞典』の「清滝権現」には、次のようにあります。
 娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり。密教に如意輪観音の化身として尊崇す。印度無熱池に住し密教の守護神たり。唐長安城青竜寺に勧請して鎮守とす、故に青竜と号せり。弘法大師帰朝の際これを洛西髙尾山麓に勧請す。海波を凌ぎて来朝せることを顕して水扁を加え清滝と改む。山麓の川を清滝川と名け地名を清滝と称するはこれに由る。(中略)
 其後聖宝尊師高雄より醍醐山に移す。故に小野醍醐の法流を汲む寺院には多く清滝権現を祀る。又醍醐山にては西谷に鎖座せしが、三宝院勝覚寛治二年山上山下に分祀す。(後略)

 最初に「娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり」とあり、清滝権現は娑掲羅竜王の第三女であって、善如竜王と同体であるとされます。善如竜王と清滝権現は、「二竜同体」ということになるようです。長安の青竜寺の守護神であった青龍を空海が連れ帰り、高尾山に清滝と改名し勧進します。その後、醍醐山に移されたとあります。
ここで確認したいのは「善如龍王=清滝権現」ということです
 清滝権現の図像には四種類あり、その一つに先ほど見た高野山にある定智本善如竜王像、つまり唐風の礼服姿の男神像が示されます。つまり、善如竜王と清滝権現は図像の上でも同じ姿をとる「二竜同体」のようです。両者の関係は非常に密接であるとされていたことが分かります。
 しかし、このふたつの龍神の成立当初の伝承には、両者の関係は全く説かれていません。
 善如竜王の登場は、『御遺告』からです。その記事の中に清滝権現に関係するようなことは、一切書かれていません。 
下醍醐の清瀧宮 - 京都市、醍醐寺 清滝宮の写真 - トリップアドバイザー
上醍醐 清滝宮
 
清滝権現は、『醍醐雑事記』によると寛治三年(1089)に勝覚によって上醍醐の地に清滝宮が建立されたとあります。11世紀末の登場です。『醍醐雑事記』の清滝権現に関係する記事の中にも、善如竜王との関係は一切記されていません。
 このように、二竜の成立当初の伝承では、両者の関係は全く見られず、無関係の関係だったようです。それぞれ別個の竜として存在していたようです。それが、いつの間にか『密教大辞典』の記事のように、「二竜同体」となったようです。
 
なぜ善女龍王と清滝権現は一体化したのでしょうか
 善如竜王と清滝権現の同体視は、祈雨を通して行われたと研究者は考えているようです。祈雨を接点として両者が次第に接近し一体化したというのです。そこには、醍醐寺の祈雨戦略があったようです。
  醍醐寺が祈雨に関して「新規参入」を果たそうとします。しかし、当時の国家的な祈雨の舞台は空海が祈雨し、善女龍王が住む神泉苑が聖地でした。やすやすと醍醐寺が入り込む余地はありません。そこで醍醐寺は、次のような祈雨戦略活動を展開します。
①神泉苑から醍醐寺の清滝宮への祈雨場所の移動 
②善女龍王に変わる祈雨神の創造
この戦略を、どのように実行していったのかを見てみましょう。
醍醐寺で行われた祈雨を表にしたの下の図です。
2善女龍王 醍醐寺の祈雨g
これによると、醍醐寺での祈雨が初めて行われるのは寛治三年(1089)のことです。それまでは、空海が祈雨を行った聖地・神泉苑で行われていました。ところが院政期以降に、醍醐寺での祈雨の記事が見られるようになります。これは何を意味するのでしょうか?
  研究者は、醍醐寺が祈雨に「参入」しようとしているのではないかと指摘します。
醍醐寺での祈雨は、初め釈迦堂において行われています。それが大治5年(1130年)に、清滝権現を祀る清滝宮で行われるようになります。そして、それが主流となって定着していきます。
 その当時は、神泉苑が祈雨の聖地とされていましたから、そこへ醍醐寺が参入することは難しかったはずです。そういう中で、醍醐寺が独自性を主張していくためには、善女龍王に変わる新たなアイテムが必要でした。そこで新たに作り出された雨乞神が清滝権現だったのではないかというのです。しかし、まったく馴染みのない神では人々は頼りにせず不安がります。そこで、真言密教お得意の「権化」の手法が使われます。つまり、清滝権現は善女龍王の権化で、もともとは一体であるという手法です。こうして清滝権現は醍醐寺の新たな祈雨の神として、成長をしていくことになります。その成長を促すためには「清滝権現=善如竜王」の二龍同体説が醍醐寺にとっては必要だったと研究者は考えているようです。
 この二龍同体説の醍醐寺が創造したという裏付け史料は、例えば『醍醐寺縁起』の中の清滝権現に関わる部分です。『縁起』では、清滝権現を醍醐寺の本尊である准肌如意輪の化身とします。そして、醍醐寺を開いた聖宝の前に現れた最も重要な神として位置づけらます。しかし、この『縁起』の内容をそのまま史実として受け入れることはできないようです。その理由の一つとして、空海の帰朝の際に、青龍が唐の青竜寺からやって来たという伝承があります。しかし、これは空海の多くの伝記類には見られないものです。醍醐寺においてのみ唱えられた伝承のようです。空海が伝記の中でもっとも強く結びついている竜は善如竜王です。清滝権現の名前は、伝記にはありません。
 清滝権現を紹介する際に、よくこの『縁起』の内容が語られますが、これは後世に付け加えられた話と研究者は考えているようです。
2善女龍王男性山

 そして、もうひとつ重要なことは、この時点では清滝権現と善如竜王の両龍神たちは男神だったようです。先ほど見た醍醐にに残る善女龍王絵図を思い出して欲しいのですが、これは高野山のものを模写した男神姿でした。つまり、この時点では醍醐寺では、唐風の官僚姿の善女龍王を祀っていたのです。そして善龍王と表記されていたのです。
2「善」から「善女」へ
書物に登場してくる善女龍王の表記を見てみると下表のようになります。
2善女龍王の表記1
この表を見ると、平安時代末期までは、「善女」ではなく「善如」と表記されていたことが分かります。12世紀半ばの『弘法大師御伝』以後に、「善女」の表記が主流となっています。「善如」から「善女」へ変化したようです。最初は「善如」と呼ばれていたのです。
 どうして、「善如」から「善女」へ変わったのでしょうか
 その理由は、清滝権現がサーガラ竜王の三女とされることからきているようです。彼女は「竜女」とも呼ばれ『法華経』の「提婆達多品十二」に登場する竜女成仏譚で有名な竜女です。それまでの仏教界では、女性は五障の身であるために成仏できないとされてきました。そころが竜女は「変成男子=男子に変身」することによって成仏を遂げます。仏教に心を寄せた女性たちにとっては、この『法華経』の竜女成仏譚は、救いの道を示す大きな意味を持つ存在だったようです。平安時代末期の『梁塵秘抄』には。
  竜女も仏になりにけり、などかわれらもならざらん
と詠まれています。それほど竜女成仏譚が広く一般に広がっていたことが分かります。そのような中で、醍醐寺の密教僧侶たちは、竜女も善如竜王と清滝権現と権化関係の中に入れて同一視する布教戦略をとるようになったと研究者は考えます。
  善女龍王=清滝権現=竜女です。
そして最後に、権化した竜女は女性です。そうなると、三位一体同心説の元では、清滝権現も、善女龍王も女性であるということに自然となっていきます。それを醍醐寺は広めるようになっていきます。
以上をまとめておくと
①空海が神泉苑で善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは、真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤さらに醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、祈雨場所を醍醐寺でも行うと同時に、新たな祈雨神として、清滝権現を創造した。
⑦醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑧さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し、流布させた
⑥その結果、竜女が女性であるので、それまでは男性とされたいた善女龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

   前回は、国家による祈雨が天武朝から行われるようになったことを見てきました。そこでは、律令などの政治制度を取り入れる中で、国の祈雨祈願システムも整備されたことが見えてきました。
 ところで、当時の人たちは旱魃などの自然災害が、なぜ発生すると考えていたのでしょうか。今回は、その疑問を探って見ようと思います。テキストは「藪元晶 国家的祈雨の成立 飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」です。
   持統天皇が亡くなった翌年の慶雲(けいうん、きょううん)2年のことです。
「慶雲」とは夕空に現れ瑞兆とされる雲で、大宝4年の持統天皇の葬儀の後に、この雲が藤原京の空に現れます。これを契機に改元されたようです。当時の政治情勢は、実際に施行されはじめた律令と、現実運用とのギャップが至る所から吹き出してきて不協和音を奏で始めていました。そのため現場に即した細則の必要性や令そのものへの改革が迫られるようになります。また、大宝3年(703年)から慶雲4年(707年)には連続的に飢饉が発生し、税体系の不備と重なって貧窮・没落する農民が急増しました。その救済策も求められます。

このような中で文武天皇は、次のような詔勅を出します。
『続日本紀』慶雲二年(七〇五)四月三日の記事です。
 詔して曰はく、「朕非薄(ちんひはく)の躬(み)を以て、王公の上に託(つ)けり。徳、上天を感(うごか)し、仁、黎庶(れいしょ)に及ぶこと能はず。遂に陰陽錯謬(あやま)り、水旱(すいかん)時を失ひ、年穀登(みの)らず、民をして菜色多からしむ。此を念ふ毎に、心に闘但(いた)めり。五大寺をしてて金光明経を読み、民の苦しみを救ふことを為さしむべし。天下の緒国、今年の挙税(こぜい)の利そ収むること勿(なか)れ 併せて庸の半を減せ」
意訳すると前半部で
「自分は非薄の身で王位にあるが、その徳は天帝の心をうごかすことも、その仁は民に及ぼすこともできない。ために凶作をまねき、民に飢者が多い。それを思うと悲しみにたえない」

とあります。つまり、水旱の発生を自分の不徳に原因があるとしています。そのための対応策として、五大寺に金光明経を輪読させ、民の苦しみを救うと共に、本年度の租税免除と庸の半減を打ち出しています。
続いて元正天皇は、続日本紀』養老六年(722)七月七日の詔勅で、次のように述べています
  詔して曰はく「陰陽錯謬(あやま)り、災旱(さいかん)頻(しきり)に至りぬ。是に由りて幣(みてぐら)を名山に奉りて、神祇を尊祭す。甘雨降らず、黎元業を失へり。朕が薄徳、此を致せるか。百姓何の罪ありてか、樵萎(ぞうふ)すること甚しき。天下に赦して、国郡司をして審(つばい)らかに冤獄を録し、屍(かばね)を掩ひて荷(死体)を埋み、酒を禁めて屠(ほふ)りを断たしむべし。高年の徒には、勤めて存撫を加へよ。(中略)」とのたまふ。

意訳すると
 旱魃に対して、祈雨の奉幣を各地の名山に奉ったが雨は降らない。これは私の徳が薄いことによるのであろうか、百姓には何の罪もないとして、国司や郡司にたいして、特赦の実施を命じています。さらに、死体処理や高齢者慰撫など具体的な指示も出しています。
 ここでも、天皇の薄徳が旱魃の原因ではないかと考え、その対策として大赦等を行っています。
 このように、天皇の不徳によって水旱の災が生じるという記述が、持統亡き後の天武朝の天皇たちには見られるようになります。これは聖武天皇にも引き継がれ、その打開策として鎮護仏教導入政策をとり東大寺・国分寺造営に繋がっていきます。
「旱魃=天皇の不徳」とする認識は、どこからきたのでしょうか?
どうやらその源は、中国のありそうです。『後漢書』「粛宗孝章帝紀第三」の五年(八〇)甲中条には、旱魃に対する皇帝の対応が次のように記されています。
 詔して曰わく「「春秋」に麦苗無しと書するは、之を重んずればなり。去秋、雨の恵みは適わず、今野亦旱(ひでり)し、炎の如く焼くが如し、凶年は時無く、而して備えを為すこと未だ至らず。朕の不徳、上は三光を累わせ、震慄とうとうとして心を痛め首を病む。前代の聖君、博く思いて、災の咎めを降すと雖も、即ち函を開いて風を返すの応有り。今、予(われ)小子、徒に燦々たるのみ。其れ二千石をして牢獄を理(おさ)め、五岳四徳及び名山の能く雲を興し雨を致す者に祈って崇朝ならずして、遍く天下に雨ふらすの報いを蒙らんこと請願わしめよ。務めて粛敬を加えよ」

とあります。この後漢の孝章帝の詔の中には、旱魃の発生を「朕の不徳」とする言葉があります。そして、その対策として、裁きを公正にし天下の名山や五岳などで祈雨を行うよう命じています。このような記事は、当時の中国の史書には数多く見られます。当時の日本は
「政治的には律令、宗教的には鎮護仏教、文化的には漢字」
を移植させる「中国化政策」が、国策として展開中でした。そのような「中国ブーム」の中で天皇のブレーンも、唐から帰国した人たちが多くなります。自然と中国の史書の表現を手本にして、公文書や詔勅も作られるようになります。中国の皇帝思想も、ストレートにそのまま文章化されたようです。
 この時期、天皇が中国思想に大きく傾倒している様子は、『続日本紀』和銅八年(七一五)六月十二日の条にも見えます。
ここには、中国の故事が紹介され、中国の皇帝が旱魃に対して熱心に関わっていたことが紹介されています。そして、諸社奉幣の後に数日を待たずして雨が降ったことから
「時の人以為へらく、聖徳感通して致せるなりとおもへり」
と記します。天皇の徳が天帝に通じて雨が降った、と人々が理解していると記されています。ここにも儒教の徳治主義思想がもてはやされ、全面的に受け入れられようとしている姿がうかがえます。同時に「先進国中国」への強い憧れのようなものが感じられるのです。

 水旱の原因を天皇の不徳とする見方も、中国伝来のようです。
 お上は「旱魃=天皇の不徳」を「公式見解」としていたかもしれませんが、当時の庶民感覚と一緒だったとは云えません。それは明治の文明開化を先導する西欧帰りの福沢諭吉と庶民の意識の差に似ているかもしれません。そして、奈良時代の終わりになると「旱魃=天皇の不徳」説を原因とする記事は激減します。まるで、一時的なブームであったかのように・・・。
    
  「旱魃=天皇の不徳」説に代わって登場してくるのが、神の崇(たたり)とする考えです。

「旱魃=神の祟り」説の記事は、紀記にはありません。これの初見は『日本紀略』大同四年(809)七月三日の次の記事です。
遣使於吉野山陵(井上内親王)。掃除陵内、併読経 以几旱累旬山陵為也。

 井上内親王の吉野山陵に使いを遣わし、陵内の掃除と読経を行わせたとあります。その理由は旱魃が長期間にわたっているのは、山陵が崇をなしているからだろ云うのです。
 これ以後、旱魃を神の崇とする記事が増えます。20年ほど後の天長九年(832)5月19日には、『釈日本紀』に次のようにあります。
  令卜巫充旱於内裏。伊豆国神為崇

旱魃の原因を内裏で占わせたところ、伊豆の国の神が崇をなしていることが判明しているというのです。
『続日本後紀』承和八年五月十二日の条には、
「旬にわたって雨が降らないので、崇ではないかと占わしたところ、山陵に遣わせた例の貢ぎ物がなされていないことによる崇であると結果が出た。また、香椎廟も同じく崇をなしているという卜が出た。驚いて調べさせると、所司が言うには、去年よりこの二年間荷前を安易に陵戸人にさせたので、きっと供えていないこともあったであろうということである。今、恐れかしこまって先々そのようなことがないようにして奉ります。香椎廟にも専使を遣わせて謝罪します。和気真綱を遣わせて謝罪し祈願しますので、お聞きになって直ちに甘雨を降らせていただきますように慎んで申し上げます」
とあります。
   以上のように、平安時代になると、旱魃を崇によるものとする記事が増えます。それまでは国家の公式見解としては、「旱魃=天皇の不徳」説がとられてきました。ところが「崇」へと急速にシフトしていくのです。その背景には何があったのでしょうか?
それをある研究者は次のように説明します
 平安時代になって、急に墳墓(山陵)の崇りを云うようになって来た。(中略)皇太子(平城天皇)による病気の原因が崇道天皇の崇りであるといったのは「卜」であった(793年)。柏原山陵の崇りを指摘したのも「卜」であり(806年)、大極殿失火のことをいったのも「卜」であった。
 そうすると、神祇官の下で出された「卜」による山陵の崇りに苦しめられた天皇の姿がここにあるということになるであろう。このような点から見るとき、荷前制は神祇官を掌握した人の嵯峨天皇・淳和天皇、引いて空海らへの攻撃であったということになるのではなかろうか。
 神祇官によって「卜」という形で、山陵の崇が作り出されるようになったと研究者は考えているようです。さらに視野を広げると、この時期に登場する崇(たたり)事象は、旱魃だけでなく、天皇の不徳を始めとして、地震・災異・火災などいろいろなものに及んでいます。それらの崇事象は、宝亀年間(770~)頃から増えているようです。そこには、卜部の組織化を行った大中臣清麻呂の姿が垣間見えると云います。彼が、権力闘争の道具として神祇官の卜部による亀卜をもとに崇現象を広めたという見方ができるようです。
 ともかく、旱魃も含めてさまざまな災の原因を崇によるものとする考えが、奈良時代末から平安時代にかけて、神祇官によって増幅させられたようです。その流れの中で、旱魃原因も崇によるものとされるようになっていったのです。
そんな中で注目されるのが、『続日本紀』天平宝字七年(763)九月一日条の記事です。
 勅して曰わく「疫死数多く、水旱時ならず、神火屡至(しばしばいた)り、徒(いたずら)に官物を損ふ。此は国郡司等の国神に恭(うやうや)しからぬ咎(とが)なり(中略)」とのたまふ。

 ここで初めて災害の発生を「国郡司等の国神に恭しからぬ咎なり」という新しい見解が出されています。これは「災害を加えているのは、天帝でなく国神」という新見解です。それまでは「咎」といえば、中国風に天帝によるものとされてきたのです。中国の「天人相関思想を、そのまま受けいれる形で「旱魃=天皇の不徳」説として、公式見解としていたことは先に見た通りです。このような流れの中に「国神に恭しからぬ咎」説が登場してきます。これは視点を変えると、土地神に対して国司や郡司が十分に祭らなかったために起こった災害ということになります。もう少し進めるとこれは崇現象に近づいていきます。つまり国神による崇とも云えます。同時に視点を変えると「天皇の不徳による旱魃」説から天皇は解放されることになります。朝廷にとっては、魅力的な説であったかもしれません。   
以上をまとめておくと
①奈良時代は中国の影響を受けて「旱魃=天皇不徳」説が国の公式見解となっていた
②奈良時代の終わり頃から神祇官によって「旱魃=崇」説が広まられようになる
③これは権力闘争の道具としても使われ、神祇官の地位の向上につながった。
④結果的に平安時代を通して祈雨祭祀に関わる人たちが重視されるようになった
⑤その後には、旱魃が崇によるものかどうかを卜う卜占に、陰陽寮も参加するようになる
  このような動きは陰陽道に仕える人たちの社会的な「地位の向上」をもたらしたことは、容易に想像ができます。

  旱魃の際に、丸亀藩が善通寺に対して雨乞祈願を命じています。藩の正式な命を受けて、善通寺は雨乞祈祷を行っています。そのことを最初に知ったときには不思議に感じました。なぜなら雨乞いは旱魃に苦しむ庶民が自発的に、村々で行うものという先入観が私にはあったからです。
 しかし、考えて見ると王権と治水灌漑が密接な関係にあったことは中国の禹伝説に見る通りです。治水灌漑を行い、水をコントロールし、それを水田に提供できる者が「治者」として、支配の正当性を得てきました。そこからは
「水を治めるものが、国を治める」
という概念が生まれます。
 江戸時代の讃岐生駒藩で、大干ばつが頻発し、藩政が危機的な状況に陥ったときに、その保護者であった藤堂高虎が命じたことは大規模なため池を各地に作らせることでした。難局打開のために藩が汗を流している姿勢を見せ、そこに百姓を動員し関わらせることによって藩内の求心力の核を作り出そうとする政治的な思惑もあったかもしれません。ため池築造や河川工事のために藤堂高虎が派遣していた西嶋八兵衛は、その際に「禹」碑を建立しています。ここからは藤堂高虎や西嶋八兵衛にも「水を治めるものが、国を治める」という統治意識が心に刻まれていたことが分かります。
 しかし、ため池ができても、水は確保できるとは限りません。
雨が降らなければ、貯めようがないのです。雨を降らせる力も王たる者には求められたようです。王は「レインメーカー」であり、雨を降らせる能力を持つ者こそが,王権を維持できたと云えるのかもしれません。そして、古代国家の成立と共に、王の呪術的力による雨乞いから、国家による組織的な雨乞いへと変化、成長するようです。今回は、その過程を見ていこうと思います。
 テキストは「藪元晶 国家的祈雨の成立 飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」です。

旱魃そのものが『日本書紀』に記載されるは、推古天皇36年(628)のことです。その四月の条に、次のように記されています。
  春より夏に至るまでに、旱(ひでり)す。
 この記事の後は、舒明天皇八年(636)・皇極天皇元年(642)と連続して見られます。舒明天皇八年の条には、
  是歳、大きに旱して、天下飢す。
とあり、皇極天皇元年六月の条には、
  是の月に、大きに旱る。
とあります。そして、この年の7月に初めて祈雨の記事が登場します。大化の改新の直前になって、国家にとっての異常気象や災害の意味を受け止め、記録しようとする意識が形成され始めたようです。
祈雨の初見記事である皇極天皇元年(642)の記事を見てみましょう。7月から8月にかけてのことです。
 秋七月(中略)戊寅に、群臣相語りて曰はく、
「村村の祝部の所教(おしえ)の随(まま)に、或いは牛馬を殺して、諸の社の神を祭(いの)る。或いは頻(しきり)に市を移す。或いは河伯(かわのかみ)を祷る。既に所敷(しるし)無し」といふ。

7月の末から雨が降らず旱魃が続きます。そこで、まず群臣が神祇的な方法でいろいろと祈雨を行います。 祈雨のために民衆がどんなことをやっているかを見てみると
①村々の祝部の教えるところに従って、牛馬を殺して諸社の神を祀ったり、
②何度も市を移したり、
③河の神に祈ったり
しています。その方法は、中国の史書に出てくる祈雨と、殆ど同じのように思えますが、ともかく神に対していろいろな方法で祈雨を行っています。しかし、効果がありません。
   蘇我大臣報(こた)へて曰はく、
「寺寺にして大乗経典を転読みまつるべし。悔過すること、仏の説きたまふ所の如くして、敬びて雨を祈(こ)はむ」といふ。庚辰(27日)に、大寺の南の庭にして、仏菩薩の像と四天王の像とを厳(よそ)ひて、衆の僧を屈(いや)び請(ま)せて、大雲経等を読ましむ。時に、蘇我大臣、手に香炉を執りて、香を焼きて願を発す。辛已(28日)に、微雨ふる。壬午(29日9に、雨を祈(こ)ふこと能はず。故、経を読むことを停む。
続いて、蘇我大臣蝦夷が「寺寺に命じて大乗経典を転読」させるという仏教的な方法で降雨祈願を行います。その結果、わずかに雨は降りますが、水不足解消には至りません。そこで女帝皇極天皇の登場です。

 八月の甲申の朔(一日)に、天皇、南淵の河上に幸して、脆(ひざまづ)きて四方を拝む。天を仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷なりて大雨ふる。遂に雨ふること五日。溥(あまね)く天下を潤す。或本に云はく、五日連に雨ふりて、九穀登り熟めりといふ。是に天下の百姓、倶に称万歳びて曰さく、「至徳まします天皇なり」とまうす。
 
そこで、皇極天皇が南淵の河上で祈雨を行うと、たちどころに5日間にわたり雨が降り、水不足は解消します。これに民衆は「至徳まします天皇なり」と、讃えたというのです

 ここには、蘇我蝦夷が行うと小雨で、天皇が行うと大雨という対比の仕方から、天皇の呪力の方が蝦夷の呪力よりも勝っていたことを伝えることに書紀の重点は置かれているようです。
そのことを配慮しながら焦点を当てたいのは、祈雨行為を誰が行っているかです。
 祈雨は、どうも群臣がそれぞれ別個に行っているようです。祈雨について話し合われた場には、群臣が集まり、蘇我蝦夷もいます。ここは朝議の場のようです。そこで「群臣相語りて曰はく」と、政権要人たちがそれぞれに自分の所で行った祈雨についての報告をしているシーンととれます。朝議で、祈雨のことが話されているとしておきましょう。これは旱魃への対応(=祈雨の実施)が国の政治的な検討課題となっていることがうかがえます。
 この記事からは、朝廷が音頭を取って祈雨を行っているようには見えません。
群臣たちがばらばらに、それぞれの神々に対して祈雨祈願(祭)を行っているのです。このようなあり方が、この時期までの国家の祈雨のあり方であったと研究者は考えているようです。
敗者の日本史(蘇我蝦夷) - 慶喜
 それに対して、国家的見地に立って祈雨を行おうとしたのが蘇我蝦夷です。
 彼は、寺々に大乗経典を転読させています。いかにも、仏教を重んじた蘇我氏らしい方法です。ここにある寺々というのは、豪族たちの建てた氏寺を含めてのことでしょう。それらの寺々に対して、具体的な祈雨の方法を命じて行わせている様子が見えてきます。別の視点から見ると、蝦夷は国家レベルでの祈雨を計画し、自分がその主導者として命じているように思えます。古代国家体制の構築を推し進める蘇我氏らしい対応です。蝦夷が実際に、自分自身で香炉を手にして祈雨を行ったかどうかは別にして、蝦夷が国家レベルでの祈雨を命じる立場にあったことはうかがえます。
皇極天皇|乙巳の変、譲位、重祚を経験した歴史上2人目の女帝 | 歴代天皇
 最後に、皇極天皇が登場し祈雨を行います。
 その方法は、天皇自らが南淵の河上で四方拝を行っています。
 実は、この時点で天皇が行える祈雨の選択肢は、あまりなかったようです。仏教的な方法は、蝦夷がすでに行っています。天皇が普通に神を祀るのであれば、それは天皇家が私的に祈雨を行っていることにしかすぎません。後世に見られるような諸社に奉幣するという形での祈雨も、この時代には不可能だったようです。なぜなら、当時の豪族たちは、自分の支配する地域に対して絶対的な宗教的権威を持っていました。そこへ奉幣するということは、一種の宗教的な介入ともなりかねません。この段階でそこまですることは無理と研究者は考えているようです。
 そうすると選択肢は、次のふたつしかなかったようです。
①中国風の方法をとるか、
②あるいは神祇的でも特異な方法をとる
 そこで皇極天皇は「四方拝」というスタイルで、自分自身で祈雨祈願をおこなったようです。
お伊勢さん&出雲さんへ行かれる方へ<新・皇室入門>どうぞ!ご参考 ...
蝦夷と皇極天皇のやり方を比べると、蝦夷が国家が命令を下す形で組織的に祈雨を行おうとしたのに対して、皇極天皇の動きは個人プレー的な傾向が強いように思えます。大王が自ら天に祈るというのでは、卑弥呼の時代と変わりません。
 紀記の中には、扶余の国の話として、旱魃で五穀の実らないのは王の咎であるとして、王を取り替え、あるいは、王を殺そうとしたと記されています。ここからは
①大王にも、レインメーカーとしての性格が備わっていた
②祈雨祈願の霊力を持たない王は「革命」されたり、殺された
ことがうかがえます。
もし、大王が祈願し雨が降らなければ、どうなるのでしょうか?
大王の威信は落ち、面目は丸つぶれです。国家の安泰を図るためには、大王自身が祈雨するのは、避けなければならない時代がやってきていたのです。そのためのシステム作りが課題であったはずです。
 その政治的な課題を蝦夷は認識していたとも考えられます。これは、当時の両者の置かれた政権内部での位置とも関係するのかもしれません。国家的祈雨への動きは、蘇我氏の主導で進められていたようです。
 国家的祈雨の成立
   テキストでは次に、日本書紀に見える異常気象の略表を示します。
一番左欄の○が旱魃が記された年、◎が祈雨が行われたことが記された年です。
2番目欄は祈雨の効能で、△が少々の雨、△(内側に○)が大雨、3番目欄は、その他の天候です。

2  古代祈雨年表

先ほど見た642年に行われた「皇極天皇の祈雨祈願」は、○→◎と示されます。これが書紀の最初の祈雨祈願行事になります。これ以前の推古朝から旱魃や霜・大風など天候異変の記事が数多く記録されていることが分かります。テキストは、この期間を「第1グループ」としています。
 しかし、第1グループの後30年ほど旱魃などの天候不順記事は見られなくなります。この空白期は、何を意味するのでしょうか?
 この期間は、霖雨についての記事が二例ばかりあるだけで、旱魅についての記事がありません。この時期には旱魃が起こらなかったのでしょうか? それはないでしょう。
第ニグループの天武朝・持統朝の約30年間には、20件以上の祈雨を行っているのです。この当時は旱魅に悩まされていたことがうかがえます。謎の空白期にも、旱魃には見舞われていると考えた方が自然です。
 なぜ日本書紀には「異常気象」が書かれなかったのでしょうか?
考えられることは2つです
①『日本書紀』の編纂段階で、この期間だけ故意に旱魃の記事を省いた
②『日本書紀』の編纂に用いた原史料に、この時期の旱魃の記事がなかった
①について、中国では天候不順は、皇帝の支配力のなさを示すもので「革命」の要因とされました。大化の改新クーデターの正当化のために、天候不順記事をその前に並べることで、蘇我氏政権を否定的に示そうとしたのかもしれません。そして、中江大兄の権力掌握後には、天候不順記事を減らしたというのは考えられることです。この期間にには霖雨の記事が2つあるだけです。

 ②については、①と関連して、天智天皇の記録者たちが旱魅の記事を記録していないために、書紀編纂者は、書こうにも書けなかったのかもしれません。第一グループと第ニグループの間の空白期間は、旱魃も含めて異常気象に対する記録化の態度が弱まっていたようです。
歴代天皇 40代天武天皇 │ Susanoo
天武天皇

 天武朝以後の神祇的祈雨は?
 表を見ると第ニグループになると、旱魅と祈雨の記事が急激に増加します。同時に、その他の天候についての記事も増えています。この時期は、異常気象全般に対しての問題意識が高まってきたことがうかがえます。
   その中でも、特に増えているのが旱魅と、その対応です。
表を見ると、この期間23年間の内の半分を超える14年に旱航や祈雨の記事があります。そして、以前とは違って、旱勉の記事があれば必ずそれに対する祈雨の記事があるという風にペアになっています。それとは逆に、旱魅の記事は漏れていても、対応策としての祈雨の記事のみが記されていることも増えます。
 ここから考えられることは、旱魅が起こった場合には、必ず国家としてその対応策として祈雨を行うようになったことがうかがえます。つまり、国の政治的行為としての祈雨が確立したと研究者は考えているようです。このような祈雨を国家行うようになるのは、この図からは天武朝の第2グループの時期からのようです。
祭りのすがた、人のすがた / 戸畑祇園大山笠

それでは、どんな方法で祈雨を行っていたのでしょうか。
第2グループの祈雨の記事初見は、天武天皇五年(676)です。
 是の夏に、大きに旱(ひでり)す。使を四方に遣して、幣帛(みてぐら)を捧げて、諸の神祇に祈らしむ。亦諸の僧尼を請せて、三宝に祈らしむ。然れども雨ふらず。是に由りて、五穀登(みな)らず。百姓飢ゑす。
 ここでは、諸神に奉幣するとともに、僧尼が三宝に祈るという方法をとっています。
ところが、翌年の天武天皇六年の五月になると、
   是の月に、旱す。京及び畿内に(あまごい)す。
 というように、「零」という文字が使われるようになります。「零」とは、中国で雨乞をさす言葉だそうです。残念ながら、それらのいずれも「零」の一文字なので、具体的な祈雨内容は分かりません。『続日本紀』になると、表現に変化が現れます。文武天皇二年(698)五月一日の条に、
  諸国旱(ひでり)す。因て幣帛(みてぐら)を諸社に奉る。

 とあり、諸社に対して奉幣を行うという具体的な行為が記されます。表現はいろいろと変わりますが。行われていた祈雨行為は、奉幣という形で祈雨が行われていたと研究者は考えているようです。
御幣の奉製 - 座間郷総鎮守 鈴鹿明神社ブログ「社務日記」
幣帛(みてぐら)

 この諸社奉幣というスタイルは、以後何百年と続いていくオーソドックスな方法です。これは祈雨だけでなく、さまざまな祈願の場でなされるものです。しかし、記録としては天武天皇五年が初見で、それ以前には見られないようです。このことから、諸社奉幣というスタイルは、天武天皇五年前後に、初めて登場したものと研究者は考えます。
北海道の神社の歴史 - Wikiwand
 さらに問題となるのは、「諸社奉幣」です。
「奉幣」そのものは以前から見られる祭祀方法の一つですから抵抗はなかったでしょう。しかし、「諸社」に奉幣するのは、問題が多かったようです。諸社ということになると、天皇家が祀る神々だけでなく、有力豪族が祀る神々も入ってきます。国家が各豪族の祀る神々に対して、直接的に奉幣使を遣わして神を祀るということは、ある意味で、各豪族の持つ祭祀権をゆさぶりかねない行為です。重大な宗教的介入と反発する豪族もいたはずです。そういう影響力を考えると「諸社奉幣」は、重大な政治的意味と背景をもって成立したと研究者は考えています。
 その背景に国家による強力な政治的・宗教的主導権の発揮がなくてはできないことです。
 天武朝というのは、それが行われるにはふさわしい時期です。天武朝は、壬申の乱によって畿内の有力豪族の勢いが後退し、相対的に天皇の地位が高まった時です。天皇による専制的な政治が実現した時期に当たります。この時期に、国家による祈雨祈願は、「諸社奉幣」という形で成立したとしておきましょう。まさに、律令的な国家体制へと向かおうとする時期の所産とも言えるようです。ここには、大化クーデター前の皇極天皇のように天皇自らが祈雨を行う姿はありません。天皇が祈願の主体者であることには変わりはありませんが、神祇的な制度の上で神々に祈願を行うようになっています。天皇の持つ個人的な霊力に、頼る必要はなくなりました。祈雨がシステム化されたと云えます。レインメーカーとしての、天皇の役割は終わりを告げたのです。同時にそれが古代における国家祈雨の始まりだったようです。
 これが生駒藩が善通寺へ祈雨祈願を行うように命じることへと繋がっていくようです。
参考文献 藪元晶 国家的祈雨の成立 
     飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」

  大干魃の年は龍神様にお祈りをして、雨を乞う雨乞い神事が行われた。八峯龍神にも、阿波と讃岐の両農民が集って三・七・二十一日の願をこめて祈ったものである。これは八峯にある大池小池で雨乞いをした時のできごとで、古老から聞かされた話である。

 二十一日の間、昼夜の別なく、神楽火をたき神に祈ったが一粒の雨も降らなかった。当時の神職は悪気はなかったが
「これ程みながお願いしているのに、今だに雨の降る様子がない、龍神の正体はあるのか、あるなれば見せてみよ」と言った
ところ、言い終ると一匹の小蛇が池の廻りを泳いでいた。

「それが正体か、それでは神通力はないのか」と言った。
すると急にあたりがさわがしくなり、黒い雲が一面に空を覆い、東の空から「ピカピカゴロゴロ」という音がしたかと思うと、池の中程に白い泡が立ち、その中から大きな口を開き、赤い炎のような舌を出した大蛇が、今にも神職をひと飲みにしようと池の中から出て来た。

これを見た神職は顔色は真青になり、一目散に逃げ帰った。
然し大蛇は彼の後を追いかけて来たものの疲れたのか、その場にあった一本の松の木の枝に首をかけてひと休みしたと伝えられる。
 今もその松を首架松といわれている。池からその松の所までは百五十米もあるが、大蛇の尾が池に残っていたというのだから大きさに驚かされる。
 神職は家に帰ったが家内のものには何も話さず、一室にとじこもったまま高熱を出して、数日後に家族が心配していたが、この世を去って行ったとのことである。
 彼は死を目前にして家族のものを集め、今後一切八峯大池小池には近よらない様にと遺言したそうな。
                讃岐の人々編集事務局所収
 
九頭龍大神 ⑤ 弁財天と如意宝珠 : 追跡アマミキヨ

決壊中の満濃池
金毘羅領と天領三村

 金毘羅大権現のお膝元・松尾の里(金毘羅)は、金光院院主が領主とする幕府の朱印地でした。そのため課役免除など「治外法権」的な面を持っていました。その東側の榎井村は、満濃池領の天領地で代官所は倉敷にあり、目が届きにくい面がありました。ある意味、金毘羅・榎井村は「朱印地 + 天領」で、幕藩体制下のなかでは「権力の空白地帯」であったようです。それがある意味で、庶民的な自由をもたらし、時にはデカダン風俗等を流行らせ、思想的には幕末の尊王攘夷思想を培養したとも考えられます。同時に、その自由さが門前町こんぴらの顔(文化)と富(経済)を支える発展の基盤になっていたのかも知れません。

金毘羅門前 全体

    こんぴら門前町を支えたひとつに「遊郭」があります。
 「遊廓」については「悪所」として、文化的な立場から捉え直そうとする動きがあるようです。その視点は、次の通りです。

「遊所は身分制社会の「辺界」に成立した解放区「悪所」であったから、日常の秩序の論理や価値観にとらわれない精神の発露が可能であった」

「悪所=遊所」を、文化創造の発信源として、そのプラス面を捕らえ返そうとする視座のようです。
 金毘羅の遊女の変遷を、研究者は次のよう時代区分しています。。
①参詣客相手の酌取女が出没しはじめる元禄期
②酌取女及び茶屋(遊女宿)の存在を認めた文政期
③当局側の保護のもと繁栄のピークを迎えた天保期
④高級芸者の活躍する弘化~慶応期
  そして、最初は禁止されていた「遊女」が門前町の発展のために公認され、制度化されていくプロセスがあったことを以前にお話ししました。同時に「芸を売る」芸者の登場と共に、新たな「文化」の芽生えを感じさえてくれました。
 また、遊女たちを支配する茶屋は、参詣客に食事や遊女を提供するだけではありませんでした。芝居小屋をつくり、その興行を勧進し、見物席チケット販売に至るまで、マルチな営業活動を繰り広げるようになります。
 興行的には赤字を続けた芝居小屋を支えたのは、遊女達に課せられた負担金でした。遊女の支払う貢納金なしでは、芝居興業はできなかったのです。門前町こんぴらの賑わいを支えていたのは、茶屋・遊女たちの陰の存在だったかもしれません。

 金毘羅門前町 高灯籠 大正2年
大正3年の高灯籠
今回は、明治以後のこんぴら遊女をとりまく変化をたどってみようと思います。
 万延元年(1860)秋、北神苑(琴電琴平駅東)の高灯寵が完成します。東讃地方の砂糖会所が発願し、金参千両を募金してできたものです。その門標の碑表に『講外燈上断』とあり、その碑側に、狂歌一首が、私には読めないような流麗な筆使いで刻まれています。ざれうたとはいえ、こんぴらの遊女たちの置かれた姿をよく捉えています。
   紅灯緑酒卜遊女と客と町衆と
   引請は茶屋阿り多けに 置屋中
   給仕めし毛里(飯盛) 跡は志らん楚
引請は「支える」で、ここではお客の評判等としておきましょう。
茶屋は客に飲食、遊興等をさせることを業とする店で、料理茶屋、引手茶屋などで、その中核的存在が「遊廓」です。置屋とは、芸妓、娼妓を抱えておく屋方で、茶屋からの注文に応じて、芸娼妓を派遣する業者です。飯盛女は江戸時代の宿場等で、旅人の給仕を専業とし、ときには売春行為も兼業した。飲食を給仕し、酒の酌をする女で「酌取女」とも呼ばれました。
 こんぴらの遊里は、繁盛するにつれて、町宿と遊女のトラブルもひん発するようになります。町方諸役はその解決のために、
酌取女を置く宿を「茶屋」と呼び、
酌取女を置かない宿を「旅龍」
と区別して、遊女の公認化への道を開きました。

鞘橋・芝居小屋・内町
鞘橋から内町・金山寺町周辺

そのころは、札の前、坂町、内町、金山寺町がこんぴら遊里の中心街でした。
香川県史近世2を、要約すると次のようになります。

『文政七年(1824)頃は、金山寺町界隈が、「遊廓」の街並みであった。旅籠を差し引き、残り八十軒を茶屋とすると、平均三人の遊女がいたとすると全体で240人近くなる。これは当時の金毘羅人口の約十分の一に当たる。』

 金毘羅参拝には、精進落としがつきもので「信仰と快楽」が「コインの裏表」の関係にあったようです。庶民の息抜きの場が、こんぴら門前町という「権力の空白地帯」に形成されます。それを権力者たちも「特定地域の寺社所領地」へ誘い込み、限定することで「安全弁」として容認していた風にも見えます。
 人びとが逗留すれば、それに比例して街は活気を呼び、商いも繁昌します。当時のこんぴらは、今風にの「街起こしイベント(奇策)」にたけていました。その最大の催しが、金毘羅さんの「ご開帳」です。厨子のとばりを開けて中の秘仏を、庶民におがませる行事です。人々は、秘仏を拝み見るためにイナゴのようにやって来て、信仰心を満足させます。そして、次の快楽を求めます。そこで用意された接待が、富くじ、芝居小屋、見せもの小屋、茶屋、みやげ物店等々です。自然に盛り場は、人で溢れるようになったでしょう。
 富くじとは、富突または富とも云ったようです。

17 富くじ

木札と紙札とがペアになっていて、木札を原牌、紙札を影牌と呼びました。影牌を売り出し、期限がくると公開で原牌を箱の中に入れ、上部の孔から錐で原牌を突き刺し、当札を決めるシステムです。今の宝くじのルーツです。これは庶民のギャンブル心を刺激しました。金毘羅金光院院主の山下家と姻戚関係にある京の五撮家の一つ九條家が、幕府の許可を得て、興行されていたので、別名「九條富」とも呼ばれていたようです。現在の公認ギャンブルです。この当辺の決定日には、多くの人が詰めかけました。

宝くじのルーツ、江戸時代の禁止ギャンブル「富くじ」とは【1等いくら ...

「遊廓」からは遊興代(線香代、揚代等の名目)の賦課金を徴収していました。
これが、刎銀とも「不浄金」とも呼ばれた貢納金です。この積立金で、建てられたのが金丸座です。この建物は富興行の場として建てられたものを芝居小屋として使っていました。つまり現在の「金毘羅大芝居」の前身である金丸座は「遊廓」の遊女たちの稼ぎで建てられたことになります。はなやかな上方歌舞伎興行を陰で支えていたのは遊郭であったようです。今でも金山寺町(現・小松町)には「富場」の古称が残っているようです。
4344104-04象頭山と琴平
金毘羅大権現 金毘羅参詣名所図会
 こんぴらさんには朱印地の特権を利用して「飲む、打つ、買う」の三拍子揃った「諸人快楽の歓楽街」が形作られていたようです。それが幕末期の道中案内や名所記等で広く喧伝されます。当時の旅行記の定番は、だいたい以下のような内容でした。

『ことひらの町は、旅龍屋軒をならべ、みやげ物売る店もいらかを競うている、京、大坂、兵庫、室津・鞆港からも金毘羅船が出入りし、丸亀、多度津、善通寺、弥谷寺から道は全て金毘羅に通じている。」

 こうして、こんぴらさんは社寺参詣番付の上位ランクの常連として、巷間に伝えられていきます。人々は「一生に一度は金毘羅参り」が夢となります。
鞘橋 明治中頃
大祭時の鞘橋
 明治維新でこんぴらさんは、二つの試練を受けます。
ひとつは、明治維新の神仏分離です。これにより寺院伽藍から神社への変身を迫られました。
 もうひとつは、明治5年10月20日の「公娼制度解放令」です。
しかし、これは神仏分離れに比べると影響は少なかったようです。その後も、貧しい家の少女たちが年季奉公という法の網の目をくぐって人身売買は続きます。「家」のため遊郭に身を沈める子女が数多いたのです。かけ声だけに終わった「公娼制度解放令」でした。
   遊女たちにとって、大きな変化は明治30年に訪れます。
DSC01455
内町
金山寺町から新地遊廓(栄町)への集団移転
こんぴら門前町の遊廓は、金山寺(きんざんじ)町 にあり、茶屋・賭場・富くじ小屋・芝居小屋なども立ち並ぶ遊興の地の中にありました。遊女の出入りする茶屋と芝居小屋は背中合わせにあり、遊女と芝居小屋は「同居」していました。

金毘羅門前町 芝居小屋
芝居小屋(金丸座)と背中合わせにあった遊郭

つまり、吉原のように密閉化された存在ではなかったようです。そのため文明開化が進むと「一般の商店や旅館と遊女が混在するのは、風俗上問題がある」と云われ初めます。その対応として、茶屋を特定のエリアに集めるという方策がとられることになります。集団移転先として選ばれたのが金倉川の向岸です
 明治33 (1900)年に、遊廓は現在の栄町に移転され、新地と呼ばれるようになります。
金山寺町は色街という性格は、失いますが「琴検」 と呼ばれた芸妓検番が置かれ、娯楽の地として賑わいを続けます。

戦前の読売新聞は公娼制度を奴隷制度とみなしていた!? - Togetter

 金倉川畔の栄町に集団移転した遊郭は、大正末期に「琴平新地」と名前を改め、女の館は軒をつらねて色里を形成します。それは、戦後の一時期まで盛況を極め、親方連(棲主)はわが世の春を迎えます。
7 琴平遊郭1

戦前の新地遊廓(栄町)は?
 新地遊廓の北側の入口は、高灯籠の隣のコトデン琴平駅横になります。かつては、この前は食堂や観光案内所が立ち並んでいたようです。そして 戦前は約2000坪の空地で、凧揚げや盆踊りが催されていたようです。
 昭和10年(1935)頃、ここで矢野サーカスが1カ月ほど興行したり、大相撲が来たこともあるようです。 この頃の琴平は、JR以外 に琴電(コトデン)、琴参(コトサン) (昭和 38年廃線)、琴急 (コトキュウ)(昭和 19年廃線)の4つの鉄道が乗り入れていました。各線の駅も新駅が相次いで完成し、多くの参拝客が乗り降りします。
 当時の琴平には2軒の映画館があったようです。1軒は、金毘羅大芝居の小屋 ・金丸座を引き継いだものです。 もう1軒は栄町の新地遊廓に隣接していた金陵座です。 金陵座は明治末期に外観を金丸座を真似て建てられた劇場風映画館でした。
さて、戦前の新地遊郭を図1で見てみましょう
新地内は、貸座敷でほどんどが占められていたことが分かります。その周辺 に旅館、料亭、カフェーが立ち並んでいます。ここを利用するのは、参詣客が主だったようです。旅館や料亭には、金山寺町の 「琴検」から芸者連が御座敷に通ってきました。 カフェーの蓄音器から流行歌が流れ、女給達が外で熱心に客の呼び込みをし、客は酒を飲んで歌ったり、ダンスホールほど広くない店内の机の隙間でダンスを踊ったりもします。
 しかし、それも日中戦争が激化する昭和15年頃になると、御座敷は軍によって禁止されます。それでも、遊廓は残されたようです。そこには日曜日になると善通寺の11師団の兵隊連が大勢やってきました。武運長久を祈願し、その後は精進払いという段取りだったようです。
 戦時中になると新地遊廓の客は、以前とは打って変わって兵隊ばかりになります。しかし、それも、戦局が悪化すると新地を訪れる者はいなくなり、静まり返ってしまいます。

 戦後の琴平新地 栄町は? 
敗戦後、日本を占領統治したGHQ(連合国軍総司令部)は、昭和21年に「公娼廃止」の指令を出します。これで、公娼制度は消えたはずでした。
戦後日本の公娼制度廃止における警察の認識

しかし、内実は管理売春を禁止しただけで、個人の自由意志による売春は「自由恋愛」と称して、エリア限定で容認されます。同年十二月の内務省通達は、一定地域内での「特殊飲食店」の営業を認めます。そのエリアは、警察署の地図に赤い線に囲まれていましたから、これらの特飲街を総称して「赤線地帯」と呼ぶようになります。

7 琴平遊郭45

こうして遊郭は前後も、「赤線」として生き残ったようです。かつての遊女屋は、警察の許可をもらって、新たな特殊飲食店の名で公然と売春行為を続けます。看板が変わっただけのようです。

DSC01456栄町 稲荷神社
栄町の稲荷神社
 琴平の新地栄町も、その例外ではなかったようです。
 敗戦直後の様子を当時の新聞は、次のように伝えます。
こんぴらの街には通称「金山游廓」があった。明治の末期、この金山寺遊廓は発展的に解消して金倉川畔の現在地に集団移転、のち大正末期に「琴平新地」と改称され、現在にいたった。敗戦後の混乱期、とくに二十二年から二十五年までの四年間が一番もうけたと業者は述懐する。
 ○…当時の琴平町は労組の全国大会があいついで開かれ、地元は”労組ブーム”を現出した。その語り草の一つに、新地が一番歓迎したのがなんと日教組の代議員だったという。事実、ある業者は労組のなかで最高の水揚げ高を示したのが日教組だったといっている。三十軒、約百五十人の従業婦をかかえて文字通り、わが世の春をオウ歌していた
ここからは、琴平新地に活気が戻ってきたことが分かります。
そして、戦前に廃止された芸者が琴平の町に再び登場します。 昭和27年7月に、全国の花柳界に先がけて 「琴平技蛮学校」が開校します。この学校を卒業 した芸者達は、戦後の琴平観光名物の一つとなっていきます。
昭和30年代には、琴平には5軒の映画館がありました。
そのうち次の3軒は栄町に集まっていました。 
希望館は戦前からあった金陵座を改名したもの
日本館は昭和28年に建設され、ダンスホールを併設
琴平松竹座は昭和31年に建設され、深夜上映館
ここからも、栄町が琴平の娯楽の中心の盛場だったことがうかがえます。

DSC01454
琴平栄町

 この頃の思い出を、当時の人は次のように語っています
「夕方四時半 くらいになると、映画館が大音量でスピーカーからレコードの歌を流すんですね。これが今では考 えられないほど大きな音で、これは宣伝効果が大きかったですよ。ひとたび歌を聞いてしまうと、 じゃ、映画でも行くかって気分になってしまうんです。」
戦時中に、すべての娯楽が国策のもとに奪われていた人々は、映画に夢中になります。5軒の映画館は、映画会社が別系列だったため上映作品が違っていて、映画館のはしごをする人も少なくなかったようです。映画館が、娯楽の殿堂あった時代です。
DJYSKさん の人気ツイート - 1 - whotwi グラフィカルTwitter分析

これに対し、新地の「特殊飲食店」(赤線遊郭)は、参詣客が商売相手でした。
そのことを地元の人は次のように話しています。
「子供の頃は新地の中を通っていっても全く相手にされんかったけれど、戦後はハタチ超えてたからね。映画館行くのに新地通ると近道だったんで、よく中を通っていったけれど、たまに新人のねえさんに"兄さん遊んでいかんの~?"って腕をつかまれたりしましたよ。 それを見た顔見知 りのベテランさんが "これっ、あの人は地元の人だよっ" と新人さんをたしなめているんです。声が聞こえてきちゃうんですよ。 あの頃は道に女の人がいっぱい並んでいたよ。」

 新地は、一般の民家や旅館に隣接していましたが、塀や柵に囲まれることはありませんでした。

7 琴平遊郭2
 琴平栄町
しかし、参詣客用に新町通り側に2カ所の入口があり、そのうちの一方にはアーチが建てられ、「新地入口」と書かれた傘のついた電気がぶら下がっていたといいます。

7 琴平遊郭 稲荷神社42
琴平栄町の稲荷神社
 遊女と稲荷神社は切っても切れない関係です。
お稲荷さんは性的な感染病に効能があると信じられてきました。栄町にも、映画館の希望館 (金陵座)のとなりに、稲荷神社があります。この稲荷は栄稲荷神社と呼ばれ、毎年8月に栄町の有志で夏祭りが行なわれ、当時は氷屋、果物屋、アイス屋など露店商が立ち並び、賑わっていたと云います。
DSC01453栄町 遊郭跡

 琴平随一の盛り場として名を馳せていた琴平新地のネオンを消したのは「売春防止法」でした。
この法律の第一条(目的)には
「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ…(下略)」、とし第二条で売春を次のように定義します。
 (定義)「売春」とは、対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交することをいう」
この法律が昭和32年4月1日から施行され、刑事処分が翌年から課せられることになります。
7 琴平遊郭売春防止法

 香川県警本部防犯課調べによると、昭和三十二年九月時点で、琴平新地の業者は三十軒、接客婦八十四人。すでに六軒が廃業し、残り三分の一も休業状態とあります。
 接客婦の出身地別では、
四国以外が31、四国島内30人、香川県内23人、近郷1人。
年齢別は、40歳を最高に大正生まれ6人、最年少は19歳、残りすべてが昭和生まれで、20~25五歳がもっとも多かったようです。
最後に、こんぴら遊郭の最後を記した新聞記事を見てみましょう
   
 「赤い灯は消えた。こんぴら名所の一つ赤線地帯
            ③山陽新聞・香川版 昭和33年4月5日所収。

去月三十一日午後十二時の最後のどたん場まで店を張って六十有余年の遊郭史に終止符を打った琴平新地。売春防止法全面実施後の同地を訪ねて、業者の転廃業、従業婦のその後などをきいてみた。
 ○…転廃業期における琴平新地の二十八軒の業者のフトコロ具合は、三分の一は一年以上の食いのばし可能、三分の一は一年以内ならまず安泰、あとは足元に火のついたも同然の組だったらしい。そこで問題の転業実体をみると理髪店、お好み焼、オートバイ修理と販売、魚屋などはまじめな転向だが、「女の城」で蓄えた財産をもとに高利貸を開業したのが二軒ある。また棲主が老人だったり未亡人だったりして「簡易旅館への板替」というのもある。
「検番事務所」は三十一日から「売家」のハリ紙が出されている。

昭和の記録と記憶(1958年) - 暮らしのなかで

○従業婦の更生保護の面はどうなったか。
スズメの涙ほどの更生資金の貸付を受けて自立しようとした者は1人もいない。その原因は貸付の条件がきびしいことやわずか数万円で抱束を受けたくないという女性心理が動いているためといわれる。最後まで店を張った五十余人の女性は、それぞれ棲主から最高二万円の退職金と旅費をもらって帰郷したというが、退職金名義にしろ、万と名のつく金を支給したのはほんの数軒、大半は旅費支給程度だった。
 これについて十川元副組合長は「業者もそれぞれフトコロ具合が違う。組合で統一の話も出たが実現不可能だった。それに従業婦自身もすでに今日あることをよく知っており、中には銀行預金八十余万円という者もあり、例外は別として、平均数万円の貯金はしているので、衝突はなかった」といっている。
新潟日報昭和三十三年(売春防止法施行時)の新聞記事 | お散歩日記

○…明るい話題の一つを拾うと
なじみ客とのロマンスが実を結び結婚にゴールインしたのが五組ある。だがこの半面には帰郷後、出身地で安住できる可能性のある者は約二割程度、その八割近くは帰っても家が貧しかったり、複雑な家族関係だったりして身のふり方にも困る気の毒な女性たちだ。
 抱え主さえどこへ行ったかわからない者、さらに行くあてのない従業婦が各棲にまだ二、三人は残留している。これらは毎月、家族(親ないし子供)ヘー万円近い送金をつづけていたクラスで、A子さんは「いまさら別の働き口を捜しても食って、着て、家に送金できる仕事はない。やはり水商売の世界に身を沈めるより仕方がない」と告白していた。
 一方帰郷したものの周囲の人々の異端者扱いや白眼視にがまんできないと再び舞いもどった例もある。普通旅館の仲居さんや土産品店の売子に転向した者もすでに半数近くが辛抱できず姿を消したという。これらの実例を拾ってゆくと、やはり場末の酒場や青線地帯へ流れ込んで。単独売春やひモ付売春のケースに再び転落しているのが実情といわれ、結局、いままでの赤線売春から潜行売春に移り変るものが多いと関係筋はみている。』

7 琴平遊郭7

こうして昭和33(1958)年に琴平新地遊廓の60年間の歴史は閉じました。
その後の栄町は、ソープランドやバー ・スナックが散在する 「夜の街」という性格は今でも持ち続けています。赤線当時は参詣客が主でしたが、今は地元の常連客がほとんどになっているようです。 栄町は、参詣客を相手にした門前町特有の賑やかな 色街から、赤線廃止後徐々に、地元の人に利用されるこじんまりとした小盛り場へと変遷してきたようです。
    おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
因藤泉石  こんぴら遊廓覚書 
『売春防止法施行』で消えた赤線地帯  こんぴら 50号

 前 島 裕 美(まえしま ・ひろみ)
お茶の水女子大学大学院人間文化研究科
 香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原


高松 江戸時代の地図

上の1図は日清戦争が終わった年の明治28(1895)年出版の「高松市街明細全図」です。この地図の西側には水田が広がり、宮脇村とあります。ほとんどが田んぼで、家は見えません。江戸時代にも、高松南部への市街地の拡大は見られましたが、この地域には町屋が並ぶことはありませんでした。なぜでしょうか。
それは、宮脇村の大部分が岩清尾八幡神社の社領だったからのようです。
高松城絵図11
 上の天保15年の幕末の地図を見ても、宮脇村は「市街地調整区域」で、開発規制があったことがうかがえます。岩瀬尾神社は、生駒藩や松平藩の肝いりで作られ、厚い保護を受けてきました。そのため、神社の北側の部分は社領として、数々の特権を持っていたようです。例えば、地図上の黒く塗られた「婆が池」は、現在は埋め立てられて墓地になっていますが、もともとは石清水八幡の社領の水源として生駒時代に作られたようです。

4344097-32本門寿院 
本門寿院に続く田畑と瀬戸内海 ここが岩瀬尾八幡の社領

 明治の神仏分離の「上知令」で寺社の社領は国家が没収し、政府の管理する土地になります。さて、新政府はこの「旧社領」をどのように活用したのか、その結果宮脇村がどう変化したのかを地図で見ていきましょう。
2 高松明治28年地図
 宮脇町の北側の海岸近くには、兵庫町から伸びて来た道が西に真っ直ぐに続きます。これが江戸時代の五街道の一つ丸亀街道です。この古い街道沿いには民家が建ち並び,通行人にものを売る商家として成立していたようです。南に広がる田園風景とは対照的です。
2 高松明治29年地図
明治29(1896)年測量,同43年(1910)修正測量の国土地理院の地形図です。
  広大な社領が官有地となったのですから政府は自由に「都市計画」が行えることになります。そのお手並みを拝見しましょう。
先ほどの地図1と比べてみると、次のような点が見て取れます。
①宮脇村東部の市街地延長ゾーンに学校群が姿を現している
②鉄道線路が伸びて宮脇村の北部に旧高松駅が開業した。
③しかし、それもわずかな期間で高松港周辺に移動した
まず①の学校群について見ておきましょう。
 香川大学教育学部前身の香川県師範学校は、最初は現在地よりもかなり東の場所にあったことが分かります。天神前とあり、現在の高松市中央町になるようです。ここは今は,知事公舎など県関係の諸施設と個人有の建物とが混在している地区となっています。
②高松高校の前身の高松中学は,現在の県立工芸高校。
③工芸学校は、現在の香川大学教育学部の北半分の位置
④高松商業学校は旧中央病院の敷地
これら明治に設立された学校は、官有地となった宮脇町の東部に並べるように配置されたことが分かります。建設用地を心配する必要がないのですから、担当者にしては楽な用地取得作業だったでしょう。
 ただ日清戦争後は、政府は次の戦争に備えて軍備拡張を勧めている時期で新たな師団建設の場所を選定中だったはずです。この宮脇町一帯は、師団を置くには有力な候補地となったように思うのですが、なぜここに師団は設置されなかったのでしょうか? 今の私には答える資料はありません。今後の宿題です。
 このようにみると小学校や中学校は、ほとんど移転していないのに、県立学校はこの後も移転を繰り返しているのが分かります。当所からの場所を動いていないのは、特別教育施設斯道学園や,盲・聾学校などです。
鉄道と駅について 最初の高松駅が置かれたのは現在の盲学校の辺りのようです
 地図1には、鉄道予定線引かれています。この時点では丸亀から讃岐鉄道が建設中だったようです。これが開通するのが明治30(1897)年2月21日です。地図2は明治43年修正ですからそれが書き込まれています。ところで、開通した時の高松駅は現在のどの辺りになるのでしょうか?  これは現在の現在の県立盲学校の近くのようです。丸亀方面から讃岐鉄道でやって来た乗客たちは、ここで下りて高松市街地や高松港へと向かったようです。そのため駅前には数多くの人力車が客待ちのために停まっていたといいます。鉄道終着駅としての賑わいを見せていたようです。もし、高松駅がこの地にあったら宮脇町の姿は大きく変わっていたでしょう。
 しかし,そうはいきませんでした。地図2を見ると鉄道線が海岸を埋め立てて線路を設け,東に伸びて高松港まで延長されていることが分かります。この付け替えで、明治43(1910)年7月1日に高松駅は港近くに移っていきます。そして,この宮脇町の旧高松駅への線路は廃止されます。その年に、この地図は作られています。

2 高松 大正10年地図

3図は大正10(1921)年の高松市街全図で,新修高松市史に載せられているものです。
この地図から読み取れることを最初に挙げておきましょう。
①香川大学キャンパスの原型になる「工芸・師範・商業」が姿を現した
②高徳線が市街を迂回する形で予定線として入った
③婆が池の上側が埋め立てられた 
①の学校群の出現については、学校は運動場を初め広い面積が必要ですので,住宅地化の進んでいる地域の外側に設置するのがセオリーです。そしていったん出来ると、多くの人を集めるようになります。人の移動は,交通機関の充実や付近のお店などの商業施設を生みだしていきます。それが周辺の住宅地を、増やすことにつながっていきます。田んぼの中にぽつんと作られた学校が、いつのまにか住宅に取り囲まれているという姿はよく見かけます。現在の桜井高校などが典型例かもしれません。
 さらに、戦後の学校制度の改変で、新設や建替えが必要になります。当時の県の最優先課題は、国立大学の新設誘致だったのでしょう。工芸と商業高校は、追い出されて香川大学のキャンパスになります。旧制高松中学は、女学校の校舎で男女共学の高松高校となり、旧制中学が移動して空いた場所に、工芸高校が移ってきます。しかし、旧制中学の野球部は、野球グラントは手放しませんでした。いまでも高松高校の野球部のグランドが工芸高校の中にあるのは、そんな経緯のためのようです。さて、高松商業は、広い敷地を求めて、その時点での住宅地化の最前線へ移転します。それが現在地になるようです。

  もうひとつは②の高徳線の高松への乗り入れルートです。
  高徳線はこの時点では計画線で,昭和12年に開通しています。
このルートは東讃に向かう線路が、高松駅を西に向かって出発し、それから南進し市街をほぼ半周する形で東に向かうことになります。このルート計画については,計画当所から賛否があったようです。用地買収が難しかったのかもしれませんが、不可解なルート決定と後世の私たちからは見えます。当時は路線決定に政治力が絡んでくるのは至極当たり前のことだったようです。

③は婆が池の上半分が埋め立てられて病院ができ、その後に墓地化されています。
宮脇村には、岩瀬尾八幡の社領がありその水源がこの池であったことは先述しました。しかし、社領が官有化され水田が潰され、学校などの公共施設や住宅が増えると、稲作用水の需要も急減していきます。そのような中で、上側の池が埋め立てられ墓地化されたようです。

大正10年の地図では,田の畦道のような自然発生的な道路がいくつもあります。
それがどうなっていくのか、次の地図を見てみましょう。
2 高松昭和2年地図

上の昭和3年(1928)の地図4の道路を見ると、
東西方向の幹線道路に直行する形で南北方向の道路が通じています。都市計画に伴う道路の再整備が、この時期に行われたようです。そして、旧市街から次第に宮脇村の方へ市街地が広がっていきます。しかし、宮脇村西部はこの時点では、田園風景がまだ広がっていたようです。

2 高松昭和12年地図

上の地図5は、今から約80年ほど前の昭和12(1937)年のものです。
宮脇町の西部が碁盤の目状に区画され、住宅地となっています。そして、昭和町と名付けられます。これは大正8(1919)年に作られた都市計画法によって,区画整理組合が結成され都市再開発が行われた結果です。現在の土地所有制度と違って,当時は地主一小作制度の下で用地買収が行われたため,突然土地を取り上げられた小作人からの反発もあったようです。
 新しく生まれた昭和町は、昭和初期の都市計画によって郊外に生まれた新興住宅地ということになります。この辺りは、高松大空襲の際にも被害を受けなかったようです。そのためかつては、玄関脇に小さな庭をもち,前栽を植え,家は木造で板壁の2階建ての戦前の住宅が残っていました。今では、都心に近い高級な住宅地となり、新しいく建て替えられた住宅は、木造本格和風建築の住宅が多いように見えます。ここからは、江戸時代から宮脇田圃と呼ばれた水田が一気に宅地化されたのは、今から百年ほど前の昭和の初めからだったのが分かります。

2 高松昭和37年地図

上の地図6は、戦後の昭和37(1962)年のものです。
高松大空襲の跡の都市計画で大きく生まれ変わった後は、陸上部ではその後の変化はあまりないようです。変化が大きいのは海岸線です。
海岸には塩田がまだあり,戦後も高松市特産の塩が作られていました。西浜港の改修に伴う補償として,市営西浜塩田が昭和28年に新しく作られています。この時点では製塩生産の意欲は高かったようです。
2 高松 平成地図

上の平成元年(1989)年の地図8になると、
塩田は埋立てられ工場や市場が立地するようになります。さらに西浜港も埋立て地に囲い込まれるようになります。塩田跡地は,茜町などの新興住宅地へと変貌し、高度経済成長期の用地確保のための海岸埋め立てが行われました。
「昭和の高度経済成長は海を埋め立て、都市を陸封化させた。
海に開かれていた瀬戸内のかつての港湾都市が、海に背を向けた時代として、後世に記憶される」
という研究者もいます。たしかに、戦後の地形図の最も大きな変化点は海岸の埋め立て地のようです。

宮脇村の明治以後の変遷をまとめておきます
①宮脇村は岩瀬尾八幡神社の社領地として、町場化が進むことなく水田が広がっていていた。
②明治の神仏分離で社領は没収され、多くは官有地となった
③官有地には師範・女学校・商業・工芸・小学校などの学校群が建てられた
④学校の周辺に商業区が生まれ、宅地化が進んだ
⑤宮脇町西部の昭和町は、都市計画によって郊外型の新興住宅地が一気に形成された
⑥高松空襲の被害を受けなかった住宅地は、高級住宅地化した。
⑦戦後の学制改革で香川大学のキャンパス確保のために新設高校は大移動した
⑧それにくらべて小中学校の移動は殆どなかった。
⑨戦後の変化は海岸線の埋め立てにある。北側が埋め立てられ陸封化されてしまった。

陸封化された高松が、再び海に開かれた港町としての風景を取り戻すための試みがサンポートや高松城の「水城」復元なのかもしれません。
2 高松heisei年地図

おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
稲田道彦 高松市街西方の香川大学付近 
              讃岐地図散歩76P

6 玉垣四段坂1
四段坂と金毘羅本宮

金毘羅さんで一番最初に石段や玉垣が整備されたエリアはどこなのでしょうか?
それは本宮前の四段坂のようです。ここは、山下から上り詰めてきた参拝者が最後に登る坂です。坂下から見上げると本宮の姿が垣間見えます。本宮を仰ぎ見ながら登る聖なる空間と思われていたのかもしれません。
 この坂が石段に整備されたのは、次のような人たちからの寄進でした
①寛政十年(1798)江戸・上州・京都・奥州・大坂の飛脚問屋組合の奉納
②文化八年(1811)室戸岬周辺の室津浦・浮津浦・吉良川津の網元たち
③文化九年(1812)室戸岬周辺の浦々の人々から奉納
   それでは、四段坂に玉垣を寄進したのは、どんな人たちだったのでしょうか
いつものように「金毘羅庶民信仰資料集巻2」を取り出して、四段坂の玉垣分布図を見てみます。

6 玉垣四段坂2
  坂の右側がT37、左がT38という整理番号が打たれています。左のT38の玉垣を見てみましょう。
6 玉垣四段坂 丸亀奉納

6 玉垣四段坂 丸亀奉納2
下の写書きは、下側が右から始まっています。上の図とは逆になります

左側の親柱1には「圓龜(丸亀)玉垣講とあります。城下町丸亀の玉垣講による奉納のようです。この親柱の側面には
世話人 余島屋吉右衛門 森屋喜太郎名
石 工 丸亀 阿波屋勘七
とあります。まず石工について見てみましょう。
阿波屋甚七(丸亀)の金毘羅さんに残した玉垣は以下の通りです
 天保 七年(1836)  (T-8・10)
 天保十一年(1840)  (T-44)
 天保十三年(1842)  (T-38)
 天保十五年(1844)  (Tー26)
天保年間の短期間に集中しているようです。当時の職人は石工を含めて、一ヶ所に定住することなく、各地を渡り歩く人も多かったようです。腕がよければどこに行っても仕事はあったので、腕を上げるためにも各地を渡っていく職人がいたようです。甚七も丸亀に留まることなくローリングストーンとして流れて行ったのかもしれません。
  奉納者の名前の見るとそれぞれの屋号から、城下町丸亀の商人たちであることが分かります。彼らが金毘羅さんへの玉垣奉納のために講を組織し、建設資金を集めて石工の阿波屋に依頼したようです。
6 玉垣四段坂 丸亀奉納3

親柱3に「天保十三年(1842)九月」とあります
この時期は、金毘羅さんにとって着工から30年近くを経た金堂(現旭社)が完成に向けてやっと姿を現し、周辺整備が進められる中でした。また、丸亀新港も姿を見せ、参拝客はうなぎ登りに増え続ける謂わばバブルの時代でした。上方からの金毘羅船を迎える丸亀も、そのおかげで大いに潤いました。
 そんな中で
「金堂の完成を祝して、我々もこの際に一肌脱ごうではないか、日頃お世話になっている金毘羅さんに、何かお返しができないものか」
という気運が盛り上がり、玉垣講の結成となったとしておきましょう。
 玉垣3には、もうひとつ見逃せない文字が刻まれています。
「船宿中」です。ここから並ぶ小柱には、丸亀の船宿の主人たちの名前が続くのです。もちろん金毘羅船でやってきた参拝客の旅籠です。
 十返舎一九の弥次喜多コンピが金毘羅詣でにやって来たときにも、船宿に泊まって、讃岐弁に悩まされる様子が滑稽に描かれていることを以前紹介しました。あの時の船宿は、金毘羅船の船頭が経営する旅籠でした。弥次さん喜多さんを船から自分の家(船宿)まで案内すると、奥さん(女将)が迎えてくれるという展開でした。金毘羅参拝客の急増で、こんな船宿は増え続けたのでしょう。彼らにとって「金毘羅さんは足を向けて眠ることはできない存在」だったかもしれません。玉垣奉納の話があれば喜んで応じたのではないでしょうか。
    この玉垣では親柱と親柱の間に13本の小柱があります。
13人×10区間=130人
130人を越える奉納者の名前が並びます。もしかしたら奉納希望者は、もっといたが柱の数が足りなくて名前が入れられない者もいた、先着順あるいは抽選で決めたということもあったかもしれません。あくまで私の想像です。
 昨日紹介した仁尾の塩田主塩田家や西讃一の地主大喜多家のように、一人で何本も奉納している人はいません。それだけ、商人たちの層が厚いことがうかがえます。さすが城下町丸亀というところでしょうか。

丸亀藩支藩の多度津藩の商人たちも頑張っています。

6 玉垣旭社下 多度津奉納T18
旭社下の石段左側の玉垣T18です。ここには親柱1の正面に
多度津、側面に問屋中 当所取次高松屋伊蔵 石工 久太郎

とあります。多度津の「問屋中」の檀那衆によって寄進された玉垣です。「問屋中」とは何なのでしょうか。「講」と似ていますが少し違うようです。「仲間≒連中」という意味合いのようです。
例えば商売人が仲間をつくったものとして
「問屋中・干鰯屋中(多度津) 藍師中(阿波)、茶碗場中・生魚商人中(明石)、魚買中(観音寺)、煙草中買仲間・干魚塩魚中買仲間・酒造家仲間・生鮑中買仲間・干鰯中買仲間(兵庫)」
海を生業の場とし、同じ仕事にたずさわる人がつくった仲間が作ったものには
「船頭中(丸亀)、船仲間(洲本)、小漁師中(観音寺)、廻船仲間(淡州)、船手若連中(大洲)」
などの名前が玉垣には見えます。海の神様として知られ始めた金毘羅さんへの信仰が、一緒に働く人々の連体感を強めるのに役立ったのかもしれません。 ここでは同業組合としての多度津藩の「問屋仲間」からの奉納としておきましょう。

6 玉垣四段坂 丸亀奉納4

多度津藩では親藩の丸亀藩の新堀湛甫に続けとばかりに、小藩ながら天保五年(1843)に着工し、4年後に竣工にこぎつけます。丸亀の新堀湛甫が一年余の工事で、工費も2千両余だったのに比べると、その額は5倍だったといわれます。これに協力したのが多度津の商人たちです。
 湛甫の完成後に多度津港を利用する船は増え、港も栄えるようになります。多度津港に立ち寄る船の多くは、松前(北海道)からの海産物とその見返りに大坂・瀬戸内海沿岸から酒や雑貨・衣料を運ぶ千石船や北前船でした。それに加えて、西国からの琴平詣での金比羅船も殺到するようになります。深い港は、大型船が入港することもできるために、幕末にはイギリスや佐賀藩、幕府の蒸気船が相次いで入港し、多度津港は瀬戸内海随一の良港としての名声を高めていきます。これに伴い町の商売も繁盛し、特に松前からもたらされる鰯や地元産の砂糖・綿・油等を商う問屋は数十軒を超え、港に近い街路は船宿や旅人相手の小店でにぎわいます。このような繁栄を背景に、丸亀に負けじと多度津商人たちが奉納したのがこの玉垣ということになるようです。
次に石工の那葉屋久太郎について見ておきましょう。
彼は金毘羅門前町に店を構え、幕末から明治にかけて次のように数多くの玉垣を残しています。
  弘化 三年(1846)  (T-20)
  弘化 四年(1847)  (T-5・6)
  嘉永 二年(1849)  (T-49)
  嘉永 四年(1851)  (T-47・48)
  嘉永 六年(1853)  (Tー22)
  嘉永 七年(1854)  (T-12・46)
  安政 七年(1860)  (T-4)
  万延 元年(1860)  (T-29)
  文久 元年(1861)  (T-28)
  慶応 三年(1867)  (Tー15)
  明治 六年(1873)  (T-30)
  年代不明(T-18・24)(T-19)(T-32)
  石工・久太郎の残した玉垣と金毘羅さんに残る玉垣の時代的推移表(下図)を見比べると
4 玉垣旭社前122

金堂完成の1845年前後から玉垣奉納が急増する。
玉垣空白部分も1860年と明治維新に整備され
1880年には参道の全てにが玉垣が立ち並ぶ
 その整備に大きな役割を果たしたのが石工久太郎ということになります。石工の推移時期については
①文化年間(一八〇四~一八)丸亀の石工・阿波屋甚七が手がけたものが多く
②天保年間(1830~44)になると、中心的石工として活躍するのが金毘羅の那葉屋久太郎(久太良)
ということになるようです。丸亀の甚七から金毘羅の久太郎にバトンタッチされていきます。そして久太郎の活動時期は長いのです。幕末から明治に作られた玉垣の殆どを、彼が手がけています。それだけ評判の良かった石工だったのでしょう。
6 玉垣旭社前 多度津奉納
旭社の前の広場の右側(南側)玉垣T24も多度津からの貢納です。
 
6 玉垣旭社前 多度津奉納2

ここの玉垣は、灯籠が前に並ぶようになったために見えにくくなってしまいました。T24の整理番号を打たれた玉垣に近づいてみると
多度津から寄進されたもので、親柱1の背面には「鰯屋中」と刻まれています。中は「仲間=同業組合」だとすると、鰯同業組合ということになります。
日持ちしない鰯がなぜ売り買いされるの?と、私も最初は疑問に思いました。食べるのではなく肥料になったようです。 干鰯は、文字の通り鰯を干したもので綿やサトウキビなどの商品作物栽培には欠かせないものでした。蝦夷地から運ばれてくる鯡油と同じく金肥と呼ばれる肥料で、使えば使うほど収穫は増すと云われていました。取粕というのは、油をとったかすですがこれも肥料になります。
   干鰯の場合は、綿花やサトウキビ、藍などの商品作物栽培が広がるにつれて、需要はうなぎ登りになります。瀬戸内海では秋になるとどこの港にも鰯が押し寄せてきましたので、干鰯はどこでも生産されていました。廻船の船頭たちは、情報を仕入れながら安価に入手できる港を探しながら航海して、ここぞという港で積み込んで、高く売れる港で売り払って利鞘をかせいだのです。
 多度津の後背地である弘田川流域でも、サトウキビや綿花が栽培されるようになると、干鰯の需要は高まります。新しくなった多度津港は大型船も入港しやすいので、鰯を積んだ船が以前にも増して入ってきます。それを取り扱う問屋の数も増えます。
もうひとつ気になるのが鰯問屋に名前を連ねる人たちの屋号です。
「大隅屋 播磨屋 尾道屋 出雲屋 塩飽屋 唐津屋 備前屋 伊予屋 阿波屋」
と他国地名の商人が多いように思えます。自分の出身地を表すものなかのか、取引相手を示すのか今の私には分かりませんが興味深いところです。
  
  闇峠右側の玉垣 小豆島からの奉納  T35
6 玉垣暗闇坂 小豆島1
金堂(旭社)から四段坂に繋がる闇峠右側の玉垣は、小豆島からの奉納です。親柱1には発起人8名の名前と、金毘羅での「定宿 森屋」が刻まれています。
 そして小柱には、大宝丸 観音丸 住吉丸と船名が並びます。以前に、小豆島の苗羽を母港とした廻船大神丸の活動を紹介したことがあります。この船はマルキン醤油の創業家である木下家の持ち舟ですが九州天草までを商圏として活動していました。また、弁財船金毘羅丸の模型も、草壁田之浦の船大工仁兵衛から奉納されています。
6 弁財船 小豆島奉納

草壁・田之浦の船大工仁兵衛から奉納

この玉垣と併せて見ると、廻船業が栄えていた小豆島らしさが感じられます。小豆島廻船の活動としては
① 赤穂からの製塩業者の移住による塩生産
② 小豆島産の塩と素麺を積み込んで、瀬戸内海各地で商いをしながら九州天草へ
③ 天草で小麦・大豆を買付け
④ 帰路に多度津で干鰯を売って
⑤ 小豆島へ帰港、小麦大豆を原料に素麺生産
という拡大再生産サイクルが動いていました。これは毛織物工業を核としてオランダが中継貿易で繁栄を遂げるのと、どこか似ているように私には思えてきます。
 このようなサイクルの中で廻船業や醤油業、素麺組合と小豆島は各産業が芽生え発展していきます。その経済力を背景にしての玉垣奉納なのでしょう。             
 四段坂下の真須賀神社前の玉垣 T36    小豆島から奉納その2

6 玉垣眞須賀神社前 小豆島奉納
  親柱2には「小豆島 金栄講」と講名があり、その小柱には「洲本 小堀屋」「志紫 市場講中」と淡路島の人や講名が見えます。小豆島の金毘羅講に商売のつながりのあった淡路島の人々がつきあいで参加したとも考えられます。どちらにしても、小豆島の商圏が淡路島にまで伸びていたことがうかがえます。
 さきほどのT35と併せると小豆島の奉納者の総数は150人を越えます。
6 玉垣暗闇坂 小豆島奉納

 以上を、昨日分も一緒に、県内の玉垣奉納をまとめてみると
①金堂完成(1845)に前後するように、周辺の玉垣整備も進められた。
②金堂周辺は、地元の丸亀藩と多度津藩の城下町の商人たち
③暗闇峠には小豆島の檀那衆たち
④書院前は、仁尾の塩田王塩田家
⑤桜馬場詰めの階段は、観音寺の檀那衆
⑥社務所の上の階段は、観音寺周辺の檀那衆たち
⑦そして、明治10年前後には参道は全て玉垣で結ばれた
つまり、これ以後は玉垣を寄進したくてもできない状態になったことになります。気がつくのは、高松からの寄進がありません。高松だけでなく高松藩の坂出や宇多津などの港町からのものが玉垣には見当たらないのです。これは、高松藩による「指導」、あるいは「藩への配慮」があったことがうかがえます。
 以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
印南敏秀 玉垣 
金毘羅庶民信仰資料集巻2

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