瀬戸の島から

2021年09月

瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

1550(天文19)年9月、一人の禅僧が和泉国堺の港を船で、瀬戸内海を西に向かいました。禅僧の名は守龍(しゅりゅう)。京都東福寺の僧です。守龍の旅の記録(『梅一林守龍周防下向日記』)を、手がかりにして、当時の瀬戸内海の港や海賊たちを見ていくことにします。  テキストは「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」です。
守龍の人物像についてはよく分からないようです。
ただ、1527(大永7)年の年末、1529(享禄2)年の立冬、翌30年の夏に、東福寺に参禅して修行したことが記録から確認できます。1550年の堺港からの出港も、寺領の年貢収取について、周防国に行って大内氏をはじめとする周防国の有力者と交渉するためだったようです。得地保は東福寺領の有力荘園で、その年貢収入は東福寺にとって欠かせないものでした。しかし、戦国時代になると以前にも増して、年貢収取が困難になっていたのでしょう。

守龍は1550年9月2日に京都を発ち、14日に堺津から出船しています。
乗船したのは、塩飽・源三の二端帆の船です。当時は舟の大きさは排水量や総重量でなく帆の大きさで表現したようです。そこに3百余人の乗客が乗り込み、「船中は寸土なき」状態であったと記されています。常客を満載した状態での航海です。

讃岐国絵図 正保国絵図.2jpg

塩飽本島 上が南

船頭である塩飽の源三について見ておきましょう。
 この船の船籍地である塩飽(丸亀市本島)は、備讃諸島海域の重要な港であり、同時に水運の基地でした。1445(文安2)年に兵庫北関に入関した上り船の記録である「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積み込んだ塩飽船が37回に入関していることが記録されています。これは宇多津に続いて、讃岐の湊では2番目に多い数です。ここからは塩飽を船籍地とする船が、備讃諸島から畿内方面に向けて活発な海上輸送活動を行っていたことが分かります。

兵庫北関1
 塩飽の水運力は、のちに豊臣秀吉・徳川家康らの目を付けられ、御用船方に指名され統一権力の成立にも貢献するようになります。それは、この時代からの活動実績があったことが背景にあるようです。後に、江戸幕府の保護を受けた塩飽の船方衆は、出羽・酒田地方の幕領の年貢米の海上輸送に携わり莫大な富をこの島にもたらします。その塩飽の船方衆の先祖の姿が、船頭の源三なのかもしれません。

DSC03651
兵庫沖をいく廻船 一遍上人図

 塩飽船は、瀬戸内の塩や米のような物資輸送に従事したことで知られています。
しかし、ここでの源三は、旅客を運ぶ人船=「客船」の船頭です。彼の船は、三百人を載せることができる二端帆の船でした。当時は、筵をつなぎ合わせた帆が一般的でした。幅三尺(約90㎝)、長さ六尺ほどの筵を何枚かつないで、それを一端(反)と呼びます。二端帆の船とは、幅10mほどの筵帆を備えていた船ということになります。『図説和船史話』には、九端帆が百石積、十三端帆が二百石積とあるので、源三船は百~二百石積の船だったことになります。

中世 瀬戸内海の海賊 海賊に遭遇 : In the pontoon bridge
     中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。
(石井謙治「図説和船史話」)


 室町から戦国にかけての時期は、日本の造船史上の大きな画期で、遣明船などには千石石積前後の船も登場します。それらと比べると、源三船は従来型の中規模船ということになるようです。乗組員が何人かなのは記されていません。
和船とは - コトバンク
         遣明船 当時の最大客船

 堺津を出港した守龍の船に、話を戻しましょう。
9月14日の辰の刻(午前八時)に堺を出港した船は、順風を得て酉の刻(午後六時)には兵庫津に着きます。翌日には「迫坂浦」に舟はたどり着きます。「迫坂浦」には、守龍は「シャクシ」と読み仮名をつけているので現在の赤穂市坂越のことのようです。ここで風雨が激しくなって、天候の回復を待つために三日間逗留しています。18日に「迫坂」を発って、その日は牛窓に停泊です。ここまでは順調な船旅でした。

瀬戸の港 坂越

ところが翌19日の午の刻(正午)、「備前比々島」の沖にさしかかったころに、海賊船が一艘接近してきます。
守龍は、その時も様子を次のように記します。
此において賊船一般来り、本船と問答す、少焉賊矢を放ち、本船衆これを欺て鏃を双べ鉄胞を放つ、賊船疵を蒙る者多く、須史にして去る、同申の刻塩飽浦に着岸して一宿に投ず
意訳変換しておくと
接近してきた賊船は、本船と「問答」をした。「問答」の内容は分かりません。おそらく通行料の金額についての交渉だろうと研究者は考えているようです。海賊が接近したときに、交渉することは船頭の重要な役目だったようです。この時には、交渉不成立で賊船は矢を放って攻撃してきました。これに対して鉄砲で応戦しています。賊船は多くの負傷者を出して撤退していきました。船は、そのまま航行を続けて申の刻(午後4時頃)に塩飽に入港します。塩飽は船頭源三の本拠港です。海賊との遭遇記事は短いものですが、ここからは瀬戸内の船旅や海賊についての重要な情報が得られるようです。

瀬戸の港 日比1
日比港 明治の国土地理院地図

まず守龍が「比々島」と表現している日比(岡山県王野市)の港です。
日比は、備前国児島の南端東寄りにある港で、半島状に突出してた先端部の小さな入江です。東北西の三方を山に囲まれ、南だけが備讃瀬戸に向かって開けています。人江の北半分が近世に塩田化され、それが現在では埋め立てられて住宅地や工場敷地となっています。本来は瓢箪型の入江であったことが地形図や絵図からうかがえます。人江の西側にはかつては遊郭もあったという古い町並みが残り、東側の丘陵上には中世城郭の跡も見られます。城主の名をとって四宮城と呼ばれるこの山城は、標高八五メートルの通称城山を本丸とし、南に向かって細長く遺構を残している。もちろん日比の港を選んで立地した城であるが、同時に城跡からは、直島諸島や備讃瀬戸を一望のもとにおさめることができる。日比の港の景観は、中世の港の姿をよく伝えています。
同じような地形的条件を持った港としては、室の五郎大夫の本拠室津、守龍や、がこのあと立ち寄ることになる備後国鞆(広島県福山市)などがあります。
瀬戸の港 室津

室津は、播磨国東部の、播磨灘に向かって突き出した小さな半島の一角に開けた港でです。三方を山に囲まれ、西側だけが海に向かって開かれています。この港について、『播磨国風上記』は、次のように記します。
「室と号るゆえは、この海、風を防ぐこと室の如し、かれ、よりて名となす」

室というのは、穴ぐらのような部屋、あるいは山腹などを掘って作った岩屋などを指します。室津の港はまさに播磨灘に面したが穴ぐらのように小さな円弧状に湾入してできた港です。室津や日比のようなタイプの港は、他のどのタイプの港よりも波静かな海面を確保できます。周囲を山に囲まれているので、どの方向からの風も防ぐことができるし、狭い出口で外海と通じているだけなので、荒い波が港に入ってくることもありません。自然条件としては、最も優れた条件を持っています。
 室津や日比の港を見て不思議に思うのは、その規模の小ささです。
今の港を見慣れた目からすると、とても小さなスペースしか確保されていないように思えます。しかし、規模の小ささがポイントだった研究者は指摘します。小さい「室」であることと、小さな半島の先端に位置していることが重要な意味を持っているというのです。それは、すぐ港の外を通っている幹線航路へのアプローチの問題です。
中世の航海者たちは、風待ち、潮待ちのために日比や室津に入港しました。逆にいえば、風や潮の状況がよくなれば、すぐに港を出て幹線航路に乗ろうと待ち構えていたわけです。「月待てば潮もかないぬ 今は漕ぎいでな」の歌がぴったりときます。奥深い入江からゆっくりと出てきて幹線航路に向かうのでは間に合いません。すばやく幹線航路に出て、待っていた潮や風に乗る必要があります。そのためには、少々手狭でも、あまり奥の深くない入江のほうが都合がよかったと研究者は考えているようです。半島の先端で、すぐ目の前に航路がある方が、潮を利用して沖に出やすいということになります。
 それを裏付ける例を探してみましょう。
牛窓や室津の近くには大規模で、ゆったりと停泊できそうな入江や湾が他にあります。例えば山陽道沿いの相生です。

相生湾と室津

ここには奥深い入江があり、東寺領でのちに南禅寺領になった矢野荘那波浦のあったところで、矢野荘の倉敷地(年貢の積出港)の役割を果たしていました。ところが瀬戸内海の幹線航路を行き来する船が立ち寄った形跡はありません。また、鞆の港の東隣は、現在は埋め立てられていますが、かつては広大な入江がありました。そこには草戸千軒などの港町がありましたが、やはり幹線航路を行き来する船舶が停泊することはなかったようです。
 ここからは中世の瀬戸内海では、奥深い湾や入江よりも小さい″室″が船頭たちの求める港の条件だったことがうかがえます。そしてそのような港には、日比のように、港を見下ろす近くの丘陵上に港に、出入りする船を監視するための山城が築かれていました。波静かな小さな入江とそれを見下ろす山城はセットになって、中世の港は構成されていたようです。

 海賊との遭遇場面に戻ります
日比の沖で塩飽の船頭守龍の舟に接近してきた海賊は、日比の四宮城の城主で、この海域の領主であった四宮氏だったと研究者は推測します。四宮氏は、戦国期には児島南部の小領主、海賊として活動し、その姿は軍記物語などに登場します。
たとえば『南海通記』には、1571(元亀二)年に日比の住人四宮隠岐守が讃岐の香西駿河守宗心を誘って児島西岸の本太城(倉敷市児島塩生)を攻めて敗れたことが記されています。この記事は、記事に混同があり、そのまま事実とうけとるわけにはいかないようですが、このころの四宮氏の姿を知る一つの手がかりにはなります。
 また、 1568年には、伊予国能島の村上武吉が家臣にあてた書状のなかに、「日比表」での軍事行動について指示しています。この年、四宮氏は海賊能島村上氏の拠点本太城を攻めて失敗し、逆に能島村上氏に逆襲を受けたようです。

守龍の船に接近してきた海賊について、もう一つ重要な点はその勢力範囲です。
海賊船が船頭たちの反撃で引き上げていった後に、守龍たちの船は塩飽に入港しています。ここで不思議に思えるのは、塩飽と日比は、それほど離れていないのです。
瀬戸の港 日比と塩飽

本島が瀬戸大橋のすぐ西側にあり、日比は直島の西側で、直線距離だと20㎞足らずです。塩飽と日比とは同じ備讃瀬戸エリアの「お隣さん」的な存在の思えます。その日比の海賊が塩飽の舟に手を出しているのです。私は村上水軍のように、塩飽衆が備讃瀬戸エリアの制海権を持ち、敵対勢力もなく安全に航行をできる環境を作っていたものと思い込んでいましたが、この史料を見る限りではそうではなかったようです。また、日比の海賊のナワバリ(支配エリア)も狭い範囲だったことがうかがえます。四宮氏と思える日比海賊は、限られた範囲の中で活動する小規模な海賊だったようです。
 以上を整理しておくと瀬戸内海には、村上氏のように広範囲で活動する有力海賊がいる一方、日比の海賊のように限られたナワバリの中で活動する、浦々の海賊とでも呼ぶべき小規模な海賊が各地にいたとしておきましょう。
海賊撃退に塩飽客船は、「鉄胞」を使用しています。
鉄胞の伝来については、1543(天文12)年に種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられたとするのが通説です。それから7年しか経っていません。高価な鉄砲を塩飽の船頭たちは所有し、それを自在に使いこなしていたことになります。本当なのでしょうか?
  宇田川武久の『鉄胞伝来』には、鉄砲伝来について次のように記されています。
①鉄胞を伝えたのはポルトガル人ではなく倭寇の首領王直である
②その鉄胞はヨーロッパ系のものではなく東南アジア系の火縄銃である
③伝来した鉄胞が戦国動乱の中でたちまち日本全国に普及したとする通説は疑問がある
として、鉄砲は次のように西国の戦国大名から次第に合戦に利用されるようになったとします。
①1549年 最初に使用したのは島津氏
②1557年頃に、毛利氏が使い始め
③1565年の合戦に大友氏が使用
1550年(天文19)年に、塩飽の源三の船が「鉄胞」を使ったとすると、これらの大名用と同時か、少し早いことになります。種子島に最も近い南九州の島津氏が、やっと合戦に鉄胞を使い始めたばかりの時に、備讃瀬戸の船頭が鉄胞を入手して船に装備していたというのは、小説としては面白い話ですが、私にはすぐには信じられません。
しかし、その「鉄胞」が火縄銃ではないとしても、海賊船の乗組員に打撃を与える強力な武器であったことは確かなようです。村上水軍のように海賊たちは「秘密兵器」を持っていたとしておきましょう。
 少し視点を変えれば、塩飽の源三は、ここでは船頭として300人を載せた客船を運行していますが、場合によっては、自ら用意した武器で海賊にもなりうる存在だったことがうかがえます。
 このような二面性というか多面性が海に生きる「海民」たちの特性だったようです。

源三の舟は、9月19日、その母港である塩飽本島に停泊しました。それが本島のどこの港だったのかは何も記していません。笠島が最有力ですがそれを確かめることはできません。
 9月14日に堺を出ていますから順調な船旅です。しかし、塩飽がゴールではありません。常客は乗り降りを繰り返しながら翌日には出港し、20日には鞆に入港しています。そして23日には安芸国厳島に着きました。源三の船は、停泊地に少しちがいはありますが、航路は、次の場合とほとんど同じことが分かります。
①平安末期に厳島参詣の旅をした高倉院の航路
②南北朝時代に西国大名への示威をかねて厳島へ出かけた足利義満の航路
③室町時代に京都に向かった朝鮮使節宋希環の一行
守龍は、このあと厳島で小船に乗り換えて安芸の「尾方」(小方、広島県大竹市)に渡り、そこからは陸路をとっています。そして周防国柱野(山口県岩国市)、同富田(周南市)をへて28日に山口に着いています。半月ばかりの旅路だったことになります。
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 守龍は山口では、彼に課せられた課題である東福寺領得地保の年貢確保のために精力的に活動します。要人である陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来しています。時あたかも、陶晴賢が主君大内義隆に対してクーデターをおこす直前でした。そのようなきな臭い空気を感じ取っていたかも知れません。
 大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。帰路の航海については、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年
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現在の棟札

中世の荘園の歴史を知ろうとするとき、頼りとなるのは京都や奈良の荘園領主の手もとに残された史料になるようです。地元の民家や寺社に中世文書が残されていることは、ほとんどありません。その中で棟札は、荘園の全体的な枠組みの手がかりを伝えてくれる地元の貴重な史料です。
 棟札とは、寺社の造営や修理のときに、その事業の願主、大工、上棟の年月日、造営の趣旨などを書いて、棟木に打ち付けた木札のことです。建物自体が老朽化して解体されたのちも棟札だけが残され保存されていることがあります。

天嶽院 | 山門屋根 茅葺替大修理・3 棟札調査

以前に見た坂出の神谷神社にも、中世に遡る棟札が何枚も保管されていました。式内社や荘園鎮守社であったような神社には、棟札が残されている場合があります。棟札からは何が見えてくるのでしょうか。今回は中世の地方神社の棟札を見ていくことにします。    テキストは「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121Pです。
    棟札 武内神社2
                                                           
京都府相楽郡精華町の北稲八間荘の武内神社には、20枚もの棟札が保存されているようです。
時代的には、鎌倉時代末期から昭和にまでいたる造営棟札です。
棟札 武内神社
武内神社の棟札
年代的に二番めに古い延文三年(1358)の棟札には「神主源武宗」や大工のほかに、道念、了円など8人の名前が記されています。この8人がこの時代の北稲八間荘の有力者たちだったようです。
応永十年(1403)にも、ほぼ同じ内容のものが作られています。
文明四年(1472)のものになると、「神主源武宗」の下に「老名」として道法以下10名の名前が並びます。北稲八間荘の有力者たちが「老名」(オトナ)と呼ばれていたことが分かります。オトナは「長」「長男」とも表記されますが、十人という数が北稲八間のオトナの定数だったことが分かります。
棟札 武内神社3
武内神社拝殿

 天正三年(1574)のものをみると、オトナのうち一人に「政所」という肩書きが付きます。ここからは十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことがうかがえます。神主の名乗は、慶長13年(1608)まで「武宗」でした。ここからは「源武宗」が神主家の代々の当主に世襲される名前であったことが分かります。
江戸時代にはいると、神主は紀姓の田中氏に交替しています。
かわって「フシヤゥ」という役名が登場するようになります。「フシヤウ」とは検非違使庁の下級職員の「府生」のことだと研究者は指摘します。中世後期になると京都周辺の荘園の荘官級武士の中には、朝廷の下級職員に編成され、重要な儀式のときにだけ出仕して、行列の一員などの役を演ずる者が現れます。「フシャウ」とは、そういう位置にある者で、具体的には「源武宗」を指すようです。そうだとすると旧神主家が、神主の地位を失ったのちも村の中で一定の地位を保っていたことになります。しかし、それも元文三年(1738)を最後に姿が見えなくなります。
 江戸時代には、北稲八間荘はそのまま北稲八間村となり、瑞竜寺、朝倉氏、寛氏の三つの領主に分割されました。領主ごとに庄屋が置かれ、それぞれ寺島氏、川井氏、田中氏が勤めます。かれらは家筋としては、オトナたちと重なります。こうした家筋の人々は、おそらく壮年期には庄屋を務め、長じてはオトナ、すなわち村の古老として武内神社の祭礼や造営などを指揮したようです。
 また元禄十三年(1700)以後の棟札には「鹿追」と呼ばれる役職がみえるようになり、五人から十人の名前が連記されています。鹿などの獣害駆除を直接の任務とする村の若者たちの代表と研究者は考えているようです。
 以上のように神主、オトナ、庄屋、鹿追、それに繁呂寺の住職の名前を書き連ねるのが、江戸時代の武内神社の棟札の定番だったようです。おもしろいことに嘉永五年(1853)の棟札には、「鹿追 このたび勝手につき手伝い申さず候」と記されています。幕末を迎え、オトナ、庄屋といった村内の古老や壮年層と若者たちの間に、何らかの対立が発生していたようです。

 近代を迎えると、国家、社会体制の中での村の位置づけは大きくかわっていきます。
神社の祭礼、造営についていえば、古式が尊重されているようです。下は明治30年(1897)の棟札です。

棟札 武内神社4
これをみると、神主は社掌、庄屋は区長と名をかえています。しかし記されている内容や形式はおおむね古式に従ったものです。オトナという文字はみえませんが、氏子総代とされる三名の名前が見えます。明治以後になってオトナは「氏子総代」に変わったようです。
 中世には、オトナとか沙汰人と呼ばれる人々は祭礼、祈祷などのほか、年貢の村請、湯起請に象徴される刑事事件の解決など幅広い村政を担っていました。それが江戸時代になると、徴税や一般的な村政にかかわる権限は庄屋に移管され、オトナの権限は宗教的な行事に限られたようです。つまり江戸時代に村の政教分離が行われたことになります。そして、その延長上にあるのが今の氏子総代になるようです。
 棟札は集落によって作られ、村に残されたモニュメントとも云えます。棟札から、中世の村のようすがわかる事例をもう一つ見ておきましょう。
棟札 日吉神社
日吉神社(宮津市)

丹後半島の宮津市岩ヶ鼻の日吉神社の棟札を見てみましょう。
この神社には天文十八年(1549)11月19日の日づけをもつ三枚の棟札があります。
棟札 日吉神社2

右側二枚の棟札からは次のようなことが分かります。
①中世にはこの地が伊爾(祢)荘(官津市・与謝郡伊根町)と呼ばれていたこと
②日吉神社が伊爾荘の一宮(荘園鎮守)であったこと
③伊爾荘は「延永方」と「小嶋方」に分かれていたこと

さらにる文献史料ともつきあわせると、「延永方」は「西方」「東方」に分かれ、
「東方」と「小嶋方」は幕府奉行人の飯尾氏の所領、
「西方」はこの地の国人松田氏の所領
であったことがわかります。棟札の銘からは、飯尾氏の支配部分においても松田氏が代官として伊爾荘を仕切っていたことがうかがえます。

研究者が注目するのは、一番左の棟札です。
多くの名前が列記されています。これを見ると格名前に権守とあります。権守を辞書で調べると「守(かみ)(国司の長官)、または、頭(かみ)(寮の長官)の権官(ごんかん)。」と出てきます。この棟札には、権守の肩書きを持つ偉そうな人たちばかりのように思えます。ところが、これは村人たちの名前だというのです。これが遷宮の時の「御百姓中官途」の顔ぶれだというのです。
 中世後期の村では、村人に村が「官途」(官位)を与えていました。
具体的には「権守」「介」「大夫」「衛門」「兵衛」などです。これらの官途の名称は、朝廷が使っていたものをコピーしたものです。権守、介はそれぞれ国司の長官と次官であり、衛門、兵衛はそれぞれ衛門府、兵衛府のことです。また大夫と大は五位(正五位、従五位)のことになります。しかし、村における官途付与はもちろん朝廷の正式の任免手つづきを経たものではありません。ある年齢に達したときや、鎮守の造営に多額の寄付を行ったときなどに、村の合議によって官途が与えられていたようです。

中国古代帝国の形成と構造 : 二十等爵制の研究(西嶋定生 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 西嶋定生の「二十等爵の研究」を思い出させてくれます。
① 秦朝発展の原因のひとつは開発地に新たに設置した「初県」(新村落)にあった。
②初県では人的秩序形成のために国家が定期的に位階を配布し、人間のランク付けを行った。
③ハレの場である社稷祭礼の際には、その位階ランク順に席につき、官位の高い老人や有力者が当然上位に位置し、会食も行われた。
④この座席順が日常生活でのランク付けに用いられた。
この手法と日本の中世神社で行われていたことは、なんとなく響き合うものを感じます。アジア的長老支配の手法といえるのかもしれません。
京都府宮津市の神前式|天然記念物の花々が咲き乱れる「山王宮日吉神社」とは
日吉神社本殿
話を日吉神社に戻します。
官途の名乗を許されると「官途成」と呼ばれます。
官途成すると、その村の成人構成員として認知を受けたことになります。江戸時代の庶民に「○衛門」「○兵衛」「○介」といった名前が多いのは、中世村落での官途成に由来があるようです。江戸時代になると、こうした名前も親の命名で自由につけられるようになりますが、中世には、村の許可を得てはじめて名乗れる名前でした。村の官途にも上下の秩序があったようです。「衛門」「兵衛」などは、比較的簡単に名乗ることが許可されたもので、下位ランクの官途だったようです。
それに対し最高位は、この棟札に出てくる「権守」です。
彼らも若いころは「衛門」や「兵衛」などの官途を名乗ったのでしょう。それが年齢を重ねるとともに「大夫」へ、さらに「権守」へと「昇進」していったようです。「権守」までくれば村のオトナで、指導者です。そういう目で見ると、伊爾荘の日吉神社も、オトナたちが遷宮事業の中心となっていたのが分かります。
 遷宮完了を記念して、右側2枚は、荘の代官を勤めている国人たちが納めた者です。そして左側のものは、村の指導者(オトナ=権守)たちが、自分たち独自の棟札を神社に納めものです。そこには、鎮守を実質的に維持・管理するのは自分たちだという自負と、この機会にその集団の結束や団結を確認する思いを感じます。棟札には、村を運営した人々の存在証明の主張が込められていると研究者は指摘します。
ヤフオク! -「棟札」の落札相場・落札価格

2つの神社の棟札を見て養った「視力」で、坂出の神谷神社に残る棟札を見てみましょう。

神谷神社本殿2
神谷社殿社殿
この神社の社殿は香川県に2つしかない国宝建築物のひとつです。大正時代に行われた大改修の時に発見された棟木の墨書銘に、次のように記されていました。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
 惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。

神谷神社棟札1460年
   今度は一番古い年紀を持つ上の棟札(写)を見てみましょう。
表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。「再興」とあるので、それ以前に建立されていたことが分かります。建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。そして真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。  その下に来るのが改修総責任者の名前です。「行者神主松本式部三代孫松本惣左衛門正重」とあります。
神谷神社は明治の神仏分離までは「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。「行者神主」にそのあたりのことが現れていることがうかがえます。
さて私が興味をひかれるのは最後の行です。
「当村政所並惣氏子共栄貴祈所 木(?)政所並惣氏中」とあります。ここに出てくる「政所」とは何なのでしょうか? 
先ほど見た京都の武内神社の天正三年(1574)の棟札にも、オトナのうち一人に「政所」という肩書きがありました。そして十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことをみました。それと同じ意味合いだとすると、神谷村のオトナ(有力者)たちということになります。しかし、ここでは「当村政所」とだけ記し、具体的な氏名は書かれません。

神谷神社棟札2枚目


その後の16世紀後半から百年毎棟札を並べたのが上図です
この3つの棟札を比べると次のようなことが分かります。
①地域の有力者の手で、定期的に社殿の遷宮(改修)が行われてきたこと
②遷宮の行者神主は代々松元氏が務めていること
③村の檀那等(氏子)の祈祷所として信仰を集めてきたこと
④中世は脇坊の僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていたのが、江戸時代になると「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになっている。
そして、オトナ(有力者)の名前が具体的に記されています。
神谷神社にも 中世のオトナ → 江戸時代の庄屋 → 明治以後の顔役 神社総代という流れが見られるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121P


               日根野荘1 

和泉国日根荘(大阪府泉佐野市)は、研究者に取り上げられることの多いフィールドです。ここは公家九条家の所領でした。16世紀初頭、前関白九条政基が後柏原天皇の怒りをこうむり、4年あまりここで蟄居生活をおくります。
日根野荘2
日根野荘 大入地区の絵図(上の写真部分) 

彼が日野荘で体験したことは、初めて見聞きすることばかりで、興味をひかれることが多かったようです。ここに滞在中に村で起きたもめごと、農村の年中行事、紀伊の根来寺と和泉守護細川氏の二つの勢力のはざまで安泰を求めて苦悩する村の指導者たちの姿などを、政基は筆まめに書き残しています。これが『政基公旅引付(まさもとこうたびひきつけ』です。

日野荘3

『政基公旅引付」は『新修泉佐野市史 史料編』に注釈とともに現代語訳も載っているので私にも読むことが出来ます。日野荘の雨乞いや神社について、焦点を絞って見ていくことにしましょう。テキストは   日本の中世12   村の戦争と平和  141P 鎮守の森で」です。

日根野荘 風流踊り
洛中洛画図    風流踊り
日野荘の孟蘭盆行事を見てみましょう。
政基が入山田に下った最初の年、文亀元年の7月11日の宵、槌丸村の百姓たちが政基の滞在している大木村の長福寺にやってきて、堂の前で風流(ふりゅう)念仏を披露します。風流念仏とは、きらびやかな衣装を着け、歌い踊りながら念仏を唱えるものです。派手な飾り付けをした笠をかぶったり笠鉾をともなうこともありました。要するに盆踊りの原型です。
 13日の夜には船淵村の百姓がやってきて風流念仏を披露し、さらにいろいろな芸能も演じて見せます。どうせ田舎者のやぼったいものだろう、とたかをくくっていた政基は、思いがけず水準の高い腕前に、次のようにうなっています。

「しぐさといいせりふといい、都の名人にも恥じないものだ」

まんのう町諏訪神社の念仏踊り
まんのう町諏訪神社の念仏踊り(江戸時代後半)

翌14日には大木村、15日には菖蒲村がやってきて、風流念仏を披露します。注目されるのは、その翌日のことです。月が山の頂にのぼるころ、日野荘内の四ヵ村衆が荘鎮守の滝宮に集まり、そこで全員で風流念仏を踊っています。つまり惣踊りになるのでしょう。さらにそのあと、船淵の村人によって能の式三番と「鵜羽」が演じられてお開きとなります。ここからは次のようなことが分かります。
①戦国初期の日野荘では、盆行事として、四つの集落がそれぞれに風流念仏を演じるような「組織」を持っていたこと
②四つの集落は一堂に会して、披露するような共同性もあったあわせもっていたこと
③そのレベルが非常に高かったこと
女も修行するぞ!日本最古の霊場、大阪・犬鳴山で修験道体験 | 大阪府 | トラベルjp 旅行ガイド
犬鳴山七宝滝寺と七宝の瀧
天変地異の生じたときも、四つの村は揃って鎮守で祈祷を行っています。
 政基が日野荘に下った文亀元年は日照りでした。政基の日記には、梅雨のただ中であるはずの旧暦五月でさえ、雨が降ったのは七日だけで、六月のはじめには「百姓たちは甘雨を願っている」と日照りが続いたことを記します。それは七月に入っても変わりません。そこで、7月20日、滝宮で犬鳴山七宝滝寺の山伏たちか雨乞祈祷をはじます。
犬鳴山七宝瀧寺 | かもいちの行ってきました!
七宝滝寺の行場
七宝滝寺は役行者が修行したとされる修験の行場で、山伏の活動の拠点です。
三日のうちに必ず雨を降らせてみせよう、それでだめなら七宝の滝で、それで,だめなら不動明王のお堂で祈祷しよう、なおだめなら滝壺に鹿の骨か頭を投げ入れ、神を怒らせることによって雨を降らせてみせよう。山伏たちはそんな啖呵ををきったと記します。
犬鳴山 七宝瀧寺/イヌナキサンシチホウリュウジ(大木/寺) by LINE PLACE
      七宝滝寺の祈祷場 後には不動明王

 村の雨乞いの主導権を握っていたのは、山伏だったようです。
山伏の祈祷に四ヵ村の村人たちも参加します。祈祷を始めて三日目の7月23日の昼下がり、にわかに滝宮の上に黒雲が湧き、雷鳴がとどろいました。滝宮の霊験あらたかに雨が降るかと思われましたが、雲は消え、さらに五日間、晴れつづけます。それでも村人が祈蒔をつづけていたところ、28日の夕方近くになって、今度は犬鳴山の上空に黒雲が湧き、入山田中に待望の大雨が降ります。雨は入山田にだけ降り、隣の日根野村や熊取村には一滴も降らなかったと記します。翌日からは数日間雨が続き、なんとか滝宮の神も面目を保つことができました。
平成芭蕉の旅語録〜泉佐野日本遺産シンポジウム 中世荘園「日根荘遺跡」 | 【黒田尚嗣】平成芭蕉の旅物語
火走神社

 雨を降らせてくれた神様へのお礼をすることになります。
8月13日、四ヵ村の村人たちは滝宮(火走神社)に感謝の風流踊りを捧げることになります。船淵と菖蒲は絹の旗、大木と土丸の集落は紺の旗を押し立てて滝宮に参り、いろいろな芸能や相撲を奉納しています。村人たちが扮装して物真似芸や猿楽などを演じたようです。猿楽は政基の滞在している長福寺の庭先でも再演されました。その達者ぶりに政基は、「都の能者に恥じず」と、その達者ぶりに驚いています。ここからは雨乞祈願や祭礼も、荘園鎮守を核として4つの村が共同で行っていたことが分かります。
日野荘 火走神社
火走神社(和泉名所図絵)

 荘園鎮守(荘園に建立された神社)とは、どんな役割を担っていたのでしょうか。 
 荘園鎮守は、荘園が成立したときに荘園領主がみずからの支配を正当化するために勧請したものです。そのため勧進された仏神は、荘園領主を目に見える形で体現する仏神であることが多かったようです。例えば
①摂関家や藤原氏の氏寺興福寺を荘園領主とする荘園であれば、藤原氏神の春日権現、
②比叡山領であれば山王権現(日吉社)
③賀茂社領であれば賀茂社
が鎮守として勧進されるという具合です。
これらの神は外からやって来た外来神になります。いわばよそ者の神様です。この外来神だけを勧請したのでは、荘民たちは、そっぽを向いたでしょうし、反発したかも知れません。これは大東亜帝国の建設を叫ぶ戦前の日本が、占領下のアジア諸国に神道を強制し、神社をソウルや台北に勧進し、それまでの在地信仰を圧迫したのと同じような発想で、巧みな支配とは云えません。
 荘園に勧進された神々は、荘園領守の氏神とともに、その土地在来の神(地主神)があわせて祀られることが多かったようです。例えば比叡山の修行道場である近江国葛川(大津市)では、比叡山が勧請した地主神社の境内に、葛川の地元神である思古淵明神を祀っています。ここからは、地元民が信仰していた神々を荘園領主の支配イデオロギーの中にたくみに組み込んでいったことがうかがえます。

大木火走神社秋祭りの担いダンジリ行事 | 構成文化財の魅力 | 日本遺産 日根荘

日野荘の鎮守滝宮は、大木にある現在の火走(ひばしり)神社です。
滝宮という名前からも、七宝の滝のかたわらにある七宝滝寺と神仏混淆して一体的な関係にあったようです。七宝滝寺は、九条家の氏寺で、九条家の繁栄を祈願する寺です。七宝の滝は日根野をうるおす樫井川の上流にあり日根荘の水源にあたります。九条家は水源に、みずからの保護する寺院を建立すことによって、日根荘の開発者であり支配者としての正当性を目に見える形で示そうとしたようです。「水を制する者が、天下を制する」の言葉が、ここでも生きてきます。そして、その宗教的なシンボルモニュメントとして七宝滝寺であり、火走(ひばしり)神社を建立したということになります。
 水源にあることが人々の篤い信仰の裏付けとなっていきます。このように荘園鎮守と荘園の水源は、セットになっていることが多いようです。

日根神社
 
水源に建つのが火走神社であるとすれば、樫井川から引かれた用水の分岐点に立つのが鎮守大井関明神(日根神社:泉佐野市日根野)です。
日野荘 日野神社 井川
 井川(ゆかわ) 日根神社から慈眼院本坊前の境内を流れる。

 井川と呼ばれ、土丸の取水口から日野神社の境内に引き込まれ、そこからあちこちに分水されていきます。この用水が日根荘の中世開発に重要な役割を果たしたと考えられています。そして、水の取り入れ口であり、分水点に鎮守が建立されているのが日根神社になるようです。
由緒 | 日根神社公式
『和泉国五社第五日根大明神社図』江戸時代後期

このような用水路網と宗教施設の立地関係は、讃岐三野平野の高瀬川の用水路網にも見られます。

東国からやってきた西遷御家人の秋山氏は、高瀬川沿いの用水路整備を進める上で、その分岐点毎にに本門寺の分院を建立していきます。そして、その水回りのエリアの農民を檀家に組織しています。こうして「皆法華衆」という法華神と集団を作り上げて行きます。農業油水の供給を受けるためには、法華宗になることが手っ取り早い環境が作られていたとも云えます。
 また丸亀平野の満濃池用水路の主要な分岐点にも、庵やお堂などの宗教施設がかつてはあったことが分かります。そこでは、「お座」や「講」などの庶民信仰の場となっていたようです。水利権と信仰が織り交ぜられて日常化されていたのです。
田植え 田楽踊り
中世の田植え踊り
鎮守における祭礼は、農事暦と深い関係にあることは民俗学が明らかにしてきたことです。
農事暦で中世農村の年中行事を見てみると、 
①一年の農作業の開始と小正月(正月)
②田植えの開始と水口祭(四月)
③畠作物の収穫と孟蘭盆(七月)
④米の収穫と秋祭り(八月末もしくは九月はじめ)
⑤一年の農作業の終了とホタキ(十一月)
などは密接に関わっていることがうかがえます。
 入山田の滝宮で孟蘭盆に風流念仏が行われていたことは見ました。収穫の済んだ稲藁を積み上げて燃やし、来年の豊穣を祈るホタキも滝宮に七宝滝寺の僧を集めて行われていました。また日根野村の大井関明神では四月の水口祭が行われていました。山城国伏見荘(都市伏見区)でも、荘鎮守の御香官(現御香宮神社)で小正月の風流笠や九月初旬の秋祭りが行われていました。荘園鎮守で繰り返される年中行事は、 一年の農事暦と深くかかわっていました。このような立地状況や年中行事からも荘園鎮守は農業神としての性格を併せ持っていたことが分かります。それが住人の信仰に深く関わる源になります。
もともとは荘園鎮守は荘園領主の支配装置として設けられたものです。
それが時代が移り荘園領主がいなくなっても、荘園鎮守が存続し、祭礼がその後の引き継いで現在に至るものがあります。その背景には、鎮守社の二面性のひとつである農業神としての性格があったと研究者は考えているようです。
    荘園に勧進されて建立された「荘園鎮守」を見るときの参考にさせていただきます。感謝
    
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
    日本の中世12   村の戦争と平和  141P 鎮守の森で
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以前に備中新見荘から高梁川を下って、舟で京都に帰る荘園管理人(僧侶)の帰路ルートを追いかけました。今回は中世の山陽道を旅した僧侶の記録を見てみましょう。 テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。
山陽道斑鳩宿

播磨国斑鳩荘(兵庫県太子町・龍野市)は、法隆寺のもっとも重要な荘園でした。
延徳二年(1490)、法隆寺の僧快訓(かいくん)がこの斑鳩荘に向かう旅をはじめます。快訓は政所として赴任することになったのです。その旅路を「当時在荘日記」には次のように記されています。
僧快は、大和の斑鳩を発って、大和川沿いに河内に入り、山本(八尾市)で、持参した昼の弁当を食べています。その日の夜は、天王寺宿(に宿泊。宿泊料は700文、庭敷銭(にわしきせん)は100文とあります。庭敷銭とは、庭の占有料という意味で、荷の保管料のようです。翌朝、宿で朝食が用意され、快訓には30文、雑用のために従っている下僕たちには25文の食事が出されています。

斑鳩寺 クチコミ・アクセス・営業時間|たつの・揖保川・御津【フォートラベル】
太子町の斑鳩寺
二日目は、天王寺から舟で大阪湾を横切り、西宮宿で昼休み。休憩料は500文、庭敷銭は50文です。宿泊料に比べると休息料が高いような気もします。宿で昼飯をとっていますが、やはり身分に応じて30文と25文のランク分けされた食事が出されています。その日は、兵庫宿(神戸市兵庫区)まで行き、宿をとります。ここの宿泊料は、前回利用したときには700文だったが、値上がりして800文になっていた、ただし庭敷銭、翌朝の朝食代などは値上がりしていなかったことまで記します。
以下の旅程を見てみると次のように記します。
3日目は、大蔵谷宿(明石市)で昼休みし、加古川宿で宿泊、
4日目は国府(姫路市)で昼休みし、その日の夕方に竜野に到着しています。細かな経費は下表のとおりです。
山陽道 宿賃一覧表

これを見ると、宿泊料、食事代などは、全行程ほぼ同額なことが分かります。快訓の旅行記録から、この時代の山陽道では、どこの宿に泊まっても、同じような経費で同じようなサービスが受けられる、というシステムができていたことが分かります。
 中世後期の陸上交通をささえるインフラやシステムについては、まだ分からないことの方が多いようです。「関所が乱立してスムーズな交通が妨げられていた」ように思いがちですが、この記録を見る限りは、案外に快適な旅ができたようです。

   中世山陽道の宿は、どんな人が経営していたのでしょうか?。
朝日新聞デジタル:世界記憶遺産が描く荘園の騒動 矢野荘 - 兵庫 - 地域

播磨西部の現在の相生市に矢野荘がありました。
ここは東寺の荘園で、その史料が「東寺百合文書」の中に残されているので、研究が進んでいるようです。この荘園を山陽道が通っていて、隣の荘園に二木宿がありました。この宿を拠点とした小川氏という一族を追いかけて見ようと思います。小川氏は、南禅寺領矢野別名の荘官を務める武士で、同時に金融活動も行っていたようです。
小川氏の活動とは、どんなものだったのでしょうか? 
 守護赤松氏がとなりの東寺領矢野荘に、いろいろな目的で人夫役を賦課してきたときには、同荘の荘官に代わって守護の使者と減免の折衝をしています。ときには命じられた数の人夫を雇って差し出したりもしています。矢野荘自身が必要とする人夫を集めることもしています。(「東寺百合文書」)。いわゆる人足のとりまとめ的な役割を果たしていたことが分かります。
 そんなことができたのは、小川氏か宿を拠点に持ち、「宿周辺の非農民の流動性のたかい労働力を掌握」していたからできることだと研究者は考えているようです。つまり、一声かけると何十人もの人夫を集めることの出来る顔役であったということなのでしょう。即座に多くの人夫を集めることができる力は、交通・運輸業者としての武器になります。それが小川氏の蓄財の源だったとしておきましょう。
小川氏と交通のかかわりは、それだけではないようです。
 二木宿には時宗の道場がありました。時宗の道場は、安濃津や、東海道の萱津(愛知県海部郡甚目寺町)、下津(同稲沢市)などの例が示すように、旅行者の宿泊所として使われていました。ただの宿泊所ではなく将軍の宿所として利用されることも多く、宿泊所としてはランクの高いものだったようです。二木宿の道場も、格の高い宿泊所だったと推測できます。
 あるとき二木宿の遊行上人(時宗の僧)が勧進活動をはじめます。道場を維持するための勧進だったのかもしれません。このとき小川氏は、周辺の荘園をまわって勧進への協力を求めています。ここからは、二木宿の道場(宿泊所)は、小川氏の保護を受けて維持されていたと研究者は考えいます。小川氏が時宗の保護者であると同時に、宿泊所のオーナーであった可能性も出てきます。
 周辺の人夫を掌握し、宿泊所を維持する、そして金融業を営むほどの財力。これが室町時代の「宿の長者」だったようです。
小川氏と同じような存在は斑鳩荘もいました。斑鳩荘六ヵ村の一つ宿村も山陽道の宿です。

山陽道斑鳩荘マップ1

斑鳩宿と呼ばれていたこの宿の長者は、円山氏でした。
円山氏は、宿の守護神である戎社の裏手に屋敷を構え、宿村を中心に土地を集積する有力者でもあったようです。円山真久は、永正十三年(1516)に行われた斑鳩寺の築地修理のときには、守護や守護代の五倍もの奉加銭を出しています。もともと円山氏は、荘内の人間ではなく、十六世紀になるまでは斑鳩荘の名主職ももってはいなかったようです。それが円山真久は斑鳩寺や、聖霊権現社や斑鳩荘の鎮守稗田神社の修理にも多額の寄進を行い、その功績によって太子講という斑鳩荘の侍衆たちによって構成される講への参加資格を認められます。鎮守の祭礼や造営にお金を出すことは、地域での身分序列を形成・確認するための格好の機会でした。円山氏は、このセオリー通りを利用して「上昇」していきます。円山氏の財力も二木宿の小川氏と同じように山陽道の交通・運輸にかかわることによって獲得されたものと研究者は考えいます。
 円山氏の姻戚関係を知る史料が残されています。
永禄十年(1567)に作成された円山真久(河内守・二徳)の譲状(「安田文書」)によれば、彼には、「妙林・揖保殿・香山殿・神吉殿・平位殿・小入」の六人の娘がいました。揖保と平位は斑鳩の西方、神吉はずっと東方の加古川あたりの、いずれも山陽道に沿った土地の地名です。円山真久は山陽道の交易によって交流を深めたそれぞれの土地の土豪たちに、娘たちを嫁がせていたことがうかがえます。神古郷の近くには加古川宿があるので、神古氏も宿支配関係者だった可能性があると研究者は考えています。
龍野醤油の祖・円尾家の新資料を発見 龍野歴史文化資料館で公開 兵庫 - 産経ニュース
竜野醤油の祖 安政2(1855)年制作の「円尾家当主肖像画」

 研究者が注目するのは、近世脇坂藩の城下町龍野(兵庫県龍野市)の竜野醤油の祖で豪商円尾氏の先祖についてです。
円尾家文書には、円尾氏の初代孫右衛門は、林田川をはさんで斑鳩宿と向かいあう弘山宿の出身であり、二代目孫右衛門(弘治二年〈1556〉生)の母は、「円山河内守」の娘だったと記します。記載された年代からすれば、この円山河内守は、斑鳩宿の円山真久のことのようです。二代目の母が真久の6人のうちのどの娘であるかは分かりませんが、斑鳩宿と弘山宿の有力者同士が縁戚関係にあったことが分かります。さらに真久は東寺領矢野荘の又代官職も手に入れ、矢野荘に土地も所有するようになります。
  
   法隆寺の快訓の播磨への赴任旅程では、どこの宿でもほぼ同額で同じようなサービスを受けられたことを見ました。
こんなシステムができあがっていた背景には、宿の長者同士が婚姻関係などで結ばれた情報交換のネットワークがあったことがうかがえます。そのネットワークが、山陽道沿いの広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していたと研究者は考えいます。

小川氏や円山氏のような宿の長者たちが旅館も経営していたことを見てきました。旅館の経営もただ寐る場所を提供するだけでなく、多角的サービスを提供していたようです。
興福寺大乗院門跡尋尊の日記『大乗院寺事記』の延徳二年(1490)十一月四日条には次のように記されています。
  先年、興福寺の衆徒超昇寺の被官で奈良西御門の住人宇治次郎は、運搬中の高荷を京都・奈良間の宇治で奪われた。近日になってこの高荷を引いていた馬が宇治の旅館扇屋の所有する馬であったことを知った超昇寺は、次郎と扇屋が結託して荷をかすめ取ったのではないかと疑ったのであろう、扇屋を捕らえ、次郎とともに拘禁してしまったという。

以上を整理しておくと次のようになります。
①宇治次郎は、京都と奈良の間の運輸に従事していた馬借である。
②宇治次郎の馬は個人持ちでなく、宇治の旅館扇屋所有の馬で、それを借りて営業していた。
③宇治次郎と宇治の旅館扇屋は結託して、荷主の荷物を奪われたと称してくすねた。
④これを疑った超昇寺被官の奈良西御門が扇屋と次郎を拘禁した
  ここからは、宇治の旅館扇屋が旅行者に宿泊場所や食事を提供するだけはなく、馬を持ち馬借を雇い運輸システムの中に組み込まれた存在であったことが分かります。
奈良の転害大路1
平城京の転害大路は東大寺から西に伸びていた

 奈良の転害大路は京都方面から奈良に入ってきたときの入口にあたり、鎌倉時代の終わりにはすでに多くの旅館が営業していました。
室町時代の中ごろには鯛屋、烏帽子屋、泉屋などの旅館が営業していました。戦国時代になると、旅館業以外の商売にも手を広げていたようです。たとえば、天文十一年(1542)十一月、伊勢貞孝が将軍足利義晴の名代として春日社に代参したときには、転害大路の旅館腹巻屋に、300~400人もの随行者を連れて宿泊しています。この腹巻屋は金融業や酒造業を営む富商でもあったようです(『多聞院日記』天文11年11月15日条ほか)。

奈良の転害大路
転害門

旅館の活動は商売だけではありません。
京都と奈良のちょうど中間に位置する奈島宿(京都府城陽市)には魚屋という屋号の旅館がありました。この魚屋の亭主孫三郎はについて、
「康富記」は次のように記します。
「奈島や木津あたりにある大炊寮惣持院領の年貢米を請け取って、大膳職に渡している人物」
探訪 [再録] 京都・城陽市南部を歩く -3 道標「梨間の宿」・梨間賀茂神社・深廣寺 | 遊心六中記 - 楽天ブログ

京都の近郊には、一つの所領といっても一ヵ所にまとまって存在しているのではなく、耕地があちこちに点在している型の所領が多く、年貢を集めるのも容易ではなかったようです。南山城各地に散らばっている大炊寮領の年貢のとりまとめを、魚屋が請け負っていたというのです。これも多数の馬や人夫、近隣の同業者との連絡網などがあって、はじめて可能なことです。
旅館のこうした機能に、地域的の権力者が目をつけないはずがありません。
播磨の二木宿の長者小川氏は、室町時代にすでに守護赤松氏の被官となっています。そして、みずから赤松氏の人夫催促使を勤めてもいます。人夫の元締めのような存在である小川氏を催促使とし取り込んでおいたほうが領国経営には有益だったのでしょう。

 十六世紀のはじめごろ、摂津の西宮宿には橘屋という旅館がありました。
    天文十二年(1543)、西官の近傍の久代村(兵庫県川西市)に池田氏から段銭が課されます。池田氏とは池田城に拠って北摂津を支配していた国人です。段銭賦課の名目は分かりませんが、おそらく毎年賦課されていた定例の段銭だと研究者は考えいます。暮れになって、段銭奉行の使者田舟五郎兵衛が徴収にまわり、久代村は段銭のほか奉行や奏者への礼銭など合わせて12貫余を納入しています。納入の場所は「西宮橘屋」です。翌年の記録にも、屋号は記されていませんが「西官へ納めた」と記されています(「久代村旧記」)。
ここからは、池田氏の使節は段銭徴収のために領内の村々を巡っていったのではないことが分かります。旅館にやってきて、近くの村々から段銭を持参させていたのです。領内に自前の在地支配の拠点をもたない池田氏は、保護する旅館を利用して、そこで納税業務を処理していたのです。旅館が「納税臨時出張サービス」的な役割を果たしています。旅館にはこのような準公的な顔もあったようです。

以上をまとめておきます
①中世後半のの山陽道には「宿の長者」が経営する旅館が姿を見せるようになった
②「宿の長者」は旅館経営以外にも、人夫の募集や馬借など多角経営を行い金融業者に成長して行く者もいた。
③彼らは街道沿いの同業者と婚姻関係などを通じて人的ネットワークを形成し、広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していった。
④「宿の長者」の持つ力に着目した戦国大名達は彼らを取り込み、支配拠点として利用するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。


 院政期に法皇や中央貴族たちの間で爆発的な流行を見せた熊野巡礼は、鎌倉時代になると各地の武士の間でも行われるようになります。さらに南北朝以後になると、北は陸奥から南は薩摩・大隅にいたるまでの多くの武士、都市民、農民、漁民たちが熊野に向かうようになります。貴族たちのきらびやかな参詣の例があまり知られていないためか、院政期の熊野詣に比べると影が薄いようです。しかし、いろいろな階層の人々の間に熊野巡礼が広まり、「蟻の熊野詣」といわれるような状況が現れるようになるのは、むしろ中世後半だったのです。そんな熊野詣で姿が一遍絵図には、何カ所にも描かれています。

一遍絵図 太宰府帰参3
一遍絵図 市女笠・白壺装束姿の熊野詣での旅姿

巡礼者たちは自分たちの力だけで熊野に向かったのではありません。
そこには熊野の修験者たちがつくりあげた巡礼の旅の安全を保障するシステムがありました。厳しい山岳修行による霊力獲得の信仰と、海の向こうの観音浄上で永遠に生きようという補陀落信仰の結びついたのが熊野信仰です。この信仰は、紀伊半島の山岳が本州最南端の海に落ち込む熊野という地に誕生しました。そこには修験者、時衆、聖など呪術的で、いくぶんいかがわしさも漂わせたいろいろな宗教者たちが集まり、そして各地に散って行きました。
 彼らは先達と呼ばれ、それぞれの地域において、人々に熊野の霊験あらたかなることを説いて信者とします。さらに獲得した信者を熊野参詣に勧誘するという活動を展開するようになります。先達は、信者との間に生涯にわたる師檀契約を結び、それは子孫にまで受け継がれていきました。
熊野信仰の諸相 中世から近世における熊野本願所と修験道 | 小内 潤治 |本 | 通販 | Amazon

熊野には、三山と総称される本官、新宮、那智山の三つの聖地がありました。
それぞれの聖地には御師と呼ばれる人々がいます。彼らは参詣者を自分の坊に宿泊させ、滞在中の食事の世話や、聖地での道案内などを行います。
中世の熊野御師としては、本宮の高坊や音無坊、那智の廊之坊などがよく知られています。
各地の先達は、それぞれに特定の御師と契約を結んで、三山にやってくると、馴染みの御師に参詣者の世話を任せます。先達とは、今日風にいえばツアー・コンダクターの役割を果たしていました。本山周辺の旅館と専属契約を結んだツアコンたちの案内によって、全国からやって来る熊野参詣者の旅が可能だったとも云えます。

熊野御師 尊称院

 先達と檀那の関係がツアコンと違うのは、両者には師弟関係以上のものがあったことです。
信者は何ヶ月にもわたる旅路の中で、先達の毎日の姿を見て畏敬の念を抱くようになります。信者たちが先達を怖れていたことをうかがえる文書も残っています。しかも契約制ではありません。一度結ばれた関係は死ぬまで続きます。破棄できないのです。死んでも子孫に世襲されていきます。
 信者たちの精神世界において先達の占める割合は大きかったのです。熊野参拝に同行した先達を信頼した檀那は、パトロンとして庵や院を建立し、先達を院主として向かえるようにもなります。こうして熊野行者が熊野神を勧進し、彼らが院主として住み着く山伏寺(山岳寺院)が四国の聖地や行場に姿を見せるようになります。それが四国霊場に発展していく、という筋書きのようです。 この場合、行場だった奥の院には不動明王が、里下りした里寺には薬師如来が本尊として祀られるというパターンが多いようです。
 豊楽寺薬師堂 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
豊楽寺の薬師堂 
熊野詣での巡礼者は、どんな施設に宿泊したのでしょうか。
 土佐の熊野参拝ルートの一つとして考えられているのが、現在の国道32号線のルートです。このルートには豊永の豊楽寺や新宮の熊野神社に代表されるように、熊野系寺社が点在します。これは、初期の熊野行者の土佐への進出ルートであったことを物語るようです。熊野詣でには、このルート沿いある寺社が宿泊所として利用されたようです。熊野神社や山岳寺院は、熊野詣での宿泊所でもあり、修験者の交流所や情報交換所の機能も持っていたことになります。吉野川沿い撫養まで出て、そこから熊野に渡ったことが考えれます。
豊楽寺釈迦如来坐像(彫刻) | 大豊ナビ
豊楽寺の薬師如来
 この他にも修験者や禅僧のように諸国を遍歴する宗教者を宿泊させる施設として「接待所」とよばれる建物があったようです。また、四国八十八ヵ所巡礼路沿いに「旦過」という地名が多く残されています。旦過とは、もともとは禅寺で遍歴修行中の雲水を宿泊させる施設でした。それが聖地巡礼者や行商人のための簡易宿泊所も指すようになったようです。

滝沢王子
滝沢王子 

熊野参詣の場合には、参詣路のあちこちに「王子」と呼ばれる祠がいまでも残っています。
南部王子(和歌山県日高郡南部町)の故地近くには、今は丹川地蔵堂と呼ばれる小さな堂が建っています。熊野参詣路にも巡礼者のための「旦過」があったことがうかがえます。先達に率いられて熊野を目指す信者たちも、こうしたお堂を利用していたようです。
終わりかけの梅の花(熊野古道紀伊路 切目駅~紀伊田辺駅) / よもぎもちさんの熊野古道紀伊路その3の活動日記 | YAMAP / ヤマップ
丹川(旦過)地蔵堂
接待所も旦過もお堂のような粗末な建物で、旅行者の世話をする人もいなかったはずです。これが四国遍路の遍路小屋に受け継がれて行くのかもしれません。どちらにしても風呂に入って、布団に寐て、ご馳走を食べてと云う寺社詣でとは、ほど遠い設備や環境でした。熊野詣では修行であり、苦行の性格が強かったとしておきましょう。

一方では、中世後期には常時営業している旅館も登場してきます。
それは伊勢参詣路に多く見られます。鎌倉時代になると神仏混淆が進む中で、伊勢神宮自らが「伊勢の神は熊野権現と同体である」との主張するようになります。民衆に広がった極楽往生願望を伊勢が吸収する説が広められます。その結果、鎌倉中後期以後、難路のつづく熊野参詣より簡単にお参りの出来る伊勢は、急速に参詣者を拡大していくようになります。
 室町中期の禅僧太極の日記には、備州の村民たちが共同で米穀を拠出し、それを運用した利潤で伊勢参詣の旅費に充てようとしていたところ、運用を委ねられていた者が私的に流用してしまったという記録が残っています(『碧山日録』寛正三年八月九日条)。
 ここからは、岡山の農村社会でも伊勢参詣の講が結ばれていたことが分かります。
室町時代には、足利義満、義持ら将軍が盛んに伊勢参詣を行います。
将軍等が伊勢参りを行うと、京都の貴族、武士、僧侶の間で拡がり伊勢講がつくられるようになります。熊野詣でに、取って代わる流行です。伊勢外宮の門前の山田(伊勢市)には、御師たちの経営する宿坊が軒を連ねるようになります。
日本人の原風景Ⅱお伊勢参りと熊野詣 - 株式会社かまくら春秋社

どうして伊勢参りに人気が出たのでしょうか
  熊野参詣には難路を歩くという苦行的要素があり、参詣者にもそれを期待するようなところがありました。先達も宗教的威厳に満ちた「怖い人」で、修行的でした。それに対して、伊勢参宮は観光的な要素が強かったようです。また後発組の伊勢参詣路には、整った宿泊施設が用意されるようになります。お堂や寺社の接待所に泊まるのとは違った楽な旅ができたようです

室町期の伊勢参詣を記した太極の参詣記録を見てみましょう。『碧山日録』
長禄三年(1459)春、太極は伊勢参詣に出かけます。太極は京都・東福寺の僧ですが、五山の禅林の中では、それほど高位の僧ではないようです。伊勢行きに同行したのは、若い四人の弟子たちです。
京都から琵琶湖岸の松本津(滋賀県大津市)に出、
舟で対岸の矢橋(同草津市)に渡ったのち陸路で草津に到着、旅館で昼食をとります。ここで瀬田橋周りのルートを騎馬で追いかけてきた一族の武士たちと合流しています。その日の宿泊は近江の水口(同甲賀郡水口町)です。
翌日は雨の中、鈴鹿山を越えて坂下(鈴鹿郡関町)に出ますが、疲労のために急遽、窪田(同津市)の茶店で宿泊しています。
翌日は雨も止み、茶店で馬を借りて、遅れを取り戻すかのように、一気に山田まで行きます。伊勢神宮では、外宮、内官に参拝をすませると、山田での宿泊はわずか一泊で帰途につきます。
復路の初日は安濃津(津市)、二日めは水回の旅館に宿泊しますが、太極は足をすっかり痛めてしまい、水口で馬を借りて草津に到着しています。舟で松本津に渡ると再び馬を借りて、京都に帰着しています。

 ここからは参詣路上に宿泊場所や食事を提供したり、馬を貸し出したりする旅館があったことが分かります。もちろん馬子つきです。
江戸時代のお伊勢参りの浮世絵に出てくる光景が、いち早く生まれていたことがうかがえます。
江戸の旅ばなし4 交通手段① 馬 | 粋なカエサル

江戸時代のお伊勢参り 馬子の曳く馬に3人乗り

太極の旅より37年前、応永29年(1422)に中原康富ら下級貴族たちの仲間が伊勢に参詣しています。『康富記』
初日は昼食が坂下、宿泊は窪田。
2日めは昼食が飛両(三重県一志し郡三雲町肥留)、
宿泊は山田。
帰路の初日は窪田で昼食、坂下で宿泊。
3日めは水口で昼食、草津で宿泊。
太極の旅程と比べると休憩地、宿泊地ともによく似ています。その他の伊勢参詣の記録をみても、旅程は同じです。ここからは、室町半ばには伊勢参詣には、定まった旅程のパターンが成立していて、参詣客をあてこんだ宿場が形成されていたと研究者は指摘します。

伊勢詣で 御師宿の客引き
伊勢御師の宿の出迎え(江戸時代)
室町時代には、宿の予約システムもあったようです。
永享二年(1430)2月、前管領畠山満家の家臣が奈良を訪れ、定宿である転害大路(奈良市)の旅館藤丸に宿を取ろうとしたところ、

「きょうは伊勢参詣の旅人が泊まるという先約がある」

という理由で断られてしまいます。(『建内記』永享二年二月二十三日条)。結局伊勢参詣の客は来ず、宿泊を断られた畠山の家臣たちは怒って藤丸になぐり込み、大路の住人を巻き込んだ刃傷事件になります。ここで研究者が注目するのは、伊勢参詣の旅人が何日も前から、藤丸に宿泊の希望を告げていたということです。室町時代の中ごろ、旅館に宿泊予約をしておくというシステムがすでに成立していたことがうかがえます。
 どんな人々が旅館を経営していたのでしょうか。
鎌倉時代の史料に、宿の長者と呼ばれる者がでてきます。網野善彦氏は宿の長者を次のように記します
「宿の在家を支配し、宿に住む遊女、愧儡子などの非農業民を統轄していた者」

長者自身が旅館の経営者でもあったようです。
『吾妻鏡』建久元年(1190)十月の源頼朝上洛記事には、
頼朝の父義朝は、東国と京都を行き来するたびに美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)の女長者大炊の家に宿泊していた。それが縁で大炊は義朝の愛人となっていたことが記されています。
また文和二年(1353)、南朝軍に京都を攻略され、美濃国垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)まで落ちのびた足利義詮も長者の家を宿泊所としています。ここからは宿の長者の家が旅行者の宿として利用されていたことが分かります。

    そういう目で金刀比羅宮を見ると、近世に成立した門前町に宿を開いたのは、金比羅信仰を広めた天狗信仰の山伏(修験者)=先達たちが多かったようです。彼らは各地で獲得した信者を、自分の宿の常客としたのかもしれません。金比羅にも熊野・伊勢信仰につながるシステムが継承されていたようです。

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厳島合戦その8 | テンカス・気まぐれ1人旅
     厳島合戦
 戦国期は、海賊衆の活動の最もめざましい時代を向かえます。しのぎをけずりあう周辺の戦国領主たちにとって、厳島合戦のように村上氏海賊衆の水軍力が勝敗の決め手になることもありました。その軍事力や制海権、輸送力は垂涎の的になります。多くの戦国領主が、村上水軍を味方につけようと画策するようになります。村上氏関係文書の中に残されている山名・河野・大内・毛利・小早川・大友・織田・羽柴などの各氏の発給文書の存在が、そのことを雄弁に物語ります。そして、村上氏がその期待に応えて、各地の合戦に多くの戦功を挙げます。

村上水軍と海賊

室町時代の海賊衆は警固活動だけでなく、海上輸送業も行っていたようです。
ただ近世になると、軍記物では戦いばかりに目が向けられ、平和時の日常的な輸送活動については描かれることがなかったために、抜け落ちてしまっているようです。
 海賊衆の中で最も多くの文書を残しているのは、村上氏です。村上各家に残されている文書をみてみると、その大部分は戦時における一族の活躍を伝えるもので、それ以外のものあまりありません。これは村上各家の文書の伝来のしかたに、一種の偏りがあるからだと研究者は指摘します。村上各家に保存されてきた文書は、膨大な文書の中から各家にとって、残しておく価値ありと判断されたものが保存されてきました。それは、戦時に各大名から戦功を賞して与えられた感状や安堵状です。輸送業務部門の日常的な記録は、意味のないものだったのかもしれません。今に残る村上氏関係文書は、戦時における一族の軍事行動を知るのには、つごうのいい史料です。しかし、そこから平時の姿を知ろうとすると、何も見えてこないということになります。

牡蠣と室津の遊女 | 魔女の薬草便

法然上人絵図に登場する中世の舟(室津) 


 日常的に営まれていた村上氏の海上輸送活動姿を知ろうとすれば、それ以外の史料を探さなければならないようです。そのような種類の文書として、研究者が目を付けるのが厳島神社や高野山に残る文書です
「高野山上蔵院文書」を見てみましょう。
上蔵院は、高野山上の寺院のひとつで、伊予からの参拝者の宿坊でした。そのため伊予の豪族たちが高野山参詣の際に利用し、その関係文書が数多く残されていています。その数は約130通にのぼり、時代は天文から天正にかけての戦国時代50年間に渡るようです。
 領主達と上蔵院には、次のような関係がありました。
①上蔵院からは高野聖が仏具や日用品を携えて伊予に出向き、領主の間を巡回しお札などを配り、冥加金を集金する
②伊予からは領主たちが彼ら高野聖を先達にして高野山に参詣をとげ、その際には、上蔵院を宿坊して利用する
  中世以来の高野の聖たちによって「高野山=死霊の赴く聖地」「納骨の霊場」信仰が広められてきました。私たちが高野山奥の院に見る戦国大名たちの墓石が林立する光景は、高野聖の布教活動の成果とも云えるようです。
織田信長の墓(高野山奥の院)
高野山奥の院の墓石

 上蔵寺の史料に、領主として名前があるのは、河野氏をはじめとし、周敷郡の黒川氏、桑村郡の櫛部氏・壬生川氏、野間郡の来島村上氏、風早郡の得居氏、和気郡の大内氏、温泉郡の松末氏、久米郡の角田(志津川)氏、伊予郡の垣生氏、浮穴郡の上居・平岡・相原・戒能などです。彼らは、戦国領主の河野氏の家臣団を構成する国人級領主たちです。地域的には河野氏の膝下である中予を中心にして、 一部東予地域までひろがっています。「上蔵院文書」によって、戦国後期に伊予国と高野山との間に、日常的な交流のあったことが分かります。

領主達は高野山参りに、どんなルートを使っていたのでしょうか?
中世の熊野詣には、熊野海賊の船が定期的に大三島の大山祇神社までやって来ていたとされます。伊予から熊野へは舟が用いられていたようです。そうだとすると、高野山詣でにも海上交通が使われていたことが予想できます。
 そのような視点で先ほど紹介した領主たちを見てみると、自前の舟で瀬戸内海を航行していく水運力を持っているのは来島村上氏と、忽那氏くらいです。大部分の豪族たちは、高野山に舟で出かける水運力はないようです。彼らは、どのような舟に乗って高野山を目指したのでしょうか。

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一遍上人絵図 (兵庫沖の中世廻船)

その疑問を解く鍵は、来島村上氏にあるようです。

来島氏が戦国期に強力な水軍力を持っていたことはよく知られています。「上蔵院文書」の関連文書の中に、一番登場してくるのも27/130通で来島氏です。上蔵院との交流で中心的役割を果していたのが来島氏だったことがうかがえます。
村上水軍 城郭分布図

内陸の領主たちは、来島村上氏の舟で高野山詣でを行っていことが予想できます。それを裏付けるのが「上蔵院文書」の次の史料です。
尚々彼舟ハさかい(堺)まて直々罷上候間、同道めされ候て可然存候 一筆令申候、乃此時分御帰山候哉、然者(  ?  )船愛元罷下候迄中途より借くれ、御祝言之御座船に被仕立候、彼船弐十日比過候ハヽ可罷上候間、御乗船候て可然之由候、たしかなる舟之事候間、申小輔□被申付上乗にまて堅固候之条、於御上者彼船二御乗候様二内々御支度干要候、某より内茂可申由候間、以書状申候、くハしく御返事二可蒙仰候、恐々謹言
六月十五日                                通康(花押)
高音寺御同宿中
                     来嶋右衛間大夫
高音寺                                       通康
御同宿中                                    
  意訳変換しておくと
この舟は堺に直接向かいますので、乗船をお勧めします。
次のことを連絡いたします。この度の高野山への帰山の船便については、事情によって能島村上氏から借用した船を使用します。御祝言の御座船に仕立てるため20日後には準備が整い出港予定です。身元の確かな舟で、上乗も付いて堅固で安全です。この舟に乗船できるように手配をしますので、準備をしてください。詳しくは御返事をお待ちしています。恐々謹言
文書の背景は次の通りです。
①文書の発給者・来島通康は、来島村上氏の中心人物で河野氏の重臣
②来島通康の死没年は永禄十年(1567)なので、文書発給年は永禄初年頃
③宛先の高音寺は和気郡内の真言宗寺院(現在松山市高木町)。

文書の内容は、伊予国にやって来ていた高野山上蔵院の僧侶に、帰路の便船の案内を伝える私信です。ここには、興味深い点がいくつか含まれています。
和船とは - コトバンク
遣明船に使われた船

第一は、来島村上氏は所有する船を、旅客船として運用していること。
この場合は、たまたま事情によって能島村上氏から借用した船を使用しています。戦時には軍船となる舟が平時には、御座船として使われ、さらにそこに旅客も乗せようとしています。水軍的側面ばかりが強調されていた来島氏の平時の姿を知る上で興味深い史料です。
第二に、その船が泉州堺に「直々罷上」る直行便であったこと
ここからは伊予からの高野山参拝コースは、船で堺に至り、そこから陸路をとったということが分かります。その前提として、来島氏は伊予から堺までの瀬戸内海航路の通行権を確保していたということになります。さらに推測すると、戦国期の伊予近海と畿内との間は海上交通で結ばれていて、海賊衆来島村上氏は、そこに持舟を就航させていたことがうかがえます。以前に、塩飽本島の塩飽海賊が定期的に畿内との旅客船を運用し、周辺から旅客が集まってきていたことを見ましたが、それと同じような動きです。
来島村上氏をはじめとする海賊衆は、どのような目的で伊予・堺航路に舟を就航させていたのでしょうか
高野山へ参詣する武将や、伊予国にやってくる高野聖を運ぶのが目的ではないはずです。高野山参拝は、たまたまつごうのいい便船を利用しているのにすぎません。通康書状の便船は「御祝言之御座船」という文言があるので、河野氏の上京のために用意された船かもしれません。これは特別な舟で、大部分の船にはもっと別の目的があったはずです。研究者はある種の商業活動を海賊衆がおこなっていたと考えているようです。
 しかし、そのことを「上蔵院文書」で証明することはできません。「上蔵院文書」が語っているのは、来島や能島の村上氏をはじめとする海賊衆の船が頻繁に瀬戸内海を航行し、堺と伊予との間を行き来していたという事実です。
村上武吉の花押がある「厳島野坂文書」の文書を見てみましょう。
預御状本望存候、乃去年至御島並廿日市、吾等家頼之者共所用候而罷渡候処二、無意趣二御島之衆被打果候事、無御心元存候、其節以使札申入候之処二、無御分別之通承候、然上者重而不及申達候、彼孫三郎親類共佗言申儀も可有之候、為我等不及下知候、御分別可目出候、猶御使者江申入候条省略候、恐々謹言
十月八日                                  武吉(花押)
棚守左近将監殿参 御返報
意訳変換しておくと
 去年、わが能島村上一族の者が「所用」のため宮島・廿日市に赴いていたところ、島衆によって討ち果たされるよいう事件が起きている。これに対して、使者を派遣して対処を申し入れたが、その後に何の連絡もない。これはあまりにも無分別な対応であるので、重ねて申し入れをおこなう次第である。殺された孫三郎の親類からの抗議もあり、私も捨て置くわけにはいかない。適切な対応をとり、使者に伝えていただきたい。

 能島の村上武吉が厳島神社社家棚守氏に対して、能島の「家頼」と厳島衆のトラブルについての対応を申し入れた書状です。ここで研究者が注目するのは、能島の「家頼」が「所用」があって「御島並廿日市市」に赴いていることです。その「所用」の内容は分かりませんが、「伊予衆」が参詣に名をかりて日常的に厳島へ「着津」し、商業活動を行っていた研究者は推測します。廿日市は厳島近海の地域経済の拠点で、その名の通り定期市が立ち、活発な経済活動が行われていた所です。「所用」とは、何らかの交易に関係するものであったとすると、能島氏は広島湾岸の宮島周辺にも進出して、「商売」を行っていた可能性があります。

村上水軍 テリトリー図3

以上、高野山と宮島厳島神社に残された文書からは、次のようなことが分かります。
第1に、来島村上氏や能島村上氏などの海賊衆も瀬戸内海海運に従事していたこと。
第2に、来島氏の堺―伊予航路の水運も商業活動をともなうものであった可能性が高いこと。
第3に、村上氏の活動エリアは、堺を中心とした畿内経済圏、四国松山の堀江を中心とした伊予エリア、宮島・十日市等を拠点とした安芸エリアなど、瀬戸内海の広い範囲に及んでいたこと

以上からは、海賊衆がただ単に警固活動をだけを生業としていたのではなく、海上交通や交易の担い手として平時には活動していたことが見えてきます。それを最後に振り返っておきます。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』には、東寺領弓削島荘に籍をおく船舶が、特産物である塩を積荷として活発な水運活動を展開していることが分かります。その担い手は、太郎衛門に代表されるような有力船頭たちです。彼らは、200石積の当時としては大型船で毎月のように畿内との間を往復しています。

そして、15世紀になると能島・来島・因島の各村上氏が史料上に姿を見せるようになります
弓削島荘では、小早川氏の「乱暴狼藉」に対応するために、東寺は海賊衆の村上右衛門尉やその子治部進が請負代官と契約を結んでいます。『入船納帳』に記録された弓削籍船の活発な活動と、これは同時代のことです。つまり、弓削島荘の経営を任され、それを舟で輸送していたのも村上氏ということになります。制海権を握る海賊衆の許可なしには、安全な航海はできなのですから。彼らは、荘園の請負代官として収取した年貢物(塩)を自らの舟で畿内に運びこみ、畿内市場で換貨してその代貨の一部を荘園領主に銭納していたと研究者は考えいます。
  戦国期になると、伊予の戦国領主河野氏配下の領主たちは高野山参詣を活発に行うようになります。
その参拝は、河野氏の重臣となっていた来島村上氏の舟で行われていました。来島氏は伊予から堺までの畿内ルートを確保し、定期的に便船を運航していたことが推測できます。
 能島村上氏も厳島の対岸十日市に、「所用」と称して家臣を遣わし商業活動を行っていました。宮島と堺は、来島村上氏によって舟で結ばれていたことがうかがえます。畿内へ向けての活発な水運活動の背景にも、商業活動があったようです。

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参考文献 
山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年

特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち       

前回は、鎌倉時代初めに西遷御家人として東国から安芸沼田荘にやってきた小早川氏が、芸予諸島に進出していくプロセスを見ました。小早川氏の海への進出は、14世紀の南北朝の争乱が契機となっていました。そのきっかけは伊予出兵でした。興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。つまり14世紀半ばに、生口島・因島・弓削島への進出が始まっていたことになります。では、村上氏はどうなのでしょうか。今回は村上氏がいつ史料に登場してくるのかを見ておくことにします。  テキストは「山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年」です。
近世の瀬戸内海No1 海賊禁止令に村上水軍が迫られた選択とは? : 瀬戸の島から

 史料に最も早く姿を見せるのは能島村上氏のようです。
貞和五年(1349)、東寺供僧の強い要請をうけて、幕府は、近藤国崇・金子善喜という二名の武士を「公方御使」として尾道経由で弓削島に派遣します。その時の散用状が「東寺百合文書」の中に残されています。
 その中に「野(能)島酒肴料、三貫文」とあります。この費用は、酒肴料とありますが、次のような情勢下で支払われています。

「両使雖打渡両島於両雑掌、敵方猶不退散、而就支申、為用心相語人勢警固

小早川氏が弓削島荘から撤退しない中で能島海賊衆が「警固」のために雇われていることがうかがえます。これは野(能)島氏の警固活動に対する報酬であったと研究者は考えています。ここからは14世紀前半には、芸予諸島で警固活動を行う能島村上氏の姿を見ることが出来ます。周辺の制海権を握っていたこともうかがえます。

村上水軍 能島城2

 小早川氏の悪党ぶりに手を焼いた荘園領主の東寺は「夷を以て、夷を制す」の教えに従い、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や村上治部進を所務職に任じて年貢請負契約を結んでいます。これが康正三年(1456)のことです。その当時になると弓削島荘は「小早河少(小)泉方、山路方、能島両村、以上四人してもち候」と記します。ここからは、次の4つの勢力が弓削島荘に入り込んでいたことが分かります。
「小早河少泉方=小早川氏の庶家である小泉氏
 山路方   =讃岐白方の海賊山路(地)方、
 能島    =能島村上氏
 両村
そして、寛正三年(1462)には、弓削島押領人として「海賊能島方」が、小泉氏、山路氏とともに指弾されています。弓削島荘をめぐる攻防戦に中に能島の海賊衆がいたことは間違いないようです。

村上水軍 能島城

戦国時代の能島村上氏の居城 能島城

能島氏の活動痕跡は、芸予諸島海域以外のところでも確認できます。
応永十二年(1406)9月21日、伊予守護河野通之の忽那氏にあてた充行状に「久津那島西浦上分地領職 輔徒錫タ事」とあります。これは、防予諸島の忽那島にも能島氏の足跡が及んでいたことを示します。ここからは能島村上氏は、南北朝初期から芸予諸島海域に姿を見せ始め、警固活動によって次第に勢力を伸ばしたこと、そして室町時代になると、防予諸島周辺でも地頭職を得ていることが分かります。
 その一方では、安芸国小泉氏や讃岐国山路氏などとともに弓削島荘を押領する海賊衆としても活動しています。当時の海賊衆の活動エリアの広さがうかがえます。
防予諸島(周防大島)エコツアー - 瀬戸内海エコツーリズム

次に因島村上氏について見ておきましょう。
因島村上氏の初見史料については、2つの説があるようです。
①「因島村上文書」中に見える元弘三年(1333)5月8日の護良親王令旨(感状)の充て先となっている「備後国因島本主治部法橋幸賀」という人物を因島村上氏の祖として初見史料とする説
②応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)を与えられている村上備中守吉資が初見とする説

①には不確かさがあります。②は、その翌年の正長元年(1428)には、備後守護山名時熙から多島(田島)地頭職が認められていること、文安六年(1449)には、 六月に伊予封確・河野教通から越智郡佐礼城における戦功を賞せられ、8月には因島中之庄村金蓮寺薬師堂造立の棟札に名があること、などから裏付けがとれます。ここから因島村上氏は、15世紀の前半から因島中之庄を拠点にして活動を始め、海上機動力を発揮して備後国や伊予国に進出していったとしておきましょう。
村上水軍 因島村上氏の菩提寺 金蓮寺
因島村上氏の菩提寺 金蓮寺

三島村上氏の中で、史料上の初見が最もおそいのは来島村上氏です。
宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に

「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」

とあるのが初見史料になるようです。当時の伊予国では守護家河野氏が3つに分かれて、惣領家の教通と庶家の通春とが争っていました。この書状は、教通が幕府の命によって出陣してきた小早川盛景に対して軍功を謝したものです。つまり、河野教通が越智郡来島城にとどまっていたことを示すものであって、決して来島村上氏の活動を伝えるものではありません。しかし、来島城を拠点にして水軍活動を展開する来島村上氏の存在はうかがえます。
来島城/愛媛県今治市 | なぽのブログ
来島城 
 来島村上氏がはっきりと史料上に姿をみせるのは、大永四年(1524)になります。
この年、来島にほど近い越智郡大浜(今治市大浜)で八幡神社の造営が行われましたが、その時の棟札に願主の一人として「在来島城村上五郎四郎母」の名前があります。
以上を整理すると
①能島村上氏が、貞和五年(1349)「東寺百合文書」の中に「野島酒肴料、三貫文」
②因島村上氏が 応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)の村上備中守吉資
③来島村上氏が宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」
とあるのがそれぞれの初見史料になるようです。

村上水軍 城郭分布図

ここからは、15世紀中頃には、三島村上氏と呼ばれる能島・因島・来島の三氏の活動が始まっていたことが分かります。これは前回見た小早川氏の芸予諸島進出が南北朝の争乱期に始まることと比べると、少し遅れていることを押さえておきます。

特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち

 小早川氏は、鎌倉初期に相模の土肥実平の子・遠平が安芸沼田荘の地頭職を得たことに始まるようです。遠平は平家討伐の恩賞として平家家人沼田氏の旧領であった安芸国沼田荘(ぬたのしょう、現在の広島県三原市本郷町付近)の地頭職を得ます。これを養子・景平(清和源氏流平賀氏の平賀義信の子)に譲ります。安芸国にやてきたのは景平になるようです。

小早川氏系図
建永元年(1206年)、景平は長男の茂平に沼田本荘を与え、次男の季平には沼田新庄を与えます。長男茂平は承久の乱で戦功を挙げ、安芸国の都宇荘(つうのしょう)・竹原荘(たけはらのしょう)の地頭職を得て支配エリアを瀬戸内海沿岸に伸ばします。茂平の三男・雅平が沼田本荘などを与えられ、高山城を本拠としたのが始まりで、これが沼田小早川氏で、本家筋になります。
高山城 沼田小早川氏 350年間の本拠となった中世山城 | 小太郎の野望 ::

高山城 沼田小早川氏の居城 三原市本郷町

 茂平の子・朝平は、元弘の乱で鎌倉方として六波羅探題に味方し付き従ったため、建武政権によって沼田本荘を没収されます。しかし、竹原小早川家の取り成しなどにより、旧領を安堵されています。
その後の「宣平、貞平、春平」の3代の間に芸予諸島に進出し、小早川水軍の基礎を築くことになるようです。
 今回は小早川氏の瀬戸内海への進出過程を見ていくことにします。
テキストは 山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年です。

系図を見ると分かるように沼田小早川氏の宣平の子である「小泉氏平、浦氏実、生口惟平」というふうに兄弟が、海に向かって一斉に進出する態勢をとりはじめます。自分たちの活動の部隊は、海にありと意識したような動きです。
 中国新聞社編著『瀬戸内水軍を旅する』には、次のように記されています。
 南北朝期、小早川氏の主な領域は沼田本荘、沼田新荘、都宇・竹原荘だった。本荘の惣領家は足利氏方、新荘の一部庶家が南朝方として戦い、一時は惣領家の城を占拠し、面目を失わせた。
 だがこの時期、惣領家は本荘沼田川流域の塩入荒野を干拓
造成した新田を庶子に与えた。庶子は新田地を本拠とし地名を姓とした。小泉、小坂、浦、生口、猪熊ら新庶家が生まれ、惣領家を支えた。小泉氏は氏平が始祖。干拓地のうち西部山寄りが領地である。  

杜山悠『歴史の旅 瀬戸内』P222~225P)には、次のように記されています。
惟平が拠った生口島瀬戸田は、航海業者たちの一つの拠点で商船の往来が激しく島内生活もその刺激を受けて活発になり、自由の気風に充ちた明るい世界が開けていた。生口船とか瀬戸田舟とかいわれたこの島の商船は、小早川生口因幡守道貫(惟平)支配のもので、商船とはいいながら、半面には海賊的性格も持っていて、兵庫関など平気で無視して通ったといわれる。また本荘小早川(本家沼田)でも能美島に進出し、大崎上島(近衛家荘園)にも南北朝の動乱期に入り込んでその支配権を持った。
 竹原小早川の海島進出もやはり始まっていて、景宗(二代)のとき安芸の高根島を含めた地頭職として島嶼に一つの足がかりをつかんだ。このようにして小早川一族が所領とした島々はおびただしい数にのぼり、その主なものでも、因島、佐木島、高根島、生口島、越智大島、大崎上島、生野島、大崎下島、豊 島、三角島、波多見島、能美島、向島、江田島、倉橋島、上下蒲刈島などがあげられる。」
   小早川氏の庶家である「小泉氏平、浦氏実、生口惟平」の拠点を押さえておくと、次のようになります。
①沼田荘内小泉に土地を与えられて小泉氏を名乗る氏平
②沼田荘内田野浦に拠って浦氏を名乗る氏実
③沼田荘に近い生口島の地頭職を与えられ、生口氏を名乗る惟平
④茂平の子経平は、これらよりも早く分立して船木氏を名乗る
 南北朝期の弓削島荘で「悪党」として活動するのは、これら小早川庶家衆です。
弓削島荘遺跡」の国史跡指定に係る文化審議会の答申について - 上島町公式ホームページ
手前左が因島 その右が生名島 その向こうが弓削島

彼らにとって、最大のチャンスは南北朝の内乱期であったことです。
これが国境を越えての伊予の島々への進出の機会となります。
  芸予諸島では伊予海賊衆が北上していましたが、小早川氏は三庶家を先頭に伊予衆を押し返す形で南下することになります。きっかけは伊予出兵でした。 興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。
   こららの動きがあった康永二年(1343)には、庶家衆に関する史料がいくつか東寺に残されています。その四月、東寺雑掌光信の訴えをうけて室町幕府引付頭人奉書が、当時伊予守護であった細川頼春に次のように訴えています。

「小早川備後前司(貞平)、同庶子等当所住人民部房・四郎次以の、なほもって退散せず、いよいよ乱妨狼藉を致」
                (東寺百合文書・六八四)

「国中劇の隙を伺ひ、当島に打入り、百姓住宅を追捕し、乱妨狼藉を致すの条、濫吹の至り、言語道断の次第なり」
「事を世上の動乱によせ、使節遵行の地に立ち還り、若干寺物を押取り、下地を押領せしむるの条、造意の企て、常篇を絶つ」(同・八〇〇)

 ここからは動乱のすきをねらって、乱暴狼藉をはたらく小早川氏の巧妙な荘園進出のやり方がうかがえます。また、東寺側の激しい非難のなかには、小早川勢力の弓削荘侵略に直面した荘園領主の危機感がよくあらわれています。
弓削島荘遺跡」の国史跡指定に係る文化審議会の答申について - 上島町公式ホームページ
伊予国弓削島荘地頭領家相分差図(「東寺百合文書」)

 幕府(北朝)は小早川氏に退去を命じますが、四氏は無視して居座ります。幕府は使者を派遣して強制退去させます。東寺は小早川氏を警戒し、伊予海賊衆(村上氏)雇って警固します。にも関わらず、小早川氏はすぐに乱入。その後、島を占拠しますが、その先頭に立ったのは四氏の庶家小泉氏でした。小泉氏は因島でも居座り、年貢を横取りしていたようです。南北朝の争乱を、自己の権益拡大に最大限利用している姿がうかがえます。
 足利尊氏と弟直義が争う観応の擾乱が始まると、一時期、反尊氏派が島を占拠したので、幕府は小早川惣領家に地頭職を与えて守らせます。だが惣領家家も『乱妨』を働くと領主東寺から訴えられて、地頭職を取り上げられています。しかし、居座りを続け、島を勢力下に取り込んでいきます。領家である東寺にしてみれば手の付けられない「悪党」です。
弓削島荘遺跡ポスター

小泉氏二代の宗平が、応安四年(1371)7月に、伊予国越智郡大島の地頭職に任命されます。
 それまで非法ぶりを非難され続けてきた一族が、今度は全く立場をかえて、東寺から荘園を守り管理する地位に任ぜられたのです。これはアメリカ西部の悪党を保安官にするようなやり方です。当時の弓削島荘の周辺は、西部の無法地帯とよく似ていたようです。なぜなら、南北朝の動乱で海上秩序が失なわれて、無法地帯になっていたのです。東寺にしてみれば、年貢を無事に京都にもたらしてくれる者であれば、誰でもいい、その素性を問うてはいられなかったのでしょう。そのような視点からすれば海上機動力にすぐれ、軍事力も持つ小泉氏は、地頭として候補者にあげられても不思議ではありません。東寺は、かつての非法、悪党ぶりに目をつぶり、年貢請負額京定30貫文という破格の安値で請負契約を泣く泣く結びます。
しかし、東寺の小泉氏への期待と信頼は、みごとに裏切られます。

弓削島遺跡2

小泉宗平は、地頭職についても非法をやめません。

それを東寺雑掌は、次のように記します。
「令同意山地以下悪党、致押妨」(17) (18)

   弓削島押領人事 
公方奉公 小早川小泉方 
海賊 能嶋方 (能島)
海賊  山路方(讃岐)
此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之 
小泉氏を中心にして、伊予の海賊能島氏、讃岐の海賊山路(地)氏等が弓削島を押領しているというのです。讃岐の山地氏については、以前にお話ししましたので、今は触れません。
  ここからは、年貢の輸送路をはじめとして周辺の海賊を悪党・海賊に固められて、弓削島荘の経営にもはや身動きのとれなくなっている東寺の窮状を知ることができます。まさに弓削島周辺は海賊衆の世界となっていたのです。
弓削神社

弓削神社(ゆげじんじゃ) 「浜途明神」「浜戸宮」の後身


 東寺は、現実をまのあたりに学んだようです。荘からの年貢収取を維持していくためには、今までのように荘官を派遣して荘園の管理をやらせる方法ではダメだということです。そこで、新たな方法として採用したのが「所務請負い方式」です。そして、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や同治部進と年貢請負の契約を結びます。村上氏も芸予諸島周辺の海賊衆の一人であったこと間違いありません。東寺にしてみれば、海賊衆小泉氏を制するのにに別の海賊衆を以てしたということになります。このような動乱期の中で、伊予海賊村上氏と安芸の小早川氏は芸予諸島をめぐって勢力範囲を拡大していくことになります。
第11番札所・向上寺 緑に映える朱塗りの国宝三重塔
向上寺の三重の(生口島 瀬戸田)

   最後に生口島を拠点とした小早川氏の庶子家生口氏を見ておきましょう。
生口島には国宝の三重塔が海を背景に建っています。これは1432年に、初代生口惟平とその子守平によって建立された向上寺の塔です。小早川氏の庶子である生口氏は、この島が生口島と呼ばれていたことから、その名を名乗ることになったようです。生口島はもともとは皇室領でしたが、源平合戦や承久の乱を通じて、武家方に没収され没官領地となりました。南北朝の騒乱期に、この島を拠点としていた南朝方を落とした功績により、小早川惟平にこの島が与えられ、生口氏が移り住み拠点とします。
向上寺三重塔 - ひろしまたてものがたり

 小早川氏は、安芸国の沼田荘に土着した頃は、内陸部への進出や沼田川河口部の干拓などで勢力を拡張していました。それが、生口氏の生口島獲得によって、小早川氏は陸の武士団という性格から、小早川水軍と称されるような海の武士団へと性格を変えていくことになります。
 小早川氏は、小泉氏が弓削島、生口氏が生口島へと瀬戸内海へ進出することによって、海上輸送に関わるようになります。それは瀬戸内海交易を越えて、朝鮮や明との貿易にも従事していたようです。 そこからあがる利益は莫大なものでした。
小早川氏の本拠沼田の外港として、位置づけられたのが生口氏の瀬戸田港だったようです。
小早川氏が他の安芸の国人領主レベルから一段と上のレベルに位置付けられていたのは、海の武士としての海上交易活動がありました。
 生口船は、兵庫北関に入港する際の免税の特権を持っていました。生口氏の海の経済活動は、目を引くモノがあります。主な輸送品は、弓削島や因島の塩です。「兵庫北関入船納帳」(1445年)によれば1月から2月半ばまでに61艘の入船があり、うち30艘が塩を積んだ船であり、そのうち1/3が小早川氏の支配する地域からの塩です。しかも生口氏配下の船は免税です。
 弓削島を押さえた小泉家の塩を、生口島の免税特権を持った舟が運ぶという「分業」体制があったことになります。そこからあがる莫大な利益を蓄積しながら次第に大名化していくのが小早川家ということになります。毛利元就の三男隆景が継いだ小早川家とは、そういう家系だったのです。
 生口・小泉氏などの庶家を配下に置く小早川家は、海の経済的・人的ネットワークを背景として、強力な軍事力と水軍を持ち、他の安芸国の国人領主を圧倒していきます。因島や能島の村上氏も最終的には、この軍門に降ることになります。
 その生口島の繁栄の象徴が向上寺の三重塔ということになるようです。小早川氏の外港として繁栄する瀬戸田港からの財をバックにして作り上げ塔です。
 向上寺(広島県安芸幸崎駅)の投稿(1回目)。#国宝 #向上寺三重塔 ・生口島へは尾道から…[ホトカミ]
  以上をまとめておきます
①鎌倉時代初期に西遷御家人として沼田庄に小早川氏が入ってきた。
②沼田庄を拠点に、竹原などの沿岸部に勢力を伸ばし、開発を行った。
③南北朝の争乱期に宣平の4人の子ども達は、芸予諸島に進出し、小早川水軍の基礎を築いた。
④「塩の荘園」として東寺の最重要荘園であった弓削荘に対して、小早川氏は侵入し「悪党」ぶりを発揮する。
⑤東寺はこれを幕府に訴えでるが有効なただ手は見つからず、小早川の庶家小泉氏に官吏を任せることもおこなったがうまく行かなかった。弓削荘は次第に小泉氏に侵食されていく。
⑥一方、生口島の瀬戸田港を拠点とした生口氏は、周辺の海民を組織し「海の武士団」へと成長して行く。
⑦生口氏は、明や朝鮮との交易活動などにも参入し、莫大な富を小早川氏にもたらした。
⑧瀬戸田港の山の上に建つ向上寺の国宝・三重塔は、そのシンボルである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献

村上水軍

村上水軍は村上武吉の時に最大勢力を持つようになります。
しかし、秀吉に睨まれ瀬戸内海から追放され、さらに関ヶ原の戦いで毛利方が敗れることで村上水軍の「大離散」が始まります。その後の「海の武士(海賊衆)」のたどった道に興味があります。今回は、武吉の「家老的な存在」として仕えた島氏を追ってみたいと思います 

 能島村上氏の実態を知る一つの道は、家臣団について知ることです。しかし、村上家臣団は近世初頭に事実上解体してしまいました。そのため史料に乏しく家臣団研究は余り進んでこなかったようです。そんな中で、村上島氏は、根本史料『島家遺事』を残しています。これにもとづいて島氏を見ていくことにしましょう。テキストは  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年」です。
村上武吉

関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
村上氏の主家毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島1500石への大幅減となります。しかもこの内5百石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際にはかつての知行の1/20、千石以下に減らされてしまいます。村上氏の領地となった大島の和田村や伊保田村では、負担の大きさに耐えきれなくなった住民等が次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったと云います。経済的に立ち行かなくなった村上氏の親類被官等は、逃亡したり、他家へ仕官するなど殆ど離散してしまったようです。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。 
 村上武吉と子の景親まで大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で村上家からは家臣等に対して、次のような触書が出されています
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」
 
 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。
村上水軍の頭、武吉はどうして村上家のお墓が集まっている屋代に葬られなかったのだろう? | 周防大島での移住生活
周防大島の村上武吉の墓 

村上氏の老臣・島氏も選択が迫られることになります。
島家では一族談合の上で、若い三男助右衛門が村上家を継いで大島に残ることにします。そして、長男又兵衛(吉知)と二男善兵衛(吉氏)が大島を退去することになります。こうして二人は、主君村上武吉に暇乞いもせず、和佐から直接島を立ち去っています。このため父の越前守吉利は非常に立腹し、一生二人を義絶したと伝えられます。

村上水軍 今治水軍博物館2

島氏の全盛時代を創り出したのは越前守
吉利(23)です。
最初に吉利について振り返っておきます。吉利は村上中務少輔吉放(22)と来島氏の一族村上丹後守吉房女との間に生まれます。母方の祖父吉房の室は祖父吉久の妹ですから、父母は従兄弟同士になります。ここでは、島吉利が能島村上氏の一族であることを押さえておきます。はじめ吉利は河野氏の家臣であると同時に、村上武吉にも仕えています。海の上の主従関係は西欧の封建制に似ているようです。朱子学の説く「二君に仕えず」とは、ちがう道のようです。村上武吉に主君を一本化するにあたって、吉利は姓を村上から島に改めたと伝えられます。主君との混同を避けたのでしょう。

村上水軍 今治水軍博物館4

 以後、武吉の重臣として、主な戦いに従軍するようになります。
天文24年(1555年)の厳島の戦いでも軍功があったようです。永禄10年(1567年)には毛利・小早川氏の意を受けて、能島村上氏は阿波国の香西氏の拠点であった備前国・児島本太城を攻めます。この時に、吉利も敵将・香西又五郎を討つなどして、これを攻略し在番として詰めます。ところが翌年に、畿内の三好氏の後援を受けた讃岐・香西氏の軍が海を越えて反撃してくると苦境に立たされます。その打開策として、豊後国の大友氏家臣の田原親賢と懇意であった吉利が大友氏へ和睦仲介要請の使者として出向きます。そして、香西氏との和睦を成立させます。

村上水軍5

 阿波衆の攻撃を撃退した吉利に村上武吉や小早川隆景から感状を与えられています。(島文書五、八号)。そして、2年後の同十三年には、武吉から元太城付近に田一町五反分を支給され、本太城主に任命されます。しかしその後、能島村上氏は大友氏との関係を深め反毛利の姿勢を示すようになり、そのため毛利家臣・小早川隆景によって侵攻を受け本太城は落城します。

村上水軍 テリトリー図
村上武吉時代の瀬戸内海沿岸の情勢
 以上から、吉利が武吉の家老として毛利氏・小早川氏と書簡のやりとりするとともに、豊後大友氏との間も往来して外交活動を行っていたことがうかがえます。(島文書十九・二十号)。海の武士(海賊衆)の広域的な活動と、吉利の外交的な手腕がうかがえます。

大友氏への接近策の背景は?
 元亀・天正中頃になると、大友氏の宿老田原親賢の一字を得て名も一時賢久と変えています。また、天正年間初期には、大友義統に八朔の祝儀を贈っていて、この時期には武吉の意を受けて大伴氏への接近を図っていたようです。
 この時期は村上武吉が永禄十二年の大友内通事件を責められて、小早川隆景や来島通総から包囲攻撃を受けていた頃でした。能島の村上武吉は天正四年(1576)には毛利方に復帰しますが、依然として大友氏との関係を維持します。その仲介を担ったのが島氏です。例えば年未詳十一月、大友義鎮は島中務少輔(吉利)に宛てた書状からは、吉利が武吉の使者として豊後に赴き、長期間在国していたことが分かります。この他にも、また島吉利は大友家臣・田原親賢との間で多くの文書をやりとりを残しています。

村上水軍 島家の小海城
村上島氏の居城とされる大三島の小海城址

 海の武士(海賊大将)として生きていくという武吉の生き様は、海を自由に支配する「村上海洋帝国」の建設を目指したものだと私は考えています。その芸予諸島に進出する勢力を叩くために、自らをニュートラルな立場においておくことが外交戦略であったようです。そのためには、一人の主君に一生忠義を尽くすなどという朱子学的な関係は考えもしなかったでしょう。そのような武吉の立場を理解しながら、彼を使ったのが小早川隆景です。武吉は小早川にあるときには牙をむきながらも、隆景にうまく飼い慣らされていったのかもしれません。

村上水軍 水軍の舟
 小早川方に復帰した村上水軍は、天正四年(1576)の石山本願寺兵糧入れを命じられますが、これにも島吉利は従軍しています。さらには、朝鮮出兵には村上元吉に従って文禄の役に出陣しています。まさに武吉を支えた家老にふさわしい働きぶりです。その後は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)七月八日に森村で亡くなっています。法名天祐院順信尚賢居土(島系図)。
村上水軍島越前守(吉利)の顕彰碑
島吉利の顕彰碑 

島越前守吉利の顕彰碑は、周防大島の伊保田港を見下ろす小さな墓地にあります。
 墓地の中に土地の人々から「まるこの墓」と呼ばれる石碑が遠く伊予を望んで立っています。これが能島村上氏の重臣であった島越前守吉利の顕彰碑です。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱の前面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。残る三面には各面に8行ずつ島氏の由緒と越前守の事績とが466字で刻まれています。これは死後すぐに立てられたものではないようです。
 石碑は豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、幾人かの人々の協力を得て、文化十(1813)年に建立したものです。死後約2百年後のことです。
村上島氏系図1

系図を見ながら島越前守碑銘文の前文を見ておきましょう。
本文中の人名番号は、系図番号に符合します。
(正面) 越前守島君碑

左側
君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍
意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。

   (裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈
意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
  (右側)
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤

  意訳変換しておくと
(右側)
偉大である。況や殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために永胤が婦兄に諮り、誌家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。
内容は後で検討するとして、先にこの越前守吉利の顕彰碑建立の経緯を押さえておきます。

村上水軍 島家
吉利の顕彰碑が建つ周防大島の伊保田

 吉利が亡くなってから約2百年後の文化三年(1806)の春、豊後の島永胤は周防大島の島信弘を訪ねます。そして、越前守吉利が自分たちの共通の先祖であると名乗りをあげ、共に一族の事績を調べ、家譜を確認し、顕彰碑を建てることの同意をとりつけます。その後、豊後に帰国後に義兄脇儀一郎長之(蘭室)に銘文を依頼します。その案文は翌年2月には、永胤の手元に届けられたようです。そこで本文を、豊後杵築藩の三浦主齢黄鶴に依頼して書いてもらいます。正面の題字には大坂の儒者篠崎長兵衛応道の隷字を得ることができました。

村上水軍 早舟

 しかし、豊後と周防との連絡がなかなか進まずに二、三年が過ぎ去ります。永胤が芸讃への船旅のついでに、先の案文と清書助力金とを大島の信弘のもとに届けることができたのは、ようやく文化七年の夏になってのことでした。永胤は、石碑は永く後世に伝えるものなので、大坂でしっかりとした石材を選んで造ることを望みます。
 これに対して信弘は大島白ケ浜に石工いて、どんな細工もできる。また石材も望むものが当地で調達できるというので、全てを任せます。しかし、工事は大巾に遅れ、越前碑が建ったのは文化十(1813)年のことになりました。発起から完成まで7年近くの年月が経っていました。こうして伊予の芸予諸島に向かって建てられたのがこの顕彰碑になるようです。

村上水軍 軍旗

 同時に、豊後の島永胤は一族の家に残された文書を写し取り、文書を保管します。これが森家文書として伝わる島氏の史料になります。同時に、それらの史料にもとづいて「島家遺事」を著します。島永胤は顕彰碑を建てただけではなく、島一族の文書も収拾保管し、報告書も出したことになります。これは能島村上氏の家臣団の史料としては貴重な資料です。

  さきほどの碑文内容を「島家遺事」でフォローしながら見ていきます
島系図は島越前守吉利(23)を、清和源氏の村上義弘(17)の末裔と記します。義弘(17)についてはいろいろな所伝があるようでうが、詳しいことは分からない人物です。しかし、義弘が南北朝動乱期に南朝方にあり、建武期から正平年間にかけて活躍した瀬戸内の海賊大将の一人であったことは認められるようです。特に貞治四年(1365)から応安二年(1369)までの4年間のことについては、義弘の姉婿今岡陽向軒(四郎通任)の手記によってうかがうことができます。

村上水軍の武具

 義弘の死後、その名跡をめぐって今岡通任と村上師清が争います。天授三年(1377)因島の釣島・箱崎浦の戦いで、村上師清が通任を破り、村上水軍の後継者に成ったとします。島系図には、義弘(17)には信清(18)という男子が記されています。しかし、信清は幼かったため、義弘亡き後の混乱を収めることができず、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだと記します。島氏がのち「島」を名字としたのはこのためだともいわれます。師清は信清を猶子として、よく養育します。信清は長じて左近将監と称して河野氏に仕え、水軍の大将となったと云います。
その後、吉信―吉兼―吉久―吉放と続き、吉利に続きます。
信清については、「三島伝記」に名前が出てくる程度で疑問も多く、実在性も疑われると研究者は考えているようです。しかし、吉信については文明二年(1470)9月17日付、村上官熊(吉信)宛河野教通の知行宛行状(島文書一号)に名前が出てくるので、その実在を確かめることができます。
 系図には、信清には東豊後守吉勝という子があり、その子右近太夫吉重の女が吉利の室となったと云いますが、これは時代的にも疑問があると研究者は考えているようです。
 近世初頭成立の「能島家家頼分限帳」には、親類被官の筆頭に東右近助の名が見え、百石を得ています。また「村上天皇井能嶋根元家筋」には、東氏は能島村上氏の一族で、能島東の丸に住んだため東氏と名乗ったとあります。これはおそらく島氏の系譜に、能島村上氏の系譜を「混入」させたものと研究者は考えているようです。どちらにしても、村上家の系図は村上義弘に「接がれて」いるようです。このあたりの系譜は信じることが出来ません。

村上水軍 島越前守系図3

 吉利の4人の子ども達の行く末を見ていくことにします。
それはある意味、村上水軍解体後の大離散の行く末を追うことにつながります。まずは、周防大島の島氏から見ていきます。
先ほど見たように、周防大島の本家を継いだのは吉利の三男の吉方、通称・六三郎です。母は兄達と同じく村上東右近太夫吉重の娘です。のち周防島氏の家督を相続し、村上家から150石を支給され屋代村で老臣役を勤めます。そして、側室に村上氏の老臣大浜内記の女を迎え、嗣子吉賢が生まれます。しかし周防島氏の直系男子は、五代信利の代で絶え、その跡は三代信賢の孫、医師浅井養宅の子信方・正往が継ぎます。
 顕彰碑の周防大島での責任者である信弘は、正往の長男で、安永七年(1778)に、島家の家督を相続し、文化十年(1813)70歳で亡くなります。つまり越前碑の建設計画は、信弘最晩年の事業であったことになります。
村上水軍 今治水軍博物館

大島を出た吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟のその後を見てみましょう。 
二人は、一千石で肥後の加藤清正に招かれ九州肥後に向かった史料には記されています。その途中で同族の久留島康親(長親)が治める豊後玖珠に立ち寄ります。久留島康親(長親)は来島水軍の後裔で、秀吉時代に来島(今治市)に1万4千石の大名になっていましたが、関ヶ原の戦いで西軍に属して戦いますが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで家名存続の沙汰を得ます。そして、翌年に、豊後森に旧領と同じ石高で森藩を立藩した所でした。

森陣屋 - お城散歩
豊後森藩陣屋
 そこへやってきたのが島兄弟だったのです。康親は人材登用のために二人に玖珠に留まるよう説得します。結局、康親が吉知に俸禄五百石を提示し、兄弟は加藤家仕官を取りやめて久留島家に仕えることになったようです。史料では玖珠郡大浦・柚木・平立・羽田・野平などで180石を支給され、のちの加増を約束されたとします。しかし、加増は康親の死去で空手形となってしまいます。
村上水軍 来島城
来島(久留島)氏のかつての居城 来島城

 久留島家での吉知の事績はよく分かりません。
ただ元和年間の江戸城築城の際、奉行として江戸へ赴いていたことが文書から確認できます。天下普請へ奉行として派遣されているのですから、藩内ではやり手だったのでしょう。元和八年(1622)に隠居して、寛永五年(1628)に亡くなっています。弟善兵衛吉氏も150石を与えられ、別に一家を立てますが、男子に恵まれず、兄の子官兵衛吉智を養子として家を継がせています。
  吉知の子吉任は大坂の役では、豊臣方からの誘いを密かに受けますが断り、久留島家に留まります
当時久留島家では長親(康親)が没し、世嗣通春は8歳の幼年でした。吉任は大坂出陣を願いますが、許されずに通春の守を命じられます。通春は吉任を深く信頼するようになり、「汝を国老とし大禄を与えん」と戯れたと島家の文書には記されています。(島文書二十六号)。 豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、奉行として大坂に赴き働いています。寛永十四年、島原の乱が起きると、兵を率いて出陣し、同16年、家老に任ぜられ400石を支給されます。主君通春は幼年の時の吉任を覚えていたのかも知れません。
 しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」を命じられます。
『島家遺事』は臣下の論ずる所にあらずと、その理由については何も記していません。藩主通春が成長し、親政を始めると伊予以来の譜代の重臣である大林・浅川・二神氏なども次々と職を解かれ、暇をだされているので、その一環だったのかもしれません。
 彼らが再び玖珠に戻り、復権するのは次の通清の時代になってからです。吉任の子吉豊は父とは別途に新しく百石を賜っており、父失脚の歳にも連座せず在勤し、のちには50石の加増を受けています。
その子勝豊は寛文五年(1665)12歳で通清の近習を務め、父知行の内20石を与えられています。
天和二年(1682)久留島靭負(高久)御附となり、さらに靭負が佐伯毛利氏に養子に迎えられると、附侍として二神源人・檜垣文五郎とともに佐伯に赴きます。ところが三人は貞享元年(1684)、突然佐伯から立ち帰り、御暇を願い出ます。どうも靭負や佐伯家中衆との間に、問題を起こして止むなく帰国したようです。三人は直接藩主への弁明を願いますが、藩主の怒りを受けて、召し放ちとなります。

村上水軍 豊後久留島藩 森藩

 勝豊は諸所を流浪の後に、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住みます。
そこで元禄四年(1691)から3年間、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め、それが認められ杵築松平氏から召し出され、速見郡八坂手永の大庄屋役を仰せつかります。こうして藩侯への御目見もすみ、八坂本庄村に居宅を構えます。この措置には、舅片山氏の奔走があったようです。
  八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯でもありました。
勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。
 勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
少年の頃の勝任は、逸遊を好み三味線を弾く遊び人的な所もあったようですが、 その是非を悟って三味線を火中に投じ、その後は日夜学業に励んだとされます。書に長じ、槍を使い、詩文を好む文化人としての面も持っていました。そのため藩侯松平重休も領内巡察の折には、しばしば勝任を招いて、詩文を交わしたと伝えられます。
 享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。
その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖吉利顕彰のために建碑を思い立ったと研究者は考えているようです。その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、建碑に備えたのでしょう。そして、文化三年、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたという物語が描けそうです。
八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっています。
村上水軍 島家菩提寺千光寺
大分県の八坂千光寺 島家の菩提寺
村上武吉の家老的な存在であった島氏の動きを追ってみました。
名家だけに、その知名度を活かして大名の家臣に再就職することができたようですが、武士として生き抜くことはできず、帰農し大庄屋として生きる道を辿っている点には、豊後も周防の島氏も共通点がありました。以前にお話ししました多度津にやって来て、葛原村を開いた木谷家のことを思い出したりもしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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  東大寺の大仏造については国家プロジェクトとして越えなければならない壁がいくつもありました。その中で教科書でも取り上げられるのが、東北からの金の産出報告です。しかし、下の表を見れば分かるように、金の使用量は440㎏にすぎません。金は銅像の表面に鍍金(メッキ)されたので、この程度の量です。それに比べて仏像本体となる銅やすすの量は、それよりもはるかに多くの量が必要とされたことが分かります。これの銅の多くは、秦氏によって採掘された「西海の国々」から運ばれてきました。

大仏造営 資材一覧
 この表の中で水銀2,5トンとあります。水銀はなんのために使われたのでしょうか?
金を塗装するためには「アマルガム」を使った技法が用いられてきました。これは、水銀とほかの金属とを混ぜ合わせた合金のことです。水銀は常温では液体の金属なので、個体と混ざって粘性のあるペースト状になります。水銀に金を触れさせると、金は溶けるように水銀と一体化して、 ドロドロとした半液状の 「金アマルガム」となります。

大仏造営 金アマルガム2

  これを大仏本体に塗り付けて火であぶると、沸点の違いにより金アマルガムから水銀だけが蒸発して、最後に金だけが薄く残ります。この技法は、金が水銀に溶けて消えていくように見えるので古来日本では「滅金(めっきん)」と呼ばれ、これが「メッキ」という言葉の語源となったようです。奈良の大仏も、この金アマルガム法によって金の塗装がなされています。

大仏造営 金アマルガム1

先ほど見たように、金440kg、水銀2500kgもの量が使われ約5年の歳月を費やしてようやく塗装作業を完遂させています。
  
東京都鍍金工業組合のHPには、大仏鍍金工程が次のように記されています。
①延暦僧録に「銅2万3,718斤11両(当時の1斥は180匁で675g),自勝宝2年正月まで7歳正月, 奉鋳加所用地」とあるように,鋳かけ補修に5年近くの歳月と約16tの銅を使用
②次に鋳凌い工程で,鋳放しの表面を平滑にするため,ヤスリやタガネを用いて凹凸, とくに鋳型の境界からはみ出した地金(鋳張り)を削り落し,彫刻すべき所にはノミやタガネで彫刻し, さらにト石でみがき上げる。
③鋳放しの表面をト石でみがき上げてから,表面に塗金が行なわれた。
大仏殿碑文に「以天平勝宝4年歳次壬辰3月14日始奉塗金」とあるので,鋳かけ,鋳さらいなどの処理と併行して天平勝宝4年(752)3月から塗金が行なわれたことが分かります。。
  用いた材料について延暦僧録には、次のように記されています。
「塗練金4,187両1分4銖,為滅金2万5,134両2分銖, 右具奉塗御体如件」

 これは金 4,187両を水銀に溶かし, アマルガムとしたもの2万5,334両を仏体に塗ったことが分かります。これは金と水銀を1:5の比率混合になります。このアマルガムを塗って加熱します。この塗金(滅金)作業に5年の歳月を要しています。これは水銀中毒をともなう危険な作業でした。
大仏鋳造は749年に完成し,752年, 孝謙天皇に大仏開眼供養会が行なわれています。大仏の金メッキは,この開眼供養の後に行われています。それは大仏が大仏殿の中に安置された状態になります。
 金メッキが行なわれはじめてから,塗金の仕事をする人々に原因不明の病気がはやりだします。

大仏造営 金アマルガム3

2500kgもの水銀をわざわざ火であぶって蒸発させ、空気中に放出しまくっているのです。ましてや金の塗装作業を開始したのは、すでに大仏殿が完成して、大仏はその内部に安置された後のことになります。気化した水銀は屋内に充満し、水銀ミストサウナのような作業現場となっていたことが想像できます。
 気化した水銀の危険性を知っている私たちからすれば、奈良の大仏に施した「金アマルガム法」による塗装作業は、水銀中毒の発生が起きうる危険な作業現場だったことになります。こうした作業を5年も続けていたので、大仏造立に関わった人々が次々と水銀中毒の病に倒れて命を落としていきます。さらに、大気中や地中を通じての飲料水の水銀汚染により平城京全域にまでその被害が拡大していった可能性もあります。
  当時の人たちは水銀中毒については何も知りません。
反対に古代中国では、水銀は不老不死の効力があると信じられていました。秦の始皇帝は水銀を含んだ薬を常用していたと伝えられます。また始皇帝陵の石室の周辺には水銀の川が造られているとも伝えられます。「水銀=不老不死の妙薬」説は、朝鮮半島を通じて日本にも伝わり、秦氏はその信者であったとも云われます。

加藤謙吉は次のように述べています。
「アマルガム鍍金法が一般化するのは、主として仏像制作に鍍金が必要とされていたことによる。したがって仏工は鍍金法に習熟していることが不可欠となる」
「彼らの仏工としての技術が朱砂・水銀の利用に端を発していると推察できょう」
佐藤任氏は、次のように述べています。
「奈良の大仏鋳造で、金と水銀のアマルガムをつくって像に塗り、熱して水銀をとばし、黄金色の像を造る冶金技法は、それ自体また一種の錬金術であったといえる」

「錬金術」を「錬丹術」というのは、丹生(水銀)を用いる術だからです。このアマルガム錬金技術を伝来していたのが秦の民です。錬丹術は不老不死の丹薬を作り、用いる術で、常世信仰にもとづく秘法でした。秦氏系の赤染氏が常世氏に名を変えたのは、大仏鋳造の塗金にかかわって、黄金に輝く大仏に常世を見たからだとされます。この鍍金に必要な丹生・水銀の採取にかかわったのも秦の民です。

大仏造営 辰砂
辰砂
市毛勲氏は「新版 朱の考古学』で、次のように記します。
「金・水銀は仏像鍍金には不可欠な金属で、水銀鉱である辰砂の発見は古代山師にとっても重要な任務であったと思われる。国家事業としての盧舎那大仏造立であったから、辰砂探索の必要性は平城京貴族にも広く知られていた」

と書き、『万葉集』の次の歌を示します。
大神朝臣奥守の報へ噴ふ歌一首
仏造る 真朱足らずは 水たまる
    池川の朝臣が 鼻の上を掘れ (三八四一)
穂積朝臣の和(こた)ふる歌一首
何所にそ 真朱掘る岳 薦畳 平群の朝臣が、
           畳の上を穿れ  (三八四三)
この二つの歌からは、大仏造立のための真朱(辰砂)の採掘が行われていたことがうかがえます。  辰砂の鉱床は赤いので、山師(修験者)はこの露頭を探して採掘します。平群朝臣は赤鼻、池田の朝臣は水鼻汁、つまり辰砂の露頭と水銀の浸出を意味するようです。平城京貴族が万葉集歌に辰砂を詠み込んだ背景には、当時の慮舎那大仏鍍金と言う国家プロジェクトが話題になっていたからでしょう。
丹生水銀鉱跡 - たまにはぼそっと

  辰砂(朱砂・真朱)は、硫化水銀鉱のことで、中国では古くから錬丹術などでの水銀の精製の他に、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されてきました。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになります。辰砂を 約600 °C に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じます。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製することが知られていました。
        硫化水銀 + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄

 魏志倭人伝の邪馬台国には「其山 丹有」と記されています。
古墳内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていて呪術的な用途があったようです。辰砂(朱砂)の産地については、中央構造線沿いに産地が限られていて、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られていたようです。それ以外には、四国にも辰砂(朱砂・真朱)の生産地があったようです。

大仏造営 辰砂分布図jpg

伊予の辰砂採掘に秦氏が関わっていた史料を見てみましょう。
大仏造営後のことですが、『続日本紀』天平神護二年(766)二月三日条は、次のように記されています。

伊豫国の人従七位秦呪登浄足ら十一人に姓を阿倍小殿朝臣と賜ふ。浄足自ら言さく。難波長柄朝廷、大山上安倍小殿小鎌を伊豫国に遣して、朱砂を採らしむ。小鎌、便ち秦首が女を娶りて、子伊豫麿を生めり。伊豫麻呂は父祖を継がずして、偏に母の姓に依る。浄足は使ちその後なりとまうす。

  意訳変換しておくと
伊豫国の人・従七位呪登浄足(はたきよたり)ら11人に阿倍小殿(おどの)朝臣の姓が下賜された。その際に浄足は次のように申した。難波長柄朝廷は、大山上安倍小殿小鎌(をがま)を伊豫国に派遣して、朱砂を採掘させた。小鎌は、秦首(はたのおびと)の娘を娶ってて、子伊豫麿をもうけた。伊豫麻呂は父祖の姓を名乗らずに、母の姓である秦氏を名乗った。私(浄足)は、その子孫であると申請した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①難波長柄豊碕宮が置かれた白雉二年(651)から白雉五年(654)に、大山安倍小殿小鎌は水銀鉱(辰砂)採掘のために伊予国へ派遣されたこと
②大山安倍小殿小鎌は、現地伊予の秦首(はたのおびと)の娘と結婚した
③その間に出来た子どもは、父方の名前を名乗らずに母方の秦氏を名乗った。

  ここには愛媛の秦氏一族から改姓申請がだされていて、事情があって父親の姓が名乗れず伊予在住の母方の姓秦氏を名乗ってきたが、父方の姓へ改姓するのを認めて欲しいという内容です。いろいろなことが見えてきて面白いのですが、ここでは辰砂に焦点を絞ります。
 伊予国は文武二年(698)9月に朱砂を中央政府に献上していることが『続日本紀』には記されています。また愛媛県北宇和郡鬼北町(旧日吉村)の父野川鉱山(日吉鉱山・双葉鉱山)では1952年まで水銀・朱砂の採掘・製錬を行われていました。伊予には、この他に朱砂(水銀鉱)が発見されたという記録がないので、旧日吉村の水銀鉱が『続日本紀』に、登場する鉱山なのではないかとされています。
 伊予国の新居(にいい)郡は、大同四年(809)に嵯峨天皇の諱の『神野』を避けて郡名を神野から新居に改めたものです。
辰砂(朱砂)坑を意味する名称に『仁井』(ニイ)があります。『和名抄』の古写本である東急本や伊勢本は、新居郡所管の郷の一つに『丹上郷』を記しています。これらの郡名・郷名は、朱砂採掘に関わりがあったことがうかがえます。
松旧壽男氏は『丹生の研究』で、次のように指摘します。
伊予が古代の著名な朱砂産出地であったことと、七世紀半ばに中央から官人が派遣され、国家の統制のもとに現地の秦氏やその支配下集団が朱砂の採掘・水銀の製錬に当たっていたことは、少なくとも事実とみることができる」

  以上から伊予には、大仏造営前から中央から技術者(秦氏)が派遣され、朱砂採掘を行っていたことにしておきましょう。

 先ほどの疑問点だった「阿倍小殿小鎌」の子孫が、父方の姓を名乗らず、母方の「秦」を名乗り、百年以上たって、ようやく父方の姓を名乗るようになったのか、について研究者は次のように推測します。
①伊予国の「朱砂」採掘は、以前から秦の民が行っていた。
②そのため「伊豫国に遺して、朱砂を採らしむ」と命じられた安倍小殿小鎌は、在地の「秦首が女を要る」必要があった。
③伊予の朱砂の採取も秦の民が行っていたので、秦の民の統率氏族の小鎌の子は、「安倍小殿」を名乗るよりも「秦」を名乗った方が都合がよかった。
④在地で有利な「秦」を百年あまり名乗っていたが、「安倍」という名門に結びついた方が「朝臣」を名のれるのでれ有利と考えるようになった
⑤そこで、一族が秦氏から安部氏への改姓願いを申請した
この記事からうかがえるのは、7世紀半ばの大化年間に中央から辰砂の採掘責任者が派遣されていることです。つまり、その時点で中央政権が「朱砂」の採掘を管理していたことになります。そして、その実質的な採掘権を秦氏が握っていたと云うことです。

 愛媛県喜多郡(大洲市)の金山出石寺の出石山周辺は、金・銀、銅・硫化鉄・水銀が出土し、三菱鉱業が採掘していました。出石山近くには、今も水銀鉱の跡があることは以前にお話ししました。
列島の水銀鉱床郡〕(丹生神社・丹生地名の分布と水銀鉱床郡より)  日本列島の中央構造体に沿って伸びております。しかし、この地図は、非常に国産みの地図と似ております。 | 日本列島, 日本, 国
 肱川流域・大洲・八幡浜には丹生神社・穴師神社が点在します。
これらは辰砂採取の神として祀られたもので、大洲市の山付平地には古代砂採取址と思われる洞穴と、朱砂の神〈穴御前)を祀る小祠があったと伝えられます。伊予の各地で秦氏が辰砂(朱砂)を採取し、水銀を作り出していたことがうかがえます。

土佐の丹生と秦の民は?
土佐には奈良時代の吾川郡に秦勝がいます。また、長岡郡には仁平元年(1151)豊楽寺の薬師堂造立に喜捨した結縁者のなかに秦氏の名がみえます。さらに幡多郡の郡名や白鳳・奈良時代の寺院址(秦泉寺廃寺)の土佐郡泰泉寺の地名も秦氏に関連するもののようで、秦氏集団の痕跡がうかがえます。これらの分布地域と重なる形で、
吾川郡池川町土居
長岡郡大豊町穴内
土佐郡土佐山村土佐山
などでは、近代に入って水銀鉱山が経営されていました。
 ニウの名を持つ中村市入田(にうた:旧幡多郡共同村)の地で採取された土壌からは、0、0006%という水銀含有値が報告されています。土佐にはこの他にも、安芸郡に「丹生郷」の郷名があり、各地に仁尾・仁井田・入野・後入・丹治川(立川)など辰砂採掘とかかわる地名が残ります。その多くは、微量分析の結果、入田と同じく高い水銀含有量を持つことが報告されています。
秦神社 - Shrine

土佐の長宗我部氏は秦河勝の子孫と称します。
高知市鷹匠町の秦神社は、祭神は長宗我部元親です。長宗我部氏の云われ、山城国稲荷神社の禰宜であった秦伊呂具の子孫が信濃国更級郡小谷郷(長野県更埴市)に移り、稲荷山に治田神社(「ハタ」が「ハルタ」になった)を祀っていました。平安時代の終り頃に、秦氏が住む上佐国長岡郡宗部郷(南国市)へ移住し、地名をとって長宗我部氏を称し、領主にまで成り上っていきます。この由緒からは、信濃から未知の土佐へ、秦氏ネツトワークを頼って移住してきたということになります。元親の父が養育された幡多郡は「波多国」といわれ、「旧事本紀』の「国造本紀」は、
波多同造。瑞籠朝の御世に天韓襲命を神の教示に依て、国造に定め賜ふ」
とあります。祖を「天韓襲命」と「韓」を用いていることからも、「波多国」は泰氏の国であることが分かります。
秦泉寺廃寺出土の軒瓦(高知県教育委員会) / 天地人堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 高知市中秦泉寺に秦泉寺廃寺跡があります。
旧上佐郡下の唯一の奈良時代の寺で、『高知県の地名』は、「この寺は古代土佐にいた泰氏建立の寺」という説があると記します。地名の北秦泉寺には古墳時代後期の秦泉寺古墳群があり、須恵器が出土しています。秦泉寺廃寺跡の地は、字を「鍛冶屋ガ内」といわれている扇状地です。
土佐同安芸郡丹生郷については、『土佐幽考』は次のように記されています。
「今号入河内是也。入者丹生也。在丹生河内之章也。比河蓋丹生郷河也」

『日本地理志料』は
「按図有・大井・吉井・島・赤土・伊尾木ノ諸邑。其縁海称丹生浦、即其地也」

この地は現在の安芸市東部、伊尾木川流域になります。松円壽男はこの丹生郷で採取した試料から0,0003%の水銀が、検出されたことを報告しています。
2 讃岐秦氏1
讃岐の秦氏と丹生の関係については
讃岐では大内・三木・山田・香川・多度・鵜足などに秦氏・秦人・秦人部・秦部など秦系氏族が濃密な分布します。大内部には「和名抄」に「入野(にゅうの)」の郷名があります。東急本や伊勢本は「にふのや」の訓を施しています。『平家物語』は「丹生屋」と記します。同郷の比定地とされる香川県大川郡大内町町田の丘陵で採取した土壌からは、0,0003%という水銀含有値が析出されています。
 入野郷には寛弘元年(1004)の戸籍の一部が残存し、秦(無姓)二十数名と大(太)秦(無姓)三名の人名を記します。この戸籍が必ずしも当時の住人の実態を伝えているか疑わしい点もあるようですが、入野郷が秦氏の集住地であったことはうかがえます。
2 讃岐秦氏2
   以上、秦氏につながる地名から辰砂採掘との関連を研究者は列記します。「地名史料」は不確かなものが多くそのまま信用できるモノではありません。しかし、先端技術を持つ秦氏がどうして、四国の奥地にまでその痕跡を残しているかを考える際に、辰砂などの鉱物資源の採掘のために秦氏集団がやってきて採掘のための集落を形成していたというストーリーは説得力があるように思えます。その前史として、鉱脈や露頭捜しに修験者たちが山に入り、その発見が報告されると集団がやってきて採掘が始まる。そして守護神が勧進される。同時に、有力な鉱山産地には国家からの官吏も派遣され、鉱山経営や生産物の管理も行われていたことはうかがえます。
 ちなみにある考古学者は三豊母神山も有力な辰砂生産地で、その生産に携わっていた戸長たちの墓が母神山古墳群であるという説を書いていたのを思い出しました。秦氏の活動パターンは広域で多種多様であったとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


大仏造営 知識寺模型
知識寺復元模型 河内国大県郡
大仏造営という国家プロジェクトを進める上で、聖武天皇が参考にした寺があるとされます。そこには「知識」によって盧舎那仏の大仏が造営され、そして運営されていたので知識寺と呼ばれていました。その姿に感銘した聖武天皇が国家的な規模に拡大しての大仏造営を決意するきっかけとなったと云うのです。今回は大仏発願に、秦氏がどのように関わっていたのかを見ていきます。テキストは 大和岩雄 続秦氏の研究203Pです。
大仏造立の発端になったのが河内の知識寺です。    
聖武天皇が大仏造立を発願したのは、河内国大県郡の知識寺の盧舎那大仏を拝した後のことです。それを『続日本紀』天平勝宝元年(七四九)十二月二十七日条の左大臣橘諸兄が読んだ宣命には、次のように記します。
去にし辰年河内国大県郡の知識寺に坐す盧舎那仏を礼み奉りて、則ち朕も造り奉らむと思へども、え為さざりし間に、豊前国宇佐郡に坐す広幡の八幡大神に申し賜へ、勅りたまはく。「神我天神。地祗を率ゐいざなひて必ず成し奉らむ。事立つに有らず、鋼の湯を水と成し、我が身を草木土に交へて障る事無くなさむ」と勅り賜ひながら成りぬれば、歓しみ貴みなも念ひたまふる。

   意訳変換しておくと
去る年に河内の大県郡の知識寺に安置された盧舎那仏を参拝して、朕も大仏を造ろうと思ったが適わなかった。そうする内に豊前国宇佐郡の八幡大神が次のように申し出てきた。「神我天神。地祗を率いて必ず成し遂げる。鋼の湯を水として、我が身を草木土に交へてもどんな障害も越えて成就させると念じた。

「去にし辰年」は天平12年(740)年のことで、この年二月に難波に行幸しているので、その時に立寄ったようです。ここにはその時に、河内国大県郡の知識寺の虜舎那仏を見て「朕も造り奉らむ」と聖武天皇は発願したと記されています。

大仏造営 知識寺石神社の境内にある心柱礎石
石神社の境内にある知識寺の心柱礎石
盧舎那仏があった知識寺とは、どんな寺だったのでしょうか。
まず名前の「知識」のことを見ておきましょう。私たちが今使っている知識とは、別の概念になるようです。ここでは「善知識」の略で、僧尼の勧化に応じて仏事に結縁のため財力や労力を提供し、その功徳にあずかろうとする人たちことを指します。五来重氏は次のように指摘します。
「東大寺大仏のモデルとなった河内知識寺は、その名のごとく勧進によって造立されたもので、『扶桑略記』(応徳三年六月)には『長六丈観音立像』とあって、五丈三尺五寸の東大寺大仏より大きい。もっとも平安末の『日遊』には『和太、河二、江三』とあって、東大寺大仏より小さいが近江世喜寺(関寺)のより大きくて、日本第二の大仏であった」

 ここで「和大・河二・江三」と出てくるのは、「和」は大和の東大寺、「河」は河内の知識寺、「江」は近江の関寺のことのようです。この記述からも平安末には、知識寺の盧舎那仏も「日本第二の大仏」だったことが分かります。
 つまり、ドラゴンボールに登場する「元気玉」のように生きとし生けるもののエネルギーを少しずつ分けて貰って、大きなパワーを作り出し「作善」を行うと云う宗教空間が知識寺には創り出されていたことが分かります。そのコミューン的な空間と、安置された大仏に聖武天皇は共感し、国家的なレベルでの建設を決意したということでしょうか。
 「造法華寺金堂所解」(天平宝字五年(761)には、知識寺から法華寺に銅を十二両運んだことが記されています。天平勝宝四年(752)4月9日に東大寺の大仏開眼供養を行っているので大仏造立の十年後のことになります。東大寺でなく法華寺の寺仏製作のために、知識寺から銅を運んでいます。ここからは知識寺は、金知識衆に依って銅や鋼や水銀などが多量にストックされていたことがうかがえます。
大仏造営 知識寺

知識寺についてもう少し詳しく見ておきます。

  7世紀後半に茨田宿禰を中心とした「知識衆」によって創建されたと伝えられ、河内国大県郡(柏原市)の太平寺廃寺跡からは白鳳期の瓦や薬師寺式伽藍配置の痕跡などが発掘され、ここが知識寺の跡とされています。知識寺の東塔の塔心礎(礎石)と見られる石は、石神社に残されています。この礎石から推定される塔の高さは50mの大塔だったとする説もあります。知識寺は今はありませんが、その跡は柏原市大県の高尾山麓にあり、後に大平寺が建立されました。
知識寺のある高尾山麓は古墳時代以後に渡来系秦氏の定住したエリアで、秦忌寸・高尾忌寸・大里史・常世(赤染)連・茨旧連などの秦氏系氏族の居住地域です。「大里史」の「大里郷」は大県郡の郡家の所在地で、高尾山の西麓にあたります。
『続日本紀』天平勝宝八年(756)1月25日条に、考謙天阜が大仏造立のお礼に知識・山下・人里・三宅・家原・鳥坂等の七寺に参拝したとあります。『和名抄』の大里郷は「大県の里」の意で、志幾大県主の居住地です。『柏原市史』『大阪府の地名』(『日本歴史地名人系28、平凡社』は、大県主・大里史・赤染氏らを、この郷の出身者と記します。大里史は『姓氏録』は秦氏とします。三宅氏や三宅氏の祖新羅王子天之日矛と、秦氏・秦の民の間には深い関係があります。ここに三宅寺があるのも秦氏との関係なのでしょう。
 知識寺の南にある家原寺は観心寺の廃寺跡とされ、秦忌寸の私寺と推測されます。
家原寺の近くにはには五世紀後半から六世紀後半にかけて築造された「太平寺古墳群」があります。六世紀後半に築造された第二号墳の石室奥壁中央の二体の人物像が、赤色顔料で描かれています。この赤色顔料はこの地に居た赤染氏との関係を研究者は推測します。丹生などの水銀製錬技術者集団であったことがうかがえます。
大仏造営 知識寺地図2
 河内六寺 左北北 すぐ南に大和川が流れていた
このように河内六寺はすべて知識寺(柏原市太平寺)の周辺にあります。五寺は秦氏系氏族か秦氏と関係の深い氏寺です。彼らは知識衆でも金知識衆であり、彼らの財力と技術が知識寺の盧舎那大仏造立の背景にはあったようです。この大仏を参拝して聖武天皇は大仏造立を決意したのです。そのため孝謙女帝も知識寺と知識寺を含む七寺に、大仏造立完成の御礼参りをしています。この知識寺のある地は、河内国へ移住してきた秦集団が本拠地にした大県の地になります。彼らが鉄工から銅工になって知識寺の盧舎那大仏を造り、その大仏を拝した聖武天皇が、さらに大きな慮舎那大仏造立の発願に至るというプロセスになります。
 朝鮮半島から渡来した秦氏の日本での本貫は、豊前の香春山や宇佐神宮の周辺でした。そこは銅を産出し、鋳造技術者も多く抱えていました。彼らが高尾山に拠点を構え、そこに当時の最先端技術で今までに見たことのないような大仏を8世紀初頭には造立していたようです。
ここまでをまとめておきましょう
①古墳時代から大和川が河内に流れ出す髙尾山山麓には、秦氏のコロニーが置かれた。
②彼らは様々は面で最先端技術を持つハイテク集団で、大規模古墳の造営や治水灌漑にも力を発揮してきた
③彼らは豊前の「秦王国」で融合された「新羅仏教 + 八幡神」の信者であり、一族毎に氏神を建立していた。
④その中には豊前での銅製法の技術を活かし「金知識衆」の力で造立された盧舎那仏大仏を安置する寺院もあった。
⑤その仏像と「知識」のコミューン力に感銘を受けたのが聖武天皇である
東大寺大仏建立の理由ー聖武天皇のいう「菩薩の精神」とは | 北河原公敬 | テンミニッツTV

聖武天皇がこの地までやってきたのは、どうしてなのでしょうか。

それは、信頼するだれかのアドバイスを受けてのことだったと思われます。研究者は、そこまで踏み込んで推察しています。
聖武天皇に知識寺参拝をすすめたのは、どんな人物なのでしょうか
秦忌寸朝元と秦下嶋麻呂の二人を研究者は考えているようです。
まず秦朝元について見てみましょう。
朝元は父の弁正が大宝二年(702)の遣唐船で入唐し、現地女性と結婚して中国で生まれたハーフです。父の弁正と兄の朝慶は唐で亡くなり、二男の朝元のみ養老二年(718)の遣唐船で帰国します。『続日本紀』養老三年四月九日条に、秦朝元に「忌寸の姓を賜ふ。」とあります。
 『続日本紀。二』(岩波書店版)は補注で、次のように記します。
「(前略)朝元のみ、養老二年に帰国した遣唐使に伴われ、十数歳の時日本へ戻ったらしい。医術の専門家であるが、その修得は在唐中に行われたらしい。また中国生まれで漢語に堪能だったので、語学の専門家としても評価されていた」

父と兄を失ない、母国語も充分話せない15歳の少年が、帰国して1年の養老3年4月に「忌寸」の賜姓を受けています。これは異例です。3年6月に皇太子(後に聖武天皇)は、「初めて朝政を聴く」とあります。元正女帝から皇太子執政に移る3カ月前に、朝元が「忌寸」賜姓を受けていることと、その後の朝元の出世ぶりを見ると、聖武天皇の意向で、中国生まれの孤児の少年のすぐれた才能を見抜いての忌寸賜姓なのかもしれません。若き英才発掘を行ったとしておきましょう。
その後の秦朝元の栄達ぶりを追っておきましょう。
『続日本紀』の養老五年(721)正月二十七日条は、秦朝元が17歳で、すでに従六位下で、医術において「学業に優遊し、師範とあるに堪ふる者」と正史に書かれて、賞賜を得ています。
天平二年(730)2月には、中国語に堪能であったから、通訳養成の任を命じられ、中国語の教授になっており、翌年(731)には外従五位下に昇叙し、唐に赴き、玄宗皇帝から父の縁故から厚遇され、天平七年に帰国し、外従五位上に昇進しています。生まれ故郷の唐は朝元が少年時代をすごした地であり、二年間の滞在期間には皇帝にも会っています。天皇勅命での唐滞在が公務であったことは、帰田後に昇進していることが証しています。
 聖武天皇の寵臣であったことは『続日本紀』天平十八年(746)2月5日条に、次のようにあることからもうかがえます。
正四位上藤原朝臣仲麻呂を式部卿とす。従四位下紀朝臣麻路を民部卿。外従五位上秦忌寸朝元を主計頭

ここからは746年に朝元が図書頭から主計頭へ移動しているのが分かります。今で云えば部省から財務省の移動ということになります。この背景を加藤謙吉は次のように推測します。

「秦氏が朝廷のクラ(蔵)と密接にかかわる立場にあつたことは間違いない。ただそれは秦氏が渡来系氏族に共通するクラの管理に不可欠の高度な計数処理能力を有することとあわせて、この氏がクラに収蔵されるミツキの貢納担当者であったことに起因するとみられる。すなわち朝廷のクラの管掌は、ミツキの貢納というこの氏の基本的な職務から派生した発展的形態として理解すべきであろう」

 非農民の秦の民(秦人)の貢納物は、秦氏を通して朝廷のクラヘ入れられます。大仏造立にあたっては、大量の銅・水銀。金などの資材と、購入のための資金を必要としました。そのような重要な役職を任せられる能力を、秦氏出自の朝元がもっていたから任命されたのであろう。信頼する人物を抜擢して主計頭に就けたのでしょう。

聖武天皇が知識寺に行幸した天平十二年(740)は、朝元が図書頭に任命された天平九年から三年たっています。以上の状況証拠から秦氏らによる度合那大仏を本尊にした河内の大県にある知識寺を、聖武天皇に知らせたのは秦朝元と推測します。         

聖武天皇に知識寺行幸をすすめたと推測できる人物がもう一人います。秦下嶋麻呂です。
  聖武天皇は740年2月に河内の大県郡の知識寺を参拝し、その年12月に恭仁宮への新都造営を開始しています。『続日本紀』天平十四年(742)8月5日条に、次のように記されています。
「造官録正八位下秦下嶋麻呂に従四位下を授け、大秦公の姓、丼せて銭一百貫、 絶一百疋、布二百端、綿二百亀を賜ふ。大宮の垣を築けるを以てなり。

「大宮」とは恭仁官のことです。
 これを見ると秦下嶋麻呂は「大宮の垣」を作っただけで「正八位下の造宮録」から十四階級も特進して「従四位下」に異例の特進を果たしています。さら大秦公の姓も与えられています。垣を作ったということ以外に隠された理由があったと勘ぐりたくなります。他の秦氏にはない嶋麻呂の家のみに「大秦公」なのも特別扱いです。
嶋麻昌については、特進後の天平十七年(745)五月三日条に、次のように記されています。
地震ふる。造官輔従四位下秦公嶋麻呂を遣して恭仁宮を掃除めしむ。

「秦公」は「大秦公」の略ですが、嶋麻呂は造宮録から造宮輔に昇進しています。地震の際の恭仁宮の復旧にあたっていることが分かります。恭仁官の管理をまかされているので、天皇の信頼が厚かったのでしょう。造宮にかかわる仕事が本職の嶋麻呂は、二年後の天平十九年二月に長門守に任命されます。この九月から大仏の鋳造が始まります。鋳造には銅が必要なことは、前回お話ししたとおりです。
大仏造営長登銅山跡

 長門国美祢郡の長登銅山(山口県美祢市美東町長登)は文武二年(698)から和銅四年(711)に開山されています。この銅山の周辺の秋吉台一帯は、7世紀代の住居跡から銅鉱石・からみ(銅滓)などが検出されています。他にも長門国には銅山がありました。銅の産出国である長門に秦氏一族の嶋麻呂が長門守として任命されているのです。長門国や中国の銅山は、秦氏・宇佐八幡宮とかかわりがあります。それを知った上での秦氏の嶋麻呂が長門守任命と研究者は考えているようです。
ここからは、天平十四年正月の「十四階級特進」という嶋麻呂の栄進も彼が秦氏で、大仏造立にかかわっていたことが背景にあることがうかがえます。以上のような状況証拠を重ねて研究者は次のように推測します。
 朝元は、中国で生まれ中国育ちだった。そのため、河内国人県郡の秦氏・秦の民らが「金知識」になって、盧舎那大仏を本尊にした寺(知識寺)があることは知っていても、天皇を案内するほど河内の秦氏系知識衆と親しくなく、地理も知らなかった。そのために河内国出身で友人であった造官録の秦下嶋麻呂に、天皇の案内と天皇の宿泊場所、また知識寺にかかわった地元の知識衆に対する交渉などを、朝元は嶋麻呂に依頼した。聖武天皇に大仏造立を決意させた知識寺行幸の功労者が嶋麻呂だったから、官の垣を作らせて、そのことを理由に異例の栄進と褒賞になった。
以上が知識寺の盧舎那大仏のことを天皇に知らせたのは朝元で、行幸の実行の功労者は嶋麻呂という説です。
朝元と嶋麻呂が聖武天皇の寵ったことは、次の事実から裏付けられるとします。
藤原不比等の次男の北家と三男の式家が、なぜか朝元と嶋麻呂の娘を嫁にしています。当時最大の実力家で皇后も出す藤原本宗家の嫁に、秦氏の朝元と嶋麻呂の娘がなっているのは、2人が聖武天皇の寵臣であったことが最大の理由だと云うのです。
 喜田貞吉や林屋辰二郎は、藤原氏が朝元と嶋麻呂の娘を嫁にしたのは、二人が巨富をもつ財産家だったからと推論しています。藤原氏が彼らの娘を嫁にした理由として、とりあえず次のふたつをあげておきましょう。
第一に二人が聖武天皇の信任の厚い人物(特に朝元)であったこと、
第二に朝元は資産がなくても主計頭として財務を握っており、嶋麻呂は秦氏集団のボスになっていたこと
朝元、嶋麻呂の朝廷に置ける位置と、秦氏の財力を見ると、縁を結ぶことは将来の藤原氏にとっては利益があると思ったからでしょう。それは大仏造立のプロセスで、秦氏と秦氏が統率する泰氏集団(泰の民)の技術力・生産力・財力・団結力を見せつけられたことも要因のひとつであったかもしれません。「この集団は有能で使える! 損はない」ということでしょう。

  以上から聖武天皇の大仏造営については、その動機や実行段階においても秦氏の思惑や協力が強く働いていることを見てきました

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 大和岩雄 続秦氏の研究203P
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大仏鋳造工程 - 写真共有サイト「フォト蔵」

 東大寺の造営は、聖武天皇が国家プロジェクトとして打ち上げたものですが、それがなかなかプラン通りには進まなかったようです。豪族たちの中には「お手並み拝見」と傍観者的対応をとる人たちも多かったようです。そのような中で秦氏が果たした役割は大きかったようです。今回は大仏造営の銅を秦氏がどのように集めたのかを見てみようと思います。
大仏造営 資材一覧

最初に、大仏造営前後の銅生産がどのように行われていたのかを押さえておきます。
山尾幸久は「古代豪族秦氏の足跡」で、次のように述べています。

「『延喜式』主計式には、国家の銭貨鋳造機関に納付する原料銅は、「備中・長門・豊前』三国の負担と定められている。几慶二(878)年には『豊前日規矩郡の鋼を採る』ことについての指示が出されていて、仁和几(885)年には「豊前国の採銅使」のもとに長門から技術指導者が派遣されている。(『一代実録』)

ここには9世紀の段階では、国家管理下の原料銅は「備中・長門・豊前』の三国の負担で、一括管理されていたことを指摘します。そして、ヤマト政権による銅管理は、和銅三(701)年1月、『太宰府、鋼銭を献る』頃に始まったとします。つまり、銅の「国家的採銅」は「六世紀末より古い」と山尾氏は考えているようです。

加藤謙吉は『秦氏とその民』で、次のように述べています。
  「六・七世紀の時点では自然銅採取にかかわる竪穴掘法や、それにともなう本格的な製錬工程も開発されていたと考えてよい。このようなすすんだ生産形態は、渡来系技術の導入によって初めて実現し得るものであるが、香春岳の採鋼に渡来人の専業者集団の存在が想定できる以上、既にそうした段階に達していたと理解するのが適当とみられる。しかも豊前国においてかかる生産形態に質的・量的に対応できる渡来系集団は秦系をおいて他にない。勝姓者の管轄のもと、六~七世紀に、秦人を中心とする秦系集団が豊前の銅生産に従事したと想定して、まず間違いないと思われる」
  
 長門で採掘された銅が大仏造営に大きな役割を果たしたことは考古学的にも裏付けられます。

大仏造営長登銅山跡

1972年9月美東町の山中にある銅鉱山から数片の古代の須恵器が採集されました。これによって長登銅山跡は、日本最古の銅山であることが明らかになりました。また、1988年には、奈良東大寺大仏殿西隣の発掘調査が実施され、この時出土した青銅塊の化学分析の結果、奈良の大仏創建時の銅は長登銅山産であったことが実証されました。
大仏造営 資材一覧2

 東大寺正倉院に残る古文書には、長門国司から26474斤もの大量の銅が東大寺に送られた記録があります。これが大仏鋳造用で長登銅山産出のものと考えられています。26474斤は今の約18tに相当します。これは1回分の船積みの量であり、長登からは数回送付されたと推察できます。

大仏造営 木簡 長登銅山跡
長登銅山跡出土した木簡
 出土した木簡や墨書土器から、長登銅山跡が国直轄の採鉱・製錬官衙であったことが明らかとなりました。
その木簡のうち船舶の通行証をチェックする豊前門司関(海関)に宛てた銅付礼には、次のように記されています。
宇佐恵勝里万呂 九月功
上束
秦部酒手 三月功
上束
これを研究者は次のように解読します
①木簡の書かれた年代は710年代前半から730年代前半まで
②宇佐恵勝里万呂は『宇佐恵』がウジ、『勝』がカバネ、『里万呂』が名
 長門の長登銅山には、大仏造営という国家的プロジェクトのために、官人を初め多数の雑工・役夫が各地から移住してきたと推定できます。それ以前に豊前と長門の鉱山では技術者交流が行われていたようです。ここに名前が出てくる宇佐恵勝里万呂や秦部酒手もそのような鋳工の一人のようです。『宇佐恵』の氏名は豊前国宇佐郡の郡名と関連する氏名かもしれません。

門司関に宛てた船舶の通行証としての木簡ですから、宇佐恵勝も秦部も九州からやってきた人物なのでしょう。「宇佐」「秦」の氏名は、豊前の「秦王国」の人々で、八幡信仰圏の銅採掘・加工の技術者であったかもしれません。豊前の香春神社の香春山の三の岳の元八幡宮の地は、「製鋼所」という。このような事実や、前述した加藤謙吉の見解からみても、  大仏鋳造に用いた「熟銅 七十三萬九千五百六十斤」の供給には、秦氏・秦の民が関与していたことがうかがえます。
 

 聖武天皇は秦氏の官人を長門守に任命派遣しています。    
それが「大秦公」の姓を授けた嶋麻呂です。嶋麻昌については、天平十七年(745)五月三日条に、次のように記されています。
地震ふる。造官輔従四位下秦公嶋麻呂を遣して恭仁宮を掃除めしむ。

「秦公」は「大秦公」の略ですが、嶋麻呂は造宮録から造宮輔に昇進し、地震後の復旧業務にあたらせています。恭仁官の管理をまかされているので、天皇の信頼が厚かったことがうかがえます。その2年後の天平十九年二月に、彼は長門守に任命されます。この年の九月から大仏の鋳造が初まっています。鋳造には銅が必要なことは、前回お話ししたとおりです。
 長門国美祢郡の長登銅山(山口県美祢市美東町長登)は文武二年(698)から和銅四年(711)に開山されています。この銅山の周辺の秋吉台一帯は、7世紀代の住居跡から銅鉱石・からみ(銅滓)などが検出されています。他にも長門国には銅山がありました。最大の銅産出国である長門に嶋麻呂が長門守として任命されます。長門国や中国の銅山は、秦氏・宇佐八幡宮とかかわりがあります。それを知った上での秦氏の嶋麻呂の長門守任命と研究者は考えているようです。
 このように大仏造立において、泰氏集団(泰の民)の技術力・生産力・財力・団結力は充分に発揮されたようです。

以上から次のようなことが推測できます
①豊前の「秦王国」の秦氏集団が、朝鮮伽耶で行っていた採鉄・採銅の新技術を用いて香春岳などでの鋼・金の採掘・鋳造を盛んに行っていたこと
②そのバックに、中央政権の意向があったこと
③その意向は長門だけでなく備中の採銅にも秦氏を関与させていたこと
④大仏造営のために銅生産の増産が求められると、先端技術を持った秦氏・秦の民が技術者・管理者として送り込まれたこと
  大仏造営のための銅の確保は、豊前で実績を積んでいた秦氏が担当したと研究者は考えているようです。
それを裏付けるように、東大寺の大仏開眼の日の詔には、宇佐八幡神が「銅の湯を水となし」と提供したとあります。宇佐八幡神が水のように銅を供給したというのです。これは宇佐八幡信仰圏の銅を貢納したのでしょう。「東大寺要録」に載る銅銘文にも、「西海の銅」を用いて大仏を鋳造し完成したとあります。この「西海の銅」は、豊前や長門など秦人・秦の民が関与した銅と研究者は考えているようです。

大仏造営年表

  大仏造営を支援した秦氏と宇佐八幡は、聖武天皇の信頼を受けるようになります。
大仏造営に宇佐八幡官が直接関係するのは大平十六年(744)九月十六日に、東大寺建立のために字佐八幡宮が建立費を送ったことから始まるようです。そして、東大寺造営を通じて、朝廷より位階や給田・封戸を何度にも分けて贈与され、伊勢神宮をしのぐまでになります。
上田正昭氏は『大仏開眼』で、次のように述べています。

  「伊勢神宮をしのぐものだった。こうして八幡神は中央第一位の神とあがめるれるにいたった。僧の悔過をうけ、大仏に奉仕するたてまえをとって中央神化した八幡神の上昇は、仏法のための神というコースを端的にたどったものである」

「神仏習合」「仏法のための神」は、仏教が一番早く入った豊前「秦王国」で生まれた新羅系仏教と八幡信仰の習合で、秦王国の信仰でした。それが神仏混淆という形で全国化する先触れでもありました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


  江戸時代の讃岐では、次の4つの系統の雨乞信仰が行われていたようです。
①善通寺など真言系寺院での善女龍王信仰
②村々を越えた念仏踊り系の滝宮念仏踊り
③山伏たちによる龍が住むという山や川渕での龍神信仰
④各村々での風流踊(盆踊り)が雨乞い踊りとして踊られる風流踊り系の雨乞い
今回は①の善女龍王の三野郡における拡大過程について見ていきたいと思います。テキストは、 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」です。
2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図

善女(如)龍王については、以前に次のようにまとめておきました。
①空海が神泉苑で、善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王の姿は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、高野山では唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、新たな祈雨神として清滝権現を創造した。
⑥醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑦さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し流布させた
⑧その結果、それまでは男性とされたいた善如(女)龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

善女龍王
女性化した善女龍王

 善如龍王が善女龍王になったのは、醍醐寺の布教戦略があったようです。しかし、高野山では、その後も唐風官人の男神の「善女(如)龍王」が描かれています。こうして、国家による祈雨祈願は真言僧侶が善女龍王に対しておこなうという作法が出来上がります。これを受けて江戸時代になると、各藩主は真言寺院に祈雨祈願を命じることが多くなります。祈祷の際には、善女龍王に祈願するのでその姿を描いた絵図が必要になります。絵図を掲げて、その前で護摩が焚かれたのでしょう。そのため善女龍王信仰を行っていた寺には、その絵図や像が残されていることになります。
善女龍王 本山寺
本山寺の善女龍王像
国宝本堂を持つ本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像が伝わっています。  見て分かるのは女神ではなく男神です。先ほどお話したように、善女龍王の姿は歴史の中で次のように変遷します。
①小蛇
②唐服官人の男神          (高野山系)
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系)
  ②の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ここにあるのは木像で3Dなのです。木像善女龍王像は、全国でも非常に珍しいもののようです。
5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善女龍王像
 本山寺の善女龍王像を見ておきましょう。
①腰をひねり、唐服の両袖をひるがえして動きがある
②悟空のように飛雲(きんとんうん)に、乗っている。
③向かって左に、龍の尻尾が見える。
  この彫像は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元年1145)が描いたとされる善女龍王とよく似ているように見えます。
  研究者はこの善女龍王像を次のように評価しています。
 像容は、桧の寄木造であり眼は玉眼がん入である。光背は三方火焔付き輪光で、台座は、須弥座の上に岩座及び雲座を重ねてある。顔は青く長いひげをつけ、爪の長い左手には宝珠を持つ。服装の表面は全面に装飾があり、緑青・金泥で描かれた文様などによく彩色が残っている。
上に乗る本像の形姿は動勢が巧みに表現され、また載金、金泥盛上手法などを交えた入念な彩色などに小像ながら当代の彫像としては佳品として評価できる。像高47.5センチで製作年代については南北朝時代と思われる。
  研究者は14世紀の南北朝時代のものとします。そこまで遡れるのでしょうか。
善女龍王安置 本山寺鎮守堂
本山寺鎮守社
この善女龍王像が安置されていたのが鎮守堂です。
昭和の解体修理で、棟木・肘木から「天文十二年」 「天文十六年」の墨書がでてきました。ここからは、鎮守社が1543(天文十二年)年着手、1547(天文十六年)年の建立であることが明らかになりました。解体前は江戸時代のものとされていたのですが、室町時代末期の当初材を残す中世以来の伝統様式を踏まえた建築物なのです。その後、大修理が1714(正徳四年)年に実施きれたようです。
 香川県内の国・県指定の木造建造物は46棟あるそうですが、この守堂は9番目に古いことになります。善女龍王像は、この建物にずっと安置されてきたようです。
 とすると、善通寺で善女龍王が勧進されて雨乞祈願が行われるのは17世紀後半のことですから、それ以前に本山寺では善女龍王信仰がてあったことになります。私は善女龍王信仰の流れとして、高野山から善通寺に真言僧侶によって持ち込まれ、善通寺を拠点に三豊の本山寺や威徳院に広がったと考えていたのですが、そうではないことになります。善通寺以前に、本山寺には南北朝時代に善女龍王が勧進されていたのです。
善女龍王 威徳院
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)にも、紙本著色善女龍王画幅が伝来しています。
これも男神の善女龍王です。威徳院と本山寺は、何人もの住職が兼帯したり転住・隠居して、深いつながりがありました。  室町時代末期には、本山寺では善女龍王に雨を祈る修法が行われていたことは見てきましたが、それが住職の兼帯などを通じて、威徳院へと広がったことが推察できます。
 文化十三(1816)年成立の「讃州三野郡上勝間村山王権現社並所々構社遷宮社職書上帳」には、下勝間村の威徳院の上の三野氏の居城跡とされる城山には、石製の善女龍三社が祀られていて、

「雨乞之節仮屋相営祈雨法執行仕候」

と記されています。祈雨祈願の際には、ここに仮屋が建てられて雨乞いが行われていたことが分かります。勝間地区には威徳院によって善女龍王社が勧請され、その周囲にも信仰が広まっていたようです。
   岩瀬池に善女龍王伝説が付け加えられたりするのも、威徳院周辺に善女龍王信仰の広がりを物語るものなのでしょう。
威徳院の末寺である地蔵寺には、善女龍王の勧進記録があります。そこには、次のように記されています。
善女龍王勧進記 地蔵院
善女龍王勧請記 (文化7(1810年 地蔵寺)
善女龍王勧請記                                       
当国上勝間村地蔵寺主智秀阿遮梨耶一日与村民相議而日、財田郷上之村善女龍王者中之村伊舎那院之所司而当国中之擁護神也、霊験異他而古今祈雨効験掲焉、如響應音焉、幸八山頂有龍神勧請の古跡願於此所建小社勧請、潤道龍王以為此村鎮護恒致渇仰永蒙炎早消除五穀成就之利益実、諸人歓喜一同来告如是、予日善哉此事也遂不日如誓焉、記以胎之後世云維文化七年庚午林鐘十八日
中之村伊舎那院  現住法印宥伝欽記
上勝間村地蔵寺現住 智秀
同庄屋 安藤彦四郎
同組頭 弥兵衛
                        願主         惣氏子中
        別当         地蔵寺
意訳変換しておくと
①上勝間村の地蔵寺住職の智秀が村民と相談し、②財田郷上之村の善女龍王を勧進した。善女龍王は、財田中之村にある③伊舎那院の管理するものであるが、霊験があらたかで、特に④祈雨祈願にすぐれた力があることが知られている。すでに⑤龍神が勧進されていた八つ山山頂に小社を建てて勧請した。⑥潤(渓)道龍王(善女龍王)は、渇水や熱射からこの村を鎮護し、五穀成就の利益と人々に歓喜をもたらすであろう。

ここからは、次のようなことが分かります。
①地蔵寺住職が文化七年(1810)に②財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したこと。
③これは伊舎那院管理下のもので、④祈雨祈願に効力があること
⑤それ以前に上勝間では八つ山に竜神の小社が建立されていたこと
⑥その上に⑥渓道龍王を勧進してパワーアップを図ったこと
 威徳院に関係する寺院や末寺では、本寺に習って善女龍王の勧進が進められていたようです。同時に、財田の伊舎那院管理下の渓道龍王が祈雨祈願に効力があると近隣の村ではされていたことがうかがえます。

渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王

 この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったと記されています。
善女龍王 般若心経 地蔵院
 この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。

善女龍王 地蔵院
地蔵寺には像高19㎝の小さな木造「善女龍王像」が伝来しています。これも男神の善女龍王像で、飛雲の台座に立つ像です。両手先・右足先・尾が欠損しています。顎髭をたくわえ、やや笑みを浮かべた柔和な面相をしています。像は唐服をまとい、その両腕の肘あたりに広がるフリル様の表現が本山寺のものと似ているような気もします。ところがこの善女龍王像の特徴は、左腰に刀を差しているのです。これは初めて見ましょう。この像が文化年間に財田から勧請された時に造られ、八ツ山の社に安置されていたものかもしれません。

  本山寺・威徳院・地蔵院に伝わる善女龍王についてまとめておきます。
1 本山寺の善女龍王は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元1145)によく似て、高野山の影響を受けた早い時期のものである。
2 本山寺周辺では室町時代末期には、善女龍王信仰が村われていた
3 威徳院には、紙本著色善女龍王画幅がある。
4 威徳院と本山寺は、住職が転住(隠居)または兼帯し、深い関係にあった。そのため本山寺から善女龍王信仰は伝わってきたと考えられる。
5 威徳院周辺には善女龍王を祀った祠もあり、19世紀初頭には高瀬地区で善女龍王信仰が広がっていた
6 威徳院の末寺(隠居寺)である地蔵院は、善女龍王を勧進した記録があり、小さな木像も伝わる。
7 この木像は、佩刀している善女龍王像で全国的にも例がない。高瀬地方での「地方的変容」を遂げた像でる。
以上からは、三野郡の善女龍王信仰は南北朝時代に本山寺で始まり、それが本末関係を通じて威徳院や地蔵院に広がっていたことが考えられる。ここからは善女龍王の招来ルートは、善通寺を通すことなく高野山から本山寺に直接的に伝来したことがうかがえます。その間には、独自のルートがあり、高野聖などの廻国聖の動きが考えられます。
5善通寺22

 善女龍王信仰は土着的な雨乞祈願にも影響を与え、「善女龍王」の幟を立てて、風流踊りを雨乞いとして踊る村も出てきます。
それが大水上神社(二宮神社)に奉納されていた雨乞い踊りの「エシマ踊り」です。これは那珂郡佐文へ麻地区を経由して伝わります。佐文に伝わる綾子踊りに、善女龍王の幟が立てられるのは、このような経緯があるようです。
イメージ 11
綾子踊りに立てられる善女龍王の幟(まんのう町佐文賀茂神社)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」

     さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)

 前回は、威徳院の歴史について次のような仮説を立てて見ました。
威徳院には史料的に中世に遡るものはない。戦国時代になってから道隆寺の末寺として建立されたのをスタートにする。それが生駒時代に藩の保護を受け、周囲の新田台地
の開発を進め伽藍を整備し西讃の教学センターとして大きな地位を占めるようになった

 ある意味、象頭山の松尾寺金光院と似ています。松尾寺も近世初頭に創建された新興寺院でした。それが、金毘羅神という流行神を祀り、天狗信仰の聖地となることで多くの修験者を集めるようになります。そして、金比羅で修行した修験者が各地に分散し、金比羅講を開き信者を組織し、彼らが先達として金比羅詣でを進めるようになります。金比羅の出発は「海の神様」ではなく、「天狗信仰の聖地」であったのです。同じような動きが高瀬の新田台地でも起こっていたと私は考えています。

「威徳院に近世以前の歴史はない」云いましたが、この寺には中世の絵図がいくつも伝わっています。これらをどう考えるかが次の問題になってきます。
威徳院調査報告書の中世絵画を見ていくことにします。
威徳院には、絵画や書跡の掛幅、屏風、扁額など135点が保存されているようです。その中には、奈良国立博物館に保管されている威徳院所蔵の中世仏画四件を含みます。その内訳を見ると、絵画90件、書跡45五件と、絵画が全体の約2/3を占めます。その伝来は、高野山や、住職の兼帯などが行われた本山寺(三豊市豊中町)からもたらされたものが多いのが特徴のようです。
この中で中世に遡るのは次の九件です。
①南北朝時代に描かれた「不動明王二童子像」
②室町時代の作として、「十三仏図」
③「十一面観音像」
④「愛染明王像」
⑤「三千仏図」
⑥「仏涅槃図」
⑦「弘法大師像」
⑧「荒神像」

大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)には①「不動明王二童子像」と②「十三仏図」を「宝物」として冒頭に記しています。ここからは、この2つが威徳院にとって特に重要な仏画と位置付けられていたことが分かります。

① 不動明王二童子像(南北朝時代(十四世紀)から報告書を片手に見ていきます。
威徳院不動明王

 右手に剣、左手に頴索を持って語々座に結珈践坐する不動明王です。頭頂に蓮華を載せ、髪を総髪にして左前に弁髪を垂らし、両眼を見開いて上歯で下唇を噛みしめています。いわゆる弘法大師様と呼ばれる図像です。背後の迦楼羅炎は、朱と金泥で全身を覆うように表され、激しい火焔が台座の下に写っているのが見えます。不動明王の肉身は群青で、頭髪や眉は金泥で線描されています。
脇侍の二童子は、床に置かれた方形の台座上に立ちます。向かって右が衿掲羅童子で、右手に蓮華、左手に独鈷杵を持ち、肉身を白色に近い明るい色の顔料で塗り、頭髪は墨の細線で描かれていて黒髪の雰囲気がよく出ています。
左が制吐迦童子で、右手に宝棒、左手に三鈷杵を握ります。躰は全身が朱色で、頭部の巻毛は金髪です。おおらかさも感じられ、制作時期は南北朝時代、十四世紀頃と研究者は考えているようです。
県内にある不動明王画像の中でも古作の一つになるようです。大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)では弘法大師筆と伝えられ「宝物第一号」とさています。大正時代には、この「不動明王二童子像」が最重要宝物として扱われていたようです。
 不動明王は修験者の守護神です。
修験者は笈の中に小さな不動さまを入れて各地を修行しました。そして、適地を見つけると小屋掛けし庵を結びます。その行場に人気が集まると訪れる行者も多くなり、寺へと発展していきます。
現在の四国霊場の多くは、このように行者たちの行場から生まれたお寺が数多くあります。行場には不動さまが祀られていました。山の上にの行場近くにあったお寺は、近世になると麓に下りてきます。本山寺などはその典型であることは以前にお話ししました。行場は奥の院として残り、そこには不動さまが今でも祀られていることが多いようです。
ここからは不動さまを祀っている寺院はかつては行場を持つ山岳(海洋)寺院であったことが推察できます。
この不動さまを「宝物第一号」としていた威徳院にも、そのような側面があったことが考えられます。それは、前回もお話ししたように山号が「七宝山」であることからもうかがえます。七宝山は「辺路修行」の聖地でした。そこにかつては寺院があったり、七宝山を霊山とするお寺は、この山号を用いています。それは本山寺も延命院もおなじです。 この不動さまが中世の時代から威徳院にあったかどうかは、不明です。
威徳院十三仏図2

②「十三仏図」(室町時代(十四世紀)は三豊市の有形文化財に指定されています。
中世には、死者追善のために十三回の忌日ごとに供養を行う十三仏信仰が広がっていました。そのために描かれたのがこの仏画のようです。十三仏信仰は、鎌倉時代に中国から伝来した十王信仰をもとに、各王に本地仏を定め、忌日も増えるなどして南北朝時代頃に成立します。それぞれの忌日と本地仏は、次の通りです。
初七日忌-不動明王、
二七日忌-釈迦如来、
三七日忌-文殊菩薩、
四七日忌-普賢菩薩、
五七日忌-地蔵菩薩、
六七日忌-弥勒菩薩、
七七日忌-薬師如来、
百ヶ日忌―観音菩薩、
一周忌-勢至菩薩、
三回忌-阿弥陀如来、
七回忌-阿問如来、
十三回忌-大日如来、
三十三回忌-虚空蔵菩薩
威徳院十三仏図

威徳院の「十三仏図」は、各仏を上のように配置して、それぞれに仏の名称のほか、十王の名と忌日を二行で墨書しています。
 室町時代以降の十三仏図では、忌日順に本尊が並ぶのが多いのですが、この図は各尊像の順番が交錯する複雑な配置になっています。これは、「画面中央に位置する阿弥陀三尊や釈迦三尊などのまとまりを意識した構図とも考えられ、類例の少ない図像」と報告書は指摘します。
 それ以外の特徴としては、通常は虚空に浮かぶ蓮華座上に仏たちをを描くことが多いのですが、この図は文殊・普賢菩薩が獅子と象に騎座します。また各仏の下には、岩座や水波などの自然景が描かれます。この絵図の制作時期は、室町時代前半、十四世紀と推定されているようです。
 しかし威徳院への伝来は、18世紀以後になるようです。
なぜなら巻留の墨書に、十八世紀前半にはこの絵図は高野山雨宝院の真辨が所蔵していたこと記されているからです。それが後年、何らかの形で威徳院に伝えられたようです。この絵図が伝えられる人脈ネットワークが威徳院と高野山雨宝院の間にはあったことになります。

威徳院十一面観音像

③十一面観音像 縦100,5㎝ 横39㎝ 室町時代(十五世紀)
「十一面観音像」は、錫杖を持って立つ十一面観音の両脇に、難陀龍王と雨宝童子が配されるスタイルです。頭上に十一面を戴せて、右手首に念珠を巻いて錫杖を持ち、左手に水瓶を持って立ちます。その下側に両手で宝珠を捧げ持つ難陀龍王、宝珠と宝棒を持つ雨宝童子の二脇侍が描かれます。このような十一面観音三尊像スタイルは、奈良・長谷寺の本尊と同じで、長谷式十一面観音と呼ばれます。県内では、長谷式の十一面観音画像は非情にめずらしいようです。秘仏とされる威徳院の本尊も長谷式十一面観音像で、難陀龍王、雨宝童子の脇侍が附属する三尊像です。この図も本尊との関連性が考えられます。報告書の記述を見てみましょう
 十一面観音は、肉身を金泥で塗り、肉身線を朱の鉄線描で描き起こす。顔貌は、正面向きでやや平板化した印象もあるが、衣や光背の文様はのびやかな墨線で破綻なく描かれる。
脇侍の二尊はごく細い線で眉や頭髪を描き、顔は墨や朱などを使って表情豊かに描かれており、室町時代十五世紀に、優れた技量を持つ画家によって描かれたものと考えられる。巻留および箱の銘文から、十九世紀の前半と文久三年(1862)に、遍空と密道の二人の住職の手でそれぞれ修復されたことがわかる。
威徳院愛染明王像
④愛染明王像 縦104、2㎝横41、3㎝ 室町時代(十五世紀)
 愛染明王は、人々が愛欲、煩悩に向かう心を浄化して悟りへと導く明王です。息災、調伏、敬愛などを祈願する愛染法の本尊として信仰を集めたようで、香川県内にも数多く残されています。。
 この図は、中央に、宝瓶の上の蓮華座に結珈鉄坐する一面三目六腎の愛染明王が描かれます。その上には環路の下がった天蓋、床上には宝瓶から湧き出した宝玉や貝殻を描かれます。明王の六腎は、第一手の左手に五鈷鈴、右手に五鈷杵、第二手の左手に弓、右手に矢、第三手の左手に蓮華が握られ、右手は金剛拳です。髪は怒りの怒髪で、獅子冠を戴せています。教典通りの絵柄です。
 報告書を見てみましょう
粗めの画絹の上に、愛染明王は肉身を朱で塗り、肉身線を細い墨線で描くが、描写は全体にやや硬く形式化がみられる。台座等も含めて截金の使用は見られず、衣の文様も金泥と彩色によって截金文様風に描いており、画風から、室町時代、十五世紀の制作と考えられる。巻留には、智証大師筆とする墨書があり、威徳院でも重要な仏画の一つとして伝来したものと考えられる。

⑤ 三千仏図 三幅 南北朝~室町時代(十四世紀)
 三千仏図は、過去・現在・未来に現れる諸尊の仏名を唱えることで、罪を傲悔し、功徳を得ようとする仏名会(仏名懺悔会)の本尊です。これも巻留に、宝暦五年(1755)に住職の周峯が高野山で求めたことが記されています。18世紀半ばまでは高野山に伝来していたものが、その後威徳院に伝来したことが分かります。
威徳院仏涅槃図幅

⑥ 仏涅槃図幅 縦140、9㎝ 横108,8㎝ (十五世紀)
 釈迦は、その生涯を沙羅双樹の下で終えます。釈迦入滅の情景を描いたのが仏涅槃図です。この図は、中央に右腕を枕にして宝床に横臥する釈迦を描かれます。その周りに釈迦の死を聞いて集まり、嘆き悲しむ諸菩薩や仏弟子、様々な動物たち会衆の姿があります。画面向かって左上には、知らせを聞いて天上界から飛来する釈迦の母摩耶夫人の姿も見えます。この構図が鎌倉時代以降に主流となった定形版のようです。
 仏涅槃図は、涅槃会の本尊として用いられるので、大きな寺院には必ず備えられていました。
  この図とほぼ同じものが、覚城院(三豊市仁尾町)、地福寺(丸亀市広島)などのいくつかの真言宗寺院に伝来しています。ここからは同一の絵師、または工房で制作された可能性があります。 室町時代以降、地方寺院では宗教行事のために「仏画需要」が高まります。それを受けて、絵所などで粉本を用いた仏画を数多く制作し、供給していたことがうかがえます。
 
 地福寺本の紙背には、次のように記されています。
文明三/辛/卯/十月十五日/絵所/加賀守主計/彩圓終焉屹

ここからは文明三年(1472)に絵所の絵師、加賀守主計が描いたことが分かります。威徳院のものも同じ工房で作られたとすると、十五世紀後半に加賀守主計の絵所か、またはそれに近い位置にいた絵師によって描かれたことが推測できます。加賀守主計については、史料では室町時代に、京都で活動した加賀守(加賀)を名乗る絵師がいたことが分かっているようです。
 高野山の寺院を兼帯する威徳院住職が高野山で求めて持ち帰ったのを周辺の僧侶が見て、「うちにもあれと同じものを求めてきてくらんやろか」と依頼する姿が浮かんできます。 
 この仏画にも紙背に宝永年間(1704~11)と文化11年(1805)の二度にわたって修復が行われたことを示す墨書銘があるようです。

威徳院弘法大師

⑦ 弘法大師像   室町時代(16世紀)
 画面向かって左斜めを向き、右手に五鈷杵、左手に念珠を持って背のある椅子に坐す弘法大師の姿が描かれます。その背後に、山間から姿を現した釈迦如来が描かれています。「善通寺御影」とよばれる弘法大師像です。高野山で描かれた弘法大師像には釈迦如来は描かれていません。ところが讃岐で描かれたものには、釈迦如来が描かれるようになります。
どうしてなのでしょうか?
 空海が四国の山中で修行をしていた時に、釈迦如来が雲に乗じて現れたという説話を絵画化したものとされます。鎌倉時代に讃岐に留配された僧道範が著した「南海流浪記」に、善通寺で釈迦如来の姿が描かれた空海自筆の大師像を見たという記述があります。ここからこのスタイルは「善通寺御影」と呼ばれるようになったようです。
 この様式は香川県内には、多くの作例があります。その背後には、与田寺の増吽の布教活動と重なることが指摘されています。つまり、この善通寺御影があるところは、増吽の組織していたネットワークに組み込まれていたと研究者は考えているようです。増吽の性格は「熊野信仰 + 勧進僧 + 書写ネットワークの元締め + 高野聖 + 弘法大師信仰」といくつもの要素が絡み合ってることは以前にお話ししました。そのようなネットワークの中に威徳院も組み込まれていたことがうかがえます。
 今に伝わる「善通寺御影」の作例は、どれもほぼ同じ図様です。そこからは原本となるものを、写し継いで、増吽の工房などで多数の画像を描いたことが想像できます。報告書の記述を見てみましょう。
本図は釈迦如来の描写も含めて、明快な墨線と彩色で描かれるのが特徴である。釈迦如来や岩山などの描写にやや形式化した硬さも認められることから、制作時期は十六世紀、室町時代後期と推定される。紙背の墨書から、仏涅槃図と同じ時期に修復が行われていることがわかる。
威徳院荒神像

⑧ 荒神像 縦70,2㎝ 横38、8㎝  室町時代(十五世紀)
 荒神は、仏教経典の中に出てきません。神仏習合思想や俗信的信仰の中から生まれたものです。荒神には、次の3つタイプがいます
A 相好柔和な如来荒神、
B 八面八(六)腎の夜叉羅刹形である三宝荒神
C 宝珠と宝輪を持つ俗体形で子島寺の真興が感得したという子島荒神
この荒神は、B三宝荒神を描いたもののようです。報告書を見てみましょう。
 本面の左右に脇面、頭上に五面を戴いた八面で、いずれも怒髪の忿怒形で怒る姿が描かれている。第一手は胸前で合掌し、第二手は左手に宝輪、右手に羂索、第三手は左手に弓、右手に矢、第四手は左手に三叉戟、右手に三鈷戟を持ち、火焔を背にして荷葉座に坐す。
荒神の肉身は朱で塗り、輪郭は肥痩のある墨線で描く。持物の一部や座具の縁には截金を施し、頭髪や眉を金泥で筋描きするほか、装身具や衣の文様なども金泥で描く。粗い目の画絹に素朴だが伸びのある描線で描かれており、火焔などの彩色には細やかな輦しも見られる。制作時期は、室町時代、十五世紀前半と考えられ、県内でも類例がほとんど見られない中世の荒神画像として貴重である。

  威徳院に伝わる中世仏画を見てきました。ここから推測できることを挙げておきます
①江戸時代の威徳院の住職は、高野山のお寺と兼帯する者が増え。その関係からか高野山からの伝来を伝えるものがいくつかある。
②「十三仏図」「仏涅槃図」「弘法大師像」「荒神像」「十一面観音像」などは、年間の宗教行事の「開帳」のために必要なもので、後世に必要に応じて購入伝来した可能性が高い
③「不動明王二童子像」「愛染明王像」などは、密教系修験道に関係するもので、威徳院の本源的な姿を伝えている。

   以上から威徳院に残された中世仏画類が威徳院の中世の歴史を伝えるものとは、必ずしもいえないことがうかがえます。「威徳院近世出現説」を葬り去ることはできません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 威徳院勝造寺の調査報告書が平成11年に出ています。この調査書を見ながら威徳院の歴史を見ていきたいと思います。報告書は最初に次のことを予備知識として確認しています
①威徳院は山号を七宝山、寺号を勝造寺
②江戸時代は大覚寺派で、その後東寺真言宗で現在は真言宗善通寺派の寺院
③江戸時代初めの生駒藩時代には、讃岐十五箇院の一つ
④澄禅の記した『四国遍路日記』(1653年)では讃岐六院家の一つとされる
⑤本尊は十一面観音で、中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えている。

寺号が七宝山とあることに注意しておきたいとおもいます。七宝山は、このエリアの霊山で行場の続く「小辺路」があった山です。観音寺縁起には、観音寺から始まって仁尾まで7つの行場があり、五岳の我拝師山と結ばれる「小辺路」があったことが記されていました。中世にはここを多くの修験者たちが行き交った形跡が残ります。行場近くには、寺院ができます。それが時代ととともに里に下ってきます。その典型が本山寺です。本山寺もかつては七宝山の山中にあったお寺が、14世紀前後に現在地に移り本堂伽藍を構えました。七宝山から里下りしてきた寺には山号を「七宝山」とする所が多いようです。これはかつては、七宝山を霊山として、奥社がそこにあった痕跡だと私は考えています。もしかしたら威徳院も、そのような性格をもっていたのかもしれません。
 
 威徳院勝造寺の寺暦を『七賓山威徳院由来』(天和元年(1682)で見ていきます。
ここには威徳院開基について二説が併記されています。
一つは弘仁12年(822頃)に空海が四国巡遊のおりに草坊があって、そこにとどまり修行をしたのが始まりというものです。
もう一つは寛平元年(889)、弘法大師有縁の地に三間四面の堂宇を建立したのを始まりとするものです。
しかし、その後257年間は不詳とします。
 どちらにしても真言宗のお寺らしく空海伝説を創建説話に持ちます。
久安二年(1146)秋に浄賢法印が威徳院住職となったと記し、その後、良尚をはじめ何人かの住職の名前を挙げますが、その後は
「二百三十四年間ノ史実、住職ノ人林不分明

とします。つまり、威徳院は、創建から南北朝期から天正期までの「歴史は不詳」なのです。
ところが良尚が、一次資料に別の時代に登場するのです。
威徳院と関係の深い本山寺の聖教の中の奥書に、次のような記録が残されています。
「永正十二年乙亥正月二十一日讃州勝蔵寺威徳院住持良尚法印書写本悉破損故今住侶慧丁写之」

また威徳院にある聖教の奥書にも、次のような書き込みがあります。
「永正十二年乙亥正月廿一日於勝蔵寺書之自萩原地蔵院此本申請或人書写之以後令苦労写之也右筆良尚」)

ここからは永正十二年(1515)に威徳院住持として良尚という人物がいたことが分かります。
また良尚は「本山寺龍響血脈」には、慶長二年(1597)に威徳院住職となったとされる秀憲の2代前の人物としても登場します。ここからは良尚は16世紀後半頃の戦国時代の人物の可能性が高いと研究者は考えているようです。つまり「威徳院由来」に13世紀末~14世紀初の人として登場した良尚は、威徳院の歴史を古く見せるための作為だったようです。

 こうしてみてくると威徳院には、古代中世の歴史はなく、16世紀後半になって姿を現してきた「新興寺院」の可能性があることになります。しかし、最初に⑥で見たように、この寺には中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えています。これをどう考えればいいのでしょうか。これはまた別の機会に考えることにして、先を急ぎます

  威徳院は、どのようにしてこの地に姿を現したのでしょうか。
   威徳院由来に実在が信じられる住職名が並び出すのは天正十年(1582)の良田法印からです。その後、慶長二年(1592)からは秀憲法印が住職になったと記します。
『威徳院由来』には良田・秀憲について、次のように述べています。
道隆寺ヨリ当院ヲ兼帯ストモ云ヘリ」

 突然に、ここで道隆寺が登場します。道隆寺とは四国霊場で、当時は中世の多度郡港である堀江湊の「港湾管理センター + 修学センター」としても機能していました。海の向こう側の児島五流の影響を受けて、塩飽諸島や詫間・庄内半島などの多くの寺社を末寺として、備讃瀬戸への教線ライン伸ばしていた寺院です。その道隆寺の僧侶が、威徳院の住職を「兼帯」していたというのです。にわかには信じられませんでした。

  ところが『道隆寺温故記』を見ると、良田・秀憲の二人の住職が実在していたことが分かります。そして、次のような行事に登場しています。(良田は田と表記されている)
永禄十一戌辰年(1568)冬十月廿六日、雄(秀雄)、入寂。良田、補院主焉。
天正三乙亥年(1575)春三月十八日、塩飽正覚院本堂入仏供養導師、田(良田)、執行焉。
天正拾壬午年(一五八二)夏卯月廿七日、鴨大明神、田、遷宮導師執行畢焉。
天正十六戊子年(一五八八)春三月十九日、多度津観音堂入仏導師、田、修之。
天正十六戊子年秋九月五日、多他須。宮遷宮導師、田、執行焉。
天正十七己丑年(一五八九)秋九月十七日、堀江春日大明神、田、遷宮導師墨 焉。
天正十八庚寅年(一五九〇)冬十月廿一日、葛原八幡宮、田、遷宮導師畢焉。
天正廿壬辰年(一五九二)夏六月十五日、白方海岸寺大師堂入仏導師、田、令執行畢。
文禄元壬辰年(一五九二)冬十一月日、田、移住塩飽正覚院兼帯常寺。
文禄五丙申年(一五九六)、(中略)于時、田、捕白方八幡宮神鉢破壊、即彫夫 木、厳八躯尊像、以擬旧記、令安坐、開眼導師畢。
文禄五丙申暦夏六月八日、鴨大明神遷宮導師、田、執行焉。
慶長一于酉年(一五九七)秋八月八日、金倉寺本堂薬師如来開眼供養導師同前。
慶長四己亥年(一五九九)秋八月十四日、下金倉八幡宮、田、遷宮導師令執行畢焉。
慶長六辛丑年(1602)夏五月十四日、堀江弘演八幡宮、遷宮導師同前。
慶長十乙巳年(1605)春二月廿二日、粟嶋(粟島)常社大明神遷宮導師、田、令執行畢。
慶長十乙巳稔冬十二月十六日、田、於塩飽終焉。同月廿二日、秀憲、補道隆寺院主焉。
慶長十二丁未暦(1607)秋八月十三日、葛原郷八幡宮遷宮導師、憲(
秀憲)、執行焉。
慶長十五庚戌年(1610)秋九月九日、堀江弘漬八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
慶長十六辛亥暦(1611)冬十月宿曜日、憲、入院濯頂焉。
元和二丙辰年(1616)秋八月吉日、堀江八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳年(1617)秋八月九日、粟嶋八幡遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳暦秋八月九日、粟嶋聖徳太子入仏導師、憲、令執行畢焉。
元和三丁巳年秋九月廿日、津森村天神、憲、遷宮令執行畢焉。
元和六庚申年(1623)夏卯月廿六日、憲、白方海岸寺大師堂入仏導師令執行焉。
元和九発亥年(1623)閏八月朔日、葛原八幡宮、憲、遷宮導師令執行畢焉。
寛永二乙丑(1625)九月、葛原八幡宮釣殿、供養導師秀憲修行。
寛永四丁卯年(1627)三月廿三日、憲、入寂
ここからは次のようなことが分かります。
①永禄11戌辰年(1568)に雄(秀雄)が亡くなり、代わって良田が道隆寺の住職に就任。
②道隆寺と本末関係を結ぶ寺社が島嶼部では塩飽や粟島、内陸では下金倉・葛原八幡までのびている。海に伸びる教線ラインを道隆寺は持っていた
③末寺の寺社の遷宮や供養には、良田が自ら出掛け、導師を勤めている。
④良田が導師を勤めているのは1605年までで、以後は秀憲に代わっている
⑤道隆寺側の資料には、良田・秀憲が威徳院を兼帯していたことは触れられていない

ここで良田の道隆寺住職の在任期間を確認しておきます。
良田は永禄11年(1568)に道隆寺三十世となって、慶長十年(1605)に亡くなっています。威徳院由来には良田の在職期間は天正十年(1582)から慶長二年(1592)までとなっていました。在任期間にズレはありますが、良田が道隆寺の住職を16世紀後半に務めていたことは史料から裏付けられます。

 良田の名は、天正頃の人として古刹島田寺(丸亀市飯山町)十二世としても名前が見えます。この人物については、よく分かりませんが生駒親正によって再興された弘憲寺(高松市)開祖良純につながる人物で、高野山金剛三昧院に縁のある人と研究者は考えているようです。これも同一人物の可能性があります。
 
本島の正覚院に伝わる『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。
天正三年(1575)二月十八日  道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏
供養導師を勤める。
天正十八年(1590)年    秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年  道隆寺の良田が正覚寺に移り、道
隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日  良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は、物流センターの塩飽への参入拡大です。そのために本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し、本島で生活するようになったというのです。

以上を整理すると良田は、道隆寺の住職で、飯山の島田寺・本島の正覚寺・威徳院を兼帯していたことになります。つまり、後の記録に「兼帯」していたことをこれだけ記録されているのですから人望のある僧侶であったことがうかがえます。同時に、良田の時代に道隆寺の寺勢が急速に拡大したようです。道隆寺の教線拡大政策の一環として、その教勢ラインが三野郡の勝間郷にもおよぶようになったのが良田の時代だった、そして、道隆寺の支援で、威徳院が下勝間の地に姿を現すようになったとしておきます。

  16世紀後半の威徳院をとりまく三野郡の情勢は激変期でした。
天霧城主香川氏家臣→長宗我部元親→生駒親正→生駒一正と支配者が交替していきます。秋山・三野文書からは1560年代の三野地方は、天霧山城主の香川氏に対して、阿波三好勢力が伸びてきて、一時的に香川氏は天霧城を退城したことが分かります。それでも香川氏は、三野氏や秋山氏に感状をだし、土地給付も行っています。ここからは、香川氏が滅亡したわけではなく、一定の勢力をもってとどまっているたことがうかがえます。1577年には秋山帰来氏への土地給付をおこなってるので、この頃までには香川氏の勢力が回復していたようです。
 この時期は、阿波三好氏側に麻や二宮の近藤氏がついていました。そのため香川氏の家臣団である秋山氏などとの間で小競り合いが続いていたことが史料からは分かります。三好氏の勢力範囲は麻から佐俣・二宮ラインまで及んでいたことになります。そのため各武士団の氏寺は、小競り合いの際に焼き討ちの対象となったかもしれません。三野氏の菩提寺とされる柞原寺も、このような中で一時的には衰退したことが考えられます。その宗教的な空白地に道隆寺は進出してきたとしておきましょう。
 道隆寺の教線の伸張ルートとして考えられるのは、以下の2つです。
①道隆寺 → 白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院
②道隆寺 → 白方海岸寺 → 粟島  → 三野湾 → 威徳院
 その原動力はなんでしょうか。
経済的には、瀬戸内海の交易の富でしょう。道隆寺は、堀江港の管理センターの役割を果たし、本島や粟島、庄内半島の末寺もネットワークに組み込んでいました。そこから上がる富がありました。
人的なエネルギーはなんでしょうか。これは児島五流修験の人的パワーだったと私は考えています。児島五流の布教戦略については、何度もお話ししましたのでここでは省略します。
 五流修験(新熊野)と道隆寺は強い結びつきがあったようです。
五流修験の影響を受けた道隆寺やその末寺であった白方海岸寺、仏母院などは、空海=白方誕生説を近世初頭には流布していたことは以前にお話ししました。ここからは高野山系の弘法大師伝説とはちがう別系譜のお話が伝わっていたことが分かります。善通寺と道隆寺は中世には、別系統に属する寺院であったことを押さえておきます。

  道隆寺グループを率いる良田の課題は、新しい支配者である生駒氏との間に、良好な関係を取り結ぶことでした。
それに良田は成功したようです。
天正十五(1587)年に、生駒親正が藩主としてやって来ると、国内安定策の一環として、以下の真言宗の古刹寺院を「讃岐十五箇院」を定めてを保護します。
一、虚空蔵院与田寺 (東束かがわ市) 
二、宝蔵院極楽寺 (さぬき市) 
三、無量寿院随順寺 (高松市) 
四、地蔵院香西寺 (高松市) 
五、千手院国分寺 (国分寺町) 
六、洞林院白峰寺 (坂出市) 
七、遍照光院法薫寺(飯山町) 
ハ、宝光院聖通寺 (宇多津町) 
九、明王院道隆寺 (多度津町) 
十、威徳院勝造寺 (高瀬町) 
十二 持宝院本山寺(豊中町) 
十二、延命院勝楽寺(豊中町) 
十三、覚城院不動護国寺 (仁尾町) 
十四、伊舎那院如意輪寺 (財田町) 
十五、地蔵院萩原寺 (大野原町)

ここには、道隆寺も威徳院も含まれています。
このリストを見て感じるのは、三豊の寺院の比率が高いことです。
6/15が三豊の寺院です。それがどうしてなのか、今の私には分かりません。この中に威徳院も含まれています。また、威徳院と住職が兼帯することになる本山寺や延命院・伊舎那院も含まれています。
もうひとつ気づくのは、普通は寺院の名称は山号・寺号・院号の順序で表記されます。ところが上の表記では、寺号と院号を入れ替えて山号・院号・寺号の表記になっています。院号が重視されているようです。
  
  そして、関ヶ原の戦いの翌年には、新領主となった一正から、威徳院は寺内林を持つことが認められます。
戦国時代末期の激変期に、良田は道隆寺住職として、兼務する寺や末寺の経営を担当し、その中で生駒家の保護を受けることに成功しています。そこには一正の信頼を得て奉行として働いていた三野郡出身の三野氏の存在が大きかったのではないかと思います。三野氏が地元の威徳院の保護を何らかの形で一正に進言したことは考えられます。
 しかし、 先ほども見たように『威徳院由来』は、良田ではなく秀憲を威徳院中興(創建)と位置づけ、高く評価します。逆に良田を「過小評価」したいようです。
 威徳院には、浄賢からはじまり勢深、勢胤、賢真、亮賢、良尚、宥尚秀憲の八人の肖像を描いた画幅「威徳院住職図」一幅があります。そこには、それぞれの命日が以下のように記されます。
中興開山浄賢七月廿九日
勢深二月五日
勢胤四月朔日
賢真五月廿八日
亮賢十月廿七日
良尚八月八日
宥尚九月六日/
秀憲三月廿三日」
ここにも良田は描かれていません。
  良田の後を継いだ秀憲を見てみましょう
道隆寺の記録に、秀憲は、多度郡堀江村の生まれで、慶長十(1605)年に道隆寺31世となり、寛永四年(1627)に入寂とあります。威徳院の記録には、
「威徳院・明王院(道隆寺)兼帯。堀江村出身、加茂にて命終」

と記します。ここからは、良田に続く秀憲も、道隆寺との兼帯です。
分かりやすく云うと「末寺」であったのでしょう。
その後の威徳院の動きを見ておきましょう。
慶長十六(1611)年には、生駒藩が高松に19か寺を集めて行った論議興行に、威徳院の寺名があります。このころには西讃地域での地位を確立したようです。
 丸亀藩山崎家からも寛永十九(1642)年に、生駒家寄進の寺領高20石が安堵されています。この高は西讃では一番多く、次に来る興昌寺が6石6斗のなので、当時の威徳院の寺勢が強さがうかがえます。そして、前回お話ししたように下勝間の新田台地の開発を着々と進めて寺領を増やして行きます。元禄十二(1699)には43石の寺領を持ち、最終的には寺領高150石に達します。これが威徳院の隆盛の経済的な基盤となります。
 
萬治二年(1659)に住職となったのが宥印法印です。
彼は金毘羅の金光院からやってきたようです。 金比羅神を祀る金光院の僧侶は「宥」の字をもらい受けます。慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金毘羅大権現の金光院の院主を勤めた宥睨のもとで修行し、高野山で学んだようです。金光院の院主たちは、山下家の出身地である財田周辺の才ある若者を預かり、見所有りと見抜くと高野山に送り込み学ばせて、人材を育成したようです。そのひとりが宥印だったのでしょう。有印は、出身地の中ノ村伊舎那院(三豊市財田町)と高野山善性院を兼務し、貞享元年(1684)高野山の善性院で入寂しています。
 高野山善性院は讃岐出身の僧侶と関わりが深かったようで、文政~天保頃の本山寺聖教にも本山寺住職体円などがこの寺と関係があったようです。高野山のお寺と兼帯する僧侶は、讃岐には他にも数多く見られます。
『威徳院由来』は宥印法印の口述を、弟子の宥宣が記したものです。その中で宥宣は、宥印を威徳院興隆の人としています。
それを裏付けるために、周辺の末寺の寺社の棟札銘などに残る宥印の名前を探してみましょう。
寛文三年(1663)八月九日 熊岡八幡宮「再興正八幡宮」棟札銘
「遷宮供養導師本寺勝同村威徳院権大僧都法印宥印
寛文五年(1665)九月二十三日 「建立大明神」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
同年同月             「建立八幡宮」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
寛文六年(1666)四月五日「建立新田大明神拝殿幣殿」棟札銘
   「遷宮導師勝間威徳院住持権大僧都法印宥印
寛文七年(1667))三月  「建立大瞬神宮」棟札銘
   「遷宮導師権大僧都法印宥印」(24)。
寛文七年(一六六七)    詫間村善性院「天満宮」棟札銘
   「遷宮井供養導師勝同村威徳院住持権大僧都法印宥印
ここからは威徳院の住職が周辺の神社の導師を勤めていることが分かります。地域における地盤も固まってきたようです。また、『威徳院由来』には宥印について、次のように記されています。
「当院住職中、的場寺大池及西谷上池ヲ新二掘り築ケリ」

的場の寺大池や西谷上池などの新しいため池築造も行っています。これは新田開発とセットになったものです。

  また有印以後は、威徳院は高野山との関係を強めていきます。
それと反比例するかのように道隆寺との関係が薄くなっていきます。これをどう見ればいいのでしょうか。
 これと同じような動きを見せるのが弥谷寺でした。弥谷寺は、近世初頭までは白方の仏母院などと「空海=白方誕生説」を流布していたのですが、高野山との関係が深まるにつれて、善通寺寄りの立場を取るようになります。同じような動きが威徳院にもあったのかもしれません。その切り替えを行ったのが高野山で学んだ有印だったのではないでしょうか。

以上をまとめておくと
①威徳院には、古代・中世に遡る歴史はない。
②威徳院は16世紀後半に道隆寺の教線拡大策として、三野郡に新たに建立(再興)された寺院である。
③道隆寺は「海に伸びる寺」として備讃瀬戸の島々の寺社を末寺に置き、そこから海上交易の富を吸い上げるシステムを作り、隆盛期を迎えていた。
④道隆寺はその経済力と、五流修験の人材で、白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院 → 本山寺と教線ラインを伸ばした。
⑤旧香川氏の重臣で、生駒家にリクルートされた三野氏を通じて、道隆寺は生駒家に食い込むことに成功し、関係する威徳院や本山寺などを生駒家の保護下に置くことに成功した
⑥威徳院は、下勝間の新田台地の開発を積極的に行い多くの寺領を拓いた。これが近世の威徳院の経済基盤となった。
⑦道隆寺の末寺として建立された威徳院は、17世紀半ば以降に高野山との関係を深めるにつれて、道隆寺との関係を清算していく。そして本山寺や延命園との関係を深めながら三豊地区の真言衆の中心センターとしての役割を果たすようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   威徳院調査報告書 田井 静明威徳院について  香川県ミュージアム紀要NO2



前回は三野郡勝間(三豊市高瀬町)を拠点に古代の三野郡司から武士団へと成長を遂げた三野氏をみてきました。三野氏は下勝間の勝間城を拠点に、柞原寺を菩提寺として成長していきます。そして戦国期になると天霧城の香川氏の重臣として活動し、所領を守っていきます。香川氏が長宗我部と結ぶと讃岐平定の先兵として活躍し、人質として岡豊城にも出向いていました。さらに、生駒藩時代には、二代目一正を支える重臣として5000石の知行地をもつにまで至ります。
 生駒藩の文書には、藤堂高虎の意を受けて、藤堂藩からレンタル派遣されて奉行職を務めた西嶋八兵衛と並んで署名したものがいくつも残されています。ここからは西嶋八兵衛などと、実質的な藩運営に関わっていたことがうかがえます。
西嶋八兵衛による満濃池築造に代表されるように藩全域的な治水灌漑工事が一段落すると、つぎに問題になってくるのが知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には、高松城下町のことが次のように記されています。
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,
(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

ここからは次のようなことが分かります。
①生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
ここからは太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたことが分かります。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、三野郡の三野氏のように生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きが活発化します。
 秀吉の太閤検地の意味をもう一度確認しておきましょう。
 太閤検地でと「領有制から領知制」に変わります。武士は、土地と百姓から切り離され、土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。検地後は、武士は自らの「あらし子(侍の手作り地で働く農業労働者)」のように、百姓を自由に使うことは出来なくなったはずです。百姓層を使って、自由に新田開発を行うことはあり得ないことです。ところが、三野孫之丞は、700石もの「自分開」を新たに拓いています。三野氏の一族も624石の新田を持っています。 この広大な新田を、どこにどのようにして拓いたのでしょうか。それを三野氏の拠点である下勝間で見ていくことにします。テキストは高瀬町史288P 勝間新田の開発    です。

    高瀬下勝間地図 
                              
下勝間村は、上の赤線で囲まれたエリアで、現在の三豊市役所(旧高瀬庁役場)から高速道路の北辺りまでにあった行政区画です。江戸時代初期の下勝間村の石高は次のように記されています。
下勝間村高千弐百壱石、 畝数百拾四町六反三畝
内訳 
田方本村五百弐石五斗    畝数四拾四町六反三畝
田方鴨分四百拾石九斗八升 畝数三拾八町四反
新田拾弐町九畝     
  居屋敷五町五反七畝
畑方村中九町三反     
  新畑三町弐反九畝
    「佐股組明細帳」『高瀬町史史料編』
①「田方 本村」は勝間小学校から高瀬中学校のあたり
②「鴨分」は国道以西から高瀬駅・高瀬高校あたりになります。
税率を示す「斗代」は一石七斗で、このころは上田の一石五斗が一般的でした。それからすると上田が多く勝間は三野郡における穀倉地帯だったといえそうです。この辺りが下勝間の「本村」であったことがうかがえます。本村を拠点に周辺部が新田開発されていきます。

新田開発を行ったのは、どのような勢力なのでしょうか。
生駒時代の寛永~元禄年間(1624~04)に新田開発の内訳です。
 新田開発の状況
既往の新田畑 三町四反九畝十九歩 四町三反四畝十八歩
新規開発新田 十町九反二十四歩
内訳
佐股甚左衛門新田 壱町七反弐拾歩
上高瀬新八新田 三町八反壱歩弐拾三歩
長右衛門新田 壱町三反九畝十三歩
巳ノ新田 三反六畝
六ツ松新田 壱反弐畝弐拾九歩
巳ノ新田元禄十二年改 壱反九畝弐拾三歩
同 元禄十六年改 六畝五歩
同宝永二年改 壱町七反弐畝十五歩
同 元禄十二年より宝永二年改 壱町五反壱畝六歩上勝間五兵衛新田
新たに拓かれた面積を計算してみると
既往の新田畑3町4反9畝19歩 + 4町3反4畝18歩 + 新規開発新田10町9反24歩=約18町6反

が下勝間地区で新たに拓かれたようです。
佐股甚左衛門新田とあるのは「佐股村庄屋の甚左衛門が拓いた新田」という意味になります。ここからは、開発者のひとりが、佐股村庄屋であったことが分かります。彼は六ツ松のほか西股でも1町5反の新田のほか、西山千田林には約2町歩の新田と甚(陣)左衛門池を拓いています。新田と池の築造はセットで行われなければ意味がありません。
 上高瀬大庄屋三好新八郎は、石の塔沿いに新田と上池・下池を築造しています。彼は威徳院検地帳に上勝間庄屋と記されています。ここからは、下勝間周辺の庄屋たちが村のエリアを越えて新田開発とため池築造工事をセットで進めていたことが見えてきます。彼らは幕藩政治の下で世の中が落ち着いて活躍場所を失った武士たちが帰農したものたちもいたはずです。その中には、讃岐以外の地からやってきて一族で住み着いて、豊富な資金力と労働力で急速に周辺の土地を集積していった勢力がいました。
 
  その例を多度津町葛原の木谷一族に見てみましょう
 芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに一族意識で結ばれていた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに讃岐・葛原村に移住してきたようです。時期は、海賊禁止令が出た直後のようです。武将として蓄えた一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら豪農として、一般農民の上に立つ地位を急速に築いていきます。そして金倉川の氾濫原の新田開発と千代池などのため池改修を進めて、大庄屋へと成長して行きます。
 1628年に西嶋八兵衛は廃池になっていた満濃池の改修に着手し、同時に金倉川の流路変更や治水工事を行い、用水路整備をすすめます。それは、当時の新田開発という大きなうねりの中にあったことを押さえておきます。
 この他にも、生駒家2代目一正の側室となったオナツの実家の山下家も、この時期に財田西や河内で盛んに新田開発を行い分家を繰り返し、成長していきます。オナツによって生駒家に作られた外戚閥族が生駒騒動の原因の一つとも言われます。また、オナツの甥は金毘羅大権現の金光院院主でした。この「伯母・甥」関係が生駒家から金光院への330石という大きな寄進につながったようです。どちらにしても、当時の財田西の山下家は殿様の側室を出した家として、特別な存在だったようです。この山下家も新田開発に熱心だったことを押さえておきます。
  そういう目で見てみると、三野・多度郡・那珂郡は生駒時代に拓かれた新田が多いような気がします。それを裏付けるデーターに出会いました。

生駒藩新田開発割合

ここには讃岐11郡の生駒家時代の新田開発状況がグラフ化されています。
①灰色が「自分開」で、家臣団による新田開発面積
②桃色が「新田悪所改出」で、地主による新田開発面積  
これを見ると新田開発が盛んに行われた郡とあまり行われていない郡があるようです。また、新田開発の担い手にコントラストもあります。例えば山田郡を見ると、開発主体は地主たちだったようです。それに対して、香東郡・鵜足郡・多度郡・苅田郡は家臣たちが積極的に開発を行っています。さて三野郡はと見ると・・・、家臣団と地主が争うように行っています。
三野郡で新田開発をおこなっていた家臣とはだれなのでしょうか。

生駒家新田開発一覧表
そのトップにいるのが三野孫之丞です。彼は、前回見てきたように古代の三野郡司につながる三野氏の当主で、5000石の重臣でした。高松城の本丸近くに広い屋敷を持っていました。同時に、拠点の三野郡では、他に類がないほどの新田開発をおこなっていたことになります。ここからは、先ほど見た庄屋による新田開発と並ぶだけの面積が三野氏の手によって下勝間周辺では行われていたことがうかがえます。

新田が拓かれた場所は、周辺のため池の名前からその場所が推定できるようです。
「威徳院検地帳」の地名を見れば、それは、現在の新田部落の的場・彦三郎池そば・菖蒲池そば・丸山道下から六ツ松峠付近であったことが分かります。築造された主な溜池を挙げて見ましょう。
①山王下  山王池  かに谷池   菖蒲池  相本池
②威徳院上  菰池   皿池
③六ツ松  松葉崎池 かも池  陣左衛門池
④石ノ塔    新田池 同上池 同下池
⑤五丁池上 渡池 鬼ノ窪池 どじょう池
⑥上勝間村堺 皿池 丸山池(千田林)佐股新田
関連溜池 庄屋池。梅之谷池。足和田池・岩瀬池・立花池。
勝間 ため池

上の中から主要な溜池四池について、時代ごとの灌漑面積を比較したのが下表です。

①江戸時代前期の「佐股組明細帳」37、4町
②江戸時代末『西讃府志』    56,8町
③現在             70,0町 
江戸時代の200余年の間に、灌漑面積は約倍増しています。しかし、溜池の築造 →余水確保 → 新田開発 → 日照りと干害 → 新しい溜池築造という悪循環だったようで、池の嵩増しや「新池」を次々と造り続けられます。連続して並ぶ池は、その歴史を物語る証人でもあるようです。
高瀬町勝間のため池2

南海道と伊予大道が合流する六ツ松峠付近を見てみましょう
「勝間村郷土誌」は、池堤を旧国道として利用したことによって生まれた独自の溜池景観を次のように記します。

旧往環国道11号線 道音寺方面を通れば一歩に二池、五歩に十池、左右の水色道音寺城山の松、翠に映発して美観いうべからず

たしかに、六つ松から笠田に抜けて行く峠付近は、池の堤防が国道にもなっていたようで、小さなため池が左右に続く風景が残っています。これらも江戸時代の新田開発とともに谷頭に池が作られていった結果、生まれてきた光景で讃岐らしさが現れている「歴史的風景遺産」と呼ぶことができるのかもしれません。

さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
新田台地に建つ威徳院

この新田開発の推進役のひとつが威徳院です。

この寺は、新田台地中央に位置し、讃岐国領主生駒一正の保護を受けて20石を安堵された以後、寺勢が急速に伸びいきます。その時期は、三野氏が新田開発を大規模に推し進めていた時と重なります。
 さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
威徳院
また、三野四郎左衛門は一正に仕えて、朝鮮出兵や関ケ原の戦いにも従軍し、豊臣方の大谷吉継の重臣である大谷源左衛門の首をあげる大殊勲を挙げます。この戦功もあって、彼は以後は惣奉行として仕え、5000石を領する家老にまで登り詰めていました。このような中で、新たに建立(再建)されたのが威徳院なのではと思っています。あるいは、当初は柞原寺の別院のような存在であったかもしれません。その院主が三野四郎左衛門の帰依を得て、そのつながりで藩主一正の保護を受けるようになったのではないかと推察します。

DSC06244勝間城・威徳院
勝間城と威徳院(中世城館跡詳細分布調査報告2003年)

なぜなら威徳院のある場所は、三野氏の居城である勝間城の直下です。ここには三野氏の保護支援なくして、寺院を建立できるものではありません。また、いまは廃寺となりかけている威徳院西院は、三野氏の居城跡ともされます。その跡に建立されていることも三野氏との関係を推測させます。ひょっとしたら三野氏が拓いた新田が、その後に威徳院に寄進されたことも考えられます。
 「西谷池の記念碑」には威徳院が、寺池として大池・西谷池・寺池・同上池・同下池などを築造し、田畑の開発に努めていったことが記されています。
その結果がどうなったのかを「威徳院検地帳」(元禄12(1699)年)に見てみましょう。
 下に挙げたのは、その一部ですがここから分かることを挙げておきましょう。
高瀬町威徳院検地帳

 威徳院寺領検地帳(元禄十二年)         高瀬町史資料編516P
①「堤まえ」などと、土地の位置が明記されているので、だいたいの場所が分かる。
②「下田」が多く本村と比べると、土地条件が劣る
③一反未満の小さな田畑が多く、棚田状にならんでいたことがうかがえる。
④「手作り地」といった記述もあるので、寺子などを使って寺独自に耕作が行われていた田畑もあった。

最後に威徳院寺領の総合計と、土地の等級評価が次のように記されています。
  畝数合七町弐反五歩 内三畝拾五歩  多門坊屋敷
残而七町壱反六畝廿歩再僻分
上田 六反四畝弐歩 反二付米八斗   取米五石壱斗弐升五合
下上田 壱町六反八畝 反二付七斗 取米拾壱石七斗六升
下田 壱町九反六畝七歩 反二付六斗五升 取米拾弐石五升四合
下々田 弐町弐拾七歩 反二付六斗 取米拾弐石五升四合
下畑 四反七畝十三歩 反二付二斗五升 取米壱石壱斗八升六合
下々畑 壱反七畝拾六歩 反二付壱斗五升 取米弐斗六升三合
屋敷弐反弐畝十五歩 反二付弐斗五升 取米五斗六升三合
(朱書き)
「其新畑四畝廿五歩 取米七升弐合  米合四拾三石七斗三合
右之通相定申候、以上
元禄拾弐年卯ノ三月十八日 
源右衛門
彦八郎
組頭 四郎兵衛
清右衛門
庄屋 五兵衛花押
寺内作付分
一、上田六畝拾弐歩  浦門内
一、上田九畝拾八歩  下藪北切
一、上田四畝八歩    ふろ屋敷
一、上田七畝廿歩    同所上切
一、上畑六畝拾歩    莱畑
一、上畑弐畝拾歩    泉ノ本
一、上田壱畝拾五歩  門道下
一、上田弐畝      同所道上

畝〆四反三畝
元禄拾弐年卯ノ三月廿八日
源右衛門
彦八郎
四郎兵衛
庄屋 五兵衛花押

 史料末尾に、村役人の連名がります。彼らが検地を実施し、その確認を行ったもののようです。寺は年貢米を徴収しただけと研究者は考えているようです。
  ここからは17世紀末には、威徳院は寺領として7町2反(7,2㌶)をもつ地主でもあったことが分かります。威徳院の近世の隆盛ぶりを支えた経済的基盤は、ここに求めることができそうです。

それでは、三野氏が開発した土地は、どうなったのでしょうか。
 最初に指摘したように生駒藩では「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていました。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活していたのです。その上、新たに開発した新田は「自己開」として自分の知行に繰り込むことができたのです。そのため地元領主出身の三野氏は、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大したのです。それは先ほどのグラフで見たとおりです。周囲の一族や地主はそれを真似ます。このようにして生駒家の三野郡では、新田開発ラッシュが起きました。そのシンボルとして新田台地に姿を現したのが威徳院ではないでしょうか。
 三野氏の描いたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役し耕作をおこなうものです。これは秀吉の目指した太閤検地以後の時代の流れに「逆行」するものです。これを阻止しようする勢力が藩内に現れない方がおかしいのです。
新藩主のもと前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。もちろん家臣たちの新田開発などは許しません。家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向に軌道修正します。それは歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択が迫られるようになります。生駒騒動の背景には、このような土地政策をめぐる対立があったようです。

  以上をまとめておくと
①生駒藩では、「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわれ、生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活していた。
②新田開発で生まれた田畑は、自分の所領とすることが出来たので讃岐出身の家臣を中心に新田開発が進められた。
③その中でも三野郡の新田開発は飛び抜けており、その中心に三野氏がいた。
④三野氏は下勝間を中心に新田開発を進め、それを一族や菩提寺も真似た。
⑤こうして生駒時代の勝間周辺は膨大な新田とため池が造られ今日的な景観に近づいた。
⑥この時期に新たな宗教施設として、姿を見せるのが威徳院である。威徳院は柞原寺に代わってこの地区の宗教センターとしての役割を担うことになる。
⑦威徳院の経済基盤は、この時代に拓かれた新田7町の田畑にあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 高瀬町史288P 勝間新田の開発 
      合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」
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1高松城 生駒氏重臣

生駒藩にて取り立てられ、家老までにまでなったのが三豊の三野氏です。上図は生駒藩時代の高松城の本丸周辺に配置された重臣たちの屋敷図です。⑦が「三野孫之丞」の屋敷です。生駒家の親族たちと比べても見劣りしない広さです。そして5000石の高級取りでした。
さて、三野氏とは何者なんでしょうか?
三野氏のことについては、私はほとんど知りませんでした。秋山氏や生駒氏のことを見て行くにつれて気になりだしました。一度、その「発生から消滅」までをまとめておきたいと思います。テキストは高瀬町史 高瀬町域の武家と生活 三野氏 133Pです。

 三野氏のことが最初に記された史料は『吾妻鏡』のようです。
源平合戦で、いち早く平氏を見捨てて、京都に上り源氏方に加勢する讃岐武士のグループのことは以前にお話ししました。下の氏名一覧が、この時のメンバー表です。
讃岐國御家人 注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉參京都候御家人交名事
 ①藤大夫資光
  同子息新大夫資重
  同子息新大夫能資  
  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資   
 ②新大夫光高
 ③野三郎大夫高包
 ④橘大夫盛資
 ⑤三野首領盛資
 ⑥仲行事貞房
 ⑦三野九郎有忠
  三野首領太郎
  同次郎
 ⑧大麻藤太家人
右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。
     元暦元年五月日
①は古代綾氏の系譜をひく讃岐藤原氏の統領で、リーダー的な存在だったのでしょう。
古代綾氏は、阿野北平野を拠点に勢力を伸ばし、国府を府中に誘致し、その後は国衙の在庁官人の中心的存在になります。菅原道真が国司とやって来た時代にも、郡司兼在庁官人として出仕していたことが史料からも分かります。そして、讃岐最大の武士集団に成長し、中世には讃岐藤原氏(藤氏)を名乗るようになるのは、以前にお話ししました。つまり、国衙の在庁官人のトップが平家支配を嫌って、一族を率いて源氏方に走ったのです。
その中の⑤⑦に三野氏の名前があります。
⑤三野首領盛資は「首領」とあるので、三野郡の郡司
⑦三野首領太郎以下は、郡司盛資の息子や一党
三野家文書には、自らを綾氏の末裔と記します。つまり讃岐藤原氏の一族であるという意識を持っていたことがうかがえます。古代の綾氏は阿野郡を拠点に鵜足郡・多度郡へと勢力を拡大していったようです。十二世紀には、多度郡郡司に綾氏の名が見られます。中讃を拠点に西讃にも勢力を伸ばし、三野郡の郡司を代々務めるようになり、その一族が三野氏を称するようになったとしておきましょう。三野氏の郡司としての活動ぶりは分かりませんが、源平合戦ではその動向が『吾妻鏡』に記されているので武士化したことはうかがえます。

讃岐国絵図天保 三野郡
讃岐国絵図 天保版の三野郡 
 源平合戦の際に、いち早く平氏から源氏へと移り、勝ち馬に乗り換え、頼朝の御家人となった14人の武士達は、恩賞を受け、所領を安堵され、在庁官人や守護所代理として活躍し、大きな発言権を手にするようになります。三野氏も三野郡の勢力基盤を確保し、勢力拡大を果たした筈ですが史料的な裏付けはできません。その後は戦国期まで、三野氏は史料には登場しません。

1永正の錯乱

戦国期の三野氏 
 管領兼讃岐守護の細川政元が永正四(1507)年に家臣によって暗殺さます。後継者をめぐって、細川一族、家臣の間で争乱が起こり、讃岐も戦国時代に突入します。これが「永正の錯乱」という政治混乱です。このなかで、秋山氏は阿波守護家出身の澄元方についていることが分かります。秋山家文書の中に阿波守護家の重臣一宮賢長から、当時の秋山家の頭領・秋山源太郎にあてた書状が二通あります。そこに三野氏が登場します。
 阿波守護家から秋山源太郎に対して、三野氏が澄元へ味方する意思を示したならば、同道して一宮のもとに参上するよう促しています。またもう一通は、阿波守護家は秋山氏も三野氏も決して扱いをなおざりにするものではない。合戦で馬廻の者が多く死傷してしまったので、使者を立てられないが、直接会って申し上げると述べています。秋山氏を通して三野氏も阿波方の味方に引き入れようとしていることがうかがえます。この時点では、三野氏も秋山氏と同じように西讃守護代の香川氏の配下には入っていなかったようです。

高瀬下勝間地図 
下勝間のエリア
戦国時代の三野氏の拠点は、どこにあったのでしょうか。
善通寺から大日峠を越えて西進する南海道と、鳥坂峠から南下してくる中世の伊予見大道が合流するのが現在の国道11号の六つ松です。この合流点の西側の小高い丘の上に城山神社があります。
ここに勝間城があったとされます。

1勝間城

 ちなみに勝間城跡の候補地としては、県の調査報告書ではここよりも、隣にある②威徳院の西の院跡を候補地(③勝間城)として次のように述べています。

DSC06244勝間城・威徳院
「周囲より10m高い小山で、頂部は広い平坦地になっている。傾斜のゆるい北側には幅6~10mの細長い平坦地があり、西端は土塁状になっている。また南西端にも土塁状地形が続くが、池が決壊したときのための堤防という話も聞かれた。」

私もここを押したいと思います。かつての城郭があった丘の上に、柞原寺に代わる新たな菩提寺が江戸時代になって建立されたとしておきます。
 「全讃史」には
「三野大領世々、之に居りき。三野菊右衛門は則ち其後なり」
とあります。
三野氏は代々、この山城(勝間城)を拠点に勝間を支配した。三野菊右衛門は、その末裔であるというのです。地元では「勝間を支配した三野氏の居城があったのが、ここだ」とされてきたようです。『西讃府志』には城主名は無く、戸慶城とだけ記されています。
 西讃府志には16世紀初頭のこととして、詫間城の項目に詫間城城主に詫間弾正を挙げて、その後に「三野大炊頭城」と記します。ここからは、三野大炊頭が所領を没収された後に、詫間氏が城主となったことがうかがえます。中央の細川家の騒乱に際して、勝ち馬に乗りきれないと「所領没収」という羽目になります。三野氏は、この時に詫間の所領を失ったようです。

三野津5
 中世の三野湾の湾入状態
その後の動きを三野文書と秋山文書で追ってみましょう。
秋山文書の永禄四(1561)年の書状は、天霧城主香川之景が秋山兵庫助にあてた知行宛行状です。ここには秋山氏の所領であった三野郡高瀬郷水田分と守利名が、三野氏の所領になっているが、それを秋山氏に返付するというものです。ここで奉行的役割を果たした者として、三野泰佐、三野菊右衛門の名が見えます。香川之景の感状に「詳しくは三野菊右衛門が口頭で申す」と記されています。ここからは、三野氏が香川氏の重臣として活動していたことがうかがえます。

1563(永禄6)年8月7日の三野文書には、次のような内容が記されています。
 天霧城主・香川之景が、三野菅左衛門尉に阿波勢の攻撃を受けて天霧城を退城した時の働きを賞し、河田七郎左衛門尉に扶持していた領地を本知行地として返還し、また作原寺分を返付することを約す

 そして翌年1564(永禄7)年5月13日には、約束通り、香川之景が三野勘(管)左衛門尉に、鴨村の作原寺の領有分を返し与えています(三野文書)
 鴨村というのは、 近世末成立の『増補三代物語』には、勝間郷内に加茂(鴨)村と記されているので、柞原寺周辺にあった村のようです。これが30年前の大炊頭の時代に没収された所領のようです。失った所領を香川氏の下で取り戻したことになります。

永禄七年の三野文書に見える勘(菅)左衛門は、菊右衛門の父になるようです。
 「全讃史」の 「三野大領世々、之に居りき。三野菊右衛門は則ち其後なり」という記事は、一次資料で裏が取れます。三野菊右衛門は「三野大領の末裔」のようです。
 以上から、三野氏は、郡司時代には詫間を拠点にして、中世には詫間城を居城していたのが、内陸へも所領を拡大し、その一族が勝間にも入ってきて拠点を構えた。それが勝間城だったというストーリが描けます。

また帰来秋山家文書には、1577(天正5)年2月13日付けの次のような書状があります。
 香川信景が秋山帰来源大夫親安に高瀬郷のうち帰来分および近藤出羽守知行分の地を宛行い、奉行三野菊右衛門尉に、この旨の申し渡しを命じる

これは香川信景の知行宛行状で、秋山源大夫に知行を宛行うものです。その使者となっているのが奉行三野菊右衛門で、ぬかりなく忠勤を励むように伝達を命じられています。また、その際に作成された知行日録には、三野方一町三反とあり、三野氏も所領を獲得したことが分かります。その後も三野氏は、香川氏の奉行として活躍したようで、三野菊右衛門は、勝間城主と記されています。
 三野菊右衛門は天霧城主香川氏に仕え、その奉行(重臣)として活動していることが分かります。逆の視点で見ると天霧城主の香川氏は、周辺の三野・秋山・河田氏などを家臣団へと組織化して、急速に戦国大名へと変身していたことがうかがえます。

DSC09080
柞原寺とその向こうに爺神山
柞原寺は、三野氏の氏寺?
近世末成立の『増補三代物語』には、勝間郷内に加茂(鴨)村が記されています。鴨村は現在の高瀬高校や杵原寺があるエリアにあったようです。柞原寺には境内に鎌倉期に建立された石造宝塔が残され、かつては方八町の大伽藍を有していたという伝承があります。これは大げさにしても『西讃府志』には、林三町五反を持っていたと記されます。

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柞原寺
 実際に柞原寺背後の林を造成して高瀬高校を建設中に、山林の土中から五輪墓石数十基が出土しています。戦国期の戦死者をとむらつたものと伝えられます。三野氏のものかもしれません。どちらにして、現在の柞原寺から高瀬高校一帯が境内で、それが三野氏の菩提寺であったとしておきます。柞原寺は、その背後に甘南備山として信仰対象でもあった爺神山を望む「遙拝所」であったと私は考えています。秋山氏が本門寺を保護したように、三野氏も柞原寺を保護したのでしょう。
DSC09081
柞原寺
長宗我部元親の讃岐侵攻直前の三野郡の情勢を見ておきましょう。
①高瀬郷 秋山氏
②勝間郷        三野氏
③詫間郷 詫間氏
④熊岡(比地)郷帰来秋山氏
⑤麻郷    麻近藤氏
  当時の中讃から三豊にかけての勢力対立は、次の2勢力でした。
A 戦国大名化する天霧城の天霧山
B 讃岐全域を支配下に置こうとする阿波の三好勢力
三野郡の①~⑤の武士団の棟梁たちも、AかBのどちらに付くかの選択を求められることになります。Aの香川氏の外交方針は一貫しています。それは「反三好」です。主君である細川氏を下克上で追いやった三好氏は許せないという感情論もあったでしょう。讃岐に侵攻してくる三好に対抗するためにどうするかが香川氏の外交方針です。そのために、あるときは信長と組み、後には毛利に頼り、そした最後に長宗我部元親と同盟するのです。香川氏が目指したのは「反三好」戦線の構築です。
1細川氏と三好氏

 一方、香川氏の勢力に反発を抱く者は、阿波三好勢に頼ります。
例えば、⑤の近藤国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。こうして次のような関係ができます
 長宗我部元親=天霧城の香川氏 VS 阿波の三好氏=麻近藤氏

これを香川氏の目から見ると、三好氏についた讃岐の武士団は敵なのです。
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「南海通記」などの軍記物は、幕藩体制も固まった江戸時代中期になって書かれました。そのため各藩ごとの「郷土愛」で彩られ、長宗我部元親の侵攻を土佐軍と讃岐防衛軍の戦いという「郷土防衛戦争」の視点描いています。そこでは、最後まで抵抗する香西氏や東讃の武将に共感が働き、抵抗せずに降伏した香川氏は「悪者」としての役割を与えられています。読んでいて、土佐軍に果敢に抵抗する藤目城などに、どうして援軍をおくらないのか。同じ讃岐人として恥ずかしくないのか・! というような感情がわいて来ます。
 しかし、さきほど見たように、香川氏の基本的な外交戦略を思い返すと、その反発は的外れなことに気付きます。長宗我部元親と香川氏は「反三好」で利害が一致するのです。
そして長宗我部氏も香川氏も、かつては細川氏の臣下だったのです。
阿波三好氏との戦いは、主君細川氏のともらい合戦という大義名分もついてきます。香川氏は早い時期から長宗我部元親との同盟締結を模索していたと私は考えています。それは元親配下の修験者たちによって密かに進められていたと想像します。だから、香川氏は、土佐軍の侵入に対しても援軍を送らないし、動かないのです。近藤氏や本目・新目氏たちは、かつて三好氏の先兵として天霧城を取り囲み、その後も小競り合いを続けて来た敵なのです。それを土佐軍が「駆除」してくれる。その長宗我部元親と手を組むのは自然です。これは「降伏」ではなく「同盟」なのです。当初は「秘密同盟」であったかもしれません。
 そういう目で土佐軍が焼き討ちを行ったとされる所を見てみると。阿波三好方についていた武士団の拠点が多いことに気づきます。観音寺や本山寺、弥谷寺などの寺院は、焼き討ちを受けていません。それは、香川氏の勢力範囲だった所です。そういう意味では、三野氏の氏寺である柞原寺も戦禍にはあっていないと思うのですが、なぜか焼かれたと寺伝は伝えます。これも金刀比羅宮と同じで、長宗我部元親を嫌う機運が高まった結果かもしれません。そして、長宗我部側と戦った近藤氏などの所領は没収されます。

 高瀬町史には長宗我部元親の家臣に与えられた所領として麻、佐股、矢田、増原、大野、羽方、神田、黒島、西股、長瀬などが挙げられています。これはかつての近藤氏の所領でした。近藤氏は長宗我部元親と戦い、所領を失ったのです。その所領は土佐侍たちに分け与えられ、土佐の人々が移住・入植してきました。

香川氏が長宗我部元親に降って同盟関係を結んだ仕上げに、元親の次男親和が香川氏の養子に入ります。
その見返りの人質として岡豊城に入ったのが三野菊右衛門です。土佐へ移った香川信景・親和父子のその後の動向は、どうだったのでしょうか?
 岡豊城の近くの東小野という所に、屋敷を宛がわれたようです。『長宗我部地検帳』には「香川殿様分・香五様分」などと記されている土地があるようです。香川殿様は香川信景、香五様は香川五郎次郎(元親次男)のことです。ここからは、長宗我部氏から知行地を与えられていたことが分かります。この隠居地で晩年を過ごしたようです。
  一方、土佐へ赴いたのは香川氏父子だけではなかったようです。
『地検帳』には、三野・河田(川田)・詫間・山路・観音寺などの名前が見えます。これは香川氏の家臣です。その中の三野菊右衛門・河田七郎兵衛は、信景が元親と和議を結んだ際に人質として土佐へ赴いた人物です。ここからは香川氏の家臣の多くは土佐へ亡命し、そこで所領を与えられたことが分かります。戦いで敗れて逃げ落ちたかつての同盟軍のものたちを、元親は迎え入れています。多くの者は新しい領主山内氏のもとで帰農していったのでしょう。
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生駒親正
 秀吉によって讃岐領主に指名されたのは生駒親正です。
親正が秀吉から命じられたのは「次は九州平定で、その次は朝鮮出兵じゃ、それまでに船と兵をそろえておけ」ということです。水軍強化と兵士増強が最重要課題でした。そのために手っ取り早いのは、任地讃岐の讃岐の武士を家臣に取り立てることです。香西氏の家臣達をはじめ、数多くの土豪たちが取り立てられます。
 親正の子である一正に取り立てられたのが、三野四郎左衛門です。香川氏の重臣であった三野菊右衛門の息子です。彼は土佐に行かず三豊に残っていたようです。若き一正と共に、対馬海峡を越えて朝鮮出兵に従軍しています。讃岐武士団の登用は、朝鮮出兵の動員兵士を確保するためでもあったことが分かります。

弥谷寺 生駒一正の石塔
生駒一正の石塔(弥谷寺)
 関ケ原の戦いに生駒家は、父親正は西軍に、子一正は東軍について戦います。この時も、三野四郎左衛門は一正に従って関ヶ原で戦います。この時に四郎左衛門は、大谷吉継の重臣である大谷源左衛門の首をあげる大殊勲を挙げます。この戦功もあって、彼は以後は惣奉行として仕え、5000石を領する家老にまで登り詰めることになります。讃岐出身者としては最高の出世者です。こうして生駒藩の中で三野家は押しも押されぬ存在になっていきます。

三野氏は、見てきたように中世の三野郡司の出身で国人領主でした。
そのため地元の勝間では、多くの作人を支配し土地耕作を行っていたと考えられます。特に生駒藩では、「自分開」の新田開発が認められていました。自分が開発した新田は自分の領地となるというのです。そのため有力者は百姓たちを使って周辺の未開地の新田開発を進めます。またこれを聞いて、周辺の国々からも資金力のある土豪や帰農を目指すかつての武士団の一族がやってきて開発を進める光景が至ることろで見られたようです。その筆頭に立っていたのが家老職にあった三野氏です。

生駒家新田開発一覧表

 こうして三野氏の拠点である勝間では、新田開発が急速に進められていきます。三野四郎左衛門の息子の孫之丞は、700石もの「自分開」を持っています。三野氏の一族も624石の新田を持っています。この広大な新田を、どのようにして拓いたのでしょうか。これはまた次回に・・・

以上をまとめておくと
①三野氏は、綾氏出身で三野郡の郡司と在庁官人を兼務する有力者で、次第に武士団化した。
②源平の戦いの際には、平家の支配する讃岐国衙を捨てて、京都に上り源氏方に付いた「讃岐在庁官人グループ」の一員ともなった。
③これによりいち早く源氏の御家人となったメンバーたちは、その後の留守所でも大きな政治力をもつことになった。
④三野氏は、その後も三野郡で勢力を保持していたが16世紀初頭の細川家の内紛で、詫間城や勝間郷の権益を失った
⑤その後、天霧城の香川氏の重臣として活動し、勝間城を拠点に勢力を伸ばした。
⑥三野氏の菩提寺は、柞原寺が考えられる。
⑦香川氏が長宗我部元親と同盟を結ぶと、三野菊右衛門は人質として岡豊城に入るとともに、残された一族は東讃侵攻の先兵としても活躍した。
⑥生駒氏の下では、三野四郎左衛門が生駒家二代目の一正に登用されて、関ヶ原の戦いで大殊勲をあげ、その戦功で5000石の家老にまで出世した。
⑦生駒家の文書には、西嶋八兵衛と並んで生駒家の主の名前が並ぶものが数多くある。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    参考文献 高瀬町史  高瀬町域の武家と生活 三野氏 133P
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   菅家文草とは - コトバンク
菅原道真の漢詩集『菅家文章』

 菅原道真は国司として讃岐在任中に140編の漢詩と8編の文章を作っています。その中に当時の讃岐の庶民や道真の政治意識が、どう記されているのかを見てみることにします。テキストは  菅原道真が見た「坂出」  坂出市史 古代編  120P  です。 
 菅原道真は仁和三(886)年正月に讃岐守に任命され、二月に赴任しています。漢詩集『菅家文章』には、初めての地方赴任への悲嘆が、次のように記されています。
北堂餞宴
我将南海飽風煙      我将に南海の風煙に飽かむ
更妬他人道左遷       更に妬む 他人の左遷と道ふを        
倩憶分憂非祖業       倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず 
徘徊孔聖廟門前       徘徊す 孔聖廟の門前                         
意訳変換しておくと
私はこれから南海(四国讃岐)の風煙(景色や風物)を嫌というほど味わうことになるだろう。
加えて忌々しいのは、他人がこれを左遷と呼ぶことだ。
じっくり考えると、わが菅家の家業は地方官ではない
孔子廟の門の前をぶらぶら歩きながら、そう思うのだ。
「国司として赴任するのは家業ではない」「他人の左遷なりといはむ」とあります。ここからは、文章博士の解任と讃岐赴任に、道真がひどく傷ついている様子が伝わってきます。
その他にも、(『菅家文草』84番詞書には
「心神迷乱し、わずかに、声発するのみにして、晨流れて嗚咽す」「おのずからに悲し」
とも記します。
ここからは、はじめて国司として「讃岐に赴任して、ばりばり働こう!」という前向きのやる気は伝わってきません。讃岐赴任が自分が望んだものではなく悲嘆に暮れるか細い文人官僚の姿が、最初詠んだときには浮かんできました。

菅原道真
菅原道真42歳(滝宮天満宮に奉納された絵馬)

ちなみに、この漢詩には「他人の左遷なりといはむ」と記されています。このため菅原道真の讃岐守任命については、文章博士をめぐる派閥争いの末の左遷という見方がされてきました。
 しかし、菅原道真は讃岐から帰任した後に実務官僚を経て、参議、民部卿、そして大納言、右大臣と政策上立案・遂行する立場に昇っていきます。この姿を見ると単なる左遷ではなく、むしろ「良吏国司」派遣策のもとで、文人政治家としての実務を「現場」で経験させるための「現地研修的な赴任」であったと今では考えられるようになっているようです。 それを裏付けるように、道真の讃岐守在任中には、郡司定員の増加など政府を挙げて、国司をバックアップする改革も実施されています。

坂出 中世の海岸線

菅原道真は、どのようなルートで讃岐国府にやってきたのでしょうか
平安時代後期の10世紀に因幡国司となった平時範の赴任事例では、官道を進み国境で在庁官人が出迎える儀式があったと記されます。しかし、道真は赴任時の様子を『菅家文草』に何も記していません
 「中上り」として任期途中でいったん都に一旦戻る慣例があったようですが、その道程は都から播磨国明石駅家までは陸路でやってきて、そこから船に乗り込み瀬戸内海を海路進み、「客館」のある松山湊に上陸というルートをとったようです。
讃岐にやって来てはじめての秋を向かえた頃に造られた漢詩です
涯分浮沈更問誰  涯分がいぶんの浮沈 更さらに誰にか問はん
秋来暗倍客居悲  秋よりこのかた暗ほのかに倍ます 客居の悲しみ
老松窓下風涼処  老松の窓の下もとに風の涼しき処ところ
疎竹籬頭月落時  疎竹の籬まがきの頭ほとりに月の落つる時
不解弾琴兼飲酒  琴きんを弾ひき兼ねて酒を飲むを解さとらず
唯堪讃仏且吟詩  唯ただ仏を讃たたへ且かつ詩を吟ずるに堪たふるのみ
夜深山路樵歌罷  夜深くして 山路さんろに樵歌せうか罷やむ
殊恨隣鶏報暁遅  殊ことに恨むらくは 隣鶏りんけいの暁あかつきを報ずることの遅きことを
 秋の涼風が吹きはじめ、群竹に月が沈む情景に、胸を締め付けられた道真は、何とか気を紛らわせようとします。ところが琴も酒もたしなまないために、読経と詩吟で長い秋の夜を過ごすしか術がないようです。ここで出てくる「琴・酒・詩・仏教」という組み合わせは、琴詩酒を「北窓の三友(書斎の三つの友)」と呼び、自ら「香山居士こうざんこじ(香山の在家仏教信者)」と号した白居易の存在が念頭にあるようです。琴も酒も詩人には欠かせませんが、白居易は「琴を弾き、琴に飽きれば酒を飲み、酒を飲んでは詩を作る」といった調子で、これらを愛好していました。
 それでは道真はどうだったのでしょうか?
彼は「琴」はものにできず稽古を止めてしまっていたようです。「琴を弾くを習ふを停む」と述べている下りがあります。それでは酒はどうでしょうか? どうやらあまり好まなかったようです。
友人知人と酒席を囲んでいるので全くの下戸だった訳ではないようですが、白居易のように浴びるほど飲んで、興が乗れば漢詩が流れるように生み出されるという感じではありません。
 讃岐赴任後の重陽の節のときに、国府の庁舎では宴が開かれます。それまでは宮中で華やかな宴を催していましたが、讃岐では「独りい対ふなり、海の辺なる雲」と単身赴任の淋しさをぐちっています。単身赴任でやってきで、在庁官人たちと毎晩のようにどんちゃん騒ぎというイメージにはほど遠い感じです。それどころか「讃州」は「惨愁」と音の響きが通うことを気にするようになります。どうも神経が細く滅入っている様子です。
「私は琴も酒もさほど嗜まないから彼等とはお別れして、後に残る詩を死ぬまで友としよう、詩こそが私にとっては死ぬまでの友であり、先祖代々詠み続けてきたのだ」

といった独白的な漢詩が残されています。讃岐の生活になじめないまま冬を迎える姿が浮かびます。

客舎冬夜
 道真が讃岐国司として赴任した仁和二(886)年の季節が秋から冬に移り変わる季節のことです。国府の官舎で床に就いた時のことを「客舎冬夜」と題して、次のように詠っています
「客舎の冬の夜」
客舎秋祖到此冬
空床夜々損顔容
押衛門下寒吹角
開法寺中暁驚鐘
行楽去留遵月湖
詠詩緩急播風松
客舎(かくしゃ)秋(あき)徂(ゆ)きて此の冬に到る
空床(くうしょう)夜夜(よなよな)顔容(かおばせ)を損(そ)したり
押衙(おうが)門の下(もと)寒くして角(つのぶえ)を吹く
開法寺の中(うち)暁にして鐘に驚く(開法寺は府衙(ふが)の西に在り
行楽の去留(きょりゅう)は月砌(げっせい)に遵(したが)ふ
詠詩(えいし)の緩急は風松(ふうしょう)に播(うごか)さる
世事(せいじ)を思量(おもいはか)りて長(つね)に眼(まなこ)を開けば
知音(ちいん)に夢の裏にだにも逢ふことを得ず
意訳変換しておくと
秋が過ぎてとうとう冬になり、官舎暮らしも長くなった。
床に就いても妻はおらず、夜ごとに顔がやつれていくようだ。
寒いなか、衛兵が牛の角笛を吹いて門の守りを固めている。
明けがたに開法寺の鐘が鳴って、目が覚めてしまう。※(自注)開法寺は国府の西にある。
月を愛でる場所は、月が石だたみを照らす加減で決まる。
詩を詠じる調子は、松を通り抜ける風音の加減で決まる。
世の中のことをあれこれ考え、ずっと眠れないままでいるから夢の中でさえ、私の思いを語ることができない。
 ここからは元気に、仕事をてきぱきと熟しているような感じには見えません。どちらかというと哀愁を通り越して、ホームシックになっているようにも思えます。
この漢詩がよく取り上げられるのは「開法寺中暁驚鐘」(開法寺の中、暁にして鐘に驚く)に、「開法寺は府ガ(国衙)の西に在り」という註がついているからです。これはいろいろな書物に引用され、讃岐国府跡の発掘調査場所選定の際にも手がかりとされてきました。発掘前の予備知識は、次の通りでした。
①国衙は平城京などのように1ヶ所に権力機関は集中している。
②開法寺の東に「隣接」して国衙はあった。
ところが、この先入観で発掘調査が進むと混乱が起きました。どこを掘っても遺跡がでてくるのです。どこが中心施設か分からないほどに、いろいろな建物跡が毎年のように出てきたのです。つまり国衙には、いろいろな機能があり、それが分かれて「分庁舎」として散在してことがだんだんと分かってきます。
讃岐国府跡機能一覧表
坂出市史古代編より

整理すると「開法寺は府ガ(国衙)の西に在り」なのですが、「逆は必ずしも真ならず」の原則が働きます。たしかに府衛(国衛)の西に開法寺はあったのですが、国衙全体は広くて、必ずしも開法寺の東の方角に位置したとはいえないとします。 つまり、府衛は開法寺の東方ではなく東側一帯にあったと考えておくべきだということです。建物によると北東や北にあるものもあります。ここでは、国衙のエリアは広く、建物は分散して建っていたことを押さえておきます。
讃岐国府跡エリア

讃岐国府跡地形復元図

話を「客舎冬夜」にもどしましょう。
「押衛門下寒吹角」「押衙(おうが)門の下(もと)寒くして角(つのぶえ)を吹く」を見てみましょう。ここに押衛門が登場します。押衛門とは押牙とも書いて府衛の入口を指します。そこの門番が日没閉門の際に吹く角笛が聞こえてくるというもので、次句の「開法寺中に暁の鐘に驚く」と対句表現になっています。月明かりの中を不眠で府衛縁辺を逍遥した道真は、たまたま開法寺に入ったときに暁を迎えるとともに鐘が鳴って驚かされたという場面です。この詩からは、府衛の入口には守衛門番のいる門(押衛門)があり、西隣は開法寺が建っていたことが分かります。誤解してはならないのは客舎(宿舎)の布団の中で、角笛や鐘の音を聞いているのではないことです。

讃岐国府跡1

 それでは客舎は、どこにあったのでしょうか。
客舎とは、赴任してくる国司用の官舎(国司館)のことを指すようです。客舎の位置は、まだよく分からないようですが、手がかりとしては、「客舎陰蒙四面山」の表現から四方の山陰に囲まれた立地だったようです。そうだとすれば国衙の外にあった可能性もあります。また発掘調査から中国製の高級陶器が密集して出てくるエリアが、北の方にあります。この辺りに客舎があり、菅原道真は単身赴任で暮らしていたことが想像できます。
 道真は讃岐国司の三回目の冬を過ごした頃、帰京の思いが募り松山津の客館に移り住むようになったとも伝えられます。そうなると、道真の讃岐での常住居(客舎)は、少なくとも府衛及び松山津近辺の二ヵ所以上にあったことになります。

讃岐国府跡復元図2
讃岐国衙の政庁復元図
菅原道真の国司時代の讃岐国衙の姿を見ておきましょう。
開法寺塔跡の北東に隣接するエリアには、奈良時代8世紀の終わり頃から区画で仕切られた中に大型建築物が整然と立ち並ぶようになります。一辺80mほどの敷地を、本柱の塀で取り囲み、次のような大形建物3棟が建てられています。
①西側には、五間×二間の母屋に南面廂で床面積約100㎡の超大形建物
②北には、東西主軸の建物二棟が東西にならび
③東には南北主軸の建物(床面積約76㎡)
この三つの建物は、何度かの建て替えを経ながら連綿と継続されていきます。コの字空間は、北京市の紫禁城に見られるように中国王朝の伝統的な儀式空間です。これが平城京に取り込まれ、地方の国衙にもミニコピー版が造られていたことが分かります。国府のなかでも儀式などに使われた最も重要な空間だったのでしょう。
讃岐国府跡 政庁?
 この空間を構成する建物は、同じ場所に何度も建て替えられていきます。西の超大形建物は南北画面廂付で、床面積も140㎡へと「成長」します。北には大形建物が南北にならび、東部の建物では廂がなくなります。これらの大型建物の建替え時期が、菅原道真が讃岐国司としてやってくる前後と重なるようです。つまり、一番全盛期の国府の姿が見られた時期になるようです


この政庁の姿をみながら菅原道真は、政治に向き合う姿勢をどのように考えていたのでしょうか
そのヒントになる漢詩「路遇白頭翁」(路に白頭翁に遇ふ)を見てみましょう。これも『菅家文草』に収録されています。讃岐国司となった道真と道で出会った白髪の老人との問答を漢詩にしたものです。
【「路遇白頭翁」 「道で白髪頭の老人に出会う」の口語訳
 道で白髪頭の老人に出会う。頭髪は雪のように白いのに、顔は(若者のように)赤味を帯びている。
 自ら語る。
 「歳は九十八歳。妻も子もなく、貧しい一人暮らし。茅で葺いた柱三間の貧居が南の山のふもとにあり、(土地を)耕しもせず商いもせず、雲と霧の中で暮らしております。財産としては家の中に柏の木で作った箱が一つ。箱の中にあるのは竹籠一つでございます。」
 老人が話を終えたので、私は問うた。
 「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」
 老人は杖を投げ出して(私が乗っている)馬の前で一礼し、丁寧に(私の言葉を)受けて語る。
 「(それでは私が元気な)理由をお話し致します。
(今から十年ほど前の)貞観の末、元慶の始め(の頃は)、政治に慈悲(の心)はなく、法律も不公平に運用されていました。旱魃が起きても(国司は減税措置を取るよう朝廷に)申請することもせず、疫病で死ぬ者がいても(役人は食料を援助して)哀れむことはありませんでした。(かくして国内全域が荒廃し)四万余りの民家にいばらが生え、十一県に炊事の煙が立たなくなりました。
 (しかし)偶然(ある)太守に出会いました。
(それは)「安」を姓とする方〈現在の上野介(安倍興行)のことである〉(安様は)昼夜奔走して村々を巡視されました。(すると)はるばる名声に感じ入って、(課税を逃れて他国へ)逃亡した者も帰還し、広く物品を援助し、疲弊した者も立ち上がりました。役人と民衆が向かい合い、下の者は上の者をたっとび、老人と若者が手をつなぎ合い、母は子(の孝行心)を知りました。
 さらに太守を得ました。(それは)「保」を名に持つ方〈現在の伊予守(藤原保則)のことである〉
(彼は)横になったまま滞ることなく政務を執り、国内は平和になりました。春は国内を巡視しなくとも生気が隅々まで届き、秋は実り具合を視察しなくても豊作となりました。天が二つに袴が五本と通りには称讃の言葉。黍はたわわに麦はふた股と、道には(喜びの)声。
 翁めは幸運にも保様と安様の徳に出会い、妻がおらずとも耕さずとも心はおのずと満ち足りております。隣組の人が衣服を提供してくれますので、体はとても温かく、近所の人と一緒に食事をしますので食べ物にも事欠きません。楽しみはその(貧しいながら悠々自適の生活の)中にあって、憂いや憤懣を断ち、心中には余計な思いもなく、体力を増します。(それゆえ)鬢(耳周辺の髪)のあたりが白くなることにも気付かず、自然と顔が(若々しく)桃色になるのです。」と。
 私は 老人の語った言葉を聞き、礼を述べて老人を帰らせ(話の内容を)振り返って思う。
「安」を姓とする人には私の兄の(ような)恩義がある。「保」を名に持つ人には私の父の(ような)慈愛がある。(この国には)すでに父兄の恩愛が残っている。どうか(私も彼等の)積み重ねた善行(の遺産)によって上手く治めたいものだ。(だが)とりわけ昔どおりには行かないのはどの事柄だろう。
 (詩の題材となる)明るい月や春の風は時世にそぐわない。(興行殿の)奔走をまねようとしても身体が皆ままならず、(保則殿の)臥聴に倣おうとしても(そこまで)年齢を重ねていない。その他の政治の手法にも変更がないことはないだろう。奔走する合間に私は(政務の一端として)詩を詠もう。
ここには道真に先だって2人の「良吏」が国司としてやってきて、それぞれ善政を行っために人々の生活は安定するようになったことが老人の口から語られています。これを聞いて道真は「どうか(私も彼等の)積み重ねた善行(の遺産)によって上手く治めたいものだ」と述懐しています。
その一人が安倍興行(おきゆき)です。
「たまたま明府に逢ひにたり、を氏となせり」と記されるのが安倍興行です。彼は、元慶二(878)年に讃岐介として国府ヘやってきます。白頭翁によれば、国内の現状を調べるため、国の隅々まで馬を飛ばして、困っている民を救済したと云います。安部興行は民政を担当していた民部少輔から、初めて地方官である国司(讃岐介)となり、以後、諸国の国司を歴任しています。
二人目が「更に使君、保の名あるひと」で、藤原保則(825~895)です。
彼は天慶六(883)年に讃岐権守として赴任してきます。部下への指示が的確で、政治が停滞することがなかったと、白頭翁は語っています。 「良二千石」との別名を持つ藤原保則は、地方官を多く歴任し、東北地方の戦乱(元慶の乱)元慶2(878~9)年を、苛政を改めることで収束させたた後に、讃岐国にやってきます。彼については以前にお話ししましたが、彼の伝記『藤原保則伝』では、「讃岐国は、良い紙と素晴らしい書跡がある国と伝え聞いているので、赴任して寺院に納められている経典を書写したい」と、讃岐国への赴任を希望していたと書かれています。藤原保則も、晩年には参議となり、菅原道真とともに地方官での経験を国政に反映させています。この藤原保則の後に讃岐守に任命されたのが菅原道真になります。
  九世紀後半の讃岐国は、「良吏国司」により律令国家の「特別なてこ入れ」が行われたようです。そのような一連の人事で派遣されてきたのが菅原道真だと研究者は考えているようです。この「良吏国司」時代が、讃岐国府の充実期にもあたるようです。
先輩国司の善政の成果が、国衙の建築物群の姿となって目の前にあるのです。道真には「良吏」国司としてお手本とするべき先輩がいたようです。
菅原道真は国司として、具体的な統治に心がけていたのでしょうか
 「 旅亭歳日、客を招きて同(とも)に飲む」を見てみましょう。
讃岐に赴任して初めて迎えた元日に道真は近在の村老たちを官舎に招いて酒をふるまっています。
  江村の老人たちを招いて新年を祝う酒をふるまったが、初めて異国で新年を迎えた主人の私は、また新たに郷愁が湧いてくるのを禁じえなかった。子どもらが(私があまり飲めないのを知っているので)浅く酌んだ酒をしきりに勧めてくれたが、私は酔えなかった。しかしそんな私にかまわず、郷老たちは盛んに盃を巡らし、後れて来た者には罰酒を強いていた。
 去年、家族や知友や門人たちと袂を分かって以来ずっと私は悲しみに心をふさがれていたのだ。しかし今日は、楽しげに談笑する老人たちに、つい私も笑いを誘われて心がなごみ、両眉の開く思いを味わったことであった。彼らは正体もなく酔っぱらって帰っていったけれど、あの酔い方はやっぱり陽(うそ)じゃなかった。その証拠にほらあの連中ときたら、大事な楫(かじ)や釣竿を置き忘れて行っているよ。

  「国の隅々まで馬を飛ばして、困っている民を救済」した先輩国司に習って、近在の年寄り要人を招いて新年を祝っています。住民たちとのコミュニケーションを計ろうと心がけている姿が見えます。庶民たちの生活と現実をしっかりと見つめる中で、政治の問題と課題が見えてくるという姿勢を持っていたようにも思えてきます。
 
そういう目で見で 「寒早十首(かんそうじゅしゅ)」を見てみましょう
「寒さは誰に早く来るのだろうか」の問いかけに、十の連句で具体的な人々を詠った詩文です。そこには次の10人の庶民の姿が詠われています。

菅原道真 寒早十首

これは、国司として国内巡視する菅原道真が目の当たりにした人々の生活なのでしょう。これらの詩文を読み込んでみると、詠う対象の背景に、海上輸送労働者を雇う船主や、零細な製塩業者を押しのけて大規模製塩をする豪族の姿が透けて見えてきます。彼らは、それぞれの地域を経営し開発等を進め、讃岐国の国力を高めていった存在で、郡司に連なる一族もいたはずです。その筆頭が綾氏ということになります。
 こうした豪族らによる開発で田数や人口を増加させる一方、税を負担すべき零細民の生活を圧迫します。道真は現実を見つめる中から、どう豪族層を取り込むのか、そして、どのようにして税収を上げていくのか、その案配システムを考えていたのかもしれません。そして、最後に弱い者にはしわ寄せがくることを見抜く視力も持っていたことがうかがえます。その1番目だけを見ておきましょう

何人寒気早  誰に寒さは早く来る
寒早走還人  寒さは走還人に早く来る
案戸無新口  戸籍を調べても新しい戸籍がなく
尋名占旧身  名前を聞いて出身地を推量する
地毛郷土痩  故郷の土はやせているので  
天骨去来貧   あちこちで苦労して骨までやせてしまった
不似慈悲繋   国司が慈悲でつなぎ止めなければ
浮浪定可頻   逃げ出す人はきっとしきりに出てくるだろう
 走還人とはあまりの貧しさに他国に逃げた人が、逃走を見つけられて, 強制的に本国に還された人のことです。桓武朝以来の中央政府にとって浮浪民の増大は頭の痛い問題でした。逃げ出した百姓の中には大貴族・大寺社に身をよせて、その庇護下に入って土地を耕す者もありました。しかし、この詩のように、どうにもならなくなって、また戻ってくる者もあったのです。道真は、その本質を見抜いているようです。彼らの暮らしに、道真が深い同情を寄せ、政府のあり方に疑問を感じていることが、この詩から読み取れます。

しかし道真は讃岐の民の貧しさを詩には詠みますが、具体的に民の手助けをするとか、税を減らすとか、特に行政官として成果を上げた様子はありません。それをどう考えていたかがうかがえるのが次の作品です。意訳だけにします。
  冥感終無馴白鹿 冥感(めいかん)終に白鹿の馴るること無かりき
  讃州太守としての私の政治が天の思し召しにあずかって、今日の行春に白鹿が現れるというようなことはついに起こらなかった。それはまあいたしかたないこととしても、ただせめて「苛酷なること青鷹のごとし」などといわれることだけは免れたいものだ。
 私の政治は拙く、私の声価は地に落ちることだろう。四年間の国守の任期が満了して政績功過が評定される時、善最野評価を受けることなど、まず望み難いことだ。
今朝、馬の轡を廻らして行春に出で発ったのは、ようやく朝日が射しそめる頃だった。そして雨にひしげた頭巾さながら身も心も疲れ果てて感謝に戻ってきた時には、とっぷり日も暮れて夕立を降らせた雲が暗く空を覆っていた。
 駅亭の高楼で日没を告げる鼓が三たび連打され、官舎の窓にぽつんと一つ燈が灯っているのが見えた。人気が無くなった官舎で静かに思いめぐらしているとさまざまな悲しみが胸に迫り、夜深けて一人横になっていると涙がこみ上げてくる。
この讃州に赴任して来てからほぼ一年。私はもっぱら清廉と謹慎とを心がけてきたつもりだが、残念なのは、不正腐敗に汚染された青蝿のような官吏たちを一掃できないことだ。

ここからは「清廉と謹慎」に心がけながら、国司としての任務に打ち込んでいる姿が見えます。
菅原道真公⑧ 「仁和2年の除目・讃岐国司へ」。 - 神戸の空の下で。~街角の歴史発見~
          長岡天満宮の碑。道真の人柄を表す

朝早く馬に飛び乗り、夕立の雨にも負けずに巡視を行い、日が暮れて官舎に帰っています。国司の最も重要な仕事は、国内を巡視し国情を把握することです。その業務を精力的に行っています。
ホームシックに押しつぶされ、閉じこもりがちな生活を送っているように漢詩からは読み取れましたが、それだけではないのです。それは、詩作上のことだけかもしれません。
「駅亭の高楼」は、南海道の駅舎のことでしょう。
駅には見張り用の高楼があったようです。そこから官舎の窓の明かりが見えたというのですから、国衙近くに駅舎はあったことになります。そこで今日見聞きしたことを思い出してくると怒りがわいてくるのです。それは「不整腐敗に汚染された青蝿のような官吏」に対する怒りです。ここにも現実を直視しながら、その改善のためににじり寄っていこうとする情熱を感じます。それでも勤務評定で「善最野評価を受けることなど、まず望み難いこと」という現実も知った上でのことです。「現実は厳しい やったって無駄」ではなく「現実は厳しい、しかし清廉と謹慎に勤め最善を尽くす」という姿勢でしょうか。これを知性というのでしょう。

最後に、道真が讃岐を離れる際に詠んだ漢詩を見ておきましょう
忽忝専城任       忽ち 忝くす 専城の任                                    
空為中路泣       空しく為に中路に泣く                                     
吾党別三千       吾が党、別るること三千                                   
吾齢近五十       吾が齢(よわい) 五十に近し                        
政厳人不到       政 厳にして人到らず                                     
衙掩吏無集       衙(つかさ)掩(おお)ひて 吏集まることなし               
茅屋独眠居       茅屋(ぼうおく)に独り眠りて居り                         
蕪庭閑嘯立       蕪庭(ぶてい)に閑(しずか)に嘯(うそぶ)ひて立つ       
眠疲也嘯倦       眠りに疲れ、また嘯くことも倦む                     
歎息而鳴慨       嘆息して鳴き悒(うれ)ふ                                   
為客四年来       客となって四年来                                         
在官一秩及       官にあって一秩及ぶ                                       
此時最攸患       此の時最も患ふる所                                       
烏兎駐如繋       烏兎(うと)駐(とどま)つて繋れしが如し  
日長或日短       日長く 或は日短し                                       
身騰或身繋       身騰(のぼ)り或は身繋がる                            
自然一生事       自然なり 一生の事                                       
用意不相襲       意を用(も)って相ひ襲(おそ)はず                       
意訳変換しておくと                     

あっという間に国司としての任期は終わりに近づいた。
私はこの任務のために道半ばにして泣いたのだ。
わが門弟は三千人が離れていった。
わが齢は五十に近い。
政治が厳しいので誰も寄り付かない。
役所はみすぼらしく、役人は集まらない。
私は茅葺き屋根の小屋で独り眠り、
蕪の生い茂る庭で静かに詩を口ずさんで立つ。
眠りに疲れ、また詩を口ずさむことにも飽きる。
ため息をついて嘆き憂う。
この地に客人となって四年。
役人となってからは十年経つ。
この時もっとも心配するのは、
時間の進行が止まって、縛り付けられたように思うことだ。
日は長く、あるいは日は短く、
わが身は舞い上がるかと思うと、あるいは地に縛り付けられる。
人の一生は天然自然のことだ。
賢い心で、逆らわないようにしよう。

道真の4年間の讃岐国司時代を、どうとらえればいいのでしょうか。
有意義な人生経験。下積み修行。そう言えば聞こえはいいのですが・・・。
当の道真にとって、讃岐守という職務は、あまり楽しくはなく、充実感の得られない毎日だったと私は考えています。任期四年目に詠んだ「苦日長(日の長きに苦しむ)」という詩からは、ほとほとくたびれはてた道真の声が聞こえてくるようです。しかし、それでも、現実を直視しながら、最善を尽くす姿勢は変わらなかったのではないでしょうか。それが、後の栄達へとつながったとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  菅原道真が見た「坂出」  坂出市史 古代編  120P
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図書館の発掘調査報告書のコーナーを見ていると、ひときわ厚い冊子がありました。引っ張り出して見ると「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」とあります。いままでの発掘調査の総括となるもののようです。国の史跡指定に向けての報告書でもあるのでしょう。
 発掘調査の各報告書の巻頭「概観」には、それまでの研究史や研究到達点がコンパクトに紹介されています。もうひとつの楽しみは、いままでに見たことのないデーターが視覚化され載せられていることです。そのためできるだけ報告書類には目を通すようにしています。この報告書にも充実した「概観」が載せられています。今回はこの報告書をテキストにして、どうして讃岐国府が府中に造られたのかを追ってみます。
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布
中央を流れるのが綾川 赤が横穴式石室をもつ古墳 青が古代寺院
右下が府中で青四角が国府跡推定地

讃岐国府は、広いとは云えない「綾北平野」の最奥にあります
この平野は綾川下流域にできた沖積平野で、海際の最大幅でも3、5kmしかありません。国府周辺はさらに狭まくなります。東西と南の三方を丘陵で囲まれ、平野側の間は約500~600mしかありません。高松平野や丸亀平野に比べると、狭い平野が意図的・選択的に選ばれたようです。
 国府周辺で、綾川は谷間から出て阿野北平野に流れ込みますが、その周辺で不自然に屈曲します。かつては歴史地理学の視点から

「人為的な流路変更が古代に行われ、そこに国府が造られた」

という説もありました。私も、この説を主張する本を読んで信じていました。しかし、その後の研究で江戸期の絵図「高松藩軍用絵図」には、直角に屈曲する流路形状は描かれていないことが分かりました。明治21年の陸地測量部作成地図には、現在の流路になっています。そのため、この屈曲は明治の河川改修によるものとされるようになりました。

讃岐の郷分布図
讃岐の郷分布図
讃岐国には『和名類衆抄』によると11郡、90郷がありました。
全国的に見ると上位の郷総数となり(15位)、面積に比べると郷数がかなり多いことが分かります。上図は位置が分かる郷名を地図上に示したものです。このような形で、各郷の位置と広さが示された分布地図を見たのは初めて見ました。興味深く眺めてしまいました。
地図では、郷が次の3つの類型に分けられています
①類型1は、1~2km四方の領域で、後背地となる山野がなく、各平野の中央部にある。
②類型Ⅱは各平野の周縁部にあり、幅2 km、長さ5㎞程度で、一方に丘陵部をもつ
③類型Ⅲは各平野の外周部にあり、5 km四方を大きく超える領域で、その大半は山野である
 こうしてみると各平野の中央部に類型1が集中し、その縁辺に類例Ⅱ、その外周に類型Ⅲが分布する傾向が見て取れます。丸亀平野と高松平野では同心円状の郷分布になっています。これは丸亀・高松平野の郷分布が弥生時代以降の伝統的な生産基盤や地域的なまとまりの中から形成されてきた結果だと見ることができます。
 そこで国府のある綾北平野周辺をみてみると、丸亀・高松平野とは明らかにちがいます。府中のある甲知郷は類型3に分類されます。中心地域ではなかったところに、国府は置かれたことになります。ここには、不自然さを感じます。逆に政治的な働きかけがあったことがうかがえます。「政治的な働きかけ」を行い、国府の「地元誘致」に成功した勢力がいたようです。讃岐国府ができる前の阿野北平野の動向を見ておきましょう。

綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布
讃岐の大型石室を持つ古墳分布図 阿野北平野に集中しているのが分かる。

まず注目すべきは大型横穴式石室墳の多さです
阿野北平野には、古墳時代中期までに造られた古墳は少ないのですが、蘇我氏政権下の7世紀前葉になると、突然のように新宮古墳、それより少し遅れて醍醐3号墳が姿を現します。これを皮切りに
①綾川左岸の城山北東部(醍醐古墳群)
②城山東部、東岸の連光寺山西麓(加茂古墳群)
③五夜嶽西麓(北山古墳群)
などに大型横穴式石室墳が相次いで築かれるようになります。その石室スタイルは観音寺市(後の刈田郡)にある大野原古墳群の影響を受けた複室構造を採用しています。その後は、前室の形骸化、羨道との一体化という方向で全ての古墳に共通した変遷が見られます。ここからは次のようなことがうかがえます。
①阿野北平野の横穴式石室をもつ古墳は共通性があり、一族意識をもっていた
②三豊の刈田郡勢力との何らかの関係をもつ集団であった。
それよりも注目すべき点は、その後の築造動向です。

綾北 香川の横穴式古墳規模2
阿野北の横穴式石室は、規模も大きい 紫が阿野北平野の石室

醍醐・加茂・北山の各古墳群では、その後も大型石室墳が築造され続け、これまで讃岐の盟主的地位にあった大野原古墳群を凌駕するようになります。また讃岐各地の古墳が築造停止する7世紀中葉以降も築造が続けられていきます。

こうした阿野北平野の背景には何があるのでしょうか
大久保氏は、綾北平野周辺諸地域勢力が結集し、共同して綾北平野とその周辺の開発を進め、港津や交通路、各種の生産基盤の整備を進めたからと指摘しています。ここでは、7世紀中頃まで空白地帯(未開発地帯)だった阿野北平野に、突然のように大型古墳が何基も造られるようになり、3,4グループが同じ石室のタイプをもつ古墳を造り続けたことを押さえておきます。その上で古墳造営の背景を考えて見ましょう。
『日本書紀』天武天皇十三(684)年11条に、綾君氏が「朝臣」の姓を賜ったという記事が出てきます。
古墳が続けられた後のことです。「綾」は「氏」集団の名称で、「君」は「姓」というもので「朝臣」も同じです。氏というのは、実際の血縁関係や疑似血縁的意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団のことです。しかし、一般民衆の血縁的集団を指すのではなく、大和政権に奉仕する特別な有力者集団を示します。ここがポイントで、綾氏は「君」や「朝臣」を貰っているので、朝廷と直接的な関係を持つ集団だと認められていたことになります。
 氏の首長である氏上は、氏を代表して政治に参与します。その政治的地位に応じて称号である姓を与えられ、血縁者も姓を称することを許されます。6世紀後半以後、阿野北平野の開発などの進展で、新たに開発された所に拠点を移す「分家」が現れ、一族の中でも居住地が離れていきます。その結果、氏内部に小集団(別氏)の分離・独立化の傾向が起きて分裂していきます。つまり、いくつもの綾氏の分家が6世紀後半には阿野北平野に現れたということになります。そして「各分家」も、新拠点で古墳造営を始めます。その際の石室スタイルは「本家」のものと同じにします。このようにして大型石室を持つ古墳は造営されたと研究者は考えているようです。大型石室の被葬者たちは綾氏一族の分家した各首長としておきましょう。本家の仏壇を真似て、分家の仏壇も設置されているのと同じなのかもしれません。

次に、国府以前に建立されていた古代寺院を見ていきます。
阿野北平野には、開法寺跡、醍醐寺跡、鴨廃寺の3つの古代寺院があります。醍醐寺跡や鴨廃寺は大型石室を持つ古墳群が築かれた場所の目の前に寺院が建立されています。ここからは、古墳群を造った勢力が、古墳築造停止後に氏寺建立に転換したことがうかがえます。
 先ほど見たように綾北平野の古墳は石室形態を共有していました。同じように寺院建立の際にも、同じ瓦が使われています。ここにも相互の強い結びつきが見られます。同時に狭い阿野北平野に3つの寺院が並び建つ状況は他では見られません。有力勢力が密集していたエリアだったことがうかがえます。これらの古墳や寺院を築造した勢力は、綾氏に繋がり、684年の八色の姓では朝臣の姓をもらっています。善通寺市の大墓山・菊塚古墳から仲村廃寺・善通寺へと移行していく佐伯直氏と同じ動きがここでも見えます。
坂出 海岸線復元3
坂出の古代海岸線復元図の中の国府と城山

阿野北平野のことを考える際に、避けて通れないのが古代山城・城山城です  
 屋島と城山の古代山城は備讃瀬戸をはさんで西と東にあり、前面には塩飽諸島、後者には直島諸島が連なり、多島海の眺望を眺めるには最高の場所です。これを戦略的に見ると、防衛ラインを築くには城山や屋島は最も適した立地となります。近年では対岸の吉備の山城と対で設置された可能性も指摘されています。
 古代山城は地方豪族が立地場所を決めたわけではありません。中央政府の視点で、選択的選地がなされています。もちろん地方有力者の助言・意向は反映された可能性はあります。
 讃岐国内の2城は同時着工で短期間で築城されたようで、地元から動員された労働力は膨大な数だったはずです。築城には中央から監督役人が派遣され、亡命百済技術者集団が指揮したと私は考えています。派遣された築造担当の中央役人は、地元の有力豪族を使いながら強制的な労働力徴発を行ったのでしょう。山城築造や南海道整備などの強制は、結果的には律令国家体制が急速に、地方豪族に身に泌みる形で浸透していく契機になったのかもしれません。そうだとすると山城築造が讃岐に与えた影響は計り知れないものだったと云えそうです。

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城山頂上に残る礎石群

 その後、山城が完成すると、その管理・運営が問題になります。
城だけ造っても防備にはなりません。そこに兵員の組織・配置・訓練・移動も行わなければなりません。唐・新羅連合軍の来襲という危機意識の中で、複数の国を統括する太宰・総領が置かれます。この時期、讃岐は伊予総領の管轄下にあったようです。伊予総領の課題としては、今治・城山・屋島の戦略要衝の機動的な運用が目指されたはずです。そのためには兵員・戦略物資の融通移動や情報の迅速交換のためにも基幹交通路となる南海道の整備は、最重要課題のひとつになります。

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こうして、東から大坂峠を越えて南海道が城山を目指して一直線に伸びてくることになります。幸いにして南海道が戦略的な機能を果たすことはありませんでいたが、この時期の投下された社会資本整備が後世に大きな意味を持つことになります。国府が置かれる府中周辺は、白村江の敗北への対応策として、大きな社会資本が継続的に投下され整備されたエリアだったと報告書は指摘します。

氏名の由来と八色の姓
綾という氏名の由来は、地名の阿野郡からきているとされます。綾氏は、古代阿野郡を本拠とする豪族で、今までに見てきたように古墳や寺院跡などの分布から綾川下流域が中心拠点だったことが分かります。次に姓というのは、政治的地位に応じて与えられる称号で、臣・連・君などがありました。綾君に朝臣という姓が贈られる1ヵ月前に「八色の姓」が制定されています。これは、従来からあった臣・連などの姓をすべて改めて、新たに真人・朝臣・宿而・忌寸・道師・臣・連・稲置などの8級の姓を制定したものです。ここには伝統的な氏姓制度を再整備し、天武一族を最上位に置き、その当時の勢力関係をプラスして、厳然たる身分制度を新たに作ったものです。
 綾君氏は「朝臣」をもらっています。
この姓は、大和政権を支えた畿内とその周辺地域の有力氏族52氏に与えらました。地方豪族としては群馬の上毛野君・下毛野君氏、二重の伊賀臣・阿閉臣氏、岡山の下道臣氏・笠臣氏、北部九州の胸方(宗像)君氏だけです。彼らは地方の大豪族で、讃岐はもとより四国内では綾君氏のみです。ここからは、綾氏がこれらの地方有力豪族と肩を並べる存在であったことがうかがえます。
 さらに綾君氏で研究者が注目するのは、祖先系譜です。
『日本書紀』景行天皇五十一年八月条に、妃である古備武彦の女吉備穴戸武媛が、武卵王(たかけかいこう)と十城別王(とをきわけのみこ)を生み、兄の武卵王は讃岐綾君の始祖であると、記されています。『古事記』にも同じような記事があります。景行天皇は実在が疑われているので、これらの記事が史実かどうかは別として、天皇家に直結する始祖伝承が『日本書紀』、『古事記』に記されていることは事実です。ということは、この紀記の原史料成立時期の7世紀前半頃、または『日本書紀』、『古事記』の編纂時の8世紀に、綾君氏が大和政権の中で一定の地位を築いていたことを物語ります。
 当時讃岐では、高松以東では凡直氏、高松市域では秦氏、善通寺市域では佐伯直氏、それと観音寺市域では氏姓は分かりませんが罐子塚・椀貸塚・平塚・角塚古墳を造り続けていたいた豪族(紀伊氏?)がいました。これらの中で天皇家に連なる祖先系譜を持っているのは綾氏だけです。ここからは、7世紀前半において、讃岐における綾氏の政治的位置や政治力の大きさがうかがえます。
5讃岐国府と国分寺と条里制

  以上、どうして讃岐国府は坂出・府中に置かれたのかという視点に立って、その理由を報告書の中から選んでしるしてみました。それをまとめておきます。

①讃岐国府は現在の坂出市府中に置かれた
②しかし、府中は丸亀平野や高松平野などの後背地がなく、また古墳時代以来の開発蓄積があった場所でもなかった。また6世紀後半までは国造クラスの有力豪族もいなかった。
③阿野北平野の豪族は6世紀後半以後に急速に力を付けていく。
④彼らの首長は、観音寺市の大野原古墳群の石造スタイルを真似て、新宮古墳を築く。
④これをスタートに阿野北平野の4つのグループも、新宮古墳をコピーしたスタイルのものを造営するようになる。これには統一性が見られる
⑤この被葬者たちは、新宮古墳の被葬者の末裔で一族意識(祖霊意識)をもつ同族で「本家と分家」の関係にあった。
⑥彼らは7世紀後半には、古墳に代わって氏寺を建立するようになる。
⑦これが古代の綾氏の祖先で、綾氏は讃岐でもっとも勢力のある豪族に成長し、城山城や南海道の建設に協力し、中央政権とのパイプを強め、信頼を得ていく。
⑧それが坂出府中への「国府誘致」の原動力となった。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  讃岐国府跡の位置と地理的環境 
    「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」所収
        香川県教育委員会

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


  古代には城を「き」と呼んだので城が築かれて以来、この山は「きやま」と呼ばれてきました。
城山は西の聖通寺山、角山、常山、金山、東の五色台山塊と共に綾北平野を囲み、南に続く低い山並みは丸亀平野の東の境となります。備讃瀬戸を見下ろす位置にあり、標高462mの山頂は古代の山城としては一番高いところにあり、東の屋嶋城、西の西条市・今治市の永納山城対岸の鬼城山(鬼ノ城)等の古代山城と結ばれ、足下には讃岐国庁が構え、南に南海道が走ります。東の麓にある讃岐国府を西からの敵に対して守るには、戦略的な意味をもつ山です。

坂出古代海岸線

城山城の立地上の特徴は、「海際」という点にあるようです。
「海際立地」と云われても今の私たちにはぴんときません。海から城山の山裾までは、今では5㎞近くあります。しかし、以前にお話したように、古代坂出の海岸線を復元すると、海が深く湾入してきていたようです。復元地形図で見れば分かるように、西庄の山裾近くまで海だったようです。 海に近接するという特徴は、瀬戸内の四国側に築かれた他の二基の古代山城にも共通します。

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城山から阿野北平野
屋嶋城(高松市屋島東町他)が築かれている場所は、古代は南北に長い島で、瀬戸内海に突出した岬の先に築造されています。伊代の永納山城(東予市河原津)は高縄半島の付け根に辺り、海岸線までの距離は0,3㎞です。
 この特徴は、瀬戸内の山陽側の4つの山城とは対照的です。山陽側の山城を東から見ていくと、播磨城山城(兵庫県たつの市)は古代の推定海岸線から14㎞、大廻り小廻り山城(岡山県岡山市瀬戸町他)は8㎞、鬼ノ城(岡山県総社市奥坂)は11㎞、石城山城(山口県光市)は約4㎞です。
史跡城山 - 坂出市ホームページ

城山城のもうひとつの特徴は、城壁が二重に巡らされていることです
これを複郭構造というそうです。外側の城壁は全長5,3~7,6㎞ 内側の城壁は3,4㎞になりまます。二重の城壁の外側は土塁で、内側は石塁です。共に上面は幅が5mもあり、平坦面になっていて城山に伝わる長者伝説では、城壁を足の悪い我が子を運ぶ「車道」として登場します。

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外側の城壁

 外側の城壁は現在のゴルフ場を取り囲むようにあったようです。
しかしゴルフ場建設のために地形改変され、城壁の大部分は撤去されて、今は広大な起伏のゴルフコースとなっていて、一部がのこっているに過ぎません。 ゴルフ場が出来る前は「第二車道」と呼ばれる外壁が延長5,3㎞~7,6㎞ほどで巡っていました。 
 一方内側の城壁は城山山頂と浅い谷(池内盆地)を囲んだ尾根の高まりを囲んで巡っています。
内側の城壁ラインは標高400m前後の城山山頂の山腹を巡り「第1車道」と呼ばれ、延長は3,4㎞あります。山頂近くには大型建物跡に使われたと思える礎石がごろごろと転がっています。
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頂上広場の礎石群?
 
地図を見ると城山城は、北西側への防御を堅固にしています。
これは西からの海路に対して、讃岐国府を守る備えなのでしょう。古代山城は防衛を目的とした軍事的構造物ですが、当時の防衛組織、兵士、軍団、兵法、武器・武具などについては、なにも分かりません。
この築城を命じたのは大和政権なのでしょうが、実際に建設にあったたのは、百済からの亡命技術者集団がいて、そのもとで地元の有力者への動員命令が下ったはずです。しかし、そこれも詳しくは分かりません。どちらにしても、7世紀後半は、大土木工事が目白押しでした。それを挙げて見ると
①南海道の建築
②条里制工事
③屋嶋城・城山城
④有力者による氏寺建設ラッシュ
中央が求める土木工事を無難にこなしていった有力者が大和朝廷からの信頼を得て、後の国府で有力者として力を発揮していくことになります。それが綾氏や佐伯氏であったのでしょう。そうだとすれば、この城山城の造営に、綾氏や佐伯氏が関わっていたことになります。
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城山の調査は、大正13(1924)年に香川県によって初めて調査が行われます。
戦後の昭和26(1951)年になって国史跡に指定されました。その後、次のように調査が行われています
平成10(1998)年 内側の城壁である水口付近の測量、
平成16(2004) 水口の北に続く城壁の写真測量
平成17年 北延長部を測量。
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城山城の築城日的は、唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えるとされます。
白村江の敗北以後、唐・新羅の連合軍が侵攻してくるという恐怖に指導者は襲われていたようです。そのために九州や瀬戸内海沿いの国府周辺に、20を越える山城が一斉に築城されはじめます。まさに国家主導の一大プロジェクトです。これに地元の豪族たちも協力し、多くの讃岐の人々が動員されたのでしょう。時期的には白村江敗北直後ですから、7世紀後半のことになります。
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城山城は、西日本に築かれた約20カ所の山城のうち規模が2番目の大きさになるようです。
最大の規模をもつのは大宰府の背後にある大野城です。外郭線の全周は6,8㎞で総面積は181㌶です。これに対して城山城は外郭全周が6,3㎞、総面積は168㌶です。ちなみに平均的な規模は、外周は2,3㎞、面積は10~40㌶になります。規模の面からだけ推察すると、第一の防衛拠点が大野城で、第二の防衛拠点が城山城だったことになります。備讃瀬戸は海域が狭く、ここを抜けると東側は灘になるため海路の最後の防衛箇所という位置付けだったと坂出市史は指摘します。
具体的に城山の城壁を見てみましょう
石塁部分は安山岩の平石を積み上げ、その背後に小石混じりの土砂を詰めた後、上面に盛土がされていて、高さは1,8m程度です。

城山城門跡

ゴルフ場の中にある門を見ておきましょう。
①門は幅4,4m、高さ1,8m
②門の角は、加工した縦0,6m、横1m、厚さ0,3mの安山岩を高さ2mまで算木積状に積み上げている
③門道の側壁は垂直で、壁石の内側に盛り土した基底面幅約7m、上面幅約3,6mのかまぼこの石塁が9mほど続き、その後は次第に低くなり通常の高さにもどっていく
④門道からは瀬戸内海側へ30度の急傾斜で標高350mあたりまで敷石の舗装道が延びていた
 この門で不思議なのは、ここ1ヶ所しか門がないのです。これをどう考えればいいのでしょか?
城山水戸

門の南西の池内盆地の口に、排水施設の水口を設けた石塁があります。
浅い谷を渡る城壁は中央部では幅5mほどのかまぼこ型になります。谷部西端の城壁は土塁で、基礎に平たい石を敷いた上に土盛がされています。外側城壁の上塁構造は分かりません。
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まないた石
城山にはホロソ石、 マナイタ石、カガミ石と呼ばれる加工石が各所に残されています。
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ホロソ石は門柱の礎石、マナイタ石は門扉の敷居(蹴放し)と研究者は考えているようです。ホロソ石には扉の軸を受ける軸摺り穴、方立の刳り込みがないので未完成品のようです。門遺構が1ヵ所だけということと合わせて考えると、城山城、内側と外側の両城壁ともに未完成で終わったことがうかがえます。築城作業が途中で放棄され、完成に至っていないと云うことです。

池内盆地の東側斜面からは、須恵器や平瓶、土師器が出土しています。
山頂の西南方標高300m、外側城壁が巡る坂本バエの石積遺構からも小型の須恵器杯、土師器杯が多量に出土したと伝えられます。城山城は二重の城壁をもち、内郭と外郭の構成は戦国末期の織豊城郭の縄張りと同じ構造です。古代山城には、このような構造を持つ山城は他にありません。
 未完成のの門柱礎石は、光市の岩城山神籠石(石城山城)や、たつの市城山城跡にもあるようです。屋嶋城も城門の門柱痕跡がはっきりしないのは、同じ理由かもしれません。古代山城の築城背景を見てみると、白村江の敗戦後の唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えての国家プロジェクトとして、 一斉に始まり、短期間で終了したと研究者は考えているようです。そのため国際政治的な情勢が好転すると、一斉に築城中止となったのかもしれません。
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城山からのぞむ高松方面
 屋嶋城は、日本書紀、続日本紀にでてきますが、城山はでてきません。これは「戦略上の役割分担」と、次のように研究者は考えているようです。
①屋嶋城は日本水軍の城
②城山城は讃岐の「国城」
城山城をめぐる防衛組織、兵士、軍団、兵法、武器・武具などについては、分からないことだらけですが、手がかりはあるようです。
「日本書紀』天武天皇十四(685)年11月条は当時の軍事体制整備の一端が垣間見えます。
周防総領の所に鉄一万斤を送り、筑紫太宰にはあしぎぬなどの織物多数、鉄一万斤、矢に用いる竹二〇〇〇連を送っています。総領の役所を総領所というようですが、物資はこの総領所か、山城の倉庫に備蓄されたのでしょう。
伊予総領が讃岐の統治権を持っていたことをうかがわせる建物群が讃岐国符跡から出てきました。
  それは7世紀後葉から8世紀初めの掘立柱建物跡4棟や溝跡です。一番大きな建物跡は桁行七間(12m)、梁間2間(5m)の規模です。地方の国府に建物が並び出すのは8世紀前半代が多いようですが、それよりも大分古い建物になります。建物の特徴は、建物向きが真北を基準とする点です。それまでの建物は自然地形に沿つた北西方向で、後代は北24度西になっているので、この建物は変わっています。同じ方位の建物が複数営まれていて、初期の役所と研究者は考えているようです。とすると、府中に国府が置かれる前に、役所的施設が姿を見せていたことになります。それは、城山城の関連施設で、唐・新羅侵攻という非常事態に備えて、配備された伊予総領の管理下にあったものではないかという仮説です。
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外側の石塁への入口
『日本書紀・持統天皇3(689)8月21日の記事に、讃岐国御城(三木郡)で捕らえた白い雉は、放し飼いにせよと、伊予総領田中朝臣法麻呂に対して命令が下されたことが記されています。
ここからは7世紀後半に、伊予の「総領」という行政官が讃岐の一般行政を行っていたことが分かります。この総領が配置された地域は、吉備(岡山県)、伊予(愛媛県)、周防(山口県)、筑紫(福岡県)で、畿内と北部九州を結び、大陸への動脈をなす瀬戸内沿岸などの諸国に限られています。それは古代山城が築かれた地域とも重なっています。ここからは「総領」は軍事的性格が強い地方官であること、それが伊予・讃岐の統治権をもっていたことがうかがえます。これは、対外的な脅威に備えて、四国北部に置かれた行政長で、もしもの時には彼の命令で軍団が動かされたのかもしれません。大部隊が迅速に移動するためにも、南海道の建設は急ピッチで進められたことが考えられます。

ちなみに城山の長者伝説は、次のように始まります。
   むかしむかし,このあたりで一番高く見晴らしのよい城山の頂上に,立派な家を建てて住んでいた人がいました。その人は,瀬戸の海を荒らしていた悪魚を退治して,この地を治めた武殻王(神櫛王=讃留霊王)の子孫で,益川(やがわ)という人でした。この人は,大変な大金持ちで,人々から城山長者と呼ばれていました。 大金持ちの長者は,どんなことでも自分の思いのままにかなえられました。
  (中略) しかし,この長者にもどうにもならないことがありました。それは一人娘の乙姫様のことです。姫は,生まれた時から足が悪く,立つ事もできなかったのです。姫は成長するにしたがって,長者も目を見張るほど美しくなっていきました。村の人たちの間では,この美しいお姫様を一目でも見たいものだと噂されるようになりました。
 長者は,「姫も家の中ばかりでは心も晴れまい せめてこの山のまわりの素晴らしい景色を見せてやりたい」
「何かよい方法はないものか....」
「そうだ 姫を車に乗せて散歩をさせよう。」
 その日から,大勢の人夫を集めて,木を切り石垣を築き,土をならして車の通る道と,姫を乗せる立派な車を作り始めました。こうして,大金をつぎ込んで,城山を二重に取り巻く長く立派な車道(くるまみち)が出来上がりました。長者は大変喜んで,さっそく姫を車に乗せ,自分もそばに付き添って散歩に出かけました。
 北に出ると,むかし祖先が勇敢に悪魚と戦った瀬戸の海が開け,遙かにかすんで見える備前の山々を背景に,塩飽の島々は白砂と青松の美しい島影をうつし,船は青い海にいくすじも白い船のあとを残していました。
 毎日お姫様が車道(くるまみち)を散歩しているという噂を聞いた村人たちは,城山へ登って行きました。城山長者の車道は,美しい乙姫様を一目見ようと,毎日毎日大勢の人が集まってきたという事です。
  ここには、城山の車道が城山長者によって造られたこと。城山長者の祖先は、神櫛王につながることが語られています。「神櫛王の子孫=綾氏=讃岐国造」という「神櫛王の悪魚退治伝説」の変形バージョンとして流布していたようです。讃岐における「神櫛王伝説」の拡がりと深さを示す「城山長者伝説」です。同時に、悪魚伝説が作り出された中世には、城山の城壁が何のために造られたものかは分からなくなっていたことがうかがえます。

  まとめておくと
①城山城は白村江敗北後に、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築造された山城群のひとつである
②その特徴は、海際に立地することと、二重城郭に囲まれていることである
③城山城の規模は、大野城に続いて2番目の大きさであり、その重要性がうかがえる。
④山中に残された石材などから城山城は築城途中で廃棄されたことがうかがる。これは、軍事的緊張が緩和されたため不用となり放棄されたようである。
⑤城山城は、渡来人の技術が各所に見えるが、讃岐の有力豪族も動員された。
⑥城山城築城に大きな役割を果たした綾氏や佐伯氏は、府中の国府で大きな政治力を持つようになる。
⑦後世には城山長者伝説として、神櫛王の子孫(綾氏)の長者が造った車道と伝えられるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   坂出市史 古代史料編 城山城跡162P

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