瀬戸の島から

2021年06月


古代からの水稲栽培の大きなポイントは、次の2点でした。
①農業用水の確保のための潅漑
②肥料を施すこと
 平安時代になると、山林を焼いた草木灰と、青草や木の若芽を刈り取り、田植前の本田に敷きこんで腐食させ根肥とするようになります。これを刈敷(かれしき)と呼んでいました。
1刈敷1
①青色 里山から小枝を刈り取ってくる
②赤色 馬や人が背負って、集落に下ろしてくる
③緑色 馬に踏まして、水田にすき込んでいく
④紫色 灰にして散布する

古代には刈敷の草木を刈り取るのは、条里制内の耕作放棄地(年荒)や常荒田と、条里制周辺の未墾地でした。これらの土地は、荘園主などの領主の所有地ですので、農民は人山料を支払って刈り取っていたようです。
1刈敷2
背負われてきた小枝が水田に置かれます。田に馬を放ってすき込ませます。

 中世になると、善通寺を中心とする一円保では以前にお話ししたように、農地開墾も盛んに行われ、耕作放棄地や常荒田等も耕作されるようになります。また、潅漑技術が進歩して有岡大池が作られ、水田の乾田化か進み、二毛作が行われるようにもなります。この結果、刈敷を刈るための里山がますます必要になります。領主は山の管理を厳しくして、他領の者が入山したり肥灰を他領へ持ち出すことを禁止して肥料の確保に努めるようになります。
1刈敷3

室町時代になると領主の肥料管理権は、農民の手に移っていきます。
 荘園が次第になくなり、灌漑水利等を共に管理する集落が惣村をつくるようになります。そこでは、名主を中心に刈敷を採取する野山を共同所有地とし、ルールを作って共同で使用するようになります。領主は、領民に刈敷の原料となる草木の刈取りや、更には薪の採取までも認めるようになります。その代わりに集落に対して年貢納入を求めます。こうして、一定エリア内の住民に草木の採取が認めら、それが入会権(のさん)につながっていきます。里山や山林の入会権は、中世松には出来上がっていたようです。
それでは、近世はじめの丸亀平野の場合はどうなのでしょうか?
1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割せよという指示を受けていました。そのために再検地を行っています。新しく「村切」も行って、高松藩と丸亀藩の境界を引きます。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争がに起る可能性がありました。それを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の政所の覚書の提出を求めています。各村の庄屋が確認事項を書き出し提出したものです。

1仲之郡∂柴草苅申山之事

仲之郡の柴草苅を行う山について
松尾山   苗田村 木徳村
西山 柴木苅申村 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村

一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる
一、三野郡の麻山の柴草は先年から鑑札札で子松庄が刈ることを認められている
一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている
一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる
寛永拾八年巳ノ十月八日

芝草刈りのための入会林を従来の通り認めるという内容です。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。

内容を見ておきましょう
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、「麻山」は仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証(鑑札)で、札一枚には何匁かの支払い義務があったようです。
  ここからは仲郡、多度郡と三野郡との間の大麻山・麻山が入会地であったことが分かります。ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものですから、この時代にはなかった呼び名です。

同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」とあります。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域なので、佐文の既得権があったようです。
 他の文書で「多度郡には山がないので、多度郡の者は那珂郡の山脇・新目・本目・塩入(旧仲南町)で柴草を刈ることとができる。」とされています。
以上からそれぞれの山の入会権をもつ村々を整理しておきましょう
松尾山   苗田村 木徳村
西山 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村 
小松庄(五条・榎井・苗田)・佐文(鑑札なし)
旧仲南町 多度郡の各村
七箇村東西 那珂郡
狹間山 垂水村 高篠村
 各村の代表者(政所)の同意・確認の上で、青山・伊丹の引継責任者は、新しく丸亀城の藩主となる山崎甲斐守に覚書(引継書)を送っています。そこには、各村の政所の意向を受けた上で、執るべき措置が箇条書きにされています。その内容を見てみましょう
 
1仲之郡∂柴草苅申山之事2

意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。
一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。
一、仲郡の大麻山での草柴苅について、前々から行っていたと云う。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。
一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと
一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。
一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。
右如書付相定者也
寛永拾八年              伊丹播磨守
巳ノ十月廿日            青山大蔵少
山崎甲斐守殿
ここには引継ぎに際しての申し送り事項が書かれています。紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目は、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は同一の山なので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
  ここで気がつくのが大麻山の壁のような遺構です。電波塔から東に向かうと稜線沿いに、長く塀のような遺構が続きます。これがこのときに設置された那珂郡と三野郡の境界壁ではないかというのが私の仮説です。
工房うむき on Twitter: "諏訪湖南の山地で聞き取りでも「刈敷の山の口が開く」といわれ採取する解禁日が決まっていたそうです。… "
「刈敷の山の口が開く日」という表現で、解禁日も採取場所も決まっていたようです。これは諏訪南部の刈敷指定場所

 4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいという指摘です。鑑札札をもって、番所でチェックを受けて大麻山には周辺の多くの農民達が入って行ったことでしょう。

このような引継ぎが行われていることは、幕府要人も、各村の農民の人会権を認めて、肥料源を確保させることは、勧農政策の重要ポイントだと、認識していたことがうかがえます。
   こうしてみると丸亀平野を囲む里山は、それぞれの村々に入山権が割当てられたことが分かります。当時の人々の目からすれば、狹間山を見れば「垂水村・高篠村の山」と認識されていたのです。それぞれの山に入山権が設定されていたことを押さえておきたいと思います。
第72回 「かっちき」「刈敷」とは何か~草を肥料にする農耕の知恵 | 園藝探偵の本棚 | カルチベ – 農耕と園藝ONLINE

 こうして、里山は春が来て新芽が芽吹く頃になると周辺の村々から農民達が入り込み、木々の枝を刈り取り、それを背負って田んぼに敷き込むことがどこでもおこなわれるようになります。そして、それが多ければ多いほど増収につながるのです。農民達は競って里山に入り、木々の枝を刈り取ったのです。多度郡の農民達の入会地は、はるか南の讃岐山脈の麓でした。朝早くに出発して、小枝を刈り取り、それを背負って暗くなった道を家路に急いだのでしょう。その際に、番所では木札を見せ、決められた銭も支払いしました。
東十二丁目誌」註解覚書:山は誰のものだったか? (2) – 人そして川

 刈敷のための小枝伐採や採集が続くとどうなるのでしょうか。
藤沢周平の「回天の門」の主人公・清河八郎が母を伴って、金毘羅詣でにやってきた時の記録を見てみましょう。道中の丸亀街道に「四国富士」(讃岐富士)が見えてきます。
 「四国富士といふ小山、路よりわづか壱里ばかりへだて、突然として景色あり。「常に人をのぼさず。七月十七日頃に一日群がりのぼる」と路中の子供はなされき。
 すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。時々雲霧に顕晦いたし、種々の容体をなせり。
意訳変換しておくと
「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」と、土地の子ども達が教えてくれたと云います。当時は年に一度しか登ることが許されていなかったようです。霊山として「禁足」された聖なる山だったようです。私が気になるのは「草木不足」という事場です。お椀を伏せたような山は、どれも草木が茂っていない=裸山だ

と記します。

   清川八郎が母親と金毘羅さんにやって来た同じ年の安政2年(1855)に、描かれた「讃岐 象頭山遠望」です。
1 象頭山 浮世絵

岡田台地からの「見返り坂」を上り下りする参拝者の向こうに象頭山(大麻山)が描かれています。山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?
最初は、「赤富士」のような「絵心」で、彩りを美しく見せるために架空の姿を描いたものなのかと思っていました。しかし、だんだんと、これは当時のそのままの姿を描いているのでないかと思うようになりました。
 向かって左側は、金毘羅大権現の神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
ここからは私の仮説です。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。しかし、右の善通寺側は、刈敷で「草木不足」となり、山が荒れている状態を描いているのではないでしょうか?

6400

歌川広重の「山海見立相撲 讃岐象頭山」を見ると、山が荒れ、谷筋が露わになっているように見えます。背景には、先ほどお話ししたように田畑に草木をすき込み堆肥とするために、周辺の里山の木々が切られたことがあります。この時期に芝木は大量に田畑にすき込まれ肥料にされました。里山の入会権をめぐって、周辺の村々が互いに争うようになり、藩に調停が持ち込まれた時代です。

 そして、瀬戸の島々も「耕して天に至る」の言葉通り、山の上まで畑が作られ森が失われていった頃と重なります。残った緑も薪や肥料に伐採されたのです。ある意味、山が木々に覆われた光景の方が珍しかったのかもしれません。だから、浮世絵師たちは好んで木々の緑の神域と、はげ山のコントラストのある光景を描いたのかもしれません。もし、当時のこの場所に立って、周りを見渡すと見える里山は、金毘羅大権現の鎮座する象頭山以外は丸裸のはげ山だったのかもしれません

以上をまとめておくと
①中世には田んぼに大量の小枝をすき込む刈敷が行われ肥料とされた。
②水田開発と共に大量の小枝が里山から刈られて田んぼにすき込まれて
③そのために周辺の里山は、それぞれの村の刈敷の山とされ、外部の者を排除するようになった。
④刈敷山のない多度郡の農民達は、阿讃山脈の麓まで小枝刈りに通わなければならなかった。
⑤江戸時代になって高松・丸亀藩に分割された際に、刈敷山の入会権を確認するための調書が作成された。そこには、当時の里山の入会権が記されている
⑥刈敷が長期間にわたって続くと里山も疲弊し、禿げ山化したことが旅行記や浮世絵からはうかがえる。
⑦周囲の里山が禿げ山化するなかで神域とされた象頭山は青々とした原生林の山の姿を残した。
⑧その姿が金毘羅大権現のひとつの売り物であったかもしれない

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   満濃町誌293P         山林資源 

DSCN3304.JPG

神社というものがどんなふうにして姿を見せるようになったのか考えるときに、私にとって身近で参考になるのが高瀬の大水上神社です。この神社は、その名の通り財田川の支流である宮川の源流に鎮座しています。祀られているのは水神です。そして、神が舞い降りてきたと思える巨石も、いまも信仰対象になっています。
 この神社について高瀬町史をテキストにして見ていきます。
DSC07604
大水上神社の奥社
 この川の流域には銅鐸や広形鋼剣が出土した羽方遺跡があり、下流部は早くから水田稲作が進んだ地域です。ここに祀られている神は、弥生時代から集落の首長によって祀っていたと私は思っています。いまに至るまで、神々の名は幾度も変遷したかも知れませんが・・
 大水上神社は、三野郡唯一の式内社で延喜式では讃岐の二宮にランクされています。

羽方遺跡出土 平形銅剣
羽方遺跡出土の平形銅剣 平形銅剣は善通寺王国の象徴

 平安時代の神階授与記事には
貞観七 (八六五)年 従五位上から正五位下へ、
貞観十八(八七七)年 正五位上へ

に叙されたことが記されます。これが大水上神社が文書に残る初見になります。
 律令国家のもとでは、さまざまな神に対し位階が授けられていました。国家が神に授けた位階を神階と云います。律令国家は神階を授与することにより、神々の序列を明らかにしました。つまり、授ける方が偉いので、国家が地方の神々の上に立ったことになります。これは国家イデオロギーとしては、上手なやり方です。こうして、全国の神々はランク付けされ国家の保護を受けて、有力豪族によて管理・維持が行われるようになります。
羽方遺跡出土 銅鐸
羽方遺跡出土の銅鐸
 古代に、この神社を保護管理したのは、丸部氏が考えれます。
宮川を下って行くと延命院古墳や讃岐で最初に作られた古代寺院である妙音寺があるエリアが、丸部氏の拠点があったところでしょう。その氏神的存在として、この神社は出発したのではないかと私は考えています。それが律令国家の下で延喜式神社となり、二宮としてランクづけられたとしておきましょう。
 讃岐では、田村神社・大水上神社・多和神社への神階授与の記事があります。それぞれ讃岐国の一宮・二宮・三宮となる神社であり、社格が定められてきたようです。
DSC07605
 
 以前にお話ししたように、平安時代後期になると律令体制の解体と共に、国家による全国的な神社の管理は出来なくなります。
そこで国家が取った方法は、保護する神社の数を限定し、減らすことです。京都を中心とする周辺の大社や、地方では一宮や二宮だけに限定します。また延喜式内社を国府の近くに「総社」を新たに作るなどして「簡便化」します。この結果、国家的な保護を大い衰退しその跡を失った式内社も出てきます。
 国家の保護を失っても、パトロンとしての有力者が衰退しても、地域住民の信仰対象となっていた神社は消えることはありません。大水上神社を見てみると、背後に山を控え、社殿のすぐ横に川が流れ、淵があります。まさに水神の住処としては最適です。この水神は、時代と共に姿形は変えながら人々に、農耕の神と崇められてきたものでしょう。
DSCN3338.JPG
夫婦岩(かつての御神体) 

 大水上神社に瓦窯跡があるのはどうして? 
 大水上神社境内には、瓦を焼いた窯跡が残っています。神社の屋根はワラやカヤで葺きます。瓦は使われません。それなのに瓦窯跡があるのは、どうして?
 奈良時代の終わりごろから次のような事が云われ始めます。
「この国の神々は、神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱出するために神の身を離れ、仏教に帰依することを求めようとしている。」

 このような声に応えて、民間僧侶たちが神々の仏教帰依の運動を進めます。具体的には、神社の境内を切り開き、お堂を建て仏教の修行の場を作るようになるのです。神々は、元々は仏であったとして、神々が権化した権化仏が祀られるようになります。神と仏の信仰が融合調和することを神仏習合(混淆)といいます。仏教に帰依して仏になろうとする神々の願いを実現する場として、神社に付属して寺が建てられるようになります。これが神宮寺(別当寺)です。こうして、結果としては、神社を神宮寺の僧侶が管理するようになります。ある意味、僧侶による神社の乗っ取りと云えるかも知れません。こうして、神社の周辺には別当寺が姿を現すことになります。神社の祭りの運営もこれらの社僧がおこなうことになります。
DSC07611

 大水上神社の場合は、 2つの別当寺があったようです
江戸時代中期に書き写されるとされる「二宮三社之延喜」には次のような社領目録がのせられています。
国讃嶋二宮社領目録                  高瀬町史史料編133p
惣合(総合計) 弐百
右之内八九町    修理領
右之内三六町    祝言領
右之内二六町    灯明領
右之内三六町    御供領
右別当神主支配
三六町    別当清澄寺
三六町    別当神宮寺
二六町    神主  義重
二六町    社ノ頭 右近
二六町    惣社人
二六町    惣神子
右社領自今不可有変易者也
総合計は200町とあるのですが、合計すると176石にしかなりません。まあ、それは今は深入りせずに別当寺を見ておきます。

「別当清澄寺36町、別当神宮寺36町」

と記るされています。この社領面積をそのまま信じることはできませんが、清澄寺神宮寺という2つの別当寺があったことは分かります。そして、それを裏付けるように、境内には古い瓦が出土する2ヶ所あるようです。
①一つは鐘楼(かねつき堂)跡と伝えられるところで、宮川を挟んで社殿の反対側の尾根上
②もう一つは、社殿の北側で、浦の坊というところ
ここからは大水上神社には中世に2つの別当寺があったことが分かります。その別当寺の屋根の瓦を葺くために窯が作られていたようです。高瀬町史には、この窯跡について次のように記します 
①寺院に必要な瓦や日用品を焼くために作られたもの
②時代は平安時代後期~鎌倉時代のもの
③窯跡は二基が並び、西側が一号、東側が二号
④1932(昭和七)年国の史跡に指定。

二宮窯跡

一号窯跡の実測図で窯の構造を見てみましょう
①上側の図は、窯の断面形で底は傾斜している。
②下側の図は、平面形で、全長約3,8㍍の規模になる。
③左端が焚口、中央が火が燃え上がる燃焼室で、右側が焼成室と呼ばれ、ここに瓦などを詰めて焼き上げる
④焼成室の底が溝状に細長く窪められていて、ここに炎が入り上に詰められた瓦などが焼きあがっていく仕組み
⑤二号窯は焼成室の平面形が方形で、底が傾斜せず水平な平窯で、瓦のほか杯や硯も焼いている。

大水上神社のニノ宮窯跡と同じ時期に、使われていた瓦窯跡が下麻にあります。
イメージ 9

下麻の歓喜院本堂奥にある四基の窯跡で、1953(昭和28)年に発見されたものです。ここの窯跡の構造はニノ宮二号窯跡に似ていて、西から1号・2号が並んであり、17m東にに3号・4号が並んであります。

歓喜院窯跡
歓喜院瓦窯

二基一対で二組、合計四基が一列に並んでいることになります。4基の窯跡からは軒丸・平瓦が出土しています。
高瀬町の文化財を研修: 新二の宮の里

同じ時期に、大水上神社と歓喜院で焼かれていた瓦を、どのように考えたらいいのでしょうか 
1大水上神社瓦
二宮窯跡と大水上神社から出土した瓦

 大水上神社境内の鐘楼跡(別当寺)と歓喜院窯跡から出土した軒平瓦は、文様が似ています。ここからは、歓喜院の窯で焼かれた瓦が大水上神社まで運ばれ別当寺の屋根に葺かれたことがうかがえます。大水上神社と約三㎞離れた歓喜院法蓮寺は、平安時代後期には何らかのつながりがあったのでしょう。法蓮寺がいつ創建されたかは分かりません。
法蓮寺・歓喜院と瓦窯跡 : 四国観光スポットblog

しかし、ここには10世紀頃の作とされる重文の木造不空羂索観音坐像が残されています。また歓喜院のある下麻は大水上神社の氏子になります。以上をまとめておきます。
①弥生時代に稲作が始まった頃から宮川の源流には水神が祀られた。
②律令時代には大水上神社として、讃岐二の宮にランク付けされた。
③この背後には、三野郡の郡司の丸部氏の信仰と保護が考えられる
④中世になるとふたつの別当寺が境内に形成され、神仏混淆が進み社僧による管理が行われた。
⑤神宮寺(別当寺)建設のために下麻の歓喜院の瓦窯から瓦が提供された。
⑥輸送に不便なために、大水上神社の境内にもふたつの瓦窯が作られ、神宮寺のための瓦を提供した。
以上です。⑥は私の推察です。

三野平野の窯跡分布図2
古代三野郡の郷・寺院・窯跡
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史68P 古代第二節 大水上神社

田村廃寺周辺図

丸亀市の百十四銀行城西支店の南側からは上図のように、古瓦が数多く採取されていて、寺院を連想させる「塔の本・塔の前・ゴンゴン堂(鐘楼)」などの地名も残るので古代寺院があったことは確実だとされていますが、伽藍の発掘調査は行われていません。そのような中で、20年ほど前に旧国道11号の拡張工事と、城西支店新築工事に伴う発掘調査が行われました。今回見ていくのは、黒いベルト地帯で城西支店の道路拡張部分に当たります。
田村廃寺 上空写真3

発掘現場は道路に沿った細長いエリアだったようです。それを北側と南側のふたつに区切って調査が行われました。発掘図面で、田村遺跡の変遷を見ておきましょう。記号区分は次の通りです。
SB:掘立柱住居・SA:柵列跡・SP:柱穴・SE:井戸・SK:土坑跡・SD:溝跡・SX:性格不明

田村廃寺 道路発掘エリア


このエリアから出て来たもので驚かされたのがSK03は梵鐘鋳造遺構です
 この土坑からは十二葉細弁蓮華文軒丸瓦が一緒に出てきていますので、平安時代終わりごろにここで梵鐘が鋳造されたようです。SK03から読み取れることを挙げてみましょう。
①SK03は、田村廃寺の伽藍範囲内にあったこと
②鋳物技術者がやってきて「出吹」によって田村廃寺の梵鐘を鋳造したこと
③なんども梵鐘が作られた跡はなく、1回限りの操業であったこと
④土坑の大きさから、高さ60cm程度の小形の鐘であったこと
 田村廃寺から依頼を受けて、やってきてここで鐘を作った技術者集団とはどんな集団だったのでしょうか。この鐘が作られた古代末期は鋳物師集団の再編成が行われる「鋳造史における一大空白期」のようです。SK03はこの空白期の終わりごろにあたるようです。

田村廃寺 梵鐘鋳造図
  もう少し詳しく田村遺跡梵鐘鋳造遺構(SKO3)を見てみましょう。
①SK03は一辺約2mの方形で、深さ約70cmの土坑である。
②鋳造の終わった直後に埋められたこと
③埋土中から平安時代後期ごろの十二葉細弁蓮華文軒丸瓦が出土しているので、この時期に梵鐘鋳造が行われ、廃棄された
④瓦類とともに梵鐘の鋳型が出土していて、ほとんどが外型の破片であること
以上から、ここで作られた梵鐘は高さ約60cmほどの小形のものと報告書は指摘します。
田村廃寺 梵鐘鋳造例3

構造についても見ておきましょう。
①鋳型を設置するための定盤と呼ばれる円形の粘土の基礎が良好に残っている
②定盤は高温の青銅に触れているため、黒色に変色している。
③定盤の中央には直径5cmの穴が開けられていて、鳥目と呼ばれる鋳型を固定するためのものであると、同時に鋳造の際に湯回りをよくするためのガス抜きの穴の役割もしていた
④定盤の東側の部分が崩壊しているのは、できあがった梵鐘を、鋳型を壊したあとに、一旦東側に傾け、そこから引っ張り上げたため
田村廃寺 梵鐘鋳造例5

各地の梵鐘鋳造遺構に目を向けてみましょう
①梵鐘鋳造遺構の最初の発見は、1963年に神戸市須磨区明神町で、梵鐘の撞座とみられる鋳型が採集されたのが最初
②1971年に福井県福井市の篠尾廃寺跡で竜頭の鋳型が出土していたが、最初は仏像の鋳型とされていた。それが梵鐘の鋳型と分かるのは1977年になってから。
③1980年代後半から各地で見つかるようになっているが、古代には畿内を中心とする地域に集中するのに対し、中世以降になると全国的に分布していく傾向がある
先ほども述べたように、古代から中世にかけての約2世紀間は、鋳造された梵鐘が極端に少なく、鋳造史における空白期間であるとされているようです。この期間に、河内鋳物師を代表とする鋳物師集団の編成と地方の職能民の活動が開始されたとされます。
田村廃寺 梵鐘4

梵鐘の鋳造のためには、鋳型を設置する土坑と、材料である銅を溶かす溶解炉が必要です。田村遺跡からは、鋳型を設置する鋳造土坑(SK03)は出てきましたが、溶解炉は出てきていません。しかし、南側の(SXOl・02)から大量の被熱した粘土塊および瓦類が出土しているので、これが溶解炉だったと研究者は考えているようです。
鋳造土坑の平面プランについては、古代においては一辺が約2mの方形OR隅丸方形で、中世以降になると不整形なものに変化していくとされているようです。この基準からすると田村遺跡のものは、鋳造土坑は古代の鐘に分類されることになります。
鋳造土坑の大きさや深さは、梵鐘の大きさに比例するので、いろいろです。一番大きいものは、奈良の東大寺境内から出てきた一辺が7m、深さ4m以上という巨大なものもあるようです。


梵鐘の鋳造には、10世紀後葉(977年鋳造の井上恒一氏蔵鐘)から12世紀中葉(1160年鋳造の世尊廃寺鐘)の約180年間が「空白の期間」とされます。それが終わりを迎えて新たな活動が始まる背景を挙げておくと
①現存する平安時代末~鎌倉時代にかけての梵鐘の大部分が河内系鋳物師の作品であること
②河内鋳物師を中核とした中世鋳物師組織の編成が12世紀後半に行われる
③このころから畿内および地方において、独自の鋳物師集団が新たに成立すること
これを「消費者」の面から見ると、次のような点が考えられます
①念仏や写経、経塚造営などに始まる勧進上人(いわゆる聖)の活躍
②末法思想の普及
③多くの階層の支持を得て、寺院や仏像の修造
④勧進聖によす橋梁・道路・港湾の改修や土地の開発
梵鐘の鋳造もこのような事業の一つとして組み込まれていたとされます。その時期が11世紀後半から12世紀ごろで、勧進上人の関与する事例が多いようです。
有限会社 渡辺梵鐘(渡辺梵鐘)・梵鐘製作・修理

以上を背景に、田村遺跡の梵鐘鋳造遺構を振り返ってみましょう。
田村廃寺で鐘が作られたのは平安時代後期です。まさにこの空白期間の終わりに近い時期にあたります。この時期には、まだ讃岐では独自に梵鐘を鋳造できるだけの技術・設備はなかったようです。そのため「出吹」が行われたのでしょう。この時期は河内系鋳物師が全国へ展開していった時期と重なります。こんなストーリーが考えられます。
①三野の宗吉瓦窯から藤原京へ宮殿用の瓦が船で運ばれていくの見える頃のこと(7世紀末)
②那珂郡の海岸線に近い微髙地に有力者の氏寺の建立が始まった。
③先行する佐伯の善通寺に学びながら三重塔をもつ田村廃寺が姿を現した。
④この地は那珂郡の湊である中津にも近く、港のシンボルタワーとしても機能するようになった
⑤田村廃寺の完成後まもなくして、古代のハイウエーである南海道が東から伸びてきた。
⑦南海道は鵜足郡の郡衙法勲寺(岸の上遺跡)と那珂郡の宝幢寺(郡家)と善通寺の郡衙(善通寺南遺跡)を一直線に結ぶ幅8mの「高速道路」であった。
⑧南海道に直交して郡境が引かれ、それに平行して条里制ラインが引かれた。
⑨各郡の郡司や有力者達は、これらの工事を割り当てられた。
⑩ところが田村廃寺や宝幢寺は、南海道が姿を現す前に出来上がっていた。
⑪そのため伽藍や参道方向が条里制の方向とはずれてしまうことになった。
⑫そこで財力のある善通寺の佐伯氏は、最初に建った仲村廃寺(伝道寺)に代わって、新たに条里制に沿った形で新しい寺院を建立した。これを善通寺と名付けた。
⑬財力のない宝幢寺や田村廃寺の檀那は、そのままの伽藍方位で放置した。
⑭田村廃寺を建立した一族は、中津を基盤として瀬戸内海交易でも利益を上げ、その後も何度も改修・瓦替え工事を行ってこの寺を維持した。そのため道隆寺や金倉寺とならぶ寺勢をたもつことができた。
⑮しかし、古代末になると次第に一族は力を失い、改修もあまりされなくなった。
⑯代わって寺を守ったのは勧進聖たちであった。塩飽を目の前にする田村廃寺は、瀬戸内海交易の拠点としても機能し、そこには多くの勧進(高野)聖達が寄宿するようになった。
⑰そして、かれらはこのてらのための勧進活動を行うようになる。
⑱その一環として、高野山からやってきたある高野聖の提案で新しく鐘楼を勧進で寄進することになった。
⑲高野聖のネットワークで呼ばれたのが河内の鋳物師達だった。
⑳当時、河内の鋳物師達は呼ばれれば積極的に地方に出て行って、現地で鐘を作ることを始めていた。そして、市場と需要と保護者さえいれば、そこにそのまま留まり、定住化することもあった。

以上、田村廃寺にも河内系鋳物師が出吹にやってきたという物語でした
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   田村遺跡1 2004年3月 県道高松丸亀線改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 


讃岐の古代寺院 法隆寺は、讃岐にどんな影響を与えたのか : 瀬戸の島から

壬申の乱前後の7世紀後葉~末葉になると、讃岐でも仏教寺院が姿を見せ始める頃になります。この時期の寺院の建立者たちは、首長層や郡司に任命されるような有力者です。丸亀平野周辺でその氏族を挙げると
①坂出の下川津遺跡を拠点とする勢力
②善通寺の佐伯氏の氏寺である伝導寺(仲村廃寺)・善通寺
③宗吉瓦工場を創業した丸部氏の妙音寺
④南海道に沿った那珂郡郡家の宝幢寺
 この時期に創建される地方寺院の多くは法隆寺式伽藍配置と法起寺式伽藍配置で、前者は山田寺式軒丸瓦、後者は川原寺式軒丸瓦の系統の瓦類が多いようです。丸亀平野の古代寺院は、川原寺式系統の軒丸瓦が出てきます。田村廃寺も、前回お話ししたように創建時の白鳳瓦は川原寺式系統の軒丸瓦です。ここからは伽藍配置として、法起寺式伽藍配置が第一候補として挙げられますが、発掘調査されていないので今は、判断のしようがありません。

古代寺院の寺域のほとんどは、条里型地割の一町(約109m)を単位とします。そして、伽藍方向も丸亀平野条里型地割(N30°W前後)に沿った形で建立されています。しかし、条里型地割が行われる前に建立された寺院は、この基準に合わないものも出てきています。例えば、善通寺に先立つ佐伯氏の氏寺とされる伝導寺(仲村廃寺)では、ほぼ真北を指す伽藍配置で、丸亀平野の条里制とは一致しません。その後、伝道寺は奈良時代に消失し、あらためて南西500mの所に現在の善通寺を佐伯氏は建立します。この善通寺の寺域は条里型地割に沿っている上に、面積は216m×216mで4倍の広さになります。
 丸亀市の宝幢寺池にあった宝幢寺も、那珂郡郡家に近く南海道のすぐ北に建立されています。これも伽藍方向は伝道寺と同じように条里制地割ラインと一致しません。そして、田村廃寺の周辺の遺構である区画溝や掘立柱建物跡も真北を向いて作られています。つまり、条里制ラインとは合わないということです。
ここからは、田村廃寺の創建は、条里型地割工事が行われるよりも早かったということが想定されます。
丸亀平野で条里型地割の工事が開始されるのは、 7世紀末葉~8世紀初頭の時期とされます。地割は、まず南海道がひかれて、南海道を基準に郡界がひかれ、条里制もひかれたことが明らかにされています。鵜足郡と那珂郡、多度郡などの郡界線も南海道を基準にして直交方向にひかれています。そして、以前にお話ししたように四国学院大学構内遺跡・池の上(丸亀市飯山町)からは南海道の側溝とされる溝跡がでてきています。
 この南海道を基準とした土地区画である条里制は、国家側からしてみれば、班田収授法に象徴される各種税徴収の前提としての土地管理政策です。実際、少なくとも8世紀後半以降は、条里プランにもとづいて土地管理がなされていることも明らかにされています。
 その一方で、条里型地割の施行は耕作地のみならず、宅地や建築物の再編成をも促していることが分かってきました。新たに家を建てたり、寺を建てたりする際には条里制の方向に沿って建築せよという「行政指導」が行われていたようです。それが国家意思でした。
 伝道寺建立からわずかの期間で、条里制に沿う形で新たに善通寺を建立した佐伯氏は、地方豪族として国家意思に忠実であることを示そうとしたのかも知れません。これを時系列に並べて見ると次のようになります。
   ①妙音寺 → ②伝道寺(仲村廃寺)→③田村廃寺→④南海道・条里制工事 → ⑤善通寺

①②③は南海道や条里制の前に、すでに建立されていたことになります。
 稲木北遺跡からは、条里型地割工事の直後に作られた計画的に配置された大型建物跡群が出てきました。
これは郡衙的なレベルの建物群です。それまで宅地としては利用されていなかった所に、条里型地割工事が行われ、そして建てられています。これも「国家意思」に沿った「建築群再編成」の一端かもしれません。そして、田村遺跡からも、条里型地割の工事が行われてすぐに建てられた集落が出てきました。ところが、田村廃寺周辺に条里制施行後に建てられた建物は、条里制ラインには沿っていないのです。どうしてなのでしょうか? 国家意思への反逆を現しているのでしょうか? まさか・・・

田村廃寺周辺の条里制を見ておきましょう

田村廃寺周辺条里制

現在の⑥丸亀城がある亀山が鵜足郡と那珂郡の境界となります。那珂郡はそこから西に1条から6条まで条が続きます。多度郡と那珂郡の境界は真っ白で、条里制が実施されていません。これが旧金倉川の氾濫原とされます。
田村廃寺は那珂郡二条二十三里七ノ坪に位置することになります。
田村遺跡の西側の先代池から丸亀城西学校にかけては、条里型地割が乱れ、空白地帯となっています。これは、平池方面から流れ込んでくる旧河道(旧金倉川)が条里制施行の障害となったことがうかがえます。さらに東側をよく見ると、蓮池にかけても空白地帯があります。しかし、ここは旧河道ではなく微髙地で、田村廃寺が立地していた所になります。どうして、田村廃寺のまわりは条里制の空白地帯なのでしょうか。

条里制が作られた後も、それに沿って建物が建てられなかったのでしょうか?
田村遺跡の土地利用の転換点は7世紀末葉だと報告書は指摘します。
その背景には、古代寺院である田村廃寺の登場があるようです。この前と後では大きく異なってきます。寺域内にある建物跡Ⅱ・Ⅲ群は、田村廃寺の創建と共に建てられた関連施設とします。そのため、田村廃寺に主軸方位をそろえます。
田村廃寺周辺条里制と不整合

第25図は、丸亀平野条里型地割(N30°W前後)・建物跡Ⅱ群(N20°W前後)。建物跡Ⅲ群(ほぼ真北)と方位を同じくする地割を描き出したものである。ここからはつぎのようなことが分かります。
① 田村廃寺推定地には、真北を向く地割(点線部)がある。これが田村廃寺の寺域である。
② 建物跡Ⅱ群と同じN-20°W前後の地割は、田村廃寺の寺域の北側にもある。この発掘で出てきた建物跡Ⅱ群は、ここにある
③ 丸亀平野条里型地割は、田村廃寺の寺域の北側にはない。(条里制空白部)

ここからは田村廃寺推定地の北側では、丸亀平野条里型地割とはちがう地割があって、この地割に基づいて建物跡Ⅱ群は建てられていたことが分かります。そうすると田村廃寺の北側のN-20°W前後の地割は、建物跡Ⅱ群が出現する7世紀末葉頃には成立していたことになります。
 この地割りエリアを「田村北型地割」と報告書は名付けます。
田村北型地割 ・・・田村廃寺伽藍の北側で認められる、N20°W前後の地割

それでは田村北型地割は、いつ頃、どのような経緯で成立したのでしょうか
まず押さえなければならないことは、7世紀末葉というのは丸亀平野に南海道がひかれ、それを基準に条里型地割の施行開始時期でもあることです。つまり、田村廃寺が早いか、南海道の出現が早いかを、もう一度確認しておく必要があります。
①田村北型地割の成立が7世紀後葉以前に遡ることが確認されれば、この地割は条里型地割に先行する地割という位置づけになる。
②丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降であるならば、下川津遺跡と同様(大久保1990)、何らかの制約を受けたために、周囲の条里型地割とは異なった、いわば、変則条里型地割が作られたことになる。
これを明らかにするために、「まな板」の上に載せるのが次のような7世紀後葉以前の状況です。
①田村遺跡でから出てきた建物跡は、ばらつきが多く、田村北型地割との関連は想定できないこと
②極めて散在的に分布し、地割の規制を受けて配置されているような斉一性はないこと
ここからは、この時期に地割はなかったことがうかがえます。報告書は「現状では、田村北型地割の成立は丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降に求めるほかはない。」と記します。つまり、田村北型地割は条里制よりも早いとは云えないというのです。

一方、この調査からは、調査エリア内で7世紀末葉頃に建物跡配置上の再編成が行われていることが分かっています。そして、主軸方位等に向かって斉一性の高い建物跡群(建物跡Ⅱ群)が建てられています。これは、稲木遺跡・金蔵寺下所遺跡などで見られる「条里制工事を行った後の建築物の再編成」という現象と同じです。つまり、「7世紀末葉頃の土地利用上の画期」とは「地割施行に基づく集落の再編成」という点で、丸亀平野の各地で見られる現象なのです。それが条里制に沿ったものではなく、変則条里型地割(田村北型地割)に沿ったものだったのです。
  これを報告書は、次のように記します。
「田村北型地割とは、丸亀平野条里型地割が何らかの制約を受けることで生じた、変則条里型地割であると認識する。」

 以上から分かったことを整理しておきます
①丸亀平野条里型地割は、7世紀末葉頃には田村遺跡近辺で行われていた
②田村廃寺周辺では、「何らかの制約」を受けて丸亀平野条里型地割と異なる地割が作られたこと
「何らかの制約」とは一体何なのでしょうか。
それが田村廃寺の存在だと報告書は指摘します。
①主軸方位が真北である田村廃寺の伽藍配置
②N-30°W前後である丸亀平野条里型地割
これが同一平面上に置かれれば、どこかで不整合が生じます。不整合を解消するためには、地割の方位を変更させる必要がでてきます。もちろん、田村廃寺との不整合を無視し、新たな基準となる丸亀平野条里型地割を優先させることは出来たでしょう。しかし、条里制施行が行われたのは、田村廃寺が出来たばかりの時期でもありました。田村廃寺を建立した氏族にとって、田村廃寺へ続く参拝道は大きな意味を持っていたはずです。参道を重視するために条里制施行外エリアとして、田村廃止の伽藍に沿った地割を残した。その施行責任者は、この寺を建立した氏族にあったと私は思います。これが変則条里型地割(田村北型地割)の出現背景だと報告書は記します。

 7世紀に讃岐で行われた大規模公共事業を挙げて見ると次のようなものが浮かんできます。
①城山・屋島の朝鮮式山城
②南海道建設
③それに伴う条里制施工
④各氏族の氏寺建立
これらの工事に積極的に参加して、いくことがヤマト政権に認められる道でした。郡司たちは、ある意味で政権への忠誠心を試されていたのです。綾氏は、渡来人達をまとめながら城山城を築くことによって実力を示し、郡司としての職にあることで勢力を拡大していきます。三野郡の丸部氏は、当時最先端の宗吉瓦窯を操業させ、藤原京に大量の瓦を提供することで、地盤を強化します。善通寺の佐伯氏は、空海指導下で満濃池再興を行う事で存在力を示します。まさに、この時代の地方の土木工事は郡司や地方有力者が担ったのです。
 田村廃寺を建立したばかりの氏族に選べる選択肢は、次のどちらかでした
①佐伯氏のように新たな寺院を「国家意思」の条里制ラインに沿って建立する
②田村廃寺周辺は、条里制ラインとはちがう「変則条里型地割」にして、参道を維持する
そして、取られた選択は②だったと報告書は考えているようです。

     
丸亀平野の古代の建物跡群は、条里制ラインがひかれる7世紀後葉以前と7世紀末葉以後とでは建築者の意識が大きく異なることがうかがえます。条里制がひかれる前の建物跡は、その軸をそろえる意識があまりありません。しかし、南海道が走り、条里制が敷かれる 7世紀末葉頃からは、向きを揃えるようになります。これは、ある意味では「国家意思」が目に見える形で住民にまで及んできたと云えます。これもひとつの律令国家の出現の形なのかも知れません。
まとめておくと
①南海道・条里制の出現以前は丸亀平野では建築物の向きはバラバラであった
②それが南海道通り、条里制が施行されると、それに沿ったように建築物は建てられるようになる③そこには条里制工事が終わると、その更地に条里制に沿った公共建築物群が建てられるという「建築物の再編成」さえ行われている。
④このため郡司なども氏寺や居館は、この条里制ラインに沿って建てるようになる。
⑤しかし、南海道が現れる前にすでに建立されていた寺院は周囲の条里制と不整合ラインができていまった。

古代那珂郡には次の3つの古代寺院があったとされます。
①田村廃寺(丸亀市田村町)
②宝幢寺跡(丸亀市郡家町)
③弘安寺(まんのう町四条)
②③は塔の心礎や礎石が動かされずにそのまま残り、だいたいの伽藍範囲も想像することができます。しかし①の田村廃寺は、私にはなかなか見えてこない古代寺院です。
田村廃寺鴟尾

田村廃寺跡とされるエリアからは、白鳳時代の瓦、塔楚、鴟尾などがでてきていますので、古代寺院があったことはまちがいないようです。しかし、正式な発掘は行われてないようです。そのためきちんと書かれたものはみたことがありませんでした。
 図書館で発掘調査書の棚を眺めていると「田村遺跡」と題されたものが3冊ほど見つかりました。その中から今回は、丸亀市の百十四銀行の城西支店の改築の際の発掘調査報告書を見ていきたいと思います。タイトルはなぜか「田村廃寺」ではなく「田村遺跡」です。廃寺跡が直接に発掘されたようではないようです。どんなものが出てきて、何が分かったのかを見てみましょう。

いつものように復元地形から見ていきます
田村廃寺周辺地質津

 田村廃寺のある辺りは、土器川と金倉川が暴れる龍のように流れを幾度も変えながら形成された沖積地です。土器川と金倉川は流路が定まらず、たびたび変化していたことが、グーグルや地図からもうかがえます。田村遺跡のすぐ東側にも旧河道の痕跡があり、蓮池はこの旧河道上に作られています。

田村廃寺周辺条里制

 また、田村遺跡の西側の先代池から丸亀城西学校にかけては、条里型地割が乱れています。これも、旧河道(旧金倉川)が条里制施行の障害となったことがうかがえます。この東西のふたつの旧河道に挟まれた田村遺跡は、中州状の微高地上に立地したことが推測できます。これを裏付けるかのように、田村遺跡周辺では、集落跡が緩やかな「く」の字状を描き、南北に細長く分布しています。これは蓮池の基であつた旧河道によって形成された自然堤防の上に、住居が築かれてきたことを示しているようです。

田村廃寺全景
右手空き地が城西支店 正面に丸亀城
田村廃寺の想定伽藍範囲を地図で見ておきましょう。
  報告書は廃寺に関係ある地名を挙げて、地図上に落として次のように示してくれます。

田村廃寺伽藍周辺地名
 田村町字道東一七四七番地に「塔の本」             
 田村町字道東一七五〇番地に「瓦塚」
 田村町字道東一七五五番地に「ゴンゴン堂」(鐘楼?)
 田村町字道東一六五三番地に「塔の前」
 田村町字道東一六五六番地に「舞台」
 田村町字道東一七一八番地に「塚タンボ」
  この地図からは田村廃寺は、城西支店の南側に、塔があり、伽藍が広がっていたことがうかがえます。
田村廃寺瓦1

この付近からは、白鳳時代から平安時代にかけての、八葉複弁蓮花文軒丸瓦や、十二葉・十五葉細弁蓮花文軒丸瓦、布目平瓦などが採集されています。発掘されていないので伽藍配置は分かりませんが、周辺の古代寺院と同じ規模の方一町(109m)の寺域をもっていたとされます。丸亀平野の条里復元図をみると、田村廃寺は那珂郡二条二〇里七ノ坪に位置することになります。

田村廃寺跡と道路を挟んであるのが 田村番神社です。
甲府からやって来た西遷御家人の秋山氏が法華信仰に基づいて、田村廃寺跡に日蓮宗の寺院を建立し、その番社(守護神)として三十番社をお寺の西北に勧進したと伝えられる神社です。この神社については以前にお話ししましたので、深入りしませんが、この境内には大きな手水石があります。これは、明治35(1902)年ころ、この南方の耕地から掘り出されたと伝えられます。塔の心礎のようです。

田村廃寺礎石

 この礎石は、楕円形の花降岩の自然石で、高さ約82㎝、上部は縦約135㎝、横約120m、下部は縦約220m、横約188mの大きさで、上面ほぼ中央に、直径45㎝、深さ約6㎝の柱座が彫られています。柱座の大きさから、塔は三重塔だったのではないかと説明案には書かれています。この塔心礎は、発見されたときには番神祠から南の当時の四国新道東側に移されて、石灯寵の台石に使用されていました。今は、田村番神祠境内に移されて、手水鉢として使用されています。

田村廃寺塔心礎説明版

 この礎石があったのが先ほどの地図で見た「塔の本」あたりになるようです。この心礎の上に三重塔が建っていたとしておきましょう。
田村廃寺 出土瓦一覧

城西支店の発掘調査からは、6つのタイプの軒丸瓦が出てきています
城西支店の敷地は、伽藍の北端にあたるようです。築地塀が出てきたことが寺の北限を示します。ここからは修築に伴って、それまで使用されてきた瓦の廃棄場所になっていたようで、多くの瓦が出てきています。出土した瓦を6つに分類した観察表です。
田村廃寺 軒丸瓦出土瓦一覧

報告書は、以下の表のように時代区分します

田村廃寺軒丸瓦古代
TM102 八葉複弁蓮華文軒丸瓦は中房が大く、彫りの深い複弁を巡らせ、周縁は三角縁で素文である。中房は1+8+4の蓮子をもつ。白鳳期

田村廃寺 軒丸瓦2
TM103八葉複弁蓮華文軒丸瓦は周縁が三角縁となり線鋸歯文をもっている。奈良時代初期
TM107十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦 胎土はやや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期
田村廃寺 軒丸瓦3
TM105一五葉細素弁蓮華文軒丸瓦。TM107を反転した文様であり、この退化型の文様で奈良時代と考える。
TM108六葉複弁蓮華文軒丸瓦は周縁素文で蓮弁は平坦化し花弁の仕切り線を持たない退化傾向
TM106十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦。田村廃寺の最終期の文様瓦と考えられ、遺物から10世紀頃までと推定される。
これらの軒丸瓦と軒平瓦、平瓦がどのようなセット関係で使われていたのかを次のように報告書は記します。
Ⅰ期は白鳳期で、 
I期aは重圏文軒丸瓦TM101
I期bは八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM102と二重弧文軒平瓦1201、平瓦は斜格子(方形)の叩きTM401A、丸瓦は行基葺き瓦がセット関係
  Ⅱ期は白鳳期末から奈良初期で、 
Ⅱ期aは、八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM103と平瓦はTM402A・BとTM403Al、丸瓦は玉縁のある丸瓦がセット関係にあたる。
Ⅱ期bは十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107と扁行唐草文軒二瓦TM202、平瓦はTM401BとTM401Cがセット関係。
私が気になるのは十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107と扁行唐草文妻平瓦TM20です。

善通寺同笵瓦 傷の進行
善通寺Z101と同笵木型で作られた瓦に現れた傷の進行状況

 十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107は、善通寺出土(Z101)と同笵で白鳳期末とされます。よく見ると、善通寺の瓦と比べると傷が大きくなっています。木版の痛みが使用に耐えかねて傷みが進行しているのです。それにもかかわらず使い続けています。
使用順は、善通寺の瓦より後に、田村廃寺の瓦は作られたことになります。そして、田村廃寺で使われたのは奈良時代初期と研究者は考えているようです。ちなみに、この木型はこのあと土佐の秦泉寺に運ばれて、そこでの瓦造りに使用されています。
三野 宗吉遺2
宗吉瓦窯(三野町)
 瓦技術者集団が善通寺創建が終わった後に、田村廃寺にやって来たのでしょうか。それとも善通寺周辺の窯で焼かれたものが運ばれてきたのでしょうか。善通寺には三野の宗吉瓦「工場」から運ばれたものも使われていたようですが、ここでは三野から運ばれた瓦は出てこないようです。
宗吉瓦窯 宗吉瓦デザイン
宗吉瓦
 以前にお話したように、讃岐の古代寺院建設のパイオニアは三野郡丸部氏による妙音寺です。この瓦は三野町の宗吉瓦窯で焼かれています。同時に、宗吉瓦窯は鳥坂を越えた善通寺にも瓦を提供しています。そうしながら藤原京の宮殿の瓦を焼く最新鋭の瓦大工場へと成長して行きます。瓦を提供した丸部氏と提供された善通寺の佐伯氏は「友好関係」にあったことがうかがえます。それでは、田村廃寺を建立した氏族とは、どんな有力者だったのでしょうか? 一応、因首氏を第1候補としてしておきましょう。

1 讃岐古代瓦

 道草をしてしまいました。話を元に戻します。
Ⅲ期は奈良時代で、十五葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM105と平瓦TM403A2とTM403Bl・B2がセット関係にある。特に平瓦TM403BlとB2の出土量は多い。

Ⅳ期は奈良時代から平安時代で、六葉複弁蓮華文軒丸瓦TM108と平瓦TM403A3・A4が対応する。寺院の捕修瓦と思われる。

V期は平安時代で、十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM106とTM403B3・B4・B5が対応する。セット関係にある軒丸瓦・丸瓦・平瓦はいずれも小型化する。平瓦の出土量が多い。10世紀代の瓦とみている。

以上を整理しておきましょう
①田村廃寺は、白鳳期に重圏文軒丸瓦TM101や川原寺式の八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM102、二重弧文軒平瓦TM201によって中心伽藍が整備された。
②白鳳期末から奈良時代初期にかけて、補修瓦として八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM103や善通寺から十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107や扁行唐草文軒平瓦TM202が搬入された。
③この瓦の文様に影響を受けた十五葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM104が田村廃寺独自の文様瓦として展開し寺域内が整備された。
④この間の補修瓦として六葉蓮華文軒丸瓦TM108等がある。
⑤衰退期を経て十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM106を使って田村廃寺が再興される。
13世紀頃には廃絶した
宗吉瓦窯 川原寺創建時の軒瓦
川原寺式軒丸瓦
 この時期に創建される地方寺院の多くは法隆寺式か法起寺式の伽藍配置で、前者は山田寺式軒丸瓦、後者は川原寺式軒丸瓦が多いようです。丸亀平野の古代寺院は、川原寺式系統の軒丸瓦がよく出てきます。田村廃寺も創建時の白鳳瓦は川原寺式系統の軒丸瓦です。ここからは、法起寺式伽藍配置が第一候補として挙げられますが、発掘調査されていないので今は、判断のしようがありません。

白鳳時代の7世紀末に姿を見せた田村廃寺は何度もの修復を受けながらも10世紀には一時衰退しますが、その後に再興され13世紀に廃絶したようです。古代の寺院は氏寺として建立されます。パトロンである建立氏族が衰退すると、氏寺は廃絶する運命にありました。13世紀と云えば古代から中世への時代の転換期です。平家方の拠点であった讃岐には、源平合戦の後は「占領軍」として数多くの西遷御家人たちがやってきます。その中に、三野郡の日蓮宗本門寺を拠点とする秋山氏がいました。秋山氏は、三野に拠点を構える前は、那珂郡に一時拠点を置いたとされます。
『仲多度郡史』『讃岐国名勝図会』などには、
「田村廃寺の跡に、弘安年中に来讃した秋山泰忠が、久遠院法華寺を建立したが、正中二年(1325)、故ありて三野郡高瀬郷に移し、高永山久遠院と号し、法華寺また大坊と称して今も盛大なり」

とあります。古代寺院の遺構跡に日蓮宗のお寺を秋山氏が建立したというのですが、この伽藍跡からは鎌倉時代の古瓦は出てきません。

以上をまとめておくと
①田村廃寺は、東を蓮池を流れていた旧土器川と、西側を平池を流れていた旧金倉川に挟まれた微髙地の上に建立された。ここには弥生時代からの集落の痕跡が残されている。
②出土した瓦からは白鳳時代(7世紀末)に建立され、13世紀に廃絶したことが分かる。
③その間に何度も瓦の葺き替え作業が行われており、修復が繰り返されている
④瓦の一部は、善通寺との同版瓦があり佐伯氏との関係がうかがえる。
⑤伽藍配置は分からないが、百十四銀行城西支店の建物から北側の築地塀が出てきたので、ここを北限とする108m四方が伽藍と想定される。
⑥「塔の元」「塔の前」という地名が残るので、この辺りに塔が建っていたことが想定できる
⑦塔の礎石もこのあたりから明治に掘り出され、今は番社の手水石となっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   田村遺跡 丸亀市の百十四銀行の城西支店の改築にともなう発掘調査報告書
関連記事

丸亀城  山﨑時代の城郭絵図2
①が現在の裁判所付近
前回は大手町が明治以後は丸亀12連隊の兵舎や倉庫、病院になっていたことを見ました。今回は発掘地点の丸亀裁判所には、江戸時代には誰の屋敷があって、住人がどのように移り変わっていったのかを見ていくことにします。
丸亀連隊 西端
内堀の向こうに見えるのが丸亀十二連隊 

そのために、まずやらなければならないことは発掘地点が絵図のどの辺りにあたるかを確定しなければなりません。普通は道路などで簡単に現在位置との関係が分かるのですが、ここではそうは行かないようです。明治の連隊建設の際に、敷地が奇麗さっぱりと更地にされているからです。調査地周辺は、目印になるものがほとんど残っていません。街路も近世には鉤状に屈曲する部分がありましたが、近代の連隊建設の際に、街路は直線的な道路へと作り替えられました。そのため街路も基準になりません。そうなると、基準点は現在の道路にも引き継がれる外堀くらいになります。
   外堀を基準に、基準線を引くプロセスは以下の通りです。
①西隣の郵便局の西側から出土している①外堀遺構を基準点にする
②発掘エリアから出てきた2本の屋敷割の溝②までの距離の確認
③のマンション建設の発掘調査区から石組みの護岸を持つ溝の西側の肩の確認
以上のような基準点を地図上に落としたものが次の下図①②③になるようです。

丸亀城大手町屋敷割り

報告書は、これを嘉永8年の絵図と比較し、基準線を次のように決めていきます。
①西側の外堀(旧R11号)から外堀沿いの屋敷地・屋敷地東の街路を超え、今回調査地が位置する屋敷地の大区画の西端に至るには、街路②の距離を仮に数間程度と見積もると、10間以上(約18m)の距離が想定される。
②最も西端の岩間長屋の区画の東西幅は27間(48.6m)なので、全体では70m弱になります。
③外堀のラインから今回調査地までの距離を計測し、その条件に最も近いものは2区の区画施設である(約75m)。
以上から検出された溝②を、屋敷間の区画施設(ライン)と考えます。
次のような理由を挙げてこの溝②が区画であることを補足します。
①この溝の近辺から多く廃棄土坑がでてくること
②溝のすぐ東に丼戸があること
③溝を境として出土する陶磁器破片の組成が違うこと
こうして区画②が屋敷間の区画であるとします。
 以上からこの発掘地点は、嘉永7年絵図の「岩間長屋」「高宮」にあたると結論づけます。こうして、江戸時代の絵図から裁判所周辺の屋敷変遷を見ることが出来るようになります。
丸亀城 大手町居住者19jpg

上の絵図は享和2年(1802年)作成のもので、裁判所付近の屋敷を切り取ったものです。
①は「林求馬」と読めます。彼は以前にお話ししたように、多度津陣屋や湛甫の建設に尽力し、藩政改革を進めた多度津藩の家老です。そして、その屋敷と背向かいにあるのが②「御用所」です。これは多度津藩の政庁になります。多度津藩は、分家しても陣屋を構えずに丸亀城下内のここに政庁を置いていたのです。つまり本家への「間借り状態」にありました。それが、幕末がちかづくにつれて自立心が高まり、本家丸亀藩からの自立・独立路線を指向するようになります。その動きが新たな陣屋建設でした。この後多度津藩は、家老林求馬によって完成した陣屋に移って行くことになります。この周辺は家臣の氏名から、多度津藩に関係のある家臣の屋敷が多いと研究者は指摘します。
江戸時代の8つの絵図資料に記された屋敷図を模式化して示すと次のようになります。
丸亀城 大手町居住者変遷表

絵図を簡略化し、居住者が書かれています。例えば山崎藩時代の正保の「讃岐国丸亀城絵図」には、屋敷の主の名前はなく「侍屋敷」としか書かれていませんのでこうなります。
次の「元禄年間丸亀城下図」には、林求馬の屋敷の所が「壱岐守」となっています。これは、分家して成立したばかりの多度津藩藩主のことです。多度津藩藩主は、本家京極藩の家老の屋敷よりもはるかに小さい屋敷です。別の所に本宅はあったのかもしれません。そして、多度津藩の「御用所」は「御配所」とあります。これは当時丸亀藩に預けられていた、日蓮宗の僧日尭、日了の配流地だったことを示しています。

1832(天保3)年の絵図に記された住人達を視てみましょう。
多度津藩御用所のあった部分が空白になっています。それ以外の区画についても住人変更があったようです。これは、さきほと述べたように陣屋完成に伴って、多度津藩の藩士達が多度津に住居を移したためと考えられます。一方、一番西の「岩万長屋」の住人は、多度津藩士でなかったのでしょう。

次のような居住者の変更があったことが分かります。
①1692年(?⇒原田、実態不明)
②1692年~1802年(原田⇒伴)
③1802~1830年代(伴⇒高宮)
④1865年前後(高官⇒連隊建物)
この4つのタイミングで居住者の変更が起こっています。
大手町の丸亀地裁エリアの遺構がどんな変遷を経ているのか、またそれにはどんな事件が背景に考えられるのかを報告書は教えてくれます。その変更背景を、報告書は次のような図に整理して提示しています。表の左側が遺物や遺構の整理から導かれる年代、右側が、丸亀城下町や大手前の出来事です。
丸亀城大手町 裁判所付近時代区分表

第一の画期は、京極家による「城下の再整備」が考えられます。丸亀城Ⅰ期です。
 山崎藩時代には城の南側にあった大手門を付け替え、北側に移したことです。これに伴い城下の再整備計画が行われ、屋敷地や拝領地にも変更がうまれ、スクラップ&ビルドが行われたことが考えられます。この時期に、廃棄された瓦が大量に出てくることがそれを裏付けます。新しい主の京極氏によって、建物の建て替えなどが行われたとしておきましょう。
第2の画期は、18世紀後半代から始まり、19世紀の初めごろまで続きます。
この時期に、瓦などの廃棄物を埋めた土坑が屋敷の中にいくつも掘られています。これはこの時期に屋根の葺替えと、それに伴う瓦の廃棄があったことが考えられます。安永7年(1777年)に、二の守の修理が行われたことが、銘が刻まれた瓦から分かっています。その「大工事」に伴って瓦の大きな需要や生産体制の変化があったこと推測できます。それに伴い城下での瓦の消費拡大が起き、廃棄瓦の増加という形になったことが考えられます。
 それ以外には、先ほど述べたように多度津藩が自前の陣屋を築いて丸亀城下町から出ていったことです。ここでも住民異動によるリフォームなどで古い瓦の大量廃棄が起きたことが考えられます。これが第2の画期と報告書は指摘します。それは、この発掘エリアの一番西側の岩間長屋では、この時期の遺構は少なく、この変動が及ばなかったことが裏付けとなります。
第3の画期は、明治になっての陸軍歩兵12聯隊の建設です。
これは前回にお話ししたように、大手町全体の屋敷地引き払いを伴う大規模な接収でした。具体的には城の北側の内堀と外堀に挟まれた広大なエリアが国に摂取されます。そして、そこに建っていた家臣団の屋敷は解体破棄されたのです。そのエリアをもう一度地図で確認しておきましょう。
丸亀連隊 エリア地図
ピンクの部分が連隊用地として買い上げれたエリア
 
 建物の解体ももちろんですが、道の形状もそれまでの城下町特有の折れ曲がったりしたところが直線化されています。そのため街路に面していた区画も取り壊された所があるようです。
 例えば発掘エリアの岩間長屋からは、土塀瓦のほかに、京極家の家紋が施された軒九瓦、軒平瓦が出てきます。この付近には京極家と関係のある屋敷はありません。これはかつての多度津御用所や、周辺の塀などの解体が同時に進み、それが併せてここに掘られた廃棄穴に投棄されたものと報告書は推測しています。

以上をまとめておくと
①山崎氏から京極氏に藩主が変わり、城の大門が南から北に移設されたに伴い城下町の再編成が行われ、建築群もスクラップ&ビルドが行われた。
②裁判所周辺には多度津藩の政庁が置かれ、周辺には多度津藩士の屋敷が集まっていた。それが多度津陣屋の建設で退去し、大幅な寿運変更が行われた。その際にも廃棄瓦の量が増えている。
③明治になって十二連隊が設置されることに成り、大手町全体が国により買収された。藩士は屋敷を売り、全員がここから退去した。
④その後に、丸亀十二連隊の施設が作られ敗戦まで設置されていた。⑤丸亀城下町は、そういう意味では「軍都」であった。
⑥戦後、その後に市庁舎などの公共的な建築物が立ち並ぶエリアとなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高松家裁・地裁丸亀支部庁舎新営工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 丸亀城(大手町地区)2018年

  関連記事  


丸亀連隊 裁判所

  丸亀城の北側の大手前地区は市役所や裁判所などの公的施設が多いエリアです。そこでは近年の建て替え工事に伴う発掘調査が行われ、その報告書も何冊か出ています。今回は丸亀裁判所の発掘調査報告書(2018年)を見てみたいと思います。
 このエリアは内堀と外堀に挟まれて大手町の西の端です。郵便局の西側を通る旧R11号がかつての外堀にあたります。郵便局の発掘の際に、その遺構も確認できているようです。大手前エリアでは中心部から離れているので、二百石前後の中級家臣団の屋敷が並んでいたようです。
このエリアを発掘して、まず顔を覗かせてくる遺構は何でしょうか? 
わたしはぼんやりと、京極時代の屋敷跡が出てくると思っていました。しかし、それは大間違い。年表を確認しておきましょう。
1597年(慶長2年)に、生駒親正が西讃岐支配の拠点として丸亀城築城開始
1615年(慶長20年)一国一城令により、丸亀城はいったん廃城
1643年(正保元年)山崎家治が幕府からの許可を得、丸亀城の再築開始。
1658年(万治元年)山崎家断絶により京極氏が入封。城の整備と城下町の開発を継続
1670年(寛文10年)大手門を南側から北側に移し、「再開発」事業展開。
1688年(元禄元年) 丸亀藩から多度津藩分封。
1827年 多度津藩の陣屋完成 多度津藩家臣団の丸亀城下寄りの退去
1875年 丸亀歩兵第12連隊設置 
16世紀末に、生駒氏によって丸亀城は開かれ、その後一国一城令で廃城。その後、西讃の領主として入ってきた山崎氏によって、再築。しかし、築城途中で山崎藩は廃絶。替わって、京極氏の下で大門の移動など「再編整備」が進んだことが分かります。また、このエリアは、多度津藩主の邸宅や御用所、家臣の屋敷があったようです。

丸亀連隊

年表の一番最後に注目。
明治になって大手町地区は、陸軍歩兵第12聯隊の兵舎が造営されているのです。これは大手町全体の接収と屋敷地の引払いを伴う大規模な工事でした。具体的には城の北側の内堀と外堀に挟まれた広大なエリアが国に接収されます。その経緯は次の通りです。
明治6(1873)年4月、旧武家屋敷地一番丁から四番丁(旧丸龜縣庁、旧藩刑法局、元家老・佐脇邸、他元藩士87家)に丸龜營所の設置を決定、名東縣(現、香川県)に通達します。
名東縣高松支所は区長・戸長に命じて、該当用地59,463坪を45,243円(土地16,908円、移転費用27,375円、輸送費960円)で買収(費用は大蔵省が負担)
12月20日、御用地は陸軍省に受領され、営所・練兵場の建設開始
明治7(1874)年夏、五番丁から十番丁を新たに御用地に指定。五番丁を作業場用地として買収。
明治7(1874)年9月、丸龜營所が竣工、
12月4日、第十六、第二十四大隊が高松營所から移駐、
明治8(1875)年5月10日、両大隊により歩兵第十二聯隊編成

大手前の家臣団屋敷は、解体破棄されたのです。そのエリアを明治38年の地図で確認しておきましょう
丸亀連隊 明治38年

 この地図からは次のようなことが分かります。
①大手町地区は、東側が病院、西側が連隊駐屯地となったこと
②お城の東側に練兵場があったこと
③城下町特有の折れ曲がったりしたところが直線化されていること。そのため街路に面していた区画も取り壊された所があること。
  京極さんの家臣団が住んでいた大手町は駐屯地になったのです。お城の上から見てみましょう。ちなみに戦前は「軍事機密」のために一般人は、本丸などには登れなかったようです。
丸亀連隊 合体版
ここには12連隊兵舎の西半分が写されています。その右側は兵舎が並びます。
丸亀連隊8

 左側(西)は、真ん中の空地を囲むように兵舎が立ち並びます。こちらは倉庫群だったようです。さらに西側を拡大して見ましょう。
丸亀連隊 西端

とまどうのは手前の内堀の内側にも建物が数多くあることです。現在の芝生公園も建物で埋まっています。内堀の外側に沿っては兵舎倉庫が並びます。その西の突き当たりは外堀でが、すでに半分は埋め立てられ道路になっています。そのコーナーが現在の郵便局付近になります。裁判所は、その東側の兵舎の始まりあたりになりそうです。これだけの予備知識を持って、発掘現場を見てみましょう。

丸亀連隊 裁判所発掘地点
丸亀裁判所発掘エリア(白い空白部)
上図が今回の裁判所の発掘地点になるようです。
 ここからは、聯隊兵舎3棟が出てきました。建物1は第一大隊の倉庫で、その西端の一部のようです。建物1については、多度津町資料館に聯隊建設の際の設計図が残されていて、建物の構造が分かります。それを参考にして建物1の下部構造を模式的に復元したのが下図です。
丸亀連隊 倉庫下部構造

報告書はこれについて次のように述べています。
溝を掘り基盤を補強したのちに、レンガ積みにて外壁基礎を構築している。上部は、漆喰の壁を用いていたようである。床支えの柱が存在しており、それらが桁行2間存在し、その内側に外壁と同様の構造をもつ基礎と、屋根支えの柱列を2列立て、柱と柱の間を廊下としている。

この模式図を建物1に当てはめてみると、出土したのは外壁の基礎と床支えの柱穴だったことが分かります。図面に残される寸法では、外壁と柱の間隔が1、5mであり、遺構の間の距離と合致します。
建物1は、明治8年に建設され敗戦まで使われた第一大隊の倉庫としておきましょう。
丸亀連隊 正面
 丸亀十二連隊正面玄関 
 建物1に先行する建物2、3については、明治26年以降火災で消失したものを、再建したという記録があるようです。そのため建物2、3は焼失した明治8年段階の建物である可能性が高いと指摘します。建物2と3は軸を一にして並んでいたことから、同時に建っていた可能性が高いようです。発掘からは、明治8年にこれらの兵舎群が一斉に立ち並び始めたことがうかがえます。
面白いのは埋甕が出てきています。これを便所遺構と報告書は考えています。
丸亀連隊 発掘図
十二連隊の倉庫跡

それでは、取り壊された屋敷群の残土などはどのように処理されたのでしょうか。
それをうかがわせる廃棄穴が、発掘されています。発掘エリアの岩間長屋から出てきた廃棄穴からは、土塀瓦のほかに、京極家の家紋が施された軒九瓦、軒平瓦が出てきます。この付近には京極家と関係のある屋敷はありません。これはかつての多度津御用所や、周辺の塀などの解体が連隊建設のために同時に進み、それらが併せてここに掘られた廃棄穴に投棄されたものと報告書は推測しています。こうして、ここからは大量の瓦が出てくることになります。これは発掘者にとっては「宝の山」です。高松城に比べて遅れていた丸亀城の瓦の編年編成資料の貴重なデーターとなるようです。

丸亀連隊 瓦変遷
 
こうして明治に建てられた十二連隊の兵舎跡層をはぐることによって、江戸時代の層が出てきたことになります。そして、それは明治の兵舎建設のために更地にされた破棄現場だったのです。
 その下に眠る江戸時代の屋敷跡については、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高松家裁・地裁丸亀支部庁舎新営工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 丸亀城(大手町地区)2018年



 丸亀港と云えば福島港を連想します。しかし、福島港が丸亀城下町の看板港になるのは19世紀になってからのようです。福島港がどのように発展してきたのかを絵図で追いかけて見ようと思います。
まずは、時代をぐーんと遡って、丸亀平野の地質から始めましょう。

丸亀平野の扇状地

丸亀平野は、①土器川と②金倉川の扇状地をベースにできています。この二つの川が、暴れ狂う龍のように流れを変えながら扇状地を形成します。それが黄色で現されています。④の丸亀競技状付近がその先端になることが発掘調査からも分かっています。そこから北は、その後の縄文海進や堆積作用で氾濫平野が形成されていきます。つまり、丸亀城のある亀山は、湿原の中にぽっかりと浮かぶ小島のような形であった可能性があります。山北八幡神社の由緒書きには、満潮時には亀山までの波が打ちよせていたと記されているのは前回見たとおりです。裏付け史料として丸亀平野の条里制遺構を見ておきましょう
丸亀平野北部 条里制

 ⑥が丸亀城です。この周囲は真っ白で、条里制遺構はありません。湿地帯で耕地には適さなかったようです。ついてに、亀山が鵜足郡と那珂郡の境界上にあること、③の金倉川流域にも条里制遺構がないことを押さえておきます。 

それでは、亀山の北はどうなっていたのでしょうか。拡大して見ましょう。
丸亀平野 地質図拡大版

  亀山(丸亀城)から北には、氾濫平野が広がりますが、古代には満潮時には海面下になりますので人が住むことは出来ません。人が住めるのは、亀山から西に伸びる微髙地です。現在の南条町あたりになります。
 ここで注目したいのは、海際には砂州①と砂州②が東西に伸びていることです。これは、流路を変えながら金倉川と土器川が運んできた砂が海岸線に沿って堆積したものです。古代には、土器川と金倉川の河口は、砂州で結ばれていたようです。よく見ると砂州①と②は、丸亀駅付近で途切れています。ここが西汐入川の海への出口となります。そうすると砂州①が現在の御供所、平山町になります。そして砂州②の東先端付近が福島町になるようです。
古代丸亀周辺の砂州と流路を見てみましょう。
丸亀の砂嘴・砂堆

砂州①②以外にも、砂州③④⑤があります。この砂州と川の流路の関係を考えて見ます。現在この流域を流れているのは、上金倉を源流とする西汐入川です。この川は、北に向かって流れず東に向かって流れて、丸亀駅の西北で海に流れ出しています。どうして真っ直ぐに北に流れないのか不思議に思っていました。この地質図を見て納得することができます。東西に伸びる砂州が幾重にも待ち構え、西汐入川は北上できないのです。そこで東に流れ砂州①と②の間まで行って、やっと海へ出れることになります。

 この砂州①②は、近世初頭の絵図には、どのように描かれているのでしょうか?

丸亀城周辺 正保国絵図
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
通目したいのは、丸亀城の北にある③と④の半島のような地形です。その先端には「舟番所」とあります。実は、③と④が先ほどの地質で見た砂州①②にあたると研究者は指摘します。
これを、同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 地質図で見たように砂州①②の間を⑤西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州1・2の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。この絵図からは、砂州1の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。
 一方、砂州2には番所があるだけで民家の姿は見えません。この砂州2は、西汐入川によって隔てられ「中須賀」と呼ばれていました。この無人の砂州が福島町に発展していくようです。そのプロセスを追ってみましょう。
延宝元年(1673)になって、大工七左衛門ら16人が、藩に中須賀に家を建てたいと願い出ます。

丸亀城下町比較地図41

具体的には、南側の波打ち線際から八間下がったところに幅三間の道を東西に伸ばし、その道に沿い表口10間奥行25間を一屋敷とし、屋敷は船作事場と菜園にしたいという願い出でした。「船作事場」を行うのですから申し出た大工は、船大工だったことが分かります。当時は、塩飽が幕府の海上輸送を独占し、船の需要がうなぎ登りの時代です。その波及効果が海を越えて丸亀城下町にも及んでいたようです。船大工にとって海に近い方が何かと便利だったのでしょう。

 六年後の延宝七年になって、 一戸につき表口五間、裏へ二〇間の屋敷と、西の方では五間に二〇間の菜園場が認められることになりました。その代わりとして、 一屋敷12匁の納入を求められます。これを16戸が負担し、計192匁を町役銀として納入することになります。その際に、戸数が増えても、この金額は変わらないという約束を取り付けます。
丸亀城下町比較地図51

こうして貞享元年(1684)から砂州の上に家の建築が始まります。
3年後には、最初に申し出た16屋敷とほかに8屋敷増えて、計24屋敷がそれまで無人だった砂州に軒を並べることになります。同時に、新しい街の氏神様として天満官を勧進し、共同井戸も掘り、4年後の元禄元年(1688)には弁財天も祀るようになります。
  しかし、浜町から海を隔てた洲浜の地で生活することは何かと不便です。その上、いざというときの藩船の御用にも間に合わないこともあります。
そこで、元禄三(1690)年、濱町と結ぶ橋の架橋願いを出します。
丸亀城 福島町

藩はこれを認めて、銀一貫五〇〇匁を支給します。こうして、藩の普請奉行のもと人足600人が架橋工事に当たります。資金が不足したので、大坂の安古町さかいや惣兵衛から丁銀で一貫目を借りています。さらに町から上納する192匁をこの橋のため用立てることが許されたます。こうして元禄四(1691年2月に橋は完成します。当時の藩主高豊がこの橋を「福島橋」と命名します。この橋名にちなんで、中須賀の町は以後は福島町と呼ばれるようになります。橋の長さは15間5尺で、場所は現在のJR丸亀駅の東の重元果物店の西北の所にありました。
坂本龍馬が渡った福島橋の欄干と常夜燈(丸亀市) | 自然、戦跡、ときどき龍馬
福島橋の欄干と常夜灯
福島橋と町の変遷を、「古法便覧」は、次のように記します。
宝永四年(1707)、福島橋床石垣普請、人足千人ご用立をし、福島側より普請。
享保四年(1719)、福島橋新たに仕替えるため銀五貫目拝借し、無利子十年返済の達しあり
享保六年(1721)福島橋の石垣が崩れ落ちた。橋が長くなったためで、修理のために町と三浦から費用の半分負担を申せ付けられた。
享保十年(1725) 福島にて相撲を行う。
元文二年(1737)正玄寺・善龍寺にて芝居興行が許可、これまで芝居は停止されていたが、福島町は橋修復資金のために興行許可が下りた。
元文三年(1738)橋架け替えのため藩の舟子の道具を拝借したいと、藩の船頭に申し出た。
元文四年(1739)福島橋の銀については大年寄も承知しておくこと。
宝暦三年(1753)、橋修復のため芝居興行を願いでたが不許可。その代わり銀二貫目、無利子拝借し七年返済とした。
同年六月、福島橋開通記念の時に、大年寄・御用聴役らが行列の押えに出るよう求められ、祝儀に 樽一荷、生鯛一折をいただいた
天明元年(1781、橋架掛替と山北八幡官の御祭礼があり、お上より御祝儀として白銀10枚下
された。

これを見るとたびたび架け替え修復が必要だったことが分かります。改修費は福島町の住民負担でした。公共事業だから藩が面倒見ると云うわけではないようです。そのため間役銀・棒役は免除されています。また橋の維持費をひねり出すために芝居興行をひんぱんに催しています。

福島橋の掛け替えについては、次の文書もあります。
一福島橋の儀、先年は春秋両度芝居の徳用銀等を以て、掛替修覆等仕り来り候の処、去る天保午歳掛替の節は入用銀調達相成り難く、拠んどころ無く十八貫目拝借御願ひ中上候の処、 貧町の事故、 その後上納も三、四度にて柳の上納、その余の処は今以て上納に相成中さず候の処、その後弘化三午歳板替の節も過分の入箇に御座候えども、最早拝借の儀も中上げ難く、町内にて色々心配仕り漸く出来に相成り……(中略)
……最早近年の内には、板・欄干等取替中さずては相成り難く、貧町にて右様過分の入箇まで引受け罷りあり候儀も御座候につき何様にても、以来の通り定間割に仰せつけなされ下され度く候事
安政三丙辰十一月                     福島町
意訳変換しておくと
福島橋の件について、前回は春秋の度芝居の徳用銀収入で、掛替修覆費を賄いました。また天保の掛替の時にはは入用銀調達が困難で、仕方なく十八貫目を拝借しての掛け替えとなりました。貧しい町のことですので、 その後の上納も未だ完済できていません。その後、弘化三の橋の板替の時も過分の援助をいただいており。これ以上拝借することもできません。町内では、色々と心配しております。(中略)
……最早近年の内には、板・欄干などの取替を行わなければなりません。貧町の福島町には過分の出費を負担することもできませんので、これまで通りの定間割を仰せつけていただけるようにお願い申し上げます。
安政三(1856)年十一月                      福島町

 ここからは、福島橋の修復が町民のおおきな負担であると同時に、橋修理費を捻出するために芝居や相撲の勧進を町を挙げて行っていたことが分かります。それが町民の団結力となっていたのかもしれません。

 西讃府志には、戸数198、人口989(男490、女499),馬3。寺は白蓮社・大師堂・庵、神祠は天満宮2・弁財天、白蓮社が玄要寺院内より移されています。庵は西山寺へ、天満宮と弁財天は寛保元年に合祀(現市杵島神社)して、福島弁天として信仰を集めるようになります。町の東側に船着き場があったので、金毘羅参拝客の増加と共に繁栄するようになります。
福島町が表玄関になるのは、文化3年に福島湛甫が作られてからです。

丸亀城 福島町3

福島湛甫は東西61間・南北50間・入口18間・満潮時水深1丈余で、役夫延5万人余・此扶持米485石余・石工賃銀18貫の経費で完成します。丸亀繁昌記には、材木問屋が軒を並べて賑わう湛甫近辺の様子が記されています。福島湛甫の完成で、丸亀港の航行が容易となり安全性も高まります。さらに、金毘羅船で上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅籠、土産物屋などが急増し福島町は、その目抜き通りとしてにぎわうことになります。それまでは、御供所の東汐入川の川口に入港していた客船は、この福島湛甫を目指すようになり、西汐入川川口に繋留されるようになります。金毘羅船の船着き場も移動したようです。

丸亀城 福島湛甫

 以後、金毘羅船の発着で幕末に向けて飛躍的な発展を遂げることになります。その利益をもとに、持舟をもち、海上商品輸送などに乗り出していく商人も増え、丸亀の商業的中心になっていきます。
丸亀城 今昔比較図

この橋がなくなるのは、浜町と福島町の間の西汐入川が埋め立てられてからのことになります。それは、明治43(1910)年の西汐入川付け替え工事が始まるまで待たなければなりませんでした。これについては以前にお話ししましたので、絵図だけ紹介しておきます。
丸亀市実測図明治 注記入り

明治34年 鉄道が通過し丸亀駅が完成。その裏を西汐入川が流れています。

11929年(昭和4年)

丸亀駅の裏を流れていた西汐入川のルートが変更されました。そして旧川跡は埋め立てられ新町となります。
以上をまとめておくと
①古代の丸亀城のある亀山は、湿地の中に浮かぶ島で、海岸線には東西に砂州が伸びていた。
②そのため古代は耕作地としては適さず、条里制遺構も残っていない。
③近世には砂州①の背後は畑地として耕作されるようになり、砂州①上には宇多津からの移住者の家並みが海沿いにならぶようになった。
④西側の砂州②は中須賀とよばれる無人の砂地であった
⑤そこに船大工たちが家と作業所を建てて暮らし始めると、人々が移り住むようになった
⑦不便なために藩に申し出て橋を建設し、その橋を藩主は福島橋と命名した。そのため町の名前も福島町と呼ばれるようになった。
⑧福島湛甫ができると金比羅船の発着として発展するようになり繁華街となった。
⑨資本蓄積を重ねた商人の中には、持ち舟を持ち商業資本として活躍する者も現れた。
⑩明治になって鉄道が通過するようになり駅裏開発のために西汐入川が埋めたてられ「新町」となった。
⑪こうして福島橋は、お役御免と成り撤去された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史4近世 

  国立公文書館には正保城絵図と呼ばれ、三代将軍徳川家光の命によって、全国の大名に提出を命じた城の絵図があります。その中に「讃岐国丸亀絵図山崎甲斐守」と題された一枚があります。これが山崎藩が丸亀へやってきた四年後の正保二年(1645)には提出させたものとされています。この絵図は国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に見ることができ、拡大・縮小も思いのままです。以前には、丸亀城の城郭を見ました。今回はこの絵図で、山崎藩によって再興された当時の城下の様子を見てみましょう。
テキストは 丸亀市史です。 
丸亀城 正保国絵図注記版

①城の東側では内堀が東汐入川に続き、北へ浜まで伸びて、土器川河口と合流して海へ注いでいます。
②西側では外堀から分かれた堀が西へ延び(現玄要寺墓地南端)、 現在の北向地蔵堂から北へ曲がり、船頭町(現本町西端)のところで海に続いています。海との境はなぜかぼやかされています。
③内堀内にある城の北麓には、東西九〇間、南北五〇間の山下屋敷があります。ここが藩主の居館だったようで、現在の大手門の南側の観光案内所付近になるようです。生駒時代の山下屋敷は東西八〇間、 南北三〇間で、 山麓以外の三方は高さ八間の石垣で囲まれた高台となっていて、侍の出入りはできなかったようです。山崎氏時代には、この図のように高台ではなかったことは前回に見たとおりです。山崎藩は、東と西では山麓まで内堀を貫入させ、藩主の館である山下屋敷の東・北・西の三方はすべて堀になっています。山崎家治が城を築く際、生駒時代にあった山下屋敷の高台の土を、山頂に運び、また内堀を貫入させたときに出た土も築城に利用したようです。
④外堀内は士族屋敷で、侍屋敷・歩者屋敷・足軽量敷と記されています。一区画が一戸建てであったかどうかは分かりませんが、足軽は一区画に数戸で住んだと研究者は考えているようです。
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前に、生駒藩時代に作られた街並みを指します。古町で最初に街並みができたのは南条町だと云われます。南条町は地勢的には、亀山から西に伸びる微髙地の上にあり、中世以来の集落があった可能性があります。南条町が中心となり、その周辺に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していったようです。
丸亀市 西汐入川と外堀

南条町の発展の起点になったのが、上の地図の②金毘羅灯籠です。
グーグルマップで「丸亀市南条町石灯籠」と献策すると出てきます。
丸亀市南条町塩飽町

③にある灯籠です。現在は道路になっていて、④北向神社と①の外堀を結んでいますが、これはかつては西堀でした。

丸亀市南条町の金毘羅燈籠3
    旧西堀に立って北向地蔵方向を望む
かつての西堀の上に立って西方面と北方面を見てみるとこんな風に見えます。
丸亀市南条町石灯籠説明版

説明版によると、この常夜灯は明和元年(1764) 12月に、南条町と農人町 (現在の中府町五丁目)の人々によって建てられています。この燈籠南側の東西に延びる現在の道は、古地図の通り丸亀城の外堀につながる堀で、ここには橋がかけられていました。また、ここから西には、玄要寺 の広大な敷地が広がっていました。それも絵図で見ておきましょう。
丸亀市 玄要寺3
玄要寺 
この絵図を見ると琴平街道から⑥西堀(現城乾小学校前の道路)までが、玄要寺の山内だったことが分かります。それもそのはずで、この寺は京極さまの菩提寺として建立されたのです。城下では、もっとも広い敷地と規模を備えるようなるのは当然のことです。玄要寺の山門は、西堀に面して建っています。つまり、現在の北向地蔵の辺りが玄要寺の西南コーナーであったことになります。現在は、玄要寺の北側には多度津街道が敷地を抜けて通されています。また、敷地の中に幼稚園やコミュニティーセンターなどが割り込んできています。
丸亀市南条町塩飽町

グーグルで「丸亀市南条町」を献策すると、赤く囲まれた南条町のエリアが出てきます。
  この灯籠③が建つ所は、南条町の一番南で、西堀にかかる橋を渡る手前に建てられていたことが分かります。金比羅に向かう人たちにとっては、丸亀城下町からのスタート地点だったのかも知れません。
この地図からは、次のようなことも分かります。
①南条町の東側は住民居住区
②西側は寺が南北に4つ並ぶ寺町エリア
③寺の西側を西掘(運河)が通り、その向こうは「田地(水田)が広がっていた
金毘羅街道を境にして南条町の東と西では、性格が異なる街だったようです。 
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑦それに対して新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記され東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって新たに計画されたので「新町」なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。 

丸亀市東河口

海岸線から見ていきましょう
海との境はぼかされていて、そこに「遠浅」といくつも書き込まれています。このあたりが砂州であったことを物語ります。砂上の上に丸亀城下町は築かれているのです。
 海岸線に沿って古町と書かれた家並みが続きます。これが生駒氏時代に宇多津からやってきた三浦の人たちの家々です。その南の畑の中に寺の字が三つ並んで書かれています。これが三浦の水夫の檀那寺で鵜足津(宇多津)から一緒に移ってきた寺です。
 御供所の砂州の東の先端は、真光寺東で東汐入川と土器川が合流した河口になります。ここには番所が描かれています。さらに、東汐入川を少し遡った所に「舟入」の文字がみえます。ここに船着きが場あったようです。
この絵図から約50年後の京極時代の元禄十年(1697)の「城下絵図」の略図です。

丸亀市東河口 元禄版
 ここには真光寺の東南と東北の二か所に番所が増えています。どうして、二つの番所があるのでしょうか?  研究者は次のように考えているようです。
①東汐入川河口番所 土器川を渡る人たちからの通行税徴収
②土器河口番所  港に出入りする船からの通行税徴収
 近世初期の丸亀港は、現在の福島町ではなく、土器川河口の東川口だったようです。二代藩主京極高豊が初めて丸亀へ帰った延宝四年(1676)7月朔日には、次のように記されています。
備中様御入部、御船御供所へ御着、御行列にて御入城遊ばされ候

とあります。三浦の海上交易者が利用する湊がここにあり、公的な湊も御供所に置かれていたようです。
また「丸亀繁昌記」の書き出しは、次のように始まります。
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参亀す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幡は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし。二軒茶屋のかゝり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かゝり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば
意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わらない。神霊ありがた象頭山金毘羅へ向かう道は丸亀に集まる。数多(あまた)の船宿が集まり、諸国の引合目印の幟が軒にひるがえり、○金印がのぞきみえる。二軒茶屋のあたりや、土器川河口の船着場の繁雑し、出船入り船や舫いを結ぶ船に、「お早いおつきで・・」と正月言葉が」かけられると、船子(水夫)は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば・・・

 ここからは、御供所の川口に上陸した金毘羅参拝客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が描かれています。三浦は水夫街で漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、大きな交易を行う者もいたようです。以前にお話ししたように、弥次喜多が乗った金毘羅船は、御供所の川口に着きます。そして、船頭が経営する旅籠で一泊を過ごします。道中記では、讃岐弁とのやりとりが面白おかしく展開していきます。三浦の水夫たちは、瀬戸内海を舞台に活躍する船主であったことを押さえておきます。
 話を元に戻します。土器川河口の東川口が公的な丸亀の港であったことです。物資を積んだ船は、東川口の番所を通り、東汐入川をさかのぼり、木材や藁などは風袋町の東南にある藩の材木置場や藁蔵へ運ばれました。
丸亀市米蔵

 昭和の初期ころまでは、東汐入川の両岸にある材木商に丸太などの木材が東河口から運ばれていたようです。米なども、満潮干潮を見ながら外堀の水位を考慮しつつ、外堀の北側中央の市民会館北交差点の東方付近にあった米揚場の雁木から荷揚げし、その南にある米蔵(旧市民会館付近)に納入していたと丸亀市史には書かれています。

 それが変化するのは、案外新しく文化三年(1806)に、福島湛甫ができて以後になるようです。天保初年には新堀湛甫も構築され、東川口は旅客の港としては寂れていきます。金毘羅船は福島方面に着くようになり、賑わいは移っていきます。
丸亀城 今昔比較図

  以上をまとめておくと
①丸亀城下町は南条町が起点となって発展した。
②「微髙地 + 西堀」という好条件に、「強制移住者」が南条町に居を構えた
③南条町は、金毘羅街道の東側が住民、西側は寺院が配置され寺町でもあった。
④金毘羅街道はお城を北から西に迂回し、南条町を通って中府町に南下していた
⑤お城の北側の舟入は、丸亀城の公的湊ではなく小規模なものであった。
⑥公的な湊は土器川河口の東川口にあった。
⑦ここからは東汐入川を通じて外堀にまで川船が入って行け、米などもこの運河で米蔵に運び込まれた。
⑧19世紀初頭に福島湛甫や新堀湛甫ができて、丸亀の玄関港は福島に移っていく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  
 「寺社の由緒記・縁起等は一般には信じ難い」といいながら丸亀市史は、山北八幡神社の由緒記を参考にして、お城が出来る前の丸亀周辺のことを探ろうとします。史料がないので、使えるものは批判的に使わなければ書けません。
山北八幡官の由緒記には、古代の丸亀浦について、次のように記されています。
①神功皇后が三韓へ出兵した帰途、この地の波越山(亀山=丸亀城)に風波を避けた折、土地の人が清水を献じ、船も修理した。
②波越山(亀山)の山麓は近くまで潮の満干があり、船造りや修理などをし、舟山神も祀っていた。
③波越山の形は円く、朝日によって西の方に長く影ができ、亀の這うのに似ており、土地の人は円亀山・神山と書き、「かみやま、かめやま」と呼んだ。
④国司讃岐守藤原楓磨が宝亀二年(771)宇佐八幡官に準じて祠をつくり祀った。この祠を土地の人は石清水八幡と尊崇し氏神とした。
ここからは、古くは亀山まで潮の干満が押し寄せていたこと、そこに浪越神が祀られていたこと、さらに八幡神が勧進され八幡神社が鎮座していたことが記されます。この八幡神社が山北八幡神社のようです。つまり「神山=亀山」として霊山でもあったことがうかがえます。
『万葉集』には、柿本人麻呂が丸亀の西にある「中之水門」から舟出して佐美島へ渡りつくった歌「玉藻よし 讃岐の国は国柄か……」があります。「中之水門=那珂郡の湊=中津」と考える人も多いようです。
「道隆寺温故記」には、延久五年(1073)国司讃岐守藤原隆任が、円亀の山北八幡を旧領に造営したと記されています。堀江港の交易管理管理センターとして機能した道隆寺の傘下に置かれていたようです。山北八幡神社を氏子して信仰する集団が、周辺にはいたこともうかがえます。
 古代の条里制遺構を見てみましょう
丸亀平野北部 条里制

⑥の丸亀城は、鵜足郡と那珂郡の境に立地することが分かります。条里で呼ぶと那珂郡1条24里あたりになるようです。しかし、丸亀城のある亀山周辺には条里制遺構は残っていません。23里より北に条里制が残っているのは微高性の尾根上地域が北に続く2条や4条だけです。
 現在の標高5mラインを仮想海岸線だったすると亀山の麓は海浜で、確かに満潮時には波が打ち寄せていたことが想像できます。そこに浪越神が祀られ、後には八幡宮が勧進されたというストーリーが考えられます。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

以前に見たように地質図からも丸亀城周辺は、砂州であったことが分かります。

南海通記には 『南海通記』、 次のように記します。
①享徳元年(1452)、 細川勝元が室町幕府の管領職となった
②その後に、細川家四天王と称せられた香川・香西・安富・奈良の四氏に讃岐の地を与えた。
③鵜足・那珂の旗頭になった奈良元安は、畿内を本領としていたが、子弟を讃岐に派遣し鵜足津の聖通寺山に居城させた。
④その下に、長尾・新目・本目・法勲寺・金倉寺・三谷寺・円亀の城があった
 ここには、15世紀半の奈良氏統治下の那珂郡には、円亀山に支城があったと記されています。しかし、考古学的には確かめられていません。
その後、阿波三好勢力の侵入の中で、鵜足津エリアは篠原氏が支配することになますが、これもわずかのことで、長宗我部元親の制圧を経て、豊臣秀吉の四国統一の時代に入っていきます。

短期間の仙石・尾藤氏の讃岐支配に代わって、 生駒親正が讃岐の領主としてやってきます。彼の下で讃岐は中世から近世への時代の転換をとげていくことになります。
生駒親正がやってきた頃の丸亀の様子は、どうだったのでしょうか?
『西讃府志』の「市井」には次のように記されています。
此地 今ノ米屋町ヲ限り東側ハ鵜足郡津野郷二属キ、西側ヨリ那珂郡杵原郷二属開城以前ハ海浜ノ村ニテ、杵原郷ハ丸亀浦卜唱ヘテ高四百六石八斗九升三合ノ田畝アリ 津野郷ハ土居村トイヒケルフ、慶長六年(1601)其北辺二宇多津ナル平山ノ里人フ移シ 始テ三浦卜呼テ高百七十二石八斗八升ノ田畝アリヽ(以下略)
 意訳変換しておくと
この地は、今の米屋町から東は鵜足郡津野郷に属し、西側は那珂郡杵原郷に属する。丸亀城が開城される前は、海浜の村で杵原郷ハ丸亀浦と呼ばれていた。石高は468石8斗9升3合の田畝があった。一方津野郷は土居村と呼ばれ、慶長六(1601)年に、この北辺に宇多津の平山の里人を移住させて三浦と呼ぶようになった。その石高は172石8斗8升である。(以下略)

 ここからは、先ほど見たように丸亀は鵜足郡と那珂郡の境に位置して、米屋町より西は、那珂郡杵原郷に属する丸亀浦で、東は鵜足郡津郷の上居村だったことが分かります。生駒時代までに、海→海浜→農漁村へと「成長」していったようです。
 周辺の地形復元でも、那珂郡の海岸線には、いくつかの砂堆が南北に走っていたことが分かっています。扇状地としての丸亀平野が終わるとそこには、東西に砂堆が広がっていたことは、以前にもお話ししました。
丸亀城周辺 正保国絵図

元禄十年(1697)の「城下絵図」には、現在の通町の中ほどまでが入海となっています。③の砂州上に、三浦からやって来た人たちが人々が住み着きます。④の中洲は「中須賀」と呼ばれ、後に福島町に発展していきます。
 関ヶ原の戦いの後に、西国雄藩を押さえるために生駒親正・一正父子は高松城と丸亀城・引田城の同時築城を始めます。
それは瀬戸内海を北上してくる毛利軍や豊臣恩顧の大名達を仮想敵としての対応でした。このような緊張関係の中で、丸亀城や高松城は築かれたことは以前にお話ししました。生駒親正は西讃岐の鎮として亀山に築城し、この地を円亀と称すようになります。これが丸亀城の誕生になります。
 築城に先だって土器川と金倉川のルート変更を行ったことが指摘されています。
 亀山の東にある鵜足・那珂両郡の境界を流れていた土器川を約800mほど東へ移した。その川跡が外堀であるという説もあるようです。この外堀は、東汐入川によって海に連なります。
一方西側では、金倉川が北にある砂州によって流れを東へ東へと変えて、現在の西汐入川のルートでを流れていたようです。
金倉川流路変更 

これも上金倉で流路変更を行い、現在のルートにしたことが指摘されています。そして、外堀よりL字形の掘割をつくり海に連絡するようにします。こうして、土器川と金倉川の流路変更を行うことで、外堀の東西から海に続く東汐入川と西の掘割の間が城下となります。

丸亀城 生駒時代

尊経閣文庫の所蔵する生駒時代の丸亀城の絵図「讃州丸亀」を見てみましょう。
亀山の山頂には矢倉が設けられ、山下の北麓には山下屋敷があり、それらを囲んで内堀があります。内堀とその外にある外堀との間を侍屋敷とし、外堀の北方を城下町としています。築城以前は、こここは、海浜の砂堆で畑もあったかもしれません。
山下屋敷は、藩主一族かそれに次ぐ高級武土の居館だと研究者は考えているようです。この山下屋敷は、東・北・西の三方は高さ八間の石垣に囲まれた高台で、南は山腹に連なっています。広さは東西八〇間、南北三〇間の長方形の台地で、そこに屋敷があったようです。現在の紀念碑・観光案内所・うるし林の南の部分にあたるエリアです。この高台の北端は内堀より約20間南に当たります。
 丸亀城築城に伴い城下町形成も行われます。
そのために移住政策がとられます。記録に残る移住者達を視ておきましょう
①那珂郡の郡家に大池をつくり、南条郡国分村の関池を拡張し、香西郡笠井村の苔掛池などを掘ったと伝えられます。このとき、関池付近の住人が城下へ移されところが南条町であると云われます。南条町は地形的には亀山の西に続く高地にあたり、丸亀浦ではもっとも高く、もっとも早く人々が住み着き人家のできたところのようです。
丸亀市南条町塩飽町

また、南条町は西汐入川と外堀を結ぶ運河が城乾小学校の東側から北向地蔵堂を経て外堀にもつながっていました。いわゆる運輸交通網に面していたエリアです。ここに最初の人々が居を構えるのは納得できます。
② 豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、生駒氏が朝鮮に出兵した時には、塩飽の水夫や鵜足津の三浦の水夫が従軍したと云われます。水軍整備の一環として、塩飽島民の一部が城下へ移されたと伝えられます。これらの人々は、南条町の東側に定住地が指定されたようです。これが塩飽町と呼ばれるようになります。

宇多津平山からの三浦漁夫の移住 
慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐことが自らの存在意義になると考えます。徳川秀忠をとうせんぼした真田家の瀬戸内版と云えばいいのでしょうか。そのための水城築城と水軍の組織強化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を、関ヶ原以後に行ったのは、このようなことが背景にあるようです。

丸亀市平山

 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に移住さています。この三浦とは現在の御供所・北平山・西平山の三町になります。彼らをただの漁民とか水夫と見ると、本質は見えなくなります。塩飽の人名とアナロジーでとらえた方がよさそうです。この3つの浦は、中世には活発に交易活動を営んでおり、多くの廻船があり、交易業者がいた地区です。彼らはこれより前の文禄元年(1592)、 豊臣秀吉の命により朝鮮へ出兵した生駒親正に、 塩飽水夫650人、三浦の水夫280人が従軍しています。塩飽水軍と共に、水夫としてだけでなく、後方物資の輸送などにも関わっていたようです。彼らを城下町の海沿いエリアに「移住」させるということは何を狙っていたのか考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
妙法寺(香川県丸亀市富屋町/仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)) - Yahoo!ロコ
妙法寺
 生駒氏以前には、丸亀にはお寺はほとんどなかったようです。
古いお寺としては文正元年(1466)に、鵜足津から中府へ移り東福寺と称し、さらに天正年間高松へ移り見性寺と改称された寺があるくらいです。多くの寺社は、生駒氏の城下町形成に伴って移って(移されて?)きたようです。その例として丸亀市史が挙げるのが、次の寺院です。
①豊田郡坂本村から日蓮宗不受不施派であった妙法寺
②鵜足津から丸亀へ、さらに高松へと移った日妙寺
③聖通寺山麓から280人の水夫の移住に伴い、真光寺・定福寺・大善院・吉祥院・威徳院・円光寺などが丸亀の三浦に移ってきます
これらの寺のうち定福寺・大善院・吉祥院・威徳院は、丸亀城の鎮護として鬼門に当たる北東に並んで建立され、俗に寺町四か寺と称されるようになります。
山北八幡宮と御野屋敷跡(丸亀市) | どこいっきょん?
山北八幡神社
亀山の南にあるのに、山北八幡と云うのはどうして?
 先ほど見たように山北八幡宮は、もともとは亀山の北麓に鎮座していました。そのため「山北」と呼ばれていました。ところが築城のために移転させられ、現在の杵原村の皇子官の社地に移りました。この結果、亀山の南に鎮座ずることになりました。しかし、社名は「山北八幡」のままです。
富屋町の稲荷大明神も田村から慶長四年(1599)に移ってきたと伝えられます。
移転してきた時は、社殿のすぐ北まで海水が満ちていたと云います。築城とともに人が集まり、上下の南条町を中心に、塩飽町、 さらにその東に兵庫町(現富屋町)、 北に横町(現本町)、浜町へと人家が広がり、その家々に飲み込まれていったようです。
「生駒記」には慶長七年、一正が丸亀城から高松城に移り、城代を置いたとあります。このときには、町人の中から高松へ殿様に付いていった人たちもいたと云われます。現在高松にある商店街丸亀町は、このときに丸亀からの移住者によって作られた町とされます。私には「希望移住」と云うよりも「指名移住」であったようにも思えます。
お城ウンチク(松江城・萩城)│inazou blog

 元和元(1615)年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると一国一城令が出され、丸亀城は廃城になります。
私は、これに伴い城下町も消滅したのかと思っていました。しかし、どうもそうではないようです。生駒時代の末期に当たる寛永十七年(1640)に記された「生駒高俊公御領分讃州郡村丼惣高覚帳」の丸亀城下に関係のある所を見てみましょう。
那珂郡の内
一高四〇六石八斗九升一合    円(丸)亀浦
内 一八石 古作              見性寺領
四七石三斗五升七合          新田悪所
鵜足郡の内
一高一七二石八斗八升            三浦
翌十八年の「讃岐国内五万石領之小物成」に、
仲郡之内
一 銀子二一五匁 但横町此銀二而諸役免許      円亀村
一 米三石 但南条町上ノ町此米二而諸役免許    同 村
一 米五石 但三町四反田畑共二請米          同 村
一 塩八五一俵二斗九升六合 但一か月二      同 村
宇足郡之内
一 千鯛一〇〇〇枚                三浦運上
一 鱗之子一五〇腸               同 所
このとき、田村の総高が803石余です。円亀浦は406石ですので、農地は、田村の約半分ぐらいはあり、相当広い農地がお城の北側に広がっていたことが想像できます。同じように、三浦は172石です。これは円亀浦の約四割強に当たります。ここにも、ある程度の広さの農地があったことがうかがえます。農地が広がるなかに街並みが続いていたようです。
ここで丸亀市史が指摘するのは、小物成(雑税)として円亀村では銀子や米を上納していることです。丸亀村からは「銀子二一五匁」が収められ、その内の「横町此銀二而諸役免許」と「諸役免許」の特権が与えられています。ここからは商人や海運者などが廃城後も住み着いていたことがうかがえます。
 また塩851俵とあります。これは塩屋村からの上納品と考えられますが、すでにこれだけの塩の生産力があったことを示します。また、三浦からは運上(雑税)として「干鯛・鱗之子」が納めています。これは東讃大内郡の「煎海鼠・海鼠腸」とともに讃岐の特産物で、江戸・京では珍重されていたようです。三浦に移住してきた水夫達は、漁民として活動し、特産品の加工なども行っていたことが分かります。
   私は、政治的に強制力を持って集められた集団なので、一国一城令による丸亀城の取り壊しと共に、人々は去り、町は消えたように思っていました。しかし、ここからうかがえるのは、生駒藩が形成した旧城下町には、集められた住民はそのまま丸亀に残って、経済活動を続けていた者の方が多かったことが分かります。それは、横町のようにここに住む限りは、様々な特権や免除が約束されていたからでしょう。城は消えたも、街は残ったとしておきましょう。
丸亀城 正保国絵図注記版

正保の城絵図です。これは山崎藩時代に幕府に提出されたものです。
地図では古町を黒く塗りつぶしています。
⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前からあった街並みを指します。古町は微髙地の南条町を中心に、生駒時代に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していった所といえるようです。
 お城がなくなっても、水夫や海運業者や商人たちは残って経済活動を続けていたことが裏付けられます。

丸亀城 正保国絵図古町と新町
⑦新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。
このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記された広い場所が東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって、計画された町なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。
20200619074737

  以上をまとめておくと
①丸亀城築城以前は、亀山まで海が迫り、遠浅の砂浜が土器川から金倉川まで続いていた。
②このエリアが、古代の条里制施行の範囲外となっていることも「低湿地」説を裏付ける
③そのため生駒氏は、土器川・金倉川のルート変更を行い、水害からの防止策を講じた
④その上で、亀山を中心とする縄張りと城下町造りが始まった
⑤最初に街並みが形成されたのは亀山から西の城乾小学校に続く微髙地で、ここに南条町が出来た。
⑥その後、この南条町を中心とする微髙地に、塩飽町などの街並みが形成される。これが「古町」であった。
⑦一国一城令で殿様が高松に去った後も、古町の住人達はこの地を去らずに、丸亀での生活を続けた。
⑧讃岐東西分割後に、西讃に入ってきた山崎藩は、旧城下町の経済活動が活発に行われていた丸亀にお城を「復興」することにした。
⑨そして、古町の東側に新町を計画した。しかし、その東は畑や水田が続いていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 



 満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治維新になって決壊していた満濃池を改修した後の水掛かり図と用水路を描いた絵図です。これは、丸亀平野のそれぞれの藩図や天領が色分けされていて、その領域がよく分かります。
草色 → 丸亀領
桃色 → 高松領
白色 → 多度津領
黄色 → 池御領(天領)
赤色 → 金毘羅大権現 金光院寺領(朱印地)
 これを見ていて、改めて思うのは丸亀城のすぐ南は、高松藩の領土だということです。高松藩と丸亀藩の「自然国境」は、土器川でなくて金倉川だということです。そして丸亀城は領土の一番東の隅にあります。どうして、領域の中央でなく東端が選ばれたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「直井武久 丸亀城について  県立文書館紀要創刊号」です。

まずは、生駒騒動後に讃岐は東西に分けられることになります
生駒家は生駒騒動で寛永17年(1640)秋田の矢島へ転封になります。幕府は讃岐の接収と次の領主への引渡準備のために、摂津国尼崎城主の青山幸成を讃岐国御使として派遣します。
 この時に幕府は青山に「讃岐を東二、西一の割合に分割」せよと指示しています。讃岐へやってきた青山幸成は各地を検分した後に、幕府の指示に従って、分割ラインを引きます。「東二、西一」の割合だと、だいたい鵜足郡と那珂郡の郡境が境になります。具体的には土器川を越えて那珂郡の半分は、東讃高松藩の領地になります。これだと土器村は鵜足郡なので、生駒氏が城を築いていた亀山の東三分の一くらいは東領になってしまいます。

讃岐国郡名 那珂郡

 次に西讃領主としてやってくる山崎氏には「城地は見立てて決定」と指示しています。お城をどこに置くかは入国後に調査して決定させるという方向だったようです。そのため青山は、亀山にお城を築く場合の事も考えて、土器村は鵜足郡に属していましたが西讃に入れます。さらに、土器川の西側とお城の北側までも、西讃に入れて線引きを行います。
 こうして、土居村(現土居町)や風袋町、霞町などは鵜足郡ですが西讃に入りました。その分の代償として、松亀城の南側では土器川を越えて金倉川まで高松藩領になります。丸亀の南部では、国境線が金倉川となったのです。こうして、東讃は12万石、西讃は5、3万石という石高で讃岐の分割ラインが決められました。西讃の領地は豊田郡、三野郡、多度郡、那珂郡のうち中府・塩屋・津森・今津・田村・山北・金倉・櫛梨・佐文・西七箇村、鵜足郡の土居村で計53000石になります。
青山幸成は、那珂郡で線引仕置を終えた後に、こんな感想を漏らしたと伝えられます。
「西讃の城地は、観音寺の琴弾山がよい。在所は穀物も豊かだし、もっともよいところだと思う。けれども箱のみさき(庄内藩半島)が突き出て、そのうえ隧灘を受けている。ここに決めるのは、後の領主の意見によるべきである。このほかでは、丸亀の亀山がよいと思うが、五万三〇〇〇石では維持するのがむずかしいであろう。しかし大志のある領主は、これを望むかもしれないから、東讃領に近接していて不適当ではあるが、亀山を西讃に入れておく。城地としては多分、三野郡下高瀬か、多度郡下吉田辺りが選ばれるだろう」
 
 丸亀城を維持するには、五万石ぐらいの大名では無理だという見方をしていたことが分かります。。

西讃の城主としてやって来ることになった山崎家を見ておきましょう
成羽愛宕大花火の起源

 山崎堅家は、もともとは彦根の出身です。彦根の西に荒神山という山と山崎山という山があります、この山崎山に本拠を構えていたようです。天正10(1582)年4月21日の本能寺の変直前に織田信長が、堅家の館へ来て茶を飲んだということが『信長公記』に記されています。堅家の子が家盛、家盛の長男に家勝、次男に家治と続きます。この次男・家治が、丸亀にやってくることになります。
 長男の家勝は、関ヶ原の戦いに大坂方の西軍につきました。そして今の三重県の津市にある安濃城を攻め落としますが、西軍は関ヶ原で負けてしまいます。それで、家勝は伊吹山へ逃れそこで隠れ住みます。
 一方、弟の家治の方は東軍の徳川方について、その後とんとん拍子に次のように出世していきます。
①彦根の山崎山
②兵庫県の三田
③三田から鳥取県の若桜
④岡山県の成羽へ、
⑤成羽から肥後天草郡富岡城4万石の城主として、島原の乱後の戦後処理・整理(富岡城の修築など)
 島原の乱で焼け落ちた富岡城を修復して、わずか3年で寛永十八年(1641)に西讃の城主に指名されます。丸亀にやって来たのは翌年寛永19年9月のことです。家治が丸亀へ来たときは、生駒さんの時の城は、一国一城令でこわされています。寛永四年(1627)の隠密の報告書にも、丸亀に城があったという記録はありません。幕府からは「城地は見立てて決定」と指示されているので、どこに城を構えても良かったのです。家治の築城術を評価していたようにも思えます。
成羽愛宕大花火の起源

それでは、どこに作るのか?
 
周囲のお城の立地条件を参考にしてみると、高松城、今治城・岡山城・福山城・三原城は、水城がほとんどです。近世に入って瀬戸内沿いに築かれたお城は、海に開かれた性格を持ちます。海上交通を監視・防衛すると同時に、交易拠点としての機能ももった水城が主流になっていたのです。さらに、山崎家治は、彦根出身で琵琶湖の水上交通の重要性は肌身で感じていたはずです。内陸にお城(城下町)を築こうという考えは、なかったでしょう。近世の城は、海に開けて、背後に経済的後背地を持つという条件で選ぶというのが流行になっています。
 家治は、初め三野郡勝間(高瀬町)の仮の館に住み、 城地を決めるため琴弾山(観音寺市)・下高瀬(三野町)・下吉田(善通寺市)を中心に領内を見てまわります。候補地としてあがったのは次の4ヶ所だったようです。
①観音寺の琴弾山
②高瀬の下高瀬
③多度津
④丸亀の亀山
4つの候補地のプラス面とマイナス面を検討しておきましょう。
①の観音寺については、琴弾八幡の門前町として活発な海上交易行う港があります。生駒時代には観音寺に枝城もありました。しかし、地理的に西に偏ります。また、瀬戸内海の海上交易路という海のハイウエーからは、庄内半島などがあり奥まった位置になります。
②の高瀬は、地理的には領土の真ん中です。しかし、当時は三野平野は大きな入り江でした。後背地が小さく将来性的には不安が残ります
③は、中世は香川氏が拠点としていた所で、居館(山城は天霧城)があった現在の桃陵公園が候補地となります。
④は領地の中で、最も東の端ですぐ東は高松藩です。地理的な偏りはありますがヒンターランドは広大な丸亀平野が金毘羅に向かって広がります。また、目の前の塩飽は海のハイウエーのサービスエリアとして、繁栄しています。家治の中では、③と④が最終候補として残り、最後に「亀山に城を築く」という決定がされたのではないかと私は考えています。 老臣たちは青山幸成の意見を参考にするよう進言しますが、家治は自説を守り亀山を選んだと伝えられます。

 家治は新城建設地を丸亀として幕府に報告します。
そして、幕府から下の「丸亀城取立に付いて老中連署状」ををもらっています。ここには次のように書かれています。
丸亀城取立に付いて老中連署状

丸亀城取立候について、銀三〇〇貫目これを下され候、すなわち大坂御金奉行衆え、添状相調え越候間受け取らるべく候、然れば差し当たり普請の外は、連々以て申しつくべきの旨仰せいだされ候、因って故当年参勤の儀は御赦し置きなされ候間、其意を得られ可く候、恐々謹言
二月六日                 阿部対馬守重次(花押)
阿部豊後守忠秋(花押)
松平伊豆守信綱(花押)
山崎甲斐守殿

「丸亀に城を築くについて銀三百貫をお前にやる。大坂の御金奉行からもらえ、そこへ添状は出してあるから」といった意味です。最後に当時の老中3人の花押があります。新城建設の補助金300貫が幕府から出されていることは驚きです。各藩のことは各自で取り仕切れという建前から、お城は全て自己負担で建てられるものと思っていたのですが、そうではないようです。
幕府からの「銀三百貫」というのは、どのくらいの価値なのでしょうか?
家治が富岡にいた頃の記録に「米一石=銀35匁」というのがあります。一石=一両で計算すると300貫÷35匁=8571石で約8570両ということになります。山崎藩の年間税収の1/3程度のようです。3人の老中の名前と花押が並び、最後にあて先の山崎甲斐守殿と記されています。これが家治のことのようです。

 家治が作った丸亀城がどんなものだったのか見ていきましょう
幕府は正保元年(1644)、二回目の国絵図・郷帳の提出を諸大名に命じて、同時に城絵図も出させています。
これが絵図が、正保の国絵図と城絵図です。山崎家治が丸亀城の再築城を開始するのは寛永19(1642)年9月のことでした。
1 讃岐国丸亀絵図
丸亀城(正保の城絵図) 
再建が進む丸亀城の様子が幕府に提出した城絵図には描かれているはずです。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスでも見ることができて拡大・縮小が自由にできます。
1丸亀城 縄張図G
城郭部分を拡大すると上図のようになります

これで、丸亀城の当時の縄張りを見てみると次のようになります。
①亀山の周囲に、東西に28間、南北は東は216間・西190間、幅20間の堀をめぐらし
②山に石垣を積み立てて三ノ丸、その上にまた石垣を積み本丸とニノ丸がつくられ
③本丸・ニノ丸の隅には二層の櫓を建て、櫓の間は渡り廊下をもつ多聞塀で連絡されていた。
④本丸は山頂西寄りにあり、南北29間、東西は南方で23間、北方では南より約10間の長い鍵形で、
⑤北側中央には三層の櫓(矢倉、現在の天守閣)が設けられ、
⑥ニノ丸の南側中央には二層の櫓、東側には櫓門がつくられていた。
⑦当時の大手門は南東にあり、三ノ丸の南に続いていた。
⑧山の北側には藩主の居館と思われる山下屋敷の記載がある。
1 丸亀城 生駒時代

生駒時代の丸亀城


これを生駒時代と比べてみる比べて見て、研究者は次のように指摘します。
①天守台などのある位置が違っている。
②二の丸が生駒時代よりも狭くなっている。
③山崎城は、本丸と二の丸の周りに新しく三の丸が作られている
④「五の郭」が山下屋敷となっている
⑤生駒時代の城は「一の郭、二の郭、三の郭、四の郭、五の郭」とあったのが、山崎時代の城では、本丸、二の丸、そして三の丸が回りを取り囲んでいるようになっている。
ちなみに現在の丸亀城では、山下屋敷はありません。
 次に、丸亀城の断面図を見てみましょう。
1 丸亀城断面図

黒い部分が生駒時代のもので、白い部分が山崎時代のもので、東側から見ている図です。
①生駒時代の黒い部分は、天守台が一番上にあって、その下に一の郭があります。
②山崎さんの城は、この一の郭より5,6mぐらい上げて本丸を造っていることが分かります。
③二の丸は本丸の東側と北側にあって南側にはありません。
④三の丸は二の丸と本丸の周囲に造られています。
発掘調査で、現在の石垣側の端から3mぐらい入ったところを掘ってみると、生駒時代の城の石垣の跡が出てきました。ここからは山崎時代の本丸が5,6mかさ上げしたことがうかがえます。

出来上がった石垣の上に建ち上がった天守閣はどんな姿だったのでしょうか?
1 丸亀城天守閣 山崎時代

資料⑧「天守復元立面図」は、左の図が西側から見た天守閣で、右が南側から見たものです。左の図の一階の部分に白いところがありますが、これは多聞櫓のあったところで、幅二間半の廊下のような多聞櫓がこの天守閣に続いていたところです。
もう一度、山崎藩時代の城郭図を見てみましょう 
讃岐国丸亀絵図2

よく見ると斜面であった城の北側(海側)部分に、石垣が見えます。
 張り出して石垣を築いたので、そのために必要な土や石は、方々から集めています。たとえば内堀を東と西で山麓まで広げた際に掘り出した土や、山下屋敷の土をとって上へ運んだようです。こうして山麓直下まで堀を造れば、山下屋敷へ山伝いに入ってくることを防げます。張り出した石垣は上手な石工が見事な勾配を造りました。扇の勾配といって全国でも有名な石垣になっています。
   これは瀬戸内海をゆく船からは、良い目印となったでしょうし、モニュメントの役割も果たしたかもしれません。古墳時代に明石に築かれた五色塚古墳の石葺が、沖ゆく船への権威モニュメントとなったのと同じような効果があったのかもしれないと勝手に考えています。
丸亀城 正保国絵図拡大

丸亀城は、石垣の美が特色の一つとして挙げられます。    
先ほど見たように家治は、徳川家が復興した大阪城の天守閣石垣の入口周辺を担当しています。石垣作りには定評があったようです。丸亀城に石垣にも、それは活かされたのでしょう。この石垣を築くのに、家治が用いたのが羽坂重三郎だと伝えられています。
丸亀散歩~丸亀城を訪ねて(2015 11 21) - なかちゃんの断腸亭日常
伝重三郎の墓
彼の墓は、城の石垣の余材を用いたと云われる「伝重三郎の墓」が南条町の寿覚院にはあります。墓は全面に字が刻まれていたようですが、今は読み取れる字は少なく、「南無阿弥陀仏・為・第二回忌・正保三年八月三日」がかろうじて読みとれるようです。
  ここからは「南無阿弥陀仏」とあるので、真宗信者であったこと、正保3年が2回忌になることなどがうかがえます。お城の再建中に亡くなっていることになります。彼の生・没年、経歴等素性は、史料がないのではっきりとしないようです。石工ではなく、山崎時代の普請方で、城の縄張りをした人ではなかろうかという説もあることを丸亀市史は紹介しています。
   この石垣は、技術的に難しい急勾配の工事だったようです。そのためか石垣が何度も崩れます。家治に続いて俊家の時代には、石垣の修理工事や、堀を浚い、櫓を建てるなどの普請真性が幕府に出されています。幕府に修理を申し出て許されたのが資料⑩の史料です。
折りたたんだ文書なので、下側は逆向きになります。これが「修築についての老中の連署状」です。
1丸亀城 修築についての老中の連署状

丸亀の城の三の丸坤の角の石垣破損について、同所の櫓の壊れた石垣の築き直し、櫓立てること、並びに親甲斐守家治が上意を伺ってあった所々の普請の内、石垣・櫓門・多門・山下の屋敷構えの石垣等、同じく東南の堀浚えの事、絵図のとおり其意を得侯、もっとも前の奉書の趣を守られ、普請連々以て申し付けられ可く候、恐々謹言
慶安二丑正月二十三日                 阿部豊後守忠秋(花押)
  阿部対馬守重次(花押)
山崎志摩守殿                             松平伊豆守信綱(花押)
意訳変換しておくと
丸亀城の三の丸坤の角の石垣破損について、この箇所の櫓の壊れた石垣の築き直しと、櫓を建てること、について以前に家治から伺いがあった。これに対して石垣・櫓門・多門・山下の屋敷構えの石垣や東南の堀浚えの件についても、絵図のとおり普請を行う事を申しつける。

先ほど見た再建許可所である「丸亀城取立に付いて老中連署状」と差出人の3人の老中名は同じです。しかし、あて先は山崎志摩守となっています。初代の家治が亡くなって二代目俊家に代替えしています。この文書が出された前年の慶安1(1648)3月17日に、初代丸亀藩主山崎家治は55歳で亡くなっています。つまり家治によって築かれた石垣は、すぐに崩れたことになります。 お城の改修には幕府の許可が必要です。この文書は、丸亀藩からの許可申請に対する幕府からの許可状です。この達しに従って普請が行われ、堀浚えには八月初めから取り掛かり九月に終わり、橋も九月末には完成したようです。
山崎家三代の城主の統治年数を見ると、僅かな期間で交替したことが分かります。
丸亀藩山崎家領主一覧

山崎家治は慶安元年(1648)に55歳で没し、子の俊家が跡を継ぎますが、俊家も三年後の慶安4年に35歳で没します。このとき嗣子虎之助治頼は三歳です。そして、治頼も明暦三年(1557)3月6日に没し、山崎家は所領没収されます。これに先だって、俊家の弟の豊治が、6000石を分けられて仁保(仁尾)に居住してました。彼は備中成羽で五〇〇〇石を賜り、 以来その子孫は成羽領主として明治維新を迎えることになったようです。
  さて、山崎藩によって再建・改修された丸亀城はどうなっていくのでしょうか。それはまた、別の機会に・・・
丸亀城絵図3.33jpg

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「直井武久 丸亀城について  県立文書館紀要創刊号」

松尾大社 | いり豆 歴史談義 - 楽天ブログ

 秦氏といえば山城の秦氏が有名ですが、河内にも多くの秦氏がいたようです。京都に行くと、松尾大社・伏見稲荷大社・木島坐天照御魂神社・養蚕神社・大酒神社や国法第一号の「弥勒菩薩半珈思惟像」のある広隆寺などがあります。少し「事前学習」すると、これらの寺社は渡来集団の秦氏に関係したものであったことが分かります。そして、中・高校でも平安京遷都の背景の一つを「山城の秦氏の協力」と習います。そのためか京都が秦氏の本拠地のように思われがちです。
 しかし、これらの神社や寺のある太秦は、河内出身の泰氏が京(左京)に移住し、山城の秦氏と共に祀った神社や寺のようです。
 長岡京や平安京の造営には、河内出身の秦氏が深く関わっていたようです。それなのにどうして、河内の秦氏が無視されるようになったのかを見ていくことにします。テキストは「大和岩雄  正史はなぜ河内の秦氏を無視するのか  続秦氏の研究23P」です

  結論から言うと、九世紀初頭に完成した『新撰姓氏録』の中に河内国出身の秦氏のことが書かれていないためです。どうして書かれなかったのでしょうか?
 その理由は、河内の秦集団は、「雑」に組み入れられていた秦の民(秦人・秦公・秦姓)であったからと研究者は考えているようです。

河内には秦集団の残した仕事がいくつもあります。まずは、その仕事ぶりを見ていきましょう。
百舌鳥古墳群と古市古墳群(ふじいでら歴史紀行27)/藤井寺市

五世紀代の古市古墳群エリア内には「河内古市大溝」と呼ばれる人工河川があります。
古市古墳群 探訪報告 | かぎろひNOW

これは古市古墳群と同時代に、作られたもので野上丈助氏は、次のように述べています。
「『応神陵』を作るとすれば、大水川・大乗川の流路を制御しなければ、古墳自身がもたない地形的な問題があった。そのため大溝は「『仲哀陵』『応神陵』の巨大古墳の築造を契機にして建設され、後に渡来氏族が定着することで大溝の役割・性格が変った」

 渡来氏族のうち、最も多かったのが秦の民であることは、秦の民(秦人)が河内・摂津の河・港の工事をしたことを記す『古事記』の記事からもうかがえます。秦の民が河内開発プロジェクトのパイオニアだったようです。それは、それまでになかった「新兵器」を秦氏が持っていたからです。
森浩一氏は、その「新兵器」のことを次のように指摘します。

「五世紀後半になると鉄製の鍬・鋤が使用されるが、農耕用より河川・池の築堤・灌漑用水路の土木工事などの工事用具として利用された」

真弓常忠も、『日本古代祭祀と鉄』で次のように述べています。
古墳時代の鉄製品は、五世紀初頭を中心とした約一世紀間に構築された畿内の大古墳にもっとも多くの鉄製武器類を副葬することを報告している。それらの鉄製品が、(中略)
 新しい帰化系鍛冶集団の指導によって製作されたことは疑いない。かれらによって古墳時代の生産はさらに一段の進歩を示したであろう。そのことを窺わしめるのが、応神・仁徳朝における河内を中心として集められた大規模な土木工事である。難波堀江・茨田堤・感玖の大溝の築造、百舌鳥古墳群・古市古墳群にみられる巨大な墳丘造築等、五世紀代にこれだけの土木工事が進められるには、絶対に鉄製器具が必要であり、そのためには原始的露天タタラや手吹子による幼稚なタタラ炉ではなく、かなり進んだ製鉄技術があったとしなければならず、その新しい製鉄技術をもたらしたのが(略)韓鍛冶であった。
 最後に記される「韓鍛冶」を、大和氏は「河内の秦の民」と読み替えます。

陪冢出土の工具一覧
5世紀になると畿内の古墳からは鉄製工具が出土するようになります。
 その数は河内が最も多く、古市古墳群の陪塚から出土しています。どうして巨大前方後円墳からは出てこないで陪塚から出てくるのでしょうか?
陪塚/羽曳野市
巨大古墳と陪塚

陪塚に埋納されている「農具」は、農業用でなく巨大古墳築造のための土木工事用に用いられた鉄製工具と森浩一氏は指摘していました。単なる「農耕具」ではないのです。渡来人がもたらした新しい鉄製工具は、従来の工具と比べると大きな効果をあげます。
神戸市埋蔵文化財センター:収蔵資料紹介:古墳時代収蔵資料一覧:鉄製農工具(てつせいのうこうぐ)
古墳時代の農具・工具 
窪田蔵郎は『鉄の生活史』で、次のように述べています
「農具の鋤、鍬にしても、弥生式文化期より鉄製農具が普及したとはいうものの、庶民にはまったく高嶺の花であって、貴族、豪族から貸与されてその所有地の耕作に従事することがおもで、例外的に自作をする場合には鉄鍬は使わしてもらえず、曲がり木で造った木鍬のようなものが使用されていたようである。(中略)
大古墳を築造するほどの貴族や豪族が、鋤、鍬、のみ、やりがんな、やっとこなどのような農工具類を副葬している理由は、このような生産手段である鉄器の多量な所有者であるというプライドにもとづくものと考えなければ理解できない」
 「プライド=威信財」というによる面もあったのかもしれません。
鉄製の鍬・鋤は農具としてだけの使用されたものではなかったと、森浩一は次のように指摘しています。

河内国の古市古墳群にの大谷古墳出土の鍬・鋤先の幅は76㎜、大和の御所市校上錯子塚古墳の74㎜で、普通より狭いので、「実用品ではなく鉄製模造品とみる説もあるが、鍬・鋤先は農耕以外の土木作業では掘撃する土地条件によっては刀幅の狭いものも必要だから、模造品とはいえない」

 すでに農地になった土地の農作業用でなく、荒地を農地にし、水を引く土木作業用の「特殊製品」だったとします。このような新兵器を持って、渡来人達は河内にやって来て、巨大古墳を造営し、河川ルートを変更し、湿田を耕地化していったのです。これは「新兵器」なくしてはできません。 そのためには「鍛冶技術」も必要です。彼らは土木技術者であり、そこで使用する工具を自弁する鍛冶集団でもあり、その原料を確保するための鉱山開発者でもあったのです。それが秦の民でした。


秦の民は、いつ、どこからやってきたのでしょうか 
秦の民(秦人)の故郷である伽耶の情勢を見ておきましょう。
伽耶の主要国は以下の通りです。
伽耶国家群一覧

 金海国のあった金海市の大成洞古墳群は、1990年から発掘調査が進んでいます。申敬激は金海の大成洞古墳群、東来の福泉洞古墳群の調査から次のように指摘します。
「『金海型木榔墓』『慶州型木椰墓』と日本の広域圏での定型化した(朝鮮半島南部における)前方後円墳の出現は、相互に連動するものと理解したい。いいかえれば日本の定型化した前方後円墳の出現契機は、鉄の主な入手源である伽耶地域の深刻な情勢変動とも深い関連があろう」

 「深刻な情勢変動」とは、金海国に対する新羅の圧力です。
倭国が確保してきた鉄が新羅によって脅かされるようになったことを指摘しています。「4世紀には対倭交渉が北部九州から、大和に転換した」とみています。 それまでは倭との交渉は「鉄」をとおしてでした。そのため金海から倭への大量の移住はなかったとします。移住が始まるのは広開王が伽耶まで進出した以後です。新羅が高句麗と組んで真先に侵攻したのは金海の金官国でした。
アナバコリア / 金海市 紹介 김해시 소개
孫明助は5世紀の伽耶の鉄生産について、次のように述べています。
4世紀までは弁韓・辰韓の鉄器文化をそのまま受け継ぎ、伽耶地域では金海勢力が中心になって鉄生産と流通国の掌握がなされてきた。それが5世紀に入り、そのような一律的な体制は崩壊し、新羅勢力の進出とともに伽耶の各国別の鉄生産は本格化されたものと見られる。中略
 5世紀に入り、金海勢力の没落で、鉄生産地は親新羅勢力の東茉の福泉洞勢力の東大地域がその生産流通網を受け継ぐことになり、同時期に咸安と陝川の玉田地域は新しい地域別鉄生産と流通の中心地として浮上する。このような様相は鉄器製作素材の大型鉄挺および有刺利器の出現と独自の形の鋳造鉄斧の製作、新しい形の鉄器製作素材の俸状鉄製品の発生などから見ることができる。
 したがって、伽耶の5世紀の鉄生産は、既存の洛東江の河口域(金海地域)と南旨を境とする南江一帯の咸安圏域、黄江中心の玉田勢力の大伽耶圏域など、大きく三つの生産流通圏を区画することができる。
  ここには、新羅の進出で、金海での独占的鉄生産が崩壊したことが指摘されています。そして、金海勢力について次のように述べます。
  「金海勢力の鉄生産は親新羅勢力の東莱の福泉洞勢力がその生産流通権を受け継ぐことになる。とくに、福泉洞22号墳のように長さ50㎝前後の大型鉄挺の出現は、既存の金海勢力が所有していた鉄生産と流通網がそのまま福泉洞勢カヘ移ってきたことを小す」
  
 ここには、それまでの金海勢力の鉄生産を担っていた勢力が「新新羅」勢力に取って代わられたことが指摘されています。それでは「金海勢力」の採掘・鍛冶の鉱人・工人たちは、どこへいったのでしょうか。その答えが「倭国へ移住」です。「金海勢力」の地は、秦の民の故郷でした。故郷を失った泰の民は、ヤマト政権の手引きで河内への入植を進めたと研究者は考えているようです。それは5世紀前半から6世紀前半までの百年間のことになります。
伽耶の鉄鉱山


李盛周の『新羅・伽耶社会の起源と成長」が2005年に和訳されて雄山閣から出版されています。
この本には上図「嶺南地方の主要な鉄鉱産地と交通路」が載っています。これを見ると、鉄鉱産地は金海地域に集中していることが分かります。また各地からの交通路も金海へ通じています。河内の秦の民の多くは、この地からやってきた来たと研究者は考えているようです。

秦の民たちを受けいれたヤマト政権側を見ておきましょう
4世紀古墳時代前期の鉄生産技術は、弥生時代と比べてもあまり進化していないと研究者は考えているようです。ところが5世紀になると大きな変化が見られるようになります。
鉄鍛冶工程の復元図(潮見浩1988『図解技術の考古学』より

村上恭通氏は「倭人と鉄の考古学」で、5世紀以後の製鉄・鍛冶技術の発展段階と技術移転を次のように整理しています
  第4段階(4世紀後半~5世紀前半)。
鋳造鍬が流入するとともに、輸入素材(鉄挺)による鍛冶生産が発達。鉄製武具の製作がはじまる。5世紀前半に鉄製鍛冶具が伝播し、生産される(5世紀初めに窯業生産(須恵器)が開始するが、炉の構造・木炭窯など製鉄に不可欠な諸技術の基礎となった。
  第5段階(5世紀後半~6世紀前半)
5世紀後半に製鉄(製錬・精錬)技術が伽耶・百済・慕韓から移転する。大阪府大県、奈良県布留・脇剛。南郷移籍などの大規模な鍛冶集落(精錬・鍛冶。金工)が出現する。専業鍛冶として分業化した。この時期、列島内での製鉄が開始する。
  第6段階(6世紀中葉~7世紀)
岡山県千引カナクロ谷製鉄遺跡など列島各地で、製鉄(鉱石製錬)が本格化し、鍛冶金工技術も発展した。飛鳥時代になると砂鉄製錬が技術移転され、犂耕の普及にともない鋳鉄生産がはじまる。
 4世紀後半から5世紀前半に、鉄挺が輸入され、5世紀前半に鉄製の鍛冶具が伝幡したとします。朝鮮半島から「秦集団」が渡来するのはこの時期です。この時期がターニングポイントになるようで、次のように指摘します。
「鉄器生産や鉄と社会との関わりが大きく揺らぎはじめる画期はⅣ以後である。畿内では新式の甲冑、攻撃用・防御用武器の変革をはじめとして、初期の馬具、金鋼製品など、手工業生産部門で生産体制の拡充と、新たな組織化があった。問題は素材の供給である。
 この時期の畿内における鍛冶の大集団が、生産規模のみの大きさを示すのではなく、生産工程そのものが分化し、精錬はもちろん、製鉄も想定しうる段階にきている。これらが渡来系技術者によって促進されたことはいうまでもない。この時期の朝鮮半島でも鍛冶技術者の階層化が極点に達し、また半島南部地域(伽椰)を例に挙げても、鍛冶上人集団に著しい分派が起こるという。
  この時期、ヤマト朝廷は国力を誇示すべく、武器・武具の充実を図った点は先学の示すとおりであるが、朝鮮半島における工人集団の動向を十分に認識したうえで、目的的に渡来技術者を大規模に受けいれたのがこの時期なのである。
ここからも河内の秦の民は、新羅の南下と伽耶占領が起きた時期以後に、伽耶の金海地域の人々が、「河内王朝」の手引きで倭国にやってきて指定地に入植したことがうかがえます。
古代の鉄生産と渡来人―倭政権の形成と生産組織 | 花田 勝広 |本 | 通販 | Amazon
  以上をまとめたおくと
①伽耶の金海地方で鉱山開発から鉄生成までをおこなっていたのが秦集団であった
②ヤマト政権は、鉄確保のための「現地貿易商社」を組織し、倭からも多くの人員を送り込んでいた。
③ヤマト政権は秦集団を通じて鉄を入手しており、両者の利害関係は一致することが多かった
④新羅の南下で金海地方が占領下に置かれると、多くの秦集団はヤマト政権の手引きで倭国に移る
⑤ヤマト王権は、彼らを管理下に置き、各地に入植させる
⑥河内に入植した秦集団は、先端製鉄技術で農業工具を作り出し、巨大古墳や運河、湿地開発などを行う。
⑦かつて河内湖だった大阪平野の湿地部は、秦集団によって始めて干拓の手が入れられた。
⑧彼らは、平城京への大和川沿いや平安京への淀川沿いに拠点を構え、そこには宗教施設として、寺院や神社が建立された。
⑨秦集団の信仰した八幡・稲荷・白山信仰や虚空蔵・妙見・竃神信仰の宗教施設が周辺に姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄  正史はなぜ河内の秦氏を無視するのか  続秦氏の研究23P

仏像の種類:虚空蔵菩薩とは】知恵の四次元ポケット!空海の生みの親、虚空蔵菩薩の梵字真言など|仏像リンク
若き日の空海が大学をドロップアウトして、信仰の道へと入っていくきっかけは「虚空蔵求聞持法」の修得にあったとされます。それはドロップアウト後の空海の行動からも分かります。空海は、四国の大瀧山や室戸で「虚空蔵求聞持法」の修得修行を開始するのです。この時の空海には、まだ密教の全体像が見えてはいません。その入口に立ったばかりなのです。そこに至るまでの導き手になったのが秦氏出身の僧侶です。虚空蔵求聞持法の伝来に秦氏が深く関わってきたことについては、以前にお話ししました。今回は虚空蔵菩薩信仰を「鉱山開発」の視点から見ていこうと思います。テキストは大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363Pです。

「虚空蔵」と名前のつく山と鉱山の関係を一覧したものを見ておきましょう。
虚空蔵尊(徳島県阿南市大竜寺山)水銀鉱.
虚空蔵尊(徳島県名西郡神山町下分焼山寺)含銅黄鉄鉱.
虚空蔵尊(高知県室戸市最御崎寺)金鉱.
虚空蔵山(高知県高岡郡佐川町斗賀野)鉢ケ嶺。マンガン鉱。
虚空蔵山(岡山県浅目郡里庄)銅山がある。
虚空蔵山(佐賀県藤津郡嬉野丹生川)水銀、銀を産する波佐見鉱山がある。
虚空蔵酋獄(鹿児島県串木野市)一斤ケ野金山(黄金、黄鉄鉱、輝銀鉱)
虚空蔵尊(岐阜県大垣市赤坂 金星山明星輪寺)金、銀、銅、水銀。
虚空蔵尊(三重県伊勢市朝熊山 金剛証寺)カンラン石、 ハンレイ岩で、鋼、クロームコバルト、鉄、ニツケルをふくむ山.
虚空蔵尊(岐阜県武儀郡高賀山)銅山ら
虚空蔵山(新潟県北蒲原郡安田町)鉄鉱ヽ砂鉄
虚空蔵尊(福島県河沼郡柳津村円蔵寺)銀山川があり、銅山
虚空蔵山(宮城県伊共郡丸森町大帳)山麓に金山部落
虚空蔵山(山形県米沢市)十日野鉱山
虚空蔵寺(岩手県気仙郡店丹・五葉山)平泉の藤原氏時代、伊達氏時代の最高の金の産地で、平泉の金色堂の黄金は、みなここの産金によるという.
虚空蔵尊(青森県岩木山百沢村)鉄鉱.
虚空蔵宮(金井神社 栃木県下都賀郡金井町)「この楽落を小金井郷といふ。この地名小金の湧き出づる井戸に通ずる語源なり」

  ここからは、虚空蔵山と名のつく山の近くには、鉱山があったことが分かります。
 谷有二氏は、「虚空蔵」と鉱山の例を次のように紹介しています。
「埼玉県秩父黒谷の金山遺跡からも、室町時代とおぼしき一寸人分の銅製虚空蔵書薩が掘り出されて」
「和銅山に、往時のものと推定出来る露天掘り跡が、二本の溝のような形で山麓の和銅沢に向かって急谷に落ち込んでいる。和銅山の東側一帯は金山と呼ばれ、選鉱場、精錬所跡からは銅滓、火皿の大きい朝鮮式煙管(キセル)とともに虚空蔵蔵が掘り出された。現在、附近には五ヵ所八本の坑道が明確に残っているが、全部ノミによる掘進坑で、三〇〇~五〇〇年前のものとみられる。江戸時代はもちろん近くは明治38年まで掘り続けるれた」

「上州武尊山麓薄根川沿いで鉄を採つた金山の一峰を虚空蔵山とする。その虚空蔵菩薩縁起では、平安時代の天長一四年に空海が同地で修行したことに始まるとあるが、この『縁起』そのものは戦国時代の永禄11年に書かれたものなので、歴史は相当古いことがわかる」

「東北の例として、「山形県出羽三山の北に1090mの虚空蔵岳がある。山麓を昔から砂金採掘で知られた立谷沢がぐるりと半周するだけでなく、今も山腹には大中島、東山など金銀銅を出す鉱山が働いて、一ッ目伝承もからむ」

「山形県上山市の西2㎞も355mの虚空蔵山がある」が、上山市の南側の「蔵王連峰山形側は金属地帯で(中略)鉱山が目白押しにならぶ」

「宮城県の栗原町と花山村との境にある1404mの虚空蔵山は、それこそ鉱物の真上に乗つたような感覚だ。福島県の蔵の町として知られる喜多方周辺も、鉱物に恵まれていて、ここにも虚空蔵森(304m)」があり、「六世紀のタタラ遺跡が発見された新潟県笹神付にも虚空蔵山があり砂鉄の存在を示している。岐阜県の名山として有名な高賀三山の一峰瓢岳にも虚空蔵尊が祭られているが、これは山麓の銅山と関連がある」

以上からは、虚空蔵信仰の山は鉱山であったようです。別の見方をすると、鉱山がある山が「虚空蔵菩山」と呼ばれるようになったということかもしれません。それには、どんなプロセスがあったのでしょうか?
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 唵のブログ
佐野賢治は「虚空蔵菩薩信仰の研究」で、虚空蔵信仰と鉱山の関係を次のように指摘します。     
「山形県南陽市の吉野鉱山などは『白鷹の虚空蔵さま』の南麓流域にあり、虚空蔵信仰と鉱山の関係を物語る」
「白鷹山北麓の山辺町作谷沢の諏訪神社本殿内には「一つ目小僧」の絵像か描かれ、この地区に炭焼藤太、小野小町伝説、鉱物・鉱山関係の地名や鉄津・鉄製懸仏が残ることからも、古代における産鉄の地であったことは確かであり、虚空蔵信仰関係では作谷沢の館野には虚空蔵山 、西黒森山の麓には『虚空蔵風穴』があり、地中から冷風が吹き出している。また、桜地蔵と呼ばれる岩には虚空蔵菩薩と考えられる磨崖仏が彫られている。このように「白鷹虚空蔵さま」山麓は鉱山地帯であり、その伝承を現在まで濃厚に伝えている鉱山に関係する伝承の豊富な地区である」

そして次のように指摘します
「全国の虚空蔵関係寺院、虚空蔵菩薩像の分析から虚空蔵信仰を主に荷担したのは当山派修験」
虚空蔵菩薩信仰の研究―日本的仏教受容と仏教民俗学 | 佐野 賢治 |本 | 通販 | Amazon

 ここからは、鉱山開発を担った集団が信仰したのが虚空蔵菩薩であり、その信仰の中心には修験者たちがいたというのです。修験者の当山派は醍醐寺を中心とした真言宗の寺院です。宗派の祖は弘法人師空海で、中興の祖は理源大師で、二人ともに讃岐出身とされます。四国には虚空蔵菩薩を安置する寺院も多くあり、求聞持法の信仰者が多いことは以前にお話ししました。四国の空海伝承に登場する虚空蔵像は、「明星が光の中から湧きたった」「明星が虚空蔵像となってあらわれた」とするのものが多いようです。

 空海の高弟で讃岐秦氏出身の道昌が虚空蔵求持法の修得のため百日参籠した時「明星天子来顕」と「法輪寺縁起」は記します。この「明星」は、弘法大師が土佐国の室戸岬で虚空蔵求聞持法を行じていた時、口の中に入ってきたというものと同じでしょう。 虚空蔵求聞持法と明星とは、関係がありそうです
星の信仰―妙見・虚空蔵 | 賢治, 佐野 |本 | 通販 | Amazon

星神信仰については、次の2つの流れがあるようです
1密教的系統(尊星法=天台、北斗法=真吾)
 ①北斗星を祀る密教系の法
 ②①から派生した妙見信仰
 ③虚空蔵求聞持法に拠る虚空蔵信仰から派生した明星信仰
2陰陽道系統(安倍晴明→土御門神道)

このうち秦の民が信仰したのは、もともとは③の星神信仰だったようです。それが後世になると②の妙見信仰と混淆していきます。その結果、秦氏の星神信仰は妙見信仰になっていったようです。秦氏の妙見信仰と星神信仰を見ておきましょう。
妙見信仰 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市

それでは妙見信仰とは、いつ誰が伝来したのでしょうか
研究者は次のように指摘します。
「妙見信仰がわが国に伝来したのは、六~七世紀の中頃と考えられる。伝来当初の妙見信仰は畿内の南河内地方など帰化人と関係深い地方で信仰されていたようであるが、次第に京畿内の大衆間に深く浸透していった」

妙見信仰は朝鮮半島からの渡来人によって、仏教伝来と同じ時期にもたらされたようです。「帰化人」とありますが、もっと具体的に云うと、秦の民になるようです。
妙見信仰の史的考察 | 中西 用康 |本 | 通販 | Amazon

 秦氏の妙見信仰を考えるときに取り上げられるのが、河内国茨田部の秦氏の祀る「細(星)屋神社」(寝屋川市茶町・太秦)です。
 この神社は、『延喜式』神名帳に載る茨田郡細屋神社に比定される神社です。しかし、今は小さな祠となって近くの八幡神社の境内に移されています。
星屋神社


泰氏の子孫と称する寝屋川市の西島家文書には「星屋」と称していることからも、渡来した秦氏が天体崇拝思想から、星神を祀ったものと研究者は考えているようです。
 この神社はもともとは「星屋神社」で、妙見信仰による神社だったようです。神社の境内にある案内板にも次のように記されています。
「祭神は秦村の記録に、天神・星屋・星天宮と記され、先祖からの天体崇拝の風俗をここに伝え、星を祭ったと考えられます」

なぜ、星を祭る神社が秦村にあるのでしょうか。その理山は、古代の鍛冶屋と星辰信仰は深い関係にありました。この地にやってきた秦氏が鍛冶や鋳造業に関わる先端技術者集団で、彼らが信仰していたのが星神だったと考えられます。
細屋神社 : 神社参詣 - 大阪府 - 寝屋川市 : 御中主 - 社寺探訪
移築される前の細屋神社(現在は近くの八幡神社に移築)

現在のこの地区の産土神は八幡神社で、近くに大きな本殿や拝殿が鎮座しています。しかし、もとともはこの地は、秦氏の拠点でその氏神として建立されていたのは細屋(星屋)神社だったようです。現在に至る変遷を考えて見ましょう。
①この地に朝鮮半島からやって来た秦の人々は、当時の先端産業である鍛冶関係であった。
②鉱山・鍛冶関係者は星神を祀つていたから、この地に星(細)屋神社を建立した
③後代にこの地の住民は農民化し、それに伴って農民が信仰する八幡神社を産上神にした
④そのため茨田郡の式内社の五社に入っていたのに、八幡神社の摂社になり細屋神社と呼ばれるようになった

『河内名所図会』には、後鳥羽上阜が諸州の名匠を徴して刀剣を造らせたとき、秦村の鍛冶匠秦行綱が、第一に選ばれたとあります。秦村の字鍛冶屋垣内には、秦行綱宅址があります。中世には刀鍛冶へと発展していたことが分かります。
 細屋(星屋・星天宮)神社の伝承には、境内の樹を伐り草を刈ると腹痛をおこすが、秦村・太泰付(現在の寝屋川市大字秦・大字太秦)の人だけには障りがないといわれてきたようです。これもこの神社が泰氏系の神社であったことを示しているようです。秦氏と星信仰と妙見・虚空蔵信仰の関係がかすかに見えてきました。もともとの星(細)屋神社は、鍛冶関係の秦の民が氏神として祀っていた「妙見神」であったことを押さえておきましょう。
番外編】妙見寺(板東妙見信仰の祖) : 大江戸写真館(霊場巡礼編)
妙見信仰と鉱山・鍛冶業とは、どんな関係があったのでしょうか?
鉱山師は妙見=北極星で、天から金属を降らせたと信じていたようです。いくつかの例を挙げてみましょう。
①「金の島=佐渡」の金北山の隣に妙見山
②甲斐の武田氏の軍資金の半ばをまかなった大菩薩山域の妙見ノ頭は、そのものが金山の守護神
③新潟県栃尾市と長岡市境にある戊辰戦争古戦場の榎峠を、妙見山と呼びますが、東には金倉山、半蔵金山がつらなっていています。それは金属の存在を暗示しています。

西日本の岡山県の妙見山を見てみましょう。
日本霊異記には、千年前の鉱夫の悲惨な姿を次のように記します。
「美作国英田部内二官ノ鉄ヲ取ル山有り」
「暗キ穴二居テ、個へ恨ム。生長シ時ヨリ今ロニ至ルマデ、コノ哀ミニ過ギタルハ無シ」
このあたりは鉄が掘られなくなった後も銅、水銀を産するので鉱毒災害も起きていたことがうかがえます。
 岡山市から旭川をさかのぼった赤磐郡金川(御津町)近くにも妙見山があります。ここでは水銀、銅が採れました。苅田、軽部の金属を示すカリ、カル地名と山口吹屋が、それに妙見山があります。また、吉備地方には温羅(カラ)と呼ばれた鬼が左目に矢を受けてたおされる伝承が長く語り伝えられている。これも「一つ目」の変形パターンかも知れません。
 兵庫県養父郡の妙見山(1142m)一帯には金をとった跡があります。その南麓には今もアンチモン等の鉱物が採れて足坂、中瀬などの鉱山が集まり、金山峠は、その昔の運搬路を示すようです。こののあたりも古くは軽部郷と呼ばれていました。
 豊臣家の台所をまかなった金は、大阪府豊能郡能勢町一帯から採られました。今でも妙見鉱山には磁鉄鉱床がありますが、ここの歴史は古く多田源氏の祖・源義仲が砂金を掘って源氏の基礎を築いたといわれます。ここにも蛇の伝説、行基にからまる昆陽池の一ツ目魚伝承、妙見山(662m)がそろってあります。
 どこも鉱山関係者の信仰や言い伝えですが、妙見信仰を持った修験者の影が見えます。以上の記述からも、妙見信仰は
①村に居住する鍛冶職の「小鍛冶」
②鉱山の採鉱、金属精錬の「大鍛冶」
と関係があることがうかがえます。秦の民が信仰する虚空蔵信仰と妙見信仰は結びついていたのは、秦の民の職業と関係しているからのようです。
北斗七星: Fractal Underground Studio
まとめてみると
①朝鮮半島からの渡来した秦氏集団は、最先端産業である鉱山・鍛冶の職人集団であった
②当時の鉱山集団がギルド神のように信仰したのが星神である
③彼らは妙見=北極星を、妙見神が天から金属を降らせたと信じ信仰した。
④妙見信仰と明星信仰は混淆しながら虚空蔵信仰へと発展していく。
⑤修験者たちは虚空蔵信仰のために、全国の山々に入り修行を行う者が出てくる。
⑥この修行と鉱山発見・開発は一体化して行われることになる
⑦こうして開発された鉱山には、ギルド神のように虚空蔵菩薩が祀られ、その山は虚空蔵山と呼ばれることになる。

このようにしてみると四国の行場と云われる霊山にも鉱山が多かった理由が分かるような気もしてきます。そして、空海の四国での修行場にも丹生(水銀)鉱山との関係がうかがえることは以前にお話ししました。その媒介をした集団が、空海に虚空蔵求聞持法を伝えた秦氏ではないかというのです。
渡来系の秦集団は、戸籍に登録されているだけでも10万人を越える大集団です。その中には支配者としての秦氏と、「秦の民」「秦人」と呼ばれた、さまざまな技術をもつた工人集団がいました。彼らが信仰したのが、虚空蔵信仰・妙見信仰・竃神信仰でした。そして、この信仰は主に一般の定着農民の信仰ではなく、農民らから蔑視の目で見られ差別されていた非農民たちの信仰でもありました。一方、秦氏の信仰した八幡神・稲荷神・白山神などは、周囲の定着農民も信仰するようになって大衆化します。しかし、もともとはこれらも秦氏・秦の民が祭祀する神の信仰で、虚空蔵・妙見・竃神信仰と重なる信仰であったと研究者は考えているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
      大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363P
関連記事

坂本龍馬 まとめ - 速魚の船中発策ブログ まとめ
龍馬亡き後に、海援隊を再組織する長岡謙吉(左端)
 前回までに鳥羽伏見の戦い後に、再結成された海援隊の動きを見てきました。それは、海援隊が塩飽と小豆島の天領を自己の占領下に置くという戦略でもありました。隊長の長岡謙吉の思惑は成功し、小豆島では、岡山藩の介入を排除しながら、塩飽では小坂騒動を平定しながらこれらの島々を占領下に置くことに成功します。こうして、次のような組織系統が形成されていきます。
①塩飽に八木(宮地)彦三郎
②小豆島に岡崎山三郎(波多彦太郎)
この二人を統治責任者として配置し、丸亀(海援隊本部)から長岡謙吉が管轄するという体制です。更にその上に、土佐藩の川之江陣屋が予讃の「土佐藩預り地」を統括するという指揮系統になります。
長岡謙吉 - Wikipedia
長岡謙吉
海援隊隊長の長岡謙吉は、丸亀で何をしていたのでしょうか?
彼が郷里の者に宛てた私信(2月13日付け:近江屋新助宛)には次のように記されています。
私は、高松征伐の先発として、高松城占領に向かったために小豆島や塩飽諸島のことには関わらなかった。讃岐の島嶼部を3分割して、小豆島は波多彦太郎、塩飽は八木彦三郎にまかせ、私は丸亀の福島にいて全体を統括した。公務の合間には、私塾を開いて京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授けた。時折管内の本島、草加部(小豆島)を巡視したようで、その際には塩飽の土民が上下座して敬ひ拝する

ここには長岡は、「丸亀の福島にいて全体を統括」と記されています。彼が拠点の宿としたのは、太助灯籠などの灯籠が立ち並ぶ丸亀港の東側にあった旅宿「中村楼」(平山町郵便局向かい)であったようです。ここは、金毘羅船頻繁に出入りする港に面した所で、多くの旅籠や店が軒を並べた繁華街でした。人とモノが集まり、情報と人の集積地でもあったところです。拠点とするのには適していたかも知れません。高松討伐の際に、土佐軍幹部が使った宿でもあるようで、何らかの協力関係があったのかも知れません。
丸亀新堀1
金毘羅船の出入りでにぎわう丸亀湊
また長岡は、次のように記しえいます。
 「私塾を開いて丸亀藩主の京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授け」

最初にこれを読んだときには、「また大法螺を吹いているな、藩主の息子を教えるなどと・・」と思いました。ところが、これはどうやら事実のようです。
遍照寺 (香川県丸亀市新浜町 仏教寺院 / 神社・寺) - グルコミ
白蓮社があった遍照寺(丸亀市新浜町)
  海援隊本部は「白蓮社」に置かれとされてきました。
「白蓮社」は、現在の福島町隣りの新浜町にある遍照寺にあった御堂であることが、最近の丸亀市立資料館の調査で分かってきたようです。
丸亀新堀湛甫3

長岡の別の私信には1月27日、丸亀藩の要請により、「白蓮社」に私塾開塾し、長岡が「文事」を教え、「岡崎」が「武事」担当したとあります。門人約20人で、その運営には、丸亀藩の土肥大作や、金毘羅の日柳燕石、高松藩の藤川三渓が協力したようです。土肥や草薙燕石は、土佐軍の進駐によって、丸亀藩や高松藩の獄中にあったのを解き放たれた「元政治犯」でした。
  土肥大作は丸亀藩の勤王家で慶應2年以来幽閉されていたのを、1月18日に長岡謙吉が丸亀藩への使者として訪れた際に赦免されます。そして、陸路高松に進軍した丸亀藩兵(長岡謙吉も合流)を参謀として率いた人物で。御一新後の丸亀藩政改革の中で、重要な役割を担う立場にありました。土肥と長岡は、親密な関係にあったことがうかがえます。
DSC06658


長岡は、この時期に金毘羅さんから軍資金の提供を引き出しています。彼の1月下旬頃の書簡に、
「(1月)廿一日隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」

とあります。また、琴陵光重『金刀比羅宮』193 頁には、長岡謙吉の千両の借用証書が紹介されています。この返礼に、長岡は1月24日には、金毘羅大権現別当の松尾寺金光院の重役・山下市右衛門に「懐中銃」を進物として送り、親交を求める書状を送っています。これには千両に対するお礼の意味があったと研究者は考えているようです。
  また軍資金千両の使い道は、以下のように記されています。
「蒸気船壱艘 小銃五百挺 書物三十箱戦砲五挺」

 塩飽で組織した志願兵部隊の梅花隊の装備や海援隊の艦船購入に宛てられたようです。ちなみに鳥羽伏見の戦い以後に、再結成された海援隊のメンバーは操船も出来ませんでしたし、持ち舟もなかったことは以前にお話した通りです。
 なお、金光院は3月には神仏分離令により廃寺となり、金刀比羅宮は海援隊の統治下に置かれることになります。『町史ことひら 3 近世 近代・現代 通史編』400 頁には、明治3年(1870)9 月、長岡謙吉は融通された千両について個人による年賦返済を申し入れています。これにたいして金刀比羅宮は、借用証書を川之江の役所に返上し棄捐した記されています。

ここで海援隊の動きを年表を見てみましょう。(香川県史より抜粋)
1・20 塩飽諸島が土佐藩預り地となり,高松藩征討総督が八木彦三郎に事務を命じる
1・21 長岡謙吉が「隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 金光院寺領(金毘羅大権現)が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 丸亀藩の要請により、長岡謙吉が丸亀「白蓮社」に私塾開塾
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる
2・ 9 朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出される
2・-  塩飽諸島で土佐藩が1小隊を編成し、梅花隊と名づける.
2・20 長岡謙吉が上京(長岡私信)
3・-  小豆島東部3か村(草加部・大部・福田)土佐藩預り地となる
4・12 海援隊が土佐藩から小豆島・塩飽鎮撫を正式に認められた
4・15 海援隊が占領管内に布令を出す(?)
4・29 土佐藩による海援隊の解散命令
5・17 小豆島や琴平は新設された倉敷県に編入
5・23 八木彦三郎が塩飽等を倉敷県参事島田泰夫に事務を引き継ぎ
・ 1 直島・女木島・男木島3島から土佐藩兵の撤退。 

ここからは1月末から2月中旬にかけて、土佐軍と海援隊の占領地の組織が形作られていったことが分かります。こうして、海援隊は海軍に必要な操船技術(塩飽水主)、兵力(梅花隊)、石炭の確保に成功したこと、さらに。金刀比羅宮から軍資金も調達していたのです。当初の狙い通りの成果を挙げたといえるでしょう。
長岡謙吉(海援隊第二代目隊長)の写真 | 幕末ガイド
長岡謙吉
長岡の私信には、切迫した情勢や戦闘的な描写は見られません。
四国にやって来て彼らは、一戦もしていません。長岡は、戊辰戦争のさなかも、丸亀に落ち着いて塾を開き、大漁を祈る塩飽島の臨時大祭の手配に腐心したり、小豆島の神懸山(寒霞渓)に登って景勝を楽しみ詩吟したりしています。また、土佐の近江屋新助には次のような私信も送っています
「どうぞどうそ御家内一同島めぐりニ御出可被下候、芝居入二御覧一度候一笑一笑」
「こんぴらさまへ御参りニ家内不残御出...」
「何も不自由ハナケレドモ女の字ニハ困り入申事ニテ 隊中の壮士時時勃起シテ京京ト申ニ困り入申候」
と、金毘羅大芝居見物に金毘羅参拝を誘ったり、と呑気な様子を書き送っています(慶應4(1868)年2 月13 日付け)。ここからは、長岡謙吉の立位置がうかがえます。
  
 また年月は分かりませんが、この頃に長岡謙吉が美馬君田(阿波出身で琴平で活動していた勤王家)に宛てた書簡(草薙金四郎「長岡謙吉と美馬君田」71 頁)には、次のように記されています。「當地」(丸亀?)で「書肆文具一切」を扱う店を開店したので、「鐵砲其他西洋もの一切」も販売するために「長崎之隊士へ申通し、上海より直買に為仕含に御座候」と、その営業計画が述べられています。
鉄砲を始め、西洋のあらゆるものを取り扱う貿易会社を開店した。長崎の旧海援隊に依頼して、上海から直接仕入れる予定である。

ここからは次のようなことがうかがえます。
①長岡謙吉は、塾以外に貿易会社を丸亀に開店していたこと。
②海援隊の長崎グループからの仕入れを考えており、彼らとの関係は持続していたこと
このような動きからは長岡謙吉の目指したのは、天領の無血開城であり、その後の平和的な戦後統治であったと研究者は考えているようです。
2丸亀地形図
当時の丸亀
私が分からなかったのは、2月20日に長岡が上京することです。
この辺りのことを、長岡は土佐の親友に次のように私信で伝えています。
2月20日に火急な御用があり、上京した。以後、京都に留ることになった。用件は正月以来、占領している塩飽・小豆島についてのことだった。この両島については、朝廷からの内命で占領・統治を行っていたが、各方面から異議が出るようになった。そこで、正式な任命状をいただけるように運動した結果、4月12日に土佐藩の京都屋敷御目附小南殿より別紙の通りの「讃州島御用四月十二日付辞令書」をいただけることになった。御覧いただくと共に、伯父や親類の人へも安心するように伝えていただきたい。以下略     四月十三日認             弟 殉 
廣陵老契侍史 
   
ここには次のようなことが書かれています。
①塩飽・小豆島の占領支配については、朝廷からの内命が海援隊に下りていた
②両島の占領について各方面から異議が出るようになったために2月20日、上京したこと
③その結果、4月12日に海援隊が小豆島・塩飽の占領軍として土佐藩から正式に認められたこと

しかし、以前にも指摘したとおり、2月9日には朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出されて、岡山藩も撤退しています。天領をめぐる対立は解消済みと私は考えていました。どうして、上京し、朝廷に対して工作を行う必要があったのか、私には分かりませんでした。別の言い方をするのなら、2月20日から4月12日までは、京都にいて何をしていたのかという疑問です。まず、それをさぐるためにこの時に朝廷に提出した2つの建白書を見てみましょう。
  【建白A】石田英吉、長岡謙吉、勝間桂三郎、島田源八郎、佐々木多門の海援隊士 5 名の連名の建白書。
「元来貧地ニテ生活之為ニ而己終身日夜困苦罷在候上徳川之暴政苛酷ニ苦シミ難渋仕候儀見聞仕実ニ嘆敷奉ㇾ存候既ニ先達テ四国近海塩飽七島之居民私怨ニ依テ紛擾争闘及民家ヲ放火シ即死怪我人夥敷有ㇾ之打捨置候ハハ如何成行候モ難ㇾ計早速同所ヘ罷越悪徒ヲ捕窮民ヲ救人心鎮定致候段於二播州一四條殿下(遠矢注:中国四国追討総督・四条隆謌)ヘ御達申上候通ニ御座候塩飽スラ如ㇾ此ニ御座候得ハ況テ佐渡ヶ島新島三宅島八丈島ハ流人モ多ク罷在兼テ人気モ不穏此節柄別テ貧窮ニ迫リ擾亂仕候儀眼前ニ御座候間」、
  意訳変換しておくと
天領の島々はもともと貧困で、生活のために日夜困苦しています。その上、徳川の暴政苛酷に苦しみ難渋してきました。私たちが見聞したことも実に嘆かわしきありさまです。先達っては、四国塩飽七島の島民が私怨のために紛争を起こし、民家に放火し、使者や怪我人が数多く出ました。(小坂騒動のこと)。これを打捨てて置くことはできませんので、早速出向いて、悪徒を捕らえ窮民を救い、人心を鎮めたところです。このことについて播州一四條殿下(中国四国追討総督・四条隆謌)へ報告した通りです。塩飽でさえもこのような有様です。佐渡ヶ島・新島・三宅島・八丈島ハ流人も多く、不穏な時節柄なので貧窮も加わり騒乱が起きることが予想されます。
 そこで、御仁政の趣旨を布告すれば彼らは感涙することでしょう。私どもは先年、彼地に行って民俗や民情を調査いたしました。(真偽不明)。そこで、私たちはそれら島々へ渡り「布告」し「民心ヲ鎮定」を行いたいと考えます。島々には徳川の命を受け航海術を修練した者もいます。(長崎海軍伝習所における塩飽水夫などのこと?) さらに屈強な者を選抜し航海技術を伝授し、将来的には海軍ヘと発展させるように、仰せ付けいただければ兵備も充実することでしょう。

【建白B】長岡謙吉と石田英吉の 2 名連名の建白書
「先般、塩飽七島の島民の紛争について、私どもが鎮撫したことについて、播州で四條殿下ヘ報告いたしました。この島民達を朝廷の海軍ヘ採用するように献策いたします。讃岐の小豆島も塩飽と同じように、鎮撫中ですので、この両島ともに鎮撫命令を下し置きいただけるようにお願いいたします。以上」

 この2つの建白書(A・B)は2月中(日付不明)に、土佐藩ではなく新政府に対して出されています。ここがまずポイントです。交渉相手を土佐藩ではなく、直接に新政府を相手としていることを押さえておきます。
建白書Aでは、塩飽での騒動鎮圧と平定の実績を報告をした上で、その支配権の追認を求めています。つまり、新政府による海援隊の塩飽占領支配の保証です。いままでは、土佐藩から委託・下請けされた権限だったのを、新政府から直接認められることで、より強固なものにしようする思惑があったことがうかがえます。つまり、これは岡山藩などに対する対外的な意味合いよりも、土佐藩内部の海援隊による塩飽・小豆島東部占領支配に対する異論封じ込めを狙ったものだったとも思えてきます。
 そして、塩飽の水夫たちを、新政府の海軍に重用することを求めています。さらに、天領であった佐渡島や八丈島・三宅島を、海援隊が占領支配することも新たに求めています。
全体的に見ると、建白の意図は、島々の水夫の「海軍」への徴用とそれを理由とした海援隊による塩飽・小豆島鎮撫の正当化にあると研究者は考えているようです。
 平尾道雄氏は、「坂本龍馬 海援隊始末記』253 頁)で次のように指摘しています。
「諸島鎮撫の目的は、ただ「王化を布く」というだけではなく、すすんで土地の壮丁たちを訓練して、新政府のために海軍の素地をなさんとしたところに終局の目的があったようである」

建白書のAとBを比較してみると、Aは小豆島について何も触れていません。それに対して、Bは小豆島鎮撫の実績を取り急いで長岡と石田だけで、追加報告したものと研究者は考えているようです。そうすれば、A→Bの順に得移出されたことになります。
龍馬と安田の海援隊士 高松太郎・石田英吉展 | 高知県の観光情報ガイド「よさこいネット」

 また、一番最初に名前が出てくる石田英吉は、鳥羽伏見の戦い後に長岡や八木彦三郎らが丸亀に渡った時に乗船した土佐船「横笛」の船将です。ここからは、以後はそのまま備讃瀬戸グループに合流したことがうかがえます。しかし、この建白直後に、備讃瀬戸グループから離脱し長崎グループに鞍替えしています。意見が合わなかったようです。そして、戊辰戦争へと石田は参戦していきます。
 この建白書を出した後の4月12日、長岡謙吉に次のような正式な任命書が渡されます。渡された場所は、土佐藩の京都藩邸で、土佐藩大監察小南五郎衛門から渡されます
      長 岡 謙 吉
爾来之海援隊其儘を以て讃州島に御用取抜勤隊長被仰付之
辰四月十二日
八木彦三郎
波多彦太郎
勝間圭三郎
岡崎恭介
桂井隼太
橋詰啓太郎
島橋謙吾
武田保輔
得能猪熊
島田源八朗
島村 要
堀 兼司
長岡謙次郎
右面々讃州島に御用被仰付長岡謙吉に附属被仰付之
この文書からは、次のようなことが分かります。
①長岡謙吉の配下いた海援隊12名が「讃州島ニ御用被仰付 長岡謙吉ニ附屬被仰付候事」となったこと
②長岡謙吉が正式に海援隊隊長となり、讃州島(塩飽・小豆島)の占領統治者に任命されたこと
「海援隊其儘ヲ以テ」とあるので、「新海援隊」ではなく、旧来からの海援隊を引き継ぐのは長岡であることも認められたことになります。「讃州島」とありますが、実態は「塩飽」に限定されず備讃瀬戸全体にまたがるエリアであったことを研究者は指摘します。
 ここからは、2月20日に上京して以来、新政府に働きかけていた「塩飽・小豆島鎮撫」が、ある意味成就したことを意味します。しかし、長岡が望んだように新政府からの任命状ではなく、土佐藩からの任命状であったことは押さえておきます。

次なる疑問は、次の通りです
①なぜ海援隊本流の長崎グループ(古参メンバー)ではなく備讃瀬戸グループが、この時期にわざわざ「爾来之海援隊其儘」の海援隊であると、土佐藩は認定したのか?
②長岡の海援隊の動きを土佐藩は、どのように見ていたのか?

それを解く鍵は、海援隊に対して土佐藩から出された通告文にあるようです。
①占領地に於ける租税については、申告された人口、戸数等に基づき検討中であるから決定次第連絡する予定であること、
②宗門改(キリシタン摘発を目的とする住民調査)を「川の江出張所」(川之江陣屋のこと)に提出すること
③海援隊士の経費は島々の租税により支給する予定だが、指示があるまで待つこと、
④「土兵」(梅花隊)の経緯や経費についても③に同じこと、
⑤学校の経費について③に同じこと、
⑥⑦商船・船舶については「従前のままになしおくこと」(詳細不明)
⑧船の旗号は「紅白紅旗」(土佐藩の旗)を使用すること
⑨諸事につき「川の江出張所」に伺いをたてること。

①③④⑤については、現地徴収して占領経費に使用してよいかという問い合わせへの回答のようです。土佐藩の回答は「まだ、現地徴収してはならない」という答になります。⑧の船の旗については、土佐藩のものを使用せよと云うことです。専門家は、「紅白紅旗(にびき)は土佐藩の船印であり、海援隊のオリジナルシンボルマークなどではない」(『空蝉のことなど』148 頁)と指摘します。あくまで、海援隊は土佐藩の配下であり、下請的な存在なのです。
アート短歌・気まぐれ文学館 海援隊旗

⑨は海援隊が独自に判断し、勝手な施策を行うなということでしょう。ここでも、土佐藩の配下であることをわきまえよとも読み取れます。
①③④⑤の現地徴収と経済的なことについては、塩飽諸島・小豆島等統治の占領費に土佐藩の財政が耐えられなくなったことが背景にあるようです。4月9日に小崎左司馬、毛利恭助(土佐藩京都留守居役)が連名で新政府の弁事役所に、占領地からの租税を運営費に充てたいと伺い出ています。このことと①③④⑤は関連するようです。たしかに、小坂騒動後の復興資金は、土佐藩から出されていました。
 『山内家史料 幕末維新 第九編』110~111頁には、占領経費が膨らんだ要因を小坂騒動により「人家漁船等夥敷焼失致シ 出兵救民之入費」で、復興支援費がかさんだことを挙げています。
 またその後5月9日に、土佐藩から再度伺いを出した文面には、次のように記されています。
「去四月民政御役所ヘ申出候處 右地租税之員數届出候様御沙汰有之則牒面寫ヲ差出申候」
「島島取締之儀兎角於弊藩難二取續候間御免之上可然御評議被仰付度奉存候」
意訳変換しておくと
4月に新政府の民政御役所ヘ申出たように、塩飽・小豆島の地租税の員數調査については写しを提出済です。」
「塩飽諸島や小豆島の占領管理については、財政的にもとにかく困難な状態で藩は苦慮しております。できれば本藩による管理停止を仰せ付けいただけるようにお願いいたします。
土佐藩は塩飽・小豆島の統治任務から撤退したいと新政府に云っているのです。ちなみに新政府は、これを却下しています。
20111118_172040437下津井ノ浦ノ後山 扇峠より南海眺望之図

当時の占領実態をうかがえるものとして『小豆郡誌』143 頁には、占領経費600円を受け取るため年寄・長西英三郎らが京都まで行ったものの、70日滞在しても受領できず空しく帰島したというエピソードが紹介されています。
 また、宮地美彦「維新史に於ける長岡謙吉の活動(補遺)」10 頁には、塩飽本島から小豆島へ梅花隊が派遣された際、十数人の旅費として「一分銀百円」が支給されます。本島で現地採用された隊士らは「わずかにこれだけの人數が、本島から小豆島に行くのに、これほどの大金をくれるのは、土佐は富んでいるわ、と非常に驚いた」というエピソードがあります。こうした放漫な支出も政費を圧迫したのかもしれません。
5 小西行長 小豆島1

 土佐藩の台所を預かる財務担当者にしてみれば、駐留経費も出ず、現地徴収も許されずに、藩の持ち出しばかりがかさむ「塩飽・小豆島鎮撫」からは、早く手を引かせたいというのが本音だったようです。私は「現地徴収」によって占領にかかる経費は充分賄われ、そこからあがる経費が土佐藩の財政を潤していたのではないかという先入観をもっていましたが、そうではなかったようです。土佐軍の「討伐・占領」は経済的には見合うものではなかったのです。
3 塩飽 泊地区の来迎寺からの風景tizu

 土佐藩は、藩主山内容堂の意向を受けて「高松・松山でも長期駐屯による民心離反防止、民心獲得のために次のような処置を行っています。
①松山城下で商家を脅した兵士の斬罪処分
②川之江で土佐藩兵により火災となった石炭小屋への金三十両の補償など
海援隊による小坂騒動鎮定なども、その延長上にあると研究者は考えているようです。
その背後には次のような思惑が土佐藩にはあったと研究者は指摘します。
「元々中央政府の土佐藩に対する高松・松山征討命令は土佐藩からの内願により実現したもので、土佐藩による高松、松山両藩の接収は「占領」と言うより「保護・救済」を意図したものである。その背景には、この時期すでに中央における薩長勢力の拡大に対抗するという底意がある。」

 つまり、土佐藩には領土的な野心や経済的な思惑はなく、高松・丸亀藩への討伐遠征は、薩長勢力に対抗するための四国勢力の団結を図るためのものであったというのです。それが、四国会議の開催につながっていきます。四国における指導権を土佐藩が握ること、そのためにも親藩である高松・松山を押さえ込むこと、そして土佐寄りの立場に立たせるようにすること。そのためには、征服者としての横暴な統治政策は慎まなければなりません。反薩長の立場に四国をまとめ、土佐が盟主とた四国十三藩の統一体をどう作り上げていくかという課題を、土佐藩の政策担当者は共有していたことになります。
  そうだとすれば、高松・松山藩の謹慎処分が解ければ、土佐占領軍が撤退することになんら異議は、ないでしょう。同時に、塩飽・小豆島から撤退することが次の課題になることは、当然のことでしょう。
1 塩飽本島
塩飽本島(南が上)
このような土佐藩の対応ぶりと、海援隊を率いる長岡謙吉の思惑は大きく食い違っていきます。
先ほどから見たように、備讃瀬戸の要衝の島々を占領管理下に置くことで、海援隊の存在意義は高まるし、新政府の水夫供給地とすることで海援隊の未來も開けてくると長岡達は考えていたはずです。塩飽からの早期撤退という土佐藩の意向に従うことはできません。そうなれば、土佐藩から離れ、自立・独立路線を模索する以外にありません。それが2月20日以後の長岡の上京と、新政府に対する塩飽・小豆島の占領統治の承認を得るという献策活動ではなかったのでしょうか。

4月12日に土佐藩から正式の任命書をもらうと、4月15日付で海援隊は占領管内へ次のような布令を出します。
布  令
御一新の御時節につき、御上に対して何事によらす捨て置かずに、連絡や報告を行うこと
一、昨年までの年具未納分について、いちいち詮議はしないので、各村で調査し、明白に分かる分については申し出ること
一、このような時節なので、当地で小銃隊を組織することになった。ついては、年齢17歳から30歳までで志願する者は兵籍に編入することにする。期日までに生年名前記入し、申し出ること。
 これについては、道具給料など迷惑をかけぬように準備すること
一、小豆島三ケ村御林については、期日を決めて入札を行う
一、直島御林、閏月5日に入札を行う
  それぞれの民兵の備えのための施策を仰せつける。入札を希望する者は予定額を記入し、申し出ること
以上、各村役人へもらさず伝達すること。この触書は、最後には下村出張所へ返却すること。以上。
四月十五日
長岡謙吉
波多彦太郎
八木彦三郎
草加部村
大部村
福田村
男木島
女木島
塩飽島
村々役人中

ここからは、次のようなことが分かります。
①これらの島々からの徴税減額を行おうとしていたこと
②現地志願兵の編成を計画していたこと
③そのためにかかる経費を、御林(幕府御用林)の入札で賄おうとしていたこと。
つまり、海援隊の活動に関わる資金も人員も「現地調達」しようとしていたことが分かります。さらに、この時点では「半永続的な占領」政策を考えていたこともうかがえます。これは、土佐藩の意向を無視したものです。

②については、すでに本島で現地の人名師弟たちを採用した「梅花隊」を組織していました。それを、占領地の全エリアで行おうとするものです。「土民を募集して兵卒を訓練し、共才能ある者は抜燿して士格にも採用」するという「人材の現地登用」策です。

4月18日に、長岡謙吉は8 ヶ条の海軍創設の建白書を新政府に提出しています。
①総督一名 :「宮公卿任之」
②副総督三名:「公卿諸侯任之」
③参謀十名・副参謀二十名:「草莽間ヨリ特抜ス」
④海軍局:「瀬海ノ地ニ於テ 巨厦ヲ造築ス兵庫蓋其地ナリ」
⑤局 費:「徳川氏封地中ニ就テ八分ノ三ヲ採リ局中ノ緒費ニ抵」「或ハ暫ク關西諸國ニ散在セル徳(川)領及ヒ旗本領ヲ収用スルモ亦可ナリ」、
⑥船艦:「徳川氏ノ戦艦ヲ収用シ諸費局中ヨリ出ツ」
⑦局中規律:「洋人數十名ヲ招請シ天文地理測量器械運用等一切ノ諸課ヲ教導セシメ或ハ一艦毎ニ教導師一二名ヲ乗ラシム而シテ學則軍律悉ク洋式ニ従フ」、
⑧生徒:「海内ノ列藩ニ課シ有才ノ子弟ヲ貢セシム」
 さきほど見た2月の建白書A・Bを土台にして、海援隊長としての所見を明確にしたものと研究者は考えているようです。天領占領を前提に、水夫徴用、費用の割当、幕府海軍の接収を行い、その土台の上に外国人教員と各藩子弟を瀬戸内海(神戸)に集め施設を作るという構想のようです。建白は短文で、具体性と情報量に乏しいものです。内容的には「近代海軍の創設」というより、海援隊の理念(「海島ヲ拓キ」)を拡張した「水軍」に近いものをイメージしているようです。⑧の生徒を「列藩」の「有才ノ子弟」から集めるのに対して、⑨の幹部である参謀・副参謀をわざわざ「草莽間ヨリ」選ぶとしています。これは、海援隊の幹部就任を想定しているようにも読めます。この建白が採用されることはありませんでした。

木戸孝允日記の慶應4年(1868)4月29日の条に長岡謙吉が木戸を訪れたことが記載されています。ここからは、4月末になっても長岡はまだ京都にいたことがうかがえます。2月20日に上京して以後、2ヶ月以上にわたって長岡は、丸亀を留守にしていたのです。

土佐藩のコントロールから離れ自立性を強める海援隊に対して、4月29日土佐藩は次のような解散通告を出します
「昨年深き思召有之、海陸援隊御組立相成候より、各粉骨を盡し、出精有之候處、爾後時勢變革、今日に至り候ては、王政復古、更始御一新の御趣意に奉随、一先御解放之思召有之候間、各其心得、隊中不漏様可被申聞候」。

 この解散命令は、長崎で、土佐家老深尾鼎・参政真辺栄三郎が、長崎グループ宛(大山壮太郎・渡辺剛八)に出しています。なぜ、長岡謙吉の備讃瀬戸グループ宛てではなかったのでしょうか。どちらにしても、長岡謙吉の海援隊長任命からわずか一ヶ月での解散になります。その背景には何があったか、研究者は次のように考えているようです。
ひとつの仮説として、長岡謙吉の土佐藩によるコントロール不能化の進行。
①土佐藩の方針を無視した年貢半減令
②現地徴用による独立軍隊化(梅花隊)
③長岡が丸亀藩の政治顧問に就任するなど、丸亀藩との密接化
以上からは草莽集団化していく海援隊を、土佐藩要人からは危険視するようになっていたと研究者は考えているようです。また、土佐藩には財政負担から塩飽・小豆島から撤退の意向があったことは、前述した通りです。
長岡謙吉書簡には、次のような記述が見えます
慶應4年(1868)1月
「此挙(塩飽・小豆島鎮撫)ハ暗ニ 朝意ヲ請ヒシ事ナルカ故ニ本藩ノ指示ニヨルニアラス」
慶應4年(1868)4 月 13 日付
「両島(塩飽・小豆島)之變は勿論公然たる総督並に朝命を奉じて取締候へ共俗吏之論も有之様に相覚え申候間猶又分明之上命を拝せん」
と書くなど、塩飽・小豆島占領管理を土佐軍の指示によるものではなく、朝意(朝廷の意向)に基づくものだと記しています。これは、土佐藩からの自立性を主張することにつながります。そういう目で見ると、4月12日付けの土佐藩による長岡の海援隊長任命は、海援隊が藩の統制下にあることを、再確認させ認識させるための「儀式」であったのかもしれないと研究者は指摘します。それを、長岡は無視した行動を続けたことになります。それを受けての解散命令だったようです。
  塩飽・小豆島の占領統治にあたっていた海援隊員や土佐人はどうなったのか?
 その後、海援隊メンバーは倉敷県等へ任官します。5月16日に、倉敷代官所は「倉敷県」に生まれ変わります。そして、塩飽諸島は6月14日に倉敷県の管轄となり、7月には八木彦三郎から倉敷県大参事島田泰雄に事務引継ぎが行われています。小豆島、直島、女木島、男木島も 7月に八木彦三郎から倉敷県へ事務引継ぎが行われています。つまり、海援隊の支配はわずか4か月間で終わります。
倉敷陣屋・代官所
倉敷代官所は現在のアイビースクウェアにあった

 倉敷代官所の旧支配地であった塩飽諸島、小豆島・直島・女木島・男木島は、土佐藩預り地でした。そこで鎮撫していた海援隊士たちは、そのまま倉敷県に任官することになります。つまり、海援隊員から県職員にリクルート(or配置転換)されたことになります。倉敷県の職員を見ると知県事:小原與一、以下、権知事(No.2):波多彦太郎、会計局:島田源八郎、刑法局:岡崎恭助、軍務局:島本虎豹など、計35名中32名が土佐藩出身で占められています。
 塩飽の責任者であった八木彦三郎も倉敷県設置と同時に、同県大属(NO5)となり、すぐに「金毘羅出張所御預り所長」(軍務、庶務、刑法、会計を兼務)に任命され、琴平に転出します。
天領倉敷代官所跡 - 本町7-2

長岡謙吉は、どうなったのでしょうか?
海援隊長ですから倉敷県の知事に就任したのかと思っていると、どうもそうではないようです。6月9日に新たに設置された三河県の知県事(No.1)に任命されます。その判県事(No.2)は、なんと土肥大作が指名されました。『愛知県史 資料編 23 近世 9 維新』124~125 頁には、次のように記されています。
「慶應四年六月 三河県赴任に伴う事務執行方法につき知事長岡謙吉より伺書写」(6月14日)には、「私儀兼テ敞藩ヨリ小豆諸島引渡方被申付有之候間、不日ニ相仕舞次第彼地ヱ罷越申候、此条前以奉申上置候」

とあり、突然に、知らない土地へ転出させられとまどっていることがうかがえます。
 「土肥大作と勤皇の志士展」パンフレット(丸亀市立資料館)には、土肥大作が三河県の判県事に任命されたのは、6月15日で、23日に赴任していることが記されています。
先ほど見たように、長岡と土井は高松城占領以後は非常に親密な関係にありました。ある意味、「丸亀の長岡謙吉私塾」の塾長と副塾長が三河県の知事と副知事に任命されたようなものです。二人揃って大栄転のように思えます。ところが長岡は、なぜかその月の28 日に免官されています。
倉敷代官所井戸 クチコミ・アクセス・営業時間|倉敷【フォートラベル】
倉敷代官所の井戸
倉敷県には、その後のどんでん返しが用意されていました。
翌年の明治2年8月に、土佐藩士は、倉敷県のポストから一掃されることになります。その経過は次のように記されています。
「如此人員ハ多キモ土州人ナレハ、原、慷慨ヨリ出デ、或ハ脱走シテ未帰籍不ㇾ成者有、都テ疎暴、政事上甚激烈ニ渉リ、人民大ニ苦シム 于ㇾ時七月初旬自二東京一被ㇾ召、小原、(略)上京、於二彼地一免職、餘ハ御用状態、八月十三日不ㇾ残免職被二仰渡一、即十五、十六之此より、逐々
出立、九月初悉皆引取ニ相成タリ」
意訳変換しておくと
このように免職されたのは土佐人ばかりであった。中には慷慨して脱走し、帰庁しなかった者もいる。まさに粗暴な政治的仕打ちであり、人々は大いに苦しめられた。
 ある職員は七月初旬に東京へ出張ででかけ、(略)上京中に免職される始末。8月13日から免職が言い渡され、十五、十六人が首を切られ、九月初めには、ほとんどの土佐人職員が職を失った。

『倉敷市史(第十一冊)』25 頁には
「土州藩不残御引払之御沙汰有之、知事様東京へ御出張被遊、其儘本国エ御引取」

とあります。琴平で在職中の八木以外の全員の土佐出身の職員に免職を言い渡し、知事は東京に引き上げ、そのまま本国に引き取った、というのです。
 また、福島成行「新政府の廓清に犠牲となりたる郷土の先輩」『土佐史談』第 32 号(1930 年)には、倉敷県庁勤めの岡崎恭介が、東京出張中に「職務被免」とされ、京坂を彷徨っているうちに路銀を使い果たし宿泊にも困るようになり、各地の不平士族と親密に結びついていく過程が克明に語られています。
 ここからは、配置転換されて1年後には、土佐人はほとんど全員が解雇になったことが分かります。この思惑はなんなのでしょうか。
①長岡を除く主だったメンバーは倉敷県へいったん配置転換し
②長岡はメンバーから引き離され一人だけ三河県知事に任命され、直後に免官となり
③その後、時を置いて倉敷県に再雇用した全員を解雇する
という新政府の筋書きが見えてきます。
このような措置に対する怒りが、先ほど見たように土佐人を自由民権運動に駆り立てる一つのエネルギーになっていくようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)


 
6塩飽地図


 前回は海援隊による小豆島東部の占領について、お話ししました。今回は、塩飽の占領支配について見ていこうと思います。その際に避けては通れないのが「小坂騒動」です。これは土佐軍が、高松城占領している間に、塩飽本島で起きていた騒乱です。この事件に対して、海援隊が、どんな事後処理をして塩飽を占領下に置いていくのかを今回は見ていくことにします。
テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)です。
本島集落

まず塩飽本島の小坂集落と人名との関係を見ておきましょう
 小坂集落は、安芸からやって来た能地(のうじ)系の家船(えぶね)の漁民達が陸上がりして作った「出村」と研究者は考えているようです。江戸初期に安芸の能地(現三原市)からやってきて、小坂浦に居着いたのが始まりのようです。家船の漁業風俗も残っていました。人名達は、もともとは「幕府のお抱え船団」として、変なプライドをもっていましたからもともとは漁業はしませんでした。しかし、周囲の海には広大な漁業権を持っていますから、それを貸し出すことで、多くの収入も得ていました。そこへ、家船漁民がやってきて「出村」と形成したのが小坂集落です。ですから日頃から差別を受けていたのです。
3 家船3

 一方、人名株を持っている上層階級は、土地からの上がりだけではなく、海からの運上金や漁業権も持っていました。だから株を持たぬ民衆は事あるごとにお金を払わなくては何もできません。「人名による自治」と云われますが、それは人名による人名のための統治であったとも云えます。
3塩飽 ieyasu 印状
 
 幕府からすれば、塩飽に650人分の水夫と船をいつでも提供することを義務づけていたことになります。それは、平和時には朝鮮通信使やオランダ総督の航海への水夫動員や、アメリカに赴く咸臨丸への水夫提供などがありました。ところが幕末の動乱期になると、長州遠征のような実戦への輸送部隊としての動員が命じられるようになります。
 これに対して、幕府も不安定で長州へ従軍することの危険もあるので、人名達はみな嫌がって尻込みします。それで、小坂の漁民に頼んで長州に派遣します。つまり、人名は自らが出向くのではなく、支配下にある漁民達に水夫として従軍させたわけです。アテネの古代民主制は、従軍すれば参政権が得られるシステムでした。小坂の漁民達も従軍を根拠に、人名枠の配布をもとめます。それも、たった2名分です。これに対して人名側は、これも認めようとしません。そういう中で、鳥羽伏見の幕府軍の敗北と「御一新」のニュースが伝わります。それを聞いて、日頃の憤懣が爆発した小坂漁民は、塩飽勤番所を襲撃します。その仕返しにその翌日、人名勢が小坂浦を焼き討ちします。これが小坂騒動です。
 この事件では18人の小坂浦の漁民が殺され、人名の人たちによって全村が焼き払われました。小坂浦の墓には、この時の犠牲者となった18人の名前が彫られた碑が残っています。その碑も人名の供養塔と比べると格段の差があります。本当に小さな碑です。ここにも、人名と小坂浦の漁民の関係がよく表われているのかもしれません。
本島 小坂騒動記念碑
小坂騒動の犠牲者一八人を弔う墓(本島 小坂)

研究者は、小坂騒動の経緯を、次の一次資料から時系列に並べます
①人名側の文書「塩飽勤番所仮日記」塩飽人名所有。現在閲覧不可)
②小坂側の文書「八島神社誌」(小坂所蔵)

「慶應4年1月17日」
:鳥羽伏見の戦況(徳川軍敗走)を知った小坂浦漁民が、身分制打破(差別撤廃要求)の好機到来と考えて、泊浦の人名有力者7家に代表を派遣して、人名株2人分の譲渡を要求。これを人名側は拒否。
「1月18日」
人名代表が小坂浦にて妥協案(「代り人名」の譲渡)を提示。これを小坂側は拒否。小坂浦漁民が徒党(約300人)を組み、泊浦の年寄等の邸宅に乱入・打壊を働き、勤番所へ強訴。年寄の依頼で、2人の住職(正覚院観音寺、宝性寺)が仲裁、解決を約束。これで、小坂浦漁民は撤収。
「1月19日」
人名側の拠点である塩飽勤番所は、臨戦体制を整える。一方、小坂浦漁民は勤番所の朱印状を奪うことを計画して、武装蜂起。この時に海岸線を通らず裏をかいて泊山を越えて奥所地区を襲撃し、背後から勤番所に迫るルートで進軍。これに対して、惣年寄・高島惣兵衛が招集した笠島浦若衆が勤番所の備付の火縄銃20挺で、八幡神社で迎撃し戦闘状態へ。人名側(大倉忠助)と小坂側(与之助)の双方に死者がでますが、銃のない小坂勢は、総崩れとなり退却。人名側の高島惣兵衛は、小坂勢の再度の襲来に備えて塩飽11島に召集命令(まわしぶみ)発令。それに応えて、夜までには各島々から人名衆が集まってきます。この時に動員された島人は千人程度だった。木烏神社に本営設置して、小坂集落襲撃を決定。
「1月19日夜~20日未明」
:人名勢が小坂浦を襲撃、浜辺の船200余りを奪い逃亡を阻止し、全集落を焼払う。小坂側犠牲者18名。生存者約480人全員が勤番所の牢・物置等に収用。
「1月21日」
2日にわたって小坂集落を燃やし尽くした火の手は、21日になってようやく鎮火。23日頃になって人名衆は来迎寺に集まり、今後の対応を協議中。
来迎寺 (香川県丸亀市本島町 仏教寺院 / 神社・寺) - グルコミ


 この模様を対岸の丸亀から眺めていたのが、高松城占領のために丸亀に集結した土佐軍でした。
丸亀からは牛島があるので、直接は小坂集落は見えません。しかし、燃え上がる炎は夜空を焦がし、異変は丸亀にも伝わったようです。小坂集落が襲撃された1月19日は、高松城占領のために土佐軍が丸亀に集結していた日にもなります。軍の参謀を務めていたのが後の板垣退助です。
 塩飽・小豆島東部は天領あつかいとされ、朝廷による没収地の対象となっていました。そのため高松城占領後に、土佐軍は海援隊のメンバーを小坂集落に派遣します。その時の責任者だったのが八木彦三郎になります。彼は、塩飽後には鎮撫として金毘羅に乗りこんでくることになります。私が、注目する人物です。彼について、詳しく見ておくことにします。
24 宮地彦三郎
海援隊隊員 八木彦三郎について 

坂本龍馬が中岡慎太郎と京都の近江屋の二階で襲われたのは、1867(慶応三)年11月15日5ツ半(午後9時)過ぎだったとされます。その日の昼頃に、龍馬や慎太郎に近江屋の前で会った一人の海援隊士がいました。それが八木彦二郎です。八木は11月11日頃、長岡謙吉と共に土佐藩主山内容堂の命を受けて、英国の公使に信書とみやげを贈るために大坂に下っていました。その使命を終えての帰途、近江屋にいた隊長の坂本に報告に来たようです。その時、坂本は無用心にも、近江屋の二階から顔を出していたと云われます。映画などで演じられるシーンを再現すると
  「おお、八木かっ無事帰ったか。ご苦労じゃった。まあ、上がれ。お前にも話したいことかある』龍馬は2階から八木の顔を見てそう言った。脇から中岡も顔を出し『上がれ、上がれ」と声をかけた。八木は『いや、まだ旅装のままですから、 ひとまず、帰宿して、そのうちうかがいます」と答えて、その場は別れた。帰宿して、しばらくして「今、近江屋に刺客が入り、坂本、中岡の両隊長がやられた」との報を受けて、あわてて馳せ参したが、坂本は一言二言ばかり話して問もなく忠が絶えた。

当時、八木は大橋慎二(橋本鉄猪)という土佐の佐川出身の同志と某ソバ屋に下宿していたようです。短銃を懐にして同志と共に、京都霊山に龍馬と慎太郎の葬儀を行ないます。その後、下手人と信じた紀州の三浦休太郎を、油小路花屋町天満屋に襲っています。八木彦二郎は龍馬の元気な姿を、最後に見知っていた海援隊士ということになります。
八木彦三郎の生い立ちから見てみましょう
八木の本姓は宮地です。諱は真雄、幼名は亀吉又は源占、のち庫吉と称し、後年梅庭、梅郎、如水などと号したようです。1839(天保十)年10月15日、高知城下の新町、団渕に生れます。田渕は、武市瑞山が道場を開いたところで、堀割に近い商業ゾーンの一角に当たります。父は宮地六崚真景という藩士で、兄常雄、妹きわの3人兄弟です。彼は、近くの徳永千規に国学を学び、また田内菜国にも国学、漢学の手ほどきを受けます。
 さらに佐藤一斎門の陽明学者南部静斎や、洋学者として名をなした細川潤次郎にも和漢の学を学んだと伝えられます。加えて砲術は、海部流の能見久米次、藩の砲術師範・田所左右次に人間してその技を学び、剣は当時本町「乗り出し」に道場をかまえる麻田勘七に師事します。その中でも砲術に熱心だったようです。病身の母を助け、学問にも精進したので、藩から褒詞や褒賞をもらったこともあるようです。これだけ見ると優秀な模範少年だったことがうかがえます。
   十五、六歳の頃、御普請方一雇、川普請、港普請に従事します。
この土木工事の経験が、後年の琴平での架橋工事や堤防工事に活かされるようになるのかも知れません。その後は、上方修行を経て、1861(文久元)年 新規御召出しにより、下横目(警察官兼裁判官)となって上京します。この京都勤務中に出会ったのが坂本龍馬です。龍馬は、勝海舟の口ききで山内容堂から脱藩の罪を許され、形式ばかりの七日間謹慎を命ぜられます。その時の警護役が、彦二郎だったようです。彦次郎は龍馬を大阪から京都へと護送しますが、その間、退屈であった龍馬は、当時の世情について八木と話し合う機会があったのかもしれません。 
 龍馬との出会いは、彼を脱藩へと駆り立てます。帰京した八木は、京の藩邸を脱走します。
彼は名を変え、五条坂の陶器商吉兵衛方へ通勤し、絵付けの仕事などをしながら、夜はひそかに土佐の北添倍摩などと連絡をとりながら、志士活動に挺身したようです。しかし、そのうち大病にかかり佐々木定七の養子となり、佐々木三樹進と名のったり、梅国家の用人となり神田淳次郎と名を変えて、辛酸の日々をおくることになります。
1867(慶応三)年6月、坂本龍馬と後藤象二郎は、長崎を立って上京中でした。
八木は、後藤を旅宿に訪ねて、その心中を述べ、海援隊に入ることを願い出ます。龍馬にもその願いは通し、許可されたようです。長岡謙吉は、八木の境遇を気の毒に思ったようで、支度料十両と絹の袴一着、オランダ製の時計を贈ったといわれます。以後、彼は長岡と行を共にする海援隊員として八木彦二郎を名のるようになります。
Fichier:Kaientai.jpg — Wikipédia
海援隊集合写真 一番左が長岡謙吉 真ん中が坂本竜馬

龍馬暗殺後の海援隊は、メンバーが分裂して消滅状態になっていたようです。
このような中で、鳥羽伏見の戦いの後に、長岡謙吉と八木彦三郎はチャンス到来と、土佐出身の志士たちに呼びかけて海援隊を再結成します。そして、高松討伐を命じられた土佐軍を助けながら勢力を拡充するという戦略を立て、四国川之江にやってきます。そして、土佐軍の偵察・斥候活動などをおこなっていたようです。高松城占領の際にも、事前に高松周辺の上陸地点の下見などを行っています。
 その活動のリーダーが八木彦三郎でした。彼に率いられた海援隊が、偵察のために鎮火したばかりの小坂に上陸したのは1月22日のことだったようです。ちなみに、私の最初のイメージとしては海援隊ですから自分たちの軍艦(輸送船)を持ち、それを自由に操船して備讃瀬戸を動き回っていたと勝手に思っていたのですが、どうもそうではないようです。まず、この時期の海援隊には持舟はありません。四国にやってきたのも土佐船に便乗してのようです。そして、彼は船も操船出来なかったようです。龍馬の下にいた海援隊のメンバーとは違うのです。海援隊の再結成の知らせを聞いて、新しく入隊してきた者がほとんどです。出来ないのが当たり前です。
 009-1.gif
現在の小坂集落
それでは、本島の小坂浦に上陸した八木彦三郎は、どんな対応を取ったのでしょうか?
  多くの文献は、八木彦三郎の率いる海援隊が来島第一陣としています。しかし、「新編丸亀市史 2 近世編」は、1月23日に中村官兵衛・嶋田源八郎ほか7~8人がまずやってきて、翌日24日に八木彦三郎が来島したと記します。これは長岡謙吉書簡(慶應 4 年 1 月下旬頃か、林英夫(編)『土佐藩戊辰戦争資料集成』470 頁)に
「廿二日塩飽七島・小豆島民居争闘死人怪我人アリ人家ヲ放火シ騒擾甚シト聞ク、石田・中村等数輩渡海…」

の内容と一致します。

 やって来た海援隊に対して、人名衆の惣年寄・高島惣兵衛等はどんな反応を見せたのでしょうか?
「小坂ノ援軍ニアラズヤト疑ヒ騒グコト甚し」とあります。海援隊のメンバーを「小坂の援軍」と疑ったようです。ここからは、突然に現れた海援隊が何者か理解できなかったことが分かります。そこで
「島内の者に疑義挟む者の有るを以て、間民の鎮撫は引續き之を致すべきにつき、一應丸亀金輪御本陣の方へ使者を出すことを差し許されたし」

と、丸亀に使者を出して確認しています。この時に使者となったのが龍串節斎という医師です。彼は後に、琴平鎮撫の八木のスタッフとして参加する人物です。
 「節斎は(丸亀)御本陣で島民等の不心得を懇諭せられ、早々歸島して鎮撫使の命に従ふべき旨申聞かされ、恐惶して歸島復命した」( 宮地美彦「贈正五位長岡謙吉(下)」9 頁)

事実だったので、恐れながら島に帰り報告したとあります。
  こうして鎮撫使と認められた海援隊は、塩飽勤番所に本陣を移し、ここを土佐藩塩飽鎮撫所とします。
「玄關ニ三葉柏ノ幔幕ヲ張リ、仝ジ紋所ノ高張提灯ヲ吊シ、門前ニ土州支配所ノ高札ヲ建テ」とあるので、人名の勤番所を、海援隊が乗っ取った形になったようです。
本島 土佐藩紋所
土佐藩の紋所三葉柏


八木彦三郎の取った措置を見ていきましょう
①幽閉状態にあっ小坂浦住民全員を牢から解放します。
②加害者である人名指導者の惣年寄等に対しては、どんな措置が執られたのでしょうか
「治メ方ヨロシカラザルヲ以テ(略)厳科ニ處スベキ所、(略)特別ノ御仁政ニヨリ一週間ノ閉門謹慎

 他の史料も「一週間の謹慎」が多く、「十日間の譴責禁慎」「年寄に手鎖三〇日の刑」と記すものものもありますが、「徒党を組んでの殺人・放火」に対しての処罰としては、非常に軽微な内容のように思えます。
 さらに「其後ハ一切御構ヒナク、従前通リノ勤メ方仰付ケラレシ」と「形式的な処罰」にとどめたことが分かります。ここからは人名組織の統治機能をそのまま利用する形で、塩飽占領を行おうとする思惑があったことがうかがえます。この時点で、海援隊のメンバーは総勢13名で、塩飽にやって来ているのは、その内の数名なのです。「直接占領」などは望むべくもありません。既存の人名組織の協力・利用なしでは、占領政策は行えません。そうだとすれば騒動の張本人であろうとも、人名指導者達を厳罰に処することはできません。
「一週間後に高島は再び禮服着用で出頭し、前日の罪を許し以後は別儀なく、前役其の儘を以て忠勤を勵む様にとの申渡をうけて罷り退つた」( 福崎孫三郎「八島神社誌」59 頁)

という措置も納得がいきます。
 また、福崎孫三郎「八島神社誌」には、年寄(人名)が役人として引き続き鎮撫所(旧塩飽勤番所)で海援隊を補佐していたこと。また、小坂復興事業で人名が資材調達などで海援隊から多額の支払いを受けていたことが、角田直一『十八人の墓』236~237 頁には指摘されています。

 一方、家を焼かれた小坂浦漁民のために「土佐ゴヤ」(藁葺き大長屋の仮説住宅)を小坂浦の3か所に建築します。また『新編丸亀市史 2 近世編』807頁には、救恤米(助成米)が2月9日、金2百両の助成金が3月7日に配給されたと記されています。これは、土佐藩から出された「救援金」だったようです。
 季節は真冬のことですからこれによって救われた人たちも多かったようです。しかし、小坂に留まらずに「家船(えふね)」仲間の港に「亡命」した漁民達も数多くいたことを下津井川の史料は伝えます。

八木は、塩飽本島で新たな「組織」を作り出します。
先ほども見てきたとおり海援隊のメンバーでだけでは、塩飽と小豆島の占領政策は行えません。治安維持部隊も必要です。そこで八木は、・塩飽諸島の17~30歳の男子の志願者を集めて「梅花隊」(1個小隊)を創設します。応募してきた者達から人名衆の子弟を選び、隊の幹部に登用します。その顔ぶれを見ると、高島覺平(惣年寄・高島惣兵衛の子)・森嘉名壽・高島省三[高島惣兵衛の養子]、田中眞一、高倉善次郎、西尾侑太郎、横井松太郎などです。小坂からも松江甚太郎、山田丈吉、長本平四郎、溪口四郎造が梅花隊に入隊しているようです。
 「梅花隊」は小銃500挺を装備し、軍事訓練を始めます。これは、金毘羅大権現から借り入れた資金が使われました。梅花隊の訓練の様子が
「字七番新田ニ約五反歩ノ調練場ヲ構ヘ、毎日勇壮ナル調練ヲ行ヒシ」として、総勢「三十人ノ将卒」

と福崎孫三郎「八島神社誌」60頁には記されています。梅花隊は、明治3年7月に金毘羅で解隊されるまで、存続します。この隊に参加した人たちの中から次の本島や広島を担う戸長や村長達が現れるようです。
IMG_4842

 海援隊は、小坂浦漁民を救ったのか?と研究者は問い直します。
 海援隊を「島民之緒民ハ活キ佛さまトテ拝ミ申候」と記す土佐側の史書があります。例えば八木の業績について、宮地美彦「維新当時の土佐藩と予讃両国との関係79 頁)は次のように記します
塩飽に入って描虜を放ち張本人や、島役人等の罪を糾し、寛典を以て乱ル鎮め、人心を安堵し、救済を以て乱後の窮民を助け生業に励げました。是に於て島民は敵、身方の隔てなくその政治に悦服して八木の外出する時は、生佛様だ生佛様だと云つて土民は土下座して拝したと云うことである。 
 又八木が勤番所に居た頃、顔面に睡物が出て発熱甚だしく医師が大患である一命にかかわる様な事があるかも知れぬ」と診断した。その時本島の若者は毎日丸亀の福島で潮垢離して松尾村の金毘羅宮(金毘羅宮)参詣して治癒を祈願したと云ふ話も残つて居る。
   八木や海援隊のメンバーを神と讃え神聖視しているというのです。

小坂浦での八木の「神化」プロセスを見ておきましょう
明治3年(1870)、海援隊士を祭神とする「土州様」を大山神社に合祀88。
大正7年(1918)、海援隊13名の名前が分かり「十三とさ神社(重三神社)」に改称
大正8年(1919)、小坂山の山上にあった大山神社を現所在地に移転(地図・写真参照)。
昭和9年(1934)、実際に塩飽を担当したのが13人のうちの数名であることを知り、八木彦三郎・島村要の頭文字から「八島神社」と改称。
24 宮地彦三郎
重三神社の御神体には、長岡謙吉や八木彦三郎など十三名の氏名が記されています。

小坂騒動を後世の人たちは、どう位置づけ評価しているのでしょうか?
①福崎孫三郎『塩飽小坂小誌』
騒動を鎮撫した海援隊を「小坂ノ更生再建ニ援助を與ヘラレン為政者」と称賛し、隊士には「八木彦三郎殿」、「長岡謙吉様」と敬称をつけています。
②吉田幸男『塩飽史―江戸時代の公儀船方』
小坂騒動は海援隊(土佐藩)の扇動に小坂漁民が踊らされたもので「土佐の陰謀」と主張し、海援隊の行動を「悪行」とします。

③角田直一『十八人の墓―備讃瀬戸漁民史』には、「土佐をたって高松藩鎮撫にむかいつつあった六百名の土佐の武士たち」と海援隊が、「自由民権」と「平等」の思想から小坂の解放を行ったと「土佐軍・海援隊=解放軍」説を主張します。

書き手の立ち位置によって、小坂騒動の性格や評価が大きくことなることが分かります。

海援隊は、小坂の解放者だったという説には、次のような点から私には納得は出来ません。
①小坂浦漁民蜂起の最大の目的である人名株譲渡を実現させていない。
②島の統治実務は従来の政治機構(人名制)のままで、変革・改革もなし
③梅花隊にも人名衆を登用。
ここからは、小坂漁民の生命は救ったが「自由と平等」をもたらす解放者ではなかったことが分かります。

どうして海援隊は塩飽や小豆島などの備讃の島々を占領下に置こうとしたのでしょうか。
研究者は、次のような要因を挙げます。
①地政学:「長州征伐」の際の石炭貯蓄地=瀬戸内海上交通の要所であること
②海軍に必要な「塩飽水夫」の供給地であること、咸臨丸の水夫の多くが塩飽出身者
③いろは丸事件で長岡謙吉は海援隊文司として海難事故に対応し、備讃瀬戸を熟知
④海援隊規約「海島ヲ拓キ五州ノ与情ヲ察スル等ノ事ヲ為ス」の実践。⇒塩飽島・小豆島の鎮撫、及び佐渡島・伊豆七島の鎮撫構想(建白)へ

以上から長岡や八木のプランは次のようなものであったことが推察できます
①鳥羽伏見の戦い後、解体消滅していた海援隊を復活させ、「土佐軍の高松藩討伐」に参加する。
②その際に、備讃瀬戸の天領を占領し、統治することによって海援隊の組織を培養し強化していく。
その場所として、塩飽や小豆島はもってこいの島だと考えたのではないでしょうか。こうして、土佐藩が高松・松山藩の無血占領を行っている間に、土佐藩からの「下請け事業」的に塩飽と小豆島を占領し、支配下に置くことに成功します。

  以上をまとめておきます
①鳥羽伏見の戦い後、御一新のかけ声と共に塩飽本島では小坂騒動が起きた
②これは、人名側によって小坂漁民は制圧され、拘留された。
③そこにやってきたのが土佐軍のもとで偵察活動を行っていた海援隊である
④海援隊の八木彦三郎は、漁民を解放し救済した
⑤一方、人名側には厳罰を課せず従来通りの統治を許した
⑥さらに、人名の師弟を登用し梅花組を組織して、新たな軍事組織の形成を目指した。
⑦ここからは、海援隊は小坂の解放者とは云えず、従来の組織を温存しながら支配する占領者の性格が強い。
⑧海援隊は、丸亀の本部(長岡謙吉)・塩飽(八木彦三郎)・小豆島の草壁と備讃瀬戸に「海援隊」トライアングル」地帯を支配下に置いて、ここを拠点にして新たな海軍力の形成を新政府に献策していくことになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)
  谷 是「土佐海援隊士八木彦二郎と琴平」 ことひら45号
  関連記事                                                  

Fotos en 天領倉敷代官所跡 - 本町7-2
天領倉敷代官所跡(倉敷アイビースクエア内)

讃岐の天領没収を行ったのは?
 
「是迄徳川支配いたし候地所を天領と称し居り候は言語道断の儀に候、此度往古の如く総て天朝の御料に復し、真の天領に相成り候間、右様相心得べく候」
意訳変換しておくと
「これまで徳川幕府が天領と称して広大な領地を支配してきたことは言語道断のことである。よって、この度、総て朝廷の御料にもどし、真の天領にすることにした。以上のこと、心得るように」

朝廷は1868(慶応四)年1月10日、鳥羽伏見の戦いの勝利を受けて、徳川慶喜の処分と幕府直轄の土地(天領)の没収を布告しす。これで讃岐にあった天領も没収されることになります。今まで倉敷代官所が管理していた讃岐に天領は以下の通りでした。
①池御領(那珂郡五條村(669石)。榎井村(726石)・苗田村(844石)
②小豆島の東部三か村(草加部村・福田村・大部村)
③直島・男木島・女木島 
④大坂町本行支配の塩飽諸島(高1250石)
⑤高松藩領にある四か所の朱印地(金毘羅大権現寺領等)
以上が没収対象となり、土佐藩の「預り地」となりました。これは土佐藩が朝廷から、朝敵となった高松・松山両藩の征討とその地の天領没収を命じられていたからです。土佐藩兵は高松城に向かう進軍の途中、1月19日には、丸亀に駐屯します。
この時に、丸亀沖の塩飽本島では大騒動が起きていたようです。
これを小坂騒動と呼びます。情勢を聴いて高松藩征討深尾総督は、海援隊の八木(本名宮地)彦二郎を本島に派遣して騒動を鎮圧させます。そして、塩飽勤番所に土佐藩塩飽鎮撫所を設置して塩飽諸島を管轄することになります。
IMG_4830

 土佐藩塩飽鎮撫所が置かれた塩飽勤番所

ここで当時の海援隊のことについて見ておきましょう。
坂本龍馬が亡くなって以後は、
①九州長崎表の方は菅野覺兵衛が
②上方々面は、長岡譲吉が
指揮するという体勢になって分裂していたようです。
 1868(慶応4=明治元年)正月に、鳥羽伏見の戦で幕府軍がやぶれ四国の高松、松山藩は朝敵とされます。これに対して朝廷は、土佐藩に対してこの2藩の追討命令を出し、錦旗を下賜します。
 長岡謙吉・八木彦二郎の思惑と行動を推測するのなら、土佐藩と行動を共にして、瀬戸内海での活動場所を得ようということではないでしょうか。大坂にいた尊皇派の藤沢南岳を訪ねて、高松藩の帰順工作を進めたのもその一環です。その後、二人は伊予の川之江に向かいます。そして土佐から川之江に到着したばかりの土佐藩の討伐軍に、次のような情勢報告を行います
①鳥羽伏見の戦況と、その後の上国の情勢
②高松・.松山藩追討の詔が下ったこと
③京都の土佐責任者・本山只一郎が錦旗を奉じてやってきていること。それが、まもなく川之江に到着すること
 この情報を得た土佐軍は、軍議を開いて次のような行動を決定します。これについては、以前にお話ししましたので要約します。
①松山藩御預地の幕領川の江を占領すること
②丸亀藩を加えて高松藩を討伐、占領すること
③その後に、松山征伐を行う事。
この決定に大きな影響をあたえたのが若き日の板垣退助だったようです。
こうして、長岡と八木は、土佐軍に従い、行動を共にすることになります。
土佐軍が朝廷から求められていた「討伐・占領」は、高松藩だけではありませんでした。エリア内の幕府の天領も含まれていました。これも没収しなければなりません。今まで倉敷代官所が讃岐で管理していた天領は先ほど見たとおりです。

高松を無血占領した後、土佐軍は、高松駐屯部隊と上京部隊・松山討伐支援隊の3隊に分かれます。瀬戸内海に浮かぶ島々を占領・管理する能力も員数も土佐軍にはありません。このためこの方面の占領管理のために土佐藩は「新」海援隊を組織します。ある意味、土佐藩の「下請け委託」です。
 長岡や八木の脳裏には、ここまでが事前に織り込み済みであったと私は考えています。つまり、土佐藩の高松討伐を聴いたときに、ふたりは土佐軍に協力し、参軍する。その代償として、海援隊の復活再興と備讃瀬戸の天領をその管理下に置くこと。そして、将来的には瀬戸内海の海上交易の要地である塩飽と小豆島を拠点にして、海援隊の存在価値を高めるという「行動指針」が、すぐさま浮かんだのではないでしょうか。そのために、川之江にむかったのでしょう。川之江の軍議で、高松占領後の方針もきまります。そこには、高松城占領後は備讃瀬戸の島々は「新海援隊」を組織し、彼らが島嶼部の管理を行うと云う密約もあったのかもしれません。ちなみに長岡は、朝廷から「讃岐島討伐の内命」が讃岐に行く前に下されていた、と郷里に送った私信には記しているようです。
 しかし、海援隊による小豆島・塩飽の占領支配はすんなりとは始まりません。
都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
津山郷土博物館発行「津山藩と小豆島」より小豆島絵図  岡山から見た小豆島らしく南北が逆転している。
  津山藩が作成したものなので東側の天領は何もかかれていない

まず、小豆島の「討伐鎮撫=占領」の経緯を見ておきましょう。

 江戸時代の小豆島は東部3か村が幕領地として倉敷代官所の支配下にありました。それに対して西部六か村(土庄村・淵崎村・小海村・上庄村・肥土山村・池田村)は、天保九年(1838)から津山藩領となっていました。東部3ケ村が没収される際に、西部六か村も影響が及びます。
 高松城が無血占領された直後の1月23日に岡山藩の役人が草加部村に来て、村役人らに維新の趣旨を説明し、朝廷に二心なきの誓紙を差し出させます。同時に西部六か村の大庄屋たちにも、同じ誓紙を出させています。これは、岡山藩の越権行為のように思えますが、当時は津山藩が朝敵の嫌疑をうけて、詰問のため岡山藩から鎮撫役と兵が差し向けられていたという背景があります。そのため津山藩の飛び地領土である小豆島へも岡山藩の藩士が派遣されたようです。
 津山藩は1月21日に開城して恭順の意を示します。そこで25日の至急使で小豆島の村役人に宛て、「国元のところ少しも別条これなく、 決して相変り候わけござなく……」と記した書面を送り届けて、西部六か村は今までどおり、津山藩領として支配することを知らせています。
一方、天領の東部3か村へは2月5日に再び岡山藩の役人がやってきます。
草加部村の清見寺を出張所として、旧幕領地の管理を始めます。さらに盗賊取締りなどを名目に、藩士を派遣して「軍事占領下」に置きます。このような岡山藩の動きに対して、警戒心を抱いた土佐藩は強硬策に出ます。海援隊士の波多彦太郎らと塩飽・直島・男木島・女木島から徴兵した高島磯二郎・田中真一・西尾郁太郎ら数十人を草加部村に上陸させ、下村の揚場柳詰めに次のような立札を立てます。
「此度、朝命を以て予讃天領鎮撫仰付候事」

そして、極楽寺に土佐藩鎮撫所を設けて兵を駐屯させたのです。こうして、草壁村にはふたつの占領軍が駐屯するという事態になります。両藩はお互に「占領権」を主張します。

極楽寺
土佐軍が駐屯した極楽寺

 土佐側は、朝廷からの命を背景に岡山藩の撤退を迫ります。同時に、朝廷に働きかけて土佐藩へ、備前・讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書を出させます。これが2月9日のことでした。この辺りが当時の土佐藩と岡山藩の政治力の差なのかもしれません。これを受けて2月15日に、岡山藩は清見寺に置いていた番所を開じて引揚げていきます。
御朱印】清見寺(小豆島)〜小豆島八十八ヶ所巡り第21番〜|ナオッキィのチャリキャンブログ

こうして、土佐藩は鎮撫所を極楽寺から清見寺に移して、島民に対して次の触書きを出します。
当国諸島土州御領所、御公務・訴訟・諸願等一切向後下村出張所え申出可く候、尤も塩飽島えの儀は当時八木彦二郎出張に付、本島役所へ申可く候、右の趣組々の老若役人共えも洩さぬ様相伝へ触書は回達の終より下村役所え返さる可く候 以上
此度朝命を以て豫讃天領銀撫被仰付候事
戊辰二月            土佐藩
意訳変換しておくと
讃岐諸島の土州預かり所の公務・訴訟・請願などの一切は、今後は下村出張所へ申出ること。もっとも塩飽島については八木彦二郎がいる本島役所(勤番所)に申し出ること。以上のことを、組々の老若役人たちに洩さぬように伝へること。この触書は回覧終了後は下村役所へ返却すること。以上
この度、朝命を以て伊予・讃岐の天領鎮撫を仰せつかったことについて
戊辰二月            上 佐 藩

小豆島は、土佐藩鎮鎮撫下に置かれ、実質の占領支配は海援隊が行う事になったようです。
その後、この事情を岡山藩は、京都の辯事宛に次のように報告しています
  讃岐国塩飽島々の儀は備前守(岡山藩)領分児鳥郡と接近にこれ有り候処、上方変動後、人民動揺の模様に相見え候に付、取り敢ず卿の人数渡海致させ、鎮撫の義取計らい置き申候、同国直島の義は去る子年(元治元年)御警衛仰付られ居り申す場所故、鎮撫方の者差出し収調べ致し申候、同小豆島倉敷支配の分、盗賊徘徊致し候様に付、是れまた人数指出し鎮撫致し置き中候、然る処土州より掛合これ有り、右三島の儀は土佐守(土佐藩)収調所に付、同藩へ受取り申度き由に候間、夫ぞれ引波し仕り候、尤も非常の節は時宜に寄り、右島々へ備前守人数差し出し候儀もこれ有る可き旨申談じ候、此段御届け申上げ候様、国元より申付越候 以上
二月九日    池田備前守家来沢井宇兵衛
意訳変換しておくと
  讃岐の塩飽島々については備前守(岡山藩)領分児鳥郡と接近している。そのため上方変動(鳥羽伏見の戦い)後に、人民動揺の様子が見えたので、とりあえず藩士を派遣し、鎮撫を行ってきた。また直島については、元治元年に警衛を仰付けられた場所なので、鎮撫方の藩士を派遣し占領下に置いた。同じく小豆島東部の倉敷支配(天領)については、盗賊徘徊の気配もあったので、ここにも藩士を派遣し、鎮撫にあたった。しかし、これについては、土佐より次のような申し入れがあった。この三島のについては、朝廷より土佐守(土佐藩)に討伐・占領が命じられているので、同藩へが取り占領するべきものなりと。そのため土佐藩に引渡た。もっとも非常の折りであり、これらの島々へ備前藩主が藩士を派遣し鎮撫したのも、先を案じてのことであると申し入れた。このことについて以上のように報告します。と国元より連絡があった。 以上
二月九日    池田備前守家来沢井宇兵衛

こうして土佐藩は、幕府の天領であった「塩飽ー小豆島ー琴平」を管理下に置いたことになります。

土佐藩の小豆島・塩飽占領について、戦前に書かれた高知の史書は次のように記します。
此等島民は一般に文化の度が極めて低く祀儀風俗等も至つて粗野であったから、最初全島民に対して御維新の御趣意を誘論し、聖旨を奉外して各生業を励み、四民協力し鴻恩に酬い奉るべきことを誓はじめ、勤めて之が感化開発に尽力したと云ふことである。 
 而して豫讃天領鎮撫の内命を受けて出張した海援隊は、当時土佐藩の名において、その重任にあたり、其の海援隊として私に行動することはなかった。

   ここには占領地は、御一新を理解しない「文化の度が極めて低く祀儀風俗等も至つて粗野」な地で、それを「文明開化」する役割を担った土佐人、そしてそれに恭順し、発展する占領地という図式が見られます。これは、当時進められていた「大東亜共栄圏建設」のための日本の役割と、相通じるイデオロギーであるようです。「讃岐征伐」の時に、土佐で記された討伐記のイデオロギーが時間を越えて、戦前の「大東亜共和圏構想」を正当化する論理になっていたことが分かります。
海援隊のリーダー達は、塩飽や小豆島の地の利を活かして、瀬戸内海の海運交易の拠点としようと半永続的な支配を考えていた節があります。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)


トピックス)「高松、松山を征伐すべし」 明治天皇、土佐藩に命令 御沙汰書見つかる: 歴史~とはずがたり~
土佐少将(土佐藩主)に下された松山・高松討伐命令

 幕末の鳥羽伏見の戦に、讃岐の高松藩と松山藩は徳川幕府に与して参戦し、その結果「朝敵」の烙印を押されます。朝廷は土佐藩に、高松藩と松山藩の「討伐」命令を下します。これを受けて土佐藩は、遠征隊を讃岐に送り込み、丸亀・多度津藩を先陣にして、高松城を無血開城し占領下に置いたことを前回はみてきました。
朝敵 | 広辞典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
 
今回は、土佐藩の松山城占領の動きを見てみます。
テキストは前回に続いて、宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)です。この論文は、土佐の史料にもとづいて、戦前に土佐の研究者が書いたものです。それだけに土佐軍による「討伐」という色合いが強く出ていて、私にとっては興味深いものです。その辺りを強調しながら見ていきたいと思います。
松平定昭
松山藩主松平定昭 1ヶ月で老中を退任
 鳥羽伏見の戦いの時に、幕府の命で松山藩は摂津国梅田村近辺の警衛に当たっていました
しかし、会津・桑名両藩は松山藩主定昭の唐突な老中辞任を不快として、松山藩を快く思っていなかったようです。そのため松山藩と会津・桑名の間にはすきま風が吹いていました。そして、松山藩は鳥羽・伏見の戦い参加していません。会・桑両藩の敗北したのを聞き、定昭は慶喜のあとを追って堺に撤退します。しかし、慶喜は周囲に相談することなく、海路によって江戸に脱出してしまいます。そのため松山藩士の間では、その後の対応をめぐって藩論が2分してしまいます。
1 江戸に赴き徳川氏と運命を共にしようと主張するもの
2 帰国して対策を審議しようとするもの
そのなかで定昭は、帰国を決意し、堺を出発して1月10日には伊予の高浜に帰着します。
これは鳥羽・伏見の戦いから、わずかに一週間後のことです。これよりさき朝廷は、慶喜と随従した諸藩に対し「朝敵」のレッテルを貼り追討令をだしています。そのなかに高松藩も松山藩もあったことは今までに述べた通りです。
 これに対して前藩主勝成や定昭父子は、嘆願書を朝廷に提出して、鳥羽・伏見の戦いののち帰国した事情を陳述し、全く異心のないことを誓っています。しかし、藩士の間では、今後の対応について、意見が分かれました。
①恭順論者は、鳥羽・伏見の戦いにおける家老の措置が悪かったことを非難し、責任者を処分して朝廷に謝罪すべきであると主張します。
②主戦論者は松山藩が徳川氏の姻戚になる関係からも、慶喜を不利に陥れようとする薩・長二藩に徹底的に抵抗すべきであると主張します。
前者のなかには門閥家が多く、勝成を奉じようとし、後者には、定昭をいただいて事をあげようとするものが多かったようです。藩の主導権争いも絡んできます。
山内容堂 - Wikipedia
土佐藩主山内容堂(豊重)

  一方の土佐藩の動きを見ておきましょう。
土佐藩は、薩・長両藩のような過激な討幕論を唱えていませんでした。それは、山内容堂(豊信)が慶喜に大政奉還をすすめ、また慶喜を新政に参加させる構想を抱いたことからもうかがえます。土佐藩は、どちらかというと松山藩にも好意的であったようです。
 容堂は、高松城の無血開城が決まった後に、家臣の金子平十郎・小笠原唯八らを問罪使として松山に派遣し、勅旨を伝えて恭順の誠意を示すように次のように諭しています(池内家記)。
奉 勅命兵卒差向け候 此上伏罪被致候哉或は不及異議候哉速かに御答可仕候 此段使者を以申す達候
辰正月
意訳変換しておくと
 勅命を受けて、兵卒を(松山)に差向けた。この上は伏罪(切腹)なさるか異議及ばずとするか、派遣した使者にお答え願いたい。

そして「無血入城」勧告と同時に、松山遠征隊の軍編成も次のように進めます
①先手総督 佐川国家老である深尾鼎の嫡子深尾刑部(重愛)
②後陣総督 家老深尾左馬之助(成名)
これが先に高松に送った迅速隊に次ぐ第二部隊になります
容堂は司令官総督深尾刑部に、次のような下知書と軍令を下しています。
この度、松山討伐隊を申しつけ敵地へ乗りこんでいくことになるので、「殺生の権」を委任する。
万一、配下の者で拳動に不心得な者が出れば、宜しく専決鎮撫することが肝要である。このことを申し聞かせておくように。
正月     土佐守
       深尾刑部殿
軍 令
一、第一作法を守上下之稽分を慎就中頭役之下知相守何時急変有之共不覺を不取様相心掛 且隊伍相立候節猥に他隊に相交俵堅禁之
一 備押之節部隊前後の次第混乱致問敷事。
一、猥に人家に立入事停止之、若不得止儀有之節は頭役へ相
達受指同事。
一、吉詳怪異之沙汰流言等致間敷事。
一、軍中敵軍の強弱を私同志事宜を評論致間敷事。
一、雨入して敵一人を討取候類有之時争功致間敷藩争奪者有
之候は具に頭役へ訴出づ可き事。
一、進み口に於て頭役戦傷或は戦歿致候時は共家来此を保護
し力士と共に取退くべし、平十の戦傷は力士の取扱たる
べし縦令父子間たり共決而顧望致す間敷候尤も退口には

右之條に於違背は軍法可虎考也
辰正月    土佐守輿,範
深 尾 刑 部殿
意訳変換しておくと
一、第一に作法を守り、上下の秩序に従い、上司の下知を守ること。何時に急変あろうとも不覺をとることのないように心掛けること。かつ隊列が並び立つようなときには、他の隊と入り乱れることのないように。相交俵堅禁之
一 備押((びおう:軍事的に備え取り締まること)の時には、部隊の前後は混乱せぬようにすること
一、猥に人家に立入ことは禁止する。もし、やもおえない時は上司に相談・報告し、指示をうけること。
一、吉詳怪異之沙汰など流言は、行ってはならない。
一、軍中で敵軍の強弱を、仲間内でひょうしたりすることのないように
一、二人で敵一人を討取たときによくあることだが、功を争うことのないように、もし争奪する者がいたばあいには上司に訴え出ること
一、進撃の時に頭役が戦傷したり、戦歿したときには、その家来が保護し、力士と共に撤退すること。兵士の戦傷は力士が取扱うべきものである。例え父子の間で有ろうとも決して、間違ってはならない。もっとも退却の際には、互いに助け合うことが必要である。
以上のことについて、背く者は軍法によって処罰する。
辰正月    土佐守輿範
深 尾 刑 部殿
こうして正月23日に深尾刑部は、高知城下からやってきた大軍監兼太隊司令高屋左兵衛の兵と合流し、総勢約480名を率いて佐川を出発します。次で第二陣の深尾左馬之助も藩兵を率いて松山にむけ出発します。そして、第一陣は4日後の27日に松山城下に到着します。 
 松山追討の勅命が土佐藩へ下ったことが伝わると、松山藩では高松藩と同じようにように藩論がぶつかりあいます
①土佐兵を迎撃して潔く雌雄を決せん主張する者
②順逆の大義を説いて、恭順すべしと主張する勢力
すでに高松藩の無血開城と恭順の対応ぶりを聴いた家臣の大勢は後者に傾きます。そこで、家老奥李弾正は恭順を藩主松千定昭に提言します。定昭は、すでに恭順降伏を決意していて、25日に、土佐からの使者に次のような返書を持たせています。
今般御使者を以被聞候 趣本承候私儀如何体被仰付候とも朝廷に違背之王師に敵封仕候 心庭無之臣下に至迄毛頭異論無御座候此段御含被下 朝廷向宜敷御執成被下度伏而奉懇願候。 以上。
松干定昭
意訳変換しておくと
今回の「朝敵」になったことについて、土佐の使者から、その趣旨をお聞きしましたました。私どもは、どのようなことがあっても朝廷に叛き、王師に敵対するというつもりは毛頭ないことを、朝廷に対して、取り持って伝えていただけるように懇願いたします。 以上。

 定昭や勝成(前藩主)は、土佐藩の使節に対して、朝命に違反し王命に敵対する心底のない旨を伝えます。そして城を出て、郊外の常信寺に入って謹慎します。これも高松藩と同じ対処法です。さらに定昭は政庁を藩校の明教館に移し、家臣に対し恭順の態度を失わないように訓示します。
4/1 常信寺の桜いろいろ | 愛媛のいいところ探し
常信寺(松山市) 松平氏の菩提寺

こうした中で1月28日に高松から錦旗を奉じてやってきた本山只一郎が到着します。それを待っていたかのように、土佐軍は錦旗を先頭に押立て雨の中を松山城に入城していきます。この時、土佐藩士は立花橋と城の東門付近で一斉射撃を行います。城下の人たちにとっては、これは土佐藩の威圧と感じたようです。その後、城門外に「土州預り地」の立札を建て、土佐軍の軍事占領がはじまります。
四国各藩の戊辰戦争事情 | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

 土佐藩占領下の松山城へ、征討大総督四條隆識卿が姫路城での監督を終えて海路で、やってきます。これを護衛して来たのは、京都の土佐藩邸詰大軍監・今日光四郎の率いる土佐軍180名でした。そこへ、征討軍の第二陣深尾左馬之助の一隊も到着します。こうして松山城に集結した土佐藩の幹部は、次のようになります。
総督 深尾両雨
御仕置役    金子 平十郎
大目附役    本山只一郎
同      小笠原 唯八
土佐藩の松山遠征メンバー

  高松城占領の際にいた板垣退助の名前は、ここにはありません。

この時に、長州藩の奇兵隊も三津浜に上陸していました。
長州軍は三津浜に「長州領分」という立札を立てて、松山城への進軍の機会をうかがっていたと土佐側の資料は伝えます。その背景には、長州征討の際に松山藩が長州の大島郡へ攻め寄せて民家への略奪行為を働いたことがあるようです。それに恨みに持つ長州兵が、松山藩が朝敵となったこの機会を捉えて、松山城下へ乱入し復讐の機会をうかがっていたと云うのです。
 これに対して、土佐藩・大軍監小笠原唯八は奇兵隊の長杉孫七郎に書面を送って、勝手に軍を進め長州領分の制札を建てた不法を詰問しています。これに対して、長州軍は制札を除き兵を引揚げて長州に去ったと土佐の史料は記します。
 もし、土佐軍のやってくるのが遅れていたら長州軍の松山城下への侵入ということもあったかもしれません。ある意味、素早い土佐藩主の判断に松山藩は救われたと云えるのかも知れません。
 4月17日には、土佐から家老山内下総の部隊が交代部隊としてやってきます。
それを受けて、19日には第一陣は高知城下へ「凱旋」していきます。5月15日には、朝廷より松山藩主・久松勝成に再び松山藩が下賜されます。こうして、土佐軍は、久松勝成に御預り中の諸務を引き継いで高知に引揚げていきました。土佐軍の軍事占領は、4ヶ月近くに及んだことになります。高松藩が1ヶ月あまりで、終わったことに比べると長かったことになります。そこには、朝廷工作や薩長の憎悪の強弱も働いたようです。それは、前回にお話しした通りです。
朝敵伊予松山藩始末 土州松山占領記 通販|セブンネットショッピング

 土佐藩による高松・松山城の軍事占領についてみていきましたが私が印象に残るのは、土佐藩の迅速さと手際よさです。
土佐から高松城へやってきた土佐軍の動きを見ても、それはうかがえます。停滞と云うことがありません。常に移動し、移動しながら考えているといった感がします。高松城を占領した後も、祝杯を挙げるわけでもなく次の任務地に向かって、移動していきます。用意周到な計画性は感じられませんが、動きながら考える、その中で最善手を選ぶという土佐人のいいところが出ているようにおもえてきます。
 そして、土佐にとって松山や高松を占領したというのは、大きな誇りになったのではないでしょうか。それが、次の四国のリーダーとして四国会議を主催し「もし事あれば四国をまとめて、薩長に対して起つ」という気概を生み出していったようにおもえてきます。
 同時に土佐に残された史料は、これを基にして数々の「英雄奇談?」が作り出され、語り継がれていったようです。長宗我部元親の四国統一と「明治維新の高松・松山占領」は、土佐人の郷土愛を育む題材となったようです。

さて最後に、幕末の松山藩と土佐藩と長州藩の三角関係を見ておきたいと思います。
①長州征伐の時に、松山藩は先頭に立って長州を責めます。しかし、これは長州の奇兵隊にこてんぱんにやらます。松山藩はどちらかというと「保守・守旧」で、近代的軍備には鈍感でした。これに対して、長州の奇兵隊は、最新の銃を持ち、最新の洋式訓練を受けていました。負けて当然です。そして、戊辰戦争でも松山藩は幕府側について負け「朝敵」とされたことは、見てきた通りです。ここまでは、松山と長州は互いに恨み合っていました。

松山・長州・土佐の三角関係

②土佐藩による松山占領
朝敵とされた松山藩を「討伐」土佐藩でした。藩主は蟄居を命じられ、おまけに15万両の罰金を払えと命令されます。松山藩は、これに恭順を示し、何とか工面して支払います。しかし、その財政的疲弊は厳しいものがありました。このように、土佐と長州からの屈辱に対して、松山は恨みがあったはずです。

①長州に対する土佐の反発
明治になると、政府の主要ポストは薩摩と長州が独占し、土佐には廻ってきません。そのため土佐は、薩長に対する反発の先頭に立ち、自由民権運動の騎手となります。土佐藩は、新政府軍として戦ったはずなのに、薩長から取り残されてしまったようです。土佐の板垣退助らの自由民権運動も、もともとは新政府内の派閥抗争による薩長への恨みという側面もあるようです。土佐は、薩長とならぶ三大雄藩と、呼べる存在ではなかったのです。
②長州に対する松山の恭順
これに対して松山は、新政府軍に対して恭順を示し、長州に逆らう態度を見せません。幕府の味方というカラーを、消していくことに力を傾けたように見えます。朝臣として在京・勤番や天皇即位について献物・献金なども、朝廷に尽くすという姿勢をとります。こうして松山藩は、しだいに「新政府の藩屏」となっていきます。うまく立ち回ったと云えます。
このあたりが高松藩とは、対照的なところです。
高松藩は、鳥羽伏見の後の朝敵事件には、多方面からの朝廷工作を行い最も短期間で、高松城占領を終わらせています。しかし、その後は新政府との間に何かと問題を起こしてトラブルメーカーの烙印を押されたようです。それが、香川県の愛媛県への合併という事態を生むことになります。象徴的なのは、四国に最初に高等学校が作られたのは、高松や高知ではなくて、松山だったことです。松山は、懲役事件の屈辱から多くのことを学んだようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献    宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)

 讃岐史談(讃岐史談会編) / 光国家書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 「師匠からまだまだ勉強が足らんな、読んどかないかん本がよーけあるで。終活のために本も整理ししよるけんに、これだけ持って帰って」といただいた本の中にあったのが「讃岐史談」です。そのまま何年間も「つん(積)読」状態にあったのですが、最近手に取ってみると、私にも興味が持てそうな論文がいくつか見えてきました。これも成長かもしれません。
 今回はその中から、明治維新時の土佐軍の讃岐占領について記した文章を見ていくことにします。この論文は戦争始まる前に、琴平の草薙金四郎氏を中心に創設された「讃岐史談会」の機関誌に載せられたものです。これが1977年に復刻版として出されています。
ヤフオク! -讃岐(本、雑誌)の中古品・新品・古本一覧

その中に収められている「宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)」が今回のテキストです。
 この論文の面白い所は、戦前の土佐の研究者によって書かれているところです。そのため「郷土愛」が強く出ていて、香川県人の私が読むと「占領軍の目から見た讃岐」という姿が見えてきます。香川県人には書けない表現も随所にでてきます。
 私の問題関心としては、
①明治維新直後の土佐軍の金毘羅占領
②金毘羅大権現の神仏分離の際の金光院院主宥常の動き
この両者が同時代的に不透明で、よく見えてこないのです。このテキストを通じて、土佐占領下にあった金毘羅の情勢が見えてくればと思います。そのためには、少々遠回りですが、鳥羽伏見の戦い前後の高松藩と土佐藩の動きから初めて行きたいと思います。
1 鳥羽伏見の戦い

1868(慶応四・(明治元年)正月2日の鳥羽・伏見の戦い後、情勢は激しく動くようになります。
1月10日には、将軍・徳川慶喜と以下の藩主たちの官位が削られ、次のような措置が出されます。鳥羽伏見の戦いに参戦した高松藩も朝敵のメンバーの中に含まれています。
徳川慶喜・奥州合図藩主、勢州桑名藩主、讃州高松藩主、豫州松山藩主、備中松山藩主、上総太川喜藩主
右者此度慶喜奉欺 天朝反状明白既兵端を開候に付追討被仰出候 依之右之輩随賊反逆頴然候間被止官候事
意訳変換しておくと
「右者はこの度の慶喜の天朝に叛き兵端を開いたことにより、追討をもうしつける。以上の輩は反逆者である間は官位を停止する。」

鳥羽伏見の戦い後、新政府は徳川慶喜追討令を発します。同時に、後攻の憂いをなくすため、西日本の徳川家一門・譜代大名を押さえる任務を土佐・備前・長州などに命じます。なかでも、新政府が畏れたのが、高松・松山・大垣・姫路・備中松山の5藩です。高松藩は、徳川将軍家の一門であるとともに、鳥羽伏見の戦いに、旧幕府軍として参戦したことが、朝敵とされ征討の対象となりました。

トピックス)「高松、松山を征伐すべし」 明治天皇、土佐藩に命令 御沙汰書見つかる: 歴史~とはずがたり~
【御書写 土佐少将宛(高松・松山征討令)

 新政府は11日に、土佐藩主山内豊範(土佐少将)あてに、伊予松山藩と讃岐高松藩と、その領内の幕領地に対する討伐・占領の命を沙汰します。そこには、次のように記されています。
丸亀藩が高松藩を征伐? : 88 Partners Inc.
徳川慶喜反逆妄挙を助候條其罪天地不可容に付讃州高松、豫州松山、同川の江を始是迄幕領総て征伐没収可有之 被仰出宜軍威を厳にし速に可奏追討之功之旨御沙汰候事
正月十一日
但両國中幕領之儀は勿論幕吏卒の領地に至るまで総て取調言上可有之 且人民鎮撫偏に可服王化様可致処置候事
土佐少将へ
征服被 仰付侯御御紋御旗二流下賜候事
正月十一日
意訳変換しておくと
徳川慶喜の反逆妄挙を助けた諸侯の罪を、天下に受けいれられるものではない。よって讃州高松、豫州松山、川之江とその幕領(天領等)を総て征伐没収すること。軍威を厳しくして速やかに追討追討することを土佐藩主に沙汰する
正月十一日
但し両國の幕領地(天領)については、旗本等の領地に至るまで総て取調て、報告すること。その際に、人民鎮撫・王化に注意を払っておこなうこと。
土佐少将へ
征服のための軍事行動については、天皇家の御紋御旗二流を下賜する
正月十一日
錦の御旗|西郷どん(せごどん)おゆうが縫う錦旗(きんき)は鳥羽・伏見の戦いで戦況を一変させた官軍のしるし! | おもしろきこともなき世をおもぶろぐ

12日正午に土佐藩に下賜された錦の御旗は、川原町の土佐藩邸を出発して四国・川之江に向かって進んで行きます。この時のメンバーは大目付本山只一郎と下目付2人、飛脚3人で、行列は足軽4人と郷士2名の後に御旗が続き、その後に徒目付が続くという隊列だったようです。
つまり、讃岐高松藩と伊豫松山藩が朝敵となり、その討伐が土佐に命じられたということになります。そのシンボルがこの旗です。
土佐藩15代藩主 山内容堂(豊信)
山内容堂
これに先立って1月6日に、土佐藩の老公山内容常は京都藩邸から高知藩庁へ、「京都に異変が起ったので朝延守護のために、藩兵を出来るだけ多く派遣するように」という指示を出しています。土佐藩では、この指示を受けて、早速出兵の準備に取りかかかります。しかし、その後の情報はなかなか入ってきません。

そのような中で、13日に遠征隊のメンバーが次のように決定します。
総督  近習家老・深尾成質
御仕置役 小南五郎右衛門、
大目付   森確次
大軍監兼大隊司令 乾退助(板垣退助)
土佐軍の讃岐討伐部隊

彼らが「迅速隊」八小隊の600人を率いることになります。
 その階層構成は以下の通りです
①深尾丹波手勢 40人
②郷侍8人、郷士121人・士48人・小者138人・
③雇兵(年季夫) 692人
④庄屋子弟    34人
⑤医師5人 若党6人
 総勢1085人です。
これを見ると郷士、徒士、地下浪人、庄屋の師弟からで構成される混成部隊で、服装も陣綱織に伊賀袴、代刀に大細筒という代物で、当時としてもなかなか奇抜なものだったようです。
 1月12日に高知城下の致道館に集合した兵は、山内豊信の閲兵をうけて七ツ刻(午後四時)、高知を出発していきました。

一行は陸路で高松に向かいます。ルートは次の通りです
①13日 石渕に泊り
②14日 穴内で昼食、本山で宿泊
③15日未明 本山を出発し吉野川に出て、川口で昼食、立川で宿泊。この夜大雪
④16日御殿集合、七ツ(午前四時)に御殿を出発して笹ケ峰に登る。積雪三尺ばかりですべり倒れる者多く、馬立にて昼食。京都から帰国する使者と出合い様子を聞き、平山越上分で勢揃して川之江に下る。
⑤17日は川之江に滞在。
士氣は盛んでしたが、この時点では、京都に向かうつもりで編成されています。自分たちが高松藩や松山藩の討伐占領軍になるとは思ってもいなかったことは押さえておきたいと思います。つまり、川之江までやってきても、どこに向かうかも、なにをしたらいいのかも分かっていなかったということです。そのため以後の動きがとれません。軍目附の谷守部は、高知藩庁へ引返えして、藩命を再確認する始末です。
  そんな中で18日に伊予・讃岐天領地統治の藩命を受けた海援隊の長岡謙吉、八木彦三郎等が部下を率いて船で川之江に到着します。そして、土佐軍の陣営にやって来て、上方の形勢を伝え、錦の御旗が到着することを告げます。
板垣退助の写真(若い頃) | 幕末ガイド
若い頃の板垣退助
これを聞いて討幕派の先鋒であった板垣退助は次のように鼓舞したと伝えられます。
「事態既に此に至つて尚決せずば社陵を如何せん、他日妄挙の責め或は至らば我二三輩、死あるのみ。死して社稜の為めにするも亦丈夫の一快事ではないか」
意訳変換しておくと
「事態は既にここまで進んでいる。この期に及んで行動を起こさなければ、社陵に顔向けできないことにもありうる。後日になって妄挙の責めを受ければ、我らの内の二三の輩が腹を切ればいいことだ。死して後世に名を残すのも、男丈夫の快事ではないか」

 板垣は自分たちが高松藩討伐軍に「変身」し、高松に向けて「転進」することを主張します。これに指揮官達は同意します。こうして、川之江で高松・松山藩への討伐軍は「誕生」したのです。その手始めに、土佐軍が行ったのは、松山藩管理下にあった川之江支配所役人に対して、立退きを命じることでした。役人たちはこれに従い、退去したようです。こうして討伐軍は、まず川之江を「無血開城」させることに成功します。川之江は土佐軍の占領下に置かれ、次のような高札が建てられます
当分天領土州領地
此度 朝命を以豫讃天領取調被 仰付候に付向後萬事土州代官へ可申出候事、
但貢税方度先旧来之通可相心得事
慶應四年正月
意訳変換しておくと
当分の間、土州領とする
この度 朝命で豫讃天領の管理を土佐が仰せつかった。以後、萬事のことは土州代官へ申し出ること。ただ、貢税や法律については旧来の通と心得るべし
18日に、深尾総督は丸亀藩説得のために差添役の乾三州郎と、海援隊の長岡謙吉を、丸亀に向かわせます。その途上で、島坂峠で錦旗を立てて、京都から行進してきた大監察山本只一郎の一行と劇的な出会いを果たします。こうして土佐軍は、高松征討の錦旗を手中にします。同時に京都の情勢が有利に運んでいることを知ります。
 丸亀落主京極朗徹は、乾、長岡を迎へ入れ恭順の意を表し、土佐藩兵を迎へ入れることに同意します。この背景には、土佐藩の参勤交替ルートが「本山ー新宮ルート」になって、仁尾から丸亀藩の御座船を借用して瀬戸内海を渡るようになっていました。その際の船の借用や水夫手配などで、家臣同士の親密な交流もあったようです。その際の人脈などが活かされて、スムーズなやりとりが行われた伝えられます。
 その後の川之江から丸亀に至る土佐軍の動きを見ておきましょう
⑥18日 京都よりの倫旨と錦御旗一流を受取り、五ツ(午後八時)に川之江を出発、和田浜(現・豊浜町)の荒磯を歩き、姫浜(旧豊浜町)にて休息。食事、本山寺にて休息。食事して夜明け
⑦19日 本山寺出発、鳥坂で昼食、八ツ(午後二時)に丸亀に着き、福島屋などに宿泊
2020年03月 : 瀬戸の島から
高松城と東浜
これに対して高松藩は、どのように対応したのでしょうか。香川県史で高松藩の動きを見てみましょう。

大坂から鳥羽伏見の敗残兵を乗せた船が1月10日に高松に帰ってきます。すでに三宅勘解山らによって伏見の戦況の様子が報告されていましたが、その後は西風が吹き続け、上方からの便船がなく、その後の様子は分からなかったようです。そのため6日以降の大坂方の不利や、朝敵になったことは知りませんでした。そのため高松では、その後の戦況を心配しながらも、まだ人々の間には動揺はなかったようです。そのような中で十日に大坂を出帆した便船が、12日昼、高松に帰ってきます。飛脚や船頭加子・乗合の者から、
①京都より錦御旗を押立て官軍が破竹の勢で大坂に入って来たこと
②大坂方が朝敵となったこと
③大坂城が炎上した
ことなどが知らされます。さらには、今夜中にも官軍が軍艦で、高松城を攻撃するなどのフェイクニュースが流れされ、市中は動揺します。家中の隠居子供までが夕方から夜中にかけて追々登城します。この武士たちの今までにない姿を見た町方の者は、動揺し家財を収片づけ、老幼婦女らが立退きはじめます。そのため市中は大騒ぎとなります。町奉行は目付や押の者を町方に差し向けて、騒ぎの鎮圧につとめます。また代官らも出て騒ぎを鎮めます。そのためか夜半には平静にもどったようです。しかし、この不安と騒ぎは、周辺の村々にも波及します。そのため1月17日には、大政所から各村に次のような通達が出されています。
「此度朝命に依り京大坂にて御屋敷指上げ遊され候義に付き、 此度申渡しの趣諸事相慎み百姓共騒しく仕らず様に申付べき事」

さらに建札にて、家居は表門を開じておくこと、商売は密かにすることなどが通知されています。
 12日夜になると、光宗五郎八らが大坂から帰国します。そして、今度の戦は、「一と通りの謝罪では済されず」と重臣や藩主に報告します。
 14日夜半になって、藤沢恒太郎・山崎周祐(大坂寄留高松浪人)が高松に帰ってきて、次の報告を行います。
「八日に征討将軍仁和寺官が大坂に着き、西本願寺掛所を本陣として、高松・松山・大垣・姫路に対し、征討軍の派遣を命じたこと」
 恒太郎は、高松藩の儒者で藤沢南岳と号していました。
藤沢南岳 - JapaneseClass.jp
藤沢南岳(恒太郎)

父の昌蔵は号をを東眩と称して有名な文人だったようです。その子の恒太郎は、当時は大阪にいました。恒太郎は、尊王攘夷派でしたから高松藩が進路選択を誤ったと激憤していました。そのため長岡や八木の説得工作に賛同して、一命をかけて高松藩の恭順に努めることを誓います。こうして、恒太郎は早舟で高松に帰り、人脈ルートを使って藩内の恭順工作を行います。藤沢恒太郎(南学)は
「今度のことは重役の伏罪(切腹)処置によるほか無し」

と具体的な対応措置を進言します。
 この進言に対して、藩主松平頼聰は直ちに頼該(左近)・頼績の御連枝や大老・年寄の隠居を召出した上で、藩のとるべき道を衆議させます。出てきた意見は、次の2つです。
①責任者を罰して官軍に恭順すべしとする恭順派
②官軍を迎え撃つべしという徹底抗戦派
両者の意見は、譲ることがありません。後世の書には、最終的には藩主が次のように云って決定したと伝える書もあります。
「汝輩は今日に至つても猪ほかつ大義を誤り君國を危うして恥ず、何の面目あって我が祖宗の廟に謁せんとするか、芍も恒太郎の忠言を聴かぎらんとせば先づ我が首を刎ねよ」

しかし、あまりにこれは明治以後の「皇国史観」による作文で、浪花節調です。
興正寺について|本山興正寺
京都興正寺
香川県史を下に、場面を再現すると次のようになるのではないでしょうか。
16日になって、京都西本願寺派の興正寺の摂信上人からの使者・内田外記が到着します。高松藩は、興正寺と姻戚関係を何重にも結び、深いつながりがありました。その親書には、次のように記されていました。
「重職業伏罪(切腹)の実効相立るような急な御処置有るべし」

そして、使者は口頭で次のように述べます。
「鳥羽・伏見の戦いで指揮をとっていた家老を処断して十二万石の城地と領民を差し出せば寛典に処するというのが官中の空気です」

これを聞いた頼聡は
「和平のほかあるまい。あとはよきにはからえ」
といってその場を立ちます。そこにいた松平左近は
「大殿さま、ご決断どおり恭順と決まった。藩士どもは下城せよ。
小夫兵庫、小河又右衛門両名は全責任をとって切腹し十二万石を救え」
といい放ちます。
「両名とも不服はあろう。その胸中は察するが、なにごともお家のためであるぞ」
と、これまで主戦論者だった大久保主計大老は手のひらを返すようにいった。小河又右衛門と小夫兵庫の切腹が決まります。

こうして藩主松平頼聰の名で朝廷へ御赦免の歎願書が上奏されることになります。その窓口として興正寺御門跡へ、御赦免の歎願書を至急其筋へと届けてもらうように依頼します。
17日には、鳥羽伏見の戦で隊長を勤めた三宅勘解由、寛謙介に自宅謹慎を命じ、足軽頭に見守らせます。18日には、家中全ての者に対して討伐軍の到来に備えて次のような通達が出されます。
①万一討手を差し向けられても、武器を所持しないこと
②決して手向かいしないこと
③麻の上下にて登城のこと
④御城外役所へ出向く役人は平服のこと相心得ること
などを申渡します。そうして18日夜に、小夫兵庫・小河又右衛門に切腹を命じます。
①兵庫は檀那寺正覚寺(二番丁)、
②又右衛円は弘憲寺(浜ノ丁)
で、親類同道で、寺の玄関から方丈へ通り、切腹の座につき切腹します。両人とも自宅より寺までは乗輿・侍槍・挟箱・長柄傘の年寄作法通り行われます。両人の首級は検使が持ち帰り、死骸は親類に引渡されます。遺族へは三十人扶持が与えられて当分間は、屋敷に留まることが許されます。夜になって首級は頼聰の書付と共に姫路城に滞在していた将軍官に指出すために、本使芦沢伊織・副使本行彦坂彦四郎・先導藤沢恒太郎(南学)・山崎周祐が飛脚船で出帆していきました。
高松藩の責任者 小夫兵庫・小河又右衛門の首実検(姫路城にて)

こうした処置の上で、19日夜に、頼聰は城を出て浄願寺(五番丁)に入り謹慎します。
寺の山門・勝手間とも閉じ、勝手門くぐり戸より出入りします。諸役所も寺に移し、老中二人ずつ宿番し、御用達・近習ら以下昼夜詰切り、御城には老中・番頭・奉行。御助田守居番頭・徒日付・御徒士などが詰めます。20日には、嗣子らが広日日寺(天神前)に入り、鳥羽伏見の戦いに参加した主だった者12人を町奉行へ預け、朝敵の汚名から遁れる行動を開始します。


丸亀城から高松城に至る土佐軍の移動ルートを見ておきましょう。
土佐軍は20日卯の上刻に、陸路3小隊、海路5小隊、丸亀・多度津勢の三手に分けて、丸亀藩の4小隊を先陣として丸亀を出発していきます。
①そのうち海路ルートをとったのが総督深尾成質は乾(板垣)退助が率いる五小隊です。この部隊は丸亀藩が用意した船数十艘で海路で、高松の西浜に上陸します。これが九ツ(正午ごろ)です。
②陸路を高松に向かった三小隊と先鋒の丸亀藩兵は八ツ(午後2時ごろ)高松に着き、海路部隊と合流し真行寺に入ります。丸亀・多度津藩兵は石清尾八幡宮・五智院に布陣しました。
真行寺(香川県高松市扇町1丁目)- 日本すきま漫遊記
土佐軍が布陣した真行寺
 これに対して高松藩家老、大久保飛弾、白井着見は無刀麻裃着で真行寺にやってきて、次の降伏歎願書を差出したといいます。。
臣頼聰今般朝敵に付御追討被 仰出候段重々奉恐入候 右は慶喜上京に付食料警固被申付従来の形行不得止在坂の人数出張候由之処 去三日於伏見表混乱中官軍共相辯不申誤て発砲仕候趣に付右様被 仰出候儀と奉恐察候全 頼聰所存に毛頭無御座候得共偏に平日家来共教諭不行届故之儀と後悔至極奉恐入候 素より先非開悟仕候間何卒慨往之儀御宥免被成下候は、向後奉封天朝屹度抽忠節奉報御厚恩度方今更始御一新之折柄 頼聰微哀御諒察之下従前之罪過御寛容之程伏而奉敬願候誠恐誠捜    頓首謹言
正  月            頼 聰 花 押
意訳変換しておくと
私、頼聰は朝敵とされ、追討される身となったことについて、恐れ入っております。将軍慶喜上京の際の、食料警固を担当していましたが今までのスタイルでは、役目を果たすことが出来ないので、派遣する人数を増やしていました。そのような中で、去三日に伏見鳥羽で混乱の中で官軍に遭遇し、誤認して発砲することになってしまいました。この事については申し出たとおり、頼聰の所存ではありません。日頃からの家来への指導に、不行届けの所があったと今になって、後悔しております。現在、新政府に対して弁明中なので、猶予をいただきたくお願い申し上げます。今後は天朝に忠節を尽くし、これから始まる御一新に、頼聰は微力ながら協力していく覚悟ですので従前の罪に対して寛容していただけるようお願い致します。
別に口舌に代へて左の上申書を出しています。P
先般出張之人数総督として家老小夫兵庫在京為仕辯維而家老小河叉右衛門在京並に在坂為仕御座候所関東方へ左祖仕終に於伏見表混雑中渦誤とは乍中官軍へ及砲褒私儀不臣之罪に陥候様成行重々奉恐入候私儀素より愚暗に罷在不排名分順逆家来共へ教諭方不行届故之事には御座候得共右両入之者心得不宜奉封
天朝大不敬之罪難逃依之 右両人共誅殺を加首級奉献上候 全私儀向後改心 天朝之御為奉儘忠節候験迄に御座候此上天覆之御仁恩被為垂私儀従前之罪過御赦免被成下度伏而奉懇願候 以上
正  月           頼 聰

これに応接したのは乾三四郎でした。家老が引き上げると、申下刻(午后四時)に総勢は真行寺を出て高松城に向かいます。錦の御旗を先頭に、一番丸亀兵・二番海手兵、二番陸手兵の順で、高松城南大手門に進軍します。総勢は数字的には1500人ほどになっていたようです。

6 高松城 天守閣1
明治の高松城
 大手門までやってくると、城内をめがけて大砲が向けられ空砲が撃たれます。それに続いて、大小の砲銃が空に向けて連発されたと云います。太鼓御門より桜門を通り、三の丸玄関から入ります。城内には、降参の二字を書いた白旗が建ち、家臣たちは高張提灯に火を灯して追手門外に上下座して、これを迎えます。「下に下に」の下座触れの町役人を先頭に大鼓門から玄開にかかり総督、大軍監等は進んでいきます。この日、入城の際は雨が降っていたようで、軍中の誰かがが残したという次のような歌が伝えられています。
「常磐木の操もなくて春雨にぬれてそ落る高松の城」

6 高松城 俯瞰図16

  表書院で総督深尾丹波は、高松藩大老大久保主計・間島沖に対し城地・国内人民を朝廷に返上するようにとの勅命を伝えます。そして、下のような降伏書を受取り、老臣大久保飛弾の案内で本城内を改めて、受取を終わります。

臣頼聰此度 勅命を以追討被仰付萬々奉恐入候 悔悟伏罪罷在候 為其共城地人民等可本差上之此上御寛大之御処置被 仰付候得者国内一統誠に以難有仕合奉存候 何分宜御取成被下候様 伏て奉歎願候。誠恐誠性頓首謹言。
正月     頼聰  在押
 意訳変換しておくと
臣頼聰はこの度 勅命を以って追討される身となりました。 罪を認め、城地や人民を返上いたしますので、この上はなにとぞ寛大なご処置を仰せ付けいただければ、国内の共々有難き仕合にございます。何分よろしくお取成しいただけるように伏て歎願いたします。頓首謹言。

松平頼聰 - Wikiwand
松平頼聰
これより先藩主であった頼聰は引退し、土佐藩に次の伏罪の書を贈ったと、宮地美彦は記します。
此度御追討被 仰蒙候に付御使者を以御口上之趣へ申聴候誠以奉恐入候 素より伏罪仕候に付御手向仕候義は毛頭無御座候 右に付別紙の趣にて京都大坂表へ嘆願中にも御座候間 何卒御討入之儀は御猶予被成下御寛典之御虎置被 仰付候
御執成之程偏に奉懇願候     以上
正月   日      頼聰臣
大久保飛弾
白 井  石 見
意訳変換しておくと
この度、追討の身となり、土佐侯に御使者を通じて口上を伝えることについて、まことに恐れ入ります。もとより、罪に服することを決め、手向かうつもりは毛頭ありませんでした。このことについて、別紙の通り京都大坂表へも敬願中です。なにとぞ、討伐についてはご猶予いただき、寛容な処置をいただけるように仰せ付けいただけるようお願いいたします。

城の受取後に、土佐軍は大鼓御門前・西浜高橋・東新橋の三か所に、川之江と同じように、次の高札を立てます
当分土佐預り地」
此度天命を以朝敵追討之為め当地へ兵隊被差向候 虚悔悟伏罪之上は残忍之御産置不被為在に付人民安堵夫々産業速に可相営事
慶應四辰正月月廿日          土佐大監察
意訳変換しておくと
この度、天命を以って朝敵追討のために当地へ兵隊を差し向けた。罪を認め悔い改める上は、残忍な対応は行わないので、人民は安堵して夫々の産業に営事すること
慶應四辰正月月廿日          土佐大監察

しかし、香川側の史料は高札に書かれたのは「当分土佐預り地」だけだったと記されます。土佐藩が預り地とした高松藩の土地と人口は、次のように記されています。
  讃州高松領地高収調帳
当分山内土佐守預
大内郡 寒川郡 三木郡 山田郡 香川郡 阿野郡 鵜足郡 那珂郡  二百四十六か村
十二万石  拝領高
四万九百七十石二斗  込高
四万七百四十四石七斗八升二合  新田高
合計二十万一千七百十四石九斗八升二合
家数六万七千三百六十三戸
人口二十七万四千百二十九人
納り米九万八千六百六十八石七斗九合

1月21日深尾総督、小南五郎右衛円、森灌次と谷口・平尾の二小隊と丸亀の一小隊及小荷駄方だけが高松に駐屯・残留することになります。乾退助、片岡健吉は六小隊を率いて丸亀に引返し、そこから乗船して京都に向かいます。また、大目附役・本山只一郎も錦旗を押し立てて、高松城を発します。町役人の「下に下に」の下座触れを先頭に、馬上悠々と丸亀に引返します。そこから彼らは、松山城の討伐に向かいます。  先鋒隊の任務を終えた丸亀・多度津藩の赤報隊も、この時に帰路に就きます。こうして高松城接収は、軍事衝突も混乱もなく整然と短期間で行われたようです。

24日は、土佐軍の谷口隊が直島・塩飽七島などの天領地に渡り「土佐預地」の高札を建てています。また高松藩主が謹慎している浄願寺前には、監視のための土佐番所が設置されます。
26日になると、桐間将監が率いる土佐第二軍の総勢928人(手勢52人・郷侍75人・郷士327人・士96人・小者78人。医者2人。若党17人、雇兵380人)が高松に着き、城下町の所々に駐屯します。しかし、3日後の28日には高松を離れていきます。こうして2月2日日には深尾丹波手勢の一部を残こしてすべての土佐兵は、上京していきます。軍事占領と云っても土佐軍の総勢はこの時期には50人足らずで、ほとんどは城内にいました。
6 高松城 4

2月20日午後、土佐軍の総督深尾丹波が浄願寺に謹慎中の松平頼聰をたずね、高松藩からの嘆願が朝廷で聞きとどけられたことを伝えます。土佐軍の手によって、天守閣入口の封印が解かれ、太鼓御門前ら三か所に建てた「土佐預り地」の高札も取り除かれます。こうして四ツ半(午後十時)時頃に藩主らは、33日ぶりに城中に帰えります。
 翌21日には、土佐番所も閉じられ、土佐兵は高松から引きあげていきました。土佐軍の高松城占領は、わずか1ヶ月あまりで幕をとしたことになります。これは、その他の藩に比べると最短です。
その背景を研究者は次のように指摘します。
①鳥羽・伏見の戦いの現場の責任者である小夫兵庫・小河又右衛門の首級、および藩主名の嘆願書を姫路に出張していた山陽道鎮撫総督四条隆謌に素早く提出したこと。
関東征伐の従軍志願、軍資として、兵糧米の献納、および金8万両を献金

③姻戚関係にある興正寺門主摂信が新政府に高松藩宥免を働きかけたこと。

④高松藩主は病気のため在国中で、鳥羽伏見での高松藩兵の行動は藩主の意志ではない。新政府軍に発砲した罪は幾重にもお詫びし、新政府の裁きを待つ旨を述べたこと。

 トラブルが起こった時には、起こったことを素直に謝罪し、その善処を速やかに行うことが重要だといわれます。この時の素早い高松藩の謝罪嘆願運動は、現在のトラブル処理の手本なのかもしれません。


土佐藩が引き上げていった後の2月25日に、頼聰は高松を出船し、29日には京都の興正寺に入り謹慎します。
同時に、世話になった興正寺にお礼も述べ、今後の対策も協議します。そして2月19日、高松藩兵100人の入京が許さます。この間にも高松藩は、朝廷に対し糧米の献納、金8万両の献金をおこない、関東出兵を歎願しています。これも興正寺との協議の中で出てきた対応策かも知れません。
 こうして4月15日に、松平頼聰の謹慎が許され、22日には官位が復されます。しかし、「高松藩朝敵事件」で高松藩は大きなダメージを受けました。高松藩の失ったものは、大きなものがありました。それは金銭的なもの以外に、「朝敵」とされたことでした。これによって四国における親藩としてのリーダシップが失われたのです。それは松山藩も同じです。
 代わって維新後の四国のリーダー藩として登場してくるのが、占領軍となった土佐藩です。土佐藩は、天領があった瀬戸内海の小豆島や直島・塩飽を自己の支配下に置くという野望を見せます。同時に、「四国の道は金毘羅に通じる」と云われた琴平(旧天領 + 金毘羅大権現寺領)を支配下に置いて、ここで四国会議の開催を行うようになります。そのような動きを、松山藩も高松藩も押しとどめたりコントロールする力はすでに「朝敵事件」でなくなっていました。土佐藩を中心に維新の四国の政治と社会は回り始めることになります。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)

1868 (慶応4年・明治1年)〈慶応4年9月8日改元〉
   1・2 高橋源吾らが豊田郡で赤心報国団を結成.翌年,朝命により五稜郭で戦う
   1・3 鳥羽街道で高松藩兵が薩摩藩兵と,4日には長州軍と交戦し退却(戊辰役)
   1・10 朝廷,高松藩主松平頼聰の官位を剥奪.薩摩・安芸・長門・因幡・土佐・津藩に高松・松山・大 垣・姫路藩討伐を命じる(高松県史)
   1・10 朝命により薩摩藩等が高松藩大阪蔵屋敷,京都屋敷没収を通告
   1・11 藤澤恒太郎(南岳),山崎周祐が,薩摩藩士を通じて小松宮征討総督に陳
       謝を嘆願.別に長谷川宗右衛門も嘆願書を提出(高松市史年表)
   1・14 藤澤恒太郎,山崎周祐が高松に帰国,朝敵事件の解決は重役の伏罪に依るほか無しと進言
   1・16 興正寺門跡の直書が高松藩へとどき,松平頼該(左近)の意見もあって,重役伏罪による赦免嘆 願を決める(香川県近代史)
   1・17 多度津藩に御所の車寄せ前御門警備を命じられたとの通知(富井泰蔵覚帳)
   1・17 高知藩使者片岡健吉が丸亀藩に高松征討の勅命を伝達
   1・18 高松藩家老小夫兵庫正容(43)小河又右衛門久成(27)が,朝敵事件の責任を負って切腹
   1・18 高松藩主松平頼聰が朝廷に赦免の嘆願書を提出
   1・19 朝廷が多度津藩に高松征討を仰せ付ける(富井泰蔵覚帳)
   1・19 高松征討の土佐藩兵が丸亀に到着.多度津藩では服部喜之助が足軽30人を率い,夜九ツ半(午 前1時)高松へ向けて出発
   1・19 高松藩主松平頼聰が城を出て浄願寺に入り謹慎する(香川県近代史)
   1・20 丸亀藩兵が土佐藩岡正記の指揮下に入り,土肥大作を参謀として高松へ進軍
   1・20 土佐藩兵が高松に入る.総督深尾丹波から高松藩大老大久保主計に勅命を伝達,
市中3か所に「当分土佐預り地」の高札を立てる(内・香川県史)
   1・20 塩飽諸島が土佐藩預り地となり,高松藩征討総督が八木彦三郎に事務を命じる
   1・21 多度津藩兵帰還のため,高松城下を出発(富井泰蔵覚帳)
   1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
   1・25 朝廷,高松藩の謝罪を聞き届け,後日,関東追討の命には忠勤を励むようにとの達し.翌日,藩 主頼聰は寛大な処置に恩謝状を提出(高松県史)
   1・27 金光院寺領(那珂郡4か村)が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
   2・15 朝廷,松平頼聰に赦免の御沙汰書を伝達するよう土佐藩に示達(高松県史)
   2・15 朝廷,松平頼聰に入京を命じる.家来随従者100人とする
   2・20 征討軍総督深尾丹波が,松平頼聰に赦免の沙汰を伝達.同日,土佐藩預り地の高札を撤去
   2・21 高松の土佐番所を閉じ,土佐藩兵が引き揚げる
   2・25 松平頼聰が午後8時,水手御門から大阪へ出帆。3月1日京都に着き興正寺にて謹慎
   2・- 塩飽諸島で土佐藩が1小隊を編成し海援隊と名づける.のち梅花隊と改称,明治3年7月解隊
   2・- 高松藩が朝廷に対し軍用費8万両(12万両のうち)献金を願い出る.3月10日聞き届けられる
   3・- 小豆島東部3か村(草加部・大部・福田)土佐藩預り地となる
   4・15 松平頼聰の謹慎が解かれる(香川県近代史)

コレラ感染拡大図 1885年
コレラ感染拡大図(明治12年)

今から130年前の明治20年代には、コレラ・赤痢・天然痘・再帰熱・腸チフスなどが香川県でも大流行していたようです。明治20年代前半は、凶作、米価の暴騰が続き、その日の生活に飢える貧窮民が多数生まれました。それに追い打ちを掛けたのが、感染症です。当時の香川県の様子を見ていこうと思います。テキストは香川県史 近代2 明治前期の衛生 427Pです

県下のコレラ患者の発生・死者数が県史には下表のようにまとめられています。
明治の感染症1コレラ
この表からは次のようなことが分かります。
①1890(明治23)年と1895(明治28)年の2度にわたってコレラが大流行した
②その死亡率は6割を超えている
一回目のピークである1890年(明治22)では、約2000人の患者がでて、その内の7割が亡くなっています。この年は、7月中旬から流行の兆しが見え、10月に発生数が最大に達し、12月初旬に終息したようです。2度目のピークは、1898年(明治28)です。この年は、日清戦争が終わり、大陸から多くの兵士達が帰還してきます。それに伴って、患者が増えたようです。この時には香川県の患者総数は約2300人で、その内の約1500人が亡くなっています。
下の表は、1890(明治23年)のコレラ流行の際に高松避病院に入院したコレラ患者の年齢別内訳です。

明治の感染症1コレラ 年齢別

これを見ると、コレラ患者の死亡率は、年齢と共に高まっています。40歳を越えると、 コレラにかかることは死を意味したようです。当時の人々が、 コレラを「コロリ」と呼んで、何よりも恐れた理由が分かるような気がしてきます。この時のコレラは、山田香川郡で多発し、海岸、河川に近い個所から広がっています。

赤痢も大流行したのが、下の表から分かります。
明治の感染症1赤痢

 日清戦争の開戦時の1894(明治27)年には7000人を越える患者が出ています。以後は減少しますが患者発生は続きます。私が驚いたのは赤痢の死亡率の高さです。赤痢は感染しても、死に至ることはないものと思っていました。しかし、それは抗生物質が作り出されて以後の話のようです。それ以前には赤痢も30%を越える死亡率だったことが分かります。
 先ほど見たように、コレラは1895(明治28)年に第2のピークを迎えていました。加えて赤痢の流行です。明治20年代後半の香川県は、疫病に襲われ続けていたことが分かります。次に腸チフスを表27で見てみましょう。
明治の感染症1腸チフスpg

腸チフスのピークは、明治22年、24・25年、28・29年の3回のようです。24年の発生は那珂郡、多度郡に多く見られ、6月には毎日30名から80名の発生が記録されています。日清戦争終了後の明治28年の流行の多発地は、小豆、鵜足、高松、多度などの96か村から出ています。瀬戸内海に面する地域から発生者が出て、周辺に拡大していく様子がうかがえます。このときの死亡率は、約18%程度になります。死亡率は低いようです。
この他にも天然痘があります。
明治30年で総計した数字として患者総数249名、死者61名という記録が残っています。これを見ると、天然痘患者の発病数は他の伝染病に比べると少ないようです。また死亡率は約18%以下で推移しています。これは、天然痘対策が当時としては一番進んでいたことが背景にあるようです。
1891(明治24)年6月月に香川県は、衛生組合規定を定めて、種痘を徹底して行う事を明記しています。そういう中で1893(明治26)年に、大阪と兵庫で天然痘流行の兆しが見えると、いち早く25歳以下の未種痘者約16万人に種痘を行っています。また、天然痘が発生した村には、その村の住民全員への種痘を義務づけています。このような対策が天然痘の拡散を防ぐとこにつながっていきます。そして、その他の感染病も天然痘対策を教訓に整備されていきます。
最後に「再帰熱」を見ておきましょう。これは回帰熱とも呼ばれたようですが耳慣れない病名です。
  ウキを見ると次のようにあります。
回帰熱(かいきねつ、relapsing fever)は、シラミまたはダニによって媒介されるスピロヘータの一種ボレリア Borrelia を病原体とする感染症の一種。発熱期と無熱期を数回繰り返すことからこの名がつけられた。

「発熱期と無熱期を数回繰り返す」ために熱が引くと「治った」と勘違いして、放置して感染が拡大する厄介な病気のようです
回帰熱は、香川県では1896(明治29)年に始めて患者が出ます。
この病気の発生推移を、発生当初から詳しく追った表が県史近代434Pに載せられています。
明治の感染症1回帰熱

ここから見えてくることを挙げておきましょう
①温かくなりシラミやダニが活発に動き出す5月に患者が急速に増え始めます。
②6月末になると急速に患者が増え始め、ピークに達します。
③死亡率も6月になると10%を越えます
④11月初旬までに総数4179人の患者を出し、その内の497人が死亡しています。

 明治23年8月19日付の『香川新報』には、「衛生と実業との関係」と題する社説には、「労働者、無産者の疾病・伝染病などの衛生問題は、工場生産の効率に悪影響を及ぼす」と、生産性の面からの衛生対策の必要性を論じています。こうした時代背景もあって、帝国憲法が発布された1889(明治22)年ごろから、窮民医療を志す民間病院が県下にも創設されはじめます。
1889年1月 真言宗青年伝燈会が慈恵病院
1891年2月 丸亀衛戊病院の軍医と看護人が丸亀博愛病院を設立
この2つは、どちらも窮民施療を設立の主旨としている病院です。
また衛生組合規定が出来てからは、各地で衛生談話会が開かれるようになります。そこでは伝染病予防、伝染病心得、清潔法などの講話や幻灯会が、小学校や神社、寺院、芝居小屋など、庶民に身近な場所で行われるようになります。この談話会の講演者は、警察署長や医師、県の検疫委員が務めています。
帝国生命保険株式会社) 虎列刺病予防法 明治28年7月13日印行 / 伊東古本店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
コレラ病予防法

内務卿・大久保利通が通達した明治10年の「虎列刺病豫防(よぼう)心得書」は、石炭酸(フェノール)による消毒や便所・下水溝の清掃などの予防対策が載せられています。また第13条では、「『虎列刺(コレラ)』病者アル家族」で看護に当たる者以外は、他家に避難させて「妄(みだ)リニ往来」することを許さずとあります。

「伝染病は公衆衛生の母である」といわれます。日本ではコレラ流行によって衛生観念が一気に高まったことがうかがえます。幕末・明治前期の人々は、風聞(フェイクニュース)に惑わされながらも、身辺を清めて換気をし、外出を控えるなどの努力をしています。そして、流行が過ぎ去るまで耐え忍ぶしかなかったのです。

コレラ予防 明治

県や高松市は、明治20代にいろいろな伝達を出しています。
それは、コレラ・腸チフス・天然痘などの予防と、清潔法、消毒に関するものが多いようです。また、コレラの拡大に対しては、交通遮断など、ロックダウン的な措置もとっています。これは、日清戦争の帰還兵がもたらす伝染病の拡大防止という視点以外に、兵士への病気感染を未然に防ぐという思惑も見えます。
先人の感染症との闘い知ろう 福岡市博物館「やまいとくらし」展|【西日本新聞me】

 伝染病の感染者に対して、各市町村に隔離病院が設けられます。
しかし、この時期の隔離病院は名ばかりで、廃屋に等しい個人の家を借り受け、看守人を置いただけで隔離を重点としたものでした。中には、蚕を飼うような家が、隔離所になった例もあるようです。さらに、設置に際しては、近隣から苦情も出ます。県市町村は、隔離所の民家探しや場所の選定に苦慮したようです。そのため設置場所として、山林に近いところやスラム地区が選ばれたことが新聞には報道されています。しかも、医者の十分な回診態勢はありません。
 患者が発生すると、その家族や近隣地域に消毒がが行われた。そこにやって来て、検疫にあたる警察官の態度は、患者をあたかも悪魔でも扱うような有様であった、と記されています。
コレラ病アリ」強権的な衛生行政がもたらした監視社会 専門家「歴史繰り返すな」 | 毎日新聞
 120年前の感染病に襲われた香川県の対応を見ていると、現在のコロナに対する対処法と比較したくなります。同時に、当時は感染病対策が始まったばかりで、その感染恐怖の中でとるべき対策も限られていたようです。行政による組織的で効果的な対応は戦後になって始まったことが分かります。そして、その成果の上に、私たちは「感染病を克服した」と思っていたのです。しかし、コロナの登場は、それが幻想であったことを私たちに突きつけているようにも思えます。これからも新たな感染症は登場し、その克服のための戦いが繰り返される。感染病との戦いに終わりはないと思わなければならないのかもしれません。
コレラ地蔵 丸亀市垂水

  丸亀市亀水町の「コレラ地蔵」
垂水町の土器川生物公園の駐車場横には、小さな墓地があります。その入口に鎮座するのがこのお地蔵さんです。顔立ちが長く、私の第一印象は「ウルトラマンに似とる」でした。ニコニコしながら近づいてみると説明版には次のように書かれていました。

コレラ地蔵 丸亀市垂水3

  開国の産物として、幕末から明治に掛けてから何度もコレラが大流行します。1879(明治12)年には全国で10万人以上の方が亡くなりました。そのコレラの波は20世紀になるまで何度も押し寄せ、多くの人々の命を奪っていったようです。
 亡くなった人々を供養するともに、生き延びたことへの感謝の念もあったのかもしれません。この地蔵様のお顔からは慈悲と悲しみといとおしさが感じられます。合掌
コレラ地蔵 丸亀市垂水2

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 香川県史 近代2 明治前期の衛生 427P


滝宮念仏踊 那珂郡南組

この絵図は、まんのう町真野の諏訪神社で踊られた那珂郡南組(七箇村組)の念仏踊の様子が描かれています。 私が最初に、この絵図を見たのは香川県立ミュージアムの「祭礼百態」の展示でした。その時には、次のような短い説明が付けられていました。
2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知、同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。また花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。また、下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。  

  この絵図については以前にも紹介しましたが、満濃町誌をながめていると、この絵図について書かれている文章がありました。それをテキストにしながらもう一度、紹介したいと思います。
テキストは満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「満濃町誌」1100Pです
町誌は、この絵図がいつ書かれたのかを探っていきます。
そのヒントのひとつは、この絵の中に隠されているようです。右側の仮桟敷に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことになるようです。
滝宮念仏踊り 2

 「金刀比羅宮文書御用留文 文久二年七月二十六日」には
「那珂郡の大政所三原谷蔵の使の者有り、来る二十八日に念仏踊が踊り込みたい旨の申込あり云々」

と書かれています。
  1862年の7月26日に、那珂郡の政所(大庄屋)である三原谷蔵の使いが金毘羅大権現にやってきて、7月28日に、念仏踊を金比羅で行いたいという連絡があったと記します。

 この滝宮念仏踊りは、ひとつの村だけで構成されているのでなく、いくつもの村のメンバーが参加します。そのために、滝宮での本番の前に、構成員の村の鎮守を巡って踊ります。そのスケジュールも決まっていました。「吉野村史」には、1742年の念仏踊りの組織や踊り場所日程について、次のように記録しています。
那珂郡南部念仏踊り組
寄合場所 真野村字東免
踊組人員割(合計二〇四人)
真野村 下知一人、長刀一人、鉦打二人、地踊二人、棒突一人 長刀三人
岸上村 笛吹一人、鉦打五人、地踊り一人 旗五人、長刀槍十人
吉野上下村
    棒振上村一人、小踊上村二人、鉦打上村三人、地踊上村五人・下村二人、長柄槍 下村五人、旗上村二人、小踊上一人・下一人、新鉦打下村六人・上村二人
小松庄
   小踊四条一人・五条一人、地踊四条三人・榎井二人・五条二人・苗田二人、
笠飾四村各一人、太鼓打苗口・榎丼各一人、長柄槍一二人、旗九人
東七箇村 鉦打一〇人、法螺貝一人、地踊七人、旗二人、棒突三人、新鉦打一人
西七箇村
  太鼓打一人、鉦打一二人、小踊一人、法螺貝一人、地踊二十三人、旗八人、
長柄槍八人、棒突四人、新鉦打二人
踊場所及庭数
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記

文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。以上の史料から、この絵図は文久二年七月二十八日の夕方に、真野村の諏訪神社で行われた踊奉納を描いたものと研究者は考えているようです。
 もう一度絵図を見てみましょう。
正面が、諏訪神社の拝殿です。手前に屋根だけ描かれているのが神門でしょう。ここからは、境内の拝殿前で踊興行が行われていたことが分かります。陣笠を被って、踊りのまわりを警固しているのが長刀や槍を持った警固衆なのでしょうか。そのまわりに、大勢の人が頭だけ描かれています。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 見慣れないのがその背後の仮小屋です。正面の拝殿前に四棟、左側の内に八棟、その手前外に二棟、右側の内に八棟、総計三二棟の仮小屋が描かれています。その中では、ゆったりと念仏踊りを見守る人たちがいます。下の「一般大衆」とは「格差」があるようです。
これは以前にお話したように、宮座の構成メンバー達だけに認められた権利の桟敷です。
桟敷の使用者名(宮座メンバー)を見てみましょう。
①正面左から右へ「ゲシヨ(下所の永吉」「ヨシイタケヤ富之進」「ヨシイ彦兵衛」「カミマノ(上真野)広右衛門〉と続きます。この正面に桟敷の権利を持っている人たちが宮総代を勤めていた人々と研究者は考えているようです。
②左側には「ミヤ(宮)朝倉」「ヨシイ折平」「ヨシイ庄助」「ミシマ(三島)アイサコ多喜蔵」「ミシマ文蔵」「ニシマノ(西真野)ゴーロ長五郎」「ヨシイ治右衛門」「ハカバ藤作」「ミシマカ蔵」「ヒラバヤシ亦作」と並びます。「ミヤ(宮)朝倉」は、宮司でしょうか。
③右側には「ヨシイ喜二郎」「ヨシイアナダの藤蔵」「光教寺」「カミマノ大政所三原谷蔵」「カミマノ五左衛門」「ミヤウテ喜太郎」「ヒラキタハヤシ二五郎」「宮西伊二郎」と書きこまれています。

滝宮念仏踊 那珂郡南組3

踊りはすでに始まっています。拝殿の正面に、祥姿で床几に座しているが七箇村組の村役人でしょう。日の丸の団扇を持っているのが念仏踊の総触頭の三原谷蔵のようです。豆粒のように、黒く白く描かれているのが踊りの見物人と対照的です。ここからは、この絵を描かせた人物も浮かび上がってきます。
①三原谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせた。
②宮司が絵師に依頼し、三原谷蔵に晴れ姿を描かせてプレゼントした
絵に作者名はありませんが、四条派の手法が見られるところから郡家村の大西雪渓か、あるいは雪渓について四条派の技法を修めたと伝えられる、吉野上村五毛出身の東条南渓の作ではないかと研究者は考えているようです。

中央で笠を被って帯刀して、手に日月の団扇を持っているのが、踊りで中心的な役割を勤める下知役です。これも真野村の者が勤めることになっていて、その家筋も決まっていたようです。ここからは、地侍や名主たちを中心とする中世の宮座の形がうかがえます。宮座については、岸上の久保神社の桟敷についての所で、以前にお話ししましたので省略します。
滝宮念仏踊り 2

  中央の下知役が、日月の団扇を打ちふって、「ナンマイ、ドウヤ。ナンマイ、ドウヤ。」と唱えると、警固役がこれに唱和して、鉦、太鼓、笛、鼓、法螺貝が鳴り響き、踊り子が美しく踊り舞う、という姿が描き込まれています。周囲には「南無阿弥陀仏」と、染めぬいた職が十数本立てられています。また、赤い笠鉾が二本立っていて目を引きます。
滝宮念仏踊 那珂郡南組5

 手前に描かれているのは棒突きです。棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保しています。これは、踊りの最初の所作を現したものです。
滝宮念仏踊七箇村組の総触頭は真野村の政所が勤め、念仏踊の寄合は必ず不動堂で行われたようです。そして、順年毎の念仏踊の最後の踊りは必ず諏訪神社で九庭踊って納めとなっていたようです。

DSC07244
佐文綾子踊り(まんのう町佐文賀茂神社)
この絵図を最初に見て私が感じたのは、佐文の綾子踊りに似ていることです。類似点を挙げると
①  神社の境内で演じられているスタイル
② 日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知
③ 同じく花笠を被った中踊り
④ 花笠を被った6人の子踊り
⑤ 棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保する棒突。
イメージ 11

幟に書かれている「南無阿弥陀仏」を「善女龍王」に替えて、これが江戸時代に踊られていた綾子踊りですと云われて見せられれば、そうですかと見てしまいそうです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳(那珂郡南組)
 この表は、文政十二(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々も藩を超えています。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
ここからは、滝宮念仏踊りが讃岐一国時代から踊られていたことがうかがえます。
 この表で注目したいのは佐文村です。
佐文には、国無形民俗文化財に指定されている綾子踊りが伝わっています。私は、佐文は綾子踊りがあるので、滝宮の念仏踊り組には参加していないものと思っていました。しかし、ここには、構成村の一つとして佐文村の名前があります。

IMG_1379

 しかも、寛政二(1790)年の念仏踊の構成(福家惣衛著・讃岐の史話民話164P)を見てみると、佐文のスタッフ配分は次のようになっています。
下知一人、小踊六人、螺吹二人と笛吹一人、太鼓打一人と鼓打二人、長刀振一人、棒振一人、棒突一〇人の計25人。

ところが約40年後の文政12年には棒突10人だけになっています。このことは、佐文村に配分されていたスタッフ数が大きく削られたことを示します。
 問題はそれだけではありません。これによって七箇村組の構成そのものが変化しています。編成表を比較してみると、寛政二年には踊組は東と西の二組の編成でした。一人で踊りの主役を勤める下知が真野村と佐文村から各1人ずつ出ていました。また、6人一組になって踊役を勤める小踊は、西七箇村から1人、吉野上下村から3人、小松庄四ヶ村から2人の計6人で構成されていました。ところが、佐文村は単独で6人を分担しています。さらに、
お囃子役や警固役を勤める螺吹が東七箇、西七箇と佐文から各二人、
笛吹が岸上村と佐文村から一人、
太鼓打が西七箇村と佐文村から一人、
鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人、
長刀振が真野村と佐文村から一人、
棒振も吉野上下村と佐文村から一人、
棒突は西七箇村四人。岸上村三人、小松庄四ヶ村3人の計10人に対して、ここでも佐文村は、10人を単独で出しています。
ここからは滝宮念仏踊の那珂郡南組は、佐文村が西組の中心的な存在であったことが分かります。それが何らかの理由で佐文は、中心的な位置から10人の棒付きを出すだけの脇役に追いやられた事になります。どんな事件があったのでしょうか?
 想像を膨らませて、次のような仮説を出しておきましょう。
 南組と佐文村の間に、何らかの対立が生じ、その結果佐文は「スタッフの規模縮小」を余儀なくされた。その対応として、佐文は独自に新たな「綾子踊り」をはじめた。その際に、踊りを念仏踊りから風流踊りに取り替えて、リニューアルさせた。
IMG_1375

 七箇村組は東西二組の編成だったために、二組がお互いに技を競い、地域感情も加わって争いが起こることが多かったようです。
享保年間(1716~36)には、滝宮神社への踊奉納の際に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順位のことで、先後争いが起こっています。この争いの背後には、高松藩・丸亀藩・池御料の三者の日頃の対立感情があったようです。
 そのために元文元年(1736)年に念仏踊は一旦中止され、七箇村組は解体状態になります。それから3年後の元文4年の6月晦日に、夏に大降雹(ひょう)があって、東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を受けます。これは滝宮念仏踊を中止したための神罰であるという声が高まり、関係者の間から念仏踊再興の気運が起こります。龍灯院の住職快巌の斡旋もあって、寛保二(1742)年から滝宮念仏踊は復活したようです。復活後は、那珂郡南組は東西二組の編成が、寛政二年まで続きます。

DSC07268

 この間、滝宮の龍灯院は踊奉納をした七箇村組に対して、問題の御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていたといいます。しかし、二組編成は再度の紛争が起こる危険をはらんでいました。
 文化五(1808)年7月に書かれた真野村の庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」の7月24日の龍燈院宛の報告には、次のように記されています。
 七箇村組の行列は、下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人の一編成になっている。取遣留の七月廿五日の龍灯院からの御神酒樽の件は、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」と口上を述べ終わると、御神酒樽は龍灯院へ預かって直ちに持ち帰り、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を書院に招待して御神酒を振る舞った。

 ここからは、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっていたことが分かります。この時点で、佐文のスタッフが大幅に減らされたようです。それは、寛政二年から文化五年までの32年間の間に起こったと推察できます。
 あるいは、佐文村の内部に何かの変化があったのかもしれません。それが新たに佐文独自で「綾子踊り」を行うと云う事だったのかもしれません。どちらにしても南組が二編成から一編成になった時点で、佐文は棒振り10人だけのスタッフとして出す立場になったのです。
IMG_1368

 以上から推察すると、新たに始めた「綾子踊り」が諏訪神社で踊られていた念仏踊りと非常に似ているのも納得がいきます。そういう目で見ると、下知や子踊りの姿は、念仏踊りに描かれている姿とよく似ています。
  以上をまとめておきます
①初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、那珂郡南組(七箇村組)は東西2編成で出場していた。
②その西組は佐文村を中心に編成されていた。
③しかし、藩を超えた南組は対抗心が強く、トラブルメーカーでもあり出場が停止されたこともあった。その責任を佐文村は問われることになる。
④その対策として那珂郡南組は、1編成に規模を縮小し、佐文村のスタッフを大幅に縮小した。
⑤これに対して佐文村では、独自の新たな雨乞い踊りを始めることになった。
⑥それが現在の「綾子踊り」で、念仏踊りに対して風流踊りを中心に据えたものとなった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P
  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら 昭和63年
関連記事

このページのトップヘ