瀬戸の島から

2020年12月

 山の神仏-吉野・熊野・高野 │ 大阪市立美術館

四国霊場の形成前史に熊野行者が関わっていたとされます。
平安時代末期の『今古物語集』巻三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬第十四」に、
 今昔、仏の道を行ける僧三人伴なひて四国の辺地と云は
伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也。

とあり、仏教の修行者3人が、四国の海辺の道を廻っていたことが分かります。それが「四国の辺地」といわれていたうです。
同じく平安時代末期の『梁塵秘抄」巻2の三百一には、

われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、
また笈を負ひ、衣はいつとなくしはたれて、
四国の辺地をぞ常に踏む.
 
とあります。修行者は笈を背負い、そして衣に塩が垂れるほど潮水をかぶるような四国の辺地を巡っていたことを示しています。これらの史料からは、修行の地が海辺に沿っていたことが分かります。このように平安時代後期には、海辺を廻る修行者が四国にやってきて、修行を行っていたようです。具体的な辺地修行の行場を、五来重氏は次のように指摘します。
①辺地修行の地として海辺や海を望める山、
②修行のできる巨巌や岬経塚があり、さらに窟籠りのできる洞窟
このような四国の辺地での修行が、四国辺路の前身であったとして、「四国辺地 → 四国辺路 → 四国遍路」
という発展経緯を研究者は考えているようです。 
熊野古道~大峯奥駆道を歩く(順峰)~【3日目】 | からあげ隊長の冒険

行者(修験者)が修行を行う行場は、四国だけだったのでしょうか
そうではないようです。『梁塵秘抄』巻二の二百九十八には次のように記されています。
聖の住所はどこどこぞ、大峰 葛城 石の槌(石鎚)、
箕輪よ勝尾よ、播磨の書写、南は熊野の那智新宮

とあり、大峰山・葛城山・石鎚山・箕面山、書写山・熊野などの霊山で「山岳修行」を行っていたようです。行場を求めて遍歴する一環として、四国の石鎚山などにもやって来ていたようです。同時に、四国の海辺を廻る辺地修行も行います。若き空海もその群れの中に身を投じ、阿波の大瀧山や土佐の室戸で辺地修行を行ったのでしょう。空海が始めたわけではなく、空海もその中の一人であったと考える方が現実には近いようです。

 平安時代後期ころから熊野信仰が隆盛を迎えます。
それまでも熊野行者の中には、四国の辺地修行を行う者はいました。彼らは足摺岬の金剛福寺や室戸の最御崎寺など、太平洋につきだした岬を、観音信仰に伴う補陀落信仰の絶好の聖地とするようになります。そこには、多くの修行者が集まってくるようになります。補陀落信仰は、インド南端の観音菩薩が住む浄上に起源があるようです。わが国では平安時代に、熊野那智が補陀落とされ、熊野信仰の中で重要な位置を占めるようになります。このような熊野信仰の影響が、四国八十八ヶ所霊場の中に見いだせると研究者は指摘します。
本地垂迹資料便覧

もともと、熊野信仰は天台系が主流であつたようです。
それは寛治四年(1090)に、白河上皇の熊野御幸の先達を勤めたのが園城寺の増誉で、初代の熊野三山の検校に任じられたからです。これ以降、熊野一山の検校は園城寺系の聖護院の高僧が補任されることとになり、上皇の熊野御幸の先達を務めるのが慣習化します。ところが中世の記録『熊野那智人社文書』には熊野先達のなかに、真言宗寺院や札所寺院に属する者も以下のように見られます。
①阿波 平等寺の治部、太龍寺の秀信、順成寺
②讃岐 一の宮の持宝坊、向峯寺の先達
③伊予 繁多寺の先達、香園寺の先達、大山寺の先達、
三角寺(めんどり先達)、実報寺
  これらの寺院は真言密教系寺院で、先達を勤めたのは、それらの寺院に所属していた熊野先達でしょう。すると彼らは、熊野信仰を持つ熊野先達であり、同時に弘法大師信仰も持ち合わせていたと考えられます。このような信仰形態が南北朝時代から室町時代には、珍しいことではなかったようです。

四国八十八ケ所霊場の成立に、熊野信仰はどんな役割を果たしたのでしょうか。
 熊野信仰と88ヶ所霊場の関係について、最初に指摘したのは近藤喜博氏です。彼は、霊場寺院のなかに熊野神社を鎮守とする例が多くみられることことを取り上げます。そこから四国辺路の形成には、中世の熊野信仰が強く関わっていることを明らかにしました。
現存の四国八十八ケ所霊場に熊野信仰の痕跡を探ってみましょう。
 熊野行者が行場にやって来て修行を続け、そこが聖地となり、庵や寺が出来るときに本尊とともに客神として熊野神社を祀ったことが考えられます。熊野神社が鎮守として祀られている霊場を挙げてみましょう。
徳島県では
1番霊山寺、5番地蔵寺(熊野神社が鎮守)
7番十楽寺(近在に熊野神社)
8番熊谷寺(縁起に熊野権現権現が登場)
12番焼山寺(境内に熊野神社)
20番鶴林寺(熊野神社が鎮守)
の6ヶ寺があります。
このうち焼山寺は、平安時代後期の虚空蔵菩薩を本尊とします。

この像はいかにも地方作という印象を抱かせるもので、修験者が修行の一環として制作したことを想像させます。また熊野神社が境内に在ります。さらに室町時代の懸仏も数面ありますが、それらは熊野十二所権現を表したものとされています。以上からもこの寺は、熊野信仰のきわめて濃厚な寺といえるようです。
 また、以前にお話ししたように竹林寺は、紀伊からやってきた豪族の寄進した灯籠が残るなど、紀伊熊野との関連を伝えます。
高知県では
24番最御崎寺(補陀落渡海の道場)
26番金剛頂寺、35五番清滝寺、37番岩本寺、
38番金剛福寺(補陀落渡海の道場)、
39番延光寺
このうち、最御崎寺と金剛福寺は、熊野信仰にみられる補陀落渡海が考えられています。補陀落渡海とは補陀落信仰に基づくものです。補陀落とは『華厳経』に、インドの南海岸にあるという補陀落山という観音菩薩の住む浄土と考えられていました。やがて観音信仰の広がりとともに、中国の普陀山が擬せられて観音浄土としての補陀落霊場が作られ、補陀落信仰が隆盛になります。
 それがわが国伝わると、浄土信仰の隆盛とともに熊野那智山が「補陀落山の東門」と言われるように補陀落信仰のメッカとなります。
513 補陀落渡海 – KAGAWA GALLERY-歴史館

こうして仏教伝来以前の海上他界と観音信仰が那智で重なり合い補陀落信仰が成立します。つまり海の彼方に常世と、袖陀落観音が習合したのです。こうして、その「実践行」として熊野那智から船に乗り、観音浄土である補陀洛山へ往生し、生まれ変わりそこで永遠に生きるというのが補陀落渡海のようです。

浜の宮王子 補陀落渡海の境地 | 落人の夜話

 この熊野那智の補陀落信仰の影響を受けたのが、土佐室戸の金剛頂寺と足摺岬の38番金剛福寺です。
中世には、足招岬から補陀落渡海したという記録がいくつもみられます。さらに金剛福寺の本尊(暦応五年(1342)は、熊野の補陀洛山寺の本尊千手観音と同じ三面千手観音です。明らかに熊野信仰の影響があるようです。
愛媛県では
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
このうち八坂寺に近い文殊院は右衛門三郎伝説の地で、石手寺も右衛門三郎に深く係わる寺です。この石手寺には右衛門三郎伝説を記した石手寺刻板が所蔵されるなど、伊予における熊野信仰が強く見られる寺院です。
香川県では
66番雲辺寺
67番太興寺 (熊野神社が鎮守)
70番本山寺、71番弥谷寺、78番郷照寺(境内に熊野神社)、
84番屋島寺 (境内に熊野神社)
86番志度寺(補陀落渡海の行場)
このうち屋島寺は熊野神社を鎮守社としていて、地形的にも山岳信仰の濃厚な寺です。
さらに近世初期の「熊野本地絵巻」が所蔵されています。この種の熊野本地絵巻は、熊野比丘尼が絵解きしたといわれますので、屋島寺にも熊野比丘尼がいたことがうかがえます。また境内に「血の池」という池も残りますので、熊野比丘尼の存在を暗示しているようです。
 志度寺は土佐の金剛福寺や最御崎寺のように、大海原を望むというわけではありませんが、北側には瀬戸内の海を間近に控え、補陀落渡海の行場とされてきました。やはり熊野信仰が基になっていたようです。
以上、四国八十八ケ所霊場寺院にみられる熊野信仰について、みてきました。これらを背景に、研究者が推測するのは「熊野修験者の修行ルート」や「熊野先達の熊野への参詣ルート」です。熊野信仰の痕跡の残る霊場は、四国の各地から熊野への参詣ルート上にある拠点で、それが四国辺路の原形になったのではないかという仮説を提示します。
熊野修験者といえば、厳しい修行者というイメージを持ちます。
しかし『熊野那智大社文書』(応永14(1407)の行政房有慶日那売券に「高松の一族」とあり、また仁尾の覚城院文書の増吽書状には
「経衆は二十人(中略)伶人両三人」

とあるように、中世の熊野修験者は、先達として多くの信者などを引き連れて熊野参拝を生業としていました。自らの修行とは別に、檀那(信者)とともに行動し、時には熊野まで直行することなく檀那の求めに応じて、様々の寺院や神社に参拝していたのです。
 四国の熊野先達のなかには、弘法大師信仰を持った者もかなりいたようです。そうだとすれば熊野への道すがら、弘法大師の聖跡あるいは真言宗寺院に参拝しながら熊野を目指したと思われます。これが弘法大師信仰を広めることにもつながります。民衆への弘法大師信仰の流布は、こんな形で進められたのではないでしょうか。

四国霊場の成立に熊野信仰が関係していたとするなら、弘法大師と熊野信仰の接点が前提になります。
熊野垂迹神曼荼羅図(乙本) 文化遺産オンライン

その具体的な例として、研究者は愛媛・明石寺の熊野垂迹曼荼羅を挙げます。この図は図の中央に、八葉蓮弁形に熊野の神々の垂迹神が配置されます。その中央には新宮と那智あり、その周囲に本宮と五所王子と、四所明神のうちの勧請十五所と一万・十万宮が巡らされています。上部には那智の滝や摂社などが山の中に描かれ、下部には熊野諸王子とともに北野天神や八幡大菩薩などが描かれています。複雑な信仰の実態がうかがえます。
 ここで研究者が注目するのは、図上部の「役の行者」に相対するように、弘法大師が描かれていることです。
このような例は、香川・六万寺の熊野曼荼羅図(南北朝時代)にもみられます。六万寺は真言宗としての歴史を持ち、八十五番八栗寺を奥院とする四国辺路とは深い寺院です。この図に描かれる弘法大師は、明石寺本や西明寺本に比べるとずいぶん大きくなっています。椅子の形状や水瓶・沓などはいわゆる「真如親王様」の姿です。ここに描かれた弘法大師は、数多くの尊の中の一尊とは違って、弘法大師そのものの存在を主張していると研究者は指摘します。
熊野曼荼羅図

.
このように熊野曼荼羅の図中に弘法大師が描かれることが、南北朝時代から現れます。
この頃から熊野信仰と弘法大師信仰との接点が、熊野曼荼羅のなかにも見られるようになります。鎌倉時代の熊野曼荼羅には、弘法人師は描かれていません。しかし、室町時代ころからの弘法人師が現れます。ここからは熊野信仰の中に、弘法大師信仰が何らかの形で影響を与えていると考えられます。


札所寺院の中に、熊野信仰と弘法大師伝説の展開が具体的な形で残る例は、少ないようです。しかし八番熊谷寺の弘法大師像も永享3年(1431)の造立で、しかも鎮守が熊野権現なので、焼山寺と同じ過程を歩んだと考えられます。
以上から札所寺院の中に、弘法大師信仰をもった熊野先達がかなりいたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①「四国辺路の成立や展開には、熊野信仰が大きく影響した」は、研究者の間では定説となっている。
②それは霊場札所の鎮守に熊野神社が多いことからもうかがえる。
③そこからは霊場札所が熊野行者によって、開かれたことをうかがわさせる
④熊野行者は、熊野先達も勤めており熊野参拝の際には、ルート上の熊野先達の拠点を利用した。
⑤これが四国辺路の原型となったのではないか。
⑥また、熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を果たしていた。
⑦こうして四国辺路を中心に熊野信仰に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成される。

熊野行者の拠点であった寺院が、熊野への参詣ルート上の宿泊地などとして重要な役割を果たしていたという仮説は私にとっては興味深いものでした。

  参考文献 武田和昭   四国の辺地修行から熊野信仰ヘ 四国辺路の形成過程所収

哲学者の梅原猛は「廃仏毀釈という神殺し」という次のような文章を山陽新聞に寄稿しています。(要旨)
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
 江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。
「神々の殺害」という廃仏毀釈が五流一山に、どのように襲いかかったのかをみてみることにします
熊野神社(倉敷市児島) (10月27日) : 夢民谷住人の日記4
現在の児島 熊野神社

 五流一山は、神道の熊野神社と仏教の五流修験に分割されます。
神社には神職として旧祠官の大守有太と還俗した大願寺の宮本右藤太、下禰宜の高見弥三郎の三名が奉仕することになります。そして五流修験は神社からは追放されます。追放された修験者たちは、旧観音堂を本堂(現本地堂)として、吉祥院、智蓮光院、太法院、尊滝院、伝法院、建徳院、報恩院で一山を再形成します。これが現在の三重の塔のエリアになります。さらに明治6年には神社は、郷内村を氏子圈とする郷社熊野神社と名前を変えます。

五流 明治初頭の新熊野十二所権現
明治初年頃の五流一山

 一方修験者は、明治五年の修験道廃止後は聖護院を本寺として天台宗寺門派に所属することになります。
神仏分離で、五流の5院や公卿12院は壊滅状態になったようです。
田辺進、「親子で読む 続編郷内の歴史散歩」2005には、次のように記されます。
 今熊野十二所権現の鎮座する林村は、幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏であり、修験道廃止によって、失業となる。五流尊瀧院のみ天台宗の寺院となり、後は全て還俗する。
 還俗後、このころ警察官・軍人の職業が生み出されたので、そちらに就業した人も多かったといい、五流伝法院の兄弟は軍人となり高官に出世したと伝える。伝法院も建徳院も大阪のほうに移るともいう。

 「幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏」とあります。中世から比べると規模は縮小していたとはいえ、1/3近くの住民が山伏を生業としていたことがわかります。神仏分離で警察官や軍人に「転業」した人たちが多かったようです。

 修験者(山伏)関係の寺院を地図上で確認しておきましょう。
 五流 山伏寺判明図
  五流;
  建徳院(高槻市内藤家)
  報恩院(林・新見家)
  伝法院(大阪市三宅家)
八院:
  大泉院(林・三宅家)、正寿院(林・内藤家)
  観了院(林・本多家)、宝良院(林、岡田家)
非座衆35ヶ寺
  大願寺(今、宮本家)、西光坊(今、西方寺)串田
  有南院(今、一等寺)曽原、惣持坊(今、宝寿院)福江
  杉本坊(今、慈眼院)尾原、仁平寺(今、真浄院)林
  南之坊(今、大慈院)植松、法華寺(今、蓮華院)浦田
  神宮寺(禰宜屋敷) 是如院(報恩院の上手)
  蜜蔵坊(竹田の田の中)  多宝坊(宝良院の下手)
  宝生坊(木見、惣願寺)  清楽寺(祠官屋敷)
かつての五流長床衆の寺院跡を見ておきましょう。
五流 絵図

十二所権現本社の西側にあったのが大願寺です。今はなにもありませんが「中国名所圖會」巻之2「熊野神社全図」で、その姿を想像することはできます。「本社と別当寺」という関係がうかがえる絵図です。
明治の神仏分離で大願寺は廃寺になり、住職は神職となり、明治10年頃まで仕えたようです。明治7年桜井小学校が旧大願寺に新設され、旧大願寺客殿及や長床は教室として使用されます。そのためここには、旧学校跡の石碑が建っています。
五流 大願寺跡

大願寺の南は行者池で、その中島が桜井塚です。
今は陸続きになっています。この中島が、後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁法親王の御墓所(「備前紀」)だとされます。石造十三重塔は、供養塔と云われ、初重の軸部(鎌倉中期)だけでしたが、皇国史観が高まる明治末になって、現在のように十三重石塔に再建されたものです。
五流 供養塔拡大部

◆後鳥羽上皇供養宝塔(重文):
 三重塔南にある供養塔です。承久の乱で流刑となっていた桜井宮覚仁親王と冷泉宮頼仁親王が 、父後鳥羽上皇一周忌供養のために仁治元年(1240)に建立したと伝えられます。かつては覆屋(御廟)を建て、一切経を納めた経蔵が付設されていたと云います。
五流 後鳥羽上皇御影塔
 

真浄院:(旧五流報恩院)
明治23年、かつての五流報恩院の土地建物を譲り受けて、移転したようです。報恩院の敷地は広かったようで、真浄院の敷地は、その南側1/3程度になるようです。寺号は「備前記」では「新熊野山仁平寺」、「備陽国誌」では「金光山妙音寺真浄院」とあります。現在、この寺は「金光山妙音寺真浄院」と公称します。「仁平寺」とは、十二所権現非座衆35ヶ寺中に見える寺号でなので、十二所権現の社僧の流れを汲む寺院のようです。
 
◆大仙智明権現:

五流 大仙智明権現

五流太法院跡の南の一画に大仙(大山)智明大権現の堂宇があります。太法院跡の西側には、多くの地蔵石仏が並びます。先述したように近世になると、五流修験の山伏が先達となって信者を伯耆大山に登拝する風習が盛んになります。その際の登拝許可などは五流山伏が握っていました。そのため各地から五流の山伏寺に、登拝許可を受けに来ました。こうした大山と五流山伏との関係から、大山智明権現が五流に勧請されたようです。智明権現の本地は、大山寺本尊地蔵菩薩になるようです。
覚城院も山伏廃止令で廃寺となったようです。
五流 覚城院

しかし、児島四国88ヶ所第53番札所が大願寺から移され、そのため覚城院堂宇は天台宗阿弥陀庵として、現在まで存続しました。本尊は阿弥陀如来坐像で、元の覚城院本尊と伝えられます。覚城院は明治維新まで十二所権現裏(北)にある福岡山に鎮座する福岡明神の別當でもあったようです。
寺院エリアの残る「新熊野十二所権現三重塔」を見ておきましょう。
五流 本山
右が三重の塔 左が長床(焼失)

熊野十二所権現社の長床前広場の東・段上に鐘楼・役行者堂と並んでいます。一辺4.3m、総高21.5m(青銅製相輪6.8m)の三重塔で、応仁の乱で焼失したものを、別当大願寺天誉上人によって、再興されます。しかし、安永から天明年中(1781-89)に倒壊したようです。それを、別当大願寺湛海が願主となり、文政3年(1820)に再興したものです。この時期には、善通寺の五重塔や金毘羅大権現の旭社も建立中であった時期になります。寺社の建築ラッシュの時代です。
  この塔の背後の上段には本地堂があります。
五流 日本第一熊野大権現本堂

かつては、「本堂、権現堂、観音堂」とも呼ばれていたようで、十一面観音立像を安置されています。大願寺廃寺になって、ここに遷されたようです。
五流 熊野十二所神社本社
長床が焼失して、さえぎるものがなくなった本社

神社エリアを見ておきましょう。
十二所権現の社殿です。
向かって左から、第三殿、第一殿、第ニ殿、第四殿、第五殿、第六殿となるようです。
五流 熊野十二所神社本社3

第1殿は春日造で第2殿と同規模、
第3殿は桁行3間梁間2間の入母屋造、
五流 三殿

第4殿及び第5殿は4間社流造、第2殿は明応元年(1492)の再建で重文(正面1間側面2間、春日造、正面1間向拝付設)
五流 第6殿

一番右側の第6殿は、1間社流造で、他の社伝よりも小振りです。
第2殿以外は、池田光政により正保4年(1647)再建とされますが、天保11年(1840)再建との古記録もあり、様式上からは天保11年再建とする方が妥当と研究者は考えているようです。
なお、現在、神社側の説明版には「熊野神社祭神は伊邪那美神、伊邪奈岐神、家都御子神、速玉之男神」とあります。ここには熊野の神達の名前はありません。それ以外にも記紀の神々(アマテラス、ニニギなど)が祭神として祀られているようです。
これだけを見ると、最初に挙げた梅原猛の「廃仏毀釈は、神々の殺害
」であったという言葉に真実みが出てくるように私には思えてきます。
五流 長床

 本殿の前にあった長床。
 長床は修験道場で、享保年中(1716-35)の再建と伝えられていました。瓦には、室町期のものが多く使われていて、室町期の建築を再興したものであろうとされていたようです。明和5年(1768)の再建との記録があるとも云われていたようです。13間×3間の長大な建築で、中央右2間が通路で、拝殿も兼ねます。
長床で、社殿は隠されていましたが焼失後は社殿が剥き出しになっていました。この方が開放的でよいと言う人もいますが、どうでしょうか。 
明治維新の神仏分離で次のような境界線が引かれたようです
①三重塔の建つ5段ほどの石階から上は五流山伏の所有地
②それ以外は熊野神社の所有地
この分割ラインでは、長床は神社の所有地の上に建っています。しかし、その機能上から建物は五流山伏の所有とされてきました。そのため、神社側は長床を拝殿として使用するため、五流側から「借用」という形をとってきたそうです。
 平成19年に再建されますが、以前の姿とは全く違う「近代的スタイル」の建築物になっています。

 参考文献
神 仏 分 離 あるいは 廃 仏 毀 釈備前新熊野十二所権現(五流修備前新熊野十二所権現(五流修験・五流尊瀧院・尊瀧院三重塔)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_goryu.htm

五流 明治初頭の新熊野十二所権現

 江戸時代の五流一山は、本山派修験として聖護院に所属していましたが、実質的には岡山藩の宗教政策に支配されるようになります。今回は岡山藩と五流修験の関係を見ていきます。
岡山藩は、寺院を淘汰し、神社を整理するという独自の宗教政策を展開します。
この結果、五流一山でも、諸興寺、是如院、神宮寺、密蔵坊、多宝坊、惣堂大明神などが廃絶させられます。その後に吉備津彦神社の神主藤原朝臣光隆の義弟、大守隠岐橡が熊野権現の祠官として任用され、熊野権現境内の清楽寺跡に居宅を与えられます。そしてそれまでは社官・三昧僧・供僧が勤めていた御社の鍵の管理、年間六度の開扉ならびに遷宮、御社の掃除などの社役を勤めることになります。そのために神宮寺と是如院が還俗し、下禰宜となり下役として仕えます。
 岡山藩によって、五流を中心とする修験者、修理寺院である大願寺、祠官及び下禰宜の三者が奉仕する体制が作り出されたことになります。
そして寛文九年(1669)には、池田光政から次の折紙が出されています。
備前国児島郡林村之内高百六拾石、同郡宗津村之内高三拾石都合高百九拾石令寄附詑、全可社納也        
  寛文九年三月廿五日、光政公御在判
  惣山伏中 大守隠岐橡 大願寺 
ここからは五流が岡山藩の宗教政策の管理下に置かれたことが分かります。吉備津彦神社の神官を受けいれることで、五流の相対的な地位の低下につながりました。しかし、岡山藩の宗教政策は「飴と鞭」を巧みに使い分けています。ムチばかりではなく、保護も与えます。
五流 東山東照宮
玉井東照宮
 岡山藩の五流修験への保護を示す行事を見てみましょう。
正保元年(1644)池田光政が東山に勧請した玉井東照宮の祭礼・権現祭です。この祭礼で五流修験の建徳院が重要な役割を演じます。祭礼は東照宮勧請の翌年の正保二年(1645)九月十七日から初まっていますが、その中心は東山(岡山市)の東照宮から御旅所迄の御神幸です。この行列に寛文八年(1668)から五流修験を代表して建徳院が、岡山の多数の山伏を伴って参加するようになります。しかも五流の代表者が「権現同道」と叫ばないと行列が動かなかったくらい、重要な役割を演じていたようです。これは円満院が池田光政の島取藩時代の祈祷寺院で、移封と共に岡山に移されています。そのため円満院やその支配寺院である建徳院が重視されたことからきているようです。
 この他にも岡山藩では、五流修験の春秋の葛城・大峯修行や聖護院門跡の峰入への参加の際には、その都度銀子を与えています。また、後には春秋の峰入修行の護摩供に際して、池田家の家運長久の祈念も依頼するようになります。岡山藩は、硬軟織り交えた巧みな寺社政策を展開し、管理下に置いていったことが分かります。

五流 本山
五流本山

近世中期から後期にかけての五流一山の状況を見ておきましょう。
五流 絵図

 岡山藩の寺社抑止政策もあり江戸時代中頃の五流山では、諸院の多くが廃絶し、由伽山・有南院・清田八幡宮など関連社寺も離脱していきました。この結果、五流山は熊野権現を中心として林村内のみでこじんまりとまとまるという運営方法をとらざるを得なくなります。
五流 熊野十二所神社本社3

 その伽藍を見ると、本社は正保四年(1647)十一月池田光政の寄進になる第一殿・第二殿・第四殿・第五殿及び満山護法社。
五流 三殿

明応元年(1492)天誉再建の第三殿から成り、その近くに長床・観音堂・鐘楼などがあり、本社左脇には祠官屋敷、その左隣には大願寺が並びます。
五流 長床
焼失前の長床

 本社の裏につらなる蟻峰山の登山口には、宝永二年(1705)建立の地主神福岡明神の祠がありました。福岡明神には宝永六年に廃止された惣堂大明神の御正体も安置されます。この福岡明神は公卿覚養院が管理し、九月七日には合祀された惣堂大明神の祭典を行なっていたようです。
五流 山伏寺判明図

 山内には塩飽本島の吉祥院をのぞく五流五院、公卿・譜代と称する修験者の家来などの屋敷がありました。その数は、寛文年間には山伏十七戸、譜代二十八戸を数えました。中世の繁栄ぶりから比べると、その縮小ぶりがうかがえます。
 木見の諸興寺跡にはわずかに薬師・毘沙門の小堂を残すのみとなり、有南院と共に分派し、山内には譜代の葬式寺の真浄院のみが存続していたようです。ここを拠点とした修験者達はいずれも妻子と自分達で葬儀を行なっていました。
  
近世期の五流一山の年間行事を見ておきましょう
正月朔日、三月三日、五月五日、六月十五日、七月七日、九月九日の六回の御戸開の祭礼がありました。これらは早朝寅の刻に熊野権現の社殿を開扉し、供物をそなえ祈願などしたうえで中の刻に閉めるものです。八月七日・八日の一山の祭礼の際の八日、及び八月十五日にも開扉されます。この他では、夏九旬の間は熊野権現に夏供花が行なわれます。月毎の行事には、
毎月朔日 権現出仕御宝前誦経
七日 役行者講・権現御本地縁日・権現騰
十七日 御託寥・連歌講
十八日 権現出仕読経
二十八日 荒神講
の行事がありました。この時には、まず福岡明神に登り、そこから蟻峰山の峰伝いに弁財天・熊山・タコラ山(最高峰)・石鎚山をへて山を下り、毘沙門屏・七福神・諸興寺跡・頼仁親王御陵・稲荷社(森池上)から由伽山に到り、根引・行者の井戸・木見・薬師庵をへて福南山にのぼり妙見宮を拝します。それから、熊坂地蔵・熊野道・清田八幡宮をまわって長床に帰るという行程です。さすがは峰歩きで鍛えた山伏たちです。健脚だったようです。
 このうちの蟻峰山からタコラ山にかけては、金剛蔵王権現と大峯八大金剛童子がまつられていました。しかし、この時代には、まだ蟻峰山と福南山を金剛界・胎蔵界になぞらえたり、山内に宿や鼻をもうけることはなかったようです。ただ蟻峰山麓の毘沙門堂上には胎内くぐり、毘沙門堂そばには弘法大師の磨崖仏や不動の種子を刻んだ岩などが、描かれているようです。 
   五流修験では、次第に霞内の檀那からの布施が重要な財源になっていたことは、以前にも見ました。もう一度近世の各院の霞の範囲については、確認しておきましょう。
尊滝院  備前国松山。伊賀国(天正年間肥前・肥後の霞を失ったので、享保十六年聖護院門跡から新たに与えられた。
太法院  美作 備前、伯者(宝永二年の霞状)
建徳院  備前岡山並びに四十八ヶ寺、美作の一部
報恩院  伊予国一円。安芸国豊田郡、
     豊後国大野郡(文化六年の霞状)
伝法院  讃岐国、伊予国
吉祥院  塩飽七島、備中国松山除(宝永元年の霞状)
  このうち吉祥院は塩飽人名領の塩飽本島にあったので、宝永六年(1709)以来、池田藩の特別の許可を得て、扶持米(当時は三石、文化年間は十石)を送られるようになったようです。
 室町時代の霞(テリトリー)と比べるとは、変化があります。
伝法院が讃岐と伊予をテリトリーとしてしていたようです。旧山本町市には、地神(荒神さん)は
「備中児島からやってくる山伏たちが祀るようになったもので、ここに庵などが建てられお札などが配布された」
と記されています。三豊には、五流修験の伝法院の修験者たちがやってきてきた痕跡が残っています。
霞の授与に際しては、本山の京都聖護院門跡からその院に霞状が与えられます。
加えて岡山藩の寺社奉行と霞所在の郡奉行にも通達が行われます。これに基づいて、霞内に頭襟頭を置き、その下に組頭を配して平修験を統轄する組織が作り上げていました。これらの役職の任命は、霞を所持する五流各院が行ないますが、その手順は郡奉行にとどけると共に、そこから藩の寺社奉行に報告するという形が必要でした。また、霞内の修験者の先達号や僧官は五流から出しています。ただし権大僧都以上の僧官については、五流から輩出する権限はなかったようで、聖護院に仲介しする形をとっています。
 近世中末期になると、いくつかの院では霞の他に講を組織して、信者の獲得・掌握を行うようになります。
たとえば「寛政三年(1791)九月吉日報恩院現住宣誉」との奥書のある講員名簿「摂州浪華、当院帰依山上惣講中」には48の講とその先達名が記されています。
 また近世中期以降に、吉野の大峯山寺を支配した八島役講の一つに、堺の五流があります。これも近世期には五流一山と密接な関係を持っていたようです。この他にも現在岡山から広島にかけての村々で見られる山上講も近世中期頃に五流修験が組織化されたものと研究者は考えているようです。
 五流一山は早くから大山を修行の道場として重視し、霞内の修験者にも大山先達の免許・補任を出しています。
修験者は祈祷など行いますが、そのためにはパワーポイントを貯めなければなりません。それは厳しい修行によってのみ貯める事が出来ると考えられていました。そこで、中世の修験者(山伏)たちは、行場をもとめて全国を旅する事になります。白山や立山、石鎚などの行場が近くにあればいいのですが、五流修験の拠点である児島には、名のある行場がありません。そこで、修行のために小豆島や石鎚、そして伯耆大山(大仙)を、修行ゲレンデとしました。
 江戸時代に修験者の移動が規制されるようになると、五流修験は大山を公認行場として認められるようになります。そのため現在も五流一山の祖霊堂は、大仙智明権現と呼ばれています。大山は五流修験とっては、修行の「ホームグラウンド」だったのです。そして、かつての熊野行者が先達として、熊野に「檀那」を連れて参拝したように、岡山南地域の信者達を大山へと導く姿が見られるようになります。こうして岡山からは五流修験の山伏に率いられた人々の「大山詣で」が盛んになります。この先達を勤めた山伏たちを先祖とする寺社が備中や備後には、かつては数多くありました。
 
 ここで五流修験の特徴を押さえておきましょう
 修験者の拠点は、行場の近くに形成されるのが普通です。しかし、五流修験は、熊野神社の社領に分祠されたのが始まりです。そのために行場が近くにありません。そのため五流修験は、熊野や大峯さらに大山・石鎚・小豆島などで修行せざるを得なかったようです。
 さらには瀬戸内海沿岸に新たな行場を求めて進出していきます。そして、そこに熊野権現を分社し、活動の拠点を確保していきます。それが、以前にお話しした塩飽本島の吉祥院や芸予諸島大三島の大山祇神社であったのでしょう。五流流修験が瀬戸内海沿岸の紀州・中国・四国・九州にかけて広範なテリトリーを持つようになったのは、このように外に向わざるを得ないベクトルがあったと研究者は考えているようです。
 もうひとつは、背後に熊野水軍の瀬戸内海進出があったことです。熊野水軍は備讃瀬戸の戦略的要衝である児島を押さえた上で、瀬戸内海全域の展開を行います。その水軍の偵察・情報収集部隊の役割を果たしたのが五流修験であったようです。そして、交易拠点に庵を開き、伝道活動の拠点とすると共に、熊野水軍の「支店」としても機能するようになります。修験者たちは、熊野詣でへの導引とともに、営業マンであったのかもしれません。これは、当時の有力寺社の瀬戸内海交易のパターンでもありました。五流修験の後に、熊野水軍ありということにしておきましょう。
  このこととが中世期の五流修験に大きな影響をおよぼしているとこ研究者は考えているようです。

近世期にも五流一山は、本山派修験内で特別の位置を与えられていたようです。
たとえば天保年間筆写の「本山近代先達次第」には、熊野三山検校宮三井長吏・聖護院御門跡の一品法親王を筆頭にして、熊野三山奉行若王子僧正、院室の住心院・積善院・伽耶院、豊前の求菩提山・筑前の竃門山の両座主があげられています。
 このあとに備前児島五流の報恩院・尊滝院・太法院・伝法院・建徳院・智蓮光院・塩飽の吉祥院がいずれも山号は新熊野山、長床宿老として記されています。
 さらにこれに続いて諸国の大先達・年行事・准年行事、御直院が記され、最後に別段をもうけて、児島公卿として一老附宝良院・覚城院・正寿院・宝乗院・大泉院・太法院付常住院・南滝院・観了院・千寿院・報恩院付本城院・尊滝院付青雲院・常楽院・備前矢掛一流公卿智教院、讃岐丸亀内伝法院下威徳院、同塩飽島吉祥院下真滝院があげられているのです。本山派修験内でこれだけの院が一括して所属し、しかも院室・座主につぐ位置を占めている例はないようです。ここからも五流一山が本山派内で別格視されていたと研究者は考えているようです。
 五流修験は本山派内で重要視された背景は、何なのでしょうか。
それは、聖護院門跡の御一代の御大峰・役行者千年忌・千百年忌、本山派修験の春の葛城・秋の大峯の峰入にあたって、五流修験が重要な役割をはたしていたことによるようです。例えば、聖護院門跡の一世一度の峰入では、五流修験のものが峰中修行の秘儀である小木、関伽の作法を門跡に伝授する指南役を勤めています。こうした門跡の峰入の供奉に際しては、岡山藩からの援助を受け、衣裳も権現祭の際に着用する藩のものを借りています。またそれに先立って、必ずホームゲレンデの伯者大山で修行をしたようです。
以上をまとめておきましょう
①近世には岡山藩の宗教政策により「規制と保護」を受けるようになった。
②林村の熊野権現ついては神職の介入を受けるようになり、五流修験、大願寺、祠官の三者が共同して奉仕するようになった。
③由加山の管理権を失い、多くの寺院が退転した
④五流修験は規模を縮小したものの、依然として中国・四国に霞を持ち比較的安定した宗教活動を展開していた。
参考文献


   備中児島を中心に大きな勢力を持っていた五流修験の起源について、前回はみてきました。
その結果、五流修験は熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に、中世になって形成されたのが修験集団であること。そして、活発な活動を展開するようになるのは13世紀になってからということが分かってきました。彼らは由来に「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであると考え、熊野本山との「幻想共同体」を作りだしていたようです。
 五流修験が次のステップを迎えるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇の息子達を迎え入れたことが契機になります。今回は、そこから見ていきましょう。

五流 後鳥羽上皇系図

 後鳥羽上皇の第四王子 冷泉宮頼仁親王が承久の乱に連座して、承久二年(1220)に児島に配流されます。これが五流修験の発展の原動力になっていきます。
『吾妻鏡』承久三年(1222)七月廿五日の条には、次のように記されます
「冷泉宮令遷二于 備前国豊岡庄児島の佐々木太郎信実 法師受一武州命丿令互子息等奉守護上之云云」

 児島の豊岡庄に配流された冷泉宮頼仁親王は、備前の国の守護佐々木信実にあずけられます。この頼仁親王の兄が桜井宮覚仁法親王でした。覚仁法親王は、建保五年(1217)十二月大阿闇梨青龍院覚朝について得度し、翌6年には、三井寺円満院住職として三井の長吏になっています。
 「五流伝記略」などによると、頼仁法親王は、承久二年(1220)に京都の戦乱をさけて、児島にやって来て尊滝院に庵室を設けて避難生活を送っていたようです。
 一方、翌承久三年に豊岡庄に流された頼仁親王も、林の尊滝院に移って共に生活するようになったようです。このために尊滝院を御庵室先達と呼ぶようになります。

 やがて延応元年(1239)、後鳥羽上皇は隠岐で亡くなります。
翌年の仁治元年(1240)の一周忌に両親王は、その遺徳をしのんで石塔、廟堂、経蔵などを建て供養します。この石塔が、後鳥羽上皇御影塔と呼れ、重要文化財の石造宝塔になるようです。

五流 後鳥羽上皇御影塔

この塔は昭和45年に解体修理が行なわれましたが、その時に塔身首部から火葬した骨片95、歯12、香木8片、鉄製細片などが発見されたようです。五流一山には、後鳥羽上皇が亡くなった後に死体を荼毘に付し、遺骨を三分して一つを隠岐、今一つを山城国、最後の一つをこの宝塔におさめたとの伝承があります。その伝承通りの遺物です。
頼仁親王は、守護の佐々木信実の娘を妻とし、二人の子供を残します。
宝治元年(1247)四月二十日、48歳で、尊滝院で亡くなります。亡骸は木見の諸興寺に葬り、墓地を若宮御霊殿と呼びます。
五流 若宮御霊殿

  一方、後鳥羽上皇の第6皇子が覚仁法親王です。
この地に流された兄頼仁親王(後鳥羽上皇の第4皇子)と共に、当時衰退しかけていた尊瀧院の再興に力を尽くしたとされます。
岡山の風 | 熊野神社(倉敷市林)|昭和48年 (1973年) 8月
 
岡山県倉敷市林の熊野神社参道の途中に池があり、その中に桜井塚という島があります。そこに、五流尊瀧院の大僧正となった桜井宮覚仁法親王の墳墓があります。桜井塚の十三重層塔と灯籠は、覚仁親王の墓と並んでありますが、親王のために建立されたものです。
倉敷市林・伝桜井宮覚仁法親王御墳墓 - 寮管理人の呟き

塔は約5m高さで、親王没の弘長3年頃の建立で、初重の軸だけが当初からのもので、その他は明治末年になって皇国史観の高まりの中で修復・再建されたものです。造灯籠は高さ約170㎝の豊島石製で、室町時代(14世紀初め頃)の作とみられています。これも後のになって、建立されたもののようです。
 ふたりの親王の墓を比べると、五流一山がふたりをどう評価していたがうかがえます。覚仁法親王の方が五流一山に残したものは大きかったと考えられていたようです。なぜかと云えば、覚仁法親王は宝治二年(1248)に、熊野三山ならびに新熊野三山検校となり、建長七年(1255)の後嵯峨上皇の熊野御幸に際しては、先達をつとめます。これが親王先達のはじめとなるからです。彼は文永三年(1266)四月十二日、59歳で亡くなります。
 覚仁法親王は、頼仁親王の長男道乗を、尊滝院の後継者とします。あわせて自分が所有していた肥後詫間郡之内大庄の八ヶ所、同郡の川尻庄の大部分を与えています。
後継者となった道乗の行った経営スタイルを見ておきましょう
①上沢氏から妻をめとり、宮家六党のうしろだてのもとに児島五流の再建(創建?)を進める。
②自らは五流一山の庄務となり、清田八幡宮・福南山・滝宮・通生神社に社領を与え、諸興寺・由伽寺・藤戸寺領などを定めた。
③尊滝院を長子澄意(次は二子頼宴)、伝法院を三子親兼、太法院を四子隆禅、報恩院を五子澄有、建徳院を六子昌範につがせて、自分の子供たちにより五流一山の再興を行った。
ここからは道乗によって、親王の子孫が五流一山の統率者になるというスタイルが出来上がったことが分かります。こうして一山の組織は整えられると共に、求心力も高まったようです。

 由伽山蓮台寺には、正安元年(1299)在銘の打懸札二枚が伝えられています。そのうちの一枚の裏に、親兼・隆遍・隆禅・隆有・宋助の名前が記されています。このうち親兼、隆禅は道乗の子になります。ここからは、道乗の子供や法資が熊野三山の一つである那智に比定された由伽山の経営に関係していたことが分かります。「岡山熊野三山」の連携が見えてくるのも、この時期からのようです。
こうして、五流一山は道乗によって組織化され、そのうしろだてとなった宮家六党らによって支配されるようになります。その神領は小島庄を中心として、波佐川庄、豊岡庄を含めて児島一円に及んでいたようです。

 この時期の五流一山の状況を見てみましょう。
弘長二年(1262)二月の奥書がある「長床六十三箇条式目」には、次のような事が記されます。
 まず児島の庄全体は、長床衆一同の領で、権現結縁の者が生活する所とされています。そして次のように記されます
一山の運営は長床衆の下知に従って庄官及び両政所が行なう。その際両政所は行事を支配し、庄官は百姓を支配する。政所や庄官になるのは長床の座衆のみである。しかしいくら長床の座衆でも熊野常住の者や京都に留まっているものがなることは出来ない。なお政所は百文、庄官は百五十文の支給を受ける。
社寺に関しては、まず修理をおこたらず、祭礼に専念せよ。
もっとも神社、寺院、供僧の加増は禁止する。また社寺の奉仕者の職を在俗者にゆずることも禁じる。
 長床の地は一般の人々は入れない殺生禁断の地で、百姓が茸をとったり、漁人が貝などをとることも禁じす。
なお、修行の道場は質素であったようで、社殿にはたたみやござをしいてはいけない。修行道場である福南山の供米は、庄官の得分でまかなえ。
 その他に、一山の行事としては六月会、峰入、霜月大師講、後鳥羽上皇追善の大乗会などがあげられています。この「六十三箇条式目」には、二十一名に及ぶ署名が並びます。おそらくこの人々が当時の長床衆の主要な者と考えられます。

 前回に、お話ししたように児島は「吉備の中海」に面し備讃瀬戸の戦略的要衝でした。
戦略的な要衝は、争奪戦の対象になり戦乱に巻き込まれるのが世の常です。中世期には、五流一山は、度々戦乱にまきこまれます。その際に、熊野は南朝の拠点でしたから五流一山も南朝方に荷担します。結果としては、負け戦の連続になり神領を減らしていくことになります。その過程を見ておきましょう。
 南北朝の戦乱に活躍した児島高徳は、児島五流の出身といわれています。
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彼は後醍醐天皇の隠岐脱出を知ると一族のものと馳参じ、その功によって児島を得ています。そして尊氏の反乱後は、熊山城、福山城などで反幕の兵をあげます。南北朝の争を記した「太平記」には、児島高徳をはじめ修験者の活躍について、くわしく記されています。
 また「洞院公定日次記」の応永七年(1400)十月の条に「太平記」の作者として、小島法師が挙げれています。こうしたことから、「太平記」の作者を児島の五流山伏と考える研究者もいるようです。

南北朝時代の暦応三年(1340)には、児島の佐々木(飽浦)信胤が反幕の兵をあげ、小豆島にせめ入ります。
五流 佐々木

 そして、吉野朝廷に大将軍の下向を要請します。吉野では、これに応えて脇屋義助を派遣します。義助は吉野から高野山をへて田辺にでて、ここで新宮別当湛誉から熊野の水夫、武具、兵糧などを与えられ、三百余般の船にのって船出します。そして淡路の武嶋に行き、さらにここから備前の児島につき信胤と同船して、伊予今治におもむいています。ところが義助は、伊予の国府で病死し、信胤も敗れてしまいます。
 佐々木信胤は五流と親族関係で、熊野水軍も佐々木方に荷担しました。両者に関係をもつ五流一山も当然、南朝方につきます。幕府の高師直は、これに対する処罰として児島の常山より東側を五流一山から没収します。この結果、五流一山は児島の西半分のみを社領として活動を続けることになります。
 その上に、応仁の戦乱にまきこまれます。
 五流一山の覚王院は、細川勝元と所縁がありました。その権威をかりて山内でおもいのままに振舞い反感をかっていたようです。応仁の乱は、細川勝元と山名持豊が争ったわけですが、覚王院に反感を持っていた五流一山の者は、山名方に味方し、覚王院を亡ぼそうと画策します。
 これを知った覚王院円海は備中国西阿知に退きます。そして応仁二年(1468)三月二十日夜、細川方の兵をかりて五流一山に乱入し伽藍僧堂を一宇も残らず焼きはらってしまいます。こうして以後、覚王院と五流一山の確執は長く尾をひくことになります。
 応仁の乱後、幕府はこの五流一山の衆徒の争を罰して、神領をさらに減らします。その結果、近隣十七村、約8000石になってしまいます。
このような窮状の中で、再建計画を打ち出したのが大願寺の天誉です。
 彼は応仁の乱で廃墟になった一山の再建を志し、文明元年(1469)から長享元年(1487)にかけて四国を中心として諸国を勧進し、資財や資金を集めます。そして明応元年(1492)に一山の再建に成功します。
 しかしこの再建直後の明応年間に、残っていた児島十七村の熊野権現神領が、常山城主の謙野土佐守及び同肥前守に押領されてしまうのです。伽藍は再建されましたが、神領を失ってしまったのです。そこで管領細川政元にかけあいますが、一向に要領をえません。
 そのような中で永正四年(1507)、管領となった大内義弘のはからいで児島のうち林庄、曾原庄、火打庄(今の福江)の三ヶ村が五流一山に返されることになります。
 しかし、天文十六年(1547)には、一山を追われた覚王院円海の子孫との因縁から再び戦乱に巻き込まれます。
五流一山へ帰山を許されないことに恨みを抱いていた覚王院円海の子孫は、阿波の三好長慶の兵を借りて、一山に乱入して火をかます。この時には一山の者が結束して、これを防いだために、楼門や長床を焼失したのにとどまったようです。この時に焼かれた長床は、元亀二年(1571)大納言増印が資財をあつめて、天正の始めに再建しています。

 このような五流一山の神領への押領や侵入にたいして、本山である京都の聖護院門跡道応が動きます。
彼は、西国廻国の際に毛利元就に接見し、五流一山の保護を求めます。吉備への進出のプラス材料になると考えた元就は、五流近隣の城主へ五流の保護を命じます。加えて永禄十一年(1868)十月二十六日に、三ヶ村の界に輝元と元就の名で神領である事を明示した制札を建てています。こうして、大内氏から与えられた神領三ヶ村は、毛利氏の庇護のもとに安堵されることになります。
 修験者(山伏)が武力集団化するのは、古代以来のことです。
五流一山も武力集団化していたようで、一山の修験者が従軍僧として戦陣に加わることは日常化していたようです。彼らは、「知識人」でもあったので右筆・外交官・葬儀・戦闘記録・祈祷師など、いろいろな業務を担当していたようです。
 たとえば元亀二年(1571)春、讃岐国の香西駿河入道宗心が、児島の本太城の能勢修理を攻めた時のことです。五流の建徳院が能勢修理の陣に加わり、雨乞をして大雨を降らせ、能勢修理はそれに乗じて打って出て宗心を打ちとったという記録が残っています。五流修験が戦争で、重要な役割をはたしたことが分かります。
 こうした五流一山の武力や情報収集力、その背後にある熊野水軍などに注目する勢力も出てきます。
それが秀吉です。秀吉は、山陽・四国制圧のためには瀬戸内海の制海権を握ることが不可欠であることに早くから気付いていたようです。当時は備讃瀬戸の制海権は、毛利氏に属する村上水軍が握っていました。それに対抗しようとしたのか、天正十年(1882)秀吉は、長床衆の加勢を求めて使者として蜂須賀小六を五流に送っています。しかし、五流一山は毛利氏への帰属が強く、この時には応じなかったようです。そのため秀吉から、林、火打、曾原の三ヶ村も没収されてしまいます。全ての神領を失った一山では、天正十一年(1883)、使者を京都に派遣し、照高院道澄を通して秀吉に歎願します。この結果、天正十七年(1589)になって、秀吉の配下となった小早川隆景から、堪忍料として百石を与えられています。この百石の社領は後には、宇喜多秀家にもひきつがれます。

戦国期の五流一山が直面した課題は、何だったのでしょうか
①五流一山では、神領の多くを失ってしまいます。神領に頼らない一山の経営方法が求められます。
②戦乱で修験者たちに大きな実入りになっていた熊野詣でも衰退します。この結果、熊野本宮との関係自体も薄れていきます。代わって本山派の聖護院末寺として活動するようになります
このような時代の変化に、どのような対応策したのかをみておきましょう
室町時代になると、院の財源は「配札・祈祷」などの布教活動に求められるようになります。
特に戦国時代になって、神領のほとんどを失ってからは、この動きが強まります。五流修験では原則として「霞(かすみ=テリトリー)」は、五流のみが所持していました。公卿は五流のいずれかに属して、直接に配札などの活動をおこなっていたようです。五流それぞれの霞は次のようになります。
尊滝院 塩飽七浦、備中松山・連島、肥前七浦、肥後
太法院 備前瓶井山・金山・脇田・武佐・御野、小豆島  
    作州(本山、桃山除)、日向
建徳院 伊予、安芸内豊田郡、紀伊の内日高郡 
報恩院 備前国岡山並四十八ヶ寺、作州本山・横山、
    備前西大寺
伝法院 讃岐、備後一万国並備中之内浅口郡 
ここからは5流(5つの院)が、それぞれテリトリーを持ち、その地域の山伏たちを統括して、布教活動を行っていたことが分かります。
統一した組織体と云うよりは、5つの院の連合体と捉えた方がよさそうです。また各院の霞は、前回に見た縁起で主張される「熊野権現」分祠地と重なるようです。
 
室町時代の五流一山の衆会、講、饗などの年中行事を見ておきます。
これらの行事は長床衆を中心として行なわれていました。行事の名称を見ると、初雪、月見などの饗、連歌会、管絃講、公達集会や公達庚申などが見られます。地方の山伏にしては、洗練された諸行事が数多く行なわれていると研究者は指摘します。これは五流修験が、常に京都や熊野におもむいたり、早くから院や公卿の先達をしてきたことから、身につけた教養や作法なのかもしれません。
「後法興院記」の明応二年(1493)四月十九日の条には、児島の山伏二人が聖護院門跡の京都入りのお供をしていたことが記されています。こうしたこともあって五流修験は、京都でもよく知られた山伏であったようです。児島の五流修験は、都でも聖護院末の異色の修験者として受けとめられていたとしておきましょう。

戦国期の五流の伽藍や関連宗教施設を最後に見ておきます
①伽藍整備については、明応年間に大願寺の天誉によって再建され整備されて。本社・若殿・西宮・中西社から成る社殿を中心として、長床・観音堂・三重塔・神楽殿・御供殿・鐘楼・仁王門が立ち並んでいます。さらに元亀天正の頃までには、行者堂、楼門、唐門、回廊、一切経蔵、千体仏堂、後鳥羽院の御廟堂、覚仁法親王の御廟堂が再建されています。この他に修験の院坊、大願寺、神宮寺などの社僧の本堂、庫裡が山内各所に姿を見せていました。戦国期の地方寺院としては、瀬戸内では有数の規模を誇っていたようです。
 当時の児島には、五流のどんな関連社寺があったのでしょうか。
五流 岡山熊野三山

まず新宮にあたる木見の諸興寺があります。ここには新宮権現の本地薬師(恵心作)をまつった薬師堂、阿弥陀堂、若宮殿、御廟堂が立ち並んでいました。その他にも、紀州の神倉に比定された背後の山には毘沙門堂もあります。
那智にあたる由伽山には、権現堂と本地堂があり、本地堂には那智権現の本地十一面観音がまつられていました。その南には、紀州の那智同様に滝があり、滝宮があります。この他五流の山伏が那智権現に参詣する際に垢離をとった井戸があり、五流の井戸と呼ばれていました。
その他の関連宗教施設を列挙しておきましょう
①応永三十一年(1424)五流一山総録の智蓮光院宜深が一山の菩提寺として作った有南院
②有南院の近くには、熊野権現の御旅所の清田八幡宮
 熊野権現の祭礼の際には神輿や神馬は、本宮(林)を出て、新宮(木見)をへたうえで、清田八幡宮へ渡御し、神事の法楽ののちに本宮に帰ったと伝えられます。現在この神社には、
 至徳四年 (1387)三月
 嘉慶元年 (1387)十一月
 応永十九年 (1412)十一月
 応永二十九年(1422)二月
 永禄八年 (1565)九月
の五枚の棟札が伝えられています。そこには五流一山の関係者の名前が記されています。ここからは、清田八幡宮が五流一山において重視されていたことが分かります。

 室町時代の五流一山は、五流と公卿を中心とした修験者から成る座衆と大願寺を中心とした非座衆から成りたっていました。しかし、実際の運営は座衆が行なっていたと研究者は考えているようです。「新熊野権現御伝記」には、元亀・天正頃の長床結衆寺院(座衆)として、次のような院が記されます
建徳院、尊滝院、吉祥院、伝法院、報恩院、太法院、智蓮光院、覚城院、南滝坊、常住院、本城院、青雲院、宝蔵院、大弐(出家当住)、俊雀(千手院当住)、正寿院、少納言(大善院当住)
 ここには塩飽本島の吉祥院が新たに加わって「五流」が六ヶ院に
なっています。建徳院、尊滝院、吉祥院、伝法院、報恩院、太法院が五流で、その他は公卿になります。
 塩飽本島の吉祥院が「五流」に加えられた経緯を示す史料はないようです。推測するなら、塩飽本島は塩飽水軍の拠点で早くから五流が関係していた備讃瀬戸の戦略的拠点です。そのために、本島に新たに五流の一院をもうけ、一山の運営に参加させるようになったとしておきましょう。どちらにせよ、塩飽本島に、五流の拠点が置かれていたことは押さえておく必要があります。

以上をまとめておきましょう。
①中世に後鳥羽上皇の子孫とされる道乗によって児島の地に五流修験は確立される。
②この時期に五流修験は備前国の守護の佐々木一族など宮家六党の後だてのもとに熊野神領の児島庄を支配し、熊野権現に奉仕する形ができた。
③しかし、この時期も児島に本拠をおくとともに、熊野にも拠点を持って先達として積極的に活動していた。
④南北朝時代以来のたびたびの戦乱で神領による財政的な支えが不可能とななったことに加えて、熊野信仰そのものも衰退した
⑤このため児島の修験者は熊野から独立して、自分達自身の手で一山を守り信者を獲得して行くようになった。
⑥五流修験者は瀬戸内沿岸で活動し、中国・四国から九州をテリトリーとする霞が成立するのはこの時期である。
⑦五流修験は、霞の檀那への配札や加持祈祷などの収入に活路を見出すようになる。
このように考えれば「長床縁由」に記される「熊野権現勧請譚」や、「聖武天皇や孝謙天皇の御代の伝承」は、信者をひきつけるためにこの頃に考え出された物語と思えてきます。
 どちらにしても五流は、戦争や内乱に屈することなく、縁起をととえ積極的に宗教活動を行なうことによって新たな信者を獲得し、その後の五流修験の活動基盤を作っていったと言えます。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

五流修験、発祥の地 「熊野権現の春」 | 岡山の風

 修験者たちの四国辺路の行場巡りの修行が、近世の四国霊場札所めぐりの原型であったといわれるようになっています。そのために、四国における修験者たちの活動に、焦点が当てられて研究成果がいくつも出されるようになりました。それらを読んでいて、気になるのが五流修験です。五流修験は倉敷市の児島半島に本拠を置いた修験集団でした。彼らの教団の形成と讃岐や四国との関係に焦点を当てて見ていこうと思います。
 五流修験の拠点である児島半島の「地理的な復元」をいつものように、最初に行っておきましょう。
五流修験 児島地図

 児島半島は、かつては島で北側には「吉備の中海」が拡がっていました。この海域は、近世に至るまで近畿と九州を結ぶ最重要のルートでした。古代吉備王国は、この備讃瀬戸の要衝を押さえて近畿勢力の有力な同盟者に成長して行きます。
最初に簡単に児島修験の概略を確認します。 
平安時代中期頃に、熊野本宮長床の一族と名乗る修験者たちが児島にやってきてます
 彼らは、熊野本宮の神領の中で最大の児島庄に熊野権現を勧請し、これに奉仕する修験集団を形成します。この集団は、自分たちの開祖を役小角の高弟、義玄・義学・義真・寿元・芳元として、尊滝院、太法院、建徳院、伝法院、報恩院の五ヶ寺を開きます。この5つの寺院から彼らは「五流」と呼ばれるようになります。

その後、平安時代末頃には児島の五流は、一時衰退したと云います。
しかし、承久の乱が起こり、後醍醐天皇の息子達が児島に流刑となっり、その子孫が院主となり五流の五ヶ寺は再興されます。
以後中世期を通して、五流修験は醍醐天皇の流れをくむ公卿からなる長床衆、社僧などを中心とする一山として繁栄します。五流山伏は、児島だけでなく熊野にも拠点をもつようになります。また、皇族の流れをひくことから皇孫五流、あるいは公卿山伏と呼ばれ、院や貴族の熊野詣にあたっては先達として活躍することになります。
五流修験は熊野権現を勧進していますから本山派に所属していました。
しかし、その組織の中に中国・四国から九州の一部に霞を持ち、霞内の先達に哺任を出すなど、本山派内でも別格的な位置を与えられていたようです。
  備讃瀬戸の制海権掌握のための拠点としての児島
五流 吉備の穴海
 
先ほど見たように児島の地は、現在では半島になっていますが、中世初期までは、その名の示すように島でした。熊野権現が勧請された林村は、水鳥灘の人江で、瀬戸内海の東の要所である備讃瀬戸の制海権を掌握するための拠点として重要戦略拠点でもあったようです。
 古代には吉備王国がこの水路を押さえて、瀬戸内海航路の管理権を握っていたことは先述したとおりです。源平の戦いでも争奪戦が展開されます。室町時代には、細川家が吉備と讃岐の守護職を得て備讃瀬戸の管理権を握っていました。戦略地点は戦いの時には、攻防戦の対象となります。このために児島五流も源平、南北朝、戦国時代などの戦乱にまきこまれていきます。
 近世期の五流修験
京都の聖護院内では、九州の宝満・求菩提などの座主と共に、院室につぐ位置を与えられ、公卿も各国の大先達につぐ位置を与えられていたようです。そして歴代の聖護院門跡の峰入の時には開伽、小木の指南役をつとめています。それだけでなく、本山派の春の葛城入峰、秋の大峯入峰でも重要な役割をはたしていました。
 中央でも重要な役割を担っていた五流修験に対して、地元の岡山藩は保護と管理の両面の宗教政策を巧みに使い分けて、管理下に置いていこうとします。まず、五流一山にそれまでの修験と、修理寺院大願寺のほかに新たに祠官を加えて、これらに百九十石の社領をあたえて保護します。特に山伏にはこのうち百石を与えると共に、門跡の峰入や葛城・大峯の峰入にあたっては、その都度銀子を与えています。
五流修験は、中四国の霊山である大山・石鎚の修験者を掌握していました
 五流の山内には、大仙智明権現がまつられ、石鎚山に擬せられた行場もあります。
赤い鐘楼門がとても目立っている - 大仙院の口コミ - じゃらんnet

大山や石鎚へは五流修験者たちの修行ゲレンデでした。同時に、彼らは先達として、多くの信者をこれらの霊山に参拝に連れて行きます。以前にお話ししたように、大山への岡山からの参拝を組織したのは、五流修験者たちでした。彼らは信者の里に庵を結び、それが発展して寺になった所も数多くあるようです。

 明治の神仏分離により、熊野権現は郷社熊野神社となり、大願寺は退転します。

五流 尊瀧院

 修験者は、五流筆頭の尊滝院を中心として結束し、聖護院末の修験集団を形成します。そして第二次大戦後は、尊滝院を総本山とする宗教法人「修験道」を結成し、中国・四国を中心に全国各地に教師・信者をもつ修験集団として活動するようになります。

  これが五流修験の概略です。これでは、よく分からないのでもう少し詳しく各時代毎に見ていくことにします。

五流修験の縁起では、児島への熊野権現の勧進をどのように記しているのでしょうか。「長床縁由」などの諸縁起を見てみましょう。
は次のような伝承をのせています。
 修験道の開祖役小角は韓国連広足の彿言によってとらえられようとした時、朝廷の追捕の手をさけて熊野本宮にかくれていた。しかし自分のために母親が捕えられたと聞いて自ら縛につき伊豆の大島に配流された。
 その時義学らの五大弟子を中心とする門弟三百余人は、王難が及ぶことをおそれて熊野本宮の御神体を奉持して、権現を無事に安置しうる霊地を求めて船出した。
 そして淡路の六嶋、阿波の勝浦、讃岐の多度、伊予の御崎(佐田岬)、九州各地などを三年間にわたってさまよい、これらの場所にそれぞれ権現を分祀した。ただし御神体そのものを安置しうる霊地はまだ発見しえなかった。
ここで伝えようとしていることは
①自分たちは、修験道の開祖役小角の五大弟子につながる法脈であること
②法難に際して、聖地熊野本宮の神体をもって瀬戸内海方面に亡命したこと
③瀬戸内海沿岸の淡路・阿波・讃岐・伊予、九州をさまよい権現を分祠したこと。
など、自分たちの集団のよるべき法脈と、瀬戸内海のテリトリーが主張されます。
 ここで私が注目しておきたいのは権現分祠先として「讃岐の多度」があることです。

五流 備讃瀬戸

多度郡は、空海を産んだ佐伯氏の本貫で善通寺がある郡になります。その郡港として古代に機能していたのが弘田川の河口にある白方(多度津町)です。ここには近世になって「空海=白方誕生説」を流布した父母院・熊手八幡・海岸寺・弥谷寺があります。
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多度津町白方の熊手八幡 その向こうに広がる備讃瀬戸

これらの寺院に残された寄進物を見ると信者達には、備讃瀬戸を挟んだ備後や備中の人たちが名前が見えます。さらに絞り込んでいくと、彼らは五流修験の下に組織された人たちではなかったのかと思えてくる状況証拠があります。
 つまり、大山や石鎚への蔵王権現信仰と同じく、白方にも熊野権現が分祠され、それを五流の修験者たちが祀り、彼らが先達として備後・備中の信者達を連れてきたのではという仮説です。実は、これは小豆島の島遍路巡りをして思った事でした。吉備から見て南に開ける海の向こうにある補陀落や観音信仰の霊地としての小豆島や白方は見られていたのではないかという筋書きです。
 後に、その霊地に弘法大師大師伝説が接ぎ木されていくパターンです。これは、観音寺が八幡信仰と観音信仰の上に、弘法大師伝説が接木されるのと同じような手法です。

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白方=空海誕生地説の拠点だった海岸寺奥の院からの備讃瀬戸

 この動きを進めたのが五流修験であったとすれば、「空海=善通寺生誕説」にこだわる必要はありません。彼らは善通寺とは別の系譜の修験者たちです。新たに「空海=白方生誕説」を流布し、白方の宗教施設のさらなる「集客力アップ」を目指したのではないかというのが私の仮説です。
 中世に多度郡白方に置かれた宗教施設は、児島五流の影響をうけていたとしておきます。

 また、多度津以外の「淡路の六嶋、阿波の勝浦、讃岐の多度、伊予の御崎(佐田岬)」にも、熊野権現を分祠したと云います。これは、古代のことではなく、後世における五流修験の活動範囲と私は考えています。さらに縁起をみていくことにします。
 瀬戸内海をさまよううちに、義学は船を東に向けるよう神託を受けた。これに従って東に舵を向け備中と備前の境まできた時、山上から呼声が聞えてきた。この場所が現在の倉敷市呼松である。この声にひかれて更に梶を南にとり柘榴の浜(現在の児島下の町)に到着した。
 すると海浜の石の上に白髪の老人が左手に経巻、右手に賊斧を持って立っていた。老人は、ここから北に進むと如意宝満の峰という霊地がある、そこに権現を鎮座すると良い。自分は地主神の福岡明神であるが、今後は熊野権現を護持しようと語った。義学らは喜んで上陸し柘榴の浜に寺を作った。これがのちの惣願寺である。
 一行は教えられた通りに北に道をとり、福南山の山麓をへて峠(のちに熊坂峠と呼ばれた)を越えて福岡邑に到着した。なおこの途中、福南山の麓で休憩して堂を作り地蔵をまつった。これが現在の熊野地蔵である。
 さて福岡の地に着いた一行は、熊野十二社権現の御神体を安置してまつりを行なった。大宝元年(701)三月三日のことであったという。
またあわせて境内に地主神の福岡明神を勧請した。その御神体は柘榴の浜で老人が立っていた石である。熊野権現の到来を喜び迎えた村人は同年の三月十五日に仮の御社にまつり、什物をはこび込んだ。やがて六月十五日には十二社権現すべての御社が完成した。爾来熊野権現が福岡の邑に鎮座された三月三日は同社の大祭とされている。また仮宮を造られ什物がととのえられた三月十五日には負事の賀、十二社権現の御社が完成した六月十五日には祭典が行なわれるようになったという。
 以上が「長床縁由」などに見られる児島への熊野権現の勧請物語です。近世の写本「五流伝記略」には、天平宝字五年に木見に宮殿を建てて新宮諸興寺とし、同じく児島の山村に那智山を移して新熊野山由伽寺を開いたと記します。これらがはたして史実かどうかは分かりません。
五流 岡山熊野三山

つまり、自分たちは熊野長床の子孫であり、新たに児島の地に熊野権現を開いたという「新熊野」伝説を主張しています。これをそのまま信じることはできませんが、この縁起類が書かれた時代の背景をうかがえることはできそうです。
 さらに、聖武天皇が神領を寄進し、孝謙天皇の御代に堂宇が整ったこと、そして児島の地に新宮及び那智の権現も勧請されたという縁起が、後世に作られたと研究者は考えているようです。

 「尊滝院世系譜」では尊滝院の開基を義学とします。
以下二世義玄、三世義真、四世寿元、五世芳元と役小角の五大弟子を並べ、六世神鏡、七世義天、八世雲照、九世元具を記します。9世の元具が死亡した永観(983)年間以降、承久2年(1220)の覚仁法親王による再興までの間、同院は中絶して寺院は荒廃したとします。
 寺院の縁起は「①古代の建立 → ②中世の荒廃 → ③近世の復興」というパターンで書かれたものが多いようです。③の場合は「復興=創建」と、読み直した方がいい場合もあります。六世から九世迄の四人のうち神鏡以外の三人については、具体的な活動が伝承されているようです。しかし、史料を検討した研究者は
「実在の人物であるとはいいがたく、後世に付会して作られた伝承」
という疑いの目で見てます。   

縁起の中で主張する「五流修験=熊野本宮長床衆亡命集団」説も検討しておきましょう
和歌山県・熊野にゲストハウスikkyuをつくった森雄翼さんの目標は「地球一個ぶんの暮らし」を体感できる宿にすること | ココロココ  地方と都市をつなぐ・つたえる

本家の熊野本宮長床衆は、大治三年(1128)の記録に
長床三十人是天下山伏之司也、自古定寺三十ケ寺 此外山伏中は余多委口伝」

とあり、百五拾町歩の社領が与えられています。
熊野長床衆の行事には延久元年(一〇六九)の「社役儀式之事」によると、
元旦の衆会への出仕
一月七日から七日間の祈念
夏百日間の寵山修行
院や貴族たちの峰入の先達
などの重要な役割を果たしています。この長床衆の中心をなしていたのが五流といわれる五つの院坊です。そしてその代表が執行でした。
 室町時代に成立した「両峰問答秘紗」によると、平安時代末から鎌倉時代初期の熊野長床五流は、「尊・行宗・僧南房、報・定慶・千宝房、太・玄印・龍院房、建・覚南・覚如房、覚・定仁・真龍房」で、いずれも晦日山伏です。
 この「尊」は尊滝院、報は報恩院、太は太法院、建は建徳院、覚は覚城院の略号のようです。例えば、尊滝院の行宗は、嘉応二年(1170)44歳で長床(直任)執行となり、文治三年(1187)四月、後白河法皇の病気を治した功により少僧都になっています。また西行が大峯入りをした際の先達としても知られています。
 このように本家の熊野五流山伏達は、平安時代末期から鎌倉時代初期に熊野を拠点とした先達として活動していることが史料から分かります。また、熊野において特に院や貴族などの峰入に際して重要な役割をはたします。
後鳥羽天皇、皇子ゆかり 「熊野権現」 | 岡山の風

それでは、児島の五流長床衆は、どうなのでしょうか。
 児島の長床五流の活動は、史料からは見いだせません。つまり、児島の五流修験が由来で主張する「熊野長床五流の亡命者」は、史料的には説明できないようです。
しかし、中世初期の「熊野本宮御神領諧国有之覚事」には
『八千貫、従内裏御寄進 大祀殿修理領、備前児島

とあります。ここからは、熊野本宮の大祀殿修理八千貫を児島五流が寄進していることが分かります。この寄進額は、熊野の神領中では最大の貫数になります。児島の地が熊野本宮の重要な神領であったことは分かります。
経済的だけでなく、この児島の地は瀬戸内海における水軍の重要な拠点であったことは先述しました。
そのため純友の乱、源平の争いなどの時にも児島の地は、争奪戦が展開されます。

五流 源平の戦い

とくに佐々木盛綱の渡海が謡曲にもうたわれた元暦元年(1184)の源範頼と平行盛の藤戸の戦は、児島が舞台です。
五流 藤土の戦い

この児島を掌握することが、源氏にとっても平氏にとっても重要なことであったことがうかがえます。

 藤戸の戦を勝利に導く敵前渡海をした佐々木盛綱は、その功により源頼朝から、児島の波佐川の庄を与えられます。
これに対して、五流修験は、次のように幕府に対して激しく抗議します
児島の地は天平二十年、聖武天皇から神領として賜ったもの故、その一部の波佐川の庄を盛綱に割譲することは出来ぬ

一山の代表真滝坊は鎌倉におもむき、そこで27年間にわたって訴願を続けています。これに対して承元四年(1210)になって、五流の訴えが認められ、波佐川の庄が五流一山に返されています。五流一山ではこの決定をてこに、熊野長床衆や熊野水軍をうしろだてにして、児島一円を拠点とする強力な修験集団を作りあげていったようです。
こうして、13世紀になって熊野五流は、熊野水軍の舟に児島五流の僧侶(修験者)たちが乗り込み、瀬戸内海交易を活発に展開するようになります。熊野詣での信者を、五流の先達が導引して、熊野水軍の定期船が運ぶという姿が見られるようになります。この時期には、芸予諸島の大三島や塩飽の本島などには、熊野水軍の「定期船」が就航していたと考える研究者もいるようです。瀬戸内沿岸における熊野信仰は、児島五流の修験者が強く関わっていたことがうかがえます。
 また、縁起に記さた瀬戸内海沿いの多度郡などに熊野権現が分祠されたのも、この時期のことだったのではないかと私は考えています。

 こうしてみると五流修験の起源を、古代にまで遡って考えるのは難しいようです。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に、中世になって形成されたのが修験集団が児島五流と言えそうです。そして、活発な活動を展開するようになるのは13世紀になってからのようです。その際に彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想共同体」を生み出したとしておきましょう。

以上をまとめておくと、
①児島は熊野神社の社領となり、熊野権現が勧進された
②備讃瀬戸の要所である児島は、熊野水軍の瀬戸内海における重要拠点となり、熊野権現信仰の布教拠点にも成長して行った。
③義天が福南山で虚空蔵求聞を行い妙見をまつったり、雲照が清田八幡宮を熊野権現の御旅所にするなどして、吉備の熊野三山が整えられて行った。
④しかし、この時期の五流修験の本拠は熊野であり、児島は熊野長床五流の拠点にすぎなかった
 五流修験が次のステップを迎えるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇の息子達を迎え入れたことが契機になります。それは、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

前回に続いて丸亀扇状地が、どのようにして丸亀平野になったのかを見ておきたいと思います。最初に下図に丸亀扇状地を重ねながら大きなターニングポイントを確認しておきましょう。

丸亀平野 形成史1
(0)更新世(洪積世)末期までに、土器川は丸亀扇状地を形成。平池から聖池あたりが扇状地末端
(1)更新世末期 土器川は丸亀扇状地の北に三角州を形成
(2)完新世初期 温暖化による海面上昇で三角州は海面下へ
(3)完新世中期 高温多雨化で、土器川の浸食作用激化 + 段丘面形成 =流路の安定化と堆積作用による砂州や潟の形成
(4)近世  下流域の沖積平野の形成と河口の潟湖の干拓

上の順番で丸亀扇状地が丸亀平野になっていく過程を追って見ることにします。
まずは①の扇状地がいつ形成されたかについてです。
 丸亀平野 姶良カルデラ
29000~26000年前 鹿児島湾の姶良(あいら)カルデラ火山が噴火し,火山灰(AT)を大量に日本列島に振らせました。この時期は、地球は最終氷河期で海水面が現在より約100m下がったようです。
丸亀平野 旧石器時代の日本図

そのためこの時期は、間宮海峡,宗谷海峡が陸つづきとなり、朝鮮海峡,津軽海峡は冬期に結氷し,アイスブリッジが架かった状態となります。
丸亀平野 旧石器時代の瀬戸内

瀬戸内は草原が広がり,湖沼が発達し、そこにナウマン象などの大型ほ乳類が大陸からやってきます。私たちのご先祖さん達は、現在の瀬戸内海の島々の頂上からやってくる獲物達を見張っていたようです。瀬戸大橋の橋脚となった島々の頂上からは、国分台や坂出市の金山のサヌカイトの石器破片が数多く出てきます。これらは中国地方にも搬出されています。
 以前にお話ししましたように、発掘調査では、丸亀扇状地の礫状の上から姶良カルデラの火山灰は見つかっています。この時代の土器川は、現在の平池や聖池のラインまで礫を運んできて、すでに丸亀扇状地の形成を終えていたことになります。その後に、火山灰は降り積もりました。氷河期は雨が少ないので、土器川の浸食・堆積作用は弱まります。この時期の丸亀扇状地は、現在の土器川の瓦のように礫岩が重なり積もる姿を見せていたのでしょう。土器川は北流し、岡山の高梁川などと合流し西に流れ、現在の佐田岬を迂回して足摺岬の西方で太平洋に流れ込んでいたようです。
これが一変するのが13000年前です。温暖化進み最終氷期が終わり,完新世が始まります。
 亜寒帯針葉樹林は年々少なくなり,広葉樹林,照葉樹林が広がり、草原もなくなっていきます。こうして寒冷気侯に適応し,草原を食料源にしたナウマン象,オオツノジカ等は絶滅します。代わって森林の堅果類,芽等をえさにするた中小哺乳類のニホンシカ,イノシシ,ツキノワグマ,キツネ,タヌキ,ノウサギ,ニホンザルなど、私たちに馴染みのある動物たちが登場します。地球が暖かくなるに従って、海水面は上昇し、鳴門海峡から海水が瀬戸内草原に注ぎ込み内海としていきます。
 このころには,日本列島は黒潮の流れ込みを受けて、夏季多雨,冬期多雪の気侯が形成されていきます。この時期のご先祖さまの住居は、洞穴,岩陰を利用したものが多いようです。瀬戸内平原でのナウマン象狩りから山間部の林の中での鹿や野ウサギ狩りへと生活スタイルを変えなければならなくなったようです。

 しかし、ご先祖さまはこの環境変化に適応すべく、次のような新たな「技術」を生み出します。
これが縄文時代の幕開けとなっていきます。
   土器の発明(堅果類,肉の煮沸)
   弓矢の発明(狩猟)釣針の発明(漁撈)
   尖頭器の改良―有舌尖頭器の出現(狩猟)
   石皿,磨石の増加(堅果類の調理)
   磨製石斧の増加(木器の製作)
   磨製石斧の出現.
 この過程で,どのような地形変化があったのでしょうか。
丸亀平野 気温変化
 
更新世はかつて「洪積世(こうせきせい)」とも呼ばれていました。  更新世末期の最後の寒冷期(ヤンガー・ドリアス寒冷期)が終わると、長期的で大規模な温暖化が始まりました。これを完新世の始まりとします。完新世には急激な温暖化により、氷床や氷河が解け、世界的に5m前後の海水面上昇が起こりました。特に今から約7000年前には、現在よりも温暖化していたため、海水面の高さは今よりも約3メートル高かったと推定されています。
 その後、海水面がやや低下して現在の位置になりました。海水面が上昇したことによって、それまで陸上の低地にあった河川に海水が流れ込んできて、河川の堆積物の上に海の堆積物が重なるという事態も起こりました。 これが丸亀扇状地の末端部やその下の三角州で起こったことです。

次に弥生集落と地形の変遷を淀川流域の例で見ておきましょう。
丸亀平野 地形変化

  上の説明を図示化すると下のようになります。
丸亀平野 平野形成

これを参考にしながら以前お話しした善通寺市の旧練兵場遺跡の集落の変遷について簡単に「復習」しておきます。

丸亀平野 旧練兵場遺跡
善通寺市旧練兵場遺跡 弥生時代の復元図
①丸亀扇状地(平野)は,土器川の流路が東西に変遷を繰り返して氾濫し、網の目のように流れ自然堤防を形成したため,微髙地に富んでいた。
②西からやってきた弥生人たちは、この微髙地を利用して定着し稲作を始めた。
③自然堤防上に集落、その後背湿地に小さくて不規則な水田が開かれた
④定期的に低地部分には洪水が襲ってきた。その結果,地形の逆転がしばしば起こった。
⑤大規模な洪水の際には起伏が増し,反対に小規模な場合には起伏差がなくなっていった。
⑥弥生時代中期末~後期,古墳時代後期には後背湿地部分の埋積が徐々に進んだ。
⑦7世紀末には、それまでの微髙地を含む起伏が少なくなり、今のような平坦な状態になった。
その平坦になった時期に、条里型土地割の水田が拓かれていきます。
背景には、この時期に土器川の堆積作用が激減したことがあるようです。
丸亀扇状地帯の一部で段丘化が生じたと研究者は考えているようです。分かりやすく云うと、段丘崖が出来ることによって、土器川の流れが限定化され安定化します。それに応じて、人々は土地利用や土地開発の方法を変えていくようになります。平面化した扇状地は、洪水が発生しなくなり堆積が停止ます。
これは何をもたらしたのでしょうか?その影響や結果を列挙していきましょう。
  ①地下水位が低下し土地が高燥化した。
このため,土地条件が安定し水害を受け難くなった。一方で地表面の更新が行われなくなり,同じ地表面を長い期間にわたり利用し続けなければならなくなった。
  ②地下水位の低下は湿田を、乾田化させ生産力を向上させた。
湿田と比較した場合,乾田は水管理がうまくできれば、裏作に麦をつくる二毛作が可能になったり,畜力を利用した耕作や、長鋤の利用も可能になります。これは、土地生産性を飛躍的に高めることにつながります。実際に、大阪府の池島・福万寺遺跡の中世旧耕土からは、鋤の痕跡やヒトや牛と考えられる馬蹄類の足跡が見つかっています。

  ③河川灌漑の場合には,従来の灌漑システムが段丘化により破壊されてしまうこともあった。
そのために段丘崖上まで水を引くためには、もっと上流側に取水口を設けることが必要となります。これにチャレンジしたのが中世に東国から西遷御家人としてやって来た東国武士集団だったことは以前にお話しした通りです。土器川右岸の飯山町には、そのような痕跡がいくつも残されています。

④段丘上では土地は高燥化し,より多くの灌漑用水が必要になります。濯慨がうまく行かない場合には,赤米のような耐乾品種の導入,あるいは水の管理しやすい小さな区画への変更が図られたかもしれません。また,水田から畠へ土地利用を転換せざるを得なかったかもしれません。最悪の場合,土地が放棄され荒廃した可能性もあります。
このような「耕地廃棄」と農民の移動は、中世では日常的であったとうです。 
⑤さらに,同じ土地で二毛作が行われると,程度の差こそあれ土地を疲弊させます。
このため施肥が不可欠となります。新灌漑システムは,荒廃しかけた土地の再開発には不可欠の条件になったでしょう。上流側への井堰の移動や溜池の築造などの方法がとられるようになります。
 これは善通寺の一円保絵図の中に描かれた有岡大池の築造過程で以前にお話ししましたので、省略します。
⑥一方、段丘下の現氾濫原面では、洪水が頻繁に起きます。
このため,堆積が急増し大規模自然堤防が形成されたり,砂州が急速大きくなったりします。例えば多度郡の港が、白方から堀江に移ったのも中世のこの時期です。弘田川の堆積作用で白方港は利用不能になり、代わって金倉川の堆積作用で形成された砂州の内側に堀江津が登場します。
洪水が集中する河原は「無主の地」として市が立つなどイベント広場として利用されるようになります。
例えば『一遍上人絵伝』に描かれた福岡の市は,吉井川(岡山県)の現氾濫原にできた定期市です。また,広島県福山市の草戸千軒遺跡は,芦田川の現氾濫原面に立地した河港でした。さらに,河川が上流から運んでくる土砂は海を遠浅にし,塩堤による干拓を可能にします。
 12世紀後半頃から干拓が成功し始めるのは,人々の土地開発に対する欲求,技術の進展だけでなく干拓が可能な場所ができたことと深い関わりがあると研究者は考えているようです。鹿田川(現在の旭川)の河口付近に開かれた備前国上道郡荒野荘絵図(1300年)は,まさにこのような様子を示したもののようです。

  丸亀平野は、平野と呼べるものではなく扇状地であったことが改めて分かります。
丸亀平野は、もともと扇状地の礫状の石が積み重なっていて、非常に水はけのよい土壌なのです。それが、完新世以後の洪水などで土砂が堆積して平面化しましたが、水はけがいいことには変わりありません。これは、稲作栽培には適さない土壌です。そのため善通寺一円保の寺領の水田率は、3割程度でした。そのような環境が讃岐の中世農民を、赤米の耕作や麦を重視する二毛作へと向かわせたのです。
 丸亀平野の水田化が進むのは、近世以後にため池と用水網が整備されて以後のことです。

 古代の用水網は貧弱でした。丸亀平野で最も進んだ勢力と技術力を持っていたと考えられる善通寺勢力(後の佐伯氏?)も、その水源は二つの湧水からの導水のみです。有岡大池が作られるのも中世になってからです。このような状況を見ると「満濃池」が古代に作られていたのかも疑問に思えてきます。中世の善通寺一円保は、金倉川からの導水も行えていない状態なのです。
古代に満濃池からどのようにして善通寺にまで水を運んできたのか。
池ができても用水路がなければ水は来ません。金倉川を通じて善通寺方面まで水は供給されたと簡単に考えていました。しかし、古代の土器川や金倉川の姿が見えてくれば来るほど、その困難さに気付くようになりました。地形復元なしで、土地制度や水利制度を語ることの「無謀」さも感じるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  丸亀平野が土器川の扇状地として形成されたことを以前に紹介しました。
それでは、丸亀扇状地の末端はどこなのでしょう。また、いつごろにできたのでしょうか。
その疑問に応えてくれる報告書を見つけましたので紹介します。テキストは「平池南遺跡」香川県教育委員会 2018年」です。

平池南遺跡 上空写真1
 遺跡名は「平池南」です。上の写真の造成中の場所で、現在は丸亀競技場ができています。北側にある四角い池が平池です。その向こうには備讃瀬戸が広がります。つまり、この報告書は丸亀競技場の発掘調査書なのです。丸亀競技場は1998年のインターハイに合わせて作られたものです。その報告書が20年後に出されたのかは、私にとっては最初の「謎」です。それは、さておいて先に進みます。
平池南遺跡 上空写真2

まず、丸亀平野の5m等高線地図を見てみましょう。
平池南遺跡 5m等高線地図

これを研究者が見るとすぐに、扇状地だと気づくようです。私は、何十年見ていても気付きませんでした。この地図を見ていると、小さな谷が見えてきます。これがかつての土器川の痕跡と考えられます。谷には川が流れていたはずです。その流れを青色で書き入れて見ました。
調査報告書は、平池南遺跡について丸亀扇状地の先端に位置するとします。

平池南遺跡調査報告書 10㎝等高線図

遺跡は地表下90㎝に礫層があり、八つ手の葉状に3方向に突き出す平面形になっているようです。扇状地の微地形は、旧中州・中州間低地・旧河道の集合体なので数mの起伏をもった礫層を基盤層とするようです。そのため地表下90㎝という数字をめあすにしながら研究者は扇状地の範囲を推定していきます。
 その際の指標になるのが、鹿児島湾の姶良カルデラが2万9千~2万6千年前の噴火で降らした火山灰のようです。
この時の火山灰層の厚さは
20cm以上:九州北部、四国、中国地方、近畿地方
10cm以上:中部地方、関東地方
だったことが1970年代に分かってきました。つまり、この火山灰より下が更新世で、上が沖積世となります。また、この地層を境にして植物の種類が大きく変化しており、寒冷化の原因になったと研究者は考えているようです。

 昭和の終わり頃に進められた四国横断自動車道(高松~善通寺)建設に伴う発掘調査でも、東から郡家一里屋遺跡、龍川四条遺跡、龍川五条遺跡が発掘されました。その際にも、この火山灰層が見つかっています。このうち一里屋遺跡では、地表下40cmで火山灰層が見つかっています。ここから丸亀扇状地の形成は完新世ではなく更新世に遡るものであることが分かってきました。扇状地が形成された後に、姶良カルデラの噴火があったことになります。


丸亀扇状地の先端部とその北の三角州の境界関係は、下図のようになっています。更新世に形成された扇状地の堆積層の上に沖積層の三角州が堆積して被さっている形です。
平池南遺跡 洪積世

この境界に、段丘崖などの連続面が見つかれば素人にも分かります。しかし、それは丸亀平野では、簡単なことではないようです。そこで、研究者が行うのが旧河道の開折状況です。

1962年の空中写真を判読して作成したのが下図になるようです。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

これを読み取って行きましょう
A 丸亀城の東1kmに⑪土器川が北流しています。
旧土器川の両河岸には、河川の蛇行によって形成された段丘崖が発達します。土器川は、西は善通寺の弘田川、東は飯山の大束川までを流路を変遷し、丸亀扇状地(平野)を形作ってきました。九亀平野の地形帯は、扇状地帯、三角州帯の配列で、中間地帯がないと研究者は考えていることは先述しました。まさに「丸亀平野=扇状地」なのです。
B その流路の最も東にあたる飯野東二瓦礫遺跡(飯山町)では、段丘崖下の旧河道から中世土器がでてきています。
土器川 流路等高線

ここからこの段丘崖が古代末に、旧土器川によって削られてできた完新世丘崖であることが分かっています。完新世段丘崖は右岸でははっきりと分かりますが、西側は分かりにくいようです。右岸側が攻撃斜面だったのでしょう。
C ⑪土器川の西側を見てみましょう。
平池南遺跡 地質図拡大

高速道路から北には、氾濫原面が広がっていたことが分かります。
 特に丸亀城の東南側(現土器町)では氾濫原面に向かって多数の旧河道が流れ込んでいたようです。旧河道は氾濫原面では分かりにくいのですが、上位の地形面でははっきりと地表面を刻んでいます。これは氾濫原面の形成で、浸食基準面が低下したために、その上位にあたる地形面が開折されたためと研究者は考えているようです。
 これらの旧河道を判読していると、明瞭なものと不明瞭なものに分けられ、上位の地形面が2面に分けられることがうかがえると研究者は云います。
 次に研究者は、丸亀城周辺の空中写真から次のような点を読み取っています。
①丸亀城の東南側の聖池西側に1m程度の小崖が1,5km近く連続していること
②九亀城西高校のグラウンド南側にも1m以上の高低差のある段差があること
③丸亀城に向かって背稜状に等高線の盛り上がりが見られること
④この盛り上がりを段丘面1と仮称する。
①については、先に見た5m等高線地図でも聖池から北の丸亀城の堀に向かって、流路があったことがうかがえます。丸亀城の堀は、その地下水の湧水があるようです。
また⑩庄の池 → ⑨馬池 → ⑦聖池 → ⑪土器川とつながる流路があり、現在のため池群は、その旧流路の上に近世になって築造されたようです。
さらに、⑩庄の池 → 田村池 → 先代池 → 天満池(西汐入川)の流路沿いにもため池が並びます。旧流路が扇状地に掘り込んだ凹地を利用しているのがよく分かります。

  次に丸亀平野の条里制遺構図を見てみましょう
讃岐の条里制については、南海道が最初に引かれて、それを基準に順次条里制ラインが引かれたと考えられるようになっています。そして、その時期は6世紀末から7世紀初頭の藤原京時代だとされます。
平池南遺跡 周辺条里制

上の遺構図を見て条里制が残る部分と、空白部があることが分かります。空白部は条里制が施行されなかったエリアになります。空白部なのは、次のエリアです。
①海岸部
②土器川・金倉川・弘田川の河川氾濫原
③土器川・金倉川の旧河道と考えられる流域
条里制のライン引きと、実際の施行(工事)との間には時間差があるようで、中世になってから工事が行われた所もあることが発掘調査から分かってきています。しかし、空白部は7世紀前後には、条里制を施行する状態にはなかったのでしょう。つまり、海の中か湿地か、氾濫原で耕作不応地帯だったと考えられます。そういう目で那珂郡の条里制の北部を見てみると次のような点が推測できます。
①那珂郡の一条から三条は、聖池から先代池の北部までは、湿地地帯であった。
②那珂郡の四条・五条は微髙地が続き耕作可能エリアであった。
③那珂郡と多度郡の境には空白地帯があり、これが旧金倉川の流路と考えられる。
④金倉川は、与北付近で近代に流路変更が行われたことが推測できる。
これら以外にも、先ほど5m等高線図や地形分類図で見た
⑩庄の池 → ⑨馬池 → ⑦聖池 → ⑪土器川とつながる流路
⑩庄の池 → 田村池 → 先代池 → 天満池(西汐入川)の流路
の周辺も条里制空白部になっています。

研究者は、これらの地形面と氾濫原面との間に、もう1面の地形面があることを指摘します。
それが聖池西側の小崖と土器川に沿う小崖の間に広がる地形面です。確かにこの地形面上には、周りから切り離されぽつんと条里型地割が残っているようです。氾濫原面だったら条里制跡は残りません。条里線のラインが引かれた時代には、完新世段丘Ⅰ面であった可能性があるようです。

ここまでで分かることをまとめておきましょう。
①土器川は、東は大束川、西は弘田川までのあいだで流路を変遷させて扇状地を形成した。
②丸亀市内における扇状地末端部にあたるのが平池南遺跡(現丸亀競技場)である。
③平池南遺跡の北側からは三角州が始まる。丸亀平野にその中間地帯はない。
④扇状地末端ラインは、先代池~聖池のでそこから北は湿地で、三角州や砂州が形成されつつあった。

  最後に出土品を一つだけ紹介しておきます。この写真は何だと思いますか?
IMG_0003

スタジアム部分から出てきた井戸です。3、5mの深さがあるようです。

平池南遺跡調査報告書 井戸jpg

太さ20cmほどの丸大で直方体の枠をつくり、その内側に板を並べ、一部では杭を打ち込んでいます。その内側にも九太を直方体に組み上げて、二重の九太によって矢板や杭を挟み込んで固定して、周囲の土圧に耐える構造にしています。一番上の九太の上には、花崗岩の切石を2段積み上げています。この石は現地で、加工したようで、石と石との間隙がほとんどないほど精巧に積み上げています。周囲への水による浸食や浸透を防ぐとともに、下部の構造物を押さえる役割を持たせていたのでしょう。職人の仕事です。
 天端から3.6m下が底で、砂礫層を掘り込んでいることが確認されています。扇状地の下の層まで掘り抜いているようです。丸亀平野では、地下水を得るための施設として、野井戸・堀・出水(ですい)がありました。
野井戸は、地下水を湧出させ、水路によって自然に流下させて灌漑に供する施設
堀は、方形で二間位の大きさ
井戸は、円形で径90㎝程度のもの
と定義されているようです。その定義からすると、これは井戸ではなく出水となるようです。いつ作られたのかは分からないようですが、昭和30年頃までは使われていたようです。地下水の出が悪くなったために埋め戻されたようです。  縄文時代以来、丸亀扇状地の末端微髙地に人々の生活の痕跡が残されています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


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弘田川とその上流の善通寺五岳山

善通寺と多度津は、古代から密接な関係がありました。内陸の善通寺に対して、その外港の機能を果たしていたのが多度津のようです。多度津は、その港の位置を時代と共に次のように変えてきたようです。
古代 弘田川河口の白方
中世 金倉川河口の潟湖の堀江
近世 桜川河口の多度津
それぞれの時代の港の様子を見ていくことにします。テキストは「 庄八尺遺跡調査報告書 遺跡の立地と環境」香川県教育委員会です
白方 弘田川
丸亀平野の弥生時代遺跡分布
古墳時代の弘田川と白方
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弘田川と五岳

善通寺の誕生院の裏を流れる弘田川は、金倉川や土器川までが弘田川に流れ込んでいた痕跡が残っています。そのため、弘田川は古代には善通寺と白方を結ぶ「運河」の役割も果たしていました。それを示すかのように誕生院の西側の水路からは、古代の舟の櫂も出土しています。ここからは、善通寺王国と白方は、弘田川で結ばれていたことがうかがえます。そして、弘田川河口の白方には、瀬戸内海交易ルートに加わっていた海上勢力の首長達の古墳が点在しています。
白方 古墳分布
多度津町奧白方の古墳分布図
その古墳群を見ていくことにします。
①舶載三角縁四神四獣鏡が出土 した西山古墳 (消滅)
②全長 30mの 前方後円墳である黒藤山 4号墳、
③同 48mの御産盟山古墳
④多度津山西麓の鳥打古墳、葺石が散在し、埴輪が出土
など、前期を通じて首長墓墳が継続して築造されます。

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現在の弘田川河口 沖には高見島

これだけの初期前方後円墳が、白方に集中する背景をどう考えればいいのでしょうか。
まずいつものように地形復元を行いましょう。
弘田川河口部は、古代においては南に大きく入り込んで、現在の白方小学校の丘あたりまで入江であったようです。そして、入江の西北にある経尾山 (標高 138m)や 黒藤山 (同 122m)が 「やまじ」や「わいた」と呼ばれた季節風を遮る役割を果たし、天然の良港になっていました。そのため入江の奥に港が作られ、流通拠点の機能を果たしていたと研究者は考えているようです。現在の標高5mあたりまでは海の下だったとしると、安定した微高地は周囲の山の縁辺や山階地区の南の内陸部に求めなければなりません。
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バイパスが延びる現在の白方

 耕地が少ない白方に、前期古墳が集中している要因は津田古墳群と同じように、瀬戸内海の海上交通との関係が考えられます。

海岸寺の奥の院の上の稜線に作られた御産盟山古墳等は、備讃瀬戸を航行する船のランドマークとなったでしょう。白方エリアは、海上交易活動の拠点でもあり、早くから近畿勢力と協調関係に入ったことがうかがえます。同時に、弘田川背後の旧練兵場遺跡を拠点とする善通寺勢力とも協調関係にあったようです。白方は善通寺勢力の外港としても機能していきます。

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白方方面から望む五岳

 一方で、桜川・金倉川下流域には、前期古墳は見当たりません。古代の多度津の港は白方だったと研究者は考えているようです。

弘田川下流域の優位性は、古墳時代中期にも継続します。

盛土山古墳
盛土山古墳(多度津町白方) 背後は天霧山

 前期の首長墓の系列と一旦は断絶するようですが、中期になると約42mで二段築成の円墳、盛土山古墳が港の近くに姿をみせます。埋葬施設は組合せ式石棺とされ、大正4 (1915)年に、舶載画文帯環状乳神獣鏡 1、 鉄刀1、 璃瑠勾玉1、硬玉勾玉2、銅鈴1などが出土しています。最近の調査では、二重周溝が確認され、円筒・蓋等の埴輪も出てきているようです。 出土した埴輪等から 5世紀中頃の築造とされるようになりました。
 この盛土山古墳から西へ約60mの所に、一辺約10mの方墳、中東1号墳が発掘されました。周溝から円筒・朝顔形埴輪が出てきたので、盛土山古墳とほぼ同時期に築造と分かり、その陪家的な古墳とされているようです。
 この他にも北浦山古墳からは、箱式石棺から傍製捩文鏡や勾玉が出土し、西白方瓦谷遺跡では、数基の小規模な円墳に伴う周溝が検出され、須恵器等が出土しています。

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弘田川と天霧山

後期古墳も、弘田川流域を中心に展開します。
天霧山北東麓に向井原古墳、
黒藤山南麓に北ノ前古墳、
多度津山南西麓に宿地古墳
同北西麓に向山古墳
などが作られ続けます。これらは6世紀後半期~7世紀前半期の横穴式石室を埋葬施設とします。この中で葡萄畑の中にある向井原古墳は、一墳丘に二石室を有する古墳です。

白方 向原古墳
向井原古墳
善通寺の北原2号墳も二つの石室を持ちます。これは紀伊半島の紀伊氏に特有な墓制だと指摘する研究者もいます。そうだとすれば、白方、善通寺は紀伊氏の下で瀬戸内海航路の管理にあたり、対外的には鉄を求めて朝鮮半島への交易や経営に加わっていたのかもしれません。当時の紀伊氏のバックには台頭する葛城氏がいたようです。
 後期の古墳は、玄室長約3,88mの宿地古墳が最大で、それほど大きな石室ではありません。
多度津町
宿地古墳
同時代の善通寺の有岡エリアには、王墓山古墳、菊塚古墳、宮が尾古墳、大塚池古墳などの首長墓が築かれていますので、その組織下にあったようです。想像を働かせるのなら善通寺勢力の水軍部隊が白方勢力と言えるのかもしれません。

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宿地古墳からのぞむ大麻山と五岳

 善通寺勢力の王家の谷「有岡」に築かれた王墓山古墳は、横穴式石室を持つ前方後円墳で、九州系の石屋形が採用されています。紀伊氏と共に連合関係にあった九州勢力の姿が見え隠れします。

 多度郡の郡衛は善通寺にあったと考えられています。
そして、古墳時代以来、この地を支配する佐伯氏が郡司を勤め、氏寺の仲村廃寺や善通寺を建立したようです。同時に、東から伸びてきた南海道を整備し、それを基準に条里制を整えていきます。いわゆる奈良時代の律令体制下の多度郡の時代を迎えます。白方も多度郡に属し、8郷のうちの三井郷に含まれていました。
 多度郡の郡司には、先ほど述べたように
①国造級豪族 として佐伯直氏が
②中・下級豪族 として伴良田連氏
が、『類衆国史』等の史料に見えます。郡司層ではありませんが『 日本三代実録』にみえる因支首氏も、多度郡の中小豪族です。彼らは多度郡南部を基盤とする豪族されます。
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白方から見た津島と庄内半島

 奥白方中落遺跡からは、8世紀代の掘立柱建物跡6棟が検出され、周辺から皇朝十二銭のひとつ「隆平永費」 10枚 が重ねられて出土しています。何らかの祭祀儀礼に使用されたと研究者は考えているようです。また、近くの奥白方南原遺跡では、高価な緑釉陶器碗が出土しているので、周辺に下級官人か富農層の館があったのかもしれません。港湾施設の管理者としておきましょう。
白方周辺には、南北方向の約 30° 西に偏 した一町方格の条里型地割が見られます。

白方 丸亀平野条里制
丸亀平野の条里制 
こうした地割は、古代の土地表示システムに基づくものです。しかし、以前にお話ししたように、条里制が同時期に施工されたものでもないことも、最近の発掘調査から分かってきています。実際の施行は、中世になってからというエリアも多々あるようです。
例えば
①白方の東の庄八釈遺跡では、施工は9世紀代
②段丘上にある奥白方南原遺跡では、多度郡七条13里内部の坪界溝が検出され、溝より出土した最も古い遺物の一群は12世紀
③その約500m西に位置する奥白方中落遺跡の8世紀中頃の掘立柱建物跡は 、地割の方向と合致するので、8世紀施行
ここから②の南原遺跡の坪界溝は、中世になって改修されたものと研究者は考えているようです。このように近接したエリアでも条里制の施工時期には時間差があるようです。

古代南海道の位置について

金倉川 善通寺条里制
古代条里制と南海道
那珂郡の推定ラインを西へ直線的に伸ばして、多度郡の6里 と7里の里界線を南海道とする仮説が出されていました。那珂郡における南海道の推定には、余剰帯の存在が大きな根拠とされています。また、善通寺文書の宝治3(1249)年の讃岐国司庁宣には
「北限善通寺領 五嶽山南麓 大道」
とあり「五嶽山」を香色山・筆の山、我拝師山とすると、推定南海道のライン上に「大道」が通過することになり、その有力な仮説とされてきました。
 考古学の立場からは、善通寺市の四国学院大学図書館建設の際の発掘で出てきた7世紀代の直線溝を、南海道の側溝とする報告書が出ています。さらに、多度郡の6里と7里の延長上の飯山町岸の上遺跡からも側溝が見つかりました。この結果、この余剰帯が南海道であると考える研究者が増えているようです。どちらにしても南海道は、かつて云われていたように鳥坂峠を通過する伊予街道ではなかったようです。

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「白方湾」から見上げる天霧山

 空海が平城京に上っていった時に、白方からの舟で難波に向かったのでしょうか、それとも南海道を陸路辿り、紀州から北上したのでしょうか。興味ある所です。また、以前お話ししたように、空海の父は、瀬戸内海交易を手がけ大きな富を手にしていたのではないかという説が出ています。
そのため自船で、難波の住之江と頻繁に行き来していたのではないか。それが難波と平城京を結ぶ運河の管理権に関わる阿刀氏との交流を深め、その娘を娶ることになったのではないかという「新設」も出ていることも以前にお話しした通りです。そうだとすれば、まさに白方港は佐伯氏にとっては「金を産む港」だったことになります。多くの舟が出入りしていたことが考えられます。
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弘田川と天霧山 このあたりまでは入江だった

 多度津の港津としての機能は、中世にも維持されます。しかし、白方ではありません。
 道隆寺や多度津 (本台山)城跡が海に面した位置に立地するのは、古代以来の備讃瀬戸の海上拠点の掌握を狙ったものだったのでしょう。細川家文書にある正安3(1301)年の沙弥孝忍奉書に「堀江庄」が出てきます。鎌倉幕府地頭の補任地だったようです。その荘域には「堀江津」を含み、幕府の強い影響下に置かれていたようです。中世には、この「堀江津」が多度郡の中心的な港津として機能していたと研究者は考えているようです。

古代までは、弘田川下流域の白方でしたが、中世にはその役割が金倉川下流域に移動したようです。
白方が史料に登場しなくなります。その理由は、古代末以降の完新世段丘の形成で、弘田川河口部の埋積が進行し、港としての機能が維持できなくなったようです。
  一方、金倉川下流域では、堆積された土砂で砂州・潟の形成が進み、内陸部に港津が形成されます。

道隆寺 堀越津地図
「堀江」復元図と道隆寺
「堀江津」が具体的にどこにあったのかは分かりません。しかし、金倉川の河口付近の西岸に、「堀江」の地名があり、ここが「堀江津」だとされます。旧地形の復元図では、多度津山より砂州が北東方向に長く延び、一部途切れているもののその東端は、金倉川西岸にまで達します。この砂州の南側は、海水が流入して潟となっています。そして、桜川が緩やかに流入します。この内陸部側に港湾施設が設けられ「堀江津」と呼ばれていたと研究者は考えているようです。そして、内陸北端に道隆寺は建立されます。
 港には、それを管理する拠点と人材が必要です。中世にそれを担うのは僧侶達です。道隆寺は、備讃瀬戸を行き来する舟からのランドマークとしての機能と、港津の管理施設としての機能を兼ね備えた施設だったのでしょう。
 以前にも見たように、道隆寺は塩飽諸島から、庄内半島にかけての有力寺社を末寺として配下に納め、活発な宗教活動を展開すると同時に、交易活動の拠点でもあったようです。そして、そこを拠点とした僧侶たちは真言密教系の修験者の影がうかがえます。 道隆寺から南に伸びる町道は、鴨神社 ・金倉寺・善通寺を経て、中世南海道にアクセスしていたのです。

道隆寺山門

道隆寺には、開創から貞享 3年 までの寺歴を記 した「道隆寺温故記」があります。
これは天正16年頃に、古記録をもとに、住持良田が記されたものとされます。これによると、創建は平安時代初期に遡るとします。しかし、史料的にたどれるのは寺に伝わる鎌倉時代作とされる絹本着色星曼荼羅図からで、中世前期の建立と研究者は考えているようです。「堀江津」の成立と道隆寺の創建(再興?)は密接な関係があるようです。これについても以前にお話ししましたので省略します。

貞治 4(1365)年讃岐守護細川頼之に宛てた足利義詮御教書に次のように記されます
「讃岐国葛原庄、堀江津 両所公文職 云々」
ここからは、葛原庄と堀江津の公文職が兼務されていたことが分かります。葛原庄は賀茂神社領 となっていました。両所の公文職が兼務されていたことは、鎌倉幕府滅亡後は、堀江津が賀茂社の管理下に置かれていたことを意味します。
鴨脚文書「賀茂社社領 目録」の寛治4(1090)年 7月 13日 官符には、讃岐國葛原庄田地 60町が御供田として寄進されたことが見えます。以後弘安9(1286)年の鴨御祖大神宮政所下文の頃までには、現在の北鴨・南鴨の一帯は、賀茂社領葛原庄 として立庄されていたと研究者は考えているようです。
香川県多度津町 : 四国観光スポットblog
南鴨の鴨神社

南鴨にある鴨神社からは、鎌倉時代の亀山焼巴文軒丸瓦が出土しているほか、室町期以前の紙本大般若波羅蜜多経も所蔵されています。さらに、昭和22(1947)年には、本殿北側の老松の根元から 5,898枚 の銅銭が出てきました。この中には、漢の五鉄銭を最古銭とし、開元通宝や北宋~元銭が含まれていました。鎌倉時代終末期~室町時代前期の中世埋蔵銭の一例です。これだけの銭を「貯金(秘蔵)」勢力が、付近にはいたことを示します。
 南鴨の三宝荒神境内には、文安2 (1445)年の銘のある砂岩製の宝筐印塔があります。これは鴨神社の神宮寺とされる法泉寺のものだった伝えられます。
 以上のような「状況証拠」から鴨神社の創祀が鎌倉時代に遡ることは間違いと研究者は考えているようです。
 さらに鴨神社の勧進が、賀茂社領荘園の成立と無縁ではないこともうかがえます。その後、長亨2(1488)年賀茂社祝鴨秀顕当知行分所々注文案に至るまで、賀茂社による当庄の支配が続いていたようです。
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東白方の熊手八幡宮

 安楽寿院は、鳥羽法皇が離宮の東殿を寺 として、荘園 14箇 所を寄進して成立しました。その荘園のなかに「多度庄」があります。
多度庄の位置は、康治2(1143)年 の太政官牒をもとに
「三井郷の内の、大字三井の大部分を除いた地域全体」

とされます。この荘域は、東白方の熊手八幡宮の氏子の範囲と一致すると多度津町史は記します。
 現在、西白方の仏母院の境内には、熊手八幡宮境内から移転してきたと伝えられる嘉暦元(1326)年銘の凝灰岩製五重石塔があります。これから熊手八幡宮の創祀が、鎌倉時代以前に遡ることがうかがえます。12世紀後半には荘園の鎮守社が史料上に見られるようになります。荘民の精神的支柱 として熊手八幡宮が多度庄の鎮守社に取り込まれたのかもしれません。
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熊手八幡宮とその向こうに広がる備讃瀬戸 

その後「多度庄」は、高野山文書の天福2(1234)年の多度荘所当米請文などにみえ、鎌倉時代後期までは存続したようです。しかし、室町時代には「伝領不詳」となり、15世紀前半には、史料上から姿を消します。どこへ行ったのでしょうか

その犯人は、天霧城の主である香川氏が最も有力なようです。
 15世紀末からの内部抗争で讃岐守護細川京兆家が衰退していくのを契機に、守護料所の押領・所領化を勧めます。そして三野の秋山氏などの国人領主層の被官化等を進め、戦国大名化への道を歩み出します。多度庄や葛原庄が史料上から姿を消していく時期と、香川氏の伸張時期は重なります。天霧城周辺の荘園は、香川氏によって「押領」されたとする証拠は充分のようです。
現在の天霧城跡のアウトラインも、この頃に成立したようです。
天霧城 - お城散歩

本城跡の各曲輪には、堀や土塁、石塁、井戸、枡形虎口等の多数の防御施設が確認されています。これらの施設は、永禄6(1563)年頃の阿波守護三好氏や天正元 (1573)年 の金倉氏、天正 6(1578)年頃の土佐守護長宗我部元親らとの合戦への備えとして、増設されたものなのでしょう。

 一方、香川氏の居館は多度津城跡とされます。
多度津陣屋 多度津城 天霧城 余湖

 ここは桃陵公園として発掘されないままに開発されたので遺構が残っていません。香川氏が海浜部に居館を築いた理由として、港津である多度津を掌握し、過書船による利益の獲得が大きな目的だったとされます。香西氏や安富氏と同じく海上交易からの利益が香川氏の勢力伸張の元になっていたのでしょう。多度津の築城時期はわかりませんが、守護代として西讃を領有した14世紀終末期には築城されていたのではないでしょうか。
 この頃には、また賀茂社による葛原庄の支配は継続していました。そして堀江津が多度郡内の港津機能の大きな部分を担っていたようです。それが香川氏の勢力が伸びてくる15世紀末以降に、多度津城の下の桜川河口に港津機能は移動したと研究者は考えているようです。それは『兵庫北関入船納帳』に「堀江津」ではなく、「多々津」 と記載されるようになったことからもうかがえます。

以上、古代から中世にかけての多度津の港湾の移動と、その背景勢力について見てきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 かつて若い頃に、四国の山を歩いていて地図を読むと「佐古(さこ)」とか「葛籠」という集落をよく目にしたことを思い出します。これらの名前の付いた集落は稜線近くの空に近い集落が多かったように思います。「佐古」は、「水が湧くところ、谷田(さこ田)」で、山の高いところで水が湧き出すような所が、ソラの集落の開発拠点になり、そこに一族の主が最初に居館を構えたと、教えてもらいました。それ以後は、まんのう町美合の大佐古や吹佐古という集落を通る度に、その地形を観察し納得したことを思い出します。
 それでは「葛籠(つづろ)」は、どうなのでしょうか。

葛布 葛

葛(くず)は、秋の七草の一つで、秋に紫色の花をつけますが今では、やっかいものです。野放図にのびて、うち捨てられた畑を我が物顔に覆っていきます。その生命力には驚かされます。その根からはくず粉がとれることは、私も知っていました。しかし、葛から布がつくられたというのは、最近になって知ったことです。それはどんな布だったのでしょうか。今回は、葛から作られた繊維について見ていくことにします。
葛布 葛2

  まんのう町勝浦では葛布が作られていた

勝浦の葛布 洗い 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布作り(讃岐国名勝図会)
 江戸末期に編纂された『讃岐国名所図会』には、挿絵入りでまんのう町(旧琴南町)勝浦の葛布が次のように記されています、
勝浦村農家、葛を製する図。天保年中より当村の樵夫、同所山中より葛を切り出し、農夫に商ふ。
農夫これを蒸して水に晒して葛布に織り立て、諸国へ出だし、遂に国産の一とはなれり」
意訳すると
「勝浦村の農家が葛布を制作する図。天保年間のころから当村の樵夫たちは、山中から葛を切り出して、農夫に売るようになった。農夫は、これを蒸して、水に晒して葛布に織り立て、諸国へ販売するようになり、ついには讃岐の名産の一つとなった。」
 
ここからは樵が集めてきた山中の葛を材料に、農家が「葛布」を織っていたことが分かります。 
 考古学者の森浩一は、阿波の山間部では「太布」が野良着とし着用されていたと指摘します。
太布づくり① 楮〜甑蒸し〜樹皮を剥ぐ〜木槌で叩く / 2016年晩秋•阿波太布染織の旅 その6 | 朝香沙都子オフィシャルブログ「着物ブログ  きものカンタービレ♪」Powered by Ameba

 太布は、コウゾ、カジノキ、シナノキ、フジなどの草木の皮からつくられたようです。中でもよく使われたのはコウゾとカジノキで、コウゾを「ニカジ」、カジノキを「クサカジ」とか「マカジ」と呼んで区別していたと云います。コウゾが「煮(ニ)カジ」と呼ばれたのは、その皮をはぐために、大釜で蒸したためでした。

勝浦の葛布釜ゆで 讃岐国名勝図会
葛の釜ゆで(まんのう町勝浦)葛を蒸す工程

葛布 葛3

 勝浦の葛布も「農夫これを蒸して水に晒して葛布に織り立て」と、葛を蒸す工程があります。阿波の「ニカジ」製法と同じです。勝浦で葛布が織られ始めたのは、「天保年間」からだとありますので、この製法は阿波から勝浦に伝わったと研究者は考えているようです。

勝浦の葛布 洗い 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布工程 蒸して水に晒す(讃岐国名勝図会)

 太布について江戸時代の国学者、本居宣長はその著『玉勝間』の中で、次のように記しています
 いにしえ木綿といひし物は、穀の木の皮にて、そを布に織りたりし事、古へはあまねく常のことなりしを、中むかしよりこなたには、紙にのみ造りて、布におることは、絶えたりとおぼえたりしに、今の世にも阿波ノ国に、太布といひて、穀の木の皮を糸にして織りたる布あり。(後述)
意訳変換すると
  昔の「木綿」と呼んでいた織物は、木の皮で布を織ったもので、古へは全てそうであった。しかし、中世頃からは、木の皮から作るのは紙だけになって、、布を織ることは絶えたと思っていた。ところが、今も阿波ノ国には、太布と呼ばれる、穀の木の皮を糸にして織った布があるという

勝浦の葛布紡績・織布 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布 紡績・織布工程(讃岐国名勝図会)

ここからは、次のようなことが分かります。
①古代の木綿とは、綿花から作られたものではなく、穀(カジ)の木の皮でつくった布のこと
②昔はどこにでもあって、めずらしいものでなかったが、現在(江戸時代)では阿波国にのみ残っていること
③古代には穀の木の布はどこにでもあったが、中世になると穀の木からは紙だけをつくるようになって布をつくることはなくなったこと
 「古事記伝」を著して古代のことを研究していた宣長の云うことですから真実味があるように思えてきます。本当なのでしょうか? 
古代文献を見ていくことにします。

葛布製法過程


 古代の木綿について「日本書紀」神代上、天石窟の段の第三の有名な部分を見ておきましょう。
スサノオノミコトの乱暴を怒ったアマアラスオオミカミが天石窟に隠れてしまったので、悪神がはびこる暗黒の世界となり困った。そこでアマテラスオオミカミを石窟から出すために神々が集まった。その際に、天香山の真榊を根っこから抜いて、その上枝には鏡をかけ、中枝には曲玉をかけ、下枝には「粟(阿波)国の忌部の遠祖天日鷲の作れる木綿を懸けた。」

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『古語拾遺』には、次のように記されます。
力令天富命率日鷲命之孫、求肥饒地、遣阿波国、殖穀麻種。其裔、今在彼国。当大嘗之年貢木綿、荒布及種々物、所以郡名為麻殖之縁也。

意訳すると
天富命が天日鷲命の孫を率いて肥沃な土地があるところを求めて、阿波国に至って穀と麻の種を植えた。其の子孫は今も阿波国にいて、大嘗祭がある年には本鄙と荒布のほか、種々の品物を献上し、その郡名も麻を植えたので「麻植郡」と呼ばれる。

それに続いて、天富命は阿波の忌部の一部を率いて東に行き、麻・穀を植えた。麻を植えたところを脂国(上総・下総)といい、穀を植えたところを結城郡といったと記します。
   先ほど見たように、古代には穀が木綿で、麻が荒布だったと云うのなら、木綿は穀からつくられた布、荒布は麻からつくられた布ということになります。また、荒布は和布に対する言葉で、目の荒い布ということになるようです。
『延喜式』には、
阿波の忌部は大嘗祭の時には、木綿・荒布のほか、鮎十五缶、ノビルの漬物十五缶、乾したギシギシ、サトイモ、橘(夏蜜柑か?)を各々十五篭、献上していた

と記します。

ふつけ鳥とは?

東方】かしこくてかわいいニワトリ様 : 2ch東方スレ観測所
平安末期の歌学書である『袖中抄』の「ゆふつけどり」の項には
「世の中さはがしき時、四境祭とて、おほやけのせさせ給に、鶏に木綿を付て四方の関にいたりて祭也」

とあって、疫病が起こって世の中が騒がしくなると、鶏に木綿を結び付けて、四関で放って祭ったとあります。

  また 『古今和歌集』(第十一の五三六)には
逢坂の ゆふつけ鳥も 我ことく 人や恋しき ねのみ鳴らむ

という歌を始めとして「ゆふつけ鳥」を歌った和歌が数多くあります。ここからは平安時代には、ゆふつけ鳥の風習が盛んだったことがわかります。この木綿は、穀の布を細く裂いたものと研究者は考えているようです。 古代には、穀の布を木綿と呼び、衣料用としてだけでなく四境祭のような祭礼にもゆふつけ鳥として使われていたのです。
葛布 太布

 以上をまとめておきます
 古代に阿波忌部は大嘗祭にあたって木綿・荒布などを献上していました。この木綿は、綿花から織られたものではなくカジノキ、コウソ、シナノキ、フジなどの皮からつくられたものでした。それが中・近世になると木綿は、阿波国以外ではすたれてしまいます。
 しかし、讃岐のまんのう町勝浦は、阿讃山脈のソラの集落で阿波との関係が強いところでした。以前に見たように、国境の行き来を制限する関所のようなものもなく、讃岐米や阿波からの借耕牛に見られるように、人やモノの交流・流通が盛んでした。そのため木綿(葛布)の製法が伝わり、江戸時代末期頃までは特産品として生産されていたようです。当時の葛布は、高級織物というより、農民の野良着として使用されたようです。これも阿讃交流史の一コマかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献
  羽床明 阿波の太布と讃岐琴南勝浦の葛布   ことひら

津田湾古墳 地図2

津田湾に、なぜ多くの古墳が並ぶのかについては、多くの議論がされてきました。その中で、同じように古墳が並ぶ瀬戸内海の港町との比較でいろいろなことが分かってきたようです。まずは、その「研究史」を見ていくことにします。テキストは「古瀬清秀 岩崎山古墳群について    岩崎山第4号古墳発掘調査報告書 2002年」津田町教育委員会です。
昭和31年に、近藤義郎氏が牛窓湾岸の古墳についてその性格を研究ノートという形で次のように提示します。
津田湾 牛窓古墳群

 港町として栄えた牛窓には、天神山古墳を始めとする50mを越える前方後円墳5基が年代を追って順番に、平野の少ない牛窓湾岸に築造されます。それを「畿内勢力」が瀬戸内海ルートにおいた港湾拠点と関連づけます。「畿内勢力」の要請・後盾を得た吉備国邑久の豪族が、拠点港や交易ルートの管理権を握り活躍し、死後にこの古墳に埋葬されたという仮説を提示します。
 これが瀬戸内沿岸に造られた初期の前方後円墳について、最初に歴史的な位置づけを与えたものとなり、その後の研究の指標となります。

これを受けて昭和41年に、津田湾の岩崎山古墳群の発掘調査に参加した地元の六車恵一氏は、次のように発展させます。

津田湾古墳 奥崎4号墳

 津田湾岸の前半期古墳群は、牛窓と同じ環境にあること。そして岩崎山第4号古墳など5基の古墳に埋葬者は、海運、港湾泊地、水産等、水路防衛などの海を背景とした首長層であったこと。さらに瀬戸内海には古くより2つの航路があり、津田湾をその四国側ルートの拠点港に位置づけます。
ヤフオク! - 日本の考古学〈4〉古墳時代(上) 近藤義郎/藤沢...

さらに六車氏は、昭和45年に刊行された河出書房新社の「日本の考古学」シリーズの中で、自説をさらに補強します。

 六車氏は担当した「瀬戸内」の中で、瀬戸内海の沿岸部や島嶼部の前期前方後円墳を「畿内勢力の拠点の形成」という視点で捉えます。その背景には「畿内勢力の朝鮮半島侵略の事業」として、そのルートになる瀬戸内海の海上権確保のための拠点設置という戦略があったことを指摘します。そして、津田湾岸の古墳もその拠点の一つで、難波津から西行し、芸予諸島で北岸航路に合流する瀬戸内海航路に合流するルートの一環だったとします。
津田湾 瀬戸内海の拠点港

 次いで角川書店の『古代の日本』シリーズで、間壁忠彦氏は次の点を指摘します。
 牛窓湾や津田湾、山口県平生湾などに並ぶ前方後円墳の築造年代が前期後半から中期前半に限定されること。それは「畿内勢力」の朝鮮半島進出時期と重なります。同時に、朝鮮半島進出に瀬戸内海沿岸勢力も深く関わったこと、それが彼らの性格を物語っていることを指摘します。津田湾岸の古墳群も4世紀後葉から5世紀にかけて作られたものです。
 こうして津田湾の前方後円墳は、讃岐東部の海上ルート確保と、朝鮮半島南部の拠点確保に強い意欲をもった首長墓として注目されるようになります。

 昭和57年に玉木一枝氏は、讃岐の前方後円墳の特徴について次のように指摘します。
①狭いエリアに限定されながらも、100基を越える前方後円墳が築造されていること
②それも墳長40m前後の小型前方後円墳が大半で
③前期に限れば、前方部の形態がバチ形を呈する
さらに昭和60年には、香川県における前期古墳の特質として
①墳長30~40mの小形の前方後円墳の多いこと
②それらには盛土古墳と積石古墳の2種類があり
③埋葬施設の主軸方向が東西指向が強い
ことをあげます。その上で、津田湾岸の岩崎山第4号古墳、龍王山古墳などは、この傾向に反して
④竪穴式石室は南北方向を向くこと
⑤刳抜式石棺が導入されていること
をあげ、津田湾岸の古墳が香川県内においては極めて特異な存在であることを指摘します。

津田湾岩崎山4号墳石棺
岩崎山第4号古墳の地元火山産の石棺
津田湾岸の前期古墳に畿内色が強いわけは?
以上の研究史からわかることは、瀬戸内海沿岸で前期前方後円墳が集中するエリアは、畿内勢力の対外交渉を担う瀬戸内海航路の港湾泊地で、「軍事・交易」的拠点であったと研究者は考えているようです。
 その拠点の一つが津田湾岸で、そのためここに築かれた前期古墳は、讃岐の他の地域とはかなり異なった性格をもつようです。
それでは「畿内勢力の地域拠点」とは、具体的にどんな意味を持っていたのでしょうか。
検討材料として、研究者は次の2点を挙げます。
①墳長50m以上の前期前方後円墳が3基も集中すること
②その埋葬施設に地元の火山産凝灰岩製の割抜き式石棺などが使用されていること
これらについて具体的な古墳のありようが次のように検討されます。
①について岩崎山第4号古墳、赤山古墳を具体的に見ていきます
この2つの古墳は、墳長60m規模です。
津田湾岩崎山4号墳石棺3
岩崎山第4号古墳の副葬品
前者からは「中国鏡2面、碧玉製腕飾り類5個以上、硬玉勾玉を含む多数の玉類、豊富な鉄器類」
後者からは「大型倭鏡2面、多量の玉類、多数の碧玉製腕飾り類」
といった副葬品目は、他の前方後円墳を圧倒します。
 この地域で前期・前方後円墳は古枝古墳、奥第3号、13号、14号古墳、中代古墳などがありますが、どれも墳長30m前後の小型です。また副葬品目は中国鏡1面、玉類、少量の鉄器類といった組合せが大半です。

  津田湾 奥古墳群

昭和48(1973)年に、津田湾岸から山一つ内陸側で奥古墳群の発掘調査が実施されました。
 寒川平野から津田湾に抜ける峠道を挟んで、たくさんの古墳(前方後円墳3基含む奥古墳群16基)がありました。昭和47(1972)年にゴルフ場が建設されることになり、発掘調査が行われます。この調査で、奥第10~12号などの弥生時代後期の墳丘墓や前方後円墳の奥第3、13、14号古墳が発掘されました。奥3号墳からは卑弥呼に関係するといわれている三角縁三神五獣鏡(魏鏡)も出土しています。これは京都椿井大塚山古墳出土のものと同范鏡です。
 また、奥14号墳は全長30mの前方後円墳で2基の竪穴式石室からは、銅鏡2枚の他に鉄製武器、鉄製工具、勾玉・管玉・ガラス玉などの装身具が発見されています。しかし、残念ながら今は消滅したようです。
  これらの古墳群の立地と変遷から次のようなことが分かってきました。
①奥古墳群は、津田湾西にある雨滝山山麓に、長尾平野と津田湾の両方を見下ろすように立地する。
②また、津田湾と長尾平野を結ぶ谷道ルートを見下ろす尾根に立地する。
 つまり、奥古墳群は内陸の平野部だけでなく、津田湾をも意識した立地になります。さらに重要なことは、この奥古墳群は津田湾の前期古墳より早い時期に造られていることです。そこに葬られた首長たちは、頭部を西に向けて東西方向に埋葬されます。墳丘の前方部はいずれもバチ形に近い形態で、埴輪類はありません。これらの特徴は、さきほど紹介したように玉本氏の指摘する「讃岐の前期古墳」の典型です。これを研究者達は「在地性(讃岐的特徴)の強い前方後円墳」と呼んでいます。
 それに比べて、津田湾岸の古墳をもう一度見てみましょう
  岩崎山第4号古墳は、柄鏡形の細長く延びる前方部をもち、南北方向に埋葬されています。これはすぐ北側の直径約30mの円墳、龍王山古墳でも同じです。このエリアでは南北に造られた狭くて長い6,1m竪穴式石室に埋設されています。また円筒埴輪のほかにも、多彩な形象埴輪類が出てきます。ここから「在地色」はうかがえません。それよりも畿内の首長墓のスタイルに似ています。
 
 ここまでだけで、内陸の奥古墳群と津田湾の前方後円墳を比べると、「畿内勢力が津田湾に進出・定着」し、瀬戸内海ルートの拠点港湾としたと早合点しそうになります。しかし、そうは言えないようです。
津田湾 古墳変遷図
まず古墳の築造変遷を上図で、見てみましょう。
①2期の積石塚の川東古墳、奥第3号古墳の築造に始まり、
②奥第14号古墳、古枝古墳、奥第13号古墳、赤山古墳、岩崎山第4号古墳、けぼ山古墳
と、両地域で継起的に築造され続けています。
ここからは津田湾と寒川平野の双方の首長たちは、対立関係にあったのではなく、むしろ並立依存関係にあったのではないかと研究者は考えているようです。そして、古墳のスタイルの違いを、ヤマト王権との関わり方の強弱に求めます。つまりヤマト王権へのベクトルが大きいほど古墳のスタイルから在地性(讃岐型特性)が消えて、畿内スタイルになっていくと考えます。

 雨滝山とその東隣にある火山の南側は長尾平野になります。
ここは高松平野の最東端に当たり、「袋小路」でもあります。この地点に、四国最大の前方後円墳である富田茶臼山古墳が周囲を威圧するように姿を見せます。それは、上図から分かるように、津田湾に大型の古墳が築造されなくなる時期と重なります。これをどう考えればいいのでしょうか。
かつては、これをヤマト政権による「東讃征服の武将の勝利モニュメント」と考える説もありました。ヤマトから派遣された武将によって、東讃がヤマトに併合され、その主がここに眠っているという説です。
冨田茶臼山古墳
富田茶臼山古墳

 しかし、現在では津田湾の親畿内勢力によって東讃の覇権が確立された結果、統合モニュメントとして富田茶臼山古墳が出現することになったと研究者は考えているようです。
 そうだとすると津田湾は、ヤマト政権の「瀬戸内海航路の拠点港湾」としての役割だけを担っていたのではなくなります。津田湾勢力は、寒川平野などの内陸部と一体化しつつあったと考えられます。その津田湾勢力の内陸進出を通じて、畿内勢力は津田湾勢力の後ろ盾として四国経営上、重要な地域であった讃岐東部を影響下に納めたということになります。その結果、東讃の古墳はこれ以後小型化し、同時に地域色を急速に失っていきます。

古墳終末期の讃岐の古墳造営状態を示す地図を見てみましょう。
綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布
大きな石室を持つ古墳が赤や紫の点で示されています。
東讃には大型石室をもつ古墳はありません。つまり、古墳を造れる地方豪族が不在であったことを物語ります。富田茶臼山古墳の後は、ヤマト王権の「直属化」が進んだとも考えられます。
津田湾岩崎山4号墳石棺2
火山産石材で造られた岩崎山4号墳石棺の石枕 

火山産石材を用いた割抜式石棺は、何を語るのでしょうか
研究者は、津田周辺で造られた石棺がどこに運ばれたのかを検討します。火山産の凝灰岩は津田湾のすぐ背後にそびえる火山がで産出します。地元では白粉(しらこ)石と呼ばれ、白っぽい色調で肉眼でも見分けができます。津田湾岸ではこの火山石が、岩崎山第4号古墳の石棺、赤山古墳の2基・3基の石棺、けぼ山古墳の石室蓋石などに使われています。
 最近の調査研究で、この火山産石棺が讃岐だけでなく他県にも「輸出」されていたことが分かっています。例えば
①岡山県吉井川流域の代表的な前期古墳、備前市鶴山丸山古墳の特徴的な形態の大型石棺
②徳島県鳴門市大代古墳の舟形石棺
③大阪府岸和田市久米田貝吹山古墳の突帯をもつ石棺
などです。これらはいずれもそのエリアを代表する前方後円墳か、は大型円墳です。
①の鶴山丸山古墳は、牛窓湾から吉井川を十数km北に遡った地域にある直径約55mの大型円墳です。
丸山古墳 - 古墳マップ

 竪穴式石室には大型の家形石棺が納められています。石棺の周囲から大、中型倭鏡30面以上、書玉製品などが出てきます。石棺の形からは、岩崎山第4号古墳より少し新しい時期の築造でとされます。
 この地域には先行する花光寺山古墳、新庄天神山古墳といった大型前方後円墳や大型円墳があり、組合せ式石棺や刳抜式石棺が使われています。花光寺山古墳は墳長100mと大型ですが、柄鏡形の前方部で、岩崎山第4号古墳と相似形の前方後円墳です。石棺は南北方向で、埴輪が並べられているのも津田湾岸の古墳とよく似ています。
 牛窓湾岸の古墳と吉井川東岸流域は、古代吉備世界の中において、特殊器台形埴輪を共有するエリアです。それは前方後方墳系列から始まる備中地域とは、古墳文化の異質とされます。吉井川流域の東岸域は、畿内地方の古墳文化に近いと研究者は考えているようです。
   この古墳の首長が眠っていた石棺は、瀬戸内海を越えて讃岐の津田湾の火山石で作られたものが運ばれてきています。刳抜式石棺や石室石材は非常に重いため、運搬には多大の労力と技術が必要とされます。にもかかわらず、讃岐から運ばれているのです。香川の津田湾の奥4号墳の首長と、この古墳の主とは「同盟関係」にあったのかもしれません。
津田湾 鳴門大代古墳jpg
鳴門市大代古墳
②の大代古墳は鳴門海峡を遠望する丘陵上にある墳長54mの前方後円墳です。
柄鏡形の前方部をもち岩崎山第4号古墳に、大きさや形が非常によく似ています。同じ設計図から造られたのかもしれません。岩崎山第4号古墳と比べてみると、副葬品の組合せなどからこちらの方が少し新しいようです。この古墳は後円部に南北方向に竪穴式石室が造られています。
津田湾 鳴門大代古墳の火山産石棺

そこに、津田湾の火山石製の舟形石棺が置かれています。津田から舟で運ばれてきたのでしょう。

③の久米田貝吹山古墳は大阪南部の、大阪湾を遠望できる標高35mの低い丘の上にあります。

津田湾 久留米田貝塚山古墳

 約130mの大型前方後円墳で、竪穴式石室の中に讃岐の火山石製割抜式石棺がありました。しかし、盗掘のため砕片だけになってしまいました。石棺片には突帯状の彫刻があるので、時期的には津田湾古墳群の岩崎山第4号古墳と同時代に作られたものとされます。石室石材には、徳島県吉野川流域産の紅簾石片岩が使われています。石室用材を鳴門から、そして石棺は讃岐の津田から舟で運んできた首長が葬られたようです。
  以下の3つの古墳の首長達は、紀伊水道を挟んで海のルートで結ばれていたことが分かります。
岸和田久米田貝吹山古墳 → 紀伊水道の四国側の鳴門市の大代古墳 → 東讃岐・津田湾岸の奥4号墳

ここで、もう一度津田湾岸の古墳に戻ることにしましょう。
香川県の前期前方後円墳は、次のような特徴がありました。
①墳形では前方部がバチ形に開く形態
②埋葬施設の主軸が東西方向を指向
③埴輪をもたない場合が多いといった特徴を示す。
これに対して、津田湾岸の古墳は、岩崎山第4号古墳・龍王山古墳のように前方部が細長く延び、埋葬施設の石棺は南北方向を向きます。ここから津田湾岸の前期古墳は、讃岐型の在地的なスタイルではなく、畿内的スタイルが強いことをもう一度確認しておきます。 
IMG_0001
岩崎4号墳測量図

この有り様は、津田湾だけでなく火山石製石棺等が運ばれた上のエリアの古墳にも共通するというのです。例えば、吉井川流域東岸の備前を代表する前期古墳は、畿内地方と強い連関性があることを見てきました。
その両者をつなぐ橋頭保として牛窓湾が近畿勢力によって打ち込まれます。同じように寒川平野の讃岐内陸部と畿内地方を結ぶ橋頭保として津田湾があったと研究者は考えているようです。
牛窓は、吉備中枢・備中勢力への牽制
津田は、高松の峰山勢力への牽制
が重要な役割だったのでしょう。どちらも畿内勢力の地方への進出と勢力拡大政策の窓口だったというのです。そして、畿内勢力が東吉備や東讃岐で覇権を確立した時には、その地域は地政学的意味を失います。それは「讃岐型前方後円墳」の築造が終わるときでもあったと研究者は考えているようです。
 津田湾岸の首長は単に水産、航海術、港湾泊地等の実権を掌握したから優勢を示したのでなく、畿内勢力の後ろ盾にしていたから地域で最優勢を維持できたのかもしれません。それが富田茶臼山の出現につながるのでしょう。
津田湾 古墳変遷図2

以上をまとめておきましょう。
①津田湾の古墳は、畿内勢力進出の橋頭保であった。そのため寒川などの内陸部の古墳も連携した動きを見せた。
②バチ形の前方部をもつ在地の前方後円墳の築造の流れの中に、極めて外来的な様相を示す前方後円墳の築造が赤山古墳、岩崎山第4号古墳、けぼ山など、4世紀中葉から5世紀初頭まで連続して築造され続ける。
③それは在地の首長の前方後円墳が墳長40m前後なのに対し、津田湾のものが一回り大きい60m規模であったことからもうかがえる。
津田湾岸の首長たちの努力が報われ、その役割を終えたとき、在地色をぬぐい去った冨田茶臼山古墳が悠然と姿を現します。そして以後は、単なる港湾泊地となった津田湾に、大型古墳が築造されることはなかったのです。
最後に津田湾の前方後円墳に葬られたのは、どんな人たちだったのでしょうか?
親畿内勢力の在地首長だったのか、あるいは畿内から派遣された首長であったかについては、研究者は「現状では不明」と答えています。
参考文献
1古瀬清秀 岩崎山古墳群について   
 岩崎山第4号古墳発掘調査報告書 2002年  津田町教育委員会

さぬき市歴史民俗資料館HP 考古室ガイドさぬきの古墳時代編

2近藤義郎「牛窓湾をめぐる古墳と古墳群」『私たちの考古学』10 1956(昭和31)年
3六車恵一「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」『文化財協会報特別号』香川県文化財保護協会
4六車恵一。潮見浩「瀬戸内」『日本の考古学』IV 河出書房新社1966年
5真壁忠彦「沿岸古墳と海上の道」『古代の日本』4 角川書店 1970年
6玉木一枝「讃岐地方における前方後円墳の墳形と築造時期についての一考察」『考古学と古代史』同志社大学考古学シリーズ1982年
7古瀬清秀「原始・古代の寒川町」『寒川町史』香川県寒川町 1985年
8渡部明夫「四国の割抜式石棺」『古代文化』46  1994年
9岡山県史編纂委員会編『岡山県史』第18巻 考古資料 1986年


 
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金毘羅街道百十丁石から望む櫛梨山と公文山

  まんのう町の公文山には富隈神社が鎮座します。
幕末に、この神社の下に護摩堂を建てて住持として生活していた修験者がいました。木食善住上人です。上人は、石室に籠もり断食し、即身成仏の道を選びます。当時としては、衝撃的な事件だったようです。今回は、この木食善住上人について探ってみようとおもいます。テキストは「川合信雄   木食善住上人 善通寺文化財協会報」です
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まずは、現地に行ってみましょう。目指すは、まんのう町公文の富隈神社です。
 社殿の上の丘は、いくつかの古墳があり、埴輪も出土しているようです。櫛梨山から続く、このエリアは古代善通寺王国と連合関係にあった勢力が拠点としたした所なのでしょう。南に開けるエリアの湧水を利用した稲作が早くこら行われたいたようです。中世には「公文」の地名通り荘官がいたようですし、島津家が地頭職を握っていた時代もありました。近世になると、丸亀からの道が金毘羅街道として賑わうようになり、参詣客に「公文の茶室」として親しまれていたようです。
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金毘羅街道から真っ直ぐに階段が富隈神社に向かって続きます。
 鳥居をくぐり山門に向う参道階段の途中は、金毘羅街道の丁石がいくつか両側に並んでいます。
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金毘羅街道にあったものが、この参道に集められているようです。
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神社にお参りして、さらに上に登っていきます。

DSC04345

山頂には、国旗遙拝ポールが立っていますが、ここではありません。
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右手の道に入り込んでいくと、尾根筋に五輪塔が見えてきます。これが木食善住上人の入定塔のようです。「横穴古墳の石室を利用して即身成仏を遂げた」とテキストには書かれています。そうだとすると、この塔は古墳の上に建っていることになります。
DSC04382

近づいて文字を確認します。正面に
木食沙門・善住上人・白峰寺弟子
とあります。右側面には明治3年とあります。
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左は10月16日と刻まれます。
善住上人は明治3年秋、84歳で入定の業に入り10月15日寂滅します。塔には10月16日と刻まれていますから、翌日には入定塔が建立されたことになります。生前から信徒達によって準備されていたようです。
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台座には「丹後国産」と刻まれています。上人の誕生地である丹後から石が取りよせています。入定中に、準備を進めていたようです。

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木食善住上人は、寛政八年(1796)2月11日、丹後国宮津に生まれています。24才のときに、金毘羅神に誓って仏門に入ったといいます。名を源心と改め、箸蔵寺・高野山・金剛山等で修業を積み、霊運寺の泰山和尚によって潅頂を受けます。
 修験者として諸国を廻り、嘉永3年(1850)54歳で公文村(まんのう町公文)に、公文の金毘羅街道沿いに護摩堂を建て、不動尊を安置して、諸人のために加持祈語を行います。暇あれば、仏像を彫刻します。名も知れていて、丸亀・岡山両藩からも出入を許されていたようです。

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入定塔に手を合わせると、 善住上人のことが知りたくなりました。
残された史料を読んでみます。
善住上人丹後官津之人也、寛政八丙辰二月十一日ヲ以テ誕ス。姓ハ杉浦氏天資猛烈ニシテ好武、十四才ノ冬家ヲ出デ、三都二漂浪シ廿四才ノ春二至り先非ヲ悔ヒ仏門二入り性ヲ全クシ、且ツ多クノ罪悪ヲ贖ハンコトヲ思ヒ、我讚ノ金刀比羅宮広前二於テ祈テ日ク、自今改志向善、神仏二道ノ奥意ヲ発明シ、其術ヲ以テ億兆ノ人ヲ助ケ一天四海二名ヲ揚ゲ天人不ニノ神位二至ラン、伏テ仰願ハクハ、此志願ヲ得サセ給ヘト深ク誓ヒ薙染シテ、阿州箸寺二行テ初門ノ行ヲ修シ名ヲ源心卜改メ、高野山高坂坊ニテ金胎両部ノ大法及ビ不動護  摩供ノ法ヲ修ス。

  意訳変換します
善住上人は丹後の宮津の出身である。寛政八年(1796)2月11日生まれで、姓ハ杉浦氏で生まれながらに猛烈で武を好む性質だった。そのため14才の冬に家を出て、三都の街を漂浪した。24才の春になって、その非に気づき悔い改め仏門に入り、自分の性をただし、多くの罪悪を贖うことを願って、讃州金刀比羅宮の広前で次のよう祈った。これより、志を改め、善に向かい、神仏に道の奥意を発明し、その術で億兆の人を助け、一天四海に名を揚げ、今まで人々がたどり着くことの出来なかった神位をめざす。伏して仰願いますので、この志願をお聞き届けください。
と深く願った。そして、阿波の箸蔵寺で初門の修行を始め、源心と名乗った。その後、高野山高坂坊では、金胎両部(金剛界・胎蔵界)の大法、及び不動護摩を修めた。
この年から稲麦赤白豆黍などの五穀を摂らなくなった。

  14才で丹後の生家を出た少年が、三都の都市で10年間の徘徊・放埒を重ね、24才で仏門の前にたどり着きます。それが金毘羅さんであったようです。どうして、金毘羅さんだったのでしょうか。想像するなら都市で活動する金比羅修験者との出会いがあったのではないでしょうか。
 当時の金毘羅大権現は、別当寺の金光院院主を領主とする宗教的な領国でした。金光院院主は、もともとは高野山で修行積んだ真言密教の僧侶でもありました。境内では護摩祈祷が行われる神仏混淆の仏閣寺院が金毘羅大権現でした。つまり、運営主体は真言密教僧侶で、彼らは修験者でもあったようです。当時は修験者=天狗とされていましたので、金毘羅大権現はある象頭山は天狗の山としても有名だったようです。そのため全国の修験者たちの聖地でもあったのです。
 江戸時代の「日本大天狗番付表」からは、当時の天狗界(修験者)の番付が分かります。 西の番付表に名前の挙がっている讃岐の天狗を見てみると・・・
横綱   京都 愛宕山栄術太郎
出張横綱 奈良 大峯前鬼・後鬼
大関   京都 鞍馬山僧正坊
関脇   滋賀 比良山次郎坊
小結   福岡 彦山豊前坊
出張小結 香川 白峯相模坊
前頭   愛媛 石鎚法起坊
同    香川 象頭山金剛坊
同    岡山 児島吉祥坊
同    香川 五剣山中将坊
同    香川 象頭山趣海坊
  張出小結には、白峯相模坊(坂出市白峰寺)があります。さらに前頭には「象頭山金剛坊 象頭山趣海坊」の名前があります。ここからは、象頭山が天狗信仰のメッカのひとつで修験者たちが活発に活動していたことが分かります。

善住上人の生まれた丹後は、中世には修験の一大集団の拠点でした。
彼らは独自の経典も持っていて、その中の一つである「稽首聖無動尊経』には、次のように記されます。
「我が身を見る者は菩提心を発し、
 我が名を聞く者は悪を断ち、
 我が説を聴く者は大智恵を得、
 我が心を知る者は即身成仏せん」
 この教えに従い、丹後出身の修験者たちは、多くの木食を生み出し、生きながらにして即身成仏し、入定する道を辿った先達が数多く送りだしています。善住上人も、丹後の先達達の道を辿って、不動明王を守護神として諸人を救済し、最後に即身成仏する道をたどります。それは彼にとっては「自然」な道だったのかもしれません。

善住上人は24才で、そのスタートを金毘羅さんに求めたことになります。
当時、金毘羅大権現で修験道組織を担当していたのは多門院でした。多門院は、江戸時代初期に金光院宥盛が土佐の有力な修験勢力を招いて定住させた子院です。金毘羅さんの民営部門と修験関係のことを担当したと云われます。江戸時代後半に台頭してきた阿波の箸蔵寺の修験者たちを、金光院に最初に顔合わせさせたのも多門院だとされます。当時の金毘羅大権現の天狗会のリーダーだったようです。
 多門院が管轄する修験ネットワークの中に、若き日の善住上人は飛び込んだことになります。
そして、上人の最初の修行地となったのが多門院と関係の深い阿波の箸蔵寺でした。ここで初門の修行を始め、源心と名乗り、その後、高野山高坂坊に転じていきます。
この年から稲麦赤白豆黍などの五穀を摂らなくなったと記されます。「木食」とは米穀などの五穀を断ち、木の実を生のままで食べる修行をすることで、そのような修行をする僧を「木食上人」と呼びます。彫刻仏で有名な円空も「木食上人」です。同じような修行スタイルと志を抱いていたことがうかがえます。
  しかし、この時点では彼はまだ私度僧(しどそう)です。私度僧というのは、正式な許しを得ずに出家したお坊さんのことです。その後の修行生活を見てみましょう。

夫ヨリ大和、金剛山北原ノ大獄ニテ一千日修行、亦泥川ノ岩谷ニテ一日水浴三度シテ一年念仏修業、次二諸国山々滝々霊社ヲ順拝後、四国霊場四度ノ終リニ東京、深川霊運寺泰山和尚卜共二、亦七度順拝其間恵心刻苦シテ暫クモ怠廃セズ、真言密法ヲ授カリ終り霊運寺二従ヒ行キ、棺観頂壇二入リテ黍皆伝法ス。
意訳変換しておきます

 文政二年(1819)の冬、大和、金剛山北原の大獄で千日修行、また泥川の岩谷で一日水浴(瀧行?)三度の一年念仏修業、さらに諸国の山々滝々霊社を順拝後に、四国霊場を四度巡り終えた。その時に東京・深川霊運寺の泰山和尚と共に、7回の巡礼を重ねた。その間の苦難にも、怠廃することなく真言密法を授かり終えた。そこで霊運寺から棺観頂壇で皆伝を受けた。

  金剛山での千日修行、一年念仏修行の荒行を行い、その後に、四国霊場を11回廻っています。そして、深川の霊雲寺泰山和尚から潅頂を受けています。これで、正式な出家をした得度僧(とくどそう)になります。
実復夕四国へ帰り金刀比羅官へ神仏ノ像、千鉢奉仕ラント誓願、裸銑ニシテ人家ノ内二不宿、火食セズシテ四国十遍拝順、今西讃観音寺少し東二生木ノ不動尊アリ、是ハ上人右樹下二宿セントセルニ不図傍二斧アルヲ以テ一夜二彫刻セシナリ如、此霊異ノ事件枚挙ニ違アラズ。
  後東讃自峰寺而住和尚弟子トナリ善住卜改、
白峰、根来ノ間、南條峰二小庵ヲ作り住シ、毎日水浴数度後干亦諸国修行二出デ紀州那智山ニテ三七火滝行。又同山権現二於テ廿一日断食行ヲ為シ、次二志摩国沖ニテ筏二乗り修行ノトキ俄二大風起り洋中へ吹キ出サレ、筏解ケテ丸太ヲ持チ泳ギ居ル時、神来り給ヒ、紀州孤島へ助ケ給フ干時、七福神委ク顕ハレ給フ也、士人三十六才ノ春也。夫ヨリ讃ノ南條二帰ル、今年大早上人大久保一学公ノ命ヲ奉ジ根来ノ北、ジョガ渕二於テ雨ヲ祈り霊現忽二在り。大久保公ヨリ恩賞ヲ賜ハル.
意訳変換すると
   その後再び四国へ帰り、金刀比羅官へ神仏像を寄進することを誓願した。
そして、人家に泊まらずに、煮炊きしたものを食すことなく、四国巡礼を10回行った。今、西讃の観音寺の東に生木ノ不動尊があるが、これは、上人がこの木の中に宿っていた不動尊を、傍らの斧で一夜の内に掘りだしたものである。このように上人の霊異事件は、枚挙できないほどである。
 
その後、白峰寺の住和尚の弟子となり、善住と名を改めた。
白峰寺と根来寺の間の南條峰に小庵を作り住み、水浴を毎日、数度行い身を清めた。その後、また諸国修行に出た。紀州那智山で三十七火滝行。同山権現で廿一日断食行を行い、次に志摩国沖で、筏に乗って修行中に、にわかに大風が起り、大海に吹き出され、ばらばらになった筏の丸太を持って泳いでいると、神が救い給いて、紀州の孤島へたどり着いた。七福神のすべてが現れ救われた。これが上人36歳の春のことである。
 その後に讃岐南條に帰ると、その年は大干ばつであった。そこで、大久保一学公は上人に雨乞いを命じた。上人は根来寺の北のジョガ渕で、雨を祈りたところ霊現あらたかでたちまちに雨が降った。これで久保公より恩賞を賜わった。
近畿での荒行を終えて帰った後も、四国巡礼を繰り返し行っています。
そして「白峰寺の住和尚の弟子となり、善住と名を改めた」とあります。白峰寺は「先ほど見た全国天狗番付の中に西の張出小結に「白峯相模坊(坂出市白峰寺)」とありました。相模坊という天狗の住処として有名でした。この天狗は、崇徳上皇の怨霊と混淆したと物語では伝えられるようになっていました。ここからも善住上人が修験者の道を歩んでいたことが分かります。入定塔にも「白峰寺弟子」とありました。
 当時の四国霊場は修験者の行場の伝統が残っていたようです。
「素人遍路」は、納経・朱印の札所巡りでした。しかし、修験者の四国巡礼は、奥の院の行場での修行が目的であったようです。
  さらに熊野行者の本拠地である那智で滝行、熊野権現で断食、志摩で補陀落渡海行をおこなっています。讃岐に帰ると、雨乞い祈願を根来寺で行い、成功させています。空海以来の善女龍王信仰に基づく雨乞祈祷を身につけていたようです。こうして、武士達支配層からの信心も受けるようになっていきます。

上人南條峰ニテ入定セント三十八才、十一月十三日石室二入定有故、翌年二月、八十二日ニシテ被掘出、根来寺来而警之旬有五日ニシテ更二念陽二適ス、然後益爾密法ヲ研究シテ不惜四十一才ノ五月二十三日ヨリ、高野山紀州ノ大門ヨリ奥院マデ無言断食シテ、 一足三拝ヲ三日三夜二勤ム、抑一足三拝ハ弘法大師御入定後、白河法皇御修行、後之ヲ行フ者在ルコト莫シ。依之野山文人々始メ諸国共ニ木食上人卜唱へ敢テ名ヲ云フ者無シ。後テ備州、岡山帰命院、個リノ住職トナリ四十三才ノ春、同宗十二箇寺見分ニテ、一七日ノ間二不動護摩八万本執行、此後、岡山公及ビ丸亀公ノ命ヲ奉ジ、毎事御武運ヲ奉祈、或ヒハ御城内二於テ護摩供ヲ奉修。実上人従十五才今七十五才入定ノ日至ルマデ、毎水浴不怠、寝ルニ横二伏ルコトナク終夜座シテ読経、自昼ハ勿論又仏像彫刻無巨細一夜二必成、之今年二至テ壱千三百有余射彫刻。以是上人修行円満是足終二真言、秘密両部神道ノ奥義、真面ロヲ発悟、諸人尊敬スルコト日々益盛ナリ。

意訳変換すると
上人は南條峰で入定を願い三十八才の時、十一月十三日に石室に入定すした。しかし、故あって、翌年2月に82日で石室から掘出された。その後は、密法研究に没入し、四十一才の5月23日から、高野山の紀州大門から奥院まで無言断食で、一足三拝の行を三日三夜勤めた。この一足三拝は、弘法大師入定後は、白河法皇が修行した後は、誰も行ったことのない行であった。この行により木食上人の名声は高まった。これより後は、備州・岡山帰命院の住職となった。43才ノ春、同宗十二箇寺の見分で、17日間の不動護摩八万本を執行し、その後は、岡山藩や丸亀藩の藩主の命を受けて、武運奉祈や城内での護摩供を行うようになった。
 実に上人は15才から75才で入定に至るまで、毎日の水浴を怠らず、寝るときにも横になることもなく、終夜座って読経した。昼は仏像を彫刻し、大小にかかわらず一夜の内に作り上げた。
 今年になるまでに1300体を越える神仏像を彫りあげてきた。以上のように上人の修行は円満で、遂に真言、秘密両部神道の奥義を修得した。そして諸人の尊敬を集めるようになった。

ここからは、上人は38歳の時に、一度入定を試みたことがあったことが分かります。故あって、中断されたことが記されます。一度、死んだ身であるという思いは、持っていたのでしょう。そして、いつかは果たせなかった即身成仏を、果たしたいと念じていたのかもしれません。
 その後は、名声も高まり岡山藩の信頼も得て、岡山で住職を務めました。同時に、人々の幸福を祈り、数多くの神仏像を彫り上げ、求める者に与えたようです。

公文 木食善住上人の釈迦三尊
 金箔の厨子の中に阿弥陀三尊像が立っています。台座には墨書で『元治二乙成丑二月善住刻七十才 林田村(坂出市)中條時次」と記されます
嘉永庚成年春、東讃藩、伊丹秋山氏等卜相謀テ護摩堂ヲ干此建立ス。上人徳益念盛ニシテ諸家争ッテ奉請故二営寺ニアルコト稀也。上人神祗及仏像彫刻且処々二暫時少滞留其霊験及地名猶又上人ノ
御祈徳二依テ武運長久、家業繁栄、無病延命等ノ如キハ別二霊験記有ルヲ以テ略ノ此篇ハ上人修行ノ一端ヲ云フモノ也。
 姦年希願伐就二依テ寺ヲ以テ真言僧二譲り、二月十一日営奥院ニテ入定菩薩如来卜成仏ナシ給ヒ四海泰平衆生度生ヲ守護ナシ給フナリ、余上人ノ霊徳ヲ蒙ルコト不少且旧好ナルヲ以テ柳其梗概ヲ記シ佗日同志卜共ニ相謀リテ上人伝記ヲ著ハシテ以テ営寺二秘蔵セント欲スト云爾
明治三庚午孟夏上院     復古堂 中條澄靖 謹而誌
猶上人ノ作品其他ノ遺品ヲ挙グレバ
一、仏像(上人七十歳作)綾歌郡金山村            善光寺蔵     
一、仏像(上人六十六歳作) 高篠村                  長谷川節氏蔵 
一、位牌       〃                                                片山甚吉氏蔵 
一、書物二部                                                   片山甚吉氏蔵 
一、ノミ及カンナ                                            山内永次氏蔵 
此外多数アル見込ニテ調査中ナリ
意訳変換すると

嘉永庚戌(1850)年の春、高松藩の伊丹秋山氏等と相談して、公文に護摩堂を建立した。上人の徳益は高かったために、多くの人々が争うように上人を招いたので、寺にいることは稀であった。護摩堂にいるときには、神仏像を彫刻した。その霊験は高く、上人の祈徳で武運長久、家業繁栄、無病延命など現れた霊記も残されているので、多くは語らないが、ここでは上人修行の一端だけを記しておく。
 明治3年、かねてからの願いよって、寺を真言僧に譲り、奥院で入定し菩薩如来としてり、成仏され、四海泰平、衆生度生を守護されいと願われました。私は上人の霊徳を蒙ることが少なくなく、古くから交流があったので、上人の概要を記し、同志と共に上人伝記を著わし、寺に秘蔵したいと思う。
明治三(1870)夏    復古堂 中條澄靖 この誌を謹呈する
なお、上人の作品や遺品をあげると次の通りである。
 


金毘羅丸亀街道
金比羅・丸亀街道の富隈神社付近

  善住上人が公文の地に護摩堂を建立したのは、嘉永年間の54歳の時のようです。
名声が高まってから発心の地である金毘羅大権現のお膝元に帰ってきたようです。金毘羅街道のかたわらの公文山松ケ鼻に護摩堂を建て、不動明王を安置し終の棲家としたようです。

公文山 富隈神社

 毎朝、東を流れる苗田川で水浴し、その後は堂の階上で太陽を拝礼して、祈祷と仏像を彫刻するを日課しました。彫刻中は、食を取らず専念従事して一夜彫りで作り上げたます。彫刻した仏像は堂内に、所せましと並んでいたと云います。

公文 木食善住上人の蓮如像
      坂出市林田町善光寺 善住上人七十才作

 各地からお呼びがかかるので、不在にすることが多かったようでう。それでも、お堂にいるときには金毘羅参詣者に湯茶の接待を施し、諸人の願いあれば、祈祷や・予言を行いました。それが霊験あらたかなので、ますます信者は増えます。その名は近郷は言うに及ぼず、丸亀・岡山・江戸深川等に響いたと伝記は伝えます。
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富隈神社下の金毘羅街道 地元の人は「旧道」と呼んでいる

公文の谷くさり鎌の使い手で上人と親交のあった谷口嘉太郎氏は、入定の模様を次のように語っています。
明治三年春になって、護摩堂の後山の富隈神社の鎮座する丘の頂にある横穴式石室を入定地に選んだ。ところがこの時には、盗賊のため引き出され、その目的を達せすことができなかった。秋になって、再度入定の業に入った。五穀を断って、そぱ粉を常食とした。それも断ち、水を飲みながらひたすら経文を唱えて身体の衰弱をはかる。さらに、水の量も減らし、 一滴も飲まず十日。そこで入定室に入り、鐘を振り経文を唱えて死を迎えようとする。
 各地より、信者が多く駆けつけ、入定室の近くに仮の通夜堂を設け善住上人の振る鐘の音に耳を傾ける。上人の唱える経文に和して、しめやかに経文を唱え続けた。入定室からの鐘の音と経文の声は、日がたつにつれて次第に低くなり、幽かになっていった。ついに十月十五日、途絶えてしまつた。
 人々は善住上人の徳を偲びながら入定室を開じた。その入定の姿は見事な最後であった。翌十六日立派な入場塔を建立した。その石は、善住上人生誕の丹後宮津から運ばれてきた石だった。
 時あたかも明治維新政府による廃仏棄釈の世なれば、佛閣は荒れ、仏像の多くは野に積まれ、又は焼かれるありさまである。この状態に耐えかねて、仏道ここにありと入定したのではなかろうか。

 上人の入定は、地元では大きなニュースとなったようです。
各地からの多くの浄財も集まり、入定塔周辺や富隈神社の境内整備にも使われたようです。また上人は修験者として武道にも熟練していたので、丸亀藩・岡山藩等の家中の人と往来も多かったようです。
公文 灯籠 木食善住上人

現在、善通寺東院境内にある眼鏡灯(摩尼輪灯)2基は、岡山藩の藩士達が、入定塔周辺に寄進設置したもののようです。それが、いつの時代かに善通寺境内に移されたようです。残りの一基は、今は櫛梨神社の参道にあるようです。

丹後からやってた若者が象頭山の天狗に導かれ、修行に明け暮れひとかどの修験者に成長し、即身成仏する姿を追って見ました。その中で
改めて金毘羅大権現の当時のパワーを感じないわけにはいきません。ある意味、都会を捨てたIターン若者を受けいれるだけの包容力が金毘羅さんにはあったのでしょう。同時代の人材を見ても、多くの文化人達が、やってきて周辺に住み着いています。その中には、以前にお話したように、金毘羅街道の整備に尽力する画家や僧侶がいました。
 また、国会議員となる増田穣三に華道を教えた宮田法然堂の僧侶も丹波からやってきた僧侶でした。そのような「よそ者」が住み着けるゆとりが金毘羅さんの周辺にはあったような気配がします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
川合信雄   木食善住上人 善通寺文化財協会報
まんのう町誌
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 今回は、一円保絵図に描かれた各坪毎の耕作状況を見ていくことにします。そのためには、一円保絵図に描かれているのが、現在のどの辺りになるかを押さえておく必要があるので、最初に「復習」です。
金倉川 10壱岐湧水


左上(南東)の生野郷の「壱岐湧と柿股湧」から水路が西に伸びて、東の条沿いに北上していきます。この条が旧多度津街道になります。これを現在の地図に落としすと次のようになります。
一円保絵図 現地比定拡大2

 一円保の東南角の坪は①です。四国学院の図書館から中央通りを越えて、護国神社あたりにあったことが分かります。そして、この坪の南側は多度郡の6里と7里の境界で、南海道が通っていたことも以前にお話ししました。一円保の南は南海道が境界だったようです。
②東は、旧多度津街道
③北が、旧練兵場の南限の中谷川
④西が、弘田川と五岳
そして絵図では、2つの湧水からの水路は、条里界線にそって伸びていきます。それは、坪内ヘミミズがはっているような引水を示す描き込みで分かります。用水路が伸びているのは、絵図の上半分ほどで、(20)(21)のある坪(現ダイキ周辺⑥)までは届いていません。それより北(下)には、用水路は描かれていません。つまり水は供給されていなかったと考えられます。それが本当なのか、今回は別の資料から確認してみます。
金倉川 善通寺条里制

 有岡の池が築造される前の用水事情を語るのが、久安年間の寺領注進状です。
この注進状には、当時の一円保を耕地状況が坪毎に報告されています。それに基づいて、研究者が各坪の状態を次のように、図化しています。
一円保絵図 田畑分布図

各枠につけられている番号が、坪番号になるようです。
例えば左上のコーナーの坪は「多度郡三条七里二坪」となります。これが、先ほど見た東南隅の四国学院周辺の坪番号になります。そして、7里と6里の境界を南海道が通過していたと考えられています。南海道は郷の境界線でもあったようで、この南は生野(いかの)郷になります。
 現在の位置で云うと、護国神社 → 中央小学校 → 自衛隊北側 → 香色山というラインになります。そこに約106mの坪が10ケ並んでいたようです。
 また、三条七里17・18・20・21坪に「本堂敷地」とありますが。ここが善通寺東院になります。
 北側(下)の八里エリアは、旧練兵場(農事試験場+善通寺病院)になります。
  それでは、本題に入って行きましょう。
A図は、その坪の中で水田と畑作のどちらが面積が広いかを示します。
白丸が「田が優位」のようですが、A図には○は、多くありません。全体的には畠が圧倒的に多かったことがわかります。一円保の水田率は3割程度だったようです。丸亀平野全体でも、中世になっても水田化率はこの程度だったことが分かってきています。かつて云われたように、
「古代律令制の下で条里制が施行されて、丸亀平野は急速に水田化した」

ということはなかったようです。丸亀平野の水田化が進むのは近世になってからです。善通寺周辺の一円保も多くが畑で、水田化されていたのは3割程度だったようです。
 また、水田化されている坪は、特定エリアに集まる傾向が見られるようです。その要因は、後に見ていくことにします。
B図は、田や畠の「年荒・常荒」の状態をしめします。

一円保絵図 洪水被害エリア

 坪に×がついているのは、注進書に「河成」(河川が氾濫して耕作地が潰減した部分)として報告されている坪です。このことからは当時の弘田川が×の付けられている所を流れていたことがうかがえます。具体的には、七里11、25、26、25、34、四条八里3、10、9、 17の各坪をぬって川が流れていたことになります。その部分を青斜線矢印でしめしています。
  これを見ると東堂伽藍からその西の現在の誕生院エリア(14、15、23、24)にかけては、氾濫の被害を受けていません。またA図を見ると、耕作地でもなかったようです。誕生院が洪水の被害を受けにくい微髙地に建てられていることがうかがえます。ちなみに、誕生院は佐伯家の居宅跡に、建立されたと伝えられます。また、この当時の弘田川が、誕生院の東側を流れていた形跡があることに注目しておきたいと思います。現在は西側を流れているので、どこかで流路変更があったようです。
弘田川について
 一円保絵図に描かれた二つの湧水は35mの等高線上にあります。
それに対して善通寺東院の北側(三条八里)付近は30mで、湧水からの導水は可能です。しかし、弘田川に向かっては、緩やかな下り傾斜になっています。そのため弘田川左岸(東側)は、弘田川から直接の導水はできません。絵図を見ても、弘田川からの直接の引水を示す水路は書かれていません。上流からの迂回水路が一本記されているだけです。これに対して、弘田側左岸は、引水可能でした。A図で四条の西側に水田エリアが南北に並んでいるのは、弘田側の左岸で、川からの導水が可能な所であったからだと研究者は説明します。
C図は、耕地の現状作の程度を示しています。
  一円保絵図 現在作状況

図Cで、田現作(水田)が51%以上なのは、三条七里、四条七里の南部エリアに多いようです。このエリアは、水源のふたつの湧水からの水が最初に用水路で運ばれてくる所です。「湧水により近いエリア」として、水に恵まれていたことは当然に予想ができます。一円保絵図で、水がかりの用水路が描かれているのも三条七里のエリアのみでした。A図を見ると、旧練兵場にあたる三条八里あたりにも水田はまとまってありますが、年荒率はたかく収穫はあまりよくないようです。

以上から研究者は次のように指摘します。
「三条七里、四条七里の地域では、面積としては少ない水田にまず優先的に引水していたことを示唆する。ここでは現作51%以上といっても、ほとんどが一〇〇%である。三条七里の地域に畠の年荒が発生しているのは、水田を優先したため畠にしわよせがきた結果と考えてよいのではないか。最初から水利の便に乏しい三条八里の地域では水田にも顕著な被害があらわれている。さらに畠にかなり常荒が発生し、七ヵ坪が年荒100%というありさまである。
 もっとも、注進状では伽藍敷地は常荒として計上されており、都市化現象はすでに平安後期には始まっていたと思えるから、これら常荒のなかには、寺僧・荘官・百姓の僧房・屋敷地が一定含まれていたと考えておかねばならないが。」

  農民達の戦略は、まずは用水路に近い南側の限られた水田での米の収穫を優先させます。そのために、このエリアの出来はよいようです。しかし、その「限られた水田優先策」の犠牲になるのが、畑であり、北側の八里の水田だったということになるようです。同時に善通寺東院周辺の「住宅地化したエリア」は、「常荒」とカウントされていたことが分かります。

平安後期の善通寺領では「春田」とよばれる地目があります。
これは寺領水田26町8反余のうち、灌漑用水不足で稲の作付ができなかった年荒田11町9反を中心に、冬作畠として利用したものです。ここには麦や紅花が栽培されていたようです。
 12世紀以前においては、稲刈り跡の水田や年荒の水田は、誰にでも耕作や放牧が許された開放地であったようです。こういう耕地は、国衙の課税対象からはずされていました。そのため「春田」として冬に麦米を作れば、農民たちの手元にまるまる残りました。そのため農民達は「常荒」地の存在について、あまり苦にはしてなかったようです。時には意図的に「常荒」化させ、土地を休ませていたこともあったようです。

13世紀末に有岡大池が完成すると、どのような改善があったのでしょうか。
一円保絵図 有岡大池

まずは新しく作られた用水路を見てみましょう
弘田川本流から分岐された用水路が、坪界線にそって東、北、東と屈曲し、東院のすぐ西側を通って真直ぐ北流していきます。これが有岡大池の成果の一つと研究者は指摘します。これにより今まで灌漑できなかった弘田川右岸エリアが灌漑可能になりました。今まで畑だった耕地が水田化され、湿田が乾田化されます。中世農業生産力は乾田化により進んだと云われます。乾田化は
「水田における稲作 + 年荒田時代の春日の経験=
 二毛作の実現
をもたらします。幕末の丸亀藩がつくった『西讃府志』に、大池(有岡大池)は
「周囲十三町三十間、漑田大墓池卜合セテ百十三町四段五畝」

とあります。この数字には、中世にすでに達成されていたものも含まれていると研究者は考えているようです。

もう一つの変化は、流路の変化です。
先ほど見たB図では、旧弘田川は東院と誕生院の間を流れていた気配があることを指摘しておきました。それが絵図では、誕生院の西側を流れるようになっています。これは、有岡大池の完成と共に治水コントロールが進み、旧弘田川を灌漑水路として、新たに作られた本流を排水路も兼ねて治水力を高めたと私は考えています。

  以上をまとめておくと
①善通寺は佐伯氏の保護が受けれなくなった後には、弘法大師伝説の寺として中央の信仰を集めるようになった
②その結果、所領を善通寺周辺に集め一円保(寺領)にすることができた。
③一円保は、その水源を領外の2つの湧水と、弘田川に求めなければならなかった。
④12世紀には、一円保の水田化率は3割程度であった。
⑤13世紀末に、灌漑能力の向上のために行われたのが有岡大池の築造であった。
⑥この工事に付随して、弘田川の流路変更し、西岸エリアへの灌漑用水網の整備が行われた。
⑦しかし、一円保の東エリアは二つの湧水にたよる状態が続き、大規模な水田化をおこなうことはできなかった。
 これが大きく改善するのは、上流での金倉川からの導水が可能になるのを待たなければならなかった。
一円保絵図 金倉川からの導水


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高橋昌明 「地方寺院の中世的展開」絵図に見る荘園の世界所収 東京大学出版会1987年
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 一円保絵図 五岳山
一円保絵図の東部
五岳山とは、地図上の①~⑤の山々の総称です。
多度津方面から見ると、屏風が立っているように見えるので屏風浦とも呼ばれたと云われます。低い山の連なりなのですが花崗岩が浸食されて絶壁となっている所もあり、なかなかスリリングな低山トレイルルートです。
1出釈迦寺奥の院

このルートは中世は、三豊の七宝山を経て観音寺まで続く修験者たちの中辺路ルートだったことは以前にお話しした通りです。その中でも、③の我拝師山は、当時から行場として超有名だったようです。それは弘法大師伝説で次のようなシーンが取り上げられたからです。
高野大師行状図 (1)

 幼い空海(幼名・真魚)の捨身伝説です。
ある日、真魚(まお=空海)は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」
と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。
 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。
 これが空海が真魚と呼ばれた幼年期に、雪山(せっちん)童子にならって、山頂から身を投げたところ、中空で天人が受け取ったいう「捨身ヶ嶽」の伝説です。
DSC02586
我拝師山に現れた釈迦如来
 
西行の『山家集』には、我拝師山の「捨身が嶽」が次のように記されています
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経かきて(埋)うづませめるおはしましたる山の嶺なり。はうの卒塔婆一丈ばかりなる壇築きてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおよしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、壇も二重に築きまはさいたり。のぼるほどの危うさ、ことに大事なり。
かまえては(用心して)は(這)ひまわりつきて廻りあはむことの契ぞ たのもしききびしき山の ちかひ見るにも
意訳変換しておくと
 ある本に書かれているように、曼荼羅寺の行場へ登っていくのは大変なことで、手のひらを立てたような険しい山道を大変な思いで登った。捨身が嶽の行場には、弘法大師が写経した経典が埋めてある。行場には一丈(3m)ほどの壇が築かれ、その上に卒塔婆が建っている。弘法大師は、ここへ毎日登ってきて、行道(廻道)修行を行ったと伝えれている。卒塔婆の周りをめぐり行道できるように、壇は二重に築かれている。登るときには、大変な危険さを感じる。用心しながら這って廻る

ここからは、西行も空海に習って壇の周りを行道していることが分かります。廻り行道は、修験道の「行道岩」とおなじで、空海の優婆塞(山伏)時代には、行道修行が行われていたようです。
DSC02617

空海も、この行場を何度もめぐる廻行道をしていたのでしょう。西行は我拝師山の由来として、行道の結果、空海が釈迦如来に会うことができたと次のように記します
 行道所よりかまへて かきつき(抱きついて)のぼりて、嶺にまゐりたれば、師(釈迦)にあはしましたる所のしるしに、塔をたておはしたりけり、 後略


DSC02600

 
以上をまとめておくと
①弘法大師伝説で、空海が幼年期にこの山で「捨身行」を行い、釈迦如来が現れ救った
②高野聖である西行が空海に憧れ、この地に庵を構え何年も修行を行った
弘法大師伝説 + 西行修行の地 = 修験者たちの憧れの地となっていたようです。それは高野山の内紛の責任を取らされ善通寺に流された高野山の学僧道範の「南海流浪記」を見ても分かります。弘法大師伝説の拡がりと共に、善通寺の知名度は上がりました。同時に、我拝師山の知名度も上がり「超一級の名所」になっていたとしておきましょう。
DSC02632

我拝師山の麓には、曼荼羅寺が描かれています。
しかし、出釈迦寺はありません。出釈迦寺は、我拝師山の遙拝所で、お寺が出来るのは近世も後半になってからです。この時代には姿はありませんでした。
 ⑤の火山の山中には「ゆきのいけの大明神」いう小祠が描かれています。この山では行者達が、修行の節目節目に火を焚いたと伝えられます。修験者の行場であったことがうかがえます。
一円保絵図 五岳山

一円保絵図の右半分をもう一度見てみましょう。
主役は五岳山のように見えます。しかし、よく見ていると私を忘れていませんかと主張してくるのが有岡大池です。黒く大きく塗りつぶされた姿と、そこからうねうねと流れ出す弘田川は目を引きます。有岡池も何らかの意図があって描き込まれたように私には思えます。この池について見ていきましょう。
DSC01108
大麻山と有岡池

 かつては、讃岐平野におけるため池の出現は、古代に遡るという考えが主流でした。
その背後には満濃池が造られているのだから、平野部にも灌漑用のため池が古代から築造されていたはずという「思い込み」があったように思います。しかし、考古学の発掘調査は、これをことごとく否定していきます。なぜなら丸亀平野の土器川や金倉川の流路変更が明らかになってきたからです。たとえば古代には、土器川は金倉川に流れ込み、弘田川流域から白方で海に流れ込んでいたとか、中世には飯野山の北を北流し、大束川に流れ込んでいたということが分かってきました。中世までの丸亀平野は、浸食が進まず川の流路が安定せず網の目のように流れる河川と微髙地が広がっていたのです。このような状態では、ため池は築造のしようがなかったのです。
 そのような中で有岡大池は、この一円保絵図が書かれた時には姿を見せています。つまり14世紀初頭には築造されていたことが分かります。
有岡大池が、いつ築造されたのかを探ってみることにしましょう。
有岡大池は行政的には、何郷に属するのでしょうか?
一円保絵図 周辺との境界

上の地図を見ると分かるように生野郷修理免に属します。まずは、一円保のエリアには属さないことを確認しておきましょう。それならどうして権益外の生野郷に、大池を築くことが出来たのでしょうか。史料を見てみましょう。
資料 生野郷内修理免の変遷
①承元3年(1209)8月 生野郷内重光名見作田6町を善通寺郷影堂に寄進
②宝治3年(1249)3月 生野郷西半を善通寺領に準じ殺生禁断として12町を修造料に
③弘長3年(1263)12月 郷司との和与で生野郷西半を「寺家一向進退」の不入の地に
④(有岡大池の完成 差図の作成)
⑤徳治2年(1307)11月 当時百姓等、一円保差図を随心院に列参し提出

上の資料を見ると、善通寺の生野郷での免田面積は、①で6町、②の宝治3年に12町になり、40年間で倍になっています。この階段では一円保の水利は「生野郷内おきどの井かきのまた(二つの湧水)」に全面的に頼っていたいたと記されています。13世紀前半には、有岡大池はまだ築造されていなかったようです。
 有岡大池の築造時期を研究者は、史料から紋りこんでいきます。
免田が、6町から12町に倍増したとはいえ、善通寺が生野郷の一円的な支配権を得たわけではありません。有岡大池は、弘田川を塞き止め、谷間を提防で塞いだ巨大な谷池です。しかも、池自体は生野郷の西半に属しています。有岡大池着手のためには、生野郷での排他的な領域的支配権が確立されなければできません。それが可能になるのは、生野郷司と善通寺の間で和解が成立して、生野郷西半について善通寺の領域支配が確立する必要があります。それを、具体的には③の弘長3年12月以降と研究者は考えているようです。
 この池の築造には、何年かの工事期間が必要になります。それを加えると、有岡大池完成の時期は早くとも1270年前後になります。そして、古代の首長が眠る王墓山古墳や菊塚古墳の目の前に、当時としては見たこともない長く高い堤防を持ったため池が姿を現したのです。これは、善通寺にとっては、誇りとなるモニュメント的な意味も持っていたのでないでしょうか。

 有岡大池登場に至る前史を、追いかけてみましょう。
善通寺は、東寺長者に相伝されることにより、ようやく建長4年(1252)になって国使からの不人権を獲得し、国衛の干渉から逃げることができるようになります。しかし、そのことが一円保内における善通寺の強力な支配権の完成を意味していたわけではなかったようです。その障害となったのは、一円保公文職を郡司綾貞方の孫が代々世襲してきたことです。「善通寺市史」には、一円保の成立過程に多度君郡司綾貞方が果した役割が詳しく書かれています。
①久安元年12月の「讃岐国善通寺曼茶羅寺寺領注進状」には、綾貞方は、善通寺近在二在所を持ち、
②応保元年11月25日「綾貞方請文」では、善通寺の所当地子の徴収を請負っています。
彼は徴税、勧農を通じて、一円領内の農民への支配力を強め、在地領主への道を歩んでいた人物です。善通寺一円領が「保」として成立する過程で、郡司綾貞方とその一族は大きな障害であったことがうかがえます。
 要するに、形式上は一円保の名田や畠は、随心院~善通寺という領主の所有になっているけれども、実質的な支配者は公文職を世襲していた綾氏だったようです。そして公文職が、名田や畠を勝手に処分するようになっていたのです。
この動きにピリオドを打つ公文職が登場します。これが真恵です。
真恵は、これまで公文職を世襲してきた綾氏の「親類」でした。そして、すでに売却されていた名田を買い戻すことができる財力を持つ在地領主層の出身僧侶でした。その真恵が善通寺大勧進職に就任するのです。そして、寺領の開発経営を主導していくようになります。彼によって善通寺が一円保内の百姓在家や、名田畠を直接支配し、固定化していく体制が形成されていったと研究者は考えているようです。

一円保絵図 全体

一円保絵図の一つの特徴として、寺僧や名主の在家・名田畠の配置が詳しく書かれていることは、以前に見たとおりです
 家屋を描いている場所は、―円保に居住する農家を示すのでしょう。単に百姓らの名のみの場合は、その田畠の所在を示しているようです。また絵図には、一円保全域の水利、自然景観、寺社等も描かれています。その中に在家・名田畠の配置が細かく記されているのは前回見たとおりです。
 これは、寺僧や名主の在家、名田畠の所在を把握しようとすると同時に、固定化しようとする意図があったと研究者は指摘します。ここから一円保絵図の作成は、真恵が公文職に就任し、随心院の権威を背景に一円保内の名田畠の売買を厳禁した弘安三年以降のことだと研究者は考えます。
一円保絵図 北東部

最初の問いに還りましょう。 絵図は何のために作られてのでしょうか
一円保絵図の主題は、左の条里制の用水関係にあるようです。なのに「用水指図」には必要のない善通寺伽藍や五岳山・有岡大池が描かれています。裏書には、「百姓等烈参」とありました。ここからは、随心院にたいして善通寺の百姓たちがなんらかの要求の裏づけのために作成されたことは、間違いないでしょう。

これに対して、研究者は次のような仮説を出してきます。
「本絵図は年貢の損免要求のために作成され、領域図的性格を備えたのも、ほかならぬ一円寺領としての損免要求だったからではないかと考える。提出時期が11月であるのも、冬の収納との関係を予想させる。名主の注記が用水末端よりさらに下方にしか描かれていないのも、実際にそこにしか彼らの耕地がなかったのではなく、これらの地域が有岡の池の築造にもかかわらず依然用水が不足がちで、早損が発生しやすく、損免要求にも切実、かつ正当性があることを強調するためではなかったか。」

  つまり、京都の本寺随心院に対する年貢の減免要求の資料として作成されたと研究者は考えているようです。

1善通寺一円保

百姓代表が随心院で、どんな手順で減免要求を行ったのか想像力で再現してみましょう。
①絵図を見せながら善通寺の伽藍状態を説明し、弘法大師生誕の地であること
②背後の五岳山を差しながら我拝師山が弘法大師の捨身行の聖地であることを強調
③善通寺と曼荼羅寺が弘法大師伝説の舞台であることの再確認
④善通寺一円保(寺領)の範囲の確認
⑤左側(東)の二つの出水のみが一円保の水源であること
⑥そのために近年、新たに有岡大池を築造したこと
⑦一円保内の用水路を確認しながら、用水が一円保の南側半分にしか届いていないこと
⑧一円保南側の旧練兵場跡は灌漑用水が届かず、水田化が進まず、畑作にも不自由していること
⑨善通寺伽藍に帰り、五重塔は倒れたままで、その他の建物の修理が不十分なことを説明
こんな「戦略」で、百姓達は「烈参」の場に臨んだのではないでしょうか。
一円保絵図 松の木」

 また、研究者は三条七里二五の坪に見える「松」にも注目します。
古来繁栄隆昌を意味する縁起のいい「松」が、善通寺伽藍の西行の松(H)とは対照的に、根も浮きあがり枯れ呆てているかのように描かれています。寺領のこの地が日照りで危機的状態にあることを強くアビールしているようにも思えます。中世ヨーロッパでは

「木が枯れるということは早魃、病害を意味し、人間の生活にも危機が迫っていることを示していた」

といいます。(阿部謹也『歴史と叙述――社会史への道』)
 日本でも『平治物語絵巻』第七紙の信西を斬る場面では、傍らに枯木が描かれています。これは死を象徴しているようです。
 南北朝期には、善通寺一円保が随心院納める年貢上納額は、非常に少なくなっていることが史料からは分かります。
それは、百姓たちの年貢引き下げ要求の「烈参」が繰り返し行われた結果だとも思えてきます。そのために随心院の受け取る年貢水準はだんだん少なくなったのかもしれません。もちろん、烈参と絵図作成は善通寺の後押しをうけていたはずです。本寺への年貢が軽減されることは、善通寺にとっても有利なことだったでしょうから。
善通寺一円保の減免要求を随心院が認めたのは、どうしてでしょうか
 それは、善通寺が弘法大師生誕地であり、曼荼羅寺が弘法大師伝説の舞台「我拝師山」を抱えるということが有力な要因だったのではないでしょうか。その「武器」を最大限に活かすために一円保絵図には、関係のないと思われる五岳や我拝師山が描かれたとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高橋昌明 「地方寺院の中世的展開」絵図に見る荘園の世界所収 東京大学出版会1987年

     一円保絵図 テキスト
 善通寺一円保絵図
善通寺には、明治40年(1907)に、本寺の京都随心院から持ち帰ったという墨で描かれた絵図があります。「讃岐国善通寺近傍絵図」で一般的には「一円保絵図」と呼ばれています。この絵図のテキストクリニック(史料批判)を行った論文を探していたのですが、なかなか出会えませんでした。

一円保絵図 テキスト2

 先日、何気なくアマゾンで検索すると、郵送代込みで352円なのを見つけてすぐにクリックしました。この本の中に載せられている高橋昌明「地方寺院の中世的展開」をテキストにして善通寺一円保絵図を見ていくことにします。
まず筆者は、この絵図はなぜ、京都の随心院にあったのかを探ります。  絵図裏書に次のように記されているようです。
善通寺□□絵図
徳治二年丁未十一月 日
当寺百姓等烈参の時これを進らす
一円保差図(別筆)
□は虫損
「当寺」とは文脈からいって随心院でしょう。「烈参」は「何事かを請願するとか申し出るとかするために、多くの人が一緒に行くこと」という意味だそうです。善通寺の百姓らが徳治二年(1307)本所の随心院に、なにかを要求するため上洛して、その際にこの絵図を提出したようです。何を要求したのかが、今後の問題となります。 
一円保絵図 原図
善通寺 一円保絵図
絵図は善通寺で作成されたようです。
幅約160㎝、縦約80、横6枚×縦2枚=計12枚の紙を貼りあわせた大きな絵図です。見れば分かるとおり、描かれている内容は左右で二つに区分できそうです。真ん中の太い黒帯が弘田川です。その西側(右)が五岳、東側(左)が条里制で区切られた土地と、その中に善通寺の伽藍と誕生院が見えます。これだけの絵図を書ける「職人」が善通寺にはいたようです。三豊にある中世の仏像には、善通寺の絵師がかかわったことが史料から分かります。絵師や仏師集団が善通寺周辺には存在したようです。
  上の絵図をトレスしたものがつぎの下の図です。

一円保絵図 全体

まず、この絵図で描かれている範囲を確定しておきましょう。
北側(下)からを見ていきましょう。
お寺の南の茶色のエリアが現在の「子どもと大人の医療センター」になります。ここは、弥生時代から古墳時代にかけて善通寺王国のコア的な存在であった所です。しかし、この絵図では、百姓の家が散在するのみです。お寺の周辺に形成された「門前町」に人々は「集住」し、この地区の「重要拠点性」は失われているようです。
 その西、弘田川を越えた所に「ひろ田かしら」という地名が書き込まれています。ここの東西の条里が北側の境界となるようです。ここから北の条里は描かれていません。
  西端を見てみましょう。右下角に「よしわらかしら」が見えます。
現在の吉原のようです。ここにも条里制跡は見られますが、その方位は善通寺周辺の条里制とは、異なっているように見えます。

  善通寺の東側の条里制のラインを見てみましょう。
ここで手がかりになるのは東の端に書かれた「よした」という地名です。現在の吉田でしょうが、ここには条里制跡は描き込まれていません。もちろん、丸亀平野全体に条里制は施行されていますので、敢えて書き込んでないということになります。
 南側は東に「おきのと」と西に「ありを□」から流れ出した水路が境となっています。これより南の条里制は、やはり描かれていません。考えられるのは描かれた部分が、善通寺の一円保に関係するエリアであったということです。それでは、条里制が描かれているのは、現在のどの辺りになるのでしょうか?
  現在の地図に落とすと、下図のようになるようです。
一円保地図1
一円保絵図東部分の現在の範囲
この範囲が善通寺の一円保のエリアだったと考えられます。もう少し拡大して見ましょう。
一円保絵図 現地比定拡大2
一円保絵図の現在のエリア
絵図で描かれている条里制エリアを確認しておきましょう
A 南側①~④のラインは、四国学院図書館から護国神社・中央小学校を西に抜けて行くもので、多度郡条里の6里と7里の境界線になる。
B 東側①~⑥(グランドホテル)のラインは旧多度津街道にあたり、古代においては何らかの境界線だったことがうかがえる。
C 北側ラインは⑤の瓢箪池→仙遊寺(大師遊墓)→宮川うどん→善通寺病院北側へと続く
D 西側は香色山と誕生院の間から、弘田川を越えて五岳の麓まで

   Aの①~④については、四国学院内での発掘調査から道路の側溝跡が見つかり、さらにそれを東に一直線にまっすぐ伸ばした飯山町の岸の上遺跡から出てきた側溝跡とつながることから、このラインが旧南海道だと研究者は考えているようです。つまり、一円保の南側は南海道で区切られていたことになります。
Bの旧多度津・金毘羅街道は、現在も大通りの東側を聖母幼稚園から片原通りまでは残っています。またB・Cは、中谷川の流路とも重なります。この川は、弥生時代から古墳時代に栄えた旧練兵場遺跡の北限でもあった川で、善通寺王国の成立に大きな役割を果たしたことが考えられます。
 ちなみに、佐伯氏が氏寺として最初に建てた仲村廃寺(伝導寺)は、⑥グランドホテルの西側のホームセンターダイキ周辺です。氏寺は、この川に隣接する地点に建立されています。古墳時代から7世紀前半の佐伯氏の拠点は、この付近にあったことを考古学的発掘の成果は教えてくれます。

金倉川 善通寺条里制
那珂郡・多度郡の条里制と南海道(推定)
  また、南海道の南側隣接する⑦からは多度郡の郡衙と推定できる建物群が見つかっています。
ここに建物群が姿を現すのは、7世紀末から8世紀初頭にかけのことで、南海道が東から伸びてきた時期と重なります。南海道を基準として条里制は引かれていきます。佐伯氏が先ほどの仲村廃寺周辺から⑦のエリアに拠点を移したのは、この時期なのでしょう。これに伴い氏寺も仲村廃寺から現在地に移し、条里制に沿う形で移築したことが考えられます。補足説明はこれくらいにして、先に進みましょう。
 
さきほどのトレス図と比べて、研究者は次の点を指摘します。
①絵図の東部と西部では「縮尺」が異なる。西の五岳山側は、東の3倍の縮尺になっている。
  絵図では東部と西部は半分・半分の割合だが、実際には西部の山側の方がその3倍以上の面積 がある。
②「おきのと」と「ありを□」は現在の壱岐湧と柿股湧になる。絵図では、ふたつの出水は一円保のすぐそばにあるように描かれているが距離的なデフォルメがある。実際にはかなりの距離がある。
全体像はこれくらいにして、もう少し詳しく各部分を見ていきましょう。
まず、一円保の範囲と周辺の郷との関係を地図で確認しておきましょう
一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保絵図の範囲
 東側の良田郷と隣接する条里制の部分から見ていきます。

金倉川 10壱岐湧水
善通寺東院と西院
 中央に善通寺伽藍とその東に誕生院があります。よく見ると、伽藍の周辺やその北方(下方)には多くの家屋が描かれています。
 
 集落を見ておきましょう
  建築物は、善通寺の東院や誕生院等を見ると、壁が書かれています。壁が書かれているのが寺院関係で、壁がない屋根だけの建物が民家だと研究者は考えているようです。絵図に描かれた民家を全部数えると132棟になるようです。それをまとまりのよって研究者は次のような7グループに分けています
第1グルーフ 善通寺伽藍を中心としたまとまり 71棟
第2グルーフ 左下隅(北東)のまとまり  5棟
第3グルーフ 善通寺の伽藍の真下(北)で弘田川東岸のまとまり                   11棟
第4グルーフ 中央やや右寄りの上下に連なる大きい山塊の右側のまとまり                   15棟
第5グルーフ 第4グループの右側のまとまり 17棟
第6グルーブ 第5グルーブと山塊をを挟んだ右側のまとまり                   6棟
第7グループ 右下隅(北西)のまとまり     7棟

 家屋が集中しているのは、善通寺伽藍周辺で71あるようです。
半分以上がお寺の周りに集まっていることになります。中世における「善通寺門前町」とも言えそうで、一種の「都市化現象」が進んでいたようです。
 善通寺市立郷土館に展示された「善通寺村絵図」(明治6年頃)には、伽藍の東南に17戸、東に79戸、北東に38戸、北西に53戸、西南に83戸、計270戸があったと記されます。江戸時代は、善通寺周辺に門前町が形成され、それ以外は水田が広がる光景が続いていたようです。
 お寺周辺の家屋は、七里八里の界線を境に上下に分けることができそうです。上は平安後期に、「寺辺に居住するところの三味所司等」(「平安遺文』3290号)とあるので、寺院関係者の住居と「くらのまち(倉の町)」など寺院の関連施設と研究者は考えているようです。
 これに対して、下側(北側)は百姓の家々ということになります。
善通寺の関係者は、僧侶たちと荘官層にわけられます。
荘官では田所の注記だけが見えますが、曼奈羅寺方面には惣追捕使の領所という注記もあります。「随心院文書」からは、善通寺には公文・案主・収納使・田所がいたことが分かります。また別の史料からは、次のような僧侶達がいたことが記されています。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。
一円保絵図 中央部

 絵図に記されている僧侶名を階層的に区分してみましょう。
寺僧以上が
「さんまい(三味)」 (7)
「そうしゃう(僧正)」    (8)
「そうつ(僧都)」        (11)
「くないあじゃり(宮内阿闇梨)」  (12)
「三いのりし(三位の律師)」      (14)
「いんしう(院主)」              (15)
「しき□あさ□(式部阿閣梨か)」  (10)
 下級僧が
「あわちとの(淡路殿)」          (1)
「ししう(侍従)」                (9)
「せうに(少弐)」                (16)
「あわのほけう(阿波法橋)」      (17)
(数字は、絵図上の場所)
 これらの僧侶の房の位置から分かることは、寺僧たちの房は伽藍の近くにあり、下級僧の房はその外側に建ち並んでいます。絵図は僧侶間の身分・階層を、空間的にも表現しているようです。

その他にも、堂舎・本尊・仏具の修理・管理のための職人(俗人姿の下部)が、寺の周辺に住んでいた可能性が考えられます。
例えば、鎌倉初期の近江石山寺辺では、大工、工、檜皮(屋根葺き職人)、鍛冶、続松(松明を供給する職人)、壁(壁塗り職人)らがいたことが分かっています(『鎌倉遺文』九〇三号)。絵師や仏師が善通寺周辺にいたことは、仏像の銘文などからも史料的にも分かっているようです。しかし、絵図からはうかがい知れません。

 絵図の下方(北側)の家を見てみましょう。
金倉川 10壱岐湧水

右下の茶色で着色したゾーンは、善通寺病院のエリアになります。そこから東にかけてが現在の農事試験場の敷地にあたります。この地域は、
①善通寺病院周辺が、弥生時代の中核地域
②(20)(21)周辺が、仲村廃寺跡で古墳時代以後の中心地
であることが発掘調査から分かっています。そして、②を中心とするエリアに、名田が密集しているようです。名田らしき注記を挙げると
「光貞」が六ヵ所
「利友」が六ヵ所
「宗光」が五ヵ所
 これを名主だと考えることもできそうです。
名は徴税の単位で、荘内の各耕地(作人の各経営)はいずれかの名に所属させられていたとされます。年貢や課役も作人が直接領主に上納するのではなく、名の責任者である名主がとりまとめて納入させたようです。「光貞」「利友」「宗光」は、その徴税責任者名かもしれません。つまり、名主であったことになります。ちなみに「寺作」は9ヵ所で合計2町9反以上と注記されています。これが善通寺の直轄寺領なのでしょうか。
一円保絵図 北東部

  最後に東部エリアの用水路を見ておきましょう。
 条里制地割上に描かれた真っ直ぐな太線が水路になります。水路を東に遡っていくと「をきどの」「□?のい」と記された部分に至ります。これは出水で、水源を示しているようです。
この湧水は、現在のどこにあたるのでしょうか。
これは、以前にも見たように生野町の壱岐湧と柿股湧になります。
そこからの水路が西に伸びて一番東の条沿いに北上していきます。この条が先ほど見たように、旧多度津街道になります。
条里内の(2)の家屋は、護国神社 (1)は中央小学校あたりになるのでしょう。湧水からの水路は、次の条まで延びています。ここからは、地割の界線にそって灌漑用水路が作られ農業用水を供給していたことが分かります。よく見ると、坪内ヘミミズがはっているような引水を示す描き込みもあります。
 用水路がどこまで伸びているのかを見てみましょう。
それは、農業用水がどこまで供給されていたかです。用水路が伸びているのは、(20)(21)のある坪あたりまでです。それより北(下)には、用水路は描かれていません。
弥生・古墳時代には、多度津街道沿いに旧中谷川が流れていたことが発掘からも分かっています。
旧練兵場遺跡 変遷図1
弥生時代の旧練兵場跡 右側が中谷川


ところが、一円保絵図には中谷川が途中で涸れたように描かれています。これは旧練兵場(現農業試験場や善通寺病院のエリア)に灌漑用水は、届いていなかったということになります。ほんまかいな? というのが正直な感想です。 この絵図をもう一度見ると、用水路は2つの湧水のみに頼っているようです。
 金倉川からの導水水系が描かれてはいません。
 現在は、中谷川は金倉川からの導水が行われています。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の金倉川からの導水路

しかし、中世のこの時点ではそれが出来なかったのかもしれません。中世の権力分立の政治情勢では、荘園を越える大規模な用水はなかなか建設や維持が難しかったようです。建設のための「労働力の組織化」もできなかったのでしょう。例えば、この時期の満濃池は崩壊したまま放置され「池内村」が旧池底に「開拓」されていた状態でした。金倉川の導水路を確保することは難しく、善通寺一円保の用水源は、出水と有岡の池に頼る以外になかったようです。
 こうしてみると善通寺の百姓達が京都の本寺へ「烈参」したのも水に関係することだったのではないかと思えてきます。
今回は、この辺りにしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


大山山から金毘羅地図

まんのう町の大川神社は雨乞いの神として、また安産の神として、広く信仰を集めてきました。特に、大山神社に奉納される念仏踊りは国の文化財にも指定されています。今回は、大川山がどのようにして雨乞いの霊山になっていたのかを見ていくことにします。

琴南町美合の美霞洞渕では、雨乞祈願のために流れの中の岩や石に小さい棚を設けて龍王(オリヨウハン)を祀り、そこで神主や村人が3日3晩祈願をしたことは、以前にお話ししました
同じような雨乞いがまんのう町塩入の釜ケ淵にも残されています。
 ここは財田川の源流になり、丸亀平野の丸亀藩の農民達の雨乞いの最後の祈祷場所だったようです。どんな雨乞いがおこなわれたか民話を読んでみましょう。
  里人がやって来た後から、山伏もやって来ました。
 山伏が雨降らせたまえと祈願をします。
すると、里人たちは持って来た堆肥を、釜が淵のなかへ振り込みはじめました。十二荷半の堆肥を、残らず淵へ放りこんだからたまりません。
おかしな臭いが、あたりへただよいます。
清らかな淵水は、茶色く濁って流れもよどみがち。
そして、この上から、ゴボウの種を蒔きます。
ゴボウの種は、ぎざぎざでとても気味の悪い形をしています。指でつまむと、ゴボウの種が指を刺すように感じます。
堆肥十三荷半、ゴボウ種を投げ込んで終わったのではありません。今度は、長い棒で淵のなかを、かきまぜます。
何度も、何度も、棒でかきまぜます。もう、無茶苦茶です。
釜が淵の水は、濁ってしまいました。
この、釜が淵の清らかな水のなかには、龍神さまがいらっしゃるというのに、水は濁ってしまいました。きっと龍神さまは、お腹立ちのことでしょう。
そうなのです、それが目的なのです。
龍神さまを、しっかり怒らすのです。
怒ると、雨が降るというのです。
お気に入りの釜が淵の清水が、べとべとに濁ってしまいました。これはたまらないと、龍神さま雨を降らせて不愉快なものを、すべて流します。でも、いいかげんな雨では流れないと、激しい大雨を降らせてさっぱりと洗い流します。
ああ、きれいになったと龍神さまも大よろこび。
里人も、念願の雨が降ったと大満足。
 ここからは、次のような事が分かります。
①川の流域の村々(同一灌漑網)の人々が、地域を流れる川の源に近い深い淵を雨乞場所としていた。
②そこで大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りを招き、雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが行われてたこと
③これは全国的にみられる話で、修験道者(山伏)のネットワークがひろめたこと
④雨乞行事の音頭をとっているのは山伏であること

 寺院で行われる雨乞いは善女龍王に対する祈祷でした。
これは丸亀藩主が直接に善通寺門主に命じて行わせていた公式なものであることは以前にお話ししました。それに対して、村々で農民達が行っていた雨乞祈願は、山伏たちが主導権を握っていたようです。そう言えば、この淵の上には尾ノ背寺がありました。ここは中世の山岳寺院の拠点で、善通寺の奥の院ともされ修験者の拠点として栄えた寺です。流域の人々を信者として組織し、尾ノ背寺参拝への手段としていたとも考えられます。丸亀平野南部の丸亀藩の櫛梨神社には、尾ノ背山信仰を伝える話が伝えられています。

それでは大川山周辺では、どんな雨乞いが行われていたのでしょうか。 大川山周辺に残る雨乞い伝説を見てみましょう。
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まず登場するのは三角(みかど)淵です。ここは、崖山がそそりたり、三つの角を持った岩石があることから三角(門)と呼ばれるようになったと伝えられます。三角の地名は、かって「御門」とも「御帝」とも呼ばれていました。そして、「三霞洞」となり、現在の道の駅や温泉は「美霞洞(みかど)」と呼ばれ親しまれています。
 道の駅の下流の渓谷を流れる冷たい清らかな流れは、龍神さまもお好きと見え、龍神社がお祀りされています。ここでも、大干魃の年は流域の人々がやって来て龍神様にお祈りをして、雨乞い神事が行われていました。

大川山 美霞洞龍神神社
美霞洞渓谷の龍王神社
「三角(みかど)の淵と大蛇」の民話は、大蛇を退治した後のことを次のように語ります。
  日照り続きの早魃の年には三角の淵の雄淵に筏を浮かべて雨乞いのお祈りをすると、必ず雨を降らせてくれます。また、遠くの人たちは三角の淵へ、水をもらいにやってきます。淵の水を汲んで帰り祈願をこめると、必ず雨が降りだします。三角の淵は、雨乞いの淵としても有名になりました。

 ここからは、雄淵に筏を浮かべて雨乞い祈祷が行われていたことが分かります。この筏の上で祈祷を行ったのは、大川山の山伏たちだったのでしょう。また、この地が下流の丸亀平野の人々にとっても雨乞聖地であり、ここの聖水を持ち帰り、地元で行う祈祷に用いられていたようです。持ち帰った聖水を用いて祈祷を行ったのは、地元の山伏であったはずです。大川山をめぐる山伏ネットワークがうかがえます。
大川山周辺の八峯龍神での事件を、民話は次のように伝えています。
 21日間、昼夜の別なく、神楽火をたき神に祈ったが一粒の雨も降らなかった。当時の神職(山伏)は悪気はなかったが
「これ程みながお願いしているのに、今だに雨の降る様子がない、龍神の正体はあるのか、あるなれば見せてみよ」
と言ったところ、言い終ると一匹の小蛇が池の廻りを泳いでいた。
「それが正体か、それでは神通力はないのか」と言った。
すると急にあたりがさわがしくなり、黒い雲が一面に空を覆い、東の空から「ピカピカゴロゴロ」という音がしたかと思うと、池の中程に白い泡が立ち、その中から大きな口を開き、赤い炎のような舌を出した大蛇が、今にも神職をひと飲みにしようと池の中から出て来た
これを見た神職は顔色は真青になり、一目散に逃げ帰った。
然し大蛇は彼の後を追いかけて来たものの疲れたのか、その場にあった一本の松の木の枝に首をかけてひと休みしたと伝えられる。
 今もその松を首架松といわれている。池からその松の所までは150mもあるが、大蛇の尾が池に残っていたというのだから大きさに驚かされる。

  ここからは次のような事が分かります。
①雨が降るまで雨乞いは続けられるといいますが、この時は21日間昼夜休むことなく祈祷が続けられていたこと
②小蛇が龍になるという「善女龍王」伝説が採用されていること
③祈祷を行ったのは神職とあるが、江戸時代は修験者(山伏)であったこと
④そして、雨乞い祈祷でも雨が降らないことがあったこと
⑤失敗した場合には、主催した山伏の信望は墜ちること
 雨乞いで雨が降ればいいのですが、雨が降らなかったときには主催者は責任を問われることになります。ある意味、山伏たちにとっても命懸けの祈祷であったようです。
 江戸時代には、ことのよう大川山周辺の源流や池は、雨乞いの聖地となっていたことが分かります。
これが明治になると、システムが変化していくようです。
何が起こるかというと、雨乞い場所を自分たちの住む地域の周辺に下ろしてきて、そこに拠点を構えるようになるのです。
 大川神社の勧進分社の動きを、琴南町誌で見ていきましょう。
飯山の大川神社(丸亀市飯山町東小川日の口)
  ここは現在は「水辺の楽校公園」として整備されています。その上の土手に大きな碑や灯籠がいくつか建っています。3つ並んだ一番左の石碑に「大川神社」と大きく記されています。その由来を琴南町誌は、明治25(1892)年6月の大早魃の時、松明をたいて雨乞いをした。この時大雨が降ったので、飯野山から大きな石を引いて来て大川神社を祀ったと云います。ここは昔から地神さんが祀られていて、地域の雨乞所だったようです。大旱魃の時には「第2段階」として、大川神社の神を祀り雨乞いを行ったようです。すると必ず雨が降ったと伝えられます。
 いつの時代かに大川講のようなものができて、大川神社に代参して大川の神を迎えてここに祀って、雨乞いも行うようになります。三角(みかど)の聖水をもらってきて祀ったりもしたようです。ここからはもともとあった地主神があった所に、雨乞いの神として大川神社が後から勧進されたようです。そこには、やはり里の山伏たちの活動があったようです。

高篠の大川神社(まんのう町東高篠中分)

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まんのう町高篠の土器川堤防上の大川神社石碑
 土器川の左岸の見晴らしのいい土手の上に大川神社という大きな石碑が建っています。横に常夜灯もあります。祠などはありません。ここからは、象頭山がよく見えます。この石碑には、戦後の大早魃の際に、大川神社を勧請して、雨乞い祈祷したところ大雨を降らたので、ここに大石をたてて大川神社をお祀りしたと記されています。この地点は、東高篠への土器川からの導水地点でもあるようです。

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 以後、祭りは旧6月14日に神官を呼んでお祓いをして、講中のものがお参りしていたようです。講中は東高篠中分で50軒くらいで、家まわりに当屋のもの何軒かが世話をしていたと云います。。祭りの日は土器川の川原で市がたち、川原市といって大勢の人々が集まったようです。三日間くらい農具市を中心に市が開かれ、芝居、浪花節などの興行もあったと云います。 高篠の人たちが講を組織して勧進した大川山の分社なのです。ここにも山伏の影が見えます。
長尾の大川神社(まんのう町長尾札辻)
 長尾の辻にも大川神社という大きな自然石が立っています。これも大川山の大川神社を勧請して祀ったようです。いつ頃から祀られるようになったのかは分かりませんが、大正7(1918)年の大水にそれまでの碑が流されたので、再建したものだと伝えられます。この地点は、土器川の水を旧長尾村、岡田村などに引く札辻堰のあるところで重要ポイントです。早魃の時には、ここに大川神社を祀って雨乞いの祈願が行われたようです。
 長尾地区も江戸時代には、大川山に代参して御幣を請けてきたと伝えられます。しかし、勧進分社後には、ここの大川神社で雨乞い祈願が行われるようになったようです。ここにも講組織があり、旧長尾村一円の約200戸余りが講員となっていました。田植え後の旧6月14日には毎年お祭りをし、夜市が催され、余興などがにぎやかに行われていたと云います。
岡田の大川神社(綾歌町岡田字打越)
旧岡田村は、その地名通りに丘陵地帯で水田化が遅れた地域でした。そのために土器川の水を打越池を通じて導水し、各所に分水するという灌漑システムを作り上げました。その導水池である打越池の堤に、大川神社が勧進されています。それは昭和初年の大干ばつの際に、池総代の尽力で、大川神社の分神がお祀りされたものです。ここにも水利組合と大山講が重なるようです。

 飯山の東小川、まんのう町の高篠東・長尾・打越とみてきましたが、次のような共通があることが分かります。
①土器川からの導水地点に、大山神社が勧進された
②勧進したのは導水地点から下流の水掛かりの農民達で講を組織していた。それは水利組合と重なる。
③勧進時期は、近代になってからである
④勧進後は、そこで雨乞神事や祭りも行われていた

以上見てきたことをまとめたおきます
①古代から霊山とされた大川山は、修験者が行場として開山し大川大権現と呼ばれるようになる
②そこには修験者の拠点として、寺院や神社が姿を見せるようになる
③修験者は里の人々と交流を行いながらさまざまな活動を行うようになる
④日照りの際に、大川山から流れ出す土器川上流の美霞洞に雨乞い聖地が設けられるようになる
⑤そこでの雨乞い祈願を主導したのは、修験者たちであった。
⑥彼らは、講を組織し、雨乞い祈祷を主導した
⑦こうして、大川大権現(神社)は雨乞いの聖地になっていく。
⑧近代になって、神仏分離で修験道組織が解体していくと里の村々は、地元に大山神社を勧進するようになる。
⑨それを主導したのは、水利組合のメンバーで大山講を組織し、大山信仰を守っていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
丸尾寛  日照りに対する村の対応
琴南町誌747P 宗教と文化財 大川神社 

   讃州七宝山縁起 観音寺

 前回に続いて、観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』を見ていくことにします。前半を読んで分かったことは、
①「是釈迦伝法の跡、慈尊説法之砌なり」と、弥勒信仰が濃厚に感じられること
②八幡大菩薩がやって来て、さらに弘法大師が修行した所であることから、八幡大菩薩と弘法大師は「同体分身」で一体の身とすること
③八幡大菩薩が垂迹する夢を見て、母が懐妊し弘法大師が誕生したので、弘法大師は八幡大菩薩の再誕であるとすること。
ここからは、先にやって来た八幡信仰に、後から弘法大師伝説を「接木」しようしていることがうかがえます。そして、その筆を執った人物として、弘法大師信仰の影響を受けた高野山系の密教修験者の影が見えてきます。
 今回は『讃州七宝山縁起』の後半部を読んでいくことにします。
その中に七宝山の行道(修行場)のことも記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには「大師為七宝山修行之初宿」と記され、七宝山が行場であったことが分かります。それでは「初宿」とは何なのでしょうか。先に進んでいきましょう。

七宝山縁起 行道ルート
意訳すると
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手)で大師勧進。
第三宿は経ノ滝
第四宿は興隆寺で号は中蓮
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山である。
七宝山縁起 行道ルート3

ここからは次のようなことが分かります。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=小辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には7つの行場と拠点があった
   当時の辺路修行とは、どんなものだったのでしょうか。
五来重氏は、次のように指摘します。
1 辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 行道とは、神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる木の周りを一日中、何十回も廻ること。
3 それぞれの行場で、窟籠もり、木食、行道をする修験者(僧侶)がいた。
4 最も厳しい修行者は断食をしてそのまま死んでいく。これを「入定」という。
5 海に入って死んでいく補陀落渡海は、船に乗って海に乗り出す。
6 お寺が建つ以前のことだから、建物はないので窟に籠もった。
7 弘法大師が修行したと伝わると、その跡を慕って修行者がやってくる。
8 鎌倉時代の終わりのころまでは、留守居もいない、修行に来た者が自由に便う小屋。
9 修行者が多くなると小屋のようなものが建つ。そして寺やお堂ができて、そこに常住の留守居が住むようになる。
10 やがて留守居が住職化するとお寺になり、行道ネットワークの拠点となり、積極的な「広報活動」を行うようになる。
 ここからは観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる修行ルートは「小辺路」が形成されつつあったことがうかがえます。プロの修行者がやってきて「七宝山七ヶ寺巡礼」が盛んになりつつあったとしておきましょう。周囲を見ると、中讃には善通寺や弥谷寺・海岸寺・道隆寺などを結ぶ「七ケ寺巡り」がありました。高松から東讃には根来寺から志度寺・長尾寺等を結ぶ「七観音巡り」が近世初頭にはあったようです。これらの地域にあった「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。中世の修験者は、それらを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったのかもしれません。近世になると素人が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。その際に、危険な行場や奥の院は次第に除外され、麓や里にある本寺が札所になって現在の四国霊場めぐりが形作られていったようです。そして、それは行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくという形に変わって行きます。
七宝山の山の中にあったという行場とお寺(お堂?)を探ってみましょう。観音寺が初宿で、第二の宿は稲積とあります。
 
1高屋神社

七宝山の一番北側に、山頂に方墳が載ったように見える山が稲積山です。ここはには、「天空の鳥居」で有名になった式内社・高屋神社の奥社があります。稲積とは、この神社周辺でしょう。ここからの燧灘と川之江に続く海岸線は絶景です。周辺には「嶽」と呼ばれる断崖があちらこちらにあります。西方に広がる燧灘は、西方浄土へ続く海です。念仏行者達にとっては最高の行場ゲレンデだったでしょう。全国から修験者たちがやってきそうな所です。
 
 稲積の行場は山だけではありません。室本の江甫草山(つくも)の海岸には海に向かって開く窟があるようです。
七宝山 江甫草山行場洞窟

「金毘羅参詣名所図会」(弘化4年(1847)には、江甫草山について絵図を載せ、次のように記しています
 江甫草山椋本村にあり、有明の浜より磯づたひ、行程僅かにして至る。麓に椋本の魚家多し。
行人之窟 行者ここに来って修行する事時々ありといふ。実に世塵をはらひて、ただ波濤の音、松のかぜ、千鳥・鴎のこえの他、耳に聴くことのなき幽地なり。
行道場 右に同じ。地蔵・不動・役行者などの石像を置けり。
そこには2つの洞窟が描かれています。拡大してみましょう。

七宝山 江甫草山行場洞窟拡大

 右側が「行人ノ窟」、左側が「鳩ノ窟」と描かれています。
「行人」は「行道する人」で修験者が籠もる窟でしょう。「鳩ノ窟」の周辺には、鳩らしき鳥が飛んでいます。これが「鳩の窟」いわれなのでしょうか。洞窟前を漕いでいく舟と比較しても、かなり大きな窟であることが分かります。
 ここは燧灘に直面する窟です。窟の上の磐に座り、沈みゆく夕陽を眺めながら阿弥陀経を唱えれば、西方浄土が見えてきたのかもしれません。高野の念仏聖達の行場としては、ふさわしい所であったでしょう。
 この洞窟と稲積山の行場を、一日に何度も廻行する行道が行われていたと私は考えています。
 第三宿は「経の滝」とあります。

七宝山 不動の瀧

これは豊中町岡本の不動の滝でしょう。雨が降った後は落差50mほどの滝になりますが、雨が少ない讃岐では水のない「瀧」であるときの方が多いようです。そのために揚水用のモーターが常備されています。スイッチを入れると瀧は落ちてきます。
 ここには不動明王が祀られ、古くからの修行の地であったようです。
 第四の宿は興隆寺です。
ここは以前にお話したように、四国札所・本山寺の奥の院とされています。
七宝山興隆寺

鎌倉時代後期から室町時代の五輪塔や宝灰印塔が、数多く残されています。
七宝山興隆寺不動明王
不動明王の磨崖仏

その中には上のような不動明王もあり、密教寺院で修験者たちの拠点であったことが分かります。出士した瓦は鎌倉時代のものなので、遅くとも鎌倉時代には、かなりの規模の寺院であったことがうかがえます。国宝の本山寺本堂が14世紀初頭のものですから、そのころに本山寺は、七宝山の麓から現在地に移ったと推察できます。しかし、七宝山の山号だけは変わっていません。
 ここに多く残されている五輪塔や宝灰印塔は、七宝山で修験を行った人たちが残したものと考えることも出来そうです。
 第五の宿は、岩屋寺です。

七宝山岩屋寺

七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。ここにも岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。
七宝山岩屋寺2
岩屋寺の岩屋(窟)

  こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
 さて、第六宿の神宮寺です。この寺については、確定が難しいようです。
 寺伝から三豊市詫間町の神正院に比定されるようです。
七宝山 三崎神社

神正院は、荘内半島先端にある三崎神社の別当寺であったことは間違いなく、そのため神宮寺と呼ばれていました。問題は、観音寺から岩屋寺までは七宝山沿いにあったルートから大きく外れるという点にあります。
紫陽花が見ごろの荘内半島(紫雲出山・三崎半島)へ / すぎちゃん(^-^)vさんの粟島(香川県)・荘内半島(三崎半島)の活動日記 | YAMAP /  ヤマップ
庄内半島の先にある三崎神社
 しかし、海の辺路である庄内半島の先端に行場が置かれていたと考えるなら「遠くても近い道」だったはずです。33日間で廻行するとすれば、ひとつの行場で4~5日は留まって行を行っていたと考えられます。讃岐西端の海に突き出た庄内半島の先端は行場で、その中宮寺が神正院だったとしておきましょう。ちなみに神宮寺神正院も古くから、七宝山の起源に関わる寺院とされてきたようです。

6つの拠点寺院の紹介の後、縁起は、七宝山の由来が述べられます。
七宝山 七宝山命名の由来
意訳すると
七宝山には九つの秘密の穴があり、弘法大師が大同年間(806~)に七種の秘宝をここに納めた。弥勒が出世する時、弘法大師が高野山奥院の出て、ここに秘蔵した宝を開き、弥勒の御前に持参することになっている。それゆえに七宝山と呼ぶ。
 琴弾八幡大菩薩は垂迹のはじめに、日証上人と問答した。日証上人の本地は釈迦如来で、大菩薩の本地は阿弥陀如来で、これは報身・応身の二身の上地である。
 ここには七宝山には弘法大師が7つの宝をおさめたので「七宝山」と呼ばれるようになったこと。そして、その宝は弥勒の御前に持参することになっていることが記されています。ここにも弥勒信仰がうかがえます。弘法大師の入定信仰が、この地にも伝わり、広められていたことが分かります。その背後には、やはり高野聖的な修験者の影が見えます。

そして、ゴールである我拝師山については、次のように記します。
七宝山縁起5 我拝師山

意訳すると
弘法大師高野大師行状図画 捨身
 我拝師山とは、弘法大師が捨身行で身を投げたときに、釈迦如来が現れ、これを救ったことに由来する。善通寺の鎮守は八幡で、本地は阿弥陀如来であることから結宿とされ、また釈迦・阿弥陀の二尊の土地である。
また当山(観音寺)は西の初宿で金剛界を表す。東の我拝師山は結宿で胎蔵界を表しす。その間は観音の峰で、これは南方の袖陀落山を示す。 つまり、観音寺ある琴弾山周辺は、金胎不二(金剛界と胎蔵界)の観音浄土なのである
(後略)
徳治二年丙午九月三日書写丁
  但他年朧之
  安置之蓮祐
   最後に徳治二年九月三日に書写が終了したと記します。

ここには「当山為鉢、西初宿、為金剛界峯。東は結宿、胎蔵界の義を表す。中は不二惣鉢観音の峰也。是即南方補陀落山を表す」とあります。これを整理すると、次のような構図が見えてきます
①琴弾山(観音寺)は、西の初宿で金剛界
②我拝師山(曼荼羅寺)、東は結宿で胎蔵界
③その間に横たわるのが七宝山(観音の峰)で、これが補陀落山を表している
となるようです。これは、どういうことなのでしょう。
 もう一度、空海が修行したと伝えられる室戸岬周辺を見てみましょう
七宝山 行当岬と室戸岬

①室戸岬に東寺(最御崎寺)
②行当岬に西寺(金剛頂寺)
の東西の札所寺院があります。平安時代はその両方を合わせ金剛窓寺と呼んでいたようです。岬で火を焚いた場所につくられたのが最御崎寺(東寺)で、西の行当岬は「行道」岬です。行当岬の不動岩の下に二つの洞窟があります。今は、不動さんを祀って「波切不動」になっています。ここには次の二つの行道があったようです。
①10㎞隔たった西寺と東寺を往復する行道を「中行道」
②不動岩の行道めぐる「小行道」
③四国全体の海岸を回るのが「大行道」
です。
室戸の東西の二つの行場のあり方を、七宝山に移して考えるとどうでしょうか?
 観音寺の行場が江甫草山の「行人ノ窟」や「鳩ノ窟」だったのかもしれません。そうだとすると稲積山の「断崖=瀧」を結ぶルートが「小行道」になります。そして、観音寺と我拝師山を結ぶルートが「中行道」だったことが考えられます。
 二つの寺の間あるいは二つの山の間をめぐる行道があります。足摺岬の場合は、西の金剛福寺のある山は金剛界です。東の足摺岬の灯台の下には、胎蔵窟と呼ばれる洞窟があります。金剛界・胎蔵界は、必ず行道にされているようです。その両方を行道する必要があります。密教では、全ては金胎両部一体だと説かれますが、辺路修行の場合は、頭の中で考えて一体になるのではなくて、実際に両方を命がけで廻道して一体になることを目指したようです。
  「金胎不二」と難解な言葉で記されていますが、当時の密教修験者たちにとっては「目指すべき目標」とされた最重要キーワードだったのです。ある意味では、修験者たちを勧誘するための「常套句」であり「殺し文句」であったとしておきましょう。
 このように七宝山や庄内半島は、辺地修行ルートだったようです。

結宿として登場する我拝師山は、すでに有名な行場でした。
それは先ほど見たように、弘法大師が幼年の頃に捨身行を行い、釈迦如来がそれを助けたという話が広がっていたからです。高野聖でもあった西行は、我拝師山にやってきて3年間も庵に籠もり、修行を行っています。
西行の『山家集』の「曼荼羅寺の行道どころ」には、次のように記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経書き手うづませおはしましたる山の嶺なり。ほうの卒塔婆一丈ばかりなる壇つきてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおはしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、だんも二重につかまばされたり。のぼるはどのあやうさ、ことに大事なり。かまへてはひまはりつかで廻りあはむ、ことの契ぞ、たのもしか。きびしき山の、ちかひ見るにも。
                                         
 このことは以前にお話ししましたので省略します。
さらに、高野山の内紛騒動で讃岐に流刑となった道範も「南海流浪記」の中で、我拝師山の行場について触れています。弘法大師信仰が広がる中で、我拝師山は全国の修験者たちから注目される行場となり霊山となっていたようです。それを背景として、曼荼羅寺の台頭があったのかもしれません。
 『讃州七宝山縁起』が書かれた頃の観音寺の戦略は、
①観音寺を我拝師山のような全国的な行場として売り出す。
②そのために「八幡信仰 + 空海伝説」を広げる。
③同時に新たな「中辺路」ルートを売り出す。
④そのために観音寺を起点として「七宝山+庄内半島」の行場を整備⑤そして、ゴールを人気有名修行場の我拝師山につなげる

 我拝師山の頂上からは、真っ直ぐに伸びていく庄内半島と、その最高峰紫雲出山が一望できます。さらに西には、「観音の峰」で、補陀落山と記された七宝山が横たわります。全国から我拝師山にやってきた修験者たちは、それは眺めながらここでの修行が終われば、弘法大師が七宝を納めたという山にも行ってみようかと思うようになったのかもしれません。
 ここで疑問に思うのは、弥谷寺の存在です。
七宝山中辺路ルートには、弥谷寺が含まれていません。何故でしょうか?
 これは弥谷寺は、別の修験者達のグループであったと私は考えています。以前にもお話しした通り、弥谷寺とその麓の白方の海岸寺は、善通寺とは別の「空海白方生誕説」を説いていた時期があります。ここからは、善通寺と弥谷寺は系統の違う別の修験者グループだったことがうかがえます。そのために、善通寺と観音寺を七宝山を介して結ぶ「小辺路」ルートには入っていなかったのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、七宝山を経て我拝師山にいたる行道(修行場)のことが記されている
②それによると7つの拠点を33日間で「行峰=行道=小辺路」する修行ルートであった
③このルートは出発の観音寺が金剛界で、ゴールの善通寺五岳の我拝師山が胎蔵界とされた④中世には、このルートは「中辺路」とされ、全国の修行者の行場ルートになっていた。
⑤その結果、各行場の近くには、拠点寺院や庵が姿を見えるようになった。
⑥それらのお寺は、今でも山号は「七宝山」として残っている。例えば、七宝山観音寺、七宝山本山寺、七宝山延命寺など・・・・
⑦これらの行場を結ぶ中辺路ルートは、近世には廃れた。
⑧代わって、素人達の「四国巡礼」の札所巡りのお寺に姿を変えていくことになる。
ここからは、中世の行者達による「中辺路」ルートが、現在の四国遍路道へと姿を変えていく変遷が見えてくるような気がします。

  参考文献
武田和昭 
香川・観音寺蔵『讃州七宝山縁起』にみる弘法大師信仰と行道所  4                                     四国辺路の形成過程所収 岩田書院2012年

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六十八番神恵院、六十九番観音寺は琴弾山の麓の境内に、ふたつの札所が同居しています。そして山上には、神仏分離以前の琴弾宮が鎮座する神と仏の霊地です。以前に見たように、二つのお寺の仏像からは、平安時代前期にはかなりの規模の寺院があったことがうかがえます。『讃州七宝山縁起』は、観音寺や琴弾宮の縁起で、八幡大菩薩や弘法大師のことなどが記されています。また、行道(修行場)のことも記されています。
まずは、弘法大師伝説と行場に焦点を当てながら『讃州七宝山縁起』を読んでみることにします。
 『讃州七宝山縁起』の奥書には「徳治二年九月二日書写了」とあり、鎌倉時代末期の徳治二年(1306)に書写されたことを伝えます。
七宝山縁起1
意訳して見ましょう
 ①讃州七宝山縁起
            鎮守 八幡大菩薩
            修行 弘法大師
 当山は、十方如来の常住し、三世諸仏が遊戯し、善神が番々に守る霊山である。星宿は夜々この地に加護する。是は釈迦伝法の跡であり、慈尊説法の聖地である。一度、この地を踏めば、三悪道に帰ることはなく、一度この山に詣でれば、必ずや三会の暁に遭うことができる。八幡大菩薩が影向し、弘法大師が修行を行ったことにより、大師と大菩薩は、同体分身の身であり、それは世々の契約なのである。
 
それゆえ大祖権現(八幡大菩薩)は、詫宣文に次のように云う。我は真言興起し、往生極楽薩垂する本地真言の祖師である。権現大神の通り、一切衆生を為し、四無量心を起こし、三毒を興さず。これは一子慈悲にして、成三宝興隆の念を成ずる。邪見の念を生ぜず。かくの如く無量劫は五智金剛杵と独鈷法身の形に付属するは普賢薩錘中の天竺善悪畏者が我なりと云々。
 同じ日本国の御詫宣にも云う。汝は知るか。
 我は唐国の大毘廬遮那の化身である。日本国の大日普賢妙の吉祥でもある。宇佐宮は我の第一弟子の釈迦如来である。第二弟子は、大分宮に入定している多宝如来である。第三弟子は八幡大菩薩戒(普賢)・定(大日)・恵(文殊)に付属する故に筥崎といい。本地は阿弥陀如来観音勢至であると云々。
観音寺が聖地であることを述べた後に続くのは、「八幡大菩薩と弘法大師」です。八幡大菩薩と弘法大師は「同体分身」で一体の身であることが説かれます。八幡神と弘法大師の関係は、京都神護寺の僧形八幡神像が弘法大師と八幡神がお互いの姿を描いたという「互いの御影」として伝わっているようです。それを踏まえた上で、この縁起では八幡神と弘法大師が「同伴分身」と、さらに強い関係になっています。
 先にあった八幡信仰に、後からやって来た弘法大師伝説が接ぎ木されているようです。それは14世紀初頭には、行われていたことが分かります。それでは、弘法大師伝説を附会したのは、どんなひとたちなのでしょうか。それは後に見るとして、先を読んでいきましょう。

七宝山縁起3

②宇佐宮 人皇三十代欽明天皇 治三十二年 
最初は、豊前国宇佐郡菱潟嶺小倉山に、三歳の小児に権化して現れ八幡の宝号を示させた。当初の宝号は、日本人皇第十六代誉田天皇(応神)広幡八幡之大神であった。宇佐神宮禰宜の辛嶋勝波豆米之時詫宣の日記には 吾の名護国霊験威力神通大自在王菩薩と記される。ここから八幡大菩薩と呼ばれるようになった。

ここには八幡神の由来が書かれています。注意したいのは、出自が豊前の宇佐の小倉山(宇佐八幡)に始まりることを、強く主張していることです。その他に勧進された分社との本末争いが背景には、あったようです。
観音寺琴弾神社絵図

③次四十二代文武天皇御宇大宝三年(703) 大菩薩手自出 
次四十二代文武天皇御宇大宝三年 大大菩薩手自出 鎮西宇佐社壇、留光蔚当山八葉之宝嶺。是併感応利生之姿、斎度無双之神也 従九州之空白雲如虹之聳 懸当山。彼白雲之下巨海之上 当宮山麓梅脇之海辺、有一艘之船。
 船之中有琴音。其音高仁志天、 楡通嶺松。彼時当山峯本目有止住上人。諱日証 奇問之。御詫宣云。汝釈迦再誕、我是八幡大菩薩也 為近帝都 従宇佐来。而此国可仏法流布之霊地。於茲守護朝家、可蔚異国云々。
意訳しておくと
 大宝三年(703)に八幡大菩薩は鎮西の宇佐八幡宮を出て、当山(観音寺)の八葉の宝峯に留まった。その時には、九州の空から白雲が虹のようにたなびき、琴弾山にかかった。白雲の下の海を一艘の舟が現れ、宮の峯の麓の梅脇浜に着いた。その船からは琴の音が聞こえ、天にも届くほどで、音色は松林と嶺を通り抜けた。
 この時に当山に住上していた日証上人は、怪しみ問うた。当山に古くから止住する日証上人がその船に向かい問うと「汝は釈迦の再誕 我は八幡大菩薩である。帝都に行こうとしたが、ここは仏法流布の地であるので、ここに留まり、国家を守護し、異国を闘閥したい」と云う。
ここでは八幡神が、観音寺にやってきた理由が詳しく述べられます。
この由来に基づいて、以前に紹介した「琴弾宮絵縁起」は書かれているようです。 面白いのは、この八幡信仰に弘法大師伝説を「接木」するために書かれた次の部分です。

④次四十九代光仁天皇御宇 宝亀四年(773)七月、大師父母夢見。
 宝亀四年に弘法大師の父母が、善通寺の館の西に八幡大菩薩が垂迹する夢を見て、母が懐妊した。そして、同五年6月15日に弘法大師が誕生した。弘法大師は、八幡大菩薩の再誕である。

弘法大師が八幡神の再誕という説は、初めて聞く話です。
その後は、弘法大師が延暦23年(804)、31歳の時に肥前国松浦郡田浦から唐に向けて船出することから始まり、長安で恵果和尚から両部の混頂を受け、金・胎の両界曼荼羅や法具・経典などを持ち帰るいきさつが、ほぼ史実に基づいて記されています。このあたりからは、高野山での教育を受けた真言密教系の僧侶(修験者)によって書かれたことがうかがえます。
弘法大師が唐から帰朝後に讃岐に帰って、何を行ったと記されるのか?
 大同元年(804)に弘法大師は唐から帰朝し、太宰府にしばらく留り、その後上洛し、朝廷に上表した後、讃岐に帰った。その際に琴弾八幡宮に参詣した。八幡大菩薩の御詫宣によって神宮寺を建立し、観音寺と号した。金堂の本尊・薬師如来と四天王像を造立し、本堂には同身の大日・薬師・観音像を安置した。

ここには、弘法大師が唐から帰朝後に、観音寺の再建を行い、諸仏を自らの手で彫り上げたと記されます。弘法大師により再建されたことが強調されます。ちなみに、ここに記されている諸仏の多くは、今も観音寺にいらっしゃいます。
観音寺 薬師如来坐像

今はお参りする人が少なくなった薬師堂の薬師如来は確かに丈六の薬師如来坐像です。膝前は後から補修されたものですが、頭・体部は平安時代の11世紀初頭のものとされます。大日如来坐像は12世紀とされます。
観音寺 四天王

四天王は一木造りで、邪鬼と共木とした古風な造りで、やはり十世紀末期とみられています。この縁起の制作者は、観音寺の事情に詳しい人物であることがうかがえます。漂泊の時宗の連歌師が、頼まれて即興で作った縁起ではありません。

そして、次に出てくるのが七宝山が修行場であることです。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
元々、観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿でのために精舎を建立し、石塔49基を起立した事に始まるという。しからば、その仏塔は何のために作られたのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が作った。すなわち異国降伏の請願のために作られたものである。

 この中に出てくる「石塔49基」とは、都卒天の内院にある四十九院のことだと研究者は考えているようです。つまり、ここにも弥勒信仰がみられます。そして、弘法大師手作りという四天王像は、平安時代中期のものとされます。この頃が、観音寺の創建にあたるようです。
以上をまとめたおきます。
①七宝山観音寺と琴弾八幡宮との縁起には、弥勒信仰が濃厚に感じられる。
②先に定着した八幡信仰の上に、後から弘法大師伝説を「接木」しようしている
七宝山にあった行場については、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
       武田和昭 
香川・観音寺蔵『讃州七宝山縁起』にみる弘法大師信仰と行道所
                              四国辺路の形成過程所収 岩田書院2012年
























柿茶ファンの地域ガイドがおすすめする 四国のここにも行ってみて!【大川山】 | 「柿茶」柿茶本舗ブログ 美容と健康に

満濃池から南を望むと低阿讃の山々が低く連なります。
その東奥の方に、周りから少し高くなったピラミダカルな山が目に付きます。これが大川山です。讃岐では2番目に高く、丸亀平野から見える山としては一番高い山になります。そして、土器川の源流にもなります。
①ピラミダカルな山容
②丸亀平野で一番高い山
③土器川の源流 
という3点からしても、この山が古代から霊山として丸亀平野の人たちから崇められてきたことが頷けます。

大山山から金毘羅地図
大川山と阿讃山脈の山々

大川神社の社伝には、この山を最初に祀ったのは、修験者が祖とする
役小角とされています。
彼が諸国を巡歴してこの大川山頂に達した時に、 一人の老翁が忽然と現れて
「われこそは大山祗神なり、常にこの山を逍遥し、普く国内の諸山を視てこれを守る。子わがために祠を建てよ」

と言ったと伝えられます。この神の御告げを受けて、小角は祠を建ててこの神を祀ります。ついで木花咲耶姫命をあわせ祀り、大川大権現と称し奉ったとされているようです。
 ここからは次のようなことが分かります。
①開祖が修験者の役小角であること
②山頂に祀られてのが大山祗神と、その娘の木花咲耶姫命であること
③祀られた神社は、大川大権現と呼ばれたこと
開祖を役小角とするということは、修験者たちの聖地や行場とされていたということでしょう。③の「大川大権現」と呼び名についても、中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということです。その勧進の主役は、修験者達だったことは以前にお話ししました。


大川神社 秋葉神2社
大川神社の中の秋葉神社

大川山信仰にも、石鎚信仰と同じようなスタイルが見えるようです
共通点を見ると、「役小角と権現勧進」でです。
さらに②からは、芸予諸島・大三島の大山祗神神社周辺で活躍した修験者達の影が見えてきます。彼らは熊野系で吉備児島・五流修験の流れとされています。五流修験は、修験道開祖の役行者が国家からの弾圧を受けた際に、弟子達が熊野を亡命し、新コロニーを児島に打ち立ててたと称する修験集団です。「新熊野」を名乗り、本島を始め瀬戸内海周辺に影響力を伸ばしました。
南無金毘羅大権現(-人-) | 【天禄永昌】大美和彌榮・天敬会 今泉聖天<圓密宗量剛寺>

 中世は修験者たちが活躍した時代です。
 現在の金毘羅山(大麻山)も修験者の修行ゲレンデで、多くの修験者たちが集まる「天狗の山」でした。彼らの中には、高野山で修行を積んだエリートもいました。その中から流行神としての金比羅神も生み出され、大権現として勧進され、金毘羅大権現として祀られるようになります。そして、大麻山の南半分は金比羅神の住処として象頭山と呼ばれるようになります。当時の修験者(山伏・時には密教僧侶)たちにとっては、金毘羅さんも大川山も権現で、自分たちの修行場であり聖地であったのでしょう。
 ここからは大川山が霊山として崇められていたことがうかがえます。しかし、中世に活躍した山伏や修験者たちは、大川山に古代の山岳寺院があったことは知らなかったようです。彼らの作った社伝には、一切でてきません。

 大川信仰の拠点となっていた古代の山岳寺院が発掘されて、その姿を現しています。中寺廃寺跡です。
大川山 中寺廃寺
中寺廃寺

大川山から北に伸びる尾根上に周辺の東西400m、南北600mの範囲に、仏堂、僧坊、塔などの遺構が見つかっています。創建時期は山岳仏教の草創期である9世紀にまでさかのぼるとされています。だとすると若き日の空海が、この山に登ってきて修行を重ねた可能性もあります。
中寺廃寺跡地図1

 割拝殿跡とされる空間からは、5×3間(10.3×6.0m)の礎石建物跡が出てきました。面白いのは、その中央方1間にも礎石があるのです。このため仏堂ではなく、割拝殿と研究者は考えているようです。割拝殿とは何なのでしょうか???
大川山 中寺廃寺割拝殿

上のイラストのように建物の真ん中に通路がある拝殿のことを割拝殿と呼ぶようです。この建物の東西には平場があります。一方の平場は本殿の跡で、一方の平場が大川山への遙拝場所と研究者は考えています。その下にある掘立柱建物跡2棟は小規模で、僧の住居跡だったようです。
中寺廃寺跡5jpg
中寺廃寺 遺跡配置

僧侶達は、ここに寝起きして周辺の行場で修行を重ねながら大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げていたようです。空海がもたらした密教は、祈祷や霊力を認めました。その霊力パワーのアップのためには、聖地での修行でポイントをため込む必要がありました。霊験・霊力の高い密教系僧侶(=修験者)は、天皇の近くで重用されることになります。この時代の密教系僧侶は、出世のためには聖地での修行が欠かせなかったのです。そのために国家や、国衙も官営の山岳寺院の建立を行うようになるのが10世紀後半です。この仲村廃寺は、規模や出てくる遺物などから地元の有力者などが建立したものではなく、讃岐国の官営山岳寺院として建立されたものと研究者は考えているようです。ここは多くの密教僧侶や修験者たちが修行を積んだ拠点でもあったのです。
大川山 割拝殿から
割拝殿から望む霊山 大川山

  なぜお寺は、大川山の山頂に建立されなかったのでしょうか?
 大川山は神が宿る霊山で、信仰の山でした。そして中寺廃寺は、遙拝所でした。霊山の山頂には、神社や奥院、祭祀遺跡や経塚が建てられますが、寺院が建立されることはありません。石鎚信仰の横峰寺や前神寺を見ても分かるように、頂上は聖域で、そこに登れる期間も限られた期間でした。人々は成就社や横峰寺から石鎚山を遙拝しました。つまり、頂上には神社、遙拝所には寺院が建てられたのです。

中寺廃寺跡 仏塔5jpg
中寺廃寺 仏塔

 また、生活レベルで考えると山頂は、水の確保や暴風・防寒などに生活に困難な所です。峰々は修行の舞台で、山林寺院はその拠点であって、あえて生活不能な山頂に建てる必要はなかったようです。

大川山 中寺廃寺

 B地区が大川山の遙拝所として利用され始めるのが8世紀
割拝(わりはい)殿や僧房などが建てられるのは10世紀頃になってからのようです。そして、律令体制が崩壊し、国衙の援助が受けられなくなった12世紀には衰退し、13世紀には活動痕跡がなくなるようです。ちなみに、中寺廃寺から讃岐山脈を、
東に向かえば、
大瀧寺 → 大窪寺 → 水主神社(東かがわ市)
西に向かえば、
尾野瀬寺(まんのう町春日 → 中蓮寺(三豊市財田町) → 雲辺寺(観音寺市大野原町)へ
と続き、さらに伊予の山岳寺院につながってました。このようなネットワークを利用して、熊野修験者や高野聖たちが「四国辺路」をめぐっていたようです。そのようなネットワークの一つが大川山であり、その拠点が中寺廃寺であったようです。
   中寺廃寺は中世には廃絶しています。しかし、寺院はなくなっても人々にとって聖地であり、霊山であり続けたようです。
それが分かるのがCゾーンに残された「石組遺構」です。調査報告書は、これを「石塔」としています。仏舎利やその教えを納めるという仏教の象徴としての「塔」です。「塔」を建てる行為は、功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。それは、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで含みます。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」で「作善行為」だったというのです。

大川山 中寺廃寺石組遺構
石組遺構は作善の「塔」

童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻に
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る

と見えます。平安時代中頃には、石を積んで石塔とする行為が、年中行事化していたようです。「三宝絵」下巻(僧宝)は、二月の行事として、次のように記します。
  石塔はよろづの人の春のつつしみなり。
諸司・諸衛は官人・舎大とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。(中略)
 仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為として、階層を越えた人々に広がっていたようです。この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族というよりも、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人が「石塔」を行なったのではないかと研究者は考えているようです。
 中寺廃寺のAゾーンの本堂や塔などは、僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する里人達の祈りの場であり交流の場であったのかもしれません。ここで、大川権現に対しての祈りの後には、宴会が行われていたとしておきましょう。
 こうして、中世に中寺廃寺が姿を消しても、大川山が霊山であることに変わりはなかったようです。そして、この山を修行ゲレンデする修験者たちの姿が消えることもなかったのです。 
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。
「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。是非、その頃に大川山詣でをして、この谷の河原で石積みを行いたいと思います。
大川山 中寺廃寺石組遺構2

 中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということでした。
その勧進の主役は修験者達でした。そして、権現を管理することになるのは里の別当寺でした。石鎚山を見てみると、役小角伝説が広がり、その門弟を祖とする「修行伝説」を生み出されます。その結果、どこの霊山も開祖は役小角となっていきます。そして、里には横峰寺や前神寺などの別当寺が姿を現すようになります。
 それでは、大川山信仰の別当寺はどこにあったのでしょうか?
残念ながらこれに答えられるような史料はありません。状況証拠を集め、候補のお寺を挙げてみましょう。
尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)
① 尾ノ背寺(まんのう町本目)
 大川山の西北の財田川を見下ろす尾根の上にある尾野瀬神社の境内にあった山岳寺院です。
尾瀬神社 - 仲多度郡まんのう町/香川県 | Omairi(おまいり)
尾野瀬神社(尾背廃寺跡)
この寺については、高野山の学僧道範が讃岐に追放されていた宝治二年(1248)11月に、ここを訪れ『南海流浪記』に次のように記しています
「此ノ寺ハ大師善通寺建立之時ノ杣山云々、本堂三間四面、本仏御作ノ薬師也、三間ノ御影堂・御影井二七祖又天台大師ノ影有之」
とに書いている。ここからは、尾ノ背寺が善通寺建立の際には、木材を提供するなど森林管理と同時に、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。
江戸時代に、金毘羅金光院に仕えた多聞院が編集した〔古老伝旧記〕に
「尾ノ背寺之事 讃州那珂郡七ケ村之内 本目村上之山 如意山金勝院尾野瀬寺右寺領
新目村 本目村  本堂 七間四面 諸堂数々、仁王門 鐘楼堂 寺跡数々、南之尾立に墓所数々有 呑水之由名水二ヶ所有(後略)」
とあります。
また大正七年(1918)の『仲多度郡史』には「廃寺 尾背寺」として
「今の尾瀬神社は、元尾ノ背蔵王大権現と称し、この寺の鎮守なりしを再興せるなり、今も大門、鐘突堂、金ノ音川、地蔵堂、墓野丸などの小地名の残れるを見れば大寺たりしを知るべし」
「古くは尾脊蔵王大権現と称えられ、雨部習合七堂伽藍にて甚だ荘厳なりしが、天正七年兵火に罹り悉く焼失。慶長十四年三月、その跡に小祠を建てて再興
(中略)
明治元年 尾ノ背に改め尾の瀬神社と奉称」
ここからは「尾脊蔵王大権現」と呼ばれ、山伏たちの活動拠点となっていたことがうかがえます。尾ノ背寺は、中寺廃寺が活動を停止した後も、中世を通じて活発な書写活動が行われていたことが萩原寺の経典などからも分かります。中寺廃寺に代わって、大山エリアまでテリトリーにおさめていたのではないかという仮説です。しかし、尾野瀬山からは、大川山を仰ぎ見ることはできません。遙拝所としては、弱いようです。
大川山 金剛院
炭所東の金剛院 裏山は全体が経塚

第二候補は、まんのう町炭所東の金剛院です。
  金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、楼門前の石造十三重塔は、鎌倉時代中期に建立されたものです。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれ、山全体が経塚だったことが発掘調査で分かっています。部落の仏縁地名や経塚の状態から見て、当寺は修験道に関係の深い聖地であったと研究者は考えているようです。
 想像を膨らませると、全国から阿弥陀越を通り、法師越を通ってこの地区に入った修験者の人々が、それぞれの所縁坊に杖をとどめます。そして、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に参籠し、看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者に言伝(伝言山)を残し、次の霊域を目指して旅立って行きます。それが「辺路修行」だったのです。これが、空海伝説と結びついていくと「四国遍路」になっていくと研究者は考えているようです。

大川山 金剛院2

 修験者たちは写経などのデスクワークだけをやっていたのではありません。霊山行場で修行も求められました。大川山は、最適の修行ゲレンデです。山での荒行と、写経がミックスされた修行を、この地で行い、写経が終わると、次の行場に向かって「辺路修行」に旅立って行ったのでしょう。 大川山の里の別当寺としては、こちらの方が可能性が高いようです。金剛院は、大川山信仰の別当寺だったという仮説を出しておきましょう。
中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺跡 仏塔跡
全国からやってきた修験者(山伏)たちの中には、里の寺院を拠点に周辺の村々に布教活動を行う者も現れます。
 高野聖の念仏聖たちは里の人々と交流を続けながら自分たちの聖地に、信者達を参拝に連れてくるという方法を採用します。それは熊野詣に始まり、立山詣や、富士詣につながっていく先達が信者達を聖地に誘引するというやり方です。これは、今の四国霊場巡りにもつながるスタイルです。
 死者の霊の集まるといわれた三野町の弥谷寺に住み着いた高野聖は、先祖詣りを勧め、そしてその延長に高野山への先祖納骨活動を展開します。それが三豊では弥谷寺でした。
 また、近世になると石鎚信仰や剣信仰のように先達が里の信者を誘引して、霊山への集団登山という活動を展開する別当寺も現れるようになります。
  それでは、大川山周辺の修験者や山伏たちは、大川山をどのように売り出そうとしたのでしょうか。
  それは、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  琴南町誌747P 宗教と文化財 大川神社
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  讃岐地には2000を超える横穴式石室墳が築かれたようです。しかし、多くは失われてしまいました。現在、石室の規模や形が分かっているのは、その約1/10の235になるようです。その玄室規模 (面積) をグラフで示すと次のようになります。
綾北 香川の横穴式古墳規模

ここからは次のようなことが分かります。
①玄室床面積5㎡前後の石室が最も多く、8㎡未満の横穴式石室 が 全体の約8割
②10㎡ 級の石室は26基で、全体の一割強
③13㎡を超える大型クラスはわずかに8基
ちなみに
床面積5㎡では、玄室長3,5m 幅1,2m 、
床面積8 ㎡では、   4m   幅2m ほどの広さになります。 
大形の横穴式石室墳(玄室床面積8㎡以上)がどこに多いか見てみましょう
綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布

A 石室が13㎡を越える大型古墳(赤)は、①大野原②綾北③善通寺にしかない
B また大型横穴式古墳は、大野原と綾北に集中する
C 東讃に大型巨石墓は少ない
D 中小河川沿いに大形石室墳が少なくともひとつはある。
A・Bからは、古墳時代末期において①大野原や②綾北平野を拠点にする有力者がいたことがうかがえます。
Cからは、東讃がすでにヤマト政権下の直接統治を受け始め、大型横穴式古墳を造れる首長達が少なくなったことを示すのかもしれません。
Dからは、律令制国家になると讃岐では河川水系ごとに「郡」を設置されます。河川毎に、大型横穴式古墳があるというのは、後の郡領相当の有力者をこのクラスの大形石室墳の造営者層と考えることも出来ます。しかし、巨石墳の分布上の偏りがはっきりと見えます。
ここでは、綾川河口の綾北平野に注目してみましょう。
綾北平野の8㎡を越える大形石室墳を紫色で示したのが下のグラフになるようです。
綾北 香川の横穴式古墳規模2

綾北平野に讃岐では超大型の横穴式古墳が多いことが改めて分かります。 研究者は次のようなグラフも用意しています

綾北 香川の横穴式古墳規模3

一番右のグラフで見方を説明すると、讃岐の13㎡ 超クラスの8基の地域別数を示したグラフです。真ん中に8基とあるのが讃岐にある古墳数です。綾北平野が赤、三豊が黄色で示されています。阿野郡北部にあたる綾北平野と椀貸塚古墳・平塚古墳などの3つの巨石墳が並ぶ大野原古墳群が突出しています。6世紀末期の蘇我氏全盛時代には、この2つのエリアに、讃岐の最強勢力はいたと言えそうです。
大型石室墳が集中する綾北平野の後期古墳 ( 横穴式石室墳 ) の分布を見てみましょう
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布
全体で45の大型古墳(横穴式)があったようです。これらを分布からグルーピングする3つに分かれれるようです。

綾北 綾北平野の横穴式古墳分布2

ひとつは、城山温泉周辺の醍醐古墳群です。
ここには、綾北平野最大の巨石墳があります。醍醐 2 号墳 (15.8 ㎡) と同 3 号墳 (15.6 ㎡)です。 三豊 南 部 の 平塚古墳(大 野 原 古 墳 群 18.3 ㎡) に次ぐ規模で、このサイズの巨石墳は他に縁塚 4 号墳 ( 三豊南部 ) と大塚池古墳 ( 善通寺 ) が知られるだけす。 醍醐4号墳 (11㎡ ) と同7号墳 (10.9 ㎡ ) も他地域ではトップクラス巨石墳のクラスです。
 綾川を挟んだ蓮光寺山南麓の鴻ノ池周辺にも、ひとつのグループがあります。
山ノ神 2 号墳 ( 推定 10.6 ㎡ )、鴻ノ池 4 号墳 (10.4 ㎡ )を筆頭に巨石墳が集中します。巨大な石組みだけが鴻ノ池に残る鴻ノ池 1 号墳もこれらに匹敵する規模のようです。北側の烏帽子山中腹には、これらを見下ろすように、単独で綾織塚古墳 (13.8 ㎡)があります。
 平野南端の丘陵には新宮古墳(12.8 ㎡)が単独で立地します。

綾北平野に巨石墳が次々と造られたのは、いつなのでしょうか?
綾北平野に巨石墳が集中することの意味を知るためにも避けては通れない課題です。今のところ綾北平野では 6 世紀後半より以前の横穴式墳は見つかっていないようです。

坂出古墳編年

雄山山麓には6世紀前半代初期の横穴式石室を持つ雄山古墳群がありますが、古墳時代中期の後半段階以降、綾北平野は目立った古墳が確認できない空白エリアであったようです。
 大型石室墳の築造は新宮古墳から始まるようです。
そして、これと同時に中小形の横穴式石室墳も登場します。新宮古墳の石室は、大野原の椀貸塚古墳の特異な形態(複室構造)を引き継ぎ、その一部を省略したものと研究者は考えているようです。型式的には、椀貸塚古墳と平塚古墳の中間にあたるようです。つまり 
①椀貸塚古墳→ ②新宮古墳 →③平塚 

という系譜に位置づけられます。
年代は、羨道前面から出土した須恵器の特徴から6世紀末から7世紀初頭とされます。さらに、綾織塚古墳と醍醐3号墳の石室は、新宮古墳の特徴を簡略化させながら引き継ぐので、新宮古墳に続く時期と研究者は考えているようです。
 醍醐2号墳は、さらにもう一段階新しいもので、醍醐4号墳、鴻ノ池1号墳,同4号墳、山ノ神2号墳は醍醐3号墳や醍醐2号墳と並行して、同時期に造られたようです。
 玄室と羨道がほとんど一体化するなどニュースタイルの醍醐7号墳、同 8号墳、鴨庄1 号墳、お宮山古墳は、さらに新しい時期の古墳となるようです。
 そして醍醐7号墳で綾北平野の巨石墳築造は終わります。
この終焉期は横穴式石室は7世紀半ばの角塚古墳(大野原)や大石北谷古墳(旧寒川郡)に共通するので7世紀半ば頃と研究者は考えているようです。つまり、先述したように大野原や綾北平野で横穴式石室を持った大型墳が築かれるのは7世紀半ばまでなのです。それは中央での蘇我氏の全盛期と符合します。
ここで研究者は、次のような疑問を出します。
①新宮古墳が造られてから半世紀の間に綾北平野には、いくつの大型古墳が造られたのか。
②8㎡以上だと24の大型古墳が造られたことになるが、ひとつの氏族だけで半世紀で築けるのか
③半世紀だとせいぜい2世代か3世代の代替わりが行われたとすると
24÷2世代=12グループ 
24÷3世代=8グループ 
のこのクラスの墳墓を築きうるような有力グループの存在を考えなければならなくなる。
そんなに多くの有力者が綾北平野に並び立っていたのか?

研究者が投げかけているのは、飛鳥のヤマト政権が豪族連合政権であったように、綾北平野にも讃岐の有力豪族グループがここに結集していたのではないかという仮説です。
綾川流域の平地を見下ろす山腹の各所に、巨石墳が分かれて築かれている事実はこの推測に合います。それでも醍醐古墳群や山ノ神・鴻ノ池の古墳群に属する巨石墳は多過ぎるかもしれません。これら自体が複数グループの有力者の共同墓所的な性格を持つのなら説明ができます。
 
綾北平野の隣接地域では、逆の展開が読み取れるようです。
綾川を遡った羽床盆地では、古墳時代中期から後期の初めまで津頭東古墳、津頭西古墳、般若ヶ丘古墳などの有力墳が連続して築かれていました。ところが後期半ば以降は、大形の横穴式石室墳が築かれることはありませんでした。額坂峠を越えた城山西南麓一帯には、中期末から後期後半までには国持古墳、久保王塚古墳など有力墳がありますが、新宮古墳以降には大型石室墳はでてきません。
 国分寺盆地でもや大形の横穴式石室を持つ石ヶ鼻古墳がありますが、石室形態から新宮古墳に先行するものです。新宮古墳以後は、横穴式石室墳はありません。
 こうした状況を踏まえて、研究者は次のような仮説を提出します。
  古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)

 この立場に立つと、次のような事が描けるようになります
①6世紀末に蘇我氏は、物部氏を破り、物部氏の持っていた瀬戸内海の拠点を自己の支配下におさめた
②物部氏の支配下にあった大野原・三野津・綾北平野は蘇我氏の影響下に入った。
③綾北平野の勢力は、大野原勢力と同盟し新たな技術や文化を取り入れた
④そして、綾北平野の入口に大野原勢力から学んだ大型横穴式古墳を造営した
⑤新宮古墳は、綾川流域や周辺地域の統合のモニュメントでもあった
⑥以後、連合関係を形成した有力者達は綾北平野の開発を進め、それぞれの拠点に「墓域」を開き大型墳墓を次々と造営していく。
⑦蘇我氏の失脚後も、白村江以後の臨戦態勢の中で勢力を維持し朝鮮式山城を城山に築く。
⑨このような危機感の中で指揮権を握り、他地域の豪族よりも一歩ぬきんでた力を持つようになる。
⑧さらに律令体制下においては、府中への国衙誘致を行い、南海道整備なども進めた

ここからおぼろげながら見えてくることは、7世紀前半は綾北平野が讃岐の「飛鳥」だったといいうことでしょう。ここに周辺の有力豪族が集中して拠点を置いていたことがうかがえます。そのために、ヤマト政権から白村江以後の臨戦態勢下で朝鮮式山城の築城を命じられて時にも、この地を守るために城山を選んだのでしょう。さらに、律令体制が整えられる7世紀末に、国府をこの地に造営し、南海道を整備したのもこの地を拠点とする勢力だったのでしょう。それを、綾氏とする考えもあります。
  しかし、綾氏単独の支配エリアではなかった。複数の有力豪族が拠点を置く政治空間だったというのは面白いと思います。

以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
         大久保徹也(徳島文理大学)  坂出市綾北平野の巨石墳

坂出 綾川河口地形図

以前に古地名から綾川河口の歴史を探ろうとするアプローチを紹介しました。今回は用水路を探ることで、讃岐国府に通じる綾川河口エリアの歴史を紐解こうとする試みを紹介します。これは、香川県の埋蔵文化センターのが平成22・23年度にボランティア調査員と現地調査を行った研究成果として報告書にまとめられたものです。水田ごとの取排水口の確認、基幹用水路からの導水経路の確認を現地で行い、水利慣行についての聞き取り調査を行ってまとめられています。膨大な手間と時間を掛けて作られたものです。

  まずは対象エリアと前回の地名調査から分かったことを確認しておきましょう。
綾川が府中に流れ落ちてきて不自然なドックレックを繰り返すあたりが讃岐国府の推定地で、いまも発掘が続けられています。そこから綾川は西に傾きながら北流していきます。

3坂出湾4

古代は高屋町と林田町の境になる雄山・雌山あたりが海岸線で、高屋町に国府の外港・松山港、林田町の総社神社辺りに交易港が置かれていたと研究者は考えているようです。そして、雄山・雌山の南辺りまでは条里制地割が残っていますが、それより北には見えません。また、雌山より北は近世になって干拓されたようです。

3綾川河口条里制
   前回の地名調査で分かったことを確認しておきましょう
①古代条里制が施行されたのは林田町南部まで
②林田町の北部は中世に「潮入新開」として海浜部の一部が開発された
③大部分は「綾ノ浜」と呼ばれる遠干潟が広がっていた。
④新田開発が行われたのは17世紀後半以降で
⑤干潟の開発や港の築造が行われ、港では米をはじめとする物資の積み出しが盛んに行なわれていた

坂出 綾川河口灌漑水路図2

調査報告書は、まずこの地区の灌漑用水路網の現状を確認します。
①加茂町南東部(字杉尾付近)では五色台山塊麓にある溜池から灌漑する
②加茂町の大部分は鴨用水、氏部井口用水から灌漑する
③林田町では氏部井口用水、今井用水、総社用水、濱用水、西梶用水、郷佐古用水、新開。与北用水、大番・横井用水、鞍敷用水から灌漑し、溜池灌漑はない。
④神谷町・高屋町の一部の地域は神谷川と新池から灌漑するが、大部分は三ケ庄用水から灌漑する。
現在は、鴨用水、氏部井口用水、今井用水、総社用水、濱用水、西梶用水、郷佐古用水、三ケ庄甲水は府中ダムを水源とする北條幹線用水路から取水しています。この北條幹線用水路は府中ダムからトンネルで坂出市立府中小学校の東まで導水して、地上に水路として現れます。水路は綾川右岸沿いを走り、林田町字東梶乙の西梶用水と濱用水の分岐点で終点となります。この区間の長さは4,097mです。この用水路は、府中ダム完成7年後の昭和48年(1973)に使用を開始しています。それ以前は、綾川町にある北條池を水源とし、綾川を経由して取水していたようです。
坂出 綾川河口灌漑水路図1

かつての綾川の取水口の位置をしめしたものが上図になるようです。ここで分かるとおり、現在、綾川から取水するのは新開・与北用水だけのようです。
これらの用水路は、いつ頃み開かれたのでしょうか?
手がかりは『阿野郡北絵図」(図3)です。

坂出 江戸時代絵図

上図は鎌田共済会郷土博物館が所蔵する模写図で、江戸時代の絵図を昭和12年(1937)に鎌田共済会が模写したものです。現在の坂出市林田町・加茂町・王越町をはじめとする坂出市北部が描かれています。作成年は記されていませんが、ある程度推測ができるようです。

 研究者が、どのように年代推定を行うのか見てみましょう
A手がかりにするのは塩田です。
①木沢浜の塩田(現在の坂出市王越町)
②末包新開(現在の坂出市江尻町)
が描かれています。木沢浜は宝暦8年(1763)、末包新開は文化元年(1804)に出来上がっています。そこから絵図は、文化元年(1804)以降に作成されたことが分かります。
B 文政9年(1826)に干拓工事を開始し、天保4年(1833)に完成した③坂出墾田は描かれていません。以上から『阿野郡北絵図』に描かれた姿は、文化元年(1804)以降天保4年(1833)以前のものと研究者は考えているようです。
絵図を拡大して見ましょう。
坂出 阿野郡北絵図拡大

 この絵図には山・川・池、村名・村境のほかに、道や用水路が描かれています。山裾の池の名まえはすべて記されていますが、用水名は一部のみです。絵図に描かれている用水路は鴨用水、三ケ庄用水、氏部井口用水、今井用水、郷佐古用水、新開・与北用水、濱用水のようです。山裾沿いに鴨用水が北流し、雄山の南の条里制区割り地区に導水されていたことがよく分かります。この絵図が書かれた天保4年(1833)以前には、これらの用水路は機能していたようです。
 また、神谷川から出る用水路は描かれていません。絵図の成立時期には大番・横井用水はまだなかったようです。明治維新後の名東県時代(明治6~8年)に成立した壬申地券地引絵図には、大番・横井用水が描かれています。そこから大番・横井用水が出来たのは、明治維新前後だったと研究者は考えているようです。
一方、雄山ラインから北部には用水路は、あまり伸びていないようです。幕末期になっても、綾川河口の北部エリアの水田化は遅れていたことがうかがえます。
 しかし、地名調査からは林田町北部には、新たに開発された田畑が広がっていることがわかってきました。
水田ができても、水の確保なしでは稲は実りません。水田と灌漑水路はセットで作られたはずです。水田開発が行われていれば水路も作られているはずです。水田開発の時期を明らかにすることで、用水路の開削時期を知ることができると研究者は考えているようです。
そこで次に研究者は、水田化の状況から見きます。
その際の手がかりは、以前に紹介した検地帳に記された古地名を調査の成果です。

坂出 検地帳古地名

検地帳には、年貢の課税単位である免ごとに田畑の情報が記されています。図4をみると、雌山より北の林田町北部には「新開」「新興」の付く古地名が多いのが分かります。これは、新たに開発された田畑であるということです。「新開」・「新興」の付く地名が多いのは濱(浜)免・古川免になります。
坂出 綾川河口灌漑水路図2

上図の各用水路の灌漑域をみると、濱免は大香・横井用水と濱用水の灌漑域、古川免は西梶用水と新開・与北用水の灌漑域に当たります。
濱免の田畑の古地名には「元禄六酉新興」というように、「新興」の前に「元禄六酉」という年紀が付けられたものが多いようです。この年紀は、田畑として開発した後で、初めて検地をした時に付けられたもののようです。そのため濱免の田畑は、元禄6年酉年(1693)の少し前に開発されたことが分かります。
 古川免では年紀の付くもの少ないのですが「延宝二寅新興」・「宝永六巳新興」。「安政二卯新興」がありますので、延宝2年寅年(1674)・宝永6年巳年(1709)・安政2年卯年(1855)頃に開発された田畑があることが分かります。
西梶用水の灌漑域の北部は、古川免の東部に当たります。
この付近の古地名には「新開」が付いています。ここから新しい開発であることが分かります。しかし、年紀がないので開発時期は分かりません。
新開・与北用水の灌漑域は古川免の西部になり、灌漑域は延宝2年(1674)、中部は宝永6年(1709)、南部は安政2年(1855)頃と数回に分けて開発されたようです。延宝2年(1674)に開発された田畑は新開・与北用水の幹線に西接しますので、新開・与北用水は延宝2年(1674)頃に開削された可能性が高いようです。
 大番・横井用水と濱用水の灌漑域は濱免に当たります。
濱免は古地名から元禄6年(1693)頃に大規模に開発したことが分かります。先述のように絵図から大番・横井用水は濱用水よりも後に作られたと考えられるので、濱用水が先に開かれ、その時期は元禄6年(1693)頃になると推測できます。
また、「阿野郡北絵図』をよくみると濱用水は途中で2本に分岐します。
坂出 阿野郡北絵図拡大4

 1本は海岸近く、もう1本は弁財天の北を走り、大番・横井用水の灌漑エリアのほうまで延びています。現在、弁財天は林田町にある惣社神社に合祀されていますが、元は惣社神社の200m北西の県道太屋富・築港・宇多津線の路線内にあったと伝えられます。現在、濱用水は元弁財天のあった場所の北方に北東方向に走る2本の幹線用水路があります。これらの2本の用水路が絵図に描かれた用水路の可能性が高いようです。以上から推定すると、このあたりは元禄6年(1693)頃に開発され、賓用水だけで灌漑していたのが、水量が不足したので、江戸時代末頃神谷川を水源とする大番・横井用水が開削されたのではないかと研究者は考えているようです。
三ケ庄用水が開かれたのはいつのなのでしょうか。
 それは平成23年度の竹北遺跡の発掘調査が手がかりを与えてくれるようです。ここからは南東から北西に走る河川跡が出てきて、埋没時期は平安時代から鎌倉時代とされています。この河川と三ケ庄用水が重なるとすると、三ケ庄用水は河川が埋没後の鎌倉時代以降に開削された可能性が高いと研究者は考えているようです。
また、鴨用水と三ケ庄用水、今井用水と総社用水が開かれた順番を考える材料に「用水管理の既得権」へ配慮があります。古い用水路が優先され、後発用水路はすでにある用水路に影響を与えないように設計されます。先発組優先なのです。
そのような視点で鴨用水と三ケ庄用水を見ると、
①鴨用水のほうが上流で取水する。
②加茂町南部で両用水路が交差する際には、三ケ庄用水は鴨用水の下をくぐり、鴨用水の灌漑域の中を通って灌漑域に達する。
③今井用水と総社用水の関係をみてみると、今井用水のほうが総社用よりも上流で取水する。
④総社用水は林田町南部の坂出市立林田小学校の北東部で今井用水の下をくぐり、今井用水の灌漑域の中を通って灌漑域に達する。

先発する用水路の上から水を導水することは、水利用の既得権に反することで騒動のもとになります。用水が交差する際には、後発組が下を通過するように設計されます。ここからは 
鴨用水 → 三ケ庄用水    
今井用水 → 総社用水
という前後関係がうかがえます。
以上のことから、現在みられる加茂町・林田町・高屋町付近の用水路は江戸時代末までには作られていたことになります。
 この中でも、
①新開・与北用水は延宝2年(1674)頃、
②濱用水は元禄6(1693)頃、
③大番・横井用水が最も新しく江戸時代末頃
に開かれた用水になるようです。その他の用水路の開かれた時期は不明ですが、鴨用水よりも三ケ庄用水、今井用水よりも総社用水の方が新しいようです。このなかで、三ケ庄用水は一番古いのですが、それでも古代に遡ることはないようです。鎌倉時代以降に開削された可能性が高いと研究者は考えているようです。
 加茂町、神谷町西部、高屋町南部、林田町南部には条里地割が広がります。
3綾川河口復元地図2

条里地割は西に24度傾き、N-24°Wを示します。
綾川河口の灌漑システムを大きく見ると、南北方向に基幹用水路を作り、条里地割と組み合わせて、全体に水が行き渡るように工夫しているようです。鴨用水は山麓沿いに幹線用水路を設置し、この用水路から樹形状に数本の用水路を分岐し、北方向に流します。東西の水路へは堰板等を利用して分水します。大部分の水田の細長く、水田の取水口はどこも水田の短辺に設けられています。

坂出 阿野郡北絵図拡大

 三ケ庄用水は綾川から取水して、鴨用水の灌漑域の中を北方向に直線的に走ります。鴨用水の灌漑域の中でも三ケ三用水が走る場所は最も低い場所であり、用水路は深く、鴨用水の排水を集めながら北方に走ります。
 三ケ庄用水は灌漑域に達すると数本に分岐し、条里地割の間を基本的に北方向に流れます。やはり頁西の水路へは、堰板を利用して分水します。ここでも大部分の水田の平面形は細長く、取水吉は短辺に設置されています。氏部井口用水は、綾川の右岸沿いに走る基幹水路から東西に樹形状に再水路を分岐させ、条里地割に沿って北方向に走り、神谷川に至ります。
三ケ庄用水の灌漑域には整然とした条里地割が広がりますが、用水が開かれたのは鎌倉時代以降である可能性があります。そうだとすると三ケ庄用水の灌漑エリアは。鎌倉時代以降に開発したものになります。
5讃岐国府と国分寺と条里制

 かつては、現在に残る条里制区割りを古代にまで遡らせて考えていました。例えば次のような主張でした。
「綾川河口エリアの条里制ラインが引かれたのは白鳳時代で、それと同時一斉に、造成工事が始まった。それを行ったのが新宮古墳に代表される地域の有力豪族だ」

 しかし、その後の丸亀平野や高松平野の考古学的な発掘調査で分かってきたことは、南海道が直線的に設置され、それに直角に条里制ラインは引かれた。しかし、それと土木工事の時期は一致しないということです。ラインが引かれたままで、その後は長らく放置され、中世になってから水田化が進められたような実例が数多く出てきたのです。この綾川河口においても、用水路を見る限り、水田化は中世に始まるエリアもあると研究者は考えているようです。

3綾川河口復元地図
条里制中央部を南北に貫通していた「馬さし大貫」道があった?
  出石一雄氏は、綾川河口エリアの中央を、南北に通る農道(馬さし大貫)を南北の基準線として条里地割が施行されたのではないかと推定しています。
この道は、雄山の南から綾川の南の府中まで延びていたと伝えられます。これを「馬さし大貫」と、呼んでいたと云います。道幅が広いので馬を走らせる練習をしたり、加茂から林田へ行くのに使われていたようです。この農道に隣接して用水路が走りますが、この農道は加茂町と林田町との町境であり、坂出市立白峰中学校の北側では氏部井口用水と三ケ庄用水の灌漑域の境界にもなっています。中学校の南側の三ケ庄用水の灌漑エリアが、馬さし大貫の西側にあたると研究者は考えているようです。ここは元来、氏部井口用水の灌漑エリアですが、末端であるため水が不足し、江戸時代後半の寛政年間(1789~1801)に水争いが起こり、その後三ケ庄用水の灌漑エリアになった経緯がある地域です。このように、馬さし大貫は灌漑エリアの境界にもなっています。南海道などの大道が古代の行政区画の境界になっていたことを思い出させます。
 三ケ庄用水の灌漑エリア全体が開発されたのは鎌倉時代以降で、鴨用水の灌漑エリアよりは開発が遅れた可能性もあるようです。その場合は、雄山から綾川まで走る馬さし大貫は少しずつ作られたことになります。条里地割ともに馬さし大貫ができた時期についても、今後の検討課題のようです。
4林田町1

以上、用水路の分析からは古代に遡るモノは見当たらないということでしょうか。しかし、雌山より北側や綾川流域の開発は、近世になってから断続的に進んだことがうかがえます。また、雄山の南部も古代から水田地帯ではなく、早くとも中世、遅ければ幕末に掛けて用水路は整備されたことが分かります。 
 古墳時代末期から古代にかけて、綾川河口の開発が進み、その経済的な発展を背景に在地有力豪族の綾氏が台頭したという物語を描くのには無理があるようです。

参考文献 讃岐国府跡探索事業調査報告 平成23・24年度 地形・地名調査

  

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


 6 阿讃国境地図

まんのう町美合や勝浦あたりでは、阿波へ行くのも、隣村へ行くのも、どうしても峠を越えねばなりませんでした。阿波との阿讃山脈にも多くの峠があったことが、江戸時代の絵図を見ていると分かります。
4 阿波国絵図3     5

東から、龍王山から大川山の間にも寒風越、三頭越、二双峠、滝の奥越、真鈴峠と5つの峠が記されています。このうち二双峠は、峠を越えてからもう一度立石峠を経て阿波へ下っていく道でした。
阿讃国境地図 琴南の峠2

 讃岐の隣村へ越えて行く峠には、塩江町の只の股へ越える浅木原峠、塩江町・綾上町方面へ越える雨島峠、綾上町の牛の子堂に出る焼尾峠、綾上町の角の内に出る首切峠などがあります。このほかにも名もない峠は多くあり、峠を越え人やモノが行き来したのでしょう。
モノの多くは、
行商人のもたらしたもの、
一種の宗教人が漂泊しながら携えてきたもの、
金毘羅参りの人々がもたらしたもの
などがあったようです。琴南町誌の中から各峠について書かれていることを拾い上げてみます。
阿波国大地図 琴南の峠1

美合の奥のソラの人たちは、阿波の貞光にはよく買物に行ったようです。その際に使うのが、寒風越でした。峠の頂上まで来ると、急に寒い風が吹いてくるので寒風峠と呼ばれるようになったといいます。
竜王山(讃岐山脈)・大川山 少し近付いてきました。

 この峠の山続きに蛇の道というところがありました。道が曲がりくねっていて、ところどころがくぼんでいて、それは大蛇が通った跡だろうと話ながら歩いたそうです。
 三頭越は、阿波からの金毘羅参りの人々が通った峠です。
三頭越え ハイキングルート

その登り口に大師堂があります。その川向かいは、昔、茶堂があった跡で、金昆羅参詣者が休憩したところです。大師堂には以前にお話した道作り坊主の了念が建立したという陸中二十四輩の石像があります。これは了念が、生国が陸中であるために建てたものだと伝えられます。道作り坊主の了念については、以前にお話ししましたので省略します。
三頭越え 久保谷の大師堂

 滝の奥越は、土器川の源流で今は「源流碑」が建てられています。ここから阿波の滝寺へ下りて行く道が続きます。滝寺へは、養蚕が盛んであった時代は、美合の農家の人々もこの峠を越えて参詣に行ったようです。
阿讃国境地図 琴南の峠2

 勝浦から真鈴峠へ行く途中に四つ足堂があります。
かつては、このお堂では湯茶の接待があったといいます。そして一軒の茶店があって、うどん、酒、たばこぐらいは売っていたようです。
 真鈴峠を越えると三野町へ入りますが、峠を越えると大屋敷の剣山神社があり、牛追い達は、ここで休んでいたようです。
 真鈴峠の頂上近くに清水がわき出ていて、もとは真清水峠と呼んでいたようです。旅人は、この峠で一杯の清水にのどをうるおしました。大屋敷は水が乏しいので、昔はそばを持って来てこの水と交換していたという話が残っています。

 勝浦や美合高松の城下へ出るには焼尾峠を越えました。
峠を越えてから粉所の新名を経て、山田へ出て岡本で高松街道に出て高松へ向かったいたようです。あるいは焼尾峠から陶へ出て行くルートも使われました。しかし、焼尾峠は恐ろしい峠で、追いはぎも出たし、妖怪の話もあったと云います。
 二双峠は頂上にニソの社があります。
ニソの社というのは、もとも祖先の霊のこもる森のことです。峠を越えて行く旧道は、谷川に沿ってどんづまりまで行き、それから急坂をよじ登ったといいます。

立石越(二双越)

山中の村では、病人が出来るとふごの中に雨戸を載せて、その上に寝せたり座らせたりして連れて行きました。荷物を運送していた者に、ダチンカツギ(駄賃担ぎ)と呼ばれた人たちがいました。これは荷物を背に負うて運んだり、オウコ又はトンガリ棒で運びました。車が行けるところは、トウカイヤが車に載せて運びます。どの集落にも一軒か二軒ぐらいはあって、そこへ頼んでいました。

明神などが店を並べて市街地のようになったのは、近代になってからのようです。
まんのう町明神地区の町並み

それまでは日用品や雑貨。米、醤油などを売る店がぽつぽつとあっただけでした。正月がくると正月買物、盆がくると盆買物に町に下りていきます。そんな時には、ふだんの仕事に使うオウコよりは、ややきゃしやできれいに仕上げたオウコを持って行ったものだと云います。正月には砂糖、下駄、足袋など、盆にはそうめんや浴衣地などを買って来ます。
 衣類などは自分の家で織っていたので、わざわざ買うことはありませんでした。機織りをしなくなってからは、阿波から反物を売りに来るようになりました。
魚は、家に婚礼、厄ばらいなどの宴会がある場合は、わぎわざ琴平の町へ買いに行きました。
常は琴平・坂出などから魚の行商人が来ていたようです。魚屋が出来たのは近年になってからのことです。それでブエンの魚も容易に手に入るようになっりました。魚屋が出来た初めのころは、ブエンの魚はなくて、店には竹の皮で編んだかごの中の塩鰯とか、女竹に通しためざしなどを売っていたと云います。

塩は、専売になる前は坂出・宇多津方面からも、また阿波の貞光からも売りに来ていたと云います。
塩は漬物用にも大量に買いましたが、牛を飼っている農家でもたくさん買っていたようです。農家では、 塩の下に桶を置いていました。それはニガリを取るためです。ニガリは正月前に豆腐をつくるために必要でした。今では豆腐をつくる家もなくなってしまいました。明神などには豆腐屋ができたからでしょうか。
明神から奥のソラの集落に行商人がやってくると、懇意にしている大百姓や地主の家に泊まっていました。
阿波から正月にやって来るデコマワシも馴染みの家に泊まって村落の家々を廻りました。物もらいは、秋の終わりから冬の初めによく来ました。お米が出来て豊かな季節だったので、そんなころを見はからって来ていたののでしょう。物もらいは、行商人と違ってどこの家でも泊めてくれません。そこで無住の庵とか焼き場の中のコツドウ(輿堂)などに泊まつていました。
阿波の山間部は米が少ないので、馬が美合まで来て米を積んで帰えりました。
米を二俵半ぐらい鞍の両側につけます。これを運ぶのは運送用の馬でなくて農耕用の馬だったと云います。伊予からは、秋祭りや正月の前になると障子紙を売りに来ました。大抵の家では障子紙を買って貼り替えをします。年に一度というのがきまりであったようです。
真鈴あたりからは、建築材料である真竹を明神まで売りに来ました。竹は、車が産地まで入らねば運搬が難しかったのです。土器川に沿って水車屋も何軒かありましたが、廃業して米屋となったり、今ではうどん屋となって有名になった店もあります。
讃岐うどん「谷川米穀店」香川県仲多度郡まんのう町 - 讃岐うどんやラーメン食べ歩きと、旅のブログ

美合の皆野には、一軒の油屋がありました。
菜種をしぼって各地の店へ油を卸していた。しばり粕はタマと言い、馬に載せて周辺の農家の畑へ売りに行きます。よい肥料として歓迎されたようです。油は一日に二石しめるのが一人前だといわれました。
人々は油徳利を持って油を買いに行きます。そして灯明や揚げ物の油として使いました。菜種をしばるのが普通でしたが、辛子の種でも油をとっていたと云います。
内田には薬を行商とする家がありました。
この家には五人ぐらいの行商人がいて、阿波のソラの村へ行商に行っていました。イレ(入)クスリとかカエ(替)クスリといって、富山の薬売りと同じような商いを行っていたようです。農閑期の秋から年末に出かけて行って、先方の農家へ薬を置いて、毎年入れ替えてくるのきます。後には、高松の薬屋から千金丹、万金丹、五龍園などをうけて来て、それを入れ替えに行くようになったと云います。

水車屋も、油屋や薬の行商もなくなり阿讃の峠を越える人は、だんだん少なくなりました。そのほかに、今はなくなってしまったものに紺屋があります。これは内田に二軒あって、機織りが盛んであった時代に、女たちはそこへ行って糸を染めて来ました。ソラに近い美合あたりの人は、峠を越えて阿波の郡里・重清などの紺屋に行ったとようです。
 内田の吉田寺のお大師さんの市は、琴南の人々にとっては最もにぎやかで楽しみの多いものだったようです。
江戸期の記録によると、簑売り、ヤリ屋、餅、うどんなどの店が出ています。それらの店の中には、内田の地に定住する者もあって、だんだんと集落は一つの町並みとして発達していったようです。
参考文献
琴南町誌 民俗

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