瀬戸の島から

2020年11月

以前に旧練兵場遺跡について紹介しましたが、その後に平成12年度に開かれたシンポジュウム資料を入手しました。ここには、この遺跡の持つ特徴がコンパクトにまとめられていますので、メモ代わりにアップしておきます。
金倉川 善通寺遺跡分布図

旧練兵場遺跡は、現在の「子どもと大人の医療センター」から農事試験場を含む広大なエリアになります。国立病院の建て替えに伴い西側部分が発掘対象となり、何次にも渡る調査が行われ、分厚い報告書が何冊も出ています。しかし、素人の私が読んでもなかなか歯が立ちません。コンパクトにまとめて、問題点を指摘してくれるシンポジウム資料などは有難い「教材」になります。

まず旧練兵場遺跡の地形復元図を見てみましょう。
この遺跡は、北流するふたつの川にはさまれた微髙地に立っています。ひとつは弘田川で有岡大池から流れ出し、誕生院の裏側(西)を取って北流していきます。遺跡の西側の境界となっています。
 もうひとつが中谷川で源流は大麻山東山麓の大麻で、四国警察学校に至り、大通り(県道24号)の側溝となって北流し、農事試験場の北東部のコーナで大きく西流し、甲山寺(四国霊場)あたりで合流します。ちなみに中谷川は現在は小さな川ですが、かつては金倉川の旧ルートであったようです。
この二つの川の合流点の南に旧練兵場遺跡は広がります。これまでに発掘調査が行われた面積は約2、2万㎡で、遺跡の全面積は約50万㎡と言われますからまだ4%しか発掘は終わっていないことになります。
旧練兵場遺跡 地形区分図

まず、遺跡の大きさを資料で確認しましょう
①弘田川と中谷川に挟まれたエリア面積は約50~70ha
②生活域となりうる微高地(周辺より高い地形)は約25ha
③水田などに利用された低地部分が20~40ha
発掘から復元された地形は、幾筋もの支流が流れ、その間にできた自然堤防のような微髙地の上に、それぞれの集落が現れます。地形復元については、以前にお話ししましたので省略します。
 これまで発掘された丸亀平野の遺跡と比べると、格段に規模が大きいことが分かります。
旧練兵場遺跡からは環濠が出てきません。
 これをどう考えるかは別にして、遺跡の範囲をどこまでとするかが難しいようです。微高地と微高地の間の低地部を含めて遺跡面積を計測すると、50haになるようです。これを吉野ヶ里遺跡(佐賀県)、池上・曽根遺跡(大阪府)、唐古・鍵遺跡(奈良県)などの各地域の環濠集落と比較するために縮尺を同じにして並べたのが下の図です。
旧練兵場遺跡 弥生時代の拠点集落規模

吉野ヶ里遺跡よりも広いのにびっくりします。しかし環濠をもたない比恵那珂遺跡群(福岡県)や、文京遺跡を有する道後城北遺跡群(愛媛県)と比較すれば、それらを下回る規模になります。環濠があるかどうかで、大きな違いがあるようです。
 それにしても、香川県内ではずば抜けて大規模な古代の集落跡であることは確かなようです。当時、西日本に姿を現しつつあった小国家のひとつだったのかもしれません。
旧練兵場遺跡のもう一つの特徴は、集落が継続して営まれていることだと研究者は考えているようです。
 弥生中期後半以後は、すべての微高地で建物が確認され、それが終末期まで続きます。弥生時代の全期間に渡って途切れることなく、集落が続いているのです。弥生時代の拠点集落は、中期末から後期にかけて廃絶するものがほとんどです。この現象を 「集団の再編成」などと研究者は読んでいるようです。しかし、具体的に何がどう変わったのか、一つの遺跡で追いかけることができるのは少ないようです。ところが、その断絶がなく継承している旧練兵場遺跡は「弥生社会の変化」が何であったのかを知ることができる「貴重な資料」でもあるようです。
旧練兵場遺跡 縦穴式住居変遷

住居の推移の中では、
①多角形住居が出現する後期後半
②方形住居に統一される終末期
に研究者は注目しています
①については、この時期に登場する多角形住居には南九州のいわゆる花弁形住居に似た「張出部」をもつものが見つかっているようです。ここからは、他地域の住居との影響がうかがえるようです。つまり、「平形銅剣=瀬戸内海文化圏」のリーダーとして、九州勢力や吉備勢力と活発な交流が始まったことがうかがえます。
②については、それまではいろいろな形だった住宅が終末期に方形住居に統一されます。しかも住居の方向性をみると、微高地のどの地区の住居も北から20°ほど東に振った方向に向いて建てられるようになります。それまでは建物方向はバラバラだったことから比べると、すべての集落がひとつのまとまりとして意識されるようになったことを示すものと研究者は考えているようです。これがオウとクニの誕生につながるのかもしれません。

旧練兵場遺跡 掘立柱建物変遷

<掘立柱建物>
掘立柱建物は住居でなく倉庫として使われたと研究者は考えているようです。
掘立柱建物(倉庫)が登場するのは中期後葉になってからです。梁行が2.5~3.5mで、桁行は短いものもあれば、長いものもある(図5-5)。出現期の中期後葉は面積が20㎡を超えるものが3棟出てきています。
 讃岐地域の中期の掘立柱建物の面積は、平均15㎡ほどであるから、それよりも一回り大きいことになります。
 面白いのは、面積の大小に関わらず梁行の長さは一定なのです。つまり、面積を大きくするには行方向に建物を伸ばしています。収納物の重量を主として桁柱で支える構造です。このような点も掘立柱建物を米や物資を蓄える倉庫とみる理由のようです。生産力と向上と、備蓄品の増加が背後にはあったのでしょう。  

旧練兵場遺跡 居住区1の掘立柱建物

もう一つの特徴は、柱穴が平面方形だと研究者は指摘します。
近隣の矢ノ塚遺跡・西碑殿遺跡や、庄内半島の紫雲出山遺跡で見つかった掘立柱建物の柱穴も方形だったようです。これは讃岐西部の特徴と研究者は考えているようです。
 掘立柱建物は、後期後半以後には姿を消します。
終末期も多数の竪穴住居はありますが掘立柱建物(倉庫)は見つかっていません。後期のある段階から倉庫姿を消す現象は、讃岐だけでなく吉備でもみられるようです。その背景については、後ほどに廻します。
  旧練兵場遺跡からは近畿地方の「方形周溝墓」、北部九州の「甕棺墓」などのような埋葬場所は見つかっていません。
ただ、小児用と推定される土器棺墓が後期後半に見つかり、終末期には一カ所にまとめられる傾向がみられるようです。
旧練兵場遺跡 石棺墓

  遺跡内に墳墓が作られるのは、弥生後期後半になってからです。
 仙遊調査区では人面を線画した箱式石棺が見つかっています。しかし、終末期になると遺跡内からは成人墓はなくなります。集落外に墓域を造るようになったようです。
旧練兵場遺跡 王墓山古墳石棺墓

周辺からは、王墓山古墳の下層に箱式石棺が集中する場所が見つかっています。
旧練兵場遺跡 香色山石棺墓

また香色山山頂周辺には、多数の土器棺や箱式石棺が出ています。このように終末期には、墓を集落の外に作るようになりますが、小児墓だけは集落内に埋葬され続けます。

微高地内には小規模な水路が網目のように流れます。
旧弘田川や旧中谷川から低地に網目状に伸びる小さな水路が数多く見つかっています。河川から伸びる水路は、弘田川と中谷川の合流点あたりの水田域に水を配る用水路であったと研究者は次のように指摘します。
居住域に近い水路は、生活雑器類の廃棄場ともなっていたようで、何回かの堀直しや人工的な埋め立てなど行われていた。水田維持のための用水路修繕や居住域の拡大などが埋め立てなども行われていた。

遺跡内で水田遺構はまだ見つかっていません。人口が増加するにしたがって、微髙地周辺の居住地が埋め立てられていきます。水田面積は次第に減少したと推定されます。遺跡内の水田面積は約18haだったと研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 弥生時代年代区分

発掘された竪穴住居の数からおよその人口を研究者は次のように推定しています
  後期後半には、西・東の2つの居住区をあわせて1500~2000人の人口規模だったします。そうすると18haの水田からの米の収穫量では、2ヶ月足らずになくなってしまいます。年間を通して、人口を維持するには、もっと広い範囲に水田が広がっていたと考えなければならないようです。
中谷川を北に越えると、金倉川の河川水系になります。
そこには九頭神遺跡をはじめとして、小規模な遺跡が点々と存在します。周辺の集落とは、弥生時代中期以来、利水の利害関係から始まり、水田維持・水路造成の労働力や矢板・杭など大量に必要となる木材、集団祭祀に必要な祭祀具など、様々な物資のやりとりが行われていたと研究者は考えているようです。
 例えば、旧練兵場遺跡では木材を伐採するための石斧は、3本だけです。一方で、天霧山東麓斜面から採集された石斧は、20本を超えています。ここからは、弘田川水系エリアでは、木材の伐採や粗製材が特定の場所や集団によって、比較的まとまった場所で行われ、交換・保管されていたことが予想されます。
 イメージを広げると、弘田川河口の多度津白方には海民集団が定住し、瀬戸内海を通じての海上交易を行う。それが弘田川の川船を使って旧練兵場遺跡へ、さらにその奥の櫛梨山方面の集落やまんのう町の買田山下の集落などの周辺集落へも送られていく。つまり、周辺村落との間には、生産物や物資の補完関係があったのでしょう。
 旧練兵場遺跡は丸亀平野西部の小国家として、周辺集落を影響下に置くようになっていったことが考えられます。それがその後の野田院古墳の造営につながっていくのかもしれません。周辺の集落の求めるものは、鉄でしょう。鉄を提供できることが指導者の条件だった時代だったようです。

住居の型式や倉庫のあり方など、集落の内容の変化に話を戻しましょう。
後期前半までは竪穴住居と掘立柱建物(倉庫)はセットで存在します。ところが、後期後半になると倉庫が姿を消し、終末期には住居が小形化し均質化して、方向も棟筋をそろえて配置されるようになるのは先ほど見たとおりです。何かしらの統制が加わったことがうかがえます。
 墳墓を見ると、後期後半に箱式石棺墓や土器棺墓が姿を見せます。そして、終末期には成人墓が集落の外部に設けられ、丘陵の上に作られるようになります。
このような動きの中で、最も重要な時期は後期後半にあると研究者は考えているようです。
  倉庫が姿を消したのは、それまで微髙地の集落単位で管理していた米などが、一括管理されるようになったからだとします。
後期後半からは鉄器・青銅器・装身具の出土量が増えます。伊予や吉備などの他地域の土器が出てくるようになるのもこの時期です。後期後半以降は、丸亀平野の周辺集落との関係とは別に、遠く離れた瀬戸内海の「小国家」の関係が活発化したことがうかがえます。
この時期の彼ノ宗調査区ST09では、小形倣製鏡がでてきています。
これはそれまでの平形銅剣や銅鐸などの青銅祭祀具が、古墳時代に引き継がれる「鏡」ヘと変化したことを示すものだと研究者は考えているようです。
旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡

鏡は、個人帰属的性格の強い祭器です。箱形石棺や古墳にも埋葬されるようになりますし、卑弥呼の鏡好きは有名です。シャーマン達は、自前の鏡で占うようになったのです。
人口が1000人を超えた旧練兵場遺跡は、それを統括する社会システムが必要になってきます。
  「約50年後に出現する前方後円墳(野田院古墳)は、この地域の首長の墳墓とみて差し支えない。」

と研究者は記します。
 先ほど見たように、終末期の住居が規格化されていたことを、それを住民に徹底させる階層社会が現れたとみることができます。つまり、オウ(首長・王)の登場です。
  しかし、強力な首長権力が外部からやって来て、この時期から急速に階層社会ヘと変化したとは研究者は考えません。継続して続いてきた旧練兵場遺跡からは、外部からの侵入者の存在や征服の痕跡は見えないからです。
 この時期に急速に組織強化が図られるのは、旧練兵場に居住する集団が積極的に外部との交渉を行い始めた結果だと研究者は考えます。対外的な活動や交渉の目的は「鉄」の入手でした。
 後期後半から終末期にかけて香色山の流紋岩が砥石として使用され始めます。それまでの石器用の砂岩や安山岩の砥石とはちがって、きめが細かく粘りのある石材です。その後、中世まで砥石石材として使用され続けています。このように、香色山の砥石から見ても後期後半に、鉄器化が急速に進んだのは明らかです。鉄資源を入手するために、瀬戸内海を広域的に動き回り、各地の拠点集落と交易や情報交換、人的な交流が求められるようになったのでしょう。単独で鉄を入手することが難しければ団結・連合も行います。それが前回お話しした「平形銅剣文化圏」の形成だったのかもしれません。鉄の入手なくしては、周辺集落をつなぎ止めておくこともできません。鉄の入手は、小国家の存続条件になっていきます。あるときには北部九州勢力に組入り、あるときには近畿勢力に荷担し、朝鮮からの「直輸入の仕入れ」に参加するなど、外交方針までもが鉄の入手とリンクする時代だったのかもしれません。
私が気になるのは、善通寺地域の初期首長は鉄の入手のために、何を「売り物」にしたのかという点です。

以上をまとめておきます
①旧練兵場遺跡では弥生時代中期から人口集中がみられ、同じ場所で人口密度を高めながら後期を迎えた。
②弥生時代後期後半以後の住居の変化や、祭祀具の変化から見て、首長権力という古墳時代に続く 下地が形成され始めていること
③後期後半~終末期の倉庫群や首長居館などの大形建物などはいまだ見つかっていない。
④古墳時代前期になると、突然集落内の住居が激減するが、この要因は明らかではない。

以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 森下英治  旧練兵場遺跡の集落構造 旧練兵場遺跡シンポジュウム資料 平成12年


2有岡古墳群2jpg
善通寺の背後の我拝師山や大麻山は、甘南備山の山容で霊山として信仰されてきたようです。ここからは、数多くの青銅器が出てきています。
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況

 善通寺・瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口と中細形銅矛1口が出土しています。出土地は分かりませんが大麻山からは大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。我拝師山遺跡では平形銅剣4口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。青銅祭器が一ヶ所に埋納されていたことから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀のあったと研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 銅剣出土2jpg

これらの青銅祭器を使って祭礼を行っていたのは、旧練兵場遺跡の集落の首長(シャーマン)のようです。かつては銅鐸と銅剣は
「銅鐸(近畿)文化圏と銅剣・銅矛(九州)文化圏のどちらかに属する勢力がせめぎ合うことを示す証拠」

のように云われてきました。しかし、島根の荒神谷遺跡からは銅鐸と銅剣が同時に埋葬されて出てきました。我拝師山からも、銅鐸と銅剣は一緒に出ています。今では、銅剣と銅鐸が相対立するシンボルとは考えられなくなってきました。
 この旧練兵場遺跡では、いろいろな青銅器祭祀を使って祭礼を行っていたと研究者は解釈するようになっています。
青銅祭器のエリア分類を確認しておきます。
①銅鐸は近畿地方を中心とした青銅祭器であり
②銅剣・銅矛は九州地方を中心として盛行したものである。
②の銅剣は、中細形銅剣と平形銅剣の大きく2つに分かれます。讃岐に関連するのは平形銅剣です。善通寺の瓦谷から出てきた平形銅剣をみてみましょう。

旧練兵場遺跡 平形銅剣
弥生時代中期 前1世紀~1世紀 長46.0㎝ 幅11.1㎝ 厚0.3㎝

銅剣は、弥生時代前期に朝鮮半島よりもたらされます。弥生時代中期には早くも国産化が始まりますが、その際に実用品であった武器形の青銅器は、大型化・祭器化してこんな形になるようです。身は薄く先も丸く、刃は研がれていません。武器としての実用性はまったくなくなっています。茎や樋が痕跡のようにかろうじて残るだけです。
 それでは、この平形銅剣はどんな地域から出てくるのでしょうか。
 旧練兵場遺跡 平形銅剣讃岐分布図

    香川県では、上の図から分かるとおり丸亀平野の善通寺周辺に集中していることが分かります。
 平形銅剣の出てくる範囲を愛媛に広げてみてみましょう
旧練兵場遺跡 平形銅剣愛媛分布図

  平形銅剣について愛媛県史には次のように記されています。
 愛媛の平形銅剣は41本と爆発的にその数が増加している。これらの地域別の内訳は東予地方17本、中予地方21本、南予地方3本となり、県下均一に分布しているとはいい難い。最も出土数の多い中予地方も一本を除いたすべてが、松山市の城北地域に集中している。特に石手川の右岸の扇状地の扇端部に近い松山市道後今市(もと一万市筋)から10本、樋又から7本、道後公園東から3本と、狭い範囲に集中している。これら平形銅剣を出土した三ヶ所はいずれも至近距離にあり、周辺には弥生中期から後期にかけての遺跡がほぼ全面にわたって分布している。この地域は水に恵まれた地域でもあり、古くから稲作が行われていたことは土居窪遺跡の調査によっても明らかである。
 これら東・中予地方の銅剣の出土分布をみると、沖積平野の広さと出土数との間に明らかに相関関係を認めることができる。このことは沖積平野における人口数、すなわち統合集団の数をあらわしているともいえるし、その埋納の状態から小国家群が統合される状況をうかがうこともできる。
   愛媛県からは銅鐸が出てきません。非ヤマト色の強いエリアなのです。出てくるのは銅剣と銅矛がほとんどです。その内の平形銅剣を見てみると、松山の特定地域に集中しているのが分かります。旧練兵場遺跡のような拠点になる弥生集落があったことが分かっているようです。そこからは「小国家群が統合される状況」が見えてくると指摘します。

旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏
青が平形銅剣の分布エリア

 ちなみに、芸予諸島の島嶼部からは出てきません。また、瀬戸内海の対岸である広島や岡山からは、出てきますが松山や善通寺に比べるとその数は少ないようです。松山と善通寺が平形銅剣文化圏の中心なのです。
 ここまでをまとめておくと
①北九州の銅鉾文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏の中間地帯にあって、平形銅剣が出土している広島・愛媛・香川・徳島・岡山南部は平形銅剣文化圏という一つの文化圏を形成している。
②その中でも平形銅剣は松山平野や丸亀平野の大規模集落周辺から多くが出土している。
③そのため平形銅剣は松山平野での作られた可能性も指摘されている。
また、平形銅剣を出土するエリア地域は、弥生中期末の凹線文土器の出土範囲と重なります。単に青銅器だけでなく、交易や文化・人的な交流が瀬戸内海を通じて、瀬戸内海の「小国家群」が舟で活発に行われていたことがうかがえます。善通寺の旧練兵場遺跡も、この瀬戸内海・平形銅剣エリアの重要メンバーだったことが推測できます。

「平形銅剣文化圏」形成の背景は何なのでしょうか?
 平形銅剣は、瀬戸内沿岸の小国家が新しく作りだした自分たちの独自のシンボルだったと研究者は考えているようです。その背景には、弥生時代中期(BC2C前後)になって、高まる北部九州の政治的権力の脅威に対して、瀬戸内のクニグニが抱くようになっていた強い政治的緊張があったとします。銅鐸でも銅矛でもない新しいタイプの祭器を採用し、そのもとでの「同盟・連合」を計ったというのです。それは北九州勢力への脅威に対抗するためだった推測します。
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2

 クニやオウが現れた弥生時代中期の動きを見ておきましょう。
それにはマツリの変化が手掛かりとなようです。
 北部九州で中期前葉(前二世紀後半)に始まった青銅のマツリの第1段階は、銅鐸と銅剣・銅矛の共存でした。
①北部九州では、銅矛と銅戈が祭器シンボルになっていきます。
②近畿周辺では、銅鐸が青銅祭器マツリのシンボルになります。
③その中で、瀬戸内は銅鐸と銅剣の共存を図りながらも、しだいに平形銅剣をシンボルとしていくようになります。
 こうして、中期後半(前一世紀後半~一世紀前半)第Ⅱ段階には、それぞれの地域が独自のマツリのシンボルを掲げだしたようです。
 なぜそんな現象が生まれることになったのでしょうか?
 それはいち早く国家を生み、苛酷な階級社会に足を踏み入れた北部九州と、未だ縄文的階層社会を引きずりながら祭祀的に統合をはかり国家を生み出しつつあった西日本との違い

と研究者は考えているようです。「国家統合の進んだ北九州、遅れた近畿」ということでしょうか。
 北部九州が銅剣や銅矛などの武器形青銅祭器を、シンボルとした背景には、小国家同士の戦いがあったようです。武力をもって自らのクニを守り、他を威嚇することが日常化した中では、武器形はシンボルとしては素直に受けいれられるオブジェだったのでしょう。
 一方、近畿周辺のいまだ緊迫感がさほど現実的でなく、農業の経済的発展を重視するような社会では、穀霊を加護し、生産の安定をはかってくれる呪器(銅鐸)がシンボルに選ばれたと研究者は考えているようです。

 旧練兵場遺跡で平形銅剣を使ったマツリが行われた時期は、いつなのでしょうか?
善通寺瓦谷からは製作時期が違う中細形銅剣、同銅矛、平形銅剣の3型式の青銅祭器が一括埋納されていました。古くから伝わっていたものを長く使っていたようです。その中で最も型式的に古いものは瓦谷7号中細形銅剣のようです。現在まで、中細形銅剣の最も古い鋳型は、九州と近畿で1例ずつ出土しています。(佐賀県姉遺跡中期初頭~中尋兵庫田能遺跡中期前葉末~中葉)。瓦谷の例は、これらより型式的には後のものになるようなので、平形銅剣の祭器が行われたのは中期後葉と研究者は考えているようです。
旧練兵場遺跡 弥生時代年代区分

漢書地理志が「楽浪海中に倭人あり 分かれて百余国をなす」と記す時代です。
高校日本史B】「『漢書』地理志」 | 映像授業のTry IT (トライイット)

百あまりの小国家のひとつが松山平野や丸亀平野にはあったのかもしれません。それは、平形銅剣文化圏の中心国であったとしておきましょう。
三豊市高瀬町北条出土の平形銅剣

旧練兵場遺跡で平形銅剣が使用されなくなった時期はいつなのでしょうか。
旧練兵場遺跡の西にあたる観音寺市の一の谷遺跡からは、平形銅剣の破片が柱穴に廃棄された状態で出土しています。破片の状態ということと、出土状況、再加工を施した痕跡があることなどから、青鋼祭器としての機能を失っていたものが再加工されて何かに使われていたようです。それがいつ頃のことなのかは、一緒に出てきた土器などがないのでよく分からないようです。しかし、一の谷遺跡が終末期の集落であることから、弥生終末期の時期には破棄されたと研究者は考えているようです。卑弥呼の登場が3世紀前半ですから、その50~100年前の倭国大乱以前のことになります。

旧練兵場遺跡の特徴の一つが弥生時代から古墳時代末期に至るまでの遺跡が継続して見られる事です。
平形銅剣マツリが行われていた当時の旧練兵場遺跡の集落を見てみましょう。
旧練兵場遺跡 変遷図4
 弥生時代後期初頭~前半(図6)

 この時期には居住エリアが12ケ所に増えます。これが「善通寺王国」の原型になるようです。
①居住域3は住居が密集し、人口密集率がもっとも高いエリアです。
②居住域3と居住域2の間の凹地からは、松山・吉備・西部瀬戸内・河内等の他地域からの搬入土器が集中して出ています。
③居住域3には九州タイプの長方形で2本柱構造の竪穴住居が豊前の搬入土器ととも出てきました。
④居住域2の竪穴住居内からも他地域からの搬入土器が出てきた。
ここからは、瀬戸内海を通じた交易活動が活発化し、瀬戸内海沿岸の小国家から搬入された土器が増えているようです。また九州タイプの住居や豊前の土器が出てくることは、そこからの移入者や「常駐駐在員」がいたことがうかがえます。外部との交流が活発化するにつれて、居住域2・3は、遺跡のコア単位に成長し、外部との交流を受け持つ施設に特化したようにも見えます。

青銅器マツリが終焉を迎え、平形銅剣などが埋葬された弥生時代終末期の旧練兵場遺跡を見てみましょう。
旧練兵場遺跡 弥生時代終末期
 弥生時代後期後半(図8)

居住エリアは15ケ所に増えています。旧練兵場遺跡のスタート時点では、善通寺病院地区の居住域3に遺構が集中していました。それが、この段階では、分散的な傾向を示すようになります。
①中でも居住域8は、竪穴住居が密集し「コア地区」で、その周辺に子集落が形成されています。
②居住域2で鍛冶遺構をもつ竪穴住居が確認されています。小さな鍛冶規模のようですが、鉄製品を王国内で自給できる体制が生まれたようです。これ以降には、確実に鉄器が増加していきます。
③居住域内に土器棺墓(群)が造られるようになります。人面文が描かれた仙遊遺跡の箱式石棺墓や土器棺墓も、この時期のものと研究者は考えているようです。 
 鉄の普及が集団を大きく変えていくことになるようです。鉄を手に入れるために、旧練兵場遺跡は何を見返り商品として提供したのでしょうか。疑問は膨らむばかりです。
青銅器データ集

 銅剣については小林行雄が、銅鉾が外洋航行に伴う祭器であるのに対し、平形銅剣は瀬戸内海沿岸にのみ集中して発見されていることから、内海の海の神への祭祀の祭器としています。
しかし、愛媛県や香川県の銅剣の出土地をみると島嶼部からの出土が全くありません。ここからは、平形銅剣を瀬戸内海の海上交通にかかわる祭器とすることはできないようです。また、松山市今市出土の平形銅剣には鹿の絵が鋳出されています。これは銅鐸の狩猟図と共通します。平形銅剣も豊作を祈り、あるいは農耕を称える農耕儀礼に使われたと多くの研究者は考えているようです。

 四国では見つかっている平形銅剣は136本です。その内、松山平野と丸亀平野で6割を占めるようです。この二つの地域を中心に、東進してくる九州勢力への脅威に備えるための連合のシンボルとされたのが平形銅剣を祭器とするマツリだったようです。
 そして、卑弥呼が現れる3世紀になると銅剣や銅鐸は埋められ、姿を消します。代わって登場するのが鏡になるようです。
旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

    1善通寺宝物館11

 この顔を最初に見たときには、お宅は何者?という印象でした。
今も善通寺の宝物館の階段を上がった入口に、白鳳瓦と並んで迎えてくれます。善通寺の創建に関わるものなのだろうと思いましたが、仏像とは思えません。金堂などの壁面に掛けられたものかと思っていました。後になって、これが善通寺創建当初の本尊と考えられていると知って、驚いたことを思い出します。

1善通寺宝物館10

 最近改めて、この仏頭にお会いする機会がありました。改めて、拝ませていただきました。この藁荷混じりの粘土に作られた仏さまのお顔のようです。
DSC04087

専門家の見立てを見てみましょう。
 長さが36.5㎝におよぶことなどから、丈六の如来像の面部にあたると推定される。表層仕上げの中土がほとんど失われ、鼻先などを欠失する。
 しかし、稜線を隆起させて大きな弧を描く眉や、蒙古装を明瞭に刻んで上瞼を微かにうねらせつつ目尻をあげる細い目、口角を強く引き締めた唇、頬のふくらんだ顔の輪郭など、総じて整ったバランスと厳しさをしめすその顔立ちには奈良時代中頃の仏像に共通する趣が感じられる。
 奈良時代の塑像は国分寺・国分尼寺の造営などにともない全国的に展開したと推定され、断片も各地で発掘されているが、そのなかにあっても本品のような大型面部の遺存は稀であり、また正統的な作風から中央と密接な関係にあった工人の手になることが推測されるなど、当時の讃岐地方の先進性を知るうえで貴重な遺品として注目される。
 粘土で作られた奈良時代の大型仏像で、「中央の工人による正当な作風」と評されています。

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奈良時代と云うことは、空海の生まれた時代です。善通寺は、佐伯氏の氏寺として白鳳時代に創建されたとされます。奈良時代になって本尊として作られ安置されたものということが考えられます。
この「如来系頭部」について、後世の史料が、どう伝えているのかを見てみましょう。

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 江戸時代の元禄九年(1696)の『霊仏宝物目録』には、善通寺の宝物一覧リストです。その一番最初に次のように記されています。
  土彿薬師如来 
四階金堂之本尊 則弘法大師自作而丈六之尊像也」

ここからは
①如来系頭部が土仏と呼ばれ薬師如来で
②金堂の本尊で
③弘法大師作の丈六尊像
と伝わっていたことが分かります。
 13世紀の道範の『南海流浪記』 から分かることは?   
DSC04101

高野山の寺務を掌る執行という地位にあった道範は、金剛峯寺と大伝法院との間で起きた紛争の責任を取らされて、讃岐に流されました。仁治四年(1243)正月のことです。彼が建長元年(1249)五月に赦されて高野山に帰るまで六年間の讃岐生活を綴った『南海流浪記』は鎌倉中期の讃岐の様子を知る好資料です。道範は守護所のあった宇多津の橘藤左衛門高能という御家人のところに預けられましたが、行動はある程度自由だったようで、3月には高野山の開祖空海の誕生地善通寺を訪れています。
 道範が見た善通寺は、創建当時の堂舎・宝塔などの多くは失なわれて礎石だけになっていたようです。
しかし創建時の金堂は残っていました。この金堂は二階七間で、空海が学んだ唐の青竜寺を模して、二階に少し引き入れて裳階(建物の軒下壁面に造られた廂様の差掛)があるので、四階の大伽藍のように見えたと次のように記しています。
「御作ノ丈六ノ薬師三尊四天王像イマス。皆埋(握)佛ナリ。後ノ壁二又薬師三尊半出二埋作ラレタリ」

ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師御作の丈六の薬師三尊と四天王が安置されていたこと
②これらはみな埋仏(提仏の誤りで、粘土で作った塑像のこと)だったこと
③うしろの壁にも薬師三尊が浮彫(埋作)されていたこと

当時の善通寺金堂は、どんな姿をしていたのでしょうか。
  それをうかがわせてくれるのが道範が去ってから約半世紀後の徳治2年(1307年)に製作された「善通寺ー円保差図」です。ここには善通寺周辺の寺領(一円保)と条里制・灌漑用水などが書き込まれています。
金倉川 10壱岐湧水

東院と西院を拡大して見ましょう
1善通寺一円保

14世紀初めの善通寺には、4階建てに見える本堂を中心に、多くの堂宇が立ち並んでいたことが分かります。
  中央のAが金堂のようです。
道範は、次のように証言しています。
「二階七間也、青龍寺の金堂ヲ被摸タルトテ、二階二今少々引入リテ層あるが故二、打見レハ、四階大伽藍也、是ハ大師御建立、千今現在セリ」

と証言しています。青龍寺は、唐密教を空海に授けた恩師の寺の名です。それを模したお寺だといいます。そうすると、善通寺は8世紀末に建立された白鳳期の寺院とされているので、この建物は創建時ものではないことになります。「空海建立」とすれば、その後の9世紀に空海が再建・修造したことになります。
  金堂の左下にあるのがBが。宝塔か法華堂のようです
「本法花堂卜云フ、大師御建立二重ノ宝塔現存ス、本五間、令修理之間、加前広廂一間ヲ云々」
とあります。
宝塔の左下はC護摩堂で、道範の時代には「破壊」していたとあります。ここに記されているのでその後に再建されたのでしょう。
宝塔の左上、金堂の横にあるのがDが御影堂。
金堂の下にあるのはE講堂、
右下はF常行堂のようで、
「七間ノ講堂ハ、破壊シテ後、今新タニ造営」
「五間常行堂御作ノ釈迦ノ像イマス、同ジク新二造立」

と記されています。
境内を示す四角枠の上辺中央のGが南大門でしょう。
そばには大きな松が描かれています。道範はこれを
「其門ノ東脇二、古大松、寺僧云、昔西行、此松ノ下二七日七夜籠居」

と書き残してくれています。西行は、当時の知識人の憧れる人物でした。西行と関係のある所は、「聖地」扱いされていました。西行は、崇徳上皇の御霊をともらうために讃岐白峰寺に、仁安二年(1167)にやってきます。その後は、空海の生誕地である善通寺の背後の霊山である我拝師山近くに三年間逗留します。空海が捨身行を行った行場で修行を行ったようです。『山家集』にも我拝師山・筆の山に登ったこと、伽藍四門の額が破壊されて心細かったことなどが書かれています。西行は、歌人として有名になりますが、高野の念仏聖でもあったことをうかがわせてくれます。
伽藍から誕生院(西院)にむけて二本の直線が描かれています。
「金堂の西に一ノ直路有り、 一町七丈許りなり」

と書かれたこの道を進むと、板葺の唐門に正面の築地塀、三方柴垣の誕生所に至ります。中央の建物は、建長元年(1249)建立の道範自身か導師となって鎮壇法を修した御影堂のようです。この年に、道範は許されて高野山に帰っていきます。
善通寺一円保絵図 伽藍拡大図jpg

一円補差し図をもう一度見てみましょう。金堂の上には、縦に二つ点線の四角が見えます。
金堂すぐ上のものには真ん中に小さな丸があります。これが塔の心礎のようです。
『平安遺文』に延久二年(1070)に、大風のため転倒したと記される五重塔跡のようです。だと研究者は考えているようです。こうしてみると、善通寺の伽藍配置は四天王寺式だったようです。
 さらによく見ると、金堂の右手鐘楼のすぐ右に、やはり点線の四角があります。これも西塔跡ではないかと研究者は指摘します。鎌倉末期の善通寺文書に「両基の塔婆顛倒せしむるによって……」とあります。ここからは「両基の塔婆=ふたつの塔」があったことがうかがえます。
この一円補差し図は、いろいろなことを教えてくれます。

その後の善通寺は、永禄元年(1558)の阿波の三好実休の天霧城攻防戦も際に、本堂は焼け落ちたと伝えられます。
この「土仏(埋仏)」の裏面には、火中痕跡が残っています。善通寺の金堂基壇の南側からは奈良時代中葉以前の瓦が大量に出土しています。「南海流浪記」に記される「金堂後壁に半出の薬師三尊」が、現在の宝物館に展示されている「如来系頭部」と研究者は考えているようです。

今までのことをまとめておきましょう。
①白鳳時代に条里制に沿う形で善通寺は、佐伯氏によって建立された
②奈良時代に本堂には塑像の丈六薬師如来像が安置された
③鎌倉時代にやってきた道範は、それを見ている
④戦国時代の阿波三好氏の天霧城攻防戦の撤退時に本堂は焼け落ち、頭部だけが残った
⑤江戸時代には、仏頭は創建時の薬師如来のものであると伝えられてきた。
ここからは、この仏塔が善通寺創建時からの本尊釈如来像である可能性が強いことが分かります。そうだとすると、空海は幼い日からこの薬師如来を身近に見てきたことになります。もちろん現在の姿とは大きく異なっていたものでしょうが・・・。
 そして、この薬師さまは、幼い日の空海の見守っていたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

日 本史ナビ

藤原宮は本格的な条坊をもつ最初の古代都城でした。

また初めて宮城の建物屋瓦を葺いたことで も知られています。宮城の建物を瓦葺するためには、古代寺院の数十倍の屋瓦が必要になります。しかも、寺院のように着工から落慶法要までに何十年というわけにはいきません。短期間に生産する必要があります。
 その問題を解決するために取られてのが、地方に新たに最新鋭の瓦工場を作って、そこから舟で貢納させるという手法です。この手法は、どのようにすすめられたのか。またこの手法に従って、どのように宗吉瓦窯は新設されたのかを見ていきたいと思います
宗吉瓦窯 藤原京

藤原宮から出土した瓦は、製作技法・使用粘土・瓦デザインの違いか ら次の15グループに分けられています。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地2
それを具体的に見ると
①大和盆地内では、日高山瓦窯、高 台 ・峰寺瓦窯、内 山 ・西 田中瓦窯、安養寺瓦窯、
②大和盆地外では、近江、讃岐三豊の宗吉瓦窯、讃岐東部、淡路の土生寺窯、和泉地域
 で生産して供給されたことが分かります。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地

この内の②の大和以外のグループの立地については次のような共通点があると研究者は考えているようです。
①国家的所領に立地する
②藤原宮へ舟で瓦を運べる条件がある
③中央で編成された造瓦技術者集団が派遣されている
この3つの条件が宗吉瓦窯に、当てはまるのかどうかを検討していきましょう。  
この絵は三野湾に隣接した7世紀末の宗吉瓦窯を描いた想像図です。
宗吉瓦窯 想像イラスト

十瓶山北麓の斜面にいくつもの登窯が作られ煙を上げています。ここでは当時建設中の藤原京の宮殿に使用する瓦を焼くために、フル稼働状態でした。この想像図に書き込まれている情報を読み取っていきましょう。斜面にはいくつもの登窯が見えますがよく見ると3グループに分かれています。
①北側裾部(右)に左から順番に1号から9号までの9基
②その南(中央)に、左から10号から16号までの6基
③南側(左) 17号から23号窯の6基
 が平行に整然ならんでいます。南に少し離れて11号窯があります。発掘の結果、このように23の大型瓦窯があったことが確認されました。まるで瓦工場のようです。
  その横を流れるのが高瀬川になります。
高瀬川は、すぐ北で海に流れ込んでいます。当時の三野湾は南に大きく湾曲していて、宗吉瓦窯の近くまで海が迫っていたようです。海に伸びる道の終点は何艘もの小型船が停泊しています。そこに積み上げられているのが瓦です。瓦は小型船で、沖に停泊する大型船に積み込まれます。そして、瀬戸内海を難波の港まで渡り、大和川を経て大和に入り、藤原京まで舟で搬入されたようです。藤原京には、工事用のための搬入運河が作られていたことが分かっています。

宗吉瓦窯 藤原京運河
藤原京と運河

 藤原京建設の進展具合を見てみましょう
天武 5 676 新城、予定地の荒廃により造営を断念
天武 9 680 皇后の病気平癒のため誓願をたて、薬師寺建立を発願
天武13 684 天皇、京内を巡行し、宮室の場所を定める
朱鳥元 686 天武天皇崩御
持統 6 692 藤原の宮地の地鎮祭を行う
持統 8 694 藤原遷都
持統 9 695 公卿大夫を内裏にて饗応
持統 10 696 公卿百官、南門において大射
文武 2 698 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
大宝元 701 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
       天皇、大安殿に出御し祥瑞の報告を受ける

藤原京の建設が進む7世紀末には、この宗吉瓦窯はフル稼働状態で、作られた瓦が舟で藤原京に貢納されていたようです。
宗吉瓦窯 窯内部写真

 発掘が行われた17号窯を見てみましょう。
一番南側の窯になります。山麓を掘り抜い た全長約13m、幅 約2m、高さ1,2~1,4mの大型で最新鋭の有段式瓦窯です。この瓦窯からは、平瓦、丸瓦とともに、軒丸瓦、軒平瓦、熨斗瓦などが出土しています。その工法は、粘土板技法によるもののようです。
 また、軒丸瓦は単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので、これは三豊市豊中町の妙音寺から出てきた瓦と同じ型から作られた「同笵瓦」です。

3妙音寺の瓦

また、一番北側の8号瓦窯からは重弧文軒平瓦、凸面布目平瓦などが出土しています。その中の軒瓦は、以前にもお話しした通り丸亀市郡家の宝幢寺池から出てきたものと同笵です。ここからは、この宗吉瓦窯で作られた瓦が三野郡の妙音寺や多度郡の仲村廃寺や善通寺、那珂郡の宝憧寺に提供されていたことがわかります。

さらに、17号や8号で周辺寺院への瓦が提供された後に、藤原京用の瓦を焼くために多くの窯が作られ、フル稼働状態になったことも分かってきました。今までの所を整理しておきます

宗吉瓦窯は
①讃岐在地の有力氏族の氏寺である妙音寺や宝幢寺の屋瓦を生産するための瓦窯として最初は登場
②その後、藤原宮所用瓦の生産を担うに多数の瓦窯を増設された。
 この想像図に書かれたような当時のハイテク最先端の瓦工場が、どのようにして三豊のこの地に作られるようになったのでしょうか?

讃岐三野湾周辺の歴史的背景をみておきましょう。
 宗吉瓦窯が設けられた三野津湾は、古代には大きく南に湾入していたようです。
1三豊の古墳地図

周辺の古墳時代後期の古墳としては、宗吉瓦窯の約西北1,5kmに汐木原古墳、大原古墳、金蔵古墳などがありますが、首長墓とされる前方後円墳は見当たりません。ここからは古墳時代の三豊湾には有力首長がいなかったことがうかがえます。
 ところが蘇我氏が台頭してくる6世紀後半代には、三豊湾の東岸に三野古窯群が操業を始め、窯業生産地を形成していきます。

三野平野2

三野古窯群の「殖産興業」を行った勢力は、何者なのでしょうか?
『 先代旧事本紀』の「天神本紀」に、三野物部のことが記され、三豊湾から庄内半島にかけてを三野物部が本拠地としていたことがうかがえます。三野物部は、「天神本紀」に筑紫聞物部、播磨物部、肩野物部などと一緒に記されています。これは、中央の物部氏が九州から瀬戸内海、河内の要所の港津を掌握していたことと深く関連すると研究者は考えているようです。
 つまり朝鮮半島や九州と最重要ルートである瀬戸内海の拠点として、物部氏の拠点が置かれていたと云うのです。それは、三野物部が庄内半島や三野湾を拠点に、交易・軍事・政治的活動を行ったとも言い換えられます。この説によると、三野物部によって先ほど見た三野古窯群も、朝鮮からの渡来技術者を入植させることで「殖産興業」化されたことになります。しかし、物部氏は用明天皇2年(587)に、蘇我馬子・厩戸皇子と争いに敗れ滅びます。
それでは、三野湾の周辺の支配権はどうなったのでしょうか?
敗者である物部氏の所領は、勝者である蘇我氏が接収したようです。しかし、蘇我氏も、皇極天皇4年(645)の乙巳の変(大化の改新)によって、蘇我蝦夷・入鹿が中大兄 皇子・中臣鎌足らに倒され、滅亡します。
 後に成立した養老律では、謀反などによる者の財物は、親族、資財、田宅を国家が没収すると規定 されています。没収財産は、内蔵寮、穀倉院など天皇家の家産機構にくりこまれることになっています。蘇我本宗家の滅亡の場合も、 同じような扱いになったのではないかと研究者は考えているようです。
つまり三野湾一帯の所領は、次のように変遷したと考えます
①瀬戸内海交易の拠点として物部三野が支配
②物部氏が蘇我氏に倒された後は、蘇我氏の支配
③乙巳の変(645)以後は、天皇家の家産財産化(国家的な所領)
 このように7世紀末に三野湾には、物部三野が残した大規模な三野窯跡群が所在し、その周辺 に国家的な所領があったと想定できます。
この状況を先ほど見た瓦窯設置条件から見るとどうなのでしょうか。
①周辺に先行する須恵器生産地がある。
  ここからは瓦製造に必要な粘土があること、また須恵器生産を通じて養われたノウハウや技術者が蓄積されていたと考えられます。
②国家的所領があること
 これは、労働力を徴発したり動員できること、燃料の薪も入手できることを意味します。7世紀末の時点で、すでに三野湾東部では燃料となる木材は伐採が進み、山は次々と禿げ山になっていたようです。そのため伐採がすすんだエリアの窯を放棄して、須恵器窯は山の奥へ奥へと移動していきます。しかし、国家的な事業であれば周辺の山々の木材を伐採することができます。少々遠くても、三野郡の住人を動員すればいいと担当者は考えるでしょう。どちらにしても、薪は今までのエリアを越えて集めることが出来ます。燃料供給に問題はありません。
③物部氏が運用してきた港津がある
 これは舟で近畿と結びついていることを意味します。郷里は遠くとも大量の製品を舟で藤原京まで運べます。藤原京造営のため京城内部まで運河が掘られていたことが発掘からは分かっているようです。
 以上のような好条件があったことになります。
中央の政策立案者達は、中央の進んだ造瓦技術者集団を派遣し、地元の須恵器工人たちに技術指導を行うことで、新たな造瓦組織が編成できると考えたのでしょう。あとは、製造技術や管理集団です。
 それでは、藤原京造営計画の中心にいた人物とは誰なのでしょうか。
  研究者は、平城遷都が右大臣藤原不比等の計画によって進めたとしますが、それに先立つ藤原宮の造営でも不比等が第1候補に挙げられるようです。地方に技術者を送り込み、新設工場を設置して、運営は地元の有力豪族に委託するというやり方は不比等周辺で考えられたとしておきましょう。
1 讃岐古代瓦

この時期に窯業などの先端技術を持つ人たちは、渡来人でした。
 彼らの中には、新羅・唐の連合軍の侵攻の前に国を追われ、倭国にやってきた百済の技術者が数多くいたはずです。百済滅亡時には、先端技術を持った多くの渡来人達がやってきてます。真っ先に国を逃げ出し、政治的亡命を行うのは高位高官者に多いのは今でも同じなのかもしれません。
 どちらにしても、地方における古代寺院の建立を可能にしたものは、彼らの存在を抜きにしては考えられないでしょう。ハイテク技術を持った技術者は、最初は中央の有力者の氏寺の建立に関わります。

宗吉瓦窯 川原寺創建時の軒瓦
川原時の古代瓦
それが川原寺であり、本薬師寺であったのでしょう。藤原不比等も氏寺の造営を行っているようです。中央で活躍していた技術者達に、地方への転勤命令が下されたのです。それは藤原京の瓦造りのためにでした。
  宗吉瓦窯にやってきたのは、大和の牧代瓦窯からやってきた瓦技術者だったと研究者は考えているようです。
なぜ、そんなことが分かるのでしょうか。それは、瓦のデザインの分析から分かるようです。
宗吉瓦窯 牧代瓦窯地図
研究者は次のように考えているようです。
①大和の2荒坂瓦窯は川原寺の屋瓦を生産した有段瓦窯で、当時の最新鋭の設備と技術者によって運営されていた
②2荒坂瓦窯は川原寺の瓦生産が終了すると、瓦技術者たちは近くの1牧代瓦窯に移って本薬師寺用の瓦生産に取りかかった。
③本薬師寺へ屋瓦を供給することが終了した段階で、牧代瓦窯の造瓦組織は解体されいくつかの小規模なグループに再編成された
④それは、藤原宮用の瓦生産を行うためで、各グループが地方に技術指導集団として派遣された。
⑤藤原宮用瓦の生産を行った讃岐、和泉、淡路の瓦工場は、互いに密接な関連もっていた。
①から②の移動は、燃料となる薪の木材を伐採しつくしたので、新たな場所に瓦窯を移したようです。それも含めると、瓦技術者集団は、つぎのように移動した研究者は考えているようです。

2荒坂瓦窯 → 1牧代瓦窯 → 小グループに再編され讃岐、和泉、淡路の瓦工場への派遣

この際に①や②で使われていた軒平瓦の版木デザインを、宗吉瓦窯の新工場にも持ってきて、それに基づいて忍冬唐草文の文様を書いたとします。こうして、大和から讃岐への瓦技術者の移動が明らかにされているようです。そのデザインの変化を見ておきましょう。

宗吉瓦窯 軒平瓦デザイン
牧代瓦窯6647Gに類似する文様には、讃岐東部産(長尾町)の6647Eと讃岐三豊の宗吉瓦窯6647Dがあります。3つの瓦は
①8回反転の変形忍冬唐草文で、
②半パルメット文様が特殊な形状をなし、
③右第1単位の右斜め上に三日月形の文様
 があります。
④半パルメット、渦巻形萼、蕾の表現からみて、
牧代瓦窯6647G→讃岐東部産6647E→半パ ルメットが全て上向きに表現する宗吉瓦窯6647Dの順にくずれていることを研究者は指摘します。(図5)。 
  ここからは讃岐で生産された藤原京用の平瓦のデザインは、大和の牧代瓦窯で働いていた技術者集団がもたらし、その指導の下に作られたことがうかがえます。

宗吉瓦窯 宗吉瓦デザイン
宗吉瓦窯の瓦 

再度確認しておきます。牧代瓦窯―本薬師寺系列の軒瓦は、
①本薬師寺の造瓦組織(最先端技術保有集団)を解体し
②和泉、淡路、讃岐東部、讃岐三豊産の宗吉瓦窯などへ派遣された造瓦技術者が
③粘土板技法によって藤原宮所用瓦の生産にかかわった
ということになります。
こうして新たな京城の宮殿瓦を焼く工場新設という使命を受けて、中央から技術者集団が三豊にもやってきたようです。
三野 宗吉遺2

彼らは、どのような基準で瓦工場の立地を決めたのでしょうか。
 古代も現在も瓦工場には、瓦に適した粘土・薪(燃料)・水・交通・労働力などが必要です。その中でも粘土と薪と水は、瓦つくりには必須です。まず粘土のある場所と、地下水などの水が豊富なこと、港に近く積み出しに便利なことなどが選定条件になります。それらを満たしていたことは、先ほどの復元図から読み取れます。
宗吉瓦窯 瓦運搬ルート

 薪は今までは伐採が許されなかったエリアから伐採が可能になったようです。庄内半島方面から切り出してきた形跡が見えます。薪の運搬ルートも考えて選ばれたのが十瓶山北麓の丘陵斜面である宗吉だったのでしょう。これは今まで、須恵器窯群があった三野湾東部ではなく、湾の南側になります。

1 讃岐古代瓦no源流 藤原京
 労働力は
①薪の伐採・運搬
②粘土の掘り出し
③焼きあがりの瓦の運搬
④製造工程の職人
が考えられます。これらの管理・運営は担うことになったのが、地元の有力者である丸部氏(わにべのおみ)ではないのかというのは以前にお話ししました。
 讃岐国三野郡(評)丸部氏は、7世紀後半に都との深いつながりをもつ人物を輩出します。
天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手です。君手は、壬申の乱(672年)の際に美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーでした。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
出来事を並列的にとらえる -『鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台』(2)- : 発想法 - 情報処理と問題解決 -

 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、讃岐最初の古代寺院・妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と考えることができそうです。豊中町の妙音寺周辺に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 
ちなみに丸部氏が讃岐最初の氏寺である妙音寺を建立するのは、宗吉瓦窯工場新設の少し前になります。その経験を活かして隣の多度郡の佐伯氏の氏寺善通寺や那珂郡の宝憧寺(丸亀市郡家)造営に際しても、瓦を提供していることは先述したとおりです。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったようです。

 このような実績があったから藤原不比等から役人を通じて、次のような声がかかってきたのかもしれません。
新たに造営予定である藤原京の宮殿は、なんとしても瓦葺きにしたいとお上は思っている。板葺宮では、国際的な威信にもかかわる。そこで、新たな瓦工場の設置場所を選定している所じゃ。おぬしの所領の近くの三野湾周辺では、いい粘土が出るようじゃ。それを使って、須恵器も焼かれていると聞く。
 そこでじゃが先の壬申の乱の功績として、おぬしの実家の丸部氏に氏寺の建立を許す。完成すれば、讃岐で最初の寺院になろう。名誉な事じゃ。もちろん建立に必要な技術者達は、藤原不比等さまが派遣くださる。氏寺建設に必要な瓦窯を作って、そこで瓦を焼いてみよ。うまくいけば周辺の氏寺建設を希望する氏族にノウハウや瓦を提供することも許す。
 そうして出来上がった瓦の品質がよければ、藤原京用の瓦に採用しようというのじゃ。その時にはいくつもの窯が並んだ、今まで見たこともない規模の瓦屋(瓦窯)が三野湾に姿を現すことになろう。たのしみじゃのう。
 ちなみに大和国までは舟で運ぶことなる。その予行演習もやっておけば不比等さまは、ご安心なさるじゃろう。詳しいことは、瓦の専門家グループを派遣するので、彼らと協議しながら進めればよい。どうしゃ、悪い話ではないじゃろう。 
 という小説のような話があったかどうかは知りません。
現在の工場誘致のように丸部氏側が、不比等に請願を重ねて実現したというストーリーも考えられます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  
宗吉瓦窯 ポスター

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 小笠原好彦    藤原宮の造営 と屋瓦生産地
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DSC00279

宝憧寺の伽藍は、近世に池となってその底に埋もれていきました。しかし、冬には水が抜かれて池干しされると、いろいろなものが採集されているようです。瓦破片以外に、池から出てきたものを今回は見ていくことにします。
南海道 宝幢寺塔心礎発掘

まずは、銅製水煙片です。
水煙は五重塔の尖端に付けられた相輪の一部分で火焔状をした装飾です。1977年に塔心礎より約30m東から出てきているようです。
宝憧寺 水煙破片

 心礎に加えて水煙の一部が出てきたことで、ここに塔が建つていたことを補強するものになります。


梵鐘鋳型と同撞座の鋳型も出てきています
 1976年に宝憧寺池の東側にある堤防の内側から発見されました。梵鐘の鋳型片など40数点の破片で、それを復原すると梵鐘の鋳型であることが分かりました。鐘の内径は約53㎝で、この鋳型で鋳た梵鐘の外径は約50㎝余りだったと推定されます。鋳型があるということは、出来上がった鐘が運ばれてきたのではなく、鋳物師が現地になってきて宝憧寺の近くで、梵鐘を造ったということなのでしょうか。
 鐘の鋳型と同時に撞座の鋳型も見つかっています。撞座は八葉複弁蓮華文で、直径9㎝で弁間に間弁がなく、雄蕊帯には莉が略されているようです。研究者によると「十五世紀前半のもの」されています。古代寺院のものではありませんが、15世紀前半まで宝幢寺が活動を行っていたことが分かります。また、讃岐の鋳物師が造った可能性も指摘されています。

 十一面観音木像    今は国分寺町の鷲峰寺に
 金倉寺にある記録「当寺末寺之事」の項目の中に宝撞寺のことを次のように記されています。
 一、此寺は清和天皇貞観年中(859)智証大師開基にて 自作の聖観音を以て安置の精舎也。即大師開基十七檀輪中の其一にて堂塔僧院数多こ校あり候所、永正、天文の争乱に伽藍残らず破壊仕り、其寺跡用水池と相成宝瞳寺池と云う。今池中大塔の礎一つ相二戮古瓦等多御座候バ  

ー、十一面観音木像 右は宝鐘寺池中より掘出し候て、郡家村社内に相納これあり候所、其後御城下 西新通町秋田屋三右衛門彩光を加えヘ 鵜足郡川原村神宮寺へ移し、これを安置す。
前半部については、前回にも紹介しましたの省略します。後半部のみ意訳すると
十一面観音木像は、宝鐘寺の池の中より掘出し、郡家村社内に保管していた。その後、丸亀城下 西新通町秋田屋三右衛門が彩光を加えヘ、鵜足郡川原村神宮寺へ移し、安置した。

ここからは、江戸時代に土手の土中から観音さまが現れたことが記されています。丸亀城下の職人が採色し、丸亀市飯山町坂本の旧川原村の神宮寺へ安置したとあります。しかし、現在はここにはありません。
神宮寺は明治の神仏分離で廃寺となり、本寺である国分寺町の鷲峰寺に移されました。
鷲峰寺 じゅうぶじ 高松市国分寺町 – 静地巡礼
鷲峰寺
 
鷲峰寺は鎌倉時代に、西大寺流律宗の拠点して再興されたお寺のようです。鎌倉時代作とされる四天王像が収蔵庫にいらっしゃいます。興福寺北円堂に安置されている四天王像をモデルにして作られているとされ、像の大きさは1mくらいであまり大きいものではありません。少し穏やかめの四天王という印象です。四天王像とともに安置されているのが十一面観音像です。これが宝憧寺から掘り出された「泥吹観音」のようです。
f:id:nobubachanpart3:20110617212418j:image

  収蔵庫の扉口から拝ませていただくと、左胸前に水瓶を持つ立像姿です。室町時代中期か後期の作とされる等身大の美しい観音さまです。信者の方は「ごみ吹観音」「泥吹観音」と親しみを込めて呼んでいるそうです。それは、池中から掘り出され神宮寺に安置されたときからのニックネームだったようです。

DSC00286

 なぜ土の中に埋められていたのでしょうか。
滋賀県の渡岸寺の国宝十一面観音も、織田・浅井の兵火の際、信者が地中に埋めて難を逃れたと伝えられます。戦乱の中で仏様をお守りする一つの方法が土中に埋めるという方法だったのかもしれません。
 阿波の三好氏か土佐の長宗我部の侵攻の際に、一時的に埋められたのでしょう。しかし、お寺は廃寺となり、観音さまはそのまま土中に放置されたのが、江戸時代になって掘り出されてということなのでしょうか。この観音さまが室町時代の作ととするなら、それまでは宝幢寺は存続していたことになります。
  薬師如来像
 宝憧寺池築造の時に出土したようで、現在は重元の照光寺に安置されているようです。高さ50㎝の木像の薬師如来で、その後に補修され今では、金箔の美しい像となっていると云います。薬師さまと一緒に現れた子持薬帥の石仏と手洗鉢も昭光寺にあるようです。

  石造観音像と石仏
 明治40年ころに宝憧寺池の北堤にある水門の東方約70mの池中から出てきたと伝えられています。長福寺(現在廃寺)へ安置されたようです。掘り出した石像は、二体の観音座像で、いずれも高さ38㎝です。同時に掘り出した光背のある石仏は、重元にあ墓地の六地蔵の傍らに安置されているようです。

宝幢寺池周辺から出てきた仏達や遺物を見ると、戦国時代に至るまで宝幢寺が宗教活動を行っていたことが分かります。
戦乱で荒廃した宝憧寺が復興されることはありませんでした。そして、江戸時代になり土器川の氾濫原の新田開発が進むにつれて、水不足が深刻化し用水確保が急務となります。そして、荒廃したまま放置されていた寺域がため池化されることになったようです。
  
 神野神社前から真っ直ぐに伸びる参道を東に行くと皇子宮に至ります。
宝憧寺 小笠原家顕彰碑

ここには「小笠原家顕彰碑」(1968年建立)が建っています。江戸時代に宝憧寺池を築いた時、そこにあった皇子宮をこの地に移すため、土地と移築費および維持費として八反余の田を寄進した小笠原家に感謝の意を表したものです。見てみましょう。
宝憧寺 小笠原家顕彰碑2
       小笠原家顕彰碑
 小笠原家は、元備前小串乙岡山巾南辺での城主であったが、応永年中(1394)当郡家郷三千石を領し名主として領家に住し、爾来地方文化政治経済の開発に貢献した。殊に宝憧寺廃寺跡に溜池を築造するに当り、宝瞳寺鎮守神皇子神社も亦池中に埋没するにつき、寛文十二年(1672)小笠原与右衛門景吉自費で八代荒神の側に新に社地を卜し、移築費と維持費として下記の土地を永代寄進されたが、大東亜戦争後の農地解放によりすべて解放された。
 惟うに斯くの如く小笠原家の恩恵は永く当代に及び稗益する所実に大である。依って郷土の人々挙って往事の遺徳を追慕し、共に相謀りて碑を建て 茲にその功績を顕彰する。
  昭和四十三年四月 (世話人、建設者略)
 小笠原家は、戦国末期の仙石秀久のころは在野にあったようです。松平初代頼重の時代には、召されて郷侍となり十石を支給されます。その後、周辺荒地の開墾などの功により加増され26石となります。その後、高松領、丸亀領、金刀比羅社領地の境改めの役を申し付けられたり、那珂郡の大政所(大庄屋)を勤めるなど、江戸時代は郡家の名家だったようです。
 明治維新には郡家小里正であったため、明治4年9月の旧藩知事松平頼聡の在国嘆願のため東讃より起こった騒動で家を焼かれます。さらに2年後には三豊郡から起こった血税一揆によって、新築したばかりの家をまた焼かれてしまいます。維新後の目まぐるしく変わる世の中にあって、小笠原家は戸長として村のため力を尽くしたようです。戦後になって顕彰碑が建てられています。

 ここからは、今の皇子神社は宝幢寺池の敷地内にあったのが、池の建設に伴い現在地に移動してきたことが分かります。宝憧寺池建設の中心的な役割を担ったのも小田原家であったようです。

以上をまとめたおくと
①宝幢寺池周辺からは、旧宝幢寺の仏像や遺物が数多く出ていている。
②青銅製の水煙破片は、塔の相輪の一部と考えられ五重塔があったことを補強する
③鐘鋳型は14世紀前後のものであり、宝憧寺の鐘が周辺で作られたことをうかがわせる。
④現在、鷲峰寺に安置される室町時代の十一面観音は宝憧寺にあったもので、この時期の宗教的活動を証明ずける
⑤神野神社の御旅所である皇子神社は、宝憧寺池築造の際に現在地に移転してきたものである。
⑥宝幢寺池築造には、後に大庄屋を勤める小笠原氏の関与がうかがえる

以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
丸亀市史
直井武久 丸亀の歴史散歩 1982年

 南海道 八条池と宝幢寺池

宝幢寺池は丸亀市の郡家にあります。3つの池がパズルのように組み合わさって四角い形をしています。その南を南海道が通過しています。宝憧寺池の下池は、冬になり池干しのために水が抜かれると、塔心礎の大きな石が現れます。
宝憧寺 心礎遠景

ここには、古代寺院があったようです。それがいつの時代かに廃寺になり水田化されていたのを17世紀になって、池が築造されることによって池底に沈んだようです。昔から宝幢寺と呼ばれていたので、出来上がった池も宝幢寺池と呼ばれるようになります。この池から出土したもの、池を築造する際に移転したものなど探りながら、宝憧寺について見ていくことにします。
  DSC00285

 金倉寺の古記録(香川県文化財保護調査会『 史跡名勝天然記念物調査報告第11所収』 には、宝憧寺のことが次のように記されています。
「此寺者清和天皇貞観年中 智證大師開基ニテ 自作之聖観音所安置之精舎也、即大師開基十七檀輪中ノ其十一二而堂塔僧院数多有之侯所 天文争乱二伽藍不残破壊仕り 基跡用水池卜相成宝瞳寺池卜云今池中二大塔礎石―ツ相残 り、古瓦箸多御座候」
意訳しておくと
この寺は清和天皇貞観年中(859年~877)に智證大師が開基し、自作の聖観音菩薩を安置した。つまり智証大師が開いた十七の寺院の中の十一番目の堂塔で僧院も数多くあった。しかし、天文年間の争乱で伽藍は残ず破壊された。その後、寺院跡は用水池となって宝瞳寺池と呼ばれるようになった。今この池の中には大塔礎石がひとつ残っている。また古瓦も数多くある。
 
ここからは次のようなことが分かります。
①宝憧寺は貞観年中(9世紀後半)に智證大師作の観音菩薩を本尊として建立され、
②天文年間 (1552~ 1554)に「伽藍は残らず破壊」され戦国乱世 に荒廃した。
③天明5(1785)に里正小笠原輿衛門によって宝瞳寺跡に溜池が築かれ、礎石が残る
しかし、出土した瓦は、四重孤文軒平瓦、複弁蓮華文軒丸瓦などで、奈良時代前期や白鳳時代のものです。古代の郡司レベルの豪族達の氏寺として建立されたと考えるのが妥当のようです。智証大師以前に作られた古代寺院のようです。
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文献資料では、宝憧寺があった中世の郡家郷は、
①15世紀半ばの鎌倉時代に後嵯峨上皇預となり
②嘉元4(1506)年『御領目録』には、前右衛門督親氏卿の所領
と中央の権門勢家の荘園となっていたことが分かります。そのような情勢を伝える地名として、郡家小学校周辺には『 地頭 』『 領家 』などの地名が残ります。
これらの資料を受けて宝幢寺について、丸亀市史は次のように記します
白鳳時代に創建された寺で、創建されてから800有余年にわたって繁栄したが、永禄元年(1558)、阿波の三好実休が讃岐を支配下に置こうとして、多度・三野・豊田の三郡を領有していた香川之景を攻めて那珂郡に侵入した永禄合戦の際に兵火にかかり、再興に至らずついに廃寺となった。
 慶長年間に宝憧寺池、続いて寛永9年(1672)に上池(辻池)が築造された」
とあります。
これだけの予備知識を持って、現場に行ってみましょう
宝憧寺 心礎近景

冬になって水が抜かれて池干しされると、宝憧寺上池には大きな石が水の中から姿を現します。 かつて放置されていた礎石類も今は、心礎周辺に配置されています。礎石は動かせても、この塔心礎は大きすぎて動かすことが出来ずに、そのまま池に沈めたようです。
南海道 宝幢寺塔心礎

 この石は花嵩岩の自然石で、最大南北185㎝、東西約230㎝、高さ約67㎝の大きなもので、池の築造の際に動かせなかったというのも分かります。しかし、古代の建立時には、ここまで運んできています。考えられることは
①近世の灌漑水掛かりのエリアから集められる労働力では動かすことは出来なかったが、古代の郡司クラスの有力者の動員できる労働力では移動可能であった
②古代には、渡来人系の専業技術者集団がいて、少人数でも移動させることの出来る技術や工具を持っていた。
③近世の人たちには、移動させたり利用する意図がなかった。人柱のように、水に沈めた方が自然であった。
まあ、頭の体操はこのくらいにしておきましょう。

断面図を見れば分かるように、平坦にされた上面に柱座が彫られ、その中央にU字型に舎利孔がうがたれています。段の部分を舎利を入れた心孔の蓋と考えると、二重式心礎ではなく、三重式心礎になるようです。心礎上面には、排水溝も掘られています。
 心礎の設置工法は、飛鳥時代は地下式心礎、白鳳時代は地表に露出する工法が一般的と云われているようです。宝幢寺の心礎は、心礎上面が池の外側の水田面より約50㎜、現地表面より70㎜ほど高いので地表に出ていたことがうかがえます。心礎の設置状況や形状からは、白鳳時代の特徴をよく示す心礎で、建立当時から動かされた形跡はないと研究者は考えているようです。

調査報告書には、トレンチを入れた調査の結果を次のように記します
宝憧寺 トレンチ
  
①心礎を中心として土壇が広がり、その上面にはおびただしい河原石が散らばっている
②土壇は、上池からの通水のために、二箇所で掘削されている
③その上面も、築堤以来の土手改修などによって、何度も大規模に削平されている。
④土壇上が良質の粘質土のため壁土やカマド用に、地元民が土取りを行ってきた痕跡がある。
以上によって、旧地表面は完全に失われていたようです。
伽藍の形式は分かったのでしょうか?
①土壇は、東西方向の長さが90m。南北方向は、北辺のみ確認できた。
②仁池や上池の池中からも瓦片が多数でてくることから、寺域は2つの池にも及んでいた
③伽藍形状は方形か、南北に長い矩形
④伽藍配置については、部分的な発掘のために分からない。
⑤上壇の南北方向の軸は、N20°Wで、丸亀平野の条里遺構N50°Wと大きくズレがある。
⑥土壇は、5層からなっていて土壇として造成された第1層と第2層は、粘質土に河原石を混ぜて固めたもので、県下には類例のないものである
⑦塔心礎以外に礎石はない。
現在心礎の周りに並べられている礎石群は、その後の堤防工事などで出てきた者を無作為に並べてあるようです。

昭和15年発行の『史蹟名勝天然紀念物調査報告第 11』 には、次のような記載があります
金堂は基壇と思しき土壇あって東西約25米 、南北約20米である。塔婆は基壇と思しき土壇 あって東西約15米、南北も同 じく約15米である。心礎を中心として瓦礫が散在 している。金堂と塔婆の間隔は10米、金堂より東方20米 、塔婆より西方20米 にて寺域が終わっている。

80年前の戦前に書かれたこの報告書には、塔心礎の東に金堂が並ぶ法隆寺式の伽藍配置ではなかろうかと以下のような配置を推定しています。その根拠は、古瓦の分布密度から心礎から南へ中門・南大門が建っているとの推察です。

南海道 宝幢寺推定伽藍図

 もし法隆寺式の伽藍配置とすれば、塔跡の東に金堂の土壇があるはずです。しかし、1980年の発掘調査では、土壇の跡を発見することはできなかったようです。そのために丸亀市史は、伽藍配置は「不明」としています。

 戦前は、古代寺院を中央の大寺の分寺として捉えようとする傾向が郷土史家には強かったようです。そのため
「宝幢寺は、那珂郡の郡司庁の所在地であったし、法隆寺の荘園でもあったので、その分寺が建てられたものと思われる。」

と考えられていたようです。今は、東大寺が讃岐に置いたのは拠点で、寺院と呼べるものではなかったことが分かっています。代わって白鳳時代の寺院建築には、壬申の乱以後の政治情勢が色濃く反映していると研究者は考えるようになっています。つまり地方の有力豪族の論功行賞の一環として古代寺院の建設が認められるようになり、争って地方の有力豪族が建立を始めたというストーリーです。そうだとすると考えなければならないのは、次のような点です
①郡家に宝幢寺を氏寺として建立した地域有力者とは何者か?
②彼らの祖先の古墳時代の首長墓はどこにあるのか?
③どのようにして古代寺院の建築技術集団を招いたのか。
④周辺の有力者とは、どんな関係が結ばれていたのか(善通寺の佐伯氏 金蔵寺の因岐首氏)
⑤多度郡や鵜足郡では、古代寺院と郡衙と南海道はセットで配置されているが那珂郡ではどうなのか
  これらを課題としながら出てきた見てみましょう
宝憧寺池、仁池などから出てきた瓦には次のようなものがあるようです。
 ●八葉複弁蓮華文軒丸瓦(奈良時代)
 ●四重弧文軒平瓦(白鳳時代)
 ●均正唐草文軒平瓦
  ・そのほか多数の布目平瓦
宝憧寺 出土瓦1


これらの瓦は、どこで焼かれ宝憧寺まで運ばれてきたのでしょうか
その一部は、鳥坂峠を越えた三豊市三野町の宗吉瓦窯跡で焼かれたことが分かってきました。
三野 宗吉遺2
宗吉瓦窯跡

宗吉瓦窯は、初めての瓦葺き宮殿である藤原京に瓦を供給するために作られた最新鋭のハイテク工場だったことは以前にもお話ししました。その窯跡からは,いろいろな種類の瓦が出土 しています。その中の軒丸瓦は、単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので,これは三豊市の豊中町の妙音寺のものと同笵でした。
また8号瓦窯からは、重弧文軒平瓦,凸面布目平瓦などが出土し,その中の軒瓦が宝幢寺跡から見つかっていた瓦と同笵であることが分かっています。つまり、三野町の宗吉瓦窯で焼かれた瓦が、妙音寺や宝幢寺に運ばれて使われていたということになります。
宝憧寺 軒丸瓦

これまでの調査からは、次のような事が言えるようです。
①宗吉瓦窯は、在地有力氏族によって造営された妙音寺や宝幢寺跡の屋瓦を生産する瓦窯として作られた
②その後,藤原宮所用瓦を生産することになり、多くの瓦窯が増設された。
③そこでは藤原京用に,軒丸瓦6278B,軒平瓦6647Dの同笵瓦が生産された
また、宗吉瓦窯から南500mには古墳時代後期に操業を開始した瓦谷古窯や7世紀前半から8世紀初頭にかけて操業した三野古窯跡群などの須恵器窯が先行して操業していたことが前提条件 になっていたと研究者は考えているようです。
 つまり、三豊湾沿岸東部は7世紀前半から8世紀初頭にかけて,讃岐で最大の須恵器生産地であったのです。そのような中で、須恵器生産エリアを支配下に置く有力者が、自分の本拠地に氏寺を造営することになります。その際に、瓦技術者を誘致すると共に。それまでの須恵器工人を組込むことによって、自分の氏寺用の瓦生産を行ったようです。その結果、完成するのが豊中町の妙音寺です。これが7世紀半ばから末にかけてだったことが出土瓦から分かるようです。そして、この寺院建立を行ったのは、壬申の乱で一族に功績者が出た丸部氏だと研究者は考えているようです。
当時の氏寺建立は郡司クラスの地方豪族のステイタスシンボルでした。
空海の佐伯家や智証大師の因岐首氏を見ても分かるとおり、地方豪族の夢は中央政府の官人となることでした。そのステップが寺院建立であったのです。ある意味、古墳時代の首長たちがそのシンボルである前方後円墳を競って築いたのと似ているかもしれません。
 丸部氏の氏寺建立を見て、多度郡や那珂郡の郡司達も氏寺建立に動き始めます。その際に協力を求めたのが、すでに寺院を完成させている丸部氏です。彼を通じていろいろな技術者集団との連絡を行ったのかもしれません。そして、実績のある宗吉瓦工場へ瓦を発注したことが考えられます。
 瓦は三野町からどのようにして運ばれてきたのでしょうか。
  大日峠越えの南海道が整備されるのは8世紀初頭で、まだできていません。鳥坂峠越えの道を、人が担いで運んだのでしょうか。
三野 宗吉遺跡1

考えられるのは、舟を使った運搬です。以前にもお話しした通り、当時の宗吉瓦窯跡は、三豊湾がすぐ近くにまで湾入してきていました。そこで舟で多度津の堀江港か、土器川河口まで運んだことは考えられます。その輸送実績が、藤原京用の瓦受注につながったのかもしれません。どちらにして、古代の宝幢寺や善通寺の瓦は三豊から運ばれてきたことを押さえておきたいと思います。
ここからは隣接する郡司(有力豪族)間の協力関係がうかがえます
 当時は白村江の敗北や壬申の乱など、軍事的な緊張が続く中でその対応策として、城山や屋島に朝鮮式山城が築かれ、軍道的な性格として南海道の工事も始まろうとしていました。これらの工事をになったのは各郡の郡司だちです。かれらは、府中の国府に定期的に出仕もしていたようです。
そのため軍事的緊張下での大土木工事は、地方有力者の求心力を高めるベクトルとして働いたのでないでしょうか。
各郡の郡司と氏寺を次のように想定しておきましょう。
多度郡の佐伯氏  氏寺は 仲村廃寺・善通寺
三野郡の丸部氏      妙音寺
那珂郡の因岐首氏     宝憧寺
鵜足郡の綾氏       法勲寺
彼らは、緊密な関係にありそれが氏寺造営にも活かされたとしておきましょう。今回は、宝憧寺の瓦までです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
小 笠 原 好 彦 藤原宮の造営と屋瓦生産地  日本考古学第16号
丸亀市教育委員会  宝憧寺跡発掘調査報告書1980年

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岸の上遺跡 グーグル

前回お話ししたように、岸の上遺跡を通る大道が南海道であることが分かると、実際に南海道を歩いて調べてみようという動きも出てきているようです。その成果が「ミステリーハンターによる南海道調査報告書」として出されています。これはPDF fileでネットでも見ることができます。これをテキストに、丸亀平野の南海道を歩いてみることにしましょう。
  スタートは岸の上遺跡です。この遺跡からは、真っ直ぐに西に向かって伸びる南海道の側溝跡が出てきました。それが下写真の道路の左側の溝です。
岸の上遺跡 南海道の側溝跡

そして、遙か西に見える善通寺・五岳山の我拝師山に向かって道が伸びています。この市道が、かつての南海道になるようです。

岸の上遺跡 イラスト

 そして、この道の北側には総倉造りの倉庫(正倉)が5つ並んで出てきました。倉庫が見つかれば郡衙と云われますので、ここが鵜足郡の郡衙跡であることはほぼ確実となりました。南海道と郡衙が同時に出てきたことになります。
 この遺跡の南には古代寺院の法勲寺跡もあります。郡司として南海道や条里制工事を主導した鵜足郡の郡司としては、法勲寺を氏寺としたという綾氏が第1候補にあがってくるようです。

岸の上遺跡の150m西にあるのが下坂神社です。
DSC08088

  郡衙に最も近い宗教施設になります。南側から見ると神が讃岐に降り立ったと云われる甘南備山・飯野山を背負っているように見えます。そして、鳥居の前を南海道通っていたのです。飯野山の里神社として古来より機能していたのではないかとも思えてきます。
DSC08094

  境内に入っていくと大門から拝殿が見えます。そして、その向こうに飯野山があります。飯野山を御神体として祀っていたことがうかがえます。
DSC08105

    本殿の裏には、御手洗池と名付けられた湧水があります。郡衙との関連を付けをしたくなる雰囲気に充ち満ちている神社です。
岸の上遺跡周辺 土器川までグーグル

下坂神社前の市道(旧南海道)は、西蓮寺のある東小川集落を抜けて土器川右岸に出ます。
岸の上遺跡 南海道大川神社

 ここには大川神社の大きな碑と燈籠が立っています。これは、雨乞の大川講の名残のようです。大川神社は雨乞いの神や安産の神として、広く信仰を集めてきました。里の集落では、大川神社を勧請して祠を建てこれを祀りました。また大川講を組織して一つの信仰集団を結成していたようです。
 大川講は吉野大峯山の山上講とよく似ていました。山伏を中心に、講の内容は、雨乞い講と安産講の二つに分かれていました。雨乞い講は主として土器川沿いに広がり、雨乞いのための代参が行われました。明治に入ると代参は廃れます。代わって大川神社を地元に勧請して、祠、または大きな石を立て大川神社を祀るようになります。
ここの大川神社については、琴南町誌によると次のように書かれています。
「明治二十五(一八九二)年六月の大旱銃の時、松明をたいて雨乞いをした。この時大雨が降ったので、飯野山から大きな石を引いて来て大川神社を祀った。ここは昔から五輪さんがあって雨乞所といわれ、旱魅の時臨時に大川神社の神を祀り雨乞いをした。すると必ず雨が降ったという。いつごろからか分からないが、大川講のようなものがあって、大川神社に代参して大川の神を迎えてここに祀り雨乞いをした。また大川のお水を三角からもらってきて祀った。ここには地主神など祀ってあり、春と秋(現在は夏)にはお祭りをし、市なども行われる。春のお祭り(五月三日)にはよく雨が降った。ここは昔は、東小川、西小川、二村、西坂元の四か村がお祭りをしていたが、現在は地元だけでお祭りをしている。」

地神とともに大川講の跡が残っています。
 古代の土器川の流路は、よくは分かりませんが南海道ができたころはこの上流で東流し、大束川に流れ込んでいたようですので、ここが土器川の渡河地点とは言えないようです。
DSC08058

 大山神社の下の河川敷は公園に整備されていました。こからも飯野山の美しい山容が望めます。

土器川を渡って西に進むと八条池の南側に出ます。
  この手作りの条里制地図は、善通寺の郷土資料館に展示されている物です。
岸の上遺跡 那珂郡条里制

これを見ると、土器川は①鵜足郡と②那珂郡の郡境ラインの役割を果たしていないことがよく分かります。①鵜足郡の8条は、現在の土器川の左岸(西)に入り込んできています。ちなみに⑤にある池が「八条池」です。これは鵜足郡の条里制の8条にあったからだということが分かります。
そして南海道は
那珂郡の13里と14里ライン
多度郡の6里と7里ライン
で赤いラインになります。このラインが基準ラインとして、南海道が建設され、これに直角・平行に条里ラインが引かれて条里制工事がおこなわれたと研究者は考えているようです。

DSC08033
八条池からの飯野山   

八条池には冬になると、何種類もの鴨たちがやってきて羽を休めています。その湖面のむこうにも飯野山が見えます。白鳥は丸亀城で繁殖したものが移されているようです。
 ちなみに、丸亀平野のため池が作られるのは、近世になってからです。周囲の土器川の氾濫原の水田化とともにため池が作られた経緯があるようです。その際に、条里制区割りがされていた所に作られたため池は、四角い皿のような形になっています。条里線地割に沿って、土地を買収し掘り下げたためにこのような形になったとされます。これを皿池と呼んでいます。この池の隣の宝幢寺池は、その典型のような形です。しかし、この八条池は四角ぽくありません。凹地に堤防を作ってせき止めたことがうかがえます。そこからも、この地は条里制が施行されていなかった氾濫原や河道跡であったことがうかがえます。この北側の金丸池も旧河道跡に作られたものと私は考えています。

南海道 八条池と宝幢寺池
黒太実線が旧南海道

八条池からさらに西に進みたいのですが、旧南海道跡はこの辺りでは姿を消して、進めなくなります。この辺りでは大道としての機能をなくし、周囲の水田に次第にとりこまれていき姿を消したとしておきましょう。 
 南海道は宝幢寺池のすぐ南を通過していました。
この池は3つの池から出来ていて、上空から見れば分かるように池の中を堤防が渡っています。
DSC08018

この内の宝幢寺上池では、冬になって水が抜かれ「池干し」されると、大きな石が池底から姿を現します。

 宝幢寺(ほうどうじ)跡(丸亀市) - どこいっきょん?

 この巨石は古代寺院の塔心礎です。
南海道 宝幢寺塔心礎

また、周辺からは古代瓦が今でも出てきます。その他の礎石類は出てこないので、17世紀後半に池が作られるときに、移動してどこかの堤に使われたのかもしれません。しかし、この塔心礎は大きすぎて動かすことが出来ずに、そのまま池に沈めたようです。
南海道 宝幢寺推定伽藍図
 
 丸亀市史には、宝幢寺廃寺について次のように記されています。
「寺域は方形、または南北に長い矩形である。伽藍配置はわからない。昭和十五年三月発行の『史蹟名勝天然記念物調査報告書』によると塔心礎の東に金堂がある法隆寺式の伽藍配置ではなかろうかと推定している。たしかに、古瓦の出土状況から考えると、心礎から南へ中門・南大門が建っていたよう にも思えるが断定はできない。」
 
 ここからは、塔を持った白鳳期の古代寺院が南海道に面して造営されていたことが分かります。
南海道が作られるのと、宝幢寺が建立されたのは、どちらが早かったのでしょうか?
それを解く鍵は、宝憧寺の中心軸と条里制地割軸の関係にあります。これが一致すれば条里制地割実施後に、お寺は作られたことになります。宝憧寺の場合は一致しないようです。南海道が伸びてくる以前に宝憧寺はあったと研究者は考えているようです。しかし、ここでも南海道は有力者の氏寺である宝憧寺のすぐ南を通過しています。南海道が軸となり、その周辺に郡衙や古代寺院、郡司の館などが集中して作られるようになったことがうかがえます。
南海道 宝幢寺塔心礎発掘
発掘の際の宝幢寺心礎

 宝幢寺周辺の地名は「郡家」です。

地名からも、南海道に接するような近さの所に那珂郡の郡衙があったと研究者は考えているようです。また、この北の郡家小学校周辺には「地頭」や「領家」という地名も残っています。古代から中世にかけて那珂郡の中心は、この辺りであったようです。
南海道 那珂郡条里

  宝幢寺池を越えて、条里制地割が残る那珂郡の13里と14里の境界ラインを行きます。
DSC07999

右の道が旧南海道で、その向こうには我拝師山が待っていてくれます。南側(左)ののっぺりとした山は大麻山で、南の象頭山へとつながります。この山も聖なる山で霊山として信仰の山でした。
  金倉川周辺でも氾濫原が幅広く、条里制施行が行われないまま放置されていた土地があったことがうかがえます。古老の聞語りでは、11師団がやってくる日露戦争前までは、金倉川の与北付近から市役所付近までは、氾濫原で放置された土地で、森や荒れ地となっていたことを以前にもお話ししました。
南海道 金倉川から四国学院


金倉川を渡ると尽誠学園の北側を西に進んでいきます。
土讃線から西側は、明治の第11師団設置で、各部隊の敷地になりそれまでの地形は、残っていません。
DSC01325十一師団

郵便局から東中学校までの広大なブロックは輜重部隊の敷地でした。

四国学院側 条里6条と7条ライン

そして、次のブロックが騎兵連隊の敷地で、現在の四国学院のキャンパスになります。
DSC03123
      右側が図書館 この下を南海道は通っていた

その中に今回のゴールとなる図書館があります。
岸の上遺跡 四国学院側溝跡
図書館敷地の発掘調査図 下の溝が南海道側溝

この建設に伴う発掘で、ここからも南海道の側溝跡が出てきたのです。こうして、四国学院と飯山の岸の上遺跡の側溝跡は一直線で結ばれていたことが分かりました。つまり、これが南海道だということです。キャンパスからは今まで目標物として、導いてくれた我拝師山がひときわ大きく見えました。
 今回のコースは、
鵜足郡衙 → 那珂郡衙 → 多度郡郡
を南海道が一直線に結んでいました。その郷里は7,3㎞です。ゆっくり歩いても1時間半、駅伝制の馬を使えば30分足らずで結べる距離が国家の力によって整備され、郡長達はその整備された南海道沿いに郡衙や氏寺、館などを構えていたことが分かります。
 空海伝説の一つに、真魚と呼ばれた幼年期に善通寺から額坂を越えて国分寺まで勉学のために空海は馬で通っていたという話が伝わっています。それが、本当のように思えてくる交通路の整備ぶりです。
同時に、各郡長が横並び意識をもちながら地方政治を担当していたこともうかがえます。
  

DSC03120
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   ミステリーハンターによる南海道調査 南海道を歩く

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岸の上遺跡 写真とトレス

岸の上遺跡からは南海道跡が出てきたと云われます。それがどうして南海道と分かるのでしょうか?まず南海道跡される遺跡を見てみましょう。
飯山岸の上遺跡グーグル
岸の上遺跡周辺 手書きの青い斜線部が旧土器川河道跡

飯野山南側には、坂出からの国道バイパスが南に伸びています。飯山高校の西側のバイパス交差点あたりは土器川旧河道の段丘崖で周囲より1mほど微髙地になっています。このエリアの発掘調査で出てきたのが「岸野の上」遺跡です。この遺跡からは大きな発見が2つありました。
A 南海道の道路側溝と考えられる溝群(溝6・溝7・溝8・溝9・溝10・小ピット群)が出てきた。
岸の上遺跡 南海道拡大図

①の推定南海道の両側に溝が掘られていました。これが市道の南側(溝9・溝8)と北側(溝6・7)に当たります。北側と南側の溝の幅は約10m近くあります。そして、溝には次のような特徴があるようです。
①溝底(溝9・溝10)に凹凸があり、水が流れた形跡がないの灌漑用水ではない。
②地表面の起伏を無視し、直線的に並んでいる
③小ピット群は、道本体の土留めのための杭列か?
溝底に凹凸があり、水も流れていないので灌漑水路ではないようです。道路側溝としての性格が高いようです。古代の官道は、幅が約9~10mほどで直線的にまっすぐと作られていることが分かっています。
   下の「古代道路の工法」を見ると路面の両側に溝を掘って側溝としていました。ここから出てきた溝が、側溝にあたるようです。

岸の上遺跡 南海道側溝

  幅10mの大道跡の出現だけで、南海道と決められるのでしょうか?
  古代官道をとりまく発見の歴史を少し振り返ってみます
古代の官道については、江戸時代の五街道でも2間程度の道幅だったのだから、古代駅路の道幅はせいぜ い2mもあれば, 駅馬が通るに事足りていたというのが半世紀ほど前の考えでした。畿内から下ツ道の23m75や難波大道の19m76などが現れても、それは畿内の大道だからで、地方の官道はそんなに大規模な物ではないとされていました。そのような中で、丸亀平野を通っていた南海道も、額坂から鳥坂峠を越えていく近世の伊予街道が考えられていました。
 しかし、1970年代になると道幅10mで直線的に続く古代官道跡の発見が各地から報告されるようになります。それは、航空地図や大縮尺の国土地理院の地形図を読み込むことから発見されることもありました。さらに、条里制痕跡からも古代の官道の存在が浮かび上がってくるようになります。
東藝術倶楽部瓦版 20190508:官道から参詣道へ-「大和の古道」 - 東藝術倶楽部ブログ
 
 まず平城京から伸びる下ツ道と横大路に沿って,1町(約109m)方 格の条里地割の中に一部分だけ幅が異なる部分があることが指摘されました。つまり幅約45m(15丈)分大きいのです。なぜ、そこだけ幅が広いのか、つまり余剰分があるのかという疑問に対して、ここに道路が通っていたからだという仮説がだされます。つまり、道路敷面が45m分あったが、その後の歴史の中で道路部分は水田などに取り込まれて、45mの大道は姿を消し、幅の広い条里として残ったと研究者は考えたのです。
図6の条里余剰帯の模式図で、確認してみましょう。
岸の上遺跡 条里余剰帯

これは、約109mの条里地割が分布しているエリアの例です。
その中に縦の長さだけが124mになる地割列(上から2段目の列)があります。この場合、余剰帯の幅15mと、現在の道幅6mを合わせた、21mの帯状の土地が、かつての官道敷地だったということになります。

これが現在、古代道路検出法の一つとして「条里余剰帯」と呼ばれている手法の誕生だったようです。そして、研究が進められるにつれて条里制工事の手順は、次のように進められたことが分かってきました。
①目標物に向かって真っ直ぐな道の計画線が引かれる。これが基準線となり官道工事が始まる。
②官道は基準線でもあり、これに直角に条里制ラインが引かれた。
③官道は、国境や郡境・郷境ラインとしても用いられた。
④南海道の道幅は約9~10mで、両端に側溝が掘られた
つまり、中央政府からやってきた高級官僚達が官道ラインを引き、その設計図に基づいて郡司に任命された地元有力豪族が工事に取りかかります。讃岐の場合だと、基準線となる南海道が完成すると、直角に条里制工事が進められていきます。つまり、南海道は条里制工事のスタートを示す基準線でもあったし、実際の工事もこの道沿いから始められたようです。
中央の官道についても、次のような役割も分かってきました
①藤原京や平城京のエリアも、計画道路が先に測量され、それを基準に設定されたこと,
②摂津・河内・和泉の国境ラインの一部は、直線的に通る官道によって形成されていたこと
つまり、畿内においては直線道路が古代的地域 計画の基準線となっていたのです。
丸亀平野の条里制 地形図

  条里余剰帯を、丸亀平野で見てみるとどうなるのでしょうか。
丸亀平野の条里地割の中にも南北が10m程度広い「余剰部分」が帯状に見られるところがあるようです。金田章裕氏は、その条里余剰帯を歴史地理学的に検討して、推定南海道を次のように想定していました。
①鵜足郡六里・七里境、
②那珂郡十三里・十四里境、
③多度郡六里・七里境
 讃岐富士の南側から郡家の8条池・宝幢寺池の南を通過して直進的に西進し、善通寺市香色山の南麓にいたると云うのです。香色山南麓に達した南海道は、大日峠を越えて三野郡・刈田郡へと続いていくことになります。
 これはあくまで、想定でした。しかし、推定南海道とされる③多度郡六里・七里境上に、7世紀後半から8世紀に掘られた溝が発掘されたのです。これは四国学院大学の図書館建設に伴う発掘調査からでした。
岸の上遺跡 四国学院側溝跡
四国学院遺跡の東西に伸びる溝
条里型地割の中の平行・直交する2本の溝は坪界溝とほぼ合致することが分かりました。すなわち、東西方向の溝1が里境の溝だったのです。また溝1が、単なる坪界溝ではなく多度郡六里と七里の里境であること、さらにこれに沿って設定された古代南海道の可能性が高くなったのです。そこで、この溝を条里制地図の中に落とし込んでみると次のようになりました。
四国学院側 条里6条と7条ライン

ここで注意しておきたいのは、多度郡郡衙跡とされる生野本町遺跡がすぐ南にあることです。南海道が出来るとその周辺部に、郡衙がつくられたことがうかがえます。さらに、推察するとその郡長が佐伯氏であったすれば、この周辺に佐伯氏の館もあったと研究者は考えているようです。 

この四国学院の中を通る推定南海道ラインを、東に辿っていくとどうなるのでしょうか。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
四国学院のキャンパスの中を抜けて、善通寺一高のグランドを抜けて東に進んでいきます。さらにグーグル地図で見てみましょう。

岸の上遺跡と四国学院遺跡を結ぶ南海道
 
 四国学院から金倉川を越えて条里制ライン沿いに東に進むと、宝幢寺池と八条池の南を通過して、土器川に出ます。そして、右岸から東を進むとその道は飯山高校北側の市道に通じます。
岸の上遺跡 南海道の側溝跡
上の写真の道は、岸の上遺跡を通過していた南海道の現在の姿です。
市道の南側(左)に、発掘で出てきた側溝が見えます。その向こうに見えるのが下坂神社の鎮守の森、そしてはるかに善通寺の五岳の山脈が見える。そこを目指して南海道がまっすぐに続いていたことが分かります。四国学院の古道の側溝跡と岸の上遺跡の側溝、は一直線につながるということになります。これは、いままで「想定南海道」と呼ばれていたものから「想定」の2文字がとれることを意味すると私は考えています。ちなみに四国学院遺跡と岸の上遺跡の直線距離は7,4㎞です。
丸亀平野の南海道と郡衙・古代寺院・有力者の関係を見てみると次のようになります。
     郡衙候補     古代寺院    郡司候補
①鵜足郡 岸の上遺跡   法勲寺廃寺    綾氏?
②那珂郡 郡家(?)   宝幢寺池廃寺   
③多度郡 生野本町遺跡  仲村廃寺・善通寺 佐伯氏

南海道沿いに郡衙と想定できる遺跡や廃寺跡があり、郡司と考えられる有力者がいたことがうかがえます。そして、南海道の建設や、その後の条里制工事はこれらの郡司などの有力者の手によって進められていったようです。
①③からして、②の那珂郡の郡衙跡も南海道の直ぐ近くにあったことが考えられます。全国の例を見ても、最初は官道から遠くても建て直される場合には官道近くに移動して建てられている例があるようです。宝幢寺廃寺と同じように、今は池の下になっているのかもしれませんが・・・・
丸亀平野と溜池

  以上をまとめておきます。
①岸の上遺跡からは、幅10m近い大道跡と道路側溝が出てきた。
②これは歴史地理学者が指摘していた条里制の鵜足郡六里・七里境にあたる。
③この大道跡を西にまっすぐに伸ばすと善通寺の四国学院のキャンパス内から出てきた側溝跡と一直線につながる
④以上から「鵜足郡六里・七里境、那珂郡十三里・十四里境、多度郡六里・七里境」上を南海道が通過していたという仮説が考古学的に実証されたことになる。
⑤四国学院と岸の上遺跡の側溝溝は、7世紀後半から8世紀初頭にできたものとされるので、基準線測量が行われ、南海道の工事が行われたのは藤原・奈良時代にあたる。
⑥この南海道に直角や平行にラインが引かれ、条里制工事は進められていくことになる。
⑦その工事を主導したのは郡司たちで、地域の有力者であった。
⑧彼らは郡司として南海道沿いに郡衙や氏寺である古代寺院を建設することによって、かつての前方後円墳に替わるモニュメントとした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
岸の上遺跡調査報告書
四国学院遺跡調査報告書

金倉川 土器川流路変遷図

土器川はまんのう町の長炭付近で平野に出ると扇状地を形成して、流路を西から東へと変えながら次のような河道変遷を経て、現在の流れになったようです。
①一番西側の①紫ルートで現在の金倉川や大束川の流域にも流れ込んでいた
②善通寺生野町・吉田町が堆積物で埋まってくると、与北町付近で、右岸に流路を変えて②橙コースになった
③さらにまんのう町祓川橋付近から東に流路を変えて、法勲寺から大束川に流れ込んで④の緑ルートになった。
④さらに長炭橋から東へ入り込み、長尾・打越を経て岡田方面から大束川に流れ込む④の緑点線ルートの時代もあった
岸の上遺跡 土器川流路⑤

確かに衛星写真を見るとまんのう町の吉野付近から打越池を経て、大窪池にかけては、U字状の谷が見えます。これが流路④の緑点線河道になるという根拠のようです。そうだとすれば大窪池は、まさにその窪みの谷に作られたため池になります。
 地形図に丸亀平野の扇状地を落としてみても、旧河道が何本か浮かび上がってくるようです。

岸の上遺跡 土器川扇状地
④が岸の上遺跡 ①が善通寺 ②が郡家の宝幢寺池

丸亀平野の大部分は扇状地で、それは土器川が西から東へと河道を変えていく中で生まれてきたようです。最初に聞いたときには、信じられずに半信半疑で聞いていました。しかし、考古学的な発掘が進み実際に調査が行われ、その「土地の履歴書」が示されるようになると信じないわけにはいかなくなります。今まで疑いの目で見ていたものが、別のものに見えてくるようになりました。
  例えば生駒時代の中西讃の絵図を見てみましょう。
生駒時代絵図 土器川流路

①古城とあるのが廃城となった丸亀城
②その西側に善通寺の奥から流れ出してきているのが金倉川のようです。
③問題は古城と白峰寺の間の入江に流れ出している川です。
西側の支流は長尾から流域が描かれています。
これは、土器川なのでしょうか、それとも大束川なのでしょうか。
一方東側の支流は、滝宮神社(牛頭神社)付近から流路が描かれています。これは綾川のようです。土器川と綾川が合流して林田港へ流れ込んでいることになります。
 この絵図をみても、近世以前の河川の流れは、私たちの想像を超えていることがうかがえます。これを見たときも、讃岐のことを知らない生駒藩の侍たちの地理的な情報・知識不足と、鼻で笑っていました。しかし、先ほどの土器川の流路変遷図を見ると、笑ってはいられなくなります。実際に、土器川は大束川に流れ込み、さらに綾川と合流していた可能性もあるようです。
 岸の上遺跡 イラスト
  それでは本題の丸亀市飯山町の岸の上遺跡を見てみましょう。
ここからは大きな発見がいくつもありました。その中でも大きな意味を持つのは次の2つです。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。
岸の上遺跡 正倉群
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。これは郡衙以外の何者でもありません。鵜足郡の郡衙発見ということだと私は理解しているのですが、研究者達はあくまで慎重で、「鵜足郡の郡衙と南海道発見!」などというコピーは、報告会では出なかったようです。
 もうひとつ、この遺跡の報告書で驚いたのが、下の地形復元図です
飯山岸の上遺跡地形復元

①が岸の上遺跡です。バイパス工事のための調査ですから道路上に細長い区画になります。
②位置は、飯山高校に西側の交差点周辺です。
③北側には目の前に甘南備山の飯野山が鎮座します。
④西側には下坂神社があり、鎮守の森の中には今も湧水が湧きだしています。
そして、地図上の水色の部分が土器川の支流だというのです。一本の流れとはならずに、何本もの網の目状になってながれていたことが分かります。
飯山岸の上遺跡グーグル

確かにグーグル地図をよく見てみると、飯山高校周辺を旧河道が網の目のように流れていたことが分かります。この河道によって堆積した中州状の微高地上に、丸亀平野の古代のムラは成立していきます。

飯山居館跡

以前に、この北の飯野山の麓で河道跡に囲まれた中世武士の居館跡を紹介したことがあります。その河道も土器川の氾濫河道になるようです。
飯山国持居館3グーグル地図

  旧土器川が現在の河川になったのは、いつからなのでしょうか?
最初に見た生駒藩の絵図には、土器川は大束川と一緒に描かれていました。近世はじめまでは、飯野山の南側の流路は、このような編み目状だったようです。それではいつ変えられたのでしょうか。そこにはやはり西嶋八兵衛の影があるようです。
西嶋八兵衛60x1053

 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。高虎は、この時に側近の西嶋八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。
それは、藤堂藩と生駒藩の密接な関係にあったようです。このことについては以前にもお話ししましたので省略します。
 自然災害に苦しむ生駒藩のために、八兵衛は多くのため池を作る一方、讃岐特有の天井川の改修にも尽くしています。洪水を防ぐために香東川の堤防を付け替えたり、高松の春日新田の開発など、あらゆる方法で開田を進めます。香東川の付け替え、堤防づくりでは堤防に「大萬謨」の石碑を建てた伝えられます。満濃池の再築に伴い、四条川を消し、金倉川を作りだしたことも以前にお話しした通りです。そして、土器川の流路変更も西嶋八兵衛によって行われたというのですが、その根拠になる資料を私は見たことはありません。
大束川旧流路
飯山町付近の土地利用図 旧土器川の流路跡が幾筋も見える

 西嶋八兵衛によるものかどうかは別にして、飯山高校の北側には、平安時代以降に激しく流れていた東西方向の旧河道が残っています。そして「北岸」「南岸」「岸の上」という字名もあります。この旧河道は度々氾濫を起こしていて、発掘エリアからも、氾濫で堆積したと砂層がでてきているようです。その遺物から7世紀の中頃と12 世紀頃に大きな洪水が起き、遺跡が土砂に埋まったことが分かるようです。この河岸丘に建物が建ち始めるのは7世紀中頃からで、南海道が伸びてくるのは8世紀初頭頃からになるようです。 次回は、この前の道がなぜ南海道と言えるのかを探ってみようと思います
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

その後、1995年の川津二代取遺跡の調査報告書の中に、大束川流域の地形復元を行った資料を見つけました。ここには丸亀平野の土器川扇状地の詳細等高線が示されています。ここからは土器川が金倉川や大束川へ流れ込んでいた痕跡がうかがえます。

土器川 流路等高線

さらに、次のような旧河道跡も1995年の時点で指摘されていたようです。
土器川 旧河道(大束川)

ここからは現土器川から東に向かって流れ込む流路や、飯野山にぶつかってから流路を東に取る流路がはっきりと示されています。また、②の大窪池から流れ込んだ時期もあったことが分かります。 
 つまり現場の考古学の研究者は20年前から土器川が流路を替えていたこと、それが弥生や古墳時代以後のことであったことを理解していたようです。知らぬは素人ばかりということのようです。
それでは、いつまで土器川は大束川方面に流れ込んでいたのでしょうか。言い方を変えると現在の流れになったのはいつのことなのでしょうか。それは又の機会に
参考文献


DSC03173

絵巻は四天王寺の沖の海波を、まるで縮緬のしわを一本一本描くように書いています。浪速江の向こうに見えるのが淡路島なのでしょうか。そして、 一遍絵図巻二の緑に染められた高野山の詞書が始まります。
天王寺より高野山にまいり給えり
この山はみね五智を表し、やま八葉にわかれて・・
と読めます。天王寺から高野山へ向かったようです。
どうして、高野山なのでしょうか。
詞書には、次のようにその理由を記します。

一遍絵図 高野山詞書

意訳しておくと
 弘法大師は唐より帰朝した後、狩人の教えに従い三鈷の霊験を古松の枝に訪ね、五輪の鉢を苔むした洞に留めた。そして願力で、己の身を留めた。これは天竺国の釈迦のごとく、わが国においては弘法大師が龍華としてこの世に下りてくることであった。
 また大師は六字名号(南無阿弥陀仏)の印板を残し、汚れた世間のなかで迷い苦しむ衆生のための本尊とされた。そこで、浄土の縁を結ぶために、遙かなる山を分け入り参詣に訪れた。
ここには、前半に高野山が弘法大師の開いた聖山であることが語られ、後半に、その大師との結縁のために訪れたことが記されています。
「弘法大師との結縁」という言葉は、以前に「菅生の岩屋(岩屋寺)」での修行目的の際にも語られたように思います。旅立つ前に、 一遍が菅生の岩屋で行ったことは、修行を繰り返すことで、強靭な体力と「ひじり」としての霊性を得て、「やいばの験者」に己を高めようとすることでした。それは、土佐の女人仙人や弘法大師がかつて行ったことで、大師はその良き先例として捉えられています。一遍はこの二人に「結縁」することで「ひじり」としての神秘な霊性に磨きをかけ、遊行に耐え得る強靱な体力と生命力を得ました。
 岩屋寺の行場には、全国から修験者たちや聖が集まっていたようです。その中には、高野山の念仏聖などもいたでしょう。また、熊野行者もいたはずです。彼らからの情報を得て、高野山・熊野に詣でるというプランが 一遍には伊予を旅立つときにはあったのではないでしょうか。
高野山を巡る | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺

  以前にもお話ししたように中世の高野山は、浄土信仰の中心地でもありました。それを広めたのが高野聖たちです。彼らの果たした役割を挙げると
①高野山を弘法大師が入定する日本の総菩提所であると全国に広めた
②各地で浄土信仰と念仏を勧めた。
③このとき弘法大師の六字名号(南無遍照金剛)を賦算した
①②については、高野山をはじめ、善光寺・四天王寺・熊野は、古代から葬送の霊山だったようです。高野山は融通念仏聖や勧進聖が集まり、全国各地の霊山を廻る拠点でもありました。その僧侶集団の一群の中に、若き日の 一遍もいたということになります。そういう意味では、一遍も念仏聖の一人であったと言えるのかもしれません。

③については、最初の遊行地である信州善光寺は、生身の阿弥陀仏が本尊でした。そして本尊の三仏の分身といわれる宝印三判を捺した御印文を賦算して、極楽往生の保証としていたことは以前にお話ししました。一遍も、これらにならい賦算を行ったと研究者は考えているようです。

  それでは、この詞書をもとに絵師がどのように絵画化したかを見ていくことにします。
『聖絵』巻二第四段の高野山です。
一遍絵図 高野山伽藍図

  山上の金堂付近の主な建物が、忠実に描いていると研究者は考えているようです。
①左側に、七間五面の入母屋造りで朱塗りの建物が金堂で、正面に一間の向拝が付けられています
②金堂の後の五間四面の建物が潅頂堂、
これも檜皮葺の入母屋造で丹塗の柱や勾欄(こうらん)が映えて美しさを増しています。
③その前の方三間の宝形造りの堂が弘法大師をまつる御影堂
 その前に、架台で囲まれた松が詞書に「狩人の教えに従い④「三鈷の霊験を古松の枝に訪ね」と書かれていた三鈷松のようです。
⑤三鈷松の右の二つの建物は、薬師堂と「?」です。両方とも格子のついた檜皮葺の立派な建物です。
⑥その右が鐘楼
⑦堂舎手前では、桜が幹を左にくねらせ木棒が下から支えています。

ここで気になるのがまたしても「桜」です。
伊予松山を出て、ここまでの行程と桜の関係を見ておきましょう。
①2月8日に松山を発ったときには周囲は枯れ野原でした。
②伊予桜井(今治)を出発する時には、桜が満開です。
③大阪浪速の四天王寺の桜も満開でした
④高野山の山桜がまだ見えます。
つまり、②③④と桜が画面を飾ります。
   一遍は高野山に続き六月初旬に熊野を訪れたと詞書には書かれています。そのため、高野山参詣は5月頃とされます。高野山が山の中で桜の開花が遅いとしても、5月まで山桜の花が残ることは考えられません。高野山の桜は、季節を表すために描かれたのではなく、やはり宗教的・思想的な意味をもった象徴的なものと研究者は考えているようです。
  先の金堂に続く部分です。
DSC03176

金堂の後ろには、高野山のシンボルである大塔が建ちます。
この塔を修理した平清盛が夢のお告げで安芸守に出世したと伝えられます。金銅の相輪・露盤・風鐸などが輝く美しい多宝塔です。多宝塔は真言密教のシンボルタワーとして普及し、四国霊場のお寺さんも競うように、この塔を建てるようになります。
塔の手前前方には、鐘楼がもうひとつ見えます。
一遍絵図 高野山伽藍模写

江戸時代に書かれた模写になります。
その左側は、山また山の深山奥山のたたずまいです。
弘法大師の霊地であることを示しているのでしょう。
そして、この奥に奥の院は描かれています。
DSC03177高野山奥の院

奥院まで続く参道は、縦の構図で描かれています。
参道の両脇に立ち並ぶのは石造の長い卒塔婆のようです。画面手前の小川に橋が架けられています。この川があの世とこの世の結界になるようです。今の「中橋」になるようです。 
世界遺産高野山・奥の院(ガイド案内)めぐり – 京都さくら観光

中橋を渡り参道を登ると広場に抜け、入母屋造りの礼堂に着きますす。
一遍絵図 高野山奥の院2

その奥の柵の向こうに、方三間の方形作りの建物があります。これが弘法大師の生き仏を祀る廟所のようです。周りには石垣や玉垣がめぐらされ、右隅には朱塗りの鎮守の祠が建ちます。廟所の周りにいるのは烏たちです。カラスは死霊の地を象徴する鳥です。

 この絵からは高野山の弘法大師伝説の定着ぶりが確認できます。
しかし、 一遍たちの姿はどこにあるのでしょうか。礼堂の右側の二人の人物でしょうか。高野山は女人禁制なので、超一たちは上がってこれなかったはずです。 一遍だけが参籠したのでしょうか。しかし、高野山の場面のどこを探しても、これが 一遍だと確信を持って指させる人物はいないように思えます。
 
 一遍の死後、高野聖たちの時衆化が急速に進みます。
そして高野聖はすべて、時宗の聖になったとまで云われるようになります。その背景に何があったのかを最後に見ておくことにします。

高野聖とは - コトバンク
高野聖

平安時代中期に阿弥陀仏信者たちが、高野山の小田原谷に住んだのが高野聖の祖といわれています。当時は末法思想を背景に、南無阿弥陀仏と唱えることによって西方浄土から阿弥陀が迎えに来て浄土へといざなってくれるされた時代です。そのような中で、鎌倉初期にやって来た明遍が蓮花谷聖を組織し、高野山と極楽浄土との結びつきを説いて廻るようになります。
 次いで五室(ごむろ)聖、萱堂(かやどう)聖という聖集団が現れ、高野山における聖の勢力はますます大きくなっていきます。こうして、念仏が高野山本来の真言密教を圧倒する勢いになっていったようです。
 さらに高野山が北条政子を通して鎌倉幕府と密接な繋がりを持つようになると、武家社会の新しい仏教、禅宗も入ってきます。高野山は、寛容に他宗を受け入れたようで、宗派を超えた霊場となっていきます。
  一遍がやってきたのは、この時期のことになります。
一遍の高野山参籠がどのような影響を与えたのかはよく分かりません。しかし、千手院谷で称名念仏を始め念仏化をさらに進めたとされているようです。一遍後も、その教えを受け継ぐ千手院聖(時宗聖)は、その勢力を拡大し、聖集団の時宗化が進みます。こうして、高野聖の時宗化が完成します。
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 そうなると高野聖は、かつての道心と苦行と隠棲をすてるようになります。そして遊行と勧進を中心に賦算と踊念仏で諸国を廻り、高野山の信者を獲得するという方法に活動方針を転換します。
観照 京都国立博物館 特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」 | 遊心六中記 - 楽天ブログ

なぜ高野山の聖集団が時宗化したのでしょうか。
 時宗聖の勧進形態が当時の世の中にマッチしたからと研究者は考えているようです。そのために、他の高野聖が、時宗の勧進方式を採用し、結果として時宗の聖となったというのです。

しかし、これはマイナス面も現れてくるようになります。
念仏踊りが庶民の要求に応えて、娯楽的・芸能的色彩が強くなると俗悪化していきます。高野聖の中にも、信仰を隠れ蓑にして不正な商売をしたり、女性との噂を起こすものも現れ、
「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」

などと世間で言われるようになる始末です。
さらに戦国時代の動乱の中で、今までのようような勧進活動が出来なくなった高野聖の生活は困窮します。そのため商聖化して呉服聖とよばれたり、貼り薬や薬などを売る聖も現れます。

このような中で、高野山では真言密教の「原理主義」運動が起こり、聖の念仏や鉦の音に対して異論を唱えるようになります。その結果、総本山金剛峯寺は高声念仏、踊念仏、鉦叩きなどを禁止します。こうして高野聖は拠点としての高野山から追放される事態になります。

高野聖の廃絶のきっかけとなったのが、信長の高野攻めだとされます。
摂津伊丹城主荒木村重は、織田信長に背き有岡城(伊丹市)に立て篭もり、一族や家来を置き去りにしたまま逃亡しました。信長は裏切り者村重に対する報復に過酷な刑罰で臨みます。女房衆を尼崎にて処刑、召使の女や子供、若衆など500人余を4軒の家に閉じ込めて火をつけ、さらに村重の一族など30余名を洛中引きまわしの後、六条河原で斬首しました。
この時、村重の家臣5名が高野山に逃れ、これを追ってきた信長勢30余人を高野山は皆殺しにしました。これに激怒した信長は畿内近国を勧進していた高野聖千数百人を捕え処刑し、織田信孝を総大将として高野山攻撃を開始します。しかし、その最中に信長は本能寺で明智光秀に討たれ、織田勢は撤退を余儀なくされました。
 江戸期、徳川幕府の命令による真言帰入令で、高野山創建時の空海の教え、真言密教にもどることや聖の定住化が図られ、やがて時宗高野聖は姿を消していきます。
 以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
五来重 高野聖
 一遍上人絵伝 日本の絵巻20 中央公論社

物部さん考(10)戦国時代・石山合戦図に見える本願寺・大阪城の前 モノノベ式聖地 - ものづくりとことだまの国       
  平安時代の末に浄土信仰が盛んになると、四天王寺には法皇や貴族たちの参詣が盛んとなります。鎌倉時代以降には、浄土信仰と太子信仰が庶民にまで広がって、ますます賑わうようになったようです。
  駅から歩いていくと最初に大きな石の鳥居に出会います。
DSC05284c.jpg

正面上の額には
「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」

とあります。「釈迦如来が説法された聖地であり、西門は極楽の東門にあたる」という意味になるそうです。
一遍 四天王寺鳥居

鳥居をくぐると正面に西門が見えてきます。この門と鳥居の間が浄土信仰の聖地でした。
昔は鳥居の直ぐ近くまで海が入り込んでいたようです。そのため彼岸の夕陽は鳥居の中心から海に沈みました。その時の鳥居の向こうは、まさに極楽につながる道が現れると信じられるようになります。そのため、彼岸の中日には「日想観(じっそうかん)」を行うために大勢の人々が集まってきました。日想観とは、四天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かい合っているという信仰から来たものです。このため人々は西門付近に集まって、沈む夕日をここから拝みました。これには作法があるようで、まず夕日をじっと眺め、目を閉じてもその像が消えないようにしてから、夕日の沈む彼方の弥陀の浄土を思い浮かべます。だから太陽が真西に沈む彼岸の中日が一番良いとされてきました。まさに、ここは極楽浄土への入口が見える聖地だったようです。

『聖絵』の天王寺の詞書には、次のように記されています。
一遍 四天王寺詞書

これでは私には読めませんので、変換ボタンを押します

一遍 四天王寺詞書書き下し
  さらに意訳しておきましょう
文永十一年(1274)桜の季節に伊予桜井(今治)を出た一遍一行は、やがて四天王寺にやってきて参籠した。この伽藍は釈迦如来転法論の古跡で、□□? 東門中心の景勝地でもある。歴代の皇室の崇拝を集め、600を越える道場があり、星霜の歳月を経てもお堂や堂の甍が朽ちることはなく、露盤は光り輝いている。亀井の井戸の水が涸れることはなく、宝水が絶えることもない。
  (中略)
この地において信心を深め、発願を堅くし誓い、十種のの制文をおさめて、如来の禁戒を受け、 一遍は念仏を唱え衆生の救済を開始した。
この詞書がどのように絵画化されているのか見ていきましょう。
一遍 四天王寺伽藍東端導入部

巻物を開いていくと詞書に続いて、まず最初に見えてくるのは築地塀をめぐらした天王寺の伽藍の一部です。霧の海の中に、いくつもの建物の屋根だけが浮かんでいます。広大な広さを持ていることがうかがえる光景です。左下には参拝者達の姿が見えます。被衣(かずき)姿や市女笠をかぶった女人達が門から入っていく姿が見えます。一部だけ見えているのが南大門のようです。

一遍 四天王寺伽藍1

全体構図を見ておきましょう。四天王寺の伽藍が描かれています。
先ほど見たのは①の南大門から東の部分になります。

一遍 四天王寺伽藍配置図

画面上部が北で、画面の右側に講堂・金堂・五重塔・中門が延長線上に真っ直ぐにならぶ「四天王寺式」の伽藍が描かれています。
伽藍中心部を拡大して見ましょう
一遍 四天王寺伽藍


伽藍中央に五重塔があり、その北に金堂の屋根が見えます。よく見ると金堂の扉は開かれて、釈迦入来座像が安置されているのも見えます。その向こうに屋根だけをのぞかせているのが講堂になるようです。境内にはいろいろな参拝者の姿があります。
被衣姿の女
黒染め衣の尼
従者を連れた連れた絵帽子姿の男

画面手前の築地に沿った道は熊野街道です。
傘を差して馬に乗っているのは、熊野詣でに出掛ける武士の姿のようです。従者は行器(ほかい)を背負い、弓矢、毛鞘(けざや)の太刀を担いで、主人に従っています。
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⑤西門に目を移すと、そこには時ならぬ人だかりがしています。
その中心にいるのが 一遍のようです。その背後にが超一、超二の二人でしょうか。

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いろいろな姿をした参拝客が一遍の周囲に集まっています。一遍はここで初めて念仏札をくばった(賦算、賦はくばる、算はふだ)とされます。その姿が描かれているようです。これが一遍布教のスタートの姿です。
札を配る一遍を取り巻く人たちの姿も見ていると細かく描き分けられています。
集まってきた人たちの背後には一基との灯籠があり、その左右に檜皮葺のお堂があります。念仏堂や絵殿だと研究者は指摘します。このあたりの参拝者も遠巻きに一遍を見守っているようです。
蓑笠をかぶり弓を持った狩場帰りの武士
折絵帽子狩衣姿の屈強な若者が水干姿の垂髪を従えて、うさんくさそうに眺めています。
お堂に腰掛けて見守る僧侶ふたり
その向こうでは両手を広げて踊っているような姿も見えます。一遍の念仏は、踊り出すような節回しとリズムがあったのかもしれません。

一遍達が札を配る伽藍の外では、築地塀沿いにいくつもの小屋が並んでいます。
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小屋には車が付いているものあります。これらは「乞食小屋」のようです。熊野街道沿いの築地塀前はスラム街であったようです。都市近郊の四天王寺には施し・あるいは救いを求めて多くの乞食・あるいは病人が集まっていました。四天王寺は、そのように病魔に冒された人たちが最後にすがる聖地でもあったようです。
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このような人たちを描かせた聖戒の意図とは、なんだったのでしょうか。
それは西門での一遍のはじめて賦算(お札配り)と関係があると研究者は考えているようです。ここでは一遍は、「境外の乞食には札を与えていない」ことをまず指摘します。そして
「賦算が見返りとしての喜捨を期待していたこと」
「不信・不浄の乞食には賦算札を与えない。与えようとしても受け入れられないことをこの絵ははっきり示している」
と云うのです。なぜならば、乞食・非人には「明日の命はわからない。神仏などいくら信仰しても《腹のたしに》ならぬのだ」
からだと、中世の乞食や非人には「近代人の善意」による解釈や「普通人の想像」がまったく通用しないことを語ります。
 つまり、一遍は四天王寺で乞食・非人に救済の手が届かない無力感を味わったというのです。
賦算という行為の外で、届かない人たちの存在。別の見方をすれば、その人たちと、どのような関係を取り結んでいくのかという課題を四天王寺で背負ったことになります。その課題を持って一遍は、高野山から熊野へ入って行きます。そして、熊野でその解答を見つけるのです。
 一遍は四天王寺で味わった無力感を抱えたまま熊野に向かいます。
そこで今度は「信・浄」の律宗僧侶にすら拒絶されます。思い悩んだ末に、権現の神託を受けるのです。四天王寺と熊野での体験は、一遍の信仰にとって「連続したひとつのイヴェント」だったともいえます。その後一遍は、新宮から聖戒にあてた便りの中で「同行を放ち捨て」たことを伝えています。超一、超二の二人を「放ち捨て」たのです。
  従来、超一、超二の二人は 一遍の妻子とされてきました。
しかし、それに異を唱える研究者も出てきているようです。それによると、超一、超二の尼形は一遍の妻子ではなく、人を集め銭を稼ぐための女芸人母子だったというのです。旅先で生きていくためには、彼らの「芸」が必要だった、「自力」で生きるのに必要な存在だったという説です。そうだとすれば、熊野で「他力本願」という信仰の核心をつかんだ後は、必要としなくなったと研究者は考えているようです。
 二人が芸人だったかどうかは私には分かりませんが、一遍が生活の基礎を彼らに負っていたことは充分に考えられます。一遍も最初は、貨幣経済を無視して旅先で生きていくことは出来なかったようです。

西門からさらに西に行くと、朱色の木造の鳥居が建っています。

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この鳥居は永仁2年(1294)に忍性によって石造にかえられたといいます。これが、最初に見た彼岸に夕陽がその真ん中を沈んでいく鳥居です。その額には「釈迦如来転法輪所 当極楽土東門中心」と記されています。この鳥居と正門の間から人々は沈みゆく夕陽を眺め祈ったことになります。ここは極楽浄土の東門であったのですから。
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 鳥居の両側には玉垣が連なります。その前で、人々が施しを受けています。後の車小屋の中には碗が1つ。もうひとつの車小屋には老乞食がうごめいています。

鳥居の前の参道の両脇には、築地塀で囲まれた邸宅が並びます。手前は板屋で簡素です。それに比べて参道の向こう側は、門も四足門で、檜皮葺の入母屋造の豪壮な邸宅です。天王寺の別当の住居と研究者は考えているようです。この参道の向こうはどうなっているのでしょうか?
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そこはもう砂浜と海です。海には鴨類が浮かび、その上を鵜(?)の群れが飛びます。この海に夕陽が沈み、西方浄土世界への道が現れると信じられていた聖なる空間です。この海を背後にしながら 一遍一行は高野山を目指すことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
日本の絵巻20  一遍上人絵伝 中央公論社

岩屋寺の行を終えた後の一遍を、聖戒は「詞書」に次のように記しています。
一遍聖絵 詞書伊予出発

「舎宅田園を投げ捨て、恩愛眷属を離れて・」とあるので、父より受け継いだ別府の所領を捨て、一族と縁を切り、すべてを捨て「修行随身」の準備をしたようです。
そして、文永11年(1274)2月8日、「恩愛眷属を離れて」故郷伊予松山を旅立っていきます。
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写真をクリックすると拡大します

それが、このシーンになるようです。
絵の構図を見ておきましょう。季節は冬2月です。茅葺き屋根の庇の縁から二人の老女が柱にとりすがっています。じっと悲しみに耐えているようにも見えます。庭先には、婦人と子どもが別離の涙で見送っています。
その視線の先には、黒染めの衣に袈裟をかけた一行が歩み去って行きます。それぞれの人物に注記が付いています。前から、 一遍、超一(妻と推測)・超二(娘と推測)、念仏房(子弟と推測)と振り返る聖戒(一遍の弟?)の5人です。その向こうには、伊予の海が潟湖となって入り組んできています。湿原(水田?)には、白鷺の群れが舞い降りています。
この絵を見ていると、疑問が湧いてきます。その疑問を挙げてみると・・
①見送る側に妻子がいて、見送られる側にも妻子がいる
②出発する家は、誰の家でどこにあったのか
③縁の上で見送る2人の老女と 一遍の関係は?
①については、一遍には二人の妻がいたようです。
その愛憎関係から逃れるために再度の出家をしたとも云われるので、そう理解しておきましょう。一緒に旅立っているのが後から妻になった方なのでしょうか。これも私にとっては謎です。

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 旅に妻子を同行することになったのは、「たっての希望をいれて」と云われます。妻超一房、10歳になった娘超二房、です。時衆では、尼には一房号または房号をつけるのがならわしだったようです。弟聖戒は越智郡桜井まで見送り、その後に内子の願成寺に入ります。

②については、これで一遍の旅立ちを描くシーンは、3度目です。
よく見ると、それぞれ旅立ちの起点となる家が違うように見えます。どういうことなのでしょうか。この家も海辺にあったようですが、周囲の状況がかつて登場した家とは違います。これが実家なのでしょうか。
③については、母なのでしょうか。
 一遍の母については、『一遍上人年譜略』に「母は大江氏」と伝えるだけです。大江氏は鎌倉幕府の有力な御家人で、もとは京都の学問の家系です。一遍の母と伝える女性は、大江季光の娘とも云われます。祖父通信が御家人として鎌倉幕府で重きを成していたときの婚姻関係なのかもしれません。しかし、その母は 一遍が10歳の時に亡くなっています。 一遍には、この時には父も母もいません。

  もうひとつ気になるのは、以前の「太宰府への旅立ち」「再出家」のシーンに比べて、去っているはずの 一遍一行に動きが感じられないのです。立ち止まって何かを待っているように、私には見えます。
  これから 一遍一行が向かうのは、桜井(今治)だったようです。そこへ向かうのなら舟が便利です。一遍は水軍として活躍した河野氏の一族の御曹司です。迎えの舟を待っているのかなとも想像しますが、それでは絵になりません。やはり、ここは去っていく姿なのでしょう。しかし、実際に松山から桜井への行程は、どんなルートをとったのでしょうか。海沿いルートか、舟便なのでしょうが、後者を私は考えています。

伊予桜井里での聖戒との別れを、詞書は次のように記します。

一遍聖絵 詞書聖戒別れ

聖戒が書いた詞書からは次のようなことが分かります
①松山から桜井里まで聖戒も5,6日同行した
②そこで 聖戒は「暇を申し侍りき」と、別れを告げた
③ 一遍は「臨終の時は、必ず巡り会うべし」と誓って、名号を書いて十念を授けた
つまり、このシーンは聖戒との別離シーンになります。

それでは絵師が、この場面をどう描いたのか見ていきましょう
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『聖絵』巻二第、桜井里での聖戒と別れのシーンです。
この場面を、絵師はふたつのシーンに分けて描いています。例の「忍法 同時異場面 分身の術」です。構図は、今までの別離シーンとよく似ています。右側に建物を描き、左側に出発する複数の人物が描かれます。二つの場面が対照的に感じるのは、先ほどの松山が冬で、白鷺の群れの彩りしかありませんでした。しかし、この聖戒との別離シーンは再び、満開の桜が描かれています。
  先ほどの詞書には、「聖戒5,6ケ日送り奉じる」と、ありましたので、桜井にやって来たのは2月中旬だったようです。しかし、別離と旅立ちは桜の季節になったようです。これも不可解です。どうして、2ヶ月近くも桜井里で待つ必要があったのでしょうか?
 考えられるのは、大坂までの船便を待っていたということでしょうか。
この頃の瀬戸内海航路は頻繁にいろいろな舟が行き来していました。熊野水軍は大三島神社との間に、准定期船的な航路も持っていて熊野詣の参拝者を運んでいたようです。讃岐塩飽の客船も博多方面との活発な動きを見せています。塩飽はターミナルのような役割を果たしていて、ここ行けば目的地への船便が見つけられたといいます。
 2月は北西風が強いために瀬戸内海航路は「運休シーズン」でもあったようです。そのため船便待ちのために、ここに留まったたのかもしれません。

もうひとつは、「聖絵」に描かれる一遍の遊行先は、その多くが律宗の活動拠点と重なるという指摘です。
桜井から一遍が向かおうとする四天王寺は、叡尊や忍性が別当に任ぜられた律宗の重要拠点でもありました。また、大隅正八幡宮、大三島神社、美作国一宮など各国一宮への参詣しています。これらは 弘安 7 年に出された諸国国分寺一宮興行令を承けて、叡尊ら西大寺系律宗が再興事業が進めていた寺社でもありました。
 そういう目で見ると、一遍と聖戒の舞台となった伊予国桜井(今治市)も、西大寺系律宗の拠点であった伊予国分寺があります。伊予国分寺と聖戒には、何らかのつながりがありそうです。聖戒はやがて、瀬戸内にお ける律宗の拠点や伊予念仏道場での活動を通して、同族の越智氏出身の凝然をよく知るようになります。そして、それが石清水八幡宮を経て、京都進出への道を開くことになります。そのスタート地点として桜井が舞台として選ばれたのかもしれません。聖戒による「聖絵」の成立は、
①蒙古襲来という社会状況下における「越智河野氏」の出自
②律宗を通した土御門家(宮廷)とのつながり
③一遍と聖戒の律僧的側面
に支えられていたと研究者は考えているようです。

 敢えて「桜」を聖戒が描かせたということも考えられます。
この絵図を書かせたのは聖戒です。何のために抱えたのかを考えるときに今まで見てきた場面から浮かび上がるのは、「聖戒=一遍第1の弟子、そして弟」を正当づける意味合いがあったことがうかがえます。聖なる場面は、「桜」で彩られていました。少女漫画の「花に囲まれたヒロイン」と、同じ記号のように私には思えてきます。聖戒が絵師に、敢えて桜を描かせた説も考えれます。
画面を改めて見ていきましょう
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右側のシーンは、茅葺屋根の古びた建物の中で、聖戒が一遍に別れを告げています。縁では白衣姿の僧が合掌します。これが詞書に描かれた二人のやりとりのシーンなのでしょう。
画面左は時間をおいて、翌朝のことかもしれません。満開の桜の下で一遍一行が左方向に歩きだしています。一方、聖戒は右方向に進みながら、名残を惜しむように振り返り、振り返り、遠ざかっていく一遍一行を見送っています。心と体が、引き離されるような状態かもしれません
「振り向くことで左方向が強調され一遍一行に視点が集中する。一遍と聖戒の間に描かれた小川は別れを表し、過去と未来、物語の展開の分岐点」

と研究者は指摘します。
一遍 伊予桜井 聖戒別離

満開の桜の根元に花びらが散っています。上空には花びらが舞っています。この場面も、桜が別れを象徴し、桜が大きく描かれています。桜井の別れの場面は、一遍と聖戒の物語の終結をあらわすようです。
  そして、 一遍一行は大坂の四天王寺に向かいます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐々木弘美 一遍聖絵』に描かれた桜

稲木北遺跡
稲木北遺跡は、大型建築物がいくつも出てきたことから多度郡の郡衛跡候補とされているようです。どんな遺跡なのか調査報告書を見ていきます。この遺跡は善通寺市稲木町にあり、国道11号坂出丸亀バイパス建設工事のために平成17年度に発掘調査が行われました。
稲木北遺跡 上空写真

位置は、新たに作られたバイパスと旧11号線の分岐点の南側です。上の写真では、国道北側に見えるのが新池になります。道路手前の掘り返されている部分が発掘されたエリアになるようです。
 新池の西側には丸亀城からの街道が通っていました。稲木遺跡を南に越え行くと、すぐに伊予街道と合流します。そこには永井湧水があり、殿様が休息所に使っていた建物があったようです。丸亀の殿様も国内巡視には、この道をよく利用しています。

稲木北遺跡 上空写真2
 この遺跡からは、古代の郡衛跡を思わせるような大型の掘立柱建物跡や柵列跡がでてきました。これらは左右対称に整然と配置され、柵列跡でかこまれたエリアは一辺約60mになります。これは、全国の郡衛政庁と同じ規模にです。そうだとすると、ここは多度郡の政庁があった可能性が高くなります。まずは、調査報告書に従って、遺跡を見ていくことにします
稲木北遺跡 配置図

  調査区域はバイパス工事で立体化される拡張部のみで上記の4区になるようです。
稲木北遺跡が、どんな所に立地していたかを見ておきましょう。
稲木北遺跡 地形復元図

等高線が引かれた地図を見ると①②ともに微髙地のうえにあることが分かります。
①の西側に河道跡が見えます。これが遺跡の西端を区切っています。
②は東側に河道跡があります。同じくこれがエリアの境界となるようです。
この遺跡の東約1,3kmには金倉川があり、この旧河道の中に頭一つ出ていた微髙地上にあります。上の第5図からは遺跡の東西で旧河道の存在を見て取れます。旧河道が8世紀代の遺構群の東・西限のようです。
稲木北遺跡 遺構配置図

  出てきた柱跡をつないでいくと、大きな掘立柱建物跡が8棟出てきました。それを復元してみると、次のようになるようです。
稲木北遺跡 復元想像図2

これらの掘立柱建物群は、8世紀前半から半ばにかけて、同時に立ち並んでいたと研究者は考えているようです。ここからは次のようなことが分かります。
①大型の掘立柱建物跡8棟
大型柵列跡2基(SA4001とSA2001)で東西の柵で囲まれている
③建物跡は多度郡条里坪界線に沿って建っている
④建物レイアウトは、東西方向への左右対称を意識した配置に並んでいる。
⑤対称の関係にあるの基準線からの距離だけでなく、建物跡の種類や規模についても対応する。
⑥柵列跡の内部では床束建物(Ⅲ 区SB3001)が中核建物群
⑦柵外では総柱建物の倉庫群(東の2棟・西の1棟)があって、機能の異なる建物が構築されている。
⑧柵列跡の区画エリアは東西約60mで、全国の郡衛政庁規模と合致する。
⑨ 見つかった遺物はごく少量で、硯などの官衛的特徴がない
⑩ 出土した土器の時期幅が、ごく短期間に限られている

ここからは、稲木北遺跡(8c前葉~中葉)が、大型建物を中心にして、左右対称的な建物配置や柱筋や棟通りに計画的な設計上の一致があることが分かります。

 それでは郡衙(郡家)とは、どんな施設だったのでしょうか。何を満たせば郡衙と云えるのでしょうか
 郡衙は文献史料によって、「郡庁」「正倉」「館」「厨家」「門」「垣」などの施設があったことが分かっています。
 律令の「倉庫令」には、郡衛設置について次のように規定されています
①倉は高くて乾燥した場所に設けること、
②そばに池や濠を掘ること
③倉から五〇丈(約150m)以内には館舎を建ててはならない
ここからは、郡衙は低湿地には作ってはならなかったことが分かります。また、多くの倉(正倉)が立ち並ぶエリアがあったようです。今は正倉院といえば、奈良にある東大寺の宝物庫の正倉院のことをすぐに思い浮べてしまいます。しかしもともと、正倉とは建物をさすのではなく、国家所有の倉庫群の一郭をさすことばだったのです。発掘で、倉庫群が出てくれば郡衙にまちがいないようです。
 倉庫(正倉)以外にも郡衛には、次のような施設(建築物)がありました。
稲木北遺跡 郡衙の構造

「郡庁」は、郡衙の政庁であり、郡司らが執務するところ。
 郡庁は、「庁屋」「副屋」「向屋」など数棟の建物から構成されていたようです。全国の郡衙復元図を見てみましょう。
上総国新田郡家跡の配置図です。
稲木北遺跡 新田郡衙遺跡

 中央に(1)郡庁があり、その真ん中に庁屋があり、左右に「副屋」「向屋」など数棟の建物が建っていたことが分かります。
  「倉から五〇丈(約150m)以内には館舎を建ててはならない」という規定通り、郡庁と(2)(3)正倉(倉)は、距離を置いて設置されています。また正倉も規則性をもって建てられています。しかし、周囲を囲む堀は不整形です。
稲木北遺跡 新田郡衙遺跡復元図

   豪族居宅型の郡庁
 郡庁の中には地方豪族の居宅から発展してきたものもあると研究者は考えているようです。古い時代の地方豪族の居宅の形が郡庁に踏襲されているというのです。郡司が国造など地方豪族の流れをくむ者から選ばれていたことを考えるとそれは、当然考えられることでしょう。これを「豪族居宅型」の郡庁と呼んでいます。その代表がこの新田郡家遺跡のようです。

  それに対して左右対称の強い規格性を見せるのが広島県の三次郡衙です。
稲木北遺跡 三次郡衙
  三次郡衙は、庁屋を中心に左右対称に建物群が配置され、周囲の塀も規格性を持っています。そして正倉も、その南と東に集中して並んでいます。
稲木北遺跡 三次郡衙2

  これらの郡衙跡と稲木北遺跡の復元図を比較してみましょう。
  稲木北遺跡 復元想像図2

 庁舎を中心に建物が左右対称に配されています。正倉は掘建柱塀の東西の外側に距離を置いてあったことが分かります。発掘エリアが広がればもう少し数が増える可能性もあります。これは郡衙跡の可能性大のようです。
 
しかし、実は多度郡の郡衙跡候補はすでに発掘されているのです。
それが善通寺の生野本町遺跡です。
生野本町遺跡 

この遺跡は善通寺西高校グランド整備のための調査で現れた遺跡で、
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。
②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉で、稲木北遺跡より少し先行し、しかも存続期間が長い
③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡
④中心域(郡庁?)は微髙地の一番高いところに設置
 郡衙的な色合いが強い遺跡です。
生野本町遺跡の南 100mには、生野南口遺跡があり、次のようなのもヶ出土しています。
⑤8世紀前葉~中葉の床面積 40㎡を越える庇付大型建物跡 1棟
⑥杯蓋を利用した転用硯
生野本町遺跡に隣接するので、郡庁に属する建物であると研究者は考えているようです。

 稲木北遺跡と生野本町遺跡を比べると、多度郡の郡衙跡候補地としてはどちらもその可能性があるように思えます。しかし、この二つの現存期は7世紀後半から8世紀初頭にかけてになります。つまり同時併存していた遺跡なのです。多度郡に2つ郡衙があったとは考えられません。
次の3つの要素を加えるとぐーんと生野南口遺跡が有利になるようです
A 生野本町遺跡の北側には、南海道が通っていた。
B 有力豪族である佐伯直氏の本拠地に近いこと 
C 仲村廃寺や善通寺が造営されていること
Aの推定南海道については、以前にお話ししたように次のような根拠から四国学院内を通過していたという説が有力になっています.

DSC01748
①多度郡条里地割の6里 、7里 の里界線沿いが南海道の有力な推定ラインとなる。
②多度郡の東側の那珂郡では、この推定ライ ンに沿つて余剰帯 (条里型地割において南北幅が東西幅に比べて10mほ ど広い坪の連続する箇所)があり、これを西側へ延長した位置にあたる。
③13世紀代の善通寺文書において五嶽山南麓に延びるこの道が「大道」と記載 されている
そして、四国学院大学構内遺跡同遺跡からは②の推定南海道の位置とぴったりと合う所で、併行して延びる2条の溝状遺構が見つかっています。この遺構は7世紀末~8世紀初頭に掘られたもので、その方向は条里型地割と一致し、溝状遺構の幅は約8,5mです。ここから南海道の道路側溝である可能性が高いと研究者は考えているようです。
稲木北遺跡 多度郡条里制

  全国の郡衛の多くは主要街道の近くに設置されています。
それは中央集権的な国家体制作りからすれば、当然の立地条件だったのでしょう。かつては、伊予街道=南海道とされきましたが、先ほど見たように南海道が善通寺の現市街地を貫いていたと、現在の研究者の多くは考えています。そのため生野南口遺跡がぐーんと有利になります。また南海道の建設工事が7世紀末から8世紀初頭とすれば、生野南口遺跡の多度郡衛の設置時期とも重なります。
  この時代の西讃地方で行われていた土木建設工事を挙げてみると
 7世紀半ば       三野郡に讃岐初の古代寺院・妙音寺が丸部氏
       (?)によって造営開始
663 日本,百済軍が唐,新羅軍に敗れる(白村江の戦い)
667 近江大津宮に遷都.瀬戸内沿岸に山城築造(大和国・高安
城,讃岐国・屋嶋城)
672 壬申の乱
695 藤原京造営 宮殿に三野郡の宗吉瓦窯の瓦使用
         三野郡の妙音寺完成  
    稲木北遺跡(多度郡郡衛?)完成

生野南口遺跡周辺の有力豪族と云えば、空海を生んだ佐伯直氏です。
現在の誕生院は佐伯氏の館で、空海の生誕地であると云われますが、それを実証する史料はありません。『類衆国史』には、9世紀前半に佐伯鈴伎麻呂が大領 (郡司)となっています。それ以前には、佐伯直氏の館跡との関係を直接的に示す遺跡は分かりません。しかし、善通寺には、他地域を凌ぐ寺院や古墓があります。
 まず寺院については仲村廃寺、善通寺があります。
仲村廃寺は、原型に近い川原寺式軒丸瓦や法隆寺式の軒平瓦などが出土し、奈良時代まで多くの種類の軒瓦が使用されています。善通寺跡からも白鳳期から平安期にかけての多種類の軒瓦が出てきていて、両寺とも盛んに造寺活動が行われていたことが分かります。これらの背後には佐伯直氏の活動がうかがえます。
 一方、古墓については8世紀中葉~9世紀代の火葬墓群が筆の山の南麓、東麓で見つかっています。このうちカンチンバエ古墓では銅製骨蔵器が使われ、畿内で貴重で珍しい材質なようです。佐伯氏と思われる有力豪族が存在していたことがうかがえます。
稲木北遺跡 条里制

稲木北遺跡付近を本拠地とした豪族としては因岐首氏が考えれます
因岐首氏については『日本三大実録』に「多度郡人因支首純雄」らが貞観8年 (866年)に 改姓要求の申請を行つた結果、和気公が賜姓された記事がありますので、多度郡に因岐首氏という豪族がいたことは確実です。
 500年後の1423年の「良田郷田数支配帳事」には、多度郡良田郷内に 「稲毛」 という地名が記されています。この「稲毛」を因岐首氏の 「因岐」からの転化と研究者は考えているようです。そして、良田郷を因岐首氏の本拠地とします。この説に従えば、稲木北遺跡は良田郷に属しますので、8世紀初頭には因岐首氏がこの地域を本拠地としていた可能性は高くなります。。
 智弁大師はこの因岐首氏の出身で、その系図を残しています。
それは『和気系図』と呼ばれ、今は国宝となっています。その系図には始祖である忍尾別君から因支首純雄らの世代までが記されています。また、忍尾別君が伊予国から移住し、因岐首氏と婚姻し、因岐首氏の姓を名乗るようになったということも記されています。この伊予からの移住時期を7世紀中頃と研究者は考えているようです。つまり、大化の改新から白村江の敗北の前後に、伊予からやって来た豪族というのです。ここからは次のようなことが考えられます。
佐伯直氏の郡衙       多度郡部の生野本町遺跡
因岐首氏(和気氏)の郡衛     多度郡部の稲木北遺跡
しかし、見てきたように佐伯直氏と因岐首氏の勢力を比べると、これは佐伯直氏に軍配があがります。例えば、古代寺院の造営という点からしても多度郡南部には、同時期に仲村廃寺と善通寺があります。壬申の乱以後も佐伯直氏は、勢力を保持し郡司の座にあったと考えられます。
それでは、善通寺に郡衛(生野本町遺跡)があったのに、なぜ稲木の地に新たに郡衛ぽい施設を作ったのでしょうか。
稲木北遺跡の同時代に並立していた遺跡を見てみましょう
①稲木遺跡では「口」の字形の官衛的な建物配置、
②金蔵寺下所遺跡では河川管理祭祀
③西碑殿遺跡と矢ノ塚遺跡は鳥坂峠の麓という交通の要衝に立地する
といったそれぞれの機能的側面を持っていたます。 
 7世紀半ば以後に、伊予から多度郡北部にやって来て急速に力を付けた新興勢力の因岐首氏の台頭ぶりを現すのがこれらの遺跡ではないかと研究者は考えているようです。
 因岐首氏による多度郡北部の開発と地域支配のため新たに施設が作られ、
「既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡」

と研究者は指摘します。つまり、新興勢力の因岐首氏による多度郡北部の新たな支配拠点として、この官衛的な施設は作られたというのです。
 しかし、この施設は長くは使われませんでした。
非常に短期間で廃棄されたようです。使用痕跡が残ってあまり残っていないのです。例えば土器などの出土が極めて少ないようです。また、硯や文字が書かれた土器なども出てきません。つまり、郡衛として機能したかどうかが疑われるようです。
 因岐首氏の台頭で藤原京時代に、多度郡の第2郡衛的性格を持って作られた稲木北遺跡の建築物は、律令体制の整備が進む奈良時代になると放棄されたようです。そこには多度郡の支配を巡る佐伯直氏との対立もあったのかもしれません。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
稲木北・永井北・小塚遺跡調査報告書2008年

 岩屋寺 白山権現1
 
   どこの札所か分かるな?
と、若い頃にこの絵を見せられたときには、私には分かりませんでした。当時は四国遍路は一度は済ませていましたが、こんな霊場は見たことありませんでした。最初の霊場巡りは、朱印状を集めることが目的化していたこともあるのでしょうか、思い出せないのです。それもそのはずです。この光景は、普通に札所や遍路道を歩いていては見えてこない風景なのです。それは、行場(奥の院)の光景なのです
岩屋寺 上空写真

  ドローンから撮影した菅生岩屋(岩屋寺)の全貌になります。山中から突き出す三本の岩柱が確かに見えます。ロッククライマーの登攀意欲を刺激しそうな光景です。そう言えばロッククライマーと修験者は、指向が似ているのかもしれません。高く切り立つ峰を見ると登りたくて仕方なくなるようです。
  修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていたようです
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の間にあるのが「霊山」というイメージでしょうか。そして、神や仏は霊山の山上の空中や地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道(水が流れない断崖絶壁も瀧)
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、おそれられました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったのです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされました。霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったようです。
 そういう目で、この光景を見るとまさに霊山にふさわしいとこです。①や②がそろっています。そこによじ登り、天界への入口に近づくことが修行になります。ここにやって来た修験者たちは、これらの峰の頂上に置かれた祠を「捨身」し、命がけでめざしたのでしょう。

岩屋寺 白山権現拡大番号入り1

晩秋の空にそびえる三つの岩峰。デフォルメもありますが、こんな風に見えたのでしょう。
一番右が①白山権現を祀る岩峰です。その背後には横跛のように、②白雲がたなびきます。この雲は高野山(第二第四段)や熊野新宮・那智(第三第一段)などでてくるようです。研究者は
「一種の「瑞雲」で、この地が霊地・聖地であること示す指標の一つ」

と指摘します。
そそり立つとなりの岩峰の頂上にも、⑤小さな祠があります。朱塗りの柱と山裾の紅葉とマッチして彩りを添えます。その前に平伏する修験者がいます。
 樹木を見ると、強い風のためでしょうか、一方に変形しているようです。実際に見ないと書けない図柄です。詞書にあるように
「斗薮(煩悩をはらって修行に励むこと)の行者霊験を祈る」

にふさわしい聖地です。
 そこに頂上に向けて③はしごが掛けられています。急な梯子を上る修行は、命がけです。こうした荒行によって、山岳修行者は、飛ぶ鳥を祈り落とすほどの験力を得ると信じられていました。「やいば(すさまじい)の験者」の誕生です。今のアクションゲームで云うと、ダンジョンでボスキャラと戦うことによって、自分のエネルギーを増やして行くようなものかもしれません。
 はしごの下の④白装束の人たちは、伏し拝んでいるようにも見えます。荒行を行う人たちをスーパーマンとして崇めているようにも見えます
聖戒は、 一遍の菅生の岩屋参籠の目的が、「遁世の素意」を祈るところにあったと記します。
「遁世の素意」とは何でしょうか。それは、「衆生を利益せん」という「おもひ」(第一第四段)としておきましょう。そのためには自ら全国各地に足を運ばねばなりません。当然、強靱な体力と胆力が求められます。今で云う足腰と心のトレーニングが必要です。
 こうした修行を繰り返すことで、強靭な体力と「ひじり」としての霊性を得て、「やいばの験者」に己を高めようとしたとしておきましょう。前回にお話しした土佐の女人仙人や空海はその良き先例だったのかもしれません。一遍はこの二人に「結縁」することで「ひじり」としての神秘な霊性に磨きをかけ、遊行に耐え得る強靱な体力と生命力を得た研究者は考えているようです。
岩屋寺 白山権現はしご1

そうだとすれば、梯子を登っているのは 一遍と聖戒ということになります。
聖戒が登場するのは、修験者の修行には「付き人」が必要であったと前回お話しした通りです。詞書にも
「この時、聖戒ばかり随逐したてまつりて、閑伽(水)をくみて閑谷の月をになひ給へば、つま木をたづねて暮山(ぼざん)の雲をひろひなどして行化(ぎょうげ)をたすけたてまつる」

とあります。
もう一度、梯子を上る一遍と聖戒を見てみましょう。

岩屋寺と上黒岩岩陰遺跡 --- 巨石巡礼 |||

その姿や顔付きからすると、前が聖戒、後が一遍のようです。
国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」展に行ってきました。 - 仏像ファン的古寺巡礼

しかし、両者のキャリアの相違からすれば、熟練者の一遍が先になって先導するのが普通なのではと思えてきます。聖戒は一遍の息子とも弟とも甥とも云われています。そして一遍の太宰府再訪につき従い、その後の信州善光寺参籠にも従っています。その時の絵柄は、一遍の後にしたがう姿でした。しかし、ここではなぜか聖戒が先です。穿った見方をするなら、聖戒は師の一遍を語りながら、実はさりげなく自分の立場を視覚的に印象づけようとしていたのかもしれないと思えたりもします。
 研究者の中には、聖戒を「ことさら消極的、控え目」な人柄とする人もいるようですが、そうとばかりには私には思えない所もあります。この絵図の立ち位置は、自身を一遍の念仏思想の伝法、後継者として位置づけているようにも私には見えます。
岩屋寺 白山権現2

   一遍絵図に、異界への入口とされそうな行場が至る所にみえます。行場と行場を結ぶ「行道」があり、修験者たちが「辺路修行」をしていたことがうかがえます。室戸岬のような所では、海岸に烏帽子岩のような岩や洞窟があると、洞窟に寵って岩をぐるぐる回る行をします。その痕跡が海辺の霊場の奥の院には見られます。そのような回遊・周回的な行道がここにもあったようです。
 例えば、真ん中の峰の頂上の社の前には白装束の行者が、平伏して一心に祈っているような姿が見えます。その隣の頂きにも社があります。これにはそれぞれの神が祀られ、そこに毎日祈りを捧げる「千日行」的な行が行われていたと研究者は考えているようです。つまり、「一回お参りしたら、それでお終い」ではないのです。何日も参籠を繰り返す「行道」を行っていたのです。

岩屋寺 白山権現への鍵
白山権現行場への鍵

現在でも納経所に申し出てれば、せりわり禅定への扉の鍵を渡され、白山権現を祀る峰にはお参りすることができるようです。
岩屋寺 白山権現行場入口
 
門の右には「白山妙理大菩薩芹せり割行場」という看板がかかっています。この向こうが芹割です。
岩屋寺 白山権現芹割行場

   押しつぶされそうな狭い抜けて割りを抜けて行きます。まさに異界への入口の光景です。
「岩屋寺開山法華仙人が弘法大師に法力を見せんとして大岩石を割って通った跡」
とも伝えられているようです。

岩屋寺 白山権現鎖場1

   その先にはいくつかの鎖場が続き、最後に梯子がかけれています。
岩屋寺 白山権現行場はしご21

最後の階段は天空の異界に通じるはしごに見えました。
岩屋寺 白山権現社1

階段を登り切ると、白山大権現をお祀りする祠が見えてきます。
岩屋寺 白山権現上空から

一遍聖絵の社は、柱は朱塗りでしたが、今の社は白く輝いています。この白山権現の祠の前に 一遍も平伏し、称名念仏を唱え続けたのでしょう。ここが天界に一番近い入口ということになるのでしょうか。

 一遍のように、自己のために行を行う人たち以外に、他人のために行を行う修験者たちもいたようです。
神仏混淆の時代には、病気を治してほしいと願う者には、神様が薬師に権化して現れます。一つの決まつたかたちでは、民衆のあれこれの要求に応じきれませんので、庶民信仰の仏や神はどんどん変身権化します。豊作にしてほしいと願うと、神様は稲荷として現れ、お金が欲しいといえば恵比寿として現れます。そういう融通無碍なところが、民衆に好まれるようです。ある意味、仏も神も専業化が求められます。
 そういう中から「辺路修行」が生まれて、海のかなたに向かって礼拝すると、要求をなんでもかなえてくれるということになりました。ただし、神が代償に要求する方法は命がけの行なのです。
漁師が恵比寿様をまつるときは、海に入ってたいへんな潔斎をします。海に笹を二本立ててしめ縄を回して、海に入って何べんでも潮を浴びます。それを一週間なり21日間続けて、はじめて神様が願いごとを聞きとどけて、豊漁が実現するのです。
しかし、それは誰もができるわけではありません。そこで登場してくるのが「代理祈願」です。本人に代わって、霊山に行って行を行い願掛けを行うのです。つまり、自分のための修行と同時に、プロの宗教者(修験者)が、霊験のある霊場にはやってきて何十日にもわたる「代理祈願」を行うようになります。
 四国の霊場寺院の由来には、そういう行を専門に行う辺路修行者が行場に、お堂を開き、それがお寺に発展し、さらに里に下った由来をもつ札所がいくつもあります。岩屋寺と大宝寺の関係も奥の院と里寺(本寺)の関係のようです。辺路修行者が命がけで海岸の岩をめぐったり、断崖の峰を歩き、ときには自分の身を犠牲にしたりしたのは、そういう背景があったようです。
「遍路」のもとの言葉が、「辺路」だと研究者は考えるようになっています。
 四国でも紀伊・熊野同じように辺路修行が行われていました。そこに青年時代の空海がやってきて修行を行いました。そういう意味からすると、四国遍路は、弘法大師が歩いたところを歩くのだ、と単純には言えないのかもしれません。むしろ辺路という四国をめぐる古代宗教があって、その辺路を青年空海も歩いたと考えた方がよさそうな気がしてきます。
  一遍から段々離れて行ってしまいました。それだけ、この岩屋が魅力的な所なのだとしておきましょう。菅生岩屋は観音菩薩と仙人の霊山で、空海も修行に訪れたといわれる人気の霊山でした。そこに、 一遍も身を投じたのです。
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 
長島尚道 一遍 読み解き事典 柏書房

信州の善光寺から帰った後のことを一遍聖絵は、次のように伝えます。
同年秋のころ、予州窪寺といふところに青苔緑羅の幽地をうちはらひ、松門柴戸の閑室をかまへ、東壁にこの二河の本尊をかけ、交衆をとゞめてひとり経行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す。四儀(行住坐臥)の勤行さはりなく、三とせの春秋をおくりむかへ給ふ。彼の時、己心領解(独自のさとり)の法門とて、七言の頌(漢詩)をつくりて、本尊のかたはらのかきにかけたまへり。

ここからは、次のようなことが分かります。
①信州善光寺から帰った一遍は、文永八年(1271)の秋、窪寺(松山市窪野町北谷)に庵を構えた。
②「閑室」の東壁に、信州善光寺で書き写した「二河白道図」を本尊としてかけた。
③人々と交わることなく、 一人でもつぱら念仏を称える修行を行った。 
④四儀(行住坐臥)の勤行を、3年間行った。
⑤「十一不二頌」を作り、これを本尊である「二河白道図」の横にかけた。
一遍 窪寺1

窪寺は現在の四国霊場浄瑠璃寺の直ぐ近くにあったようです。その寺は今はなく、そこには石碑だけが残っています。ここはいまは彼岸花が有名で秋のシーズンには多くの人が訪れています。岩屋寺からの歩き遍路が、彼岸花に埋まった遍路道の坂を落ちていく姿は絵になります。
 一遍の父通広は、浮穴郡拝志郷別府(現重信町)の別府荘に所領があり「別所殿」とも呼ばれていたと云います。その別府荘の重信川を挟んだ対岸に窪寺はあります。
③には「交衆をとゞめてひとり経行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す」とありますが、世俗とのなにかしらのつながりを私は感じてしまいます。
⑤の「十一不二頌」とは何でしょうか?
 一遍独自の安心の境地を表す文字だったようです。同時に「二河白道図」を頌(褒め歌)でもあった次のような語句だったようです。
「十劫正覚衆生界」
十劫という遥か昔に、法蔵菩薩が正しいさとりを得て阿弥陀仏になったのは、すべての人々を救い、極楽浄上に往生させるという本願を成就したからである。
「一念往生弥陀国」
人々は一度「南無阿弥陀仏」と称えれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生することができる。
「十一不二証無生」
十劫の昔に、法蔵菩薩がさとりを得て阿弥陀仏となったことと、今、人々が一度「南無阿弥陀仏」と称えて極楽浄土に往生することとは、時間を超越して同時であり、このことは生死を超えたさとりの世界を表している。
「国界平等坐大会」
一度の念仏によって、阿弥陀仏の極楽浄土とこの世は同じ(平等)になり、この世にあっても、人々は阿弥陀仏が教えを説く大会に坐ることができる。

こうして一遍は文永十年(1273)25歳のとき、「十一不二頌」に示される「己心領解(独自のさとり)の法門」に達します。そして、窪寺の閑室を後に、さらに石槌山系の奥深く分け入り、そこから岩屋寺(菅生の岩屋:愛媛県久万高原町)に向います。

一遍 窪寺2

一遍が称名念仏に専念した窪寺念仏堂跡には、次のような碑が建っています。
 身をすつる すつる心を すてつれば
 おもいなき世に すみそめの袖
                一遍
この句は、1280年(弘安3年)奥州の江刺の郡(岩手県北上市)に、一遍の祖父河野道信のお墓参りをしたときに詠んだといわれるものです。河野通信は、承久の乱(1221年)で破れ、奥州平泉に流されて亡くなっていました。その時の供来讃歌です。

なぜ 一遍は修行の場として「菅生の岩屋」を選んだのでしょうか?
  それは、一遍が空海を崇敬していたからでしょう。そのために「弘法人師練行の古跡」である岩屋寺を選んだと私は考えています。「遁世の素意」を祈り、大師の導きにより法界に入るためだったとしておきましょう。ここに入ったのは七月、聖戒の助けを得て、翌年早々まで約半年間ここで修行し、本尊不動のもとで正覚を得ることができたいいます。
 『一遍聖絵』の「菅生の岩屋」の記述のうち、後半の「仙人練行の古跡」は岩屋寺の縁起になっています。
そこには菅生の岩屋と桜にまつわる縁起も記されています。
  この御堂に廂をさしそへたりけるほどに、炎上の事ありけるに、本堂はやけずして、後の廂ばかり焼けにけり。其の後、又、回禄あり。同舎ことごとく灰燼となるに、本尊ならびに三種宝物はともにとびいで給ひて、まへなる桜の木にのぼり給へり。又、次に炎上ありけるに、本尊は又とびいで給ひて、同木にまします。御堂は焼けにけり。三種宝物は灰燼の中にのこりて、やけたる物とも見えず。鐘・錫杖のひびき、昔にかはる事なかりけり。此の桜木は、本尊出現し給ひし時
の朽木の、ふたたび生え出て枝さし花さける木なり。されば、仏法最初の伽藍、霊験希有の本尊なり。
意訳しておくと 
 この洞窟の御堂に廂(ひさし)を指して木造建物にしたところ何度も火災にあった。しかし、本堂は燃えず、廂は焼失してしまった。その後、修復したが、今度はことごとく灰燼となった。それでも、本尊や三種宝物は洞窟から飛び出して、前の桜の木に登って難を避けた。
 又、次に炎が上があった時も、本尊は桜の木にとびのいて難を避けたが御堂は焼けた。三種宝物は灰燼から出てきたが、焼けたようには見えなかった。鐘・錫杖の響きは、昔に変わることがなかった。この桜木は、本尊が現れたときに古木が枯れたものが、ふたたび生え出て枝を伸ばし花を咲かせるようになったものである。まさに、霊験あらたかな本尊といえよう。
 
ここからは、岩屋寺の神木は桜だということがうかがえます。
前回に時衆と桜の関係について触れ、浄土教の広まりと同じように、桜も広く親しみのあるものになっていくことを次のようにお話ししました。
①桜が『古今和歌集』の季語や枕詞に使われるようになり、西行は、臨終の際、桜の歌を詠んでいること。
②役行者を始祖にした修験道は、桜を神木とするようになること
③源信の『往生要集』に基づいた浄土教が絵画化され、生死の象徴としての桜が描かれるようになること
④社寺参詣曼荼羅を布教に用いて、高野聖が全国各地を遊行し、浄土教を庶民に伝えた。
 こうして、桜はあの世とこの世をつなぐ神仏の象徴になっていきます。この由来は、桜のシンボライズ化が岩屋寺にも浸透していたことをうかがわせます。
ここにやってきていた修行者達は、どんな人たちだったのでしょうか。
まず挙げられるのは、熊野や吉野のプロの修験者たちです。また、一遍のように空海を慕う高野山の念仏聖たちも多かったはずです。例えば西行も高野の念仏聖でいわゆる「高野聖(こうやのひじり)」です。彼は崇徳上皇の慰霊のために讃岐を訪れたと云われますが、その後は善通寺の五岳の我拝師山に庵を構えて、3年間の修行を行っています。そして、空海が「捨身」した行場に通っています。ここからは、当時の念仏聖たちも修験行を行っていたことが分かります。言い方を変えると念仏聖達は、阿弥陀信仰や浄土信仰を持つと同時に真言密教の実践者であり修験者だったのです。現在の私たちからすると、南無阿弥陀仏と修験者たちは、別物と分けて考えてしまいますが、それは非歴史的な見方のようです。それが当時の高野山の「流行」だったのです。高野山自体が浄土信仰の拠点となっていたようです。
 もう一つ確認しておきたいのは、ここにやって来ているのはプロの修験者たちであるということです。
  いまのお遍路さんのように、勤行して、お札をおさめて、朱印をもらって、去っていくというスタイルではありません。行場で何日間も修行を行うのです。あるときには行場から行場へと渡りながら周囲の行場を「辺路」したりもしています。この修行はひとりではできません。それを支える付き人が必要なのです。空海も付き人を従えての修行だった研究者は考えているようです。一遍も聖戒の支援を受けながら行場に入って行きます。

 菅生の岩屋の右から見ていきましょう
岩屋寺 仙人堂

右側には洞窟の②仙人堂と①不動堂(本堂)が断崖を背景に描かれています。修験者は小さな不動明王を守護神として、肌身離さず持ち歩いていました。行場では不動さまを目に見えるところに安置して、荒行を行ったとも云われます。そのため行場から発展した霊場の本尊は不動明王というのが相場のようです。この行場も修験者たちによって開かれたのでしょう。不動堂の上に、投入堂のように岩にはめ込まれたように建っているのが仙人堂です。ここは仙人窟という大きな洞窟の外側にお堂が作られています。中国敦煌の莫高窟の岩窟寺院のような構造です。不動堂と仙人堂は、はしごで結ばれているようです。

 この仙人堂の由来を 一遍絵図は、次のように記します。
 「仙人は又土佐国の女人なり。観音の効験をあふぎて、この巌窟にこもり、五障の女身を厭離して一乗妙典を読誦しけるが、法華三昧成就して飛行自在の依身をえたり。或時は普賢・文殊来現し、或時は地蔵・弥勒影護し給しによりて、彼影現尊にしたがひて、をのをの其所の名をあらはせり。
又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現じ給へる跡あり、三十三所の霊崛あり、斗藪の行者霊験をいのる砌なり。」
意訳しておくと
 仙人は土佐国の女人である。観音の効験あると聞いてこの巌窟に寵り、五障のある女身を捨てて、経典を読誦し修行に励み、法華三昧を成就して、自由に飛行することができるようになった。その仙人を普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っている。又、ここにはその他にも四十九院の岩屋あり、父母が極楽を現した跡が残っている。33ケ霊窟は修験者がの行場である。
ここからは次のようなことが分かります。
①法華経を読誦して、法華経の行が完成させ、飛行術を身につけた女人の仙人がいた。
②仙人をす普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っているのが仙人堂であった
③四十九院は父母が極楽浄土へ渡ることを祈る阿弥陀信仰の霊場であった
④三十三霊場は修験者の行場であった
このように、この岩壁全体が霊地としてひとつの世界を形成していたようです。
岩屋寺 金剛界岩壁
 
「一遍聖絵」の詞書には三十三ケ所の霊岨」について、「仙人利生の為に遺骨を止め給ふ」とあります。ここからは、仙人が自分の遺骨を人々が礼拝して功徳が得られるようにと願ったことがわかります。そこから少し上がったところに仙人入定窟という洞窟があります。
 これらの窟がある岩峰は金剛界とされていたようです。ここは岩壁で仙人窟以外にも阿弥陀窟や「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟が掘られ、当時は窟だらけの岩壁だったようで、よく見ていくと窟と窟をつなぐ道(はしご)があったと研究者は考えているようです。これを命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐる修行(行道)が行われていたようです。

さて、それではこの絵図の景観は現在のどこに当たるのでしょうか?
 まず全体図を上空から見ておきましょう。

岩屋寺 菅生の岩屋上空図
岩屋寺の金剛界と不動堂
絵図の②不動堂は①金剛界と呼ばれる岩壁の一番下に建っています。現在の岩屋寺の伽藍もその周辺にあります。そして、この岩壁に多くの窟が開かれていたことになります。その左側の岩稜が胎蔵界とされていたようです。
岩屋寺 不動堂
岩屋寺の不動堂
  下から見上げるとこんな景観になります。長年の風雨で窟そのものが崩れたりしていて、明瞭なものは少なくなっていますが、多くの窟がならんでいたことは写真からもうかがえます。
不動堂は、いまでも岩壁の下に建っています。
一遍絵図と同じ場所です。上の方には、目玉のように開けられて窟が2つ見えます。私は、あれが仙人窟かとおもったのですが、そうではないようです。それではどこにあるのでしょう?
 不動堂の奥にはしごが見えます。これを登ってたところが仙人窟のようです。 一遍絵図は、デフォルメがあるようです。

岩屋寺 不動堂3

 現在の不動堂から仙人窟へ続くはしごです。このはしごは自由に登れますので仙人窟へ上がることは出来ます。
一遍絵図を拡大して、もういちど見てみましょう。

岩屋寺 不動堂2

不動堂の中には二人の僧侶がいます。その顔付きから、手前が一遍、その向こうが聖戒のようです。机上に経典らしきものが置かれています。詞書には 一遍が聖戒に「経教を亀鏡(ききょう)として真宗の口決(くけつ)をさづけた」とありますので、その場面のようです。絵師は、聖戒の書いた詞書の内容を踏まえた上で作画していることが分かります。不動堂と、仙人となった土佐の女人像を安置する仙人堂との間には、道はありません。仙人は空を飛べるから必要がないのでしょうか。そんなことはありません。長い梯子がかけられています。そこを上っている人がいます。前の人が振り返って後の人を気遣っているようです。これが聖戒で、後が一遍のようです。一つの画面の中に同じ人物が何度も登場します。「巻物忍法!異時同図の術」です。ちがう時間の出来事が同一場面に収められています。

  菅生岩屋は観音菩薩と仙人の霊山で、空海も修行に訪れたといわれる人気の霊山でした。そして、空海伝説が高野山から広がり出すと、修験者や念仏聖達もこの地を聖なる修行地として目指すようになったようです。そこに、 一遍も身を投じたのです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

前回は、旧金倉川の流路について見てみました。
金倉川 7 生野町地図
上の地図で赤枠で囲まれたエリアが旧生野村で、そこにかつての金倉川(白矢印)が流れ込んでいたことを示しています。
前回のことをまとめてみると、次のようになります。
①弥生・古墳時代には壱岐湧水方面から北上する旧金倉川の河道が生野町や吉田町に幾筋もになって流れ込み、氾濫原となっていたこと、
②その中で、生野南口から四国学院には舌状に伸びる微髙地があって、この上に7世紀後半から奈良時代には、多度郡郡衙らしき遺跡が姿を見せるようになったこと
③旧金倉川の堆積作用は、奈良時代までには終わり凹凸が平坦化していったこと
④平坦化が終わった段階で、条里制や南海道建設などの大規模公共事業が行われたこと
⑤その主体が多度郡郡司の佐伯氏と考えられること
それでは、金倉川の沿いの氾濫原とされたエリアは、どんな状態だったのでしょうか。それを、今回は探って見たいと思います。テキストは「細川泰幸 善通寺生野について  善通寺文化財教会報25 2006年」です。
まず、考古学者達が捉えている金倉川の流路と条里制の関係を見ておきましょう。
  金倉川と条里制
 黒い部分が山になります。①と②が併行して流れているのが、東のの櫛梨山と西の磨臼山に挟まれて一番流路が狭くなるところです。
そこに①金倉川(旧四条川)と②旧金倉川が並立して流れていたと全讃府史は記します。旧金倉川は磨臼山を抜けると洪水時には生野町や吉田町に流れ込み氾濫原を形成したことがうかがえます。
                        
まず、生野という名前の由来を考えて見ましょう
  「西讃府誌」「仲多度郡史」には、「生野」の地名のいわれを「イカシキ野」と記しています。古語辞典には「イカシ」は
①いかめしい、厳かである
②ひどく 盛んである。勢いがある。
③おそろしい。楽しい。荒々しい。
と出ています。筆者は「イカシキ野」の解釈を、「いかめしい野・荒々しい野」と解釈しているようです。

「遊塚」という宇名があったと云います。そのエリアは
東は与北の中川原と西務主から、
西は善通寺市役所の大半、
南は綴道から、
北はガスト善通寺店前にある吉田病院横の小川
にあたると古老たちは、話していたといいます。このエリアが、一面のうっそうとした森であり荒れ地だったというのです。ざっと考えただけでも何十㌶の広さになります。多くの氾濫原は開墾されて、水路が通されて水田化されていき、森は姿を消していきました。現在、金倉川流域で残っているのは多度津町の葛原にある八幡の森だけでしょうか。そのような森が明治の終わりまで市役所から尽誠学園を越えて、現在の金倉川まで広がっていたというのです。

 作者は小さい頃に祖父の兄から聞いたこととして、次のような話を
語ります

「おらは小学校のころ、井脇君の家(東務金の井脇正則氏の祖父)へ遊びに行って、遊びに夢中になり、気がつくとはやあたりが薄暗くなっていて、あわてて走って帰ったが、このトトヤ(魚)道も、今の道の半分ぐらいしかなく、雑木の大木が左右から垂れ下がって、こわかったもんだ」

とよく話していたと云います。 与北の東務金から森が続き「雑木の大木が左右から垂れ下がって、こわかった」というのです。
ここからも旧金倉川流域は氾濫原として、昭和の初め頃までは放置されていた所があり、大きな森として残っていたことが分かります。

もう少し古い時代のこととして、親戚のおじいさんに聞いた話を次のようにも伝えます
「おらが15、6の頃におやじと一緒に麦まきが終わると、ここの田んぼの木を切り倒して荒れ地を開墾して、稲のできる田にしたんだ」

というお話を聞いたと云うのです。それは、陸軍11師団がやってきた後の明治の40年前後のことだといいます。乃木大将がやって来たときにも「遊塚」には森がまだまだ繁っていて、それを開墾して田んぼにする人も現れていたようです。乃木将軍も金蔵寺からの通勤に、この森を通ったことがあるかもしれません。
 尽誠学園が生野町の現在地にやってきた時には、校地として水田を買ったのでしょうか、森を買ったのでしょうか?。私は森を買った可能性が強いと思います。

どうして生野村の東部は、「いかめしき野」だったのでしょうか?
 地図を見れば分かるように磨臼山と櫛梨山の間は直線にして約700mぐらいしかありません。
金倉川 9磨臼山と櫛梨山

かつては、ここを土器川も流れていたことは前回にお話しした通りです。そして全讃史には、この間を旧金倉川と旧四条川が並んで流れていたと記します。一旦狭められ速くなった流れが開放されると色々な方向にほとばしり出ます。この間を流れる川の名前は変わっても、何百年何千年の昔から洪水が起こるたびに氾濫し、流れを変化させ弘田川の方へも流れ込む暴れ川だったようです。その結果が、流域を氾濫原として埋め、土地の凹凸を平面化する結果となったことも前回にお話しした通りです。
 そして、氾濫原の荒地は自然のまま放置され、森となって残ったのでしょう。また森のまわりにも荒野が広がっていたようです。そのため現在の土讃線が明治に線路がひかれ、現在の国道319号が四国新道として建設されたのも、この沿線が旧金倉川の荒れ地で買収費用が安く、容易に手放す人たちが多かったからだと伝えられます。

 香色山は、佐伯氏の祖廟があり、聖なる霊山です。
 ここから東に広がる善通寺市街を見ると、条里制に沿って街作りをしたということが実感できます。筆岡、吉原、稲木、竜川あたりの水田をグーグル地図で見てもきれいに方形に区切られ条里制の名残りがみられます。しかし、生野町の上原、原、小原、東務主、西務主の水田の形をみると、てんでん、ばらばらの形です。これらは一斉に条里制に基づいて開かれたのでなく、金倉川流域の荒地の低湿地を少しずつ開発したことを物語っています。しかし、乃木大将が馬で走った森や荒地の「いかめしき野」(遊塚)は、今はどこにもありません。
金倉川 10壱岐湧水
善通寺一円保差図 二頭湧水は②?

二頭湧水は上吉田、下吉田、稲木の三村が水懸りですが、
早魅時には善通寺領の申し立てによれば、善通寺領分の田んぼも取水権を持っていたようです。それは、上の「善通寺一円保差図」を見ても分かるとおりです。②の二頭湧水からの用水路が善通寺の一円保寺領の方に続いているのが描かれています。そのため既得権利として、寛政9年と文化14年、そして文政6年と3回に渡って、善通寺は丸亀藩へ提訴しています。その内容は、早魅で有岡大池の水もなくなってしまったときの対応策についてです。善通寺の申立ては、寺領分が水を必要とした時に、上吉田村に書面を提出すると、三村の村役人が話し合って、寺領の取水日を返答する。ところが三村も水がほしくてたまらないので、取水日をはっきりと示さない。そのため善通寺が丸亀藩に提訴するということになります。
 壱岐湧水などについても、そのような既得権利を善通寺は主張していたようです。そのため本寺に訴えるために「一円保絵図」を控訴史料として作成したのではないかと研究者は考えているようです。

善通寺市デジタルミュージアム 壱岐の湧 - 善通寺市ホームページ
壱岐の湧水

もう一度、壱岐の湧水と、柿の又出水を見てみましょう。
 小学校にプールが出来る前の昭和40年代までは、子ども達がこの湧水で泳ぎまわっていたと云います。しかし、壱岐湧水に比べて、柿の又湧水は、水がきたなかったし、まわりは葦と雑草が生い茂って泳ぐ気にはならなかったと作者は云います。そのためでしょうか、現在整備されていのは壱岐湧水だけです。
金倉川12柿の股湧水
 二つの出水は絵図を見ると、条里制地割線上に西に、真っ直ぐと伸びていきます。
この一番上の条里制地割ラインはいったい現在のどの辺りになるのでしょうか?
最初私は、尽誠学園から西に真っ直ぐ伸びて四国管区警察学校や自衛隊本部(師団師令部)道の前を通る道を考えていました。しかし、現在の地図に落としてみると次のようになるようです。
金倉川11 条里制と湧水
絵図に合わせて南北が逆になっています

絵図は寺領周辺は詳しく描いていますが周辺部はデフォルメされていることが分かります。一円保絵図の一番南のラインは四国学院と護国神社を通過しています。これが多度郡の6里と7里の境界線にあたるようです。

金倉川 善通寺条里制

ちなみに四国学院の図書館建設のためのための発掘調査から6里と7里の境の溝が出てきています。そして、そこには側溝もあることから南海道の可能性が高くなっています。つまり、絵図の一番南ラインは南海道でもあったようです。
 ここからは壱岐湧水からの導水ラインは、二頭湧水を越えて北上し、善通寺一高辺りから真っ直ぐに、南海道沿いに西に伸びて四国学院のキャンパス内で(2)に接続していたことになります。
さらにその用水は現在の護国神社や中央小学校を抜けて、善通寺の南大門の南に当たる①に至ります。ここから条里制地割に沿って北に導水されていたことがわかります。この周辺に善通寺の寺領は集中していたようです。
  四国学院や善通寺東院は微髙地にあります。しかし道を越えた護国神社や西中・中央小学校は、四国学院よりも1,5mほど低くなっているようです。この地帯は水田であったことが推測できます。壱岐湧水の水は、ここまでひかれ寺領を潤していたとしておきましょう。

  前回に四国学院の東側は旧金倉川から分かれた支流が流れていて、氾濫原だったと考古学者は報告していることをお話しました。
そして、今日のテキストでは、11師団がやって来る20世紀初頭まで、現在の市役所から金倉川までは「いかめしき野」の森で、その周辺は荒れ野が続いていたという「証言」を聞きました。壱岐湧水からの用水は四国学院まで、森と荒野を抜けてやってきていたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「細川泰幸 善通寺生野について  善通寺文化財教会報25 2006年」


金蔵寺条里地図

丸亀市史には、金倉川について「近世に作られた人工河川」という説が載せられています。金倉川は満濃池の用水路整備に合わせて作られた流れで、それまでは「四条川」がまんのう町から善通寺に流れていたというのです。四条川については、以前にもお話ししました。
   今回は旧金倉川を追いかけて見ることにします。
『全讃史』には、四条川と金倉川が次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す。
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫き下金倉に至り海に入る」
ここからは次のような事が分かります。
A 四条川が 源流の小沼峰 → 帆山→ 岸上 →四条  
 →元吉(櫛梨山)・与北山をめぐり西北流し → 上金倉で東に折れ → 金倉川と離れて土器川に合流する
B 金倉川は満濃池 → 五条 → 金毘羅山下から北流 → 西山 → 櫛梨 → 金蔵寺 → 四条川を貫き下金倉が河口だった。
金倉川 国土地理院

四条川と金倉川は、東の櫛梨山と西の磨臼山の間では、直ぐ近くを併流していたというのです。2本の川が現在の土讃線沿いに並んで流れていたことになります。これをどのように考えればよいのでしょうか?
 グーグルで、2つの川の痕跡を追いかけて見ましょう。
金倉川1 分岐点

琴平と善通寺を一直線に結んで国道319号と土讃線が並立して西側を走っています。国道から東側に少し入った所に四国計測の善通寺工場があります。その裏に現在の②金倉川は流れています。
そして、ここには④の井堰があります。この井堰が堤であったら金倉川は流路を西に取り、③の方向に流れていたはずです。現在の井堰から大麻・生野へ続く用水路を③旧金倉川としておきます。

一方、 象郷小学校方面から流れ出してきた①が旧四条川のようです。現金倉川の合流点から象郷小学校辺りまでの流路は、「大河?」の趣をいまでも感じる風景が続きます。かつての水量の多さがうかがえます。
 ④を開削することで、金倉川はそのまま北に流れ旧四条川に合流することになります。金倉川による旧四条川の乗っ取り(付け替え)工事が行われたことが推測できます。それまでは旧四条川と金倉川は隣接して併流していたことになります。
 金倉川2 大麻

丸亀平野は条里制跡がよく残っていて、グーグル地図を見ても長方形の水田跡が規則正しく並んでいる所が多いようです。さて、大麻から生野町にかけては、どうでしょうか。金倉川と国道319号・土讃線に挟まれた区間は、水田の並びが不整形なのにまず気がつきます。
グーグル地図を最大に拡大して見ると、
四国計測善通寺工場
楠原寺
南部公民館
旧自動車学校(旧池)
大麻郵便局西側
と周囲より一段低い所があるようです。これが②旧金倉川ルートの候補です。明治に作られた四国新道や讃岐鉄道の線路用地の買収について丸亀市史には
旧金倉川の廃川跡地が利用された。そのため用地取得が短期日で終わって工事に着手できた。それは、田畑でなくほとんど荒廃地だったからだ」

という話が紹介されています。確かに、この一帯は旧河川の上だったことがうかがえます。
金倉川旧流路 大麻
大麻町付近の金倉川流路跡(土地利用図)
 
一方、旧四条川は現在の金倉川だったのでしょうか。
どうもそうとは言えないのです。現地に行ってみると、現在の金倉川の西側100mあたりに、かつての堤防跡と思える連なりが畑や未開墾地として残っています。これが旧四条川の堤防だったとしておきましょう。 国土地理院の土地利用図には旧河道跡が載るようになりました。これで四条川の河川跡を追いかけてみましょう。 

  ①の旧四条川は、先ほど指摘したように現在の金倉川の左岸(西)に、かつての流れがあった痕跡があります。くねくねと曲がりながら北上します。これを真っ直ぐに付け替えたのが現在の金倉川のように思えてきます。その結果が、丸亀市史が
「金倉川は人工河川で、人為的に作られた物なので全体に河床が高く、天井川である。そのため、東西から支流がほとんど流れ込まない」

と指摘することになるのでしょう。確かにその通りです。金倉川に流れ込む支流は、ほとんどありません。

 旧金倉川は、土讃線沿いに磨臼山古墳のある山裾にぶつかるように北流していきます。

金倉川4 磨臼山古墳

「土讃線と四国新道は、旧金倉川の荒れ地にあったので買収しやすかった。それが工期の短縮につながった」
という話の通り、土讃線は旧河床沿いに敷かれています。
磨臼山を越えると壱岐の湧水があります。
以前に紹介した「善通寺一円保差図」に、善通寺領の水源地として描かれている出水です。丸亀市史は
「旧金倉川跡沿いに、出水(湧水)が点々と並ぶ」

とも指摘されます。確かに、この北には二頭湧水もあります。かつては、ここが河川跡であった可能性は高いようです。
 それでは、四条川が消されて、金倉川が現在のルートを流れるようになったのは、いつからなのでしょうか。

私は以前に、
「近世の西嶋八兵衛の満濃池の再築の際に、下流地域の農業用水路整備のために障害となる四条川は消されて、新たに金倉川が作られたのではないか」

という仮説をお話ししました。しかし、その仮説には、立ちはだかる「壁」があります。それが善通寺に残る「一円保差図」です。
金倉川5 壱岐湧水

この絵図についても以前に紹介しましたので、詳しくは話しませんが13世紀に作られたもので、当時の善通寺寺領への用水路が描かれています。条里制地割ラインに沿って、東の壱岐と柿股の湧水から導水されていたことが分かります。
 この絵図には金倉川も旧四条川も描かれていません。
つまり13世紀の時点には、河川流路はすでに変更し、壱岐や柿股は出水となっていたということが分かります。ここからは、13世紀には、旧金倉川は流れていなかったということになります。
  しかし「反論」はあります。
 下の地図は、旧練兵場遺跡の弥生時代から古墳時代の地形復元図です。
  かつての練兵場は「旧善通寺国立病院 + 農事試験場」という広大なスペースでした。その西エリアの国立病院の建て替えのために発掘作業が進められました。その結果、ここが弥生時代の善通寺王国のコア施設があったところだということが明らかになってきました。その中で、当時の地形復元も行われています。
金倉川 7旧練兵場遺跡

  西側隅(左)を迂回するように北上するのが旧弘田川です。現在の弘田川とあまり変わりないようです。しかし、現在と大きく違うのは国立病院と農事試験場の間には二本に分流して流れる河川があったということです。
   つまり、現在の看護学校あたりは、「旧河道2」で、宮川製麺所と仙遊寺は微高地の中島で、その背後には「旧河道3」があったようです。旧練兵場遺跡は、遺跡内を複数の自然河川が流れて、その間に微髙地がぽつりぽつりと島のように出ていたという情景になるようです。それをイラスト化すると下のようになるようです。
金倉川 8旧練兵場イラスト

   それでは、この「旧河道2・3」はどこから流れてきていたのでしょうか?
復元図は仙遊町の郵便局辺りでプツンと切れています。それはそうでしょう。ここからは発掘調査が行われていないのですから、書くことはできません。
周辺の遺跡報告書を見てみると、四国学院の図書館建設に伴う調査報告書に次のような記述がありました。

この付近(四国学院キャンパス)は旧金倉川の氾濫原西側の微高地上にあたり、生野本町遺跡や生野南口遺跡などの遺跡が連続する場所である。現在の地表面で標高は約31mを測る。北西約500mに立地する善通寺旧境内よりも約5m高い。
 遺跡の東端には、旧金倉川から派生する大規模な旧河道が存在することが判明しており、四国学院敷地内で収束する。四国学院敷地東側の市道には現在も暗渠にされた溝が流れている。遺跡の西側は、調査がなされていないため詳細は不明であるが、現在も学校敷地と西側の護国神社・善通寺西高校の間には約1.5mの高低差があり、小河川(中谷川)が流れている。おそらくこの河川が遺跡の西端を示していると想像できる。

ここからは次のような事が分かります。
①四国学院の東側は「旧金倉川の大規模な河道があり氾濫原」だった。
② 西側の護国神社・善通寺西高校の間には約1,5mの高低差があり、川が流れていた。
③この東西の川に挟まれた微髙地に四国学院大学遺跡はある。
そして、この微髙地は南の「生野本町遺跡 → 生野南口遺跡」へと続いていきます。これらは多度郡の郡衙跡と考えられる重要な遺跡です。
DSC01741

善通寺王国の中枢が律令期には旧練兵場跡東部から生野本町周辺に移動してきたことがうかがえます。そして、以前にお話ししたように、四国学院のキャンパスに向かって東から南海道が伸びて来ていたことを考古学の成果は教えてくれます。 
金倉川 善通寺遺跡分布図

 四国学院の東側は壱岐湧水から善通寺東中学校のラインで伸びる「旧金倉川の氾濫原」だったようですが、その痕跡はグーグルでは分かりません。ただ、旧金倉川は磨臼山の麓付近で、不自然な曲がり方をしています。ここで流路が人工的に変更された可能性もあるように思えます。それを行ったのが、磨臼山古墳に眠る善通寺王国の首長ではなかったのかと、私は「妄想」しています。

  もうひとつは、尽誠学園付近で現金倉川は流れを東に少し振ります。
金倉川旧流路 与北町付近
金倉川旧流路 尽誠高校から真北に旧流路が見える

ここからは金倉川(旧四条川)が尽誠学園の東側で、大きく東に流れを変えていた痕跡が見えます。その線上に二頭湧水もあります。流路は変更されても地下水脈は、今も昔のままで流れ続けているようです。そしてこの流れは市役所前を通って、神櫛神社方面に伸びています。
  それでは、いつごろまで金倉川の氾濫原は善通寺旧市街の東部を覆っていたのでしょうか?
もう一度「練兵場遺跡調査報告書Ⅰ」を見てみましょう。
報告書には、古墳時代中期から終末期には、住居跡や建物跡のような居住遺構が全くなくなったことを報告しています。そして、周辺の旧河川の堆積作用が間断なく続いたとします。この時期は、集落がなくなり微髙地の周りの湿地堆積が進んだようです。そして旧練兵場跡を流れていた川が完全に埋まってしまった時期が、奈良時代になるようです。報告書には、次のように記されています。

「これらの跡地は、地表面の標高が微高地と同じ高さまでには至らず、依然として凹地形を示していたために、前代からの埋積作用が継続した結果、上位が厚い土砂によって被覆され、当該時期(奈良時代)までにほぼ平坦地化したことが判明した。」

として、凹地の堆積作用が進み、微髙地の高さとほぼ一緒になり、全体が平坦になったとします。逆に考えると、埋積作用が進んだ6~7世紀は、利用困難な低地として放棄されたようです。それが、8世紀の奈良時代になって平坦地になります。その結果、農耕地としての再利用が始まると研究者は考えているようです。さらに肥沃な土砂が河によってもたらされたことも、水田などへの変化の要因の一つに挙げられます。そして、奈良時代になると労働力の組織が可能になり、このエリアでも、条里制に基づく規則的な土地開発が行われていくことになります。その主役は、佐伯氏だったとしておきましょう。
  つまり、8世紀までには旧練兵場周辺での旧金倉川の堆積作用は終わったようです。その上流の四国学院の東側の氾濫原でも、同じだったのではないのでしょうか。

この図は土器川の今までの流路変更をしめしたものです。
金倉川 土器川流路変遷図
土器川は短く急流な川で、まんのう町炭所西常包付近から河口にかけて沖積扇状地となっています。洪水の度に大量の土砂が堆積して河床を上昇させたために、河道の変遷が激しかったようです。
 まんのう町木ノ崎で山間部を抜け出した土器川は、最初は
①の木ノ崎→五条→櫛梨→下吉田→庄を流れていたようです。
  地質学者によると土器川は、西方にある基盤岩の低い部分へ向かって流れていたものが、堆積作用で流域が隆起すると、低地を求めて流出先を東へ東へと段階的に移動させて行ったと云います。

 一番東まで行ったのは④の滝ノ鼻から大束川のコースだったようです。現在の位置へと流れを変えたのは、「和名類聚抄(和名抄)」(931~938年)の記録による地名から推定すると、約千年年ほど前と研究者は考えているようです。
 この流路変更図を最初に見たときには、ショックを受けました。
ゆく河の流れは絶えずして/方丈記/鴨長明/独断でおすすめの1冊

「ゆく川の流れは絶えずして・・」ですが、「ゆく川の流れは・・」は変化し続けて来たのです。
  土器川が堆積作用で流路変更した後を、旧金倉川はさらに堆積作用を勧め奈良時代には、善通寺周辺の土地の「平坦地化」をもたらしたようです。この調査報告書は
6世紀~7世紀に旧練兵場遺跡の旧河道でも堆積作用が進んだ

としています。ということは、古墳時代後期まで善通寺東部は氾濫原だったことになります。磨臼山古墳の首長が金倉川の流路変更を行ったという私の仮説は、「妄想」に終わりそうです。

とりとめもない妄想に最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
旧練兵場遺跡調査報告書Ⅰ 2009年
四国学院大学校内遺跡 発掘調査報告書2003年
丸亀市史
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25歳で家庭の事情で還俗した一遍は、33歳で再び出家し、その決意を師匠の聖達上人に伝えるために太宰府に出向いています。
その後に彼が向かったのはどこなのでしょうか?
比叡山でも高野山でなく、熊野でも吉野でもありません。信州善光寺なのです。なぜ善光寺なのかという疑問が湧いてきますが、それは置いてまず年表で、現在位置を確認しておきます。

          年齢   
1239 延応元 1 一遍上人伊予で誕生。幼名を松寿丸という。
1248 宝治二 10 母に死別。出家して随縁と名のる。
1251 建長三 13 僧善入と九州太宰府の聖達上人をおとずれる。
         その勧めで肥前清水の華台上人にあずけられ修学する。
         この時、智真と改名する。
1252 建長四 14 聖達上人のもとに帰り、浄土教を学ぶこと12年。
1263 弘長三 25 父通広(如仏)が亡くなり、故郷に帰る。
            これより半僧半俗の生活を送る。妻子あり。
1271 文永八 33 刃傷事件を起こし、再び出家。師聖達上人を再訪。
           春、善光寺へこもり、二河の本尊を模写
           念仏一路の決意をし、伊予・窪寺に閑居、念仏三昧

  再出家した一遍が最初に旅したのは、信濃国の善光寺(長野市)でした。
一遍絵図 善光寺全景1
 一遍聖絵 善光寺 写真クリックで拡大します

『聖絵』巻一第三段は善光寺の伽藍が広がり、その配置がよく分かります。善光寺の伽藍配置は、生身の阿弥陀仏である本尊に続く参道が「二河白道図」の「白道」を表しているとされます。善光寺の境内やその周囲には山桜が満開です。ここでも桜です。今まで見てきた「出立」「太宰府帰参」「再出家」も、桜で彩られていました。ここまでくると描かせた側にも、描いた側にも桜に対して、象徴的な意味合いを持っていたことがうかがえます。それは後で考えることにして、まずは全体的なレイアウトを確認します。
①右から門前町(?)を抜けて山門前
②五重塔の下を通り、築地塀門の前
③本堂前
④本堂の築地塀下側の民家
⑤本堂背後の建築物
 ①→②→③と、一遍は進んで行くことになります。巻物ですから語りとともに、次第に開いて見せていく手法がとられていました。少しずつ開いては、周辺の建物やエピソードが語られたのでしょう。

 善光寺の場面の見所は、善光寺如来堂の構造と伽藍配置だと云われます。とくに十文字棟の要に妻堂が付設されているところが注目のようです。そして如来堂東面の中間を出れば、五重搭と東大堂が一直線上にあります。この配置は『聖絵』の図が画師、法眼円伊の実写スケッチであることが随所で証明されているので、信憑できるようです。

私たちもその後を追いかけてみましょう。

DSC03145
一遍聖絵 善光寺山門前
 発掘調査によると中世の善光寺には、門前町が形成されていたようです。ある意味「都市化」した空間が広がっていたことになります。
その門前町を進むと朱塗りの南大門が現れます。

一遍絵図 善光寺門前 
        一遍聖絵 善光寺山門前
よく見ると仁王門には、朱塗りの⑥仁王(金剛力士)さんが描かれています。
南大門は石垣の基礎の上に立つ築地塀に接続しています。朱塗りの四足門で白い漆喰壁と檜皮葺の屋根が美しく描かれています。さらに目をこらして見ると、門の右側には⑦三本の卒塔婆が建てられています。研究者は次のように指摘します。

「卒塔婆の頭部分が五輪塔の形をしているので供養塔として奉納されたもの」 
 
善光寺如来の功徳で極楽往生を願う人たちが近辺の石や木で作った墓石や供養塔を建てたようです。
南大門の前は、南からの参拝道と東西からの道の交差点でもあるようです。そこをいろいろな人たちが参拝に訪れています。
①蓑に鹿杖を持った狩人
②毛皮鞘をもった武士
④衣被物を羽織り白絹の鼻緒の草履を履いた、いかにも高貴そうな尼僧
などが行き交います。この通りが門前でも最も賑やかな「繁華街」だったようです。
気になるのは⑤の子どもの姿です。
「こっちだよ」と道案内しているように見えます。従者かと思えば、足には何も履いていません。素足です。このことについて研究者は次のように指摘します。

「寺社の門前には捨て子や病人が捨てられることがよくあった。参拝人から布施や雑事を手伝って小銭を得て生活する社会的弱者の人たちが住み着いていた。」
 
 彼らは寺子とも乞食坊主とも呼ばれました。その中から善光寺如来のご利益を絵図を見せながら解説する絵解き法師や琵琶法師も現れてくるようです。彼らが善光寺詣りを全国に広めていきます。その絵解き法師の幼いときの姿が、ここに描かれているとしておきましょう。
DSC03146
一遍聖絵 善光寺本堂

この絵を見ていて疑問に思うのは、 一遍が一人でないことです。
 詞書に何の説明もなしに、一遍は一人の尼僧を連れて如来堂の向拝に立っています。まるで「アベツク参詣」のようにも見えます。この尼僧は誰? 途中で偶然道連れになった尼僧が、 一遍の一世一代の廻心の場にえがかれるはずはありません。この尼僧が前回にも触れた、一遍再出家の動機となったトラブルの渦中の女性=超一のようです。超一や娘を伴っての善光寺詣のようです。
なぜ一遍は、再出家後の参籠先に善光寺を選んだのか?
 善光寺は生身の阿弥陀如来と云われていたようです。善光寺如来は、善光寺に住んで衆生を救うこの世の生き仏とされ、多くの人びとが参詣する阿弥陀信仰の中心地だったようです。また、一遍が学んだ浄土宗西山義の祖証空も善光寺如来を信仰していたようです。伊予出身の一遍は、善光寺を東方の極楽浄土と考えて参籠したと研究者は考えているようです。
『一遍聖絵』には、次のように記されています。

参籠日数をかさねて下向したまへり。この時、己証の法門を顕し、二河の本尊を図したまへりき」

 ここからは、一遍が参籠の日数を重ね、自ら確信を得て「二河白道図」を写して持ち帰り、生涯の本尊としたことが分かります。つまり善光寺で、 一遍は最初の安心(さとり)を得たようです。参拝でなく「参籠」で日数をかけて「二河の本尊」を書き写したというのです。

二河白道図萬福寺蔵.jpg
二河白道図
「二河の本尊」とは何なのでしょうか? 
 中国浄土教の大成者とされる唐の善導が念仏の勧めとして説いたのが「水火二河の喩」です。これを絵図化したものが次の「二河白道図」のようです。

一遍絵図 二河白道図
西へ向かう旅人がいる。
行く道をさえぎるように、南に燃え盛る火の河、
北に波立つ水の河がある。
川幅は百歩。その二つの川の間に四、五寸の白道がある。
その道の東岸(続土)から西岸(浄十)へ渡ろうとする。
このとき、東岸の釈尊、西岸の阿弥陀仏から、
ひるむ旅人に対して白道を渡るよう励ます声が聞こえる。
旅人は意を決して白道を渡り、浄土へたどり着く。
ここには極楽浄土を志す者が、さまざまな誘惑を振り切り白道を歩む姿が描かれています。お釈迦様と阿弥陀さまに叱咤激励を受けながら、煩悩に打ち勝ち、信心を奮い起こして、極楽浄土へ続く白道を歩む姿です。一遍はこの「二河白道図」を見て感得し、それを自ら模写して、一生手元から手放さなかったと云われます。自分の本尊としたのです。 一遍にとって、白道を渡る旅人が自分自身にほかならないと確認したのかもしれません。これが一遍の一度目の安心(悟り)です。
 善光寺参詣後、一遍は自ら描いた「二河白道図」を伊予の窪寺に持ち帰ると、善光寺の方角である東側の壁にかけて三年にわたる修行を開始します。
  善光寺=阿弥陀信仰の拠点という予備知識を持って、もういちど善光寺の桜を俯瞰してみましょう。
①善光寺は東国の阿弥陀浄土です。その楼門近くの桜が参詣する人びとを迎えます。
②楼門の桜は俗世と阿弥陀浄土の境界線で、楼門の桜は冥土の神仏を迎え入れる出入口です。
③桜は、俗世の人びとを迎え入れるための精進潔斎の作用も合わせ持っていました。
画面左(善光寺)があの世で、画面右が俗世とすると、画面右から桜と川、楼門、伽藍へとつづく構成は、俗世から浄土へと導く参道になります。これが「二河白道図」の「白道」と考えられていたようです。その直線上に描かれた人たちは、浄土に向かって白道を歩む姿になります。「善光寺の桜は浄土の散華を意味」すると、研究者は考えているようです。
DSC03147
一遍聖絵 善光寺の櫻
浄土思想=阿弥陀信仰と桜の関係は?
平安期は、社会的な不安から末法思想が広がり浄土教が広く普及したと云われます。浄土教の広まった時期に、桜も広く親しみのあるものになっていくようです。桜が『古今和歌集』の季語や枕詞に使われるようになり、桜咲く吉野に訪れた西行は、臨終の際に桜の歌を詠んでいます。
 役行者を始祖にした修験道は、桜を神木とするようになります。
『 一遍聖絵』には、山伏や修験道者が多く描かれています。ここからも修験道が庶民に広まっていたことがうかがえます。
 花の下連歌も満開の桜の下で歌を詠むことで、極楽浄土から神仏を降ろし、意思疎通を行い桜を神木とします。花の下連歌の後期には、時衆が参加するようになり、花の下連歌の中心が聖などの下層民から時衆へと移り変わっていきます。ここからも時衆は桜を神仏の象徴としていることがうかがえます。
源信の『往生要集』に基づいた浄土教の教義は、『九相詩絵巻』によって絵画化されます。
死体の美学・・・・ | 座乱読無駄話日記2 - 楽天ブログ
『九相詩絵巻』

『九相詩絵巻』は生死の象徴としての桜が描かれ、社寺参詣図にも桜の風景が多く描かれるようになります。これらの社寺参詣曼荼羅を布教に用いて、勧進聖や比丘尼が全国各地を遊行し、浄土教を庶民に伝えた。この中には、先ほど見たように善光寺聖たちもいたはずです。彼らは、もともと庶民の出です。庶民に分かりやすく浄土教を伝えるため、教えを目に見え、耳から伝える形にするのは得意でした。聖達によっても、桜はあの世とこの世をつなぐ神仏の象徴にされたようです。
 そのため今まで見てきた 一遍絵図の4つのシーンには、全て満開の山桜が登場します。聖的な空間を生み出すためには、桜が必須のアイテムと考えられていたことが分かります。
一遍絵図 太宰府帰参2
一遍聖絵 善光寺の桜
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 参考文献 佐々木弘美 一遍聖絵に描かれた桜

一遍 画像
一遍
  弘長三年(1263)、父通広が亡くなり、その知らせが太宰府にいる一遍のもとへ届きます。ときに一遍は25歳でした。これを機に一遍は、師の聖達のもとを辞し、故郷の伊予へ戻ります。家を継いで家族を扶養しなければならなかったためだと云われます。この頃の一遍の生活を『一遍聖絵』は、次のように記します。

「或は真門をひらきて勤行をいたし、或は俗塵にまじはりて恩愛をかへりみ」

父がそうであったように、一遍もいわゆる半僧半俗、つまり姿は出家でありながら、妻帯して日常は家族とともに生活していたようです。この時に、子どもも生まれていたようです。
 一遍のもっとも正確な伝記でもある『一遍聖絵』の著者聖戒は、一遍が還俗していたころに伊予で生まれた実子だと考える研究者も多いようです。そうだとすると、一遍と聖戒は師弟にして親子になります。江戸時代初めに評判となった歌舞伎「苅萱道心と石童丸」は、 一遍と聖戒をモデルにしたものと評されていたと云います。しかし、教祖を偶像化しようとする教団の時宗史は、妻帯や聖戒実子説を認めません。
 一遍は、どうして再び出家したのか?
「一遍上人絵詞伝」の詞書には、次のように記されています。

親類の中に遺恨をさしはさむ事ありて殺害せむとしけるに、疵をかうぶりながら、かたきの太刀をうばひとりて命はたすかりにけり。発心の始、此の事なりけるとや。

意訳変換しておくと
 親類の中に遺恨を持つ者が現れ、殺されそうになった。傷は受けながらも、その刀を奪い取り命は助かった。再発心はこの事件がきっかけとなったという。

遊行上人縁起絵1
    一遍上人絵詞伝
 「一遍上人絵詞伝」には、剃髪で法衣姿の一遍が、刀を抜いた人に追いかけられている絵が描かれます。

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       一遍上人絵詞伝(追われて逃げる僧服の一遍)
その絵の部分には、武装し抜刀した四人の武士に追われる一遍が、奪い取った刀を持って逃げているところが描かれています。一遍は僧形で袈裟衣を着ています。刀をとられた武士は一通のすぐうしろにあおむけにひっくり返っています。

親族から遺恨を受けるどんな「何かスキャンダルめいたものを感じます。
『一遍上人年評略』には建治元年(1275)のこととして、次のように記します。
師兄通真死。故師弟通政領家督  親類之中、有謀計而欲押領 其家督者、先欲害於師。師乍被疵、奪取敵刀遁死。敵謀計顕故自殺。於之師感貪欲可長、覚世幻化。故辞古郷´。
意訳変換しておくと
 一遍の兄の通真が亡くなり、弟の通政が家督を継ぐことになった。これに対して親類の中には謀議をはかって、その領地を押領しようとするものが現れた。そのためまず 一遍を亡き者にしようとして襲ってきた。一遍は手傷を負いながらも敵の刀を奪って逃げ切った。このことが知れると当事者は自決した。このことを体感した 一遍は、五欲の一つである貪欲の恐るべきことを感じ、人間の世の中が真実の世界でないことを悟って故郷を出る決意をした。
 
つまり家督争いの結果だと云うのです。これが教団側の「公式見解」となっているようです。しかし、これとは別の「世間の見方」は別にあるようです。
『一遍上人年譜略』の文永10年(1273)の条に、次のように記します。
「親類中有愛二妾者、或時昼寝、二妾髪毛作二小蛇・喰合。師見之、感二恩愛嫉妬可畏

  意訳変換しておくと
一遍には親類に愛する妾が二人いた。ある時に昼寝をしているふたりの妾の髪毛が小蛇となって喰いあっているのを見て、嫉妬の深さに恐れ入った。

これについて、教団や多くの研究者は「妄説」として取り合いません。しかし、さきほど紹介した芝居の「苅萱道心石童九」では、 一遍をめぐって二人の女性の髪の毛が蛇と化して喰い合う、すさまじい嫉妬が演じられるシーンで描かれます。実際には、一遍が親類縁者の妻との「不倫」への刃傷沙汰だったと諸伝記からは推測できます。
 一遍は、この事件に人間の業と宿命の深淵をのぞき見ておののき、そこから逃げるために再出家の道を選んだというのが後者の研究者の立場のようです。
 こうして一遍は文永8年(1271)32歳のころに、聖戒と共に伊予を逃げるようにでます。
「たゞしいま一度師匠に対面のこゝろざしあり」とありますから、た一遍がまず目指したのは、大宰府の師・聖逹のもとです。一遍が聖達を訪ねたのは、再び弟子として仕えるためではなく、聖達に再出家の決心を告げ、できれば今後の求道生活のヒントを与えてもらうためだったようです。そして、ここで聖達は定住する別所聖であり、一遍は遊行聖の生活を目指しすことになります。
そして「 一遍聖絵」には、次のように記されています。

「文永八年の春、ひじり( 一遍)善光寺に参請し給ふ」

 一遍が救いを求めたのは、信州の善光寺如来でした。当時の彼の中では、最も頼りになると思われた仏なのでしょう。
「恩愛を捨てゝ無為に入らむ」(『一遍聖絵』第一)と、善光寺に向けて旅立つことになります。この時に『一遍聖絵』の製作者である聖戒も出家しています。「聖戒」という名前は、聖達から与えられたようです。
『聖絵』巻一第二段、聖戒出家場面です。

一遍再出家

最初に全体の構成を見ておきましょう
①一番右手に入母屋のお堂があり、その背後に3つの白く塗られた石造物が目につきます。
②高台で見晴らしの良い場所に建つ板葺き白壁の建物がこのシーンの主舞台です
③高台からは広がる海が見え、雁が群れをなして飛び去っていきます
④ 一遍一行が海沿いに旅立って行きます。

②の高台の建物から見ていきましょう
DSC03137聖戒出家
 一遍聖絵 伊予国(聖戒の剃髪) 
建物の手前と奥では松林の中の山桜が咲いています。ここでも桜が登場し、季節が春であることを告げます。目の前には春の瀬戸内海が広がります。庵の中で出家する聖戒が剃髪を受けているようです。

DSC03139聖戒出家
        一遍聖絵 伊予国(拡大部分 聖戒の剃髪)
聖戒の後ろの僧は聖戒の頭髪を剃り、前にいる僧は朱色の水瓶を持っています。部屋の奥には掛軸が掛けられています。聖戒の顔は、真っ直ぐに前を向いて海を見つめています。出家の決意が見られます。この庵の中には、一遍の姿はないようです。もしかしたら剃髪しているのがそうなのでしょうか。
   『聖絵』は、聖戒が制作したとされます。
そうだとすれば『聖絵』に、自分の出家場面を描かせたとしても不思議ではありません。「聖戒出家」は、一遍の次に出家したのが自分(聖戒)であり、最初の弟子が自分自身であることの主張とも受け止められます。一遍出家の大宰府の場面と同じように、山桜が満開です。しかし、その樹の大きさは控えめのようです。聖戒が一遍の弟子であり息子であることを象徴していると研究者は考えているようです。
画面左では、出家した聖戒とともに一遍一行が歩み去って行きます。
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一遍聖絵 伊予国(一遍出立) 
先頭の傘を差す一遍は海を見つめています。
  その上を雁の群れが左から右へと飛び去って行きます。
この絵で疑問に思うのは、聖戒以外に人物が描かれていることです。
しかもこれは尼僧だと云うのです。この後、善光寺から帰った後に、一遍は岩屋寺で禅定修行し、三年後の文永十年(1274)に熊野に参拝します。その時にも、尼僧と子供と従者念仏房の三人を連れています。
 詞書の著者の聖戒は、
「超一 (尼)、超二(女児)、念仏房、此の三人発心の奇特有りと雖も、繁を恐れて之を略す

と書くにとどめています。3人の女性の出家の因縁を書いておきたいと思ったようですが「繁を恐れて略す」です。善光寺参拝に同行した尼も、熊野の尼も同一人で、超一と研究者は考えているようです。

「親類の中に(  一遍に)遺恨を挿事有て、殺害せむとしけるに、疵をかうぶりながら、敵の太刀を奪取て命は助(り)にけり」

とあった恋敵の「親類」の妻女が超一だというのです。しかも彼女は尼になっても一遍について、善光寺から熊野ヘまで同行しています。つまり、 一遍は妻と別れ、不倫相手の妻を出家させ同行させていたことになります。このころ 一遍は親鸞とおなじように「聖は半僧半俗で妻をもってよい」と考えていたことが分かります。さて絵図にもどりましょう。
 先ほど見た右側の剃髪場面から時間経過があります。
同一画面に異時間場面が同時に描かれるのが巻物の世界です。今のマンガのコマ割りに慣れているものにとっては、最初は違和感を感じます。しかし、巻物はページをめくるものではありません。巻物を開いていくものなので、そこに新しい場面が登場してくるのです。時間経過は右から左で、右に描かれていることは、常に「過去」のことになります。
DSC03141聖戒出家
        一遍聖絵 伊予国(一遍出立
一遍一行の向こうには春の瀬戸内海が茫洋と広がっています。
その砂浜に舟が舫われています。中世の湊とは、「港湾施設」というものは殆どなかったようです。このような遠浅の海岸や砂州背後の潟の浜辺が湊として利用されていたようです。満潮時に舟を砂浜に乗り上げ、干潮時にはそのまま「係留」されるという使用方法でした。

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 一遍聖絵 須磨臨終図(須磨沖を行く交易船)
  一遍も太宰府を目指すなら、どこかの湊から舟に乗ったはずです。かつての勢いはないとは云っても、河野家は伯父の下で松山に存続しています。海民たちに顔に聞く河野家の手はずで、便船は確保されていたのかもしれません。当事は、瀬戸内海の湊は交易船のネットワークで結ばれていました。
 一遍背後に描かれた一席の舟には、象徴的な意味もあると研究者は考えているようです。

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一遍聖絵 一遍臨終場面の三隻の船(須磨)
『聖絵』巻十二第三段の一遍臨終場面の三隻の船は、一遍が西方浄土に向かう三途の川の渡り船を示します。それは「遊行の終着点」を意味しています。この場面に描かれる一隻の船は、 一遍の遊行の出発点であることをシンボライズしたものでもあると研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
長島尚道  一遍 読み解き事典 柏書房



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一遍の伊予出立図
延応元年(1239)に、一遍は伊予国で生まれます。
彼は10歳で母を亡くし、13歳の春に九州大宰府へ仏道修行のために旅立って行きます。『一遍聖絵』には、このあたりのことについて、次のように記されています。
建長三年の春、十三歳にて僧善入とあひ具して鎮西に修行し、太宰府の聖達上人の禅室にのぞみ給ふ。上人学問のためならば浄上の章疏文字よみをしてきたるべきょし示し給によりて、ひとり出て肥前日清水の華台上人の御もとにまうで給き。上人あひ見ていづれの処の人なにのゆへにきたねる。
(中略)
さて彼の門下につかへて一両年研精修学し給ふ。天性聡明にして幼敏ともがらにすぎたり。上人器骨をかゞみ意気を察して、法機のものに侍り、はやく浄教の秘噴をさづけらるべしとて、十六歳の春又聖達上人の御もとにをくりつかはされ給けり。
意訳変換しておくと
建長三年(1251)の春、十三歳になった一遍は、僧・善入に連れられて修行のための鎮西(太宰府)の聖達上人のもとを訪ねた。上人が云うには「学問を学びたいのであるなら浄上の章疏文字に詳しい肥前清水の華台上人の方がよかろう」と華台上人のもとで学ぶように計らってくれた。
(中略)
 一遍は、華台上人の門下で2年間研精修学した。天性聡明にして学ぶ意欲も強いので、上人もそれに応えて、はやく浄教の秘蹟を授けられるようにと、16歳の春には聖達上人の元に送り返した。
ここからは、父の通広(出家して如仏)が一遍に求めていたのは、求道者としての悟りよりも、学僧としての栄達であったことがうかがえます。
一遍が師とした聖達とは、どんな僧だったのでしょうか?
聖達は『浄土法門源流章』に「洛陽西山証空大徳議長門人甚多、並随学ン法」と、証空の弟子名が11名挙げています。その中の四番目に「聖達大徳酌」とあります。ここからは聖達が、証空の有力弟子であって、京都で教えを受けたことが分かります。

出家を考えて下さっている方へ・・・・あなたが惹かれるお祖師様はどなたですか?part 2 - 慈雲寺新米庵主のおろおろ日記
証空
まず、
聖達の師の証空から見ておきます。
証空は治承元年(1177)に加賀権守親季の子として生まれます。そして、有力貴族久我通親(道元の父)に、その才能を見込まれて猶子となります。14歳で法然の弟子となり、専修念仏を学び『選択本願念仏集』撰述の際には重要な役割を果たしています。 後に天台座主を四度も勤めた慈円の傘下に入り、専修念仏を天台宗的な考え方で理論付けようと努力します。さらに慈円の譲りを得て、京都西山の善峰寺住持となったので西山上人と呼ばれ、その流れは西山義(西山派)と云います。
 証空の弟子の聖達や華台が、どうして九州にいたのでしょうか?
それは嘉禄三年(1227)の法難が原因と研究者は推測します。
この嘉禄の法難は、承元の法難に続く大弾圧でした。法然はすでに亡く、その弟子たち40名あまりが指名逮捕され、京都の専修念仏者の庵は破壊されます。証空はすでに専修念仏の徒とは縁を切り、天台宗の世界に生きていたのですが、この法難の余波が降りかかってきます。貴族層の弁護もあって、なんとか逮捕を免れることができます。けれども、京都における伝道活動は、制限されるようになります。そのためでしょうか、翌々年には、弟子の浄音・浄勝を伴って関東・奥州への伝道にでかけています。
 以上のような背景からは、次のようなことが推測できます。
証空は自己の教学を大成した直後に嘉禄の法難に遭過した。そこで、有力な弟子を法難の余波から守り、かつ教線を広げるため各地へ送った。聖達や華台もその中にあり、特に聖達は九州伝道の核として、大宰府へ遣わされた。こうして聖達と華台は、嘉禄三年(1227)から仁治四年(1243)の間には、九州に「布教亡命」していたと。

聖達と華台は「昔の同朋」で、浄土宗西山義の祖・証空の相弟子でした。
そして仏教全体や浄土教の知識は、華台の方が広かったようです。それに対して証空によって体系付けられた西山義をより奥深いところで会得していたのは聖達だったのかもしれません。少なくとも華台はそう理解していたからこそ、 一遍を2年で聖達のもとへ送り帰したのでしょう。どちらにしても、一遍は浄土教や浄土宗西山義を、有力な人物から学んだことになるようです。
西山證空上人とその思想 菅田祐凖(著/文) - 思文閣出版 | 版元ドットコム

父広通(如仏)は、後鳥羽上皇に仕えて都にいたころに、西山派証空に教えを受けていたようです。
そこで、その弟子の聖達や華台を知っていました。その縁を頼って、一遍を預けたようです。引き受けた聖達は、浄土宗の章疏文字を華台のもとで学ぶことを勧めます。そして、華台のもとで2年間の修学を終えます。その際に、法名も随縁から智真と改めています。
 こうして、華台の所から2年ぶりに太宰府の聖達のもとに帰ってきた場面が、『聖絵』巻一第一段のシーンとなります。
最初に全体のレイアウトを見ておきましょう

一遍絵図 太宰府帰参
①周りを高い塀に囲まれた境内と、その中に建つ入母屋造の御堂の空間
②境内前(右側)のあばら屋が建つが建つ空間
③境内の前を行く騎馬集団
④境内背後の桜の下の熊野行者の集団
①の境内の中の一遍から見ていくことにしましょう。
一遍絵図 太宰府帰参1
 一遍聖絵太宰府帰参 写真クリックで拡大します
御堂を囲むように左右の桜が満開です。遠景にも桜が描かれています。季節は春のようです。奥のお堂に向かって歩く二人の人物が見えます。前を行く黒染衣を着た少年僧が一遍のようです。従う白い衣の人物は、手に文を持っています。華台から聖達への文なのでしょう。華台上人の許で二年を過ごし、学問を修めた一遍が再び聖達の許に戻ってきたシーンです。  
  お堂の周囲には、高く頑丈そうな築地塀があります。

聖達の保護下で俗世から離れて修行を続ける一遍を象徴するもの

と研究者は考えているようです。
その外には、弓矢や薙刀を持った狩人姿の騎馬集団が通り過ぎていきます。近隣の有力な武将なのでしょうか、主人は立派な白馬に乗っています。従者は主人を気遣うように左を振り向いています。塀の外は動きがあり賑やかです。獲物は持っていないので、これから狩りにでかけるのでしょうか? 彼らが鎧甲を身につければ、そのまま1セットの戦闘騎馬集団に早変わりしそうです。世が世であるなら名門河野家に生まれた一遍も、このような騎馬兵団の一員として伊予の地で、生活を送っていたでしょう。

一遍絵図 太宰府帰参2
    一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 桜の下の民家)
③の画面右側に板家の下層民の集落を見てみましょう。
 白い花を付けた山桜の大きな木があります。その下の集落の前には、3人の人物がいます。先頭の傘を持つ尼僧らしき人物が左を振り返り、荷物を担ぐ人物と子供を気遣うようにも見えます。

人物が左方向に振り向くのは、物語の左方向性を強調する手法

だと研究者は指摘します。三人は板家の集落の入口に向かっているので、板家の住人かもしれません。

一遍聖絵  門守
     一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 民家と的)
 桜の右側の板家には、両端の門木にかけた縄の中央に板のお守りを付けた門守が見えます。屋根の破風にが半分見えています。的は正月の神事で、弓を射って豊作の吉凶を占う行事です。讃岐でも「ももて」として、三豊地方や島嶼部を中心に盛んに行われていました。破風の的は、正月神事の象徴でもあったようです。
 弓矢をもつ狩人一行は、破風の的に向かい稲作の吉凶を占う神事の弓矢を象徴していると研究者は考えているようです。また、桜の咲き方で稲の豊作の吉凶を占う神事もあるようです。ここに描かれた的と狩人の間の桜も稲作を象徴し、前の場面の田園風景と結びつくようです。どうやらこの騎馬集団は、狩りに出て殺生を行ってきたのではないようです。
 このシーンに狩人一行の描かれた意図については、次のような見解があるようです。
①狩人一行は武家社会を象徴し、一遍がそれと絶縁した決意を表す
②狩猟は殺生に向かうことを意味し、修行者の一遍と対照的・対比的な効果を表す
③仏道に生きる一遍の「聖なる世界」と「俗の世界」を対照的・対比的にみたうえで、この一行が狩人であることを否定している
どれが正しいとは、云えません。狩人一行のみに注目するのではなく、周囲に描かれた事物の関連性をみて分析していく必要あると研究者は指摘します。その言葉に従って、周囲に配されている人物も見ておきましょう。

一遍絵図 太宰府帰参3
    一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 熊野詣の市女一行)
④の市女笠に白壺装束の人物集団を見てみましょう
全体場面に、右と左に大きな桜が描かれます。こちらの桜は画面左側の桜です。その下を3人連れが通りかかるところです。市女笠の白壺装束姿ですので、熊野詣での旅姿のようです。

一遍絵図 太宰府帰参4
    一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 熊野詣の市女一行)
前を行く従者は大きな荷物を背負っています。しかし、先達もなく女一人の熊野詣でには少し違和感も感じます。しかし、ここに熊野詣姿の旅人が、なぜ描かれたのかを考えると謎も解けてきます。それはこれから一遍の訪れる「熊野権現の神勅の予兆」として描かれていると研究者は考えているようです。
一遍絵図 太宰府帰参5
女性の熊野装束姿
この大宰府帰参場面は、手前二本の桜を境に、
①画面右から賤民の空間
②殺生の空間
③熊野聖地の空間
の3部構成になっているようです。
さらに描かれているアイテムについても研究者は次のように指摘します。
①遠景の桜は、これから一遍の遊行を導く未来
②狩人・桜・的・田園風景などは、春の訪れ
③三人の人物、狩人一行、熊野道者の三組は、同じ右方向を歩いていながら、異なる意味を持つ
画面右の桜の隣に一本の大きな杉が描かれています。
この杉を起点にして、華台上人をたずねる場面から大宰府帰参場面へ展開する場面転換が行われていると研究者は考えているようです。
どちらにしても私には、山桜が印象に残るシーンでした。
なかなか一遍絵図を読み解くのは手強いようです。「記号論」としてみると面白みはありますが・・・。


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 佐々木弘美 一遍聖絵に描かれた桜

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一遍 河野通信の鎧刀
河野通信と伝えられる鎧と刀 大三島神社
一遍は伊予の名門河野家の出身です。一遍が生まれる前後の河野家を巡る情勢を見ておきます。
源頼義は義家とともに奥州の安倍貞任一族を討って、いわゆる前九年の役を鎮めた功により、伊予国司に任命されて伊予にやってきます。その子・親清が河野親経の女と結婚して河野家を継ぎます。河野氏は貴種であり、かつ武勇の名の揚がった源氏と結び付くことの有利さをねらったのでしょう。
大通智勝仏
三島大明神の本地仏であった大通智勝仏

 河野氏の氏神が伊予国大三島の三島大明神(大山積大明神)だったことは以前にお話ししました。
三嶋大明神の本地は大通智勝仏で、『法華経』によると「 過去三千座点劫以前に現れて法華経を説いた仏」ということになるようです。河野氏の氏神である三島神社(大山祗神社)に、航海安全と武運長久のために数多くのものを寄進しています。

特20565/三島水軍旗 奉納河野通信 伊勢大神宮/八幡大菩薩… | 古書ふみくら
河野通信の奉納したとされる三島水軍の軍旗

 河野氏の中で有名なのは、 一遍の祖父通信の活躍です。
治承四年(1180)8月、伊豆国に流されていた源頼朝は、平氏を倒すべく兵を挙げます。石橋山の戦いでいったんは敗れますが、同年10月には富士川の戦いで平氏を敗走させ、東国を支配下に収めることができました。この時に、頼朝の働きかけで通信と父の通清は頼朝側に立って、伊予国の平氏勢と戦端をひらくのです。通清はまもなく戦死しますが、通信は奮戦してよく河野水軍の力を保ち、寿永四年(1185)には平氏を追いつめてきた源義経に助勢します。 義経は河野水軍の支援を受けて平氏を減ぼします。通信はこの功で、鎌倉幕府内で大きな位置を占めることになります。かれは北条時政の娘の谷(やつ)を妻とし、頼朝と相婿となります。そして道後七郡の守護職に任命され、また伊予の御家人を統率する地位を与えられます。
その後、承久三年(1221)の承久の乱までが通信と河野一族との全盛期でした。
 承久の乱で、通信の子通俊は西面の武士として院に仕えて後鳥羽上皇の皇孫を妻としていました。
その関係で幕府軍と戦うはめになり、敗れて本国に逃げ帰ります。通信とその一族は、高組山城に立てこもって幕府方の軍と戦いますが、7月に城は落ちます。通信は捕えられて鎌倉に送られ、奥州江刺に流されて、寛喜二年(1230)に同地で没しました。享年六十八歳でした。
一遍 祖父河野通信墓碑
河野通信の墓(流刑地の岩手県北上市稲瀬町水越)
聖塚(ひじりづか)〔河野通信(こうのみちのぶ)の墓所〕 | 岩手経済研究所
 孫の一遍(河野通秀)は、後に祖父通信の墳墓を訪れ供養を行いました。その様子が「一遍上人絵伝」に伝えられています

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通信供養の一遍の短歌(法厳寺)
通信には通俊・通政・通久・通広・通宗・通末の六人の男子がありました。
このうち、通広と通久を除く四人はすべて死刑か流刑になっています。 一遍の父通広は、通信とともに捕えられますが、後に放免されています。
一遍 河野家系図
河野氏略図(一遍関係)
①祖父通信は奥州江刺(岩手県北上市)に流され、
②長男通俊は戦死
③次男通政は信濃国葉広(長野県伊那市)で斬首
④4男通末は信濃国伴野(長野県佐久市)に流刑
 6人の息子たちの中で、五男の通久のみが無事でした。
母が北条時政の娘の谷であり、乱勃発時に通久は母とともに鎌倉に住んでいました。そのため幕府方として合戦に加わって、宇治川の戦いでは功をたてています。この功により父通信の死罪は免れ、通久には阿波国富田荘を与えられます。しかし、父祖の地を忘れがたく、伊予復帰を願い出て許されて、貞応二年(1223)、久米郡石井郷(松山市)を与えられ「帰国」します。他にも高繩山城の攻防戦で戦死した長男得能通俊の子孫は、桑村郡得能の地を領することを認められていますし、池内公通は、乱後も所領をもっていたようです。乱後の処分で、河野一族の所領がことごとく没収されたということはないようです。 
 しかし、河野一族は、所領53ヵ所、一族49人の領地が没収されてしまいます。その後、弘安四年(1281)の蒙古襲来において河野通有が戦功を挙げるまで、約50年間の没落期を送ることになります。
承久の乱で、一遍の父道広が罰せられなかったのはどうしてでしょうか?
通広は、兄通政らとともに西面の武士として朝廷に仕えていたようですが、病弱のためか承久の乱のころは郷里に帰っていました。これが難を免れる結果となります。彼は「別府七郎左衛門」と俗称されているので、浮穴郡拝志郷別府(現温泉郡重信町)に別府荘を所領としていたとされていますが、たしかな史料があるわけではないようです。

一遍は、河野氏の没落期の悲運の中で生まれます。
父の通広は、規模は小さいながらも所領を持つことは許されていて、一応の生活は保証されていたようです。しかし、本来ならば広い領地を持ち、固い同族結合で結ばれた惣領制の中で誇り高く生きるはずであった一遍の幼い日に映ったものは、一族の苦しい生活と過去を懐かしむ老人の姿でした。

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     法厳寺 この前にはいくつもの坊が建ち並んでいた
一遍の誕生地は、松山市道後湯月町の宝厳寺(時宗)とされています。
この寺は河野氏が大檀那で、父通広はこの寺の別院に住んで、 一遍ほか数人の子を育てたと云います。
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法厳寺山門
この寺には15世紀後半ころの一遍の木像(重文)が保存されています。一遍の肖像彫刻は、現存するものは数少ないために、貴重な資料です。宝厳寺の門前にはかつては、中央の道をはさんで右に六坊、左に六坊のあわせて12の塔頭が並んでいたと云います。最後まで残っていた林迎庵(来迎庵・林光庵とも)に祀られていたのがこの一遍木像だったと伝えられます。

一遍 木像
一遍木像
 この庵が通広隠棲の場所だったのかもしれません。一遍は宝厳寺の地で生まれたとされますが、父通広がここに住んだことも確かではありませんし、記録もないようです。

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一遍上人御誕生旧蹟碑(法厳寺の山門前)

ただ一族の得能通綱が建武元年(1334)に建てたと伝えられる「一遍上人御誕生旧蹟」碑があるだけです。もし、通広に承久の乱後も引き続いて、浮穴郡拝志郷別府(現温泉郡重信町)の別府荘が所領として認められていたのなら、そこに領主として居館を構えていたことも考えられます。後には還俗しているので、所領を持っていたと考える方が説得力があります。

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法厳寺(時宗)

母については『一遍上人年譜略』に「母は大江氏」と伝えるだけです。
大江氏は鎌倉幕府の有力な御家人で、もとは京都の学問の家系であり、一遍の母と伝える女性は大江季光の娘とも云われます。祖父通信が御家人として鎌倉幕府で重きを成していたときの婚姻関係なのかもしれません。一遍は、鎌倉幕府要人の大江氏の一族であったことは頭に入れて置いた方がよさそうです。承久の乱の際の通広の助命も、大江氏の働きがあったことは考えられます。
 一遍の幼名は松寿丸で、七歳にして継教寺の縁教律師に学びます。随縁と名づけられて学問に励んだと『年譜略』には記されます。継教寺は、宝厳寺近辺の天台寺院なのでしょうが詳しくは分かりません。10歳で母を失って、父の命によって仏門に入ったようです。
一遍を仏門に入れた父の思いを探っておきましょう。
直接の背景は、母の死だったと研究者は考えています。中世では所領を失った豪族が社会的な位置を保つには、出家するしかったようです。法然がそうでした。一遍の父通広には、わずかばかりの所領は残ったようですが、それも寺の別院に住んでいるようではたいしたものではありません。子供が数人いるうえにわずかばかりの所領では、行く末の没落は目にみえています。河野の一族としての誇りを保つため、子供たちを出家させねばならないと考えるのは、当たり前だったのかもしれません。こうして一遍は父の命令で出家し、法名を随縁と付けられます。そして13歳まで故郷の寺に住んでいました。
 一族の将来を思い、自分の行く末を思って、やがて建長3(1251)年、九州大宰府にいた僧・聖達のもとに送られることになります。
 これ以後の伝記は『一遍聖絵』に詳しく述べられています。

「建長三年の春、十三歳にて僧善入とあひ具し、鎮西に修行し、大宰府の聖達上人の禅室にのぞみ給ふ」

と13歳で僧善入と出会い、鎮西(太宰府)に修行にでることになります。これは、父通広のすすめと紹介があったようです。父は若い頃に後鳥羽上皇に仕えて都にいたころから、仏道への志厚く、西山派証空に教えを乞い、その弟子聖達や華台を知っていたようです。そのことが太宰府行きの決め手となったようです。

 一遍絵図 旅立ち
一遍聖絵 太宰府への出発
一遍が修学のため、太宰府へ出立する場面を描いたものです。

全体図から見ておきましょう。
①右側に大きな茅葺屋根の館が見えます
②その縁側に男女が座って、旅立つ 一遍を見送ります。
③その縁台の前に童を囲むように武士姿の男達が立ちます。
④縁側の奥には2人の女と女童が見送ります。
⑤彼方の道を3人が去って行きます。
 ①②③④の見送る側の人たちから見てみましょう。
一遍聖絵 旅立ち2
     一遍聖絵 太宰府への出発(拡大部 見送る人々)
一見すると「縁側から見送る父と母」という構図ですが、そうではないようです。一遍の母は、すでに亡くなっています。また父は、出家していますの僧姿のはずです。そうだとすれば、広縁の武将が叔父の通久なのでしょう。とすれば、その隣の朱の衣を纏うのが伯母になります。

一遍聖絵 旅立ち5
    一遍聖絵 太宰府への出発(拡大部 見送る人々その2)
しかし、よく見ると伯父は、甥の一遍には、目をやってはいないように見えます。視線は庭の童に向けられ、会話をしているようにも見えます。その前に立つ男達も、やはり一遍に視線を向けていません。これも庭の童の方を向いています。一遍よりも童に関心が向いているように私には見えます。別れを悲しんでいるようには思えないのです。
 なぜこうした構図にしたのでしょうか。不思議な構図です。
 その奥の広縁の角には頭巾姿の女が描かれています。
乳母ともいわれます。確かにこちらは、別れ悲しむ姿に見て取れます。二人の女達の間に女児らしき人物がいます。この人物については、制作途中で描き足されたものだと研究者は考えているようです。そうだとすると当然、それは絵師円伊の独断ではなく、制作責任者であり、発注者でもある聖戒の意向を受けたものとなります。
それにしても、なぜ加筆されたのでしょうか。この小童が一遍の妹であると考える研究者もいるようですがよくは分かわないようです。これも『聖絵』の謎の一つのようです。

  この館は誰の館なのでしょうか? 生家と云うけれども、叔父の通久の館なのではないでしょうか?
  承久の乱で軍功のあった五男通久は、久米郡石井郷(松山市)を与えられ「帰国」したことは、先ほど述べたとおりです。その居館からの出立姿を描いたものだとすれば、館の見送る人たちのそぶりのすげなさも腑に落ちてきます。また、父通信は法厳寺の別院に「間借り」状態だったことは先に見たとおりです。
一遍聖絵 旅立ち3
    一遍聖絵 太宰府への出発(拡大部 去りゆく一遍)
見送る人々の視線の先には、当時は「随縁」と名乗っていた一遍、
そして同行の僧善入の姿が見えます。この時、一遍は十三歳。
十歳で母を亡くし、父の命により出家のために生家を出立する姿です。詞書の割注には、父通広は出家して如仏と号したとあります。

一遍聖絵 旅立ち6

さて、黒い僧体の善入は振り向いて一遍(15歳)に何か話しかけているようです。どんな言葉をかけているのでしょうか。
①「さあ、さあ、後ろなど振り向かずに、さっさとお歩きなされよ」と、せきたてている
②「見納めになるかもしれません。しっかりと故郷の風景を目に焼き付けておかれよ」
③「さらなる修行のための旅立ちです。元気に参りましょう」
しかし、振り返る一遍は描かれていません。

絵図の中では館から見える位置ですが、ストーリー的には、一遍らは伊予灘を沿うように歩いているようです。つまり、館から遠く離れた場所まできているのです。このシーンは、宗教者一遍の門出を語る大切な場面になります。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



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