瀬戸の島から

2020年09月

 
DSC01040明治15年 境内図
                          神仏分離後 明治13年の金刀比羅宮

神仏分離と廃仏毀釈で、仏閣であった金毘羅大権現にあった多くの仏像は「入札競売」にかけられ、残ったものは焼却処分にされたこと、そして、当時の禰宜であった松岡調が残した仏像の内で、現在も金刀比羅宮にあるのは2つだけであることを前々回に、お話ししました。この内の十一面観音については、何回か紹介しています。しかし、不動明王については、触れたことがありませんでした。今回は、この不動さまについて見ていくことにします。
1 金刀比羅宮蔵 不動明王
   護摩堂の不動明王

 現在宝物館に展示されている不動明王は、江戸時代、護摩堂の本尊として祀られていたものです。桧造りの像ですが、背後と台座はありません。政府の分離令で、金堂や各堂の仏像達の撤去命令が出たときに、急いで取り除かれ「裏谷の倉」の中に、数多くの仏像と一緒にしまい込まれていたようです。その際に、台座や付属品は取り除かれたのかもしれません。

2.金毘羅大権現 象頭山山上3

明治5年4月,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を建設する資金確保のために、それまで保管していた仏像・仏具・武器・什物の類の売却が進められます。そこで、閉ざされていた蔵が開けられることになります。
 その時のことを松岡調は、日記に次のように記しています。
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像、智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。 
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])

 彼は、以前に蔵の1階にも2階にも仏像が所狭しと並んでいたのは確認していたようですが、長櫃の中までは見てなかったのです。それを開けると出てきたのが
①弘法大師作という聖観音立像(後の十一面観音)
②智証大師作という不動立像
だったようです。
11金毘羅大権現の観音
金刀比羅宮に残された十一面観音

他の仏像がむき出しのままであったのに対して、この2つの仏像は扱いがちがいます。社僧たちの中に、この一体に対しては「特別なもの」という意識があったようです。
 改めて不動明王を見てみましょう。

1 金刀比羅宮蔵 不動明王

像高162㎝で等身大の堂々とした像です。足の甲から先と、手の指先は別に彫られたもので、今は接続する鉄製のカスガイがむきだしになっています。忿怒相の特徴ある目は、右が大きく見開き、左は半眼で玉眼を入れている。頭はやや浅い巻髪でカールしています。頂蓮はありません。右手には悪を追いはらう威力の象徴である宝剣をもち、左手は少し曲げて体側にたらし、羂索をもっている不動さんの決まりポーズです。
  私には、このお不動さんはウインクをしているように見えるのです。忿怒の表情よりも茶目っ気を感じます。もうひとつ気になるのは、足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出しているというのです。火災にあったのかなと思ったりもしますが、背面にはそれが見られないと云います。研究者は
「ただれ跡の剥落」を、「かつて護摩を焚いた熱によるもの」
と指摘します。

img000018金毘羅山名所図解
金毘羅山名所図会
 文化年間(1804~18)に書かれた『金毘羅山名所図会』の護摩堂の項には、
(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)
意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 とあり、護摩堂では連日護摩が焚かれたことが分かります。そのため、護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この像は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
この不動さんは延暦寺からスカウトされてきたようです。
護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、その時にお堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦年間(1656)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。この不動さんは、後から迎え入れたもののようです。ここにも「仏像は移動する」という「法則」が当てはまるようです。
1 護摩祈祷

 護摩は、真言密教の修験者が特異とする祈祷方法です。国家や天皇家の平安を祈って、行われました。それが、やがて権力をもつようになった貴族、さらには武家・庶民へと広かって行きます。護摩といえば不動というぐらい護摩を焚く場所の本尊には、不動明王が安置されるようになります。高く焚え上った火炎と、忿怒相の不動の前で修せられる護摩に霊験あらたかなものを感じたからでしょう。
 大日如来の化身でもあり、修験者の守護神でもあったのが不動明王です。修験者は、護身用に小形の不動明王を身につけていました。行場の瀧や断崖、磐座にも不道明王を石仏として刻んだりもしす。
 金毘羅大権現では、象頭山が修験者の行場で、霊山でした。そこに修験者が入り込み、天狗として修行に励みます。そして、松尾寺周辺に護摩堂を建立し、拠点としていきます。修験者たちの中から、金毘羅神を作り出し、金比羅堂を建立するものが現れます。それが松尾寺よりも人気を集めるようになり、金毘羅大権現に成長していくというのが、私の考える金比羅創世記です。そこからすると、金毘羅大権現の護摩堂とその本尊には興味が涌いてきます。
香川県立図書館デジタルライブラリー | 金毘羅 | 古文書 | 金毘羅参詣名所図会 4

 金毘羅さんでも、朝廷の安穏や天下泰平を願うものから、雨乞いにいたるまで諸々の願いをこめて護摩焚きが行われたようです。
 護摩堂で二夜三日修せられた御守が、大木札や紙守で、木札の先端が山形となっているのは、不動の宝剣を象徴したものと研究者は考えているようです。これらが、霊験あらたかなお守りとして、庶民の人気を集めていたことが分かります。

1 金刀比羅宮 奥社お守り

 金毘羅山内にはもう一つ不動を本尊とする堂があったようです。
万治三年(1660)に建立された本地堂(不動堂)です。ここの本尊は、護摩堂に最初にあった本尊を移してきたものでした。この堂は今の真須賀社の所にありましたが、これも神仏分離で撤去され、堂も不動も残っていません。
 宝物館にもうひとつ残されている仏像は十一面観音です。

1 金毘羅大権現 十一面観音2

この観音様は、聖観音と伝えられてきましたが、頭の穴を見れば分かるとおり、ここには十の観音様の頭が指し込められていました。つまり十一面観音だったことになります。なぜ、十一面観音を聖観音として安置していたのか。それは、以前にお話しましたので省略します。
 どちらにしても、観音堂の本尊で秘仏とされ三十三年毎に開帳されていたという観音様です。開帳の時には、多くの参詣人を集め、後には山内の宝物も拝観させるようになり、ますますにぎわうようになります。この十一面観音は、藤原時代の作で、桧材の一木造りの優品として現在は重要文化財に指定されています。
思いつくまま 第986回・金刀比羅宮宝物館
金刀比羅宮の宝物館

 宝物館に残された二つの仏像は、金毘羅大権現にとって、最も大切な仏であったことがうかがえます。不動明王は、修験者たちの守護神として、観音さまは、松尾寺の本尊だったのでしょう。金毘羅大権現には、観音信仰の系譜痕跡もあるように私には思えます。その二つのルーツを体現するのが、宝物館の2つの仏達である・・・と云うことにしておきます。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
                                                          
 明治維新直後の神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

5月に、維新政府が宥常に最初に命じたのは、御一新基金御用(一万両)の調達でした。1845年に完成し、「西国一の建物」と称された金堂(現旭社)の建設費が2万両でした。その半額にあたります。6月下旬までに、半額の5000両調達の旨請書を差出します。それに対して、新政府から出されたのが宥常を「社務職に任じる」というものでした。以下、宥常の京都での活動状況を見てみましょう。
7月 観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月13日,弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習。多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受け,
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
そして、翌年の明治2(1869)年2月,宥常は京都を発ち,月末に丸亀へ約1年ぶりに帰ってきます。
ここからは、神社化に供えて監督庁関係との今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々が贈られていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼が社神式修行指導のためにやってきて、神社経営全体への指導助言を行ったようです。
三月には,御本宮正面へ
「当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事」

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。引き続いて、山内の改革を矢継ぎ早に行います
明治2年6月 はじめて客殿で大祓の神式を行い,
10月10日の会式も神式に改めます。それまでは「山上」で行われていたのを、神輿が御旅所(現神事場)まで下って渡御する現スタイルに改められます。
明治4年6月,国幣小社に列し官祭に列せられ
10月15日,神祇官から大嘗祭班幣目録が下賜されます。
明治5年4月月,宥常は権中講義に任じられ,布教計画見通し立てるよう教部省から指示されます。これに対して、5月には早速に,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館の設置案を提出しています。
これには多くの経費が必要で、上京していた宥常は資金調達のため一旦帰国しています。その後に行われたのが、六月の仏像・仏具・武器・什物の類の「入札売却」であったことは、以前にお話しした通りです。
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像3
宥常

明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。宥常は、京都滞在の折りに何度も宮司への就任願いを提出しています。しかし、新政府が任じたのは社務職であったのです。そして、実質的な責任者として松岡調が禰宜として就任しています。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月になってのことです。この当時、宥常は金刀比羅宮のトップでは、なかったことになります。このことは、注意して置かなければなりません。金刀比羅宮の記録は、このところを曖昧にしようとする意図が見え隠れするように思えます。
明治8年1月,御本宮再営の事業が開始され、翌年9月の4月に仮遷座,
明治10年4月に上棟祭が行われます。
この費用は,官費を仰がずに、すべて金刀比羅宮で賄ったようです。そのため落成の際に,内務省から宥常に褒美を下賜された記録があります。
  このように、見ると神仏分離から10年間で金比羅さんは、仏閣から神社にスムーズに移行したかのように見えます。しかし,この間に金刀比羅当局者が受けた衝撃や打撃も大きかったようです。 たとえば、明治元年1月には、土佐軍が新政府軍として讃岐に進行して、金比羅(琴平)に駐屯します。ある意味、この時期の琴平は土佐軍の軍事占領下に置かれたことになります。そして、金刀比羅宮に5000両の明納金を求めます。金毘羅さんは、この時期に京都の新政府に1万両、土佐藩に5000両を貢納したことになります。それを支える経済力があったということでしょう。
 土佐藩占領は,徳年の11月まで続き,それ以後は倉敷県の管轄から丸亀県・愛媛県を経て,香川県に所属することになります。
しかし、幕藩体制下で朱印地として認められていた行政権は失われます。さらに,明治4年2月に神祇官から出された「上知令」で、境内地を除く寺社領の返還を命ぜられます。これは、寺院の経済的基盤が失われたことを意味します。にも関わらず、神社となった金刀比羅宮は新たな社殿建設を初めて行くのです。そこには、明治という新時代がやって来ても金毘羅さんにお参りする人たちの数は減らなかったことがうかがえます。これは、行政からの「攻撃」を受けた四国霊場の札所が大きな打撃を受け、遍路の数を大きく減らしたことと対照的な動きです。
DSC01636金毘羅大祭図

宥常は明治政府に対しては、全く忠実でした。反抗や抵抗的な動きを見つけることはできません。
それでも,宮司に仰付られたいという願いは聞き届けられず,明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。その下での社務職を務めることになります。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月に深見速雄が亡くなった後のことです
また,彼は元々は真言宗の社僧です。礼拝の対象は、仏像や経巻でした。それを売却し,焼き捨てるということに,何らかの感慨を抱いたはずですが、それに対する記録も残されていないようです。
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2


金刀比羅宮は、「勅祭の神社」とか「国幣小社」にランク付けはされましたが,それに頼っておればよいというものでありません。金毘羅大権現の名声を維持するためには,何か新しい施策を講ずる必要があると、若い社務職は考えていたようです。
1 金刀比羅宮蔵 講社看板g
 金刀比羅宮崇敬講社 定宿看板

明治7年2月に,そのために教部省宛に「金刀比羅宮崇敬講社」(略・講社)の設立を願い出ています。
信者へ直接的に働きかけ,これまで区々であった参詣講・寄進講を組織的に発展させ,金比羅の繁栄を一層確実にしようとする狙いがあったようです。講社については厖大な量の「講帳」が残っているようですが、「講帳」と関係資料を突き合わせ講社の実体を明らかにする研究は、まだ手が付けられていないようです。
 しかし、この講社の組織は「集金マシーン」として機能するようになり、金刀比羅宮に新たな資金供給源となったようです。ある意味、講社は「金の成る木」でした。宥常の最大の業績とされる「帝国水難救済会」も講社員の積立金によって、創設されています。

DSC01245
 
明治19年3月に宮司の深見速雄が亡くなり、宥常が宮司の座に着きます。名実共に、金刀比羅宮のトップになった訳です。
 その年の10月、イギリスの貨物船「ノルマントン号」が紀州大島沖で座礁沈没します。イギリス人乗組員は全員脱出して助かりましたが、乗り合わせていた日本人23人は船に取り残され全員が水死します。、同船船長に対する責任は、極めて軽微であり、日本国民の感情を大きく傷つけます。この水難事故は幕末に締結した日本と諸外国との間で結ばれていた不平等条約がからみ、大きな国際問題になります。このような水難事件に対して「海の神様」を標榜する金刀比羅宮として、出来ることは何かを宥常は考えたようです。

 「帝国水難救済会五十年史」によると,宥常はかねてから,
「神護は人力の限りを尽して初めて得られるもので,徒に神力にのみ依頼するのは却て神に敬意を失する」

と考えていたと記します。そこで、何とかして現実に海上遭難者を救うべき方法と組織を作り出したいと思っていたようです。
1 黒田清隆 日記 水難防止
黒田清隆伯の「環游日記」のロシアの水難救済協会の紹介部分

たまたま明治20年11月に出版された黒田清隆伯の「環游日記」の中に,ロシアの水難救済会の記事のあるのを見て,これこそ自分が探し求めていたものだと,「晴雲一時に舞れる心地がして勇躍,救済会の創設に取りかかった」とあります。
 明治21年8月,上京した宥常は,救済会設立のことを福家安定に相談します。
翌22年3月,再度上京して,その時は総理大臣に就任していた黒田清隆にも意見を聞き,また海軍に関係が深いことから海軍次官樺山資紀に相談すると,水路部長肝付兼行が協力してくれることになります。他にも逓信省は商船を管轄するので、管船部長塚原周造にも相談します。その他鍋島直大・藤波言忠・清浦奎吾等なども、この会の趣旨に讃同してくれ、何回かの協議を行います。
当時、金刀比羅宮崇敬講社の講員は300万人を越えいました。その積立金を,救済会設立資金に流用できる手はずになっていたようです。
こうして明治22年5月,正式に「帝国水難救済会設立願」を那珂多度郡長を経由して香川県知事に提出します。10月には,鍋島直大を副総裁に,琴陵宥常を会長に、本部を讃岐琴平に置き,支部を東京・大阪・函館に置くことに決まります。東京支社は、東京芝公園海軍水交社の建物を譲り受けています。そして11月3日(旧天長節)に,琴平本部での開会式後に,多度津救済所で遭難船救助の演習を行っっています。12月には各府県知事に本会役員として会員募集を行ってくれるよう依頼することを決めます。
1有栖川宮威仁親王

翌年明治23年4月には,有栖川宮威仁親王が総裁に就任することになります。こうして,宥常の長年の希望であった水難救済会は,着実な第一歩を踏み出していきます。ここへ来るまでに,宥常が救済会のために使った私財は多大なものであったと言われています。
 明治25年2月に宥常が53歳で亡くなります。
1琴綾宥常 肖像画写真
琴綾宥常 高橋由一作

これを契機に水難救済会の本部は東京に移されます。救済会を国家的事業として発展させてゆくための選択だったのでしょう。そして、生まれだばかりの救助会の帆には、時代の追い風が吹きます。
金刀比羅の宮は畏し舟人が流し初穂を捧ぐるもうべ - 八濱漂泊傳

明治28年日清戦争勃発前後になると、海軍軍艦からの流初穂(流し樽)が多く届けられるようになります。
4月 軍艦筑波から,
7月 磐城から,
明治28年4月 水雷母艦日光丸
6月 再度軍艦磐城から,
9月 軍艦龍田
からの流初穂が届けられています。この傾向は、戦後も続き、10年後の日露戦争の時には、さらに増加傾向を見せるようになります。この頃になると、軍艦だけでなく
海軍軍用船喜佐方丸
海軍運送船広島丸
連合艦隊工作船関東丸
横須賀海運造船廠機関工場造船部関東丸
陸軍御用船盛運丸
津軽海峡臨時布設隊新発田丸
などの陸海軍の御用船からの流初穂も含まれるようになります。これが次第に、一般商船,運送船などからの流初穂の奉納につながっていくようです。
モルツマーメイド号 金刀比羅宮 ( 7 ) | 札所参拝日記のブログ

 明治39年から大正初年までを見ても,
加賀国江沼郡槻越大家七平手船翁丸
東洋汽船株式会社満洲丸
大阪商船株式会社大知丸
日本郵船株式会社和歌浦丸
越中国新湊町帆船岩内丸
越中国氷見町八幡丸
日本郵船株式会社横浜丸
北海道小樽正運丸
加賀国江尻郡橋立村七浦丸
などから奉納が見えます。
 ここから見えてくることは「流樽」というのは、
①日清戦争前後に海軍軍艦 → ②軍関係の船舶 → ③日露戦争前後に民間船
へと拡大していたことが見えてきます。起源は、近代に海軍軍艦が始めたもので、江戸時代に遡る者ではないようです。

 これらはみな流初穂が本社まで届いたので,記事としても残っています。しかし、時には届かない場合もあったようです。明治39年12月,軍艦厳島からの初穂の裏書には,
「奉納数回せしも果して到着せしや否や不分明なれば今回御一報を乞う」

と書かれていたようです。
 以上の記事の見える船の所属機関・所有者を見ると,北海道から九州まで日本全域にわたっています。ここからは、金刀比羅宮が海上守護の神として,広く厚い信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。これも神社に転進させた宥常が「海の神」という自覚を持ち,水難救済会創設という国家の仕事を代行するような活動を起したことから始まったようです。
参考文献
  松原秀明                神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
                                                          

伴天連追放令
1587(天正15)7月24日(旧暦6月19日) 九州平定後に秀吉は、伴天連追放令を出します。
 秀吉から棄教を迫られた高山右近は、それに従わず追放されます。そして、九州の教会はことごとく閉鎖され破壊され、イエズス会が所領としていた長崎、茂木、浦上も没収されます。九州の宣教師達は、平戸に逃れて緊急会議を開き、当面の対応策を協議し、可能な限り日本滞在を引きのばすことを決定します。
 秀吉の命令は、畿内にも及びます。京都の南蛮寺をはじめ、畿内の教会は次々と破壊されます。右近の淡路の領土も没収され、多くの吉利支丹が路頭に迷います。

1室津 俯瞰図
    播磨室津 当時は小西行長の支配する軍港でもあった

このようななかで近畿の宣教師達は、室津に避難して今後の対応策を有力信者たちと協議します。
ここにやってきた宣教師達は、前日本副管区長のオルガンテイーノ、大坂のセスペデス神父、プレネスティーノ神父、コスメ神父、堺のパシオ神父たちでした。
 右近が追放された今となっては、畿内の宣教師たちの頼みの綱は、若き「海の青年司令官」の小西行長でした。行長の保護がなんとしても欲しかったのでしょう。しかし、頼りとする行長は九州から帰った後、宣教師からの呼びかけに応じようとしません。堺から動かないのです。それは、なぜだったのでしょうか。

室津で何が話し合われ、どんなことが決定されたのかの手がかりは、オルガンチーノの報告書にあります。
 オルガンチーノはイタリア人で1570年来日。1603年まで30年余の間ミヤコ地区の伝道に係わり、1577年からはルイス・フロイス神父に替って長らく同地の布教長を勤めています。1580年に信長の許可を得て安土に創立されたミヤコのセミナリヨの院長も兼務しています。彼は「ウルガン伴天連」の名で上方の日本人によく知られていたようです。1603年晩年を長崎で過ごし、1609年76歳で他界しています。
 オルガンチーノが潜伏地から1587年11月25日付で、平戸のイエズス会宛てに送った経過報告書をみましょう。
 秀吉の伴天連追放令でイエズス会の宣教師やイルマン達は平戸に集合させられた。しかし、私は決死の覚悟でミヤコ地区(近畿以東)で、唯一人留まる決心を固め、室津(むろつ)に残った。
しかし、追放令のことを知った室津の人達の私への対応は非常に冷たく、私がこの地に留まることを拒んだ。アゴスチニヨAgostinho小西行長の兄弟が、私の室津退去を促す行長からの通知を伝えてきた。港の重立った人達も、私の室津残留を不可とし追放するよう主張した。
   私は、日比屋了珪の息子ビセンテを堺へ赴かせ、行長を連れてくるように命じた。しかし、行長は、神父に好意を寄せると秀吉ににらまれて自身やキリシタン宗団に不幸が降りかかるかも知れないと恐れ、室津へ来ようとしなかった。私は、再度ビセンテを堺に遣わし、
「もし室に来ないのなら、こちらから大坂か堺の貴殿または父君(小西隆佐)の所へ行って告白を聴かなければならない。」
と伝えさせた。恐れた行長はやっと室に来たが、罪の告白のためではなく、私を室津から去らせようとして来たのであった。行長の心中は、室津到着早々に受けた室の人達や都にいる兄弟からの影響もあって、絶望的な状態に陥っていた。それを察した私は行長に述べた。
「私が室に残留することにしたのは、貴殿やミヤコのキリシタン達の信仰を守り抜く為である。しかるに、貴殿が告白もせず、私をどこかにかくまって助けることをしないのなら、私は都または大坂に行き、泊めてくれる人がいない時は街路に立つつもりである。平戸は遠過ぎてミヤコ地区の信徒の援助に来られないから、私は平戸へ行くべきではない。」と。
これを聞いた行長は泣き出した。こうして私の覚悟を知った行長は、信仰のために命を賭して私を隠す決心をしたのである。
ここからは次のような事が分かります
①オルガンチーノが平戸に退避せずに、この地に残ることを主張したこと。
②それに対して小西行長や室津の有力者達は、室津からの退去・追放をもとめたこと
③オルガンチーノの「脅迫」で、行長は室津にやって来るがそれは室津からの退去を求めるためであった。
ここからは行長が怯えていたことがうかがえます。行長だけではありません。室津の信徒たちまでが行長の意向を受けて、宣教師たちの宿泊を拒絶し、一日も早く退去せよと迫っていたようです。そして、堺から行長の弟がやってきて、「これ以上の助力は自分に不可能だから、すぐにも立ち去るように」と行長の命令を伝えるのです。
 九州平定を終えた秀吉が、まもなく大坂に凱旋するような時期に、室津に宣教師を匿っていることを秀吉が知ればどうなるでしょうか。秀吉の怒りをかうのが怖かったのです。信仰よりも、高山右近の二の舞になるのはゴメンだという気持ちの方が、この時点では強かったのでしょう。行長の胸の内を、もう少し覗いてみましょう。
 怯えた行長は、了珪が持参した手紙さえも受けとりません。了珪はふたたび室津に戻り、その旨を神父に報告します。オルガンティーノは再度、了珪を堺に送り、行長が室津に来ないのなら自分が堺に赴き、隆佐(行長の父)とお前とに会おう。そして切支丹として告白の秘蹟を受けぬ限りは堺を立ち去らぬつもりだと言伝ます。
 この言伝てを聞いた行長は、迷い悩みます。オルガンティーノが堺にくれば事態は一層、悪化し、自分や一族に累が及ぶだろう。それは避けなければならない。そこで、ジョルジ弥平次(河内岡山の領主・結城ジョアンの伯父)を伴って、重い心で自ら室津にやってきます。それは。オルガンティーノに九州に去るよう説得するためでした。

1室津 絵図
室津
 神父と行長との間には激論がかわされたようです。
オルガンティーノは秀吉の怒りと宣教師の安全を主張する行長に、信仰の決意を促したのでしょう。にもかかわらず行長の動揺は消えません。神父は遂に自分は九州には決して戻らぬと宣言し、自分は殉教を覚悟でふたたび京に戻るか、大坂に帰るつもりだと宣言します。オルガンティーノ神父の不退転の決心に、おのれの勇気なさを感じたのかもしれません。   
1 イエズス会年次報告
                     
   オルガンチーノ神父書簡の和訳は、2つ出版されています。
「新異国叢書」村上直次郎氏訳も「十六・七世紀イエズス会日本報告集」松田毅一氏監訳も、「泣き」「泣き出し」と訳されています。
 しかし、ルイス・フロイス著「日本史」中央公論社版1の松田毅一・川崎桃太両氏共訳では、「ほとんど泣き出さんばかりになりました」とあり、和訳の表現に微妙な違いがあようです。どちらにしても行長は、信仰と現実の間で苦しみ悩んでいたようです。 オルガンチーノは、自分の決意と説得が思い悩む行長の気持ちを変えたと報告しています。
 しかし、自らもキリスト教徒であった作家の遠藤周作は、小説「鉄のくびき 小西行長伝」の中で、それよりも大きな人物の存在があったと云います。行長の迷える心を支えたのは、高山右近の登場だったと云うのです。

高山右近とは?高槻城やマニラ、子孫や細川ガラシャとの関係について解説!

オルガンチーノの報告書の続きを読んでみましょう
この日、うれしいことにジュストlusto高山右近と三箇マンショManclo及び小豆島を管理している作右衛門(?)が私に会いにきた。また、都からは数人のキリシタンが、私の潜伏に適した家を近江に準備してあるからと、駕籠と馬を伴い迎えに来たのである。一同は、室津付近に行長からジョルジorge結城弥平次(河内出身のキリシタン武将)に隠れ家兼臨時宿泊所として与えられた家に集まって聖体拝領した。
   次の日、互いに決意を述べ合い、私と高山右近が当地方に隠れることについて協議した。
私は、行長領たる室津に隠れて発見された時は行長一家に迷惑を掛けるから、都のキリシタンの設けた隠れ家へ行くのが何かにつけ最良だ、と言ったところ、行長がきっぱりした言葉で私の都行きに反対し、自分が他の誰よりも巧妙に神父・右近やその父ダリヨと妻子を隠すことができる、と決死の思いを述べた。皆賛成して非常に喜んだ。
バテレン追放令後に、大名の地位を捨て姿を消していた高山右近は、行長の手引きで淡路島に帰っていたようです。
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右近は、明石船揚城の城下町に宣教師を招き、最盛期には2000名を超える信者がいたという。明石の町は堺などへ海上ルートの中継港町として大いに栄えた。

室津の状況を聞いて、父ダリオ・弟太郎右衛門や行長の家臣の三箇マンショと室津にやってきます。
右近は、行長たちに向って我々が今日まで行ってきた数々の戦争がいかに無意味なものであったか、そして今後、行う心の戦いこそ苦しいが、最も尊い戦いなのだと熱意をこめて語ります。それは「地上の軍人から神の軍人」に変った右近の宣言であり、彼は今後、どんな権力者にも仕えないことを誓います。
 また父ダリオ・弟太郎右衛門も宣教師たちを励まし、慰め、生涯、信仰を棄てぬことを誓います。このような右近一族と、行長の態度は対照的です。フロイスも「行長は宣教師たちに冷たかった」と書いています。右近一族の登場が、その後の展開に大きな影響をもたらすことになったと遠藤周作氏は考えているようです。

フィリピン マニラ 高山右近 禁令 キリシタン大名 パコ Manila Takayama
マニラの高山右近像

 この後の対応策は、いかに秀吉をだますかということです。秀吉への裏切工作が話し合われます。
秀吉の眼をかすめ、秀吉をだまし、いかにオルガンティーノを自分の領内にかくし、切支丹信徒たちをひそかに助けるか、その経済的援助はどうするかを、日本人信徒達は夜を徹して話し合い、その結果を、翌朝に宣教師達に伝えたようです。
 こうして行長と右近たちは協議の結果、次のことを決めます。
①オルガンティーノと右近を、小豆島に隠すこと。(史料には小豆島の地名は出てきません)
②二人の住居は秘密して、誰も近づかぬようにすること。
③神父と右近とは離れて別々に住む。万一の場合はこの室津に近い結城弥平次の知行地に逃げること。
小豆島は行長の領地であり、切支丹の三箇マンショが代官でした。前年には、セレペデスによって布教活動も行われ「1400人」の信者もいます。二人を隠すには最適です。

小西 行長 | サラリーマンと不動産投資
小西行長

 国外退去命令の出た宣教師をかくまい、その援助をするのは明らかに秀吉にたいする反逆です。
これは自らを危険にさらすことです。バテレン追放令が出された時には、自分や一族のことを守ることだけを考え、卑怯で、怯えた行長が、このような危険に身を曝すようになったのです。そこには、試練と向き合い成長し、強くなっていく姿が見えてきます。
 あるいは、秀吉の野心実現のための駒には、なりたくないという気持がうまれていたのかもしれません。権力者の人形として、動くことへの反発心かもしれません。
 あるいはまた「堺商人の処世術」かもしれません。
表では従うとみせて、裏ではおのれの心はゆずらぬという生き方です。その商人の生き方を、関白にたいして行おうとする決意ができたのかもしれません。
 切支丹禁制に屈服したように装いながら、宣教師をかくまうことは秀吉を「だます」ことです。それはある意味で裏切りであり、反逆でした。その「生き方」が、朝鮮侵略においても秀吉を「だまし」和平工作を行うようになるのかもしれません。

 資料には出てきませんが、室津では今後の「秀吉対策」も協議されたたのでないかと研究者は考えているようです。
行長と宣教師の間では南蛮貿易が、宣教師の介入なくしては成り立たないことが分かっています。南蛮船で渡来したポルトガル商人たちは、日本通の宣教師の話をまず聞き、その忠告で取引きを行っていました。そして、イエズス会は南蛮船の生糸貿易に投資し、その利益で日本布教費をまかなってきました。バテレン追放令の目的の中には、宣教師を国外追放し、彼等をぬきにして秀吉が南蛮貿易の利益を独占しようとする意図もあったようです。
 これに対してイエズス会からすれば、それを許してはならず

「宣教師がおればこそ、ポルトガル商人との貿易も円滑に成立するのだ」

ということを秀吉に知らしめる必要があるという共通認識に立ったはずです。そうすれば、やがて関白は嫌々ながらも、一時は追放しかかった宣教師の滞在を許すかもしれぬ。行長やオルガンティーノが、このような方策を協議したことは考えられます。

 「イエズス会の対秀吉戦略」の成果は? 
バテレン追放令の翌年天正十六年(1588)、秀吉は、長崎に入港したポルトガル船から生糸の買占めを行おうとします。秀吉は二十万クルザードという大金をだして生糸のすべてを買いとろうとします。この交渉を命ぜられたのは行長の父、隆佐でした。彼はこの交渉を成立させています。しかし、後にこの交渉が成立したのは、隆佐が宣教師の協力を得たからであることを、秀吉はしらされます。
 更に、天正十九年(1591)には、鍋島直茂や森吉成の代官が「宣教師ぬき」でポルトガル船から直接に金の買占めをしようとします。しかし、ポルトガル人たちはあくまでもイエズス会の仲介を主張してこれを拒否し買い占めは成立しません。秀吉は、ここでも宣教師達の力を見せつけられてのです。

ヨーロッパから伝来した「南蛮文化」とは? | 戦国ヒストリー

 これらの経験から南蛮貿易で儲けるためには、宣教師の力が必要だということを、秀吉は学ばされたのかもしれません。
これ以後、秀吉は少しずつ折れはじめます。当初は教会の破壊やイエズス会所領の没収を命じていた関白は、宣教師の哀願を入れ、その強制退去を引き延ばし、最後には有耶無耶になってしまいます。
 秀吉はマニラやマカオとの貿易では、宣教師の協力がなくては儲けにならないことが分かってきたのでしょう。秀吉は、現実主義者です。宣教師たちの残留を公然とは認めませんが、黙認という形をとりはじめます。実質的には、行長たちは勝ったと云えるようです。
 
一度は平戸に集まった宣教師たちはふたたび五島、豊後に秘密裡に散っていきます。
彼等はこの潜伏期間を日本語の習得にあて次の飛躍に備えたようです。小豆島にかくれたオルガンティーノも変装して扉をとじた駕寵にのり、信徒たちを励ましに歩きまわるようになります。

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秀吉のバテレン追放令後の天正十五年(1587)の陰暦六月下旬から七月上旬に、室津で開かれた吉利支丹会議は、イエズス会の日本布教にとっては大きな試金石であったように思えてきます。
 小西行長にとっては、彼の生涯の転機となった場所だったと研究者は考えているようです。彼の受洗は幼少の時のことで、動機も父親の商売上の都合という功利的なものだったかもしれません。しかし、彼はこの時、室津から真剣に神のことを考えはじめるようになります。そのためには、追放令という試練と高山右近という存在と、その犠牲とが必要だったのかもしれません。
  今日、グーグルで検索しても室津には、行長や右近をしのぶものはないようです。ここが行長の魂の転機となった場所だとは、知るひとはいないようです。
参考文献 遠藤周作 鉄のくびき 小西行長伝



C-23-1 (1)

 明治初期に吹き荒れた神仏分離・廃仏毀釈の嵐を、金毘羅大権現は金刀比羅神社に姿を変えることで生き残りました。そこでは、仏閣から、神社への変身が求められました。それに伴って金毘羅大権現の仏像・仏具類も撤去されることになります。仏さん達は、どこへ行ったのでしょうか。全て焼却処分になったという風評もあるようですが、本当なのでしょうか。金毘羅大権現を追い出された仏達の行く方を追って見たいと思います。

  松岡調の見た金毘羅大権現の神仏分離は       
 明治2年(1869)4月、「事比羅宮」(旧金毘羅大権現・以後は金刀比羅宮使用)を多和神社社人の松岡調が参拝しています。彼の日記『年々日記』同年4月12日条に、次のように記されています。

 (前略) 護摩堂、大師堂なとへ行見に、①内にハ檀一つさへなけれハ、ゐてこしヽ老女の涙をおしのこひて、かしこき事よと云たるつらつき、いミしうおかし、かくて本宮へ詣て二拝殿へ上りて拝奉る、御前のやう御撫物のミもとのまヽにて、其外は皆あらたまれり、白木の丸き打敷のやうなる物に、瓶子二なめ置、又平賀のさましたる器に、②鯛二つかへ置て奉れり、さて詣っる人々の中にハ、あハとおほめく者もあれと、己らハ心つかしハそのかミよりは、己こよなくたふとく思へり、
絵馬堂へ行て頚(くび)いたきまて見て、やうように下らんとす、観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像ハとりたる跡へ御簾をかけて、白幣を立置たり
  意訳しておきましょう
4月12日 護摩堂、大師堂なども見てまわったが、①堂内には檀一つも置かれていない。それを見た老女が涙を流しながら「かしこき事よ」と呟いた表情が、印象に残った。
 本宮に詣て、拝殿に上り拝奉した。御前の様子は御撫物は、もとのままであるが、その他は全て神式に改められていた。白木の丸い打敷のような物に、瓶子が置かれ、平賀のさましたる器に、②鯛が2匹が供えられていた。参拝する人々の中には、生ものが供えられていることに驚く者もあるが、私は、その心遣いが上古よりのものであり、こよなく貴いものをと思った。
 絵馬堂を見て、階段を下ろうとすると観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像は取り除かれている様子で、その跡に御簾をかけて、白幣を立置いてあった。
この日記からは、仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子が見えてきます。仏像仏具に関しては
①護摩堂、大師堂などの、堂内には仏像はもちろん檀一つも置かれていない。
②拝殿も全て神式に改められ生ものの鯛も供えられていた。
③観音堂も金堂(現旭社)も十王堂も、仏像は取り除かれ、その跡に御簾をかけて白幣を立置かれてあった。
 松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任します。
1 金毘羅 狛犬1

さて、撤去された仏像はどうなったのでしょうか。
 取り除かれた仏像・経巻・仏具類は、仏堂廃止とともに境内の一箇所に取りまとめて存置されていたようです。それが動き出すのは、松岡調が金刀比羅宮の禰宜に就任した年になります。明治5年4月に香川県宛に旧金光院時代の仏像の処分について、伺いが出されています。これについては『年々日記』明治五年四月二十四日条に、
二十四日 一日ハ(晴)れす、会計所へものせり、さきに県庁へねき聞へし条々につきて、附札にてゆるされたる事ども
事比羅神社社用之廉々伺書
一 当社内二在之候従来之仏像、御一新後悉皆取除、山麓之蔵中江集置候処、右撥遣(廃棄) 二相成候上者、如何所置可仕哉、焼却二及候而も不苦候哉之事、
      焼却可申事 (○中略)
事比羅神社
  県庁御中
意訳しておくと
当社内に保管する仏像について、維新後に全て取除き、山麓の蔵中へ集めて保管してきました。これらについて廃棄することになった場合は、どのように所置すればよろしいか。焼却してもよそしいか。

この伺いに対する香川県の回答が「焼却可申事」であったようです。ここからは仏像類の処分方法について、金刀比羅宮が事前に香川県の承認をうけていたことが分かります。4月に焼却処分の許可を得た上で、8月4日に仏像類の大部分を焼却したようです。
これだけ見ると「全ての仏像・仏具を焼いた」と思われそうです。実際に、そのように書かれた本や言説もあります。しかし、松岡調の日記を見ると、そうではないことが分かります。

1 金毘羅 狛犬222表

 処分に先立って、松岡調自ら仏像・仏具類を納めた倉庫を検分したり、松崎保とともに社中に残し置くべき仏像などについて、立ち合い検査を行なっています。6月から7月になると『年々日記』に、次のような記述が見られるようになります。
 
五日 (中略)今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり、(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕、読点筆者)

八日 雨ふる、こうきあり、例の時より会計所へものセり、西の宝庫に納たりし雑物を出して塵はらわせり、来る十一日にハ、仏像仏具を始、古きものともをうらんとて置そす、今夜いミしう雨ふる、(以下略)(『年々日記』明治五年〔七月八日条〕)

6月5日には、金毘羅さんのお膝元・榎井村の行泉(興泉)寺が梵鐘を227円50銭で買いつけています。これも、戦中の金属供出で溶かされたのでしょうか、今は興泉寺に、この鐘はないようです
7月8日には、西の倉庫に保管されていた「雑物」を出して奇麗にしたようです。それは仏像仏具を売りに出すための準備であったようです。
 九日 雨はれす、二字(2時)のころやうくはれたり、御守所へ詣てつ、間なく裏谷なる仏像、仏具を納たる倉を見にものセるか、大きなる二層の倉の上にも下にも、かの像ともの古きなる小きなる満々たり、小きこまかなるは焼ハらふも、いとあたらしきワさなれハ、仏ゑと共にうらんとて司庁(社務所)へおくりやる、数多の中に大日仏の像なとは いみしき銅像になん、
(『年々日記』明治五年 〔七月九日条〕)
意訳すると
7月9日 
雨晴れず、2時頃からようやく晴れてきた。御守所へ参拝してから「裏谷」の仏像、仏具を保管している倉を見行く。そこには大きな2層の倉の上にも下にも、古い仏像や小さい仏像などで満ちている。小さい仏像は燃いても、造られたばかりの新しいものは、仏絵と共に売ることにして司庁(社務所)へ運んだ。数多くある中でも大日如来像は、価値のあるもののように見える。       
ここからは、次のような事が分かります。
①「裏谷」にある倉に仏像、仏具を保管してあったこと
②倉の中には、仏像でいっぱいだったこと
③新しい仏像は、仏絵と共に販売するために運び出したこと
④大日如来像はすぐれた作品であると「鑑定」していたこと
明治元年に撤去された仏像たちは、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されていたようです。そして、売れるものは売るという方針だったことがうかがえます。
1 金毘羅 備前焼狛犬1

十日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ 
   (『年々日記』明治五年 【七月十日条】)
     ○
意訳すると
7月10日 明日11日から始まるオークションの準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものである。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

  仏画類については、前日に書院のなげしに掛けて「鑑定」を行って、おおよその価格を事前に決めていたようです。
1 金毘羅1 狛犬11

さて入札当日は、どうだったのでしょうか。
十一日 御守所へものセり、十字のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、
 (『年々日記』明治五年 七月十一日条)
意訳すると 
7月11日 10時ころより、多御守所でセり(入札)が始まり。多くの人がやって来て入札品を見てまわった。しかし、仏像などは鑑定眼がないので、近寄る者はいない。難物や古かねの類の価値のないものはおおから買取り手が見つかった。ある人が言うには、仏像の類は15日が過ぎるまで待ったらどうか。近くの寺々に、この入札会のことを知らせれば、買い手も集まってくるだろう。

十二日 東風つよく吹けり、会計処へものセり(払い下げ)、今日も商人数多ものして、くさくさの物かへり、己ハ柳にて作れる背負の鎧櫃やうのもの、価やすけれハかいつ、よさり佐定御願へものセるに、かたらへる事あり。    
意訳
7月12日 束風が強く吹いた日だった。会計所へ払下品を求めて、今日も商人たちが数多くやってきて、買っていく。自分は、柳で編んだ背負の鎧櫃のようなものを、値段が安いので買った。佐定は御願へもとするのに使うために、相談があった。

仏像・仏具の払い下げが、11日から始まったようです。最初に売れたのは、「難物・古金」のように重さで売れるものだったようです。仏像などは、見る目がないので手を出す者は初日にはいなかったようです。そして、ここでもコレクターとしての血が騒ぐのでしょう、松岡調は「柳で編んだ背負の鎧櫃」を買い求めています。

1 金毘羅 真須賀神社狛犬12
18日 今日も同じ、裏谷の蔵なる仏像を商人のかハんよしをぬきだし、ままに彼所へものさハりなきをえり出して売りたり、数多の商人のセりてかへるさまのいとおかし
 (『年々日記』明治五年 [七月十八日条])

十九日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、(○以下略)『年々日記』明治五年〔七月十九日条〕)
意訳
7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。
     
7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)
1 金毘羅 牛屋口狛犬12

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、大かた売り払った。(『年々日記』明治五年七月二十一日条〕)

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったよです。
二十三日 御守所へものセり、元の万燈堂に置りし大日の銅像を、今日金六百両にてうれり
 (『年々日記』明治五年〔七月二十三日条〕)
意訳すると
23日 御守所での競売で、旧万燈堂に安置されていた大日如来像が金600両で売れた。

1 金毘羅 高灯籠1

 二十日 会計所へものせり、去し六月のころ厳島の博覧会にいたセる、神庫物品目録と云を見に、仏像、仏具を数多のセたるより、ワか神宮の仏像の類も古より名くハしき限りハのこし置て、さハる事もなからすと思ふまゝに佐定とかたらひ定て、この程県庁へさし出セし神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録かかせて、明日戸長の県庁へものセんと聞かハ、上等使部山下武雄をやりてかたらひつ、此つひてに志度郷の神宮の宝物、また己かもたる古器をも、いさヽかいつけ(買付けて)てことつけたり、
  (○中略)
 よさり佐定と共に裏谷に隠置(かくしおき)たる物を検査にものセしに、長櫃二つあり。蓋をとりて見に、弘法大師の作といふ聖観音立像、及智証大師の作といへる不動の立像なといミしきもの也、外に毘沙門また二軸の画像なとの事ハ、こヽには記しあへす、今夜矢原正敬かりに宿る。
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])
意訳すると 
会計所での「ものせり(入札)」の日である。昨年6月に安芸の宮島厳島神社の博覧会の時の「神庫物品目録」を目にした。そこには仏像、仏具を数多く載せてある。我が金刀比羅宮の仏像類も古くて価値があるものは残して置いても支障はないと思うようになる。
 佐定と相談して、県庁へ提出した神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録に追加させた。それを明日、琴平の戸長(町長)が県庁(高松)へ出向いて入札すると聞いたので、上等使部山下武雄を使いにやって、志度郷の神宮の宝物、また自分のものとして古器なども、かいつけ(買付けて)を依頼した。
  (○中略)
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。        (『年々日記』明治五年[七月二十日条])
1 JR琴平駅前狛犬

ここからは、次のようなことが分かります。
①宮島厳島神社の目録を見て、価値のある仏具類は残すことが出来ないか考えるようになったこと
②一部は志度の多和神社や自分のものとして、買い付けていたこと。
③裏谷の倉の長櫃から弘法大師や智証大師の作という仏像が出てきた
④その他にも毘沙門天像や軸物など「お宝」でいっぱいだったこと。
⑤矢原正敬を訪れ、今夜はそこに泊まること
ここからは価値のある仏像類は、残そうという姿勢がうかがえます。また、個人蔵とするために、お宝を買い付けていたことが分かります。このあたりに、松岡調のコレクターしての存在がうかがえます。多和神社や多和文庫の中には、金毘羅大権現からやってきたものがあるようです。
  そして、矢原正敬が登場してきます。
「矢原家家記」によると、矢原氏は讃岐の国造神櫛王(かんぐしおう)の子孫を自称し、満濃池再興の際には、弘法大師が先祖の矢原正久(やばらまさひさ)の邸に逗留したと記し、自らを「鵜足郡と那珂郡の南部を開拓し郡司に匹敵する豪族」とします。
 そして、近世になって西嶋八兵衛の満濃池再築の際にも、池の中に出来ていた「池内村」を寄進し、再築に協力したと伝えられます。その功績で、満濃池の池守として存続してきた家です。 矢原正敬はその当主になります。   歴史的な素養もあり、骨董品についても目利きであったようなので松岡調とは、気心があったようです。この日も、夜を明かして、「裏谷の倉」に眠る「お宝」についての話が続いたのかもしれません。

倉の中に保管していた仏像・仏具を、明治五年になって処分しようとしたのはなぜでしょうか。
それは、宥常が進める事業の資金を賄うためであったようです。
明治5年4月,宥常は権中講義に補せられ,布教活動プランを提出するよう教部省から求められます。これに対して、宥常は早速に東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を設置案と提出します。しかし、これには多くの経費が必要となりました。上京していた宥常は、資金調達のため一旦帰国しています。そして、6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まるのです。ここからは、東京での出費を賄うために「仏像・仏具の入札」という方法が採られたと研究者は考えているようです。

 残った仏像類の処分に関しては、次のような記録があります
 葉月三日 四日
   今日第八字ヨリ於裏谷、仏像不残焼却致候事、
   担シ 禰宜、社掌、筆算方 立合ニ罷出候
中略
佐定云、さハりありとて残置し仏像を此八日の頃に皆焼きすてたり、一日の内に事なくハて、灰なとハ何処となく埋めさセたり、ことにをかしき事にハ、たれに聞きつけたるか、其日の日暮れ頃に老いぼれたる老女の二三人、杖にすかりあえき来て、かの仏像を焼たる跡に散りぼひたる灰を、恐ろしきことよとつまミ取て、紙に包ておしいたヽきて帰りしさまと、又仕丁ともの灰をかきよセて埋る時に、眼の玉を5つ六つ7つなと拾ひて、緒しめにせんなと云あへりし事よ、又瓔珞(ようらく)の金具のやけ残りたるを集さセて売しに、金三両にあまれりなと かたれり。
 (『年々日記』明治五年〔八月十八日条〕

意訳すると
8月3・4日 今日8時から裏谷で、仏像を全て焼却した。これには、禰宜、社掌、筆算方は立ち会ていない。(中略)
佐定は次のように話した。
「障りがあると残していた仏像を、皆焼きすてた。一日の内に、無事終えて、灰などは何処となく埋めさせた。印象に残ったことは、誰に聞いたのか、その日の日暮頃に老女が二、三人、杖にすがり喘ぎながら登ってきて、仏像を焼いた跡に散らばる灰を、「恐ろしきことよ」と、拾い集めて、紙に包んで押し頂くように帰って行った姿と、仕丁たちが灰をかき寄せ埋る時に、眼の玉をいくつも拾ひて、緒び締めにしようと言い合っていたことである。
 また瓔珞(ようらく)の金具のやけ残を集めて売ったところ、金三両になったと云うことだ。 
 こうして仏像・仏具類などは売却され、残ったものは焼却処分にされたようです。
ここからは「全てが焼かれた」のではないことが分かります。例えば、最後まで残った大日如来像が金600両で入札されています。松岡調が目を付けていた仏像だけの価値はあったようです。これがどこの寺に収まったのか気になるところです。入札で、買い手が付いた仏像や仏画などは商人の手を経て、どこかの寺に収まったのかもしれません。また、全国ネット取引を通じて、横浜に運ばれ海外に流出したものもあるのかもしれません。それも仏像に「流出先 金毘羅大権現 明治5年競売」とでも書かれていない限りは、探しようがありません。どちらにしても大量の仏像・仏具が、明治初期には市場に出回ったことがうかがえます。
 そして、こうした仏像は「寺勢」のある寺に自然と集まってくるのです。古い仏像があるだけでは、そのお寺の年暦が判断できないのは、こんな背景があるからなのでしょう。
 
禰宜であった松岡調が「宝物」として遺した仏像類も何体かあったようですが、現在残るのは次の二体です。

Kan_non
①伝空海作とされていた十一面観音立像(社伝では正観音といわれており、旧観音堂本尊)重文
1 金刀比羅宮蔵 不動明王

②伝智証大師円珍作とされていた不動明王像
(旧護摩堂本尊)重文
 
備前西大寺には、金毘羅から二体の仏像が「亡命」しています。
これは万福院の宥明(福田万蔵)が、明治3年に岡山の実家角南悦治宅に移したものでした。裏谷の倉の中に保管されていた仏像群の中から不動明王と毘沙門天を選んで、密かに運び出したようです。このような例は、これ以外にもあったのではないかと思うのですが、その由来が伝わっているところは、あまりありません。確かに本尊伝来書に
「金毘羅さんで競売された仏を入札したのが現在の本尊」

と書くのは憚られます。それに、似合う物語を創作するのが住職の仕事でしょう。
西大寺の金毘羅大権現の本地仏
西大寺に移された仏像
以上をまとめておくと
①神仏分離で金毘羅大権現の仏像・仏具類は撤去され、裏谷の倉に保管された
②明治5年に、東京虎ノ門の事比羅社内に神道教館を設置することになり資金が必要になった。
③そこで、保管していた仏像・仏具類の入札販売を行うことになった
④6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まり、7月末には売却を終えた。
⑤8月に残ったものを償却処分にした。
ここから多くの仏像は、競売品として売られていたことがうかがえます。それが、いまどこにあるのかは一部を除いてわかりません
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
松原秀明    神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
西牟田 崇生 金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

                                                        

5 小西行長像5
小西行長
 
以前に秀吉の下で「瀬戸内海の海の青年将校」に任命された小西行長が、その領地となった小豆島に兄のように尊敬する高山右近を見習って「地上における神の国」の建国を目指そうとしていたことをお話ししました。今回は、それを宣教師の立場からもう少し詳しく見ていこうとを思います。
5 堺南蛮貿易

 秀吉は賤ヶ岳の戦いに勝利すると、中国地方と四国への侵攻を同時進行のような形で進めます。その過程で改めて瀬戸内海の重要性を認識したようです。四国や九州を平定し、朝鮮半島への野望を満たすためには、瀬戸内海を生命線としてしっかりと掌握する必要があることを秀吉は、感覚的に分かったように思います。平清盛をはじめ古代からの天下人が、瀬戸内海を掌握し、富を蓄え国を動かしてきたのです。そのために秀吉が行った政策で、讃岐に関係することを3つ挙げるすれば次のようになります。
①村上水軍などの海賊衆の排除と制海権の掌握
②小西行長を、秀吉直属の「海の青年司令官」に任命し、小豆島・室津・牛窓を与える
③瀬戸内海の戦略物資の輸送船団として塩飽を把握するため朱印状を与える。
こうして堺商人の息子・小西行長が「海の青年司令官」として、小豆島にやって来ることになります。行長は高山右近が淡路島の領地で行っていた宗教政策を参考に、小豆島の統治を考えます。それは若くしてキリシタン大名となった行長の理念と理想を実現しようとするものだったのかもしれません。そのために、イエズス会に宣教師の派遣を依頼していたようです。それに応えて、やってきたグレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedesの活動報告が残っています。それを見ていくことにします。
コエリョ
1586(天正14)年春、秀吉は九州平定の前年に、イエズス会に対してキリスト教布教許可を与える決定を行い、その旨を通知します。それを受けてイエズス会日本副管区長ガスパル・コエリョGaspar Coelhoは、長崎から、通訳にルイス・フロイス神父を伴い、他に神父3名修道3名を連れて、布教特許状を得るために大坂城やって来ます。その目的を果たし、天守閣からの眺望を楽しんだ一行は、九州に帰るために、堺にやってきます。その際に、コエリョは「アゴスチニヨ弥九郎殿」(小西行長)から、小豆島(XOdoxima)に神父一人を派遣するように求められます。
6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスnihosi

その辺りのことをフロイスは年次報告で、次のように記しています
                    
 パードレ(コエリョ)が堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前(南)に在って、小豆鴫と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のためニカ所の城を築造することを命じた。行長の最も望むところは、小豆島に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。
 この嶋は備前に近く、同所より八郎殿(宇喜多氏)の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。行長は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは行長の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人(グレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedes神父)をさいた。
 86年7月23三日 堺を発し右のパードレ(セレベデス)を同行して、小豆島(堺より四十レグワ)の前に到る。牛窓と称し、同じくアゴスチニョに隔する町に彼を降ろした。セスペデスは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。
フロイスの報告書からは、セスペデスが小豆島に派遣された経過が分かります。
 行長の願いである「小豆島に聖堂や大きな十字架を建て、住民が皆キリシタンになり「地上の神の国」の実現のために、大坂のセミナリヨ神学校から神父が派遣されることになったこと。それがスペイン人グレゴリオ・デ・セスペデスGregorio de Cespedes神父だったようです。

韓国熊川城の麓にのセスペデス公園のセスペデス像

彼は1577年に来日し、各地で布教活動を行なって、この時点で在日9年目だったようです。小豆島での布教活動後は大坂に帰えり、翌年には細川ガラシアの洗礼にかかわっています。1592年のイエズス会名簿には、有馬教舎所属で
「日本語の懺悔を聴き、日本語をよく解す」

と評価されています。朝鮮出兵時には小西行長の依頼で、九州出身の多くのキリシタン達のために、朝鮮半島に渡って活動を行ってもいます。
関ヶ原の戦い後は、小倉城主となった細川ガラシアの夫細川忠興に保護され、約10年間に渡って、小倉を本拠に布教活動を行います。セスペデスの日本在留は34年間に及ぶようです。小豆島での布教活動は、その中の1ヶ月のことにしか過ぎないようです。

グレゴリオ・デ・セスペデス―スペイン人宣教師が見た朝鮮と文禄・慶長の役 

同行したジアン(GiaoあるいはJiao)修道士について
上智大学H,チースリク師の「臼杵の修練院」(吉川弘文館刊「キリシタン研究第十八輯」所収論文)では、次のように紹介されています。

「ジアン森 日本名「もり(森・Jr.Mori Jiao)」、摂津出身。1569年ごろ生まれ、1581年(1580?)10月にイエズス会に入り、誓願を立ててのち京坂地区に赴任し、1587年に大坂に居た。
 1589年に有家のコレジヨに居り、1592年にオルガンティノ神父と一緒にみやこに行き、1603年にみやこ、1606年に金沢、1607年2月にまた、みやこ下京のレジデンシャに居たが、同年10月の名簿には記入されていないので、そのうちに脱会したらしい。」

 豊後でイルマンとしての何年かの基本的学習を終えた後、出身地の摂津大坂に帰任して間もなく、定評ある日本語の知識表現力を買われて小豆島にセスペデスと共に派遣されたようです。

 コエリョー行は行長の用意した二隻の船に分乗して、堺を出て牛窓に到着します。
岡山牛窓オリーブ園 :: 岡山県牛窓の観光 牛窓オリーブ園/日本オリーブ株式会社
牛窓からの瀬戸内海と小豆島 海の向こうの山並みが小豆島

ここでセスペデス神父と日本人修道士ジアンを降ろしています。牛窓も行長の領地でした。牛窓は瀬戸内海航路のネットワーク拠点として重要な港でした。秀吉の四国平定の際には、多くの人馬や兵船が集結した軍港の役割も果たしていました。牛島の前の前島の丘に立つと、南に小豆島がすぐ近くに見えます。目を凝らせると小豆島の大観音も見えるほどです。その観音さまの足下辺りが屋形崎と呼ばれ、中世に居館があったと伝えられます。牛窓と屋形崎ならば直線で14㎞ほです。かつて道路が整備される以前は、小豆島の北岸の人たちにとって、草壁などの南岸との交流よりも牛窓などの吉備・播磨との交流の方か多かったと云います。近代以前の瀬戸内海は、人々を隔てるものではなく、結びつける役割を果たしていました。船さえあれば、海があればどこにでもいけたのです。小豆島北岸と牛窓は、経済的には一体化していたと考えられます。
 
11 小豆島 牛窓地図

セスペデス神父と日本人修道士ジアンは、その日のうちに牛窓から小豆島に向かう船に乗り込みます。二人を待っていたのは、行長が「小豆島の司令官(代官)に任命したキリシタン貴人」でした。これは河内出身のキリシタン武将で、行長の配下にあったジヨルジ結城弥平次かとする説もありますが、よくは分からないようです。
フロイスの年次報告書には、小豆島に派遣されたセレベデスからの次のような報告書簡が載せられています。
 予(セスペデス)は備前国の港牛窓においてビセプロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。
この島にはキリシタンー人もなく、わが聖教については少しも知らなかった。が、土人に勤めて同伴した日本人イルマンの説教を聴かしむることを始め、第一日には百人を超ゆる聴衆があった。彼等の半数以上は、よく了解してキリシタンとならんことを望んだ。彼等は、またその聴いたところに驚き、この時まで神仏の事を知らず、盲目であったことを悟り、十人または十二人は諸人の代表として坊主のもとに行き、誠の故の道についことにつき彼等に教ふべきことあらは聞くべく、もしなければキリシタンとなるであらうと言った。
 坊主等は心中に悲しんだが、答へることができず、無智を自白し、彼等の望むとおりにすべく、自分達もまた聴聞し、もし彼の教に満足したらば彼等と同じくするであらうと言った。この坊主等は直に来ってデウスの教を聴き、満足して五十余人と共にキリシタンとなる決心をした。我等はカテキズモの説教を網けてこの新しきキリストの敬介を開いた。が、我等の主デウスは、この人達の心中に徐々に斎座の火を燃やし給ひ、①1ケ月に達せざるうち、約一レグワ半(6㎞)の間に接績していた村々において、②千四百を超ゆる人達に洗礼を授けた。
 新しきキリシタン等は大いなる熱心をもって③長さ七ブラサ(15m)を超ゆる立派な十字架をここに建て、④神仏は一つも残さず破壊した。また⑤聖堂を建てるため四十ブラサ(約90m)四方の地所を選んだ。その周囲には樹木が繁茂し、地内には梨、無花果及び蜜柑の樹が多数あった。アゴスチヌス(行長)は自費を持って、ここによい聖堂を建て瓦を持ってこれを覆ふ考である。この島の人々は甚だ質朴かつ真面目であり、今まで日本において見たうちでキリシタンとなるに最も適したものである。
 一村においては男女小児が皆改宗してキリシタンとなり、キリシタンとなることを欲しない者が僅か五、六人残っていた。が、我等の主の御許により、悪魔がその一人に憑いて非常に苦しめ、彼を通じて諸人の驚くことを語った。他の五、六人の異教徒はこれを見て、一レグワ(4㎞)余りの道を急いで、私が滞在していた村にやって来て、彼等に説教し、悪魔が彼等を苦しむる前に洗礼を授けんことを請うた。よってこれをなしたが、新しきキリシタン等はこれを見て一層信仰を堅うした。
ここには、牛窓を出発した船がどこに着いたのか、そして、彼らが布教活動を始めたのはどこなのかについては何も記していません。
まずセスペデスが宣教をおこなった場所についての手がかりを集めてみましょう。
①約六㎞周囲に連続した村々がある。
②1か月で1400人以上がキリシタンとなった。 
  → 島の人口集中地
③キリシタン達が建てた15m以上の十字架がある。
④キリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。
⑤聖堂を建てるための約88m平方の土地があり、そこには梨、無果花、蜜柑の樹が多数あって、周囲には樹木が繁茂している。
⑥小西行長の支配の中心地に当り、「城」が築かれていた。
この条件がに当てはまるのは、内海湾に抱かれた苗羽、安田、草壁、西村の村が連続したエリアと研究者は考えているようです。映画「二十四の瞳」で、大石先生が岬の分校までが自転車を走らせた通勤ルートの沿線になります。

5 小西行長 小豆島5
 
延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、小豆島の「転び切支丹類族」の出た地域と数が次のように記されています。
草加部 54人
肥土山村 12人
土庄村  3人
渕崎村  2人
また、草加部の項目には次のようなことも記されています。
「尤も以前は池田村、小海村、福田村にも御座侯得ども、死失仕り、只今にては当村ばかりにて御座侯」。

ここからは小豆島の草壁には18世紀の半ばまで、隠れキリシタンが50人以上もいたこと、さらに、草加部の他に、池田、小海、福田にもキリシタン関係者がいたことが分かります。このような「状況証拠」からすると、草加部村を中心とした地域が小豆島で最も大きなキリシタン信徒集団があったことがうかがえます。

 ④のキリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。
については、「草加部ハ幡宮柱伝紀」には、
「いづれの乱世やらんに、長曽我部とやら小西とやらん云う人、小豆島へ渡り来て、いづれの郷の宮殿もみな焼亡す」

と記録され、小豆島の小西行長時代に神社仏閣の破壊が徹底して行われたと伝えています。
 小豆島における神社仏閣破壊は小規模なものだったという説もありますが、私は、次の2点から同意はできません。
A高山右近の淡路の領地では、大規模な破壊運動が組織的に展開されていた。
B偶像破壊運動が、新たな宗教活動を展開する側に大きな宗教的なエネルギーをもたらし、急速な 信徒増大をもたらす。それはムハンマドのメッカでの活動や、中国の太平天国の指導者達の活動からも垣間見える。
 偶像破壊という手法を、大坂で布教活動を行っていたセスペデスやジアンは熟知していた。もっと云えばすでに偶像破壊活動を伴う布教活動をすでに行っていた気配があります。「偶像破壊運動」から沸き上がるエネルギーが「1ヶ月で洗礼者1400人」という「成果」となったと私は考えています。

また、天正十五年(1587)の『薩藩旧記後集』にも
「室津へ未刻御着船、夫より小西のあたけ(安宅)の大船御覧有、すくに大明神へ御参詣有といへ共、南蛮宗格護故悉廃壌也、身応て御帰宿」

とあります。これは、薩摩島津藩の藩士が見た報告ですが、ここからは小西行長の支配する室津には、大きな安宅船が係留されていたこと、室津でも「南蛮宗が保護され 大明神は廃」される組織的な神社仏閣破壊が行われていたことがうかがえます。

5 小西行長2

⑤の約15mの十字架の設置場所と聖堂建設用地については

片城に近く、海上からよく見える高台にあったことが考えられます。しかし、詳しい場所については分かりません。そして、1年後の九州平定の論功行賞として、行長は肥後南部の24万石の大名に「栄転」
しますので、教会が建設されることはなかったようです。あくまで「建設予定地」でした。
⑥の小西行長が築いたとされる片城については、草聖地区に片城という地名が残っているようです。

  最初私は、小豆島での布教と聞いて何年も苦労しながら信者を増やして行ったのかと思いました。ところが、宣教師の布教活動はわずか1ヶ月のことです。期間が決められていたのかもしれませんが、洗礼を済ませるとすぐに引き上げているのです。残された信者達は、その後どうなったのでしょうか。1ヶ月では、信の信者に成長できていたとは云えません。
5 小西行長 バテレン追放令2

 ところが1年後に秀吉のバテレン追放令が出ると小豆島は、多くの吉利支丹を受けいれた節があります
  それは右近の明石領内のキリシタンたちです。右近は秀吉に屈する道を選ばずに、領地を捨て大名であることを止めます。この一報が明石に届いたのは追放令から数日後の1587年の7月末だったようです。留守を預かっていた右近の父・飛騨守と弟太郎右衛門は、右近が棄教せず毅然として一浪人の道を選んだことを知って、嘆くどころか、胸を張ってほめたたえたといいます。
 「師よ、喜ばれよ。天の君に対する罪で領国を失ったのならば、われらも等しく名誉を失うが、棄教しなかったためであるなら、大いに喜ぶべきこと。少なからず名誉なこと」

と、むしろ満足気にさえ見えたと伝えます。しかし、2000人近くもいた明石のキリシタン領民や家臣の家族らにとって即刻領地を退去せよとの知らせは、酷なものでした。行く当てもなく、仮に頼る先があったとしても荷物を運ぶ手押し車も小舟もなく
「真夜中まで街中を駆け回るありさま」

だったといいます。
5 高山右近
小豆島土庄の右近像と教会

右近の一族や重臣の中には、小豆島や塩飽に「亡命」した者がいたのではないかと私は考えています。つまり、バテレン追放令の後の小豆島には
①セスベデスによる1400人の地元改宗者
②明石やその他からの亡命信者
③右近やオルガンティーノのような要人信者
の3種類の信者たちがいたことになります。②③は筋金入りのキシリタンに成長しています。これらの人々が核となって、小豆島では信仰が守られていくことになったのではないかと私は考えています。

幕末の小豆島の廻船大神丸 何を積んでどこに航海していたか? : 瀬戸の島から
 
以上をまとめておくと
①四国平定前に秀吉は小豆島・室津を小西行長に与えて、東瀬戸内海の制海権確保の拠点とした
②行長は高山右近を見習って、「地上の神の国」を小豆島につくる理想を持っていた
③そのために二人の宣教師がイエズス会から派遣され、内海湾周辺で布教活動を行った
④それは偶像破壊運動を伴う宗教活動で、1ヶ月で1400人の洗礼者を産み出した。
⑤派遣された宣教師は、わずか1ヶ月で小豆島を去った。
⑥しかし、1年後に伴天連追放令が出されると各地から「亡命者」がやってきて信者集団は拡充した。
⑦そのような中で、小西行長は高山右近を小豆島の地に匿うことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 近藤春平 讃岐吉利支丹諸考  1996年

11因島箱崎 地図

家船(えふね)漁船の拠点地の一つが因島の箱崎です。家船集団の拠点は、漁師達の家が狭い地域に密集していることがひとつの特徴ですが、箱崎にも「漁民密集住居区」があるようです。しかも、その地区は中世の揚浜塩田跡に形成されたものといいます。

11因島箱崎 地図2

 家船漁民とは、小さな船に家族が乗って長い間、海で操業・生活する漁民達です。彼らの先祖については次のような説があることを以前にお話ししました。
①小早川氏の中世以来の海賊対策で弾圧を受けた海民達が、家船漁民たちの祖先
②秀吉の海賊禁止令以後に行き場をなくした村上水軍の末裔が、家船(えふね)漁民の祖先
これだけを押さえて今回は、箱崎の揚浜塩田の歴史を追いかけて見ようと思います。
揚浜式塩田(石川県珠洲市) - おさかな'sぶろぐ
能登の揚浜

『因島市史料』には、寛永15年(1638)の土生村箱崎の塩浜が「地詰帳」が次のように載せられています。
①塩浜弐畝拾八歩 (ぬい弐ツ)六斗 五郎兵衛
②塩浜三畝    (ぬい弐ツ)六斗 久右衛門
③塩浜三畝廿壱歩 (ぬい弐ツ)六斗 清 吉
④塩浜弐畝九歩 (ぬい壱ツ)三斗 同 人
⑤塩浜弐畝一壱歩 (ぬい弐ツ)六斗 正左衛門
⑥塩浜四畝    (ぬい弐ツ)六斗 半二郎
⑦塩浜二畝    (ぬい弐ツ)六斗 与兵衛
⑧塩浜三畝三歩 (ぬい弐ツ)六十 孫有衛門
⑨塩浜弐畝甘四歩 (ぬい式ツ)六斗 清吉
ここからは次のようなことが分かります。
A 箱崎に9枚の塩浜があったこと
B 清吉が③④⑨の三枚の塩浜とぬい(沼井)6つを所有していて、塩浜所有者としては最大の家であること。
C 塩浜は平均3畝前後(約教室3つ分)で、瀬戸内海の揚浜塩田の平均であること
 なおBの清吉は別の資料からは、箱崎に屋敷を持っていないこと、畑は2ヶ所持っていますが、その面積は二七歩と七畝一五歩で、あまり広いとは云えない上に、かなり離れたところにあります。そして、二七歩の畑は新開(新規開墾)で、古くから持っていたのは七畝一五歩だけのようです。以上から、清吉は、塩造りを専業として、塩焚小屋にでも住んでいたのではないかと研究者は考えているようです。
  箱崎は、この資料に現れた塩浜のエリアが現在に残っているのです。それは地図5上の太実線のエリアになります。
11因島箱崎 地図旧塩浜

詳しく見ると9つに区画されていたことが分かります。これがもともとは9枚の揚浜塩田だったようです。ここに前の海から海水を汲み上げ、天日で干していたのです。地図で塩田の背後を見ると、すぐそばまで山が迫っていて背後地がほとんどありません。
揚げ浜の塩 歴史・文化

 漁民たちが古い塩浜の区画の上にそのまま家を建てたようです。
かつて塩浜の境だった所が道になっています。港町はどこでも、近代になって車道を付ける際には、海を埋め立てて道路を通しました。つまり海の直ぐそばを車道が走ることになります。
11因島箱崎 syasinn

箱崎もご多分に漏れません。箱崎はも、地図5を見ると分かるとおり海岸には車道が走っています。そして、古い道は塩田と山裾と平地の境にあって今もそのまま残っています。今は、その旧道から上の家は農家が大半で、道から下が漁家です。その漁家の中を五本の道が、海と山裾の道との間をつないでいます。
かつて9枚の塩田だった所に、漁民たちが家を建て集住を始めます。
図5の太線のエリア(塩浜跡)を拡大し、地籍図にしたものが下の図6です。
11因島箱崎 旧塩浜地籍図

NO57の屋敷地が最も広く、海に近い重要ポイントを占めています。ここを中心に屋敷が建ち並び始めたようです。各区画で一番大きい面積を占める屋敷が、塩浜の所有者だったことが考えられます。
 そして、明治になって地籍調査が行われ、一軒一軒に番号が打たれます。全部で161に分けられているは、その時に屋敷が161軒あったことを示します。一戸当りの屋敷面積は20坪程度でだったようです。同規模の家がびっしり立ち並んでいたことが分かります。

11因島箱崎 旧塩浜ido

 かつての塩田跡の住宅区には井戸がなかったようです。
それは当然かもしれません。塩田の中に井戸は必要ありませんから・・・。井戸は、山裾と旧塩田の間の大師堂沿いの道に沿っていくつかの共同井戸が点在します。この井戸は、古くから行き交う交易船に水を提供してきた井戸かもしれません。塩田跡の新住居者たちは、水道が整備される以前は、そこへ水を汲みに行っていたようです。

どうして塩田が廃れて、そこに家屋が建設され始めたのでしょうか
宝暦五年(1755)の「土生村実録帖」によると土生村は、102軒の家があり、そのうち漁家が17軒に増えています。
因島の「中庄村差出帳」享保11年(1726)には
「塩浜只今は田畠に相成候(あいなりそうろう)」

「田熊村村立実録帳」宝暦一四年(1764)には
「塩浜

とあります。ここからは享保前後のころから因島の揚浜塩浜は、田畑になったり、荒地として放置されていたことが分かります。その背景には、入浜式塩田の登場があるようです。
入浜式塩田の製塩方法 | 西尾市塩田体験館 吉良饗庭塩の里
入浜式塩田

大量に安価に良質の塩が生産できる入浜式塩田が瀬戸の入り浜に作られるようになり、揚浜塩田は駆逐され始めたようです。箱崎の塩浜でも、塩を造らなくなり放置されるようになります。その頃から漁民が増えはじめたようです。
  箱崎の塩浜に家を建てて住むようになった者を、対潮院の過去帳には「浜ノ者」と記しています。そして「浜ノ者」が過去帳に登場するのは江戸中期ごろからです。ここからも、浜床への漁民定住が始まったのが江戸時代中期になってからだったことがうかがえます。
 塩浜床跡に、家を建てはじめた漁民はどこからきたのか?
 その漁民たちがよそから来たものか、もともと塩田に働いていた者の子孫であるかは史料的には分かりません。しかし、研究者は
「塩浜で働いていた人たちの子孫が、塩浜跡に家を建てるようになった」

と考えているようです。そう考える理由を見ていきましょう。
 「地押帳」に記録せられた塩浜の総面積は二反六畝六歩で、畑地を加えても三反にすぎません。箱崎の面積はわずか一町歩もない狭いエリアです。ところが箱崎には、漁港として適当な船着がありました。
塩浜関係に従事していた子孫が漁業に転じたのは、この良港があったことがひとつの要因でしょう。
しかし、それだけでは丘上がりした者が再び海へに進出する理由にはなりません。海に出れば利益が出るという採算性がなければ動かなかったはずです。それがイワシ漁だったようです。

11因島箱崎 小豆島イワシ漁do
   「漁業旧慣調」〔愛媛県立図書館蔵〕)右上に高台から合図を送る人がいる

箱崎とその対岸の生名島の間には深い入江があって、そこがイワシ地曳網の良い漁場でした。ここには鰯屋と呼ばれる網元が早くからいたようで、この家が箱崎でも一番古い家とされています。イワシ漁は季節的なもので、イワシのやって来る間だけ操業します。その他の時期は船を浜にひき揚げて船囲いしておきます。その間、網子たちは別の仕事をしていますが、たいていは小漁を行なっています。イワシ網のような経営を大職、小網や釣漁などを小職と呼んでいたようです。この二つがうまく組み合わされて、漁業は発展します。
 イワシ網は「根拠地漁業」に対して、小職漁業は、たいてい放浪性を持った漁業だったようです。これが箱崎を考える上でつ大事な手がかりになると研究者は指摘します。
 箱崎は「浜」で、「浦」ではありませんでした。
瀬戸内海では漁民のいる所をと呼び、塩浜のあった所がです。ここからは箱崎は、もともとは塩浜で「浜」と呼ばれていたこと、それが江戸中期からイワシ網を梃子にして漁村へ転向していったと研究者は考えます。それは塩浜を営んでいた製塩業者が鰯漁をバネにして、再び海に進出していったということです。同時に、尾道からの漁民達も受けいれたようです。こうして塩浜跡に、漁民達の家が建ち並ぶようになったと研究者は考えているようです。
 しかし、漁民としての道を歩みだした箱崎の人たちにとって厳しい試練が待ち受けます。

11因島箱崎 地図3

グーグル地図で見ると箱崎の沖は水道で、その対岸は愛媛県の漁区でした。そこに入漁するにはエビス金(入漁料)が必要でした。江戸時代の瀬戸内海は各エリアに漁業権が設定されて、自由に稼げる漁場はなかったのです。したがって、より有利な漁場を求めて新しいエリアに出かけて行く以外に、発展の道はなかったことになります。それに果敢にチャレンジしたのが家船漁民達だったのかもしれません。より有利な漁場を求め漂泊性を、高めることにもなります。また自分たちの漁業権を持たない流れ者の漁民として、出先では蔑視間を持って見られる事もあったようです。
 
明治14(1881)には、箱崎の漁業専業者が226戸であったことが記録されています。屋敷は161軒ですから60戸余りは、どこに住んでいたのか疑問になります。
 戸籍の上では、戸主の家族として記録せられます。そのため、 一戸当りの家族数は平均12~13人くらいになります。その生活実態は、「家船」で妻も子供も船に乗せて、海上漂泊生活(長期漁業)を送っていました。戸籍上は一世帯でも、一世帯が二隻か三隻の船に分住して、「核家族」で操業を行います。長い家船生活を終えて帰って来ると、次男・三男は本家の長男の家の一間に起居していたと云います。それが後に入江を埋め立てて土地ができると、そこへ分家分住する者が増え、したがって戸数も爆発的に増えます。家船の数は戦前の調査でも170隻程度で、明治から比べても増減はないようです。
 これだけ見ると数が増えていないように思えます。しかし、それは箱崎の「停滞」を意味するものではありません。彼らは「漂泊」し、条件が良いところを見つけては「移住」していったのです。その移住先をみると
広島県豊田郡吉名村[竹原市]
同郡大崎中野村[大崎上島]
同郡生口島[尾道市]
同県御調郡向島[尾道市]
山口県都濃郡太華村[周南市]
岡山県下津丼[倉敷市]
愛媛県岩城島[越智那上島町]
伯方島[今治市]
松山市三津浜
香川県岩黒島[坂出市]
本島[塩飽本島、丸亀市]
福岡県若松市
大分県鶴崎[大分市]
長崎県対馬
などが挙げられます。どこも釣漁を行なう仲間のようです。
 ここからは、狭い塩浜跡地に人口があふれると、船住居(家船)分家という方式を採用し、移住によって瀬戸内海から東シナ海へ膨張したことが分かります。これは、その他の家島漁民も同じような戦略を採用しています。
 瀬戸内海の港には、狭い土地に人が密集し、人口増大のエネルギーを抱えた場合に、周辺に開拓地がなければ、家船分家がが行われ、移住という方法が取られたことがわかります。これが近代には、ハワイや南米移住につながっていくのかもしれません。
瀬戸内海の中世の揚浜塩田を何回かに分けて見てきました。その中で私が学んだことは、中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることです。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 この条件がそろえば、中世に塩浜があったことが考えられるようです。

最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田全体について、研究者は次のようにまとめています。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④入浜塩田のように大きい資本を持つ者の開発の行なわれる所では、浜旦那と呼ばれる塩田経営者がみられる
⑤しかし、小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、それが大きな経営に発展していったような例は姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑥製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。因島箱崎は家船漁民に転進しているが、これは特例である。
⑦畑作農家への転進を助けたのは甘藷の流入である。江戸中期から甘藷の栽培が瀬戸内海の島々に急速に広がってくる。するとそれで食料の確保ができ、さらに段畑をひらいて人口を増やしていく。そして、時間の経過と共に完全に、海から離れて「岡上がり」している。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところと考えてみてよい
⑨しかし、揚浜製塩に従った人々のすべてが、製塩のやんだあと陸上がりしてしまったわけではない。因島箱崎の場合は、もう一度海へ帰っていった例である。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献  宮本常一    塩の民俗と生活 

  


10 大崎上島広域

大崎上島(広島県)は竹原市の南にある島ですが、しまなみ海道もとびしま街道も通っていないので、船でないといけない芸予の島です。逆に見ると各方面から船便が出ていて、瀬戸の船旅が好きな私にとっては大好きな島のひとつです。山田洋次の監督の東京物語が撮られたのもこの島です。島東部の木江は、かつては御手洗をしのぐほど繁盛した色街があり、多くの船を惹きつけた所です。しかし、島の南部まで足を伸ばす人は少ないようです。

10 大崎上島tyuuiki

南部の沖浦は、古くから揚浜塩田があった所のようです。
 小早川義春から徳平への譲状に大崎上島猟浜とあるのはが沖浦のことのようです。いまも狩浜の名が残っていて、猟浜は猟浜浦と呼ばれているようです。
「浦」は漁民の村ですから、漁民が古くからいたのでしょう。いまもここは、純漁民の集落で、周囲の農民とは一線を画しているようです。農家は山麓に散在しています。この農家の先祖はいつどこからやってきたのでしょうか。もし、海から陸上がりした人たちの子孫だとすれば、現在の「浦」の漁民達がやって来る前になります。そうだとすれば、中世には農民化していたことになります。
 山が海にせまり、海岸に近い所にやや緩傾斜があり、そこが畑にひらかれています。今は、そこがみかん畑になっています。ここは「大長みかん」の産地です。
  寛永一五年(1638)の「地詰帳」には沖浦は
「田五町一反二畝一八歩、畑二〇町三反四畝二一歩」

とありますから、畑が水田の5倍になります。畑が断然多いようです。そして、塩浜が七反六畝一二歩です。沖浦の塩浜は一畝半から三畝が塩田一枚の単位です。
  「地詰帳」を整理した表2です。
ここには沖浦の構成員の田・畑・屋敷・塩浜の所有面積が示されてい
ます。例えば一番上の庄屋を務める助作は、田65畝、畑216畝、屋敷3畝、塩浜1,2畝を持っていたことになります。
10 大崎上島土地所有pg

塩浜に焦点をあてて見ると次のような事が分かります。
①43軒のうち、塩浜をもつのが24軒、
②塩浜所有面積の最大のものは七畝九歩、
③最小一畝一五歩であり、
④所有しない者が19軒
⑤屋敷を持たないもの10軒
 このような状況は、この時代までに売買による土地移動がかなり激しく行なわれていた結果と研究者は考えているようです。
もう少し表2を見てみましょう
 庄屋の助作は二町八反四畝二四歩という広い畑を持ちますが、屋敷は三畝二一歩しかありません。ここからは、彼は中世的な土豪の流れをくむ者ではないようです。土豪なら居館跡はもう少し広いはずです。もともと沖浦には、戦国時代には小早川氏の代官がいたはずです。ところが、秀吉による小早川氏転封とともに他に移り、古くからの生産者層のみが残ったと研究者は考えているようです。
 さらに研究者は細部まで検討して、次のような点を指摘します。
①標準農家は屋敷二畝を持ち、耕地は田畑合して一町一反余から一町五反ぐらいを所有する
②そういう農家が15戸ほどあったのが、分家によって屋敷と耕地を、均等に二つに分けたものが5つか6つ見られる
③屋敷を持たないで分家したものが10戸ある。
④売買によって移動した土地が若干ある。
以上から、最初は均等に分割されてい所有されていた土地が、時代と共に所有階層分化されてきていること。そして屋敷も持たず、少ない畑を所有する人たちは、漁民であったのではないかと考えるのです。
10 大崎上島グーグル

 揚浜塩田は、先ほども云ったように、狩浜といわれる所にあったと伝えられます。その塩田跡は、現在は集落になています。沖浦には、漁民が住み、アゲといわれる山麓集落には農民が住んでいますが、アゲの農民が漁業に進出することはなかったようです。
それでは、塩田経営を行っていたのは、どの集団なのでしょうか
 塩を造ったのは主としてアゲの農民達だったというのです。
彼らが、狩浜へ毎日塩を造りにアゲから下りてきていたようです。浦に住む漁民の中にも、塩浜を持つ人たちがいましたが、それは少数だったようです。塩浜を所有していた農民たちが、当初から農民だったのか、あるいは漁民が陸上がりして塩を焼いて定住して次第に農民化していったかは分かりません。沖浦では、塩を造った場所と、造る人たちの住んでいる場所は離れていて、塩浜跡ヘ住みついた人たちは塩浜の古くからの住人ではなかったということになるようです。
 以上を整理して、想像も加えて沖浦の歴史を物語化してみましょう。
①中世の早い時期に海民達が沖浦にやって来て揚浜塩田を開いた
②彼らは塩田後方の塩木山の裾野を切り開き開墾し畑とした
③こうして「製塩業+畑作農業」で生計を立て、農地に近いアゲに屋敷を構えた
④そこへ秀吉の海賊禁止令後に、村上水軍の一部がやってきて沿岸部に定着し「沖浦」を形成した
⑤かれらは沖浦の住民は漁民として生きる道を選び、先住民とは「棲み分け」をおこなった。
⑥揚浜塩田の経営が行き詰まると、塩田跡地は沖浦の漁民に売られ、そこに住宅地が密集するようになった。
⑦先住民は畑作専業化し、現在はみかん農家になっている。
揚浜塩田を拠点に海民によって開かれた「浜」に、解体された村上水軍の一部がやってきて「浦」をひらいたのが沖浦のようです。沖浦の二面性や重層性は、ここからきているのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 宮本常一 塩の生活と民俗


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  柱島(はしらじま)は、安芸灘の南西に並ぶ柱島群島の本島です。北は倉橋島、江田島、南は屋代島とその属島、東は中島をはじめとする忽那諸島に囲まれ、これらの島々のちょうど真ん中にあります。今は岩国市に属しますが、中世末までは山口県大島郡に属し、南北朝のころは伊予の中島を中心とした忽那七島のひとつになっていました。当時の忽那七島は松山市の野忽那島・睦月島・中島・怒和島・津和地島・二神島と、周防大島郡の柱島で構成されていたようです。つまり、周防と伊予という国境を越えての「連合」になります。このように柱島の所属がいろいろ変わるのは、この島が陸からやってきた人たちによって開拓されたものではなく、「海民」の手によって開拓されたことに由来すると研究者は考えているようです。

この島は古くは、讃岐・仁尾と同じ京都賀茂神社社領のひとつでした。
賀茂神社は瀬戸内海に早くから進出し、多くの社領を持っていました。「賀茂注進雑記」によると、全国各地に42カ所を数える社領の中で瀬戸内海にあるものが次の16ケ所です。
播磨安志庄、林田庄、室塩屋御厨、備前山田庄、備後竹原庄、有福庄、伊予菊万庄、佐方保、周防伊保庄、矢島(八島)、竃戸関(上関)、柱島、和泉深日庄、箱作庄、淡路佐野庄、生穂庄

このほかにも「賀茂社古代庄園御厨」には、寛治四年(1090)年7月12日付文書に月供料として次の6つが記されています。
播磨同伊保崎・伊予国宇和郡六帖網・伊予国内海・讃岐国内海・豊後国水津・周防国佐河(佐合)・牛島御厨

この中ある周防の佐合島も牛島も小さい島です。それは後の弘安元(1278)年に讃岐・仁尾の蔦島が、同じように賀茂神社の御厨に指定されたのとよく似ています。こうした小さい島が御厨として寄進されたのは海産物の供進のためです。供物を採取・提供していたのが「供祭人」です。
「御厨供祭人者、莫卜附要所令中居住一之間、所じ被免・本所役也、傷櫓樟通路浜、可為当社供祭所・」

ここには「莫卜附要所令中居住一之間」とあるので御厨の供祭人が定住しないで海上漂泊をしていたことが分かります。柱島や蔦島も、そうした海人が漁業シーズンにやって来て漁労を行なった漁場の一つであったようです。
 これらの島の産土神が賀茂神社なので、御厨(みくろ)の海人が次第に島に定住するようになったことがうかがえます。そういう人たちの定住は、採塩の作業と結びついていると研究者は考えているようです。おなじ賀茂神社の社領であった八島・佐合島・牛島などにも、おなじように製塩跡がみられるからです。
 例えば上関島(長島または竃島ともいう)の蒲井には、山地の均等地割が見られるので、塩木山があったことがうかがえます。これは前回もお話ししたように、「海人が陸上がりして採塩した」ことを示すものです。
9柱島地図
 
その後の柱島をめぐる情勢を見ておきましょう
「柱島旧記」からは、室町後期には桑原氏がこの島の支配者になっていたことが分かります。桑原氏の先祖は、青山五郎兵衛といって備後田島の出身者のようです。その先祖は、芸予諸島・能島村上氏の御部屋(隠居分家)と記されています。つまり、備後の田島は、村上氏が地頭だったようです。ここからは桑原氏が、能島村上氏につながる系譜に絡んでいたことが見えてきます。
 初め青山五郎兵衛は倉橋島を拠点としていましたが「法体」となって柱島にきて、「辻本」を勤めたと云います。辻本というのは島の僧役を勤める者のようです。同時に、年貢を取り立て領主に納める役目を果たしています。その年貢が誰に納められたかは分かりません。しかし後には毛利元清に納めたとありますから、元清の所領になったこともあるようです。
9柱島と大島の西芳寺地図

 青山五郎兵衛の弟四兵衛は陶晴賢の小姓となっていましたが、厳島合戦に敗れて柱島に帰り、出家して僧となり、周防大島へ渡って森村の西方寺を創建したと記します。しかし、桑原氏系図(「萩藩閥閲録」)では、桑原五郎兵衛元国が、朝鮮侵略の後、森村に退隠して僧となり寺を建てたのが西方寺だとあります。
  一方、周防大島の森にある西方寺の「西方寺縁起」には、
桑原四兵衛が兄で、五郎兵衛は弟、厳島合戦に敗れて柱島に渡り、五郎兵衛は島司富永角兵衛の養子となり、四兵衛は森村に居住して西方寺を建てたとあります。どちらが正しいかは分かりませんが、備後田島から来た青山という者が、周防大島の桑原氏と姻戚関係を持ち、桑原氏が大島海賊の統領の一人であったことから、その配下に属して桑原を名乗ったと研究者は考えているようです。
9柱島地図拡大

 青山五郎兵衛との関係はよく分からないのですが、桑原杢之助という者が島司を勤めていたときのことです。
中富弾右衛門という者が杢之助を頼って来て島に住みついていまします。ところがこの男は、荒者で周りのものも手を焼くようになったようです。そこで、そのままにしておいては、どんなことを仕出すかわからないと、みんなで相談して、柱島西ノ浜へ網漁に行ったとき、杢之助の指図で大勢で討ち取ってしまいます。討たれた弾右衛門には、小次郎という子があり、能島の「海賊大将」の村上武吉に仕えていました。
 父が討たれたと聞いて、小次郎はひそかに桂島にやってきて、杢之助夫婦を夜討ちにします。そこで能島武吉は柱島を中富小次郎に与えたというのです。小次郎には子がなったので、末弟万五郎が跡を継ぎます。彼は、毛利元清に仕えた後に、柱島庄屋になっています。また、中富氏一族の者で桑原氏の跡をたて、桑原氏も庄屋を中富氏と交代で勤めています。
「柱島旧記」は江戸中期に中富氏一族の者が、口述と過去帳を頼りに書いたもので、叙述に混乱はあるようです。しかし、そのなかに信憑性のあるものもあります。この史料から分かることは
①桂島の支配者層は、島外から新しく来た者であり、武力で容易に島民を支配することができた
②支配者が、さらに強力な島外の勢力(村上氏)かに結びつくことによつて、その島が島外支配者の所領になった
こういう支配体制は平安末期にすでに、真鍋島・忽那島でも見られるので、瀬戸内海では珍しいことではなかったようです。その中で、柱島には古い住民の組織が残ったようです。その背景には島の製塩がありました。
9柱島砂浜


次に、桂島の製塩組織について見てみましょう。
柱島は柱十二島とよばれてきたように、次の12の島からなっています。
本島・端島・小柱島・続島。長島・フクラ島・鞍掛島・黒島・伊ケ子島(伊勢小島)・中小島・手島・保高島

近世初期までは本島に人が住んでいただけで、他は無人島でした。そしてその土地利用は
①黒島・伊勢ガ小島が、牧島(牧場)
②その他は桂島の揚浜塩田の「薪島」
でした。
『玖珂郡志』によると、
「柱島本屋敷四十五軒ナリ。御討入(中富弾正が)ノ後、田畠塩浜山ヲモ厚薄組合セ、割方有之。今以其通ニテ、夫ヨリ一カマチ(一株内)卜云。右四十五軒ノ内、内証不勝手二付テ、売方仕候連モ半カマチ迄、売ラセ申候。半カマチ過候テハ売方不レ被差免候由。悉ク売方候ハ勝手次第り本屋敷ノ者、一カマチノ内ヲ四分一計所持仕候テハ御役目不・得仕二一付テ也。但手島・ホウ高・端島・続島モ塩付ノ山配ノ内也。珂子屋敷四十五軒、内一軒歓喜寺、内一軒庄屋、内二軒両刀爾、内一軒山守、内一軒小触。右六軒現人差出ナシ。残九人役目相勤候也」
意訳すると
「柱島本屋敷には45軒の家があり、御討入(中富弾正が)の後は、田畠塩浜山を組合せて、均等に所持するシステムで運営してきました。今でもその通りで、この1単位を「一カマチ(一株内)」と呼びます。45軒の中で、経済的な困窮のために、売りに出すものもいますが、それは「半カマチ」までです。それ以上を売ることはできません。
 ただし、手島・ホウ高・端島・続島の塩付も「カマチ」に含まれます。45軒の内で歓喜寺、庄屋、両刀爾、軒山守、小触。右六軒は今は差出がありません。残九人役目で勤ています」
ここからは次のような事が分かります。
①塩焼(製塩)を行いながら、藩の水夫役を勤めていたこと
②「享保村記」には、何子屋敷四二軒の石高八石四斗は引石、すなわち無税になっていること。

同じ郡志には、次のような記述もあります。
「今津草津屋吉左衛門屋敷ハ、柱島船子、今津へ罷出候時ノ屋敷也。是ハ或時、船子、御用二付テ罷出、滞溜仕候処、誠、野伏体ニテ罷居中ヲ、今津ノ御一人被見付、御領ノ者雨露二触レテハ不相済候間止宿ノ場所支配可レ致トテ、日屋掛ノ所、今ノ草津屋々敷 支配有レ之候。然処二吉左衛門先祖、草津ョリ柱島へ罷越滞溜イタシ候。島中ノ者申様、今津ノ船子屋敷へ普請仕罷居候得バ此後船子御用二付テ罷出候時、宿二可レ仕候卜申談.草津屋、今津へ移居申候。依レ之何子御用二付テ罷出、吉左衛門処二滞留仕候テモ、宿銭卜申事ハ無レ之、今以其分ノ由也。」とある。
意訳すると
今津の草津屋吉左衛門の屋敷は、柱島船子たちが、今津へ出向いたときに使用する屋敷です。これは昔、船子が御用で出向いて、滞在しなければならなくなったときに、小屋掛けしたのが始まりです。今津の人がこれを見て、賀茂神社の御領の者が雨露に濡れているのは忍びないと、宿の場所を提供した所へ小屋掛けしたものです。今の草津屋敷は、このようにして出来ました。
 ところが草津屋吉左衛門の先祖が草津から柱島へやってきて、住み着くようになりました。島中の者がいうには、草津屋が今津の船子屋敷へ新たな屋敷を構え、その後は船子御用を申しつけられ、今津へ移居しました。これより「何子御用」について今津に出向いた際にも、吉左衛門屋敷に滞留しても、宿銭を支払うことはありませんでした。今以其分ノ由也。」とある。
ここからは次のような事が分かります。
①「船子屋敷」は桂島の船子たちが、今津に出向いたときの仮小屋だった。
②それを今津の者が小屋掛けをし、柱島の者が普請して建てた。
つまり、藩の制度として作れたものではないことが分かります。ここからも、桂島の島民が、陸の住人ではなく、「海民・海人」の流れをくむ人たちであったことが分かります。

それでは島に42軒の家のあったころは、いつごろなのでしょうか
それは慶長検地の時と、研究者は考えているようです。
寛永三年検地のときは「屋敷四五軒共」とあります。そこには庄屋・寺・刀爾なども含まれているので、寛永よりさらにさかのぼった時代と考えられます。そして家が増えていっても、船子屋敷として石高を免ぜられたのは「四二屋敷」で、その屋敷の広さは一戸当り三畝でした。この屋敷はもともとは慶長以前から受け継がれてきた揚浜塩田でした。慶長当時に分割したものではありません。それ以前からこの島に住む者が、分家する時には、均等に三畝ずつの塩田を与えられたようです。その中でも、寺は倍の六畝です。そして、刀爾といえども屋敷の広さは三畝で、一般百姓と同じです。
 ここからは「四二軒」の人たちは、海から島上がりして定住したものの子孫だと研究者は考えているようです。これらの人々は、漁民として網漁も行なっていました。
それは先ほど見たように
「島にやって来た暴れん坊の中富弾右衛門を、みんなで相談して、柱島西ノ浜へ網漁に行ったときに討ち取った」

という記述からも分かります。
また、享保九年(1724)に、桂島には
「六端帆1隻、三端帆11隻、十二端帆船1隻」

の船がり、あると記されています。十二端帆というのは大きさから見て船曳船で地引網漁に使われていた船と考えられます。ここからもこの島が、網漁の島であったことが裏付けられます。網漁業を行なうためには網代が必要になります。地曳網ならば、どうしても船を寄せる島または海岸が必要です。柱島島民は周囲の島々に網代を求め、同時にそこへ占有権を確立していったようです。
このようにして桂島の海民達は、周囲の島を属島にしていきます。
それが製塩の「薪島=塩木島」としての利用にもつながるようになります。一つの島を中心にして無人島を11も属島に持つということは、瀬戸内海にも珍しい例のようです。それは、もともとはこの島が網漁業の島であることを物語るようです。百姓島ならば薪島を1つや2つは持っている例はあります。しかし、桂島のように広域にわたって島を持つ例はあまりありません。

柱島は近世に入って岩国藩に属することになり、その海上生活技術が買われて岩国藩の何子(船子)役を仰せつかったようです。
 桑原氏が、この島に来住したころから、忽那七島の連合体から離脱していきます。桑原氏の厳島合戦参加とその敗北がひとつの契機となって、島民が武器を捨て、完全に生産民化していきます。「柱島旧記」にも、桑原氏が持っていた刀を林某に与えて、武士ををやめた記事があります。
 岩国藩の何子(船子)になっても、操舟技術と労力を夫役として藩に提供する立浦式の船子にすぎなかったようです。岩国藩には、安芸浦から今津に移った水夫が別にいました。それらは足軽の資格を持ち、扶持五石を与えられ武士の下層に属していました。桂島の支配者達は、生産民の道を選ぶしかなかたのです。

 柱島は慶長検地の行なわれた時に、山林および農地の割替が行なわれ42等分されます。さらに寛永三年の検地の時のことを「享保村記」は、次のように記します
「田畠塩浜トモニ厚薄組合セ、本屋軒四五軒二分配、山ヲモ塩浜二応ジテ夫々分割方被仰付申タル也、付田畠塩浜井二山ヲ軒別へ割付被下候、尤一軒別ノ割方ヲ一トカマチト島人イヘリ」
意訳すると
田畠や塩浜を組合せて本屋軒の45軒に均等分配した。山も塩浜に応じて、それぞれ均等に分割した。田畠・塩浜(塩田)並びに、山を一軒毎に均等分割し、その一軒の単位を「一トカマチ」と島の者は云う」

ここからは慶長・寛永の江戸時代初期に「田畑+塩田+塩木山」を45軒で割って、均等に分割したことが分かります。
ここからは桂島の当時の人たちが「構成員の平等性・均等性」に、価値観を置く集団であったことうかがえます。これは、陸の人間の発想にはない「海民」の価値観です。
船乗りとして、東シナ海を荒らし回った倭寇軍団の組織原理の中にも見られますし、村上水軍の規範意識の中にも見えます。それを、海からやって来た桂島の人たちは受け継いていたことを示すと研究者は考えているようです。

この島の塩浜は揚浜で、総面積は三町五反二八歩です。
塩田の枚数は、北浜14枚、長浜3枚、中浜・西浜46枚で、合計63枚で、島の周辺全体に分布していました。浜に赤土をたたきつけて塀のように塗り、その上に砂をまき、潮を打って日にさらします。塩屋は23軒しかありませんから、一枚一軒の制ではなかったようです。
人口増加と土地不足に、どのように対応したのか?   
寛永三年の割替の後は、土地割替は行われていませんので、本家四五戸の株は固定しました。しかし、製塩が順調に発展すると戸数は増えます。寛文年間(1661~)のころには108戸に増えています。そして、飽和状態になり享保1年(1777)年には、89戸に減っています。
 こうして増えた家は間脇(分家)とよび、本家に附属する家として、独立した一戸とは見なされなかったようです。しかし、実際には屋敷・耕地なども同じように分けたために、分家を出すためにその家の土地所有は細分化されます。この結果、土地所有の「階層分化」がおきます。しかし、それは農村部のように有力な者が耕地を買い集めた結果の階層分化ではありません。そのため大土地所有者は、島には現われません。
 このような人口増加や分家問題、ひいては土地不足に対して、取られた方策が移民です。
文政13(1830)年、黒島ヘの分村移住が始まります。その際にも、徹底した土地の平等分割が行われています。このように、柱島に住みついた海民たちは「均等性」を求めるのです。上にたつ支配力があまり強くなかったためか、後々まで引き継がれていったようです。柱島は江戸時代には外からの刺激が少なく、生産条件が、農業主体とならず、漁業と製塩に重点をおいたことで、中世以来の古い構造を残したとも云えます。

これと対照的なのが、隣島の端島です。
 
9柱島と端島

端島は柱島の属島ですが、ここを開いたのは柱島島民ではありませんでした。明暦4(1659)に、能美島大原の農民・安宅又右衛門の一族が、やってきて6軒の家を建てて住み着きます。その後、開墾も進み、享保12(1727)年には、石高80石余りになり家屋数も23軒に増えています。
しかし、この島が目指したスタイルは柱島とはちがいます。
この島に移住したのは農民で、農民の性格を強く持っていました。耕地は平等分割されず、未開地を開墾できるだけの力のある者が、本家から分け与えられた土地を併せ持って分家します。そのため耕地をひらくことのできない家は、分家することもなく、叔父坊主と言って、兄の家で働きつつ一生を終わったようです。したがって、 一家の家族員は7、8人が多く、10人を超えるものも数多くあったことが残された戸籍から分かります。
 そして習俗を異にする、桂島の通婚も少なかったようです。島が小さく、その上、南半のミカベ山が柱島の塩木山で、柱島民によって四五に等分せられていたため、そこに入りこみ開墾することも許されません。「享保村記」には、船はわずかに一隻あるだけで、それも漁労用ではなく、島外との連絡に用いられているにすぎなかったと記されます。海に出て、漁を行うという姿勢は 、端島には明治になるまで見えません。
 この二つ島の違いをどう見ればいいのでしょうか。
並んだ近隣の島で、地理的条件が似ていても、生産方法や社会構造が似てくるとは限らないことが分かります。そこには、主体となる人間集団の価値観や理念も関わってくるようです。それは「新大陸」と呼ばれるアメリカ大陸でもラテン世界とアングロサクソン世界では、その後の発展過程が大きく違っていくのと同じなのかもしれません。
 海上生活から陸上がりした「海民」が、製塩や農耕に従った島嶼社会には、柱島と相似た現象がみられると研究者は指摘します。これが庄内半島や塩飽・直島・屋島・小豆島などの中世揚浜塩業が行われた地域にも当てはまるのかどうか、今後の課題となりそうです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献  宮本常一    塩の民俗と生活 

           
 瀬戸内海沿岸の地図を見ていると、「泊」「津」「浦」「浜」のついた地名が数多く出てきます。
1「泊」とついた地名は、「船の泊」だといいます。
「泊(とまり)」は、遠浅になっている所が多いようです。古代は、遠浅の砂浜に船を着けていました。すると潮がひくにつれて船が浜に、安定して座ります。海が少々荒れても、次の満潮時までは船は安全に係留されます。そういう所が、船の停泊地となり「泊」と呼ばれたようです。現在の岸壁に囲まれた港のイメージとは違っています。
2「津」もあります。
難波津・住吉津・兵庫津・大津・など聞き慣れた地名があります。讃岐の宇多津、中津、多度津、三野津などは、古代の郡港があった所と云われます。津は、巨船が停泊可能だったようです。
3「浦」と呼ばれる所もあります。
これは、漁村が多かったようです。近世になると、浦は漁村に限られてきます。
4そして「浜」という地名があります。これは塩浜のあった所が多いようです。

中世の揚浜塩田は、床を作ってその上に砂を載せ、それに海水を散布して、鍼水を採るため、そこを浜床とか床浜と呼びました。小字の名には、それが海岸地方の遠浅の海には見られます。ここも塩浜跡の候補と考えられます。
揚げ浜塩田

塩田跡の痕跡は、浜の後ろの山や畑にも残されています。
  海に面した畑が海から山へ縦割りに地割されているところがそうです。これは塩山跡で塩浜についた山で、はじめは製塩用の薪を切っていたのが、後には畑に開墾されたようです。そういう畑のある所には揚浜があったと研究者は考えているようです。このような風景は小豆島の内海湾の海岸線を歩いていると見えてきます
製塩が行われていた地形は?
 中世の地形復元を行ってみると、もともとは深い入江になっていたと考えられるところがあります。その入江の中ほどに弓形の砂州が発達して、その内側に潟沼や潟州(ラグーン)が形成されていることが多いようです。ここに「泊」として、瀬戸内海交流の拠点となる集落が形成されます。そして、砂州を利用して揚浜塩田も作られるようになります。これが近世の入浜塩田に、成長して行きます。
 塩浜には、「藻塩を焼く」と云われたように燃料としての薪が大量に必要とされます。そのために「塩(汐)木山」が背後の山に確保されていきます。

8塩田 周防大嶋全体
中世の揚浜塩田跡のある周防大島

 中世の揚浜式の塩田の例を 周防大島に見てみましょう。
周防大島には、慶長15年(1610)の「検地帳」と寛永二年(1625)の「坪付帳」があります。そこには塩浜の面積が書き込まれてた「浜」がいくつかあります。
 揚浜には二つのスタイルがあったことが分かります。
①砂浜がいつも海から出ているもの、つまり揚浜です。
②浦の奥に砂嘴が発達して、その内側に潟州を持ち、その潟州を利用したもの
②の潟州は満潮時には海水が入って来て入海となります。しかし、潮が引くと干潟になる塩田です。干潮で潮が引いた後に、日干しされた砂を採って、これに海水を注いて鹹水を採ったようです。こちらの方が「労力削減」ができて、効率的です。しかし、日中が満潮の時は、作業は行えません。そこで砂嘴の先端、潮の入口をせきとめて、満潮時に必要なだけ海水を入れて、日干しさせる方法が考え出されるようになります。それが後の入浜塩田になります。
 このように次のような条件がそろう所は揚浜塩田に最適地でした。
①入江を持ち
②広がる砂浜
③砂嘴も発達して内潟を抱いている
こんな場所は、小豆島や本島にはたくあります。
次に、揚浜塩田の構造を見てみましょう。

8塩田 周防大嶋和佐1
周防大島の和佐の海岸
周防大島で、古い遺構を残存しているのは和佐の塩田です。
 元文三年(1738)の『地下上申』を見ると、揚浜一七枚、畝数五反一畝(0,5㌶)なので、一枚の大きさは平均三畝(約3㌃)になります。石高は25石5斗です。1畝(せ)は一反の1/10で、約0.992㌃です。
三畝が生産単位ならば16戸分にあたるわけで、寛永二年のころには20戸が塩を造っていたようです。当時の和佐全体の戸数は30戸ですから、塩を作らない家が10戸あったことになります。これは和佐の領主平岡氏の家臣であったようで、この郷で生活していたようです。つまり江戸時代初期の和佐は、戸数30戸、製塩業20戸、その他10戸で成立していたようです。

8塩田 周防大嶋和佐2

和佐の塩浜の経営構造を押さえておきましょう
一枚の揚浜の年生産高の約50石です。和佐東浜の塩田17枚で、856石になります。ただし、浜一枚で年間に釜屋を使用する日数は24日のみです。 一昼夜で7釜炊き、三回塩水[戯水]をつぎ足して、 一釜で三斗を得る計算です。ここから生産高は七釜で二石一斗になり、24日で50石4斗になります。これを俵詰めします。一俵は6斗入りですから、一浜で84俵、17浜で1428俵になります。
  浜子は浜1枚に四人で17浜ですから合計68人。塩浜には一枚に一頭ずつ牛が必要でした。
その他の浜道具としては、各浜ごとに次のような物がいります
①六斗入りの打桶   1一つ
②塩水を担ぐ担いタゴ 3
③ジョレン      1
④浜鍬        3
⑤振杓        1
こうした浜を一戸が一枚ずつを4人の労働力で経営していたようです。4人の家族労力による自営経営です。このように塩浜は、均等に分割されていたようです。逆に言うと、4人の労働力で操業可能なのは、この広さまでの塩田だったようです。これ以上の広さがあっても、逆に人手が足らなくなります。中世の揚浜塩田は小規模だったのです。
8塩田 周防大嶋和佐

それでは耕地はどうだったのでしょうか。
和佐は、検地図では図1のように耕作地が21に区画されています。そのうち6つが水田で、他の15が畑地です。一見すると区画面積はさまざまで、均等ではないように見えます。しかし、詳しくみると、水田の東冷田・吉平・九十岡・末通・折田・神田二の6区画を除くと、残りの畑地15のうちの6が二つ以上に分割されているのが見えてきます。分割される前は、畑地同士はほぼ同じ面積で均等であったようです。つまり、畑地に開墾される前は「塩木山」でだったのが、製塩用の薪をとるために利用され、切りつくした後が畑に開墾された研究者は考えているようです。整理すると、
①中世の和佐は、二、三の家を除いては、どの家も塩浜を経営する塩業従事者であったこと。
②塩木山は、平等に割り付けられていたこと
③中世末に、入浜塩田が現れると生産性が低く、効率の悪い揚浜の東浜塩田は衰退したこと
④近世初期に検地が行なわれた時、残った製塩家の数に応じて塩木山を平等分割されたこと。
⑤塩木山が開墾され畑地となったこと
が分かります。図1からは、畑地の区画境が、海岸からほぼ直角に山頂に向かって通っているのが見て取れます。それが以上の経過を物語っていると研究者は考えているようです。
 どちらにしても、この和佐の村は、海から来た者による開拓痕跡が強く残っています。海からやってきた「海民」は、どんな人たちだったのでしょうか。史料はありませんので想像力を膨らませると
①中世揚浜塩田の生産技術を持った弓削島の技術者集団の一部が、戦乱・抗争でなどで本拠地を逃れ、大島に新天地を求めた。
②戦国時代末期の村上水軍の亡命者たちの定住。
などが思いつくところです。

これに対して和佐の西隣の森集落や、北隣の神ノ浦集落を見てみましょう。
ここは区画線の引かれ方が和佐とは、かなりちがうと研究者は指摘します。図1で森集落の畑地の区画線をもう一度見ていましょう。確かに複雑に折れ曲がっています。これは、森や神ノ浦が早くから山麓緊落として発達した所であり、複雑な境界線を持つ畑地や山林区画が形成されていたからのようです。
 ここからは、最初から農耕を目的にして本土から渡って来た森集落の祖先と、海から来て陸上がりした「海民」との生活様式の差が表されていると研究者は考えているようです。
和田も海岸線沿いに「浜割」が見られます。

8揚浜塩田 和田

図2で黒いメッシュ部分が旧塩田跡です。今では、ここに家が建ち集落になっています。しかし、ここには先住の山麓集落があったようです。海岸線から奥へ行けば行くほど区画線が複雑に折れ曲がったものになっています。これは「先住者」のテリトリーだった地域です。そこへ海からやって来た「海民」が海岸沿いに、均等に土地を分けて揚浜塩田を開いたようです。そして薪は、先住者のテリトリーを侵すことなく、周辺の無人島の山から切り出してきたようです。
 このように和田集落は先住者である畑作農耕者いる所へ、海からの海民が入り込み塩田を開いて住み着いたという事になるようです。両者の間に「棲み分け」が成立したのでしょう。

8塩田 揚浜塩田

近世初期に周防大島で揚浜を経営した村は数多くあり、当時の揚浜総面積は9町5畝23歩になるようです。
これをひとつの経営単位を三畝一枚して計算すると、約300枚の揚浜があったことになります。一枚で年間塩10石を生産するとして、約3000石の塩生産石高になります。当時の大島は、戸数は約2000戸で、1戸平均5人とすれば人口は1万人程度であったと考えられます。すると島民の塩の消費量は1000石を越えることはなかったでしょうから、多くは島外へ売られていたことになります。近世になって入浜式の大規模塩田が姿を見えるまでは島の重要産業だったことが分かります。

もうひとつ研究者が指摘するのは、周防大島で畑作率の高いのは和佐や和田なと島東部で、そこに揚浜が多かったことです。
その背景には何があったのでしょうか?
島の開発の大きな原動力は、本土からの移住と水田開拓でした。水田開発が可能なエリアでは、農耕民の渡島によって開拓が進み、村落が成立していきます。それは本土と同じような農耕集落が形成されます。
 ところが水田開発が不可能な所では、陸地は牧場などに利用せられてきました。瀬戸の島でも、日本海の隠岐のように牛が放し飼いにされていたのです。確かに古代においては、瀬戸内海沿岸や島には「牧」が開かれていたことを示す史料が残されています。
 漁民が定住した浜で、揚浜経営可能の砂浜を持つ所では自然に製塩が始められるようになります。同時に製塩のためには山の木を切ります。その跡が開墾され畑になっていきます。それは自然の成行きだったのかもしれません。こうして畑作と製塩を生業とする村が海沿いにできます。しかし、これは漁村ではありません。浦ではないのです。
 弓削島・因島・生名島・岩城島・佐島・周防大島をはじめ、中世以前に製塩が行なわれたとされる姫島・柱島・能美島・大崎上島・新居大島・塩飽島・小豆島などは、どこも畑作を主体とする島です。そしてそれらの島々には、山を海岸から頂に向かって縦割りにし、その割られた所が段々畑にひらかれている光景が、かつては見えていました。「耕して天に至る」の景色です。
耕して天に至る 歴史遺産で育つ、究極のじゃがいも | 健菜通信 | 健菜倶楽部

 塩を生産するためには、大量の薪を必要だったことは何回もお話ししました。そのため、塩浜には薪を供給する山がついているのが普通で、塩(汐)木山という地名が今に残ります。それでは、塩木山が先住者との関係や地理的な制約から確保できない場合はどうしていたのでしょうか
 そんな場合には近くの無人島を「薪島」にしていた所もあります。
たとえば、山口県岩国市柱島は、早くから塩を焼いた島でしたが、この島には11の属島がついていて、柱十二島とよばれていたようです。
8塩田 無人島塩木島

今は干拓で陸続きになってしまいましたが岡山県笠岡市の神島も塩を焼いた島ですが、沖合の片島・明地・稲積・高島・小高島・白石島などを薪島としていたようです。また、香川県直島も古代以来、塩を生産しており、直島をめぐる10の属島は、薪島であったようです。
  塩田の面積が広ければ広いほど、薪山・薪島の面積は広かったはずです。逆に考えると
「属島を多く持つ島は、製塩が盛んであった」

と考えられます。そうだとすると属島を多く持つ兵庫県家島群島、香川県小豆郡豊島、香川県塩飽本島、真鍋島なども、中世以前には塩の有力な生産地であったことがうかがえます。そして、それらの地域からその推察は近畿に運ばれた塩の量から裏付けられます。

こういう視点で瀬戸内海を見ていくと、中世以前の揚浜のあった所が浮かび上がってきます。香川県では、次のような所で中世に揚浜製塩が行われていたと研究者は考えているようです。
①引田町
②小豆郡内海町馬木・新開・片城、池田町、
③木田郡庵治村
④高松市
⑤丸亀市塩飽本島生之・尻()浜、
⑥丸亀市
⑦三豊市詫間町箱・室・仁老・大・栗島京・永・東風
⑤三豊市三野町浜・新

以前に甲州からやってきた西遷御家人の秋山氏が三野津湾で揚浜塩田を経営していた話をしましたが、このような背景があったことを押さえておきたいと思います。
 海民の陸上がりして定住したとみられる島々では、親方や支配者の家を除いて、財産も家屋敷も平均化していたのです。それが徹底して行なわれたのが岩国市の柱島のようです。それは、また別の機会に
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 宮本甞一    塩の民俗と生活 

              
ザヴィエルが日本にやてきたころの讃岐の情勢は?
 ①守護細川氏が衰えた結果、武士間の対立抗争が激化
 ②分裂状態に乗じて阿波の三好氏の讃岐進出が始まる。
 ③三好氏の西讃侵入と、天霧城主の香川之景の従属。
 ④信長が三好氏を破ると、讃岐武士団も相続いで信長の支配下に
 ⑥天正六年(1578)に土佐の長宗我部元親が讃岐侵攻。
このように十六世紀後半の讃岐は、中世来から近世への大きな歴史の転換期にさしかかっていたようです。うち続く戦乱の中で、民衆たちは心の平安を求め、新しい時代の生き方を模索していたのかもしれません。それに応じるように。新しい宗教運動が展開されていました。讃岐にも阿波郡里の安楽寺から讃岐山脈の峠を越えて、浄土真宗興正寺派の教線が急速に伸びてきたのもこの時代です。
 一方、目を海に転じると行き交う船には、今まで目にしたことのない「南蛮人」が乗り込みキリスト教の布教のために、瀬戸内海を往来し始めていました。イエズス会の宣教師達は、その際の拠点として本島に立ち寄っています。
今回は本島に立ち寄った宣教師達を視ていくことにします。
彼らは個人で布教に日本にやって来ているわけではありません。イエズス会という巨大な宗教団体の一員として、神との契約に基づいてやっていていました。その組織は軍隊的でさえありました。自分の活動については上司に定期的に報告する義務がありました。エリアの総括本部では、それを本国やバチカンに年次報告として定期的に送っていました。その記録が残っているのです。もちろんラテン語で書かれています。
『1598年の日本におけるキリスト教界報告:日本の王、太閤様(豊臣秀吉)の死について』(ほか3書簡収録)

パシオ、ゴメス『1598年の日本におけるキリスト教界報告
:日本の王、太閤様(豊臣秀吉)の死について』


6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスLuis FIols
フロイス
    
 イエズス会ルイス・フロイスLuis FIols神父,
同宿少年3,4名,キリシタン3,4名 (インド人1名,シナ人1名を含む)
アルメイダ1565年10月25日付書簡フロイス「日本史」
永禄七年(1565)に、フロイスがアルメイダなど四人の宣教師と一緒に、寒い12月に伊予の堀江から6日かかって、塩飽に上陸しています。これが記録上、宣教師が塩飽島に寄港した最初の記録のようです。
6 塩飽と宣教師 瀬戸内海地図

 彼らの塩飽に至る経路を見てみると、平戸を1564年11月10日出発。キリシタン大名として有名な豊後の大友宗麟に会うために臼杵に上陸し、その後に府内(今の大分市)に移動し、宗麟と会見します。大分港から出航しようとしますが、晩秋の北西風が続いたために府内に1カ月の滞在をを余儀なくされています。好天になった1565年1月1日になってやっと出航します。
 この時期の瀬戸内海廻船は、冬には船を動かさないことがセオリーだったので、無理な航海だったようです。伊予の堀江で8日滞在後に、1月中旬に塩飽に到着しています。当時の塩飽は、海のハイウエー瀬戸内海のサービスエリアのような役割を果たしていました。塩飽にやって来て、船を乗り換えて目的地をめざす人たちが多かったようです。
「塩飽まで行けば、なんとかなる」「まずは塩飽を目指せ」

というのが旅人の常識であったようです。それだけ塩飽が瀬戸内海ネットワークの重要な拠点であったことが分かります。
 しかし、時期が悪かったようです。冬の瀬戸内海を航海する船は少なかったようです。正月の塩飽には堺行きの便船なく、海賊を心配しながら小舟で坂越(サコシ、現在赤穂市東部にある小港)に移ります。そこで10日程便船を待ち1月27日に堺に上陸し、31日に京都に着いています。この時の平戸から京都の旅は、風向きや船便が悪く80日近くを要しています。
  宣教師が塩飽に立ち寄ったことが分かる最初の史料なのですが、残念ながら塩飽のことは何も触れられていません
6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスnihosi

1574年(天正2年2月~)  日本布教長フランシスコ・カブラル
  カブラルは、イエズス会の日本布教区の責任者でした。日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的だったために、後に巡察師ヴァリニャーノに批判され、解任されます。

 カブラルは、第2回の五畿内巡察行のために、当時の伝道センターである「シモ」(西九州)の口之津を1573年9月7日出発し、島原・府内(大分市)・博多・下関などを経て山口に到着します。ここで3ヶ月滞在・伝道した後に、翌年2月岩国から堺へ向かう船に乗り込みます。春が来るのを待っていたのかもしれません。しかし、患っていた熱病が悪化します。それを助けたのが異教徒の「海賊船頭」です。
7安芸川尻

この船頭は安芸川尻の九郎右衛で自宅にカブラルを連れて行き20日程療養させています。このあと一行は、九郎右衛の船で塩飽(本島の泊港?)に送られてきます。この時期は、村上水軍が塩飽までも支配下に置き、瀬戸内海に「海の平和」がもたらされていた時代です。川尻の船頭は村上水軍の配下にあったのかもしれません。船の通行に問題はなかったようです。しかし、カブラルの病気は良くなりません。塩飽でも8日間の療養を余儀なくされます。

6塩飽地図

この間、同行のトルレス修道士は、塩飽の人々に説教を行ないます。その結果、世話になっていた宿の主婦が受洗します。この女性が讃岐で最初のキリシタンのようです。宿の主人は、その勇気がなかったようで、この時には洗礼をうけていません。しかし、8年後の1581年4月14日付フロイス書簡には
「塩飽の我等の宿の主人であるキリシタンその他が・・・」
「塩飽での良き協力者」
と書かれているので、のちにキリシタンになったようです。が、彼の受洗入信の記録はないようです。
   カブラルが世話になった「宿の主人」については、どういう人物か分かりません。
彼は、カブラルを自宅で療養させ塩飽まで送り届けた安芸川尻の船頭「九郎右衛門」の友人だったようです。また、塩飽の有力者で立派な家を持ち、この時から
「我々(イエズス会士たち)が通過する時には、いつも宿を提供してくれる地元の顔役」(「日本史」1581年記事)

だったとも記します。そして、1585年フランシスコ・パシオ神父一行が豊後から塩飽にやってきた時は、塩飽の領主である小西行長から島の代官と共に、この「宿の主人」にも事前に歓待依頼の手紙が来た程の存在でした。
 ここからは瀬戸内海を行き来する宣教師がふえ、塩飽へ寄港することが多くなるにつれて、キリスト教に改宗し布教活動を助ける人たちが現れていたことが分かります。

 カブラルが回復すると出港しますが、塩飽から堺への途上では多数の海賊船に襲われることもあったと記します。海の関所の通行料「関銭」徴収が、このエリアではまだ行われていたことがうかがえます。 3月末には堺に到着し、4月中旬には入洛し、京都にやってきていたた織田信長に再度謁見しています。

1577年 (天正4年12月)8日間  ルイス・フロイス神父 

ルイス・フロイスは、その後10年余り「ミヤコ地区」の布教長として京都周辺の布教活動に関わっていました。カブラルの命で、オルガンチーノ神父に交替して京都を離れることになります。それが1576年の大晦日で、年を越えた1月3日に兵庫から豊後へ向う船に乗船します。途中海賊船数隻の追跡を受けたと記しますが、無事「塩飽の港」(泊港)に着きます。これが彼にとっては塩飽、二度目の滞在になります。ここで、塩飽以西の航路の案内人が来るまで8日間滞在しています。
 当時は、先ほども述べましたが塩飽は、村上水軍の支配下にありました。
 芸予諸島から村上水軍の「上乗り案内人」がやって来て「関銭」を支払って、その代償に航海の安全が保証されるシステムでした。
 それに対して塩飽以東の航路については、先ほども見たように、海賊船の出没が記録されています。しかし、攻撃を受けているわけではないので「関銭」を船上で納めていたのかもしれません。同時に、このエリアは村上水軍や塩飽衆の勢力範囲でなかったことがうかがえます。
 塩飽での滞在中にフロイスは、宿(3年前に主婦がこの地域で初めてのキリシタンになった家)の主人や家族を含め人々に数回説教し、質疑に答えています。そのうちの数名はキリシタンになりたいと希望しますが、長く滞在できなかったので、後日の機会に延期しています。
 たまたま宿の隣人が重病を煩っていて、宿の主人からせがまれたフロイスが手持ちの薬剤を与えたところ、快方に向かいます。そのため「名医」の評判が立ち、宿の家は怪我人病人を連れてきて薬を懇願する人々で一杯になつた、という余談も記しています。フロイスらしい筆まめさが出ています。「現世利益・病気退散」が行える宗教家を、庶民は求めていたのです。
 フロイスは、このようにして8日間を塩飽で過ごします。そして、天正4年12月30日(西暦に変換すると1577年1月18日)に、次なる任務地である豊後に到着しています。
5 堺南蛮貿易

  1581 (天正9年2月) イエズス会巡察師ヴァリニャーノ
(同伴者 ルイス。フロイス神父, 他に神父3名,修道±3名)
「1581年度イエズス会日本年報」(G.コエリコ執筆),
6 塩飽と宣教師 ヴァリニャーノ
ヴァリニャーノ
 イエズス会巡察師ヴァリニャーノは、フロイス等を伴い、1581年3月8日豊後府内(大分市)を出発して畿内に向かいます。出発に先だって、山口の国主毛利(輝元)が、自領の港や塩飽港(当時毛利領)に寄港するバテレンをすべて捕らえるよう命令しているとの情報を得ます。加えて『我々(イエズス会士たち)が通過する時にはいつも宿を提供してくれる地元の一人の顔役』からも、塩飽の港に入らないように伝える手紙が送られてきます。しかも乗船予定の船頭は、織田信長やイエズス会に敵対する大坂の浄土真宗の信者だったので、一層不安になります。しかし、彼の船以外に便船はありません。乗る外なかったようです。
 大友宗麟は船頭に塩飽など、毛利勢力下の港に立ち寄らないように約束させますが、船頭は約束に反して塩飽の泊(Tamari←Tomario paragemとも)港に入港します。一行は恐怖でパニック状態になりますが、泊港で過ごした一昼夜の間は、毛利の代官が不在だったので拘束されることはなかったようです。しかし「常宿の主人」は、できるだけ早く塩飽を離れるようにと助言します。
 それに従って翌日には出港し、寄港予定だった室津や兵庫の港には寄らず、淡路の岩屋港に寄港します。ここでも一晩過ごしただけで、青年漕ぎ手30人の快速船を用立てて、折しも吹く西風を受けて堺へと向かいます。ところが兵庫沖で待ち構えていた大きな海賊船(通行税取り?)が追いかけてきます。結局、堺の港の直前でで追い付かれ、求める金銭を支払ったと記します。
 ここからは「関銭」の徴収方法が、村上水軍のように「上乗り」制度というスマートな方法でなく、現地徴収方法だったことがうかがえます。このエリアの海賊たちが組織化されていなかったようです。
 堺に上陸したのは、豊後を出て10日目の3月17日のことです。寄港地に長逗留せずに、最短で目的地を目指すと瀬戸内海は、この程度で航海可能だったことが分かります。

 このあとヴァリニャーノは、約5ヶ月間、畿内のミヤコ地区を巡察し、織田信長にも何度か謁見する機会を得て厚遇されています。
 ちなみに9月初めに近畿視察を終えて、豊後に戻る時は土佐沖航路で約1ケ月を費やして豊後に戻っています。それだけ往路で経験した「海賊と毛利氏からの危険」を避けたかったのでしょう。

1585年7月12日(天正13年6月15日)フランシスコ・パシオ
[史料]パシオ1585年7月13日付牛窓発信書簡

7月6日(陽暦)パシオ神父は、堺へ向かって豊後佐賀関を出発し、6日後の12日に塩飽に到着します。当時の瀬戸内海は、秀吉が四国平定のための軍勢集結準備の真っ最中でした。牛窓と小豆島を秀吉から与えられた小西行長は、東瀬戸内海の制海権を握って活動中でした。「海の司令官」として、行長は四国遠征の最後の連絡のために各拠点を忙しく巡回していた時期になります。
 行長は父と共に入信していて、当時は高山右近を見習い、小豆島にキリスト教の「地上の楽園」建設を目指している最中でした。そのためイエズス会宣教師から見ると頼りになる「青年海軍指令官」でした。
 その行長から塩飽の殿Tono(ここでは代官)に対して、室津までの船の用意と歓待が依頼されていたようです。「我等が同地を通過する時に泊る宿の主人」にも、行長から同様の手紙がだされていました。
 塩飽に派遣されてきた行長家臣の案内で、パシオは日比(現在岡山県玉野市)に渡ります。翌早朝、四国派遣軍の輸送船団を指揮する行長の姿を見ています。行長は「十字架の旗を多数立てた大船」でパシオを大いに歓待し、堺への軽快な船と護衛兵士を用意し、送りだしています。それが、翌々年の九州遠征後の秀吉のバテレン追放令で、小豆島が右近の亡命先になるとは、この時点では思ってもみなかったことでしょう。

1586年4月  イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョ
ルイス・フロイス神父, 外に神父3名,修道±3名
ガスパル・コエリョ
1586年3月6日準管区長コエリョは、フロイス等を伴い、大坂に向かって長崎を出発します。秀吉は翌年の九州平定に向けて、キリスト教勢力の協力を取り付けようとします。その代償として、秀吉から布教の特許状が出ることになったようです。そのためのキリスト教側の使節が大坂に派遣されることになります。
 航路は、西彼杵半島の西岸沿いの海路で平戸を回り、博多・下関・上関等を経て塩飽にやってきます。塩飽到着は4月10日(天正14年2月22日)前後です。この時の塩飽滞在については、フロイス「報告書」にも「日本史」にもはっきりした記事は残されていません。
「報告書」に
「アゴスチニヨ弥九郎殿(小西行長)は、船をもって我等を迎えるため(塩飽に)家臣数人を遣わした。」

とあります。小西行長は、四国平定が終わった後も「海の青年司令官」として、秀吉の命令で瀬戸内海の各地に命令を伝え、現地司令官と協議を重ねてる忙しい日々を送っていたようです。先を急ぐ使節団に早舟の手配を行ったかもしれません。そうだとすれば塩飽への寄港・滞在はなかったでしょう。大阪城に向けての急ぎ旅だったので、潮待ちで滞在したとしても短期間だったでしょう。
 塩飽からは室津・明石・兵庫を経て、4月24日(邦暦3月6日)に堺に上陸します。長崎から50日かかった、と記されています。10日後の5月4日コエリョは、神父・修道士達を伴って大坂城に入り、秀吉に謁見し、1ヶ月半後に待望の布教特許状が下されます。
   大任を果たし意気上がるコエリョー行は、7月23日に豊後へ向かって堺を出発します。
この時に小西行長からひとつの要望がありました。
それは行長が「地上の楽園」の建設を行っていた小豆島に、布教のために適任者を派遣して欲しいという願いでした。「海の司令官=行長」の要望を断るわけにはいきません。そこで、一行に加えられた大坂のセミナリヨのグレゴリオ・デ・セスペデス神父が小豆島に派遣されることになります。彼は牛窓で一行と分かれ、日本人修道士ジアンと共に小豆島に入り布教活動を始めます。そして短期間に1400人余に授洗したと報告しています。
 コエリョー行は、室津牛窓を経て能島の海賊頭とイエズス会員達の安全通行を交渉した後、伊予に赴きます。復路では塩飽には立ち寄っていないようです。
 伊予に立ち寄った目的は、四国平定後に伊予領主となった小早川隆景に会うためです。
毛利・小早川氏は、それまでキリスト教布教には好意的でなかったようです。それを秀吉の布教特許状を頼りに、山口と伊予に教会のための土地を要望します。これに対して、隆景の反応は以外にも好意的で2ヶ所とも許可されます。伊予で数日過ごした後、豊後の臼杵に到着しています。ここからは彼らの布教拠点が、豊後臼杵であったことが分かります。

その後、伊予道後の隆景から与えられた地所には、教会堂や司祭館が建てられたと云います。この時期が宣教師にとっては、日本布教に大きな展望が開け期待が膨らんでいた時期でした。翌年の7月、九州遠征終了後に秀吉は、伴天連追放令を出すのです。松山の教会も破壊されたようです。
  
 初めて塩飽に宣教師が寄港してから、秀吉のバテレン追放令までの宣教師の通ったルートを見てきました。そこからは、次のような瀬戸内海交通路とキリスト教の布教ルートが見えてきます。
①1556年を境として、キリスト教布教の中心地は山口から豊後に移ると、宣教師の出発地点も、豊後に移動している。
②大内氏にかわって毛利氏が実権を握り、キリスト教を禁止するようになると、宣教師の航行路は瀬戸内海北岸ルートを避けて、南岸ルートに変化し伊予ルートが多くなる
③瀬戸内海航行の各船頭間には、密接な連絡網があり相互に航行範囲の分担があった
④瀬戸内海航路の終着地点としての堺が、交易物資の独占的な集積地となり、その富を背景に新しい文化の享受地となっていた。
⑤宣教師は、イルマン(修道士)や日本人改宗者を伴い、行く先々で民衆と交わり、医療・教育・社会活動などを通じて信者を獲得している。
⑥永禄3年(1560)には、将軍足利義輝から教会保護の約束をとり、
⑦永禄12年(1569)には、織田信長から布教許可を得て、
「上からの布教」方法も取り入れた積極的な布教活動を行った。
 その結果、信者数は宣教師の報告によれば次のように増加しています。
 元亀元年(1570) 2~3万人
 天正9年(1582)  15万人、
 天正18年(1590) 25万人
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

明治元年に、阿波の若者が金毘羅さんに「武者修行」にやってきています。
『慶応四(1868)辰のとし 無神月 箸蔵寺金毘羅参詣道中記並に諸造用ひかえ』と記され記録が、麻植郡美郷村東山の後藤田家に残されています。金毘羅さんの参拝ついでに、讃岐の道場を訪ねた記録です。見てみましょう。

6 阿讃国境地図
 無神月廿三日早朝出立、
川又(美郷村)より川田(山川町)通りにまかりこし 
市久保(山川町西川田)にてわらじととのえ、岩津(阿波町)渡し(吉野川の渡し)越す、このころ時雨にあいおおいに心配いたし九ッ(正午)ごろより天気晴れ安心いたし候。
それより脇町を通り新馬場より塩田荏大夫に出合い川原町まで同道いたし候、川原町追分、南がわの茶屋にて支度いたし候、さいはふくろさよりなり、おかかふとりよるもの、子供三皆女なり。
 それより郡里へ通、沼田原に山頭山御祭、かけ馬、角力おおはずみ、それより昼間光明寺にて紙を買う代壱匁(銀銭単位)なり、それより箸蔵山へ登り候、ふもとにて日暮れにあい及び候、箸蔵寺へ着いたし、上の間十枚敷へ通り、岩倉村人、土州人、くみあわせ弐十人ばかり、なかに岩倉の娘、穴ばち摺ばち取りまぜ六人はなはだぶきりょうものなり
  意訳すると
慶応4年10月23日の早朝に美郷村東山を出発。
川田(山川町)を抜けて、市久保(山川町西川田)で草鞋を整えて、岩津(阿波町)の川渡場で吉野川を越える。このころまで時雨も上がり、九ッ(正午)には天気も晴れてきた。脇町を通り、新馬場で塩田荏大夫に出合い川原町まで一緒に同道した。川原町追分の南がわの茶屋で食事をとった。おかずは「ふくろさより」で、おかみは太っていて、子供3人はみんな女であった。
 ここから郡里へ入ったが、沼田原で山頭山の御祭に出会った。草競馬や、角力で大賑わいであった。さらに昼間の光明寺で紙を買った。代は壱匁(銀銭単位)であった。 昼間から箸蔵寺へは登りになるが、ふもとで日が暮れて、暗くなって箸蔵寺に就いた。案内されたのは上の間の10畳ほどの部屋で、ここに岩倉村や土佐の人たち20人ほどの相部屋となった。岩倉村の娘達は不器量であった。
 この剣士(?)は、城下町に住む武士ではないようです。田舎で剣術を習っている若者のようですが年齢などは分かりません。食べ物と女性への関心は強そうなので、まだまだ人間的にも修行中の若者のようです。
さて、初日の記録からは次のような事が分かります。
①旧暦の9月に慶応は明治に改元されています。出発日は慶応4年10月23日と、記されていて明治の元号を使っていません。ちなみにグレゴリオ暦では1868年10月23日が明治への改元日になります。どちらにしても、明治になったばかり激動の時代の金毘羅さん詣りです。どんな変化が見られるのか楽しみです。

②箸蔵までのルートは次の通りです。
美郷川又 → 山川 → 岩津で渡船 → 脇町 → 郡里 → 昼間 → 箸蔵寺

岩津の渡船で吉野川を渡り、撫養街道を西へ進んで行き、夕暮れに箸蔵寺に着いています。脇町方面からだと郡里から三頭越えで美合に下りた方が近道だとおもうのですが、箸蔵経由のコースを取っています。 
③これは箸蔵寺が参拝者へのサービスとして、宿を無量で提供していたことがあるのかもしれません。この日も20人ばかりの人たちが、箸蔵寺の用意した部屋を利用しています。その中には娘達もいたようです。娘達の旅とは、どんな目的だったのか気になります。
箸蔵街道をたどる道 3 | みかんやさんのブログ

 箸蔵寺は、江戸時代後半になってから
「金毘羅さんの奥社・金比羅詣での両詣り」

をキャッチフレーズに、金比羅詣客を呼び込むための経営戦略を打ち出し、急速に寺勢を伸ばします。その際に活躍したのが、箸蔵寺周辺を拠点としていた修験者(山伏)たちです。彼らは先達として、参拝客を誘引すると共に、箸蔵街道の整備や勧進活動も行います。その結果、
箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 石仏越 → 財田・山脇

をたどる箸蔵街道がこのエリアの阿讃峠道の主要ルートになります。それが明治の猪ノ鼻峠を越える四国新道につながっていきます。
4 阿波国図 15

10月24日前半 箸蔵寺から金毘羅さん参拝までへ
翌日廿四日出立いたし、土州もの三人連れ同道にて荒戸様を下り、荒戸越え道の左手に小さき池あり、いちえん、はちす(蓮)なり、その池に十八、九の娘、米を洗い候、彼(彼女の意)に、この蓮根に穴あるやと尋ね候えば甚だ不興の鉢(体)なり。
 それより同処ヒサノヤ利太郎宅にて休足(休息)いたし候、ゆべし(柚餅子)にて茶をくれ候、さいは白髪こぶ、竹わ、ふ、なり、小皿つけなり、おかか随分手取り(やりて)なり。
半道(一里の半分)行き追上村小さき茶屋あり、川より西、小百姓とおぼしき南に弐拾五、六女、同年ほどの男だんだんくどきを言い甚だ困り入り候おもむきにあい見え候。

 彼所より拾丁ばかり参り候えば小さき菓子物みせに三拾ばかり夫婦あり、この所にてわらじ弐足代壱匁三分にて買い求め、それより阿波町へ指しかかり象頭山参詣(金毘羅まいりのこと)方々拝見広大なり。
 それより榎井、土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ西山豊之進殿宅参り内室(奥さん)申出には豊之進、土州様出張所へまかり出るにつき夕方にも、まかりかえるのほどあいはかりがたくにつき、御気の毒にはござ候えどもと申すにつき、しからば山神権吉様宅へ参上つかまつるおもむきに申し候へども最早、剣者も壱人ばかりにてはあまり少なく思い、
意訳すると
翌日24日に箸蔵寺を出発する。途中は昨夜同宿した土佐の三人連れと同道して、山脇集落から荒戸に下った。荒戸越えの道筋の左手に小さな池があり、一面に蓮が咲いていた。その池に十八、九の娘が米を洗っていたので「その蓮根に穴はあるのか」と尋ねると、不機嫌そうな仕草をした。
 荒戸のヒサノヤ利太郎宅で昼食休憩し、ゆべし(柚餅子)と茶を飲んだ。おかずは白髪こぶ、竹輪、ふ、なり、小皿つけであった。女将は随分のやり手だった。
 半道(2㎞)ほどいくと追上村に小さな茶屋があった。そこから川より西側で、小百姓らしい身なりの25歳前後の女が、同じ年頃の男に言い寄られて、困っている様子に見えた。
そこから10丁程進むと小さな菓子物店を、30歳ほどの夫婦が経営してた。ここで、わらじ2足代壱匁三分で買い求めた。そこから金毘羅さんの阿波町へ入り、象頭山参詣(金毘羅まいり)を果たした。いろいろなところを拝見したが広大である。
ここでも女性に、ついつい目が行ってしまうのを止められないようです。金毘羅への道は
箸蔵街道を 箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 山脇 → 荒戸 → 追上 → 樅の木峠 → 買田 → 阿波町

を経て、阿波街道のゴールである阿波町に入っています。金毘羅参拝の報告については、極めて簡略です。江戸時期の庶民の残した旅行記の大半は、途中までの行程は記しますが、その神社や寺社の内部を詳しく記す物はほとんどありません。それがどうしてなのか、私にはよく分かりません。
 旧高松街道 Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com
10月24日後半 高松街道を金毘羅さんから栗熊まで
 それより榎井、土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ西山豊之進殿宅参り内室(奥さん)申出には豊之進、土州様出張所へまかり出るにつき夕方にも、まかりかえるのほどあいはかりがたくにつき、御気の毒にはござ候えどもと申すにつき、しからば山神権吉様宅へ参上つかまつるおもむきに申し候へども最早、剣者も壱人ばかりにてはあまり少なく思い、
髙松街道 高篠 祓川から見坂峠2
はらい川(土器川)周辺の髙松街道

それより八栗寺へこころざし参り候ところ、はらい川を越え候ところ五十ばかりの男、道連れになり、いろいろ、はなしいたし、それよりなごり坂(残念坂)へさしかかりこの坂、名残坂とは如何して言う、いわくこの坂、名残坂と申すは諸国の人々、金毘羅内金山寺町等にて段々、がいに狂いいたし帰るさいに、この坂より見返り、この坂、越え候得ば一向あい見え申さず候故なりという

 それより少し行く道のこの手に木村と申す太家あり、それより栗熊村へ指し懸り山路岩太郎と申す剣者の内へまかりいで あいたのみ候えば十七、八の前髪たちいで父、岩太郎居合わさず候故、ことわり申され、それより三丁半東、同村桜屋吉郎内へ参り泊り候処、
加茂村の者老人下駄商用に参り泊り合わせ申し候。
 その夜、村中の若もの四、五人参り、色々、咄(はなし)さいもん、あほだら経、ちょんがり、浄るり、色々あるにあられぬたわむれ。おもしろしく 
さて桜屋ふとんうすく小さし、
 当春、最明寺の某氏うたなり
  桜屋のふとん小さき夜寒むかな
意訳すると
 それより榎井に入り、土佐占領軍の駐屯地を過ぎ、西山豊之進殿宅へうかがった。内室(奥さん)が出てきて云うには道場主の豊之進は、土佐の駐屯地へ詰めていて、夕方に帰ってくるかどうかも分からないとのことで、御気の毒に存じますとのこと。それならばと山神権吉様宅へうかがうことを告げると、剣者が1人いるだけとのことで諦めることにする。
残念坂からの象頭山 浮世絵
狭間の残念坂からの象頭山金毘羅

 狭間の残念坂を越えて、高松の八栗寺へ向かおうと、はらい川(土器川)を越えた所で五十歳ほどの男と道連れになり、いろいろな話をした。それによると、今から登る坂をなごり坂(残念坂)と呼ぶのはどうしてか知っているかと聞かれる。男が云うには「この坂を名残坂(残念坂)というのは、諸国の人々が金毘羅の色街・金山寺町で精進落としと称し、酒に酔い、大いに羽目を外して、帰る際に、この坂より今一度金毘羅さんを見返りる。しかし、この坂を越えれば平素の顔にもどっている。だから残念坂というそうだ。
打越坂 見返坂 残念坂.jpg金毘羅参詣名所図会
     見返坂(残念坂)金毘羅参詣名所図会
 
狭間より少し行くと木村という大きな家がある。さらに行き栗熊村の山路岩太郎という剣者の家を訪ね、手合わせを頼むが出てきたのは十七、八の前髪の若者で「父、岩太郎は不在です」と断られた。仕方なく、三丁半東の、同村桜屋吉郎の宿に泊る。加茂村老人で下駄商用も泊り合わせたので、その夜、村中の若もの四、五人がやってきて色々、咄(はなし)さいもん、あほだら経、ちょんがり、浄瑠璃などで戯れ時を過ごした。桜屋のふとんは薄く小さい。そこで一句
 当春、最明寺の某氏うたなり
  桜屋のふとん小さき夜寒むかな
  当時の琴平は、土佐軍占領下にあり土佐兵が、天領だった榎井に進駐していました。新時代の情勢変化などに興味を持つ者であれば、その辺りのことも記録に残すと思うのですが「土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ」と通り過ぎるだけです。この辺りが武士ではないので当事者意識がなく、緊張感もないのかなあと思えてきます。
 当時の金毘羅をめぐる情勢を見ておくと、
この年の初めには、土佐軍が金毘羅を軍事占領し、土佐軍の支配下に置かれます。そして金毘羅金光院に軍用金差出を命じます。そして、戊辰戦争、鳥羽伏見の戦い、江戸城開城・高松藩征伐と続くのです。土佐藩軍政下の金毘羅の様子を知りたかったのですが、そのことには一切触れられません。ノンポリのようです。ちなみに金毘羅が土佐藩鎮撫から倉敷県管轄となるのは、翌年のことです。
 彼は榎井の道場を訪ねていますが、榎井だけでも2軒の道場があったようです。幕末には武士だけでなく、庶民にも武道熱が高まり、城下町の道場以外の郡部にも道場があったことが分かります。この日は3軒の道場を訪ねますが、手合わせは適いませんでした。夜は栗熊の宿で、同宿者や村の若者と若者らしく他愛もないものに興じて時を過ごしています。④以外は、私は初めて見るものです。
① 咄(はなし)さいもん、
②あほだら経
③ちょんがり
④浄瑠璃」を楽しんだといいます。
辞書で調べてみることにします。
①は浪花節のことのようです。「江戸末期、大坂に起こった、三味線を伴奏とする大衆的な語り物。明治以降盛んになった。説経祭文(さいもん)から転化したもので、ちょんがれ節、うかれ節などとも呼ばれていた。語られる内容は多くは軍談・講釈・伝記など」と記されます。当時の流行のはしりだったようです。③も浪花節の変種のようです。
②は江戸時代中期に、乞食坊主が街頭で行なった時事風刺の滑稽な俗謡。「ちょぼくれ」ともいわれ、ほら貝などを伴奏にし,戸ごとに銭を請うたとあります。
  旅の目的が道場巡りから演芸交流になっているようで、他人事ながら心配になってきます。

10月25日はいか(羽床)村。
上総琵之助先生方へ参りあい頼み候ところ、おりよく兄弟両三人居合わせ段々取り持ちくれ御業(わぎ)つけくだされ兄弟稽古いたしくれ、また御茶漬くだされ色々御留めくだされ家内壱統、情深き人々なり、それより滝宮参詣いたし、
それより未(陶)村不慶丈太夫先生へ参り、是は高松領随一短槍名人なり、おりあしく居合わさずそれより五丁ばかり北山手に上田四郎兵衛先生方へ参り候処、居合わせ候得共  ??   」』と、以下紙が敗れ造用ある。
意訳すると
配香村(羽床村)の鞍馬一刀流 上総荏之進先生の道場を訪ね、お手合わせを頼むと折良く、兄弟3人が在宅で、稽古をつけてくれた。また稽古の後はお茶漬けまでいただくなど、情け深い家族であった。その後、滝宮神社の参拝後に、陶村の不慶丈太夫先生の道場を訪ねた。先生は高松領随一の短槍名人だが不在であったので、そこから五丁ばかり北にある上田四郎兵衛先生方を訪ねた・・・・・・』

ここまでで「以下紙が敗れ造用」とあります。記録はここまでのようです。この旅で訪ねた道場を挙げると、次のようになります。
讃州那賀郡金毘羅榎井町   西山豊之進
              山上権六
        栗熊村   山路岩太郎
配香村(羽床村)鞍馬一刀流 上総荏之進
              上総辰之助
              津田久之助
  未(陶)村 直神影流  不慶丈太夫
     同        上田四郎兵衛
幕末の讃岐にも郡部には、これだけの道場があり庶民が武術に腕を磨いていたことが分かります。しかし、明治維新の政治的な変動や緊張感は伝わってくるものがありません。阿波や讃岐の庶民にとって、明治の激動は遠い世界の事だったのかもしれないと思えてもきます。
 後藤田氏は、5年後の明治6年にも金毘羅まいりを行っています。その良きに残した記録には、
「こうしておまいりができるのは、一つには天の助け、二つには先祖恵みの功によりなりあがたき仕合わせに存じ奉り候』
と結んでいます。

参考文献       
猪井達雄       阿波吉野川筋からのこんぴら参り古記録  ことひら39号 昭和59年

5借耕牛 写真峠jpg
        
阿波の美馬,三好地方で「米牛」と呼ばれる借耕牛の習慣は,江戸中期から始まったようです。
農耕用の牛は一年中、働き場所があるわけではありません。春秋の二李,(田植期と収穫期)のみが出番です。そこで、美馬・三好両郡の山分で水田に乏しいソラの農家が,自分の家の役牛を農耕用として讃岐の農家へ貸します。そのお礼に、おいしい「讃岐米」の俵を背に積んで帰ってきました。今回は借耕牛について見ていくことにします。
テキストは
借耕牛が成立するには次のような背景がありました。

5借耕牛 歴史
①借方の讃岐と貸方の阿波の農繁期が時期的にズレていた   
②讃岐には牛を飼育するのに必要な牧草・牧場がない
③讃岐の農家は零細で、牛を飼うゆとりがなかった
これに対して、阿波には山の上に広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。また、美馬や三好地方の田植は5月ですが、西讃地方の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったようです。

 そこで、この間を橋渡しする仲介業者が現れるようになります。
5借耕牛 取引機構
貸方の阿波農家と,借り方の讃岐農家の間に入って牛の仲介する博労を美馬郡地方では俗称「といや」と呼んでいたようです。「といや」が中に立って牛を連れて行く場所と日時を決めます。江戸時代は三頭越をする阿波の牛は、讃岐の「犬の馬場」で,三好郡地方の牛は博労の手で,県境の「紡探蕩](851m)(樫の休場)で受渡しされました。
明治になると、讃岐の里まで下りてきて受け渡されるようになります。
  例えば、猪ノ鼻峠の場合だと、財田上の村の戸川までは阿波の貸主が牛を連れてきます。ここはは大久保諶之丞の家があった所で、現在は国道32号沿いに彼の銅像が立っています。近くには現在は繁盛する道の駅があります。
 戸川は、四国新道開通後に急速に宿場化した所で、四、五軒の旅籠がありました。この地が借り手と貸し手の集合場所だったようです。ここで仲介人が借賃についての条件を相方に話し、納得の上で讃岐側の借主が牛をつれて帰りました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
  このような光景が、まんのう町の塩入や美合でも見られたようです。
山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年発行)には、塩江の岩部の当時の様子が次のように書かれています。 
 先のとがった管笠をかむって ワラ沓をはいて 上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから牛はやってきた
朝 登校の途中でこの牛の群れに出会うと わたしたちは小さい溝を飛び超えて 山手の方に身を避けた 牛の群れが立てた往還のものすごい土ぼこりを 山から吹きおろした青嵐が次々と香東川の清流の中へ消していった
 
 岩部(塩江町)の里は一ぺんに活気づいた 牛追いさん 受け取り人 世話人(口入れ人) 牛馬商が集まってきて 道も橋も牛と人で一ぱいになった うどん屋も 宿屋も 料理屋も押し合いへし合いで 昼のうちから三味線の音が聞こえ 唄声が流れた
 
 田植えが済んで牛が帰るころは もうかんかん照りの真夏であった 借耕牛は米牛とも呼ばれ 米を何俵ももらって帰ったものだ 塩ざかなを角に掛けた いわゆる「角みやげ」をもらった牛もいる 
 かわいそうに使いぬかれて やせ衰えた牛もいる 讃岐でお産をして可愛い子牛と一しょに帰る牛もいた  
 それらが帰ってしまうと 岩部の里は 一ぺんに静かになって 長い冬がやって来るのであった
借耕牛のシステムは、どのようにして出来上がったのでしょうか?
ここには次のような発展段階があるようです。
5借耕牛 発展段階
①江戸時代に、阿波の男達が農繁期に「カルコ」として出稼ぎにやってきていた。
②幕末期に讃岐の砂糖製造が軌道に乗ると、砂糖絞りのための牛の需要が増大した。これには小さな讃岐牛は不適で、大型で力のある阿波牛が適していた。
③「カルコ」たちが牛を連れてやってきて、砂糖絞り車で働き始めた。
 借耕牛以前に「人間の労働力移動(出稼ぎ) → 砂糖牛の移動」という段階があったようです。
明治になって借耕牛が増えたのは、どうしてでしょうか
次のような背景を研究者は考えているようです。
1 阿波側の藍栽培の衰退
阿波の特産品と云えばでした。しかし、明治34年からの合成藍の輸入で急速に衰退します。その結果、藍輸送用の牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
 2代わって明治になって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
葉煙草には、牛堆肥が最良の肥料です。牛肥を得るために、煙草農家は和牛飼育を始めます。こうして三好郡の役牛数は増加します。藍の衰退による「役牛大量失業」と葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。
 例えばまんのう町の美合には
煙草作りの牛肥確保のために、讃岐の牛を農閑期に預かっていた

という古老の話が残っています。明治15年頃の話ですが、阿波側は田植えを早く済ませると零細農家の男達もは讃岐へ出稼ぎに行っていたのは、先ほど紹介したとおりです。彼らは牛のいない農家です。そのため田植えが終わって帰る時に、讃岐の雇主の牛を預かって帰り、夏草で牛を飼い堆肥を作って、秋に牛を返すときに自分も働いて帰っていたというのです。牛の飼い賃としては、米・綿・砂糖・煮干しをもらったそうです。
 3 讃岐の農業事情 砂糖・綿花が香川から姿を消すのが明治末。
 藍が衰退したように外国からの輸入で、サトウキビや綿花の栽培も経営が行き詰まります。そこで、綿花や砂糖黍が作られていた土地が再び水田化され、米麦集約栽培の単調な農業経営へ変わって行きます。さらに、満濃池の増築など農業水利の整備で、畑の水田化も進み水田面積が急増します。こうして、牛耕需要は高まります。江戸時代から借耕牛を利用していた家の周辺でも「うちも来年からは、お願いしたい」という声が中継人に寄せられるようになります。
    4 阿波の畜力事情  牛馬の所有率が高い阿波の農家 
5借耕牛 牛馬普及率jpg

表6からは、江戸時代の文化年間(1789~)の阿波の和牛普及率は7~9割で高いことが分かります。特に、ソラの集落では各農家が早くから牛馬のいずれかを買っていました。その背景は、藍による資本蓄積が進んだ明和時期(1770年)に普及率が急増したことがうかがえます。藍バブルで儲けたお金を牛の購入という生産性の向上に着実に投資したようです。
     それに比べて西讃地方の牛普及率はどうでしょうか
5借耕牛 讃岐牛馬普及率jpg
    普及率が高い三野郡でも5割に達していません。平均4割程度で、阿波に比べると普及率が半分程度であったことが分かります。この「格差」が牛の移動をもたらした要因のひとつのようです。
  それでは、どのくらいの牛が峠を越えて讃岐に出稼ぎにやってきていたのでしょうか
 
5借耕牛 阿波貸し出し頭数
ここには最盛期の昭和10(1935)年と戦後昭和34(1959)年の三好郡と美馬郡の各村ごとの牛の飼育頭数と貸出牛数が記されています。ここからは次のような事が分かります。
①三好郡と美馬郡でそれぞれ1800頭前後で、合計約3500頭が借耕牛として阿讃の峠を越えていた。
②香川県の美合村や安原村からも借耕牛が出ていた
③三好郡で貸出率が高いのは、三縄・井内谷・箸蔵で7割を越えている
④美馬郡で貸出率が高いのは、端山や一宇でソラに近い村の方が高い傾向が見られる。
 「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになった明治になると、借耕牛は急激に増えたようです。そして、戦前直前の1940年頃には毎年約4000頭が阿讃の峠を越えて讃岐にやって来たようです。それは美馬三好両郡で飼育されていた牛の頭数の約半数になるようです。
最盛期の借耕牛の移動を図示化したものです
5借耕牛 移動ルート
  ここからは、阿波のどの地域からどの峠を越えて、讃岐のどの地域へ借耕牛が貸し出されたかが分かります。
ここからは次のような牛の移動ルートが見えてきます。
①美馬郡 → 相栗峠→岩部口(高松氏塩江町)
     → 三頭峠→美合(まんのう町)
     → 香川郡 高松平野
②三好郡  →東山峠 →塩入(まんのう町)→綾歌郡
                   →男山峠 →山脇(まんのう町) →仲多度郡
      →箸蔵街道 →財田(三豊市財田町)→三豊郡
 阿波西部の2つの郡から阿讃の峠道を越えた牛たちは、里の宿場に集結し、讃岐の借り手の家に引き取られていきます。戦前には約4000前後だったのが,高度経済成長期には約500頭まで激減します。それは耕耘機が現れたからです。いわゆる「農業の機械化」で、真っ先に姿を消したのが牛だったようです。

借耕牛の賃貸契料は?
春は6月上旬から7月の半夏(はんげ)の頃まで1ケ月間
秋は11月上旬から12月上旬までの1ケ月間で,
給金として米俵二俵(8斗)を背に積んで帰りました。
5借耕牛 賃料の現金化移行写真峠jpg

しかし、図18を見ると分かるように大正時代になると、どの地域でも米から現金に変わっていったことが分かります。貨幣経済が本格的に浸透が、このあたりだったことがうかがえます。
春は1ケ月間,丈夫な牛で最高9,000円~最低4.000円
秋は1ケ月は,丈夫な牛で8,000円弱い牛で約4,000円
が相場だったようです。それでも、手ぶらで帰すのは様にならないので、帰りの牛の弁当として「よまし麦」を牛の荷肩に積むようになったようです。
 借手の農家の中には、牛を酷使し1ヶ後に飼い主に返すときには痩せこけた姿にする者もいて、トラブルが出てきます。そのため昭和になると、次のような契約書を交わすようになったようです。

5借耕牛 契約書jpg

  こんな借耕牛の姿が見られたのも1960年頃まででした。農業の機械化が進み耕耘機が登場すると牛耕の時代は終わります。牛たちは田んぼから静かに姿を消しました。そして阿讃の峠を越える牛の姿もなくなったのです。
5借耕牛 写真出発

先ほど紹介した小野蒙古風の「句集 借耕牛」に載せられた句を紹介します  
  借耕牛 青峡下る草鞋ばき
  借耕牛 糶(せ)られつ緑陰に尿太し
  糶る牛 歩かせ値ぎめの指を握りあう
  幾青嶺超え来し牛か澄む瞳して
  牛貸して腰の弁当涼しみ喰う
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

"'   
塩の道1
      
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 九州地方では、行商者が背負って内陸ヘ塩がもたらされたようです。やや深い内陸へは、牛馬の背を利用しての運ばれていきました。三陸海岸の塩は、牛馬の背によって北上山脈をこえて北上川流域にもたらされていました。日本海岸からは牛の背によって飛騨、信濃の内陸部へ送られました。そして、その量が多いところでは問屋が発達します。また川を利用した塩の輸送も盛んにおこなわれています。北上川、最上川、信濃川、利根川、富士川、筑後川などは、川口からかなり上流にまで川船が通っています。
それでは阿波の三好地方の人たちは、どのようにして塩を手に入れていたのでしょうか?
阿波西部の三好郡は、讃岐から運び込まれる塩への移存度が古代から高かったようです。塩の移入ルートの踏み跡が、阿讃山脈を越える峠道となっていったようです。そして、吉野川を渡り、落合峠を越えて祖谷へ続いていきます。まさに阿讃を結ぶ「塩の道」です。

4 阿波国絵図     5
 一番右側(東)が大刀野から樫の休場経由で塩入に至るルート

阿波に運び込まれる塩の集積地がまんのう町(旧仲南町)の「塩入(しおいり)」でした。
DSC02547
眼下に見えるのが塩入集落 その向こうが満濃池(樫の休場から)

塩入は、その名の通り讃岐の塩が阿波に運び込まれる入口の役割を果たしていました。江戸時代には、丸亀や坂出の塩田で作られた塩が、讃岐の人夫達によって、この地まで運ばれてきます。そして、塩入の中継ぎ業者の倉庫に保管されます。それを阿波からやって来た人夫が背負たり、牛や馬に載せて、昼間や芝生の塩問屋に運びます。ここからさらにらに吉野川を渡ります、そして、池田や辻や三賀茂などの塩屋にさばかれたようです。さらに、落合峠などの峠越えて祖谷に運び込まれたようです。
 里の塩屋からソラの集落までは、塩はどのようにして運ばれたのでしょうか? 

5塩の道 ぼっか姿
昭和50年代に東祖谷山村落合の老人は、幼いときのことを次のように話しています
「祖谷山に住む人々の味噌・醤油・漬物の材料としての塩は,殆んどすべて讃岐から運ばれた。
落合一落合峠一深淵一桟敷峠一鍛治屋敷一昼間一塩入」
のルートを使って、三好郡三加茂や昼間の仲継店(問屋で卸売を兼ねる)が間に入り,祖谷山の産物と交換した。山の生産物を朝暗いうちから背負うて山を下り,一夜泊って翌日,塩俵をかついで山に帰った。厳冬の折りには山道が凍って氷のためツルツル滑って危険だった。しかし、塩は必要品だから毎年、塩俵を担いで落合に帰った。それは、大正9年に祖谷街道が開通するまで続いた。」
 ソラの人々は塩を、里に買い出しに下りていき、背負って帰っていたようです。春の3月から5月にかけて、味噌や醤油を作るときや、秋から冬に漬物を漬け込むときには大量の塩が必要になります。その際には、ソラの人たちは里の塩屋へ買い出しにいきました。手ぶらで行くのではなく、何かを背負って里に下り、それを売って塩を買うか、または塩屋で物と交換することが多かったようです。そのためにこの時期には、自然と市が立つことになったようです。
塩作りは重労働 海水を運ぶ男たち | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
揚浜塩田に塩を汲み上げる

全国では、どんなものが塩と交換されていたのか見てみましょう。
岩手県北上地方では、塩は稗・栗・藁細工などと交換することが多く、秋田県や岩手県北上川流域では米との交換が多かったようです。関東以西では麦・大豆・小豆。木の実・雑穀などに変わっていきます。高知県大栃の農家では、煙草・紙・茶・干藷などと交換している例もあるようです。これらのものを、交換した塩屋が売って金にしたのでしょう。塩と薪・材木などと交換した例も千葉・京都・大分・五島などに見られます。ソラの住人が塩を手に入れるためには、いろいろなものと交換していたことが分かります。背景には、貨幣経済が浸透していなかったという事情があるようです。


 阿波の東部海岸にも製塩地がありましたが、三好地方は瀬戸内海の讃岐の塩の方が輸送に便利だったのと、古代からの「塩の道」が踏襲されてきたようです。「塩の道」は、阿讃の峠道を越えて祖谷地方まで続いていました。ちなみに、祖谷の向こう側の土佐の大栃には、太平洋から塩が運ばれてきていました。祖谷と大栃の間が、瀬戸内海の塩と太平洋の塩との分水嶺だったようです。
5塩の道 大栃


綿も、讃岐から西阿波に運び込まれました。
江戸時代になると西讃地方は綿作地帯になります。
服は畑からできている! −綿花栽培プロジェクトを知る− | 北はりま大学

丸亀藩や多度津藩は、綿花を「讃岐三白」のひとつに育て上げていきます。米の裏作として栽培された綿花の販売先が、塩と同じ阿波の三好地方だったようです。ソラの集落の女達が、讃岐産の綿花をつむぎ、機織機で木綿を織る音が冬になると聞こえるようになります。ほとんどが家庭で使われるもので、商品として流通する物ではなかったようです。寒さの厳しいソラの人たちにとって、木綿は従来の麻に比べると、耐久力にも強く,保温の点でもすぐれたものでした。そのため讃岐綿花の需要は高く、西讃地方から峠道を越えて入って行くようになります。
 阿波で紡績が出来ない頃は糸ではなく綿を、3・4人の人夫が肩に担いで峠道を越えて運びました。綿は 「しの巻」で一丸(ひとまる)は二貫目(7,5㎏)で、これを阿波から出向いた人夫が、一人で6丸(45㎏)ぐらいを背負って峠を越えたようです。これも、ソラの人たちが里に下りてきて買い求めたようです。
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綿の「しの巻」

琴南町史には、次のような農家の機織りの話が採集されています。
阿波から嫁入って来た女も、美合で生まれて美合へ嫁入った女も秋の取り入れがすむと必ずおはたの用意をした。お正月までには子ども達の晴れ着も織らなければならないし、年寄りの綿入れも用意しなければと気もそぞろ。
糸はガス糸や紡績糸を買ってきた。
内田の紺屋で染めてきた糸は、祖母ゆずりの縞わりのままに糸の計算をする。木綿糸の縞のはしにはスジ糸(絹糸)を入れると、縞がきわ立って美しい。布をのべる日は、風のない静かな日を選び、四間の戸障子をあけひろげ座敷いっぱいに糸を伸ばして経糸の用意。
四尺ごとにスミをつける、四尺が七ひろあると一反分の布となる。
糸はチキリに巻いてカザリに通すが、カザリロは上手にあけなければならない。
チキリに巻いた糸は機にまきあげて巻く。
オサイレは糸をひとすじずつ通してから固定させる。
アゼをつまむのがむつかしいと言うが、丁寧にやればこともない。
緯糸は、竹のクダに巻いておく。マキフダとも呼ばれる
クダは、おなご竹を十巧打くらいに切り揃え、かわらで絞って水分をぬいておく。このクダに、ただ糸を巻けばいいというのではないのだ。ツムノケで糸をまくのだが上手に巻かないとホゼてくるし、巻きすぎると糸がくずれてしまう。
5塩の道 機織り期jpg

明日は小学校1年生の長女に織らせてみるつもり。器用ものの長女は見ようみまねで上手に糸をあつかうので、きっといい織り手になることだろう。
夜、しまい風呂で長女といっしょに髪を洗う。はたを織り始める日は別に決まった日はないが、髪の汚れをとり、ひとすじの乱れもかいように髪を結いあげた。やや小柄の長女は、機にあがったものの踏み板に足がとどかない。冬でも素足で機は踏むものなので、長女の素足に木の枕を結びつける。母さんもこうやっておはたにあがったの、機を踏みきっていると足はほこほこしてきたものだと、長女をさとす。
 布は、織りはじめがすぼまないように藁を1本人れたが嫁入った家では、織りけじめにシンシをはる。竹の両端に針がついているのが伸子なのだが、一寸ばかり織ってばシンシを少しずつずらして打ちかえる。
 トンカラトンカラ、根気のよい長女は上手に布を織りすすめる。
モメンは一日一反、ジギヌは一日四尺しかのびない。オリコンは、ヒトハ夕で二反分の糸を機に巻き上げて二反続けて織っていた。織りしまいには、カザリの開ヘヒが入らなく々るまで織るのだが、ハタセが短かくなって手まりが出来なくなるのが心配で、早く織りじまいにしようとしても、なかなか織りじまいにはしてもらえかかった。
 師走女に手をさすな という諺のとおり、夜の目もねずにに女は機を織り家族の衣管理を一手に引き受けていた。それでも月のもののときは機にあがらず、糸を巻いたり繰ったりわきの仕事をするのがならいだった。
  お正月がすんでからもハルハタを織った。
縁側などの明るいところで機を織っていると、家のすぐ前の街道が気にとってしようがない。阿波から讃岐へ峠を越えてやってくるデコまわし、とりたててにぎにぎしく来るわけでもないのだけど、気もそぞろに機の糸をさってしまう。
細い糸がうまくつなげないと泣き出しそうになる。
そうこうするうちに、デコまわしの一行は通り過ぎてけってしまった。
徳島 1965-1966(昭和40-41年)]藍とデコ - YouTube
阿波のデコ(人形)まわし(つかい)
昼食になり、機をおりると隣の家の苗床でデコまわしが三番叟(さんばそう)を舞うというのだ。もうお機も昼食も放ったらかして隣家まで、走って行った。苗床や、苗代のまわり、田植えの早苗を束ねる藁などもご祈祷してもらうと、虫がつかず豊かな稔りが約束されていたのだ。こんなことより、年端のゆかない織り子さんにとって、デコ使いが珍らしくて仕方がなかった。
                                        北条令子 旧琴南町の峠の集落で採集

ここからは「正月の子ども達の晴れ着」や「年寄りの綿入」も、家で織っていたことが分かります。その糸は里の「内田の紺屋」染めてきた糸です。横糸と縦糸を用意し、丹念に思いを込めて織られていたことが伝わってきます。美しい物語だと思います。
 また、徳島からはデコまわしがやって来て三番叟(さんばそう)を門付けしていたことも分かります。阿讃国境の峠は、明治になると阿波の人形浄瑠璃の一段が讃岐の村々での公演のために、越えていくことが多くなります。始めて見る阿波の人形浄瑠璃に讃岐人は、心を奪われたようです。自分たちで素人歌舞伎団を結成して、村祭りなどで披露するようになったことは以前に、お話ししました。モノと人と文化が峠を越えていきました。そして牛も峠を越えるようになります。次回は借耕牛について・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福井好行 峠道利用の阿讃交渉関係序説
北条令子 琴南町の民話 琴南町史
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   金毘羅からの帰りに、狼に食われた男
 東山では明治の中頃まで、節季になると琴平へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて帰ってきたものです。ある年の暮、数名の者が讃岐の塩入部落まで帰ってくると日はとっぷりくれたし、寒さは寒いし腹はへる。そこで一軒のうどん屋に立ち寄って、うどんや酒でしばらく休みました。そのうちの一人が「わしは一足お先に」と帰りを急ぎます。残った者はよい気持ちで、いろいろ話に花をさかせながら遅れてその後を追いました。
 阿讃国境の松の並木道を左右にたどりながら、男山部落の峰のお伊勢さんの祠のあたりに来ると、暗闇ながら数間先に幾匹かの狼が音を立てて何かを食っている気配がします。一行は驚きます。
 「あれは五郎でないか」、一人は「ちよっと待ってくれ」といいながら滝久部落のよく見える峠へ走りでて、「五郎が食われているぞ」と声を限りに叫びます。急を聞いて村人が猟銃を下げて駆け上がってきて、火縄銃でねらいますが、狼はそれらの頭をけって飛び交い、だれ一人仕留めるはできません。人々が慌てふためくなか、狼は一匹去り二匹去りどこかへ姿を消してしまいました。
 後には一片の遺骸と五郎の天秤棒の荷物が残っていました。残骸を集めてもち帰り丁寧に葬りましたが、間もなくその墓は掘り返され悉く食われてしまいます。
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 五郎は神社の周りに畑をもっていて、祭りの時に踏み荒らされるからと何時も祭りの前日に濃い下肥を撒き散らしていました。里人は神罰だと語り合ったそうです。男山を越える峠には、少し畑があってそのあたりに狼がよく出るといっていたそうです。 
(大西ウメさん談)
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●男山集落の「しばおり神様(いおりさん)」
 東山の男山にある新田神社の境内に、いおりさんが祀られています。その世話を古くから大谷家が行ってきました。大谷家は新田義貞の一族で、足利氏との戦いに敗れこの地にやってきたと伝えられます。密かに南朝と連絡をとり再起を計っていたようです。ある日、京都から密書を持っていおりさんという武士が大谷家にやってきます。大谷家では盛大にもてなしますが、この密書には、この書をもってきたいおりさんを必ず切捨てるようにと書き添えてあったのです。いおりさんは字が読めず、密書にそんなことが書いてあるのを知らないで届けたようです。
 命令とはいえはるばる京都から密書を持ってきたいおりさんを哀れみ、柴を折りそこへ丁寧に葬むり、祠を建てしばおり神様として祀ります。さらに、男山の新田神社の境内にもいおりさんとして祀ったと云います。
 しばおり神様は、旅の疲れをいやすため、しばを折りそれを祀ると元気になるといわれ県道丸亀線の脇にある祠には、讃岐に向かう旅人が供えたしばが絶えなかったそうです。 (町史編集委員会資料集)
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●新田神社の話

 戦前まで男山の新田神社では、毎年盆の28日には青年団主催による演芸会や踊りなどを楽しんでいました。その頃は音頭が盛んで、音頭だしなどたくさんいて一晩中語り明かしたそうです。
 ある年、音頭中で仇討ちの場面を語った時、本殿がガタガタゆれ稲妻が光り、雷が落ちたような大きい音がしました。人々は真っ青になり、泣き出したり大人にすがりつく子供もいた。これはきっと新田さんのお怒りに違いない、これからはこんな音頭は語らないようにしようと新田さんにあやまります。新田氏は足利氏との戦いに敗れ、この地に逃れ滅んでいきました。そして、勝負事はきらいな神様で、祭りなどでも勝負事はしないようにしたそうです。

参考文献
 東山の歴史

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東三好町のソラの集落 男山 
 
東三好町の旧東山村には、讃岐山脈から北に張り出した尾根に多くのソラの集落が散在します。このソラの住人たちの生活圏は、車道が整備されるまでは讃岐に属していたようです。吉野川筋の昼間へ下りていくよりは、讃岐との往来の方が多かったと云います。その理由は
①小川谷に沿って昼間へ出る道が整備されていなかったこと
②金毘羅(琴平)が商業的・文化的にも進んでいだこと
そのため阿波藩の所領ですが、経済的には讃岐、特に「天領で自由都市」である金毘羅さん(琴平)との結びつきの方が強かったようです。東山から金毘羅への道は、次のようなルートがありました。
4 阿波国図     5
①内野から法市・笠栂を経て樫の休場(二本杉)から塩入へ
②葛龍から水谷・樫の休場(二本杉)を経て塩入へ
③貞安・光清から男山峰を越えて、尾野瀬山を経て春日へ。
④差山(指出・登尾山)を越えて石仏越で箸蔵街道と合流して財田へ。
⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ
4 阿波国図 15

 どの道も塩入や財田経て、金毘羅さんへ続きます。「四国の道は、金毘羅さんに続く」の通り、金毘羅さんを起点に、次の目的地をめざしたのです。
金毘羅ほどの賑わいのある町は、吉野川沿いにはありませんでした。
品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
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男山集落

 阿讃越の峠道は、ソラの集落の尾根を登って峰を越えていく山道でした。
尾根道は、最短距離を行く道で、迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかったようです。今でも讃岐山脈の県境尾根の道は広く、しっかりしていて快適な縦走路です。この道を、当時の人たちは、荷物を背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりしたようです。
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 天に近いほど、山の頂上に近いほど、金毘羅にも近いことになります。
つまり、奥地ほど讃岐に近いく便利だったのす。その結果、奥へ奥へと開墾・開発は進められます。それは当時のソラの集落の重要所品作物が煙草であったことも関係します。
タバコの葉っぱ<> | 萩市の地ブログ

煙草は気象の関係から、高いところで栽培された物ほど高く売れたようです。これは髙地の畑作開墾熱を高め、そこへの開墾移住熱をも高めました。そのため、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が開かれていったようです。
 葛尾の集落が街道沿いの集落として、明治までは繁昌していた様子が、残された屋敷跡や立派な石垣からうかがえます。これは、讃岐への交通の要に位置していたからでしょう。
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    男山から昼間への道 打越越えの開通は? 
 昼間の奥の男山は、讃岐に経済的には近かったこと。その要因として、徳島側への道が整備されていなかったことを挙げました。徳島側の拠点となる昼間から東山中心部への往来は、谷と険しい峰に阻まれており、谷に沿って、何回も何回も谷を渡り、河原を歩かなければならなかったようです。 この川沿いの悪路を避けて、尾根沿いに新たな新道が開かれたのは、いつのことなのでしょうか。
それは案外遅く、幕末になってからのようです。
 教法寺の過去帳には、弘化三年(1846)10月24日から11月2日にかけて昼間村地神から東山村貞安小見橋間の道普譜が行われた際の次のような動員文書があります。

 昼間村地神より東山村貞安小見橋まで道お造りなされ候、東山村より人夫千人百人程出掛ヤ御郡代より御配り候て道作り候。普請中裁判人、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門他に三、四人裁判の由にて、霜月の二日に道造直し、御郡代三間勝蔵殿十月二十七日に御見分担戊申事。
意訳すると
 昼間村の地神から東山村貞安小見橋まで、道を作るときに、東山村より人夫1100人程が郡代の命で動員され道作りに参加した普請の裁判人は、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門の他に三、四人裁判したようで、霜月の2日に道を点検し、郡代三間勝蔵殿が10月27日に御見した。

文中の「裁判」は、人夫を指揮監督することだそうです。この文書からは、郡代による大規模な工事が行われたことが分かります。この工事が新設か改修かは、文書からは分かりませんが、「状況証拠」から新設に近いものであったと研究者は考えているようです。昼間の地神さんを起点として打越を越え、内野までの尾根沿いの安全な道が、幕末になってやっと確保されたのです。

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こうして樫の休場越は、それまでの阿波の三加茂・芝生・足代方面からのルートに加えて、
昼間 → 打越峠 → 男山 → 葛籠 → 樫の休場

という新ルートが加えられ、ますます利用者が増えます。讃岐側では
「塩入 → 春日(七箇村) → 岸上 → 五条」 

を経て金毘羅阿波町に至るので。七箇村経由金毘羅参拝阿波街道とも呼ばれるようになります。
 明治になると「移動の自由」「経済活動の自由」が保証され、人とモノの動きは活発化します。
讃岐の塩や鮮魚・海産物などと、阿波の薪炭・煙草・黍などとの取引が盛んに行われるようになります。特に煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また借耕牛の行き来も盛んになります。
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樫の休場から望む満濃池 手前が塩入集落

 こうして、樫の休場では、二軒の茶屋が営業をはじめるようになります。讃岐側の塩入は、塩や物産の中継基地といて賑わいを見せるようになり、うどん屋や旅人宿ができ宿場化していきます。明治年代の地形図からは、街道沿いに街並みが形成されているのが分かります。
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東山峠越の新道建設へ
 このような背景を受けて、以前にお話ししたように明治28年(1895)ごろから塩入と阿波の男山を結ぶ新たな里道工事が始まるのです。この工事の際に、里道(車道)としては、男山まで道路改修が進んでいました。そこで、峠はその上部に作られることになります。これが現在の東山峠の切通です。阿讃の物資は大八車で、東山峠で行き交うようになります。その結果、樫の休場越は次第に寂れていきます。
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東山峠の切通 ここで阿波の里道と讃岐からの里道は結ばれた
 
   ソラの集落への「猫車道」の開設は
 大正初期に書かれた『東山の歴史』に、ソラの集落への道路開設の様子がどのように進められたかを見ていきましょう。。
   葛籠線 
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葛籠は男山から樫の休場への途中にある集落です。
それまでの道は、男山谷に沿って入っていくので大変険悪だったようです。また、谷を9回も渡らなければならないので、洪水の時には男山峰からの迂回路を取るか、危険を冒して「引綱」を頼りに渡るしかなかったと云われます。
 明治33年(1900)に、幅六尺(約180㎝)の新道建設が始まり、東山の各部落から夫役の無償供与を受けて完成しています。猫車を押して通れるようになったのでこれを「猫車道」と呼んだようです。
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 男山線 
男山新道は、男山西浦から始まって二本栗でで塩入線に接続します。大正元年(1912)に起工し大正四年に完成しています。これも各部落からの夫役寄付で工事が行われました。当時は、半額が国・県負担で、残りの半額は「地元負担」でした。そのため自分たちの道は、自分たちで作るという気概がリーダー達にないと、造れるものではありませんでした。
 このように明治末から大正初年の新道開設は、ようやく普及し始めた猫車による運搬に対応するためのものだったようです。それが戦後まで利用されます。

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 戦後の高度経済成長が始まると「軽四トラック」が里の村には走り始めます。
そのため、ソラの集落も軽四トラックが通れるように道を広げることが悲願となります。この時代になると国や県も山間部の道路整備にも補助金を出すようになっていました。こうして各部落の道路が改良・整備され、農家の庭先に軽トラックの姿が見られるようになります。
 そうなると買い出しは、トラックで昼間のスーパーに行った方が便利になります。しかし、今でも東山の人たちは讃岐との関係を持ち続けて生活している人が多いようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 三好町史 民俗編309P   讃岐への道

                                                                                       
前回は一遍が「死出の旅」として、伊予大三島から讃岐を経て阿波へ抜けたことをお話ししました。その際に、使ったと考えられる讃岐山脈を越える峠道を挙げました。これについて、もう少し詳しく知りたいとのリクエストをいただきました。そこで、今回は大川山から猪ノ鼻峠まで間の峠道に焦点を絞って、紹介したいと思います。

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東山峠

1.明治になって開かれた東山峠
 このエリアの幹線道路は、丸亀=三好線(県道4号線)です。このルートは、まんのう町塩入から東山峠へ至る道です。明治に香川の七箇村と徳島の昼間村が協議し、双方から新道を建設し東山峠で結ぶことで完成しました。明治39年に全線が開通し、これにより塩入と撫養街道分岐の昼間村が新道で結ばれました。明治42年の国土地理院の地形図には、幅3m以上の車道として記載されています。
 このルートは先行する財田・阿波池田を結ぶ猪ノ鼻峠ルート(四国新道)への対抗策として計画された側面があります。そして、その期待に昭和初期に土讃線が開通するまでは十分に応えていたようです。

「祖谷や井内谷の人は辻の渡しを渡ってこの道を通り、塩入部落を経て琴平へ行きました。借耕牛も通り、讃岐の米や塩が馬やネコ車で運ばれてきていました。」

と内野集落の老人(明治36年生)が話した記録が残っています。
 ここから分かることは、東山峠を通過するルートは近代になって作られたルートなのです。

東山峠を通過する新道が作られる前は、どうだったのでしょうか?
幕藩体制が安政化する18世紀になると、幕府は各藩に領域地図の定期的な提出を求めるようになります。提出された地図に基づいて、幕府は各藩の境界を定めていきます。そのために各藩は、国境附近の情勢や街道についても地図に書き込むようになります。
4 阿波国図     5
     吉野川沿いの阿讃山脈の国境ラインと街道が見える

1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図で阿讃国境と峠道を見てみましょう。
4 阿波国絵図     1700年

大川山から現在の国道32号線が通過する猪ノ鼻峠までの間には3本の峠道が描かれています。拡大してみます。
4 阿波国絵図 拡大

①~③の峠と、その説明文を見てみます。
①樫休場  大刀野村ヨリ讃岐国塩入村  牛馬通
②差土越  昼間村ヨリ 讃岐国山脇村  牛馬
③石仏越  東山ヨリ  讃岐国財田上村 牛馬通
記載されているルートを推定してみます。
①は 現在の三好市三野町芝生→大刀野→樫休場→塩入(旧仲南町)
②は 現在の東三好町昼間→ 東山→差土越 → 山脇(旧仲南中)
③は 現在の東三好町東山→(箸蔵街道と合流)→石仏 →三豊市財田町上ノ村
ここには、東山峠越のルートはありません。18世紀初頭においては、東山峠ルートは主要街道ではなかったことが分かります。次に地図に描かれている①~③の峠道を見ていきます。

①の樫の休場への道
4 樫の休場 東山峠俯瞰図

 樫の休場(標高 850m)は、東三好町(旧三好町)、三好市三野町、まんのう町(旧仲南町)の3町にまたがる峠で、「さぬき街道」とよばれた交通の要所でした。讃岐側からは二本杉越と呼ばれています。讃岐側の里から見ると、稜線に大きな2本の杉が立っているように見えるからです。実際には、もっと本数はあるのですが・・。
 この峠は、明治中期に丸亀三好線が東山峠で結ばれるまでは、幹線ルートとして使用されていたようです。この峠に至るには、阿波側からは
①三好市三野町の芝生→ 山口―中屋―笠栂―寒風― 樫の休場 ― 塩入がメインルートで、
②昼間からは男山集落手前で葛籠方面へ分岐し、寒風(樫の休場の南1km にある峠)を経て樫の休み場に至る道もありました。
江戸時代は昼間からの人々も、このルートを利用者する人が多かったようです。三野町や三加茂町の人々が讃岐へ出る道として利用し、ここには茶屋も2軒あったと伝えられます。しかし、昭和4年に土讃線が開通してからは、峠の往来は少くなりました。

4 樫の休場

ここからは、讃岐方面の展望が開け、満濃池の向こうにおむすび型で甘南備山の讃岐富士がぽつんと見えます。ここから讃岐方面へ下ると深い谷に囲まれた塩入集落です。
阿波への塩の集積地だった塩入
 塩入は、讃岐の塩が阿波に運ばれる際の重要な中継基地でした。江戸時代には、ここまでは讃岐の人夫が馬などでここまで運んできて中継商人の倉に入れます。それを、阿波の人夫が受け取り、次の中継拠点に運びました。「塩入」という地名は、阿波への塩の入口であったことからつけられたといわれています。東山新道が出来る以前には、塩入→樫の休場→打越峠→昼間や網代のルートで結ばれていたようです。例えば昼間に運ばれた塩は、その後は吉野川を渡り、対岸の辻に運ばれ、そこから男達の背に担がれて祖谷の奥まで、讃岐の塩が運ばれて行ったようです。塩は昔から生活に欠かすことのできない必需品でした。それは、江戸時代よりも古くからあった讃岐と阿波を結ぶ「塩の道」だったようです。
  樫の休場について地元の古老は、戦後の聞き取り調査の際に次のような話を残しています。
借耕牛の道として利用され、讃岐の米や塩がこの峠を越えて運ばれてきました。また琴平や丸亀へ嫁入りする人を見送ったり、善通寺へ入隊する兵士を見送った峠でもありました。三好町の人は、峠の北東4km にある大川神社へ参拝するときにも通りました。」

 
4 樫の休場 ru-tozu

  この街道をしのぶものとして、笠栂と樫の休場の間には次の2体の石仏が残っているようです。
○不動尊
 笠栂から寒風に向けての稜線上に標高 810m地点に建っています。舟形の浮し彫りで、像高は 108cm。台石に「文化元年足代邑 昼間村講中」とあるので、足代と昼間両村の人々が講を組織して建てたことが分かります。ここからも、ふもとの足代や昼間の集落の人々が、葛籠経由のこのルートを使っていたことがうかがえます。
○水谷の地蔵尊
 男山を経て葛籠からの街道で合流する地点の中蓮寺峯(標高 929.9m)の東斜面の道路沿いに座っています。樫の休場からは500m南西の杉林の中です。ここにも土讃線開通直後の昭和10年頃までは庵があって人が住んでいたといいます。今はブロック囲いの小さなお堂の中に、かなり風化した地蔵尊(像高 30cm)がポツンと祀られています。世話をする人はいるのでしょう、いつも奇麗な服を着せてもらっています。お堂の横の古い手洗い石には「明和四(1768)年寅十月廿四日」と刻まれてあったそうです。



③ 石仏越 
4 石仏越

 ③の石仏越は箸蔵街道とは別のルートになります。
現在のサーキットのある東三好町男山の柳沢、増川から馬除を経て池田町境の尾根を登るルートです。後にこのルートに、新たに箸蔵寺からの街道がドッキングされます。
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 二軒茶屋という地名は、昔ここに大国屋や福島屋という二軒の宿屋があって旅人に宿泊や茶の接待をしていたことからついた名前だと云います。この峠の阿波側には金比羅宮の奥の院と称する箸蔵寺があり、街道はこのお寺の参道として整備されました。この周辺は修験者(山伏)の密集地で、江戸時代中期以後になって、彼らによって箸蔵寺は頭角を現すようになります。その広報戦略は
①金毘羅さんの奥の院
②金毘羅との両詣り
で、金比羅宮に参詣した人を「両詣り」で勧誘する方法です。先達達(山伏)も街道を整備したり、参拝客を箸蔵寺に勧誘しました。また、箸蔵寺にはこの街道を行き交う旅人に対して、無量で宿泊所を提供したので、ここに停まって翌日金比羅詣でを行う人も阿波の人たちの中には多かったようです。そのため阿波の人たちは、この街道を「箸蔵街道」とも呼ぶようになります。箸蔵寺を通過する「箸蔵街道」が整備されるのは、案外遅いようで江戸時代後半になってからです。

4 阿波国絵図     5
 
 先ほど見た1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図にも、箸蔵街道はありません。あるのは③の男山から石仏越のルートです。

このルートに、箸蔵寺からの道が二軒茶屋付近で合流する形で、付け加えられます。そして、次第に③のルートよりも箸蔵街道を利用する人たちの方が多くなって③のルートは廃れ、「箸蔵街道」にとって代わられたのではないかと私は考えています。

 箸蔵街道も、明治27年に財田の大久保諶之丞が計画した四国新道が猪ノ鼻峠を通過するまでは、毎日多くの人々が行き交いました。特に阿波池田方面の人々の利用が多かったようですです。
箸蔵街道(香川県、四国の信仰古道を辿る) | 世界日本の景色

二軒茶屋から土讃線財田駅への下口にある石仏までの間には、箸蔵への距離を刻んだ次の3基の丁石が残っています。
1 五十七丁 阿州西井ノ内谷段地名氏子
2 六十一丁 阿州三好郡加茂村 萩原藤右ヱ門
3 六十五丁 東豫中之庄 大西彦三良

 箸蔵街道も明治の四国新道の建設と、昭和の初めの土讃線の開通で大きく姿を変えます。利用者は激減し、二軒あった茶屋も姿を消します。しかし、このルートは信仰の道として信者によってしっかりと整備された道なので、今も十分に利用可能です。財田駅に車を止めて、二軒茶屋を越えて、箸蔵寺に参拝し、ロープウエイで箸蔵駅の直ぐ上にまで下りて、土讃線で帰ってくるとというのが定番でした。ところが・・いまは土讃線の便数が減って、帰ってくる普通列車がなくなってしまいました。急行の南風は通過してしまいます。どうしたらいいものやら・・・

以上紹介した東山峠・樫の休場・二軒茶屋はよく知られたルートです。しかし、旧東山村の『東山の歴史』(大正5年編纂)にはもう一つのルートが示されています。
4 阿波国絵図 拡大

②の差出の地蔵越への道
「東山の歴史」には、「風光絶佳なること、我昼間村第一」として「差出山」(標高887.3m)が紹介されています。しかし、この山は私にとっては始めて耳にする山でした。もちろん手持ちの古い国土地理院の地図にも名前は入っていません。しかし、グーグルで検索してみると標高が同じ山があります。「登尾山(のぼりおやま)887.3m」です。尾野瀬山分岐点より西の県境尾根にあります。

標高が同じなので「差出山」(標高887.3m)=「登尾山(のぼりおやま)887.3m」であることが分かります。グーグルは、運用開始時は山関係では役に立つことはなかったのですが、多くの人が山名や地名を補足して、役立つツールに成長してきたようです。
 「東山の歴史」には、次のように紹介されています。
「維新前までは香川県へ通ずる要路に当りしが、今は近路として通過するに過ぎざれば道路の甚だしく荒廃せんとするは惜しむべきなり。」

大正の時代に、すでに忘れ去られようとしていたルートのようです。
 この峠道は阿讃サーキットの貞安や滝久保、石木集落方面の人々が香川県の財田、琴平方面へ出るときに利用していたようです。琴平まで日帰りで用事や買物に出掛けたと云います。貞安からの尾根を詰めれば、この山の山頂に立てます。確かに「風光絶佳なること、我昼間村第一」かもしれません。特に讃岐方面の展望がいいのです。
 この頂から県境尾根を西に行けば、箸蔵街道と合流して財田方面にでることができます。東に辿れば、中世の山岳寺院があった尾の瀬神社への分岐点があり、尾野瀬神社を経てまんのう町(旧仲南町)春日に至ります。春日で東山峠からの三好=丸亀線と合流します。そこからは金毘羅さんへは一里半ほどになります。
この街道については、貞安の老人は次のような話を残しています。
 「財田との縁組も多く、借耕牛も沢山通りました。財田の香川熊一さんや滝久保の木下常一さんが博労をしていて、牛の貸借の仲介をしていました。戦後耕運機が入るまで、借耕牛の行き来は続きました。」

 財田方面への借耕牛が数多く通った道のようです。
 貞安から差出越までの峠道には、4体の石仏が残っているようです。
○差出越の地蔵尊
 峠には2体の地蔵尊が祀られています。道路から向かって右は像高37cmで「文化十三年十月吉日」、左は像高 43cm で「明治十九年十二月吉日」の銘があります。2体ともに「棟木」の地名が刻まれています。棟木(現 東山字棟木)の人々が、この道を利用していたことが分かります。
○ヤマンソの地蔵尊
 峠の南東 1,5kmの展望の良い尾根上にいらしゃいます。像高 88cm「三界萬霊  安政三辰二月吉日 施主東山村中 世話人貞安大西高助 内野丹蔵」の銘があります。
○ハチベの不動尊
 峠の南東 500m の松の大木の下にあり、像高は 44.5cm。造立の年代は不明で、昔讃岐へ行くときここに刀を隠しておいたという話が残っているそうです。

 一遍時衆がどのルートで、善通寺から阿波へ抜けていったかという点に話を戻します
以上から私は次のように想像しています。
①善通寺から金倉川沿いに歩みを勧めた一行は、塩入に入ります。ここで一泊。
②翌日に、財田川の源流を遡って樫の休場に登っていきます。
③そして、葛籠・男山を経由して昼間に入ります。昼間に時宗の末寺が後世に作られたことは、なんらかの由縁が、この時にあったと無理矢理想像します。
④吉野川を祖谷への塩を渡す渡し船で右岸(南岸)の辻へ渡ります。
⑤吉野川右岸を東に向かって遊行中にメンバーの尼僧が亡くなります。
⑥この間、メンバーの追放や布教活動の乱れなどから、彼らを取り巻く状況は悪くなっていきます。
⑦9日後の6月1日に、鴨島で一遍発病
というストーリーです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
○東山の歴史(大正5年編)
○三好町誌

3 一遍時衆 銅像

正応元(1288)年、五十歳になった一遍は生まれ故郷の伊予に帰って岩屋寺、繁多寺など巡礼した後に、大三島で年を越しています。
  大三島の大山祇神社は、一遍の出自の豪族河野氏の氏社です。聖絵では、壇ノ浦の戦いで活躍した一遍の祖父河野通信が厚く信仰したことが語られています。また、一遍の信仰は神と仏とを合わせて信じる雑修信仰だった云われます。
  とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ

という神詠によく現れています。熊野神と八幡神に結縁した一遍にとって、氏神でもある大山祇神社の懐は、居心地のいいところだったのかもしれません。聖絵によれば、一遍は大三島で神官と地頭に「殺生禁戒」を誓わせたといいます。一遍の布教スタイルといえば、
(1)遊行、(2)踊り念仏、(3)賦算(念仏札配り)

です。が、法然が唱えた専修念仏からは少し離れ、仏教の戒律も重視していたことがうかがえます。同時に、大三島の支配者層の帰依を受けていたことも分かります。
3 一遍時衆 踊り念仏1
時衆の踊り念仏とそれを見守る庶民達

   冬を大三島で過ごし、翌年正応二年の春が来ると、一遍時衆は動き始めます。
「時宗」という語は江戸時代以後のもので、それまでは、一遍に従う僧尼たちは「時衆」と呼ばれていました。ここでは、彼ら一行を「時衆」と呼ぶことにします。
絵巻『一遍聖絵』は、念仏勧進のための諸国遊行の旅の様子が描かれています。その中には遊行先での賦算(ふさん。お札を配ること)や踊り念仏をする様子と見物人たちが描かれています。
3 一遍時衆 遊行布教jpg
  賦算(ふさん。お札を配ること)の様子

また、周囲の風俗や各地の名所が写実的に詳しく描かれていて、今日では高い評価がされているようです。
『一遍聖絵』巻十一には、死出の旅となった讃岐から阿波への遊行が次のように記されています。
正応二年、讃岐国にこえて善通寺曼陀羅寺巡礼し給ひて、阿波国にうつり給ふ。聖いかゞおもひ給ひけむ、
「機縁すでにうすくなり、人教誠をもちゐず、生涯いくばくならず、死期ちかきにあり」との給ひけるを、人々あやしみおもひけるに、いくほどなくして大鳥の里河辺といふところにて、六月一日より心神例に違し、寝食つねならずおはしましけるに、
おもふことみなつきはてぬうしと見しよをばさながら秋のはつかぜ
この詠につきて時衆ならびに参詣の人々もいよいよ、心ぼそくぞおぼえける。
七月のはじめに阿波の国をたちて淡路の福良にうつり給ふ。
ここからは1289年の春に、大三島を出発し、讃岐に入り善通寺や曼陀羅寺を巡礼しています。香川県史には、この際に宇多津の郷照寺を拠点に布教活動を展開し、この時の踊念仏が、後の雨乞い念仏踊りになったのではないかと記します。しかし、それも1ヶ月足らずの期間であったようです。
6月1日は阿波の国へと移動していたことが分かります。阿波入りして間もなく
「機縁すでにうすくなり、人教誠をもちゐず、生涯いくばくならず、死期ちかきにあり」

と、布教活動かうまく行かず、一行の中から離脱する弟子たちも現れたことがうかがえます。死の近いことを予言します。
 そして、「大鳥の里河辺」という所で6月1日に、ついに心神違例となり、寝食が異常となったようです。その後、阿波を発ち淡路に向けて出発するのが7月初めです。約1ヶ月近く病気療養のために、大鳥の里河辺に留まったようです。

3 一遍時衆 遊行地図
 
それでは一遍が発病し1ヶ月を過ごした「阿波の大鳥の里河辺」はどこなのでしょうか?  
 そのルートについて、ある研究者は次のように推測します。

四国遍路の巡礼道をたどって一遍は、讃岐から阿波入りしたと考えられる。当時は一般旅人の通った道は讃岐大川郡の白鳥引田町から大坂越をして阿波吉野川平野に出る道しかなかったのではあるまいか。そうだとすると大鳥の里河辺は吉野川河口のデルタ地帯の小集落であったのだろう」

この説に従うと、淡路に向かうためには鳴門に至る撫養街道に出なければなりません。そうすると使ったルートして、考えられるのは次の3つです。
① 四国辺路を辿って、善通寺・曼陀羅寺から海岸づたいに、JR高徳線にそって白峰寺、屋島寺、志度寺などを巡礼し、長尾寺から内陸に入り、現在の結願寺の大窪寺経て、10番切幡寺
② ①と志度寺までは同じで、その後は海沿いに白鳥・引田を経て大坂峠を越える旧南海道
③ 一番最短なのは、善通寺から南海道を東に一直線に進み大坂峠越え
88番から1番への道 | 四国八十八ヶ所遍路 | 趣味人倶楽部(しゅみーとくらぶ)

中世の旅人達が最も使用していたのは、③大坂峠越の南海道です。源平合戦の屋島・壇ノ浦の戦いの際にも、義経は、最短のこのルートで屋島を目指しています。いわゆる主要街道です。
 しかし、一遍にとって急ぐ旅ではありません。いろいろな聖地・霊山を経ながらの布教の旅です。③のルートを使う必要はなかったように思えます。聖地巡礼の四国辺路ルートに、こだわるなら①の大窪寺経由の現県道2号線沿いになります。

3 一遍時衆 遊行図6jpg
遊行する一遍時衆たち 尼僧の姿も見えます

次に「阿波の大鳥の里河辺」が、どこなのかについて
「撫養街道周辺 + 吉野川河口」という条件を入れて検索すると、候補に挙がってくるのが「鴨島町敷地の河辺寺跡」のようです。
その説明版には次のように記されています。
徳島県指定史跡河辺寺跡 指定年月日 昭和40年2月5日
所在地 麻植郡鴨島町敷地字宮北四二六、四二七、四二八番地
平安時代の寺跡と推定せられているもので礎石17個が露出している。昭和29年12月に耕作者佐藤一氏により発掘されたもので、多数の出土品は現在県博物館に保存されている。阿波誌によると河辺寺は往時、七堂伽藍の名刹なりしが、天正の頃兵火にかかり、再建に至らずして廃寺となり、
寺跡に小庵を建立し遺跡の石地蔵とまつり今日に至る。
3 一遍時衆 阿波鴨島河辺寺跡g

大正11年10月刊『麻植郡誌』には、かつてここに河辺八幡神社があったが、明治42年敷地村の神社合併により新たに敷島神社を建立し合祀したので廃社になったとあります。
昭和39年2月刊『鴨島町誌』には、次のようにあります。

「古くから敷地にこうべ寺(河辺寺)という寺があったと伝えられるが、それを立証する物的証拠はなかった。昭和29年敷地字宮の北の畑地を発掘調査し17箇の礎石を発見、その配置ならびに出土した瓦の中に平安時代前期の弘仁、貞観のころのものもあることなどによりこうべ寺跡であることが確認された。時代考証の結果、およそ平安中期に創建されたものであろうということになった。」

 河辺寺は土地の人々はコウベジと呼んでいて、「神戸寺」と書いたようです。しかし寺址の南西約50mの所に河辺八幡宮跡と刻した石碑が立ち、寺址のすぐ南下に河辺庵があって河辺寺の後を継ぐというから、河辺寺と書くのが正しいのではないかと研究者は考えているようです。
3 一遍時衆 全てを捨てて踊れ2

 以上から、確かに鴨島町に河辺寺という寺があったことは確認できます。これがはたして『聖絵』巻十一にいう一遍が発病した「大鳥の里河辺といふところ」なのでしょうか。河辺寺という寺がここにあったということは、この辺が河辺と呼ばれていたことは考えられます。ここ以外に阿波では「大鳥の里河辺」という所は見つからないようです。一応、現時点では一遍が正応二年六月一日に心神違例となった場所は、この敷地河辺としておきましょう。

3 一遍時衆 遊行図4jpg

 それなら、なぜ一遍時衆はこの地を訪れたのでしょうか?
敷地の丘を越えた谷筋には、四国十一番札所の藤井寺があります。いまは臨済宗妙心寺派ですが、天正年間の兵乱で焼失する以前は真言宗で、真言密教の道場として栄えたとされます。 一遍は藤井寺に向かおうとする途中の河辺寺で発病したのかもしれません。
3 一遍時衆 往古過去帳g
『往古過去帳』

一遍の阿波遊行については『往古過去帳』尼衆にも、重要なことが記されているようです。
  『往古過去帳』は、代々の遊行上人が持参してきた過去帳で「僧衆」「尼衆」の2帖があります。一遍以来の上人たちが諸国遊行に持って歩き、遊行途上で死亡した僧尼の法名を真筆で書き継いだものです。弘安2年(1279)6月の一遍在世中に、二祖真教の筆で始まり、30代有三が遊行を相続した永禄6年(1563)まで、285年間で12000近くの霊数が記されています。後代には信者の法名も記入されるようになり、これを「お過去帳入り」と称して、浄土往生の証と考えられるようになります。この中に次のような事項があります。

正応二(1289)年五月廿二日 賀茂阿波国 南仏房

これは一遍のひきいる時衆の一群が、正応2(1289)年5月22日に阿波の賀茂に滞在して、そこで南仏房という尼僧が亡くなったのを真教が往来過去帳に記入したものです。ここからは一遍時衆が5月22日に「賀茂阿波国」にいたことが分かります。
3 一遍時衆 全てを捨てて踊れ

それでは「阿波のの賀茂(加茂)」とはどこなのでしょうか。

賀茂のついた地名を挙げると
①徳島市に加茂名町
②名西郡石井町に加茂野
③吉野川上流の三好郡に三加茂町加茂
の3つが挙がるようです。しかし、南仏房という尼僧が往生した賀茂は、三好郡三加茂町の加茂だと研究者は考えているようです。なぜならば一遍は、6月1日には「大鳥の里河辺」(鴨島町の敷地河辺)にいたからです。5月22日に①や②でいたのでは、吉野川を遡って西に向かう旅をしていたことになります。一遍が向かっていたのは淡路ですから吉野川を下って東に向かっていたと考えなければなりません。
 整理すると5月22日に三加茂町で南仏房が往生し、それを見送った後に、吉野川の流れに沿って東に進み、6月1日に鴨島町河辺にやって来て。そこで一遍は心神違例となったと考えるのが自然だと研究者は考えているようです。とすると、最初に考えた一遍が讃岐から阿波入りに使ったコースは、全て誤りだったということになります。
3 一遍時衆 遊行図3jpg

もう一度、一遍時衆が辿った讃岐から阿波へのルートを考え直す必要があるようです。
 三加茂町加茂は吉野川上流右岸の段丘の上に開けた町で、「賀茂の大クス」という巨樟が町の真ん中に立っています。南は剣山に続く尾根がいくつも張り出してきて谷を作ります。ここに5月22日に一遍一行が滞在していたのなら、讃岐善通寺から阿讃山脈を越えてやって来たことになります。そのルートを考えたいと思います。
県内直売所|JA徳島中央会

まず一遍が善通寺を出たのがいつのことなのでしょうか?

『絵詞伝』巻四には「同年(虹鶴)五月の頃、讃岐より阿波にうつり縞ふ」

とあります。その年の正月を大三島で迎えた一遍は、2月9日に桜会をおこなった後に、讃岐に入ってきます。各地で念仏勧進を行いながらの旅ですから、善通寺や曼荼羅寺を参拝後に讃岐山脈を越えて阿波賀茂に入ってきたのは、『絵詞伝』にあるように5月ごろなのでしょう。
DSC03800 阿波国絵図 

この時に越えた峠として考えられるものを西から順番に挙げてみましょう。
猪ノ鼻峠や東山峠は近代以後に開かれた峠で、対象外になります。
①二軒茶屋越    (財田町         ー 三好市箸蔵
②樫の休み場越  (まんのう町塩入 ー 三好町昼間)
③三頭峠越      (まんのう町美合 ー 美馬市美馬
の3つが候補に挙がります。
  近世において阿波街道として、最も利用されていたのは③三頭越になります
DSC03796

このルートは、土器川沿いにまんのう町美合の山間の集落を抜けて、現在の国道438号の三頭トンネルの上にある峠を越えて、美馬町に抜けていきます。一般的には、このルートが考えられるのですが、美馬町は三加茂よりも東に位置し、吉野川の下流にあたります。このルートを取ったとすれば、美馬町から吉野川を西に遡って三加茂にやってきたことになります。道順的には不合理です。
  ①二軒茶屋越は、近代に大久保諶之丞が四国新道を開くまで使われていたルートです。
阿波池田方面の人々が利用したルートです。しかし、三加茂を目指すには少し、遠回りになります。



一番善通寺・琴平方面から三加茂に近いルートは②の樫の休場経由です。
DSC03797

このルートは、金倉川沿いに上流を目指し、塩入から山道に入り地元では二本杉と呼ばれる樫の休場経由で、現在の東三好町昼間に下って行くルートです。ここでは②のルートを使ったことにしておきます。
3 一遍時衆 踊り念仏2

 阿讃山脈を越え阿波に入った一遍は、吉野川の流れに沿って東に歩き、5月22日には三加茂町に尽きます。そしてメンバーの一員である南仏房が往生し、『往古過去帳』に記入されます。暦は陰暦なので五月下旬といえば、梅雨の最中か、梅雨明けの暑さがやってきた頃だったでしょう。
 
享保六年『遊行派末寺帳』【南海道】には、次のような末寺が記されています
紀伊 七郡【2寺】⑥安養寺(若山湊) ⑥浄土寺(藤代 鳥居浦)
淡路 二郡【なし】
阿波 四郡【4寺】 ⑥常福寺(加茂) 善成寺(画(昼?間)
          弘願寺(二階堂)②光摂寺(八万) 
伊予十四郡【6寺】⑥定善寺(松前) ②宝厳寺(道後村奥谷) 
         入仏寺(八蔵)円福寺 願成寺(内ノ子村宮床)
         保寿寺(陽)
土佐 七郡【3寺】乗台寺 (佐河) 善楽寺(一山)  西念寺(一野)
讃岐 十三郡【7寺】⑥興善寺(爾保)②江(郷)照寺(宇多(足)津)
       浄土寺(由佐・尼)興勝寺(勝間) 興徳寺(大田・尼) 
       高称寺(観音堂・尼)荘厳寺(一宮)

阿波には4ヶ寺あったようですが、その筆頭に記されているのが六 常福寺(加茂)です。そこに遊行上人が訪れたことは確かなようです。
 三加茂町賀茂から吉野川を西に約四㎞ほど遡った対岸に、三好町昼間があります。さきほど紹介した②の樫の休場からのルートが撫養街道と合流する地点です。
『往古過去帳』遊行十六代南要条に、覚阿弥陀仏(ヒルマ)

と記入されています。遊行上人16代の南要は『遊行十六代祖四国回心記』に記録されているように阿波を遊行しています。このヒルマもこの昼間だと研究者は考えているようです。
また享保六年末寺帳に、善成寺 昼間

とあるので、昼間に善成寺があったことが分かります。
ここからは阿波加茂と近くの昼間に、時衆寺院が2つあったことが分かります。これは、このエリアが時衆教団にとってゆかりの深い土地であったことを推測させます。そのゆかりとは何かと考えれば、正応二年五月二十二日に阿波加茂で亡くなった南仏房が一遍か真教にゆかりのある尼であったからではないのかとの推測ができます。他の者の往生は、地名が記入されていないのに、南仏房だけ「賀茂阿波国」と往生地が記入されているのも手がかりです。
3 一遍時衆 踊り念仏3

5月22日から9日後の6月1日、 一遍は「大鳥の里河辺」で病みます。
阿波加茂から鴨島町敷地河辺までは、直線距離で約40㎞です。一遍は時衆をひきつれて、日に平均約5㎞という牛の歩みのようなスローテンポで遊行しながら吉野川沿いに東へ歩んでいきます。「讃岐から阿波に入った一遍は
「機縁すでにうすくなり、人教誡をもちゐず」

と言ったと伝えられます。 このエリアでの時衆集団の状況が悪かったことがうかがえます。少し想像力を膨らませて、時衆集団が直面した状況を再現してみましょう。
 信不信を選ばず布教を続ける一遍時衆の算を、地元の人たちから拒否されることが多かったのかもしれません。それとも時衆の中に戒律に背いて追放される者が続出したのかもしれません。あるいは、阿讃山脈越の難路で一遍の疲労が甚だしかったこともあるでしょう。そのような中で阿波加茂で南仏房が亡くなります。旅を続ける一遍も、梅雨明けの酷暑の遊行に疲れきっていたのかもしれません。そのような中で、村里で人々に賦算しながの遊行は、一日にせいぜい五㎞ぐらいしか進まなかったのかもしれません。こうして古野川右岸を上流から下流に藤井寺を目指して歩いて行った一遍は、旅の疲れからか、その手前の河辺寺付近で発病するのです。
 1ヶ月の療養でも、全快には至らず無理を押しての旅立ちとなったのかもしれません。やがて阿波の国府、いまの徳島市国府に至ります。国府から古代の官通はまっすぐ北上し、吉野川を渡って、板野郡板野町大寺に至ります。大寺には四国霊場3番金泉(こんせん)寺があり、大寺の郡頭(こおず)は『延喜式』に「阿波国駅馬、石濃(隈?)、郡頭各五疋」と記され、律令時代の宿駅でした。。郡頭から官道は讃岐山脈の南麓を東に向かい、二番極楽寺、 一番霊山寺の前を通過して鳴門市大麻町石園(いその)に至ります。この石園が『延喜式』に記された石濃のようです。さらに東進すると鳴門市撫養で、ここから船に乗って鳴門海峡を横断し淡路の福良に上陸するというルートになります。淡路という名称はもと阿波路で、律令時代に大和から阿波へ行く路にあたっていたので阿波路といったと云われます。吉野川を下って阿波の国府に着いた一遍は、おそらくこの古代の官道
に沿って淡路へと歩を進めたのでしょう。

3 一遍時衆 一遍終焉の地である兵庫の観音堂
一遍終焉の兵庫の観音堂

そして、淡路から兵庫に渡りその地を臨終の地とすることになります。まさに、死地に向かって歩み続ける最後の遊行の旅が讃岐から阿波への旅路だったようです。
3 一遍時衆 臨終場面

 「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」
(『聖絵』第十一 第四段)

以上をまとめておきます。
①一遍は臨終の1年前に河野氏の氏神で大三島の大山祇神社で一冬を過ごした。
②翌年の春開けに大三島を出て、讃岐の善通寺・曼荼羅寺を巡礼し
③5月にはまんのう町を経由して、讃岐山脈を越えて阿波加茂に至った。
④阿波加茂で、時衆の中の尼僧が5月21日に亡くなっている
⑤その後、吉野川沿いに東に向かい鴨島町の河辺寺辺りで発病し、
⑥約1ヶ月の療養の後に、淡路を経由して兵庫に向かった。
⑦そして、兵庫がで臨終を迎える
善通寺からまんのう町を経ての山越えの道は、死出へ旅立ちの道でもあったことになるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
今井清光 時衆教団の地方展開 東京美術社 昭和58年



 「大覚寺差止め八か条」で、海岸寺は次のようなキャッチフレーズは差止(使用禁止)となります。
「御誕生之霊跡」「御降誕之霊地」「御初誕之地」「御産生所」

また「弘法大師生誕地」と称していた次のものついても使用停止処分となります。
海岸寺の縁起  奥の院産盥堂の勧進帳  建石之事(丁石) 
案内切出之書付(道案内図)
 
そして「藩の申し渡し」によって、
①産盥の参拝者への公開禁止(没収は免れた)
②産盥堂は「再建」としては認められないが新築することは許された
⑤屏風浦の称号使用禁止(頭書や肩書きとしては許された)
  この2つの決定により「弘法大師=多度津白方生誕」説は、息の根を止められたかというと、そうでもないようです。以後も生き続け、庶民の間には流布され続けたようなのです。その実態を追いかけて見ようと思います。
まず、裁定が出された後の海岸寺の動きを見てみましょう。
  上のような決定が海岸寺に通達されるのが文化十四年(1817)の春3月23日のことです。しかし、海岸寺は申渡し事項を前向きに守ろうとする態度ではなかったようです。翌月の4月4日には「弘法大師生誕地」と書かれた「切出し」(案内図)を配布していたことで、多度津藩からの取調べを受け、始末書を差し出しています。その始末書には
「切出しを旅人たちへ配布したのは、信徒世話人の中の勝手の分らない者が、以前に刷っていたものを配布したものである」

と弁明しています。藩では、その世話人の名前を調べて差出すようにと命じます。それに対しては
「切出しを配布した世話人は、会式の時などは大勢入り込んで世話してくれるので、今になっては名前は分らない」

と弁明を重ねるばかりです。
これに対して藩は、実力行使に出ます。4月8日に縁起と絵図の板木、また大師初誕の像に屏風浦と書いた「切出し」の板木を没収します。同時に、産水の井や浴巾掛の松の建札を取払うように命じています。海岸寺はここでも「畏み奉る旨」の始末書を差し出します。
 ここからは、裁定後の海岸寺の姿勢がうかがえます。同時に海岸寺の信者の中には、裁定について反発する動きがあったのかもしれないと思えます。
 6月13日、海岸寺に対し差止を命じた「條々完了の旨」の通達が多度津藩から丸亀藩を経由して、善通寺に次のように通知されています。
     覚
大師御誕生所一件落着後追々片付候条々                      
一、納経帳ニ産盥堂と認候之儀被差止候事  
一、産盥堂と認有之候 建石書直之義被申渡候事  
一、産盥堂と書付有之雪洞六帳並びに同断認メ之幕二張為取払候之事  
一、産盥堂絵図と板木並びに大師初誕御影板木被取上候事
一、湯手掛松建札並びに二産水ノ並びに建札為取払候之事  
一、海岸寺縁起可取上旨被申渡候処 大覚寺御門跡御用二付差出置候処 今二御差下無之旨海岸寺より申出候事 
 右の通それぞれ取片付相除申候。以上
       (丸亀藩寺社方) 土岐権之襄。
                菅四郎兵衛
誕生院                                                                      

どんなものが海岸寺から没収・撤去されたのかを見ておきましょう
①納経帳に産盥堂と書かれているのを差し止めた
②産盥堂と彫られた建石(標石)を書直すように申し渡した
③産盥堂と書かれた雪洞(ぼんぼり)六帳と幕二張を取り払った
④産盥堂絵図・板木・「大師初誕」と彫られた板木を没収
⑤湯手掛松と産水の建札を取り払った  
⑥海岸寺縁起については、大覚寺に差し出したのでないことが海岸寺から申出があった。
 以上の通り、裁定に従って、没収・撤去した。以上
3月に丸亀藩と多度津藩で協議された内容に従って、「実力行使」が多度津藩の寺社方の立ち会いのもとで行われたようです。一応これで、一歳に方がついたと思われました。このような争論の結果が讃岐の人々には、どのように受け止められたのかを見てみましょう

海岸寺敗訴の裁定が下されてから約10年後の文政11(1828)年に出版された「全讃史」には、次のように記されています。

文化年間に、海岸寺は白方が屏風浦であること、又大師産盥石があり、熊手八幡宮が大師の氏神であることを朝廷に訴え善通寺誕生院と争った。数年にして誕生院は傾きかけた。そこで誕生院は多くの関係者に助力を求めた。そして、一条関白殿下から善通寺が誕生所で、修学所であるとの額を頂いた

  ここには。事実にまったく反することが書かれています。
事実経過をもう一度整理しておくと
①海岸寺が、誕生院を朝廷に訴えたのではなく、誕生院が海岸寺を、丸亀藩へ訴へたのです
②善通寺が藩の援助を受けたのではなく、反対に海岸寺全面敗訴が、多度津藩主の「政治的な圧力」で名目を保つことができたのです
③一条関白が、誕生所の額字を誕生院に寄贈したのは、訴訟後のことです。『全讃史」善通寺の條の中にも次のように記されています。
一条関白従一位左大臣忠良公、賜額字弘法大師誕生之場(八大字)共落款云、文政元年五月二日、開白忠良題

 争論の裁定は文化14年(1817)に終わっています。額が送られたのは文政元(1818)年五月二日のことです。 遠い昔のことではありません。裁定が下されてからわずか10年しか経っていないのに、このような誤りがれっきとした歴史書に載せられたのはなぜでしょうか。
二つのことが考えられます
①報道の自由が保障されていない当時は、真相を知る術がなく流言が飛び交った。積極的に海岸寺に有利な流言をながした集団がいた。それを信じた編者中山城山が『全讃史』に、そのまま記した。もっと云えば「弘法大師生誕地=善通寺」を受けいれられない信者集団がいたということかもしれません。
②編者中山城山が善通寺に悪意を持っていた。

まず①の 「多度津白方=空海誕生地説」を流布した信者集団の母体と広がりを考えます
 確かに善通寺が誕生所であることは、綸旨や院宣に書かれています。しかし、民衆からすれば「綸旨、院宣」が何であるか分らず、その内容も知らない者も多くいたようです。そして、大師は白方で生まれ、白方が屏風浦だと信ずる信者集団がいたということです。このことについては、以前にもお話ししましたので、要点だけを紹介します。
白方を屏風浦と言い、大師は白方で生まれたと言い出した最初のものは「空海混本縁起」のようです。
  ここには次のように空海の出自のことが記されています
 .讃岐多度郡屏風浦に、藤新太夫と申して猟師一人有、其内に阿古屋と申て女一人有ますが(中略)
無程懐人仕給ふ 夫人間は9月半ばの胎内とは申せども、私ならぬ人なれば十三月の御産の紐をとき給う。その時の年号は宝亀5年寅年六月十五日、寅の一天御産の紐をとき給ふ、御子取上げ見給ふに、かけも形も世にすぐれ、うつくしき男子也。然るに此子程なく、夜鳴を仕給ふ事限なし、其時地頭政所村七軒、地頭七人の身の上を聞き、急き子捨よと仰ける、御母其由聞召、我は是四拾のいんに餘りて、子を一人も持たず、人はとも言へかくもあれ捨る事は成るまじきと仰ける、藤新太夫申けるようは、王公に住身のならいなれば捨ずば如何可有やと急き此子を捨よと仰ける、御母此由聞召、金の魚を御夢想たるに依て、御名を金魚丸殿と付て綿(私注、錦か)に包、彼の千暮[ケ原に捨給ふ云々
その後、善通寺の徳道上人に拾われ、善通寺で産湯を使ったので、善通寺を誕生院と呼ぶことになったというのです。しかも父は「藤新太夫」、母は「阿古屋」とします。善通寺の「父・佐伯善通寺、母・阿刀の娘」に真っ向から反する記述です

 一方、母の阿古屋の夢想の中に老僧があらわれます。そして次のように告げるのです。「小兒の夜鳴の声は、母の胎内でいる時からお経を読んでいる声である」と。
 母はよろこんで、白方屏風浦へ迎えて程なく七歳になります。そこで、福寿丸と名を付けかえ、善通寺へ送ったいう風に物語は展開していきます。
この「混本縁起」のあとに「弘法大師四国八拾八箇所山開」(略・山開)が出てきます
勿体なくも讃州多度の郡白方屏風浦佐伯善道様御むつましう御くらし、其時あこや御前の御腹をかり、十三付きの間御もちなされ、賓亀五年六月十五日、寅年寅の月、寅の刻に御たんじょうなされ、あこや御前はしかとだき、せんだん山にすて子なされし。其時せんだん山の師生通りかかり、これふしぎなる御山にあか子なきこへとおもへと法華経よむようにきこゑ、御そばに立より、がんしょくはいし奉れば、日月の如し、御身は佛の如く相見え云々

 この「山開」は読んでみて分かるとおり、分かりやすく卑俗な文句で仮名付きで書かれていて、誰にでも読める物語風になっています。もともとは、先達(山伏)たちが信者に語り聞かせたものと研究者は考えているようです。この「山開」の終りのところには「光明真言の訓読」が付け加えてあります。そして、
ありがたい経文と心得、大師を祀ったお堂の前などで節づけで唱えよ

と先達から教えられたようです。今でも八十八か所の札所では、五人、十人と巡拝者が声をそろえて合掌する姿を見ることがあります。 さらには、神社寺院の縁日などで、この「山開」の
  「百丁くだればすかわさん、くわずのかいにくいわずのいも、年に三度の栗もなる」

のフレーズを称えながら「くわずのいも」を売るものも現れます。まさに「売り言葉」としても使われるようになるのです。
 また四国遍路の順拝者が物乞いをするときには、この「山開」を一流の節で詠じ、鈴を振り戸毎に立ちました。これは「弘法大師生誕=白方屏風浦」の流布宣伝の大きな武器になったようです。こうして、「弘法大師生誕地=多度津白方」説は、四国遍路によって四国全体にも広げられて行ったようです。
海岸寺が産盥堂を建て「白方海岸寺誕生」広報プロジェクトを進めれば、人が集まってくる素地は十分あったようです。「藩主裁断」という一片の通達で、庶民の信仰を葬り去ることはできなかったようです。

 「弘法大師生誕地」や「屏風浦」が、歴史書にどのように記されているのかもう少し見てみましょう      
讃州府志(延享2(1685)の屏風浦の項目には、次のように記されています
行状記に曰く、屏風浦は弘法大師の生誕地である。五岳山があり、その形は屏風に似ていることから来ている。大師が云う王藻に帰る島のことで、巨樟の影落とす浦である。ここには堂舎があり、三角堂と呼ばれ、大師像が安置されている。その西の山側には、石臼のような石造物があり、これを大師の産盥と称している。また、清水涌く井戸が有る。弘法大師の氏寺と伝えられる(熊手)八幡宮があり、その北側は海である。

ここに記されている建物の位置関係を見てみましょう
①屏風浦は弘法大師生誕地で、五岳山の麓に善通寺がある
②屏風浦の三角寺に大師像が安置されている。(白方の三角寺佛母院のこと)
③弘法大師の産盥があるのが海岸寺奥の院
④弘法大師の氏寺が熊手八幡である。
ここからは『讃州府志』の大師誕生の屏風浦は、善通寺と佛母院と、海岸寺と熊手神社が隣接したエリアにあり、これらの全てが「屏風浦」に位置すると理解していたようです。作者が現地を訪れていないことがうかがえます。現地調査を行い史料を収集した後に、著述するという姿勢はありません。

これらの書物を参考にして、後世に歴史書を書こうとする人たちは迷ったはずです。空海の生誕地、屏風浦の範囲やエリアなどがきちんと書かれている史料がないのです。
  例えば、綾氏一族の香西氏顕彰のために軍記物語を残した香西成次は
①南海治乱記では、善通寺は弘法大師生誕地と記し
②南海通記では、屏風浦は白方だと記します。
このような曖昧さが当時の知識人の間にもあったのです。

話を全讃史の編者・中山城山に戻して、彼が「善通寺に悪意を持っていた」という仮説を検討してみます。
このことについては、弘法大師生誕地をめぐって争論した善通寺と海岸寺の「応援団」に目を向けてみたいと思います。海岸寺の本寺は大覚寺で、法親王が住職される宮門跡の大寺院です。讃岐国内を見ても、大覚寺の末寺には大窪寺、宝蔵院、八栗寺、弘憲寺、国分寺、三谷寺、竜灯院(滝宮)、地蔵院など大きなお寺が目白押しです。
 それに比べて善通寺の本寺である随心院は摂関家の子弟が住持する摂関門跡で、讃岐には善通寺以外に末寺はありません。善通寺と海岸寺だけで比べると、善通寺が圧倒するように思えます。しかし、その背景に控える寺社ネットワークを見ると、善通寺は讃岐国内で孤立していることが見えてきます。
 つまり、讃岐において真言系寺社は同門の海岸寺を密かに応援していたことが考えられます。僧侶達は知識人集団で,言論出版に大きな影響力を持っています。大覚寺系の末寺は、海岸寺に有利な世論工作を行っていた節があります。その動きの一翼に「全讃史」の編者もいたと私は考えています。裁定に破れても、海岸寺の「弘法大師生誕地=多度津白方」説を、信じて支援するエネルギーが各所にあったということでしょう。

裁定から80年近く経った明治29年(1896)の3月11日のことです。善通寺の住職が、高野山宗長に次のような要請を書状で依頼しています。
議岐国多度郡白方村  海岸寺
右寺近年切二庶人二封シ弘法大師御誕生所卜称シ居候。既二客歳春該院二於テ開帳セラレシ際 縁起ヲ聞クニ専ラ御誕生所ト唱へ候テ 庶人ヲ惑致居候往昔ヨリ善通寺ハ御誕生所十ル事歴史上ニ於テモ皆人ノ知ル所ナり。
 然ルニ海岸寺二於テ御誕生所ト称シテ 庶人ヲ証惑スル段重々不都合二候 去ル文政十四年度ニモ海岸寺は御誕生所を偽称致候二付嵯峨御所並びに藩政ノ裁決ア仰キ候 未だ海岸寺ハ十数ケ條ヲ以テ差止メラレ候(今其のケ条のいくつかを挙げると)
一 綸旨院宣ニ差障り候条誕生所二紛敷義無之様急度可為無用事
一 産盥卜相唱候石器 庶人へ見セ候義ハ急度可為無用(きっと無用たるべし)
一 湯手掛/松ノ建札並びに産水ノ井建札取払ノ事
明治29年3月11日
            讃岐国多度郡善通寺
            別格本山善通寺住職 佐伯法遵

本宗長者
権太贈正 鼎龍暁段
意訳すると
海岸寺について藩政の頃から禁止されているのにも関わらず、今また産盥と称し信者に参観させるばかりでなく、湯手掛の松や産水並びに木札を建てるようになりました。それだけでなく近年は弘法大師誕生地を公称するようになりました。誕生地が2つもあることは信者を戸惑わせるだけでなく宗祖系譜の乱れにも通じます。
 文政年間の裁判の通り、断固たる処置をとることはもちろん、誕生地を称する事について厳しく禁止させるように指導して頂きたい。なお海岸寺が禁止されている行為を参考のためにいくつか以下に挙げます。
一 善通寺が弘法大師誕生地であるという綸旨院宣に差障りのあることを流布することの禁止
一 産盥称する石造器を信者に拝観させることは禁止
一 湯手掛松や産水ノ井などの建札は禁止

 明治になって新時代が到来したことを背景に、海岸寺が再び「弘法大師=白方生誕説」を流布して、参拝者を招き入れていることが分かります。それだけこの説を支持する信者が多くいたということなのでしょう。
 今では地元では「空海生誕地=善通寺誕生院と多度津白方」が同居しているような感じもします。空海の生誕地がふたつあることを、余り違和感を持たずに受けいれられているような雰囲気がします。信仰というものは、藩主の一片の書状では変えることはできないようです。根強く残る多度津白方生誕説の背景を見ながら、そんなことを感じました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 金毘羅詣での参拝客を多度津に取り込むために、18世紀末頃から白方の海岸寺が奥の院の整備を進めます。その集客のために流布されたのが「多度津白方=空海誕生地説」で、目玉とされたのが空海が生まれた時に使われたと称される「産盥」でした。
 これに対して、本家本元の善通寺誕生院が海岸寺に「弘法大師生誕地」「屏風浦」の使用禁止、産盥堂の建設差し止めなどを丸亀藩に提訴します。海岸寺は、自らの主張を譲らずに調停は行き詰まり、京都に舞台を移しての海岸寺と善通寺の本寺間の協議が1年近くにわたって続けられます。
 その結果、下された裁定では、「弘法大師生誕地」などの差し止め請求は認められますが、海岸寺が頑なに主張した「産盥」「屏風浦」「別院(奥の院)」の3つについては、地元のことなので丸亀藩の裁断を改めて仰げという内容でした。海岸寺の本寺である嵯峨大覚寺の政治力の前に、善通寺の主張が全面的に認められることはありませんでした。
 善通寺としては、今度こそ丸亀藩にきちんとした判断と対応を取ってもらわなければならないと考え、対丸亀藩工作を強化します。今回は、京都での調停工作の後を受けて丸亀藩がどのように動いたかに焦点を絞って、善通寺と海岸寺の争論の行方を追ってみたいと思います。
 
  丸亀藩は、善通寺・海岸寺の双方から報告書や史料・弁明書を提出させた上で、審理を行います。そして、使節団が京都から帰ってきて約1ヶ月半後の文化13年(1816)10月15日には、家老・岡織部、岡頼母、佐々九郎兵衛の名前で、多度津藩家老・畑六郎宛につぎのような見解を書面で送っています。意訳のみ紹介します。

此度の一件についての九亀藩の見解を手紙で通達する。
多度津藩白方海岸寺については近年、大師誕生所との縁起を流布しているとの申し立てがあった。善通寺の寺社経営にとって見過ごす事の出来ない状態になっていると丸亀藩寺社役に提訴があった。善通寺誕生所は、綸旨・院宣などから弘法大師の生誕地であることは明白であるとして、海岸寺の流布中止などを求めたが協議は進まなかった。そこで、誕生院は京都随心院御門跡へ提訴し、大覚寺御円跡のもとで妥協点を探った結果、次のような裁定が下りた。
縁起   勧進帳  建石之事   船問屋共ち差出候路案内切出之書付 御誕生之霊跡  御降誕之霊地 御初誕之地 一御産生所

以上の8項目については、海岸寺が使用することを差留にするという決定である。このことについては多度津藩から海岸寺へ仰せつけ頂きたい。随心院からの申渡しは、善通寺誕生院に対しても行われている。先頃誕生院住職が帰国し、その報告書が寺社方に提出されたので、直接面談して内容を確認した。確かに3事項については、地元に関することなので領主による裁断を仰ぐことになっている。何分にも綸旨院宣に触れることなので、今後に紛らわしきことがないように、審理を尽くし裁断したいと思う。
 以上に続けて、丸亀藩主は次のような感想を述べたと書き送っています。   

(丸亀の殿様)へ達御聴候所、
右者事之相決候儀、海岸寺ニ年古くク申触候共畢竟寺説之儀 
誕生院者大師誕生之土地者、綸旨之之中二事明白二相分居候儀二付種々之誕跡も現在二候得、右迄を以不及論。
 既ニ海岸寺答書ニも、誕生院義者大師誕生之霊場二而綸旨院宣等顧然之事者兼而承知候趣書載有之、傍以疾クニも役人共中為差押可申処、左も無之長々及差縫ニ、剰京都迄願出候之様為成行、前段之通為元之御裁断ニ被任候様之及旨儀ニ、於御領法難相済甚以御不快ニ被為思召候。且又明王院海岸寺義茂一宗之儀二而、右様之訳合能ク乍存重キ綸旨二敵封候段、僧侶之身分ニ有問敷次第言語道断沙汰之限二付、於御領法巌敷御否被仰付候而も可然筋二候得共、於本山ニも事穏二為 済被下候儀二付、其段御用捨候而可然、
 右二付而前段御領法被任候三ケ条、何れ其侭差置候而者後代至り又候差縫之基二茂可相成、依之産盥者後人之作二相違無之儀一付一旦御取上之L本寺明二院江御預可被置、別館之儀者於海岸寺答書二も其所二而大師降誕有之との儀、尤降誕之所者於京都被差止候得共是以紛敷事二付、右色日も御取上不被置而者相成間敷、屏風浦之儀者往占五山之浦を相唱、大師者右浦之産二而善通寺二紛無之、既・一   公邊汀差出候書面二も屏風浦善通寺与
書載来候儀、右地名者彼ノ邊ノ白方浦迄も惣名二而、海岸寺答書も書載有之候通右浦迄も屏風浦之分内与相見へ、然ルを其銘切付建石等有之候而者右色目者白方二相限可申、右者何れから建置候事哉是以難相済候条早々御取沸可被仰付、猶其節者為見分此方役方も為立會可申候間日限相極候ハ御申越越可有之候。右之趣夫々急便を以   壱岐守様江御申上被越早々御取斗候様   長門守様被仰付候条如斯御座候。以上。   十月十五日。

   超意訳で変換すると
殿様の言われるには
そんなことは決まりきったことではないか。たとえ海岸寺が古くからの言い伝えや文書があると言い触らしていても、それは寺説というだけのことだ。善通寺が誕生所だということは綸旨の中に書かれていることだ。 いろいろな誕生の旧跡というのもあるけれども、そんなことを持ち出すまでもない。海岸寺自身が返答書に「善通寺が大師御誕生の霊跡であることは綸旨、院宣に照して明らかであることは兼々承知しています」と言っているではないか。
 京都まで出向き長々と審理を引き延ばし、このような裁断を仰ぐ結果となったことについては、甚だ不快である。明王院と海岸寺の僧侶については、このような争論を長々と続けること自体、善通寺誕生院が弘法大師誕生の地であるという綸旨に敵対する行為で、僧侶にあるまじき次第で言語道断の限りである。よって厳しく処罰すべきと考えるが、本山からはできる限り穏便に済ませるようにとの口添えもあるので、それを無視することもできまい。
 以上から、丸亀藩に判断をゆだねられた三項目について、次のような案を原則に、正式な裁定を考えていきたい。
 産盥は後世に作られた物で空海の時代のものではないので没収し、本寺である明王院で預かることにする。
別館(奥の院)については、海岸寺の返答書にも「其所二而大師降誕有之」としているので、降誕地を称することは、京都での決定で差止されていることから、破棄処分とする。
屏風浦の呼称については、昔から五岳山の浦のことである。大師はこの浦に産まれたのであり、屏風浦は善通寺であることに疑いはない。すでに提出された書面にも善通寺屏風浦と書かれている。海岸寺の返答書には、この地名は白方浦までもを含むと書かれている。
 ところが屏風浦の名前を彫り込んだ丁石は、白方だけを指している。この丁石を誰が建てたのかは分からないが、早々に取り払い撤去すべきことを申しつける。なおその際には、検分のための役人も立ち会わせ日限を限って行うこと。。
以上のことを急ぎ多度津藩主の壱岐守様へ申し上げるようとり計らうようにと長門守様(丸亀藩主)は仰せつけられになりました。以上

これを読むと、丸亀藩主は海岸寺の活動に対して
「綸旨二敵封候段、僧侶之身分ニ有間敷次第言語道断沙汰」

と述べたとあります。「綸旨を無視した僧侶身分にあるまじき次第で、言語道断」と当初から海岸寺に厳しい目を向けていたことが分かります。
 しかし、前々回にお話しした通り、善通寺が海岸寺を丸亀藩に訴え出たときの丸亀藩の動きは、鈍い物でした。それは、善通寺から見れば生ぬるいものと思えたほどです。多度津藩を通じて、海岸寺に訊問をおこなっただけで、あとは寺社関係については両者で話し合え、それでもダメなら本寺に頼めというものでした。つまり、善通寺が期待したように丸亀藩は動かなかったのです。

 それは丸亀藩の立場からすると、この事件がどういう性質のものかについて理解し、確かな見通しを持っていたからとも云えます。
海岸寺を訴えることを、善通寺に勧めた京都の九条家が言うように「丸亀藩が多度津藩に命じれば解決する」というような簡単なものではないのです。善通寺の言うことを聞いて、丸亀藩が一方的な裁定を子藩の多度津藩に押しつければ、多度津藩との関係を悪化させます。この時期、多度津藩は陣屋建設など丸亀藩からの自立化指向を強めていた時です。それは避けたいところです。さらに、海岸寺に一方的な処断を下せば、本寺の嵯峨大覚寺からの反発・反撃も考えられます。京都の大寺を敵に回すということは、小藩の丸亀藩にとっては避けたいところです。
 そこで直接介人することを避け、一旦は善通寺、海岸寺の京都のそれぞれの本寺に委ねます。
 成果が得られず、事件が再び国元の手に返されてきてから、九亀藩は動き出します。この段階を踏んでおけば、どのような裁断を出そうと嵯峨大覚寺は口出しすることはできません。それだけの見通しを丸亀藩の藩主や家老は持っていたようです。そのため京都での調停が中途半端な物になって、丸亀藩で裁断を下して欲しいという正式文書が届くと動きは迅速でした。
 
  調停に参加していた善通寺の僧侶達が帰ってくると、わずか1ヶ月あまりの間に、善通寺と海岸寺から関係文書を提出させ、聞き取り調査を行った上で、丸亀藩主は上のような原案を作成し、多度津藩に示したのです。藩主自らが判断し、原案を示しています。これは家臣達の動きを促すには最高の推進力になります。
示された三項目の処置案の内容を、改めてみてみると
① 産盥は没収し、本寺の明王院で預かる
② 別館(奥の院)は破棄処分。
③ 屏風浦の呼称は、使用禁止。
④「屏風浦」を彫り込んだ丁石は、役人立ち会いの上で日限を決めて撤去。
と、藩主の主導の下に作られた裁定案は、善通寺の全面勝訴、海岸寺の全面敗訴の内容でした。

通知翌日の10月16日、多度津藩の担当者から連絡があり、多度津藩主が江戸在府中のことなので、いますぐには判断できないとの書添が送られてきます。そして、時を置いて多度津藩主京極壱岐守から九亀藩家老岡織部宛に、裁決案について
「今少し寛大にしてやって欲しい」
との自筆の書状が送られてきます。それを藩主長門守へ見せて、相談したところ
「壱岐守殿がそれほどまでにいわれるのを、聞き入れないのもどうか」

との意向を示します。善通寺のことも大切ですか子藩の多度津藩との関係維持はもっと大切なのです。

 そこで家老は、多度津藩に対して改案を示すように求めます。
その多度津藩の改案が送られてきたのが翌年の文化十四年(1817)の春3月23日のことです。それを見てみましょう。
  
本家丸亀藩領内の善通寺村誕生院と大師誕生所の件について、
誕生院から京都本山表へ提訴されたことについて本山嵯峨御所から裁断書を頂きました。綸旨院宣に差障さわる事項について恐れ入ると共に、今後は誕生所と紛らわしいようなことのなきように、次のように申し渡したいと思います。

一 産盥については、御本家の長門守様(丸亀藩主)のから思召しをうけて、新堂を新たに建立したり、関連祭事を行うことはさせません。又生盥と称する石器は、年久しく伝来するというのは後世の作り事なので、参詣者を迷わせないように今後は、人に見せないように保管管理します。(没収回避)



一 建石(丁石)については、根元は道しるべの事で、御本家様から指摘された通りにいたします。すでにあるものについては「屏風ケ浦」の文字を削り、「白方海岸寺道又者白方道」と彫替ます。あらたに建立する場合は、「屏風浦」は決して使いません。

一 別館については、御本家の長門守様(丸亀藩主)の思召をもて「誕生地」と称することは決して行いません。(その代わりに撤去回避)
 これらのことについては、海岸寺はもちろん、本寺の明王院にも心得違いのないように言い聞かせます。
以上。                月  日
これに続いて、明王院と海岸寺から謝罪と恭順の意が次のように記された書状が入っています。
以手紙中達候、然者                     北鴨村 明王院
右末寺海岸寺と誕生院差縫一件二付 此度嵯峨御所から被仰渡御利解書通二而者、綸旨院宣二差障候趣、是迄不心付候段不念之至二候。依之御呵被仰付候。
                                                      白方村海岸寺隠居 快道
右者産盥堂再建、世上へ令流布候勧進帳等之義ニ付、誕生院から被申立 綸旨院宣二差障候趣、此度嵯峨御所ニおゐて御利解書を以被仰渡、彼是両 御上江奉掛御苦労候段不届之至候。依之急度被仰付方茂有之候得共、両本山から事穏之御沙汰茂御座候、格別之御慈悲を以慎被仰付置候。
以上の誓約書を受け取った上で、裁断が次のように下されます。
①明王院と海岸寺はお叱り、海岸寺隠居快道は、謹慎
②産盥は参拝させることは禁止されたが、没収は免れた
③産盥堂は「再建」としては認められないが、新築としては許された
④屏風浦の称号も、単に屏風浦と称することは禁じられた。しかし、頭書きや肩書きは許された
内容的に見ると、先ほどの丸亀藩主が示した素案と比べると、非常に寛大な処置に変更されたという印象を持ちます。善通寺としては、藩主裁定案では「全面勝利」の内容でしたが、最終的には押し返された無念の結果と云うべき内容かも知れません。それでも「大師母公別館菖跡」の称号は禁じられ、
「綸旨院官.差障候條奉相憚、向後誕生所と馴紛敷儀無之様急度相守可申事」

と、根本のところは、押えられています。
  結論から言うと、最終段階での多度津藩領主からの政治的な圧力が効果的であったということになるのでしょうか。以前にもお話ししたように、小藩の多度津藩にとって、経済的な発展のためには多度津港への人とモノの誘致が政策目標のひとつでした。そのために海岸寺が掲げる「弘法大師生誕地=多度津白方」説は、金比羅詣客を多度津に呼ぶ込むための有力な集客アイテムと考えられていた節があります。つまり、藩は密かに海岸寺の動きを承知し、支援していたことがうかがえます。
 そのような中で、海岸寺を見捨てるわけには行かないという事情もあったようです。海岸寺の集客戦略は、大きなダメージを受けますが息の根を止められた訳ではありません。根強く残る「弘法大師生誕地=多度津白方」説に惹かれて、その後も多くの参拝客が海岸寺の奥の院を訪れたのです。
 今、奥の院を訪ねると、その規模の大きさにびっくりします。
今は奥の院は、四国霊場の番外札所となっていますが、参拝者は決して多くはありません。最初にここを訪ねたときに不思議に思ったのは、なぜこれだけの規模の寺院がここにあるのかということでした。同時に、産盥や産盥堂、産井などの旧蹟らしきものはあるのですが、それを説明する看板はありません。今の四国霊場には、由縁や由来を説明する説明版がいっぱい立っているのに、それが全くないのが謎でした。
しかし、善通寺市史を読んでいて段々と分かってきました。
先達達が口頭で、流布できても文字に書いては「弘法大師生誕地=多度津白方」を主張することは、この争論以後は禁止されていたのです。
 それなら海岸寺奥の院は衰退したかと云えば、ある時期までは相当な信者を集め続けていたようです。次回は、争論が決着した後に「弘法大師生誕地」というキャッチフレーズを封印された海岸寺がどのように生き残りをかけた神社経営を展開していったのかを見てみることにします。
以上をまとめた置くと
①「弘法大師誕生地」を称した海岸寺は、善通寺誕生院に訴えられた
②海岸寺は、善通寺に謝らず反論したが京都での裁定の場に引き出された
③海岸寺の本寺である嵯峨大覚寺の政治力によって「全面敗訴」は避けられた
④「屏風浦の呼称」「産盥」「別館(奥の院)」については、地元の藩主が裁定を下すことになった
⑤丸亀藩主は当初から海岸寺に厳しい目を向けており、海岸寺全面敗訴案を多度津藩に提示した
⑥多度津藩藩主は、それに対して「もう少しお手柔らかに」と親書を送った
⑦その結果最終案は、海岸寺に対して寛大な措置となった。
⑧これは「多度津藩」+「本寺の大覚寺」という政治力を背景にした海岸寺の底力を示したものでもあった。
          以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 

 前回は金毘羅詣での参拝客を多度津に取り込むために、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」流布・信仰センターとして白方奥の院の整備を進めたこと。それに対して、本家本元の善通寺誕生院が海岸寺に対して「弘法大師生誕地」「屏風浦」の使用禁止、産盥堂の建設差し止めなどを丸亀藩に提訴したこと。これに対して海岸寺は、自らの主張を譲らずに、調停は行き詰まったことをお話ししました。
 丸亀藩の指導を海岸寺が受けいれることはなかったのです。海岸寺は多度津藩に属していて丸亀藩の主権が及ぶところではありませんでした。
こうなると、善通寺に残された道は、海岸寺の本寺に訴え出て適切な指導をお願いする以外になくなります。
海岸寺の本寺とは、京都嵯峨の大覚寺で超大物寺院です。善通寺が直接交渉できる相手ではありません。善通寺も自分の本寺を通じて、交渉を行うことになります。善通寺の本寺は同じく京都の随心院でした。しかし、本格寺と随心院では格が違います。政治力がまるでちがうのです。例えば、大覚寺と随心院は同じく門跡寺とは言っても
①大覚寺は法親王が住職される宮門跡
②随心院は摂関家の子弟が住持する摂関門跡
です。その教団規模も、大覚寺には井関、野路井(二軒)衣笠、三上など十数軒の坊官がいますが、随心院には本間、芝、岡本、長尾の四軒があるだけです。讃岐国内を見ても、大覚寺の末寺には大窪寺、宝蔵院、八栗寺、弘憲寺、国分寺、三谷寺、竜灯院(滝宮)、地蔵院など大きなお寺が多いのに比べて、随心院末寺は善通寺以外にはありません。讃岐国内での影響力も大きな格差があったのです。善通寺には、
「本寺の随心院に頼んでも、嵯峨(大覚寺)と対等の話い合いができるわけでない」

という諦めというか歎きもあったようです。大覚寺の政治力の前に、善通寺の主張が通じるだろうかという疑念でもあります。逆に、海岸寺からすれば本寺同士の交渉ならば、大覚寺が悪いようにはしないという目算もあったようです。ある意味、大船に乗っていられるということでしょうか、それが分かっていたので、海岸寺は国元での善通寺の要求を強く拒むことが出来たのかもしれません。ここまでは、海岸寺の「読み勝」になるようです。
さらに、随心院と大覚寺の間には、善通寺をめぐって古くから反目する気持があったようです。
 それは大覚寺の後宇多法皇が、それまで荒廃していた善通寺の堂塔修理のために、多くの供養田を寄進しました。そのため大覚寺門跡が代々善通寺別当を兼任していたのが、暦応四年(1311)の勅裁により、善通寺が大覚寺を離れて随心院の所属となります。大覚寺には、善通寺を随心院に奪われたという気持ちがあったようです。古いことですが僧侶達は、このような経緯をきちんと学習しています。このため交渉に出てきた大覚寺の僧侶達の中には、随心院や善通寺に対して反感を持つ者もいたようです。

海岸寺との交渉経過は、当事者の詳しい記録が善通寺に残っています。それが善通寺市史に載せられています。
それに従って京都での交渉経過を見ていくことにします。
 文化12年(1815)の末に、京都で本寺同士の随心院と大覚寺の交渉となり、智積院が仲介に入ることになります。善通寺からは、子院の観智院、玉泉院、行願院などが上洛して智積院に滞在します。ここを拠点に、情報収集や関係有力寺院への支援要請を行っていきます。どんな情報が入っていたのかを一部紹介します。
  交渉経過   1816年
1月21日、嵯峨の坊官三上民部が善通寺の交渉団が滞在する智積院に来て、次のように言い残していったと記します。
「誕生所という名目は差止めます。しかし、産盥のことは、御住職のお頼みだから、せいいっぱいやってみるけれども、止めさせられるかどうか分らない。そのうち、明王院、海岸寺が上京して、光照院まで掛合に来ることでしよう」

27日、観智院、三泉院が九条家へ参殿。芝氏とゆるゆる相談。また二条家の人江五郎右衛門方へもまいる。
28日、行願院、玉泉院、所用に付、大坂へ下る。高野へも登山のつもり。
2月朔日、行願院、玉泉院が高野登山。智蔵院に相談して、京都で片付かない場合は、高野山に御厄介をかけることにになると思うので、前もってお聞さおき下さいという意味の「口上書」を、年預坊に差し出す。
2月12日、伊賀国の諦仁師、四国巡拝の途次、善通寺を訪ね、香山と会談、一件について次のような意見を述べる。
江戸の公裁になれば海岸寺は流罪、軽くても追放だろう。このことを海岸寺側の者によく言い聞かせたなら、早く折れて来るのではないか。建石も海岸寺が勝手にたてたものだから、領主に断るまでもなく、本山から言い聞かせて取払うことができるのでないか。嵯峨に、正気があるなら江戸へ出る気遣いはない。

五月朔日 秀明師が次のように伝えます。
「明王院と海岸寺は、産盥のことでは、善通寺の言うことを聞く考えは全くない、『江戸へ出てでも争う』と言っている」

以上から分かることは、大覚寺の支援を受けた海岸寺が石器(産盥)に関しては、決して譲れないと踏ん張っていることです。
今風に云えば「弘法大師生誕地」という「商標」が認められなくなれば、その商標が使われていた商品も販売できなくなるのが当然の法解釈ですが、仏教界ではそれが通らない社会だったようです。

 例えば次のような京都仏教界の空気を示す記録が残されています。
 文化12年(1815)の末、善通寺交渉団の滞在先である智積院に、東寺のすぐ側の隣の実法院が見舞いに来て、次のように話します。
此度之一件、京都二而御落着被成候時ハ、兎角京ハ物件キレイニ不被成候而ハ不宜候。先ツ御勘孝可被成候。江戸工事卜申物ハ誕生院之御格式二而江戸詰メト申時ハ、物入一ケ年百五十金位ハ費べ可申候。其上随分早ク御裁許御座候所、二年ハ掛り可申候。然ル時ハ三百金ハ手軽ク入可申候。其金子之半分位営院エ入候得ハ、手際キレイニ出来可申与奉存候。拙老杯茂毎度江戸掛り合二者参候事故、馬御心得御噂中候

意訳すると
 京都では何でも金を使わないと、物事はきれいに治まらない。江戸での裁定になれば、滞在費だけでも大変で、善通寺の格式からすれば一年に一五〇両の出費になる。早くすむ時でも二年はかかるだろうから三〇〇両、その半分を私方へ納めてくれたら手際よく片附けてあげます

と持ちかけられたようです。それを玉泉院は、日記に何でもないことのように書き留めています。これが当時の「仏教界の相場」であったようです。

 また、争論に決着が付いた後の文政元年(1818)4月16日 に、お世話になった京都の関係者のお礼に、玉泉院が出向いています。たそして、宿舎となった智山へ銀子10枚と進物品を届けています。
また、一条家佐々木大監を訪ねると、大監は、次のように云ったようです。
御礼銀は、上様へは銀二〇枚、外に諸大夫五人、用人二人、六位一人、これらは重役だから相当のお礼が必要だし、下役、奥向の女中などへも心付けをするのでないと、私はようお世話しない。善通寺ではどう考えているのか」

と言う対応ぶりです。そのくらいは持ってこいという言い方のです。玉泉院は「この頃、寺では色々物入り多く、そうそうはお礼銀も差し上げられない」と断っています。京都では金と政治力が幅をきかすことを改めて学んだ善通寺の僧侶達だったようです。 
 幕藩体制のなかで、寺院は土地人民を治めてゆく支配機構の末端組織でした。それは為政者の側に立ち、大小さまざまの世俗的な権力と冨を持っていました。そのために本来の使命である仏法の護持ということを忘れて、実際的な利益に走る気風が京都ではより強く働いていたことがうかがえます。
 事件を金で片附けるという考えは、善通寺の側にもあったようです。
当時、善通寺に香山という老僧がいました。善通寺所蔵の古い書付類から先例を探し出して、書式など考えるのも香山の役目でした。京都滞在の観智院や玉泉院に手紙でいろいろと先例や意見を書き送っていて、それは事件の進展に大きな影響力を与えたようです。世間的な経験も豊かで、末寺の住職達からも信頼されていました。その香山が京都滞在中の観智院と華蔵院に宛てた手紙が残っています。
 嵯峨御所御寄附物と云事、世上の人々如何可有哉と万茶羅、天真沙弥等毎度申出事二候。是も尤なる事に候。しかし、うまうまと行く事ならば、夫れも不苦、七十五日也。
 尤合戦中二ヲ持込候事者、先達而桃陽(出釈迦寺)被中候通、温屯之跡の蕎公切にて、馳走ニハ不相成候。且又此方之腰ヨハク相見へ可申候

意訳すると
「うまくゆくなら、嵯峨へ金を送って事件を善通寺の考え通りに運ばせるのもよいと思う。人がどうこう言うのも、諺どおり七五日だけだと思うが、今は交渉の最中だから、こんなときに○(金)を持込んでも効果はなく、そのうえこちら側の腰が弱いと見抜かれてしまうだろう」

と、饂飩(うどん)と蕎麦に掛けて「金」での解決の方法も示しています。善通寺の側からは、大覚寺がこの交渉を通じて「和解・調停金」を求めているために交渉が長引いていると察していたことがうかがえます。
 交渉に進展がなく、滞在は長引きます。しかし、打切ることも出来ません。
仲介に入っている智積院は、善通寺が破談を主張しても、それをそのまま大覚寺へ通告することはしてくれなかったようです。交渉が長引くにつれて、こちらに向いては善通寺の立場を理解している態度を示し、同じように嵯峨へ向かっては嵯峨の言い分をもっともだと言っているのかもしれないと、善通寺の使節団僧侶たちは疑うようになります。
8月29日、三宮寺と玉泉院(善通寺子院)が智山へ出向き次のように申し入れます。
「きっぱり破談にしたい。嵯峨からの書付は、みながみな海岸寺の申出ばかりを書取り、善通寺から差し出した書類の趣は全く取入れられていない。このようなものには到底請書できない」

「もはや破綻にする外ない」との立場を貫くと、9月5日に妙徳院がやってきて、
「今になって破談というのでは、智山僧正をはじめ、我々も面日を失うことで困ってしまう」

と泣きついてきます。しかし、善通寺としても嵯峨(大覚寺)の提示案では、同意できないことを改めて強く伝えます。そこで調停者の立場も考えて、嵯峨から来た案については、善通寺では知らぬ体にして、なんとか破談だけは取り止め、調停者の面目が立つようにすることになります。こうして、調停書(口達之覺 )を受け取ります。
その内容は次の通りです。
口達之覺    (意訳)                           
昨年12月に、弘法大師御誕生所について差障の件について、小野御殿への書付をお届けした所、当山の僧正承之は気の毒に思い、穏便に取りはからうように小野御殿へ伝えられ、相手方の本山である嵯峨御殿へ取り次ぎました。この度、嵯峨御殿から海岸寺並びに本寺明王院をお呼びになり、次のような決定を伝えました。
一 縁起  一 勧進帳  ― 建石之事   
一 船問屋から差出候案内切出之事
に関しては、國元の丸亀藩に願出ること
一、御誕生之霊跡  一、御降誕生之霊地  一、御初誕之地 
一、御産生所
以上の八ケ條については、海岸寺の使用を差し止めるように申しつけました。
一別館之事  一、産盥之事  一、屏風浦之事
以上の三ケ條については、国元に関わることでなので藩主の裁断を仰ぐように指示しました。決定は以上の通りです。このことについて、ご承知ください。
以上。
文化十三年間八月           智山鑑事 妙徳院 印
讃州 善通寺 御役者中

上の8項目については、使用差し止め処分となりましたが別館之事 、産盥之事 、屏風浦之事」については、国元のことなので藩主の裁断を改めて仰げということです。海岸寺としては、ある意味納得できる内容であったと思われます。しかし、善通寺にとっては何のために京都までやって来たのかという思いの方が強かったかもしれません。
 しかし、後は丸亀藩に任せるほかないのです。
お世話になった関係者への挨拶とお礼を済ませて、高瀬舟で京を去ります。
こうして、、厳蔵一行を乗せた下津丼船が九亀西川口へ着船したの9月22日、夜九ッ時のことでした。その夜は、一行は福島北渚亭に泊まり、翌日に、丸亀家老や寺社奉行など関係者に帰国・経過報告をしています。 
ここから丸亀藩に任された「別館・産盥・屏風浦呼称」の3項目についての裁断に向けた準備が始まります。丸亀藩は、どんな判断を下すのでしょうか。それは、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 



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多度津白方

以前に、善通寺以外に「弘法大師誕生所」と名乗る寺院が多度津白方に現れ「多度津白方=空海誕生地説」を流布するようになったことをお話ししました。そこには中世から近世初頭に弥谷寺を中心に活動した高野山系の阿弥陀信仰・念仏行者たちの影が見えました。彼らが白方のお堂を「仏母院」と改称して流布していたようです。その後、弥谷寺が善通寺の末寺になってからは、弥谷寺や仏母院による流布は一時的に停まります。広報拠点がなくなったからでしょう。しかし、庶民信仰として「多度津白方=空海誕生地説」は根強く広がっていたようです。
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 その信仰を参拝者獲得に積極的に活用しようとするお寺が出てきます。それが海岸寺です。18世紀末頃から海岸寺は「多度津白方=空海誕生地説」を再び流布し、奥の院を空海生誕地として売り出そうとするプロジェクトを開始するのです。
 これは善通寺誕生院にとっては、放置することの出来ない事件です。海岸寺の「第2の空海誕生地」設置計画を止めさせようとします。ここに善通寺と海岸寺が「空海生誕地」をめぐる争論がおきます。それを追って見たいと思います。
テキストは次の二冊です
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻       昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年
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海岸寺奥の院

18世紀後半頃から海岸寺は、次のような由来を主張するようになります。
海岸寺奥院は弘法大師母公の実家があった所で、白方の三角寺仏母院が母公別館である。大師は海岸寺奥院産盥堂で生まれ、その時の産湯に用いたのが石の産盥(うぶたらい)である。

この由来に基づいて、「多度津白方=空海誕生地説」を流布するための信仰・広報センターとして奥の院を新たに建立し、その目玉に空海が生まれた時に使った「産盥」をセールスポイントにした広報作戦を展開し始めます。

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 海岸寺奥の院 産盥堂の産湯井戸
産盥堂再建(実際には新築)の勧進帳の表紙には
讃州白方屏風浦産盥堂再建勧化帳。経納山海岸寺
 
その勘化文には、次のように記します
  夫れ吾海岸寺なる奥院の御影堂は、弘法大師降誕ましませし霊場なり・・・其の洗盥(うぶたらい)なるは、三業諸垢を清めて、現富の益日々新なり・・、
          文化乙歳季夏    現住職  快道誌
 奥院には、産盥堂と染め抜いた幕や雪洞をかかげ、正面に大きな地蔵を建立して、台座石に産盥堂再建と刻します。また産水井(ウブミズノイ)。浴巾掛松(ユテカケノマツ)という立て札を建てます。納組帳には「弘法大師御産生之所也」と書きます。

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海岸寺奥の院の産水井(ウブミズノイ)

 さらに寺への参拝道の要所要所の岐路には「屏風浦道」や「奥院、産盥堂へ何丁」という道しるべを建て、寺の前には「屏風浦」といふ建石を立てます。

このような海岸寺の動きを放置できなくなった善通寺は、次のように丸亀藩に訴えます。
①寛政10(1798)頃、奥州の回国行者金作という者を召抱え、大師御夢想の灸治というのを始めた。しかし、これは不人気で一年ばかりで止んだ。                                  
②「大師御伝記」という書物を、版元は土州一宮(高知一宮神社)ということにして、海岸寺で印刷して売り広めた。この本は空海を「大師ハ讃岐国白方屏風浦猟師とうしん丈夫の子也」として、空海の父を「漁師のとうしん」とする偽書である。しかし、土地の人はよろこんで読み、文句を空で覚えているほどである。
③海岸寺の地名を屏風浦と称し、所々に「屏風浦道」「奥院、産盥堂へ何丁」という建石を立てた。
④白方屏風浦絵図を印刷して「大師降誕之霊地」と書いて売り広めた
⑤二間四方の辻堂のような堂を産盥堂と名付け、箱に入れた石器をかざり、十二銭で旅人に拝ませている。
⑥二間四面の堂を三間四面に立て直し、さらにその前に、二間と六間の礼堂を唐破風付に建てようと計画している。
⑦池を掘って産井と名付け、やはり「勧進帳序」にその功徳を書き立てた。
⑧松を植て浴巾掛(ゆやかけ)之松と称した。
⑨新しく掘った池の近くに子安観音といって菩薩の形にして幼兒を懐いた石像を作り、大師の母君が大師を懐く尊像だと言いふらした。
⑩寛政10(1798)頃に彫刻した大師の童形、御両親の尊像を、礼堂に安置した。
⑪諸国から参拝客が乗り降りする多度津の浜へ建石を立て、大師誕生像に白方屏風浦と記した産盥堂道案内を乗船客に配布するようになった。
  ここからは、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」を流布し、その信仰拠点センターである奥の院の整備を急速に進めていく様子がうかがえます。
どうして18世紀の後半になって、このような動きを展開するようになったのでしょうか。当時の金比羅さんとの関係で見てみましょう。
①18世紀半ばに大坂からの金比羅船が就航し、金比羅詣客が急激に増加します
②18世紀後半には、それに応えるように金毘羅さんのお堂や施設、石段や玉垣、そして街道も整備されます。
③金毘羅さんの周辺の宗教施設は、金比羅参拝客をどのようにして自分の所へ立ち寄らせるかの算段を考えるようになるのがこの時期です。善通寺や弥谷寺の境内整備計画は、その一環として捉えることができることを以前にお話ししました。そして次のような集遊コースが形成されるようになります。 
丸亀港 → 金毘羅さん → 善通寺 → 弥谷寺 → 海岸寺 → 丸亀港

金毘羅さんにやってきた、参拝客の多くがこのルートで動き始めます。19世紀に始めに十返舎一九の弥次喜多コンビもこのルートを巡っています。
 海岸寺としては、弥谷寺から白方へ参拝者を導入するためには強力な「集客力のあるアイテム」が必要だったのでしょう。そこで目を付けたのが1世紀前に、弥谷寺や仏母院が流布し、その後に取りやめられた「多度津白方=空海誕生地説」だったようです。これをリニュアルして流布するようになったのです。その拠点として新たに整備されたのが、海岸寺奥の院のようです。

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1815年5月24日 善通寺は海岸寺のやり方を九亀藩へ訴え出ます。それに対して、6月22日 海岸寺から多度津藩へ返答書が差し出されます。どんな返答書なのか見てみましょう。
  海岸寺返答書
一 誕生院は大師御誕生の霊場であることは綸旨院宣から明らかなことは、承知しております。
二 富寺(海岸寺)は往古からの寺説に次のように記します
 「大師の母公が海岸之景色を、常に愛し、この浦に別館を構え、時々遊覧することがあった。あたかも六月十五日の炎天の日に、この別館で大師を降誕されたので、その聖地に一宇を構え、御母公が愛する所ゆえに海岸寺と名付けた。その後、これを信じる者達が、その徳を慕って石を割て産盥を作り、池を掘って産井と名付け、松を植て浴巾掛松と称して、大師初誕の地と呼んできた」 これが古くからの伝来です。

三 産盥堂の再建については、先達の勧進僧の願いを受けて取りかかり、ほぼ完成しています。この勧進方法などについては先達達が自主的に運営していることで、海岸寺は指図していないのでよく分かりません。
 誕生院が産盥堂と申すこの度の建物については「再建」であって、見分して頂ければ分かる通り古来よりあったものです。新しく建立したものではありません。
四 勧進帳に「御誕生之霊場」と記載されていたのも、大師旧跡再建の方便で古くから用いていました。寺説にも往古から「初誕之地」と称してきました。
五 弥谷寺の境内の建石(丁石)のことは、当寺のまったく関与していないことなので分かりません。
六 屏風浦の称号については、古来よりそのように称してきました。旧記にも屏風浦と記しています。それのみならず白方村でも屏風浦と呼んでいます。古い地理では、筆山の麓までも入海であったと伝えられます。また、天霧山の麓の辺りも屏風浦と呼ばれていたと云います。当寺辺りも屏風浦の分内になるのではないかと愚案します。
七 産盥についての善通寺の批判には納得がいきません。これについては、先述した通り古来より寺説にあることです。
亥六月                                     海岸寺

最初に確認しておきたいのは(一)で分かるとおり、海岸寺も「誕生院は大師御誕生の霊場」であることは認めていて、これについて争うつもりはないということです。そのうえで、海岸寺が主張する「寺説」を、どこまで承認するかということが争われることになります。
そして、目にかかるのは善通寺の提訴について強気の反論を行っていることです。最後の方は、「確信犯」とも見える開き直りぶりです。これだけ強気になれるのは、どうしてか私には疑問に思えてきます。それは、追々見えてくることなので、先を急ぎます。
この海岸寺の返答書は、8月19日には、次のようなルートで善通寺に写しが届けられています。
海岸寺 → 多度津藩 → 丸亀藩 → 善通寺 

写しが届いた日に、万福寺、曼茶羅寺、出釈迦寺が善通寺へ集り、海岸寺への反論(再質問状)を作成しています。この問題に対応したのがこの3つの住職たちであったことが分かります。それでは、彼らが作成した反論書を見てみましょう
海岸寺の答書を受けて
1 綸旨院宣等が善通寺にあるにも関わらず、(海岸寺)が「弘法大師生誕地」や「屏風浦」を古来の寺説にあるからと主張することについて
 これは世間の俗説であります。もし仮に古書にそのように書いてあっても綸旨や宣旨に反することは認められません。誕生地がふたつあるはずがありません。また海岸寺が反論書で挙げた根拠史料も妄説で信用なりません。大師降誕之霊場と主張することは、宣旨を軽視した行為で、とうてい認められるものではありません。強く彼地を御誕生所と主張することは 綸旨院宣並びに数百年前からの古い撰述を無視することで、そんなことをすれば海岸寺は信用できないことになります。海岸寺の考えを、今一度お聞き頂きたいと思います。

2 産盥堂は再建であり、新たに建てるものではないと海岸寺は主張しています。しかし、我々は新設・再建のことを言っているのではありません。この建立についての勧進帳序文の不都合を申し立てているのです。

3 屏風浦の称号については、海岸寺は古くから称してきたし、旧記も書かれていると言います。誕生所の証拠もあるという。それならば、確認のためにその旧記の年代を教えいただきたい。追って詳細は伝えます。
4 海岸寺の返答書の中で、屏風浦の地名は旧記に書かれていると主張します。その寺説と由来について申し上げたい。善通寺には綸旨や院宣の中に屏風浦と明記されています。それに対して、海岸寺は我々善通寺に寺説にあるからと反論しています。これには、天地ほどの隔たりがあります。
海岸寺の寺説というのは、信用がならない史料で、偽造・誤り数多く見られます。そのため近郷を始め他國からもこれを疑う人々が数多くあります。そのため海岸寺は「菖跡之実 否不分明候様成行可申哉」と言い出す始末です。このような様を察して、呉々も賢明な判断を出して頂けるようにお願い申し上げます。以上。

これに対して、11月に海岸寺から、屏風浦の名称は、世俗一統住古より称し来たことで、生駒家寄附状にも屏風ヶ浦と書かれているなどの返答書が出されます。また、海岸寺の本寺明王院(道隆寺)が上京し、本山である大覚寺との対応協議と、支援の取り付けを行ったようです。海岸寺に「悪うございました」と謝る姿勢は見えません。臨戦態勢を整えていくようです。

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  こうした中で12月8日 多度津藩家老畑六郎・林勝五郎から、九亀藩岡織部宛に、書状が届きます。そこには
「藩としてはこの度の件について掛合(調停)を離れ、善通寺と海岸寺の本寺明王院(道隆寺)とで話合をさせるのがよいと思う」

という内容が書かれていました。
多度津藩には海岸寺の行為を強く罰するという姿勢は見えません。
海岸寺の「「多度津白方=空海誕生地説」流布プロジェクトを、見て見ぬ振りをしながら影では支援していた節もあります。
 多度津藩は丸亀藩から分離独立した1万石足らずの小藩で、お城や陣屋を持たずに本家の丸亀城内に「寄宿」してきました。ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。若い林求馬時重を家老に登用し、藩政の改善・丸亀藩からの自立化を進めようとします。その手始めが藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
 林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って一時的に中断します。善通寺と海岸寺の争論が起きているのは、ちょうどこの時期になります。
 多度津藩は小藩のため家臣団と地主・有力商人、僧侶が密接に交流し、その身分の垣根が低いのも多度津藩の特徴であることは以前にお話ししました。ここからは小説風になります。海岸寺の進めるプロジェクトを、家臣団や重臣達が知らないはずがありません。特に家老の林家は白方の奥に別邸をもっています。その行き帰りに、海岸寺の前を通ったはずです。海岸寺の住職と懇意であったことも考えられます。海岸寺のプロジェクトに対して、了解し密かな支援を送っていたかもしれません。このような状況証拠からすると、多度津藩に海岸寺の行為を罰したり、停止させたりすることはさせたくないという意向があったような気がします。もっと云えば金比羅詣での参拝客が「弘法大師生誕地=多度津白方海岸寺」にも立ち寄ることは、多度津港の発展につながり、ひいては藩の経済力向上にもなる。そのためには海岸寺を守ってやらねばならぬという気持ちの方が強かったのではないでしょうか。

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海岸寺奥の院
 善通寺は九亀藩内にあり、海岸寺とその本寺明王院道隆寺は多度津藩に属していました。
もし、海岸寺が九亀藩内にあれば
「僧侶之身分二有間敷次第、言語道断沙汰之限」
と判断した藩主の考えで、すぐも罰せられたかもしれません。しかし多度津藩の寺であるために、九亀藩の意向もそのままには通用しません。どちらにしても多度津藩は、これ以上は調停・解決へ介入するのは避けたいと丸亀藩に伝えてきたのでのです。
12月12日、このような多度津藩の意向を丸亀藩寺社方から伝えられた善通寺は、関係者会議を開きます。
 招集されたのは末寺の甲山寺満願、観智院兼万福寺光顕、曼茶羅寺光海、出釈迦寺百光、宝城院戒珠、歓喜院光馬、九品院仁全、吉祥寺兼持宝院快心、法楽寺寅了、万恒寺大智等です。善通寺の重要な決定については、末寺院に諮問されていたようです。
 その会で明王院と海岸寺が何の返事もしないことに対して、今後の対策が話し合われます。そしてこれ以上、丸亀藩に厄介をかけるのは申し訳ないので、本山随心院へお願いして、早く決着をつけるように善通寺へ進言します。
 一方、多度津藩の意向を受けた九亀藩からは、この問題解決のために海岸寺の本山明王院と直接掛け合うようにと通達されます。これを受けて善通寺は、使僧を明王院へやりますが
「住職は、播州竜野法帷院へ出かけており、いつ帰院するかは分らない」

という返事でした。明王院道隆寺は、善通寺との直接の協議を避けていたようです。

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海岸寺奥の院
 もう一度事件の経過を振り返って起きましょう
海岸寺を訴えることになった契機は、九条家の家人の次のような申し出でした。
  海岸寺の行為をこのままにしておいてよいのか。このような行為を聞けば京都の本寺嵯峨大覚寺でも、これをそのままに捨ておくことはあるまい。九条家へ申し上げ、九条家から丸亀藩へ頼んでやめさせたらどうか。

 ここに九条家が登場します。九条家は金毘羅の金光院の山下家と名義上の姻戚関係を持つようになり、なにかと金毘羅さんの運営にも口出し、経済的な見返りを要求するようになっていました。金毘羅さんの富くじ開催などはその典型です。問題が発生すると、調停を買って出て礼金をいただくという家人たちがいたようです。
 その助言に従って、丸亀藩に訴え出て、丸亀藩から多度津藩に依頼して、海岸寺の行為を止めさせようとしたのでした。ところが海岸寺は素直に謝罪せず、反論してきます。多度津藩もそれを罰せようとはしません。丸亀藩も、多度津藩は子藩ですが、他藩のことなのでそれ以上の介入は控えたいので、この時点では強権発動には至らず、善通寺と海岸寺の直接の話し合いで解決せよと投げ出した形になります。しかし、善通寺が海岸寺に話し合いのテーブルに着くように求めても、海岸寺は応じないのです。
  当初は九条家の云うように、九亀藩の命令ですぐ解決するものと善通寺は考えていた節があります。しかし、予想しなかった方向に事態は進み、地元では解決できず、舞台を京都へ移し、交渉は2年の歳月がかかることになります。しかもその解決は、善通寺にとっては納得のゆくものではなかったようです。

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海岸寺の不動明王

 これだけ海岸寺が徹底抗戦できたのは、当時の金毘羅参拝客の誘致という多度津藩の政策目標の一環として、海岸寺の進める「多度津白方=空海誕生地説」が位置づけられていたからという気がします。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 

讃岐秋山氏の隆盛をもたらしたのは、三代目③秋山孫次郎泰忠(晩年は沙弥日高)でした。その後は、泰忠の直系が棟梁を相続していきます。秋山(惣領家)嫡流である鶴法師は、通称孫次郎で後に⑧二代目泰久(⑤初代孫四郎泰久は水田)を名乗っています。
 秋山家文書「文明六(1474)年6月日付秋山鶴法師言上状」からは二代目泰久が、寒川貞光の理不尽な横領を受け、山田郡東本山郷水田名(高松市)の2/3を奪われ、そのうえに本領である高瀬郷内1/3も失なったことが分かります。さらに管領細川家の内紛に巻き込まれ、近畿への出兵が度重なり経済的にも疲弊します。そして何より「勝ち馬」に乗れず新しい恩賞を得ることができません。これが秋山惣領家の衰退につながることは以前にお話ししました。

1秋山氏の系図4

惣領家嫡流孫二郎泰久に代わって、台頭してくるのがA秋山源太郎元泰です。
源太郎の家筋は、泰忠の子等の時代に分かれた庶家筋と研究者は考えているようです。永正三(1506)年8月29日付秋山泰久下地売券では、惣領家の居館周辺「土井」の土地二反を、源太郎が買い取った記録です。居館周辺の土地までも、手放さざるえなくなった惣領家の窮状を見えてきます。
 その後の秋山家文書は、この源太郎宛てものが殆どになっていきます。源太郎が秋山一族の惣領に収まった事がうかがえます。
秋山源太郎が、勢力を増大した契機は、永正八(1511)年7月21日の櫛梨山合戦の功績です。

1 秋山源太郎 細川氏の抗争
この合戦は、永正四(1507)年の細川政元死後の混乱による細川高国派と同澄元派の抗争の一環として、讃岐で起きたものと研究者は考えているようです。この時期、源太郎は 一貫して澄元派に属して活動していたようです。櫛梨山合戦の功名によって澄元から由緒深い秋山水田(初代泰久の号)分を新恩として宛行われています。この土地は高瀬郷内の主要部分のようで、秋山氏嫡流の⑤備前守(二代目)泰久の跡職に就いたことになります。そして、この水田分は源太郎の死後も嫡子幸久(丸)、後の兵庫助良泰に細川高国によって安堵されています。

この時期に秋山源太郎は、細川澄元に軸足を置いて、阿波守護家や淡路守護家細川尚春にも接近しています。
その交流を示す資料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。阿波守護家は、細川澄元の実家であり、政元継嗣の最右翼と源太郎は考えていたのでしょう。応仁の乱前後(1467~87)には、讃岐武将の多くが阿波守護細川成之に属して、近畿での軍事行動に従軍していました。そのころからの縁で、細川宗家の京兆家よりも阿波の細川氏に親近感があったとのかもしれません。
 淡路守護家との関係は、永正七(1510)年6月17日付香川五郎次郎遵行状(25)から推察できます。
この書状は高瀬郷内水田跡職をめぐって源太郎と香川山城守とが争論となった時に、京兆家御料所として召し上げられ、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなります。この没収地の変換を、源太郎は細川尚春に求めていくのです。そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせ、臣下の礼をとり尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けます。その礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されているのです。これを見ると、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来などが見えてきます
 どんな贈答品のやりとりがされていたのかを見ていくことにします。
   細川氏奉行人薬師寺長盛書状     (すべて読下文に変換)
尚々、委細の儀、定めて新六殿に申さるべく候
御懇の御状畏入り存じ候、依って新六殿御油断無く御奉公候間、千秋万歳目出存じ候、
柳か如在無きの儀申し談じ候、御心安ずべく候、其方に於いて何事も頼み奉り存じ候、ふとまかり越し候也、御在所へ参るべく候、次いであみ給い候、一段畏れ入り存じ候、暮の仰せ承りの儀、最戸(斉藤)方談合申し候て、
披露致すべく候、恐々謹言
(永正十二)                     (薬師寺)
閏二月十九日                長盛(花押)
秋山源太郎殿
御返報
意訳すると
書状受け取りました。詳しいことは新六殿に口頭で伝えておきますのでお聞きください。申出のあった件について確かに承りました。新六殿は油断なく奉公に励んでおり、周囲の評判も良いようです。人柄も良く機転も利くのでご安心ください。諸事について頼りになる存在です。
  あみを頂きましたこと、誠に恐れ入ります。暮れにお話のあった斉藤方との談合について、報告しておきたいと思います。
冒頭の「委細の儀、定めて新六殿に申さるべく候」の「新六殿」とあるは、源太郎の子息と研究者は考えているようです。源太郎は息子を、細川淡路守護家に奉公させていたようです。人質の意味もあります。源太郎は息子新六を通じて、淡路や上方の情勢を手に入れていたことがうかがえます。源太郎からの書状には、どんなことが書いてあったのかは分かりません。推察すると「水田」の所領返還についてのお願いだったのかもしれません
  この書状がいつのものかは、「閏二月十九日」から閏年の永正12(1515)年のことだと研究者は考えているようです。
「あミ」は、食用の「醤蝦」で、現代風に訳すると「えびの塩辛」になるようです。発給者の長盛については、よく分かりません。しかし、淡路守護家に出仕する細川尚春の近習と考えられます
 これらの書状は、どのようにして淡路の守護館から高瀬郷の源太郎のもとに届けられたのでしょうか。
江戸時代のように飛脚はありません。書状の中には、「詳しくは使者が口頭で申す」と記され、
石原新左衛門尉、柳沢将監、田村弥九郎、小早川某、吉川大蔵丞

などの名前が記されています。彼らは、淡路守護細川尚春(以久)の家人や馬廻り衆と研究者は考えているようです。彼らが、以久の直状や以久の内意を受けての書状を、讃岐や出陣先へ運び口上を伝えたようです。淡路から南海道を経て陸路やってきたのでしょうか。熊野と西国を結ぶ熊野水軍の「定期船」で塩飽本島までやってきたのかもしれません。

淡路守護細川尚春周辺から源太郎へ宛の書状一覧表を見てみましょう
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧1
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2

まず発給者の名前を見ると大半が、「春」の字がついています。
ここから細川淡路守尚春(以久)の一字を、拝領した側近たちと推測できます。これらの発給者は、細川尚春(以久)とその奉行人クラスの者と研究者は考えているようです。
一番下の記載品目を見てください。これが源太郎の贈答品です。鷹類が多いのに驚かされます。特に鷹狩り用のハイタカが多いようです。
 中世には武家の間でも鷹代わりが行われるようになります。
信長、秀吉、家康はみんな鷹狩が大好きでした。信長が東山はじめ各地で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことは『信長公記』にも書かれています。
 この表だけでは、当時の武士の棟梁たちの鷹に対する執着ぶりは伝わらないと思います。どんな鷹が秋山家から淡路の細川家に贈られたのでしょうか。実際に文書を読んでみましょう。

細川氏奉行人春房書状                 

猶々御同名細々(再再)越され候、本望の由候仰せの如く、先度御態と御状預かり候、殊に御樽代三百疋、題目に謂わず候、次山かえり祝着の至り候、委細田村弥九郎、小早川申さるべく候、恐々
謹言          春房(花押)
十一月十日
秋山源太郎殿  御返報

意訳しておくと
秋山家からの使者が再再に渡ってお越し頂けるので大変、助かっています。おっしゃる通り、贈答品と書状を受け取りました。また別に樽代として300疋は題目を付けずに書状を添えて献上した旨承知しました。
山かえりのハイタカを頂きましたが祝着の至りです。
詳しいことは使者の田村弥九郎、小早川が、口頭でお伝えします。

後半に使者として名前の出てくる田村弥九朗および小早川については分かりません。小早川は淡路守家にもいたようで、秋山氏との連絡を担当していた奉行人のようです。秋山氏の者が細々(再再)・頻繁に連絡を保っていると最初に記されています。人質として預けられていた源太郎の息子・新六のことだ研究者は考えているようです。
  「題目に謂わず」とは、外題を付けずに書状に添えて献上したということでしょうか。源太郎の経済力がうかがえます。二百疋も、為替によって運ばれたようです。当時は以前にお話ししたように為替制度が整備されていました。
要件を述べた後は、贈答品として送られてきた鷹に話題が移っていきます。

1 秋山源太郎 haitaka
尚春が鷹狩りに使っていたのはハイタカのようです。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられたようですが、源太郎が贈答品に贈っているのはハイタカです。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。源太郎から送られてきたハイタカは「山かえり(山帰り)」で一冬を山で越させて羽根の色が毛更りして見事なものだったようです。
 贈答用のハイタカは三豊周辺で捕らえられ、源太郎家で飼育され、狩りの訓練もされていたのでしょう。尚春に仕えていた新六も、鷹の調教には詳しかったようで、他の書簡には「調教方法は詳しく述べなくても新六がいるので大丈夫」などと記されています。ハイタカの飼育・調教を通じて新六が尚春の近くに接近していく姿が見えてきます。

16 淡路守護細川尚春書状                    
今度御出張の刻、出陣無く候、子細如何候や、
心元無く候、重ねて出陣調に就き、播州え音信せさせ候、
鷹廿居尋ねられ給うべく候、巨細吉川大蔵丞申すべく候、
恐々謹言 
         以久(細川尚春)花押
九月七日 
秋山源太郎殿
意訳すると
今度の出陣依頼にも関わらず、出陣しなかったのは、どういう訳か!非常に心配である。重ねて出陣依頼があるようなので、播州細川氏に伝えておくように、
鷹20羽を贈るように命じる
子細は吉川大蔵丞が口頭で伝える、恐々謹言
先ほど見たように、当時は管領細川政元の3人の養子・澄之・澄元・高国による家督争いが展開中でした。
船岡山
澄元方の播州赤松氏は、播磨と和泉方面から京都を狙って高国方に対し軍事行動を起こします。しかし、京都の船岡山合戦で破れてしまいます。これが永正8(1511)年8月のことです。この船岡山合戦での敗北直後の9月7日に秋山源太郎に宛てて出された書状です。
 内容を見ていきましょう。冒頭に、尚春が荷担する澄元側が負けたことから怒って、秋山源太郎が参戦しなかったのを「子細如何候哉」と問い詰めています。その後でハイタカ20羽を贈るようにと催促しています。この意味不明の乱脈ぶりが中世文書の面白さであり、難しさかもしれません。
秋山源太郎が出陣しなかった理由としては、前回に見た細川澄元感状に
「櫛無山に於いて太刀打を致し、殊に疵を被る」

とありました。前年にあった櫛梨山合戦で、太刀傷を受け療養中だったことが考えられます。

淡路守護細川尚春書状
鵠同兄鷹給い候、殊に見事候の間、祝着候、
猶田村 弥九郎申すべく候、恐々謹言
(細川尚春)
以久(花押)
十二月三日
秋山源太郎殿
意訳すると
  特に見事な雌の大型のハイタカを頂き祝着である。
猶田村の軒については、使者の弥九郎が口頭で説明する、恐々謹言
先ほどの書状が9月7日付けでしたから、それから3ヶ月後の尚春からの書状です。 出陣しなかった罰として、ハイタカ二十羽を所望されて、急いで手元にいる中で大型サイズと普通サイズの2羽を贈ったことがうかがえます。重大な戦闘が続いていても、尚春はハイタカの事は別事のように執着しているのが面白い所です。当時の守護の価値観までも透けて見えてくるような気がします。

その半年後の翌年9月には、申し付けられた20羽のハイタカを源太郎が贈ったこととに対する尚春の礼状が残っています。そこには、澄元からの出陣要請にも関わらず船岡山合戦に参陣しなかった源太郎への疑念と怒りが解けたことを伝えています。ハイタカ20羽が帳消しにしたのです。鷹の戦略的な価値は大きかったようです。このような鷹狩りへの入れ込みぶりが当時の武士団の棟梁たちにはあったのです。それが信長や家康の鷹狩り好きの下地になっていることが分かります。
 細川家の守護たちのご機嫌を取り、怒りをおさめさせるのにハイタカは効果的な贈答品であったようです。三豊周辺の山野で捕らえられたハイタカが、鷹狩り用に訓練されて淡路の細川氏の下へ贈られていたようです。

  参考文献
高瀬文化史Ⅳ 中世の高瀬を読む 秋山家文書②

  秋山家文書は、大永7(1527)年から永禄3(1560)年までの約30年間は空白期間で、秋山氏の状況はほとんど分かりません。しかし、この期間に起きたことを推察すると、次のようになります。
①新たに秋山家の統領となった分家の源太郎死後は、一族は求心力を失い、内部抗争に明け暮れたこと
②調停に入った管領細川に「喧嘩両成敗」で領地没収処分を受け、秋山一族の力は弱まったこと。
③そのような中で、秋山氏は天霧城主香川氏への従属を強めていくこと
 秋山氏の「香川氏への従属化=家臣化」を残された秋山文書で見ていくことにします。 テキストは前回に続いて「高瀬町史」と「高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①」です。

  21香川之景感状(折紙)(23・5㎝×45、2㎝)   麻口合戦
1 秋山兵庫助 麻口合戦

 このような形式の文書を包紙と呼ぶそうです。本紙を上から包むもので、さまざまな工夫がされてます。包紙に本紙を入れたあと、上下を持って捻ること(捻封)で、開封されていない状態を示す証拠とされたり、「折封」や「切封」などの方法がありました。包紙に記された「之景感状」とは、当初記されたものではなく、受領者側の方で整理のため後に書き込まれたもののようです。宛人の(香川)「之景」に尊称等が付けられていないので、同時代のものではなく時代を下って書き加えられたものと研究者は考えているようです。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2
  読み下し文に変換します。
今度阿州衆乱入に付いて、
去る十月十一日麻口合戦に於いて
自身手を砕かれ
山路甚五郎討ち捕られる、誠に比類無き働き
神妙に候、傷って、三野郡高瀬
郷の内、御知行分反銭並びに
同郡熊岡・上高野御
料所分内参拾石新恩として
合力申し候、向後に於いて全て
御知行有るべく候、此の外の公物の儀は、
有り様納所有るべく候、在所の
事に於いては、代官として進退有るべく候、
いよいよ忠節御入魂肝要に候、
恐々謹言
(香川)
十一月十五日   之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所
 内容を見ていくことにします
まず見ておくのは、いつ、だれが、だれに宛てた文書なのかを見ておきます。年号がありません。発給者は「之景」とあります。当時の天霧城主で香川氏統領の香川之景のようです。受信者は、「秋山兵庫助殿  御陣所」とあります。
1秋山氏の系図4


秋山氏の系図で見てみると、「兵庫助」は昨日紹介した秋山家分家のA 源太郎元泰の嫡男になるようです。父親源太郎の活躍で分家ながらも秋山氏の統領家にのし上がってきたことは、昨日お話しした通りです。父が1511年の櫛梨山の戦いの活躍で、秋山家における位置を不動にしたように、その息子兵庫助良泰も戦功をあげたようです。
 感状とは、合戦の司令官が、委任を受けた権限の範囲で発給するものです。この場合は、秋山兵庫助の司令官(所属長)は香川之景になっています。ここからは秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたことが分かります。
 内容を見ていきましょう
文頭の「今度阿州衆乱入」とは、阿波三好氏の軍勢が讃岐に攻め込んできたことを示しているようです。あるいは、阿波勢の先陣としての東讃の武士団かもしれません。
 「麻口」は、高瀬町の麻のことでしょう。
ここには近藤氏の「麻城」がありました。近藤氏が、この時にどのような動きを見せたかは、史料がないので分かりません。どちらにしても、長宗我部元親の土佐軍の侵攻の20年ほど前に、阿波の三好軍(実態は三好側の讃岐武士団?)が麻口まで攻め寄せてきたようです。その際に、 秋山兵庫助が山路氏を討ち取る戦功をあげ、それに対して、天霧城の香川之景から出された感状ということになります。「御陣中」とありますので、作戦行動中の兵庫助の陣中に、之景からの使者が持ってきて、その場で渡したものと考えられます。この後に正式な論功行賞が行われるのが普通です。

 後半は「反銭」や「新恩」の論功行賞が記されています。
この戦いで勝利を得たのは、どちらなのかは分かりませんが、両軍の雌雄を決するような大規模の戦いでなかったようです。これは、2年後の天霧城籠城合戦の前哨戦のようです。
 それでは、この麻口の戦いがあったのはいつのことなのでしょうか。
『香川県史』8「古代・中世史料編」では、永禄元(1558)年としています。それは『南海通記』に、この年に阿波の三好実休の攻撃を受けた香川氏が天霧城に籠城したことが記されているからです。これは讃岐中世史においては、大きな事件で、これ以後は香川氏は三好氏に従属し、讃岐全域が三好氏の支配下に置かれたとされてきました。『南海通記』の記述を信じた研究者たちは、この文書を永禄元(1558)年の香川氏の籠城戦を裏付ける史料と考えてきたのです。
 しかし、永禄元年に天霧城籠城戦が行われたとする記述は、『南海通記』にしかありません。しかも同書は、年代にしばしば誤りが見られます。秋山文書の分析からは、この文書の年代は、他の史料の検討や之景の花押の変遷などから、永禄三年のものと研究者は考えているようになってきました。
 また、三好側の総大将の実休が、この時には近畿方面で転戦中で四国にはいなかったことも分かってきました。三好軍の讃岐侵入と香川氏の籠城戦は、永禄元(1558)年ではなかったようです。

論功行賞の内容を見ておきましょう
「三野郡高瀬郷の内、御知行分反銭」の「反銭」とは、はじめは臨時の税でしたが、この時代には恒常的に徴収されていたようで、その徴収権です。「熊岡上高野御料所分内参拾石」の三〇石は、収入高を表し、その内の香川氏の取り分を示しています。この収入高は検地を施行するなど、厳密に決められたものではないようです。
「代官として進退あるべく候」とありますので、熊岡や上高野には、秋山氏の一族が代官として分かれ住んだ可能性があります。先ほども確認しましたが、この文書には日付のみで年号がありません。そんな場合は、両者の間の私的な意味合いが濃いとされます。ここからも天霧城主の香川之景と秋山兵庫助が懇意の間柄であったことがうかがえます。
 ここからは秋山氏が細川氏に代わって、香川氏の臣下として従軍していたことが分かります。逆に、香川氏は国人武士たちを家臣化し、戦国大名への道を歩み始めていたこともうかがえます。
 従来は讃岐に戦国大名は生まれなかったとされてきましたが、香川県史では、香川氏を戦国大名と考えるようになっています。

   次に、永禄4年(1561)の香川之景「知行宛行状」を見てみましょう。   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2

書き下し文に変換しておきましょう
今度弓箭に付いて、別して
御辛労の儀候間、三野郡
高瀬郷水田分内原。
樋日、三野掃部助知行
分並びに同分守利名内、
真鍋三郎五郎買徳の田地、
彼の両所本知として、様体
承り候条、合力せしめ候、全く
領知有るべく候、恐々謹言
永禄四
正月十三日
(香川)
之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所

これも先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、これは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高まるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。
  先ほどの麻口の戦いと併せての軍功に対しての次のような論功行賞が行われています。
①高瀬郷大見(現三野町大見)・高瀬郷内知行分反銭と
②熊岡・上高野御料所分の内の三〇石が新恩
③高瀬郷水田分のうち原・樋口にある三野掃部助の知行分
④水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎の買徳地
以上が新恩として兵庫助に与えられています。
 水田名は大永7(1527)年に、幸久丸(兵庫助の幼名?)が阿波の細川氏の書記官・飯尾元運から安堵された土地でした。それが30年の間に、三野掃部助の手に渡っていたことが分かります。つまり、失った所領を兵庫助は、自らの軍功で取り返したということになります。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦う姿が見えてきます。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、視野をもっと広くすると讃岐中世史の定説への疑いも生まれてきます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。
しかし、それは秋山文書を見る限り疑わしくなります。なぜなら見てきたように、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、三好氏に従属したわけではないようです。
 この文書で秋山兵庫助に与えられているのは、かつての三野郡高瀬郷の秋山水田(秋山家本家)が持っていた土地のうちの原・樋口にある三野掃部助の知行分と、同じく水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎買得の田地のニカ所です。
 宛行の理由は「今度弓箭に付いて、別して御辛労の儀」とあるとおり、合戦の恩賞として与えられています。合戦の相手は前年の麻口の戦いに続いて、阿波の三好勢のようです。香川氏の所領の周辺に、三好勢力が現れ小競り合いが続いていたことがうかがえます。三好軍が丸亀平野に侵入し、善通寺に本陣を構え、天霧城を取り囲んだというのは、これ以後のことになるようです。
それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。
永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
『香川県史』では、この文書について次のように記します。
「籠城戦が『南海通記』の記述の訂正を求めるものなのか、またその後西讃岐において別の合戦があったのか讃岐戦国史に新たな問題を提起した」

 この永禄6年の天霧龍城こそ『南海通記』に記述された実休の讃岐侵攻だと、研究者は考えているようです。
 この当時、香川氏の対戦相手は、前年に三好実体が死去していることから、三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢になります。善通寺に陣取った三好軍に対して、香川氏が天霧城に籠城するようです。従来の説よりも5年後に、天霧城籠城戦は下げられることになりそうです。
 永禄8(1565)年には、秋山家は兵庫助から藤五郎へと代替わりをしています。
天霧寵城戦で、兵庫助か戦死して藤五郎に家督が継承されたことも考えられます。その後、天正5(1577)年まで秋山文書には空白の期間がります。この間の秋山氏・香川氏の動向は分かりません。この時期の瀬戸内海の諸勢力は、織田政権と石山本願寺・毛利氏との抗争を軸に、どちらの勢力につくのかの決断を求められた時代でした。
以上をまとめておくと次のようになります
秋山氏は鎌倉末期には足利尊氏、南北期には細川氏と勝ち馬に乗ることによって勢力を拡大してきました。しかし、16世紀初頭の細川氏の内部抗争に巻き込まれ、秋山一族も一族間で相争うことになり、勢力を削られていきます。そして、16世紀後半になると戦国大名に成長脱皮していく天霧城主・香川氏に仕えるようになっていきます。そして、失った旧領復活と生き残りをかけて、必死の活動を戦場で見せる姿が秋山文書には残されていました。
 同時に秋山文書からは、阿波三好氏の西讃進攻や支配が従来よりも遅い時期であること、さらに香川氏を完全に服従したとは云えず、西讃地方までも支配下に治めたとは云えないことが分かってきました。
以上です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
高瀬町史
高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①

   甲斐国から高瀬郷の地頭としてやってきた秋山氏を系図で追ってみます。
1秋山氏の系図4

13世紀末に西遷御家人として讃岐にやって来たのは、①秋山阿願光季でした。彼の元で高瀬郷の下高瀬を拠点として居館を構え、新田開発や塩田造成が行われていったようです。その後を継いだのが②源誓のようです。彼からの③孫次郎泰忠への領地の譲状が秋山文書が残っています。ところが、秋山家の正史は、②の源誓の存在を認めません。③泰忠の残した置文や譲り状に、①の祖父光季から譲られたと父を抹消しています。その理由はよく分かりませんが、父の源誓は法華教徒でなかったためかもしれません。
 ③泰忠は、長寿で10歳前後で高瀬郷にやって来て、その後80年以上を過ごしています。その後の活動を年表に示すと、次のようになります。
弘安年中(1178~88)泰忠が祖父や父とともに高瀬郷に来讃。
建武3(1336)年に足利尊氏からの下知状を受け取る
観応2(1352)年の管領細川氏よりの預ヶ状受給
文和2(1353)年 泰忠が最初の置文と譲状を書く
永和 (1376)年 泰忠が最終の置文(遺言)を書く
 泰忠は、最後の置文には「ゆずりはずし(譲外し」を行っています。これは勘当や病気による「廃嫡」で、一旦相続させたものを取り上げることです。相続人としていた嫡男④泰綱を廃嫡し、その次男の⑤孫四郎水田(泰久)を新しい嫡子として、惣領職を相続させることを置文に記しています。泰忠は、この相続のことを「あがん(阿願)のこれい(古例)にまかせて」と記します。祖父阿願から孫である自分に直接譲りを受けた先例を引いて正当化しています。その理由に、孫四郎泰久(水田)の「器量」の良さを挙げ、泰忠にとって「心安」きこと、すなわち、安心を得ることが出来るからであるといっています。
 孫次郎泰忠から孫四郎泰綱への単独相続という形がとられているように見えます。が、その他の息子たちにも土地は譲られ分限に応じて、知行を行っています。兄弟(姉妹)やそれぞれの家人らには各々耕作地があって自営ができるうな体制で、実質的には分割相続です。

 秋山氏は、鎌倉時代から南北朝期のころまでは、分割相続
 一族間で細分化された土地を所有し、それを惣領が統括し、法華信仰による結合力でまとめていこうとしていたようです。しかし、室町時代になると、分割相続をやめます。泰忠直系の惣領による一子相続に変更し、所領の分割を防ぎます。そして所領を集約一元化しながら、一族家人や百姓らをまとめ国人領主として在地領主制を形成していきます。
 この間に秋山氏は、塩浜開発や赤米、エビ等の塩干物、畳表などの地域産品の育成開発を行い、それらの販売を通じて、積極的な商業活動や交易活動を行ったようです。そうした経済力を背景に一族と郷中の発展があったのです。これが本門寺一山の隆盛を実現させ、文安年中(1444年~49)には、11か寺以上の末寺を擁した大寺に育って行きます。
 しかし、秋山氏の嫡流である泰忠の子孫たちにも、15世紀後半がくると危機がやってきます。
 泰忠の後を継いだ⑤水田泰久の傍系・庶流の源太郎の家筋が台頭し主流を譲ることになります。また、上の坊近くの帰来橋の周辺を拠点とする帰来秋山氏も、本家を圧倒していくようになります。

秋山家本家の衰退の背景は、何だったのでしょうか?
  永正三(1506)年 秋山家本家の⑧孫二郎(二代目)泰久は、高瀬郷中村の「土居下地」「二反」分を分家である秋山源太郎に売却しています。その文書を見てみましょう。  
1 秋山氏 永代売り渡し申す高瀬郷中村2

1 秋山氏 永代売り渡し申す高瀬郷中村3
読み下し文に変換してみましょう。
永代売り渡し申す高瀬郷中村土居下地の事
合弐反有坪者(道そい大しんつくり直米四石則時請取分)
右、件の下地は、私領たりといえ共、用々あるによつて、永代うり渡し申す所実正なり、
しかる上は、子々孫々において(違乱)いらん妨げ申す者あるまじく候、若しとかく(書)申す者候はば、御公方へ御申し、此のせう状の旨にまかせ、下地に於いてまんたく御知行あるべく候、依って後日の為、永代の状件の如し
(孫)
               秋山まこ二郎
永正三年ひのえとら八月二九日       泰久(花押)
秋山源太郎殿
「高瀬郷中村土居下地の事」の「下地」とは、土地そのもの、その土地に関わる権利全てという意味です。「坪」が条里制の場所を示します。「直米四石」とは、米四石を契約成立時に、受け取つたことを示しているようです。銭ではなく「直米」で支払われているのは、銭千枚で一貫文なので、大量の銭を揃えることができない地方では、現物で取引されることが多かったと研究者は指摘します。
 「私領たりといえ共、用々あるによつて」とは、「個人の領地であるのだけれども、必要があるので」

ということでしょう。経済的な困窮で、先祖代々の土地を手放さざるえない状態に追い込まれていたことがうかがえます。
差出者は、秋山孫二郎泰久(二代目)で、「秋山まこ二郎」は秋山惣領家系の家督継承者の幼名です。その泰久から庶流家系の源太郎に土地が売却されたことをしめす証文です。

源太郎に売られた「中村土井」は、本門寺の高瀬川対岸で甲斐源氏の祖先神新羅神社が祀られ、中の坊などのある秋山氏の屋敷地の中枢部であったようです。その「土居(居館)」の一部が源太郎の手に渡ったという意味は軽くはありません。これは秋山家本家の没落を人々に印象づけることになったでしょう。そして、源太郎が新たな秋山一族のリーダーとなったことを告げるものでした。

  この背景には何があったのでしょうか。
系図を見ると秋山泰忠の所領は、
⑤泰久(一代目)→⑥有泰→⑦泰弘→⑧孫二郎泰久(二代目)

へと譲り渡されてきます。
1秋山氏の系図4

しかし、応仁の乱以後の混乱の中で、秋山氏一族内で分裂が起きていたようです。応仁の乱から永正の錯乱時期に、畿内への度重なる出陣を細川家から求められます。その経済的な負担と消耗が重くのしかかります。さらに細川氏の内部抗争(両細川の乱)の際に、勝ち馬に乗れなかったことが挙げられます
 他方で、着々と財力を蓄え、同時期の混乱に乗して本家に代わって台頭してくるのが⑤水田泰久の傍系・A 庶流の源太郎元泰です。源太郎は細川氏と誼を通じることで、高瀬郷の大部分を領有し、確固たる地位を築いていきます。こうして、惣領家から源太郎に秋山氏の主流は移っていきます。
それを決定的にしたのが櫛梨山の合戦での源太郎の活躍です。
 細川澄元感状    櫛梨合戦                      52p
1 秋山源太郎 櫛梨山感状

去廿一日於櫛無山
太刀打殊被疵
由尤神妙候也
謹言
七月十四日 澄元(細川澄元 花押)
秋山源太郎とのヘ
読み下し変換しておきましょう。
去る廿一日、櫛無山に於いて
太刀打を致し、殊に疵を被るの
由、尤も神妙に候なり、
謹言
七月十四日
           (細川)澄元(花押)
秋山源太郎とのヘ
 切紙でに小さい文書で縦9㎝横17・4㎝位の大きさの巻紙を次々と切って使っていたようです。これは、戦功などを賞して主君から与えられる文書で、感状と呼ばれます。その場で墨で書かれたものを二つ折りにしたのでしょう。「去十一日」「七月十四日」などの墨が阪大側の空白部に写っています。
 折り目は、まず中央で折ったのではなく、左部分の宛て名のところを残して半分に折り、裏返して折り目の部分から順々に折っていくというスタイルがとられました。そうすると表部分に、一番最後の宛て名のところが上に出る形となります。これが太刀傷を受けた秋山源太郎の下に、届けられたのでしょう。戦場で太刀傷を受けることは不名誉なことでなく、それほどの奮戦を行ったという証拠とされ、恩賞の対象になったようです。こうした家臣団の活動をきちんと記録する専門の書記官もいたようです。
 感状は、後の恩賞を得るための証拠書類になります。
これがなければ論功行賞が得られませんので大切に保管されたようです。そして恩賞として新領地を得た後は、それを報償する絵図も描かれたりしたようです。
  この文書には年号がありませんが状況から推定して、櫛無山の合戦が行われたのは永正八(1511)年頃のようです。「櫛無山」は、現在の善通寺市と琴平町の間に位置する古代の霊山です。麓には式内社の櫛梨神社が鎮座し、ひとつの文化圏を形成していました。中世の善通寺の中興の祖とされる宥範を生んだ岩田氏の拠点とされる地域です。
 上の感状の論功行賞として出されたのが次の文書です。

1 秋山源太郎 櫛梨山知行

 讃岐の国西方の内、秋山
備前守跡職、所々散在
被官等の事、新恩として
宛行れ詑んぬ、早く
領知を全うせらるべきの由候なり、依って執達
件の如し
永正八    (飯尾)
十月十三日 一九運(花押)
秋山源太郎殿
この文書は、この前の感状とセットになっています。飯尾元運が讃岐守護細川氏からから命令を受けて、秋山源太郎に伝えているものです。
 讃岐の西方にある秋山備前守の跡職を源太郎に新たに与えるとあります。秋山備前守とは、秋山家惣領の秋山水田のことと研究者は考えているようです。

この文書の出された背景としては、
応仁の乱の後、幕府の実権を握った細川政元の三人の養子間の対立抗争があります。高国・澄之・澄元の三人の養子の相続争いは、讃岐武士団をも巻き込んで展開します。香川氏・香西氏・安富氏などの守護代クラスの国人らは、澄之方に従軍して討ち死にします。秋山一族の中でも、次のような対立がおきていたようです。
①庶流家の源太郎は細川澄元方へ
②惣領家の秋山水田は細川澄之方へ
1 秋山源太郎 細川氏の抗争

 この対立の讃岐での発火点が先ほど見た櫛梨合戦だったようです。澄之方について敗れた秋山水田は所領を奪われ、その所領が勝者の澄元側につき武功を挙げ源太郎に与えられたようです。ここで秋山家の惣領家と庶流家の立場が入れ替わります。
 管領細川氏の相続争いが讃岐の秋山氏一族の勢力争いにも直結しているのが分かります。
 土地が飽和状態になった段階では、報償を得るためには誰から奪い取らなければなりません。こうして秋山泰忠が願った法華信仰の下に、一族の団結と繁栄を図るという構想は、崩れ去っていきます。 しかし、秋山氏の内部抗争にもかかわらず本門寺は発展していきます。それは、本門寺が秋山氏の氏寺という性格から、地域の信仰センターへと成長・発展していたからです。それは別の機会に見ることにします。
 この文書の発給人の飯尾元運となっています。彼は、室町幕府の奉行人であるか、細川氏の奉行人のどちらかでしょう。飯尾氏は幕府奉行人に数多くく登用されていますが、阿波の細川氏の奉行人となった飯尾氏もいますが、研究者は阿波の飯尾氏と考えているようです。
こうして永正年間には源太郎流が、秋山一族を代表するようになります。
 源太郎は、最初は細川澄元に接近し、忠勤・精励また贈答によって恩賞を受け、のし上がっていきます。その後は、細川高国方に付いて惣領家を完全に圧倒するようになります。秋山源太郎が、細川氏淡路守護家や阿波守護家に忠節・親交を深めていったことが、秋山文書の細川氏奉行人奉書等からうかがえます。
ここからは、従来の讃岐中世史を書き換える構図が見えてきます。
従来の中世の讃岐は
宇多津に守護所を置いた細川京兆家の守護支配下に置かれていた

とされてきました。しかし、細川勝元亡き後の讃岐については、細川氏阿波守護家(官途は代々讃岐守で細川讃州と呼ばれた)の支配が讃岐に浸透していく過程だと研究者は考えるようになっています。阿波守護家が、岡館(守護所=香南町岡)を拠点にして讃岐支配を強めていく姿が見えてくるようになりました。それが後の三好氏の讃岐侵攻につながっていくようです。
 秋山家文書には、源太郎宛の折紙が27点もあります。
発給者は、淡路守護細川(以久)尚春とその奉行人らや阿波守護の奉行人達からの書状群です。これらは、新しい秋山氏の当主である源太郎と在京の上級武士らとの交流の実際を伝えてくれます。源太郎は宇多津を向いていたのではなく、はるか淡路や阿波に顔を向けていたのです。源太郎への指示は岡館(守護所=香南町岡)から出されていたのかもしれません。

 一度一族間で血が流されると、怨念として残り、秋山一族の抗争は絶えなくなります。
源太郎が亡くなると求心力を失った秋山家は、内部抗争で急速に分裂していきます。
一族間の抗争は「喧嘩両成敗」の裁きを受け領地を没収され、細川氏の直轄領とされます。こうして秋山氏は、存亡の危機に立たされます。
 一方、細川氏も内部抗争で弱体化し、下克上の舞台となります。そんななかで戦国大名化の動きを見せ、三野郡に進出してくるのが西讃岐守護代で天霧城主の香川氏です。秋山氏は、香川氏に従属化し家臣団を構成する一員として、己の生き場所を見つける以外に道はなくなって行きます。
 こうして、香川氏の一員として従軍し活躍する秋山氏一族の姿が秋山文書にも見られるようになります。それはまた次の機会に・・・

以上をまとめておきます。
①西遷御家人としてやってきた秋山泰忠は、高瀬郷の北半分を祖父から相続した。
②秋山泰忠は敬虔な法華信者で、下高瀬に法華王国の建設を目指し、本門寺を建立した
③秋山泰忠は孫に所領を相続させたが、その他の子ども達にも相続分は分け与えた
④秋山惣領家は、応仁の乱以後の混乱の中で衰退していく
⑤代わって分家の源太郎が細川氏の内部抗争の勝ち馬に乗ることで台頭してくる
⑥櫛梨山の合戦での源太郎の活躍以後は、源太郎が新たな統領となって仕切っていく
⑦しかし、源太郎以後は内部抗争のために一族は分裂し、領地を没収される危機を迎える
⑧秋山氏は、戦国大名化する香川氏への従属を強めていく。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 高瀬町史

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本門寺 西門

 本門寺は、中世に高瀬郷に西遷御家人としてやってきた秋山氏が氏寺として創建した西国で最も古い法華宗寺院です。地元では、高瀬大坊と呼ばれ親しまれています。秋の日蓮上人命日(旧暦十月十三日)に開かれる大坊市は、くいもん市とも呼ばれ、食物を商う露店が多く集まり、近隣各地から多くの参詣者を迎え賑わってきました。
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本門寺案内図
 境内には、元禄十(1697)年建立の開山堂を始め、本堂・古本堂・庫裡・客殿・鐘楼・宝蔵・山門・西門などの堂字が点在し、いくつもの末坊を擁する大寺院です。

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開山堂と客殿
 本門寺は、甲斐国から乳飲み子時代にやってきた秋山泰忠(日高)が、建立したと寺院です。彼は、日華の弟弟子を招き、最初は那珂郡杵原郷田村(現丸亀市田村町)に法華堂を建立します。そして、丸亀を拠点として法華宗の流布に努めます。が、兵火で焼け落ちてしまいます。そこで、武元(1334)年 高瀬郷に一堂(後の中之坊)を建立し、日仙を招き法華堂の上棟を目指し、翌年に完成させます。これが現在の本門寺です。このように本門寺は、秋山氏の氏寺として創建されます。
創建者の秋山泰忠は、弘安年間(1278~88)に、西遷御家人の祖父の光季(阿願)と来讃します。
その時の年齢は10歳未満だったと考えられています。
 泰忠の祖父阿願は、甲斐において法華信仰に深く、帰依していました。泰忠はその影響を受け、幼少より法華信仰に馴染んでいたようです。故郷を離れ、遠く讃岐までやってきた泰忠にとっては、年少の頃から南北朝の動乱の戦いを繰り返す中で心を癒すために、法華経に信仰心を傾けていったようです。彼は、晩年に置文(遺言状)を12回も書いていますが、そこには子孫に法華宗への信仰を強く厳命しています。残された置文からは、年を経るに連れて法華宗への信心が深まっていったことがうかがえます。
 泰忠により本門寺は創建され、彼の庇護のもとに領民に法華宗が広められていき、後の高瀬郷皆法華信仰圏が成立するということになります。甲斐からやってきた一人の男の信仰心と強い意志が現在の下高瀬の法華信仰を形作ったのです。本門寺に残された文書から秋山泰忠と本門寺の関係を見ていくことにします。参考文献は「三野町文化史3 三野町の中世文書」  です。

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本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 本門寺に残された中世文書
 本門寺には桐箱の中の黒漆塗りの本箱に中世文書12が収納されています。その中で分類番号1・2号を読んでみましょう。その前に注意点として
①全文がひらがなで書いているため大変読みづらいので、( )内は漢字変換しています。
②文書の上の方が虫食いで欠けているので読めない部分(空白?)があります。
③当時は濁音表記がありません。想像力で補っていきます。
内容は、沙弥日高(泰忠)の置文で本門寺中に対して出された遺戒です。子孫や郷内の人々に本門寺以外の崇敬を禁ずることを戒めています。本門寺の一番古い文書である沙弥日高(秋山泰忠)置文を見てみましょう。
のためにさためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事
?月十五日は、こハゝにて(故母にて)わたらせ給候人の御めい日(御命日)
???給候、別に月こと(月毎)にそのひ(日)をかき申し???と
???ともその日か(書)き申候事のみ候あいた御???
???のために御はたき(畑)しんたてまつり候 はたけ(畑)あはせて三たん(三段)なり
このところは、あくわん(阿願)よりにんかう(日高)ゆつり(譲り)給ハるなり
しかるを、うは(乳母)にてわたらせ給候人と、はは(母)にてわたらせ給二人の御けふやう(供養)のために、そう(添)ゑ御やしき(屋敷)のためにきしん(寄進)候ところなり、しかるをまこ(孫)七わか(我)ゆつり(譲)うち(内)といらん(違乱)を申事あらは、なかくふけふ(不孝)の人なり ほんかう(本郷)?い 
 しんはま(新浜)とい(土井分)ふんと にんかう(日高)かあと(跡)においてはふん(分)もち(知行)きやうする事あるへからす、もしまこ(孫)七いらん(違乱)を申候はゝ、かの人のふん(分)をは、きやうたい(兄弟)のなか(中)にかみ(上)へ申てちきやう(知行)すへきなり、
 又はそう(僧)お そむ(背)き申候はんすることもまことも(孫共)又は、そうしう(僧衆)のなかにもはしまし候ハんする人とく いんきよ(隠居)し候ハ、ふけふ(不孝)の人としてにんかう(日高)かあとにおいてハ ちきやう(知行)すへからす
御そう(僧)(御僧は百貫坊日仙)より御のちハたいの御そう(僧)一ふんものこさす御あとハ御ちきやう(知行)あるへきあいた、こ(後)日のためにいまし(戒)めのお(置)きしやう(状)くたんのことし
ちやハくねん(貞和9年)十月三日

                      しゃミ(沙弥)にんかう(日高)(花押)
文頭に
「さためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事」

とあるので置文だということが分かります。置文とは、将来にわたって守るべき事柄を示したものです。ある意味、遺言のような性格もあります。
 文末署名は
「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」

と記されています。これを「につこう」と読むようです。日高は、前回にお話しした秋山泰忠のことで、彼の法名です。法華宗では法名に「日」の文字を用いることが多いようです。秋山家文書の置文は「秋山孫次郎泰忠」の署名で残されています。一方、宗教関係で本門寺に残された文書には 「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」が用いられて云います。俗と聖を使い分けているようです。それだけの分別ができる人だったようです。
 年紀には、ひらがなで「ちやハくねん」と記されています。当時は濁音がありませんので、これを「じょうわ」と読むようです。
 日高(秋山泰忠)は、60歳を越えたと思われる文和2年(1353)から翌年にかけて置文を多く発給しています。死期を察したのかもしれませんが、実はその後も40年近く生き続けます。そして、息子よりも長生きすることになり、置文を何度も書き直すことになります。結局12通も残しています。
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本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 もう一度置き文に戻りましょう。
文中に「あくわん」と見えますが、これは秋山文書にも登場した「阿願」で、秋山泰忠の祖父・光季のことです。祖父の時代に乳飲み子の泰忠は、「阿願」に連れられて高瀬郷にやってきたことは前回にお話しした通りです。
「しんはまのといふん」とありますが、これは「新浜土井分」です。
新浜には塩浜(塩田)が開発されており、塩の生産が行われていました。秋山家文書にも、新浜の年貢貢進の記事があり、この年貢は塩年貢のことと推定できます。塩田からの収入が秋山氏の経済的な強みであったことは、前回にお話ししました。
 後半では、本門寺と秋山家とは必ず寺檀関係を保つべきことを特に戒めています。これは本門寺が根本檀越であるとの立場を強く打ち出しています。秋山家の身内に残した置文とは、性格が少し違うようです。
「御そう(僧)」は本門寺を開基した百貫坊日仙です。「たいに(第二)の御そう」は日寿で、どちらも本門寺の歴代住職になります。
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              正面には延文4年 日高大居士(泰忠)
本門寺文書 文書番号2の日高置文 その2を見てみましょう
申しまいらせをきゆつりしやう(置き識り状)にも、いましめの□やうにしのおち(字の落ち)候ところ候は、みな入し(字)をして候、これをうたか事あるへからす候、
ともにもゆつり(譲り)おき候しやううことに志(字)のおちて候ところには、みなみな入しをして候
 かうかしそんの中に大にの御そう(第二の御僧=日寿)のほかに し(師)をとり申候人もし候はゝ、日かう(日高)かあとにをき候ては、 一ふんちきやう(知行)する事ゆめゆめあるましく候、もしも候はゝ、そうりやうみつた(惣領水田)かはからいとして、かみ(上=幕府)へ申て御たう(塔)へきしん(寄進)申へく候

 十三日のかう(講)、又十五日かう(講)の人  ひやくしやう(百姓)も、御めい(命)をそむ(背)き候は、みなみな大はうほうとして、りやうない(領内)のかま(構)いあるましく候 
 ちうふん(註文)やふ(破)れ候ても候はゝ、もと(元)ことくきしん(寄進)申候ところおは、そうりやう(惣領)まこ(孫)四郎まんそく(満足)には(果)すしまいらせ候へいくらも中をきたき事とも、なをもをんて申し候へく候
おうあん五年二月二日    
しやミ日かう(花押)
内容は
 最初に、以前に書いた置文に、字の欠けたところがあったので、その部分を追記した。それをもって偽文書とうたがうことなかれと云っています。この時代にも譲り状に関して、偽物が出回っていたことをうかがえます。自分の書いた譲り状に対しての疑義は認めないという強い意志表明です。

次に、泰忠の子孫は「大弐(二代目)の僧日寿」を本門寺の住持として崇めるよう強く戒めています。
もし、日寿以外を師とする者が出てきたら、泰忠の遺領を知行することは認めない。そしてそのような者は惣領の孫四郎泰久(水田)から幕府へ申し出て、他に堂塔を寄進して新たに寺をおこすようにせよ、と本門寺に対して背くことはならないと戒めます。法華宗の本義としての不受布施の立場を表明したものと研究者は考えているようです。

1 本門寺 御会式

 十三日の講とは、日蓮の命日に行う報恩講のことであり、

秋山一族だけでなく、領内の百姓にまでも絶対に行うよう厳命しています。本門寺を中核とした、秋山一族の結合を図っていこうとするねらいがうかがえます。これについては、
秋山家の惣領家にも次のように置文をのこしています。
秋山家文書 文和二年の源泰忠置文、一ッ書き五条目十月の十三日の御事
十月の十三日の御事をハ、やすたたかあとをちきやうせんするなん志、ねう志、まこ、ひこにいたるまて、ちうをいたすへし、へちに御たうおもたて申、このうちてらをそむきも申ましき事、たといないないハきやうたいとい、又ハいとこ、おちのなか、又ハいとことものなかにも、うらむる事ありといふとも、十三日にハよりあいて、御ほとけ上人の御ため、そう志うおもくやう申、志らひやう志、さるかく、とのハらをも、ふんふんに志たかんて、ねんころにもてなし申ヘきなり、ない〆ハいかなるふ志んありとも、十三日、十五日まで、ひところにあるへきなり
漢字変換すると
(十月の十三日の御事をば)  (泰忠が跡を知行せんする男子)、(女子、孫)  (ひごに至るまで忠を致すべし)  (別に御堂をも建て中し)  (この氏寺を背きも申すまじき事)    (たとえ内々は) (兄弟と言)   (又はいとこ)(叔父の中) (又はいとこ共の中にも)  (恨むる事)(ありというとも)(十三日には寄り合いて) (御ほとけ上人=日蓮の御ため)(僧衆をも供養申し) (白拍子)(猿楽)(殿原をも)(分々に)(従って) (懇ろにもてなし申すべきなリ)  (内々はいかなる不信ありとも)(十三日、十五日まで)(一心にあるべきなり)

ここからは次のような事を指示していることが分かります。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁
②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ
③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。
④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
 十月十三日の日蓮上人の命日法要は、法華信仰を培っていくための重要なイヴェントと考えていたことがうかがえます。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたのでしょう。
その祭事については
「白拍子・猿楽・殿原をも分々に従って懇ろにもてなし申すべきなリ」

とあり、地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸が催されるイヴェントであったことが分かります。殿原とは廻国の武芸者のようです。それを今後も続けよと具体的に指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたのでしょう。

1 本門寺 大坊市2

 ちなみにここには芸能集団を「懇ろにもてなし申す」と、宿泊させてもてなすように指示しています。ところが百年後の高松の田村神社文書には「興行が終了したら即座に退去させる」と、芸能集団に対する差別意識が生まれているのがうかがえます。さらには、十三日から十五日の間は「皆心にあるべし」との戒めます。これらの戒めは、本門寺の発展と共に郷内に広まり「皆法華」の宗教圏を形成することとになるようです。
 他に残された置文を見てみると、次のような戒めも記されています
① 泰忠が信仰するのと同様に勤行をしなさい
②「蚊虻浅謀」といって法華宗以外の宗義を信仰することは、蚊や虻のごとき浅はかさである。
 この「十月の十三日の御事」が現在の本門寺門前において市が立つ「大坊市」の起源となっているのです。ひとりの男の思いが引き継がれてきた祭事のようです。
1 本門寺 大坊市


 秋山泰忠は、日仙への帰依することを通じて、戦いで血糊のついた己の姿を清め、武士の安心を得ようとしたのかもしれません。同時に、この法華信仰を媒介として秋山一族、家人や下高瀬郷内の百姓住人すべてを支配することを望んだようにも思えます。

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日仙上人の隠居寺である上の坊の墓
晩年の応安五(1372)年の沙弥日高置文(本門寺)には、本門寺への信仰を次のように求められるようになります。
①開山日仙と共に二代日寿(大弐房、本門寺歴代では、日華の跡の三代目)にも忠孝を尽くし、
②氏寺本門寺の「師」以外に宗教上の「師」を認めず、
③子ども・若党から下々まで不信心者は「大法度」である
と記します。さらに十三日・十五日の講会に参加しない郷民らには「碩びいのか樋い」が許されないとされるようになり、法華信仰の実を見せなければ、実質的には高瀬郷内には生活できなかったようです。その信仰拠点が、大坊本門寺であり、数多く建立された寺内坊や支坊でした。

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日仙上人の墓(上の坊)

次の表からは、幕末の下高瀬住民の法華宗比率は90%を越えていることが分かります。
1 本門寺 皆法華

室町時代以降は、秋山氏が支配する高瀬郷内のすべての住人が皆法華の状況であったようです。
 以上のように、秋山泰忠は法華宗への熱烈な信仰心を持ち、個性的な独特の置文を残しています。そして、讃岐の新しい所領に「郷内皆法華」の法華王国の実現をめざして、強力な宗教政策を展開していきます。
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本門寺本堂
次に、本門寺や子院が果たした役割を、別の視点から見てみましょう。秋山氏は、水利管理についても、寺の力を利用していたことがうかがえます。例えば、高瀬郷領内の要所に本門寺末坊を配置していまが、その配置場所を見てみると
①音田川からの取水源である木寺井近くに上之坊があり、
②高瀬川と音無川の合流地点の荒井及び中ノ井近くに宝光坊、
③その下流の屈曲点の新名井及び額井近くに西山坊、
④そして、高瀬川の旧河口付近に中之坊
  これは井手の分岐点の近くに子院が配置されています。つまり、お寺という宗教組織を通じて、用水管理を行っていたのです。
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本門寺の子院 奥の院

これらの「井手五箇所」は、中世以来の井手(取水堰)です。
そこに配置された子院の住僧には、あらかじめ寺領免田への用水使用の優先権を持たせていたことが秋山文書からは読み取れます。これらの井手からの用水確保は「一日二枚宛」と決め、子院が管理していたのです。この権利を通して、各坊は信者である住人を監督・勧農させていたのです。この体制の下では、本門寺門徒でない非法華信者は、水利権においても差別的な待遇を与えられたことが考えられます。このような経済的な強制も「皆法華」体制を形作る力となったのでしょう。
1 本門寺 子院

  以上をまとめておきます
①鎌倉幕府は西国の防衛力強化のために甲斐から讃岐高瀬郷の地頭として秋山氏を西遷させた。
②少年としてやって来た秋山泰忠は、熱烈な法華信徒になり新天地に法華王国を築こうとした。
③そのために百貫坊日仙を本山から向かえ、氏寺として本門寺を創建した
④本門寺は、秋山泰忠の篤い保護の下に地域の宗教・文化・教育・水利管理センターとしても機能し、寺勢を拡大していった
⑤秋山泰忠は、具体的な信仰実践を子孫に書き残し、戒めとするように伝えている。
⑥秋山泰忠亡き後も、本門寺は教勢を拡大し「皆法華」体制を形作っていく。

          
 讃岐に鎌倉幕府が送り込んだ新補地頭(しんぽじとう)について以前にお話ししました。彼らは、幕府の西国支配強化の尖兵として送り込んできた東国の御家人たちでした。御家人は武装集団で、守護が現在の県警本部長とすれば、地頭は「市町村の警察署長 + 税務署長」といったところでしょうか。その一覧表が次の表です。
 
1 秋山氏 讃岐の地頭一覧
東国から讃岐にやってきた地頭たち
 二度にわたる蒙古襲来を経験した鎌倉幕府は、三度目の来襲に供えるために、東国の御家人を西国に転封させるという軍事力のスウイング戦略を行います。この時に、讃岐に地頭としてやってきた東国武士団が秋山氏です。
今回は、秋山氏について見ていこうと思います。
テキストは高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①です。
寛永五年(1628)に秋山一忠が作成した系図を見てみましょう。

1秋山氏の系図
秋山氏系図
秋山氏の祖は、新羅三郎義光に始まる「本国甲斐国青嶋之者」と記されています。
清和源氏流の「甲斐源氏」は、平安時代後期に源義光の息義清か常陸国から甲斐国八代郡市川荘(山梨県西八代郡市川三郷町)へ入り、甲府盆地一帯に勢力を拡大します。秋山姓は、義清の孫光朝が甲斐国巨摩郡秋山(同県南アルプス市秋山)を拝領し、ここに拠点を構えたことから生まれたと研究者は考えているようです。
   源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵した時に、惣領武田信義が率いる「甲斐源氏」一族は、その大半が勝者の源氏方について参戦します。秋山氏も源氏方に付きます。ところが光朝の妻が平重盛の娘であったことから、頼朝に冷遇され、秋山氏は一時的に没落したようです。
 しかし、光朝は承久三年(1221)武田信光に従い、鎌倉幕府方として後鳥羽上皇方と弓矢を交えます。いわゆる承久の乱です。この戦功によって、秋山氏は武家としての名誉を回復します。その後、光朝の嫡男光季(阿願入道)は、子息泰長(源誓)・孫泰忠(日高)と共に讃岐へやってきます。 蒙古襲来に備え、幕府の命で安芸国へ西遷した武田氏と同じような処遇と研究者は考えているようです。

  秋山氏のルーツとなる甲斐国巨摩(こま)郡秋山を地図で見ておきましょう。
1 秋山氏の本貫地

現在の南アルプス市に「秋山」の字名が残っていて一族の「秋山光朝館跡」も史跡とされています。地元では、ここが秋山氏発祥の地とされているようです。
「秋山家記」(秋山家文書)には「青島」を故地としていますが、それがどこなのかは分かりません。旧甲西町秋山の東南にあたる釜無川と笛吹川の合流地点付近に江戸時代に青島新田という地名が残っています。この新田の開拓者としてスタートしたのかもしれないと研究者は考えているようです。どちらにしても、この地で治水・灌漑工事などを行いながら所領の拡大を行っていたのしょう。それが幕府の「西国防衛力の向上」という政策の中で、讃岐高瀬郷に所領を得て一族の嫡男がやってきたようです。
□中世の高瀬を読む ―秋山家文書(1)~(3) 3冊 高瀬町教育委員会 の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版

 このような経緯が分かるのは、「秋山家文書」という中世の置文(遺言・相続状)など多数の文書が秋山家に繋がる家に残されてきたからです。これだけの文書が残されているのは非常にめずらしいことのようです。例えば、後世のものになりますがこのような系図も残されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山氏系図 「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とある

先ほどの系図の下段の一番右側に「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とあります。拡大して見てみましょう。
系図的には讃岐秋山氏は、この阿願入道=光朝からはじまります。
入道と称するのは、彼が日蓮宗の熱心な信徒で入信していたためです。その註を見ると、次のように記されています。

号は 秋山又兵衛で、甲州青島の住人である。政和4年に讃岐に来住した。嫡子は病身のため嫡孫泰忠を養子として所領を相続させた。

これには、疑義がありますので後ほど述べます
元寇の頃、甲斐国から来た武士|ビジネス香川
本門寺(三豊市)

実質的な秋山氏の祖 
秋山孫次郎・泰忠は歴戦の勇士で長寿だった
祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠については

「号は秋山孫次郎。正中2年法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」

とあります。現在の下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。孫次郎泰忠は11通もの置文(遺言状)を残しています。その最終年紀は、永和2(1376)年です。仮に弘安最末年の11(1288)年に讃岐へやって来たとしても、通算88年も讃岐で過ごした事になります。
いったい泰忠は何歳で讃岐にやってきたのでしょうか。
乳呑み児で、故郷の甲斐の「青島」を離れ高瀬郷にやってきて、およそ90歳以上生きていたようです。当時としては、祖父の阿願と同じように異常なまでの長寿ということになります。
実質的な讃岐秋山氏の祖になる泰忠について見ておきましょう
 泰忠は、鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱の時期を生き抜いた武将のようです。長い従軍生活の中で、波瀾万丈の人生を送ったようです。彼の実戦での記録は、その片鱗が秋山家文書の中の4通からうかがい知ることができるだけです。秋山氏は、南北朝の争乱期には、北朝方として活動しています。泰忠は病弱の父に代わって、秋山氏惣領として一族と高瀬郷域の武士団を率い、畿内はじめ西国各地を転戦する日々を送ったのでしょう。
秋山文書から泰忠に関する文書を年代順に見ていきましょう。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)

①鎌倉時代末期の元徳三(1331)年十二月五日の年号が入った秋山源誓の置文です。
   本文             漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、   讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、(伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし (孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候(良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの  (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、(兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、 (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために(知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (誠めの条)(此の如し) 
                  秋山)源誓(花押)
  元徳三年十二月五日                 

置文とは、現在及び将来にわたって守るべき事柄を認めたもので、現在の遺言状的な性格を持つようです。財産相続なども書かれています。 この置文は、源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。
讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る

とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎に、譲られたことが分かります。しかし、これは現在のような土地所有でなく「下高瀬の地頭職」の権利です。
 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていたようです。その北側の高瀬郷(下高瀬)を孫次郎泰忠が相続したことになります。これは高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことを意味します。大見地区は、この時点では下高瀬に属していました。
 同時にこの史料からは源誓が、孫次郎泰忠の父も分かります。秋山氏の家系が
「祖父 阿願 → 父 源誓 → 子 孫次郎泰忠」

とつながっていたようです。
ところが後の秋山氏系図は先ほど見たように「父 源誓」を「病弱者」として無視し、祖父阿願から直接孫の孫次郎泰忠に相続されたとします。そして「父 源誓」の名前は系図からも抹殺されています。
1秋山氏の系図3
秋山家系図

この背景には何があるのでしょうか。今思い浮かぶのは次の2点です。
①「父 源誓」は日蓮信徒でなかったために秋山家の系譜から排除された
②泰忠の相続が孫に相続させるという異例のものであったために「祖父から孫」への「相続先例」を「創出」した
  これくらいしか今の私には、出てきません。系図上での「父 源誓」抹殺の背景はよく分かりません。 最後に

「もし後日に、この地頭職を悔い返す事態が起こったときには、兄弟に適任者がいたならば、申し出て知行するように」

と指示しています。ここからは孫次郎泰忠には何人かの兄弟がいたことが分かります。彼は次男であったようです。次男にもかかわらず秋山家の統領に就いています。
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孫次郎泰忠の墓(本門寺)
 秋山氏の所領開発は、どのように行われたか
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここからは、最初に拠点とした丸亀平野の下金倉郷と比べて、高瀬郷が未開発の土地で、しかも狭かったことがうかがえます。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため古代から放置されたままになっていた地域です。それならどうして、丸亀から下高瀬に拠点を移したのでしょうか。それが次の疑問となっていきます。それは「塩田開発」にあったと研究者は考えています。

三野町大見地名1
太実線が中世の海岸線

 秋山文書の中に「すなんしみやう(収納使名)・くもん(公文)・「たんところみやう(田所名)」といった地名が出てきますが、これは今も三野町内に残る砂押・九免明・田所です。この地域を中心に高瀬郷の大見地区の段斜面を開発したことがうかがえます。
 泰忠が相続したのは「高瀬郷の伊予大道より下半分」の「下高瀬」の土地です。そこには現在の大見も含まれていましたし、三野津湾沿いの「新浜」などの塩浜も地頭職分として含まれています。これが泰忠の領地的なスタートラインだったようです。この最少の土地を、甲斐からやって来きて以後、一族はじめ名主・百姓ら手で懸命に開発したのでしょう。そこには開発に携わった名主たちの名前が地名として残っています。
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孫次郎泰忠の墓 墓碑には延文4年日高大居士と刻まれてい


 秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる新はま東村(新浜東村)は、現在の東浜、西村は現在の西浜、中村は現在の中樋あたりを指しすものと研究者は考えているようです。
他の文書にも
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
等が譲渡の対象として記載されています。ここから秋山氏は、この辺りで塩田を持っていたことが分かります。作られた塩は、仁尾や宇多津の平山の海運業者によって畿内に運ばれ販売されていたようです。このような経済力が泰忠の軍事活動を支える基盤となっていたのでしょう。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
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本門寺本堂
      足利尊氏下知案
②建武三年(1336)足利尊氏より勲功の賞として高瀬郷領家職があたえられた文書です。
1秋山氏 足利尊氏no高瀬郷領家職
   足利尊氏下知案(秋山家文書)
書き起こすと以下のようになります。
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、
勲功の賞として宛行う所なり、
先例を守り、沙汰致すべし、
将軍家の仰せに依って、下知件の如し
   建武三年二月十五日
        (細川顕氏) 兵部少輔在御半
        (細川和氏 )阿波守   
   秋山孫次郎殿(泰忠) 
 二行目一番下は「依」で終わっています。そして三行目の「将軍家」と続きます。ここには一字空白があります。これをは「閥字(けつじ)」と云い尊称する場合に、一字から三字の空白、あるいは改行する「平出」によって尊敬の意を表する方法のようです。閥字より平出の方がより尊敬の意を表すといいますが、ここでは両方の方法が採られています。
 「領家」とは、土地の収益に対する権利の意味で、この文書全体の解釈は、合戦の功労賞として土地の収益に対する権利を与えるので、これまでの作法や先例をまもり、権利を執行しなさい」という意味になります。それを将軍足利尊氏に代わって、兵部少輔と阿波守が伝えるという形式です。
「下知状」とは末尾に「下知」と記されていることからきています。
 差出人の二人は、この時期に将軍足利尊氏から四国方面の代官として任されていたために、下知状の差出人となったようです。この後、両名は讃岐国守護・阿波国守護に任命されています。宛所の秋山孫次郎は、泰忠です。
 この文書の背景としては、前年の建武2(1335)年に足利尊氏は畿内から瀬戸内を経て、九州方面に逃走しました。この文書は、尊氏が再び上京するまでの間に、瀬戸内海沿いの武士団の棟梁たちにを味方に付けるために檄を飛ばした文書のようです。つまり、参戦して軍功を挙げれば「高瀬の郷領家職」を宛がうので軍を率いてやってこいということになるのでしょうか。もちろん、泰忠は、尊氏方について参戦したようです。
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本門寺境内の泉

その翌年の建武4(1337)に細川顕氏から秋山孫次郎泰忠に出された細川顕氏書下です。
原本は虫食いで上半分しか残っていませんが、江戸時代に書写された下の文書が残されています。

1秋山氏 細川顕氏から秋山孫次郎泰忠書下

細川顕氏書下(秋山家文書)
讃岐の国財田(の凶徒蜂起の由)、其聞え(之有るの)間、
(月城太郎次郎周頼、助房)宇足津に差し下す所(なり)、
(早く当国に下向せしめ、諸)事の談(合)に加わり、
(在国の一族相催し、且つ)地頭御家人
(相共に誅数に廻らるべきの□)状、此の如く候
建武四(1337)年三月廿六日
          (細川顕氏)
          (兵部少輔)
秋山孫(二郎殿)                   
(  )部分が江戸時代の書写から補った部分です
意訳しておくと
讃岐国財田で南朝方の凶徒が蜂起したと報告が入っている。
阿波の月城太郎次郎周頼、助房らに鎮圧を命じるように宇足津に指示している所である。
早く帰讃して、討伐軍に合流し、作戦計画に加わり、在国の一族を率いて地頭御家人が協力し鎮圧するように命じる。
建武四(1337)年三月廿六日
当時の足利尊氏の動きを年表で確認しておきましょう
1335年8月足利尊氏が征東将軍として鎌倉へ向かい、そのまま建武政権から離反する。
1336年1月尊氏が京都へ入り、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
2月足利尊氏が豊島河原などで敗北し、九州へ敗走。
  3月足利方は筑前国多々良浜の戦いで菊池武敏らに勝利する。
   4月足利方は仁木義長などを九州へ残して再び上京する。
   5月、足利方が湊川の戦いにて新田・楠木軍を破る。
     後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
   8月 光明天皇が即位して北朝が開かれる。
12月 後醍醐天皇が京都を脱出し、吉野(奈良県)で南朝を開く。

この文書で使われている「建武四年」とは、北朝方の使用した年号で、南朝方はこの前年に「延元」という年号に改元しています。後醍醐天皇の檄により熊野行者たちが支援する南朝方に、阿波や財田の山岳武士団が呼応し、活動が活発化していた時期です。
「月城」は、現在は「つきしろ」ですが、阿波国の月成(つきなり)氏のことのようです。「宇足津」は讃岐国守護が居た場所で、守護所は円通寺付近にあったとされます。差出人の「兵部少輔」は、讃岐守護の細川顕氏です。
「財田凶徒」とは、徳島県の西野氏所蔵文書にも「財田凶徒」の記事が見えることから、南朝方の大規模な勢力であったようです。この時期の讃岐国では、南朝方の勢力が山岳地帯に拠点を持って活動していたことがうかがえます。
 秋山泰忠は、この書状を受け取った時点では讃岐国以外に転戦中だったことがうかがえます。足下の財田方面で南朝が蜂起したので、急いで帰国するように命じられていると解釈できます。それでは「財田の凶徒」の本拠はどこだったのでしょうか。また、その勢力は? このあたりもよく分かっていないようです。
  ここからは室町幕府の成立時に泰忠は足利尊氏軍に従い、国外に遠征していたこと。南朝勢力の蜂起に対して讃岐守護細川氏の命で動いていることは分かります。  

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本門寺境内

③観応二年(1351)には、細川頼春から泰忠へ高瀬郷領家職が兵糧料所として預け置かれた書状です。
1秋山氏 細川頼春から泰忠へ高瀬郷領家職g
細川頼春書状(秋山家文書)
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、御沙汰落居の間、
兵糧所として、預け置く所なり、先例任せ、
沙汰致すべきの状、件の如し
観応二年八月十三日  (細川頼春)在御判
                   散位
秋山孫次郎(泰忠)殿
この文書は案文のようですが、直状形式で発給者が直接に秋山孫次郎(泰忠)に対して所領を預けています。文書が出された観応(1351)年は、讃岐武士団が細川頼春・頼有方(主に西讃地方)と同顕氏方に分立している時期で、中央では観応の擾乱が起こっていた頃にあたります。同じ年の9月5日付細川頼春預ケ状(紀伊国安宅文書)と同じ筆跡・スタイル・同じ署名なので、「散位」とは細川頼春で、観応の擾乱の働きに対する恩賞と研究者は考えているようです。
 秋山氏が総領・泰忠の下に、讃岐守護細川氏に従って武功を上げていった結果としての恩賞のようです。足利尊氏から細川頼春・頼有と、「勝ち馬」に乗り続けることによって、秋山氏は三野郡での権益を着実の拡大していたようです。
 ここまで泰忠は、現役であったようです。
この時にすでに60歳を超えていたと考えられます。高瀬郷領家職を得て、郷内の軍勢催促権も獲得しました。父から相続した地頭職と併せて、東本山郷(現高松市水田)内の水田名も泰忠の時の加増地と考えられます。
このように歴戦の強武者として活躍した泰忠も、ようやく引退の時を迎えます。
しかし、必ずしも平穏の毎日ではなかったことが、残された11通の置文・譲状から見えてきます。その最初のものは、文和二(1353)年の置文と譲状です。以後足掛け23年以上の間、合戦による傷に痛みながら時に病床にあっで老骨に鞭打ちつつ置文を書き続けています。老後の泰忠が、子や孫たちに何を言い遺したかは、また別の機会に見ることにします。
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泰忠墓碑の裏面 平成になって改修されたことが分かる

 以上をまとめておきます
①西遷御家人として元寇後に讃岐にやってきた秋山氏は最初は那珂郡金倉郷に拠点をおいた。
②3代目秋山泰忠の時に高瀬郷に拠点を移し、氏寺として日蓮宗本門寺を建立した。
③秋山氏は下高瀬を中核として、塩田開発になど周辺地域に勢力を伸ばした。
④塩生産が秋山氏の財政基盤と成り、南北朝の軍事行動や、本門寺創建などの資金となった。
⑤そして、室町期には細川氏の被官として、国人へと成長を遂げてきた。
⑥しかし、分割相続に伴い一族間の抗争が繰り返されるようになり、所領の細分化が進み、その勢力は衰退していく。
⑦それに引き替え、香川氏は西讃守護代として守護細川氏に代わって勢力を伸ばし、細川氏の御料所を押領するなど戦国大名化への道を歩み始める
⑧戦国期になると、秋山氏は細川氏の被官から香川氏の家臣へと転化する。

最後まで おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①

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