瀬戸の島から

2021年03月

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
琴陵宥常(ことおかひろつね)
 金毘羅大権現の最後の別当職は「宥常(ゆうじょう)」です。
彼は、明治の神仏分離の激流の中で、金刀比羅宮権現を神社化して生き残る道を選びます。そして、自らも還俗して琴陵宥常(ことおかひろつね)と名乗ることになります。彼が神仏分離の嵐とどのように向き合ったかについては、以前お話ししました。今回は、彼の結婚について焦点を絞って見ていきたいと思います。
  テキストは「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

  金毘羅大権現は、金光院の院主が「お山の殿様」でした。
金毘羅大権現は神仏習合の社で、最高責任者は、金光院の院主でした。社僧ですから妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。宥常の先代の金光院院主は、宥黙で優れた別当で和歌を愛する文化人でもありました。しかし、病弱だったようで、そのために早くから次の院主選びが動き出していたようです。 
皇霊殿遥拝式2

 山下家一族の中に、宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。
その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島藩に派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。これを進めた琴平の山下家当主の盛好は、次のような歌を詠んでいます。
  「今日よりは象の御山の小松菊
       千代さかえ行く末や久しき」   
 ちなみに宥常は父平三郎、母おつ祢の二男で、兄弟姉妹は兄と妹3人の5人兄弟でした。宥常は、安政五年六月八日、徳川将軍家定公に御目見、同年七月十二日孝明天皇に拝謁しています。そして、明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま金光院別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わります。「御一新」の嵐は、象頭山のにも吹き荒れます。
なぜ宇和島藩の藩士の子が、後継者に選ばれたのでしょうか。
 それは先述したとおり、金毘羅大権現のトップは山下家の一族の中から優秀な子弟から選ばれるよいうルールがあったからです。 山下家一族のうち、中の村(三豊郡)の山下助左衛門盛寿の男、盛昌、山下輿右衛門については
「延宝二年(1675)甲寅年、伊達侯に仕う。知行二百石、中奥頭取」
とあります。財田の出身の山下家の一族の中に、宇和島藩の伊達家に仕官した者がいました。それが山下盛昌で、俳諧が上手な文化人であったようです。山下盛昌は、琴平宮本社の棟札にも名が残っているので、恐らく金光院の関係で京、大坂へも上った際に、徘徊のたしなみを身につけたのでしょう。
 あるときに、金毘羅さん参詣した伊達家重役が彼の俳諧に傾倒し、宇和島まで同道し仕官を奨めたという話が伝えられます。時の藩主は、七万石に減石されていたのを元の十万石に高直したとされる名君伊達宗貳です。山下盛昌という人物に、文化人だけではない何かを見いだしたのでしょう。
 伊達家に仕えた山下盛昌は、中奥頭取にまで出世しています。彼が現実的経世的知識をそなえ、藩主の信頼を得ていたことがうかがえます。盛昌の叔父も宇和島藩の梶谷家(知行二百石)へ養子に入っています。こうして、山下家を通じて金毘羅さんは宇和島藩とのつながりを持っていたようです。
白峰神社例祭 …… 奥社遥拝


  琴平・山下家の盛好による嫁探し
 山下盛好の日記には
「小松を藤原朝臣に改め琴陵を廃し、小松屯に仕度申出候得共叶不申」明治二巳七月二十二日

とあります。宥常は金毘羅大権現を、神社化することで生き残る道を選びました。そして自らも還俗します。その結果、「嫁取り」の話が出て来ることになります。
 その候補者選びの方針は、「結婚相手を京都公卿の姫」に求めることだったようです。関係する高松藩松平家などから迎えるという選択もあったはずですが、公家から迎える道を選びます。御一新の時代、天皇家に近い公家との新たな関係を築くことが今後の金刀比羅宮の発展につながると考えたのでしょう。それでは、具体的に候補者をどのように選んだのでしょうか。
白峰神社例祭2

 具体的な候補者選びを行ったのは、琴平・山下家の盛好だとされています。彼の日記「山下盛好記」には、次のように記されています。
「御簾中 称千万姫・正二位大納言胤保卿御女 安政元申九月二日生レ玉フ」
「己レ今年両度上京六月二日 始テ保子姫御目見」
 盛好は二度上京し、交渉に当たったようで「辛労甚シ」とも書いています。千万姫は三十二才を迎えていましたが「才色兼備のお姫様、美しく漓たけた誠におやさしい」と宥常に報告します。これを聞いて、宥常は喜び「頬を染め厚く厚く礼を述べた」と、盛好は記しています。

潮川神事

結納や諸手続についての覚書が残されているので、見ておきましょう
一、御願立御日限之事但シ御下紙拝見仕度候事
  御内約御治定之上御結納紅白縮緬二巻差上申度候事 
  但シ右代料金五十両 差上度候事
  御家来内二ハ御肴料御贈申候事
一、御主従御手当金二百五十両差上申度候事 
  但シ御拵之儀 当方之御有合二而宜敷御座候事伏見御着 
  迄之警固入費金十五両差上候
  御乗船ヨリ当方マデ 御賄申上候御見送り御家来御開之
  節 同様京都迄御賄申上候事
  居残り御女中御手当金前後十五両御贈申候事
一、御供之儀 伏見御家政之内壱人御老女壱人御女中壱大
  御半下壱人刀差壱人御下部壱大二御省 略被下度 下部
  壱人当方ヨリ相廻シ申恨事 女中老人壱ケ年又ニケ年見
  合二而御嘔巾度似事
一、御由緒書拝見仕度候事
一、御内約御治定ノ上 先不取敢御肴料差上度候事
  但シ御家来内江モ同様御贈申上度候事
一、御土産物総而御断申上候事
一、御姫様御染筆御所望申上度候事
  右之件二御伺申上度営今之御時節柄二付可成丈御省略之御取計奉願候也
                 琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山 下 真 澄
 
意訳変換しておくと
一、日取りや時間については、下紙(添付書)で確認すること
  御内約が整った上で、御結納は紅白の縮緬に巻いて差上ること。
  但し、代料金は五十両。御家来内には、御肴料をお贈りするこ
  と。
一、主従手当金として二百五十両を差上げること 
  但し、拵之儀(伏見までの警固費十五両)
  御乗船から金刀比羅宮までの費用、家来の京都までの見送り費用
  居残り女中の御手当金など、合わせて十五両
一、御供について、伏見御家、老女、女中、半下、刀差 御下部
  をひとりずつつけること。この費用については当方が負担するこ 
  と。女中老人は、1年か2年お供する予定である。
一、御由緒書を準備し拝見すること
一、御内約が決定した上で、御肴料を差上げること。但し御家来にも
同様の贈り物を準備すること
一、御土産物は、すべてお断りすること
一、姫様の御染筆(揮毫)を、所望すること
  以上についてお伺い申し上げ、御一新の時節柄に付き、省略できるものは省くようにお願いしたい。
            琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山下真澄

 私が気になるのは婚礼費用です。
ここに出てくる数字だけだと650両前後になるようです。明治元年に新政府から求められて、貢納した額が1万両でした。この翌年に、神仏分離で廃物され蔵の中に収められていた仏像などを入札販売していますが、その時の一番高額で落札されたのは、金堂(現旭社)の丈六の薬師如来でした。その値段が600両と松岡調の日記には記されています。それらから比べると高額な出費とは、私には思えません。
金毘羅大権現 旭社
旭社(旧金堂)

こうして段取りが整った後、明治4年8月29日、山下盛好はお姫様をお迎えするため、粟井玄三、仲間の福太、房吉を連れ三度目の上京をします。そして約1ヶ月後の9月30日に、千万姫と共に丸亀港に還ってきます。その夜九ツに駕で丸亀を出発、丸亀街道を進んだようです。途中、小休止をニケ所でとり、無事に中屋敷へ到着します。
「御姫様御元気にて御休息。老女とよ、女中おゆき、家令の築山恒利大夫と挨拶をかわす。」
と記されます。その後の盛好記には、次のように記されています。

宥常殿報 恐悦至極ノ態 下山セシハ夜モホノボノ明渡り候事

「夜モ ホノボノ明渡り候事」に盛好の、満足感と大任を果たした安堵感がうかがえます。そして、3日後の「十月二日夜、御婚礼千秋万才目出度く」とあります。翌日、廣橋正二位大納言胤保殿へ逐一報告済と記るされています。
 18歳で出家し、金光院別当となった時には、仏に仕える身となりました。もう家庭をもつことは、なくなったと思っていた宥常は、32歳で妻帯することになったのです。そして一男二女を設けます。これを契機にするかのように、金刀比羅宮には追風が吹くようになります。
 金比羅講に代わって、近代的なシステムに整備されたは、多くの信者を組織化し、金刀比羅宮へと送り込むようになります。まさに「金を生むシステム」として機能するようになります。そこから生まれる資金を背景に、宥常は博覧会や新たな神道学校作りなどに取り組めるようになります。事業的にも、家庭的にもまさに「追い風に帆懸けてシュラシュシュシュ」だったのかもしれません。

 最後に宥常が21才の時に、京に上がって天皇に拝謁の時の記念として、御厨子を京で作らせ盛好に贈っています。自分を、院主に付けてくれた感謝の意だったのかもしれません。そこには次のように記されています
   奉献御厨子
    右意趣者為興隆仏法国家安穏
    殊者山下家子孫繁栄家運長久
    而已敬白
   万延元康中歳二月吉辰
      金光院権大僧都 宥常
 また「京師堀川 綾小路正流仏工 田中弘造 刻」ともあります。
この御厨子は、今は山下家の菩提寺の山本町の宋運寺(盛好の遠祖、山下宗運建立)に保管されているようです。この奉献厨子の中には、山下家云々とあります。ここからは、二人の間には山下家としての同族意識があったことがうかがえます。金毘羅大権現の影の実力者として山下家は山内に、大きな影響力を持ち続けていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
1琴綾宥常 肖像画写真

琴綾宥常 高橋由一作

参考文献
「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で

大般若経 正覚寺
塩飽本島正覚院の大般若経 1巻巻頭
香川県には、大般若経がいくつかの寺や神社の残されているようです。このお経は全部揃えると600巻にもなり、かなりの分量になります。常備するためには写経する必要があります。以前に、平城京の都で行われていた国の写経所で行われていた工程を見ましたが、人手と資材のかかる大事業でした。中世になると地方の有力寺院でも大般若経の写経が行われるようになります。例えば、大川郡の与田寺は増吽よって「瀬戸内の写経センター」として機能していたことは、以前にお話しした通りです。増吽に周辺には、日頃から写経に携わっていた僧侶のネットワークが形成されていていました。そして写経依頼が出されると、瀬戸内海沿岸や阿波の僧侶達が宗派を超えて「結衆」し、担当を任された巻の写経を行っていたことを以前に見ました。
 それでは、寺や神社に納められた大般若経は、どのように「活用」されていたのでしょうか。
大般若波羅蜜多経(略して大般若経)は、この経を供養するものは諸々の神によって、護られると説かれました。そのために多くの人々に信仰され、災いを除くためにその転読が盛んに行われてきました。転読とは、一体何なのでしょうか?
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から

 大船若緑六百巻を全部読むことは無理です。
そこで、いろいろな「省略」法が考えられます。例えばチベットのラマ教では、お経を納めた経蔵のまわりを回るとを読んだのと同じ功徳があるとされるようになります。わが国でもお経が収められた六角経蔵や八角経蔵をぐるぐる回っていたようです。そして、大般若経の場合は、お経を一巻一巻広げて、十人なら十人の坊さんが並んで、それぞれ三行か五行ずつ読んでいくという転読スタイルが出来上がったようです。
 地方では「ショーアップ化」されたいろいろな転読スタイルが行われるようになります。
例えば、紀州の山間部では、お経の巻物を本堂の床に転がし、巻頭部分だけを読み巻き戻すというスタイルも登場します。熱が入ってくると、巻物は投げたようで、かなり手荒に扱われたようです。当然、傷みます。そういう意味では、大般若経は破損する経典だったのです。そのため補修修繕が欠かせなかったようです。しかし、このような目に見える形の祈願を庶民は好みます。中世になると転読に便利なように巻物から「折り本」に、形が変えられます。
大般若経 転読

折り本の先を扇形に開いて、片方からサラサラと広げては、その間に七行、五行、三行と読んでいきます。それが悪魔払いだということになり、般若声といわれる大きな声で机をたたいて読んでいくスタイルが定着します。庶民にとっては、こちらの方がショーアップ化されて「ありがたみ」があるように思えたのでしょう。これが各地の寺院や神社の祭礼にも取り込まれていきます。
 当時は、神仏混淆で、神社の祭礼も別当寺の社僧が取り仕切っていた時代です。僧侶達が主役となる大般若経転読の行事は、急速に郷村に広がります。このような動きが大般若経の写経活動の背景にあったことを押さえておきます。こうして大般若経の転読は、豊作析願、祈雨・止雨祈願、疾病抜除、その他災害を防ぎ、安寧維持のために盛んに行われるようになります。
大般若経 箱担ぎ
箱に入れられた大般若経を担いでの村まわり
 
四国霊場の本山寺では近世には、大般若経六百巻が村回りをしていたようです。
大般若経のお経の入った箱を担いで村を回ります。これも地域を回って読む一つのやり方ですから、「転読」といえるのかもしれません。住職が手にするのは「理趣分」という四百九十五巻のうち一冊だけです。それを各家々で七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。この際に、折り本からです風を「般若の風」と呼びました。この風に当たれば病気にならないというのです。有難いお経の起こす風が信仰対象になっていたようです。

 大般若経は全六百巻もあるお経です。
それを備えるための書写や版経の刊行は大事業でした。その実現のためには、大きな資力や人的な結集を必要とされました。作成後も、それを維持するためには多くの費用と努力が求められます。逆に、大般若経がどのように作られたか、それがどのように維持されてきたのか、あるいは退転したのかについての研究が進むにつれて、いろいろなことが少しずつ分かってきたようです。今回は、塩飽本島の正覚院に残された大般若経が、どのようにしてここにやってきたのかを追いかけて見ましょう。
テキストは「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です
香川県丸亀市本島町泊の寺院一覧 - NAVITIME
正覚院
本島泊の妙智山観音寺正覚院は真言宗醍醐派の寺院で、塩飽諸島きっての古利として知られています。
この寺は京都の醍醐寺を開いた理源大師聖宝の生誕地という伝承もあり、現在も広く信仰を集めています。そして今でも護摩法要が営まれるなど密教山岳寺院の性格を色濃く残しています。中世には修験者たちの活動の舞台となった気配がします。

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正覚院(丸亀市本島)
 「正徳三年六月改」とある『塩飽島諸訳手鑑』によれば塩飽諸島には真言宗寺院33ヶ寺、天台宗1ヶ寺、浄土宗2ヶ寺があったと伝えます。真言宗寺院が圧倒的に多かったことが分かります。正覚院は、その中でも真言宗寺院の本山として大きな位置を占めていました。この寺には国指定重要文化財や県指定、九亀市指定の文化財がいくつかあります。
観光・イベント・スポーツ:歴史・文化財:正覚院 木造観音菩薩像 | 香川県 丸亀市

その中でも国指定重文の本尊観音菩薩坐像は脇侍の不動明王像、毘沙門天像とともに鎌倉時代初期のすぐれた中央作とされます。その他にも鎌倉時代初期の線刻十一面観音鏡像等もあり、正覚院の由緒を物語るものになっています。
正覚院 夏まつり】アクセス・イベント情報 - じゃらんnet
正覚院の夏祭り
 正覚院は寺伝では空海開基、聖宝中興としていますが、そこまで遡るのは文献史料の上では難しいようです。しかし、寺のある泊地区は古来からの本島の中心地区であったようです。
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正覚寺には、九亀市指定文化財の大般若経があります。
現在は「二〇六帖」が確認され、全て折本のようです。これらは次の2種類に分類できるようです
①南北朝時代の写経で、表紙が渋引きし刷毛目文様の193帖
②鎌倉時代建保五年(1217)の奥書のある写経で、藍色表紙の11帖
①の南北朝以前の193帖を書写の時代で分けると、次のようになるようです
平安時代院政期 一帖
鎌倉時代前期 五帖
南北朝時代 百八十三帖
室町時代 三帖
江戸時代 一帖
大般若経は、最初にお話ししたように「投げられるお経」でしたから、破損や散逸が起きます。その度に不足の巻を補写・購入・寄進等によって補充していくことになります。そのために異なる時代、異なる装填の経典が混じってくるようになるようです。

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正覚院

この寺の大般若経が揃えられたのは南北朝時代のことなのに、鎌倉時代のものと思われる巻が含まれているのは、どうしてでしょうか。
①勧進の際の収集経(新たに写経されたものでなく既存流通の巻を購入した)
②後に欠けた不足の巻を寄進等などで補完したときに、鎌倉時代前期に書写されたものが、やってきて600巻の中に加えられた
などが考えられます。奥書に、勧進が開始されたとみられる文和四年よりも前の巻もあるようです。そして、もとからこの寺にあったものではないようです。大般若経は移動する経典なのです。それでは、いつどこからこのてらにやってきたのでしょうか?

大般若経 正覚院第1巻奥書

上の巻第一には「文和四年十月十一日 始之」とあります。讃岐の守護細川繁氏治政下で、三野の秋山泰忠が本門寺を建立していた頃の文和四年(1355)十月に、この巻から書写が開始されたようです。巻第五百七十二・五百七十三には「願主」という文言があります。書写事業の願主がいて、さらにそれを進める勧進者がいたことが分かります。しかし「願主」の下は空白です。そのため、誰がどのような動機でこの事業を開始したか分かりません。奥書があるのは巻第四百代に入ってからで、それを列記すると、次のようになります
巻第四百七      延文二年十一月八日
巻第四百九      延文二年十一月十三日
巻第四百九十二   延文二年十一月二十三日
巻第五百十七  延文二年十一月十四目
巻第五百二十七 延文二年十一月十八日
巻第五百二十八 延文二年十一月二十一目
巻第五百三十二 延文一二年二月二十日
巻第五百五十二一 延文二年十二月十三日
巻第五百七十一 延文三年二月十九日
巻第五百七十二 延文三年二月十八日
巻第五百七十三 延文三年二月十日
巻第五百八十八 延文三年二月十六日
巻第五百八十九 延文三年二月一日
延文二年(1357)十一月から翌年二月にかけて、巻次を追って書写が進行していることがうかがえます。四ヶ月間で二百巻の書写ペースです。文和四年十月から延文二年十月まで約二年間で四百巻を書写したことになります。大般若経の書写には、十年くらいはかかることはよくありました。それからすれば、このペースは速い方です。書写スタッフが充実していたことがうかがえます。スタッフは僧侶だけで、俗人はいないようです。僧侶でその所属の分かるものを挙げて見ると、次のようになります。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮 沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷西迎寺坊中 
同郷大野村住 金剛佛子宥伎
⑥巻第五百七十二・五百七十三
讃岐國仲郡金倉庄金蔵寺南大門大賓坊 信勢
①の安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の供養をとむらい平和を析願するため、各国守護の菩提寺である五山派の禅院を指定した寺院です。讃岐では宇多津の長興寺が安国寺に宛てられたとされます。
③④の長興寺は細川氏の守護所の置かれた宇(鵜)足郡宇多津に細川顕氏が建立した神宗寺院のようです。真木信夫氏は『丸亀の文化財 増補改訂』の中で、①③④を挙げて安国寺は長興寺であることを示すものとしています。しかし、①③④は同じ延文二年十一月に書写されています。もし長興寺が安国寺に指定されたとすると、一寺の寺が二つの寺名を使っていたことになります。そんなことがあるのでしょうか。
②の如幻庵については、何も史料がありません。禅宗系寺院の庵室の可能性を研究者は指摘するのみです。
⑤羽床の西迎寺は今はありません。綾南条羽床郷とあるので宇多津から南方の阿野郡内にあった寺のようです。同じく⑤の大野村についても分かりません。書写をした宥伎は金剛佛子とあるので西迎寺は密教寺院であったようです。
愛媛県越智郡玉川町の龍岡寺蔵大般若経巻第五百九十八奥書には、西迎寺のことが次のように記されています。
迂時康暦第三辛酉二月参拾日 讃洲綾南條羽床郷西迎寺坊中令書写畢 金剛資有俊

ここからは羽床郷にあった西迎寺では、約30年後の康磨三年(1381)にも大般若経の書写が行われていたことが分かります。羽床は南の山を超えるとまんのう町種子の金剛院と近い位置にあります。金剛院からは多くの経塚が出土しています。金剛院は書経センターで、宗教荘園の役割を果たしていたことを報告書は記します。その周辺部の寺院でも大般若経の書写が行われていたことがうかがえます。

⑥の金蔵寺は智証大師円珍ゆかりの寺院で那珂部(善通寺市)にある天台宗寺院で、四国霊場でもあります。その大宝坊は応永十七年三月の金蔵寺文書に見える「大宝院」の前身のようです。
この寺は、多度津の道隆寺と共に、写経センターとして機能するようになります。経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していきます。大川郡の与田寺と同じような役割を果たしていたと私は考えています。
 この他にも、所属の分からない巻第四百九十三・五百八十八書写の金剛佛子宥海、巻第五百七十一書写の金剛仏子宥蜜も「金剛」がつくので密教僧であり、宥伎との関係が推測されます。

以上からは、僧侶等は真言や天台など宗派にかかわらず書写事業に参加していたことがうかがえます。
大般若経の書写には、「知識」を広く結縁するという願いがあるためか宗派の枠を越えて行われます。当時の讃岐では、増吽のいた大川郡の与田寺が書写センター的な役割を果たして、いくつもの大般若経の書写を行っていることは以前お話ししたとおりです。また奥書にみえる寺は、宇多津のヒンターランドの讃岐国中央部に当たります。おそらく奥書記載のない他巻の結縁者も、多くはその圏内の者であったと研究者は考えているようです。

 その中でも中心的な位置をしめた寺院は、どこでしょうか。
①~⑥までの中で云えば、「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺のようです。金蔵寺が書写事業の中心であったことは、この大投若経のその後の変遷からも分かるようです。
以上をまとめておくと次のようになります
残された奥書からからは、文和四年(1355)に写経事業が始まり、延文二年(1358)年頃には全巻が完成したことが分かります。これは異例の速いスピードでした
  その70年後に、一部が失われたか破損したようで永享八年(1426)に補写された巻もあります。そして、延徳三年(1491)に、多度郡道隆寺の僧が願主となって、那珂郡下金倉惣蔵社の所有となっていた大般若経一部六百巻を折り畳む事業が行われます。これが最初の改装で、巻物から旋風葉にスタイルが変更されたようです。

 延文三年(1358)に完成した大般若経が、どこに納められたかは分かりません。
しかし、その後に破損が生じたためか永享七年(1435)に那珂郡杵原宝光寺の慶宥により書写され補充されています。宝光寺という寺は今はありませんが、慶宥は三宝院末弟とあるので真言宗醍醐寺系の寺院に関係ある僧侶だったのでしょう。那珂郡杵原は、現在の九亀市柞原町で、宇多津と金蔵寺との中間にあたります。宝光寺僧が書写補配したことから、この周辺部に大般若経が置かれていたことはうかがえます。

大般若経 正覚院 下金倉
讃州仲郡金倉下村の惣蔵社の「御経」と読めます

 どこに保管されていたのかが分かるのは延徳三年(1491)になってからです。
下金倉村の惣蔵社(官)の常住経として保管されるようになったことが上の奥書から分かります。下金倉は金倉川河口の右岸で、金蔵寺の北方約3kmの地です。しかし、惣蔵社という神社は、今はありません。
延徳三年は、書写が完成した延文三年から130年以上も経っていますが、もしかしたら最初からこの惣蔵社に置かれていたのかもしれません。近年の各地の大般若経調査で明らかになったことのひとつに、明治の神仏分離以前は神社に大般若経があったことです。大般若経が村落での信仰の対象として、神社の祭礼で使用されていたのです。そういう視点からすれば、大般若経書写が最初から惣蔵社に奉納するために行われたとかんがえることもできます。宗派を越えた結縁者(書経参加者)のネットワークからは金蔵寺という一寺院へ納めるためというよりも、地域での信仰の対象であった神社に備えるために行われた可能性が高いと研究者は考えているようです。

大般若経 正覚院道隆寺願主 2
巻第六百の奥書
 延徳三年の奥書には他にも興味深い記載があるようです。
それは、上の巻第六百の奥書です。ここには
「讃州多度郡於道隆寺宝積院奉如件」

とあり、全六百巻が多度那道隆寺宝積院で「折られている」ことが分かります。「折る」とは、巻物を折本に改装することです。この時に巻子本から旋風葉に変わったようです。軸を取り外して、一定の行数で折り畳み、前後の表紙と包背布を付けることは、私が思うような簡単な作業ではないようです。これには専門の経師の技術が必要でした。大規模な修理や改装になるので「再興」とみなされ、発願者がいる場合もあります。この場合も「再興事業」の大願主として道隆寺の権大僧都祐乗と権少僧都祐信の二人の名が最後に記されています。

大般若経 正覚院道隆寺願主

 巻第四百七には、祐信は道隆寺別当と記されます。
道隆寺は以前にもお話ししたように「海に開かれた寺院」として、塩飽や白方、庄内半島などの寺社を末寺として、地域の中核寺院の機能を持つようになっていました。その道隆寺が惣蔵社の大般若経の折本化を行ったようです。
道隆寺 中世地形復元図
中世の堀江湊と道隆寺周辺の復元図
道隆寺は、金倉川を隔てて下金倉の西側に位置します。
道隆寺文書には永正八年(1511)頃には、下金倉に道隆寺の所領があったと伝えます。延徳三年頃には、下金倉にあった惣蔵社を末寺とするようになっていたのかもしれません。それが改装事業をおこなう契機になったのでしょう。

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木烏神社(塩飽本島 泊)

それでは、下金倉にあった大般若経がどうして塩飽に移されたのでしょうか? 
下の巻第四・三百八・三百二・三百二の奥書からは、惣蔵社の大般若経が天正十三年(1585)には海を渡って塩飽島(本島)泊浦の木鳥宮(神社)の経典となっていたことが分かります。木烏神社は本島泊の鎮守社です。
大般若経 本島木烏神社

 ここには、木鳥宮経典として社殿から出さずに護持されるべきものであったが、「衆分流通」であると記します。「流通」とは、もともとは仏の教えを広めるという意味ですが、ここでは鎮守神祭祀を担う泊浦住民共通の経典という意味のようです。ここからは、この大般若経が木烏神社で年中行事や臨時の転読等に用いられていたことが分かります。
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   木烏神社本殿から鳥居方面を眺める 直ぐ向こうが備讃瀬戸

 この年に西山宝性寺住持秀憲が破損していた六巻を修復し、不足の巻を補っています。西山とは泊の西山で、宝性寺はかつては正覚院の末寺であり、木烏神社とも関係があった寺院だったようです。
なぜ大投若経がこの島に移されたのか、それはいつのことかなど詳しいことは分かりません。ただ、道隆寺と正覚院は同じ醍醐寺系の寺院として密接な関係にあったようです。
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正覚寺
正覚院の『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。

弘治二(1556)年九月二十日 道隆寺僧秀雄が正覚院尊師堂の供養。
天正三年(1575)二月十八日 道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏供養導師を勤めています。
天正十八年(1590)年   秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年 道隆寺の良田が正覚寺に移り、道隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日 良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は塩飽への教線ラインの参入拡大で、本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。そのために道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し本島で生活していたようです。ここからは道隆寺にとって、塩飽本島は最重要の拠点だったことがうかがえます。それが下金倉にあった大般若経を、塩飽泊浦に移す背景になったと研究者は考えているようです。分かるのは、戦国時代に道降寺信仰圏内にあった下金倉の惣蔵社から、塩飽本島に移されたという事実だけです。  
 その大般若経が現在の正覚寺移ったのは、近代になってからのようです。その理由については、よく分かっていないようです。

以上をまとめておくと次のようになります。
①14世紀半ばに、金蔵寺が願主となり大般若経600巻が書写された。それがどこに納められたかは分からない。
②この大般若経は、15世紀末には那珂郡の下金倉惣蔵社の所有となっていたことが分かる。
③それを、多度郡道隆寺が願主となって、「折り本」化するスタイル変更が行われた
④戦国時代末に道隆寺の塩飽布教の一環として、下金倉の惣蔵社(官)の大般若経は、本島の木烏神社に移され、別当寺のもとで祭礼に使用された。
⑤明治の神仏分離などで、別当寺が退転する中で、仏具とともに正覚寺に移された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です

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塩飽本島の笠島集落
江戸時代の塩飽諸島は、朱印状を与えられた廻船の島として特別な位置を持つようになります。
天正十八(1590)年秀吉の朱印状によって、塩飽島1250石が、船方650人の領知するところとなります。船方(水主)650役の島として、秀吉の直轄領に指定され、小田原攻や朝鮮出兵に関わりました。この朱印状は、家康によって安堵され、江戸時代も幕府の直轄領として、650人の水主役を果し「船方御用相勤」を続けます。
 このような島は、他にはありません。芸予諸島の村上水軍と比べると、非常に有利な条件で中世の財産を、近世に持ち込むことができたと云えるかもしれません。このように塩飽島の水主役は、秀吉の天下統一・対外政策とかかわって設定されたものであることを前回はみてきました。
 江戸時代半ばになると、その性格を次第に変えていくようになります。戦時の後方支援という役割から朝鮮通信使や長崎奉行の送迎など幕府の政治・外交上に関係する海上輸送業務に従事することが任務になっていきます。
 塩飽島における政務は人名から選ばれた「年寄・庄屋・年番」などによって行われました。
近世初期に「年寄」を勤めたのは入江氏・真木氏・古田氏・宮本氏などです。寛永以後は、吉田氏と宮本氏を中心に自宅を塩飽政所と称し、浦(本島と広島)や島に置いた庄屋・年番を続轄して支配が行われました。そのため世襲化した年寄の支配がだんだん強大となり、人名内部からも反発が生まれ、寛政元年年四月には巡見使へ政所改革の訴願が行われます。これを契機に、行政改革が行われたことは以前にお話しした通りです。
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 この改革の一環として、政務センターとしての勤番所が建設され、ここで塩飽島の行政が行われるようになります。
塩飽島の行政は、この寛政改革によって塩飽政所行政(年寄の自宅)から塩飽勤番所行政へと変り、組織的にガラス張りで行われるようになったともいえます。そして年寄を中心とする勤番所行政は、明治五年まで続くことになります。
 近世初頭の年寄支配の強さの背景として、研究者は次のような要因を挙げます
①中世以来の在地土豪の出身であり、土地所持者であったこと
②船方の棟梁で廻船業者であり、社会的地位が高く、経済力が卓越していたこと
年寄たちが「土地所有 + 廻船業者」によって経済力をもっていたことが大きかったようです。宝永元年八月「塩飽嶋中納方配分帳」(塩飽勤番所保管文書)からは、当時の年寄四人の年寄役が、飛び抜けた配分高を得ていたことが分かります。その年寄の残したものを見てみましょう。
年寄役の一人である笠島浦の吉田彦右衛(彦右衛門は世襲名)は、笠島浦の奥まった所に約271坪の屋敷をもっていました。
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そして、菩提寺の浄土宗専称寺境内には「塩飽笠嶋之住人吉田彦右衛門家永」と刻まれた大きな「人名墓」と呼ばれる墓石を残しています。これは高さ2,3m、幅75㎝・厚さ44㎝の逆修墓石で、寛永四(1627)年八月四日に建立されたものです。
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この他にも家永(長)は、八幡宮(泊浦宮之浜)の大鳥居を、寛永五年六月に年寄宮本家とともに奉献しています。大鳥居には「塩飽嶋政所吉田彦右衛門家長」と刻まれています。寛永年間頃の政所(年寄)吉田彦右衛門家永が、豊かな財力を持っていたことがうかがえます。
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 泊浦の年寄宮本家も吉田彦右衛に並ぶ財力の持主だったようです。
年寄宮本半右衛門も、笠島の吉田家が「人名墓」を建てた同じ年の寛永四(1627)年に、初代宮本伝太夫の墓を作っています。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
木烏神社(泊浦)の大鳥居

同時に木烏神社(泊浦)の大鳥居を、薩摩の石大工紀加兵衛に製作させ奉献しています。寛永年間には、笠島浦の吉剛家と泊浦の宮本家は、豊かな財力をきそい合っていたようにも見えます。八幡宮の大鳥居建立には吉田彦右衛門家長をはじめとする吉田家が中心となり、それに宮本家も加わっています。また木烏神社の大鳥居建立には宮本半右衛門正信をはじめとする宮本家が中心となり吉田家も加わり建立しています。この時期、年寄の両家を中心として塩飽島は、廻船業などで繁栄し、黄金時代を迎えていた時代です。それが立派な墓石や大鳥居の建立となって、今に残っているのでしょう

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このような塩飽の繁栄は、いつまで続いたのでしょうか。
廻船業は競争時代に突入し、相対的に塩飽島の地位は低下していきます。明和二(1765)年八月「塩飽嶋明細帳」(塩飽勤番所保管文書)には、次のような記録が残っています
一、船数大小合三百弐拾壱艘
七艘    千百石積より千四百石積迄    廻船
五拾七艘 四百五十石積より三十石積迄  異船
拾壱艘    五十石積より入石積迄      生船
弐拾三艘  三拾五石債より弐十石積迄    柴船
八十八艘  弐拾五石積より八石積迄    通船
百三十三艘 十三石積より五石積迄      猟船
式艘    三十石積            網船
嶋々之者共浦稼之儀、先年者廻船多御座候而、船稼第一二付候得共、段々廻船減候二付、異船稼並猟働付候者茂御座候、且又他国江罷越、廻胎小舟之加子働仕、又ハ大工職付近国江年分為渡世罷出候、老人妻子共農業仕候
意訳変換しておくと
塩飽では、かつては廻船が多くあり船稼が第一だった。ところが、明和2(1765)年になると塩飽島の人々の職業は、廻船を中心とする船稼から、廻船・異船(貸船)・猟働・他国の廻船・小舟の加子働きや大工職などで出稼ぎする者が多くなり、老人子共は島に残り農業を行うようになってしまった。

これは、島の窮状を訴えるための文書なので、そのままには受け取れませんが、廻船中心に栄えた経済繁栄が失われ衰退しつつあることを危機感を持って訴えています。
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笠島集落

正式文書に「人名」と言う言葉は出てきません。「船方」が正式な呼び名です。
 年寄は別な表現をすれば、船方650人のメンバーの一人でもありました。近世初期の年寄は、一族で多くの船方を担当したはずです。この船方を何時の頃からか塩飽島においては、人名と呼ぶようになります。しかし、江戸時代には公式文書には、この呼称は使用されていません。使われているのは「船方」(水主)です。それも年寄と大坂船手奉行・大坂町奉行との間の文書のやりとりの中に限られ、年寄からの文言に対して具体的に指示する必要から便宜上使用しているだけだと研究者は指摘します。
 明治になっての維新後秩禄処分の金禄公債証書交付願のやりとりの中でも、政府は水主という言葉を使用し、人名という言葉は全く使用していません。つまり近世・近代において人名という呼称は、塩飽島で私的に使用されてはいますが、公的には使用されていなかったことは押さえておきたいと思います。
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笠島集落
それでは「人名」という言葉が広がったのは、いつからなのでしょうか。
塩飽島の人々の間で、人名に対する認識が深まるのは、版籍奉還・秩禄処分の問題を通してのことのようです。金禄公債証書交付願の運動(明治9年~34年頃まで)を通して、人名650人の結束は強められていきます。その動きを見てみましょう。笠島町並保存地区文書館展示史料には、明治になっての豊臣神社の勧進運動の記録が残っています。
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尾上神社(笠島浦)
笠島浦では、明治14年11月に、人名78人が、尾上神社境内へ豊臣神社(小祠)の新設を那珂多度部長三橋政之宛願い出て、許可されます。その願文には次のように記されます。(意訳)
 維新によって領知権は消滅したが、秀古の発拾した朱印状によって島民の生活は支えられた、その恩に報ゆるために笠島の人名同志78八人が相談して、「豊霊ヲ計請シ歌祥デ悠久二存仁セン」として、豊臣神社(小祠)の新設した。その経費は人名78人の献金で、維持費は人名の共有山林を宛てた。

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笠島の尾上神社
笠島の尾上神社の上り口にある豊臣神社の前には、二本の石柱が立っています。向って左の石柱には
「国威輝海外」(表)、
「当浦於七十八人 明治三十一年一月元旦建之」(裏)
右の石柱には
「忠勤致皇室」(表)
「天正年間征韓之役従軍塩飽六百五十中」(裏)
と刻まれています。この二本の石柱は、日清戦争の勝利と秀吉の朝鮮出兵を歴史意識としてダブらせて建てられたようです。日清戦争の勝利記念と自分たちの先祖の朝鮮出兵が結びつけることで、ナショナリズムの高揚運動と、人名の子孫としてのプライドを忘れまいというる意図が見えてきます。このように豊臣神社や石柱の新設建立に、笠島浦の人名は結束して行動しています。この豊臣神社のある尾上神社の境内には「一金四百円 当浦人名中」(年不記)刻まれた寄付金の石柱もあります。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
 今度は泊浦の木烏神社境内を見てみましょう。ここには、次のような刻字のある石碑が泊浦人名90人によって建てられています。
「豊公記念碑海軍大将子爵斉藤実書」(表)
「塩飽嶋中人名六百五拾名之内泊浦人名九拾人 昭和三年十一月建之」(裏)
以上のように本島の笠島浦・泊浦を歩いただけでも「人名」と刻した石柱・記念碑などがいくつも目に入ってきます。朱印状の船方650人は人名として昭和期まで結束して活躍していることが分かります。
3  塩飽  弁財船

 天正十八(1590)年の秀吉朱印状の「船方六百五十人」の船方は、戦時の水主役が勤まる650人であったはずです。しかし、江戸時代の天下泰平の時代になると、水主役の代銀納が行われるようになります。
広島の江の浦庄屋七郎兵衛の安永八年の記録「江ノ浦加子竃数並大小船数」には、次のように記されています。
加子(水主)一人役株を持つ八左衛門は、職業(渡世)は木挽、同喜十郎は農業、同太治郎は異船(貸船)商売、同新七は農業、同治郎左衛門は廻船加子働、同喜兵衛は加子
ここからは加子役株(人名株)を持っている人たちの職業(渡世)は色々であったことが分かります。つまり船方(水主)650人という実質的な夫役負担者から、水主役とは関係のない職業の者が、水主株所持者(船方・人名持者)になっていたようです。

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 人江幸一氏保管文書によると幕末、人名持(人名株、船方・水主・人名)という表現がよくみられるようになります。例えば次のような人たちです。
人名持百姓何某・人名持船方何某・人名持大工何某・人名持庄屋何某・人名持年番何某・人名持弥右衛門・人名持三郎後家たつ・入名持長左衛門後家とよ・人名持彦吉後家さゆ・人名持兼二右衛門後家さよ
ここからは「大工や後家」の人たちまで人名株を持っていたことがうかがえます。水主役とは、戦時召集には水夫として活躍するはずでしたが、そこに「後家」も名を連ねているのです。

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さらに、人江幸一氏保管文書の安政三年「辰麦年貢取立帳」(泊浦)に「人名株弐口五人二而割持」とあります。安政五年「午責年貢取立帳」(泊浦)には「小人名持分」として、人名一株未満の所持者を「小人名」と呼び、十二人の小人名の名前が記載されています。ここからは幕末には、人名一人役(一株)が複数人によって分割所持されていたことが分かります。
以上の例から、研究者は次のように指摘します。
①水主役に従事できない人々の水主役(株)の所持が進行していた
②水主一人役(株)が、複数人によって所持されるという水主役株の分化が進行していた
これは、近世初頭の人名設置からすると、水主役(船方役・人名役)の形骸化が進行していたと云えます。
この背景には、人名株を一人前でなくても所持したいという願望があったのでしょう。このように朱印状の船方六百五十人の仲間になりたいという願望が、塩飽島の人々には強くあったようです。塩飽島において船方(人名)株を持つことが、一つのステータスと考えられていたのです。
 慶応四年一月人名(株)のない小坂浦の者達が人名二人前を要求して小坂騒動が起こったことは、その象徴としてとらえることができよう。そのような意識は明治以後も強く、「人名社会」という言葉が使用され、「人名」と刻したさまざまな石柱や記念碑を造らせたともいえよう。
咸臨丸で太平洋を渡った塩飽の水夫|ビジネス香川

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「加藤優


3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所) 
 
現在塩飽動番所には、次の5点の朱印状が保管されています。
   発行年月      発行者    宛先
 ①天正五年三月二十六日 織田信長 官内部法印・松井有閑
 ②天正十四年八月二十二日 豊臣秀吉 塩飽年寄中
 ③文禄元年十月二十三日 豊臣秀次 塩飽所々胎生、代官中
 ④慶長慶長二十八日    徳川家康   塩飽路中
 ⑤寛永七年八月十六日   徳川     塩飽路中
  これらについては、以前にお話ししましたので、今回は触れません。今回お話しするのは、この中にはありません。写しだけが伝わる天正十八年二月晦日の秀吉朱印状についてです。 

3塩飽 秀吉朱印状

勤番所に残っている秀吉の朱印状は、天正14年もので、船方の動員についてのものです。その四年後のものが、1250石の領知を650人の船方(水主)に認めた認めたもので、所謂「人名」制度の起源となる文書になります。そういう意味では、もっとも重要な文書ですが勤番所には残されていません。文書がないのに、その内容が分かるのは「写し」が残っているからです。「塩飽嶋諸事覚」(『香川叢書二』所収)に「御朱印之写」として記されているようです。どうして、最も大切な朱印状が残されてないのでしょうか。また、どんな内容だったのでしょうか。それを今回は見ていきたいと思います。
塩飽勤番所

 「香川県仲多度郡旧塩飽島船方領知高処分請願書写」明治34年1月の「備考」には、次のように記されています。
「此朱印書は第二号徳川家康公ノ朱印書拝領ノ時 還却シタルモノニテ 今旧記二依リテ之ヲ記ス」(『新編丸亀市史2近世編』)

ここには「秀吉朱印状は、家康公の朱印状をいただいたときに返却したので伝わっていない。そのために「旧記」に書かれている秀吉朱印状の内容を写し補足した」と記されています。「旧記」とは『塩飽嶋諸事覚』のことでしょう。
 これについて真木信夫氏は、次のように指摘します
「享保十一年(1727)九月に年寄三人から宮本助之丞後室に宛てた朱印状引継書にも記載されていないので、慶長五年(1600)徳川家康から継目朱印状を下付された時、引き替えにしたものではなかろうかと思われる」(『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』143P)
 ここからは、秀吉の天正十八年二月晦日の朱印状は、享保の時代からなかったこと。家康からの朱印状をもらった時に、幕府に返納したと研究者も考えていることが分かります。そのために、塩飽には伝来していないようです。勤番所に、「人名」を認めた秀吉朱印状がないことについては納得です。
それでは秀吉朱印状写には、何が書かれていたのでしょうか。
  秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚の写し)
御朱印之写
塩飽検地
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千三拾石       山畠方
千弐百五拾石
右領知、営嶋中船方六百五拾人江被下候条、令配分、全可領知者也。
天正十八年二月        太閤(秀吉)様御朱印
            塩飽嶋中
3塩飽 家康朱印状
家康の朱印状
これを、後に出された家康の朱印状と比べて見ましょう
塩飽検地之事
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千参拾石        山 畠 方
合千弐百五拾石
右領知、常嶋中胎方六百五拾人如先判被下
候之条、令配分、全可領知者也
慶長五年      小笠原越中守奉之
九月廿八日
大権現御朱印(家康)
          塩飽嶋中
  秀吉の朱印状と比較して気付くのは、ほとんど同じ形式・内容であることです。秀吉の朱印状を安堵したものだから、家康のものは同文でもいいのかもしれません。しかし、発行する側の秀吉と家康の書紀団はまったく別物です。前例文章を見て参考にして作ったということは考えられません。違うときに、違う場所で作られた文書にしては、あまりにも似ていると研究者は考えます。発給主体が異なるのに、これほど似た文になるのだろうかという疑念です。
死闘 天正の陣
秀吉の四国平定図

 また秀吉朱印状は検地により高付けが行われています。その時の名寄帳が二冊残っています。そのうちの「与島畠方名よせの帳」には、天正十八年六月吉日の日付になっています。これは朱印状よりはるかに後の日付です。検地帳の方が先に作成されるとしても、名寄帳はそれからあまり日を経ずに作成されるのが普通です。どうしてなのでしょうか?
 朱印状の発行日の天正十八年二月晦日は、塩飽の船方衆が兵糧米輸送に活躍した小田原の北条氏攻めに秀吉が出発する前日にあたります。その功績に対しての発給とも思えますが・・・
以上のことから『塩飽嶋諸事党』所載の秀吉朱印状写には「作為」があると研究者は考えているようです。
家康朱印状に「如先判」とあるので、先行する秀吉の朱印状があったことは確かです。どうして作為あるものを作らなければならなかったのでしょうか。その背景を、研究者は次のように推理します。

『塩飽嶋諸事覚』所載の秀吉朱印状は、おそらく後世に「如先判」とあることに気づいた者が、先行する秀吉朱印状があって然るべきであると考えて、家康朱印状を例にして造作した。日付は小田原陣出陣前日に設定した。

そして、本物の写しは別の形で伝えられていると考えます。それが、「塩飽島諸訳手鑑』(『新編九亀市史4』所収)の末尾に近い個所にある「御朱印之写」とします。
塩飽検地之事
一 式百弐拾石ハ円方屋敷方
一 千三拾石ハ 山畠方
右千二百五拾石
右之畠地当嶋中六百五拾人之舟方被下候条令配分令可為領知者也
年号月日
御朱印
  これは、従来は慶長五年の家康朱印状とされてきました。しかし、家康朱印状は別に掲載されているので、研究者は内容からみて秀吉の発給したものと考えます。日付と宛所が空白なことも、掲載の時点ですでに知ることができなかったのであり、かえって真実に近いと研究者は考えているようです。続いて「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」という項があり、その中に、次のように記されています。

太閤様御代之時、御陣なとニ御兵糧並御馬船竹木其外御用之道具、舟加子不残積廻り、相詰御奉公仕申付、御ほうひ二御朱印之節、塩飽嶋中米麦高合千弐百五拾石を六百五拾人之加子二被下候、其刻御取次衆京じゆ楽二頂戴仕候御事、
意訳変換しておくと
太閤様の時代に、戦場の御陣などに兵糧や兵馬・船竹木などの道具を舟加子が舟に積んで運ぶことを、申付られた。その褒美に朱印状をいただき、「塩飽嶋中」に米麦高1250石を650人の水夫に下された。その朱印状は京都の聚楽第で取次衆から頂戴したものである。

ここからは、この朱印状写しが秀吉からのもので、聚楽第で取次衆から受け取ったことが分かります。そして「人名」という文字はでてきません。
塩飽勤番所跡 信長・秀吉・家康の朱印状が残る史跡 丸亀市本島町 | あははライフ
朱印状の保管箱 左から順番に納められて保管されてきた

最後に秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚」の写し)を、もう一度見ておきましょう。秀吉朱印状の前半部分は検地状で、後半が領地状となっている珍しい形式です。検地実施後に明らかになったの土地面積を塩飽島高として、塩飽船方650人に領知させています。この朱印状の船方650人の領知を、どのように理解したらいいのでしょうか。
 検地による高付地(田方・屋敷方・山畠方)合計1250石を「配分」して領知せよといっています。ここで注意したいのは、塩飽島全体を「配分」して領知せよといっているのではないことです。

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朱印状箱を入れた石棺
 この朱印状が発給された天正18年2月前後の情勢を確認しておきましょう。
1月 秀吉は、伊達政宗に小田原参陣を命じ、
2月 秀吉は京都を出陣
4月 小田原城を包囲
7月 北条氏直を降伏させ、小田原入城
19年1月秀吉は沿海諸国に兵船をつくらせ、9月 朝鮮出兵を命じる。
つまり、四国・九州を平定後に最後に残った小田原攻めを行い、陣中で念願の朝鮮出兵の段取りを考えていた時期に当たります。
3  塩飽 関船

海を渡って朝鮮出兵を行うためには海上輸送のため、早急に船方(水主役)の動員体制を整えておく必要がありました。海上輸送の立案計画は、小西行長が担当したと私は考えています。行長は、四国・九州平定の際には鞆・牛窓・小豆島・直島を領有し、瀬戸内海を通じての後方支援物資の輸送にあたりました。それを当時の宣教使達は「海の若き司令官」と誇らしげにイエズス会に報告しています。行長は、操船技術に優れていた塩飽島の船方(水主)を、直接把握しておきたかったはずです。行長の進言を受けて、塩飽への朱印状は発行されたと私は考えています。

5 小西行長1
小西行長

 領知とは一般的に領有して知行することです。そのまま読むと屋敷を含む1250石の土地とその土地に住む百姓(農民・水主・職人・商人などをまとめの呼称)とを支配し知行することです。百姓を支配するとは、百姓に対して行政権・裁判権を行使することであり、知行するとは年貢を徴収することになります。しかし、塩飽島は秀吉の直轄地ですから、百姓の行政および裁判は代官らが行います。従って船方650人の中から出された年寄は、代官の補佐役に過ぎなかったようです。つまり船方650人には行政権と裁判権は基本的にはなかったといえます。
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朱印状石棺を保管した蔵(塩飽勤番所)
 同じように江戸時代には、幕府の直轄地でした。時代によって変化しますが大坂船奉行・河口奉行・町奉行の支配を受けています。ここからは、塩飽船方衆(人名)は、領知権のうちの年貢の徴収権が行使できたのに過ぎないと研究者は指摘します。限定された領知権だったようです。
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船方650人は、塩飽にすむ百姓(中世的)です。配分された田畑については、自作する場合と小作に出す場合とがありました。自作の場合には作り取りとなり、小作の場合には、小作人から小作料を徴収します。つまり船方650人は、農民と同じように1250石の配分地を所持(処分・用益)していたことになります。ただし、その土地には年貢負担がありません。
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以上、秀吉発給の朱印状の領知(権)の内容をまとめると、次のようになります
①1250石を領知した船方650人は、年貢徴収権と所持権を併せ持った存在であった。
②以後、明治三年まで両権を併有していた。
しかし、これについては、運営する塩飽人名方の年寄りと、管理する幕府支配所の役人との間には「見解の相違」があったようです。
人名(船方)側の理解では、塩飽島の領知として貢租を徴収(年貢・小物成・山役銀・網道上銀など)していました。それに対して幕府の役人達は、1250石の高付地の領知と理解していましたが、運用面において、曖昧部分を残していたようです。両者が船方650人の確保などのために妥協していたと云えます。
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 享保六年勘定奉行の命をうけ、大坂川口御支配の松平孫太夫が、塩飽島の「田畑町歩井人数」等の報告を年寄にさせています。
その時に、朱印高1250石以外の新開地は別に報告するよう命じ
ています。正徳三年の「塩飽嶋諸訳手鑑」には、すでに269石7斗5升2合5勺の新田畑があったことは伏せています。そして、塩飽年寄は田畑反別は地引帳面を紛失したのでわからないし、また朱印高の外に開発地(見取場)はないと報告しています。それを受け取った松平孫太夫は、その通りを御勘定所へ報告しています。ここからは、幕府の役人が朱印状の領知を塩飽嶋全体でなく、1250石の田畑屋敷に限る領知と考えていることを年寄は知っていた節が見えてきます。年寄のうその報告を吟味もせずに、そのまま大坂川口御支配松平孫太夫が御勘定所へ報告したのは、両者の「阿吽の呼吸」とみることも出来ます。塩飽島の年寄と大坂の支配者との間には、いわゆる「いい関係」ができていて、まあまあで支配が行われていたと研究者は考えているようです。
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人名の墓
そういう目で、塩飽島の寛政改革を見てみると、大坂の役人が穏便な処置で対応しようとしたのも納得がいきます。それにたいして、江戸の幕府中枢部は厳しい改革をつきつけます。これも、当時の塩飽年寄りと大坂の役人との関係実態を反映しているのかも知れません。
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明治維新後の近代(請願書)になると、人名と政府との間に領知についての対立がおきます。
人名の領知の考えは、近世人名の領知の理解をうけつぎ、1250石の領知は、塩飽島全体の領知とします。これに対して明治政府は、幕府の理解を受け継ぎ、塩飽島の領知ではなく、1250石の高付地の領知と理解します。そして、明治3年領知権を貢租徴収権として人名から没収します。また人名(船方)650人は百姓でもあり、従って1250石の所持者であるとして、版籍奉還時に土地を没収することなく、地租改正では1250石を、人名所持地としてその土地所有権を認めます。
 この時の政府の年貢徴収権と所持権の理解が、人名が平民に位置づけられたにもかかわらず、貢租の1/10を支給する根拠になります。そして明治13年に一時金として貢租の三年分を支給する(差額)という、もう一つの秩禄処分を人名に対して行う論処となったようです。これに対して、人名たちは華族・士族と同じように金禄公債証書の交付を要求する運動を起します。しかし、これは実現しなかったようです。
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以上を次のようにまとめておきます
①水主(人名制)の塩飽領知権を認めた朱印状は残されていない
②それは、家康から同内容の朱印状を下賜されたときに幕府に「返還」されたためである。
③後世の智恵者が「秀吉朱印状」がないのはまずいと「写し」として偽作したものが伝来した
④それ以外に、実は本物の「写し」も伝わっていた
⑤塩飽領知権については、塩飽年寄りと幕府の大坂役人との間には「見解の相違」があったが、両者は「阿吽の呼吸」で運用していた。
⑥それが明治維新になって、新政府と人名の間の争論となり、これを通じて人名意識の高まりという副産物を生み出すことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献
  「加藤優
   塩飽島の人名 もう一つの秩禄処分  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

   

             

                         
  現在の塩飽諸島の範囲は本島・牛島・広島・手島・与島・岩黒島・情石島・瀬居島・沙弥島・佐柳島・高見島の11島で、これは江戸時代もほぼ同じです。江戸時代は、塩飽諸島全体を「塩飽島」と呼んでいたようです。それでは、それ以前の中世は、どうなのでしょうか。中世の史料には「塩飽嶋」は、出てきますが「本島」は、登場しません。そこから研究者は「塩飽島=本島」だったのではないかという説をだしています。今回は、この説を見ていくことにします。テキストは、「加藤優   塩飽諸島の歴史環境と地理的概観 徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です。

 1 塩飽本島
本島は「塩飽嶋」と表記されている

 「塩飽」が史料に最初に現れるのはいつなのでしょうか。まずは塩飽荘」として史料に現れる記事を年代順に並べて見ましょう。
元永元年(1118) 大政大臣藤原忠実家の年中行事の支度料物に塩飽荘からの塩二石の年貢納入
保元死年(1156)七月の藤原忠通書状案に、播磨局に安堵されたこと、以後は摂関家領として伝領。
元暦二年(1185)三月十六日に屋島の合戦で敗れた平氏が、塩飽荘に立ち寄り、安芸厳島に撤退したこと。
建長五年(1253)十月の「近衛家所領日録案」の中に「京極殿領内、讃岐国塩飽庄」
建永二年(1207)三月二十六日に法然が土佐にながされる途上で塩飽荘に立ち寄り、領主の館に入ったこと
康永三年(1344)十一月十一日に、信濃国守護小笠原氏の領する所となったこと
永徳三年(1383)二月十二日に、小笠原長基は「塩飽嶋」を子息長秀に譲与したこと。
この時には、すでに現地支配をともなう所領ではなかったようです。また「塩飽荘」でなく「塩飽嶋」となっていることに研究者は着目して、すでに荘園としての内実が失なわれていたと考えているようです。以後は「塩飽荘」は荘園としては消滅したようです。

それでは中世の「塩飽嶋」とは、どこを指していたのでしょうか?
 仁安二年(1167)、西行は修行のために四国にやって来る道筋で備中国真鍋島に立ち寄ったことを「山家集」に次のように記しています。
1 塩飽諸島

「真鍋と申島に、京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわく(塩飽)の島に渡り、商はんずる由申けるをききて 真鍋よりしわくへ通ふ商人はつみをかひにて渡る成けり」
   意訳変換しておくと
「真鍋という島で、京からの商人達は下船し、運んできた商品の商いを行いった。その後は塩飽の島に渡って、商いを行うと云う。真鍋島から塩飽へ通う商人は、積荷を積み替えて渡って行く」

 西行の乗った船は、真鍋島に着いたようです。商人の中には、そこで舟を乗り換えて「しわくの嶋」に向かう者がいたようです。塩飽は真鍋島への途上にあるので、どうして寄港して下ろさなかったのかが私には分かりません。しかし、ここで問題にするのは、西行が「真鍋と申島」に対して「しわくの島」と表記していることです。「しわくの島々」ではありません。「しわくの島」とは個別の島名と認識していることがうかがえます。「塩飽嶋」をひとつの島の名称とした場合、塩飽諸島中に塩飽島という名の島はありません。ここからは、後世に地名化した「塩飽荘」は、本島を指していたことがうかがえます。つまり、塩飽島とは本島であったと研究者は考えているようです。

 その他の中世史料には、どのように表記されているのかを研究者は見ていきます
①正平三年(1348)四月二日の「大蔵大輔某感状」に、伊予国南朝方の忽那義範が「今月一日於讃岐国塩飽之嶋追落城瑯」とあります。これは「塩飽之嶋」の城を攻め落とした記録ですが、これは、古城跡の残る本島のことです。

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『兵庫北関入船納帳』
②『兵庫北関入船納帳』には、文安二年(1445)2月~12月に兵庫北関を通過した船の船籍地が記されています。それによると塩飽諸島地域では「塩飽」「手嶋」「さなき」(佐柳島)の三船籍地があります。そのうち「塩飽」が圧倒的に多く37船で、その他は「手嶋」が1船、「さなき(佐柳島)」が3船です。塩飽船の多くは塩輸送船に特化していて、塩飽が製塩の島であることは古代以来変わりないようです。「塩飽」船籍の船頭に関して「泊」「かう」という注記が見られます。「泊」は本島の泊港、「かう」は甲生で同じく本島の湊です。ここからも「塩飽」は、本島であることが裏付けられます。
 塩飽諸島に含まれる「塩飽」「手嶋」「さなき」の3地域が異なる船籍として表記されていることは、互いの廻船運用の独立性を示すものでしょう。
 比較のために小豆島を見てみましょう。
塩飽諸島の島々よりはるかに大きく、港も複数あった小豆島の船籍は「嶋(小豆島)」の一船籍のみです。これは島内の水運業務が一元的に管理されていたことを示すようです。このことから推せば、「塩飽」の船籍に手島・佐柳島は含まれないのだから、江戸時代の「塩飽島=塩飽諸島」のような領域観は中世にはなかったことになります。
 それでは広島・牛島・高見島等の島が『入船納帳』に見られないのはどうしてなのでしょうか。
①水運活動をしていなかったか、
②「塩飽」水運に包摂されていたか
のどちらかでしょうが、②の可能性の方が高いでしょう。そうだとすれば当時の「塩飽=本島」の統制範囲が見えてきます。

家久君上京日記」のブログ記事一覧-徒然草独歩の写日記
島津家久の上京日記のルート

天正三年(1575)四月の島津家久の上京日記には、次のように記されます。
「しはく二着、東次郎左衛門といへる者の所へ一宿」し、翌日は「しはく見めくり候」と見て歩き、翌々日は「しはくの内、かう(甲生)といへる浦を一見」し、福田又次郎の館で蹴鞠をしています。
「しはく二着」というのは、島津家久が「塩飽=本島」に着いたことを示しているようです。その島に「かう(甲生)」という浦があることになります。これも「本島=塩飽」説を補強します。
1 塩飽諸島

近世以前に塩飽諸島のそれぞれの島が、どこに所属していたかを史料で見ておきましょう。    
①備前国児島に一番近い櫃石島は「園太暦』康永三年(1244)間二月一日の記事(『新編丸亀市史4史料編』60頁)によれば備前国に属しています。13世紀には櫃石島は、塩飽地域ではなかったことになります。
②応永十九年(一四一二)二月、四月頃、塩飽荘観音寺僧覚秀が京都北野社経王堂で、 一切経書写供養のため大投若経巻第五百四を書写しています。その奥書の筆者名には「讃州宇足津郡塩飽御庄観音寺住侶 金剛仏子覚秀」と記しています(〔大報恩寺蔵・北野天満宮一切経奥書〕『人日本史料 第七編之十六)。この観音寺は本島泊の中核的寺院であった正覚院のこととされています。ここからは、本島は宇足津郡(鵜足郡)であったことが分かります。
③弘治二年(1556)九月二十日の「讃州宇足郡塩飽庄尊師堂供養願文」(『新編九亀市史4史料編』九)は、本島生誕説のある醍醐寺開基聖宝(理源大師)のための堂建立に関する願文です。その中に
「抑当伽藍者、当所無双之旧跡、観音大士之勝地、根本尊師霊舎也」

とあり、これも正覚院に建立されたものであることが分かります。ここでも本島の所属は「宇足郡」です
④正覚院所蔵大般若経巻第四(天正十二年(1585)六月中旬の修理奥書には、次のように記されています。
「讃州宇足郡塩飽泊浦衆分流通修幅之秀憲西山宝性寺住寺」

泊浦は本島の主要湊のひとつです。
②③④からの史料からは、中世後期の本島は鵜足郡に属していたことが分かります。
次に、塩飽諸島西南部の高見島について見ておきましょう。
⑤享禄三年(1530)八月ニー五日の「高見嶋善福寺堂供養願文」(香川叢書)の文頭には「讃州多度郡高見嶋善福寺堂供養願文首」と記されます。ここからは高見島は多度郡に属していたことが分かります。佐柳島は高見島のさらに西北に連なります。佐柳島も多度郡に属していたと見るのが自然です。
尾上邸と神光寺 | くめ ブログ
広島の立石浦神光寺
④延宝四年(1676)一月銘の広島の立石浦神光寺の梵鐘には「讃州那珂郡塩飽広島立石浦宝珠山神光寺」とあります。広島は那珂郡に属していたようです。

以上を整理すると、各島の所属は次のようになります。
①櫃石島は備前
②塩飽嶋(本島)は、讃岐鵜足郡
③高見島は、讃岐多度郡
④広島は、那珂郡
ここからは今は、中世には櫃石島と本島、高見島や広島の間には、備前国と讃岐国との国界、鵜足郡や那珂郡、そして多度郡との郡界があったことが分かります。近世には塩飽諸島と一括してくくられている島々も、中世は同一グループを形作る基盤がなかったようです。つまり「塩飽」という名前で一括してくくられる地域は、なかったということです。
 以上から、「塩飽嶋」は近世以前には本島一島のみの名であり、 その他の島々を「塩飽」と呼ぶことはなかったと研究者は指摘します。それが本島がこの地域の中核の島であるところから、中世以後に他の島も政治、経済的に塩飽島の中に包み込まれていったのではないかという「塩飽嶋=本島」説を提示します。
3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所)
「塩飽島=塩飽諸島」と認識されるようになったのはいつからなのでしょう。
それは、豊臣秀吉の登場以後になるようです。秀吉が、塩飽の人々を御用船方衆として把握するようになったことがその契機とします。この結果、天正十八年に地域全体の検地が行われます。これによって「塩飽島」の範囲が確定されます。検地に基づき朱印状を給付して1250石の田・屋敷・山畑を船方650人で領知させます。この朱印状が「人名」制の起源になります。「塩飽島」と称するようになったのは、それ以後なのです。
 しかし、それでは本島を区別するのに困ります。そこで「塩飽島」を本島と呼ぶようになったと研究者は考えているようです。そうだとすれば、戦国時代に吉利支丹宣教師が立ち寄り、記録に残した「シワク(塩飽)」は、本島のことになります。
3塩飽 秀吉朱印状

以上をまとめておくと
①中世は現在の本島を「塩飽嶋」と呼んだ。「塩飽島=本島」であった
②本島周辺の備讃の島々は、国境や郡境で分断されていて「塩飽諸島」という一体性はなかった。
③秀吉の朱印状で水主(人名)に領知されて以後、「塩飽嶋」が周辺島々にも拡大されて使用されるようになった。
④そのため中世以来「塩飽嶋」と呼ばれてきた島は「本島」とよばれるようになった。
⑤キリスト教宣教師の記録に記される「しわく島」は本島のことである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「加藤優
   塩飽諸島の歴史環境と地理的概観 徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

小川荘で行われていた祭礼芸能を見る前に、中世期の越前地方の芸能史的背景を考えておく必要があるようです。室町時代の京都の公家や僧侶の日記『看聞日記』や『満済准后日記』には、越前猿楽の名がよく見えると云います。
1田楽と能
中世期の越前には、独自の専業猿楽芸団がいたようです。
小山荘からも遠くはない丹生部越前町の越知神社には、正和三年(1314)二月十九日付の「大谷寺小白山三月三日御供方々下行次第事」という文書があります。その中に「小飯一具を猿楽方へ下行し」たという文言があます。これを「越知山年中行事」などをあわせ読むと、猿楽衆の活発な活動が見えてくると研究者は云います。
白山神社 (平泉寺白山神社) 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
 小山荘の北、勝山市平泉寺町の白山神社でも、猿楽が古くから演じられていたようです。大永四年(1524)六月の臨時祭には、守護朝倉孝景が猿楽衆に五貫文の祭礼料をあたえています。(平泉寺文書)。京都に芸団が上洛していることや、あちこちに中世期作の能面を残していることなどからしても、専業の猿楽者が越前に常住し、社寺の祭礼などで演じていたことがうかがえます。
猿楽・申楽・散楽とは - コトバンク

越前の猿楽衆については、後藤淑氏によって次のような事が明らかにされています。
①福井県池田町水海に古い形式の猿楽能が残り、それが岐阜県本巣市根尾能郷の猿楽能と関係づけられそうなこと、
②中世の面打の上手に越前者福来がおり、永亨七年一月一十一日条に越前猿楽福来という者の名が出ること、
③世阿弥の『中楽談儀』にも、越前の面打の系譜として石王兵衛・龍有衛門・夜叉・文蔵・小牛・徳若などの名がある
④中世の面が勝山市滝波白山神社、越前市大滝神社、同郡池田町月ヶ瀬大洗磯崎神社、須波阿須疑神社などに残ること
⑤その他にも大谷寺旧蔵などのものが知られること、
⑥前田家所蔵面、梅若家所蔵面の銘により「越前国熊太夫」という者がいたこと、
⑦美濃同長滝白山神社(現岐単県郡上市)で行なわれる延年の能を、越前国大和五郎大夫が教えに行つていたこと(慶安二年(1650)「修正延年之次第」)
 しかし、越前猿楽の実態はについては、もうひとつはっきりしないようです。
1池田町水海の鵜甘神社

そのような中で研究者が注目するのは池田町水海の鵜甘神社の猿楽能で、田楽踊りや古式な猿楽能が伝わります。この神社は、地図で見ると分かるとおり、小山荘の村々とは宝慶寺のある山を隔てて隣に位置します。また小山荘の川原、打立とは同じ谷筋の奥という関係になります。今ではこの谷筋で古い猿楽能を残すのは、水海一ヵ所です。
福井県:池田町地図 - 旅行のとも、ZenTech

しかし、研究者はかつては次のような村々に、猿楽や翁舞が演じられていたと指摘します。
①近くには稲荷村の稲荷大明神正月六日の行事に、翁舞と猿楽能が
②その奥の月ヶ瀬村の小白山薬師堂正月十三日の行事に翁舞が、
③さらに奥の志津原村白山神社では、正月十七日に翁舞が、
④小山荘折立郷の隣村小島村(現小畑)の春日社にも、正月十四日に翁の神事
そして、水海の鵜甘神社正月十五日の行事ということになります(現二月十五日)。これを、どう考えたらいいのでしょうか。

前回に小山荘では、各郷(近世の村)毎に神社があり、領主から保証された祭田が附属し、年中行事や芸能(猿楽・翁舞)が行われてきたことを見てきました。それが、現在の池田町の足羽川沿いにあった旧村々の神社でも行われていたと研究者は考えているようです。それを、順番に並べると、足羽川沿いに稲荷社→薬師堂→白山社→春日社→鵜甘社となります。つまり、小川荘の祭礼・芸能は、そのまま山一つ隔てた地に近世まで伝承されていたことになります。

鵜甘神社の年に一度の神事!水海の田楽能舞とは【国の重要文化財・池田町】 | Dearふくい|福井県のローカルメディア

 今は水海の鵜甘神社に残る祭礼芸能は、翁舞・猿楽能の他にも、「からすとび・祝詞・あまんじやんごこ・あま」と称する芸能が演じられています。これは田楽踊り的要素もありますが、構成的には一種の「延年」であると研究者は指摘します。また、水海鵜甘神社の翁舞や猿楽能は、現在は地元の人々によって演じられています。そして、稲荷・志津原・月ヶ瀬には、芸能はなくなっています。しかし、翁三面をはじめ能面が大切に祀られています。「越前名蹟考」によれば、江戸時代後期にはこれらの芸能は、村人が演じるようになっていたようですが、中世期には専業の猿楽者が村々の楽頭職を持っていて演じていたと研究者は考えます。
 それを裏付ける一つの証拠が翁舞を演じる日が、少しずつずれていることです。これは、ひとつの猿楽集団が順番に村々を訪れて、神社本殿に祭祀する翁面を取り出して舞っていったからだとします。

それでは、田楽などを踊った芸能者はどこからきたのでしょうか
宝慶寺の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|13万件以上の神社仏閣情報掲載

 水海の集落の東山中にある曹洞宗の宝慶寺に研究者は注目します。北条氏一族がこの付近の地頭職を有していた事は、前回に見ました。宝慶寺は北条時頼の菩提と、北条一族のために建立された寺です。この寺には、正安元年の「沙弥知円他寄進状」(宝慶寺文書)に「依為深山勝地、無円島耕作之儀、人跡民家隔境」と記されています。ここからは人里から遠く離れた山中に曹洞宗の「二宝修練道場」として建立されたことがうかがえます。しかし永禄九年(1566)の「宝慶寺寺領日録」の門前には、33名の地代納入者が記されています。その中には酒屋。大工などの肩書きがみられます。どうやらお寺の門前には民家が建ち並び村としての景観を見せるようになっていたようです。
水のある風景を求めて:【キャンプ下見】 宝慶寺いこいの森(福井県大野市) 2019富山うまいもんツアー2日目(3)

 研究者が注目するのは、この問前住人の中に「猿楽小五郎」という人物がいる事です。禅宗の寺では付近の小祠・小堂と同じように猿楽を奉納することがあったようで、門前に猿楽者が住んでいたことが分かります。推測を働かせると、小五郎という猿楽者の先祖は、門前に住みつき、宝慶寺の楽頭職を有すると同時に、付近一帯の神社や、小祠・小堂の祭礼猿楽、市祭りの猿楽を一手に引き受けていたというストーリーが描けそうです。水海鵜甘神社の猿楽能伝来の伝承が、北条時頼と結びついていることも、宝慶寺門前住の猿楽者との関係がうかがえます。

  小山荘の「田数諸済等帳」には、黒谷御領家方の場合には、一石五斗の猿楽給が記されていたことが記されています。その他の神社でも猿楽田が一反から二反は準備されています。若狭国三方郡藤井天満宮の延文四年(1359)の猿楽気山人夫楽頭職給が一反で、分米二石三斗、同じく山西郷の観応二年(1351)の文書では一石四斗とあるから、小山荘における猿楽給もほぼ同じ額になります。もちろん「田数諸済等帳」に記された小山荘の祭礼猿楽や、その近隣の猿楽が、すべて宝慶寺門前住の猿楽者の手になったというわけではないでしょう。平泉寺鎮守白山神社や、越智山大谷寺の小白山祭礼を担当した猿楽者も居たでしょうし、この地域最大の神社で会った篠座神社には、専属の猿楽者が居た可能性もあります。宝慶寺門前住の猿楽者は、いくつもの猿楽座のうちの一つにすぎません。しかし、越前の中世には、多くの猿楽座が並立して存在できる条件が整っていたと考えることはできそうです。
 偶然にた小山荘(大野市西南部の一地域)の史料は、今から見ると小祠・小堂としか思えない村堂の祭礼にも祭田が確保され、芸能が行われていたことを教えてくれます。別の見方をすれば、それだけ猿楽者の需要は多かったことになります。 
中世村落で祭祀と芸能が土地定着化し、自分たちのために、自分たちの手で祭祀を行なう小祠・小堂が勧請されていく姿を見てきました。そのパターンの特色を、研究者は次のようにまとめています。

①祭祀圏が地縁的共同体という比較的小地域的であること。
②祭祀構成が、中世期前半に地方に定着化した山岳密教系寺院や、その息のかかつた荘園鎮守社的的な有力社寺の祭祀構成をコンパクトにし、より民俗化したものであること
③祭祀や芸能を行なうものが主として専業者ではなく、共同体内の者であること,
④この祭祀と芸能の伝播者や育成者が、山岳密教系の下級宗教者であること,
⑤行なわれる芸能は、共同体の強い願いである豊穣祈願を織り込んだ正月行事が中心である
⑥その上に旧仏教系寺社の祭礼や法会の中心芸能である旧楽踊り・猿楽能の翁舞・呪師芸・神楽系の祈祷芸能などが、独自に民俗化して行なわれる。そこには特色よりも共通性の方が強く見られる。

しかし、越前ではもともと有力社寺に付属していた専業猿楽者を、仏神田の確保によつて村落のの祭礼にまで引きずり込み、それによって独自に越前猿楽と呼ばれる専業芸能集団を生み出したようです。この点は中世後期に畿内地方の郷村を中心に、宮座組織を基盤にして猿楽能が演じられていくことにつながる先駆的な動きとも云えます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献「 山路興造 中世芸能の底流  第二章 中世山村における祭祀と芸能」

今回は中世越前の宮座と祭礼・芸能について見ていきます。 今回もテキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第二章 中世山村における祭祀と芸能」です。
継体天皇の考察④(越前の豪族)|古代史勉強家(小嶋浩毅)|note

越前は継体天皇の出身地で古代においては、日本海交易の重要拠点でした。そのため奈良時代には東大寺などの手によって初期荘園が開拓されます。九頭竜川を遡った山間部の大野郡にも、平安時代には都人の支配の手が入っています。九頭竜川とその支流真名川などがつくり出す広い盆地は、豊かな山中の耕作地とされていたようです。
 この大野盆地の南部から、背後の山中一帯にわたる広大な地は、小山荘と呼ばれる荘園でした。平安時代の応徳二年(1086)、大野盆地の北西の地二百余町は、越前日司源高実の寄進によって、醍醐寺円光院の荘園として牛原荘が立荘されます。藤原道長の曾孫成通も、いつの頃からかその南に続く小山郷および西に山を隔てた川原郷一帯の地数百町を、私領とするようになります。この小山郷の地は大野市南部、川原郷は足羽郡美山町(現福井市)から今立郡池田町にまたがる地です。
福井県:大野市地図 - 旅行のとも、ZenTech

このうち大野盆地南部を郷域とした小山郷は、院政朋に入ると小山荘と呼ばれる安楽寿院領となります。小山荘が院政期に安楽寿院領になったといっても、それは藤原成通が朝廷(安楽寿院)を本所としたのであって、領家職は自分の手元に残しておいたようです。のちにこの領家職は藤原氏一族の氏神である奈良の春日社に寄進されます。
 鎌倉時代に入ると三代将軍源実朝は、この小山荘と近隣の泉荘の地頭に、北条義時を任じます。建保四年(1216)二月十七日付の、代官を派遣するよう下知したことを皇室に告げた文書が残っています(三浦文書)。
宝慶寺 (福井県大野市): 日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記
宝慶寺(ホウキョウジ)
小山荘の地頭については、その後の詳細は分かりません。しかし、小山荘内の木本村の西山中に宝慶寺という曹洞宗寺院が、鎌倉五代執権北条時頼の菩提のために建立されています。ここからはこの地に地頭として北条氏族の力が続いて、働いていたことがうかがえます。

小山荘域を歩くと、 地頭方・領家方に中分された痕跡が研究者には見えてくるようです。たとえば長承二年の「官宣旨案」にその名の見える木本(このもと)は、大野盆地の南端、宝慶寺のある山中へ清滝川沿いに登る山際にある村落です。集落のほぼ中央に小川が流れ、それを境に木本地頭と木本領家にはっきり分けられました。神社も
①領家方には、高於磐座神社(古くは春日社)
②地頭方には白山神社
に分けられ、小堂も地頭方には観音堂・薬師堂やカメソ下(神の堂?)と呼ばれる堂が祀られ、古い民家には堀が廻らされていて、中世風の色濃い佇まいです。
 同じく一つ西の谷にある阿難祖領家・阿難祖地頭(集落の小川が境)、木本の東にある平沢地頭・平沢領家、その北の森政地頭・森政領家など、地名をたどるだけでも、中世のある時期に村落を二つに割る形で、下地中分がなされたことがうかがえます。小山荘の領家職がいつ頃に、奈良春日社に寄進されたかは分かりません。

研究者が注目するのは、興福寺・春日社関係史料を多く集めた保井芳太郎文書(現大理図書館蔵)の中にある「春日社領越前国大野那小山庄田数諸済等帳」(永享十二年(1440)四月)という史料です。
これは小山荘の領家職をもっていた春日社が、田数・年貢・公事物などの明細を荘官や百姓に報告させ、それを書き留めたものです。この文書の特徴は、村毎に「地下之引物」として、仏神田を詳細に報告している所です。百姓側からの領家に対する引物の注進なので、これによって当時の荘園村落の祭祀の様子がうかがえます。引物とは、平安時代頃に馬を庭に引き出して客へ贈っていたことからきた言葉とされます。 やがて馬の代わりに「馬代(うましろ)」として金品を贈るようになり、次第に引き出物は酒宴の膳に添える物品や、招待客への土産物をさすようになったと言われています。
 史料によると、当時の春日社領小山荘は、西小山郷・井嶋郷・舌郷・黒谷・深江郷・飯西村・院内・下郷・縁新宮地・下穴間・上佐々俣郷・下秋字の領家方と、折立郷・河原郷の範囲です。すなわち平安時代に藤原成通が領した小山郷・川原郷の領域が中分されたとはいえ、そのエリアはほぼ保たれていたことになります。

この中の「井嶋郷」(近世の猪島村)の仏神田を最初に見てみましょう。
 領家方の場合、広田が三八町五反、郷内の仏神田やその他を引いた公田が六町八段小一五歩と報告されています。郷内には熊野神社があり、そこには常住の神主がいたようで、「田数諸済等帳」は神主取役分として、布一端・綿三〇日・山葵などが記されています。今も熊野神社は、猪島の字医王寺に鎮座しますが、社殿だけが覆堂におさまる小さなものになっているようです。しかし「田数諸済等帳」によると、井嶋郷領家方の仏神田は熊野神社だけでも計三町あったと記されます。その内訳は、次のようになります。
一段 油田 一段 元三田
一段 佐幣田  五段 三月八日田
一段 五月五日 一段 七月七日田
五段 九月九日田 一段 御神楽田
二段 御油田 二段 猿楽田
二段 馬駕(駆)田 一段 鐘ツキ田
七段 修理田
とあり、それに続けて、
  又、道寄之地蔵堂田事
一段 修理田 一段 大師講田
一段小 弥勒堂田
  又、荒嶋之御神田
二段 七月七日田 二段 九日田
二段 修理田 一段 アヤ田
以上壱町小
最初に出てくる「一段 油田」は「ゆでん」ではなく「あぶらでん」とよむようです。「灯油田」とも表記しますが、祭礼用の照明胡麻油を栽培するための祭田です。「一段 元三田」の「元三」とは、元日から三日までの三が日のことです。現在の「正月三が日」の祭礼経費を賄う祭田になります。以下をみると、中世の熊野神社は、多くの祭田(神田)をもっていたことが分かります。そして、正月を初め月々の祭事が行われる地域の中核神社で、その経済的な裏付けも祭田によってされていてます。境内の小祠・小堂にも、それぞれ行事田が付けられていたと研究者は考えているようです。
 「道寄の地蔵堂」については、荒嶋山を祀る小祠は今も付近の畦にあり、少し離れた四辻に六地蔵が祀るれています。このお堂にも修理田と大師堂のためのための祭田が設けられています。
 熊野神社は元々は、熊野信仰によって開かれたもので常駐したという神主も熊野行者的な性格で、熊野への先達活動のリーダー的な存在だったのかもしれません。また、この地域の熊野行者の活動センターであったことは考えられます。

井嶋郷には、他にも「熊野地蔵堂御神田」が、次の様に注進されています。
一段 行(オコナイ)田  大師講田
一段 修理田       一段 松尾神田
一段□ 十烈稲荷田     一段 虚空蔵堂行田
仮屋一間 同修理方 一段 市祭猿楽田
仮屋一間  住吉修理方 三段 山脇阿弥陀堂
以上壱町大六十―歩 仮屋弐間
松尾神・稲荷・虚空蔵堂・住吉・阿弥陀堂と、いろいろな堂舎が地蔵堂にはあり、それぞれに祭田が付けられています。郷内には熊野神社と地蔵堂のふたつを合わせると、仏神田は五町一段六〇歩という広さになります。ただ熊野地蔵堂は、今はどこにあったのか分からないようです。熊野神社に遠くない民家の軒に地蔵を祀る小祠があるので、それで地蔵堂跡かもしれないと研究者は考えているようです。

 現在の熊野神社には、中世期に神主が常住し多くの行事田を持ち、月毎に祭礼が行われ、村落生活の支えとなっていたような面影はありません。また村の景観からも、これだけ多くの仏神田をもった社や堂があったことなど想像できないと研究者は驚きます。
  ここからは中世に荘園の鎮守社として領主達から祭田を付けて保護されていたこの熊野神社は、近世には村落の鎮守社とはならなかったことがうかがえます。村の鎮守社は、中世と近世では交替したということです。古代の荘園が解体する中で、新たに登場した地縁共同体の惣郷では、別の神社が祀られ、鎮守社となっていったとしておきましょう。中世以来の神社が衰退したこともあるようです。これは丸亀平野でもあったはずです。

 話を大野市猪島の熊野神社にもどします。
今は「昔の栄華、今何処」的な雰囲気ですが、わずかな名残はあるようです。史料では旧暦三月八日は祭礼日とされていますが、今も地域では一ヵ月遅れの四月八日に祭りを行っているようです。正月一日には神社前で火を焚いて夜明かしをするといいます。これも、もともとは元三(正月)の行事の痕跡なのかもしれません。残された史料には、中世には、十月八日の祭礼はもとより、元三・五月五日・七月七日・九月九日の節供の祭、毎月一日朔幣の法奉幣などのための祭田が設けられていたことがわかります。行事日ごとの神楽料や、祭祀の時に演じられた猿楽料は、祭田によって賄われていたことが分かります。

虚空蔵堂では「虚空蔵堂行田」とあるので、行(オコナイ=芸能)が行われていたこと。熊野地蔵堂では「市祭猿楽田」とあるので、この地で開かれた市の市祭りにも猿楽が演じられていたことが分かります。

次に小山郷をみてみましょう。小山荘の中心地は、西小山郷にあったようです。この地が現在のどこにあたるかも、よく分からないようです。ただ小山荘内の西にあたるらしいこと伝わるので、舌郷の北にあたる右近次郎の地あたりらしいと研究者は考えているようです。現在のJR大野駅の南に鎮座する春日神社周辺です。
クリスマス前の神頼み?結のまちにそびえ立つ「良縁の樹」(福井県大野市春日)

「田数諸済等帳」には、この春日神社が鎮座する西小山郷が冒頭に挙げられ、その仏神田が次のように記されています。
五段 修理田  一段 元三田一段 正月 行(オコナイ)田
一段 二月行田  一段 二月十一日猿楽田 一段 三月三日田
一段 五月五日田  一段 七月七日田   一段 九月九日田
一段 御神楽田 一段 御通夜田 一段 御アヤ田
一段 御注連田   半 油田
以上壱町来段半 春日御神田
一段  住吉田 一段 市祭猿楽田 一段 篠蔵(ヤブサメ)社・□(熊)野社
以上参段
五段 修理田   一 元三田 一段 正月行田
一段 正月七日田 半 延年田 一段  二月行田
一段 三月三日田 一段 五月五日田 一段 放生田
一段 九月九日田  一段 御神楽田 一段 御通夜田
一段 注連田   一段 猿楽田 一段 油田
一段 アヤ田    一 篠蔵(ヤブサメ)役田
以上弐町半 大杉御神田
都合庫町壱段百姓等注進分
ここからは、この地には荘園鎮守社的性格をもった春日社と、大杉社という井嶋郷の熊野神社と並ぶ比較的大きい社があったことが分かります。春日社では五節供田や正月・二月のオコナイ田が確保されいます。二月十一日の祭礼の猿楽や神楽のための経費を賄う神田もあります。修理改修のための修理田も五段が確保されています。
  一方、大杉社の方も節供田のほか、正月・月のオコナイ田もあります。さらにそれとは別に正月七日に祭祀があり、その際には「延年」があったことが分かります。祭礼の期日は分かりませんが、猿楽・神楽のための費用田もあり、放生会も行なったようです。祭礼や芸能は、互いに競い合うように演じられたようです。
西小山郷の特色は、井嶋郷とおなじように市が開催されていたことです。猿楽田があるので、市の際には田楽も奉納されていたようです。各郷には、それぞれ中核となる神社が勧進され、地域の文化・祭礼センターだけでなく、市などの流通活動まで管理していた気配がうかがえます。

しかし、小川荘の神社は、これだけでは終わりません。もっと大きな寺院があったようです。
延喜式内社 | 篠座神社 | 福井県大野市
研究者が注目するのは、篠座神社行事田です。
  篠座神社は式内社で現在の大野市街地の南、篠座に鎮座します。この篠座は小山荘の荘域からは、わずかに外れているようです。荘園領主とは、建前上は関係のない神社と考えられます。今まで見た来たように、郷(近世の村にほぼ相当)単位の中で、複数の小祠・小堂を祀っています。ところが一方で、郷や荘などの行政単位を超えた大型神社があります。それが篠座神社なのです。この神社が荘園成立以前から存在する古社であることを物語ります。この神社の祭礼には、多くの村々が参集していたようです。それはそれぞれ村々に、この神社の神田があることから分かります。
 当時の篠座神社の祭礼規模を見てみましょう。
 神社鎮座地の南側の、それも領家方の村々からだけでも、流鏑馬・一物・相撲・朔幣などのための費用田を認めさせ、その範囲も、篠座神社に近い西小山郷・深江(深井)郷などはもとより、佐開郷・木本郷、遠く美濃境に近い秋宇(現秋生)あたりからも寄進銭が届けられています。篠座神社の祭礼には当然、猿楽なども演じられていたようで「大野寺社縁起」には、神社什宝として尉面と女面が残されていることが記されています。
篠座神社(福井県大野市篠座/神社) - Yahoo!ロコ
以上をまとめておきましょう。
①小川荘には、郷単位の中核寺院が複数あり、それぞれに年中行事の祭田を持っていた
②さらに小さいエリアの地蔵堂なども村落には祀られ、そこにも祭田はつけられていた。
③その上の古社である篠座神社は、荘園エリアを越えての信仰権をもっていた。
こうしてみると三重の信仰エリアがあり、それが祭田という形で領主から認められていたことになります。しかし、中世から近世への激動期の中で、荘園制解体と共に①②の中には領主の保護を失うと共に衰退していった神社があったことが分かります。私にとっては、荘園の神社祭礼が、たとえ小祠・小堂であっても仏神田という経済的裏付けがされて、きちんと行なわれていたことは驚きでした。このような祭田をもった中世の寺院が、今は姿を消しているものもあるのです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献「 山路興造 中世芸能の底流  第二章 中世山村における祭祀と芸能」

ソラのお堂

阿波の「ソラの村」と呼ばれる村々には、小集落毎にお堂が今も祀られています。そして、そこでは祭礼と芸能が行われています。端山88ヶ所廻りをしていて、出会ったお堂は魅力的でした。どうして、このお堂は作られたのだろうか。また、そこで踊られる「盆踊り」は、どこからやってきたのだろうか、疑問はつきません。その都度、思うところや考えたことを載せてきましたが、地元の史料や研究だけでは、なかなか分かりません。もう少し大局的な「見取り図」が必要なようです。今回もテキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に」です

唐招提寺の舞楽

唐招提寺の舞楽 
奈良時代には東大寺を中心に国家鎮護を目的に仏教の法会が行われるようになります。それが国分寺建立などによって、地方にも拡大していきます。これは「国家的規模の意図的伝播」です。
 平安時代になると真言宗などの密教寺院の地方進出が進みます。これには仏教以前のわが国古来の山岳宗教が大な役割を演じ、その拠点ともいえる山岳寺院を足がかりに勢力を伸ばしていきます。四国では、この中から焼山寺や太龍寺のように、四国辺路の寺へと成長して行く寺院が現れます。密教系寺院の中には、地方豪族の信仰を背景に、多くの寺僧・社僧をかかえて繁栄し、地方の大寺院に成長して行く寺も現れます。このような寺社では、善通寺のように中世後半のある時期までは、経済的裏付けを確保して、規模にあった専業の宗教者を抱え、年中の法会を行うようになります。
1年中法会

一方、中央の大社寺勢力や貴族達も荘園支配という形での地方進出を進めます。それにともなって、荘園鎮守社やその神宮寺が創建されるようになります。そこでは、荘園領主は「イデオロギー的荘園掌握の方法」として寺社は活用されます。これは、中世ヨーロッパの修道院と荘園と同じです。鎮守社の祭礼では、領主が中央で行っていた祭祀や芸能構成が、そのまま地方の荘園にもちこまれます。祭礼準備を行うのは荘民の役目として義務づけられるようになります。そのため荘園内に仏神田や祭祀田が確保され経済的な裏付けがされた上で、専門の宗教者などが祭祀にあたるようになります。
 このような祭礼・芸能の地方進出には、山岳密教系の寺社や荘園鎮守社寺によってそれぞれ独自のスタイルがあったようです。その系統の宗教者によって、祭祀構成や法会、芸能などに共通した特色が残されています。その特徴は、正月三ヵ日の祭祀である元三や、修正会、修二会など新春に行なう行事に重点を置いた祭祀です。ほかに毎月一日ごとの朔幣の奉幣、三月三日・五月五日・七月七日・九月九日の節供ごとの奉御供、仏事に重きを置く所では仁王会・法華八講・車厳会・蓮幸会・維摩会など、加えて年一度の正祭になります。これらを地方の大寺と呼ばれる寺は、整備していくことに苦心するようになります。
旅探(たびたん)】参加できる日本の祭り「醍醐寺の五大力尊仁王会」

 その中で、時代が下るにつれて地方独自のものも盛り込まれ、地域に根付いていくことになります。特に新春にあたっての修正会には、村落生活の中で伝えられた祖霊祭や、豊穣予祝の切実な願いが、前面に押し出されてきます。
惣郷」(そうごう)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力
 中世社会が進むにつれて、人為的な空間エリアであった荘園や行政単位としての郷とは別に、地縁的集落結合が大きな意味をもつようになります。それが惣郷や惣村と呼ばれる地縁結合体です。ここでは精神的拠り所として、自分たちの信仰する神仏を選び、自分たちの手で祭祀を行なう寺社を勧請するようになります。つまり、一宮や善通寺のように専業祭祀者を中心とした地方有力社寺とは別に、新たに登場してきた惣郷は、自分たちの手で寺や神社を建立し、運営するようになるのです。そして、それまでの専業祭祀者を中心とした地方有力社寺とは別に、惣郷(集落)ごとに祀られた小祠・小堂が村落生活の中心として定着していくことになります。この時点では、まだ鎮守の森には建造物はなかったかもしれません。
それでは、新たに登場した惣郷の社で行われるようになった祭祀と芸能とは、どんなものだったのでしょうか。また、どんな宗教者が関わったのでしょうか
大千度行者(だいせんどぎょうじゃ),日光山伏(にっこうやまぶし) ,里山伏(さとやまぶし)

 この時期の郷村の社寺経営に関わったのは、高野山系系(山岳密教系)の下級宗教者たちだったと研究者は考えているようです。それは、里山伏・里修験、聖などに分類された宗教者です。彼らは、修行遍歴の中で縁があって定着し、次第に村の有力者として祭祀や郷村内での相応の位置を確保していった者がいるようです。その際に、修行で得た胆力や実践力は集団を動かすのに大きな力となったかもしれません。
 三河の田楽(みかわのでんがく)
三河の田楽
しかし、郷村の社で行われた祭祀や芸能スタイルに、新しい工夫があったわけではないようです。それまで地方の有力社寺が、中世前期を通じて徐々に育ててきた年中行事の中から民衆の求める行事を選択して持ち込んだようです。地域の人々が求めるスタイルに変化アレンジさせることが彼らの手腕で、工夫の見せ所だったようです。これを民族化・土着化と呼ぶのかも知れません。
 次に今まで述べてきたことを、具体的に「フィルドワーク」で見ていくことにしましょう。
1修正会 東大寺

 
研究者がここで紹介するのは、三河・信濃・遠江の国境一帯の山深い山村の小祠・小堂に伝承された修正会(しゅっしょうえ=オコナイ)を中心とした祭祀と芸能です。「田遊び」とか「田楽」「おこない」などの名で呼ばれる行事は、天竜川沿いだけでも、現在十三カ所に伝承されているようです。「田遊び」とか「田楽」という言葉だけを見ると、田植えと関係あるように思って今しますが、そうではありません。その年の豊作豊穣を願う新年の儀式です。

高松神社 (浜岡)---御前崎市観光ガイド『駿河湾☆百景』

この地区の祭祀と芸能が、いつ頃に定着したのかを知る史料はないようです。しかし、遠江国小笠郡浜岡町門屋の高松神明社(高松神社)の社家中山家文書(元弘3年(1333)八月)に次のように記されています。
「遠江笠原庄一宮長日仏性並色々御供料米拾六石下行之時納量十御宝蔵随千其当役令配分注文」
ここには年間一六石の仏神事料の配分先が次のように記されています。
元三十三ヶ日御供料一石八斗
元三十三ヶ日参籠のため一石七斗
正月七日歩射料二斗
一石 同十五修正導師・同供僧井参籠神人等御神楽井田遊井得元・秋貞両御百姓社参祝新陶
 笠原荘の鎮守社として一宮を称したこの社は、熊野権現社の名でも呼ばれたことからうかがえるように山岳密教系の信仰が入りこんだ神社です。正月行事を中心に、毎月一日の朔幣、二月一日・七月七日の祭祀に対する御供料、毎月四斗五升宛の長日仏性料などが配分されていることが分かります。
 祭祀の中心は社僧・神人など専業宗教者です。その中に荘域内の得元や秋貞名の百姓も参加して、その年の豊穣を祈る「神楽」「田遊び」が正月の修正会の中で行われています。14世紀前半には、このような行事が地方の神社にも定着していたことが分かります。
  東海地方の荘園鎮守社や、旧仏教系の大寺院には、鎌倉期から南北朝にかけて修正会が行なわれています。その際に注意したいのは、開催目的です。その内容は東大寺や国分寺で行われていた国家的祈願の法会という古代的な発想ではありません。新春にあたっての祈願である五穀豊穣と延命忠災で、芸能内容も民俗化されアレンジされたものに変化しています。これを土着化と云うのかも知れません。
田楽踊りとのぼうの城
のぼうの城に登場する田楽踊り

どうして修正会に田楽踊りが演じられるようになったのでしょうか
田楽踊りは平安時代中期頃から鎌倉時代にかけての流行芸能でした。それが一種の延年の芸能として取入れられるようになったようです。醍醐寺三宝院の『賢俊僧正具註暦』貞和二年(1146)正月一日条には次のように記されています。
御神供以下如例、修正如例、(中略)田楽新座社頭役如例了

この他にも日光山輪王寺修正会の顕夜や、多武峯、毛越寺、秋田県鹿角郡(現鹿角市)八幡平大日堂の修正会に田楽踊りは演じられています。ここからは平安末期から中世にかけて、密教系を中心とする寺院の修正会・修二会に、本来の呪師芸だけでなく翁猿楽を含む猿楽芸、田楽踊り・田遊びなどの諸芸能が取り入れられるようになっていたことが分かります。
のぼうの城』つづき - ジョルジュの窓

これらの芸能が山間の村々に浸透して定着するのには、どのようなプロセスがあったのでしょうか
①まず地方の大社寺の行事として定着
②その後、村々に活躍した里修験者などの手によって伝播
という過程が考えられます。修正会・修二会が民俗化していく過程では、その行事をこの地方ではオコナイの名で呼ぶようになります。三河の猿投神社文書の延慶一年(1309)三月九日付「中条景長寄進文書」に「行(オコナイ)」という字で記されています。三・信・遠の山間部の小祠・小堂のオコナイの場合は、系譜的には中央寺社の修正会などと同一線上にあると研究者は考えているようです。

 それが早くから開発の進んだ東海地方の荘園鎮守社や、旧仏教の地方拠点とされた寺院に持ちこまれ定着、民俗化して中世村落民の民俗行事として受け入れられます。これが第一段階です。さらに開発の進められた山間村に、開発領主の手で持ち込まれるというのが第2段階のようです。
第16回日本史講座まとめ③(院政期の文化) : 山武の世界史


それでは、具体的なお堂や祠を訪ねてみましょう。
伊豆神社(長野県下伊那郡阿南町新野) - Yahoo!ロコ

長野県阿南町新野の二善寺観青堂(伊豆神社)は、御神事(雪まつり)を伝えます。新野には伊豆権現の信仰を持って、この地に定着した伊東氏の伝承があります。伊東氏は伊豆権現の神主を務めると同時に、この地域の開発領主として大きな力を持っていたようです。修正会の祭事も、この伊東氏とその下に属する内輪衆と呼ぶ神人組織によって執り行われ、神事も彼等によって行なわれていたようです。その費用も、伊東氏の負担でした。芸能は上手衆と呼ぶ東西に分けられた組織があり、その世襲によって奉納されていました。二善寺観音もこの伊豆権現に「本地壱本分神成はとて」(『熊谷家伝記』)勧請されたと伝えられます。
新野の雪祭
伊豆神社の御神事(雪まつり)

新野の場合は、二善寺観音を習合した伊豆権現、則ち伊東家の影が強く、新野平野開拓時には、伊豆国の走湯権現の信仰を持った宗教人の活動が見えてきます。伊豆の走湯権現は、今ではその伝統をなくしてしまっていますが、中世期には修験系の信仰を集めた大きな集団として勢力を持っていたようです。奥州平泉や日光山と同じくらいの規模で、天台系信仰が伝えられ、常行堂では修正会が行われ、磨多羅神を祀ったことも知られています。この宗教人の影は、遠州側のオコナイを残す地帯と重なり合います。たとえば静岡県浜松市北区引佐町寺野では、その地帯の開発が伊豆の伊東氏の手によって行われたと伝えます。そしてオコナイの伝わる観音堂も、その開発主によって建てられたと云います。
niino17.jpg

 オコナイを残す小堂のうち、峰神沢(現浜松市大竜区)の大日堂には、延徳一年(1491)正月四日の再建棟札が残ります。正月四日が、この堂のオコナイが行われる日です。川名葉師堂(引佐町)は、応永二十二年の再建記録があり、文安四年(1447)二月十六日の年号のある鰐口が保管されています。これらの祭祀はいずれも村の開発者と思われる家が担当したらしく、堂の近くに鍵取の屋敷や屋敷跡が残る所が多いようです。
西浦田楽(にしうれでんがく) - 水窪情報サイト|水窪観光協会
西浦観音堂の田楽踊り

静岡県浜松市天竜区水窪町西浦観音堂はその典型で、観青堂のすぐ下に別当の家があります。祭祀はこの別当を中心に、公文衆・能衆と呼ばれる村の草分け二十数軒の家が世襲で行なってきました。西浦には中世の史料はありません。延宝九年(1681)の年号がある翁猿楽の詞章が最も古いものです。しかし、祭祀形態や芸能から見て、中世には確実に遡ることが出来ると研究者は考えているようです。研究者の調査によると、西浦だけでなく、近辺各所の集落に、観音堂・大日堂・薬師堂などの小堂が祀られ、近世末まではオコナイを修していた痕跡が見られるようです。そしていずれも別当・鍵取りなどの名で小堂の祭祀を司る家筋があり、それらの家が土地の開拓者か、それに近い伝承を持ちます。それがこの地域の一つの特色となっているようです。つまり開発者達が持ち込んだ信仰と芸能が、そのまま残っていると考えられるようです。
2021年 鳳来寺 [ほうらいじ] はどんなところ?周辺のみどころ・人気スポットも紹介します!
鳳来寺
もうひとつの特色は、三河側の修正会には、田楽踊りが加わることです。この背景については、次の2点を研究者は考えているようです。
①近くに鳳来寺という大きな密教系の山岳寺院があったこと
②戦国時代を通じて菅沼氏等の有力豪族が、祭礼に影響を与えたこと
古刹である鳳来寺と、村々で祀る小堂とが、どのような関係にあったかを明らかにする史料はないようです。しかし、近世には鳳来寺領である浅畑・下平・寺林・人峠・引地・橋平・湯谷(以上、東郷と称す)、吉村・岡・大草・黒谷・峯・田代・塩谷・塩平・為・栃下(以上、西郷と称す)の村々が、五人の鳥帽子役、大峠・引地・大草・峯の四人と新加の玖老勢の統率のもとに鳳来寺の諸行事を勤めています。鳳来寺の修正会は、正月三日の本堂(薬師堂)庭において行なわれるのが最も盛大で、田楽踊りは常行堂と本堂庭の行事として行われました。これが、各集落でも舞われるようになったようです。寺林の大日堂では、東郷の人のみによって修正会が行なわれています。これは、周辺の村々が、鳳来寺からの影響を受けて各地域に田楽踊りを取り入れたものと研究者は考えているようです。
 鳳来寺での田楽踊りは早くに行われなくなります。しかし、戦国時代の各集落では、有力土豪たちの助力によって、村人たちによる宮座が組織され続けられます。本家の踊りは消えても、それを取り入れた周辺集落のものは、村人に根付いて生き残ったことになります。
田峯観音浄水 (愛知県設楽町) - ちょこっと日帰り旅行~伊豆の田舎より~
田峯観音堂

 愛知県北設楽郡設楽町田峯観音堂の修正会の芸能は、戦国武将との関係を伝えます。『遣銘書』は比較的信頼のおける小野川家の伝書で、次のように記されています。
永禄二末年、田峯村大般若経御調中候、田楽大輪村道津具薬師堂ョリ、高勝寺へ御引取中候
ここからは、有力土豪菅沼氏が、自分の信仰する田峯観音堂高勝寺の大般若経を揃えた時に、祭祀芸能として大輪村道津共葉師堂の田楽を引きとったとあります。菅沼氏はもともと津具城に居た土豪で、文明二年(1470)菅沼三郎有衛門尉貞吉の時に田峯城に移っています。
設楽町】 田峯城|歴史を感じる|したらん♪トレイル
菅沼氏は本願の地の祭祀と芸能を、のちに田峰に移して演じさせたことになるようです。ここからは道津具薬師堂と菅沼氏の関係は、単なる信仰者という関係を超えていたことがうかがえます。本来は新野伊豆権現における伊東氏や、西浦の高木氏のなど深いつながりをもった土豪が、のちに有力武将となって、本願の地を離れて田峰にやってきたと研究者は考えているようです。この菅沼氏は田峯観音ばかりでなく、鳳来寺の祭礼も庇護しています。また長篠に城を築いた別流の菅沼氏は、設楽町長江観音堂の修正会に力を貸しているようです。ここには、三河山間部の諸堂の祭祀と芸能には、集落を越えて勢力を伸ばした地元の有力豪族の力が働いて、他の地域とは異なる歴史をたどったことがうかがえます。
三河の田楽(田峯田楽)【みかわのでんがく(だみねでんがく)】

 なお田峯観音堂の祭祀には、近世までそれぞれの役に扶持が付いていたようです。これも戦国時代の土豪によって保護された名残だったのでしょう。
1田峰田楽

以上をまとめておきます
①天竜川流域の山村の小祠・小堂でも中世に成ると修正会(しゅっしょうえ=オコナイ)が行われていた。
②その際の芸能は、神降し・王の舞、呪師系の呪術舞、田遊び、田楽踊り、翁猿楽、猿楽系芸能、巫女神楽系の舞が演じられていた。
③その特徴は、村の開拓者と思われる一族が、鍵取・禰宜・別当などを名乗って祭祀の中心となり、堂字を守ってきた。芸能も、それらの人々か中心となって伝承されてきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

前回は、播磨の住吉神社に伝わる中世前期の祭礼芸能を見てきました。今回は若狭国三方郡地方の延暦寺や奈良春日社領の荘園を見ていこうと思います。テキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に」です。

若狭では、かつての荘園の範囲を氏子圏とした神社に芸能が伝承されているようです。これは荘園領主が本家から勧進した鎮守社に、祭礼芸能も同時に持ち込んだためです。その際には、経済的裏付けとしての荘園内に神田や芸能田を確保したうえで、荘民に所役を割り当てています。それが若狭には、今も残っているようです。
日本秘湯を守る会 虹岳島温泉の粋なオッチャンブログ 春祭り 宇波西神社にお参りを

福井県三方郡三方町気山の宇波西(うわせ)神社は、
鎌倉時代には耳西郷と呼ばれる国衛領に鎮座する古社でした。耳西郷は鎌倉末期には領家職が東二条女院によって奈良春日社に寄進され、南北朝期には地頭職が天龍寺領と移っていきます。その後幾たびかの変遷を経て、字波西神社の祭祀は、耳西郷の村々によって担われるようになります。四月八日の祭礼は、旧耳西郷の気山(中山・市・中村・寺谷・切追)、牧口、大藪、金山、郷市、久々子、松原、笹田、日向、海山、北庄の村々が奉仕しています。宇波西神社の祭礼の特色は、これらの村々が定められた神餞と御幣を持って参詣することです。神社境内には各村の仮屋があって、献般を済ませた後は村ごとにそこに座を占めて饗宴を開き、当番村が繰り広げる上の舞・獅子舞・田楽などの芸能を楽しむのです
詩情あふれる神事☆宇波西神社(4月8日)『王の舞』/若狭美浜温泉 悠久乃碧 ホテル湾彩のブログ - 宿泊予約は<じゃらん>
宇波西(うわせ)神社の王の舞
祭礼で芸能を演じる村は、次のように決まっているようです。
①王の舞が海山・大藪・金山の三村が1年宛ての交替分担
②獅子舞が郷市・松原・久々子の交替制
③田楽は日向が2年、牧口が一年の交替
これは神社にある大永二年(1522)の「上瀬宮毎年祭礼御神事次第」に記された、当時の神事に献供を寄せた村と一致します。約五百年の歴史があるようです。
王の舞とは - コトバンク

 祭礼では、今では前日から当日の朝にかけて、それぞれの村で宮座が行なわれ、それを済ませてから総鎮守の宇波西神社に舟でやって来るという段取りになっています。しかし、これは宮座が開放されて以降の形式で、古くは耳西郷内の各村浦に住んいた選ばれた上層農漁民たちによる惣宮座があったと研究者は考えているようです。神社の鎮座する気山には、「気山モロト」と呼ばれる特定の家のみで継承する宮座が今も残されています。彼らは、謡の間に若狭鰈や桜の一枝を馳走にして献を重ねていきます。ここからは、春未だ浅い早朝の上方五湖を、舟で渡って神餞を運ぶ素襖・烏帽子の村人たちの姿と、中世期の若狭に生きた人々の姿がダブって見えてくると研究者は云います。
国津神社の神事[県指定] 若狭町観光情報 Discover Wakasa
 三方町には、伊勢神宮の所領向笠(むかさ)の範囲を氏子圏とする向笠国津神社の四月二日の祭祀もあります。これも
①興の村(王の舞と獅子舞を担当)、
②流鏑馬村(流鏑馬は廃絶)、
③大村(田植舞を担当)、
④田楽村(田楽を押当)
の四つの宮座によって行われています。
また、大炊寮の所領であった田井保の範囲を氏子に持つ多由比神社では、四月十八日の祭礼に、宮座によって田楽・上の舞・獅子舞・細男舞が演じられます。このように若狭の特徴は、保や荘園などの中世前期の氏子範囲を宮座とする神社の祭祀が、現在まで残されていることだと研究者は指摘します。

猿楽と面

南山城の宮座
若狭の勧進された鎮守社では、荘園単位の宮座によって演目が演じられていました。それに対して畿内の惣村の宮座では、専業猿楽者を祭礼に招聘する方式がとられます。権門勢家という後ろ盾を失った猿楽者が、その生き残り策として、力を付け始めた惣村を芸能市場に選んで、積極的に売り込みを図ったようです。惣郷の鎮守社の祭礼に、神を出現させるという役割で、猿楽者が登場するようになるのです。そのスタイルを具体的に見てみましょう。
 猿楽者は、社の遷宮に際し「方堅」という呪術を行なうことで惣村に進出していました。それがさらに進んで、春秋の祭礼にも登場するようになります。神格を持った「翁面」をご神体として本殿に祀らせ、それを春秋の祭礼に取り出して猿楽者自身が舞い、神の姿として見せるというスタイルです。
MMDアクセサリ配布】翁面3種+父尉配布 / キツネツキ さんのイラスト - ニコニコ静画 (イラスト)

現在でも各地の神社には、南北朝期から室町時代の翁・二番艘・父尉(ちちのじょう)の三面がご神体に準じて祀られていることがありますが、それはこの時に使われていたようです。
 惣村の自治活動の先進地と云われ、15世紀末には、一揆によって八年間の自治支配を実現した南山城地方では、宮座をこの方式によって運営する所が多かったようです。
岡田国神社(京都府木津川市木津/神社(増強用)) - Yahoo!ロコ
岡田国神社

京都府木津市の岡田国神社には、境内中央に建つ拝殿を利用した能舞台を中心に、両側に見物の桟敷となる仮屋(長床)が残されています。祭礼には長床でおける宮座行事が終了した後、この拝殿に橋掛かりを設け、郷が楽頭職を与えた猿楽者が能を演じていたようです。特別なときには、いくつもの猿楽座が呼ばれて競演することもあったようです。
伏見経済新聞 - 広域伏見圏のビジネス&カルチャーニュース

 見物する座席は、惣郷の勢力関係によって、細かく決められていました。ハレの場における村のステイタス確認儀式の場でもあったようです。桟敷には上層農民である殿原桟敷と、その家族たちの女房桟敷、そして一般農民の地下桟敷の別があります。ここからは当時の惣村の内部構造などもある程度うかがえます。同時に中世農民がハレの日の興奮を、自治組織の運営にうまく組み込んでいった知恵も知ることができます。
中世 田植絵図1


 いつの時代でも、農民にとっては米の不出来が大問題であったはずです。残された絵図を見ると、中世の農民は、祭りを神祭りの場としてハレの行事に組み込み、一日を楽しんだ様子が伝わってきます。
それを研究者は次のように描きます
田を植える役の早乙女たちは、この日ばかりはこざっばりとした労働着に、新しい笠に身を固め、凛々しい姿で田植を囃す早男(立人)たちの目を意識しています。
大川田植 牛耕 

 また田植が田の神を迎えての神事であった時代には、美しく飾った自慢の牛たちを、何十頭も田んぼに入れて、熟練の牛使いがそれを見事に歩かせて田を鋤くのが、どこの地方でも見られたようです。
田植え 田楽踊り


 指揮者との掛け合いで歌われる早乙女たちの田植歌は、豊穣を祈る呪歌でした。それは時間の推移によって歌詞が決まっていて、時には笑いを誘うバレ歌を交えて、労働の疲れを忘れさせます。それを囃す男たちの楽も、腰太鼓・摺りささら・鼓などが用いられ、賑やかに撥が五月晴れの空に舞います。全員の意気が揃うと、早乙女の笠の端が一斉に揺れて、歌声が卯の花を散らす。
この日ばかりは無礼講で、田主の裁量で酒がふんだんに振る舞われ、その女房は田の神の嫁たる「オナリ」に扮して、昼の食事を運ぶ。この夕ばかりは性の解放さえされたのは、そのいずれもが秋の菫一穣を願う儀式の一部であったからにはかならない。
月次風俗図屏風(一) - 続 壺 齋 閑 話
 平安時代の貴族たちは、この田植えさえも一大イベントとして鑑賞対象として記録に残しています。(栄華物語)。現在でも広島県の山間部や島根県の一部には「囃子田」とか「花田植」とか呼ばれて、地主の大きな田んぼを、太鼓を囃しなから植え行事が残されていました。
塩原の大山供養田植、庄原に伝わる4年に1度の牛馬安全祈願行事

そこで歌われた田植え歌の歌詞が「田植草子」と呼ばれる中世の庶民が育てた文芸の代表として、国文学の研究対象になってきたようです。この他にも正月行事には「田遊び」と称して、一年の稲作過程を神の前で模擬的に演じてみせたりすることもあったようです。それが近世には、絵図として描かれ、都市の裕福な階層の人気を集めたりもします。ある意味、農作業の「啓蒙書」の役割も果たしたのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山路興造 中世芸能の底流 
 第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に

 いつの時代も農民にとって、実りの秋は何よりうれしい季節です。古代以来、彼らは自分たちの精神的依り処を、先祖の神や自然神を祀ることに求め、里から見上げる甘南備山を霊山として崇めてきました。そこに、国家や領主によって鎮守社が勧請されると、その氏子の一員に組織されるようになります。中世になり、国衙や荘園の力が衰えるようになると、上層農民たちは、この社を精神的紐帯として、血縁や地縁による地域集団を形成するようになります。そして、結束を固めるために祭祀組織を再構成するようになります。これが宮座の誕生につながるようです。
今回は、宮座の果たした役割について見ていこうと思います。
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 国衛や荘園領主などが、所領に鎮守社を勧請して祭祀するのは、神に豊穣を祈るという精神的「勧農」が目的だったようです。その場合には、荘園領主によって「神田」などが設定されて、祭礼のための経済的裏付けがなされていました。つまり、古代の祭礼は、荘園領主たちの経費で賄われ、そこで行われる伎楽や舞楽も専門演技者が雇われてやってきました。つまり古代の地方寺院の祭礼運営には、農民たちが関わるものはなかったようです。しかし、中世後半になると古代システムが崩壊しはじめます。新たなる神祭りの方策が必要に成ってきます。そこで登場してくるのが宮座のようです。
京都府京都市西京区 松尾大社
松尾神社(京都市西京区)

宮座の一番古い記録は、山城国葛野郡の松尾神社(京都市西京区)とされています。
渡来系の氏族秦氏の氏神を祀った松尾社は、古代末には葛野郡一郡の神社に成長していました。朝廷から奉幣のある四月祭をはじめ、六月の御田代神事(御川植祭り)や九月の九日会などは、平安京の右京西七条に、在家や田畠を持つ富裕な者を座衆とする祭祀集団のなかから経費が集められています。そして、その年の一切の祭祀の責任を持つ頭人が差配するというスタイルが出来上がっていたことが史料から分かります。(元久元年(1204)3月5日付「官宣旨」松尾大社文書)
 神社祭祀や寺院法会を、頭人を定めて行ういう制度は早くからみられます。それを社寺周辺の有力住民に座を組織させ、その中から頭人を選んで行わせるというスタイルは新システムです。これは都周辺の農村部が早かったようです。
 宮座に関して残る松尾寺文書の最初の記録は、神社側が座衆の運営上の問題点を指摘した内容です。ここからは、農民側がこの組織を自分たちの結束に利用しようとする気配は、まだうかがえません。上層農民側が自らの土地を自らの手で守るという自治意識が生まれるには、もう少し時間がかかるようです。
松尾大社 | 京都の観光スポット | 京都観光情報 KYOTOdesign
         松尾神社(京都市西京区)

 中世農民は、生きるために仕事に追いまくられる生活でした。そういう意味では彼らの日々の生活は単純です。一年を単位とする自然の巡りを相手に、一日中労働に追いまくられる以外の生活は考えられなかったはずです。秋の収穫しても、神を頼りの一喜一憂を繰り返すので、これといった手立てを講じる術もありません。また、襲いかかってくる戦乱や収奪に対しても、天災と同じように諦めと、生活の知恵でしたたかに対抗するのが精一杯だったのかもしれません。
 それだけに、ケの日々とは正反対の異次元世界である「ハレ」の日に、思い切り精神を開放させる知恵を彼らは生み出していました。ケの日々が苦しければ苦しいほど、また単調であれば単調であるほど、ハレの目を待ちわびる思いは大きく、その爆発力も大きかったようです。
 一年の巡りを区切る最大のハレの日は、鎮守の祭礼です。もともとは領主の側で一切の準備をしたこの行事が、その設営・運営が有力農民の力に委ねられるようになります。そうなると農民の側は、神の出現する異次元世界を、地域住民の結束の場として積極的に取り込み、惣村の精神的紐帯を生み出し、強めていくイヴェントして活用するようになります。なにかしら現在の「町興し行事」と重なる部分があるような気がしてきます。
 ここに新しい宮座が誕生し、中世から近世ににかけて機能していくことになるようです。それでは、いろいろな郷村を尋ねて、宮座の運営方法などを覗いてみましょう。  
上鴨川住吉神社 - 加東市/兵庫県 | Omairi(おまいり)
上鴨川の住吉神社 茅葺きの割拝殿の向こうに朱塗りの本殿
最初に訪れるのは兵庫県加東市)社町上鴨川の住吉神社です
この神社を研究者は次のように紹介します。
黄金色の稲穂がなびく谷田の外れ、集落からはやや離れた小高い杜に、住吉神社は鎮座している。その境内に続く石段を登りきって振り返ると、そこには何世紀も変わらないなつかしい村の風景がある。幾百年も前から、村人が祭りのたびに営々と踏み固めた境内に入ると、正面の一段高い石積みの上に、萱葺きの割拝殿が建つのが目に人る。その奥に鎮まる朱塗りの本殿は、明応二年(1493)の造営で、重要文化財の指定を受けるが、近年の解体修理ですっかり新しく甦っている。石段の脇、拝殿と対峙して建つ舞台は、風雪にやや傾きかけてはいるが、萱葺きの屋根に曼珠沙車がぼつんと咲いているのが印象的である。境内の奥に大きく場所を占める吹き抜けの長床。本殿や境内を囲むようにひっそりと並ぶ小宮。どの一つをとっても、時間を超越した物のみが持つ存在感を宿して、しっかりとそこに在る。
住吉神社 (加東市上鴨川) - Wikiwand
朱塗りの本殿
 この神社は中世の研究者にとっては、一度は訪れてみたい神社のようです。10月4日・5日の祭礼になると、研究社たちが全国から大勢集まってくるようです。その目的は、この神社の祭礼に残る宮座行事と、それにともなう芸能です。そこには鎌倉時代末期から南北朝期にかけての惣村の姿が、垣間見られるからのようです。
加東遺産巡礼コース | 加東市観光協会

 この地は、今では高速道路の中国道がすぐ南を通るようになって便利になりましたが、近世には播磨の丹波国境に近い辺境の村でした。しかし中世は、村の東にある清水寺が西国三十三所の札所の一つで、京都からほぼ真西にルートをとって、亀山(現亀岡市)から丹波篠山を通り、南西に丹波古市―小野原を経て播磨海岸部で山陽道と結ぶ裏街道が、この上鴨川を抜けていました。源義経が平家を追って、一ノ谷に向かったコースなるようです。つまり、中世は交通の要衝にあったことになります。

この地は、名前の通り古代以来、摂津住吉大社の荘園でした。
住吉大社の『住吉大社神代記』には、播磨国賀茂郡の椅鹿山(はしかやま)を杣山(森林資源)として領有していたとあります。椅鹿杣山は播磨から有馬・丹波に亘る広大な地域で、この杣山の一部がのちの多紀郡小野原荘となったとされます。『住吉大社神代記』には奈良時代に「播磨国賀茂郡椅鹿領地田畠九万八千余町」を神領としたと記します。「椅鹿領」の一部が上鴨川になるようです。

播磨・丹波の住吉神社
    丹波・播磨の境の住吉神社の分布図 朱○が住吉神社

 これは播磨と丹波の両国に跨がる広いエリアになります。
このエリアには、住吉神社が村ごとに鎮座しています。住吉神社の密集地帯です。これは、この地域が摂津住吉大社の荘園「小野原荘」であったからのようです。鎌倉時代の文保年間(1317~19)に、小野原荘の氏神として 住吉大社の分霊が小野原の地に勧請、創建されます。その後、13世紀半ばの『続左丞抄』所収の注進状によると、椅鹿領は「大河荘・久米荘・古井荘・比延荘・小野原」などの荘園に分割されています。すると、分割された荘園にも、住吉神社は分社・勧進されていきます。こうしてこのエリアには住吉神社が広まったようです。
⛩上鴨川住吉神社|兵庫県加東市 - 八百万の神
上鴨川住吉神社

 上鴨川は、付近の下鴨川・馬瀬・畑・池ノ内とともに、大河荘を形成していました。上鴨川の住吉神社は、大河荘の鎮守社として領主の摂津住吉入社を勧請した社になります。現在の社殿が明応2年(1493)の造立ですが、その棟札からはそれ以前の正和五年(1316)、永享六年(1434)にも造立されていることが分かります。現在は重要文化財に指定されています
 中世末期には、荘園の細分化が進みます。そして大河荘は、上鴨川・下鴨川・馬瀬・畑・池ノ内と小村に分化して近世を迎えます。同時に、神社もそれぞれの近世村にさらに分社されます、そのため、上鴨川に鎮座した大河荘の荘鎮守住吉神社も、上鴨川一村の村鎮守となって今日に至ったようです。
 そういう意味では、現在の宮座の形態は、必ずしも中世宮座そのものではないようです。細分化され小型化した宮座なのです。上鴨川の宮座は、古くは「二十四軒株」と呼ばれた宮座株の家のみが、左座・右座に分かれて運営してきたようです。宮座を開放してからは、二十四軒株の者が左座、それ以外の者が右座に付くようになっています。この二十四軒株も、近世初頭に村宮座に変化した時に固定された可能性が高いと研究者は考えているようです。

篠山市の今田住吉神社(篠山市今田町)は、は虚空蔵山麓に鎮座し、兵庫陶芸美術館がすぐ南にあります。本殿は葺春日造に唐破風付き、垂木は二軒、斗供は三手先組、精緻な彫り物が木鼻・蛙股・妻飾などに施されています。今は覆屋根に囲まれていますが、野晒しの期間が長かったためか傷みが目立つようです。
 この神社は今でも小野原荘の荘官であった公文・下司・田所の後裔という「三職」が宮座の祭祀権を持っています。宮座に残る「三職党書」には、康永二年(1343)に荘官が私領を付近の和田寺に寄進して摂津に引き揚げた時、その祭祀権を在地の有力武士であった三軒の家に託したとあります。この三職を核に、荘域内各村の有力農民がそれを補佐する形で、北座・中座・南座の三座を構成されています。

大河荘の中世宮座も、荘官などを中心とした荘域有力農民層によって構成されていたはずです。その時代の宮座の形を知る史料は残されていません。しかし、祭礼の際に繰り広げられる芸能には、年齢階梯によって決められた宮座運営の方式が残り、中世宮座の面影がうかがえると研究者は考えているようです。その宮座をみていくことにしましょう。

上鴨川住吉神社の宮座

 上鴨川の住吉神社の宮座は、長男のみで構成されいます。
7、8歳で「若い衆の座」に入って、12、3歳前で与えられた役目を勤めあげると、それからの八年間を「清座」に在籍します。それを済ませてはじめて「年寄」として、村政などを決定する正式の座に加人することが認められます。「若い衆の座」は、村落共同体の運営に直接関わることはないようですが、祭りに関する権限の一切は彼ら「若い衆」に委ねられています。入座以降、若い衆の座の総責任者である「横座」として、祭りの一切を指揮して「清座」に入るまで、それぞれに年齢序列によって多くの役々が綿密に決められています。その過程の一つずつに責任を持たすことで、共同体の必要とする人材育成と教育の意味を兼ねていると研究者は指摘します。座の先輩が先生であり、卒業者たる清座がそれを監督する役目のようです。 若い衆に任せた祭礼については、「年寄」衆は一切口出しをすることはありません。
舞堂に集まった宮座の座衆。堂内で衣装を整え、笛や鼓を奏でる=加東市上鴨川
舞堂に集まった宮座の座衆。堂内で衣装を整え、笛や鼓を奏でる

 よそ者が調査研究と称して、重要文化財に指定されている猿楽能の面を調べに来ても、その年の「オンソク番」(祭りの衣装や道具を1年間管理する役)を勤める二人の少年の立合いなしには、それを収める箱の蓋をあけることさえできなかったようです。この2人の「オンソク番」のうち上位の少年は、その年の祭りで直会の宿を受け持ち、翌年は頭屋の控え、その翌年には頭屋として一家を挙げて神儀など祭礼の準備を担当します。そして、三年目には禰宜控え、四年目に禰宜 (副横座)を勤め、五年目に横座として祭りの総指揮にあたるという運びになります。この役がまわってくるのは、二十歳を過ぎてからになります。この大役を無事果たし、祭りの終了後に横座の象徴である太刀が副横座に渡され、年寄衆の座での報告が済むと、はじめて清座入りを果たすことになります。清座の初年度には一年間を通じて神社のお守りをする「神主」の役があり、それを勤めあげねば一人前にはなれません。ここには詳細でしっかりとした役割分担があります。このような行事を担う中で、村落を担う次の世代の人材が養成されていったようです。「祭りの準備」は、人作りの一環であったともいえます。
そして、研究者が注目するのは、この中で彼らの一生の評価が決まる晴舞台でもあったことです。先輩達の評価が将来の共同体での役割を決定し、嫁の世話にまで影響があったと云います。

上鴨川住吉神社の宮座行事
宮座「若い衆」の祭礼行事一覧

上鴨川住吉神社の祭礼に伝わる芸能も中世色が濃いと、研究者は次のように指摘します。
①副横座が鳥甲(とりかぶと)に太刀を帯び、鼻高面を付けて舞う「リョンサン」と呼ぶ舞は、平安時代末期から鎌倉期にかけての祭礼芸能である「上の舞」
②ビンザサラ四人・締太鼓三人・鼓一人・銅拍子(チョボ)一人の計九人の少年が躍る田楽躍りや、曲芸をみせる高足、獅子舞、御神楽(神主役が宵宮で鳳女舞を舞う)など、いずれも中世期に中央の大社の祭礼に演じられた芸能
であるぐ
③「いど・万歳楽・六ぶん。翁・宝物・冠者・父尉」と呼ぶ「翁猿楽」が、市北朝頃の作品である面とともに伝承されている。
③については、南北朝期に大和猿楽の観阿弥・世阿弥が能の様式を大成した頃の翁舞とは別の、その原型ともいえるもので、語りを主とした芸態を残しているようです。「いど」は現在の露払、「万歳楽」は三番聖、「六ぶん」「翁」「宝物」は翁舞に相当します。冠者・父尉は中央の翁舞ではすでに演じなくなっています。これらの芸能は、その一つずつが中世期の流行芸能です。そして、ただ伝承されているだけでなく神楽(巫女舞)・王の舞・獅子舞・田楽という芸能群とセットで残っているのは非常に珍しく貴重だと研究者は指摘します。
兵庫県加東市 上鴨川住吉神社 神事舞 on 2015-10-4 その5 田楽 - YouTube

たとえば後白河法皇が勧請したと伝える京都新日吉神社の小五月会の祭礼には、「神楽・王舞・師子・田楽・流鏑馬」が演じられています。(『経俊卿記』建長八年(1256)五月九日条)、同じく後白河法阜が描かせたという『年中行事絵巻』の祗園御霊会の行列には「王舞・巫女・田楽・師子・細男」などの姿がみえます。いまは、他では見ることの出来ない舞楽がここでは、今も村の若者達によって受け継がれているのです。
上鴨川住吉神社の神事舞、厳かに奉納 : KOTOコレ2017

 ここからは古代には中央の大寺院や神社で奉納されていた伎楽や舞楽が、地方に分社された神社にもたらされて、演目も変わりない形で演じられていたことが分かります。同時にそれを演じるのは、かつてのように旅芸人たちによるものではないのです。祭りの準備は「若い衆」と呼ばれる地元の若者達の手によって担われるようになります。    若者達は祭りを担当するだけでなく、その準備・運営を行う事によって将来の「村落共同体」の指導者を育成する役割も果たしていました。
上鴨川住吉神社の神事舞

 このようにして祭礼を通じて、惣郷のメンバー達は村落共同体への帰属心を高め、団結心を育んだのです。まさに祭りは「人を育て、村をまとめる」ためのイベントして機能していたことが分かります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献             山路興造 中世芸能の底流
 第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に

石上神社と布留川
 
  大和国のほぼ中央部は、国中平野と呼ばれる奈良盆地です。奈良盆地に集まった水は、大和川と名を替え、西側の生駒・金剛山地の間を穿って亀ノ瀬渓谷を西流し、大阪に出ます。しかし奈良盆地に降る雨の量は、必ずしも多かったわけではありません。そのため水田耕作を始めた人々は、周囲の山々には雨を乞う神々を多く祀る一方、大陸から渡来した高度な技術によって、多くの溜池が築造してきました。水の配分に対する意識も、高かったようです。
石上神社と布留川

 たとえば天理市の石上神宮(布留神社)は、朝廷からは武器庫としての役割を担わせられています。しかし、もともとは布留川の水を支配する神を祀る祭祀施設だったようです。水源地である山頂に神(竜王)を奥宮として祀り、川が平野に流れ出す山と田の境に遙拝所があります。里人はこの社を、朝廷の思惑とは別に付近の田を潤す布留川の神を祀る社として、受け止めていたようです。支配者の側も、そのことは充分承知していたようです。律令制の下に、王権が一切を支配しようとした古代においても、またそれに続いて、荘園など中央の支配者が収穫物を収奪した時代においても、この水の支配者たる布留の神を祀るのは、主として支配者の側の仕事でした。
石上神社2

 しかし中世も後期にはいると、事情は大きく変化します。
権門社寺の力が衰え、それに反比例して在地郷惣民の結束による新しい村落組織が誕生します。すると、田畑の収穫を左右する布留川の水の管理と、それに関連した布留神社(石上神社)の祭祀は、惣郷自身が行なわねばならなくなります。そこに誕生するのが、「布留郷」という郷民の組織です。もちろん「郷」は、古代律令制下の地方行政組織の一つとして機能してきました。しかし、中世後期には、それとは別に地域民の利害に基づく結束の下に誕生する中世郷が登場してきます。それが布留郷です。その利害とは、もちろん布留川の水利です。
石上神社

 国中平野は、中世には興福寺の支配下にありました。
これに対して、布留神社を精神的紐帯とする郷民は結束して、興福寺と対立しながら、郷としての意志を貫徹する力を持つまでに成長して行きます。これは、讃岐の中世の村々が進む道でもありました。奈良平野の雨乞行事の形成に重ねて、その過程を今回は追いかけて見ようと思います。テキストは、前回に続き「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」です。
F01
”石上(いそのかみ) 振之高橋(ふるのたかはし) 高々尓(たかだかに) 妹之将待(いもがまつらむ) 夜曽深去家留(よそふけにける)”  
<万葉集・作者不詳>
 「石上の布留川にかかる布留の高橋、その高い橋のように高々と爪立つ思いで、あの女が待っているだろうに、夜はもうすっかり更けてしまった」 男の訪れを待ち焦がれる女の許へ、夜がふけてから通う男が詠んだ歌です。
 布留」(ふる / ぬのどめ)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力
布留郷の範囲は、西流する布留川の両岸に北郷と南郷で、南北あわせての集落数は約50村です。この村々は布留川の水を利用し、布留神社の氏子達です。布留郷の郷民や、国中平野の住民にとって、水は最大の関心事でした。この平野には、山から流れ出る川が何本もあり、それぞれの川の水源や山口には、布留郷と同様に水を祀る神が祀られています。そして中世後期には水掛かりの地を範囲として郷が成立しました。天理市周辺で、そのエリアを見てみると次のようになります。
①大和神社を紐帯とする大和郷九カ村、
②和爾坐赤坂比占神社を紐帯とする和迩郷五ヵ村、
③桜井市では初瀬川の水を利用し、大神神社を紐帯とする三輪郷三ヵ村
④磯城郡旧原本町付近では、飛鳥川の水掛かりで、多坐輛志理都占神社を紐帯とする多郷三〇ヵ村
 後世の江戸時代の史料には、これらの郷に雨乞のオドリを演じた記録が残っているようです。その具体的様子を、記録がもっとも良く残る布留郷を中心に見ていきましょう。

天理市 竜王山 2019/11/13 3人 ヤマレコにリンク 市営駐車場09:30-トレイルセンター09:51~10:11林道トイレ前11:36~59  北本丸城跡12:41~56 北本丸城跡:13:14 林道探索北本丸城跡14:17石不動14:45 駐車所16:16 距離 13.5㎞ 天理市の ...

雨が降らず旱魃が続くと、布留郷の郷民が雨乞いに動き始めます。
その最初の行動は、郷民の代表と布留神社の爾宜が、竜王山の山中に鎮座する竜王社まで登り、素麺50把と酒一斗二升を供えることでした。そして、これが適えられれば、郷中総出でオドリを奉納することを神に約束します。ここでもオドリは「満願成就のお礼」として踊られていたことが分かります。このオドリを「南無手踊り」と呼んでいたようです。名前からして念仏踊りの系譜を引く風流踊りのような気配がします。この踊り自体は、奈良平野一帯の雨乞の御礼踊りとして、あちこちで踊られていたようです。奈良奉行所の与力の筆になる『庁中漫録』には、次のように記されています。
大和の国のなもてをとリ(南無手踊り)ハ、此布留郷より事をこれり、南無阿弥陀仏踊と書て、なもてをとりとよめり、或ハ雨乞のときか、あるときハ神にいのりのとき、願をたてゝ此をとりを執行なり、布留五十余郷として執行なり、
意訳変換しておくと
大和の南無手踊りは、この布留郷から始まった。南無阿弥陀仏踊と書て「なもてをとり」と読む。雨乞の時や、神に願掛けしたときに成就した際に踊るもので、布留五十余郷で行う
ここからは大和の南無手踊りの起源は、布留郷の踊りにあるという伝承があったことが分かります。ヲドリの具体的様子は、文政頃に成立した『高取藩風俗間状答』に、次のように記されています。
南無手踊  旱の節、雨乞の立願し、降候と御礼に踊る、願満踊といふ、所々に御座候、高取城下の式は、行列又場所にても、警固のために、天狗の面或は鬼の面をかぶりたるもの棒をつき、群集の人を払ふ、其次、早馬と申、おとり子小太鼓を持、唐子衣装花笠、其次、中踊と申、色々の染帷子・花笠、音頭取は華笠・染帷子にて、してを持、所々に分りて拍子をとる、頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内に赤熊をかふることもあり、此太鼓に合せて踊る、法螺貝・横笛・叩鐘にて調子を合す、押にははら大鼓とて、後に御幣を負ひ、はらに大鼓を括りつけ、帯を引かけ赤熊をかふる、踊は壱番より五番まて、手をかへ踊候、村毎に少しづつ手も替はり候ゆへ、一村一村分て踊る、
 syouken
意訳変換しておくと
南無手(なむて)踊は旱魃の時に、雨乞立願の御礼に踊るので願満踊とも云う。高取城下で行われる時には、行列や会場に天狗の面や鬼の面をかぶり棒をついた警固人が先頭に立って出て、群集を払い整理する。その次に早馬と呼ばれる踊り子が小太鼓を持ち唐子衣装花笠で続く。その次は中踊と呼ばれる集団で、色々の染帷子・花笠を着け、音頭取は華笠・染帷子やしてを持ち、所々に分かれて拍子をとる。頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内側に赤熊を被ることもあり、太鼓に合せて踊る。それに法螺貝・横笛・叩鐘が調子を合す。押には腹に大鼓を抱え、背中には御幣を負う。踊は壱番より五番までで、手をかへながら踊り、村毎に少しづつ変化させている。一村毎に分て踊る。

とあり、村ごとで少しずつ踊り方を換えていたことがうかがえます。布留郷では、このヲドリは、江戸時代を通じて何回も踊られています。文政十年(1827)8月の様子を「布留社中踊二付両村引分ヶ之覚」(東井戸帝村文書)は、次のように記します。
この時は布留郷全体の村々が、24組に分けられていた。東井戸堂村・西井戸堂村合同による一組の諸役は、大鼓打四人、早馬五人、はやし二人、かんこ五人、団踊一〇人、捧ふり二人、けいご一〇人、鉦かき二人、大鼓持三人の、計四二人になる。
1組で42人のセットが24組集まったとすると、郷全体では千人以上の規模の催しであったことが分かります。 
 踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。
南無手踊りについては、踊りを踊った村が記念に絵馬に描かせて地元の神社に奉納したものが残っているようです。
布留3HPTIMAGE

①高取町下子島小島神社
布留 南無阿踊り

②平群町平等寺春日神社(文久元年(1861)
③明日香村橘春日神社(文化九年(1804)
④明日香村立部(慶応三年〈1867)
⑤明日香村稲淵字須多伎比売神社(嘉永六年(1853)
⑥川西町結崎糸井神社(天保十三年(1842)
⑦安堵村束安堵飽波神社・年末詳)
これらの各神社に残された絵馬は、保存もよくて、オドリの各役の扮装などがよくわかるようです。
なもで踊りは、雨乞いのお礼(安堵町・飽波神社)/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第39回 - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」
 
 中世後期に近畿地方の郷村に登場した風流のオドリは、郷村組織の拡がりと足取りを同じくして全国に拡大していきます。そして鎮守社の祭礼や、寺院での孟蘭盆会、また旱魃時に行なわれる雨乞の御礼踊りとして踊られるようになります。その例をいくつか見ておきましょう
滋賀県甲賀市 油日神社
油日神社

雨乞では、近江国甲賀郡の霊山・油日岳を御神体とする油日神社(現甲賀市)があります。油日川の水掛かりの村々である油日谷七郷(油日・上野・毛牧・探野・栖山・田賭野・野)に、中世末期に成立した五反田などが加わって、雨を祈ってオドリを奉納しています。
 また近江国坂田部の大原十八郷(中心は東近江市湖東町)では、出雲井の水掛かりである村々(間田・小川・井ノ口・野一色・坂国。鳥脇・村井田・上夫馬・下夫馬・市場・市場中・本庄・本庄中・春照・高番など)が、雨乞いのために総社の岡神社にオドリを掛けています。
滋賀県長浜市 日吉神社
井之口日吉神社 長浜高月町

 伊香郡富永荘(長浜高月町)でも、高時川右岸から取水する大井堰の水掛かりの村々が、上六組(井之日・持寺・保延寺・雨森・柏原・尾山)と下六組(束物部・西物部・横山・店川・磯野・東柳野)に分かれて、鎮守社である井之口日吉神社にオドリを掛けています。
駒宇佐八幡神社の厄除大祭 | イベントを探す | 兵庫おでかけプラス | 神戸新聞NEXT
           駒宇佐八幡宮の百石踊り
 播磨国では、武庫川の上流域で、その水掛かりの村として、三田市の駒宇佐八幡宮を祭祀する上谷と下谷が、雨乞の御礼踊りとして伝承した百石踊りがあります。
加古川の支流である東条川の流域では、九東条町の秋津住古神社を紐帯とする常田・古家・西戸・横谷・貞守・長井・少分谷・長谷・石黒・岡本・森の村々が結束して、雨乞の風流踊りを行なっていました。
 最後に、中世の雨乞い風流踊りについて研究者は、次のように指摘しています
①踊りの成立基盤が、江戸時代に村切りされた近世村ではなく、中世後期の共同体である郷である
②郷のなかの集落(村)が単位となってオドリ組を構成し、複数の組が互いに掛け合う場合が多かったこと。
③複数の組が競演するために、風流の趣向を競い、歌の歌詞に工夫を懲らすなど、互いに競争心が働いて、芸態がより面白く、また複雑になっていったこと。
④同じ芸態のオドリを、少し趣向を変えて、祭礼や盂蘭盆会にも雨乞にも用いたこと。

このような視点で讃岐の雨乞い踊りを見てみるとどうなのでしょうか
私は、まんのう町で踊られていた七箇念仏踊りは、滝宮に出向いて踊られていたというので「雨乞い踊り」という先入観で見ていました。しかし、④のように、日頃は祭礼や盆踊りとして踊られていたものが「転用」されたものが、雨乞成就のお礼のために踊られた視点は、新しい視野を開いてくれるような気がします。

 また風流踊りは、雨乞成就のお礼のために踊られたという視点も刺激的です。もともとの滝宮念仏踊りは、讃岐中からいくもの組が参加していたと伝えられます。それも衣装から道具をなどを揃えると大部隊になります。雨乞いという「異常事態」の中で、どうしてこれだけの舞台装置を揃えるのかが私には不思議でした。しかし、雨乞成就のお礼のために、準備して周辺の郷村が揃ってお礼参りしたとするなら納得できます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

惣郷」(そうごう)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力

中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
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 中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
宮座は、もともと寺社の祭祀の負担すべきことを、地域共同体や商工業者に担わせるために、支配者の側が率先して作らせたものでした。その宮座組織を拠り所にして、民衆側は逆に自分たちの精神的紐帯として活用するようになります。そして郷村自治の拠点としていきます。鎮守社の祭礼を行う中で共同体意識を培い、結束力を高める場と宮座はなります。鎮守社の祭礼は、惣郷民の結束の確認の機会としても機能するようになるのです。
中世の「宮座」の面影を伝える行事~久井稲生神社の御当~ - 祭り歳時記 - 文化庁広報誌 ぶんかる

 宮座の組織が早くから発達する近畿地方の郷村では、春秋の一期に、定期的祭礼を行なうのが通例でした。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、共同体の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

同時に、あらかじめ契約を結んでいた猿楽者などの芸能者がやって来ます。彼らは翁姿に変じた先祖の神として現れ、翁舞(翁猿楽)を舞うことで、郷民を祝福します。余興として、当時の流行芸能であった狂言や猿楽能も演じられたようです。
ルーツの伝来(源流)|歴史|ユネスコ無形文化遺産 能楽への誘い
田楽と猿楽

また正月の祭りでは、その年の秋の豊穣を正月の神(先相神)に祈る様々な行事が行なわれました。それらの費用は、古くは領主の側の負担でした。そのため領主の居館跡からは、酒を酌み交わしたかわらけの破片が数多く出土するようです。郷民達は、領主居館でただ酒を飲んでいたようです。しかし、時代が下るに従いこの習慣はなくなります。自治とは自腹でもあります。郷民自身が順番に負担する「頭屋」の制度などによって賄うようになります。
 これら恒例の祭りとは別に、旱魃の時に行なわれたのが雨乞祈願です。郷村の祈雨祈願のスタイルは、竜神に祈るという点では、古代と変わりません。寺院僧による読経であり、牛馬を殺して竜神の池に投げ込み、怒らせるという方式です。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

 和泉国日根野荘の郷民による雨乞踊りは
公家の九条政基が和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)で見た雨乞いの様子が彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条には、次のように記されています。
 この付近の村々は、葛城山系の灯明岳から流れ出す大鳴川の水を水源として耕地を拓いていて、その源流には修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。
犬鳴山七宝瀧寺 | 構成文化財の魅力 | 日本遺産 日根荘
犬鳴山七宝滝寺
この寺は天長年間(824~)に、淳和天皇がこの地域の源流にある7つの滝に雨を祈って霊験があったという伝承のある霊山で、祈雨の寺院です。中世後期にここで行われていた雨乞は、九条政基の日記を要約すると次のようになります。
①最初に入山田村の郷社である滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②験のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で沙汰する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
という手はずになっていたようです。
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「雨乞いして雨が降らなかったためしはない。なぜなら綾子踊りは、雨が降るまで踊る」というのが、私の住む地域に伝わる雨乞い綾子踊りの鉄則です。ここでも雨が降るまで、いろいろな手段が講じられていたようです。しかし、やることは、古代の雨乞いと変化はないようです。ところが、大きく違っているのは、雨が降った後のお礼です。
文亀元年夏の時には、雨乞いをすると直ぐに霊験があり、一日後の22日条には「未刻に及び滝宮の嶺に陰雲強く鮮興り、雷鳴一声霜ち聞き入る」と記されています。この降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。雨乞いのために行なうヲドリを、私たちは「雨乞踊り」と呼んでいます。しかし、ここでは「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。このような風流やヲドリを、雨乞に演じるということは、律令制の時代や、中世前期の荘園にはありませんでした。中世後期に始めて登場するイベントです。
  「勝尾寺請雨勤行日録」には、次のように記されています。
請雨、嘉吉三年七月十九日、外院庄ヨリ付之、同日末刻開向在之、丁丑日別院衆モ大般若読了、(中略)同時ヨリ庭ニテ大コヲ打、ツヽミ、ヤツハチ、フエ、サヽラニテ、ヰキヤウ(異形)無尽ノク

ここからは、雨乞いが成就した後に、大鼓・鼓・八撥・笛・摺リササラなどの囃子が使われて、踊りが奉納されています。
鷺宮囃子 | 中野区公式観光サイト まるっと中野

このようなヲドリは、「風流の囃子物」とも呼ばれていたようで、民衆が自ら演じる芸能として、京都・奈良の近郊農村部を中心に、近畿一円に登場していました。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。その背景として考えられる要因を、挙げておきましょう。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために民衆の間に流布させた、「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う、「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために工夫されたものではありません。先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られていたものです。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
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「政基公旅引付」には雨乞い以外の風流の様子も、記されています。
雨乞祈願が成功した同じ年の孟蘭盆会、入山田郷の郷民は念仏風流を行なっています。同日記の七月十三日条に、次のように記されています。
「今夜船淵村之衆風流念仏、又堂の庭に来る、念仏以後種々の風流を尽す

この風流を観た政基は、その趣向の風情や使われている言葉が、都のものにも劣らないと感嘆しています。
翌日14日には土丸村の風流があり、
翌々日15日は高蒲村の衆による念仏風流と、大木村の衆による風流が、政基の居る堂の庭にやってきて踊っています。
16日の夜には四ヵ村がともに滝宮社に赴いており、土丸と入木、菖蒲と船淵というそれぞれ二村の立合で芸が披露されています。
風流の本流は囃子物だったようですが、社頭では猿楽能の式三番と能「鵜羽」が郷民の手で演じられています。その能を観た政基は、「誠に柴人之所行希有之能立を作る也」と驚いています。ここからは16世紀初頭には、畿内では郷民による祭礼芸能が、相当に浸透していたことがうかがえます。
この年は神社の秋の祭礼でも風流が演じられています。  
演じられたのは入山田村の神社である滝宮の祭礼ではなく、式内社であった大井関神社(現日根神社)の祭礼です。
日根神社
大井関神社(現日根神社)
この神社は、古代には日根神社として呼ばれていましたが、日根庄が成立すると、その荘園鎮守社となり、日根野荘一帯の田畑を潤す水を、樫井川から取水する大堰に近かったこともあり、大井関神社と名を替えて祀られるようになります。日根野荘が解体しても、住民にとつての信仰は続き、八月十五日の祭礼には、入山田からも参加していたようです。
 政基はこの祭礼の様子を、次のように記しています。
「当国五社宮祭礼也、大井関社第四之社也、抑も高蒲・船淵之衆一昨夜不参之条、今日十六日態卜風流企て推参、事の外人儀之風流也」

風流以外にもその後には船淵の百姓である左近太郎という者が、猿楽能の式三番を演じており、その演技の確かさにも驚いた様子が記されています。郷民の中には、玄人はだしで演じる者がこの時代には現れていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 参考文献
 山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌  

獅子舞 三十二番職人歌合の獅子舞

以前に、讃岐獅子舞の獅子たちが、いつ、どこからやって来たのかをお話ししたことがあります。それでは、讃岐にやって来る前の獅子舞は、どこから来たのかと聞かれて困ってしまいました。現在の時点で、私が考えている讃岐にやってくる前の獅子舞の姿を追いかけてみます。テキストは「山路興造 獅子舞の原型とその変容 中世芸能の底流     岩田書店2010年」です。
獅子 信西古楽図」の獅子図

古代の獅子舞については、よく引き合いに出されるのが上の「信西古楽図」の獅子図です。この獅子図は、現在では我が国で演じられていた獅子舞を描いたものではなく、大陸で演じられていた芸能を描いた絵巻があり、それを写したものとする説が有力なようです。だとすれば、ここに描かれた獅子舞は、中国唐代の獅子ということになります。全身毛布の縫いぐるみで覆った胴体は、昔よく見た中国のカンフー映画に登場してくる獅子舞姿です。カンフーの達人達が、かっこよく動かしていたのを思い出します。確かに、あの獅子を思い出すとあまり違和感はなくなります。
この絵に描かれた獅子を整理しておくと
①全身毛布の縫いぐるみ
②胡児が二人付くこと
③獅子に綱を付けその端を持ち、棒状のものを手にした獅子あやし(面はつけていない)が付くこと、
④獅子の楽器として腰鼓・銅鉄子打ち・鉦叩きなどがいること(笛役は描かれていない)、
これが我が国に伝来した獅子舞の現形のようです。
それでは、中国にはどこからやってきたのでしょうか。
中国唐代の詩人白楽天の「西涼伎」には、獅子舞が次のように記されています。
仮面ノ胡人仮ノ獅子、木ヲ刻ンデ頭卜為シ、糸デ尾ヲ作ル、
金ヲ眼晴二鍍シ銀ヲ歯二帖ル、奮迅ノ毛衣、双耳ヲ提キ、
流沙従り万里来タルガ如シ、紫髯深目ノ両胡児、鼓舞跳梁シテ前二辞ヲ致ス、
意訳変換しておくと
仮面を被った胡人が獅子を使う、木造の獅子頭で、尾は糸で作られている。金を眼晴りして、銀を歯に貼り付けてる。毛衣は奮い立ち、双耳を立て、胡国の流沙を越えて万里の道をやってきた獅子を、紫髯で深目ふたりの胡児(ソグド人?)が鼓舞跳梁しながら導いていく、

ここからは次のようなことが分かります。
①獅子頭は木製
②目に金、歯に銀が貼られ、尾は糸で作られ、毛衣を着ており、
③眼の深い相貌の胡児二人を従えていた
④シルクロードを越えてやってきた西国異国のものであるという認識
⑥「鼓舞跳梁」とあり、カンフー映画に出てくる獅子のように飛び跳ね俊敏に動いた
白楽天は詩人ですので、若十の誇張はあるでしょうが、唐代の獅子の様子はうかがえます。白楽天は獅子舞が胡人の芸能であり、シルクロードを通じて西方からもたらされた異国趣味の芸能として認識していたことが読みとれます。
大英博物館に降臨!? アッシリアの王アッシュールバニパル - Onlineジャーニー

   古代メソポタミアでは、獅子は百獣の王で最も獰猛な野獣として畏れられました。それゆえに王達は獅子狩りに熱中します。獅子狩自体が王の権勢を伝えることになったからでしょう。それは、アケメネス朝やササン朝の「獅子狩文錦図」をみると納得できます。こうして獅子は、畏れられると同時に威厳のある神獣として神化されていきます。
写実性に優れたアッシリア・・・ライオン紀行(9) : 写真でイスラーム

同時に獅子舞的なものがすでにササン朝時代には、あったのではないかと私は考えています。それが唐時代になって、シルクロードが開かれるとソグド人達(胡人)によって、長安に入ってきたのでしょう。先ほど見た白楽天の獅子舞はそのような姿を伝えているようです。
中国、獅子舞で新年祝う 春節迎え縁日開催 - 読んで見フォト - 産経フォト

 それでは、わが国にはいつ頃入ってきたのでしょうか。
正倉院には、東大寺の大仏開限供養の際に使われた伎楽の獅子頭が八頭保管されています。

獅子 正倉院
正倉院の獅子頭

8頭の姿は、少しずつ異なっています。どれも獰猛な姿をしているのは同じです。しかし、ライオンには見えません。当然、現物を見たことのない職人が作ったものなので実物からはだんだん遠ざかっていきます。
 各パーツは下顎と舌、両耳を別に作り、下顎は鉄棒を通して開閉できるように工夫されています。それを打ち合わせることで大きな音を出すことができます。舌も開閉すると動いたようです。目を大きく見開き、目が動くものもあます。目を開閉して、音を出し、威嚇することができたようです。この獅子たちが、大仏開限供養祭で、どんな風に使われたかは分かりません。後の史料で、補って「復元」して見てみましょう。

 史料で、古代の獅子の原型を研究者は次のように押さえます
①獅子は行列の先導役を勤める.(祓い)
②獅子は行道として歩くために四つ足で、当然二人立ちとなる。
③獅子は獰猛な動物なのでに、綱などを持つた口取りが付く。
④獅子にはそれをあやす役が付く。(二人の獅子児)

 獅子は、行列の先導役を勤めるので、「祓い」の役目を持っていたようです。これは獅子舞が移入された当初からの役割だったようです。古代メソポタミアの古代文明以来、獅子(ライオン)は、王の象徴であり、悪魔祓いの属性を持っていました。ギリシャにも獅子像はもたらされ、ミケーネ城門で睨みを効かせています。それが中国を経て、日本には狛犬としてやってきているのはご存じの通りです。
 獅子は、伎楽の中に最初に登場したようです。二頭でワンペアでの出演でした。面を着けた獅子児(獅子子で、童子の役)は、獅子をあやす役で、必ず獅子一頭につき二人が付き従います。
獅子 治道面
治道面(正倉院)

治道は、行列の露払い的な役目で、彼らの着ける面は正倉院に伝わる面の中では最も鼻が高いそうです。これが「鬼」に成長していくのかもしれません。
 「筑紫国観陛音寺資財帳」の治道の項には「麻鞭 壱条」と記されています。治道は麻の鞭を持っていたようです。治道は獅子の使い手だったのでしょう。この資財帳には笛吹2人・銅銭子撃1人・鼓撃10人がと記されています。獅子に付随する音楽集団というよりも、伎楽全体のものとしておきましょう。音楽付きでペアの獅子が先頭で露払いを演じながら舞台まで、パレードしたのかもしれません。
  世界遺産・シルクロードから薬師寺へ ~1400年の時を越え甦る幻の仮面劇~(BSテレ東)の番組情報ページ | テレビ東京・BSテレ東 7ch(公式)                                       

伎楽は呉楽(くれのうたまい)とも呼ばれていたようです。
そのなかに獅子舞(獅子舞)が、あったことは、天平十九年(749)の「法隆寺伽藍縁起及流記資財帳」(『寧楽遺文」中巻宗教編上)に伎楽用具として、次のように記さていることから分かります。
伎楽壱拾壱具
獅子弐頭、獅子子卑面衣服具、治道弐面衣服具、呉公壱面衣服具服(以下略)
ここからは、伎楽で演じられる獅子舞は、二頭一組で、獅子一頭につき二人が、五色の毛のある縫いぐるみのようなものに入って、演じたことが分かります。

 伎楽は中央の大寺院だけで演じられていたように考えられてきましたが、そうではないことが近年の研究で分かってきたようです。各国の国分寺などを中心として、法会の荘厳芸能として演じられていたようです。諸国の国分寺が整備された奈良時代には、その法会の荘厳芸能として、伎楽が演じられるようになっていたこと、そして地方の諸人も、伎楽という渡来芸能を通じて、獅子の芸能を見ていたと研究者は考えているようです。そして、中世に成ると瀬戸内海交易を通じて経済力を蓄えた小豆島の肥土庄の八幡神社や、観音寺市の琴弾八幡にも、パレード用の獅子は姿を現すようになることは以前にお話ししました。

獅子は舞楽にも登場するようになります
舞楽の獅子舞が文献に登場するのは、伎楽の獅子よりずーと遅れます。平安時代中期以降のことになります。その早い例が、『法成寺金堂供養記』治安二年(1022)七月―四日条で、
(前略)此間乱声、両獅子出臥舞台巽坤、次吹調子 雅楽寮卒楽人迎衆僧、(中略)
楽人到会集帳、発音声如前、経前道到楽屋前立獅府昴、
 ここからは、獅子は法会の最初に乱声を奏した後に、左右の両楽屋から一頭ずつ登場し、舞台の巽(たつみ)と坤(ひつじさる)に臥します。何もしないで舞台の隅に臥すことにより、悪霊を威嚇するという役目を担っていたと研究者は考えているようです。悪霊退散の役目です。まるで番犬のようです。
 約百年後の天承二年(1132)二月一十八日に行われた法成寺東西両搭の供養の舞楽の様子を、公家の平知信が日記『知信記』に、次のように記されています。
次獅子出自左右楽屋方、臥舞台艮・巽角、件獅子付緋綱、舞者四人、京中業者応召、単衣、末濃袴合袴、毛沓付爪、綾獅子四人、左右舞人進之 面形、半腎・表袴・団扇・糸蛙・機、袖、単衣、大口給之、朧四人、面形、□、抱、補補、袴、□腰、錯懸、糸軽、袖、単衣、合袴等給之、(その後に右方から菩薩六人・胡蝶六人、左方から菩薩六人・迦陵頻六人が出る)

この時は、まず左で乱声があり、続いて左の振枠があり、次に右の乱声が奏され、振鉾が出て舞います。次いで獅子が左右の楽屋から出て、舞台の巽と艮の角(隅)に臥せます。この獅子には緋の綱が付けられていて、獅子の舞人は一人ずつで、演者は京中の業者で召しに応じた者だったようです。その衣装は単衣、袴、爪の着いた毛沓を履いています。獅子と同時に、左右から舞人による「綾獅子」が左右各二人登場。彼らの姿は面を着け、半腎・表袴・草性・機、袖、単衣、大日で、団扇を持って出てきます。この役が獅子あやしのようです。獅子を先導する朧(口取り)も一頭に二人付きます。彼らの姿は面、補補、□腰等で、糸戦を履き、獅子に付けられた緋綱を取ります。
 獅子が決められた位置に伏せると、法会が始まります。その後に左方から菩薩(六人)・迦陵頻(六人)、有方から苦薩(六人)胡蝶(六人)が、供花を持って一行に分かれて出てくる、というスタイルです

舞楽の獅子も、綱を口取りが持ち、獅子あやしが二人付くという演じ方が、以後のパターンになるようです。舞楽の獅子舞は、最初は法会が行なわれる舞台に伏すだけだったようです。邪魔者を人れないという役目で、舞台を監視する役目が与えられていたようです。
 しかし、舞台に現れた獅子は、いつまでも舞台の隅に臥しているばかりではありませんでした。いつとはなく法会の途中で舞うようになります。どんな舞を舞ったのかは今は分かりません。

獅子 四天王寺 聖霊会舞楽大法要

四天王寺の聖霊会舞楽大法要に登場する獅子たちも、現在では舞が失われているので,舞台を二度回るだけの舞になっているようです。
 舞の詳しい内容は分かりませんが承暦元年(1077)十月十八日に法勝寺で行なわれた『法勝寺供養記』には
「散華・引頭・納衆・讃衆・梵音・錫杖等次第雁行、経金堂・講堂・舞台等東西大行道、左右獅子分舞、次楽人行列」

と「左右獅子分舞」とあります。「法成寺金堂供養記」には、獅子が臥した後、楽人が衆僧を迎えて楽屋の前に立つと「楽不正、獅子舞」とあります。獅子は舞っていたようです。
四天王寺聖霊会舞楽大法要

 行道(神興渡御)の獅子と獅子の舞
 奈良時代に大陸からやってきた獅子舞は、平安時代以降になると舞楽のなかに取り入れられて、悪魔を追い祓う役目で定着したようです。そして伎楽・舞楽の一行と舞台までの行道(パレード)の先頭を行く役目も担うようになります。悪魔を祓うという獅子の役割は、祭礼の神輿渡御のパレードからもお呼びが懸かるようになります。
『百錬妙』承安一年(1173)六月十四日条には、次のように記されています。
祗園御霊会、上皇有御見物、殊被印刷之、神興三基、獅子七頭、去四日自院被調進之、

ここからは祗園御霊会の神輿渡御の神輿三基の先頭に七頭の獅子がいたことが分かります。神興を先導する獅子の場合は、頭数は関係がなかったようで『年中行事絵巻』巻十二の稲荷祭りなどには、多くの獅子が出てきます。

獅子 年中絵巻図の獅子舞

民間の祭礼に登場した獅子は、早い時期から舞ったようです
京都仁和寺の座主覚法法親王が高野山に参詣した折の日記『御室御所高野山御参籠日記』の久安四年(1148)五月二日条に、
自山崎着仁和寺丁、(中略)於淀辺有下人為市之所、令導之、今日淀祭也、乃獅子舞等令舞之、召師子於舟辺、獅子二、子一也、賜禄了、
ここには、仁和寺の座主が高野山に参詣した帰路に、淀川を行く船の近くに淀の祭りに参加していた獅子舞を呼んで舞わせ、禄を与えたことが記されています。この獅子舞は獅子が二頭で、獅子あやしの子供が一人居たとあり、「獅子舞等令舞之」と記されます。この獅子は行列の先導役のみではなく、獅子舞を演じていたことが分かります。
 以後、獅子舞は祭礼芸能の一環としてあちこちの祭礼に活躍するようになります。その基本は二頭一組で、巫女集団・上の舞・細男座・田楽座・猿楽座など、専門の芸能集団とともに大きな社寺の祭礼に姿を見せるようになったことが『年中行事絵巻』などから分かります。ここに描かれた獅子舞は専門の座が形成されていたと研究者は考えているようです。そして、獅子舞は、荘園鎮守社の祭礼などにも演じられ、地方にも広がっていったようです。

二人使いの獅子舞は、大きく分けて次の二つに分類できるようです。
ひとつは、神興渡御の先頭を行く獅子です。もともとは、二頭一組が一般的だったようです。
獅子の前を行く天狗面なども、伎楽の治道や、舞楽における口取りの変形バージョンとして残っているのかも知れません。この神興を先導する獅子は、讃岐の獅子舞にも云えますが、華麗に舞を舞うところが多く、祭礼の獅子舞として発展してきたようです。
 中世期の京都などでは、獅子舞を舞う専門芸能座があったようで、祗園社には片羽屋座などが所属していたようです。彼らは祗園御霊会などで神興渡御に付き従いました。
獅子 年中絵巻図の獅子舞
笛や太鼓の鳴り物に逢わせて、路上で舞う獅子

しかし、それだけでは生活できません。彼らは、祇園社が所属した比叡山延暦寺膝下の村々へ進出し、祈祷の獅子舞を演じる祭礼権を持つようになっていきます。こうして、獅子舞が地域の祭礼に姿を見せるようになります。
獅子舞 年中行事絵巻 稲荷祭りの獅子舞
何頭もの獅子が神輿の先払いとして舞ながら進む

民俗芸能として伝承された獅子舞のもう一つは、太神楽系の獅子舞です。
樺猛な獅子の姿が悪魔祓いに有効とされたのは、唐の時代の中国からでした。我が国ではその頭に神を勧請して「神の力 + 獅子の威力」の相乗効果を期待するようになります。こうして獅子頭自体を独立させて、悪魔を祓ってまわるようになります。その最初は山伏・修験者たちだったようです。
獅子頭(権現さま) | いわての文化情報大事典

 南北朝期以降に東北地方で熊野山伏が展開したスタイルは、神を勧請した獅子頭を権現様と呼び、それを舞わすことで悪魔を祓うものでした。彼らは家々の悪魔祓いをしてまわるようになります。同時に、その余興として当時の流行芸能である「猿楽能(現在の能・狂一三」のスタイルで神々の登場する能(仮面劇)を演じ、激しく美しい舞を舞って人気を得ます。こうして、東北では地域を「巡業」する獅子舞集団がいくつも現れます。
獅子舞 年中行事絵巻 稲荷祭りの獅子舞2

 さきほど見た京都祇園の獅子舞の座も、獅子頭を用いて悪魔祓いを行なうと同時に、猿楽能も演じています。このスタイルは、熊野山伏の専売ではなかったようです。戦乱が進む中世末には熊野信仰は、下火になり、熊野山伏の活躍も徐々に衰えていきます。それに代わって登場するのが、伊勢皇太神宮の信仰です。もともとは天皇家の氏神であった伊勢神宮も、中世末期になるとその維持が困難になります。そこで庶民への教線拡大策として、真似られたのが熊野山伏が行なっていたスタイルです。つまり獅子頭に神を勧請して諸国を巡り、悪魔祓いを行ない、御札を配ります。その代償として初穂を戴くようになります。彼らを「御師」と呼びますが、本来の御師は伊勢神宮の近辺に宿泊施設を構え、地方に檀那場を確保して講中を組織し、伊勢への参宮を促す役割を持っていました。だから、獅子頭を奉じて諸国を巡る太神楽の団員達は、もともとは御師ではありません。あくまで芸人なのです。
放下 - Wikipedia
         放下芸 皿回しや傘回し

  この時、祈祷の獅子舞とともに演じられたのが「放下芸」でした。放下芸はもともとは古代に大陸から渡来した散楽系の曲芸で、中世を通じて雑芸能者の手によって伝えられてきました。それがこの時期に、大道芸能として脚光を浴びるようになり、いろいろな芸人が現れるようになります。さまざまな芸をもった一団の中に、獅子の舞も取り込んで演じて見せたようです。
伊勢大神楽について - 伊勢大神楽 伊勢大神楽教 渋谷章社中
背負った屋台に獅子頭や太鼓が見える

 ここで注意しておきたいのは、獅子頭を奉じて祈祷にまわる大神楽の獅子舞は、伊勢信仰の流布のためではなかったことです。あくまで営業活動の一環なのです。
 太神楽を演じたのは伊勢神宮などの神人ではなく、伊勢神宮や熱田神宮から御札の配布を請け負った下級宗教者でした。彼らは、伊勢国桑名や吾鞍川、尾張国繁吉村などに集住して、そこを拠点地として各地に出向くという営業スタイルをとるようになります。そして巡回範囲は、全国に及ぶようになります。そういう意味では、太神楽系の獅子舞は、彼らが持ち伝えたオリジナルな獅子舞です。
伊勢大神楽講社 山本勘太夫社中

 それが大きく変化し出すのは江戸時代中期以降です。
毎年やって来る伊勢太神楽と次第に経済力を得た各地の村々の若者組が交流するようになります。彼らからその芸能を教わり、自分の村で獅子舞を演じる舞場権を買い取って、自分の村の祭礼に若者組自身が演じるようになります。研究者はこれを「祭礼芸能の民俗芸能化」と呼んでいるようですが、こうして獅子舞は村人の手に移って行きます。そして獅子舞は、それぞれに土地の風土に合わせて変化発展していくようになります。
 ここまで見てきて、なぜ小豆島の祭礼に獅子が登場しないのかが何となく見えてきました。
讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月に初めて登場します。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」という記事があり、これが一番が古いようです。それから五年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでも獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は瀬戸内海という人と物が流れる「中世のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内からやってきて、肥土庄に根付いていたのです。
しかし、これはパレード用の獅子です。獅子舞ではないのです。
 一方小豆島には、いまでも伊勢大神楽の獅子舞一座がやってきます。ということは、小豆島での獅子舞を演じる舞場権を手放さなかったということになります。小豆島では、伊勢大神楽が舞場権を持っている限り、村の若者達が獅子舞を行う事はできなかったというのが私の仮説です。そのため小豆島の若者達のエネルギーは、農村歌舞伎に向けられ、祭りでは獅子ではなく太鼓台(ちょうさ)にエネルギーが注ぎ込まれるようになったのではないでしょうか。巡回する伊勢太神楽一座も瀬戸内海の島々は、古くからの自分たちのテリトリーであり、将来も有望な地域です。手放すことはなかったのでしょう。一方讃岐の農村部は、もとから伊勢太神楽のテリトリーに属していないところが多かったのではないでしょうか。そこでは、獅子舞はスムーズに移植されたのかもしれません。伊勢太神楽のやって来るところは、村の祭りで獅子舞は舞われないという仮説が成立するのかどうか、今後の課題です。話が横道に逸れましたので、元に戻します。


 もともと伊勢太神楽系の獅子舞は、神興渡御に供奉することはありませんでした。
車付きの屋台に獅子頭を載せて、村の各戸をまわって悪魔祓いの祈疇の舞を演じたり、神社境内などの要所で、祈蒔の舞や曲芸を見せるのがメインでした。しかし、これが村の若者組の手によって演じられるようになると、話は変わります。村の祭りの花形として、獅子は華々しく登場します。
 その際のプロデュース役を演じたのは、村に住む山伏や修験者たちだったかも知れません。時代の流行芸能なども取り込んで、より華やかなもの、より面白いものに変化・発展しはじめます。村々の独自性が求められるようになります。そして、讃岐にはいろいろな変化バージョンの獅子が登場するようになるのは以前にお話ししました。
獅子舞、勇壮に 伊勢大神楽を披露 丹波篠山・泉八幡神社 /兵庫 | 毎日新聞
 
  讃岐の獅子と大神楽系獅子舞との違いは?
 大神楽系獅子舞の特徴は、獅子頭(木製)を被り、内部の上下顎をつなぐ横棒を口でくわえたり、顎にあてがって、空いた両手で幣や鈴・剣などを手に持って舞うことです。この獅子は、二人立ち獅子舞で初めて「両手」を使うことができるようになった画期的な獅子舞です。ところが讃岐の獅子頭の特徴は、紙製で軽く内部に縦棒がついていて、演者の頭は入りません。つまり、大神楽系獅子舞とはちがう「進化」の道を辿ることになります。それが讃岐独自の獅子舞につながります。紙製で頭が軽いので、それだけ激しく動き回れます。
 つまり、当時全国的なメジャー獅子舞であった大神楽の影響を、讃岐獅子舞は受けていないと研究者は指摘します。そして、讃岐という狭い地域でガラパゴス状態で進化を遂げてきた「変種」ともいえる獅子舞のようです。四国香川の獅子舞は、全国的にも珍しい紙製獅子芋三流の獅子舞文化であるようです。 香川の獅子舞は、うどん屋の数だけあると云われますが、その数の多さだけでなく讃岐の独自性も誇るべきなのかもしれません
以上を振り返り要点を整理しておきます
①獅子は古代ペルシャで神獣とされ、シルクロードのキャラバン隊と共に唐代の中国になってきた。
②日本の獅子舞と中国の獅子舞は、同じルーツをもつ
③日本古代には伎楽や舞楽の中で「番犬」的な役割を演じてきた
④中世には獅子は、各祭礼のパレードに姿を見せるようになり、舞うようにもなる
⑤伊勢太神楽は、全国を巡業し獅子舞を演じるようになる
⑥経済的に豊かになった村々の若者組は、伊勢太神楽から獅子舞を学び、興行権を買い取り、独自の獅子舞を祭礼で行うようになる
⑦しかし、讃岐の獅子頭は紙製で頭が入らないので、伊勢太神楽とは違う形で進化してきた独自性を持つ
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 獅子舞の原型とその変容 中世芸能の底流     岩田書店2010年」
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  前回は弘法清水伝説が「泉と託宣」にかかわって、古代の祭祀に関係があったことみてきました。今回は別の視点から弘法清水伝説を見ておきたいと思います。この伝説に共通するのは、弘法大師が善人または悪人の家にやってくることです。この国の古代信仰にも家々に客人として訪れる神がいたようです。これを客人(まろうど)神と呼びます。この神は、ちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形になります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためのようです。
客人神 Instagram posts - Gramho.com

 客人(まろうど)神の例として研究者は「常陸国風土記』の富士と筑波の伝説を挙げます。
大古、祖神尊(みおやのまみのみこと)が諸神のところを巡っていました。駿河の幅慈(富士)の神は、新嘗の祭で家内物忌をしていたので、親神なれどもお泊めしなかった。そこで祖神尊はこの山を呪われたので、この山には夏も冬も雪ふりつもり、人も登らず飲食も上らないのだという。
 この祖神尊が筑波の神に宿を乞うたところ、新嘗の物忌にもかかわらず神の飲食をととのえて敬い仕え申した。そこで祖神尊は大いによろこばれて、
愛しきかも 我が胤 魏きかも 神宮
あめつちのむた 月日のむた
人民つ下ひことほぎ 飲食ゆたかに
代のことごと日に日に弥栄えむ
千代万代に 遊楽きはまらじ
と祝福せられたので、筑波は今に坂東諸国の男女携え登って歌舞飲食をするのです
二見町◇蘇民将来
スサノウの宿泊を断る弟の招来

客人神の伝説は、京都の祇園社の武塔天神が有名です。

『釈日本紀』の『備後風土記逸文』には蘇民将来の話として載せられています。この物語は、旧約聖書のモーゼの「出エジプト」を思い出させる内容です。その話の筋はこうです。
昔、北海に坐した武塔神(スサノウ)が南海の神の女子を婚いに出でましたとき、日が暮れたので蘇民と将来という兄弟の家に宿を乞われた。しかるに弟の将来は富めるにもかかわらず宿をせぬ。兄の蘇民は貧しいにもかかわらず、宿を貸し、栗柄を御座として来飯をお供えした。
蘇民将来の神話

後に武塔神が来て前の報答をしようといい、蘇民の女の子だけをのこして皆殺してしまった。そのとき神の日く、
吾は速須佐能雄(スサノウ)の神なり。後の世に疫気あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて茅の輪を腰の上に著けよと詔る。詔のまにまに著けしめば、その夜ある人は免れなむ
武塔天神はスサノオで、疫病の神です。そのため宿を貸した善人の蘇民の娘だけを助けて、他は流行病で全減したようです。まさに、モーゼと同じ恐ろしさです。これが家に訪ね来る客人神で、その待遇の善し悪しによって、とんでもない災難がもたらされることになります。これは、前々回に見た、弘法清水伝説とおなじです。水を所望した僧侶を、邪険に扱えば泉や井戸は枯れ、町が衰退もするのです。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民招来の木札
  この神話伝説について研究者は次のように指摘します。
「この段階では道徳性が導人されており、善と悪を対比する複合神話の形式をとっている。その発展過程よりすれば客人神の災害と祝福を説く二種の神話が結合したものとみることができる。
 しかもなお原始民族の神観にさかのはれば、神は恐るべきがゆえに敬すべき威力ある実在とかんがえられたから、悪しき待遇と禁忌の不履行にたいして災害をくだす神話が生まれ、次にこの災禍を避けて福を得る方法としての祭祀を物語る神話がきたのであろう。攘災と招福は一枚の紙の裏表であるが、客人神としての大師への不敬が泉を止めたという伝説、したがって井戸を掘ることを禁忌とする口碑はきわめて古い起源をもつものとおもわれる。
 
ここにも意訳変換が必要なのかも知れません。
  水をもらえなかったくらいで、泉を枯らしてしまう無慈悲で気短で恐ろしい人格として弘法大師が描かれるのはどうしてかというのが疑問点でした。その答えは、弘法大師以前の神話では、恐るべき客人神として描かれていたのが、いつの頃からか弘法大師にとって代わられたためと研究者は考えているようです。客人神は、弘法大師に姿を変えて引き継がれたというのです。
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しかし、客人神は上手に対応すれば災いがもたらされることはありません。そればかりか人間の祈願に応えて幸福をあたえてくれます。畏怖心や威力が大きければ大きいほど、その恩寵もまた大きいとかんがえられたようです。ここからは、大師が善女からの水の供養のお礼に泉を出したという伝説は、悪女のために泉を止めたという伝説と表裏一体の関係にあると研究者は考えているようです。
蘇民将来とは?(茅の輪の起源)-人文研究見聞録
 客人神の二つの面が大師にも描かれているのです。
その結果、この種の伝説の性格として、道徳意識は潜り込ませにくかったようです。しかし、後世になってこの伝説が高野聖などの仏教徒の管理に置かれると変わってきます。弘法清水伝説として、道徳的勧懲が強調されて、教訓的色彩が強くなります。そして、厳しく罰する話の方は落とされていくようにもなるようです。
 信濃国分寺 蘇民将来符、ここにあり | じょうしょう気流
 伝説の中の弘法大師が、神話の中の祖神尊や武塔神のように、人々の家々を訪れめぐるとされていたことは押さえておきましょう。
ここからは、次のような話が太子伝説の一つとして流布するようになります。
「今でも大師は年中全国を巡り歩かれるから、高野の御衣替には大師の御衣の裾が切れている」

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地方によると「修行大師」と呼ばれる弘法大師の旅姿がとくに礼拝される所もあるようです。これは古代の家々を訪れ巡る客人神を祀るという古代祭祀の痕跡なのかもしれません。固定した建造物となった神社でおこなわれる今の神祭には、登場しない神々です。

古来は、家々に神を招きまつる祭祀が、一般的であったようです。
そして、弘法清水伝説の中にあらわれる弘法大師は、このような家々に私的に祀られた神の姿をのこしたものなのかもしれません。だから、人々は親しみ深いものとして、語り継いできたようです。そして、この親しさが、弘法清水伝説を今まで支えてきた精神的な根拠と研究者は考えているようです。
修行大師像

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重著作集第4巻 寺社縁起と伝承 弘法大師伝説の精神的意義(中)        法蔵社
客人神

 弘法大師の三つ井戸
大師井戸伝説は、古代の神話の泉(井戸)信仰に「接ぎ木」されたもの考える説があるようです。それでは、古代の人たちは、泉をどのように見ていたのでしょうか。
実在した?海の国、竜宮城 その3(ワイ的歴シ11)|はじめskywalker|note
「古事記」の海幸と山幸の神話に出てくる泉を見てみましょう。
山幸彦がうしなわれた釣針をもとめて綿津見宮に行き、宮門のそばにある井戸の上の湯津香木(ゆずかつら)にのぼって海神の女を待つシーンです。
こゝに海神の女豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水汲まむとする時に、に光あり。仰ぎて見れば麗しき壮夫あり。いと奇しとおもひき。かれ火遠理命、その婢を見たまひて水を得しめよと乞ひたまふ。婢乃ち水を酌みて玉器に人れてたてまつりき。ここに水をば飲なたまはずして、御頸の玉を解かして、口に含みて、その玉器に唾き入れたまひき。こゝにその典い器に著きて婢政を得離たず。かれ典杵けながら豊玉毘売命に進りき。云々
  意訳変換しておくと
海神の女豊玉毘売の従婢が玉器で水を汲もうとすると、井に光が差し込んだきた。仰ぎ見ると麗しき男が立っていた。男は火遠理命で、その婢に水を一杯所望した。婢は水を酌んで玉器に入れて、差し出した。しかし、男は水を飲まずに、首の玉を外して、口に含んで、その玉器に唾き入れた。

読んでいてどきりとするエロスを感じてしまいます。こんなシーンに出会うと古典もいいなあと思うこの頃ですが・・・それは置いて先に進みます。
ここに登場する泉(井戸)を研究者は、どのように考えているのでしょうか
「井が神の光をうつす」ということは「巫女と泉と託宣」を暗示していると云います。泉に玉を落とすということは泉を神とかんがえ、玉をその御霊代とかんがえた証拠とします。
青い泉だけでない由緒ある神社 - 泉神社の口コミ - トリップアドバイザー
  たとえば常陸多賀那坂上村水本の泉神社の泉は『常陸国風土記』にも出てくる名勝です。
ここには霊玉が天降り、そこから霊泉が涌出するようになったという伝説があります。泉神社の御神体はその霊玉だと伝えられます。また、この泉は片目魚の伝説ある那珂郡村松村の大神宮の阿漕浦(泉神社の南二里)と地下で通していると云います。

 これに関連するのが日向児湯郡下穂北村妻の都万神社の御池で、ここにも次のような玉と片目鮒の伝えがあります。
この池の岸に木花開耶姫が遊んでいたとき、神の玉の紐が池に落ちて鮒の日を貫き、それよりこの池には片目鮒が生ずるようになった。それでこの社では玉紐落と書いて鮒とよみ、鮒を神様の眷属と称えるという(『笠狭大略記』)。その他、玉の井、玉蔭井、玉落井、などの名でよばれる泉はいずれも玉と関係があり、泉を神とした時代の信仰をしめすものと研究者は考えているようです。つまり、泉そのものが神と考えられていた時代があったと云うのです。
次に神功皇后の伝説にも、泉は聖地として登場します。
『播磨国風土記』の針間井(播磨井)は、この地が神によって開かれた土地であるとし、次のように記されています。
息長帯日売(おきながたらしひめ)の命、韓国より還り上らし時、御船この村に宿り給ひしに、 一夜の間に萩生ひて根の高さ一丈許なりき。乃りて萩原と名づけ、すなはち御井を開きぬ。故、針間(はりま)井といふ。その処墾かず、又神の水溢れて井を成しき。故、韓清水と号く。その水、朝に汲め下も朝を出でず。こゝに酒殿を作りき。ム々
意訳変換しておくと
息長帯日売(=神功皇后)の命で、韓国より生還した際に、御船をこの村に着けて宿った。すると一夜の間に萩が一丈ほど成長した。そこでこの地を萩原と名づけ、御井を堀開いた。そのため針間(はりま播磨)井と呼ばれる。そして、この井戸の周辺は開墾せず、神の水溢れて湧水となったので、韓清水と名付けた。その水は、朝夕に汲んでも尽きることがない。そこで酒殿を造った。ム々

   息長帯日売(=神功皇后)が上陸した土地は、一夜のあいだに萩が覆い茂る聖地で、神を祭るべき霊地であったようです。そこに神祭のために御井が掘られます。そして開墾されることなく神聖なる土地として管理され、祭のために酒を醸すべき酒殿が造られたとあります。

『常陸国風土記』の夜刀の神の伝説にも「椎の井」の話があり、これは夜刀の神のかくれた池と伝えられます。井を掘り出したのではありませんが、この池の主が蛇であるとします。すなわち池が神の住家であるとするのです。
水の神が蛇であるという信仰は現代ではよく知られています。
そして蛇は姿を変えて龍となります。つまり「蛇=龍」なのです。龍と雨乞いは、空海により結びつけられ「善女龍王」信仰になります。しかし、その前提には、「雨乞い」と「龍蛇」の間を、古代の「水(泉)の神」信仰が結びつけていたと研究者は指摘します。泉信仰があって、古代の人々は「善女龍王」伝説をすんなりと受けいれることができたようです。ある意味、ここでも「泉信仰」に「善女龍王」伝説は「接ぎ木」されているのかも知れません。弘法清水伝説の源泉を遡れば古事記や日本書紀の神話にまで、たどり着くと研究者は考えているようです。
泉が神話に、どんなふうに登場するのでしょうか。そのシーンは3つに分類できると研究者は考えているようです。
第1は穢れを浄める場としての泉です。
古代祭礼は、神主は神僕であるとともに神自体でした。今、私たちが祀る神々の中には、もとは神への奉仕者であったらしい神(人)もいるようです。神に仕える者が身を清めるための泉は、祭祀に必須条件となります。これが弘法清水伝説の伊勢多気郡丹生村の「子安の井」では、産婦の水垢離(コリトリ)にのみもちいられ、これを日常用に汲めばかならず崇りがあるとされます。尾張知多都生路村の「生路井」のように、穢れあるものがこれを汲めば、すぐに濁ってしまうとつたえられます。
 人が神に仕えるためには、身を清める場が必要でした。それが聖なる神の住む泉だったのです。この考えは修験道にも入り込み「コリトリ」のための瀧修行などへ「発展」していくようです。
第二に泉は、神祭に必要不可欠だった酒醸造の聖地になります。
 居酒屋では今でも、御神酒と呼んだりします。御神酒は、祭礼の際に君臣和楽するためや、神人和合の境地をつくり出す「手段」として必要不可欠なものでした。酒は、託宣者を神との交感の境に導くための「誘引剤」としても用いられました。御神酒は、神と人のあいだの障壁をとりのぞき、神語を宣るに都合のいい雰囲気を作り出す役割も果たします。こうして託宣者は「御託をなヽらべる」ことができるようになります。 酒は神物であり、神から授けられたものだったのです。
『古事記』中巻にある「酒楽の歌」は、こうした信仰を歌いつたえたものなのでしょう。
この御酒は、吾が御酒ならず、酒(くし)の上、
常世にいます、石立たす、少名御神の、
神壽(かむはぎ)、壽狂ほし、豊壽、壽廻(はぎもとほ)し、献(まつ)り来し、御酒ぞ、涸ずをせ、さゝ
  意訳変換しておくと
この御酒は、私たちの御酒ではなく、天の上、常世にいらっしゃいます少名御神のものです。
神を祝い、豊作を祝い愛で、喜びをめぐる、
献(祀り)がやってきた、御酒ぞ、枯らすことなく浴びるほど飲め
涌泉伝説には、酒の泉の伝説もかなりあるようです。そして、養老瀧の酷泉伝説につながっていくものも数多くあります。たとえば『播磨国風土記』には印南郡含芸の甲に酒山の酒泉が涌出した話があり、揖保郡萩原の里の韓清水にも酒殿が立てられたことが記されています。また『肥前国風土記』、基粋の郡、酒殿の泉にも酒殿があり、孟春正月の神酒を醸したようです。
泉の第3の効用は、ここで託宣が行われたことです。
原始神道のもっとも大きな特色は託宣だと研究者は云います。
託宣を辞書で調べると次の通りです
託宣」(たくせん)の意味
「神が人にのりうつり、または夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。神に祈って受けたおつげ。神託。→御託宣」
 
 戦後直後の昭和の時代には、まだ選択者が「市子、守子、県、若、梓神子など死霊生霊の口寄せ」として残っていた地域もあったようです。中世には八幡神は、この託宣を使って八幡信仰を全国に広げました。それを真似るように熊野、諏訪、白山なども好んで巫女に憑って託宣を下しました。大きな神社でなくても、「祟の神さん」といわれる祠のような小さな神社でも、巫女達が託宣を下しました。
たたりはたたへ(称言)、またはたとへ(讐喩)と語源をおなじくする託宣の義」

と研究者は指摘します。これには巫女、市児、山伏の類から僧侶までもくわわります。それは託宣の需要が多く、その収入も多かったからでしょう。
 『大宝令』『僧尼令』には、僧尼の古凶卜相、小道鳳術療病者を還俗させる法令があります。養老元年(717)4月の詔にも、僧尼の巫術卜相を禁ずるとあります。ここからは、奈良時代には託宣が盛んに行われていたことがうかがえます。託宣が古代祭祀のかなり大きな部分を占めていたようです。
日本巫女史|国書刊行会

 しかし、奈良時代になると託宣は託宣のための託宣であって、古代の祭儀としての託宣とは、かなりかけ離れていたようです。その背景には、神への奉仕者と託宣者とが分化したことが挙げられます。神社をはなれた漂泊の託宣者が手箱や笈を携えて祈疇と代願をおこなうようになります。神社専属の神子はんや神主からは、彼らは「歩き巫、叩き巫、法印、野山伏」と侮りをうけるようになっていきます。

それでは、託宣(神託)は、どこでおこなわれていたのでしょうか
  それは神が住む泉で行われたと研究者は考え、次のように記します。
  巫女は林下の泉に臨んでこれをのぞき見、ある所作をなすことによつて悦惚たる人神の境地にはいり、時間的・空間的な制約を超脱して神意を宣ることができたのであろう。

これは現在でも、選択者の流れを汲む市子、縣たちは必ず水を茶碗に汲んで笹の葉でかきまわし、所謂「水を向け」を行った後に託宣を告げます。これは、泉で託宣が行われた時の痕跡と研究者は考えているようです。
日本最古いの一つとされる数えられる安積の采女の歌とには、
浅香山かげさへ見ゆる山の井の浅き心を吾おもはなくに

この歌に出てくる「山の井」は、采女が託宣をおこなうべき場所であった井戸とも考えれます。また小野小町、小野於通、和泉式部などの全国に足跡を残す女性たちも『和式部』の作者であるよりは、実は采女であったと考える研究者もいるようです。これも采女が泉にゆかりをもとめた証となります。

原始信仰にとって、泉とは一体なんのなのでしょうか?     
  『古事記』『日本書紀』は、死後に行く世界、現世から隔絶された世界、すなわち幽界を「よみ」として、これに黄泉または泉の文字をあてます。泉を幽界への通路、または幽界を覗き見るべき鏡とかんがえたことがうかがえます。そして研究者は次のように述べます。
 泉は林間樹下に蒼然と湛えて鳥飛べば鳥をうつし、鹿来れば鹿をうつし、人臨めば人を映す。泉は、古代人にとって神秘以上のものであったろう。鏡を霊物とする思想が泉を霊物とする思想から発展したとかんがえるのは、あながち無理な想像ではあるまい。かがみということば自身「影見」であり、泉の上に「かがみ(屈み)見る」から出たということも思える。
 鏡が幽界、地獄界をうつすというかんがえは野守の鏡のみならず、松山鏡の伝説にもある。中世の地獄、古代の幽界は遡れば現世から隔絶された世界、顕国の彼方の世界、常世、神の世界である。ゆえ泉に拠って神人の交通を企てるということは、古代人にとってはきわめて自然のこととかもしれない。姿見の井戸などの幽怪なる伝説も、こうした泉の霊用をかんがえてはじめて理解し得るのである。
泉信仰から鏡信仰へとスライド移行して行ったというのです。
古代の神泉伝説で、采女がなぜか投身人水をします。どうしてなのでしょうか?
  これは古代祭祀における人身供犠と関係があるようです。 フレーザーは未開民族のあいだにおける人身供犠について次のように述べます。
  人身供犠記(生け贄)は。古代社会にとっては普通のことで、それは穀神にささげられる生贄であり、人を殺すことによって土地を肥し収穫を増すという信仰から出ている。それゆえ南洋諸島の人身供犠には、できるだけ肥った人を選ぶ。

『今苦物語集』巻二十六、〔飛騨国の猿神生贄を止むる語第八〕などでも供えられる僧は、できるだけ食べさせて肥らされます。この話は人身御供をとる猿神を身代わりの僧が退治する話です。そこでは、年々選ばれる人身御供は未婚の美女でなければならず、これを供えることによって猿神の神怒を和げ、田畠の収穫を増加させたされています。
ファイル:人身御供.gif - Docs

 巫女は古代の祭祀では最終的には、神になることを求められます。そのためには泉に身を投ずることによって神として祀られた時代があったと研究者は考えているようです。この国の祖先たちは、このような死を単なる死と見ずに、死を通じて永遠の生命を獲得するとかんがえたようです。しかし、生のままの人身御供ということは、古墳時代の埴輪の登場にみられるようにだんだん「時代遅れ」の感覚になります。そこで、人間の代わりに魚の片目を潰して池に放すこととなります。池に放すのは、人間にとっては死ですが、魚にとっては生であり放生です。この日本古来の人身御供を慈悲放生のシーンへと巧みに換えたのは、仏教の功績のひとつなのかもしれません。
 このようにして泉は、古代祭祀において重要なシーンを演じてきました。そのためいくつもの神話が生まれ伝説化します。そのうえに弘法清水伝説や大師井戸は「接ぎ木」されたと研究者は考えているようです。しかし、どうして弘法大師が選ばれたのでしょうか。考えられることを挙げておくと次のようになります
①中世の精神生活における仏教の絶対優位、とくに密教的なるものの優勢ということ、
②弘法大師の法力、加持力
③古代信仰とその伝説の荷担者が密教と親近性をもっていたこと、
しかし、これだけでは説明はつきません。古代の神々と弘法大師が混同されるような何かがあったと考えたいところです。この泉の由来はと聞かれて、どなたか尊い方が来て出された泉だという伝承があった上で、それこそ弘法大師だったのだと納得されるには、何かかくれた根拠が必要です。2段構えの説明が求められます。
  「大師は太子であって神の子である」

という柳田国男の説がよぎります。
古代の泉の廻りをうろうろしただけのとりとめのない話になってしまいました。しかし、大師井戸の背後には、古代の泉伝説が隠されているという話は私にはなかなか面白い話でした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重作集第四巻 寺社縁起と伝承文化 


善通寺と空海 : 瀬戸の島から

弘法大師伝説のなかに、「弘法清水」や「大師井戸」とよばれる涌泉伝説があります。
まんのう町真鈴峠に伝わる「大師井戸」については、以前紹介しました。この伝説について民俗学の研究者達は、どんな風に考えているのかを見ていくことにします。テキストは「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」です

この伝承は、民間伝承と太子伝に載せられているものの二つがあります。最初に太子伝に載せられた「大師井戸」を追いかけてみましょう。
1弘法大師行状記

  一番古いのは寛治一年(1089)の『弘法大師行状集記』〔河内国龍泉寺泉条第七十七〕で、次のように記されています。
この寺は蘇我大臣の大願で、寺を建設するのにふさわしい所が選ばれて伽藍が建立された。ところがこの寺に昔からある池には悪龍が住むと伝えられ、山内の池に寄りつく人畜は被害を受けた。そこで大臣は冠帯を着帯して爵を持ち、瞬きもせずに池底を七日七夜の間、凝視し続けた。すると龍王が人形として現れて次のように伝えた。大臣は、猛利の心を発して祈願・誓願した、私は仏法には勝てないので、他所に移ることにする。そうつげると元の姿に復り、とどろきを残して飛び去った。
 その後、池は枯渇し、山内には水源がなくなってしましった。伽藍は整備されたが、水源は十数里も遠く離れた所にしかなく、僧侶や住人は難儀を強いられた。そこで大師が加持祈誓を行うと、もともと棲んでいた龍が慈心になって池に帰ってきた。以後、泉は枯れることなく湧きだし続け絶えることがない。そこで寺名を改めて龍泉寺とした。

ここからは、次のような事が分かります。
①もとから龍が住むという霊地に、寺が建立されたこと
②そのため先住者の龍は退散したが、泉も枯れたこと
③弘法大師が祈祷により、龍を呼び戻したこと。そして泉も復活したこと
寛治一年(1089)の文書ですから、弘法大師が亡くなって、約150年後には弘法清水の涌出伝説は出来上がっていたことが分かります。
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後の『和漢三才図会』は、この清水を龍穴信仰とむすびつけて、次のように記します。
昔此有池、悪龍為害、大臣(蘇我大臣)欲造寺、析之、龍退水渇建寺院、後却患無水、弘法加持
涌出霊水、今亦有、有一龍穴常以石蓋ロ、如旱魃祈雨開石蓋忽雨 (『和漢三才図会』第七十五、河内同龍泉キ村龍泉寺)
意訳変換しておくと
昔、この寺には、悪龍が害をなす池があった。蘇我大臣が寺を作ることを願い、龍を退散させると水が涸れた。寺院はできたが、水がなく不自由していた。そこで、弘法大師が加持しすると霊水が涌き出した。今でもこの寺には、龍穴があるが、日頃は石で蓋をしている。旱魃の時には、この石蓋を開けるとたちまちに雨が降る。

ここには、後半に旱魃の際の際の雨乞いのことが付け加えられています。どちらにしても、弘法清水伝説は、水の神の信仰と関係あると研究者は指摘します。
☆駅長お薦めハイク 大淀町散策(完)弘法大師井戸と薬水駅 : りんどうのつぶやき

  槙尾寺の智恵水の伝承の三段変化
  『弘法大師行状集記」の〔槙尾柴千水条第―五〕には、槙尾山智恵水のことが次のように記されています。まずホップです。
此寺是依為出家之砌、暫留住之間、時々以檜葉摩浄手、随便宜投懸椿之上 其檜葉付椿葉、猶彼種子今芽生、而椿葉生附檜木葉、或人伝云、大師誓願曰く、我宿願若可果遂者、此木葉付彼木葉
意訳変換しておくと
この寺では弘法大師が出家する際に、しばらくここに留まり生活した。その時に、ときどき檜葉を揉んで手を浄めた。それを、椿の木に投げ置いた。すると檜葉がそこで成長して、椿葉の上に檜が茂るようになった云う。これは弘法大師の誓願に、「我、願いが適うものなら、この木葉をかの木葉につけよ」からきているのかもしれない

ここには、檜葉を揉んで手を浄めたことはでてきますが、湧水や井戸のことについてはなんら触れられていません。それが約20年後の永久、元永ごろ(1113)の『弘法大師御伝』では、次のように変化します。  これがステップです。
和泉国槇尾山寺、神呪加持、平地
、此今存之、号智恵水、又以木葉按手投棄他木、皆結根生枝、今繁茂也
  意訳変換しておくと
和泉国の槇尾山寺には、神に願って加持すれば、平地から清泉が涌きだすという。これを智恵水と呼んでいる。又木葉を手で揉んで他の木に付けると、生枝に根を付けて繁茂する。

ここでは「智恵水」が加えられています。うけひの柴手水が弘法清水に変化したようです。
せいざんしゃ.com / [仏教百事問答]塵添壒嚢鈔―抄訳
それが『塵添墟嚢妙』巻十六の〔大師御出子受戒事〕になると次のように「成長」していきます。ジャンプです。
空海が槙尾寺に滞在していた時に、住持がこの寺には泉がないことを嘆いた。そこで弘法大師は次のように云われた、悉駄太子が射芸を学んで釈種とその技量を争われた。弦矢が金鼓を貰ぬいて地に刺さると、そこから清流が湧きだし、水は絶えることなく池となった。それを人々は箭泉と呼ぶようになった。と
 ならば私もと、空海が密印を結んで加持を行うと、清泉が湧きだだし、勢いよく流れ出した。これを飲むと、精神は爽利になるので智恵水と名付けられた。

  ここにはインドの悉駄太子の射芸のことまで登場してくるので、民間伝承ではありません。当時の高野山の僧侶達の姿が垣間見れるようです。
河野忠研究室ホームページ 弘法水

整理すると板尾山智恵水とよばれる弘法清水は、次のように三段階の成長をとげていることが分かります。
①檜葉を揉んで、手を浄めそれを椿の上に投げっていた。これはうけひの柴手水の段階
②そこへ智恵水が加えられ
③智恵水のいわれがとかれるようになる
これが槙尾寺の弘法清水の形成過程のようです。
以上からは、弘法清水の伝説は11世紀末には大師伝に載せられるようになり、ある程度の成長をとげていたことをが分かります。しかし、「弘法大師伝」という制約があるので、自由に改変・創造して発展させることはできなかったようです。大師伝の編者たちは、大師の神変不可思議な出来事に驚きながらも、おっかなびつくりこれを載せていた気配がします。
大師の井戸 - 橋本市 - LocalWiki

次に、民間伝承で伝えられてきた「大師井戸」を見てみましょう。
 民衆のあいだに広がった大師井戸伝説は、大師の歴史上の行動にはまったくお構いなしに、自由にのびのびと作られ成長していくことになります。
  寛永年(1625)刊の「江戸名所記』にのせられた谷中清水稲荷の弘法清水伝説は、この種の伝説の1つのパターンです。見てみましょう。
谷中通清水のいなりは、むかし弘法大師御修行の時此所をとをり給ひしに、人に喉かはき給ふ。
一人の媼あり。水桶をいたゞき遠き所より水を汲てはこぶ。大師このうばに水をこひ給ふ。媼いたはしくおもひ本りて水をまゐらせていはく、この所更に水なし。わが年きはまりて、遠きところの水をはこぶ事いとくるしきよしをかたり申しけり。又一人の子あり。年ころわづらひふせりて、媼がやしなひともしく侍べりと歎きければ、大師あはれみ給ひ、独鈷をもつて地をほり給へば、たちまちに清水わき出たりしその味ひ甘露のごとく、夏はひやヽかに冬は温也‐いかなる炎人にもかはくことなし。大師又みづからこの稲荷明神を勧請し給ひけり。うばが子、此水をもつて身をあらふに病すみやかにいへたり。それよりこのかた、この水にてあらふものは、よくもろもろのやまひいへずといふことなし、云々
  意訳変換しておくと
谷中通の清水の稲荷は、昔に弘法大師が御修行の際に通られた所です。その時に喉が渇きました。すると、一人の媼が水桶を頭に載せて、遠くから水を汲んで運んできます。大師は、この媼に水を乞いました。媼は、不憫に思い水を差し出しながら次のように云います。「ここには水がないのです。私も年取って、遠くから水を運んでくるのは難儀なことことで苦しんでいます。」「子どもも一人いるのですが、近頃患い伏せってしまい、私が養っています」と歎きます。
 これを聞いて、大師は憐れみ、独鈷で大地を掘りました。するとたちまちに清水が湧き出します。その味は甘露のようで、夏は冷たく冬は温かく、どんな日照りにも涸れることがありません。そして大師は、この稲荷明神を勧請しました。媼の子も、この水で身を洗うと病は、たちまち癒えました。以後、この水で洗い清めると、どんな病もよくなり、癒えないことがないと云います。
弘法大師ゆかりの湧水!大阪・四條畷「照涌大井戸」 | 大阪府 | LINEトラベルjp 旅行ガイド
ここからは次のようなことが分かります。
①親切な女性の善行が酬いられて清水が涌出したこと、
②この女性には、病気の子どもがいること
③大師が独鈷をもって清水を掘り出すこと、
④この清水に医療の効験あり、ことに子供の病を癒すこと、
⑤ここに稲荷神が勧請されていること、
この「タイプ1」弘法清水は、女性の善行が酬いられて泉が涌出する話です。ここでは弘法大師が慈悲深き行脚僧として登場します。
これに似た伝説として、上野足利郡三和村大字板倉養源寺の「弘法の加治水」(加持水)を研究者は挙げます。
往昔、婦人が赤子を抱き、乳の出が少ないのを嘆きながらたたずんでいた。そこに、たまたま行脚の僧が通りかかり、その話を聞いた。僧侶が杖を路傍に突き立てて黙疇すると水が噴出した。旅僧は「この水を飲めば、乳の出が多くなる」と告げた。飲んでみるとその通りであった。この旅僧こそ弘法大師であった

  『能美郡誌」には次のように記されています。
能登の能美郡栗津村井ノ口の「弘法の池」は村の北端にある共同井戸であり、昔はここに井戸がないために遠くから水を汲んでいた。ある時、大師が来合わせて、米を洗っている老婆に水を乞うたのでこころよく供養した。すると大師は旅の杖を地面に突き立てて水を出し、たちまちにこの池ができたという。
 
これらの説話では、大師が使うのは、杖になっています。
「錫杖や独鈷、三鈷などとするのは、仏者らしい作為をくわえた転移」と研究者は考えているようです。もともとは、杖で柳の木だったようです。
勝道上人の井戸と弘法大師』 - kuzuu-tmo ページ!
四国の伊予および阿波の例を見てみましょう
伊予温泉郡久米村高井の西林寺の「杖の淵」、阿波名西郡下分上山村の「柳水」など、いずれも大師に水を差し上げた女性の親切という話は脱落していますが、大師が杖によって突き出されたという清水です。阿波の柳水の話には、泉の傍に柳の柳が繁っていたというから、その杖は柳だったようです。 (『伊予温故録』阿州奇事雑話)。

女性の親切に大師の杖で酬いた説話の中で、涌出した泉が温泉であったという話もあるようです。上野利根那川場村の川場温泉につたわる弘法清水伝説です。この温泉は「脚気川場に療老神」といわれるほどの脚気の名湯とされてきたようです。それにはこんな伝説があるからです。
 昔、弘法大師巡錫してこの村に至り行暮れて宿を求めた。宿の主人は、大師をむかえて家に入れたが洗足の湯がなかった。すると大師は主人のために杖を地に立てて湯を涌かした。それでこの湯は脚気に効くのであり、風呂の傍に弘法大師の石像をたてて感謝しているのだという(『郷土研究』第2編)

研究者が注目するのは、次のポイントです
①大師に洗足の湯を出すこと
②この温泉が脚気に効くということ、
③大師が水を求めるのでなく宿をかりること
これは大師伝説の弘法大師が、「行路神」の性格や祭の日に家々をおとずれる「客人神」の要素をもっていたと研究者は考えているようです。
以上のように、この「タイプ1」に属する説話に共通の特色は、
①大師が行脚の途次水を求め、これを与えた女性の親切が酬いられて泉が涌き出したこと、
②大師は杖を地面に突き立てて泉を出したこと、
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次にタイプ2「  弘法大師を粗略に扱い罰を受ける」を見てみましょう。 大師にたいして不親切な扱いをしたために、泉を封じられた話です。
会津耶麻郡月輪村字壺下の板屋原は、古くは千軒の繁華なる町であった。ところが、昔、弘法大師がこの地を通過した際に、ある家に立ち寄り水を求めた。家の女がたまたま機を織っていて水を持参しなかった。大師は怒って加持すると水は地下にもぐって出なくなった。さしもの繁華な町もほろびたとつたえている
(『福島県耶麻郡誌』)。

   常陸西茨城郡北山村字片庭には姫春蝉という鳴き声が大きな蝉がいます。これも大師に関係ありと、次のように伝えらます。
昔、一人の雲水が片庭に来って、家の老女に飲水を乞うた。老女は邪怪にも与えなかった。然るにこの僧が立ち去るや否や老女の家の井戸水は涸れ、老女は病を得て次第に体が小さくなって、ついに蝉になってしまった。これがすなわち姫春岬で、その雲水こそ弘法大師であった
(『綜合郷上研究』茨城県下巻
「水一杯のことで、そこまでするのか? 弘法大師らしくない」というのが、最初の私の感想です。道徳観や倫理観などがあまり感じられません。何か不自然のように感じます。

若狭人飯郡青郷村の関犀河原は、比治川の水筋なのに水が流れません。もとはこの川で洗濯もできたのに、ある洗濯婆さんが弘法大師の水乞に応じなかったため、大師は非常に立腹せられて唱え言をしたので、川水は地下を流れるようになってしまった。(若狭郡県志』)。
 阿波名西郡上分上山村字名ケ平の「十河原」には、弘法大師に水を与えなかったため、大師が杖を河原に突き立てると水は地中をくぐって十河原になったと伝えます「郷土研究」第四編)。
  「大師の怒りにふれて井戸を止められた」という話は、自分の村や祖先の不名誉なことなのではないのでしょうか。それを永く記憶して、後世に伝えると云うのも変な話のように私には思えます。どうして、そんな話が伝え続けられたのでしょうか。
浜島の人たちは昔から、海辺の近くに住んでいたので井戸が少なく、たいへん水に不自由をしていました。 また、井戸があっても海が近いのでせっかく掘った井戸水も塩からかったりすることがあったのです。  今から、二百年も前のある年に、長い間日照りが ...

次の弘法清水伝説は「タイプ1+タイプ2」=タイプ3(複合バージョン)です 
 ここでは善人と忠人が登場してきて、それぞれに相応した酬いをうけます。ここでも悪人への制裁は過酷です。それは、弘法大師にはふさわしくない話とも思えてくるほどです。
 弘法清水分布の北限とされる山形県西村山郡川十居村吉川の「大師井戸」をみてみましょう
 大師湯殿山を開きにこの村まで来られたとき、例によって百姓家で水を求められた。するとそこの女房がひどい女で、米の磨ぎ汁をすすめた。大師は黙って、それを飲んで行かれた。ところが驚いたことには、かの女房の顔は馬になっていた。
 大師はそれから三町先へ行って、また百姓の家で水を所望された。ここの女房は気立てのやさしい女で、ちょうど機を織っていたがいやな顔もせずに機からおりて、遠いところまで水を汲みに行ってくれた。大師はそのお礼として持ったる杖を地面に突き立て穴をあけると、そこから涌き出た清水が現在の大師井戸となったという。
この説話の注目ポイントを確認しておきましょう
①邪悪な女房が大師にたいして不親切に振舞ったため禍をうけ
②親切な女房が大師に嘉せられて福を得たこと、
③大師に米の磨ぎ汁をすすめたこと
④邪悪な女房の顔が馬になったということ
⑤善良な女房が機を織っていたこと
これらについて研究者は次のように指摘します。
①については、弘法大師伝説の大師と、古来の「客人神」との関係がうかがえる
②米の磨き汁も、大師講の信仰に連なる重要な暗示が隠されている
③馬になった女房は、東北地方に多い馬頭形の人形、すなわちオシラ神との関係が隠されている
大垣市湧き水観光:十六町の名水 弘法の井戸 : スーパーホテル大垣駅前支配人の岐阜県大垣市のグルメ&観光 ぷらり旅
  常陸鹿島郡白鳥村人字札「あざらしの弘法水」も同村人字江川と対比してつたえられています。
この話では江川の女は悪意でなく仕事に気をとられて水を与えなかったとなっていますが、それにたいしても大師は容赦しません。去って次の集落に入ると、杖を地に突きさして清水を出します。その結果、札集落には弘法水があり、江川集落は水が出ないのだと伝えられます。(『綜合郷L研究』茨城県)

どうしてこんな厳しい対応をする弘法大師が登場するのでしょうか?
現在の私たちの感覚からすると「そこまでしなくても、いいんではないの」とも思えます。一神教信仰のような何か別の原理が働いているようにも思えます。これについて研究者は次のように述べます
わが民族の固有信仰における神は常に無慈悲と慈悲、暴威と恩寵、慣怒と愛育、悪と善の二面をもち、祭祀の適否、禁忌の履行不履行によって、まったく相反する性格を人間の前にあらわされるものだからである。

確かに「古事記』『風土記』等に出てくる客人神は、非常に厳しい神々で曖昧さはありません。それが時代が下るにつれて「進化=温和化」(角が取れた?)し、次第に慈悲と恩寵の側に傾いていったようです。古き神々は人を畏怖させる力を持っていて、それを行使することもあったのです。インドのインデラやユダヤ教のエホヴァ(ヤーベ)と同じく怒れる神になることもあったようです。その神々に弘法大師が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説に生まれ変わっていくようです。
 ここにみえる二重人格のような弘法大師は、古来の「客人神」の台木の上に接ぎ木されています。それが複合型伝説というタイプの弘法大師伝説となっていると研究者は考えているようです。
井戸寺:四国八十八箇所霊場 第十七番札所 – 偲フ花
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」


岸の上遺跡 イラスト
鵜足郡の法勲寺と岸の上遺跡(郡衙?)の位置関係
   七世紀後半は、全国各地に氏寺が造営され、急速に仏教が各地に広まっていった時期です。
丸亀平野を見ても、古代寺院が次のように登場してきます。
     寺院名 建立者  郡衙遺跡候補
①鵜足郡 法勲寺  綾氏?    岸の上遺跡(飯山町)
②那珂郡 宝幢寺 不明   郡家周辺(不明)
③多度郡 仲村廃寺(善通寺)佐伯氏         善通寺南遺跡
④三野郡  妙音寺 丸部氏         不明
と、今まで見たこともないような甍を載せた金堂や、天を指す五重塔が姿を見せるようになります。仏教が伝来してから約1世紀を経て、仏教は讃岐でも受けいれられるようになったようです。しかし、この時期の地方寺院は、郡司層を中心とする有力豪族が造営した氏寺で庶民が近づくことも出来なかったようです。

岸の上遺跡 南海道の側溝跡
正倉が何棟も出てきて鵜足郡衙の可能性が高い。はるかには善通寺の五岳が望める
 讃岐の地方豪族は、どんな信仰をベースにして仏教を受けいれたのでしょうか。今回は、地方豪族の仏教受容について、見ていくことにします。
 仏教は、祖先に対する追善供養という形で、この国では受容されました。それは中央の蘇我氏と物部氏の崇仏排仏論争を見るとよく分かります。仏は「蕃神」、すなわち外来神として認識されていたようです。この時点では、仏教の難しい教理は問題にされません。例えば、仏像についてもいろいろな仏像が造られますが、当時の人々が阿弥陀像と薬師像、観音菩薩像のちがいを理解していたかと問われると疑問です。
 このことは仏像だけでなく、寺院においても同じです。戦後の発掘で、わが国最初の寺院である飛鳥寺の塔跡の心礎から出てきたのは、武器・武具・馬具です。これは、古墳の石室から出てくるものと変わりありません。最新の技術を用いて建てられた五重塔は、古墳に代わる埋葬施設として捉えられていたことがうかがえます。
 寺院が祖先信仰と結びついて建立されていることについては、『日本書紀』推古天皇二年(五九四)二月丙寅朔条に、次のように記されています。
詔二皇太子及大臣丿令興隆三宝是時、諸臣連等各為二君親之恩競造二仏舎丿即是謂寺焉。
  意訳変換すると
皇太子や大臣に三宝(仏像・仏典・僧侶)を敬うように勅が出され、諸臣連たちは基礎祝うように、「君親之恩=祖先供養」のために競うように仏舎を建立した。これが寺院である。

 ここで注目したいのは「諸臣連等」が競って、寺院を造営する目的です。それは「為二君親之恩」で「祖先供養」のためだというのです。飛鳥での寺院建立も、当時は氏族の祖先信仰に基づいて行われていたことを押さえておきます。
 祖先崇拝のために建立された寺院は、氏寺として子孫が寺を管理し、祈りを捧げることになります。蘇我氏の法興寺に、馬子の子善徳が寺司となっているのは、その例でしょう。同じように『日本霊異記』下巻第二十三話には、大伴氏の寺院建立が次のように記されています。
 大伴連忍勝者 信濃国小県郡嬢里人也 大伴連等 同心其里中作堂 為二氏之寺 忍勝為欲写二大般若経一発願集物一 剃二除鬘髪著二袈裟 受戒修道 常二住彼堂 
  意訳変換しておくと
 大伴連忍勝は信濃国小県郡嬢里の人である。大伴連一族は、その里に堂を作り氏寺とした。忍勝は大般若経を書写することを発願し、剃髪し袈裟を付け、受戒修道し、常にこの堂に住むようになった。
ここからは、信濃の大伴氏の一族が「氏之寺」を建立し、大伴連忍勝が僧侶となったことが分かります。巨費をかけて作った寺院は、一族の財産でもあります。当然、一族の者が管理することになります。そして、寺院が一族結集の場にもなっていきます。檀越が一族であることは、蘇我氏と法興寺(飛鳥寺)の場合と同じです。
飛鳥と讃岐も、寺院の建立の目的は同じであったと考えられます。
祖先信仰とは、一族の繁栄を祖霊に祈願する信仰でもあります。
当然、その一族の長に当たるものが祀るべき地位にあった方が何かと都合は良かったのでしょう。これらの史料からは、仏像も寺院も、それまでの先祖供養や祖先信仰と深く結びついていることが分かります。そのやり方は、いままでの祖先崇拝に仏教のもつ追善供養という側面を重ね合わせ形で行われたようです。
 古代の豪族層は、どうして祖先信仰を重視したのでしょうか。
 高取正男氏は、このことについて次のように述べます。
「固有信仰の祖型として抽出されている死霊と祖霊の関係とは、死者の霊魂は死んでから一定の期間中はそれぞれの個性を保って近親者に臨むが、一定の期間を過ぎると個性を失ってしまう。そしてその後は漠然とした死者霊の没個性的な習合体としてのいわゆる祖霊に組み込み、その繁栄を保証するものとなる。」

 つまり、地方の豪族達は、自分につながる父や母などの霊を先祖霊に組み込みながら疑似共同体意識を養って、団結のきずな(精神的紐帯)としてきました。そこに、伝統的な神祇信仰ではなく、蕃神の仏教が新たに用いられることになったようです。
 その要因は、いくつか考えられます。その一つはこの国の人々の「外来の新規なものへの好奇心と崇拝」かもしれません。金色に輝く仏像や、甍を載せた朱色の仏教伽藍は宗教モニュメントは、彼らの心を惹きつけるものだったでしょう。弥生時代の先祖が光り輝く青銅器を祭器とし、卑弥呼が鏡を愛したように、白鳳人は仏像を愛したとしておきましょう。仏教にはいままでの日本の神々を越える宗教的な呪術力があると思うのは当然かも知れません。讃岐の豪族の仏教受容も、こんな背景の上にあったと私は考えています。しかし、仏教受容はこれだけが理由ではありません。
1日本霊異記

『日本霊異記』には、地方寺院の建立に関する史料が載っています。ここでは、伊予と讃岐の史料を見ておくことにします。

② 上巻第十七縁には、伊予の越智氏の氏寺建立の経緯が次のように記されています。
伊予国越知郡大領之先祖越智直 当為救百済・ 遣到運之時 唐兵所福 至其唐国・ 我八人同住洲 偉得ニ観音菩薩像・ 信敬尊重 八人同ン心 窃裁二松本・以為二一舟・ 奉謂二其像 安二置舟上 各立二誓願・ 念二彼観音・ 是随西風・ 直来筑紫 朝庭聞之召 間□状 天皇忽衿 令中所レ楽 於ン是越智直言 立郡欲仕 天皇許可 然後建郡造寺 即置二其像・(以下略)

意訳変換しておくと
伊予国越知郡大領の先祖は越智直である。彼は百済救援軍の一員として朝鮮半島に従軍し、敗れて唐軍の捕虜となり、唐に連行された。そこで観音菩薩像に深く帰依するようになった。帰国の際には、その観音像を船上に安置し、無事に帰国できるように誓願し、観音像に念じた。そのためか西風に恵まれ筑紫に着くことができた。これを聞いた朝廷は彼を召して、天皇直々にねぎらった。越智は直言し、新たな郡が欲しいと願うと、天皇はそれを許した。そこで、新郡作り、寺を建て、観音菩薩像を安置した。
  ここからは越知氏の祖先が捕虜となっていた唐から観音菩薩を持って帰国し、新たに郡を作り郡司となり、氏寺を作り観音菩薩を本尊としたことが記されます。これが古代伊予の有力豪族となる越智氏の由来になります。
1田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)

「下巻第二十六縁」には、讃岐三木郡の田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)が登場します。
意訳変換したものを、見てみましょう。
三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
 広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
 家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺?)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたもの帳消しにしたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取った。
 以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、三木寺や東大寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。しかし、ここからは、仏教が地方の豪族層に浸透している様子がうかがえます。

古代讃岐三木郡

 広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。
ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。
彼女は、吉田川の下流を拠点とする小屋県主宮手に嫁ぎます。
夫の小屋県の氏寺が「罪を許してもらうために田畑を寄進」した三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。現在の始覚寺本堂の前に,塔の礎石が残っていて、その上に石塔が据えられています。

整理すると、小屋県主宮手=三木郡の郡司で、その氏寺が三木寺であったと云うのです。そこに嫁いでいったのが広虫女ということになります。
 例えば、善通寺周辺を見ると、付近に郡衛遺跡や有力な古墳(群)があります。
これらを作ったのは空海の祖先である佐伯氏と考えられます。その延長線上に、仲村廃寺や善通寺も建立されたのでしょう。多度郡でも「地方寺院は郡司層を中心とする地方豪族によって建立された」と云えるようです。特に三木寺のように、郡名と同じ名前をもつ「郡名寺院」は、郡司層による建立と考える研究者が多いようです。さらには、郡司の建立した寺院が国分寺に転用された例も報告されています。

四国学院側 条里6条と7条ライン
多度郡衙跡とされる生野本町遺跡

  最近の丸亀平野の発掘調査からも、法勲寺周辺からは、正倉群を伴い鵜足郡の郡衙跡と考えられる岸の上遺跡や、善通寺の南からも多度郡衙跡とされる遺跡が発見されました。ここからも7世紀後半から建立された寺院の建立者が郡司層を中心とする地方豪族であるが分かります。
 郡衛遺跡の近くにある寺院は、「郡衛」と密接な位置関係にあることから、これらの寺院が「評・郡衛」の公の寺(郡寺)としての性格を持っていたとする説も出てきました。しかし、地方寺院が公的な性格を持つかどうかについては意見の相違があるようです。地方寺院の性格を「氏寺」と考えるか「郡寺」と考えるかということになります。
 考古学の立場からは、次のように説明がされているようです。
  「地方豪族にとっては、仏教を受容することは国家との結合を強め、その機構の中でより有利な地位(例えば授位)を得ることが出来たものと想像される。
   本来、在地における祭祀行為の主導権を握るとされる郡司層は、旧来の地縁的・族制的な農耕儀礼的祭祀から脱却し新たな地域内の精神的支配を確立する意味においても、この新来の祭祀の形態の導入に積極的に取り組んだものと思われる」
地方豪族にとって寺院建立は祖先信仰だけにとどまらない次のようなメリットがあったことを指摘しています
①国家との結合を強め、目に見える形でそれを周囲に示すモニュメントになった
②国家への忠誠度を示すリトマス試験紙の役割
③それまでの儀礼祭祀に代わる新たな祭礼リーダーとして、支配権強化にもつながった。
  これは古墳時代に、首長達が新たに前方後円墳儀礼を一斉に取り入
れたことと似ているものがあるのかもしれません。
DSC03655
善通寺の古代の塑像頭部(本尊?)
 こうして見ると佐伯氏が、仲村廃寺を善通寺王国の中心地のすぐ近くに最初は造立したのが、すぐに場所換えて現在の善通寺の位置に移動してくる理由も分かるような気がしてきます。
最後に仲村廃寺から善通寺への「移転」について、私の仮説を記して起きます。
①善通寺王国の首長は、旧練兵場遺跡を拠点に、前方後円墳を有岡の谷に何代にもわたって築き続けた
②律令時代には多度郡司の佐伯氏として、旧練兵場遺跡の東端に仲村廃寺を建立した。
③しかし、これは氏寺的な性格が強く、「郡司」としての機能にはふさわしくなかった。
④それは南海道の設置以前に建立されたため条里制ラインに合致しないものでもあった。
⑤そこで、佐伯氏は条里制に合致した形で「多度郡寺」としてふさわしい寺を現在地に建立した。それが善通寺である。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    三船隆之 日本古代地方寺院の成立 306p

満濃池が丸亀平野に、どのように灌漑用水を送っていたのかを見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治3年(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。この絵図は、幕末に決壊し放置されたままになっていた満濃池を再築するに当たって、水掛かりの村々とそこに至る水路を確認し、課役を取り決めるために作られたものです。これを見ると、灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じのようです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。この地図を、じっくりと眺めることからはじめましょう。
 この絵図からは、満濃池からの水路がどのように伸びていたかが分かります。また、満濃池の水掛かり範囲、つまり給水エリアを知ることも出来ます。
まず幹線水路を見ておくことにします。
満濃池①は、金倉川をせき止めて作られたものなので、池から流れ出した水は、金倉川②を下ります。しかし、それもつかもまです。③の地点で、金倉川から分水されます。③は、水戸大横井堰(まんのう町吉野下)で、「水戸」と地元では呼ばれているところです。美味しいパン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に、堰はいまもあり、民家の間を抜けて北流します。

満濃池 水戸大横井

 以前にお話したように、丸亀市史には次のように記されています。
「この北流する水路は、もとは旧四条川の流路であって、ここに堰を設けると同時に、本流を西に流して金倉川を新しく人工的に作った」(要約)

と記します。確かに金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという狙いです。

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現在の③水戸大横井関 金倉川に堰が設けられ水門方向に流される

 ③から以西の金倉川は「水路」とは、当時は認識されていなかったようで色分けも白色になります。また③からの以西の河床は、それまでと比べると非常に浅くなり、天井川になります。これも、近世になって新しく人工的に作られた川という説を補強します。金倉川は⑥の生野町の堰まで分水口はありません。金倉川は、「方流路」で水路ではなかったことがうかがえます。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大1
赤が金毘羅領 黄色が池の御領(天領) 桃色が高松藩領
それでは、今度は満濃池の真の水路を追いかけてみましょう。
それは、③の吉野下の「水戸」で分岐した用水路です。

 グーグル地図でも、丸亀幹線水路は追うことができます。水路は、満濃中学 → まんのう町役場を経て西高篠④で2つに分かれます。ローソン西高篠のすぐ西になります。
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西高篠の分水地点 右が丸亀幹線 左が櫛梨を経て善通寺・多度津へと伸びる。ここには分水点には阿弥陀堂が建っている

ここから櫛梨に向けて西(左)に延びる水路は、天領の苗田村と高松藩の公文村の村境となっていることが色分けから分かります。この水路以前には、ここに旧四条川が流れていたことの裏付け資料にもなります。四条川は、近世初頭には「自然村境ライン」でもあったようです。
 地図で見ると④で西に分岐した水路は、⑤で金倉川に落水しています。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2

現在は、どうなっているのでしょうか。
DSC04823旧四条川合流点
右が金倉川、左が旧四条川 ふたつの川の合流点

そして、そのすぐ下流の生野の堰で善通寺多度津方面に取水されます。
これが善通寺・多度津幹線です。この水路は、現在の善通寺市役所を北流し、農事試験場(旧練兵場遺跡)をまわりこむようにして、子どもと大人の病院の北で大束川に落水し、西白方まで伸びていきます。その手間で東西方向に流れを変えますが、その区間でいくつかの分水地点を設け、丸亀平野北部への水路を派生させます。その最終地点の村名をを金倉川から西へ並べると 下金倉村・鴨村・多度津・青木村・東白方・西白方となります。これらの村が、善通寺・多度津幹線の末端の村々になるようです。ここで、今挙げた村々のエリアが、地図上で、どんな色で色分けされている注目すると茶色(白?)です。
①茶色   多度津藩
②草木色    丸亀藩
③桃色   高松藩
④赤色   金毘羅大権現寺領
⑤黄色   池の御領(陵満濃池管理のための天領)
こうしてみると多度津藩の満濃池水掛かりは、最末端にあることがよく分かります。旱魃時には、なかなかここまでは水がやってこなかったはずです。負担は同じなのに、日照りの時に水はもらえないという不満を多度津藩の農民達が抱いたのも分かるような気がします。彼らは自己防衛のために、独自でため池を増やし、幕末には池掛りからの離脱の道を歩んだことは以前にお話ししました。
 丸亀平野における各藩領地の割合を見ると圧倒的に多いのは桃色の高松藩です
⑥で分岐され用水が供給されるのは高松藩の領地になります。私はうかつにも、かつては土器川が高松藩と丸亀藩の国境と考えていたことがありました。また、那珂郡と鵜足郡の境が国境と思っていた時もありました。もう一度「満濃池水掛村々之図」の各藩領地の色分け図を見ると大間違いなことに気づきます。大ざっぱにいうと、高松藩と丸亀藩の国境は金倉川なのです。丸亀城は、丸亀平野の高松藩領土の上にちょこんと首だけ乗っているようにも見えます。丸亀城の天守閣から殿様が南を見たときに、そこに開ける水田は自分の領地ではなかったのです。丸亀の殿様は、どんなおもいだったのでしょうか。
 この絵図を見ると、高松藩が満濃池に一番強い利害関係を持っていたことが理解できます。土器川以西の灌漑用水供給という点で、②の「水戸」の堰の分水地点は、高松藩にとっても非常に重要な地点であったことを押さえておきます。ここに堰を構えることによって、満濃池の水は高松藩の水田にやってくるのです。これがなければ、そのまま金倉川方面に下っていってしまいます。
 もうひとつ、満濃池の用水路を見ていて感じるのは、直線的なことです。これは、条里制以来の水路が活用されたためと、私は思っていました。しかし、それだけでは説明できないようです。それは、これらの用水が整備される前には、このエリアには四条川という川が流れていたからと丸亀市史は云います。

 絵図に書かれた幹線水路の多くは、近代以降の改修工事を経ながらも現在まで大きくは変化していないようです。
そこで、現在の幹線水路と丸亀平野の条里地割に重ねてみましょう。それが次の地図になるようです。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
A赤色が「讃州那珂郡分間画図」や「満濃池水掛村々之図」に描かれた近世の水路
B緑色が近・現代に新しく作られた水路
C水色が土器川と金倉川
①吉野下の大横井堰
②西高篠分水
③生野堰
こうしてみるとAの近世に作られた水路は、そのルートが今もあまり変化することなく踏襲されていることが分かります。また、基本的に条理地割の上を通っています。それが直線的になったことの一つの要因のようです。この地図上でも水路を辿っておくことにします
A先ず金倉川の大横井堰①で取水され、土器川に平行するように那珂郡を北流する(現丸亀幹線)。
B②西高篠分水で西流する「多度水路」は、金倉川に落水した後、善通寺市の生野堰で再び取水され、左岸側の多度郡域へ流下する。
つまり「金倉川の治水を前提として灌漑システムが構想された」と研究者は考えているようです。これらの路網の途中の微高地上に「皿池」と呼ばれる貯留用のため池の築造が進み、安定的な灌漑網が形成されていくことになるようです。
満濃池掛かり 那珂郡分間画図
以上を仮説も含めてまとめておくと、
①古代の満濃池決壊後には、那珂郡と多度郡には金倉川と四条川が網の目のように流れていた。
②満濃池再築にあたって、西嶋八兵衛は満濃池用水路の確保のために四条川の付け替え工事をおこなった。
③それを四条川を西流させ「金倉川」とし、象頭山の麓を北流させることであった。
④丸亀平野中央部に、水路を条里制ラインに沿って掘削し、北流させた。
⑤同時に、四条川跡の櫛梨方面へも水路整備を行った。
⑤金倉川から取水された善通寺・多度津幹線は、西は西白方、東は下金倉村までをカバーする役割を担ったが、旱魃の際には水路末端まで用水を提供することが出来ず多度津藩農民の不満は高まった。これが幕末の満濃池池掛かりからの離脱を生むことになった。
⑥満濃池水掛かりの最大の受益者は高松藩であった。そのため高松藩は、倉敷代官所へも必要な意見具申をおこなっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸亀市史 金倉川と旧四条川
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書
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昭和の時代には、丸亀平野のため池は弥生時代には出現していたと考えられていました。
 当時は、津島遺跡(岡山市)や古照遺跡(愛媛県松山市)の発掘が大きく取り上げられ、その影響もあったようです。
3.西根堰と水路網にみる歴史的風致 (1)はじめに 桑折町周辺は産ヶ沢川による扇状地が発

しがらみ堰
の発掘は大きく取り上げられ、弥生時代の灌漑技術が過大評価されたこともあるようです。しがらみ堰が作れるのなら、自然の窪みを利用した小規模な堤防もつくることが出来るようになり、それがため池灌漑へ移行し、農地を拡大していったというストーリーになっていきました。そのため、丸亀平野のため池の発生も、弥生期か古墳時代にまでさかのぼると考えられました。
 そして、丸亀平野のため池の発生については、次のような仮説が出されました。
2 丸亀平野のため池と遺跡
  
①昭和27年の3回の洪水調査から丸亀平野の洪水路線を明らかにし、弥生式遺跡の立地、ため池の配置を地図上に落としてみる。
②そうすると弥生遺跡が、いずれも洪水路線に隣接する微高地に立地すること
③ため池が洪水路線に沿って、鈴なりのように連なっていること
以上から次のように、研究者は推測しました。
水田が広がるにつれて、自然の窪みを利用した小規模な堤防をもつ初期ため池灌漑がスタートした。大規模古墳の土木工事は、そのままため池の堰堤工事に転用できるし、労働力の組織化もできるようになった首長は、丸亀平野の凹地にため池を築造することで、水田開発を大規模に進めていくことになる。

  以上が「丸亀平野における弥生・古墳時代の初期ため池灌漑」説です。しかし、現在ではこれは余り顧みられることのない「過去の説」になっているようです。
DSC06130

 それでは、現在はどのようにかんがえられているのでしょうか
 20世紀末に丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代の遺跡が数多く発掘されました。その中には、溝の幅が2mを超える「大溝」や「基幹的灌漑水路」と呼称される主要な灌漑水路も出土しています。これらの分水路を組み合わせで、水田への水は引かれていたと発掘報告書は報告します。
例えば坂出IC周辺の川津遺跡からは、下のような水路が出ています。

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ここでは、旧大束川から分岐した用水路が川津中塚遺跡を経て、下川津遺跡まで連続して続いていました。しかし、この段階では、何㎞も先から導水路を設けて広い範囲をカバーするような灌漑水路ははないと、研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 地形区分図

 以前に見たように善通寺王国の都である旧練兵場遺跡でも、微髙地周囲を網の目のように流れる中谷川(旧金倉川?)から導水された水路は、さほど長いものではありません。居住区から遠く離れた水源から取水する必要がなかったようです。
 古墳時代も、このような状況に変化はありません。
弥生時代後期に開かれた灌漑水路の多くは、古墳時代を通じて機能・維持されますが、なぜかこれらの多くは古墳時代後期の6世紀末葉から7世紀前葉に埋没・放棄されます。その理由は不明です。7世紀前半は断絶の時代なのかも知れません。
南海道 条里制与北周辺

 7世紀末になると律令国家の建設が進み、それに伴って目に見える形で南海道が東から伸びてきます。南海道を基準に条里制ラインが引かれます。そして南海道沿いには、各郡司達は郡衙を整備し、氏寺を建立し、自らの支配力を目に見える形で誇示するようになります。
川津一ノ又遺跡
そしてこの時期に、丸亀平野にため池が始めて出現します。
川津一ノ又遺跡(坂出市)では、7世紀後葉に築造されたため池が出てきています。大きさは推定で約3ha、復元堤高は約1mで、上流側の大束川から水を取り入れ、灌漑水路で各水田へ導水していたようです。
 このため池が「条里制実施にともなう水田面積の拡大への対応」のために、作られたと思いたいのですが、どうもそうではないようです。川津のため池の堤高や池敷面積から想定して、ため池築造により灌漑エリアが格段と広がった様子はうかがえないと研究者は云うのです。ため池築造が耕作地の拡大を目指したものではなく、途中に貯水場を設けることで「安定した農業用水の供給をはかることが目的」があった研究者は考えているようです。また、灌漑域も郷エリアを超えるものではありません。

満濃池灌漑エリアと条里制
 丸亀平野の条里制については、発掘から次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割はmラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
①については、条里制工事が一斉にスタートし耕地化されたのではないようです。極端な例だと、中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあるようです。場所によって時間差があるのです。つまり、条里制によって7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないようです。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。つまり「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。
金倉川 10壱岐湧水

中世の善通寺一円保(寺領)を、例にしてみましょう
①一円保の水源は、二つの出水と弘田川でまかなわれていた。
②14世紀後半になって、弘田川上流の有岡の谷に、有岡池を築造した
つまり、善通寺の寺領(?)である一円保は、金倉川から取水は行っていません。これが私にとっては謎です。もし満濃池が空海によって築造されたとすると、その最大の受益者は空海の実家の佐伯家でしょう。
1空海系図2

空海の弟は、多度郡の郡司を勤めていたようで、業績を表彰された記録が正史に残ります。満濃池築造の際には、郡司だったかもしれません。そうだとすると、満濃池の利水に関して大きな発言権を持っていたと考えられます。当然、満濃池から善通寺周辺への灌漑路を整備し、それによって水田や畠などの開発に乗り出したはずです。
 しかし、満濃池から善通寺までの用水路なんて、この時代に整備・維持できたのでしょうか。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺生野町辺りの旧金倉川流路跡
わたしは金倉川を使えば、いいのではないかと思っていました。しかし、古代の金倉川や土器川は流路が定まらず、堤防もないためにいくつもの流れになって丸亀平野を流れ下っていました。そこに堰を設けて導水するなんてことができたのでしょうか。
金倉川と条里制

 もしそれが可能だったとしたら、どうして中世には善通寺一円保は金倉川から導水せず、有岡池の築造を選んだのでしょうか。古代にできていたことが、中世にはできなくなった理由がつけられません。
 もうひとつは、古代において多度郡の佐伯家が用水不足からため池を必要としていたのなら、まず取りかかるべきは有岡池だったのではないでしょうか。最初から満濃池である必要はありません。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の導水水路で、これは一円保には描かれていない

 土木モニュメントは、古墳を例にすると小形のものから作られ始めて、様式化し、大型化するという段階を踏みます。それまで丸亀平野になかった超大型のため池が、突然姿を現すというのも不自然です。まさに弘法大師伝説のひとつなのかもしれません。
 築造費用についても、当時の国司は空海が讃岐に帰ってきて、満濃池修築を行ってくれるなら、修築費も国が出す必要はないと云っています。手弁当で人々が参加することを前提としているのかも知れませんが、資材などの経費は必要です。だれが出すのでしょうか。これは、佐伯家が出すと云うことなのではないでしょうか。そこまでした、佐伯家にとって満濃池は必要だったのでしょうか。もし満濃池の築造の必要性があるとすれば、多度郡司である空海の弟の国家への貢献度を高め、位階を上げるためという理由付けはできるかもしれません。 
弘法大師御影 善通寺様式


 空海による満濃池修築というのは考古学的には疑問があるようです。しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。古代の満濃池については、私は分からないことだらけです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書 第3章歴史的環境
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