瀬戸の島から

2021年11月

 八~九世紀になると讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこなうようになります。前回は、その中に、空海の佐伯直氏や円珍の因支首氏もいたことを見たうえで、関係文書から佐伯直氏と因支首氏の比較を行いました。今回は「円珍系図」が、誰によって作成されたのかを見ていこうと思います。 
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図(和気家系図)

 滋賀県の圓城寺には、「円珍系図(和気家系図)」が残っています。承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。

最初に因支首氏の改姓申請と円珍の動きを年表で見ておきましょう。
799年 氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出を命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡の因支首道麻呂・多度郡人同姓国益らが、前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること明記した系図を作成・提出。しかし、この時には改姓許可されず。
814年 円珍(広雄)讃岐那珂郡金倉郷に誕生。
828年 円珍が叔父の仁徳にともなわれて、最澄の直弟子である義真に入門
834年頃「円珍系図」の原型が作成される?
853年 新羅商人の船で入唐、
859年 円珍が園城寺長吏(別当)に補任され、同寺を伝法灌頂の道場とした。
860年 空海の弟真雅が東寺一長者となる(清和天皇の誕生以来の護持僧)
861年 多度郡の空海の一族佐伯直氏11人が佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡の因支首秋主や多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる
868年 円珍が延暦寺第5代座主となる。
891年 円珍が入寂、享年78歳。
  年表を見れば分かるように、この時期は、佐伯直氏出身の空海と弟の真雅が朝廷からの信頼を得て、大きな影響力を得ていた時代です。そこに、少し遅れて因支首氏出身の円珍が延暦寺座主となって、影響力を持ち始めます。地元では、それにあやかって再度、改姓申請を行おうという機運が高まります。佐伯直氏が佐伯宿禰への改姓に成功すると、それに習って、親族関係にあった因支首氏も佐伯氏の助言などを受けながら、2年後に改姓申請を行ったようです。
 改姓申請で和気氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって和気氏の系譜関係を公認してもらい、自らも和気氏に連なろうと因支首氏は試みます。この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠書類として作成・提出されたものの控えになるようです。ところが800年の申請の折には、改姓許可は下りませんでした。
寒川郡の讃岐国造であった讃岐公氏が讃岐朝臣氏に改姓が認められ、円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀かかったことになります。

まず円珍系図の「下」から見ていきましょう。
円珍系図3


系図の下というのは、一番新しい世代になります。
一番下の右に記される「子得度也僧円珍」とあります。これが円珍です。この系図からは「祖父道万(麻)呂 ー 父宅成 ー 円珍(広雄)」という直系関係が分かります。
天長十年(833)3月25日付の「円珍度牒」(園城寺文書)にも、次のように記されています。
沙弥円珍年十九 讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成戸口同姓広雄
  ここからは、次のようなことが分かります。
①円珍の本貫が 那珂郡金倉郷であったこと
②戸籍筆頭者が宅成であったこと
③俗名が広雄であったこと
これは、円珍系図とも整合します。ここからは円珍の本貫が、那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵寺町一帯)にあったことが分かります。現在の金倉寺は因支首氏(和気公)の居館跡に立てられたという伝承を裏付け、信憑性を持たせる史料です。

さて今日の本題に入って行きましょう。系図の制作者についてです。
円珍系図冒頭部

系図冒頭には、次のような円珍自筆の書き込みが本体の冒頭にあります。上図の一番下の横になっている一文です。実はこれをどう読むかが、制作者決定のポイントになります。

  □系図〔抹消〕天長乗承和初従  家□□於円珍所。

戦前に大倉粂馬氏は、「家」の次の不明の文字を、「丸」と判読し、この部分を人名の「家丸」とみなしました。そして、家丸は、円珍の叔父にあたる宅丸(宅麻呂、法名仁徳)のことします。宅丸(仁徳)が承和の初めに円珍を訪ねて、記憶をたどってこの系図を書き足したものであると推察しました。つまり、大倉氏は、この系図は承和年間に円珍が叔父の宅丸(宅麻呂)とともに編述したものと考えたのです。

「家」の下の不明の字を「丸」と判読し、欠損している部分を以上のように解釈することの判断は留保するにしても、この系図が、円珍の世代で終っていること、その次の世代がないことから、この系図は、承和の初め(834年ごろ)に書かれたものと研究者は考えています。

戦後になって研究者があらためて、系図の「得度僧仁徳」「得度也僧円珍」のところを、調べて次のように報告しています。
①「得度」の二字の下に薄く「宅麻呂」と書かれているように見える
②「得度也僧円珍」のところの「得度」の二字の下にも、薄く字がみえ、「広雄」と読める
   「仁徳=宅麻呂」で、仁徳は円珍の叔父に当たります。そして「円珍=広雄」です。
 以上から大倉粂馬氏は、この系図の筆者は仁徳(宅麻呂)だったと推測します。その理由は、自分が系図の作者なので「得度僧仁徳」と記して、本名を省略したのではないかというのです。そして、これが通説となっていたようです。

しかし、これには疑問が残ります。「得度僧仁徳」の下に、もと宅麻呂(宅丸)の名前が書いてあったことが分かってきたからです。それなら地元の那珂郡で作成された系図が、宅麻呂や円珍の手元に届いた時に、仁徳が俗名を消して、得度名を書き入れたと考える方が合理的です。

もう一度「円珍系図」の冒頭文「……承和初従  家□□於円珍所」にもどります。
佐伯有清氏は、「家」の字の上に「開字」があることに注意して読みます。この「家」の箇所は、円珍が敬意を表するために一字分あけたのであると推測します。そうだとすると「家」の字から判断すると、「家君」、あるいは「家公」など、それに類する文字が書かれてあった可能性が強いことになります。そうすると、この意味は次のようにとれます。
「この系図は、承和の初めに家君(父)より、円珍の所に送ってきたものである」

  つまり、円珍系図は、地元の那珂郡で作られたものを円珍の父宅成が送ってきたことになります。これは仁徳(宅麻呂)や円珍は、この系図の作成には、関与していないという説になります。

そういう視点で見ると、改姓を認められた者は、那珂郡と多度郡の因支首氏のうちの45名に及びますが、円珍系図には那珂郡の一族しか記されていません。多度郡の因支首氏については、一人も記されていません。これをどう考えればいいのでしょうか。
円珍系図2
多度郡の改姓者は、円珍系図にはひとりも書かれていない

 ここからは、この系図を書いた人にとって、多度郡の因支首一族は縁遠くなって、一族意識がもてなくなっていたことがうかがえます。同時に、円珍系図を書いた人は那珂郡の因支首氏であった可能性が強まります。

それでは那珂郡の因支首一族で、改名申請に最も熱心に取り組んでいたのは誰なのでしょうか。
円珍系図 那珂郡

それが因支首秋主になるようです。
 貞観9(879)年2月16日付の「讃岐国司解」の申請者筆頭に名前があることからもうかがえます。那珂郡の秋主からすれば、多度郡の国益や男綱(男縄)、そして臣足らは、血縁的にかなり掛け離れた人物になります。その子孫とも疎遠になっていたのかもしれません。そのために多度郡の一族については、系図に入れなかったと研究者は推測します。そういう目で多度郡と那珂郡の系図を比べて見ると、名前の書き落としがあったり、間柄がちがっている点が多いのは多度郡方だと研究者は指摘します。現在では、この円珍系図は地元の那珂郡の因支首一族のもとで作られたと考える研究者が多いようです。

  以上をまとめておくと
①因支首氏の改姓申請の際の証拠資料として、因支首氏は伊予の和気公と同族であることを証明する系図が制作された。
②この系図は申請時に政府に提出されたが、写しが因支首氏一族の円珍の手元に届き、圓城寺に残った。
③この系図の制作者としては、円珍の叔父で得度していた仁徳とされてきた。
④しかし、地元の那珂郡の因支首氏によって制作されたものが、円珍の父から送られてきたという説が出されている。
⑤どちらにしても、空海の佐伯直氏と、円珍の因支首氏が同じ時期に改姓申請を行っていた。
⑥古代豪族にとって改姓は重要な意味があり、自分の先祖をどの英雄や守護神に結びつけるかという考証的な作業をも伴うものであった。
⑦その作業を経て作られた因支首氏の系図の写しは、圓城寺で国宝として保管されている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(智証大師) 金倉寺蔵  

円珍(智証大師)は讃岐国の那珂郡と多度郡に分布していた因支首(いなぎのおびと)氏の出身です。因支首氏は改姓を許され後には、和気公を名乗るようになります。その系図が、『円珍系図(和気公系図)』と呼ばれている和気公氏の系図になります。この系図は、円珍の手もとにあったもので、それには円珍の書き入れもされて圓城寺に残りました。そのため『円珍俗姓系図』とも『大師御系図』とも呼ばれます。家系図ではもっとも古いものの一つで、国宝に指定されています。
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図
 この系図には讃岐古代史を考える上では多くの情報が含まれています。この円珍系図について詳しく述べているのが佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。この本も私の師匠から「これくらいは読んどかんといかんわな」と云われて、いただいたままで「積読(つんどく)」状態になっていたものです。これを引っ張り出して見ていくことにします。 今回は、改姓申請に関わって発行された文書を中心に、因支首氏(後の和気公)のことを見ていきます。

 菅原道真が讃岐守としてやってくる20年前の貞観八年(866)10月27日のことです。
那珂郡の人である因支首秋主・道麻呂・宅主らと、多度郡の因支首純雄・国益・臣足・男綱・文武・陶道ら九人は、和気公の氏姓を賜わります。この記事が載っている『三代実録』には、賜姓された人名につづけて、「其先 武国凝別皇子之苗裔也」とだけしか記されていません。ここからは秋主らが、どんな理由で氏姓を改めることを申請したのかは分かりません。ところが、因支首氏の改姓関わる文書が、もうひとつ伝えられています。
それが貞観九年(867)二月十六日付に、 当時の讃岐国司であった藤原有年が 「讃岐国戸籍帳」1巻の見返し(表紙裏)に記したものです。
讃岐国司解
有年申文
有年申文」です。国司の介(次官)である藤原有年が草仮名で事情を説明した申文です。
讃岐国司解3


この申文は「讃岐国司解」という解文の前に添えられています。
内容的には次のような意味になるようです。

「因支首氏の改姓人名禄の提出について、これはどのようにしたらよいか、官に申しあげよう。ご覧になられる程度と思う。そもそも刑大史の言葉によって下付することにしたので、出し賜うことにする。問題はないであろう」

「讃岐国司解」には「讃岐国印」が押されていて、まぎれもなく正式の文書です。因支首氏のうち和気公氏へと改姓した人物の名前を報告する文書であるこの「讃岐国司解」は、讃岐守の進言にしたがって太政官に提出されなかったようです。

讃岐国司解2
讃岐国司解

讃岐国司解には、賜姓請願のいきさつだけでなく、因支首から和気公に改氏姓したのは、上記の九名の者にとどまらず、那珂郡の因支首道麻呂・宅主・金布の三姻と、多度郡の因支首国益・男綱・臣足の三姻のあわせて六親族であったことも記されています。この讃岐国司解に記されている人名と続柄とによって、研究者が作成した系図を見てみましょう。
  円珍系図 那珂郡
那珂郡の因支首氏
円珍系図2
 多度郡の因支首氏

この系図の中にみえる人名で、傍線を引いた7名は  『三代実録』貞観八年十月二十七日戊成条の賜姓記事に記されている人々です。確認しておくと
(一)の那珂郡の親族には、道麻呂・宅主・秋主
(二)の多度郡の親族では国益・男綱・臣足・純男
しかし国司が中央に送った「讃岐国司解」には、那珂郡では
道麻呂の親族8名、
道麻呂の弟である宅主の親族6名、
それに子がいないという金布の親族1名、
多度郡では
国益の親族17名、
国益の弟である男綱の親族5名
国益の従父弟である臣足の親族6名、
あわせて43名に賜姓がおよんでいます。
 ここからは、一族意識を持った因首氏が那珂郡に3軒、多度郡に3軒いたことが分かります。因支首氏は、金蔵寺を創建した氏族とされ、現在の金蔵寺付近に拠点があったとされます。この周辺からは稲城北遺跡のように正倉を伴う郡衙に準ずる遺跡も出てきています。金蔵寺周辺から永井・稲城北にかけての那珂郡や多度郡北部に勢力を持つ有力者であったとされています。
 また、円珍家系図の中に記された父宅成は、善通寺を拠点とする佐伯氏から妻を娶っていたとも云われます。因首氏と佐伯氏は姻戚関係にあったようです。そのため因首氏は、郡司としての佐伯氏を助けながら勢力の拡大を図ったと各町誌などには書かれています。その因首氏の実態がうかがい知れる根本史料になります。

「讃岐国司解」には改姓者の人数が、43名も記されているのに、どうして『三代実録』には9名しかいないのでしょうか。
大倉粂馬氏は、「讃岐国解文の研究」と題する論文で、この疑問について次のような解釈を示しています。
「貞観八年十月発表せられたる賜姓の人名と翌九年二月の国解人名録とが合致せざるは何故なりや」

そして、次のような答えを出しています。

太政官では、遠くさかのぼって大同二年(807)の改姓請願書を採用し、これに現在戸主である秋主、および純雄の両名を加えて賜姓を行なったものであろう。また賜姓者九名のうちの文武・陶道の両名は、貞観年間に、おそらく死亡絶家となっていたものであろう。大同年間、国益・道麻呂の時に申告したものであったので、そのまま賜姓にあずかったものと認めてよいであろう

 ここでは二つの史料の間に時間的格差ができて、その間に「死亡絶家」になった家や、新たに生まれた人物が出てきたので食い違いが生じたとします。納得の出来る説明です。
それでは、正史に記載されている賜姓記事の人数と、実際の賜姓者の数が大きく増えていることをどう考えればいいのでしょうか?
改氏姓を認可する「太政官符」には、戸主だけの人名だけした記されていなかったようです。
賜姓にあずかるすべての人々、すなわちその戸の家族全員の人名は列記されていなかったことが他の史料から分かってきました。
改姓申請の手続きは次のように行われたと研究者は考えているようです。
①多度郡の秋生がとりまとめて、一族の戸主の連名で、郡司・国司に申請した。
②申請が受理されると中央政府からの「太政官符」をうけた「民部省符」が、国府に届く
③国司は、改氏姓の認可が下ったことを、多度・那珂郡の郡司を通して、各因支首氏の戸主たちに伝達する。
④同時に、郡司は改氏姓に該当する戸口全員の人名を府中の国府に報告する。
⑤それににもとづいて国府は記録し、太政官に申告する
こう考えると『三代実録』の賜姓記事にみえる人名と、「讃岐国司解」の改姓者歴名に記載されている人名との食い違いについての疑問は解けます。
 『三代実録』の賜姓記事にあげられている那珂郡の秋主・道麿(道麻呂)・宅主の三名と、多度郡の純雄・国益・臣足・男縄・文武・陶道の六名は、それぞれの因支首一族の戸主だったのです。
「讃岐国司解」の改姓者歴名の記載にもとづいて研究者が作成した系図をもう一度見てみましょう。
円珍系図2

道麻呂(道麿)・宅主・国益・男綱(男縄)・臣足は、それぞれの親族の筆頭にあげられています。
円珍系図 那珂郡

那珂郡の秋主は、円珍の祖父道麻呂と親属関係にあり、また多度郡の純雄(純男)は、国益の孫になります。秋主や純雄(純男)が、因支首から和気公への改氏姓を請願した人物だと研究者は考えているようです。また、申請時の貞観当時の戸主であったので『三代実録』の賜姓記事には、それぞれの郡の筆頭にあげられているようです。

「讃岐国司解」は、四十三名の改氏姓者の人名を掲げたうえで、次のようなことを書き加えています。
右被民部省去貞観八年十一月四日符称。太政官去十月廿七日符称。得彼国解称。管那珂多度郡司解状称。秋主等解状称。謹案太政官去大同二年二月廿三日符称。右大臣宣。奉勅。諸氏雑姓概多錯謬。或宗異姓同。本源難弁。或嫌賤仮貴。枝派無別。此雨不正。豊称実録撰定之後何更刊改。宜下検故記。請改姓輩。限今年内任令中申畢上者。諸国承知。依宣行之者。国依符旨下知諸郡愛祖父国益。道麻呂等。検拠実録進下本系帳。丼請改姓状蜘復案旧跡。
 依太政官延暦十八年十二月十九日符旨。共伊予別公等。具注下為同宗之由抑即十九年七月十日進上之実。而報符未下。祖耶己没。秋主等幸荷継絶之恩勅。久悲素情之未允。加以因支両字。義理無憑。別公本姓亦渉忌諄当今聖明照臨。昆虫需恩。望請。幸被言上忍尾五世孫少初位上身之苗裔在此部者。皆拠元祖所封郡名。賜和気公姓。将始栄千後代者。郡司引検旧記所申有道。働請国裁者。国司覆審。所陳不虚。謹請官裁者。右大臣宣。奉勅。依請者。省宜承知。依宣行者。国宜承知。依件行之者。具録下千預二改姓・之人等爽名い言上如件。謹解。
意訳変換しておくと
右の通り民部省が貞観八年十一月四日に発行した符。太政官が十月廿七日の符。讃岐国府発行の解。管轄する那珂多度郡司の状。秋主等なの解状について。太政官大同二年二月廿三日符には、右大臣が奉勅し次のように記されている。
 さまざまな諸氏の雑姓が多く錯謬し。異姓も多く本源を判断するのは困難である。或いは、賤を嫌い貴を尊び、系譜の枝派は分別なく、不正も行われるようになった。実録撰定後に、何度も改訂を行ったが、改姓を申請する者が絶えない。そこで今回に限り、今年内に申請を行った者については受け付けることを諸国に通知した。その通知を受けて諸郡に通達したところ、祖父国益・道麻呂等が実録の本系帳に基づいて、改姓申請書を提出してきた。
 太政官延暦十八年十二月十九日符の趣旨に従って、伊予別公などと因支首氏は同宗であると、同十九年七月十日に申請してきた。しかし、これは認められなかった。
 申請した祖父が亡くなり、孫の秋主の世代になっても改姓が認められなかったことは、未だに悲しみに絶えられない。別公(和気公)の本姓を名乗ることを切に願う。「昆虫」すら天皇の「霧恩」を願っている。忍尾の五世孫の子孫たちで、この土地に居住する者は、みな始祖が封じられた郡名、すなわち伊予国の和気郡の地名によって和気公の氏姓を賜わるように請願する。
 このように申請された書状は、郡司が引検し、国司が審査し、推敲訂正し、謹んで中央に送られ、右大臣が奉勅した。ここにおいて申請書は認可され、改姓が成就することなった。
 引用された「太政官符」によると、改姓を希望する者は、大同二年内に申請するように命じられていたことが分かります。この命令が出されたのは、延暦18年(799)12月29日です。そこで本系帳を提出させることを命じてから『新撰姓氏録』として京畿内の諸氏族だけの本系帳が集成されるまでの過程で、改氏姓のために生じる混乱や、煩雑さをさけるためにとられた措置であったと研究者は考えています。
 因支首氏は、「讃岐国司解」に記されているように、延暦18年12月29日の本系帳提出の命令にしたがって、翌年の延暦19年8月10日に、本系帳を提出します。さらに大同2年2月23日の改姓に関する太政官の命令にもとづいて、秋主の祖父宅主の兄である道麻呂、および純雄(純男)の祖父である国益らが、本系帳とともに改姓申請を行います。ところが、この時の道麻呂らの改姓申請に対する認可は下りなかったようです。
そこで60年後に孫の世代になる秋主らが再度申請します。
「久悲二素情之未フ允」しみ、「昆虫」すら天皇の「霧恩」っていることを、切々と訴えます。そして「忍尾五世孫少初位上身之苗裔」で、この土地に居住する者は、みな始祖が封じられた郡名、すなわち伊予国の和気郡の地名によって和気公の氏姓を賜わるように請願したのです。
 秋主らが改氏姓の申請をしたのは、貞観七年(865)頃ころだったようです。こうして貞観八年(866)10月27日に、秋主らへの改氏姓認可が下ります。祖父世代の道麻呂らが改氏姓の申請をしてから数えると60年近い歳月が経っていたことになります。

実はこれに先駆ける4年前に、空海の一族である佐伯直氏も改姓と本貫移動をを申請しています
 その時の記録が『日本三代実録』貞観三年(861)11月11日辛巳条で、「貞観三年記録」と呼ばれている史料です。ここからは、佐伯直氏の成功を参考に、助言などを得ながら改姓申請が行われたことが考えれます。

以前にもお話ししたように、この時期は讃岐でもかつての国造の流れを汲む郡司達の改姓・本貫変更が目白押しでした。その背景としては、当時の地方貴族を取り巻く状況悪化が指摘できます。律令体制の行き詰まりが進み、郡司などの地方貴族の中間搾取マージンが先細りしていきます。代わって、あらたに新興有力層が台頭し、郡司などの徴税業務は困難になるばかりです。そういう中で、将来に不安を感じた地方貴族の中には、改姓や本貫移動によって、京に出て中央貴族に成ろうとする者が増えます。そのために経済力を高め。売官などで官位を高めるための努力を重ねています。佐伯家も、空海やその弟真雅が中央で活躍したのを梃子にして、甥の佐伯直鈴伎麻呂ら11名が佐伯宿禰の姓をたまわり、本籍地を讃岐国から都に移すことを許されます。その時の申請記録が「貞観三年記録」です。ここにはどんなことが書かれているのか見ておきましょう。
 「貞観三年記録」の前半には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内十一人の名前とその続き柄が、次のように記されています。
 讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位上佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿禰の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき。

ここに名前のみられる人物を系譜化したものが下の系図です。
1空海系図2
空海系図

 これを因支首氏と比較してすぐ気がつくのは、佐伯氏の場合には空海の世代からは、位階をみんな持っていることです。しかも地方の有力者としては、異例の五位や六位が目白押しです。加えて、空海の身内は、佐伯直氏の本家ではなく傍系です。
 一方、因支首氏には官位が記されていません。政府の正式文書に官位が記されていないと云うことは官位を記することが出来なかった、すなわち「無冠」であったことになります。無冠では、官職を得ることは出来ません。因支首氏は、郡司をだせる家柄ではなかったようです。
また、佐伯直氏の場合は、改姓と共に平安京に本貫を移すことが許されています。
つまり、晴れて中央貴族の仲間入りを果たしたことになります。それ以前から佐伯直氏一族の中には、中央官僚として活躍していたものもいたようです。この背景には「売官制度」もあったのでしょうが、それだけの経済力を佐伯直氏は併せて持っていたことがうかがえます。 
 一方、それに比べて、因支首氏の場合は和気氏への改姓許可のみで京への本貫移動については何も触れられていません。本貫が移されることはなかったようです。
 佐伯直氏と因支首氏(和気)の氏寺の比較を行っておきましょう。
  佐伯氏は白鳳時代に、南海道が伸びてくる前に仲村廃寺建立しています。そして、南海道とともに条里制が施行されると、新たな氏寺を条里制に沿った形で建立します。その大きさは条里制の四坊を合わせた境内の広さです。この規模の古代寺院は讃岐では、国分寺以外にはありません。突出した経済力を佐伯直氏が持っていたことを示します。

IMG_3923
金倉寺

  一方因支首氏の氏寺とされるのが金倉寺です。
  この寺は、円珍の祖父である和気通善が、宝亀五年(774)に、自分の居宅に開いたので通善寺と呼んだという伝承があります。これは善通寺が善通寺と呼ばれたのと同じパターンです。これは近世になってからの所説です。先ほど系図で見たように、円珍の祖父は道麻呂です。また、この寺からは古代瓦などは、見つかっていないようです。
因支首氏から和気公へ改姓申請が受理された当時の因支首一族の状況をまとめておくと
①全員が位階を持っていない。因支首氏は郡司を出していた家柄ではない。
②改姓のみで本貫は移されていない
③因支首氏は古代寺院を建立した形跡がない。
  ここからは、因支首氏が古代寺院を自力で建立できるまでの一族ではなかったこと、旧国造や郡司の家柄でもなかったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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 藤沢周平の「回天の門」の主人公・清河八郎は、幕末に尊攘派の志士として活躍した人物です。彼は26歳の時(1856年)に、母親を連れて金毘羅参りにやって来ています。その旅日記『西遊草』の中に、丸亀からの道中でみた飯野山について、次のように記しています。
飯野山と坂出 御魚堂
飯野山や周辺の里山にも大きな木はない
 付近の子どもが次のように教えてくれた。
 「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」と。このあたりには高い山はなく、摺鉢をふせたような山がぽつりぽつりと見える。そして、山には木々が生えていない。その山々が時々、雲に隠れてまた現れ、様々な姿を見せてくれる。
 ここからは次の2つのことが分かります。
①飯野山は、年に一度しか登ることが許されていなかったこと。霊山として「禁足」された聖なる山だったこと。
②周囲の里山には「木が生えていない=裸山」だったこと。
4344102-34飯野山と飯神社

先に進んで金毘羅での記述を見てみましょう。

 金毘羅の町の賑わいは凄まじい。屋根の着いた橋(鞘橋)を渡ると、そこからは両端に旅籠が軒を並べる内町だ。見事な造りの家ばかりである。お腹も空いたので備前屋という店で昼御飯をとり、そこに荷物を預けて参拝する。金毘羅山は、その名の通り象の頭ようで、草木もない。しかし、神社があるところは山形の仙人林と同じように木々が茂り、大きな森となっている。

 ここには、象頭山も草木がない裸山だったと記します。神社がある所だけが森となっているというのです。これは本当なのでしょうか。

思い当たるのが安藤広重の浮世絵「讃岐象頭山遠望」です。

みんなの知識 ちょっと便利帳】歌川広重・六十余州名所図会/大日本六十余州名勝図会《讃岐 象頭山遠望》

清川八郎が金毘羅にやって来た同じ年に描かれたものです。まんのう町羽間の「残念坂(見返坂)」を上り下りする参拝者の向こうに象が眠るように象頭山が描かれています。山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?

象頭山遠景 浮世絵 A

 向かって左側は、金毘羅さんの神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
 ここからは次のようなことが推論できます。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。右の善通寺側は、伐採が行われ山が裸になっている。 その背景には、里山の青草や木の若芽を刈り取り、田植前の水田に敷きこんで腐食させ根肥とする刈敷(かれしき)が盛んに行われたためです。そのため里山の木々が春前には大量に切られました。そして、山裾は畠になり、だんだん高くまで開墾されていきます。耕地開発が最も進んだ頃には、まんのう町の里山も丸裸のはげ山だったのかもしれません。それが時を超えて、今は自然に帰っていると見ることもできます。 
本堂より讃岐富士 絵はがき

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生野本町遺跡           
生野本町遺跡(善通寺氏生野町 旧善通寺西高校グランド)

 多度郡の郡衙跡の有力候補が生野本町遺跡です。この遺跡は善通寺西高校グランド整備のための発掘調査されました。調査報告書をまとめると次のようになります。
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。
②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉
③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡
④中心の微髙地の一番高いところに郡庁設置?
ここからは条里制に沿って大型建物が計画性を持って配置されていることや、正倉と思われる倉が出てきています。「倉が出てきたら郡衛と思え!」がセオリーのようなので、ここが多度郡の郡衛跡と研究者は考えています。また、条里制に沿って建物群が配置されているので、南海道や条里制とほぼ同じ時期に作られたようです。

稲木北遺跡 条里制
下側の太線が南海道 多度郡衙はそれに面した位置にある

この郡衛の建設者として考えられるのは、空海を生んだ佐伯直氏です。

佐伯直氏は、城山城の築城や南海道・条里制施行工事に関わりながら国造から郡司へとスムーズにスライドして勢力を伸ばしてきたようです。そして、白鳳時代の早い時期に氏寺を建立します。それが仲村廃寺で、条里制施工前のことです。しかし、南海道が伸びて条里制が施行されると、この方向性に合う形でさらに大きな境内を持った善通寺を建立します。つまり、二つの氏寺を連続して建てています。

四国学院側 条里6条と7条ライン

四国学院内を通過する南海道跡(推定)の南側

 同時に、多度郡司の政治的な拠点として、新たな郡衛の建設に着手します。それが生野本町遺跡になるようです。そういう意味では、佐伯直氏にとって、この郡衛は支配拠点として、善通寺は宗教的モニュメントして郡司に相応しいシンボル的建築物であったと考えられます。
 今回は、この郡衙て展開された律令時代の地方政治の動きを、中央政府との関係で見ていこうと思います。テキストは「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」です。

 地方における郡司の立場を見ておきましょう。
   律令国家は、かつての国造を郡司に置き換えます。そして、国造の朝廷への服属儀礼の大部分を郡司に引き継がせることで、スムーズに律令体制へと移行させました。律令下では、佐伯直氏のような郡司クラスの地域の有力者は、これまでのように勝手に人々を自らの支配下に置いたり、勢力を拡大したりすることはできなくなります。
 その一方で、多度郡司というポストを手に入れます。郡司からすれば国司の言うことさえきいておけば、後は中間で利益を挙げることができました。地方有力者にとって郡司は、「おいしいポスト」であったようです。郡司にとっての律令体制とは、「公地公民」の原則の下に自分の権益が失われたと嘆くばかりのものではなかったことを押さえておきます。 

考古学の成果からは、9世紀から10世紀にかけては、古代の集落史において、かな劇的な変化があった時代であったことが明らかにされています。
古代集落変遷1
信濃の古代集落存続期間
上の信濃の古代集落の存続期間を見ると、次のようなことが分かります。
①古墳時代から継続している村落。
②7世紀に新たに出現した集落
③集落の多くが9世紀末に一時的に廃絶したこと。
 ①の集落も8世紀末には一旦は廃絶した所が多いようです。近畿の集落存続表からも同じような傾向が見られるようです。ここからは6世紀末から7世紀初頭にかけてが集落の再編期で、古墳時代からの集落もこのころにいったん途切れることがうかがえます。これをどう考えればいいのでしょうか。
いろいろな理由があるでしょうが、一つの要因として考えられるのは条里制です。条里制が新たに行われることによって、新しい集落が計画的に作られたと研究者は考えているようです。

それでは、9世紀から10世紀にかけて、それまでの集落の大半が消滅してしまうのはどうしてなのでしょうか。これは、逆に言えば、中世に続くような集落の多くは、若干の空白期間をおいて平安時代後期(11世紀)になって、新しく作られ始めたことになります。この時期は、ちょうど荘園公領制という新しい制度が形成される時期にあたります。このことと集落の再興・新展開とは表裏の関係にあると研究者は考えています。
 つまり、条里制という人為的土地制度が7世紀に古代集落を作り出し、律令制の解体と共に、古代の集落も姿を消したという話です。また上の表から分かるように、古墳時代から続いてきた集落も、十世紀にはいったん途絶えるとようです。ここから西日本では、平安時代のごく初期に、集落の景観が一変したことがうかがえます。

稲木北遺跡 三次郡衙2

それでは各地の郡衙が存続した期間を見ておきましょう。
郡衙というのは、郡司が政務を執ったり儀式を行うところである郡庁と、それに付属する館・厨家・正倉・工房などからなる郡行政の中心的な施設です。
郡衙遺跡変遷表1

上表からは次のようなことが分かります。
①7世紀初頭前後に、各地の郡衙は姿を現す
②早い所では、8世紀前半には郡衙は姿を消す。
③残った郡衙も10世紀代になるとほとんどの郡衛遺跡で遺構の存続が確認できない。
ここからは、郡衙は律令制が始まって百年後には、衰退・消滅が始まり、2百年後には姿を消していたことが分かります。9世紀後半から10世紀にかけて、それまで律令国家の地方支配の拠点であった郡衛が機能しなくなっていたようです。こうして、郡司制度に大きな改変が加えられます。その結果が、郡衛(郡家)の衰退・消滅のようです。
ちなみに、多度郡衙候補の生野本町遺跡の存続期間も7世紀後葉~9世紀前葉でした。空海の晩年には、多度郡衙は機能停止状況に追い込まれ、姿を消していたようです。
稲木北遺跡 三次郡衙
 三次郡衙(広島県三次市) 正倉が整然と並んでいる

郡衙の衰退で、まずみられるのが正倉が消えていくことです。
  さきほど「倉が並んで出てくれば郡衛跡」と云いましたが、その理由から見ておきましょう。律令体制当初は、中央に収める調以外に、農民が納入した租や使う当てのない公出挙(くすいこ)の利稲(りとう)は、保存に適するように穀(稲穂)からはずされた籾殻つきの稲粒にされて、郡衙の倉に入れられました。多度郡全域から運ばれてきた籾で満杯になった正倉には鍵をかけられます。この鍵は中央政府に召し上げられ、天皇の管理下に置かれてしまい、国司でさえも不動穀を使用するには、いちいち天皇の許可が必要でした。そのため倉は不動倉、中の稲穀は不動穀と呼ばれることになります。こうして郡衙には、何棟もの正倉が立ち並ぶことになります。
 不動倉(正倉)を設ける名目は、いざという時のためです。そもそも神に捧げた初穂である租を大量にふくんでいますのですから、おいそれと使ってはならないというのが、最初のタテマエだったようです。ところが、その不動穀が流用され、中央政府に吸い上げられるようになります。不動穀流用の早い例としては、東国の穀を蝦夷征討の軍糧に流用したものがあります。それが恒常化していくのです。
 現実はともかく郡衙には正倉と呼ばれる倉があって
「あそこに貯えられていますお米は、おじいさん、おばあさん、そのまた先の御先祖様達が、少しずつ神様にお供えしてきたもので、私たちが飢饉にあったら、天子様が鍵を開けてみんなに分けて下さるのですよ」

というのが理念だったようです。
 ある意味では、立ち並ぶ正倉は律令支配を正当化するシンボル的な建築物であったのかもしれません。生野本町遺跡だけでなく多度郡には稲木北遺跡からも複数の倉跡が出てきています。また、飯野山の南側を走る南海道に隣接する岸の上遺跡からも倉跡が出てきました。これらも郡衙か準郡衙的な施設と研究者は考えているようです。

 研究者が注目するのは、この正倉の消滅です。
本稲を貯めておく所が正倉でした。しかし、8世紀後半になると設置目的が忘れられ、徴税されたものは、さっさと中央に吸い取られてしまうと倉庫群は必要なくなります。そればかりではありません。郡庁は、郡司が政務を執り、新任国司や定期的に巡行してくる国司を迎えるなど、儀式の場としても機能していた建物でした。これが消えます。この背景には、郡司の権威の哀退があったようです。
 8世紀に設置された時の郡司には、かつての国造の後裔が任じられて、権威のある場所であり建物でした。それがこの間に郡司のポストの持つ重要性は、大きく低下したことを示しています。古代集落と郡衙の消滅という現象も、律令体制の解体と関わりがあったと研究者は考えています。

受領国司

その変化を生み出したのが受領国司の登場のようです。
菅原道真が讃岐から帰った後の10世紀になると、政府は税制の大転換に踏み切ります。 従来の人頭税(じんとうぜい)をやめて、官物・臨時雑役(ぞうやく)という土地税を徴収することにします。そして、この徴収は、これまでの郡司にかわって、国司が請け負うことになります。その見返りとして、政府は国司に任国の統治を一任することにします。「税を徴収して、ちゃんと政府に納めてくれるなら、あとは好きにしてよろしい!ということです。その結果、受領国司は実入りのいいオイシイ職業となり、成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)が繰り返されることになります。
 郡司に代わって徴税権を握った国司は、有力農民である田堵を利用します。新しい徴税単位である名(みょう)の耕作を田堵に任せ、税の納入を請け負わせるのです。このように、名の経営を請け負う田堵を、とくに負名(ふみょう)と呼びます。田堵(負名)のなかには、国司と手を結んで大規模な経営をおこなう、大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる者も現れます。彼らは、やがて開発領主と呼ばれるまでに成長します。
田堵→負名→大名田堵→開発領主

さらに、開発領主の多くは在庁官人となり、国司不在の国衙、いわゆる留守所(るすどころ)の行政を担うようにもなります。

 受領国司は、王臣家の手下たちを採用し、徴税と京への輸送・納入任者である専当郡司に任命もします。これは、いままで富豪浪人として、あれこれと国司・郡司の徴税に反抗してきた者たちを、運送人(綱丁)にしてしまうことで、体制内に取り組むという目論見も見え隠れします。こうして国司から任用された人々は、判官代などといった国衙の下級職員の肩書きをもらいます。
 受領は、負名(ふみょう)や運送人(綱丁)などの地域の諸勢力を支配下に置いて、軒並み動員できる体制を作り上げました。こうなると郡司に頼る必要はありません。受領にとって、旧来の郡司の存在価値は限りなく低下します。同時に、その拠点であった郡衙の意味もなくなります。各地の郡衙が10世紀初頭には姿を消して行くという背景には、このような動きが進行していたようです。  
 このような中で地方の旧国造や郡司をつとめていた勢力も、中央貴族化することを望んで改名や、本貫地の京への移動を願いでるようになります。空海の佐伯家や、円珍(智証大師)の稻首氏もこのような流れに乗って、都へと上京していくのです。

  多度郡衙と空海と菅原道真との関係で見ておきましょう
空海が善通寺で誕生していたとすれば、その時に多度郡衙は生野本町に姿を見せていたはずです。その時の多度郡司は、空海(真魚)の父田公ではありません。
1 空海系図52jpg
空海の系図 父田公は位階がない。戸籍筆頭者は道長

田公は位階がないので、郡長にはなれません。当時の郡長候補は、空海の戸籍の筆頭者である道長が最有力だと私は考えています。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
  延暦24年9月11日付 太政官符 
ここには「佐伯直道長戸口 同姓真魚(空海幼名)」とあります


道長の血筋が佐伯直氏の本流(本家)で、いち早く佐伯氏から佐伯直氏への改名に成功し、本籍を平城京に移しています。それが空海の高弟の実恵や道雄の家系になると研究者は考えているようです。空海の父田公は、佐伯直氏の傍流(分家)で改名も、本籍地移動も遅れています。

 空海の生まれたときに、善通寺と多度郡衙は姿を見せていたでしょう。
岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に伸びる南海道

後世の弘法大師伝説には、幼い時代の空海は、善通寺から一直線に東に伸びる南海道を馬で府中にある国学に通学したと語ります。国学に通ったかどうかは、以前にお話しように疑問が残ります。
 それから約百年後の9世紀末に、国司としてやって来ていた菅原道真の時代には、国府から額坂を越えて馬を飛ばして、多度郡の視察にやって来た道真の前に、善通寺の伽藍の姿はあったかもしれません。しかし、多度郡衙はすでになかった可能性があります。この間に、多度郡衙には大きな変化があったことになります。

10世紀になると郡衛が衰退・消滅したように、国衛も変貌していきます。
国衙遺跡存続表1

8世紀の半ばに姿を見せるようになった各国の国衙は、中央政府の朝堂配置をコピーした国庁が造営され、それが9世紀代を通じて維持されます。しかし、10世紀になるとその基本構造が変化したり、移転する例が多く見られるようになることが上図からも分かります。これも郡衙の場合と同じように、律令体制の解体・変質をが背景にあると研究者は考えています。
 それまでの儀礼に重点をおいた画一的な平面プランには姿を消します。そして、肥前国国衙のように、10世紀に入ると極端に政庁が小さくなり、姿を消していく所が多いようです。しかし、筑後や、出羽・因幡・周防などの国府のように、小さくなりながらも10世紀を越えて生き延びていく例がいくつもあります。讃岐国府跡も、このグループに入るようです。やがて文献には、国庁ではなく国司の居館(館)を中心にして、受領やその郎党たちによる支配が展開していったようすが描かれるようになります。
受領国司

  以上をまとめておきます
①旧練兵場遺跡は、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国をなす」のひとつで、善通寺王国跡と考えられる。
②この勢力は古墳時代には、野田院古墳から王墓山古墳まで連綿と首長墓である前方後円墳を築き続ける
③この勢力は、ヤマト政権と結びながら国造から郡長へと成長し、城山城や南海道建設を進める。
④郡司としての支配モニュメントが、生野本町遺跡の郡衙と氏寺の善通寺である。
⑤空海のが生まれた時代は、郡衙は多度郡の支配センターとして機能し、戸籍などもここで作られた。
⑥しかし、8世紀後半から律令体制は行き詰まり、郡衙も次第に縮小化するようになる。
⑦菅原道真の頃に成立した国司受領制の成立によって、郡司や郡衙の役割は低下し、多度郡衙も姿を消す。
③以後は受領による『荘園・公領制』へと移行していく

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」
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 13世紀の蒙古襲来後、幕府によって一宮や国分寺をはじめとする全国の有力な寺社に異国降伏祈祷が命じらています。
荘郷鎮守1 
重要文化財「金光明最勝王経」
当時行われた異国降伏の祈祷を端的に示す経典

こうした幕府の政策は、諸国に寺社の修造ブームが巻き起こすことになります。鎌倉後半期の地方寺社の造営・修理の状況を見ると、文永の役から13世紀終末までに、地方では有力寺院の改築ラッシュが続いたことがこの表からはうかがえます。
荘郷鎮守1 現校長後の地方寺社一覧

讃岐では善通寺が上がっていますが、それ以外にも三豊の本山寺や観音寺本堂ははじめ、この時期の造営寺社は多いようです。この時の寺社修造ブームの背後には、修験者の活発な活動があったとされます。それを今までに見てきた讃岐での修験者や高野聖たちの活動に照らし合わせながら見ていきたいと思います。テキストは「榎原雅治 荘郷鎮守の地域的関係の成立  日本中世地域社会の構造 2000年」です。

中世寺院築造ムーヴメントについて、研究者は次の二点を指摘します。
第一は、この寺社修造運動が一宮などの国内の頂点的な寺社にとどまるのではなく、荘郷の鎮守にまで及ぶものだったこと
第二は、地方末端にまで及ぶ寺社修造が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現していたこと
 正応四年(1291)の紀伊国神野・真国・猿川庄公文職請文に
「寄事於勧進、不可責取百姓用途事」

という条文があります。ここからは、修験者の勧進(募金活動)が公的に認められ、奨励されていたようにも見えます。これも時代状況をよく反映した文言と研究者は指摘します。
 このような全国的な寺社修造と勧進盛行は、聖や修験者たちの動きを刺激し、村々を渡り歩く動きを活発化させたようです。聖や修験者の活動によって荘郷鎮守をはじめとするその地域の寺社ネットワークが作られていったのではないかと研究者は推測します。その原動力が蒙古襲来後の寺社造営の運動にあったというのです。

 その代表例として研究者が挙げるのが西国三十三所観音霊場をコピーして、作られた巡礼ネットワークです。
例えば若狭三十三所は、国内の荘園公領の鎮守によって三十三所霊場が形成されます。このメンバーである寺社は、共同で「小浜千部経転読」などの一国規模での法会を営んだり、それぞれの寺院での法会の開催をめぐって相互に協力しあったりするようになります。この法会には、「十穀」=勧進聖が関わるようになります。つまりこの時期の若狭には、修験者や聖たちの活動に先導されて、荘郷鎮守の地域的ネットワークが成立していたのです。
2 長尾寺 境内図寂然

長尾寺

このような動きは、讃岐の高松周辺の後の四国霊場にも見られます。
例えばに、四国辺路に訪れた澄禅の「四国遍路日記」(1653)には、長尾寺について次のように記されています。

長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国ニ七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」

ここには、長尾寺はかつては観音寺と呼ばれていたこと、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観と呼ばれていったことが記されています。
長尾寺 聖観音立像
秘仏本尊の前立像として安置されている長尾寺の観音様

また寺の伝えでは、江戸時代の初期までは観音信仰の拠点として「観音寺」と呼ばれていたといいます。坂出から高松に至る海岸沿いの後の辺路札所の寺院がメンバーとなって「七観音」を組織していたことが分かります。善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような集合体が、ここにもあったようです。それを進めたのは、白峰寺や志度寺を拠点とした備中の五流修験と私は考えています。
 また西讃地方では、雲辺寺・大興寺・観音寺・本山寺・弥谷寺・曼荼羅寺という寺も、七宝山をゲレンデにして辺路ルートを開き、修験道によって結びつけられていたことは以前にお話ししました。

修験者によって地域の寺がネットワークで結ばれるという動きは、当時は全国的なものでした。讃岐でも有力寺社が修験者や聖によってネットワーク化されていたのです。

浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のような事を指摘します。
①14世紀前後のころ、一宮、荘郷鎮守などの有力寺院が周辺の小規模な村堂を末寺化していくこと
②在地寺院同士が造営や写経などをめぐって「合力しあう地縁的な一種の連帯関係を有していた」こと、
③在地寺院の連帯関係が、自由信仰、石動信仰といった地域の村落の上層農民の信仰を基盤に成立していたこと
 有力寺院による寺院の組織化(末寺化)が同時進行で行われていたというのです。
道隆寺 中世地形復元図
中世堀江港 潟湖の奧に道隆寺はあった

周辺寺社の末寺化を多度津の道隆寺で見ておきましょう。
 道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江港の港湾管理センターとして機能していました。そのため海に向けて勢力を拡大していきます。戦略として塩飽や庄内半島の神社や寺院の造営や写経などに協力しながら、これらを末寺化していきます。それを示したの下の年表です。道隆寺が導師を務めた寺社一覧です。神仏混淆時代ですから神社も支配下に組み込まれています。
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことが分かります。『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。
「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門末の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮の導師はすべて当院(道隆寺)が執行してきた

とあり中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力はの多度津周辺に留まらず、瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。道隆寺は塩飽諸島と深いつながりが見られます。
永正一四年(1517)立石嶋阿弥陀院神光寺入仏開眼供養
享禄三年 (1530)高見嶋善福寺の堂供養
弘治二年 (1556)塩飽荘尊師堂供養について、
塩飽諸島の島々の寺院の開眼供養なども道隆寺明王院主が導師を務めていて、その供養の際の願文が残っています。海浜部や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

と記されています。つまり、道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 このように室町期には、讃岐でも荘郷を超えた寺社の地域的な相互扶助的関係が成立していたことが分かります。そして研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。そして、道隆寺も長尾寺の場合も、修験者や聖たちによって形成されたものなのです。これが「西国33ケ所廻り」のミニコピー版であったり、「七観音めぐり」「七ヶ所参り」であったようです。そして、「四国大辺路」へと成長して行きます。ここでは百姓の信仰に基盤をもった地域の寺社が、修験者らに導かれてネットワークを結ぶようになっていたことを押さえておきます。

讃岐でも寺院修造だけでなく、大般若勧進も連携・連帯が行われます。
大般若経が国家安泰の経典とされ、異国降伏のために読誦されたことは、いろいろな研究で明らかにされています。そして、次のような事が明らかにされています。
①鎌倉末期ごろには多くの有力寺社に大般若経が備えられていたこと
②大般若経を備えることは荘郷鎮守の資格とさえ考えられるようになっていたこと
③大般若経を備えるために勧進が行われていたこと
荘郷鎮守の「地縁的な合力関係」のありさまを、塩飽本島の正覚寺の大般若経に見てみましょう。
大般若経 正覚院巻571巻g

この大般若経の各巻からは、文二年(1357)11月から次のような寺院で写経されたことが分かります。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮 沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷 西迎寺坊中 
同郷大野村住 金剛佛子宥伎
⑥巻第五百七十二・五百七十三
仲郡金倉庄金蔵寺南大門 大賓坊 信勢
①の安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の供養をとむらい平和を析願するために、各国守護の菩提寺である五山派の禅院を指定した寺院です。讃岐では宇多津の長興寺が安国寺に宛てられたとされます。
③④の長興寺は細川氏の守護所の置かれた宇(鵜)足郡宇多津に細川顕氏が建立した神宗寺院のようです。
⑤羽床の西迎寺は今はありません。綾南条羽床郷とあるので宇多津から南方の阿野郡内にあった寺のようです。同じく⑤の大野村についても分かりません。書写をした宥伎は金剛佛子とあるので西迎寺は密教寺院であったようです。
大般若経 正覚院 下金倉
正覚寺(丸亀市本島)の大般若経 讃州仲郡金倉下村惣蔵社にあったことが分かる

⑥の金蔵寺は智証大師円珍ゆかりの寺院で那珂部(善通寺市)にある天台宗寺院で、後の四国霊場でもあります。その大宝坊は応永十七年三月の金蔵寺文書に見える「大宝院」の前身のようです。この寺は、多度津の道隆寺と共に、写経センターとして機能するようになります。経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していきます。大川郡の与田寺と同じような役割を果たしていたと私は考えています。
以上からは、僧侶等は真言や天台など宗派にかかわらず書写事業に参加していたことがうかがえます。宗派よりも地域の連帯性の方が重視されたようにも思えます。
大般若経 正覚院道隆寺願主
正覚寺の大般若経 「道隆寺中坊祐業」の名前が見える

 この中で中心的な位置をしめた寺院が「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺だと研究者は考えています。
そして、これらの寺社はいずれも石動山系(石鎚)の修験と関わりの深い寺社のようです。

増吽 与田寺

金蔵寺で大般若経が書写されていた時代に、大川郡与田寺で活躍していたのが増吽(正平21年(1366)~宝徳元年(1449)です。
彼は中世の僧侶として、次のようないくつもの顔を持っています。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者
②熊野修験者としての熊野先達
③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧
④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
  修験者・勧進僧・弘法大師信仰者として「荘郷を超えた寺社の地域的な相互扶助的関係」を讃岐・阿波・備中・備前の数多くの寺との間に作り上げていました。まさに、時代の寵児ともいえます。増吽のようなスーパー修験者によって、各地域の寺院は国を超えて結ばれネットワーク化されていったのです。

増吽 水主神社と熊野三山
水主神社
  中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社でその別当寺が与田寺でした。
 水主神社は大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。江戸時代のものですが「水主神社関係神宮寺坊絵図(水主神社蔵)」、文政四(1822)年には、水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアにこれだけ多くの宗教施設がひしめきあっていたのです。坊舎をふくめると100を越える数になります。与田山周辺を含めると、さらに数は増えるでしょう。その中には、宗教活動だけでなく経済活動に従事する出家の者たちもいたようです。彼らは、信仰を紐帯にいろいろなネットワークを結んでいたようです。これらは増吽に代表されるように修験者たちによって形成されたもののようです。

水主三山 虎丸山

以上をまとめておきます。
①元寇後に、異国降伏祈祷が地方でも行われ、それに伴い讃岐でも有力寺院の改築ラッシュが続いたこと
②寺社修造は勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現したこと
③その結果、勧進聖や修験者の活動は活発化し、国や郡郷を超えた寺社のネットワーク形成が進んだこと
④それと平行して地方の有力寺社は周辺寺社を支援しながら系列化を進めたこと
⑤そのひとつのやり方が寺社修造や大般若経写経の支援活動であったこと
⑥こうして勧進聖や修験者によって、地方の有力寺社はネットワーク化され「七観音参り」「七箇寺参り」「小辺路」などのメンバーとなっていく。
⑦これが後の「四国大辺路」へとつながっていく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

新見荘エリア
新見荘のエリア
新見荘は岡山県の高梁川の上流にあった荘園で、現在の新見市と神郷町に広がっていました。初めは皇室領、鎌倉時代末から東寺領となります。そのため百合文書の中に、伊予の弓削荘や播磨の黒田荘とともに多くの関係史料が伝わっているようです。特に、鎌倉時代中期と末期に、全荘にわたって検注が行われています。その時の詳しい土地台帳類が何冊も残っていて、村や耕地の状況を知る手がかりとなるようです。

新見の荘と呼ばれた荘園が、どのようにして、近世の「村」へと変化していくのでしょか。それをイラストで見ていきたいと思います。テキストは「朝日百科 日本の歴史 中世」です。

テキストでは、平安時代後期(院政期)→鎌倉時代→室町時代→江戸時代前期(元禄以前)の村の様子を、冬、春、夏、秋の季節順に描いています。一見すると左右同じような絵に見えますが、右側が平安時代後期、左側が中世になります。
新見荘1

このイラストは、ひとつの谷の模式図です。 一つの谷ごとに一つの名があり、交通路の通るサコの出口近くに屋敷があって、その中に名主の家が建ち、周囲に里畠が開かれています。谷沿いの川沿いの低湿地に水田が拓かれていて、これらを含めて屋敷のまわり一帯を垣内と呼びます。垣内の外、谷の対岸のサコには、作人が家を建て名主の水田を耕作しています。
新見荘中世1
平安末期
 山には至る所から煙がもうもうと立ち上っています。
焼き畑が行われていたようです。 焼畑耕作は山焼き、種まき、害虫駆除、収穫などあらゆる作業が、各谷・サコごとに共同で行われます。全員参加でないとできないので、名の人々を結びつける共同活動でもありました。種まき前の山焼きは、どこの谷でも同じころ行われたので、この時期の山々は白煙をあげる大火災のような光景だったのでしょう。焼畑のあとは、地面がむき出しになります。焼き畑の面積が広がれば広がるほど、わずかな雨でも土砂崩れが起きます。こうして、土地台帳類には、「崩」「流」などの耕作不能地になった注記が記されるようになります。これは土砂崩れの跡を示すもののようです。そのため交通路は、焼畑より高い所を通すようになります。山崩れを避けるために家・屋敷は、岩山の下などに建てられ、崩壊を避けるために屋敷周りには竹が植えられ、家は竹藪に囲まれるようになります。
新見荘中世2

平安末期(谷の下の方)

 一つの谷の名主は、用水源である谷や井の権利を持ち、屋敷・田畠を含む垣内を支配していました。作人は名主に従属し、作人小屋に住み、山畠耕作など共同作業を通して共同体員として働いていまします。
 しかし、中世になると作人の中にも、土を切り盛りし、ならす技術などを自らのものにして、サコの出口の新田を開発するようになります。その努力の結果、鎌倉時代中期になると名主の下から独立しようとする動きを示し始めるようになります。
谷には、それぞれ名主の名が見えます。谷の出口から大川(高梁川)までの緩傾斜地の「中須」には荘官など領主の名が見えます。名主の屋敷はやや小高い場所にあり、周囲や山腹には広大な焼畑が広がります。谷ぞいの湿地には、井(湧水・サコ)から水を引いたりして本田が開かれています。
 谷の住人は名主と作人です。名主が用水の権利を持ち、荘園主から請け負った垣内(屋敷と田畠)を支配し、迫(サコ)の小屋などに住む作人は、名主に従属する立場です。谷を取り巻く山腹には、広大な焼畑が展開されていまします。焼き畑農耕を行いながら、次第に谷田の開発を行っていったのでしょう。
 高梁川の流れに近い「中須」には荘官と、それに従属する百姓たちが住んでいまします。
これら百姓たちの実体は、谷の名主に近く、彼らはその下に作人たちを従えています。作人たちは小屋住まいです。
 注目しておきたいのは、川の中の中島は、この時代には手が入っていないことです。また、耕地と荒地の比率は、半分ずつくらいで、川の近くの低湿地はほとんど開発されない葦原状態だったことが分かります。

新見荘2
右が室町時代 左が江戸時代

 中世には時代が下るにつれて、焼畑も行われなくなります。
山畠耕作が衰退したのです。その背景には、谷の迫田(さこた:谷沿いの湿地田)や高梁川の低湿地の開発があったと研究者は考えています。水田開発に伴い、山畠耕作の比重が低くなり焼畑が行われなくなったと云うのです。これは名ごとの共同作業の減少につながります。そして名の共同体解体や、作人の独立の動きを促進します。それまでの長い間の山畠耕作による山地の崩壊は、当然下流の河川沿いに土砂の堆積をもたらし、低湿地を拡大させていまします。

新見荘室町1
室町時代
 高梁川の河原に広がる低湿地を開拓するには、用・排水路を整備する必要がありまします。
この技術がなかったために、開発は遅れていまいします。
そんな中で承久3(1221)年、承久の乱で勝利を収めた鎌倉幕府は新見荘に地頭を派遣します。西遷御家人として下司に代わってやってきた東国出身の地頭は、湿地帯の広がる東国地方で開発を進めてきた経験と技術を持っていました。彼らの持っていた低湿地の用水、排水のための水路を開設する土木技術が役だったようです。この新技術で、今までは手のつけられなかった広い河原が水田開拓の対象になります。こうして河原や葦原であった低湿地が急速に水田に姿を変えていきます。

  新見荘政所跡
 
 関東からやってきた地頭は低湿地の中でも微高地を選び、開発の拠点となるところに政所④を置きます。
新見荘地頭方政所
新見荘 地頭方政所跡
 近くの川の中島には市②が立ち、地頭屋敷の近くには鍛冶屋が住みつくようになります。「中須」の下方から河原、中島など低湿地帯の水田開発は、室町時代・戦国時代とさらに拡大して行きます。この地域の中心は、川沿いに開けていきます。
 地頭方は毎月「2」の付く日(2日、12日、22日)に地図の2の上市井村(かみいちいむら)で、市庭を開くようになります。
「4」の付く日や「8」の付く日ではなく、「2」の付く日に市庭を開いたのには、次のような目論見がありました。地頭方は利益を生み出すために、まず川上の二日市庭で物資を集め、翌日に川下の①の三日市庭(現在の新見市街)で、売りに出したのです。三日市庭は二日市庭よりも規模が大きく、領家方や新見荘以外の人物とも取引をできる機会があったので、より多くの収益が見込めまします。二日市庭で集めた物資は舟に積み込まれ、その日のうちに高梁川を南に下り、翌日に三日市庭で売りに出されるという寸法です。
   ②の二日市庭は地図で見ると、地頭方の支配の拠点である③「地頭方の政所」の目と鼻の先にあります。地頭方は支配の拠点と経済・流通の中心地を、同じ場所に設けていたことが分かります。
新見荘領家政所

一方、領家方の東寺の③「領家方の政所」付近で市庭が開かれることはなかったようです。
江戸時代 

新見荘江戸時代
新見荘 江戸時代
江戸時代の大きな変化は、「中須」から河原一帯に散在していた屋敷が、すべて山ぞいの小高い場所に集中したことです。山裾への民家の集住化が起きたのです。これが近世の村の登場になります。定期的に襲ってくる洪水などへの対応策だったのかも知れません。結果としては、水田と住居が分離します。それは「生産現場と生活の場の空間的な分離」と云えるのかも知れません。

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参考文献 朝日百科 日本の歴史 中世

          Amazon.com: 菅家文草 [1] (国立図書館コレクション) (Japanese Edition) eBook : 菅原道真: Kindle  Store

 前回は、『菅家文草』に収められた作品から讃岐時代の菅原道真のことを見てみました。今回は他人が書いた讃岐時代の菅原道真を見ていこうと思います。テキストは「竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」です。

『菅家文草』は、道真自身の作品ですから信頼性もあります。しかし、後世になって書かれた史料は成立時期も降り、怨霊・天満天神としての道真のことにポイントが置かれ、史料的価値は低いようです。
 まず取り上げる史料が『菅家伝』です。
『菅家伝』は、正式には『北野天神御伝』という題名で、10世紀前半頃に、道真の孫である在射によって著されたとされる史料です。道真の伝記としては、最も早い成立になり、後世の天神信仰の影響を受ける前に書かれている点が貴重とされるようです。
この『菅家伝』には、次のような記事が見えます。

「仁和二年出為讃岐守、在任有述、吏人愛之。三年進正五位下。寛平二年罷秩帰洛。」

讃岐赴任について書かれている分量は、ほんのわずかですが「吏人愛之」とあり、「良吏」としての評価がなされています。
次に、『北野天神縁起絵巻』をはじめとする各種天神縁起について見ておきましょう。
忘れへんうちに Avant d'oublier: 北野天満宮展 北野天神縁起絵巻の雷は截金

これらの原本の成立は平安時代後期とされます。この時期になると天神信仰の強い影響が見られ、史実と虚構の境が分からなくなります。共通するのは、讃岐守時代についての菅原道真は何も書かれていないことです。完全に無視省略しています。その一方で、道真の太宰府左遷を讃岐守赴任の際と比較する叙述がみられます。それを天神縁起のなかで根本縁起とされる「承久本」巻四第一段には、次のように記します。

仁和の頃をひ、讃州の任に趣きじ折には、甘寧の錦の績を解きてぞ、南海の浪の上に遊びしに、此の度の迎えには、十百重も化ぶれたる海人の釣舟出で来たり。

意訳変換しておくと
仁和の時に、讃州守として任地に趣いた際には、甘寧の錦の績を解いて、南海の浪の迎えの船が並んだ。それに対して、この度の太宰府の迎えには、海人の釣舟が出迎えただけであった。

「甘寧錦績」とは豪奢の例えですから、讃岐への赴任が厚遇であったことを記します。少なくとも天神縁起絵巻では、讃岐守赴任は立派な出迎えで、太宰府左遷とは違っていたと語られています。

 文人国司の登場と道真の立場の独自性について
九世紀において「文人」とは「貴族社会内部では比較的問地の低い人で、学問や能力のわりにめぐまれない地位に甘んじなければならなかった人々」とされます。「文人」が地方官に赴任することは、珍しいことではなかったようです。のちには、文章生から諸国橡に任じられる昇進コースが通例化するのは、こうした傾向の延長線上にあったとも考えられます。道真自身が「天下詩人少在京」(263)と詠んでいるのも、以上のような状況をふまえてのことのようです。

 九世紀前半に「文章経国」思想が広がると、紀伝道を修得した者=文人が、現実への対応能力のある「良吏」として期待されるようになります。実際に効果が上がったかどうかを別にして、能力のある者によって体制を立て直すという合理性を持っていたのかもしれません。 もっとも現実は、全国各地に「良吏」が赴任していたわけではありません。一人の意欲的な「良吏」のみで律令制の原則的な秩序を回復するのは不可能でした。それに道真も気づいていたはずです。
 このような情勢の中で、文人派=菅原氏も決して例外ではありませんでした。
 例えば道真の祖父清公も、美濃少嫁(『公卿補任』承和六年条)や尾張介(『続日本後紀』承和九年十月丁丑条)に赴任しています。したがって、道真が讃岐へ赴任命令を、次のように読むのは無理があると研究者は指摘します。

「倩憶分憂非祖業   倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず」 (つらつら考えると、わが菅家の家業は地方官ではない。)

祖父清公は地方官として赴任しているのですから・・。地方に赴任しなかった父是善のみを念頭に置いた表現なのかもしれません。
菅原道真
 讃岐国司として赴任してきた菅原道真(滝宮天満宮の絵馬)

文人国司=讃岐守菅原道真を、どう評価すべきなのでしょうか。
 道真の讃岐での政治的評価を判断する時に挙げられるのが次の二点です。
①道真在任中の仁和三年六月に、貢絹の生産について朝廷から譴責を受けた19か国に讃岐が入っていること(『三代実録』同年六月二日甲申条)
②『菅家文草』の中で自らを卑下している詩的表現が多いこと
これらを背景に、道真は京に未練があり、「詩人」に徹しようとしたために、あまり有能・熱心な国司=「良吏」ではなく、そのため業績も上がらなかったとする見解が多いようです。

菅家文草 菅家後集 日本古典文学大系72(川口久雄 校註) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 しかし、前回に触れたように『菅家文草』の中には、注意して読めば国司としての自らに対して否定的な自己評価だけではなく、肯定的な表現もあります。さらに『菅家後集』においては、「叙意一百韻」(484)の中で、自らの人生を振り返る部分がありますが、そこで自らの讃岐守時代を評して「州功吏部鐙」と記します。つまり、業績を上げたと自己評価しているのです。
 また、「路遇二白頭翁」(四)の詩の中で、「良吏」として名高い安倍興行や藤原保則と比較して自らを卑下しながらも、「就中何事難併旧、明月春風不遇時」「自余政理難無変」などと記します。ここからは、国司として一定の責任感・自負も持ち合わせていたことが分かります。
 道真は「国司」という官職につくことを嫌悪していたわけでもないようです。
このことを直接的に示すのが、『菅家文草』巻第二の「喜被三遥兼賀員外刺史」(‐00)です。これは元慶七年(883)正月11日の除目で、道真が加賀権守を兼ねることになったときの詩です。これは題名の通り、この任命を喜ぶものです。その内容は、次のようなものです。

「家門・家学である紀伝文章の道は、経済的には恵まれることはないが、父・是善も任ぜられた加賀権守の月俸によって、北陸の残雪をおかして赴任する苦労もなく、ただ秋の豊作を期待するだけである」

 地方に赴任することのない遙任であれば、このように心からの喜びが表現されています。
以上の点をふまえて、道真が讃岐守に任命された仁和二年正月の補任記事について見ておきましょう。
「讃岐左遷説」の状況証拠とされてきたのは、この時の人事が「門地の低い実力者=文人派」が締め出される学閥間の争いの中で行われたとされるからのようです。そのため敗れた道真閥側が地方に「左遷」されたというのです。さらに、この学閥間の争いとは、貴族上層部から支持を受けた「詩人無用論」を唱える実務家的儒者派と、文学創作を第一義とする道真らの詩人派との対立であったという見方もあります。確かに9世紀後半には、次のような政治の流れがあったようです。
①大学制度の衰退とそれに伴う家学の発展が、学閥の抗争の中で「文章経国」の思想を後退させた
②そのため「文人派」の政治的局面からの後退が見られた
これを事実として受け止めても、菅家廊下門人三千人の主催者である道真が、4年後に再び京に復帰している点をどう理解すればいいのでしょうか。
 以前は、道真が中央政府に復帰し異例の昇進を遂げたのは、障害となっていた藤原基経や橘広相の死があったためとされました。しかし、これらは道真の讃岐帰京より後のことです、寛平3年2月29日の蔵人頭補任以後の昇進の理由にはなりますが、讃岐から帰京したことの直接的な原因とすることはできないようです。また、阿衡問題解決の功績についても、基経への著名な書状「奉昭宣公書」は時期を逸し、実質的に有効ではなかったという見解もあって、これも決定的な理由にはならないようです。交替の手続きを待たずに行なわれた道真の帰京は、宇多天皇による優遇に関係するようです。
 以上から、仁和二年の道真の讃岐守赴任は、文人派(詩人派)の決定的な敗北を示すものではなかった。帰京後の異例の昇進を念頭に置くならば、「左遷」と映るかも知れないが、単なる「転勤」とも考えられるようです。
 道真は他の文人国司や詩人派とは大きくちがった面を持っていたいた人物と考えられると研究者は指摘します。讃岐守赴任を左遷と見なされることへのおそれ(‐87)、何度も繰り返される「客意」表現、外官赴任拒否の意志表示(324)など、極端に地方への赴任を嫌悪しているのは異常です。
 文人の地方官赴任は、漢王朝の宣帝の「典我共此者、其唯良二千石乎」(『漢書』循吏伝序)にも見られるよう伝統的な地方官重視の帝国統治理念を実践できる絶好の機会とされてきました。また、白居易と同じように諷喩詩をもって諫言するという、「詩臣」の立場をとることもできました。さらに、地方官を歴任したことは、地方官在任中のみならず、中央政府に復帰した際に発言の重みとして作用します。例えば、道真の「請令二議者反覆検税使可否状」(602)は、自分の国司赴任の経験に立って、各国に検税使を派遣することなく、国司の統治に任せることを述べたものです。また三善清行の「意見十二箇条」も国司経験者としての提言で、いずれも自らの政治的立場を有利にするには有効であったことがうかがえます。
 しかし、讃岐赴任前の道長は都の廷臣であることを強く意識しています。
そして、積極的に廷臣・儒者として、直接諫言することで政治参加したいという願望を持っていたようです。道真にとって、都から離れ讃岐に出向かねばならないことは「左遷」以外には、受け止められなかったのかもしれません。確かに都人の地方官赴任は、本当に左遷の場合もありました。白居易のように唐王朝では、その傾向が強かったことを、道真は知っていたはずです。このあたりが一般の文人とは違った認識と感性を持っていたと云えるのかも知れません。このような強い「思い込み」は、敵対する勢力からは、「政治的野心」としてみなされる危険性があったでしょう。道真に対する三善清行の警告「奉菅右相府書」は、反道真派の論客として提出されたものですが、道真の本質的な問題点を衝いていたものだったと研究者は考えているようです。
 藤原氏の世代交代の空白期に、菅原道真は偶然にも宇多天皇の優遇を得ます。その反動として昌泰四年(901)1月の太宰府への左遷という結果につながります。そして、道真が危惧した「詩人」と「儒者」の分裂は、この時点で決定的になったといえそうです。

以上をまとめておくと
①『菅家文草』には、菅原道真の複雑な心情が含まれているが、「文学作品」であり。詩的表現を額面通りに読み取ることはできない。
②「文人相軽」の時代風潮の中での讃岐守赴任を、道真が当初は「左遷」と思い込んでいたフシはある。
③あるいは尊敬する白居易へ左遷と自分の地方転出を同一視したような所も見られる。
④道真の讃岐での作品全体を見ると、政治の現実に押しつぶされそうになりながらも前向きに対処していこうとする作品の方がはるかに多い

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」

      菅原道真

菅原道真(845~903年)は、仁和三(886)年から寛平二(890)年にかけての四年間、讃岐守として讃岐にやってきます。これに対しては、かつては左遷説が強かったようです。確かに、以前見たように赴任当初に書かれた作品には、左遷を憂うようなものがいくつも見られます。これに対して、左遷ではなかったと考える研究者が近年には増えているようです。何を根拠に、左遷説を否定するのでしょうか。今回は、その辺りを見ていきたいと思います。テキストは「竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」です。

菅家文草とは - コトバンク
菅家文草

『菅家文草』十二巻は、昌泰三年(900)に、道真が醍醐天皇に奏進した『菅家三代集』二十八巻の一部です。その中の巻第三と巻第四は讃岐守時代の詩を集めたもので、もとは「讃州客中詩」二巻と呼ばれ、醍醐天皇が皇太子であった時に、求めに応じて献上した詩集です。その内の巻第三には仁和二年(886)正月16日に讃岐守に任じられてから、仁和三年の年末に一時帰京し、翌四年正月の初めまでに詠まれた詩が収められています。このうち、讃岐着任の直前の作が五首、二月の赴任の途次の作が三首あります。着任直後の詩は非常に少ないようです。年の後半の秋の訪れとともに作品の数は増加します。
 道真が讃岐で作った詩作は、旅愁・悲嘆が詠まれているものに目がいきがちです。
北堂餞宴
我将南海飽風煙      我将に南海の風煙に飽かむ
更妬他人道左遷       更に妬む 他人の左遷と道ふを    
倩憶分憂非祖業       倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず 
徘徊孔聖廟門前       徘徊す 孔聖廟の門前                
意訳変換しておくと
私はこれから南海(四国讃岐)の風煙(景色や風物)を嫌というほど味わうことになるだろう。
加えて忌々しいのは、他人がこれを左遷と呼ぶことだ。
じっくり考えると、わが菅家の家業は地方官ではない
孔子廟の門の前をぶらぶら歩きながら、そう思うのだ。
「国司として赴任するのは家業ではない」「他人の左遷なりといはむ」とあります。ここからは、文章博士の解任と讃岐赴任に、道真がひどく傷ついている様子が伝わってきます。

しかし、一方で国司の職務に伴う印象や国情に対する感想が詠まれた詩もあります。例えば、
①輸租のやり方を論じたり
②訴訟の判決を書いたりすることを詩の中に詠み込んだり「重陽日府衛小飲」、
③国内巡行によって把握したと思われる貧しい庶民の実情を題材にした「寒早十首」(200)
これらは任期後半になって、新しい職務・環境に慣れて、詩作されるようになるのは以前に紹介したとおりです。ここからは、都から離れたことに悲観するだけではなく、国司としての職務にかなり意欲を持っていたことがうかがえます。
「従初到任心情冷 被勧春風適破顔」の句のように(「春日尋山」)、赴任の動揺からようやく落ち着いたことを告白した詩もでてきます。
 また、過去に讃岐に赴任した「良吏」である安倍興行や藤原保則と比較して、自らの国司としての非力を卑下する(「路遇二白頭翁」)一方で、「外聞幸免喚・蒼鷹(酷吏という噂はない)」・「到州半秋清兼慎」(赴任後、清廉と謹慎をもって務めた)という表現で自己評価もするようになります。(「行春詞」)。
 また、年末に一時帰京する際には、再び讃岐へ帰ってこないのではないかと州民が案じたというような詩も書くようになります。
巻第三は、京の自邸で越年し、翌仁和四年(888)の初めに讃岐に帰任する直前までの詩が収めれています。この中の京で詠んだ詩には、早く讃岐に帰任したいという意向までうかがわれます。(「残菊下自詠」(238)「三年歳暮、欲二更帰州、柳述所懐、寄二尚書平右丞こ(240))。
 ここからは、左遷に対して「失意・挫折感」の視点のみで、道真の心の動きをみることはできないようです。
巻第四は、仁和四年(888)春、再び讃岐に帰任する途中の作品から始まります。
この年の前半には、讃岐守として特徴的な作品はありません。ところが四月以降、早魃に見舞われたため、降雨を城山の神に祈願(「祭城山神文」)したことが記されています。この災害への対処に疲労したためか、国司として自信を喪失したような詩も出てきます。この秋には阿衡問題に関わって一時帰京し、「奉二昭宣公書」(『政事要略』巻丹、阿衡事)を奏上しています。
 翌年の仁和五年(889)になると、交替・帰京を意識した作品が目立つようになります。
例えば夏には、「官満未成功」(「納涼小宴」)などと、謙遜しながら四年間を決算するような表現が出てきます。その一方で、自分の功績に対する評価への不安も隠すことなく表しています。帰京途中の際には作品はなく、巻末の一三首は帰京後の詩になります。以上、菅原道真が讃岐で詠んだ詩のテーマ・題材を、研究者は次の4つに分類します。
①讃岐守・外官として赴任したことに対する悲嘆
②国司の職務・治政に対する自己評価。讃岐国の社会情勢の観察。
③国司としての処遇・国府の環境や前任国司について。
④讃岐国内外での遊興・門人や詩友との交流。

 これらの作品を見る場合に、巻第三・巻第四は、東宮敦仁親王(のちの醍醐天皇)の求めに応じて献上された詩集であることを忘れてはならないと研究者は指摘します。帰京後の「二月二日、侍二於雅院。賜侍臣曲水之飲、応製」(324)の詩には、「長断詩臣作外臣」とあります。ここからは、2度と「外官赴任」が行なわれないことを願うことが詩集成立の主たる目的であったことが分かると研究者は指摘します。そのためにも、赴任初期には、讃岐守赴任によって、どれほど難渋したかということが強調するテーマ①に関する作品が並べられていると研究者は考えます。
 テーマ③④については、道真の孤絶性を特に強調するのは偏った見方だと研究者は指摘します。道真は属僚と遊興を楽しむだけではなく、「菅家廊下」の門人の訪間を受けたり、詩友との詩を介した交際も楽しんでもいます。「左遷による失意と望郷」の面からだけで捉えるのは、一面的な見方だと云うのです。
白氏文集とは - コトバンク
白氏文集

『菅家文草』は『白氏文集』の強い影響を受けていることを、研究者は指摘します。
『白氏文集』は、唐代の詩人白居易(772~846)の詩集で、完結したのは、会昌五年(845)のことです。日本には、その直後の承和14(847)に、入唐僧恵薯によってもたらされたようです。その前後から、自居易の詩は急速に日本の詩人に広まります。
 菅原道真も、『自氏文集』の影響を強く受けていることが、次のように指摘されます。
①詩の中に割注を設けている点
②詩の題材として諷喩詩・詠竹詩が見られる点
③仏教的な内容を持つ点
④叙意一百韻という長大な形式
 道真は讃岐の居館にも白居易の詩文を持ってきていて、これらを手許に置いて参考にしながら、詩を作った可能性があるようです。 
 さらに注目すべき点として、白居易と菅原道真の官歴が似ていることを研究者は指摘します。
 白居易は、学越権行為をとがめられ左遷されて江州司馬に赴任し、続けて忠州刺史を任じられます。その後も、中央の党争に巻き込まれることを避けて、希望して杭州刺史になっています。このような白居易の左遷体験から作られた作品と、自分との境遇をダブらせ共感していた。それを自分の作品作りの材料にしていた、という仮説も文学者からは出されています。

道真が赴任当初は、悲観的な心持ちを持っていた讃岐国とはどんな国だったのでしょうか?
当時の讃岐国の位置付けを見ておきましょう。
「延喜民部上式」によると、讃岐国は上国で、大内・寒川・三木・山田・香川・阿野・鵜足・那珂・多度・三野・刈田の11郡からなり、国司の定員は、職員令上国条によれば、守・介・嫁・目各一人と史生二人です。「延喜式部上式」諸国史生条には、史生の定員については上国四人のところ美濃・讃岐のみ大国並みに五人と規定されています。ちなみに、「延喜民部上式」戸損条によれば、下野と讃岐のみ大国に準じて四九戸を例損とすることが規定されています。このように、九世紀後半における讃岐国は、上国ですが大国並みに扱われていたことがうかがえます。
讃岐守一覧表(9世紀)
九世紀代に讃岐守に任命された国司一覧表を見ておきましょう。
彼らの官位欄を見ると、赴任寺には四位の者が多いことが分かります。讃岐守は上国守なので官位令従五位条の規定では従五位下の位階が相当になります。とくに九世紀半ばころから讃岐守は、参議・京官と兼官している場合が多かったようです。そのため、讃岐守は遥任が多かったことがうかがえます。
 讃岐赴任経験者の、その後の昇進具合はどうでしょうか。一番右の欄の最高到達ポストを見てみると、讃岐守を歴任した者は、最終的に二位・三位まで昇進している者が多いようです。ここからは次のようなことがうかがえます。
①九世紀の讃岐守は、給付目的のための官職の性格が強く、国衛では守不在でも統治ができた。
②讃岐は安定した統治しやすい所とされていた
道真は従五位上行式部少輔兼文章博士加賀権守から讃岐守に転じます。そして、前任官と相当官位で任じられています。先ほど見たように従五位上は、官位令では大国守の官位です。讃岐が大国に準じた扱いをされていることを、裏付けます。同時に、位階的には左遷とは云えないようです。
道真が守であった時期に、同僚であった国司官人を見ておきましょう。

讃岐守菅原道真の同僚一覧表(9世紀)

 下級国司については分かりませんが、上級官については京官と兼官しているものが多いようです。『菅家文草』の作品の中にも、次のような同僚が登場します。
①「倉主簿」(227・23Y
②「藤(十六)司馬」(277・28・30・31)
③ 書生「宇尚貞」(219)
④「物章医師」(3o6)です。
彼らは、姓名は分かりませんが、それぞれ目・嫁・書生・国医師です。特に①②は道真と同じく中央派遣官で、詩簡をやりとりするなど友誼を通じていたようです。ちなみに①「倉主簿」は仁和三年末に交替し(234)、②「藤司馬」は道真の交替後も、讃岐に在任していたようです。
しかし、「苦日長」(292)の詩の中で、京の菅家廊下にいた多くの門弟に比べると「衝掩吏無集」と官人の少なさを嘆いています。ここからは、気心の知れた同僚は皆無ではなかったものの、少なかったことは確かなようです。『菅家文草』に表現される孤独感の一端は、遥任国司が多く、京から実際に赴任している官人の少なさにもあったのかもしれません。
 最後に、九世紀後半の讃岐国の実情を同時代の史料から見ておきましょう。『菅家文草』の詩文の中には、讃岐の国情を詠み込んだものがあります。例えば
「八九郷晶。十一郡四万戸・人口二八万人(279)」

 讃岐には「89の郷があり、11郡で4万戸、人口は28万人」というような数字は、現場にいる国司でなければすぐには出てきません。菅原道真が、これらを頭に入れた上で、執務していたことがうかがえます。延喜式の28社なども頭に入っていたかもしれません。
この他にも
①国司が多くの訴訟に対処しなければならなかったこと(97)、
②「青々汚染蝿」、すなわち様々な不正を行なう者がいたこと(219)
③社会の底辺を主題にした「寒早十首」(200~209)
などからは、ある程度当時の讃岐の国情を推察するための材料になりそうです。


  以上をまとめておくと
①菅原道真の讃岐国守任命は、自らの作品の中にも「左遷」と書かれているために、それが定説とされてきた。
②しかし、道真の作品を見る限り、「左遷悲嘆」的なものは初期のものだけに限られる。
③多くの作品は、現実の政治に押しつぶされそうになりながらも、国司として前向きに取り組む姿勢が見られるものの方が多い。
③当時の讃岐の国のランクも準「大国」であり、位階的には左遷とは云えない。
④菅原道真のその後の「出世」ぶりからも、左遷であったとは云えない
以上から、菅原道真の讃岐守への任官は、決して異常なものではなく、通例の「転勤」であった、道真は「左遷され降された」のではなく、「転じて」讃岐守になったと研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」

前回には、次のようなことを見てきました
①中世讃岐では高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
③それが雨乞いの「満願成就のお礼」として、菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
  今回は、念仏踊りがどのようにして、各郷村で組織されていたのかを見ていくことにします。
 滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は西四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、讃岐国内の13郡すべての郡が念仏踊りを滝宮に奉納に来ていた、ところが近年は西4郡だけになってしまった。そこで寅7月23日に、押さえのための高札をお立てなされるように承知いたした

 ここには大幅な省略があるので補足しておくと、もともと讃岐国13郡全てのから奉納されていたが、近年は中断されていた。それを松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて、慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたというのです。西とついているのは、高松藩領の西部という意味でしょう。ですから、四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡ということになるようです。
  しかし、私は讃岐全郡からはやってきていなかったと思っています。もともと滝宮周辺の四郡だけで、これが滝宮牛頭天王社(別当龍燈院滝宮寺)の信仰圏だったと考えています。
松岡調編の「新撰讃岐風土記」には、近世初頭の滝宮踊について次のように記します。
此踊りは村人の踊るには非ずして、往古は本国の人民こぞりて七月二十五日に菅原神社境内に集ひ来て踊れるが、今は僅かに阿野部の村々又那珂郡七箇の村、鵜足郡坂本村等の者の務むることなれり。共式厳重にして踊曲の前後を争へる事最も甚だし。其村々より踊の前後を争はむと数十人行列をなして旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を具したる者数多太刀抜きかざし長刀振りまわしつつ押し寄せ来て既に踊むとするに到て互いに撃合ひ殴合ひて人を害し己をも害せらるる状いかにも野蛮めきて見るにしのびぎるなり。是は元亀天正の野武士の悪癖の遺風たらむと思はれていといと片腹いたくなむ故に国主より官吏を派遣させ制札をも立て警固する事になりしに遂には隔年に二組づ務めめさせることしていと穏便になれるが、今も猶然かり。

意訳変換しておくと
この踊りは村人だけが踊るのではなく、昔(中世)は讃岐の人民がこぞって、7月25日に滝宮神社境内にやってきて踊っていた。それが今は僅かに阿野部(北条組)の村々や那珂郡七箇村、鵜足郡坂本村の者達だけが務めている。かつては組通しで踊りの順番をめぐって争いが絶えなかった。そのため各組は数十人行列を作って、旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を着けた者が多数、太刀を抜きかざし、長刀振りまわしながら押し寄せ来て、踊ろうとしている組に襲いかかり、撃合い殴合いが起こり、多くの人達が傷つく野蛮で見るにしのびない惨状でもあった。まさに元亀天正の戦国時代の野武士の悪癖の遺風のような有様であった。そこで国主(高松藩藩主松平頼重)は、官吏を派遣し、制札を立てて警固を厳重にして、隔年に二組ずつ務めめさせることした。それ以後は、次第に穏便になった。

 ここからは、滝宮への踊り込みは大イヴェント行事で、ただの踊りでなく、各組の示威行動の場でもあったこと、そのため暴れるためやってきている連中が数多くいて、争いが絶えなかったこと。そのため甲冑を着け、刀を振り回すような連中に対抗するためにも警固衆が必要だったことが分かります。

滝宮念仏踊り1

その時に、国守(高松藩の松平頼重)によって立てられた高札には次のように記されていたようです。
      滝宮念仏踊の節 御制札左の通
一 於当社 会式之場意趣切喧晩無願仕者在之者 不純理非双方可為曲事・縦雖為敵討無断者可為  越度事附闘落之者見出候共其主人届出会式過重而以い断可相済事
一 於当社・桟敷取候義堅停止事 次鳥居之外而辻踊同寿満別之事
一 宮林竹木不可伐採一併作毛之場江 牛馬放入間敷事
      慶安元子年七月廿三日
意訳変換しておくと
      滝宮念仏踊の節  御制札左の通
一 滝宮神社における念仏踊り会場においては、喧嘩やもめ事などの騒動は厳禁する。たとえ敵討ちであろうとも許可なく無断で行ったものについては、その主人も含めて処罰する。
一 当社においての見物用の桟敷場設置は堅く禁止する 鳥居の外での辻踊や寿舞は別にすること
一 宮林の竹木は伐採禁止、また境内へ牛馬放入はしないこと
   慶安元子(1650)年7月廿三日
 この制札は、幕府よりの下知で、滝宮の念仏踊の日だけ立てられたものです。内容の書き換えについては、その都度、幕府・寺社奉行の許可が必要でした。正保元申年・慶安元子年・寛文三卯年に書き換えられたことが、取遺留に特記されています。

こうして、回が重ねられ、順年毎の出演する組や、演ずる順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが行われるようになったのは、享保三年(1717)頃からになるようです。

滝宮に躍り込んでくる念仏踊りは、どんな単位で構成されていたのでしょうか?

滝宮念仏踊り3 坂本組

『瀧宮念仏踊記録』は坂本念仏踊りについて、次のように記します。

坂本郷踊りも七十年計り以前までは上法軍寺・下法軍寺の二村が加わっており、合計十二ヶ村で踊りを勤めていた。ところが、黒合印幟が出来て、それを立てる役に当たっていた上法軍寺二下法軍寺の二村の者が滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者共と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなった。このことで踊り・人数で支障が出るのではと尋ねてみたが、坂本郷の方では十ケ村で相違ないように勤めるからと答えたこともあって、今日(寛政三年)まで坂本郷十ヶ村で勤めてきている

 坂本郷十ヶ村というのは、どういう村々でしょうか?
  東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

 この村々について、『瀧宮念仏踊記録』は、次のように記します
「坂本郷は以前は一郷であったが、その後東坂本・西坂本・川原・真時と分けられ、他の六ヶ村は、前々から付村 (枝村)であった」

これは誤った認識です。和名抄で鵜足郡を見てみると、小川郷・二村郷・川津郷は当初からあった郷名であることが分かります。
和名抄 讃岐西部

坂本念仏踊りは「鵜足郡念仏踊り」と呼んだ方がよさそうです。どちらにしても、もともとは近世の「村」単位ではなく、郷単位で構成されていたこと分かります。具体的には、坂本郷・小川郷・二村郷・川津郷の中世の郷村連合によって構成されたものと云えそうです。
讃岐郷名 丸亀平野
坂本念仏踊りを構成する郷エリア
 滝宮へ踊り入る年(4年に一度)は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを決めていたようです。その数は300人を越える大編成です。編成表については以前に紹介したので省略します。
川津・二村郷地図
滝宮神社に躍り込んだのではありません。次のようなスケジュールで各村の鎮守にも奉納しています。
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社
那珂郡郷名
那珂郡の郷名
もうひとつ記録の残る七箇村念仏踊りを見ておきましょう。
 滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組も、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領にまたがる大編成の踊組でした。その村名を挙げると、次の13の村です。

真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文

これも郷単位で見ると、吉野・真野・小松の3郷連合組になります。

次の表は、文政十二(1829)年に、岸上村(まんのう町)の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々は次の通りです。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは讃岐が、丸亀藩と髙松藩に分けられる以前から、この踊りが3つの郷で踊られていたからでしょう。滝宮に躍り込んでいた念仏踊りは、中世の郷村に基盤があったことがここからもうかがえます。

踊りが奉納されていた各村の神社と、そこでの踊りの回数も、次のように記されています。
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、
       吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記
満濃池遊鶴(1845年)
満濃池の堰堤の右の丘の上に鎮座するのが池の宮
7月16日の 満濃池の宮とは、後の神野神社のことで、この頃は現在の堰堤南付近にありました。今は池に沈んでしまったので、現在地に移っています。

DSC03770満濃池ウテメ
池の宮の拡大図

「7月18日の七箇春日宮五庭、新目村之官五庭」とあるのは、西七箇村(旧仲南町)の春日と新目の神社です。全部の村社に奉納することは出来ないので。その年によって、奉納する神社を換えていたようです。それでも2百人を越える大部隊が、暑い夏に歩いて移動して奉納するのは大変だったでしょう。
文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。ここからは真野村の諏訪神社がこの組の中核神社であったことがうかがえます。
 それぞれの宮での、踊る回数が違うのに注目して下さい。「真野宮九庭」とあります。数が多いほど重要度が高い神社だったことがうかがえます。また、「下知」を出しているのも真野村です。後にも述べますが、このメンバーは宮座構成員で世襲制です。村の有力者だけが、この踊りのメンバーになれたのです。

 七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。
その時の真野村の諏訪神社の「巡業」の時の様子を描いたものが次の絵図です。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 この絵図については以前にお話ししたので、ここでは踊りの廻りに設置されている見物桟敷小屋だけを見ておきましょう。これについては、以前に次のように記しました。
①風流化した念仏踊り奉納の際に、境内に桟敷席が設けられて、所有者の名前が記されていること。
②彼らは、村の有力者で、宮座の権利として世襲さしていたこと
③桟敷小屋には、間口の広さに違いがあり、家の家格とリンクしていたこと。
④後には、これが売買の対象にもなっていたこと。
 この特権が何に由来するかと言えば、中世の宮座のつながるものなのでしょう。このようにレイアウトされた桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流化した念仏踊りなのです。ここからも、この念仏踊りが雨乞い踊りではなく風流踊りであったことがうかがえます。

IMG_1387
佐文綾子踊り 
これも風流踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったもの

念仏踊りが風流化して、郷社で踊られるようになるまでの過程を見ておきましょう
    中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
IMG_1379

 中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
各村々に、村の鎮守が現れるようになるのは近世になってからです。 
各郷の鎮守社で、春秋に祭礼が行われていました。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、地域の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。宮座構成員は、各地域の有力者で構成されます。彼らが念仏踊りの担い手(出演者)でもあったのです。   
宮座 日根野荘
            日根野荘の宮座

近世初頭の「村切り」によって、小松郷や真野郷は分割され、多くの村ができました。

それでも「村切り」の後も、かつて同じ郷村を形成していた村々の結びつきは、簡単にはなくなりません。しかし、一方で「村切り」によって、年貢は村ごとに徴収されるようになります。次第に、村それぞれがひとつの共同体として機能するようになります。また、直接に村が領主と対峙するようになると、次第に村としての共同意識が生まれ育っていきます。そして各々の村は、新たに神社を勧請したり、村域内にある神社を村の結集の軸として崇めるようになります。「村切り」後の村は、結集の核として新たな村の神社を作り出すことになります。つまり、「村氏神(村社)」の登場です。
 こうして、村人たちは2つの神社の氏子になります、
①中世以来の荘郷氏神(真野の諏訪神社や、小松荘の大井神社?)
②「村切り」以降に生まれた「村氏神」
 例えば、綾子踊りの里の佐文村は、中世以来の郷社である小松郷の大井神社の氏子であり、あらたに村切り後に生まれた佐文村の鴨神社の氏子でもあることになります。氏子の心の中では、二つの神社の綱引きが行われることになります。
 新しく登場した村の神社は、宮座はありません。
村の百姓たちに開かれた開放制です。そこで新たに採用される祭礼も、原則全員です。祭礼行事には、後には「獅子舞」が採用されます。これは、各組で獅子を準備さえすれば後発組でも参加できます。宮座制のような排他性はありません。
 宮座祭祀の郷社では、従来の有力者が、宮座のメンバーを独占し、祭祀を独占していたことは先ほど見てきました。ところが新たに作られた村社では、開放性メンバーの下で獅子舞が採用されたと私は考えています。
   人々は郷社のまつりと、村社の祭りのどちらを支持したのでしょうか。
これは地元の村氏神ではないでしょうか。これを加速するような出来事が起きます。それが讃岐の東西分割と金毘羅領や天領の出現です。
生駒騒動で生駒藩が取りつぶしになった後に、讃岐は高松藩と丸亀藩の東西に分割されます。この境界が旧仲南町の佐文や買田との間に引かれます。その上に、小松庄は、金毘羅大権現を祀る松尾寺金光院の寺領と、満濃池御料として天領に組み込まれます。つまり、念仏踊りの構成員エリアが丸亀藩と高松藩と金毘羅寺領と天領の4つに分割されることになったのです。これは地域の一体感を奪うことになりました。こうして時代を経るに従って、それまでの荘郷氏神との関係は薄れていくことになります。かつての郷社での念仏踊りよりも、地元の村社での獅子舞重視です。
DSC01495
「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭

 それでも念仏踊りは松平頼重のお声掛かりで滝宮神社への定期的な奉納が決められていたこと、また、宮座で役割が世襲制で、これに参加できることは名誉なこととされてもいたこと、などから中止されることはなかったようです。しかし、異なる藩や天領・寺領などからなる構成員をまとめていくことはなかなか大変で、不協和音を奏でながらの運営であったことは以前にお話ししました。
以上を前回のものと一緒にしてまとめておきます。
①中世の讃岐では、高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②念仏踊りは、宮座によって、郷社の祭礼や盂蘭盆会に奉納されるようになったこと
③これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
④それが菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
⑤江戸時代に復活され際には、盆踊りでは大義名分に欠けるので雨乞への「満願成就のお礼」とされ、それがいつの間にか「雨乞踊り」とされるようになったこと。
⑥各踊り組は、かつての中世郷村が、近世に「村切り」で生まれた村の連合体であった。
⑦そのため各村にも「村氏神」が生まれたので、ここに奉納した後に滝宮へ躍り込むというスタイルがとられた。
⑧踊組のメンバーは中世以来の宮座制で、あったために役割は世襲化され、一般農民が参加することは出来なかった。
⑨そのため時代が下るにつれて「村氏神」の重要度が高まるにつれて、念仏踊組は機能しなくなる。
 それは「村氏神」に獅子舞が登場する時期と重なり合う。宮座制のない獅子舞が、祭礼行事の中核を占めるようになっていき、風流踊りの念仏踊りも地域では踊られることがなくなっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

  滝宮念仏踊りのひとつに坂本村念仏踊り(丸亀市飯山町)があります。
旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた坂本念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。
喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に7日7夜断食して祈願したところ7月25日から27日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

ここには菅原道真が雨乞いを祈願して、雨が降ったので百姓たちは、悦び踊ったとあります。注意して欲しいのは、雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。江戸時代の前半には、踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。もうひとつ文書を見ておきましょう。
滝宮念仏踊り3 坂本組

嘉永六(1852)年の七箇村念仏踊り(現まんのう町・琴平町)に関する史料です
 この年の七箇村念仏踊は、真野村庄屋の三原谷蔵が総触頭として、先例通りに7月7日に真野不動堂で寄合を行い、17日に満濃池の池の宮で笠揃踊を行い、その後に各村の神社で踊興行を行って、25日に滝宮に躍り込む予定で進められていました。ところが17日に池の宮で笠揃踊を行った時、西領(丸亀藩)側の村々から次のような申し入れがでます。
  先達而から照続候二付、村々用水差支甚ダ困り入申候二付、25日滝宮相踊リ、其内降雨も有之候バ同所二而御相談申度候間、先25日迄外宮々延引致候事」。

意訳変換しておくと
 春先から日照りが続き、村々の用水に差し障りがでて、水の確保に追われ困っている。ついては、25日の滝宮相踊までには、雨も降るかも知れないが雨がないときには、各村の神社での踊興行を延期したい

 簡単に言うと、旱魃で大変なので念仏踊りは雨が降るまで延期したいという申し入れです。最初に、これを呼んだときには私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「雨が降るまで、念仏踊りは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、宮々の踊興行を延期したのです。ここからは関係者の間には、雨乞いのための念仏踊であるという意識はなかったことが分かります。
  それでは念仏踊りは何のために踊られていたのでしょうか?
  念仏踊りに用いられる団扇を見てみましょう。団扇が風流化した踊念仏で主役として使用されます。滝宮神社の「念仏踊」にも下知が役大団扇を振って踊念仏の拍子をとります。その団扇の表裏に「願成就」と「南無阿弥陀仏」の文字が書かれています。ここでは「願成就」となっています。「雨乞成就」ということなのでしょうか?
近畿の雨乞い踊りを見てみましょう。

石上神社

以前にお話した奈良の布留郷の郷民たちの雨乞いを、見ておきましょう。
 日照りが続くと布留郷の郷民代表と布留神社の爾宜が、竜王山の山中に鎮座する竜王社まで登り、素麺50把と酒一斗二升を供え、雨を祈願します。これが適えられれば、郷中総出でオドリを奉納することを神に約束します。ここではオドリは「満願成就のお礼」として踊られていたことが分かります。このオドリを「南無手踊り」と呼んでいました。名前からして念仏踊りの系譜を引くものあることがうかがえます。
ヲドリの具体的様子は、文政頃に成立した『高取藩風俗間状答』に、次のように記されています。
南無手(なむて)踊は旱魃の時に、雨乞立願の御礼に踊るので願満踊とも云う。高取城下で行われる時には、行列や会場に天狗の面や鬼の面をかぶり棒をついた警固人が先頭に立って出て、群集を払い整理する。その次に早馬と呼ばれる踊り子が小太鼓を持ち唐子衣装花笠で続く。その次は中踊と呼ばれる集団で、色々の染帷子・花笠を着け、音頭取は華笠・染帷子やしてを持ち、所々に分かれて拍子をとる。頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内側に赤熊を被ることもあり、太鼓に合せて踊る。それに法螺貝・横笛・叩鐘が調子を合す。押には腹に大鼓を抱え、背中には御幣を負う。踊は壱番より五番までで、手をかへながら踊り、村毎に少しづつ変化させている。一村毎に分て踊る

とあり、村ごとで少しずつ踊り方を換えていたことがうかがえます。雨乞成就のためのものですから、このヲドリは江戸時代を通じて何回も踊られています。
布留3HPTIMAGE
なむて踊りの絵馬

文政十年(1827)8月の様子を「布留社中踊二付両村引分ヶ之覚」(東井戸帝村文書)は、次のように記します。

この時は布留郷全体の村々が、24組に分けられていた。東井戸堂村・西井戸堂村合同による一組の諸役は、大鼓打四人、早馬五人、はやし二人、かんこ五人、団踊一〇人、捧ふり二人、けいご一〇人、鉦かき二人、大鼓持三人の、計四二人になる。

1組で42人のセットが24組集まったとすると、郷全体では千人以上の規模の催しであったことが分かります。踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

もうひとつ和泉国日根野荘の郷民による雨乞を見ておきましょう。
公家の九条政基は、戦乱を避けて自分の所領である和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)に「亡命」します。ここには修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。そこで見た雨乞いの様子が、彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条に、次のように記されています。
①滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②効果のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で祈祷する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
ここでも雨乞いに、民衆が踊る念仏踊りは出てきません。
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日根野庄の滝宮(現火走神社)
出てくるのは、雨が降った後のお礼です。
 降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。ここでも「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。
 本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。 ここでもうひとつ注目しておきたいことは、この踊りが村人たちの手で踊られていることです。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

その背景を、研究者は次のように指摘します。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために、高野の念仏聖たちが民衆の間に流布させた「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために創り出されたものではありません。念仏聖たちが村人たちに伝えたものです。それが先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られるようになっていました。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
 注意しなければならないのは「雨乞い」のための踊りではなかったことです。
考えて見れば、国家的な雨乞いは、空海のような真言の高僧が善女龍王に祈祷して雨を降らせるものです。民間の民雨いも、それなりの呪術力をもった山伏が行っていたのです。そこへただの村人が盆踊りで踊られている風流踊りや念仏踊りを、雨乞いのために踊っても民衆たちは効能があるとは思わなかったでしょう。念仏踊りは、雨乞い成就のお礼のために踊られたのです。

   ここには、滝宮念仏踊りとの共通点をいくつか拾い出せます。
①「村切り」前の郷エリアの郷社に奉納されている。
②布留郷全体の村々から踊りのチームが出されている
③雨乞い踊りではなく雨乞いの「満願成就のお礼」として踊るものだった。
滝宮念仏踊り2
 滝宮念仏踊り

このような視点でもう一度、滝宮念仏踊り見てみましょう
滝宮念仏踊りは雨乞い踊りである先入観を捨てると、何が見えてくるのでしょうか。考えられるのは次のような仮説です。
①中世の讃岐では高野の念仏聖や時宗聖たちによって、念仏信仰が広められ念仏踊りが広く踊られるようになっていた。これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかった。
②高野念仏聖などのプロデュースで郷村の祭礼や盆踊りで、念仏踊りが踊られるようになる。
③それが日照りの際の「満願成就のお礼」として、郷社に奉納されるようになる。
④菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社にも、各郷の念仏踊りが奉納されるようになる。
⑤戦国時代の混乱の中で、滝宮神社への躍り込みは中断する。
⑥これを復興したのが髙松藩初代藩主の松平頼重で、彼は近畿で踊られていた「南無手」踊りを知っていた上で、雨乞いのためという「大義名分」を前面に押し出し復興させた。
⑦こうして、中世の各郷村単位で編成された組が江戸時代を通じて、3年毎に滝宮神社に念仏踊りを奉納するようになる。
⑧滝宮の躍り込みの前には、各郷村の下部の村単位の神社にも奉納興行が行われ、そこには多くの見物人が押しかけた。
⑨踊り手などの構成員は、世襲制で宮座制に基づく運営が行われていた。
⑩奉納される神社にも、特権的な桟敷席が設けられ売買の対象となっていた。
一遍】ダンシング宗教レボリューション!一遍研究者の「踊り念仏」白熱教室:~国宝「一遍聖絵」をじっくり絵解き!時宗の名宝展がグッと面白くなる~#ky19b160  | 京都の住民がガイドする京都のミニツアー「まいまい京都」
一遍の踊り念仏

 つまり、滝宮念仏踊りのルーツは中世の踊り念仏にあるという説になります。
中世には高野の聖たちのほとんどが念仏聖化します。弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺への布教活動を行っていたことは以前に見たとおりです。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いちしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は次のように記します。
「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡小松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

念仏踊りのルーツは高野の念仏聖や時宗の躍動念仏だと研究者は考えているようです。
  また、⑧⑨⑩からは、念仏踊りがもともとは中世のムラの民俗芸能として、祭礼と結びついていたことを教えてくれます。讃岐の念仏踊りが、雨乞いと結びつけられるようになるのは、近世になってからだと私は考えています。
EDM-6 Buddhist bounceと踊り念仏 - みんなアホだね

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

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前回は、近世の半ばになると各藩では、式内社などの古寺が再興・保護されるようになる一方で、小さな神社、淫祠などは破棄され、神社の整理が行われ、ランキング表が作られるようになったことを見てきました。神社が序列化されると、次はそこに奉仕する神職も序列化されます。その際には、序列の規準が必要となります。近世の神社がどのように組織化されていったのか、その原動力は何だったのかを見ておきましょう。テキストは    「井上智勝   近世神社通史稿 国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月
吉田神社|京都|二十二社|伊勢神宮を凌ぐ中世日本神道界の権威。 | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
吉田神社

そこで登場してくるのが公家吉田家です。
寛文五年(1665)の諸社禰宜神主法度(「神社条目」)は神職を次の3つに分類します。
①朝廷から授与された位階を持つ神職
②位階は持たないが吉田家が発給した許状(神道裁許状)を有する神職
③位階も許状も持たない神職、
そして、神職として装束着用が認められるのは①②で、③の神職は「下賤」の服とされる白張を着用しなければならないと規定します。
つまり、狩衣や烏帽子などを着るには吉田家の許し状、いわゆる神道裁許状が必要になったのです。さらにこの規定に違反し、裁許状の交付を受けずに、装束を着用した場合の取り締まりも強化します。
白張
白張

 白張とは白布の表裏に糊を強くひいて仕立てただけの狩衣で、貴族の従者や下人の装束です。神職が下僕が着る白張で神に祝詞を捧げたり、笏を構えても威厳はともないません。滑稽さを感じるかも知れません。これでは、儀式にはなりません。宗教的な儀式には、それにふさわしい厳かな着衣が求められます。神職の場合は、烏帽子に狩衣を着用し、手に笏を持ち、足には黒い浅沓を履き、神に仕える重々しい姿を人々に誇示することで神の威光も保たれます。白張で神事を行えということは、神職にとっては、廃業せよというに等しいと感じたかも知れません。
①の位階を得るためには、公家による取り次ぎを経て、勅許を受ける必要があります。そのためには、大きな経費と労力がいります。これができるのは、有力神社だけです。

5-吉田神社境内図

 これに比べて②の吉田家の許状は、はるかに軽い負担で手に入れることができたようです。そのため、村の神職は許状(神道裁許状)を得るために、京都の吉田家と関係を持つようになります。そして、その許状を得た後は、吉田家の配下として活動することになります。
つまり、吉田家が全国の神職の免許状交付センター権を握って、神道界を牛耳るようになるのです。
 金毘羅神を祀る松尾寺金光院の横暴に、絶えかねた三十番社の神職が最初に訴えを持って駆け込むのが吉田家だったのも、このような時代の背景があるようです。金比羅さんのように新興の地方有力神社は、吉田家の影響力を排除するためには、①を得る必要があります。金毘羅さんの「日本一社」指向も、この文脈の中で考える必要がありそうです。
吉田家が発給した許状(神道裁許状)
吉田家が発給した許状(神道裁許状)

①の位階を得るよりリーズナブルとはいえ、②の吉田家の許状を獲得するためにも相応の負担は必要です。

 ある村の神職の例を試算したものがあります。吉田家から神道裁許状を得るためには、上京して吉田神道の特訓を受けなければなりません。その交通費、滞在費、受領名や官位を得る費用は、しめて15両と試算されています。
 また、勝手に神職になるわけにはいきません。その神社を支配する藩主の推薦状や謝礼も必要でした。晴れて神職であることを吉田家から許可されれば、村の主だった名主や氏子を集めて披露の宴も開かなければいきません。いま、金一両を10万円とすると、15両は150万円、これに雑多な費用を加えると、何百万円の経費がかかったようです。小さな村の神社の神官たちにとっては、大きな負担だったかもしれません。そのほかにも、吉田家には各物品の価格や許可に対する次のような礼金のリストが作られていたようです。
①神社号を許可されるのに額字ともで10両
②烏帽子着用に金一分(約2万円)、
③掛緒や沓の使用許可にもそれぞれ金一分
神社を支える村の氏子たちは、神職が許状を得る際の謝礼や上京費用を負担するようになります。氏子たちは積み立てや信仰者に寄附を募るなどして、経費を捻出したのです。

この諸社禰宜神主法度(「神社条目」)によって吉田家は、幕府から神職の統括者(本所)としての承認を受けたことになりました。
 それ以前の神職は、伊勢神宮や、各地域の有力神社神職の許可によって身分が保証されていました。しかし、法令発布後は吉田家と関係を持つ以外に道はなくなったのです。それが嫌なら白張を着用して、祭祀に臨まなければなりません。
 これを別の視点から見ると、今まで神職身分を承認していた伊勢神宮をはじめとする有力神社の存在意義が否定されたことになります。ただ、一宮のようにそれまで神職身分の公認所であった地域の大社は、吉田家の配下となることで、それまで同じように神職の支配・統制を許されます。ある意味では、吉田家による神職免許交付システムの中に、有力神社も取り込まれたことになります。その頂点に吉田家は立ったのです。

将軍綱吉の元禄期を終えて18世紀になると、神社の位階授与(神階)を希望する者が激増します。
その背景には、神社財産の管理権をめぐる対立抗争が増えたことが背景にあるようです。この場合の決着方法として、位階申請が用いられたのです。神階を受けるためには領主の添状と、氏子の支持が必要でした。そのため申請の過程で、神社の代表者が誰であるのかが明らかにしなければなりません。
 具体的には、村々からの神階の申請は、吉田家に対して行われます。したがって、神位を受けるために上洛した者が、本所吉田家から神社の代表者であること、すなわち神社支配権を承認されることになります。神階は、神道裁許状と違って、神職以外の宗教者や一般の人々が支配する神社でも受けることができました。そのため社僧や山伏あるいは氏子でも、神位を受けることで、その神社の管理権を確保することができたのです。こうして18世紀の前半期には、吉田家による神階授与が最高潮に達します。
神階を受けるためには、いま一つ条件がありました。
神社の祭神などの基礎事項がはっきりしていなければ、神位を受けることはできません。今からすれば、当然のことのように思えますが、当時は、何を祀っているのかも分からない神社がたくさんありました。分からなくっても、年間祭礼行事等を行う際には、何も困りませんでしたから、そのままになっていたようです。
 そこで神位受与の申請を行う前に、吉田家のアドヴァイスを受けて、祭神などを決めたようです。こうして、神階受与の申請が進む中で、神社の基本的なことが整えられて行きます。結果として祭神や由緒は、どこも似たもの同士へと均質化していきます。それまで村に伝承されてきた独自の神格や由緒が駆逐され、記紀神話など中央の神体系に組み込まれて行くことになります。
祭神や由緒の確定は、神社帳を編纂した藩などにおいては、すでに進行していたことです。この時期から丸亀藩の西讃地誌のように、地誌編纂が盛んになってゆくことも、この傾向を助長していきます。民間の学者や神職も、次第に祭神や由緒の考証を行うようになり、彼らの手によって神社志が編まれることも多くなります。
吉田神道の四百年』 “神使い”の人びと - HONZ


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
  「井上智勝   近世神社通史稿国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月

 村の鎮守や祠にまで興味が涌いてきたのですが、各市町村の市史や町史で神社史を見ても要領を得ません。その記述パターンは、神社の由緒書きを、そのまま書き写し、どれだけ歴史が古いのか、由緒があるのかを競うような内容で、長宗我部元親の兵火によって全てが焼き尽くされたために、詳細未詳、と締めくくるものが多いようです。
 近世のムラの神社が置かれた状況を、歴史の文脈の中で捉えようとする文章に出会いましたので読書メモ代わりに紹介します。テキストは テキストは 「井上智勝   近世神社通史稿 国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月」
近世の宗教と社会 2 / 井上 智勝/高埜 利彦【編】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

著者は、中世と近世の間には、大きな社会的な断層があることを最初に指摘します。断層の形成要因のひとつが、近世に登場してくる強力な統一政権だというのです。そして「近世ムラの神社」は、「格段に強力な統一政権」の動向や影響を受けながら、あるものは継承され、あるものは否定されていくことになると云います。

兵農分離

まず取り上げるのが兵農分離と検地です。
織豊政権は、武士団の城下町へ集住化で兵農分離を進めます。さらに検地で、複雑な土地所有関係を領主と農民が直接向かい合うシンプルなものにしていきます。
 兵農分離は、村の神社に何をもたらしたのでしょうか?
 それまで村々に生活していた武士団は城下町に集住させされ、常備軍の一員に編成されます。つまり、ムラから武士が消えたのです。これはムラの神社に大きな打撃となります。なぜなら、それまでムラに居館を構え、自ら耕作に携わってきた在地領主は、ムラの神社にとっては、最大の篤信者であり、パトロンでした。兵農分離は、ムラの神社の最大の庇護者を奪ったことになります。
理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
ムラにあった中世の武士居館

 戦国の乱世の中で敗者となった武士団の中には、西長尾山城主(まんのう町・丸亀市)の長尾氏のように、帰農しながら寺院や神社の宗教者として地域での指導性や優位性を確保しようとする者も現れます。しかし、これもあくまでムラの一員としての存在です。武士たちいなくなったムラでは、百姓たちの手で神社運営が行われるようになります。
太閤検地|記事|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)

 検地も、ムラの神社にとっては、大きな打撃となりました。
 検地によって、寺社が今までに持っていた田地も、一旦清算されす。広大な土地を持っていた有力神社をはじめ村の氏神社(鎮守社・産土社)まで、社領や神領は没収されます。そして、検地を施されて、貢納の対象とされました。豊臣・徳川初期の検地による社勢の衰えを伝える神社が多いのは、検地による寺領縮小と関係しているようです。誇張もありますが、ある程度史実を反映したものと研究者は考えているようです。

こうして、ムラから武士たちがいなくなったことで、神社は百姓や宗教者が維持・運営してゆかなければならない時代がやって来ました。
しかも、検地によって神田や免田などが没収されます。まずは、神社を維持するための経済的な基盤を再建することが求められました。氏子たちは、年貢地に組み込まれた村の耕地の一部を「神田」などと位置づけ、年貢を納めた余りで神社を維持する努力を重ねます。
村切り
青いエリアが中世の郷、赤いエリアが「村切り」の地に生まれた村

 検地を受けて行われた「村切り」も、神社に影響を与えました。
近世の統一政権は、中世の中間搾取をなくして、領主が小農民から直接に年貢を集めるという方向を指向しました。そのためにムラは、小農民を把握しやすいように再編成されることになります。郷に、いくつもの線引きがされ、切り分けられます。これが「村切り」です。中世まであった広い荘郷は解体され、集落を単位として「村」が生まれます。これが近世的な「村」の誕生です。

中世から近世に移る際に、神社の奉仕者も変容します。
兵農分離によって武士団の棟梁などムラの領主がいなくなった所では、神社の維持・管理の担い手や司祭者、あるいは祭祀秩序に大きな影響が出ています。ムラの神社の神職には、領主層の一族が多かったようです。それが武士団がいなくなるということは、神職にとってはその後ろ盾をなくすることとを意味します。
「ムラの領主の転出=神職失脚=神社の祭礼行事再編」

ということにつながります。
 検地には土地に耕作民を縛り付けることで、安定的な貢租収入を確保し、政権の安定を図るという目的もありました。そういう意味では、封建体制とは人々の移動の自由、職業選択の自由を奪うことによって成立するものといえます。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から

 これは、諸国を巡り歩く廻国の宗教者にとっては、「生活権の侵害」でした。諸国を遍歴して活動していた山伏などの廻国の宗教者の多くは、いままでの「営業スタイル」がとれなくなります。こうして、山伏たちは、一つの土地に定着して、生きていくしか道がなくなります。ムラに定着した山伏たちは、当然のように村の宗教活動に積極的に関わろうとします。これは、神職との間に緊張関係を生むことになります。祭祀の方法や祭祀に携わる巫女などの職掌をめぐって、両者はしばしば争いを引き起こしていることが讃岐の資料にも出てきます。このような争いを重ねる中で、控訴判例などを通じて両者の職分は整理されていきます。職分の明確化は、神職に独自の身分に属するという自意識を育てていきます。それは、神職達の身分集団の形成につながります。
また、山伏と同じように廻国行者である伊勢や熊野の御師も、所属する神社の神を奉じて、巡回先に定着する者が数多く現れます。近世初頭の新田村落への伊勢社の勧請は、このような御師の活動によるものが多いようです。
 近世初頭には、修験者や廻国者・御師たちの移動が原則禁止され、彼らが地域に定着し、世俗化していく時期であったことを押さえておきます。

戦国の乱世を終らせた豊臣政権は、積極的に神社の修造を行います。
その覇業を継いだ家康もまた、著名神社の修造を行っています。これらは彼らの篤い信仰心を表すものとされたりもします。が、実際は国家レベルの「神事」を果たすことによって、自分が正当な国家公権の掌握者であることを誇示することが目的であったと研究者は考えています。
 豊臣政権も徳川政権も、検地によって神社の領地経営を一旦は否定しました。しかし、有力神社に対しては改めて社領を与えています。各藩主も、同じように領内の有力寺社に寺領や神領を寄進します。讃岐の生駒氏が新興の流行神であった金毘羅神を祀る松尾寺金光院に、併せて330石の寄進を行うのも、このような文脈の中で見ておく必要がありそうです。金毘羅山の金光院の場合には、高松藩主松平頼重の斡旋で、朱印地になります。朱印状を持つ神社は、高い格式をもって処遇され、年頭や八朔に将軍や大名らに拝謁を許されました。
 しかし、神領寄進が行われたのは、幕府や藩主が信仰を寄せる一部の寺社だけです。恩典に与れない神社の方が圧倒的に多かったのです。
それでは、村の神社は、どのように維持管理されたのでしょうか。
生駒藩の場合を見てみると、村の神社の境内や神官の住居などは「除地」という免税地あつかいにしています。そのエリアは領主側が決めるもので、神職や氏子の希望どおりにはならなかったようですが、村の神社の維持には助かりました。藩が神社維持について、全面的に村の氏子の自助努力に委ねていたのでもないことがうかがえます。

 確かに、信長は、中世の土地制度や国家権力の在り方を否定して登場してきました。スクラップ&ビルド方式が採用されます。抵抗するものは強大な軍事力によって焼き払い、それを乗り越えて新しい時代を開くという使命感の故なのでしょう。
 しかし、江戸時代に入りしばらくすると、殿様の中には
「帰順する者は多くこれを容れ、利用できる部分は旧来の枠組みを利用することで、無駄な消耗を省いた藩造り」

を目指す殿様も現れてきます。それが讃岐では、生駒氏であり、初代高松藩藩主の松平頼重になるのかもしれません。彼らは「神事遂行は、統治者の責務」という認識を、持っていたようです。もっと具体的に云うと、殿様の頭の中には、「領主には領内の寺社を維持し、神事を円滑ならしめる責任がある」という「義務意識」があったということです。
 讃岐が二つに分けられ後の高松藩には水戸藩から松平頼重が初代藩主としてやってきます。この頃にになると全国的に、衰退・廃絶していた古社を復興し、神社の秩序化を推し進めようとする動きが、各藩で起こってきます。
神祇宝典(じんぎほうてん) - 貴重和本デジタルライブラリー

例えば正保三年(1646)尾張名古屋藩主徳川義直は、「神祇宝典」を著しています。
その中には、全国の式内社およそ870社と、祇園社・北野社など著名式外社68社について、祭神の考証、注釈が付けられています。義直は、一宮真清田社や熱田社など領内の有力社を崇敬・保護しています。それだけに留まらずに、旧社顕彰の意図が全国の神社に及ぶものであったことがうかがえます。その思想は、仏教隆盛以前の状態を理想とし、そこに回帰するという姿勢に立脚しています。これはある意味では排仏思想で、唯一神道の立場に近く、その根拠は吉田神道ではなく、儒学の尚古主義にあったようです。
 式内社などの古社を重視し、これを顕彰しようとする動向は17世紀の半ばには、その他の藩でも見られるようになります。
紀伊和歌山藩では、慶安三年(1650)に廃絶した式内社の旧跡を比定し、それぞれに石碑を建てています。この式内社の顕彰の動きは、磐城平藩、土佐高知藩、肥前平戸藩などでも行われています。注意しておきたいのは、これらの古社保護が神社整理とともに行われたことです。つまり小さな神社の破棄が一方では進められたのです。神社に秩序を与えるために序列化し、上位の神社を保護し、下位に位置づけられた神社は、淘汰されたことになります。まさに「神社整理政策」です。
江戸泰平の群像』(全385回)149・松平 頼重(まつだいら よりしげ)(162 | 史跡探訪と歴史の憧憬

   松平頼重による金毘羅大権現・長尾寺・白峰寺などへの保護は、このような動きの一環として捉えられます。
ここからは藩主が、領内にある神社なら何でも保護したわけではないことが分かります。あくまで藩が宗教施設として公認した神社に限られていたのです。保護すべきは、天下泰平・国家安全と藩主の武運長久を願う神社です。領民が個人的な祈願を込めるだけの流行神的な神社は、存在意義のない、むしろ民を惑わす「淫祠(淫祀)」とされて破却の対象となったようです。藩にとって、「神事」は、あくまでイデオロギー支配の手段で、領民への迎合ではなかったことがうかがえます。
 一方、村の破棄対象となりそうな神社側としては、「淫祠」ではなく、藩に必須の神社であることを誇示することを求められます。その結果、領内津々浦々の神社の棟札にまで「天下太平」「国家安穏」などの文字が記されることになります。これを掲げないことには、存在意義の証明にならなかったのです。逆に言うと、これが前面に出ると、庶民の信仰対象とはならなくなります。庶民は、現世利益や病気治癒を求めて、新たな流行神の信者へとなっていくことになります。

神社の序列化や整理のあとに作られたのが、神社管理のための藩の帳簿です。
会津藩の「会津神社志」および「会津神社総録」、
岡山藩の「御国中神社記」
は神社整理後、その結果をもとに編まれたものです。反対に水戸藩の「鎮守開基帳」は、神社整理に先だって行われた調査の結果を集成した簿冊です。神社整理を行わなかった領主も、領内の神社を掌握しておく必要から、神社帳を作成しています。こうして藩内の神社は「神社帳」に記載され、序列が付けられていくことになります。「藩内神社ランキング表」が完成したことになります
 藩は、治安上の理由から無制限に神社が増えることを望んではいませんでした。しかし。神社帳を作ったあとは、放置状態で、取り締まりが行われた痕跡は見えません。そのため稲荷神社など小さな神社は建立され続けたようで、公的に未公認な神社がたくさんあったようです。

以上をまとめておくと
①近世初頭の検地と兵農分離(刀狩り)は、中世以来の神社におおきな影響を与えた。
②武士層が村からいなくなったことによって、村の神社は百姓たちに維持されることになる。
③検地のためにそれまでの寺領没収や、あらたな年貢課税を求められた寺院は、百姓たちの支えで維持されるようになった。
④藩主の中にも神社の維持を藩全体の政策の一環として捉え、保護を策を講じる者も現れた。
⑤しかし、それは同時に神社整理と神社のランキング化を進めるものでもあった。
こうして各村の神社は、藩の神社帳に記載され、その管理を受けることになりました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「井上智勝   近世神社通史稿 国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月」

  
富貴寺のある蕗(ふき)の谷は、田染庄の最も北寄りのエリアになります。東から西に流れる桂川の支流の蕗川が造った谷に開かれた所で、中世には名田である糸永(いとなが)名が開かれ、その真ん中に富貴寺は建立されたようです。それは田染荘が成立して、まもない平安時代後期のことになります。
 富貴寺は、中世文書には「蕗寺」記されることが多いようです。
地名は「蕗」なので、「富貴」は好い字を後世にあてたのでしょう。中心となる堂の本尊に因んで蕗村の「阿弥陀寺」や「阿弥陀堂」とも呼ばれていたようです。このお寺を建立したのは、誰なのでしょうか。それを追ってみたいと思います。テキストは参考文献「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」
です。
研究者は富貴寺の大堂と本尊阿弥陀仏についてを次のように記します。
丘陵に南向きに建てられた大堂は、平安時代末の12世紀半ば以降のもので、一間四面堂形式の平安時代の阿弥陀堂として国宝に指定されている。一間四面堂の形式は、北の平泉の中尊寺金色堂やいわき市の白水阿弥陀堂などと同じスタイルで、平安末期に地方で作られた浄土教美術の優作である。金色堂が奥州藤原氏三代の墓堂であったこと、また富貴寺大堂の床下にも大石と穴が遺っているので、この大堂も墓堂ではないかとの説もがある。

 富貴寺大堂床下からは径 1.6m ほどのやや扁平な自然石の巨石が確認されているようです。五重塔の礎石のように、巨石下における何らかの埋納遺構があると推測できます。富貴寺大堂が墓堂であった可能性もあるようです。

富貴寺大堂は、もともとが 「阿弥陀寺(堂)」 と呼ばれていました。
これはその他の六郷山寺院とは、様相がちがいます。他の寺院が密教色の強いお寺であるのに対して、阿弥陀信仰中心の浄土教的色彩の濃い寺院ということです。大堂には本尊 ・ 阿弥陀如来像を安置する須弥壇(内陣)を中心に、その周りを外陣が取り囲む構造で、まさに阿弥陀堂と呼ばれる寺院建築の典型です。
 また、須弥壇仏後壁や四天柱、外陣小壁などに描かれた堂内壁画も、浄土教的主題が描かれています。大堂全体がまさに浄土信仰の実践の場、阿弥陀如来を観想するための施設として造られています。

 この寺がライトアップされるというので、前回に紹介した天念寺周辺をうろうろと歩いたあと、早めに富貴寺境内に隣接する宿に入りました。そして、温泉に入り、うとうととしながら日が暮れるのを待ちました。目が覚めるとすっかり夜の気配。慌てて、浴衣とサンダル履きで本堂に向かいます。多くの人が訪れてざわめいていることを予想したのですが・・・・誰もいないのです。
富貴寺2
富貴寺大堂

銀杏の紅葉の下にひっそりと佇む大堂を独り占めするという贅沢な時間を、阿弥陀さまからプレゼントされました。ここが私の極楽浄土と呟いてしまいました。縁台に座りながら、すり寄ってきた猫を膝に乗せて観想。至福の時を送らせていただいたことに感謝。

富貴寺阿弥陀如来

 本尊の阿弥陀如来については、次のように記されています。

定朝様式にのっとって、おだやかで整った寄木造の作品である。本尊の背面の壁や内陣の四隅の柱、そして内陣・外陣の小壁にいたるまでびっしり壁画が描かれている。本尊背後には阿弥陀浄土、外陣の小壁には東に薬師浄土、西に阿弥陀浄土、北に弥勒浄土、南に釈迦浄土が描かれている。絵師の腕前も正統的で、見事だ。

 残念ながら夜のため暗くて「びっしり書かれた壁画」は見えてきませんでした。この時には、本堂内部まではライトアップはされていません。また、剥落した部分も多いようです。

富貴寺本堂内部の復元
富貴寺大堂内部の復元(大分県歴史博物館)

後ほど、大分県歴史博物館に再現されているものをみるとなるほどなと云う感じになりました。確かに、中尊寺のような極楽浄土を指向する雰囲気が濃厚です。墓堂と云われる由縁がうかがえます。

 いったい誰がこれほど立派な寺を建立したのでしょうか。
この寺に残る最古の古文書は、鎌倉中期の貞応二年(1223)に、宇佐八幡宮大宮司・宇佐公仲の出した寄進状です。そこには次のような内容が記されています。
「この寺(=富貴寺)は、公仲の家の累代の祈願所にして、攘災 招福の勤め今に懈けたい怠なし」
田染荘内の末久名の田畠と、糸永名から切り離して大宮司家の用作(直営地)とした一町五反の田地、さらに荒野を(富貴寺に)寄進して長く免税地とする

ここには富貴寺が父祖代々の祈願所として宇佐大宮司の手によって建立されたことが記されています。それに続いて、公仲が田染荘内の末久名の田畑と糸永名の田一町五段を 「蕗浦阿弥陀寺(富貴寺)」 に寄進する内容です。

  その頃の宇佐大宮司家は、京都の藤原氏摂関家と強いつながりありました。
 当時は平安京では来世の極楽往生を願う浄土思想が広がるとともに、末法思想が流行した頃です。その末法の初年が 1052 年(永承 7)にあたり、当時の社会不安はそのためであるとされ、人々は浄土信仰によって来世に救いを求めます。関白 ・ 藤原頼通が宇治に平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立したのは1053 年(天喜元)です。
 宇佐宮でも、その頃から神宮寺である弥勒寺の僧達によって法会が盛んに行われるようになります。1083 年(永保 3)には、弥勒寺領向野郷の一角、津波戸山(杵築市山香町)に経塚が造営されています。もともと、宇佐宮には天台法華思想がすでに受容されていました。その上に連携関係にあった藤原氏が信仰していた浄土信仰を、そのまま受けいれることになります。その延長線上に、宇佐大宮司によって建立されたのが富貴寺大堂ということになるようです。

大堂の創建年代については、研究者は12世紀半~後半を考えているようです。
  この時期の宇佐大宮司といえば、1144 年(天養元)に大宮司の座について以来、半世紀にわたって宇佐宮支配の実権を握り、中央とも深い関係をもった宇佐公通です。彼こそが大堂建立の立役者と、研究者は考えているようです。
 宇佐公通は、本家-領家の関係にあった藤原摂関家にならって学び取った浄土信仰を富貴寺建設に活かそうとしたのでしょう。そのため、出来上がった大堂は、建築の細部や壁画 ・ 仏像などあらゆる造形に、当時の都で流行した技術や好みが反映しているのでしょう。まさに「都直輸入品」の建物なのです。

文書の中には「糸永(いとなが)名」という名がでてきます。
蕗川沿いに西に下っていくと、やがて桂川の本流と落ち合います。この付近までくると谷は広く、一面の水田が広がっています。付近の小字を「糸永」いいます。鎌倉中期の田染荘には90町分の田地があったとされます。その1/3の30町が糸永名でした。糸永名は、蕗川の谷を中心に、田染盆地の西北部から小崎川の流域にまで展開した名であったと研究者は推測します。富貴寺は、糸永名が成立した後に、名の中心部に宇佐人宮司一族のために墓堂として建てられたことになりそうです。そういう意味では、糸永名の中の富貴寺と云えそうです。 
以上をまとめておくと
①田染庄の中心部の開発が一段落した後に、蕗川沿いの開発が宇佐大社によって進められた。
②新たに開発された蕗側流域は「糸永名」と名付けられた
③その糸永名の中心部に、宇佐人宮司一族は阿弥陀信仰に基づく墓堂を建立した。
④それが蕗の阿弥陀堂であった
⑤それがいつしか富貴寺と呼ばれるようになった
富貴寺周辺地図

翌朝早朝に、蕗の谷を少し歩いてみました。

富貴寺 其の田版碑道標

富貴寺の門前を西に下り、さらにすぐ南に下りて蕗川を渡ると、こんな道標に出会いました。行ってみると蕗川のほとりに二基の板碑が並んで立っています。
富貴寺 其の田版碑1
其ノ田(そのた)種子板碑、高さ 195Cm 下幅 42Cm)
 左側には、 金剛界大日の種子「バン」
普賢の種子「アン」
文殊の種子「マン」の3文字
右側には、阿弥陀二尊の種字
富貴寺 其の田版碑3

それぞれの板碑の下方には、次のような銘文があるようです。 
左板碑の下方には
「建武元年(1334)甲戌八月廿四日」「山房尼法阿」「所奉  
 訪聖霊、沙弥道治、沙弥明照」
右板碑には「地蔵堂講衆」

ともに年号は建武元年(1324)ですが、右板碑の方が約3ヶ月造立が早いようです。。
ここからは次のようなことが分かります。
①周辺の人々が地蔵堂に集まり、「講」を結成していたこと
②その中の地蔵堂講衆がまず、右側の阿弥陀板碑を造立
③その3ケ月後に、「山房尼法阿」「道治」「明照」の3人が三尊種子板碑を造立
「山房尼法阿」は時宗の尼僧に、「道治」「明照」という沙弥であったことが分かります。

 この地点から少し下流には「地蔵堂」が今も残っています
富貴寺其の田 地蔵堂1
其之田の地蔵堂
なかには、地蔵菩薩とそれを礼拝する僧と女性を彫り出した磨崖仏がお祀りしています。ここが地蔵堂で「地蔵堂講衆」が講を開いていたことが考えられます。彼らがその信仰の証に、板碑を14世紀に造立した。その講の指導者が、「山房尼法阿」「道治」「明照」で、自分たちに帰依する講のメンバーたちに先に板碑を造立させ、その後に自分たちも並べて造立した、というストーリーも描けます。どちらにしても、中世の村での修験者や廻国業者たちの活動がうかがえる資料です。

この場所は「其の田」と呼ばれていたので、二基の板碑は「其之田板碑」とされています。
「其ノ田」とは「あて字」で、もともとは「園(薗)田」だったと研究者は考えています。屋敷や家の小さな園地(しゃえんじゃり;家庭菜園)を開拓して、田や畠としたのが「園」で、中世にはよくみられる地名です。かつてこの付近には、中世の小さな村があったようです。

其ノ田板碑への入口付近の小字名は「政所」です。
政所とは、もともと大貴族や幕府の家政機関か、あるいは荘園の現地支配機関のことです。ここは、武家方の田染荘政所があった所とされているようです。それが、江戸時代には庄屋の屋敷となりました。山の麓には竹林の中に、今もかなりおおきな空堀や土塁の跡が部分的に残っていて、防衛堅固な要地であることがわかっています。
ここから山を登ると、麓の堀や土塁の裏手の尾根には、二重の堀と土塁が造られています。これは麓の屋敷の背面を防御するものでしょう。以上から、この政所は富貴寺の建立よりさらに後の、室町時代から戦国時代の、まさに戦乱が日常化しつつあった時期に造られたもと研究者は推測します。
 この時代、田染荘の村々の支配権は、宇佐八幡宮から大名の大友氏や、その部下の武士団の手に移って行きます。田染荘には、蕗の政所と、盆地の東南の谷間の相原の政所の二つがありました。それぞれ大友氏の配下の武士が駐留して、荘内の支配に当たっていたようです。富貴寺と政所とが隣接しているところから、この付近が中世を通じて田染荘の政治的、そして宗教的中心の役割を果たしていたことがうかがえます。
以上をまとめておくと
①中世になって、宇佐大社によって新たに開かれた新名が糸永名。
②その地に、宇佐一族の墓堂(富貴寺)が建立され、一族の繁栄と浄土極楽往生を願う場となったこと。
③そして富貴寺へ糸永名の一部が寺領として寄進されたこと。
④その後の戦乱の中で、武士方の政所がここに設置されたこと。
この時期の富貴寺の立場は、困難なものであったことが考えられます。それを乗り切って富貴寺は存続していったことになります。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」

    
前回は幕末の宇和島藩には880人の修験者たちがいて、それぞれが地域に根付いた宗教活動を行い、定着していたことを見ました。これは別の言葉で表現すると「修験者の世俗化」ということになるようです。地域社会に修験者が,どのように根付いていくのか、修験者が地域に定着していくためにとった戦略は、どんなものであったのかを明らかにするのは、ひとつの研究テーマでもあるようです。
 修験者が自分の持つ権成や能力を武器に、里人の生活に寄与することで、社会的・経済的地位を獲得していくプロセスの解明と云うことかもしれません。その戦略は、置かれた時代・地域・生活形態に応じて変化します。前回はその戦略の一端を宇和地方に見たということになります。今回は、国東の田染庄への修験者たちの地元への定住戦略を見ていくことにします。

やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。<br />ここから見上げれば無明橋も見えている。

国東の修験者の修行の道を歩いて見たくなり、天念寺耶馬の無明橋を目指したことがあります。やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。

駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。
  
目をこらすと無明橋も見えているような気もします。
ところがあいにくの雨。雨具を付けて出発しようとすると鬼会の里のスタッフから「雨天時の登攀は、危険で事故も多発していますので、ご遠慮いただいております」との言葉。

天念寺の看板に誘われ参拝する。
長岩屋天念寺
行く場をなくして、雨の中の彷徨を始まります。まず、訪れたのが駐車場の横にある長岩屋天念寺です。お寺には見えない民家のような小さな本堂です。
この寺もかつては講堂を持つ大きな寺院で、いくつもの坊を構えていたという。<br />しかし、明治以後は大洪水の被害もあり再建のために本尊を売却する窮地も迎えたという。今の寺の規模は最盛時の何十分の1になっている。<br /> 売却されていた本尊は、地元の悲願で買い戻され、隣接する歴史資料館で今は公開されているという。<br /><br />

この寺もかつては講堂を持つ大きな寺院で、いくつもの坊を構えていたようです。しかし、明治の神仏分離で神社から切り離されて、ここに移動。その上に大洪水の被害もあり再建のために本尊を売却する窮地も迎えたといいます。今の寺の規模は、最盛時の何十分の1になっているようです。売却されていた本尊は、地元の悲願で買い戻され、隣接する歴史資料館で公開されていました。

天念寺への参拝終了とおもいきや、<br />このお寺の本領発揮というかすごさは、ここからにあった。<br />川下に歩いて行くと・・・
身禊神社

天念寺への参拝終了とおもいきや、このお寺の本領発揮というかすごさは、ここからでした。川下に歩いて行くと・・・
萱葺きの神社が現れました。

そして、神仏分離によって寺と寺院は隔てられた。<br /><br />しかし、ここで行われる祭礼は、今でも寺院の手で行われているようだ。<br />その意味では、他所に比べて「神仏分離」が緩やかな印象を受ける。<br /><br />
身禊(みそぎ)神社と講堂
背後は切り立つ断崖。
天念寺から無明橋にかけての岩峰は、六郷満山などの修験者たちの「行の場」のひとつでした。神仏混淆で神も仏も一体化し、天念寺がこの神社の別当だったようです。

背後は切り立つ断崖。<br />天念寺から無明橋にかけての岩峰は、六郷満山などの僧侶たちの「行の場」のひとつでもあった。<br /><br />そして神仏混淆で神も仏も一体化していた。<br />天念寺がこの神社も管理していたのだろう。<br />
身禊神社 鳥居と本殿
鳥居の奧が本殿?
それでは、左の萱葺き屋根の建物が拝殿?
中に入って参拝させていただきます。
拝殿で「ここに導き頂いたことに感謝」と礼拝。

拝殿で「ここに導き頂いたことに感謝」と礼拝。
そして、隣接する謎の建物の礼拝所へ<br /><br />広いのです。<br /><br />神社の拝殿の規模を遙かに超えています。

そして、隣接する謎の茅葺き建物へ
広いのです。神社の拝殿の規模を遙かに超えています。
無造作にいろいろなものが置かれています。
ここが何に使われる空間か、私にはこの時には分かりませんでした。

中世の村を歩く - 新書マップ

後に「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」を読むと、次のようにありました。
昭和4年にこの地をは、種田山頭火もこの地を訪れ、萩原井泉水に宛てて出した書翰には「小耶馬渓とでもいひたい山間」と記し、しぐれる耶馬を越えた行程に思いを馳せて、「いたゞきのしぐれにたゝずむ」などの俳句を詠んでいます。
      身禊神社の前の川中不動
昼の勤行が終わると、ホラ貝と鐘を合図に勤行の僧と祭りに奉仕するムラ人のテイレシ(松明入れ衆)たちは、川中不動の前の淵に集まる。
テイレシたちは水中に入って身を清めるコーリトリ(垢離取り)の式を行う。真冬二月の夕方の薄暗がりの中に、白い裸身が浮かび、見るだけでもいかにも寒そうだが、そこが信仰の力なのであろう。

そして川中不動に会いに行きます。
コーリトリ(垢離取り)が行われる川中不動

やがてまたホラ貝と早鐘を合図に、寺の前や橋の上など三か所に立てられた三本の大松明がテイレシたちによって次々に点火されると、暗くなった谷の中はパッと明かるくなる。夜の勤行の始まりである。

天念寺鬼会2

岩壁に直接建て掛けられた講堂の中は、すでにムラの人たちや参詣者たちでいっぱいである。勤行の前半は読経を中心に、さまざまの祈祷が行われ、比較的単調な時が流れる。
天念寺鬼会1 

後半は一転して芸能的色彩が濃くなり、人々を飽きさせない。まず「香水棒」と呼ばれる、小正月の削掛に似た棒を持った二人の僧が登場、足拍子と下駄の音高く、互いに棒を打ち合わせ、堂を踏み鎮める。「マンボ」のリズムにも似た調子で、いかにも快い。やがて長老の僧二人が「鈴鬼」の夫婦として現れ、おだやかに舞い納めて、「災払鬼」「荒鬼」を招き入れる。いよいよ「鬼走り」といわれるクライマックスだ。
修正鬼会とは - コトバンク
              「災払鬼」
「災払鬼」は赤鬼の面に赤の着衣で、右手に斧、左手に小松明を持つ。 一方、「荒鬼」は黒鬼の面に黒(今は茶)の着衣、右手に太刀、左手に松明を持つ。ともに体力のある若い僧侶の役で、順に登場、法会を主催する僧に聖なる水を吹きかけられると、とたんに武者震いをし、活動を始める。
 カイシャク(介錯)役の数人の村人とともに点火した松明を打ち振り打ち振り、堂の廊下を「ホーレンショーヨ、ソリャオンニワヘ」と大声で連呼しつつ、乱舞し、飛び回る。満員の堂内はどよめき、人の粉の飛び散るなかを逃げまどう人々も多い。騒然たるなかで、「鬼の目」と呼ばれる餅が撒かれる。この餅は無病息災の御利益があるとして、人々は争ってこれを拾おうとする。また堂内に座っている人々の背中を鬼が次々と松明で叩き、加持を加える。鬼会もここでようやく最後となり、天念寺の僧による「鬼鎮め」を受けた鬼は静かに講堂から退場する。
天念寺鬼会3

 藁葺きの講堂は真冬に行われる「鬼会」の舞台だったようです。
そのための空間なので、ただ広く殺風景なのです。しかも、ここは身禊神社に隣接していますが、所属は天念寺の講堂になるようです。神仏分離への苦肉の対応ぶりがうかがえます。

それでは鬼会の鬼とは、何なのでしょうか?
「鬼会」に登場する鬼たちは、どうも節分の豆撒きで払われるような単純な鬼ではないようです。
「ホーレンショーヨ、ソリャオンニワヘ」という鬼の掛け声は、宇佐八幡宮の創始者の法蓮を誉め称える、との意味で、鬼はまさに法蓮の化身、あるいは不動明王の化身

とパンフレットには説明されていました。
 一方では、「災払鬼」「荒鬼」の着衣は、十二か所(閏年は十三か所)も麻縄(昔はカズラ)でくびられています。これはいかにも一年のはじめに来訪する神を暗示します。

天念寺鬼会 鈴鬼
天念寺鬼会 鈴鬼
また白塗りでおだやかな夫婦の「鈴鬼」は、老人の姿をとって現れる先祖の神のようにも思えます。「鈴鬼」が手に持った団扇には米粒が入っていて、これをガラガラと打鳴らしながら舞をします。米粒に象徴される農耕神の再生を暗示ともとれると研究者は考えているようです。
そこからさらに一歩進めて、修正鬼会の鬼は、実は仏であり、また神でもあるのだという説もあるようです。この講堂は、鬼が仏や神に変わっていく舞台でもあるようです。
 確かに、国東の神社には仁王の像が立ち、寺と社がほとんど一体化した神仏分離以前の姿が残っています。鬼にも仏と神が一体化した姿が宿っているのかも知れません。

修正鬼会へ行ってきました! | アナバナ九州のワクワクを掘りおこす活動型ウェブマガジン | [九州の情報ポータルサイト]

鬼会の主催者は?
私は神社で行われているので、身禊(みそぎ)神社の主催かと思っていました。そうではないようです。鬼会は、長岩屋の地区の主催する行事なのです。テイレシ(松明入れ衆)やカイシャク(介錯)の役をはじめ、笛・太鼓・鉦などのお囃子方も、また運営の役員も、松明や香水棒を作ることも、すべてはムラの人々によって行われているようです。それは、中世にここにあった都甲荘内のムラからの伝統を受け継いでいるのです。
天念寺修正鬼会 - 写真共有サイト「フォト蔵」

鬼会の大松明は、明治までは十二本供えられたようです。
長岩屋の谷の各所にあった天念寺の十二の坊が、それぞれ一本ずつ大松明を作っていました。またテイレシの人々も十二の坊から出されていました。
 中世荘園では、名が年貢や公事(雑税)を出す単位でした。一年十二ケ月ごとに雑税を分けて負担するので、名の数は十二とされることが多かったようです。鬼会の負担が天念寺の十二坊に割り当てられているのも、中世荘園の痕跡だと研究者は指摘します。

行者による谷の開発
この谷は今も長岩屋という地区名で呼ばれています。それは、この谷の領域の全体がそのまま長岩屋(天念寺)という寺院の境内地だったからのようです。谷の開発過程を見ておきましょう。
①急峻な岩壁を持つこの谷に修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②長岩屋と呼ばれる施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③いくつかの坊が作られ、その周囲は開拓されて田畠ができ、あるいは焼畑がつくられてゆく。
④坊を中心に宗教的色彩におおわれた、ひとつの村が姿を見せるようになる。
⑤それが長岩屋と呼ばれるようになる

都甲からは北方の夷も、「夷耶馬」と称される景勝の地です。
ここにも六郷満山の一つの岩屋である夷岩屋がありますた。古文書によれば、平安後期の長承四年(1125)、僧行源はすでに長い年月、岩屋に接した森林を切り払って田畠を開発し、「修正」のつとめを果たすとともに、自らの生命を養ってきたので、この権利を認めてほしいと請願します。これを六郷満山の本山はもとより、この長岩屋の住僧三人以下、付近の岩屋の住僧たちが承認します。この長岩屋においても、夷岩屋と同じような開発が進行していたことが推測できます。

長岩屋を中心とした中世のムラの姿の変遷を見ておきましょう。
近年の調査で、この谷に住む長岩屋の住僧の屋敷62ケ所を書き上げた古文書(六郷山長岩屋住僧置文案:室町時代の応永25年(1418)が発見されています。
天念寺長岩屋地区
中世長岩屋の修験者屋敷分布
そのうち62の屋敷の中の20余りについては、小地名などから現在地が分かります。長さ4㎞あまりの谷筋のどこに屋敷があったのかが分かります。この古文書には、この谷に生活できるのは住僧(修験者)と、天念寺の門徒だけで、それ以外の住民は谷から追放すると定められています。長岩屋は、宗教特区だったことになります。特別なエリアという印象も持ちますが、国東の谷々で開発された中世のムラは、このようにして成立した所が珍しくないようです。つまり、修験者たちによって谷は開かれたことになります。これが一般的な国東のムラの形成史のようです。

天念寺境内絵図
神仏分離の前の天念寺境内絵図

 長岩屋エリアに住むことを許された62の修験者のほとんどは、「黒法師屋敷」のように「屋敷」を称しています。

他は「○○薗」「○○畠」「○○坊」、そして単なる地名のみの呼称となっています。その中で「一ノ払」「徳乗払」と、「払」のつく例が二つあります。「払」とは、香々地の夷岩屋の古文書にあるように、樹林を「切り払い」、田畠を開拓したところからの名称のようです。山中の開拓の姿が浮かんでくる呼称です。「払」の付い屋敷は、長岩屋の谷の最も源流に近い場所に位置します。
 「徳乗払」は、徳乗という僧によって切り拓かれたのでしょう。詳しく見てみると、北向きの小さなサコ(谷)に今も三戸の家があります。サコの入口、東側の尾根先には、南北朝後半頃の国東塔一基と五輪塔五基ほどが立っていて、このサコの開拓の古いことがうかがえます。 これはまんのう町金剛院の修験の里を考える場合のヒントになります。金剛院にも、屋号に「○○坊」と名乗る家が残ります。彼らが廻国行者などとして全国をめぐり、金剛院周辺に定着し、周辺地を開発していったということが考えられます。

天念寺境内実測図
現在の天念寺境内実測図
最初に見た「修験者の世俗化」テーマをもう一度考えてみます。
地域社会に修験者が、どのように根付いていくのか、修験者が地域に定着していくためにとった戦略は、どんなものであったのかという問いに対しては、ある研究者は次のように応えています。

「(修験者が)自分の持つ呪術力や能力を武器に、里人の生活に寄与することで、社会的・経済的地位を獲得していく戦略」

その戦略は、時代や場所などに応じて変化させなけらばならなかったはずです。その柔軟性こそが、修験者が里修験化できるかどうかの分かれ目となったとも云えます。そんな視点から「修験者の世俗化」を見ると、修験者たちは、農耕や狩猟、漁業、鉱業、交通・医療などに、積極的に関わりをもち、参入していったことが見えてきます。
富山県西部の砺波平野の例を見ておきましょう。
砺波平野の定着修験(里修験)は、次の三つに分類できるようです
①高野聖、廻国聖などの遊芸聖系
②山伏系、
③貧民・落人・漂泊民系
この3タイプは、①の遊芸聖系が中世全般、②の山伏系が中世末から近世初期、③の貧民・落人・漂泊民系が近世前期に定着していきます。定着修験たちは、自分たちの生活のためにも地域の仏事法要や仏事講に携わっていきます。同時に、多数の氏子を獲得できる堂社祠にも奉仕するようになります。例えば具体的に、初夏には「虫除ケ祈疇」という虫送りの民俗と融合した儀礼を執り行うようになります。また「雨乞祈疇護摩札」なども、配布したりするようになります。そして、「農村的歳事年中行事との結びつきにより、山伏は役割的にも村落社会に確実に定着していた」と研究者は指摘します。
 修験者は、農民たちの農耕儀礼に関わることによつて、農村社会での存在価値が高めらいきます。それは、同時に彼らの定着化の大きな原動力になります。定着後は、儀礼執行者として指導性を発揮すよようになります。
 また農民として農耕を行う修験者も出てきます。
新潟県岩船郡山北町搭ノ下の修験であるホウインは、寛文年間(17世紀中葉)にすでに約2反の水田を持ち、後にはそれをい1町歩にまで増やしています。宗教的教導者としての性格よりも、次第に農民化しているようにも見えます。
天念寺周辺行場
天念寺周辺の行場
国東のムラで起こっていたことも、地域へ定着という方向は同じです。
 しかし、地域への定着後のあり方が大きく異なってきます。それは、行場の周辺を開発し定着したことです。さらに、住人の選別を行ったことです。そのため他の地域では、行場から乖離し、里下りした修験者が多くなりますが、国東では行場と一体化した宗教活動が続けられたことです。修験者は、土地持ちの農民としての生活を確保すると同時に、活発な宗教活動を展開する修験者でもあったようでっす。経済的に見ると、生活が保障された修験者、裕福な修験者の層が、国東には厚かったことになります。これが独自の仏教的な環境を作り出してきたひとつの背景になるのではないでしょうか。
 どちらにしても長岩屋には、数多くの修験者たちが土地を開き、農民としての姿を持ちながら安定した生活を送るようになります。
別の視点で見ると大量の修験者供給地が形成されたことになります。あらたに生まれた修験者は、生活の糧をどこに求めたのでしょうか。例えばタレント溢れるブラジルのサッカー選手が世界中で活躍するように、新たな活動先を探して「出稼ぎ」「移住」を行ったという想像が私には湧いてきます。四国の大洲藩や宇和島藩には、その痕跡があるようなきがするのですが、史料的に裏付けるものはありません。  
 
天念寺(てんねんじ) | 観光スポット&お店情報 | 昭和の町・豊後高田市公式観光サイト
天念寺無明橋

以上をまとめておくと
①国東の霊山にやってきた修験者たちは行道を行い各地に行場を開いていった
②急峻な岩壁を持つ天念寺耶馬の谷にも修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②その中の大きな岩屋である「長岩屋」周辺に施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③修験者たちは坊を開き、その周囲は開拓されて田畠ができ、あるいは焼畑がつくられてゆく。
④屋敷は12坊に編成され、その宗教センターとして神仏混淆の天念寺が建立される。
⑤ここでは「鬼会」を初めとするさまざまな年中行事が、修験者たちによって営まれていくことに⑥修験者たちは、この地に定住した後も峰入りなどを継続して行い、行場から分離されることがなかった。
⑦また明治の神仏分離も柔軟に受け止め神仏混淆スタイルとできるだけ維持しようとした。
⑥そのため独自の国東色を残す宗教的なカラーが受け継がれてきた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」
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江戸時代に、村々で踊られた風流踊りや盆踊り、あるいは村祭りの獅子舞などをプロデユースしたのは山伏であったという話を以前にしました。今回は、宇和島藩で山伏たちが宗教活動以外に関わっていた文化活動や芸能活動を見ていこうと思います。テキストは
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
篠山権現

 篠山は「篠山権現」が祀られ、土佐と宇和の両方から信仰を集める霊山でした。
ここを、さまざまな山伏たちが聖地として、宗教活動を展開していたようです。その中に宇和地方で踊られていた「はなとり踊」があります。旧一本松村正木のはなとり踊は、篠山権現を中心とした行事でした。
オヤびんの記憶 -篠山 (1065ml:高知県宿毛市・愛媛県南宇和郡愛南町)

その由来を埜仲伊太郎氏の筆記は、次のように記します。

 そもそもはなとりの由来は、花賀という悪者がでて集落を荒して困ったのを、花踊戦術をつかって打取ったことに始まる。ところがその後、火災や不幸が続いて人々をを不安におとし入れた。それを、占ってもらったところ花賀の災とわかり、篠山に十一面観世音として祭り、毎年旧十月十八日花踊を踊って花賀の霊をなぐさめるようになった。これが一本松村正木の花とり踊の由来である。

 踊は、早朝一番に篠川で禊ぎして、それから篠山に登ります。

そして、天狗堂前で踊り、中店屋(ナカデンヤ)のお堂・オドリ駄場・御在所クラモト(山本真一郎元山伏家)宅庭・蕨岡庄屋前の五ヵ所で踊を奉納していました。それが後には、正木集落の権現堂・観喜光寺・庄屋前の3ヶ所に簡略化したようです。御在所の山本家は、元篠山山伏です。昔は山本家の修験者を中心に二人の修験者による「さやはらい」行事が行なわれていました。

はなとりおどり・正木の花とり踊り
正木のはなとりおどり
その後に謡われるはなとりの歌は、次のようなものでした。
    ここ開けよ、やあまん(山伏)おとうり。
    さぞや開けずば、
    上り踏ねこす。
  念仏
    いんよう
    なむおいどう
    なむおみどんよ
    なむおい            ‘’
   ぜんごぜ
   ぜんごぜは万のてききよ
  I さぞや松より
   前に之を書く  (以下略)
「ぜんごぜ」は旧城辺町中大堂智恵光寺旧跡大堂にあったゼソゴゼ松と関係があるとされます。内容自体は、山伏とゴゼの問答と伝えられています。また、はなとり踊は、視点を変えると刀と鎌との武術の習練をかねた民俗芸能ともされます。
ムトウーフリムクイーサカテーウチコンーオリシキクルマーエフリーツキアゲーネジキリ

などの踊の手は、そのまま武道の型ともされ、山伏の指導で武術修練を行なっていたという伝えもあるようです。とすると、山伏は武術指南も行っていたことになります。本当なのでしょうか?
はなとりおどり・正木の花とり踊り
増田のはなとり踊

 旧一本松村増田集落のはなとり踊は、山伏問答の部分「さやはらい」が近年まで原型で残っていたようです。
「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、増田集落では修験者がやっていたと云います。恐らく他地区のはなとり踊りでも、「さやはらい」は必ず修験者が勤めていたものと研究者は考えています。山伏と民俗芸能の関連を解明する史料になるようです。
「さやはらい」の部分は大体次の通りです。
善久坊  紺の袷の着流し、白布の鉢巻、襟、草履ばき、腰に太刀と鎌をさし、六尺の青竹を手にしている。
南光坊  同じいで立ち、ただし鎌をさしていない。まず南光坊が突っ立ち、行きかける。善久坊をやっと睨んで声をかける。
南光坊  おおいそもそもそこへ罷り出でたるは何者なるぞ。
善久坊  おう罷り出でたるは大峰の善久坊に候、今日高山尊神の祭礼にかった者。
南光坊  おう某は寺山南光院、’今日高山尊神の御祭礼の露払いにかった者、道あけ通らせ給え。
善久坊  急ぐ道なら通り給え。
南光坊  急ぐ急ぐ。
 南光坊行きかける。善久坊止める。両者青竹をもって渡り合う。鉦・太鼓の囃子、青竹くだける。これを捨て南光坊は太刀、善久坊は鎌で立ち廻る。善久坊も刀を抜いて斬りむすぶ。勝敗なく向かい合って太刀を合掌にした時、[さやはらい]一段の終りとなる。

この後、はなとり踊へと移っていきます。この問答からは、次のようなことが分かります。
①登場するのは大峰山の善久坊と宿毛・寺山の南光院で
②両者が高山尊神への祭礼の露払いへ出向く途上での鞘当て事件
③最初は、青竹での武闘のやりとり
④最後は太刀と鎌での立ち回り
これを見ると登場するのは山伏で、はなとり踊が山伏の宗教行事であることが分かります。昔は法印(山伏)の行なっていた清めの式では、般若心経と次のような清めの言葉を述べられていました。
  きわめてきたなきものよ
  つみとがけがれをはらい玉え
  きよめ玉え
  六根清浄・六根清浄
ここには六根清浄と、山伏お決まりの言葉がでてきます。
  ここに出てくる増田の高山尊神の敵は、石鎚権現で、石鎚山に詣ると死ぬと地元では云われてきたようです。ここからは石鎚の蔵王権現に対抗的な山岳信仰の道場が、このエリアにはあったことがうかがえます。これをさらに突っ込んで推測すると増田の斎払いは、本山派(天台系)と当山派(真言系)の対立を表しているのかもしれません。また、青竹の打ち合いは、土佐の神事「棒打ち」の影響がみられ、踊りの刀は破邪の剣、平常嫌う逆さ鎌は破魔除災を表しているともされるようです。どちらにしても、あっちこっちに山伏の影響が見えます。
 さいはらいに出てくる寺山南光院は、石鎚権現の対抗候補の有力寺院です。
この山伏寺は、宿毛市の四国霊場39延光寺の奥の院になります。南光院のについては以前にもお話ししましたが、ここ出身の宥厳は、長宗我部元親の讃岐侵攻に従軍し、無住となった松尾寺(金比羅さん)を、讃岐統治の総本山にするために預けられ修験者です。後の史料では、この寺は当山派の四国惣元締め的な山伏寺院であったと自称しています。確かに、当時は属する修験者も多かったようで、幡多地方の最有力寺院であったようです。この寺の歴史も古く、南光院流秘法によって諸病封じの祈祷も行なっていたようです。

また、はなとり踊りの休憩中に希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打ってさいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。

  この行事の全体を眺めても、この踊りをプロデュースしたのは山伏だったことがうかがえます。
里人の不安に応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは山伏たちだったとしておきます。この視点で、讃岐の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りを見てみると、行列の先頭にはホラ貝を持った山伏が登場します。行列が進み始めるのも、踊りが踊られ始めるのもホラ貝が合図となります。また太刀払いも登場し、「さいはらい」を演じます。これらを考え合わせると、讃岐の雨乞い踊りにも山伏が関与していたことが考えられるようです。

もうひとつ綾子踊りと共通するものが宇和地方にはあります。
 伊勢踊りです。これは旧城辺町僧都の山王様の祭日(旧9月28日に)に行なわれる踊りです。男の子供6人が顔を女のようにつくり、女の長儒絆を着て兵児帯を右にたらし、巫子の姿をして踊ります。これも山王宮の別当加古那山当山寺の瑞照法印が入峯の時に、伊勢に参宮して習って来て村民に伝えたといわれています。
「男子6人の女装での風流踊り」という点が、綾子踊りとよく似ています。それを、村に導入したのが、山伏であると伝わります。綾子踊りも、このようなルートが考えられるのではないでしょうか。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
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江戸時代の村々の動きを見ていると、山伏の動きが視野の中に入ってきます。盆踊りや風流踊り、雨乞い、獅子舞などを村に持込プロデユースしたのも、山伏だったようです。時には、神社の神主の役割も果たしています。村役人の庄屋さんの相談相手でもあったような感じもします。村々で山伏は、どんな役割を果たし、待遇を受けていたのかについて興味を持っています。そのような中で、宇和島藩での山伏について記した文章に出会いましたので紹介します。
テキストは「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」です 

宇和地方では山伏のことを「お山さん」と親しみを込めて呼んでいたようです。
それでは、宇和地方には、「お山さん」がどのくらい、どこに住んでいたのでしょうか。明治3年6月宇和島藩戸口調査(宇和島図書館蔵)によると、宇和地帯における修験・山伏は、宇和島藩だけで880人になります。これは神官・僧侶の人数よりも修験・山伏の方が多かったようです。各村落における分布状況は、宇和島図書館蔵の「天保五年午二月津島組宗門人高」によると、山伏は家数112軒に1人の割でいたことが分かります。比較のために土佐を見ると、江戸時代の初めには250人、幕末には150人位の修験者がいたことが史料から分かります。宇和島藩のお隣の土佐幡多郡を見ると、修験者の数は
本山派の龍光院に属する40人
当山派の南光院に属する20人
です。土佐藩と比べると石高や人口からしても、宇和島藩の880人は非常に多いことになります。どうして、こんなに多くの修験者たちが村々にいたのでしょうか。山高く、海深い宇和地方では、自然崇拝に根ざした山岳信仰の信者が多かったとしても、その比率が高いように感じます。その背景を、研究者は次のように推察します。
①宇和地方は、密教系寺院が領主祈祷寺院として栄えたこと
②対岸の九州国東半島の六郷満山寺院群の影響を受けて、それに匹敵する仏教文化地帯となっていたこと
③中世以来、土佐からの熊野行者の流入が見られ、修験者文化が根付いていたこと
それでは、宇和地方の修験者たちが、どのような形で地域に定着し、根付いたのか、また何を生業にして生活していたのか、山岳信仰の布教方法はどんなものだったのかなどを見ていきます。

愛媛県日吉村(現 鬼北町) 上鍵山 日吉神社の祭り 牛鬼 五ツ鹿踊り 東雲写真館
鬼北町の日吉神社
最初は、鬼北町の日吉神社の別当を勤めていた金蔵院です。
 日吉神社は、道の駅「日吉夢産地」の北1㎞ほどの小高い丘の上に鎮座します。日吉の氏神として古くからの信仰を集めてきた鎮守さんです。もともとの元宮は、下鍵山の大神山山腹にあったと伝えられます。大神山はこのエリアの交通の要衝であったようで、近世初めに日吉神社は、日吉の地に下りてきたようです。日吉神社の神主は、神社の下にある山本家で、屋号は宮本(ミヤモト)というようです。旧九月二十日秋の大祭のヨイ祭の夜には、神主の家で大神楽がう舞われます。そのためこの家は、床も天井も神楽堂式で高く、とりはずし自由という珍しい構造だったようです。
愛媛県 日吉村 牛鬼(うしおに) 2007.11.11 : すう写真館
日吉神社の牛鬼
 一方、別当職にあったのが金蔵院の松岡家でした。

つまり、日吉神社の神官は山本家、山伏は松岡家という関係だったようです。金剛院も神職の家と同じように、日吉神社の下にあったようです。
「天保十五年四月上鍵山村仏閣修験世代改帳」には、次のように記されています。
  一、堂一軒
    但一丈四方            
    天井仏壇前格子戸二枚 杉戸二枚
    後板囲芽葺           
    宝暦元(1751)年建之
中略
  一、本尊
   弘法大師 座像石仏・長一尺
   千手観音 立像木像・長八寸         ・
   不動明王 立像木仏・長五寸
   庚申立像石仏・長七寸
   鰐口 一個

さらに松岡正志氏所蔵の「松岡家系」による松岡家由緒には、次のように記されています。
 藤原秀郷御在関東之時常州松岡留廉洸其子孫相続住手彼地意外松岡為氏後年至元亀天正之間天下大乱於干戈之中松岡氏族悉敗当此時数氏之家譜等悉之失矣。于時長院志学之歳也。漂泊而来遊手当国惣拾弐器学修験号増長院住于下鎗山村里人其才器推之為村長不得止許之爰有芝氏女迎之室生三男子及老年遂於下鏑山村終士人呼其地長院家地云又呼墓基長院之伝墓跡今猶在同村峠云所
意訳変換しておくと
 藤原秀郷が関東を支配していた頃、常州松岡には廉洸やその子孫がいて、その地を支配相続してきた。元亀・天正年間になって天下大乱となり、松岡一族は戦乱の中で敗者となり、家は途絶えた。この時に長院は十歳を超えたばかりであった。漂泊・来遊し修験者となった長院は、修行のために当地の下鎗山村にやってきた。里人は彼の才器を見て村長になることを求め、長院はこれを受けた。こうして長院は芝氏の娘を嫁に迎え、三男子を得た。老年になっては下鏑山村の終士人と呼ばれた。そして、この地は長院の土地と云われるようになった。長院の墓は今も村峠にあるという。

 ここからは、関東からやって来た修験者が村人に迎え入れられ、土地の有力者の娘を娶り、村の宗教的な指導者に成長していく過程が記されています。そして、次のような後継者の名前が記されます。
  元祖    昌院  年月日相知不 中侯                       
 二代実子 光鏡院  年月日相知不申候一
 三代実子 本復院  年月日相知不申候                        
 四代実子 大宝院  年月日同断
 五代実子 金蔵院安重 権大僧都大越家 延宝四(1677)年七月十九日滅
 六代実子 天勝院  官位同断 元禄十四年五月一日滅
 七代実子 金蔵院  官位右同断 享保五年一月十五日滅
 八代実子 天勝院大徳  官位右同断 元文元年七月十六日入峯 明和八年十月二十七日滅
 九代養子 光徳院安勝  官位右同断 寛延四年七月十六日入峯 寛政七年五月十八日滅
 十代実子卜大龍院安定  官位右同断 天明元年七月十六日入峯 寛政八年十一月二十七日滅
 十一代養子 光鏡院安隆  官位右同断 享和三年七月十六日入峯 嘉永六年六月二十四日滅
 なお十二代以降は他の資料によると次の通りである。
 十二代 天正院安経  天保十一年七月十三日入峯
 十三代 金蔵院安伝  万延元年七月十六日入峯 明治三十九年十一月八日滅
 十四代 真龍院安臭  大正三年一月二十日滅
ここからは松岡家が、金蔵院(鬼北町日吉)を守りながら17世紀末から大正期まで山伏を業としていたことが分かります。
 五代金蔵院安重は、権大僧都とあるので大峯に33度の峯入を果たしています。この地区の修験者(真言僧侶)の指導的な地位にあったことがうかがえます。その長男嘉右衛門は。母方の家系をつぎ上鍵山村庄屋職を勤めていますが、母方の姓芝氏を後に松岡姓に改めているようです。三男某は、吉田に移住して同じく松岡を名乗り、俗に吉田松岡を名乗り、吉田の名家となっています。
 日吉村の金蔵院が庄屋芝氏と縁故関係をもち、後には長男が芝氏を継いで、芝氏を松岡姓に改め、兄は庄屋職、弟は山伏職を世襲したことが金蔵院の史料から分かります。庄屋の家から嫁を貰うということからも、当時の山伏の社会的地位の高さがうかがえます。

外部からやってきたよそ者を、こんなふうに村の人たちはリスペクトを以て受けいれたのでしょうか?
  お隣の土佐は、遊行宗教者や戦いに敗れたり、種々の事情で放浪の生活に入らざるをえなかった人が訪れて定着することが多かった土地です。俗聖などの中にも土佐で、生を終える者も多かったようです。やってきた聖をまつったり、御霊神の類にも遊行者をまつったものがあります。また、熊野聖・山伏・比丘尼をはじめとする遊行者が、土地の土豪達と結んで熊野権現をはじめとする諸社を勧請するのに、大きな役割をはたしています。そのような影響が宇和にも及んでいて、熊野行者や高野聖など定着をリスペクトをもって迎え入れたとしておきましょう。


    次に法性院(旧城辺町字緑中大道 土居氏)を見てみましょう。
 一、大本山聖護院末 寛文三(1663)年正月十五旧 清徳開山             
 ニ、境内一三畝一歩  但年貢此高 一斗四升五合
 三、祈祷檀家 三百十二軒                            
 四、由緒 真宗寺末山称名寺は延宝年中廃寺となっていたが、本尊を智恵光寺に移したものを、後檀家の農夫市之助が一寺創立した。
 五、世代(城辺町真宝寺蔵過去帳による)                      
   龍泉寺殿前吏部良山常清大居士 寛永六年三月二十四日寂
   権大僧都清徳法印 享保六(1721)年七月二十八日
  同権大僧都海見法印 延享二年四月二十三日           
  同権大僧都義寛法印 宝暦十一年七月十五日
  同権大僧都義海法印 文化二年五月十四日
  同権大僧都義顕法印 天保三年九月一日
  同権大僧都義徳法印 安政五年十二月二日         
  同権大僧都法性院義快法印 明治三十一年十月九日
  同権小僧都法蔵院清胤 大正六年九月十五日
17世紀後半に開山された本山派の聖護院に属する山伏寺院のようです。320戸の檀家を持ちます。18世紀前半には権大僧都の位を得ているので、活発な修験活動が行われていたことがうかがえます。

観音岳(愛南町)再訪20191022 / KIRINさんの篠山の活動データ | YAMAP / ヤマップ
観音岳(斗巍山)

 このお寺のあった御荘平野の北に、どっしりとした山容でそびえるのが観音岳(斗巍山)です。

この山は「北斗信仰」の霊山だったようです。その信仰を担っていたのが法性院を中心とした修験者たちで、御荘平野周辺では相当の信者を持っていたようです。法性院に伝わる「斗巍(観音岳)権現由来記」には、次のように記されています。
 抑此斗巍山ノ由来ヲタズヌレバ何レノ時 何ノ人乃開基卜云フコトヲ知ラ不。世俗二云フ戸木山モコヘ阿ルベケレドモトギノ音ヲ以ツラツラ考フル 爾斗巍ハ字茂ルシ如印トナレ。斗北斗ナリ。論給フ日北辰又大文志二日北極是也。
 巍ハ高キナリ。集韻二高ク大ナル見ヘリ。此峯二観世音ヲ安置シテトギ山一云フヲ以ツテ見口口、往昔開運ヲ祈ルニ此峯二北斗ヲ勧請シ奉ルニ北辰日星ノ擁護ヲ蒙ハ志願ヲ遂ケソナルベシ。北斗垂迫ノ感徳広大ナルヲ以ツテ御本地観世音菩薩ヲ安置シ奉ルナルベシ。
 経二日夕観世音菩薩威神シカ巍々如是卜。是ハ観音ノ威神カハ広大円満ナリテ無膜大悲心ナル義也。然ハ則北斗尊星ノ加護力与観音ノ大悲カト共二巍4トシテ広大ナル事斗巍ノ文字能ク当ルナルベシ。
 北斗星垂述アルヲ以ツテ権現ノ義亦可【口】因茲自今以後斗巍権現卜奉崇然シテ微運ノ人ハ正心滅意ニテ開運ヲ祈ラバ感応アルコト疑ナシ。尤感応ノ成否ハ信心ノ厚薄二依り利益ノ遅速ハ渇仰ノ浅深二従フ事ナレバ疎略ニシテ神仏ヲノ疑フベカラズ
 開運ヲ祈ル法
 何レノ処ノ人モ此ノ山ノ方二向ツテ毎朝早朝二清浄ノ水ニテ中水ヲ遣フ時
 開運印
定メ 大指ヲ伸恵ノ五指ヲ以ツテ左ノ大指ヲ握り指頭ヲ少シ出シ是ヲ北斗尊星ニナソラヘテ額二当テー心二販命北斗尊星予が運ヲ開カセ玉ヘト心ノ内ニテ至心二念ジテ左ノ掌ノ内二在ル滴ヲ戴テ嘗ル也已上
意訳変換しておくと
 斗巍山(観音岳)の由来については、いつ、だれが開山したかについては分からない。しかし、世間に伝わる話をつなぎ合わせて考えると「斗巍」という文字は「茂」という如印となる。これは「北斗」のことである。
 ある書には「北辰は北極也」と記されている。「巍」は高いことである。集韻には高くとは「大」とも見える。この高峯に観世音菩薩を安置して「巍山」と呼ぶ。往昔から開運を祈る時には、この峯に北斗を勧請して奉まつると北辰日星の加護を受けて、志願を遂げることができると云われる。北斗の感徳は広大であるので、本地観世音菩薩を安置するべし。
 2日後の夕に観世音菩薩は威神を巍々如是と発揮する。これは観音の威神で、広大円満で無膜大悲心である。さあ、北斗尊の加護力と観音の大悲カを共に受け、広大な斗巍の文字を受け止めるべし。
 北斗星の垂述が権現の来訪である。そして今ここから斗巍権現となって微運の人にも正心滅意に開運を祈れば効果疑いなしである。もっとも感応のあるなしは、信心の厚薄による。利益の遅速は渇仰の浅深によるものであれば、効果がないと神仏を疑ってはならない。
 開運を祈る法
 この山の方角に向かって、毎朝早朝に清められた水で中水を行うときに、開運印を決めておき大指を五指で左の大指を握り指頭を少し出して、これを北斗尊星になぞらえて額に当てー心に「北斗尊星よ 私が運を開かせたまえ」と心の内にで念じて、左の掌の中にある滴を戴くこと。以上

ここからは、当時の山伏達が北斗信仰を、どのようにひろげていったのかが分かります。夜空にかがやく北斗星と、その真下に高く大きくそびえる霊山・観音岳。霊山と観音信仰とを結びつけて、そこに「行とまじない」のスパイスを隠し味にして、民衆の信仰心を刺激した山伏達のやりかたはあざやかです。とくに「開運印」などという特殊な印を教えたことも民衆にとってはたまらなく魅力的におもえたでしょう。
天文編 | 知恵ブクロウ&amp;生きものハンドブック | シリーズ | ECOZZERIA 大丸有 サステイナブルポータル
最後に、旧一本松村で研究者が見つけた資料から、山伏の活躍を見ておきましょう。
歴メシを愉しむ(63)】&lt;br&gt;今年の「夏越の祓」~アマビエと鱧で疫病封じ | 丸ごと小泉武夫 食マガジン

 夏越祓は6月26日に行なわれていたようで、期日の入った夏越祓護符が残っています。また歯痛には揚枝守を出しています。これは揚枝守と朱印した護符内に、木製の揚枝を入れてあります。歯痛のときは、この揚枝で痛い歯をつつくと歯痛がとまるといって配布していたようです。諸病安産にも、守札を出しており、山伏たちは阿弥陀信仰も盛んに弘めていたことが推測できます。

旧城辺町の加古那山当山寺の記録には、次のように記されています。
    中用 庄や 又惣 あげ日まち事
  一、山日待
  一、家祈祷 二体分  蔵米引おこし 壱典
  一、ふま 六升六合
  一、札米 一斗二升
        (以下略)
    五人組 清八・幸助・五郎・伝六
     役人  団右衛門
     横目  孫左衛門
        永代売渡証文
   申年十一月 日
     僧都村 正応院
     同   五人組岩治郎
     甲子講御世話方

「あげ日待」「山日待」について、歴史事典には次のように記されています。
「御日待」のことで、前夜から身を清めて、寝ないで日の出を待って拝むこと。「まち」は元来神のそばにいることであったが、のち待つに転意した。日を祭る日本固有の信仰に、中世、陰陽道や仏教が習合されて生じたもので、1・5・9・11月に行われるのが普通。日取りは15・17・19・23・26日。また酉・甲子・庚申など。二十三夜講が最も一般的。講を作り部落で共通の飲食をします。

これは庚申信仰とも重なり、庚申講として組織されることもあったようです。村々で行われていた、御日待や甲子講にも山伏たちは関わっていたことがこの史料からは分かります。
市民ハイキング 篠山 ( 1065m 高知県宿毛市・愛媛県愛南町) 2014年4月25日(金) 晴れ しらかわ 記 天気予報では一日中晴れ。  早朝5時30分に丸亀を出発。 松山自動車道、宇和島道路、R4を通り、篠山トンネルを抜けて直ぐ左折し、狭い車道を ...

篠山は、土佐と伊予の両方から信仰を集めていた霊山でした。

 旧一本松村正木では、篠山権現に6月1日から8月1日まで「篠山権現の日参詣り」といって毎日登拝していました。部落の中から交替で、毎日二人が五穀豊熟・家内安全のため登山します。大きな杓子をかついで行き、「ナンマイドーナンマイドー(南無阿弥陀仏)」唱えながらとリレーします。2ヶ月の期間中に、2~3回は廻ってきたようです。そして、最後の日の8月1日に当たった人は火縄をもって登り、篠山神社神官から火をもらい下山して、各部落に火を分けます。部落では、タイマツにその火をともし各家に分け、最後にタイマツを焼いて終りです。これを火送り行事といいます。
 城辺町緑では8月1日に二人組で代参して、篠山の火を貰って、その火で村中を松明を持って廻っていたと云います。篠山権現も山伏が管理運営していたのです。篠山
篠山稜線上の国境碑
  以上をまとめておくと 
①宇和藩には幕末には880人の山伏がいて、さまざまな宗教活動を行っていた。
②中には、吉野や熊野での修行を積んで修験者として高い地位にある者もいた。
③山伏として高位の位を持つ者は、村社などの神社の別当を勤め、村でも有力者になっていた。
④ある山伏寺では、観音岳を「北斗信仰」の聖地として霊山化し、多くの信者を得ていた。
⑤篠山権現は、宇和地方の人々を集めた霊山で、ここを管理していたのも山伏寺であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」
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参考文献 愛媛県史

 


          DSC05362
春日神社(琴平町)の本殿横の湧水 
 丸亀平野の扇状地上にある古い神社を訪れると、境内に湧水が湧き出しているところがいくつもあります。古代人にとって、大地からこんこんと湧き出し、耕地に注ぐ湧水は土地のエネルギーそのもので、信仰対象でもあったのでしょう。その湧水や人工的に作られた導水路に対して豊穣を祈願することは、ある意味では首長の権利であり役割であって、これをきちんと行うことが、地域支配の根拠(正当性)でもあったと研究者は考えています。
 これは古くから中国で「黄河を制する者が天下を制する」とされ、治水灌漑事業を行う者が、天下の覇者となることを正当化することと通じるものがあります。治水灌漑の土木事業の進展と共に、水に関する祭礼儀式が生み出されたとしておきましょう。湧水点は、聖地だったのです。
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            春日神社の湧水

 湧水地(水神)になんらかの宗教施設が加えられ、後に神社になっていったという仮説が湧いてきます。

琴平大井・春日神社

 例えば琴平周辺では、旧金倉川跡に南北に並んで鎮座する大井八幡・春日神社・石井八幡は、それぞれ境内に湧水地があります。そこから導水路が下流へと流れ出し、今でも水田の灌漑に使われています。この原初の姿を想像すると、弥生時代に稲作農耕が始まった時に、この湧水は下流の農耕集団の水源とされ、同時に信仰対象となったのではないかという気がしてきます。そして、時代が下ると宗教施設が設けられ、神社が姿を現すようになったというのが私の仮説です。今回は、湧水から神社はどのように生まれたを知るための読んだ文章の読書メモになります。テキストは「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」です。
DSC05339
大井八幡神社境内の湧水
古代の神社に祀られるようになった「神」は、古墳時代に生まれていると研究者は考えているようです。
前方後円墳での儀式は、喪葬と首長霊継承の関連で語られていました。しかし、墳墓の造出し部分の発掘成果によって、それだけではなく古墳は、首長が行ういろいろな宗教行為のパフォーマンスの場が古墳であったとされるようになってきました。古墳では、中央や地域の王権を支えるさまざまな祭祀が行われていたこと、それが、次第に古墳から離れて豪族居館や、神霊スポットへと移り、独自の祭祀空間を獲得していくようになります。その時期が5世紀後半~6世紀前半で、この時期が「神の成立」期だと研究者は考えているようです。  
 その原型は古墳時代には、登場していたと云うことです。

DSC05347
大井八幡神社(琴平町)境内の北大井湧水
  井戸や川を祭祀遺跡として見るようになったのは、戦後のことになるようです。
少し、研究史らしきものを記しておきます。
1976年に、奈良盆地の纏向遺跡の報告書「纏向」が出されます。その中の「三輪山麓の祭祀の系譜」で、湧水に達するまで掘られた土墳から 容器・農具・ 機織 具 ・焼米・水鳥形木製品・ 舟形木製品・稲籾などが出土し、その湧水の隣には建物を伴う祭祀が行われていたことが分かってきました。これを「火と水のまつり」として「纏向型祭祀」と記されています。
 また文献史学の立場からも 風土記や日本書紀などに描かれた「 井 」や「井水」の祭儀の重要性が指摘されるようになり、古代日本の水神信仰の例が「延喜式」などからも説かれるようになります。さらに「風土記』に記されてた井泉とかかわる地名起源伝承から、地域首長が井水に対する祭祀を行う風習が各地にあったことも明らかにされます。
  そして「水の祭祀」については、次のように理解されるようになります。
常に湧きあ ふれ出る井泉の水の生命力・ 永遠性は、首長権の象徴にもなり、井水は首長権 の継承儀礼にも欠かせないものであるとともに、 地域首長にとって国の物代ともいえる聖水を大王に体敵する行為は大王への服属の証として 重要な儀礼となっていった

  水辺の祭祀は 、現在では次のふたつに分類されるようです。
①河川等の水の流れる所で行われた「流水祭祀」
②水の湧き出る所で行われたであ ろう「湧水点祭祀」
  その代表的な三重県の城の越遺跡を見ておきましょう。
湧水点祭礼 城の越遺跡1

  城之越遺跡は、新聞報道では「日本最古の庭園」と紹介されています。しかし、これは湧水を祭場に「加工」した湧水点祭祀跡です。それが、「庭(園)」にもなっていきます。この泉水遺構は,人工的に敷き詰められた石積みとともに約30年前に発掘されています。
湧水点施設1

同時に、儀式用の土器(高杯など)や刀剣型の木製品なども多数見つかっっています。これらの出土品から4世紀後半ごろに、ここで水に関する何らかの祭祀が行われていたようです。
湧水点祭礼1

祭祀遺構のすぐそばには、大型建造物の跡も見つかっていています。

湧水点祭礼 城の越遺跡4
城之越遺跡 湧水近くに建てられた建築物

この建物の分析から、次のような点が分かってきました。
①湧水に隣接してあった大型建物は、首長居館・居宅遺構であったこと
②湧水点祭祀の主宰者が地域首長層であったこと
③湧水点祭祀が古墳時代首長の実施する祭祀の中でも最も重要度の高いものであったこと
 さらに、この遺跡だけでなく井泉と大型建物がセットで出土している遺跡は各地にあり、その建物形式も共通していることが指摘されます。この背景には、首長層の間に湧水点祭祀について、なんらかの全国統一マニュアルがあったことが想定できます。

湧水点祭礼 城の越遺跡3
庭園の石組みのようにも見える城の越遺跡の湧水施設

 また、湧水点では、誓約儀礼も行われた可能性があるようです。「記紀神話」のアマテラスとスサノフの誓約とよく似ているとされます。とすると、古墳時代の水に関する儀礼が、記紀神話にも取り込まれていることになります
湧水点祭礼 飛鳥
飛鳥の水の祭礼遺跡

飛鳥の水の祭礼遺跡です。先ほど見た城の越遺跡との間には、約200年の隔たりがあります。しかし、飛鳥の施設が城の越遺跡の発展系であることは想像ができます。湧水の下に導水施設が組まれています。これはより奇麗な水を濾過する装置と研究者は考えています。
湧水点祭礼 飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池
  橿考研の岡林孝作調査部長は、次のように云います。
「飛鳥京跡苑池は宮殿の付属施設であり、流水施設も王権に関わる水のまつりの場だったと考えられる」

 飛鳥には、大王に関わる水祀りの施設が、酒船石遺跡などを含めて、いろいろな所に作られ、それは「庭」とも考えられてきたのです。そのため「庭園遺跡」という見出しを付ける記者も出てきます。これは、さきほど見た古墳時代の城之越遺跡の湧水点遺跡と導水遺跡の複合系遺跡と研究者は考えています。
 
以上をまとめておくと
①出水、湧水は弥生維持代から神聖なものとして信仰対象とされ水神が祀られた。
②古墳時代になると豪族によって、湧水周辺の開発と治水灌漑工事は行われ、湧水周辺には附属施設や豪族居館が建設されるようになった。
③さまざな儀礼が湧水周辺では、豪族主催の下に行われるようになり、湧水点遺跡や導水遺跡が整備されるようになる。
④周辺は石畳で聖域化されるなど、整備が更に進む。
⑤このような水の祭礼施設は、大和の大王のもとでも整備され、それが飛鳥の湧水点施設や流水施設である。

とすると、このような施設は讃岐の古墳時代の豪族も作っていたことが考えられます。佐伯氏支配下の善通寺周辺にも、このような水の祭礼に関わる施設があったのかもしれません。しかし、善通寺一円保絵図に描かれた壱岐の湧水や二頭湧水には、神社は描かれていません。ふたつの湧水に今も神社はありません。なぜ、壱岐や二頭湧水に神社が建立されなかったのかが私にとっては疑問なのです。
 それにたいして、最初に紹介した琴平の旧金倉川の伏流水の上に鎮座する大井神社・春日神社・石井神社には、後に神社が姿を見せます。さらに、荘園化されると春日神社のように荘園領主の九条家(藤原氏)の氏神である奈良の春日大社が勧進され、合祀されます。さらに後世には、八幡神までも合祀されていきます。そのもとは湧水に宿る水神信仰が出発点だったのかもしれません。
今日もまとまりのない内容になってしまいました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」
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   高瀬町史の年表篇を眺めていると幕末の慶長2年のところに、次のような記事がありました
1866(慶応2)年
1月 坂本龍馬の斡旋で薩長連合成立
6月20日  丸亀藩 幕府の長州討伐に対しての警備強化通達に応えて、領内8ケ所に「固場」を置き郷中帯刀人に「固出張」と命じる(長谷川家文書
12月 多度津藩、横浜でミニュエール銃を百丁買い入れる
この年、多度津藩は50人編成の農民隊「赤報隊」を組織する

 第二次長州戦争が勃発する中で、濁流のように歴史が明治維新に向けて流れ出す局面です。多度津藩は、その流れの中で長州の奇兵隊を真似て、赤報隊を組織しています。一方、丸亀藩はと見ると「固場」を設置しています。これは何なのでしょうか。「固場」に光を当てながら、丸亀藩の幕末の動きを見ていきたいと思います。テキストは 小山康弘  讃岐諸藩の農兵取立 香川県立文書館紀要   香川県立文書館紀要NO4 2000年 

丸亀藩では慶応元(1865)年に第二次長州征伐に備えて、軍用人足の徴用が行われています。
ところが徴用に応じたのは20人に過ぎなかったと長谷川家文書には記されています。困った村々の庄屋たちは相談の上で、次のような口上書を藩に提出しています。

夫役人足之義は高割にて組分取計、村分ケ之所も右に順シ高割にて引分ヶ、村方においては鵬立之者相選、家別に割付人数国取にて繰出候事」
意訳変換しておくと
夫役人足の不足分については村高に応じて人数を割り当て、強健な者を選び、家ごとに割り当てる。以下、寺社井びに庄屋、組頭、五人頭、肝煎、使番の医師などは除き、十五歳より六十歳の者から差出す。

 つまり、村役人や医師は除いて、農家の家毎に強制的に割り当てるという案です。そして賃銀は一日拾匁位で、半分を藩より、半分は村方より出す。留守中の家族は宿扶持を支給し、農地は親類や村方で面倒を見る。出勤日数は適当に交替する。出夫の者が病死し、残された者が難渋する場合は御上より御救遣わす等が列記されています。
 藩にとっても、軍用人足の徴用は簡単にはいかなかったことがうかがえます。
幕末のすべて
第二次長州戦争

  第二次長州戦争が本格化すると、瀬戸内海沿岸の丸亀藩も領内監視体制を強化することを幕府から求められます。
その一貫として、翌年の慶応2(1866)年6月11日に設けられたのが「御固場」です。
「当今不容易形勢に付、郷中帯刀之者野兵と相唱、要路之場所え固めとして出張申付候」

意訳変換しておくと
昨今の不穏な情勢に対応するために、郷中の帯刀者を野兵として、街道の重要地点において、その場所の監視や固めのために出張(駐屯)を申しつける。

御固場の設置は、次の8ヶ所です。
左(佐)文村牛屋口、      (まんのう町佐文 伊予土佐街道)
大麻村にて往還南手処、   (善通寺大麻村 多度津往還)
井関村御番所、                 (観音寺市大野原町)
箕之浦上州様御小休場所 (豊浜町 伊予・土佐街道)
和田浜にて往還姫浜近分南手処、 (豊浜町)
観音寺御番所
仁尾村御番所
庄内須田御番所                 (詫間町須田)
そして取締り責任者に、次の者達が任ぜられます。
佐文村 宮武住左衛門、 寛助左衛門
大麻村 真鍋古左衛門、 福田又助
庄内 斉田依左衛門、 早水伊左衛門
仁尾村 松原得兵衛、 真鍋清左衛門
観音寺 勝村与兵衛、 須藤弥一右衛門
井関村 古田笑治、 西岡理兵衛
和田浜 藤寛左衛門、 渡辺半八
箕浦 大田小左衛門 早水茂七郎
この取り締まりを命じられた人たちは、どんな立場の人たちなのでしょうか
彼らは「野兵」と呼ばれた人たちで、大庄屋、庄屋を除く帯刀人だったようです。大麻村では、人数不足のために7月には、神原幸ら十人が新たに「出張」が命じられています。その働きに対して「御間欠これ無き様厳重相勤候様」と「礼状」が出されています。野兵は9月には58人に増員されます。

6月19日には、丸亀の商家大坂屋に数人の浪人が押し入り、番頭二人を殺害し、放火するという事件が起きます。残された書状には、「天下精義浮浪中」と名乗り、砂糖入札などを通じ、藩の要人と結託した奸商を成敗するとありました。巷では尊攘志士のしわざとの噂もあり、小穏な情勢が生まれていきます。このような状態を受けて、6月27日に、丸亀藩の京極佐渡守家来宛に幕府より次のような通達がきます。
「此度防長御討伐相成候二付、国内動揺脱た等も之れ有り、自然四国え相渡り粗暴之所行致すべくも計り難く候間、ゝ路之場所え番兵差出置、怪敷者見受候はゞ用捨無く討取候様致すべく根、其地近領え乱妨に及び候義も之れ有り候はゞ相互に応接速に鎮定候致すべく候」。
意訳変換しておくと
「この度の防長討伐については、国内の動揺もあり、その影響で四国へ渡り粗暴を働く者がでてくることも予想でる。ついては要路に番兵を置き、怪しい者を見受た時には、容赦なく討取ること。また、近隣で乱暴を働くような者が現れたりした時には、相互に協力し、迅速に鎮圧すること。」

御固場設置は、長州討伐にともなう不穏な情勢を、事前に絶つための治安維持のために設けられたようです。
御固場が、どう運営されたかを見ておきましょう。
 御固場に出仕する「野兵」への手当はなく、ボランテア的存在でしたが食事は出たようです。その経費について「御固メ所御役方様御賄積り書」には、次のように記されています。
「御役方様御賄之義は先づ村方より焚出候様、尤一菜切に仕り候ゝ仰付られ候、然に御手軽之御賄方には御座候へ共、当時諸色高直に御候間、余程之入箇に相見申候」
「一ヶ所一日之入筒高凡百五拾目、八ヶ所一日分〆高を貫弐百目に相成、一ヶ月二拾六貫日、当月より当暮まで六ヶ月分弐百冷六貫日、此金三千両に相成候様相見申候」
  意訳変換しておくと
「御固場に出仕する野兵の食事については、先づ村方で準備するように。内容は一菜だけでいいとの仰付けであった。確かに高価な賄いではないが、この節は物価も上がっているので、大きな経費になりそうだと話し合っている

「一ヶ所の御固場の一日当たりの経費として凡150目、八ヶ所では一日分合計1貫200目になる。これは一ヶ月で26貫芽、当月から今年の暮までの6ヶ月分では2弐百十六貫日、併せて三千両の見積もりとなる」

と、当初から多大な経費がかかることが危惧されていたようです。
周辺の住民は、御固場近隣の見回りに駆り出されています。

「敷地之者軒別順番にて三・四人づヽ見廻り仕らせ候ヶ処も御座候、(中略)如何様当今米麦高直故、家別廻り番当たり候ては迷惑之者御座候故に相聞申候
意訳変換しておくと
「地域内の者を家軒別に順番で、三・四人づつで見廻させている所もありますが・・(中略) 
当今は米麦の値段も上がり、家別の廻り当番が頻繁に当たっては(麦稈などの夜なべ仕事もできず)迷惑至極であるとの声も聞こえてきます。
御固場は、近隣の村々には迷惑だったようです

これに対して、9月2日には御用番岡筑後より指示があり、次の条目が御固場に張り出されます
一、御固所出張之者共心得筋之義は、取締役も仰付られ、一通規定も相立候由には候得共、猶又不作法之義これ無様厳重二番致すべき事
一、出番之義昼夜八人相詰、四人づゝ面番これ有、通行之者鳥乱ヶ間敷儀これ有候はゞ精々押糾申すべき事
一、組合々々之中、筆上直支配之者申合、油断これ無き様気配り令むべき事
一、面番之者仮令休足中たりとも、外方え出歩行候儀停止たるべき事
一、若病気にて出張相調い難き者これ有候節は、其持場出張之者共え申出候はヾ 与得見届け、弥相違これ無候得ば連名之書付を以て申出るべき事
一、非常之節、固場所にて早拍子木太鼓打候はゞ、其最寄り々々にて請継ぎ、銘々持場え駆付け相図中すべき事
一、非常之節、銘々持場を捨置、家宅を見廻り候義は無用之事
但、近火之節、代り番申遣置、引取候て不苦、盗難同断之事
一、出番中酒肴取扱い之義堅無用之事
右之条々堅相守申すべきもの也
意訳変換しておくと
一、御固所への出張勤務している者の心得については、取締役からの仰付であり、規定も出しているので、不作法がないように厳重に勤めること
一、勤務については昼夜8人体制で、4人づつが交替で監視に当たること。通行者による騒動が起きないようにし、もし発生すれば速やかに取り締まること
一、組内のメンバー同士は、意思疎通をはかり、上に立つ者の指示に基づいて、油断のないように  気配りすること。
一、当番のメンバーは休息中といえどもも御固所を離れて、外へ出歩くことのないように
一、もし病気で出張(勤務)ができない場合は、組のメンバーに申し出、メンバーが確認し、間違いないことを見届けた上で連名で書付(欠勤届)を提出すること
一、非常時には固場所で早拍子や太鼓を打ち鳴らし、最寄りの村々に知らせること、その際には早  急に持場へ駆付け対応すること
一、非常の際には、持場を捨てて、自分の家を見廻るようなことはしないこと
  ただし、火事の時には、番を交替し、引取ることを認める。盗難についても同じである
一、出番(勤務)中の酒肴は、堅く禁止する
  以上について、堅く守ること

長州征伐は幕府の苦戦が続き、8月11日になると将軍家茂死去を理由に征長停止の沙汰書が出されます。そして10月には、四国勢も引き揚げを開始します。これにともなって御固所も役目を終えたようです。6月に設置されてから約4ヶ月の設置だったことになります。
御固所が解散された後の治安維持は、村々に任されます。つまりは、村役人に丸投げされたことになります。以後の対応も問題ですが、それ以上の問題は、今までの御固所の運営経費の精算も済んでいなかったことです。この方が庄屋たち村役人にとっては心配だったようです。
 そんな中、11月21日になって、次のような通達が藩から廻ってきます。
一、太鼓鐘拍子木等鳴候はゞ、聞付け次第村方庄屋役人は得物持参、百姓は竹槍持参駆付け、妨方心配致すべき事。 
一、村庄屋役人罷出候節、村高張、昼は職持たせ、役人は銘々提灯持参致すべき事
一、村々において廿人歎廿五人歎壼組として其頭に心附候者二人位相立、万一之節は其頭之者方へ相揃付添組頭所え罷出、案内致し、指図を請罷出申候事」
意訳変換しておくと
一、太鼓・鐘・拍子木などが鳴るのを聞いたら直ちに、村方庄屋役人は武具を付けて、百姓は竹槍持参で駆付けるなど、騒動の早期鎮圧に心がけること
一、村庄屋役人が出動するときには、村高張、昼は職持たせ、役人はめいめいに提灯を持たせること
一、村々において20~25人を1組として、そのリーダーにしっかりとした者2人を立て、万一の時には、そのリーダーの者へ集合し、組頭の所へ出向き、指図を受けること
伝達された内容は、御固場条目を踏襲しているようです。
ここから分かるように、丸亀藩の御固場は、長州征討に伴う不穏な事態に対処するために設けられた軍用人足だったことです。それも長州征討が行われた慶応2年6月から10月にかけての、わずか4月間の設置だったようです。
   これは、隣の多度津とは大違いです。多度津藩の軍備近代化についての意義や評価をもう一度見ておきましょう。
白方村史は次のように評価します。
赤報隊は、地主や富農の子弟からえらばれ、集団行動を中心とする西洋式戦術によって訓練され、戦闘力も大きく、海岸防備や一揆の鎮圧、さらに維新期の朝廷軍に協力してあなどり難いものがあった」

三好昭一郎の「幕末の多度藩」には、次のように記されています。
「兵制改革展開の上で最大の壁は、何といっても家臣団の絶対数不足という現実であったし、藩財政の窮乏に伴って地方に対する極端な負担増を背景として発生することが予想される農民闘争に対して、十分な対応策を早急に講じなくてはならないという、二つの課題の同時的解法の方策が求められていた」

「沿海漁業権や藩制に対する丸亀藩のきびしい干渉や制約のもとで、宗藩からの自立をめざすための宮国強兵策として推進されるとともに、何よりも外圧を利用することによって、慢性的藩財政の窮乏を克服するための財源を得、さらに藩の支配力低下と農村荒廃による石高・身分制原理の引締めをめざそうとする意図をもって、藩論を統一し兵制改革に突破口を見出だそうとしたことも明らかな史実であった」

以上から多度津藩の軍備の近代化の意図と意義を次のようにまとめておきます。
①幕末の多度津藩は近代的な小銃隊を編成することを最重要課題とした。
②そのためには、武士層が嫌がるであろう銃砲隊を新たな農兵隊によって組織することで兵制改革を実現しようとした
③その軍事力を背景に、藩内の諸問題の打開を図るとともに、幕末情勢に対応する藩体制の強化をねらった。
このような多度津藩の取組に比べると、丸亀藩の対応の遅れが対照的に見えてきます。
丸亀藩では、多度津藩に比べると新たな兵制改革に取り組む意欲には欠けていたようです。丸亀藩でも、洋式銃隊は上級藩士の子弟で集義隊が編成されます。ところがペリー来航の翌年の元治元年(1854)6月、集義隊員の6人が脱藩事件を起こします。彼らが提出した建言書には次のように記されています。
「御向国御固め武備御操練等も御座遊ばさるべき御儀と存じ奉り候処、今以て何の御沙汰もこれ無く、右様御因循に御過し成され候ては、第一朝廷を御欺き幕府を御蔑成され候御義に相当り、実に以て国家の御大事恐燿憂慮の至りに存じ奉り候。依て熟慮仕り候処、御家老方には御重職の儀御奮発御配慮御座候有るべくは勿論の御儀には候へ共、全く以て姦人等両三輩要路に罷り在り、一己の利欲に相迷い、武辺の儀ハ甚だ以て疎漏」(村松家文書)

意訳変換しておくと
「国を守るための武備や操練などが行われるものと思っていましたが、今以て何の御沙汰もありません。このようなことを見逃しているのは、朝廷を欺き幕府を侮ることになります。実に以て国家の大事で憂慮に絶えません。なにとぞ熟慮の上に、家老方には重職に付いての件は、奮発・配慮の結果とは思いますが、この3人は全く以て姦人で、要路に居ること自体が問題で、一己の利欲に相迷い、武辺の儀ハ甚だ以て疎漏な輩です」(村松家文書)

 これだけでは訓練の中で何が起こっていたのかは分かりません。しかし、管理運営をめぐって反発する若者が脱藩したことは分かります。彼らはまもなく帰還しています。これに対する処罰も与えられた形跡はありません。所属隊から脱走しても責任が問われない軍隊だったことになります。

当時の丸亀藩では、原田丹下らの洋式訓練と佐々九郎兵衛らの和式訓練との対立が激しかったようです。藩主自らが「西洋銃砲でいく!」と決めて、突き進んだ多度津藩とは出発点からしてちがうようです。そして、その対立は明治元年の高松征討の際にまで続いていたようで、高松に向けてどちらが先に立って出発するかろめぐって和式と洋式が争ったという話が伝わっています。ここからは丸亀藩では、藩を挙げての兵制改革はほど遠い状態であったことがうかがえます。

以上をまとめておきます。
①多度津藩は、小藩故の身軽さから藩主が先頭に立って、軍制の西洋化(近代化)を推進し、農民兵による赤報隊を組織することに成功した。
②赤報隊を組織化を通じて藩内世論の統一にも成功し、挙国一致体制を取り得た。
③その成功を背景に、幕末においては土佐藩と組むことで四国における特異性を発揮しようとした。④一方、丸亀藩はペリー来航後も藩内世論の統合ができず、幕末の動乱期においても、その混乱を主体的に乗り切って行こうとする動きは見られなかった。
④それは長州戦争時に設置された御固場に象徴的に現れっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 小山康弘  讃岐諸藩の農兵取立 香川県立文書館紀要   香川県立文書館紀要NO4 2000年 

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これは「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく・おんりょうけん)と読むようです。
蔭涼軒というのは、京都御所の北側にある相国寺の子院の子院に当たるお寺です。かつての相国寺にはたくさん子院や搭頭があり、現在の同志社大学の敷地もかつては、このお寺の敷地だったようです。その中の塔頭のひとつが鹿苑院で、さらに鹿苑院の中に属したのが蔭涼軒のようです。ここの歴代の住職が残した日記が「蔭涼軒日録」になります。これはある意味では、お寺の公用日記なのですが、私的なこともたくさん書いてあって当時のことがうかがえる史料になっているようです。その中の明応二年(1402)の記事に、当時の讃岐のことが書かれています。今回は「蔭涼軒日録」に出てくる15世紀初頭の讃岐の姿を追いかけて見ようと思います。テキストは 「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」です
 蔭涼軒に出入りしている人の中に、羽田(花田)さんがいます。
この人は「はねだ」さんで、漆器作りの塗師です。この人があるとき団扇を持ってきます。この羽田という人は、よく讃岐のうわさ話を伝えます。どこから聞いてくるのかは分からないんですが、この人が話すことは、讃岐関係のことが多いようです。それを聞いた蔭涼軒主が日記に書きのこしています。こんな風に京都の人たちは、地方の情報収集を行っていたのかとおもわせるものが多々あります。
塗師の羽田さんの語る室町時代の讃岐の情勢を見てみましょう。
①『蔭凛軒日録』明応二年六月十八日条        
羽田源左衛門尉 団扇一柄持ちて来たり。年々の嘉例なり。約するに来たれる日の斎を以てす。羽田の話に云く、讃岐国は十三郡なり。六郡 香川これを領す。寄子衆亦皆小分限なり。しかりと雖も香川に与し能く相従う者なり。七郡は安富これを領す。国衆大分限の者惟多し。しかりと雖も香西党首として皆各々三昧。安富に相従わざる者惟多きなり。
 小豆島亦安富これを管すと云々。備中国衡は一万六千貫の在所なり。安富・秋庭両人これを管す。各々八千貫充つこれを取る。上分綸に一方より五万疋ばかりこれを進納すと云々。
意訳変換しておくと
 羽田の話によると、讃岐国は十三郡という。西の六郡は香川氏がこれを領する。寄子衆(従っている武士団)は、小分限(領地が少ない)ものが多いが、そうは云っても香川氏に与してよく従う者たちである。
 一方、東部七郡は安富が支配するエリアである。こちらは、大分限の武士団が多いが、しかし、香西氏のように独立性が高く、皆各々三昧(勝手次第)で、安富氏に従わない者も多い。
  小豆島は安富が支配する。備中は16000貫の所領であるが、これを安富と秋庭で管理し、折半してそれぞれ8000貫を取る

 団扇職人がもたらした讃岐についての情報を分析してみましょう。
最初に「讃岐国は十三郡」という情報が語られます。これについては、先日見たように古代の「和名抄」に11郡であったのが、平安後期に2つ増えていますから戦国時代の初めには13郡になっていたはずです。この情報は正しいことになります。
古代讃岐の郡と郷 大内・寒川郡の古代郷は、中世にはほとんどが荘園化された : 瀬戸の島から
和名抄の郡は11、阿野郡と香川郡が分割されて13へ

 そのうちの六郡は香川氏が統治し、残りの七郡は安富氏が統治しているということが分かります。安富氏が統治している方に香西氏がいると記されています。香西氏は管領細川氏の四天王として京都でも有名でした。香西氏は古代綾氏の流れを引く武士団で、その本拠は、綾南町から香東、香西付近に伸びていました。特に香西、勝賀が主要拠点で、高松西高校付近のに勝賀山が香西氏の本拠でした。知る人が聞くと、安富氏は讃岐の東半分であろう、そして香川氏が西半分であろうと見当が付きます。
香川県の戦国時代特集!戦国大名十河存保を産み出した歴史を解説【ご当地戦国特集】 | ほのぼの日本史
 小豆島も安富が管轄すると記され、小豆島だけが特別扱いになっています。当時は小豆島は、備前国に所属していて、それを安富氏が管轄していたようです。ここから安富氏と香川氏が、讃岐国を東西の二つに分けて支配しているというのは分かります。一方、讃岐守護は管領を勤めていた細川政元が守護です。香川氏も安富氏もこの細川氏の家臣になります。主人の守護に代わって、預かっているので守護代と呼ばれます。
戦国と火の魔王 | 螢源氏の言霊
讃岐の守護と守護代の関係を見ておきましょう。
A「石清水文書」
 石清水八幡宮領 讃岐国本山庄公文職事。戸島三郎左衛門入道、本知行と号しながら、鐙文を出さず。旧冬軍陣に於て、安堵を申し賜ると雖も、召し返さるる所なり。厳重の神領たるの上は、社家雑掌に沙汰し付け、請取を執り進むべきの状くだんのごとし。
応永七(1400)年四月廿八日  (花押)
  細河右京大夫殿
  (折封ウハ書)
  「香川帯刀左衛門尉殿   右京大夫満元」
  意訳変換しておくと
 石清水八幡宮領である讃岐国本山庄の公文職について。戸島三郎左衛門入道は、本山荘について自分の知行であるといいながら契約口銭を支払わず、旧冬軍陣において、安堵されたが返還を命じられた次第である。本山荘は石清水八幡宮の神領であるので、社家雑掌と連絡を取りながら、戸島三郎左衛門入道から返還させ受け取りを進めること。
ここには「石清水八幡宮領 讃岐国本山庄公文職事」と見えます。
ここに出てくる本山荘は、三豊の本山寺周辺にあった荘園のことです。本山荘の公文職として管理に当たっていたのが地元の武士である戸島三郎左衛門入道のようです。しかし、決められた口銭を支払わないので岩清水八幡から幕府に訴えられたのでしょう。その判決文(命令書)がこの文書に当たるようです。戸島三郎は、都人から云うと「悪党」にあたる人物になります。
 ここで確認したいのは、幕府の地方に対する命令系統です。
讃岐国の本山荘に関わることですから幕府の命令は、讃岐守護の細河右京大夫殿(細川満元)に宛てられています。
細川満元 - Wikipedia
細川満元
それでは、これを受け取った讃岐守護の細川満元は、どうしたのでしょうか?  次のような通信を守護代に送っています。
B 石清水八幡宮領讃岐国本山庄公文職事。今年四月廿八日御教書かくのごとし。早く豊島三郎左衛門入道の知行を退け、社家雑掌に沙汰し付けらるべきの状くだんのごとし。
 応永七年九月十五日      右京大夫(花押)
 香川帯刀左衛門尉殿
  意訳変換しておくと
B 石清水八幡宮領である讃岐国本山庄の公文職のことについて。今年4月28日の教書で命じたとおり、早々に豊(戸)島三郎左衛門入道の知行を返却させ、石清水八幡宮に変換させること。

 AとBを比べると、まるで伝言ゲームのようです。幕府からの命令書を受け取った讃岐守護である右京大夫(細川満元)は、西讃守護代の「香川帯刀左衛門尉殿」に命令書Bを出しています。命令を受けた天霧城の香川氏が豊島三郎から公文職知行を返却させることになったのでしょう。ここからは次のような命令系統が働いていたことが分かります。
室町幕府 → 讃岐守護・細川満元 → 西讃守護代・香川帯刀左衛門尉 → 豊島三郎へ

という命令系統だったことが分かります。この史料の場合は「土地の打ち渡し」に関する命令書だったようです。年号は応永七(1400)年で、室町時代の初めの頃です。香川氏が細川氏から命令を受ける立場にあったことを確認しておきます。
戦国大名の誕生について|社会の部屋|学習教材の部屋

次は京都の醍醐寺の「三宝院文書」を見てみましょう
C[三宝院文書]
 三宝院御門跡領讃岐国長尾庄事、公田中分を止め、先例に任せ、所務をまっとうせしむべき旨、地頭に相触れらるべきの由候なり。侶て執達くだんのごとし。
 応永十六年九月十七日      聖信(花押)
 安富安芸入道殿(東讃守護代)
意訳変換しておくと
三宝院御門跡領の讃岐国長尾庄について、今行われている公田中分を停止し、先例にもどし、業務を行うように、地頭に通達すること 相触れらるべきの由候なり。侶て執達くだんのごとし。

こんどは東讃の長尾荘の香田中分の停止命令です。送信者は「聖信」とありますが、この人は細川満元の家来で、今風に言えば秘書にあたるようです。最初の文書は守護の細川氏の命令を伝えたもので、宛先は安富安芸入道となっていました。ここで東讃守護代の安富氏が出てきました。安富安芸入道は、法名を宝城と云ったようで、これが安富安芸入道宝城という人物になるようです。彼が安富次郎左衛門入道という人に出したのが次の通信Dです

D  三宝院御門跡領讃岐国長尾庄事、今年十七日の御奉書の旨に任せ、公田中分の儀を止め、先例のごとく、領家所務をまっとうせしむべきの由、地頭沙汰人に相触れらるべきの状くだんのごとし。
  応永十六 九月十八日      宝城(花押)
  安富次郎左衛門入道殿

CとDは「伝言ゲーム」の文面のようなものなので意訳はしません。しかし、送信者と受取人は変化しています。
 以上見てきたように、守護細川氏から西讃に関する命令は、香川氏に行き、東讃に関する命令は安富氏に行くという命令系統が確認できます。同じ細川氏が出す命令でも、讃岐国の東の方の場合には安富氏に命令が行き、西の方は香川氏に行くんだというふうに讃岐は東西に郡で分けて管轄されていたことを確認しておきます。
ここで研究者が注目するのは、これらの文書の日付です。
Cは、主人の細川氏の命令を安富氏が受けたのが9月17日になっています。そして、安富安芸入道が、命令を出しだのが翌日の18日になっています。当時、讃岐と都の間はどんなに急いでも4・5日はかかります。一日で京からの通信が、讃岐の安富氏のもとに届けられることは不可能です。これをどう考えればいいのでしょうか。
「安富安芸入道宝城は、細川氏と同じ京都に居た」と研究者は指摘します。
だから命令を受けて、翌日出せたというのです。つまり、守護と守護代は細川氏の屋形がある京都にいた、安富氏も香川氏も主人の細川氏と一緒に居たということになります。守護代たちも守護の細川氏と同じように讃岐を留守にしていたのです。
管領細川家とその一族 - 探検!日本の歴史

香川・安富両氏のような役割を果たしている人を、守護の代官であることから守護代と呼ぶと教科書にも書かれています


細川氏の場合は管領でもあります。管領は将軍を補佐して政治を執るのが仕事なので、京都に居なければいけません。将軍の補佐役、あるいは将軍の代執行人に当たる存在です。となると、安富と香川の両氏も細川氏に仕えなければならない立場なので京都に滞在することになります。そこで、本国讃岐のことは一族に任せます。これを守護代の又代官だから「守護又代」、単に「又代」とも呼んだようです。こうして都にいる一族と地元にいる一族が次第に分かれていくようになります。細川氏は少ない時で四か国、多い時には数カ国の守護を兼ねていましたから、それぞれの国の守護代がみんな都にいることになります。これを現代風に例えると、一つの会社みたいなもので、守護が社長で、守護代は支店長でなく重役です。重役が社長と別の所にいるわけにいかないので、社長がいる所に重役達も一緒にいることになります。つまり細川カンパニーの重役達が京都の本店に一族を連れて勤務していることになります。そこには和泉担当重役・摂津担当重役・東讃担当重役・西讃担当重役ということになります。

戦国大名の誕生と大名家の国家戦略 | 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
 一般の守護の場合を見てみると、南九州の島津などは国元にいます。都にいても、将軍が何か仕事をさせてくれるわけじゃありませんから。都に出向く必要がないのです。ところが、細川氏とか斯波氏・畠山氏などは、将軍足利氏の一族なので、一族の長である将軍を補佐する立場にありますから将軍と一緒にいます。そうしたら、この主人を守って補佐する人達も、都に出向いて滞在することになります。
香川氏も安富氏も自分の一族を又代官として讃岐に置いていました。
 実際の讃岐での仕事は、代官の代官すなわち又代官がやっていることになります。つまり、代理人の代理人が職務を遂行していることになります。

以上をまとめておきます
①讃岐は守護であった細川氏がいくつもの守護を兼ねていた上に、幕府の親族として管領として幕政にも参加したので、京都に滞在し、讃岐にいることはほとんどなかった。
②そのため有力武士団である安富・香西・香川なども、主君に従って京都に滞在することが多くなった。
③彼らの中には、讃岐以外の守護代を務める者も現れ、本国よりも京都での利権の方が重くなっていった。
④讃岐の守護代を務めた東讃の安富も、西讃の香川も又守護代に本国当地を任せることが常体化するようになった。
⑤この結果、細川氏一族での内部抗争が激化すると、「細川四天王」と呼ばれた讃岐武士団の中には、うち続く抗争の中で衰退するものも現れた。
⑥そのような中で香川氏は、天霧城を中心に周辺武士団を家臣化し、戦国大名への道を歩みはじめる。
⑦その他の多くの武士団は、阿波三好氏の軍門に降り、その軍団の一部として動き始める。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献      「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」

  図23 讃岐国の封戸・荘園
和名抄には、讃岐の郡は11ありました。ところが平安時代の後半になると13に増えています。分割された郡が出てきたようです。分割された要因は、何なのでしょうか?
 奈良時代は、まだまだ人間の数が少なかったので、「個別人身支配体制」のもとに、人を掴まえておけば税収入が得られるので、人を通じて支配を行います。だんだん人が増えて戸籍で把握するのが難しくなってくると、人の代わりに動かないもの、つまり土地を通じて支配するシステムに支配方式が変わります。誰が土地を私有していても構わない。とにかく土地を耕している人から税を取る。土地は逃げませんので、この方が現実的になったようです。
 奈良時代には、人が集落を作ってあちらこちらに住んでいました。そこで戸毎の戸籍を作って、50戸になると郷を成立させて、郷長に管理させるという地方支配のスタイルでした。これに対して、郡全体の土地ということになると分散して、かなり広い範囲になります。広いエリアを管理監督するのは大変なので、分割します。つまり、行政単位である郡をコンパクトにします。そのために大きな郡を二つに割るということが行われます。
当時は、藤原道長やその子の頼通の頃で、摂関政治とよばれる時代でした
 彼らの政治スタイルは、地方の行政は地方に任せる。中央政府は、地方政府の長(国司)だけを任命する。そして、国司に権限を持たせて、各国の経営にあたらせるるというものでした。そうすると、国司が讃岐国にやってくると、彼らもまた考えます。自分でやることはない、郡には郡司という役人がいるんだから、彼らに任せればいいと。郡司は郡司でまた考えます。その下に郷司というのがいるんだから、彼らに任せればいいと。どんどん、下へ下りていきます。「上がやることを、下が見習う」ということなんでしょう。
 中央がこれから先、手間暇掛けませんよとなると、国元でも自分たちだって手間暇掛けませんよという風潮になっていきます。今までは中央政府が、日本国中の面倒をみてきました。しかし、これから先は中央政府はそういうことはしない。讃岐国のことは国司が責任を持って面倒をみればいい。国司に任せるという具合になったわけです。そこで、国司はそれぞれの徴税官を決めます。その時に、あまり広いエリアを担当させますと大変です。大きな郡については、東と西に分けましょうとか、北と南に分けましょうという具合に、担当区域が分割されることになります。

讃岐国郡名
讃岐の郡名と郷名
讃岐国で大きかった郡は、香川郡と阿野郡です。
どうして香川郡と阿野郡が大きいのか? それは古代からの先進地で人口が多かったからのようです。その理由は、阿野郡に讃岐国の国府が置かれたためです。そのため、いろいろな社会資本がこのエリアに投下され、国府のある周辺に人が集まったと研究者は考えています。それが阿野郡の東西にも波及します。東側が香川郡、西側の鵜足郡でも、人口は増加傾向になったようです。そこで、この両郡を二つにそれぞれ分けます。

讃岐の古代郷名 阿野・香川郡jpg
香川郡と阿野郡の郷名と位置

 香川郡についていは、東と西に分けました。
境界は条里制度の条です。もともと土地に条里制区画の線引きがしてありましたから、香川郡は東半分と西半分というぐあいに条を基準に分ける。阿野郡については、北半分と南半分に分ける。北条と南条に分けました。
平成17年度渇水/「善意の井戸」の提供が終わりました。 | お知らせ | 田村ボーリング株式会社 - TAMURA BORING
香西条と香東条の境となった香東川
それではここでクエスチョン 
香東川は今のように香東川と呼ばれる以前は、なんと呼ばれていたのでしょうか。
  香東、香西というのは、当然ですが香川郡が二つに分かれるまではありませんでした。 それ以前は、香川郡でしたから「香川」と呼ばれていたと研究者は考えます。もともとの川の名前は「香川」、その川の名前が郡の名前になって「香川郡」が生まれます。ところが、香川郡が香東、香西に分かれたので川の名前が香東川と変わった。そして、この川が「香東・香西」の境であった。 香川県という県名の源は、ここを流れる河にあったと研究者は考えているようです。
  
もう一つ分割された郡が阿野(綾)郡です。
綾郡の方は、南北に分けられました。最初は綾郡南条、綾郡北条と呼ばれていたようです。それが近世には阿野南郡と阿野北郡に改称されます。
阿野北郡 近世
阿野北郡の近世地図 現在の坂出市域
綾郡北条が最初に登場する史料を見ておきましょう。
『新修香川県史』所収 惣蔵寺所蔵鰐口銘
 敬白 讃岐国北条郡林田郷内梶取名 惣蔵天王御社 鰐口 
 明徳元(1390)年 庚午十一月
 『新修香川県史』というのは昭和28年に刊行された香川県史です。ここには坂出市の林田町にあった惣蔵寺というお寺が所蔵していた鰐口の銘が載せられています。
鰐口
鰐口
鰐口というのは、神社やお寺の軒下に吊るす、扁平で中が空洞になった円形の法具で、参詣者等がその前に垂らした綱を前後に振って鳴らしたりしているものです。その鰐口の銘で、誰が寄付したことなどが書いてあります。
 年号は明徳元(1390)年で、南北朝時代の終わりになります。林田郷は、当時は綾川の河口で、梶取(かんどり:船頭)たちが住んでいたところで、中世の津として機能していたことは、以前にお話ししました。このあたりには、瀬戸内海を行き来する廻船の拠点であったようです。いつしか「梶取」の「取」の文字が飛んで「東梶(ひがしかん)」や西梶になってしまったようです。この時に作られた鰐口の銘に「北条郡」が記されています。南北時代末期には、北条郡が成立していたと云えます。これが綾北条郡のことになります。
 綾郡北条と呼ばれていたのはいつまででしょうか。
『新編丸亀市史4史料編』に収められた正覚院(丸亀市塩飽本島)の大般若経奥書に、次のように記されています。
『新編丸亀市史4史料編』所収正覚院所蔵大般若経奥書
 時に延文弐(1357)年丁酉十二月十三日讃州綾南条羽床郷(西)迎寺坊中において、日本第一(悪筆脱)たりと雖も仏法結縁のため、形のごとく書写せしめおわんぬ。後代末代転読僧衆御誹膀有るべからざるものなり。
 同郷大野村住 金剛仏子宥伎生年三七歳
意訳変換しておくと
 この般若心経の巻は、延文弐(1357)年12月13日に、讃州綾南条羽床郷の(西)迎寺坊中で、書写したものである。日本第一の悪筆かもしれぬが仏法結縁のために書写したものであるので、後世末代に転読する僧衆が私の悪筆を誹膀することのないように。
 羽床郷大野村の住人 金剛仏子宥伎 生年三七歳
 正覚院(丸亀市塩飽本島)の大般若経の経歴については、道隆寺か金蔵寺を中心にして書写活動が行われ、金倉川河口の神社に納められていたものが、いつの時代かに塩飽本島の正覚寺に渡り伝来されていることを、以前にお話ししました。奥書には「讃州綾南条羽床郷」の迎寺坊中で書写したと記されます。綾川の滝宮上流域の羽床富士のあたりで、中世武士集団の綾氏一族の羽床氏の拠点になります。この史料にからは、南北朝時代までは「綾南条」がまだ残っていて、南条郡にはなっていなかったようです。阿野郡は、香川郡と同じように、南北朝時代から室町時代にかけて綾郡南条、同北条から綾郡がとれて、南条郡とか北条郡とか呼ばれるようになったようです。
 以上のように、讃岐国では郡の分割というのは、香川郡と阿野郡の二つだけです。大きな人口増加や変動が他の地域では起こらなかったことを表していると研究者は考えているようです。
 そして、讃岐では奈良時代・平安時代から比べると、中世に増えた郡は2つだけということになります。
  以上をまとめておくと
①讃岐の古代の郡数は、最初は11郡であった。
②中世になって土地が徴税対象となるにつれて、大きな郡を分割する動きがでてきた。
③その結果、国府があり先進エリアでもあった阿野郡と香川郡は分割されることになった。
④香川郡は、東西に分割され香東郡と香西郡となり、河川名も香川から香東川と呼ばれるようになった
⑤阿野郡は南北に分割され阿野郡条郡と阿野郡何条と呼ばれた
⑥そのため室町時代には讃岐の郡数は13になっていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 参考文献  「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」


倭名類聚抄

「和名抄」は正式には「倭名類聚抄」と云うようです。倭は日本、名は品物の名前、物の名前のことで、「類」は分類の類、「聚(衆)」はあつめるという意味です。日本にいろんなものがある、その名前について分類して説明する、今風に云うとジャンル別の百科事典ということになるのでしょうか。
 これが書かれたのは、平安時代の半ばの承平年間の頃です。ちょうど、平将門が東国で反乱を起こし、西の方では藤原純友が反乱を起こすという承平天慶の乱のころになります。そのころ都にいた源順が、わが国最初の百科事典を作った、これが『和名抄』です。
 この中に全国にどんな地名があるのかも書かれていて、その中に讃岐の国のことも書かれています。
まず讃岐の国というのは都からどのくらい離れている、行くのにどの位かかるなんていうことから始まって、次に郡はどういうものがある、国府はどこにあるかまで記されています。便利なことに、いろんな地名・品物の名前に読み仮名が振ってあります。そして地名にも読み仮名があります。ただこの読み仮名は、万葉仮名の表記でなので、なかなか読めません。
和名抄 東讃部
近世の倭名類聚抄の讃岐

 一番最初は大内(おおうち)郡と読みます。読み仮名は「於布知」と表記されていました。そのまま読むとオフチだからオオチとなります。旧大内町は、平安時代以来の呼び名を踏襲していたことになります。郡の中身をみると引田・白鳥(シラトリでなくてシロトリ)、入野・与泰の4郷があったことが分かります。
 次の寒川郡は「サムカワ」と書いています。当時は濁点がなく濁りは表現できないので「サンガワ」でなく「サムカワ」とよむことになります。三木はミキなので読み仮名はありません。山田も、濁音なしの「ヤマタ」です。

和名抄 讃岐西部
   和名抄の香川郡以西の部分 郡名の下に郷名が記される

香川郡の中に、大野・井原・多配とあります。多配(タヘ)は、見慣れない地名ですが現在の多肥のことです。大田は、今は点が入って太田です。次の「笑原」問題です。「笑=野」で野原郷になります。野原郷は、今の高松市街地になります。坂田・成相(合)・河辺・ナカツマ・イイダ・モモナミ・カサオとなっています。
阿野(アヤ)郡は、糸偏の綾、綾絹の綾と読むと記しています。
次に鵜足(ウタ)、最初はウタリと呼んでいのが、後にウタと呼ばれるようになります。那珂ナカ・多度タド・三野ミノ、最後は刈田ですが、これは「カッタ」とつまっていたようです。
このうち刈田郡については平安時代の終わりごろ、十二世紀の半ばには豊田トヨタと呼ばれるようになりますています。トョダと濁っていたかもしれません。なぜ刈田が豊田に変わったのかわかりません。
 ここからは讃岐に11の郡があり、その郡の下にどんな郷があったのかが分かります。また、当時の表記も記されています。今回は和名抄に見える大内・寒川郡の郷名を見ていきたいと思います。テキストは 「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」です。

 和名抄 東讃部
この近世復刻版で、大内郡を見てみましょう。
「讃岐国第百二十二」
下に大内郡と郡名があり、その下に郷名と古名表記が記されています。振り仮名が「オホチ」と振ってあります。大内郡は、ローマ字表記もOCHIでした。これが奈良時代以来の読み方のようです。地元では「オオウチ」と呼ぶ人たちは少ないようです。

古代讃岐郡名

 大内郡には四つの郷名が記されています。
①引田、これは今の読みと全く同じで、比介多(ヒケタ)と読みます。
②白鳥、白鳥はシラトリではありません。之呂止利 (シロトリ)です。高徳線の駅の名前も白鳥(シロトリ)です。
③與泰(ヨタイ:与泰)で、旧大内町の与田のことです。
④入野(ニュウノ)と読んでいますが、丹生のニュウノです。
④の入野は爾布乃也(ニュウノヤ)と読んでいたようです。和名抄は都の役人が作った百科事典です。現地でどう読んでいたか、読み間違いしている所がたくさんあります。例えば、明治になって作られた国土地理院の地図も、漢字表記の分からない現地地名を適当な漢字に技官が置き換えて作られています。北アルプスの白馬岳も、地元の人たちは、田植えの代掻きの時期を教えてくれる山として、代馬(しろうま)と呼んでいたのを、役人は白馬(しろうま)と表記しました。白馬と表記されると駅名は、白馬(はくば)とよばれるようになります。ここから分かることは、地名は時代とともに変化していくことです。
讃岐の古代郡名2 和名抄
古代讃岐の郡と郷

次に寒川郡を見ておきましょう。
⑤難破(ナニワ)というのは、今はありません。後でみることにします。
⑥石田、伊之多(イシダ)と書いてありますが、石田高校がある石田のことです。
⑦長尾(奈賀乎)は今も変わっていません。
⑧造田は爽敗(ソウタ)と書いてありますが、地元では、ゾウダと濁って呼びます。
⑨鴨部・神前(加無佐木)と続いて、一番下に多知とありますが、多和の間違いのようです。

和名抄は、時代を経て何度も写本されたので、写し間違いがおきます。こんなふうに見ていくと、讃岐全体で90余りの郷が出てきます。
それでは、郷の大きさはどうだったのでしょうか。それが実感できる地図に出会いましたので紹介します。
讃岐の古代郡名2東讃jpg
古代大内・寒川の郷と位置と大きさ
この地図を見ると、郷の大きさがは大小様々なことが分かります。研究者は郷を次のような3つのタイプに分類します。
1 類型Ⅰ 郡の中心となる郷 神崎郷
2 類衛2 郡の周辺部となる郷          田和郷・石田郷・造田郷
3 類家3 郡の外縁部となる郷          引田郷・白鳥郷・与泰郷・入野郷・難破郷

郷の大きさは、類型ⅠやⅡは小さく小学校の校区程度、類型Ⅲになると旧引田町、旧白鳥町、旧大内町など旧町の広さほどもあったことが分かります。
郷は、どのようにして成立したのでしょうか?
 律令体制が始まった奈良時代の初めは、血縁関係のある一族で「戸」を組織しました。戸は、現在のような小家族制ではなく、百人を越えるような大家族制で、戸主を中心に何世代もの一族がひとつの戸籍に入れられました。その戸籍に書かれた人間を、男が何人、女が何人、何才の人間が何人というぐあいに数え上げ、水田を男はどれだけ、女はどれだけというぐあいに戸毎に口分田が支給されます。つまり、口分田は家毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されたわけです。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。つまり班田主従の法というのは、戸単位に戸籍を作り、土地を分けたり税を集めたりするシステムでした。地方役所としては、一族や地域の人を束ねる役の人が欲しいんで、五十戸そろったら、それで一つの郷とします。郷は音では「ごう」ですが、訓では実際に「さと」と読みます。つまりそれが自分の村だということになります。こうして、だんだん人が増えてきて、五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。そして、郷長が置かれます
  荒っぽい説明ですが、これで郡の中心になる郷は小さく、周辺部にある郷は大きいことの理由が推測できます。つまり、50戸になったら新しく郷を新設するということは、類型1の郷は早くから開発が進み人口が多く、早い時点で50戸に到達したのでエリアが狭い。それに対して、類型Ⅲは、周縁部で人口が少なく50戸が広い範囲でないと確保できず広くなった。そして、その後も人口増加が見られなかったために新たな郷の分離独立はなかった、と云えそうです。そういう目で、ついでに西讃も見てみましょう。
讃岐古代郡郷地図 西讃
古代讃岐の郷 西讃

類型Ⅰの郷は、綾北平野・丸亀平野・三豊平野に集中し、そのエリアもおしなべて小型なものが「押しくら饅頭」をしているように並びます。そして、丘陵部に類型Ⅱ、さらに阿讃山脈の麓に広い面積をもつ郷が、どーんどーんと並びます。これは、それぞれの郷の形成史を物語っているようです。
もう一度、引田、白鳥、入野、与泰という大内郡の4つの郷を見ておきましょう。この4つの郷が中世にはどうなっていくのかを史料で見てみましょう
⑦[安楽寿院古文書]正応四年三月二十八日亀山上皇書状案
 浄金剛院領讃岐国大内庄内 白馬(鳥)・引田
⑦の「安楽寿院古文書」は鎌倉時代のもので、「浄金剛院領讃岐国大内庄内白馬(馬は鳥の誤写)・引田」とあります。ここからは大内郡全体が「大内荘」という浄金剛院の荘園になって、その中に白鳥、引田という所が含まれていたことが分かります。浄金剛院は、13世紀中頃(建長年間)に、後嵯峨上皇が建立し、西山派祖証空の弟子道観証慧を開山させた寺院で、浄金剛院流(または嵯峨流)の本山として多くの寺領を持っていたようです。
⑧[『讃岐志』所収文書】観応三年六月十九日足利義詮御判御教書案
 浄金剛院領讃岐国大内庄内白鳥・与田・入野三箇郷事
⑧の「讃岐志」は、江戸時代の地誌で、ここに収められた室町幕府三代将軍の足利義詮の教書案の中にも「浄金剛院領讃岐国大内庄内白鳥・与田・入野三箇郷事」とあります。⑦の史料と併せると大内荘は引田、白鳥、入野、与田の四箇郷のすべてを含んでいたことが分かります。つまり、四か郷全部が含んだまま大内郡は一つの荘園になったようです。巨大荘園大内荘の成立です。ひとつの郡がそのまま荘園になることを郡荘と呼びます。郡荘の成立自体は、全国的に見ると珍しいことではなく、よく起きているようです。一般的に云えるのは、都から離れた所ほど、大きな荘園ができています。つまり、中央政府の目が行き届かない所に巨大な荘園が生まれる傾向があったようです。律令制度の根幹である公地公民の原則を無視して、私有地化していくので目につきやすい中央部よりも、外縁部の方が都合が良かったのかもしれません。
 これを讃岐一国のレベルで見ると、郡庄と呼ばれる大きな荘園の出現は、大内荘のように讃岐の国のいちばん端の所で起きることになるようです。讃岐国府は坂出府中にありました。国司は国府にいて、讃岐を見ています。国司からすると国有地が荘園(私有地)になってしまうと税が入らなくなりますから、なるべく私有地(荘園立荘)の増加は抑えたいのが職務上の立場です。そうすると、国司の目の届く国府周辺を避けて、国府から遠い所で荘園化か進みます。そのため讃岐の荘園化も、中央部と外縁部では地域的な格差があったと研究者は考えています。つまり、国府周辺が最先進地域で、その周りに中間地域があって、その先に辺境地域があるという意識が国司にはあったと研究者は考えているようです。
今度は寒川郡の長尾・造田の立荘文書を見てみましょう。
⑨[『伏見宮御記録』所収文書 承元二年(1208)閏四月十日後鳥羽院庁下文案
 院庁下す、讃岐国在庁官人等。
  早く従二位藤原朝臣兼子寄文の状に任せ、使者国使相共に四至を堺し膀示を打ち、永く最勝四天王院領と為すべし、管寒河郡内長尾 造太(造田)両郷の事。
  東は限る、石田並に神崎郷等の堺。
  南は限る、阿波の堺。
  西は限る 井戸郷の堺
  北は限る 志度庄の堺・
意訳変換しておくと
 後鳥羽院庁は、讃岐国の在庁官人に次の命令を下す。
  早急に従二位藤原朝臣兼子寄文の状の通りに、寒河郡内長尾と造太(造田)の両郷について、使者と国使(在庁官人)の立ち会いの下に、境界となる四至膀示を打ち、永く最勝四天王院領の荘園とせよ。境界線を打つ四至は次の通りである
  東は限る、石田並神崎郷等の境。
  南は限る、阿波国の境。
  西は限る 井戸郷の境
  北は限る 志度庄の境
⑨の「伏見宮御記録」は、かつての宮家、伏見宮家関係の記録です。伏見宮家は音楽の方の家元で、楽譜の裏側にこの文書が残っていたようです。鎌倉時代初めのもので承元二年(1208)、後鳥羽院庁の命が「寒河郡内長尾。造太両郷の事」とあって、大内郡の長尾と造田の両郷を上皇の御願寺の荘園にするという命令を出したものです。これが旧長尾町の町域となったようです。長尾、造田は、同じ時に最勝四天王院領となった、いわば双子の荘園と言えそうです。
この荘園の東西南北の境界を、地図で確認しながら見ておきましょう。

讃岐の古代郡名2東讃jpg
立荘文書から、周辺にあった荘園や郷名が分かる
東は限る、石田並に神崎郷等の境。 
  造田と長尾の東は石田と神前です。
南は限る、阿波の境
  長尾の一番南は阿波に接しています。
西は限る、井戸郷の境
  井戸郷は三木町の一番東側になります。
北は限る 志度荘の境、
ここからは、造田・長尾の周囲には、それをとりこむように荘園や郷が鎌倉時代の初期(1208年)には、できあかっていたことが分かります。
寒川郡の郷名で、現在は行方不明なのが難破郷です。どこへ行ったのでしょうか?
手がかりになるのは「安楽寿院古文書」康治二年八月十九日太政官牒案(図1)には富田荘のエリアが次のように記されます。
字富田庄、讃岐国寒(川字脱)郡内にあり

富田荘の四至を見ておきましょう。
東は限る、大内郡境。確かに大川町の東側は大内郡旧大内町です。
西は限る、石田郷内東寄り艮の角、西は船木河並に石崎南大路の南泉の畔。
南は限る、阿波国境。
北は限る、多和奇(崎)、神前、雨堺山の峰。
これは多和の崎と神前の二つに接しているという意味で、具体的には、雨堺山の峰が境になるようです。雨堺の山は、雨滝山のことでしょう。雨滝山の分水嶺が荘園の境界となったようです。ここからは、富田荘が、かつての難破郷だったことがうかがえます。

ここで、研究者は雨滝山を中心に、周辺の郷や荘園の位置を確認していきます。

東讃 雨瀧山遺跡群
雨滝山遺跡とその周辺

津田の松原から南側を見ると、目の前にある山が雨滝山です。雨滝山を南側へ抜けると、寒川町の神前に出ます。先ほど見たように、かつての大内郡は、引田、白鳥、入野、与田で、だいたい地名が残っていました。これが一郡=一荘の大内庄という大きな庄名になりました。そのため大内郡は消滅しす。そこへ、「長尾、造田荘」と、富田庄の立荘の際にでてきた四至膀示の地名を入れて研究者が作成したのが下の地図になるようです。

讃岐東讃の荘園
中世の大内・寒川郡の郷と荘園

 例えば先ほど長尾・造田の立荘の際に、東の堺となった井戸郷というのは、左下の所に井戸と見えている所です。ここが三木町の井戸です。北側が志度、それから鴨部郷、神前、石田というぐあいに出てきます。そうすると、この地図の中にも難破郷が出てきません。立荘の際に出てくるのは富田庄です。難破郷が、どこかの時点で富田荘になったようです。旧大川町の富田には、茶臼山古墳という巨大な前方後円墳があります。古墳時代にはこのエリアの中心であった所で難破郷とよばれていたのです。現在の富田に、元の難破があったはずです。
どうして難破という地名が消えて、富田にすり変わったのでしょうか。これは、現在のところ分からないようです。

神崎郷も、後には荘園になって興福寺へ寄付されます。長尾も造田も荘園になりました。結局このあたりで荘園にならなかったのは、鴨部郷と石田郷の二か所だけです。鴨部郷は鴨部川の中流域です。その上流に石田郷はありました。
  こうしてみると、かつての東讃八町域は、ほとんどが荘園になってしまったということになります。べつの言い方をすると、古代の郷が中世には荘園になり、そして東讃8町として姿を変えて最近まで存続していたと云えるのかも知れません。
讃岐古代郡郷地図

「辺境変革説」という考え方があります。
中央のコントロールや統制の効かない辺境のカオスの中から、つぎの時代のスタイルが生み出されるという考えです。大内・寒川は国府のある府中から見れば「讃岐の辺境」だったかもしれません。しかし、京都を視点に見れば、寒川郡は南海道や瀬戸内海航路の入口にも当たります。もともと讃岐という意識よりも、阿波や紀伊・熊野との一体感の方が強く、海に向かっての指向が強かったようです。それが中央寺社の寺領となることで、国府のコントロールを離れて、自立性を一層強め、いち早く中世という時代に入っていったのが大内・寒川地域であるという見方もできます。
 それは以前にお話しした与田寺の増吽に、象徴的に現れているように私には思えます。
 与田山の熊野権現勧進由来などからは、南北朝初期には熊野権現が勧請されていたことがうかがえます。周囲を見ると、南朝方について活躍した備中児島の佐々木信胤が小豆島を占領し、蓮華寺に龍野権現を勧請しているのもこの時期です。背景には「瀬戸内海へ進出する熊野水軍 + 熊野本社の社領である児島に勧進された新熊野(五流修験)」が考えられます。熊野行者たちの活発な交易活動と布教活動が展開されていた時期です。その中で南北朝時代の動乱の中で、熊野が南朝の拠点となったため、熊野権現を勧進した拠点地も南朝方として機能するようになります。つまり
熊野本社 → 讃岐与田寺 → 志度寺・小豆島 → 備中児島 → 塩飽本島 → 芸予大三島

という熊野水軍と熊野行者の活動ルートが想定できます。このルート上で引田湊を外港とする与田山(大内郡)は、南朝や熊野方にとっては最重要拠点であったことが推測できます。そこに熊野権現が勧進され、熊野の拠点地の一つとされたとしておきましょう。そして、引田を拠点に東讃地域への勢力拡大を図っていきます。同時に、ここは熊野勢力にとっては、瀬戸内海の入口にあたります。その拠点確保の先兵となったのが熊野行者たちで、そのボスが増吽だったと私は考えています。どちらにしても、大内郡の与田寺や水主神社が、活発な活動が展開できたのは、早くから荘園化され国府の管理外にあったことがひとつの要因だったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」
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 空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。しかし、それを破って1年半あまりで帰国してしまいます。『請来目録』のなかで、空海は次のように記します。

「欠期ノ罪、死シテ余リアリト雖モ」

  欠期は、朝廷に対する罪で、身勝手に欠期することは「死シテ余リアリ」と認識していたことが分かります。そのためにも、自分の業績や持ち帰った招来品を報告することで、1年半でこれだけの実績を挙げた、これは20年分にも匹敵する価値があると朝廷に納得させる必要がありました。そこで遣唐使の高階遠成に託したのが「招来目録」です。ここには、空海が中国から持ち帰ったものがひとつひとつについて挙げられ、その重要性や招来意図の説明まで記されています。
  同時に、空海と恵果との出会いや密教伝授などについても記されています。実際に朝廷に提出した「帰国報告書」にもあたる根本史料でもあります。今回は、この招来目録の冒頭部分の原文と、読み下し文、現代語訳を並べて読んでいきたいと思います。テキストは「弘法大師 空海全集第2巻  新請来の経等の目録を上る表 真保龍餃訳」です。
招来目録冒頭1
空海の招来目録(京都大学)
読み下し文
新請来の経等の目録を上る表
入唐学法の沙門空海言す。空海去んじ延暦十二年をもつて、命を留学の末に街んで、津を万里の外に問ふ。その年の臓月長安に到ることを得たり。十四年二月十日、勅に准じて西明寺に配住す。ここにすなはち諸寺に周遊して師依を訪ひ択ぶに、幸に青龍寺の灌頂阿閣梨、法の号恵果和尚に遇ふてもつて師主となす。その大徳はすなはち大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子なり。経律を式釣し、密蔵に該通す。法の綱紀、国の師とするところなり。大師仏法の流布を尚び、生民の抜くべきを歎ず。我に授くるに発菩提心戒をもつてし、我に許すに灌頂道場に入ることをもつてす。 民の抜くべきを歎ず。我に授くるに発菩提心戒をもつてし、我に許すに灌頂道場に入ることをもつてす。
現代語訳
新請来の経などの目録をたてまつる表
入唐学法の沙門空海が申し上げます。
空海は去る延暦二十三年に留)の命令を受けて、海路万里を渡り唐土を訪れました。その年の十二月.都長安に到ることができました。翌二十四年二月十日、勅に従い西明寺を定められ住むことになりました。ここで早速諸寺を巡り、依りどろとなる師を尋ね選んでいくうちに、幸いに青龍寺の灌頂阿閣梨法号恵果和尚にめぐりあうことができましたので、この方を師と定めました。和尚は大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子であります。和尚は経典戒律を究め、真言密教に通達している仏法の統理であり、国の師とする方であります。
この大いなる師は、仏法のひろまることをねがい、人びとを救うべきことに心をくだいていました。私に発菩提心戒(はつぼさつしんかい)を授け、私に潅頂道場に入ることを許し、寿命潅頂を受け位を受けたのは一度でした。
招来目録冒頭2

読み下し文
  受明灌頂に沐すること再三なり。阿閣梨位を受くること一度なり。肘行膝歩して未だ学ばざるを学び、稽首接足して聞かざるを聞く。幸に国家の大造、大師の慈悲に頼つて、両部の大法を学び、諸尊の喩伽を習ふ。この法はすなはち諸仏の肝心、成仏の径路なり。国に於ては城郭たり。人に於ては膏映たり。この故に薄命は名をも聞かず、重垢は入ること能はず。印度にはすなはち輸婆(ゆば)三蔵負展(ふい)を脱冊し、振旦にはすなはち玄宗皇帝景仰(けいごう)して味を忘る。爾しより己還、 一人三公武を接へて耽翫し、四衆万民首を稽して鼓筐す。密蔵の宗これより帝と称せられ、半珠の顕教は旗を靡かして面縛す。
それおもんみれば鳳凰干飛するときは必ず尭・舜を窺る。仏法の行蔵は時を逐ふて巻舒す。今すなはち一百余部の金剛乗教、
現代語訳
ひじでにじり進み、ひざで歩くようにして、謹み深く近づき従って、まだ学んでいなかったことを学び、頭を地につけ礼拝し、両手で師の足に触れて礼拝しながら、まだ聞かなかった教えを聞きました。幸いに国家の大恩と大いなる師の慈悲によって、両部の大法を学び諸尊の喩伽を習いました。この法はすなわちもろもろの仏の肝心にして成仏の筋みちです。国においては城の如く迷いの賊におかされることなく、人にとっては安楽に豊かな暮らしができるものです。
だから不幸で寿命の短い人は、密蔵(教)の名前を聞くこともなく、迷いの深い人はこの教えに入ることもできません。インドでは善無畏三蔵が王位を捨て、中国では玄宗皇帝がその善無長三蔵を信仰して寝食を忘れたのです。これより以後、皇帝と最高位の高官たちがあとに続いて密蔵(教)を深く信仰し、出家の比丘、比丘尼はもとより、在家の善き男子、善き女子も万民ことごとく密蔵(教)に帰依し、密蔵(教)を説き論じています。このことより真言の教えは、諸宗の帝と呼ばれ、半分欠けた珠のような顕教は旗をなびかせてうしろ手にしばられ、顔を前につき出すようなかたちになってしまいました。

さて考えますと、鳳凰が飛ぶときはかならず古の聖皇帝尭・舜の仁徳をかえりみるといいます。御仏の教えの行われたり隠れたりするのは、時代をおって経典を巻いたりひろげたりするのと同じです。今ここに百余部の金剛乗教と
招来目録冒頭3
読み下し文
両部の大曼茶羅海会、請来して見到せり。波濤漢に波ぎ、風雨舶を漂はすといふといへども、彼の鯨海を越えて平かに聖境に達す。これすなはち聖力のよくするところなり。伏して惟れば、皇帝陛下、至徳天の如く、仏日高く転ず。人の父、仏の化なり。蒼生を悲しみて足を濡はし、仏嘱に鍾つて衣を垂る。陛下新たに旋磯を御するをもつて、新訳の経遠くより新たに戻れり。陛下海内を慈育するをもつて、海会の像、海を過ぎて来れり。恰も符契に似たり。聖にあらずんば誰か測らん。空海、闊期の罪死して余ありといへども、病に喜ぶ、難得の法生きて請来せることを。 一燿一喜の至りに任(た)ヘず。
  謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に附して奉表もつて聞しめす。ならびに請来新訳の経等の日録一巻を且もつて奉進す。軽しく威厳を顆して、伏して戦越を増す。沙門空海誠恐誠性謹言。
大同元年十月十二月
入唐学法沙門空海上表
現代語訳
両部の大曼茶雑海会を請来して、まのあたりに見ることができました。海の荒波は唐土にしぶきをそそぎ、暴風雨は私の乗った船を漂流させましたけれど、さしもの大海を渡りきることができ、無事陛下のもと、この国に帰ってきました。これはひとえに陛下のお徳の力のしからしむるところです。
 伏して思いますに、皇帝陛下のお徳は天のようにきわまりないので、み仏の日光も高く法を転じ照らすことができます。人の父でありみ仏の化身です。国民を哀れんで生死の海に足をぬらし、み仏の嘱望にこたえて国土を護り天下をよく治められています。陛下が新しく善政をしかれたので、新訳の経典が遠くから新しく来ました。陛下が海内の人びとを慈育されるので、両部曼茶経の仏像が海を渡ってきました。あたかもこれは符節を合わせ契りを結んだのに似ています。聖人でなければ誰がどうして予測することができたでしょうか。
空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。が、ひそかに喜んでおりますのは、得がたき法を生きて請来したことであります。一たびはおそれ、 一たびは喜び、その至りにたえません。謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に付けてこの表を奉ります。ならびに請来した新訳の経等の目録一巻をここに添えて進め奉ります。軽がるしく陛下のご威厳をけがしました。伏しておそれおののきを増すばかりです。沙門空海誠恐誠性謹んで申し上げます。
              大同元年十月二十二日
              入唐学法沙門空海上表

以下には〔請来経等の目録〕が次のように記されます
(1)新訳旧訳の経典を計142部247巻、
(2)梵字真言讃など計42部44巻、
(3)論疏章など計32部170巻、
(4)仏菩薩金剛天等の像、曼荼羅、伝法阿闍梨等の影など計10舗、
(5)恵果から付嘱された道具9種
(6)恵果からの阿闍梨伝法の印信13種
これらが1点1点具体的に列挙され、説明まで付けられています。

「かつて日本に渡っていないものが、ほぼこの中にある」
と空海は云います。密教経典でもすでに日本に渡っているものは、省かれています。「日本に渡っていないものを持ち帰った」という言葉からは、目録中の経典類は唐に行くまでは空海も見たことがなかったものということになります。そうすると金剛頂瑜伽真実摂大経王経、金剛頂瑜伽略出念誦経、般若理趣経、菩提心論、般若理趣釈、などのほとんどの密教の経典類は、唐で初めて空海が触れたものだったことになります。目録にないのは大日経と虚空蔵求聞持法ぐらいです。
 以前にお話したように、空海の入唐については、次のような見解があります。
「一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたもので、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか。日本にいたときにすでに、密教体系の大筋を理解し、残すところは対面伝授の秘儀と潅頂だけになっていた」

 しかし、招来目録を見る限り空海は、ほとんどの密教経典に初めて長安で接したことが分かります。ここからは、入唐以前の空海が密教体系の大筋を理解していたとは云えないことが裏付けられます。

 空海の生きた奈良時代末に、密教についての情報がどのくらいわが国に入っていたのでしょうか。
 最澄の請来目録では、密教を念誦法門と呼んでいます。ここからは最澄も密教について「呪法に特色のある宗派」くらいに思っていたことがうかがえます。彼も密教の具体的な行法に目を奪われて、その本質にまでは分かっていなかったようです。最澄にしてこれでは、あとは押して図るべしです。当時のわが国では、密教は新式の呪法程度にしか認識されていなかったことになります。空海が持ち帰ってきた経典類の価値が分かる人はいなかったでしょう。空海自身も「密臓」という言葉を使っています。「密教」という言葉を使い始めるのは、もっと後であることは以前にお話ししました。当時は、大日経も金剛頂瑜伽略出念誦経も伝来し、写経されていたことは正倉院の写経所文書から分かっています。しかし、その意味を理解する者は、入唐以前の空海を含めていなかったと云えそうです。
 最澄にしても、自分の伝えた念誦法門の一々の行法に理由付けのあることぐらいは察していたかもしれません。それが空海に「今までの教学では解けない秘密の教法である」と言われて、あわてて勉強しますが、手持ちの貧弱な文献では見当もつかない。頬被りして済ます訳にもいかないので、弱った最澄が、空海に頭を下げて教えを乞うたというのが実態のようです。

 空海が密教を求めて入唐したという見方は、誤ってはいないとしても、正確ではないようです。
以前にもお話ししたように、渡唐前の空海に「密教」という概念があったかどうかも分かりません。金剛頂経の存在も知らなかった可能性の方が高いようです。「空海にあったのは、大日経を体得するという志なのだ。」と云う研究者もいます。
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          長安の絵師たち(弘法大師行状絵詞)
空海が持ち帰った品々は、どのようにして整えられたのでしょうか。
仏典などは新たに写経しなければなりません。
空海が持ち帰った経論は142部247巻にもなります。しかも、すべて日本にはまだ招来されていない新訳のものばかりです。この中の118部150巻は不空が翻訳したばかりの最新のものです。これらは恵果が青竜寺東塔で管理しているものですが、これを空海に渡すわけにはいきません。写経しなければなりません。そのために、恵果は二十余人の写経生に筆写を依頼したと招来目録には記されています。

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招来品を写経する写経生(弘法大師行状絵詞)

恵果がさずけたもののうち、曼陀羅は5種類23幅あります。
それに密教各祖の絵像が5種類15幅を加え、これらをあらたに絵師に描かせます。恵果は、それを長安の一流どころの絵師を用いたようです。帝室供奉の画工である李真など、十余人が青竜寺に招かれて筆をふるったと招来目録は記します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
持ち帰る曼荼羅などを描く絵詞と見守る空海(弘法大師行状絵詞)

密具には、金属製品が多いようです。
五鈷、三鈷、独鈷、鈴、輪宝、渇磨、金剛板、金剛盤、溺水器といったものです。

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法具類を作成する官営工場から招かれたの職人たち(弘法大師行状絵詞)

 恵果はこれら法具類についても、宮廷の技芸員である鋳博士の楊忠信などに、たのんでつくらせています。ほかに、あらたに密教正嫡の阿閣梨の位についた空海が、正嫡の阿閣梨として持たねばならぬ付属物があります。日本の天皇家の例でいえば皇位継承のしるしである三種の神器のようなものでしょうか。これが「恵果からの阿闍梨伝法の印信」八種で、以下のものです。
(5)恵果から付嘱された道具8種
(6)恵果からの阿闍梨伝法の印信13種

招来目録 阿闍梨付属品
仏舎利八十粒
刻白檀仏菩薩金剛像等一寵
曲線大受茶羅尊四百四十七尊
白諜金剛界三摩耶曼茶羅百二十尊
五宝三摩耶金剛
金剛鉢子一具
牙床子
白螺只。
この八種はインド僧金剛智が南インドから唐へ渡ってくるとき招来品で、相続の証として金剛智から不空に伝えられ、不空から恵果に伝えられ、恵果から空海に伝えられたものです。コピーして複製品を作るわけにいきません。空海が持ち帰れば、唐には密教正嫡を証明する八種のシンボルがなくなることになります。これを立場を変えるとどうでしょうか。日本のある宗派の宗主が外国人によって継承され、帰国時に持ち帰られる・・・。これを本当に恵果は行ったのかと、改めて疑問がわいてきます。玉堂寺の珍賀らの僧侶たちが空海の潅頂に対して不穏な空気をみせたというのも当然のような気がしてきます。さらに恵果は、かれ自身が持っていた五点の品々を、自分の形代(かたしろ)として、空海にあたえています。

 最後に、空海と最澄の立場を比べてみましょう。
最澄は請益僧で還学生の資格でやって来ています。目的は唐から日本に必要な文物をもらってくることで、乗っていた船で還ってくる短期間留学です。このため請益の還学生には、身分の高い僧がえらばれることが多かったようです。最澄の場合、すでに内供奉十禅師という天皇の侍僧でした。最澄は入唐の際にも、自分専用の通訳僧を供にし、十分な経費も支給されていました。いわば、日本国代表として唐の文物なり思想なりを買い受けに行く役目です。ある意味、国の文化・宗教バイヤーで、国家を後ろ盾にして経費に糸目をつけずに買い入れることができる立場でした。ある意味、「天台宗を体系」を丸ごと仕入れに行ったとも云えます。そのため最澄は、資金も潤沢で、要人への贈り物もふんだんに用意していたようです。
 例えば天台山へ行ったときには州の長官・陸淳は、最澄を丁寧にもてなしています。そこには贈答作戦があったようです。また天台山では写経生を動員し、紙数にして8532枚という経典や注釈書を書写させて持ち返っています。これらについても、膨大な経費が必要とされたはずですが、その経費を心配する必要はなかったはずです。
最澄の立場と空海を比べて見ると、置かれた位置が初めから違うことが分かります。
 空海に課せられた義務は、20年間かかって密教を学ぶことです。最澄のように密教をシステムごと「移植」する義務はありません。そのための経費も持たされていません。司馬遼太郎はこれを「空海は、恵果から、 一個人としてゆずりうけた」と記します。その経費は、20年間の留学費をそれにあてたとします。しかし、見てきたようにそれだけでも賄いきれない経典や法具類の種類と量です。この「資金源」については、別に触れましたのでここでは省略します。
空海は、日本国から義務を負わせられず、経費をあたえられずして、密教を個人で「移植導入」してしまったことになります。国の仕事として天台宗導入を行った最澄に対し、空海の天台体系への視線は、つまらぬ存在をみるようなものであったとも司馬遼太郎は記します。それは、空海の帰国後の態度の痛烈さは、このあたりに根があると司馬遼太郎は指摘します。
空海は「私費で、そして自力で、真言密をこの国に導入したのです。
支離滅裂になってまとめきれません。悪しからず。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 司馬遼太郎 空海の風景(下)
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空海入唐の地を訪ねた-(2) (中国) - 何気ない風景とひとり言

 空海の入唐までの経歴については、『三教指帰』の序文から次のように語られてきました。
「十五歳で上京し、外舅阿刀宿禰大足について漢学を学び、十八歳で大学明経科に入学した。あるとき「一沙門」と出会い大学を辞し、「虚空蔵求聞持法」を修することで仏教に傾倒し、そして延暦16年(797)に『聾瞽指帰』を著して出家宣言を行い、さらに仏道修業に専念していった
 
「卒伝」の記述は、「一沙門」との出会いが記されています。そして山林修行を経て「聾瞽指帰(改訂されて三教指帰)」執筆に至たという経過です。しかし、ここには「大学を辞した」ということについては何も触れられてはいません。大学を二・三年で退学したというのは、あくまで想像です。
 これに対して、空海は大学を中退していないのではないのか、きちんと卒業した後に『聾瞽指帰』を描いたのではないかという説が出されています。今回は、これを見ていくことにします。テキストは   牧伸行 入唐前の空海 です。

空海については分からないことが多いのですが、どうして得度したばかりの無名の僧侶が遣唐使の留学僧に選ばれたもその疑問の一つです。大学を卒業後していれば、充分な資格を有していたことになります。
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この参考例になるのが吉備真備のようです。
彼は下級武官下道朝臣国勝の子ですが入唐前に從八位下を授位されています。そこに至る経過を見てみると、15歳前後で大学に入学し、六・七年を経て貢試、その結果「進士甲第」という成績を納めて、養老選叙令秀才出身条によって従八位下を授位されます。その上で、入唐留学生に選ばれます。
 つまり、大学寮出身コースから入唐留学生へという道を歩んでいるのです。ここからは、六・七年という年数が、当時の大学を卒業するのに要した年数と考えることができます。この年数は空海が大学に入学し、その後延暦16年(797)までの消息の分からない空白の期間とほぼ一致すると研究者は指摘します。

 空海は大学において、どの課程に属していたのでしょうか?
このことについて空海自身は何も述べてはいませんし、卒伝にも何ら記述はありません。ただ『空海僧都伝』には、次のように記されています。
入京時遊大學。就直講味酒淨成。讀毛詩尚書。問左氏春秋於岡田博士

ここに「岡田博士」から左氏春秋を学んだとあります。これは『続日本紀』延暦十年(791)12月丙申(十日)条に、「外從五位下岡田臣牛養爲大學博士」とある大学博士岡田牛養と研究者は考えます。そうすると、この年は空海が中央の大学へ入学した年でなので、岡田博士が岡田牛養で実在の人物と推測できます。 
 職員令大学寮条には、博士・助教・音博士・書博士・算博士のコースがあって、このうち博士は「教授經業」を担当しています。さらに、学令博士助教条に「凡博士助教。皆取明經堪師者」とあるので、明経博士であったことが分かります。以上から、空海は当時の大学において本科であり、かつ主流であった明経道に在籍して経道を学んでいたとするのが定説のようです。
明経道を学ぶ学生が、同時に儒教・道教・仏教の知識を得ることはできたのでしょうか?
弘法大師空海『聾瞽指帰』特別展示のお知らせ... - 高野山 金剛峯寺 Koyasan Kongobuji | Facebook
聾瞽指帰 登場人物が最初に記されている

『聾瞽指帰(空海が50代になって改稿したのが三教指帰)』は、儒教を「亀毛先生」、道教を「虚亡隠士」、仏教を「仮名乞児」の3人の登場人物がそれぞれの長所を主張し、議論を戦わせるという「対話討論形式」の芝居仕立ての展開が取られます。まるで戯曲を読むような印象を受けます。亀毛先生の儒教は、虚亡隠士の支持する道教によって批判されます。最後に、その道教の教えも、仮名乞児が支持する仏教によって論破され、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることが示されます。これは論理的に云うと「弁証法的な手法」で、「日本における最初の比較思想論」で、「思想の主体的実存的な選択を展開した著作」と「ウキ」には評価されていました。そんな風に私は見たことがなかったので「ナルホドナ」と感心しました。

仙台市博物館 on Twitter: &quot;【特別展「空海と高野山の至宝」後期展示 好評開催中!】 能筆で知られた空海自筆の書、国宝「聾瞽指帰(ろうこしいき)」が後期から展示中です。(画像は本展チラシより)  空海24歳の、仏教を目指す意志を記した書です。内容解説のパネルも ...
聾瞽指帰

 当然、「聾瞽指帰」の中には、多くの文献が引用されることになります。
研究者が数えると、引用件数は漢籍類69種・仏典関係59種になるようです。引用されている69種の漢籍類のうち、『周易』『尚書』『周礼』『儀礼』『礼記』『毛詩』『春秋左氏伝』『孝経』『論語』は、明経道で教科書として使われています。紀伝道(文章道)の教科書である三史(『史記』『漢書』『後漢書』)『文選』『爾雅』も引用されています。これは、空海が在籍していた明経道だけでなく、他の課程についても造形が深かったことがうかがえます。
 また空海は15歳の時から叔父の阿刀大足から学問の指導を受けていたと自ら述べています。これらの知識的蓄積があって書くことができたものです。。
弘法大師御筆 国宝聾瞽指帰 全3巻(山本智教解説) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

「聾瞽指帰」は、延暦16年(797年12月23日)に書き上がってきます。空海24歳の著作になります。大学入学は18歳の時でしたから、それから6年後のことです。この時点で空海は、大学を卒業していたと研究者は云うのです。

「聾瞽指帰」の中で道教の部分については、論旨が最も弱く不明確であると研究者からは指摘されています。
つまり空海の道教理解は、不十分であったようです。その理由として、我が国では教団道教が根付かなかったことが挙げられます。道教という宗教組織としてではなく老荘思想・老子的心境といったものの理解の方が中心に行なわれていたためのようです。そのため『淮南子』『神異経』『神仙経』『荘子』『抱朴子』『列仙伝』『老子』『老子経』『老子内伝』等の一通りの道教経典に目を通すだけの、専ら書物からの理解のみを行ったとします。
 それに対して、仏教については、「聾瞽指帰」を書いた24歳の時点で、かなり深い理解があったと研究者は考えているようです。このことは、「仮名乞児論」の内容及び引用文献から見えてきます。

しかし、これを書き上げたときの空海は、まだ仏門には入っていなかったと研究者は考えいます。
 虚空蔵求聞持法を始めたときの空海は、これが仏教の修行とは思っていなかった形跡があります。求聞持法を「一切の教法の文義暗記」のために行ったと空海は称しています。何のための文義暗記か。大学を辞めていなかったとすれば、「大学での勉学」のためと考えるのが自然ではないでしょうか。この時点では、仏典暗記とは云えないことは先述したとおりです
 大学での儒学修得にあき足りなさを感じた空海は、肉体的な修行に飛びこんだことが考えられます。それはあくまで大学の勉学のためのサイドワークで、仏教修行とも考えずに始めたということになります。  
聾瞽指帰の仏教に関する内容も山林修行の実践を終えて身を以て体験した内容ではなく、むしろ、道教と同じく書物からの理解だったとします。つまり、「聾瞽指帰」を書いた24歳の時点では、山林修行者として経験に基づく記述内容は、今だ見えないと云うのです。

そして24歳になって大学を卒業する段階になって、さてどうするかということになります。 三教指帰は、大学卒業と虚空蔵求聞持法修行をひとまず終えた空海が、どの方角へ向うか考えた末の産物だったのではないでしょうか。

 空海が大学在籍中には、南都六宗は諸寺は姿を見せていました。
奈良盆地のそれらの寺院は、文明開化のモニュメントであり、文化センターの役割を果たし始めています。その中で空海が仏教を学び、仏典類の閲覧を行なうためには、大学生という確かな身分を持っていた方が都合が良かったのではないでしょうか。逆に、大学生という身分を捨ててしまえば、これらの寺院への出入りも出来なくなります。
御遺告2
御遺告
 『御遺告』には、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
①の20歳の得度を、そのまま受けいれる研究者は少数派です。ここには空海が「山林修行」をおこなったことは、どこにもでてきません。あるのは『大日経』を捜し求めたことだけです。大日経を捜し求め、久米寺の東塔で見ることができたと記されます。正式の得度を受けていない沙門が国家管理下の国営寺院に出入りが許されたのでしょうか。ここからも大学生の身分であった方が仏教を学ぶとしても活動はやりやすかったように思えてきます。
大学に在籍し、サイドワークとして道教・仏教についての知識を学ぶ時間的な余裕はあったのかを研究者は見ていきます。
学令先読経文条には、次のように記されています。
「凡學生。先讀經文。通熟。然後講レ義。毎旬放一日休假
ここからは毎旬(十日毎)に一日の割合で休暇が認められていたことが分かります。
 同令請假条には、次のような規定があります。
凡學生請假者。大學生經頭。國學生經所部國司。各陳牒量給

臨時の休暇願の手続きの規定があり、同令放田假条では、
凡大學國學生。毎年五月放田假。九月放授衣假。其路遠者。仍斟量給徃還程。

田假・授位假に関する規定が定められていて、ある程度のまとまった期間の休暇があったことが分かります。そして、同令不得作楽条には、極端な例ですが、次のように記されています。
凡學生在學。不得作樂。及雜戲。唯彈琴習射不禁。其不率師教。及一年之内。違假満百日者。並解退。

 学生の日常生活の心得に関する規定の中に、「違假満百日者。並解退」とあるので、百日未満であれば「不正休暇」も大目に見られていたようです。
以上から、大学在学中であっても、道教・仏教の知識を深めて行く時間的な余裕は作り出す事ができる環境であったことがうかがえます。
それでは大学に在学しながらも「仮名乞児論」のように「或登金巖。而遇雪坎。或跨石峯。以絶粮軻。」というような修行を行なうことができたのでしょうか。
 役小角に代表されるような山岳修行者、私度僧たちは古くからいたことが分かっています。それは空海が開いたとされる霊場が、空海以前にすでに信仰対象とされていたことからもうかがえます。独古や三鈷・錫杖をもった修験者が讃岐の大川山の周辺で修行を重ねていたことは、中寺廃寺跡から出土した古式様式の三鈷の破片からも分かります。空海に実体験は無くとも見聞による著述は決して不可能ではなかったと研究者は考えているようです。
また、大学在学中であっても、一定期間の休暇は認められていました。
さらに『聾瞽指帰』の日付である延暦16年(797)は、大学卒業に必要な六年、国学・大学を通じて就学可能な期限である9年を経た翌年に当たります。つまり、15歳で国学に入学してから数えて9年目、空海24歳の年に当たると云うことです。10年間の在籍が認められていたので、空海は大学を辞すること無く、一年間は仏道修行を行なうことができたことになります。
 その1年を利用して「卒業研修」として「阿波國大瀧之嶽」「土左
國室戸之崎」で山林修行を行ったということも云えそうです。四国の辺路修行場であり、大学卒業後に故郷四国の修行地を回ったと考えることも可能になります。そう考えると、空海が修行のために大学をドロップアウトしたと考える必要はなくなります。延暦15年(796)に大学を卒業し、その実践のために山林修行に四国に向かったという話もできそうです。
 その場合に、空海が「一沙門」と出会ったのは延暦16年(797)以降と考える必要はなく、空海の仏教に対する造詣の深さを考えると、短期間に独学で学んだと考えるよりも、信頼のおける学僧について学んだと考えた方が現実的だとします。

以上をまとめておくと
①定説では「空海は都の大学に入ったが儒教に嫌気がさして、虚空蔵求聞持法に興味を抱き大学を中退した」とされていきた。
②しかし、根本史料には空海が大学を中退したとはどこにも書かれていない。
③空海は18歳で大学に入学後、24歳まで大学で、儒教だけでなく仏教や道教を学び卒業した。
④卒業後に、その成果として著したのが「聾瞽指帰」で、仏教の道を選択し、山林修行に入って行った。
⑤空海はドロップアウトすることなくエリートとしての道を歩み続け、それが留学僧として選抜されることになった。
 三教指帰序文や御遺告に後世の作為があるとされるようになり、根本史料としての信頼性が揺らぎ始めています。その中にあって、研究者たちは信頼できる史料に基づいて空海の歩みをもう一度見直そうとしているようです。これは何十年もかかる作業になることが予想できます。「空海は大学を卒業していた」説や「空海=摂津誕生説」もそのような動きの一環なのでしょう。
その向こうに新たな空海像が描かれるのを楽しみにしています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    牧伸行 入唐前の空海 

岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に走る南海道

讃岐には、若き日の空海(幼名真魚)は、「国学(地方大学)」で学ぶために毎日、額坂を越えて通学していたという話があります。空海の父田公の館は、現在の善通寺周辺にあったとされます。讃岐の国学は、建立されたばかりの国分寺周辺か、府中の国府周辺にあったとされます。そのため善通寺から東に一直線に伸びる額坂街道を馬を駆けって通ったというのです。
DSC04491
空海の平城京への出立(弘法大師行状絵詞) 騎馬の若武者姿

確かにこのルートは、発掘調査で南海道であることが分かってきました。幅が8mもある大道が、丸亀平野の条里制に沿って、善通寺を横切っていきます。この大道を馬で駆ける真魚の姿は、絵になる光景です。しかし、これは本当なのでしょうか。真魚が、讃岐の国学で学んだのかどうかを史料で見ていくことにします。

岸の上遺跡 多度郡条里と南海道jpg
四国学院内を通っていた南海道

 空海は15歳の時に母方の叔父である阿刀大足に就いて学んだことは、空海の著書である『三教指帰』の序文に書かれているので事実のようです。
それでは、大学や国学で学んだというのは本当なのでしょうか。
 『三教指帰』が引用したとされている『続日本後紀』承和二年(835)3月庚午(廿五日)条には、次のように記されています。

  讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。①年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。②十八遊學槐市。③時有沙門。呈示虚空藏聞持法。其經説。若人依法。
ここには
①15歳で、外舅(母の兄)阿刀宿禰大足について漢学を学び、
②18歳で平城京の大学明経科に入学した。
③ある時、一沙門から虚空蔵求聞持法を授けられ、(中略)大学を辞して山林修行を行った。
ここには空海は、阿刀宿禰大足について学んだことは語っていますが、国学で学んだことは何も触れていません。空海は国学に入学したのでしょうか。
  唐の律令制度を学んで作り上げた大宝律令以後は、原則的にはこの国は「法治主義国家」です。政治は法令によって運営されていきます。例えば古代律令下の教育機関としては、中央には大学が、諸国には国学が設置されて官吏養成が行われることが定められています。
学令大学生条に定められた就学規定には、次のように記されています。
凡大學生。取五位以上子孫。及東西史部子爲之。若八位以上子。情願者聽。國學生。取二郡司子弟爲之。大學生式部補。國學生國司補。並取二十三以上十六以下聰令者爲之。
  意訳変換しておくと
およそ大學生。五位以上の子弟か、東西史部の八位以上の子弟で、入学希望があったものを入学させよ。地方の國學生については郡司の子弟を入学させよ。大學生式部補と國學生國司補の年齢制限はそれぞれ、23歳以上と16歳以下の者とする。

これが大学生と国学生に関する規定です。この規定に従って空海の入学資格を見ておきましょう。まず15歳という年齢については国学への入学については問題ないようです。年齢からして、国学へ入学した可能性はあります。しかし、もうひとつの条件である官位についてはどうでしょうか。「國學生については郡司の子弟」とあります。
 空海の生家である佐伯直氏は、旧讃岐国造であったことが『日本三代実録』に記されています。通説では代々多度郡の役人を勤めた家柄で、田公自身は郡の少領であったとされます。しかし、『日本三代実録』には田公の位階は記されいません。一方田公の子供達(空海の兄弟)には位階があります。ここから空海の父田公は、無位無官であった可能性が高いと研究者は考えています。
選叙令郡司条には、次のように記されています。
凡郡司。取下性識清廉堪時務者上。爲大領少領。強幹聰敏工書計者。爲主政主帳。其大領外從八位上。少領外從八位下敍之。其大領少領才用同者先取國造

ここには郡司の選定基準として「少領外從八位下敍之。其大領少領才用同者先取國造」とあります。田公が少領であったとすると、低くとも外従八位下という官位を持っていなければならないことになります。例え主政・主帳であったとしても考課を経たのであれば、何らかの位階を与えられていたはずです。ここからも田公は無位無官であったとことが裏付けられます。そうすると、空海は国学の入学規定である「郡司子弟」の条件に当てはまらないことになります。つまり、空海には入学資格がなかったことになります。
 しかし、残された道があります。『令義解』学令大学生条の子弟に冠する註には「謂 子孫弟姪之屬也」とあります。空海が所属する戸の戸主である佐伯直道長が正六位上という位階を持っていて、何らかの官職に就いているので、この条件をクリアできたと考えることはできます。以上から空海は郡司の子弟として国学に入学することは可能であったとしておきましょう。

 しかし、問題は残ります。先ほど見たように空海が書いたとされる『三教指帰』には、15歳で伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足に教えを受けたと記されている点です。これをどう考えればいいのでしょうか。叔父阿刀大足については、次のように伝えられています。
①空海の母の実家阿刀家の後継者で摂津が本貫
②伊予親王の侍講(家庭教師)であった人物で、漢学の俊才であった
③叔父阿刀大足が讃岐に残した痕跡は何もない
これでは空海は15歳になって、讃岐の国学に通いながら平城京にいる叔父の阿刀大足から英才教育を受けたという話になります。このためには空海は「分身の術」を身につけていなければなりません。阿刀大足が、讃岐の国博士として赴任してきていたという話もありません。そもそも阿刀氏の痕跡は讃岐にありません。伊予親王の侍講であったという経歴から考えると、阿刀大足は平城京に居住していたと考えるのが自然です。これをどう考えればいいのでしょうか。
讃岐の豪族6 阿刀氏? 空海が生まれたのは摂津の母親の実家? : 瀬戸の島から
難波津と阿刀氏の本拠地
 この謎を解消するのが「空海=摂津誕生説」です。
当時の通い婚の通例として、空海は阿刀氏の本貫である摂津に生まれ、そこで生育し英才教育を受けたという説です。この説では、空海は讃岐の国学には入学せずに上京した、あるいは最初から摂津で生まれ育ったことになります。どちらにしても、空海が南海道を馬を走らせ、府中の国学に通ったという説は成立しがたいようです。

跡部神社|八尾|物部一族である阿刀連が、その祖神を祀ったと伝わる神社の本当の祭神とは? | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
跡部(阿刀)神社(八尾市亀井)阿刀氏の本貫・河内国渋川郡跡部郷

空海が平城京の大学に入学したのは18歳と記されています。
これは、就学規定で定められている年齢には当てはまりません。下級官人であっても八位以上の子弟であれば、特別に入学は可能でしたが、『令集解』学令大学生条の註には次のように記されています。

「問 八位以上子。情願任者聽。畿内外同不。答。畿外不取。又外六位以下不取也。但並得任國學生耳」

 ここからは、その特例が認められたのは畿内の官僚だけだったことが分かります。讃岐国出身の空海がこの方法で大学へ入学することはできません。これに対して。
「当時の学制に何らかの変更があったのかも知れない」
「伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足等の力で入学できた」
という例外的な措置として入学したという説もありますが、律令規定は国家の柱なので、「ゆるぎたらるぎ」で運用はしていません。伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足の影響力を過大評価するのも慎むべきでしょう。
むしろ、次の「学令通二経条」に注目すべきと研究者は指摘します。

凡學生通二經以上求出仕者。聽擧送。其應擧者。試間大義十條。得八以上。送太政官。若國學生雖通三經。猶情願學者。申送式部。考練得第者。進補大學生。

ここには地方の国学から中央の大学へと進む道も成績や条件次第では開かれていたことが記されています。空海が讃岐の国学から大学に進んだとすれば、このコースを辿ったと考えた方がよさそうです。
 十五歳で国学に入学した空海は、基準である三年あるいは四年で二経以上に通じ、そして考練得第して十八歳の時に大学に入学したという説も捨てられないことになります。
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阿刀氏の氏神 跡部神社

以上をまとめておきます。
①従来の善通寺生育説では、讃岐の国学に通ったとされるが、「三教指帰」には15歳で、叔父阿刀太刀の教えを受けるようになったという記述と矛盾する。
②「空海=摂津生誕説」では、阿刀氏の母の実家である摂津で空海は生まれ、幼い時から叔父阿刀太刀の英才教育を受けたとされる。ここでは、空海の本貫は讃岐国多度郡だが実際の生育は摂津の阿刀氏の母の元であったとされる。
③「空海=摂津生誕説」では、空海が平城京の大学に入学するためには、父親の官位が低すぎるという問題がおきる。
以上のように、解決への詰み手がなくなってしまいました。空海の国学や大学入学問題についても、分からないことが多いようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

三教指帰註 巻頭 大谷大学博物館2
三教指帰 (大谷大学)

 空海の入唐までの経歴については、『三教指帰』の序文から次のように語られてきました。
「十五歳で上京し、外舅阿刀大足について漢学を学び、十八歳で大学明経科に入学した。ある時、一沙門から虚空蔵求聞持法を授けられ、(中略)大学を辞して山林修行を行った。
延暦十六年(797)『聾瞽指帰』(のち『三教指帰』と改題)を著して(中略)仏教への出家を宣言した」
  しかし、『三教指帰』に対しては、次のような疑義が出されています。
  『三教指帰』には同じ延暦16年(797)12月1日の日付を持つ『聾瞽指帰』がある。『聾瞽指帰』と『三教指帰』とは序文と巻末の「十韻之詩」等がちがっていて、上記のような序文はない。そのためこの序文は、後に付け加えられたものではないか。つまり、この部分は空海が書いたものではない

『三教指帰』が後世の偽作であるとしても、『三教指帰』が引用したとされている『続日本後紀』承和二年(八三五)三月庚午(廿五日)条には、次のように記されています。
庚午。勅遣下二内舍人一人。弔法師喪。并施中喪料上。後太上天皇有二弔書日。眞言洪匠。密教宗師。邦家憑其護持。動植荷其攝念。豈圖崎磁未逼。無常遽侵。仁舟廢棹。弱喪失歸。嗟呼哀哉。禪關僻在。凶聞晩傳。不能使者奔赴相助茶毘。言之爲恨。悵悼曷已。思忖舊窟。悲凉可料。今者遥寄單書弔之。著録弟子。入室桑門。悽愴奈何。兼以達旨。法師者。讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。十八遊學槐市。時有沙門。呈示虚空藏聞持法。其經説。若人依法。讀此眞言百万遍。乃得一切教法文義諳記。於是信大聖之誠言。望飛焔於鑽燧。攀躋阿波國大瀧之嶽。觀念土左國室戸之崎。幽谷應聲。明星來レ影。自此慧解日新。下筆成文。世傳。三教論。是信宿間所撰也。在於書法。最得其妙。
 與張芝齊名。見稱草聖。年卅一得度。延暦廿三年入唐留學。遇青龍寺惠果和尚。禀學眞言。其宗旨義味莫不該通。遂懷法寳。歸來本朝。啓秘密之門。弘大日之化。天長元年任少僧都。七年轉大僧都。自有終焉之志。隱居紀伊國金剛峯寺。化去之時年六十三。

これは、835年三月丙寅(廿一日)条の空海卒去記事に続く文章で、空海の卒伝が記されています。『続日本後紀』は、空海が亡くなった後34年目に当たる貞観十八年(869)8月に完成しているので、空海伝の中でも最も早く成立したものの一つになります。『御遺告』や『三教指帰』序文への信頼度が低下する中で、その信頼度を挙げてきた史料になるようです。ここに書かれていることを、見ておきましょう。
①「讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直」
 姓は佐伯氏ではなく佐伯直であること。空海の本籍地は讃岐国多度郡と記すも、そこが空海の生地であるとは書かれていない。そして、善通寺も屏風ヶ浦も出てこない。
②「年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。
 15歳で阿刀宿祢大足について、儒教などの学問を始めた。阿刀宿祢大足は、空海の母の兄にあたり、皇太子の家庭教師を務めるほどの学者であったようです。空海が多度郡で生まれたとするなら、15歳の時には平城京の阿刀氏の館に上京していたことになります。
③「十八遊學槐市」 18歳で平城京の大学に入学したこと
④その後の虚空蔵求聞持法を受法したこと

しかし、ここには空海の「15歳での入京」や「大学ドロップアウト」については、なにも触れられてはいません。空海が大学を辞して山林修行の一優婆塞として再出発したというのは、『御遺告』と、それに基づいて作成された多くの空海伝によって語られている説です。『御遺告』については、その名の通り空海の遺言と信じられ、かつてはその内容を疑うことが出来ませんでした。しかし、戦後の研究者が明らかにしてきたのは、『御遺告』の中には後世の「作為」があることです。『御遺告』に書かれていることを、一度疑ってみて空海の生涯を見直そうという動きが研究者の中にはあるようです。

空海の出自等について
卒伝に「讃岐國多度郡人。俗世佐伯直」とあるので、讃岐国多度郡出身であり、佐伯直氏であったことが分かります。また『日本三代実録』貞観三年(861)11月11日辛巳条には、「讃岐國多度郡故佐伯直田公」について「田公是大僧正也」あり、父は佐伯直田公であったと記します。
 
 空海の出自について、現在の研究者たちが根本史料とするのは入唐の直前に作成された延暦24年(805)9月11日付太政官符案です。この平安末期の写本が、大和文華館に収蔵されています。内容は、遣唐使の一員として入唐することになった留学僧空海への課税停止を命じた内容です。これを見てみましょう。
延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
        延暦24年9月11日付 太政官符

大政官符 治部省
 留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位上
 佐伯直道長 戸口同姓真魚
右、去る延暦廿二年四月七日出家し入唐す。
□承知すべし。例に□之を度せよ。符到らば奉行せよ.
□五位下□左少弁藤原貞副 左大史正六位上武生宿而真象
延暦廿四年九月十一日
空海(幼名真魚)の戸籍は「讃岐國多度郡方田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口眞魚」と記します。
①「讃岐國多度郡方田郷」と国郡名に加えて郷名まで記されていますが「方田郷」については「弘田郷」とするのが有力です。
②「戸主正六位上佐伯直道長」
戸主としては佐伯道長とあります。ここから戸主の道長を空海の父と考える説が、後世にはでてきました。「戸主が父」という後世の先入観から、空海の父を道長と誤解したのです。道長は空海の所属する戸の戸主であったことは確かです。でも父ではないと研究者は考えています。
同じようなことは、空海の親族になる最澄についても云えるようです。
最澄の場合、宝亀11年(780)11月10日付の「近江国府牒」や延暦二年(783)正月20日付の「度牒案」に「戸主正八位下三津首淨足戸口」とあります。しかし、伝記類では父が三津首百枝とあります。最澄も戸長と父親は、別人だったことが分かります。

奈良時代の戸籍と戸口のことを見ておきましょう。
 戸とは戸籍の戸ですが、これを今の戸籍のイメージで見ると分からなくなります。先入観という色眼鏡を一旦外す必要があります。日本国憲法の戸籍は、夫婦単位とその間に生まれた子供が一緒に入ったものです。ところが、この時代は一つの戸に、百人もの人数を含んでいました。なぜこんなことになるのかというと、戸籍と班田収授の法に行き着くようです。
 古代国家の成立を「個別人身支配体制の確立」という視点から捉えると、ひとりひとりの人間を国家が戸籍で管理できる体制の出現と規定できます。それでは、今のように家毎に戸籍台帳を作ったのかというとそうではないようです。現在の小家族・核家族ごとに戸籍を作って、その家に支給する口分田を計算するのは煩雑で、非現実的です。そこで考えられたのが、組内とか縁家とかいう呼び方を持つ集団です。地縁や血縁で固まっているような、お互いに顔見知りの集団をまとめて把握しました。その集団に対して戸籍が作られます。そこには血縁関係のある一族が書き上げられ、一つの戸とされました。それから男が何人、女が何人、何才の人間が何人というぐあいに数え上げ、水田を男はどれだけ、女はどれだけというぐあいに戸毎に口分田が支給されます。
 つまり、口分田は家毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されたわけです。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。そして秋が来て税の取り立ての際には、戸単位に徴税します。戸主と呼ばれる戸長がいて、その人が税を集めました。田舎の納税組合の組合長さんみたいなものでしょうか。戸主が、戸全部の税を集めます。納めることのできない人が出たら、戸主が「今回は、わしが代わりに納めておこう」という感じです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。
 もともと生活の単位、地域の人々の結び付きの単位としての戸というのがあって、その戸単位に、土地を分けたり税を集めたりするシステムです。地方役所としては、一族や地域の人を束ねる役の人が欲しいんで、五十戸そろったら、それで一つの郷とします。郷は音では「ごう」ですが、訓では実際に「さと」と読みます。つまりそれが自分の村だということになります。
 こうして、だんだん人が増えてきて、五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。
佐伯直氏の戸主の話にもどります。
この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、戸の最年長者がなるのが普通で、戸口の租・庸・調の責任を負いました。それがここでは佐伯直道長です。彼の戸籍には、彼の兄弟や息子たちの家族が含まれ、総数は百人近くの戸口の名前が並ぶことになります。その中の一人に、空海の父である田公もいたと考えられます。つまり、戸主が空海の父親や祖父であったとは限らないのです。道長は、田公の叔父であった可能性もあります。道長が空海の祖父とは云えないことを押さえておきます。
延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
延暦24年9月11日付 太政官符

「戸主正六位上佐伯直道長」とあるので、道長は正六位上の位階を持っています。
これは多度郡の郡司を勤めるには充分すぎるほどです。一方、空海の父田公の位階がありません。正史では「無冠」でした。つまり、田公は郡司を勤められる立場にはなかったことになります。とすると、佐伯直氏は郡司を務める家であっても、空海の田公は、その資格はなかったことになります。戸籍上は戸主佐伯道長に属するけれども、その本流ではなかったことになります。
 1 空海系図52jpg
松原弘宣氏は、佐伯氏の系図を作成し次のような見解を述べます、

「讃岐国の佐伯直氏が多度郡の部領氏族であり空海を出した一族であることはよく知られて」おり、「倭胡連公、是豊雄等之別祖也」とある。ここからは田公系列以外の佐伯直氏がその直系と考えられる。さらに、佐伯直氏は国造の系譜をひいていることと、道長が正六位上の位階を有していることから、道長が佐伯氏の本宗で、多度郡の郡領であった可能性が高い。(中略)
以上の検討より、多度郡の佐伯直氏は、系図に示した佐伯直田公の系列以外に、図六のような系譜が想定され、この系譜が佐伯直氏の本宗で、奈良時代における郡領を出していたと考えられるのである。
  以上をまとめておくと
①空海の戸籍からは本貫が「讃岐國多度郡方田郷」と記され、「方田郷」は「弘田郷(善通寺)」とされてきた。
②「戸主正六位上佐伯直道長」とあるので、戸主は道長であることがわかる。しかし、道長が祖父であるかどうかは分かならい。道長は官位を持ち、郡長も務めた一族の長であると考えられる。
③一方、空海の父田公は無位無冠で郡長を務めた人物とはいえない。ここから「田公ー空海」は、佐伯直氏の本家ではなく、傍系のひとつの血筋と考えられる。
④佐伯家の本家は後に空海氏の後継者となった実恵の生家などが考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    牧伸行 入唐前の空海 
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