瀬戸の島から

2021年10月

 
前回は、空海を唐から連れ帰ったのが判官・高階真人遠成の船であったことをお話ししました。遠成が乗っていった船と出港時期にについては、次の二つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の第四船として、同じく出発し、漂流の後に遅れて入唐したとするもの(延暦23年出発説)
② 『日本後紀』延暦二十四年七月十六日条記載の、第三船と共に出発したとするもの(延暦24年出発説)
その辺りのことを、今回は見ていこうと思います。
     テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
 高階真人遠成とその船については、代表的な論考は次の通りです。
一、木宮泰彦『日支交通史』上巻、 1926年
二、大庭脩「唐元和元年高階真人遠成告身について―遣唐使の告身と位記」1967年
三、高木紳元「兜率の山・高野山への歩み」1984年
四、茂在寅男「遣唐使概観」1987年
五、佐伯有清『若き日の最澄とその時代』1994年
遠成の船が延暦の遣唐使の第四船だったかどうかの観点で、 これらの論考を分類すると次のようになります。
①第4船らしいと推測する立場  木宮泰彦・茂在寅男
②第4船であったと確定する立場   大庭脩・佐伯有清
③第3、第4船ではなく新造船であったという立場 高木紳元

①の「第四船らしい」と最初に推測したのは、木宮泰彦氏で次のように記します。
延暦の遣唐使の第四船は唐に赴いたか否か明らかでない。空海・橘逸勢等が判官高階遠成と共に大同元年八月に帰朝しているのは第四舶ならんか。

と、遠成の船が第四船であった可能性を約百年前に示唆しています。
②の第四船であった説を代表する大庭脩氏は次のように記します。
第三船は判官正六位上三棟朝臣今嗣が乗っていたので、第四船に高階真人遠成が乗っていたことは疑いなく、第四船の消息のみが全く不明ということになる。(中略)
第四船に乗船していた遠成は、恐らく風に流されて遭難したのであろう。そしてその経過を知るよすがもないが、九死に一生を得て唐に到り着き、長安まで行ったのであろう。その時期は明らかではないが、本告が元和元年正月二十八日付の中書省起草の勅であるから、大使葛野麻呂等一行が長安に滞在し、告身を授けられた貞元二十一年十二月よりまる二年後にあたる。(中略)
 彼は大使藤原葛野麻呂と共に帰って来なかった以上大使等の出発後に長安につき、帰国の便を待っていたのであろうから、長くみれば、約一年半は長安で生活していたと考えられる。
大庭脩氏のポイントを要約すると、次のようになります。
①遠成は大使葛野麻呂一行が長安を離れた永貞元年(805)2月10日より後に、長安にたどりついた。
②遠成の船は延暦22年(804)7月6日、肥前国松浦郡田浦を出帆した第四船であり、九死に一生を得て唐に到りついたものである
③遠成は、その後、長安に約1年半滞在した
つまり、第1・2船と同時に出港したが、何らかの理由で第4船は長安への到着が大幅に遅れ、長安にやって来たときには第1・2船の正使・副使は長安を離れた後であった。にもかかわらず遠成は、その後、長安に約1年半滞在し、帰国時に空海を伴ったという説になるようです。どうも私には合点がいかない説です。

同じく第四船であったとする佐伯有清氏は、次のように記します。
ちなみに第四船の消息は、まったく記録されていない。ただし第四船の遣唐判官の遠成が唐の元和元年(806)正月28日、唐朝から中大夫・試太子充の位階・官職を賜わっており、同年(大同元年)十月、留学僧の空海、留学生の橘逸勢をともなって帰国している。帰国の復命は、同年十二月十三日であった。この日に高階遠成は、遣唐の功を賞されて従五位上の位を授けられている。遠成の行動を追ってみると第四船は、難航のすえ、かなり遅れて唐に着岸したようである。遠成は、延暦二十四年の年末ごろに長安に入り、使命を果すことができたのである。

佐伯説は、遠成の船を第四船とみなし、遠成の長安到着を延暦24四年の年末ごろとします。

そのような中で高階真人遠成の入唐目的を新たな視点で語る新説が出てきました。高木諦元氏の説を見ておきましょう。
ちょうどその頃、高階真人遠成が遣唐判官として長安に入り、帰朝の途につくところであった。この時期に、高階遠成が国使として入唐した目的が何であったかは定かでない。『日本後紀』巻十三によれば、帰国した遣唐大使藤原葛野麿が節刀を返還し、朝廷に帰朝報告をしていた頃、詳しくいえば延暦二十四年(805)七月四日に、一般の船が肥前国松浦郡庇良(ひら)嶋、いまの平戸島から出帆して遠値嘉(おちか)島を目指し、唐国へ向おうとしていた。この船は第十六次遣唐使船四艘のうちの行方不明になった第3船であって、判官の三棟今嗣(みむねいまつぐ)らが乗船していた。運悪しく、この船は再び遭難して孤島に漂着し、浸水しはじめた。三棟今嗣らは射手数人を船に残して脱出し、かろうじて生きのびることができた。やがて績が切れて船は漂流しはじめ、積んでいた国信物などとともに行方が知れなくなった。任務を放棄したかどで、判官三棟今嗣は懲罰に付されている。
一年前に難破して入唐を果せなかった第3船を、いま再び渡海せしめようとしたのは、あるいは新たに即位した順宗への朝貢のためであったとも思える。ただ朝貢のためだけであったかどうかは定かでないけれども、しかし、どうしても使節を再び派遣しなければならなかったことは事実であった。三棟今嗣にかわって、遣唐判官には急拠、大宰府の大監であった高階真人遠成が任命された。『類衆国史』に「遠成は率爾に使を奉じて、治行(旅行の準備)に退あらず。その意、衿むべし」とあるのが、そうした事情をうかがわせる。また『朝野群載』には、高階遠成に対する唐朝の位記を載せて「その君長の命を奉け、我が会同の礼に超る。冥法を越えて万里、方物を三際に献ず」とある。「会同の礼」とは、常期ではなく事あるごとに来朝して礼謁することをいうから、やはり、高階遠成の入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったろう。(中略)
 高階遠成が長安へ到着した月日は定かでないが、慶賀の意を表すべき皇帝が予期していた順宗から憲宗にかわっていたとはいえ、所期の目的は達成したことになる。

高木説には、全く新しい視点が二つあります。
その第一は、『類衆国史』の「率爾に使を奉じて、治行に退あらず」に注目して、遠成は延暦24年7月に再び遭難した第三船の判官三棟今嗣にかわって急遽任命され、唐に向ったとみなすこと
第二は『朝野群載』所収の「会同の礼」に注目して、遠成入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったとしたこと
  この説は、派遣目的が分かりやすく時間系列も納得がいくので、小説などではこの説にもとづいて高階真人遠成の遣唐使船の登場が描かれることが多いようです。
しかし、この新説に対しては、次のような疑問点が研究者からは出されています。
第一の疑問点は、805年7月4日に難破した第3船の判官三棟今嗣にかわって、大宰府大監の高階遠成が急遽、遣唐判官に任命されたととする点です。しかし、これが可能であるためには、次のような手続きが求められます。
①第三船の遭難報告が太宰府から都にとどけられる
②朝議での再度の派遣決定と、派遣する官吏の選定
③新遣唐使船建造と新皇帝即位への貢納物の準備・調達
④出発
つまり、使節団長の首のすげ替えだけではすまない話のようです。
 高木説は「中国皇帝の代替わりの新帝への朝貢礼謁のための特別の派遣」としますが、そう簡単に進むことではないようです。まず、遣唐使を派遣するには莫大な費用が必要でした。たとえ、財政面の負担をクリアしても、派遣する官吏の選定があります。前回見たように遣唐使船には一隻について、150名前後のスタッフが必要でした。ただ単に頭数をそろえればいいのではありません。遣唐使は、知乗船事・訳語などの職掌別の専門家集団です。その上、遭難して死者を出した船に乗っていた者は、不吉であるとして忌み嫌われ、再び派遣されるスッタフからは、はずされました。つまり、大部分のスタッフを新たに選ぶ「人材一新」が求められます。これは短期間にできることではありません。
 新たに大宰府の大監を務めていた高階遠成に判官への就任命令が届いたのは、いつごろなのでしょうか。
それからスタッフ選定が行なわれたとしても、都から大宰府への連絡には駅伝制を使っても4~5日は要したようですので、太宰府の遠成への通達は早く見積もっても7月下旬になったはずです。

 すぐに再び遣唐使派遣を考えた場合、帰国したばかりの遣唐大使・藤原葛野麻呂らが乗船していた第一船と、判官の菅原清公らが乗っていた第二船を、派遣することは検討できます。しかし、一度東シナ海を航海したこの隻船は、長い航海のためにボロボロになっていたようです。すでに中国の福州から明州に回航された時点で、第一船は一ヵ月余りの修理を必要としていました。また、乗組員のすべてが大宰府近辺で確保できたかどうかも問題になります。このように考えてくると、船の調達も無理筋のような感じがしてきます。
 問題の第二は、新皇帝への土産物、すなわち貢納品の調達です。
『延喜式』巻三十、大蔵省の「賜蕃客例」には、大唐の皇帝への賜物の規定が事細かく記されています。遠成の入唐の目的が唐の新帝への朝貢礼謁であったとするならば、贈り物は欠かせません。
その準備に時間を要したはずです。前回見たように、通常の遣唐使派遣は3年前には、正使・副使が決定し、貢納品などの準備を整えていました。遠成が前任者にかわって急遽派遣されたという説は、船の確保と貢納品の調達という問題をクリアできないと研究者は考えています。
 次に遠成一行の長安到着がいつであったかを推察し、そのことから逆算して、遠成等の日本出発の時期を見ておきましょう。
遠成は、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位記を授けられています。ここからこの時点で長安に滞在していたことが分かります。それなら遠成らは、いつごろ長安に入ったのでしょうか。遠成一行が長安に到着したのは、位記を授けられた前年、すなわち延暦24年(805)の年末頃ではなかったかと研究者は推測します。それは、前年の第一船の高野麻呂一行が何としても新年の朝賀の儀に間に合うように、「星に発ち星に宿り、晨昏兼行す」と昼に夜をついで長安への旅を急ぎに急いだことから想起されます。大唐帝国に朝貢にやってくる各国の使節団は日本だけではありません。日本は朝貢国のひとつにしかすぎません。唐側は、新年の年賀の挨拶にやって来ることを最も重視していたようです。
 遠成も当然、「新皇帝による最初の新年朝賀の儀」への参加を目指していたはずです。だとすると逆算して、いつごろ日本を出発しなければならい計算になるのでしょうか。
 前年の第一・二船は7月6日に、肥前国田浦を出帆しています。
①福州に漂着した第一船の一行は、12月23日に長安到着
②明州に上陸した第二船の一行は、11月15日に長安到着
 翌年の正月の朝賀の儀に列席するためには、7月中の日本出発がタイムリミットだったようです。これを先ほど見た第三船の遭難から再度の派遣決定、派遣吏員の選定、船の確保と整備、貢納物の調達といったことを重ね合わせると、急遽遠成が遣唐使判官に任命されても、すぐに出発することは無理だったことが推測されます。
 以上から修理された第三船遭難後に、遠成が急遠判官に任命され、派遣されたとみなす説は無理筋だと研究者は考えているようです。

第4の疑問点は、遠成の入唐目的が新帝への朝貢礼謁だったという点です。
高木説は、遠成は第3船の判官今嗣にかわって派遣されたものとします。とすると、前任者であった今嗣の入唐の目的も、新帝への朝貢礼謁のためであったことになります。本当に、今嗣の入唐は新帝への朝貢礼謁のためだったのでしょうか。
新帝への朝貢礼謁のためとされる使節派遣は、いつ決定されたかという点を、時間的経過で追ってみます。
唐朝の皇帝が亡くなって、徳宗から順宗に移ったとの知らせがわが朝廷にもたらされたのは、第一船の遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告書によるものだったことはまちがいないでしょう。葛野麻呂は、延暦24年(805)6月5日、対馬島下県郡に帰着し、同月八日付で長文の帰国報告書を都に書き送っています。そこには、次のように記します。
廿一年正月元日於入己元殿朝賀。二日天子不豫。廿三日天子雅王(徳宗)通崩。春秋六十四。廿八日臣等於・五天門・立レ使。始着素衣冠。是日太子(順宗)即‐皇帝位・。

ここには、貞元21年(805)正月23日徳宗が64歳で崩御し、代わって1月28日順宗が帝位についたことが記されています。この6月8日付の帰国報告書は、当時の山陽道の駅伝の通信能力からして4~5日後には都に届けられていたはずです。この報告書をみて、ただちに新帝順宗への朝貢のための使節派遣が決定されたとは思えないと研究者は云います。派遣の議は、正使の藤原葛野麻呂の上京・復命をまち、直接詳しい報告をきいた上で、執り行なわれるというのが手順ではないかと云うのです。肥前から藤原葛野麻呂が上京し復命したのは7月1日です。
第3船が肥前を出帆したのは7月4日です。
第3船がずいぶん以前から出発の準備を万端ととのえていて、出発のゴーサインをまつばかりとなっていたとしても、時間的には間に合わない計算です。もし仮に、6月8日付の葛野麻呂の帰国報告書を見て、朝議で派遣決定がされたとしても、先ほど見たように150名もの遣唐使スタッフの選定、遣唐使船の確保、貢納物調達の時間を考えると、20日足らずの短期間に、出帆までこぎつけられたとは不可能と研究者は考えているようです。
 以上から遠成が、葛野麻呂の帰国報告書にもとづいて新帝への朝貢礼謁のために派遣されたとは云えないとします。今嗣の乗った第三船は、葛野麻呂の帰国とは全く別の目的・理由で、唐に向かったことになります。しかし、それがなんであったのかは分からないままです。

高階遠成の入唐が新帝への朝貢礼謁のためであったかどうかを肩書きの視点で見ておきましょう。
遠成の入唐の際の肩書の記載を年代順に見てみると、すべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」「判官」です。遠成の肩書は「判官」です。高階遠成が、新帝への朝貢礼謁という特別の任務を帯びて新たに派遣されたとすれば「遣唐判官」の肩書きは相応しくないと研究者は指摘します。今嗣にかわって遠成が派遣されたとしても、今嗣の肩書も「判官」でした。また今嗣が乗っていた船は「遣唐使第三船」と記されています。新帝への朝貢使として新たに派遣されたのであれば、正使も遣唐使船もその役割にふさわしい肩書をもって入唐したのではないかという疑問です。船も第三船ではなく、第一船とするのが相応しいはずです。しかし、今嗣・遠成の肩書はともに「判官」であり、今嗣の船は第三船と記されています。

    以上から研究者は次のように結論づけます。
①遠成の船は、第三船ではなかったこと。
今嗣の遭難から再度の派遣決定・出帆にいたる時間的経過、遠成の長安到着の時期などを勘案すると、遠成が今嗣にかわって派遣されたとみなすことはできない。第3船は、座礁し、貢納物を乗せたまま行方知れずとなっているので、遠成の船は第三船ではない。
②遠成の肩書はすべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」など「判官」と記す。
遠成は「判官」の資格で入唐したのであって、新皇帝即位祝賀の特別の任務を帯びて入唐したとは思えない。延暦の遣唐使の一員であったと考えるのが妥当。このときの遣唐使船四隻のなか、第一・二船は、無事に任務を終えて帰国し、第三船は、行方知れずとなっている。残るのは第四船だけでなので、遠成が乗った船は第四船だったとしか考えられない。
③大同元年(806)12月13日、遠成の復命記録には次のように記されているだけである。
 大同元年十二月壬申、遣唐判官正六位上高階真人遠成授従五位上、遠成率爾奉使、不違治行、其意可衿、故復命日持授焉、

ここには、簡単に入唐した事実が簡略に記されているだけです。もし特別の任務を帯びての入唐使節だったのなら、それにふさわしい文言があってしかるべしと、研究者は考えているようです。このことも、遠成の入唐が特別の任務を帯びたものでなかったことを物語るものだとします。

  以上から、高階遠成は、第三船の判官三棟今嗣にかわって派遣されたのではなく、入唐の目的も新帝への朝貢拝謁のためではなかったと研究者は結論づけます。だとすると遠成の入唐目的はなんだったのでしょうか。ここで最初に示した「遠成の船は延暦の遣唐使船の第四船」説にもどります。

記録に、「率爾に使を奉り、治行に違あらず」とあるので、遠成は延暦の遣唐使の派遣が決定された当初に任命された判官ではなかったと研究者は考えます。では、いつ選ばれたのでしょうか。延暦の遣唐使は延暦22年(803)4月16日難波津を出発しますが、5日後に瀬戸内海を航行中に嵐に遭い、この年の派遣は中止されたことは前回にお話しした通りです。そこで船の修理後、翌年7月6日に、四隻の遣唐使船はそろって肥前国松浦郡田浦を出帆します。しかし、翌日7日には第三・四船との火信がとだえてしまいます。
  このとき第三、四船は、おそらく再度遭難したと研究者は考えているようです。そして、第三船は座礁・漂流し行方不明となります。第四船は博多にもどり、改修を受け翌年の延暦24年になってあわただしく出発したというのです。その際に、それまでの判官では不吉だというので、新たな判官が選ばれます。それは大宰府に在住していた人々を中心に人選が行なわれます。

『日本後紀』延暦二十四年(805)七月十六日の条は、第三船の三たびの出発と遭難、そして判官今嗣らへの処罰のことだけしか記されていません。しかし、このとき第三船とともに第四船も出発していたと研究者は考えています。遠成がいつ長安に到着したかは分かりませんが、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位を賜わっています。ここからは遅くともこの年のはじめには長安に到着していたことになります。そして逆算すると、遅くとも前年の七月には九州を出発していなければならないことになます。それは第三船の出発した7月4日と、時間的にぴったり一致します。
  以上から、高階遠成は、延暦の遣唐使の一員であり、遠成の乗った船は第四船であったと研究者は考えています。
以上をまとめておくと次のようになります
①急遠判官に任命された遠成を乗せた第四船は、延暦二十四年(805)七月四日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆した。
②判官三棟今嗣の乗る第三船は、運悪く三たび遭難し、 ついに遣唐使の任務を果たすことができなかった。
③これに対して第四船の遠成は遅れて入唐を果たし、皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
   高階遠成がやって来なければ、空海は短期間で帰国することはできなかったのです。 高階遠成を「空海を唐から連れ帰った人物」として、評価しようとする動きもあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

入唐 遣唐使船

遣唐使船復元模型

空海と最澄は、延暦23年(804)七月出帆の遣唐使船で入唐を果たしています。この時の4隻の船の内の第1船に空海、第2船に最澄が乗船していました。この遣唐使船について、私はよく分かっていませんでした。特に、第3・4船の動きが不可解なのです。今回は、この2隻に焦点を当てながら九州をはなれるまでの動きを追ってみたいと思います。テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
この時の遣唐使団について、従来から問題とされている点を挙げると次のようになるようです。
① 延暦の遣唐使の目的は何だったのか。わが国に何を持ち帰るために派遣されたのか。
② その成果は、どうだったのか。この遣唐使によって、何がわが国にもたらされたか。
③ 遣唐使の組織は、どのようであったか。
④ 遣唐使船の最後の寄港地はどこだったのか。
⑤ 延暦の遣唐使は、国書を持参していたのか
⑥ 空海が帰国時に乗船した判官高階真人遠成の船は、何の目的で再度入道したのか。はたして延暦の遣唐使の第四船だったのか否か。

この中の②については、空海と最澄による密教の請来がすぐに答えられます。しかし、その他については、今も議論が続いているようです。今回は③④⑥について、現時点で研究者はどのように考えているのかを見てみることにします。
③の遣唐使の組織について、研究者は次のような表を作成しています。
空海入唐 遣唐使スタッフと報酬
延喜式の遣唐使スタッフと手当表

遣唐使は「臨時業務」だったので、その都度編成されていました。そのため組織の規模・構成は、その都度異なるようです。延喜五年(905)に完成した『延喜式』には、遣唐使のスタッフに支給される手当が別表のように規定されています。今でもサラリーを見ると、組織におけるその人物の位置や重要度がある程度は分かります。そんな世俗的な視点で遣唐使たちへのサラリー(支給品)を見てみましょう。
ちなみに留学生・学問僧(留学僧)は「施四十疋、綿百屯、布八十端」とあります。これを上表で見ると副使のサラリーとほぼ同じ待遇であったことが分かります。ここからは、留学僧・還学僧に対する待遇の高さと期待がうかがえます。
 また大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語・学問僧・還学僧のスタッフには、「別賜」として彩吊と費布が別に支給される規定になっています。 ここからは、留学僧が遣唐使の中枢メンバーであったことがうかがえます。

延暦の遣唐使の総人員はどのくらいで、どんな人物が任命されたのでしょうか
延暦の遣唐使は、宝亀九年(778)12月の送唐客使以来、24年ぶりの派遣でした。延暦二十年(801)8月庚子(十日)遣唐使の任命が行なわれ、藤原葛野麻呂が大使に、副使には石川道益が任ぜられ、あわせて判官・録事それぞれ四名も発令されます。前後の遣唐使の総人員は、次の通りです
霊亀二年(716)八月癸亥(二十日) 557名
天平四年(732)八月丁亥(十七日) 594名
承和元年(834)正月       651名
ここから推測すると延暦の遣唐使も600名前後で構成され、四船に分かれて出発したとされています。その中で具体的な人名が分かっているのは、次表の二十数名だけのようです。これは本宮康彦・森克己・鈴木靖民・田島公の各研究者たちによって、明らかにされている人物名を表にしたのものです。

空海入唐 遣唐使スタッフ氏名一覧
○がついているのが、各研究者がスタッフであったと認める人物です。空海や最澄・橘逸勢などは、もちろん全員の○がついています。しかし、留学僧の霊仙・金剛・法道・護命・永忠に関しては、意見が分かれていようです。大使・副使・判官・録事などについては「定説」となっているようです。確定的な人物名を記しておきます。
大使 藤原葛野麻呂、
副使 石川道益、
判官 菅原清公・三棟今嗣・高階遠成。甘南備信影、
准判官 笠田作
録事 山田大庭・上毛野頴人、
准録事 朝野鹿取、
留学僧 空海・円基、
留学生 橘逸勢・粟田飽田麻呂、
請益僧(還学僧) 最澄
最澄の訳語僧 義真、
係徒 丹福成、
写経生 真立人、
碁師 伴小勝雄、
舞生 久礼真(貞)蔵(茂)・和爾部嶋継、
楽生 舟(丹)部頭麻呂
以上の二十三名は、ほぼ信じてよいと考えられているようです。

出発までの動きを年表で見ておきましょう。
801 8/10 大使に藤原葛野麻呂を、副使に石川道益を任ず。
また、判官・録事各四人を任ず〔紀略13〕
802 4/15 朝野鹿取を遣唐録事に任ず〔補任〕。
9/8 最澄、上表して入唐求法を請う〔叡山伝〕
9/12 最澄の入唐を許す〔叡山伝。釈書1〕
円基。妙澄、天台留学僧として入唐を許される〔叡山伝〕
10/20 最澄が、通訳として義貞を伴うことを請許される
803 2/4 遣唐大使以下、水手以上に物を賜う〔紀略13〕
 3/14 遣唐使に彩吊を賜う〔紀略13〕
   3/18 遣唐使等、朝堂院において拝朝す〔紀略13〕
 3/19 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
  葛野麻呂は御被三領・御衣一襲・金二百両、
道益は御衣一襲。金一百五十両を賜う〔紀略13〕
   4/2 大使・副使等辞見し、節刀を授けられる〔紀略13〕
   4/7 空海、出家得度す〔続後紀4〕。 一説に延暦23年
 4/9 空海、東大寺戒壇院にて具足戒を受く。 
 4/14 遣唐使、難波津頭において乗船す〔紀略13〕
 4/16 遣唐使、難波津を進発す〔紀略13〕
 4/21 遣唐使船、暴雨疾風に遭う。
明経請益生大学助教豊村家長、波間に没す
  4/23 大使藤原葛野麻呂、暴雨疾風に遭い渡航不能を報告す。
   右衛士少志日下三方を遣して、消息を問わしむ
4/25 大使藤原葛野麻呂等、上表す〔紀略13〕
4/28 典薬頭藤原貞嗣・造宮大工物部建麻呂等を遣して、遣唐舶ならびに破損雑物を修理せしめる〔紀略13〕
5/22      遣唐使、節刀を奉還す。
船舶の損壊により渡海するあたわざるによる
  延暦22年(803)発の遣唐使船は、2年前の801年8月には大使と副詞、判官などのメンバーが決定されています。同時に、船が安芸国で建造され始めたようです。そして、802年には最澄の短期留学僧としての派遣が決定しています。しかも、最澄には専属の通訳僧の同行も許されています。ところが空海の名前は、この時にはありません。空海がこの年の検討線に乗っていたかについては、次の2つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の最初から加わっていたとするもの(延暦22年説)
② 一度渡海に失敗し、再度の進発をした時点で加わったとするもの(延暦23年説)

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難波津 住吉神社の鳥居前の碑文
4隻の船が安芸から難波に回航され、諸物資を積み込み、使節が乗り込んだのは4月14日です。その2日後の16日に難波津を出港して瀬戸内海を西航して那津(博多)を目指しました。ところがそのわずか5日後の4月21日に瀬戸内海を航海中に暴風疾風に遭って碇が使用できず、制御不能となり破損し「航行不能」状態になってしまいます。そのため専門家を派遣して修理を行わせています。しかし、短期間で修繕できるものではなかったようで、5月22日には遣唐使団長は「船舶の損壊により渡海するあたわざるによる」と節刀を一時奉還しています。この時には難波津を出発して5日目に瀬戸内海で難破してしまったようです。どの辺りで難破したのか、5日目というと順調なら鞆か尾道あたりでしょうか。被害を受けたのは何隻かなどを知りたいのですが、史料には何も記されていません。

平城京歴史館/遣唐使船復元展示 | 徒然日記 (NO3)

 遣唐使船の歴代総数は40隻あまりですが、そのうち12隻が難破・遭難しています。
無事に渡海できる確率は2/3程度だったことになります。その理由として、従来は次のような理由が云われてきました。
①季節風を知らなかったこと、
②造船技術をはるかに上回る大きさの船を無理に造ったこと、
③前の航海の経験が次の航海にはほとんど生かされていなかったこと、
しかし、①③に関しては、次のような異論も出ています。
①の季節風については、遣唐使の航海に関する史料の検討から、風についての知識は現代のわれわれよりよく知っていて、従来の経験が生かされなかったわけではない。
②の船については、150名近くの乗船のために、全長16m、幅7m前後、総トン数で160トン前後のずんぐりした船だったと推定される。その当時、中国・朝鮮半島諸国で造られる大きい船でも、せいぜい70人乗り程度であったので、遣唐使船は特別大きな船だったことになります。
遣唐使船 ・ 奈良平城宮跡 (奈良県) - 気ままな撮影紀行
復元された遣唐使船(平城京公園)
これに関しては、専門家は、次の二つを指摘されています。
第一は、東シナ海を渡る航路をとる必要や、人とモノを載せる必要から技術力以上の大型の船を造らぎるえなくなり、構造的に無理があった
第二は、船の総重量や荷物を多く積み込みすぎたことも遭難の大きな要因であった。
つまりは、船の大型化と操船に問題があったようです。 延暦22年(803)発の遣唐使船も、同じような問題を抱えていたのでしょう。
 多島海で潮流の複雑な瀬戸内海は、当時の帆走技術では大きな船体の遣唐使船は、操船が難しくて自力航海することはできなかったと専門家は考えているようです。そのため多数の大船(準構造船)で、遣唐使船を曳航したようです。その中で、強風で流されての船体破損事故だったのでしょう。
船が修理されて、翌年に再度出港するまでの動きを年表で見ておきましょう。
804 1/13 □□朝臣今継、三棟朝臣を賜う〔後紀12〕
3/5 遣唐使、拝朝す〔後紀12・紀略13〕
3/25 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
とくに恩酒一堺・宝琴一面を賜う〔後紀12・紀略13〕
3/28 大使藤原葛野麻呂に節刀を授く〔後紀12。紀略13〕
  5/12 空海、大使藤原葛野麻呂とともに第一船に乗り、入唐の途に上る〔集記〕

 この時の遣唐使船は船の修理後、翌年延暦23年(804)3月28日に、改めて、大使藤原葛野麻呂に節刀を授けられています。そして、5月12日に大使藤原葛野麻呂が率いる4隻の船は難波津を出港していきます。この時に、第一船に空海も乗船していたと「集記」にはあります。前年の出港の際には、空海の名前はないようです。難破事件で一年遅れにならなければ、空海の入唐はなかったことになるようです。
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 難波津 住吉神社から出港する遣唐使船

東シナ海へ出て以後の動きを年表で押さえておきます。   
804年7/6遣唐使の一行、肥前国松浦郡田浦を出発す〔後紀12〕
7/7 第三船・第四船、火信を絶つ〔後紀12〕
7月下旬 第二船、明州郡県に到る〔叡山伝〕
8/10 第一船、福州長渓県赤岸鎮に到る。
鎮将杜寧・県令胡延汚等、新任の刺史未着任のため福州への廻航を勧む
9/1 第二船の判官菅原清公以下二十七名、明州を発ち長安に向かう
9/15 最澄、台州に牒を送り、明州を発ち台州に向かう〔叡山伝〕
9/18 兵部少丞大伴太「万里を新羅に派遣す。未審の二船が漂着した場合のためなり
9/26 最澄、台州に到る。
難波津から約2ヶ月足らずで、那津(博多)を経て、松浦郡田浦までやって来ています。4船は、ここから出発しています。
司馬遼太郎(『空海の風景』)に、次のように記します。
されていたのを読んだことがあるからです。

 船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きる。 
 列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つ。風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのだ。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。 
 やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。久賀島の田浦を出帆したということについては『性霊集』では、「本涯ヲ辞ス」という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。
 ここで司馬遼太郎氏が書いていることをまとめておくと
①最後の寄港地は、五島列島の久賀島の「田ノ浦」である。遣唐使大使の葛野麻呂が帰国後に提出した報告書(『日本後紀』)に、そう書かれている。
②最後の寄港地である久賀島の「田ノ浦」で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待った
③真夏の逆風の季節をえらんで出帆することから分かるように、当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。
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舳先で悪霊退散を祈祷する空海

①について『日本後紀』の葛野麻呂の報告書を確認してみましょう。
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。
死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。
時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。と
そこで、船を向州に廻すことにして、十月三日に到着した。
新除観察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

 これが遣唐使大使の正式報告書です。ここには最後の寄港地は「肥前国松浦郡田浦従リ発シ 四船海ニ入ル。」とあります。
「肥前国松浦郡田浦」については、2つの説があるようです。
①ひとつは、現在の平戸の北端の田浦
②もうひとつは五島列島の久賀島の「田ノ浦」

7月6日に「田ノ浦」を発って以後の4船の航路をたどってみましょう。
 順風をとらえて東シナ海を西に進み西方沖で潮に乗って南下しようとします。ところが翌朝に逆風に遭い、強風と逆波にさえぎられて南下できなくなります。帆をあげて西南の風を背に五島列島のどこかに避難しようとしますが、済州島の方向に押し流されます。

  肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。

とあるので、夜八時~九時頃に、五島列島を遠く離れた西の海域で四船は、散りぢりになったようです。そして、福州近くの赤岸鎭に漂着する8月10日まで34日、東シナ海の潮流になすすべもなく浮かんでいたことになります。

空海入唐 空海と最澄の漂着地
三井楽を最終寄港地とする立場の航路図
 松浦郡田浦を出て、翌日の7月7日の夜には、漂流を始めたのです。最終寄港地は「肥前国松浦郡田浦」です。今の平戸市北端の田浦の岬の上には弘法大師像が建立され、平戸市と善通寺市が姉妹都市を締結しているようです。
平戸の史跡・名所案内|旅館田の浦温泉(公式ホームページ)
平戸市田浦の弘法大師像

 これに対して五島列島の三井楽町柏崎の海辺には、「辞本涯」(「本涯を辞す」)と刻まれた石碑が建っているようです。
三井楽(みみらくの島)(五島市)
三井楽町柏崎の「辞本涯」 
三井楽も空海が参加した第十六次遣唐使船団の最終寄港地だと名乗りを上げているようです。しかし、つまり平戸と、三井楽では最終寄港地をめぐる争論が展開されてきたのです。

 最澄の乗った第2船は、7月下旬に、明州郡県に漂着し、9月1日には判官菅原清公以下27名が、明州を発ち長安に出発しています。
それでは第3・4船は、どうなったのでしょうか。
「空海の風景」には、次のように記されています。

「第三、第四両船、火信応ゼズ」と書いている。火信とは、松明もしくは火縄をふることによって、たがいに所在をたしかめあうことであった。第三船はこの時期に海没してしまったらしい。第四船にいたっては海没の証拠すらなく、ついに行方が知れなくなってしまっている。
  
   司馬遼太郎氏は、第3・4船は海に消えたというのです。
しかし、史書には2隻は遭難エリアから那ノ津(大宰府)に引き返していることが記されています。そして、船体修理後に翌年の延暦24年7月4日に、肥前国松浦郡庇良島(平戸の田ノ浦)から、遠値賀島(五島列島の福江島)に向けて出港しています。瀬戸内海での難破から数えると3度目の出港になります。ところが第三船は、出港まもなく南風の逆風によって孤島に漂着し、判官三棟は船を捨てて上陸します。船は水夫らとともに海上に流され、ついに行方知らずとなってしまったようです。

空海入唐 田浦

第3船の難破事件は大宰府から朝廷に、次のように報告されています。
 遣唐使第3船は、805年7月4日、肥前国松浦郡庇良島から遠値嘉島をさして出帆したところ、南風にあって孤島に漂着し、船は岩間にはさまれ、海水に満たされてしまった。そこで責任者の今嗣らは岸に上がって脱出した。が、船の積荷は公物・私物何一つとして船からおろす暇もなかった。船には数名の射手を残していたが、結が切れて漂流しはじめ、その行方はわからなくなった

  これは、責任問題となったようです。船を見捨て下船した今嗣に対する処罰記事が「日本後紀」にはあります。
船の最高責任者の使命を忘れて、みずからの命をながらえることのみを考え、船の積荷を放棄し、下船した責任を問うて厳罰を加えるべし、との勅が下されます。これは、当然のことでしょう、船長が乗船者がいる舟を放棄しているのですから。どちらにしても、第3船は3度目の出航後に、五島列島の北で座礁難破し、漂流を開始し行方不明になります。3度出港し、一度も渡海できなかった船になるようです。
  最後に第4船を見ておきましょう
第四船は、延暦24年(805)7月4日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆します。今見たように第三船は、運悪く三たび難破します。これに対して、遣唐副使判官の高階真人遠成(たかしなりまひとうとなり)を乗せた第四船は、「三度目の正直」で中国にたどり着きます。高階遠成は、大同元年(806)正月,皇帝の代替わりの新年朝貢の儀にも参列する栄華を得ます。この時に空海は、密教伝授を終え、恵果が亡くなった直後だったのです。そこに、突然に、遣唐使がやってきたことになります。前回、お話ししたように、空海はこの期をとらえて本国に帰ろうとし,やてきた高階遠成に相談したのでしょう。空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国できるようになったのは、この遣唐使船がやってきたからです。それだけではありません。
入唐 『与本国使諸共帰啓一首』
「与本国使諸共帰啓」
空海が皇帝に「与本国使諸共帰啓」を上申書を提出することを認めたからです。これは、現地での彼の独断です。帰国後に朝廷からの処罰を受ける可能性もあったはずです。もし、遠成の許可がなければ、空海の帰国は実現しなかったのです。そういう意味では、遠成は空海の密教招来に手を貸すという大役を果たしたことになります。また彼は皇帝代替わりの新年朝貢の儀にも参列し、中国の史書に名前をとどめる栄誉をうけてもいます。ちなみに空海の名前は、史書にはありません。また他の中国側の史料にも空海の名前はありません。

高階遠成略年譜──空海を連れて帰った人   
806 1 空海・橘逸勢が、高階真人遠成とともに帰国することを請う(性霊集5)
806 8 遠成が空海等とともに、明州を発ち、帰国の途につく
806 10/22 空海が高階真人遠成に託して「新請来経等目録』を進献す(御請来目録)
806 12/13 遣唐判官正六位上高階真人遠成、復命す。
この日、従五位上を特授される(類衆国史99)
811 5/10 従五位上高階真人遠成、主計頭となる
   6/16 従五位上高階真人遠成、民部少輔となる(同右)
812 3/12 民部少輔高階真人、高雄山寺において空海から結縁灌頂を受く
12/19 「従五位下少輔高階真人遠成」と民部省符に署名す(平安遺文1)
813 2/13 従五位上高階真人遠成、大和介となる(日本後紀22)
815 1/7 従五位上高階真人遠成、正五位下に叙せらる(日本後紀24・類衆国史99)
816 1/7 正五位下高階真人遠成、従四位下に叙せらる(類衆国史99)
818 3/21 散位従四位下高階真人遠成、卒す。年六十三(日本紀略前篇14)
  

以上をまとめておくと
①空海が遣唐使の留学僧に選ばれる前年に、遣唐使船は一度出港していた。
②しかし、その時には出航後わずか5日後の瀬戸内海で難破し、航行不能となった。
③翌年に改めて遣唐使船は出港するが、この時に空海は第1船に乗り組んでいる。
④平戸の北の田浦を出た4船は、五島列島を目指すが強風にあり散りじりになった
⑤空海の乗った第1船と、最澄の乗った第2船は、それぞれ中国に漂着し、長安を目指した。
⑥しかし、第3・4船は船に大きなダメージを受けて博多に引っ返し、1年かけて修理した。
⑦そして、再再度出港したが第3船は、孤島に漂着し破船・漂泊、
⑧第4船は3度目の挑戦で入唐を果たし、遣唐副使判官の高階真人遠成長安を皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

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遣唐使船の船頭で悪霊退散を祈願する空海

空海の入唐求法について書かれた本の中には、空海は唐に出発するまえに、次のことを知っていた記すものがあります。
①密教には、「灌頂」が不可欠であり、面授を必要とすること。
②「灌頂」の師となる恵果和尚が長安におられること。
③「灌頂」には、それほどの期日を要しないこと。

確かに空海の灌頂受法は、足かけ三ヵ月でした。それを空海が事前に知っていた。そのため最初から空海は20年も長安に留まるつもりはなかった、短期間での帰国を考えていた、というものです。空海を超人化するストーリーとしては、こちらの方が人々に受けいれやすいので、最近の小説などではこの説で空海の入唐求法を描くものが多いようです。たとえば次のような筋書きです。
①四国などの山林修行での神秘的体験から密教への指向を強める若き日の空海
②修験と密教の統合のための模索と大日経読破
③大日経を読んだだけでは密教を「獲得」できない。潅頂儀式のための入唐求法
つまり、空海は密教の8割方を理解した上で、あとは書物では分からない潅頂関係だけを学ぶために目的を限定して入唐したという説です。しかし、前回お話ししたように、入唐以前の空海は「密教」という言葉を使っていません。「密蔵」という言葉を使っています。ここからは、入唐以前には空海は「密教」という全体概念をしらなかったことがうかがえます。密教の一部を知っていても、密教全体を分かっていたというレベルには達していなかったと研究者は考えているようです。
「空海入唐目的=潅頂受法」説の代表が、平井宥慶「弘法大師入唐の意図」で、ここには次のように記されています。
我々がかんがえる大師の入唐意図、それも「唯一」の意図を述へなければならないときがきた。我々は、大師は灌頂受法のため、それも日本を出発するときからそのことをきちんと意識しておらるものだ。その第一の資料は、〈帰啓〉の文である。
 ここで述べられた内容は、長安城にあって、般若三蔵と恵果和尚に遇い、五部・喩伽の灌頂法に沐したという事実で、しかもそれ「唯一」であるということになる。いうなれば、これが入唐の成果である。
 いま灌頂受法を堂々と宣言しているのは、その事実によほどの自信と自負が存在することを認めなければならない。その自信と自負は長安へ行ってたまたま受法できたから、ということで生まれるものであろうか。これは、出発以前に大師の心内に確平たる目的意識として確立していたればこそ、と思考するものだ。ということは必然的に、恵果和尚に遇うことも計算にはいっていたということになる。大師はそういう大陸の情報をいかにして手に入れていたか、残念ながら我々はまだその直接証拠をみいだしていない。
・灌頂受法がきわめて重大事であること 究極の法であることは論を待たない。(中略)密教の授受は師弟の面綬によらなければ不可能だ。
 この灌頂という受法行為なら、それほど期日はかからない。少なくとも20年はかからない。大師はもしかしたら、闘期の罪の状態で帰国があり得ることを予測していたことも考えられる。(以下略)
ここからは、平井氏は空海は入唐以前に密教の全体像を知った上で、入唐目的を潅頂受法のためと絞り込んでいたとします。そして、短期間での受法も可能であったと入唐以前に考えていたというのです。その根拠を「帰啓」に求めます。「帰啓」とは何なのでしょうか。〈帰啓〉とは、『与本国使諸共帰啓一首』(本国の使に与えて共に帰らんと請う啓)の略称のようです。「本国の使」とは、遣唐判官・高階真人遠成のことを指すようです。この遠成が帰国する船に便乗して一緒に帰りたい、と願いでたときの文章が、この〈帰啓〉です。

空海と惠果
恵果と空海

〈帰啓)が書かれるにいたった経緯を、見ておきましょう。
恵果阿闇梨は、空海への授法で使命を終えたかのように、永貞元年(805)12月15日、青龍寺東塔院で亡くなります。空海は、弟子を代表して、師の生涯を讃嘆する「恵果和尚の碑文」の撰文と揮音宅を行なったとされます。葬送の儀式は、翌年正月17日の埋葬の儀で、一段落したのでしょう。〈帰啓)は、この直後に書かれたようです。
 実は、この時に唐にやってきていたのが遣唐副使判官高階真人遠成(たかしなりまひとうとなり)でした。彼は、大同元年(806)正月,皇帝の代替わりの新年朝貢の儀に、参列しています。空海を乗せてきた船が帰国したばかりなのに、どうしてすぐに遣唐使船がやってきたのでしょうか。次の2つの説が出されています。
①皇帝代替わり使節団として新たに派遣された
②空海の入唐時に派遣された第4船が難破修理後に、遅れて到着した。
このことについては、別の機会に詳しく見るとして、ここでは空海が密教伝授を終え、恵果が亡くなった直後に、遣唐使船が現れたということを押さえておきます。
空海はこの期をとらえて本国に帰ろうとし,唐朝に啓を上奏します。
これが「与本国使諸共帰啓」のようです。もともと、空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国しようというのです。前代未聞のことです。これも空海にとって織り込み済みであったとする小説もあります。
 もし、この願いが許されなかったら,江南の貿易者の日本行きの私船で帰ることができたでしょうか。それは国費留学生という身分からして、できない相談だったようです。留学生は,皇帝の認可を受けて長安に滞在している以上,唐を離れるのは皇帝の許可が必要でした。その許可は,日本国を代表する大使の奏上がなければ許可されることはありません。それが律令のルールでした。もし、空海が高階遠成の船で帰国しできていなければ、その帰国は20年先だったかもしれませんし、阿倍仲麻呂のように帰国ができなかった可能性もありました。そうすれば真言密教も,高野山も姿はなかったことになります。
そういう意味では、空海の生涯を大きく支配した一文が『与本国使諸共帰啓一首』ということになるようです。
入唐 『与本国使諸共帰啓一首』
          空海書 与本国使諸共帰啓

この書は,縦約30㎝,横55㎝の紙本で、現在は御物として保存されているようです。大同元年(806)の正月に唐の都長安で書写されたもので、18行,238字の上書です。
最初に題名として『与本国使諸共帰啓一首』と書かれていますが、下に行くほど左に曲がっています。バランスもよくありません。次に「留学学問僧の空海啓す」とあります。この文章中には欠語や誤謬があることが指摘されています。上奏書とは思えない書体と内容です。

 「空海は,これを元にして楷書で浄書し大唐皇帝に奏上した」

と研究者は考えているようです。そして,草稿として書かれたこの書が,空海の書箱に収められ,帰朝にあたって持参されたという筋書きになります。

『与本国使諸共帰啓一首』の本文を見ておきましょう。
ア、留住学問の僧、空海啓す。某(それがし)、器、楚材に乏しく、聡、五行を謝せり。謬(あやま)って求撥(ぐはち)を濫りがはしくして、海を渉って来る。
イ、草履を著けて城中を歴るに、幸いに中天竺国の般若三蔵、及び内供奉恵果大阿闇梨に遇いたてまつって、膝歩接足して彼の甘露を仰ぐ。
ウ、遂に乃ち、大悲胎蔵・金剛界大部の大曼荼羅に入って、五部の喩伽の灌頂法に沐す。冶(さん)を忘れて読に耽り、仮寝(かりね)して大悲胎蔵・金剛頂等を書写す.己でに指南を蒙って、之の文義を記す。兼ねて胎蔵大曼茶羅一鋪、金剛界九会大曼茶羅一鋪を図す〈並びに七幅丈五尺〉。丼せて新翻訳の経二百巻を写し、繕装畢ヘなんとす。
エ、此の法は、仏の心、国の鎮なり。熟(わざわ)いを攘(はら)い、祉(さいわ)いを招くの摩尼、凡を脱(まぬか)れ聖に入るの嵯径なり。是の故に、十年の功、之を四運に兼ね、三密の印、之を一志に貫く。此の明珠を兼ねて、之を天命に答す。
オ、たとい、久しく他郷に客たりとも、領(くび)を皇華に引かん。白駒過ぎ易く、黄髪何(い)かんがせん。今、腫願(ろうかん)に任えず。奉啓不宣。謹んで啓す。
意訳変換しておくと
  本国の使に与へて共に帰らむと請ふ啓一首
ア 留住(留学)学問の僧空海が上奏いたします。私空海の器(器量・才能)は乏しく,聡明さは応奉には及びません。仏法を求めてはるばる海を渉ってやってまいりました
イ 草履をすり減らし師を求めて歩き廻り、城中(唐の長安)を巡るに、幸ひにも中天竺國(インド中部)の般若三蔵の供奉(宮中の内道場に供奉する僧)恵果大阿闍梨にお会いすることができました。膝歩接足(膝であゆみ,師の足に頭をつけて,礼拝すること・師への礼)して彼の甘露(教え)を仰ぎ。
ウ ついに大悲胎蔵金剛界大部(一切の法門統摂した教え)の大曼荼羅に入って,五部瑜伽(五智の瓶水を頭上に注ぐこと・瑜伽は相応の意であり,金胎両部に通ずること)の灌頂法(インド古代の国王即位式にならった密教伝承の儀式)を伝授されました。
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密教経典の写経をおこなう僧
濃(食事)を忘れて讃に耽る,假牒して大悲胎蔵(大日経類)金剛頂(金剛頂経類)等を書き写し、指南を受けて文義(意味内容)を記しました。兼ねて胎蔵大曼荼羅鋪(一幅),金剛界九會(金剛界の諸仏の像)大曼荼羅一鋪を写しました。さらに七幅丈五尺拝のせて新翻鐸輕二百鯨巻を書写して、繕装(表装)も終えました。
弘法大師 誕生と長安での書写1
書写作業を見守る空海
エ この法は仏の心で,仏法の真髄は國の鎮(鎮護国家法)でもあります。禍をはらいのけ、善福を招く摩尼宝珠は凡夫を脱れ、聖に入る峻厘(近路)です。それゆえに二十年の功を一年で兼ね具えることができるました。三密の印(身・口・意の三秘密の印契。密教の教え)を一心によく体得することができました。この明珠(明月のような光を放つ宝珠)を兼ねて、これを之を天命(桓武天皇の勅命)に応えようと思います。

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密教法具の作成
オ もしこのまま大唐帝国の客として,遣唐使を待っていたら白駒(歳月)は過ぎ去ってしまいます。私は老人となって髪が黄色になってしまいます。今,随願(いやしい願い)ではありますが奉啓不宣(述べつくさないの意)謹むでまう啓す。

 帰国できるがどうか、空海の生涯のターニングポイントで書かれた奏上文です。内容的には、くどくどと述べることなく簡潔でシンプルです。中国の古典や詩句の一部が各所にちりばめられていて、その素養の高さを示す内容です。しかも、その中に長安での空海の学究,求道の内容が網羅されていて,帰国して果すべきことも暗示され,その言わんとすることも伝わってきます。中国の担当官僚の心を動かす文章と云えるようです。
ここには空海の帰国の意志が表明されていますが、なぜ、帰国を決意したのでしょうか。
その理由としては、次のことが考えられます。
①長安には、恵果和尚に勝る阿閣梨がいなかったこと、
②この機会を逃せば、いつ帰国できるかわからなかったこと、
ちなみに、つぎの遣唐使が長安にやってきたのは、32年後の承和五年(838)12月、空海が亡くなってから3年後のことです。
 帰国を決意した最大の理由の一つは、恵果阿閣梨が亡くなったこと、その師が臨終に際して残した遺命であったと、研究者は考えているようです。恵果の遺命は、その後の空海の宗教的・社会的活動の指針となった、判断に困ったようなときには、空海の脳裏に、師の生涯とともにこの遺命が思い起こされたと云うのです。
圓應寺|円応寺|真言宗智山派 大慈山|山形市|永代供養 » 弘法大師・空海 恵果和尚からの密教伝授
 恵果と空海
恵果和尚の遺命とは、『御請来目録』にみられる次の文章です。

ア、今、此の上の縁尽きぬ。久しく住すること能はず。宜しくこの両部大曼茶羅、 一百余部の金剛乗の法、及び三蔵転付の物、並びに供養の具等、請う、本郷に帰りて海内に流伝すべし。編かに汝が来れるを見て、命の足らざるを恐れぬ。今、則ち授法の在る有り。経像の功、畢んぬ。

イ、早く郷国に帰り、もって国家に奉り、天下に流布して蒼生の福を増せ。然れば四海泰く、万人楽しまん。是れ則ち、仏恩を報じ、師の徳を報ずるなり。国の為には忠、家に於ては孝なり.

意訳変換しておくと
ア、今まさに、師と弟子として縁が尽きようとしている。ここに及んで、長安に留まるべきではない。この両部大曼茶羅や一百余部の金剛乗の法、及び三蔵転付の物、並びに供養の具等を、本郷(日本)に持ち帰り、国内に伝えるべし。以前から汝(空海)が長安にやって来ることは分かっていたが、私の余命の及ばないことを怖れていた。今、授法は全て終わった。経像の功も引き継がれた。

イ、しかる上は一日も早く郷国(日本)に帰り、もって国家に奉り、天下に流布して、民人たちの蒼生(善福)のために尽くせ。そうすれば四海は治まり、万人は平穏な生活が送れるようになる。これこそが仏恩を報じ、師の徳に報いる道である。国の為には忠、家におては孝である。

 ここには「一日も早く郷国(日本)に帰り、もって国家に奉り、天下に流布」せよと恵果は空海に命じたと書かれています。この恵果和尚の遺命を受けて、空海は帰国を決意するようになったと研究者は考えているようです。つまり、空海は入唐以前から潅頂を含めて密教伝授が短期間で終わるとは思っていなかったとするのです。もっと突っ込んで云うと、空海は入唐以前には、潅頂がどんなものかを分かっていなかったことになります。
 空海が入唐するまでに、『大日経』を読んでいたことは間違いないと研究者は考えているようです。とすると、「灌頂」なることばは知っていたでしょう。しかし「灌頂」が具体的にどんなものであるのかについては、正しく理解していたとは云えないようです。

先ほど見たように、空海の入唐求法について書かれた本の中には、空海は唐に出発するまえに、次のことを知っていた記すものがあります。
①密教には、「灌頂」が不可欠であり、面授を必要とすること。
②「灌頂」の師となる恵果和尚が長安におられること。
③「灌頂」には、それほどの期日を要しないこと。

③については、確かに空海の灌頂受法は、足かけ三ヵ月でした。それを空海が事前に知っていたとすれば、短期間の滞在でよい還学僧(請益僧)でよかったのではないでしょうか。事実、同行した最澄は、こちらを選択しています。どうして空海は、二十年も滞在しなければならない長期の留学僧となったのでしょうか。

 別の視点から見てみましょう。本来の潅頂は、3ヵ月で終わるものだったのでしょうか。
天長八年(831)10月24日付の比叡山・円澄らの書状は、持明灌頂(結縁灌頂)を受法した最澄とその師・空海との次のようなやりとりが記されています。
   即ち、和上(空海)に問うて云はく、大法の儀軌を受けんこと、幾月にか得せしめんや、と。(空海が)答えて日はく、三年にして、功を畢えん、と。

ここには、ずっと伝法灌頂の受法を願っていた最澄が、実際に空海から受法した灌頂は結縁灌頂であったこと。そこで、最澄は「念願の伝法灌頂を受けるには、いく月ほどの修行・勉学が必要であろうか」と質問します。これに対して、空海は「あなたの能力をもってしても、あと3年修学してください」と答えた、と記されます。

伝法灌頂について | 嗚呼!日々是☆サマーディ-------------Momoのブログ

 最澄が最初の持明灌頂(結縁灌頂)を受けたのが弘仁三年(812)のことですから、それから数えると19年が経っています。それに加えて、最澄でも「あと3年の修行が必要」と答えているのです。空海が恵果和尚から三ヵ月あまりで受法されたことは基準にはならない、つまり、あの伝授は特別なものであったと空海は考えていたようです。

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傳法灌頂 三摩耶戒大阿次第


 今日残る史料からも、空海が入唐される以前の史料には、灌頂受法がわが国行われたの記録は見当たらないことを研究者は報告し、次のように記します。
  密教儀礼としての灌頂をわが国で最初に行なったのは最澄であり、それは延暦二十四年(805)九月、高雄山寺においてのことであった。この時期は、ちょうど空海が恵果和尚からの三度にわたる灌頂受法を、とどこおりなく終えた時期にあたる。ここからは、空海の入唐以前に、わが国の仏教界で、密教儀礼の灌頂については、十分に理解していた人物がいたとは思えない。

入唐 遣唐使船

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法や灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の四国での求聞持法修行によって体感した強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④その導師となったのが恵果で、彼の遺命で短期での帰国を決意するようになった。
⑤皇帝への帰国願いが『与本国使諸共帰啓』で、これが受けいれられ帰国が許された。
⑥空海が「密教」という言葉を使うようになったのは、帰国後のことである。
前回と結論は同じになります。
  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年
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[本/雑誌]/弘法大師空海の研究 オンデマンド版/武内孝善/著|neowing
       
 「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」を読み返していると、空海入唐求法についての疑問点とされることが次のように挙げられていました。
①入唐の動機。目的は何か。
②誰の推挙によって入唐できたのか。
③どんな資格で入唐したのか。入唐の資格は何か。
④入唐中に最澄との面識はあったのか。
⑤長安での寄宿先の寺院はどこであったか。
⑥大量に持ち帰った経典・曼荼羅・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国したとき乗った高階真人遠成の船はどのような役目の船であったか。
⑧空海は入唐して何を持ち帰ったか。入唐の成果は何か。

②~⑧の疑問に対しての研究状況が次のように記されています。
②誰の推挙だったかについては、次のような人物が考えれている
空海の師匠とみなされてきた勤操
おじが侍講を務めていた伊予親王
空海の一族佐伯氏
DSC04549遣唐使船

③入唐の資格については、
私費の留学生や大使の通訳などとみなす説もあるが、正式の留学僧であったことは空海の著作から間違いない。
④空海と最澄との面識については、
ふたりが出逢っていたとすれば、博多の津が考えられるが、帰国後、両者が著したものには入唐中に二人が出会った記述はない。入唐中、両者には面識はなかったと研究者は考えています。
⑤長安における寄宿先について、櫛田師は次のように記します。
「在唐の坊を予め連絡してから入唐したであろう」
永忠僧都の推挙によってこの西明寺と指示されたので喜んで入唐の志を堅くしたのであろう」
「空海入唐の斡旋の労も或いはこの永忠和尚の力によったものかも知れない」
この説によると、永忠と空海の間には、入唐以前からなんらかのやりとりがあったことになります。そして、長安で世話になる寺院については永忠から西明寺を推薦されていたと記します。
しかし、研究者は『日本後紀」所収「永忠卒伝」の記録には、永忠は宝亀の初めに入唐留学し、延暦の末に空海が入唐したときの大使藤原葛野麻呂とともに帰朝した、という記録があることを指摘します。この記録からは、二人がはじめて出会ったのは長安だったことになります。現在のように、事前に連絡を取り合うことは出来ません。櫛田説は再考される必要があると研究者は指摘します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
長安での空海 曼荼羅図などの作成
⑥入唐に要した経費の出所ですが、空海がどれほどの資金を持参したかは分かりません。
櫛田師は、「もとより空海には莫大な財源も資産もなく、秀れた門閥でも、氏でもなかった」と記します。
しかし、空海の生家である讃岐国の佐伯直氏は、海運交易などで相当の経済力を備えていた、と考える研究者もいます。膨大な招来品のなかには、師の恵果和尚から贈られた品々も少なくなかったでしょうが、空海みずからが資金を出して入手した品々も多々あったと思われます。しかし、それらを明記したリストがない以上は、どれが「私費購入品」かも分かりません。したがって、空海かどれほどの資金を持参したかも、分からないというしかないようです。
⑦帰朝したときの高階遠成の船については、空海が入唐したときの第四船が有力
以上のように、問題点に対する現時点での「とりあえずの答」を簡潔に示してくれます。私にとってはありがたい本です。

①の入唐の動機・目的について、もう少し詳しく追いかけてみましょう。
空海の生涯には、いくつかのエポンクメーキングなできごとがあります。その最大のものの一つが虚空蔵求聞持法との出逢いであり、いま一つが入唐求法の旅であったと私は考えています。この二つは、別々のことがらではありません。入唐の出発点が求聞持法との出逢いで、両者は連続しているのです。それを並べると次のようになります。
①求聞持法との出逢い
②平城京の大学からのドロップアウト
③四国の辺路修行と室戸での求聞持法修得
④大日経との出会いと入唐決意

まず、求聞持法との出逢いから見ておきましょう。
空海の出家宣言の書といわれる『三教指帰』の序文は、若き日の空海の足跡を知ることができる唯一の史料です。現在の『三教指帰』は、24歳のとき著された『聾蓄指帰』に、唐から帰国後に序文と最後の「十韻の詩」を書き改め、あわせて題名を『三教指帰』と改めた、とみるのが通説のようです。
その『三教指帰』序文には、求聞持法との出逢いが、つぎのように記されています。
ア、髪に一(ひとり)の沙門あり。余(われ)に虚空蔵聞持の法を呈す。其の経に説かく、「若し人、法に依って此の真言一百万遍を誦ずれば、即ち、 一切の教法の文義、暗記することを得」と。

(現代語訳)
ここに一人の僧がいて、私に虚空蔵求聞持の法(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)を教えてくれた。その秘法を説く『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』には、「もしも人々がこの経典に説かれている作法にしたがい、虚空蔵菩薩の真言「ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」を百万遍唱えれば、あらゆる経典の教えの意味。内容を理解し、暗記することができる」と説かれている。

イ 大聖の言葉を信じて跳炎をさんずいに望む。阿国大瀧獄に登り攀(よ)じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。
(現代語訳)
そこで私は、これは仏陀のいつわりなき言葉であると信じて、木を錐もみすれば火花が飛ぶという修行努力の成果に期待し、阿波の国の大滝岳によじのばり、上佐の国の室戸崎で一心不乱に求聞持法を修した。私のまごころが仏に通じ、あたかも谷がこだまを返すように、虚空蔵菩薩の象徴である明星が、大空に姿を現した。

最後の「谷響きを惜しまず、明星来影す」は、空海が体験した事実を、ありのままに記されたものと研究者は考えています。すなわち、「谷響きを惜しまず、明星来影す」とは、 一心に虚空蔵菩薩の真言、ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ
(虚空蔵尊に帰命します。オーン、怨敵と貪欲を打ち破る尊よ、スヴァーハー)を唱えていると、こだまが必ず返ってくるように、求聞持法の本尊・虚空蔵菩薩の象徴である明星が、私に向かって飛び込んできた、つまり虚空蔵菩薩と合一した、 一つになった、と解されます。

ここには、机上空間からでは分からない、体験したものでないと分からない、つまり「強烈な神秘体験」が記されています。

DSC04630
室戸での求聞持法修行
求聞持法を求める中で、強烈な神秘体験に出逢った空海のその後は、この体験の法則化に向かいます。つまり、世界とはいかなるものかを探求する道程であり、いろいろな僧にみずから体験した世界を語り、それがいかなる世界であるかを問い続けます。そして仏典のなかに解答を求め、解明・研鑽に精魂をかたむけたのでしょう。
 そのひとこまとして、『御遺告』が語るように、『大日経』をひもといたけれども、納得できる解答を見出せないまま悶々としていた、といったシーンが語られます。

正倉院文書と写経所の研究 | 山下 有美 |本 | 通販 | Amazon

正倉院には国営の書写所があり、何十人ものプロの書写生がいて仏典を書き写して、国分寺や中央寺院に提供していたことは以前にお話ししました。
 正倉院文書には『大日経』が最初に天平九年(737)に書写されたこと、それから宝亀六年(775)にいたるまでに、十数本の『大日経』が書写・伝存していたことが記録されています。

1大日経写経一覧 正倉院

それらを年代順に一覧表にしたのが上表です。
ここから『大日経』が何回も書写されていること、なかでも空海が登場する直前の宝亀年間に8回と集中して写されていることが分かります。奈良朝末には『大日経』の写本が畿内には、何種類も出回っていたのです。空海が、大日経を探し求めれば、それらの一つを目にすることも可能だったようです。しかし、これを見ても「ダメだ 分からない、この国では納得てきる答はえられない」との結論に達したのでしょう。そのため空海は、最後の手段として、唐に渡ることを考えたと研究者は考えています。
御遺告
御遺告
『御遺告』のこの部分を意訳しておくと、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
DSC04542
       久米寺の東塔下で、『大日経』を読む空海

ここからは、次のようなことが分かります。
①空海は勤操僧正(岩淵贈僧正)によって槙尾山寺において出家したこと。そして「教海」「如空」と名を換えたこと
「不二」の教えを学ぶために「大日経」を捜し求めたこと
③久米寺の東塔下で、『大日経』を手にしたが理解できないことが数多くあったこと
④そのために唐に渡る決心をしたこと
御遺告はかつては、空海の遺言とされてきました。そのためこれが入唐動機の定説でした。
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このような定説を踏まえた上で、福田亮成著『弘法大師の教えと生涯』は、空海が真言密教を大成できた理由として、次のような要因を挙げます。
①大師は中国語が堪能であったこと。
②研究の目的は明確に密教に定められていたこと。
③長安に密教の名師がおり、直ちに面授できることを願っていたこと。
④唐の新訳仏典、特に「金剛頂経系諸儀軌」を中心にして、その蒐集に目的を定めていたこと。
⑤その他、文化一般にわたリグイナミックな関心をもっていたこと。たとえば筆の製作技術のマスター、詩文や書の研究など。
そして次のように結論づけます。
以上のような諸問題は一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたのであった。これは大師の優秀さもさることなから、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか

これに対して、こには先入観があると武内孝善は指摘します。
空海が入唐以前に、「密教」や「灌腸」ということばの意味を理解していたかどうか、もう一度立ち止まって考える必要があるというのです。確かに、入唐以前の空海が、密教経典を読んでいたことは間違いないでしょう。しかしながら、今日われわれが用いるような形での「密教」「潅頂」という言葉の概念を、入唐以前の空海が明確にもっていたか、といえばそうとは言い切れないようです。
これを別の表現にいいかえると、次のような疑問になります。
①空海は、「密教」なる言葉をどこで知ったか。
②いつ、どこで、明確に意識されるようになったか。
③密教という言葉の概念をどのように押さえ、使っているのか
このような問題意識のもとに、空海の著作に「密教」という言葉がどのように使われているか、をひとつひとつ確認していきます。これにつきあうことは遠慮して、結論だけを追いかけます。
①については、空海の著作で「密教」という言葉を、自分の言葉として意識的に使っているのは、九ヵ所だけであること
②については、空海が「密教」という言葉を使いはじめるのは、弘仁五年(813)頃ごろからであること。
つまり、入唐以前には空海は「密教」という言葉を使っていないことを指摘します。
  それではそれ以前は、空海はどのような言葉を使っていたのでしょうか。
「大唐神都青龍寺・恵果和尚の碑」と『御請来目録』では、空海は「密教」に替わる言葉として「密蔵」という言葉を使っています。このふたつの文書には、合計19ヵ所に、「密蔵」が使われています。それは「密教」に置き換えられる意味で使われているようです。
以上をまとめておくと
①空海は、在唐中および帰国直後には、「密蔵」という言葉を使用していたこと
②空海が「密教」なる言葉を、自分の言葉として意識的に使用するのは、弘仁四、五年(813)ごろからであったこと
③それも10ヵ所足らずで、限定的にしか使用していないこと
つまり、入唐以前には、空海には「密教」という概念はなかったことがうかがえます。潅頂に関しても同じようなことがいえるようです。密教という概念がないのに「密教」を学びに行くのは、不自然です。

どのような手続きで、空海が遣唐使の一員に選らばれたのかは分かりませんが、空海は留学僧として入唐を果たします。
留学の期間は、20年でした。ちなみに最澄は、短期留学僧を選んでいます。貞元20年(805)2月11日、遣唐大使・藤原葛野麻呂らが長安を去ったあと、空海は西明寺の永忠の故院にうつり、留学僧としての本格的な生活が始めます。恵果和尚と出逢うまでの三ヵ月余りの間、空海は持ち前の好奇心から、長安城内をくまなく歩いたのでしょう。

空海と惠果
恵果和尚と空海

ここからはフィクションで小説風にいきます
ある日、いつものように長安の寺を訪ね歩いていました。ある寺の灌頂道場に足をふみいれた空海は、驚き立ち尽くします。そこには、室戸で求聞持法を修めたときに体験した神秘の世界が、そっくりあったからです。その灌頂道場の壁は、仏たちで満ち満ちて、曼茶羅か余すところなく描かれていました。曼荼羅と向かい合ったときに、それまでの空海の疑念は、氷解しました。空海は、かつて神秘体験した世界が、密教なる世界であったことを初めて知り、密教なる世界があること、長安ではじめて体感したのです。
 空海は、四国で求聞持法を行ったときに、体験的には密教の世界にまで到達していた、密教の世界を体験的には知っていた、と研究者は考えているようです。そして、空海自身のなかに、生命を賭けても唐に渡るだけの突き動かすような動機が生まれたのでしょう。その源は「強烈な神秘体験」だったということになるようです。
DSC04587青竜寺での恵果と空海
青竜寺での恵果と空海の出会い
 では、空海が曼茶羅と対峙した西安の寺はどこであったのであったのでしょうか。研究者は、ふたつの寺院を想定しています。
一つは恵果和尚を訪ねるまえ、般若三蔵や牟尼室利三蔵からサンスクリット語・インドの諸宗教などを学んだとみなされている禮泉寺
 一つは恵果和尚が住んでいた青龍寺東塔院の灌頂道場です。
禮泉寺については、空海自身『秘密漫茶羅教付法伝』、の恵果和尚の項に、次のように記します。
空海が入唐した貞元二十年(804)、恵果和尚は弟子・義智のために禮泉寺において金剛界大曼茶羅を建立し、開眼供養会を行なった、

青龍寺東塔院の灌頂道場に関しては、『広付法伝』の恵果和尚の項に、恵果和尚の直弟子の一人呉慇が撰述した師の伝記『恵果阿閣梨行状』を、次のように引用しています。
①大師、ただ心を仏事に一(もっばら)にして、意を持生にとどめず。受くるところの錫施は、一銭をも貯えず、即ち曼茶羅を建立して、法を弘め、人を利せんと願う。
灌頂堂の内、浮屠(ふと)の塔の下(もと)、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び大悲胎蔵両部の大曼茶羅、及び十一の尊曼茶羅を図絵す。衆聖備然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧(ふる)き容(かたち)に還る。 一たび観(み)、 一たび礼するもの、罪を消し福を積む。
③常に門人に謂(かた)りて日はく、金剛界・大悲胎蔵両部の大教は、諸仏の秘蔵、即身成仏の路なり。普く願はくば、法界に流伝して有情を度脱せん。

ここには「灌頂堂はあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった」とあります。つまり、ここで全ての疑問が氷解し、悟ったと研究者は考えています。

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法のためとか、灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の求聞持法の修行によって体感された強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④恵果和尚と出逢い、和尚の持っていた密教の世界を継承し、わが国に持ち帰った。

  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年

  讃州竹槍騒動 明治六年血税一揆(佐々栄三郎) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

本棚の整理をしていると佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」が目に入ってきました。ぱらぱらと巡っていると私の書き込みなどもあって、面白くてついつい眺めてしましました。約40年前に買った本ですが、今読んでも参考になる問題意識があります。というわけで、今回はこの本をテキストに、「血税一揆」がどんな風にして起こったのかを見ていくことにします。

明治六年(1873)6月26日 三野郡下高野村で子ぅ取り婆さんの騒動が起こります。
この騒動について、森菊次郎は手記「西讃騒動記」を残しています。
この人は三豊郡詫間町箱の人で、戦前、箱浦漁業会長などもした人で、昭和28年に86歳で亡くなっていますから、この一揆のときは六、七歳の子どもです。そのため自分の体験と云うよりも聞書になります。そのために事実と違うことも多く、全面的に信用できる史料ではありません。しかし、一揆に関する記録のほとんどが官庁記録なので、こうした民間人の記録は貴重です。

血税一揆 地図
子ぅ取り婆事件の起きた下髙野

子ぅ取り婆事件について、この手記は次のように記しています。
『子ぅ取り婆が子供をとっているとの流言飛語が一層人心を攪乱した。しかも実際にその子ぅ取り婆を認めたものはなかった。その子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者でこれが、ちょうど騒動の起こりだった。

この子ぅ取り婆が明治六年六月二十六日、坂出町から三野郡に入り込み、同日昼ごろ、比地中村の春日神社に来たり、拝殿でしきりに太鼓を打ち鳴らし、騒がしいので神職及び二、三の人々は懇諭、慰安を与えなどして行き先を問うたら、観音寺へ行くというので、早く行かぬと日が暮れると言い聞かせ、門前を連れ出し、観音寺へ行く道を教えて出立せしめたが、 最早、下高野の不焼堂(如来寺)へ行くまでに日没となってしまった。
夕涼みの多くの人々は、子ぅ取り婆が来たと大騒ぎし、婆が行く前後には多くの子供がつきまとった。その子供らの中の一人を老婆が抱きあげると、多勢の人々はこれを追っかけ、取り返した。しかし実際は取ったのではなく、その子供が大勢の人々に押し倒され転んで井戸の中へ落ちんとしたのを救いあげ、抱いたまま走って行ったのでした。 一犬吠ゆれば万犬吠ゆで、これが竹槍騒動の動機となった』
以上が「西讃騒動記」の発端の部分です。ここからは次のようなことが分かります。
①子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者で
②明治6年6月26日、坂出町から三野郡に入り込み、昼ごろに比地中村春日神社にやってきた。
③日没時に下高野の不焼堂(如来寺)にやってきて騒ぎとなった
この他に、一揆のまとまった記録としては、次の2つがあるようです。
①一揆後の近い時期に官庁報告をまとめた「名東県歴史
②邏卒報告書などから材料を得た昭和9年発行の「旧版・香川県警察史
この内で②の「警察史」は、その発端をを次のように記します。
 『明治六年六月二十六日正午頃、第七十六区の内、下高野村へ散髪の一婦人現われ、附近に遊べる小児(当時の副戸長秋田磯太の報告によれば小児の父兄、姓名、自宅不明とあり)を抱き、逃げ去らんとしたり。これを眺めたる村民は、当時、児取りとて小児を拉し去り、その肝を奪ぅもの徘徊するとの風聞ありたる折柄とて、忽ち附近の農民寄り集まり、有無を言わせず、打殺さんとしたるを、村役人田辺安吉これを制し、故を訊さんため、先ずその婦人を自宅に連れ帰りたるに、村民増集、喧騒するを以て、日辺は比地大なる同区事務所(役場)へ報告、指揮を抑ぎたり。
 このとき事務所には戸長不在にて副戸長秋田磯太あり、兎に角その婦人を事務所まで同行すべく命じたり。然るに田辺宅附近に集まりし村民は日々に不同意を唱ぇ、田辺をして同行せしめず、田辺は止むなく再び事情を報告したりしに、秋田副戸長は田辺宅に出張し来り、門柱に縛しあるを一見するに頭髪の散乱せる様といいヽ眼使いといい、全く狂人としか思われず、何事を問ぬるも答うるところなく、住所、氏名さえ明らかならぎるをもって、徐々に取調べんと思いたるも、何分多人数集合せるを以て無用の者は退去すべく再三論したるも聴きいれず、彼是、押問答の内、戸長名東県歴史又駈けつけたり。
群集を説諭しヽ婦人は兎に角事務所へ連れ帰ることとなり、先ず戒めを解き門前に引出し、群集に示し、その何人なりやを訊したるも誰一人として知れるものなく、全く他村の者と定まりしがヽ狂婦は機をみて逃げ出さんとしたるを秋田副戸長はすかさずヽその襟筋をとらえて引戻したり。

然るに、このときまで怒気をおさえて見物せる群集は最早たまりかね、三つ股、手鍬をもって打掛かりしを以て戸長らはかろうじてこれを支え、狂婦をまた田辺宅に引き入れ警戒中、急報により観音寺邏卒(巡査)出張所より伍長吉良義斉は二等選率石川光輝、同横井誠作の二名を率い、急遠田辺宅に駈けつけたり。このときは既に無知の土民数百名、竹槍又は真槍を携え、田辺宅を取り囲み、吉良の来るをみるや、口を極めて罵詈し、騒然として形勢不隠なり。吉良は漸く田辺方に入り、ここにまたもや狂婦の尋間を開始したるも依然得るところなく、僅かに国分村の者なるを知り得たるのみ―』
 この経緯をまとめておくと、次のようになります。
①子ぅ取り婆が子どもを抱いて連れ去ろうとした
②それを村民たちが捉えて、なぶり殺しにしようとしたので村役人の田辺安吉が自分の家に連れて帰った
③戸長も駆けつけ、戸長役場に連行しようとしたが、取り囲んだ人々はそれを認めず騒ぎは大きくなった
④急報によって駆けつけた邏卒の姿を見ると群衆は、怒り騒然とした雰囲気に包まれた。

血税一揆 事件発生
下髙野

事件の起こった場所については、どの記録も下高野と記します。
地元では下高野の南池のほとりと伝えられているようです。南池は不焼堂(如来寺)から街道を百メートルあまり南へ行った付近にあります。不焼堂あたりから子供たちが、子ぅ取り婆さんにぞろぞろとつきまといはじめ、南池のほとりでこの事件が起こったものとしておきましょう。子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた子供と、この子供の守をしていた人の家、及び村吏の田辺安吉の家もこの南池の近くにあります。
 豊中町本山のKさんの祖母は田辺安吉家から出た人ですが、この人は生前に、子ぅ取り婆さんは田辺家の門の柱に縛りつけられ、散々痛めつけられて見るも哀れな姿であったと語っていたという。子ぅ取り婆さんは、その愛児が池で蒻死したため発狂したとされます。つきまとう子をかかえて走ったのは、その子がわが子とみえたのかもしれません。
子ぅ取り婆さんについては、名前は塩津ノブ。 年齢は30代後半と(旧「観音寺市史」は記します。出身地については、
「西讃騒動記」は坂出町
「警察史」は志度町とも国分村とも書いています。
「豊中町誌」は『寒川郡志度の者』
「名東県歴史」は 『女は阿野郡国分村農、与之助の孫女』
信頼度の高い「名東県歴史」に従って国分村の者と研究者は推測します。
子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた小児については
①「名東県歴史」は、「比地大村の農民某の妻二児を携え路傍に逍逢す」
②「警察史」は『小児の父兄、姓名、自宅不明』、『矢野文次の娘』
③地元の伝承では、「下高野村の南池近くの家の子で、後に成人して比地大村へ嫁した」

②の「警察史」は『矢野文次の娘』とあるのは、一揆の首謀者が矢野文次であったからのこじつけと研究者は指摘します。
①は、子ぅ取り婆さんが抱きかかえられた子を「二児」と記しますが、これは他の史料には見当たりません。抱きかかえたのは一人のようです。
「警察史」は続けて次のように記しています。
 一方、土民は、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるの諺の如く、何ら事実を知らざるものまで出で加わり、はては鐘、太鼓を打ち鳴らし、西に東に駈け回ることとて、さなきだに維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒、次第にその数を加え、殺気みなぎる』

村吏の田辺安吉の家を取り囲んだ群衆は、邏卒の姿を見て興奮したようです。その背景は、「維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒」から読み取れそうです。日頃から戸長や邏卒に「万事猜疑の眼」を向けていたようです。「警察が来たぞ!」という声に、テンションが上がったようです。

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早鐘が鳴らされた延寿寺
そして早鐘が打ち鳴らされます。早鐘は、今で云う非常招集サイレンで、火事や非常時の際にならされました。この早鐘は七宝山の麓の丘にある延寿寺のものでした。鐘を鳴らした矢野多造は、事件後の裁判で「杖罪」に処せられ、背中が青ぶくれにはれあがるほどたたかれたと生前に語っていたようです。

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              延寿寺本堂
 鐘が鳴りはじめると間もなく手に手に竹槍を持った農民が、比地大村や、竹田村方面から国木八幡前を、道一杯に長蛇をなして下高野へ押し寄せて来ます。こうして、竹槍農民の数はますます増えて来ました。

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国木八幡神社

観音寺邏卒出張所の吉良伍長の報告を見てみましょう

 『百方説諭すといえども集合の徒一切聞き入れず、四方よりますます奸民群集し、既に私共へ竹槍をもって突っかけ、切迫の勢いに相成り、手段これ無く―』

吉津邏卒出張所、北村伍長選卒報告。
『共に説諭を加え候へども何分頑愚にしてその意を弁ぜず、漸く右を平治すれば左沸騰し、間も無く人民数百人群集、暴言申しかけ、竹槍にて突っかからんとする勢い、とても防ぐべき策無きにつき―』

村吏の田辺安吉宅を取り囲んでいた群集は、やがて移動を開始します。国木八幡宮前をまっしぐらに比地大村友信の豊田戸長宅へ向かったのです。そして、戸長宅に火が付けられます。一揆の焼打ち第一号は豊田戸長宅になります。
 そのころ傷を負った豊田戸長は、身の危険を感じて七宝山麓の知人の家に逃れ潜んでいました。彼は知人から野良着を借り、野良帰りの農夫をよそおって帰途にしようとして、わが家の焼けるのを見たようです。地元の下高野村では、これ以外には高札場が毀されただけでした。
この騒ぎの中、子ぅ取り婆さんは姿を消しています。彼女のその後の消息については記録、伝承ともにありません。
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         延寿寺山門からの下髙野    
子ぅ取り婆は、子供の血をとる。という風評は以前からありました。
  明治5年の戸籍法(壬申戸籍)で役場が家族名、性別を各戸について調査したとき、血をとって外国人に売るためだという流言が流れたと云います。同じく明治五年、外国人指導の富岡製糸場の女工募集も「女工になって行けば外国人に血をとられる」との噂があったようです。
それでは、人々はこの流言を本当に信じていたのでしょうか。
農民が子ぅ取り婆だけを問題にしていたのであれば、子ぅ取り婆が狂人と分り、どこかへ消えていった段階でこの騒ぎはおさまったはずです。ところが、群衆はこの後、戸長、吏員宅、区事務所、小学校、邏卒出張所などを次々と襲っていきます。襲撃対象を見ると、明治維新の新政後に登場した村の「近代施設」ばかりです。江戸時代の襲撃対象となった庄屋や大商人の邸宅が対象となっていません。これをどう考えればいいのでしょうか。
 血税一揆を語る場合に、民衆が血を採られると勘違いしたのが契機となったと「民衆=無知」説で片づけられることが多かったようです。しかし、研究者はこれに対して異議を唱えます。「百姓を馬鹿にするなよ。それを知った上での新政府への新政反対一揆であった」というのです。
徴兵令とは】わかりやすく解説!!目的や内容(条件&免除規定)・影響など | 日本史事典.com

一揆の背景となった徴兵制を見ておきましょう
明治5年1月発布の徴兵令に関する太政官告諭に、次のような文句があります。
『凡そ天地の間に一事一物として税あらざるものなく、以て国用に充つ。然らば即ち人たるものは、もとより心力を尽し、国に報ぜざるべからず。世人これを称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂なり』

徴兵=「生血を以て国に報ずる」=血税という説明になっています。
血税は英語の「ブラッド タックス」で兵役を意味します。これを担当官は「徴兵=血税」と訳しました。この訳が一揆の原因となったというのです。それはこんな風に語られました。
血税の二字から、村々は次のような流言でもちきりになった。
「血税というのは若者を逆さづりにしてその血を異人に飲ませるのだそうだ」
「横浜の異人が飲んでいるぶどう酒というのがそれだ。赤い毛布や、赤い軍帽は若者の血で染めているのだ」
「徴兵検査は怖ろしものよ。若い子をとる、生血とる」
という噂が流言となって広がったようです。
「西讃騒動記」には、次のような一節があります。

血税の誤解から当時の三野郡、豊田郡の人心動揺をはじめ、遂に竹槍、薦旗の焼き打ち騒動を惹き起こし、各町村の小学校、役人の邸宅に放火し、暴状を極めた。徴兵告論を読んだ人が、我国には昔から武士が戦いのことには専ら関係しているため、我らは百姓を大切に農業に従事し、つつがなく租税を納めておればよい。しかるに、西洋にならって徴兵して、生血を取る御布令には少しも従うことは出来ぬと反対し、その声喧章、だんだん広がって騒がしくなって来たので、 県では容易ならぬこととして比地大村の豊田徳平、竹田村の関恒三郎、 本大村の大西量平の三戸長をして人民の誤解を解かせょうとしたので、三戸長はその命を受け、熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話を行ったのであるが、人民は頑として聞き入れず……」

 ここからは、血税という流言だけでなく徴兵制そのものへの反対が民衆の間には根強くあったことが分かります。その中で地元戸長たちが徴兵制推進のために「県の命を受けて熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話」を重ねますが「人民は頑として聞き入れ」なかったようです。徴兵制反対の人々にとって、推進の先頭に立つ戸長たちに敵意が向けられるようになったことがうかがえます。

実は、讃岐の一揆の一週間前に、鳥取県でも同じような一揆が起きています。これを政府に伝えた県庁報告書には、次のように記されています。(意訳)
『明治六年六月十九日に伯者国会見郡で農民が蜂起した。この一揆の背景には人民哀訴や歎願があったのではない。また巨魁、奸漢などの黒幕が企てたものでもない。ただ徴兵公布令を農民輩たちが、徴兵令の中の「血税」等の文字を誤解し、事実無根の流言を唱え、兵役は生血を搾り取られる、兵事とはただ名のみで、その実態は血を取るためであるという流言が広まったためである。
 これに加えて、鉱山での御雇外国人が、鉱山検査のため、山陰、山陽を巡回し、本管内を巡回する際にも、生血を搾られるという流言が流された。そのため民衆の中には、一層の恐怖感を抱き、、家族の数を知られないように表札を隠したりする者も現れる始末であった。
 これを見て戸長たちは驚き困惑し、懇々と説諭したが民衆は聞く耳を持たない。そして、ついに北条県下の人民が蜂起し、それが本県にも波及した。頑民(戸長の云うことを聞かない人々)は、徴兵募集の役人が来たときには、相共に竹槍や使い慣れた器杖で追い返すべしと相談した。
  六月十九日、会見郡古市村の農民勝蔵の妻いせが、山畑で耕作していると異状の者(邏卒)の姿を見て、絞血(採血)の者と勘違いして、家族を守るために、近隣の儀三郎の家に走り込んで次のように告げた
「異状の者がやってきました、気をつけて下さい」
儀三郎の家には、二十歳の男子があり日頃から搾血の説を聞いて、心痛めていた。そのためこれを聞いて狼狽して、走り廻って
「搾血の者来れり」と叫んで告げた
村の人々はこれを聞いて隣村にも伝えた。また、寺鐘を早打ちして緊急集合をかけた。これを以て各村は、一斉に蜂起すすることになった』
(上屋喬雄、小野道雄編「明治初年農民騒擾録」所収)

ここには当時の鳥取県の担当者が「無知蒙昧な民衆が血税の流言に惑わされて、一揆を起こした」と中央政府に報告していることが分かります。「血税一揆=流言説」です。 「西讃騒動記」「名東県歴史」「警察史」なども大体同じ論法です。しかし、これに対しては反対論もあったようです。

新聞(明治5年)▷「東京日日新聞」(創刊号、現・毎日新聞) | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives

明治七年二月七日の東京日々新聞に発表された「血税暴動は県側の詭弁」は、次のように反論します。
 血取りの説は「血税」以前から流布していたのであって徴兵令からはじまったものではない。従って徴兵反対一揆は血税の二字に原因するものではなく、それは県吏の民意を愚民観ですり代え、一揆の真因をぼかそうとする地方政治担当者の政治的作為によるものである。

一揆発生の明治六年に出版されたの横河秋濤著「開化の入口」という本には、次のように記されています。
『比の頃、徴兵とやら、血税とやらいって、大切な人の子を折角両親が辛苦歎難を尽し、屎尿の世話から手習い、算盤そこそこに稽古させ、これから少し家業の役にもたつようになったものを十七歳、或いは、二十歳より引上げて、ギャッと生れてから夢にも知らぬ戦いの稽古させ、体が達者でそろそろ役にもたつものは直ぐさま朝鮮征伐にやり――』

そして、大分県の徴兵反対一揆に立ち上った農民の一人は、次のように嘆いています。
「徴兵で鎮台に遣わされ、六、七年も帰して貰えないのでは全く困ったことになってしまう」

この頃、俗謡にあわせて、「徴兵、懲役一字の違い、腰にサーベル、鉄鎖り」という俗謡が流行になったともいいます。
ここからは農民は血取りを恐れていたのではなく、徴兵そのものに反対していたことがうかがえます。
警察の誕生と歴史
裸を取り締まる明治の邏卒(警察官)

血税一揆の際に、邏卒が上司へ提出した報告書を見てみましょう。
第四十九区(一揆波及地―阿野郡北村、羽床上、同下、山田上、同下の各村)
第五十五区(一揆波及地―同郡岡田上、同下、同東、同西、栗態東、同西の各村)
は、以前徴兵検査の節、所々山林へ集合し、度々説諭にまかり越し候区内なれば、農民共、此の虚(一揆蜂起)に乗じ発起すべきもはかり難きに付、情、知察のため午後二時頃より巡遣し、四時頃帰宅』
意訳変換しておくと
二つの区は、以前に徴兵検査について、山林へ集まって反対集会を開いていたところなので、度々説得に出かけた区内である。農民共が、この旅の一揆蜂起に参加するかどうか分からない情勢なので、偵察に午後二時頃より巡回し、四時頃に帰宅した』

滝宮邏卒出張所詰、平瀬英策報告。
『(鵜足郡)林田村の頑民、 既に説諭によって服従、 一時検査を受くるといえども余儘なお残炎、時あらば後燃せんとする気、もとよりその場動するものありて然り』
意訳変換しておくと
『(鵜足郡)林田村(坂出市林田町)の頑民(新政府反対派)たちは、 すでに我々の説諭によって服従し、徴兵検査を受けた者もいるが、心の中には今も残炎が残り、機会を見ては再び燃え上がろうとする雰囲気がある。もとよりその場動するものありて然り』

ここからは讃岐でも徴兵検査に反対する集会があちらこちらで開かれ、その度に邏卒や戸長が出向いて説諭を繰り返していたことが分かります。それが「血税」の流言だけのための反対運動ではないことは明らかです。「血税一揆」を流言によるものとするのは、民衆無知蒙昧説の上に胡座をかいた説と研究者は指摘します。
邏卒
              5代目菊五郎が演じた邏卒

上の史料からは一揆の頃には、すでに徴兵検査も行われ、徴兵検査で血が採集されないことは分かっていたはずです。ここからは人々が「血取り」反対したのではないと云えます。それでは何に反対したのでしょうか?
鳥取県一揆について農民の側から出した願書があります。それは次のように記されています。(「明治初年農民騒擾録」)
鳥取県一揆願書
一、米穀値段下げ仰せつけられ候こと。
二、外国人管轄通行禁止。
三、徴兵御繰出し御廃止仰せつけられ候こと。
四、今般騒動致し候条、発頭人御座無く候こと。
五、貢米、京枡四斗切り、端米御廃止仰せつけられ候こと。
六、地券合筆取調諸入費、官より御弁じ仰せつけられ候こと。
七、小学校御廃止、人別私塾勝手仰せつけられ候こと。
八、御布告板冊、代価御廃止。
九、太陽暦御廃止、従前の大陰暦御改め仰せつけられ候こと。
十、従前の通り半髪(丁髭)勝手仰せつけられ候こと。

ここには、徴兵反対の他にも、地券、小学校、太陽暦、斬髪令などの、この時期の新政府の出した政策に対する反対や、米価引き下げ、端米廃止などの生活に直結した要求が列挙されています。
先ほど見た政策担当者の県庁報告は、これらの事実を無視し、他に「哀訴歎願の根底あるに非ず」として、すべてを血税の誤解一色で塗りつぶそうとしていると研究者は指摘します。ある意味、一揆の原因を、愚民観ですりかえよう意図が見えてきます。

鳥取県一揆の願書でも分るように、徴兵だけが問題だったのではない。そのことは讃岐のこの一揆の経緯にも現われています。というのは、豊田戸長が真っ先に焼き打ちをかけられたのには理由があったからです。
「大見村史」に次のように記されています。
維新のはじめ、当郡比地大村、岡本村を管轄する戸長に豊田徳平なるものあり、此の者と同地人民との間に三升米とて公費の徴収に関し葛藤を生じ、故障申し立ての結果、終に人民の失敗に帰し、体刑に処せられたれば之を遺恨に思い、豊田戸長に報いんとする折柄、徴兵令の非議を豊田戸長に提起したるに戸長曰く、徴兵は風説の如く疑うべきに非ず、又、血税は決して血を採る意義に非ず、若し万一そのことありたる暁は予が首を渡すことを誓う、と。 一同はそのことを聞き、 一段落を告げたり。
 又、明治五年、県令を以て庶民の剃頭束髪(丁髭)を廃止され、其の実行を否む者に対しては吏員をして断髪の強制執行をなしたり。事態かくの如くなるを以て頑民は彼を思い、これを顧りみ不満に耐えず、疑惑、誤解交々起これり。時に明治六年六月二十六日、当郡岡本村に於て児取り婆の所為発生したり』(傍点、引用者)
ここからは、血税一揆が起こる前に、この地域では「三升米事件」や徴兵制検査・断髪強制など新政府の進める政策をめぐって、戸長と村民との間に対立が起こっていたことが分かります。
 
  子ぅ取り婆さんの騒動が、これらの積もり積もった戸長や邏卒への不満や反発に火をつけて暴発させたようです。そこには、人々の新政府への不満があったのです。
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大見村遠景
  以上をまとめておくと
①明治5年になると新政府への期待は失望から反発へと転換していった。
②明治政府の徴兵制や義務教育制の強制は、人々にとっては新たな負担の増加で反対運動の対象となった
③民衆の反対運動への説得や圧迫のために、戸長や邏卒が活発に活動した。
④そのため戸長や邏卒は明治政府の手先として、反感・反発対象となった。
⑤そのため一揆が起こると戸長宅や邏卒事務所(駐在所)は攻撃対象となった。
⑥政策責任者や警察では、この一揆の原因を「無知蒙昧な民衆の血税への誤解」としたために、一揆の本質が伝わらないままになっている。
一揆の本質は、期待外れの明治新政府への不満と反発が背景にあった。それは香川県だけでなく、周辺の県でも同じような運動がおこっていることからいえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      と佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」
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阿波デコ廻し6

  仲南町史や琴南町史、山本町史などを眺めていると、「人形回し」や「箱デコ」が讃岐山脈を越えてやってきて各地を巡回し、公演活動を行っていたことが次のように記されています

『琴南町誌』(琴南町、1986年)、894
昔は、正月から春にかけて阿波からデコマワシが来ていたが、デコマワシには稲わらを踏んでもらう。そのわらで田植の折に苗束をくくると稲の出来がよいという。

『白鳥町史』(白鳥町、 1985年)、1181P
(大正時代)その他、阿讃山脈を越えてくるものに、箱まわし人形がある。白鳥では「箱デコ」と呼んで親しんだ。箱デコは人形を入れる櫃を間をあけて置き、棒を立てて天秤棒を渡す。金具で三体ぐらい吊しておき、 一人が人形を遣い、他の一人が三味線を弾き浄瑠璃を語るが、口三味線の人もある。人形は五体くらい持って回る。中尾峠を越えて黒川地区へ入ると、泊る家も決まっていて、そこで座敷を借り近所の人が集まって観る。年に二、三回、昭和二十四、五年まで来ていたという。

久米惣七 『阿波の人形師と人形芝居線覧』(創思社1988年)、100P
阿波の「箱廻し」が讃岐へ出稼ぎに行って泊まる宿は「デコ」の宿があるそうで、何十年もお得意の定宿になって、ドコではドコの宿と定つていた。デコの宿は無料であった。デコ廻しの方はそのお礼の意味で、座敷で大いに熱演し、近所からはデコの宿ヘワンサ、ワンサとつめかけて見物し、薄謝の意味で米を少々ずつもらい、これを「宿まわし」と呼んで年二回は阿波から長炭の種子部落を経て岡田方面へ行ったそうです。

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐山脈を越えてデコ廻したちが讃岐にやってきたこと
②デコマワシに稲わらを踏んでもらったわらで、田植の苗束をくくると稲の出来いいと伝えられ、宗教的な信仰や儀礼につながることがうかがえること
③デコ宿という定宿があり「宿まわし」には、人たちがあつまってきたこと
 阿波デコ箱廻し
デコ廻しの箱

しかし、この言い伝えは昭和初期や大正時代のもので、江戸時代のものではありません。
 阿波のデコ廻したちが讃岐にやって来るようになったのは、いつからなのでしょうか。
デコ廻しは、人形浄瑠璃と違って少人数で「戸別訪問」の「門付け」という形を取りました。そのため文字史料として残ることはほとんどありません。ある研究者は、文政三(1820)年に阿波から伊予大洲藩上野村へ三番叟巡業のために来ていたことを明らかにしていていますが、それは興行記録ではなく、病死記録から分かったものです。そんな中で高松藩のデコ廻しに関する史料を紹介した文章に出会ったので紹介します。テキストは「山下隆章   讃岐高松藩における阿波人形廻し関係史料について   香川大学教育学部研究報告   134郷 2010年」です。
阿波デコ廻し14

琴南町誌に紹介されている阿波人形一座の造田村での公演について、見ていきましょう
   阿州芝生村(三好市三野町芝生)は、三好氏の居城があったところで三好長慶の生地でもあります。幕末に芝生村の庄屋を務めていたのが平尾猪平太でした。猪平太の父・平兵衛は、文政~天保頃の芝生村庄屋で、三村用水(芝生村・勢力村・加茂野宮村)の開削を、先代庄屋の平尾集兵衛から受け継ぎ、文政十(1827)年に完成させた人物です。

芝生 三村用水
三村用水トンネル部復元

この用水は当時は徳島藩で最初のトンネル式用水路(311m)部分があり困難を伴ったようです。しかし、そのおかげで通水は安定し、この地区は屈指の稲作地帯となりました。この用水は、今も現役で田畑に水を送り続け、平兵衛の業績は地元で語り継がれ、小学校の社会科教材ともなっているようです。

阿讃国境地図 琴南の峠2

 平兵衛は、天保12(1841)年正月に亡くなっていますが、生前から気にかけていたことがありました。それが阿讃山脈を越えた讃岐側の鵜足郡造田村内田(現まんのう町造田)の吉田寺大師堂の茶場再建です。
吉田寺
吉田寺 まんのう町造田
この大師堂は、阿波街道沿いにあり阿波の人たちにもよく知られていて、霊験あらたかで、阿波にも信者が大勢いたようです。平兵衛自身も「弘法大師信仰」の持ち主だったようですが、その完成を見ることなく亡くなります。その跡を継いだのが平尾猪平太でした。

猪平太は、造田村の庄屋に次のような書簡を送っています
  三 大師堂茶場再建一件

一筆啓上仕候、先以秋冷相催候得共、其御地御家内様御揃御安康に可被成御座候と、奉珍重候、当方無事に相暮居申候間、御安心可被下候、然ば兼て亡父平尾平兵衛より色々御内談申出候、御地大師御茶場再建御伐組、追々御片付に相成、此度地形に御取懸り被成候由、往来の者共より及承候、右に付ては御承知の通、当国人形回しの者数組、備前表へ渡海も仕申候間、右出掛の道筋故、日数三日計地堅めに三番申又踏せ候様被成候ては如何哉、左候得ば、右御茶場の地堅め、且は五穀成就悪病災難除御祈祷に相成可申候間、近頃御世話増の御義とは奉恐入候得共、右の段一入御取計被成可被下候、尤右様人形回しの者共、罷越し御世話相成候ても、花代並支度向迄当方にて引請、乍失礼御地の御厄介には仕不申候間、何卒御寄進御聞届被下候様、御取計の程、 一入宜奉願上候、亡父心仰の大師様に付、下拙より此段根に入御願申上候間、返す返すも御世話の程、宜奉願上候、右得貴意申上度如斯に御座候以上、八月廿四日     阿州芝生村 平尾猪平太
讃州造田村西村市太夫様
意訳変換しておくと                                                       
一筆啓上仕候、秋冷の候となりましたが御家族のみなさまご健康のようで安心しております。当方も無事に暮らしていますので御安心ください。さて、亡父平尾平兵衛がそちら方に色々と相談して着工した大師御茶場再建について、用材の切組も出来上がり、いよいよ地形(地堅め)に取り掛かる段取りになったと、阿波街道を行き来する者から聞きました。
 ご承知の通り、当国人形廻し数組が、備前表へ渡海するために丸亀に至る道筋にあたります。つきましては地堅めに三番叟を踏せてはいかがかと思います。茶場の地堅めや五穀成就・悪病災難除御祈祷になりますが、経費増しをご心配になるかと思います。これについては、人形廻しの御世話はお願いしても、花代(経費)や交通費は当方にて引請させていただきます。失礼ながら、そちらの御厄介にはならないようにしますので、なにとぞお聞き届いただけるようにお取計の程、お願いいたします。亡父の大師様への信心でもありますので、私よりお願いするものです。返す返すも御世話の程、奉り願上げます。右得貴意申上度如斯に御座候以上、
八月廿四日                
               阿州芝生村 平尾猪平太
讃州造田村西村市太夫様
ここからは、次のようなことが分かります。
①猪平太が父の意思を汲んで「御茶場の地堅め、且は五穀成就悪病災難除御祈祷」のため、阿州の 人形廻しに三番雙を奉納させたいと、造田村庄屋西村市太夫に申し出たこと
②阿波では地堅め(地鎮祭)や「五穀成就悪病災難除御祈祷」の祝い事に三番叟が奉納されていた
③「当国人形廻し数組が、備前表へ渡海」とあり、阿波から備前に人形使いたちが讃岐を通って巡業に出掛けていた
④「亡父心仰の大師様」とあり、民衆の大師信仰が広がっていたこと
阿波デコ廻し12

手紙を受け取った造田村庄屋市大夫は、早速元〆の中村長三郎、川村茂助に三番叟興行の許可を求める次のような書状を書き送ります。
一筆啓上候、然ハ当村方先達御願申上候大師茶場此節地築二取掛リ居申候所、右茶場再建出来候得ハ、阿州之者ヨリ相応手伝も致呉候筈二初発ヨリ申越二御座候所、此節右地築相初居申候義及見付申越候義ハ同国人形廻シ之者共此硼ヶ何連も備前表へ渡海仕候二付、右参掛之道筋故日数三日程之間地堅メ二三番叟申又踏セ候得ハ地堅メ者勿論五穀成就悪病災難除御祈祷二も相成可申候間致セ候而ハ如何哉、尤右様三日之間相勤セ候而も右花代井二支度向等迫阿州ヨリ引請相済呉、少シも土地之物入二者致セ不申義与申越二御座候、併難渋所右様之義ハ奢ヶ間敷相見へ奉恐入候次第ニハ御座候得共、前顕之趣申越候二付先此段御注進申上候間地堅メ並五穀成就悪病災難除御祈祷与申二付而ハ何卒申越之通相済候様二御聞置被為下候得共、却而土地之宜二も相成可申与一統難有かり相願有申候間、右申出之通相済候様二宜御取計被成可被下候、右之段申上度如斯二御座候以上
八月廿六日     造田村庄屋 西村市大夫
中村長三郎様
川村茂助様
  尚々本文之通御聞置二被仰付被為下候得共、廿九日頃相初申度奉存候間、此段共御聞置被成可被下候奉願上候、以上
  意訳変換しておくと
一筆啓上候、以前から当村の先達の願いで大師堂の茶場再築を進めて参りました。この茶場再建については、阿波の庄屋から相応の支援を受けていますが、この度次のような申し入れを受け取りました、地鎮行事の際に、阿波人形廻しの組が備前へ渡海するために当地通過するのと時期が重なる。ついては道筋がら三日程、三番叟を奉納し、地堅めや五穀成就悪病災難除御の祈祷としたいとのこと。また、三日間の奉納の花代や支度などの費用は、阿波方で負担し、当方に迷惑をかけることはないと申しています。難渋の所、このような件はおこがましきご相談で恐入る次第ですが、地鎮儀式と五穀成就悪病災難除の祈祷ですので、何卒お聞き届けいただき許可願えるようお願いいたします。
八月廿六日              造田村庄屋 西村市大夫
中村長三郎様
川村茂助様
  お聞き届けいただけるようでしたら、この8月29日頃から奉納行事を行いたいと考えています。このことと併せてお聞き置きいただけるように願い奉ります。
市太夫は、芝生村の猪平太からの申し出を受けて、デコ廻しの奉納をやる気だったことが文面からは分かります。村を預かる庄屋としては、新たな施設のための奉納行事が、阿波からの寄進で無償開催できるのですから乗らない手はないでしょう。そして、三日間の興行を、早ければ8月29日から行いたいと最後に記します。この願出を提出したのが26日のことで、開催開始29日というのは、早急です。デコ廻しの一座が、もうすぐにやって来ることになっていたのでしょうか。工事開始が間近に迫っていたのかもしれません。大庄屋の元〆から回答を得て、猪太夫に返書を出し人形廻しが手配されるまで最短の日数が見積もられているように感じもします。どちらにしても急いでいます。
阿波デコ廻し8
デコ廻しの三番叟
さてこの申し出は認められたのでしょうか。認められなかったと研究者は考えています。
地元負担はないので、飛びつきたい申し出です。しかし、高松藩としては、次のような理由で認めることはできないというのです。
①高松藩にも人形廻しを持ち芸とする「乞喰」がいて、各地の地神祭で三番叟を踏んでいる。市太夫の願い出を認めてしまうと、高松藩の「乞喰」の職分、勧進権を侵すことになる。
②地神祭では、一日切興行が基本と藩は規制している。3日興行の申し入れを受けるわけにはいかない。

阿波デコ廻し7
辻などの野外で行われてデコ廻し

  別の史料で、高松藩の他国人形廻しに関しての布令を見ておきましょう。寛文七(1667)年に出された「法然寺法会興行一件」です。
 法然寺法会興行一件(寛文七(1667)年正月六日)
一、籠守市右衛門、作太夫江申渡候ハ、弥乞喰共二ヲ下さセ可申候、他国他領より乞喰参り候ハゝ早束注進可申候、勿論他国よりでく廻シ其外藝者寄セ申間敷候、相皆寄セ申候ハゝ、急度曲事ニ可申付候、惣而郷町江他国よりうさん成乞喰参候ハゝ、致吟味此方江早々注進可申候、品二より御褒美可被下候間、弥失念仕間敷旨申渡候事、
意訳変換しておくと
籠守(牢番)市右衛門、作太夫へ次のように申し渡した。今より乞喰たちに札を交付する。他国他領からの乞喰がやってきた場合には、早々に注進せよ。もちろん以後は、札を持たない他国からの「でく廻シ(デコ廻し)」やその他の芸能は参加させてはならない。
惣而郷町(郡部)への他国よりの乞喰がやって来た場合には、取り調べの後に早々に報告すれば、褒美を下す旨を通知した。失念することのないように以上を申し渡した。

ここからは寛文七(1667)年に、周辺を廻在(芸能などの門付け)する「乞喰」に対して、木札を交付された者だけに認めることとなったことが分かります。そして、札を持たない他国からの「でく廻シ(デコ廻し)」やその他の芸能者「乞喰」の高松領内での活動は禁止されています。阿波からのデコ廻しは、17世紀後半から認められてなかったのです。

阿波デコ廻し5
神社でのデコ廻し

 別の視点から見ると、高松藩の「乞喰」(芸能者)の活動(地域廻在)が保証され、札が交付する体制になっているということは、「乞食」としての身分が確立し、ひとりひとりを把握できるようになったことを意味します。これは「個別人身支配体制」の完成で、言い方を変えると近世「非人」制度確立と研究者は考えています。

 他国者、特に芸能者の排除は、「濃尾崩れ」以後の各藩の宗教政策だったようです。
これはキリシタン政策の一環でもあり、他所からの流入者をあぶりだす体制につながります。高松藩では初代の松平頼重以来、執拗なキリシタン詮索を続けていました。他領からのよそ者の入り込みには、親藩としてより敏感に対応したようです。それでも「でく廻シ其外藝者」排除の布令がこの時期に出ているということは、逆に、芸能者の流入が絶えなかったことがうかがえます。どうも具体的な排除対象者は、阿波・淡路からの「でく廻シ其外藝者」の入り込みを、第一に意識していたと研究者は指摘します。

阿波デコ廻し4

    ここからは高松藩においては阿波人形遣いの藩内での公演活動を認めていなかったことが分かります。
  山間部の公的な目が届かないところでの門付け(戸別訪問)は別にして、庄屋たち村役人のお膝元で人形浄瑠璃の一座が公演すると云うことはなかったとしておきましょう。それが、明治になって移動・経済活動・公演活動の自由が認められるようになって、阿波人形浄瑠璃は讃岐での公演活動を爆発的に増やしていったようです。それが香川叢書民俗編に載せられた史料からもうかがえます。これについては、また別の機会に紹介したいと思います。
阿波デコ廻し10

以上をまとめておきます。
①高松藩は「法然寺法会興行一件(寛文七(1667)年正月六日」で、他国の人形芝居の公演を禁止し、領内の「芸能者(乞食)」だけに認めた。
②幕末に、造田村(まんのう町)の太子堂の附属茶屋再建の地鎮儀式に、阿波芝生の庄屋から人形一座による三番叟奉納寄進の申し出があった。
③造田村の庄屋は、大庄屋に奉納許可願を提出したが認められることはなかった。
④ここには①の高松藩の他国芸能者の領内での活動禁止政策があったためと思われる。
 以前にお話したように高松藩と阿波藩は、国境に関する協定を結んでいました。両藩の間では、峠越えの日常的な往来や行き来はある程度、自由に行われていたようです。しかし、両藩間の結婚などは許されていませんでした。阿波の人形芝居の活動も江戸時代には、公的には認められていなかったようです。
阿波デコ廻し9

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山下隆章   讃岐高松藩における阿波人形廻し関係史料について   香川大学教育学部研究報告   134郷 2010年」です。
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讃岐郷名 丸亀平野
丸亀平野周辺の郷

以前に「讃岐の荘園1 丸亀市川西町にあった二村郷 いつ、どうしてふたつに分かれたの?」を書きました。これについて、次のような点について、もう少し分かりやすく丁寧に説明せよという「リクエスト(?)」をいただきました。
「二村荘ができたときの経過は、どうなのか?」
「どうして二村郷と二村荘に分かれたのか?」
これに応えて、今回は二村荘に立荘過程に焦点をあてて見ていきたいと思います。前回分と重なる部分がありますが悪しからず。また、期待に応えられ自信もありません、重ねて悪しからず。  テキストは「田中健二 讃岐国の郷名荘園について  香川大学教育学部研究報告89号 1994年」です。
川津・二村郷地図
丸亀平野の古代郷名 二村郷周辺
 
律令時代には鵜足郡には8つの郷がありました。
そのひとつが二村郷で「布多無良(ふたむら)」と正倉院へ納入された調の面袋に記されています。二村郷は、江戸時代には土器川をはさんで東二村(飯山側)が西二村に分かれていました。現在の地名で言えば丸亀市飯野町から川西北一帯にあたります。古代の二村郷は、いつ、どんな理由で東西に分かれることになったのでしょうか?
二村荘が初めて史料に登場するのは暦応四年(1341)11月日の興福寺衆徒等申状案です。その中の仁治2年(1241)2月25日の僧戒如書状に、二村荘の立荘について、次のように記されています。
讃岐国二村郷文書相伝並解脱(貞慶)上人所存事、
副進
上人消息案文、
右、去元久之比、先師上人、為興福寺 光明皇后御塔領、為令庄号立券、相尋其地主之処、当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、令申之間、依有便宜、寄付藤原氏女(故小野法印定勝女也。)時当国在庁雖申子細、上人並親康令教訓之間、去進了、爰当国在庁宇治部光憲、荒野者都藤原氏領也。(今は尊遍領地也)見作者親康領也、雖然里坪交通、向後可有煩之間、両人和与、而不論見作荒野、七条者可為親康領、於八条者加入本田、偏可為藤原氏領之由、被仰下了、但春日新宮之後方九町之地者、雖為七条内、加入八条、可為西庄領也云々者、七条以東惣当郷内併親康領也、子細具見 宣旨・長者官丁請状案文等、彼七八両条内見作分事、当時為国領、被付泉涌寺欺、所詮、云往昔支度、云当時御定、随御計、可存知之状如件、
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
意訳変換しておくと
元久年間(1204~6)に、貞慶上人は興福寺の光明皇后が建立された五重塔の寺領とするために、二村郷に荘園を立荘されようとした。当時の二村郷の地主(開発領主)は藤原貞光であったので、協議の上で、七・八両条内の荒野部分を興福寺関係者である藤原氏女(故小野法印定勝の娘)に寄付させる形をとった。当時の讃岐国守にも子細を説明し、了承を得た上で、貞慶上人と親康は七・八条の立荘を行った。こうして、七・八条エリア内では、「荒野は藤原氏領(今は尊遍領)、見作は親康領」ということになった。しかし、これは里坪が混在して、非常に土地管理が困難であった。そこで両人が和与(協議)して、見作荒野に限らず、七条は親康領、八条は藤原氏女領(本田)とすることになった。ただし、「春日新宮」の後方の九町の地は七条内ではあるが八条に加え入れて「西庄」領とした。従って、七条以東の郷内はすべて親康領である
  宣旨・官丁請状案文等にも、二村郷のうち七・八両条内の見作分は、国領(公領)として京都泉湧寺へ寄付されていると記されている。以上が二村荘の当時の御定で、このような経緯を伝えるために書き残したものである。
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
この文書に出てくる貞慶(じょうけい)は、法相宗中興の祖と云われています。
解脱上人、貞慶特別展: 鹿鳴人のつぶやき
 
彼が13世紀初頭の二村荘の立荘を行ったことが、ここには記されています。貞慶(久寿2(1155)~ 建暦3(1233)年)の祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲です。何もなければ彼も貴族としての一生を送ったのでしょう。祖父信西は、保元元年(1156年)の保元の乱の功で一時権勢を得ます。ところが平治元年(1160年)の平治の乱で自害させられ、父藤原貞憲も 土佐に配流されてしまいます。生家が没落したために、幼い貞慶は藤原家の氏寺である興福寺に入るしか道がなくなったようです。こうして11歳で出家し、叔父覚憲に師事して法相・律を学ぶことになります。彼は戒律の復興に努め、勧進僧と力を合わせて寺社復興にも大きく貢献しています。
 一方、法然らの提唱した専修念仏の弾圧側の当事者としても知られています。文治2年(1186年)に、大原勝林院で法然や重源によって行われた大原問答に出席していますし、元久2年(1205年)には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めてもいます。
 貞慶は、興福寺を中心に活動を展開していました。そのような中で元久年間(1204~6)に、二村郷を聖武天皇皇后の藤原光明子が建立した興福寺五重塔の寺領として立荘しようとします。そこで先ず行ったのが二村郷の七・八条の荒野部分(礫河原)を、開発領主の藤原貞光から興福寺関係者の小野法印定勝女子へ寄付させることでした。領主の藤原貞光は、地元讃岐の古代豪族綾氏の武士化した綾藤原氏の一族です。彼については、後に触れます。

丸亀平野 条里制地図二村
鵜足郡と那珂郡の郡境と土器川

 その上で、二村郷の七・八条の荒野部分が立荘されて興福寺五重塔領となります。この文書の中で、戒如は次のように述べています。

「二村郷のうち七・八両条内の見作分は、現在は公領として京都泉湧寺へ寄付されている」

ここからは、七・八条はまだ国領があったことが分かります。整理しておくと、二村荘には二種類の土地があり、それぞれ所有者が異なっていたと云うことになります
①土器川の氾濫原で、荒地に分類されていた土地 興福寺五重塔寺領
②見作地(耕地)に分類された土地       国領地
 一方、『泉涌寺不可棄法師伝』には、二村荘の国領部分について、次のように記されています。

嘉禄3年(1227)春、泉涌寺の僧俊高が重体に陥った際に、彼に帰依していた入道前関白藤原道家が病床を見舞い、「讃岐国二村郷内外水田五十六町」を泉涌寺へ寄付し、寺用に充てた

 この「水田五十六町」が②の二村郷の見作部分(耕作地)で、国領管理下にあった領地のようです。当時、藤原道家は讃岐国の知行国主でしたから、国守権限にもとずく寄進だったようです。
 その後の文和3年(1354)12月9日の後光厳天皇綸旨には、「讃岐国七条村並二村付けたり四か名」が、泉涌寺へ安堵されています。ここから②は、泉涌寺の寺領となっていたことが裏付けられます。

丸亀平野 条里制地図二村2
土器川左岸の鵜足郡七・八条の荒地に成立した二村荘
空白部が荒地で条里制が未施行エリア

ここでは、二村郷の七・八両条は鎌倉初期にふたつに分けられたこと。その耕地部分は公領のまま泉涌寺領に、荒野部分は立荘されて興福寺領二村荘になったことを押さえておきます。この両者は、同一エリアを荒地と耕地の地種で分割したものですから、当然に所有地が混在することになります。その状況を戒如は次のように述べています。
「荒野は藤原氏領なり、今は尊遍領なり、見作は親康領なり、しかりと雖も里坪交通す」
「里坪」とは、条里の坪のことで、藤原氏女領に属する荒野と親康領に属する耕地がモザイク状に入り乱れていたようです。これでは管理上、都合が悪いので、両者の間で話し合いが行われ次のような分割案が成立します。
①耕作地と荒野の種別を問わず、七条は親康領とし、八条は藤原氏女領とする。
②但し、「春日新宮」の後方九町の地は七条内であるが八条に加え入れて「西庄」領とする。
③従って、七条以東の郷内はすべて親康領となる。
この和解案の結果、藤原氏女と親康とは、どちらも所領内の荒野部分について興福寺へ年貢を納めることになります。こうして、土器川の東側は二村郷、西側の八条は二村荘と呼ばれることになったと研究者は考えています。
香川県丸亀市|春日神社は1000年の歴史がある神社!月替わり御朱印も郵送OK
二村郷産土神と書かれた春日神社 しかし郷社ではない 

鵜足郡8条に成立した二村荘の中心地には、春日大社が勧進され、「春日新宮」と呼ばれるようになります。
藤原氏の氏神さまは春日大社で、菩提寺は興福寺です。藤原氏の荘園が成立すると奈良の春日大社から勧進された神が荘園の中心地に鎮座するのが恒例のことでした。二村荘の場合も、興福寺領の荘園ですから氏神として春日社を祀ったのでしょう。それが現在の丸亀市川西町宮西の地に鎮座する春日神社(旧村社)だとされます。
 江戸時代の西二村は、西庄、鍛冶屋、庄、宮西、七条、王子、竜王、原等の免からなっていました。これをみると春日神社の氏子の分布は土器川の左岸に限られていたことが分かります。これに対し、土器川右岸に位置する東二村(丸亀市飯野町)は、飯野山の西の麓に鎮座する飯神社の氏子でした。古代は同じ二村郷であった東西の二村が、土器川をはさんで信仰する神社が違っているのは、荘園の立荘と関係があったようです。

  さて、二村荘の立荘については次のような疑問が残ります。

①立荘当時の二村郷の状況は、どうだったのか。七・八条だけが荒野部分が多かったのか
②耕地でない荒野部分を荘園化して何のメリットがあるのか
①については、いつものように地図ソフトの「今昔マップ」を検索して、土器川周辺の国土地理院の土地条件図を見てみましょう。丸亀平野は扇状地で、古代にはその上を線状河川がいくつもあり大雨が降ったときには幾筋もの流れとなって流れ下っていたことが分かっています。
丸亀平野 二村(川西町)周辺
丸亀平野土器川周辺の旧河川跡
上図を見ても、現在の土器川周辺にいくつもの河道跡が見え、河道流域が今よりもはるかに広かったことがうかがえます。川西町の道池や八丈(条)池は、皿池でなくて、その河道跡に作られたため池であることが分かります。道池の北側には七条の地名が残ります。

丸亀道池
道池からの飯野山

また、春日神社は八条に鎮座します。確かに、この周辺の七条・八条は、氾濫原で礫河原で開発が遅れたことが予想できます。七・八条エリアは、古代条里制施行も行われていない空白部分が多いようです。それにくらべて土器川右岸は河道跡は見えますが台地上にあり、条里制施行が行われた形跡があります。また、想像力を膨らませると、かつては七・八条に土器川の本流があって、どこかの時点で現在のルートに変更されたことも考えられます。もう一度、条里制施行状況を見てみましょう。
丸亀平野 条里制地図二村2

 空白地帯は条里制が施行されていないところです。
土器川の氾濫原だった七・八条には空白部分が相当あるのが分かります。この部分が最初に立荘され、二村荘となった部分のようです。そして、13世紀初頭には、今まで放置されてきた荒れ地に関しても開発の手が入って行きます。興福寺の貞慶が、二村郷の荒地を荘園化したのも、すでに灌漑などの開発が進められ耕地化のめあすが立っていたのかも知れません。
丸亀市川西町にあった二村庄の開発領主は「悪党」?
いままでは、興福寺という中央の視点から二村荘を見てきました。
こんどは地元の視点から立荘過程を見ていきたいと思います。先ほどの史料をもう一度見てみると、当時の所有者について、次のように記されています。
当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、

 13世紀初頭に鵜足郡二村郷のうち、荒野部分の「地主」は藤原貞光だったことが分かります。藤原を名乗るので、讃岐藤原の一族で綾氏につながる人部かもしれません。当時は荒野を開発した者に、その土地の所有権が認められました。そこで彼は土器川の氾濫原を開発し、その権利の保証を、藤原氏の氏寺で大和の大寺院でもある興福寺に求めます。いわゆる「開発領主系寄進荘園」だったようです。
 未開墾地は二村郷のあちこっちに散らばっていたので、管理がしにくかったようです。そこで寄進を受けた興福寺は、これを条里の坪付けによりまとめて管理しやすいように、国府留守所と協議して庄園の領域を整理しようとします。これは興福寺の論理です。
 しかし、寄進側の藤原貞光にしてみれば、自分の開発した土地が興福寺領と公領のふたつに分割支配され、自分の持ち分がなくなることになります。貞光にとっては、思わぬ展開になってしまいます。ある意味、興福寺という巨大組織の横暴です。
このピンチを、貞光は鎌倉の御家人となることで切り抜けようとします
しかし、当時の鎌倉幕府と公家・寺社方の力関係から興福寺を押しとどめることはできなかったようです。興福寺は着々と領域整理を進めます。万事に窮した貞光は、軍事行動に出ます。1230年(寛喜2)頃、一族・郎党と思われる手勢数十人を率いて庄家(庄園の管理事務所)に押し寄せ、乱暴狼藉を働きます。これに対して興福寺は、西国の裁判権をもつ鎌倉幕府の機関・六波羅探題に訴え出て、貞光の狼藉を止めさせます。貞光は「悪党」とされたようです。

この事件からは次のような事が分かります。
①鎌倉時代に入って、土器川氾濫原の開発に手を付ける開発領主が現れていたこと
②開発領主は、貴族や大寺社のお墨付き(その結果が庄園化)を得る必要があったこと
③その慣例に、鎌倉幕府も介入するのが難しかったこと
④貞光は手勢十数人を動員できる「武士団の棟梁」でもあったこと
⑤興福寺側も、藤原貞光の暴力的な反発を抑えることができず、幕府を頼っていること
⑥二村荘には庄家(庄園の管理事務所)が置かれていたこと。これが現在の春日神社周辺と推測されること
この騒動の中で興福寺も、配下の者を預所として現地に派遣して打開策を考えたのでしょう。どちらにしても、荘園開発者の協力なくしては、安定した経営は難しかったことが分かります。
 
   藤原貞光にとっては、踏んだり蹴ったりの始末です。
 せっかく開発した荘園を興福寺と国府の在庁役人に「押領」されたのも同じです。頼りにした興福寺に裏切られ、さらに頼った鎌倉幕府から見放されたことになります。「泣く子と地頭に勝てぬ」という諺が後にはうまれます。しかし、貞光にとっては、それよりも理不尽なのが興福寺だと云うかもしれません。それくらい旧勢力の力は、まだまだこの時期には温存されていたことがうかがえます。
貞光の得た教訓を最後に挙げておきます
①未開墾地の開発に当たっては慣例的な開発理由を守り
②よりメリットある信頼の置ける寄進先を選び
③派遣された預所と意志疎通を深め、共存共栄を図ること
これらのバランス感覚が働いて初めて、幕府御家人(地頭)としての立場や権利が主張できたのかもしれません。
13世紀から14世紀前半にかけては、讃岐国内でこのような実力行使を伴った庄園内の争いが多発しています。それを記録は「狼藉」「悪党」と治者の立場から記しています。しかし、そこからは開発領主としての武士たちの土地経営の困難さが垣間見えてきます。その困難を乗り越えて、登場してくるのが名主たちなのでしょう。
以上をまとめておくと
①律令時代の二村郷は土器川を、またいで存在していた
②そのうちの鵜足郡七・八条は土器川左岸にあり土器川の氾濫原で条里制が施行されない部分が荒野として放置されていた。
③鎌倉時代初頭に鵜足郡七・八条の荒野開発をおこなった開発領主が藤原貞光であった。
④彼は開発領地を興福寺に寄進し、寄進系荘園として権益確保を図った。
⑤ところが興福寺は、荘園管理のために混在していた荒地を一括して、八条エリアを荘園領地とすることを国領側と協議しまとめた。
⑥この結果、開発領主の藤原貞光の権益は大きく侵害されることになった。
⑦そこで藤原貞光は、実力行使に出たが、興福寺から六波羅探題に提訴され敗れた。
こうして、丸亀川西町の中世のパイオニアであった藤原貞光は、「悪党」として記録に残ることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

明治17年11月の大久保諶之丞の動きを見てみましょう
10月末の高知県からの視察団が川之江ルートと猪ノ鼻ルートの両方を視察して、後者の優位性を大久保諶之丞に伝えたことが史料からはうかがえます。それを聞いて、諶之丞は新たな動きを開始します。
大久保諶之丞 動静表明治17年11月

上図は諶之丞の明治17年11月の動向を研究者が表にしたものです。
11月2日~15日を動きを見てみましょう。連日のように、西讃各地を廻り有志を訪問していることが、諶之丞の金銭出納を記した手控帳からは分かります。訪問先を見ると
長谷川佐太郎(琴平町榎井の大庄屋で満濃池再築指導者)
大久保正史(多度津町大庄屋)
景山甚右衛門(多度津の有力者で後の讃岐鉄道創立者。
鎌田勝太郎(坂出の鎌田醤油)
など地域の名望家の名前が見えます。地域有力者を戸別訪問し、事前の根回しと「有志会」への参加と支援依頼を行っていたことが分かります。不思議に思うのは、金刀比羅宮が出てこないことです。しかし、考えて見れば金毘羅山は、三豊郡長の豊田元良が太いパイプを持っていました。そのため豊田元良の方で話が進められていたと私は考えています。
 そして11月15日には、道路有志集会への案内葉書を発送しています。
「南海道路開鑿雑誌」に、「17年11月15日はかきヲ以通知之人名(同志者名簿)」と書かれ、46人の名前が記載されています。その通知の文面も収録されています。通知の日付は11月14日です。その案内状の文面は、次の通りです
拝啓、予而大久保諶之丞 御噺申上候高知新道開鑿之義二付、御協議申度候条、本月十八日午前十時揃、琴平内町桜屋源兵衛方迄、乍御苦労、御出浮被下度、就而者、御地方御有志之諸彦御誘引相成度、同時迄二必御御苦労被降度候、頓首
十七年十一月十四日
長谷川佐太郎
大久保正史
景山甚右衛門
大久保諶之丞
意訳変換しておくと
拝啓、私、大久保諶之丞が高知新道開鑿の件について、協議いたしたいことがありますので、、本月十八日午前十時、琴平内町桜屋源兵衛方まで、ご足労いただきたくご案内申し上げます。各地域の有志の方々にもお声かけいただき、揃って参加いただければ幸いです。頓首
十七年十一月十四日 
 長谷川佐太郎・大久保正史・景山甚右衛門と連名で大久保諶之丞の名前が最後にあります。彼らの協力を取り付けたことが分かります。 
 案内はがきが発送され集会準備が整った11月16日には、郡長の豊田元良を観音寺に訪ね、その夜は豊田邸に泊まっています。有志集会に向けた状況報告と今後の対応が二人で協議されたのでしょう。有志会」開催に向けた動きも、豊田元良との協議にもとづいて行われていたことがうかがえます。その後も、第2回有志会に向けても豊田元良と同一行動を取ることが多くなっているのが史料から分かります。

11月18日には、琴平のさくらやで第一回目の道路有志集会が開催されています。
出席者二十名、欠席の通知があったもの12名。雨天
琴平内町さくらや源兵衛方 則チ合田伝造方ノ会場    裏三階
出席有志
鵜足郡宇多津村 原友三君
那珂郡上金倉村 直井敏行君
同郡苗田郁 西山荒治郎君
岩井茂三郎君
同 榎井村 七条元次君
岡部百治君
同 琴平村 荒川節治君
都村藤吉君
安達善平君
井上廉平君
秋山虎造君
箸方卯平君
合田伝造君
多度郡多度津村 丸尾熊造君
大久保正史
景山甚右衛門
三野郡財田上ノ村
菅原廣治君
横山万次郎君
中村節路君
大久保諶之丞
以上弐十人
事故不参ノ書面ヲ送附セラル有志
阿野鵜足郡役処 兵頭定敏君
那珂郡今津村 横井朋太郎君
同 榎井村 長谷川佐太郎君
同 五条村
香川郡高松 直沢元久君
阿野郡坂出村 鎌田節三郎君
三野郡財田上ノ村 伊藤一郎君
宇野喜三郎君
       与一君
篠崎嘉太治君
大久保菊治君
同  彦三郎君
以上拾弐人

参加した人たちの顔ぶれを見て気づくことを挙げておきます。
①ルート沿線沿いの財田上ノ村と琴平・多度津の名望家が多く、善通寺・丸亀地区のものはほとんどいない。
②郡長や区長・戸長など行政首長の肩書きを持つ者がいない。
③大久保諶之丞の地元である財田上ノ村の人間が多い
この会への参加案内状を配布した人物リストは郡長の豊田元良と協議したことが考えられます。そして、そのメンバーを見ると行政の首長たちには、この時点では声はかけない。つまり地域の名望者の声として行政に届くような請願運動とするという方針があったように思えます。その方針に従って、郡長の豊田元良も四国新道推進活動の全面に出ることを避けていたのではないかと私は考えています。
 しかし、大久保諶之丞の後に豊田元良がいることは案内状をもらった人は誰もが分かっていたのではないでしょうか。10月前半の2週間を掛けて、大久保諶之丞はこれらの人々を戸別訪問していました。その際には、豊田元良の方から「大久保諶之丞を訪問させるので、話を聞いてやって欲しい」くらいの連絡があったかもしれません。それが日本の政治家たちの流儀です。
 この集会の趣意も大久保諶之丞が記したようです。そこには
「土佐ノ高知ヨリ阿波ノ三好郡ヲ経テ、我多度津・丸亀二達スル一大線路ヲ開鑿シ」

と、新道路線が猪ノ鼻ルートであることがはっきりと記されています。この時の議事録は、次のように記します。
「県庁へ請願書進達二至ラシムル事」
「線路実践ノタメ、巡視委員井二請願委員ヲ撰定スル事」
「第二次会定日ノ事」
の三つの議題について協議しています。その結果、次のような事が決定事項として記されています。
①請願書は多度津・丸亀。琴平・財田上ノ村の四ヶ所で起草し、第二次会に持参し互いに取捨選択して確定し、有志連署の上で速やかに県庁に提出、
②巡視委員三名、請願委員五名(鵜足郡一人、那珂郡二人、多度郡一人、三野郡一人)を第二次会において選定、
③第二次会は11月27日、琴平で開催すること
ここに集まった20人を核にして、2週間後に賛同者への署名活動を行い、県に提出するとこが決まったようです。
第一回集会後に、諶之丞は関係者に手紙を送り、図面の調製に着手しています。
11月21日には、愛媛県地理課長津田顕孝に呼び出され琴平に出向いています。
24日には、豊田元良・七条元次と琴平から樅木峠へ同行。財田上ノ村戸長篠崎嘉太治を加え、諶之丞宅に宿泊。25日には、四人で箸蔵寺まで行き宿泊、徳島県三好郡長武田覚三ほか書記官・有志と宴会
26日に、猪ノ鼻を視察。これは、請願書提出前の関係者による最後の下見でしょう。

そして翌日11月27日の第二回の有志集会に臨んでいます。
出席者23名、欠席の連絡者2名。協議事項は次の4点です。
①請願委員の選定
②請願書を郡役所・戸長役場で控えるのとは別に活版印刷し有志連署者へ送付すること
③連署押印の手続き方
④巡視委員の選定
協議の結果、五名の請願委員が選定され、請願書は活版印刷することとなり、押印連署は財田上ノ村において取りまとめることとなります。また予定ルートの巡視委員には、大久保正史・七条元次。大久保諶之丞が選ばれます。
大久保諶之丞 新道着工までの動き明治17年12月g
大久保諶之丞 明治17年12・1月動静表
この集会後の12月4日に、予定ルートの巡視委員として、大久保諶之丞は高知に向けて出発します
高知県巡視の概略として、次のような報告書を大久保諶之丞は記します。
大久保諶之丞
病気二付差支 大久保正史
公用二付指支 七条元次
代理、原藻司郎出立
右、大久保諶之丞、原藻司郎、徳島県三好郡ヲ経、高知県長岡郡豊永郷二出、十日高知二達シ、同県有志数名同道、高知県庁二出頭、県令田辺良顕閣下二面謁シ、道路開鑿ノ趣旨ヲ上伸、及新線沿道ノ景況等上伸、且ツ県令公ヨリ其利害得失ヲ万諭セラレ、十二日帰途二登り、川ノ江通、十五日帰郷ス
巡視委員に選ばれた大久保正史は病気のため、七条元次は公用のため差し支え、行くことができず、実際には諶之丞と七条代理の原藻司郎の二人が高知に向けて出発しています。二人は徳島県三好郡、高知県長岡郡を経て十日に高知に到着、同地の有志と共に高知県庁に出向いて、県令田辺良顕に面会し、道路開鑿の趣旨・新路沿線の景況等を上申しています。県令からは利害得失を諭され、12日に帰途につき、15日に帰宅しています。大久保諶之丞が高知の県令と会ったのはこの時が初めてです。帰路は、笹ヶ峰経由で川之江に出ています。川之江ルートの視察の意味もあったのでしょう。
 この巡視を終えて、「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ本県多度津丸亀両港二達スル道路開鑿二付願」(以下、請願書と表記する)が作成されます。
「南海道路開鑿雑誌」に、その写しが収められていて、152人の連署があります。この請願書には次のように記されています。
 高知県ヨリ徳島県ヲ経テ本県多度津丸亀両港二達スル道路開撃二付願    
世ノ文明ヲ来シ、福利ヲ進ムルノ道一二シテ足ラスト雖トモ、職トシテ彼我交通ノ利二由ラサルハ莫シ、然ルニ封建割拠ノ余風今尚存シ、道路梗塞、彼我交通疎濶ニシテ、物産ノ運動ヲ栓格シ、相互一方二索居シ、宝ヲ懐ヒテ貧シキヲ訴へ、世運卜共二幸福ノ門径二進ム可能ハサルノ憾アリ、吾
ガ四州ノ如キ道路ノ険悪ナル、他二稀ナル所ニシテ、彼ノ高知県ノ如キハ最モ甚シキモノトス、東南大洋二面シ、舟構二便ナラス、西北峻嶺重畳シテ綾ニ羊腸タル雲径ヲ通スルノミ、徳島県ノ如キモ、亦其北部二至ツテハ高山屹立シテ、運輸ノ便ヲ遮り、殊二阿讃人民生活上頗ル親密ノ関係ヲ有スト雖トモ、 一帯ノ山脈連続シテ、亦夕隔靴掻痒ノ憾ナキ能ハス、是レニ因テ此般

土阿讃三州ノ人民相計議シ、別紙図面ノ如ク道路拓開ノ見ヲ起シ、各自其管轄庁二請願センコトヲ協定セリ、然ルニ、聞ク所二由レハ、将二宇摩郡川ノ江ヨリ笹ヶ嶺ノ険ヲ穿チ、高知二通セントスルノ挙アリ、何ソ此難キヲ取ンヨリ、寧ロ多度津・丸亀両港ヨリ琴平及ビ戸川ヲ経テ、徳島県三好郡池田二出テ、直チニ吉野川ノ上流二沿ヒ、高知県長岡郡ヲ過キ、以テ高知二達スルノ緩、且易ニシテ其利益ノ大ナルニ如カサルナリ、
風カニ聞ク、道路開築ノ費額ハ其六分ハ官府二於テ、其三分ハ関係地方人民ノ義金二依ルト、此説果シテ信ナルカ、人民官府ノ盛意ヲ奉シ、勇躍シテ其義二応スルヤ、猶ホ江河ヲ決スルカ如ク、活々乎トシテ止ムヘカラサルヤ、更二疑ヲ容レサルナリ、不肖等、各己応分ノ義金ヲ呈シ、官府ノ命令ヲ服鷹シ、其額二充ンコト誓テ其責二当テントス、抑モ此般請願スル所ノ道路拓開ノ如キハ、三州人民力殖産興業ノ利源ヲ開キ、幸福ヲ享有セシムル而己ナラス、其利施テ全国二及シ、邦国ノ神益、蓋シ鮮少ナラサルヲ信ス、尚且ツ特り経済ノ運用二止マラス、官府施政上二於テ陸軍・郵便・電信等的然其効利ヲ得ルヤ必セリ、不肖等徳島県下人民卜相謀り、不日高知県二到り、起功線路ヲ実践シ、各地人民生活ノ形情、並二物産ノ品類ヲ審査シ、更二上申スル所アラント欲ス、伏テ真ク願わくば、別紙図面ノ通り、道路ヲ拓開シ、一ハ以テ彼我ノ交通ヲ親密ニシ、一ハ以テ物産ノ運輸ヲ便ニシ、一般人民ヲシテ其恵沢二霧被セシメンコトヲ 謹テ奉請願候也、
   愛媛県三野郡財田上ノ村
 明治十七年十二月   大久保誰之丞
                 以下152名の連名署名

  意訳変換しておくと
前略
「猪ノ鼻ルートは、土佐・阿波・讃岐の3国の人民が協議して、別紙図面のような道路ルートを作成し、それぞれの管轄庁に請願することを協定したものである。ところが聞くところによると、すでに、県には旧土佐街道沿いに川ノ江から笹ヶ嶺の険しい峰々を穿って新道を開こうとする計画があるという。そのような難工事を行うよりも、多度津・丸亀両港から琴平・戸川を経由して、猪ノ鼻を越えて、徳島県三好郡池田に出て、そこから吉野川上流に沿って、高知県長岡郡を過ぎて高知に至るルートの方が勾配も緩やかで、工事もやりやすく、工事費も少なく利益が大きい。
(中略)
 私は他日に実際にこのルートを高知まで踏査し、現地視察を行った。各地の人民の生活状況や、物産品の種類などを見た上での上申である。伏して願わくば、別紙図面の通り、(猪ノ鼻ルート)で道路を開鑿し、交通の利便性を高め、物産運輸を円滑化し、一般人民の利益になることを 謹しんで奉請願するものである。
   愛媛県三野郡財田上ノ村
明治十七年十二月   大久保誰之丞  以下152名の署名
大久保諶之丞 新道ルート図
 
ここには、川之江ルートよりも、四国の中心金毘羅を経由して多度津・丸亀両港をゴールとする「猪ノ鼻 + 吉野川沿いルート」の方が、容易で経済的にも有利であることが力説されています。
 文中に「別紙図面」とありますが「南海道路開鑿雑誌」には、この図面はありません。しかし、大久保家資料中には、この「別紙図面」にあたる下図があるようです。
大久保諶之丞 高知県ヨり徳島県を経て本県多度津丸亀に達する道路願

「国道開鑿雑書」所収の「山中化育宛の諶之丞書状下書ス」の書簡では、この請願書のことを「改線願書」と記しています。ここからは、高知・川ノ江ルートの国道開鑿計画の路線変更として、猪ノ鼻ルートを四国新道として実現させようとしたものであったことが改めて裏付けられます。

この請願書には、日付が「明治17年12月」とあり、明治18年1月15日付けで、次の郡司たちが署名したことが分かります。
三野豊田郡長 豊田元良
那珂多度郡長 関忠邦
阿野鵜足郡長 奥村巽
豊田元良と大久保諶之丞のシナリオ通りに請願運動は進められ、請願書が作られたようです。諶之丞の日記には、明治18年1月22日に、自ら松山の愛媛県庁に赴き、請願書を提出したことが記されています。

請願書を受け取った後の三県の動きを愛媛県史は、次のように記します。
大久保諶之丞ら「四国新道期成同盟会」の提出した「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ愛媛県多度津丸亀(現香川県)両港ニ達スル道路開発ニ付テノ願」を愛媛県では検討した。その結果、当初の「予土横断道路」開鑿計画(高知・川之江ルート)を拡大(変更)して多度津・丸亀路線(猪ノ鼻ルート)として、徳島県令酒井明にも働きかけて「四国新道」の実現を図ることにした。
 徳島県では、新道が阿波国西端の三好郡を通過するだけだから他の郡村には十分な便宜を与えないし、近年の不況と暴風雨による被害のため危機にひんした藍産業の救済に苦しんでいる状態なので、新道開さく費用の負担はできないとして、この計画参加を渋ったが、愛媛・高知両県令の勧誘によってようやく承諾した。
 明治18年2月13日、高知県一等属日比重明・愛媛県二等属津田顕孝・徳島県一等属岩本晴之が一堂に会して実務者協議会を開いた。
この会では、工事分担範囲・道幅・橋梁幅・道路勾配などを協議して、道幅三間以上並木敷両側一間宛、橋梁は内法幅二間以上などと基準を決め、「目論見予算図面等ハ総テ本年十月迄ニ県会ノ決議ヲ経テ其主務省ヘ進達ニ至ラシムル事」と申し合わせた。(中略)
 上申書は、新道開さくの理由として、「運輸ノ道ヲ開キ、殖産通商ノ利便ヲ図ルハ目下地方ノ一大急務タル」ことを強調し、管内の人民は直接間接にこの事業に賛成しているので、県会でたとえ多少の非論者がいてもあるいはこれを否決しても、本省の指揮を得て断然これを決行する精神であると不退転の決意を示していた。工事概算は87万4143円94銭8厘で、そのうち国庫補助を愛媛・高知両県負担分の三分の一、徳島県負担分の三分の二、合わせて35万4500余円を要求した。
大久保諶之丞 四国新道
少し先に進みすぎたようです。2月13日に返ります。
愛媛・高知・徳島の三県で、新道の道幅や工事の分担などに関する申合書が決定されたのが2月13日のことでした。その三日後の2月16日夜、諶之丞は箸蔵寺で徳島県御用係笠井、三好郡長武田覚三、愛媛県地理課長津田顕孝等と会って、道路開鑿の決定を聞いたようです。ここに大久保諶之丞と豊田元良等が描いた通り、徳島を経て高知に達する四国新道路線のルートが確定したことになります。この後、
五月には三県令が琴平に会し、新道路線を巡視
七月には三県令により「四国新道開鑿補助費之儀二付稟申」を内務省に提出し、九月認可。明けて明治19年4月7日に琴平において起工式という手順で進みます。
以上を振り返って起きます
明治17年10月末に、四国新道計画路線を川之江ルートから、猪ノ鼻ルートに変更させることに大久保諶之丞と豊田元良は成功します。それを受けて、今度は愛媛県(当時は香川県を合併中)にも、ルート変更を訴える必要性が出てきます。そこで取られた先述が在野の名望家に働きかけて、下から請願運動を起こし、それを郡長にあげて県に請願書を送るというものでした。今から見ると、当然すぎる手法なのですが当時は「新手法」だったようです。そのため三豊郡長であった豊田元良は前面に出ずに、黒子に徹します。舞台に出て大活躍するのは、豊田元良の意を受けた大久保諶之丞でした。それが11月から2月にかけての県への請願書の提出過程にもうかがえます。
 従来は大久保諶之丞をスーパーマン視しすぎて、四国新道構想における彼の役割を過大視しすぎていたところがあるように思えます。根本史料に限って、諶之丞の果たした役割を見ていくと、郡長の豊田元良と連携しながら、財田上ノ村の同士たちをチームを作って対応していた様子が浮かび上がってきます。大久保諶之丞の一人の「孤軍奮闘」で、路線決定が行われたのではないことが見えてきたように思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献    松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月

 前々回に、大久保諶之丞の四国新道構想へ向けての活動が史料から確認できるのは、明治17年になってからであること、そして、四国新道構想を最初に提唱したのは、三野豊田郡長の豊田元良であったことという説を見てきました。今回は、明治17年の諶之丞の動向をたどりながら、四国新道構想が具体化していく過程を見ていくことにします。その際に、従来はあまり注目されてこなかった豊田元良が、どんな役割を果たしていたのかに注目しながら見ていきたいと思います。
 テキストは 「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。

四国新道構想が動き出すのは明治17年のことですが、この年については諶之丞の日記には、新道についてはほとんど何も記されていません。その代わり、諶之丞が金銭の出入りを細かく記した手控帳が残っています。これで諶之丞の動きを、推測する以外にないようです。もうひとつの参考史料は、諶之丞が四国新道開整に関する書類をまとめた「南海道路開鑿雑誌」「国道開鑿雑書」です。どちらも四国新道工事が開始される以前の新道関係の書類を綴じ合わせたものです。

大久保諶之丞 国道開鑿雑書細目
国道開鑿雑書
国道開鑿雑書」には、次のようなものが綴じ込まれています。
①猪ノ鼻の道路開築の願書・見積書、
②明治17年10月、高知県官員の新道路線巡視に関する通達の写し、
③明治17年11月、琴平で開催された道路開撃の有志集会の議事録、
④その他誰之丞の書簡
これらは、どれも明治17年中のものです。

大久保諶之丞 南海道路開撃雑誌
南海道路開撃雑誌
「南海道路開撃雑誌」も、四国新道に関する書類の綴じ込みです。
こちらには明治17年11月から明治18年12月の史料の綴じ込みで、主なものは次の通りです。
⑤明治17年11月の道路有志集会の議事録や有志者名簿、巡視委員による高知県巡視や徳島県令による猪ノ鼻巡視の概略、
⑥明治17年12月の「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ本県多度津丸亀両港二達スル道路開撃二付願」、
⑦明治18年2月13日の三県申合書、高知県における道路開撃願書などの写し、
⑧箸蔵道を経由する讃岐・阿波。土佐間の貨物数量調べ、「猪ノ鼻越道路景況調」など
ここからは四国新道構想に向けて具体的な活動が始まったのは明治17年から明治18年にかけてであったことが分かります。そして、その時期の主な資料がここにはまとめられていて、四国新道に関する基本的資料と研究者は考えています。特に⑧は、箸蔵道を経由する讃岐・阿波・土佐間の貨物数量調査で、当時どのような産物が流通していたかを具体的に知ることができます。四国新道の建設に向けて、このような資料も求められていたことがうかがえます。

「国道開鑿雑書」にある「阿讃国境猪の鼻越新道開鑿見積書」(明治17年6月)から見ていきましょう。この見積書の前には、猪ノ鼻開鑿の「道路開築御願」が綴じられ、次のように記されています。
本県三野郡財田上ノ村ヨリ阿州三好郡池田村ニ通スル字猪ノ鼻ノ嶺タルヤ、阿讃両国ノ物産ヲ相輸シ、加之ナラス上ノ高知ヨリ讃ノ多度津二通シ、即チ布多那ヲ横貫スル便道ニシテ、一日モ不可欠ノ要路ナリ、然り而メ我村二隷スル猪鼻嶺壱里余丁ハ岸崎巌窟梗険除窄、為二往復ノ人民困苦ヲ極ム、牛馬モ亦通スル能ハスト雖、此沿道二関係アル土阿ノ諸郡、皆讃卜物産ヲ異ニスルヲ以、互二交換運輸セザルヲ得ス、然ルニ、土ハ海路ノ便悪敷、阿ハ運河アリト雖、海岸二遠隔スルヲ以、其便ヲ得サルヨリ、不得止土着ノ者掌二唾シ脊二汗シテ負担シ得ルモ、運価高貴ナリ、運価高貴ナルノミナラズ、冬季二至テハ寒雪ノタメ、往々凍死スル者アルヲ免ヌヵレズ、実に其惨、且ツ不便筆紙二形シ難シ、今マ果断以テ此嶺ヲ開築セハ、直接二阿讃ノ便益ヲ得ル而已ナラス、閑接二其益ノ波及スルヤ小少二非ル也、不肖等此二意アル数年、然トモ奈セン、資金無ヲ以因、乃遂ニ今日二流ル、遺憾二耐ヘザル処然リト雖トモ、聖世今日ノ運搬旺盛ノ際二当テ、何ゾ傍観坐視、此便道路ヲ度外二置クニ忍ンヤ、故二今般本村々
会二附、毎戸人夫ヲ義出シ、早晩開築ノ功ヲ奏セント可決相成候条、今ヨリ阻勉、右開築ニ着手致度候間、伏シテ真クハ、人民便否ノ如何ヲ御洞察御允許相成度、別紙図面目論見書相添、此段奉願上候、以上
 愛媛県下三野郡財田上ノ村  大久保諶之丞
  意訳変換しておくと
三野郡財田上ノ村から阿波三好郡池田村に通じる猪ノ鼻嶺は、阿讃両国の物産が行き交う峠で、これに加えて高知から讃岐・多度津に通じる要衝で、一日たりとも欠くことが出来ない要路である。 しかし、上ノ村に属する猪鼻嶺までの1里余の道のりは急傾斜が続き、往来する人々を苦しめ、牛馬の通行もできない。この沿道に関係のある土佐や阿波の諸郡は、讃岐の特産品を手に入れるために、互いに交換運輸をせざるえない。また土佐は海路の便が悪く、阿波は運河が発達しているが、海岸から遠いので、その利益を得るのは一部地域に限られる。そのため人々は掌に唾して背に汗して、物品の輸送を行うがそのコストは高く付いている。輸送コストだけでなく、冬には寒く雪も積もり、輸送中に凍死する者も現れる。実に悲惨で、筆舌に尽くしがたい。今こそ果敢に猪ノ鼻嶺を開鑿し、阿讃の交通の便を開けば、その波及効果は少ないものではない。不肖、私はこの数年、この道の建設に私財を投じて当たってきたが、資金不足のために今になっても完成させることができないでいるのが残念である。
 明治の世の中となり、運輸面においてもいろいろな発展が見られるようになってきた。ただ傍観坐視するのではなく、この機会に道路開通を果たしたいと願う。そのために、村会で、各家毎に人夫を出し、早期着工に向けての請願を可決した。以上の通り交易面で利便性の向上のために、工事着手に向けてご決断いただけるように、別紙図面目論見書を添えて奉願いたします。以上
       愛媛県下三野郡財田上ノ村 大久保諶之丞

 これを読むと題名は「阿讃国境猪の鼻越新道開鑿見積書」ですが、猪ノ鼻だけの部分的な開鑿願書ではないことが分かります。この中には四国新道につながる内容が含まれています。前にも見たように、諶之丞は以前から猪ノ鼻開鑿に取り組んでいました。

大久保諶之丞の開通させた道路
大久保諶之丞の取り組んでいた開鑿・改修工事

明治17年に入ってからもその工事は続いていたことが諶之丞の手控帳からは分かります。例えば4月21日には、諶之丞が猪ノ鼻へ道路検査に出向いていますが、この時には郡長の豊田元良も同行しています。ここからも、以前から細々と続けていた猪ノ鼻開鑿を、四国新道(国道)として、国に請願していこうとする目論見が見えてきます。そこには、郡長の同意と承認を受けて、このころに本格化したことがうかがえます。そのような動きが開始された契機は、高知県の新道計画でした。

大久保誰之丞 箸蔵さんけい山越新開道路略図
大久保諶之丞が開鑿した箸蔵道のトラバースルート

同じ頃、愛媛県と高知県の間でも国道開鑿の計画が浮上してきたのです。
この年6月28日に、高知・愛媛両県令から国に「国道開鑿之義二付上申」が提出されています。これは、次のようなルート案でした。

「土佐伊予ノ両国二跨り東西二大路線即チ川ノ江ヨリ瓜生野高知伊野・須崎等ヲ経テ、吾川高岡両郡間二流ルヽ仁淀川二沿ヒ別枝二至リ久万町ヲ経テ松山ニ達スルノ国道を開修」

ルートとしては、土佐藩が参勤交替に使っていた土佐街道(現在の高速道)と国道33号を併せた「四国Vコース」になります。結果として、この上申は7月12日、工事計画書を精査するようにと指示され不認可になっています。

大久保諶之丞 新道着工までの動き1
大久保諶之丞 明治17年の動向

 諶之丞が、この計画をどの段階で知ったのかは分かりません。しかし、上表の明治17年2月の欄を見れば分かるように、諶之丞が農談会に出席するため陸路で松山に赴いていますが、この時の道中を記した「旅行記」の表紙に次のように記します。
「此旅行二付道路之事ニハ一層ノ感ヲ憤起シタル事アリ」

ここからは、彼がこの時点では愛媛・高知間の国道計画の情報を知っていたことがうかがえます。「これはまずいことになった」というのが本音でしょうか。高知と川之江に国道が作られたのでは、猪ノ鼻峠越に今作っている道が国道に昇格することはなくなります。川之江ルート案に対して早急に巻き返し活動が求められるようになったのです。これが四国新道の猪ノ鼻への誘致活動の開始となったと研究者は考えています。
大久保諶之丞と豊田元良2
吉野川疎水案や瀬戸大橋案も豊田元良の発案であるとする史料

 豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、四国新道構想は自分が最初に唱えて、大久保諶之丞にそのことを伝えたのが始まりだと回顧していることは以前にお話ししました。その視点からすると、これらの情報も、豊田から伝えられた可能性があります。豊田は郡長として、それらの情報を入手しうるポストにいました。また、「四国新道開鑿起因」にも、「高知県高知卜本県川ノ江間ノ道路開築」に関する記述があります。そして高知・川ノ江間の道路開築に対する金刀比羅宮からの工費二万円の寄付を、豊田が撤回するよう画策したことなどが記されています。本当だとすれば、露骨な川之江ルートつぶしです。
 豊田元良は、大久保諶之丞を呼んで情報を伝えるととともに、今後の対応策を協議したのではないでしょうか。ここからが猪ノ鼻ルートへの広報と支援を求めての活動開始となります。 
諶之丞の動き追ってみると、明治17年5月、6月には道路建設に関して、徳島県の洲津や池田に出向いているのが分かります。
徳島側の地方要人を味方につけて巻き返しを図ろうとしたのでしょう。これも豊田元良との協議の結果でしょう。郡長の後盾や紹介状があってこそ、これらの工作はスムーズにいったはずです。
 6月に猪ノ鼻開鑿の見積書を作成したのも、高知・川ノ江間の道路開鑿の動きを意識してのことだったと研究者は考えています。猪ノ鼻開鑿の願書・見積書が「国道開鑿雑書」に綴じられていることも、そのことを裏付けます。
その後の大久保諶之丞の動きを、残された金銭手控帳から見ておきましよう
8月19日 播州から測量技師を招いて猪ノ鼻・谷(渓)道の測量開始
9月 8日 道路の件で郡長(豊田)から召喚されて観音寺へ出向く
10月4日 道路の件で池田に出張。
このような動きからは、この時期に愛媛・高知間の国道開鑿の動きを受けて、諶之丞が讃岐・阿波を経て高知に至る四国新道路線の実現に向けて活動をしていたことが見えてきます。これは、郡長・豊田の承認と指示があって可能なことです。諶之丞は豊田元良に対して、頻繁に連絡を取り報告しています。大事なことについては、実際に郡庁を訪ねて報告しています。例えば9月8日は、「道路の件で郡長(豊田)から召喚されて観音寺へ出向く」というメモが残っています。ここからは、これらの誘致活動が豊田元良の指示下で行われていたことをうかがえます。郡長の紹介状があるから村の役人に、県知事(県令)や各地の郡長が会ってくれたとも云えます。そういう意味では、大久保諶之丞は豊田の「全権委任特使」の任を果たしていたとも考えられます。
 明治17年10月下旬から11月の初めにかけて、高知県の官員が新道開鑿路線巡視を実施しています。
諶之丞や豊田の運動の結果、実現したのでしょう。しかし、高知県側へ具体的にどのような働きかけを行っていたかは資料からは分かりません。
 俗説では、大久保諶之丞が高知県の田辺県令を訪ね猪ノ鼻ルートの利便性や経済性を説いたと伝えられています。例えば「双陽の道」には、その時の模様が次のように描かれています。
  諶之丞の熱意に共鳴し理解した田辺県令(知事)は、すでに高知・松山間の国道計画は走り出しており、諶之丞の構想では、それに徳島県を巻き込むことになることから、地元阿波池田三好郡の武田党三郡長の賛同を得て、下から徳島県令酒井明を動かすことが肝要であることを説いた。武田部長は物事の呑み込みが早く行動力もある名郡長であったからである。田辺県令は、県下の熱心な道路推進者を動かして武田郡長のところへやるからそれに合わせて諶之丞も行くように、あとは諶之丞の説得と武田郡長の考え次第だと諶之丞に下駄を預けた。諶之丞が三好郡役所で武田郡長に会う日程に合わせて県下の有力人物を武田郡長のもとに派遣する約束。先ず諶之丞が武田郡長に会って自分の道路構想を説き同調してもらうこと、そして折りよく田辺県令の内意を受けた高知県下の二人が訪れる段取りとなった。
 しかし、これは史料的に裏付けのあるものではありません。諶之丞の日記は、この年の四国新道については、何も書かれていないことは先に述べたとおりです。これは、物語として後世の人々が脚色し、語り継がれるようになったストーリーで事実として裏付けるものはないようです。
大久保諶之丞の金銭出納帳
諶之丞が金銭の出入りを細かく記した手控帳(明治17年分)

根本史料となる「国道開鑿雑書」に、もう一度返りましょう。
ここには、その巡視日程・宿泊予定地の通知の写しが綴じられています。それによると、高知県一等属日比重明と御用係の千種基、竹村五郎が視察にやってきています。巡視行程からすると、愛媛県・高知県が6月に国に提出した高知・川之江ルートと、猪ノ鼻ルートの両方を巡視したようです。

大久保諶之丞 新道ルート図

 10月29日から諶之丞もこれに同行しています。10月31日、同行中の諶之丞が、財田上ノ村の戸長篠崎嘉太治に宛てて箸蔵山から発した手紙が「国道開鑿雑書」に綴じ込まれています。
そこに諶之丞は、次のように記します。
尚此度者、殊の外意外ニ幸福ヲ得タル義二て、四方山の御咄アリ、帰村次第万語
此頃者、道路開撃事業二付、軟掌御中へ彼是御手数相供、厚ク御配慮二預り、万々実二好都合二御座候、予而御噂申上候官員御中ハ日割ヨリ一日速着相成、琴平二於而少シク残念之廉もアリタレトモ、昨夜箸山ニテ御泊、充分下拙の考慮ヲ開伸、且ツ昨日者琴平ヨリ箸蔵迄同行、実地充分二吐露、
大二見込モ被相立候趣二候、さて今般見積り之開菫事業者、真二未曽有ノ大工事ニシテ、今此時憤発従事、身命ヲ抱ツトモ、是非此功ヲ奏セスンハアルヘカラズ、而メ過日来御高配被降候猪ノ鼻開鑿願、大至急差出サステハ其都合ノあしき事アリ、依テ願書今二通並ニ目論見書三通、至急御認置可被降、図面者明日帰村次第、御衛へ参上、御相談可申上候、次ニ目論見書へ小字記入不被成方、却而よろしく、番号ノミ御記入可被下候
明治17年十月三十一日朝 箸山二て   誰之丞
篠崎嘉太治殿
  意訳変換しておくと
 この度の視察のことについては、期待した以上の成果が挙げられそうである。積もる話もあるが帰り次第に伝えたい。道路開撃事業について、数々のお手数と配慮をいただいていることが、好結果につながっている。感謝したい。
 高知からの視察団は予定よりも一日早く到着した。琴平では少残念なこともあったが、宿舎では、私の計画案を充分にお聞きいただいた。また昨日は、琴平から箸蔵寺まで同行し、測量結果などのデーターを示しながら現地説明を行った。大いに見込ありとの意を得た。さて今回の見積開鑿事業者について、未曽有の大工事になるので、憤発して従事し、身命をかけて取り組む決意の者でなければならない。
 先日にお見せした猪ノ鼻開鑿願について、至急に提出するのは不都合なことが出てきました。そのため願書と目論見書三通を、至急作成していただきたい。図面については、明日に私が帰村次第、持参し相談するつもりです。なお計画案への小字の記入は必要ありません。番号だけ書き入れて下さい。

  四国新道構想実現の手応えを感じた諶之丞の興奮・気負いが伝わってくるとともに、猪ノ鼻開鑿願書について次のようなことが分かります。
①猪ノ鼻開鑿願書は、この時点では提出されていなかったため、至急提出しようとしていること
②村戸長篠崎嘉太治と頻繁に情報を交換や協議を行いながら、対応をすすめていること。つまり、大久保諶之丞のスタンドプレーではなくチームプレーとして進められていること。
③猪ノ鼻開鑿願書を提出することで、猪ノ鼻ルートを有利にしようと考えていたこと
大久保諶之丞 高知県ヨり徳島県を経て本県多度津丸亀に達する道路願
道路開削願いに添付された別紙図面

ここからは、高知県への働きかけの結果、高知から調査団が調査団が派遣され、二つのルートを視察・比較して、猪ノ鼻ルートの方が有利であるとの「内諾」を得たことがうかがえます。ルート決定について、直接に高知県令に直接談判に赴いたというのは、あまりに荒っぽい話で現実的でないことが、これまでの諶之丞の動きから分かります。ひとつ一つを積み上げていく着実な対応ぶりです。
ここまでを研究者は、つぎのようにまとめています。
①阿讃国境に位置する財田上ノ村に生まれ育った誰之丞は四国新道に取り組む以前から、財田上ノ村において、阿讃間の道路の開鑿・改修に取り組んでいた。
②そのような中、三野豊田郡長として赴任してきた豊田元良と出会ったことにより、琴平・猪ノ鼻峠を通る四国新道が構想された。
③誰之丞が、阿讃国境の猪ノ鼻の開整に着手しつつあった明治17年、高知・川ノ江間の国道開撃計画が浮上した。
④この動きを受けて、誰之丞と豊田元良は、讃岐を通る猪ノ鼻ルートへの改線に向けて活動を開始した。
⑤活動内容の詳細は不明であるが、高知や徳島の有志と連絡をとりつつ改線の機運を高めていった。
⑥その結果、明治17年10下旬には高知県視察団が猪ノ鼻ルートを巡視し、誰之丞等が提唱する路線実現の可能性が高まった。

また、愛媛県史は新道建設について、次のように記します。
大久保ら「四国新道期成同盟会」の提出した「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ愛媛県多度津丸亀(現香川県)両港ニ達スル道路開発ニ付テノ願」を検討した。その結果、当初の「予土横断道路」開鑿計画(高知・川之江ルート)を拡大して多度津・丸亀路線を入れ、徳島県令酒井明にも働きかけて「四国新道」の実現を図ることにした。徳島県では、新道が阿波国西端の三好郡を通過するだけだから他の郡村には十分な便宜を与えないし、近年の不況と暴風雨による被害のため危機にひんした藍産業の救済に苦しんでいる状態なので、新道開さく費用の負担はできないとしてこの計画参加を渋ったが、愛媛・高知両県令の勧誘によってようやく承諾した。
こうして見てくるとひとつの疑問がわいてきます。
それは、「大久保諶之丞=最初の四国新道構想提唱者」についてです。大久保諶之丞や豊田元良が動き出す前に、高知県令は他県の道路建設の先進例を学び高知から川之江・松山を結ぶ「四国新道Vルート」案を国に提出しています。これが最初の四国新道構想と云えるのではないでしょうか。
この高知県の考えていた川之江・高知ルートを、猪ノ鼻ルートに変更することを働きか掛けて成就させたのが大久保諶之丞・豊田元良のコンビと云うことになるのではとも思えてきます。
ています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月

大久保諶之丞 大久保家年表1

大久保諶之丞の年譜を見ていると、1873年や77年に戸長辞任を願いでています。これを私は「三顧の礼」のような「謙譲の美徳」と思っていたのですが、どうもそうではないようです。なぜ、戸長を辞めさせてくれと大久保諶之丞が言っていたのか、当時の情勢や背景を見ておきたいと思います。
テキストは「馬見州一 双陽の道 大久保諶之丞と大久保彦三郎 言視社2013年」です
大久保諶之丞の家族 明治10年
大久保家の家族写真明治10年 
後列左から諶之丞・父森冶・母リセ
前列左から妻タメ・娘キクエ・サダ(妹)

大久保諶之丞の祖父と父の話から始めます。
 大久保諶之丞の祖父與三治は、讃岐三白といわれた砂糖の原料となる甘庶の栽培をすすんで取り入れて小作農家を育成したり、山道改修をおこなっています。跡継ぎは男子がなかったので、隣村十郷村(旧仲南町)田中源左衛門の長男森治(文政八年。1825生)を、その利発さを見込んで頼み込んで養子に迎えます。これが諶之丞の父になります。森治は、與三郎が見込んで養子に迎えた人物で、文武に秀でているばかりでなく、人柄は温厚篤実で近隣の住民からも親しく信頼されていました。
 父森治は、與三郎を尊敬し、その意志を継いで池を作り新田開発をしたり、同村戸川(御用地)で藩御用の菜種油製造をして、藩から二人扶持を与えられています。父祖は、実業に熱心だったことがうかがえます。                        
 森治は、大久保家の養子になる前は、十郷村田中家の長男として、若いころの香川甚平の塾に出入りしていました。甚平の語る陽明学とは、次のようなものです。

「知行合一」で「心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を生み出す。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多い。よって先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。」

陽明学は行動主義で、本の中に閉じこもる学問ではありません。幕末の志士たちのイデオロギーともなった思想です。 後には、諶之丞や弟の彦三郎も香川甚平の塾で学び、陽明学を身につけていきます。
 大久保家では曽祖父権左衛門から「直」の字を字に取り入れています。人が生きるのに最も大切なものであるのは「直」であるという考えが家の中に一本通っていたと云えるかも知れません。
  「直」には、ただしい心、ただしい行の意味があるようです。
 森冶は、自らを「直次」と称し、長男菊治は「直道」、三男諶之丞は「直男」、五男彦三郎は「直之」と称させています。そして折に触れて「直」のもつ意味と、生きる方向を伝えたのでしょう。
 後に尽誠学園を開く彦三郎は、父森治61歳の還暦祝のときに、「家厳行述」と題して父の伝える家訓「直」を讃える漢詩を作っています。
大久保諶之丞3

18歳で結婚し、諶之丞は、明治5(1872)年24歳の時に、財田上の村役場吏員となります。その間には、長谷川佐太郎が指揮して、約20年前に崩壊していた満濃池再築工事(1870年)に参加して土木技術と「済世利民」の理念を身をもって学んでいます。ここには父や祖父の意思を継いで、地域に貢献しようとする意思が見えます。

讃州竹槍騒動 明治六年血税一揆(佐々栄三郎) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

このような中で明治6(1873)年6月西讃竹槍(農民)騒動(血税一揆)が起きます。
 明治維新の「文明開化」の名の下に、徴兵制や学制などの近代化政策が推し進められます。地元の女達からすれば徴兵制は、兵士として夫や子どもを国に取られることです。義務教育制は、学校建設や授業料負担を地元に強制するモノです。新たな義務負担と見えます。それを通達する地元の役人たちも、江戸時代の村役人のように村の常会で協議での上で決定というそれまでの流儀を無視するものでした。しかも、それを行う村の役人は庄屋に代わって、あらたにそのポストに成り上がって、威張ったものもいました。全国の農村で、現場無視の近代化政策への不満と、現場役人たちへの不満が高まっていたようです。
明治時代(1)⑤ ちょっと怖い「徴兵令」… : ボケプリ 涙と笑いの日本の歴史
発端は、三野郡下高野村で起きた娘の誘拐事件で、次のように伝えられます。
下高野村の夕方のこと。ひとり蓬髪の女が女の子を抱え、連れ去ります。「子ぅ取り婆あ」に娘がさらわれたという騒ぎに、住民が手に手に竹槍をもって集まり、さらった女を取り押さえなぶり殺しにしようとします。それを阻止しようとした村役人や戸長に対して、日頃の不満が爆発し暴動に発展します。これがあっという間に、周辺に広がります。26日豊田郡萩原村(現観音寺市大野原町萩原)へ向かって進んだ後、翌27日には、群集の蜂起は2万人にも膨れあがり、三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに丸亀へと進んで行きます。
 その背景には、「徴兵検査は恐ろしものよ。若い児をとる、生血とる」という「徴兵=血税=血が採られる」いうフェイク情報がありました。また、一揆の掲げたスローガンを見ると「徴兵令反対、学制反対、牛肉食による牛価騰貴、貧民困却」などが挙げられています。ここからは、徴兵制や学制など明治政府の進める政策への民衆の不満に自然発火的に火が付いたことがうかがえます。暴動の襲撃目標は、近代化の象徴である小学校、戸長事務所、戸長宅、邏卒出張所などに向けられます。約600の家屋が焼打ちにされたと報告書は記します。この内の48が小学校とありますので、義務教育の強制に対しても住民は不満を持っていたことが分かります。その背景には学校経費として丸亀・多度津では一年につき最下層でも25銭の負担が住民に課せられるようになったことがあるようです。

西讃竹槍騒動 進行図
西讃竹槍騒動の一揆軍と鎮圧部隊の進行図
財田上の村では、戸長、副戸長宅、品福寺、宝光寺など家屋十軒が火災被害にあっています。
森治が村の副戸長、諶之丞が村吏をしていたために大久保家も焼打ちにあいます。ちなみに後に出された大久保家の被災届には、次のように記されています
「居宅、座敷、竃場、湯殿、作男部屋、雪隠、釣屋、懇屋、牛屋、薪屋、油絞屋、勝手門、土蔵三棟など三百坪に及ぶ屋敷」

森治の屋敷は、長屋門を構え300坪のる大きなものであったことが分かります。
このあとすぐに、父森治は副戸長を、諶之丞は役場吏員を辞しています。翌年の明治七(1874)年には、大久保家は財田上の村戸川に自宅を再築します。村の政治から手を引いた大久保家ですが、村民の大久保森治家、とくに諶之丞に対する信望は厚かったようです。固持しても、とうとう担ぎ出されて諶之丞は、明治八(1875)年に、副戸長(副村長)となり、4カ月後には27歳の若さで戸長(村長)になっています。兄菊治は村の小区会議員に担がれています。
  諶之丞は一揆のことを、教訓として次のように日記に書き残しています。
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」

 「合意と実行」が政策を進める上での教訓となったようです。
この事件は、大久保家にとっては大きなトラウマとして残ります。。
 諶之丞が戸長になることについて、父森治は別として義母リセ、妻タメをはじめとする家族の心配や小言が絶えなかったことが諶之丞の日記からはうかがえます。この時期は、明治9年熊本神風連の変、前原一誠萩の乱、明治10年の西南の役と続いた世情不安定な時代です。戸川に再建した自宅も、あの西讃竹槍騒動のときのように再び焼打ちに遭うのではないか、諶之丞の身に危険が及ぶのではないかという心配が家族にはあったのです。諶之丞が戸長を辞めたいと再三のように嘆願しているのは、家族の声を聞いてのことのようです。しかし、それもかなわないまま明治12年まで戸長を続けます。
財田上の村荒戸組三十二名連判の明治十年六月「村民条約書」が残っています。意訳すると次のようになります。
戸長の大久保甚之丞殿より何度も辞職願が提出されているが、村民一同より辞めないで続けてくれるように、何度もお願してきた。同氏は資性才敏にして、村内の利益を第一に考え、村民を保護安堵させてくれていりので、我々一同お蔭で助かっています。元来同氏は、役員(人)となることは不本意で好まないところですが、村内が選ぶので命用されます。そのたびに上司に辞任届を出しますが承諾されず、村民もひたすらこれを推戴して、ついに今日に至った次第です。
 先年農民の暴動(讃岐血税一揆)は、役員(人)と見れば問答無用で居宅を放火し、その人物の如何を論じない。同氏もその災害に罹った。一揆が突然だったために、焼き討ちを止めるいとまがなく遺憾極まりない。
 大久保家の家族は、先年の暴動に懲りて吏職を嫌うようになりました。奉職している諶之丞氏は、不本意だが村民の情実を汲みとつて勉励してくれています。村民において、同氏に報いる義務なくしては、実に相済まない。そのため以下の条件を約し連判するものである。万一、条約に背いた者は、村内一同より罰責する。
第一条
村民大久保氏を推戴して戸長となつている以上はその指揮に間違いなく従います。いやしくも意見があれば直ちに忠告をし、親睦補佐して、利害を共にし憂楽を同じくすること。
第二条
    万一、先年のごとき奸民暴挙、官吏を傷害することがあって、大久保氏をも禍いしようとすれば、村民一同相率いて居宅家族を囲統守護して、乱暴の者は即刻排除すること。
第三条
万一、乱民暴動を防ぎ切れず居宅が毀わされ焼かれたときには、村民一同その居宅の新築費用を助成すること。
右三条硬く守り決して違背しません。
「荒戸組」というのは、藩政時代の行政組織として財田上の村にあった集落のことです。東から山分組、荒戸組、石野組、朝早田組、さらに財田川北川の北地組と五つの組がありました。大久保家が属していた石野組とは別の隣り組です。荒戸組だけでなく、五つの組すべての村民が、組それぞれにこのような連判状を作って諶之丞に差し出したことがうかがえます。それほど村民の信望は厚かったようです。

戸長については、明治四(1871)年四月に戸籍法が定められ、戸籍吏として戸長・副戸長が置かれます。
戸長は、この戸籍吏に土地人民一般の事務を取扱わせたものです。大区には区長、小区には戸長が置かれました。この時の戸長は、民選したものを郡長が指名しまします。戸長の職務は、県・郡からの通達徹底、戸籍整備、租税徴収、小学校設置、徴兵調査などで、政府の中央集権政策の末端遂行機関でした。ここには、衛生福祉などサービス的な要素は一切ありません。小さな政府の小さな役所で、戸長の家が役所として使われていた所も多かったのです。そのために、農民騒擾が起ると、その攻撃対象に戸長宅がなることが多かったようです。
 また江戸時代の村役人とは異なり、権威主義的な統治手段がとれません。村民と権力側の板挟みになる立場のために旧庄屋層は戸長就任を嫌うことも多かったようです。例えば、明治になって満濃池再築を行う榎井村の大庄屋の長谷川佐太郎も戸長に選ばれますが、すぐに辞退しています。

   諶之丞が、財田上の村戸長をしていたときのことです。
財田上の村では、品福寺内に学校を置いていましたが、一揆以後に新たに小学校を建てることになります。当時の義務教育は、全額が地方負担です。国は何の補助も出さずに、地方に義務教育の普及を命じます。村の予算の1/3が学校建築や教員給与となっていた時代です。受益者負担で、そのため村民は授業料も負担しなければなりませんでした。この義務教育の強制は徴兵制施行とともに、村人の怨嗟の的になります。「讃州血税一揆」の原因となったは先ほど触れた通りです。
 このような中で、戸長を勤めていた大久保諶之丞がどのようにして学校建設を行ったのかを見てみましょう。
 彼は、少しでも村の財政負担を少なくするために近隣の山林を多く所有する神社寺院や村民などから木材を寄進してもらおうと、村内を駆け回つています。校舎建築のための材木確保のためです。
  その頃の村のわらべ歌に次のようにうたわれていたと云います。
大久保諶之丞は  大久保諶之丞は
日暮のカラス
森をめがけて飛んで行く
公務を終えて夕方になると小学校建築のため奔走していた当時の諶之丞の姿が、村民の親から子に言いはやされていたようです。その姿が目に浮かぶようです。

明治9年12月、財田上の村は、「学校新築を勧むる諭言」を出しています。
学問の必要性と学校新築の重要性を論じ、金のある者は多額の寄金を、そうでない者は竹木縄薪夫力を提供することを求めたものです。おそらく当時の戸長であった諶之丞が起案した文書でしょう。明治8年4月に戸長になった諶之丞は、すぐに校舎新築のために動き出したようですが、資金力に乏しい村では完成までの資金が不足します。校合完成のために村民全体の世論を高め協力を求めた書面のようです。建築資金の支払は、明治12年までかかっていますが、校合はそれ以前には出来上がっていたようです。財田上の村の春魁小学校、雉峡小学校の校舎は、このようにして建築された。ここには、血税一揆から学んだ次の教訓が活かされています。
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」 

 学校建設においても、強制的に資金を割り当てて徴収するのではなく、その必要性を手間暇掛けて村民に膝つき合わせて説いて、財力に相応した資金提供を求めています。それが新たに出来だ学校を「自分たちが創った学校」と村民に意識づけることになったようです。この手法が、大久保諶之丞への信頼につながり、彼のファンを増やしたのかもしれません。これは新道造りにも反映されていきます
以上をまとめておくと
①大久保諶之丞の父森冶は、陽明学を学び、それを経営の柱に位置づけようとした。
②そのためため池や道路工事などに積極的に関わり、信望の厚い人物で、それが諶之丞にも受け継がれていくことになる
③明治維新後、父は森治副戸長、諶之丞は役場吏員を務めていたが、西讃血税一揆の際に家が焼き討ち対象とされた。
④このため大久保家では諶之丞が戸長などの公的なポストに就くことに反対する雰囲気が強くなった
⑤その意を受けて、諶之丞は何度も戸長辞任願いを提出しているが、受けいれられることはなかった
⑥このような大久保家の心配を受けて、財田上ノ村の5つの地区は、それぞれが留任嘆願書を出している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「馬見州一 双陽の道 大久保諶之丞と大久保彦三郎 言視社2013年」
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大久保諶之丞の開通させた道路
  大久保諶之丞が四国新道以前に取り組んでいた新道一覧

 大久保諶之丞が20代~30代にかけて財田上ノ村周辺の廃道の開鑿や整備に取り組んでいたことを前回は見てきました。今回は、彼が四国新道構想を抱くようになった時期と契機を見ていきます。テキストは、 「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
大久保諶之丞の四国新道構想に大きく関わっていたのが豊田元良(もとよし)のようです。
 彼は1850年(嘉永3年) 生まれで明治維新を28歳で迎えたことになるので、大久保諶之丞と、ほぼ同年齢になります。讃岐・丸亀藩の高畑家に生まれ、後に琴平の豊田家の養子となります。彼の官暦を見ておきましょう。
明治14年9月、三豊郡長
明治16年11月~17年3月まで、仲多度郡長を兼務、後任の福家清太郎が
明治18年3月 ~23年11月まで再び仲多度郡長
明治23年11~  再度三豊郡長に転出、
明治32年~37年 市政を施いた丸亀市の初代市長就任、
仲多度郡と三豊郡の郡長を20年近く務めた後に、初代の丸亀市長を務めて引退している人物です。この期間に、多くの人間ネットワークを築いて大きな政治力を発揮した人物でもあるようです。この時代の郡長というのは、各村が小さく戸長の実権が小さいのに比べると、実権も強く大きな力を持つ存在でした。
 三豊郡長に豊田元良が赴任したのは明治14年9月、36歳の時になります。これが大久保諶之丞との出会いになるようです。この前年に、大久保諶之丞は学務委員として、上ノ村に勤務しています。

大久保諶之丞 大久保家年表2
大久保諶之丞年譜 調査報告書より

  豊田と大久保諶之丞の最初の出会いは、どんなものであったのでしょうか。
豊田元良が四国新道開鑿当時を回顧した「四国新道開鑿起因(四国新道主唱ノ起因)」には、四国新道開鑿の発端について、次のように記されています。(意訳変換)
私(豊田元良)は明治九年ころから四国の道路が狭く曲折しており、金刀比羅宮への参拝者に不便であるため、四国を貫通する道路開通の必要性を認識し、金刀比羅宮司深見速雄や禰宜琴陵宥常にその計画を語った。その手順は、まず多度津・琴平間の道路を開通させてモデルを示し、次第に四国に広げていくというものであった。測量調査も始めていたが、明治10年の西南の役で、中断やむなきにいたった。
   明治14年に私が三野豊田郡長になり、その年の11月に郡内巡回で財田村を訪れた時に、初めて大久保諶之丞と会った。その時に四国新道の計画を述べると、諶之丞は手を打って賛同し、握手してその成功を誓い合い、さらに猪ノ鼻峠をともに視察した。
 そこで、私は金刀比羅宮司から新道工費二万円の寄付の約束を取り付けるとともに、愛媛県知事関新平へ願書を提出する準備を進めた。一方、諶之丞には徳島県三好郡長武田覚三、高知県知事田辺良顕と面会し、賛同を求めるよう指示し、四国新道開整に向けて行動を開始した。
 実際の文章には克明な描写もあり、興味深いものですが、新道が完成してから後年に記されたものなので、年月日の誤りなど不正確な部分もあり、とりあつかいには「慎重な検討が必要」と研究者は考えているようです。
 ここで、研究者が注目するのは、豊田元良が明治9年という早い段階で四国新道開整を計画していたということです。その計画をまとめておくと次のようになります。
①金比羅への参拝者の便をはかるために、琴平を中心とする四国縦貫道路開通を目的としたこと。
②その第一段階として、多度津・琴平間から着手する計画だったこと。
③その財政的支援を金刀比羅宮の宮司や禰宜から取り付けていたこと
④多度津・琴平間以外の路線については、どこまで具体的な考えがあったかは不明

1大久保諶之丞
大久保諶之丞と弟の彦三郎(尽誠学園創立者)

次に、明治14年11月に豊田と諶之丞が初めて対面したことについて見ておきましよう。
 裏付けとなる諶之丞の日記が、この時期の部分が欠けているようです。そのため正確なことは分かりません。しかし、明治14年のことと推測される12月20日付の諶之丞から弟彦三郎に宛てた手紙に、次のように記されています。

郡長巡回、学事道徳ヲ述ノ件ヲ懇話シ、且勧業二注ロスル体ナリ

ここからは、諶之丞と郡長の豊田が面会したことが裏付けられます。しかし、「学事と勧業」のことは触れられていますが、肝心の四国新道については何も記されていません。先ほど見たように豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、出会ってすぐに意気投合して具体的に四国新道の計画を語り合い、すぐさま二人がその実現に向けて動き出したように記されていました。しかし、諶之丞の手紙からは、そこまで読み取れないようです。勧業のなかに四国新道構想の話題も出たのかも知れませんが、この段階では、まだ具体的な行動に着手するまでには至っていなかったと研究者は考えているようです。そして、諶之丞明治15年9月5日付けで、学務委員から勧業世話係(地域振興係)に移動しています。道路建設などにあたる係を担当することになったようです。
 別の史料としては、「大久保諶之丞君志(土木之部)」の中には、次のように記されています。
明治十四年ノ頃、豊田元良氏ノ三野豊田郡長二任セラルヽヤ、夙ニ親交ヲ呈シ施政ノ方針ヲ翼賛シ、勧業・教育ノ事柄ニツキ、渾テ援助ヲ呈セザルナク、豊田氏モ亦深ク氏ガ身心ヲ公益二注クノ人タルヲ重ンジタリ、故二氏ノ意見トシテハ呈出セルモノハ大二注意ヲ払ヒテ荀モスルコトナカリキ、故二今氏ノ手記ニツイテ見ルモ、親交イト厚ク、来往モ亦頻繁ナリ、而メ一トシテ世益二関セサルハナカリキ、
 星移り歳替り明治十六年ノ春二至り四国新道開鑿ノ件ヲ談議ス、豊田氏案ヲ叩イテ大二賛助ノ意ヲ表シ、直接卜間接トヲ問ハズ助カスベキコトヲ折言ヒタリ、爰二於テ氏力意志確固不抜ノ決意ヲ為セリ、爾後時ノ愛媛県令関新平氏二賛助ヲ求メ、一方徳島県三好郡長武田覚三氏ニモ賛助ノ誠ヲ折言ハレ、大二氏ガ意志ヲ安ンセシムルニ至レリ、

  意訳変換しておくと
明治14年頃に、豊田元良氏が三野豊田郡長に任じられると、二人の親交は急速に深まった。大久保諶之丞は、豊田郡長の施政方針を理解し、勧業・教育の政策実現に能力を発揮した。豊田氏は、公益のために活動する人物を重んじたので、諶之丞が提出する意見書などには、大いに注意をはらい、見過ごすことがなかった。今になって大久保諶之丞の手記を見てみると、二人の親交が厚く、頻繁に会っていたことが分かる。
 こうして、明治16年の春になり、四国新道開鑿のことが話題に上ると、大久保諶之丞は豊田氏案を聞いて、大いに賛助の意を示し、直接・間接を問わず助力することを申し出た。ここに諶之丞爰の四国新道にかける意志は確固たるものになった。こうして、愛媛県令関新平氏に賛助をもとめ、一方徳島県三好郡長武田覚三氏にも賛助を求め、この二人の賛意をえることができた。

ここからは、次のようなことが分かります。
①明治14年に、豊田元良氏が三野豊田郡長に赴任後に、大久保諶之丞との親交が始まった。
②豊田郡長は地域振興に意欲的な活動をしていた大久保諶之丞に目をかけた
③明治16年に四国新道開鑿が議題にあがり、豊田案による実現に向けての具体的な活動が始まった。
  ここでは二人が四国新道建設を談議したのは、明治16年の春としています。
豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、豊田元良が諶之丞に、高知県令田辺良顕を訪ねて賛同を求めるよう勧めたことが記されていました。田辺県令が高知に赴任するのは、明治16年3月です。ここからも明治16年の春に、四国新道建設向けての陳情活動は始まったと研究者は考えています。

大久保諶之丞 四国新道
 ふたりの立場を再確認しておくと豊田元良は三野豊田郡長で、大久保諶之丞は村役場の職員です。
今で云うと県知事と、町の職員という関係でしょうか。決してパートナーと呼べる関係ではありません。年齢的には同世代ですが、誤解を怖れずに云うならば「師匠と弟子」のような関係だったと私は考えています。
それでは四国新道構想を最初に打ち出したのは、どちらなのでしようか?
史料では「四国新道開鑿起因」「大久保諶之丞君志(土木之部)」のどちらもが、豊田元良から諶之丞へ四国新道構想を提示したと記します。特に「四国新道開鑿起因」では、豊田は明治9年という早い段階に、四国新道の必要を認識し、行動を開始していた自分で述べています。それを史料的に確認することはできません。
「追想録」には、豊田元良のことを次のように記します。
「殖産興業に関する様々な事業を構想し、あるものは実行に移し、またあるものは実現ぜず、中途で終わったものも多くあった」

この中には吉野川疎水計画など規模が壮大で夢のような計画も多くあったようです。大言壮語と評される豊田が、四国新道の構想を抱いていたことは大いに考えられます。また、諶之丞も満濃池再築に若い頃に参加して以来、建設・土木技術を身につけ、上ノ村周辺の道路整備を行ってきたことは前回に見たとおりです。豊田元良の夢のような構想に、大久保諶之丞がすぐに惹きつけられたことは考えられます。すでに諶之丞は、財田上ノ村と関わりの深い阿波・讃岐間の道路修開築等に取り組んでいました。
 そんな中で豊田元良と出会い「四国新道構想」を聞かされたのではないでしょうか。それは、いままで、自分がやって来た新道建設のゴールが多度津にあること、さらに猪ノ鼻を経て阿波・土佐へ伸びていく四国新道構想へとつながっていくことが見えてきたことを意味します。それは、財田上ノ村を中心とした地域に限られていた諶之丞の視野と活動を四国全体へと広げるものとなったのかもしれません。大久保諶之丞は、自分が開いてきた道の意味と、これから自分が為すべきことをあらためて知ります。それは「啓示」であったかもしれません。豊田元良との出会いが諶之丞に与えた影響は大きかったと私は考えています。
 諶之丞は、この構想をさらに多度津から瀬戸内海に橋を架けて、四国と岡山を結ぶという「夢の大橋」構想へと育てていくことになります。

最後に、豊田元良の人物像についてもう少し見ておくことにします。
  明治末に香川で出帆された「浅岡留吉『現代讃岐人物評論 一名・讃岐紳士の半面』宮脇開益堂、1904年。」には、次のように評されています。
大久保諶之丞と豊田元良

意訳変換しておくと

     前丸亀市長 豊田元良
世間は豊田元良を評して「大言壮語の御問屋」と云う。
突拍子もない空想家という言葉も当たらぬことはない。
確かに元良先生は、細心綿密という人物ではない。しかし、その言葉は20年後を予測したものであり、その行動は4半世紀後のことを考えた上でのことに過ぎない。我はむしろ豊田先生の大言壮語に驚く讃岐人の器量の小ささを感じる。(中略)

大久保諶之丞と豊田元良2

前略
豊田元良先生の説かれた吉野川疎水事業や、瀬戸内海架橋のような構想も、西洋人に言わせれば規模の小さいものである。豊田元良先生にはもっとスケールの大きな世間があっと驚くような大々事業を提唱して欲しい。今や日本はアジアの絶海の孤島ではないのだ。ユーラシア大陸がわが日本の領土に入るようなときには、黒竜江に水力発電所を建設し、中国・朝鮮の工業発展の振興に尽くす。これこそが豊田先生にふさわしい大事業である。余生を大陸経営に尽くして欲しい。
これが書かれたのは日露戦争が勃発する1904年のことです。この年に豊田元良は丸亀市長を退いています。ある意味、全ての官暦を終えた時点での地元ジャーナリストによる人物評価になります。
最初に、世間の人たちは豊田のことを「大言壮語の卸問屋」、「絶大突飛の空想家」と否定的にみていたことが分かります。確かに細心綿密の人ではなかったようです。しかし、親分肌で、長い郡長時代に信頼できる「子分」を、数多くかかえた政治的な実力者であったことは確かなようです。
 彼は四国新道以外にも、「吉野川疎水事業や、瀬戸内海架橋説」のような構想も持っていて、常々周囲に語っていたことが分かります。この筆者は、これらの構想を豊田元良の着想だとしています。
豊田元良と親密で、行動を共にすることの多かった大久保諶之丞も、常々にこのような大言壮語を聞かされていたのでしょう。吉野川疎水事業や瀬戸内海架橋構想説も、後に大久保諶之丞の口から形を変えて語られるようになるのかもしれません。
以上をまとめておくと
①大久保諶之丞は、財田上ノ村周辺の新たな道路建設や整備を継続的に行っていた
②明治14年に三豊郡長に赴任してきた豊田元良は、大久保諶之丞の仕事ぶりや活動に注目し目をかけるようになった。
③明治16年に四国新道構想が豊田元良から語られると、大久保諶之丞はそれを「啓示」と受け止め実現のために一心に活動を開始した。その背後には郡長豊田元良の支援があった。
④大久保諶之丞の情熱と能力・行動力を認めた豊田元良は、戸長や県会議員へと抜擢していく。

大久保諶之丞の四国新道建設計画の根回しや交渉については、ひとりの村の役人や指導者の能力を超えるものがあると常々感じていました。それを従来の伝記は「諶之丞=スーパーマン」として描くことでカリスマ性を持たせてきたように思えます。しかし、郡長の豊田元良の構想・指示のもとに大久保諶之丞が「特任大使」として動いたとすれば話は納得しやすくなります。後に郡長の紹介状があるので、県令や地域の要人も会ってくれるし、交渉ができるのです。個人の交渉だけで県の要人が動けるモノではありません。
 この報告書は新たな視点を提供してくれました。感謝


大久保諶之丞3

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」
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  大久保諶之丞が22歳(明治三年)の時に、幕末に決壊してそのまま放置されていた満濃池が約20年ぶりに再築されます。この大工事に大久保諶之丞は参加しています。そこで見たものは、長谷川佐太郎指揮下に行われる大土木工事であり、最新の土木技術でした。若き日の大久保諶之丞にとって、この時に見聞きしたことは強く印象に残ったようです。

 諶之丞が生まれた財田上ノ村戸川は、三豊市財田町の道の駅周辺になります。現在は、ここを国道32号線と土讃線が並んで通過し、戸川の南で讃岐山脈をトンネルで抜けています。これだけ見ると、戸川は「阿波街道の要衝」だったする文献がありますが、史料を確認するとそうとも云えないようです。
4 阿波国絵図3     5
阿波国絵図
例えば、1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図を見てみると、箸蔵街道も阿波街道も描かれていません。描かれているのは次の2ルートです。
⑥阿波昼間から尾野瀬山を経てのまんのう町春日への差土山ルート
⑦昼間から石仏越のまんのう町山脇への石仏越ルート
阿讃国境地形図 1700 昼間拠点

近世初頭の阿波側の拠点は昼間で、そこから讃岐側に伸びているのは春日と山脇です。
阿讃国境 山脇と戸川 天保国絵図
天保国絵図 石仏越のルートが財田上ノ村とつながっている

これが変化するのは、箸蔵寺が勃興して後のことです。箸蔵寺は修験者たちの活動で「金毘羅山の奥の院」と称して、近世後半以後に急速に教勢を伸ばしていきます。そして、先達たちが讃岐でも活発な活動を行い、箸蔵への誘引のために丁石や道しるべを建立すると同時に、参拝道の整備を行います。同時に街道を旅する人たちに無償の宿の提供なども行うなどのサービス提供を行います。この結果、参拝客の増大とともに参拝道の整備が進み、差土山ルートや石仏越ルートを凌駕するようになっていきます。そして箸蔵街道はそれまでの石仏越ルートに取って代わって、西讃地域における交通量NO1の街道に成長して行くようになります。
 もともとの箸蔵街道はまんのう町山脇から荒戸へ出て、太鼓木から石仏山に登り、二軒茶屋から箸蔵寺へ通じる道です。財田上ノ村は、石仏山への支線ルートを開き戸川をもうひとつの讃岐側の入口とします。こうして戸川は、それまでの水車の村から物流の人馬や、箸蔵寺への参詣者が往来し、阿波との交流が盛んな土地へと成長して行きます。
 それに拍車を掛けたのが明治維新です。江戸時代の阿波は原則は鎖国政策をとり、公的には讃岐との自由な商業活動は認めてはいませんでした。しかし、番所もなかったので往来は自由だったようです。明治維新になって、自由な往来が認められるようになると、阿讃山脈を越えての人とモノの移動が急速に増えます。大久保家資料の中にも、財田上ノ村と阿州間での綿代金支払いを巡る係争に関する文書や、明治三年の阿波から讃岐への煙草運送に係る運上金免除を求める嘆願書などが残されています。ここからは、明治になって急速に戸川が成長して行く様子が見えてきます。同時にその成長が、阿波との関係の深まりの中で遂げらたこともうかがえます。大久保諶之丞が19歳で明治維新を向かえた頃の上ノ村の様子とは、こんなものだったと私は考えています。若い彼にとって、地域発展(勧業)の鍵は、阿波との関係強化にある、そのためには近代的な道路整備が必要であるという認識が早くからあったとしておきましょう。
 諶之丞は、財田上ノ村周辺で、多数の道路修繕や新たな道路開設工事を、自力で行うようになります。つまり、四国新道建設以前に、彼の道路建設は始まっていたのです。諶之丞が明治18年に提出した「財田上ノ村道路開築井二修繕」には、彼が手掛けた7件の道路工事を次のように挙げています。
大久保諶之丞の開通させた道路

   「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」から

その経緯について「大久保諶之丞君(土木之部)」(24)には、次のように記されています。
明治八、九年ノ頃、高田倉松ナル人(仲多度郡四ヶ村)ノ人卜親交アリ、時々去来ノ際、同村ノ隣地仲多度郡十郷村字山脇ヨリ本郡財田上ノ村太古木嶺ヲ経テ徳島県三好郡箸蔵寺二至ル賽道ヲ開修スルノ計二及ヒ、遂二同氏及高田氏卜率先シテ主唱者トナリ、費用ノ大半ハ氏ガ私財ヲ以テ之レニ投ジ、余ハ賽者及有志者ノ義捐二訴へ、明治十四年ノ頃二成功ヲ看ルニ至リシナリ、然レドモコノ道路タルヤ、名ハ箸蔵寺参拝者ノ便二供セシニ過キスト雖、更二支道ヲ本村二開キ、従来ノ胞庖力式ノ難路ヲ削平、勾配ヲ附シ、稽人馬交通ノ用二資セシナリ、故二阿讃両国商買ノ歓喜ヤ知ルベキナリ、之レ氏ガ道路開鑿二於ケル趣味卜効見卜併セテ感受セシモノナラン、故ニ後年氏ガ四国新道ノ企ヲ為ス、 一二爰に胚胎セルモノナルヲ見ルニ足ラン乎、

意訳変換しておくと
明治八、九年頃、大久保諶之丞は高田倉松(仲多度郡四ヶ村)と親交ができて、行き来する間柄となった。二人は協議して、仲多度郡十郷村字山脇から財田上ノ村太古木嶺を経て、徳島県三好郡箸蔵寺に至る山道を開修することになった。大久保諶之丞と高田氏は、率先して主唱者となり、費用の大半は大久保諶之氏が私財をなげうってまかない、足らずは寄進や有志者の寄付を充てた。こうして、明治14年頃に、完成にこぎ着けた。これまでの箸蔵街道は箸蔵寺参拝者の参拝道に過ぎなかったが、支道を本村に開き、従来の難路削平し、勾配を緩やかにして、人馬が通れる街道とした。これによって阿讃両国の交流は円滑になり、商人の悦びは大きかった。このことからは、大久保諶之丞氏の「趣味」が道路開鑿であったことが知れる。ここに後年の四国新道に向かう胚胎が見える。

  ここに述べられているのは、諶之丞と高田倉松が協力して開いた箸蔵参詣道のことのようです。
大久保家資料には、この新開道を描いたと思われる「箸蔵さんけい山越新開道路略図」という木版刷の絵図が残されています。
大久保誰之丞 箸蔵さんけい山越新開道路略図
「箸蔵さんけい山越新開道路略図」

旧箸蔵街道が尾根沿いに曲がりくねって描かれているのに対して、新たに開かれた新開道が太く直線的に描かれています。尾根上ではなく山腹を直線的に水平に開いたことがうかがえます。

 高田倉松について詳しいことは分かりませんが、大久保家資料には高田倉松の書状が残されており、諶之丞の日記にも度々登場してきます。また、明治13年の「讃岐国三野豊田両郡地誌略全」の財田上ノ村の項にも、次のような記述があります。
財田上ノ村 郡中の東南隅にして海岸を隔つる三里余、東北西ノ三面は山岳囲続し特に南方は高山断続して阿波国三好郡東山西山ノ両村に交り四境皆山にして地勢平坦ならず。阿波山(阿波讃岐国境にあり、俗に称して阿波山と云う)北麓に南谷。猪ノ鼻両地あり、往事は山なりしが明治三年旧多度津藩知事京極高典始て開墾し、爾来日に盛なり、其麓に渓道と呼て一線の通路あり、険際にして僅に樵猟の往来するのみ、明治十年村人大久保諶之丞の労にヨり方今は馬車を通し商旅の便をなすに至る(26)

意訳変換しておくと
財田上ノ村は三野郡中の東南隅にあり、海岸線からは三里(12㎞)あまり隔たっている。東北西の三面は山に囲まれ、特に南方は讃岐山脈を隔てて阿波国三好郡東山西山ノ両村と村境を接する。四境すべて山で、平坦な土地はない。阿波讃岐国境の阿波山北麓に南谷・猪ノ鼻がある。かつては山中であったが明治三年旧多度津藩知事京極高典の時に開墾して、その麓に渓道と呼ぶ一線の踏み跡小道があるが、険しくて樵や猟師が往来に使うだけだった。それが明治十年に大久保諶之丞の労で、道が整備され、今は馬車が通るようになり、商旅の便に役立っている。

  ここには、諶之丞によって渓道の交通の便が改善されたことが特筆されています。
さらに「財田上ノ村道路開築井二修繕」には、「猪ノ鼻にも明治十六年ヨり道路を開築中」と記されています。
諶之丞の日記には、明治十四年十月三日「猪の鼻道荒見分」テ)、同十五年五月十八日「猪の鼻道路見分」(器)などの記述が見ます。ここからは、この頃には猪ノ鼻開鑿に着手しつつあったことうかがえます。後に、この猪ノ鼻を四国新道が通ることになります。逆の言い方をすると、以前から工事を進めていた猪ノ鼻ルートを、大久保諶之丞が四国新道計画に取り込んだとも云えます。
 以上のように、箸蔵道や渓道など、阿波への交通路を重視して、諶之丞が道路の修開築を行っていたことが確認できます。ここには「新道路開設が趣味」と書かれていますが、それだけで片付けることはできません。確かに讃岐山脈越えの峠道の整備は、大久保諶之丞の先見の明をしめすものといえそうです。それでは、これに類するような活動は他になかったのでしょうか。
 以前に土器川源流近くの阿讃峠・三頭越の金毘羅街道整備をを行った「道造り坊主=智典」を紹介しました。
 彼は生涯を金毘羅街道の整備に捧げていますが、見方を変えると「街道整備請負人のボス」という性格も見えてきました。例えば彼は明治三年段階で、「阿波の打越峠 + 多度津街道 + 三頭越」の3ケ所の大規模な工事現場を持っていました。彼は土木工事の棟梁でもあったのです。
  「勧進」を経済的視点から見ると次のように意訳できるようです。
勧進は教化と作善に名をかりた事業資金と教団の生活資金の獲得

 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。ここでは勧進聖人は、土木建築請負業の側面を持つことになります。
 勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業にも威力を発揮しました。それが、道昭や行基、万福法師と花影禅師(後述)、あるいは空海・空也などの社会事業の内実です。智典の金毘羅街道の整備にも、そのような気配が漂います。

  金毘羅街道整備の意義は?
金毘羅神は、文化文政期(1804~)の全国的な経済発展に支えられて、流行神的な金毘羅神へと成長していきます。全国各地からの参詣客が金毘羅に集り、豪華な献納物が境内に溢れ、長い参道の要所を飾るようになります。金山寺町の紅燈のゆらめき、金丸座の芝居興行と、繁栄を極めた金毘羅にも課題はありました。街道の未整備と荒廃という問題です。
嘉永6年(1853)の春、吉田松陰が金毘羅大権現にやって来ます。彼は多度津に上陸して金毘羅大権現に参拝し、その日のうちに多度津から船で帰っています。その日記帳の一節に次のように書き残しています。
「菜の花が咲きはこっていても往来の道は狭く、人々は一つ車(猫卓)を用いて荷物を運ばなければならなかった。」
 
幕末から明治にかけて、金刀比羅宮の課題は街道整備にあったようです。それをいち早く認識した山間部の地域リーダーたちは、阿波と道路整備を「地域起こしの起爆剤」と捉えたようです。財田上ノ村の大久保諶之丞の戦略も、これらの先進地の動きに学んだものであった云えそうです。
 もうひとつ気になるのは箸蔵寺の思惑と動きです。
箸蔵寺は「金毘羅山の奥の院」と称して、多くの山伏たちを擁し、讃岐にも先達として送り込んでいました。彼らは讃岐側に多くの山伏たちが定着し、布教活動とともに箸蔵寺への参拝道整備にも日常的に関わります。三豊の伊予街道を歩いていると、金毘羅標識と並んで箸蔵寺への標識となる燈籠や丁石が今でも数多く残っています。このように箸蔵街道は、信仰の道でもありました。諶之丞と協力して新たに箸蔵参詣道(水平道)を開いた高田倉松という人物も、箸蔵寺の山伏関係の有力者ではなかったのかと、私は想像しています。それを裏付ける史料はありません。
 以上をまとめておくと
①幕末から明治にかけて、阿讃山脈越の峠道の新たな整備が各地で行われるようになった。
②それは増える人とモノへの対応や、金毘羅参拝者の誘致など、地域振興策の一部として行われた。
③財田上ノ村若き指導者・大久保諶之丞も、そうした時代の動きに対応するように周辺街道の整備を行っていた。
④それが四国新道構想へとつながっていく。
四国新道構想は、何もないところから生まれたのではなく、それまでの地道な取組の上に提唱されたものあったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」
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大久保諶之丞4
大久保諶之丞 瀬戸大橋公園
大久保諶之丞の関係資料が香川県立ミュージアムに寄託されたようです。木箱何箱にもなる膨大なものです。この中には、四国新道建設に尽力し、瀬戸大橋構想を唱えた先駆者としても知られる大久保諶之丞に関する資料が多く残されています。諶之丞のことを知る根本史料になります。この資料に関わった研究者の調査報告書を見て行きたいと思います。テキストは「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
大久保諶之丞 財田上ノ村
財田上ノ村
大久保諶之丞以前の大久保家について
大久保家は、三野郡財田①上ノ村(現三豊市財田町)の豪農だったと伝えられます。生家は、財田町の道の駅をさらに国道32号沿い登っていった左側にありました。今は、小さな公園となっていて碑文が立っています。
大久保諶之丞生家記念碑
大久保諶之丞生家に立つ記念碑

大久保家の系譜としては、墓碑や位牌から寛政五年(1793)没の権左衛門、甚平、与三治、森治、諶之丞と継承されていった所までは辿れるようです。これに対して、大久保家資料で年号が分かるものを古い順に並べると、次のようになります。
①享保2年(1717)の「永代売渡シ申田地書物之事」で、宛名は市右衛門
②享保14年(1729)の「覚」で、宛名は権助
③延享四年(1747)の「永代売渡シ申田地書物之事」で、宛名は「大久保 権左衛門殿」
③の権左衛門が寛政五(1793)年の墓石に名前のある権左衛門と同一人物のようです。そして、①②の市右衛門や権助は権左衛門の先代に当るようです。彼らが大久保諶之丞の祖先ということになるとしておきましょう。
 以後の大久保家資料には、田畑の売買証文などが多く残っています。ここからは、江戸時代中期以降に大久保家が、土地集積を進めていった様子がうかがえます。

大久保諶之丞の墓
大久保諶之丞の墓 

大久保家が江戸時代に村役人を務めていたかどうかは分かりません。
しかし、明治初年には大久保森治が「調子役」を務めているので、それ以前から村内の有力者の一人であったことはうかがえます。また大久保家は、安政6年(1859)に多度津藩から財田上ノ村にあった御用水車請負を命じられています。明治になってからも、諶之丞の兄の菊治が分家として水車を利用して油店を経営し、御用地と呼ばれています。
  以上から私の気になる点を見ておきます。
①上ノ村が多度津藩に所属していたこと。
以前にお話したように、幕末の多度津藩は小藩ながら四国では珍しく藩を挙げての「富国強兵」策に取り組んだ藩です。「陣屋建設 + 多度津湛甫(港)」=軍事力近代化へと、藩内の富裕層を巻き込んだ体制改革が行われ、新規事業なども起こされていきます。そんな中で、新たな産業として注目されたのが水車です。財田川から水を引き入れた水車が有力者によって作られ、投資先となっていたようです。その権利を大久保家は入手していたことが分かります。
 大久保家を庄屋としている文献もありますが、私はそうは思いません。江戸後期になって水車請負などの新規事業に参入することにして、台頭してきた家ではないかと考えています。父の森冶が「調子役」を務めていたので「庄屋」出身とする本もあります。しかし、明治初頭の村の役人には、なり手がいなかったともいわれます。江戸時代の村役人のように、権威で村衆を押さえ込むことができなくなった地域では、村役人は新政府と村人の板挟みになり、苦労したようです。そのため旧庄屋層は役人になるのを避けるようになります。例えば、榎井村の庄屋であった長谷川佐太郎も戸長に任命されていますが、これをすぐに辞退しています。
 庄屋層にかわって村の指導者となったのが、その次の有力者層でした。大久保森治もこのような新興勢力の有力者で面倒見のいい人物だったことが想像できます。村のために活動する父を太助ながら諶之丞は、若き日をおくったのではないでしょうか。

 江戸時代の大久保家で研究者が注目するのは、諶之丞の曾祖父・大久保長松(直信)と祖父大久保与三治です。
ふたりはともに、二十四輩巡拝の旅をしています。二十四輩巡拝とは、浄土真宗の開祖親鸞の高弟二十四人の旧跡を巡拝することです。大久保長松の巡拝について、明治22年(1889)12月、東京滞在中の大久保諶之丞へ宛てて兄菊治が送った手紙の別紙に、次のように記します。
「文化十三子年六月十八日卒
帰真釈西流信士霊 此人仏法深重思、高祖聖人二十四輩巡拝出立メ、哀哉何国ノ土ヤ我ヲ待ラン、奥州先台田尻村ニテ死去ス、俗名大久保長松 直信コト明治廿二年迄七拾四年ニナル」
意訳変換しておくと
「文化十三(1816)子年六月十八日死亡
帰真釈西流信士霊 この人は仏法に深く帰依し、高祖聖人二十四輩の巡拝の旅に出立したが、哀しきかな奥州の仙台田尻村で亡くなった。俗名大久保長松(直信) 明治廿二年の74年前のことである。 

ここからは大久保長松が文化13年(1816)に、二十四輩巡拝の旅の途中、奥州仙台田尻村で死亡したことが分かります。その4年後の文政三年(1820)に、与三治が二十四輩巡拝を行っていることが残された寺院の宝印や縁起の摺物などを綴った冊子から分かります。与三治は、この時に仙台田尻村も訪れているので、長松を弔う旅であったのでしょう。
 ここからは大久保家には、親鸞を祖とする浄土真宗に対する厚い信仰心が根付いていたことがうかがえます。尽誠学園創業者である諶之丞の弟の彦三郎が、若い頃に浄土真宗の信心を持ち教宣活動を行うのも、この辺りに源がありそうです。この旅からもうひとつうかがえるとすれば、大久保家が19世紀初頭には長期旅行を行えるだけの経済力のある家であったことです。
大久保諶之丞 3
琴平公園の大久保諶之丞

大久保護之丞の経歴 について、見ておきましょう。
大久保諶之丞 大久保家年表1
大久保諶之丞 大久保家年表2

大久保諶之丞は嘉永二年(1849)、大久保森治とソノの三男として生まれています。明治維新を19歳で迎えたことになります。彼は、山脇の塾に通い陽明学を学び「学問・思想と行動の結合」という行動主義を身につけたようです。
 明治5年(1872)に父親が里長を退いた後に、村吏を拝命していますが、それ以前の諶之丞については、詳しいことは分かりません。資料からは、父・森治の下で、使いや名代として仕事を手伝っていたらしいことうかがえます。
明治三年には、長谷川佐太郎の満濃池再築に参加し、最新の土木建築技術に接したようです。この時に、身近に長谷川佐太郎が姿をみて、土木工事の差配ぶりや、その姿に影響を受けたと私は考えています。

 その後、明治5年5月に、香川県第七十区(財田上ノ村。財田中ノ村。神田村)の村役人に任命されます。明治6年の職務分課では「学校・土木・費用」を担当していたことが分かります。新政府のもとで、文明開化のために働いていると思っていた矢先に、民衆が彼の家を焼き討ちする事件が起きます。この年、新政府の方針に不満を抱く民衆たちが学校や役場・指導者の家などを打ち壊した讃州竹槍騒動です。村役人を務めていた諶之丞宅も焼き討ちに遭い、焼失しています。焼かれた家跡を見て諶之丞は、何を考えたのでしょうか。彼は八月ごろに辞職を願い出て、受理されています。民衆の怒りが新政府や自分に向けられた経験を、彼はこの時にしたのです。
その後の役職を一覧にしておきましよう。
明治8年4月、名東県第二十三大区六図  小区二等副戸長
同年 11月 香川県第十一大区六小区戸長を拝命
明治10年五月戸長解職を願い出てるが、村民から慰留され、翌年の11月まで戸長留任
明治12年7月学区世話掛
   同年8月三野豊田郡勧業掛
明治13年6月学務委員
明治15年9月勧業世話係
明治17年  愛媛県農談会員に選出。四国新道構想実現へ向けて活動開始
明治19年 四国新道起工 12月には、財田上ノ村外一ヶ村戸長を
命ぜられ、辞退したものの、結局戸長を引き受ける
明治20年3月 三橋政之率いる移民団が北海道へ向けて出発。以後、北海道移住奨励に取り組む
     6月 讃岐鉄道会社にヨる鉄道建設着工のために東京へ請願上京
明治20年8月、四国新道讃岐分の工事悉皆請負を知事より命じられ、同時に戸長を辞職
以後、諶之丞は私財をなげうち、借財までして四国新道開通に尽力。
明治21年3月 愛媛県会議員に当選
明治22年1月 分県を果たした香川県会議員に選ばれ、
明治24四年12月に高松の議場で死去

諶之丞の家族についても、報告書は触れています。
大久保諶之丞の家族 明治10年
大久保家の家族写真明治10年 
後列左から諶之丞・父森冶・母リセ
前列左から妻タメ・娘キクエ・サダ(妹)

諶之丞の兄弟には、長男菊治、次男実之助、長女コトミ、四男与三七、二女キヌ、三女サダ、五男彦三郎がいます。母ソノは五男彦三郎出生の翌年に亡くなって、森治は後妻リセを迎えています。
諶之丞の兄弟たちを簡単に見ておきましょう。
①長男菊治は分家して財田上ノ村戸川に油店を営み、明治15年には戸川郵便局も開設します。
②次男実之助は元治元年(1864)に20歳で死去。
③四男与三七は、仁尾の吉田家へ養子となっています。
④五男彦三郎は、東京の三島中洲の二松学舎に学び、明治20年京都で尽誠舎を開塾します。
後に彦三郎は病気ために京都から引き上げ、讃岐で尽誠学園を開きます。大久保家の兄弟たちは筆まめで、互いに音信のやりとりを頻繁に行っています。特に末の弟彦三郎と諶之丞は、離れた生活を送っていたこともあってか音信のやりとりが多く、そこには兄弟愛が感じられます。
 諶之丞は慶応二(1866)年に17歳で、大久保利吉の娘タメと結婚し、同年に長女キクヱが生まれています。
その後の明治16年には、同村の伊藤家から柚太郎(後に柚太郎、衡平と改名)を婿養子に迎え、キクヱと結婚させ、翌年には孫の豪が生まれます。大久保家資料には、孫の豪の代までの資料が含まれているようです。
大久保諶之丞 彦三郎
真ん中が諶之丞 右が弟彦三郎 左が養子柚太郎

諶之丞の名前の表記については、明治12年以前の資料には、自筆も含めて、いずれも「甚之丞(丈)」と記されています。明治13年4月頃から、「諶之丞」の表記が使われ始めます。この頃に「甚」の字を「諶」に改めたヨうです。また諶之丞は「直男」という別称も使っています。「直」は大久保家の通字で、父森治は「直次」、兄菊治は「直道」、弟彦三郎は「直之」を称していました。
大久保諶之丞2
北海道洞爺湖町の大久保諶之丞像
諶之丞没後の大久保家について
 大久保諶之丞は明治24年(1891)県庁議会場で討議中、倒れ込み高松病院へ運び込まれ、2月14日に尿毒症を併発し死亡します。それを追うかのように、2年後には養子の衡平も亡くなります。兄菊治の援助を受けながら、キクヱが大久保家を切り盛りしてしたようです。大久保家には、諶之丞の多額の負債が残されていました。大久保家の資産高を記した資料を見ると、明治25年4月には15町9畝2歩あった小作地が、明治26年には、6町1反4畝19歩の半分以下に激減しています。ここからは、土地を売って借金の返済に充てたことがうかがえます。また、借金返済のために頼母子講も実施していたと伝えられます。
また、大久保菊治の経営する油店も多額の負債をかかえていました。
そのため明治32年には親族会議を開き、負債の返済計画を立てるとともに、親族の共同経営とすることにします。最終的には油店の経営を大久保本家が引き取っています。そのため、大久保菊治や油店、戸川郵便局に関する資料も一部、大久保家資料に含まれているようです。
大久保諶之丞の金銭出納帳
大久保諶之丞の残した金銭出納帳

このほか、諶之丞亡き後の妻キクヱは、財田村処女会長などを務め、日露戦争時には、救性のための募金活動を行うなど、社会事業に取り組んでいます。また、孫の大久保豪は、財田村会議員を務め、大久保彦三郎が創設した尽誠舎の経営にも携わました。そのため尽誠舎の経営に関する書簡類も残されています。
大久保諶之丞への書簡
大久保諶之丞に宛てられた書簡
大久保家に残された資料は、点数934件、 13190点で、県立ミュージアムに寄託された時には14の木箱に分けて収められていたようです。この中には、大久保諶之丞が取り組んだ四国新道関係の資料がまとまっているほか、諶之丞宛の書簡類も残されています。特に明治19年以降、数が多くなっているようです。この背景には四国新道事業に取り組む中で人間関係が広がり、手紙のやりとりが多くなったことが考えられます。手紙の中には、三野豊田郡長豊田元良や多度津戸長大久保正史、多度津の豪商であった景山甚右衛門からの手紙も多く残されていて、諶之丞と親しく交際し、協力し合っていた様子がうかがえます。
 また香川県土木課の監督官や諶之丞のもとで工事を担当していた人物、愛媛・高知・徳島の新道工事関係者などからの手紙も多く含まれており、四国新道工事の具体的な状況がうかがえます。また、以前にお話しした北海道移民関係の資料なども数多く含まれています。
  次回は、この史料を見ながら大久保諶之丞が四国新道の建設に向けて動き出す様子を見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
  テキストは「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
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多度津港 船タデ場拡大図
       多度津港の船タデ場(金毘羅参詣名所図会4巻1846年)

 以前に「塩飽水軍は存在しなかった、存在したのは塩飽廻船だった」と記しました。そして、塩飽の強みのひとつに、造船と船舶維持管理能力の高さを挙げました。具体的な船舶メンテナンス力のひとつとして紹介したのが船タデ場の存在でした。しかし、具体的な史料がないために、発掘調査が行われている福山市の鞆の浦の船タデ場の紹介で済ませ、塩飽のタデ場は紹介することが出来ませんでした。昨年末に出された「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」を読んでいると与島にあった船タデ場が史料を用いて詳しく紹介されていました。今回は、これをテキストに与島の港と船タデ場を見ていきたいと思います。

どんな舟が与島に立ち寄ったのでしょうか?
与島港寄港船一覧

坂出市史は、上のような廻船の与島寄港表を載せています。
右側の表は、寄港した58艘を船籍の多い順に並べたものです。
上位を見ると阿波13艘、日向7艘、尾張7艘などと続き、東は越後・丹後の日本海側、伊豆・駿河・遠江の太平洋側、西は筑前、薩摩まで全国の舟が立ち寄っていることが分かります。全国廻船ネットワークのひとつの拠点港だったことがうかがえます。 
 左の表は与島に寄港した船が、次に目指す行き先を示します。
142と圧倒的に多いのが丸亀です。次に、喩伽山参りで栄えた備前田ノロ湊が25件です。ここからは与島港が西廻り海運、備讃の南北交流などの拠点港としての機能を果たしていたことがうかがえます。しかし、周辺には塩飽本島があります。本島が海の備讃瀬戸ハイウエーのSAの役割を果たしていたはずです。どうして、その隣の与島に、廻船が寄港したのでしょうか。

その答えは、与島に「タデ場」があったからだと坂出市史は指摘します。
 船たで場については、以前にお話ししたので、簡単に記します。
廻船は、杉(弁甲材)・松・欅・樫・楠などで造られていたので、早ければ3ヶ月もすると、船喰虫によって穴をあけられることが多かったようです。これは世界共通で、どの地域でもフナクイムシ対策が取られてきました。船喰虫、海藻、貝殻など除去する方法は、船を浜・陸にあげて、船底を茅や柴など(「たで草」という)で燻蒸することでした。これを「たでる」といい、その場所を「たで場」「船たで場」と呼んだようです。

 与島のたで場を見ておきましょう。 
与島タデ場跡 造船所前 

与島の「たで場」は与島のバス停「造船所跡」、辻岡造船所の付近の地名で「たてば」といわれている場所にあったようです。
坂出市史は、次のような外部史料でタデ場の存在を確認していきます。
1番目は、「摂州神戸浦孫一郎船 浦証文」(文化二年11月3日付)には次のように記します。
「今般九州肥前大村上総之介様大坂御米積方被仰付、(中略)
去月十二日大坂出帆仕、同十五日讃州四(与)嶋二罷ドリ、元船タデ、同十六日彼地出帆云々」(金指正三前掲章日)
意訳変換しておくと
この度、九州肥前大村藩の大坂御米の輸送を仰せつかり、(中略) 去月十二日大坂へ向けて出帆し、同十五日讃州与島に寄港し、船タデを行った後に、同十六日に与島を出帆云々」

ここには、肥前の大村藩の米を積み込んで、大阪に向けて就航した後で、「船タデ」のために「四(よ)嶋」に立ち寄ったことが記されています。

タデ場 鞆の浦2
鞆のタデ場跡遺跡(福山市)

2番目は、備後福山鞆の浦の史料「乍恐本願上国上之覚」です。
この史料は、文政六(1823)年から始まった鞆の港湾整備の一環として、千石積以上の大船も利用できるような焚(タデ)場の修復を、鞆の浦の居問屋仲間が願いでたものです。
然ル処近年は追々廻船も殊之外大キニ相成り、はん木入レ気遣なく、居場所は三、四艘計ニ□□、元来御当所之評判は大船十艘宛は□□焚船致し申事ハ、旅人も先年より之評判無□承知致し、大船多入津致申時は居問屋共一統甚込申候、古来は塩飽・与島無御座候処、中古より居場所気付段々普請致し繁昌仕候へとも、塩飽・与島其外備前内焚場より汐頭・汐尻共ニ□□惟二さし引格別之違御座候故…」

意訳変換しておくと
近年になって廻船が大型化し、船タデ場に入れる船は三、四艘ほどになっています。もともとは鞆の浦の船タデ場は、大船十艘は船タデが行える能力があると云われていました。大船が数多く入港した時には、船タデを依頼されても引き受けることが出来ずに、対応に苦慮しています。
 古来は塩飽・与島に船タデ場はありませんでした。そのため鞆の船タデ場が独占的立場で繁盛していました。ところが中古よりタデ場が、塩飽与島やその他の備前の港にもできています。そのため鞆の浦もその地位を揺るがされています。
 ここからは、古来は塩飽与島に船タデ場はなく、鞆の浦が繁昌していたこと、それが与島や備前に新興の焚場が作られ、鞆の浦の脅威となっていることが分かります。与島の船タデ場は、鞆の浦からも脅威と見られるほどの能力や技術・サービス力を持っていたとしておきましょう。
3番目が、小豆島苗生の三社丸の史料(寛政十年「三社丸宝帳」本下家文書)です。
ここにも塩飽・与島が出てきます。三社丸は、小豆島の特産品(素麺・塩)を積んで瀬戸内海から九州各地の各湊で売り、その地の特産品を購入して別の湊で売って、その差額が船主の収益となる買積船でした。小豆島の廻船の得意とする運行パターンです。その中に与島との関係を示す次のような領収書が残っています。
塩飽与嶋
六月二十四日
一 銀二匁六分   輪木  
一 同四匁                茅代
一 同四匁      はません(浜占)
                          宿料
〆拾匁六分
    壱百弐文替
又 六分六厘   めせん
〆 壱拾壱匁弐分六厘
船タデ入用
一 百六十文                しぶ弐升   
一 百もん                  酒代       
一 三分六厘                笠直シ
一 百もん                  なすひ代   
一 五十五もん              御神酒代   
〆九六
四匁六分八厘 ○
合十五匁九分四厘
七月弐拾日
内銭弐拾匁支出
残四匁壱分六厘
取スミ、
八月十二日
この史料からは、船タデ経費として次のような項目が請求されていることが分かります。
①船を浜に揚げて輪木をかませ固定する費用
②船タデ用に燃やすの茅の費用
③浜の占拠料である浜銭
④与島での宿代
⑤この時は防腐・防水剤としての渋の費用

4番目は、引田廻船の史料(年末詳「覚」人本家文書)です。
一 三匁九分  輪木
一 六拾五匁 
一 四匁       宿代
〆 七十二匁弐朱九分
差引       内金 壱匁弐朱   
右の通り請取申候、以上、
よしま 久太夫(塩飽与嶋浦中タデ場)(印)
六月十六日
三宝丸 御船頭様
この史料からは、大内郡馬宿浦の三宝丸は、輪木・茅・宿代の合計72匁9分を与島の年寄の久太夫に払っています。同時に、与島の久太夫が船タデ場を「塩飽与嶋浦中タデ場」を管理していたことが分かります。この人物がタデ場の所有者で経営者と、思えますがそうではないようです。それは後に、見ていくことにして・・・
今度は、本島の塩飽勤番所に残された史料を見ていきます。
文政二(1819)年の「たで場諸払本帳」は、与島のタデ場を1年間に利用した594艘の廻船の記録です。
与島船タデ場 利用船一覧

タデ場の記録としては、全国的にも珍しく貴重な史料のようです。坂出市史は、その重要性を次のように指摘します。
第一に、与島のたで場に寄った廻船の船籍が分かること。
廻船船籍一覧表 24は、船籍地が分かる廻船318艘の一覧表です。これを見ると、日向41、阿波31、比井27、日高17、神戸14などが上位グループになりますが、その範囲は日本全国に及ぶことが分かります。
第二は、船タデの作業工程と、費用が分かります。
与島タデ場 輪木・茅代一覧
上表からは、船タデ作業の各項目や材料費が分かります。
①船タデ作業の時に船を固定する「輪木」代
②船底部を燻蒸する材料の茅代
③船を浜揚げして輪木なしでたでる平生の場合の費用
この表をみると、一番多かったのは輪木代が三匁四分~三匁九分で486件です。茅代は輪木代つまり廻船の大きさによって最大80匁です。輪木を使わない平生(ひらすえ)は、49件で茅代のみとなっています。この史料の最後には次のように記されています。
「惣合 二〇貫三九七匁一分五一厘 内十三貫二五四匁一分
茅買入高引 残七貫一四匁五厘
卯十二月二十一日浦勘定二入済 船数大小五九二艘」

ここからは、一年間の利用船が592艘で、その売上高が約20貫で、支出が茅代約13貫、差し引き7貫あまりが収益となっていたことが分かります。坂出市史は、次のように指摘します。
「収益は多くはないように見えるがより重要なことは、その収支が浦社会で完結されていたことである」

 全ての収益が地元に落とされるしくみで、地域経済に貢献する施設だったのです。

 船タデで使われる茅(草)は、どのように手に入れていたのでしょうか
私は周辺の潟湖などの湿地に生える茅などを使っていたのかと思っていましたが、そうではないようです。幕末期には尾州廻船が茅を摘んで入港していることが史料から分かるようです。また、慶応2(1866)年10月、坂出浦の川口屋松兵衛は「金壱両三歩」で大量のたで草を荷受けしています。このたで草が与島に供給された可能性があります。どちらにしても船タデ用の茅は、島外から買い入れていたようです。その費用が年間銀13貫になったということなのでしょう。
与島船タデ場 茅購入先一覧

表26は、与島でのたで草の人手先リストです           
買入先が分かる所を見てみると、「タルミ=亀水」「小予シ満= 小与島」「小豆し満= 小豆島」など周辺の島々や港の名前が並びます。買入量が多いのは、圧倒的に小豆島です。小豆島の船の中には、島で刈られた茅を大量に積んで与島に運んでいたものがいたようです。中世には、讃岐の船は塩を運んでいたと云われます。確かに塩が主な輸送品なのですが、東讃からは薪なども畿内に相当な量が運ばれていたことを以前にみました。また。江戸時代には、製塩用の塩木や石炭を専門に運ぶ船を活動していました。船タデ場で使う茅なども船で運ぶ方が流通コストが安かったのでしょう。まさに「ドアtoドア」ならぬ「港から港へ」という感覚かも知れません。
 どのくらいの量の茅が買い入れられていたのでしょうか?
表からは163958把が買い入れられ、その費用が14貫746匁5厘だったことが分かります。史料冊子裏面に「岡崎氏」とあります。ここからは与島のたで場経営が与島庄屋の岡崎氏の判断で行われ、塩飽勤番所に報告されたようです。

与島のたで場は、どのように管理・運営されていたのでしょうか。
私は、経営者と職人たちの専門業者が船タデ作業を行っていたのかと思っていました。ところがそうではないようです。与島のたで場については、浦社会全体がその運営に関わり、地域に収益をもたらしていたようです。
そのため船タデ場の管理・運営をめぐって浦役人と浦方衆との間で利害対立が生まれ、「差縫(さしもつ)れ」となり、控訴事件に発展したことがあるようです。坂出市史は文政四(1831)年に起こった「たで場差縫れ一件」を紹介しています。この一件について「御用留」は、与島年寄りの善兵衛からの書状を次のように記します。
一 文政四巳たで場差配の儀、争論に及び、私差配仕り来たり候場所、三月浦方の者横領二引き取り指配仕り候に付き、御奉行所へ御訴訟申し上げ、追々御札しの上、御理解おおせられ」

意訳変換しておくと
一 文政四巳(1831年)のたで場差配について、争論(訴訟事件)となりました。これについては、私(善兵衛)が差配してきた場所を、三月に浦方衆が力尽くで差し押さえた経緯がありますので、御奉行所へ訴訟いたしました。よろしくお取りはからいをお願いします

 この裁断のための取り調べは、管轄官庁のある大坂で行われたようです。そこで支配管轄の大坂奉行所役人から下された内容を岡崎氏は次のように記します。。

安藤御氏様・寺内様・田中様御立合にて丸尾氏並拙者御呼出し上被仰候は、たで場諸費用之儀対談相済候迄、論中の儀ハ前々の通り算用可致旨被仰候
たで場差配として浦方談之上、善兵衛指出有之処、善兵衛引負銀有之候共、其方へ拘り候儀ハ無之、浦方の者引受差配可致旨被仰候、
浦役人罷上り候諸入用の儀、其方申分尤二て候得共、浦役人之儀ハ浦方惣代之事二候間、浦方談之通り割人半方ハ指出可申旨被仰候、
右の通り被仰、且又御利解等も有之候二付、難有承知仕、引取申候、
意訳変換しておくと
安藤様・寺内様・田中様の立合のもとに、丸尾氏と拙者(岡崎氏)が呼び出され以下のように伝えられた。
第1に、たで場諸経費については、これまで通りの運用方法で行うこと
第2に、たで場差配(管理運営)は浦方衆と相談の上で行うこと、確かに、タデ場には善兵衛の私有物や資金が入っているが、タデ場は浦役人の善兵衛の私有物ではない。「浦方之者」全体で管理・運営すること。
第3は、浦役人の大坂へ上る諸経費について、その費用の半分は、たで場の収支に含まれる
以上の申し渡しをありがたく受け止め、引き取った。

ここからは、タデ場が浦役人の個人私有ではなく、浦全体のものであり、その管理運営にあたっては合議制を原則とすることを、幕府役人は求めています。たで場の差配は、浦役人(年寄)をリーダーとして、浦方全体の者が引き請けて運営されていたことが分かります。浦社会にとっては、地域所有の「修繕ドック」を、共同経営しているようなものです。そして、これが浦社会を潤したのです。

与島の「たで場」の共同管理を示す史料(「御用留」岡崎家文書)を見ておきましょう。
一 同三日、たで場居船弐艘浮不申二付、汐引之節浮支度として浦方居合不残罷出候、‥(後略)…

意訳変換しておくと
 同三日、たで場に引き上げられている2艘の船について、汐が引いた干潮に浮支度をするので、浦方に居合わせた者は残らず参加すること、‥(後略)…

ここからは次のようなことが分かります。
①与島の「たで場」は、2艘以上の廻船が収容できる施設であったこと
②島民全員が、タデ場作業に参加していたこと

もうひとつ幕末の摂州神戸の網屋吉兵衛が役所に、提出したタデ場設置願書には、次のように記されています。
「播州の海岸には船たで場がなく、諸廻船がたでる場合は讃州多度津か備後辺り(鞆?)まで行かねばなりません。そのため利便性向上のために当港へのタデ場設置を願いでます。これは、村内の小船持、浜稼のもの、また百姓はたで柴・茅等で収入が得られ、村方としても利益になります。建設が決まれば冥加銀を上納します」

 ここからは次のようなことが分かります。
①播州周辺には、適当な船タデ場がなく、播州船が多度津や備後の港にあるタデ場を利用していたこと
②タデ場が浦の住人だけでなく、周辺の農民にも利益をもたらす施設であったこと
ここでは②のタデ場が「浦」社会全体の運営によって成立していたことと、それが地域に利益をもたらしていたことを押さえておきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」
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 坂出市史上完成!3月16日販売開始 - YouTube
 今年の3月に販売開始になった「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島」を読んでいると『金毘羅参詣名所図会』の多度津港を描いた絵図に、船たで場が描かれていると書かれていました。この絵図は何度も見ているのですが、気づきませんでした。疑いの気持ちを持ちながら再度見てみることにします。
香川県立図書館のデジタルアーカイブスで『金毘羅参詣名所図会』4巻を検索し、33Pを開くと出てきます。
200017999_00159多度津港
多度津湛甫(港)(金毘羅参詣名所図会4巻)

①の桜川河口の西側に長い堤防を築いて、1838年頃に完成したのが多度津湛甫でした。これより先に本家の丸亀藩は、福島湛甫を文化三年(1806)に築いています。その後の天保四年(1833)には、金毘羅参拝客の増大に対応して新堀湛甫を築いています。これは東西80間、南北40間、人口15間、満潮時の深さは1文6尺です。
 これに対し、その5年後に完成した多度津の新湛甫は、東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央に120間の防波堤(一文字突堤)を設け、港内方106間です。これは、本家の港をしのぐ大工事で、総費用としても銀570貫(約1万両)になります。当時の多度藩の1年分の財政収入にあたる額です。陣屋建設を行ったばかりの小藩にとっては無謀とも云える大工事です。このため家老河口久右衛門はじめ藩役人、領内庄屋の外問屋商人など総動員体制を作り上げていきます。この時の官民一体の共同体制が幕末の多度津に、大きなエネルギーをもたらすことになります。幕末の動乱期に大砲や新式銃を装備した農民兵編成などの軍事近代化を果たし、これが土佐藩と結んで独自の動きをする原動力となります。多度津藩はなくなりますが、藩とともに近代化策をになった商人たち富裕層は、明治になると「多度津七福人」と呼ばれる商業資本家に脱皮して、景山甚右衛門をリーダーにして多度津に鉄道会社、銀行、発電所などを設立していきます。幕末から明治の多度津は、丸亀よりも高松よりも文明開化の進展度が早かったようです。その原点は、この港建設にあると私は考えています。
多度津港が完成した頃の動きを年表で見ておきます
1829年 多度津藩の陣屋完成
1831年 丸亀藩が江戸の民間資金の導入(第3セクター方式)で新堀湛甫を完成させる。
1834年 多度津藩が多度津湛甫の工事着工
1838年 多度津湛甫(新港)完成
1847年 金毘羅参詣名所図会発行

絵図は、多度津湛甫の完成から9年後に書かれたもののようです。多くの船が湾内に係留されている様子が描かれています。
船タデ場は、どこにあるのでしょうか?拡大して見ましょう。

多度津港の船タデ場
多度津港拡大図
桜川河口の船だまりの堤防の上には、船番所の建物が見えます。ここからの入港料収入などが、多度津藩の軍事近代化の資金になっていきます。そして、その奧の浜を見ると現在の桃陵公園の岡の下の浜辺に・・・

多度津港 船タデ場拡大図

確かに大型船を潮の干満を利用して浜に引き上げ、輪本をかませ固定して船底を焼いている様子が描かれています。勢いよく立ち上る煙りも見えます。陸上では、船が作られているようです。周囲には用材が数多く並べられています。これは造船所のようです。ここからは、多くの船大工や船職人たちが働いていたことが見てとれます。これは拡大して見ないと分かりません。

タデ場 鞆の浦3
造船所復元模型

船たで場については、以前にお話ししましたが、簡単におさらいしておきます。
廻船は、杉(弁甲材)・松・欅・樫・楠などで造られていたので、早ければ3ヶ月もすると、船喰虫によって穴をあけられることが多かったようです。これは世界共通で、どの地域でもフナクイムシ対策が取られてきました。船喰虫、海藻、貝殻など除去する方法は、船を浜・陸にあげて、船底を茅や柴など(「たで草」という)で燻蒸することでした。これを「たでる」といい、その場所を「たで場」「船たで場」と呼んだようです。
タデ場 フナクイムシ1

船タデの作業工程を、時間順に並べておきます。
①満潮時にタデ場に廻船を入渠させる。
②船台用の丸太(輪木)を船底に差し入れ組み立てる。
③干潮とともに廻船は船台に載り、船底が現れる。
④フジツボや海藻などを削ぎ取りる
⑤タデ草などの燃材を使って船底表層を焦がす。
⑥船食虫が巣喰っていたり、船材が含水している場合もあるので、防虫・防除作業や槙肌(皮)を使って船材の継ぎ目や合わせ日に埋め込む漏水(アカの道)対策や補修なども同時に行う。
 確かに、幕末に描かれた多度津湛甫(金毘羅参詣名所図会)には、船タデ場と造船所が描かれていました。これを文献史料で裏付けておきましょう。
 摂州神戸の網屋吉兵衛の船タデ場の建設願書には、次のように記されています。
「播磨の最寄りの港には船たで場がなく、廻船が船タデを行う場合は、讃州多度津か備後辺まで行かねばなりません。その利便のためと、村内の小船持、浜稼のもの、または百姓は暇々のたで柴・茅等で収入が得られ、村方としても利益になります。また、建設が決まれば冥加銀を上納いたします。」

 ここからは次のようなことが分かります。
①播州周辺には、適当な船タデ場がなく、多度津や備後の港にある船タデ場を利用していたこと
②船タデ場が地元経済にとっても利益をもたらす施設であったこと
播州の廻船だけでなく瀬戸内海を行き来する弁才天や、日本海を越えて蝦夷と行き来する船も多度津港を利用する理由の一つが有力なタデ場を保有港であったことがうかがえます。

 以前にお話ししましたが、タクマラカン砂漠のオアシスはキャラバン隊を惹きつけるために、娯楽施設やサービス施設などの集客施設を競い合うように整備します。瀬戸の港町もただの風待ち・潮待ち湊から、船乗り相手の花街や、芝居小屋などを設置し廻船入港を誘います。
船乗りたちにとって入港するかどうかの決め手のひとつがタデ場の有無でした。船タデは定期的にやらないと、船に損害を与え船頭は賠償責任を問われることもあったことは廻船式目で見たとおりです。また、船底に着いたフジツボやカキなどの貝殻や海藻なども落とさないと船足が遅くなり、船の能力を充分に発揮できなくなります。日本海へ出て行く北前船の船頭にとって、船を万全な状態にして荒海に漕ぎ出したかったはずです。

  タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。
しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。御手洗が「おじょろぶね」として栄えたのも、タデ場と色街がセットだったからだったようです。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町の繁栄のためには「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。
新しく完成した多度津港の繁盛は、タデ場の有無だけではなかったはずです。
それはひとつの要因にしか過ぎません。その要因のひとつが金毘羅信仰が「海の神様」と、ようやく結びつくようになったからではないかと私は考えています。つまり、船タデのために入港する廻船の船乗りたちも金刀比羅詣でを始めるようになったのではないでしょうか。
 金毘羅神は、もともとは天狗信仰で修験者や山伏たちが信仰し、布教活動を行っていました。そのため金毘羅信仰と「海の神様」とは、近世後半まで関係がなかったようです。よく塩飽廻船の船乗りたちが金毘羅信仰を全国の港に広げ、その港を拠点に周囲に広がっていったというのは俗説です。それを史料的に裏付けるモノはありません。史料が語ることは、塩飽船乗りは摂津の住吉神社を海の神様として信仰していて、住吉神社には多くの塩飽船乗りの寄進燈籠が並ぶが、金刀比羅宮には塩飽からの寄進物は少ない。古くから海で活躍していた海民の塩飽衆は、金毘羅神が登場する前から住吉神社の信者であった。
 流し樽の風習も、近世に遡る起源は見つからない。流し樽が行われるようになったのは、近代の日本海軍の軍艦などが先例を作って行われるようになったものである。そのため漁師達が流し樽を行う事はほとんどない。
 いろいろな所で触れてきたように、金毘羅神は近世になって産み出された流行神で、当初は天狗信仰の一部でした。それが海の神様と結びつくのは19世紀になってからのようです。そして、北前船などの船乗りたちの間にも急速に信者を増やして行くようになります。そこで、船タデのために寄港した多度津港で、一日休業を金比羅参りに宛てる船乗りが増えた。船頭は、金比羅詣でのために多度津港で船タデを行うようになったと私は想像しています。これを裏付ける史料は、今のところありません。
「好きなおなごのいる港に入りたい」と思うように、「船を守ってくれる海の神様にお参りしたい」という船頭もいたと思うのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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宗吉瓦窯 想像イラスト
三野郡の宗吉瓦窯跡 
 三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されているように、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われていたことが分かってきました。前回は、仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏が、丸亀平野の寺院造営技術の提供センターとして機能したという説を紹介しました。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺KA101Aを祖型とする軒丸瓦の系譜
 善通寺周辺の瓦工房では、7世紀末には技術の吸収から製品供給へと、段階が進んでいたと研究者は考えているようです。今回は善通寺から土佐への瓦製造の技術移転を見てみることにします。テキストは、「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です
この時期の讃岐地方の軒丸瓦のデザインの中には、瓦当中央の蓮子を方形に配置するものがあります。扁行唐草文軒平瓦の中には、包み込みによって瓦当面と顎を形成する技法が用いられています。この軒丸瓦の文様と軒平瓦の技法の2つを比較検討するという手法で、但馬地方(兵庫県北部地方)と土佐と讃岐善通寺の瓦工人集団がつながっていたことを研究者は明らかにしています。今回は、そのつながり見ていくことにします。

善通寺白鳳期の瓦
    善通寺他出土 十六弁素弁蓮花文軒丸瓦(ZN101)
この軒丸瓦は善通寺と仲村廃寺の創建の瓦とされてきました。2カ寺に加えて、次の寺院から同笵瓦が出土しています。
①平成11年に丸亀市の田村廃寺跡
②平成12年に高知市の秦泉寺廃寺跡
③平成13年に伊予三島市の表採資料から同笵関係を確認
善通寺同笵瓦 田村廃寺
善通寺(ZN101)と同笵瓦

この丸瓦とセットになる軒平瓦は、善通寺、仲村廃寺では扁行唐草文軒平瓦ZN203とされています。田村廃寺、秦泉寺からも同型式が出土しています。これらの瓦を実際に研究者は手にとって、善通寺のZN101と田村村廃寺、秦泉寺の3カ寺の型木の使用順を明らかにしてきます。
その手がかりとなるのは、型木についた傷の進行状態です。
善通寺同笵瓦 傷の進行

土佐奏泉寺の瓦は、拓本でも木目に沿った3本のすじ傷がはっきりと分かり、一番痛みが激しいようです。次に田村廃寺の丸瓦は、はっきりした右側の1本(a)と、この時点で生じつつあった左側の1本(c)がかすかに確認できます。これに対しZN101に見えるのは、右側の1本(a)だけです。以上から型木は「善通寺ZN101→田村廃寺→秦泉寺」の順番に使用されたと研究者は考えています。

田村廃寺伽藍周辺地名
田村廃寺の伽藍想定エリアの地図

丸亀の田村廃寺を見ておきましょう。
この寺は以前にも紹介しましたが、丸亀市田村町の百十四銀行城西支店の南東部が伽藍エリアと考えられています。地形復元すると古代には、すぐそこまで海岸線が迫っていた所になります。臨海方の古代寺院です。讃岐の古代寺院が、地盤が安定した内陸部の南海道周辺に立地しているのとは対照的な存在になります。

田村廃寺 軒丸瓦3
 TM107 やや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期

拓影の木型傷を比較することで田村神社の軒丸瓦TM107と善通寺ZN101と同笵であることを確認します。セットの扁行唐草文軒平瓦も瓦の右肩の木型傷などからZN203Bと同笵であるあることを確認します。田村廃寺には軒丸瓦と軒平瓦がセットで、善通寺(佐伯氏)から提供されていたことになります。
 善通寺や仲村廃寺建立の際の窯跡で焼かれた瓦が製品として提供されたのか、木型だけが提供されたかは分かりません。私は製品を提供したと推察します。善通寺の瓦工人集団に、引き続いて、田村廃寺の瓦を焼く依頼が造営氏族(因首氏?)からあったという説です。
  ちなみに善通寺(佐伯氏)から提供された同笵瓦は、第Ⅱ期工事に使われたものとされます。金堂は別の瓦が作られ、その後に建築された塔に使用されたと考えられます。
善通寺・弘安寺の同笵関係
善通寺と同笵瓦の関係

善通寺と田村廃寺で使われた木型の痕跡は、四国中央市の一貫田地区にも残されています。
1978年に伊予三島市下柏町一貫田地区の土塁の中から軒丸瓦の小片が発見され、松柏公民館に保管されてきました。それが2001(平成13年)に伊予三島市で採取されていた瓦が同笵関係にあることが確認されました。研究者は実際に手にとって、善通寺瓦と蓮子、間弁の位置関係を比較し、同笵品であると結論づけます。一貫田地区には古代寺院があったとされますが、本来の出土地(遺跡)は分かりません。讃岐の善通寺と田村廃寺で使われた型木が、工人たちとともに移動し、四国中央市での古代寺院建立に使われたとしておきましょう。

秦泉寺廃寺21

次に同笵型木が使用されたのが土佐の秦泉寺(じんぜんじ)廃寺です
秦泉寺は、寺名から秦氏が造営氏族だったことがうかがえます。創建は、出土した軒瓦から飛鳥時代末(白鳳期)の7世紀末葉頃とされ、土佐最古級に位置づけられる古代寺院になります。発掘調査では伽藍遺構は分かっていませんが、創建瓦の一部は、阿波立善寺と同笵なので、阿波の海沿いルート「海の南海道」からの仏教文化の導入がうかがえます。
 寺域の西約4㎞には土佐神社や土佐郡衙推定地があるので、土佐郡の政治拠点と想定されます。
また、寺域周辺では、吉弘古墳をはじめとする秦泉寺古墳群があって、6世紀頃から古代豪族の拠点だったことが分かります。この勢力が寺院建立の造営氏族だったのでしょう。また古代の海岸線を復元すると、寺域南側の約200mの愛宕山付近までは海で、愛宕山西側の入江を港(大津・小津に対して「中津」と称された)として、水運活動も活発に行っていたようです。
秦泉寺廃寺1
浦戸湾の地形復元図 古代の秦泉寺廃寺は海に面していた
 
秦泉寺の造営氏族について、報告書は次のように記します。
当寺院跡の所在する高知市中秦泉寺周辺は、古くから「秦地区」と呼称されている。「秦」は「はだ」と奈良朝の音で訓まれている。土佐と古代氏族秦氏との関連は早くから論議されているため省略するが、秦泉寺廃寺跡の退化形式の軒丸瓦が採集されている春野町大寺廃寺跡は吾川郡に属し、『正倉院南倉大幡残決』のなかに「天平勝宝七歳十月」「郡司擬少領」として「秦勝国方」の名が記され、秦泉寺廃寺跡と大寺廃寺跡は秦氏の建立による寺院跡であることが推定されている。秦泉寺廃寺跡を建立した有力氏族として秦氏を候補に挙げることについては賛同したい。
 なお、秦氏だけが寺院跡建立に関与した有力氏族であったのかは不明で、秦姓の同族や出自を同じくする別姓氏族・同系列氏族の存在を勘案することも必要ではないかと考える。ここでは、秦氏などの在地有力氏族によって秦泉寺廃寺跡・大寺廃寺跡などが建立されたことを考えておきたい。 
  報告書も造営氏族の第1候補は、秦氏を考えています。
比江廃寺跡・秦泉寺跡からは,百済系の素弁蓮華文軒丸瓦や,顎面施文をもつ重弧文軒平瓦など,朝鮮系瓦が数多く出土しています。これも前回見た但馬の三宅廃寺と共通する点です。浦戸湾周辺を拠点とする勢力が朝鮮半島や,日本列島内で朝鮮半島からの影響が強い地域と交流を行っていたことがうかがえます。
岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、比江廃寺や秦泉寺廃寺の特徴を、次のように述べています。
「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」
「土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、土佐はまだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかった。
 ここに指摘されているように、秦泉寺廃寺のもうひとつの特徴は、中央からの瓦の伝播があまり見られないようです。地方色が強く、非中央的な性格と云えるようです。ここにも中央に頼らなくても独自の海上交易路で、寺院建立のための人とモノを準備できる秦氏の影が見えてきます。
 秦泉寺廃寺跡からは平安時代前期頃以後には、新たな瓦は見つからないので改修工事が行われなくなり、廃絶したと推定されます。

平成12年度の発掘調査で、善通寺と同笵の16弁細単弁蓮花文軒丸瓦、扁行唐草計平瓦が出土しました。
  もう一度、傷の入った軒丸瓦を見てみましょう。
善通寺同笵瓦 傷の進行

木目に沿うように大きく3本の傷があります。これが善通寺と同笵であることの決め手の傷です。同時に軒平瓦も善通寺と同笵のものがあり、「包み込み技法」という善通寺と独自技法が使われています。そのため型木だけが移動したのではなく、瓦工人集団も善通寺から土佐にやってきたと研究者は考えているようです。
 このように見てくると、善通寺側に主導権があるように思えます。善通寺(佐伯直氏)が、まんのう町の弘安寺や丸亀の田村廃寺へ瓦を提供し、土佐の秦泉寺廃寺には型木や瓦工人を派遣する地方の「技術拠点」という見方です。ところが、秦泉寺廃寺は技術受容だけでなく、送り手でもあったことが分かっています。秦泉寺廃寺と同じ同笵瓦を使用した寺院がいくつかあるようです。
秦泉寺廃寺3


 これをどう考えればいいのでしょうか。
  私は善通寺の造営者である佐伯氏の技術力とネットワークを示すものと考えていました。佐伯氏が善通寺造営の際に編成した工人集団を管理し、友好関係にある周辺有力者の寺院建立を支援していたという見方です。
 しかし、見方を変えると寺院造営集団「秦氏カンパニー」の出張工事とも思えてきました。
①秦氏が寺院建立の工人集団を掌握し、佐伯氏からの求めに応じて、善通寺造営に派遣した。
②仲村廃寺や善通寺の姿を見せると、周辺豪族からも寺院建立依頼が舞い込み、設計施工を行った。
③秦氏の瓦工人は、持参した型木(善通寺で製作?)で仲村廃寺・善通寺・弘安寺・田村廃寺の瓦を焼いた。
④丸亀平野での造営が一段落すると、土佐で最初の寺院造営を一族の秦氏がおこなうことになり、お呼びがかかり、そこに出向くことになった。
⑤その際に、善通寺や田村廃寺の軒丸瓦の型木も持参した。しかし、使い古された型木で作った瓦には何カ所もの傷があり、施主の評価はいまひとつであった。
⑥土佐でも、新たな寺院造営の設計施工を依頼された。その際には、土佐で新たに作った型木を用いた。
このような秦氏に代表されるような渡来系の工人グループの動きの方に主導権があったのではないかと思うようになりました。当時は白村江敗戦で朝鮮半島からの渡来人が大量にやってきた時代です。彼らの中の土木・建築技術者は、城山や屋島などの朝鮮式山城の設計築城にあたりました。南海道や条里制施行の工事を行ったのも彼らの技術なしでは出来ることではありません。同時に、この時期の地方豪族の流行が「氏寺造営」でした。それに技術的に応えたのが秦氏の下で組織されていた寺院造営集団であったという粗筋です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」
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天日槍(あめのひぼこ)を祭る出石神社の流域を流れるのが円山川です。その支流・穴見川沿いの三宅集落に慈等寺があります。この寺の下の斜面が三宅廃寺跡になります。すぐ近くには、式内社の大壬生部兵主(おおみぶべひょうず)神社や中嶋神社が鎮座しています。渡来系秦氏の痕跡が色濃く残る地域です。
 三宅廃寺は田嶋守の末裔として但馬国造家を名乗る三宅氏によって建立された寺院で、この地域では最も古い白鳳寺院と位置づけられています。発掘調査によって、隣接する西側の山斜面から瓦窯が発見され、他地域の寺院との瓦の比較ができる貴重な資料を提供してくれます。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦
但馬国府・国分寺館ニュースより

但馬地方の古代瓦と同笵関係にあるものや、コピーされたと考えられるものがいくつも見つかっています。例えば、海を越えた新羅のデザインがストレートに持ち込まれているものがあります。また前回に見たまんのう町の弘安寺跡から出てきた瓦と、よく似たものが三宅廃寺からも出てきています。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦2

但馬の古代寺院は中央や畿内からも影響を受けていますが、新羅や讃岐からの影響も受けているようです。つまり、「中央から地方へ」だけでなく「地方同士の交流」が頻繁に行われていたことがうかがえます。これは中央中心に語られていた古代史に、別の視点を与えてくれます。瓦を通じた交流については、その背後には、秦部氏の存在が見え隠れします。今回は弘安寺の瓦と但馬三宅廃寺の瓦を比較していくことにします。
テキストは   蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

三宅廃寺の軒丸瓦の中に無文の外区の中に、弁端の丸い9枚の単弁を飾るものがあります。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦3

この瓦は畿内の大寺院の系譜ではなく、地方起源とされてきましたが、その起源がどこかは分かりませんでした。それが讃岐からの影響を受けた瓦であることが分かってきました。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦4
左2つが三宅廃寺、右が徳島県の郡里廃寺(立光寺)のもの
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

まんのう町弘安寺の瓦で郡里廃寺と同笵瓦
三宅廃寺とまんのう町弘安寺の瓦の比較を行うと、弁の数が違いますので一目見て同笵ではないのは分かります。しかし、両者の間には断面形状や細部に共通点があると研究者は考えます。それを踏まえた上で、三宅廃寺の瓦が讃岐起源であることを指摘したのが上原真人氏です。
上原氏は讃岐極楽寺や弘安寺の細単弁軒丸瓦と三宅廃寺の関係を次のように指摘します。
①蓮子の配列
蓮子は2列もしくは3列に同心円状に配されることが多いが、 2つの型式は、方形あるいは格子状に配されるという特徴を持つ。
②花弁形状
 単弁に分類されるが、弁端の丸い花弁は中心が窪み、そこに端の九い子葉を一本配するもので、この時期に最も一般的な単弁形式である山田寺式とは異なり、弁の形状は川原寺式軒丸瓦の複弁を2つに分割したものに近い。
③間弁の形状
 間弁の両端は互いに連結して弁区を取り巻く形になっており、外側に傾斜して外区を形成する。鋸歯文を巡らせる場合は、この外区に大柄な文様を巡らせる。
④周緑の形状・・・・間弁の外周に低い平縁を巡らす。
⑤氾の立体感。・・・抱全体が凹凸の激しい作りとなっている。
⑥圏線の省略・・・・蓮子周環、中房圏線等の細部の作りを省略している。
以上から三宅廃寺と弘安寺の瓦は、どちらも川原寺式軒瓦の系譜から派生した単弁形式がベースにあると指摘します。さらに次のように述べています。

「祖型以来の花弁の印象をよく残している反面、細部の造りには省略が見られる」

 実際の木型製作過程では、造瓦工人の手間を減らすために省略が行われたというのです。周縁部や蓮子の配列は特徴的で、木型制作者とその工人集団の個性がうかがえるようです。それでは、この「省略」がおこなわれたのは、どこの工房なのでしょうか?

軒丸瓦の系譜関係を整理したのが下の第17図です。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺起源の軒丸瓦の系譜図

横軸X形式の変遷について、次のように研究者は次のように述べています。
①善通寺(KA101A)は川原寺式以降の複弁8弁蓮華文に花弁を分割して単弁16弁としたもので、3重の蓮子配列、三角縁の鋸歯文などは、その名残りである
②Xl(KA101A他)の蓮子を省略してX2(KA101B他)が作られた。
③X2の花弁内の子葉省略してX3(ZN101他)が連続的に作り出された
④X ll(TM105)については、X1~3の変化と比べると、蓮子数の減少、弁数の減少(15弁)など原型式との落差が大きく、田村廃寺の中でX3をもとにして作られた
縦軸Yについては
①Y1(KA102、GK101他)についてはXlの要素を改変して作り出したとする方向
②Y2(GK102他)がまず存在し、Xlの要素を取り入れて作り出した
どちらにしてもYlが作られた後、これを省略してY3(三宅廃寺出土瓦)につながっていくという流れになります。讃岐の軒丸瓦が但馬の三宅廃寺に影響を与えていることになります。

XY両形式ともに、Xl~X3、Y1.Y3には、形式の変化に次のような一定の規則性があります
①氾(木型)が連続的に変化する型式群
②文様の変化が固有の寺院内でのみ起きる形式群
これらの変化には、背後に改作した工人グルーの存在がうかがえます。
①は広い範囲での生産活動を念頭に置いて、組織的かつ継続に仕える木型が作られた
②は、①がもたらされた寺院で、そのコピー版瓦が作られた
次に研究者は、①のベースとなった木型を製作した拠点瓦窯がどこにあったを推測します。
①の工人をかかえる地域(寺院)を、X1とY1の両方の形式を持つまんのう町の弘安寺がまず候補に挙げます。さらに後継の型式を引き継ぎ、周辺寺院や瓦窯に瓦製品供給や、氾の提供を行なったことが確認できる善通寺と仲村廃寺を加えて、この3ヶ寺がグループのが丸亀平野の瓦工房の核であると研究者は指摘します。
善通寺の軒平瓦系譜
善通寺起源の平瓦の系譜
 同じように軒平瓦の展開系譜について見てみても善通寺、仲村廃寺の軒丸瓦だけが、扁行唐草文軒平瓦との共伴します。この2カ寺で、他寺に先がけて扁行唐草文形式が登場しています。ここからは平瓦の製造でも、善通寺を中心とする佐伯氏周辺の工人たちの活動が先行していたことがうかがえます。

善通寺の木型は他の寺院建立に貸し出された
善通寺・仲村廃寺グループが最初に使用した軒平瓦ZN203の木型は、 各地の寺や工房に貸し出されています。この木型は、奈良時代以降のものとされる善通寺出土の瓦と同笵の均正唐草文様平瓦で、土佐山田町の加茂ハイタノクボ遺跡からも出土しているので、その後もかなり長い期間にわたっていろいろな所を移動していることがうかがえます。
さらに、木型だけでなく工人も移動していたと研究者は考えているようです。
善通寺、仲村廃寺での瓦製造が最も早く、善通寺周辺を中心に工人集団の活動は継続します。その一方で、木枠を持って、各地へ出造りに赴いたと研究者は考えています。その裏付けは次回にするとして・・

 このように佐伯氏の元に工人集団が組織され、いくつもの木型が作られ、それがスットクされ、求めに応じて木型だけでなく工人の派遣にまで応じる体制ができていたことが浮かび上がってきます。中央からの技術提供や工人派遣という道だけでなく、当時の地方有力者は一族意識や地縁関係などで遠くの集団とも結びつき、人とモノとのやりとりを行っていたことが分かります。
 そのための交易路や航路を通じて、交易なども活発におこなわれていたことが推測できます。
 佐伯氏は、外港として多度津白方を交易港として瀬戸内海交易を活発に行っていた気配があることは以前にお話ししました。佐伯氏の財力の多くが、その瀬戸内海交易に支えられていたと考える研究者もいます。寺院建立に関する関係技術やノウハウも、佐伯氏の「交易品」の一部であったのかもしれないと私は考えています。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。
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まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦は、同じ木型(同笵)からつくられたものが次の3つの古代寺院から見つかっています。
① 阿波国美馬郡郡里廃寺
②さぬき市極楽寺
③さぬき市上高岡廃寺
弘安寺軒丸瓦の同氾
阿波立光寺が郡里廃寺のこと

上図を見れば分かるとおり、同笵瓦ですから同じデザイン文様で、同じおおきさです。ひとつの木型(同笵)が4つの寺院の間を移動し、使い回されてことになります。研究者が実際に手に取り比べると、傷の有無や摩耗度などから木型が使われた順番まで分かるようです。
 木型の使用順番について、次のように研究者は考えています。
①弘安寺の丸瓦がもっとも立体感があり、ついで郡里廃寺例となり、極楽寺の瓦は平面的になっている。
②彫りの深さを引き出しているのは弘安寺と郡里廃寺である
③さらに、両者を比べると郡里廃寺の瓦の方が蓮子や花弁がやや膨らんでおり、微妙に木型を彫り整えている。
以上から弘安寺 → 郡里廃寺 → 極楽寺の順で木型が使用されたと研究者は推測します。

この木型がどのようにしてまんのう町にもたらされて、どこの瓦窯で焼かれたのかなど興味は尽きませんが、それに応える史料はありません。
まずは各寺の同笵の白鳳瓦を見ていきましょう
弘安寺出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」
弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      阿波美馬の郡里廃寺の瓦 上側中央が同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、古代寺院建立者同士の何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ

  郡里廃寺の近くには、終末期の横穴式古墳群があります。
これが郡里廃寺の造営者の系譜につながると考えられてきました。さらに、その古墳が段ノ塚穴型石室と呼ばれ、美馬地域独特のタイプの石室です。墓は集団によって、差異がみられるものです。逆に墓のちがいは、氏族集団のちがいともいえます。つまり、美馬地方には阿波の中で独特の氏族集団がいたことがうかがえます。

段の塚穴

この横穴式石室の違いから阿波三国説が唱えられてきたようです。
律令にみられる粟・長の国以外に美馬郡周辺に一つの国があったのではないかというのです。段ノ塚穴は、王国の首長墓にふさわしい古墳なのです。
 しかし、美馬郡周辺のことは古代の阿波の記録にほとんど登場しません。東に隣接する麻植郡とは大きなちがいです。麻植郡は阿波忌部氏の本拠地として、たびたび登場します。しかし、横穴式石室では,規模,築造数などから美馬郡の方がはるかに凌駕する質と量をもっています。そういう意味では、 段ノ塚穴型石室は大和朝廷とはあまり関係のない一つの氏族集団の墓だったのかもしれません。ところが、その勢力が阿波最古の寺院である郡里廃寺を建立するのです。中央との関係が薄いとされる氏族が、どのようにして建立したのでしょうか。また、造営したのは、どんな氏族なのでしょうか?
この寺の造営氏族については次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②もうひとつは、讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  どちらにしても佐伯氏の氏寺だとされているようです。
ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。
「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 美馬の古代文明が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 しかし前回、まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説をお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏に建立された寺院です。
美馬郡の佐伯氏が讃岐の佐伯氏と、同族としての意識された氏族同士であり、古墳時代以降連綿と交流が続けられてきた氏族であるとすれば、阿波で最初の寺院建立に讃岐の佐伯氏が協力したとも考えられます。
 極楽寺は、さぬき市寒川町石田にあって、寒川郡や大内郡の有力な氏族であった讃岐氏の建立した寺院とされています。
讃岐氏は、このお寺以外にも石井廃寺、願興寺、白鳥廃寺などを建立したとされ、一族の活発な活動がうかがえます。発掘調査によって、単弁蓮花文軒丸瓦6型式が出土していますが。その中のGK101はGK102とともに初期のモデルのようです。
研究者は次のように指摘します。
「他寺の同笵瓦と比べると、平板的で粘土の抜きが十分でなく、 しかも間弁の部分では撫でて整えた印象があります。胎土には石英粒が混じっていて、須恵質の堅い焼き」

弘安寺同笵瓦関係図
弘安寺と同笵瓦の関係図

以上からは同笵の木型は、弘安寺で最初に使われ阿波郡里廃寺から
さぬき市の極楽寺へと伝わっていったことになります。それでは、弘安寺で木型が作られたのでしょうか? それだけの先進性を弘安寺は持っていたのでしょうか? 研究者は、そうは考えないようです。
上の図で弘安寺の瓦に先行する善通寺の瓦を見て下さい。同笵ではありませんが、共通点も多いようです。弁の数を減らし省略化し、製造方法を簡略化したモノが弘安寺の瓦だと研究者は考えています。つまり、この木型が作ったのは善通寺造営に関わった集団だったというのです。善通寺の瓦を祖型とする系譜を研究者は次のような図で表しています。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
ここからは善通寺が丸亀平野や東讃の古代寺院建立に、技術提供する立場にあったことが分かります。同時に瓦の木型を提供された側には、善通寺の造営者の佐伯氏との間に、なんらかの「友好関係」や「一族関係」があったことがうかがえます。
それでは、木型を提供した佐伯氏と提供された豪族間の緊密な関係は、どのようにして生まれたのでしょうか?
佐伯氏と因支氏等の場合は、多度郡と那珂郡というお隣関係で、丸亀平野一帯の開発や金倉川の治水・灌漑めぐる日常的な利害の中から生まれてきたものなのでしょう。それが、まんのう町への弘安寺建立になった可能性はあります。
東讃の讃岐氏などの旧国造家とされる有力氏族との関係は、前代以来連綿と続いた様々な交渉事の結果と推測できます。彼らは、白村江の敗北後の危機感の中で、屋島寺や城山の築城や南海道建設など、共通の目標に向けて仕事を進める立場に置かれました。その中で対立から協調・協力関係へと進んだ豪族たちも出てきたのではないでしょうか。
 阿波郡里廃寺の造営主体と見られる佐伯氏については、同族関係に加え、両地域の間で、弥生から古墳時代を通じて文化的交流がさかんであったことが挙げられます。

白鳳から奈良時代前期にかけての時期は、各地で寺院の建立が活発化した時代です。
 高い技術を必要とする造寺造仏のための人材や資材を、地方の造営氏族が自前で準備し、調達できたとは研究者は考えません。確かに飛鳥時代は、蘇我本宗家や上宮王家などに代表される政権中枢の有力氏族の下にだけ技術者集団が独占的に組織され、その支援がなければ寺院の建立はできませんでした。そのためかつては、瓦のデザインだけで有力豪族や有力寺院とのつながりを類推することに終始していた時代がありました。例えば、法隆寺で使われた瓦と同じデザインの瓦が故郷の寺院で用いられていることが、郷土愛を刺激した時代があったのです。
 しかし、7世紀中葉から8世紀初頭のわずか半世紀の間に400カ寺もの白鳳寺院が建立された背景には、 もっと複雑で多元的な動員の形態があったと研究者は考えるようになっています。 
 藤原京に建立された小山廃寺の造営に際しての動員について、近江俊秀氏は次のように指摘します。

瓦工は供給する建物単位で組織され、量の生産とともに解体される。さらに、個々の瓦工は同時期に生産を行なうのではなく、伽藍の造営順に従って、時期を違えて生産を行なうとしている。自前の工人が専従で造営に携わるので.建てものごとの速やかな動員によって建立がなった

これは多くの寺が密集し、幾通りもの工人集団が存在した畿内だからできたことです。地方豪族の佐伯氏が小山廃寺のようなスケールで工人を招集し、造営ができたとは思えません。しかし、善通寺周辺の工人の動向からは、地方にも工人や資材を準備し、供給する機能が整備されてきていたと研究者は考えています。瓦などの木型をはじめ供給する側と、される側の独自の繋がりのなかで地方寺院の建立が行われていたようです。
 もう少し具体的に云うと善通寺を建立した佐伯氏は、その時に蓄積した寺院建立技術を周辺の一族や有力豪族にも提供したということです。その木型が弘安寺 → 阿波の郡里廃寺 → 東讃の極楽寺などに提供され、使い回されたということでしょう。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで一      香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年
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 前回は、文献史料で弘安寺のことを知ることが難しいことを確認しました。弘安寺廃寺に迫るために残されたモノは、礎石と心礎跡と古代瓦の3つです。現在の考古学は、これらを材料にどのように迫っていくのかを追いかけて見たいと思います。テキストは「蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です。

発掘調査報告書で最初に示されるのは、「周辺遺跡」と「復元地形」です。弘安寺周辺の遺跡を見てみましょう。

弘安寺周辺地遺跡図

①土器川を越えた東側に安造田古墳群があります。
この古墳群は後期古墳(6世紀代)に作られたものです。その中で「日本唯一のモザイク玉」が出土した安造田東3号墳は、6世紀末の飛鳥時代にできた短い前方部を持つ帆立貝式古墳です。
安造田三号墳モザイク玉調査報告会(まんのう町) - 善通寺市ホームページ
安造田東3号墳のモザイク玉
 
古代寺院の近くには、終末期の大型横穴式石室を持つ古墳がある場合が多いようです。例えば、善通寺王国では、大墓山古墳や菊塚古墳のように古墳後期の大型石室をもつ古墳を造営していた有力豪族(佐伯直氏)が、7世紀半ば以後に古代寺院を建立し始めます。
安造田東3号墳の調査報告書は、次のように記します。

古代における人々の活躍の場は、古墳や古代寺院の分布が示すように、九亀平野では満濃町北部が最奥とみられる。当地域には大規模な古墳の築造は行われておらず、弘安寺が羽間から長炭周辺に小規模な群集墳を築いた集団によつて建立されたと考えれば、この寺院の成り立ちは、この地の古代史を知る上で非常に興味深い。

  安造田東3号墳を造営した氏族集団が、弘安寺を建立したと考えているようです。しかし、古代寺院を建立するにしては、安造田東3号墳をはじめとする首長墓は小型です。 この財力でほんまに氏寺を建てられるのか?という疑問が私には残ります。
善通寺、仲村廃寺の周辺には、王墓山や菊塚古墳のような横穴式石室を持つ後期の大型首長墓があります。しかし、ここでは 安造田古墳群の延長線上に白鳳寺院の建立や、郡領氏族の形成が行なわれたというエリアではないようです。

 研究者が注目するのが古墳時代後期の集落跡、吉野下秀石遺跡です。
員 嚇 ・0 委 け

この遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、弘安寺の東500mに位置します。この遺跡からは、出土した14棟の竪穴住居の全てに竃があるという統一性が見られ、時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強い住居群ということです。この時期、地域の開発がにわかに活発化したことがうかがえます。同時に、時期的には安造田東3号墳の造営と重なります。
 吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の開発集団で、彼らのリーダーが日本唯一のモザイク玉」を持って眠っていた安造田東3号墳の首長というストーリーは描けそうです。急速な開発と変革がこの地で起こっていたとしておきましょう。

開発という視点から、 もう少し弘安寺の立地を考えてみよう
考古学的手法では「復元地形」を用います。つまり、当時の地形がどんなものであったのかを地質図などで復元するのです。そのセオリーに従って、地質図を見ると次のようなことが分かります。

弘安寺周辺地質図2
弘安寺廃寺周辺の旧河川跡
①土器川が、木崎を扇頂に扇状地を形成し、吉野には網状河川が幾筋にも流れている。
②吉野は土器川の氾濫原で、洪水時には遊水池で低湿地地帯であった。
③弘安寺は土器川の氾濫原の西側の扇状地上の微髙地に立地している。
土器川が吉野地区に湾入していた痕跡を現場で見てみましょう。
 丸亀市方面からほぼ真っ直ぐに南下してきた県道「善通寺ー満濃線」は、マルナカまんのう店付近で東へ大きく屈曲するようになります。これが旧土器川が西側へ湾入した流路のうちの、最もわかりやすい痕跡だと報告書は指摘します。それを裏付ける地名が「吉野」で「葦の野」 (湿地帯)だとします。また、この屈曲箇所付近に 「川滝」の地名があります。これも河川があったことをうかわせます。さらに、旧吉野小学校南側の県道の道路敷は蛇行しています。これも土器川の流路であったことを示すものだと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと「吉野」は「葦の野」で、洪水時には土器川の流路のひとつが流れ込み遊水池状態で湿地であったとしておきます。
次に金倉川を見ておきましょう。
 「カレンズ」ベーカリーの南に「水戸」があり、現在はここが満濃池用水の取水口となっています。金倉川の本流は、ここで大きく南西方へ直角に曲げられて象頭山方向に向かいます。一方、満濃池用水(旧支流)は直進して、満濃中学校の西側を通過した後に、祓川橋付近で土器川に近接するか、あるいは満濃中学校の南約250mから西へ湾流する状態を示しています。ここからは、、金倉川も土器川の吉野の湾入地域に流れ込んでいたことがうかがえます。つまり、吉野エリアは土器川と金倉川の二つの川の遊水池のような状態だったことになります。 このように吉野は、ふたつの川の影響を強く受けた地域で「葦の野」であったことがうかがえます。

吉野下秀石遺跡周辺は、条里制にもとずく規格性のある土地区画が試みられた痕跡が見られます。
旧満濃町役場西側の県道満濃善通寺線を基軸として、東方へ約200m間隔で設けられた直線状の土地区画が読み取れます。ただし、南北方向の区画線が不整いです。ここからは、吉野の条里制工事は開始されたが完成に至らなかったと研究者は考えているようです。
吉野下秀石遺跡報告書は次のように記します。
「本遺跡周辺は土地条件に恵まれた地域とは言い難く、むしろ大規模な耕地開発にはより多大な労力を要する地域」そのため
条里地割分布域の縁辺部に位置する」


弘安寺周辺の条里制復元図を見てみましょう。
弘安寺周辺条里制

これを先ほどの地質図と重ね合わせて見てみると次のようなことが分かります。
①土器川の氾濫原・遊水池である吉野エリアは条里制施行は施行されていない。
②ただ吉野地区にも条里制施行の痕跡は認められる。
③条里制が施行されているのは、四条エリアでその周辺縁に弘安寺は立地している。
④弘安寺は、四条や吉野の開発拠点に建立された寺院である。
先ほど見た吉野下秀石遺跡は、6世紀後半に開発が始まっていますが、7世紀末になって行われた条里制施行エリアには入れられていません。土器川の氾濫原の開発は、なかなか難しかったようです。吉野下秀石遺跡の西方約500mある弘安寺も、これとよく似た立地条件が類推ができると研究者は考えています。

弘安寺周辺を現在の丸亀平野の灌漑システムの視点から見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
③が吉野の水戸 満濃池用水の金倉川からの取水口
弘安寺は④の周辺

江戸時代の満濃池用水路を見ると、先ほど見た吉野の水戸が金倉川からの丸亀平野への取水口として重要な役割を果たしていることが分かります。近世の西嶋八兵衛の満濃池再建工事は、「満濃池築造 + 土器川・金倉川の治水工事(ルート変更と固定化) + 用水路網整備」の3つがセットで行われています。古代に満濃池が作られたとしたら同じような課題が、立ちはだかったはずです。満濃池の築造と灌漑網整備はセットなのです。いわば「古代丸亀平野総合開発」なのです。それを古代において後押ししたのは、国の進める条里制施行でしょう。
満濃池 水戸大横井
近世の水戸の取水口 手前が金倉川本流 向こう側が満濃池分水

 古代において、開発が早くから進んだ弘田川、金倉川流域では、しばしば氾濫に見舞われていたことが発掘調査からも分かってきました。これを押さえるためには、金倉川の水量調節が不可欠です。そのためにも上流の満濃池築造は大きい意味を持つことになります。9世紀初頭に、多度郡郡司の佐伯直氏が一族出身の空海の讃岐への一時帰還を朝廷に願い出ているのは、国の事業として満濃池の完成を図ろうとしたこと、丸亀平野全般の開発事業に関わっていたという背景があったのでしょう。満濃池が最初に姿を見せたのは8世紀初頭とされます。つまり、それ以前から佐伯直氏は、継続的にこの事業に関わっていたことがうかがえます。幼い真魚(空海幼名)も、一族の「丸亀平野南部開発総合計画」に奮戦する一族の活動を、見聞きしていたのかも知れません。

丸亀平野条里制と古代の満濃池水路
丸亀平野の条里制と満濃池用水網 ①が吉野の水戸


 以上から四条・吉野地区と佐伯氏の関係を、次のように推測しておきます。
①吉野下秀石遺跡に6世紀後半に、開拓集団を送り込んだのは佐伯直一族
②7世紀末の条里制施行時に、「吉野地区総合開発」を進めたのも「佐伯一族+因首氏」連合
③9世紀に空海による満濃池再築を進めたのも「佐伯一族+因首氏」連合
つまり、古墳時代後半以後、佐伯直氏は金倉上流域に対しても、その影響力を伸ばしていたのです。そして、吉野地区の水戸を押さえることで、金倉川の治水とその下流に新たな入植地を確保して、急速な開発を行ったと考えられます。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
      弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦(白鳳時代)

そういう視点で、弘安寺についてもう一度見てみましょう。
弘安寺の建立は7世紀後半の白鳳時代になります。それは、条里制施工工事が丸亀平野の一番奥の四条地区に及び満濃池が姿を現す直前です。これらの開発拠点地が、四条地区でした。四条地区は急速に耕地が拡大し人口も増えたことが予想されます。そのような中で成長した有力者が、本拠地の近くに建立したのが弘安寺廃寺だと私は考えています。
 その造営主体として考えられるのは、次のような氏族です。
①安造田東3号墳の首長系譜につながる一族
②善通寺の佐伯直氏が送り込んだ入植者集団(佐伯直氏の分家)
③佐伯直氏と姻戚関係にあった因首氏

①の場合にも、善通寺王国の緩やかな連合体の中にあったと思われるので佐伯直氏の支援があったことは考えられます。③の場合も、因首氏は那珂郡に多くの権益を持っていましたから、吉野・四条からの用水路整備には、佐伯氏と共通の利害関係があったはずです。佐伯直氏と因首氏の共同開発プロジェクトとして進められ、最後には空海を担ぎ出すことによって国営事業に発展させて完成させたとも考えられます。
 満濃池築造後は、用水路を含めて維持管理が大切なことは、残された近世の満濃池史料が伝えるところです。
古代も同様であったはずです。その満濃池管理の拠点の役割を果たしたのが弘安寺ではないのかと私は考えています。港の管理を僧侶が受け持ち、寺院が港の管理センターの役割を果たしたように、新たに作られた用水路を寺院に担当させるというのが当時のひとつのやり方でした。水戸の取水口管理や用水配分などは、弘安寺の僧侶が行っていたのではないかと思っています。
そういう意味では、弘安寺は遊水池であった吉野地区の開発センターであり、満濃池の管理センターでもあったと云えます。墾田私有令以後は、多くの開発田をもつ経済力のある寺院となり本寺の善通寺を支えたのかもしれません。

ちなみに、この開発計画のその後をうかがわせる遺跡も出てきています。
買 田 岡 下 遺 跡

 琴平の「西村ショイ」の南側のバイパス工事にともなう発掘調査が行われた買田岡下遺跡です。
買田岡下遺跡 地図

ここからは、平安時代の掘立柱建造物が同時期に20棟近くも並んでいました。
買田岡下遺 郡衙的配置
    買田岡下遺跡の準郡衙的建造物配置図 一番下

 出土遺品や建造物の並びからこれを「準郡衙」的な遺跡と研究者は考えています。丸亀平野の条里制の最南端地区で、どうしてこのような施設が出てきたのか不思議でした。しかし、弘安寺周辺で7~9世紀に行われていた開発プロジェクトからすれば、その延長線上に買田岡下遺跡の「準郡衙」が現れたということになります。

以上をまとめておくと
①丸亀平野の最奧部にあたる吉野地区は、扇状地の扇頂直下の網状河川部にあたり、洪水時には遊水池となる湿原地帯であった。
②そこに古墳時代の後期以後に、入植が進んだ。その首長たちが造営したのが安造田古墳群である。
③7世紀後半に、丸亀平野にも条里制施行が始まると四条地区の開発が本格化した。
④四条地区の有力者は、佐伯氏の支援を受けながら「四条・吉野総合開発計画」を進めた。
⑤それは治水・灌漑のための「満濃池築造・用水路網整備・土器川金倉川治水」であった。
⑥そのモニュメントして建立されたのが弘安寺であり、後には満濃池の管理センターの役割も担った。
⑦四条地区の条里制整備は進んだが、吉野地区は何度もの洪水の被害を受けて完成には至らなかった。
⑧弘安寺周辺の四条地区には、満濃池の用水路網を握り、丸亀平野南部を押さえる有力者の存在がうかがえる。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキスト
  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

弘安寺跡 薬師堂
まんのう町四条本村の公民館と立薬師堂
 まんのう町四条本村の公民館と並んで立薬師堂が祀られています。お堂は1mほどの土壇の上に方二軒で南面して建っています。

弘安寺 礎石1
弘安寺廃寺 礎石

土壇に上がって薬師堂の西側を回り込んでいくと、大きな石が置かれています。これが古代寺院「弘安寺」の礎石です。1937年のお堂改築の時に、動かされたり、他所へ運び出されたものもあると云います。さらに裏側(北側)に回り込むと、薬師堂の北側の4つの柱は、旧礎石の上にそのまま建てられています。
DSC00923
弘安寺廃寺 礎石 立薬師堂に再利用されている

これらの4つの礎石は移動されずに、そのままの位置にあるようです。礎石間の距離は2,1mです。

弘安寺 塔心跡
弘安寺廃寺(原薬師堂)の塔心(手水石)
 薬師堂の前に、長さ2,4m 幅1,7m 高さ1,2mの花崗岩が手水石として置かれています。塔の心礎だったようで、中央に径55㎝、深さ15㎝で柄穴があります。この塔心は、この位置に移動されて手水石となっているので、もとあった場所は分かりません。塔があった所は分からないということです。薬師堂の南方、120㍍の所に大門と呼ばれる水田があります。土壇とこの水田を含む方一町の範囲が旧寺地と研究者は考えています。それは布目瓦が出土したエリアとも一致するようです。
 この方一町の旧寺地の方向は、天皇地区の条里方向とは一致しません。西に15度傾いています。ここから弘安寺は、条里制以前の白鳳時代に建立された古代寺院とされます。

弘安寺について書かれた文章を、戦前の讃岐史淡に見つけました。
讃岐史談(讃岐史談会編) / 光国家書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
讃岐史淡
讃岐史淡は、琴平の草薙金四郎が1936年から1949年まで発行した郷土史研究雑誌です。それを3冊に復刻したものが刊行されています。これも私の師匠から「もっと、勉強せえよ」との励ましとともにいただいて、何年も「積読(つんどく)」状態になっていたものです。やっと開いて見ていて見つけたのが 「 田所眉東 (七)仲多度郡四條村弘安寺に就いて 讃岐史談下巻 第4巻第2号   1939年」です。戦前に弘安寺のことが、書かれた文書はほとんどないので、読書メモ代わりに現代文に意訳変換してたものを以下にアップしておきます。
DSC00924
立薬師堂(まんのう町四条本村)
仲多度郡四條村弘安寺に就いて    田所眉東
愚息を見途り早めに琴平の定宿に入り、草薙金四郎氏を訪ねた。話が四條村の立薬師のことになって、翌日に立薬師に詣でた。立薬師は昔は弘安寺と云ったようである。この弘安寺は医王山浄願院城福寺の末寺となっているが、その際の昭和四年十二月十二日に、両寺の本末決定のための提出明細帳(同五年十二月廿五日許可)には、次のように記されている。
中に本尊薬師立像 行基作三尺六寸
口碑に依れば大同年間、弘法大師の創立弘安寺と称し往古七堂伽藍備はりたるも、天正年間長曾我部の兵火に羅り、遂に復興するに至らす小堂を備へ、本尊を安置したるを当山末寺なりし城福寺獨り存して維持し今日に及びたるものなり。
これ以外の立証資料として、
全讃史に 「弘安寺行基創立本拿薬師如来。今則慶篤小庵」
玉藻集には「薬師一宇方二間四條村弘安寺本箪行基菩薩作」
地元の伝えでは「大門観音堂あり。」
浄願院の文書中には、弘安寺のことが次のように記されている。
「薬師堂弐間四面瓦葺.薬師如来行基之御作、境内東西八間、市北拾間、右弘安寺前々より浄願院支配なきあり。」
「讃岐国中郡有西楽寺一宇改称医王院なり」
当山先師手数の書始めに臀王山西楽寺□□院大同二歳建立内伽藍八丁四方宛二御免地二有之候所 長曾我部燒討相成共後追々致断絶大同年中より寛文迄之累代先佳一墓ニ相約改宥存代寛文ニ城福寺浄願院興右有宥存代より中興一世給也当山先師年敷法印宥存  元禄七戊より百六拾七戊より百六拾五歳也
以上の記述については、浄願院と弘安寺を混同しているところがあり、正確なものではない。弘安寺は、もともとは境内方八町あったと伝わっている。
以上から分かるように、文献史料からは確かな手がかりを得ることはできない。弘安寺の遺物として確かなものは、本堂下の土壇や塔婆石のみである。
弘安寺は、後世には何かの事情で墓地になっていたようで、この墓地の南側に溝があり、それに添って小道がある。その南側に宅地(644ノ第二地番)があり、その間に自然の区画がある。
 これを伽藍配置の南限として、宅地(699地番)と畑地(648地番)の間の畦線と官地(642ノ内地番)の西側の道路の彎曲の頂点を南北に見通し、以上の並行線を北に延長じ道路696ノ8の地面)東北.西北両隅に近い道路の交又点を見通し、最も自然のままの彎曲線を見定め墓(648八)南添の道路と並行に東西に線を引けば、赤丸でかこんだ長方形のエリアを得ることができる。この範囲は東西両側線か40間になるので、南北両側線の長さも自然と決まる。そうすれば塔の土壇は、西塔が建っていた位置と推測できる。何んの伝説もないので、東塔はなかったようだ。そうすると墓地(648番地)辺りに、中門があったことになる。どちらにしても、塔の土壇を廻廊の内へ入れなければ伽藍配置は描けない。
 出土古瓦の文様から、弘安寺は「薬師寺式」を基本として計画したものであろう。
薬師寺食堂の調査(平城第500 次調査) 現地説明会 配布資料(2013/1/26)
薬師寺式伽藍

もとより田舎の事なので、建立にかかったものの、その一部だけしか完成しなかったのかもしれない。畑地(696ノ8)の北側まで、古瓦の破片が散見する。墓地(648)の南側道より約30間位南に離れた田地に大門の地名が残っているのが、南大門の名残であろう。これで弘安寺は平野の真ん中に、南面して建っていたことが分かる。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
出土した古瓦を見ておこう。
立薬師には甲・乙の2つの古瓦が残されている。甲は誰が見ても「白鳳期」のものである。乙は奈良期のものと云いたい所だが、今は平安初期としておこう。この二つの鼓瓦(軒丸瓦)を、突きつけられては、弘安寺は弘法大師によって建立されたとは云えなくなる。なぜなら弘安寺が姿を現したのは白鳳時代の7世紀後半で、空海が登場するよりも百年近く前のことになるからだ。大師が生まれる前に、この寺は出来ていた。大師建立など云うのは、大師の高徳を敬慕するよも勧進開山のためであろう。

 瓦の裏文様も種々ある。採取した瓦の破片の中には、奈良末期や平安中期のものもたくさんある。縄文様のものは、片面に布目もある。鎌倉時代の瓦はまだ出てこないが、室町時代末のものは、少数ではあるが出てくる。ここからは、この寺院が室町後期までは、なんとか存続していたことがうかがえる。

弘安寺礎石2
立薬師堂と礎石 古代の弘安寺の礎石がそのまま使用されている

土壇の上の塔礎石をもう一度見ておこう。
 礎石の中には元のままの位置にあって、その上に今も薬師堂の柱が載っているものもある。特に北側の4つの礎石の位置は、動かされていないようだ。両端の礎石の距離は15尺(約4、5m)ある。南側は、床下が暗くてよく分からない。その中の西側にある礎石は、東西径6尺南北径3三尺9寸で、これが一番大きい。その中央に今は手洗鉢となっている心礎があったのであろう。心礎以外には加工したものは、今のところ見当たらない。
弘安寺 塔心跡
手水石となっている塔心跡

室町末の唐卓瓦がわずかに出ているので、この寺院の廃絶時期が推察できる。
 弘安寺の廃絶は、長曾我部の兵火と文書史料は記すが、それは巷で伝えられる長曾我部兵火説と同じで事実ではない。弘安寺は何度も火災にあったことが、出てくる燒瓦から分かる。寺院の振興は、それを支える信者集団の有無にある。弘安寺は平安期には火災にあって、再建されている。しかし、鎌倉期には遺物が少なくなる。。ここからは寺運の盛衰がうかがえる。弘安寺には白鳳期の鼓瓦(軒丸瓦)がある。
 弘安寺からさほど遠くない所に讃岐忌部氏の祖神を祀る大麻神社が鎮座する。
その背後の大麻山には、積石塚古墳が数多く造営されている。これらの経済力を持った氏族が氏寺として弘安寺を建立したものと思う。このような豪族の勢力の衰退が中世になって衰退し、弘安寺が廃絶したと考える。

以上が約80年前の研究者の弘安寺廃寺に関する記述です。ここから読み取れることをまとめておくと次のようになります。
①文献史料には、弘安寺について記した同時代史料はない
②弘安寺廃寺の伽藍について、1町(108m)四方の大きさを想定
③塔は西塔だけで、現在の土壇上に建っていたと想定
④手水石は、かつての西塔の心礎でかつては、土壇上の礎石群の真ん中にあったものが、現在地に下ろされ手水石として利用されていると推測。
⑤出土した瓦から創建は、白鳳時代まで遡り、廃絶は室町時代末とされる。
⑥造営氏族は、大麻神社を氏神として祀る讃岐忌部氏を想定。

ここからは、文献史料からは弘安寺の歴史に迫ることはできないようです。考古学的な手法で迫るほかありません。 弘安寺の軒丸瓦については、以前にもお話ししたように、以下の古代寺院から出てきたものと同じ木型が使われていることが分かっています
①徳島県美馬市の郡里廃寺(こうざとはいじ:阿波立光寺)
②三木町の上高岡廃寺
③さぬき市寒川町の極楽寺跡
弘安寺軒丸瓦の同氾
阿波立光寺は美馬町の郡里廃寺のこと
次回は、この瓦を通して弘安寺の歴史に迫ってみましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「 田所眉東 (七)仲多度郡四條村弘安寺に就いて 讃岐史談下巻 第4巻第2号   1939年」

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瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

16世紀半ばに京都の東福寺の寺領得地保の年貢確保のために周防に派遣された禅僧守龍の記録から瀬戸内海の港や海賊の様子を前回は見ました。守龍は周防では、陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来して寺領の安堵を図っています。大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。北西風が強く吹く冬は、中世の舟は「休業」していたようです。春になって瀬戸内海航路の舟が動き出すのを待っていたのかも知れません。今回は守龍の帰路を見ていくことにします。テキストは 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」です
守龍が宮島からの帰路に利用した船の船頭は「室ノ五郎大夫」です。
瀬戸の港 室津

 室は現在の兵庫県の室津で、この湊も古代以来の重要な停泊地でした。1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことがうかがえます。
1室津 俯瞰図
室津

また「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。

1室津 絵図
室津
室津にも多くの船頭がいたことが史料からも分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。室の五郎大夫は、こんな船頭の一人だったのでしょう。
 守龍は周防からの帰路に五郎大夫の船を利用します。
宮島から堺までの船賃として支払ったのは、自分300文、従者分200文です。当時の瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことが分かります。同時に宮島が塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったことがうかがえます。
 宮島を出た舟は順風を得ることができずに、一旦立ち戻ったりもしています。その後は順調に船旅を続け、
平清盛の開削伝承のある音戸瀬戸
宋希環が海賊と交流した蒲刈島
などをへて、三月晦日には安芸の「田河原」(竹原)に着きます。
瀬戸の港 竹原
竹原 賀茂川河口が竹原湊
ここは賀茂御祖社(下鴨社)領都宇竹原荘のあるところで、荘内を流れる賀茂川の川口に港が開かれていました。竹原の港で一夜を明かした翌日の4月1日、守龍の乗った船は竹原沖で海賊と遭遇します。
守龍の記録には次のように記されています。
未の刻午後2時関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以て問答すること昏鵜(こんあ)に及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

意訳変換しておくと
未の刻(午後2時頃) 海賊大将のウカ島賊船十五艘が現れた、互いに端舟下ろして交渉を始めた。それは暗くなって続き、夜雨の中でも行われた。明け方になって過分の礼銭を出すことでやっと交渉が成立し、無事通過できた。

 海賊遭遇から得た情報を研究者は、次のように解析します。
「関の大将」とは、なんなのでしょうか。文字通り関所(通行税徴収)の大将がやってきたと思うのですが別の解釈もあるようです。薩摩の武将島津家久の旅日記『中書家久公御上京日記』にも
「ひゝのとて来たり」「のう島(能島)とて来たり」

などと、「関」がやってきたと記しています。この「関」は関所を意味する言葉ではないようで、ここでは「関」を海賊そのものとして使っているようです。海賊が関所を設けて金銭を徴収することは、小説「海賊の娘」でよく知られるようになりました。当時は、関所と海賊が一体のものとして認識されていて、「関」という言葉が海賊そのものを意味するようになったようです。

7 御手洗 航路ti北

 明代の中国人の日本研究書である『日本風土記』には「海寇」のことを「せき(設机)」と記します。ポルトガル語の辞書『日葡辞書』には、「セキ(関)」の項に「道路を占拠したり遮断したりすること」「通行税(関銭)などを収りたてて自由に通行させない関所、また通行税を取る人々」という語義の他に「海賊」意味があると記されています。関とは、海賊が一般社会に向けていた表向きの顔と研究者は考えているようです。
竹原近海で守龍たちの舟に接近してきた「関の大将」は、海賊でした。
海賊の大将「ウカ島」とは、尾道水道にある宇賀島(現在は岡島、JR尾道駅の対岸)を本拠とする海賊衆です。
瀬戸の港 尾道対岸の岡島
尾道水道の向こう側にある岡島(旧宇賀島)小さな子山
彼らは宇賀島を中心に周辺海域で航行船舶から礼銭、関料を徴収していたようです。応永27年(1420)7月、朝鮮の日本回礼使・宋希璟は尾道で海賊船十八隻の待ち伏せを受けて食料を求められたと記します。 宇賀島衆は向島の領主的地位も持っていたようです。しかし、このあとすぐの天文23年(1554)ごろに、因島村上氏と小早川氏によって滅ぼされています。
ここから分かることは、因島村上氏は16世紀半ばまでは尾道水道周辺を自分のナワバリに出来ていなかったということです。つまり、村上水軍は芸予諸島の一円的な制海権を、この時点では握っていなかったことになります。村上水軍の制海権は小早川隆景と結ぶことによって、急速に形成されたことがうかがえます。

 向島とつながる前の岡島(小歌島)
「ウカ島」の海賊大将は、15艘もの船を率いて、船頭五郎大夫の舟を取り囲む有力海賊だったようです。
船頭五郎大夫は、さっそく通行料について「問答」(交渉)を始めます。両者は互いに端舟を出して交渉します。往路の日比では交渉が決裂し、交戦に至りましたが、今度は15艘の艦隊で取り囲まれています。逃げ出すわけにもいきません。船頭の五郎大夫はねばりにねばります。
 未の刻(午後二時)に始まった交渉は、「昏鵜」(日ぐれ)になってもまとまりません。さらに夜を徹して続けられ、翌日の「暁天」になってやっと交渉はまとまります。それは、船頭側が「過分の礼銭」を出すことに応じたからでした。
船頭が海賊に支払った銭貨がなぜ「礼銭」と呼ばれるのでしょうか?
 海賊に対して航行する船の側が「礼」をしていることになります。これは通行の自由が認められている私たちからすれば、分かりにくいことです。ある意味、中世人独特の世界観が表わされているのかもしれません。
 「礼銭」という言葉の背後にあるのは、守龍らの船が本来航行してはいけない領域、なんらかのあいさつ抜きでは航行できない領域を航行したという意識だと研究者は考えているようです。それでは、公の海をなぜ勝手に航行してはいけないのか。それは、おそらく、そこが海賊と呼ばれるその海域の領主たちの生活の場、いわばナワバリだったからでしょう。海賊のナワバリの中を通過する以上は、通行料を支払うのが当然という意識が当時の人々にはありました。それが、「礼銭」という言葉になっているようです。海賊(海民や水軍)からみれば、ナワバリの中を通過する船から通行料を取るのは当然の権利ということになります。

 目に見えないナワバリを理解することができない通行者には、通行料を求める海賊の行為が次第に不当なものと思われるようになります。守龍の旅の往路でも、塩飽の源三が「鉄胞」で海賊を撃退し、復路において室の五郎大夫が礼銭を出し渋ってねばりにねばったのは、そのことを示しているのかもしれません。
 風雲の革命児信長は、それまでのナワバリを取っ払う「楽市楽座」を経済政策の柱として推し進めます。それを継いだ秀吉は、海の刀狩りとも云うべき「海賊禁止令」をだして、海上交通の自由を保障するのです。それに背いた村上武吉は能島から追放され、城は焼かれることになります。自由な海上交通ができる時代がやってきたのです。それを武器に成長して行くのが塩飽衆だったようです。
 守龍はその後、鞆、塩飽、縄島(直島か)、牛窓、室津、兵庫などと停泊を重ね、17日には堺津に上陸して、翌日18日には東福寺に帰り着いています。

以上をまとめておきます。
①16世紀半ばには、堺港と宮島を200石船が300人の常客を載せて往復していた。
②旅客船の船頭(母港)は、塩飽や室津などの有力港出身者が務めていた。
③旅客船は自由に航海が出来たわけではなく、海賊たちから通行量を要求されることもあった。
④海賊たちのナワバリには大小があった。村上氏や塩飽衆によって制海権が確保させれ安心安全な航海が保証されていたわけではなかった。
⑤は旅客船も有事に備えて、鉄砲などで武装していた。
⑥宮島や塩飽は、瀬戸内海航路のターミナル港の機能を果たしていた。そのため周辺からの小舟が
やってきたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」

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