瀬戸の島から

2021年07月


西高野街道を歩く その4(河内長野駅前~三日市町) | 河内長野おじさんの道楽
高野街道の河内国三日市宿
高野街道の河内国三日市宿は、高野山への参拝客の利用する宿場駅として繁栄してきた街です。ここには金毘羅参拝客をめぐって、紀州加太とライバル関係にあったことが残された史料からは分かります。どうして加太と三日市が対立関係になったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは 北川央 河内国三日市宿と金毘羅参詣者 ことひら52 H9年です。

河内平野には、四本の高野山への参詣道があります。
まず一番東側には、京都府八幡市の石清水八幡宮を起点に枚方市に入り、生駒山脈の西山麓を南北に真っ直ぐ、交野市・寝屋川市・四条畷市・大東市・東大阪市・八尾市・柏原市と通過し、そこから藤井寺市・羽曳野市・富田林市を経て河内長野市に到るのが東高野街道です。
金毘羅参拝 高野山街道

2番目は西高野街道で、堺市の大小路を起点に、大阪狭山市を通過し、河内長野市の長野町で東高野街道と合流します。
この東高野・西高野の二本の間に、中(上)高野・下高野の二街道があります。中高野街道は、大阪市天王寺区の四天王寺南から奈良へと向かう亀瀬越大和街道(奈良街道)の平野で分岐し、松原市・美原町・大阪狭山市を経内長野市の楠町で西高野街道と合流します。
 このコースの起点である平野は、平安時代初頭に征夷大将軍として覚法法親王が久安四年(1148)六月に高野山を参詣した時に利用した道と推定され、四本の中では最も古くから高野山参詣に利用された道のようです。
最後の下高野街道は、四天王寺を起点として、天王寺区から阿倍野区・東住吉区を経て松原市に入り、堺市・美原町を通過して大阪狭山市の狭山で中高野街道に合流します。もともとは中高野街道の枝道であったと研究者は考えているようです。
高野街道|街道歩きの旅

河内長野市の長野町で最終的に一本となった高野街道は、紀見峠を越えて和歌山県の橋本市に入り、そこから高野山上へと向います。三日市宿(河内長野市三日市町)は、河内と紀伊との国境紀見峠から三里手前にあり、享和元年(1801)刊行の秋里離島著『河内名所図会』は、その賑いが次のように記されています。
三日市駅
京師・難波よりの高野街道なり。旅舎多くありて、日の斜めなる頃より、出女の目さむるばかりに化粧して、河内島の着ものに忍ぶ染の施襴美しく、往きかふ人の袖引き、袂をとどめて、 一夜の侍女となならはしる事、むかしよりの風俗とかや)
意訳変換しておくと
京都・難波からの高野街道の途上にある。旅籠が数多く有り、日が傾き始めると、遊女達が目が覚めるほどの化粧をして、河内島の着物に忍ぶ染の帯を巻いて、往きかふ人の袖を引く。 一夜の侍女となる習いは、むかしからの風俗だという。

金毘羅街道 高野街道三日市
赤く囲まれたのが三日市町

この賑わいは大阪や京都からの高野山参りだけがもたらしたものではないことが近年明らかになってきました。
三日市には、関東・東北など東国から人たちが押しかけるようになっていたのです。伊勢参りを終えた東国の人たちは、その後に次のようなコースをめぐっているのが分かってきました。
①奈良・大坂・京都の市中見物を行い、中山道を辿る「伊勢参宮モデルルート」と、
②伊勢参宮の後は一番那智山から32番谷汲山まで西国三十三ヶ所の巡礼を行ない、中山道を復路とする「伊勢 十 西国巡礼ルート」

さらに金毘羅信仰が高まる19世紀になると、これに金毘羅や安芸の宮島を加えた次のようなコースも登場するようになります。
③「伊勢 十 西国巡礼ルート + 金毘羅大権現」
④「伊勢 十 西国巡礼ルート + 金毘羅大権現 + 宮島」
西国巡礼をともなうコースは、西国巡礼の途中で四国に渡り、金毘羅参詣を行います。そして、再び西国巡礼の旅に復帰するというコースを設定する必要があります。そのため四国への渡海地としては、播磨国の高砂、室津、あるいは備前国児島半島の下津丼、下村に限られていたことが分かっています。
金毘羅船 航海図C13

 一方、西国巡礼を行わない場合は、児島半島の下村・田ノロの他、備前の片上や、大坂から乗船するケースが多かったようです。西国巡礼をおこなうにしても、行わないにしても三日市宿を利用していたのです。そのため伊勢参りや金比羅参りが増えれば増えるほど三日市を利用する客も増えたのです。

ところが19世紀半ばになると様子が変わってきます
新たな金比羅参拝ルートが開かれるのです。それが紀州加太~阿波撫養ルートです。このルートによって三日市宿は、大きな打撃を受けるようになったようです。それを示す史料を見てみましょう
 嘉永五年(1852)2月16日付で、河州錦部郡三日市駅の駅役人武兵衛と庄屋五兵衛・安右衛門の二人が連名で大坂西町奉行所に次のような願いを提出しています

一、当駅之儀者過半旅籠屋井往来稼仕候而、往古から御用向相勤来候駅所二御座候、外二助成二可相成儀一切無御座候、然ル処、東国筋から伊勢参宮、夫から大和名所を廻り、紀州高野山から大坂江罷出、讃州金毘羅江参拝仕候旅人者、悉く先年から当駅ヲ通行仕候処へ、近年高野山から紀州加太浦、夫から阿州むや江新規之渡海船ノ持、四国路から金毘羅江之道法取縮メ、又当駅大坂江掛り、播州路江之本道之道法者相延し、判摺招之絵図面・道中記を新規二諸国江相弘メ、右二付、西国・中国・四国路之旅人も、金毘羅からむ・かた浦江渡り、高野山、夫から大和名所廻り・伊勢参宮仕、京・大坂江仕道、播州路から国元江罷帰り申候、右様諸国参詣仕候旅人之向者、多分新規之閑道江罷通り、高野山本道之当駅者御用通り而己二相成、実々困窮仕詰、難渋之駅所ニ成候、乍恐御憐察奉願上候、

意訳変換しておくと
 三日市駅は、ほとんどの者が旅籠屋や往来稼で暮らしています。古くから駅として御用を勤め、嘆願などをしたことはありませんでした。かつては、東国からのお伊勢参りの人たちは、大和名所を廻り紀州高野山から当駅を通って大坂へ出て、讃岐金毘羅へ参拝していました。ところが近年になって、紀州加太浦と阿州撫養に新たに渡海船が開設され、撫養から金毘羅までの道のりを短く宣伝し、当駅から大坂や播州路への本道の距離を長く記した絵図面・道中記を新規に摺って諸国に広める始末です。そのため西国・中国・四国路の旅人までが、金毘羅から加太浦へ渡り、高野山から大和名所廻りや伊勢参りを行い、京・大坂を通って播州路から国元へ帰るコースを取るようになってしまいました。このように、諸国参詣の旅人が新規の閑道を利用し、高野山本道である当駅を通らないようになって、誠に困窮しております。つきましては・・・

ここからは次のようなことが分かります。
①三日市宿は、かつては東国から伊勢参りを終えた人たちが、奈良や京都の名所巡りをしたのち高野山に詣で、それから大坂に出て金毘羅参詣に向かうコースの駅として大きな賑いがあった。
②ところが、19世紀になって紀伊の加太浦から阿波国撫養へと向かう渡海船が就航し、金比羅参りの新ルートが開かれた。
③加太浦ルートの業者は、撫養と金比羅間の距離を実際より短く記し、逆に三日市コースを実際の距離よりも長く刷り込んだ絵図・案内記を使って、全国に宣伝し、利用客を拡大した。そのため三日市を利用する旅行者が激減し、大きな打撃を受けている。

ここからも三日市ルートが本道で、これに後から加太ー撫養コースが新規参入してきたことが分かります。無料で配布されたという絵地図を見てみましょう
金毘羅船 高野山より紀州加田越四國札所本道筋並

 「高野山より紀州加田越四國札所本道筋並二讃州金毘羅近道順路」です。高野山から紀州加太からの金毘羅への参拝案内で「近道順路」と記されています。初期の金毘羅絵地図のパターンで、左下が大坂で、下側が山陽道の宿場町です。従来の金毘羅船の航路である大坂から播磨・備前を経て児島から丸亀へ渡る航路も示されています。
この地図の特徴は、大坂から右上に伸びる半島です。半島の先が「加田(加太)」で、その前にあハじ島(淡路島)、川の向こうに若山(和歌山)です。この川はどうやら紀ノ川のようです。加田から東に伸びる街道の終点はかうや(高野山)のです。加田港からの帆掛船が向かっているのは「むや」(撫養)のようです。撫養港は徳島の玄関口でした。
 確かに、この地図を見ると山陽道を進むよりも撫養からの四国道を進んだ方が近そうです。また、風待ち船待ちで欠航や大幅な遅れのあった大阪からの金毘羅船よりも。加太ー撫養間の航路の方が短く、船酔いを怖れる人たちにとっては安心できたかも知れません。
 この絵図を発行しているのは、西国巡礼第三番札所粉川寺の門前町の旅籠の主である金屋茂兵衛です。彼や粉川寺の僧侶達のプロデュースで「加太ー撫養」振興計画が展開されていたようです。
さらに時代を経て出された「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻並播磨名勝附」です。
金毘羅航海図 加太撫養1

表題から「近道」がなくなりました。「行政指導」があったのでしょうか。これも「加田(加太)」が金毘羅へのスタート地点となっています。そして、四国の撫養に上陸してからの道筋が詳細に描き込まれています。讃岐山脈を越えて高松街道を西へ進み、法然寺のある仏生山や滝宮を経て、象頭山の金毘羅へ向かいます。それ以外にも白鳥宮や志度寺、津田の松原など東讃岐の名所旧跡も書き込まれています。 屋島がこの時点では陸と離れた島だったことも分かります。この絵を見ていると、四国遍路も意識していることがうかがえます。「加太=撫養」コースは、金毘羅詣でや四国遍路達によって利用されるようになっていきます。
 江戸時代のも新興観光地(霊場・名勝)と、既存の観光地の旅行客の争奪戦が展開されていたことが分かります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  北川 央 河内国三日市宿と金毘羅参詣者  ことひら52 H9年


引田 新見1
 新見の荘から倉敷→塩飽→引田→兵庫→淀を経ての帰路

以前に永禄九(1566)年に「備中国新見庄使入足日記」を紹介しました。そこには、新見にあった京都・東寺の荘園の役人が、都へ帰って行くときの旅費計算記録が載せられていました。彼らは新見から高梁川を荘園専用の川船で、河口の玉島湾まで下っていました。
 今回はそれ以後の高梁川の高瀬舟の活動を見ていきたいと思います
高梁川3

高瀬舟といえば、川舟の一種で森鴎外の小説「高瀬舟」に登場してきます。「高瀬」は辞書では、「川の瀬の浅いところ、浅瀬」とあります。高瀬舟の名前の由来も川の浅瀬に対応できるように、舟底が浅く平らであり、いわば浅瀬舟のイメージで「高瀬舟」と呼ばれるようになったという説が一般的です。
 一方、平安時代の百科辞書「和名類聚抄」では、高瀬舟の特徴は「高背たかせ(底が深い)」とあり、川漁などする当時の小舟と比べて、やや大きくて底の深い舟であったとする説もあります。
高瀬舟模型 勝山歴史博物館

 慶長12年(1607)角倉以子(すみのくらりょうい)が、高瀬川・大堰川に、川舟を浮かべたことから、高瀬舟と呼ばれるようになったと云われます。しかし、備中の高梁川や吉井川には、それ以前から川舟が数多く往き来していたことは史料から分かります。
角倉了以は、慶長九年(1604)安南(ベトナム)航海を終えて帰国した際に、高梁川に浮かんでいる川舟を見て、このような形の舟であれば、どんな急流でも就航が可能であることに気付き、備中から舟大工や船頭をつれて京都に帰り、高瀬舟を作り、大堰川を開いて、丹波国から洛西の嵯峨へ物資を運ぶ舟を通わせたとされます。高梁川の川船が高瀬舟のモデルになったようです。
高瀬舟(京都) 船曳
京都の高瀬舟 曳舟
  
 私も何回かカヌーでこの川を下りました。今はダムが上流にあるため水量が少なくなり井倉洞あたりでは水深も浅く、場所によってはカヌーの底をこするような所もありますが、流れはゆるやかで初心者にやさしい川下りゲレンデを提供してくれます。
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高梁川

 高梁市の市街地をゆったりと流れていると、かつての川船の船頭になった気分で鼻歌まで出てきそうな気がします。成羽川と合流すると水量も一気に増えて、大河の片鱗が見えてきます。今でも川船が舫われ、川漁が行われていることがうかがえます。
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川岸に舫われた高梁川の川船

かつての川湊らしき所が見えてきます。この川は室町時代以前からも、新見の荘園の物資や鉄などを積んだ川舟が往き交い、幕末のころには、その数130隻にも及んだといいます。
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  グーグルで見ると、備中を北から南に流れる高梁川は、奥深い中国山地にその源を発し、瀬戸内海の水島湾に注いでいます。逆に見ると、高梁川の河口、倉敷市の水島港から川を登ると総社市、高梁市、新見市とへ中国山地の源流地帯へと続きます。この川筋を辿って新見までやってくれば、山陰地方の人たちも、高梁川を上下する高瀬舟で、倉敷へ舟で下って行くことができたことになります。高梁川は、川筋の平野を潤すとともに、人やモノの移動の動脈だったことが分かります

 「幹流高梁川船路見取図 大正六年八月調査」井上家文書 
 新見市には、高梁川沿いに、かつての船着場が保存されています。
高梁川高瀬舟船着場
新見市の船着場跡

船着場には寺院が有り、川船の管理センターの役割を果たし、荘園管理も行っていたのでしょう。新見荘には、鎌倉時代の文永八年の「検注目録」に、船人等給が出てきます。ここからは新見の荘には、何人かの河川交通の専門家、船人がいたことが分かります。また、新見の「市」のたったところは、中洲という地名です。これは、新見の町が川の中洲にできた町が起源だったことを示していると研究者は指摘します。
高梁川1
高梁の川湊と高梁川
私は新見が川船のゴールだと思っていましたが、さらに奥まで行っていたようです。津山や勝山や広島県の三次からもカヌーで下ったことがありますが、吉井川や高梁川、旭川、江ノ川のように、河口の拠点湊から奥地の内陸部の川湊まで、大小の川を体内の血管のように川が交通路として機能していたことが分かります。
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現在の高梁市と高瀬川


高梁川の支流の成羽川の難所を開墾して河川を開いた、律宗の僧侶で実専という人がいます。
彼の記念碑が「笠神文字石」という自然石の石碑として高梁市備中町にはありました。徳治二年(1307)に、成羽善養寺の僧尊海と、西大寺の奉行代実専が中心になって、成羽川の10ヵ所の瀬を笠神船路のため開削したと刻まれています。ここに石切大工として名前が刻まれている伊行経は、鎌倉時代初期に東大寺の再建のため招かれた南宋の石工、伊行末の一族とされます。現在は新成羽川ダムのため水没してしまいました。河川交通整備のための努力が中世から続けられてきたことが分かります。
高梁川高瀬舟 井倉洞
高梁川の井倉洞付近をいく高瀬舟

山本剛氏「高瀬舟と船頭並びに筏渡船」には、高梁川の川船のことが記されています。
その中に川船で瀬戸内海を渡り、金毘羅詣りをした話が載せられています。
高瀬舟といえば底の浅い川舟です。川船で海を越えるというのが驚きです。その話を見ていくことにします。守田寿三郎翁は、次のように語っています。
「明治30年頃、村長であった父瞭平が、川口石蔵さんの新造船で金昆羅詣りに招待された。帰りには、玉島から強い南風を帆いっぱいに受けたので、玉島を朝出て昼頃には水内に着いた」

高瀬舟の進水祝いに金毘羅詣でに出掛けたようです。高梁川の河口から出港し、海を越えているようですがどこの湊に入ったかは分かりません。帰りは玉島港からは、折りから吹き始めた南風を受けて川を上ったことが分かります。

高梁川高瀬舟 金毘羅詣で

 別の船頭は、次のように語っています。
「高瀬舟で四国へ渡るには、潮が引き始めると、潮に乗って玉島を出港した。追手風が吹くときに帆を揚げて、本舵操縦して渡った。途中、本島へ着くと潮待して、潮が満ち始めると、潮に乗せて舟を出し、追手風が調子よく吹くときには潮待しなくても渡れるときもあった。風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半くらいで渡ることができた。潮待ちして海を渡るときは、丸亀まで六時間、多度津へは七時間くらいかかった。
 昼間、海を渡っていて、突風にさらされ、もうこれまでと絶望したことが幾度かあった。その時は、 一番近い島影に退避して、風の治まるのを待った。昼間は突風が起きる危険があるので、穏やかな風の吹く夜を選んで渡ることが多かった。風の強く吹く時には「風待ち」といって、港や島影で、二日でも三日でも風の静まるのを待った」

ここからは次のようなことが分かります。
①引潮にのって玉島を出て本島で潮待ちして、満ち潮になると丸亀をめざした
②追風だと潮待ちなしで坂出まで2時間半
③潮待ちして本島経由だと丸亀へ6時間、多度津へ7時間
④昼間の突風を避けるために、穏やかな風の吹く夜が選ばれた。
⑤強風の時には「風待ち」のために、何日でも待った

潮待ちに本島(塩飽)に立ち寄っています。
そういえば「備中国新見庄使入足日記」の東寺の僧たちも、本島で長逗留していたことを次のように記していました。
廿八日 百五十文 倉敷より塩鮑(塩飽)迄
九月晦日より十月十一日迄、旅篭銭 四百八十文 十文つゝの二人分
十二日 十二文 米一升、舟上にて
  高山を朝に出て高梁川を下り、その日のうちに倉敷から塩飽へ出港しています。倉敷より塩鮑(塩飽)迄の百五十文と初めて船賃が記されます。そして、塩飽(本島)の湊で10月11日まで長逗留しています。これは、上方への便船を待っていたようです。本島が潮待ちの湊として機能していたことがうかがえます。
ここで疑問なのは、「風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半」とあり、坂出も寄港対象となっている点です。多度津・坂出は金毘羅船の帰港地として栄えていましたが、坂出がでてくるのがどうしてなのか私には分かりません。
備中松山城 城と町家と武家屋敷
高梁川の高瀬舟(高梁市)
高梁川で使っていた舟の大きさは、全長五十尺(約15m)、幅七尺(約2m)で舟底は浅いものでした。
いくら穏やかな瀬戸内海とは云え、風が吹けば波が立ちます。特に突風に会うと転覆する危険がありました。平底の川舟で波や風のある海を渡るのは、細心の注意が必要だったようです。高瀬舟の船頭たちは、遥か海上から金毘羅さんに向かって手を合わせ、航行中の安全を祈願してから船を出したと云います。そこまでして自分の船で、海を渡り金毘羅さんへの参拝することを願っていたのでしょう。金毘羅信仰の強さを感じます。
まにわブックス
旭川の高瀬舟
 高梁川は備中松山城の城下町である高梁から上流は川幅も狭くなり、落ち込みの急流もあって、危険箇所がいくつもあったようです。それが慶安三年(1650)藩主水谷勝隆が新見まで舟路を整備し安全性が増します。そのため輸送量が増えるとともに、山陰地方の人々が、新見まで出てきて、高瀬舟で瀬戸内海に出るというコースも取られるようになります。金昆羅詣りに使われた記録も残っています。
高梁川 -- 高瀬舟

 上流には難所と云われる船頭泣かせの急流もありました。そのため舟の安全航行を願って、金毘羅信仰を持つ船頭が多く、お詣りも欠かさなかったようです。彼等の間では、高梁川の支流・成羽川の流れに、薪を削って「金毘羅大権現」と墨書して投げ入れ、これを拾った者が、金毘羅さんに奉納するという風習があったようです。それでも、長い歴史の内には、高瀬舟の転覆事故が発生しています。
高梁川の上流に一基の慰霊碑が残っています。
寛政七年(1795)6月8日、新見から高梁川を下った舟が、阿哲峡の広石で転覆し、金毘羅詣りの乗客15人が溺死しています。碑には、遭難した人の出身地と名が刻まれているが、その中には、地元の人以外に、雲州(島根県)の人が6人含まれています。これらの人々は山道を歩いて、新見にやってきて、ここの舟宿の高瀬舟に乗り込んだのでしょう。定員30名の客船だったようですが、阿哲峡の難所を乗り切れなかったようです。
 高梁川の中流、総社市原には、昭和20年ごろまで、高瀬舟の造船所が残っていたようです。市原には、船大工、船元、船頭、船子たちが集落をなして住居していて、殆んどの者が室町時代からの世襲であったといいます。毎日、30隻近くの高瀬舟が荷物や船客を乗せて上り下りしていました。昭和3年10月25日に国鉄伯備線が全面開通します。高梁川沿いを走る伯備線の登場は、それまでの運輸体系を一変させます。昭和15年には高瀬舟は、その姿を消してしまいます。
高梁川高瀬舟と伯備線
伯備線の開通と高瀬舟
   
高梁川を行き交う川船の船頭達の間には、いつしか金毘羅信仰がひろがりました。そして、金毘羅参りに自分の川船を操って海を渡っていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 妹尾勝美 高瀬舟で金毘羅参り ことひら52 H9年
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金毘羅犬2

金毘羅大権現には、江戸時代には「金毘羅狗」という代参スタイルがあったようです。これは飼い主が自分に代わって、犬に金毘羅参りをさせる「代参」です。今回は金毘羅狗(犬)について見ていこうと思います。テキストは「  豊島和子 犬の金毘羅参りをめぐって  ことひら48 H5年」です。
『金刀比羅宮崇敬史』には「金毘羅狗」のことが次のように記されています。
飼い主は「金毘羅参り」と書いた札に、自分の住所・氏名を書いて、この札と道中費用の入った財布を犬の首に結び付けて、往来に放します。東海道を上る旅人たちがこの犬を見つけると、自分の目的地まで連れて行き、その地で再び犬を放ちます。するとまた別の民衆がその犬を連れて、目的地まで連れ歩きます。

金毘羅犬5

こうして数人から十数人の手を経て、瀬戸内海を渡る金毘羅船にも乗って、犬は目的地の琴平に到着します。その間、旅人達は犬の財布から実費分のみを取り、餌を与えています。また「代参犬」を受け取る金毘羅大権現では、社僧がその財布から「初穂料」を取り、厳重に包装した「御守札」を犬の首に掛けます。帰りは行きと同じように、各地域の人たちに順送りに連れられ、犬は無事飼い主の元に戻ってくるというシステムです。
 この風俗は、特に関東地方で行われていたようで、自分では金毘羅参詣ができない民衆の篤い信仰心と、遠隔地巡礼への願望が結びついた苦肉の策とも云えます。
金毘羅信仰は近世後期には全国的な広がりを見せ、19世紀前半の文化文政の頃になると、「一升に一度の伊勢参りと金毘羅参り」と云われるようになります。関東地方の民衆は、伊勢詣と共に一生に一度の金毘羅詣を念願していたようです。

金毘羅犬6

文化十二年(一八一五)頃の奥羽の『陸奥国信夫郡・伊達郡風俗間状答』には次のように記されています。
「伊勢参宮、江戸・京・大坂・大和、近年は金比良迄、一代に一度参る。三度参る者は稀なり」

とあり、奥羽からも参詣者が少なからず金毘羅大権現を訪れていたことがうかがえます。このような金毘羅信仰の高まりを背景にして、人々は金毘羅参りの犬を見ると、仏教的にいえば功徳を積むために喜んで世話をしたのかもしれません。
 これは金毘羅参りだけでなく四国遍路の「接待」や伊勢参宮の施行などの「おもてなし」も同じかも知れません。遍路を向かえる四国の人々には、死者供養や、他の人々へ施行を行うことが自他の滅罪と説かれていました。

金毘羅犬3

『金刀比羅宮崇敬史』には、明治末期の「讃岐琴平の犬」の図が収められています。
金毘羅犬4

門前町に琴平土産の一つとして、「金毘羅狗」を記念して縫いぐるみの犬が売られていたと云います。しかし、私の記憶にはありません。

犬の代参は、金毘羅参りだけではありませんでした。伊勢参りでも行われていたようです。
お伊勢さん代参犬】江戸時代、旅が出来ない人の代わりに、犬にお金を持たせて「お伊勢参り」を頼み、  参拝をさせてお札(ふだ)をもらうことが流行りました。「おかげ犬」です : まとめ安倍速報 | 犬, 浮世絵, 旅
伊勢参り犬

群馬県北群馬郡吉岡村に残されていた『人馬継立帖』に、嘉永二年(1849)、上州勢多郡富田村の伊勢参り犬が銭350文持たされて小倉村からやって来たことが記されているようです。
文化期の戯作者、十返舎一九も『翁丸物語』(文化丁卯春刊)の発端に「代参犬」をとりあげて、伊勢国一志郡藤潟村において、
「首におびたゞしく鳥目を繋ぎ打かけたる」大神宮への参詣犬が、往来稼ぎの人足らしい四、五人の男たちにその銭を奪い取られようとしている様子を描いています。その結末は、「仁恵」深い志井源太兵衛なる郷代官の助けによって無事窮地を逃れていますが、「されやむかしも今も、犬の参宮すること其例少からず、往来の人是をたすけて、銘々散銭を貫ざしに繋ぎて、かれが首に打かけ興へ行く故に、後には数百の銭を負て通行すること粗証あり」と記しています。ここからも、文化年間以前から伊勢参り犬はいたことが分かります。
お伊勢まいりの代参犬 : あるちゅはいま日記

 津軽地方にも伊勢参り犬の記録が戸川幸夫氏の著書『イヌ・ネコ・ネズミ』に、次のように記されています。
「犬の参宮というのは、慶安三年ごろから明治の初めまで続いたお蔭参りや抜け参りに付随して起こった奇習であると聞いていたが…」あります。
文政13年(1830)の「文政度御蔭群参之図」には、「剣先祓」という伊勢神宮の大麻(お祓い札)を頭にさした伊勢参り犬の姿が描かれています。。同じ文政十三年の「お蔭参り」の情景を描いた浮世絵、「宮川渡しの図」にも伊勢参り犬が見えます。
金毘羅犬と伊勢参り犬

犬の「代参」については、次のような疑問が出てきます。
①なぜ犬が特に「代参」に選ばれたのか。
②なぜ関東以北の地方にのみ犬の「代参」が見られるのか
①②の疑問点について、『金昆羅庶民信仰資料集 年表編」には、次のように記されています。
昭和11年頃の「横浜市大倉精神文化研究所の原政男より金毘羅犬について照会あり、原氏宅には祖父母代に羽黒三山に参詣した犬がおり、この犬がのち金毘羅へも参詣したことを祖母から聞かされている、貴宮に奥州より参詣した犬の絵がある由、植木直一郎より聞かされたが、その犬がもしや生家の犬ではないかと思われる」

  一世代を30年とすればこの金毘羅犬が参拝したのは60年前のことになります。およそ幕末から明治初期の伝承のようです。驚くのはこの「代参犬」が奥州の修験道霊山である羽黒山にも代参していたことです。ここから研究者は「代参犬」は関東地方の民俗信仰と何か関わりがあるのではないだろうかと推論します。
日本の山岳信仰に動物は、重要な位置を占めています。
例えば、狐、鹿、熊、兎、狼などは神の使い(替族)とされたり、あるいは神自身がこれらの動物の姿で現れると考えられてきたことは以前にお話ししました。そのうち狼は「態野の山言葉では山の神」といわれ、また中部地方の南部では山の主とされるなど、広く各地で信仰されてきました。狼は「オオイヌ」または「オオイン」と呼ばれ、犬と同一視されることが多いようです。
三峰神社オオカミ

埼玉県秩父郡に位置する三峰山は18世紀以降、山岳宗教、修験道の道場として展開し、秩父三霊山の一つとされるようになります。

この三峰山頂にある三峰神社は、大山祗神(おおやまづみのかみ)を守護神とし、眷属を大(狼)としています。調査報告書には「神社では、山犬、狼をオイヌサマ、ゴケンゾクと呼び、山の神、神社の使い、神そのものとして扱っている」と記されます。

三峰神社の狛犬でなくオオカミ

三峰神社の鳥居と大神(おおかみ)
 三峰神社の鳥居をくぐると、狛犬のかわりに狼の石像が左右に安置されています。狼を扱った社蔵の文化財も多く、左甚五郎作と言われる「御神犬像」などが伝えられています。秩父地方に狼をお犬さまとして眷属として祀る神社は十社をくだらないようです。その中心は三峰神社です。
三峰山のお犬信仰の由来については「御替俗拝借の心得」(社務所発行)に、次のように記されています。
「当社に奉祀せる大山祗命は、伊非諾、伊非舟二尊の生み給いし山神におはしますによりて、山狼の猛気を神使とし給ふ。されば当山に於ては、往古よりこれを大口真神と崇め、御眷属と称している。火災盗難或いは鳥獣妖魅の禍等を除く為、擁護を祈る輩には神霊を御版符(とくふ)に封じ、御主神三柱の御前に祈願を軍めて、これを一ヶ年間願人に拝借せしめるのであって、日本武尊甲州より当山に越え給いし時、狼其の道案内申上げたと言ふ神話にもある程に古より伝はり、霊験の顕著なることは、普く世に知られた処である」
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 三峰山と狼とのつながりを、神社側では古代神話の時代にまでさかのぼらせています。これに対して研究者は「果たしてそうなのかどうか、大いに疑間である。むしろ三峰山の山の神の化身、あるいは眷属神としての狼の性格を神格化している」と指摘します。

狼-7 お札になったオオカミ

三峰神社の狼の神札の由来については、次のように伝えられています。
享保十二年(1727)9月13日三峰山主日光法師が山上の庵室に静座中、どこからともなく狼の大群が現れたため、深く心に感づるところあり、狼の神札を信者に分けたとあります。ここからはお犬信仰が近世中期頃から始まったことが分かります。
三峯神社 【日本武尊・御眷属様(オオカミ)】 ~ 秩父遊歩

 信者はお犬の神札を三峰山から拝借し、これを竹にはさんで田畑に立て、害虫駆除としたり、家の戸口や土蔵の入口に貼って盗難・火難除けとしたようです。この布教方法を展開したのは修験山伏たちです。彼らの手によってお犬信仰は、関東を中心に中部から東北地方まで拡められ、各地に三峰講が結成され、代参か盛んに行われるようになったようです。
奥秩父で目撃情報 ニホンオオカミは生きている 幻のニホンオオカミを追って…その1  ゴールデンウィークの1日,開通したばかりの国道140号線「雁坂トンネル」を通って,奥秩父にある三峰神社に出かけた。秩父から雲取山へと続く三峰山の山頂に鎮座し  ...

昭和41年調査の秩父宮記念三峰山博物館資料には、県別講社数は埼玉、茨城、千葉などの関東を中心に、東北、北海道から畿内の滋賀まで分布しています。三峰信仰の拡大がうかがえると同時に、そのエリアが江戸よりも北に偏っていることを押さえておきます。関東以北に見られた犬の「代参」は、三峰信仰の勢力圏と重なり合います。両者には、何らかのつながりがあったようです。
 三峰信仰が広がったエリアでは、犬の参詣というスタイル自体に、何ら不思議な感覚はなかったでしょう。むしろ「神の遊幸」と自然に受けいれられたのではないでしょうか。そこに「お蔭参り」や「ええじやないか」などの風潮が高まると、三峰のお犬さまが代参として金毘羅や伊勢などのはるか遠くの巡礼・参詣霊場へ向かうことになったのではないかと研究者は考えているようです。

   以上をまとめておくと
①江戸時代後期には、犬による代参が伊勢参りや金比羅参りで行われるようになった
②金毘羅犬の出身地をみると江戸以北に限定されている
③これはオオカミをお犬として信仰する埼玉県秩父の三峰神社の布教活動と関係がある。
④三峰神社のお犬信仰は修験山伏により関東から東北にまでひろがった。
⑤三峰神社のお犬信仰圏の信者にとって、お犬様が聖地に巡礼するということは自然に受けいれられ、「お蔭参り」や「ええじやないか」などの抜け参りの風潮を追い風にして広まった。
このため近世後期には、金比羅参りにやってくる金比羅犬の姿が浮世絵などにも描かれることになったようです。この「金毘羅狗」も、鉄道が整備される頃には廃れていったようです。犬は汽車には乗れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
豊島 和子  犬の金毘羅参りをめぐって   ことひら48 H5年

 
古代讃岐には、4世紀後半から5世紀前半に、古墳の石棺をつくる技術者集団がいて、各地の豪族たちの需要に応じていたようです。石棺製作集団は次の2グループがありました。
①綾歌郡国分寺町鷲の山産の石英安山岩質凝灰岩を石材として用いた集団
②大川郡相地(火山)産の白色をした石英安山岩質凝灰岩を石材として用いた集団
①の鷲の山産の石棺は、海をわたって近畿にまで「輸出」されています。この石棺を作った技術舎集団を管理支配していたのが快天山古墳の被葬者、
②の相地産の石を使った集団を支配したのが、讃岐凡氏につながる人物と羽床正明氏は考えているようです。
快天塚古墳

快天塚古墳
快天塚古墳は4世紀後半につくられた全長約100mの讃岐有数の前方後円墳です。この古墳からは三基の石棺が出土し、
一号石棺からは舶載方格規矩文鏡と碧玉製石釧が、
二号石棺からは竹製内行花文鏡が、
三号石棺からは同じく傍製内行花文鏡

快天塚古墳第2号石棺

快天塚古墳第3号石棺
快天塚古墳の石棺

『播磨国風土記』印南郡の条には、羽床石が次のよう記されています。
帯中日子命(仲哀天皇)を神に坐せて、息長帯日女命(神功皇后)、石作連大来を率て、讃伎の国の羽若(羽床)の石を求ぎたまひき。

ここからは神功皇后が仲哀天皇のために、讃岐の国の羽若の石を求めて、古墳をつくろうとした物語が記されています。事実、大阪府柏原市からは、次の2つの讃岐の鷲の山産の石棺が見つかっています。
①柏原市安福寺の勝負山古墳出土と伝えられる鷲の山産の石棺のふた
②柏原市の松岳山古墳から長持形石棺
1柏原市安福寺の勝負山古墳出土
安福寺境内に安置されている割竹形石棺の蓋

 柏原市玉手町の安福寺境内に安置されている割竹形石棺の蓋は、勝負山古墳から出てきたという伝承があるようですが、棺身は見つかっていません。この石棺は、香川県の鷲ノ山産の凝灰岩をくり抜いて造られています。この石棺によって、玉手山古墳群の被葬者集団が、香川県の集団と何らかの関係をもっていたことがわかります。両小口面の縄掛突起は削りとられ、周囲には直弧文と呼ばれる直線と曲線を複雑につないだ線刻がみられます。何らかの呪術的な意味があるようです。
1柏原市kohunngunn

柏原市玉手山古墳群(3号墳が勝負山古墳)

②の松岳山古墳は後円部墳頂に組合式の石棺が露出していて、竪穴式石室が確認されています。
1柏原市河内松岳山古墳2

 この組合式石棺は、底石と4枚の側石、そして蓋石の計6枚の板状の石材が組み合わされています。古墳時代中期の大王墓などで使用される長持形(ながもちがた)石棺と同じタイプで、そのの初期タイプのものと研究者は考えているようです。 石棺の底石と蓋石は黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)を使用されていますが、まわりを囲む側石4枚は香川県の鷲の山産の凝灰岩が使われています。快天塚古墳が築かれた時代に、鷲の山の石材が摂津柏原まで海を越えて運ばれていたようです。
1柏原市河内松岳山古墳
松岳山古墳の長持形石棺と石室周辺


 大阪府から、鷲の山石棺が出土したということは、「播鷹国風土記が」が事実をもとにして書かれたことがうかがえます。風土記にあるように讃岐で作られた石棺が各地に「輸出」されていたと云えそうです。同時に、快天塚の主と柏原の首長は、密接な関係にあったことがうかがえます。
 しかし、羽若(羽床)は快天塚古墳がある所で、石材を産するわけではありません。
石材は鷲の山産なのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
  ①羽若は地名の羽床のことではなく、羽床を拠点とする勢力が管理支配していた羽床石とする説
快天山古墳の出現期には、国分寺エリアでは前方後円墳が作られなくなっています。そのため快天塚古墳の主は、国分寺方面まで支配エリアを広げていたと考えています。そうすると石材の産地である鷲の山は、その支配エリアに含まれます。快天塚古墳のある羽床地区は、この豪族の勢力基盤の拠点であったからこそ、この勢力基盤にちなんで羽床の石が羽若の石と誤伝されたと羽床氏は考えているようです。
快人山古墳のある綾歌町栗熊住吉と羽床は、わずかの距離です。快天塚古墳の主にとって羽床は、その勢力の中心となる重要な地区であり、そこから『播磨国風土記』のような誤伝が生まれたとしておきましょう。
蔵職の設置と鷲住王
「日本書紀」の履中天皇6年2月癸丑朔条には、讃岐国造の祖の鷲住王について次のように記されています。
二月の癸丑の朔に、鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴郎姫を喚して、後の宮に納れて、並に妃としたまふ。是に、二の濱、恒に歎きて日はく、「悲しきかな、吾が王、何処にか去りましけむ」といふ。天皇、其の歎ぐことを聞じめして、問ひて曰く、「汝、何ぞ歎息く」とのたまふ。
 対へて曰さく、「妾が兄鷲住王、為人力強くして軽く捷し、是に由りて、独八尋屋を馳せ越えて遊行にき。既に多くの日を経て、面言ふこと得ず。故、歎かくのみ」とまうす。
 天皇、其の強力あることを悦びて喚す。参来ず。亦使を重ねて召す。猶し参来ず。恒に住吉邑に居り。是より以後、廃めて求めたまはず。是、讃岐国造・阿波国の脚咋別、凡て二族の始祖なり。
意訳変換しておくと
履中天皇6年2月に、鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴郎姫のふたりを、後宮に入れて妃とした。二人の妃は「悲しいことよ、吾が王が、何処にか去ってしまいました。」と嘆くのを天皇が、聞いて、「どうして、悲しみ嘆くのか」と問うた。
 「私の兄鷲住王は、力強くて身も軽く捷く。独八尋屋を馳せ越えて遊行に行ってしまいました。長い月日が経ちますが帰ってきません。故に、悲しんでいます」と答えた。
 天皇は、妃の兄が秘めた力を持っていることに興味を持ち召喚した。しかし、やって来ない。再度召喚したが、やはりやって来ない。住吉邑から離れようとしない。そのため以後は、召喚しなかった。この鷲住王が、讃岐国造・阿波国の脚咋別の二族の始祖である。

ここには住吉邑に強力な能力を持つ鷲住王がいて、これを履中天皇は召喚しようとしたが応じなかったこと。鷲住王が讃岐国造・阿波国の脚咋別の始祖であることが書かれています。
それでは、鷲住王が住んでいた住吉邑というのはどこなのでしょうか。当然思い浮かぶのは摂津の住吉(大阪市住之江区)です。それなら摂津に住む鷲住王が、どうして讃岐国造になるのでしょうか。
ここで羽床氏は「異説」を出してきます。
鷲住王がすんだ住吉邑とは、大阪府の住吉ではなく、讃岐の国の栗熊村の住吉だ。そうでないと鷲住王が、讃岐の国造と阿波の脚咋別の二族の始祖となった説明がつかない。

というのです。これはすぐには私には受けいれられませんが先を急ぎます。
履中紀の物語は、『日本書紀』にあって、『古事記』にはありません。そこで、鷲住王の物語は、713年に撰進の命令が出された風土記のうちの『讃岐国風土記』にあったもので、『日本書紀』の編者が『讃岐国風土記』を見てとりいれたとの推定します。とにかく風土記がつくられた八世紀になっても、快天山古墳をもとにした鷲住王の物語は、讃岐で流布していたと推測します。
快天塚古墳周辺地図

たしかに快天塚古墳は、栗熊の住吉の丘陵に、あたりを威圧するかのごとく築かれています。そして近くには住吉神社もあります。快天山古墳がもとになって、讃岐国造の祖の鷲住王の物語がつくられたと云える材料はあります。
 快天山古墳の主の先祖は、前方後円墳祀りを共有する「ヤマト政権」に初期から参加していたメンバーだったのでしょう。初期の前方後円墳が周辺からはいくつも見つかっています。連合政権のメンバーとして、先端技術や鉄器を手に入れ、大束川や綾川流域の開発を進め、栗熊から羽床の辺りに、あらたな拠点を構え周辺領域を支配するようになったのが快天塚古墳の主だったと私は考えています。
快天塚古墳第3号石棺2
快天塚古墳の第3号石棺

地方の首長にとって、ヤマト政権との関係は微妙なものがあったのではないでしょうか。同盟者であると同時に、次第に抑圧者の姿も見えるようになります。羽床エリアを拠点とする首長は、鷲の山の石棺製造集団を管理して、石棺を他の豪族に供給することでネットワークを広げようとしていたのかもしれません。それはヤマト政権の介入を許さないためであったかもしれません。しかし、快天塚古墳の主の後に起こったことを推察すると、ヤマト政権はこの地から石棺製造集団の引き離し、播磨などの石の産出地に移動させることを命じたようです。そして、快天塚古墳の後継者達は衰退していきます。それは快天塚続く前方後円墳がこのエリアからは姿を消すことからうかがえます。つまり、快天山古墳の後継者達はヤマト政権に飲み込まれていったようです。
古墳時代の羽床盆地と国分寺を見ておきましょう。
快天塚古墳編年表

羽床盆地では,快天塚古墳を築造した勢力が4世紀から5世紀後半まで盆地の指導的地位を保っていました。この集団は,快天山古墳の圧倒的な規模と内容からみて,4世紀中頃には羽床盆地ばかりでなく,国分寺町域も支配領域に含めていたと研究者は考えているようです。
上の古墳編年表を見ると国分寺町域では、4世紀前半頃に前方後円墳の六ツ目古墳が造られただけで、その後に続く前方後円墳が現れません。つまり、首長がいない状態なのです。
 その後も羽床盆地北部では、大型横穴式石室が造られることはありませんでした。羽床勢力は6世紀末頃になると勢力が弱体化したことがうかがえます。坂出地域と比較すると,後期群集墳の分布があまり見られないことから、坂出平野南部に比べて権力の集中が進まなかったようです。そして、最終的には坂出平野の勢力(綾氏)に併合されたと研究者は考えているようです。これは継続して前方後円墳を作り続け、古代寺院建立にいたる善通寺勢力とは対照的です。

以上をまとめておくと
①『播磨国風土記』にでてくる羽若(羽床)とは地名で、石棺を製作した集団が快天山古墳の主によって支配されていたところから、その支配者の中心勢力だった地名をとって誤伝された。
②快天山古墳は讃岐で2番目の規模をもつ古墳で、当時は善通寺勢力と拮抗する勢力を持っていた
③快天塚の主は、生前の権力と古墳の規模の大きさから、履中紀に鷲住王の物語がつくられ、風土記を経て『日本書紀』の中にとりいれられた
④石棺をつくった石工たちは通常は羽床に住み、鷲の山山麓に石棺をつくる仮設小屋を設け、仕事をした。
⑤飯山町西坂元には鷲住王の墓と伝えられる古墳があって、銅金具・刀剣・勾玉・管玉・土器が出土している。しかし、古墳は鷲住王のものではない。鷲住王の伝説を生み出したのは、住吉趾にある快天山古墳であった。
⑥快天山古墳の上に、快天和尚の墓がつくられ、快天和尚の墓として有名になると、鷲住王の墓が別のところに求められ、それが飯山町西坂元の鷲住王墓とされるようになった。
⑦しかし、古代(奈良時代)の人たちは、快天山古墳を鷲住王の墓としていた。

ちなみに、鷲住王は阿波国造の祖ともされています。


そのため讃岐以上に、阿波では鷲住王の拠点探しが昔から活発に展開されています。いまでも「鷲住王」で検索すると、数多くの説が飛び交っているのが分かります。一方、香川では「鷲住王」の知名度は低いようです。それは「神櫛王」が讃岐国造の祖という伝説が中世以後に拡大し、競合関係にあたる「鷲住王」は、故意に忘却されたからのようにも思えます。
 讃岐では日本書紀の履中紀の物語よりも、中世に作られた綾氏の出自を飾る神櫛王伝説の方が優先されるようになり「鷲住王」にスポットが当たることがなかったと云えるのかも知れません。
  快天山古墳を、讃岐国造の始祖となった鷲住王の墓と考える説があることを改めて心に刻みたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献


  江戸時代後期になると、自分の家の出自をより良く見せたり、争いごとを有利に進めるために偽物の系図屋や古文書屋が活動するようになります。その時に作られた偽文書が現代に多く残されています。江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
  椿井政隆は、地主でお金には困っていなかったようですが、大量の偽文書を作っています。その手口を見てみると、まずは地元の名士、といっても武士ではない家に頻繁に通い、顔なじみになって滞在し、そこで必要とされているもの、例えば土地争いの証拠資料、家系図などを知ります。滞在中に需要を確認するわけです。それで、数ヶ月後にまたやってきて、こんなものがありますよと示します。注文はされていなくて、この家はこんなもの欲しがっているなと確認したら、一回帰って、作って、数ヶ月後に持っていきます。買うほうもある程度、嘘だと分かっていますが、持っていることによって、何か得しそうだなと思ったら地主層は買ったようです。
 滋賀県の庄屋は、椿井が来て捏造した文書を買ったことを日記に書いています。自分のところの神社をよくするものについては何も文句を言わずに入手しているのです。実際にその神社は、椿井文書通りの位置づけになって今に至っているといいます。
 こうなると「商売」というより、何か自然に『偽の歴史』ができていった感じです。いくつかの資料をまとめて5両という領収書も残っています。五両(現在換算50万円)で、証拠や夢を買うことになります。買ったほうにしたら、裁判に勝てるし、場合によったらうちはいい家柄だとか言える。地主にとっては、高い買い物ではなかったのかもしれません。

 今回は金刀比羅宮に残る5つの偽文書を見ていきたいと思います。
テキストは「羽床雅彦   中臣宮処氏本系帳と金刀比羅宮所蔵偽文書について  こんぴら68 162P」です。

(1)「釈迦堂田地寄進状」
奉寄進
子松庄松尾釈迦堂免田職事、合陸段者、右件相免田職者、天長地久御願円満、殊者為本家領家地頭願所安穏泰平故也、寄進如件、
  康安二(1362)年壬丑四月十五日  預所 平保盛(花押)

ここには、小松荘松尾寺の釈迦堂に平保盛(花押)が康安二(1362)年壬丑四月十五日に免田を寄進したとされます。
しかし、長年にわたって金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明の労作である「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇、金刀比羅宮社務所発行」は、残された史料や棟札から釈迦堂の創建は延宝五年(1677)としています。つまり、康安2年には釈迦堂はありません。

(2)「三断香田地寄進状」
奉寄進
松尾寺三断香免田職事、合弐段者、在坪六条九里四坪末弘名無是田也、右件於免田職、為金輪聖王天長地久、殊者当庄本家領家沙汰人、御息災延命増長福寿現等安穏、及生善所庄内豊饒社人快楽故也、働任承者之旨、所奉寄進如件、
庄安二歳次辛亥年十一月十八日 預所僧頼系(花押)
(3)貞治元年「金昆羅堂田地寄進状」
奉寄進、松尾寺金毘羅堂免田職事、合壱段者、在坪六条八里廿五坪但本庄是末重名内、右件者、金眈羅堂免田者、為金輪聖王天長地久御願円満、殊者領家地頭庄官沙汰人諸人快楽故也、傷任承知状如件、
貞治元年(1362)壬寅三月十八日  新庄御方預所僧頼景(花押)
(5)永治二年「金昆羅堂田地寄進状」
奉寄進、子松庄松尾寺金昆羅堂田地事、
右件者免田職者、天長地久御願円満、殊者為本家領家地頭預所安穏泰平故、被仰下任旨寄進如件、
永治二(1142)年壬成二月二十六日  平量次(花押)
(3)(5)の文書に出てくる金昆羅堂については、以前にお話ししたように元亀四年(1573)の創建棟札が残っています。金比羅堂は長尾一族の宥雅によって元亀四年(1573)に創建されたことは地元の研究者たちが明らかにし、「町史ことひら」にもそう記されています。13世紀まで金毘羅神の登場を遡らせることは出来ません。金毘羅神は16世紀後半に、修験者たちによって新たに作り出された流行神と研究者たちはは考えています。
(4)「鐘楼堂田地寄進状」は、
奉寄進、松尾寺鐘楼免田職事、合参百歩者、御寺方久遠名無是田也在坪六条八里十一坪、右件者免田職者、為金輪聖王天長地久御願円満、殊者当庄本家領家地頭預所安穏泰平故也、働為寄進如件、康暦元(1379)年己未九月十七日  御寺方御代官 頼景 判

(4)の文書の鐘楼堂については、松原秀明撰『金昆羅庶民信仰資料集 年表篇』には、元和六年(1620)に生駒正俊が建立寄進したものとしています。松原氏は金刀比羅宮に残された棟札・記録を調べて年表を作成しています。敷田は棟札・記録などの根本史料に当たらずに偽文書を作成し、破綻をきたしたようです。また、五つの文書には「天長地久」が全て入っています。時代が異なる文書に、全て記されるというのも不自然です。そして、これらの5つの文書が、同一人物によって偽作されたと研究者は指摘します。
 こうして松原秀明氏は、これの文書が後世の偽作と判断し、「金刀比羅宮に近世以前の史料はない」としました。それ以後に書かれた香川県史や町史ことひらも、同じ立場をとっています。

この偽文書は、いつだれによって、何の目的のために作られたのでしょうか?
『中臣宮処氏本系帳』という文書があります。この書は、古代讃岐の山田郡の有力豪族「中臣宮処氏」の存在を示す史料です。本系帳には原書であって、孝徳天皇の大化三年(646)3月に中臣宮処連静が書いたものだと記されています。これを書いたのが国学者の敷田年治です。彼は『中臣宮処氏本系帳考證』下巻には、本系帳は天平六年(734)3月15日に中臣宮処連静麻呂が書いたものとも記されます。
整理すると「中臣宮処氏家牒』は大化三年(646)に中臣宮処連静が書き、「中臣宮処氏本系帳』は天平六年(734)に中臣宮処連静麻呂が書いたいうのです。
「中臣宮処氏本系帳考證』下巻には、次のように記されています。
「この書は讃岐の国の人、本條半兵衛が今(明治26年1893)から32年か33年前に難波に持ってきたものだが、半兵衛は何の書物か知らず、明治11年(1878)9月18日に難波の道頓堀で焼失してしまった。しかし、これ以前に或る人がこの本系帳と家牒を借りて書き写し、家牒の方は半分も書き写さない内に持ち主が返すよう督促したので返した。明治21年(1888)春に半兵衛の息子の小野幸四郎が或る人が書き写した本系帳を持って来て、私(敷田年治)に見せたので考證を加えて出版することにした。家牒の方は十枚程残っていたが、鼠に喰われて四枚程になってしまった」

この史料を本物と判断した『讃岐の歴史』は、中臣宮処連について次のように記します。
このほか、(山田郡の)県主に任ぜられた豪族には、天児屋根命を祖とする中臣宮処連の一族や、武殻王を祖とする綾氏がいた。山田郡では、天児屋根命より出た中臣宮処連静足が和銅二年に、同静麿が養老三年にそれぞれ大領に任じられた。その居址は現在の高松市西前田町にあったという。

三、中臣宮処氏本系帳には、何が書かれ、どこに問題点があるのでしょうか
(疑間1)『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の迦麻行大人命の条には、
綾県主(あがたぬし)迦麻抒大人命は巻向の日知宮(ひしりのみや)に天の下治しめし天皇の大御子、夜麻登多郡(やまとたける)天皇命の御子、多郡迦比古(たけかいこ)王命の御子、迩美麻(にみま)大主命の御子、那岐迩麻(おきにま)大主命の御子也。

とあって、綾県主(あがたぬし)迦麻抒大人命が巻向の日知宮に天の下治しめし天皇(景行天皇)―夜麻登多郡天皇(日本武尊)―多郡迦比古(神櫛王)王命―迩美麻大主命―那岐迩麻大主命―迦麻抒大人命と続く系譜にあることを記します。
 しかし、この系譜は以前にお話したように、南北朝時代の頃に法勲寺の僧侶達によってつくられた『綾氏系図』の系譜をそのままパクったものです。南北朝時代作成の『綾氏系図』が天平六年(734)作成の『中臣宮処氏本系帳』に採録されることはありあせん。中世に作られた系図が、古代の文書に載っていることになります。これがまず問題点1です。
疑間2は『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の中臣宮処連静比古の条です。
此の静比古多麻岐の郎女(いらつめ)にあひて生める子静老、又栗田臣伊那其(いなご)の女美豆保の郎女に姿ひて生める子奴那美麻呂(ぬなみまろ)此は中臣御田代連、高屋連らの祖也、次に清比古、次に稚富比古此は中臣粟井連らの祖也。

ここでは静比古の子の稚富比古を中臣栗井連の祖としています。そしてその本拠地を苅田郡紀伊郷粟井里とします。しかし、粟井を本拠としていたのは中臣栗井連ではなくて、忌部氏です。紀伊郷栗井里には讃岐の国の延喜式内社24社の栗井神社(観音寺市)があって、その祭神は天太玉命(あめのふとのみこと)で、これは忌部氏の祖神です。
 また、延喜式内社の多度郡の大麻神社(善通寺)の祭神も天太玉命で、三豊郡豊中町竹田には忌部神社があって、この忌部神社の周辺は今でも忌部と呼ばれています。讃岐忌部の本拠地は苅田郡紀伊郷栗井里で、ここから分かれ出た忌部の一派が豊中町竹田及び豊中町忌部に住むようになり、また、別の一派は多度郡生野郷大麻里に住むようになったとされています。
 大同二年(807)に、斎部広成が、平城天皇の指示で選した『古語拾遺』には、
手置帆負命之孫、矛竿を造り、その裔今分かれて讃岐の国に在る。讃岐の国毎年調庸の外に八百竿を貢ぐ、是其の事等の証也。

とあつて、讃岐忌部は毎年800本の矛竿を貢納していたと記されています。また『延喜式』には、
凡枠木千二百四十四竿、讃岐国十一月以前差綱丁進納、

とあって、『延喜式』が完成した937年には毎年1244の矛竿を貢納し、引き続いて讃岐忌部氏の勢力が強かったことおがうかがえます。
 苅田郡紀伊郷栗井里は枠木を貢納した忌部氏が住む村で、紀伊郷も「木」郷を嘉字二字表記にしたため「紀伊」郷になったもので、古代は和歌山を拠点とすする紀伊氏の勢力下だったとされます。ここには中臣氏の祖神の天児屋根命を祀った神社はなく、中巨粟井連という氏族の気配はありません。これが問題点2です。。

『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の中臣宮処静見臣の条には、
此の静依臣粟国麻殖直県主の祖忌部首玉代の女奴那佐加比売に妾ひて主める子鶴見臣、亦静見大人と謂う、中臣笠井連等の祖先

とあって、中臣宮処連静依臣を中臣笠居連の祖とします。しかし東寺の果宝が観応三年(1352)に編述した『東宝記』収載の天暦11年(957)2月26日の大政官符には、綾公文包や香川郡笠居郷戸主綾公久法の名があり、綾公が住んでいたとが分かります。久法の子孫は中世には香西という武士になって活躍します。ここからも笠居郷は綾公の勢力エリアで、中臣笠居連が住んでいたということを裏付けられる史料はありません。他の歴史資料と矛盾する内容である中臣栗井連や中臣笠居連が登場する『中臣宮処氏本系帳』は、疑わしい文書とされます。

中臣宮地連については、次のような記録があります
『姓氏録』左京神別に中臣宮地連は大中臣同祖とあり、
『姓氏録』和泉国神別に宮処朝臣は大中臣朝臣同祖とあり、
『推古紀』十六年六月条及び二十年二月二十日条に中臣宮地連鳥麻呂が見え、
『続日本紀』天平元年二月十日条に中臣宮処連東人が見え、
ここからは中臣宮処氏の本拠は和泉国で、その一族が都に出て左京に家を構えたことが分かります。実際に畿内では中臣宮処連が分布していています。讃岐にも宮処という地名があるところから、讃岐の宮処にも中臣宮処連がいたとする『中臣宮処氏本系帳』という偽書がつくられたと研究者は推測します。

以上から『香川県の歴史』は、『中臣宮処氏本系帳考證』について次のような評価を下しています。
『中臣宮処氏本系帳考證』(明治二十六年三月、敷田年治の考證出版)によれば、県主は山田郡宮処(高松市東山崎町)に住みその祖先は天児屋根命で、その子孫は中臣氏であろうといわれるが、歴史家の間ではその真疑が疑われている。これを信用することはできないだろう。『中臣宮処氏本系帳』は明治時代前期に敷田年治が作成した偽書である可能性が高いのである。

つまり『中臣宮処氏本系帳』は、明治時代前期に敷田年治によって作成された偽書と研究者は考えているようです。

讃岐山田郡
 
中臣宮処連が拠点としたという山田郡宮処(高松市東山崎町)を見ておきましょう。
 琴電長尾線高田駅の北に広がる土地がかつての山田郡宮処郷であったようです。宮処郷の喜多に鎮座する宮処八幡宮(高松市前田西町)周辺に中臣宮処連が住んでいたと『中臣宮処氏本系帳』は記します。宮処郷に中臣宮処連が住んでいた痕跡はあるのでしょうか?
『続日本紀』天平十三年(七四一)三月十四日条によると聖武天皇は国分寺・尼寺建立の詔を出します。しかし、国分寺・尼寺の建立は進みません。そこで、三年以内に完成させたら子孫が郡司職を世襲を認めるという法令を、天保勝宝元年(749)2月27日に出しています。讃岐では国分寺・尼寺と同笵の瓦が、寒川郡の長尾寺、三木郡の始覚寺、山田郡の拝師廃寺・山下廃寺、香河郡の百相廃寺・田村神社、那珂郡の宝幢寺から出土しています。ここからは、寒川郡、三木郡、山田郡、香河郡、那珂郡の郡司が国分寺・尼寺の建立に参加したことがうかがえます。
『図録東寺百合文書』二十一号文書は、
山田郡牒 川原□□
合田中校出田一町三百五十歩、牒去天平宝字五年巡察□□出之田混合如件、□□□伯姓今依国今月廿二日符□停止□□、為寺田畢、傷注事牒、牒至准状、□符、

天平宝字七年十月廿九日
大領外正八位上綾公人足 少領従八位凡直 主政従八位下佐伯 復擬主政大初位上秦大成 主帳外小初位下秦
寺印
正牒者以宝亀十年四月十一日讃岐造豊足給下

ここからは天平宝字七年(763)に山田郡の大領は綾公人足、少領は凡直某だったことが分かります。
 綾公(君)は隣の香河郡から、凡直は寒川郡からの移住者(勢力拡大)と研究者は考えているようです。先に入ってきたのは綾公で、古墳時代後期には移住して久本古墳・山下古墳・小山古墳などの巨石墳を築造し、奈良中期になると拝師廃寺・山下廃寺などを建立したようです。綾公人足は八世紀中頃に山田郡の大領となり、国分寺や尼寺が建立された天平宝字七年(762)頃は大領だったことが、この史料号)からは分かります。
 天平19(747)年に国分寺・尼寺建立に参加し、その功績が認められ氏寺の拝師廃寺や山下廃寺を国分寺の同笵瓦で建立しています。こうして山田郡北半は綾公、南半は凡直が支配したようです。中世になると綾公の子孫は高松(船木)という武士になり、凡直の子孫は十河・植田・三谷・池田・由良・神内・中村などの武士になってそれぞれ活躍しますが、凡直の子孫の方が羽振りが良かったようです。
  考古学的な史料からも山田郡に中臣宮処連一族の痕跡をみつけることはできません。
以上から「中臣宮処氏本系帳』は歴史学者の間では偽書とされ、これを考証出版した敷田年治も信用できない人物とします。
敷田年治 - 帆足先生的収蔵
敷田年治
敷田年治と金刀比羅宮の繋がりをしめすものがあります。
『金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明治20年(1887)9月28日条に、
「宥常、国学者敷田年治を自宅に招き饗応」

とあるのです。金刀比羅宮の琴陵宥常が何のために敷田年治を自宅に招いて饗応したのでしょうか?
最初に示した金刀比羅宮の偽文書を作成したお礼として自宅に招いて饗応した可能性が高いと研究者は指摘します。敷田年治が金刀比羅宮の偽文書をつくったとすると、『中臣宮処本系帳』も敷田年治がつくった偽書である可能性はますます高くなります。最初に偽書作成の裏側を見たように、偽書を作っていた人物はプロで、依頼によってどんな文書も偽作していたのです。ひとつだけ偽文書を作ったというのは考えにくく、ひとりがいくつもの偽文書を作っているのが通常なのです。
中臣宮処氏本系帳考証. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

『中臣宮処氏本系帳考証』は明治26年(1893)3月に出版されています。
金毘羅さんの偽文書も明治20年(1887)9月~明治26年(1893)9月までの間に、つくられたと推測できます。敷田は金昆羅堂・鐘楼堂・釈迦堂の創建について記した棟札・記録を良く調べないで偽文書をつくりました。そのために、これらの棟札の記述と矛盾する内容が見つかり、偽文書であることが露呈してしまいました。そして、彼が考證出版した『中臣宮処氏本系帳』も偽書である可能性が高いとされてしまいました。敷田は、依頼に応えて、これ以外の偽書もつくった可能性もあります。そういう需要が当時の寺社にはあったことが分かります。
中臣宮処氏本系帳考証. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 なぜ金刀比羅宮の琴綾宥常は、敷田年治に偽書の作成を依頼したのでしょうか
考えられるのは、明治の神仏分離に伴う祭神の転換です。神仏分離前は、金毘羅大権現という神仏混淆神が祀られていました。それが廃仏毀釈で追放され、神道の金刀比羅宮は大国主命と崇徳上皇を祭神として祀るようになります。その際に、崇徳上皇との縁が求められるようになります。そのためには崇徳上皇が流刑になった時には、金毘羅大権現や松尾寺は存在していないと辻褄があわなくなります。琴綾宥常にとって、12世紀には松尾寺があったことが証明できる年代の入った文書が必要になったのでしょう。そこで、国文学者としても名前が知れていた敷田年治に依頼したことが推測できます。その裏交渉を行ったのは、禰宜の松岡調であったと私は考えています。松岡調は、骨董品や文書のコレクターでもあり、それが現在の志度の多和神社の文庫となっています。そのようなコレクションを通じて、松岡調は敷田年治と深いつながりがあったことがうかがえます。松岡調の周辺には、後に護国神社宮司となる矢原氏がいましたが、矢原氏の周辺にも偽文書の存在があるように思えます。
 

武田信玄が年貢の減免等を行ったということが書かれているが、江戸時代の終わりに自分たちも税の減免をしてほしい、と訴える証拠の資料として捏造されたもの。これに類するものが甲州にはいくつもある。

江戸時代の甲府周辺では、武田信玄の偽物の手紙が量産体制で作られ、どんどん売られていたようです。
偽文書屋が商売として成り立っていたのです。信玄の偽文書がたくさんある地域は、特定の地域で、大名がいないエリアに限定されるようです。天領などの方が、わが家はかつての信玄の家来だ、と言いやすかったようです。伊賀・甲賀でも、かつては自分たちは忍者だったといくらでも言い放題の地域があります。チェック体制のなかった江戸時代は、由緒を主張したもの勝ちだったようです。
 江戸後半になると由緒を語ることによって、社会的な地位が実際に上がっていく。急にお金持ちになっても、俺はかつてから有力な家だ、と言うとその地位が村の中で安定します。さらにもう少し後になると、武士身分もお金で買えるようになってきます。いきなり武士身分を買うのではなくて、中世は武士だ、今は農民だけど、改めてお金で買って、今はもとの武士に戻ったんだ、という言い方ができます。
  そういう意味で、家の系図や寺社の由緒はそのランクを上げて行くための必須アイテムとなります。こうして、有力な寺社には偽文書がいくつも作られ、正当性や建立起源の古さを主張する根拠して使われるようになります。
 金毘羅さんも祭神変更に対応して、より古い由緒が求められるようになったとしておきましょう。
以上をまとめておくと
①金刀比羅宮には、今は偽書とされる5つの「古文書」があった。
②それらは、松尾寺の鐘楼や金比羅堂が12世紀にはあったことを証明するものであった。
③これらの偽文書は明治に琴綾宥常が国学者(プロの偽作者)に依頼して作らせたものであった。
④その背景には祭神となった崇徳上皇時代には、松尾寺や金毘羅堂があったことを示す必要があったためである。
⑤しかし、松原秀明の調査研究によって松尾寺は16世紀後半に創建されたものであり、それを遡る棟札も古文書もないことが明らかにされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   中臣宮処氏本系帳と金刀比羅宮所蔵偽文書について  こんぴら68 162P

金毘羅船 航海図C4

前回に金毘羅船の航路が19世紀前半に、①→②→③のように変更されていることを見ました。
①初期は、室津から小豆島を東に見て高松沖から四国の海岸沿いに丸亀へ
②19世紀半ばからは、室津から牛窓沖を通過し、それから備讃瀬戸を縦断するコール
③室津から下津井半島の日比・田の口・下村を経由して丸亀へ
このコース変更の背景として考えられる事を挙げてみると
①下津井半島の五流修験が広めた「金比羅・喩伽山の両詣り」で喩伽山参りの人々の増加
②19世紀前半からの金毘羅船の大型化
などですが、その他にも原因があることを指摘する文章に出会いました。今回はそれを見ていきます。テキストは「羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問  ことひら68 H25年」です
金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛 道頓堀で金毘羅船に乗りこむ弥次喜多

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)には、弥次喜多コンビが夜半に道頓堀から乗った金毘羅船は、早朝に木津川河口に下ってきて、早朝に順風を得て出港します。室津で一夜を過ごし、その後は順風に恵まれて三日半で丸亀港に着いています。しかし、こんなにスムーズに行くのは珍しい方だったようです。

三谷敏雄「飯田佐兵衛の金毘羅参詣記」(『ことひら』四十一号、昭和61年)には嘉永三年(1850)の正月に武蔵国文蔵村の飯田佐兵衛が仲間11人と金比羅参りをしたときの記録が報告されています。当時は金比羅参りだけでなく、いろいろな聖地を一緒に巡礼するのが常でした。彼らの巡礼地を見てみると、東海道を下って伊勢神宮に参詣し、更に大阪・四国にも足を伸ばし、帰りには京都見物を行って中山道を通って帰村しています。この二ヶ月半を『伊勢参詣日記帳』という道中記にまとめています。この道中記には、金毘羅船について次のように記されています。
 佐兵衛一行は大阪から高砂に行き「つりや伊七郎」方で「同所より二日夜丸亀迄船を頼む、上下(往復料金)壱貫弐百文にて頼む、百八文ふとん一枚」を支払って金毘羅船に乗船しようとします。ところが「三、四日、殊の外逆風」で船が出せません。そこで船賃の払い戻しを要求するのですが、返金されたのは「四百八拾文舟銭。剰返請取。」と支払額の40%程度でした。全額返金に応じないことに憤慨して「金ひら参詣ニハ 決而舟二のるべからず」と、金比羅参拝には、決して船を利用するなと書いています。その後、彼らは岡山県まで歩いて行って、下津井から船に乗って対岸の四国に渡っています。
IMG_8095下村浦
下村湊

    西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、次のように記されています。
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」

意訳変換しておくと
「三月一日に船中に泊り、翌日二日に漕ぎだしたが、昼ハッ時分に、風が強く吹きだし、波も高くなり、乗客はみんな船酔いに苦しめられ、難渋した。ようやく四ッ時に風が静まり、人々は人心地をついた次第である」

「風浪が強くなる中を、21日七ッ時に乗船し、24日七ッ時に丸亀に到着するまで、三夜三日の内船中に閉じ込められ、乗客達は大変難渋した。

 同じ頃に金毘羅大権現に参詣した江戸羽田のろうそく商、井筒屋卯兵衛の手記にも、良く似たことが書かれています。
卯兵衛は「金毘羅出船会所大和や(大和屋)弥三郎、丸亀迄詣用付舟賃九匁ふとん壱枚百六十四文払」と、前回に紹介した道頓堀川岸の大和屋弥三郎方で金昆羅船を頼み、「是より舟一り半程下りて富島町と申す所へ船をつなぐ」が、「六日朝南風にて出帆できず」と船を出すことが出来ず、「是より舟を上り、大和屋船賃を取り返しに行く」と船賃の一部を払い戻して貰い、陸路を岡山県まで歩いています。
 そして、次のようなコースで丸亀に向かいます
二月四日に牛窓村の「ちうちん屋」に泊り、
五日には喩伽大権現に参詣して、下津半島・下村の「油屋藤右衛門」方で百四文を払って乗船し、
六日の四ツ半頃に丸亀港に着き、船宿「あみや為次郎」方で弁当を整え、丸亀街道を歩いて金毘羅大権現に行き参詣した。再び丸亀「あみや」に戻って
六日昼より七日昼までの間逗留し、九ツ時に「あみや」を出立して船に乗り、七ツ頃に対岸の田の口港に着いています。
金毘羅船 航海図C10
上方から丸亀までの船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していました。近世の金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々

 金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。

IMG_8108象頭山遠望
下津井半島からの象頭山遠望

 下津井からの丸亀間は、西北の風は追い風となります。上方からの船が欠航になっても、下津井からの船は丸亀湊に入港できたようです。
金毘羅船 田の口・下村

 児島半島には喩伽山大権現(蓮台寺)があつて、金毘羅大権現と喩伽山を「両参り」すると効験は倍増すると五流の修験者たちは宣伝します。喩伽大権現に近い田の口港は、両参りする人々で賑わうようになります。
IMG_8098由加山
喩伽山大権現(蓮台寺)

これに対抗して下村の船宿「油屋藤右衛門」方では「毎日出船」と天気に左右されない通常運行を売り物にして客を獲得しようとします。下津井半島には、日々、田の口、下村、下津井と4つの湊が金比羅船をだして、互いにサービス競争を行っていました。上方からの運賃に比べると1/5程度でリーズナブルでした。また、小形の金毘羅船にはトイレがありませんでした。弥次喜多は、苫の外から海に向かって用を足しています。女性参拝客が増えるに随って、最短で海を渡ろうとする人たちも増えたのかも知れません。

IMG_8105下津井より広島方面」
下津井半島からの四国方面遠望
 こうして江戸時代末期には、欠航や船酔いを避けて上方からではなく、海上最短距離になる下津井からの渡船に活躍の舞台が開けてきたようです。大阪と丸亀を結ぶ金毘羅船が「毎日出船」を売り物にすることができるようになつたのは、明治になって蒸気船が出現して天候の影響をうけなくなってのことのようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

   以上をまとめておくと
①上方からの金毘羅船は順風だと3泊4日で、丸亀港に着くことができた
②しかし、北西の季節風が強くなる冬は逆風となり、欠航が多くなった。
③出発前の欠航や途中での欠航でも料金が全額払い戻されることはなくトラブルの原因となった
④江戸時代末期になると参拝客は、金毘羅船の欠点を避けて、陸路で下津井半島まで行き、そこから海上最短距離で丸亀や多度津を目指す者が増えた。
⑤そこには、五流修験者の喩伽山信仰策もあった。
⑥この結果、下津井半島の田の口や下村、下津井は金比羅渡船のでる港町として栄えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  金毘羅 町史ことひら

大坂の金毘羅船の船宿は、乗船記念として利用者に金比羅参拝の海上航路案内図や引き札を無料で渡したようです。航路案内図は、印刷されたものを購入し空白部に、自分の船宿の名前を入れ込んだものです。そのために、時代と共にいろいろな航路案内図が残されています。参拝者は、それを記念として大事に保管していたようです。それが集められて町史ことひら5絵図・写真編(71P)に載せられています。今回は金毘羅船の海上航路図を見ていくことにします。
金毘羅船 航路図C1

 左下に「安永三(1774)甲午正月吉日、浪花淡路町堺筋林萬助版」と板元と版行の年月があります。延享元年(1744)に、大阪の船宿が連名で金毘羅船を専門に仕立てたいということを願いでてから30年後のことになります。宝暦10(1760)年に、日本一社の綸旨を得て、参詣客も年とともに多くなってくる時期に当たります。
 表題は「讃岐金毘羅・安芸の宮島 参詣海上獨案内」です。
 ここからは、新興観光地の金毘羅の名前はまだまだ知られていなくて、安芸の宮島参拝の参拝客を呼び込むという戦略がうかがえます。
 構図的には左下が大坂で、そこから西(右)に向けてひょうご・あかし(明石)・むろ(室津)・うしまど(牛窓)と港町が並びます。金比羅舟は、この付近から備讃瀬戸を横切って丸亀に向かったようですが、航路は書き込まれていません。表題通り、この案内図のもうひとつ目的地は宮島です。そのため  とも(鞆)から、阿武兎観音を経ておのみち(尾道)・おんどのせと(音戸ノ瀬戸)を経て宮島までの行程と距離が記されています。ちょうど中央辺りに丸亀があり、右上にゴールの宮島が配されます。この絵図だけ見ると、丸亀が四国にあることも分からないし、象頭山金毘羅さんの位置もはっきりしません。また、瀬戸内海に浮かぶ島々は、淡路島も小豆島も描かれていません。描いた作者に地理的な情報がなかったことがうかがえます。
 重視されているのは上の段に書かれた各地の取次店名と土産物です。
大阪の取次店して讃岐出身の多田屋新右ヱ門ほか二名の名があり、丸亀の船宿としては、のだ(野田)や権八・佃や金十郎など四名があり、丸亀土産として、うどんがあるのに興味がひかれます。金毘羅では、飴と苗田村の三八餅が名物として挙げられています。印象としては、絵地図よりも文字の方に重点を置いた初期の「案内図」で、地理的にも不正確さが目立ちます。ここでは、まだ宮島参拝のついでの金毘羅参りという位置づけのようです。

金毘羅船 航海図C3
1枚目 丸亀まで
 二枚続きの図で、画師は丸亀の原田玉枝です。玉枝は天保15五年(1844)に53歳で亡くなっています。この図の彫師は丸亀城下の松屋町成慶堂です。この図も1枚目は下津井・丸亀までで、2枚目が鞆から宮島・岩国までの案内図になっています。

金毘羅船 航海図宮島
2枚目 鞆から宮島まで

 東国・上方からの参詣者が金毘羅から宮島へ足を伸ばす。あるいは、この時期にはまだ宮島参拝のついでに金毘羅さんにお参りするという人たちの方が多かったのかも知れません。淡路でも金毘羅と宮嶋は、一緒に参拝するのが風習だったようです。そんな需要に答えて、丸亀で宮嶋への案内図が出されても不思議ではないように思います。
   ここで注意しておきたいのは、大坂からの案内図は、最初は宮嶋と抱き合わせであったということです。大坂から金毘羅だけを目指した案内図が出るのは、少し時代が経ってからのことになります。

 構図的には、先ほど見たものと比べると文字情報はほとんどなくなって、ヴィジュアルになっています。位置的な配置に問題はありますが、淡路島や小豆島などの島々や、半島や入江も書き込まれています。山陽道の宿場街や、四国側の主要湊も書き込まれ、これが今後に出される案内図の原型になるようです。航路線は描かれていませんが。点々と描かれた船をつなぐと当時の航路は浮かび上がってきます。それはむろ(室津)から小豆島を左に見て備讃瀬戸を斜めに横切って丸亀をめざす航路のように見えます。この絵を原型にして、似たものが繰り返し出され、同時に少しずつ変化していくことになります。
金毘羅船 航海図C4
 C④「大坂ヨリ播磨名所讃州金毘羅迪道中絵圖」        

この絵の特徴は、3つあります
①標題は欄外上にあり、右からの横書きになっていること
②レイアウトがそれまでとは左右が逆になっていて、大坂が右下、岡山は左上、金毘羅が左下にあること。この図柄が、以後は受け継がれていきます。
③宮島への参拝ルートはなくなったこと。金比羅航路だけが単独で描かれています
 前回にお話しした十返舎一九の「金毘羅膝栗毛」の中で弥次喜多コンビは、夜に道頓堀を出発し、夜明け前に淀川河口の天保山に下ってきて風待ちします。そして早朝に追い風を帆に受けてシュラシュラと神戸・須磨沖を過ぎて、潮待ちしながら明石海峡を抜けて室津で女郎の誘いを受けながら一泊。そして、小豆島を通りすぎて、八栗・屋島を目印にしながら備讃瀬戸を横切り、讃岐富士を目指してやってきます。つまり19世紀初頭の弥次喜多の航路は、下津井には寄らずに、室津から小豆島の西側と通って丸亀へ直接にやってくるルートをとっています。
 しかし、この絵には室津と田の口が航路で結ばれ、下村や下津井と丸亀も航路図で結ばれています。五流修験の布教活動で、由加山信仰が高まりを見せたことがうかがえます。
   また、高松など東讃の情報は、きれいに省略されています。関係ルート周辺だけを描いています。絵図を見ていて、違和感があるのは島同士の位置関係が相変わらず不正確なことです。例えば小豆島の北に家島が描かれています。一度描かれると、以前のものを参考しにして刷り直されたようで、訂正を行う事はあまりなかったようです。
金毘羅船 航海図C7
この案内図には標題がありません。特徴点を挙げておくと
①右上に京都のあたご(愛宕山)が大きく描かれて、少し欄外に出て目立ちます。
②大坂は、住吉・さかい(堺)を注しています。
③相変わらず淡路島や小豆島など島の形も位置も変です。
④室津から丸亀への航路が変更されている。
以前は、小豆島の西側を通過して高松沖を西に進むコースが取られていました。しかし、ここでは牛窓沖を西へ更に向かい日比沖から南下して備讃瀬戸を横断する航路になっています。この背景には何があるか分かりません。
金毘羅船 航海図C10

  C⑩には右下に「作壽堂」とあり、「頭人行列圖」を発行している丸亀の板元のようです。この案内図で、研究者が注目するのは「むろ」(室津)からの航路です。牛窓沖を西に進み、そこから丸亀に南下する航路と、一旦田の口に立ち入る航路の2つが書き込まれています。そして、初期に取られた室津から小豆島の西側を南下し、高松沖を西行するコースは、ここでも消えています。考えられるのは、喩迦山の「二箇所参り」CM成果で、由加山参りに田の口や日々に入港する金毘羅船が増えたことです。田の口に上陸して喩迦山に御参りした後に、金毘羅を目指すという新しい参拝ルートが定着したのかもしれません。

金毘羅船 航海図C13
C13
 よく似た図柄が多いのは、船宿が印刷所から案内図を買い求めて、自分の名前を刷り込んだためと研究者は考えているようです。C13には大阪の船宿・大和屋の署名の所にかなり長い口上書が添えられています。欄外右下には「此圖船宿よリモライ」と墨の落書きがあったようです。ここからも乗船客が、船宿からこのような絵図をもらって大切に保管していたことがうかがえます。


以上の金毘羅船の航路案内図の変遷をまとめっておきます
①大阪の船宿は利用客に航路案内図を刷って配布するサービスを行っていた。
②最初は宮島参拝と併せた絵柄であったが、金比羅の知名度の高まりととに宮島への航路は描かれなくなっていく
③18世紀後半の航路は、室津から小豆島を東に見て高松沖を経て丸亀至るにコースがとられた。
④19世紀前半になると、日比や田の口湊を経由して、丸亀港に入港するコースに変更された。

③から④へのコース変更については、由加山信仰の高まりが背景にあるとされますが、それだけなのでしょうか。次回はその点について見ていこうと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました

参考文献 町史ことひら5絵図・写真編(71P)

金毘羅船 4

金毘羅船々 追風に帆かけて シュラ シュ シュシュ 回れば四国は 讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現 も一度回って 金毘羅船々……

この歌は金毘羅船を謡ったものとして良く知られています。今回は金毘羅船がどのような船で、どこから出港していたのかを、見ていこうと思います。
まず、金比羅船の始まりを史料で見ておきましょう。
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
参詣船渡海入割願書
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相応之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申候 将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷並代参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
金光院様御役人衆中様
意訳変換しておくと
金毘羅参詣船の渡海についての願出について
一 讃州金毘羅参詣の海上航路が不便な上に難儀して困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるように致します。
一 同時に、金毘羅大権現の御用向を伺い、御荷物等についても大小を問わず滞りなく配送いたします。 
一 金毘羅大権現よりの奉加・勧進等の一切の御指出を受けていないことを高札で知らせ、紛らわしい行為がないようにいたします。
一 信心のない輩に金毘羅船への参加を勧めたり、また船を課したりする行為は致しません。
一 金毘羅講を結成し講銭など集めたり、代参を請け負うことも致しません。
一 万一難破などの事故があったときには、どんな場合であろうとも金毘羅大権現に迷惑をおかけするようなことはありません。
以上の趣旨について今後は堅く遵守し、もし御山に迷惑をおかけするようなことがあった場合には何時たりとも、御山への出入差し止めを命じていただければと思います。
ここからは、次のようなことが分かります。
①延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請が提出されたこと
②申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ「参拝船=金毘羅船」の運航許可を求めていること
③寄進や勧進を語り募金集める行為や、金毘羅講などを通じての代参行為を行う行者(業者)がいた。
これは金光院に認められ、金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」とされます。以後、金毘羅船は、金毘羅信仰の高揚と共に、年を追う毎に繁昌します。申出人の2番目に見える「大坂大川町 船宿 多田屋新右ヱ門」は、讃岐出身で大坂で船宿を営なんでいたようです。
多田屋の動きをもう少し詳しくみていきましょう。
 多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納し、絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っています。金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。このように金比羅舟の舵取りや水夫には、多田屋のように讃岐出身者が多かったようです。そして、その中心は丸亀の三浦出身者だったようです。19世紀初頭に福島湊が完成するまでの丸亀の湊は土器川河口の河口湊でした。そこに上陸した金毘羅詣客で、三浦は栄えていたことは以前にお話ししました。

多田屋に少し遅れて、金毘羅船の運航に次のような業者が参入してきます
①道頓堀川岸(大阪市南区大和町)の 大和屋弥三郎
②堺筋長堀橋南詰(大阪市南区長堀橋筋一丁目) 平野屋佐吉
日本橋筋北詰(大阪市南区長堀橋筋二丁目) 岸沢屋弥吉
なども、多田屋に続いて金昆羅船を就航させています。強力なライバルが現れたようです。これらの業者は、それぞれの場所から金毘羅船を出港させていました。金毘羅船の出港地は一つだけではなかったことを押さえっておきます。
後発組の追い上げに対して、多田屋はどのような対応を取ったのでしょうか
『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』90pには、多田屋新右衛門の対応策が次のように記されています。
宝暦四年 冥加として御用物運送の独占的引き受けを願い出る
同九年  狗犬一対寄進
天明七年 江戸浅草蔵前大口屋平兵衛の絵馬堂寄進建立を取り次ぎ
寛政十二年再度、金毘羅大権現の御用を独占を願い出。
享和三年 防州周防三輪善兵衛外よりの銅製水溜寄進を取り次ぎ
文化十三年大阪の金昆羅屋敷番人の追放に代わり、御用達を申し付け
天保三年 桑名城主松平越中守から高百石但し四ツ物成、大阪相場で代金納め永代寄進
天保五年 その代金六十両を納入
これ例外にも金毘羅山内での事あるごとに悦びや悔みの品を届けています。本人も母親も参詣してお目見えを許された記事もあります。ここからは多田屋新右衛門が、金毘羅大権現と密接な関連を維持しながら、金毘羅大権現への物資の運送を独占しようとしていたことがうかがえます。
『金毘羅山名所図会』には、次のように記されています。
  御山より大阪諸用向きにつきて海上往来便船の事は、大阪よどや橋南詰多田屋新右衛門これをあづかりつとむ。
ここからは多田屋新右衛門の船宿は、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)にあったことがわかります。  
金毘羅船 淀屋橋
多田屋のあった、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)
多田屋新右衛門には、大和屋弥三郎という強力なライバルが出現します。
大和屋弥三郎も金毘羅船を就航させ、金毘羅への輸送業に割り込もうと寄進や奉献を頻繁に行っています。そのため多田屋新右衛門が物資運送を独占することはできなかったようです。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』90Pには、大和屋弥三郎のことがが次のように記されています。
寛政九年 新しい接待所を丸亀の木屋清太夫とともに寄進
享和二年 瀬川菊之丞が青銅製角形水溜を奉納するのを取り次ぎ
文政九年 大阪順慶町で繁栄講が結成された時講元となり
文政十一年丸亀街道途中の与北村茶堂に繁栄講からとして、街道沿いでは最大の石燈籠を奉納
このように大坂の船宿は、参詣客の斡旋、寄進物の取り次ぎ、飛脚、為替の業務などを競い合うように果たしています。これが金毘羅の繁栄にもつながります
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の17頁の宝暦四年(1754)条には、
大阪の明石屋佐治兵衛。多田屋新右衛門、冥加として当山より大阪ヘの御用物運送仰せ付けられたく願い出る。

とあって、多田屋新右衛門が明石屋佐治兵衛と一緒に、物資運送を独占を願いでています。これに対して金毘羅大権現の金光院はどんな対応をしたのか見てみましょう。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の24Pの寛政十二年(1800)春条には、
大阪多田屋新右衛門よりお山の御用を一手に申し付けられたき旨願い出る。多田屋の願いを丸亀藩へも相談した所、丸亀浜方の稼ぎにも影響するので、年三度のお撫物登りの時のみ多田屋の寄進にさせてはどうかという返事あり

ここには多田屋の願い出を丸亀藩に相談したところ、これを聞き留けると丸亀港での収入が減ることになるので、年三度の撫物だけを多田屋に運送させたら良いとの返事を得ています。この返事を多田屋に知らせ、多田屋はこれを受け入れたようです。ここに出てくる「撫物」と云うのは、身なでて穢れを移し、これを川に流し去ることで災厄を避ける呪物で、白紙を人形に切ったものだそうです。
  つまり金光院は、ひとつの船宿に独占させるのではなく、互いに競争させる方がより多くの利益につながると考え、特定業者に独占権を与えることは最後まで行わなかったようです。そのため多田屋が繁栄を独占することは出来ませんでした。

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)で、弥次喜多コンビが乗った金毘羅船は、大和屋の船だったようです。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われたようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
意訳変換しておくと
「ここには旅宿長町から最も近いので道頓堀から乗船したと記すが、金毘羅船の出発地点は大川筋西横堀や長堀両川口などにもある」

ここからは、もともとの船場は多田屋のある大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・喜多の時代には、金毘羅舟の乗船場は大川筋から道頓堀・長堀の方へ移動していたことがうかがえます。つまり、多田屋に代わって大和屋が繁盛するようになっていたのです。その後の記録を見ても「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、大川筋よりもはるかに道頓堀の方が多くなっています。
 金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、道頓堀の法善寺に金比羅堂が建立されていた研究者は推測します。法善寺は讃岐へ向かう旅人達たちにとって航海安全の祈願所の役割を果たしていたことになります。「海の神様」という金毘羅さんのキャッチフレーズもこの辺りから生まれたのではないかと私は考えています。

弥次喜多が乗りこんだ金毘羅船の発着場は、どこだったのでしょうか
金毘羅船 苫船

「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)
上図は「大阪道頓堀丸亀出船の図」とされた挿図です。本文には次のように記されます
   讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」

意訳変換しておくと
讃州船のことをあれこれと聞き合わせ、やがて三人そろって、丸亀の船宿である道頓堀の大黒屋を訪ねた。掛行燈(かけあんどん)を見つけて、五太平が次のように聞いた「ハァ、ちょとおたずねしますが、金毘羅様へ行く船はここからでていますか」

ここからは道頓堀川の川岸の船宿・大黒屋を訪ねたこと、大黒屋も讃岐出身者であったことが分かります。道頓堀を発着する金毘羅船には、日本橋筋北詰の岸沢屋弥吉のものと、道頓堀川岸の大和屋弥三郎のものの二つがありました。岸沢屋の金毘羅船は道頓堀川に架かる日本橋の袂を発着場としていて引札には日本橋が描かれています。橋が描かれず川岸を発着場とするこの図の金毘羅船は「道頓堀の大黒屋=大和屋」の金毘羅船と研究者は考えているようです。

当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
上の絵には川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。手前が船首で、奥に梶取りがいるようです。船は苫(とま)屋根の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
金毘羅船 苫船2

淀川を行き来する三〇石船とよく似ているように思えます。
淀川30石舟 安藤広重


弥次喜多が道頓堀で乗船して、大坂河口から瀬戸内海に出港していくまでを意訳変換してみましょう
讃岐出身の船頭は、弥次喜多に次のように声をかける。
船頭「浜へ下りな。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、出るきんな。サアサア、皆連(つ)れになって、乗ってくだせえ、くだせえ。」
 浜に下りると船では、揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえて、苫(とま)の屋根を葺いていた。
金毘羅船 屋根の苫
苫の屋根

水子(かこ)たちは布団、敷物などを運び入れ終わると、船宿の店先から勝手口まで並んでいた旅人を案内して、船に乗船させていく。
そこへいろいろな物売りがやってくる。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり」
菓子売り「菓子いらんかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆さん、船賃は支払いましたかな、コレ、そこの親方衆、もう少しそっちゃの方へ移ってもらえませんか、」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい」と、人を跨いで向こう側へ座る。弥次郎・喜多八も同じように座ると、遠州の人が「エレハイ、どなたさんも胡座組んで座りなさい。乗り合い船なので、お互いにに心安くして参りましょう。ところで、船頭さん、船はいつ頃出ますか。」
船頭「いん(今)ますぐに、あただ(急)に出るわいの」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら船を出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。長い間お待たせして、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、行っておい出でなされませ。」
 と、もやい綱を解いて、船へ放り込むと、船頭たちは竿さして船を廻します。そうすると川岸通りには、時の太鼓、「どんどん、どどん」と響きます。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹が「がらがら、がらがら」と鳴る中、船はだんだん河口へと下っていきます。
 木津川口に着いた頃には、夜も白み始める子(ね)刻(午前4時)頃になっていた。ここで風待ちしながら順風を待ち、その間は船頭・水子もしばらく休息していて、船中も静かで、それぞれがもたれ合って眠る者もいる、中には、肘枕や荷物包に頭をもたせて熟睡する者もいる。

難波天保山

 やがて、寅の刻(午前4時)過ぎになったと思う頃に、船頭・水子たちがにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱を引き上げるなど出港準備をはじめ、沖に乗り出す様子が出てきた。船中の皆々も目を覚まして、船端に顔を出して、塩水をすくって手水使って浄めて象頭山の方に向かって、航海の安全を伏し拝む。
弥次郎・喜多八も遙拝して、一句詠む
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 船出の安全を、語る内に早くも沖に走り出しす。船頭の「ヨウソロ、ヨウソロ」の声も勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るように走り抜け、日出の頃には、兵庫沖にまでやってきた。大坂より兵庫までは十里である。

ここからいろいろな情報を得ることが出来ます。
①弥次・喜多の乗った金毘羅船が小形の苫舟で、乗り換えなしで丸亀に直行したこと
②船頭が讃岐出身者だったこと。讃岐弁を使っているらしい。
③夜中(午後8時頃)に道頓堀や淀屋橋の船宿を出て、早朝(午前4時頃)に大坂河口に到着
④風待ち潮待ちしながら順風追い風を受けて出港していく
⑤この間に船の乗り換えはない。
金毘羅船 3

19世紀の中頃には、金毘羅船にとって大きな変化が起きていました。それまでの小形の苫舟に代わって、大型船が就航したことです。
金毘羅船 垣立


この頃には、垣立(上図の赤い部分)が高く、屋形がある大型の金毘羅船が登場します。これは樽廻船を金毘羅船用に仕立てたものと研究者は考えているようです。江戸時代に大阪と江戸の間の物資の運送で競争したのが、菱垣廻船と樽廻船です。

金毘羅船 大坂安治川の川口
大坂安治川の川口
 大坂安治川の川口の南には樽廻船の蔵が建ち並び、北には菱垣廻船の蔵が建ち並んでいる絵図があります。大型の金昆羅船は二日半で丸亀港に着いているので、船足の早い樽廻船と研究者は考えているようです。
ここで大きく成長するのが平野屋左吉です。
彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになったと研究者は考えているようです。空に向かって大きくせり出した太鼓橋の下なら大きな船も通れます。しかし、長堀橋のように川面と水平に架けられた平橋の下を大きな船は通れません。そこで平野屋左吉が考えたのが、堺筋長堀橋南詰の発着場と安治川港の間を小型の船で結び、安治川港で大型の金毘羅船に乗り換えて丸亀港を目指すプランです。
金毘羅船 平野屋引き札
この平野屋の引き札からは次のようなことが分かります。
①平野屋が大型の金毘羅船を導入していたこと
②船の左には、平野屋本家として「金毘羅内町 虎屋」と書かれていて、虎屋=平野グループを形成していたこと。

  文政十年(1827)に歌人の板倉塞馬は、京・大阪から讃岐から安芸まで旅をして、『洋蛾日記』という紀行文を著しています。
その中の京都から丸亀までの道中についての部分を見てみましょう。
五月十二日、曇‥(中略)昼頃より京を立つ‥(中略)京橋池六より、乗船、浪花に下る。
十三日、晴。八つ(午後二時)頃より曇る。日の出るころ大阪肥後橋へ着く。(中略)
蟻兄(大阪の銭屋十左衛門)を訪れ、銭屋九兵衛という家(宿屋と思われる)にとまる。(以下略)
十五日、晴。(中略)日暮れて銭九を立つ。長堀橋平野屋佐吉より小舟に乗る。四つ橋より安治川口にて本船に移り、夜明け方出船。天徳丸弥兵衛という。
ここからは次のようなことが分かります。
①5月12日の昼頃に伏見京橋池六で川船に乗って淀川をくだり、13日早朝に大阪の肥後橋到着
②永堀橋の長堀橋の船宿平野屋佐吉の小舟で河口に下り
③15日、四つ橋より安治川口で大型の天徳丸(船頭弥兵衛)に乗り換え、夜明け方に出港した。

つまり平野屋左吉は、二種類の船を持っていたようです
①大阪市内と安治川港を結ぶ小型船
②安治川港と丸亀港を結ぶ大型船
淀川船八軒屋船の船場
川船の行き来する八軒家船着場 安治川湊までの小型船

平野屋は、二種類の船を使い分けて、金毘羅船経営を行う大規模経営者であったようです。普通の船宿経営者は、小型の船で大阪市内と丸亀港を直接結ぶ小規模の経営者が多かったようです。平野屋の売りは、金毘羅の宿は最高グレードの虎屋だったことです。富裕層は、大型船で最上級旅館にも泊まれる平野グループの金毘羅詣でプランを選んだのでしょう。このころには金毘羅船運行の主導権は、多田屋や大和屋から平野屋に移っていたようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

  以上をまとめておくと
①18世紀半ばに金毘羅船の営業が認められ、讃岐出身の多田屋が中心となり運行が始まった。
②多田屋は金毘羅の運送業務の独占化を図ったが、これを金光院は認めず競争関係状態が続いた
③後発の船宿も参入し、金毘羅への忠誠心の証として数々の寄進を行った。これが金毘羅繁栄の要因のひとつでもあった。
④19世紀初頭の弥次喜多の金毘羅詣でには、道頓堀の船宿大和屋の船が使われている。
⑤金毘羅船の拠点が淀屋橋周辺から道頓堀に移ってきて、同時に多田屋に代わって大和屋の台頭がうかがえる
⑥道頓堀の法善寺は、金毘羅船に乗る人々にとっての航海安全を祈る場ともなっていた
⑦19世紀中頃には、平野屋によって樽廻船を改造した大型船が金比羅船に投入された。
⑧これによって、輸送人数や安全性などは飛躍的に向上し、金毘羅参拝者の増加をもたらすことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問     ことひら68 H25
北川央  近世金比羅信仰の展開
町史こんぴら


昔、高松街道でこんぴらさんにお参りする人が、土器川の清流で、身や心を清めていた付近を祓川(はらいがわ)と呼んでいたようです。その名残が旧R32号「祓川橋」として残ります。余り知られていませんが、この下流には「霞堤」がいくつもあったようです。土器川に残る霞堤を見に行くことにします。テキストは 「出石一雄  土器川と霞堤  ことひら66 H23」です

霞堤の構造

霞堤を言葉で説明すると次のようになるようです。
「連続堤に対する不連続堤のことで、上流から下流を見たとき、「ハ」の字を順番に重ねたような形状」

上流域に大雨などがあって、平野部を流れる河川の水位が上がると、堤が途切れている霞堤の開口部から水が逆流して、そこに留まり、やがで水位が下がると、逆流していた水は本流へと戻って川下へと流れていきます。開口部周辺は、遊水池としての機能を果たすことになります。

霞堤防 信玄堤
甲府盆地の信玄堤
 この「霞堤」は、武田信玄が、甲斐の国で富士川上流の釜無川で築堤したのが最初だと云われ「信玄堤」とも呼ばれます。

伝統的手法で洪水対策 24年度完成目指す  那須烏山・下境地区の那珂川|県内主要,社会,地域の話題,政治行政|下野新聞「SOON」ニュース|台風19号|下野新聞 SOON(スーン)
 香川県の川は、いつもは水無川ですが、大雨が降ると急流で濁流化して手が付けられなかったようです。そのため古代の条里制なども金倉川や土器川の氾濫原は、施行外であったようで条里制の空白地帯となっていたことは以前にお話ししました。
丸亀平野 地質図拡大版

土器川は洪水時には暴れ狂う龍のように、幾筋もの流れとなって龍がのたうつように流れ下っていました。そして、あるときには善通寺の弘田川へ流れ込み、あるときには金倉川(旧四条川)と交わり、あるときには大束川に流れ込んでいたことを発掘調査報告書は教えてくれます。

土器川 旧河道(大束川)

 このような暴れ龍=土器川をコントロールして広大な氾濫原を耕地化していく試みが始まったのは中世になってからです。そこには西遷御家人としてやってきた東国武士達のもたらした治水技術があったようです。それを学んだ名主たちも氾濫原開発に着手していきます。
 それが爆発的に広がるのが生駒藩時代だと私は考えています。生駒藩では、新規開発を行った者がその土地を所有できる土地政策をとります。そのため周辺国々から有力者達がやってきて開発・治水を始めます。その一例が、安芸の因島村上水軍の木谷氏の多度津への亡命・入植です。これ以外にも、丸亀市史には、この時代に多くの有力者が土器川沿いに入植し、富農となっていたことが記されています。これは土器川の治水と氾濫原開発と関わりがあると私は考えています。

土器川旧流路
郡家周辺の土地利用図 旧流路の痕跡が残り土器川が暴れ川だったことが分かる

 その中でも西嶋八兵衛による満濃池再築は、エポックメイキングな事件でした。これは大きな池を築くという以外にも、その水を丸亀平野全体に供給するという使命がふくまれていました。そのための用水路を整備するためには、土器川を制御する必要があります。それができて満濃池から直線的な用水路が丸亀平野に引けるのです。つまり「満濃池再築 + 土器川制御 + 用水路整備」は、丸亀平野総合開発の一環として西嶋八兵衛の頭の中にはあったと思うのです。これは高松平野の郷東川の流路変更などをみても分かるとおりです。
信玄堤(霞提)

 信玄堤は各地で築かれるようになってきます。

江戸前期の治水技術の特色は、流路に向かって亀甲出しをつくって水勢を弱め、ある程度以上の水量は、あふれ越えさせることでした。これを信玄堤と呼んだようです。
 の『地方の聞書』(1668(寛文八)年)には、溜池の水門・堰普請などの用水関係のほか、堤防の検分修復・水はね出し堤の築造などのことが特筆されている。
  『百姓伝記』には、治水について次のように記されています。
 河川の大量の水をその流路内に閉じ込めず、川幅を広くして、堤外の耕地を流戯作(ながれさくば)として残し、これを護るために本堤の他に小堤をつくり二重堤とする。屈曲点などの水当りの強いところでは、猿尾(出堤)・石枠・袖枠などを設け、堤の上には柳竹芝などを植えるがよい。
また『地方竹馬集』には、『百姓伝記』にいう二重堤に対して、洗堤のことを次のように強調しています。
 通常の増水は本堤で抑えるが、特別の増水時には洗堤を越えさせて水勢を弱め、ゆるやかに田畑へあふれさせて湛水させ、耕地の流失を防ぐ。洗堤は川裏を傾斜地にして保護する。

 以上のように、江戸時代になると二重堤防や洗堤等の治水技術の進歩につれて、河川敷の固定、耕地の開発や干拓が藩の土木政策として推し進められるようになります。
扇状地状三角州の河川制御には、信玄堤が有効であることが分かるようになってきます。この方式は、洪水と全面的に対峙し、洪水を抑え込んでしまう「人間と自然の対決」という自然観ではありません。自然には勝てないが、その被害を少なくすることはできるという「減災」の考え方です。ある程度の氾濫を受入れ、被害をできるだけ少なくする、いわば洪水との共存を図る治水方式だと研究者は考えているようです。
 これは直線的な連続した堤を上流から下流まで築いて、大洪水を一挙に河口に押し流そうと考える治水方法とは違います。

それでは、土器川のどこに霞堤が残っているのでしょうか。

 土器川には、かつては多くの霞堤があったようです。しかし、年とともに連続堤に改められ、その数は少なくなっています。今は、痕跡をとどめるものを含めても、約20箇所程度になっているようです。その中で。垂水橋から「生き物公園」にかけてが一番観察しやすいエリになるようです。

こんな時に便利なのが「今昔マップ」です。このソフトは、現在の地形図と明治の地形図を並べて提示してくれます。それだけでなく連動して動いてくれるので、その地点の現在と過去を比較する際には非常に便利で、私は愛用しています。今昔マップで垂水橋周辺を見てみましょう。
土器川 霞堤防垂水橋

左が明治39(1906)年、右が現在の垂水橋周辺です。このふたつの地図から読み取れることを挙げておきます
①M39年には現在地点には垂水橋はなかった。
②その代わりに左岸の垂水村仲村と岡田村の東原を結ぶ旧垂水橋があった。川の部分に架かるだけの小さい橋だったが、これが宇多津ー金毘羅街道であった
③現在の生き物公園には、中村方面からの支流の合流点だった。
④垂水橋の右岸の向王子は大束川の支流の源流になる。かつて土器川が大束川に流れ込んでいたときの痕跡が残る。

 明治39年の地図を拡大し、 右岸南から見ていきましょう。
土器川霞堤 垂水1 

垂水橋右岸たもとのの堤防を下流方向(北)に辿っていくと約300mで一旦途切れます。これが霞堤のの開口部①です。確認しておきたいのは、上流からの堤端が途切れるのに対して、下流からの堤防はその外側を重複してを上流方向に伸びていることです。
 もちろん今は開口部は埋め立てられて、下流からの堤防と同じ高さで接続しています。さらに約300m北へ進むと開口部②があります。ここでも、上流からの堤端は途切れて、下流からの堤端は南へ延びています。開口部②は今でも開いたままです。
②の東側の田んぼの中に鎮座するのが椋神社です。
ここは宇多津の港を出発し、土器川の右岸沿いに歩いてきたた金毘羅参詣の人々が、土器川を渡る場所でした。その渡河地点には「金毘羅大権現」と刻まれた常夜燈が建っていました。その常夜燈は、今は椋神社に移されています。金毘羅参詣の人々が川原へ降り、対岸の垂水の地蔵堂を目指して、左斜め前の方向に土器川を渡っていたのを、この常夜灯は見守っていたのです。開口部②は、土器川の霞堤の特色を最もよく残しているところで、お勧めの場所です。
②から③の堤防は、雑木林(水害防備林?)が繁っていて、土器川の現存する堤防の中では最も古い感じがします。
土器川の堤防は見晴らしが良くきく所が多いのですが、この区間は雑木林に覆われています。対岸は現在は、生き物公園になっています。ここを訪れると気がつくのは堤防がいくつもあることと、支流が流れ込んでいることです。それがこの公園の地形を複雑にしています。地図からはかつての郡境が走っていたことが分かります。
土器川 霞堤防中方橋

③から100mほどで④の開口部です。今は、ここもは締め切られていて、開口部から堤防に沿っては雑木林が繁っていますが、その痕跡は残っています。 中方橋右岸の東小川には土器川沿いに新名出水という地名が残ります。地図で見ると霞堤の外側に3つの出水が見えます。
飯山法勲寺古地名新名出水jpg
 東小川の古図
 新名という地名は、もとからあった名田に対して、新しく開発された所をさします。地図に見える東小川の新名出水は、土器川からわき出す出水で、いまもあります。これを利用して氾濫原の開発に乗り出した名主たちが中世には現れます。その新名開発の水源となったので「新名出水」なのでしょう。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げると、「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」が見えます。新名出水から用水路で誘水し、いままで水が来なかった地域を水田化したことが推察できます。新田の開発技術、特に治水・潅漑にかかわる土木技術をもった勢力の「入植・開発」がうかがえます。これらの開発地を守るためにも、開発領主達は霞堤の築造にとりくんだことが考えられます。

生き物公園周辺の霞堤は、どんな機能を果たしていたのでしょうか
大雨が降って洪水になった時に、本流の河床と開口部の関係がどうなっていたかを研究者は次のような断面図を示して説明します。下の図は地形図から2,5m間隔の等高線だけを抽出して「微地形と霞堤」で示したものです。
土器川 生き物公園霞

さらに土器川を、AーB、CーDの「模式的横断面図」です。
土器川 生き物公園霞断面図

AーBの横断面図について見てみましょう
川の中央を走る42,5m等高線が、左岸(垂水)側の霞堤開口部から堤内地を上流(南)方向に向かって、幅約60メートル、長さ約200m入り込んでいます。つまり左岸堤内地には、南北方向に延びる微凹地があることになります。それは本流と同じ高さの微凹地帯でもあります。このことは、川の中央で水位が1m上昇すると、左岸堤内の凹地帯でも同じ高さまで水位が上がってくることになります。本流中央の水位が上がったとき、開口部からは水が堤内に逆流して入ってくることを意味します。水位が下がってくると堤内地に留まっていた水は、しだいに開口部から本川へ排水されていきます。上流側のCーDの横断面のエリアでも、同じ現象が起きるはずです。もう少し詳しく見ると、上流のC=Dラインの方が貯水量は多いようです。奥まで流れ込めば流れ込むほど、より多くの水を貯水できるような構造になっています。
以上から霞堤の開口部の役割は、次の3点になります。
①洪水時には、土器川の水を開口部から堤内に逆流させ
②土器川の水位が下がってくると、それを戻す
③堤内の排水
以上のように、霞堤の開口部は、堤内の排水を行うだけでなく、洪水時には遊水池としての機能も果たしていたことが分かります。さらに、それでも捌ききれなければ、旧河道にオバーフローさせることによって、本流の堤防を守り被害を最小限に抑えようとしてきたのでしょう。
土器川 生き物公園治水図

  今昔マップで、明治39年の地形図と「治水分類地形図」を並べて見てみましょう。
先ほど見た右岸には、平行して旧河道の痕跡があります。これは大束川の源流になることは先ほどみました。一方、左岸の垂水側を見ると、生き物公園から北の中所の池にも河川跡があります。
 ここからは、ここに霞堤を築くことによって洪水時のフローをこれらの河川跡に流すことが意図されていたのではないでしょうか。
 もう一度、霞堤の目的を確認しましょう。
「ある程度の氾濫を受入れ、被害をできるだけ少なくする、いわば洪水との共存を図る治水方式」

そのためには、多少の犠牲は仕方ないと割り切っているようです。その犠牲になる部分が、生き物公園周辺だったとも考えられます。その課題と機能は次のように考えられます。
①支流の合流点で、屈折点でもあった生き物公園付近は洪水の際の決壊点となった。
②そこで、川幅を広くし、両岸に霞堤を配した。
③生き物公園周辺は、洪水時には遊水池として機能すると同時に、霞堤から溢れた水は、旧河道によって下流に流された。
④これによって下流の堤防決壊を防ぎ、被害をできるだけ少なくする「減災」をめざした。
  生き物公園を歩いて感じる、普通の堤防や河川敷とは異なる奥深さは、遊水池としての機能に源があるようです。その地が公園として、保存されていることに何かしら嬉しさと誇らしさを感じてきます。
参考文献 出石一雄  土器川と霞堤  ことひら66 H23



金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。
弁才天画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めた書かれています。ここからは、もともとは春日社に伝わっていたものであることが分かります。
春日社にあった弁才天十五童子像がどうして、金刀比羅宮にあるのでしょうか。今回は、その伝来について見ていきたいと思います。テキストは「羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57」です。

金刀比羅宮の弁財天画を見る前に、弁財天の歴史について簡単に見ておきます
楽天市場】インドの神様 サラスヴァティ—神お守りカード×1枚[004]India God【Sarasvati】Small Card  (Charm)【水を持つ者】【優美】【豊穣】【富】【浄化】【学問】【知恵】【音楽】【芸術】【弁才天】【弁財天】:インド風水アイテムのPRANA
ヒンズー教の現在のサラスヴァティー(弁才天)

弁財天の起源はインドです。古代インド神話でサラスヴァティーと呼ばれた河の神は、後になると言葉の神ヴァーチュと結び付いて、学問、叡知、音楽の女神となり、最高神ブラフマー(梵天)の妃の一人とされるようになります。それが仏教にとり入れられると、仏教名を弁才天、妙音天、 美音天などと呼ばれるようにます。さらに財宝神であることが強調されるようになると、弁財天と書かれるようになります。神も進化・発展します。その上に、『金光明最勝王経』は、弁才天を美神とか戦闘神であると説き、弓、箭、刀、鉾、斧、長杵、輪、霜索を持つ8つの手があるとします。後世にいろいろな効能が追加されていくのが仏像の常です。二本の手では足らなくなって8本になります。
かつての横綱、若乃花・貴乃花の手形石、意外と小さい - Photo de Mimurotoji Temple, Uji - Tripadvisor

日本で盛んに信仰されるようになるのは、宇賀弁才天です。
水神の白蛇や、その白蛇が発展を遂げて生まれた老翁面蛇体の宇賀神を、頭上に戴くのが宇賀弁財天です。宇賀神は稲荷信仰を混淆して生まれました。稲を担った老翁姿の稲荷神と、水神の蛇が結合したのが宇賀神となるようです。整理しておくと
宇賀神  = 稲荷神(老翁姿)+ 水神(蛇=龍)
宇賀弁才天= 宇賀神     + 弁才天
こうしてとぐろを巻いた蛇と老人の頭を持つ宇賀神を頭上に頂く宇賀弁才天が登場してきます。
弁才天と宇賀神

これが鎌倉時代末期のようです。弁才天の化身は蛇や龍とされますが、これはインド・中国の経典にはありません。日本で創作された宇賀弁才天の偽経で説かれるようになったようです。
弁才天3

 初期の宇賀弁才天が8本の手に持つのは『金光明経』に記されるように「鉾、輪、弓、宝珠、剣、棒、鈴(鍵)、箭」と全て武器でした。ところが、次第に「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなり、商人達に爆発的に信仰が広がります。

弁才天には「十五童子」が従います。
これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれます。

弁才天十五童子像3

絹本著色の弁才天十五童子像として代表的なものをあげると、
金刀比羅宮蔵弁才天十五童子像(鎌倉末期)
京都上善寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
近江宝厳寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
大和長谷寺能満院蔵天河曼荼羅(室町時代)
などがあります。これらの絵に共通する点は、主尊の弁才天と眷属神の十五童子(十六童子の場合もある)を中心に、龍神やその他の神々が描き込まれていることです。
弁才天十五童子像

        大阪府江戸前~中期/17~18世紀
      岩座の弁才天と十五童子を表す立体曼陀羅
弁才天十五童子像2

金刀比羅宮の弁才天画像を見てみましょう
残念ながら画像を手に入れることはできませんでした。あしからず。岩の上に立つ一面六臀の弁才天を中心に天女のまわりを眷属神の十五童子がかためます。画像の上方の五つの円相の中には釈迦・薬師。地蔵。観音。文殊という春日明神の本地仏が描かれています。春日社の祭神の本地仏は、武甕槌命(本地は釈迦)・経津主命(薬師)・天児屋根命(地蔵)・比神(観音)とされます。祭神は一神一殿の同じ形の、同じ大きさの社殿に祀られています。ただ、文殊だけは一社だけ離れて若宮社に祀られています。

弁才天立像
武人的な要素の強い弁才天

日本三弁天と称しているのは、次の3社でした。
近江の都久夫須麻神社
鎌倉の江の島神社
安芸の厳島神社
神社が弁才天信仰の中心となったのは、弁才天が神仏習合したからです。弁才天の頭上には白蛇(宇賀神)と華表(鳥居)がのっています。

弁才天2
白蛇はさらに発展し、老翁面蛇体の宇賀神としてソロデビューしていきます。日本三弁天の神社の影響もあって、春日社でも宇賀弁才天を祀るようになったようです。頭上に、水神・食物神とされる宇賀神をいただく宇賀弁才天を祀ることは、多くの荘園を持つ春日社にとっては大切な要素です。雨が降らないと稲は育ちません。荘園経済の上に基盤を置く春日社にとつては死活問題です。そのため水神である宇賀弁才天を祀るようになったのでしょう。

弁才天画像を春日神社から手に入れたのは松尾寺住職の宥天です。彼の在職期間は、1824~32年まででした。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現を求めていました。そのために、寺社は境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。
金毘羅本社絵図


 金毘羅大権現の別当寺松尾寺では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。毘沙門天は『法華経』、弁才天は「金光明経』、大黒天は『仁王経』の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。
 生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったはずです。足らないのは、弁財天です。宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったという推理が浮かんできます。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて祀られます。そこに祀られたのが春日社から購入した宇賀弁才天画で、三天講の本尊の一つだったようです。

文化十年(1813)には、金毘羅大権現の門前町である金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。
さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天が福徳の仏して、熱心に拝むよようになります。
3分でわかる弁財天とは?】ああっ幸福の弁天さまっ!のご利益や真言|仏像リンク

 弁財天はインドではもともとは川の神、水の神で水辺に生活する神とされていました。そのためいつのまにか雨と関連づけられ雨乞いにも登場するようになります。
松尾寺でも江戸時代には雨乞いが行われています。
宇賀弁才天木像及び弁才天十五童子像画像は、雨乞いにも活躍したようです。奥社からさらに工兵道を進むと、葵の滝があらわれます。ここは普段は一筋の瀧ですが、大雨が降った後は壮観な光景になります。かつては、ここは山伏たちの行場であった所です。私も何度かテントを張って野宿したことがあります。夜になるとムササビが飛び交う羽音がして、天狗が飛び回っているように思えたことを思い出します。
善通寺市デジタルミュージアム 葵の瀧 - 善通寺市ホームページ
葵の瀧

 流れ落ちる屏風岩の下に龍王社の祠が置かれます。ここが金毘羅大権現の祈雨の霊場で修験を重ねた社僧達がここで雨乞いを祈願したと私は考えています。宇賀弁才天が祀られるようになると、水の神である宇賀弁才天も雨乞い祈願の一端を担うようになったのでしょう。

四国のお寺には、かつては雨乞い神の善女龍王が祀られていた祠が、いつのまにか弁財天を祀る祠になっている所がいくつもあります。神様や仏様にも流行廃れがあり、寺社はあらたな神仏の「新人発掘」を行いプロモートの努力を続ける努力をしていたのです。それを怠ると繁栄していた神社もいつの間にか衰退の憂き目にあったようです。そういう意味では、江戸末期の金毘羅大権現の別当たちは、「新人発掘」に怠りがなかった。そのひとつの象徴が三天講の企画であり、そのための宇賀弁才天画の購入であったとしておきます。


以上をまとめておくと
①江戸時代になると商売繁盛の神として宇賀弁才天が信仰を集めるようになる。
②金毘羅大権現の別当金光院も、宇賀弁才天を勧進し三天講の開催を始める
③そのため宇賀弁天の本尊が春日神社から求められ、三天講の縁日の時には開帳されるようになる。
④宇賀弁天は、水神でもあったため雨乞い信仰の神としても信仰を集めるようになる
⑤その結果、それまでの善女龍王竜王に宇賀弁天がとって代わる所も現れた。
⑥江戸時代の庶民派移り気で、寺社も新たな流行神を勧進し信者を惹きつける努力を行っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57
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金毘羅大権現に成長して行く金毘羅堂の創建は、戦国時代のことになります。松岡調の『新撰讃岐風土記』には、次のような金比羅堂の創建棟札が紹介されています。
 (表)「上棟象頭山松尾寺 金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅王赤如神が金毘羅神のことで、御宝殿が金比羅堂であること。
②元亀四年(1573)に金光院の宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建立した
③本尊の開眼法要を、高野山金剛三昧院の良昌に依頼し、良昌が開眼法要の導師をつとめた
宥雅は長尾一族の支援を受けながら松尾寺を新たに建立します。
さらにその守護神として「金毘羅王赤如神=金毘羅神」を祀るため金毘羅堂を建立したようです。それでは、後に金毘羅大権現に成長して行く金比羅堂は、どこに建立されたのでしょうか。今回は、創建時の観音堂や金比羅堂の変遷を追ってみることにします。テキストは羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」です。

長尾城城主の弟であった宥雅は、善通寺で修行して一人前の僧侶になった時、善通寺の末寺で善通寺の奥の院でもあった称名院を任されるようになります。そして善通寺で修行した長尾高広は師から宥の字を受け継ぎ「宥雅」と名乗るようになります。
「讃岐象頭山別当職歴代之記」には

宥範僧正  観応三辰年七月朔日遷化 住職凡応元元年中比ヨリ  観応比ヨリ元亀年中迄 凡三百年余歴代系嗣不詳」
意訳変換しておくと
宥範僧正は、 観応三年七月朔日に亡くなった。応元元年から  元亀年中まで およそ三百年の間、歴代住職の系譜については分からない。

宥範から後の凡そ300年近くの住職は分からないとした上で、「元亀元年」から突然のように宥雅を登場させます。この年が宥雅が松尾山の麓にあった称名院に入った年を指していると羽床正明は考えているようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅に入ったのは元亀元年(1570)頃としておきましょう。
 ここからは羽床氏の「仮説」を見ていくことにします
1570年 宥雅が称名院院主となる
1571年 現本社の上に三十番社と観音堂建立
1573年 四段坂の下に金比羅堂建立
宥雅は、荒廃していた三十番神社を修復してこれを鎮守の社にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。三十番社の祠のそばに観音堂を建立し、1573年の終わりに四段坂の下に金毘羅堂を建立したとします。


絵図で創建当時の松尾寺と金毘羅堂の位置を押さえておきましょう。本堂下の四段坂を拡大した「讃岐国名勝図会」のものを見てみましょう。四段坂 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の四段坂周辺

金堂の竣工に併せて四段坂も石段や玉垣が整備されました。
それがこの讃岐国名勝図会には描き込まれています。長い階段の上に本宮が雲の中にあるように描かれています。しかし、創建当初は松尾寺の本堂である観音堂がここに建っていました。その守護神として金毘羅堂が最初に姿を見せたのは、階段の下の矢印の所だと研究者は考えています。両者の位置関係からしても、この宗教施設は松尾寺を主役で、金比羅堂は脇役としてスタートしたことがうかがえます。

5 敷石四段坂1
幕末の四段坂 金毘羅堂はT39の創建された
金毘羅堂と観音堂の位置

今度は17世紀中頃正保年間の境内図を見てみましょう。
境内図 正保頃境内図:
正保年間の金毘羅大権現の境内図

  金毘羅神が流行神となり信仰をあつめるようになると金毘羅神を祀る新しい御宝殿(本宮=金毘羅堂))は、観音堂を押しのけて現在地に移っていきます。その本宮はどんな様式だったのでしょうか?
『古老伝旧記』には、この本宮について次のように記します。

元和九年御建立之神殿、七間之内弐間切り三間、梁五間之拝殿に被成、新敷幣殿、内陣今之場所に建立也、

ここからは元和九(1623)年に建てた金毘羅堂の寸法などが分かります。同時に「神殿」とあり、次いで拝殿、幣殿、内陣とあるので神道形式の社殿であったことが分かります。こうして観音堂は、金比羅堂に主役を譲って脇に下がります。
 階段の下にあったそれまでの金毘羅堂は、修験者たちの聖者を祀る役行者堂となります。このあたりにも当時の金毘羅さんが天狗信仰の中心として修験者たちの信仰を集めていたことがうかがえます。それは金光院の参道を挟んで護摩堂があることからも分かります。ここでは、社僧達がいろいろなお札のための祈祷・祈願をおこなっていたようです。神仏混淆化の金毘羅大権現を管理運営していたのは社僧達だったようです。
 創建当初の金毘羅堂には、祭神の金毘羅神は安置されていなかったようです。
代わって本地仏の薬師如来が安置されていました。金比羅堂が本宮として現在地に「昇格」してしまうと、それまで金比羅堂に祀られていた薬師様の居場所がなくなってしまいました。そこで新たに薬師堂が建立されることになります。
境内平面図元禄末頃境内図:左図拡大図konpira_genroku
元禄末期の境内図

薬師堂の建立場所は、鐘楼の南側の現在旭社がある場所が選ばれます
同時に高松藩初代領主の松平頼重の保護を受けた金光院は、境内の大改造を行い、参道を薬師堂の前を通って、本宮に登っていく現在のルートに変更します。
 また、観音堂も現在の三穂津姫社の位置に移します。そして観音堂の奥には、初代金光院院主の宥盛を祀る金剛坊が併設されます。宥盛は「死して天狗となり、金毘羅を守らん」と言い残して亡くなった修験のカリスマ的存在であったことは以前にお話ししました。全国から集まる金比羅行者や修験者の参拝目的はこちらであったのかもしれません。
 金光院のまわりを見ると、書院や客殿が姿を現しています。高松松平家の保護を受けて、全国からの大名たちの代参もふえてきたことへの対応施設なのでしょう。

金毘羅山本山図1
本宮と観音堂は回廊で結ばれている。その下の薬師堂はまだ小型

こうして松尾寺の中心的な3つの建築物が姿を現します。
金毘羅大権現 本宮
松尾寺本堂  観音堂
薬師堂          金毘羅神の本地仏
以後、明治の神仏分離までは、このスタイルは変わりません。

観音堂と絵馬堂の位置関係
幕末に大型化し金堂と呼ばれるようになった薬師堂が見える

19世紀になると、寺院の金堂は大型化していきます。
その背景には大勢の信者を集めたイヴェントが寺社で開催されるようになるためです。そのためには金堂前には大きな空間も必要とされます。同時代の善通寺の誕生院の変遷を見ても同じ動きが見られることは以前にお話ししました。
 金光院も急増する参拝客への対応策として、大型の金堂の必要性が高まります。そこで考えられたのが薬師堂を新築して、金堂にすることです。薬師堂は幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。この竣工に併せるように、周辺整備や参道の石段化や玉垣整備が進められていくのは以前にお話ししました。
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
金堂(薬師堂=現旭社)と整備された周辺施設(讃岐国名勝図会)

 そして明治維新の神仏分離で、仏教施設は排除されます。観音堂は大国主神の妻の神殿となり、金堂(薬師堂)は旭社と名前を変えています。金堂ににあった数多くの仏達は入札にかけられ売り払われたことが、当時の禰宜・松岡調の日記には記されています。ちなみに薬師像は600両で競り落とされています。また、ここにあった両界曼荼羅は善通寺の僧が買っていったとも記されています。

旭社(金堂)設計図
松尾寺金堂(薬師堂)設計図

 金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。今は堂内はからっぽです。

金毘羅本宮 明治以後
神仏分離後の絵図 
観音堂は三穂津姫殿となり旧金堂は雲で隠されている

 以上をまとめておきます
①16世紀後半に長尾一族出身の宥雅は、新たな寺院を松尾山に建立し松尾寺と名付けた。
②その本堂である観音堂は三十番社の下の平地に建立された。
③観音堂の下の四段坂に、守護神金比羅を祀るための金比羅堂を建立した
④金比羅神が流行神として信仰をあつめると、観音堂の位置に金比羅堂は移され金毘羅大権現の本宮となった。
⑤松尾寺の観音堂は、位置を金毘羅神に明け渡し、その横に建立された。
⑥金比羅堂に安置されていた薬師像(金毘羅神の本地仏)のために薬師堂が建立され、参道も整備された。
⑦19世紀には、薬師堂は大型化し松尾寺の金堂として姿を現し、多くの仏達が安置されていた。
⑧明治維新の廃仏毀釈で仏殿・仏像は追放された。
境内変遷図1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」


天狗の羽団扇
狂言で使われる天狗の羽団扇

近世の金比羅は、天狗信仰の中心でもあったようです。金毘羅大権現の別当金光院院主自体が、その教祖でもありました。というわけで、今回は近世の天狗信仰と金毘羅さんの関係を、団扇に着目して見ていきます。テキストは  羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像     ことひら56号(平成13年)です

天狗観は時代によって変化しています。
天狗1

平安時代は烏天狗や小天狗と呼ばれたもので、羽があり、嘴を持つ烏のようなイメージで描かれ、何かと悪さをする存在でした。そして、小物のイメージがあります。

天狗 烏天狗
烏天狗達(小天狗)と仏たち

中世には崇徳上皇のように怨霊が天狗になるとされるようになります。近世には、その中から鞍馬山で義経の守護神となったような大天狗が作り出されます。これが、結果的には天狗の社会的地位の上昇につながったようです。山伏(修験者)たちの中からも、大天狗になることを目指して修行に励む者も現れます。こうして中世初頭には天狗信仰が高まり、各地の霊山で天狗達が活動するようになります。
DSC03290
金刀比羅宮奥社の断崖に懸けられた大天狗と烏天狗

 整理しておくと、天狗には2つの種類があったようです。
ひとつは最初からいた烏天狗で、背中に翼があり、これを使って空を飛びました。近世になって現れるのが大天狗で、こちらは恰幅もよく人間的に描かれるようになります。そして、帯刀し錫杖を持ち、身なりも立派です。大天狗が誕生したのは、戦国時代のことのようです。
狩野永納の「本朝画史』には、鞍馬寺所蔵の鞍馬大僧正坊図について、次のように述べています。
「(大)天狗の形は元信始めてかき出せる故、さる記もあんなるにや。(中略)太平記に、天狗の事を金の鳶などいへる事も見えたれば、古は多く天狗の顔を、鳥の如く嘴を大きく画きしなるべし、今俗人が小天拘といへる形これなり。仮面には胡徳楽のおもて、鼻大なり。また王の鼻とて神社にあるは、猿田彦の面にて、此の面、今の作りざまは天狗の仮面なり」
意訳変換しておくと
「(大)天狗の姿は(狩野)元信が始めて描き出したものである。(中略)
太平記に、天狗のことを「金の鳶」と記したものもあるので、古くは多く天狗の顔を、烏のように嘴を大きく描いていたようである。世間で「小天拘」と呼ばれているのがこれにあたる。大天狗の仮面では胡人の顔立ちのように、鼻が大きい。また「王の鼻」と呼ばれた面が神社にあるは、猿田彦のことである。この今の猿田彦の面は、天狗の仮面と同じ姿になっている」
ここからは次のようなことが分かります。
①大天狗像は狩野元信(1476~1559)が考え出した新タイプの天狗であること
②古くは烏のように嘴が大きく描かれていて、これが「小天狗」だったこと
③大天狗の姿は、猿田彦と混淆していること
狩野元信の描いた僧正坊を見てみましょう

天狗 鞍馬大僧正坊図

左に立つ少年が義経になります。義経の守護神のように描かれています。これが最初に登場した大天狗になるようです。頭巾をつけ、金剛杖を持ち、白髪をたくわえた鼻高の天狗です。何より目立つのは背中の立派な翼です。それでは、団扇はとみると・・・・ありません。確かに羽根があるのなら団扇はなくとも飛べますので、不用と云えばその方が合理的です。羽根のある大天狗に団扇はいらないはずです。ところが「大天狗像」と入れてネット検索すると出てくる写真のほとんどは「羽根 + 団扇」の両方を持っています。これをどう考えればいいのでしょうか?
天狗 大天狗

  これは、後ほど考えることにして、ここでは大天狗の登場の意味を確認しておきます。
 小天狗は、『今昔物語集』では「馬糞鳶」と呼ばれて軽視されていました。中世に能楽とともに発達した狂言の『天狗のよめどり』や『聟入天狗』等では本葉天狗や溝越天狗として登場しますが、こちらも鳶と結び付けられ下等の天狗とされていたようです。飯綱権現の信仰は各地に広まります。その中に登場する烏天狗は、火焔を背負い手には剣と索を持っていますが、狐の上に乗る姿をしていて、「下等の鳶型天狗」の姿から脱け出してはいない感じです。
その中で狩野元信が新たに大天狗を登場させることで、大天狗は鳶や烏の姿を脱して羽団扇で飛行するようになります。これは天狗信仰に「大天狗・小天狗」の併存状態を生み出し、新たな新風を巻き起こすことになります。
狩野元信が登場させたこの大天狗は、滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』に日本の天狗のモデルとして紹介されています。
馬琴は、浮世絵師の勝川春亭に指図をして、「天狗七態」を描かせています。そのうちの「国俗天狗」として紹介された姿を見てみましょう。

天狗 滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』

 ここでも鼻高で頭巾をつけ、金剛杖持ち、刀をさし、背中には立派な翼を持っています。そして、左手は見ると・・・団扇を持っています。つまり、16世紀の狩野元信から滝沢馬琴(1767~1848)の間の時代に、大天狗は団扇を持つようになったことが推察できます。この間になにがあったのでしょうか。江戸後期になると、天狗の羽団扇をめぐて天狗界では論争がおきていたようです。

天狗 平田篤胤

その頃に平田篤胤(1776~1843)は、『幽境聞書』を書いています。
これは天狗小僧寅吉を自宅に滞在させて、寅吉から直接に聞いた話をまとめたものです。その中で篤胤は、羽団扇のことについても次のようなことをあれこれと聞いています
大天狗は皆羽団扇を持っているか
羽団扇には飛行以外に使い道はあるか
羽団扇はどういう鳥の羽根でできているか
この質問に答えて天狗小僧寅吉は、大天狗は翼を捨てた代りに、手にした羽団扇を振って飛び回るようになったとその飛行術を実しやかに言い立てています。ここからはこの時期に天狗界の大天狗は、翼を捨てて団扇で飛ぶという方法に代わったことが分かります。
そんな天狗をめぐる争論が論争が起きていた頃のことです。
平賀源内(1726~79年)が、天狗の髑髏(どくろ)について鑑定を依頼されます。
天狗 『天狗髑髏鑑定縁起

  源内は、その経験を『天狗髑髏鑑定縁起』としてまとめて、次のように述べています。
夫れ和俗の天狗と称するものは、全く魑魅魍魎を指すなれども、定まれる形あるべきもあらず。然るに今世に天狗を描くに、鼻高きは心の高慢鼻にあらはるるを標して大天狗の形とし、又、嘴の長きは、駄口を利きて差出たがる木の葉天狗、溝飛天狗の形状なり。翅ありて草軽をはくは、飛びもしつ歩行もする自由にかたどる。杉の梢に住居すれども、店賃を出さざるは横着者なり。
羽団扇は物いりをいとふ吝薔(りんしょく)に壁す。これ皆画工の思ひ付きにて、実に此の如き物あるにはあらず。
意訳変換しておくと
 天狗と称するものは、すべての魑魅魍魎を指すもので、決まった姿があるはずもない。ところが、昨今の天狗を描く絵には、鼻が高いのは心の高慢が鼻に出ているのだと称して、大天狗の姿とを描く。また嘴の長いのは、無駄口をきいて出しゃばりたがる木の葉天狗や溝飛天狗の姿だという。羽根があって草軽を履くのは、飛びも出来るし、歩行もすることもできることを示している。杉の梢に住居を構えても、家賃を出さないのは横着者だ。羽団扇は物いりを嫌う吝薔(りんしょく)から来ているなど、あげればきりがない。こんなことは全部画家の思ひ付きで、空言で信じるに値しない。彼らのとっては商売のタネにしかすぎない。

源内らしい天下無法ぶりで、羽団扇も含めて天狗に関するものを茶化して、明快に否定しています。この時に持ち込まれた天狗の髑髏は、源内の門人の大場豊水が芝愛宕山の門前を流れる桜川の河原でひろって持ってきたものでした。その顛末を明かすと共に、天狗の髑髏を否定しています。
  天狗についての考察というよりも、天狗に関する諸説を題材にして、本草学・医学のあり方を寓話化した批評文でしょうか。「天狗髑髏圖」はクジラ類の頭骨・上顎を下から見たもの。「ぼうごる すとろいす」はダチョウ(vogel struis、struisvogel、vogelは鳥)、「うにかうる」はユニコーンのことだそうです。
  合理主義者でありながら「天狗などいない」の一言で、「あっしにはかかわりのないことで」とシニカルに済ませられないところが源内らしいところなのでしょう。しかし、一方では大天狗の羽根団扇をめぐっては、各宗派で争論があり、それぞれ独自の道を歩むところも出てきたようです。
天狗 鞍馬

そのひとつが鞍馬寺です。ここは「鞍馬の天狗」で当時から有名でした。
この寺の「鞍馬山曼茶羅」には、中央に昆沙門天を大きく描かれ、その下に配偶神の吉祥天とその子善弐子(ぜんにし)を配します。毘沙門天の両脇には毘沙門天の使わしめとされる百足(むかで)を描かれます。そして毘沙門天の上方に描かれているのが僧正坊と春族の鳥天狗です。僧正坊は頭に小さな頭巾をいただき、袈裟を着けた僧侶の身なりで、手には小さな棕櫚葉団扇を持っています。しかし、背中に翼はありません。「鞍馬山曼茶羅」は、翼を持たない大天狗が羽団扇を使って飛行するという「新思想」から生まれたニュータイプの天狗姿と云えます。つまり、大天狗に翼は要らないという流派になります。
 しかし、多くの天狗信仰集団は「羽団扇 + 翼」を選択したようです。つまり翼を持った上に団扇ももつという姿です。鞍馬派は少数派だったようです。
以上をまとめておくと、鼻高の大天狗は、戦国時代の頃に狩野元信が考え出したものである。これ以降は大天狗と小天狗が並存するようになった。そして、江戸後半になると大天狗は羽団扇をもつようになる。
それでは、羽根団扇をも大天狗はどこから現れてくるのでしょうか?
 天狗経
天狗経
『天狗経』は密教系の俗書『万徳集』に出てくる偽経です。
その冒頭に「南無大天狗小天狗十二八天狗宇摩那天狗数万騎天狩先づ大天狩」と述べた後で、名が知られていた大天狗48の名を挙げています。この中には「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」の名前も見えます。この「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」で、羽団扇をもつ大天狗が最初に姿を表したのではないかという仮説を羽床氏は出します。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現

金毘羅大権現と天狗達(別当金光院)

それは金毘羅大権現の初代院主・金剛坊宥盛の木像に始まったとします。
  江戸時代に金昆羅大権現は天狗信仰で栄えたことは以前にお話ししました。金毘羅大権現として祀られたのは、黒眷族金毘羅坊・象頭山金剛坊の二天狗であったことも天狗経にあった通りです。当時の人々は金毘羅大権現を天狗の山として見ていました。天狗面を背負った行者や信者が面を納めに金毘羅大権現を目指している姿がいくつかの浮世絵には描かれています。
天狗面を背負う行者
金毘羅行者 天狗面の貢納に参拝する姿

近世初頭の小松庄の松尾寺周辺の状況をコンパクトに記して起きます。
 松尾寺は金毘羅大権現の別当寺となつて、金毘羅大権現や三十番神社を祀っていました。三十番神社は暦応年中(1338~)に、甲斐出身の日蓮宗信徒、秋山家が建てたものでした。これについては、秋山家文書の中から寄進の記録が近年報告されています。
 一方、松尾寺は1570年頃に長尾大隅守の一族出身の宥雅が、一族の支援を受けて建立したお寺です。善通寺で修行した宥雅は、師から宥の字をもらつて宥雅と名乗り、善通寺の末寺の大麻山の称名院に入ります。松尾山の山麓に、称明院はありました。松尾山の山頂近くにある屏風岩の下には、滝寺もありましたが、この頃にはすでに廃絶していました。称名院に入った宥雅はここを拠点として、山腹にあつた三十番神社の近くに、廃絶していた滝寺の復興も込めて、新たに松尾寺を創建します。松尾寺の中心は観音堂で、現在の本堂付近に建立されます。

天狗面2カラー
金毘羅大権現に奉納された天狗面

 さらに宥雅は、元亀四年(1573)に、観音堂へ登る石段のかたわらに、金比羅堂を立てます。
この堂に安置されたのは金昆羅王赤如神を祭神とする薬師如来でした。しかし、長宗我部氏の侵攻で、宥雅は寺を捨てて堺に亡命を余儀なくされます。松尾寺には長宗我部元親の信頼の厚かった修験者の南光院が入って、宥厳と名乗り、讃岐平定の鎮守社の役割を担うことになります。宥厳のあとを、高野山から帰ってきた宥盛が継ぎます。宥厳・宥盛によつて、松尾寺は修験道化されていきます。こうして金毘羅信仰の中心である金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、修験道化によって黒眷族金毘羅坊という天狗におきかえられます。
天狗面を背負う山伏 浮世絵

 初代金光院院主とされている宥盛の業績には大きい物があります。
その一つが松尾寺を修験道の拠点としたことです。彼は天狗信仰に凝り、死後は天狗として転生できるよう願って、次のような文字を自らに模した木像に掘り込んでいます。
「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月」
という文言を彫り込みます。ここには慶長十一年(1606)10月と記されています。そして翌々年に亡くなっています。
 天狗になりたいと願ったのは、天狗が不老不死の生死を超越した存在とされていたからだと研究者は考えているようです。

天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
金毘羅大権現と天狗達

『源平盛衰記』巻八には、次のように記されています。
「諸の智者学匠の、無道心にして騎慢の甚だしきなりこ其の無道心の智者の死すれば、必ず天魔と中す鬼に成り候。其の頭は天狗、身体は人にて左右の堂(生ひたり。前後百歳の事を悟つて通力あり。虚空を飛ぶこと隼の如し、仏法者なるが故に地獄には堕ちず。無道心なる故往生もせず゛必ず死ぬれば天狗道に堕すといへり。末世の僧皆無道心にして胎慢あるが故に、十が八九は必ず天魔にて、八宗の智者は皆天魔となるが故に、これをば天狗と申すなり」
象頭山天狗 飯綱

天狗は地獄にも堕ちず、往生もしない、生死を超越した不老不死の存在であると説かれています。天狗が生死を超えた不老不死の存在であったから宥盛は死後も天狗となって、松尾寺を永代にわたって守護しようと考えたのでしょう。この宥盛木像が、象頭山金剛坊という天狗として祀られることになります。
松尾寺の金毘羅大権現像
金毘羅大権現像(松尾寺)
木像はどんな姿をしていたのでしょうか?
木像を見た江戸中期の国学者、天野信景は『塩尻』に次のように記します。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや

意訳変換しておくと
讃州象頭山は金毘羅を祀る山である。その像は座しいて三尺余で僧形である。すさまじき面貌で、修験者のような頭巾をかぶり、手には羽団扇を持っている。薬師十二将の金毘羅像とは、まったく異なるものであった

「金毘羅山は海の神様で、クンピーラを祀る」というのが、当時の金毘羅大権現の藩に提出した公式見解でした。しかし、実際に祀られていたのは、初代院主宥盛(修験名金剛院)が天狗となった姿だったようです。当時の金毘羅大権現は天狗信仰が中心だったことがうかがえます。

 この木像はどんな霊験があるとされていたのでしょうか?
江戸時代中期の百科辞書である『和漢三才図会』(1715年に、浪華の吉林堂より刊行)には、次のように記されています。
相伝ふ、当山の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

ここからは江戸時代中期には金毘羅大権現は天狗信仰で栄えていたことが分かります。その中心は宥盛木像であって、これを天狗として祀っていたのです。天狗として祀られた宥盛木像の手には、羽団扇がにぎられていました。これは「羽団扇をもつ天狗」としては、一番古いものになるようです。ここから羽床氏は「宥盛のもつ羽団扇が、天狗が羽団扇を使って空を飛ぶという伝説のルーツ」という仮説を提示するのです。
丸亀はうどんだけじゃない!日本一のうちわの町でマイうちわ作り│観光・旅行ガイド - ぐるたび
「丸金」の丸亀団扇

羽団扇をもつ天狗姿が全国にどのように広がっていったのでしょうか?

天明年間(1781~9)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷がとなり合っていました。そのため江戸の留守居役瀬山重嘉は、中津藩の家中より団扇づくりを習って、藩士の副業として奨励します。以来、丸亀の団扇づくりは盛んとなったと伝えられます。丸亀―大阪間を「金毘羅羅舟」が結び、丸亀はその寄港地として繁栄するようになると、丸亀団扇は金毘羅参詣のみやげとして引っ張りだこになります。
 金毘羅大権現の天狗の手には、羽団扇がにぎられトレードマークになっていました。それが金昆羅参詣のみやげとして「丸金」団扇が全国に知られるようになります。それと、同じ時期に。天狗は羽団扇で飛行するという新しい「思想」が広まったのではないかと云うのです。
金毘羅大権現2
金毘羅大権現の足下に仕える天狗達
 
天狗が羽団扇で飛行するという「新思想」は、宥盛の象頭山金剛坊木像がもとになり、金昆羅参詣みやげの丸亀団扇とともに全国に広められたという説です。それを受けいれた富士宮本宮浅間神社の社紋は棕櫚(しゅろ)葉でした。そのためもともとは天狗の団扇は鷹羽団扇だったのが、棕櫚葉団扇が天狗の持物とされるようになったとも推測します。

  富士山を誉めるな。 - オセンタルカの太陽帝国
富士宮本宮浅間神社の社紋

  以上をまとめておくと
①古代の天狗は小天狗(烏天狗)だけで、羽根があって空を飛ぶ悪さ物というイメージであった。
②近世になると大天狗が登場し、天狗の「社会的地位の向上」がもたらされる
③大天狗が羽団扇を持って登場する姿は、金毘羅大権現の金剛坊(宥盛)の木像に由来するのではないか
④金毘羅土産の丸亀団扇と金剛木像が結びつけられて大天狗姿として全国に広がったのではないかい。
天狗の団扇

少し想像力が羽ばたきすぎているような気もしますが、魅力的な説です。特に、天狗信仰の拠点とされている金毘羅と、当時の金剛坊(宥盛)を関連づけて説明した文章には出会ったことがなかったので興味深く読ませてもらいました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像    ことひら56号(平成13年)

天正三(1575)年に長宗我部元親は土佐国内の統一を果たします。
 翌年には早くも阿波三好郡へ侵入し、白地城主の大西覚養を降伏させます。元親は白地城を拠点として阿波・讃岐・伊予三国への侵攻を開始することになります。

長宗我部元親 地図

天正六(1578)年夏になると、讃岐侵攻を開始します。それは讃岐の藤目城主(観音寺市粟井)の斎藤下総守を調略・降伏させたことに始まります。元親は、藤目城に桑名太郎左衛門と浜田善右衛門を入れて、讃岐侵攻の拠点とします。攻略の手を一歩進めたのです。
 当時の讃岐は阿波の三好氏配下にありました。
群雄割拠と云えば聞こえはいいのですが、実態は中小武将の割拠状態でまとまった勢力がありませんでした。そこへ侵入してきた阿波の三好勢力下の置かれていたのです。しかし、三好氏に反発する香川氏のような勢力もあり讃岐は一枚岩というわけにはいきませんでした。
 讃岐西端の三豊に長宗我部元親によって打ち込まれた布石に対して、阿波の三好存保は配下の聖通寺城主・奈良太郎兵衛勝政に撃退を命じます。奈良氏は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔とともに藤目城を攻め、これを奪回します。これらの讃岐衆が阿波の三好氏の指令で動いていることを押さえておきます。

 藤目城を奪い返された長宗我部勢は、秋には今度は目線を変えて三野郡財田の本篠城(財田町)を攻略します。そして、本篠城を出城にして冬には再び藤目城を攻め、これを再度掌中に収めます。これが元親の讃岐攻略の前哨戦です。これに対して「西讃守護代」とされてきた多度津天霧城の、香川信景は援軍を派遣しません。動かないのです。
長宗我部元親 本篠城
本篠城のあった山(財田町)

 藤目・本篠城攻防の時、なぜ香川信景は援軍を派遣しなかったのでしょうか。
 南海通記には、そのことが語られずに、ただ信景は戦わずして元親に降ったということのみが強調されています。香川氏が援軍を送らなかったことの背景を今回は考えて見たいと思います。  テキストは 高瀬町史139P 長宗我部元親の讃岐侵攻と西讃武士です。 
安藤道啓堂の謎 - カーキーのおもしろ見聞ダイアリー

まずは、土佐軍侵攻の前年からの情勢を年表で見ておきましょう。

  1577 天正5
7月元吉合戦 毛利・小早川氏配下の部隊が讃岐元吉城(櫛梨城)に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う
11月 勝利した毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野
11月 毛利軍、足利義昭の調停により三好方と和し、引き上げる(厳島野坂文書)
阿波白地城主大西覚養、長宗我部氏に攻められ麻城の近藤国久のもとへ亡命(西讃府志)
  1578天正6(戊寅)
  夏 長宗我部元親、藤目城を攻略。
十河存保の命をうけた奈良太郎兵衛尉らこれを奪回する)
長宗我部元親、三野郡財田城を攻略する(南海通記)
長宗我部元親、ふたたび藤目城を攻略する

 永禄年間(1558~70)に、阿波の三好氏の讃岐侵攻が強まります。その結果、香川氏は天霧城龍城戦から敗走し、一時的には毛利氏を頼って国外に亡命しながら抵抗を続けたことは以前にお話ししました。
 天正五(1577)年になると、毛利氏は石山本願寺戦のための瀬戸内海海上覇権確保の一環として、讃岐の元吉城(櫛梨城・琴平町)に軍を送り駐屯させます。同時に、亡命中の香川氏へのてこ入れを行ったようです。こうして、三好配下の讃岐衆との間で、櫛梨城をめぐる攻防戦が展開されます。これが元吉合戦で、毛利氏は勝利します。   
 毛利氏に領土的な野心はなく、瀬戸内海の通行権が確保されると、その年の秋には和約を結び撤退していきます。その後を毛利氏から任されたのが香川氏ではないかと私は考えています。香川氏については、元吉合戦には出てきませんが、同時並行で天霧城を回復し、西讃・三豊における支配権を回復したようです。つまり、香川氏は毛利氏の支援を受けて、天霧城に帰ってきて西讃の支配権を回復しようとしていたのです。
香川氏の仮想敵国は、どこになるのでしょうか?
第一に挙げられるのは、阿波の三好氏です。次に三好氏配下の讃岐衆です。具体的には、羽床氏・長尾氏・近藤氏・大平氏・詫間氏などです。香川氏は阿波三好氏の侵入に苦しみ続けられてきました。香川信景も、三好氏を仮想敵国とする外交戦略を考えることになります。
 具体的には「敵(三好氏)の敵は味方」という法則がとられます。
当時の三好氏は、畿内で信長と対立し、瀬戸内海で毛利と対立していました。そして、さらにここに新たな敵を向かえることになります。それが土佐を統一した長宗我部元親の登場です。
 年表を見ると分かるとおり、長宗我部元親が讃岐侵攻を開始するのは、毛利が元吉城を引き払ったあとです。毛利軍の姿が讃岐から消えたのを見計らうようなタイミングです。ここには毛利と長宗我部の間には密かに「不戦条約」が結ばれていたと考える研究者もいるようです。

このような情勢を天霧山にいた香川信景はどのように見たのでしょうか。
  三好の脅威におびえる信景にとって、毛利撤退後に頼るべき相手として長宗我部元親が見えてきたのではないでしょうか。香川氏には、讃岐守護細川家に仕える西讃守護代としてのプライドもありました。
「自分は細川氏の家臣で、阿波の三好配下ではない」という気構えがあったようです。下克上で主君細川氏にとって替わった三好氏には反発心を持ち抵抗し、三好方の侵攻を何度も受けていることはお話しした通りです。そのために天霧城を包囲されたり、一時的には天霧城からの撤退も余儀なくされています。つまり、香川氏にとっては主敵は三好氏なのです。反三好のために香川氏が選択できる外交戦略は次の通りでした
①織田信長への接近
②毛利元就への接近
③長宗我部元親への接近
それまでに取ってきた同盟関係が①②でした。宿敵三好氏打倒のためには、③の長宗我部元親との同盟をとることに抵抗感はあまりなかったと私は考えています。
  一方、長宗我部元親も力による制圧戦は望んでいません。
土佐勢は兵農分離の進んでいない一両具足の兵達です。長期戦には不向きで、消耗すればなかなか補充がききません。戦わずに陥すのが元親の本心です。
長宗我部元親一領具足

そこで元親が使ったのが細川家の「守護の権威」です
 讃岐と土佐の守護を兼ねていたのは京兆家の当主細川昭元でした。細川昭元は、足利義昭と織田信長が決裂した際に、信長側につきます。昭元は名家の当主として信長に庇護される状態でした。信長は昭元を道楽で保護していたわけではなく、彼には利用価値があるとかんがえていたのです。信長は「対三好包囲網」に香川氏を誘うために細川昭元の守護としての権威を利用活用しています。

長宗我部元親と細川昭元
細川家系図
 天正11年(1583)に細川昭元は香川信景に、讃岐国東部の管轄も任せる旨の書状を発給しています。この昭元の動きの背景には、信長の意向があります。信長は讃岐守護という昭元を利用して、霧城城主の香川氏を取り込もうとします。
  私は、香川氏と長宗我部元親の橋渡しをしたのは、細川昭元ではないかと考えています。細川京兆家は土佐の守護でもあり、讃岐の守護でした。香川氏と長宗我部氏は、同じ主君に仕える身であったことになります。そこで、「三好打倒のために長宗我部とも手を組め。そして逆臣三好を成敗せよ」などという親書が香川氏の下に届けられたのではないでしょうか。これは香川氏にとっては、三好打倒のための最高の大義名分となり、三好に反発をもつ讃岐国衆をまとめる旗印にもなります。それは信長の意向でもあったはずです。

 その調略活動に活躍したのが、元親の右筆(ブレーン集団)として仕えていた土佐の山伏(修験者)たちであったと私は考えています。
 土佐は熊野信仰の修験者たちの多い所です。彼らは先達として、信者達を引き連れて熊野詣でを行いました。そのルートが現在の国道32号線と重なる熊野詣ルートです。ここは辺路ルートでもあり、修験者の行場や古い熊野神社などが点在していることは以前にお話ししました。長宗我部元親のもとで右筆を勤めた修験者たちは、辺路修行や聖地巡礼を通じて四国の隅々まで知り尽くしていました。彼らの情報収集力や修験道を通じた人的ネートワークを、元親は重視し活用したでしょう。阿波への道や讃岐山脈を越える山道も、修験者にとっては修行の場であり、何度も通った道です。
 当時の元親の右筆集団(秘書団かつブレーン)の中で、信頼を得ていたのが南光院でした。
彼は現在の四国霊場39番延光寺の奥社を拠点にした熊野修験者です。その配下には多くの修験者たちをかかえていました。後に、この延光寺が土佐山内藩に宛てた文書には、南光院を修験者集団の「四国の総代表」と記しています。真偽の程は分かりませんが、彼が当時の四国の修験者の中で名前の知れた人物であったことはうかがえます。ちなみに彼は、西讃制圧後に金毘羅大権現を祀る金比羅堂別当職に、元親から指名されます。そして、金毘羅を讃岐平定の総鎮守とすることを託されるのです。
ここからは私の推論を交えながら、小説風に行きます。
元親の意向を受けて、天霧城の香川氏への調略工作を行ったのは、この南光院だと私は考えています。彼のまわりには、次のような山伏(修験者)集団の存在がありました。
①箸蔵周辺の阿波山伏
②雲辺寺・大興寺・観音寺につながる密教系修験者
③尾背寺(まんのう町)・大麻山(後の金比羅山)・善通寺の修験者
④天霧山麓の弥谷寺の修験者・聖集団
(これらの寺院は土佐軍の兵火を受けていない)
これらの集団の中には南光院の息のかかった者が幾人かは送り込まれて「間諜(スパイ)」としての役割を果たしていたとしておきます。雲辺寺→観音寺→弥谷寺というのは彼らの辺路ルートでもありました。山伏姿で、「辺路」ながら情報収集活動をしても何ら疑われることはありません。天霧山の下の谷にある弥谷寺に入った間者の修験者たちは、密かに香川氏に対して同盟を働きかけた私は考えています。その時期は、藤目城の攻防戦以前から始まっていたでしょう。
 思い返せば天正六(1578)年夏に、大西上野介は豊田郡藤目城主の斎藤下総守を調略しています。これに平行して香川氏への働きかけも始まっていたのかもしれません。そして、本格的な攻防戦が始まる前には、長宗我部元親と香川信景のあいだに密約は出来上がっていたと思うのです。天霧城の「不動」の姿からそう私は感じます。だから香川氏は、動かず援軍を送ることもなかったのです。

長宗我部元親讃岐侵攻図1
 
香川氏から見れば、藤目城や本篠城に結集した軍勢は、ある意味で阿波三好氏の手先の讃岐衆です。
かつては天霧城にせめかかってきた輩達なのです。それが長宗我部によって、打ち砕かれるのは香川氏にとっては願うところです。
三好に与する讃岐衆は、土佐軍によって撃破・排除する。
親三好派を排除した後に残った勢力の調略活動は香川氏が行う、

そんな役割分担が讃岐侵攻以前に出来上がっていたかもしれません。こうして、財田の城や藤目城に結集した親三好勢力は撃破・殲滅されていきます。さらに、抵抗を続ける室本や仁尾や二宮・麻の勢力は力で殲滅します。その後の日和見的勢力への「寝返り工作」については、香川氏が担当したとしておきましょう。

藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢の足取りを辿ってみると次の勢力が力攻めで滅ぼされています。
①九十九山城の細川氏政
②仁保(仁尾)城の細川頼弘
③高瀬の爺神城主詫間弾正、長宗我部氏に攻められ滅亡する(西讃府志)
④高瀬の麻の近藤氏、山本町神田の二宮・近藤氏
 三好勢に近く、以前から香川氏との小競り合いを繰り返したいた勢力であることが分かります。

「讃岐の寺社由緒書は、長宗我部元親による焼き討ち被害で充ち満ちている」と以前にお話ししました。繁栄していた寺が土佐勢の兵火に罹って焼け落ち、再建されることなく廃絶したというストーリーです。これは近世後半になって広がった「伝説」です。結果として、長宗我部元親は讃岐では「悪人」として語られることになります。
 しかし、個別の神社の実例を見てみると、どうもこの伝説は事実ではないようです。例えば、中世に遡る建築物を持つ寺社は焼き討ちされていないことになります。本山寺本堂・観音寺本堂などは兵火を免れています。全てを無差別に焼き払ったという痕跡は見当たらないのです。どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。

讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。
 その多くは香川氏の領地でした。香川氏に従っていた国人層は、香川氏の降伏にともない、長宗我部氏の支配下にそのまま収まります。その形は、直接に元親に服属するのではなく、香川氏に仕えるというままの形で存続したようです。例えば、本門寺を中心とする法華信徒であるで三野の秋山氏も香川氏のもとにそのまま仕えています。これは、香川氏の領地はすべて安堵されたことになります。これは「降伏」というには、あまりに寛大な処置です。
 さらに、香川信景は元親の次男親和を娘婿に迎え入れ、香川家の跡継ぎとします。これは、降伏というよりも軍事同盟の締結といった方がよさそうです。これについてはまた、別の機会にお話しします。
土佐軍と戦った勢力の領土は没収され、検地が行われ占領者に給付されていきます。
『土佐国朧簡集』には三豊市域の地名がいくつか出てきます。
天正9年8月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の次男親和が香川氏に婿入りする際に、付き人として土佐からきた人物です。彼には
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

の土地が与えられています。これらは大水上神社の旧領地で、二宮近藤氏の領地が没収されたものです。翌年三月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、五月には「財田・麻岩瀬村」で6か所が同じように吉松右兵衛に与えられています。
 これ以外にも土佐から讃岐へ移り住む者が多くいたようで、高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、この地区の浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。最後まで抵抗した勢力の土地は没収されたのです。
 これらの動きを南海通記は、香西氏の立場と郷土愛(パトリオティズム)を織り交ぜて記します。そのため土佐軍を侵略者=悪、それと戦う勢力を郷土防衛軍=善と色分けした勧善懲悪的な軍記物仕立てになっています。そして、土佐軍にいち早く降伏した香川氏は悪者とされることが多かったようです。
 この視点は、物語としては面白いのですが歴史の冷酷さやリアリティーは欠落していくことになります。南海通記の視点を越えた歴史叙述が待たれる由縁です。

 三豊地方を支配下に置いた元親は、天正七(1579)年4月に中讃地方へと侵攻を開始します。
長宗我部軍は、まず羽床攻撃を行いますが、その際の先陣は香川氏傘下の三野菊右衛門と河田七郎兵衛が勤めています。香川氏が土佐軍の先導役を勤める姿がよく見られるようになります。戦いは長宗我部軍の大軍に対して羽床軍は多勢に無勢で敗退し、一族の木村氏の仲介で降伏しています。
 実際の戦いがあってから百年以上経って書かれた讃岐の軍記物「南海通記」には、讃岐武士団の抵抗ぶりが華々しく書かれています。
しかし、根本資料である土佐側の資料には、讃岐の武士団に、必死で抵抗する姿は見えません。形ばかりの籠城と小競り合いの後に降伏するか、無血開城するかのどちらかです。
 この裏では、香川信景による調略工作があったようです。
阿波三好の横暴さと、主君細川氏への裏切りを説き、今こそ阿波侍の首から解放される時が来たと、土佐軍を解放軍として説いたかも知れません。また、占領後の香川氏と長宗我部氏の同盟関係に触れながら、無血入城すれば悪いようにはしないと説いたかも知れません。どちらにしても、「籠城総員討ち死」なんていう姿は見られません。その辺は計算高い讃岐人らしさかもしれません。
 羽床氏は讃岐最大の武士団綾氏の統領でもありました。その羽床氏が降伏すると、滝宮の滝宮弥十郎をはじめとする綾氏一族はそれになびきます。
 私が分からないのは西長尾城の長尾大隅守の動きです。
軍記物では、長尾氏は丸亀平野に入ってきた土佐軍と激しく戦ったとされます。しかし、土佐の資料には長尾氏が抵抗したとの記述は見えません。香川氏の先陣が勤める土佐軍が、西長尾城の下を通って、羽床城を攻め込むのを見送っています。長尾氏が降伏するのは、羽床城陥落後です。
丸亀平野に軍を進めた長宗我部元親が本陣として、軍を進駐させたのはどこでしょうか?
軍記物には金毘羅に本陣を置いたと記すものが多いようです。しかし、大軍を置くにはふさわしくないような気がします。候補地としては、前々年に起きた元吉合戦の舞台となった櫛梨城でないかと私は考えています。毛利軍が三好軍の中讃への侵攻を阻止し、石山本願寺への兵粮輸送ルート確保のために軍を進駐させた城です。ここは土佐藩占領下で大規模改修工事が行われて土佐流の竪堀が掘られていたことが発掘調査から分かっています。
  元親は金比羅堂(琴平)にも参拝し、「四国平定成就」を祈願しています。
金比羅堂や松尾寺は、長尾寺の一族によって数年前に建立されたばかりの新興の寺社でした。金毘羅大権現の別当金光院院主は西長尾家城主の弟(甥)である宥雅が務めていました。宥雅は、土佐軍の侵入を受けて堺に亡命します。つまり、金光院は無住となっていました。その院主を任せたのが先ほど紹介した南光院です。彼が宥厳と名を変えて別当職を務めることになります。その時に元親があたえた課題は、金比羅堂を四国支配の新たな宗教施設とすることでした。そして、四国平定の折には、山門の寄進を約束します。
金毘羅権現
長宗我部元親寄進の二天門

天正8年には、西長尾に新城を築城し、国吉甚左衛門を置き中讃の拠点とします。
この時に長尾城は土佐風の山城に大改修されます。現在の西長尾城は、長尾氏時代のものではなく、土佐軍が進駐していた時代の山城跡になるようです。

西長尾城

天正9年6月、元親は東伊予・西讃の国侍たちに出陣を命じ、西長尾城に1,2万の軍を集結させます。香川氏に養子に入った元親次男の香川親和を総大将とした土佐軍は、那珂・鵜足郡へ向けて進撃していきます。聖通寺城主奈良太郎兵衛を敗走させ、更に藤尾城の香西佳清を攻めます。ここでも香川氏の斡旋により和議が結ばれ、長宗我部軍に降ります。天正11年 元親軍は再度讃岐へと侵入します。そして十河城に入った十河存保を攻めます。そして天正12年6月十河城を落城させ、存保は播磨へと亡命します。こうして讃岐全土は元親によって平定されます。

元親にとって香川氏の協力なくしては讃岐平定は不可能だったとも云えます。
従来の史書は、香川氏は元親に服属したと記します。元親の次男が信景の養子となり、香川氏の家督を相続したとも思われています。しかし、養子に入った親和は香川氏の歴代継嗣が名乗った五郎次郎を称しますが、単独で発給した書状は少なく、信景との連署状が多いようです。ここからは、実権は信景が依然として握っていたことがうかがえます。引退し、実権を失っていたのではないようです
   香川氏と長宗我部氏の婚姻関係は、香川氏を支配下に置くと考えるよりも、味方につけたと研究者は考えるようになってきています。
香川信景には男子がなく娘だけでした。後継者が必要なため、元親の次男を婿として迎え入れ、香川家を継がせることにした。信景は元親に降伏というより、姻戚関係を結ぶことにより家の存続を図ったというのです。女子を人質で遣わす例は多くあります。男子を跡継ぎといえども遣わすのはある意味では、人質とも云えます。降伏した香川氏に、長宗我部氏が人質を遣わすことは不自然です。輿入れの後、信景が土佐の岡豊城へ赴いた際の歓迎ぶりが次のように記します。
「元親卿の馳走自余に越えたり、振る舞も式正の膳部なり。::五日の逗留にて帰られけり。国分の表に茶屋を立て送り」

盛大な饗応ぶりです。この歓待ぶりは征服者と服属者の関係とはいえないと研究者は指摘します。元親は次男親和を婿入りさせ、信景と同盟者としての関係を持つようになったと解すべきとします。
 その後、秀吉の四国攻めにより、長宗我部元親は土佐一国に封じ込められます。その際の香川信景・親和父子への対応にも現れているといいます。領地を失った香川氏親子を土佐へ迎え、領地を与えています。
   以上をまとめておくと
①天霧城主の香川氏は西讃岐守護代として、守護細川家に仕えて畿内に従軍することも多かった。
②守護細川家に代わって下克上で阿波三好氏が実権を握り、東讃方面から西讃へと勢力を伸ばす。
③香川氏は伸張する阿波三好氏の勢力に押されて、一時的には天霧城を捨て毛利家に亡命することもあった。
④毛利家は元吉合戦の際に、香川氏の天霧城への復帰を支援し、その後の西讃支配を託し撤兵した。
⑤長宗我部と毛利の間には不戦条約があり、毛利撤退後の軍事的な空白を長宗我部が埋めることに問題はなかった。
⑥こうして長宗我部元親と香川信景は密かに同盟を、讃岐侵攻前に結んでいた。
⑦親三好派の讃岐衆は、土佐勢によって撃滅・排除され、日和見勢力に対しては香川信景が調略工作をおこなうことで、讃岐平定はスムーズにすすんだ。
⑧その結果、跡継ぎのいなかった香川信景は元親の次男を婿として後継者に迎えた。
⑨長宗我部元親と香川信景は「降伏」というよりも「同盟関係」にあったというほうが、その後の出来事を捉えやすくする。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   参考文献 高瀬町史139P 長宗我部元親の讃岐侵攻と西讃武士

長宗我部元親評伝

  天正三年(1575)に長宗我部元親は、土佐一国を統一します。37歳の時のことです。そして、すぐに四国平定への道を歩み始めます。今回は、四国平定を進める長宗我部元親の頭の中には、どんな外交戦略が描かれていたのかを見ていくことにします。テキストは「平井上総  長宗我部元親・盛親 ミネルヴァ日本評伝選」です。

土佐の長宗我部元親から畿内を見た場合に、どんな政治情勢が見えたのでしょうか。
まず見えてくるのは織田信長です。
天正三年(1575)時点で、信長は室町幕府に代わる中央権力を握っていました。信長は天正元年(1573)に足利義昭との連合政権を解消し、義昭を京都から追放しています。そして本願寺や武川勝頼との対決を経て、天正三年には朝廷から将軍並の扱いを受けるようになります。
 もうひとつは反信長勢力です。
天正四年(1576)に信長に追放された足利義政は中国地方の毛利輝元を頼って福山の鞆を拠点に反信長包囲網の形成を計ります。小説家達は義政のことを時代の流れの読めぬ将軍崩れと軽視しますが、歴史家達は義政の業績を評価します。なにより毛利・石山本願寺・上杉謙信などのを勢力を「反信長統一戦線」としてまとめ上げたことは事実です。これを軽視することは出来ないというのが歴史家達の立場です。
  天正四年から本能寺の変が起きる天正10年(1582)までの情勢は、織田信長とそれに結びつく大名だちと、足利義昭とそれに結びつく大名だちとの、二大勢力による抗争としてとらえることができます。この時期の元親が頼るべき相手は、次の2者しかいないということになります。
①天下人としての信長
②信長に反旗を翻す足利義政とその保護者毛利元就
結論から言うと元親は、最初は織田政権に接近・従属して行動しますが、最終的に毛利勢力に与し、信長とは対立するようになります。
当時の長宗我部家は土佐国内第一の勢力となったとはいえ、全国的には地方の一領主にすぎません。他国との関係に逆らって自立していくよりは、地位を保障してくれる上位の権力に結び付いた方が戦略上有効です。それでは取り入る先の政権はと見ると、信長以外に考えられないでしょう。
長宗我部元親と織田信長、豊臣秀吉、明智光秀らの関係をわかりやすく!
 長宗我部元親は、織田信長にどのように接近したのでしょうか
ここでまず登場してくるのが土佐国守護の京兆家細川氏です。元親の父国親は、土佐国守護の京兆家細川氏の影響を強く受けていると研究者は指摘します。足利義政同じくの京兆家当主細川昭元は、勢力を失って「過去の存在」であったかもしれません。しかし、政治的な利用価値は充分にあったようです。細川昭元は、足利義昭と織田信長が決裂した際に、信長側につきます。昭元は名家の当主として信長に庇護される状態でした。信長は昭元を道楽で保護していたわけではなく、彼には利用価値があるとかんがえていたのです。
その例として、研究者が挙げるのが、讃岐国の守護代香川信景との交渉です。
 細川京兆家は土佐の守護でもあり、讃岐の守護でもありました。香川氏と長宗我部氏は、同じ主君に仕える身でもあったわけです。天正11年(1583)に細川昭元は香川信景に、讃岐国東部の管轄も任せる旨の書状を発給しています。この昭元の動きの背景には、信長の意向があります。信長は讃岐守護という昭元を利用して、霧城城主の香川氏を取り込もうとします。(橋詰茂『瀬戸内海地域社会と織田権力』)。
 香川氏の長宗我部元親への同盟(降伏?)は、細川氏の臣下として逆臣三好一族を共に討伐するという大義名分があったからだと研究者は考えているようです。足利や細川とネームバリューは地方の国人たちにとってはまだまだ効き目があったようです。それを信長はよく知っていたということでしょう。 同じように、長宗我部と織田関係にも細川昭元の力が働いていると研究者は指摘します。
長宗我部-織田関係をとりもつもうひとりの人物は、明智光秀です。
天文六年(1537)、元親が長男弥三郎の実名に信長から一字を拝領しか際に、信長は光秀を取次として「仁」の字を与えています。この取次としての活躍は、光秀自身の努力や才能もありますが、光秀配下の斎藤利三・石谷頼辰兄弟の存在が大きいようです。元親の妻は石谷家出身であり、頼辰はその義理の兄にあたります。同時に斎藤利三の実弟です。「元親記」は信長の上洛(永禄11年1568)以前から元親が信長に連絡を取っていたと記します。しかし、その頃は元親はまだ土佐統一を成し遂げていません。少し早すぎるようです。
斎藤利三ってどんな武将?明智光秀や長宗我部元親との関係は? | 歴史をわかりやすく解説!ヒストリーランド

 斎藤利三は後に稲葉一鉄の元を離れて明智光秀の家臣となります。そのため元親は織田家の重臣である光秀を取次とすることができるようになります。このようにみると、元親が石谷家から妻を迎えたことは結果として長宗我部家にとって非常に有利に働いたといえます。 そこには妻の縁を利用して織田家と結び付こうとする元親の外交戦略があったことがうかがえます。こうして元親は、明智光秀を通じて信長政権への接近策をとります

阿波三好家との戦いは、どのようにして始まったのか
 「昔阿波物語」には、次のように記されています。
阿波国一宮城主の一宮成相は細川真之側につき、土佐国の長宗我部元親や紀伊国に援軍を頼んだ。そこで元親は海部に攻め入り、さらに土佐の北方から阿波・讃岐の境界地域にある三好郡白地に攻め込み、三好側だった白地城主の大西覚用を服属させた。

 ここには、元親の阿波侵攻は細川真之に協力する形で進められたと記されます。元親は、阿波南方攻略と、阿波三好郡攻略を同時進行で連携させておこなっています。
  土佐軍による阿波侵攻には、信長の全体プランの中で進められた形跡があります。
信長は阿波三好家勢力封じ込めのために、讃岐の香川信景に接触し反三好同盟を形成します。同じように、阿波での細川真之による三好長治討伐と長宗我部元親の阿波進出もまた、信長が対三好包囲網の一環として働きかけた結果だという説です。(天野忠幸「織田・羽柴氏の四国進出と三好氏」)。そうだとすると、阿波三好は長宗我部・香川氏・信長の包囲網の中に囲まれていたことになります。この説は、天正四年の政変へ織田政権が関わったことを示す史料がほとんどないのであくまで仮説ですが、非常に魅力的な説です。
 阿波の国侍達にとっては、長宗我部元親よそ者です。それが阿波のことに首を突っ込んでくることに当然反発が起きます。土佐の元親にとって、細川真之や織田信長に協力して阿波三好家と戦うという名目は「錦の御旗」のような役割を果たしたのかも知れません。

  信長と元親の交渉は、天正6年(1578)頃からは、一次史料ではっきりと追えるようになってくるようです。
たとえば10月付で信長が元親の息子弥三郎に宛てた朱印状には、次のように記されています。
惟任日向守(明智光秀)に対する書状を見ました。阿波方面への在陣はもっともなことです。いよいよ忠節に励むことが肝心です。字のことについては、「信」を遣わすので、「信親」と名乗るのがよろしいでしょう。なお明智光秀が申します。

12月に元親が義兄石谷頼辰に宛てた書状には、次のように記されています。
 (前略)弥三郎の字のことを斎藤利三まで申したところ、ご披露なされて(信長の)朱印状をいただき、「信」の字を拝領したことはこの上ない名誉です。)阿波国のことについては、攻略を油断せず進めていますので、ご安心ください。

 この二つの書状からは次のことが読み取れます。
①元親が息子弥三郎のために信長の名前から一文字をもらったこと
②この交渉に元親の縁者斎藤利三とその主人明智光秀が活躍していること、
③そして元親が阿波国攻略について信長に報告していること
 元親が自分の跡取りを信親と名乗らせようとしたのは、明らかに織田政権への接近策です。将軍や大名、あるいは烏帽子親から名前の一文字(偏譚)をもらう行為は、よく行われます。例えば信長の場合は、徳川家康の息子信康などにも一字を与えています。元親は信長の朱印状を「御朱印」、「信」の字を「御字」と述べていて、長宗我部家側か低姿勢です。こうした低姿勢は、阿波国攻略とも関係していると研究者は考えているようです。
元親が信長に示している態度は、信長の命のもとで阿波国を攻め取るという形をとっています。
元親は、自らを「四国最大の信長派」と位置づけていたといえます。そうした態度は、当初からの姿勢です。これを研究者は次のように指摘します。
   織田政権派の大名として振る舞い、息子に一字を受領することでさらにその関係を強化することで、元親は阿波国への進出を強固なものにしようとした。信長と対等の立場で天下人となることを狙うのではなく、その配下に入った上で、自分の領地を着実に広げていく、というのが元親の外交方針だったのである。
 
 信長の権勢や威光を背負いながら四国平定は、うまく進んで行きます。讃岐侵攻も「信長様に抵抗する阿波三好氏の讃岐拠点・十河氏を叩くため」という名分で合理化されます。
 元親は、信長配下の武将として、阿波・讃岐では三好家、伊予では河野・西園寺・宇都宮家などと戦い四国平定を進めていきます。その結果、天正八年(1580)初頭には、阿波では南方と上郡を手に入れた上に下郡にも進出し、讃岐では西讃を手に入れ、伊予では東予と南予に一定の地歩を築いきます。ここまでは元親の思い描いたとおりの進行だったのではないでしょうか。

蝙蝠の戦 ~戦国長宗我部伝~ ②|鬼丸国綱|note

天正八(1580)年が対信長外交のターニングポイントになるようです。
これ以後、信長との関係が急速に悪化していくのです。天正8~10年の政治情勢を見てみましょう。

 三好康長の讃岐・阿波へ介入を信長が許します
 天正九年(一五八一)六月、織田信長は元親の弟香宗我部親泰に朱印状を送っています。その朱印状の文面は次の通りです。(「香宗我部家伝証文」)。
三好式部少輔のことについては、こちらは別心はありません。そちら(阿波)で相談なさり、連携していることは珍重です。阿波方面の馳走(平定)に専念してください。なお三好山城守康長が連絡します。

  これとほぼ同時に出された三好康長の書状も見てみましょう。
(前略)阿波方面について、信長が朱印状で、今後は特別に親しくするようにとご命令なさいました。同名の三好式部少輔は若輩者です。近年の騒ぎが無事に収まりますよう、いろいろと指南してくださり、大切にしてくだされば珍重です。

 両方を合わせると、信長は香宗我部親泰に三好式部少輔を支援させようとしています。それが三好康長の希望によるものだったことも分かります。
ここに登場してきた三好康長とは何者なのでしょうか?

三好康長は、三好長慶の叔父にあたり、宗家の三好義継が滅ぼされた後も、幾内で最後まで信長に抵抗していました。信長に降伏して仕えるようになると、本願寺との和睦交渉も担当するなど、信長の信頼を得るようになります。当然、康長は三好一族として阿波国の回復を望んでいます。さらに讃岐国の十河在保、伊予の河野氏や西園寺氏もまた、元親に奪われた所領回復を望んで信長を頼っていたようです。さきほどの朱印状は、信長が康長を三好家の当主として位置づけたことを意味します。そして天正八(1580)年に康長を讃岐国の安富館へ派遣したのです。

 これはある意味、三好康長に阿波を与えたとも解釈できます。さらにいえば、信長と康長は、長宗我部家の阿波攻略に介入しようとしていたともいえます。   
 どうして信長は、三好康長に阿波・讃岐攻略を命じたのでしょうか。  「元親記」は、その理由を次のように記します

 信長は元親に、四国のことは元親の手柄次第に切り取るようにと朱印状を出していた。だが、ある人が信長にそのことを注意し、「元親は西国に並びない弓取りなので、今後天下統一の障害になるでしょう。(元親が)阿波と讃岐を手に入れたならば、すぐに淡路にも手を出し始めるでしょう」と言った。そこで信長は、伊予国と讃岐国を取り上げ、阿波南郡半国と本国の土佐のみ認めると言い出した。

 ここには、何者かが信長に讒言し、それを受けた信長が長宗我部家から四国各地を取り上げようとしたとされています。「元親記」は長宗我部家臣が江戸時代に記したものであり、その記述も元親を贔屓した見方になっていることが多いようですが、天正11(1583)の石谷光政(空然)宛の近衛前久書状に、これを裏づける次のような記述があります。
 去々年(天正九《1581)年冬、安土で信長に対して(長宗我部家のことを)いろいろと悪し様に語る者がいて、両家の関係が途絶えようとしたところ、私か信長に「元親には(信長を)疎んじる気持ちはありません」と弁解して一度は納得してもらえましたが、元親を悪く言う者はさらに様々に言った。

 ここには元親のことを悪し様に告げる者がいて、弁解を試みたが結局失敗したとします。この発言者が誰なのかは分かりませんが、長宗我部家を取り次いでいる明智光秀と対抗している者か、あるいは三好康長と結び付いた者だったのでしょう。明智光秀のライバル的存在とすると、羽柴秀吉の名前が挙がってきますが裏付け史料はありません。
長宗我部元親概念図

翌天正10(1582)年正月、石谷頼辰(元親の義兄)と仁首座が、明智光秀の使者として土佐にやってきます。
この時に頼辰は信長の朱印状を持ってきたようです。その内容は残っていませんが、後に元親が斎藤利三に送った書状から見て「讃岐国と阿波国を織田政権に差し出せ」というものだったようです。           
 これまで数年間をかけて地道に攻略してきた讃岐・阿波両国を差し出せという要求は元親にとって簡単に受け入れられるものではありません。使者の頼辰やその兄斎藤利三、そして明智光秀も元親が反発することを心配しており、元親の義父で土佐に下っていた石谷光政(空然)に元親の説得を依頼しています。
 「元親記」には、元親はこの要求を次のような言葉で断ったと記されています。
  「四国は私の手柄で切り取ったのです。信長様からの恩義ではありません。思ってもみないお言葉、驚きました」

元親にとっては、三好康長のことで信長への不信が積もっていました。その上にこの命令を受けたことから、信長に従い続けることの限界を感じたのかもしれません。
 元親が阿波・讃岐を差し出さないとみると、信長は四国への出兵をすすめます。あらかじめの行動だったのでしょう。(神戸)信孝を三好康長の養子として入れ、讃岐国を信孝、阿波国を三好康長、伊予・土佐は信長が淡路に到着次第決定する、という朱印状を、5月7日付で信孝に宛てて発します。
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信長は息子信孝に、次のように讃岐統治をについて指示しています

「国人たちの忠否を礼し、安堵すべき国人は安堵し、追放すべき国人は追放し、政道を堅く申し付けるように。三好康長を主君や父母だと思って、手伝うように」

この遠征をきっかけに讃岐・阿波を織田の直接支配下に置く目論見だったようです。もし、元親が抵抗するならば、全面的な軍事衝突もやむなしという態度です。
 信孝は、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄らを副将とした四国攻撃軍を五月末に大坂周辺に集結させ、6月3日をXーDAYとして作戦準備を進めます。
 一方、「元親記」には5月上旬に三好康長が先遣隊として阿波国にやってきて、勝瑞城に入るとともに長宗我部側の一宮城・夷山城を攻め落としたと記します。勝瑞城は阿波の三好勢力を統括する三好存保の城ですから、存保も織田勢に属していたことがうかがえます。これは長宗我部元親にとって最大の危機となります。

253 勝瑞城 – KAGAWA GALLERY-歴史館
勝瑞城 復元図

これに元親はどのような対応を取ったのでしょうか
 本能寺の変直前の5月21日付で元親が斎藤利三に宛てた書状が近年見つかりました。(「石谷家文書」)その内容の要点を意訳変換し
ておくと長宗我部元親の手紙
・今度のご命令を受けるのが今まで遅れてしまったのは、進物の用意が調わなかったからです。宮城をはじめ、夷山城、畑山城、牛岐城、仁宇城などは、ご命令に応じて残らず明けて退城します。
・海部城と大西城については、長宗我部家に残してください。それは私か讃岐と阿波を欲しがっているからではなく、土佐国の入口を守るべき城だからです。
斎藤利三書状(本能寺の変直前)

ここには元親が信長の命令を断ったわけではなく、手続きが遅れただけで、阿波国内の主要な城を明け渡すつもりがあったことが記されています。
 文面通りに受け取れば、元親は一度は断った信長の要求を受け入れ、讃岐・阿波を差し出すことに方針転換したことになります。ただ元親もこの手紙を信長が素直に受け入れてくれるとは思っていなかったようで、利三に
「(信長への)ご披露は難しいと頼辰もおっしゃっています。長宗我部家滅亡の時期が来たのでしょうか。長年織田政権のために尽くしてきて、少しも裏切るつもりは無かったのに、不意にこのようなことになってしまったことは納得できません」

との恨み節も記しています。
 信長の圧力に屈したかのように見える元親ですが、本当にく抵抗するつもりがなかったのでしょうか。
この利三への書状を記す三日前、元親は讃岐国で家臣に土地を与えています。(「土佐国貴簡集」)。つまり織田政権に渡すはずの土地を、家臣に与えているのです。これを見ると元親が、どこまで本気であったか疑問がでてきます。ここからは、元親は本能寺の変が起こるのを読んでいたという説も出てきます。
 元親は、恭順の姿勢を示すだけではなく、交渉の甲斐なく信長が長宗我部家を滅ぼそうとしたときに備えて、織田信孝勢の退路を断って撃破するプランも同時に立てていたのではないかと考える研究者もいるようです。
織田勢の四国攻撃隊は、出陣予定日の前日に本能寺の変が起こり中止となります。
 明智光秀は織田政権の重臣であり、家臣の斎藤利三が長宗我部家と遠縁にあたることから、織田家と長宗我部家の間を取り次いでいたことは、今までにも触れてきました。その光秀がなぜ信長を殺害するに至ったのかについては、様々な説が出ておりいまだに決着がついていなません。
主要な説を挙げておくと次のようになります(谷口克広『検証本能寺の変』)。
 ・怨恨説 光秀が信長を恨んでいた。
 ・野望説 自分が天下を取るために信長を殺した。
 ・足利義昭黒幕(連携)説:義昭を京都に迎え入れ室町幕府を再興しようとした。
 ・朝廷黒幕(連携)説 信長に圧迫された朝廷と組んだ
 ・イエズス会黒幕(連携)説 信長を滅ぼそうとするイエズス会が朝廷・光秀と組んだ。
 ・四国政策説 対四国外交をめぐって政権での立場が危うくなり追い込まれた。
長宗我部元親 本能寺の変

本能寺の変の原因の中に「四国政策説=長宗我部元親黒幕説」があるようです。
対四国外交をめぐる対立が、光秀と信長の間にあったというのです。その対応をめぐって光秀の面目が失われるとともに、政権内での彼の立場が弱まり、いずれ信長に追放されてしまうのではないかという恐れを光秀が抱いたことが原因とする説です。この説に関する記述が「元親記」にあるようです。そこには
「斎藤利三が、四国のことを気遣ったのか、明智光秀に早く謀反を起こすよう勧めた」

と記されています。むろんこれは二次史料の記述にすぎず、参考程度に扱われてきました。しかし、あらたに「石谷家文書」が発見されたことによって、利三と元親が本能寺の変直前に連絡を取り合ってきたことが明らかになり、再評価できる可能性が出てきたようです。ただ「元親記」の記述は、元親を救うために光秀が謀反を起こしたという、いわば長宗我部救援説です。元親を救うために主君を殺して独立するという行動までには飛躍があるように思えます。
長宗我部 元親の絵
長宗我部元親
本能寺の変について、元親がどのような感想を持ったのかはよく分かりません。「四国軍記」に

「信長公は武道では天下無双であったが、文道には暗く、無念の最期を遂げられたものよ」

という慨嘆が記されているのが数少ない例のようです。

以上をまとめておくと
①長宗我部元親は土佐統一後、直ちに四国平定に向けて軍事行動を開始する
②外交戦略としては、信長政権に接近して「四国最大の信長派」を自称し、天下人の信長の権威を利用しながら調略工作を進めた。
③この外交戦略はうまく運び天正8(1580)年までには、四国の大部分を占領下に置いた
④しかし、長宗我部元親の巨大化を怖れた信長は、それまでの「同盟関係」を破棄し、讃岐と阿波の返還を迫り、軍事的な圧迫を加えた。
⑤元親は、一旦は断ったが結局はこれを受けいれる以外になかった。
⑥しかし、織田軍出陣の前日に本能寺の変が起こり、元親の危機は去ったかのようにみえた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「平井上総  長宗我部元親・盛親 ミネルヴァ日本評伝選」


    前回は瀬戸内海船の石船と砂舟の歴史を見てみました。今回は、石炭船を見ていきたいと思います。テキストは  宮本常一著作集49 塩の民俗と生活214P 石炭と石炭船です。
1石炭運搬船

 日本列島では塩を海の潮からつくってきました。その行程の最後には煮詰めるという手順が欠かせません。そのために燃料としての大量の木材が必要とされ、塩田付きの汐木(塩木)山が確保されるようになります。しかし、塩の生産が増えれば増えるほど、消費する木材も増え、塩木山ははげ山化していくことになります。こうして、近世になると瀬戸内海周辺の塩田地帯では、燃料用の木材不足に悩まされるようになります。
 その解決法のひとつが石炭の利用です。
今回は、石炭がどのように塩田で用いられるようになったのか、またその輸送はどのように行われたかを見ていくことにします。
石炭はいつどこで使われるようになったのでしょうか。
 正保二年(1645)に板行された『毛吹草』という書物の長門の項に「舟木石炭」という言葉がでてきます。この書物は寛永一五年(1638)には成立していたようですから、山口県厚狭郡船木(宇部市)周辺では、そのころから石炭の採掘がはじまっていたことがうかがえます。舟木で採掘された石炭は、小野田の赤崎周辺に運ばれ塩焼きに用いられていたようです。それは小野田市の赤崎神社の境内に、約350年前の石炭ガラの堆積があることから分かります。赤崎神社の北の竜王町は、現在は住宅地になっていますが、もとは塩浜だった所です。このあたりの海岸には、百姓小浜とよばれる小さい揚浜塩田がたくさんあり、赤崎神社の北側もその一つであったようです。
 宇部赤崎神社

ここからは宇部周辺では、製塩のために石炭を使うことは17世紀に始まってたことが分かります。しかし、なぜか周辺には広がってゆかなかったようです。その理由はよくかっていません。
塩田での石炭使用の普及は
 明和九年(1771)三月、安芸厳島に安芸・備後・伊予・周防・長門の五カ国の塩田業者が集まって、塩の生産過剰に対して「休浜法」の協議をしています。その際に
「塩並二石炭相場、時々無怠通合候事」

という一条があります。塩と石炭の相場については、怠りなく互いに連絡しあうという合意内容です。ここからは、18世紀後半には石炭が燃料として使用されていたことがわかります。その石炭は、多くは船木・小野田・宇部などから運ばれてきたものでした。百年かけて、塩田での石炭使用が広がっていったことがうかがえます。
北九州でも石炭が燃料として着目されるようになったのは17世紀に入ってからです。
元禄四年(1669)のケンペルの『江戸参府旅行日記』に、黒崎(北九州市八幡西区)で見分したことを次のように記します。
「数力所の石炭坑あり(案内の藩役人が)我等に甚だ珍奇なるもの、注目すべきものとし教えてくれた」
ここからは、17世紀後半に北九州では石炭採掘が行われ市場に出回っていたことが分かります。
  12年後に完成した『筑前国続風土記』(貝原益軒)には、次のように記されています。
「燃石、燃 遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像の処々の山野に有之、村民是を掘りて薪に代用す。遠賀、鞍手殊に多し。頃年糟屋の山にてもほる」
意訳変換しておくと
燃石(石炭)は遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像などの山野にあって、村民はこれを掘って薪の代用にしている。なかでも遠賀、鞍手は産出量が特に多い。近頃は糟屋でも採掘するようになった。

とあって、17世紀後半には盛んに石炭を掘るようになっていたことが分かります。筑前の隣の豊前地方でも石炭はそのころ掘られていましたが、それが製塩のため利用されるようになったのは、明和年間になってからのようです。

 このような中で石炭利用の先進地域である筑前の遠賀郡若松(北九州市若松区)の庄屋和田佐平は、塩焼竃の下部に鉄網を敷いて石炭を焚くと火力がつよく経済的であることに気づきます。これを長州の塩田主に売り込もうと石炭を船に積んで三田尻に持って来ます。彼は、宇部地区では石炭を製塩燃料に使っていることを知っていたのかもしれません。三田尻では石炭の使用法をまだ知りませんでした。そのため異国者の佐平のセールスを相手にする者がなく、商談は成立しません。佐平はやむなく石炭を海に捨てて帰国したといわれます。これも宇部以外では、石炭を製塩には使っていなかったことを示すことを裏付ける話です。

1防府・三田尻塩田
1928年国土地理院地図
 三田尻の浜主たちが佐平のすすめを思い出したのか、豊前の塩浜が石炭を使用していることを聞いて、塩竃の築造を学び、石炭を試用してるのは安永七年(1778)になってからです。その結果、その効果の大きいことに驚き、すぐに筑前から石炭を買い付けを始めます。ここからも、石炭の使用が広がるのは18世紀後半になってからということが裏付けられます。こうして石炭の使用エリアは西から東に広がっていきます。
 三田尻の帆船は、筑紫の遠賀川口につめかけて瀬戸内海沿岸に運ぶようになります。
天保八年( 1837)には6880万斤(4,1万トン)が採掘され、地元消費は60万斤だけです。そのほとんどが他国に「輸出」されていたようです。そのうち最大の購入所は、三田尻塩浜で4565万斤という数字が残っています。筑紫の石炭産出量の約5/7は、三田尻の塩田主が買っています。三田尻が筑紫の最大のお得意さんでした。

  石炭需要の高まりを他の地域も指をくわえて見ているはずもありません。
1宇部市 居能
1928年国土地理院地図 宇部線がかつての海岸線
各地で炭鉱が開かれるようになります。その筆頭が、宇部小野田地区です。宇部は今では海を大きく埋め立て大きな臨海工業都市になっていますが、昔は海岸に松原が並ぶ光景が続いていました。その松原の外側は砂浜、内側は水田です。石炭が掘られたのは水田の東の丘陵地②です。そこに竪坑を掘って、そこから掘り出していました。掘り出された石炭は、ザルに入れて天粋棒で担いで海岸まで運ばれます。それが船に積まれて各地の塩田に運ばれていきました。一荷を一振とよび、 一振一六貫すなわち100斤という計算になります。
明治になると炭坑から海岸までレールが敷かれ、炭車に石炭を積んで後を押して海岸まで運び出されるようになります。海岸には何十というほど桟橋がならんでいて、炭車を桟橋の先まで押していき、そこに横着けにしている船にバラ積みします。その船は普通のイサバやバイセンなどとは違って、船べりには垣板がなく、丸太をふたつに割ったものを打ちつけて丈夫に作ってあります。普通の帆船は米を積むのが主で、何石積みというように容量で大きさを示していました。その中で最も大きいものが千石船でした。
それに対して石炭を積む船は、土船または胴船とよばれました。
容量ではなく重量積み、すなわち斤で大きさをはかったのです。二〇万斤も積める船は大きいほうでした。土船というのは土や砂を積む船のことです。17世紀に入ると、内海沿岸では埋立てや干拓が相次いで行なわれ、また塩田も多く築造されるようになります。埋立てのためには、たくさんの土を必要とします。その土は背後の山を切り崩して用いることもありましたが、背後が平地なときには埋立用の土が手に入りにくくなります。そこで近くの島や岬などの土を切り崩して、船に積んで運んでくるようになります。ここで活躍するのが土船です。現在風にいうなら「海のダンプカー」といった所でしょうか・・・
土船は瀬戸内海のいろいろな所にいたようです。
特に倉橋島・能美島に多かったようです。その土船も石炭を積むようになっていきます。宇部市の①居能は、もと北前船の多いところでした。居能の船は日本海岸を山形・秋田方面まで行って米を積んで帰り、下関の亀山の下にずらりと並んでいる米蔵にそれを納めました。彼らの役割はここまでです。いったん米倉に入れられた米は、時期をうかがって大阪・兵庫へ運び出されていきます。そのときには、瀬戸内専用の別船が担当していました。居能など瀬戸内海の千石船は一時は、北前航路専用で運用されていた時期があるようです。しかし、18世紀後半になると近畿や瀬戸内海の北前船は、日本海エリアの船に押されて撤退する船が多くなります。いわば活動場所を失ったのです。
1石炭運搬船

 宇部での石炭の産出が増えるにつれて、北前船に乗つていた人たちが石炭船に乗替えるようになります。
彼らは北前船の経験から土船の規模をを大きくして、より多くの石炭を積めるタイプの船を作ります。胴の張った船だったので胴船と呼ばれたようです。居能の北前船やイサバが胴船に切り替えられるようになったのは明治30年(1871)ごろでした。
 埋立てが進むにつれて、宇部には⑥新川という新しい港が造られました。ここには千トンの船も着岸可能だったので、石炭の荷役はここで行われるようになります。そうすると居能の船も新川を中心にして活躍することになります。石炭需要はうなぎ登りですから船主として新造船を投入したいところです。しかし、船乗りがそろいません。居能の人は代々船乗りですからみな水夫として働きます。それでも足りません。そこで宇部周辺の者を水夫として雇おうとしますが、農民は水夫には向かなかったようです。水夫不足という課題を抱えることになります。
 石炭の産出は年々増加し、塩田からの石炭需要も増えます。しかし、船員は確保できない。そうなると次に考えることは、船を大きくして一度に運べる量を増やすことです。いまの海運業界の対応と似ています。
1スクーナー型帆船

こうして明治40年(1907)ごろから腰の高いスクーナー型帆船が造られるようになります。これは黒船または合の子船とも呼ばれたようです。石炭を積むために造られた船です。土船は腰が低く、風浪にも弱く沈没の危険性も高かったようですが、この点でもスクーナー型帆船は改良されています。
土船は「斤積み=重量計測」でしたが、スクーナー型帆船になるとトン積み計算になります。
石炭は炭坑から浜までかごで運ばれ、100斤を一振として取り扱ってきました。それがさきほど述べたように日清戦争前後の明治27年頃に、王子炭破塙が炭坑から海岸までレールを敷いて炭車で運ぶようになったときに、炭車の箱を500斤入りにします。これを半トンとして計算するようになります。つまり「500斤=80貫」、「1トン=270貫」から、「半トン=135貫」になります。500斤を半トンとして計算すると、実際には半トンは55貫も軽いことになりますが、当時はそれでいくことになったようです。こうして炭車の石炭をいくつ積むかで、船の大きさは測られるようになります。 10箱ならば5トン、 100箱なら50トンということです。そして明治40年ごろになると、炭箱も大きさを一定にして、四箱で1トンに標準化されます。
 炭車が利用されることによって、積み降ろしも操作も楽になります。スクーナー型帆船の登場で船の大型化と安全性・操作性が高まると、外部からの新規参入者も出てくるようになります。このときに採用された船員は、島根県出身者が多かったようです。こうして大正時代になると、宇部には100隻をこえる石炭船が出現するようになります。

 宇部には、瀬戸内海各地から石炭を積みに船がやってくるようになります。
それは阿知須・岐波[宇部市]、三田尻、上関の白井田、広島県の能美・倉橋が多かったようです。前回もお話ししたように能美・倉橋は土船・石船の多いところでした。山田洋次監督の「故郷」の陰の主役は石船でした。広島湾周辺の埋立地で働いていた石船の中には、石炭船に転身するものが出てきます。それを真似て、広島県の幸崎・音戸や、愛媛県の伯方や今治の波方からも石炭船に転業した船がやってくるようになります。

 石炭掘りは、たいへんもうかる仕事だったようです。
初めは掘った石炭を共同組合が集めて売っていました。それを船を持っている者が買いとって、それぞれの塩田へ持って行って売るという訪問販売スタイルでした。買ってくれる塩田まで船で運んでいきました。注文を受けての輸送ではないので買い手がつかないと、斎田(徳島県鳴門市)まで行ったこともあるようです。ここまでくると投げ売りで安くても売ってしまうこともあったと口伝は伝えます。
石炭売りは訪問販売でしたので、すべて現金取引きでした。
石炭も採掘方法が進み産炭が多くなると、炭坑自身も資金力をつけて、自前の船を持って売り歩くことも多くなります。これを直売と呼びます。売りさきは石炭問屋が多かったようですが、塩田の浜主のところへ売ることもでてきます。こんな状態が明治30年ごろまで続きます。日清戦争が終わり日本の産業革命が本格化する明治30年をすぎると石炭大型船(黒船)は、大阪の工場へ向かう船が多くなり、塩田の比率は低下していきます。その中で、小型の土船型船の多くは、それまで通り塩田へ石炭を売って瀬戸内海を回っていました。石炭の流通路が大きく変わりつつあったのです。
 こうして昭和になると瀬戸内海には石炭を満載した船が、西から東へと連なるようにして運行されるようになるのです。その寄港地として、大崎下島の御手洗の花街は輝き続けます。

以上をまとめておくと
①石炭は17世紀に宇部周辺の塩田で使用されるようになった
②これが周辺に拡大していくのは18世紀後半になってからのこと
③最初は石炭を買い取った石炭船が瀬戸内海の塩田主を訪ねて売りさばく訪問販売で現金支払いだった
④次第に、各地の石船や土船が石炭船に転業し、宇部に石炭の買い出しに訪れるようになる
⑤明治になると千石船から石炭船に乗り換える水夫が増えるなど、実入りのいい仕事であった。
⑥しかし、当時の船乗りは「特殊技能職」で人手が揃わず、資本力のある船は大型化した。
⑦日清戦争後の第2次産業革命の進行は石炭需要を大幅に増大させ、京阪工業地帯へ石炭を運ぶ船は機帆船と成り大型化した。
⑧御手洗などの色街の最大のお得意さんは、石炭船の船乗りであった。
⑨小型の土船は相変わらず地元の塩田へ宇部の石炭を運び続けた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     宮本常一著作集49 塩の民俗と生活214P 石炭と石炭船
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山田洋次・名作映画DVDマガジン 2013年4/2号 【付録】 「故郷」復刻版ポスター 講談社 本/雑誌 - Neowing

1972年公開の山田洋次監督「故郷」は、瀬戸内海の倉橋島で石船で生計を立てていた夫婦が工業化の波の中で、島での生活を諦めて故郷を捨てる決断をするまでを描いた作品でした。見終わった後に心にずっしりとしたものが残った記憶が今でもあります。この映画の影の主役は「石船」でもありました。
塩田 石船
映画「故郷」の蔭の主役 石船
船が石を運ぶ、海のダンプカーのような役割を果たし、それが夫婦で運営されていることも印象深いことでした。瀬戸内海の石舟の歴史について、知りたいなとかねてから思っていたのですが宮本常一の著作集を読んでいると出会うことができました。今回は読書メモ代わりに瀬戸内海の石舟を見ていきます。テキストは宮本常一著作集49 塩の民俗と生活221P 石船・砂船です。
塩田 石垣
波止浜塩田の堤防石垣と雁木
 日本で石垣が盛んに築かれるようになったのは、城郭の築造が盛んになる中世末からのようです。
この時代の石垣の多くは、穴太衆が積む石垣のように大きな石の間に小さい石をはさんだものです。 ところが、近世になって海岸埋立てのための石垣や波止(防波堤)が築かれるようになると、それでは波が小さな石をぬきとって石垣を崩していきました。そのために大きい石のみを積み重ね、その石のからみあいによって破壊されることを防ぐようにするようになります。そのために使われるようになるのが花崗岩です。

瀬戸内海は1300年前には火山の密集地帯で、活発な火山活動を行っていましたから花崗岩は各地に分布しています。東から見ても、兵庫県男家島・西ノ島、香川県小豆島・豊島・庵治町、岡山県大島、香川県櫃石島・与島・小与島・広島、岡山県北木島・白石島、愛媛県越智大島、広島県倉橋島・能美島、山口県浮島・黒髪島などと東西に並びます。
塩田石の採石場 北木島
北木島の採石場跡(岡山県笠岡市)
 小豆島は大坂城の石垣の石を出したところといわれ有名です。しかし、周辺の島々を訪ねて歩いていると各大名の石切場として大阪城に石を出したという島がたくさんあります。当然、採石場のあるところには石船が多かったことは家島をみても分かります。石船というのは石を積むのに適した造りの船で、頑丈でした。船底を浅くして石の積みおろしに便利なように造り、船べりが高くはありませんから、波には弱かったようです。映画「故郷」で活躍していた石船も、江戸時代からの石船の延長線にあるようです。
塩田 故郷2
荷を下ろすときには船体を大きく傾けて滑り落とす石船
  江戸時代の海岸の埋立ての手順を見ておきましょう
①遠浅地形の石垣を築こうとするところへ捨石をする。
②届石を海中に投げ捨て、千潮のときにはその石群が水面へ出るようにする。
③するとその石の周囲に砂が集ってきて、州ができる。
④そして捨石群が列に置かれていれば自然に長い州ができ、そこへ石垣をついていく
⑤最後は干潮時でも干上がらぬ所が出てきます。そこを残して石垣を積み上げ、大潮の干上がりのとき、せきとめをする。
塩田復元 宇多津1
宇多津の復元塩田

ここからは置石をポイントに並べていくことがポイントであることが分かります。また、石垣を組む作業が出来るのは干潮の限られた時間だけです。そのため塩田のような大きな干拓を行なうときには10年以上もかかることがあったようです。
  映画「故郷」の舞台となった広島県能美島にも石船が昔から多かったと宮本常一は指摘します。
小型のものは、大黒神島から屑石を主として広島湾岸の埋立地の捨石として運んでいました。この島には自然のままの屑石が多く、それをかき集めては船に積んで運び、帰りにはその地の塵芥をもらい受けて持ち帰り、これを堆肥にして畑に入れたといいます。映画でも出てきましたが、資本力のある家は、船を大型化していきます。そして、石を運ぶよりも、宇部や九州から石炭を塩田へ運ぶようなります。これは大崎や油良の石船も同じて、石船の多くが石炭運搬船に変わっていったようです。
塩田 故郷石船3

  瀬戸内海の石船や石工は、塩田築造にも大きく関わっています。
広島県生口島南岸にはかつては小さい入浜塩田が多くありました。その塩田の石垣は越智大島からやってきた石工によって築かれたものが多く、石も大島から船で運んだきた伝えられます。そして、そのまま定着し塩田経営者になった者も多かったと云うのです。塩田の石垣作りを依頼されてやってきて、傍らに自分の塩田を作って塩田主に変身したということになります。

生口島には、砂船乗りが多かったようです。
干拓地を作るのなら土を運びますが、塩田の場合には砂を多く運ぶことになります。この島では土船といわず砂船と呼んでいたこともそれを裏付けます。明治時代には300隻をこえる砂船がいたとされます。船は大きいものではなく、石船をさらに小さくしたようなもので、たいてい夫婦で乗っていたようです。ここにも、昭和の石船につながる姿が見えてきます。
塩田復元 宇多津2
砂が敷かれた塩田 宇多津

 塩田築造が遅くまで行われたのは生産条件がよかった讃岐です。
讃岐を稼ぎ場にしていた砂船の船頭は次のように回顧しています
石垣の築造が進むと、次には塩田に入れる砂を運ぶ。粗い砂はどこの砂浜のものを採ってもよかった。塩田の近くの場所で、砂がとれる所に冥加金をおさめて船へ砂を運び込む。築造地へ行って、その砂を田面にまいてゆく。船から陸へあゆみの板をかけ、砂を皿籠に入れて天粋棒で担いで運ぶ。荷揚げしてしまうと、また砂を採りにいく。満潮時でないと船を塩浜の中へ乗り入れることができないので、稼ぎの時間は限られていて、毎日砂をあげる時間が違っていたのが辛かった。
 粗妙をまき終わって粘土を入れ、その上に目の細かい砂をまく。これはどこの砂でもいいものではなかった。愛媛県の新居郡の浜まで採りにいかねばならなかった。新居郡で手に入らないと大分県の海部郡の海岸にも採りに行った。

  砂船の多かったのは生口島の南側ばかりでなく、生口島の東南の生名島や徳島県の撫養にも多かったようです。
大正時代になると、塩田築造はほとんどなくなり、砂を運ぶ仕事がなくなります。
仕事場をなくした船は貨物運搬に転ずるものが多かったようです。しかし、中には大阪付近の川ざらいの仕事に携わる者も出てきます。川底の砂をすくいあげて運ぶのです。いわゆる河川改修工事にあたるのでしょうか。
 大正12年(1923)の東京震災の後は、東京から仕事が舞い込み、焼跡の瓦礫を深川付近の低地埋立てのために運びます。これをきっかけにして瀬戸内海から東京に進出した者が多く現れます。彼らは船を家として働く家船生活で、子供たちも親と共に船で生活するようになります。瓦礫運搬の終わった後は、利根川の改修工事が舞い込みます。このようにして隅田川を根城にしていた水上生活者は、瀬戸内海から出かけて行った砂舟業者が多かったようです。
 戦後、陸上ではトラック輸送によって土が運ばれるようになり、水上では浚渫船が活躍するようにると、砂船や土船は隅田川から姿を消すことになります。
 その後、臨海工業地帯の造成のための大規模な埋立工事が行われるようになります。しかし、ここには瀬戸内海の砂船には登場の機会はありませんでした。大型化されシステム化された企業の活躍の場となっていったのです。
 映画「故郷」は「人類の進歩と調和」を掲げた万博を終え、「大きいことはいいことだ」とCMが歌いあげていた1970年代前半の日本を見事に切り抜いて見せてくれます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
 宮本常一著作集49 塩の民俗と生活221P 石船・砂船

三浦 地図1
1928年国土地理院地図

今から約百年前の国土地理院の宇多津周辺の上の地図を眺めていると、青野山のまわりは水田が拡がり、北側には塩田が広がります。古代においては、海が入り込み丸亀城の亀山も青野山も角山・聖通寺山も海に浮かぶ島だったとされます。今回見ていくのは、聖通寺山周辺にあった平山と御供所です。このエリアの人たちは、近世初頭に丸亀の土器町に移住して、三浦を開きます。その過程を追ってみたいと思います。
  坂出市と宇多津町にまたがる聖通寺山は、もとは瀬戸内海に突きだした岬で、旧石器時代から人が生活していた痕跡があります。頂上には積石塚古墳があり、室町時代には聖通寺城が築かれていました。「南海通記」によれば、管領細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が貞治元年(1362)高屋合戦の武功で鵜足・那珂の二郡を賜り、応仁の頃(1467~68)には聖通寺山に城を築いたとあります。その後天正十年(1582)、讃岐攻略を目指す長宗我部元親の軍勢の前に、奈良氏は、城を捨て勝瑞城の十河存保を頼り敗走します。南海通記の記述が正しいとすると、奈良氏が城を築いていた頃に、その聖通寺山の海際で瀬戸内海交易活動を展開していたのが平山の住人達だったことになります。
 中世の平山について
 平山は聖通寺山の北西にあり、湾入する入江の北に平山、南に宇多津が位置します。湾を挟んで北と南という関係で、その間に大束川が流れ込みます。平山も中世には活発な瀬戸内海交易活動を行う港であったことが史料から分かります。兵庫北関を平山船籍の船が19艘も通過し、通行税を納めていることが記録されています。これは讃岐の17港のうちランキング6位になります。船の大きさや積荷は宇多津と似ています。例えば塩の表記を見ると、詫間や児島といった近隣海域から集めたものを運んでいて、宇多津船とは機能差・性格差があり「棲み分け」をおこなっていたことがうかがえます。
 「与四郎」、「与平四郎」、「新左衛門」という船頭名は宇多津にはみられません。平山の集落を本拠地として活動した人物と研究者は考えているようです。また宇多津との関係では、平山から出た船の大多数が宇多津から出た船とほぼ同じ日に兵庫津を通過しています。ここからは、平山と宇多津の船頭の間には密接な関係がうかがえます。宇多津と平山はそれぞれ自立した港ですが、機能面で連動し、相互補完的な関係で交易船を運航していたようです。
 ここで押さえておきたいのは、平山がただの漁村ではなかったということです。宇多津と共に、瀬戸内海交易をになう湊であったことを確認します。
丸亀三浦 平山
  平山と宇多津は湾を挟んで向かい合う形にあった実線が復元海岸線
中世の平山の位置は?
 上図で中世の平山の集落がどこにあったかを見ておきましょう。
聖通寺山から伸びる砂堆2が海に突き出し、天然の防波堤の役割をはたします。その背後に広がる「集落5」と、聖通寺山北西麓の「集落6」が中世の平山集落に想定できると研究者は考えているようです。「集落5」が現在の平山、「集落6」が北浦になります。これらの集落に本拠地を置く船主たちが、小規模ながらも港町が形成していたようです。集落5の山裾からは、多くの中世石造物が確認されているのがうらずけとなります。
 平山の交易活動は、宇多津よりも沖合いに近い立地等を活かして近距離交易を中心としたものでした。つまり、平山の船が周囲から集めてきた近隣商品を、宇多津船が畿内に運ぶという分担ができていたとします。平山の交易湊としての性格は、宇多津と他の港を繋ぐ結節点としての役割を担い、それをベースに宇多津と強く結びつけられていたと研究者は考えているようです。
 以上から聖通寺山の周辺には、中世以来の瀬戸内海交易活動を行っていた集団がいたことを押さえておきます。

秀吉が四国を平定し、長宗我部元親が去った後に讃岐領主としてやってくるのが生駒親正です。生駒藩では、平山や御供所の船乗り達を水夫として使役します。
その経緯を「三浦漁夫旧記」で見ておきましょう。
「文禄年中、太閤高麗御陣の節、塩飽廻船加子六百五十人、三浦加子二百八十人、西国船頭御案内のため、三浦加子共召し遣わされて」朝鮮まで出て行った。その功として、塩飽は、御朱印を賜ったにもかかわらず、三浦の方には何もなかった。そこで生駒様に申し出て、三浦加子共の大坂夏の陣での活躍にもとづき「鵜足郡土器村に於いて畑高百七十五石、御城下近辺二て百二十二石、諸役御免許の御墨付」を賜った。また、「追って御用相勤むべき旨、かつ御用先二於いては船下中共帯刀御免成さるべき旨」

ここには次のように記されています。
①朝鮮出兵の際に、秀吉の命にで三浦の加子が朝鮮にまで出掛けて行ったこと
②それに対して秀吉からは何の報償もなかった
③そこで領主の生駒氏に交渉し、畑高175石と(丸亀)域下近辺に132石の土地と諸役(税)免除の墨付が三浦に与えられた。
④その代わりに三浦衆は、加子役を引き受け帯刀が許された
 これを『西讃府志』は慶長六(1601)年のこととして記しています。
三浦側では、現在の土地は恩賞として生駒家から与えられたものとしています。どちらにしても、生駒親正が讃岐に入ってきたときに早急にやらねばならないことの一つは、水軍整備だったことは以前にお話ししました。四国兵隊後の秀吉の次の目標は、九州平定と朝鮮出兵でした。そのための水軍整備を秀吉は「四国勢」に申しつけていました。秀吉の直属として、その準備を進めたのは小西行長で、塩飽はその配下に入ります。つまり、塩飽は秀吉直属の輸送船団となります。
 一方、平山は生駒氏の水軍に編成されます。国立か県立かの違いのようなものでしょうか、「任命権者が違うので、秀吉から恩賞がでるはずはありません。三浦衆の主張では、朝鮮出兵の際の恩賞が、どこからももらえなかったというのです。
丸亀三浦 1928年

1928年の国土地理院地図  土器川から弓なりになった街道が東に伸びる。これは当時の海岸線沿いに御供所や平山の町がつくられたため。
 関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。
今後、もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐのことが幕府より求められます。そのため瀬戸内海沿いの各藩では水城の築城と水軍の組織化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を行ったのもこのようなことが背景にあるのではないでしょうか。
 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に「移住」させます。その狙いは、どこにあったのかを考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫、
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団の集中化
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
 こうして、新しく築造が始まった丸亀城の海際には、聖通寺山から平山・御供所の加古(船員)集団が移住してきます。彼らに割り当てられたエリアはどこだったのでしょうか。
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
丸亀城周辺 正保国絵図
③や④は砂州になります。①の土器川河口の③の砂州の先端に舟番所が置かれています。ここが福島湛甫や新堀が出来る以前の丸亀湊でした。その湊に隣接する砂州の上が、移住地になります。
同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 砂州1・2の間を西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州①②の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。砂州①の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。砂州の方向に沿って弓なりに高松街道が通されます。その道沿い平山や御供所からの移住者の家は建ち並んでいきました。
 丸亀城下には三浦以外にも、藩が進める移住計画に沿って、南条町や塩飽町を中心に家並みや寺院が立ち並んでいくようになり城下町整備が進みます。ところが大阪冬の陣が終わると、一国一城令が出され、丸亀城は廃城とされます。私は、この時に城下町も消えたと思っていましたが、そうではないようです。城下に集められた集団は、なんらかの特権を認められていたので城が廃城になっても動くことなく、そのまま丸亀で生活していたようです。例えば生駒時代の三浦は、舟御用の水夫役を果たす代償として、阿波から伊予までの漁業権が保障されていました。その特権で讃岐の領海一円での漁業活動が認められていたのです。これは、城がなくなっても動けません。城下町として人為的に作られた街並みが、城がなくなっても活動を続けていたのです。
丸亀城 正保国絵図古町と新町

 そのため生駒氏に代わって西讃に入ってきた山崎氏は、この地に城を復活することにしたのではないかと私は考えています。山崎時代に書かれた城下町絵図には、生駒時代の街並みが「古町」と記されます。三浦の街並みも「古町」と書かれています。
丸亀市東河口

 三浦衆は入国した山崎氏に、次のような嘆願書を提出しています。
生駒様御没落後、御入国二相成り、寛永十九年、山崎様御入国の砌、前件加子地、委細申し上げ奉り候処、御聞こし召し届かされ、御身上相応と御座候て、畑地八町六反四畝、一三浦庄内並二加子弐百八十、新た二御免許成し下され候義二御座候
意訳変換しておくと
生駒様が没落後の寛永十九(1642)年に、山崎様が入国の際に、今までの加子地のことについて経緯を説明した結果、お聞き届けいただいて、三浦庄内に畑地8町6反4畝頂き、加子280人を、新たに任命していただきました。

  ここからは山崎氏がやってきた時点で三浦は正式な加古浦として認められたことがうかがえます。
当時の各藩の加古浦をめぐる状況を見ておくことにします
 生駒藩時代に「先代慶長年中 生駒一正時代、魚棚野方へ引き、その時より水夫役勤め候」といった記事が「英公外記」(延宝五年(一六七七)にあります。高松城下の魚棚町の住人の一部を野方町へ移動させて水主役を務めさせたという内容です。この政策は岡山藩の水主浦役の設定と共通するものがあるようです。各藩では廻米輸送のために藩有船を動かすよりも水主浦を指定し、税金としての水夫役を納めさて船を動かせた方が得策と考えるようになっていたことがうかがえます。江戸時代の蔵米輸送船の国(藩)有化から民営化へという政策転換かもしれません。それを山崎藩も採用したとしておきましょう。

 この時に認められた加子地(畑地8町)は、13年後の明暦元年(1655)の検地でようやく承認されます。この間に、三浦衆は塩飽を訴えて漁場争論を起こしています。承応三年(1654)に大坂町奉行の判決は、三浦の一方的な敗訴でした。しかし、天下の塩飽衆と争うというのは、三浦衆が山崎氏に対して行っていた加子役要求のデモンストレーションの一環とも思えます。その後、京極氏に替わても三浦の地位は変わりませんでした。

三浦の水夫役数は「280所」で、内訳は御供所85、北平山76、西平山119です。この加子役は一年に5040と決められていました。以後、三浦は次のような役割を果たすようになります。
 「一軒二付き一ヶ月一人半、外夫召し遣われ候節は壱人一日町升にて一升、賃銀五分宛下され候、右五千四拾人の内召し遣われ候分、大船頭宛通の表にて差し引き、水夫未進分として壱人二付き五分宛御船手へ納める」

この役割を果たしながら、丸亀藩の加古浦として、次第に交易活動を復活させていきます。
 加子浦としての三浦が果たした役割は、なんだったのでしょうか
その役割を挙げておくと、次のようになります
①藩主の参勤交代の際などの人員輸送
②江戸藩邸への日用品輸送
③廻米輸送・城米輸送

次に三浦にあった東河口湊を見ておきましょう。
丸亀市東河口 元禄版

1645年の山崎藩の時に幕府に提出された正保城絵図には、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流して、真光寺の東北に番所が描かれています。この絵図から約50年後の京極時代の元禄十年(1697)の「城下絵図」には、真光寺の東南と東北の二か所に番所があります。一か所は土器川を渡る人々を、 一か所は港に出入りする船の番所と研究者は考えているようです。

土器川河口 明治
明治末の土器川河口周辺(現在よりも西側を流れていた)

 近世前半の丸亀港は、東川口湊だったようです。
二代藩主京極高豊が初めて丸亀へ帰った延宝四年(1676)7月朔日には「備中様御入部、御船御供所へ御着、御行列にて御入城遊ばされ候」とあります。ここからは京極公は、初めてのお国入りの時には、船は土器川河口の東河口に着いたことが分かります。
丸亀三浦3

 土器川河口の湊(東河口湊)のことについて、もう少し見ておきましょう。17世紀中頃の「丸亀繁昌記」の書き出し部分には、この河口の港の賑わいぶりを次のように記します
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幟は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の棟造りは、のぞきみえし二軒茶屋のかかり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かかり船、ぶね引か おはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あり」

意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わわないが、神徳の高い象頭山(金毘羅大権現)へ参拝客が数多く集まってくる。数多(あまた)の船宿が建ち並び、市もたつ。諸国引合目印の幟は、旅籠の軒にひるがえり、中でも丸ひ印の棟造りは、二軒茶屋のあたりであろうか。川口(土器川河口の船着場)の繁雑、出船や入船、舫われた船、曳舟か 「おはやい」との正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客が絶えることはなく賑やかで、中村・淡路の屋台を初め、二階座敷からは長歌が聞こえてくる。

ここからは東河口湊に上陸した金毘羅詣客が、東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が記されています。三浦は漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、交易活動を行う者もいたようです。三浦は丸亀の海の玄関口で、繁華街でもあったようです。  
東河口湊は東汐入川と外堀で城下の米蔵(旧市民会館)にながっていました。

丸亀三浦2 東河口湊


山崎時代の「讃岐国丸亀絵図」では、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流し、真光寺の東北に番所が描かれています。これが港に出入りする船を見張る船番所とされています。荷物を積んだ小舟は、東川口の番所を通り、東汐入川をさかのばり、木材や藁などは風袋町の東南にある藩の材木置場や藁蔵へ運ばれました。昭和の初期ころまでは、東汐入川の両岸にある材木商に丸太などの木材が運ばれていたようです。米などは、外堀の水位を考慮しつつ、外堀の北側中央(現県道三二号。市民会館北交差点の東方)付近にある米揚場の雁木から荷揚げし、その南にある米蔵(現市民会館付近)に納入していたと云います。
丸亀市米蔵

文化三年(1806)には、福島湛甫、天保初年には新堀湛甫ができると、東川口は旅客の港としては次第に寂れていきます。三浦に代わって福島が丸亀の玄関口となっていきます。
丸亀城絵図42
 
まとめておくと
①中世奈良氏が聖通寺山に城を構えていた頃に、そのふもとの平山には瀬戸内海交易を行う集団がいた
②平山に拠点を置く海民たちは、秀吉の朝鮮出兵の際に加古集団として生駒氏に組織された
③丸亀城築城の際には、加古や交易管理集団として丸亀の海際に移住させらた
④山崎藩では、正式に加古浦に指定され、特権を得るようになった
⑤京極藩では、東河口湊の管理・運営を任され、金毘羅船の運行や旅籠経営、海上交易などに進出する者も現れ、三浦は繁華街としても栄えた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史352P   近世漁業の成立と塩飽・三浦

弘前藩では西回り航路が開けるまでは、輸送方法がなく「商品価値」なく山林資源は温存されてきました。
 それに目を付けたのが塩飽の丸尾氏です。丸尾氏は弘前藩と木材の独占契約を結び、船で大坂や江戸に運ぶという新事業を興します。今回は、その過程を追ってみたいと思います。テキストは「丸亀市史896P 近世前期に見る塩飽廻船の動き」です。
廻船

まず近世初頭の塩飽衆の置かれた状況を振り返っておきましょう。
16世紀後半に信長が航行特権を与えたのを契機に塩飽は特別な存在になっていきます。秀吉は650人の水夫達の動員の代償として1250石を与え、その租税免除や、自治を許す破格の待遇を与えます。

3塩飽 朱印状3人分

 これは徳川幕府にも引き継がれ、塩飽は御用船方として城米の輸送や城普請の資材運搬、役人の送迎を一手に引き受けることになります。河村瑞賢が西回り航路開設を行った際には、その手足と成って活動しました。新井白石は「塩飽の船は完堅精好。郷民は淳朴」と高く評価しています。巧みな操船術に加え、船造りの技術や温和な気風も塩飽の声価を高めたのでしょう。
 戦国時代に各地で活躍した海賊衆(海の武士)たちの中で、塩飽衆が得た条件は破格のものであったことは以前にお話ししました。それは、芸予諸島の村上水軍の末裔達が辿った道と比べるとよく分かります。
横町利郎の岡目八目

 川村瑞賢は、城米船の運行について、次のように幕府に提言しています
①城米船は幕府が直接雇って運賃を支払う官船とすること
②その船は北国・山陰方面の航行に慣れた讃岐の塩飽、備前の日比浦、摂津の伝法・河辺などの船を雇う
 この提案は採用され、塩飽廻船の多くが城米御用船として幕府に直接雇われ西廻り航路に従事することになりました。これは塩飽衆が、幕府お抱えの廻船集団になったことを意味します。全国に散らばる天領の年貢米(城米)の大坂・江戸への輸送権を得たのです。そして、諸藩もこれに「右へなれい」と従います。年貢米輸送のために塩飽の船は、全国の各地に姿を見せるようになります。
 こうして塩飽は採石には船472隻、船乗り3460人で、日本列島を縦横無尽に駆け巡り、塩飽は一大海運王国を築くことになります。このような活躍が塩飽の島々に大きな富をもたらし、大舟持ちを何軒も登場させることになります。塩飽廻船の中には、城米だけでなくその他の商品の独占権を得て、商圏を拡大しようとする者も現れます。
それが丸尾氏です。丸尾氏の弘前藩での木材産業への参入を見ていきます。 
寛文十二(1671)年以後、塩飽廻船は城米輸送を任務として運送業に従事し、成長していました。そのことが「江戸登御用材廻船日記」の記事からも裏付けられます。
元禄四年(1691)6月「大坂御雇い船の船頭塩飽作右衛門と中す者の船五月二十八日の大風にて渡鹿領塩戸村二て破損」といういった塩飽の船頭が米の輸送に従事していて大風で難破したこと
元禄五年4月25日に塩飽某という船頭の船が八艘難船したことを記したこと、
元禄14年5月5日には、「一同八百石積敦賀着 塩飽立石徳兵衛」と塩飽船が敦賀に着いたこと。
このように塩飽船の米輸送の記事がみられます。
ここからは塩飽廻船が敦賀や日本海側でも活躍していたことが分かります。弘前藩も塩飽廻船が城米を扱うお得意さんでした。そのために塩飽船は弘前藩の深浦にもやってきました。そこで見たのが周辺に残された豊かな森林資源です。ここには良質なツキ(ケヤキ)やカツラなどの樹種に恵まれた木々が豊富にありました。
塩飽と弘前藩2

 元禄二(1689)年に塩飽の船頭八左衛間が、翌年から材木を運送したい旨を前金を添えて、津軽藩材木役人に願い出ます。こうして、塩飽船による木材の積出し・輸送が始まります。元禄九(1686)年になると塩飽牛島の丸尾与四兵衛が登場してきます。彼は弘前の商人藪屋儀右衛門と連名で次のような願書を蟹田町奉行へ提出ます。
「私ども当地蟹田え十二ケ年以来御払い材木下され買い請け売り買い仕り候、 (中略) 蟹田御材木御入付銀壱ケ年二五拾貫目宛、当子ノ年より酉ノ年迄拾ケ年の間、年々山仕中え仰せ付けられ(中略) 御定め直段残らず拙者買い請け候様に成し下され度存じ奉り候」
意訳変換しておくと
「私どもは当地蟹田へ参りまして十二年に渡って、御払材木を買請けて参りました(中略)
蟹田御材木について銀壱ケ年25貫目を毎年お納めしますので、今年から10年間、材木の買付を独占的に行う事を仰せ付けいただけないでしょうか(中略) そうすれば材木はすべて拙者の方で買い請けいたします。
内容を確認しておくと
これまでの実績を踏まえて、入付銀を出すので材木の買請けを独占させてくれという内容です。そのために、材木の山出し費用はすべて負担し、50貫目を奉行に差し出すといった条件を提示しています。さらに、江戸の商人よりの御用金上納のこと、去年の不作時に3000俵の米を藩のために調達したことなどこれまでの業績を挙げ、材木の切り出し候補の山として四か所の留山とすることを求めています。
 この願書は受理されます。翌年の元禄十(1697)年4月には、塩飽の船頭丸尾善四郎が今別湊にやって来て材木を積み込んでいます。元禄十一(1698)年6月には
「江戸廻舟米材木積み登し候、舟頭筑前久左衛間、塩飽古兵衛二廻状二通相調え、勘定奉行笹森治左衛門方えこれを遣わす」

とありますので、その後も、丸尾家による木材積み出しが行われていたことが分かります。 
元禄十(1697)年6月13日には、
一六百五拾石積      船頭 塩飽伊左衛門
一六百五拾石積      同 同 嘉右衛門
一八百弐拾石積      同 同 孫左衛門
一五百八拾石積      同 筑前弥六
右四艘江戸御雇い今別江着き何も御材木積船二御座候旨中し立て候二付き、廻状例の通り相認めこれを遣わす
ここからは、江戸雇いの塩飽船が四艘やってきたことが分かります。
元禄十二(1699)年7月には、丸尾与四兵衛手船二艘・塩飽立石左兵衛手船一艘が、元禄十四年五月に、五日摂州二茶屋次兵衛船五艘の一つに塩飽立石徳兵衛の八〇〇石積船が、六日には塩飽市之丞の八〇〇石積船、塩飽立石松右衛門の七七〇石積、大坂備前屋甚兵衛の七八〇石積の三艘がそれぞれ鯵ケ沢湊へやって来ています。このように、塩飽廻船が江戸商人の雇い船として津軽の材木輸送に積極的にかかわっていることが分かります。

 材木輸送が順調に進むようになると、津軽藩側でもその利益の大きさが分かるようになります。
元禄13年には丸尾弥左衛門に御用金1700両を申しつけています。これに対して弥左衛門は、御用金としてではなく材木の前金として差し出すと主張します。翌14年に藩側は、九尾与四兵衛と結んだ約束に違約があるとして取引の中止を申し出ます。藩の挙げる理由は次の通りです
「然れ共、当年より亥ノ年迄七ヶ年の間三拾貫目宛、自分柾取り御礼金は御免下され度」

と指摘し、さらに、船への積み込みに際しても二割引いて、また礼金も六〇両引いての額を支払うように運用してきた。藩側の損が非常に多い。その上、与四兵衛一人に任せていたのでは蟹田町の者共も難儀する、
 という内容です。「与四兵衛一人に任せていたのでは蟹田町の者共も難儀する」というように、外部資本の塩飽丸尾氏が利益を吸い上げ、地元資本の利益になっていない木材政策のあり方への不満が高まってきたことがうかがえます。しかし、結果的には、約束の年数10年間は丸尾与四兵衛に材木輸送はやらせようということになったようです。
 しかし、契約期限がおわると弘前藩は「地元産業の育成」をめざすようになります。そして、藩領内のさまざまな人々が関わる体制を作り出していきます。例えば、山林から木を伐り出し、木材へ加工していたのは麓村の杣(そま)や百姓たちです。そして、塩飽廻船に代わって木材輸送のためには、大坂や十三(現五所川原市)で雇われた船主たちが乗りこみます。彼らと福沢屋の間を仲介していたのは、三国屋・播磨屋といった深浦の船問屋たちです。ここからは、塩飽商人への独占付与という丸投げから、藩内の地元産業の雇用と育成をはかる方向に向きを修正した様子がうかがえます。
 塩飽と深浦
 明治初期の松前藩 深浦港(蓑虫山人画)

塩飽廻船が松前の木材の独占的な取扱権を握っていた頃の江戸では、綱吉の宗教政策による寺院の建立ラッシュ、元禄八年、同十年、同十一年の連続大火が起こっています。このため木材の需要はうなぎ登りでした。商人が各地の材木確保に乗り出すのは当然のことです。その動きの中に塩飽廻船も参入していたようです。これは西廻航路が整備された際に幕府直雇いとして城米輸送で活躍することで、培った優秀な航海技術と経験があったからこそと云えます。
牛島(うしじま)
 丸尾氏の牛島

 元禄7年(1694)、二代目丸尾五左衛門の重次は69歳で亡くなりますが、その名は三代目重正、四代目正次へと引き継がれていきます。全盛期は最高は、元禄16年(1703)の11,200石で、320石から1,150石積みの廻船を13艘も持っていたといわれています。それはちょうど弘前藩の木材輸送と販売権を独占していた時期にあたります。城米以外にもあらたに木材も取り扱うようになって、船を増やしたのかも知れません。
 讃岐には、「沖を走るは丸屋の船か まるにやの字の帆が見える」という古謡が残っていますが、これはこの頃のものだといわれます。
塩飽本島絵図
塩飽諸島 牛島は本島の南にある小さな島(上が南になっている)

 享保元年(1716)、徳川吉宗が8代将軍に就任し、享保の改革を進めます。
その一環として享保5年(1720)城米を安く運ぶために、それまでの直雇方式から廻船問屋請負方式へ変更します。そして運用を江戸商人の筑前屋作右衛門に任せます。いわゆる「民営化」です。この結果、塩飽の船持衆は、今までのように直接幕府から荷受けすることができなくなります。そして、廻船問屋に従属する雇船として安く下請けされるようになります。荷受けに参入してきた業者は、それまでに技術力や経験をつんできた者達でした。きびしい競争に塩飽船は市場を奪われていき、塩飽の廻船数は減少していきます。ちなみに、牛島には、宝永(1704~11)から享保7年(1722)には45~49艘の廻船があったといわれていますが、享保13年(1728)には23艘とそれまでのほぼ半数に減っています。
塩飽廻船の隆盛と衰退

 特権を失い、競争力を弱めた塩飽廻船は、どのように生き残りを図ったのでしょうか
塩飽船籍の船は減ったが船員達は、困らなかったと考える説があります。なぜなら技術や経験を持った塩飽水夫達は、どこの船でも引っ張りだこだったからです。乗る船は、和泉や摂津の他国舟でも、それを動かしているのは塩飽水夫ということも数多く見られたようです。つまり、没落したのは丸尾家のような大船持ちで、船員達の仕事がなくなった訳ではないのです。そのために塩飽に帰って来ることは、少なくなったが塩飽への送金は続いたようです。塩飽が急激に衰退したとは云えない部分がここにはあるようです。
千石船

以上をまとめておきます
①塩飽廻船は、幕府直雇いの城米船として独占的な運行権を得て大きく発展した。
②元禄年間になると、丸尾家は米だけでなく津軽藩領の木材の江戸輸送をはじめさらに利益を上げた。
③享保の改革で、独占体制の上にあった城米輸送の特権を失い、丸尾家などの大船主は姿を消した。
④しかし、その後も瀬戸内海交易や他国の船の船員として、塩飽水夫の活躍は続いた。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献     テキストは「丸亀市史896P 近世前期に見る塩飽廻船の動き」
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西讃府志 表紙

  かつては、西讃地域の郷土史を調べようと思ったら、まず当たるのが西讃府志だったようです。そういう意味では、西讃府志は郷土史研究のバイブルとも云えるのかも知れません。しかし、その成り立ちについては、私はよく知りませんでした。高瀬町史を眺めていると、西讃府志の編纂についての項目がありました。読んでいて面白かったので紹介します。
西讃府志 讃岐国
西讃府志の第1巻 最初のページ

丸亀藩が支藩多度津藩を含めた領内全域の本格的地誌を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。『西讃府志』は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保十一(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした
     覚
加藤俊治
岩村半右衛門
右、此の度西讃井びに網千。江州御領分の地志撰述の義伺い出でられ、御聞き届け二相成り候、これに依り往古よりの名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来都て、御領中格段の事跡何事に寄らず委細調子書、其の村方近辺の識者古老等の申し伝え筆記等、其の組々大庄屋、町方二ては大年寄迄指し出し、夫々紛らわ敷くこれ無き様取り約メ、来ル十月中迄指し出し申すべし、尤も社人亦は寺院二ても格別二相心得候者へ、俊冶・半左衛門より直ち二、応接に及ばるべき義もこれ有るべく候条、兼ねて相心得置き申すべき旨、 方々御用番佐脇藤八郎殿より仰せ達せられ候条 其の意を得、来ル十月上旬迄二取調子紛らわ敷くこれ無き様、書付二して差し出し申さるべく
候、以上
意訳変換しておくと
加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。
 特に、社人(神官)や寺院については、特に注意しておきたいので、担当者の俊冶・半左衛門が直接に、聞き取りを行う場合もある。事前に心得ておくことを、 御用番佐脇藤八郎殿より伝えられている。以上の趣旨を理解し、提出期限の10月上旬までにはきちんと整理して、書面で提出すること。以上

ここからは次のようなことが分かります。
①加藤俊冶と岩村の提案を受けて、「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを藩は大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。

  西讃府志 郡名
西讃府志の讃岐の各郡について

これを受け取った大庄屋は、どうしたのでしょうか。
各村のお寺や神社の歴史を調べよというのです。とまどったにちがいありません。今では神社やお寺には由緒書きや縁起が備わっていますが、この時期には自分の村の神社の歴史などは興味もなく、ほとんどの神社はそんなものはなかったようです。書かれた歴史がないものを、レポートして報告せよと云われても困ってしまいます。とにかく大庄屋は、各組の構成員の庄屋に連絡します。和田浜組(三豊市高瀬町)の大庄屋宮武徳三郎は各村へ、藩からの通達文に添えて次のような文章を回しています。

「御別紙の通り御触れこれ有り候間御承知、寺院社人は格別二念を入れ、御申し達し成らるべく候、尚又名所古跡何事に寄らず、委細の調子書早々御指し出し成らるべく候」

意訳変換しておくと
「別紙の通りのお達しがあったので連絡する。神社や寺院は格別に念を入れて調べるようにとのことである。また、名所や古跡などに限らず、なんでも委細まで記して、期限までに提出せよとのことである」

と伝えています。これを受けて丸亀藩の庄屋たちは、自分の村の歴史調べとフィルドワークにとり組むことになります。今風に云うと、レポート「郷土の歴史調べ」が庄屋たちに課せられたのです。
西讃府志 延喜式内社
西讃府志の讃岐延喜式神社一覧

それから9ヶ月後の天保十二(1841)年3月に、大庄屋宮武徳三郎は和田浜組の村々へ次のような通達を出しています。
急キ申し触れ候、然れは昨子ノ六月、御達しこれ有り候御領分地志撰述御調子二付き、名前、古跡、且つ神社鎮座、寺院興立等の由来書付、早々差し出す様御催促これ有り候間、急二御差し出し成らるべく候、右書付二当たり御伺い申しげ候、左の通り
村 南北幾里 東西幾里 高 何石 家数 神社並小祠祭神々 鎮座 年紀 仏寺 本尊 何々 開基 年紀 縁起
宗末寺 山名 川名 池名 古城 名所 旧記 古墓 森
小名 産物 孝子 順拝 義夫 □婦
右、夫々相調子書付二して、指し出し候様仰せ付けられ候間、芳御承知何分早々御取計らい成らるべく候、以上
意訳変換しておくと
急ぎの連絡である。昨年6月の通知で村内の地志撰述の件について、名前、古跡、神社鎮座、寺院興立等の由来の調査し提出するようにとの指示があった。この詳細な調査項目は次の通りである。 村 南北幾里 東西幾里 高 何石 家数 神社並小祠祭神々 鎮座 年紀 仏寺 本尊 何々 開基 年紀 縁起宗末寺 山名 川名 池名 古城 名所 旧記 古墓  森 小名 産物
孝子 順拝 義夫 □婦
これらの項目を調査し、報告書として提出するように藩から再度指示があった。できるだけ早く提出するように、以上

この文書が出されたのは、翌年の3月です。藩から求められたレポート提出期限はその年の10月だったはずです。〆切期限を過ぎて翌年の春が来ても、和田浜組ではほとんどの村が未提出だったことが分かります。そこで、藩からの督促を受けて、大庄屋が改めて、レポート内容項目の確認と提出の督促を行ったようです。
西讃府志5
西讃府志 復刻版

さらにその年の八月には、藩から大庄屋へ次のような通達が再再度出されています。
急ぎ御意を得候、然れは地志撰述の義認め方目録、先達て相触れられ候処、未だ廻達これ無き村々も多くこれ有る由、全く何レの村々滞り居り候事と存じ候、右は在出の節寄々申し承り度き積もリニ候間、早々廻達村々二於いて通り候ハ、写し取り置き候の様、其の内ケ条の内、細密行い難き調子義もこれ有り候ハヽ、品二寄り皆共迄尋ね出し候ハヽ、指図に及ぶべき儀もこれ有り候、何様早々廻達候様御取り計らいこれ有るべく候、以上

意訳変換しておくと
 地志撰述の件について、先達より通達したようにて早々の報告書の提出を求めているが、未だに指示が伝わっていない村々もあると云う。どこの村で滞っているのか、巡回で出向いたときに確認するつもりである。早々に村々に通達を回して、写し取り指示した項目について、細々としたことは調査ができなくても、調査が出来る項目については尋ね聞いて、指図を受けることも出来る。とにかく早々に廻状をまわし、報告書が届くようにとりはかること 以上

 西讃府志 - 国立国会図書館デジタルコレクション
二年後の天保十四(1843)年六月には、次のように記されます
「地志撰述取調書き上げの義、去ル子年仰せ含め置き候得共、今以て相揃い申さず、又は一向指し出さざる組もこれ有る趣二て、掛り御役手より掛け合いこれ有り候」

意訳変換しておくと
「地志撰述の作成提出の県について、3年前に申しつけたのに、今以て揃っていない。一向に提出していない組もあるようだ。組番より各村々に督促するように」

ここからは3年経っても、各村からの地志撰述の提出が進んでいないことが分かります。レポート課題が指示されて3年が過ぎても、地志撰述の作成の通知がいっていない村があるということはどういうことだ、早く報告書を出すように藩から催促されています。督促された庄屋たちもどうしていいのか頭を抱えている様子がうかがえます。
 それまで何も知らずにお参りしていた神社やお寺のことを調べて提出せよと云われても困り果てます。和尚さんや神主さんに聞いても分からないし、史料はないし、レポート作成はなかなか進まない村が多かったようです。
 今までなかった寺や神社の歴史が、これを契機に書かれ始めたところも多かったようです。由緒書きや縁起がなければ、「創作」する以外にありません。またかつて住んでいた旧族についても、調べられたり、聞き取りが行われます。そこには同時に「創作」も加えられました。
その翌年の弘化元(1844)年2月には、次のような通達が廻ってきます。
社人秋山伊豆 右の者兼ねて仰せ達し置かれ候 地志撰述の儀二付き、御掛り置きこれ有り候、これに依り近日の内村々見聞として、御指し出し成られ候段、右御掛り中り御掛け合いこれ有り御聞き置き成られ候」

意訳変換しておくと
社人(櫛梨村神官)秋山伊豆が、地志撰述編纂に関わることに成り、近日中に村々を訪ねて指図することになった。疑問点があればその際に尋ねよ

ここからは櫛梨村の社人(神主)秋山伊豆が地志撰述作成のために、領内を廻って援助・指導することになったようです。4年目にして地志撰述の作業は軌道に乗り始めたようです。こうして各村での「地志撰述」が行われます。現在確認できるのは次の表の通りです。

西讃府志 地誌成立年代表

村によって「地志御改二付書上帳」、「地志目録」など名前が違います。最も古いものは多度津藩領羽方村の天保十二年十月の「地志撰述草稿」です。そして一番最後にできたのが丸亀藩領奥白方村の嘉永三(1850)年六月の「地志撰」、多度津藩領大見村・松崎村の嘉永三年夏の「地志目録」になるようです。
 提出日を見ると、期限どおりに提出されたものはほとんどありません。一番早い羽方村のものでも翌年の10月で、1年遅れです。そして、遅いものは嘉永三年夏ころになりますから、出そろうまでに十年間かかっています。各村から提出された地志撰述をもとにして、『西讃府志』が編集されていくことになります。

西讃府志 目次
西讃府志の多度津藩の村々の目次


 一番早く提出された羽方村の「地志撰述」を見てみましょう。 
     
藩からの指示では「村の広さ、田畝、租税・林・藪床・戸口・牛馬・陵池(はち)・里名庄内郷積浦小名・唱来候地名・神祠・仏寺・家墓・古跡・風俗・物産・孝義・雑記」などの項目がありました。
大水上神社 羽方エリア図
赤いライン内が羽方村 大水上神社の鎮座する村
『西讃府志』に載せられなかった部分には何が書かれていたのでしょうか。
  貞享二(1685)年の検地畝68町余のうち等級を示す位付の面積が次のように記されています。

上田一町五反余、上下田三町三反余、中田六町九反余、中下田五町九反余、下上田八町八反、下田一一町二反余、下々田一六町二反余、上畑二反余、中畑一町一反余、下畑二町九反余、下々畑八町余

ランク付の低い田畑の「下以下」で五五町余を占めており、生産高の低い土地が多かったことが分かります。
  年貢率も次のように記されています。
川北・白坂・長坂 三割七分
瀬丸・二之宮・石仏・上所 四割三分、
村中・下所 三割四分
庄屋分池之内出高 三割
宮奥 二割五分
田畑68町余のほかに、新田として正徳から寛政までの1町3反余、新畑として正徳から享和までの4町9反余が開かれたことが分かります。
惣田畑74町3反余で、石高は519石6斗余で、租税202石3斗余の内訳は、定米(年貢米)176石2斗余、日米5石2斗余、夫米20石7斗余で、ほかに夏成(年貢麦)が12石余となっています。
戸数は156軒で、内訳は本百姓87軒、間人69軒とあります。間人とは田畑を持たない水呑百姓のことで、村の中の階層構成が分かります。
池は17のため池が全て書かれています。一番大きな瀬丸池の池廻りは32町46間で、水掛かり高は上高野村1000石、寺家村300石、羽方村160石となっていて、瀬丸池のある羽方村の水掛かり高は少いことが分かります。次に大きい白坂池は池廻りは11町45間で、水掛かり畝が本ノ大村12町三反余、羽方村3町9反余、上高野村1町9反余、大ノ村1町2反余となっており、白坂池も本ノ大村の水掛かりが多いようです。そして、どちらも樋守給(池守の給料)は羽方村から出されていることも分かります。

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大水上神社(二宮神社)

神祠のうちでは、大水上大明神(二宮社)について詳しく述べられています。
 祭礼・境内諸社を述べた後に「二宮三社之縁起」の全文が載せられています。二宮三社之縁起については以前に紹介しましたが、この時に成立したのではないかと私は考えています。羽方の庄屋から相談を受けた宮司が書いたという説です。そのほか「神事之次第」。「大水上御神事指図之事」・「ニノ宮記」などが添えて提出されています。「仏寺」では、大水上神社の別当寺龍花寺のことにも触れられています。しかし、龍花寺は以前にお話ししたように、祭礼をめぐる神職との対立の責任を取らされ、藩から追放されています。この時期の大水上神社の運営主体は、神職だったと思います。
 こうしてみると羽方村の庄屋が一番早く調査報告書(地志撰述)を提出できたのは、大水上神社に縁起やその他の史料があったこと、別の見方からするとそれが書ける神職がいて、延喜式内社という歴史もあったからとも云えそうです。こんな条件を持っているのはわずかです。その他の多く村々では、中世に祠として祀っていたものを、近世の村々が成立後に社殿が建立された神社がほとんどです。そこには、祀ってある神がなんだか分からないし、縁起もないのが普通だったようです。そこに、降って湧いてきた「寺社の歴史報告レポート」作成命令です。庄屋たちは、あたふたとしながらも互いに情報交換をして、自分の村々のデーターを作り、歴史を聞き取り報告書として提出したようです。それは、藩が命じた〆切までに、決して間に合うものではなかったのです。
 これを契機に「郷土史」に対する興味関心は高まります。
西讃府志は幕末から明治にかけての西讃の庄屋や知識人の必須書物となります。そして、西讃府志をベースにしていろいろな郷土史が書かれていくことになります。戦前に書かれた市町村史は、西讃府志を根本史料としているものがほとんどです。それだけ史料価値も高いのです。手元に置いて史料や辞書代わりに使いたいのですが、いまだに手に入りません。ちなみに古本屋での値段は55000円とついていました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献 高瀬町史392P 西讃府志の編纂

ウナギで天気予報?讃岐二ノ宮大水上神社 | 香川県まちなび
大水上神社の参道
大水上神社は、古代には延喜式の讃岐の二宮神社でしたが、中世には衰退します。二宮三社縁起には、近藤氏がそれを八幡神と合祀して二宮三社神社として再建したこと、そして、神職も近藤氏の一族が務めるようになったことを記していることを前回は見てきました。中世には、近藤氏の保護を受けて二宮三社(大水上神社)は存続していたようです。今回は、大水上神社の保護者であった二宮近藤氏を見ていきたいと思います。テキストは高瀬町史です。
まずは近藤氏の系譜を最初に確認しておきます。
『源平盛衰記』や『吾妻鑑』に、「近藤国平」が記されています。
1 国平は讃岐守護となり、子孫は地頭として讃岐に定着する。
2 近藤国平の子の国盛は土佐に移住し、土佐大平氏を称し、子孫は後に讃岐に帰ってきた。
3 室町時代の「見聞諸家紋」には、大平氏は近藤国平の子孫を称している
4「見聞諸家紋」には「藤原氏近藤、讃岐二宮」とあって、室町期には二宮、麻の両系統の近藤氏がいた。
5 二宮近藤氏は、大水上神社領を中核とした二宮荘を根拠地とした近藤氏
6 麻近藤氏は、土佐から讃岐に再び移住してきた大平氏の一族で勝間、西大野に所領を持った。
 ここではふたつの近藤氏がいたことを押さえておきます。
① 麻近藤氏 本地は麻城(高瀬町麻)
② 二宮近藤氏 本拠地は、大水上神社領を中心として
二宮荘(羽方、神田、佐俣)で神田城拠点
この内の①麻の近藤氏については、大野庄の年貢を手形送金していたことや、押領して訴えられていたことを以前にお話ししました。今回見ていくのは、②の二宮近藤氏です。
大水上神社 近藤氏系図

二宮近藤氏の祖先は、鎌倉時代初期に守護として讃岐にやってきたようです。
近藤国平は、源頼朝の挙兵に応じて、戦功を挙げて頼朝側近の一人として仕えます。国平は元暦二(1185)年2月、頼朝の命で鎌倉殿御使として上京します。その直後の3月24日、平家は壇ノ浦合戦に敗れ滅亡します。しかし、平家滅亡後も世の中が落ち着いたわけではなく、不穏な空気が瀬戸内海には漂います。そうした中で讃岐に、武士の乱暴狼籍の鎮定のために派遣されてくるのが近藤国平です。建久10(1199)年には、讃岐守護に就任します。混乱を鎮めた経験を買われ、動揺した讃岐国内を鎮める役割を果たしたようです。つまり、近藤氏は、讃岐守護としてやってきた西遷御家人になるようです。しかし、その後の近藤氏はパッとしません。その後の讃岐守護には有力御家人三浦氏や北条一門が就いています。近藤氏の出番はなくなり、その動向は鎌倉末まで分からなくなります。近藤氏は讃岐国内においては、大きく成長することはなかったこと、二宮荘を拠点として、細々と存続していたことがうかがえます
一族の中で、国平の子の国盛は、土佐に移住して大平氏を称します。
『見聞諸家紋』には、大平氏は近藤国平の子孫を称していて、同じ左巴紋で「藤原氏近藤、讃岐二宮同麻」と記されています。室町期には、二宮、麻にふたつの近藤氏がいたことを押さえておきます。、
①二宮近藤氏は大水上神社領を中核とした二宮荘(三野郡)を根拠地
②麻近藤氏は土佐から讃岐に再び移住してきた一族で、麻を本拠地

その後の、史料に現れる近藤氏を見ておきましょう。
元德3年(1331)二宮荘を下地中分
文和4年(1355)藤原(近藤)国頼が祇園社領西大野郷の代官職獲得
文安3年(1446)祇園社から麻殿へ西大野郷の料足10貫文の請取受取
享徳3年(1454)将軍足利義政から近藤越中守に勝間荘領家職(三野郡)と西大野郷領家方代官職が安堵
このように近藤氏は、三野郡の大野郷・勝間郷を基盤として活動し、「麻近藤入道」あるいは「近藤二宮元国」と称されたようです。近藤氏は、西大野郷以外に「麻(勝間郷)」にも勢力を拡げます。その結果、讃岐二宮の大水上社に強い影響力を持つようになったようです。近藤氏は細川京兆家の内衆としては、名前が出てきません。しかし、応安2 年(1368)以後は在京していたことが、史料から確認できるので、守護細川氏の被官として奉公していたことは確かなようです。

大水上神社 羽方エリア図
二宮庄の羽方村エリア 北に佐俣、南に神田がある
二宮近藤氏が基盤とした二宮庄を見ておきましょう
 二宮荘は天文二(1533)年の「法金剛院領目録」に大水上社とあり、大水上神社を中心に、羽方・佐俣・神田のエリアで成立した荘園のようです。ここには、田101町2段70歩、畠151段160歩と記されています。元弘の乱後の元徳三(1331)年に、二宮庄の地頭近藤国弘以下の武士達が、年貢の滞納・押領の罪で領家の臨川寺に訴えられ、下地中分が行われたことが史料に残っています。
 『二宮記録』天正二(1574)年の記事には、領家方、地頭方に分かれて神事を負担したことが記されています。約240年前に下地中分で分割されたエリアが、戦国期になっても残っていたことがうかがえます。その地頭方と領家方にそれぞれ記されている名田をあげると次のようになります。

 地頭方として、
是延、友成、成重、徳光、時真、利真、友貞、是方、貞弘、光永、大村分、正時、吉光、末利、助守の一五名、
 
領家方として、
清真、光末、真久、為重、守光、安宗、光包、時貞、友利、末光、末真、国行、重安、是安、吉真、真近、国真の一八名

 これらの名主や地侍達が、二宮三社の神事を指図した宮座のメンバーたちのようです。羽方エリアには地頭の吉成、領家の光真、黒嶋に領家方の光弘の名が見えます。彼らは、数町規模の名を持っていた有力者だったのでしょう。
二宮三社縁起によると14世紀の半ばに、二宮近藤氏が本殿を建立したことを次のように記しています
大水上神社縁起14
意訳変換しておくと
永享11(1439)年9月10日に、二宮(近藤)国重が造営奉行に任命されて、京都より帰国し、11月10から造営が開始された。そして、西讃守護の香川氏と東讃守護の安富氏から150貫の寄進を受け、近藤氏が造営奉行として、社殿を完成させた。
畏くも二宮社に祀られた神仏は次の通りである。
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月日 にこれらの神仏は安座した。
ここからは次のようなことが記されています
①二宮(近藤)国重が在京していたときに造営奉行に任じられて帰国し、建立に取りかかったこと
②その際に東西守護代の安富氏と香川氏と150貫の寄進があったこと
③建立された本陣には3つの神々と、その本地仏が祀られたこと
  この縁起は、江戸時代の中期に書かれたもので「造営奉行」などという用語も使われているように同時代史料ではないので、そのままを信じることはできません。しかし、「従京都下着」とあるように、近藤氏が常々は京都にいたことがうかがえます。また、近藤氏によって二宮三社の本殿がこの時期に建立されたことは事実と高瀬町史は考えているようようです。
 それでは二宮近藤氏の居城は、どこにあったのでしょうか
大水上神社 神田
神田エリアは二宮荘の南部に当たる。
全讃史には「神田村にあり、近藤但馬、これに居りき」とあります。ここから二宮近藤氏の居城は神田城(現山本町神田砂古)とされています。位置は、国道377号沿いのファミリーマート神田店の東南の竹藪の中になります。グーグルに「神田城跡」とマーキングされている所は、記念碑が建てられている所で、城郭跡はこの竹藪のうえになります。

大水上神社 神田城2
 
 中世城館調査報告書(香川県)で、神田城の縄張図を見ておきましょう。

大水上神社 神田城
神田城縄張図 中世城館調査報告書(香川県)

 記念碑が建っているのは城郭先端の「シロダイ」から伸びて来た尾根のスソになります。「城の下」や「下屋敷」という地名も残ります。下屋敷からは道路工事に伴う発掘調査で、中世後半の遺物が出ています。その前を神田川が流れています。このあたりに居館があったのかもしれません。城郭跡として確かな遺構は2本の堀切だけです。その他は山全体が畑化された際に破壊され、「曲輪らしいといえるだけ」と、報告書は記します。そして次のように続けます
「縄張り図のIも完全な削平地ではなく、Ⅲは広くはないが平坦地で曲輪と言え、両側に堀切がある。これより南東にも平坦地が続くが畑と考えられ、堀切までが城域と判断する。北の堀切から北東の谷に向かって溝が下り、先端に城の井戸といわれる小池がある。尾根先端部にも平坦地があるがかつて畑化されており、南端に城の井戸と言われる穴があり、昔からあったというが、表面観察では後世のものと思えたが、試掘調査を行った。遺構は存在しなかったが、中世後半の遺物が出土している。
  実際に、素人の私が見るとただの竹藪にしかみえません。しかし、「2本の堀切」と「中世後半の遺物が出土」しているので城郭跡にはまちがいないようです。二宮近藤氏の居城なのでしょう。

この地区には次のような話も伝わっています。
下屋敷の農家の庭先を東へ進むと雑木林の中に宝筐印塔があります。笠の古いものもあり、地元の人々の話では、ここを筍藪にでもしようと思って開墾にかかったところ、人骨が次々と出て、それがフゴに一杯もあった。しかたなくこれを川に流したところ、不吉なことが次々と起こった。そこで再び墓地にもどし、散乱した墓石などを整理した
これも落城悲話のひとつとして、古老が語り伝えてきた話です。この墓地は、二宮近藤氏の兵を弔うものでしょう。墓地からは、谷一つ向うに筍籔となった神田城跡があります。

 前回見た大水上神社に伝わる『二宮記録』には、本殿建立者として近藤国茂の名前がありました。
この城のある神田は、大水上神社の氏子エリアでもあります。近藤但馬の子孫という人たちが住む城跡北東の土井地区には、「ドイ」・「ドイノモン」の地名も残っています。その近くの薬師庵には、近藤但馬の墓と伝えられる五輪もあります。二宮近藤氏は、この城のある神田地区を拠点に、二宮三社(大水上神社)の筆頭氏子として宮座を率いて祭礼を行い、二宮荘への影響力を行使していたとしておきましょう。
 仁尾の近藤家の一族を見ておきましょう。
 応永九(1402)年、草木荘(仁尾町)の近藤二宮元国が仁尾の常徳寺に三段あまりの本浜田を寄進したという記録が残っています。草木荘は石清水八幡宮護国寺領の荘園で、現在の仁尾町草木にありました。「二親之菩提」と「当家繁栄」を祈るために寄進するとあます。ここからは、仁尾にも二宮近藤氏の一族がいて、その菩提寺が常徳寺であったことが分かります。ここからは二宮近藤氏のひろがりがうかがえます。草木には中上館跡と呼ばれる地頭の館跡との伝わる場所があります。また、土井、上屋敷、城の門、大門、上屋敷、前屋敷といった地名が残されています。これらが二宮近藤一族の館と高瀬町誌は推測しています。

 応仁の乱と近藤氏  
 応仁の乱において讃岐の武士たちは、守護の細川勝元にしたがって戦いました。応仁の乱で細川方についた武士の家紋を記した「見聞諸家紋」に、麻と二宮の近藤氏が載っています。ここからは近藤氏が従軍し、京都で戦闘に参加したことがうかがえます。
 応仁の乱後も、讃岐では兵乱が続きます。
文明十一(1479)年には守護細川政元の命で阿波・讃岐の兵は、山名氏に味方した伊予の河野氏を攻撃します。この戦いで麻近藤国清は合戦に参加し、伊予寒川村で病死しています。二宮近藤氏も従軍していた可能性があります。
大水上神社 近藤氏系図
讃岐近藤氏の系図
国清のあとは、国保、国匡と続きます。近藤国匡は土佐の大平国雄から大江流軍法を学んだと云います。大平国雄は文明年間に在京して、和歌、連歌、五山僧と交流を持った人物で、父国豊から学んだ大江流軍法から二、三項を抜き書きし、心あるものに伝えようとしたことが五山僧月舟の「書決勝後」と題する一文に書かれています。ここからは、大平氏から近藤氏に大江流軍法が伝えられたことがうかがえます。これは、実戦に役立つものというよりも、武士としての必要な教養でした。どちらにしても、麻の近藤氏は在京し、中央の高い文化に触れていたことが分かります。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一

 二宮近藤氏の阿波三好氏への接近がもたらしたものは? 
国匡の次が国敏になります。国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えます。阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化しようとしたようです。そして、生まれるのが国雅で、大永二(1522)年のことです。
  国敏によって取られた阿波三好氏への接近策は結果としては、二宮近藤氏を衰退に導くことになります。阿波三好氏の讃岐侵攻が本格化すると、近藤氏は阿波三好氏の先陣として動くようになります。
これに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は、織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
 織田信長=天霧城の香川氏 VS 阿波三好氏=麻・二宮近藤氏

  永禄三(1560)年、尾張で織田信長が今川義元を打ち破った年から翌年にかけて、麻や二宮周辺で小競り合いがあったことが秋山家文書から分かります。天霧城主の香川氏から秋山氏に戦功を賞する書状や知行宛行状が残されていることは以前にお話ししました。麻口合戦とあるので、高瀬町の麻周辺のことだと思われますが、よくは分かりません。この戦いで国雅が永禄三年に討死しています。これらの戦いは、麻の近藤氏と三野の秋山氏の間で代理戦争のような前哨戦が行われていたようです。

次に近藤氏の一族(?)である大平氏を見ておきましょう
 武家家伝_大平氏大平国祐・国秀・国久 
麻口合戦で討ち死にした国雅の跡を継いだのが国祐です。かれを取り巻く肉親関係は少々複雑ですが見ておきましょう。国祐は大平氏を名乗ります。母親は大西長清の娘と伝えられ、弟が出羽守国久です。国祐の子が国常で、その母親は香川元景の娘だとされます。国祐を土佐の大平氏が滅亡後に讃岐に落ち延びてきたものという伝承もありますが、土佐大平氏の滅亡は天文十五(1546)年前後のことなので、国祐が土佐から落ち延びてきた人物とは考えられないと高瀬町史は記します。

 永禄六(1563)年8月7日に阿波三好勢の圧力を受けて、香川之景は、天霧城を一時的に落ち延びます。この時の感状が秋山氏や三野氏に出されています。しかし、城は落ちても香川氏の抵抗は続いていたようです。例えば、閏12月6日に財田では、讃岐武士が阿波大西衆と戦う財田合戦がありましたが、ここには秋山氏の一族である帰来秋山氏が参戦し、感状を香川氏から受けています。感状が出せるというのは、香川氏が一定の支配権を維持していたことがうかがえます。

大水上神社 長宗我部元親

長宗我部元親の讃岐侵攻
 このようななかで阿波三好勢の讃岐侵攻を根本からひっくり返すような「国際情勢の変化」が起きます。長宗我部元親が土佐から西阿波へ侵入してくるのです。天正5(1577)年に土佐勢は、阿波白地城の大西覚養を攻め落城させ、ここを阿波・讃岐侵攻の拠点とします。大西覚養は讃岐二宮の近藤国久のもとへに落ち延びたと西讃府志は記します。伝承では、近藤国祐や国久の母は阿波白地の大西長清の娘でだったとされます。そのために近藤氏は、母方の里である阿波の大西方として戦うようになったとします。
 白地城
長宗我部元親が白地城を落とした天正五(1577)年は元吉合戦が行われた年でもあります。
 この合戦で、香川氏は毛利方と協力し、讃岐の三好の勢力を一掃します。そして、次のような処置がとられています
①尊経閣文庫所蔵文書の「細川信元書状」では、大西跡職を香川中務大輔に申し付けられ
②出羽方所領の50貫文が帰来秋山親安に与えられてること
ここからは、毛利=香川=秋山氏が勝ち馬側で、大西氏側についた近藤氏は負け馬側となり所領を没収され、それが香川氏配下の秋山氏などに与えられたようです。近藤氏の勢力は、これによって大きく減退したと高瀬町史は指摘します。
近藤氏の滅亡 
第9章:讃岐侵攻 -長宗我部元親軍記-

 毛利氏が讃岐から手を引くのを待っていたかのように、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まります。
大水上神社 麻城

元吉合戦の翌年の天正6(1578)年、麻城は、財田本篠城を陥落させ侵攻してきた長宗我部の攻撃を受け落城します。その年代はよく分かりませんが、麻城城主の国久は麻城の谷に落ちて死んだと伝えられ、その地を横死ヶ谷と呼んでいます。
 大平国祐の居城である獅子ヶ鼻城(和田城、大平城とも)も、落城します。国祐は出家して、姫郷和田村(豊浜町和田)にあった真言宗の寺を廃して、日蓮宗の国祐寺を開きます。その後、秀吉の四国平定後、仙石秀久につかえ九州遠征に従軍し、入水自殺し、国祐寺に葬られます。
雲風山・國祐寺 | kagawa1000seeのブログ

 国祐の弟で国久の兄国秀は、財田上の橘城(天王城)の城主でしたが、これもまた落城します。伝承では長宗我部元親によって焼かれたとあります。この城の構造は、讃岐にはあまり見られない竪堀構造で、土佐の山城の特徴を持っています。これは、藤目城や本篠城と同じです。落城後には土佐軍の讃岐侵攻の拠点として、土佐風の改修が行われたようです。この城跡の南東にある鉾八幡は、国秀が付近の神社を合祀したものとされます。また伊舎那院には中将国秀と書かれた竹筒が出土しています。
橘城の図/香川県三豊市|なぽのホームページ

 財田上の橘城(天王城)
二宮の近藤氏の居城である神田城については、どの史料にも落城のことは出てきません。しかし、麻城や獅子ヶ鼻城の落城のようすからみると、二宮近藤氏も最後まで抵抗し、落城した可能性が高いように思えます。こうして、麻の近藤氏 二宮(神田)の近藤氏 財田の近藤氏は領地を没収されることになります。
それでは、没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?
 長宗我部氏の事跡を記した『土佐国朧簡集』には、三豊市域の地名がいくつか記されています。三豊平定から3年後の天正九年(1581)八月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、香川氏に婿入りした長宗我部元親の次男親和に従って土佐からやってきた人物です。そこには、次のような地名が記されています。
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

これらは高瀬町や周辺の地で、大水上神社の旧領地であり、同時に近藤氏の領地でもあった所です。翌年三月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、五月には「財田・麻岩瀬村」で6か所が吉松右兵衛に与えられています。これらの地は財田・山本町域になります。ここからは、長宗我部元親に抵抗した近藤氏やそれに従った土侍衆から土地が没収され、土佐からやって来た新たな支配者に分配されたことがうかがえます。
 江戸中期に書かれた大水上神社に伝わる縁起の最後の巻には次のように記されます。
大水上神社縁起16
意訳変換しておくと
     昔は二宮三社神社(大水上神社)は大社であったが長曽我部元親の狼藉で御社大破し、竹の林の奥の仮屋にお祭りするという次第になってしまった。元親は土州からやってきて、金毘羅権現の近辺に放火し香川中務大輔同備後守の居城天霧に押し寄せた。香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って、金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃させられた。

ここからは、土佐軍侵入で大水上神社は「御社大破し、竹の林の奥の仮屋」になるほど衰退し、神宮寺も兵火に会ったこと。そして、近藤一族などの保護者を失い再建不能な状態にあったことが分かります。近藤氏の多くは神田を中心に帰農しますが、一部は大水上神社の神職として神に仕えるものもいたようです。後の時代に彼らの子孫達にとって書かれた縁起が、長宗我部元親に対して厳しいのは当然のような気がします。

高瀬町史は新たな視点から長宗我部元親の三豊支配に光を当てます。
 高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があるようです。またこの地にある浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと云われます。一方、高瀬町上勝間に鎮座する土佐神社は、長宗我部元親が創建した神社で、もともとは矢ノ岡にあったものを、延宝三年(1675)に日枝神社境内に遷座したと伝わります。明治の北海道移住者が出身地の寺社を勧進し、新たな入植地の精神的なシンボルとしたように、土佐から移ってきた人々の信仰対象として祀られたものかもしれないと高瀬町史は指摘します。それは、先住者を追い出して土佐人が入植したと云うよりも、原野が開発され、新たな村落が形成されたという事実を紹介します。

そして、次のように閉めます。
 戦いの時に寺社は軍勢の駐屯地になり、もし敵に攻められれば火を放つこともあった。それは戦いの常套手段であり、かならずしも長宗我部氏だけがしたことではない。元親は大野原の地蔵院に禁制を出し、禁止事項を厳命している。これは戦時における寺院保護のため出されたものであり、寺院焼き打ちとは反対の施策である。以上のことから何を知ろう。「侵略者は悪者」といったイメージは勝手に作り上げられたものであり、歴史的事実の上で再度見つめ直さなければならないと考える。

 長宗我部元親=侵略者という論を越えた所に高瀬町史は、立っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
高瀬町史 近藤氏の動向 127P

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大水上神社奥社 
二宮三社(大水上神社)は、長宗我部元親による破壊の後、「今に大破の儘にてこれ有り」と縁起にあることを前回は見てきました。ここからは社殿以外にも、2つあった神宮寺も消えたことがうかがえます。丸亀藩に提出された縁起書自体が、社殿の再興を願うものでした。この時期、二宮三社は小祠として存続していたようです。
しかし、元和五(1619)年の記録には、次のように記されています。
「佐股天神二て神楽執行につき二宮太夫差配のことで出入りに及んだ」
佐股天神社の祭礼の神楽をめぐって、勝間の大夫(神職)が近所であるという理由から佐股村で雇って神楽を踊らせます。これに対して佐俣の本社である二宮の太夫が反発して、「俺のテリトリーで勝手なことをするな」と、騒動になったようです。ここからは、二宮には太夫(神職)が存在し、神社組織が復活していたことがうかがえます。
 約40年後の寛文八(1668)年にも、再び佐股天神で行われた湯立神楽をめぐって二宮の大夫との間でもめごとが起こっています。さらに、延宝六(1678)年の「居林検地帳」には「長三百間 横三百拾間 〆九万三千坪」と居林(神社の所有林)のことがが記されています。ここからは、この時期には社林が確保され社殿なども整っていたことがうかがえます。
一方、龍花寺が別当寺として復活して活動を始めているのが史料からは分かります。この寺は、宮川を下った所にある延命院の末寺であったようです。こうして二宮三社は、神仏混淆の下に龍花寺の社僧と太夫らの努力によつて社殿の整備が進んだようです。

 二宮社の史料に、本地仏に関する記事があります。  373P
神仏習合下の二宮三社には、本尊(仏像)が置かれ信仰されていました。1714年9月に、大林徳左衛門の母が、二宮社に本地仏を寄進したことが、次のように記されています。
「二宮先寺龍花寺宥仁師御進メニ寄り 羽方村徳左衛門母より三尊の内弐体御寄進仕り置き候、則ち宥仁より下され候書付別紙に相添え御目に懸け申し候、徳左衛門覚中尊一体は右宥仁古仏(中略)
再興の上ニて三尊二成らるべき由、右中尊宥仁御物語ハ神田羽方左又撫も義進ヲ進メ、其の料物もらい取り立て申し度旨御噂承り候」
「右の仏体御宮内二置き申し度と申す義少しも御座無く侯、元来宥仁御進メ本地堂時節ニより二世安楽の為寄進候様二付き、致し置き候」

意訳変換しておくと
「二宮の龍花寺の宥仁師の勧めで、羽方村徳左衛門の母より三尊の内、2体の仏像寄進があった。そこで宥仁から下された書付別紙に相添えて、ご覧いただいた。徳左衛門の中尊一体は宥仁の古仏(中略)本殿再興の際に、三尊が安置された。中尊は宥仁が神田羽方左又(佐俣)で寄進を進め、それで集まった料物をもらい受けたもので・・」
 
ここからは別当寺である龍華寺の社僧宥仁の働きかけで、三尊仏の内の二体が寄進され、残りの一体を各村々の氏子たちの寄進で揃えたことが記されています。二宮神社の祭神と本地仏をもういちど確認しておきましょう。二宮文書には次のようにありました。
敬白上棟第二宮
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月評日子時御安座
ここに出てくる三尊とは、これらの祭神の本地物を指しているようです。羽方村徳左衛門母より三尊の内のふたつが寄進され、その後、もう一体も寄進活動で集まった資金でそろえることができたというのです。ここからは、社殿の中に本地仏三尊が安置されていたことが分かります。龍花寺の社僧と太夫が二人三脚で、二宮三社を復興させていたことがうかがえます。

 ところが18世紀になると、龍花寺の社僧と太夫との関係がぎくしゃくするようになります。
全国的にみて、この時期は、神道吉田家が地方の神社との関係を強める時期でもあります。吉田家の説く神道イデオロギーが浸透し、太夫達が別当寺との対立を引き起こす事件が多発するようになります。そのような時代の空気が、二宮三社にも及んでくるようです。
 事件は享保五(1720)年に、延命院が呼びかけ神田村六左衛門の寄付で、釣鐘を鋳造したことから始まります。
この鐘の銘文については、神主名は入れないままに鋳造されることが決まっていました。ところが出来上がってみると、銘文には「別当延命院」と鋳られていたのです。太夫達からすれば、延命院は龍華寺の本寺ではありますが別当寺ではありません。しかも、自分たちの名前は入れていないのです。そこで抗議して「別当」の字を削ったといういきさつがあります。他にも
1 棟礼に神主の名が入っていたために、延命院が龍花寺に命じて焼却させた。
2 龍花寺が二宮林の木を勝手に切り取って持ち帰った。
3 拝殿の鍵は延命院が管理していたが、勝手に取り扱っており、太夫が大晦日に供え物を献じに来ても、社殿の扉が閉まっていたこともあった。
 これは神社側の後の裁定での言い分なので、一方的批判になりますが、拝殿の鍵を延命院が管理していることをどう考えればいいのでしょうか。
①土佐軍の兵火で小さな祠だけになった二宮三社を、延命院が管理するようになっていた。
②新たに再建された神宮寺の龍花寺も延命院の援助の下に再建された。そのため延命院の末寺となった。
③そのような中で、近藤家の末裔達による神社復興も進み、近藤家の一族が太夫を務めるようになった。
その結果、近藤一族を背景とする力が復活するにつれて、拝殿を管理する延命院との対立が激化するようになった。こうして、近藤家の神主 VS 延命院=龍花寺の別当社僧という対立の溝が深くなっていったと高瀬町史は推測します。祭礼中止という事態も、このような対立が背景にあったようです。そして、対立は頂点に達します。

事件は文三(1738)年に起きました。その経過を、見ておきましょう。
 元文三(1738)年8月6日、本寺延命院からその末寺で二宮の社僧を勤めている龍花寺に指示書が届きます。そこには、去年のように物言いが起こらないように早く二宮の祭礼に出かけるようにとの指導内容です。物言いとは、神前の掃除などを行う御前人という役を勤めていた佐股村庄屋の瀬兵衛と延命院から出されていた次の2点の抗議です。
①御前人が宮中へ入ること
②神輿へ入れる幣について村の特定があるということ
①については、解決していましたが、②の幣については神輿への入れ方をめぐって延命院と太夫(神職)との間で対立がありました。三人の太夫は幣を拵え一本ずつ神輿へ入れると主張するのに対し、延命院はそうではないとします。祭礼ができなくなることを危惧した瀬兵衛は、三村の庄屋が一本ずつ入れるという妥協案を出しますが、収拾できずに双方物別れとなり、ついには、旅所に向けた御幸(パレード)が出来なくなってしまいます。以後、宝暦元(1753)年に最終決着を見るまで、十五年間は御幸は行われいままになります。

 これを嘆かわしく思った佐股・下麻・神田・羽方の四カ村の庄屋などが、寄合いを何度も重ね、協議し、新たなルールを作り出していきます。これが次の「覚書」です。
大水上神社祭礼覚え書き1

意訳変換しておくと
二宮三社神社の祭礼について、15年前から神輿へ御幣を入れる、入れないをめぐって、別当寺と神職の間で争論となり、御幸ができない状態となっていた。氏子達はこれを嘆かわしく思い、新たなルールを作成して寺社の和解を図るものとする。
1 幣は、太夫や社僧が行うのではなく、御前人が神輿に入れる、
2 祭りの時は龍花寺(別当)・太夫・御前人・神主が立ち会って、早朝より神輿三体を事前に幣殿に飾っておく、
3 龍花寺は祝詞と金幣をあげる、
4 三人の太夫は、神楽をあげる
5 神楽は名代が行う事は認めない。

 龍花寺の社僧と、太夫(神主)の間で分業がきちんとされる内容になっています。この取り決めを作成するために各村で寄り合いが開かれ、それを持ち寄り村役人による協議が何度も行われていたことが残された史料からは分かります。上から試案がだされて、これでいいかというものではなく、下から積み上げていく丁寧な試案作りです。時間と手間をかけた話し合いが行われています。そして、最後は村の戸主の一人ひとりの印をとっています。当時の村々をまとめて行くには、これだけの手間暇が必要だったのでしょう。同時にそれが村々の底力となったことがうかがえます。
 祭礼分担は、これで解決したようです。これが明治の神仏分離まで続くことになります。

そして御旅所までの御幸行列の順番が次のように示されています
先頭に榊神具、次に鉾をもって神田村の角左衛門が従い、行列の以下は次の通りです。
大水上神社祭礼2

これを見ると神輿の前に、社僧がきます。そして、神輿の後に神主や太夫が位置します。また、祭礼パレードのことだけではなく、瓦葺きなどの遷宮の時の導師は、延命院が務めることや、御神体は、別当寺の龍花寺が保持することなど、問題になりそうなことが事前に協議されています。そして、最後には各村々の代表者が署名しています。現在の祭礼ルールは、このような先人達の取り決めの上にあるようです。
  それでは、以後はこのメンバーによって祭礼が行われたのかと思っていると、そうではないようです。ルールができてこれにて落着かと思うと、丸亀藩は、関係者たちを厳しく裁定します。
 祭礼復活から5年後に、丸亀藩は祭礼中断を招き、藩や村に対する迷惑をかけたことに対する責任追求を開始します。その吟味は宝暦七年から九年にかけて行われています。
「宝暦七年 二宮寺社出入御吟味之次第覚書」は、その取調記録です。これは『高瀬町史史料編』の「大水上神社社人・別当出入一件」(高瀬町史資料編408P)に次のように載せられています。
大水上神社祭礼吟味1

  まずは羽方村の龍花寺と庄屋などの関係者を呼び出し、調書を取ることから始まっています。関係者一人ひとりの取り調べ調書が残されています。二宮三社神社をめぐる騒動は、当時の大事件になっていたことがうかがえます。3年間の取り調べの後に、藩の下した裁定は次の通りでした。
1 羽方村庄屋銀元郎は役目を十分に果たしていなかったことで「重々不届きニ付き閉門」
2 神田村庄屋近藤又左衛門も「閉門」
3 二宮神主の小十郎も「閉門」
4 社僧龍花寺は諸事の対応に「社僧に似合わざる不埓の至り」につき「両御領分御構い成られ追去」を命じられ、丸亀・多度津両藩領内にはいられなくなった。更に延命院からも勘当され、牛屋口から追放された。
5 延命院も「閉門」
6 二宮の太夫三人については篠原兵部と篠原因幡が追放、黒嶋子庫は神職取り上げの処分。
そして、二宮三社神社の新たな太夫には、麻部神社の太夫遠山氏と勝間の太夫藤田氏が任じられることになりました。こうして見ると、別当寺関係も神職関係もすべて追放され新たな体制となったことが分かります。いわゆる喧嘩両成敗の裁定です。
 ただ、社僧龍花寺が追放された後にあらたな別当が入ってきた気配はありません。また、延命院は閉門を契機に、二宮三社への影響力を弱めたことが考えられます。そうだとすれば、新たな太夫達による運営体制が整えられて行ったのかもしれません。拝殿の鍵を誰が持つようになったかは分かりません。

 江戸時代の中頃までは、寺院と神社の間で、領分が分けられ、権益が重ならないように調整され、「棲み分け」が行われていたようです。ところが江戸時代後半になると寺社のそれぞれが「新法」を主張し、それまでの「棲み分け」領分への「侵犯」が始まります。ここからいろいろな争いが起きるようになります。そのひとつの形が大水上神社には史料として残されています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献 高瀬町史

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大水上神社の奥社に続く階段
前回は江戸時代中期に書かれた二宮三社(現大水上神社)縁起の前半を見てみました。今回は、その後半を読んでいくことにします。まず、二宮三社神社の修築に関する記事が次のように記されています。まずは棟札から始まります。
 
大水上神社縁起12

意訳変換しておくと
二宮大水上神社大明神の社殿の棟は建長六(1256)寅甲年八月午戊四日に挙げられ
大願主は沙弥寂阿   大工は 額田国弘
大水上神社縁起13
意訳変換しておくと
建立に当たって、後小松帝、弥光帝・後花園帝この三帝の勅書が内陣に保管してあったが、土州之賊徒(長宗我部元親)の悪逆で紛失した

 ここでは13世紀半ばに、朝廷の勅書で社殿が建立されたと記されています。その勅書は長宗我部元親の「悪逆」でなくなったと云うのです。讃岐の寺社の由緒書きのパターンです。土佐軍の兵火で焼かれて、証拠となる文書は燃やされてしまったという「釈明」です。

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大水上神社奥社周辺の聖域

 さらに、大風で社殿が破損したときに、禁裏から修覆費の援助を受けたと次のように記します。
応永34(1427)年8月20日夜 にわかに大風が吹いて、周囲が十六間もある桧木が、社殿に倒れかかり大破した。そこで、年8月29日に、仮殿を建て、三神を仮殿に移した。新たな社殿の造営について京都からの援助があり、正長元(1428)年東讃守護代の安富有富が修復責任者として工事に当たった。

大水上神社縁起14
意訳変換しておくと
永享3(1431)年7月、仮殿が雨漏りして、経蔵に宮を移した
永享11(1439)年9月10日になって、二宮(近藤)国重が造営奉行に任命されて、11月に京都より帰国し、造営が開始された。しかし、工事は遅々として進まなかった。そこで、西讃守護の香川氏と東讃守護の安富氏から150貫の寄進を受け、近藤氏が造営奉行として、社殿を完成させた。
畏くも二宮社に祀られた神仏は次の通りである。
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月日 にこれらの神仏を安座した。
大水上神社縁起15

意訳変換しておくと
今上皇帝は「聖寿万安」   将軍源朝臣は「武運長久 福禄増栄 国家安泰 万民豊楽 庄内繁昌 貴賤各願」の成就を祈願した。先だって性智院殿は讃州一国の人別銭で二宮社の落慶を行おうとしたが思うようには進まなかった。そこで、近藤二宮但州国茂を造立奉行にして三社神社の造営にあたらせた次第である。この一巻は、三社神社が大風で大破したのを近藤氏が再興したことについて記した。筆者 高松太郎頼重末葉正春

15世紀半ばに、二宮三社神社は(近藤)国重によって建立された?
二宮三社神社の修復に国家(朝廷?・幕府?)から東讃守護の安富氏が責任者に任じられたが、何年経っても完成しないので、二宮の近藤氏が造営奉行に任命されて、京都から帰り短期間で完成させたと記されています。その際に、東西の守護代である安富氏と香川氏から150貫の寄付があったというのです。
 前半部については、にわかには信じられない内容です。中世には、地方の小さな寺社を国家が保護することはありません。また守護代が他人の氏寺の修理に寄進することもありません。いろいろな虚実を取り去った後に残る核の部分は「永享11(1439)年9月10日になって、二宮(近藤)国重が社殿を完成させた」という部分です。これは本当なのではないかと研究者は考えているようです。
 前回に見た縁起の初頭部分に、二宮の国人・近藤正光のもとに現れた八幡神を自分の館に祀り、館は藤の花で彩られるようになり、正光は藤樹公と呼ばれるようになったこと。そして、館は神社となり多くの人が参拝するようになったこと。社司は近藤家が勤めてきたことが記されていました。
   それは、今見てきた近藤氏による二宮三社神社(現大水上神社)の建立と重なり合うのではないかと思えてきます。

最後の巻で縁起は長宗我部元親について記します。それを見てみましょう。
大水上神社縁起16

 昔は二宮三社神社は大社であったが長曽我部元親の狼藉で御社大破し、竹の林の奥の仮屋にお祭りするという次第になっていました。元親は土州からやってきて、金毘羅権現の近辺に放火し香川中務大輔同備後守の居城天霧に押し寄せた。香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って、金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃させられた。
大水上神社縁起17

これに対して、毎日山伏が千から二千、時には三千が夜になると鬨の声を上げて長宗我部元親を責めた。山伏は長宗我部元親の目には見えても、諸卒の目にはみえない。これは二宮三社や金毘羅大権現の神罰ではないかと疑うようになった。そこで元親は両神へお詫びのために金毘羅へ中門建立の願をたて別当金毘羅寺に、一七日の護摩修行を行わせた。これで狂気が去った元親は、大に悦び、近辺で兵卒が掠めとった宝物を残らず神納した。そして、任御門を建立した。これが今、金毘羅の門で棟札には長曽我部元親寄進とある。

ここからは次のようなことが分かります。
①土佐軍侵入で二宮三社神社は「御社大破し、竹の林の奥の仮屋」になるほど衰退し、神宮寺も兵火に会った
②近世のはじめの二宮三社(大水上神社)は、保護者の近藤氏を失い再建不能な状態にあったこと
③長宗我部元親が「金毘羅権現の近辺に放火」「金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃」と記されます。しかし、事実は、長尾氏出身の金光院院主宥雅が堺に亡命し、金毘羅は無傷で長宗我部元親の手に入っています。そこに、土佐修験道の指導者宥厳を入れ、讃岐平定の総鎮守としたことは以前にお話ししました。平定成就を感謝して建立されるのが現在の二天門です。
④長宗我部元親は、西讃や丸亀平野の平定の際には、琴平に本陣を置いたと記されます
⑤「香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って」と、香川氏が不在であったという書き方です。香川氏の毛利への一時亡命と混同しているようです。香川氏は、長宗我部元親とは一戦もせずに同盟関係に入っています。
⑥本陣を置いた金毘羅では「毎日山伏が千から二千、時には三千が夜になると鬨の声を上げて」とあります。ここからは、当時の金毘羅が山伏(修験者)の集まる霊山であり修験の場であったことがうかがえます。
⑦「金毘羅へ中門建立の願をたて別当金毘羅寺に、一七日の護摩修行を行わせた」とありますが、大門が建てられるのは高松藩の松平頼重の時代になってからです。この時には金毘羅寺(松尾寺)には山門はありません。「中門」という表現は、これが書かれたのが大門建立以後のことであることを示します。

以上のように、長宗我部元親についての記述は他の史料との整合性がないものばかりです。「長宗我部元親=悪逆」という編者の先入観にもとづいて、それを示すための例が並べられている印象を受けます。
 長宗我部元親にたいしての「恨み」をはらすためには、これだけでは収まらなかったようです。さらに、次のような事が書き加えられています。
大水上神社 八幡武神
武者姿の八幡大菩薩

大水上神社縁起18
意訳変換しておくと
 その後、元親は阿波に向かい秀吉公と一戦を交えた。その時に、秀吉軍の先手の真先に武者三騎が現れた。大声を上げて元親の首を伐て、軍門に曝さんと名乗掛ける。見ればまん中の騎馬武者は雪よりも白い馬に跨がり、長さ三尺あまりの幡を掲げる。そこには地白に朱で八幡大菩薩とある。その左の騎馬武者は、栗毛の馬に乗り、幡に大水上大明神、その右は青の馬に乗馬し、幟は三嶋竜神とある。太閤秀吉は、これを見てこのような武士が味方にはいない、敵が紛れ込んでいるのではないかと使番に仰せ付けられたが、他人の目には見えない。
大水上神社縁起19

 八幡大神の加勢だ、ありがたい思し召しと南無八幡大菩薩と念誦し、筑紫宇佐の方に柏手を打ち遥拝したという。三騎は一文字に元親に向かって突入した。元親が乗った馬は膝をおりわなき振え、元親も身すくみしゃべることさえ出来ない。土佐軍の兵卒は退却するしかなかった。
この時に討取らた首は375にものぼる。これこそ二宮三社(大水上神社)の仇討ちであったと諸人は知った。
大水上神社縁起20

その後、秀吉公は滝川伊与守を二宮三神へ遣わして代参さた。その時には、元親違乱以後の後に建てられた薮の中に小さな社殿に参拝し帰京し、秀吉公へ報告した。
 この際に二宮三社の社司は秀吉公と元親との対陣の折りに起きた奇怪な出来事の端末を、次のように語った。その時には社殿が三日間震動し、三体の神輿が東南の方へ飛び去るのを肝を潰しながら見守った。どこに行ったのかもしれず、讃岐国中を尋ね探したが見つからず、
大水上神社縁起21

五十日程して神輿はいつものように拝殿に戻っていた。その側には切々になった幡があり、人々は不思議に思って、国中に尋ねたが幡の主は分からなかった。二三年後に、土州老士がこの村にやってきて元親秘蔵の幡が紛失したことを聞て思いあたった。秀吉公はこのことを聞いて、二宮三社の造営を命じ下さった。
 しかし、ほどなくして朝鮮出兵がが始まり、再建工事は始まりませんでした。その後は大坂冬の陣の時には、国主生駒雅楽頭殿に再建を命じましたが進まず、大坂落城後はほどなく権現(家康)様に再建を願いでましたが、これもかなわず、いままも社殿は大破したままである

  ここに書かれていることをまとめておくと
①二宮三社の三祭神が軍神として秀吉軍を加勢し、長宗我部元親軍を大敗させたこと
②その軍功に報いて、秀吉は社殿再興を約束したが朝鮮出兵などで適わなかったこと
③その後、生駒藩時代にも再建計画があったが実現しなかったこと
④そして、いまも社殿は再建されていないこと

 この巻は二宮三社の軍神達の活躍ぶりが印象に残ります。
八幡神は軍神として当然ですが、大水上明神も三島明神も武者姿として戦っています。「二宮三社=軍神」という目で、もう一度この縁起を見てみましょう。
 最初の巻で八幡神の軍神としての性格が語られ、次に源平合戦での神託が語られ、そして土佐軍との戦いぶりが語られていました。これは「二宮三社=軍神」観をアピールするためだったようです。
 アピールの対象は誰でしょうか。
それは最後の一行に現れています。秀吉も、生駒家も、家康も、再建を約束したのに、未だ社殿は大破したままだと記すのです。これは、京極家に対する社殿再建の請願です。別の見方をすると「二宮三社縁起」は、「社殿再建請願書」であったと思えるようになってきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史資料編134P 二宮文書 

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  讃岐国二宮である大水上神社に伝来する縁起を読んでみます。
大水上神社は、延喜式内社の一つで「二宮」さんなどと地元では呼ばれています。財田川の支流である宮川の源流にあって、本殿の横には「竜王淵」があり、いまは鰻伝説が伝わり雨乞いの霊地だったようです。羽方遺跡からは銅鐸や平形銅剣も出土していますので、弥生時代から水神として祭祠したようです。
 最初に「天正三(1574)年頃に書かれたものを、徳川中期に書き写した」とあります。しかし、文中に「士農工商」などの表現がでてきたり、用字用語上の解析から江戸時代中期に編纂されたものと研究者は考えているようです。当時は「二宮三社」と自称していたようです。この縁起を書いた人物の歴史観を考えながら読んでみることにします。
 二宮三社之縁起(大水上神社所蔵)    高瀬町史史料編131  P
大水上神社縁起1
  意訳変換しておくと
「讃岐国三野郡神田村二宮三社之縁起
この延喜は天正三(1575)年頃に作成されたものを、徳川中期に写したものである。讃岐国三埜(野)郡神田村 二宮三社之縁記の目次は次の通りである
一 八幡大神が当国に渡来し、近藤正光と対面する場面
  大水上大明神と三嶋神と竜神社を二宮三社として祀り繁昌していること
一 元暦元年の源平両家の奉願書について
一 三社の御詫宣について
一 源氏が上矢を神納し、敵を滅ぼし会稽の雪辱を晴らしたこと
一 応永三十四年 御宮が破損したときに、今上皇帝が造営費を負担したこと
箱書に「二宮三社之縁起」とあります。三社とは大水上大明神・八幡大神・三島竜神の三神をいうと記されます。もともと祀られていた水神に、中世になって客神として八幡神や・三島竜神が祀られるようになったことが分かります。丸亀藩に納めたとあるので、最初に目次が付けられています。最初に記されるのは八幡神です。この三社の中で、当時の中心は八幡神にあったようです。
縁起は、八幡神の成り立ちを次のように記します。

大水上神社縁起2
意訳変換しておくと
一 八幡大神が当国に渡来し、近藤正光と対面する場面
 讃岐国三野郡神田村に鎮座する二宮三社とは、八幡大神と大水上大明神と三嶋竜神のことである。
 八幡大神は、人皇十六代応神天皇のことである。その父仲哀天皇の母は神功皇后になる。皇后が三韓を征伐して凱旋した後に、その冬十二月に筑紫の蚊田でお生まれになった。これからあやしきことが続いた。皇后の治天三年に応神は四歳で皇太子と成り、71歳で帝位についた。在位41年2月15日大和国の軽(かる)の嶋明の宮で110歳で崩御した。 

人皇三十代欽明天皇の時に肥後国菱形の池乃辺の民家の子に憑依して次のようにおっしゃった。「我は人皇十六代誉田の八幡麻呂である。諸州において神明と垂跡(混淆)する。そのために、今ここに現れた」と。朝廷では勅使を下して豊前国菟狭郡に移して鎮坐し、ここから諸方に勧請伝導を行い、人々もそれを受けいれた。八幡とは八正道の幡を立て八方・衆生に利益をもたらす神号で、その霊験の強さは、古今から例証されている。
 当時流布されていた「八幡神=応神」説がそのまま記されています。次が八幡神が二宮に現れ、近藤氏の祖先と出会う場面です

80歳を越えたあるときに、八幡大神武士の姿をした老翁に出会った。翁は「汝何人ぞ」と問うと、武士はこう答えた。 
「我は八幡大神なり。この国の士農工商を守護するために、弓を帯びている」と 
翁は大いに驚いて次のように云った。
「私は、この地の領主である。まず我宅においでください。」と
 正光の館には藤樹があったが、この老武士がやって来てからは、その藤は大いに繁茂していろいろな花を咲かせるようになった。紫藤は棟となり、白藤は壁となり、青藤はハマカキと成り、黄藤は屋根を覆て、まさに不思議な館となった。そのため正光を藤樹公と呼ぶようになったと伝えられる。
  大水上神社 八幡武神
八幡神武人姿
 家は栄え、遠くまで藤の木のことは知られるようになった。藤樹の枝を折って並べると、風雨火水の難に合わないと伝えられ多くの人々が参拝するようになった。藤の花は弥生の頃に花開いて、林鐘(旧暦6月)の頃まで落花せす、霜月の雪中でも落葉しないので「常磐の藤」と云われるようになった。これもみな八幡の神力である。正光の子孫は、長きに渡ってこの地を領し、後には当社の代々の社司となった。その俗名は又十郎 官名は美濃守但馬守である。子孫代々がこの名を相続してきた。
ここに記されていることをまとめておきましょう。
①二宮の領主近藤正光のもとに八幡大神が現れた。
②近藤正光は、八幡大神を館に祀った。
③館は藤の花で彩られ、正光は藤樹公と呼ばれるようになった
④館は神社となり多くの人が参拝するようになった
⑤二宮三社の代々の社司は近藤家が勤めてきた。
書かれた内容から書き手の一番伝えたかったことを推察してみましょう。
それは、この地に現れた八幡神を祀り、維持してきたのは近藤家であるということのようです。丸亀藩に提出するために書かれたものであったすれば、それは当然なことでしょう。

もうひとつ指摘できるのは、延喜式以来の二宮神社が祀ってきたのは水神であったはずです。八幡神は後からやって来た「客神」です。本来の水神よりも、宮司の近藤氏にとっては八幡神の方が重要であったようです。二宮三社の当時の主神は八幡神であったことがうかがえます。
DSC02792

次に記されるのが水神です。

大水上神社縁起4
二宮三社には岩清水の清き流があり、
その下流には大な池(淵)があって、竜神が住むと伝えられる。旱魃の時にも池の水が枯れることはない。この竜神の身体は、一月十日に白・黄・赤の三色に変わるので三嶋竜王と号する。一説には、竜身が白黄赤の三色なのでこう名付けられたという説もある。
 
 大水上大明神の尊号について考えてみると、水徳成就の水神で、天一水を生して五行思想の本源でもある。そのため五穀豊饒を守護する神号であろう。神代の昔より、この地に鎮坐してきたと伝えらる。延喜式神名帳に、当国二十四座之内三野郡一座大水上神社とある。人皇十二代景行天皇の皇子(神櫛王)が宇多津の沖で悪魚退治を行った恩賞に当国を賜り、香河郡に城郭を築いて住むようになった。当社も神櫛王の信仰を得て、正五九月に参拝され、 三野豊田両郡を大水上神社の社領とし、三神を二宮三社と名付けた伝えられる。
 八幡武士の姿で二月丑之日に正光の家にやって来たからので、昔は毎年この日に百手の興行を行い、八月十二日十三日は三嶋竜王の祭 十四日十五日は八幡の祭 十六日十七日は水上大明神之祭、初終六日が行われていた。遠国近国より多くの人々が、毎年祭礼を行っていた。天下泰平 国土安穏 万民繁昌の御神とされていた。
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ここで龍神伝説がでてきます。三色に変化するので「三嶋竜王」だと云います。
善通寺の影響を受けた威徳院(高瀬)や本山寺(豊中)は、善女龍王信仰が伝わっています。いろいろな形で雨乞いが行われていたようです。注目したいのは、二宮三社神社で、この縁起が書かれた頃には雨乞いは龍神伝説だったことです。それがいつの間にか現在の「鰻淵の大鰻伝説」に変わっています。今は、ここに龍が住むとは伝えられず、鰻が住むとされています。龍から鰻への交替がいつ頃のことだったのか、これも知りたいところです。また三島竜神は、どこへいったのでしょうか?
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最後に登場するのが「大水上大明神」です。
ここで延喜式以来の歴史が記されますが、その分量は
八幡神と近藤家の関係に比べるとわずかです。また、この縁起を書いた近藤家の宮司からすれば、それは遠い昔の話で、直接的には関係のないことだという思いがあったようにも感じます。
 古代の二宮社を語るときに神櫛王の悪魚退治伝説を登場させています。そして、国司となった神櫛王によって、三野・豊田の両郡が社領として寄進されたと大風呂敷を広げます。ここからは、宮司近藤家には、古代から中世の大水上神社の史料や歴史は伝わっていなかったことがうかがえます。

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 ここからは、次のような事が推察できます。
①古代に律令国家の保護の下にあった大水上神社は国家や有力豪族の保護下にあった。
②それらが衰退した後に、国人の近藤家が八幡神を合祀し二宮三社とした
③中世には近藤家の保護下のもとで、2つの神宮寺による神仏混淆体制下で神社経営は行われた。
④近世には、八幡神がもっとも信仰を集める神となっていた。

そして、縁起編纂者は空海を登場させます

大水上神社縁起5
一 弘法大師入唐の際に、当社に立ち寄られ詣法行い、次のような和歌を詠した。
はるばると詣きゑれば三の神
力をそへてまもりたまへや
五月雨ややまゑ思ひに旅の空
いとま恋しくまいる我なり
  八幡大神御返可
我はたゝいまも弓前の神としれ
もろこしまても守護じめくまん
両神御返歌
上之句   大水上大明神
往来は心やすかれそらの海
下之句   三嶋竜神
水上清きわれハ竜神

これが延暦弐十三年五月十八日のことと伝えられる。 これから大師は観音寺へ行って、琴弾社に参拝した。そして八幡大神と対面し、その夜は十二人の児達の琴を聞、翌日出帆していった。

一 額之字
華標之額 二宮八幡大神
拝殿之額 大水上大明神
    八播大菩薩
三嶋竜神
これらの額は大師が帰朝した後に寄進された大師真筆のものである。
大水上神社 空海入唐図
空海の入唐ルート

空海が唐に出発したのは、延暦23(804)年7月6日のことです。遣唐使船が難波宮を出発します。
5月12日唐に留学(遣唐使)のため難波津出港
7月 6日肥前国田浦を出発。
8月10日赤岸鎮に漂着。海賊と間違われる。

 遣唐使に選ばれた空海が讃岐にやって来て、二宮三社神社に立ち寄って、三社の神々と歌のやりとりをしたのちに、観音寺に向かい琴弾社に参拝し、翌日に出帆していったと云うのです。その日付を「延暦弐十三年五月十八日のこと」とします。入唐の前に、遣唐使船を離れた空海は善通寺に里帰りして、父母に挨拶したことは善通寺縁起にも伝えられます。九州から遣唐使船が出港していく前に、讃岐に里帰りしていたという空海伝説のひとつのパターンです。遣唐使の一員である以上、そんなことはできません。事実ではありません。
 ここからは縁起を書いた人物が「八幡信仰 + 弘法大師信仰」の持ち主であったことがうかがえます。この縁起は八幡信仰の上に、弘法大師伝説が接ぎ木されています。このパターンは観音寺縁起と同じです。観音寺縁起では、弘法大師は八幡神の権化で化身と記されているのは、以前に見たとおりです。何かしら観音寺縁起の影響を受けて、この縁起は書かれているような印象を受けます。とすると、真言密教系の僧侶達の中世三豊のネットワークの中に二宮三社の神宮寺の別当社僧達もいたのかもしれません。

 元暦元(1184)年の源平両家の奉願書について
 目次に挙げられた2つめのテーマは、源平合戦の際に、源氏と平氏がそれぞれ願文を奉納したということについて記されています。
大水上神社6源氏願書

 最初に記されるのが源氏願書です。その筆頭は頼朝、次に義経の名前があります。
 日本六十余州を悩ます悪臣登場する。数ケ国を奪い取り、誠に持って前代未聞の悪逆である。天子を称し、公卿大臣之位官を奪い、庶民にあたえる非道ぶりである。 保元に為義為朝源氏之一属を滅し 平治ニ義朝一家を誅す (以下略)

と平家の非道ぶりが指弾され、討伐の正当性が主張されています。そして奉納者のメンバーを見ると源平合戦で活躍する名前が目白押しです。
 それに対して平家願書はどうでしょうか。

大水上神社7 平家願書
敬白御立願状
この度の戦いの利運は、当社の霊力にかかっている。氏神を奉崇し、神力の功あるものは四海魔王の報恩を国家のためになすべし 願文如件

こうして二宮三社は源平の両方から願文を受け取ります。
それにどう対応したのかが次に書かれています。それを意訳して見ましょう
大水上神社8 源平願書
意訳変換しておくと

一 藤樹翁は代々に渡って近藤但州藤原朝臣国茂迄禁裏に仕えてきたが、元暦の戦の時には、源平両家から出兵の依頼があった。そこで神田治部少輔貞家は御湯立を行い、源平両家からの願状を占った。

その時に、三社は十二三歳の乙女に憑依して次のような託宣を下した。
「神は非礼を受けず、祈心の正しくない者の願いを叶えることはできない。躰を引き裂かれようとも霊験は得られない。ましてや正直慈悲の心があれば「不祈」とてしても神は守るであろう。」このように神は云うと、乙女は倒れた。その後、躰を震わせ持っていた鈴を鳴して「人は城 人は石垣 人は堀 情は味方 離は大敵」と言い続けた。神が乙女に憑依して、乙女の口を通じて語らせのだ。賤き乙女が神の尊言を伝えたことについて、人々はおおいに驚嘆した。
 それから神懸かりとなった乙女は、神前の御幣を振って、拝殿を三度廻り内陣へ飛入って、人々を招いて次のように神託した。
「天の時は地の利に如かず。地の利は人の化に如かず。人の恨深き方、軍に負ケ、人の祝多き方必勝利を得べし、力をもって利を得ようとするならば必ず利は得られない。これは古来より軍に勝つ法である。神の答えは以上であると両家へ伝えよ」と言い終わると乙女は内陣に三日の間、閉じこもった。その後に御戸を開いて出てきた乙女は、十七日絶食後に朝粥を少し食べた。その姿は狂人のようであったと云う。誠に三社の御神が乙女に乗り移り霊験を著した不思議なことであった。

  神が乙女に憑依して、神の宣告を伝えることがドラマチックに書かれています。なぜ、源平合戦なのでしょうか。これは当時の二宮三社神社の次のような立ち位置にあったように思います。
①八幡神を主神として祀る武門の神社であったこと
②この縁起(由緒書)が丸亀藩に提出されることを前提に書かれたものであること
そのためには、源平合戦において源平両家の請願を受けたというエピソードが入れられたのでしょう。そして、神の声が乙女に憑依して伝えられたとしていることは、興味深く思えます。中世らしい神社の姿を伝えているように思います。しかし、これも事実であったとは云えません。
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次に出てくるのが建久九(1198)年とされる社領目録です。

大水上神社10寺領

大水上神社11寺領

この度荒乱につき、この巻を誦じ、すわわち神力で氏子の難苦を遁れることは、社僧の度々の広恩によるものである。一家の喜びは小さいことで、神領の永続を願うものである。
建久九午成年二月日 散位秦支守法
摂津守大平忠
別当弁実聖人
別当圭如法印
先ほどの大水上神大明神について触れられた所では、「神櫛王の信仰を得て、三野豊田両郡を大水上神社の社領とし、三神を二宮三社と名付けた」とありましたが、ここでは社領は総合計200町と記されます。その内訳は「修理領+祝言領+燈明領+御供領=177町で、総合計とはあいません。
 また、中世の寺社の寺領は荘園領主や地頭などの有力者から寄進される場合が多いのですが、それは寺院年間行事のイヴェント運営のための寺領が多く、こんな簡単なものでないことは以前にお話しした通りです。これはこの縁起を書いた江戸時代中期の社僧の「常識」が反映されている内容です。中世の寺社の寺領構成を伝えるものではないようです。
 ここで興味深いのは、前回もお話ししましたが「別当清澄寺36町、別当神宮寺36町」と記るされていることです。この社領面積をそのまま信じることはできませんが、2つの別当寺があったことはたしかなようです。それを裏付けるように、境内には古い瓦が出土する2ヶ所あります。
①一つは鐘楼(かねつき堂)跡と伝えられるところで、宮川を挟んで社殿の反対側の尾根上
②もう一つは、社殿の北側で、浦の坊というところ
そのどちらかの社僧によって、この縁起は書かれたと私は考えています。
  どちらにもして中世の二宮三社神社は、近藤家の保護下にあって、神仏混淆下に社僧によって運営されていたことが分かります。
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    今回はここまでにしておきます。以上をまとめておくと
①「二宮三社之縁起」は、江戸時代中頃に丸亀藩に提出するために、当時の二宮三社神社の別当寺の社僧が書いたものと推測できる
②三社とは「八幡大神と大水上大明神と三嶋竜神」のことであるが、当時は八幡神が主神とされていた。
③八幡神を合祀したのが近藤正光で、近藤氏が二宮信者の正統な継承者であることがはじめに書かれている。
④二宮三社神社のもともとの主神は、水神であったが中世に客神の八幡神に取って替わられている。
 これを進めたのが近藤氏と思われる。
⑤中世の寺領目録には、2つの神宮寺のことが書かれているので、神仏混淆下で神宮寺の社僧による神社運営が行われていたことがうかがえる。
⑥八幡信仰に空海伝説が附会されていることから密教系僧侶の存在がうかがえる。
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  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史資料編134P 二宮文書 

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