瀬戸の島から

2020年08月

三野町大見地名1
太実線が中世三野津湾の海岸線

古代中世の三野湾は大きく湾入していて、
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと
②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
などは、以前にお話しました。海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。
 今回は旧三野湾周辺のお寺やお堂に残る中世の仏像を訪ねてみることにします。テキストは「三野町文化史1 三野町の文化財」 三野町教育委員会 平成17年」です。訪ねるのは次の5つです
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)
②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像
③宝城院の毘沙門天立像
④汐木観音堂の観音菩薩立像
⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
 まず三野湾を眺め下ろす天霧山の中腹に位置する弥谷寺です。
この寺は西讃岐守護代で天霧城主であった香川氏の保護を受けて中世は栄えていたようですが、香川氏の滅亡と共に伽藍を焼失したとと伝えられます。そのためか古い仏像はほとんど残っていませんが、平安前期十世紀に遡る一木造の吉祥天立像と、鎮守堂に寺の守護神として祭られてきた異仏が中世に遡るようです。
異仏とは、蔵王権現と伝えられてきましたが、どうもそうではないことが分かってきたようです。

弥谷寺 深沙大将椅像

吠えるように大きく口を開け、両目を見開き、髪を逆立て、そこから七匹の赤い蛇が頭をもたげ、左手を前に、右手は、やや後ろに引いて岩の上に坐しています。そして手首・足首には蛇が巻きつき、首には欄骸が飾られた、極めて異形の像です。この像こそ、はるか昔、唐の玄実三蔵(三蔵法師)が仏典を求めてインドヘ行く途中、砂漠の中で難渋していた時、出現し三蔵法師を救ったという深沙大将なのです。ヒノキ材、寄木造り、彫眼の像で彩色が施されています。

弥谷寺 蛇王権現の足

頭部と体部を同じ木から造り出すことや力強い表現など、この像が平安時代中期(十一世紀初期)に作られたことが考えられます。
 旧三野町の報告書はこれを深沙大将像とします
弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

そして全国でも数体しか残っていないもので、さらにそれらの像はすべて立像で、岩座に坐るのは本像だけという極めて珍しい像とします。しかし、その後の県の調査報告書は「蛇王権現」とされています。それについては、以前お話ししましたので省略します。
この仏像については専門家は次のように評価しています。
弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)

忿怒の異形相にもかかわらず、全体に優美に彫り整えられた作風は中央仏師のそれをうかがわせる。十一世紀初の作品で当時、中央の造仏界を取り仕切った仏師康尚、もしくはその周辺の手になると思われる。康尚は、日本の彫刻崚上もっとも著名な仏師の一人である定朝の父もしくは師匠と伝えられ、平安時代後期における同寺の中央との直接的つながりを物語る。

 中央の仏師によって造られたものが弥谷寺に安置され、今に伝わったもののようです。

釈迦如来坐像  定朝様式の釈迦如来 西福寺
弥谷寺から流れ出す小川を下って行くと、大見に大屋敷という集落があります。このあたりは、中世に西遷御家人・秋山氏によって開発されたと考えられる地域であることは以前にお話ししました。ここに小さな御堂があります。かつては西福寺という寺があって、それを引き継いだようです。この御堂の本尊として祀られるのが、釈迦如来坐像です。
三豊市西福寺 阿弥陀如来像
定朝様式の釈迦如来 西福寺
両手の指は繊細でしなやかさが感じられます。指先まで当初のものとみられるようです。右手を施無畏印(せむいいん)、左手は与願(よがた)を示した釈迦如来坐像です。
 頭髪部には螺髪が細やかに刻まれ、お顔は優しい目とふっくらとした頬など静やかに表されています。肩部はなだらかな曲線を帯び、膝の高さは低くし、そこに浅く流れるような衣文が劾まれています。このように優美な仏像は、平安時代後期に大仏師・定朝一によって確立されたものです。
定朝が造った著名な仏像に、平等院続鳳凰堂の丈六(一丈六尺)の阿弥陀如来坐像があります。この仏像は「仏の本様」といわれ、平安時代後には同じような姿の仏像が全国的に数多く造られました。
 西福寺の釈迦如来像も、この定朝様を踏襲したものです。制作時期は、平安時代末期(十二世紀)で、像高53㎝、ヒノキ材の寄木造り、彫眼の像で、それほど大きくはありませんが均斉のとれた見事な像です。
  この仏像も中央の工房で造られたものが三野津湾を拠点に活動する交易船によてもたらされたと考えることができそうです。なお台座裏の墨書により‐江戸時代前期、貞享五(1688)年に修理されたことが判明します。それ以前から、ここに安置されていたことになります。
三豊市西福寺 誕生仏
釈迦誕生仏(西福寺蔵)
もうひとつ西福寺像として、伝えられているのがこのブロンズ像です。
右手で天、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えたという、釈迦誕生を表しています。誕生釈迦仏立像は9、1㎝の小さな仏像でスリムですが、胸から上に厚みがあります。柔和な表情に白鳳仏の趣があると専門家は評します。白鳳か天平時代のもので、非常に珍しいもののようです。
こんな小さな仏がお寺に安置されて信仰の対象となっていたのでしょうか?
どうもそうではないようです。個人の持仏だったようです。
 古くから、四月八日のお釈迦様の誕生日に、小さな釈迦誕生仏を季節の椛で飾り、甘茶を潅いで釈迦の誕生を祝う「花まつり」が行われた来ました。その時の主役が、誕生仏だったようです。
もう一度、像を見てみると、右手の親指、人差指、中指を伸ばし、左手の指を全て真っ直ぐ伸ばすこと、蓮肉と本体を共鋳すること、細身の体型であることなど、古代の誕生仏の特徴を示しているようです。疑問になってくるのは、その頃に、このあたりにで古代寺院が建てられていたのでしょうか。前方後円墳も大型石室を持つ古墳もない旧三野湾エリアでは考えられません。後世になって伝来した可能性が高いようですが、詳しいことはよく分からないようです。

    毘沙門天立像(宝城院蔵) 
次にやってきたのは貴峰(とみね)山の麓の宝城院です。
この寺はすぐそばの日吉神社を、はじめ周辺神社のいくつかの別当寺を務めていたようです。そのため明治維新の神仏分離の廃仏毀釈を逃れて避難してきた仏像がいくつか集まってきています。
 宝城院(本尊・毘沙門天)の寺号は、多聞寺です。多聞とは仏教世界の北方を守護する多聞天のことで、別名を毘沙門天とも呼ばれます。多聞寺の寺名は、本尊が毘沙門天に由来するようです。
 毘沙門天は古代インドでは暗黒界の悪霊の長とされましたが、ヒンズー教に取り入られ財宝・福利を司る善神となり、さらに仏教にも加わりました。悪神が後に、善神に転じて信仰の対象になることはよくあることです。菅原道真や崇徳上皇の怨霊が後には、天神や天狗として祭られるようになるのと同じなのでしょう。毘沙門天は仏教に取り入れられてからは、四天王のひとつとして、北方の守護神となり、やがて七福神のメンバーにもなります。そして、独り立ちしてもやっていける「集客力」を持った天部の仏に成長していきます・

それでは、宝城寺の本尊である毘沙門天を見てみましょう。
三豊市  毘沙門天立像(宝城院蔵)

なにかしらずんぐりむっくりした印象を受けます。鎌倉期の写実的で動的な天部の様相を見なれているので、最初は違和感を感じます。専門家の言葉をもう一度読み直しながら見てみます。

高78、8㎝でカヤと思われる一木造りカヤ材の一本からほりだされている。直立した姿形や宝冠を共木で彫出するなど古様な造りで、やや寸詰まりであるが、その比較的太造りの体型に十一世紀後半から十二世紀初頃の傾向がうかがえる。直立し右手に戟(欠失)、左手に宝塔(後補)を持つ毘沙門天、平安時代後期に遡る古像。両手や右一肩などに後補がみられ、また各所一に虫・損がみられる。

この動きのないむっくり感が鎌倉以前の天部の「古用」の特徴のようです。

汐木観音堂の観音菩薩像
高瀬川河口の西側には汐木山があります。古代・中世を通じて、この山の周辺では製塩が行われていたようで、その薪確保の権利が保障されていた山だとされています。また、近世以後に三野津湾が干拓された後には、この地に汐木湊が造られ、年貢米の集積・積出港として繁栄したエリアです。その面影が大きな灯籠(灯台)や背後の荒魂神社に残っています。
 ここには汐木観音堂というお堂が残っていて、そこに鎌倉期十三世紀中頃の観音菩薩像が安置されています。
三豊市 汐木観音堂の観音菩薩像

この仏像も観音様にしては、私が見なれた観音とは何かしら印象が異なります。しかし、専門家は次のように評します。
 宝冠の文様や頭髪の毛筋など細部をゆるがせにしない製作態度、およびその甘さをふくむ端正な顔立ちに秀逸さをみせ、中世金銅仏のなかでも特に優れた作例のひとつといえる。腹前で右手を下にし、その上に左手を乗せた姿も珍しい。
頭部に戴いた宝冠の正面に如来形は、信濃・善光寺の本尊である阿弥陀三尊の観音菩薩に見いだすことができる。
と云います。どうやらこの観音様は信濃・善光寺の阿弥陀三尊の様式の脇仏のようです。善光寺の阿弥陀三尊は、鎌倉時代になり全国的な流行になったようで、それを模した像が数多く造られます。その多くは鋼製で阿弥陀如来が像高を約一尺六寸、両脇侍は約一尺弱のタイプが多かったとされます。この観音菩薩も、その広がりの中で鎌倉時代後期に造られた善光寺式の阿弥陀三尊のひとつのようです。元来は鍍金され金色に輝く姿で、勢至菩薩とともに阿弥陀如来をお守りする三尊だったのでしょう。
長野市の善光寺で御開帳始まる/前立本尊に参拝者ら感嘆 | 御開帳で姿を現した本尊の分身仏「前立本尊」=5日午前、長野市の善光寺 | 四国新聞社
善光寺の前立 阿弥陀三尊
 しかし、なぜこの観音菩薩だけが、ここに残されているのでしょうか。詳しいことは分かりません。分かっているのは「仏像」たちも旅をし、移動することです。戦国の戦乱の中で焼け出された仏たちは、旅の修行僧に背負われ安息地を求めて移動します。遠くの港に出向いた梶取り(船長)は、実入りのいい航海の時には立ち寄った港にある衰退したお寺から仏像を買い求め、生国にお土産として持ち帰り、信仰するお寺に寄進することもありました。どちらにしても寺勢のあるお寺には仏さんたちが集まってくるようです。

最後は正本観音堂の十一面観音像です
  現在の正本観音堂は、かつて宝宮寺という寺院であったといいますが、詳しい寺歴は分かりません。  まずは専門家の評価を見てみましょう
三豊市 正本観音堂の十一面観音像
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)

像塙107、3㎝でヒノキ材による寄木造り、かつ素木仕上げからなる檀像仕立ての像である。下半身にまとう腰布、腰帯などを複雑に折りたたむ形式、および頂上仏面の、清涼寺式釈迦のそれと同じ髪形はいわゆる「宋風」の影響を想わせる。現在は左上瞼が欠けるためその印象をやや損ねるが、総じて彫技は鋭く、また流麗である。年代も十三世紀前半を下らず、同期造像中の逸品とみて異論はないだろう。


先ほどの汐木観音と同時代の作品ですが、見なれた感じで親近感の持てる観音様です。頭部に10面の面があるので11面観音と分かります。左手に水瓶を持ち、右手はすっと下に下ろし、スラリとした姿が印象的です。
三豊市 正本観音堂の十一面観音像2
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)
卵形のお顔に、キリリとした目の表現やキュツと結んだ目元など引き締まった感じで、「美形やな」と呟いてしまいます。

以上、旧三野津湾沿岸に残る白鳳から鎌倉期におよぶ仏像を見てみました。伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているような気が改めてしてきました。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「三野町文化史1 三野町の文化財」 三野町教育委員会 平成17年」

 
「讃州剣五山弥谷寺一山之図」宝暦10年(1760)には、18世紀後半の弥谷寺の繁栄ぶりが描かれています。
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺一山図1 」

仁王門から大師堂、そして一番上の本堂までの参道に堂舎が立ち並び、石造物が迎えます。金毘羅詣でにやってきた参拝客たちが善通寺を経てわざわざ弥谷寺を訪れたというのも分かるような気がします。それだけの施設や霊場としての雰囲気を供えた空間が、この時期までに整備されていたようです。
 しかし、弥谷寺は戦国末期には兵火で焼失したと伝えられます。その後の復興は、どのように展開されたのでしょうか。それを残された絵図から見ていくことにします。

IMG_0102天霧城の香川氏
天霧城
弥谷寺背後の天霧山には、天霧城がありました。
この城は讃岐守護代として中・西讃を支配した香川氏の居城とされます。貞治元年(1362)の白峰合戦で、南朝方の細川清氏を討ち取って、三野・豊田・多度の3郡を領地とし、天霧山に城を築いたのが始まりです。その後、管領細川氏の守護代として讃岐11郡のうち6郡を治め守護代から戦国大名への成長を遂げていきます。 
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弥谷寺から天霧城への道
その天霧城の中腹にあるのが弥谷寺です。
香川氏は弥谷寺の檀家として、この寺を保護したと云われます。それを裏付けるように、香川氏の墓石である五輪塔が弥谷寺の境内には、いくつか確認できます。中世の弥谷寺の繁栄は、守護代香川氏の保護が背景にあったようです。
弥谷寺 九品浄土1
  浄土信仰の中心部・九品浄土にある生駒一正の墓石

 香川氏は、天正年間(1579)の、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に際しては、いち早く降伏し同盟関係を結び、土佐軍の先兵として讃岐平定に活躍します。しかし、それもつかの間、天正11年(1585)の豊臣秀吉による四国征伐を前に、元親はなすすべなく敗退し、香川氏も土佐に落ち延びます。

弥谷寺 生駒一正の石塔
生駒一正の石塔(弥谷寺本堂下)
 天霧城は破棄され、弥谷寺もこの時に消失して荒廃したといいます。そしてわずかに本尊と鎮守の神体だけが残ったと伝えられます。確かに、現在の弥谷寺に中世に遡る仏像は3体のみです。建造物も近世以後のものです。弥谷寺は戦国末期に伽藍が焼け落ちたようです。
  『大見村誌』には、正徳四年(1714)宥洋法印の記録として、香川氏没落以後の弥谷寺について、以下のように記しています。 
その後戦乱平定するや、僧持兇念仏の者、当山旧址に小坊を営み、勤行供養怠たらざりき、時に慶長の初め、当国白峰寺住職別名法印、当山を兼務し、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立す。
 慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正より、田畑山林を寄付せられ、其証書今に存せり。別名法印遷化後、直弟宥慶法印常山後住となり執務中、図らすも藩廳に対して瑕径あり。爰に住職罷免され、善通寺に寄託される、その後の住職は善通寺僧徒、覚秀房宥嗇之に当り寛永十二年営寺に入院し、法務を執り堂塔再建に腐心廿り、
意訳しておきましょう 
その後、戦乱が平定されると、修験者や念仏行者が弥谷寺の旧址に小坊を営み、勤行供養を行うようになった。慶長年間の初めに、白峰寺住職別名法印が生駒親正の信認を受けて、当山を兼務するようになった。彼は堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立した。慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正(親正の子)より、田畑山林を寄付せられた。その証書は今に伝わっている。別名法印が亡くなると、直弟宥慶法印が後を継いで後住となり執務を行ったが、図らすも藩廳に対して瑕径があり、宥慶は住職罷免された。その後、この寺は善通寺に寄託され、善通寺の僧徒である覚秀房宥嗇之が寛永十二年営寺に就任し、法務を執り堂塔再建に腐心した。

    この史料は、次のようないろいろな情報を提供してくれます。
①弥谷寺焼失後は、「念仏行者」が小坊を建てて布教活動の拠点となった
②白峰寺住職別名法印が、当山を兼務し、堂舎再建に努めた
③生駒親正の子・一正より、田地の寄進を受けた
④別名法印死後、直弟の宥慶法印は生駒氏の怒りを受け住職を罷免された。
⑤その後、弥谷寺は善通寺に寄託され、善通寺僧徒が住持となり、そのもとで堂塔再建が進んだ。
  ここからは、近世はじめには念仏行者の活動拠点となっていたことが分かります。そして、生駒家の保護の下に再建が進められますが、当時の住持が罷免され、善通寺の影響下に置かれたようです。
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弥谷寺参道の石仏

17世紀後半に「遍路」として「四国巡礼」を行った僧侶たちが残した3つの案内記を見ていきましょう。
まず、エリート学僧の澄禅の「四国遍路日記」(承応2(1653)年の記述です。彼の日記からは弥谷寺には「二王門」「持仏堂」「鐘楼」「護摩堂」「本堂」「蔵王権現ノ社」の5つの堂があったことが分かります。

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弥谷寺仁王門
坂の登り口には仁王門があったようですが、これは寛永年中(1624~1648)に大破します。澄禅が見た「二王門」は「二天門」だったようです。この「二王門」から続く参道の上の「高き石面」(断崖)には、彫り付けられた「仏像」や「五輪塔」が数え切れないほどあるといいます。中世以来の宗教活動の成果なのでしょう。自然石を切り出した階段を上ると「寺ノ庭に上がる」とあります。

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現在の百八階段

この「寺ノ庭」は、諸堂の立ち並ぶ平坦地で、現在の本坊、寺仏殿、寺務所、蔵などが立ち並ぶ平坦地のようです。
  「持仏堂」は、
「西向二厳ニ指カリタル所ヲ、広サニ間半奥ヘハ九尺、高サ人ノ頭ノアタラヌ程ニ イカニモ堅固二切入テ、仏壇間奥へ四尺二是モ切入テ左右二五如来ヲ切付玉ヘリ。中尊ハ大師ノ御影木像、左右二藤新大夫夫婦像二切玉フ。」

とあり、岩盤の窟内に五如来を陽刻しているとあるので、現在の「大師堂」、「獅子之岩屋」のようです。ここには、「大師ノ御影木像」の左右に藤新(とうしん)大夫夫婦像」があったといいます。藤新(とうしん)大夫夫婦像は、「空海=多度津白方生誕地説」で、空海の父母とされる人物です。この時点までは、弥谷寺は「空海=多度津白方生誕地説」を流布していたことになります。

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「鐘楼」は、「庭ヨリー段上リテ」とあります。

現在の鐘楼も寺の平坦地より、約1m程度高い位置にあるので合致します。

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弥谷寺護摩堂

「護摩堂」は、「鐘楼」から

「又一段上リテ護摩堂在、広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ、戸ヲ仕合ソノ内ニハ本尊不動其外ノ仏像何モ石也」

とあり、護摩堂も岩盤の窟内で、本尊が不道明王なので、現在の「岩窟の護摩堂」なのでしょう。
「護摩堂」から本堂への参道には
「少シ南ノ方へ往テ水向(水祭)在り、石ノ面三二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付玉ヘリ、廻リハ円相也。 ・・其下二岩穴在、爰ニ死骨ヲ納ル也。 ・・・
 其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付玉フ事幾千万卜云数不知。又一段上リテ石面二阿弥陀ノ三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛 六ツ彫付玉り、 ・・・又一段上リテ本堂在、」
意訳すると
「岩窟の護摩堂」から少し行ったところからの岩面には、五輪塔が彫られており、灰岩製の切石の石段を上ると「水場所」、「納骨所」があり、その左には「ア(種字)」が彫られ、そこから石段を上れば、岩面には「阿弥陀三尊」、「南無阿弥陀仏の六字名号」が彫られている。
とあり、ここが九品浄土で、中世の阿弥陀=浄土信仰の中心的な場所であったようです。
弥谷寺 九品浄土1

更に石段をあがると本堂です。本堂は岩面に接するように建てられ、その岩面には五輪塔が多数彫り込まれていいます。現在の「本堂」の位置と変わりません。
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弥谷寺本堂
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本堂磨崖に彫られた五輪塔

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弥谷寺本堂からの眺め
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本堂内部の磨崖仏や五輪塔
また「蔵王権現ノ社」|は、「其近所二」とあることから、「岩窟の護摩堂」の上方にある現在の「鎮守堂」であったようです。
以上が澄禅の『四国遍路日記』に書かれた承応2(1653)年の弥谷寺境内の諸堂の様子です。
 弥谷寺は、戦国末に兵火で焼失したとされますが、寛永十二(1635)年以後の善通寺からやってきた住持のもとで、生駒氏の支援を受けて堂塔再建が進んだと記されていました。確かに澄禅も、「退転=荒廃」した姿でなく再建が進む境内の様子を伝えています。退転したままだった阿波の霊場よりも、讃岐の霊場は立ち直りが早かったことがここからもうかがえます。
次に、やって来るのは真念です。彼の『四国辺路道指南』(貞享4年(1687)を見てみましょう
「七十一番弥谷寺 南むき。」
「まんだら寺ヘハニ王門より左リヘゆく。」
と記述は非常に少ないのです。ここから解るのは、本堂が「南むき」であつたことと、ちょうど「仁王門」を出て左に行けば、第72番曼荼羅寺への遍路道となることだけです。
最後にやって来るのが寂本です。彼の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689))には、
彼の案内記の特徴は、スケッチが挿入されていることです。これは非常に役に立ちます。まずそのスケッチで境内を見ていきましょう。
弥谷寺 伽藍図

 スケッチの①二王(二王門)手前で分岐し、右へ行くのが曼荼羅寺への辺土道で道で、②「薬師窟」、③「岩松窟」(弥谷坊)が描かれています。「仁王」から左へ進み道弥谷寺参道で、多数の石仏の間を抜け坂道を登ると平坦地にある④「千手院」(本坊)に着きます。この上部には⑤「聞持窟」(現大師堂)があり、参道は右方向に延び、左右に⑥「鎮守」⑦「鐘楼」⑧「二尊」(籠堂)⑨「護摩窟」⑩「弁財天」と上り、そして⑪「観音堂」(本堂)へと続きます。

  本文には次のように記されます
「山南にひらけ、三染の峰北西に峙てり。其中軸に就て大師岩屋を掘、仏像を彫刻し玉ふ_|
「本堂岩屋より造りつづけて、欄干雲を帯、錦帳日をいる」
「護摩の岩屋二間四方、石壇の上に不動,弥勒・阿弥陀の像まします。其脇の石壇に高野道範阿閣梨の像あり。」
 
「聞持窟(大師堂)は九尺に二間余、内のまわり岩面には五仏・虚空蔵・地蔵等切付られたり。・・・又大師の御影もあり、いにしへは木像にてありけるを、石にて改め作り奉る。其岩窟の前四六間の拝堂南むきにかけ作りにこしたり」

ここには約30年前の澄禅が訪れたときには「大師像」の両脇に置かれていた藤新大夫夫婦像は姿を消しています。この期間に弥谷寺は「空海=多度津白方生誕説」の流布を止めたようです。

 本文からはは本堂(観音堂)・「護摩の岩屋(護摩窟)」「聞持窟」「鐘楼」「住坊」「二王門「石窟薬師堂」の7つの堂舎があったことが分かります。さらに先ほど見たスケッチには「岩松窟」「鎮守」「二尊」「弁財天」の4つの堂舎が描かれていますので合計11の堂舎があったことになります。30年で着実に境内整備は進んでいます。金毘羅大権現に次ぐ規模だったのではないでしょうか。弥谷寺が多くの信者を擁し、経済力を持っていたことがうかがえます。
次に、残されているのが弥谷寺所蔵の版木「讃州剣五山弥谷寺一山之図」です。
この版木は裏面に「大阪北久弐 細工中澤彦四郎」と刻銘があり、「大坂」ではなく「大阪」とあることから、明治以降に復刻されたもののようです。しかし、使われている版木は宝暦10年(1760)のものと研究者は考えているようです。この版画絵を見ていきます。
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺一山図1 」

  この絵図も弥谷寺の境内は、「二王門」から始まります。
仁王門までの参道には、「フジ橋」「大門奮(旧)跡」「石橋」があり、両側には墓石、供養塔と考えられる石造物がたくさん並んでいます。「二王門」手前で遍路道が右に分岐し、次の札所である曼荼羅寺方向と、「穴薬師」が描かれています。
「二王門_|を抜けると左に「南無阿弥陀仏」と書かれた「船ハカ(墓)」があり「手掛岩」→「法雲橋」→「独古坊跡」→「大日」と続きます。参道の左右に五輪塔が描かれており、岩面には数多くの磨崖五輪塔があります。「大日」も磨崖仏として彫られているようです。
「大日」から茶道下の坂道を登ると、平坦な地点に着き、ここに緒堂が並びます。寂本のスケッチには「千手院(本坊)」とあった所です。この正面に「奥院(大師堂)」「求聞持窟」「茶堂」「方丈」(本坊)、
右手に「中之院」「三十三番」「十三堂」「鐘楼」などです。今は「茶堂」「中之院」「三十三番」「十王堂」などはありませんが、それ以外はほぼ同じ所にあります。さらにこの平坦地から「十王堂」と「鐘楼」の間の坂道を登れば、正面に「護摩岩屋」が見えてきます。
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護摩の窟内部
階段を登りきった護摩堂前で参道は左右に分かれます。

右に行けば「天神」「比丘尼谷」「東院旧跡」「権現社」へ
左に行けば「一正石塔」、「観経文」「三尊弥陀」のある九品浄土を経て、「本堂」に続きます。今は「六本杉_|はありませんが、「籠所」を今の薬師堂と考えれば、ほぼ同じ所に諸堂が建っていることになります。現在の弥谷寺の緒堂の空間配置は、この時には出来上がっていたことになります。

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弥谷寺磨崖仏の位置

元禄2年(1689)の『四国遍礼霊場記』から70年近く建った宝暦10年(1760)には、緒堂がさらに増え、境内が整えられていることが分かります。

  「讃州剣五山弥谷寺一山之図」刊行から9年後の「多度津公御領分寺社縁起」(明和6年(1769)の中の「讃州三野郡 剣五山弥谷寺故事譚」には、次のように記されています。
開基は行基で、当初「東ノ御堂亦伝東院」「多宝塔名中尊院」「両ノ御堂又伝西院」を中心伽藍として、「遍明院」「和光院」「青木坊」「其師坊」「納涼坊亦伝籠所」「功徳院」「弥之坊」、「谷之坊」「独古坊」「竜花坊「安養坊」「海印坊」の十二坊があった。それが天正年間に天霧城主香川氏の退城後に、兵火にり仏閣僧坊が灰儘に帰し、その後生駒氏の命を受け白峯寺の住持別名法印が弥谷寺を兼帯し、伽藍再興に東とりかかった。弥谷寺はその後も生駒氏、京極氏の庇護を受け、伽藍再興が進んだ。
 
当時の境内にある堂舎の建立者と年月日が次のように記されています。
大悲心院(本堂)一宇 享保十二未年、幹事宥雄法印
納涼坊   幹縁宥沢法印
十王堂  享保七壬寅十一月七日 宥雄法印代」
鐘楼  大和三壬戌年 幹営宥澤法印
奥院    岩窟也(求聞持窟)
前段(大師堂)延宝九年酉九月吉日幹事宥沢法印
鎮守社  貞享五辰九月吉日  幹造宥沢法印
青木堂   明和六年四月吉日   同人
与手院            幹営宥沢法印
寂光院   岩屋也(護摩窟)
前殿  明和元年五月吉日  幹事瑞応法印
止観院 延享三寅五月廿六日 瑞応法印代(三十三所)
弁財社 宝暦二年中九月令甲 幹営菩提林
天神社 同年         同人
愛宕社 明和六丑六月
泰山附君社  同五千九日吉  卓令事菩提林権律師
接待所  享保十巳施主宇野浄智宥雄法印代
中門  延宝九百六月吉日 卓全縁宥沢法印
とあり、着実に堂舎建立が進み、18世紀中葉までには境内の伽藍整備が終わったようです。特に宥沢の時代に、多くの堂宇が建立されたことが分かります。
次に『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800)を見てみましょう。

弥谷寺 四国遍礼図絵1800年

一番高いところにある①本堂から見ていきましょう。
挿図からは、本堂が片入母屋造で妻入りの建物であることが分かります。描く技術も格段に進歩しています。本堂から4つの石段を下った平坦部のほぼ中央部に④「護摩の窟」があり、③「弁天社」⑤「権現社」「天神社」の位置には変わりがありません。
弥谷寺 九品浄土1

 ここで気づくのが②阿弥陀三尊の下の南無阿弥陀仏の六字名号が小さくなっているような気がします。この「九品浄土」は中世の阿弥陀=浄土信仰の中心部であったのですが、真言密教観と弘法大師伝説の「流行」に押されて、その役割を終えようとしているようにも見えます。

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護摩堂

 「護摩の窟」の前の正面石段を下ると平坦部となり、正面に鐘楼、右手には「十王堂」と「観音堂」が並びます。十王堂は入母屋造り、観音堂は宝形造りのようです。その平坦部の端には「奥院大師堂」、「求聞持の窟」「茶堂」があり、以前と変わりません。

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一段高い所にある十王堂

 「茶堂」より石段を下ると右手に「独鈷坊古跡」があったようですが、この絵図には最初の平坦部に石塔2基が描かれ、次の平坦部には多角形の線が描かれている。今はここに「金剛拳菩薩」が立っています。
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金剛拳菩薩

「金剛拳菩薩」は、寛政3年(1791)から文化8年(1811)の間に造られたことが紀年銘から確認できます。ちょうどこの絵図が描かれたいた頃に建立中だったようです。多角形の線は、金剛拳菩薩の台座の部分のみの表現と研究者は考えているようです。
 
  「讃州剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10年(1760))と『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))を比較すると、「中之院」は無くなっていますが、境内の諸堂や配置には大きな変化はありません。
しかし、小さな変化が2点あるようです。
一点目は、境内参道の一部が石段になっていることです。
①「二王門」前、
②「独鈷坊古跡」から茶堂へ
③「十三堂」から「護摩の窟」さらに本堂への参道
が石段として表現されています。18世紀後半には金毘羅さんでも石段化が始められ、19世紀前半には全域の石段化が完了します。さらに石畳化や玉垣・灯籠整備へと進みます。弥谷寺の石段整備はそのような流れと合致します。
  2つ目は「法雲橋」から「茶堂」への参道の付け替えです。
弥谷寺 参道変遷
弥谷寺の参道変遷

「讃州剣五山弥谷寺一山之図」では、「法雲橋」を渡り、参道は磨崖五輪塔が描かれた岩の向こう側を通り、右に「大日」、左に「独鈷坊跡」見て、「茶堂」坂道を上るように描かれていました。
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潅頂川にかけられた現在の法雲橋
ところが『四国遍礼名所図会』では、「法雲橋」を渡り、参道は磨崖五輪塔が描かれた岩の手前を通り、「独鈷坊古跡」を左手に、若干上り右に「大日」を見て、「茶堂」への坂を上るように描かれています。この間に参道の変更があったようです。
 どうしてでしょうか。金毘羅さんの参道も、「戦略」的に何度か付け替えられています。それは、当時新しく造られた建造物やシンボルモニュメントを参拝者に印象づけようとする意図があったことは以前に見ました。
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金剛拳菩薩
そういう視点で、弥谷寺を見ると新たなシンボルといえば、金剛拳菩薩です。旧道では、完成したばかりの金剛拳菩薩が参道から視野に入ってきません。石段を登ってくる参拝者を上から慈悲の視線で金剛拳菩薩迎えるように参道が付け替えられたと私は考えています。
最後に幕末の、「讃州剣御山弥谷寺全図」を見ておきましょう。
この版木は弥谷寺に残されたもので裏面に天保十五年(1844)の墨書があり、製作年代が分かります。金毘羅さんの旭社完成し、玉垣や石畳などの周辺整備が進められ参拝者が爆発的に増えた時期です。それに、併せるように新たな絵図が制作され弥谷寺への参拝客の呼び込みを行ったことがうかがえます。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」

 この絵図を見ると弥谷寺境内は今までのように、「二王門」から始まります。しかし、ちがうのは「二王門」までの参道に次のような院房が並んで描かれています。

①「大門跡」「和光院跡」「安養院アト」「遍明院アト」「青木院跡」「功徳院跡」「龍花院跡」

 往時の境内が今よりもかなり広かったようです。これらの子院は中世には、念仏行者や山岳修験者として活動していた下級僧侶たちの拠点だったのかもしれません。それがいつの時代に衰退し、破棄されていったのでしょうか。考えられるのは金毘羅大権現のいろいろな宗教施設が別当金光院により統制・排除されていく動きや、白峰寺の一院化と同じ頃ではなかったのかと私はおぼろがながら考えています。何かしらの「政治的な力」が働いた結果だと思うのですが・・・。今はよく分かりません。
「大門跡」は柵で囲われており、「大門跡」と書かれた高札が設置されています。
また「大門跡」の外側には、 3間×4間の入母屋造りの建物、
②「功徳院跡」と書かれた部分には、 2間×2間の入母屋造りの建物が描かれています。これらの子院跡を抜けると十字路の交差点です。右は曼荼羅寺への道、左は西入口となります。この交差点から右に「穴薬師」「薬師院」、左に茅葺の建物を見て、二王門が迎えます。
 ③「二王門」は3間×3間の二層入母屋造りで、土塀を廻らし、かなり立派です。
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二天門(現仁王門)の上の参道横に立つ「船墓」

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船墓

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船墓(レーザー撮影)

「仁王門」を抜けると右手に「南無阿弥陀仏」の名号が描かれた④「船ハカ」(墓)があります。これも中世の弥谷寺が荒野の念仏聖(時宗)の活動拠点であったことを示すモニュメントのようです。
これを過ぎると「潅頂川」に⑤「法雲橋」が係っています。これもアーチ状で、欄干がある石橋で、かなり立派なものになっています。これも参拝者が喜びそうです。
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「法雲橋」を過ぎると、今までなかった⑦「丈六金佛(金剛拳菩薩)」が正面に現れます。
「天金佛」から坂道を上ると諸堂の立ち並ぶ平坦地になる。左手に「茶堂」、「本坊」、正面に「大師堂「獅子窟」があります。本堂へは、右に折れ左手に「大塔」「三十三所」「十王堂」を見ながら、右手「鐘楼」で、左に折れ、さらに坂道を上ります。坂道を上れば、正面に「護摩堂」があり、参道は左右に分岐します。
右に行けば「天神」「比丘尼谷」「東院堂アト」⑧「蔵王権現」へ、
左に行けば「納涼院」、⑨「前讃岐守生駒一正石塔」、⑩「九品浄土」を経て、「本堂」に至ります。今は「六本杉」はありませんが、「納涼院」を薬師堂とすれば、ほぼ同じ所に各お堂があることになります。金毘羅大権現のように、神仏分離で大きく変化したと云うこともありません。
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)と「讃州剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10年(1760))を比べてみましょう。
「中之院」はなくなっていますが「二天門」、「丈六金佛」、「大塔」、「経蔵」などあたらしいお堂やモニュメントが姿を見せ、さらに伽藍の整備が進んでいます。特に「法雲橋」「二天門」「丈六金佛」は、参拝者に喜ばれたことでしょう。それが評判となってさらなる参拝者を招き入れるという発展らせん階段を弥谷寺は上っていきます。
  ここにも金毘羅さんと同じように、惜しみなく資本投資を行い伽藍整備を進め参拝客を増やし続けるという経営戦略を見る思いがします。
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献


今回は、弥谷寺縁起には、どのように記されているのか見ていくことにします。
 弥谷寺の歴史を伝えるものは、江戸時代中期の元文(1737)年に寺が版木で印刷発行した「讃州纒御山涌谷寺略縁起」(以下、略縁起)しか残ってないようです。この略縁起は、八栗寺(牟礼町)の縁起と非常に似ていることが研究者からは指摘されています。
 その背景には、江戸時代前期に讃岐を訪れた浄厳の存在があるようです。彼は、讃岐各地の寺々で求めに応じて銘文や縁起を書いています。そのため寺の由来には「行基開祖、空海再建」というパターンが多くなります。弥谷寺の由来もこのパターンです。空海由縁の遺跡を訪れた浄厳の原稿をベースに、八栗寺や弥谷寺の縁起は書かれた可能性があるようです。

  略縁起を要約すると、次のようになります。
弥谷寺は、行基が東西の峯に各七間の梵宇を建て自ら造像の阿弥陀・釈迦仏を安置し、寺名を蓮華山八国寺と称した。それは、弥谷山からの眺望が周囲八つの国々を見渡せることに因んで名付けられた。
 次いで、略縁起は、空海が泉州槙尾山寺での修行のことを特記します。そして、空海が弥谷寺伽藍を再興し千手観音を本尊として剣五山千手院と改称した。
  ここからは次のようなことが分かります。
①弥谷寺は当初は、蓮華山八国寺と呼ばれていた
②空海が弥谷寺伽藍を再興し、千手観音を本尊として剣五山千手院と改称した。
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
⑧が鎮守堂(蔵王権現) ⑩九品浄土  ③ 仁王門

『略縁起』は、「蔵王権現」と弥谷寺の関連を次のように記します
①唐から帰朝した空海が自ら岩窟を穿って求聞持の秘法を行った求聞持窟=獅子窟のこと
②「五柄の利剣」が空から降り、金色の光の中から「金剛蔵王大神」が現われたこと
③大師に千手観音を造仏し、伽藍を再興するなら、 自らは鎮守の守護神となると蔵王権現が云ったこと
①は現在の大師堂の岩窟のことで、ここで空海は求聞持法を行ったとされるようです。②は弘法大師伝説の中に描かれる五柄の利剣が出てきます
1五柄の利剣

③そして、登場するのが守護神としての蔵王権現です。
①求聞持窟=獅子窟 ②五柄の利剣 ③蔵王権現
3つが弥谷寺の縁起の中核のようです。
弥谷寺 蔵王権現社
金毘羅参拝名所図会 弥谷寺の(蔵王)権現社

この蔵王権現のことは、寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年1689)には、
「大師登臨の時 蔵王権現示現し玉ひ、即鎮守とす。其像大師御作、御長七八尺、もとより畏る可しの形ちなり」

と、蔵王権現を鎮守とし、空海がその像を作ったとして大きさや形も記しています。

 蔵王権現とは、どんな姿なのでしょうか
『金峯山秘密伝』延元2年(1337)の中に、次のように由来が説明されています。
役小角が大峯の岩窟で守護仏を祈請するとまず釈迦如来、次いで千手観音、弥勒菩薩が現れたが小角は満足しない。最後に現れたのが蔵王権現で、小角はこれこそ自分に相応しい仏と感じて、金峯山の守護神としたという仏神です。

弥谷寺 吉野山蔵王権現

 その像容は、一面三眼二膏、青黒身、忿怒相で、頭部に三鈷冠を頂き、右手に剣印を結び、左手を腰に据え、左脚は磐石を踏み、右脚は空に構える姿勢です。
石鎚 蔵王権現
石鎚山頂に運び上げられる蔵王権現

蔵王権現は役行者や吉野山の山岳信仰と結びつけられ、全国の霊山に勧進されていきます。
石立山と呼ばれていた石鎚山の頂上にも、かつては蔵王権現が祀られていました。そして、四国各地に石鎚山信仰の修験者たちいたようです。この弥谷寺にもそのような行者(山伏)がいて、大きな力を山内で持っていたことがこの縁起からはうかがえます。
 弥谷寺に蔵王権現が祀られていたのなら、開祖である役行者(役小角)と共にその祀り手は修験・山伏ということになります。弥谷寺は、寂本が指摘しているように、第85番札所の五剣山観自在院八栗寺と同じ性格の寺院ということになりますが・・・。どうもそうとは云えないようです。

 弥谷寺に伝えられる「蔵王権現」とは、どんな姿なのでしょうか。
弥谷寺 深沙大将椅像

これが弥谷寺の鎮守堂に蔵王権現として祀られてきた像です。しかし、私たちが見慣れた蔵王権現の姿とは違います。「蔵王権現」とされてきたこの鬼神形像は、近年の旧三野町の調査では「深沙大将(じんじゃだいしょう」の侍坐形式木像とされています。
しかし、今回の調査報告書には、次のように述べられています。
作成時期については「穏やかな彫りから本像は、制作年代を平安時代中期 11世紀ころ」と推定します。その構造については、

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)
「頭体を一材から彫り出して頚部で割首とするものか、背面から体部と頭部に内材を施して背板状の材を当てているとみられる。腕は両肩から先を別材として寄せ、膝前は横一材として腹前に矧ぎ付けるようであり、ほぼ通例的な木寄せとみられるが三角材の使用は不明である。炎髪部から姿をあらわす蛇形は当初のものとみられるが本像に特徴的なものである。

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

 右耳から後方の地髪部には大きな修理が加えられており、書の形にも後の手が入るようである。首周りの燭骸の嬰塔は全て後補であり、ひとつ亡失している燭骸部の下にみえる体部材には彫出した痕跡は確認されない。また、深沙大将の図像に特有なものとされる腹部にあらわす童子面も本像にはみられず、かつて彫出あるいは添付をなされたようにはみられない。
 椅坐の形式は当初からのものとみられるが、深沙大将図像の特徴に上げられる象頭の袴をあらわす両足の膝頭部から下方の足先指にいたるまでは、体部に比して保存状態も良好であり胸部の彫りに比べるとやや硬く後補とみられること、
 さらに同様な蛇の巻き付く両腕部は、天衣の一部をあらわす左上腕部だけは当初の可能性があるものの、ほかは天衣とともに後補とみられる。
現状にみる体部表面の彩色も古色風に塗りなおされた可能性が高く、修補時に深沙大将像の図容として燭悽の理塔と象頭の袴などを調えた可能性を否定できない。像表面にみる胡粉下地を厚く整えた様子から推測すれば、一時期、かなり傷んだ状態にあったのではなかろうか。」
ここからは次のようなことが分かります。

弥谷寺 高野山深沙大将
高野山の深沙大将
①深沙大将に特有な腹部の童子面がない
②後世の修理の際に、深沙大将像の特徴である燭悽の理塔と象頭の袴などを後に調えた可能性
③首周りの燭骸の嬰塔は全て後補
④頭髪部の「七匹の蛇」も、当初は蛇に関わる夜叉神像が、後に深沙大将に似せられた可能性がある
つまり、この像は深沙大将でもないとこの調査書は指摘しています。
蔵王権現でも深沙大将でもないとすれば、この像のもともとの姿は何だったのでしょうか。

弥谷寺 蛇王権現

その答えは、鎮守堂に掛けられた扁額にあるようです。
そこには「蛇王大権現」と記されているのです。「蛇王大権現」とすると頭に載せた「蛇は龍」とも読み替えることができます。どうやらこの像は「蛇王大権現=龍冠の夜叉神」として作られ、いつの時代かに「深沙大将像」とされ、山岳信仰や石鎚信仰の山伏たちによって「蔵王権現」へと「変身」させられてきたようです。蛇王権現と蔵王権現の言葉の響きもよく似ています。
 
 それではこの像が「蛇王大権現=龍冠の夜叉神」とすると、弥谷寺にあることをどう考えればいいのでしょうか
  上田さち子氏は、本来山に棲む龍神が寿命の神であり、仏教と習合することで蛇王菩薩となったのではないかと次のように述べます。
「寿命の神である夜叉神は山に棲み、あるいは自力で天に昇る。彼らは、仏教の四天王をおそれ、僧形の蔵王菩薩に使われるようすを見れば、土俗的な存在といえる。生命を司る土俗の神が棲むゆえに、高山は他界となり、極楽往生を願う聖が山に登るようになったと私は考える。」

 水分神として山に棲むと考えられたのが龍(蛇)形の夜叉神です
この神は、生活になくてはならない水を供給する一方で、自然災害を発生させる危険な側面を持ちます。それと同時に人間の生命や寿命を司る神でした。それが仏と習合することで彼らが棲む山が浄土化し、大勢の聖や行人を惹きつけていったとされます。蛇王権現は、平安時代のこのような状況下で産み出された仏神のようです。
  この仏神の形成を明らかにすることは、柳田民俗学の「古より死者の霊魂は里に程近い山に籠る」という祖霊観への疑義にもなります。

蔵王権現と蛇王権現の目指した違いを見ておきます。
①蔵王権現は、忿怒の降魔神として、修行としては山中科檄を行い、即身成仏を目指した。
②蛇王権現は、山中浄土観を保持し、無言断食や一心念仏による籠行(こもりぎょう)、磨崖仏や磨崖五輪を刻み、民衆の葬儀や死者供養などにも積極的に関わっていきます。
②を信じた念仏行は、後の法然や親鸞の絶対的な阿弥陀如来を前提とした専修念仏とは少し違います。苦行によって直接的に浄土に迫ろうとする自力の回称念仏でした。しかし、彼らもまた「修験」であることに変わりはありません。
 役小角系の修験を「陽」の修験とするなら、彼らは「陰」の修験の系譜に位置づけられる念仏系行人集団だと研究者は考えています。そうした集団の信仰の一端を示すのが、弥谷寺の「蛇王権現」のようです。これは金剛蔵王権現に対して、胎蔵蔵王権現の姿であるのかもしれません。
 しかし、この系譜は鎌倉新仏教興隆の波に飲まれ、真言宗の大師信仰に吸収されてしまいます。歴史の表に立つことはなかったのです。
 蔵王権現として鎮守堂に祀られてきた仏像を、蛇王権現として読み替えることで、弥谷寺を拠点とした念仏行者たちの活動が少し見えてきたような気がします。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」です。

  前回は民俗学が標榜した
「弥谷寺=古代からの死霊が集まる山=イヤダニマイリ」説

に対して、歴史学から疑義が出されていること。そして、弥谷寺の祖霊信仰は中世の宗教勢力によって形作られたという説が出されたことを見てきました。それでは、祖霊信仰形成の仕掛け人とは、どんな人たちだったのか、またどんな組織を持っていたのかを見ていくことにします。
98歳の義父とダンナと3人で行く、、(今回は悩んだ末) ~~ 四国八十八 ...
弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏

承応2年(1653)に弥谷寺を訪れた澄禅は
「山中石面ハーツモ不残仏像ヲ切付玉ヘリ」

と、断崖一面に仏像が彫られていたことを報告しています。
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弥谷寺の磨崖仏分布地図

その30年後の元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』(寂本)には次のように記されています。

「此あたり岩ほに阿字を彫、五輪塔、弥陀三尊等あり、見る人心目を驚かさずといふ事なし。此山惣して目の接る物、足のふむ所、皆仏像にあらずと言事なし。故に仏谷と号し、又は仏山といふなる。」

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磨崖に彫られたキリク文字

意訳しておくと
この当たりの岩には南無阿弥陀仏の六字名号が至る所に彫りつけられ、その中に五輪塔や弥陀三尊もある。これを見る人の目と心を驚かせる。この山全体が目に触れる至る所に仏像が掘られ、足の踏み場もないほど仏像の姿がある。故に「仏谷」、あるいは「仏山」と呼ばれる。

ここからは江戸時代の初めには、この寺にはおびただしい磨崖仏、石仏、石塔で埋め尽くされていたことが分かります。それは、中世を通じて掘り続けられた「成果」なのかもしれません。この磨崖・石仏群こそが弥谷信仰を担った念仏阿弥陀宗教者の「痕跡」だと研究者は考えているようです。
弥谷寺 九品浄土1
金毘羅参拝名所図会 弥谷寺九品浄土の六号名字

元文2年(1738)の弥谷寺の智等法印の「五剣御山爾谷寺略縁起」には、本堂下の阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯が「九品の浄土」と呼ばれてきたと記します。弥谷寺の水場の近くの岩壁に南無阿弥陀仏の名号が九つ彫られ、九品の意味があるというのです。さらに、その下部に

門々不同八万四為滅無明果業因利剣即是阿弥陀一称正念罪皆除

と、唐の善導大師の謁が彫られていたと記します。しかし、今はこの文字を見つけ出せないほど、岩壁は摩耗しています。
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 阿弥陀三尊の横には「南無阿弥陀仏」の名号が彫られていました。今は摩耗して見えません。しかし、「心」で見ていると南無阿弥陀仏が浮かび上がってくるような気がします。かすかに痕跡が見えています。
弥谷寺 九品の阿弥陀
九品阿弥陀来迎図

 「九品の弥陀」(くぼんのみだ)とは、九体の阿弥陀如来のことです。この阿弥陀たちは、往生人を極楽浄土へ迎えてくれる仏たちで、最上の善行を積んだものから、極悪無道のものに至るまで、九通りに姿をかえて迎えに来てくれるという世界観がありました。
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そのため、臼杵の石仏のように、この空間には印相を変えた9つの阿弥陀仏の代わりに南無阿弥陀仏が9つ掘られていたようです。

弥谷寺 九品来迎図jpg

さらに『多度津公御領分寺社縁起』(明和6(1769年)には、次のように記されています。
「東院本尊撥遣釈迦、西院本尊引摂阿弥陀

東院の本尊は釈迦如来で、西院の本尊は阿弥陀であったというのです。阿弥陀信仰が強かったことがうかがえます。また本堂下の墓石群の中には、次のように刻まれたものがあります。
「延宝四」丙辰天 八月口口日大見村竹田念仏講中二世安楽也」

ここからは弥谷寺の里の大見村の竹田には念仏講が組織されていたことが分かります。これも阿弥陀=浄土信仰と念仏聖の活動を示すものです。この石碑とよく似たものが白方の仏母院(寛文13年(1773)年にあります。念仏講が建てたもので、白方と弥谷寺が念仏聖たちによって結びつけられていたことがうかがえます。

阿弥陀信仰を担い、このような空間を弥谷寺に作り上げていった宗教者たちとは、どんな宗教者たちだったのでしょうか?
平安~鎌倉時代の寺院組織は、どんな階層性があったのでしょうか。
お寺というと住職さんがひとりいて、すべてを取り仕切っている姿を私は思い浮かべていました。しかし、古代や中世のお寺は現在のお寺とはちがいます。まず、東大寺や国分寺をイメージすると分かるように、ここにいる僧侶たちは厳しい試験を通過した上級国家公務員です。中には貴族たちの師弟も数多く含まれています。同時に寺院は、大学・病院・図書館・研究施設・出版局などを兼ねた大施設でもありました。そこには、僧侶を教授に例えるなら数多くの「専門職員」がいました。彼らなくしては、寺院の運営は成り立たなかったのです。そのため畿内の大寺社では、次のような厳しい階層性がありました。
①統率者として別当、座主、検校長者などが位置し、
②寺務管理の役職として三綱・(上座・寺主・都維那(ついな)があり、
③その下に政所や公天所といった寺務局が置かれた。
④寺院に属する上級僧侶全体は、大衆(だいしゅう)、あるいは衆徒(しゅうと)と呼ばれた。

彼らの役割は「学(学解・学問)と行(修行・禅行)」で次のようにふたつに分かれていました。
①学に携わる場合は学衆・学侶(がくりょう)・学生(がくしょう)
②行に携わる場合は行者・禅衆(ぜんしゅう)・行人(ぎょうにん)
  中世の「四国辺路」を考える際に、重要となるのが行人のようです。行人を辞書で調べると?
①修行僧。行者。
②延暦寺で、寺の雑役をする人。堂衆。
③高野山で雑役に従事した下級の僧。中世以後、学侶・聖(ひじり)とともに高野三方(こうやさんかた)の一として真言密教修学のかたわら、大峰・葛城(かつらぎ)などの山々で修験の行を行なった。
④諸方を巡り経文を唱えるなどして金品を請う僧。
⑥江戸時代、18世紀後半に白衣に白股引と手甲を着け、白木綿で頭を包み、菅笠で鉦鼓(しょうこ)をたたいて遊行し、銭などを乞うた者。〔随筆・只今御笑草(1812)〕
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。
弥谷寺 大衆

しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいたようです。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。
中世の寺院組織を見ていると、とまどうことがよくあります
例えば「行人」という言葉が出てくると、
①衆徒に属する中核組織の行人(=現在の大学の教授層)なのか、
②寺院末端の堂社に属する行人なのか、
私には区別できません。大まかに「…寺」という組織の中に、「学」と「行」という二本の柱があったとしておきましょう。
さて、この組織図を讃岐の中世寺院である善通寺に当てはめて考えて見ます。
善通寺も本末関係で言えば、京都の東寺の末寺ですが、その経済力や規模から見て東寺のような組織を持っていたとは考えられません。が、基本的には共通点があったでしょう。当時の文書には、寺領の共通性からなのか、曼荼羅・善通寺は一体として捉えられています。その曼荼羅寺のエリアには当然、出釈迦寺及び奥之院も含まれ、組織的には善通寺として統括されていたようです。
 『流浪記』で道範は、寛元元年(1243)九月十五日に宇足津から善通寺に移ってきます。
その6日後には「大師の御行道所」を訪ねています。現在の出釈迦寺の奥の院の行場で、大師が捨身行を行ったと伝えられる聖地です。「世坂」と呼ばれる「行道」を人に助けられて登り、
「五岳の中岳の我拝師山の西の山由(みね)」の「行道所」

に立っています。ここは地元では「禅定」とも呼ばれていている聖地です。そこに自分に身を置いてみたいという願いが強かったことが分かります。後に、西行もここで修行を行っています。
 我拝師の捨身け岳は、弘法大師伝説の中でも一級の聖地でした。そのため善通寺の「行者・禅衆・行人」方の拠点でもあったようです。ちなみに、現在の出釈迦寺は近世になって曼荼羅寺から独立して出来た新しいお寺です。それまでは、霊山我拝師山の遙拝所であったようです。空海が捨身を行ったと伝えられる「行道所」(行場)を、中世に管理していたのは曼荼羅寺になります。そしてこの寺は、善通寺の「行者」の拠点センターの機能を持っていたことになります。

「善通寺文書」の中に、建治2年(1276)の蒙古人誅伐の祈祷に関する文書があります。
幕府の求めに応じて、各地の寺院で行われた祈祷ですが、そこには毎日三回行う祈祷の分担が次のように記されています。
①「五檀法」(調伏護摩)」は「御影堂衆」と「金堂衆」と「法花堂衆」が担い
②大般若経の不退転読は八幡社に関わつた「供僧分」が行い
③仁王経の長日読誦は「職衆分」
④薬師経・観音経は「交衆分」
⑤尊勝陀羅尼・千手陀羅尼は「行人」が担う
とされています。ここからは、祈祷が単にエリートの学僧たちだけで行われていたのではないことが分かります。面白いのは、護摩祈祷を行える僧侶が階層性のランクが高く、それも管理する堂毎に分類されていることです。各堂が現在の大学の学部・学科の分類のように私には見えてきます。やはり今と同じように、堂同士の反目や派閥争いがあったのかもしれません。
 それより以下の僧侶はランクに応じた聖教が割り当てられています。まさにお寺は階層社会です。目に見える形で、所属と自分の階層が分かるシステムです。
 ③の職衆(しきしゅう・色衆)は、法会で梵唄や散華など担う僧侶です。④の交衆(こうしゅう)が学僧になるようです。ここにも、学と行、神と仏の軸が交差する組織のありようが見えてくると研究者は考えているようです。
南海流浪記- Google Books
 
讃岐に流刑となった道範です。しかし、高野山で高位にあった彼をを善通寺やその周囲の僧侶たちが放って置かなかったようです。
道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えたことが考えられます。
道範が著した、宝治2年(1248)道範が著した『行法肝葉抄』の下巻の奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。
書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
  ここには「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されています。上人とは高僧に対する尊称です。ここからは次のような疑問が沸いてきます。
①どうして個人名ではなく、弥谷の上人という言い方が使われているのか
②弥谷寺ではなく地名としての弥谷しか記されていないのか
③上人は代表者なのか。また、多数の宗教者なのか。
④だれが学僧道範に修行法のテキスト執筆を依頼したのか、
ここにも中世寺院組織を当てはめてみましょう。
 注目するのは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちの存在です。彼らを弥谷ノ上人と記しているようです。「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることに再度注意します。そうすると、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったかもしれないとも思えてきます。この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺ー曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」で行場として、そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたとも考えられます。

  弥谷ノ上人が道範に『行法肝葉抄』を依頼した背景は?
 仏道念仏修行に情熱を注いだ別所の行人集団が、道範に対して、彼らが勧進で得た資材で行法の注釈書を依頼します。敬意をもってそれを受けた道範は老いた身で、しかも配流先の身の上で参照すべき書籍等のない中で専ら記憶によって要点を記した『行法肝葉抄』を完成させます。この奥書に書かれた「弥谷ノ上人」とは、そんな背景がしめされているようです。『流浪記』で道範は、 こうしたタイプの宗教者と関係を持っていたことがうかがえます。

 道範と阿弥陀信仰の僧侶との交流がうかがえる記述が『南海流浪記』の中にはもうひとつあります
宝治2年(1248)11月17日に、まんのう町(旧仲南町)春日に位置する「尾背寺」(廃寺)を訪ね、翌日18日、善通寺への帰途、大麻山の麓にあった「称名院」に立ち寄っています。
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」

意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
  「九の草の庵りと 見しほどに やがて蓮の台となりけり」
後日、念々房からの返歌が5首贈られてきます。その最後の歌が
「君がたのむ 寺の音の 聖りこそ 此山里に 住家じめけれ」

です。このやりとりの中に出てくる
「九品(くほん)の庵室・持仏堂・九の草の庵り・蓮の台」

には、称名院の性格がうかがえます。称名院の院主念々房は、浄土系の念仏聖だったようです。
   江戸時代の『古老伝旧記』には、称名院のことが次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 地元では、阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。念々房は、念仏僧として善通寺周辺の行場で修行しながら、象頭山の滝寺の下の氏神様の庵に住み着いていたのかもしれません。善通寺周辺には、このような「別所」がいくつもあったことが想像できます。そこに住み着いた僧侶と道範は、歌を交換し交流しています。こんな念仏僧が善通寺の周辺の行場には、何人もいたことがうかがえます。

こんな念仏僧を「阿弥陀聖、市聖」ともよばれる空也(903-972年)と研究者はダブらせます。
弥谷寺 空也

空也は、京都の六波羅蜜寺の彫像が有名です。首から鉦を下げ、撞木と鹿角の付杖を持ち、草軽履きで歩く姿で、空いた口元から「南無阿弥陀仏」の六字名号が六体の化仏として表現されています。平安末期の『梁塵秘抄』には
「聖の好むもの 木の節 鹿角 鹿の皮 蓑笠 錫杖 木簗子 火打笥 岩屋の苔の衣」

と歌われた聖の典型的な姿が現されています。
彼こそ「止の聖」から都市に下り、「市の聖」に転換した象徴的人物です。彼が最後を迎えた六波羅蜜寺は、元は西光寺と呼ばれました。その場所は。鳥辺野と呼ばれる葬地であり、京都の中では最もあの世に近い場所でした。空也は、遊行宗教者で若い頃、阿波と土佐の間の海中の島で苦行したという伝説があります。

愛媛県の第79番札所浄土寺には、行基が天徳年間(957-961)に滞在し、布教活動を行った形跡があるといいます。本堂の厨子には、六波羅蜜寺と同等の空也像があり、同じ頃に作られたもので国の重要文化財にも指定されています。浄土寺は、本来は法相宗で、隆盛期には66房があったれ、念仏聖や行人の活動拠点であったことがうかがえます。
 残念ながら空也と弥谷寺を結ぶ直接の関係はありません。しかし、弥谷にも空也と同じような念仏聖・行人集団がいて、修行をはじめいろいろな活動を行っていたことは考えられます。彼らが「別所の行人集団」であったとすれば、寄人として周辺地域の他のお寺にに寄宿することもあったかもしれません。

行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりませんでした。そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。
 そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。そして、弥谷が浄土であることを伝えて行きます。こうして、弥谷寺は浄土空間として整備されていくことになります。それが「九品の浄土」とよばれてきた、現在の阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯なのではないでしょうか。

  浄土信仰が展開していくと、在家の庶民が浄土に往生する保証を得ようとすれば、霊場とされる寺院の過去帳に名前を残し、確実に「結縁」することが求められるようになります。

弥谷寺には、日牌・月牌と称される永代供養のやり方が伝わります。今回の調査報告書には、江戸時代の日牌・月牌を忌日別にまとめた「忌日別過去帳」の分析が行われています。ここには法名・没年・俗名・施主の住所・施主名などが記されています。寛文(1661-73)年間から始まり、幕末の慶応年間(1865-68)で終わっています。1冊で約150人、全部で述べ4500人が記されています。その施主の住所は

「中・西讃地方の三野郡・多度郡・那珂郡・鵜足郡・豊田郡・阿野郡・塩飽諸島の村落名が中心であり、いわゆる東讃地方はほとんどみられない」

と報告書は述べます。これが、弥谷信仰のエリアだと研究者は考えているようです。そして、浄土信仰を担った弥谷の聖・行人集団の活動範囲でもあるようです。中でも、死後まもなくして「弥谷参り」をする習俗は、比較的弥谷に近い地域に残った、永代供養以前の形式のようです。
研究者は最後に次のように指摘します。
  どちらにしても、歴史的に先行するのは中世の聖・行人集団の「浄土信仰」である。そうした宗教者の活動を考慮することなく、民衆から自然発生的に成立した死霊・祖霊信仰から説明しようとした所に民俗学の問題点があったのではなかろうか。

中世の弥谷寺を中心に阿弥陀信仰=浄土観を広めたのは、念仏行者と云われる下級の僧侶たちだったようです。
彼らは弥谷寺だけでなく善通寺周辺の行場に拠点(別所)を置き、民衆に浄土信仰を広めると同時に、聖地弥谷寺への巡礼を誘引したのかもしれません。それが、中讃の「7ヶ所詣り」として残っていると考えることも出来そうです。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

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阿弥陀三尊の磨崖仏(弥谷寺本堂下)

四国霊場第71番札所の弥谷寺は、死霊が赴く「イヤダニマヰリ」の習俗が残る寺として紹介されてきました。昭和の時代に弥谷寺を紹介した記事には、どれも死霊が生者に背負われて弥谷に参る様子が描かれ、NHKの新日本紀行にも取り上げられていた記憶があります。私にとっては
「弥谷寺=死霊の集まる山=イヤダニマヰリ(詣り)」

という図式が刷り込まれていました。
 ところが最近の弥谷寺を紹介した記事には、「イヤダニマヰリ」に触れたものが殆ど見られません。これも「流行」なのかなと思っていると、どうもそうではないようです。「イヤダニマヰリ」そのものの立場が揺らいでいるようです。

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イヤダニマイリをめぐって、何が問題になっているのかを見てみることにしましょう。
テキストは「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」です。
  柳田民俗学は
「死者の霊魂は里に程近い山に籠る」
という祖霊観を掲げています。
このテーゼを証明するための数多くの民俗学的な調査が各地で行われてきました。そのような中で戦後の1950年代に、死霊の集まる山=「イヤダニマヰリ」として中央学界に紹介したのが地元、多度津町の民俗学者、武田明氏です。この研究は、柳田民俗学の死霊・祖霊観を立証する例として評価されるようになります。

Amazon.co.jp: 日本人の死霊観―四国民俗誌: 武田明: 本
  1999年刊行の『日本民俗大辞典』には「「イヤダニマヰリ」として、次のように解説されています。
「香川県西部に行なわれる、死者の霊を弥谷山に送って行く習俗。弥谷山は香川県三豊郡三野町と仲多度郡多度津町にまたがる標高382メートルの山で、300メートル付近に四国八十八ヵ所の第71番札所、剣五山弥谷寺(真言宗)がある。この山は香川県西部、ことに三豊郡・仲多度郡・丸亀市およびそれに属する島嶼部一帯で死者の行く山と考えられており、葬送儀礼の一環として弥谷参りが行なわれた。
 特に近年まで盛んだったのは荘内半島(三豊郡詫間町)である。同地の例では、葬式の翌日か死後三日目または七日目に、血縁の濃い者が偶数でまずサンマイ(埋め墓)へ行き、『弥谷へ参るぞ』と声をかけて一人が死者を背負う格好をして、数キロから十数キロを歩いて弥谷寺へ参る。境内の水場で戒名を書いた経木に水をかけて供養し、遺髪と野位牌をお墓谷の洞穴へ、着物を寺に納めて、最後は山門下の茶店で会食してあとを振り向かずに帰る。この間に喪家でヒッコロガシと呼ぶ竹製四つ足の棚を墓前につくり、弥谷参りから帰って来た者が鎌を逆手にもってこれを倒すという詫間町生里などの集落もある。
 山中を死者の行く他界と考え、登山し死者供養を行う例は各地にあるが、死亡後まもない時期に死霊を山まで送る儀礼を実修するところに、この習俗の特色がある。近年は弥谷寺で拝んでもらい、再び死者を負うてサンマイに連れ帰るとするところも多く、弥谷寺ではなく近くの菩提寺ですます習俗も広まっている。なお、イヤダニやイヤを冠した地名(イヤガタニ、イヤノタニ、イヤンダニ、イヤガタキ、イヤヤマなど)は古い葬地と考えられ、弥谷山にもその痕跡がみられる。」
弥谷寺が祖霊参りの山として定着したかのような中で、「異議あり」と名乗りを上げる研究者が出てきます。
日本民俗学 第233号 Bulletin of the Folklore Society of Japan NIHON ...

2003年『日本民俗学』誌上に発表された森正人の研究ノートです。
森氏は、「イヤダニマイリ」の習俗がこれだけきちんと分かるのなら、どうして今までの研究書は触れてこなかったのかという疑問から始めます。確かに戦前の『香川縣史第二版』(1909年)や中山城山の『國諄 全讃史』(1937年)、また弥谷寺の地元、三豊郡大見村の『大見村史』(1917年)には、「イヤダニマイリ」の記述は何も載せられていません。
 その理由を、それまでは地元ではなかったものを「死霊の集まる山」にアレンジして発表したからだと、次のように指摘します。

「この習俗は香川県の民俗学者である武田明が発見し、民俗学界にその存在を発表したから」

 そして、武田氏の民俗学者としての成立過程、研究史、調査記録、中央学界との関わりと地方学会(香川民俗学会)における権威化、関係者の証言、さらに現地調査まで含めて詳細に検討していきます。その結果として、弥谷に参る習俗の存在は認めるものの「イヤダニマイリ」という民俗概念はなかったと結論づけます。
  そして、柳田民俗学の祖霊観を実証するために、様々なデータが組み合わされた作為的な研究であると指摘します。これは弥谷参りだけでなく、他の事例も含めた民俗学全体の研究方法への批判も含んでいました。
日本村落信仰論( 赤田 光男 著) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の ...

このような批判の上に、新たな視点から弥谷参りに取り組んだのが赤田光男氏です。
もともと、武田氏の弥谷参りの研究は両墓制との関連が重要ポイントでした。両墓制とは、
「死体を埋葬する墓地とは別の場所に、石塔を建てる墓地を設ける墓制」

のことで、一般に前者を「埋め墓」、後者を「詣り墓」と呼び、弥谷参りがみられる荘内半島の生里、積、大浜などの集落、仁尾町、高見島、志々島、栗島といった島嶼部一帯に見られます。この地域では、埋め墓を「サンマイ」、詣り墓を「ラントウ」と呼びますが、両墓制が強く残る地域でした。
  武田説を、簡潔にまとめておくと次のようになります。
古来、この地域一帯の村々では「埋め墓」しかなく、霊魂祭祀の場が弥谷山であったのであり、その祭祀行為の残存が「弥谷参り」ではなかったか。そしてその後、弥谷山信仰が衰えていくに連れて村内に「詣り墓」が形成されていったのではないか
 
これに対して、赤田光男は
「弥谷山のすぐ下の大門、大見あたりであればこのことがいえるかもしれないが、両墓制地帯の荘内半島や粟島、志々島のような離れた所が、古くから弥谷山を唯一の霊魂祭祀場としていたか疑問が多い」

としてます。そして、荘内半島の箱集落(約225戸)について平成3年(1991)に両墓制と弥谷参りを中心にした全戸調査を行います。その結果、次のような事を明らかにします。
①初七日に死霊を弥谷山に連れて行くことを「オヤママイリ」、永代経の時(旧2月13から15日)に弥谷山に行くことを「イヤダニマイリ」と呼んで区別していること、
②オヤママイリ(弥谷参り)については、詣り墓が設けられている村内の菩提寺(香蔵寺)の勧めもあって昭和25,6年(1950,1)頃、廃止され、その後は香蔵寺がオヤママイリの対象となった
弥谷寺 九品浄土1
弥谷寺の九品浄土に彫られた南無阿弥陀仏

 一方で、武田説には欠けていた弥谷寺の歴史的研究も進めます。そして境内の祭祀場や宗教遺跡の検討も進め、中世以来弥谷寺を崇敬し保護してきた戦国時代の領主、香川氏や生駒氏、その後の山崎氏との関わりも考察していきます。
結局、荘内半島・箱集落の霊魂祭祀の場の変遷は、
①原始古代においては紫雲出山ないし家の盆正月に臨時に作られる霊棚
②中世においては、浦島太郎の墓伝説をともなう惣供養碑的残欠五輪塔、さらに香蔵寺、弥谷山
③近世においてはラントウ内の家型石厨子や詣墓石碑
④明治以降においてはサンマイのオガミバカ(拝墓)
の4段階を経ていることを明らかにします。
 この赤田説では、弥谷山は「中世」に霊魂祭祀の場として登場してきたことになります。その背景を次のように指摘します。

「香川氏は天霧山に貞治元年(1362)頃に城を築き、またこの頃に弥谷寺の檀越となり、山内に一族の墓地を作って菩提寺とし、弥谷山信仰を高め、そのことが庶民のイヤダニマイリを拡大、助長したと推定される」

ここには南北朝時代以後に讃岐守護代として天霧城を拠点に勢力を野伸ばした香川氏と関係を持ち、その菩提寺となることによって弥谷寺は寺勢を伸ばしたと、在地勢力との関係を重視します。
以上から赤田説をまとめると
①弥谷参りと両墓制は、分離して取り扱うべきである
②弥谷参りという習俗の背後に、天霧領主・香川氏の影響力があった
つまり、武田氏の示したように弥谷寺詣りは古代からの祖先神祀りに、仏教が後からやって来て組織化されたものではなく、弥谷寺が中世に作り出したものであるとします。
ここまで来ると、次の射程に入ってくるのが「死霊、さらにそれが浄化された祖霊は、里近くの山に籠る」という柳田民俗学の命題そのものです。このテーゼは、柳田國男が戦後直後(1946年)に「先祖の話」で定式化したものです。
柳田國男著「新訂 先祖の話」

これに対して歴史学者の中には
「定式ではなく、仮説として捉えなおし、再考すべきだ」

という考えも出てきているようです。
 例えば、赤田氏は次のように述べています。
「身体から離脱した霊魂が、身体が朽ちてもなおどこかに住み続け、時々わが家を訪れて子孫の生活を守護するという考えがまさに祖霊信仰の根幹をなすものであり、そうした宗教意識がいつ頃発生したのか明確な答えは今のところない。」

控えめな指摘ですが、ここには柳田民俗学の祖霊信仰が古代に遡るという命題への疑義がうかがえます。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」

佐藤弘夫は、この問題に正面から答えようとして、次のように指摘します
「柳田國男が論じ、多くの研究者が祖述してきた山に宿る祖霊のイメージは、けっして古代以来の日本の伝統的な観念ではない。人々が絶対者による救済を確信できなくなり、死者が他界に旅立たなくなった近世以降(17世紀~)に、初めて形成される思想だった」

 山に祖霊が宿るというのは古代以来のものではないと、柳田民俗学への疑義をはっきと打ち出した上で、それが近世以降の歴史的なものであると主張します。
 佐藤氏の到達した地点からは、次の新たな課題が見えてきます。
弥谷寺の祖霊信仰が古代まで遡るものでないとすれば、それでは中世の弥谷信仰とは何であったのかという疑問です。
この疑問に応えようと現在の研究者は、調査研究を続けているようです。
今後の弥谷寺研究の課題の方向性を探ると次のようになるようです。
①中世に祖霊信仰を広げた宗教勢力とはなんであったのか。
②その宗教者たちと弥谷寺の関係は、どうであったのか
③どのような過程を経て、祖霊信仰の霊山から真言密教の霊場へと弥谷寺は変身をとげたのか
 ここには、武田氏によって戦後華々しく打ち出された古代以来の祖霊信仰の霊山としての弥谷さんの姿はないようです。ひとつの仮説が
研究によって批判・検証され克服されていく姿がここにはあります。
それが歴史学の発展につながるようです。

参考文献テキスト
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
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弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
③仁王門 ⑩九品浄土
承応2年(1653)、澄禅は弥谷寺を訪れ、境内の様子を「四国遍路日記」に次のように書きとどめています。
剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切玉フ (後略)

意訳しておきましょう
剣五山千手院(弥谷寺)は、坂の登口に仁王門があり、ここから少し上がった石面に仏像や五輪塔が数知れず彫りつけられている。自然石を掘った階段を上って寺の庭に上がっていく。寺は南向きで持仏堂は西向きで、岩穴に差し掛かって建っている。奥の穴は九尺、高さは人の頭が当たらないくらいで、非常に強固に作られている。仏壇の一間奥に四尺ほど彫り込んで、五つの如来を掘り出している。中尊大師の木造の左右には、藤新太夫夫婦(空海の父母)を石像で切り出している。

ここからは持仏堂に「空海=多度津白方生誕説」で、空海の父母とされる藤新太夫夫婦の石像が安置されていたことが分かります。この寺では、「空海=多度津白方生誕説」を流布していたようです。
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多度津白方屏風ヶ浦 鎮守の森は熊手八幡神社

弥谷寺の参拝を終えた、澄禅は天霧山を越えて多度津の屏風ヶ浦に下って行きます。白方は、弥谷寺の奥社で海の修行場(補陀洛渡海)であったと伝えられます。そこで、次のように記します。

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此浦ハ白砂汗々タルニー群ノ松原在り、其中二御影堂在り、寺ハ海岸寺卜云。門ノ外に産ノ宮トテ石ノ社在、洲崎に産湯ヲ引セ申タル盥トテ外は方二内ハ丸切タル石ノ盥在。波打ギワニ御年少テオサナ遊ビシ玉シ所在。(中略)
夫ヨリ五町斗往テ藤新大夫ノ住シ三角屋敷在、是大師御誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲ八幡山三角寺仏母院卜云。(後略)
意訳すると
この白方の浦は、白砂敷き詰められたような上に松林が続き、その中に御影堂が建つ。この寺を海岸寺と云う。門の外には、産ノ宮として石の社がある。(空海出生の際に)の産湯を使ったという盥(たらい)は、外側は方形で、内側は遠景の石の盥であった。白方の波打際は、空海が年少の時によく遊んだと伝えられている。(中略)
それより五町(500m)いくと藤新大夫が住んでいた三角屋敷がある。ここが弘法大師誕生地であり、御影堂がある。童形像は、十歳の時の姿だと云う。この寺を八幡山三角寺仏母院という。(後略)
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と記しています。ここには、白方屏風ヶ浦には弘法大師が産湯をつかった盥や幼少期の大師が遊んだという海岸寺があり、さらに近くの三角寺仏母院が藤新大夫の屋敷で、そこが大師の誕生地であるというのです。
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澄禅が弥谷寺や海岸寺を訪れた17世紀半ばには
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説

が、この地域で流布されていたことが分かります。

 一方、善通寺は誕生院が空海の生誕地で、父は佐伯氏、母は阿刀氏の女としてきました。
善通寺の存在証明のひとつが「空海=善通寺誕生院」生誕説です。それに真っ向から挑戦するかのような異説が、目の前の白方や弥谷寺で流布されていたことになります。そして、日記の内容からみて、澄禅自身も真面目に、そのことを信じていたように思えます。

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仏母院

 「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説は、いつころから誰によって、ひろめられていたのでしょうか。
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を説く弘法大師伝は、次の3つです。
1、『弘法大師空海根本縁起』(個人蔵)
2、説経『苅萱』「高野巻」
3、版本『奉弘法大師御伝記』(善通寺蔵)
この内、もっともよく知られているのが『説経苅萱』「高野巻」で、内容は次の通りです。
弘法大師の母御と申は、此の国の人にてましまさず、国を申さば大唐本地の帝の御娘なるが、余なる帝に御祝言あるが、三国一の悪女とあつて、父御の方へお送りある。本地の帝きこしめし、空船に作り籠め、西の海にぞお流しある。日本を指いて流れ寄り、爰に四国讃岐の国、白方屏風が浦、とうしん太夫と申す釣人が、唐と日本の潮境、ちくらが沖と申すにて、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女なり。とうしん太夫が養子におなりあつたと申、又は下の下女にお使ひあつたと申、御名をばあこう御前と申すなり。
奇想天外な話で、修験者の山伏が語りそうな内容ですが意訳すると
弘法大師の母上は、実はこの国人ではありません。唐の皇帝の娘に当たる人なのです。一度は結婚しますが「三国一の悪女」と評されて、父の皇帝の下へ送り返されます。父はこれを知り、空船を作って娘を載せて、西の海(東?)に流しました。船は日本を指して流れ寄り、四国讃岐の国、白方屏風が浦に漂着します。それを、釣人のとうしん太夫がみつけ、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女が乗っていたのです。二人は夫婦になり、妻の名前はあこう御前と呼ばれるようになります。

この後は、男の子をもうけ金魚丸(空海のこと)と名付けられます。しかし、夜泣きが激しく七浦七里に迷惑がかかるので、あこう御前とともに四国辺路に出ます。
「その数は八十八所とこそ聞こえたれ、さてこそ四国辺土(辺路)とは、八十八か所とは申すなり」

ここには霊場の数が88と明記されています。これが「四国辺路八十八ケ所」の文言の最古礼では四国辺路の研究では、注目されるところです。それ以前に「88ヶ所」は出てこないということは、88ヶ所霊場の成立は、この書の書かれた寛永8年(1631)からそんなに遡らないと研究者は考えているようです。
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 この説経『苅萱』には、次のような伝本があるようです
1、絵入写本「せつきやうかるかや」(サントリー美術館蔵)
2、寛永8年(1631)刊。しやうるりや喜衛門版「せつきやうかるかや」
3、寛文初年頃刊。江戸版木屋彦右衛門版「かるかや道心」
そして、この3つを比較検証すると「空海=多度津白方生誕説」を説く『苅萱』「高野巻」の成立以前に、四国には弘法大師伝記がすでにあったようです。それが『弘法大師空海根本縁起』(以下、『根本縁起』)です。この縁起は元禄12年(1699)、高野山千手院谷西方院の真教が写したものが伝わっていて、次のような文章から始まります。
四国讃岐の多度郡白方屏風が浦に藤新太夫と申す猟師有り、其の内に阿こやと申す女人座り、未四十歳のいんに入迄、子なき事を悲しみ、俄かに善根を為さばやと思い、我心をすくわし、すぐ成る針に餌をさし、縁に任て魚を釣る、万のものに代をかえ、貧なるを供養し、或は堂社仏閣を建立し、則此願成就し、津の国中山寺に参り三七日籠り、男子二而も女子二而も、子種を壱人授てたひ給ヘと深く祈誓を申したる、(後略)

ここでは「あこや御前=唐の皇帝娘」には触れられずに、
藤新太夫が夫婦で、讃岐国白方屏風ケ浦で空海が誕生した。その後、夜泣きが激しくせんゆうが原に捨てられるが、善通寺の徳道上人に拾われ、修行し、そして唐に渡り恵果和尚に出会う。やがて天竺にも行くが、 ここで文殊菩薩との長い問答が繰返されます。修行の後、唐の国から讃岐国屏風ケ浦に帰り着く。

ここまでは「高野巻」とよく似た所が多く、両者の間に深い関係が見て取れます。続いて弘法大師帰朝後のことについて、「高野巻」は弘法大師の母のことに話が移りますが、これは『慈専院縁起』の踏襲です。
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 一方、『根本縁起』は
四国辺路を弘法大師が建立し、辺路を三十三度、中辺路を七度巡り、そして讃岐の大名香川氏(弥谷寺に近い天霧城主)も元結を切って、中辺路を二十一度行い、最後には極楽浄土に往生したと云います。さらに伊予の右衛門三郎も二十一度の辺路を行い、望み通り川野(河野)の家に生まれることができたと記します。そして縁起の末尾には、四国辺路を巡る功徳を有り難く説いています。
 この最後に次のように記します
「此縁起を一度聴聞すれば高野山ヘー度の参詣にあたる也。これを聴聞する輩は毎日南無大師遍豪金剛と唱れば、現世あんおん後生善三世の師、七世の父母迄も成仏する事無疑。」

研究者はここに出てくる「聴聞」という文言に注目し、この縁起が「語りもの」の台本であると指摘します。この「根本縁起』は、弘法大師の一代記と四国辺路の功徳を説いた「語りもの」で、四国辺路の開創縁起ともいえるようです。

それでは、この『根本縁起』の制作に関わったのはどんな人たちなのでしょうか。
①中山寺や徳道上人のことなどがみられ、西国三十三所縁起との関係も密接である
②善通寺や讃岐の大名香川氏、伊予の右衛門三郎など四国のことが詳しくしるされている
③高野山との関係がうかがえる。
④阿弥陀如来・極楽・念仏に関することも記述が多い。
以上のような「状況証拠」から、まず第一候補は、四国在地(弥谷寺や白方周辺)の高野山系の念仏聖が挙げられます。

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熊手八幡神社
第2候補は、高野山系の修験者たちです。
中世多度津の堀江湊の港湾管理センターの役割を果たしていたとされる道隆寺の『道隆寺温故記』(47)には、白方の熊手八幡官(文禄5年(1596)に関する次のような記事があります。
大師入定之後、熊手自慕大師之徳、途跨海波逆流川、留慈尊院。今南山巡院々、朝日護摩薫煙無絶。遠期三会、衛護密教云々。

ここには、熊手神社の熊手が大師の徳を慕って瀬戸内海を渡り、紀川を遡り、慈尊院へ留まり、さらに高野山の寺々を巡っているというのです。
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白方の熊手八幡神社
『高野春秋』元禄5年(1692)8月7日には、次のようにあります。
行人順寺八幡在此寺。少々奉仰御立寄。紀公云、八幡者何乎。答日。熊手二而候。」

ここからは熊手は行人方(修験者・山伏)の管掌するところであったことが分かります。なお熊手八幡は今も白方に鎮座しています。そして、この神社の別当寺が仏母院であったようです。
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仏母院

 仏母院は寺伝では、永禄頃に大善坊という山伏(修験者)によって再興されたと伝えられ、山伏寺で修験者との関係が濃い寺です。ここからは、白方屏風ヶ浦と高野山との交流は念仏聖(時衆系高野聖)にだけでなく行人(山伏)グループによっても行われていたことがうかがえます。 
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仏母院
では、この『根本縁起』は、いつ作られたのでしょうか。
戦国時代頃の弥谷寺周辺をみると、永禄元年(1558)に善通寺の伽藍が焼失し、善通寺の東院は灰塵に帰します。この火災により、善通寺の勢力は一時的にせよ寺勢を失ったようです。この間隙をぬって、白方屏風ケ浦や仏母院、熊手八幡、さらに弥谷寺周辺の念仏聖や山伏などが弘法大師誕生地を白方屏風浦とし、とうしん太夫とあこや御前を両親とする異端の弘法大師伝(『根本縁起』)を作り上げたと研究者は考えているようです。
 その状況証拠資料として、『道隆寺温故記』には、次のような動きが記されています。
①天正20年(1592)には「白方海岸寺大師堂入仏供養」
②文禄5年(1596)には弘法大師が創建したと伝えられる白方(熊手)八幡を再興
ここからは、生駒藩支配下のこの頃に白方屏風ケ浦周辺で新たな弘法大師信仰が興ったことがうかがえます。その中心的な寺院が弥谷寺であったと研究者は考えているようです。弥谷寺には、中世から続く時衆系高野聖や高野山と関わりを行人(山伏)などが各院坊にいたことは、前回に見た通りです。

 そして、弥谷寺を中心に作られていた『根本縁起』の一部(弘法大師伝)が説経『苅萱』に取り込まれ、「高野巻」が成立すると研究者は考えているようです。
以上をまとめておくと次のようになります。
①永禄~天正年間頃、弥谷寺や白方屏風ケ浦周辺の念仏聖や行人(山伏)など高野関わりを持つ人物によって異端の弘法大師伝(『根本縁起』)が作られた。
②高野山系の念仏行者や山伏は、それを各地で語り、弘法大師の偉大さと四国辺路の功徳を広めた
③その中心的役割を果たしたのは、とうしん太夫夫婦が安置された弥谷寺であった。
④当時の弥谷寺は、時衆系高野聖が活発な活動を展開していた
 
それでは 澄禅が訪れた17世紀半ばに持仏堂に安置されていた藤新太夫夫婦の石像は、その後どうなったのでしょうか。
その後の真念などの案内記には、この石造について触れたものはありません。17世紀末までには、取り除かれたようです。どうやら弥谷寺は異端である「空海多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を破棄し、正統派の「空海善通寺誕生院生誕説」をとるようになったことがうかがえます。その「路線変更」には、どんな背景があったのでしょうか?
 以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 テキストは「 武田和昭  弥谷寺と四国辺路 弥谷寺調査報告書」所収

香川県|かがわの水 - 香川の水の伝説

釜が淵は、塩入からさらに財田川の源流を遡った清らかな谷水が流れている山あいの深淵です。
雨乞い祈願は、ここで行われます。
里人は、コマゴエを十三荷半と、ゴボウの種を用意します。
コマゴエは、堆肥のことです。
稲藁を、細かく切って積み上げて造ります。
田圃に入れると、とてもいい肥料になりました。
田圃の肥料である堆肥を、なぜ、釜が淵へ持って来るのでしょうか。
おまけに、ゴボウ種まで持って・・・?

里人がやって来た後から、山伏もやって来ました。
 山伏が雨降らせたまえと祈願をします。
すると、里人たちは持って来た堆肥を、釜が淵のなかへ振り込みはじめました。
十二荷半の堆肥を、残らず淵へ放りこんだからたまりません。
おかしな臭いが、あたりへただよいます。
清らかな淵水は、茶色く濁って流れもよどみがち。
そして、この上から、ゴボウの種を蒔きます。
ゴボウの種は、ぎざぎざでとても気味の悪い形をしています。
指でつまむと、ゴボウの種が指を刺すように感じます。
堆肥十三荷半、ゴボウ種を投げ込んで終わったのではありません。
今度は、長い棒で淵のなかを、かきまぜます。
何度も、何度も、棒でかきまぜます。もう、無茶苦茶です。
釜が淵の水は、濁ってしまいました。

この、釜が淵の清らかな水のなかには、龍神さまがいらっしゃるというのに、水は濁ってし
まいました。きっと龍神さまは、お腹立ちのことでしょう。
そうなのです、それが目的なのです。
龍神さまを、しっかり怒らすのです。
怒ると、雨が降るというのです。
お気に入りの釜が淵の清水が、べとべとに濁ってしまいました。
これはたまらないと、龍神さま雨を降らせて不愉快なものを、すべて流します。
でも、いいかげんな雨では流れないと、激しい大雨を降らせてさっぱりと洗い流します。
ああ、きれいになったと龍神さまも大よろこび。里人も、念願の雨が降ったと大満足。
しかし、まあ、讃岐の人たちはすごいですね。
龍神さまを強迫して、雨をいただくのですから。
龍神さまも、これを楽しんでいらっしゃるのかもしれません。
本当は、仲良しなのでしょうか。

 
弥谷寺2
弥谷寺仁王門
四国霊場第71番札所・弥谷寺は八十八ケ所霊場の中でも、霊山らしい雰囲気がするお寺です。ここには大師が修行したと伝えられる窟があり、岩壁には阿弥陀三尊像をはじめとして南無阿弥陀仏の六字名号、五輪塔、梵字などが数多く刻まれています。
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阿弥陀三尊(弥谷寺本堂下の磨崖仏)
さらに近世初頭には異端の弘法大師伝を流布するなど、善通寺とは別系統の僧侶集団がいたことがうかがえます。その僧侶集団は、以前お話しした宇多津の郷照寺と同じ、高野山の時衆念仏系の高野聖たちであったようです。
弥谷寺 九品浄土1
阿弥陀三尊の磨崖仏の下には「南無阿弥陀仏」の六文名号
彼らの弥谷寺での活動ぶりを追ってみることにしましょう。
テキストは「 武田和昭  弥谷寺と四国辺路 ―室町時代後期から江戸時代初期の展開―弥谷寺調査報告書」所収です。

弥谷寺の古代の仏たちが語るものは
弥谷寺の寺名が史料で確認されるのは鎌倉時代に入ってからですが、仏像の中には、それよりも古いものがいくつかあります。
まず木造吉祥天立像
弥谷寺 吉祥天立像
(像高59.1センチメートル)はヒノキ材による一本造りで、10世紀末期ころとされ最古のものです。
 『大見村史』掲載の地蔵菩薩立像(2)(像高不明)も10世紀後半頃まで遡る古像ですが、造立当初から弥谷寺にあったかどうかは分かりません。仏像は移動するものなのです。寺勢の強い寺には、自然に仏像の方から集まってくることは以前お話ししました。
次に古いのが鎮守とされている11世紀前半頃の深沙大将椅像です。

弥谷寺 深沙大将椅像
深沙大将椅像
像高138.5㎝のほぼ等身の像で、全国的にも珍しい像容の深沙大将像として注目されます。しかし、この像は、どうした訳か近代になるまで蔵王権現として伝えられてきたようです。蔵王権現は、弥谷寺の縁起に登場し深く関わる権現さんです。山岳信仰の拠点として、蔵王権現を祀るのは当然のことだったのでしょう。吉野山や石鎚山に関わりのある後世の山岳修験者の関与があったとしておきましょう。

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)

 なお深沙大将像の信仰は、水と関わり祀られることが多いようです。おそらく弥谷寺鎮守とともに三野平野を潤す水源を守る意味をも兼ねそなえていたのかもしれません。弥谷寺の下流の大見地区は、西遷御家人として甲斐からやってきた秋山氏の所領として、中世に開発が進んだ所です。秋山氏はこの弥谷寺を見上げながらも、自らは法華信仰に基づいて本門寺を開いて行ったことになります。
弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

これらの古代の仏像たちから、弥谷寺の創建は平安時代中期、10世紀後半頃と考えられ、その後、古代寺院として整備されるのが11世紀に入ってからのようです。ただ当初の本尊千手観音が現存しないことや建物の遺構などが明確でないことから、これ以上のことは分かりません。しかし、本尊が千手観音であったことや讃岐という地域性を考慮すれば、真言系の密教寺院として創建されたことは間違いないようです。注意したいのは、創建に善通寺勢力の関わりは見られないという点です。

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磨崖に彫られたキリク文字(弥谷寺本堂下)

次に文献史料から弥谷寺を見てみましょう。
南海流浪記- Google Books
南海流浪記
鎌倉時代前期、仁治4年(1243)高野山のエリート僧であった道範が、内部抗争で罪を問われ讃岐に流されてきます。彼は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えたことが考えられます。例えば善通寺に近い三豊市高瀬町麻地区の法蓮寺の本尊阿弥陀三尊立像は、宝治2年(1248)に造立されています。状況から見て、道範の影響があったと考えられているようです。

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弥谷寺磨崖に彫られた石仏や五輪塔(レーザー撮影)
 弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄』に「弥谷上人」とあるものの詳しいことは分かりません。本堂下の磨崖阿弥陀三尊像が鎌倉時代の制作とするなら、これも道範の影響かもしれません。どちらにしても弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。

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弥谷寺本堂下の磨崖

 時衆と阿弥陀信仰、南無阿弥陀仏は関連性が強いこと、それを担ったのが高野山の時衆系高野聖たちであったことを以前にお話ししました。
時衆思想の痕跡が弥谷寺に、どのような形で残されているのでしょうか。
まず(1)六字名号(南無阿弥陀仏)です。

弥谷寺 時衆の六字名号の書体
時衆の六字名号の書体

弥谷寺本堂の周辺は凝灰岩がむき出して、大きな壁面がいたるところにあります。ここに阿弥陀三尊仏像が半肉彫りされ、その周辺に「南無阿弥陀仏」の六字の名号が彫られていたようです。しかし、柔らかい凝灰岩のため風蝕が激しく、その多くが読み取れなくなっています。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
⑩が九品浄土で釈迦三尊の下に南無阿弥陀仏が9つ彫られていた

研究者は、ここに刻まれた六字名号を、さらに深く見ていきます。
まず、その書体ですが弥谷寺の六字名号と同じような書体が、徳島県の名号板碑にも見られるようです。板野郡辻見堂の名号板碑(正和4年 1315)は、蓮台の上に南無阿弥陀仏の名号が楷書体で力強く刻まれています。名号板碑には名号、阿弥陀仏号、一仏房号を刻んだものが多いようですが、この種のものは時衆に関わるもので時衆系板碑と呼ばれるようです。
IMG_0017弥谷寺磨崖仏

 また絵画では滋賀・高宮寺の他阿上人真教像の傍らには同様の書体の名号が書かれています。ここからこれらの書体は「時衆二祖真教様」と称され、時衆の二祖真教上人が始めたものとされています。弥谷寺のものも、時衆の六字名号の書体と研究者は考えているようです。
 以上から弥谷寺の六字名号は、時衆に関わる人物の手になるとみて間違いないようです。香川県内にはこの種の遺品は、わずかに出釈迦山捨身ケ嶽と屋島寺参道に自然石の「時宗二祖真教様」の六字名号がだけが残されているようです。

続いて、時衆の二河白道思想と弥谷寺の関係です。                         
明和6年(1769)の『多度津公御領分寺社縁起』の「讃州三野郡。剣五山弥谷寺故事譚」には、次のような記事があります。
一-、御願堂之事
東ノ御堂 亦云東院  本尊撥遣釈迦  行基作
多宝塔  名中尊院  本尊盧舎那仏  同作
西ノ御堂 又云西院  本尊引阿弥陀  同作
(中略)
此地に就て弥陀・釈迦二仏の尊像を造して、撥遣引接の教主として東西の峯におゐて、各七間の梵宇構へて二仏を安置し、蓮華山八国寺と号して、一夏の間、菩薩愛に安居し玉ふ、(以下略)
山内現在之堂社仏像等の事
一、大悲心院 一宇 享保十二未年、幹事宥雄法印
ここからは、かつての弥谷寺には東の峰に釈迦如来、西の峰に阿弥陀如来が安置され、二尊合わせて「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」と考えられていたことが分かります。そして、その仏像が戦国時代の争乱から逃れて本堂に安置されていたと読み取れます。
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弥谷寺本堂からの東の峰
残念ながら、この釈迦と阿弥陀の二尊は今はありませんが、江戸時代中期頃まではあったことが分かります。この「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」については、中国・吾時代の善導大師の『観経四帖疏』「散善義」(『大正蔵』37巻。272頁)に次のように説かれているようです。

弥谷寺 時衆二河白道図
 旅人(往生者)が西に向かって百千里の旅をすると、まもなく水火の二河に至る。水の河は衆生の憎しみに、火の河は衆生貪愛に喩えられます。やがて幅四、五寸の細い白道があるが、道には水火が押し寄せ、そして後ろからは群賊悪獣が追いかけてくる。旅人はためらうが、東岸に釈迦、西岸に阿弥陀がおり、白道を渡るようにとの励ます声がある。旅人はその声を信じ白道をわたり往生できた。」

これを法然上人が『選択本願念仏集』(『大正蔵』83巻・11頁)で引用したことから、浄土宗では特に重視されるようになります。これを絵画化したものが、いわゆる「二河白道図」です。
 これが、やがて一遍上人の目に留まります。文永8年(1271)春、信濃の善光寺に参詣した際に二河白道図に出会い、以後はこれを本尊として、日々を送ったと伝えられます。
 『遍上人語録』によれば、
「水と火の二河は我々の心である。二つの河に犯されることがないのは名号である。白道は南無阿弥陀仏のことである。」

と説いています。一遍上人は、伊予窪寺で二河白道図を掲げ、三年間の念仏を行い「十一不二掲」を感得します。ここからも分かる通り、この教えは時衆の根幹をなすもので、その後の時衆に大きな影響をあたえるようになります。そして
「現世における撥遣釈迦、来世における来迎阿弥陀」

の思想は、時衆の中で重要な教えになります。
弥谷寺の伽藍の中で、釈迦と阿弥陀の置かれている位置は、まさに二河白道図を現実化したものといえます。その上に、先ほど見た六字名号と重ねると、弥谷寺は時衆思想に基づいて伽藍が作られていたと研究者は考えています。

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潅頂川にかかる橋

 現在の境内で、灌頂川と称されている細い川が「水火の河」で、その東方の山に現世としての釈迦、そして現在の本堂や阿弥陀三尊がある西方が極楽浄土と見立てていたと研究者は考えているようです。
 この思想がいつ頃、弥谷寺に伝わったのかは、『多度津公御領分寺社縁起』の記事から、戦国時代以前であることは間違いないようです。もう少し絞り込むと、六字名号などから推察して室町時代前期以降と研究者は考えているようです。室町時代の弥谷寺は、時衆思想の下に阿弥陀信仰の影響下に置かれたお寺で、運営は高野山と直接関係のある高野聖たちによって為されていたようです。

時衆の影響を伝える船石名号 
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
④が南無阿弥陀仏が彫られた舟形名号                       
弥谷寺境内には鎌倉時代から現在に至るまで塔や墓石などが数多く造られて、境内全体が仏の世界を表しています。その中で、仁王門の近くに建立されている高さ約2mの凝灰岩製の船形の石造物に研究者は注目します。
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仁王門の上の「船墓(舟石名号)」
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舟形名号
私が見ると表面は剥落して、原型も分からない石に見えます。レーザー撮影された写真が次のものです。
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             舟形名号
確かに五輪塔が浮かび上がっています。形式からみて、室町時代頃と研究者は考えています。 この石造物については寛成12(1800)年の『四国遍礼名所図会』には、次のように記されています。
船石名号 長一丈斗の石にあり。六字名号ほり(彫)給う」

さらに江戸時代後の「剣五山弥谷寺一山之図」の刷物には二王門の近くに「船ハカ」(墓)とあり、船形の表面には「南無阿弥陀仏」と記されていることが確認できます。以上から研究者はこの石造物を、舟形の名号石と判断します。つまり「船ハカ」(墓)の表面には五輪塔の右側に「南無阿弥陀仏」の六名名号が彫られていたようです。
 「船石名号」という呼び方は耳慣れない言葉ですが、これについては説経『苅萱』「高野巻」につぎのような記事があります。空海が入唐に際し、筑紫の国宇佐八幡に参詣した時のことです。
社壇の内が震動雷電つかまつり、火炎が燃えて、内よりも六字の名号が拝まるる。空海は「これこそ御神体よ」とて、舟の船杜に彫り付け給ふによって、船板の名号と申なり。

とあり、留学僧として唐に渡る時に、宇佐八幡に航海安全を祈願し参拝した時に「南無阿弥陀仏」の六字名号が降されます。空海はこれを御神体として船に彫りつけたことから「船板名号」と呼ばれるようになったというのです。船形の名号は「船板名号」と呼ばれ、弘法大師と深く関わるもののようです。県下の天福寺には版本船板名号が残されています。

弥谷寺 板本船板名号

大きな蓮台の上に、やはり「時衆二祖真教様」の六字名号が船形光背とともにみられ、「空海」と御手判があり、その上下にキリークとアの梵字と掲があります。これらの遺品は、空海筆銘六字名号として、弘法大師信仰と念仏信仰が混じり合ったもので真言宗寺院に残されていることが多いようです。
以上から、弥谷寺の船石名号の石造物は、「高野巻」に記される船板名号を石造に代えて建立した物のようです。
今は、六字名号は見えなくなっていますが、書体は本堂横の壁面と同様に「時衆二祖真教様」であったのでしょう。そしてかすかに見える五輪塔は真言(密教)と念仏の混淆を表し、そこには弘法大師信仰がうかがえます。これも時衆思想がこの寺に大きな影響を与えていた痕跡のひとつのようです。
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弥谷寺本堂横の磨崖に彫られた五輪塔
 弘法大師信仰と阿弥陀信仰の念仏を一体化させたのは、どんな僧侶たちだったのでしょうか? 

弥谷寺 高野聖

『説経苅萱』「高野巻」については、時衆系の高野聖が関わったことが分かってきているようです。弥谷寺の船石名号も時衆系高野聖の活動の痕跡と考えられるようです。
  次の3つは、出現時期が室町時代末期に重なり合います。
①弥谷寺の船石名号
②愛媛県・観自在寺の船板名号の版木
③「高野巻」
ここからは、研究者は次のように考えています。

この頃に弘法大師空海作の船板名号が時衆系高野聖の手によって創作されたこと、さらに、それが弥谷寺の石造船石名号に「発展」した。

ここにも時衆の影響が濃厚に見られます。そして、弘法大師信仰と念仏信仰の両方を持った存在として、時衆系高野聖が浮かび上がってきます。室町時代の弥谷寺には、時衆系高野聖がいて、高野山との直接的な関係があったことが推察されます。
弥谷寺 高野聖2
一遍と弟子たち
それではいつ頃、弥谷寺に時衆思想が伝わってきたのでしょうか
 阿波の板碑が正和4年(1315)頃に作られているので、14世紀前半には阿波には時衆思想が及んでいるようです。また高野山奥院の康永3年(1344)の名号板碑は阿波から運ばれたと考えられています。それを行ったのは高野聖だとされていて、四国と高野山との間には時衆思想の交流があったことが分かります。

また、弥谷寺のある天霧山周辺から採掘された石材(天霧石)を用いて鎌倉時代末期の石造層塔(35)が高野山に建立されています。これは、讃岐(弥谷寺)と高野山との人とモノの直接的交流があったことを示します。
紀伊天野社多宝塔
高野四社明神図
 逆に、弥谷寺には室町時代初期の絹本著色高野四社明神図が伝来されています。高野四社明神とは高野山の鎮守四神(高野・丹生・気比・厳島)で、高野山独自のものであり弥谷寺には関係のないものです。この図が何時、誰によって持ち寄られたのかは分かりません。しかし、状況証拠はこの明神図をもたらしたのも高野聖であることを示しているようです。物の動きからは、高野山と弥谷寺が深く結ばれていたことがうかがえます。
 古くから高野聖は、高野山に納骨を信者に勧めました。

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弥谷寺水場近くのキリク文字
 澄禅の『四国辺路日記』には弥谷寺について次のように記されています。
「其下二岩穴在、爰に死骨ヲ納ル也。水向ノ舟ハ中ニキリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」

 ここからは近世以前から納骨の風習があったことが分かります。ここには「キリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」と阿弥陀如来と空海が結びつけられています。つまり念仏信仰と弘法大師信仰が結合されているのです。これも、時衆系高野聖の「流儀」です。


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本堂横磨崖の五輪塔 穴は納骨場所でもあった
 弥谷寺の磨崖五輪塔については、三輪塔の地輪や水輪部に方形の穴を穿つて、死骨を納めたことが澄禅の記事に出てきます。
これがいつの時代に始まるのかは、高野の聖たちが弥谷寺を拠点に活動を始めたのがいつなのか、とリンクすることのようです。
以上から弥谷寺における納骨の風習も、高野山の時衆系高野聖がもたらしたのではないかと研究者は考えているようです。それを最後にまとめておきましょう
①平安時代中期に真言密教の寺院として弥谷寺が創建され、以後鎌倉時代末期頃まで密教寺院として存在した。
②その後、南北朝時代頃に、高野山との直接的な交流が行われるようになった
③室町時代になり弘法大師信仰と念仏信仰を併せ持つ時衆系高野聖の影響から浄土教的寺院(念仏信仰)へと変貌していく。
④そして二河白道思想などを元にして、現世と来世の世界を現出し、弥陀浄土が作られ、死霊が集まる霊地としての信仰が形成されていく
⑤納骨の風習もこうした浄土教的な霊地として展開する中で行われた

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
武田和昭  弥谷寺と四国辺路  弥谷寺調査報告書


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真鈴峠は、香川県から徳島県への山越えのみち。
峠近くの高尾家の屋敷内には、泉があります。
こんこんと水の湧き出る泉には、こんな話が語り伝えられています。

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真鈴峠への道
むかし、日照りが何日も何日も続きました。
山の奥、それも少々高所なので水には不自由していました。
とても暑い日に、お坊さまが来られました。
汗とほこりで、べとべとです。

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勝浦の四つ足峠
高尾家のおばあさんは、
「まあ、おつかれのご様子、一体みなさいませ」
と、声をかけ、お茶をさしあげました。
汗をふ拭きおえたお坊さまは、
「すまんことだが、水を一[祢いただけないものかな」
と、おばあさんに頼みます。
「このごろは日照り続きで、水も少ないのだけどお坊さまが飲むくらいの水はあるわな」
「そんなに水が、不自由なのかい」
「はい、峠の下まで汲みに行きます」

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真鈴の民家
お坊さまは、お水をおいしそうに飲んだあと、杖をついて屋敷のまわりを歩きます。
歩きながら、しきりに地面を突いているではありませんか。
何度も杖で地面を突くと、ふしぎなことに水がにじみ出てきます。
「おばあさん、ここ掘ってみい、水が出るぞ」
おばあさんは、水が湧いてくるという地面を、一升ますの大きさくらい手で掘ってみました。
すると、たちまち水はいっぱいになります。
おばあさん、こんどは一斗ますくらいの大きさに土を掘ります。
たちまち水は、いっぱいになってあふれ出ます。
近所の人たちを呼んできて、さらに大きく掘ってみました。
水は、ますますあふれるように流れ出るではありませんか。
「これは、枡水じゃ、増水じゃ」
と、人々はおおよろこびです。
おばあさんは、お坊さまにお礼を申さねばとあたりを探しましたが、お姿は見えません。
「ありがたいことじや、ふしぎなことだ」
おばあさんは、よろこびのあまり水に手を入れてみました。すると、
「ちろん、ちろん」
と、音がします。お坊さまが持っていた鈴のような音がして、水が湧き出てきます。
「ちろん、ちろん…」
と湧き出る水に人々は「真鈴の水」と名付けました。

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真鈴の民家
隣村から、少し水を分けてもらえないかと言ってきました。
おばあさんは、水のないのは不自由なことだと快く承知しました。
隣村といっても県境、阿波(徳島県)から水をもらいに来たのです。
    水を、にないに入れ一荷にして、県境を越えて帰って行きます。
お礼は、蕎麦一升。水と、蕎麦とを交換して、仲良く暮らした山の村でした。
真鈴の水は、今日も、ちろんちろんと湧き出ています。

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 四国遍路の形成過程については、次の2段階に分けて考えるのが一般的になっているようです。
①近世前の修験者等による行場巡りとしての四国辺路形成
②近世後の庶民による四国霊場88ヶ寺巡礼巡り
  ①の近世以前を、さらに細分化すると次のようになるようです。
③平安時代後期から鎌倉時代には『今昔物語集」や『梁塵秘抄』などに四国の海辺を巡る辺地修行や山岳修行が出てくる
④室町時代前期には熊野信仰に伴う参詣、修行のルートが確認される。
⑤室町時代後期になると、四十九番浄土寺の本尊厨子や八十番國分寺本尊像に「南無大師遍照金剛」や「南無阿弥陀仏」の落書がみられ、弘法大師信仰とともに念仏信仰も盛んであったことが分かります。
⑥江戸時代初期、承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記」には、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」とあり、各札所で念仏が唱えられていたらしい。

ここからは戦国期から江戸時代初期の「四国辺路」では、熊野信仰や六十六部、時宗に加えても念仏信仰が盛んに行われていたことが分かります。今から考えると、真言宗のお寺で「南無阿弥陀仏」の念仏が称えられていたことに、何かしら違和感を感じてしまいます。どんな風に阿弥陀信仰の念仏と霊場が混淆していたのでしょうか。

1 郷照寺3

七十八番札所郷照寺(宇多津町)で見てみることにしましょう。
 郷照寺は宇多津の港に臨む高台にあって、仏光山の名のごとく灯台の役を果たしました。あるいは庚申堂の常夜灯であったかもしれません。庚申信仰は念仏信仰です。昔はお葬式を手伝いあうのが庚申請でした。庚申念仏のために人々が集まる道場が道場寺になったようです。このあたりに秘事法門が多いといわれるのは、念仏信仰が真言念仏・秘密念仏化したものと研究者は考えているようです。そのため庚申堂本尊も密教の青面金剛です。もとは庚申請の掛軸を出したり、七色菓子を出したりしたかもしれません。現在は、それらもなくなり大師信仰だけになっています。

1 郷照寺1

 縁起は、後世のものらしく霊亀年間(715ー17)に行基菩薩が開いたと伝えます。そして、弘法大師が再興し、尊心憎都、通苑阿闘茶などが住んだといいます。が、現在は時宗です。
そして、一遍上人の関係を伝えています。
一遍は四国の松山の人で、16年に及ぶ最後の遊行の際には、善通寺に参拝して郷照寺を通りすぎて、淡路島から明石に渡っていますので、ここを通ったことは確かです。また最後の遊行を前にして、自分の郷里に帰ったこともはっきりしています。正応二年(1289)8月末に亡くなっています。

1 郷照寺踊り念仏
一遍絵図の中の踊り念仏

郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。
それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は
「おどりはね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

です。これはまさに、一遍上人の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には時宗の影響下にあったことがうかがえます。
1 郷照寺踊り念仏2
          一遍絵図の中の踊り念仏

 郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。
南無阿弥陀仏版木2 郷照寺
六字名号版木 郷照寺

これは、江戸時代初期頃の縦六七・ニ㎝、横一九・七㎝、厚さ三・七㎝のもので、表面に「時衆二祖真教様」の書体で大きく「南無阿弥陀仏」と書かれています。その下に「承和元(834)年三月十五日書之空海」とあります。そのまま受け取ると、弘法大師が高野山奥院に入定する前年に書いたことになります。空海真筆を強調しているようです。
 裏面上部には、椅子に坐わす弘法大師像、その背後に山岳中から影現する釈迦如来が刻まれます。その下に「讃岐国屏風浦誕生院」とあるので善通寺御影堂本尊を表していることになるようです。
 つまり表面の空海筆銘の六字名号と裏面の弘法大師像とを合わせれば、まさに弘法大師信仰と念仏信仰が合体した版本となるようです。その意味では貴重な物かもしれません。
 研究者が注目するのは、郷照寺の版木と、ほぼ同じ頃に造られた「空海筆銘六字名号」の版木が四十番観自在寺、五十一番石手寺、五十二番大山寺、八十一番白峯寺などにもあることです。弘法大師に関わる念仏信仰の拠点がどうも札所寺院であったようなのです。

空海と六字名号の関係について、もう少し見ていくことにしましょう。
鎌倉時代末期の『一遍聖絵』巻二に
日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字名号の印板をとどめ、五濁常没の本尊としたまへり。
 
とあり、弘法大師が六字の名号を版木に刻んだとしています。一遍上人は時衆の開祖です。そして『一遍聖絵』は、一遍上人の弟、聖戒などが関わっていますので、時衆の影響が大きいとされます。
 また「四国辺土(遍路)八十八ケ所」の文言が記される説経『苅萱』「高野巻」には、弘法大師が入唐する際、宇佐八幡宮に参詣すると火炎の中から六字の名号が現れ、これを船板名号と称し、御神体として舟に彫りつけ無事に唐に渡ったと記します。「高野巻」は高野聖たちが深く関与したことは、すでに明らかにされているようです(真野俊和一「日本遊行宗教論』)
このふたつのことから弘法大師と念仏信仰(六字名号)の混淆の仕掛け人は
①時衆が深く関わっている
②時衆系高野聖の存在も大きい
ことが分かります。
 空海が開いた高野山は真言密教の聖地です。
しかし、時代と共に様々な流派を取り入れていきます。平安時代後期から覚鑁(かくばん・1095~1143))や明遍(みょうへん・1142~1324)などが現れ真言念仏や念仏を盛んにしています。
  覚鑁については、新義真言宗 総本山根来寺のHPでは「真言の教えの中興者として、次のように評価しています。
銅像 覚鑁
 
 興教大師(覚鑁)の時代は、真言宗は事相の興隆とともに多くの流派が林立し、修法に関して一部で混乱がみられました。こうした実状に悩んだ興教大師は、遍く諸流を学びかつ相承して、真言の法門の「源底」を求め、真言密教の秘奥を究められました。現在でも興教大師は、「大伝法院流」の祖として崇あがめられています。
  興教大師の教えの本質は、弘法大師の教えの継承・発展にあり、あくまでもその目標は「即身成仏」の実現にありました。しかしそれだけではなく興教大師は、当時興隆しつつあった浄土往生思想を真言密教の枠組みの中に見事に活かし、真言密教の立場からの正しい弥陀信仰のあり方を示されました。  興教大師は、高野山の独立を達成され、教学の振興をはかり、文字通り真言宗団を中興されたのです。

  室町時代になると、高野聖の多くが時宗化します。
そして、念仏を唱える時宗系高野聖の勢力が増し、高野山の念仏化が進んだようです。つまり、当時は真言の総本山である高野山で「南無阿弥陀仏」が称えられていたのです。その後、慶長十一年(1606)幕府の命により、高野聖の真言宗加入が行われます。(五来重「高野聖」)
1 郷照寺4

 もう一度、版本に話を戻します。
これが郷照寺で造られたのか、また他から持ち寄られたのかは分かりません。しかし、郷照寺の寺歴からすると、郷照寺で作られ所蔵されていた可能性が高いと研究者は考えているようです。どちらにしても、弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を広めたことに間違いはないようです。時宗系念仏聖の存在がうかがえます。
 この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろなプロの宗教者が巡っていたことが明らかになっています。この中で近世の四国遍路への展開・発展に大きく関わったのは高野山の行人や時宗経系念仏聖のようです。彼らには弘法大師信仰を持ちながら、念仏行や念仏踊りを踊るという二面性(?)があったようです。
 江戸時代前期、貞享四年(1687)頃に真念によって『四国辺路道指南』が刊行されます。そこには
「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

と記されています。ここにはもう念仏信仰はみられません。真言宗本来の光明真言を唱えています。南無阿弥陀仏の念仏は「追放」され、弘法大師の一尊化が確立している様子がうかがえます。江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。
 郷照寺の版木からは、弘法大師信仰の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。同時に、この版木は中世の四国辺路から近世の四国遍路への橋渡し的な意味を、持つものかもしれないと思えるようになりました。

武田和昭 四国遍路における弘法大師信仰と阿弥陀信仰   空海の足音四国へんろ展 所収

1 白峰寺古図

かつて、第八十一番札所白峯寺の「白峯山古図」を見ながら、この寺の近世の変貌ぶりを追いかけたことがあります。それを最初に確認しておくと
①中世の白峰寺は「白峯衆徒21ヶ寺」の数多くの伽藍や塔が立ち並んでいた。
②そして、多くの院坊の連合体が白峰寺を形成していた。
③ところが元禄8年(1695)「末寺荒地書上」には、「白峯衆徒21ヶ寺、内18ヶ寺は退転」し、「寺地は山畠となる」と記されている。
④多くの伽藍や塔の姿は近世に初頭に姿を消し、3坊のみが存続した
⑤その中で、元禄以前には本堂の東側にあった洞林院が、現在地に降りてきて白峰寺の本坊となった。
以上からは「白峯衆徒21ヶ寺」は、近世最初に淘汰され、その中で洞林院が本坊として生き残ったということになります。その間に何が起こったのでしょうか。金毘羅さんの金光院のように、各院坊間の権力闘争が、ここでも起こったのでしょうか。

 そんな中で見つけたのが「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」という小文です。これをテキストに「白峰山古図」をもう一度眺めてみることにします。松岡氏は次のように述べています。
「境内図を見る際には、制作年代や作者だけでなく、何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても,意識しながら読み解くことが必要」

という立場から、この古図と向き合います。そして、次のように指摘します。

「白峰山や稚児ヶ嶽、松山津などの自然景の中に、白峯寺の伽藍と崇徳院御廟などのほか、周辺の寺社や村、参道も含めて描かれている。境内をみると、三重塔や洞林院、楽屋、別所、金堂、大門など今はない建物が数多く描かれる。
 一方で、江戸時代前期に初代高松藩主松平頼重の寄進で再建・建立された阿弥陀堂や客殿の姿はない。同じく頼重が造営した頓證寺殿の特徴的な建物も、「御本社」の名称で今とは異なる社殿が描かれている。」

 建物の名称や外観・配置などが、江戸時代前期のものと一致しないことから、この絵は、さらに時代を遡る中世の景観を描いたものとします。
 この図の箱には、永徳二年(1382)の火災以前のものを描いたものであるという墨書があります。
しかし、画面には、応永21年(1414)に後小松天皇から下された「頓證寺勅額」(重要文化財)を掲げる勅額門が描かれています。歴史的な整合性がなく、少し首を傾げざるえないところもあるようです。それだけに、この絵がいつの時代を描いたものなのかについての判断は慎重にならざるえないようです。つまり「作為」があるのです。

白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
 この絵の作者や描かれた時代については分かりませんが、研究者は次のように指摘します。
①懸崖や海岸線をデフォルメしながら複雑な地形を破綻なくまとめていること
②平板化せず奥行きのある構図や、樹木など細部の描き方、目ののった画絹が使われていること
①からは高い技量をもつ絵師の存在
②からは、制作時期は江戸時代前期と研究者は推察します。つまり、箱書きにあるように中世に書かれた物ではないということです。江戸時代になって、中世の様子を描いているということになります。

画中には人物が一人も描かれていません。
建物と自然景観が丁寧に描かれています。その結果、静かな落ち着きのある雰囲気が漂います。まるで、霊地の威厳を表す社寺曼荼羅のようです。
白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰山古図 拡大図

そういう視点でこの絵を眺めると、白峯寺の周辺には雲井御所、鼓岡、崇徳天皇と記された二か所の社殿(現在の高家神社・青海神社)のほか、松浦や綾川など崇徳院由来の地が全て描かれているのに気付きます。どうやらこの絵の作者が目指したものは、崇徳院ゆかりの霊跡に囲まれ、廟所と一体のとなった聖地としての白峯寺の姿であったようです。それは「白峯寺縁起」に「霊験かきつくしかたき」と記される白峰寺の往古の景観を、江戸時代になって復原的に描いたものと研究者は指摘します。

制作者の意図を、別の視点から探してみましょう。
白峰山一帯を俯瞰するように整然と描いた図は、一見すると記録に基づいて境内の様子を忠実に描いたように思えます。しかし、詳しく見ると、いくつかの作為(主張)があるようです。  例えば、中世の白峯寺には多くの子院があり、戦国期には21か寺あったと伝えられます。

白峯寺 四国遍礼霊場記2

『四国偏礼霊場記』白峰寺(1689年)

元禄2年(1689)に寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図には、洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったことが分かります。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 (本堂周辺部の拡大)

ところが、中世の白峰山を描いたというこの絵に注記があるのは洞林院だけです。伽藍の間に見える数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかな「格差」が付けられています。洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したようです。その際に、同院の由緒を示すための文書などが作成されたと推測されます。そして慶長九年(1604)以降、洞林院が白峯寺において中心的な役割を担って行くようになったことが棟札から読み取れます。

  松岡氏が最初に述べていた
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵は、
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
ということになりそうです。さらに推察を加えるとすれば、そのような主張をする必要が洞林院にあった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? それは、別の機会にするとして・・先を急ぎます。
白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
もうひとつ注目したい所は、画面左端の北峰に描かれた馬頭院です。
馬頭院については、江戸時代後期の作とされる絵図に「馬頭院跡」と記されています。また、大正15年(1926)に写された「白峯寺開基由来帳」(鎌田共済会郷土博物館蔵)にも「破壊地」として馬頭院を「当寺末寺」とする記述がみえます。しかし、他の史料には載っていない寺院です。ところがこの絵の中には馬頭院は描かれています。馬頭院は、洞林院以外に描かれる唯一の子院です。しかも離れた地であるにも関わらず描き込まれています。そこには何らかの意図や目的があったはずです。それが何なのかは、今は分かりません。「馬頭院跡」という、忘れ去られたこの子院が、この絵図を読み解く手がかりとなる可能性があるのかもしれません。
最後に、四国遍路との関わりからこの絵を見てみましょう。
この古図には遍路が歩いたと思われる道の一部が次のように描かれています。

1 白峰寺古図2$pg
①画面中央下の高屋村から白峯寺に続く道
②本堂前から画面右上へと続く道(史跡「根香寺道」)
③神谷明神の背後に延びる道、
あくまでも白峯寺への参道として描かれたのでしょうが、中世や近世の遍路道の姿を伝える貴重な絵画史料となるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

「大師は弘法に奪われ」ということわざがあるそうです。
弘法大師のほかにも、大師号を賜った高僧は、最澄をはじめ数多くいます。しかし、空海一人の代名詞のようになってしまったという嘆きの意味が込められているようです。さて、讃岐の地からは、もう一人の大師が生まれています。智証大師円珍です。
円珍、その人の生涯を見ておきましょう。

智証大師像 圓城寺
国宝 智証大師像 圓城寺

円珍は、弘仁五年(814)、今から約1210年前に、讃岐国那珂郡(善通寺市金蔵寺町)に生まれています。生誕地は現在の76番札所の金倉寺。俗名は広雄。父は和気宅成、母は佐伯直氏で空海の姪と伝えられているようです。空海の「ご近所」で、円珍の和気氏と空海の佐伯直氏は親戚同士の間柄とされます。彼の家系図は、以前に紹介したように「日本で一番古い系図」として国宝にもなっています。
広々とした境内 - 金倉寺の口コミ - トリップアドバイザー
四国霊場 金蔵寺 

 天長5年(828)、15歳の時に、叔父の僧仁徳に連れられ比叡山に登り、最澄の門弟で初代天台座主の義真に師事します。
 まず私が疑問に思うのは、どうして空海を頼らなかったのかということです。この時期に、空海に連なる佐伯家出身の僧侶が東寺の責任者などとして、栄達の道を歩んでいます。また、30際近く年の離れた空海の弟真雅も、空海の元で修行中です。和気氏と佐伯氏が婚姻関係にあったというなら、その関係を頼らないというのは不自然な感じがします。活用できない理由があったとも考えたくなります。「母は佐伯直氏で空海の姪」という関係は、どうも疑わしい気がします。空海が入党するのが804年、高野山で没するのが835年です。

天長十年(833)に得度し、十二年間の籠山に入ります。
仁寿三年(853)39歳で入唐し、天台・法華・華厳・密など中国最新の仏教諸宗を学び、天安二年(858)に帰国します。この時、円珍がもたらした千巻にも及ぶ典籍・経典は、空海が伝えた真言密教に匹敵するもので天台密教の基礎となります。これを背景に、天台密教の拠点として近江の圓城寺を再興します。
 さて空海の成功から以後の留学僧が学んだことは、出来るだけ多くの経典等を持ち帰ることです。何を中国から持ち帰ったのか、何を身につけて持ち帰ったのかが問われることにに成ります。それは、中世の禅宗僧侶にも共通することです。もっと枠を拡大すれば、明治の洋行知識人も同じ立場だったのかもしれません。日本人は、大陸からもたらされるの「新物」に弱いのです。変革には「新物」が必要なのです。
 その際に、必要になるのは経済力です。官費だけでは足りるものではありません。空海の場合も、持ち帰った経典類や仏具類などをどのように集めたのか、その資金はどこから出たのかがもっと探求されるべきだと思うのですが、そこに触れる研究者はあまりいないようです。円珍の場合は、どうだったのでしょうか。実家である和気氏に、それだけの経済力があったのでしょうか。

貞観十年(868)に54歳で、第五代天台座主となり、寛平三年(891)に亡くなるまで、24年間の長きにわたって座主をつとめます。その間には、園城寺を再興し、伝法灌頂の道場とします。また清和天皇や藤原良房の護持僧として祈祷をおこない、宮中から天台密教の支持を得ることに成功します。死後36年経た、延長五年(927)、「智証大師」の号を得ています。

 一説によると、12年の籠山後、32歳の時に熊野那智の滝にて千日の修行をおこなったといいますが、これは後に円珍の法灯を継ぐ天台寺門派が、「顕・密・修験」を教義の中心に置き、熊野本山派の検校を寺門派が代々引き継ぐことによって、作り出された伝承とされます。しかし、ここからは京都の聖護院に属する本山派修験者からも円珍が「始祖」として、信仰対象になっていたことがうかがえます。

円珍は、実際には15歳の上京以後は、讃岐の地を踏むことはなかったようです。
 にもかかわらず円珍の影響を受けたとする四国霊場札所があるようです。円珍と、どのような関係があるのというのでしょうか
  県内札所のなかで天台宗、または円珍(天台寺門派)の痕跡が残るお寺を見てみましょう。
まず大興寺(六十七番札所)から始めます
この寺は小松尾寺とも呼ばれ、四国偏礼霊場記に「台密二教講学の練衆」と記されています。古くから真言と天台の兼学の場で、江戸時代にも真言二十四坊、天台十二坊があったと伝えられています。寺に伝わるものとして、建治二年(1276)の墨書銘をもつ天台大師坐像(香川県指定有形文化財)があります。寺伝では、弘法大師と熊野信仰を結び付けていますが、ここには熊野信仰と天台寺門派とのかかわりもあったことがうかがえます。次の札所になる観音寺(六十九番札所)にも天台大師像(画幅)があります。大興寺と観音寺の三豊エリアの札所には、円珍に関わる信仰があったことがうかがえます。
 
次に丸亀平野へ進みます。金倉川下流域は、円珍の出身である和気氏の勢力範囲だったと云われます。
金倉寺は和気氏の居館の後に建立されたとされます。
これも、善通寺誕生院の空海生誕とよく似た伝承です。金倉寺は、和気氏の氏寺として出発しますが中世には、宇多津や堀江などの港町の町衆の信仰を集める寺院に成長します。そして、仏教の教学センターとしての機能を、近隣の道隆寺と共に果たすまでに成長します。その大師堂には、中世まで遡るといわれる智証大師の木像が正面に安置されています。
 また、下の鎌倉時代作の智証大師像(重要文化財)も伝わります。
智証大師 金倉寺

この像を見ると圓城寺の国宝の智証大師像を写したかのように見えます。円珍のトレードマークである「卵頭」が忠実に真似られています。智証大師像は、みなよく似ています。逆に言うと「参考例」を模写したことになります。
金蔵寺には、高松藩の絵師、鶴洲の描いた模写や狩野愛信(狩野永叔の門弟)という絵師の描いた模写も残されています。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
江戸寺時代に模写された智証大師画
まさに、中世の肖像を模写した物です。その上に、高松藩主や京都聖護院門跡から贈られた智証大師の画幅なども伝わります。どうして  江戸時代になって、円珍の絵が何度も模写されたり、藩主などから贈られたのでしょうか。その背景には何があったのでしょうか?それは、また後に考えるとして先に進みます。

五色台の山岳寺院である白峯寺(八十一番札所)の「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場しますこの縁起には、次のように記されます。
貞観二年(八六〇)円珍が山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられます。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺のことか)、白峯寺の四ヶ寺に納めた、
 ここからは縁起が作られた時には、白峰寺や根来寺は円珍が創建したとされていたことが分かります。当時の五色台は、本山派の天台密教に属する修験者たちの拠点であったようです。これに対して、聖通寺から沙弥島・本島には、真言密教の当山派(醍醐寺)の理源大師の伝説が残されています。瀬戸内海でもエリアによって両者が住み分けていたようです。
 白峯寺は今は真言宗寺院ですが、近年の調査で修禅大師義真像(円珍の師、鎌倉時代作)が伝わっていることが分かっています。他にも、天台大師像、智証大師像、山王曼荼羅図が伝えられます。
 白峰寺と同じ五色台にある根香寺(八十二番札所)には、元徳三年(1331)の墨書銘がある木造の円珍坐像があります。

智弁大師(円珍) 根来寺
根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、大興寺と同じように真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。白峰寺と根来寺は共通点があるようです。
八十七番札所の長尾寺は、天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。

 このように讃岐の四国霊場を見てくると、五色台や雲辺寺周辺の山岳寺院に古くから智証大師円珍や天台系の影響が見られるようです。山岳寺院=修験道=真言密教と直ぐに考えがちですが、江戸時代には、天台宗の聖護院(本山派)に属する修験者の方が圧倒的に多かったようです。円珍信仰・伝説の背後には、本山派修験者たちの活動が透けて見えてきます。
江戸時代に作られた円珍の像画は、誰が作成したのでしょうか。
それは、高松藩主として水戸からやって来た松平頼重の宗教政策の一環として作られたようです。頼重は、金倉寺、根香寺、長尾寺を真言宗から天台宗へ改宗させます。その際に、あらたな信仰対象として円珍像が作られたり、絵が模写されたようです。松平頼重は国内統治政策の一環として、次のような宗教政策を行っています。
①姻戚関係にある浄土真宗本願寺・興正寺派の保護
②金毘羅大権現の保護と全国への広報戦略
③高松城下町の氏神様としての岩瀬尾八幡の整備・保護
④菩提寺としての仏生山の整備・保護
同時に、屋島合戦の故地や崇徳上皇の旧跡地など、讃岐国の歴史的な場所や歴史上重要な人物について、顕彰し崇敬につとめています。こうした動きのなかで、頼重は、讃岐出身のもう一人の大師、智証大師円珍を「発見」したのではないでしょうか。それは、徳川宗家と天台僧天海との関係、また和歌を通じて頼重と交友関係にあった聖護院門跡の道晃法親王(後水尾天皇の弟)との関わりもあったのかもしれません。彼らとの交流の中で、円珍のことを知り、「讃岐が生んだもう一人の大師」として、再評価していく意味と必要性を感じるようになったのかもしれません。そして、その拠点に選ばれたのが金蔵寺と根来寺と長尾寺なのでしょう。そのために信仰対象として、像や画などが贈られたと研究者は考えているようです。
 頼重は晩年の隠居屋敷の中にお堂を建立し、根来寺から移した不動明王と四天王を安置し、プライベートな祈りの場所にしていたことは、以前にお話ししました。また、彼の宗教ブレーンには密教系修験僧侶の存在があったようです。
 そのような中で、円珍の「出会い・再発見」が、その信仰拠点を整備するという考えになったようです。どちらにしても、思いつきや一族だけの安泰を図るのでなく、広い支配戦略の上で、継続に行っていることに改めて気付かされます。
参考文献 渋谷啓一 もう一人の大師 智証大師円珍 空海の足音所収

1 善通寺伽藍図

善通寺は東院と誕生院の2つのエリアから現在は構成されています。古代に佐伯氏の氏寺として建立されたのは、五重塔や本堂の建つ東院です。それに対して誕生院は、空海の生家があった場所とされ、空海誕生の聖地とされています。こちらは弘法大師伝説が広まった中世に成って生まれた宗教施設です。
1 善通寺 仁王門

誕生院に入口に立つのが仁王門です。この仁王門を真っ直ぐに進んでいくと御影堂に至ります。ここで悪霊や魑魅魍魎たちの侵入を防ぐために立っているのが金剛力士像です。
向かって右は、口を開き、肩まで振り上げた手に金剛杵をとる阿形像です。
1 善通寺 金剛力士阿形

阿像は左足に重心をかけて腰を左に突き出し、顔を右斜め方向へ振っています。
1 善通寺 金剛力士吽形

  一方、左が口を一文字に結び、右手は胸の位置で肘を曲げ、掌を前方に向けて開く吽形像です。こちらは右足に重心をかけて腰を右に突き出して、顔を左斜め方向に振っています。
 小さいときに、この阿吽像の間を通って「お大師さん(おだいっさん)=善通寺」に、お参りするときには、両方の仁王さんから睨まれるようで恐かった思い出があります。そして、鉄人28号のように、もっと大きく感じたものです。実際どのくらいの大きさだったのかとデータを見ると、
「像高(阿形)193、2㎝(吽形)190、5㎝」

とあります。 この数値を見ると意外な感じがします。もと大きいはずと感じてしまいます。このくらいの身長なら今ではスポーツ選手には数多くいます。等身大よりかは、はるかに大きいというイメージでした。確かに阿吽像は、土で築いた壇(高さ約70㎝)上に立っています。そのためいつもは、見上げるように見るため大きく感じていたのかもしれません。
 いつもは仁王門の中にいて、下半身は柵でよく見えないのですが、こうして写真で見て気付くのは、下半身に重量感があるということです。下半身にまとう服は裾が長くボリュームがあります。いったい何をまとっているのかと思います。また、阿吽のふたつを並べてみると、左右対比性をもつてバランスを考えて作られていることに改めて気付かされます。

   さて、この仁王さんたちは、いつからここにいるのでしょうか?
  かつて、この仁王さんたちは江戸時代(十七世紀)の製作と聞いたように記憶していました。ところが現在では、14世紀の南北朝まで遡るとされています。一体何があったのかを、まずは見ておきましょう。
金剛力士像の製作年代の決定に大きな役割を果たしたのは、善通寺の学芸員の方です。平成21年の春ごろに、善通寺の建造物群の修理履歴を調べるため、近年の寺務書類を整理・確認していた時のことです。真言宗善通寺派の機関紙に、この金剛力士像の修理に関する記事が載せられていたというのです。(『宗報』第九号昭和51年1月発行)。そこには、修理後の写真とともに、
「応安三年(1370)に作られたもの」、
その修理は「京都東山の佐川仏師」によって行われた
ことが記されていました。つまり、昭和50(1975)年に、修理が行われた際に体内墨書が発見されていたのです。しかし、当時は注目もされずに、そのまま忘れ去られることになったようです。そのことを再発見したのが学芸員の松原 潔氏です。そこで、彼は修理にあたった仏師・佐川中定氏と連絡を取り、一枚の写真を手に入れます。
それが、この写真のようです。ここには修理解体時の時に見つかった次のような像内墨書銘が写されています。

1 善通寺 金剛力士像内墨書jpg
大願主金剛佛子有覺
右意趣者為営寺繁唱
郷内上下□□泰平諸人快楽
□□法界平等利益故也
應安三(1370)年頗二月六日

ここからは次のような事が分かります。
①1行目に仁王像製作の発願者が有覺であること
②2~4行目に、寺と地域の繁栄・仏法の興隆を願う文言が記されていること
③5行目に応安三(1370)年の年記があること
  確かに、この墨書の年代は決定的な史料となります。こうしてそれまで江戸時代後半の作品とされていたものが、一気に400年近くも遡り、南北朝時代の仁王さんと評価されるようになったのです。しかし、この墨書銘が阿吽両像のどちらに書かれているのか、また、像内のどこに記されたものかは分からないようです。また、発願者の有覺という僧侶についても、作った仏師についても現在のところは分かりません。そこで、同時代の全国の仁王像と比べてみましょう

全国の鎌倉時代後期から南北朝期の製作年代のはっきりしている金剛力士像は?
①大阪・法道寺像  円慶・慶誉作  弘安六年(1283)
②高知・禅師峰寺像 定明作     正応四年(1291)
③神奈川・称名寺像 大仏師法印院興・法橋院救・法橋長
          賢・法橋快勢作元亨三年 (1323)
④兵庫・満願寺像  南都仏師康俊作 嘉暦年間
                   (1326~28)
⑤奈良・金峯山寺像 康成作     延元四年(1339)
などが挙げられるようです。
同じ四国霊場である②の定明作と比べてみると、様態は似ていますがイメージはまるで違います。
1 金剛力士
 高知・禅師峰寺像 定明作 正応四年(1291)
おなじ系統状のものとは思えません。
③の神奈川・称名寺像はどうでしょうか? 

1 金剛力士称名寺jpg

「ぼってり感が③の称名寺像と共通する感覚をもつ」と、研究者は云いますが、そうですかとしか私には答えられません。

香川県内の中世の金剛力士像を挙げると次の通りです。
  本山寺像・志度寺像・大興寺像・屋島寺像・國分寺像
 吉祥院像・伊舎那院像
  仁王の吉祥院像と財田の伊舎那院以外は、四国霊場のお寺さんになるようです
f:id:nobubachanpart3:20110624193641j:image
伊舎那院の金剛力士像阿形

運慶作の金剛力士像 - 三豊市、大興寺の写真 - トリップアドバイザー
大興寺金剛力士像吽形

ただ、本山寺(三豊市)の二天(持国天・多聞天)像には
「仏師当国内大見下総法橋」
「絵師善通寺正賢法橋」

の製作名と製造年の正和二年(1213)が記されているようです。
ここからは、この時代には善通寺や三豊に、在地の仏師や絵仏師がいて、その工房があったことがうかがえます。善通寺の仁王たちも讃岐の仏師の手によって作られた可能性もあります。

 仁王さんが善通寺に、やってくる背景を見ておきましょう。
仁王門が建つ誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたとされてきました。誕生院は、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院でした。創建は建長元年(1249)で、高野山の学僧・道範(1178~1252)によって行蓮上人造立の弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 この時期の誕生院は、東寺の末寺です。東寺から派遣された別当が住持を務め善通寺全体を監督していました。それが、元亨年間(1321~24)に後宇多天皇の遺告で、善通寺は大覚寺が本寺となります。その結果、本末の争いが起き、暦応四年(1341)に光厳上皇の院宣が出されるまで続きます。そして、善通寺は東寺長者も兼任する随心院門跡の管理下に入ります。
こうしたなか誕生院住持となったのが宥範(1270~1352)です。
宥範が住持になった頃は、善通寺は中世の混乱で衰退期でした。平安中期に大風により五重塔は、倒壊し失われたままでした。このような中で、諸堂の再建・修理に勤め、伽藍整備おこなったのが宥範です。 また、教学上でも真言密教の諸法流のうち三宝院流慈猛方や安祥寺流などを学んで、小野三十六流善通寺方(宥範方)を確立し、独自教学の発展と自立的経営の基礎を築いたとされるようです。そのため彼は「善通寺中興の祖」とされるのです。
 仁王門の金剛力士像が造られた翌年の応安四年(1371)には、宥範から誕生院住持職を譲られた弟子の宥源の上表によって、宥範に僧正位が追贈されています。宥源にとっては、師匠の宥範と共に目指した誕生院整備の締めくくりとして迎えたのが、この阿吽の仁王さまたちだったのかもしれません。
1 善通寺伽藍図.2jpg


善通寺に仁王たちがやってきて約二百年後の永禄元年(1558)に、阿波三好氏配下の讃岐武士団が天霧城の香川氏を攻めます。

その際に、善通寺は三好氏の本陣となります。両者の和議が成立し、三好軍が撤退した後に善通寺は炎上します。この際に、東院の本堂や五重塔は燃え落ちたとされますが、誕生院については次の2つの説があります。
①誕生院も兵火に係り燃え落ちた
②燃え落ちたのは東院のみで、誕生院は残った
 この論争に対して「金剛力士が中世に作られた」という事実は、②の説に有利に作用すると考えられます。「仁王門は、延焼を免れたから仁王さまは生き延びた」と考えるのが自然です。戦国期においても善通寺は壊滅的な打撃を受けたわけではないようです。東院は瓦礫の山になったかもしれませんが、誕生院は寺院のとしての機能を維持していたとしておきましょう。

善通寺には宝永五年(1708)の「金剛力士堂」再建の棟札が残っているようです。
戦国期に兵火にあった東院の五重塔や本堂が再建されるのは、17世紀末のことです。棟札には願主・光胤(1651~1732)と大工竹内十右衛門の名前があります。宮大工の竹内十右衛門は、元禄十二年(1699)上棟の金堂再建にも参加していたことが棟札から分かります。
 東院の再建と一緒に、「金剛力士堂」(仁王門)も、同じ宮大工によって再建されたようです。この棟札の裏面には「力士修補」とあります。このときに修理された力士像が、現在の仁王門に立っている阿吽像になるようです。阿吽像は永禄の兵火をくぐり抜け、660年近くにわたって善通寺を守護し、参拝者を迎え続けてきたようです。

  最後に仁王さまに敬意を表しながら、その姿を紹介する研究者の文章を紹介したいと思います。

善通寺金剛力士像 阿形

阿形像は髻(もとどり)【(頭頂で結った髪の束)を結い、その正面には上辺が三角の飾りをつけ、元結紐の先端を右上方へ翻す。目を怒らせ、開口して上下歯と舌を見せる。下半身には折り返し付のくんを着け、体側を天衣がめぐる。左手には金剛杵を握り肘を屈して振り上げ、右手は全指をのばし掌を外側にむけ体側に垂下する。右斜め下方を向いて、腰を左に強くひねり右足を踏み出して、手斧目の方座上に立つ。

善通寺金剛力士吽形
吽形像は阿形と同様に髻を結うが、その正面の飾りは花弁形にあらわす(元結紐は亡失)。
目を瞑らせて閉口する。左手は肘を張って体側に垂下させてこぶしをつくり、右手は肘を側方に張って全指を立てて掌を正面に向ける。左斜め下方を向いて、腰を右に強くひねり左足を踏み出して立つ。その他はおおむね阿形像のかたちに準じる。
善通寺仁王像 (2)


針葉樹材(ヒノキか)による寄木造。表面の彩色や補修のために構造の詳細は不明だが、頭体は別材製とおもわれる。頭部は耳の前後で矧ぐ三材製で、日には水晶製の玉眼を嵌め込み首下で体幹部に差し込む。体幹部は前後三材製で、腰に着けた祐は前後左右から別材を矧ぎつけるか。このほか、阿形像は両肩・左肘。両足先に、咋形像は両肩。右肘。両足先に矧ぎ目があり、それぞれそれ以下に別材を矧ぎつける。また、天衣も別材を矧ぎつけている。台座は広葉樹材製(ケヤキか)で複数材を矧ぎ合わせている。

善通寺仁王像 (3)

激しい怒りをあらわす面貌や引き締まった肉身にみられる抑揚の強い表現、肩を後方に引き頭部と腹部を前に突き出して創り出す前後の動勢は鎌倉時代初頭に活躍した運慶一派が完成させた写実的な新様式を踏襲するものだが、一方で、体幹部や腕などの角ばった造形や補にみられる厚ぼったい衣の表現などには様式の形骸化が見てとれる。

善通寺仁王像 (4)

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 松原 潔    善通寺の金剛力士像(仁王)について
                  空海の足音 四国へんろ展 香川県立ミュージアム所収


前回は三野湾の大見・下高瀬・吉津の3つの地区の特徴について見てきました。今回は、中世の秋山家文書に見える地名を通じて、三野湾の復元に取り組んだ研究を見ていくことにします。テキストは「山本祐三  三野町の地名を考える ―中世関連地名と海岸関連地名 三野町の中世文書」です
西遷御家人・秋山氏の讃岐への移住について
 鎌倉幕府は元の再来に供えて、西国防衛力のアップという名目で西遷御家人を西国の要衝に送り込みます。三野湾の入口に位置する高瀬郷に、甲斐国からやってきたのが秋山氏です。西遷御家人は、東国での新田開発を通じて、高い治水・灌漑技術を持っていた技術者集団でもあったようです。地頭として入ってきた地域の未開発地域を積極的に開発していったことは以前に、土器川周辺の法勲寺地区で見た通りです。
 秋山氏が取り組んだのは、下高瀬郷の大見地区の谷田の開発です。中世を通じてこの地区は、谷田が開かれていきます。そのため開発名主の名前が今でも地名として残っているところが数多くあります。大見地区の農業生産力は、この時期に急速に高まります。その発展を背景に、大見は下高瀬より分離・独立していったようです。ちなみに大見の一番大きな水源が天霧山になります。そして、ここには死霊の赴く山として弥谷寺があります。この山が古くから霊山であったことがうかがえます。
 大見という地名が文書の中に表れるのは、南北朝期以後のことで、秋山家文書中の応安五(1372)年、沙弥日高(秋山泰忠)置文(遺言状)に、譲る所領の境を次のように記しています。
「 さかいの事ハ(境の事は)
ひかし(東)ハ 大ミ(大見)のさかい(境)を あさつ(朝津)の山をくたり 
にし(西)ハ たくま(詫間)のさかう(境)まつさき(松崎)まて  しうき(塩木)のミね(峰)をさかう(境)なり 
又みなミ(南)たけか(竹包)の志ちたん(七反)あまりゆつ(譲)るなり

これが大ミ(大見)が記録に出てくる最初のようです。相続させるエリアを次のように示しています。 
①東は朝津山を大見との境 
②西は詫間の境である松崎ー塩木山(汐木山ではない)まで
③南は竹包の七反地
このエリアを大見から分割して相続させたのでしょう。

三野町大見地名1
 
その約200年後の永禄三(1560)年、香川之景知行宛行状に
「替わりとして大見の内 久光・道重両名(久光・道重の名田)を扶持せしめ候」

と出てきます。ここでは大見という漢字になっています。南北朝期や戦国期に大見という地名が使われていたことが分かります。
下高瀬については、前回も触れましたので省略します。

吉津については、寛治三(1089)年の浪打八幡官(詫間の浪打八幡神社)放生会頭人番帳写(片岡家所蔵文書)に、
吉津・詫間・仁尾分 十二年廻」

として36名の頭人があげられています。その中に吉津が見えます。
 また貞治六(1367)年の宮年中行事番帳写(同前)にも
「吉津日天寺・吉津大光寺・吉津多門坊」
とあります。さらに明徳二(1391)年の宮放生会駕輿丁次第写には、吉津正元以下五名の名が挙がっています。ここからは平安時代末期には、吉津の地名が文書に残っていることが確認できます。吉津は、古代の行政区分からすると詫間郷に属していました。そのために、詫間郷の郷社的な存在であった波打八幡神社の氏子となっていたようです。吉津と下高瀬は行政区分が異なっていたという点は抑えておいた方がよさそうです。
 吉津の地名由来は、この地の海岸沿いに葦(よし)が生えていた津(港)であったことによると云われています。あるいは「良津(港)」が転じて吉津となったとも伝えられます。

三野湾に残る中世関連地名をもう一度見てみましょう
1 三野町中世地名

研究者が秋山家文書から抽出した中世地名が、地図上に赤字で示されています。番号中に見ていくことにします
①大道(おおみち)
 秋山家文書(1331)年の文書の中に、父の秋山源誓が子の秋山孫次郎泰忠に地頭職を譲る置文(遺言状)の中に「大道」が次のように出てきます。
 「さぬきのくにたかせのかうの事 (讃岐の国高瀬の郷の事)、
いよたいたうより志もはんふんおは(伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし(孫次郎泰忠譲るべし)」
 
高瀬郷の下半分、つまり今の下高瀬地域を子(泰忠)に譲るというものです。伊予大道は、善通寺から鳥坂峠を越えて、現在の国道11号沿いに高瀬を抜けていきます。近世の伊予街道と重なる部分の多いルートです。かつては、この道が南海道とされていた事もありました。しかし、現在では南海道は飯野山の南を真っ直ぐに西進し、善通寺の四国学院のキャンパスを通過し、大日峠を越えて高瀬を横切って六つ松に至っていることが分かっています。伊予大道は、古代末から中世以後に整備されたと研究者は考えているようです。
 この文書にあるように高瀬郷は、14世紀前半に伊予大道を境に南北に上下に分けられたことが分かります。同時に、この伊予大道(いよだいどう)が、現在の大見にある大道の地名に残されているのではないかと研究者は考えているようです。
②砂押(すなおし) 
「かさねてゆつりおく  (重ねて譲りおく)、
そうりやうまこ四郎に  (惣領孫四郎に)
たかせのかうのすなんしき(高瀬の郷の収納使職)」

これは秋山家文書中の永和一(1376)年の文書です。秋山泰忠が、孫でありながら嫡子として惣領にした孫四郎に所領を譲った置文です。泰忠は、置文(遺言状)を12通も残しています。いろいろと気がかりで心配なことが次々と出てきたのでしょう。その度に、新しい置文を書いたようです。ここには、高瀬郷の地頭職(収納使職=すなんしき)を惣領孫四郎に譲るとあります。「収納使職」が訛って「砂押」になったようです。
 「あさつの山(浅津の山)をくたり(下り)」の東側とあるので、現在の砂押の位置関係と合います。現在の大見小学校の南側にあたる地域です。惣領家に継承されたのですから重要なエリアであったことがうかがえます。ここを拠点に大見開発が進められたのかもしれません。また周辺には
「大見浜・浜堂・塩焼田・浜・蟹田地」

という地名が残ります。三野湾が入江となって直ぐそばにあったようです。塩焼田という地名からは、塩業が行われていたこともうかがえます。
 秋山氏の居館がどこにあったかは分かりませんが、有力候補地と考えられる地区です。

③九免明(くめんみょう) 
秋山家文書中に九免明(くめんみょう) は出てきません。この地名は公文名に由来し、高松市新田町に公文名、まんのう町にも公文の地名が残ります。公文は、荘園の記録・文書など公文書を取り扱っていた役所があった所です。その役所が名田と呼ばれる私有地を持っていて、その土地からあがる収入を役所の費用に充てていました。つまり公文名とは公文の名田という意味で、後には名主そのものを指すようにもなるようです。高瀬郷の公文の名田がここにはあったとしておきます。そして、公文名が九免明に転訛したと研究者は考えているようです。
④道免(どうめん) 
似たような地名に道免があります。位置的には大道の近くになります。大道の管理維持のための経費を当たられた免田(年貢を免除された田)が設けられました。その代償に、官道である大道の改良工事などに労働力や資材の提供を求められたのでしょう。同じような地名に道免と南原の間に坂免(釈迦免=しゃかめん)がありますが、詳細は不明です。

⑤田所(たどころ)
大化改新以前の豪族の私有地として田荘がありましたが、大化改新により廃止されたと云われます。田所は、これに関連するものではないかとも思われますが、よく分かりません。
⑥法華堂(ほっけどう) 
秋山家文書中の秋山一忠自筆之系図に
「下高瀬法花(華)堂 久遠院 ゐんかう(院号)高永山 さんかう(山号)本門寺 じかう(寺号)」

と出てきます。中世には本門寺は法花堂と呼ばれていたようです。法花堂が中核施設であったことがうかがえます。 本門寺は、高瀬郷を領した秋山氏が創建された西国で最も古い日連宗寺院です。地元では高瀬大坊のと親しみを込めて呼ばれています。

 建武元(1334)年 祖父と共に讃岐にやって来た秋山泰忠は、晩年になって、日仙を招き法華堂を建立します。これが現在の本門寺です。
4 塩飽大工 本門寺

本門寺を中心にして、法華宗は周辺に広がっていきます。これは、全国的にも早い時期の日蓮宗の布教形態です。秋山氏の氏寺として本門寺は創建され、発展をしていきます。
 泰忠の祖父阿願は法華信仰に深く、帰依していたようです。泰忠はその影響を受け、小さいときから法華信仰に馴染んでいたのでしょう。故郷の甲斐国を離れ、幼くして遠く讃岐までやってきた泰忠にとっては、南北朝の動乱の戦いを繰り返す中で心を癒すために、法華経への信仰心を深めていったのでしょう。彼は晩年に置文(遺言状)を12も書いていますが、その中にも子孫に法華宗への信仰を強く厳命しています。このように秋山泰忠により本門寺は創建され、秋山一族の保護の元に領民に法華宗が広められていきます。これが後の高瀬郷皆法華信仰圏が成立する背景のようです。その出発点となるのが、この法華堂のようです。
4 塩飽大工 本門寺2

⑦原(はら)・樋之口(ひのくち) 
秋山家文書中の香川之景(天霧城主)知行宛行状に
「三野郡高瀬郷水田分内 原・樋口、三野掃部助知行分並びに同分守利名内、真鍋三郎五郎買徳の田地」

とあります。永禄四(1561)年の文書で、原・樋口・守利の地域にある土地を合戦の恩賞として天霧城主の香川氏が秋山兵庫助に与えたものです。ここに出てくる原は、現在の大見の原で、樋口は下高瀬の樋口と研究者は考えているようです。
原は現在は原・小原・原上・下原・原南等に分割されています。また大見原と下高瀬原に分けて呼ばれたりもしているようです。
 また樋口については下高瀬に中樋・樋之前・樋之口がある。樋口は現在の下高瀬小学校や百十四銀行の周辺で、旧三野町の中心地になります。三野町役場そばの橋は三野橋といい、その一つ上流の橋は樋前橋と呼ばれています。守利(もりとし)については、これがどこに比定されるか分かりません。
 この文書からは戦国時代には、秋山氏は守護代の香川氏から恩賞をもらう立場にあったあったことが分かります。つまり香川氏の家臣団として、軍事行動に参加していたようです。
⑧東浜(ひがしはま)・西浜(にしはま) 
中世三野湾 下高瀬復元地図


秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に
「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事
右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、
一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

とあります。親の泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。泰忠は、本門寺を建立した人物です。泰忠の息子たちの世代に移り変わっています。ここに出てくる新はま東村(新浜東村)は、現在の東浜、西村は現在の西浜、中村は現在の中樋あたりを指しすものと研究者は考えているようです。
他の文書にも
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
等が譲渡の対象として記載されています。ここからも秋山氏は、この辺りで塩田を持っていたことが分かります。作られた塩は、仁尾の海運業者によって畿内に運ばれ販売されていたようです。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
 この文書からは泰忠の所領が、三人の息子に分割相続されていたことが分かります。この分割相続が秋山氏の力を弱めていくことになるようです。経済的に立ちゆかなくなった惣領家は、大事な土地を切り売りしていることが残された文書からは分かります。

⑨打上(うちあがり)・竹田(たけだ)
 
中世三野湾 復元地図

秋山家文書中の香川之景判物に
一 三野野郡打上の内 国ケ分 是は五郎分なり・・・
一 同郡高瀬の郷の内 武田八反、是も真鍋三郎五郎買徳、有坪かくれなく候」
とあります。天霧城主で守護代の香川之景が帰来善五郎に打上と武田の土地を所領として安堵した文書です。打上は葛山(前山)の麓の地区で、高瀬町新名と三野町吉津にまたがります。現在の高瀬ー詫間線が通っている地区です。葛山の南麓の打上から新名村西下にかけての地区は、江戸時代初期に新名新田として干拓されるまでは浅海でした。満潮時には打上のあたりに海水が打ち寄せていたと云われます。そのため湿地帯で、耕作には不適な土地でした。
 武田は現在の大見の竹田のことのようです。
 秋山家文書中の泰忠の置文には、次のような多くの名前が付いた名田が出てきます。
あるいハミやときミやう (あるいは宮時名)、
あるいハなか志けミやう (あるいは長重名)、
あるいハとくたけミやう (あるいは徳武名)、
あるいは一のミやう   (あるいは一の名)、
あるいハのふとしミやう (あるいは延利名)
又ハもりとしミやう   (又は守利名)
又はたけかねミやう   (又は竹包名)、
又ハならのヘミやう   (又はならのへ名)
このミやうミやうのうちお(この名々の内を)、めんめんにゆつるなり(面々に譲るなり)」
とあります。多くの名前が並んでいるように見えますが、「ミやう」は名田のことす。名主と呼ばれた有力農民が国衛領や荘園の中に自分の土地を持ち、自分の名を付けたものとされます。名田百姓村とも呼ばれ名主の名前が地名として残ることが多いようです。特に、大見地区には、名田地名が多く残ります。しかし、その多くは近世の検地実施と共に消えていったようです。
久光(ひさみつ)・道重(みちしげ) 
秋山家文書中の香川之景知行宛行状(永禄三(1569)年に、次のようにあります。
「替わりとして大見の内久光・道重両名扶持せしめ候」
と見えます。
これも久光とか道重という名前の名主がいて、ここは私(久光)の土地ですよ、とか、ここは私(道重)の土地ですよ、と標示した名残なのでしょう。それが地名となって中世に使用されていた名残です。
 豊中町の比地大にある友信や石成も、友信という名前の名主が持っていた名田、また石成という名前の名主が持っていた名田であったと伝わる集落です。これらの村を名田百姓村と呼びます。
1名田百姓村

大見あった久光・道重は、今はそれに当たる地名が見当たりません。小地名や小字名あるいは屋号等に残っているかもしれませんが、それは今後の課題となります。
重光(しげみつ) 秋山家文書中のちやうほうらうとう売券に
「さぬきのくにたかせのかうのうち 志けみつのまへらうとう」

あります。ちやうほうは秋山長房とも考えられ、長房が「志けミつ」の地を誰かに譲り渡した、というものです。「志けミつ」を漢字変換すると「重光」が考えられます。前後関係から重光は旧高瀬町と旧三野町との境あたりにあった地名と考えられるようです。

以上、秋山文書に現れる中世地名を追いかけてみました。復元地図と併せながら見ていくと、面白い発見がいくつもあります。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三  三野町の地名を考える ―中世関連地名と海岸関連地名
         
三野町の中世文書所収


金刀比羅宮宝物館の十一面観音について
明治の神仏分離で、金毘羅大権現の仏像たちは全て追い出されて、金毘羅大権現は金刀比羅宮に変身しました。入札で引き取り手のある仏は、他の寺に移っていきました、引き取り手のないものは、燃やされたことが当時の禰宜であった松岡調の日記には書かれています。そして、金刀比羅宮には仏様はいなくなった・・・・はずなのですが二体だけ残されて、宝物館に展示されています。当時の金刀比羅宮の禰宜松岡調が、このふたつの仏だけは残すと決めた仏像です。金毘羅さんにとって、それだけ意味のある仏であったようです。
宝物館に行くと、松尾寺観音堂にあった十一面観音像が迎えてくれます。
11金毘羅大権現の観音
十一面観音(金刀比羅宮)
 もともとこの観音様は聖観音として伝来してきました。しかし、正面に立って見ると頭上の化仏が指し込められていた穴跡が見えます。聖観音ではなく、十一面観音だったことが分かります。

1 金毘羅大権現 十一面観音2
十一面観音(金刀比羅宮)
 左手に持っていた蓮の花を挿した花瓶も失われています。観音を乗せていた蓮華座もありません。よく見ると裳には華文を描いた彩色が残っています。
DSC01221
         十一面観音(金刀比羅宮)
藤原時代前期の作とされて、今は重文指定を受けています。
DSC01222

この十一面観音が神仏分離以前には、松尾寺の観音堂に安置されていたようです。

2.象頭山山上3 ピンク
本堂左側にあるのが松尾寺の観音堂

私はてっきり、この観音さんが本尊だとおもていたのですが、そうではないようです。江戸末期の『金毘羅参詣名勝図会』には、観音堂の本尊は「聖観音菩薩」で、この「十一面観音」は本尊の「前立て」として安置されていて、「古作」であると記されています。江戸末期には、化仏も失われ、花瓶も失われていたので、前立てとして脇役の位置に甘んじていたようです。

DSC01029観音堂

 さて、本題に入っていきます。観音堂が松尾寺の本堂として最初に創建されたのは戦国時代末でした。十一面観音の方は、それよりずっと古い藤原時代前期の作です。本堂と十一面観音の時代が一致しません。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会)

ここからは、創建された本堂に、どこからか十一面観音を持ち込んできて、いつの時代からは聖観音とされていたことが分かります。

金毘羅観音堂略図
十一面観応が安置されていた観音堂平面図
 それでは、この十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか
まず考えられるのは、大麻山中にあった古刹の滝寺・小滝寺からやってきたという説です。

金毘羅宮の学芸員を長く勤めた松原秀明氏は「金毘羅信仰と修験道」の中で
①観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる大麻山の滝寺の本尊を移したもの
②前立の十一面観音は、その麓にあった小滝寺の本尊であったもの
 滝寺とは、どこにあったお寺でしょうか。

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滝寺は現在の葵の瀧辺りにあったいわれる

奥社からさらに、大麻山方面へ工兵道が伸びていきます。この道は戦前の善通寺11師団の工兵たちが演習で作ったので、工兵道と呼ばれています。ほぼ水平のの歩きやすい山道で、野田院古墳辺りに抜けていきます。その途中に、切り立った屏風岩という崖があり、高さはありますが水量は乏しい瀧が現れます。今は地元では、葵の瀧と呼ばれているようですが大雨の降った後は見応えがあります。金毘羅さんの中で、私のお勧めポイントです。ここは修験者の行場としてふさわしいところで、象頭山に全国から集まった「天狗」たちの聖地だったところと私は考えています。

 滝寺と呼ばれた寺院の本尊は?
仁治四年(1243)事に讃岐に流された高野山のエリート僧侶、道範は讃岐での生活を『南海流浪記』に残しています。

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記 洲崎寺版
 放免になる前年の宝治二年(1248)年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねた帰路に、琴平山の称名院に立ち寄ったことが次のように記されています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきたようです。
 道範は念々房がいなかったので、その足で滝寺に参詣し、次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (『南海流浪記』)

ここから分かることは
①道範が秋も深まる11月末に滝寺を訪れたこと
②坂を1,6㎞ほど登ると東向きに瀧があり
③古い寺の痕跡を示す礎石も所々に残り  → 古代山岳寺院?
④本堂は五間四方で、千手観音を本尊(?)とする山岳寺院
  大きさが五間というと山中にあるにしては、立派な本堂です。注目したいのは本尊です。「本仏御作千手云々」で「御作」とあるので弘法大師手作りなのでしょう。「千手」とあるので千手観音菩薩と考えられます。しかし、研究者が注目するのは最後の「云々」です。これは伝聞で、断定の「也」ではありません。ここからは宥範は、実際には瀧寺の本尊の観音さまを見ていなかったとも考えられます。そうだとすれば

「金刀比羅宮所蔵の十一面観音像は、滝寺の本尊であった」

という説とも矛盾しないというのです。「本仏御作千手云々」をどう解釈するかの問題になります。

「滝寺の千手観音 → 松尾寺観音堂の十一面観音」説

は、紙一重で生き残っていることになります。実は、これは金比羅神の本地物問題とも関わってくることのようです。そして、研究者が頭を抱えている問題でもあるようです。ここでは十一面観音が滝寺からやって来たということは、認められない立場の研究者の説を見ていくことにします。

称名寺 「琴平町の山城」より
金刀比羅宮神田の上にあった称名寺

十一面観音は、麓の称名寺からやってきたという説もあります。
称名寺の本尊については、道範は何も記していません。江戸時代の多聞院に伝わる『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。

「当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 地元では、阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。ここには十一面観音が称名院にあった痕跡はありません。高野聖に近い念仏聖がいた気配がします。

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称名寺跡の祠
 近世以前の象頭山には、金毘羅神の出現以前に滝寺・称名寺や大麻山などの宗教施設があり、地元の人々の信仰の対象となっていたことが分かります。同時に、霊山として修験者の行場としても機能していたようです。しかし、十一面観音を本尊とする寺院は周辺には見当たりません。
 金比羅神を創出し、金比羅堂を建立した宥雅にとって、十一面観音はどうしても手に入れ、安置したい仏でした。なぜなら金比羅神の本地物は、十一面観音とされていたからです。十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか?  その前に、金比羅堂建立について、触れておきます。
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称名寺跡付近から眺めた小松荘

 松尾寺及び金毘羅堂は、いつだれによって建立されたのか
 松尾寺の創建は、古代や中世に遡るものではなく戦国時代末のことであったと現在の研究者の多くは考えるようになっています。その根本史料としてあげられるのが松岡調の『新撰讃岐風土記』に紹介されている次の金比羅堂の創建棟札です。
 (表)「上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四(1573)年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のような事が分かります。
①元亀四年(1573)に宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建てた
②その新築された堂と堂内で祀られた本尊の開眼法要の導師を高野山金剛三昧院の良昌が勤めた
 この棟札は、以前は「本社再営棟札」とされていました。しかし、この内容からは、金毘羅神が鎮座するための金毘羅堂を新しく建立したと読めるのです。「再営」ではなく「創建」なのです。
大麻山と象頭山 A
象頭山
松尾寺のある象頭山は霊山で、修験者の行場も数多くあります。
最初に、ここに行場を開いたのは熊野行者であったようで、熊野行者が祀る薬師如来を本尊として松尾寺が開かれたようです。そのため金毘羅堂では「金毘羅王赤如神」を祀っていても、松尾寺の本尊は薬師如来で、それを春族の宮毘羅大将をはじめとする十二神将が守るという形がとられていた研究者は考えているようです。

 しかし、金毘羅神の本地仏は十一面観音なのです。
十一面観音を本尊とする本地堂(観音堂)が新たに必要になります。そのため寛永元(1624)年までには観音堂が、現在の金刀比羅宮本社前脇に建ってられたようです。そして、ここに十一面観音を安置することで、金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立されることになります。
次に導師を勤めた良昌とは、何者なのでしょうか?
高野山大学図書館蔵の『折負輯』は、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

とあって、ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の管理も任されていたようです。天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。
 法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、同寺旧蔵の『讃留王神霊記』には綾氏の氏寺記され、神櫛王の「大魚退治伝説」の発信地のひとつです。以前に、「金比羅神=クンピラーラ + 神櫛王伝説の悪魚(神魚に変身)」説を紹介しました。金毘羅堂落慶供養導師良昌と島田浄土寺・法勲寺と「大魚退治伝説」とを結ぶ因縁が、金毘羅信仰成立にも絡んでいると研究者は考えているようです。

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神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表) 
悪魚伝説については何度も触れましたが、できるだけコンパクトに紹介しておきます
  法勲寺には、寺院縁起として次のような悪魚退治伝説が、伝えられてきました。
 景行天皇の時代、瀬戸内海には呑舟の大魚が棲んでおり、舟を襲ってば旅客に莫大な被害を与えた。そこで朝廷では、日本武尊の子で勇猛な神櫛王(武卵王)に悪魚を退治させるように命じた。神櫛王はみごと悪魚を退治したので、讃岐国を与えられ国造としてこの地を守ったので、人々は彼を、讃留霊王と呼ぶようになった。讃留霊王が亡くなると、法勲寺の西に墓がっくられて讃留霊王塚と呼んで法勲寺が供養してきた。

というのが、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説の粗筋です。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治伝説
悪魚は退治されてもその怨念は鎮まらず、たたりとなって悪疫や争乱を引き起こします。そこで、悪魚の怨念を鎮めるために、退治された悪魚の屍が流れ着いたという坂出市の福江浜には、悪魚を祀る魚の御堂が建てられます。
 宥雅は56歳の時、無量寿院縁起を筆録しています。
その中には悪魚退治伝説が含まれていました。宥雅は、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説のことをよく知っていたのです。宥雅は、西長尾城城主の弟とも甥とも云われます。彼は長尾氏一族の支援を受けて、1573年に松尾寺境内に金毘羅堂を創建します。その数年前の1570年頃には、十一面観音を本尊として祀る松尾寺を、長尾城主の長尾大隅守高家を始めとする一族の支援を得て建てます。
 新しく建立した松尾寺を守る守護神として、今までの三十番神では役不足と考えた宥雅は、強力な力を持った蕃神の勧進を考えます。その結果生み出されたのが流行神の金毘羅神だという説です。その際に、金比羅神の「実態」イメージとして借用したのが「悪魚退治伝説」に登場する「悪魚」でした。これを「神魚」としてイメージアップして、金比羅神へと変身させていったのです。

   その辺りのことを研究者は次のように、述べます
 大魚を、仏典のワニ神クンビーラや大魚マカラと融合させていかめしく神として飾り立てたのが、金毘羅王赤如神だ。写本した無量寿院縁起の中で宥雅は、悪魚のことを「神魚」だと記している。金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、仏典のクンビーラやマカラで飾り立てられた神魚であったといえる。古くよりワニのいない日本で、ワニとされたのは海に棲む凶暴な鮫であった。鮫=悪魚で、悪魚の姿は仏典に見える巨魚マカラと習合する事で巨大化し、呑舟の大魚となったといえよう。『大集念仏三昧経』には、「金毘羅摩端魚夜叉大将」とあって、ワニ神クンピーラと大魚の摩端魚(マカラ)を結び付けて、夜叉を支配する大将としていた。退治された悪魚は死して鬼神となり、夜叉=鬼神であったから、悪魚は夜叉の大将として祀られる事となった。

 以上をまとめると次のようになります。
①金毘羅堂の創建と悪魚退治伝説には密接な関連がある
②悪魚退治伝説は法勲寺の縁起であって、
③廃絶した法勲寺の寺宝類を預っていたのが良昌で、彼は島田寺も管理していた
④良昌は松尾寺内の金毘羅堂の開眼法要を行っている。
  この上に立って、研究者は次のステップに飛躍します。
松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺にあったのではないかというのです。そして、次のような仮説を立ち上げていきます。
①法勲寺の管理を委ねられた良昌は、その再建の機会をうかがっていた
②宥雅が松尾寺を建立することを聞いて、宥雅に十一面観首を譲ってその管理を頼んだ
③金毘羅堂の創建には、廃絶した法勲寺の悪魚退治伝説を受け継ぎ、後世に伝える期待が込められていた
つまり、現在の宝物館にある十一面観音は、もともとは法勲寺の本尊で、島田寺で保管されていた仏が、松尾寺本堂(観音堂)に持ち込まれたという説になります。
良昌が管理責任者だった頃の法勲寺は、どんな状態だったのでしょうか
法勲寺は室町後期に失火が原因で焼失して廃絶し、焼け残った仏像や聖典・仏具などを島田寺に預けていたと云います。しかし、島田寺も長宗我部元親の讃岐侵攻で焼けてしまいます。その後、生駒親正が讃岐の領主となって入国して高松に城をつくった時に、法勲寺は菩提寺として高松城下に移されてで再建されます。その法勲寺の属寺として、飯山の島田寺も再建されたようです。後に、法勲寺は親正の法名弘憲にちなんで、弘憲寺と呼ばれるようになります。
 再度確認しておくと良昌が法勲寺と島田寺の管理を任されていた頃、法勲寺は伽藍もお堂もない、状態で、焼け残った仏像や寺宝類を島田寺に預けていたと、研究者は考えているようです。
そのような中で良昌は、当時は島田寺に保管されていた十一面観音を宥雅に譲り、松尾寺で金比羅神の本地仏として祀ることを提案したのではないでしょうか。この時の良昌の頭の中には

松尾寺の本尊 薬師如来
=守護神 金比羅神 
=その本地仏・十一面観音

という図式があったのかもしれません。逆に考えると、十一面観音を本地物とする蕃神を新たな松尾寺の守護神とすることを、提案したのは良昌だったとも小説なら書けそうです。もちろん、悪魚伝説もセットになります。
 良昌にしてみれば、高野山にいて故郷の法勲寺や島田寺の荒廃には、心を痛めていたはずです。
そのような中で、悪魚伝説が金比羅神に姿を変えて伝えられることは、神櫛王=讃留霊王伝説を後世に伝え、ひいては綾氏創生伝説を引き継いでいくことにもなります。宥雅が松尾寺・金比羅堂を建立するのを聞いて、良昌は全面的な支援を行うことを決意したのでしょう。新たな地方寺院の建立に、故郷の讃岐の事とは云え、高野山のトップに近い高僧がやってくるというのは普通ではありません。そのくらいの背景があったと考えても不思議ではないでしょう。
もう一度、十一面観音を見てみましょう。
1 金毘羅大権現 十一面観音1

 蓮華座は失われていますが、その形態から十一面観音であることはとは明らかです。松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺のものという仮説はどうでしょうか。史料的な裏付けはありませんが、近世直前の金毘羅さんの動向を考える上では、私にとっては刺激剤となりました。
年表で宥雅と金比羅堂を取り巻く状況を最後に確認しておきましょう
元亀4年1573 宥雅が金毘羅宝殿を建立。良昌が導師として出席
天正元年1573 本宮改造。
天正7年1579 長宗我部元親の侵入を避けて宥雅が泉州へ亡命。
                土佐の修験者である宥厳が院主に
                元親側近の土佐修験者ブレーンによる松尾寺の経営開始 
天正9年1580 長宗我部元親が讃岐平定を祈って、天額仕立ての矢
       を松尾寺に奉納。
天正11年1583 三十番神社葺替。棟札には、「大檀那元親」・
「大願主宥秀」      
天正12年1584  讃岐は元親によって平定。
天正12年1584 長曽我部元親が仁王堂を寄進(賢木門改造)
                棟札の檀那は「大梵天王長曽我部元親公」願主は 「帝釈天王権大法印宗信」
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。

以上の仮説をまとめておくと次のようになります
① 松尾寺の観音堂の十一面観音は、松尾寺建立よりもずっ
  と古い藤原時代前期の仏像
② 松尾寺と金毘羅堂の創建は、宥雅と高野山金剛三昧院の
良昌の二人の僧侶の協力によって行われた
③ 良昌は法勲寺の寺宝類を管理する立場にあり、十一面観 音は焼け残った法勲寺の寺宝の一つであった

最後に高松に移され生駒親正の菩提寺となった弘憲寺について見ておきましょう
1 弘憲寺 讃留霊王G

 この寺には、江戸時代に描かれた讃留霊王(神櫛王)の肖像画があります。ここからは、弘憲寺が法勲寺を継承する寺であることがうかがえます。同時に、生駒藩時代には讃留霊王信仰が藩主によって広まっていた形跡もあります。

 弘憲寺の本尊は、平安時代の木像不動明王立像です。

木造不動明王立像|高松市
高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、この不動明王について、次のように記します。
 不動明王は、身の丈109センチの檜(ひのき)の一木造りで岩坐の上に立っておられる。頭の髪は、頂で蓮華(れんげ)の花型に結(ゆ)い、前髪を左右に分けて束ね、左肩から垂らす。腰には短い裳(も)をまとい、腰紐で結ぶ。このお姿から、印度の古代の田舎の童子の髪の結い方や服装がうかがわれる。額にしわをよせ眉をさかだて、左の目は半眼に右目はカッと見開く。いわゆる天地眼(てんちがん)で、左の上牙で下唇を右の下牙で上唇をかみしめ、忿怒相(ふんぬそう)をしている。不動信仰の厳しさを感じさせられる。
 全身の動きは少なく、重厚さの中に穏やかさを感じさせ、貞観彫刻から藤原彫刻への移行がみえる。旧法勲寺(ほうくんじ)(飯山町)から移されたと伝えられている。
この不動明王も、もともとは法勲寺にあったもののようです。不動明王は修験者の守護神ですから中世には、法勲寺や島田寺も修験者の寺であったことがうかがえます。しかし、修験者が守護神として身につけた不動明王は、空海によってもたらされた「新しい仏」で、白鳳・奈良時代にはいなかった仏です。奈良時代に開かれた法勲寺の本尊としては、ふさわしくありません。創建当時から本尊とされていたのは、不動明王以外の仏が本尊であったと考えるのが自然です。
それでは、法勲寺の本来の本尊は何だったのでしょうか
 第1候補として挙げられるのが観音菩薩です。そうだとすれば、金毘羅大権現の松尾寺の十一面観音は法勲寺のものであった可能性がでてきます。しかし、それを裏付ける史料はありません。あくまで仮説です。
松尾寺は別当寺として金毘羅大権現を祀り、この松尾寺の中心が観音堂でした
そういう意味では、十一面観音は金毘羅信仰の中でも重要な位置を占めていたわけです。そして、松尾寺は観音霊場でもあった痕跡があります。十一面観音は平安時代からの微笑を浮かべるだけで、その由来に関しては何も語りません。
参考文献
○松原秀明「金毘羅信仰と修験道」(守屋毅編『民衆宗教史叢書 金毘羅信仰』、雄山間発行、一九九六年)
○『琴平町史』巻一 (琴平町発行、一九九六年)
○「金毘羅参詣名勝図会」「讃岐国名勝図会」(『日本名所風俗図会 四国の巻』、角川書店発行)


 
古代三野湾1
                
三豊市の古三野湾をとりまく古代史については、以前にお話ししました。改めて確認しておくと
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺付近から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。
⑥南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
⑦南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
⑧郡境と南海道を基準ラインとして条里制が施行されたが、その範囲は限定的であった。
以上のように古代三野郡は、古墳時代の後期まで古墳も作られません。そして、最後まで前方後円墳も登場しない「開発途上エリア」でした。
今回は中世の三野湾について見ていこうと思います。
三野という地名の由来は、古代律令制下の郡名からきているようです。古代の讃岐国には11の郡がありましたが、その内の一つが三野郡です。三野郡は
勝間・高瀬・熊岡・大野・高野・本山・詫間の七郷

からなっていました。現在の三豊市のエリアとほぼ重なることになります。三野湾をとりまく旧三野町は、昭和三十(1955)年に大見・下高瀬・吉津の三つの旧村が合併してできた町でした。大見・下高瀬地区は、高瀬郷、吉津地区は詫間郷に属していたようです。つまり、古代の三野郡と戦後にできた三野町とはまったくエリアが異なることを初めに確認しておきましょう。その上で、旧三野町の大見・下高瀬・吉津の地域を見ていきましょう。
下高瀬は、高瀬郷が二つに分けられた片方です。
鎌倉時代末期の元徳三(1331)年の史料(秋山家文書)に、
「さぬきのくにたかせのかうの事、いよたいとうよりしもはんぶんおは、まこ次郎泰忠ゆつるへし」
漢字に置き換えると
讃岐国高瀬郷の事、伊予大道より   下半分をば   孫次郎泰忠に譲るべし

となります。高瀬郷を支配していた秋山家の当主・源誓が、息子の孫次郎泰忠へ地頭職を譲る際に作成した文書です。ここからは、次のような事が分かります。
①伊予大道が高瀬郷を貫いていた
②「伊予大道より下半分」の所領が孫次郎に譲られた
これで伊予大道を境にして、高瀬郷が上下に区分されたことになります。つまり上高瀬・下高瀬が生まれたようです。上下のつく地名は、各地にありますが、街道や河川を境に分けられた地名のようです。上高瀬は高瀬町、下高瀬は三野町に属していますが、高瀬と名がつけばどちらも高瀬町だと思ってしまいます。

 次に大見地区です。
この地区は、中世には高瀬郷に含まれていました。そのため中世の下高瀬というのは大見地区も含んでいたようです。
 秋山家の源誓が、息子の孫である泰忠に譲った所領は、大半が三野町域にあったようです。例えば、
「すなんしみやう(収納使名)」
「くもん(公文)」
「たんところみやう(田所名)」
は、大見地区に見る砂押・九免明・田所が比定できます。
 最後に吉津地区です。
詫間町の浪打八幡宮の年中行事番を示した南北朝期の史料(宝寿院文書)に、「吉津」の地名が見えます。吉津は、詫間とや比地と同じグループで、詫間郷に属していたようです。
以上から中世と現在の行政地域とは、まったく異なることが分かります。行政区域は、人為的に後世に引き直されることが多々あります。丸亀藩と高松藩の「国境」などもその例かもしれません。人間が勝手に行政区域を設定しても人や物の移動は、地域を越えて行われます。行政単位で見ていると、見落とす事の方が多くなります。

平安時代末の西行の『山家集』には、讃岐を訪れた際のことを次のように記しています。
さぬきの国にまかりてみのつ(三野津)と申す津につきて、月の明かくて ひびの手の通わぬほに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて飛び渡りけるを

ここからは西行が「みのつと申す津」に上陸したこと分かると同時に、三野に港があったことも分かります。

中世三野湾 復元地図
太実線が中世の海岸線 青字が海岸関係地名 赤字が中世関連地名 
三野町の中世文書より

吉津には「津の前」という地名が残ります。これは港湾施設に関係する地名と研究者は考えているようです。また「東浜・西浜」もあります。これは、この地域が砂浜であったことがうかがえます。津ノ前から東浜・西浜を結ぶラインが、海岸線であったようです。中世の三野津湾の海岸線を示したのが上図ですが、大きく南の方へ湾が入り組んでいたことが分かります。その奥まったところに港が建設されたようです。ここから宗吉瓦窯で焼かれた瓦も藤原京に向けて積み出されていたと研究者は考えているようです。

古代三野湾2 宗吉瓦窯積み出し

私は、津嶋神社のある津嶋に古代の港があったのではないかと思っていたのですが、「津の島」は津(港)に入るための目印の島と研究者は考えているようです。
  
讃岐では古くから塩が作られてきました。讃岐の生産地を見てみると。
①九条家領であった庄内半島の三崎荘
②阿野郡林田郷の潮入新田が開発され塩浜造成
③石清水八幡宮の神事に用いる塩が小豆島肥土荘で生産
④塩飽でも盆供に用いる塩が生産され、年貢として貢納
三野湾でも中世には塩田があったことが史料に見えます。
 秋山泰忠の置文(秋山家文書)の中に、次のように塩田が登場します。
「ははの一こはしんはまのねんく又しをのち志をはしんたいたるへし」
漢字に変換すると
「母の一期は新浜の年貢、又塩の地子をば進退たるへし)」

と、母の供養には、新浜の年貢や、塩の売上金を充てなさいと、指示しています。ここからは秋山氏が「新浜」に塩田を持っていたことがうかがえます。塩の売買という農業収入以外のサイドビジネスを持っていたことは、秋山氏の経済基盤強化には大いに役立ったことでしょう。また、塩の輸送を通じて、瀬戸内海交易への参入も考えられます。
しかし「しんはま」が、どこにあったのかは分かりません。新しい塩浜という意味で、それ以外の海浜ではもっと早くから製塩が行われていたのかもしれません。それが先ほど見た「東浜・西浜」なのかもしれません。
 塩浜があったとすれば、塩作りには燃料となる材木が必要になります。この材木を供給する山を塩木山と呼び、塩浜の近くに確保されていました。東浜・西浜の付近で材本を提供できる山を探してみると、吉津の北に「汐(塩)木山」があります。この山が製塩に使用する材木を供給した塩木山であったと研究者は考えているようです。
 三野湾周辺は、古代後半には開発が急速に進み、宗吉窯や製塩の操業のために燃料となる木材が周辺の山々から切り出されます。禿げ山化した山からは大量の土砂が三野湾に流れ込むようになります。それが急速に三野湾に堆積していったことは以前にお話ししました。古代に環境破壊問題が三野湾には起きていたのです。
もう一度、中世地形を復元しながら三野湾周辺の地名を見てみましょう。
大見地区は砂押・九免明・田所といった地名がありました。これらはいずれも農村から税を徴収する機構や年貢請負人の役職名に由来する地名です。弥谷山系と貴峰山とに挟まれた谷筋を水源として早くから田畑が開かれていたようです。中世では、農地を切り開くにはまず水の確保が必要でした。山間部で、不便と思われる谷筋ですが、湧き水などを確保しやすいので、大きな労働力が組織できない中世では「開発適地」だったようです。谷筋を水源とし、そこから引いた水で山裾の田畑を潤すという灌漑方法です。秋山氏が所領として、開発していったのは大見地区と研究者は考えているようです。大見地区が先進地域でです。
ところで、この水田では、どんな米が作られていたのでしょうか? 
 永和二(1376)年の日高譲状(秋山家文書)の中に、次のように生産米が記されています。
「たうしほふつかつくり候た、にんかうかちきやうせしかとも、ちふんやふれてもたす」
漢字変換すると
「唐師穂仏禾作り候田、日高か知行せしかとも、地文破れて持たす」
とあります。
「唐師穂を作っていたが、日高(秋山泰忠)が所有していたが、土地が崩壊して栽培出来なくなった」
というのです。
唐師穂とはインディカ種赤米のことで「大唐米・とうほし(唐法師)・たいまい」などと呼ばれていたようです。この赤米は旱魃に強く、地味が悪くても育つので、条件の悪い水田で古代から栽培されていました。
赤米

十五世紀中頃の『兵庫北関入船納帳』にも、讃岐船が大量の赤米を輸送していた事が記録されています。赤米は、干害に苦しむ讃岐の「特産物」となっていたようです。この赤米が日高(秋山泰忠)の所有する土地で作られていたことが分かります。耕作地は、「すなんじき(収納使職)」で、すなわち砂押地域のことです。この赤米耕作地が「ちぶんやぶれ」(土地の状態が変化し)たため耕作できなくなったというのです。その理由は分かりませんが、自然災害かもしれません。

今までの情報をまとめて、もう一度、下高瀬地区を見てみましょう。
中世三野湾 下高瀬復元地図

下高瀬は、現在はその真ん中を高瀬川が流れています。しかし、古代・中世は西浜・東浜まで三野湾が入り込んできていたことを先ほど見てきました。現在の本門寺の裏あたりまでは海でした。三野中学校は、海の中だったのです。高瀬川周辺は、塩田・瓦窯の操業に伴う木材伐採で、洪水による氾濫が多発化し、田畑は度々流失したようです。葛の山より北の河口部分は、デルタ地帯で、荒地が多かったと研究者は考えているようです。下高瀬地区が現在のように水田化されるのは、江戸時代になって千拓と灌漑設備が整備された後のことになります。
 高瀬川の河口には塩浜が形成され、製塩業者がいました。また本門寺の創建以降は、その門前には寺に関わる職人や商人が門前町を形成します。大見という地名は、史料上では南北朝期から見えます。ここは、先ほど見たように下高瀬地区に含まれていました。大見村が形成されていくのは近世になってからです。

吉津地区にも「津の前」という地名が示す通り海岸線が入りこんできて、当時は水田はほとんどありません。
中世三野湾 吉津復元地図

七宝山の麓に畑地が形成されただけで、水田は未形成だったと考えられます。ただ、港があったことから海に関わる仕事に従事する人たちがいたようです。「兵庫北関入船納帳』では、仁尾から多量の赤米が輸送されています。三野地域で生産された赤米が七宝山を越えて仁尾まで運搬して積み出したと考えるより、吉津の港へ仁尾輸送船がやってきて、そこで赤米を積み込んで輸送したと考える方が合理的です。仁尾湊の輸送船は、三野地区を後背地にしていたと考えられます。

 大見・下高瀬・吉津の三地区の中で、農業生産力が最も高かったのは大見地区でしょう。しかし、ここでも赤米栽培が行われています。大見以上に劣悪な土地であった高瀬川河田部分や吉津の畑地では、当然赤米が作られていたと研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
①古代・中世の三野湾は南に大きく入り込んで本門寺の裏が海であった。
②大見地区は秋山氏が西遷御家人としてやってきて開発が行われた
③大見地区の新浜では、秋山氏が塩田を経営していた
④伊予大道を境に、高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分けられた
⑤下高瀬には秋山氏の氏寺である本門寺が建立され、門前町も形成され地域の中核となった
⑥吉津は目の前まで海で、中世には水田はほとんどなく畑作地帯であった。
  おつきあいいただき、ありがとうございました。

橋詰茂     中世三野町域の歴史的景観と変遷   三野町の中世文書所収

2愛媛霊山 皿が嶺jpg

 久万町の皿ヶ嶺山頂には、竜神の池があり雨乞いの聖地となっていました。
松山市窪野町から皿ヶ嶺・井内峠を経て石鎚山に至る行者道には、三六王子の石像が置かれています。ここも熊野行者の行場の一つだったようです。上畑野川の宝作にある大岳・中岳・小岳・権現岳も霊山で、大岳には行者のこもったという洞穴、権現岳には石鎚権現が祀つられています。

 旧広田村の豊峰権現山(440m)は「西の石鎚」とも呼ばれます。
2愛媛霊山 豊峰権現山2

石鎚山をまねて「一の鎖」「二の鎖」「三の鎖」が付けられ、山頂に豊峰神社(蔵王権現)が祀られています。石鎚信仰の行者たちが講員を組織して、地元につくた行場ゲレンデのようです。近くの白糸の滝は、冬の「寒垢離」の行場となっています。ここは石鎚講の先達を務めた山伏たちの修行ゲレンデもあったようです。
 
1 熊野信仰 出石寺3

 長浜町の南にそびえる出石山(金山-820m)について、

『伊予温故録』は
「世人は此出石寺山を矢野々神山なりといふ説多し 元と此山も矢野郷の内にして往古は此山に神を祭りたる故に矢野々神山とは稱せしなるへし 後ちには神祭も衰へ社殿も朽ち果てたる折柄 佛法の盛んなる世となり遂ひに此寺を建立する。」
意訳すると
「この山は、かつては矢野々神山と呼ばれていたという。矢野郷の神を祭っていいたので矢野々神山と云われたが、次第に神祭も衰へ社殿も朽ち果てた。仏教が盛んなる世となり、ここに寺院が建立されるに至ったという。

 この山も、もともとは霊山であったところへ、真言密教の修験者がやってきて出石寺が建立されたようです。そして山名も矢野々神山から出石寺山へと代わったようです。

1 熊野信仰 出石寺1

 この寺のもう一つの由来は、『宇和旧記』所収の「出石寺縁起」で、
養老年間に磯崎浦(現保内町)のひとりの漁師(翁)が、突然大地からわきでた千手観音、地蔵菩薩の像を見つけて、出石寺を創建したとというものです。また弘法大師修行の地ともされ、出石寺は信仰の霊域として山上に大伽藍を擁するようになります。

  なぜ、こんな山の上に寺院が建立されたのでしょうか。
①古代以来の霊山で、庶民の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝であること。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったようです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
1 熊野信仰 出石寺2

 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。

 出石寺の観音様の縁日は、四月と八月の一八日でした。
出石寺の望める地の人たちは、出石講を作って多くの人がお参りしたようです。大洲地方には
「おすなや つくなや おいづし詣りのべんとがしゃげらや 梅ぼしはだかで 飛び出さや」

というの民謡があるそうです。お弁当持参で人々は山を登ってきましたが、大洲市上須戒の打越部落の人は、やってくる参拝客に湯茶・杖・草履の接待をしました。
 
南予の山の名で多いのは、権現山です。
地図を見ると、南予には至る所に「権現山」が見えます。それだけ山伏たちの活動が活発であったことを物語っているようです。霊山とされていた権現山を列挙しておきます。
① 大洲市の神南山は古来、神南備山(かんなび)ともいい、文字どおり神の鎮座する霊山とされてきたようです。霊山は、修験者の行場となり、山岳寺院が現れ山岳信仰の拠点となっていきます。
② 大洲市森山の拝竜権現は、毎年三月三日に人身御供をしなければ、村にタタリをなすと伝えられます。
② 八幡浜市向灘地区の権現山(364m)は、天明六年(1786)に石鎚権現を勧請した西石鎚神社があり、雨乞いに霊験があるとされます。
④ 瀬戸町三机丸山の権現山(360m)にも蔵王権現の分霊を祀る石鎚神社があります。
⑤ 宇和町田之筋の大判山も石鎚権現を祀ります。
7月1日山麓にある窪部落の人々は、酒一升と煮豆を持って山頂に登り、石鎚権現を拝んでおこもりする。この大判山には、天狗が住み、月の1・15・28日に登ると難にあうといわれます。
⑥ 宇和島市の薬師谷奥の権現山に山高神社(大山積命、須之男命など合祀)があり、かつて麓の薬師谷の岩戸滝あたりで禊ぎをして登ってきたようです。宇和島市には大浦の権現山や三浦半島にも権現山があります。
⑦三浦半島の権現山(489m)は、嶽山とか嶽権現ともいい、その山頂に嶽神社が祀られます。
1 熊野信仰 三浦半島嶽神社

もともとは、明星寺と呼ばれていたようです。
貞和二年(1346)、九州の英彦山から一宮が電光のように飛来し、梨浦保福寺に入ったと寛永11年(1634)の棟札の裏に記されています。九州の修験道場英彦山の修験者たちの布教活動の跡がうかがえます。海を通じて、九州からの修験者も入り込んできているようです。
 一方、ここでも平家の落人伝説としてのオタケジョロの伝承があります。嶽山の祭りは今は廃れましたが、「嶽相撲」は近年まで残っていました。ふもとにある三浦大内、下波結出、津島町北灘国永の三地区が毎年、会場を廻り持ちで準備し、旧正月に開かれていたと云います。近世には、周辺の漁師達が漁事祈祷などを嶽山で盛んに行ったようです。漁師達にとって、この山は「山立て」でもあったのす。その祈祷を行っていたのが修験者(山伏)たちだったのでしょう。
 西海半島にも権現山がそびえています。この山には大蛇とか角のない山牛という怪獣が棲むと伝えられます。この山も漁民の霊山です。

 四国西南地域の山岳信仰のメッカは、篠山権現のようです
1 熊野信仰 篠山1

1065mの篠山にある篠山神社・観世音寺(現在廃寺)には、鰐口鐘の銘が伝わっています。そこには正長~応仁の年号があって、篠山信仰が中世からのものであることが分かります。
 伽藍開基記には「山上設(二)熊野三所権現廟(一)」

とあります。麓の正木御在所登山口の石燈籠に「篠山三所大権現」と刻まれているので、熊野系の山岳信仰であったこと分かります。
1 熊野信仰 篠山2

 明治初年の神仏分離で廃止された観世音寺は、態野系山伏の拠点だったようです。一方、山頂の篠山権現は、正木村(現一本松町)庄屋の蕨岡家が神職を勤めていました。篠山権現は、別当寺の観世音寺が明治2年に廃寺となったあと、篠山神社(祭神は伊弉冉命・事解之男命・速玉之男命等)と称して存続します。
 篠山権現の創始伝承は、次のような話が伝わっています。
 あるとき、熊野権現の神火が飛来し、蕨岡家の庭の老樟に輝いたので、その神を篠山にお祀りした。その老樟に篠山に棲む天狗がきて、蕨岡家の当主助之丞をからかった。助之丞がおこり天狗の翼を射落として、隠した。こまった天狗は、翼と引き換えに永代庄屋の家を盗難から守るという約束をして山にかえったという。これから当家には盗賊が入らず。「戸たてず庄屋」と呼ばれるにいたった。

ここからは次のような事がうかがえます。
①「熊野権現の神火」「天狗」などから、熊野行者の活動が篠山方面まで及んでいた
②蕨岡家自体が熊野行者出身か、
③あるいは蕨岡家が熊野行者との密接な関係があり「先達ー檀那」関係にあった可能性
④篠山先住の天狗(地神)を退治して、熊野信仰が取って代わったこと。
ここには、天狗にみたてた篠山の修験者(山伏)と蕨岡家の交流のありさまが描かれています。
1 熊野信仰 篠32

この伝承については、次のような別の話もあるようです。
弘法大師が蕨岡家に滞留し篠山権現で修行を行った。長逗留になったので、大師のたびたびまたいだ敷居には大師の霊が宿った。そのためこの敷居をまたいで盗みに入るものはいない。そこで「戸たてず」となった

 ここには、弘法大師伝説が付け加えられています。弘法大師が四国で流布されるようになるのは近世になってからです。四国遍路は、中世の修験者たちのプロの行場をつなぐ「辺路修行」から、近世の素人による札場巡りの四国巡礼に発展変化していきます。篠山も足摺から南予へ抜けていく四国遍路道のコースに入ったことによって、弘法大師一尊化の波が及んだことがうかがえます。

1 熊野信仰 篠山6

篠山を地元の人たちは、オササゴンゲンと親しみを込めて呼びます。
火災除、盗難除、農作病除、漁業・海上の守護神として庶民の信仰を広く集めました。3・6・10月の各18日には「オササマツリ」が開かれ、多くの登拝者がやってきたようです。
3月は正木村の蕨岡氏と土佐の山北村庄屋が主催して、観世音寺を開帳します。(安政五年の田原明章の篠山紀行)。6月は、火縄で神火を持って帰り虫送りを行います。ふもとの正木地区では6月1日から2か月間は、輪番で二人ずつが篠山日参をし五穀豊穣を祈願していたといいます。10月は、花取り踊りが奉納されました。
 年末には蕨岡家から三升一臼の鏡餅とお神酒が神社に献上されたようです。
 篠山山麓では、石鎚山と同様に産の忌みが厳しく守られ、お産後12日間火を別にし、一般家人の立入りを禁止していたようです。10月に行われる花取り踊りの関係者も9日間、別火、水垢離を行って参加しています。修験の行場で管理体制がしっかりしていた篠山では、こうした忌みやタブー(禁忌)の伝承が濃くまといついているようです。

赤星山のウマシ(美し)美
里から見る赤星山

 伊予の瀬戸内海から見える霊山は、水神・竜神や農業神を祀る山岳信仰の対象となっていることが多いようです。これに対して南予地域の宇和海側は、漁場から目印(アテという)となるべき山々に、山伏たちが熊野系や石鎚系などの権現サマを祀っていることが多いと研究者は指摘します。以前に石鎚信仰についてはお話しましたので、石鎚以外の霊山を東から見ていくことにしましょう。
  霊山巡礼に出かける前に、霊山とはどんなところなのかを確認しておきましょう。
山は、里人に稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されました。山から流れる水は飲み水としても、用水としても里人にとって命の源でした。こうしたことから山にいる神を水を授けてくれる水分神として崇める信仰が生まれます。水分神の信仰は、竜神とされることも多く、蛇や竜がその使いとして崇められることもあります。
 漁民たちも山の神を航海の安全を守ってくれるものとして信仰しました。これは山が航海の目標になったからです。このように里や船から姿を仰ぎ見える山は霊山として、古代から信仰の対象になりました。そして、霊山は聖なるエリアの「不入山」で里人が普段は入れない山であったようです。そこに入ることを許されたのは、行場で修行を行う「聖(ひじり)」だけでした。

中世に成ると真言密教と山岳信仰が結びつき、修験者たちが行場を求めて山に入るようになります。
彼らにとって霊山は、天上や地下にあるとされた「聖地への入口=関門」でした。天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、地下にいるとされました。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝
これらは天界への道とされました。一方、地下の聖界への入口は
④奈落の底まで通じるかと思われる火口や断崖
⑤深く遠くつづく鍾乳洞、風穴
このような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、人々におそれられてきた所です。ところが修験者たちは、こんな場所を行場としました。なぜならここが聖域への関門であり、異界への入口だったからです。
 聖界の入口には番人として、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などがいるとされました。狐・蛇・猿・狼・鳥などの人里の身近かな動物も、神霊の世界と人間の世界をむすぶ神使として崇めおそれられたのです。
 境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。そのような場所に分け入って、修行をおこなう修験者(山伏)は、人々から畏敬の念を持って見られたのです。 それでは東から伊予の霊山を見ていきましょう。

 東予地域の霊山
 瀬戸内海に面して中央構造線沿いに東西に伸びる法皇山脈・赤石山脈の盟主の山々は、古くから甘南備山として宇摩郡内の人たちの信仰対象となってきたようです。
2愛媛霊山 愛媛の霊山信仰No1 豊受山

 法皇山脈の一番東に位置する豊受山(1247m)は、オトイコサンと親しく呼ばれ、もとは豊岡山と呼んでいたようです。

この山は、その名の通り豊受姫(伊勢の外宮に祀る五穀の神)を祀っていて、宇摩地方の人々から穀物の神さまとして崇敬されてきました。もともとは、水神を祀り五穀豊穣を祈る山であったのが、伊勢信仰が近世に入ってきて「豊岡山 → 豊受姫」に山名が変えられたようです。祭儀を行う主が神社名や山名を変えるのは良くあることのようです。石鎚山や剣山という名前も近世になっての名前のようです。

2愛媛霊山 豊受神社
豊受山の豊受神社

しかし、祭礼や祈願する内容は代わりません。民衆にとって、神社の名前などはどうでも良いことだったのでしょう。旧暦六月と九月の一三日の夏祭と秋祭の二回は、小さな丸団子(春は小麦団子、秋は米団子)を供えて、豊作を祈り、感謝します。
2愛媛霊山 豊受山風穴
豊受山の風穴

この山の頂上の奥社の西側には、長さ65mもの風穴があります。ここからは夏でも冷たい風が吹き出しています。やまじ風はここから吹き出すと信じられ、そこに団子を投げ入れて風が吹き出ないように祈願しました。団子の数は、一年の日数と同じ365個が供えられました。これをホカイに納めて一荷とします。
 この風穴も先述したように「洞窟・風穴は地下の聖界への入口」です。修験者たちの行場であったことがうかがえます。以前は九州、中国地方からも、このやまに参拝者があったと云います。この山が見える宇摩郡内では西は土居町中村から、東は伊予三島市東寒川、南は同市富郷の広範囲にわたって、多数の氏子があり、参拝者も多く、七荷半もの供物があがったようです。
2愛媛霊山 赤星からの豊受山
赤石山から豊受山への稜線

 祭礼に、里の信者を山に導いてくるのは先達です。
彼らは里にいた山伏たちです。遠く九州や中国地方からも参拝者があったというのも、そこから信者を誘引してくる先達の存在があったからこそなのです。石鎚講のような組織があったことがうかがえます。

伊予三島市史には、次のような「豊受さんと翠波様の伝説」が紹介されています。
豊受山に坐す豊受姫は、宇摩地方の人々から穀物の神さまとして崇敬されていた。東の翠波峰には、水波之女神がお住まいになり、水の神さまとして信仰されていた。豊受山には里の人たちが夏と秋に登り、盛大なお祭をして参拝者が後を絶たなかったが、翠波峰は旱のときに雨乞祭をするほかは参拝者がなかった。翠波峰の神さまは何かと寂しくなり、作物が良く出来ているのは私が水を授けているからなので、私の方が力があるのにと、豊受山の後ろの穴の風の神に話をした。
それを伝え聞いた豊受の神は、寒川から西の方ではたくさんの谷川が流れていて、翠波の神に世話になることなどない、とご立腹になり、それを翠波の神さまに申し入れた。そのため、お二人の仲は悪くなり、いつしか冷たい風が吹き始めた。
しかし、豊受山と翠波峰の中間の鷹取山に鷹取彦命という美男の神がおられ、お二方の対立を心配して仲裁されたので、女神たちは元のように仲良く暮らすようになった。
というハッピーエンドの話です。
しかし、これには別バージョンもあります。
それは豊受神と翠波神が戦い、豊受神は敗れ、焼き殺されたというのです。しかし、その時、豊受神は村中に雨を降らせたので、村人は亡くなった日を命日と定め、豊受山で雨乞いをしたと伝えられ、以来雨乞い踊りをすることになった、と「愛媛県の地名」に書かれているようです。こちらは、雨乞いの山として由来を伝えています。

 豊受山の西の赤星山では、明星の神を祀る祭礼が旧六月一日に行われていました。
カタクリ・ アケボノツツジ | nagiのブログ
赤星山頂手前の石祠
    山頂手前の石祠には、星の紋を付けた赤星大権現が祀られています。山岳信仰の修験者たちは、仏や菩薩が仮(=権)に姿を変えて日本の神として現れた姿を権現と呼び山の頂などに祀りました。権現が祀られてること自体が、山岳修行の行場であったことを示しています。
境内に祀る新仏像 | 九州石鎚大権現社公式サイト
石鎚蔵王権現

 伝説では、次のようにその由来が伝えられています。
宇摩郡の大領越智玉澄が大山祇神を勧請しようとしました。
しかし、やまじ風が吹き、船が遭難しそうになります。
その時に、この山の頂に星が輝き、海にその明かりが映ります。すると荒れた海が鎮まった。以来この山を赤星山、海を火映灘(燧灘)と呼ぶようになった

 法皇山系はやまじ風が吹き下ろし、沖行く船はこれに悩まされたようです。先ほど見た豊受山ににも風穴神社がありましたが、赤星大権現は風を鎮める神だったのでしょう。近世後半以後に金毘羅大権現が海の神様として「海難防止」の霊験を独占化するまでは、各地に航海安全を祈る山があったのです。

高縄半島の霊山には、熊野信仰の影響を受けた黒滝神社があります
2愛媛霊山 黒滝神社遙拝所
里の黒滝神社遙拝所

東三方ケ森(1233m)の峰つづき、東面する丹原町田滝の権現山にある黒滝神社は、戦争の弾丸除けとか徴兵除けの神として道前地方の人たちの密かな信仰を集めてきた山です。雨乞踊りとしての御簾踊りも伝わっています。この社に泊まると夜半に、笛、太鼓の音(カミカグラ)が聞こえてくると云います。

 この黒滝サンと石鎚サンが石の投げ比べをした話は、広く知られています
黒滝サンの投げた石は、石鎚山の頂上にまで届いたが、石鎚サンの投げた石は田滝まで(あるいは田野の綾延神社の馬場まで)しか達しなかった。

というのです。このような二つの山の争いが伝わる背景には、その山を霊山とする修験者たちの勢力争いが背景にあることが多いようです。黒滝神社の氏子である田滝の人は、石鎚山には登らないというしきたりが伝わっていたようです。近世以後の石鎚信仰と熊野信仰の対抗関係が反映した伝承と愛媛県史は記しています。

 熊野信仰は紀伊水軍の活躍と共に、古くから瀬戸内海沿岸に広がっています。大三島の大山祇神社にも中世には、熊野行者の活動が見られる事は以前にお話ししました。芸予諸島を拠点に高縄半島にも多くの熊野行者が入り込んで定着していたようです。

高縄半島の重信町山之内の雨滝龍神社は、雨乞の神として知られています。
雨滝龍神社 (愛媛県東温市山之内 神社 / 神社・寺) - グルコミ
もともとは明神ケ森の山上に鎮座していましたが文明四年(1472)に現在地に下りてきたと云います。ここも近くの俵飛山福見寺とともに熊野修験道の行場でした。

 玉川町の楢原(奈良原)山(1042m)も、修験道場でした。
楢原山・古権現山へ行こう!

  この山は、丹原の西山興隆寺と北条の高縄山を結ぶラインの中間ほどに位置します。丹原の興隆寺から、田滝の黒瀧神社と東三方ヶ森と楢原山を経由し、高縄寺に至る山道は、修験者の修行の道だったようです。山頂の奈良原神社は、もともとは古権現と呼ぶあたりに奈良原権現として鎮座していたと云います。

2愛媛霊山 楢原(奈良原)山jpg

 この山には長慶天星の潜行伝説があります
南朝の長慶天皇(後村上天皇の第一皇子)が、北朝軍に追われたときに、牛(黄牛)や馬に乗りついで千疋峠を越えて楢原山に落ち延びてきたと云うのです。熊野は南朝方について戦い敗れます。平家の武者伝説がるところには、不思議と熊野神社が勧進されています。
『愛媛面影』によると、
「嶺上に蔵王権現を祀り、牛馬を護らす神也とて農民信仰して詣人多し」
とあり、その神像は
「人間が牛に後向きに乗った姿」
「衣冠束帯を着けアベ牛の背に跨らせ給ふ」
という姿と伝えられます。この伝説から近世には「牛馬の守護神」としての農民たちの信仰を集めるようになったようです。
美人の湯と神秘の森をもつ楢原山で古をめぐる旅/愛媛県今治市 ...

この長慶天皇に係わる伝説は、山麓に住む木地師が各地で広めた伝承のようです。松山市の石手川流域の伝説には、落人が追手の目を欺くため牛の背に後向きで乗り、牛を後さがりに歩かせて、水ヶ峠方面から、楢原山へ逃げたという話もあるようです。
この山は蒼社川の水源で、山頂の手前には水分神社があります。
愛媛県今治市玉川-楢原山=奈良原山、鈍川温泉、 : 写真日記

これは奈良県の吉野水分神社を勧請してきたもので、水源の神として祀られたようです。この山は農業、牛馬、水源の神として高縄半島の農民の信仰をあつめ、雨乞い祈祷も山頂で行われてきました。
 別当をつとめた畑寺の光林寺の記録によると、楢原山は鎌倉時代から修験者の行場で、文保年間(1317~19)には、奈良原神社及びその傍らの蓮華寺(光林寺末寺・現在廃寺)には38人の行者が常住していたとされます。厳しい山岳修験道の霊山であったようです。同時に、高縄半島の森林資源を管理・所有する立場にあったことがうかがえます。中世の山岳寺院が広大な伽藍を整備できた経済力の背景は豊かな森林資源を持っていたからだと云われます。上方での戦乱で焼け落ちた寺院や街並みの復興に各地から切り出された木材が瀬戸内海を通じて運ばれていったのです。それを管理所有していたのが山岳寺院だったとしておきましょう。
  ここからは昭和9年(1934年)夏、雨乞いのために社殿周辺の清掃を行っていたところ、盛土が崩れ、開いた穴から二重の瓶に覆われた九輪の塔が出てきました。平安時代末期の全長71、5㎝.の銅宝塔で、他にも青白磁の小壺、銅鏡、中国の古銭などが出土しています。何らかの信仰行事の際に、埋められたものだと考えられています。これだけ貴重なものを大量に埋めて祈願する宗教的な力が、この寺にはあったことが分かります。

参考文献 愛媛県史
2愛媛霊山 奈良原神社経塚碑

まんのう町勝浦 四つ足

金毘羅さんの御会式(大祭)の参加注意通達を見て
 金毘羅さんの賑わいは、春と秋の会式(大祭)の日が最高だった。
文化八(1811)年の秋の大祭が近づいた十月三日、阿波との国境の近くの鵜足郡勝浦村の状継(じょうつぎ)福右衛門は、飛脚便を受け取った。大庄屋の宮井伝左衛門と木村甚三郎の連名で、金毘羅の会式について参拝者に注意するようにという内容だった。それには郷会所の元締の中村甚三郎と柏原弥六の連名で、走り書きにした大庄屋宛の次のような手紙も添えられていた。

一筆申上候。然ば金毘羅会式につき、西郡の面々心得違無之様 可仕旨被仰出候間、其旨村々え洩れざる様御中渡置可被成候。

 去年までは山分村々回状で、中通村の肝煎(きもいり)が届けてきた。それなのに、今年はわざわざ川原から飛脚便で知らせてきた。去年の会式に、勝浦村の若者が間違いを起こしたからであった。昨年の苦い思い出がよみがえってきた。
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 奈良の木坂の孫兵衛は、二十四才の真面目な働き手である。
去年の御会式に、阿波から参詣する知人に誘われて、初めて金毘羅さんの大祭に行った。あまりの賑わいに呆然としている所を、すりに狙われた。気がついてそのすりを大力で投げとばしてたところ、稼ぎに来ていたすり仲間と大喧嘩になり、危ない所を金毘羅領の年寄玄右衛門に助けられた。稼ぎを台無しにされたすり仲間の復讐を心配した玄右衛門の計らいで、五日間の入牢を申し付けられ、這々の体で村へ帰ってきた。
 再度、昨年のようなことが起きないように、村衆に伝えなければなるまい。さて、どのように話したらよいものかと飛脚便を手にしながら考え込んだ。
DSC00830

勝浦神社
 それから十日余りたった日の夕方、中通村の肝煎が一通の手紙を届けてきた。
村継ぎの手紙であるので急いで封を切って見ると、柏原弥六の達筆が、躍るように眼にとびこんできた。
一筆申達候
其御村 松五郎
  同 東吉事 秀吉
 右の者饂飩(うどん)・蕎麦(そば)商い申義、金毘羅春秋両度の会式中相済み、已来平日は不相成候段御申渡可被下候以上
  文化八年十月十三日  柏原弥六
佐野直太郎殿(勝浦村の庄屋)
意訳
右の者はうどん・そばの商いを、春秋二回の金比羅大祭の時だけ許している。会式が終われば、平日の商いは行ってはならない。
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まんのう町勝浦神社

 松五郎と秀吉は働き者で律義者だ。毎年会式の時に金比羅でのうどんと蕎麦の商いを許されて、その儲けを足しにして百姓を続けている。会式が終わるとその翌日には、店をたたんで百姓仕事に精出している。どうしてわざわざこんな通知が届いたのだろうか。商いをすることが許されない村の者が、告げ口でもしたのであろうか。入念な達しに、不安を感じないではいられなかった。

DSC00797

 それにしても、お殿様は昔から商いがお嫌いだ。

百姓が商いをすれば儲けに眼がくらみ、野良仕事が嫌いになり、年貢を納めなくなる者がふえると思っておられるのか、毎年この村で十人以上の者が出店を願い出るのだが、許されるのは二名か三名だけだ。
 手紙を庄屋日帳に写し取りながら、福右衛門は、働き者で子沢山な東兵衛の腰が少しまがりかけたことや、鉄砲の名人の秀吉が、獲物に狙いをつけた時の精悍な顔つきを思い浮かべていた。
         まんのう町(旧琴南町)勝浦 牛田文書より
DSC00820


○お殿様の金毘羅さん御参詣の動員
 天保二年(1831)三月二十三日の辰の刻、鵜足郡造田村の庄屋西村市太夫は、大庄屋木村甚三郎と宮井清七連署の、山分村々回文を庄屋日帳に書き写して、本文と読みあわせてみた。
○以回文申入候。
殿様来る廿六日より同二十八日の内、金毘羅へ御往来共御遠馬にて御参詣被為遊候由、依之御当日御前日共、於栗熊東継更人馬別紙切符の通割紙相回候間、同所より触れ込次第毎々の通、宰領組頭相添御指出可有候。
大抵廿六日中御社参の御様子に相聞候間左様 御心得御取計置可有候。
 一 草履・草軽・馬沓(くつ)並拝駕龍共 明日中に栗熊東馬継所迄 御指越可有候。為其急中入候。
   三月廿三日         木 村 甚三郎
                 宮 井 清 七
   村々庄屋衆中。
  高松の殿様が3日後の26日~28日に金毘羅さんに参拝することになったので前例通り準備をするようにとの内容だ。造田村の割当をもう一度確認する。
 O殿様御遠馬の割当 造田村
  御前日、御当日共。
 一、人足三拾四人。
 一、馬弐疋。
 一、草履六足。
 一、草靫六足。
 一、馬沓弐足。
 書き誤りのないことを確かめた市太夫は、末尾に連記された長尾村、炭所東村、炭所西村の次の造田村の肩の所に「(合点(がってん)」を入れた。そして辰の刻と書き込んで仮封をし、肝煎の助蔵を呼び寄せて、大急ぎで中通村の庄屋磯太夫の地下清(じげんじょ)の宅まで届けるよう命じた。
刀剣ワールド】馬具の種類と歴史|武具・書画・美術品の基礎知識
馬沓

  草履六足、草靫六足、馬沓弐足は明日中に栗熊まで持参せよとのことだ。急がなければならない。前日からは、人足34人と馬2頭を引き連れて行かねばならない。誰を連れて行くのか、どの馬を選ぶのか、頭の中で算段を始めていた。
DSC00849
まんのう町福家神社
お殿様の金比羅詣でが終わったと思ったら、今度は御姫様の金毘羅参詣が通知されてきた。
 四月七日付の大庄屋からの回文によると4日後の十一日のことだという。回文が届いた翌日には、金毘羅街道に近い村々の庄屋が、お姫様の御小休所に指定された栗熊西村の浪士平尾庄之進宅へ召し出されて、打ち合わせを行った。終わったのは未刻(午後2時頃)を少し回ったころであった。造田村の割当りは次の通りになた。
O御姫様御参詣に付掛りの物 造田村
 一、興炭 壱俵。
 一、薪  貳束。
 一、草履 四足。
 一、草桂 四足。
   右は九日中に指出候事。
 一、人足三拾人、御前日、御当日。
 一、馬 三疋、右同断。
    但しとゆ持参有之様申越候。
 一、外に壱人、掛り物送り人足。
炭や薪はすぐにでも集まるが、人足を三十人出すのは骨が折れる。殿様の金比羅詣での度に、呼び出されるのはなんとかならないものか。今年は、これで二回目だ。
 
DSC00853

四月二十三日、大庄屋の宮井清七から三月の殿様御遠馬の入目割当(決算書)が届いた。
〇殿様御遠馬の入目割当 造田村
 一、御遠馬入目割当  銀九匁八分。
 一、御社参の入目割当 銀三十四匁五分。
            〆銀四拾四匁三分。
 殿様の参拝にかかる費用を、どうして村々が支払わなければならないのか。昔からの決まりだと云うが、どうも合点がいかない。浮かぬ顔で市太夫は算盤をとって、弾いて見た。高869石の造田村の割り当りが、44匁3分である。藩全体では、大高を21280石と見て、御遠馬の総入目は、十貫弐百六拾目余かかったことになる。四月のお姫様御参詣の造田村の割当は、六十目を超えるのでないかと案じられた。

DSC00855

 市太夫は、造田村の割当りから、人足賃などを差し引いて、尚七匁九分の銀を、組頭の夫右衛門に持たせて。日限ぎりぎりの27日に川原村の宮井清七の宅へ届けさせた。
                   造田村西村文書より

参考文献
琴南町史
 大林英雄 御神徳を仰ぐ人々 こんぴら 昭和60年

中世には「蟻の熊野詣」と言われるほど、多くの巡礼者が熊野三山(本宮・那智・新宮)に参詣したようです。熊野参詣を隆盛に導いた原動力の一つが、地方(在地)の先達(修験者=山伏=熊野参詣の案内人)や、それを支援する檀那の力があったからだと云われます。その中でも中世の伊予国は、全国的にも先達や檀那数は多い地域とされます。
 今回は、先達と檀那の間に結ばれた師檀契約の願文から熊野信仰について迫った研究を見てみることにします。
テキストは「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」です。
まず、最初に中世における熊野信仰の広がりを確認することから始まります。
 熊野信仰は、熊野三所権現の成立した11世紀末以降に盛んになりました。熊野坐神社(本宮)、熊野早玉神社(新宮)に加えて、のちに那智社が成立し、それらが「三位一体化」します。熊野三山は、それぞれが同じ神を祀っていますが、同時にそれらの神が神仏習合化(神仏混淆性)していきます。

1熊野信仰 熊野三尊
 本宮は阿弥陀仏、
 新宮は薬師如来
 那智社は千手観音
を本地とします。そして
①本宮の主祭神の社殿を証誠殿といい、浄土思想の流行と相まって、極楽浄土(西方浄土)を意味するようになりました。
②新宮は東方瑠璃浄土、
③那智は補陀落浄土
とも説明されるようになり、庶民にも受けいれやすく「加工」されていきます。
1熊野信仰 那智神

さらに、仏教でも不浄視されていた女性へも寛容的で、女人禁制の厳しい高野山なとど対照的で、親しみやすい性格だったようです。ただこの点は、後には南北朝末期に高野山側が
「熊野者、他国降臨之神体、男女猥雑之瑞籬也」

と非難、攻撃しているように(「高野山文書」)、熊野信仰は、ややもすれば、品位を欠く点もみられたようです。この点が戦国期から江戸時代にかけて、伊勢信仰、高野山信仰の隆盛にともなって、低調になっていった理由の一つと研究者は考えているようです。
 
熊野三山へ参詣する道(熊野古道)は、紀伊路、伊勢路があり、
紀伊路は大辺路・中辺路・小辺路の3ル━トがありました。中世には主として中辺路が一般的となり、公式ル━トにもなります。熊野参詣道には、多くの王子社(熊野権現の御子神を祀る分社、九十九王子と称せられる)が設けられ、参詣者は道すがらここで奉幣したり、経供養をしたり、法楽の催しをしながら、旅の苦労や愁いを一時なりとも忘れたと云われます。
 熊野参詣は、平安時代、院政期から貴族階級の間に盛んになり、法皇・上皇や女院、院の近臣、女房たちが、難路の苦しみを越えて、大行列で度重なる参詣を行うようになります。四国霊場を歩き通すことが人々に達成感や成就感あたえ、明日に生きていく力を養うことにつながると同時に、そこでの非日常体験や宗教的な霊感が信仰心を高めていきます。同時に、長い参拝はある意味で修行生活で学習の場でもありました。鎌倉時代に入ると、地方の武士たちも「世間を学ぶ」ために貴族たちと同じように、参詣をする者が現れます。そして、熊野詣でを、自分の子どもたちに「通過儀礼」として体験させる者も現れます。こうして 
①平安時代の貴族→ ② 鎌倉時代の武士 ③室町時代の商人 

へと熊野信仰は、広がりと安定した基盤をもつようになります。

幕府が鎌倉に開かれたこともあり、東国武士の間に熊野信仰が広がりを見せます。中部・関東・東北が圧倒的に多く、関西地方は遠くそれに及びません。また、熊野三山関係の社領荘園は、紀伊国や東海地方に多く、四国・九州地方は少ないようです。当然、社領荘園には、熊野の末社が勧請されて、熊野信仰の拠点となっていきます。そのため「熊野神社の末社数=熊野詣で参詣数隆盛」という図式がすぐに考えられますが、どうもそうではないようです。それは熊野詣でが近世の金毘羅詣でと違って、個人参拝ではなかったからです。熊野参拝のシステムは
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(修験者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
この三者の結びつきで出来上がっていました。
 先達に引率されて熊野にやって来た檀那は、神宮と参拝取次を御師に依頼します。その際に御師との間に師檀関係(檀縁関係)を結び、その名前(個人及び集団中の個々人の名前)や住所を記した名簿(願文)を提出しました。これは神との契約関係で、1回だけでなく一生の通じての契約でした。そのため檀那の名やその在所は、御師の家に大切に文書として保管されていました。
1 熊野信仰 檀那願文

 中世後期になると、檀那を金銭で売買することが一般化します。売券類、譲状、寄進状、借銭状、請取状などの経済関係の文書に見られるようになります。檀那を売買するという行為は、私たちから見ると違和感を覚えます利権として当たり前とされたいたようです。
 伊予国の熊野社と先達寺院を見てみましょう
 先ほども触れましたが中世の伊予国には、ほとんど熊野社領荘園はありません。にもかかわらず伊予は熊野神社が全域に分布しています。それはどうしてなのでしょうか。
  その理由を、先達である修験者(山伏)の活動の多さと活発な活動にあった研究者は考えているようです
 熊野神社の分社は、徳島県82社(寛保神社帳)や高知県69社(長宗我部地検帳)に比べると、少ないようですが全県下に分布していることが表からは分かります。分布特徴としては、山間部に多く、宇和町に集中している点を挙げることができそうです。

1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
 伊予の古い勧請事例は大同二年(807)勧請と伝えられる旧新宮村の熊野神社です。
そのため愛媛の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの新宮村の熊野神社を拠点に愛媛県内に入ってきたと研究者は考えているようです。
その意味で新宮の熊野神社は、熊野信仰の布教センターの役割を果たしたようです。また、吉野川を更に遡って土佐方面に向かう熊野行者の拠点にもなったようです。土佐方面への次の拠点は、
①新宮村熊野神社→ ②土佐豊永の熊野神社(定福寺)→ ③大豊町豊楽寺(若一王子神社)→④本山町金剛寺(若一王子神社)

という伝播ルートが考えられ、このルートは土佐の人々の熊野詣でルートであったともされます。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧2

 一方、伊予方面への伝播ルートは、新宮村の熊野神社を拠点にして川之江方面に山を下りていきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(六十五番札所、同市金田町)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達も、新宮の熊野社を拠点に、川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の行場だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
四国霊場の三角寺やその奥社の仙龍寺は、熊野行者の行場が里下りしたお寺のようです。 
伊予国の先達拠点の特徴を、研究者は次のように指摘します
①真言系の旧仏教寺院(四国遍路の札所になったもの)、
②伊予国の東半分の比較的海岸に近い地域に多いこと、
③石鎚・出石山の二大修験霊場、一宮(三島社)という大社
④主要な寺社(宇摩郡新宮の熊野神社、石手寺の鎮守社)
などを拠点にして、熊野先達たちは活動していたようです。
 この中でも、風早郡の熊野谷権現社(ゆやだにごんげんしゃ)は史料が残っていて、詳細な点まで分かるようです。この神社は熊野谷と書いて(ゆやだに)と読むようです。ここの社僧(修験者)である池内氏(河野氏分流)は、檀那の守るべき社役を定めていますが、その中には次のような条文があります。
「当所より熊野参けいの人ハ、湯屋谷権現へ先参也、ふさた候へハ、道中にてしちありと申しつたへ候」(池内家文書、明応九年九月九日付熊野谷権現社僧勝賢置文)。 
 
とあって「熊野参詣の前には、湯屋谷権現(熊野谷権現)へ、まずお参りし絵から出かけること」と記されています。

三 檀縁関係からみた伊予の熊野信仰
 売買の対象になった檀那(武士)は、
(一)檀那の一族、一門
(二)地域
(三)先達
の3つに分類されています。
(一)と(二)について、研究者は具体例をあげて検討しています。 
 中世の伊予国で最大の武士団を形成したのは、河野氏です。
年不詳の「潮崎氏檀那目録」(近藤喜博著『四国遍路』に引用)に次のように河野氏は登場します。
 同国(伊予国)河野ノ一族十八ケ村、其外トウコ・トウセン一円、並川野ゝ一門十八ケ村々一族ケイツ書立有、代弐拾六貫文分
意訳すると
 伊予の河野一族は、18ケ村の他に、道後・道前一円や川野にいる。講の一門18ヶ村の檀那帳の代金は26貫文である。

ここでは、河野氏一族を「十八ケ村」と一括りにして、檀那を26貫文で売買されています。中世には、「一石一貫(米1石=銭1貫文)」という換算方法があったようです。これで計算すると1貫文は、10万円前後となるようです。26貫文は、260万円で、熊野社の檀那売買としては、かなり高額な値段で売却されているようです。「十八ケ村」で括れない河野氏勢力圏全体という意味で、そんな値段になったと研究者は考えているようです。
 しかし、河野氏一族を「十八ケ村」というのは、あいまいな概念です。これをもとに檀那を売買した檀那権をめぐる先達同士の紛争が起きたことが予想できます。このため一族単位に檀那を売買する方式は、一般的ではなかったようです。

河野氏の有力家臣で、熊野社の檀那として名前が見えるものもいます。
伊予郡大平の天神山城主の森山氏とその一門、
久米郡岩加羅城主の志津川氏、
浮穴郡小田(のち久万の大除城主)の大野氏
などです。
この三氏が共通の先達としたのは医王寺(現東温市)です。
医王寺引檀那注文(新出熊野本宮大社文書)に
「しつ河遠江守殿、森山殿、小田大野殿」
が見えます。


有力な氏族単位を檀那とする形とは別に、地域の小規模な武士集団を檀那とする方式も見られます。
応永元年(1394)正月16日の伊予郡長田郷岡田衆中檀那注文(新出本宮大社文書)には、
①岡田衆という伊予郡の武士集団(小田・町田・長田・東・北・森・向居・田中・大西・安松・重延等諸氏)
②長田郷内の農民や氏族単位の檀那(一家中)もいて、
随明寺僧橋本坊を先達としていたようです。こういう地縁的な結合形態(河野氏の軍事組織でもあったか)を利用した檀那もあったことが分かります。
 次に喜多郡の事例をあげてみましょう。
1 熊野信仰 伊予国喜多郡

この地域は、中世には河野氏の支配領域ではなく、宇都宮氏やその系列の武士をはじめ、比較的規模の小さい領主が割拠していたようです。それが熊野の檀那分布状況にも反映されています。喜多郡八多喜寺が先達であった檀那注文(那智大社文書)によると、
①津々喜谷氏(宇都宮氏家臣、滝之城主、在所は横松)、水沼氏(粟津郷)、上須戒の向居氏、延尾氏、篠尾氏、臼杵氏のグル━プ、
②笠間(宇都宮一族)、土屋、市木のグル━プ、
③下須戒氏(矢野氏流)、
④出海の兵藤氏、
⑤富永氏流の小田大野氏・立花氏・石原氏・宇津氏
など、五つの系列に分かれています。これらは、地縁的、氏族的にまとまりがあります。これらの在地領主らの中には、下野国から移住してきた宇都宮氏とその被官、三河国設楽郡から移りすんだとみられる兵藤氏や大野氏など、他国から伊予国へ来た武士たちも交っているようです。
 グループ毎に先達に引き連れられて、ながい熊野詣でに出かけます。先達は現在のツアーコンダクターに、修験道の師匠を加味したような性格を持ち畏敬の念で見られていたようです。ある意味、旅は「鍛錬」や「学習」の場でもありました。日常生活では見たり聞いたり出来ないことも体験します。それが人間的な成長の糧にもなります。武士団の頭領のような人たちにとっては「社会勉強」の役割も果たします。同時に、長い苦楽を共にした参加者との連帯感を養うことにもなります。各武士団が団結を深めるためにも熊野詣では役だったようです。
 熊野への参拝ルートは2つ考えられるようです。
 ①芸予諸島から熊野水軍の「定期船」で熊野へ
 ②新宮村熊野神社を拠点に、阿波吉野川沿いの熊野神社分社を経由し、撫養から紀州へ
この2つのルートが熊野参拝ルートとして中世以来の利用されていたようです。
喜多郡には先達寺院も多く、伊予国の中でも熊野信仰が盛んな地域でした。
 喜多郡菅田の清谷寺に伝わったという暦応三年(1340)十月十八日付の檀那譲状(「大洲旧記」所収)があります。しかし、この文書は文書様式からみても、譲状ではありません。内容的にも、清谷寺が道後河野氏を始め、喜多郡内の武士たち、宇和郡の西園寺氏、宇和郡須智郷の北ノ川氏など有力な領主を数多く檀那していた記録です。そこには誇大な記載があり、年代的にも疑わしと研究者は考えているようです。江戸時代になると、修験者は、信仰圏(霞という)を誇大に吹聴して、虚勢を張ることが多々あったようです。

このような熊野先達の活動が停滞するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。
 「戦乱の拡大とと交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」

と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような状況下で、熊野先達たちは活路をどこに求めたのでしょうか。
熊野先達=熊野行者=修験者=山伏たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を、新たに村落住人へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供するようになります。その内容は「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。地元の定着し里寺を起こす者も現れます。同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。それが中世の古四国遍路の完成につながっていき、その上に近世になって素人による四国巡礼が始まると研究者は考えているようです。
  以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」
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丸亀新堀湛甫3

「丸亀繁昌記」の冒頭は、次のような文章で始まります。
「玉藻する亀府(丸亀)みなとのにぎわいは、昔も今も更らねど、猶神徳の著しく、象の頭の山へ(象頭山)、歩みを運ぶ遠近の道俗群参す、数多の船宿に市をなす」
また、江戸千人講の趣意書「讃州丸亀平山海上永代常夜灯講」『孤座特質』)には、
「讃州丸亀平山海岸は、往古より 金毘羅参詣の渡海着船の処にて象頭山へ順路の要地なり……」

と記されます。丸亀が金毘羅船の帰着港で「象の頭の山」に向けて多くの人が歩み始める要地として認識されていたことが分かります。
 19世紀になって新湛甫ができ銅灯寵が建立され、参詣客がいっそう増えると、その恩恵に浴した船宿やその他の人々が、玉垣講や灯明講を結成して玉垣や灯寵を寄進しているのは、以前にお話ししました。丸亀からの寄進について、もう少し踏み込んで今回は見ていきたいと思います。
 丸亀の玉垣講と灯明講について、金毘羅の側では次のように記録されています。

6 玉垣四段坂 丸亀奉納
丸亀玉垣講寄進の玉垣(四段坂)

  丸亀玉垣講 
右は御本社正面南側玉垣寄附仕り候、且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、戸帳料として当卯・天保12(1841)年に金子弐拾両、勘定方え相納め侯事、但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、
当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛  金刀比羅宮文書
 意訳すると
丸亀玉垣講は本社正面の南側玉垣(四段坂)を寄進した。また内陣での参拝料として1841年に二十両を勘定方へ納めた。丸亀玉垣講のメンバーは毎年正月と九月の2回、総勢180人ほどで参拝する。取次宿は余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛である。

ここからは、丸亀玉垣講が本社正面の南側玉垣(四段坂)を寄進したことが分かります。この時期は、金毘羅さんにとって着工から30年近くを経た金堂(現旭社)がやっと姿を見せて、周辺整備が進められる中でした。また、丸亀新港も姿を見せ、参拝客はうなぎ登りに増え続ける時代でした。上方からの金毘羅船を迎える丸亀も、そのおかげで大いに潤いました。
 そんな中で、
「金堂の完成を祝して、我々もこの際に一肌脱ごうではないか、日頃お世話になっている金毘羅さんに、何かお返しができないものか」
という気運が盛り上がり、玉垣講の結成となったようです。
6 玉垣四段坂 丸亀奉納2

親柱に、「天保十三年(1842)九月」と奉納年月があります。

 この玉垣講のメンバーはどんな人たちなのでしょうか。

6 玉垣四段坂 丸亀奉納3
親柱3には、奉納年月の下に「世話方船宿中」と刻まれています。
 「船宿中」の「中」は「御中」と同じような意味で「仲間・衆」と考えれば良いようです。「船宿衆」が世話役として、この玉垣建立を進めたことが分かります。そのメンバーとしては、佃屋金十郎と明石屋又兵衛、柏屋団次、阿波屋栄吉、備前屋藤蔵、大黒屋清太夫の名前が見えますが、彼らは銅灯寵建立のときの寄進にも名前があります。その末尾には「丸亀船宿」としてあみや為次郎、米屋弥太夫、つくたや金十郎の名前もあります。文化十四年(1817)、奈良の椛屋半助の四角形石灯寵一基の奉納を取り次いだ淡路屋市兵衛、天保五年京錦講の八角形青銅灯寵二基の寄進を取り次いだ多田屋為助の名もみえます。
 ここからは、この丸亀玉垣講のメンバー180名の多くが船宿の宿主で、丸亀港周辺の整備や灯籠・丁石設置に関わっていたことがうかがえます。
次に灯籠を寄進した丸亀灯明講について見てみましょう
講元は梶春助、灯明料として一五〇両、また神前へ仙徳灯寵一対奉納、講中は毎年九月十一日に残らず参詣して内陣人、そのたびに金子五〇両寄附、宿は高松屋源兵衛
と記されています。
意訳すると
丸亀灯明講の講元は梶春助で、灯明料として150両、また神前へ仙徳灯寵一対奉納した。講中は毎年9月11日に講員が残らず参詣して内陣に入る。そのたびに金子50両を寄附する、取次宿は高松屋源兵衛である。

 灯明講も玉垣講と同じ年の天保十二年(1841)に結成されています。両者が競い合うように同時期に作られたようです。そしてすぐに六角形青銅灯寵両基を奉納しています。

 「町史ことひら」には玉垣講と灯明講のメンバー表が載せられています。
1 金毘羅大権現 丸亀玉垣講と灯明講人名対照表
まず、灯明講の講員は、屋号から職業が想像できそうな人が多いようです。例えば
鉄屋弥兵衛、竹屋粂蔵、板屋清助、槌屋茂右衛門、銘酒屋喜兵衛、指物屋嘉右衛門、油屋茂助、糸屋喜四郎、笹屋仁兵衛、万屋豊蔵です。扱っている商品が目に浮かんできます。

船宿以外の商人たちで構成されているのが灯明講という印象を受けます。
屋号毎に見ていくことにします。
①吉田屋は灯明講に6軒ありますが、玉垣講にはなし。。
②唐津屋は灯明講に3軒あるが、玉垣講には1軒のみ。
③松屋が灯明講では7軒、玉垣講では2軒のみ。
④塩飽屋は灯明講に4軒、玉垣講に8軒
⑤越後屋は灯明講に6軒、玉垣講には1軒もなし。
 ここからは、灯明講と玉垣講のメンバーは丸亀城下でも異なった仲間同士であったことがうかがえます。丸亀玉垣講寄進の玉垣は、天保十三(1842)年9月、四段坂の権現前に建てられます。その二年後に、その対面に明石玉垣講からの寄進の玉垣が建立されます。この取次を行ったのは、丸亀船宿・明石屋又兵衛です。明石屋は、その屋号どおり、明石に縁のある家だったようです。丸亀の玉垣講の前に、自分の故郷の明石講を導いたようです。

 金毘羅参拝客相手の客商売の旅館(船宿)の主と、城下町の住民を相手にする商売主との間には人脈的にも、隔たりがあったようです。

参考文献 町誌ことひら


 
土佐湾は九十九洋(つくもなだ)とも呼ばれ、数多くの漁業資源を昔から人々に提供してきました。その中でも「いうたちいかんちゃ おらんくの池にや、潮吹く魚がおよぎよる、ヨサコイ、ヨサコイ」とヨサコイ節で歌われているように、昔から鯨の回游エリアでもありました。土佐西部の足摺半島には「鯨野郷」という古代村落があったようで、沖合いにやって来る鯨からこの地名がつけられたのでしょう。

2土佐捕鯨1

 天正十九(1519)年、秀吉に仕えることになった長宗我部元親は、浦戸湾内に入り込んできた大きな鯨を、そのままの状態で、関白豊臣秀吉のもとに贈り、大阪の人びとを大いに驚かせたと『土佐物語』では伝えています。派手で人々を驚かすことが好きだった秀吉も喜んだことでしょう。秀吉の目指す「劇場都市国家」作りを、長宗我部元親は理解していたようです。
 今回は土佐の捕鯨と金毘羅信仰を探って見ることにします
以前に、土佐の捕鯨に関わる人たちが讃岐の金毘羅大権現の石段整備に寄進をしていることを見ましたが、今回は土佐側の背景を見ていこうと思います。テキストは
「広谷 喜十郎 土佐の古式捕鯨と金毘羅信仰 ことひら49号」です。
 
土佐の古式捕鯨は、寛永初(1624)年に安芸郡津呂浦の庄屋多田五郎右衛門が捕鯨組をつくり、藩庁の許可を得たときからはじまるとされるようです。五郎右衛門は、そのために紀州の熊野灘でおこなわれていた突取り式の捕鯨技術を習い受けています。そして鯨船十三艘を作って、室戸方面の沿岸で捕鯨をはじめます。創業5年目の寛永五年には、200人ほどの鯨取り漁師を養えるようになったようです。順調な滑り出しだったようです。
2土佐捕鯨3
 ところが次第に鯨がやってこなくなったことや技術力不足のために捕獲量が少なくなり、寛永十八(1641)年には捕鯨中止に追い込まれます。
それから10年後の慶安四(1651)年に、家老野中兼山は、他国の捕鯨団を招き捕鯨再開を計ります。

2土佐捕鯨 津呂港

野中兼山は室戸岬の先端近くに津呂の港を開きます。この港は室津港と同じく、掘り込み港です。港口を塞ぐように3つの大きな岩が海中にあったのを、『張扇式の堤』により取り囲み、中の海水を抜いてから大鉄槌やのみで砕いたと伝えられています。今、見ても雰囲気のある港で、非常に印象的でした。これは土佐から畿内方面への航路上で風待ちする港として重要な機能を持つようになります。同時に、新たに作られた港を捕鯨の拠点とするために、他国から捕鯨集団を招聘したようです。
 その時に六艘の船団を率いて、やって来たのが尾張国の尾池四郎右衛門です。彼は、室戸岬の安芸郡浮津浦と足摺岬の幡多郡佐賀浦の2ヶ所で捕鯨をはじめ、佐賀浦の沖で13頭の鯨を捕獲しています。それを記念した鰐口が作られて、佐賀浦の鹿島神社、室戸市の八王子宮や南国市の伊都多神社に奉納されています。しかし、これも長続きはしなかったようです。6年後の明暦三(1657)年には、尾池組は故郷・尾張に引き上げています。
 突取り法は、鈷だけにたよるきわめて原始的な捕獲法だったために捕獲量が上がらなかったようです。
このような中で、先進地の紀州では網で鯨を捕らえる方法が開発されます。新たに開発された網取捕鯨を学ぶために紀州に渡り、それを土佐に持ち帰り操業が開始されるのが天和三(1681)年のことです。この網による捕鯨方法の採用によって、土佐の捕鯨業は軌道に乗っていくようです。そして、津呂港(現室戸岬港)を拠点にふたつのグループが操業を行うようになります。
①津呂組 多田吉左衛門  →  奥宮氏
②浮津組 宮地武右衛門
が経営に当たり、以後、土佐での捕鯨は東の室戸方面、西の幡多郡窪津浦を基地として展開されていきます。

 津呂組は元禄六年から正徳二年の20年間に412頭を捕獲しています。年平均にすると20頭前後の捕獲になります。また、天保八(1839)年には、浮津組の宮地家が捕獲した鯨が千頭になったので、鯨を供養するために大きな位牌と梵鐘をつくり慰霊しています。

2土佐捕鯨 鯨位牌

それが宮地家の菩提寺である浮津の中道寺には、今も残っているようです。位牌は高さ約60㎝と大型で、「南無妙法蓮華経鯨魚供養」と大書されています。
2土佐捕鯨 鯨位牌2

室戸の発展の原点は津呂港にあるようです。
津呂に港が出来る前は、人家のまばらな寂しいところだったようです。近世になって、ここに港ができ捕鯨を中心とした漁業が盛んになるにつれて人家も増えます。二代藩主忠義が最蔵坊に津呂の港を掘ることを命じ、津呂権現の宮(王子宮)と屋敷を与え、津呂沖を往来する船の安全を祈願するように命じたとも伝わっているようです。
2土佐捕鯨4

古式捕鯨のスタイルについて
捕鯨組の当初は
勢子船十二艘
網船四艘
持双船二艘
市艇二艘の計二十艘で一団を構成していました。
後に網船十三艘、勢子船十五艘へと船を増やしています。

2土佐捕鯨 勢子船4
勢子船

勢子船一艘分に十二人、網船八人、持双船に約十人の乗組員が必要でしたので、全体では300余りの漁民たちが、海上で游泳している鯨を取り囲み、激闘を繰り広げたことになります。
 それだけではありません。何よりも鯨を発見し、知らせる「早期警戒システム」が必要になります。そのためには山見小屋に見張番を常駐させておかなければなりません。
2土佐捕鯨 山見小屋4
山見小屋

鯨発見の「しるし旗」が揚がると一斉に動き出せるように待機しておく必要もあります。沖合いの捕鯨船の合図に応え、沿岸にいて鯨納屋に連絡する人びと、陸上げされた鯨を解体する人びと、鯨納屋で鯨肉を取引きする人びとなどを数えると、大変な数の人びとが捕鯨業に参加していたようです。
2土佐捕鯨 鯨解体3

鯨肉の入札には、商札を持つ商人だけが参加できたようです
多い時には商札が177枚が発行されています。数多くの商人の参加があったようです。鯨肉や皮はそのまま塩漬されて大阪市場へ送られました。その運送船が「鯨五十集」といわれる船でした。
 「鯨一頭捕獲すれば七浦が賑わう」
といわれていたように、鯨肉は食用に、鯨油は灯火用や農薬用として利用価値があり、骨は細工物に、骨粕と鯨の血は肥料用に利用されてきました。骨粕は砂糖キビ畑の肥料として、九州方面に売られていたこともあったようです。

2土佐捕鯨 鯨解体4

 鯨は経済的に非常に高い価値をもっていました。

しかし、沖合いを泳ぐ鯨は捕まえることはできません。ただ沿岸に近づいた鯨を、網代に追い込んで捕獲するだけでした。それも百発百中というわけにはいかなかったようです。捕鯨人には、給与として米と酒は充分に支給されていたようです。そのため
「酒は水なり、米は砂と思え」

と、捕鯨人たちは鯨を捕獲したといえばすぐに宴席を設けて祝い、不漁といえば酒宴を張って景気づけをしています。彼らにとっては酒は欠かすことのできないものであったようです。
 特に不漁時の「神さまや仏だのみ」は欠かすことのできない重要な行事だったのです。まさに神頼みしかなく、捕鯨従事者は信心深い人びとにならざる得なかったのかもしれません。

室戸市にある土佐捕鯨創始者の多田家の墓地には、地蔵さまの形をした大きな墓が七基あります。
これは鯨供養の意味を込めてつくられたようです。また、鯨供養のためにつくられた地蔵が、もうひとつの捕鯨基地であった足摺岬の幡多郡窪津浦の海蔵院にもあります。
海蔵院の「鯨供養地蔵」
ここには
「へんろみち 文化九(1812)壬申 津呂組 為鯨供養也 施主鯨方当本 奥宮正敬立之」

と刻まれています。室戸の網元奥宮三九郎正敬が建てたことが分かります。奥宮家は、季節を変えて室戸と足摺の二つのエリアで操業していたようです。この窪津の鯨納屋のあった場所には、現在でも豊漁を祈願するための戎神社があります。その石灯龍には
「文化六(1809)己巳春建之 鯨場所中常夜燈 鯨方当本 元村住奥宮三九郎正敬
 
「法界萬霊 土州安喜郡元村住 施主奥宮三九郎正敬 文化十発酉年(1813)十一月吉日」

と刻まれています。窪津浦には、この他にもいくつかの常夜燈が捕鯨関係者によって寄進されているようです。これ以外にも
①文政十五(1832)年に奥宮三九郎は大きな石灯龍二基を寄進
②文政九(1826)年には安芸郡浮津浦商人の谷伴蔵が世話人になり、室津浦や浮津浦の鯨方商人の数人と共に琴平宮の手洗鉢を奉納。

窪津の戒神社脇の「法界萬霊地蔵」文化10(1813年)に奥宮正敬氏建立。

このように室戸の捕鯨網元奥宮正敬は、土佐の室戸や足摺の捕鯨エリアに鯨供養の灯籠などをいくつも寄進していることが分かります。
このような彼の寄進活動の一環が金毘羅さんへの石段整備だったのかもしれません。
四段坂の石段整備の石碑には下のように彼の名前が残されています。 

5 敷石四段坂55

この四段坂の銘文に見える宮地十太夫元貞と奥宮三九郎正敬は、二人だけで三段目の石段を全て奉納しています。それは文化8(1811)年のことです。こうしてみると、奥宮正敬は灯籠などを毎年のように、室戸か足摺か金毘羅さんに奉納していたことになります。土佐の捕鯨網元の信仰心の厚さを感じます。

参考文献「広谷喜十郎 土佐の古式捕鯨と金毘羅信仰 
ことひら49号」

 江戸時代も半ば以後になって、金毘羅の名が世間に広がると、各地で金毘羅の贋開帳が行なわれるようになります。紛らわしい本尊を祀り、札守や縁起の刷物などを売り出す者が次々と現れます。別当金光院は、高松藩を通じてその地の領主にかけ合って、すぐ中止させるように働きかけています。しかし、焼け石に水状態だったようです。そこで宝暦十年(1763)には「日本一社」の綸旨をいただきますが、それでも決定的な防止策にはならず贋開帳は止まなかったようです。

DSC01156日本一社綸旨
金毘羅大権現「日本一社」の綸旨

 贋開帳を行っていたのは、どんな人たちなのでしょうか。
多くは修験系統の寺院や行者だったようです。
「金刀比羅宮史料」から贋開帳を年代順に見てみましょう。
①明暦2年、讃岐丸亀の長寿院という山伏が、長門(現山口県)で象頭山の名を馳ったので、吟味のうえ、以後こういうことはしないという神文を納めさせた。
②享保6年4月、江戸谷中の修験長久院で、金毘羅飯綱不動と云って開帳したので、高松藩江戸屋敷へ願い出、御添使者から寺社奉行へ願い出て停止させた。
③寛保2年11月、伊予温泉郡吉田村の修験大谷山不動院で、金毘羅の贋開帳。
④天保6年10月、阿波州津村箸蔵寺が、金毘羅のすぐ隣りの苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現並びに金毘羅大権現といって開帳。11月には、箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現奥の院といって開帳した。翌7年6月、箸蔵に出向いて調べた使者の報告では、神体は岩屋で、別に神像はなかったとのこと。
⑤同15年、箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
弘化2年4月、贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。嘉永4年、箸蔵寺、再度贋開帳。
⑥安政4年、備後尾道の修験仙良院、浮御堂において開帳、札守を出したので、同所役人に掛合い、金毘羅の神号の付いたもの一切を受取り、以前の通り神変大菩薩と改めさせた。
⑦安政5年4月、京都湛町大宮修験妙蔵院、京都丸亀屋敷の金毘羅へ毎月十日、諸人が参詣の節、開帳札のよりなものを指出す由の注進があった。
⑧同年十月。泉州堺の修験清寿院で開帳、同所役に掛合い、神体、札守の版木など、早速に引渡される。
贋開帳事件の中でも、箸蔵寺は執拗で事件が長期にわたったようです。
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箸蔵寺山門
箸蔵寺がはじめて金毘羅へ挨拶に来たのは、宝暦12(1762)年のことです。
「箸蔵寺縁起」は、それから間もない明和6(1769)年に、高野山の霊瑞によって作られています。
「当山は弘法大師金毘羅権現と御契約の地にして」
「吾は此巌窟に跡を垂る宮毘羅大将にして北東象頭の山へ日夜春属と共に往来せり」
 ここでは、空海が金毘羅さんの奥社として箸蔵山を開いたとします。そして、金比羅神は箸蔵寺から象頭山へ毎日通っていると縁起では説くのです。
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箸蔵寺山門
  箸蔵寺については、本尊薬師如来の信仰が古くからあったこと、江戸初期には多少の土地が安堵されていたことより外、ほとんど分かっていないようです。しかし、「状況証拠」としては、周辺には数多くの修験者がいて、近世後半になって台頭する典型的な山伏寺のようです。成長戦略に、隆盛を極めつつあった金毘羅大権現にあやかって寺勢拡大を計ろうとする意図が最初からあったようです。箸蔵寺は、次のような広報戦略を展開します。
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
 そして、10月10日の金毘羅祭に使われた膳部の箸が、その晩のうちに箸蔵寺へ運ばれて行くという話などを広げていきます。それに伴って人々の間に「箸蔵寺は金毘羅奥の院」という俗信仰は拡大します。

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 箸蔵寺山門の大草鞋
 そして先に見た通り箸蔵寺は、金毘羅大権現の贋開帳を行うようになります。そのため何度も本家のこんぴらさんに訴えられます。その都度、藩からの指導を受けています。記録に残っているだけでも贋開帳事件の責任をとって、院主が二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。嘉永二年には、箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行っていた所を多度津藩によって、召捕えられています。
 このような「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説を広げたのも箸蔵寺の修験者たちだったようです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことがうかがえます。

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箸蔵寺参道に現れた天狗(山伏)
財田町史には、箸蔵の修験者たちが山伏寺を財田各地に開き布教活動を行っていたことが報告されています。彼らは財田から二軒茶屋を越えての箸蔵街道の整備や丁石設置も行っていたようです。
讃岐の信徒を箸蔵寺に先達として信者を連れてくるばかりでなく、地域に定着して里寺(山伏寺)の住職になっていく山伏もいたようです。このような修験者(山伏)は、金毘羅さん周辺にもたくさんいたのでしょう。彼らは象頭山で修行し、金比羅行者として全国に散らばり金毘羅信仰を広げる役割を果たしたのではないかと私は考えています。 
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箸蔵寺本堂
贋開帳を行う人たちに、なぜ修験者が多かったのでしょうか?
まず考えられることは、金毘羅神が異国から飛来した神と伝えられたことにあるようです。
金比羅神は天竺から飛来した神であり、象頭山の神窟に鎮座し、その形儀は修験者であり、権現の化身であると説かれました。金比羅神が、どのような姿で祀られていたのかを、3つの記録で比べてみましょう
 ①天和二年の岡西惟中「一時軒随筆」
金毘羅は.もと天竺の神 飛来して此山に住給ふ 釈迦説法の守護神也。形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也 巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也 本地は不動明王也とぞ 二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也
意訳すると
金比羅神は、もとは天竺インドの神である。飛来して、この山に住むようになった。釈迦説法の守護神で、形は頭に頭巾をつけ、左手に数珠、右手に檜扇を持つ。頭巾は五智宝冠と同じで、数珠は羂索、扇は剣を意味し、本地物は不動明王とされる。伎楽、伎芸という二人の脇士を従える。これは金比羅と勢陀伽権現の化身である。
 
「一時軒随筆」の作者である岡西惟中は、談林派の俳人として名高い人物です。彼は、この記事を当時の別当金光院住職宥栄から直接聞いた話であると断っています。それから150年経った時期に、金光院の当局者が残した「金毘羅一山御規則書」にも、まったく同じことが記されていることが分かります。
②延享年間成立の増田休意「翁躯夜話」
 象頭山(中略)此山奉二金毘羅神(中略)
此神自二摩詞陀国一飛来、降二臨此山釈尊出世之時為レ守二護仏法‘同出二現于天竺(中略)
而釈尊入涅槃之後分二取仏舎利 以来ニ此土 現在二此山霊窟矣 頭上戴勝、五智宝冠也(中略)
左手持二念珠縛索也、右手執一笏子利剣也 本地不動明王之応化、金剛手菩薩之工堡 左右廼名一及楽伎芸 金伽羅制哩迦也
②の「翁躯夜話」は、高松藩主松平頼恭によって「讃州府志」の名を与えられたほどですから、信用は高い書物とされます。これらの2つの資料が一致して
「生身は岩窟に鎮座ましまし、御神鉢は頭巾を頂き、珠数と檜扇を持ち、脇士に伎楽・伎芸がいる」
と記します。
  ③「金毘羅一山御規則書」

抑当山金毘羅大権現者、往古月支国より飛来したまひて
(中略)
釈迦如来説法の時は西天に出現して於王舎城仏法を守護し給ふ(中略)其後仏舎利を持して本朝に来臨し給ふ 生身は山の岫石窟の中に御座まし(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 優婆塞形也 但今時之山伏のことく 持物者 左之手二念珠 右之手二檜扇を持し給ふ 左手之念珠ハ索 右之手之檜扇ハ剣卜中習し侯権現御本地ハ 不動明王
 権現之左右二両児有伎楽伎芸と云也伎楽 今伽羅童子伎芸制吐迦童子と申伝侯也 権現自木像を彫み給ふと云々今内陣の神鉢是也
 意訳変換しておくと
そもそも当山の金毘羅大権現は、往古に月支国より飛来したもので(中略)釈迦如来説法の時には西天に出現して、王舎城で仏法を守護していた。(中略)
その後に仏舎利を持って、本朝にやってきて生身は山の石窟の中に鎮座した。(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 その姿は優婆塞の形である。今の山伏のように、持物は左手に念珠、右手に檜扇を持っている。左手の念珠は索、右手の檜扇は剣と伝えられ、権現の御本地は不動明王である。
 権現の左右には、両児がいて伎楽と伎芸と云う。伎楽は伽羅童子、伎芸は吐迦童子と伝えられる。権現は自から木像を彫み作られた云われ、今は内陣の神鉢として安置されている。

3つの史料からは、金毘羅大権現に祀られていた金毘羅神は、役行者像や蔵王権現とよく似た修験の神の姿をしていたことが分かります。また「飛来した神」ということからも、飛行する天狗が連想されます
 各地の修験者たちにとって、このような金毘羅神の姿は「親近感」のある「習合」しやすい神であったようです。それが、数多くの贋開帳を招く原因となったと研究者は考えています。
 どちらにしても、金比羅神を新たに創り出した象頭山の修験者たちは、孤立した存在ではありませんでした。当時の修験者ネットワークの讃岐の拠点のひとつが象頭山で、そこにインドから飛来してきたという流行神である金比羅神を「創造」し、宥盛の手彫りの像と「習合」したようです。

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箸蔵寺本堂に掲げられた天狗絵馬
 その成功を見た山伏ネットワーク上の同業者たちが、それを金毘羅さんの「奥社」とか「両参り」を広告戦略として、その一端に連なろうとします。当然のように、贋開帳もおきます。また別の形としては讃岐の金比羅神を地元に勧進し、金毘羅大権現の分社を作り出していく動きとなったようです。全国に広がる金比羅神が海に関係のない山の中まで広がっているのは、山伏ネットワークを通じての金比羅行者の布教活動の成果のようです。「海の守り神 こんぴらさん」というイメージが定着するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅山は全国の修験道者からは、山伏の運営する天狗信仰の山という目で見られていたと研究者は考えています。
参考文献 松原秀明 金毘羅信仰と修験道


5金毘羅大権現 天狗信仰1

 広重の東海道五十三次には、沼津(保永堂版)、四日市(狂歌五十三次)などに、蓋のない箱に、大きい天狗面を入れて、背中に負った山伏姿の人物が描かれています。
5金毘羅大権現 天狗信仰2


竹久夢二の「昼夜帯」、「夢二画集旅の巻」にも、同じような図があるそうです。
天狗面を背負った人たちは、どこに向かっているのでしょうか
藤村作太郎氏は「日本風俗史」の中で、天狗面を金毘羅に奉納しに行く姿だと指摘しています。
確かに、金毘羅大権現(現金刀比羅宮)への天狗絵馬の奉納は多かったようです。幕末に編集された「扁額縮図」には、江戸、下総、紀州などから奉納になった天狗面の絵馬約十点が収められています。その中には、金毘羅権現別当金光院の役人矢野延蔵外二名が奉納したものもあります。彼らが天狗信仰=修験者たちであったことが分かります。

天狗面を背負う行者

天保4年には、仙台の三春屋善七が小天狗の面を奉納しています。

金毘羅への信仰が深かった先祖が、狩場で異相の行者から、その信仰を愛でて授かったもので、種々の奇瑞を起こした面だったようです。私蔵するにはもったいないと、千里の道を越えて、奥州仙台から金毘羅さんにやってきて奉納したとの由緒が付けられています。

DSC01239天狗面

金毘羅大権現の霊験記の最初は、南月堂三著作(明和六年)のものとされます。
5金毘羅大権現 天狗信仰3

この中には翼のある天狗が、左手には羽うちわを、右手には子供の襟首を掴んで雲に乗っている図が見開一ぱいに描かれています。雲は雷雲のようで地上には雨と風をもたらしています。ここからは天狗が雨を降らせる雨乞信仰の対象にもなっていたことがうかがえます。どちらにしても金毘羅さんは、
クンピーラ=金毘羅大権現=天狗信仰=山岳信仰=修験者たちの行場・聖地

という風に当時の人々の中では、つながっていたようです。

江戸時代の「日本大天狗番付表」からは、当時の天狗界の番付が分かります。
5金毘羅大権現 天狗番付

 西の番付表を見てみると・・・
横綱   京都 愛宕山栄術太郎
出張横綱 奈良 大峯前鬼・後鬼
大関   京都 鞍馬山僧正坊
関脇   滋賀 比良山次郎坊
小結   福岡 彦山豊前坊
出張小結 香川 白峯相模坊
前頭   愛媛 石槌法起坊
同    奈良 葛城山高天坊
同    奈良 大峯菊丈坊
同    熊本 肥後阿闍梨
同    京都 高雄内供奉
同    京都 比叡山法性坊
同    鳥取 伯耆大仙清光坊
同    滋賀 伊吹山飛行上人
同   和歌山 高野山高林坊
同    広島 厳島三鬼坊
同    滋賀 横川党海坊
同    京都 如意ヶ嶽薬師坊
同    香川 象頭山金剛坊
同    岡山 児島吉祥坊
同    福岡 宰府高垣高森坊
同    滋賀 竹生島行神坊
同   鹿児島 硫黄島ミエビ山王
同   鹿児島 硫黄島ホタラ山王
同    高知 蹉蛇山放主坊
同    香川 五剣山中将坊
同    香川 象頭山趣海坊
  横綱・大関には京都の愛宕山や鞍馬山の名前が見えます。出張小結には、白峯相模坊(坂出市白峰寺)があります。さらに前頭には讃岐から「象頭山金剛坊 五剣山中将坊 象頭山趣海坊」の名前があります。讃岐が天狗信仰が盛んで修験者たちが活発に活動していたことがここからはうかがえます。
 もうひとつ分かることは、象頭山が修験者たちの活動の拠点となっていたことです。金剛坊以外にも趣海坊という名前もあります。白峰寺や五剣山は四国霊場の寺院として、山岳信仰の趣を今に伝えています。しかし、象頭山は明治の神仏分離で修験道が排除されたために、現在の金刀比羅宮の中に天狗信仰を見つけ出すことは難しくなっています。ただ奥社には、金毘羅大権現の開祖とされる修験者の指導者宥盛を神として祀っています。そして宥盛の修行ゲレンデであった奥社の断崖には、天狗面が今でも掛けられていることは以前にお話しした通りです。
5金毘羅大権現 奥社の天狗面
金刀比羅宮奥社の天狗面

 象頭山は、白峰寺や五剣山と並ぶ讃岐の修験者の活動の拠点だったことがうかがえます。ここを拠点に、修験者たちは、善通寺の五岳の我拝師山で捨身修行を行い、七宝山の不動瀧などの行場を経て観音寺までの行場ルートで修行を行っていたようです。これが、西讃地方の「中辺路」ルートであったと私は考えています。近世以前の庶民の四国遍路が成立する以前のプロの修験者による行場巡りでは、象頭山は聖地で霊場であったのです。
天狗像

 霊場江戸初期に善通寺が金毘羅大権現の金光院を、末寺であると山崎藩に訴えています。善通寺の僧侶は金光院を、同じ真言宗の修験道の同類と認識していたことが分かります。彼らは修験者としては修行仲間であったかもしれません。そして、象頭山(大麻山)と五岳という行場を互いに相互に乗り入れていたのかもしれません。

地元の幕末の詩人、日柳燕石は天狗の詩も遺しています。
夜、象山に登る 崖は人頭を圧して勢順かんと欲す、
夜深くして天狗来りて翼を休む、十丈の老杉揺いで声あり
また、老杉の頂上里雲片る。夜静かにして神扉燈影微かなり
道士山を下って怪語を伝ふ、前宵天狗人を擢んで飛ぶ
象頭山の夜は、深い神域の森を天狗が飛び回っているというのです。
私も天狗捜しに何回か夜の金毘羅さんにお参りしました。ソラをゴウー音を立てて飛び交う天狗に出会いましたが、野鳥の会のメンバーに言わせると「それは、ムササビや。金毘羅さんには多いで」とのこと
5金毘羅大権現 天狗伝説9

各地の金毘羅さんは、だれが勧進したのか?
高知県の足摺岬に近い津呂の琴平神社は、もとは、現在の神主の先祖寿徳院が、象頭山を拠点に諸国修行中に、この浦にやってきてた。その際に背負ってきた肩から両翼の生えた山伏像を祀ったのに始まると伝えられています。「両翼の生えた山伏像」とは、金毘羅大権現とも考えられます。
長崎市浦上の金刀比羅神社は、
5金毘羅大権現 長崎の金毘羅大権現

江戸時代は無凡山神宮寺と呼ばれていました。その起源は、寛永元年、島原生れの修験常楽院快晴が、金毘羅大権現を勧進し、真言修験の霊場としたことがはじまりです。その後宝永三年に、瓊杵山山頂の石窟に、飯繩、愛宕の2神を併せて祀ったようです。ここは領主の崇敬受け、庶民の信仰を集め、長崎へ往来する中国人からの献納物も多かったようです。ここでも勧進者は修験者です。
 大坂千日前の法善寺の鎮守も、もともとは愛染明王で、役行者と不動明王と金毘羅を併せて三尊を鎮守としてきました。
象頭山からは御札等を受けて安置していましたが、愛染明王、役行者よりは金毘羅神の方が信者が多くなります。燈寵等を献納する者も多く、金毘羅堂と呼ばれていた時期もあったようです。金比羅神をもたらしたのは、ここでも金比羅行者のようです。
最後に横浜のこんぴらさんを見てみましょう
横浜の大綱金比羅神社には「大天狗の像」が安置されています。
5金毘羅大権現 横浜天狗信仰3

この天狗の伝承は、次のように伝えられています。
 江戸の天狗隠者が金毘羅大権現へ大天狗像を奉納しようと、江戸を出発します。天狗像を担いで東海道を歩み始めました。ところが神奈川宿で一泊したところ、翌日には大天狗が岩のような重たさになり、担げなくなってしまいました。
 使者はどうすることもできません。神奈川宿にもう一泊滞在することにしました。するとその晩、使者の夢に天狗様が現れ、
「この地の飯綱神宮に留まりたいので、この地に私を置いていくように」とお告げがあったそうです。それを聞いた使者はそのまま大綱神社に奉納し、「大天狗の像」で祀られるようになりました。

奉納された大天狗像は「聖天金毘羅合社」として境内末社の扱いを受けて祀られるようになります。つまり、「天狗=金比羅さん」というイメージが当時の人たちにはあったことがわかります。飯縄神社も金毘羅さんも「修験道」と関わりが深く、天狗伝説が色濃いところですから、違和感なく習合し、次第に両神社は切り離せないものになっていきます。ここにも、金比羅行者の活躍と布教活動があったことがうかがえます。

5金毘羅大権現 横浜天狗信仰2

 明治の横浜開港後は、海の神である金毘羅信仰の方が人気が高くなります。そこで飯綱権現と金刀比羅が合祀され、大綱金比羅神社となります。しかし、地元の人々からは「横浜のこんぴらさん」と呼ばれるようになっていったようです。後からやってきた金毘羅さんに飯縄さんは乗っ取られた格好になったようです。境内には山岳信仰のシンボルとも言える「天狗像」が今も建っていて、天狗伝説が語り継がれています。

5金毘羅大権現 横浜天狗信仰4
 
このように金毘羅さんの全国展開は、天狗信仰と金比羅行者によるようです。
海の神様として、塩飽の廻船船乗りが全国に広げたというのは、以前にもお話したようにどうも俗説のようです。17世紀の塩飽船主が信仰したのは、古代以来の摂津の住吉神社です。住吉神社に塩飽から寄進された灯籠を初めとする奉納物は数多く見られますが、金毘羅大権現に寄進されたものは数えるほどしかありません。塩飽の地元に残る記録の中にも
「塩飽が昔から海の安全を祈願したのは住吉神社で、金毘羅さんは新参者」
と記したものがあります。
 「海の神様」と認識されるようになるのは、19世紀になってからです。それが全国的に広がるのは海軍の信仰を受けるようになってからのことになるようです。金毘羅さんの海の神様としての歴史は古くはないようです。
17世紀に金毘羅さんを全国展開させた立役者は、金比羅行者たちでした。そして、そのトレードマークは天狗だったのです。

 参考文献 松原秀明 金毘羅信仰と修験道

    

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  大川山の姫神
大川山は讃岐で2番目に高い山で、大川神社が祀られている。
雨乞いの神として知られているが、安産を祈願する神としても知られている。土器川下流の飯山町あたりからこの山を望む所にも祠が建てられ、信仰を集めている。大川の姫神は三つ子を産んだ神として知られており、その絵姿は三つ子を胸に抱いている姿となっている。

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ここではこんな話も伝えられている。
この大川神社の神官が山道を通っていると、山道で一人の女が苦しんでいる。
わけをたずねると子供を出産するとのことであった。
が、男はお産に立ち会うべきでないと見すてて、そこを通り過ぎようとした。
ところがあまりの苦しみようにふりかえり、自分の弁当行李をあけ食べ物を与えようとしたが、中はからであった。

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わずかに残った米粒を与え、たちまち元気をとりもどし、無事子供を出産した。
こうしたことでこの神社が安産の神として崇められるようになったという。
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中熊地区にある山熊神社の神様は、大川神社の神様と姉妹だという。
二人の美しい姫が仲良く手まりをついて遊んでいるのを見たという人もあり、ともに安産の神として知られている。
山熊さんの社殿に結びつけてあるたすきをもらって、腹帯と一緒に巻いておくとよい。
それで安産できると、二本のたすきにして返すのだという。
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また、社殿の左の玉垣をめぐらせている所に沢山の小石があるが、ここは神域で立ち入りを禁じている。
この石をいただいて帰ると、自分の思いがかなうと伝えている。
かつて戦争中、この小石を持って出征し、無事帰還した者もいるとか。
ところがその石をお返ししないと、石が鳴ったり腹痛を起こしたりするという。
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 四つ足地蔵
 明神から真鈴峠を越える旧道に、通行人が一休みする茶堂がある。
そこにはお地蔵さんがまつられている。
これを四つ足堂という。阿波十力寺参りや借耕牛の通る道で、かつてはにぎわっでいた。
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この地蔵を一名粉ひき地蔵とも言う。
この尊像の台座の石は川石であるが、四本の筋目が刻まれており、ひき臼に模しているようである。こんなところから粉ひき地蔵の名がついている。
高さ二尺くらいのものであるが、かつては大川山の神社と神事場の間にあったものが一夜のうちにころがり落ちてきたので、ここに祀ったと伝えられている。
ところが、この道が大川神社への山尾根であるため、ころげ落ちる所としてはふさわしぐないところから、力持ちの男が運んだとも伝えている。
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 また、茶堂のあたりはスモトリ坊がいて、小さい子供の姿となって、そこを通る人かあると、
「すもうををとらんか」と誘いをかける。
通行人は子供だとあなどってとりかかると、なかなか手強い相手だという妖怪であった。
ちょうどこのあたりはいくっかの谷の水が集まっている渕となっているため、川女郎も出て来るという。また節分の日には阿波の国からヤンギョウサンという首切馬が峠を越えてこの四つ足堂までやって来る。このようにこの四つ足堂のあたりは異霊の集まる場所であった。
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   飛鉢上人
 大川山の北西の谷に、中寺というところがある。
かつて修験の道場として七つの坊があったと伝え、その跡も発見されている。
この中寺に飛鉢の法を使う上人がいて、瀬戸内海を通る船をめがけて、鉢を飛ばして船をどこまでも追いかける。
船頭がその鉢に白米を入れると、再び帰ってくる。何も入れないとその鉢が燃え、火を吹きながらどこまでも船を追いかけて行く、という。屋島寺縁起に似た伝承も残っている。


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阿波から嫁入って来た女も、美合で生まれて美合へ嫁入った女も秋の取り入れがすむと必ずおはたの用意をした。お正月までには子ども達の晴れ着も織らなければならないし、年寄りの綿入れも用意しなければと気もそぞろ。
糸はガス糸や紡績糸を買ってきた。
内田の紺屋で染めてきた糸は、祖母ゆずりの縞わりのままに糸の計算をする。
木綿糸の縞のはしにはスジ糸(絹糸)を入れると、縞がきわ立って美しい。
布をのべる日は、風のない静かな日を選び、
四間の戸障子をあけひろげ座敷いっぱいに糸を伸ばして経糸の用意。
四尺ごとにスミをつける、四尺が七ひろあると一反分の布となる。
糸はチキリに巻いてカザリに通すが、カザリロは上手にあけなければならない。
チキリに巻いた糸は機にまきあげて巻く。
オサイレは糸を1すじずつ通してから固定させる。
アゼをつまむのがむつかしいと言うが、丁寧にやればこともない。
緯糸は、竹のクダに巻いておく。
マキフダとも呼ばれる
クダは、おなご竹を十巧打くらいに切り揃え、かわらで絞って水分をぬいておく。
このクダに、ただ糸を巻けばいいというのではないのだ。
ツムノケで糸をまくのだが上手に巻かないとホゼてくるし、巻きすぎると糸がくずれてしまう。

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明日は小学校1年生の長女に織らせてみるつもり
器用ものの長女は見ようみまねで上手に糸をあつかうので、きっといい織り手になることだろう。
夜、しまい風呂で長女といっしょに髪を洗う。
はたを織り始める日は別に決まった日はないが、髪の汚れをとり、ひとすじの乱れもかいように髪を結いあげた。

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やや小柄の長女は、機にあがったものの踏み板に足がとどかない。
冬でも素足で機は踏むものなので、長女の素足に木の枕を結びつける。
母さんもこうやっておはたにあがったの、機を踏みきっていると足はほこほこしてきたものだと、長女をさとす。
 布は、織りはじめがすぼまないように藁を1本人れたが嫁入った家では、織りけじめにシンシをはる。竹の両端に針がついているのが伸子なのだが、一寸ばかり織ってばシンシを少しずつずらして打ちかえる。
 トンカラトンカラ、根気のよい長女は上手に布を織りすすめる。
モメンは一日一反、ジギヌは一日四尺しかのびない。
オリコンは、ヒトハ夕で二反分の糸を機に巻き上げて二反続けて織っていた。
 織りしまいには、カザリの開ヘヒが入らなく々るまで織るのだが、ハタセが短かくなって手まりが出来なくなるのが心配で、早く織りじまいにしようとしても、なかなか織りじまいにはしてもらえかかった。

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 師走女に手をさすな という諺のとおり、夜の目もねずにに女は機を織り家族の衣管理を一手に引き受けていた。それでも月のもののときは機にあがらず、糸を巻いたり繰ったりわきの仕事をするのがならいだった。
  お正月がすんでからもハルハタを織った。
縁側などの明るいところで機を織っていると、家のすぐ前の街道が気にとってしようがない。
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阿波から讃岐へ峠を越えてやってくるデコまわし、とりたててにぎにぎしく来るわけでもないのだけど、気もそぞろに機の糸をさってしまう。
細い糸がうまくつなげないと泣き出しそうになる。
そうこうするうちに、デコまわしの一行は通り過ぎてけってしまった。
昼食になり、機をおりると隣の家の苗床でデコまわしが三番叟(さんばそう)を舞うというのだ。
もうお機も昼食も放ったらかして隣家まで、走って行った。
苗床や、苗代のまわり、田植えの早苗を束ねる藁などもご祈祷してもらうと、虫がつかず豊かな稔りが約束されていたのだ。こんなことより、年端のゆかない織り子さんにとって、デコ使いが珍らしくて仕方がなかった。
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 デコまわしが通り、傘売りさんも通った。
夏近くになると借耕牛の群れが、りんりんと鈴を鴫して峠道を降りていった。
雨の日も、風の日も、街道のざわめきを聞きながら女は機を織り続けた。
 戦後、衣生治の変化は急速におとずれ、女の管理下におかれていた機織りも忘れられようとしている。それでも老女は、お正月がくると必ずおはたに鏡餅を供えたとか、
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虫か食いはしめた機は、とうとう川へ流されることになった。
 機は、いわれのあるものだから焼いてはならない。
流れ川に流して七夕さまにお返しするのだという信仰を、
老女はがんとして守り通して、機は流されていった。
 そして、「女はテスキになってしもうて」と、テレビの前に座る老女山背で呟いた。

 北條令子 琴南町美合 民俗探訪日記より 
                                

1 讃岐古代寺院分布図
讃岐の古代寺院に使われていた瓦は、法隆寺瓦の流れをくむものが多いようです。どうして、讃岐には法隆寺の影響が色濃く及んでいるのでしょうか。そこからスタートしてみることにします。
法隆寺資材帳にみえる庄倉
   法隆寺資財帳には、天平19年(747年)から翌年にかけて奥書があり、その当時の法隆寺の総ての財産が詳しく書き出されています。そこには、全国にあった法隆寺の庄倉も記されています。まずは法峰寺の庄倉を列記した部分を見てみましょう。
1 法隆寺庄倉1
   『資財帳』には、法隆寺の庄倉のあった郡が上のように記されます。後から2番目の讃岐を見てみると「讃岐国十三處」とあり、13の庄倉があったことが分かります。

1 法隆寺庄倉 讃岐
設置された郡名として挙げられているのが
大内郡、三木郡、山田郡、河野郡、鵜足郡、那阿郡、多度郡、三野郡

の8郡です。特に那珂郡には3つ庄倉があったようです。お隣の伊予を見ると14です。そして、阿波・土佐にはありません。瀬戸内海に集中しているようですが安芸や周防などには ありません。庄倉史料を地図に落としていくと次のようになります。
1 法隆寺庄倉 3讃岐

どうして、讃岐・伊予に法隆寺の庄倉が、数多く設置されたのでしょうか。 松原弘宣氏は次のように記します。
① 4・5世紀における畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートは摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後であった。
②それを裏付けるものとして、斉明天皇が西征の際に、二ヵ月にも渡って、道後平野に滞在していることをが挙げられる。
③これは伊予松山が、当時の政情不安定な北九州を睨んでの前線基地的役割を果たしていた
確かに庄倉は、畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートとされる
摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後
に沿って置かれているようです。
伊予松山の久米氏の果たした役割は?
このルートの中で大きな役割を果たしたのが、道後平野を押さえていたのが久米直氏です。久米氏はいち早く畿内王権と結びつき、久米国造として大王近持氏族へと発展していきます。その立役者が伊予来日部小楯で、彼には、山部連の姓が新たに賜姓されます。これを契機に、久米直と大和の山部連の間に、「擬似的同族意識」が形成され、これが法隆寺との関係に発展していくと松原弘宣氏は考えているようです。

 法隆寺のある奈良県平群郡夜摩郷(=山部郷)や、法隆寺最大の所領がある播磨国西部には山部氏がいます。
山部氏は、法隆寺と関係の深い豪族です。例えば、法隆寺に献納された「命過幡」に寄進者としての山部連氏が見えます。ここからは、
伊予久米郡の久米氏=山部連 ー 大和国夜摩郷 ー 法隆寺
という繋がりがあったことがうかがえます。
 法隆寺が讃岐・伊予国に庄倉を設置することができたのは、大伴氏の力が大きい多いと研究者は考えているようです
それは、当時の「擬似的血縁関係=同族意識」の力によるようです。伊予国で大きな勢力を占めた久米氏と大伴氏は同族とされます。また、多度郡の佐伯氏も大伴氏を祖先を同じくするという同族意識を持っていたことは以前にもお話ししました。つまり、
大伴氏ー大和の山部氏ー伊予の久米氏ー讃岐多度郡の佐伯氏

は、同族関係にあると当時の人たちは信じていました。この「同族幻想」が大伴氏による法隆寺庄倉の設置に、大きな役割を果たしたと研究者は考えているようです。
 庄倉は、どんな性格の施設だったのでしょうか。
『大安寺伽藍縁起井流記資財帳』の庄の記載に、その手がかりとなる記録があるようです。大安寺の庄倉のあった地名が次のように列挙されます。
大倭国五處
一在十市郡千代郷 一在高市郡古寺所 一在山辺郡波多蘇麻 一在式下郡屋所 一在添上郡瓦屋
山背国三處
相楽郡二廠、一泉木屋阪井暑埴二町、東大路、西薬師吝木屋南白井一段許遇、北於大河之限、一棚會瓦屋、東谷上、西路、南川、北甫大家野之限、乙訓郡處。在山前郷
摂津国一處
在西成郡長汲郷庄内雄二町、東田、西海即船津、南百姓家、北路之限
 この記事の中で注目したいのが「瓦屋所」「瓦屋」です。
これは造瓦所と研究者は考えているようです。つまり、庄倉には付属施設として瓦を製造する窯を持っていたことがうかがえます。周辺の地方豪族が氏寺を建立する場合には、ここで作られた瓦が提供されたことが考えられます。
 その他「園地」「木屋所」「船津」の名称が見えます。これからは園地や木工製造所や「湊」の存在がうかがえます。こうした庄倉について、鬼頭清明氏は次のように指摘します。
「懇田を直接の庄園成立の舞台とするのではなく、庄倉における稲を中心とする動産の出挙、交易を媒介に経営されたという点で初期庄園より一層古い『庄』経営であったと思われる」

 つまり、庄倉とは必要な物資を交易で調達・集積し、それらを本寺へ運送する地域の集積運搬の拠点だったと研究者は考えているようです。
次に法隆寺の庄倉と、地域豪族の関係を探ってみましょう。
1 讃岐古代瓦

 鬼頭清明氏は法隆寺の伽藍の中で、7世紀に建立された西院伽藍の瓦に注目します。特に、軒瓦-複弁蓮華文軒丸瓦と忍冬唐草文軒平瓦で、法隆寺式と呼ばれている瓦です。この瓦文様と同じ瓦を使用した寺院址が伊予・讃岐の法隆寺庄倉の周辺から出てくるようです。
「法隆寺式軒瓦の分布は、大勢として資財帳の伝える庄倉・水田等の分布と対応関係にあるとみてよい」

と鬼頭清明氏は記します。法隆寺の庄倉を拠点に、讃岐には法隆寺式軒瓦を用いた古代寺院がひろまっていったようです。
讃岐の古代寺院から、法隆寺と同じ型から作られた瓦や同系列の瓦が出てくることをどのように考えたらいいのでしょうか。
 古代寺院建立は、伽藍配置から設計図、木組み、瓦、相輪、仏像政策などハイテクの塊で、地方豪族が単独で行えるものではありませんでした。瓦を初め寺院造営に必要なあらゆる技術が法隆寺などの巨大寺院か中央致権から提供されていたと研究者は考えているようです。
 天武・持統政権は古墳時代の前方後円墳のように、どの豪族にも寺院建立を許したわけではありません。中央政権の許可があって寺院は建立できるものでした。そうなると瓦を載せた本堂や五重塔は威信財としての機能を発揮するようになります。有力な地方豪族は、中央政府の許可を得て争って寺院建立を行うようになりますが、誰にでも認められたわけではなかったことは押さえておきます。
 最先端のハイテク技術を伴う寺院建立には、いろいろな技術の「地方移転」なしではできないことです。技術移転がどのように行われたをうかがうことの出来る「痕跡」が瓦のデザインになるようです。瓦文様にもランクがあって、誰でも自由にデザインを選べたようではないようです。地方豪族の寺院には、同時代の中央寺院に使用されていた瓦デザインは使用されていません。「型落ち」瓦が使われるのが通常なのです。どの瓦を使っているかで、建立した地方豪族のランクも分かるシステムになっていたようです。瓦を比較することで、いろいろなことが見えてくるようです。
 少し寄り道しました。法隆寺系の瓦が讃岐に多いことから何が分かるのかという点に話をもどします。
まず、瓦作りの技術者が大和から讃岐にやって来たことが考えられます
「造瓦技術の移動」=「造瓦工人の移動」があったはずです。法隆寺側が、讃岐に工人を派遣したか、または技術を法隆寺で修得した工人が、そのまま讃岐にやってきたかのどちらかでしょう。その拠点になったのが庄倉施設と考えられます。庄倉は税の貢納だけでなく、大和との人とモノの行き来が頻繁に行われていた先進文化の交流センターということになります。

古代讃岐や伊予が大和と密接なつながりをもっていたことは、出土する古瓦のデザインからも分かるようです。
讃岐で使われている瓦文様を次に見ていくことにしましょう。
 讃岐では、壬申の乱前後のから寺院造営が始まります。
初期の寺院創建時の瓦デザインは、どれも古新羅系の軒丸瓦と共通デザインです。例えば、宝寿寺の単弁無子葉蓮華文瓦等は、そのルーツは大和豊浦寺の瓦に求められると研究者は考えているようです。

1 讃岐古代瓦
初期寺院に続く第2グループの寺院の瓦を見てみると
②多度郡の仲村廃寺では、大和の川原寺創建時の瓦や法隆寺式の瓦にデザインのルーツがあるようです。
③寒川郡石井廃寺は、大和の石川精舎跡出土瓦と文様構成がよく似ています。
1 讃岐古代瓦no源流 大和山田寺
③香川郡の坂田廃寺、河野郡の開法寺、寒川郡の下り松廃寺、山田郡の宝寿寺、三野郡の妙音寺等では大和の山田寺系の軒丸瓦が出土しています。
第3グループに使用されている瓦を見てみましょう。
1 讃岐古代瓦no源流 藤原京
④7世紀後半の藤原京宿造営の前後には、藤原京の宮殿用軒瓦とによく似た軒瓦が寒川郡、三木郡、山田郡、香川郡等十九ヶ寺で使われています。この時期には三野郡宗吉瓦窯跡では、藤原宮所用瓦が当時の最先端技術を使った大工場で生産され、船で藤原京に運ばれていたことが分かっています。
1 讃岐古代瓦no源流 法隆寺
④『法隆寺資材帳』の庄倉があった所からは、那珂郡の宝輪寺跡、多度郡の仲村廃寺、善通寺、三野郡の道音寺の四ヵ寺から法隆寺式の軒瓦が出土しています。
⑤7世紀中頃の国分寺造営の頃には、阿野郡の讃岐国分寺、国分尼寺や山田郡の拝師廃寺で出土する軒瓦は、平城宮址や法隆寺所用の瓦とデザインがよく似ています。これは伊予も同じです。
1 愛媛県の法隆寺瓦

 瓦のデザインが地方へ伝わる場合には、つぎの3つのケースが考えられます。
①技術者が道具を持参して現地に赴き指導する場合、
②道具は不持参で現地謝達する場合、
③現地の須恵器工人等窯業経験のある人達を畿内の瓦工房に呼んで技術を習得させて帰国させ地方に瓦工技術を拡める場合
このような伝播スタイルの違いによって、微妙にデザインの変化がおきてくると研究者は考えているようです。
 法隆寺の庄倉と周辺の地方豪族には、次のような関係があったことが推測できます。
①法隆寺と庄倉のあいだで物と人との交流が頻繁に行われたいたこと
②交易ルート上の地方豪族が大伴氏を祖とする同族意識で結ばれていたこと
③地方豪族の古代寺院建立に法隆寺ネットワークに参加する中央豪族の協力があったこと
それでは、これを多度郡の郡長であった佐伯氏にあてはめて考えて見ることにします。
最初に見たように、那珂郡と多度郡には法隆寺の庄倉が4つあったことが「資財帳」からは分かっています。この庄倉と「法隆寺ー佐伯氏」に絞り込んで考えてみましょう。
①4・5世紀における畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートは摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後であった。
②讃岐の丸亀平野において、その拠点となったのが丸亀平野の佐伯氏であった。
③大伴氏 ー 大和・山部氏 ー 伊予・久米氏 ー 讃岐・佐伯氏 ー 播磨・佐伯氏
という大伴一族という同族意識を背景に、この交易ルート沿いに法隆寺の庄倉が置かれる。
④多度郡には多度津周辺に法隆寺の庄倉が置かれた。
⑤そこから佐伯氏は、先進文化や技術を吸収し、寺院造営技術も手に入れた
このような佐伯家の活動の背景には、海運活動を活発に行っていたことがあったと考えられます。善通寺に居館を構える佐伯氏は、弘田川を通じてその河口に「外港」である多度津港(白方津)を管理下にしていたとされます。これは、佐伯氏の祖先が有岡に大墓山古墳などの前方後円墳群を作り続けていた時代からのことです。

 『延喜式』では、四国は南海道に位置づけられ、京と各国との行程を次のように記します。
  阿波国 行程上九日、下五日、海路十一日。
  讃岐国 行程上十二日、下六日、海路十二日。
  伊像国 行程上十六日、下八日、海路十四日。
  土佐国 行程上世五日、下十八日、海路廿五日。
 と記されています。これは平安京への日程ですが、平城京への行程も、ほぼ同じ日数で貢納物を運んでいたようです。多度郡の佐伯氏の場合は、国の調庸は府中にある国衙に集められて国津より積み出されたようです。しかし、法隆寺への貢納物は、おそらく多度津(白方湊)から船で運ばれていたと研究者は考えているようです。
そして、畿内の終着港は古代の住ノ江港です。
住吉神社と住吉津

空海の父である佐伯田公は、このような海運活動を展開し、畿内と結びついていた人物であったことが考えられます。そして、住ノ江港には佐伯氏の別邸があり、そこには倉庫群も建ち並び、瀬戸内海を舞台に活発な海上交易活動を展開していたと考えることも出来そうです。
 そうだとすれば、空海の父田公は位階を持たずに、空海の弟たちの代になって位階を手ににいれるようになるもの頷けます。そこには佐伯家の傍流でありながら交易活動で急速に経済力を付け台頭してきた田公の姿が見えてきます。
1 阿刀氏の本貫地

その活動の中で、摂津を拠点とする阿刀氏の娘と婚姻関係を結び、真魚(空海)が産まれた物語も現実味をもった話になってくるように思えます。
 今回は、佐伯家の海上交易活動が4世紀頃までに遡る可能性があることを、法隆寺の資財帳に残された庄倉から探ってみました。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
松原弘宣 法隆寺と伊予・讃岐の関係 古代瀬戸内海の地域社会所収 吉川弘文館
鬼頭晴明 法隆寺の庄倉と軒瓦の分布 古代研究11(1977年) 

 空海を生み出したのは佐伯氏で、空海の父は田公、そして空海には4人の弟たちがいることを前回は見てきました。その際に史料としたのは、空海の甥たちが佐伯直から佐伯宿爾への改姓と、本貫を讃岐国から左京職に移すことが認められた記録で『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条の記事でした。そして、そこから書かれた次の系譜を参考にしました。しかし、この系譜を見ているといろいろな疑問が沸いてきます。例えば佐伯家は国造を出す家柄で、多度郡の郡司を勤めていたと伝えられます。そこから私は、空海の家が佐伯氏の本家であると思ってきました。しかし、そうではないようです。それを史料から今回は見ていきたいと思います。
1空海系図2

系図で空海の父田公を見てください。位階がありません。
空海の弟たちや甥たちは、地方豪族としては高い位階を持っています。空海の弟の鈴技麻呂は外従五位下で多度郡の郡司を勤めていたようです。甥の豊雄は中央の書博士を勤めています。しかし、田公には何の位階もありません。無冠では、当時のルールで郡司に就くことはできません。歴史書の中には、田公が郡司を勤めていたと記すものもあります。しかし「貞観三年(861)の記事」は正史ですから信頼性が最も高い史料です。田公は、無冠で郡司ではなかったと考えるのが普通です。

「貞観三年(861)の記事」の後半部を、見てみましょう
⑥以下に次のように記されます
⑥同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門(空海の甥たち)は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。
⑦是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。
⑧今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。
⑨豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」と。
⑩善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらず』と。之を従す。
これを意訳すると
⑥豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっている。このことは実恵・道雄の功績によること。しかし、田公の一門はまだ改居・改姓に与っていない。
⑦実恵・道雄の二人は、贈僧正空海の弟子であること、 一方田公は空海の父である。
⑧田公一門の大僧都真雅は、今や東寺長者となり加護を泰くしているが、実恵・道雄一門に比べると、その高下は明らかであること。
③豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、往時をかえりみるに、悲歎することが少なくない。だから、なにとぞ正雄等の例に従って、とくに宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。
⑩以上の款状の内容について、伴善男らが「家記」と照合した結果、偽りないとのことであったのでこの申請を許可する。

ここからは田公の息子や孫たちと別の系譜が佐伯家には、あったことがうかがえます。そして、それが実恵・道雄を輩出した系譜で、そちらが佐伯家の本流(本家)であったようです。空海や真雅の系譜は佐伯家の中では傍流で「位階獲得競争」の中では遅れをとっていたようです。
 佐伯家の中の本家と分家の関係を探るために、もう少し詳しく史料を見ていくことにします。
⑥には、本家の豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、正雄らは、すでに本貫を都に移し、宿爾の姓を得ていたことが分かります。
系図の実恵・道雄系の真持の経歴を正史で確認すると、
承和四年(837)十月 左京の人従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持ら姓佐伯宿繭を賜う。
同十三年(846)正月 正六位上佐伯宿爾真持に従五位下を授く。
同年  (846)七月 従五位下佐伯宿爾真持を遠江の介とす。
仁寿三年(853)正月 従五位下佐伯宿爾真持を山城の介とす。
貞観二年(860)二月 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿而真持を玄蕃頭とす。
同五年(863)二月 従五位下守玄蕃頭佐伯宿爾真持を大和介とす。
ここからは、本家筋に当たる真持は、田公の孫たちが佐伯宿雨の改姓申請をする23年前の承和四年(837)十月に、すでに佐伯宿雨の姓を賜わっています。また「左京の人」とあるので、これ以前に都に本貫が移っていたことが分かります。そして、真持はその後は昇進を重ね栄達の道を歩んでいきます。
  つぎに、正雄の経歴を正史で確認しましょう。
嘉祥三年(850)七月 讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿爾を賜い、左京職に隷く
貞観八年(866)正月 外従五位下大膳大進佐伯宿而正雄に従五位下を授く。
とあり、正雄は真持におくれること13年で宿爾の姓を得て、左京に移貫しています。ここからは、佐伯家の本家筋に当たる真持・正雄らが田公一門より早く改姓・改居していたことは間違いないと研究者は考えているようです。
  
  それでは、この改姓・改居の実現を空海の甥たちはどのように考えていたのでしょうか
「謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。」

と申請文書には書かれています。真持・正雄らの改姓・改居は、実恵・道雄の功績によるというのです。
  実恵、道雄とは何者なのでしょうか
二人共に空海の十大弟子のようです。そして、俗姓は佐伯氏で空海の一族にあたります。
道雄については『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月条の卒伝には、次のように記されます
権少僧都伝燈大法師位道雄卒す。道雄、俗姓は佐伯氏、少して敏悟、智慮人に過ぎたり。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳及び因明を学ぶ。また閣梨空海に従って真言教を受く。(以下略)

とあって、生国は記されていませんが、佐伯氏の出身であったことが分かります。
  真持の改姓・改居は承和三・四年(826・837)なので、東寺長者であった実恵の尽力があったのでしょう。実恵は承和十四年(847)に亡くなっているので、嘉祥三年(850)の正雄の改姓・改居には関わりを持つことはなかったようです。これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっているので、前年の正雄の改姓に力があったのでしょう。ここからは、
①実恵は真持一門に近い出自であり、
②道雄は正雄一門に近い出身
と研究者は考えているようです。

空海の甥たちの思いは、次のようなことではなかったでしょうか。
  真持・正雄の家系は、改姓・改居がすでに行われて、中央貴族として活躍している。それは、東寺長者であった実恵・道雄の中央での功績が大である。しかし、実恵・道雄は空海の弟子という立場である。なのに空海を出した私たちは未だに改姓・改居が許されていない。非常に残念なことである。
 今、我らが伯父・大僧都真雅は、東寺長者となった。しかし、我々田公の系譜と実恵・道雄一門とを比べると、改姓や位階の点でも大きな遅れをとっている。伯父の真雅が東寺長者になった今こそ、改姓・改居を実現し、本家筋との格差を埋めたい。

 地方豪族の中にも主流や傍流などがあり、一族が一体として動いていたわけではなかったことがうかがえます。佐伯一族というけれども、その中にはいろいろな系譜があったのです。空海を産んだ田公の系譜は、一族の中での「出世競争」では出遅れ組になっていたようです.

田公の系譜が佐伯家の本家筋ではないことをうかがわせる史料がもうひとつあります。
延暦二十四年(805)九月十一日付の大政官符です。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
平安末期の写本が、大和文華館に収蔵されています。内容は、遣唐使の一員として入唐することになった留学僧空海への課税停止を命じた内容です。見てみましょう。
延暦二十四年九月十一日付の大政官符2

大政官符 治部省
留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位上 
佐伯直道長 戸口同姓真魚
右、去る延暦廿二年四月七日出家し入唐す。
□承知すべし。例に□之を度せよ。符到らば奉行せよ.
□五位下□左少弁藤原貞副 左大史正六位上武生宿而真象
延暦廿四年九月十一日
  ここには、空海の本貫の所に
「戸主正六位上佐伯直道長、戸口同姓真魚
とあります。
この戸口の真魚は、空海の幼名です。真魚の戸主は佐伯道長です。父の田公ではないことに注意してください。この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、戸の最年長者がなるのが原則で、戸口の租・庸・調の責任を負うたとされます。一方で、戸口とは戸主のもとに戸籍に書かれた全ての人たちを含みます。多い戸籍には百人近くの戸口の名前が並ぶこともあります。古代の戸籍は、近縁の血縁者の3~5つの家族で一つの戸籍が構成されていたようです。つまり、戸主が父親や祖父であったとは云えないようです。
 戸主の道長は正六位上の位階を持っています。多度郡の郡司を勤めるには充分すぎるほどです。一方、空海の田公の位階を思い出してください。正史では「無冠」でした。位階がありませんでした。つまり、田公は郡司を勤められる立場にはなかったことになります。田公は戸籍上は佐伯道長に属するけれども、その本流ではなかったことになります。
 
松原弘宣氏は、次のような佐伯氏の系図と見解を述べます

「讃岐国の佐伯直氏が多度郡の部領氏族であり空海を出した一族であることはよく知られて」おり、「倭胡連公、是豊雄等之別祖也」とある。ここからは田公系列以外の佐伯直氏がその直系と考えられる。さらに、佐伯直氏は国造の系譜をひいていることと、道長が正六位上の位階を有していることから、道長が佐伯氏の本宗で、多度郡の郡領であった可能性が高い。(取意)

として、 つぎの系譜をあげておられる。
1 空海系図52jpg

そうして、以下のように結論づけます。

以上の検討より、多度郡の佐伯直氏は、図五に示した佐伯直田公の系列以外に、図六のような系譜が想定され、この系譜が佐伯直氏の本宗で、奈良時代における郡領を出していたと考えられるのである。

つまり、道長 ー 真継 ー 真持が本家で、田公の系譜は傍流であったとします。この系図は、田公の系譜が傍流であったことを理解する上では、大いに参考になります。
しかし、別の研究者から次のような疑問が出されています
①倭胡連を讃岐国の佐伯氏の先祖とみなし、佐伯直道長に結びつけられること。
②佐伯直真継・同真持・同長人・同正雄を佐伯直道長の男・孫とみなされること。
③佐伯直真継。同長人・同正雄を同世代の兄弟とみなし、道長の男とみなされること。
④佐伯直真継と同真持を親子とみなされること。
⑤佐伯直氏が多度郡の郡領氏族であったとみなされること。

位上です おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館」

   
799年 政府は氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出するよう命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
861年 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡の因支首(円珍の一族)秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)
 ここからは9世紀の讃岐の有力豪族である空海の佐伯直氏やその親族で円珍(智証大師)を出した因支首氏(いなぎのおびと)が、それまでの姓を捨て、改姓申請や本貫地の変更申請をおこなっていたことが分かります。以前に円珍の因支首氏が和気氏に改姓するまでの動きを見ました。今回は空海の佐伯直氏の改姓申請を追ってみましょう。 
  どうして、改姓申請や都への本貫地移動申請が出されるようになったのでしょうか。
 地方豪族の当時のサクセスストーリーは、中央官僚として活躍し、本貫地を都に移すことでした。そのために、官位を挙げるために実績を上げたり、政府への多額献金で官位を買ったりしています。つまり、故郷を捨てて花の都で中央官僚としてしての栄達の道を歩むことが夢であったようです。
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図
 
金蔵寺を氏寺とする円珍の因支首氏の場合も、因支首氏という姓では、田舎豪族の響きで格好が悪いと思っていたのかもしれません。同族の伊予国の和気氏は、郡司クラスの有力豪族です。改姓によって和気氏の系譜関係を公認してもらい、自らも和気氏に連なろうと因支首氏は試みたと研究者は考えているようです。さて、それならば空海の佐伯氏はどうだったのでしょうか。

佐伯氏の改姓申請に対する中央政府の承認記録が残っているようです。
  それが『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条です。この時期は、空海が亡くなって26年後のことになります。空海の父・田公につながる一族11名が宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国から左京職に移すことを許されたときの記録です。これは「貞観三年記録」と呼ばれ、「公的史料」ですので、佐伯家の系譜を見る上での根本史料とされています。今回は、ここに何が書かれ、何が分かるのかを見ていきます。最初に書かれるのは改姓を認められた空海の①弟たちと②③甥たちの名前と位階が記されています
①讃岐国多度郡の人、
故の佐伯直田公の男(息子)
故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂
故の正六位上佐伯直酒麻呂
故の正七位下佐伯直魚主
②鈴伎麻呂の男、
従六位上佐伯直貞持、
大初位下佐伯直貞継、
従七位上佐伯直葛野、
③酒麻呂の男、
書博士正六位上佐伯直豊雄
従六位上佐伯直豊守
魚主の男、従八位佐伯直粟氏
11人に佐伯宿爾の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき.

④是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言さく。
を意訳すると
①②③佐伯直田公の息子たち(空海の兄弟)の
佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂・魚主、
そして彼らの息子(空海の甥)の貞持・貞継・葛野、豊雄。豊守、栗氏ら11名に宿爾の姓が授けられ、本貫が左京職(都)に移されたこと。
④この改姓・改居は、書博士豊雄の申し出をうけた大伴氏(この当時は伴氏と称していた)本家の当主であった伴宿而善男が、豊雄らにかわって上奏したこと。
この史料から空海に連なる親族を系図にすると、次のようになるようです。

1空海系図2
空海系図
最初に、これを見たときに私は「空海には兄弟たちがいたという」驚きを覚えたことを思い出します。
この系図から分かることを挙げていきましょう。
①空海の父は「田公」であること。
地元では
「空海の父は善通であり、父のために建立したお寺なので善通寺とした」

と云われています。しかし、これは近世になって善通寺が「空海生誕の地」に建つことを強調するために流布されたものであることは、以前にお話した通りです。根本史料には空海の父は「田公」と明記されています。
②空海には、4人の弟がいること。
③一番末の真雅は、空海との年齢差は27歳とされます。
ここから、腹違いの弟と研究者は考えているようです。
 真雅については『三代実録』巻二十五、元慶三年(879)正月二日癸巳の条に、
僧正法印大和尚位真雅卒す。真雅は、俗姓は佐伯宿爾、右京の人なり。贈大僧正空海の弟なり。本姓は佐伯直、讃岐国多度郡の人なり。後に姓宿爾を賜い、改めて京職に貫す。真雅、年甫めて九歳にして、郷を辞して京に入り、兄空海に承事して真言法を受学す。(以下略)
とあって、
①もとは佐伯直で9歳までは讃岐国多度郡に住んでいたこと
②のちに京職に移貫し佐伯宿爾となったこと、
③空海の実弟であったこと、
が記されています。また、真雅はこの改姓申請が承認される前年の貞観二年(860)、真済のあとをうけて東寺長者となり、宗内で並びなき地位に登ります。
DSC04479
空海行状絵図 三尊と雲に乗って談義する真魚 その奥の部屋では鳩眠る弟が描かれている

④空海の兄弟の中で、次男の鈴伎麻呂は実在が確認できます。
『類飛国史』巻九十九、天長四年(827)正月条の記録の中に、巡察使の報告にもとづき、諸国の郡司のなか褒賞すべきものに外従五位下を授けたとあり、このとき、外正六位上から外従五位下に叙せられた一人に讃岐の佐伯直鈴伎麿の名前があります。
   松原弘宣氏は、次のように記します。
「この佐伯直鈴伎麻呂は、同姓同名・時期・位階などよりして、多度部の田公の子供である佐伯直鈴伎麻呂とみてあやまりはない。そして、かかる叙位は、少領・主政・主帳が大領を越えてなされたとは考えられないことより、佐伯直鈴伎麻呂が多度部の大領となっていたといえるのである。

 この鈴伎麿を空海の弟の鈴伎麻呂とみなします。空海の弟は多度郡の郡司を勤めたいたようです。しかし、残りに二人の弟については分かりません。
⑤この記録に女性は出てきません。
そのため母親の名前も、何人かいたとされる姉や妹も分かりません。
⑥空海の弟酒麻呂の息子・豊雄は、書博士として大学寮に出仕していたようです。
彼については、これ以外に史料はありません。しかし、書博士になっているのですから、書は巧みであったことがうかがえます。書は、佐伯一門の家の学、または家の技芸として、大切に守り伝えられていたと勝手に想像しています。彼がまとめた空海一族の系譜は、直接に官庁に提出されたわけではないようです。それを取り次ぎ上奏したのは、大物です。
⑦改姓・改居の上奏を行った伴宿禰善男とは、何者なのでしょうか
「是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言(もう)さく」
と、申請者に名前の出てくる人物は、名門大伴氏の当主のようです。佐伯氏は、大伴氏の出とされ同族意識を持っていたことは、以前にお話ししました。そのために、空海の甥の豊雄が書いた佐伯直氏の系譜を、大伴氏の系譜と照会し、間違いないことを保証し、中央官庁に申請したようです。一族の大物の力を借りているようです。
860年に佐伯直氏から改姓願いが出された背景は?
それは空海の弟・真雅が東寺長者に補任されたのを契機として、空海一門であることを背景に、中央へのさらなる進出を計ろうとする狙いがあった研究者は考え、次のように記します。

  「この計画を有利に進めるために、古来都における武門の名家として著名で、かつ佐伯宿爾と同じ先祖をもつ伴宿爾の当主・善男に「家記」との照合と上奏の労をたのみ、みずからの家系を権威づけるために、大伴連(宿爾)氏の系譜を借りて佐伯の興りを記し、それに田公以下の世代を繋ぎあわせたのが、「貞観三年記録」にみられる佐伯の系譜であった」

 そのためにいままでの讃岐国の佐伯直氏ではなく、中央で重要な地位を占めていた佐伯連(宿爾)の祖・倭胡連公をわざわざ「別祖」と断って、そこに系譜を継ぐという行為に表れているといえるようです。
 その系譜工作に大伴氏の当主であった伴宿禰善男も手を貸していることになるようです。
以上をまとめておくきます。
①書博士の佐伯直豊雄が中心となって申請し、佐伯宿爾への改姓と左京職への移貫が勅許されたときの記録「貞観三年記録」からは次のような事が分かる。
②讃岐国・佐伯直氏の系譜は、倭胡連公のあとで、中央の名門・佐伯宿而氏の系譜に空海の父・田公一門の系譜を繋ぎあわせたものである。
③にもかかわらず「貞観三年記録」を空海の家系図としてみた場合、空海の父・田公以下11名の世代の存在は信用できる。
④また、田公から4代前の
伊能直 ― 大人直 ― 根波都 ― 男足 ― 田公

 の系譜も、ある程度信用できる
では、この信頼できる11名の世代から何がわかるのでしょうか?
 研究者は、空海の弟や甥たちの位階は、地方在住にしては異常ともいえるほどきわめて高いことを指摘します。次回は、なぜ空海の一族の位階が高かったのかを見ていくことにします。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

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