瀬戸の島から

2021年08月

   青龍古墳1

前回に青龍古墳は、平地に築造された大きな古墳で、調査前には二重の濠を有すると云われ、前方後円墳とされていました。しかし発掘調査の結果は、青龍古墳に二重の濠はなく、前方後円墳でもないことが分かりました。濠ではなく広い周庭部を持つ珍しい大円墳だったのです。それが後世の改変を受けて、現在のような周壕を持つように見える姿になっていったよです。
まずは、それが明らかになる調査過程を見ておきましょう
調査では、10㎝間隔の等高図と要所にトレンチが何本か掘られます。
青龍古墳トレンチ調査

その結果、第1トレンチ西端の埋土上層から中世の土鍋片が多数、下層からは5世紀代のものと見られる須恵器片が1点と、最下層から埴輪片を含む土師器の小片がでてきました。ここからは5世紀の造成後に中世になって、掘り返されていることが分かります。遺構底部は、周壕と呼ぶほど深くはなく、底部も平坦なのです。これを考え併せると、周濠ではなく周庭を伴う円墳の可能性が出てきました。周庭の底部は東に向かって緩やかに上がり、続けて古墳南側に露出している周堤と外濠、それぞれの延長線上で同じような遺構が出てきます。
 周堤をさらに詳しく踏査すると、崩壊した複数の箇所に中世頃の土器片が見つかります。ここからは外濠及び周堤と考えられていた遺構は、中世の改変で造られたものと推測できます。
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青龍古墳の周庭部
 周庭部と考えられる部分の第9トレンチを見てみましょう。上層からは土鍋等、多量の中世遺物が出ています。古墳裾部まで掘っても埴輪片などは出てきません。トレンチの南端では地山が緩やかに上がり、ここに埋土以外の人工的な盛土が確認されています。ここを周庭部端とすると、その幅は11m程です。人工的な盛土は、後世に造られた周堤部のようです。古墳南側から西側にかけて残る周庭部は、かつては水田だったようですが、近年は耕作されておらず湿地化し葦が生えています。ここは湧水量が極めて多く、湧水点も極めて浅くいため湿田であったことが予想できます。
以上を整理しておくと
①青龍古墳は、周囲に浅い周庭をともなう大型古墳であった。
②中世に周庭部などの土を用いて、周囲に周堤を築いた。
③南側の周庭は湧水量が多く、水田化されて利用されてきた
④周庭部の水田の水位調整のために、畝(陸橋)が造られて小さく間仕切り化された。

以上から青龍古墳は5世紀後半に築造された後に、中世に大規模な地形の改変が行われているようです。その改変時期については、遺構から中世の土器片が出土することから、改変されたのは南北朝~戦国時代頃と報告書は推察します。

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吉原からの天霧山
「中世の改変」とは、具体的になんなのでしょうか?
 吉原町の北西には、今は石切場となって、かつての姿を失ってしまった天霧山が目の前にあります。ここには西讃岐守護代の香川氏の居城「天霧城跡」がありました。香川氏は阿波の三好氏と対立し、その侵攻に悩まされていたのは以前にもお話ししました。16世紀後半の永禄年間には、善通寺に陣を敷いた三好勢力に対して籠城戦を強いられています。それ以外にも多くの戦闘が行われていて、付近には甲山城跡や仲村城跡等の関連遺跡があります。
青龍古墳と中世城郭

 青龍古墳は、我拝師山から張り出した尾根状地形の先端に更に7mの盛り土がされています。古墳からは周辺に視界を遮るものがないので、古墳北側に作られたテラス状平坦部に立てば正面に天霧山を仰ぎ見ることができたはずです。しかし、天霧城を攻める三好方が攻城拠点として築いた砦ではないようです。なぜなら、砦の正面は南側に、向けて武装強化されています。天霧城の出城的な性格が見られます。どちらにしても、戦国時代の天霧城攻防戦の際に、砦が置かれそのための改変を受けたと報告書は推測します。

青龍古墳地図拡大図
 
青龍古墳を中世の砦を兼ね備えた複合遺跡として考えれば、古墳の外濠とされていた遺構は堀であり、周堤は土塁だったことになります。墳丘の北側平坦部や傾斜地の構造も、納得ができます。城と云うには規模がかなり小さいので砦的なもので、にわか工事で造られた可能性もありますが、史料的に裏付けるものはありません。


一円保絵図 五岳山
善通寺一円保絵図 中央下のまんだら寺周辺が吉原地区

視点を変えれば、青龍古墳は、整然と区画された条里遺構の端にあります。
1307(徳治二)年に作成された「善通寺一円保絵図」(重要文化財)には、善通寺領を含めてこの付近の様子が記されています。この絵図が書かれた頃の善通寺は、曼荼羅寺との寺領境界をめぐる紛争がようやく確定し、新しく多くの所領が編入されました。鷺井神社は立地条件やその特異な構造から、荘園制のもとで神社でありながら他の重要な機能を果たしていた可能性があると報告書は指摘します。
一円保絵図 東部
一円保絵図

  以上をまとめておきます。
①青龍古墳は我拝師山中腹にある曼荼羅寺あたりから平野部に低く派生した尾根の先端を利用し、5世紀後半に築造された巨大な二段築成の円墳である。
②円墳の周囲には浅く削り込み整形した幅の広い周庭帯があることが分かった。周庭帯は傾斜地に造られた墳丘を巡っているため、下方はテラス状地形になっている。
③この時期の古墳は県下では数が少なく、しかも周庭帯を持つ古墳は特異な存在である。
④周濠を有するものも数は少なく、大川町の富田茶臼山古墳の他は善通寺市の菊壕と生野カンス塚、観音寺市の青塚古墳が知られている程度でる。しかもいずれも前方円墳ある。

青龍古墳 碗貸塚古墳との比較
碗貸塚古墳(観音寺市大野原町)との比較

  青龍古墳の広大な周庭部は、規模が大き過ぎます。なんらかの特別な使用目的があった施設なのでしょう。もしそうだとすれば、前方後円墳並みに計画的に造営された古墳であり、それ相当の被葬者が考えられます。
  当時の西讃岐は善通寺周辺を中心に佐伯一族の勢力範囲でした。有岡古墳群がその一代系譜の墓所とされています。それに対して、吉原を拠点とする首長が造った青龍古墳は、佐伯氏から前方後円墳造営に制限を受けていた可能性があることは触れた通りです。そのような関係の中で、特異で凝った周庭を持った円墳が造られたとしておきましょう。
この時に調査目的は青龍古墳の規模や形態の把握であったために、墳丘部の調査は行なわれていないようです。そのため縦穴式石室の構造や副葬品については分かりません。ただ石室は崩壊部分から出ている露出状況から見ると東西方位で、その位置から二基ある可能性もあるが、古い社殿が墳丘上にあったことから破壊されている可能性も報告書は指摘します。
ある。

青龍古墳拡大図3

この調査では、これまで言われて来たような二重の濠を有する前方後円墳ではないことが分かって、残念な気持ちにもなります。しかし、周庭部を含めての全長は78mの円墳で、その規模は大きく、県下では比類ない存在です。その勢力を善通寺王国の首長は配下に組み込んでいたことになります。善通寺王国の形成過程や構造を考える上では、いろいろな手がかりを与えてくれる古墳です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

      青龍古墳 地図
                                                                                        
善通寺の吉原地区は、南側に五岳の急峻な山脈がそびえ立ちます。その中の盟主である我拝師山は弥生時代の人々からも信仰の山と崇められていたようで、銅剣や銅鐸が何カ所からも出土しています。古墳時代になると、独自の系譜を持つ首長墓も作り続けていますし、平安時代には曼荼羅寺が姿を現します。ここからは善通寺の練兵場遺跡を中心とする勢力とは、別の勢力がいたことがうかがえます。その吉原地区にあるのが青龍古墳です。この古墳はかつては、前方後円墳だとされていましたが、発掘調査によって円墳であることが分かりました。今回は、この古墳の発掘調査報告書を見ていくことにします。

青龍古墳俯瞰図
 善通寺市の吉原小学校の南東に鷺井神社の社叢がこんもりとした緑を見せています。この神社の本殿の後に、青龍古墳はあります。青龍古墳の東側に、本殿や拝殿が建っています。方墳部丘を削ったところに神社が建っています。
 青龍古墳地図拡大図

善通寺の古墳群で有名なのは有岡古墳群です。
「善通寺の王家の谷」ともされる有岡地区には、国の史跡に指定され整備の進んだ王墓山古墳を筆頭に、菊塚古墳や線刻画の岡古墳群がならびます。これらの首長が空海の祖先で、後の国造佐伯直氏に成長して行くと考えられているので注目度も高いようです。しかし、今回目を向けたいのは、五岳を挟んで有岡の反対側の吉原地区です。
 吉原地区は香色山・筆ノ山・我拝山及び中山・火上山(五岳山)北麓と五岳と呼ばれる連山が並びます。この山裾からは、銅剣や銅鐸が出ているので、麓には弥生時代からの集落があったことがうかがえます。古墳時代になると、大窪前方後円墳(積石塚)→ 中期の青龍古墳 → 後期吉原椀貸塚(巨石墳)など各時代の首長墓が継続して造られていくので、独自のエリアを形成していたことが分かります。吉原区域の古墳は、その多くが山裾部から高所に散在しています。平地にあった古墳は耕地開墾によって、ほとんどが消滅したようです。
その中で平野部の中央部には、鷺井神社の境内地には青龍古墳が残されています。墳墓が信仰対象となったおかげでしょう。

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目に効能のある鷺の井 その向こうの社叢が鷺井神社

鷺井神社の由来は古記に次のように記されています。
「仁寿元年(851)年、現在の境内から東100m程のところに一羽の青鷺が飛来し、ここに清水が吹き出していた。この清水は眼病に効果があるとの神託があり、住民は神水と崇めた。」

眼薬になる泉を鷺の井と呼んだようです。そのため戦国末期には、次のような話が生まれます。
「霧城主香川信景の子(または一族の子)桧之助頼景が眼を患った際、この神水により治癒したため、香川氏及び住民の厚仰するところとなった」

とも伝わります。この頃に青龍古墳を境内として、神社の原型が誕生したと調査書は記します。
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鷺井神社
 当初は青龍明神(青龍大権現)と呼ばれて、少彦名命を祀っていましたが、明治時代以降はこの地の小字「鷺ノ井(目に効能のある井戸)」から鷺井神社とされ、境内地全域に広がる古墳も信仰対象とされてきたようです。
青龍古墳1

発掘前の青龍古墳の地形を、調査書は次のように要約しています。
①墳丘の一部は削平され、神社の境内地となっている。周辺は水田地帯であり、南側の我拝師山から派生した尾根の先端部に構築されている。付近の標高は約20mである。
②墳丘の直径は約25mで、東側半分に社殿等が建設されている。
③そのため円墳か前方後円墳か分からない。恐らく円墳か帆立貝式古墳であろう。
④南北側と西側は旧状が保たれていて、特に南側から西側にかけては周庭帯や二重に巡らされた濠の形状が明確である。
⑤墳頂部は古い本殿があったため削平され、墳丘断面に石室と思われる石材の一部が露出している。
⑥鉄刀片の出土も伝わる。墳丘外面は表土の流出が著しく、埴輪片は確認されていない
⑦裾部において礫が多数みられるので、茸石の存在が予想される。
⑦墳丘周囲には幅18mの内濠・周庭が見られる。後世の開発・改変によるものか、構築時の地形に影響されたものであるのかは不明である。
 平面図だけ見ると、確かに周壕がめぐらされた前方後円墳のような気もしてきます。このような古墳の姿が農地開墾だけが原因で変形したとも、築造期の姿がそのまま残るとも考えにくく、「まことに奇異な形態」だと発掘前に担当者は記しています。
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青龍古墳が円墳か前方後円墳かは、どんな意味を持つのでしょうか
青龍古墳 編年表

 前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化は、なにを背景にしているのでしょうか。研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている
②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
つまり、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減った」ということでしょうか。それにヤマト政権が関わっていると云うことです。

 青龍古墳 東讃編年表

①左側の高松平野では、前方後円墳祀りに参加しなかった岩清尾山勢力が次第に姿を消し、周辺部に前方後円墳が築かれ、最終的には今岡古墳に統合されていきます。
②津田湾周辺では、最初は津田湾周辺に造られた前方後円墳が、後背地に築かれるようになり
③最終的には、けば山古墳や三谷石船古墳のエリアまで統合した富田茶臼山古墳が登場します。これは四国最大の前方後円墳で、全長139mもありました。しかし、これに続く前方後円墳は、ここにもありません。このような前方後円墳の変遷は、他地域でも見ることができます。
丸亀平野の代表的な古墳を河川流域毎に歴史順に並べた編年図です。
青龍古墳 編年表
ここからは次のような点が読み取れます。
①ヤマトに卑弥呼の墓とも云われる前方後円墳の箸墓が造られた時期(第1期)に、丸亀平野でも首長墓とされる前方後円墳が各河川毎に登場している。
②第2期には、それが大型化し、領域が拡大する。しかし、三豊に前方後円墳は現れない。
③第3期には、地域統合が進み丸亀平野東部の前方後円墳は快天塚古墳だけになった。
ここでも初期には、河川流域毎にあった小さな前方後円墳が、だんだん減って最後に快天塚古墳が登場しています。
このプロセスを研究者は、どうかんがえているのでしょうか?
前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化について、研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている
②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
 前方後円墳はただの墓ではなかったと研究者はかんがえています。前方後円墳に祀られる被葬者と、その後継者はヤマト連合のメンバーで、地域の首長であったというのです。その手始めに造営されたのが卑弥呼の墓ともされる箸墓で、このタイプの墓の造営は首長だけに許されます。前方後円墳は、ステイタスシンボルであり、自分が地域の支配者であることを主張するモニュメントでもあったことになります。そのためにヤマト連合政権に参加した首長たちは、自分の力に見合った大きさの前方後円墳の造営を一斉に始めたようです。讃岐は初期の前方後円墳が多いエリアになるようです。早くからヤマト連合政権の樹立に関わった結果かもしれません。
 その後、各流域では政治的統合が進みます。その結果、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減少」していきます。同時に周囲の首長を従属下においた快天塚の主の権勢は大きくなり、巨大な古墳が登場することになります。
三豊の特殊性   
しかし、こうした「首長権の統合」が進んだのは鳥坂以東のようです。三豊では7期になるまで前方後円墳は造られません。今述べてきた論理からすると、三豊はヤマト連合政権に参加していなかったことになります。確かに三豊の古墳には、石棺などにも九州色が強く出ています。ヤマトよりも九州を向いていたいのかも知れません。
 観音寺の一の谷池の西側に全長44mの青塚古墳(観音寺市)が築かれるのは五世紀後半になってからです。しかも、これも墳形は前方部が短い帆立貝式古墳です。帆立貝式古墳については、大和政権が各地の首長墓の縮小を図るため、規制をしたために出現した墳形と研究者は考えているようです。古代三豊の政治状況は、讃岐全体からみると異質です。ここは別の時間が流れているような気配がします。古代の三豊は「三豊王国」を形成していたとしておきましょう。

そのような中で弘田川流域の善通寺エリアでは、前方後円墳が「野田院 → 摺臼山 → 北向八幡」と継続されます。
ここからは快天塚の首長のテリトリーが土器川を越えては及ばなかったこと、善通寺王国は独立を守り抜いていることがうかがえます。
白方 古墳分布
白方の古墳群

さらに弘田川下流の目を転じてみると、白方湾の西の丘陵地帯には、いくつもの初期前方後円墳が並びます。しかし、善通寺勢力が「摺臼山古墳 → 北向八幡古墳」を築く頃になると白方湾から前方後円墳は姿を消します。ここでも大束川流域で信仰したことと同じ事が起こっていたようです。つまり、弘田川中流の善通寺勢力がその河口まで勢力を伸ばし、白方の首長たちを配下に組み入れたということでしょう。その結果、白方の首長たちは前方後円墳が築けなくなったと研究者は考えているようです。

青龍古墳拡大図3

そういう中で、登場するのが青龍古墳です。
   もし、青龍古墳が前方後円墳だとすると、首長が吉原地区にいたことになります。善通寺エリアには、北向八幡古墳が造られて以後の5・6期には前方後円墳が築かれていません。空白期です。つまり、善通寺地区から吉原地区に首長の交代があったことが考えられることになります。そういう意味でも青龍古墳が前方後円墳なのか円墳なのかは、私にとっては興味深いことでした。

青龍古墳と中世城郭
  発掘結果は「大型の円墳」でした。
前方後円墳ではなかった=青龍古墳の被葬者は、善通寺の首長の従属下に組み入れられ、ヤマト政権からは前方後円墳造営が認められなかったということになります。
 前方後円墳が作れなくなった元首長たちは、大型円墳や小規模な帆立貝式古墳などを築造するようになります。善通寺市の青龍古墳や多度津町の盛土山古墳は直径42mに二重の周溝をもち、埴輪や須恵器から五世紀後半とされています。それぞれ旧首長でありながら前方後円墳が築けなくなったための「代用品」とも考えられます。
 さらに時代が下り、善通寺勢力が有岡の谷に「王墓山 → 菊塚」と連続して横穴式の前方後円墳を築いた頃になると、白方や吉原地区ではさらに小型の横穴式円墳しか築けなくなっています。ここにはヤマト政権の全国支配と同じように、善通寺王権が周辺地域への直接支配の手を伸ばしていく姿がうかがえます。

 そういう意味で、吉原の青龍古墳や白方の盛土山古墳は、善通寺王国の従属下に組み込まれながらも、まだ旧首長としての力があったころの被葬者が眠っているのかもしれません。

石切場 本島
細川氏が石切場を拓いていた本島の高無坊山
前回に大阪城再築の石垣のために小豆島だけでなく、塩飽諸島の島々にも石切場が置かれた話をしました。中でも細川家や黒田家は、小豆島と塩飽の石切場を同時進行で拓いて操業していました。多くの石を大阪城の現場に提供することが大藩の面目でもあったようです。ある意味、面子を賭けた石垣合戦を戦っていたとも思えてきます。今回は、各島に設置された石切場がどのように組織され、運営されていたのか、石がどうのように運ばれたのかを見ていくことにします。テキストは「坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島」です。

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塩飽本島高無坊山石切丁場跡

細川家と黒田家が割り当てられた石垣は?
第一期普請では、西・北・東の外堀と北外曲輪の石垣構築が行われました。普請場は、大名47名に割り振られ6組に編成されました。その中で、細川忠利は加藤忠広を組頭とする一組に所属しています。有力大名は、自分の力を誇示しようと「はれかましき所」である目立つ場所を希望します。
大阪城石垣 乾櫓 細川氏の石垣3pg
大阪城西の丸の乾櫓 その下の石垣が細川家によって積まれた

作事奉行の小堀政一(遠州)が細川氏に割り当てたのは「西の丸(二の丸)北の出角」です。この上に小堀遠州が乾櫓(いぬいやぐら)を建てることになります。乾櫓は、大手口から京橋口までおよそ230度の広い視野を持ちます。逆に言うと、どこからも見られる目立つ場所です。晴れがましい場所を指定されて、細川家の機運は高まったはずです。
大阪城石垣 乾櫓 細川氏の石垣
                乾櫓と細川家築造の石垣

 一方、黒田長政は田中忠政を組頭とする四組に所属し、大手北詰から南へかけての場所を担当しすることになります。ここもよく目立つところで、晴れがましい場所でした。
諸大名が築いた石垣をよく見ると、刻印が刻まれている石がいくつもあります。刻印が多くの人の人の目に触れるように石垣は築かれているようです。自分の刻印を見て、大名たちは晴れがましい気持ちになれたのでしょう。満足げに石垣を眺める殿様の姿を思い浮かべることができます。
 大阪城石垣 大名割当

 細川藩は「記録の細川藩」とも云われるほど、きちんと史料を残しています。それだけで私には尊敬に値する藩です。石切場関係の資料も保存してあります。例えば、塩飽での細川氏の採石責任者は、石丁場奉行として竹内音兵衛・沢形右衛門があたり、四組に分けられた組織が組まれていました。それぞれの組の頭は、長岡式部少輔・長岡右馬助・有吉平占・牧左馬允です。彼らは細川家の家老・重臣です。ここからは「天下普請」に対する細川家の並々ならぬ意気込みが感じられます。
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塩飽本島高無坊山石切丁場跡

石切場では、どのくらいの人が働いていたのでしょうか?
「塩飽石丁場にて御役人御着到前指引目録之事」は、本島の8ヶ月間の石切場の操業記録です。その延べ人夫数は149529人になります。一日あたりの稼働人夫数を計算してみましょう
総人夫数149529人 ÷ 8ケ月=一月約18750人  
人夫数18750人 ÷ 30日=一日の人夫数 625人
となります。本島の石切場の総人夫数は600人前後であったことが推測できます。これだけの数の人夫達が島にやって来て小屋掛けして、飯場生活を始めたことになります。これは本島にとっては、大変な出来事であったでしょう。
島にやって来た人たちには、いろいろな種類の人夫や技術者がいたようです。その内訳を坂出市史は、次のような表にしています。

大阪城石垣 本島石場の人夫種別構成の

私は最も多いのは、石の切り出し職人と思っていましたがそうではないようです。12の「山より石出し並に船に石つみ申夫数」です。これは石切場から船に積み込むまでの運搬作業員で、全体の約4割を占めています。以下を多い順に並べると
2 石場人夫  (石場の作業員)
3 波止築人夫    (石の積み出し湊工事の作業員)
1 石切人夫      (石切職人)
「四組」というのは、先に見たように4つの組に分かれて、それぞれの石切場で競い合って作業に当たっていたので、こんな名称で呼ばれたのでしょう。3の波止築人夫は、その名の通り輸送船の横付けされる波止場の建設・維持に当たっていた職人のことでしょう。重い石を船に安全に載せるためには、安定した波止場が必須でした。  
 面白いのは、4の「三間角二分すみ之石 山より出し船につみ申す」です。「4」と「12」にからは、石を船まで運ぶ人夫にランクがあったことが分かります。三間角石が貴重なために、熟練した人夫を使って、念入りに運んでいたことが推測できます。また、飯炊き人夫も20人に一人の割合で配置されています。「道具番」と呼ばれる石切道具や輸送に必要な修羅・滑車など修理職人も数多くいたことが分かります。

大阪城石垣 石切道具 小豆島
石切職人が使っていた道具(小豆島)
どんな生活を、彼らは送っていたのでしょうか。
石丁場での人夫たちは、小屋で共同生活を営んでいたようです。「塩飽御普請万覚」という史料には、石切場での細かな規定が書かれていて、厳しい管理体制がひかれていたことを、坂出市史は次のように紹介しています。
①「御普請衆町二てかい(買)物物法度(禁止)」とあります。本島の町に出て、買い物は禁止です。
②「御小屋ノ内へおんな(女)みだリニ人申候事かたく法度」と、小屋へ女性を連れ込むことも厳禁
違反者は、
「くわたい(過怠)栗石半坪申し付けられ」
「つな(綱)をかけ小倉へ下され」
といったように厳しい処罰が科せられています。厳しく取り締まらなければ、採石作業にあたる人夫の統制はとれなかったようです。これは管理する側も、大変な任務だったようです。

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       塩飽本島の石切丁場跡(高無坊山)

 石切場の操業は、いつまでも続くわけではありません。石垣が出来れば終了です。期間は2,3年です。そのため人夫は、日雇いで雇われていました。これは小豆島と同じ額で、日雇い一人当たり、八分の支払いです。これを御影(神戸市)の石切場の相場と比べると、かなり安かったようです。ここからは、少し遠くても安価な労働力で操業できる備讃瀬戸に石切場を設けた大名側の思惑がうかがえます。
石切場 本島2
本島の高無坊山切り出された石材
 1年に、どれくらいの石を切り出したのでしょうか。
 細川氏は、元和7(1621)年には塩飽で3252個、小豆島で881個を採石しています。私は小豆島が主で、本島は補完的な石切場だと思っていたのですが大違いです。塩飽が主で、小豆島の方が補完的ななのです。これにもびっくりしました。
 また、私は切り出された石は、すべて大坂へと運び出されたと思っていましたが、そうではないようです。
坂出市史は「塩飽より大坂ヘ積上せ申す御石数の覚」(中世篇193)を示して、次のように指摘します。
①元和7(1621)の本島で切り出した石の総数3252個
②本島から大阪に向けて搬送された1889個
生産数と出荷数の間には、大きな開きがあります。これはどういうことでしょうか?
 翌年の元和8(1622)年の記録からは、切り出された石232個が波止場や山丁場、道に置かれていたことが記されています。採石作業環境の整備に切り出された石が使われていたようです。

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塩飽本島・石切丁場跡(高無坊山)の案内図

翌年の元和8(1622)年の「塩飽より大坂着石之覚」には、次のように記されています。
①この年、塩飽で採石した石は3273個で、大坂に運ばれのは479個だった
②その中で実際に石垣に使われたのは118個で、残りの388個は大坂の波止場や山に置かれた
③島から搬出されなかった2225個は「沢村弥左衛門見申され、あしき(悪しき)石之由」であった。つまり、築城には不適な「悪しき石」であったというのです。
大坂輸送石数479 ÷ 島での採石数3273=約15%
石垣使用数 118 ÷ 島での採石数3273=3,6%
という数字になります。採石しても船に乗せられるのは、百個の内で15個、石垣使用に適合した石は百個の中に4個程度しかなかったことになります。これも、私にとっては驚きの数字でした。現在の工場でのこれだけの不良品生産は考えられません。
この数字をどう考えればいいのでしょうか?
 第一に考えられるのは、大坂の現場が築城用石材に求めた基準が厳しすぎたのかもしれません。大阪城の再建自体が「裏の目的」は、西国の外様大名の経済的弱体化にあったと云われます。そのため基準を厳しくしたのかもしれません。その基準の策定には、作事奉行を務めた小堀政一(遠州)ももちろん関わっていたのでしょう。
 厳しすぎる基準が石切場の監督者たちには伝わらず、当初は「質よりも量」がもとめられた結果かもしれません。よく分かりません。

大阪城石垣 石材運搬

 島から積み出されなかった石は、どうなったのでしょうか?

「当年はと(波止)に築き申し候、西川与介申し付け候ハ、悪敷石にて築き候へと申し付け候山」

意訳変換しておくと
「今年、波止を築いた時に、西川与介に申し付けて、悪しき石(不良品)で、築港させた」

ここからは、採石しながらも不適な石は、波上場を築くために使用されたことが分かります。大量に採石されて港に下ろされても、それらの石が必ずしも全て大坂へ輸送されたのではなかったことを押さえておきます。

大阪城石垣 残念石 小豆島
小豆島の残念石
 小豆島の石切場を訪ねると、湊付近に積み出されなかった石が「残念石」名付けられて並べられています。私は、石垣工事が終了した連絡が遅れて、採石作業が継続していたものがそのまま放置されたものと思っていました。しかし、それだけではなかったようです。残された石は、「基準外」「不良品」だった可能性が高いようです。しかし、私が見ただけでは、どこが不良品かは分かりません。それだけ基準が厳しかったとしておきましょう。

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塩飽本島の石切丁場跡(高無坊山)

しかし、それだけではないようです。大阪城の石垣作業現場の状況に合わせて、その時点で求められる石を島からは優先的に運び出していたようです。次第に切り出した石を、なんでもかんでも送るのではなく、現場に必要な石を送るという体制がとられていたというのです。
 大坂の現場で最初に必要になったのは石垣の一番下の根石です。その他の石が搬送されてきても使い物にならないのです。そのため、石切場を拓いて、採石はおこないますが、まず大坂に送ったのは根石だったはずです。その他の種類の石は、ストックされたことが考えられます。

大阪城石垣 石垣構造図

 石垣で特に重要な石は、隅角部に築かれる角石です。
三間角・二間角・角脇石などの大型の石で、これを切り出すのはなかなか難しかったようです。角石に接して築かれる石が築石ですが、これが大量に必要となります。石の大きさは次のように指定されていました。
「小口三尺・四尺の内に仕り、長さ九尺・六尺の間に申し付けらるべく候、御本丸の石垣、高さのはからひこれ有るべく侯間、右の石にて半分過もつき、そのたは申すに及ばず、次第々々にちいさくこれ有るべく候条、その用意申し付けるベく候事」(松井家文書)

ここには築石の寸法が指定されています。石の大きさは決まっていて、それに従って切り出さなければなりません。どんな大きさでもよかったのではないようです。

切り出された石材は、どのようにして海を渡ったのでしょうか?
これは詳しくは分かっていないようです。ただ史料には、次のように記されています。
段平塩飽に着く、石積みはじめ申し候」

ここからは、石の輸送には、段平船と呼ばれる専用船が塩飽にはあったことが分かります。段平船とは、船幅が広く船底が平で喫水が浅い船のことです。船体上面は板張りで、その上に石を積んだようです。石の輸送については、細川氏が独自の船を持っているわけではなかったようです。塩飽の船に輸送をまかせていたのです
 石船の確保や手配に、細川氏が塩飽の年寄に協力依頼をした次のような記録があります。
尚々、舟以下義万事御きもいり頼み入り候、以上、
明年大坂御普請二付て、仕置もの共少々差しのほせ中し候、万事御肝煎頼み入り存じ候、本行として西川与助・友田左郎兵衛・杉山藤兵衛罷り上り候、然るべく様頼み入り候、去年は竹内吉兵へ沢形右衛門罷り上がり候処によろず御馳走の通り承り届け畏れ存じ候、次に存分に候へ共、小袖二つこれを進めせしめ候間、追って承り中すべく候、恐々謹言、
                長岡式部少輔   興長(花押)
二月廿日                     小笠原民部少輔
                      長貞(花押)
吉田彦右衛門殿
御宿所

細川家の両家老から塩飽年寄である吉田彦右衛門に、大坂への船の手配を肝煎へ依頼してほしい旨が記されています。その手数として小袖2つを与えています。銀子や樽酒などを遣わす場合もあったようです。島の石切場の管理は、肝煎が担っており、それを年寄が掌握して、その状況を見据えながら小堀政一が支配していたという構図が見えてきます。
 石船は年寄を通じて、肝煎が差配する権限があったことがうかがえます。そのためには、肝いりに対しては丁寧な対応がとられています。 中世以来の塩飽の船と水主の存在が、大坂城築城石の輸送にも活かされていたことがうかがえます。同時に、石を運ぶための輸送船需要は急増し、「特需景気」が塩飽をつつんだことは容易に推察できます。これが新規船の築造につながったのかもしれません。

石の輸送は必ずしもスムーズに行われたのではなかったようです。
「十一は塩飽より積み上せ候へ共、船中にて船かやりすたり申し候」

「船かやり」とあるので、船が転覆して、塩飽で積み込んだ11個の石が海中に沈んだことが分かります。船1艘に、11ヶほどの石が積まれていたようです。
その船は、どの程度の大きさだったのでしょうか?
小豆島から大坂への石輸送を担つた中川氏が用いた船は、
「手加子三拾人、手船」

と記されています。30人の水夫達が手こぎで操船しての輸送だったようです。寛永6(1629)年からの江戸城普請の時は、伊豆からの石船は45人乗り三艘編成で当たっています。瀬戸内海は穏やかで輸送距離が短いため、江戸城普請より小型の船が使われたようです。
 石船で大坂へ運ばれた石は、どこへ陸揚げされたのでしょうか。
石は、石切場から集石地(積み出し地)へ集められ、そこから石船で海上輸送されました。そして石上場(陸揚げ地)まで、船で運んで陸揚げします。その石は、石置場へと陸送されて集められます。その後、用途に応じて普請丁場へと運ばていきました。
大阪城石垣 江の子島 石材集積地
細川家の石材集積地があった江の子島

塩飽からの石は、どこへ陸揚げされたのでしょうか。
大坂城代青山下野守忠裕家臣で、石役の鈴木浅右衛門が作成した『御石員数寄帳』という記録が残っています。これは19世紀初頭になって作られたもので、同時代史料ではありませんが参考にはなります。これを見ると石の種類と数・保管地が所有大名ごとに5つに区分して記されています。この中には、次のように記されています。
「細川越中守殿抱石として、岡山町栗石六十三坪二合五勺、木津川町に築石百二十九本、尻無川に角脇石一本」

 石材は、角脇石などは「本」で数えられ、栗石などは「坪・合・勺・才」などの体積で表されたようです。細川越中守の石は、大坂城と大坂湾の中間の木津川と三軒屋川の流域地域にある岡山町や木津川町、尻無川などにストックされていたようです。
さらに次のように記されます。
 「千手新左衛門はゑのこ島にて志わくより参候舟の石つみうつしの御奉行仕り候、私は京橋かぎ丁場に相い詰め申し候間、しかと存じ申さずしわくより石舟参らず候時は毎日御丁場に相い詰めきもをいり中し候事」

意訳変換しておくと
「千手新左衛門は、江の子島で塩飽から船で運ばれてくる石の積移しの奉行を務めていた。私は京橋の鍵丁場に詰めていて、よくは分からないが塩飽からの石舟がやってこない時には、毎日御丁場に詰めて仕事を行っていた。

 ここからは塩飽からの石船が「江の子島」に到着して、積み替えられていたと記されています。

えのこ島は、難波の八十島の一つ江の子島のことで、淀川河口に発達した三角州の一つで、西を木津川、南を阿波堀川、東を百間堀川に囲まれた島で、現在の中の島の南西になります。ここに陸揚げをし、その後、大坂城の近くまで輸送したのでしょう。

大阪城石垣 道頓堀の石揚場

黒田家の石揚場については、黒田家伝来の文書群(福岡県春日市奴国の丘歴史資料館所蔵の佐藤家文書)の中に、大坂城第二期普請にかかわる大坂市中の絵図が残されているようです。そこには、
黒田家が大坂城へ運び込んだ際の石の荷揚場の図と、関係者の滞在や資料保管のため借り上げた場所が示されています。それを見ると、石材輸送は木津川から道頓堀川か長堀川を経由して、東横堀川に入るルートが使われています。その途中の上図のような「御石上ケ場」(集石所)が設けられています。
①長堀川との合流地点に近い木津川の右岸沿いの寺島
②道頓堀川沿いの開発が遅れていた西半分両岸
塩飽諸島で切り出された石が、塩飽の石運搬専用船で瀬戸内海を通って運ばれ、本津川から市内の河川へと移動して陸揚げされ、これらの集積場所にストックされたことが分かります。

小豆島から輸送された石は、八軒屋と伝法で陸揚げされていたようです。八軒屋は大坂城すぐ近くで、桃山からの高瀬舟の到着湊があった所です。伝法は淀川河口で遠く離れています。伝法で陸揚げして、再度河川を利用して普請場近くへ運ばれたことが考えられます。少しでも大坂城の普請場に近い場所へと陸揚げしたいところですが、大量の石を保管する場所が必要になります。そのため遠い場所に陸揚げされ、求めに応じて川船に積み替えて「出荷」されていたようです。
 以上からは大坂に輸送された石も、直接に普請現場に送られたのではなく石置き場にストックされて、その後必要に応じて現場に運び込まれたことを押さえておきます。とすると、現場から石垣職人が石を見に来て、目に適った石だけを指定して運び出されたことも考えられます。職人が選ばなかった石は、いつまでも置いておかれることになります。これらが「不適合品(石)」となったのでしょう。
 不適合品となった石は、どうなったのでしょうか。よく分かりませんが、大坂の運河工事や雁木として使われたのでしょうか。寺社などの石垣として転用されたのかも知れません。

以上をまとめたおくと
①大阪城再建に使われる石材については、厳しい品質と基準検査があった。
②そのため切り出されても大半は大坂に運び出されずに、石材積み出し湊の築港工事などに使われた
③大坂に運ばれた石材は集石場にストックされ、必要に応じて石垣工事現場に搬入された。
④実際に石垣に使用された石は、採石数の4%に満たないものであった。
⑤そのため石切場から積みだし湊に至るルートには、数多くの不良品(残念石)が残っていた。
⑥本島の石切場の作業員は600人程度で、日雇い労働者で飯場暮らしであった。
⑦その中の4割が石の輸送に携わる労働者であった。
⑧労働者の賃金は、畿内の石切場の相場よりも安く、これが備讃瀬戸に石切場を求めた大名のねらいのひとつとも考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島
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江戸時代初期の塩飽と小豆島は、ともに幕府の支配下にありました。その管理に深く関わっていたのが小堀政一です。しかし、この名前を知っている人はあまりいません。が小堀遠州と聞くと知名度はぐっと上がります。高梁市のHPには、次のように記されています。
  江戸時代前期の大名、備中国奉行、茶人。幼名は作介。名は政一。遠州は通称。備中国奉行・小堀正次の子。1604(慶長9)年父を継ぐ。備中松山城普請をはじめ、頼久寺庭園の作庭などを行った。また、駿府城、禁裏、二条城などの作事に関わり、建築、造園に優れた才能を示した。また、将軍家茶湯指南として大名茶の中心となり、「綺麗さび」を特徴とする遠州流茶道の祖となった。

  高梁市のHPには小堀遠州として「駿府城、禁裏、二条城などの作事、建築、造園」「将軍家茶湯指南として大名茶人」に焦点が向けられています。しかし、彼は伏見奉行を長く務めた政治家であり、大阪城再建の作事奉行でもあったという点には触れられていません。つまり、業績としては、茶道や華道の元祖であり、庭園造作の名手としての文人の面が高く評価されています。しかし、先ほど触れたように小堀遠州は塩飽や小豆島の管轄者として、深くこれらの島に関わっていたようです。
小堀遠州展 : 生誕四百年記念(小堀遠州顕彰会, 日本経済新聞社 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 小堀遠州

   大坂城は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で燃え落ちます。
その後、大坂は幕府直轄地となり、元和6年(1620)徳川2代将軍秀忠が大坂城の再建を始めます。秀忠は普請奉行の藤堂高虎に「石垣も堀も旧城の倍にせよ」と命じます。これまでにない巨石も多く使用させ、巨額の建設資金を大名たちにつぎ込ませて約10年の歳月をかけて大坂城は再建されます。築城は、次のように3期に分けて進められました。
第1期が元和6年~9年(1620~23)
第2期が寛永元年~3年(1624~26)
第3期が寛永5、6年  (1628~29)
大阪城の石垣「徳川の権力を誇示」
大阪城に運ばれた一番大きい石

大坂城再建の土木工事の総奉行は、秀吉の下で築城の名手と言われた藤堂高虎です。高虎のもとで、実際の建築工事に当たったのが幕府旗本の小堀政一(遠州)でした。彼は慶長6(1601)年、家康が伏見城を再築するときに作事奉行を務めて以来、駿府城、名古屋城、二条城など、家康に関係するほとんどの城の作事奉行を務めています。そして大阪城再建の際にも、作事奉行として城の周縁部の櫓や門の修繕を担当し、そして第二期工事では、天守本丸作事奉行を務めています。研究者の中には「大阪城再建の実質的総責任者は、小堀政一」と指摘する人もいます。この仕事ぶりを藤堂高虎は高く評価し、後には自分の養女を小堀政一に嫁がせています。高虎と遠州は義理の父子関係で結ばれていました。
伏見奉行所跡 - 京都市, 京都府

 一方、小堀遠州は、伏見奉行も務めていました。
伏見奉行は、西日本の天領などの管理もおこなっています。小豆島は天領で、塩飽も「人名領」ですが幕府直轄地です。つまり、このエリアの最高責任者は小堀であったことになります。
 そうした中で、大阪城の築城が始まります。
大坂城の築城は、西国大名に「天下普請」として義務付けられ、64の大名が参加します。諸大名は築城にあたり、石垣に必要な石を確保することが求められました。そのため各地の石切場が物色されます。 まず伏見城の石垣石が、淀川を下って大坂ヘ運ばれてきます。次いで南山城の加茂・笠置に石丁場が拓かれます。大坂周辺では、生駒山系西麓や東六甲山系にも多くの石切場が拓かれます。しかし、それでも足りません。そこで目が付けられたのが瀬戸内海の島の石切場です。石は船で運ばれます。島の石を運ぶのが便利と考えたのでしょう。しかし、大名所有の島は簡単には、掘らしてはもらえません。そこで目を付けられるのが、幕府支配下の島です。小豆島は天領で、塩飽は「人名領」で、どちらも幕府支配下です。各大名たちは、幕府との交渉し、これらの島からの石の切り出しを進めます。この交渉相手が小堀政一だったのです。
  大坂城に運ばれた石は、小豆島から運ばれたものが有名で、その他の島の石切場については、あまり知られていません。小豆島以外の塩飽の島々の石切場について、見ていくことにします。
  テキストは、坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島です。

小豆島に4年ほど単身赴任で暮らしていたことがあります。
原付バイクで島中を走り回っている間に、いろいろなところに石切場跡があることに気付きました。いくつもの大名達が、石垣用の石を求めて、小豆島に「石切場キャンプ」を設置して、監督の武士団と職人たちを送り込んでいます。
石切場 牛窓前島
牛窓の前島の石切場跡
小豆島の周辺の島々をめぐる中で岡山の牛島の前に横たわる前島を訪れた時のことです。島の夕陽を見るために展望台に上がっていくと、そこがかつての「大坂城御用達の石切場島」であったことを示す案内板に出会いました。小豆島以外にも、石切場が開かれたことに気付きました。そしてこの時に改めて、徳川幕府による大阪城再建が「天下普請」であったこと、大名にとっては、まさに「石垣合戦」だったことを実感しながら沈む夕陽を眺めたのを覚えています。
岡山県 牛窓港からフェリーで前島に渡り、瀬戸内海の夕陽・朝日を望む! / Maejima Island Cruise ( Okayama, Japan  )【おうちで旅気分!】 - YouTube
 
それからながーい、ながーい月日を経て、小豆島以外の石切場について向かい合おうとしています。前置きは、このくらいにして・・・

塩飽諸島の状況を記した「塩飽島諸事覚』に、次のように記されています。
御用石丁場五ケ所 笠島・与島・青木浦・江之浦・櫃石島、右島之浦分二一ヶ所宛、右ハ大坂城御普請之時、塩飽島より石御取被成候」

意訳変換しておくと
塩飽諸島には御用石丁場が五ケ所ある。 笠島・与島・青木浦(広島)・江之浦(広島)・櫃石島の浦にあり、これらは大坂城再築城の際に、塩飽島より採石した所である

ここからは、笠島・与島・広島の青木浦と江之浦・櫃石島の島々の五ヵ所に石切場があったことが分かります。それがどこにあったのかは、分かりませでした。それが当時の様子を示す文献史料が近年出てきて、現地調査も行われたようで、坂出市史に紹介されています。これを見ていこうと思います。

石切場 本島
本島の高無坊山の西麓に切石が残る
まず本島の石切場です。
本島の石丁場については今までは、豊前小倉藩細川氏が塩飽本島に石丁場を拓いていたことは知られていました。しかし、具体的場所や規模は、ほとんど分からなかったようです。それが現地調査の結果、本島の高無坊山西麓一帯であることが分かってきました。高無坊山は本島のほぼ中央に位置する標高約200mの山で、山頂の西山麓を流れる西谷川の谷頭付近を中心に、多数の矢穴のある種石や刻印のある切石が散在しています。
石切場 本島2

残された石には、細川氏を示す刻印が刻まれ、細川氏が拓いた石切場だったことが分かります。発見されている刻印石は49ヶで、大阪城にも同じ刻印の石があるようです。切り出された石は、島の北部にある屋釜海岸へと運ばれたようです。 屋釜には積み出し跡があり、ここから大坂へ海上輸送されたのでしょう。

P1180897
        塩飽本島の高無坊山石切丁場跡

与島の石丁場について、 塩飽年寄の一人である吉田家には次のような文書が残されています。
尚々、石場の儀につきて、ご返事の通り島年寄中内証申し聞候につきて、おおかた石場相済み候、いよいよ其元においてしかるべき様仰せ付けられ下され候、共の意のため頼み候、
以上
わざと一筆啓上致し候、然らば塩飽島において右衛門佐請け取り候石場の儀、先日申し入れ候処ご返事並びに使い口上の通り御座候、別してお心添え恭く存じ本り候、すなわち右衛門佐ヘ申し聞かすべく候、それに就いて塩飽島年寄中申す談、塩飽島の内むかいかさ(笠)島・吉島の内、浦方両所請け取り申す分に大形相究め候、並びに島年寄中の内、一人罷り上られ候条、貴様まてご内意を得、その上にていよいよ相済み申すすべく由候、明所の儀候間、相違なく相い渡し候様に仰せ付けられ下さるべく候、拙者儀爰元仕り廻り候はば、自体大坂へ罷り上るべく候、左候はば以て成とも、御意を得るべき候、異彩はこのもの口上に申し含め候、
                                                              黒田市兵衛
二月二十四日
小堀権左様
意訳変換しておくと
石場(石切場)のことについて、ご返事の通りに島年寄中(塩飽の指導者)に申し聞かせて、確保ができました。小堀様の方から事前に指示していただいたのでスムーズにすすめることができました。感謝いたします。
以上
一筆啓上致し候、塩飽島(本島)において右衛門佐が受け取った石切場について、先日の申し入れに対して、配慮いただいたことに対して、返事並びに使い口上の通りお礼申し上げます。お心添えの結果を、右衛門佐ヘ申し聞かせ、塩飽島年寄中に伝えたということです。
 塩飽島(本島)の北向かいにある笠島・吉島(与島)に石切場を拓くことについて、両島の浦方の同意を取りつける所までは進みました。しかし、島年寄中の中には異論もあるようです。つきましえは小堀様の内意を得て、働きかけていただけないでしょうか。そして、笠島・吉島(与島)に石切場を拓くことことを仰せ付けられいただければ幸いです。拙者は今は国元ですが、昨今に大坂へ参りますので、御意を得るべきようお願いいたします。詳細については、使者が口上で申し上げます。
この史料は、筑前福岡藩黒田家の家臣である黒田市兵衛が小堀権在に宛てた書状です。宛名の  小堀権左は、大坂城作事奉行である小堀政一(遠州)の家臣小堀宗政です。
文中に「向かさ島(むかいかさ島)」「吉島」とあります。これは塩飽本島の笠島北方にある向島と与島を示します。ここからは本島以外の島にも黒田家の石切場があったことが分かります。

P1180898
        塩飽本島の高無坊山石切丁場跡
塩飽島は幕府直轄地で、小堀の支配下にありました。黒田家は小堀宗政に塩飽での石丁場を開くに際しての申し入れに対しての心添えの件に感謝しています。同時に、向島と与島で空所があれば渡すように島年寄に仰せ付けるよう依頼しています。本島にも細川氏の石丁場がありましたが、それだけでは足りなかたのでしょうか、それ以外の島で石丁場を求めていたのです。
同日付の年寄吉田彦右衛門宛の黒田市兵衛の文書があります。
これによると肝煎から石丁場を確保でき、手形を取り交わしたことに対して、彦右衛門へ銀子2枚を遣わしています。石切場の斡旋を小堀に申請すると同時に、島内にある石丁場を管理している肝煎に、年寄から話しをつけてもらっていたようです。石切場には肝煎が深く関わっているので、これをうまく利用しなければ確保が難しかったことがうかがえます。このような石切場確保交渉も、藩の重役が小堀政一に直接行っています。
小堀政一書状には「瀬屋」「ひつ島」「せいの島」が出てきます。
「ひつ石」は櫃石島、「瀬屋」「せいの島」は瀬居島を指すようです。ここからも本島だけでなく周辺の島々でも細川家は、石切場を開いていたことが分かります。
石切場 櫃石島

調査報告書が出されている櫃石島を見てみましょう。
櫃石島にもいくつかの刻印石が残されているようです。島の北西部の花見山の南に下った標高65~75mの地点に刻印石が散在していることが報告されています。調査報告書によると
①12個の刻印石・矢穴石があり、主として串団子形の記号が刻まれている
②最も大きい石は、長さ3m、幅2m、高さ1,2mの巨石で、串団子に「越前」の銘が添えられている
③刻印の「越前」は福井藩松平氏で、藩主松平忠直は第1期工事の北外堀・東外堀石垣を担当した
④そこに串団子形刻印石があり、櫃石島刻印石と同じである
ここからは櫃石島の石切場は、越前松平氏が拓いたことが分かります。福井藩は第1期のみの参画なので、石丁場は元和六(1620)年頃に開かれて、その後は閉鎖されたようです。
瀬居山頂磐座
瀬居島の磐座

 瀬居島にも石丁場が開かれていたことを示す史料を見てみましょう 
塩飽の年寄宮本・吉田宛の小堀政一の文書ですが、そこに瀬居島に石切り場を求めようとした武士たちの名前が出てきます。
以上
急度申し越し候、せいの島(瀬居)の内にて明所これ有るにつきて、岡島備中殿・前田美作殿お望みのよし候、右の所これ以前いつ方へも相渡さず構えこれなき候、明所において共にお渡しこれを
進むべく候、もし加藤左馬殿へ相渡し候石場へ相構え申す所においては、以来出入りこれ有るべき候は返し候間、渡し候事無用候、その為このごとき候、以上、
遠江
九月二十八日               □(花押)
宮本道意
吉田彦右衛門
  意訳変換しておくと
以下のことを急ぎ申し伝える。瀬居島の石切場予定地については、岡島備中殿・前田美作殿が入手希望しているが、ここはまだ誰に渡すかは決まっていない。 明所(空所・まだ石切場が拓かれていない所)を前田家に渡すように進めてもらいたい。また、加藤左馬殿へ渡していた石切場が不用で返還されるようになった時には、他者に渡すことのないように。以上、

瀬居島の明所(空所・まだ石切場が拓かれていない所)を岡島備中と前田美作が所望しているが、以前より誰にも渡していないとあります。ここに出てくる二人は加賀藩前田家の重臣です。ここからは前田家も瀬居島に石丁場を拓こうとしていたことが分かります。時期は第二期工事の始まる元和8年頃のことのようです。その後、前田家が瀬居島に石丁場を拓いたかどうかは分かりません。しかし、各藩が幕府管轄である塩飽の島々に石切場を拓こうと、塩飽支配のトップの幕臣小堀政一や、現地の本島の年寄りたちに接近し、「取得交渉」を行っていたことは分かります。各藩にとって、まずは石切場の確保が大阪城築城の最初の課題だったようです。
文中にもう一人出てくる加藤左馬は、伊予松山藩主加藤嘉明のようです。
この文意からは第一期工事には加藤氏は関わっていて瀬居島に石丁場を拓いていたようです。それが2期工事の石垣担当からは外れたのでしょうか、石切場の返還があることを、小堀は想定しています。与島の鍋島燈台が立っている湊付近には、加藤の刻印石らしき残石があるようです。加藤氏も塩飽諸島の与島に石切場を拓いていたことが裏付けられます。
P1180893
         塩飽本島の高無坊山石切丁場跡
以上をまとめておくと、塩飽には次のような石切場拓かれていたことが史料から分かります。
①本島の高無坊山西麓一帯に細川氏の石丁場
②向島・与島・櫃石島・瀬居島に黒田家の石切場
③櫃石島に、越前松平氏の石切場
④瀬居に加賀前田家と伊予松山加藤家の石切場
⑥与島に伊予松山藩の石切場
細川氏や黒田氏は、小豆島にも石切場を拓いていました。しかし、それだけでは需要に応じきれなかったようです。黒田氏も細川氏も、塩飽にも石切場を拓いていたのです。細川・黒田氏は、小豆島と塩飽の石切場を同時進行で拓いて操業していたようです。細川家の担当者の中では、瀬戸の石切場、小豆島作業所、本島作業所、向島作業所、与島作業所、櫃石作業所、瀬居作業所という組織図があって、責任者やスタッフ、一日の切り出し石数までインプットされ、塩飽と小豆島を一体として捉えられていた感じがします。その運営ぶりはまた次回に
以上をまとめておくと
①大阪城再建がスタートすると、各大名は石垣用の石の工面に奔走するようになる
②石切場として目を付けられたのが小豆島や塩飽の周辺の島々である。
③このエリアの島々は幕府直轄地であり交渉がやりやすく、海上輸送が可能であった
④当時、小堀政一(遠州)は伏見奉行であり、大阪城の作事奉行を兼務していた。
⑤そのため多くの大名が石切場の割当を求めて、小堀に相談や陳情を行っている。
⑥大阪城築城期の塩飽周辺は、各大名の石切場が姿を見せ、周囲からの注目を浴びる存在でもあった。
⑦小堀政一は、石切場斡旋調整だけでなく、塩飽廻船の便宜も図っている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島
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DSC04291

 神谷神社があるのは、阿野郡松山郷五ヵ村のひとつであった旧神谷村です。白峰山西麓の谷筋にあり、山裾の集落から小川沿いに東に延びる参道を登っていくと境内が現れます。社殿の後には、影向石と呼ばれている巨石が磐座として祀られて、古代の信仰対象だったことがうかがえます。この磐座に対する信仰が、この神社の起源なのでしょう。
  今回は、神谷神社について見ていくことにします。テキストは坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」です

神谷神社 由緒書

 神谷神社の祭神は伊弊諾尊・伊弊再尊の子で火の神とされる火結命(ほむすびのみこと)で、その孫でやはり火の神とされる奥津彦命・奥津姫命を併せ祀ります。相殿には、春日四神(経津主神、武甕槌神、天児屋根命、姫大神)が祀られています。磐座信仰+火結命(ほむすびのみこと)+春日四神と合祀されるようになって、五社神社と地元では呼ばれてきたようです。

 神谷神社の創始は分かりません。社伝によると
「神谷の渓谷にあった深い渕から自然に湧き出るような一人の僧が現われ渕の傍にあった大岩の上に祭壇を設け・・たのが神谷大明神の創始と謂われているという。
その後、弘仁3年(812)空海の叔父・阿刀大足が、春日四柱を相殿に勧請して再興したという。・・・・
なんだかよく分からない話です。
 阿刀大足は、以前にお話したように、摂津に基盤を持つ阿刀氏で、空海の母の兄弟になります。真魚(空海幼名)からすると叔父で、空海の「英才教育担当者」とされる学識豊かな知識人であり中央官人ですが、讃岐への来歴はありません。「阿刀大足勧進」という伝承自体が「弘法大師空海伝説」とも云えます。あくまで伝説で、すぐには信じられません。
神谷神社が正史で確認できるのは、三代実録の次の叙位記録になるようです。
①貞観七(865)年に従五位上、
②貞親十七(875)年に正五位下
また、延喜式にも讃岐式内社24社の中の1社として、阿野郡の3社のひとつとして、城山神社、鴨神社と並んで名前があります。ここからは、9世紀後半までは、有力豪族の保護を受けて国庁の管理下にも置かれた神社があったことがうかがえます。

実は「阿刀大足勧進」を証明する史料があるとされてきました。それを見てみましょう。
神谷神社棟札1460年

神谷神社に残る棟札の中で一番古い年紀を持つ棟札(写)を見てみましょう。表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。これに問題はありません。問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。 阿刀ではなく「河埜氏」とあることは押さえておきます。阿刀氏も河野氏と同じく物部氏を祖先とする同族なので、このように記されたと近世の史書はしてきました。
 この棟札の裏書については「江戸時代になって作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札は、信じることができるようです。
天文九(1540)年の棟札は二枚あります。
神谷神社 修理棟札1540年
地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。松元氏が神官の筆頭者になっています。松元氏は神官であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。

神谷神社棟札2枚目

永禄11(1568)年の棟札も二枚あります。本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに葺き替えが行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。

その後の神谷神社の沿革を伝える史料はありません。しかし、鎌倉時代のものとされる遺品が隣接する宝物館に保管されていますので見ておきましょう。
神谷神社随身像
①阿吽一対の木造随身立像(重要文化財)

坂出市史は、この随身立像を次のように紹介しています
像高 阿形像125、2㎝  吽形像 125、6㎝
建保七(1219)年建立の国宝指定の本殿と同じ頃、鎌倉時代中期の13世紀に制作されたとされる。両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。制作紀年銘のある随身立像では最古の、岡山県津山市高野神社の一対(応保一年銘)に次いで古い。
 後世の床几に坐る形式の随身像にくらべると古制を示している。両像とも、かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。これが高家神社のものと同じ技法である。技巧的には阿形像の方が複雑に仕上げられている

「白峯寺古図」に見えるとおり、神谷神社は、神谷明神として多くの付属建造物が描かれています。 本殿とおもえる妻入り社殿の後には、立派な三重塔が見えます。その前方には、平入りの社僧の坊舎と随身門が描かれています。この随身立像は、ここに描かれている随身門に納められていたのかもしれません。
神谷神社の面

②舞楽面二面(市指定有形文化財)
③大般若波羅密多経(市指定有形文化財)
数多くあった宝物も、元禄十一(1698)年に著された「神谷五社縁起」(『綾・松山市』所載)には中世の兵乱により多くが散逸していた様子が記されています。

神谷神社の境内には、江戸時代後半の年号が刻まれた次のような石造物があります
①天保9(1838)年 手水石
②弘化三(1846)年  石階耳石上に立つ親柱に
③嘉永2(1849)年 二の鳥居
④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
⑤慶応4(1868)年  百度石
⑥明治28(1895)  玉垣設置
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①天保9(1838)年 手水石
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③嘉永2(1849)年 二の鳥居
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④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
これらの石造物が設置されたのは19世紀のことです。江戸時代の後半になって境内は整備され、現在の原型ができたことが分かります。
このような整備が進む中で、明治37(1904)年8月に本殿が特別保護建造物に指定されます。

この時期に整備された神谷明神と別当寺の清瀧寺の様子を描いた絵図が讃岐国名勝図会に載せられています。
神谷神社 讃岐国名勝図会

神谷川沿の突き当たりの谷に鎮座する神谷神社の姿が右手に見えます。一番奥が国宝の本殿です。社人を務める松本氏の屋敷も描かれています。神谷神社と同時に、神宮寺である青竜寺も大きな構えを見せています。青竜寺の以前には、清瀧寺という大きな神宮寺があったようです。これは後で見ることにして、国宝に指定されている本殿を見ておくことにします。

神谷神社本殿3
神谷神社本殿
大正の大改修の際に発見された棟本の墨書銘に、次のように記されています。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。
また先ほどの棟札からは、本殿の葺替えが以下のように行われたことが分かります。
①寛正元(1460)年の棟札(写)
②天文9(1540)年
③永禄11(1556)年
④万治3(1660)年
⑤宝暦9(1759)年
 棟札の年紀からは、約20年ごとに葺替が行われていたことがうかがえます。そして、日露戦争が始まった明治37(1904)年8月には、古社寺保存法に定める特別保護建造物に指定されています。その時の指定理由には、次のように記されています。
「再建年代明カナラサレトモ、其形式ヨリ判スレハ鎌倉初期二属スル者ノ如シ、即我国現存神社中最古キ者ノ一ナリ」
この指定を受けて約百年前の大正6(1917)年から翌年にかけて、総事業費491、5万円で解体修理が行われます。この大正修理の際に、今まで見てきた棟木銘と棟札が発見されて建立年代やその後の修理の沿革が明らかとなりました。
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この大正の大修理では、できりだけ建築当初の姿にもどす方針が打ち出されて、次のような現状変更が行われています。
①向拝柱を旧位貰に戻すこと、
②向拝打越垂本を復原すること
③発見された断片から垂本は全て反り付きとすること
④縁回り諸材の寸法と位置を復原すること、
⑤箱棟鋼板被覆を取り去り渋墨塗りに復原すること
(大正八年二月「現状変更説明」による)
kamitani25

それ以後の沿革は以下の通りです。
昭和22(1947)戦後の文化財保護法(昭和22年制定)で重要文化財指定
昭和27(1952)屋根葺替
昭和30(1955)2月「現存の三間社流造の最古に属する例」として国宝指定
神谷神社本殿2

神谷神社本殿は、「流造神社本殿の最古に属する例」として早くから知られてきたようです。
流造は、伊勢神宮正殿に代表される桁行一間・梁間二間の身舎(もや)に切妻造の屋根を架けた平入の本殿から発展した古い形式と考えられるようです。機能的には正面の本階や拝所を覆うので、どこが正面か分からなくなるおそれがある建物です。そのために建物の正面性を主張するための工夫が凝らされることになります。その工夫が身舎の前に庇を設けて切妻屋根の前流れを前方に延長させる方法です。
 神谷神社 宇治上神社本殿(平安後期)
京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)
神谷神社の流造本殿は、京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)に次いで古いものだとされています。宇治上神社本殿は、一間社流造の内殿3棟を一連の覆屋に納め、左右の一棟は片側面と背面及び屋根を覆屋と共用しています。これは変則的な形式です。これに対して、流造の規範的な形式は正面の柱間を三間とする三間社で、神谷神社本殿は流造本殿の本流の姿を良く留めているようです。

神谷神社本殿1
神谷神社本殿
①縁を正側三面とし脇障子を備えた正面性の強い構えとして流造の規範的な形式ができあがってていること、
②全体として古代建築に比べて木柄が細いものとなっているものの装飾的要素はまだ少ないこと
③反りの強い破風や庇各部材の面の大きさなどに鎌倉時代初期の趣を伝えていること
④正面は中央間のみを扉口とし脇間を板壁とする閉鎖性の強い構えであること
⑤内部は一室で、頭貫を用いずに柱上に直接舟肘木と桁を載せる古いスタイルをとっている
⑥基壇に礎石建て、庇に組物を使って、妻梁に虹梁型を用いるという仏教的な影響を受けている
以上から「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と評しています。
 神谷神社本殿 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会に描かれた神谷神社本殿

最後に、神谷神社の性格について考えておきましょう
神谷神社を考える際に避けては通れないのが、この谷の上にある白峯寺の存在です。白峯寺は、国分寺背後の山岳仏教の修験道(山伏)の行場として開かれ、五色山全体が修行の山でした。その行場に開かれたのが白峰寺や根来寺です。これらの行場は、小辺路ルートとして結ばれ、それが後の四国遍路の「へんろ道」として残ります。
白峯寺古図 周辺天皇社
白峯寺古図

 白峯寺古図を見ると、⑤神谷神社の谷から白峯寺への参拝道が見えます。これも修験者が開いた「小辺路」です。つまり、神谷神社は、白峰寺の行場のひとつとして開かれたと私は考えています。
中世の白峯寺は以前にお話したように「山岳信仰 + 熊野信仰 + 崇徳上皇信仰 + 天狗信仰 + 念仏行者 + 弘法大師信仰熊野」などの修験者や行者・高野聖・六十六部などの聖地で、多くの行者がやってきて住み着いていました。そのような白峰寺の中にひとつのサテライトが神谷神社であったと私は考えています。
 ちなみに神谷神社も明治の神仏分離までは、「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。
神谷神社 讃岐国名勝図会3
白峯寺古図拡大 神谷神社の背後の三重塔
『白峯山古図』には神谷神社の背後に三重塔が垣間見えます。これは清瀧寺のもので、この塔からも相当大きな寺院だったことがうかがえます。中世の神谷神社が神仏混淆で清瀧寺の社僧の管理下にあったことを押さえておきます。

白峯寺大門 青海天皇社 神谷神社
右下が神谷神社、左下が高屋神社 上が白峯寺大門

神谷集落には額(楽)屋敷という地名が残ります。 ここには、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。
讃岐の古代の地方楽所としては、善通寺が「国楽所」を担ってきたようです。その後、観音寺などの有力寺社でも、舞楽はじめ舞曲芸能が盛行するに従い設置されます。白峯寺でも「楽所」が、寺領の松山荘内にある神谷周辺に置かれていた可能性があるようです。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さがうかがえます。

神谷大明神石塔(石造多層塔残欠)
神谷神社の凝灰岩製層塔
 神谷神社の斎庭北東隅には鎌倉時代後期の一対の凝灰岩製層塔があります。
この塔は、もともとは神宮寺であった清瀧寺のものと伝えられます。清瀧寺がいつの頃に姿を消したのかは分かりません。さきほど見たように白峯寺古図には、神谷神社の奥に三重塔が描かれています。これが清瀧寺だったようです。清瀧寺の退転後に現在地に清龍(立)寺が創建されます。

神谷神社 青竜寺 讃岐国名勝図会
青竜(立)寺(讃岐国名勝図会)
青竜寺には阿弥陀如来立像(県指定有形文化財)が安置されています。この胸部内面に文永七(1270)年の墨書銘を記されています。『綾北問尋抄』(宝暦五(1755)年刊)に「五社(=神谷神社)の本地仏(中略)安阿弥(=快慶)の作とも云」と記します。ここからは、この仏がもとは神谷明神の本地仏で、清瀧寺の本尊であったと研究者は考えているようです。
神谷神社 清立寺本尊
青立寺の阿弥陀如来立像(県有形文化財)像高 101㎝
 
胸部内側に造像墨書銘「奉造立志者、為慈父悲母往生極楽也、文永七年巳九月七日僧長円敬白」とあるので、鎌倉時代中期文永七(1270))年の制作であることが分かります。
坂出市史は、この阿弥陀さまを、次のように紹介します。
ヒノキ材の寄木造りである。香川県下ではこの期の阿弥陀像は多数あるが、造像年の明確なのは数体である。なお、梶原景紹著『讃岐国名勝図会』に「阿弥陀堂、本尊(古仏、五社明神の本地なり)当庵は、往古五社明神の別当清滝寺といえる寺跡なり、退転の年月末詳、今清立寺はこの寺を再興せしならん」
とあり、本像が、神谷神社の本地仏であったという。先述の『白峯山古図』には、直接、阿弥陀堂は確認できないものの、神谷明神の鳥居の左側に神谷村の集落が描かれており、その中に清滝寺阿弥陀堂と思しき立派な堂合らしき建物が見える。

 かつての清瀧寺については、よく分からないようです。
しかし、清瀧寺の後に出来た清立(滝)寺については、天霧城の香川氏の家臣の亡命先だったという次のような話が伝えられます。天正年間(1573~)、天霧城主香川信景が豊臣秀吉の四国攻めにより敗れ、長宗我部元親の養子親和と共に土佐に亡命します。その落城時に、家臣何某(香川山城守?)が剃髪し、この地に逃げてきて、清瀧寺を再興し堂宇を建てたのが青立寺、後の清立(滝)寺だと云うのです。

尻切れトンボになりますが、以上をまとめておきます
①神谷神社は磐座信仰に始まり、国分寺ー白峰寺ー根来寺の山岳信仰の行場として、「小辺路」修行の行場ネットワークのひとつであった。
②中世の神谷神社は、神仏混淆下にあり清瀧寺の社僧が別当として管理運営に当たっていた。
③清瀧寺は、白峯寺とは「楽所」や「連歌」、人事交流などで密接な関係にあり、三重塔を有する規模の寺社でもあった。
④鎌倉時代の棟木から神谷神社本堂は鎌倉時代の流れ作りのもっとも古い形式を残す本堂であることが分かり国宝に指定されている。
⑤本堂は中止後半以後、氏子達によって屋根の葺き替えが行われ、管理されてきたことが残された棟札からは分かる。
⑥清瀧寺の退転後は、青竜寺が代わって別当寺となったが社人松元氏の力も台頭し、以前のような支配力を発揮することはなかった。
⑦幕末から明治に境内整備が進み、現在のレイアウトがほぼ完成した。
神谷神社における神仏分離については、文献や史料がなく今の私には分かりません。あしからず。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」
関連記事

坂出古代海岸線
 
讃岐の海岸線は、埋め立てや干拓によって北へ北へと移動していきました。現在の海岸線とは、大きく違っていたようです。今回は、坂出の海岸線の変遷を見ていこうと思います。テキストは 「森下友子    坂出市における海岸線の変遷  香川県埋蔵文化財センター 考古学講座 56 令和 2 年 11 月 8 日」です。

福江 西庄
ます旧市街周辺の海岸線から見ていきましょう。
江戸時代末に宮崎栄立が著した『民賊物語』(嘉永3年(1850)には、戦国時代の坂出市西部の海岸の様子が次のように記されています。
「元亀二辛未歳奈良氏宇多津聖通寺山に城を築き累代居城とす城東は入海にして角山の麓まで海潮恒に満干いたせり。角山の麓より三四丁計り沖に出て東西の寄洲三十七八丁ありて、其の東に南北の洲在つて横たわれり、海潮の満たる時、津郷、福江の大道を往来せり、潮の干たる時は海中の洲を諸人共往来せしとなり、遠近の違いあること弓と弦との如し」
 
意訳変換しておくと
元亀2年(1571)に奈良氏が城を築いた聖通寺山の東には海が入り込んでいて、満潮時は角山の麓まで潮が入っていた。角山の麓から3,4丁(300~400m)沖に出ると東西の寄洲が37、8丁(3,7㎞)ほどあって、その東に南北の砂州が横たわっていた。満潮の時は、津の郷(宇多津町津の郷)から福江(坂出市福江町)の大道を往来し、潮が引いた時は、海中の中州を往来していた。干満の差が大きく、まるで弓と弦のようである

  ここからは、次のようなことが分かります。
①戦国時代には聖通寺山の東には干満差の大きな干潟が広がっていたこと
②角山の麓から沖に出たところに東西の寄州があったこと
③満潮の時には、津之郷から福江の大道を利用し、干潮の時には中洲を通行利用したこと
寄州とは波や風によって移動した土砂が海岸線に平行して帯状に小高く堆積した浜堤(砂州)のこと。

坂出市街地には、下図のように東西方向の2列の浜堤(砂堆)があったようです。

坂出 海岸線復元

①北浜堤(砂堆B) 八幡町・白金町・寿町・本町・元町付近
②南浜堤(砂堆A) その南約600mの富士見町・文京町付近
『民賊物語』に出てくる「東西の寄洲」は「角山山麓より沖に出たところ」とあるので、①の北浜堤のことを指しているようです。この浜堤の間は「潟湖」で、海が大きく湾入していたことが分かってきました。
坂出 福江海岸線

 ここからは北の砂堆Bと砂堆Aの間にあたる本町・京町・室町付近には潟湖があったと推測できます。上のは文京町二丁目西遺跡調査報告書に示された図や成果を基に作成した図です。砂碓Aは縄文時代に形成された砂碓で、この北面が古代の海岸線となります。この砂碓Aの北側にもう1つの砂堆列B・Cがあったことが分かっています。砂堆Bは「玉藻集」に「中道」と出てくるもので、16世紀後半にはようやく渡れる状態だったことが分かります。一方、砂碓Aと砂碓Bとの間は足も立たない「深江(ふかえ)」であったと記されています。
坂出の復元海岸線2

これを満潮時の様子とすると砂碓A(①北浜堤)と砂碓B(②南浜堤)との間に潟湖が存在し、奥の部分では干潮時には製塩に利用されたと考えられます。福江からは荘園主に塩5石が納められていました。その塩が作られたのも、この潟湖の干潟を利用したのかも知れません。それが堆積作用で、室町時代後半には砂堆B(北浜堤)まで海岸線が後退します。その結果、福江の港湾機能は低下し、御供所に移ったと研究者は考えているようです。

旧地形は小字名にも残されています。下の図は坂出市の小字名です。

坂出 旧小字名
①富士見町線とJR予讃線が交差する付近に「浜」、
②JR坂出駅周辺には「浜田」という小字
「浜」・「浜田」の南端は、南浜堤付近になります。南浜堤の北側には中世以降になると浜が広がっていたことがうかがえます。

今から200年前の19世紀前半になると、高松藩普請奉行久米通賢によって北側の浜堤の沖の干拓が行われることになります。
塩田開発以前の、坂出の海岸線はどうなっていたのでしょうか
塩田が作られる前の坂出の様子を描いた絵図には、いろいろありますが、最も詳細な絵図は「坂出古図」のようです。これに描かれた海岸付近の様子を見てみよう。
坂出古図

この上地図に、坂出市都市計画図に重ねたのが下の地図になります。

坂出古図2

 東浜の海岸線が現在の旧国道11号線のラインになるようです。東浜の北に円弧状に突出するところが鳥洲(潮止)神社(久米町一丁目)のあたりになります。東浜から西は、内陸まで海が入り込んできて、弓状の海岸線には石垣が積まれていたことが分かります。海岸線を西から見ていくと、「御供所新田」から南に向かい、ほぼ直角に曲がって北東に向かい、東に延びていきます。
 地図上に「石垣」と書かれた所は、現在の白金町・寿町・元町の一部です。
坂出古図 干拓以前の石垣

これが北浜堤の北端に当たる場所で、通賢干拓以前の護岸と伝えられる東西方向の石垣になります。石垣の北と南では 0.5~1.0 メートルほどの高低差があります。古図に描かれた波線は、護岸の石垣のようです。この石垣が、いつ積まれたかについては、史料がなくてよく分からないようです。ただ、石垣の西端にある西須賀八軒屋港に享保 17 年(1732)に、船番所が移されています。この時に付近一帯の護岸が整備されたと研究者は考えているようです。とすると18世紀前半に、この石垣が築かれたことになります。その場所は、先ほど見た北側の砂堆の海際ということになります。

福江 中世
 それから約百年後の文政 9 年(1826)に、高松藩の普請奉行である久米通賢が干拓に着手します。
坂出風景1

 石垣の北側には広大な面積の塩田と畑が姿を現します。この様子は以前に紹介した「坂出墾田図」で、以前にお話ししました。
坂出 海岸線正保国絵図
日本文国図 讃岐国絵図 享保頃 坂出の海岸線
江尻から福江にかけて海が大きく湾入して潟湖を形成している


次に見ていくのは江尻町付近の海岸線の変遷です。
坂出 阿野郡北絵図
高松藩軍用絵図 阿野郡北絵図
絵図資料としては、19世紀初頭に描かれた「高松藩軍用絵図 阿野郡北絵図」だけのようです。そこで、研究者は、小字と灌漑用水路の状況などから推測していきます。
坂出 江尻灌漑用水網
上図は江尻町付近の小字と灌漑水路を示す図です。江尻町の北部に「浜田」という小字が見えます。この付近は江尻町域の田畑を灌漑する江尻用水の末端にあたります。そのため「浜田」が江尻町の中でも最も遅く開発されたエリアであることがうかがえます。現在この付近の田畑の標高は 1~2mですから、開発前は浜が広がっていたと推定できます。
「浜田」の南西には「北新開」・「南新開」があります。
現在の坂出警察書付近にあたります。新開という地名から、新たに開発した土地であることがわかります。この付近も標高 1~2mと低く、何本かの排水路で西側の横津川に排水しています。また、坂出警察新築工事では、表土の下には厚い砂層が堆積していることが確認されています。以上から、坂出警察署付近は、かつて海岸部の低湿地であったのを、横津川や排水路を整備して、「北新開」・「南新開」を開発したと研究者は考えているようです。
文化元年(1804)には、江尻町の北東端で、綾川の河口沿いにある小字「末包(末兼」が開発されます。
坂出 江尻末兼石仏

末兼集落の石仏(図 9・10)には鵜足郡東分村(香川県綾歌郡宇多津町東分)の末包元左衛門と和享によって、同年に開発されたと刻まれています。この石仏からは、末兼は宇多津の有力者が19世紀初頭に開発したエリアであることが分かります。

林田町付近の旧海岸線を見ておきましょう。

坂出 大藪・林田

林田町には文化年間(1804~1818)に作成され、明治時代初期に加筆された検地帳と、地券発行のために明治時代初期に作成された地引絵図が保管されています。これらの資料から江戸時代末の田畑の呼び名が特定した研究を以前に紹介しました。
坂出 林田町 旧地名

これをみると、林田町の海岸沿いには「元禄六酉新興」・「延宝二寅新興」・「宝永元申新興」など年号の入った地名が集中しています。「新興」は「新たに興す」ことで、田畑が開発された年号をを示しています。
①綾川沿いの北西部には、「安政二卯新興」・「明治四辛新興」や「延宝二寅新興」・「宝永元申新興」・「宝永六巳新興」
②中央部から北東部には「元禄六酉新興」が広く広がります。
ここからは、林田町の北部は17 世紀末から18世紀前半に開発されたことがうかがえます。
今は、これらの「新開」の南に雌山の裾を取り巻くように神谷川が流れています。雌山西方には河川の痕跡とみられる地割が残るので、もともとは北に流れていた神谷川を雌山の裾に固定して、その西側に広大な田畑を開発したと研究者は考えているようです。ここでも河川のルート変更と治水工事と新田開発と灌漑用水の整備は、セットで行われています。
林田の開発以前の様子を示す資料としては、幕府の海辺巡検使高林又兵衛の視察記「海上湊記」があります。この記録は寛文7年(1667)のもので、この中に次のように記されています。
「林田 拾軒 遠干潟也 舟掛り無是ヨリ白峯へ上ル一り程有 此ノ辺ノ浜ヲ綾ノ浜ト云」

意訳変換しておくと
「林田は十軒の集落で、遠干潟である。 舟掛り(湊)はないが、ここから白峯へ一里ほどである。この辺りの浜を綾ノ浜と云う」

ここからは、17世紀後半には「林田 拾軒 遠干潟也」で、林田は10軒しか家のない集落で、湊も無く綾ノ浜呼ばれる遠浅の海岸が続いていたことが分かります。そこが江戸時代中期以降、新たに開発されていったのです。
坂出エリアの一番東の高藪の松ヶ浦と網の浦が、讃岐国名勝図会に載せられています
坂出 高藪 松ケ浦

前山(五色台山系)から西方、瀬居島を正面に見た構図で、左下部分に①大藪湊が描かれています。そこから北へ延びる浜が②松ヶ浦のようです。しかし、大藪は「青海村内にあり、林田郷の項に惣社大明神があり、松ヶ浦に鎮座」とあります。そうすると、松ヶ浦は青海川の河口付近と神谷川河口近辺の2カ所を指す地名ということになります。あるいは、雄山・雌山の周縁部を総称して松ヶ浦と言つていた時代があったのかもしれません。どちらにしても青海川と神谷川の河口先端の青松が生え伸びる部分を松ヶ浦と称していたようです。

 坂出の海岸線沿いには、中世には次のような湊があったことがうかがえます。
①青海川の河口であり青海湾の江尻に当たる松山津
②神谷川の河口になる松ケ浦
③綾川の河口になる川尻(林田湊)
④国津の遺称が残る福江の江尻湊
⑤聖通寺山の麓の御供所
この5つの湊が、阿野北平野の海岸沿いに、東西に並んでいたことになります。当然、これらの港を相互に結ぶ海浜ルートが「寄洲(よりす)の道」だったことは先に述べた通りです。これらの湊を結ぶルートとして、次のような街道が考えられます
①各湊と国府を結ぶ陸上ルート
②与島・櫃石島、乃生や木沢など陸上運搬の困難な浦々の湊と、これら阿野郡北の諸湊とを小舟で結ぶルート
③集荷された荷物や人を、基幹港である宇多津や塩飽に運ぶ海上ルート
各港からの産物を小舟で集荷する役割を果たしていたのが、聖通寺山の平山湊の海民たちです。集められてきた産物は、宇多津や塩飽の大船に積み替えられて畿内に運ばれていきました。中世には、各港で次のような機能分担が行われていたと研究者は考えているようです。
①大拠点港 宇多津・塩飽
②中継港  平山
③松山津・松ケ浦・林田湊・江尻湊(福江)・御供所
ここからは古代の国津港であった林田湊の衰退が見られます。国府機能の衰退と守護所の宇多津設置という政治状況の変化で、讃岐の主要湊の地位を宇多津に奪われたことがうかがえます。

   以上をまとめておくと
①近世以前の阿野北の海岸線は、いまよりも南にあり東西に伸びる砂堆が街道の役割を果たしていた
②砂堆の北側には広大な遠浅の海が広がっていた。
③江戸時代後半になって、坂出西部は塩田のために、綾川河口域の東部は荒地開発のために大規模な干拓開発が行われ、海岸線は北へと移動した。
④昭和の高度経済成長の時代に、沖合の遠浅の海が埋め立てられ臨海工業地帯が形成され、海岸線はさらに北へと移動し、沙弥島や瀬居島と陸続きになった。
⑤その結果、自然海岸はほとんどなくなり、波消しブロックに囲まれた堤防で、坂出は「陸封」され、市街からは海は遠くなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献

  5讃岐国府と国分寺と条里制

綾川が府中でドッグレッグして北に流れを変えた右岸(東側)が鴨になります。この辺りには、山部には古墳時代末期の横穴式古墳が群集し、その後には鴨廃寺も建立されていて、古代綾氏の拠点とされています。そして、綾川の対岸に讃岐国府が姿を見せます。「国府誘致」の原動力になった勢力の基盤があったところとも考えられます。

坂出 条里制と古墳
賀茂古墳群と鴨廃寺の位置関係 綾氏の存在がうかがえる

 全国には、古代以来の鴨部を引き継ぐ地名がありますが、古代の讃岐にも、鴨部(坂出市)と鴨部(さぬき市)の2カ所の鴨部がありました。空海の叔父阿刀大足が、この地に京都の賀茂神社(上下二社を総称して賀茂社)を勧請したので、鴨部郷から鴨郷に変更されたと伝えられます。また、鴨を狩猟し、献上する部民が配置された鴨部の呼称が始まりとされます。しかし、それらを裏付ける史料はないようです。
  鴨村の位置を確認して、ズームアップしていきます。
坂出 鴨
江戸時代の阿野北絵図
黄色ラインは街道、赤は村境になります。 注目しておきたいのは、鴨村の東にある烏帽子山です。
坂出 賀茂烏帽子山
現在の烏帽子山 山頂付近が削りとられてしまった姿
この山は、今は採石作業で削り取られて見る影もありませんが、かつてはその名の通り烏帽子の形をした甘南備山で地域の信仰対象だったことがうかがえます。明治の地形図の麓の地名は「神の山」です。ちなみに、頂上からは弥生時代の高地性集落跡も見つかっているようです。この山が鴨村の「シンボルタワー」の役割を果たしていたことは容易に想像がつきます。その麓にあるのが鴨村です。
5讃岐国府と国分寺と条里制

府中から真っ直ぐに北に伸びていく道が「大道」と呼ばれた、国府とその外港の林田湊を結ぶ連絡道だったと研究者は考えているようです。大道の西が氏部村です。近代には「鴨村+氏部村」=加茂村となります。綾川の西側は、西庄村になります。
坂出 鴨

この地図には、城山の北麓に「賀茂村御林」「氏部村御林」とあります。ここがふたつの村の「御林」だったことが分かります。農民たちは、この御林から若芽や小枝を刈り取って来て、それを背負って帰って田んぼにすき込んでいたのでしょう。


近世の鴨村と氏部村には、それぞれ鴨(賀茂)神社が鎮座していました。
鴨部郷の鴨神社1
  両神社の位置を、明治の地図で確認しておきます。
綾川に面してあるのが上鴨神社で、川の向こうにはJR予讃線の賀茂駅があります。今は採石で美しい姿を失ってしまった烏帽子山の西北麓に鎮座するのが下鴨神社です。ここでふたつの神社の鎮座する地名を下の地図で押さえておきます。
①上鴨神社(西鴨)が鎮座するのが氏部の「本鴨
②下鴨神社(東鴨)が鎮座するのが「鴨の庄

これを幕末の讃岐国名勝図会に載せられた絵図で見てみましょう。
絵図は国会図書館のアーカイブからダウンロードしたもので、クリックすれば拡大します。詳細部までみることができます。
鴨部郷の鴨神社

手前から見ていきましょう。
①右から左へ綾川が流れています。
②綾川に沿って高松ー丸亀街道が伸びていて、綾川を渡る木橋が見えます
③丸亀街道にそって鎮座するのが上鴨社(西鴨社)で、鴨前院という別院があり神仏混淆です
④さらに北に行くと氏部村の集落があるようです。
⑤田んぼには、雀おどしらしきものが張られているので、季節は取り入れ前の秋なのでしょうか
⑥背後には、五色台が横たわり、その前に奇景の烏帽子山が見えます。
⑦烏帽子山の前に、下鴨神社が見えます。
⑧その左に正蓮寺が大きく描かれています。

 西鴨(上賀茂)神社は、今も「あおいさん」とよばれ信仰を集めています。

坂出 上鴨神社

かつては三所大明神と呼ばれ、社内に神宮寺の一つ鴨箭(おうせん)院や地蔵堂などの堂塔がある神仏混淆の神社で、社僧が奉仕していました。
 西鴨神社(上賀茂・葵さん)には県内最古の棟札が保存されています。
年号は己□(卯)と見えるので、長禄二(1459)年のものと研究者は考えているようです。県下の棟札で、年紀の入ったものとしては、一番古いものです。西鴨神社周辺には京都の上賀茂神社の荘官で、「南海通記」などに登場する入江民部(代々民部を名乗った)がいました。この人江氏であった景輝という人物が願主となり、白峯寺の大僧都俊玄を西鴨神社社殿落慶の法要に際し導師に招いて供養したときのものが、この棟札になるようです。ここからは、西鴨神社が京都の上賀茂神社の寺領となっていたことが分かります。

坂出 下鴨神社

 東鴨(下賀茂)神社は鴨居大明神や、葛城大明神とも称していました。どちらも延喜式内社とする議論もありますが、京都の上賀茂、下賀茂は、併せて一社です。西鴨、東鴨もそう考えるのが自然のようです。
福江 西庄


鴨ノ庄(下鴨神社領)賀茂御祖神社は、下鴨神社領で現在も鴨庄の地名が残ります。そして、下社である東鴨神社があります。上鴨神社があるのは本鴨で、ここも京都の下鴨神社領といわれています。ところが、なぜか上社の西鴨神社が鎮座します。下鴨領に上社が鎮座するのは変です。『名勝』には、上社は氏部・鴨二郷の総鎮守であるとされます。また、本鴨は、賀茂庄の本条で、中心地を意味します。そうすると、この地は本来は、上社の荘園に含まれていた可能性が高くなります。綾川の流路沿いにあり、氏部郷と接続する場所です。そのためかつては氏部郷に属していた可能性もあるのでしょう。西鴨社の位置が変わっていないとすれば、氏部ではなく上賀茂領であったということになると坂出市史は指摘します。
牛ノ子山と牛子天神 
 ここは、国府と松山津との間を往返する「大道」道筋の途中になります。讃岐国守を勤めた菅原道真もこの付近にあった客館に足繁く通った(『菅家文草』)ことがうかがえます。伝承では、この小山で道真は牛に乗って戯れたと云います。また、道真が国司として最も重要な臨時祭事である雨乞いを城山山上において祭文を奉じて行ったところ、たちまちに恵みの雨が降ったとされます。それを讃えてこの地の民衆が乱舞したといわれ、これが雨乞踊りの発祥であるとも伝えらます。その後、これに讃岐配流になった法然上人が振り付けをして、北条念仏踊となったと伝えられます。ここには、中世に都から始まって地方に伝播した風流踊りの讃岐への定着プロセスがうかがえます。
 こうした雨乞い念仏踊組が讃岐各所に形成されて、江戸時代になると早魃の時には郡内の各組からも牛頭天王(滝宮神)社へ奉納するようになります。ここからは、いまはほどんど姿を消してしまった牛頭天王信仰のネットワークが見えてきます。

讃岐国名勝図会に描かれた上下鴨神社の周辺をみてきました。この地が烏帽子山を甘南備山(霊山・聖山)として、古来から信仰対象となっていたことを痛感します。古墳時代の人々は、この山の奥に古墳群を築き、仏教が流行するとそれを取り入れ鴨廃寺を建立する。そして、国府をここに「誘致」したのも、ここを拠点とする勢力だったのかもしれません。その後、京都の秦氏の氏神である下上賀茂神社に寄進され、中世には賀茂神社の寺領となったようです。秦氏との関係を通じて、成長して行ったのが古代綾氏です。綾氏は在庁官人として国府の指導権を握り、勢力を拡大していきます。その基盤は、国府と近いこの鴨(加茂)の地にあったのではないかと、私は考えています。
しかし、烏帽子山の今の姿は残念です。
坂出 賀茂烏帽子山
頂上部がなくなった現在の烏帽子山の姿

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編

  戦国末期に聖通寺山周辺をめぐって起きた変動は、大きなものでした。平山・御供所の住人や聖通寺の僧侶からすれば、山の上の主が短期間で次のように交替したことになります。
「奈良氏 → 長宗我部元親 → 仙石秀久 → 尾藤知宜 → 生駒親正」

  このような中で聖通寺城も変化していったようです。今回は聖通寺城の城郭が、どのように造られたのか、そのプロセスを追っていきたいと思います。テキストは「坂出市史 中世編 第七章 戦国動乱 第五節 中世城館」です。
聖通寺山

聖通寺城跡は、坂出市と綾歌郡宇多津町にまたがる聖通寺山にあります。
東西約六600m、南北約1080mのほぼ全域にわたる山城で、県下最大級の城域を持っています。この城館跡は、南北朝時代の築城伝承がありますが、今の遺構は永正元(1504)年から大永元(1521)年にかけての奈良元吉から、天正15(1587)年に在城した生駒親正までの83年間の間に築城された城跡とされています。
聖通寺城 曲輪2

この城は北峰と中峰に分かれていますが、両峰の遺構には大きな差異があると坂出市史は次のように指摘します。
北峰と中峰の頂上部から尾根沿いにいくつかの階段状の曲輪跡があります。その中でも北峰の西側斜面は、小さなブロックに分割された曲輪跡が相当な密度で並びます。ここは居住空間跡でもあったようです。山上の城郭施設を、日常の生活空間としても使用するスタイルを「戦国期拠点城郭」と呼ぶそうです。これは織田信長の安土城を始まりとします。北峯はこの「戦国期拠点城郭」スタイルが採用されています。つまり、居住空間と防御施設が一体化した最新型の城郭スタイルが北峯の城郭には持ち込まれています。このスタイルを、持ち込んだのは誰なのでしょうか? それは、後で考えるとして、次に中峰を見てみましょう。
聖通寺城 曲輪

 北峯と中峯では建設者が異なると研究者は考えているようです。
聖通寺城山は、中峰が一番高いのですが、そこにあるのは小規模で簡易な施設です。曲輪の連なりや配置を見ると、中峰の城郭は南方向への防御を考えた造りになっています。ところが新しくやって来た主は、北方向への防御性に備えた城郭を北峯に新しく築き、全体を改造改築します。ここまでで、中峰の主が奈良氏であったことは分かります。それでは、新しい主とは誰なのでしょうか。私は安土城に始まる「戦国期拠点城郭」の採用と聞いて、すぐに生駒親正を考えました。ところがそうではないようです。
それを「聖通寺山には石垣がない」をキーワードに解いていくことにします。織豊政権のお城に石垣はつきものです。ところが聖通寺城は、戦国時代の終末期まで存続しながら石垣跡がありません。

聖通寺山 仙石秀久

 天正13(1585)年6月 秀吉は四国平定を果たし、長宗我部元親を土佐一国に閉じ込めます。他の三国へは四国平定に功績のあった武将達が論功行賞と封じられます。讃岐には秀吉子飼いの仙石秀久が統治者としてやってきます。彼は、聖通寺城に本拠地を置きます。しかし、それもわずかのことで、九州平定への出陣を命じられ翌年の天正14(1586)12月の豊後・戸次川の戦いの敗戦の責任を取らされ、讃岐から追放されます。仙石秀久の統治は1年余でした。このため聖通寺城には、仙石氏による改修の痕跡は全く認められないようです。それは、石垣跡がないことからも裏付けられます。彼が讃岐に残した記録は、徴税に反対する農民たちを、聖通寺山城で処刑したというくらいです。
大失態を犯し追放されたが、再び秀吉の信頼を得て乱世を生き抜いた男|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【仙石秀久編】 |  サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
洲本城 東の丸 仙石秀久が築いたとされる
 織田信長の安土城築城以後は、石垣を持つ城郭が急増します。
仙石秀久のような織田・豊臣政権の中枢で活躍した武将は、競って石垣のある城造りを目指します。仙石秀久が讃岐に来る前に城主であった淡路の洲本城跡には高い石垣が築かれていて、今も東の丸にその痕跡を見ることができます。しかし、聖通寺城からは石垣跡は、見つかっていません。 
 仙石秀久の支配が短期間でも、聖通寺城の改修に取り組んだとすれば、石垣の導入を考えたはずです。聖通寺山の南峰周辺の山中を歩くと、巨石の中に切り出し途中の痕跡が残るものもあります。しかし、城郭跡からは石垣の痕跡はないようです。仙石氏には、城の改修や増築補強を行う時間はなく、石垣普請も行われなかったとしておきましょう。

DSC08630
仙石秀久の墓(聖通寺境内 昭和40年建立)
 仙石秀久が追放された後の聖通寺城には、天正十五年一月に尾藤知宜が入城します。彼も九州平定戦の失態(根白坂の戦い)で4月には追放されます。そのため尾藤氏が聖通寺館跡に居城した痕跡はありません。
生駒親正ってどんな人?何をした人?【簡単な言葉でわかりやすく解説】 | でも、日本が好きだ。

 讃岐国の統治は、生駒親正に委ねられることになります。
親正には、入部当初は引田や聖通寺山などに拠点を探しながら、最終的に高松(野原)に落ち着いたとされます。その過程で、聖通寺城を本拠地とする考えもあったと伝えられます。しかし、調査からは、実際に聖通寺城に入城した形跡はないようです。
  以上から北峯に最新式の城郭を築いた候補者から、仙石秀久・尾藤知宜・生駒親正は消えます。残るのは長宗我部元親です。
聖通寺 岡豊城の石垣 長宗我部元親
長宗我部元親の居城 土佐・岡豊城の石垣

讃岐には、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けて、多くの城が落とされ寺社が焼かれたと記録に残ります。
聖通寺 長宗我部元親の侵攻
坂出市史より

県の「中世城郭詳細分布調査」で明らかになったことのひとつが、長宗我部元親の攻撃を受けた館跡の多くが、それまでの城館よりも「大型化」し「進歩的な形態」をしているということです。私はこれを、土佐軍の侵攻に備えて、讃岐の武士団が自分の城館や山城を整備したためと最初は思っていました。ところがこれは長宗我部氏の占領後に、改修・強化された結果であると報告書は指摘します。つまり、土佐軍は懐柔・攻略した讃岐の城郭を、その後の秀吉軍の四国侵攻に備えて、改修・拡大し防御力を高めたということです。そこには今までの讃岐にはなかった工夫と手法が持ち込まれています。それを土佐的手法と研究者は呼んでいるようです。
  長宗我部氏によて城館が大型化したという根拠を押さえておきます。文献史料で土佐軍との攻防戦が行われた代表的な城郭を、坂出市史は次のように挙げます
①天霧城跡
②藤目城跡(観音寺市)
③櫛梨山城跡(元吉城・琴平町)
④西長尾城跡(丸亀市)
⑤勝賀城跡(高松市)
⑥上佐山城跡(同)
⑦鳥屋城跡(同)
⑧内場城跡(同)
⑨雨滝城跡(さぬき市)
⑩虎丸城跡(東かがわ市)等
このうち①天霧城跡は、曲輸跡群の分布範囲の総延長がおよそ1,2㎞におよぶ県NO1の規模です。その背景としては、長宗我部元親の次男親和と香川氏と間に養子縁組が行われ、両者の間に同盟関係が結ばれたことが考えられます。そのため本拠地の岡豊城(高知県南国市)で培われた土木技術が天霧城に導入され、土佐流に城郭が改修された結果が、この大型化に至つたと研究者は考えているようです。
また、西讃の押さえの城とされた西長尾城跡は、長宗我部氏の重臣の国吉甚左衛門が入り、大規模な改修工事が行われます。その際には、土佐スタイルの防御施設が設けらたことが発掘調査から明らかになっています。そして天正十(1582)年からの東讃遠征の際には、1、2万の軍勢集結の地となっています。それだけの人員を収容できる規模であったことが調査からも裏付けられています。

他の城館跡についても、長宗我部氏による攻城戦の伝承があり、土佐軍の占領と、その後の秀吉軍に対する防衛施設の強化という中で、改修・増築が行われ大型化がすすんだと研究者は考えているようです。再度確認しておきますが、土佐軍の信仰に備えて讃岐の武士たちが大型化を行ったのではないという点を押さえておきます。
もうひとつの指標は、石垣跡をもつ城館跡が現れることです。
高松城跡と丸亀城跡の石垣跡については、以前から知られていました。現在、石垣が確認されているのは引田城跡、雨滝城跡、勝賀城跡、天霧城跡、九十九山城跡(観音寺市)、獅子ケ鼻城跡(同)です。
引田城 - お城散歩
引旧城跡の石垣(野面積方式による石積で讃岐では最初?)
引旧城跡の石垣は讃岐の城館跡の中では初期のもので、生駒親正によって築かれた野面積様式であることが定説化しています。同じような野面積方式の石垣跡が雨滝城跡など、東讃の城館跡においても確認されています。これらの石垣跡についても、生駒親正による城郭網整備の痕跡と研究者は考えているようです。
「長宗我部元親」「石組み」という視点で、もう一度聖通寺城を見てみましょう
奈良氏によって中峰に、小規模で簡易な防御施設が建てられていたのを、長宗我部元親は、北方向からの秀吉軍に備えて改造改築したと坂出市史は記します。これは、先ほど見たように西長尾城や鷺の山城にも見られることです。土佐勢によって落城した後、瀬戸内海の北側の秀吉に向けた前線基地としてに改修された城館跡の事例のひとつのようです。しかし、聖通寺に石垣はありません。
聖通寺城 坂出の城郭
坂出市史より

ところが聖通寺山から2㎞北にある陸続きになった沙弥島の山城には、石垣跡があることが分かってきました。これをどう考えればいいのでしょうか?
讃岐で石垣跡がある城館跡は、引田城も丸亀城も生駒氏によって始められています。そのため石垣のある沙弥島城館跡も生駒氏によって築かれたものと、坂出市史は指摘します。
沙名島 石垣
沙弥島の城山跡の石垣跡
沙弥島の城山跡の石垣跡は、二重の帯曲輪跡の境界部分に残っています。自然石を野面積みした形で、大人の膝高程度の高さです。聖通寺城跡に石垣跡がないということと照らし合わせると、仙石秀久治世時代のものではなく、生駒氏による石垣導入の痕跡のようです。その位置づけを坂出市史は「讃岐国内の国境防衛の施設に位置付けることが適当」とします。だとすると聖通寺城跡のすぐ沖合に位置するので、沙弥島の城郭跡は「聖通寺城の沖合前線基地」という性格が考えられます。
その後の生駒氏は、西讃地域の支配拠点として丸亀を選び、亀山に新たな城の築城を始めます。そこには高い石垣が積まれていきます。そのため聖通寺城はうち捨てられることになります。つまり、聖通寺山には本格的な石垣を導入した城館跡は造られなかった、ただ前線基地である沙弥城山城跡には一部石垣が使われている、ということになるようです。
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聖通寺山・南峰山中の磐座
聖通寺山を歩いていて考えたこと(妄想)を記します。
聖通寺山の南峰の山中には、巨石がごろごろと転がり、磐座として信仰対象となっていた気配がします。かつての岩屋があった所には、今は朽ち果てようとしていますがお堂も建ち、周辺にはミニ八八箇所参りのお地蔵さんが参道に並びます。
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聖通寺の磐座と地蔵
最近までは、信者たちによるお勤めも行われていたようです。ここが修験者たちによる行場で、霊地であったことがうかがえます。聖通寺の奥の院だったと私は推察しています。

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 聖通寺は、この奥の院が源で、その下に開かれた古刹です。その歴史は宇多津が開ける前からあり、聖宝の学問寺と称しています。聖宝は、空海の弟に随って修行し、醍醐寺を開いた修験者です。聖宝は、この沖の島で生まれたとされ、その生誕の地をめぐって沙弥島と本島が争っていました。
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聖通寺の奥の院のお堂?
つまり「聖通寺 ー 沙弥島 ー 本島」は聖宝で結ばれます。さらに、その背後をたどると、児島の五流修験につながっていきます。五流修験は、自らを「新熊野」と称し、熊野修験の亡命者集団であるとします。彼らは、熊野水軍の瀬戸内海や西国への進出の案内人として布教エリアを拡大します。そのひとつが讃岐です。讃岐の海岸線には四国霊場の札所として、道隆寺・白峰寺・志度寺、さらには引田の古刹・与田寺や多度津の海岸寺が並びますが、これらの寺院は熊野信仰の影響色濃く受けています。これは海を越えてやって来た五流修験によって、もたらされたと私は考えています。
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聖通寺

 そういう色眼鏡で見ると坂出エリアでは「本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺」という小辺路ルートが五流修験によってひらかれていたという仮説が思い浮かんできます。

聖通寺 復元図
聖通寺を支えた信仰集団は、どこにいたのか?
 それが平山や御供所の「海民」たちだったのではないでしょうか。彼らは製塩や海上交易・漁業などで生計を立てる海民であったことは以前にお話ししました。その先祖は、沙弥島のナカンダ浜で塩を作り、船で交易を行っていたのかもしれません。それがいつしか北に突き出し聖通寺(半島)の先端部に住み着き、定着したとしておきます。御供所は以前にも触れたとおり、京都の崇徳院御影堂の寺領の一部となり、「海の荘園」として成長し、海産物加工や海上交易の拠点となります。平山も御供所と同じような道を進みます。ある意味、平山と御供所は一体化し、海の荘園で瀬戸内海交易の拠点でもあったと私は考えています。
 聖通寺山の麓にある平山も港町で交易湊がありました。
製塩 兵庫北関 讃岐船一覧
6番目に平山の名が見える
『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てくるので、かなりの規模の港町が形成されていたことが分かります。宇多津よりも沖合いに近い立地を活かして、広域的な沖乗り航路(宇多津・塩飽発の交易船)とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。そのため宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。ふたつの港は自立していましたが、機能面では連動し相互補完的関係にあったようです。平山の集落は聖通寺山の西側にある
①砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近
②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近
が想定できるようです。そして、平山や御供所の海民たちの信仰を集めたのが聖通寺なのではないか。その管理に当たっていたのが五流修験系の社僧であったと私は考えています。
以上をまとめておきます
①現在の聖通寺山に残る城郭遺跡の内で、中峰の城郭跡は奈良氏によるもので南向きの防御施設を持つ
②この城を占領した土佐軍は、海を越えて来襲する秀吉軍に備えるために、北峯に中心を移し、北向きに防備ラインを再整備した。
③土佐軍撤退後にやってきた仙石秀久・尾藤知宜は短期間の統治のために、改修・増築は行えなかった。
④生駒親正も宇多津に拠点を構えようとしたという記録はあるが、実際に築城工事にかかった痕跡はない。従って、この時期の織豊政権下の大名の城郭につきものの石垣がない。
⑤生駒氏は、石垣を持つ高松・丸亀・引田の城の同時建設を始める。それは、関ヶ原の戦い後の瀬戸内海における軍事緊張への対応策であり、家康の求めでもあった。
⑥その附属施設として、沙弥島には前線施設が置かれ、そこには石垣が用いられた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

廻船式目の研究(住田正一) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

坂出市史に「廻船式目」のことが紹介されています。
廻船式目とは、「海の憲法」ともいえる海事法規で、海上運送における慣習法をまとめたものです。全国には60冊ほどが伝わっているようですが、奥書の年紀は貞応二(1123)で共通しているので、鎌倉時代前期には成立していたとされます。
  廻船式目には、海難・盗難・積荷損害などの事故への対応法が書かれています。
それが時の権力者から承認を得ながら、何度かの改変・追加などを経て室町時代後半期には、全国的に一定の共通理解と法的拘束力がもたれるようになっていきます。つまり中世以来「廻船式目」に定められた条項が遵守され、海事紛争の根拠法とされていたのです。「海の憲法」とも云われる由縁です。

 塩飽には、2つの廻船式目が伝来していたようです。そして、それらを書き写したものが各浦々の人名の家には残っています。その背景を坂出市史は、次のように指摘します。
①海路を遠国まで航海する大型廻船を所有していたこと
②諸国の廻船が海上交易のために寄港したこと
③その際に塩飽海域で海難事故・事件に巻き込まれた場合の対応法を知っておく必要があったこと。
そして、与島に伝わる船法度(廻船式目)を紹介しています。
これは塩飽寛政改革で新年寄に選任された与島岡崎家の当主次郎左衛門が、塩飽に伝わる「廻船式目」を種本にして、新たに書き写したものと研究者は考えているようです。これを見ていくことにしましょう。

タデ場 廻船式目 
 廻船式目
第1条は、難破船に関する事項です。
① 「一  寄船・流舟(難破船)は、その在所の神社・仏寺修理をなすべきこと、もしその船に乗る者おいては、舟主進退なすべきこと」

沖で難破した船が流れ着いたときの処置方が記されています。難破船は、誰の物か分からないので、近隣集落で船を解体して、寺社修理に充てることができたようです。乗組員がいれば、船主の進退を仰ぐとあります。通例では、当該乗組員の判断によると記すものが多いようです。
 第二条は「港に係留中の船が破損したり、積荷が濡れた時」のことです。
②湊(港)において繋ぎ船損ないしたる時は。その所より濡れたる物を干し、船頭に渡すべきなり。そのため帆別・碇役し湊を買たる(人港に際し支払う諸税)は、国主たりとも違乱あるべからざる事」

船を湊に係留中に、船が損傷したり、荷を濡らした場合は、現場で乾して船頭に渡せとあります。そのため、全ての権限は、船頭にあり、帆別・碇役などの津料(関税等)を支払った場合、荷物の取引に関して、その所の国主といえども勝手はできないとあります。港に係留された船の保全は、港管理者に責任があったことが分かります。
  第三条は、「(係留中の)大風時の係船の事」についてです。
③ 「一  繋ぎ船あまたこれありて大風ならば、その村よりも加勢をつかまつるは、まず風上なる船に加勢する事もつともなり。いかに風上の舟、綱碇ありといえども、風上の船流れかからば諸々の船繋ぎ止むるべからず、もし風上の舟おのれと綱を切り、風下の船に流れかかり二艘ともに損いならば、風下の船より最も風上の舟に存分これあるべき事」

 多くの船が係留されているときに強風が吹いたときには、まず風上の船に加勢せよとあります。どんなに風下の船が綱碇をしているといっても風上の船が流れてくれば全ての船をつなぎ止める事はできません。もし、風上の船の綱が切れて風下の船に流れかかり、両方とも破損したなら風下の船から風上の船に賠償させる権利(存分)があるというのです。
 「その村よりも加勢」とあるので、湊のある村では海難救助や災害防止のための出動が相互扶助として確立していたことがうかがえます。それを指揮する庄屋たちは、この慣習法を知っていないと、対応を誤ることになります。勤番所に置かれていた廻船式目を、真剣に書き写すリーダーたちの姿が浮かんできます。
   第6条は、船の盗難に関する事です。
⑥舟を盗まれ、本は賊船に取られ、北国の舟は西国にこれあり、西国の舟は北国にこれありといえども、この船を買取り廻船をすべからざる事、もし、荷物を積廻す船はこれあるにおいては、船主見合いにこの舟を取返し、船頭も迷惑たるべき事、かわりに付たる沙汰はたとい親子の間にて深々たるべき事

船が盗まれることもあったようです。盗まれた船と分かった時には、日本中のどこにあっても持ち主に返却すること、その船が何回も転売されていて所有権は無効となる。また、盗船の雇われ船頭も盗船であることを知らなくても免責にならない。

このように海難事故や船をめぐる事件についての対応のために、中世にはこんな慣習法ができていたこと自体が驚きです。しかも、瀬戸内海というエリアだけでなく日本列島全体で遵守されていたというのですから。逆に考えると、海上交易(廻船)活動が広範囲に鎌倉時代には行われていたことにもなります。

千石船

さて、今回私が一番気になったのが、次の第7・8条です。 第7条は、「借船」に関する規定です。
⑦ 「借舟をし、もし、その舟損したるといえども、借りて弁えざるべき事、但し、舟床をすめす舟主の分別無き所を押さえて出船し、その舟損したる時は借り手の弁えにたるベき事」
船のレンタルとその運用について、荷主などが契約して借船を運航する場合、船の損害は、船主が責任を負います。また、荷主が、船主に対して契約料を未払いや無断出港した場合などは、借り手の責任となったようです。
 塩飽廻船は、古来より前払いの運賃積みで運行されてきました。その根拠となったのがこの項目だと研究者は考えているようです。
第8条は、船虫喰についてです。
 私は「船虫喰」とは、海岸でゴキブリのように這い回るフナムシと思っていました。フナムシとフナムシクイはまったく別種のようです。
タデ場 フナクイムシ3
フナムシクイの着床
フナクイムシは水中の船木に穴を開けてそこに住みつき、船材を穴だらけにしてしまいます。世界中の木造船が苦しめられてきた船の天敵です。ウキで検索すると、次のように記されています。
「フナクイムシ(船喰虫)は、フナクイムシ科 (Teredinidae) に属する二枚貝類の総称。ムシとついているが、実際は貝の仲間である。英語ではshipworm、ドイツ語ではSchiffsbohrmuschelnあるいはPfahlwurmer、フランス語ではtaret commun、台湾では船蛆蛤と呼ばれる」

  これを放置しておくと船底は穴だらけになって浸水してきます。船の耐久年数も縮めます。
タデ場 フナクイムシ1

この対応策としてとられたのが船タデです。ウキは、次のように記します。
 
船をタデ場に揚げ、藁・苫などを燃やして船底を熱し、船板中の船食虫を殺すとともにしみ込んだ水分を取り去ること。船の保ちをよくし、船足を軽くするために行なう。「牛島諸事覚」

火を燃やす作業所を「焚場」(たで場)と呼んだと云います
タデ場 フナクイムシ2
木材に巣くったフナクイムシの一種
それでは廻船式目に船虫食いが登場する第8条を見てみましょう

⑧ 「一  借船をし、その船虫喰いたる時は、借り手損たるべき事、但し、舟付きこれあるにおいては借り手気遣及ばざる事、借り手油断においては弁えあるべき事」

意訳変換しておくと

船をレンタルして運航していた際に、メンテナンス不備で虫食いの被害で損害を与えたときには、借手の責任となる。ただし、専門のメンテナンス水夫が同乗の場合は、この限りではない。レンタル側のお雇い船頭が油断して虫食いが発生した場合も、同様に責任がある。

 先ほど見たように廻船の虫食いは、深刻な場合は廃船になることもあります。そのためには普段からの注意と、定期的な整備が必要でした。「舟付きこれあるにおいては」とあるのので、メンテナンス専用の水夫が同乗する場合もあったようです。

条文に明記されているのですから、船タデを定期的に行い廻船を良好な状態で維持管理し、長持ちさせることは、廻船関係者にとっては常識であったことが分かります。また、船底に付着する海藻や貝類も船足を遅くする元凶なので、これを取り除く作業も同時に行われました。
 それでは船タデ作業は、どこで行われたのでしょうか?
   備讃瀬戸を挟んだ備後の鞆の浦からはタデ場遺構が確認されています。調査報告書は次のように述べています。
タデ場 鞆の浦2
石畳を敷いたようにみえるタデ場跡(鞆の浦)

①石敷され,一辺が50~100cm程度の上面が平坦な板状の石材で作られている。
②その範囲は約23×13m。石材の一部には,石を割ったときの跡(矢穴痕)が残る。
③岩盤は,自然の岩盤とは異なり,全体的にほぼ平坦であり人工的に削平したもの
④平坦に削平された岩盤と,石敷や石列の設置で,全体として平坦な「場」ができあがっている。
タデ場 鞆の浦1

また文書にも、タデ場を裏付ける次のような文書があるようです。
・文政10年(1827年)の河内屋文書には,時代と共に船の規模が大きくなり,焚場が狭くなってきたため,敷石したり岩・石を削平して浜全体で大船10艘の焚船ができるようにしたこと

この記述は、先ほど見た遺構の「石敷・石列・加工の可能性のある岩盤」と一致します。
・近世の鞆の町並みを記録した2枚の絵図面〔元禄~宝永年間(1688~1710年)沼名前神社蔵及び文化年間(1804~1817年)と推定されるもの・〕には両方とも,同じ場所に“焚場”あるいは“タデ場”の記載があること。

このタデ場(焚場)は大正時代の始めまでは、多くの船に利用されていたようです。当時は、千石船が50杯/月、300~500石の船が130杯/月も利用する瀬戸内では、最大級の焚場のひとつだったようです。江戸時代の港町に、タデ場が残っている所は今ではほとんどありません。潮が引くと石畳造りのタデ場が現れます。

kaisenn廻船5

 以前にお話ししましたが、タクマラカン砂漠のオアシスはキャラバン隊を惹きつけるために、娯楽施設やサービス施設などの集客施設を競い合うように整備します。瀬戸の港町もただの風待ち・潮待ち湊から、船乗り相手の花街や、芝居小屋などを設置し廻船入港を誘います。船乗りたちにとって入港するかどうかの決め手のひとつがタデ場の有無でした。船タデは定期的にやらないと、船に損害を与え船頭は賠償責任を問われることもあったことは廻船式目で見たとおりです。また、船底に着いたフジツボやカキなどの貝殻や海藻なども落とさないと船足が遅くなり、船の能力を充分に発揮できなくなります。日本海へ出て行く北前船の船頭にとって、船を万全な状態にしておきたかったはずです。
 船頭に人気があった船タデ場のひとつが、鞆にあったことはみてきました。ところが、鞆の船タデ場の管理者たちがライバルししていたのが塩飽与島のタデ場です。わざわざ与島のタデ場を取り上げて、自分たちのタデ場の方が古くからあり、処理能力や腕もよく、経費も安いと記します(鞆浦河内屋文書)。ここからは、鞆と与島は、どちらもタデ場発祥の地として競い合っていたことがうかがえます。同時に、近世瀬戸内の同業者の間では、船タデの由来・由緒が共有されていたことも分かります。ちなみに与島の小地名に「たてば」というところがあるようです。これは、もともとは「タデ場」のあったところなのでしょう。

1 塩飽諸島

瀬戸内海の干満差は、船タデ場に適していたようです。
瀬戸内海の平均干満差は約3~4mで、一日に2回干満があります。ちなみに東北から日本海方面では、千満差は、30㎝しかないそうです。また九州の有明海などは、干満差が6mを超えます。このため日本海岸では、船の下に入ることも出来ません。一方有明浜などでは磯や浜に船台を設けても、高すぎて船底に届きません。干満差3mというのは、作業にはちょうどいいようです。

坂出市史を参考に、船タデの作業開始を時間順に並べて見ましょう。
①満潮時にタデ場に廻船を入渠させる。
②船台用の丸太(輪木)を船底に差し入れ組み立てる。
③干潮とともに廻船は船台に載り、船底が現れる。
④船底のフジツボや海藻などを削ぎ取りる
⑤タデ草などの燃材を燃やして船底表層を焦がす。
⑥船食虫が巣喰っていたり、船材が含水している場合もあるので、防虫・防除作業や槙肌(皮)を使って船材の継ぎ目や合わせ日に埋め込む。
⑦同時に、漏水(アカの道)対策や補修なども行う。

タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町は「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。
タデ場 鞆の浦3
近世の造船所
  「塩飽水軍」は存在しなかった、あったのは「塩飽廻船」と前回に記しました。
塩飽衆は、武力装置としての水軍力よりも、航海術を駆使し、人やモノを各地に海上輸送することを得意にしていたのです。加えて塩飽の廻船の強みは、船舶を維持管理する能力の高さではないかと坂出市史は指摘します。そのひとつが塩飽のタデ場であったのではないでしょうか。塩飽のタデ場は鞆の浦と同じように諸国の廻船関係者から高い評価を得て、大型廻船の出入りが絶えなかったのです。それは、塩飽に安定した収入源と、船大工たちの雇用の場を作り出していました。塩飽繁栄のささえのひとつでした。

最後に現役のタデ場を見ておきましょう。
タデ場 鞆の浦4

鞆の浦の港の中の光景です。漁船には今も木造船が残っています。雁木を利用して、船を揚げて「タデ場」として利用しています。
タデ場 鞆の浦5

木造船時代は、どの漁村でも船タデが行われていました。
丸太のコロで木造船を浜に引き上げ、船底に付着している海藻や貝類をかき落とし、松葉や杉葉やススキをタデ草(船タデの燃料)として燃やし船底を焼きます。その際、船の船霊さまは船タデをすると熱いのでしばらく船から離れていただく儀式をします。タデ草を動かす棒の事をタデ棒と呼びます。船タデが終わるとタデ棒で船底を3回叩きます。それは離れてもらっていた船霊さまに船タデが終了したことを知らせ、船にお帰りいただく合図だったと伝わります。ちなみに鞆の浦では、タデ草の代わりにバーナーで燻っていました。現代版の「タデ草」です。形を変えて、漁村ではタデ場が残っているようです。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献   坂出市史 中世編  塩飽廻船と廻船式目 123P



  2015年5月号 村上水軍と塩飽水軍 ひととき(ウェッジ社)
塩飽水軍といったことばをよく聞きますがその実態はどうだったのでしょうか?
芸予の村上水軍と同じような水軍が塩飽にもいたのでしょうか?芸予諸島を中心に活動した村上水軍は、村上武吉の活躍で小説などにも取り上げられ有名です。これと同じように、備讃瀬戸で活動した集団を塩飽水軍と称してきました。しかし、研究が進むにつれて分かってきたことは、塩飽水軍は村上水軍ほど活発な活動を行っていないということです。
『南海通記』に塩飽と海賊衆について、次のように記されています。
讃州諸島ヲ命ジ給フ、家資即諸島二兵士ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽島二我ガ子男ヲ居置テ諸島
ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、足宮本氏高原氏ノ祖也
意訳変換しておくと
(香西)家資は讃州諸島の支配を命じられ、備讃諸島に兵士を進駐させて警備させた。直島と塩飽島には息子を置いて守らせ、海上交通の警固を行った。これが、宮本氏や高原氏の祖先である」

ここには、香西家資の息子が塩飽の宮本氏や高原氏の祖と伝えています。確かに、香西氏は備讃瀬戸を中心に海賊衆を統括し、それぞれの島に拠点を構えています。その拠点が塩飽(本島)でした。
1 塩飽本島
方位は北が下

なぜ塩飽が海賊衆の拠点となったのでしょうか?
     
塩飽は備讃瀬戸の中央にあり、古代から畿内と九州を結ぶ海のハイウエーのジャンクションで、同時にサービスエリアのような役割を果たしてきました。それだけでなく「塩の島・荘園」として、年貢塩を輸送するために船と乗組員(海民)がいました。中世の海民は、輸送船団員であり、同時に海賊衆でした。その海民の統率リーダーが、宮本氏や高原氏であたったということになります。
 南北朝期の瀬戸内海の海賊衆の動きを見ておきましょう。
この時期には海賊衆も南北に分かれて対立します。南朝方についたのは海賊衆も多くいました。これは南朝方の熊野水軍と熊野行者のオルグ活動があったからだと考えられます。熊野行者は児島の「新熊野=五流修験」を拠点に、瀬戸内海エリア全体への布教活動を展開したことは以前にお話ししました。そして芸予諸島では、大山祇神社の鎮座する大三島に拠点を築き、そこから伊予の忽那衆や越知氏への浸透を図ります。そのため芸予の海賊衆は南朝方として登場する勢力が多いようです。
  また、備前国児島郡の佐々木信胤も五流修験と連携する熊野海賊衆と行動を共にして、小豆島を占領し、備讃瀬戸を中心とする東瀬戸内海の制海権掌握をねらいます。
 このような情勢の中で、塩飽は北朝勢力の拠点でした。
そのため貞和四/正平三(1348)年4月、南朝方の忽那衆の攻撃を受けることになります。戦いの情況はよく分かりません。この時の攻撃対象は塩飽海賊衆の高原氏で、その拠点は本島北東端の笠島にあったと研究者は考えているようです。街並み保全地区に指定された笠島集落の東にある尾根上に山城跡が残されています。
笠島城 - お城散歩
笠島集落の東の尾根にある笠島城址
この城は、本島の水軍(海賊)の拠点山城とされます。
麓の笠島の港町と湾への直接的な支配・管理の意図がはっきりと見える城郭配置がされています。また、この城に籠もる勢力は、陸上交通で他地域とつながる後背地がありません。海上交通だけに頼った集落と山城の立地です。ある意味、村上水軍の能島との共通性を感じることもできます。『南海通記』を信じるとすれば、これが香西氏の子孫になる高階氏の居城で、高松の香西氏と何らかの従属関係にあったと云うことになります。室町期になると、海賊衆は警固衆として守護のもとへ抱え込まれていきます。 
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室町時代後半になると、守護大名は海上での武装集団として水軍を組織するようになります。

その先駆けが毛利氏と村上氏の関係に見られます。毛利元就は天文二十二(1553)の厳島合戦で陶晴賢を打ち破りますが、この時に毛利側に与して勝利をもたらしたのが、因島・能島・来島の三島村上衆の組織する水軍でした。毛利元就の家臣団に属したものではなく、一時的な「援軍」艦隊と考えた方がよさそうです。これを後世の軍記者は「村上水軍」と記すようになります。その実態は、3つの村上氏の「連合艦隊」で、もともとは「寄せ集めの海賊衆」であったのです。それが永禄年間(1558~70)後半には毛利氏の水軍としてまとまりをもって動くようになり、西瀬戸内海一帯で大きな影響力を誇示するようになります。その時のカリスマ的な指導者が能島の村上武吉です。
村上武吉

それでは塩飽水軍の場合はどうなのでしょうか?      
  南北朝期の海賊衆が、どのように水軍に組織化されたかを示す史料はありません。ただ、後に武吉の子孫たちが萩や岩国の毛利藩の家臣となり、船奉行を務めるようになります。彼らは己の家の存在意義のために、「海戦兵法書」や「村上氏の系図類」を残します。この史料が「村上水軍」を天下に知らしめる役割を果たしてきました。
 塩飽水軍には、これに類するモノがありません。それは、大名の家臣となるものが居なかったこともあります。彼らは「人名」になりました。塩飽勤番所に大事に保管されているのは、信長・秀吉・家康の朱印状です。ここには、大名の家臣化として生きる道を選んだ村上氏と、幕府の「人名」として、特権的な船乗り集団となった塩飽衆の生き方(渡世)の仕方にも原因があるような気がします。

16世紀初頭の備讃瀬戸をめぐる状況をみておきましょう。
永正五(1508)年頃の細川高国の文書には、次のように記されています。
今度忠節に就て、讃岐国料所塩飽島代官職のこと、宛て行うの上は、いささかも粉骨簡要たるべく候、なお石田四郎兵衛尉中すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿
意訳変換しておくと
この度の(永正の錯乱)における忠節に対して、讃岐国料所の塩飽島代官職に任ずる。粉骨砕身して励むように、なお石田四郎兵衛尉申すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿

村上宮内太夫は能島の村上隆勝のことです。これは永正の錯乱に関わる書状のようです。細川高国が周防の大内義興と連携して、細川澄元と争います。その際の義興上洛の時に、警固衆として協力した恩賞として、塩飽代官職を能島の村上隆勝に与えたものです。塩飽は高国政権下では細川家の守護料所でしたが、政権交代で塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったことが分かります。この代官職がどのようなものであったかは分かりませんが、村上氏へ代官職が移ったのは、瀬戸内海制海権をめぐる細川氏と大内氏の抗争が、大内氏の勝利に終わったことを示します。同時に、それまで備讃瀬戸に権益を持っていた讃岐安富氏の瀬戸内海からの撤退を意味すると坂出市史は指摘します。

個別「藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』」の写真、画像 - 書籍 - k-holy's fotolife

 永生10(1513)年には、周防の大内義興は足利義植を将軍につけ、管領代として権力を得ます。彼は上洛に際して瀬戸内海の制海権掌握のために、村上氏を警固衆に抱え込みます。さらに義興は、能島の村上槍之助を塩飽へ派遣して、味方するよう呼びかけています。これに応じて、香西氏は大内氏に属し、香西氏に従っていた塩飽衆も大内氏のもとへ組み込まれていきます。義興の上洛に協力した村上氏は、恩賞として塩飽代官職を今度は、大内氏から保証されています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に入ります。
「周防大内義興 ー 能島 村上槍之助 ー 讃岐 香西氏 ー 塩飽衆」

という支配体制ができたことになります。
 細川政元の死去によって、大内氏の勢力は大きく伸張します。
細川氏の支配地域が次々と大内氏に奪われていきます。16世紀になると細川氏に代わって大内氏が瀬戸内海での海上勢力を伸張させていき、備讃瀬戸の塩飽も抱え込んだのです。大内氏は能島村上氏を使って、瀬戸内海を掌握しようとします。その際に、村上氏にとっても塩飽は、東瀬戸内海進出の足がかりとなる重要な島です。ここに代官職を得た能島村上氏がこれを足がかりにして塩飽を支配するようになります。
大内義興はの経済基盤は、日明貿易にありました。そのために明国との貿易を活発に進めようとします。
その際に、明からの貿易船の警固を村上衆だけでなく、塩飽衆へも求めてきます。また永正17(1520)年大内氏が朝鮮出兵の際には、塩飽から宮本体渡守・同助左衛門・吉田彦左衛門・渡辺氏が兵船3艘で参陣したと『南海通記』は記します。これが本当なら塩飽衆は、瀬戸内海を越え、対馬海峡を渡るだけの船と操船技術をもっていたことになります。 大内氏の塩飽衆抱え込みは、日明貿易の貿易船警固だけでなく、朝鮮への渡海役も視野に入れていたようです。

天文十八(1549)年、三好好長慶が管領細川晴元と対立した時のことです。

三好長慶と細川晴元

香西元成は晴元に味方して摂津中島に出陣します。この時に塩飽の吉田・宮本氏は、元成の命で兵船を率いて出陣しています。このように、畿内への讃岐兵の輸送には、船が用いられています。西讃岐守護代の香川氏も山路(地)氏という海賊衆を傘下に持ち、山路氏の船で、畿内に渡っていたことは以前にお話ししました。塩飽衆も香西衆の輸送を担当していたようです。

元亀二(1571)年2月、備前児島での毛利氏との戦いにも、塩飽衆は輸送船団を提供しています。
また、毛利氏と敵対した能島村上氏が、拠点の能島城を包囲された時には、阿波の岡田権左衛門とともに兵糧を運び込んでいます。

村上隆勝が塩飽代官職を得て以降、武吉の代になっても村上氏による塩飽支配が続いていたことは次の文書から分かります。
本田治部少輔方罷り上られるにおいては、便舟の儀、異乱有るべからず候、そのため折紙を以て申し候、恐々謹言
永禄十三年六月十五日                                武吉(花押)
塩飽島廻船
意訳変換しておくと
(大友宗麟の命を受けて)本田治部少輔様が上京する際の船に対して違乱を働くな、折紙をつけて申しつける。
永禄十三(1570)年六月十五日                 武吉(花押)
塩飽島廻船

本田治部少輔は、豊後国海部郡臼杵荘を本貫地とする大友宗麟の家臣です。彼は大友家の使者として各地を往来していました。花押のある武吉は能島の村上武吉です。船の準備と警固を命じられているのは塩飽衆です。
ここからは次のようなことが分かります。
①塩飽衆が、能島村上武吉の管理下にあったこと
②塩飽衆が平常は、備讃瀬戸を航行する船に「違乱」を働いていたこと
③それを知っている村上武吉が、本田治部少輔の船には「違乱」をせず、無事に通過させよと指示していること
この指示に対して、宗麟は村上衆に「塩飽表に至る現形あり、おのおの心底顕されるの段感悦候」と書状を送っています。また、堺津への使節派遣にあたり、堺津への無事通行の保障と塩飽津公事の免除を求めています。その際のお礼として甲冑・太刀を贈って礼儀を尽くしています。
 瀬戸内海を航行する船にとって、備讃瀬戸は脅威の海域であり、塩飽を支配している村上氏に対しての礼儀を尽くすのが慣例になっていたようです。西国大名たちには、瀬戸内海を航行する時に西瀬戸内海と東瀬戸内海の接点になる塩飽諸島は重要な島でした。そこを支配している村上氏の承認なくして、安全な航行はできなかったようです。
 村上掃部頭に宛てられた毛利元就・隆元連署状には次のように記されています。
一筆啓せしめ候、櫛橋備後守罷り越し候、塩飽まで上乗りに雇い候、案内申し候」
意訳変換しておくと
一筆啓せしめ候、櫛橋備後守の瀬戸内海通行について、塩飽まで「上乗り(水先案内人)」を雇って、案内して欲しい

ここには、塩飽まで航海について、水先案内人をつけて、航路の安全と通行確保と警固依頼をしています。命じているのではなく依頼しているのです。ここにも能島村上衆が毛利の直接の家臣ではなく、独立した海賊衆として存在していたことがうかがえます。
塩飽をめぐって大名たちは、自分たちに有利な形で取り込みを図ろうとします。それだけ塩飽の存在が重要であったことの裏返しになります。
  永禄から元亀年間(1558~73)にかけて、瀬戸内海をめぐる情勢が大きく変化します。安芸の毛利氏は、永禄九(1566)年に、山陰の尼子氏を滅ばし、その勢力は九州北部から備中まで及ぶようになります。毛利氏に対抗するように備前・播磨に浦上・宇喜多氏が勢力を伸ばします。このような中、元亀二(1571)年になると、毛利氏は浦上・宇喜多を討つために備前侵入を開始します。すでに備前・備中の国境近くの備前国児島の元太城は毛利方の支配下に落ちていました。
元太城は海中に突き出た天神鼻の半島部に位置し、三方が海に面した要害の地です。
この年五月、阿波三好氏の家臣で讃岐を支配していた篠原長房は、阿波・讃岐の兵を率いて備前児島の日比・渋川・下津丼の三ヵ所ヘ上陸します。下津丼に上陸した香西元載は、日比城主・四宮行清と合流し島吉利が守る元太城を攻撃します。東の堀切まで攻め寄せた時、急に激しい雨と濃霧に包まれた中で、城兵の逆襲にあい、香西元載は打ちとられ、四宮氏も敗走したと『南海通記』は記します。そして阿讃勢は児島から撤退します。
 これに対して、足利義昭は小早川隆景に対して6月12日付けの文書で、毛利に亡命中の「香川某」を支援して讃岐に攻め込むことを要請しています。
児島での合戦に塩飽は、どのように関わっていたのでしょうか。
塩飽衆は早くから香西氏の支配下にあったことは述べてきました。そのため児島攻めには直島の高原氏とともに、阿讃勢を児島へと輸送しています。しかし、この時期の塩飽は村上氏の支配下にありました。そのため毛利氏は村上氏を通じて、塩飽を味方につけるために動きます。ところが能島の村上武吉は、裏では周防の大内氏や阿波の三好氏とつながっていたようです。複雑怪奇です。

 それに気づいていた毛利氏は、能島村上氏の支配下にある塩飽の動向には十分注意しています。塩飽衆の中には、三好氏配下の香西氏に従う者もいたからです。そのために毛利氏がとったのが塩飽衆の抱え込み工作です。小早川隆景は、乃美宗勝にこの任務を命じます。宗勝は、後の石山本願寺戦争の際の木津川の戦いで大活躍する人物で、小説「海賊の娘」にも印象的に描かれています。また、その翌年に讃岐の元吉城(琴平町櫛梨城)の攻防戦に、毛利方の大将として多度津に上陸し、三好軍を撃破しています。

 塩飽衆の抱き込み工作の際に、小早川隆景から宗勝に宛てられた書状には次のように記されています。
「塩飽において約束の一人、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすべし段は、申すに及ばず候」

ここには寝返りを約束した塩飽衆が、まだ味方していないことが記されています。さらに六月十三日付の宗勝の書状には「篠右宇見津逗留」とあります。「篠」とは、篠原長房のことで「宇見津」は宇多津のことで、篠原長房は児島から宇多津へ撤退しており、長房が再度備前へ渡海することはないと判断する報告をしています。

以上、だらだらと村上水軍と「塩飽水軍」を対比しながら見てきました。両者には決定的な違いがあると坂出市史は、次のように記します。
①塩飽衆は軍事力を持つ集団ではなく、輸送船団である
②塩飽衆は村上水軍のような強大な軍事力は持つていない。
③むしろ操船技術・航海術に長けた集団で、水主として輸送力の存在が大きかった
④船舶は持っているが、軍船というより輸送船が中心で、海戦を行うだけの人員はいなかった。
⑤戦時に船と水主が動員されるのであり、戦闘集団いわゆる水軍としての組織は十分ではなかった。
 整理しておくと、塩飽衆は時の権力者に海上輸送力を利用され、その存在が注目され、誇示されるようになります。それが江戸時代の人名制という特権の上に誇張され、「塩飽水軍」という幻が作り出されたとしておきましょう。
このように塩飽は、信長や秀吉がその勢力を瀬戸内海に伸ばしてくる以前から、瀬戸内海制海権の覇権上最重要ポイントでした。そのため毛利と対抗するようになった信長は、塩飽の抱き込み工作を計ります。また、四国・九州平定から朝鮮出兵を考える秀吉も、塩飽を直轄地として支配し、「若き海の司令官」と宣教師から呼ばれた小西行長の管理下に置くことになります。その際に、東からやって来た信長・秀吉・家康は、塩飽(本島)だけを単独で考えるのではなく、小豆島と一体のものとして認識し、支配体制を作り上げていったと坂出市史はしてきます。

       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   製塩と木簡
木簡 讃岐国阿野郡の調塩
塩の産地であった讃岐では、調として塩が貢納されていました。
 平城京から出てきた木簡の中に
「讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年調塩

と記されたものがあります。
ここからは、阿野郡の日下部犬万呂が塩を調として納めていたことが分かります。また『延喜式』に「阿野郡放塩を輸ぶ」とあります。阿野郡から塩が納められていたことが分かります。放塩とは、粗塩を炒って湿気を飛ばした焼き塩のことのようです。炒るためには、鉄釜が使われました。ここに出てくる塩も、阿野郡のどこかで生産されたものなのでしょうか。今回は、坂出周辺の古代の製塩地捜しに出かけて見ることにします。テキストは「坂出市史 中世編  海を取り巻く様相  107P」です
製塩木簡 愛知
愛知県知多から平城京への塩の送り状
奈良や京都の有力寺社は、塩を手に入れるために、瀬戸内海に製塩地を持っていました。いわゆる「塩の荘園」と云われる荘園です。その中でも。伊予弓削島は「塩の島」と呼ばれるように東寺の重要な塩荘園でした。讃岐でも有力寺社の製塩地がありました。坂出市域の北山本新荘(後の西庄)や林田郷をはじめ、志度荘・三崎荘(庄内半島)・肥土荘(小豆島)などです。 
当時の塩は、どのようにして造られていたのでしょうか?
 瀬戸内の海浜や島々には、弥生時代中期から奈良・平安時代にかけて営なまれた土器製塩遺跡が200か所以上あります。中でも、吉備と讃岐に挟まれた備讃瀬戸地域は、最も分布密度の高く、このエリアでが製塩の発生地域であることが明らかにされています。
 弥生時代は、製塩土器が用いられていました。
備讃瀬戸で発生した製塩法が、古墳時代になると山口市沿岸,芸予諸島,小豆島,淡路島,大阪湾沿岸,鳴戸,和歌山の各地方,さらに九州,若狭湾,東海沿岸へと拡大されていきます。
製塩土器
製塩土器
 6世紀後半~7世紀前半になると、丸底で今までにない大型品の製塩土器が使用されるようになります。その容量は2,000ccにもなり、これまでの製塩土器に比べると2~3倍になります。この土器を「師楽式土器」と呼んでいます。
製塩 喜兵衛島〈きへいじま〉

直島の北にある喜兵衛島〈きへいじま〉遺跡群で発見された炉は、それまでのものよりも大型化し、丸底の土器にあわせて底面に石が敷かれています。使用済の製塩土器廃棄量も大量になり、喜兵衛島遺跡群の土器捨て場には実に厚さ1mにもなる製塩土器層が出てきています。

製塩 製塩土器

 また瀬戸大橋工事にともなう大浦浜遺跡(櫃石島)の発掘調査からは、約20万点にもおよぶ製塩土器や塩水溜・製塩炉が見つかっています。これは、もはや弥生時代の塩作りとは、規模やレベルそのものが違う生産量です。専業化した専門集団がいて、備讃瀬戸地域の海岸部分や島嶼部分に製塩拠点を構えていたことがうかがえます。まさに備讃瀬戸の塩作りが最も栄えた時期とも云えます。そのような影響が塩飽や坂出の海岸部にも伝播してきます。

本島では早い時期から塩作りが行われていました。
7月14日の御盆供事として、「塩三石 塩飽荘年貢内」と藤原摂関家領であった塩飽荘の年貢として塩が上納されています。その内の塩三石は、法成寺の盆供にあてられています(執政所抄)。寺社の行事には、清めなどに塩が大量に必要とされました。塩飽の塩は宗教的な行事に使われています。なお近世以前には、「塩飽=本島」と認識されていたことは以前にお話ししました。

塩飽(本島)のどこで塩が生産されていたのでしょうか。
これもはっきりとした史料はありません。ただ、島の北部にある砂浜地帯に「屋釜」という地名があります。これは塩を煮た釜を推測できます。また南部の泊の入江付近は、かつては海岸部が内側に入り込んでいて、干潟が広がっていたようです。その干潟を利用して塩浜が開かれていたと研究者は推察しています。
製塩 大浦浜遺跡

 櫃石島の大浦浜では弥生時代から製塩が行われていました。
その後も塩飽では塩作りが盛んに行われていたことが推察できます。沙弥島でも弥生以来の製塩が引き継いで続けられていたのでしょう。これらを担っていたのは、製塩という特殊技術を持った「海民」の一族であったと研究者は考えているようです。

製塩 奈良時代の塩作り
奈良時代の塩作り 製塩土器を使用している

仁和二(886)年に、讃岐国司として菅原道真がやってきます。       
赴任した冬に詠んだ『寒早十首』(古代篇Ⅲl3‐田)の中に、「塩作人」について、次のように記されています。
何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早売塩人    寒さは塩作人(塩汲み)に早く来る
煮海雖随手    塩焼きは手馴れているけれど
衝煙不顧身    煙にむせて身を擦りへらしている
旱天平價賤    お天気続きは塩の値段を下げちゃうから
風土未商貧    この地で塩商人は大もうけ
欲訴豪民     お役人訴えたくて、港で待っているんだ。
(塩焼きには給料をほんの少ししか渡さず、有力者たちが大もうけしていることを訴えたくて)
ここには塩を作る人の労苦が記されています。周囲を海に囲まれた島々では、生活の糧を得る手段としては海に携わるしかありません。特殊技術をもつ「海民」の活躍の舞台でもあったのです。製塩も古代以来、海民によって担われてきたようです。「塩焼きは手馴れているけれど」、しかし、流通面を塩シンジケート組織に押さえられていたことがうかがえます。中国の塩の密売ルートも同じです。流通組織がシンジケート化し、力を持つようになり生産者(海民)を圧迫します。そのため彼らの生活は、決して楽ではなかったことが、ここからはうかがえます。中世になっても、塩の生産は向上しますが、そこに従事する海民の生活は、あまり変わらなかったようです。
製塩 自然浜
中世の自然浜
中世になると、塩の需要が高まり、塩を多く生産するために塩浜が開発されていきます。
陸地部では、阿野郡林田郷に塩浜が開かれていました。暦応二(1340)年の顕増譲状には、次のように記されています。
潮入新開田内壱町 塩浜五段内三反坪付等これあり」

と、記されています。ここからは、祗園社執行の一族である顕増が大別当顕賀に譲った所領に塩浜五段があったことが分かります。「潮入」とあるように、満潮の時には潮が入り込み、干潮時に潮が引いて干潟になる地形が利用されていたのでしょう。
3坂出湾4
オレンジが古代の坂出海岸線
  林田郷を上空から見ると、綾川の流域の平地に田地が広がっていて、少し小高くなった微髙地に集落があります。治水工事が行われない古代中世は、洪水のたびに平地は冠水しました。そこで人々は、一段と高くなった微髙地に住居を建てて集住するようになります。これは弥生人以来の「生活防衛手段」でした。中世になると、洪水から田地を防ぐために堤を築き、新たな土地を切り開いていくようになります。

3綾川河口条里制
阿野北平野の条里制 条里制施行されていない所は海
 綾川平野の南部は条里制跡がありますが、北部にはありません。つまり条里制施工時には、北部は耕地でなかったことを示しています。綾川北部は、その後に開発新田として成立したのです。その際に塩浜も開発された形跡があるようです。具体的には、綾川の河田部の干潟を利用して塩浜を開いていったと研究者は考えているようです。

弘安三(1279)年の京都の八坂祇園社の記録に、次のように記されています。
「讃岐国林田郷梶取名内潮入新開田」

林田郷内の梶取名にも潮人新開田が開発され、半分が祇園社領となっていたことが分かります。「潮入新開田」からは、塩浜が開かれ、生産された塩は八坂神社へと送られたことがうかがえます。
「梶取名」という地名が出てきます。

梶取は、荘園所属の「年貢輸送船」を運行する海運従事者(船頭)のことです。梶取名から「梶取」がいたことが推測できます。
3綾川河口図3
       綾川左岸に西梶・東梶の地名が残る、その下流は新開

 
この付近の綾川右岸(東岸)には、いろいろな建物が建っていたことを示す地名が残っています。
「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、
「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」
「馬場北」から「惣社」には「弁財天西」・「弁財天裏」
「東梶乙」には「ゑび堤添宝永六巳新興」、
「西梶」には「宮ノ脇」・「宮ノ東堤下屋敷」・「寺裏」・「祇園前」・「祇園前新開」・「祇園東さこ新開」

このあたりが船の「舵取り」たちの居住区だったとされるエリアです。船頭・船乗りや蔵本たちが生活し、蔵が建ち並んでいたとも伝えられます。
  東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の土地です。
このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
 また、坂出市立林田小学校の北方の「蔵佐古」・「城屋敷」「蔵前苫屋敷」は、微高地の北端に当たります。そして小高い所に「城屋敷」の古地名があるのは、中世城館があったことを示しているようにも思えます。
 このエリアの居住者が海運従事者であり、交易業者で、
京都の八坂神社に従属する者として、京都への塩輸送に従事していたとも考えられます。林田郷の綾川流域では、塩田が開発され、塩の生産と塩輸送の集団が集住したとしておきましょう。

坂出 中世の海岸線

京都崇徳院御影堂領であった北山本新荘福江(坂出市福江町)にも、塩浜があった次の記事が残されています。
「讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五斗五貫文内半分検校尊道親王御知行、半分別当法輪院御恩拝領塩浜塩五石、当永享十年よりこれを定、京着」

地形復元して、坂出の古代の海岸線を西からたどると、聖通寺山・角山束麓~文京町二丁目~笠山北麓~金山北麓~下氏部付近~加茂町牛の子山北麓付近と推定されるようです。

坂出の復元海岸線3
現在の坂出高校グランド南西角付近の文京2丁目遺跡からは、多数の製塩土器が出ています。ここからは、福江湊の砂州上では古代から中世にかけて塩浜が造られ、塩作りが行われていたことが分かります。島嶼部の沙弥島のナカンダ浜でも弥生時代の製塩土器が大量に見つかっていることと併せて考えると、坂出の旧海岸線では古代・中世にも、盛んに製塩が行われ、それが京都の荘園領主の寺社に年貢として届けられていたことが見えてきます。平城京本簡に記された阿野郡の塩は、これらの地域で生産されていた坂出市史は記します。
どれくらいの塩が、中世には生産されていたのでしょうか。
塩の生産量を統計したような史料は、もちろんありません。しかし、手がかりとなる史料はあります。以前に紹介した『兵庫北関人船納帳』です。兵庫沖を通過する船は、通行料を納めるために兵庫湊に入港し、通行税を納める義務がありました。その通行料は東大寺や興福寺の修繕費や運営費に充てられました。徴税のために一隻一隻の母港や船頭名(梶取)や積荷とその量まで記録されています。

製塩 兵庫北関 讃岐船一覧
 北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されています。讃岐船の特徴は、積荷の8割は「塩」であること、大型の塩専用輸送船が用いられていたことです。
以前に、屋島の潟元(方元:かたもと)の塩を積んだ輸送船のことについてお話ししました。ここでは坂出周辺の塩輸送船について見ておきましょう。船籍一覧表からは、坂出周辺の湊として、宇多津・塩飽・平山が挙げられます。
製塩 兵庫北関 讃岐船積荷一覧

塩飽船は讃岐NO2の通行回数で、最大の積荷は塩で、約5000石を輸送しています。この塩は、塩飽で全て生産されたのではないようです。周辺の阿野郡の塩浜で生産された塩が集められて塩飽塩として輸送されたと研究者は考えているようです。塩飽や沙弥島などの島々で開始された製塩は、次第に坂出の陸地部にも拡がりでも塩浜が開かれ、塩の生産が行われていたことは先ほど見たとおりです。それらの船が荘園主の元に、塩専用船で運ばれ、それ以外は一旦、塩飽に運ばれ、積み替えられて畿内に塩飽船で輸送されたことが考えられます。そのため塩飽塩として扱われたのでしょう。これは、宇多津や平山についても云えます。
 ここからは宇多津や塩飽は、塩のターミナル港としても機能していたことが分かります。そのため出入りの船が数多く行き交うことになったのでしょう。もうひとつ考えられるのは、塩飽船が生産地近くの港まで出向いて積み込んだこともあったかもしれません。近世になると、小豆島の廻船は、小豆島の塩だけでなく、引田や三本松に立ち寄り、そこで塩を買い入れて、九州方面に出発していることを以前に紹介しました。そのような動きが中世からあったことも考えられます。
 どちらにしても、讃岐の中世海上運送は塩の輸送から始まったと云えそうです。
先ほど見たように、生産者から安く買いたたき、畿内に運んで高く売るという商売が成り立ちます。塩を中心とするシンジケートが商業資本化していく気配がうかがえます。彼らは近畿にだけ、モノを運んでいたとは、私には思えません。九州方面やあるときには、朝鮮・中国との交易を行おうとし、それが倭寇まがいの行為に走ることもあったのではないでしょうか。中世の交易船はいつでも、海賊船に「変身」できました。
 新しい交易地を開く際に頼りになったのは、僧侶たちでした。
例えば高野山は、各地からやって来る僧侶や参拝者によって、最新の情報が集まる場所でした。そして、情報交換も場でもありました。そこからやってきた修験者や高野聖たちは、瀬戸内海の各港や生産物の情報を「遍歴・廻国」で実際に自分の目と耳で確認しています。地元の交易船の先達として、新たな交易ルートを開く水先案内人の役割を務めたのがこれらの僧侶たちではないかと私は考えています。そうだとすると、坂出地区でその役割が務められるのは、白峰寺になります。白峰寺は、讃岐綾氏の流れをくむ武士集団と連携し、林田郷の「梶取り」集団を傘下にいれ瀬戸内海交易にも進出していたという仮説は「勇足」でしょうか。

 もうひとつ白峰寺との関係で押さえておきたいのは、備讃瀬戸対岸の五流修験との関係です。
五流修験は以前にお話したように、「新熊野」と称し、熊野からの亡命者であるとします。そして、大三島や石鎚などでの修験活動を行います。同時に小豆島や塩飽本島へも進出してきます。讃岐の海岸沿いには、五流修験者の痕跡が残ります。多度津の海岸寺や道隆寺、聖通寺、白峰寺などです。白峰寺が五流修験を通じて、瀬戸内海の修験者たちとつながっていたことは押さえておきたいと思います。そして、林田湊や福江・御供所港は、その寺領であったのです。かつての四国辺路の霊場であった金山権現も、そういう五流や白峰に集まる修験者の行場であり、辺路ルートの上にあったと私は考えています。
そのルートは次の通りです。
五流修験 → 塩飽本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺 → 根来寺 → 国分寺
以上をまとめたおくと
①備讃瀬戸一帯は、弥生時代に始まる小型製塩土器を用いた製塩発祥の地であった。
②古代には大型の製塩土器である師楽式土器が使われるようになり、生産量は増大する。
③中世になると、入浜を用いた製塩業が行われるようになり、朝廷や大寺社は塩を安定的に手に入れるために、「海の荘園」を設けるようになった。そこからは本領の専用船で畿内に輸送された。
④当時の讃岐船の積荷の多くは、塩であった。
⑤塩飽・宇多津・平山などを母港にする輸送船は、周辺生産力からの塩を集荷して、大型船で畿内に輸送した。
⑥これらの輸送船を経営する海民たちは、シンジケートを形成し、商業資本化していくものも現れた。
⑦塩を生産した坂出周辺の塩浜は、本島・沙弥島・御供所・福江・林田が史料では確認できる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

        


 白峯寺古図は寺伝では、江戸初期に南北朝末年の永徳二(1283)年に焼亡した白峯寺を回顧して、往時の寺観を描いたものとされています。以前にはこの古図で白峯寺伽藍内を見ました。今回は白峯寺の周辺部や荘園を見ていくことにします。テキストは「坂出市史 中世」です。

白峯寺古図 周辺天皇社
白峯山古図
『白峯山古図』には、③稚児ケ瀧の上に①白峯陵や白峰寺の数多くの堂舎が描かれています。本社の右に勅使門があり、そこを出て白峯寺へ向かう道の脇に②御影堂(崇徳院讃岐国御影堂:後の頓証寺)があります。中世には、ここにいくつかの荘園が寄進されます。
 今回注目したいのは、周辺にある天皇社です。
A 稚児ヶ滝の滝壺の左に崇徳天皇(社)があります。これが現在の⑧青海神社です。
B 白峰寺の大門から尾根筋の参道を下りきった場所に、もう一つの崇徳天皇(社)が見えます。これが現在の⑩高家神社です。
これらの二社は、現在も鳥居に「崇徳天皇」の扁額が掲げられています。
高屋神社 崇徳上皇
高屋神社の崇徳天皇扁額

B 尾根筋参道の右には深い谷筋の奥に、神谷明神(神谷神社)が三重塔と共に描かれています。この神社の神殿は国宝ですが、中世は神仏混交で明神を称していたことが分かります。そして、白峯寺山中の子院のひとつであったことがうかがえます。
C 絵図の前面を流れるのが現在の綾川で、その上流に鼓岡があります。ここも、白峯寺が寺領であると主張していた所で、讃岐国府のほとりに当たる場所です。青海・高屋神社の崇徳天皇社と神谷明神、鼓岡は、「白峯寺縁起」に書かれている白峯寺寺領とされる場所です。鼓丘は、明治以降に崇徳院霊場として政治的に整備され、今は鼓丘神社が鎮座していることは以前にお話ししました。
坂出市史には、白峰寺古図と白峰寺縁起に記された白峯寺の寺領荘園群が次のように挙げています。
『白峯寺縁起』に、次の3つの荘園
① 今の青海・河内は治承に御寄進
② 北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附
③ 後嵯峨院(中略)翌(建長五)年松山郷を寄進
「讃岐国白峯寺勤行次第」に5つの荘園
④ 千手院料所松山庄一円
⑤ 千手院供僧分田松山庄内
⑥ 正月修正(会)七日勤行料所西山本新庄
⑦ 毎日大般若(経)一部転読(誦)料所当国新居郷
⑧ 願成就院明実坊修正(会)正月人(勤行)料所松山庄内ヨリ      
これは、そのまま信じることはできませんが、15世紀初頭には白峯寺はこのような寺領の領有意識を持っていたことは分かります。それをもう少し具体的に見てみると・・・・
①の青海(村)、④の松山庄一円、⑤の松山庄内、③の松山庄内、それに③の松山郷を合わせると松山郷全体が白峯寺の寺領荘園になっていたことになります。
①の河内を「阿野郡河内郷」とすると、ここには鼓岡と国府がありました。そこが白峯寺の寺領だったというのは無理があります。国府の諸施設のあった領域以外の土地を、寺領と云っているのでしょうか。このあたりはよく分かりません。
⑦の新居郷は、古代の綾氏の流れをくみ、在庁官人として成長し、鎌倉時代以降鎌倉御家人として栄えた讃岐藤原氏の一族新居氏の本拠です。五色台山上にある平地部分のことと研究者は考えているようです。

福江 西庄

②と⑥は、前回お話ししたように北山本新庄(後の西庄)で、当初は京都の崇徳院御影堂に寄進されていた荘園です。それを白峯寺は押領して寺領とします。
もともと、これらの寺領は『玉葉』建久二(1191)年間閏十二月条にあるように、後鳥羽上皇が崇徳院慰霊のために建立した仏堂である「崇徳院讃岐国御影堂領」に寄進されたことがスタートになります。
 寛文九(1669)年の高松藩の寺社書上「御領分中寺々由来」には、白峯寺の項に「建長年中、高屋村・神谷村為寺領御寄付」とあるので、松山郷内青海・高屋・神谷の「三ヶ庄」は崇徳院讃岐国御影堂領松山荘として存続していたようです。三ヶ庄の名称は、寛永十(1832)年に作成された「讃岐国絵図」にもあり、現在も綾川を取水源にした三ヶ庄用水に名を残しています。

白峯寺古図拡大1
白峯寺古図拡大図 中世には様々な堂舎が立ち並んでいた

  白峰山は、古代から信仰の山で、次のような複合的な性格を持っていました。
①五色山自体が霊山として信仰対象
②五流修験による熊野行者の行場
③高野聖による修験や念仏信仰の行場で拠点霊山
④六十六部などの廻国聖の拠点
⑤四国辺路修行の行場
ここに、天狗になった崇徳上皇の怨霊を追善するための山陵が築かれます。白峯陵(宮内庁治定名称では「しらみねのみささぎ」)は、唯一玉体埋葬の確実な山陵です。
白峰寺7
白峯寺(讃岐国名勝図会) 
そして朝廷により崇徳院御影堂(後の頓証寺)などの堂舎が整備されていきます。ある意味、天皇陵というもうひとつの信仰対象を白峯寺は得たことになります。しかも、この天皇陵は特別でした。天狗と化し、怨霊となった崇徳上皇を追善(封印?)する場所でもあるのです。菅原道真の天満宮伝説とおなじく、怨念は強力であればあるほど、善神化した場合の御利益も大きいと信じられていました。こうして白峯寺は「崇徳上皇を追善する寺」という顔も持ち、多くの信者を惹きつけることになります。中央からの信仰も強く、朝廷や帰属からも様々な奉納品が寄せられるようになります。同時に、寺領化した松山庄や西庄などの人々も、地元に天皇社を勧進し祀るようになります。それを親しみを込めて「てんのうさん」と呼びました。その「本宮」の白峰山や白峯寺も、いつしか「てんのうさん」と呼ばれ信仰対象になっていきます。

讃岐阿野北郡郡図8坂出と沙弥島
讃岐綾北郡郡図(明治) この範囲がかつての西庄にあたる

 坂出市の御供所は、前回お話ししたように北山本新庄(西庄)の一部でした。
ここには崇徳上事の讃岐配流に随ってきたという七人の「侍人」伝承があります。また、今も白峰宮(西庄町)には、2ヵ所の御供所(坂出市、丸亀市)から祭礼奉仕の慣習が続いているようです。

坂出市西庄
 坂出市には、今見てきたように中世に起源を持つ三社(高家神社・青海神社・白峰宮)があります。これらは崇徳上皇を祀っています。さらに川津町には江戸時代創建の崇徳天皇社があるので、四社の崇徳天皇社が鎮座することになります。これも白峯寺の寺領化と崇徳上皇への信仰心が結びついたものなのかもしれません。
白峯寺大門 第五巻所収画像000004
白峯寺大門に続く道
まとめておくと
①白峯山上に崇徳院陵が整備され、その追善の寺となった白峯寺には荘園が寄進され寺領が拡大していった
②各荘園には白峯陵から天皇社が勧進され、「てんのうさん」と呼ばれて信仰対象となった。
③そのため白峯寺の寺領であった坂出市域には、いくつも「てんのうさん」が今でも分布している
白峰寺 児ヶ獄 第五巻所収画像000009
稚児の滝の下の青海神社もかつては天皇社

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編
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福江 西庄
坂出市史より

 白峯寺の経済的基盤は、松山荘と西庄にあったことを前回は見てきました。今回は西庄が白峰寺の寺領になるまでを追って見たいと思います。「西庄」という荘園名は、中世には出てきません。出てくるのは「北山本の新荘」で、これがいつの間にか「西庄」と呼ばれるようになりました。
 建長年間に筆写されたという「讃岐国白峯寺勤行次第」(白峯寺所蔵)には、正月修正会という法事興行のための費用料所として「西山本新庄」が充てられています。
 最初からややこしい話になりますが、これは西ノ山本新荘という意味で、より説明的に言うと「西ノ北山本ノ新荘」です。西山本ノ新荘という意味ではありません。この西ノ(北)山本郷内に、新たに設定された荘園が「(北)山本新荘」で、これが京都の崇徳院御影堂に寄進されたもののようです。

西庄の前身である「北の山本の新荘」は、いつ、どこに成立した荘園なのでしょうか?
北山本新荘の荘名は、鎌合時代後期の徳治一(1207)年2月25日の洞院公賢奏事事書に「北山本新庄預所職事」と見えるのが初見のようです。次に建武三(1336)年12月18日の光厳上皇院宣案に、「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄」と出てきます。これだけ見ると、白峰寺の御影堂の寺領のように思えます。しかし、そうではないようです。崇徳院御影堂は、京都にもあったのです。

白峯寺 御影堂の説明文
京都の崇徳院御影堂と粟田社についての記述

京都の崇徳院御影堂を見ておきましょう。
崇徳上皇が神に祀られたのは、元暦元(1184)年4月15日のことです。吉田経房の日記『吉記』(『史料大成』)同日条は、次のように記します。
崇徳院・宇治左府、仁祠を建て遷宮こと
今日、崇徳上皇・宇治左大臣、霊神に崇めんがため、仁祠を建て、遷宮有り、春日河原をもってその所となす、保元合戦の時、かの御所跡なり、当時、上西門院御領たり、今、申請せられこれを建てらる、津々材木を点じ、造営す、遷官の間儀、尋ね注すべし、院司権大納言兼雅、式部権少輔範季朝臣奉行す、社司僧官等を補せらること、神祗大副卜部兼友宿祢、社司に補せられその事に備う、また僧官を補せらる、
意訳変換しておくと
崇徳院・宇治左府(藤原頼長)の追善のために、仁祠を建て遷宮したことについて
今日、崇徳上皇・藤原頼長の慰霊のために、仁祠(崇徳院御影堂)を建て、遷宮が行われた。場所は春日河原で、保元合戦の時に戦場となった御所跡で、当時の上西門院(鳥羽上皇の第二皇女)の領地にあたるので、用地提供の申請を受けてここに建立された。院司権大納言兼雅、式部権少輔範季朝臣が建立責任者となり、社司僧官等を選任し、神祗大副卜部兼友宿祢が社司に任じられた。また僧官も置かれた。
  ここからは、保元の乱の時に戦場となった春日河原に、崇徳院と藤原頼長の追善のために社殿が建立されたことが分かります。これが京都の崇徳院御影堂です。崇徳院廟と頼長廟が東西に並んで設けられ、粟田に位置したので、「栗田廟」・「粟田宮」と呼ばれるようになります。祠官には神祗官の卜部兼友が選ばれ、僧官については、頼長の升教長の子である延暦寺の玄長が別当に、西行の子慶縁が権別当に補任されたと「源平盛衰記」にはあります。
 つまり、崇徳院御影堂は京都の春日河原にも建立され、その寺領として寄進されたのが「北山本の新荘(西庄)」ということになります。当時は、讃岐には山本荘と同名の荘園が豊田郡(石清水八幡宮領山本荘)にもありました。そこで混同を避けるために、坂出の山本荘は「北山本新荘」と呼ばれるようになったようです。「北山本新荘=山本荘」だと坂出市史は記します。
白峯寺の史料は、西庄がどのように白峰寺の寺領になったと述べているのでしょうか
 『白峯寺縁起」には、次のように記されています。
「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にて侍るなり」

つまり、文治年間(1185~90)に源頼朝が北山本新庄を白峰寺に寄進したというのです。これに対して坂出市史は次のように指摘します。
「京都の崇徳院御影堂領として荘園を本所である栗田官に頼朝が返付した事を主張したもので、史実とはやや事情が異なる。しかし、この事実を根拠にして、崇徳院御影堂の肩代わりを担った白峯寺が右の荘園支配の裏付けとすべく、鎌倉時代から寺領であったと宣言しているのである。」

ここからは「白峯寺縁起」が書かれた15世紀初頭には、白峰寺は松山荘を本荘と見なし、綾川対岸に広がる北山本新庄を西(の北山本新)庄、あるいは、松山荘の西(方にある)荘園、すなわち、 西庄と呼ぶようになっていたことがうかがえます。他人の物を、自分のものだと主張するようになっていたということです。

次に北山本新庄の広さとエリアを見ておきましょう
 現在の西庄は「坂出市西庄町」ですが、中世の西庄の荘域は現在の倍以上の広さだったようです。
西庄町

寛永十(1633)年幕府へ提出した「寛永の国絵図」の稿本とみられる「讃岐国絵図」は、3つのものが伝来しています。そのどれもが北山本新庄全域を西庄と記しています。そのエリアは「醍醐・原・天皇・江尻・福江・坂出・古御供所」を白い線で括り、肩書きに西庄と注記しています。
 また、それから30年以上経た寛文九(1669)年になっても西庄(当時の表記は西之荘)内には、福江村以外は分村されておらず西之荘村として一括して扱われています。
 その中に「古御供所」とあるのは、生駒時代に、御供所集落が丸ごと丸亀城下の三浦に強制移住させられ一時廃村化したことを記入しているようです。移住先の丸亀市三浦には、現在も御供所町の地名が残っていて、崇徳天上社(白峰宮、西庄町)への神事奉祀の伝統が続いているようです。これは、御供所が崇徳院御影堂領の北山本新庄内の一部であったことを裏付けます。
次に福江について見てみましょう
坂出の復元海岸線2

『華頂要略』に引かれた「門葉記」の崇徳院御影関する記事には、次のように記されています。
讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五十五貫文内、半分検校尊道親工御知行、半分別当法輪院御恩拝領、塩浜塩五石、当永享十(1438)年よりこれを定、京着、鯛四十喉、

ここには「讃岐国北山本ノ新庄福江村」とあるので、中世には福江は北山本新荘に属していたことが分かります。また、その年貢として塩5石や鯛40を納めています。鯛をどうやって運んだのかは気になりますが、生きたまま運んだのではないでしょう。沙弥島周辺で捕れた鯛の内臓等を取り除いて、地元産の大量の塩で包みそのまま塩焼きにした「鯛の浜焼き」を研究者は考えているようです。塩釜焼きよりも高温の焼き塩で処理した方が、日持ちするようです。ここには福江村の半農半漁的な姿がうかがえます。しかし、福江はそれだけではありませんでした。中世交易湊の姿も見せてくれます。
宝徳元(1449)年の史料には阿野郡北山本新荘の年貢輸送の福江丸に、管領細川勝元から次のような下知状が発給されています
「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料舟之事」
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船福江丸・枝丸等事、毎季拾艘運上すべし云々、海河上諸関その煩い無くこれを勘過すべし、もし違乱の儀あれは厳科に処すべきの由仰せ下さる也、例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
意訳変換しておくと
「崇徳院御影堂領の讃岐国北山本新庄の国料舟について
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)について、毎年10回のフリー運用を認めるので、海上や河川の諸関において、この権利を妨げることなく通過させよ。もし違乱することがあれば厳罰に処すことを申し下せ。例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
ここには、北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)が登場します。福江丸と名付けているので、福江を母港とする交易船であることがうかがえます。福江には、瀬戸内海交易に携わる交易集団がいたことが浮かび上がります。北山本新庄の年貢など以外にも様々な物産を畿内に向けてはこんでいたことが想定できます。
坂出市史に載せられた北山本新庄の俯瞰図を見てみましょう
 以前にもお話したように、古代の坂出には大束川が流れ込み、深く湾入した海に注いでいました。その河口付近にあったのが福江です。福江は、瀬戸内交易の拠点であると同時に、大束川による川津方面への川船輸送の入口でもありました。古代綾氏の大束川流域への進出拠点とも考えられています。中世には、大束川は流れを変えて宇多津方面へ流れ出るようになりますが、福江は「北山本新庄=西庄」の湊としての地位を保っていたことは先ほどの史料で見たとおりです。
福江 中世
坂出市史より

 この想像図で笠山の麓に製塩の釜屋と民家があり煙が上がっているのが福江です。福江村の上(北側)に深く入り海が湾入しその奥にも釜屋がある辺りが御供所です。そこから右(東)へ外海に面して続く砂州が続きます。旧大束川の堆積物で造られた砂州です。その上に西から順に西洲賀・中洲賀・東洲賀・鳥洲さらに入り江の対岸が江尻となります。また、沖には右に瀬居島、左に沙弥島があります。これら入り海と砂州、そして沖の二島を結ぶまでの外海すべてが北山本新庄だったと坂出市史は考えるのです。海を荘園のエリアに内包する例は、以前に三豊の柞田荘の立荘作業で見たとおりです。

 現在の坂出市西庄町は、この想像図のさらに東側の地域になりますが、「西庄」と「荘」いう小字地名が残るので「北山本新庄」に含まれていたようです。そして、新庄の中心部は「北山本新庄」の東側(現西庄町)にあったのではないかと坂出市史は推測します。

京都の崇徳院御影堂の荘園・北山本新庄が、どのようにして白峯寺の寺領になったのでしょうか?
「文治年中、号山本庄、後年分二、号本庄・新庄、本庄は八幡知行、新庄は御影堂領」

意訳変換しておくと
「文治年間(1185~1190)年には北山本新庄と呼ばれていたものを、後年に本庄と新庄の2つに分けた。本庄は(岩清水)八幡神社の知行で、新庄は(白峰)御影堂領となった。

「後年に二分し」たとあるのは、「山本郷内にある山本庄を後年に二分割し」たということです。そして、新荘は(白峰)御影堂領になったというのです。ここからは、北山本新庄の京都から白峰寺への「所有権転換」があったことがうかがえます。しかし、それがいつかは分かりません。
 
白峯寺の隆盛と地主化への道
   白峯寺の権威と名声を高めたの、もうひとつの原動力となったのが、崇徳院法楽関係文芸作品群の崇徳院御影堂(頓証寺)への奉納であることを坂出市史は指摘します。その最初の奉納物は、今は明治の廃仏毀釈の時に金刀比羅宮に移った「崇徳院御影堂同詠二首和歌」だったようです。成立年は分かりませんが、崇徳院二百年遠忌(貞治四(1365)年)の時に、細川頼之の勧進によるもの(『白峯寺調査報告書』香川県2013年)とされています。
 これに続くのが「頓証寺法楽一日千首短冊帖」(金刀比羅宮蔵)で、応永11(1414)年4月17日に讃岐守護細川満元邸で催された和歌会の作品集です。この催しは、崇徳院遠忌250年(応永20(1413年)のことです。
頓証寺額
後小松天皇からの「頓証寺」銘の額(複製)

その翌年の12月には後小松天皇から「頓証寺」銘の額が白峰寺に届けられます。崇徳院法楽文芸作品群にしろ頓証寺額にしても、すべて白峯寺宛に届けられ、社僧等によって崇徳院の霊前に奉納されています。こうした慣行の積み重ねで、頓証寺をトップとする白峯寺の地位は格段に上昇していったようです。これは、江戸時代も続けられます。
以上から北山本新庄が白峯寺に「押領」されていく過程を想像力も交えながら小説風に記してみます。
北山本新荘の本家である京都の崇徳院御影堂は、応仁の乱以降の戦乱で荒廃します。その結果、地方の荘園を維持管理する組織や施設すらも消滅してしまい、荘主のいた京都からは何の音沙汰もなくなります。その隙を狙う在地の武士団(悪党)たちの狼藉・圧迫に歯止めがきかなくなっていきます。その先頭にいたのが白峰寺の門徒勢力です。彼らが崇徳院墓寺という金看板をバックに絶大な支配力を行使していきます。後光厳天皇綸旨案に崇徳院御影堂領北山本新庄の押領を行う「林田入道井高継以下の輩」とは、実は白峯寺と手を組んだ地元の武士団であったのかもしれません。
 白峯寺は、崇徳院山陵の墓寺の地位を確保し、次に山陵に附属して建立された崇徳院御影堂を山内に取り込んで発展していくようになります。崇徳上皇の慰霊・追善の寺という「錦の御旗」を掲げて、周辺の荘園に対する「狼藉・押領」を繰り返すようになっていったのではないでしょうか。そう考えると、「ミニ延暦寺化」した地方の有力寺院は暴力装置としての僧兵集団を持つようになるが常です。それは善通寺でも出現した板ことを見ました。院坊がいくつも並ぶ白峰寺には、僧兵もいたと私は考えています。そして白峰寺は、地元の武士団を配下に入れて、有力な軍事集団を構成していたとしておきます。そのためこの周辺には、有力寺院が白峯寺以外には見られなくなります。それは近世の象頭山金毘羅大権現が、周辺の寺社を取り潰した上に成長して行った姿と重なります。

相模坊
白峰の相模坊権現
 白峰寺の社僧達は天狗たちだったことも金毘羅大権現とよく似ています。
崇徳上皇は「天狗となって恨みをはらさん」と、言い放って亡くなります。崇徳上皇が葬られた白峰寺は、その後は相模坊に代表されるように天狗たちの住処となります。天狗とは修験=山伏たちです。白峯寺は松山荘と西庄という経済基盤を手に入れて、白峰山上には数多くの院房が建ち並ぶミニ高野山の様相を呈するようになります。つまり白峰寺は象頭山と同じ、天狗道の聖地でもあったのです。

白峯 解説文入り拡大図
白峯寺古図 中世の白峯寺には多くの堂舎が見える 

以上をまとめておくと
①北山本新庄(西庄)のエリアは、現在の西庄町よりもはるかに広いもので、綾川から聖通寺山に至るエリアであった。
②北山本新庄(西庄)は、後白河上皇が京都に建立した崇徳院御影堂に寄進されたもので「海の荘園でもあり、長い海岸線を持っていた。
③御供所や福江は、海の特産品の集積地であり加工場でもあり、出荷湊でもあった。
④福江は国料船福江丸の母港で、交易港でもあった。
⑤中世後半になると、京都の寺社の荘園は悪党の狼藉・押領に苦しめられるようになる。北山本新庄もその例に漏れず、次第に白峯寺に「押領」され乗っ取られていった。
⑥白峯寺は北山本新庄を西庄と呼ぶようになり、松山荘とならぶ経済基盤となっていった。
⑦このような経済力を背景に、白峰山上にはミニ高野山のように堂舎が立ち並ぶようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編

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崇徳上皇白峰陵墓
前回は白峰寺の発展の原動力が崇徳上皇陵が造られ、その慰霊地とされたことに求められることを見てきました。今回は、白峯寺の発展を経済的な側面から見ていくことにします。近代以前においては、寺社の経済基盤は寺領にありました。これは中世西欧の教会や修道院とも同じです。そのため寺社が大きくなればなるほど、封建領主の側面を持つことになります。白峯寺の場合は、どのように寺領を拡大していったのでしょうか。それを今回も、新しく出された坂出市史中世編をテキストに見ていきたいと思います。 
白峯寺は、松山荘と西庄のふたつの寺領を、経済基盤にしていました。
この寺領は崇徳上皇の追善のために建立された崇徳院讃岐国御影堂(後の頓証寺)に附属するもので、後には「神聖不可侵」なものと主張するようになります。そのような主張に至る過程を、まずは松山荘で追ってみます。

白峰寺明治35年地図
明治35年国土地理院地形図 松山村周辺
松山郷は、坂出市神谷町・高屋町・青海町・大屋富町・王越町辺り一帯とされます。
それがのちには青海町・高屋町の旧海岸地域、さらに崇徳院御陵のある白峰寺一帯を指すようになります。また、崇徳上皇を詠った歌枕として使用されるようになり「白峯=松山」と近世には認識されていたようです。
松山荘の荘名は、藤原経俊の日記『経俊卿記』の正嘉元(1257)年4月27日条に「賀茂社司等中す、松山庄替地の事」と見えるのが初見のようです。
ついで、同年7月22日条には「賀茂社と白峯寺相論す、松山庄事」とあり、松山荘をめぐりって、京都の賀茂社と白峯寺との間で訴訟があったことが分かります。4月27日条によると、讃岐国衛の在庁官人が松山荘の見作(実際の耕作地)と不作(休耕地ないし耕作放棄地)について賀茂社の主張を確認し、所当六石を白峯寺より賀茂社へ返付するよう決裁しています。ここからは、松山荘内に賀茂社の社領(鳴部荘の一部?)が含まれていたことがうかがえます。つまり、この時点では松山郷=松山荘ではなく、松山郷には他領が含まれていたことが分かります。どちらにしても、崇徳上皇が葬られて約70年後の13世紀半ばには、白峯寺は松山荘を実質的に管理し、周辺部の賀茂神社の社領にも「侵入」していたことがうかがえます。しかし、松山荘の立荘の経緯については、不明なことが多いようです。。
白峯寺の「公式見解」は、応永十三(1406)年成立の「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
安元二年七月二十九日、讃岐院と申しゝを改めて、崇徳院とぞ、追号申されける、その外あるいは社壇をつくりいよいよ崇敬し、あるいは庄園をよせて御菩提をとぶらう、今の青海・河内は治承に御寄進、北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり、治承・元暦の乱逆も、かの院の御怨念とぞきこえし、

意訳変換しておくと
安元二(1177)年7月29日、讃岐院(崇徳上皇)の号を改めて、崇徳院して追号し、その外にも社壇を造って追善し、荘園を寄進して菩提をともなった。今の青海(松山)・河内は治承年間に寄進されたもので、北山本の新庄も文治年間に頼朝大将によって寄進されたものである。治承・元暦の乱逆も、崇徳上皇の御怨念と世間は言う、
 ここからは白峯寺縁起が寺領の寄進について、次のように主張していることが分かります。
①「青海・河内」が治承年間(1177~81)に後白河上皇より寄進
②「北山本新荘(西庄から現在の坂出市街)」が文治年間(1185)に源頼朝より寄進
  ここには2つの偽造・作為があります。ひとつは青海とともに寄進されたという「河内」です。
河内とは、どこのことでしょうか?
「白峯寺縁起」に
「国符(国府)甲知(河内)郷、鼓岳の御堂」

とあります。つまり、国府のあった府中や鼓丘周辺を指しているようです。しかし、ここは国府があった場所で、そこが白峰寺に寄進されたというのは無理があるようです。これは「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり」と同じように後世の仮託・作為だと坂出市史は指摘します。河内郷に白峰寺の寺領や荘園が存在したことはありません。
もうひとつは「北山本の新庄(西庄)」です。
これは、後に説明しますが後白河上皇が京都に建立した「崇徳院御影堂」に寄進した荘園です。後白河上皇は、讃岐以外に京都にも「崇徳院御影堂」を建立していたのです。その寺領として寄進されたのが「北山本の新庄(西庄)」です。それを15世紀初頭の「白峯寺縁起」が書かれた時代には、白峯寺が「押領」し、寺領に取り込んでいたのです。それを正当化しようとしていると坂出市史は指摘します。ちなみに「北山本の新庄(西庄)」のエリアは、西は御供所町から福江町を経て綾川までの広大なエリアを有する「海の荘園」だったと坂出市史は指摘します。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄
白峯寺の荘園 松山荘と西庄(坂出市史より)
本題の青海(松山郷)にもどります。
①の「青海(松山)・河内」が崇徳院の御陵に寄進されたという主張の根拠を、確認しておきましょう。九条兼実の日記『玉葉」の建久二(1191)年閏12月22日には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。
讃岐院(崇徳上皇)について
①白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。
御陵を守るための陵戸(50戸)を設ける。
③陰陽師と僧侶を現地に派遣して鎮魂させる。
④崇徳上皇の国忌を定めること。
⑤讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
いま関係があるのは②と⑤です。⑤には崇徳上皇陵の追善のために、後白河上皇が「一堂(崇徳院御影堂)」を建立したとあります。しかし、寺領の寄進については何も触れていません。②には「御陵を守るための陵戸」の設置が記されます。しかし、これは寺領寄進とは別のものです。陵戸とは山陵を守るために設けられた集落です。中国の唐王朝では、長安郊外の皇帝陵墓周辺に有力者が移住させられ、陵墓の管理維持の代わりに、多くの特権を得ていました。これに類するものです。土地の面からすれば料所にあたり、青海(松山郷)に設置されたというのです。戸数50戸でした。松山郷全体を指すものではありません。しかし、白峯寺はこれを拡大解釈し、松山郷自体が白峰寺に寄進された荘園で寺領だと主張するようになります。
松山津周辺
古代松山郷の海岸線復元図
古代の海岸線復元図を見ると、雄山・雌山辺りまでは海で、現在の雌山の西側にある惣社神社あたりに、林田湊があったと考古学者たちは考えていているようです。また青海方面にも入江が深く入り込んでいたようです。その奥に松山津があったことになります。
坂出古代条里制
綾川流域の条里制遺構
そのため古代条里制跡は、松山郷の北部には見られません。中世になって海岸線が後退したあとの青海の湿原を、白峯寺は開拓領主として開発していったことが考えられます。

白峯寺古図
白峯寺古図
それを裏付けるかのように、白峯寺古図には稚児の滝の下の青海にはには深く海が入り込んでいるように描かれています。

「白峯寺縁起」は、その後の寄進について、次のように記します。
①後嵯峨院が、白峯寺千手堂を勅願所として、建長四(1252)年11月に法華経一部を本納
②その翌年には松山郷を寄附して、不断法華経供養の料所とした
ここには歴代の院や天皇が堂宇や寺領を寄進したと記します。こうして、松山郷における寺領面積は拡大したというのです。
「建長年中(1249~56)当山勤行役」との貼紙のある「白峯寺勤行次第」には、次のように記されています。
讃岐国白峯寺勤行次第 山号綾松山なり、後嵯峨院御勅願所 千手院と号す、土御門院御願、千手院堂料所松山庄一円ならびに勤行次第、十二不断行法毎日夜番供僧、同供僧二十一口、人別三升供毎日分、分田松山庄内にこれあり
意訳変換しておくと
讃岐国の白峯寺の勤行次第は次の通りである 
山号は、綾松山、後嵯峨院が御勅願所に指定して千手院と号すようになった。
土御門院によって、千手院堂料所として松山庄一円が寄進された。勤行次第は、十二不断行法が毎日夜番で供僧によって奉納されている、供僧二十一人、人別三升供毎日分、分田が松山庄内にある
ここには、白峯寺が後嵯峨院や土御門院の勅願所などに指定され、その勤行が21人の僧侶によって行われていること、そのための分田が松山荘内にが確保されているとあります。21人の僧侶というのは、当時のあったとされる別坊の数と一致します。
このように松山荘は、松山郷青海の料所の寄進をスタートに、その後は後嵯峨院による料所として、郷全体の寄付を受けて立荘されたと白峯寺は主張します。その成否は別にして、13世紀半ばには松山郷全体が白峰寺の寺領として直接管理下に置かれるようになったのは事実のようです。
この時期に白峯寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶である道範です。
道範は、建長元(1249)年7月、高野山での路線対立をめぐる抗争責任を取らされ讃岐にながされてきます。8年後に罪を許され帰国する際に白峰寺を訪れたことが「南海流浪記」には記されています。

南海流浪記 - Google Books

 道範は、白峰寺院主備後阿闇梨静円の希望で、同寺の本堂修造曼茶羅供の法要に立ち合い、入壇伝法を行うために立ち寄ったのです。このとき道範は、白峯寺を
「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」

と評しています。つまり、讃岐国中で最も清く、また崇徳上皇の霊廟地だとしているのです。ここからは鎌倉末期の白峰寺は、讃岐にある天皇陵を守護する「墓寺」として「清浄」の地位を確立していたことが分かります。その背景には、松山郷全体を寺領とするなどの経済的基盤の確立があったようです。
坂出・宇多津の古代海岸線

  以上をまとめておきます。
①兄崇徳上皇の怨霊を怖れた弟後白河上皇は、追善のために白峰陵を整備し、附属の一堂を建立した。これが「崇徳院御影堂」である。
②「崇徳院御影堂」に寄進されたのが青海(松山郷の一部)で、これが松山荘の始まりであると白峯寺は主張する。
③白峯寺は、青海を拠点に13世紀半ばまでには、松山郷全体を寺領化していき、その支配下に置いた。
④この頃に白峯寺を訪ねた道範は、白峯寺を「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」記している。

こうして古代の山岳寺院としてスタートした白峯寺は、崇徳上皇の御霊を向かえることで「上皇追善の寺」という性格を付け加え、松山郷を寺領化することに成功します。この経済基盤が、ますます廻国の修験者たちを惹きつけ、多くの子院が山中に乱立する様相を呈するようになるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



崇徳上皇 | 日本の歴史 解説音声つき

崇徳と後白河の兄弟間の権力闘争は、江戸時代までは読み物や歌舞伎などでも赤裸々に語られていました。しかし、明治以後の皇国史観の下では、二人の間の確執を取り上げることは不敬罪に問われる可能性もあり、タブー化します。戦後も郷土史家間には、この流れに抗う動きがなく、両者の間のことをきちんと史料を裏付けて各町村史誌に記す動きがなかなか出てきませんでした。そんな中で、昨年末に出された坂出市史通史中世は、この点に問題意識を持って取り組んだ内容となっています。坂出市史をテキストにして、崇徳上皇没後の後白河上皇の対応と慰霊について見てみましょう。それは、ある意味で白峰寺の歴史に迫ることにもつながると思うからです。

崇徳上皇と保元の乱

崇徳上皇は、保元元( 1156)年、保元の乱の敗北で讃岐へ配流となります。このとき崇徳上皇は罪人として扱われたことは、後白河天皇が発した宣命(石清水八幡官蔵)からも明らかです。長寛二(1164)年に、崇徳上皇が亡くなったときにも「後白河太上皇無服暇之儀」とあり、後白河上皇は喪服にも服していません。兄崇徳に対する冷淡さや非情さを感じる対応です。私が小説家なら兄崇徳死亡を告げる讃岐からの報告に対して、後白河に語らせる台詞は「ああ、そうか」だけです。もう過去の人として、意識の外に追いやっていたと私は考えています。
 讃岐の郷土史関係の書籍は、この点を無視して没後の崇徳上皇が、朝廷の指示に基づいて丁重に白峰に葬られたとするものが多いようです。しかし、私はこれには疑問を持ちます。後白河天皇の兄追放後の措置や、没後直後の対応を見ると御陵造営を指示したとは思えないのです。

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崇徳上皇白峰陵

崇徳上皇の陵墓は、五色台山塊の白峰山(松山)に造営されます。
今は立派に整備されて想像もつきませんが、埋葬された当時は粗末なものであったようです。その埋葬経過についても確かな史料が残されていません。この辺りも通常の天皇陵墓とはちがうようです。国衛(留守所)役人の手で葬られたとされます。しかし、後白羽上皇や朝廷からの指示がない、というよりも中央から無視されたのです。そのために、やもおえず地元の国衙役人たちは自分たちの判断で、山岳宗教の拠点であった白峰寺に埋葬されたと坂出市史は記します。

白峯本堂、崇徳天皇御廟第五巻所収画像000008
白峯寺

 保元の乱後に崇徳上皇に従って、共に讃岐に下った兵衛佐は、上皇が亡くなり役目を終えて京都へ帰還することになります。その時に彼女が詠んだ歌が『玉葉和歌集』に、載せられています。
崇徳院につき奉りて讃岐国に侍りけるを、
かくれさせ給いにければ都に帰りのばりけるの後、
人のとむらいて侍りける返事に申しつかわしける

君なくて かえる波路に しをれこし 袖の雫を 思いやらなむ
と、その心情を歌つています。ここからせめて遺灰なりとも持ち帰りたかったようですが、それもかなわなかったことがうかがえます。ここでは崇徳上皇の白峰への埋葬は、後白河上皇の意向を受けて「薄葬」であったことを押さえておきます。
白峯寺法蔵 崇徳上皇 歌切図 
崇徳上皇 白峰寺蔵

郡衙の在庁官人は、どうして白峰に埋葬することにしたのでしょうか?
白峰山には、白峰寺が崇徳院陵墓が造られる前からありました。近年行われた文化財調査によると、白峰寺の十一面観音菩薩立像は平安時代中期、不動明王坐像は平安時代後期の作とされています。つまり、これだけを見ても白峯寺(あるいはその前身となる寺院)が、崇徳上皇が流されてくる平安時代末期には存在したことが分かります。
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白峰寺奥の院への道(奥の院の断崖の上の灯籠)
白峰寺の複数同木説と山岳寺院としての性格 
応永14(1406)年の年紀をもつ『白峯寺縁起』には、弘法大師空海が寺の建設をこの地を定め、智証大師円珍が山の守護神の老翁に会い、10体の仏像を造立し、49院を開いたと記します。空海は真言宗の開祖、また円珍は天台宗寺門派の祖で、どちらも讃岐出身です。これら10体の仏像のうち、四体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置されたと記します。ここには円珍が同木から複数の仏像をつくり、関連寺院に安置したとする複数同木説が掲げられています。現在の白峯寺は真言宗に属しますが、中世の白峯寺は真言一辺倒でなく天台の要素も濃厚であったようです。「白峯寺縁起」に「空海の開基、円珍の再興」の寺院と記されているのも中世の真言と天台の混淆・共存関係を示す物かも知れません。

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白峰寺奥の院毘沙門窟
五色台にある他の寺院を見ておきましょう 
 白峰寺と同じ木から彫られた仏像が安置されたという根香寺は、五色台の青峰の山頂東側にある山岳寺院です。吉水寺は近世に無住となり退転しましたが白峯寺と根香寺との間にあった山岳寺院です。残りの白牛寺は、「白牛山と号する国分寺」のことと研究者は考えているようです。この4つの寺院は山岳寺院のネットワークで結ばれていました。

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白峯寺奥の院に下りていく石段
 密教の隆盛と共に山岳修行が僧侶の必須項目になると、国家や国衙も僧侶の山林修行のゲレンデを整えていきます。それが那珂郡の霊山大川山をゲレンデとする中寺廃寺であり、五色台をゲレンデとする「白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺(国分寺)」でした。4つの寺は、五色台の小辺路ルートの拠点として整えられたようです。そういう意味では、白峯寺をはじめとする五色台の山岳寺院は、国分寺や国府と創建当初から関係を持っていたのかもしれません。

白峰大権現

五色台には、熊野行者など修験者(山伏)の活動がうかがえます。
稚児の滝とその上の霊場、そして奥の院から岬の突端の行場などは、修験=山伏たちの修行ゲレンデだったようです。そして、根来寺との間では、何度も往復辺路する小辺路修行が行われていました。つまり、五色山そのものが霊山で、修験者にとっては聖地だったのでしょう。それが古代の山岳寺院としての白峰寺の姿だったと私は考えています。

白峯 解説文入り拡大図
白峰寺古図
崇徳上皇の陵墓管理のことを考えると、国分寺の奥の院的な存在である白峰寺に委託するのがいいと国府の在庁官人たちは判断したのかも知れません。こうして白峰山に崇徳上皇は葬られます。先ほども述べたように、当時の天皇陵墓としては規格外で粗末なものだったようです。

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崇徳上皇の怨霊が怖れられるようになるのは、崇徳没後13年後の安元2(1176)年になってからのようです。
三条実房の口記『愚味記』(陽明叢書)の安元三(1177)年五月九日条には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)こと、沙汰あるべきこと、相府(藤原経宗)示し給いていわく、讃岐院ならびに宇治左府こと、沙汰あるべしと云々、これ近日天下悪事、かの人等の所為の由疑いあり、よってかのことを鎮められんがためなり、無極人事なり、
  意訳変換しておくと
讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)ことについて、
相府(左大臣藤原経宗)は、最近の「天下悪事」は、崇徳上皇と藤原頼長の崇りによるもので、それを鎮めることが極めて重要なことであると実房に語った。
左大臣が保元の乱で敗れた崇徳上皇と藤原頼長のタタリを怖れ、その対策を最重要課題であると認識していたことが分かります。3日後の5月13日条には、上皇と頼長の怨霊対応について後白河院より蔵人頭藤原光能を通じての諮問が次のように記されています。
讃岐院・宇治左府間こと、
相府示し給いていわく、讃岐院ならびに左府間等こと、昨日、光能をもつて仰せ造わさるなり、頼業・師尚勘文下し給うなり、また去年用意のため、かの両人ならびに永範卿・師直等に仰せ、勘がえ儲けせしむるなり、
意訳変換しておくと
相府(左大臣藤原経宗)は、讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)について、昨日光能から報告があった。これについては昨年に清原頼業・中原師直らに勘文(調査報告)の作成を命じておいたものである。

 ここからは文中に前年の安元2(1176)年に太政官の事務官である外記の清原頼業・中原師直らに勘文(調査報告)の作成を命じていたことが分かります。讃岐での現地調査などを経て、報告書が提出されたようです。怨霊を後白河院が意識しはじめたのも、この報告書の提出を命じた前年のことであったようです。同時に、朝廷は讃岐において崇徳上皇がどのように葬られていたかについて、なにも知らなかったことが分かります。崇徳上皇没後の扱いについては、後白河上皇の無関心に対応して、朝廷はノータッチだったことが裏付けられます。

         和歌山県立博物館さん『大西行展~西行法師生誕900年記念』に行ってきました - 百休庵便り                    
西行
鳥羽院時代に北面の武士で、崇徳上皇とは近い関係にあったのが西行です。
彼は23歳で出家し、久安4(1148)年頃に高野山に入り聖となり、仁安3(1168)年に中四国へ辺路修行のための途上に、白峰のやってきます。旧主であり、共に歌会で興じた崇徳院の墓所松山(白峰陵)を訪れ、その霊を慰めるためです。『山家集』には、当時の白峰陵墓の粗末さや荒廃ぶりが描かれています
後白河法皇 (@kSucBeGdxqvRINP) | Twitter
後白河上皇

後白河上皇が兄の崇徳上皇の慰霊について、関心を持つようになったのはどうしてなのでしょうか
安元2(1176)年には、後白河院周辺の人物が相次いで亡くなります。
6月13日 鳥羽上皇の娘で、二条天皇の中官となった高松院妹子が30歳で没、
7月 8日 後白河院の女御で高倉天皇の生母建春門院平慈子が35歳で没
7月17日 後白河の孫六条院が13歳で没
8月19日 藤原忠通の養女で、近衛天皇の中宮となった九条院呈子が46歳で没
この状況について『帝王編年記』(『新訂増補国史大系』)は次のように記します。
「三ケ月の中、院号四人崩御、希代のことなり」

近親者の相次ぐ死は崇徳上皇と頼長の怨霊に対する恐怖を後白河院に生じさせます。それを決定付けたのが翌年治承元(1177)年の京都大火による大内裏の焼亡でした。これらを崇徳上皇と藤原頼長の怨霊のしわざと、後白河上皇は恐れるようになります。

 崇徳院怨霊の研究 | 山田 雄司 |本 | 通販 | Amazon

山田雄司氏は『崇徳院怨霊の研究』の中で、両人の怨霊が取りざたされることになった最大の要因は、大極殿が京都大火により焼失してしまったことにあるとします。そして、怨霊を最も意識するようになったのが後白河院であったと指摘します。

『愚味記』治承元(1177)年五月十三・十七両国条には、その対応策が次のように記されています。
(五月十三日)讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)間こと、(前略) 昨日下し給うの勘文等、 一々見合いの由仰せ義あり、在知の旨は讃岐院においては、成勝寺国忌を置かれ、八講を行せらる。また讃岐御在所において同じく追善を修すべきか、また左府においては、贈官位あるべきか、しかれば太政大臣は、その子師長すでに任じ候、よって正一位・准三宮を贈る、(中略)惣じてかの両人のため、もつとも追善を修せらるべきか、
意訳変換しておくと
 (前略)昨日提出された調査報告にもとづいて対応策が次のように協議された。
讃岐院(崇徳上皇)については、成勝寺に国忌を置き、法華八講を行うことで、歴代天皇と同じように崇徳上皇の菩提を慰霊すること。また讃岐でも御在所(上皇墓所)においても同じように追善を行う事。また左府(藤原頼長)については、官位を改めて贈り、子師長には正一位・准三宮を贈る、(中略) 両人のための追善を行う事。
追善を行う事で怨霊を鎮める方針が確認されています。
具体的な対応策は4日後の5月17日に次のように示されました。
讃岐院ならびに宇治左府こと、明日奏せしむべしと云々、今日すでに書を請け候、院五ヶ事、左府四ケ事と云、(中略)
讃岐院事
一 かの御墓所をもつて勅し山陵と称し、その辺堀埋し汚穢せしめざれ。また民烟一両を割分し、御陵を守らしむること
一 陰陽師を遣わし、山陵を鎮めしめ、同じく僧侶を遣わし経を転ぜしむること
一 国忌を置かるること
一 讃岐国御墓所辺、一堂を建て三昧を修すること
  宇治左府事については略
漢家の法、あるいは社櫻を立て、祭祀をおこなうの例有り、もしくはその告有り、かの例に随うべきかと云々、戸主の腋ならびに評定の詞等、その状多くして忘却す、よってこれを記さず尋ね申すべきなり、多くは外記勘文に付け先例を注出せらるなり、院御事は崇道天王の例多くこれを載す、
意訳変換しておくと
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。
讃岐院(崇徳上皇)について
① 白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。御陵を守るための陵戸(専属墓守)を設ける。
②陰陽師と僧侶を現地(讃岐)に派遣して鎮魂させる。
③ 崇徳上皇の国忌を定めること。
④ 讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
ここには、崇徳上皇と藤原頼長への具体的な朝廷の対応が挙げられています。4番目の国忌とは天皇や先帝、母等の命日を、政務を止めて仏事を行うこととした日のようです。朝廷では、この日に寺院において追善供養を行い、日程が重なる神事は延期されていました。 後鳥羽上皇から無視されていた崇徳上皇の霊を、以後は普通に扱おうとする内容です。

崇徳上皇白峰陵

ここで注目したいのが、崇徳院の墓所についての対応です。
1番目の項目に「讃岐国にある上皇の墓所を山陵と称させ、まわりに堀をめぐらしてけがれないようにし、御陵を守るための陵戸を設ける」とあります。ここからは、それまでは山陵には堀もなく、管理のための陵戸もなく、「一堂」もなかったことが分かります。崇徳上皇没後に造られた山陵は、現地の国司や在庁官人によって設計・築造されたもので、上皇の墓としての基準を満たすものではなかったことが裏付けられます。

崇徳上皇白峰陵3

治承元(1177)年に決定された山陵・廟所の建立計画は、朝延内で論議されたままで立ち消えになってしまします。それは、平清盛による後白河法皇の幽閉というクーデターのためです。これによって後白河院政は停止され、崇徳院怨霊対策も頓挫してしまいます。崇徳上皇怨霊対策が再度動き出し始めるのは、養和元(1181)年2月に、清盛が亡くなり源平合戦で平氏が都落ちした後のことになります。

先に決まっていた白峰山陵に附属の「一堂」を建設する計画は、14年後の建久三(1191)年になって再び動き始めます。
このころから後白河上皇は原因不明の病気に苦しめられるようになります。これも崇徳上皇の怨霊のしわざと考えたのでしょうか、停止されていた堂の建設計画が実現に向けて進み始めます。『玉葉』建久3年12月28の記事には「崇徳院讃岐国御影堂領に官符を給うべし」とあるので完成した仏堂は、「崇徳院讃岐国御影堂」と名付けられたことが分かります。
白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峯山古図
 白峰寺蔵『白峯山古図』にも崇徳院陵の脇に「御影堂」が記されています。この御影堂には官符が給され維持経営されることになります。そして、京都春日河原に建立された崇徳院廟は、後に粟田官と名付けられると共に、白峰と同じ名前の崇徳院御影堂が付随して建てられます。後白河法皇は、建久3年3月13日に亡くなっています。
白峰寺に朝廷の手によって初めて建立されたお堂は、決して大きなものではありませんでした。
ところが「崇徳院讃岐国御影堂」と名付けられたお堂の威光は、年を経るに従って輝きを増していくのです。そらが崇徳院の御陵を供養・管理しているのは白峯寺であるという存在証明になります。また、歴代天皇の亡骸を埋納した墓所の内、畿内以外では唯一の地方にある御陵を守護する寺でもありました。「白峰寺=特別な寺=権威ある寺」という意識を、人々に広げていくことになります。これが白峰寺の中世における発展の基礎になったと研究者は考えているようです。
相模坊
白峰寺の天狗 相模坊
 しかし、それだけではありません。白峰は天狗の山として、天狗信仰の中心地でもあったのです。もし、崇徳上皇の怨霊が現れなければ、白峰の中世の繁栄があったかどうかは分かりません。崇徳上皇の怨霊が天狗化することで、天狗=山伏(修験者)となり、白峰寺は隆盛を向かえることになったのかもしれません。そうだとすると、それを企画したプランナーがいたことになります。

以上をまとめておくと
①白峰寺は、古代の山岳寺院として出発した。
②それは五色台を行場とする国分寺や根来寺などの山岳寺院のネットワークの拠点の一つとして整備された。
③古代の山岳寺院を担ったのは、密教系の修験者以外にも、熊野行者・高野聖・六十六などの廻国行者であった。白峰山は、彼らの活動拠点であった。
④崇徳上皇没後に、讃岐国府の在庁官人たちは山陵を白峰山に造ることにした。
⑤この山陵は、歴代天皇のものに比べると規格外に粗末な物で、これには後白河上皇や朝廷は関与しなかった。
⑥しかし、都で崇徳上皇の怨霊さわぎがおこると、対応策として追善慰霊が決定された。
⑦それが陵墓の整備・墓守設置・一堂建設などであった。
⑧こうして白峰寺は「崇徳院讃岐国御影堂」を持つ追善の寺として認識されるようになる。
⑨寄進された周辺荘園を寺領化し、経済的な基盤を整えた白峰寺は大寺院へと成長して行く。
⑩その担い手は、修験者たちであった。
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峰寺 讃岐国名勝図会(1853年)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

坂出市史1
坂出市史

昨年末に発行された坂出市史を眺めていると、大束川の旧河道について、鎌田池から福江を経て、現在の坂出駅付近で海に流れ出していたことが書かれていました。これを今回は紹介します。
 以前に「神櫛王伝説 坂出の福江は、綾氏の鵜足郡進出の拠点だった?」では、つぎのようにまとめました。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた
②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある
③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。
④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した
⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。
⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。
大束川河口の開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。綾氏は福江湊を拠点に、大束川流域の経営を進めたという仮説でした。しかし、資料不足と勉強不足で旧大束川の具体的な河道跡を提示することはできませんでした。今回出されて坂出市史には2つの資料から河道跡を提示しています。それを見ていくことにします。
坂出市史が「証拠資料」として、まず提示するのが国土地理院の土地利用図です。
坂出の復元海岸線4
国土地理院 土地利用図

これは以前に紹介したようにグーグル「今昔マップ」で検索すれば無料で見ることができます。
福江町付近の土地利用図からは、次のようなことが分かります。
①鎌田池の北東隅から北に旧大束川の河道跡が残ること。
②鎌田池から南は、貯水池を経て川津町にいたるルートが旧大束川の河道であったこと
③坂出商業高校付近は東西に伸びる砂堆上で、ここより北は潟であったこと。
砂堆の北側にある坂出高校のグラウンドの南西隅付近の文京町2丁目遺跡からは、製塩土器が多数出土しています。奈良時代の海岸線は、この付近を東西に伸びる砂堆の北側近くにあったと研究者は考えているようです。

DSC04434
川津の貯水池と讃岐富士 
旧大束川の流れを確認しておくと
川津 → 貯水池 → 坂出中学校 → 鎌田池 → 福江 
となります。
鎌田池2
ブルーのラインが旧大束川河道跡(明治末の地図)

鎌田池の付近を拡大して見ます。
鎌田池
明治末の鎌田池(鎌田池と貯水池はつながっていた)
鎌田池は、旧河道に堤防を築いて作られたため池と伝えられます。
そのため南北に長い瓢箪池の形をしています。現在はこの間に坂出中学校が、池を埋め立てて造成されています。坂出中学校は、旧大束川河道の上に建っているようです。
下の写真は笠山と角山、鎌田池で区切られる平野部の空中写真(1961年)です。
坂出の復元海岸線5 航空写真

上の航空写真からは、次のような事が見えてきます。
①鎌田池北側には整然とした条里制が坂出高校の南側まで広がる。
②鎌田池の北東部からは、乱流する大束川旧河道が北に伸びている
丸亀平野でも金倉川や土器川の流路跡の氾濫原には条里制の跡は残りません。ここからは、条里制が施行された7世紀末には大束川は福江を通過して、海に流れ出していたことが分かります。
坂出の復元海岸線5 航空写真拡大
福江周辺の大束川河道跡
 福江は瀬戸内海と川で結ばれており、その河口付近にある港で、瀬戸内海水運に従事する船の拠点となっていたようです。神櫛王の悪魚退治伝説でも福江は、悪魚を退治した神櫛王の上陸地点ですし、悪魚が打ち上げられる所でもあります。福江は重要なステージとして登場することは以前にお話ししました。
 福江は川船で、鵜足郡の郡衙があったとされる川津ともつながっていたようです。つまり、川津の外港が福江ということになります。古代においては、鵜足郡の港は宇多津でなく福江で、大束川流域への入口であったことを押さえておきます。
坂出の復元海岸線2
中世には大束川は現ルートに変更されているので描かれていない
DSC04505
金山方面から見た福江 背後は角山
福江のことをもう少し見ておきましょう
金山・笠山・常山に囲まれた福江を、私は常山の麓の塩田背後の集落くらいに思っていました。しかし、古代には海がここまで入り込んでいたようです。福江という地名は、海が深く良湊を意味する深江が転化したと伝えられています。綾氏系図に、日本武尊の神櫛王が景行天皇の命により悪魚を退治し、福江湊に上陸した記されていること何度か紹介しました。
 そして、先ほど見てきたように条里制施行時には大束川は、福江の前を流れて海に出ていました。福江と郡衙があったと考えられる川津までは川船で結ばれていました。古代においては、大束川流域の物資の積み出し港が福江だったことになります。
坂出の復元海岸線3

福江の背後あるのが常山ですが、これは元々は「津の山」でしょう。
福江周辺を歩いてみて感じるのは、瀬戸内海の島の港町を歩いているような印象を受けることです。坂の多い路地と、あちらこちらにいらっしゃる石仏や標識、そしてお堂や庵。古い歴史を背後にもつ集落であることが、歩いていると分かります。そして、かつては富の蓄積もあったことがうかがえます。それが何からきているのかが分からなかったのですが、中世までは交易港であったことが分かると全てが納得できました。 古代の福江と川津の関係については、以前にお話ししたので省略して、中世の福江を今回は見ておきます。

DSC04512
福江
『華頂要略』に引かれた「門葉記」の崇徳院御影関する記事には、次のように記されています。
讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五十五貫文内、半分検校尊道親工御知行、半分別当法輪院御恩拝領、塩浜塩五石、当永享十(1438)年よりこれを定、京着、鯛四十喉、

ここからは、中世には福江は北山本新荘に属していたことが分かります。また年貢に塩5石や鯛40とあるので、半農半漁的な立地を示しているようです。しかし、福江はそれだけではありませんでした。中世交易湊の姿も見せてくれます。

 北山本新荘の年貢を運送していた国料船に福江丸という船がいたようです。
5中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(

宝徳元(1449)年の史料に阿野郡北山本新荘の年貢輸送の国料船である福江丸に、管領細川勝几から次のような下知状が発給されています。
「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料舟之事」
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船福江丸・枝丸等事、毎季拾艘運上すべし云々、海河上諸関その煩い無くこれを勘過すべし、もし違乱の儀あれは厳科に処すべきの由仰せ下さる也、例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
意訳変換しておくと
「崇徳院御影堂領の讃岐国北山本新庄の国料舟について
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)について、毎年10回のフリー運用を認めるので、海上や河川の諸関において、この権利を妨げることなく通過させよ。もし違乱することがあれば厳罰に処すことを申し下せ。例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
ここには、京都の崇徳院御影堂へ北山本新庄より年貢を運ぶ福江丸が登場します。福江丸船団も「国料船」で、港や川に設けいれた関所に支払う関料免除の特権を室町幕府より認められていました。摂津国兵庫津と坂出福江を行き来していた福江丸は、福江村を含む北山本新庄の年貢を運んでいた船で、「福江」という母港名がつけられているので、福江には港があり、そこに所属する船を福江丸と呼んでいたのでしょう。ここからは福江には、瀬戸内海交易に携わる輸送船を操る集団もいたことが分かります。

福江丸は、管領細川勝元から崇徳院御影堂用の国料船として、関連船も含めて毎年10艘の運行が認められています。北山本新庄では、塩浜が拓かれ塩の生産が行われていました。荘内の海で水揚げされた鯛とともに福江丸に積載して、京都の崇徳院御影堂へ輸送されたようです。
 ところが寛正元(1480)年四月、この春に限つて兵庫南北関で、突然に関料を徴収されます。これに対して崇徳院御影堂衆が幕府へ訴えた文書が残っています。
崇徳院御影堂禅衆等謹んで言上
右当院領讃岐国北山本新庄年貢輸送国料船福江丸と号すこと、海河上の諸関その煩い無く勧過の所、今春に限り兵庫両関新国料と号し、過分の関役を申し懸け、剰え以前無為の役銭共に責執の条、言語道断の次第也、所詮応永八年以来の御教書等の旨に任せ、彼の役銭など糾返され、国料船においてはその煩い無く勧過有るべく旨、厳密に御成敗を成し下さるは、御祈祷の専一たるべく者也、傷て粗言上件の如し
長禄四年卯月 日
  意訳変換しておくと
京都の崇徳院御影堂の禅衆等が謹んで言上致します
当院領の讃岐国北山本新庄の年貢輸送を担う国料船福江丸について、海上や河川の諸関を自由に通行できる権利を得ていましたが、今春になって兵庫両関新国料と称し、過分の関銭を徴収されました。従来から支払いを免除されている役銭も徴収されるなど、言語道断の措置です。応永八年以来の御教書の「関銭不用・フリー通行」の原則にもとづいて、徴収した金銭を返還し、国料船に対して今まで通りの権利を保障するように、厳密に御成敗を下さるよう祈祷致しております。粗言上件の如し
長禄四年卯月 日

ここからは、次のようなことが分かります。
①北山本新庄の年貢輸送船福江丸に対して、過書が応永8(1401)年に発行され、長期間にわたって関銭免除の特権を行使してきたこと。
②それが長禄四(1458)年卯月になって、突然に、通行税を徴収されたこと、
③それに対して崇徳院御影堂の禅衆が幕府に訴え出ていること。
どうして突然に、通行税を国料船の福江丸に対しても徴収を始めたのでしょうか?
この前年に、興福寺は国料船・過書船の免除停止を発しています。これを受けて北山本新庄国料船に対しても関料免除停止の措置を取ったようです。この背景には、国料船に名を借りて物資を積み込む状況が多発していたからです。兵庫関の関銭は東大寺と興福寺の財源でした。それが減収していたようです。その対応策として、国料船の関料免除を廃止して関料徴収と入関船の管理統制を強化しようとしたのです。

瀬戸内海を物資を積載して航行する船は、東大寺の設置した兵庫北関と、興福寺が設置した兵庫南関で関料を納入しなければなりませんでした。これに習って中世では全国中に関所が出来て、関銭が徴収されるようになります。それが寺社の財源となっていたのです。それを取り払おうとするのが織田信長の楽市楽座になります
 兵庫関でも過書船が多くなれば収益が減少するため、過書船への対応には留意していたようです。過書船は年貢物に限定され、商売物を混入して輸送することは禁止でした。しかし、梶取りたちは関料を免れるため、いろいろな抜け道を見つけ、事件を起こしたことが資料からもうかがえます。そこで興福寺や東大寺は、幕府へ過書停止の訴えを起こし、幕府もこれを認めたようです。 

  以上をまとめておきます
①古代の大束川は「河津 → 鎌田池 → 福江」というルートで現在の坂出方面に流れていた。
②東西に大束川が形成した砂州が発展し、その南側に潟が形成されていた。
③福江は、笠山まで湾入した潟と、旧大束川の河口に位置し、海運と川船が交錯するジャンクションの機能を果たした。
④大束川を遡った河津は弥生時代以来の集落が発展し、鵜足郡の郡衙跡と考えられる。
⑤その河津と福江は川船で結ばれ、鵜足郡の湊の機能も果たしていた。
⑥このような福江の役割が、中世に作られた神櫛王の悪魚退治伝説にも反映され、福江は重要なステージとして登場する。
⑦中世には、大束川の流れは変更され、宇多津に流れ出るようになり、宇多津に守護所が置かれ繁栄するようになる。
⑧しかし、福江もこの湊を母港に活動する国料船福江丸の存在が史料からは分かり、御供所などとともに瀬戸内海交易に活躍する梶取りたちの存在がうかがえる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 通史上 中世編 
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  古代の綾氏の系譜をひくとされる讃岐藤原氏は讃岐の武士の中で最大の勢力を持っていたとされます。それは讃岐藤原氏が、いち早く源頼朝の御家人となったことに要因があることを前回は見てきました。今回は、源氏の御家人となった人々のリストを「綾氏系図」を見比べながら、見ていきたいと思います。

源平の戦いが始まる前の讃岐の情勢を見ておきましょう。
讃岐国司一覧表12世紀
院政期の讃岐国守一覧(坂出市史)
上の表で確認したいことは、次の点です
①保延四(1138)年頃、藤原家成が讃岐国を知行した後は、清盛がクーデターを起こす1179年まで30年近くにわたって、家成とその一族が讃岐国の国務を執っていたこと
②「国主 藤原家成一族 → 目代 橘公盛・公清父子 →  在庁官人 綾氏一族」という支配体制が、この30年間に形成されたこと。
③清盛は政権を握ると、讃岐守に平氏一門の維時を任命し、院分国讃岐国は没収された。
④平氏の支配下に置かれた知行国では、在庁官人や有力な武士が家人に組織され、国衙の機能を通じて国内の武士たちを支配下においた。
⑤それは藤原氏の国守時代とは違い「平家にあらずんば、人に非ず」を体験する場となった。『平家物語』には、平氏から離反した讃岐武士について「昨日今日まで我らが馬の草切ったる奴原」と見下されていたことがうかがえる。
⑥特に、平氏が屋島に本拠を構えたのちは、讃岐の武士たちは平氏の直接支配下に置かれ、不満と反発を募らせた。
⑦このような中で、かつての讃岐目代の橘氏が源頼朝を頼って、東国に下った。これを聞いて、かつての上司である橘氏と行動を共にしようとする在庁官人が現れる。それが綾氏一族を中心とする讃岐武士達である。

橘公業が名簿にリストアップして、頼朝に送った武士名簿を見てみましょう。まず「藤」の姓を持つA~Fの6人を見ていきます。「藤」とは「藤原氏」のことで、古代綾氏が武士化して以後に使うようになる名勝です。また、かれらの多くが名乗りに用いている大夫とは、五位の官人の呼称です。
A  藤大夫    資光   (新居)
 B 同子息新大夫 資重   
 C 同子息新大夫 能資
D 藤次郎大夫   重次(重資) 
 E 同舎弟六郎  長資
F 藤新大夫    光高   

なぜ綾氏は、藤原氏と名乗るようになったのでしょうか?
「藤=藤原」氏で、古代の綾氏の系譜を引くとされます。讃岐綾氏は、平安時代の文書に「惣大国造綾」と見え、国造の系譜を引く在庁官人として、勢力をのばしてきたことは以前にお話ししました。彼らが中世に武士化していきます。
「綾氏系図」は、この綾氏の女性と、先ほど見た讃岐国司・藤原家成との間に生まれた章隆(藤太夫)を初代とする讃岐在住の藤原氏の系譜を記します。

羽床氏系図

讃岐藤原氏の初代となる章隆が、国司家成と綾氏の女性との間に生まれた子だとします。これは「貴種」との落とし胤を祖先とするよくある話です。当時の国主は遙任で、実際には赴任しません。藤原家成が讃岐にやって来た記録も残っていません。研究者達が無視する「作り話」です。
 しかし、先ほども述べたように、在庁官人として仕える綾氏と、家成・俊盛二代の知行国主の間には、30年間に培われた主従関係があったことは事実です。「綾氏系図」に登場する章隆は、古代綾氏が、中世の讃岐藤原氏に生まれ変わるターニングポイントなのです。そして彼は国司藤原家成の「落とし胤」とされます。しかし、章隆の実在性は史料からは確認されません。
讃岐藤原氏系図1

讃岐藤原氏の始祖は藤原章隆で、その子資高が2代目とされます。
資高は名乗りが「羽床庄司」とあるので羽床を拠点にしていたようです。羽床城の主の祖先になるのでしょう。そして、系図が正しいとすれば、羽床が当時の藤原氏の本拠地であったこと、実質的な讃岐藤原氏の祖先は、資高であったこともうかがえます。資高の子が5人記されます。その4番目が「新居藤太夫資光」です。この系図からは、高の子たちの代に「大野・新居・香西」などの分家が行われたことになります。 
頼朝に送られた名簿リストの筆頭にあるのは資高の子「A藤大夫資光」です。名乗りからみて綾南条郡新居郷を本拠としていた人物でしょう。彼が、この讃岐グループのリーダーであったようです。
名簿リストにはA藤大夫資光の息子として「B同子息新大夫①資重」「C同子息新大夫 能資」と記されます。しかし「綾氏系図」を見ると、資光の子は資幸だけです。
 資光の子孫としては康元元年(1256)の讃岐国杵田荘四至膀示(ぼうじ)注文に見える讃岐国の使を勤めている「散位藤原朝臣資員」がいます。この人物が「綾氏系図」に資光の孫として掲げられている資員と研究者は考えているようです。新居の資光の子孫は在庁官人として、国府で活躍していることが分かります。
 名簿リストにでは資光の子として載せられている、B資重・C能資は、どこへいったのでしょうか? 分からないまま次に進みます。名簿リストの4人目から見ていきます。
D藤次郎大夫  重次(重資) 
  E同舎弟六郎  長資
F藤新大夫     光高   
 「綾氏系図」には、D重次の名はありません。
その弟とされる「E長資」については、光高の父方の従兄弟に羽床六郎と称した長資がいて名前が一致します。。その兄重資の名乗りは「藤次郎大夫」で、先の重次と名乗りが同じです。讃岐藤原氏の通字は「資」ですから、名簿リストの「重次」の「次」は「資」の誤りで「重資」と研究者は考えているようです。そうするとA資光から見ると兄重高の息子「重資」で、甥にあたります。
 藤氏の最後に記された「F藤新大夫光高」は、系譜にも記されていて、父の名乗りは「大野新太夫」とあります。

讃岐藤原氏系図3羽床氏jpg

杵田荘四至膀示注文には、資員とともに国使を勤めた者に「散位藤原朝臣長知」がいます。
これが「綾氏系図」に「羽床六郎 長資」の子として出てくる長知のことでしょう。この家は綾南条郡の羽床郷を苗字の地としています。のち、建治二(1276)年10月19日の讃岐国宣に出てくる「羽床郷司」が、この一族にあたるようです。
最後の「F藤新大夫光高」は? 
「綾氏系図」に資光の兄で大野新大夫と称した有高の子に「新大夫光高」がいます。この人物だろうと坂出市史は考えています。大野郷は香東郡と三野郡にありますが、讃岐藤原(綾)氏の勢力範囲からすると、香東郡の大野郷が苗字の地なのでしょう。
大野郷

源平合戦の時の綾氏の行動が「綾氏系譜」には、どのように反映されているのかを考えておきます。
「綾氏系譜」は、讃岐藤原氏の初代章隆は、母が綾貞宣の女子で、父が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子なので藤原姓を継いだと記します。実在が確かめられるのは、章隆の孫やひ孫の世代で、彼らが源氏方に馳せ参じることで、いち早く御家人の立場を得ることになります。これは、綾氏にとって非常に有利に働くことになります。それを体感した後世の子孫達は、源氏側についた祖先への感謝と、自分たちの功績を誇る意味でも、先祖を英雄化する系譜を作りだしたのでしょう。その際に、結びつけられたのがかつての国守藤原家成なのでしょう。
 綾姓から藤原姓への転換の背景をまとめておくと
①反平氏の立場にあった藤原家成一族との結びつきを示すために藤原姓を称するようになった
②古代の在庁官人から中世の武士団への脱皮
③讃岐武士団の中で源平合戦で、いち早く源氏方につき御家人となった祖先の顕彰と一族統合シンボル化
この系譜に綾氏の氏寺とされる法勲寺(飯山町)の流れをひく島田寺の僧侶達によってもうひとつの物語が付け加えられていきます。それが神櫛王の悪魚伝説です。古代綾氏は、讃岐国造となった神櫛王の子孫であり、源平合戦ではいち早く源頼朝の陣に馳せ参じた武士達という話がプラスされていきます。讃岐藤原氏の伝説がこうして一人歩きしていきます。
野三郎大夫高包の名乗りに見える「野」とは、小野・三野など「野」の字が付く姓の略称のようです。
『源平盛衰記』巻人の讃岐院事には、讃岐国へ配流された崇徳上皇は、まず「在庁一の庁官野大夫高遠」の堂へ入ったと記します。『保元物語』では、この堂を「二の在庁散位高遠」の松山の御堂とします。両者は同じもので、在庁官人の高遠の持仏堂のようです。なお、一とか、二の数字は、経験年数による順位を示すもので、在庁間の序列のようです。
在庁の「野大夫高遠」については、『古今讃岐名勝図絵』(国立国会図書館)の「蒲生君平来る」の項に掲げる寛政十二(1800)年、白峯寺に詣でた蒲生君平の「白峯縁起跛」に次のようにあります。
白峯寺に宿す、その住僧明公と一夜談話す、いささか憂いを写すなり、公実言として曰く、崇徳の南狩なり、伝うるに松山、野大夫高遠の所に三年を遂げおわす、高遠の世、すなわち林田氏なり、その家今に至り絶えず、事なお口碑を存ず、
意訳変換しておくと
白峯寺に宿泊し、住僧の明公と一夜話した。その時に住僧の話したことを書き留めておくと、崇徳上皇は松山の野大夫高遠の所で三年ほど生活した。高遠の家は林田氏で、その家は今も存続していて、そのことが伝えられている

ここでは、白峯寺の僧は野大夫高遠の子孫は林田氏であって今も続いていると君平に伝えています。
高遠については、「玉藻集」(『香川叢書』第二)にも次のように記されています。
「阿野の矢大夫高任 阿野郡林田の田令と云う。後白河院御宇と云々」

「讃岐国名勝図会』(国立公文書館DA)の鳴村正蓮寺の項には
「当寺は永正年中、沙門常清草創なり、常清は林田村在庁野大夫高遠が末葉なりという」

とあり、正蓮寺を創建した常清が高遠の子孫で、本領が林田村にあったことが記されます。
雲井御所
雲井御所の石碑と林田家
近世の林田氏については『古今讃岐名勝図絵』の雲井御所とその碑、林田の綾家の項にも見え、本姓は綾氏で、高遠の子孫とされています。生駒時代は林田村の小地頭で、松平頼重の人国の時には、林田太郎右衛門綾高豊が同村の大政所になったと伝えられます。
これらの伝承から、高遠の本姓は阿野(綾)氏のようです。名簿リストの「野二郎大夫高包」は、右の「野大夫高遠」と名乗りの一部と通字が共通しているから高速の一族、阿野(綾)氏の一人で林田郷を本拠としていた在庁官人と坂出市史は考えているようです。

橘大夫盛資 について
応徳元(1084)年12月5日の讃岐国留守所下文(東寺百合文書)などに讃岐在庁の橘氏の名があります。寛元元(1243)年2月、高野山の道範が讃岐国に流された際、守護代長尾氏から、一旦「鵜足津の橘藤衛門高能」という御家人のもとに預けられています(『南海流浪記』)。ここからは守護所が置かれていた宇多津周辺に橘氏がいたこと、高能が在庁官人系の御家人であったことがうかがえます。ここでも、京都に上ったグループの子孫は、御家人として守護所などの管理運営に携わり、地方支配機構を支える立場になっていたことが分かります。
三野首領盛資・三野九郎有忠・ 三野首領太郎・三野次郎一族と藤原純友の乱
「三野首領」とあるので、三野郡の郡司(大領)の流れをもつ者のようです。『南海通記』は、「信州綾姓記」の中で「讃州嶋田寺過去帳」を引用して、純友の乱と三野氏との関わりについて次のように記します。
純友の乱の際、伊予国諸郡の郡司とともに三野郡大領である綾高隼が純友軍に加わった。後に反逆の罪を糾正させられた際に罪を陳謝したため、死刑を許され信濃国小県に流された。
 さらに「通考」には、流された高隼の後には、当国の大庁官(在庁官人?)の綾大夫高親が三野郡大領となり、三野氏の祖となった。

  ここには純友の乱に参加した三野郡大領の綾高隼が更迭され、大庁官(在庁官人?)の綾大夫高親が三野郡大領(郡司)に就任したと記されます。そうだとすれば、三野氏も綾氏の一族だということになります。『南海通記』は後世の編纂書であり、戦記物でもあり誤りが多いことが指摘されています。そのままは信じられませんが、三野郡司になったのが綾大夫高親の末裔であったとすると、本家の綾氏と共に行動を共にして京都に上るのは納得がいく話です。三野氏も武装した在庁官人や郡司から成長した武士団であったようです。

仲(那珂)行事貞房について                
永久四(1116)年に讃岐国で、国衛が興福寺の仕丁(雑役夫)に乱暴を加えるという事件が起こります。興福寺の訴えで、国司・藤原顕能は停任され、目代以下国衛の官人など五人が禁獄されます。この官人の中に「検非違所散位貞頼・行事貞久」の名があります。
 この検非違所は国街の事務を分掌する「所」の1つで警察に当たるもので、行事は職務の担当者のことです。「仲行事貞房」の名乗りに見える「行事」は検非違所の行事のことで、かつ「貞」字を実名に用いていることから、貞房は、貞頼・貞久と同族と考えられます。
讃岐国で「貞」を通字とする一族は、多度郡の郡司綾氏です。
たとえば、久安元(1145)年12月日の善通・曼茶羅寺領注進状案には郡司として綾貞方の名があります。この文書の寺領は多度郡にあるので、貞方は多度郡の郡司になります。名簿リストの貞房については「仲行事」と称しているので、那珂(仲)郡の綾氏と考えられます。
 時代は下って、応永十二(1405)年10月29日の室町将軍家御判御教書写に細川頼之知行の欠所(没収地)のひとつに「讃岐国小松庄・同金武名」とあり「中(那珂)首領跡」と注記されています。ここが現在のどこに当たるのかは分かりませんが、小松の荘は現在の琴平一帯で、那珂郡に属します。「中(那珂)首領跡」とは武士化した那珂郡の首領郡司の館跡のことのようです。那珂郡でも多度郡と同じように、綾氏が首領郡司の地位に有り。国衙では検非違所を務めていたと坂出市史は記します。
大麻藤太家人  大麻藤太という武士の家人(家臣)です。
淡路福良の戦いでは、讃岐蜂起軍の130人が討ち死にしています。主人が討死した後も、行動を共にした家人でしょうか。大麻山の麓に式内社の大麻神社(善通寺市大麻町)があり、古代は忌部氏の拠点とされる所です。中世に、この周辺を本拠とする武士がいたようです。
以上、元暦元(1184)年に、讃岐から上京して源氏方に参加し、御家人と認められた武士たちを見てきました。名簿にリストアップされた讃岐武士達は、記録には残りませんが源範頼の軍に加わり、西海道の戦線に赴いたようです。源氏方に味方する讃岐の武士たちは、その後も増え、屋島合戦で源氏方戦ったようです。
讃岐国でも武士団が組織され、武家の棟梁のもと、より大きな武士団に組織されていくようになります。
その典型が綾氏を祖とするという讃岐藤原氏です。
讃岐の在庁官人については平安時代までは
讃岐国造の子孫と称する東讃の凡氏
空海を輩出した多度郡の豪族佐伯氏
など古代豪族の系譜を引くものが多いようです。阿野郡を本拠とする綾氏もその中のひとつでした。しかし、鎌倉以後は在庁官人としての綾氏の存在は突出した存在になっていきます。源平合戦まえの1056年に綾氏は、勘済使に任じられています。この職は、田地の調査あるいは官物の収納に関わる職です。「綾氏系図」(『続群書類従』)には、綾氏の先祖は押領使であったと記します。これは国内の兵を動員して凶徒を鎮圧する職で軍事警察機構の長です。綾氏が押領使となったのは、10世紀前半の藤原純友の乱の時と研究者は考えているようです。
春日神社神主の日記『春日神社祐賢記』永久四(1116)年五月十二日の記事には、讃岐国検非違使所の役人貞頼・貞久があります。彼らは綾氏の一族とみなされています。このように綾氏は、軍事・警察を担当する押領使・検非違使の地位を世襲的に継承していたようです。これは重要な意味を持ちます。武装蜂起を鎮圧する戦士としての地位をもとにして、綾氏は讃岐第一の武士団に発展していったことが考えられます。

先ほど見てきたように「綾氏系図」には、阿野郡の大領綾貞宣は、鳥羽法皇の近臣藤原家成が讃岐守となった時に、これに娘を入れ、生まれた子章隆は藤原氏を名乗って讃岐藤原氏の祖になったと記します。章隆の子資高は羽床郷を本拠として羽床氏を称し、さらにその子息たちは、
①香川郡大野郷を本拠とする大野氏
②阿野郡新居郷の新居氏
③香西郡の香西氏
などの諸家に分かれていきます。こうして讃岐藤原氏は、鎌倉時代以後は中・西讃に勢力を振るう武士団に成長していきます。
彼らは一族の結束を保つために、同族意識を高める祭礼などを行うようになります。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治
その一環として、後世に綾氏系譜が作られ、その巻頭を飾るのが島田寺の僧侶達が創作した神櫛王の悪魚退治伝説です。これらは、各氏寺や氏神の祭礼で社僧達が語り伝え、民衆にも広がっていきます。
 自らが神櫛王の子孫で、源平合戦の折には京都にいち早く源氏の御家人となったことは、武士の誉れでもあったでしょう。「寄らば大樹の陰」で、周辺の中小武士もこの伝説を受入て、讃岐藤原氏の一族であると称するものが出てきます。これは讃岐藤原氏の勢力の拡大にもなりますので、この動きを容認します。こうして「藤」を名乗る武士があそこ、ここに増えて系図に加えられていきます。
 ちなみに先ほど紹介した南海通記が綾氏の一族と紹介していた三野氏には、神櫛王伝説は伝わっていないようです。讃岐藤原氏の流れを引く一族は、「あすこも、ここも讃岐藤氏」とする傾向があるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編 2020年
 

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

 

 一ノ谷の戦い - Wikipedia
暦元(1184)年二月、源頼朝の弟範頼・義経らが一の谷で平氏を破ると、これを見て、讃岐国の武士たちの中には、いち早く京都に上って源氏の陣に馳せ参じた者達が出てきます。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には、次のように記されています。

  元暦元年(1184)九月小十九日乙巳。平氏一族。去二月被破攝津國一谷要害之後。至于西海。掠虜彼國々。而爲被攻襲之。被發遣軍兵訖。以橘次公業。爲一方先陣之間。着讃岐國。誘住人等。欲相具。各令歸伏搆運志於源家之輩。注出交名。公業依執進之。有其沙汰。於今者。彼國住人可隨公業下知之由。今日所被仰下也。
 在御判
 下 讃岐國御家人等
  可早隨橘公業下知。向西海道合戰事
 右國中輩。平家押領之時。無左右御方參交名折紙。令經御覽畢。尤奉公也。早隨彼公業下知。可令致勳功忠之状如件。
    元暦元年九月十九日
意訳変換しておくと
平氏一族は、二月に摂津国一谷の砦で敗北し、九州方面に撤退し、西国諸国を略奪・占領しました。逃亡した平氏を討つために、橘次公業を一方の先陣として軍隊を組織し出発させました。その際に橘次公業の祖先は、讃岐の国司名代だったので、その縁で讃岐国へ行き、平家討伐軍の組織化を行いました。源氏の御家人になっていない讃岐の武士達を勧誘し、討伐軍に参加させようと考えたのです。源氏に対して忠誠を誓い、共に戦おうとするものは、名簿を提出するように。橘次公成が呼びかけました。

この報告に対して、次のような頼朝様の命令と花押があります。
 命令する 讃岐国の御家人等へ
 早々に橘公業の命令に従って、山陽・九州の西海道の合戦に出かけること 右の讃岐の武士達、平家に占領されていながら、源氏に味方するとの名簿を見て、頼朝様は、殊勝である。早々に橘次公成の指揮に従って、手柄を立てるようにとおっしゃった。これが証拠書である。
    元暦元年九月十九日
讃岐国の武士たちに対し、公業の命令に従つて九州へ向かい合戦に参加することを命じています。本文中に見える「交名折紙」に当たるのが、続けて掲げられている讃岐国御家人交名(名簿リスト)です。
  讃岐國御家人
注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉參京都候御家人交名事
 ①藤大夫資光
  同子息新大夫資重
  同子息新大夫能資  
  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資   
 ②藤新大夫光高
 ③野三郎大夫高包
 ④橘大夫盛資
 ⑤三野首領盛資
 ⑥仲行事貞房
 ⑦三野九郎有忠
  三野首領太郎
  同次郎
 ⑧大麻藤太家人
右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。
     元暦元年五月日

藤は藤原氏の略です。讃岐藤原氏の初代章隆は、綾貞宣の女子が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子で、その関係により藤原姓を継いだとされます。
①藤大夫資光は、新居氏で香川県高松市国分寺町新居
②藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。
③野三郎大夫高包は、阿野郡林田郷
④橘大夫盛資は、鵜足郷(現宇多津町)
⑤三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。
⑥仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町。行事は郡衙の役人。
⑦三野首領太郎は、郡司盛資の息子。
⑧大麻藤太家人は、香川県善通寺市大麻神社で金毘羅山の隣。

ここには14名の讃岐武士の名前が挙げられています。讃岐武士団の中で、最も早い源氏の御家人となった人たちになります。今回は彼らの動きと、源氏方についた背景を追ってみたいと思います。
テキストは「坂出市史通史上 中世編2020年」です。

一ノ谷の戦い』 | The One and Only …

一の谷合戦での敗北後、平氏は讃岐の屋島を本拠として瀬戸内海を中心とする西国支配を行おうとします。これに対して頼朝は、まず北九州を攻撃させるために、範頼を平氏追討の指揮官として派遣します。範頼が京都から出発したのは9月1日のことです。これに先んじて、先陣として橘公業は讃岐国に赴いて味方になる武士を募ろうと動いています。実は、この橘公業の存在が大きいようです。

橘公業(きみなり)とは、どんな人物なのでしょうか?  
橘 公業は、橘公長の次男として誕生します。吾妻鏡治承(1180)年12月19日条には、この日に、右馬弁橘公長が子息の橘公忠・橘公成(業)を伴い鎌倉にやって来たと記します。父公長は、もともと平知盛の家人で、弓馬の道の達者で、戦場に望んでの智謀は人に勝っていたと記されています。しかし、平氏の運が傾き、故源為義への恩儀もあつて源氏に付くことにしたとされます。彼らは頼朝に認められて源氏の御家人となります。息子の公業は弓術に優れており、鎌倉将軍家の正月に行われる御的始や代替わりの御弓始などでしばしば射手を勤めていたようです。中世の武士のたしなみは、近世のように刀ではなく、乗馬と弓でした。壇ノ浦の那須与一に代表されるように、弓道にすぐれた武人がヒーローだったのです。弓道にすぐれた公業は、武士としての名声も、すでに得ていたようです。
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公業の経歴で注目されるのは、『吾妻鏡』の建久六(1195)年2月4日条の次のような記述です。
 東大寺再建の落慶供養のため上洛していた頼朝が、勢多橋を渡る際、比叡山の衆徒たちが集まつている中を通るとき下馬の礼を取る必要があるか心配します。頼朝は公業を召し、衆徒たちのもとヘ遣わして、事情を説明させます。
 公業は、衆徒の前に脆いて、次のとおり伝えます。鎌倉将軍家が東大寺供養に結縁するため上洛したところ、この群衆は何事か、神慮を恐れていらつしゃいます。ただし、武将の法にはこのような場所での下馬の礼はありません。そこで、乗馬のまま通るが、これをとがめてはなりません。
 こう言い残して、衆徒の返事を聞かずに通り過ぎ、衆徒の前で弓を取り直す姿勢を見せたら、かれらは平伏した。
 公業は武士ですが、平家出身者として小さいときから京都で暮らしていました。そのため色々な場面で、どのように対応するかのマナーを、身につけていたようです。京下りの平家出身者として、鎌倉幕府草創期の頼朝の側近で何かと重宝する人物だったようです。

 彼の祖先は衛門府や馬寮などの中央武官として活躍しています。
そればかりでなく讃岐の国司目代を務めていたことが東かがわ市大内町の水主神社所蔵の「大般若経函底書」の記事から分かります。
一 二条院御宇 国司藤原秀(季)能、兵衛佐 七条三位殿
  内蔵頭俊盛御息 応保三年正月一十四日任
  御神拝御目代橘馬大夫公盛これを勤む、
長寛元年十月二十七日 甲申
次御神拝目代右衛門府橘公清これを勤む、
公盛息男なり、仁安二年十月一一十五日 己未
ここからは次のようなことが分かります。
①二条天皇の在位中の長寛元(1163)年正月24日に藤原季能が讃岐守に任じられたこと
②1163年10月27日に国司藤原季能の初任神拝を、讃岐国目代橘馬大夫公盛が勤めたこと
③仁安二(1167)年正月20日に藤原季能の父俊盛が讃岐国を知行したこと
④同年の10月25日に公盛の息子公清が初任神拝を勤めていること。国司は季能のままです。
 藤原俊盛は、保元二(1157)年から永暦元(1160)年の間、讃岐守を勤めています。その後は息子の季能が国司を務めたことになります。讃岐国は、保元二年以降、長期にわたって俊盛が国司や知行国主を務めていたようです。国司と同じように、目代の地位も父子で相伝されています。ここから橘公盛・公清父子は、藤原俊盛に仕えていた家司だと研究者は考えているようです。
讃岐国司 藤原家成
院生時代の讃岐国司一覧(坂出市史) 藤原家成の一族が独占している

「国司・藤原季能 ー 目代・橘馬公盛」という体制下に置かれた讃岐武士の中には、目代の橘氏との関係を深めた者達が出てきます。
かれらの多くは、府中の国衛で一緒に仕事をしていた在庁官人や郡司の一族であり、目代橘氏の指揮に従って国務を行っていました。その子孫の橘公業が平氏を見捨てて鎌倉に下ると、橘氏との関係が深かった讃岐武士たちの中には、公業を頼って源氏方につくことを願う者達が出てきます。その時期は、京都を占領した木曽義仲と頼朝が派遣した範頼・義経の軍勢が戦っている隙に、平氏が屋島から旧都福原へ拠点を移した元暦元(1184)年1月頃のことです。
1183年頃の勢力分布図 赤が平家

ところが、源氏方は讃岐武士たちの寝返りを、すんなりとは受けいれません。
それまで平氏に仕えていた者達を、そのまま味方にはできなかったのでしょう。そこで平氏に一矢を報い、それを土産にして源氏方に受け入れてもらおうと考えます。その標的としたのが瀬戸内海の対岸・備前国下津丼にいた平氏一門の平教盛・通盛・教経父子です。これに対して、見かけだけの攻撃を仕掛けたようです。ところが、裏切りを怒った教経から徹底的な反撃・追跡を受けることになります。讃岐国の武士たちは京都へ逃げ上る途中、淡路島の南端福良にいる源為義の孫たち、掃部冠者(掃部頼仲の子)・淡路冠者(頼賢の子)を頼みにして追撃してきた通盛・教経軍を迎え討ちますが、敗れ去ります。このとき、敗れて斬られた者は130人以上の多数に及んだと『平家物語』巻第九は記します。

 京都に上つて公業の指揮下に入った讃岐国の武士たちは、在庁官人・郡司系の武士です。
彼らはかつて讃岐国庁で公業の祖父の下で、働いていた者達です。淡路島福良で平氏軍に敗れた讃岐国の武士たちが「讃岐国在庁」軍と呼ばれていることがそれを裏付けます。かれらは福良で敗れた後も、京を目指します。それは公業を頼りとしていて、公業ももとへ馳せ参じればなんとかなるという思いがあったからでしょう。
 公業が頼朝に提出した名簿について「度々合戦、源氏御方に参り、京都に候」と記しているのは、下津井と福良での平氏方との合戦を戦い、京都に上って来たことを念頭においているようです。
こうして、公業は讃岐には源氏の味方になる武士たちがいることを知り、それを組織化して平家討伐軍とするアイデアを思いついたとしておきましょう。京都にまでやってきた讃岐武士の拠点を見ておきましょう
参考①藤大夫資光は、新居氏で香川県高松市国分寺町新居
参考②藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。高松駅と高松空港の真ん中。
参考③野三郎大夫高包は、阿野郡林田郷
参考④橘大夫盛資は、鵜足郷で現在の宇多津周辺
参考⑤三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。
参考⑥仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町あり。行事は郡衙の役人。
参考⑦三野首領太郎は、郡司盛資の息子?
参考⑧大麻藤太家人は、善通寺市大麻神社周辺で金毘羅山の隣。
これらの武士たち本拠地や特徴をまとめると次のようになります。
①本拠地は、香東・綾南北両条・鵜足・那珂・多度・三野で讃岐国の西半部に限られている。
②讃岐藤原氏や綾・橘両氏の本拠は、新居・羽床・大野・林田・鵜足津と国府の府中を取り巻くように分布している。
③ほとんどが在庁官人や郡司で、国府の中核を担っていた武士団である

①については阿波国は、在庁官人粟田氏の一族である阿波民部大夫重能(成良)が平氏の有力な家人で、その勢力下にありました。それに加えて、讃岐の屋島には平氏の本拠地である屋島内裏が置かれています。そのため東讃地域に本拠を持つ武士たちは、平氏の軍事力に圧倒されていたはずです。逆に西隣の伊予国は早くから源氏方についた在庁官人河野氏の勢力下にあって、平氏とたびたび衝突していました。ここからは、中西讃地域の武士達は、東讃地域の武士たちと比べると平氏による圧力が弱かったと研究者は考えているようです。

②③については、讃岐国衛の在庁官人の中でも重要なメンバーであったことが分かります。
それが平氏に反逆したことになります。その背景を考えると「平氏あらずんば人に非ず」という平氏中心の政治運営にあったのかもしれません。平家支配下に置かれた讃岐においても、在庁・郡司系の武士たちはその抑圧に耐えかねて離反したのかもしれません。『平家物語』には、淡路島での合戦で打ち取られた讃岐国の在庁以下の武士は130余人とありますから、平氏に対しての集団的な離反が起きていたことがうかがえます。

  まとめておくと
①平家は瀬戸内海の交易ルートを押さえて、西国を重視した下配体制を作り上げた。
②そのため讃岐も平氏支配下に置かれ、平氏の利益追求が露骨となり、在庁・郡司系の讃岐武士の中にも平家に対する反発が高まるようになった。
③そのような中で、中・西讃に拠点を置く古代綾氏の系譜を引く讃岐藤原氏を中心に、平家を見限り源氏に寝返ろうとする武士達が現れる。
④彼らは、平家と一戦を起こした後に、都に駆け込み源氏方の陣に加わることを計画する
⑤その頼りとなったのは、かつて平家方にいたが今は源氏方についていた橘氏であった。
⑥橘氏は、かつては讃岐目代を30年間以上も務めており、在庁官人の武士達と親密な関係にあった。橘氏の子孫公業を頼って、源頼朝へ御家人となることの斡旋を依頼した。
こうして、先駆けて頼朝の御家人となった14人の武士達は、鎌倉幕府の支配下の讃岐において、恩賞や在庁官人や守護所代理として活躍し、大きな発言権を手にするようになる。
 綾氏が武士団化した讃岐藤原氏の繁栄も、この時に平家を見捨てて京都に駆け上がり、頼朝の御家人となったことが大きな要因と考えられる。
  「綾氏系図」には、讃岐藤原氏の初代章隆は、綾貞宣の女子が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子で、その関係により藤原姓を継いだとされます。この話から綾姓から藤原姓への転換が行われたのも、讃岐藤原氏が反平氏の立場にある藤原家成一族との結びつきを示すために藤原姓を称するようになった坂出市史は指摘します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「坂出市史通史上 中世編 2020年」

丸金

金刀比羅宮のシンボルとして使われているのが金の字のまわりを、丸で囲った「丸金」紋です。この「九金紋」が、いつ頃から、どういう事情で使われ出したのかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明 丸金紋の由来 ―金昆羅大権現の紋について― ことひら 平成11年」です。
丸亀はうどんだけじゃない!日本一のうちわの町でマイうちわ作り│観光・旅行ガイド - ぐるたび

「丸金紋」を全国に広めたのが丸亀団扇だと云われます。
赤い和紙を張った団扇に、黒字で「丸金」とかかれたものです。これが金毘羅参詣の土産として、九亀藩の下級武士の内職で作られ始めたとされます。その経緯は、天明年間(1781~88)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷が隣合せであったため、江戸の留守居役瀬山四郎兵衛重嘉が、中津藩の家中より団扇づくりを習い、江戸藩士の副業として奨励したのが、九亀国扇の起こりと伝えられます。
 幕末に九亀藩の作成した『西讃府志』によると、その生産は安政年間(1854~59)には、年産80万本に達したと記されています。その頃の金昆羅信仰は、文化・文政(1804~29)の頃には全国的な拡大を終えて、天保(1830~)の頃には「丸金か京六か」という諺を生み出しています。京六とは京都六条にあった東本願寺のことで、金刀比羅宮とともに信仰の地として大いに栄えました。

金刀比羅宮で「丸金」紋が使われるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか。

丸金鬼瓦2

松尾寺の金堂(薬師堂=現在の旭社)には、唐破風の上の鬼瓦に、「金」の古字の「丸金紋」が載っています。

丸金 旭社瓦

この鬼瓦とセットで使用されていた軒平瓦も、金刀比羅宮の学芸参考館に陳列されています。「金」の略字と思われる「金」という字の両脇に、唐草文を均整に配した優美なもので、黒い釉薬が鳥羽玉色の光沢をはなっています。説明には、瓦の重量が支えきれずに鋼板葺きに、葺きかえられた時に下ろされたと記されています。旭社(松尾寺金堂=薬師堂)の屋根が、銅板葺きで完成したのは天保十一年(1840)の秋です。
金刀比羅宮大注連縄会 活動状況 - 高松市浅野校区コミュニティの公式ホームページです。

金刀比羅宮に奉納された絵馬に「丸金紋」がみられるようになるのは、19世紀後半からです。
宝物館にある絵馬図の中に「丸金紋」を縁の飾り金具として使った天狗の絵馬があり、万延元年(1860)奉納の「彫市作文身侠客図」絵馬にも「丸金紋」が見えます。安政四年(1857)宥盛の大僧正追贈を祝って奉納された品の中に丸金紋があります。
金毘羅案内図に丸金紋が見られるようになるのも、江戸末期以後です。明治11年(1878)再建の本宮には「丸金紋」が見られます。神輿の紋も、江戸末期は巴紋でしたが、明治以後に丸金紋に変わったようです。
 丸金文は、金毘羅大権現の創建当初から用いられていたと思っていましたが、どうもそうではないようです。残された史料から分かることは、19世紀になって使われはじめ、その起源は金毘羅参詣の土産の団扇にあって、「丸」は九亀の丸であるという説が説得力を持つように思えてきます。
 九亀団扇が「丸金紋」を全国に広めたことは確かなようで、赤い紙に黒く「丸金紋」がかかれた団扇は、江戸時代の図案としては斬新なもので人気があったようです。また当時の旅は徒歩でしたから、軽い団扇は土産としても適していました。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち
 近世前半の金刀比羅官は「海の神様」よりも、修験者によって支えられた天狗信仰で栄えていました。
 松尾寺住職の宥盛は修験者で、亡くなった後は天狗になって象頭山金剛坊として祀られていました。その眷属の黒眷属金昆羅坊も全国の修験者の信仰対象でした。また、讃岐に流された崇徳上皇は、怨霊化して天狗になったたと信じられ、京都の安井金刀比羅宮などでは「崇徳上皇=天狗=金昆羅神」とされるようになります。数多く作られた金昆羅案内図の中には、天狗面や天狗の持物の羽団扇が描かれたものがあります。大天狗は翼をもたないかわりに、手にした羽団扇を使って空を飛ぶとされたことは以前にお話ししました。

天狗の団扇
天狗信仰と団扇(うちわ)

金刀比羅官では「丸金紋」以前には、天狗の持物の羽団扇が紋として使われたようです。天狗の紋に羽団扇を使ったのは、富士浅問神社大宮司家の富士氏に始まるようです。富士氏の紋が棕櫚の葉であり、富士には大天狗の富士太郎、別名陀羅尼坊がすむとされ、社紋であった「棕櫚葉」が流用されて、よそでも天狗の紋に棕櫚葉が使われるようになります。そして、次第に棕櫚葉団扇と鷹の羽団扇が混用され、天狗の紋としては棕櫚葉団扇の方が多くなります。しかし、狂言などではいまでも、鷹の羽の羽団扇が使われているようです。

天狗の羽団扇
狂言に用いられる天狗の持つ羽団扇

金刀比羅官で棕櫚葉団扇が、使用された背景を整理しておきます
①「金毘羅神=天狗」である。
②大天狗は羽団扇を使って空を飛ぶ
①②からもともとは、金刀比羅宮でも棕櫚葉団扇の紋が使われていました。それが金昆羅参詣のみやげの丸亀団扇の図案である「丸金紋」が全国的な知名度を持つようになります。そうすると金刀比羅宮でも、これを金比羅独自の紋として使うようになります。
 一方、天狗信仰では、天狗の紋と欄葉団扇が広く普及しています。そこで天狗を祀った金毘羅大権現では、棕櫚葉団扇をそのまま使用します。棕櫚葉団扇の紋は、金昆羅案内図や金刀比羅宮に奉納された絵馬などに使われています。棕櫚葉団扇は金刀比羅官の紋というよりは、 一般的な天狗の紋として使われた観があります。棕櫚葉団扇の紋だけは、金刀比羅官だと特定することはできません。
 これに対して「丸金紋」の方は、金刀比羅官だと特定できます。こちらの方がシンボルマークとしては機能的です。そのために19世紀中頃以後は、「丸金紋」が盛んに使われるようになります。
 丸金紋3様
棕櫚葉団扇と同じく、普遍性のある紋として使われたのが、巴紋であった。
江戸末期の金刀比羅宮の神興の紋は巴紋でした。旭社(松尾寺の金堂)の屋根にも、巴紋が使われています。巴紋は神社仏閣などで普遍的に使われた紋で、金刀比羅宮でもその伝統にのっとって、巴紋を使用したのでしょう。
巴紋の起源は、弓を引く時に使う鞆(とも)であったとされています。

丸金紋と巴紋 鞆とは

昔の朝廷では、古代宮中行事の追難儀礼を行っていました。方相氏という四つ目の大鬼の姿をした者が、鉾と楯を持って現れて、鉾で楯を打ったのを合図にして、一斉に桑の弓、蓬の矢、桃の枝などで塩鬼を追い払う所作をします。桑の弓や蓬の矢は、古代中国で男子出産を祝って使われた呪具で、これで天地四方を射ることにより、その子が将来に雄飛できるよう祈ったのです。
 日本でも弓矢を使った呪術は「源氏物語」夕顔の巻に出てきます。
源氏の君は、家来に怨霊を退散させるために弓の弦を鳴らさせているし、承久本『北野天神縁起』によると出産の際に物怪退散を願って弓の弦を鳴らす呪禁師が描かれています。
ここからは、弓は悪魔を追い払う呪具で、弓を引く時に使う鞆にも悪魔を追い払う力が宿ると考えられていたことが分かります。こうして、神社仏閣の屋根では巴紋の瓦が使われるようになります。

讃岐地方でも鎌倉時代になると、神社仏閣の屋根で巴紋の瓦が葺かれるようになります。
棕櫚葉団扇は天狗の、巳紋は神社仏閣の、それぞれ普遍的な紋でした。そのため別当松尾寺や金刀比羅宮でも、その伝統に従ってこの二つの紋を用いました。
 これに対して、金昆羅参詣みやげの九亀団扇から生まれた「丸金紋」は、金刀比羅宮を特定するオリジナルな紋です。金刀比羅宮で「丸金」が使われ出すのは、19世紀中頃の天保年間あたりからです。それより先行する頃に、九亀団扇の「丸金紋」は生まれていたことになります。

  まとめておくと
①金毘羅大権現は天狗信仰が中核だったために、シンボルマークとして天狗団扇を使っていた
②別当寺の松尾寺は、寺社の伝統として巴紋を使用した
③19世紀になって、金比羅土産として丸亀産の丸金団扇によって丸金紋は全国的な知名度を得る
④以後は、金刀比羅宮独自マークとして、丸金紋がトレードマークとなり、天狗団扇や巴紋はあまり使われなくなった。
丸金紋 虎の門金刀比羅宮

しかし、虎の門の金刀比羅宮の納経帳には、いまでも天狗団扇が丸金紋と一緒に入れられていました。これは金毘羅信仰が天狗信仰であった痕跡かもしれません。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  「羽床正明 丸金紋の由来 金昆羅大権現の紋について  ことひら 平成11年」



土佐燈籠 牛屋口
牛屋口の土佐灯籠(まんのう町佐文)
金刀比羅宮へ通じる土佐伊予街道の牛屋口には69基もの石灯籠が並んでいます。これらの石灯籠は『金毘羅庶民信仰資料』(第二巻)にも載せられていて、以前に次のようにまとめておきました。
①刻まれた寄進者名から、ほとんどが土佐の人たちによる奉納であること
②明治6年から明治9年までの4年間に集中して建立されていること。
③高知の各地の講による寄進が多い。その中でも伊野の柏栄連のものが一番多い
燈籠を見ていて気付くのは伊野町の「柏栄連」と刻まれたものが多いことです。
「柏栄連」と刻まれた燈籠は12基あります。さらに調査書をみてみると 「土佐国伊埜沖 柏栄連」と記録されているのもあり、これを加えると13基になります。土佐全体からみると13/69が伊野の柏栄連によるものです。これは土佐の城下町の講よりも多い数になります。それだけの信仰心と、経済力を持つ人たちが伊野にはいたことがうかがえます。
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 さらに柏栄連の燈籠の建立年を見ると、明治7年1月と10月の2回だけなのが分かります。寄進人名は講元(世話人)が延べ39人、寄進者が延べ172人となります。
 牛屋口に13基の燈籠を寄進した伊野の当時の背景を見てみることにします。テキストは「広谷喜十郎  土佐和紙の伊野町と金毘羅庶民信仰 ことひら53 H10年」です。
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土佐灯籠(牛屋口)
伊野町には「紙の博物館」や紙すき体験ができる工房もあり、土佐和紙の本場だったことは以前から知っていました。この町が「和紙の町」として有名になるのは、土佐七色紙を生み出した地だからのようです。江戸時代後期にまとめられた『南路志』には、次のように記されています。
 戦国時代末期の頃、土佐和紙の祖といわれた安芸家友と養甫尼とが、七色紙を考案して、慶長六年(1601)に土佐に入国した親藩主山内一豊に献上したところ、以後「御用紙」として指定された

 しかし、なぜかこの製紙法を教えた恩人である伊予の旅人新之丞の名前は出てきません。この製紙法が藩外にもれるのを怖れ、彼を惨殺したという伝承が今も語り継がれています。彼が惨殺されたとされる仏が峠には供養のための古びた石仏とれた「紙業界之恩人新之丞君碑」が建てられています。
伊野町 紙業界之恩人新之丞君碑
紙業界之恩人新之丞君碑
江戸時代初期から、伊野町を中心にして製紙業が発展するようになります。七色紙を考案した安芸家友は、藩庁から給田一町と成山の総伐畑(焼畑)を支給され、御用紙方役に任命されます。24人の紙漉人に江戸幕府への献上紙や藩主用の御用紙を漉かせます。彼らは特別の保護をうけ、田畑を与えられ、紙の原料を藩内全域から強制的に集めることができ、藩有林(御留山)の薪を自由に燃料として伐採する権利も得ていました。
  ある意味、藩は官営マニファクチャーを組織して、その運営を安芸家友にまかせたとも云えます。そのため安芸家は、藩のきびしい監督下におかれ、製品を他に販売したり、紙漉人が国外へ旅行することも禁止され、縁組にまで干渉されるという徹底した管理下に置かれます。「紙=お上」で「御用紙」の荷物がさしかかると、武士でさえ道を譲って敬意を表し、庶民たちはこれを見かけると低頭して見送ったとも伝えられます。
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 七色紙とは「黄色」、「紫色」、「浅黄色」、「桃色」、「柿色」、「萌黄色」、「青土佐(朱善寺紙)」の七種類の色紙です。
やがて各地に製紙業が発達していくと、藩は宝永六年(1709)に「御用紙」、正徳四年(1714)に「御蔵紙」を設定して、紙の専売制の強化をはかり藩の財源を確保しようとします。いわゆる重商主義による制限がかかります。財政窮乏になやむ藩庁は、紙の専売制をさらに強化しようとして宝暦二年(1753)に国産方役所を設け、国産問屋を設置します。
 ところが、宝暦五年(1755)の津野山騒動にみられるように農民たちのはげしい抵抗にあいます。このしっぺ返しの結果、宝暦十年(1760)に専売制を廃止して、藩へ割当て分を納入した後は、残った分を「平紙」として自由に販売することを認めるようになります。この結果、自由な生産・販売権を手にした業者達の生産意欲は上昇し、平紙の生産はますます盛んになります。そして幕末には、土佐全体で製紙業者が一万五千戸余り、年産出額が七百万束にも達し、上方市場では長門国の紙の生産に匹敵する地位をえて、土佐和紙は全国的な地位を築きます。

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製紙業の発展につれて、伊野町は和紙の集散地の在郷町として発展します。
明治初年には、この町では県下の約二割の和紙を生産し、県全体の販売量の半分を占めるようになていたようです。明治末期には、仁淀川筋に散らばっていた原料扱いの商人や紙問屋も現在の伊野町の問屋坂に集まってきます。業者集中の生み出した効果は大きく、その経済力は一段と高くなり、工場生産を展開する業者も現れます。
 この時期に御用紙づくりの伝統的な技術を受け継いでいた吉井源太は、紙漉き用の桁を大型化すると共に、笙員を精巧なものにすることによって、土佐和紙の品質と能率の大巾な向上を実現しました。彼が取得した新案特許は28種類に及ぶといわれ、彼の著書『日本製紙論』に、その技術が詳しく記されています。
かげろうの羽と呼ばれる修復和紙!土佐典具帖紙について
「土佐典具帖紙」

 「土佐典具帖紙」は、はじめは岐阜県で作られた薄紙でした。これを吉井源太が笙貝桁に工夫して、「かげろうの羽」ともいわれる世界で最も薄い紙を作り出します。この紙は昭和48年には国の重要無形文化財(記録選択)に指定されています。
 土佐の薄葉雁皮紙は、七色紙の伝統的製紙法による土佐和紙の一つですが、薄葉で墨汁ののりがよく、染み込みません。その特性から騰写印紙、版画用紙、日本画用紙など多方面に利用されることになります。この紙は昭和五十五年に県の無形文化財に指定されています。こうして幕末から大正時代にかけて伊野は和紙の町として大きく飛躍したのです。
伊野町 琴平神社
伊野の琴平神社

土佐電伊野駅の前を愛嬌のある狛犬に迎えられ鳥居をくぐって階段を登っていくと、伊野の琴平神社が鎮座しています。
「神社明細帳』によると、次のように記されています。
「天保十三年二月坊ヶ崎へ宮殿を建築し、十月遷座す。坊ヶ崎は伊野村の町入口にある。この神社の出来た天保十三年から金毘羅宮と蔵王権現の遥拝所を神社の近くに定めた」

「伊野、琴平神社の金石文」にも、次のように文言があるようです。
「遥拝所土地開発称石築頭取」
「森木重次右衛門自建之七十七中又」
「弘化二年乙巳二月九日成就」
ここからは琴平神社が建築されたのが今から約200年前の天保13年(1816)で、その約20年後の弘化二年(1845)に、神社本殿前の広場を遥拝所として整備したことが分かります。また、同時に勧進されたのが蔵王権現ですから、修験道山伏の手によって行われたことがうかがえます。
 境内にある手水鉢には
「嘉永四(1857)年辛亥十月吉日 御用紙漉伝右工門 同源二郎三輪屋瀬助 仙代屋梶平 徳升屋金次郎 高岡村石工文次作」

と刻まれています。それに、「永代月燈」には「百姓伊三郎 百姓藤次 百姓貞次(略)安政四巳五月令日」の銘があります。もう一つの「永代月燈」には「慶応三(1867)丁卯十月令日」とあり、北山・枝川地区の農民によって明治直前に寄進されたものであることが分かります。
これらの石造物から岡本健児氏は、伊野の琴平神社の発展を次のように記します。
「安政四(1857)年、慶応三(1867)年の永代月燈は琴平神社建立以後の神社の拡張を物語るものであり、その信仰が伊野から周辺の農民に及んだことを示している。さらに、その後狛犬、鳥居、玉垣など造成され、特に狛犬は「明治十三辰年六月令日塚地村石工井上五平次」とあり、琴平神社の信仰が農民層から町民層へと広く波及したことがわかる」
 これらは讃岐の金毘羅本社の発展の軌跡とも符合します。金毘羅が全国的なブームになるのは、19世紀になってからです。このような発展ぶりから琴平神社は、明治12年に村社になっています。近年、発見された神社の棟札には「明治四拾三(1910)年二月 本殿葺替 葺」と記されています。ここからは長岡郡五台山村(高知市)の大工を雇用して粉(こけら)葺に葺替えをしていることが分かります。

 琴平神社の境内は、句碑の庭としても整備されています。
伊野町 琴平神社2

俳聖松尾芭蕉の句碑を含めて十基もあり、県下最大の句碑群です。松尾芭蕉の句碑は、嘉永五年(1852)に地元の俳人仲間が芭蕉を慕い

「春の夜はさくらに明けて仕舞いけり」

の句を刻んで建立したものです。
伊野町 琴平神社3
伊野町琴平神社

 芭蕉の句碑の古いものは文化、文政年代に建てられています。これらの句碑は、芭蕉の遺徳を偲んで「社中」とか「連」とかの俳人仲間の組織が資金を集めて建立されたものが多いようです。幕末期は、各地在郷浦町が経済的に急成長した時期で、経済的に裕福になった商人たちを中心にして、俳句吟社がつくられ、俳句人口が急速に増加していった時期でもあるようです。伊野町の場合も、先ほど見たように製紙業が急成長していきます。それにつれて、俳句人口も増加して、数多くの句碑が建立されるようになります。またこの神社の境内には、明治時代から昭和初期にかけての紙業功労者の大きな記念碑が8つも建っています。まるで「碑林」のような光景です。
  以上から伊野の当時の状況を考えて見ると次のようになります。
①19世紀初め以後、伊野では伝統的な和紙産業が着実に成長し、関係業者が成長し富裕層を生み出していた
②明治初年には、伊野は県下の約二割の和紙を生産し、県全体の販売量の半分を占めるようになった。
③すぐれた技術力を活かし、他の生産地に先駆けて大型化や大量生産化への取組みも始まった。
つまり、牛屋口に13基もの燈籠を寄進した伊野町の「柏栄連」の講員172名にとっては、商売や稼業がうまくいき未來に希望がもてる環境の中にいたことがうかがえます。
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 明治7年という年は、ある意味エポックメイキングなとしでもありました。
1 金刀比羅宮蔵 講社看板g

金毘羅崇敬講社が設立された年でもあるのです。崇敬講社については以前にお話ししましたが、「取次定宿制度」で、参拝者が安心して宿泊できるように講社が定めた宿が指定され、金比羅詣でが安全で便利に行えるようになりました。ここで燈籠勧進までの過程を物語り化しておきましょう
④伊野の琴平神社の整備とともに、讃岐本社の金比羅講である「柏栄連」の講員も増えた。讃岐の金毘羅本社への参拝熱が高まってきた。
⑤明治になって移動の自由が保障され、金毘羅崇敬講社も整備され、讃岐への道は心理的にも経済的にも近くなった。
⑥こうして「柏栄連」の講員の中から集団での金毘羅参りが行われることになった。
⑦土佐伊予街道を歩いて参拝する中で、道標や燈籠のほとんどが伊予の人たちによって寄進されたものであることに気づき、土佐人のプライドが高まる。そんな中で牛屋口までくると、土佐の燈籠がいくつか建立されていた。これを見て、講員に呼びかけて、ここに「柏栄連」と刻んだ燈籠を寄進することが提案された。帰って講員に計るとほとんどの人たちの賛同を得て、燈籠寄進が行われることになった。
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土佐灯籠(牛屋口)
 3年後の明治10年にも組織的な参詣がおこなわれています。
この時の記録は、地域名しか記されていないので詳しくは分かりませんが、伊野周辺の30ケ村から参詣団になっています。ここからは伊野の琴平神社を中心して、周辺部の農村にまで金毘羅信仰がひろがっていることがうかがえます。このような土佐の集団参拝は、漁村にも波及します。そして、かつお船団の船員が漁の始まりや終わりに参拝に訪れ、そして花街で派手な精進落としを行うようになっていきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「広谷喜十郎  土佐和紙の伊野町と金毘羅庶民信仰 ことひら53 H10年」

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安井金毘羅宮

京都市東山区の建仁寺の近くにある安井金毘羅宮は、今は縁切り寺として女性の人気を集めているようです。
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しかし、30年ほど前までは、縁結びと商売繁昌祈願の「藻刈舟(儲かり舟)」の絵馬に人気がありました。流行神(商品)を生み出し続けることが、寺社繁栄の秘訣であるのは、昔も今も変わりないようです。
 安井金毘羅宮はかつては「商売繁昌 + 禁酒 + 縁結び」の神とされていました。祇園という色街にある神社ですから「商売繁昌と禁酒と良縁」を売り物とすることは土地柄に合ったうまい営業スタイルです。それでは現在の「縁切り神社」は、どんな由来なのでしょうか。そこで登場するのが崇徳上皇です。崇徳上皇は、全ての縁を絶って京都帰還を願ったということから、悪縁を絶つ神社と結びつけられているようです。これは断酒の場合と同じです。酒を断つという願いから悪縁を絶へと少しスライドしただけかも知れません。。
 今回は、安井金毘羅と崇徳上皇と讃岐金毘羅大権現の関係を見ていきたいとおもいます。テキストは 「羽床正明  崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  ことひら53 H10年」です。
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 安井金毘羅宮の近くには「都をどり」の祇園歌舞練場があります。その片隅に崇徳上皇御廟があります。これは明治元年に坂出の白峰から移されたものとは別物です。それ以前からこの御廟はありました。
安井金毘羅宮と崇徳上皇のつながりを見ておきます。
 崇徳上皇は保元の乱という政争に巻き込まれ、讃岐に流され不遇の内に亡くなりますが、その怨念を晴らすために生きながら天狗になったされるようになります。この天狗信仰と安井金毘羅宮は関係があるようです。
 保元の乱に敗れ、崇徳上皇は讃岐に流されます。上皇は6年間の流人生活の後、長寛二年(1164)8月、46歳で崩御し、その亡骸は白峰寺のほとりで荼毘に付され、そこに陵が営まれて白峰御陵と呼ばれるようになります。これについては以前にお話ししましたので省略します。
『保元物語』には、次のように記されています。
 讃岐に流された崇徳上皇は「望郷の鬼」となって、髪も整えず、爪も切らず、柿色の衣と頭巾に身をつつみ、指から血を流して五部大乗経を書写した。その納経が朝廷から拒否されたことを知ると、経を机の上に積みおいて、舌の先を食い破ってその血で、「吾、この五部の大乗経を三悪道に投籠て、この大善根の力を以て、日本国を滅す大魔縁とならむ。天衆地類必ず合力給へ」という誓状を書いて、海底に投げ入れた
「此君怨念に依りて、生きながら天狗の姿にならせ給ひけるが」
ここには崇徳上皇が死後、天狗になったとする説が記されています。
7崇徳上皇天狗

これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。
謡曲「松山天狗」の舞台は,崇徳上皇が亡くなった讃岐の綾の松山(現坂出市),白峯です。崇徳上皇と親しかった西行法師が讃岐松山のご廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。

7 崇徳上皇松山天狗
松山は草深い里でした。西行は,山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行きますが,道はけわしく,生い繁げる荊は旅人の足を拒みます。そこへ一人の老翁(実は崇徳上皇の霊)が現れ「貴僧は何方より来られたか」と訊ねるのです。
西行は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者,新院がこの讃岐に流され,程なく亡くなられたと承り,おん跡を弔い申さんと思い,これまで参上した次第。 何とぞ,松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞います。
 やがて二人は「踏みも見えぬ山道の岩根を伝い,苔の下道」に足をとられながら,ようやくご陵前にたどりつきます。しかし、院崩御後わずか数年にもかかわらず,陵墓はひどく荒廃し、ご陵前には詣でる人もなければ,散華焼香の跡さえ見えません。西行は涙ながらに、院に捧げた次のような鎮魂歌を送ります。

よしや君むかしの玉の床とても叡慮をなぐさめる相模坊かからん後は何にかはせん

 老翁は「院ご存命中は都のことを思い出されてはお恨みのことが多く,伺候する者もなく,ただ白峯の相模坊に従う天狗どもがお仕えするほかは参内する者もいない」と言い,いつしか木影にその姿を消してゆきます。
 ややあって何処からともなく「いかに西行 これまで遙々下る心ざしこそ返す返すも嬉しけれ 又只今の詠歌の言葉 肝に銘じて面白さに いでいで姿を現わさん・・・・・」
との院の声。御廟しきりに鳴動して院が現れます。
院は西行との再会を喜び,「花の顔ばせたおやかに」衣の袂をひるがえし夜遊の舞楽を舞う。
こうして楽しく遊びのひと時を過ごされるが,ふと物憂い昔のことどもを思い出してか,次第に逆鱗の姿へと変わってゆきます。その姿は,あたりを払って恐ろしいまでの容相である。
  やがて吹きつのる山風に誘われるように雷鳴がとどろき,あちこちの雲間・峰間から天狗が羽を並べて翔け降りてきます。
7 崇徳上皇相模坊大権現
模坊大権現(坂出市大屋冨町)の相模坊(さがんぼう)天狗像

「そもそもこの白峯に住んで年を経る相模坊とはわが事なり さても新院は思わずもこの松山に崩御せらる 常々参内申しつつ御心を慰め申さんと 小天狗を引き連れてこの松山に随ひ奉り,逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し仇敵を討ち平げ叡慮(天子のお気持ち)を慰め奉らん」と,ひたすら院をお慰め申しあげるのである。
 院はこの相模坊の忠節の言葉にいたく喜ばれ,ご機嫌もうるわしく次第にそのお姿を消してゆく。
そして,天狗も頭を地につけて院を拝し,やがて小天狗を引き連れて,白峯の峰々へと姿を消してゆく。
以上が謡曲「松山天狗」のあらましです。
実際に西行は白峰を訪れ、崇徳上皇の霊をなぐさめ、その後は高野の聖らしく善通寺の我拝師山に庵を構えて、3年近くも修行をおこなっています。時は、鎌倉初期になります。ここからは崇徳上皇の下に相模坊という天狗を頭に数多くの天狗達がいたことになっています。天狗=修験者(山伏)です。確かに中世の白峰には数多くの坊が立ち並び修験者の聖地であったことが史料からもうかがえます。
謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説 相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がりました。

安井金毘羅社と崇徳上皇御廟の関係を『讃岐国名勝図会』は、次のように記します。
京都安井崇徳天皇の御社へ参詣群集し、皆々金毘羅神と称へ祭りしによりて、天皇の御社を他の地へ移し、旧社へ更へて金毘羅神を勧請なしけるとなん。

意訳変換しておくと
京都安井崇徳天皇御社へ参詣する人たちが崇徳上皇陵を金毘羅神と呼ぶようになったので、天皇の御社を他の場所へ移して、そのの跡に安井金毘羅神社を勧請建立したという

ここからは安井金毘羅神社の現在地には、かつては崇徳上皇陵があったことが分かります。
秋里籠島の『都名所図絵』には、安井金毘羅社の祭神について次のように記されています。
奥の社は崇徳天皇、北の方金毘羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし、崇徳帝金毘羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ云云。

奥社に崇徳天皇、北に金毘羅権現、南に源三位頼政が祀られているが、京都の人たちはこれを併せて「安井の金毘羅」と呼ぶ。参拝する人々の絶えることはなく、崇徳帝と金毘羅神は同一体である。

と記され、金毘羅権現が北の方の神として新たにつくられたので、崇徳天皇の社は移転して奥の社と呼ばれるようになったことが二の書からは分かります。どちらにしても「崇徳帝=金毘羅」と人たちは思っていたようです。
「崇徳帝=金毘羅」説を決定的にしたのが、滝沢馬琴の「金毘羅大権現利生略記』です。
世俗相伝へて金毘羅は崇徳院の神霊を祭り奉るといふもそのよしなきにあらず。

と、馬琴は崇徳帝と金毘羅権現を同一とする考えに賛意を表しています。
7 崇徳上皇讃岐院眷属をして為朝を救う図
歌川国芳の浮世絵に「讃岐院眷属をして為朝を救う図」(1850年)があります。最初見たときには「神櫛王の悪魚退治」と思ってしまいました。しかし、これは滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』(1806~10年刊行)の一場面を3枚続きの錦絵にしたものです。この絵の中には次の3つのシーンが同時に描き込まれています。
①為朝の妻、白縫姫(しらぬいひめ)が入水する場面(右下)
②船上の為朝が切腹するところを讃岐院の霊に遣わされた烏天狗たちが救う場面(左下)、
③為朝の嫡男昇天丸(すてまる)が巨大な鰐鮫(わにざめ)に救われる場面
ここに登場する巨大な|鰐鮫は「悪魚」ではなく主人公の息子を救う救世主として描かれています。以前にお話しした「金毘羅神=神魚」説を裏付ける絵柄です。

神櫛王の悪魚退治伝説

  また、ここでも崇徳上皇は天狗達の親分として登場します。
 『椿説弓張月』が刊行された頃は、「崇徳上皇=金毘羅大権現}であって、崇徳上皇は天狗の親分で、多くの天狗を従えているという俗信が人々に信じられるようになっていたことが、この絵の背景にはあることを押さえておきます。その上で京都では、崇徳帝御社があった所に、安井金昆羅宮がつくられたということになります。

研究者がもうひとつ、この絵の中で指摘するのは、この絵が「海難と救助」というテーマをもっていることです。
金毘羅宮の絵馬の中には、荒れ狂う海に天狗が出現して海難から救う様子を描いたものがいくつもあります。もともとの金毘羅は天狗信仰で海とは関係のなかったことは、近年の研究が明らかにしてきたことです
船絵馬 海難活動中の天狗達
海に落ちた子どもを救う天狗達(金刀比羅宮絵馬)

「海の神様 こんぴら」というイメージが定着していくのは19世紀になってからのことのようです。その中でこの絵は、金比羅と海の関わりを描いています。絵馬として奉納される海難救助図は、このあたりに起源がありそうだと研究者は考えているようです。

  今度は讃岐の金毘羅さんと天狗との関係を見ていきましょう
7 和漢三才図絵

江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

と記されます。
また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
松尾寺に伝わる金毘羅大権現 蔵王権現のようにも見える

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰に凝り、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、金比羅は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。
江戸前期の『天狗経』には、全国の著名な天狗がリストアップされています。
7 崇徳上皇天狗

これらが天狗信仰の拠点であったようです。その中に金毘羅宮の天狗として、象頭山金剛坊・黒眷属金毘羅坊の名前が挙げています。崇徳上皇に仕えたという相模坊もランクインされています。ここからも象頭山や白峰が天狗=修験者の拠点であったことがうかがえます。宥盛によって基礎作られた天狗拠点は、その後も発展成長していたようです。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現のもとに集まる天狗(山伏)達 別当寺金光院発行

知切光歳著『天狗の研究』は、象頭山のふたつの天狗は次のような分業体制にあったと指摘します。
①黒眷属金毘羅坊は全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗
②象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する天狗
そのため②は、金比羅本山で、①は、それ以外の地方にある金毘羅社では、黒眷属金毘羅坊を祭神として祀ったとします。姿は、象頭山金剛坊は山伏姿の天狗で、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の仲間の鳥天狗として描かれます。また、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の家来とも考えられました。他に、象頭山趣海坊という天狗がいたようです。
この天狗は先ほどの「讃岐院眷属をして為朝を救う図」にも出てきた崇徳上皇の家来です。

文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集があります。その中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、ついに天狗となったものだと語ったと記されています。。

金比羅には象頭山から南に伸びる尾根上に愛宕山があります。
C-23-1  象頭山12景
右が象頭山、左が愛宕山
この山がかつては信仰対象であったことは、今では忘れ去られています。しかし、この山は金毘羅さんの記録の中には何度も登場し、何らかの役割を果たしていた山であることがうかがえます。この山の頂上には愛宕山太郎坊という天狗がまつられていて、金毘羅宮の守護神とされてきたようです。愛宕系の天狗とは何者なのでしょうか?

7 崇徳上皇天狗の研究
知切光歳著『天狗の研究』は、愛宕天狗について次のように記されています。
天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗
とあって、狐に乗りダキニ天を祀る天狗が、愛宕・飲綱糸の天狗だとします。全国各地の金毘羅社の中には天狗を祭神ととしているところが多く、両翼をもち狐に跨る烏天狗を祀っていることが数多く報告されています。金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕・飯綱系の天狗と結ばれていたようです。
7 金刀比羅宮 愛宕天狗dakini
ダキニ天

以上から「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えが江戸時代には広く広がっていたことがうかがえます。ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があったようです。皇国史観に見られるように歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は葬られていくことになります。しかし、「崇徳上皇=金毘羅」説は別の形で残ります

以上をまとめると、こんなストーリーが考えられます
①江戸後期になって安井金毘羅宮などで崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説が広まった。
②金毘羅本社でも、この思想が受け入れられるようになる。
③明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、世俗で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用された。
④こうして祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられ、明治21年には白峰神社が建立された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

明治時代の小学校の修学旅行とは、どんなものであったのでしょうか
それを教えてくれる文章を見つけましたので紹介します。テキストは「和田仁   象郷尋常小学校の修学旅行と運動会  ことひら53 H10年」です。まず、小学校の修学旅行はいつごろから始まったのでしょうか。
高松高等小学校の初期の修学旅行について見てみましょう。
修学旅行 高松高等小学校

高松の高等小学校は五番丁にありました。現在に中央公園にあたり、石碑が建てられています。
修学旅行 高松高等小学校2

荒井とみ三『高松今昔記』(第二巻)に、「三泊四日の修学旅行」の題で、次のような徳田弘氏の思い出話しが載せられていますので要約して紹介します。
 高等小学校の二年(12、3歳)の年、明治32年1月の真冬に高松から琴平を経て、観音寺・詫間・多度津・丸亀を回って帰校する三泊四日の修学旅行に出かけています。全員が男子です。今のように乗物を利用するスケジユ―ルとは違って、
「足並演習の規模をひろげたような汽車旅行と徒歩をおりまぜた、キツイ修学旅行」

であった。足並演習というのは、兵隊の行軍に似てるところから名付けられた用語で、遠くまで自分の足で歩くことをモットーにした「遠足」のことである。
「キツイ足並演習」の実態は?
DSC01272
明治20年代の讃岐鉄道の多度津駅
讃岐の鉄道は、讃岐鉄道会社が明治22年、琴平・多度津・丸亀間で開業したのが始まりです。その8年後の明治30年に丸亀から高松にまで延長されます。この修学旅行が行われたのは高松延長後、まだ二年と経っていなかった時期です。鉄道延長が修学旅行実施計画の契機になっていたようです。以後も、新しく鉄道が開通すると、その方面へ行先が代わっていくことから推測できます。

徳田少年一行の修学旅行コースを辿ってみます。
西浜の高松駅から汽車に乗って琴平へ向かった。生徒の大部分は、はじめての汽車旅行であった。琴平に到着すると、こんぴらさんに参詣して「芳橘」(内町の敷島旅館?)という宿屋に泊まった。夜になって降り出した雨が翌朝もあがらなかったので、宿屋の番頭が子どもたちに退屈しのぎの落語を語って聞かせてくれた。そのうち氷雨もあがったので、少し予定には遅れたが、琴平を出発し、観音寺の町まで足並演習をした。乗り物を利用しようにも、この二つの町の間には電車もバスも通っていなかった」

高松駅 西浜
西浜の初代高松駅(明治末の地図)
ここからは西浜にあった初代に高松駅(現盲学校周辺)から汽車に乗ったことが分かります。西浜は江戸時代は岩清尾八幡の社領でしたから明治になっても田んぼが広がっていました。そこに西から線路が伸びてきて田んぼの真ん中に新しい駅ができたようです。それを描いているのが下の絵です。
高松の宮脇駅
高松市西浜の初代高松駅

ここから汽車に乗って終点の琴平まで汽車で行っています。琴平・多度津・観音寺間に鉄道が開通するのは、第一次大戦の始まる大正三(1914年)12月のことです。琴平から観音寺は歩くしかなかったのです。

「竹の皮でつくった、いわゆる″皮ぞうり″をはいてドンドン歩いた。和服だから靴なぞははいていない。金持ちの息子は麻裏ぞうりだったが、そのうち、みんな足のウラが痛くなってきた。それでも歩いた。大変な修学旅行である」。

季節は1月で真冬です。一団は琴平から善通寺を経て、大日峠を越えるコースを選んでいます。三豊と丸亀平野を結ぶ大日峠・鳥坂峠・伊予見峠は、冬は西風が強く今でも雪が積もって大渋滞が発生することがあります。この時も峠手前から「猛吹雪」となります。
 そのころの旅行者のいでたちは
「みんな日清戦争の出征兵士が、外とうを、タテに長く丸太ん棒のようにまるめて両端をヒモでしばって肩にかけていたように、赤ゲット筒を肩から背中へ斜めにくくりつけていた。私たちもそのとき筒状にまるめた赤ゲットを肩にかけ、 一方の肩には弁当を包んだ白いふろしきをタスキがけにしていたが、吹きつける雪にさからいながら、その赤ゲットをひろげて頭から、すっぽりかぶり、目玉だけ出して、ベソをかきながら、吹雪の行進をつづけ」、観音寺の町に着いたときは、「もうとっぶりと暮れ果てて」いた
と記します。
 高瀬から豊中を経て観音寺まで「雪中行軍」となったようです。

翌日も強い西風が吹き荒れていたので、観音寺から海岸線づたいに歩いて仁尾に出て名所の平石を見物する予定であったのをやめて、詫間へ抜けて多度津へ直行し、3泊目の宿を取っています。
多度津駅 明治の
明治末の国土地理院地図 多度津以西に線路は伸びていないのと、多度津駅が港に接してあることに注目

 3日目は桃陵公園で遊び、多度津から乗車するのかと思えば、さらに丸亀まで歩き、市内を見物して、.丸亀から汽車に乗って高松へ帰り着いています。

学校としては、これが初めての修学旅行だようです。
が、「キツイ足並演習」+「雪中行軍」+「経験不足」で難行軍となったようです。修学旅行は、「キツイ足並演習」であり「自分の足で遠くまで歩く遠足」からスタートしていることを押さえておきます。

 象郷尋常小学校(琴平)の修学旅行を見てみましょう。
象郷(ぞうご)村は1890年に苗田村(のうだむら)と上櫛梨村(かみくしなしむら)、下櫛梨村(しもくしなしむら)が合併してできた村です。「象郷尋常高等小学校沿革史」には、修学旅行のことも書かれています。象郷小学校で修学旅行が始まったのは、明治33年からです。先ほど見た高松高等小学校の実施の翌年になります。この時期に、県下の小学校では修学旅行が始まったのがうかがえます。
 象郷小学校にはこの時は高等科がなく、尋常小学校就業年数は4年でしたから卒業旅行のような形で実施されたようです。卒業生28人は、明治32(1899)年2月21日、高松市への一日修学旅行を行います。
DSC01274
       明治40年のスタンプの入った琴平駅
当時の琴平駅は終点で、現在のロイヤルホテル琴参閣一帯にありました。ここから汽車に乗り、高松に着くと、栗林公園や公園内の県立博物館(32年2月開館・現在の商工奨励館)、師範学校(高松市天神前)、高松電灯会社(内町、28年設立)などを見物しています。参加者のほとんどは初めての高松旅行であったようで、目を丸くして見物していたことが想像できます。

 「沿革史」を編纂した校長三井興三郎は次のように記しています。
「此時初メテ修学旅行ヲナセシ由、本校児童ノ幸福実二従来ノ児童二倍スルヲ知ルニ足ル」

翌年も卒業生30人が同じコースで実施されます。その後二年間はなぜか実施されていません。再開されるのは日露戦争が始まった37年6月です。行先は多度津・詫間です。
多度津 明治24年桜川埋め立て概況
明治24年 多度津駅の裏側が港であった

どうして多度津や詫間なの?と疑問に思えます。
旅行目的には次のように記されています。
目的トスル所ハ、日露戦役ニツキ第十一師団出征ノ歓送(見送リ)

当時、善通寺第十一師団や丸亀歩兵第十二聯隊の兵士は、多度津港か詫間港から船出していました。国定教科書に取り上げられた「一太郎ヤあーい」の母の見送りもこの年の8月27日の多度津港でのことを教材化したものであることは以前にお話ししました。
一太郎やーい : 広浅雑学独言
出征する息子を見送る母
善通寺の兵士が詫間へ出るには鳥坂峠を越えて、大見村(現三野町)経由の道を行軍しています。出征兵士の見送りとリンクされることで、中止されていた修学旅行が復活したのかも知れません。学校行事が国家意識の涵養と結びつけられていく過程が見えてきます。

多度津港7
多度津港

 修学旅行の一行は多度津へ出ていますが、汽車に乗ったという説明はありませんから「足並演習」で、多度津街道の「魚道」を利用したのでしょう。観音寺に向けての予讃線は、まだありません。そこで「汽船ノ力ヲかリ(借り)テ」詫間に向かっています。
多度津近代集遊図

当時の多度津港は、大型船が入港できる讃岐の拠点港で丸亀港や高松港を凌駕していました。蒸気船となった金毘羅船や各地から神戸・大阪に向かう客船も寄港し、尾道や鞆との間にも旅客船が就航していました。まさに四国の玄関口として機能していた黄金期に当たります。

DSC03831
多度津港の出港時刻表 神戸・大阪・鞆・尾道へと航路が開かれていた
 ここから小型の蒸気船をチャーターして詫間を目指したようです。ところが慣れない児童たちは「悉ク」船酔いしてしまったようです。
「翌日、元気旧二復セシヲ以テ、粟島航海学校(明治十年設立)ヲ参観」

粟島は目と鼻の先ですが「然ルニ児童悉ク酔ヒ、遂二帰校ノ予定ヲ変更」し、もう一泊することになっってしまいます。こうして出征兵士を「翌日又歓送(見送り)シテ帰」路につきます。詫間から鳥坂峠越えならば象郷小学校まで約20㎞になります。こうして2泊3日の「本校創立以来ノ大旅行」は、多くのハプニングを乗り越えて修了します。
讃岐鉄道多度津駅2
初代多度津駅 西はすぐに多度津港

復活したその後の修学旅行を見ておきましょう。
明治39(1906)年正月、高等科と尋常科4年の78人が校長と4人の職員に引率されて、高松・八栗・屋島への修学旅行を行っています。この時の費用は25銭、ほかに「米五合」持参の旅です。最初に紹介した高松高等小学校の場合が一円でした。
讃岐鉄道 開業時時刻表(明治22年
明治22年開通当時の讃岐鉄道時刻表 終点は丸亀駅

 当時鉄道運賃は、並車両利用で1マイル1銭5厘です。琴平・高松間は27マイルなので「27マイル×1,5銭=片道約40銭」という計算になります。割引運賃だったとしても、ほかに宿泊料なども必要です。全額で25銭というのは、割安感があります。
翌年の明治40(1907)年2月は、高等科卒業生は観音寺へ1泊2日の修学旅行を実施しています。この時も予讃線未開通なので汽車利用なしの「足並演習」です。

年度が改まった四月には、高等科三・四年の男子が箸蔵・池田方面に2泊3日の修学旅行を実施しています。琴平ー池田間の土讃線が開通するのは昭和になってからなので、この時も大久保諶之丞が開いた四国新道を徒歩で越えての「キツイ修学旅行」だったはずです。
高等科二年男子は1泊2日で、琴南町の大川山登山。高等科1年と高等科女子と尋常科三・四年は滝宮地方に1泊2日の旅行。残り尋常科1・2年は大麻山に日帰りの遠足が行われています。全て徒歩です。

明治40(1907)年は4月に、尋常科三・四年と高等科女子が汽車で中津公園に日帰りの旅行。5月には高等科2年以上の男子が詫間・仁尾・観音寺へ2泊3日の「足並演習」です。

四国連絡時刻表(明治36年7月朝日新聞付録より抜粋)
明治36年の時刻表 左が尾道=多度津航路利用

明治43(1910)年4月には、初めて海を越えて3泊4日で岡山方面に出掛けています。
この時にどのようにして瀬戸内海を越えたのでしょうか。
宇高連絡船の開通はこの年6月12日のことで、4月にはまだ就航していません。多度津からのチャーター船を利用したのでしょうか。どちらにしても宇高連絡船就航前の岡山行きです。時代のひとつ先を修学旅行も目指していたようです。

高松港 宇高連絡船 初入港(明治43年)

以後は、尋常科の修学旅行は1泊2日で高松・屋島へ、高等科は3泊4日で岡山地方へ行くのが、定例コースとなっていきます。
例外として大正5(1916)年4月に、日帰りで川之江の奥ノ院へ、翌々年の五月には2泊3日で別子銅山への修学旅行を行っています。これも鉄道年表を見ると、大正5年に予讃線が川之江まで延長したことによるものだと推測できます。
多度津駅 2代目
予讃線が延長され、多度津駅も移動

こうしてみると、宇高連絡船就航や予讃線の延長などによって、鉄道や船を利用して遠距離への旅行が可能になったことと修学旅行の行き先も関係していることがうかがえます。それでも修学旅行には歩くことがつきものでした。荒井とみ三さんは次のように指摘します。
「歩け歩けの旅行」を、学校側は修学旅行と呼び、家庭では遠足といい、新聞記事では兵隊の行軍あつかいに、「足並演習」の字を使っていた

修学旅行の教育目的が、単に社会見学というだけでなく、身体の鍛練や忍耐力の養成と、さらには国家意識の涵養におかれていたことを押さえておきます。それが高度経済成長期になってバスによる観光旅行に重点を移しすぎたときに「原点復帰」をめざし「遠くまで歩く遠足」復活が叫ばれることにもなったようです
大正・昭和になると、伊勢神宮の参拝を兼ねた「参宮旅行」が主流になります。
その先駆けとなる「天皇陵巡拝旅行」が明治44(1911)年8月に行われています。これは、学校単位の実施ではなく、香川県教育会が主催して県下一般から参加者を募ったもので、総勢76人が大阪・奈良県内の御陵を巡拝しています。指導的な教員のモニター旅行のようなものです。
さらに昭和3(1928)年に御大礼の後、京都御所の拝観が許されるようになります。これ以後は、伊勢、奈良に加えて京阪神も含め、5泊か6泊の修学旅行が多くなります。その背景には「整備された鉄道網 + 旅行費負担ができる保護者の経済力向上 + 皇国史観と天皇制高揚」などがあったようです。これも戦時体制下体制が強まる昭和15(1940)年には「修学旅行制限」の通達が出され、全国的に中止されるようになります。
讃岐鉄道多度津駅M22年
初代多度津駅
以上をまとめておきます
①明治期の遠足や修学旅行は「キツイ足並演習」で、一部に開通した汽車が利用された
②日露戦争時には戦意高揚のために多度津や詫間に行き、出征兵士を見送る修学旅行も行われた。
③修学旅行の行き先は、宇高連絡船や予讃線の延長などの交通網の整備が敏感に反映され変化している。
④昭和になると整備された鉄道・客船網を使って、畿内への5、6泊の修学旅行が始まる
⑤ここには「伊勢神宮 + 天皇陵巡り + 京都御所拝観」などの天皇制を体感させ国民意識の高揚をはかるという当時の国民教育の目標が、それを下支えしていた

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「和田仁   象郷尋常小学校の修学旅行と運動会  ことひら53 H10年」

 満願寺全景
                                                          
愛媛県朝倉村の「金毘羅山 満願寺」は、不思議なお寺です。
いまでも境内に金毘羅さんの神殿や本殿があります。ここには神仏分離がなかったかのような伽藍配置を今でも見ることが出来ます。
満願寺狛犬

 川の手前には、お寺なのに狛犬が向かえてくれます。 
満願寺鳥居

    その向こうには鳥居が見えてきます。
満願寺本堂

 境内には薬師堂や不動明王を祀るお堂があり、熊野信仰以来の修験の寺であることがうかがえます。
満願寺階段

  さらに上に登っていくと・・・
満願寺金毘羅

  現れるのは金比羅堂です。
満願寺本殿

   裏側に回って本殿を見ると、造りは神社です。お寺の敷地の中に金比羅神社があります。このお寺に神仏分離はなかったのでしょうか。別の見方で云うと、神仏分離をこの寺はどうくぐり抜けたのでしょうか。それを語る物語に出会いましたので紹介します。

テキストは神仏分離こんぴらの一夜彫り石 (愛媛県越智郡朝倉村) 成重芙美子 ことひら52 H9年です。

明治になったとたん、新政府がおかしなお触れをだした。
「何、今からは、仏さんより神さんの方が位が上になる?」
「それに、神仏を別々に祭れじゃと?仲よう、いっしょにござるものを、なぜ別にせんならん?」
なんぼ、頭をひねって考えても、だあれも訳が分からんかった。そのうち、
「日本は大昔から神の国じゃけれ、寺はいらん、仏もいらん。神さんだけにしろ…ということじや」
誰が言い出したんやら、これが、たちまち全国にひろまって、蜂の巣をつついたような騒ぎになってしもた。
「ちがう、ちがう。神社と寺院を別の場所に、分けて祭れば良いのじゃ」
政府はあわてて説明のお触れをだしたが、もう手遅れよ。
気の早い地方では、ひとつ残らず寺をこわし、仏壇やいはいを大川に投げすてた。仏像も仏具も焼き払い、おじぞうさんも、土手の下積み石にしてしもた。
となりの高知県でも、ようけの家が、葬式や法事の仏式をやめて神式に改めた。
  さあ‥‥朝倉のこんぴらさんのことじゃ。
同じ境内に、満願寺ちゅうお寺もあるので、檀徒衆は気が気でない。よそのうわさを聞くたびに集まった。
「お上のお触れにさかろうちゃいかん。早うこんぴらと寺を分けろ」
「おう、神さんが上になったんじゃけれ、寺をこわせ」
「いや、こんぴらを退けろ」
しろんごろん言い合うのを、時の住職、恭恵さんはまあまあと押しとどめ、
「仏教が伝来してこの方、寺をこわせ、神仏いっしょはいかんじゃの、国が命令したことは一ぺんもありません。これは何かの間違いです。考えても見なされ。今まで、病気や災難からお守り下された神社や寺を、わがらの勝手でよそへ移せると思いなさるか。罰があたりますぞ。それに」
と、そばの寺社総代に目を向けられた。
「寺とこんぴらを分けたら、第一、経営が成り立ちますま い?
 それは、あなたが一番ようご存じのはず」
総代はうなずいた。
「はい、分かっとります。ほじゃけんど、おとがめがあったら、どないにされますぞ?わしらは、それが、いっち、おとろしい」
「その時の責めはわたしが負います。皆の衆は心配せんでよろしい。とにかく、神仏はどちらも大切。上も下もありません。両方存続さすことを考えてくだされ」
恭恵さんは、きっぱりと言われた。
それからというもの、何ぞええ思案はないものかと、寝ても覚めても思うておられた。あちこち人をやって調べもされた。すると、もともと政府の趣旨をはき違えて起きたことじゃ。地方、地方の役人により、だいぶん方針や程度に差があった。伊予はかなりゆるやかなようじやつた。
恭恵さんは望みをすてず、あせる壇徒衆に、
「もうちっと、がまんがまん」
ほしたら、明治二年になって具体的な通知があった。
やっぱり、寺と神社を分けろという。それも直ちにせいちゅうのよ。いよいよ正念場じゃ。
恭恵さんはうす暗い本堂にすわり、ご本尊の薬師如来に一心に祈られた。
「なむ、神仏ともにお祭りできる良い知恵をお授け下され」
後ろでは寺社総代はじめ、主だった壇徒らが、神妙にねんぶつを唱える。その中に石工の弥平次もおった。
「‥・・!?」
恭恵さんに、パッとひらめきがあった。
すっくと立ち上がり、ご本尊を背にして言われた。
「み仏の教えに、方便、という言葉があります。そこで、こんぴら宮には、しばらくお隠れ願うて、満願寺に前へ出てもらいましょう。丁石の(金毘羅本殿へ00丁)を(不動殿大門へ00丁)と彫りなおすのです。さあ、せわしゅうなりましたぞ。みなさん、手をかしてくだされ」
なんと― 恭恵さんは、大日如来の化身である。(不動明王)を奉じて、理不尽な国の政策に立ち向かわれた。
この方は、宇宙でいちばん偉いお方で、
「仏教に敵対するものは許さんぞっ」
と言うて、あのように恐い形相をしてござるのよ。

石工の弥平次は…。
寺から帰るなり、何事か弟子に指図した。弟子たちは、あわただしく、あちこちに分かれて走った。
やがて、おおぜいの石工仲間が、それぞれ弟子を引き連れかけつけた。
「ほいさ、ほいさ」
村の若い衆らが、道々から丁石を集め、荷車に積みやってきた。

弥平次は、ふかぶかと頭を下げて言うた。
「この五基の丁石(金毘羅へ00丁)を消して、(不動殿へ00丁)と彫りなおしたい。こんぴらの一大事じゃ。ぜひ力をかしてくれや」
仲間が言うた。
「親方のため、こんぴらさんのためなら、何でもやらしてもらいます。そいで、いつまでに、また彫り方は?」
「期日は明朝、彫り方はすずり彫りじゃ。
「ええっ、明朝? しかもすずり彫りー そりゃあ、むりぞのもし。
 なんぼ親方の頼みでも、でけん相談じゃ。時間が足らん」
弥平次は首をふった。
「いいや、わしの言うとおりにしたら必ずできる。まず、石面を削りつぶして、もとの字を消せ。その時まわりの縁を残すんじゃ。すずり彫りになろが? それから字を彫れ。しんどなったら交替せい。とにかく一本の石にいつも二人はかかっとれ」
「なあるほど…それならできるかも知れんのう」
「よっしゃ、やろうじゃないか。これで、こんぴらさんがお救いできるなら、石工みょうりにつきるぞ」
「おう、やろやろ」
そうと決まったら、ちょいとの間も惜しい。いそいで丁石を、仕事場に一基、残りの三基は前の道にならべた。
「ほんなら、わしが一番乗り!」
元気なものらが石にとびついた。

そのころ、こんぴら本殿でも大さわぎじゃった。
こんぴら権現の像を脇へ移し、わきの不動明王を正面に…
つまり場所の入れ替えをしよったんよ。
なにしろ、大切なお像じゃ。いためたら取り返しがつかん。
大工のとうりょうも、手伝う若い衆も一生懸命じゃった。
足場をかため、力じまんがお像を抱きかかえた。
「なうまく、さんまんだ、ばさらだん、さんだ…」
恭恵さんは、じゅずを押しもんで念じた。
ようよう、無事、不動明王が正面に祭られた。
ローソクに灯をともして見上げると、右目をカッと見開き、くちびるをグッとかみしめた。
おとろしいお顔が、皆にはこの上なく頼もしゅう拝めた。

門前では相変わらず、カッツンカッツン、ノミ音が勇ましかった。
炊きだしの握り飯も交替でほうばった。
たくさんの提灯に灯がともされる頃、ようよう、もとの字が消せた。これから本番。弥平次が気合いを入れた。
「ええか?急ぐいうても、ええ加減な仕事はするな。末代まで残るものぞ」
ひとりは上から、ひとりは横から、カッツンカッツン。
- ノミがちびたら、かじ屋に走って焼きを入れ直した。
なんぼ交替でも人数に限りがある。夜の更けるとともに皆だんだん疲れがでてきた。
(朝までにできろか?)
その不安を打ち消すように、誰かが般若心経を唱えだした。
すると、手待ちのものらの大唱和となった。
「かんじぃざい、ぼうさつ、ぎょうじん、はんにゃ…」
それに力を得て、ノミ音が勢いを取りもどした。
「できたっ」
五基の丁石が彫り上がったとき、朝日が山の端を離れた。
みなの顔がぱっとかがやいた。
さわやかな、こんぴらの里の夜明けじゃ。
丁石を積んだ荷車が走り去る。境内が掃き清められる。
恭恵さんは、静かにみなの衆と役人を待った‥‥。

現在、あのときの一基(不動殿大門へ三十丁)が、 一夜彫り石として、仁王門のそばに大事に据えられとる。じゃが、これらを語る人はもう誰もおらん。身の丈七尺五寸の仁王さんだけが知ってござるのよ、のう……。 おしまい

物語はおしまいなのですが、境内の建築物は「おしまい」ではありません。金比羅堂の上には、まだ堂宇があるのです。
満願寺大師堂への参道

  金毘羅神社から、さらに参道をのぼっていくと

満願寺大師堂

  現れたのは大師堂です

  全景図を見ると、この寺は、今は満願寺という寺院ですが金毘羅の神殿や本殿が境内の中にあります。神仏分離以前の神仏混淆の姿を維持した宗教施設ともいえます。
その成り立ちを考えると
「熊野信仰 + 修験道(不動明王) + 弘法大師信仰 + 金毘羅信仰」と時代とともにその時代の流行の信仰を受入て混淆してきたことがうかがえます。 


  近世のはじめに金比羅大権現を厄除け守護神として勧請し、神仏混交の寺として修験山伏のてによって創建されたのでしょう。明治期の廃仏稀釈で一時期廃寺になったようですが、再建されたときには神仏分離以前の形を維持したようです。そこには信徒の根強い信仰が支えになったのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
成重芙美子 こんぴらの一夜彫り石 (愛媛県越智郡朝倉村)  ことひら52 H9年

清少納言 鼓楼と清塚

金毘羅さんの大門の手前に時を告げた鼓楼が建っています。その下に大きな石碑があります。玉垣の向こうにあるのでほとんどの参拝客は、目の前の大門を見上げ、この石碑に気づく人はないようです。  立札には次のように書かれています。
清少納言 鼓楼と清塚立札

ここには清少納言が金毘羅さんで亡くなったこと、その塚が出てきたことを記念して建てられた石碑であることが記されます。清少納言は『枕草子』の作者であり、『源氏物語』を著した紫式部のライバルとして平安朝を代表する才女で、和歌も残しています。どうして阿波と讃岐で清少納言の貴種流離譚が生まれ、彼女の墓が金毘羅に作られたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年です。

 晩年の清少納言は地方をさまよって、亡くなったと云われるようになります。
そのため西日本の各地では彼女のお墓とそれにまつわる「清少納言伝説」が作られるようになります。才女が阿波・讃岐をさすらったというのは、貴種流離譚の一つで、清少納言の他に、小野小町や和泉式部の例があります。実際に彼女たちが地方を流浪したという事実はありません。しかし、物語は作られ広がっていくのです。それは、弘法大師伝説や水戸黄門伝説と同じです。庶民がそれを欲していたのです。
 それでは、才女の貴種流離譚を語ったのはだれでしょうか。
鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳を説くため方便に利用されるようになります。彼女たちを登場させたのは、地方を遊行する説経師や歌比丘尼や高野聖たちでした。その説話の中心拠点が播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺だったようです。式部や小町の貴種流離譚に遅れて登場するのが清少納言です。小野小町と和泉式部と清少納言は才女トリオとして貴種流離譚に取り上げられ、物語として地方にさすらうようになります。これは弘法大師伝説や水戸黄門の諸国漫遊とも似ています。その結果として清少納言が各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。それは、中世から近世にかけてのことだと研究者は考えているようです。清少納言の墓と伝えられる「あま塚」と「清塚」(きよづか)が各地に残るのは、このような背景があるようです。
四国で最も古いとされている清少納言の墓・あま塚は、阿波鳴門にあります。
清少納言 尼塚鳴門

徳島県鳴門市里浦に現存している「あま(天・尼)塚」は、清少納言の墓として広く知られています。ここではその由来が次のように伝えられます。
清少納言は、晩年に父・清原元輔(きよはらのもとすけ)の領地とされる里浦(鳴門市)に移住した。ところが地元の漁師たちに辱(はずかし)めを受けた清少納言は、それを悲しんで海に身を投げて亡くなってしまった。このあと住民のあいだに目の病気が広まり、清少納言のたたりではないかと恐れられるようになった。住民たちは、清少納言の霊をしずめようと塚を建てた。

「あま塚」の名は、女性を表わす「尼塚」を意味したといわれています。後世になってあま塚のそばに「清少庵」が建てられ、そこに住んだ尼が塚を守り供養したというのです。

 しかし、あま塚は清少納言の墓ではなく、もともとは別人のものという説もあります。
①ひとつは大アワビをとって海で命を落とした海人(あま。漁民)の男挟磯(おさし)をまつったとする「海人塚」説
②二つ目は、鎌倉時代に島流しの刑に処された土御門上皇をまつったとする「天塚」説です。
ところが江戸時代に入ると、あま塚は清少納言の墓として有名になっていきます。そして、明治以後の皇国史観では②の土御門上皇をまつったとする「天塚」説で戦前までは祀られていたようです。いまでは里浦にある観音寺があま塚を「天塚」という名で管理し、清少納言の墓として一般公開しています。
清少納言 天塚堂

この「あま塚」の①「海人塚」説をもう少し詳しく見ていきましょう
『日本書紀』允恭天皇十四年九月癸丑朔甲子条には、海女男狭磯の玉取伝説が次のように記されています。
允恭天皇が淡路島で狩りをしたが島の神の崇りで獲物はとれなかった。神は明石沖の海底の真珠を要求し、要求が満たされれば獲物はとれると告げた。そこで海底でも息の長く続く海人、男狭磯(おさし)が阿波からよばれて真珠をとることになった。男狭磯は深い海底からに真珠の入った大鮑を胞いて海上に浮かび上がったが、無理をしたためか海上に浮かび上がった時には息絶えていた。天皇は男狭磯の死をいたみ立派な墓をつくった。今もその墓は、阿波にある。

これが男狭磯の玉取伝説です。ここからは古代阿波那賀郡には、潜女(もぐりめ)とよばれる海女の集団がいたことがわかります。また、阿波からは天皇即位の年だけに限って行われる大嘗祭に、いろいろな海の幸を神餞として献上していました。『延喜式』はその産物を、鰻・鰻鮨・細螺・棘甲扇・石花だと記しています。これらはいずれも加工されたもので、アワビ、アワビのすし、小さな巻貝のシタダミ、ウエ、節足動物のカメノテであったようです。これらも那賀郡には、潜女(もぐりめ)たちによって、獲られ加工されたものだったのでしょう。

明治32年に飯田武郷があらわした日本書紀の注釈書『日本書紀通釈』には、次のように記されています。
「或人云、阿波国宮崎五十羽云、同国板野郡里浦村錫山麓に古蹟あり。里人尼塚と云り。是海人男狭磯の墓也と、土人云伝へたりとそ云り聞正すへし」

ここからは、里浦の尼塚を里人は男狭磯の基と言い伝えてきたことが分かります。ところが日本書紀を根拠とする尼(海女)塚は、別の伝説に乗っ取られていきます。

清少納言 天塚堂2
徳島県鳴門市 天塚堂と清少納言像

それが清少納言にまつわる次のような伝説です。
清少納言が阿波に向かう途中で嵐にあって、里浦に漂着した。都生まれのひなにはまれな美人ということで、たくさんの漁民が集まってきて情交を迫った。彼女が抵抗したため、 一人の男が彼女を殺して陰部をえぐって、それを海に投げ入れた。それから間もなくその海はイガイが異常にたくさんとれるようになった。彼女が抵抗した際に「見ている者は目がつぶれる」と叫んだことが現実となり、目をやられる漁民が続出した。そこで彼女の怨念を払うため建てた塚が、今もこの地に残っている。
 
この「清少納言復讐伝説」が生まれた背景には、鎌倉初期にできた『古事談』の中の次の説話が、影響を与えているようです。それは、こんな話です。
ある時、若い公達(きんだち)が牛車にのって清少納言の家の前を通りかかった。彼女の屋敷が荒れくずれかかっているのを見て「清少納言もひどいことになったものだ」などと口々に言い合って、鬼のような女法師(清少納言?)が、すだれをかきあげて、「駿馬の骨を買わずにいるのかい」と言ったのを聞いて、公達たちはほうほうの体で逃げていった。
  
ここでは清少納言は「鬼のような女法師」として描かれています。まるで怨霊一歩手前です。清少納言がタタリ神となっていくことが予見されます。また「女法師」から彼女は、晩年は出家して尼になったという物語になっていきます。それが尼(海女)と尼塚が結び付いて、清少納言の尼塚伝説が生まれたと研究者は考えているようです。
どうやら「あま塚」は「海女塚 → 尼塚 → 天塚」と祀る祭神が変化していったことがうかがえます。
尼塚は海のほとりにあったところから、イガイとも結び付くことになります。

清少納言 イガイ
イガイ
二枚貝のイガイ(胎貝)は、吉原貝、似たり貝、姫貝、東海婦人という地方名をもっています。これらの名前からわかるように、イガイの身の形は女性の陰部に似ています。そのため女性の陰部が貝になったのが、イガイという伝説が生まれます。
尼塚の清少納言伝説は、海をはさんだ対岸の兵庫県西宮市にも伝えられています。
そこでは恋のはかなさを嘆いた清少納言は、自らの手で陰部をえぐって海に身を投げたので、陰部がイガイになったいうものです。これは阿波の伝説が伝播したものと研究者は考えているようです。
清少納言の墓所(天塚堂)/徳島鳴門 観音寺(牡丹の寺・清少納言の祈願寺)

鳴門里浦の尼塚伝説は、もともとは日本書紀に記された男狭磯にまつわるものでした。
それが時代が下るにつれて、清少納言に置き換えられ、忘れられていきます。このようなことはよくあることです。寺の境内の池の中島にあった雨乞いの善女龍王が、時代の推移とともに、いつの間にか弁才天として祀られているのをよく目にします。庶民は、常に新しい流行神の登場を望んでいるのです。神様にもスクラップ&ビルドがあったように、伝承にも世代交代があります。それは何もないとこからよりも、今まであったものをリニューアルするという手法がとられます。

 鳴門の尼塚伝説が、清少納言伝説に書き換えられていくプロセスを見ておきます。
鳴門市里浦に伝承された海人男狭磯の玉取伝説は中世になると、となりの讃岐国の志度寺の縁起にとり入れられて志度寺の寺院縁起となります。以前に紹介しましたが、再度そのあらすじを記しておきます。この物語は藤原不比等や、唐王朝の皇帝も登場するスケールの大きいものです。
藤原不比等は父鎌足の冥福を祈って興福寺を建立した。その不比等のもとへ唐の皇帝から華原馨・潤浜石・面向不背の三個の宝玉が送られてくることとなった。宝玉をのせた遣唐舟が志度沖にさしかかると、海は大荒れとなって船は難破した。海神の怒りを鎮めるため、面向不背の玉を海に投げ入れると、海は静かになった。
このことを不比等に報告すると、不比等は宝玉を取り戻す決心をして志度へやってきた。不比等は宝玉を探せないまま、いたずらに三年が過ぎたがこの頃に一人の海女と知り合った。二人の間にはまもなく男の子が生まれた。不比等は宝玉のことを海女に話した。海女は海底から海神に奪われた宝玉を取り返すことに成功したが、胸を切り裂いて傷口に宝玉をかくした時の傷のため、海上に浮かび上がった時には息絶えていた。海女の子の房前は母を弔うため、石塔や経塚を建てたがそれは今も志度寺の境内に残っている
志度寺 玉取伝説浮世絵

                 海女玉取伝説の浮世絵(志度寺縁起)

ここからは日本書紀の阿波の玉取伝説が志度寺縁起にとり入れられていることが分かります。 この縁起の成立は、14世紀前半と研究者は考えているようです。志度寺縁起の玉取伝説は、謡曲にとり入れられて「海士」となり、幸若舞にとり入れられて「大織冠」となり、近世には盛んにもてはやされ流布されていきます。また当時の寺では、高野聖たちは説法のため縁起を絵解に使用し、縁日などでは民衆に語り寄進奉納を呼びかけました。こうして志度寺の玉取伝説が有名になります。
 一方で鳴門里浦の尼塚の存在は次第に忘れ去られていきます。
 本来のいわれである玉取伝説は志度寺にうばわれて、古い尼塚が残るだけで、そのいわれもわからなくなったのです。そこで、室町後期~江戸前期の間に、清少納言の尼塚伝説が作り出されたようです。
いままでの経過を整理しておきます
①日本書紀の海女男狭磯の記述から海女(尼)塚が鳴門里浦に作られる
②しかし、その伝来は忘れられ、古墓の海女塚は尼塚と認識されるようになる
③代わって残された尼塚と、晩年は尼となったとされる清少納言が結びつけられる
④鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳をとくための方便に利用されて、説経師や歌比丘尼が地方を遊行して式部や小町の説話を地方に広めていった。
⑤その説話の中心の地が、播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺であった。
⑥式部や小町の貴種流離諄の盛行によって、清少納言までが地方にさすらうこととなった
こうして清少納言は各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。

鳴門里浦の清少納言の尼塚伝説は、江戸時代になって金毘羅さんに伝えられます。
 金刀毘羅宮の「清塚」と呼ばれる石碑の謂われを見ておきましょう
 江戸時代の宝永7年(1710)、金刀毘羅宮の大門脇に太鼓楼(たいころう)を造営しようという時のこと、そばにあった塚石をあやまって壊してしまいました。するとその夜、付近に住んでいた大野孝信という人の夢に緋(ひ)の袴(はかま)をつけた宮女が現われ、悲しげな声で訴えました。自分は、かつて宮中に仕えていたが、父の信仰する金刀毘羅宮に参るため、老いてからこの地にやってきた。しかし旅の疲れからとうとうみまかりこの小さな塚の下に埋められ、訪れてくれる人もなく、淋しい日々を過ごしている。ところが今度は、鼓楼造営のため、この塚まで他へ移されようとしている。あまりに悲しいことだ、
というものでした。そして、かすかな声で一首の和歌を詠じました。
「うつつなき 跡のしるしを 誰にかは 問われしなれど ありてしもがな」 
はっとして夢から醒めたさめた大野孝信は、これは清少納言の霊が来て、塚をこわされた恨みごとをいっているのであろうと、一部始終を別当職に申し出たので、金毘羅大権現の金光院はねんごろに塚を修めたというものです。
 塚石が出てきたから130年後の天保15年(1844)になって、金光院は高松藩士友安三冬の撰、松原義質の標篆、庄野信近の書によって、現在の立派な碑を建てます。
清少納言 石碑

清少納言 碑文


と同時に金毘羅さんお得の広報活動が展開されたようで、3年後の江戸時代後期の弘化4年(1847)に、大坂浪花の人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり)が出版した「金毘羅参詣名所図絵」の中に、清少納言塚が挿絵入りで次のように紹介されています。

清少納言 金毘羅参拝名所図会
清少納言の墳(一の坂の上、鼓楼の傍にあり。近年墳の辺に碑を建てり)
伝云ふ、往昔宝永の年間(1704~11)、鼓楼造立につき、この墳を他に移しかへんとせしに、近き辺りの人の夢に清女の霊あらはれて告げける歌に、うつつなき跡のしるしをたれにかはとはれじなれどありてしもがなさては実に清女の墓なるべしとて、本のままにさし置かれけるとぞ。清少納言は、 一条院の皇后に任へし官女なり。舎人親王の曾孫通雄、始めて清原の姓を賜ふ。通雄、五世の孫清原元輔の女、ゆえに清字をもってす。少納言は官名なり。長徳・長保年間に著述せし書籍を『枕草子』と号く。紫氏が『源氏物語』と相並びて世に行はる。老後に零落して尼となり、父元輔が住みし家の跡に住みたりしが、後四国に下向しけるとぞ。(後略)

  ここでは老後は零落して尼となって、四国に下ったと記されてます。そして金毘羅でなくなったことにされます。こうして金毘羅は清少納言を迎え入れることになります。
清塚は、幕末には金毘羅さんのあらたな観光名所になっていったようです。
当時は、各地で流行神や新たな名所が作り出され、有名な寺社は参拝客や巡礼客の争奪戦が繰り広げられるようになります。そんな中で金毘羅さんでは金光院を中心に、常に新たな名所や流行神を創出していく努力が続けられていたことは以前にお話ししました。この時期は、金丸座が姿を見せ、金堂工事も最終段階に入り、桜馬場周辺の玉垣なども整備され、金毘羅さんがリニューアルされていく頃でした。そんな中で阿波に伝わる清少納言伝説を金毘羅にも導入し、新たな名所造りを行おうとした戦略が見えてきます。

 ちなみに清少納言の夢を見た大野孝信は他の地に移りましたが、その家は「告げ茶屋」と呼ばれていたと云います。現在の五人百姓、土産物商中条正氏の家の辺りだったようで、中条氏の祖先がここに住むようになり、傍に井戸があったことから屋号を和泉屋と称したと云います。
清少納言の伝説についてまとめておきましょう。
清少納言にまつわる三つの伝説地、兵庫県西宮・徳島県鳴門・香川県琴平のうち、中心となるのは鳴門です。鳴門や金毘羅の伝説は鳴門から伝わったものと研究者は考えているようです。西宮の清少納言伝説はイガイによって鳴門と結び付き、琴平の清少納言伝説は古塚によって鳴門と結び付きます。
しかし、鳴門で清少納言の尼塚伝説が生まれたのは、もともとは、尼塚は海女男狭磯の玉取の偉業をたたえてつくられたものです。しかし、玉取伝説が志度寺の縁起にとり入れられて、こちらの方が本家より有名になってしまったために、新たな塚のいわれを説く伝説が必要となって生み出されたも云えます。
いわれ不明の古塚が生き残るために、清少納言が結びつけられ、尼塚を清少納言の墓とする伝説が生まれました。しかし、尼塚を海女男狭磯の墓とする伝説が消えてしまったわけもなかったようです。そういう意味では、尼塚は二つの伝説によって支えられてきたとも云えます。
 清少納言は、各地に自分の塚がつくられて祀られるようになったことをどう考えているのでしょうか。
「それもいいんじゃない、私はかまわないわよ」と云いそうな気もします。日本には楊貴妃の墓まであるのですから清少納言の墓がいくつもいいことにしておきましょう。そうやって庶民は「伝説」を楽しみ「消費」していたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年
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