瀬戸の島から

2022年03月

高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
「さぬきの道者一円日記」

前々回に髙松平野周辺での伊勢御師の「布教活動」を冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」で見ました。この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成され、それが約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。この内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の檀那(道者)の家に出向いて、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。前々回は、その檀那廻りの霞(テリトリー)やルートを見ましたが、今回は別の視点で追ってみようと思います。テキストは、「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」です。

 伊勢の御師の来る季節 : 江戸・東京ときどきロンドン
檀那宅を訪ねる伊勢御師(江戸時代 戦国時代は山伏姿だった)

 旦那の中に、姓を持つ者や寺社がかなりあります。

ここからは、伊勢御師の布教活動が村落内の有力者から進められ、周辺の人間へと進められたことがうかがえます。伊勢御師の布教活動が、まずは戦国大名などを檀家にして、そこを梃子にして家臣団に広げ、さらにその領地の有力者に信者を獲得するというやり方がとられているようです。

伊勢御師 さぬき檀那と初穂

表1に、御祓大麻(大麻祓おおはらいたいま)の欄があります。
伊勢御師 伊勢お札
伊勢神社の御祓大麻
御祓大麻は伊勢神宮が特別な檀那に配布した大きな御札です。その大麻の中で最大級なのが「一万度御祓大麻」です。 御祓大麻の欄に●印がついているのは30名で、全体の1割程度にしか過ぎません。彼らが特別に重要な人物であったことが分かります。 御祓大麻を配布されているのは、野原中黒里の談議所(無量寿院)を、別にすると姓を持つ者がほとんどで地域の小領主層のようです。このことからも、伊勢御師の布教活動が地域有力者から始まったという見方が裏付けられます。
伊勢御師 伊勢参宮名所図会
伊勢御師の邸宅 全国からの檀那を迎え入れた宿でもあった。

今までの伊勢御師・岡田太夫の活動をまとめておきます。
①岡田太夫の霞は、海岸線沿いの港湾集落に重要エリアが集中している
②岡田太夫の布教活動は、地域の小領主層を檀那化することから始められ、その周辺部の人々に及んでいた。
伊勢御師 と檀那

船で野原中黒里にやってきた岡田太夫は、檀那である「正藤助五郎殿」の家に宿泊しています。そして、ここを拠点に以下の野原郷の檀那62軒の家をめぐっているようです。

「野原中黒(12人) → 野原浜(14人)→ 西浜(1人) → 野原天満(6人) → 野原中ノ村(12人)」

その中には、石清尾八幡官の神官や野原庄の庄官、さらに香西氏配下の小領主たちもいます。これを一日で全て廻ることはできません。野原郷内の移動経路は中黒をスタートして、時計と反対回りに訪問し、夕方が来たら中黒の「正藤助五郎殿」の館に帰って来るという「拠点方式」で行われたと研究者は推測します。それを2~3日でおえたのでしょう。
伊勢御師 檀那廻りルート

 記録で次の宿となっているのは鮎滝の手前の井原里です。
ここでの宿は、冠櫻神社(香南町)の祭礼で番頭を務めた友則宅に入っています。記録には日時が記入されていないので、いつのことか分かりません。また、野原郷での檀那訪問が何日かかったのかも分かりません。
 中黒から井原里までは、14km(三里半)程度なので、歩き慣れた伊勢御師(修験者)であれば2時間半程度で到達できる距離かもしれません。しかし、それでは檀那廻りの「営業」にはなりません。途中の村落に立ち寄って、101名の旦那に土産を配り、それぞれ異なる量(額)と形態の初穂料を徴収しなければなりません。さらに三ケ所では、地元代行者に扇150本と10本を渡す、という営業マン顔負けの業務をこなすことが求められています。そして、用件だけを終わらせて、「はい それではさようなら」では済みません。一年ぶりの再開ですから心をつなぎ止めるための挨拶や情報交換なども欠かせません。一日に20軒としても5日はかかると思われます。
 岡田大夫自身は、馬に乗って行程をこなした可能性もあります。
しかし、多量の伊勢土産を持参し、またそれと引き換えた初穂を運ぶためには駄馬(荷駄)がいります。その馬子は、当然徒歩です。それほどのスピード・アップは望めたとは思えません。こんな調子で伊勢御師のお札配布と初穂料集金の旅は行われたとすれば、かなりの日数がかかったことになります。これに対して研究者は、全ての檀家をめぐっていたのではない可能性を次のように指摘します。
  ・旦那を一軒ずつ訪ね歩いたのか
  ・ある程度まとまった集団と、どこかで落ち合ったのか。
井原里を例で考えると、横井甚助・甚大夫(高松市香南町大字横井)や見藤太郎左衛門(同町大字由佐字見藤)の屋敷をそれぞれ訪れたのか、それとも「公共の場」である冠尾八幡宮(現・冠櫻神社)で、落ち合ったのか、ということです。
冠纓神社 御朱印 - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
冠櫻神社(旧冠尾八幡宮)

井原里の檀那のうちの、有姓者(横井・見藤・友則)は、15~16世紀の放生会の番頭として名前が記された一族で、冠尾八幡との繋がりが深い上層住民だったことが分かります。また、「惣官殿」も、冠尾八幡宮との関係か想定されます。井原里にやってきた岡田太夫は冠尾八幡宮に入り、そこに集まってきた檀那衆に伊勢札を配り、初穂を集め、旦那の新規獲得のために八幡宮に扇70本を残して、その日のうちに、宿とした友則宅に入ったことも考えられます。そうだとすると、村の神社は地域の対外的な窓口としての機能を果たしていたことにもなります。
岡田大夫が余分に扇を託した相手は、14件全てが「地下」か「地下中」、「寺中」と記されています。
大熊里では松工、国分里では法橋の項に、次のように記されています。
「あふき(扇)計 此方より数あふき十本余候 御はつあつめ申候余候」

ここからは村落内の有力旦那が代行して扇を配り、初穂を集めることを行っていることが分かります。彼らは布教活動の協力者とも云える存在です。その協力者によっても、新しい檀那が獲得されていたことがうかがえます。

記録には、岡田太夫が次のような檀那の家を宿所にしたと記されています。
①六万寺(牟礼里)のような地域の有力寺院、
②正藤助五郎(野原中黒里)、岡野七郎衛門(上林里)、川渕二郎太郎(庵治里)、おく久兵衛門(原里)のような有姓の武士身分と見られる者の家
③地域の神社祭礼で番頭を務めた友則(井原里)
④門前の職人である研屋与三左衛門(志度里)
⑤海運や漁掛に関わると推測される九郎左衛門(乃生嶋里)
③④⑤は、地域の上層住民と見られる者です。ここからは伊勢御師が宿としたのは、檀家の中の有力寺院か、武士身分、上層住民の3つに分類できそうです。このうちでは7人が沿岸部の港町に住んでいます。残りの5人も阿波への峠越えの沿線(井原里・岩部里)、古・高松湾に注ぐ河川の河口近く(上林里・下林里・六条里)などに家があったようです。ここから研究者は、次のように推察します。

「宿所は、陸上・海上交通の要衝に位置する地域に宿が選択されている」

 各地の檀那から集められた初穂(銭・米・豆・綿など)は膨大な量に上ります。これを運びながら次の宿所まで移動することは避けたいところです。できれば旅の最終日に、旅先のホテルから宅急便でボストンバックを家に送るように。初穂料を送りたいものです。宿所提供者の家が何らかの形で運輸業(廻船・馬借など)に携わる稼業であったのではないかと研究者は推測します。
第26回日本史講座まとめ①(商工業の発達) : 山武の世界史

記録の中には「あんない(案内)」が次の5名登場します。
野原中ノ村の彦衛門、
坂田土居里の二郎左衛門、
漆谷里の新兵衛、
牟礼里の六万寺式部、
志度ノ里寺中の華厳坊、
彼らは大麻配布の対象者ではありませんが、六万寺式部や華厳坊のように村落・寺中内のトップクラスの有力者が含まれています。
六萬寺<香川県高松市> | 源平史蹟の手引き
六萬寺(牟礼町)
「案内」については、研究者は次の二つが考えられます。
①現地の行程の案内者、
②伊勢参宮の案内者すなわち先達、
野原西浜の官内殿の項に、次のように記されています。
「ミの年にて候、年々米二十つゝ賜にて候」

ここからは、岡田大夫は少なくとも巳の年、すなわち丁巳=弘治三年(1557)以来、毎年讃岐の縄張りを廻っていることが推測されます。そのため、讃岐の行程についてはよく分かっていたと考えられ、ことさらに現地での道案内を必要としたとは思えません。とすれば、案内者とされる旦那は、伊勢への先達(②)の可能性が高いと研究者は考え、次のように指摘します。
「伊勢参宮には先達が原則として存在しない」とされている。しかし、慶長四年(1599)請取の熊野の「廓之坊諸国旦那帳」(熊野那智大社文書)には、先達の名が見え、伊勢よりも早く盛行を見た熊野参詣では、先達の引率で参詣を行う形が16世紀後半まで残っていたことが読み取れる。実質的な先達としての役割を果たした現地の旦那を伊勢参詣においても想定することは、十分あり得ることである。
 つまり「案内」は、伊勢詣での先達を勤める者達だったというのです。そうだとすれば、漆谷里の新兵衛には「案内者として地下中へ扇十五本入中候」と記されています。ここからは新たな檀那獲得のための布教活動が地元の「先達」によっても行われていたことが分かります。

伊勢御師 伊勢参りの先達
伊勢詣と先達(江戸時代)

以上から、檀那の中に次のような稼業にかかわる人たちもいたようです。
①新規の檀那獲得の地元代行者
②伊勢詣での先達
③初穂の輸送も担う宿の提供者
以上のような実務的な協力者が檀那の中にはいたようです。
まとめておくと次のようになります
①讃岐にやって来た伊勢御師は、有力な檀家たちの支援協力を受けて初穂料集金を行っていた
②宿としたのは運送業(廻船・馬借)にかかわる檀那たちで、お土産品や初穂料輸送などを支援した。
③伊勢御師は一軒一軒を訪問するのではなく、有力檀家たちの協力を受けて配布や集金を依頼することも行っていた。
④檀那の中には「あんない」と記されたものがいるが、これは伊勢詣での先達を務める者達で、伊勢御師の支援協力者でもあった。
⑤有力檀家の伊勢参りの際には、伊勢御師が手配や供応をおこない、両者の間には密接な人間関係が築かれていた。そのため初穂料集金に対しても檀那たちは協力的であった。

伊勢御師 檀那を迎える伊勢御師
伊勢詣での檀那たちを向かえる伊勢御師

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   佐藤竜馬  伊勢御師が見た讃岐
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前回は熊野や伊勢の御師(修験者)たちが髙松平野周辺の港や村々の檀那を廻って、お土産を配って伊勢詣を勧誘していたこと、その代償として初穂料を集めていたこと、そのテリトリーは讃岐の5つの郡に跨がることを見てきました。これは宗教的な見方を離れてながめると、広域エリアの有力者からの集金システムが機能していたことになります。これを徴税に「転用して利用」しようとする勢力も現れます。今回は備前において棟別銭の徴収を請け負った児島五流修験の動きを見ていこうと思います。テキストは「榎原雅治 山伏が棟別銭を集めた話 日本中世社会の構造」です。

棟別銭は、段銭と並んで室町幕府の重要な財源でした。
大まかに云うと、段銭は田数に掛けられ、棟別銭は家に課せられものでした。しかし、古代と違って中世は戸籍台帳は作られていません。守護所には、郷村の人口や戸数なども分かっていなかったようです。ある研究者は次のように述べています。

「室町期の守護体制下であらためて棟別設定の行われた徴証はなく、棟別銭の賦課台帳は守護職機能の属性の一として前代から継承されたと推測される」

なんとも頼りない話ですが、確かな戸数や人口も分からないのですから、各家の経済状況も分かるはずがありません。名主を通じての徴収ですから、そこだけ押さえていればよかったのでしょう。
網野善彦氏は、棟別銭と勧進の関係を次のように指摘します。
弘安九年(1286)の東寺造営の際に、大勧進憲静が朝廷に請って五畿内諸国から棟別十文の銭を「勧取」ることを許された点に注目します。これから棟別銭を「門付」勧進の体制化として、勧進の「堕落」という文脈の中で捉えます。

  「家々を遍歴するかわりに、国家機構を全面的に利用し、それに依存して、間別に銭を徴収、勧進の目的を達成しようとする」

これを逆の面から見ると、棟別銭は勧進聖の活動があってこそ、徴収することができたとも考えられることになります。

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応永十九年東寺修造料棟別銭
応永19年(1413)9月11日、幕府は東寺修造料として、出雲に段銭、丹後・越中・備前・備後・尾張に棟別十文の棟別銭を課します。備前では、この棟別銭を誰が徴収したかは、次の史料で分かります。
当時修造料備前国棟別事、小島(児島)山臥方申付候処、無正躰候、御屋形被仰付左右候は、殊畏入候、伽藍修理要脚候之間、可為御祈蒔専一候、尚々追而憑申外無他候、恐々謹言、
九月二十九日                          快玄
浦上三郎左衛門殿
この文書の端裏書には「棟別守護方状案」とありますが、内容から推察して守護方が発給したものではなく、東寺から守護赤松氏の重臣浦上氏に充てた書状だと研究者は考えているようです。研究者が注目するのは、次の部分です
「東寺修造料の備前国棟別銭については、小島(児島)山臥(伏)方へ申付けた候処」

ここには棟別銭微収を「児島山臥方」に命じたとあります。「児島山臥(山伏)方」は、児島五流修験のことでしょう。五流修験については、以前にお話ししましたが「復習」のためにので、宮家準氏の論文をそのまま引用します。
五流 備讃瀬戸
①が児島五流

五流修験は岡山県南部の児島半島に本拠を持つ修験集団である。その濫傷は平安時代中期熊野本宮長床に依拠した長床衆と呼ばれる熊野修験に求めることが出来る。長床衆は熊野本宮の神領中最大の児島庄に熊野権現を勧請し、これに奉仕する修験集団を形成した。この集団は役小角の高弟、義玄・義学・義真・寿元・芳元のそれぞれを開祖に仮託した、尊滝院、大法院、建徳院、伝法院、報恩院の五カ寺を中心としていることから五流と呼ばれた。その後平安時代末頃には児島の五流は、 一時衰退した。しかし鎌倉時代初期、承久の乱により、児島に配流された頼仁親工の皇孫によって五流の五カ寺が再興された。以後中世期を通して、五流修験は五流とそれをとりまく公卿からなる長床衆、社僧などを中心とする一山として繁栄した。五流山伏は、児島のみでなく熊野にも拠点をもち、皇族の流れをひくことから皇孫五流、あるいは公卿山伏と呼ばれ、院や貴族の熊野詣にあたっては先達として活躍した。

 五流修験が「児島山臥方」のようです。つまり東寺は、棟別銭の徴収を五流山伏に請負わせたのです。

どこいっきょん? 承久の乱と尊瀧院(そんりゅういん)・倉敷市
五流修験の尊瀧院

応永20(1414)年9月、備前から東寺に届いた現地報告には、次のように記されています。

  「取始候て四日目にて候やらん、野田と申所にてハ、すてに山伏共打ころされ候ハんするにて候」

意訳変換しておくと
  「棟別銭の徴収を始めて4日目に、野田という所で、山伏たちは打ち殺されそうになりました・・」

とあるので、山伏たちが実際に、棟別銭徴収に廻っていたことが分かります。これと同じように備前からの六通の現地報告書が東寺に残っているので事情が分かります。研究者が注目するのは、6通の報告書の現地差出人です。
四通は縁親
一通は縁秀
残る一通は無署名だが、筆蹟から推して縁親のもの
その内容はどれも徴収の進捗状況や守護との交渉経過についてです。現地報告を作成した縁親、縁秀が棟別銭徴収に大きな役割を果たしていたことが分かります。
では、彼らはいったい何者なのでしょうか。
文中に守護に対して使節を発遣するよう交渉しているので、守護配下の者ではないようです。では東寺の僧侶でしょうか。その可能性もないと研究者は考えています。それは、守護使の発遣を要請してきた東寺に対し、守護側は東寺が使を下向させるならば、守護使を出してもよいと回答してきているので、これ以前には東寺の使は備前にはやって来ていなかったと推測できるからです。
 その中で、縁親は4、5月ごろにはたびたび守護所である備前福岡に赴いて守護と交渉を重ねています。ここからも、彼が東寺の下した使である可能性はなくなります。とすれば残る可能性は五流山伏の一員だったということになります。

五流修験 清田八幡
清田八幡宮

児島の五流熊野権現の近くの清田八幡宮には、応永28年(1421)の棟札が残っています。
そこには「祝師西」の名があります。清田八幡宮は、熊野権現の御旅所で、その庄務は五流山伏が勤めていました。研究者が注目するのは、「縁親、縁秀、縁西」のいずれも「縁」の字が共通している点です。ここから彼らは五流山伏の一員だったのではないかと推察します。

五流 長床
焼失以前の五流長床

では五流山伏は、なぜ棟別銭徴収を命じられたのでしょうか。

日頃から東寺の命令を受けるような立場にあったのでしょうか。
徴収の始まる直前の応永20年4月末ごろ、縁親から東寺に届けられた書状の一節には、次のように記されています。

 先々不致沙汰在所を小寺方より注文を出候、うらに小寺判候、三社領あまた所々、此注文の在所皆国中大庄にて候、是を除候者、 いかほども取候ハんする分ハ候ましきよし申候、此外吉備津宮領・西御所御知行なと共儀候へく候程無正外事にて候、かヽる様者存知不中候て、愚身も領状申て候、後悔仕候、(下略)

意訳変換しておくと
「棟別銭を前々より免除されている在所の注文は小寺方(守縦代小寺備前入道)より提出された。皆大庄ばかりで、これを除くとどれほど徴収できるか疑わしい。そのうえ吉備津宮(備前一宮)や両御所一足利義満側室高橋殿)の所領も協力は期待できないだろうから、棟別は殆んど集められないかもしれない。このような状況は予想できたことで、私自身も(引き受けたことを)後悔している。」

研究者が注目するのは、最後の「かゝる様者存知不申候て、愚身も領状申て候、後悔仕候」という部分です。ここから、縁親は東寺の一方的な命令によって否応なく徴収にあたっているのではなく、断りたければ断ることもできた立場にあったことがうかがえます。つまり五流山伏は棟別銭徴収に何らかの成算をもって、東寺の要請を受けたようです。また東寺も、五流山伏に徴収できる能力を認めなければ、一国の棟別銭徴収を彼らに一任することはないと研究者は考えます。
その場合、 一番に思いつくのは、五流山伏が備前守護と密接な関係にあったのではないかということです。ところが、どうもそうではないようです。
 棟別銭が徴収され始めてからの様子を見ても、守護である赤松氏が五流山伏に協力的であったようには思えません。縁親らの書状には、4月中旬ごろから、直接備前守護所の福岡に出向いて、守護使の発遣を求めています。赤松側は一応これを了承したものの、6月に入ってもなかなかに動こうとはせず、何度も交渉を重ねているうちに、その経費だけでも十貫余に及んでいます。6月も半ばになってようやく、守護より東寺に、東寺が使を下向させるなら守護も使節を出そうという通知があり、盆を過ぎたころになって、ようやく徴収が始められたようです。しかし、それでもなお守護の全面的な協力は得られず、徴収の成果は散々でした。九月の初め、縁親は東寺に、幕府に働きかけて守護の協力が得らるようにして欲しい、と訴えています。このような経過を見ると、五流山伏と守護の間に親密なつながりがあったとは考えられません。
 五流山伏が棟別銭徴収を請け負ったのは、彼らが守護と特別なつながりをもっていたためではないとすれば、東寺は、いったい何を見込んで五流山伏に棟別銭徴収の詰負いを指名したのでしょうか。

五流 山伏寺判明図
神仏分離以前の五流各寺院跡

 それは修験者たちが初穂料集金のために、村々をめぐっていたからです。
 五流の修験者たちは、伊勢御師と同じように各村や港の有力者である檀那たちの間を、お土産を持ってめぐり、その代償として初穂料を「集金」していました。初穂料の代わりに、東寺に代わって棟別銭を徴収するという感覚だったのかも知れません。
廻檀(檀那めぐり)を行つていたのは、山伏だけでなく伊勢御師が有名です。
前回は讃岐の「さぬきの道者一円日記」で、高松周辺での伊勢御師の活動を見ました。今回は「丹後国御檀家帳」(神宮文庫所蔵天文七年(1538)を見てみましょう。
五流 日置
丹後国与謝郡の日置郷
これは伊勢御師・福井末高が残した丹後の檀那帳の冒頭の与謝郡の日置郷の部分です。
与謝郡分
一ひをき(日置)の郷一円里数あまたあり、ちぃさき村へは毎年音信不申候、
一ひおきしを(日置塩)浜 家弐拾軒計
  南大夫殿 かうぉや也
  (以下、二十名省略)
一ひをきむこ山の御城 御内衆家参拾軒計
(以下、二名省略)
一ひをさ田中むら 家八拾軒
 中垣小治郎との
(以下、五名省略)
一ひをきくわ田村 家八拾軒
 かうおや 川ら殿

このように、この檀那帳は村ごとに福井末高の檀那が書き連ねられています。村の数は百を超え、丹後全域に及びます。この檀那帳で研究者が注目するのは、それぞれの村の家数が書き上げられていることです。この家が檀那の数ではなく、村全体の家の数であることは、村ごとに名前の挙がっている檀那の数と家数の一致しないことからも明らかです。なぜ御師が家数を把握する必要があったののでしょうか。考えられる理由は次の通りです
①信者獲得・教線拡大のための資料として記録した
②丹後守護一色氏の意を承けてその領国支配の一環として記録した。
②だとすると、御師(修験者)は守護や戦国大名の間者(スパイ)としの役割も果たしていたことになります。土佐の長宗我部元親がブレーンや右筆集団に修験者たちを重用したという話ともつながってがきます。どちらにしても御師は、村の中に入り込み、村の家数を数えて記録しています。山伏の家数把握を明示する史料は今のところはないようですが、彼らも廻檀によって家数を把握していたことは、十分ありえることと研究者は考えています。

以上のような五流修験の山伏集団の特性と情報能力、初穂料徴収能力の慣行などを見込んだ上で、東寺は五流修験の山伏たちに軒別銭を徴収させようとしたのでしょう。

五流 四殿・五殿
児島五流
戦国期の五流一山が直面した課題は、何だったのでしょうか
①五流一山では、戦国時代の争乱で神領の多くを失ってしまいます。神領に頼らない一山の経営方法が求められます。
②戦乱で修験者たちに大きな実入りになっていた熊野詣でも衰退します。この結果、熊野本宮との関係自体も薄れていきます。代わって本山派の聖護院末寺として活動するようになります
このような時代の変化に、どのような対応策したのかをみておきましょう
室町時代になると、院の財源は「配札・祈祷」などの布教活動に求められるようになります。こまめに村々を歩いて初穂料を集めることが必要にとされるようになったのです。そのための「営業努力」が続けられます。五流修験では次のような「霞(かすみ=テリトリー)」が設定されていました。
尊滝院 塩飽七浦、備中松山・連島、肥前七浦、肥後
太法院 備前瓶井山・金山・脇田・武佐・御野、小豆島 作州(本山、桃山除)、日向
建徳院 伊予、安芸内豊田郡、紀伊の内日高郡 
報恩院 備前国岡山並四十八ヶ寺、作州本山・横山、備前西大寺
伝法院 讃岐、備後一万国並備中之内浅口郡 
ここからは5流(5つの院)が、それぞれテリトリーを持ち、その地域の山伏たちを統括して、布教活動を行っていたことが分かります。統一した組織体と云うよりは、5つの院の連合体と捉えた方がよさそうです。これを見ると、備前は報徳院の霞になっています。この霞が中世においても同様であったとすると、応永19年の棟別銭の集金には、報徳院の山伏が備前の村々を巡って集めたことになります。
 最後に棟別銭を負担する側から見ておきましょう。
棟別銭は、各家に一律に同額が課されたものではありません。戦国大名後北条氏や武田氏は、棟別銭は家の大小に応じて一定の差額を設けて賦課しています。戦国期のものとされる「菅浦文書」中の棟別掟には、村の家は「本屋」「かせ屋」「つのだ」に格付けされ、ランクを設けて、それぞれから相応の棟別銭が徴収されています。
 これらの例からは、室町期における棟別銭も、画一的に課されたのではなく、家の格付けを前提として差額を設けて、一定の格以上の家にのみ課されたと研究者は考えています。そのため棟数把握は、家屋の数を勘定すればすむというものではなく、村内部の情況に精通している必要があったはずです。
  同時に、棟別銭を求められる者と求められない者の二つに分類されます。さらに、軒別銭をいくら払ったかでも階層化されていきます。これは、軒別銭を集金する修験者のネットワークを通じて地域の人々にも周知拡大されていきます。
「あそこはいくら出したんな」
「ほんならうちも、同じだけでお願いします」
「うちは、その半分で・・・」
こんな会話は、鎮守の神社の新築寄付金集めの時によく聞きます。自分の家の格にあわせた額をはじき出しています。ある意味、風流踊りや猿楽の際の桟敷席順と同じです。何処に座っているかによって、その家の家格は決定されたのです。神社への奉納金も額によって、玉垣の大きさは変わりますが、これも家格とリンクします。その原型となるものが中世の村に姿を現していたようです。
卍極楽寺|和歌山県紀の川市 - 八百万の神
極楽寺
応安8年(1375)、紀伊国粉河庄東村で、極楽寺造営のための勧進が行われます。
そのときの史料には、80名近い村民たちからの勧進銭は、百文から五貫に至る10段階に分かれて集められています。また正長元年(1428)に行われた近江国今堀郷での大般若経勧進でも、村民からの勧進銭は50文から一貫文までの五段階に分かれています。
 村の鎮守や寺院の棟札・鐘銘などから、その造営が「村人」の勧進で行われたことが分かるものが数多くあります。ここに登場する「村人」とは村民一般を指す語ではなく、宮座の構成員である特定の有力村民のみを指す語でした。このような勧進のあり方を通して、村の中では、勧進に参加しうる層としえない層という形で、あるいは、参加しうる層の中でもどれほど出銭しうるかという形で、階層秩序、家の格付けがされていたのです。
  そして重要なのは、この秩序は一村内で確認されるのみではなく、より広い地域に信仰圏を有する寺社の造営への参加を通じて、村々を超えた広い地域の中で承認されたものとなっていたことです。
 たとえば、応永26(1419)年の近江国伊吹山観音寺の造営では、姉川流域の多くの村々の「村人」が奉加銭を寄進しています。村内での秩序が、より広い地域の場にもちこまれていることになります。これを研究者は次のように評価します。

「 つまり信仰圏に対応して重層的な勧進が存在しており、それに参加することによって、村内の秩序は一村内においてのみならず、より広い地域において承認を得たものとなりえたのである」

  東寺のための課せられた軒別銭を集めるという「徴税行為」について考えてきました。
この「徴税行為」を、守護は実施できる能力を持っていなかったと研究者は考えているようです。それは、徴税組織がなかったこともありますが、戸籍台帳を持たず、村々の戸数も掴んでいない守護所の武士たちに手におえるものではなかったのです。彼らには、村の一軒々々の家の格付けもできなかったでしょう。
 荘郷寺社における祭礼時の席順というかたちで、宗教的には、自然な形でそれができたのです。それも地域の有力者が自らランク付けを行う形で・・・。これは、別の言い方をすると「勧進を通して家々の格が地域的な承認を得た」ことになります。幕府が棟別銭を賦課するにあたって、この体系を賦課基準として「転用」したことになります。
 廻檀(檀那めぐり)のために各地を巡った山伏たちが書き留めている村の棟数とは、単なる家屋数ではなく、「勧進の体系」に則った、格付けされた家数だったと研究者は考えています。

  以上をまとめておくと
①室町時代の棟別銭は、各家々に画一的に課されたのではなく、家の格付けを前提として差額を設けて、一定の格以上の家にのみ課された
②そのため棟数把握は、家屋の数を勘定すればすむというものではなく、村内部の情況に精通している必要があった。
③そのため当時の守護所には、棟別銭を徴収する能力も情報も人員もなかった。
④そこで東寺は伽藍修復のために幕府に許された軒別銭の徴収を備前では、五流修験に請け負わせている。
⑤五集修験は、熊野・伊勢御師と同じように、お札を持って各村々の檀那をめぐりを日常的に行っており、村の情報などに精通し、地域の荘郷寺社への影響力も強かった。
⑥五流修験の修験者たちは、地域の祭礼の際の席次ランクなどから村の有力者の階層化情報を掴んでおり、それを棟別銭を集める際にも利用した。
⑦また、地域の祭礼を握る修験者によって進められる「募金活動」を、村の有力者も無碍には断り切れない部分もあった。
⑧信者組織が徴税マシーンとして機能するのを知った戦国大名の中には、これを積極的に活用しようとする者も現れる。こうして修験者組織と政治勢力が結びついていくことになる。
⑨徳川幕府は、政治勢力化した修験者勢力を嫌い、この力を削ぐ方向に動く。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 伊勢御師1
檀那宅を土産を持って訪れる伊勢御師 (江戸時代)
 戦国時代の16世紀になると多くの伊勢御師が全国各地を訪れ、人々を伊勢参詣ヘと誘うようになります。讃岐にも伊勢御師がやってきて、勧誘活動を行っていたようです。

伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~(前編)@ブラタモリ - メランコリア

それが分かるのが、冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」です。
この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成され、それから約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。この内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の旦那(道者)の家々を巡って、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。これを今回は見ていくことにします。テキストは「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」です。

高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
「さぬきの道者一円日記」
「さぬきの道者一円日記」は、次のような体裁になっています。
①一 さぬき 野原  なかくろ(中黒)里  一円
     数あふき  百五十本入申候
②正藤助五郎殿  やと(宿)③おひ(帯)あふき(扇)米二斗
是 藤 殿      おひ あふき のし(熨)斗本   代三百文
     小刀                同百文
六郎兵衛殿    おひ あふき        米二斗
助左衛門殿       同                    米二斗
ここには次のような項目が記されています。
①地域名         ここでは野原中黒里
②人物(寺社)名     旦那名
③御祓大麻配布の有無と伊勢土産の種類
④代価(初穂料)、
の順で整然と記されていて、日記というよりも帳簿に近い印象を受けます。土産の品目は、帯上崩・小刀などの衣類や器物、焚斗(焚斗飽)・鶏冠(鶏冠莱)などの海産物が中心です。土産は「御師が旦那に配布する、という行為自体が重要であり、それが初穂徴収という枠組みを保証している」と研究者は考えています。

伊勢御師 さぬき檀那と初穂
「さぬきの道者一円日記」 野原周辺の檀那リスト

 上表からは野原中黒里に12名(坊)の旦那がいて、そこに伊勢土産の帯や扇を持って廻ったことが分かります。野原中黒里から記述が始まるので、岡田大夫が最初に上陸したのは、野原中黒里と研究者は考えています。
伊勢御師 野原目黒
華下天満宮(高松市片原町) 中黒里

 中黒里は、華下天満宮(高松市片原町)の古名「中黒天満官」にその名残りがあります。
中世の中黒里は、中世復元図によると旧香東川の河口の中洲で、「八輪島=八幡島(ヤワタジマ)」と呼ばれる聖地でもあったようです。その北側に中世の野原湊はあり、活発な海上交易活動が展開されていたことが発掘調査から分かっています。

野原・高松・屋島復元地形図jpg

旧香東川河口の中洲にあった野原中黒里

そういう意味では、中黒里は髙松平野で最も活発な活動を行っていた港の背後にあった集落になります。畿内と行き来する廻船も数多く出入りし、梶取りや海上交易業者なども数多く生活する「港湾都市」的な性格をもっていたようです。
野原の港 イラスト
中世野原湊の景観復元図

伊勢御師の岡田太夫は、畿内から船でやって来て、野原湊に上陸し、ここを起点に讃岐の旦那衆を巡ったのでしょう。「正藤助五郎殿  やと(宿) おひ(帯)あふき(扇)米二斗」とあるので、正藤助五郎の家を宿としたことが分かります。

伊勢御師 野原復元図2
中世野原周辺の復元図 無量寿院(談義所)があった

 中黒里の旦那の中には「談義所」と記されています。これは讃岐七談義所として有力寺院であった無量寿院のことです。周辺にもいくつもの坊があり、そこに住む僧侶(修験者?)たちは、伊勢信者でもあったようです。当時は神仏混淆で、僧侶というよりも修験者たちで神仏両刀使いだったのです。
   野原・高松復元図カラー
中世野原の景観復元図
岡田太夫は、次のようなルートで旦那の家を廻っています。
①野原郷内を巡り、坂出上居里・円座里・岡本里・井原里と高松平野を南下
②阿讃山脈に近い鮎滝・安原山・岩部里・塩江・杵野・内場といった山間部を巡回
③そこで反転して下谷・川内原・植田里などの丘陵地帯を抜け、
④高松平野中央部の下林里・山良里・由良池の内・下林里・大田里・松縄里を北上
⑤現在よりも内陸側へ大きく湾入していた古・高松湾沿いの今里・木太西村里に出る。
⑥内湾する海岸沿いに東行し、高松里周辺を巡回
⑦その後、狭い海峡を渡り屋島の方本里・西方本を訪れ
⑧再び高松里に戻り牟礼里・庵治里・馬治・鎌野里。原里と庵治半島を時計回りに巡り、志度ノ里に至る。
⑨さらに門前の志度ノ里寺中から南下して西沢里・造円里・宮西里・井戸里に至り
⑩そこから西行して池戸里・亀田里・十河里。前田里・山崎里。六条里・大熊里に出た後、港町香西里に至る。
⑪香西里から南下し、新居里・国分里・福家里を巡った後、備讃海峡に突き出した乃生嶋里に出て、讃岐を離れる。

伊勢御師 檀那廻りルート
伊勢御師岡田太夫の巡回ルート

 全行程は約190km(約47里半)、巡った郡は5郡、村落の数は61、旦那の数は304名(寺社含)になります。こうしてみると伊勢御師の活動は、一つの村だけではなく、広い範囲をカバーしたものだったことが分かります。当時の社会で荘郷や領主を超えて、これだけの村をめぐり歩いてたのは、彼らのような御師(修験者)をおいて他にはなかったと研究者は指摘します。熊野・伊勢御師の活動は、もともとは信者獲得のために必要な知識として貯えられたものです。しかし、それを村の側から見れば、修験者は、村内の家格や身分秩序について把握し、またそうした情報を行く先々で広く伝達して廻る者としての役割を呆たしていたとも云えます。
無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社選書) | 網野 善彦 |本 | 通販 | Amazon

  網野善彦氏は『無縁・公界・楽』の中で、修験者や聖の勧進行為が鎌倉末期から、幕府や朝廷の権威を背景に棟別銭の徴収という形をとるようになったことを指摘しています。例えば応永19年(1412)、幕府が備前や越中などに懸けた東寺修造料棟別銭が、備前では児島熊野山の五流山伏、越中では二上山の山伏が徴収担当者に指名されています。
なぜ修験者が棟別銭を徴収することができたのでしょうか。
「菅浦文書」は、中世村落に対する棟別銭賦課の事例として有名です。その中の棟別掟では、村内の家が「本家」「かせや」「つのや」に分けて格付けされています。ここからは、棟別銭を徴収するためには、家数の把握や、家の格付け、財産についての知識(戸籍や土地台帳)が必要だったことが分かります。熊野修験者などは、先ほど見たように讃岐でも御師として檀那の間を廻り、護符を配ったり、初穂料や祈疇料を得たりしていました。こうした活動を通して修験者は、家の大小、貧富、身分といった情報を集めていたと研究者は考えているようです。
伊勢御師 檀那を迎える伊勢御師2
伊勢詣でにやってきた檀那を迎える御師(江戸時代)
  熊野・伊勢の修験者の場合を見ておきましょう。
修験者(山伏)が御師として、全国に散らばる先達として、信者との間に師檀契約を結んでいたことは以前にお話ししました。御師や先達は、檀那が本山に参詣する際には宿泊をはじめとする便宜を図ってやりました。また檀那の間を廻って巻数・護符・祓などを配り、代償として初穂料や祈疇料を得ています。伊勢御師の檀那衆は、室町時代になると在地領主層だけでなく、農村の中にも広く存在していたことは、先ほど見たとおりです。
伊勢御師 伊勢講
伊勢御師講社
大量の檀那売券には「一族・地下」「地下・一族」という語句が現れてくるようになります。有力百姓の間にも伊勢信仰は広がっていたのです。伊勢御師の修験者たちは、これらの檀那衆を毎年廻って初穂料を集めていたのです。これは村全体から徴収するものではありませんが、恒常的に棟別銭を徴収する体制を熊野・伊勢の御師たちは持っていたことになります。それは、熊野・伊勢のシステムを真似て初穂料を徴収していた地方の神社の修験者たちにについても云えることです。修験者(山伏)たちは、「廻檀」という旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通していたと研究者は考えています。

広峯神社 <ひょうご歴史の道 ~江戸時代の旅と名所~>
播磨広峯神社(姫路市)

地方の修験集団の例として、牛頭天王を祀る播磨広峯神社(姫路市)を見ておきましょう。
その社家の一つ肥塚氏は、鎌倉末期より御師として播磨・丹後・但馬・因幡・美作・備中などの諸国で檀那を獲得していました。肥塚氏が残した檀那村付帳には、諸国の諸荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといつた情報まで記されています。例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見てみると、現在の小字集落にはぼ相当する.村が丹念に調べられて記録に残されています。広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んでいたのです。

七五三初穂料読み方 ふたり一緒の時・中袋書き方や中袋がない時・新札? - Clear life クリアライフ
熊野・伊勢御師や修験者たちは、檀那からの初穂料徴収を行っていました。そのためには、旦那廻りのための情報を蓄積する必要があり、村々に家がどのくらいあるのかなども情報として得ていました。修験者たちが持っている情報を活かして、棟別銭を賦課しようとする支配者が現れても不思議ではありません。
五流 絵図
児島五流修験

応永十九年(1413)9月11日、幕府は東寺修造料として、出雲に段銭、丹後・越中・備前・備後・尾張に棟別十文の棟別銭(家毎への課税)を命じています。備前での棟別銭徴収を請け負ったのが「児島山臥方」です。「児島山臥(伏)方」は、児島五流修験のことです。山伏集団が一国の棟別銭集金機構として機能しているのです。それについては、また別の機会に

以上をまとめておくと
①16世紀半ばの戦国時代に、伊勢御師が野原(髙松)にやってきて、周辺の伊勢信者の檀那衆へ伊勢土産を配り、初穂料を集めて廻っていこと。
②その際に残された記録からは、御師のたどったルートや村々・お土産の種類・初穂料の種類などが分かる。
③そのエリアは現在の高松市周辺にも及び、小領主層や海運関係者・商人・有力農民などが信者となっていたこと。彼らを結ぶのが御師であったこと
④御師は旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通すると同時に、村々をつなぐ存在でもあった。
⑤村々の鎮守やお堂にいた在地の修験者たちも、このネットワークを支える存在であった。
⑥こうして修験者のネットワークを通じて村々の寺社もは結びつけられていったこと。
⑦備前では児島五流の修験者ネットワークを利用して棟別銭が徴収されたこと。
⑧修験者ネットワークをうまく利用し、政治に利用しようとする戦国大名がでてくること
⑨それが土佐の長宗我部元親であり、金毘羅神保護も修験者による流行神創出を支援するという意図があったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」
榎原雅治 山伏が棟別銭を集めた話 日本中世社会の構造
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      まんのう町諏訪神社の念仏踊り
                      念仏踊り(まんのう町諏訪神社)

  滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。最近は4郡だけになってしまった。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させた

滝宮念仏踊りは風流踊りで、もともとは雨乞い踊りではなかったようです。喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)には、次のように記されています。
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。

ここには雨乞い祈願をしたのは菅原道真で、その成就に感謝して百姓たちがお礼のために踊ったと記されています。奈良のなむて踊りも、もともとは盆に踊られた風流踊りで、それが雨乞い成就の際に感謝の気持ちを込めて踊られるようになったことは以前にお話ししました。滝宮念仏踊りも、中世の時宗の念仏踊りが風流化したもので、それが丸亀平野の各郷村で盆踊りとして踊られていたものと私は考えています。

那珂郡 讃岐国図 高松市歴史資料館
正保讃岐国絵図(高松市歴史資料館) 17世紀前半の那珂郡

 近世になって滝宮に奉納することを許されたのは、4つの組です。それは近世の村切りによって村が出現する前の荘郷エリアで編成されています。例えば、那珂郡の七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の三つの領の13ヶ村にまたがる踊組です。その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。これは中世の小松・真野・吉野郷エリアにあたります。                         
まんのう町の郷
古代中世の荘郷

 七箇村踊組は、ただ滝宮で1回踊るだけではなかったようです。その前に、7月7日から盛夏の一ヶ月間に、構成員の各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後に真野の諏訪神社でに奉納した後に滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。 
  以上をまとめておくと次のようになります。
①中世の時宗念仏踊りが風流化し、丸亀平野の郷荘の盆踊りとして踊られるようになった。
②それが旱魃の際の雨乞いのお礼として、各郷で組織された集団が滝宮の牛頭天王神社(滝宮神社)に奉納された。
③近世になって一時的に中断していた踊りを、髙松藩初代藩主が復活させた。
④以後、事件などで中断期をはさみながら江戸時代末期まで奉納された。
⑤この念仏踊りは、中世の郷村時代に編成されたために、近世の村を越えたメンバーで編成されている。
⑥踊手や桟敷席などには宮座の存在が色濃く残っている。

私に分からないのは、どうして中世に「村」を越えて荘郷規模で組が編成されたのかという点です。
これについてヒントを提供してくれる本に出会いましたので、見ていくことにします。テキストは「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
日本中世地域社会の構造 (歴史科学叢書) | 榎原 雅治 |本 | 通販 | Amazon

中世の鎮守の機能について、研究者は次のように押さえています。
第一には、荘郷鎮守は百姓が五穀豊穣、現世安穏・後生善処を祈願する祈りの場でした。しかし、それだけではありません。荘郷内の平和を祈願する場所だからこそ、公的な場所でもありました。聖なる場所であり、公的空間でもある鎮守を掌握したものが支配者として正当性をもちえたともいえます。中世の武士団が地元の有力な寺社を保護したのも、支配を円滑にするには寺社を押さえ保護者であることをしめすことがポイントになることを、経験的に学んだ結果なのかも知れません。
第2に鎮守では、荘郷政所による検断(けんだん)が行われました。
 検断とは「検察」+「断獄」=「検断」で、不法行為)を検察してその不法をの罪を裁くことです。中世の検断は、鉄火取り、湯起請といった鎮守の場での神裁の形をとります。郷社の鎮守は神聖な裁きの場でもあったのです。
第3に、荘郷鎮守は荘郷内のメンバーの身分秩序会の確認の場でもありました。
鎮守の宮座が名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていたことや、新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていたことをみれば分かります。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちの身分序列の確認の場でもあったのです。

次に、荘郷の寺社がネットワークを形成していく具体例を、近江国坂田郡(現長浜市)の長浜八幡神社で見ていきます。
神社ご朱印巡り7 「長濱八幡宮」(滋賀県長浜市) | sadahachi.com

長浜八幡宮は八幡庄の鎮守で、室町中期の永享年間に堂塔建立が行われています。永享7年(1435)の勧進猿楽の際の桟敷注文井奉加帳(史料B)と、永享11年(1429)の塔供養の際の奉加帳(史料C)が残されています。史料Bを見る前に、当時の猿楽の席次について「予習」しておくことにします。
長浜神社 糾瓦猿楽桟敷図
京都札河原勧進猿楽桟敷注文
寛正5年(1464)の京都札河原勧進猿楽桟敷注文およびその付図(図2)があります。そこには、猿楽は円形の舞台で演じられ、その周囲に見物桟敷が設けられています。桟敷の中心(真下)は「神之座敷」です。「御前」が「神之座敷」の前という意味です。これを中心に、向正面に向かって注文の記載順に座っていきます。御前の両隣に公方夫妻(足利義政・日野富子)が座り、次いで対面に向かって関白、門跡、管領、有力守護、奉公衆と、およその身分の序列に従って席が決められていたことが分かります。
長浜八幡宮の猿楽桟敷の舞台設営もこれと同じような席順であったのでしょう。上演の際の席次は、どうなっていたのでしょうか
長浜神社 猿楽桟敷

座敷注文の記載順を見ておきましょう。
文中に「御前ヨリ東」「御前ヨリ西」とあるので、桟敷の席次を意識した順のようです。そしてその順序は「次第不同」とされていますが、そうはいいながら注文の端から奥に向かって、荘官・殿原層から村へという、序列があることがうかがえます。
下に続く
長浜神社 猿楽桟敷2
この席順を模式図化すると下図のようになります。

長浜神社 猿楽桟敷概念図2

長浜八幡神社の猿楽桟敷の配置については、以下のようになります。
桟敷の中央に荘官・殿原層・荘郷鎮守の僧や神官
末席には名主層
桟敷と舞台の間の「地居」に桟敷に昇れない層
猿楽鑑賞の座が、地域の身分秩序を目に見える形で示す場になります。参加者にとっては、自分の席がどこにあり、前後はどうなっているのかは大きな意味を持ったことでしょう。それは、そのまま「家の格付け」を示す者でもあったことになります。
研究者は史料に出てくる次の字句に注目します。
史料Bの奉加帳部分に「八坂 八人中」
史料Cに「イコマ(生駒)ノ宮村人」
Bの八坂社は祗園保の鎮守で、生駒宮は平方庄の鎮守です。八坂社や生駒の宮の「村人」が長浜の八幡宮に寄進しています。「村人」ということばは、近江においては村民一般ではなく、宮座の構成員である「オトナ層」を指す用語のようです。奉加帳に「八坂八人中」「イコマノ宮村人」などの名前が見えるということは、 この地域の荘郷鎮守の関係が、単なる寺社と寺社の関係ではなく、オトナ層同士の宮座と宮座の連帯関係でもあったと研究者は考えています。
こうした荘郷鎮守の関係は、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
 それは地域の身分秩序を確認する場として機能していたと研究者は指摘します。表2は史料Bの桟敷注文に見えるおもな人物を荘郷別、身分別にまとめたものです。
長浜神社 猿楽桟敷注文票

ここに出てくるメンバーを見ると、八幡庄を中心とした荘郷から荘官層、殿原層、名主百姓層がそれぞれに桟敷料を払って、このイベントに参加していたことが分かります。つまり、実際に猿楽が上演されるときには、次の二つの階層が桟敷の上で目に見える形で確認できることになります。
単独で見物席を確保できる荘官層、殿原層、
村単位でなければ確保できない名主百姓層
また、新興の者はこの場に座る座を確保することによって、自らの位置を可視的に地域社会に承認させることができるという仕掛けになっています。
これらの史料に出てくる寺社を地図に落としたのが図1です。
長浜神社 ネットワーク

ここからは長浜八幡宮や観音寺をはじめ福永庄の神照寺、山階庄の本国社など、この地域の荘郷鎮守を中心とした寺社の造営などに、周囲の荘郷から寄進が出されています。地域的な連帯関係があったことが見えてきます。中世の寺社は、単独で存在していたのではないということです。これらを結びつけていたのが修験者たちになるようですが、それについてはまた後ほどみることにします。
長浜 大原観音寺
大原観音寺

長浜の東方にある大原観音寺は、大原庄の鎮守的な寺院です。ここにも応永26年(1419)の本堂造作日記(史料D)が伝わていて、奉加者の名前が記されています。

長浜神社 史料D

史料Dには、大原庄内外の村々の「村人」が奉加者として名前があります。「村人」というのは、先ほども見たように荘郷内の支配層のことです。各荘郷の「村人」が寺社のネットを通じて、荘郷を超えた広い地域社会の中に現れて、認められていることになります。寺社のネットは、村内の身分序列を、荘郷を超えた地域社会で承認していく役割を果たしていたことになります。
 さらに重要なことは身分だけでなく、「村」の存在自体、寺社のネツトを通して地域社会の中で承認されるものだったというのです。
荘郷内に「村」が政治的・経済的な主体として登場してくるのは鎌倉末期のことです。これを承認する体制は、荘園公領制の中にはありません。新たに登場した室町期の守護も荘郷の枠組みを超えて「村」を領国支配体制の中に位置づけることはありませんでした。そのような中世社会の中にあって唯一「村」を承認するシステムが、寺社の地域的ネットだったと研究者は指摘します。荘郷鎮守の地域的ネットに認めてもらうことで、「村」は「村人」という内部の身分秩序とともに、地域的な承認を獲得していったと研究者は考えています。つまり、このような寺社ネットに登録されないと、他の荘郷から村としても、指導者としても認めてもらえることがなかったことになります。
少々荒っぽいですが、これを丸亀平野の那珂郡南部で起きていたことに当てはめると、次のようになります。
①那珂郡南部の真野郡は、真野の諏訪神社を荘郷神社としていた。
②小松・真野郷は各村からの宮座構成員の「村人」メンバーで、念仏踊りが組織され諏訪神社に奉納された。
③その際には、踊り手は宮座メンバーに限られていたので、踊りに参加する人たちは小松荘や真野郷の「村人(有力者)」を相互認知する機会となった。
④神社の境内に設置された桟敷席も、エリア指定の世襲制で宮座メンバー以外は建てることができなかった。桟敷席に座ると云うこと自体が、地域での階層位置を示すもので、「村」での権勢表示の場でもあった。
ここからは丸亀平野の荘郷のなかでも、「村 ― 荘郷 ― 地域」のネットワーク化が進んでいたこと、そして、村内の身分秩序や村自体の存在が荘郷を超えた広い地域の中で公認されていく様子が見えてきます。その場が荘郷の鎮守であり、そこで踊られる念仏踊りであったことになります。そして、荘郷鎮守の地域的な関係とは、寺社の相互扶助によって成り立っていたようです。
  真野郡の諏訪神社は、滝宮の牛頭天王社と、近江八幡社の近隣寺社と同じように修験道関係者を通じた相互扶助関係があったことがうかがえます。それだけの勢力を牛頭天王社別当寺の龍燈寺に集まる修験者たちは持っていたことになります。

 中世の名主層の世界観は、次のようなものだったと研究者は考えています。
地域的な秩序を維持するためには、荘郷鎮守の維持が必要である。荘郷鎮守を維持するためには村内の身分秩序を維持することが必要だ。逆にいえば、荘郷鎮守を維持することは、その荘郷のみにとって意味をもつものではなく、地域全体の秩序を保つための義務なのである。この地域に対する義務を果たすことによって、荘郷内の宮座運営の体制、すなわち荘郷内の身分秩序は、地域社会の中で認められているのだ

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
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  入会林の覚え書き 1641年
山入会(入会林)付覚書(大麻山周辺の入会林について)

生駒藩お取りつぶし後に、讃岐が二つの藩が出来て、丸亀藩に山崎家が入ってくることになったのが1640年のことでした。その時に、大麻山周辺をめぐる中世以来の入会林の既得権が再確認されて文書化されます。そこには入山料を支払い、入山鑑札を持参した上で、小松庄(琴平)の農民たちに大麻山の西側の「麻山」への入山が認められていました。ところが佐文の農民に対しては、鑑札なしの入山が許されていました。その「特権」が古代以来、佐文が「麻分」で三野郡の麻の一部と認識されていたことからくるものであったことを前回は見てきました。
 入山権に関して特別な計らいを受けて有利な立場にあった佐文が、それから約70年後の正徳五(1715)年になると、周辺の村々と紛争(山論)を引き起こすようになります。その背景には何があったのかを、今回は見ていこうと思います。テキストは、「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」です。
佐文周辺地域
佐文周辺の各村(佐文は那珂郡、他は三野郡)

正徳5(1715)年6月に、神田と上ノ村・羽方の3ケ村連名で、丸亀藩に次のような「奉願口上之覚」が提出されています。

佐文 上の村との争論
山論出入ニ付覚書写(高瀬町史資料編160P)
意訳変換しておくと
一、財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。そこで、見つけ次第に拘束しました。ところが今度は昨年四月になると、西の別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒し迷惑かえる始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の二月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。
佐文 上の村との争論2

このままでは百姓どもの了簡が収まりませんので、口上書を差し出す次第です。村境設定以前に、上ノ村山の中に佐文の入会場所はありませんでした。30年以来、南は竹ノ尾山の一ノかけから上、西は別所野田ノ尾から東の分については入会で刈らせていました

一、神田山について
前々から佐文村は、入会の山であると主張しますが、そんなことはございません。先年、神田庄屋の理左衛門の時に、佐文の庄屋平左衛門と心易き関係だったころに、入割にして、かしの木峠から東之分を入会にして刈り取りを許したといいます。これは近年のなってことでので、大違です。由□□迄参、迷惑仕候
 以上のように入山禁止以外にも、今後は佐文の者どもが三野郡中へは入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。三ヶ村の百姓は、前々から佐文の入山を停止するように求めてきましたが、一向に改まることがありません。そのためここに至って、三ケ村の連判で訴え出た次第です。御表方様に対シ迷惑至極ではございましょうが、百姓たち一同の総意でありますので口上書を提出いたします。百御断被仰上可被下候、以上        
正徳五(1715)年六月   
     
三野郡神田村庄屋   六左衛門
          同神田村分りはかた(羽方)村庄屋  武右衛門
上ノ村大庄屋字野与三兵衛
庄野治郎右衛門様
  神田村(山本町)・羽方村(高瀬町)と上ノ村(財田町)の庄屋が連名で、丸亀藩に訴えた書状です。佐文の百姓が上ノ村との村境を越えて越境してきて、芝木刈りなどを勝手に行っていること、それが実力で阻止されると、神田村の神田山にも侵入していること、それに対して強硬な措置を取ることを事前に藩に知らせ置くという内容です。
佐文 地図2

 これに対して佐文からは、次のような口上書がだされています。

佐文 上の村との争論 佐文反論
   佐文からの追而申上候口上之覚 (高瀬町史史料編158P)
  意訳変換しておくと
一、この度、財田之衆が新法を企て、朝夕に佐文村からの入山に対して差し止めを行うようになって迷惑を受けていることについては、2月28日付けの書面で報告したとおりです。佐文村からの入山者は勾留すると宣言して、毎日多くの者が隠れて監視を行っています。こちらはお上の指図なしには、手出しができないと思っているので、作付用意も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わない状態で迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万であると与頭は申しています。

一、新法によって財田山へ佐文の入山は停止されたと財田衆は云います。朝夕に佐文から侵入してくる証拠としてあげる場所(竹の尾越)は、箸蔵街道につながる佐文村の人馬が往来する道筋です。そこには、馬荷を積み下ろしする場所も確かにあります。2月14日に、この通行を突然に差し止めることを上ノ村側は通告してきました。が、竹の尾越は佐文の人馬が往来していた道なので、馬の踏跡や馬糞まで今でも残っています。佐文以外の人々も、何万の人たちがこの道筋を往来してきました。吟味・見分するとともにお知りおき下さい。(以下破損)
一、先に提出した文書でも申上げた通り、財田側は幾度も偽りを為して、出入り(紛争)を起こしてきました。財田方の言い分には、根拠もなく、証拠もありません。度々、新法を根拠にしての違法行為に迷惑しております。恐れながらこの度の詮儀については、申分のないように強く仰せつけていただけるよう申し上げます。右之通、宜被仰上可被下候、以上  
正徳五未四月十三日      佐文村庄屋 伝兵衛 印判
同村与頭覚兵衛 
同同村五人頭弥兵衛
同同村惣百性中
山地六郎右衛門殿
佐文の言い分をまとめてみると次のようになります。
①「新法」を根拠に、財田上ノ村が旧来の入会林への佐文側の入山を禁止し、実力行使に出たこと
②その一環として、箸蔵街道のに続く竹の尾峠の通行も規制するようになったこと
③佐文側が「新法」について批判的で、「改訂」を求めていること。

両者の言い分は、大きく違うようです。それは「新法」をどう解釈するかにかかっているようです。新法とは何なのでしょうか?
貞享5年(1688)年に、丸亀藩から出された達には、次のように記されています。
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」

意訳変換しておくと
「林野(田畑以外の山や野原となっている土地)などに生えている木竹などは藩の許可もなく勝手に切ってはならない、屋敷の周囲の藪林も大切に育てよ

というものです。さらに史料の後半部には「焼き畑禁止条項」があります。ここからは、藩が田畑だけでなく山林全体をも含めて支配・管理する旨を宣言したものとも理解できます。この達が出る前後から、藩側からの山林への統制が進められていったようです。
 そのひとつが山検地であると研究者は指摘します。
山検地は、丸亀藩の山林への統制強化策です。山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を調査する形で行われています。京極高和が丸亀へ入部した万治元(1658)年の5月に、山奉行高木左内が仲郡の七ヶ村から山林地帯を豊田郡まで巡回しています。これが山検地の最初と研究者は考えているようです。検地の結果、山林については次の4つに分類されます
①藩の直轄する山林
②百姓の所有する山林
③村や郡単位での共有地となっている山林
④寺社の所有する山林
そして、5年毎に山検地は行われますが、検地を重ねる度に山林が藩の直轄林(御林)に組み込まれていきます。そして、入会地が次第に縮小されていきます。この結果、佐文が既得権利を持っていた「麻山」や「竹の尾越」周辺の入会地も縮小されていったことが推測できます。一方で、佐文でも江戸時代になって世の中が安定化すると、谷田や棚田が開発などで田んぼは増えます。その結果、肥料としての柴木の需要はますます増加します。増える需要に対して、狭まる入会地という「背に腹は刈られぬ状況」の中で、佐文の住民がとったのが「新法=山検地(?)」を無視して、それ以前の入会地への侵入だったようです。
①南は、竹の尾越を越えた財田上の村(財田町)方面
②南西は、立石山を越えた神田村(山本町)方面
③西は、伊予見峠を越えた羽方村(高瀬町)
佐文 地図2

これらの山々でも、入会地縮小が進んでいたようです。それが「新法」だったと私は考えています。特権として認められたいた麻山の旧入会地が狭められた結果、入るようになったのが①~③のエリアで、それも新法で規制を受けるようになったのかもしれません。どちらにしても丸亀藩の林野行政の転換で、入会林は狭められ、そこから閉め出された佐文が新たな刈敷山をもとめて周辺の山々に侵入を繰り返すようになったことがうかがえます。
 佐文村の百姓が藩が取り決めた境を越えて昼丹波山・別所山・神田山(二宮林)へ入って、柴草を刈ったことから起こった紛争の関係書類を見てきました。これに対する丸亀藩の決定は、「取り決めた以外の場所へ入り申す義は、少しも成らるべからざる由」で、「新法遵守」でした。佐文の既得権は認められなかったようです。
 これから享保10(1725)年には「神田村山番人二付、廻勤拍帳」という史料が残っています。これは「山番人」をめぐる神田・羽方両村の争いに関する史料です。ここからは、佐文との山争論の10年後には、村有林や入会林を監視するために「山番人」が置かれるようになったことが分かります。また、「御林」に山番人が監視にあたると、今まで入会地とされてきた場所は次第に「利用制限」されていきます。それまでは、村と村の境は、曖昧なところがあったのですが山林も財産とされることで、境界が明確化されていきます。山の境界をめぐって、藩の山への取り締まりは強化されていきます。
 しかし、百姓たちからする「御林(藩の直轄山林)」は、もともとは自分たちの共有林で入会林であった山です。そこに入山ができなくなった百姓たちの反発が高まります。そうして起こったのが享保17年の乙田山争論のようです。このような隣村との境界や入会権をめぐる争論を経て、近世の村は姿を整えていくことになります。
琴南林野 阿野郡南川東村絵図(図版)
阿野郡南 川東村絵図
(まんのう町川東地区の御林(緑色)と野山(赤色)を色分けした絵図
 中世の各郷による山林管理体制を引き継いだ生駒時代には、野山・山林の支配は村を単位にして、藩主と個人的関係のある代官や地元の有力者を中心に行われていました。とくに大麻山・琴平山と麻山の周辺の山林は、佐文のように古い体制を残しながら支配が複雑に入り組んでいました。それがきちんとした形に整えられていくのは享保年間ごろと研究者は考えています。生駒家時代の林野に対する政策は、京極藩で確立する林野政策の過渡的な形態を示しているようです。
まんのう町の郷
古代中世の各郷
 以上をまとめておくと
①生駒時代には、大麻山は入会林で鑑札を購入しての周辺村々の芝木刈りのための入山が認められていた。
②麻山の鑑札による入会林として利用されていたが、佐文は鑑札なしでの芝木刈りが認められていた
③丸亀京極藩は、田畑以外に山林に対しても山検地を始め、入会林を「御林(藩の直轄林)」へと組み込みこんでいった。
④「御林」の管理のために「山番人」が置かれるようになり、入山規制が強まる。
⑤こうして「麻山」周辺への入山規制が強化されるにつれて、佐文は南部の財田や神田への山林への侵入をするようになった。
⑥これに対して財田上の村、神田村、羽方村の3ケ村連名で「新法」遵守を佐文に求めさせる抗議書が提出された。
⑦丸亀藩の決定は「新法遵守」で、あらたに設定された境界を越えての入山は認められなかった。
⑧このような入会林や村境界の争論を経て、近世の村は確立されていく
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」

佐文と満濃池跡
讃岐国絵図 佐文周辺

まんのう町佐文は、金刀比羅宮の西側の入口にあたる牛屋口があった村です。角川の地名辞典には、次のように記されています。
古くは相見・左文とも書いた。地名の由来は麻績(あさぶみ)が転訛して「さぶみ」となったもので、古代に忌部氏によって開拓された土地であるという(西讃府志)
 金刀比羅官が鎮座する山として有名な象頭山の西側に位置し、古来から水利の便が悪く、千害に苦しんだ土地で、竜王信仰に発した雨乞念仏綾子踊りの里として知られている。金刀比羅宮の西の玄関口に当たり、牛屋口付近には鳥居や石灯籠が多く残っている。阿波国の箸蔵街道が合流して地内に入るので、牛屋口(御使者口)には旅館や飲食店が立ち並んで繁盛を続けた。「西讃府志」によると、村の広さは東西15町。南北25町、丸亀から3里15町、隣村は東に官田、南東に追上、南に上之、西に上麻・神田、北に松尾、耕地(反別)は37町余(うち畑4町余。屋敷1町余)、貢租は米159石余。大麦3石余。小麦1石余。大豆2石余、戸数100。人口350(男184・女166)、牛45。馬17、
伊予土佐街道が村内を通過し、それに箸蔵街道も竹の尾越を超えて佐文で合流しました。そのため牛屋口周辺には、小さな町場もあり、荷駄や人を運ぶ馬も17頭いたことを、幕末の西讃府志は記します。

佐文は、1640年の入会林の設定の際に有利な条件で、郡境を越えた麻山(大麻山の西側)の入会権を認められていることを以前にお話ししました。この背景を今回は見ていくことにします。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
讃岐那珂郡 赤い短冊が3つあるのが金比羅 その南が佐文 
 1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。
この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割して、高松藩と丸亀藩の領分とせよという指示を受けていました。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が後に起ることを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の庄屋たちの意見書の提出を求めています。これに応じて各村の庄屋代表が確認事項を書き出し提出したものが、その年の10月8日に提出された「仲之郡より柴草刈り申す山の事」です。 
入会林の覚え書き 1641年

意訳変換しておくと
仲之郡の柴木を苅る山についての従来の慣例は次の通り
松尾山   苗田村 木徳村
西山 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村
一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる
一、三野郡の麻山の柴草は、鑑札札で子松庄が刈ることを認められている
一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている
一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる
寛永拾八年巳ノ十月八日

ここには、芝草刈りのための従来の入会林が報告されています。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、すでに大麻山や麻山(大麻山の西側)には入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。

DSC03786讃岐国絵図 中讃
讃岐国絵図(丸亀市立資料館) 
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、三野郡「麻山」(大麻山の西側)は、仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務を果たした上で、琴平の農民たちの刈敷山となっていたことが分かります。
  大麻山は、仲郡、多度郡と三野郡との間の入会地だったようです。
ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものです。この時代には、まだ定着していませんでした。
ここで押さえておきたいのは、4条目の「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」です。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域ですが郡境を越えての入山になります。佐文には特別の既得権があったようです。佐文が麻山を鑑札なしの刈敷山としていたことを押さえておきます。
 庄屋たちからの従来の慣例などを聞いた上で、伊丹播磨守と青山大蔵少は、新たに丸亀藩主としてやってきた山崎甲斐守に、引継ぎに際して、次のようなの申し送り事項を残しています。
入会林の覚え書き2 1641年

意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。
一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。
一、仲郡の大麻山での草柴苅については、従前通りとする。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。
一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと
一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。
一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。右如書付相定者也

紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩藩主に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目の項目については、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は、大麻山の西側のになるので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいというアドバイスです。
 こうして大麻山と麻山に金毘羅領や四条・五条村・買田村・七箇村などの子松庄およびその周辺の村々が芝木刈りのために出入りすることが今までの慣例通りに認められます。子松庄の村々では麻山へ入るには入山札が必要になります。札は「壱枚二付銀何匁」という額の銀が徴収されていたと研究者は考えています。
 「佐股組明細帳」(高瀬町史史料編)に佐股村(三豊市高瀬町)の入会林について、次のように記されています。
「先規より 財田山札三枚但し壱枚二付き三匁ツヽ 代銀九匁」

これは、入会地である財田山への入山利用料で、3枚配布されているので、一年間で三回の利用ができたことになります。鑑札1枚について銀3匁、3枚配布なので 3匁×3枚=銀9匁となります。
 麻村では8枚の山札使用、下勝間村では4枚の使用となっています。財田山は、固有名詞ではなく財田村の山といった広い意味で、佐俣や麻村・下勝間村は、財田の阿讃山脈の麓に柴草を取りに入るために利用料を払っていたということになります。同じ三野郡内でも佐股、上・下麻、下勝間村は、財田の刈敷山に入るには「札」が必要だったことを押さえておきます。
 各村への発行枚数が異なるのは、どうしてでしょうか?
 各村々と入会林との距離の遠近と牛馬の数だと研究者は考えています。麻村の場合は、秋に上納する山役米について、次のように記されています。
「麻村より山札出し、代米二て払い入れ申す村、金毘羅領、池領、多度郡内の内大麻・生野・善通寺・吉田両村・中村・弘田・三井、三野郡の内上高瀬・下高瀬」

山役を納めなければならない村として、金毘羅領、池領の村々と多度郡・三野郡の各村が挙がっています。これらは先ほど見た「山入会に付き覚書」の中に出ている地域です。ここからは、1640年以後、大麻山・麻山への入山料がずっと続いていたことが分かります。

他の村の刈敷山に入るときには有料の鑑札を購入する必要があったようです。
そのような中で「佐文の者は、先年から鑑札札なしで(三野郡の麻山の柴木を)苅る権利を認められている」という既得権は、特異な条件です。どのようにして形成されたのでしょうか。その理由を考えてみます。

佐文1
西讃府志 佐文の地誌部分

西讃府志には、佐文について次のように記します。
「旧説には佐文は麻積で、麻を紡ぐことを生業とするものが多いので、そうよばれていた」

麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となったと伝えます。ここからは、西隣の麻から派生した集団によって最初の集落が形成されたと伝えられていたようです。確かに佐文は地理的に見ても三方を山に囲まれ、西方に開かれた印象を受けます。古代においては、丸亀平野よりも高瀬川源流の麻盆地との関係の方が強かったのかもしれません。
佐文5
佐文と麻の関係

麻盆地を開いた古代のパイオニアは忌部氏とされ、彼らが麻に建立したのが麻部神社になります。これが大麻山の西側で、その東側の善通寺市大麻町には、大麻神社が鎮座します。
DSC09453
大麻神社
 大麻神社の由来には、次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっている。

ここには阿波忌部氏が讃岐に進出し、三豊の粟井を拠点としたこと、そこから笠田・麻を経て大麻神社周辺へ「移住・進出」したと伝えます。
大麻神社随身門 古作両神之像img000024
大麻神社の古代神像 

「大麻神社」の社伝には、次のような記述もあります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
ここには阿波と讃岐の忌部氏の協力関係と「麻」栽培がでてきます。また讃岐忌部氏が毎年800本の矛竿を中央へ献上していたことが記されています。讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようですし、武器にも転用できます。 善通寺の古代豪族である佐伯直氏は、軍事集団出身とも云われます。ひょっとしたら忌部氏が作った武器は、佐伯氏に提供されていたのかもしれません。
 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる大麻山周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。 讃岐忌部は、中央への貢納品として樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたと考えられます。讃岐忌部の居住地として考えられるのが、次の神社や地名周辺です。
①粟井神社 (観音寺市大野原町粟井)
②大麻神社 (善通寺市大麻町)
③麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
④忌部神社   (三豊市豊中町)
⑤高瀬町麻 (あさ)
⑥高瀬町佐股(麻またの意味)
⑦まんのう町佐文(さぶみ、麻分(あさぶんの意味)
 佐文と大麻山
大麻山を囲むようにある忌部氏関係の神社と地名

佐文を含む大麻山周辺は、忌部氏の勢力範囲にあったことがうかがえます。
大麻山をとりまくエリアに移住してきた忌部氏は、背後の大麻山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、大麻山は忌部氏の支配下にあって、樫など木材や、麻栽培などが行われていたとしておきましょう。そのような大麻山をとりまくエリアのひとつが佐文であったことになります。当然、古代の佐文は、その背後の「麻山」での木材伐採権などを持っていたのでしょう。それは律令時代に郡が置かれる以前からの権利で、三野郡と那珂郡に分離されても「麻山」の権利は持ち続けたます。それが中世になると小松郷佐文でありながら、三野郡の麻山の入会林(刈敷山)として認められ続けたのでしょう。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺2
讃岐国図(生駒藩時代)
生駒藩の下で作られた讃岐国絵図としては、もっとも古い内容が描かれているとされる絵図で佐文周辺を見てみましょう。
  多宝塔などが朱色で描かれているのが、生駒藩の保護を受けて伽藍整備の進む金毘羅大権現です。その西側にあるのが大麻山です。山の頂上をまっすぐに太い黒線が引かれています。これが三野郡と那珂郡の郡境になります。赤い線が街道で、金毘羅から牛屋口を抜けると「七ケ村 相見」とあります。これが佐文のようです。注目して欲しいのは、郡境を越えた三野郡側にも「麻 相見」があることです。
 ここからは、次のようなことが分かります。
①佐文が「相見」と表記されたこと
②「相見」は、かつては郡を跨いで存在したこと
西讃府志には「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となった」と記されていました。これは、西讃府志の記述を裏付ける史料になります。

麻部神社
麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
以上をまとめておくと
①大麻山周辺は、木工加工技術を持った讃岐忌部氏が定着し、大麻神社や麻部神社を建立した。
②大麻山は、忌部氏にとって霊山であると同時に、木工原料材の供給や麻栽培地として拓かれた。
③大麻山の西側の拠点となった麻は、高瀬川沿いに佐文方面に勢力エリアを伸ばした。
④そのため佐文は「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)」とも呼ばれた。
⑤麻の分村的な存在であった佐文は、麻山にも大きな権益を持っていた。
⑥律令時代になって、大麻山に郡境が引かれ佐文と麻は行政的には分離されるが文化的には、佐文は三野郡との関係が強かった
⑦中世になると佐文は、次第に小松(郷)荘と一体化していくが、麻山への権益は保持し、入会権を認められていた。
⑧そのため生駒騒動後の刈敷山(入会林)の再確認の際にも、「仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている」と既得権を前提にした有利な入会権を得ることができた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  

刈敷山2

 以前に江戸時代の飯野山や大麻山などの里山は、芝木刈りのために裸山になっていたことをお話ししました。今回は、刈敷(かれしき)山として、里山がどのように管理されていたのかを見ていくことにします。
 1640(寛永17)年に、お家騒動で生駒藩が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。この時に幕府から派遣された伊丹播磨守は、讃岐全域を「東2:西1に分割せよ」という指示を受けていました。そのために再検地を行って、新しい村を作って、高松藩と丸亀藩に分けて境界を引きます。 その際に両藩の境界がまたがる那珂郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が起る可能性が出てきます。それを避けるために、関係村々の政所の意見を聞いた上で、まんのう町周辺の里山の入会(いりあい)権を次のように定めています。
1仲之郡∂柴草苅申山之事

刈敷山への入会権を定めた部分を書き抜いてみると次のようになります。
松尾山  苗田村・木徳村
西山 櫛無村・原田村
大麻山 与北村・郡家村・西高篠村
羽間山  垂水村・高篠村
一、仲郡と多度郡の農民が東西七ヶ村の山や満濃池周辺へ入り、柴木苅りをおこなうことを認める。ただし、従来通り手形(鑑札札)を義務づけること。
一、三野郡の麻山については、子松庄(琴平)に鑑札付きで認める。ただし、佐文の者は、鑑札札なしで苅る権利を認める。
 ここからは、金毘羅さんの神領以外の松尾山・西山(琴平町)や大麻山・東西の七箇村や満濃池周辺の里山に、入会権が設定されていたことが分かります。誰でも山に入れたわけではないようです。「札にて刈り申す山」と記されているので、入山に際しては許可証(鑑札)が発行されていて、何匁かの支払いが義務づけられていたようです。

下草鑑札
刈敷山への入山鑑札
 それに対して佐文に対しては「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」とあります。佐文の住人は、札なしで自由に麻山の柴木を刈ることができるとされています。どうして佐文に、このような「特権」が与えられていたのかについては、史料からは分かりません。 


草を刈る図
他の文書には、次のように記されています。
「多度郡(多度津町・善通寺市)には山がないので、多度郡の者は那珂(仲)郡の山脇・新目・本目・塩入で柴木を刈ることを許す。」

ここからは柴木刈りが解禁になる日には、多度郡の農民たちが荷車を引いて、鑑札をもって山脇や塩入まで柴木刈りに入ってきていたことが分かります。丸亀平野の人々が霊山としていた大川山や尾野瀬山は、里から見上げる遠い山ではなく、実際に農民たちが柴木を刈るために通い慣れた馴染みの山でもあったようです。旱魃の時に、大川山や尾野瀬山から霊水を持ち帰って、雨乞祈願を行ったという伝承も、こんなことを知った上で聞くと、腑に落ちる話になります。ちなみに宮田の民芸館(旧仲南北小学校)には、里山への入会鑑札が展示されています。化学肥料が普及する戦後まで、里山での柴木草刈りは続けられていたようです。         
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  参考文献   満濃町誌293P         山林資源
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下女塚が載っているのは第1集
下女塚 勝間次郎という池の堤に人柱が立てられた話です。
昔、下麻と首山にまたがって、朝日山や傾山や福井山などに囲まれた大きな池がありました。名を勝問次郎といいました。
このあたりで一番大きいのが満濃池で、満濃太郎と呼ばていたのに対して、勝間次郎は、満濃太郎の次に大きい池だという意味です。勝間次郎は、数十の谷から流れこむ三筋の川によって、池はいつも海のように水をたたえていたと言われています.
大きな池には長い堤が必要です。勝間次郎にも、たいへん長い堤防がありました。大きい池は水が多くて重いので、長い堤は切れやすいのです。堤がきれるたびに、海のような水が流れだして、そのたびに家が水浸しになり、たんばやはたけの作物が流されたりして、たいへんな被害がありました。
こんなに被害をもたらす池ですが、旧んぼやはたけの作物には水が必要です。人々はつらい思いをしながら、切れた堤を修理するのです。
麻盆地 
大麻山の西山麓に広がる麻盆地
 その年も、勝間次郎の堤が切れて、たいへんな被害がありました。
堤を修理する工事は、たいへんな苦労で、大勢の人が、何十日も汗を流して働きました。
修理の工事をしているときに、ある人が言いました。
「このようにたびたび切れる池には、人柱を立てると切れなくなるそうだな。東のほうの池で、若い女を人柱を立てたところ、それから堤が切れなくなったということを聞いたぞ」
修理の工事がきびしく苦しいので、賛成する人が何人も出てきました。
「大勢の人を助けるためには、かわいそうだが人柱もやむをえない
「そうだ、そうだ」
「あすの朝、一番にここを通った女の人を人柱にしよう」
「そうだ、女の人をつかまえて切れた堤の中へうめることにしよう」
「うん、それがよい」
こうして、工事の人たちの話し合いは、人柱を立てることに決まりました。
この話は村の庄屋さんの家へも伝わりました。庄屋さんも奥さんもたいへん心配しました。
「村の女の人を死なせることはできないわ」
と、奥さんは思いました。
次の朝になりました。まだ夜が明けきっていません。
  庄屋さんの奥さんは、自分の家で働いているお手伝いの人を連れて、堤の上を通りかかりました。待っていた工事の人びとは、名前を聞くこともなく、
「それっ」
と取り巻いて、二人をとらえました。そして、わけも言わずに、堤の工事現場へむりやりに連れていって、土の中に押し込んで、うずめてしまいました。
後になって、人びとは、むりやりに堤の土の中に押し込めたのが、庄屋の奥さんとお手伝いの人だと知りました。奥さんが自分から人柱になろうとしたことも知りました。
そんな悲しいことがあってから後、しばらくは、災害が起こらなくなりました。村の人々は安心しました。人柱になってくれた二人のおかげだと思いました。
村の人びとは、奥さんが持っていた鏡をご神体として神社を建てました。それが池の宮です。
また、お手伝いの人が持っていた箱をうめて塚を建てました。
それが下女塚です。昔は、お手伝いの人を下女といいました。池の宮は福井山の側に、下女塚は傾山の側に、高瀬川をはさんで、今も建っています。
しかし、長い年月がたつと、人柱を立てたかいもなく、いつの年にか、また堤が切れました。堤は修理ができないほど、ひどくこわれてしまいました。それから、また何年もたちました。水がなくなった池の中に田んぼができて、家が建ちました。そうして、勝間次郎は、あとかたもなくなり、伝説の池になってしまいました。

P1120661
勝間次郎池が広がっていたとされるあたり 左が朝日山
この昔話は次のような事を伝えています
①下麻に高瀬川をせき止めた海のように大きな池「勝間次郎池」があったこと
②長い堤防で幾度の決壊に人々は苦しめられていたこと
③決壊を防ぐために人柱が立てられたこと
④人柱となた庄屋の奥さんと下女の供養のために池の宮神社と下女塚が建立されたこと
⑤その後も決壊を繰り返した勝間次郎池は放置され、池の中は開墾され田んぼとなったこと
 勝間次郎池は、満濃太郎に次ぐ周囲数里の大池で、弘法大師空海の頃に築造され、決壊を重ね中世には廃池となったと伝えられているようです。それが、この池に代わって上流に岩瀬池が築かれ、勝間次郎池のことはしだいに忘れられたと『高瀬町史2005年 151p」には記されています。本当に勝間次郎池はあったのでしょうか?
麻 勝間次郎池 地図
③が勝間次郎池の推定位置
 
今回は伝説の勝間次郎池を見ていくことにします。テキストは「木下晴一 高瀬勝間次郎池を探る  香川地理学会会報N0.27 2007年」です
勝間次郎池があったことについて触れている史料をまず見ておきましょう。
西讃府志 - 国立国会図書館デジタルコレクション

丸亀藩が幕末に編纂した『西讃府志』には、三野郡勝間郷下麻村について、次のように記されています。

「池宮八幡宮 昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ 祭祀八月十五日 社林一段 社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」

意訳変換しておくと

「池宮八幡宮については、この地に勝間二郎という池があったので池宮と呼ばれています。祭祀は八月十五日で、社林一段鮨 社僧は歓喜院祠官の遠山伊賀が務めています。」

西讃府志の地誌部分は、地元の庄屋たちのレポートを元に作成されていることは以前にお話ししました。幕末に「昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ」という話が幕末には伝わっていたことが分かります。
麻 池八幡神社2
池八幡神社 高瀬川まで張り出した尾根上に鎮座している

まず、研究者が注目するのは「池ノ宮(池八幡神社)」です。
 池ノ宮は、社名からも池の守護神であることがうかがえます。同じような例としては、依網(よさみ)池と大依羅神社(大阪市住吉区)や狭山池と狭山堤神社(大阪狭山市)などがあり、池の周辺の丘の上に祀られています。
 下の地図を見てみましょう。
麻 池八幡神社周辺
池八幡神社(三豊市高瀬町下麻)と高瀬川
池八幡神社は、象頭山や朝日山などによって囲まれた麻盆地から高瀬川が流れ出す出口に鎮座しています。鬼が臼山と傾山に挟まれた最も谷幅の狭くなる地点になります。

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池八幡神社
境内には、明和5年(1768)の銘のある鳥居と、お旅所には文政2年(1819)の銘のある鳥居が建てられています。また先ほど見た西讃府志には「社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」とありましたので、歓喜院の僧侶が社僧を務めていたことが分かります。

麻 池八幡神社4jpg

 池八幡神社の祭神は、保牟田別命と豊玉姫命です。
八幡については、この神社の西にある歓喜院鎮守堂の八幡神社を分祀したと伝えられています。ここからは、もともとの祭神は豊玉姫命で、保牟田別命(応神天皇)は、後から合祀されたものであることがうかがえます。豊玉姫命がもともとの祭神であったのを、八幡信仰の流行の頃に、社僧を務める歓喜院の僧侶が保牟田別命(応神天皇)を合祀したと研究者は考えています。池八幡神社は、もともとは「池の宮」として建立されていたようです。
 それでは「豊玉姫」とは何者なのでしょうか?
 『日本書紀』(巻第二第十段)や『古事記』には、豊玉姫は海神の娘で、海幸彦の釣り針を探して海神(わたつみのかみ)の宮に訪れた山幸彦と結婚しますが、のち出産の際に鰐(龍)となっているところを山幸彦に見られたことを怒り、子を置いて海神の宮に帰ってしまった説話が記されています。
豊玉姫 | トヨタマヒメ | 日本神話の世界
豊玉姫

 豊玉姫は海の神とされ、讃岐では男木島の豊玉依姫神社などのように海に隣接する神社に祀られることが多いようです。一方で雨乞いや止雨、安産の神としても祀られています。たとえば阿波の豊玉姫を祀る神社には、那賀川沿いにある宇奈為神社(那賀町木頭)、雨降神社(徳島市不動西町)・速雨神社(徳島市八多町)など、立地や社名から雨乞神としてまつられていたことがうかがえます。
 讃岐の木田郡三木町の和年賀波神社には灌漑の神としての性格があると研究者は考えているようですが、これも祭神は豊玉姫です。高松市香川町鮎滝の童洞淵の童洞神社の祭神も豊玉姫命です。童洞淵は雨を祈った淵として有名な場所であることは以前にお話ししました。山幸彦が豊穣を約束された説話が多いように、豊玉姫についても、雨乞いや灌漑など豊穣の対象として信仰されていたことを押さえておきます。

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県道に面する民家の庭先にある下女塚 道の向こうが堰堤跡(?)

下女塚を見ておきましょう。
 勝間次郎池の堤塘復旧の際に、人柱となったのは、庄屋婦人とその下女でした。村人は婦人の鏡や櫛・算(髪飾り)を池ノ宮に、下女の持っていた手箱を塚に手厚く祀ったとありました。下女塚は、高瀬川を挟んだ県道沿の民家の庭先にあります。宝暦4年(1754)の銘のある舟形地蔵と寛政11年(1779)の銘のある供養塔が建てられています。

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下女塚
 人柱については、『日本書紀』巻第十一(仁徳天皇11年)に茨田堤の築造に際に出てきます。
築いてもすぐに壊れて塞ぐことが難しい所に、人柱をたてた話が記載されています。大規模な土木工事の際に古くから行われていたようで、讃岐でも次のような池に人柱伝説があるようです。
平池(高松市仏生山町) 治承2年(1178)築造)
小田池(高松市川部町) 寛永4年(1627)築造)、
一の谷池(観音寺市中田井町) 寛永9年(1632)築造)
吉原大池(善通寺市吉原町) 元禄元年(1688)築造)
夏目池(仲南町十郷)
この中で小田池と一の谷池には、人柱を祀る祠が立てられています。勝間次郎池の堤塘と下女塚の位置関係は、小田池のものと共通すると研究者は指摘します。
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下女塚


勝間次郎池の堤は、どこにあったのでしょうか?
麻 勝間次郎池 余水吐

 池の宮の東側の傾山の裾に形成された断崖の西南端の部分が堤遺構だと研究者は考えています。尾根から突き出すように、池の宮の方向に伸びて、県道工事の際に切断されています。
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堰堤跡とされる部分

これについて研究者は次のように指摘します。
尾根の傾斜とも崖錘の傾斜とも不連続で、頂部は水平であることなどから人為的な構造物である可能性が高いと思われる。池ノ宮との標高もほぼ等しく、平面的な位置関係から勝間次郎池にかかわる堤塘の遺構と考えられる。
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堰堤跡の上から池之宮方向をのぞむ
神社西側の余水吐跡について、見ておきましょう。
麻 勝間次郎池 地図3
      
研究者が注目するのは、神社の背後(西側)に細長い谷状地形①がみえることです。これは尾根と神社境内との間を完全に切断しているのではなく、途中で切れています。この谷状地形は、昭和60年(1990)の神社の神域整備事業によって埋め立てられたため、今は見ることはできないようです。聞き取りによると、谷状地形の底は数段の棚田で、サコタ(低湿な田)であったようです。これを研究者は勝間次郎池の余水吐だったと推測します。

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本殿裏手の余水吐け跡

 豪雨によって池への流入水量が急激に増え、堤塘を越えるようになると、堤塘が崩壊するので、ため池には余水吐が作られます。排水量が多くなる大規模なため池では、人工の堤塘上ではなく自然地形を利用して余水吐をつしていることが多いようです。満濃池の余水吐については以前にお話ししました。ここでは、余水が10m近い落差を流れ落ちるために谷頭浸食が起こり、谷が形成されたと研究者は考えています。現地での聞き取り調査からも、地元ではこの谷や堤塘状遺構が勝間次郎池の跡だったと伝わっているようです。これまで勝間次郎池は、朝日山と傾山を堤防で結んでいたと伝わってきましたが、以上から堤塘の位置が推定できます。つまり、勝間次郎池の堤防は、②の堤跡から池の宮を結ぶルートで、その延長線上に余水吐があったという仮説が出せます。それを地図で示すと次のようになります。

麻 勝間次郎池 復元図
勝間次郎池の堤防と位置
  ②から池の宮のある尾根までの距離は約150mなので、そこに堤防を築いて高瀬川をせき止めたことになります。
麻 勝間次郎池 地図43
勝間次郎池 ③が池の面積 ①が池の宮
こうして生まれた勝間郷池は、どれくらいの拡がりを持っていたのでしょうか
 研究者は次のような方法で池の面積を推定しします。 ため池では、満水時の水面は堤頂部より1,5m程度低い位置になります。そこで現地で水準器を立てて、堤塘状遺構の頂部より1、5mほど低い水準で周囲を見渡すという方法をとります。その結果、復元したのが上の池敷きです。ここからは次のようなことが分かります。
①最も狭い部分に堤防を築き高瀬川をせき止めた。
②池の宮の西側には自然地形を利用して、余水吐が作られた。
③堤防の西側の丘の上に、池の宮が建立された。
④池の東側岸は傾山の麓部分になり、現在の県道になる。
⑤東は、高瀬川沿いの光照寺付近まで
⑥北東は、朝日山麓の仏厳寺手前まで
これを計測すると池の面積は約38,5万㎡になるようです。満濃池が約140万㎡で、これには遠く及びませんが、国市池が22,8万㎡なので、それよりは広かったことになります。
 池の堤防は、直線なのかアーチ状なのかは分かりません。地図上では全長150 mほどの規模になります。高さについては、高瀬川の河床高が変化している可能性があるため現時点では不明としています。

勝賀次郎池は、本流堰き止めタイプのため池だった
 この池は高瀬川を盆地の出口で締め切って作られています。讃岐のため池では、近世以前のものは本流をせき止め、流域すべてを集水するため池は、勝間次郎池のほかに井関池と満濃池ぐらいしかないと研究者は指摘します。
 井関池は、観音寺市大野原町の杵田川を締め切るため池で、集水面積は約3000haを越えます。寛永20(1643)年に近江の豪商平田詞一左衛門によって、「大野原台地総合開発」の一環として築造されます。池の東西にふたつの余水吐が設けられ、堤長378 m、堤高約118m、池面積12,1haの規模です。井関池は、「本流堰き止めタイプ」の池だったために、完成後わずかの間にあいだに3回決壊しています。このタイプの池は、大雨による急激な増水に対応しきれないことが多く、維持が難しかったことが分かります。それが最初に見たように昔話の中に、柱伝説を生んだのかも知れません。

勝間次郎池は、いつ築造されたのでしょうか?
 本流堰き止め型の大規模なため池は、愛知県犬山市の入鹿池、大阪府大阪狭山市の狭山池や奈良県橿原市の益田池などがあります。このうち狭山池と益田池は古代に築造されたため池です。
 表は8世紀中ごろから9世紀中ごろの利水・治水にかかわる記事を集成したものです。この表を見ていると、勝間次郎池が弘法大師空海のころに築造されたという伝承も荒唐無稽なものでないような気もしてきます。
 律令国家による主な治水利水事業の一覧年表

722 百万町歩開墾計画をすすめる
723 三世一身法を定める(続日本紀)
  矢田池(大和)をつくる(続日本紀)
731 狭山池(河内)を行基が改修する(行基年譜)
   昆陽池(摂津)を行基がつくる(行基年譜)
732 狭山下池(河内)をつくる(続日本紀)
734 久米田池(和泉)を行基がつくる(行基年譜)
737 鶴田池(和泉)などを行基がつくる(行基年譜)
743 墾田永年私財法を定める(続日本紀)
750 伎人堤(摂津・河内の国境)・茨田堤(河内)が決壊する)
761 畿内のため池・井堰・堤防・用水路の適地の視察(続日本紀)
   荒玉河(遠江)が決壊し,延べ303,700人で改修する(続日本紀)
762 狭山池(河内)決壊,延べ83,000人で改修する(続日本紀)
   長瀬堤(河内)が決壊し,延べ22,200人余りで改修する(続日本紀)
764 大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐などに池をつくる(続日本紀)
768 毛野川(下総・常陸)を付け替える(続日本紀)
769 鵜沼川(尾張・美濃)を掘りなおす(続日本紀)
770 志紀堤・渋川堤・茨田堤(河内)を延べ30,000人余りで改修する(続日本紀)
772 茨田堤6箇所・渋川堤11箇所,志紀堤5ケ所が決壊する(続日本紀)
774 諸国の溝池を改修・築造する(続日本紀)
775 伊勢国渡会郡の堰溝を修理する(続日本紀)
   畿内の溝池を改修・築造する(続日本紀)
779 駿河国二郡の堤防が決壊,延べ63,200人余りで改修する(続日本紀)
783 越智池(大和)をつくる(続日本紀)
784 茨田郡堤15箇所か決壊し,延べ64,000人余りで改修する(続日本紀)
785 堤防30箇所(河内)が決壊し,延べ307,000人余りで改修する(続日本紀)
788 摂津・河内両国の国境に述べ230,000人余りで川を掘る(失敗する)(続日本紀・日本後紀)
800 葛野川(山城)の堤防を10,000人で改修する(日本紀略)
811 このころ伴渠(備口)を開削する(日本後紀)
820 泉池(大和)をつくる(日本後紀)
821 このころ空海が満濃池を改修する(日本紀略)
822 益田池(大和)をつくる(日本紀略)
ただ、讃岐の髙松平野や丸亀平野からは、古代の大型の用水路は出てきません。条里制の水路は貧弱で、長距離の潅漑施設が登場していた痕跡もありません。そのため考古学者の中には、満濃池の水が丸亀平野全域を潤していたという説には懐疑的な人も多いことは以前にお話ししました。
以上をまとめておくと
①高瀬の昔話の下麻に勝間次郎池という大きな池があり、決壊に苦しんだ人々が人柱を立てた話が伝わっている
②その供養のために建立されたのが池の宮(池八幡神社)と下女塚とされる。
③池の宮の東対岸にあたる傾山の麓の県道際には、堤防跡の遺構がある。
④池の宮の西側には、余水吐跡の痕跡がある。
⑤以上より、池の宮の尾根から傾山麓へ150mの堤防が築かれ、その丘の上に池の宮が建立されたことが考えられる。
⑥池の広さは、東は朝日山の光照寺や仏厳寺にまで湖面が至っていた
⑦この池の起源は中世から古代に遡る可能性もある。
古代だとすると、この大工事が出来るのは郡司の丸部氏かありません。丸部氏は、壬申の乱で功績を挙げ中央政府とのつながりを持つようになり、当時最新鋭の瓦工場である宗吉窯を建設して、藤原京の宮殿用の瓦を提供したり、讃岐で最初の氏寺である妙音寺を建立したとされる一族です。善通寺の佐伯家が一族の空海を呼び寄せて、金倉川をせき止めて満濃池を築造したと言われるように、丸部氏も高瀬川をせき止めて勝間次郎池を作ったという話になります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「下女塚」 高瀬の昔話 高瀬町教育委員会  2015年

観音寺茂木町 地図
観音寺市茂木町
財田川河口から少し遡った 観音寺市の茂木町には、かつては何軒もの鍛冶屋が並んでいたようです。鍛冶屋の親方が、近郷の村々の馴染みの農民たちが使う農具や刃物を提供したり、修理を行っていました。茂木町は鍛冶屋町でもあったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市
鍛冶屋の風景(滋賀県長浜市)
親方たちは、農具を預かって修理を行うと同時に、農家の二男三男等を弟子として預かり、一人前に育てたようです。鍛冶屋の技術は江戸時代頃から親方のもとで技術を磨く徒弟制度の中ではぐくまれました。義務教育を終えて徒弟に入り、フイゴの火起こしの雑用から始めて、次第に難しい技術を身につけ、それを磨いてきます。技術習得には四、五年の年期がかかったようです。一人前になると、礼奉公の意味で半年か一年居候し、親方からの「年祝ひ」の手製の鍛冶道具をもらって、それぞれの地へ巣立っていったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市の鍛冶

 農具は鍛冶屋に注文し、鍛冶屋で何度も修理して長く使うというのが当たり前でした。モノによっては「一生モノ」もあったようです。農具は、使い捨てではなかったのです。

観音寺茂木町 鍛冶屋 (滋賀県)

戦前の茂木町の鍛冶屋の親方たちは、近郷の農家を年に何回か「出張営業」したようです。
 「日役」で「サイに寸をする」などの注文をその場で行います。これが「居職かじ」です。これを農民たちは「鍛冶屋を使う」と言いました。大百姓は単独で、小百姓は何軒か組んで鍛冶屋を雇ってくることもあったようです。
鍛冶屋
村の鍛冶屋 

「出張営業」の依頼を受けた親方は、小道具をフゴに入れて弟子に天秤捧をかつがせ農家を巡回します。一日の手間賃は、米五升ぐらいが通り相場だったようです。親方のもとで技術を磨いた近郷の二男三男達は、それぞれの自分の出身地に帰り、鍛冶屋を開きます。そのため親方への「出張営業」は減ってきます。そのため、製品を作り商いにその活路を見出すことを求められるようになります。
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岐阜関市の刃物市

 当時は神社仏閣の催しごとがイベントの中心で、人が集まりました。そこには昔から市が立ち、住民のいろいろな生活用品が売られてきました。農機具や刃物も、祭りの市で売られるようになります。茂木町の鍛冶屋が荷車を引いて「出店」した市は、次のようなものです。
本山寺
大野原の八幡宮
仁尾の覚域院
金刀比羅宮
これ以外にも、年に数回は寺社のお祭りで商いをしたようです。

鍛冶屋には「フイゴ祀り」という独自の祭りがありました。

箱フイゴ
箱フイゴ
フイゴは、鉄を加工するために欠かせない道具の一つでした。農具などの鉄製品を造るためには、まずは材料の鉄を加工しやすいように溶かさなければなりません。そのためには強い火力が必要であり、その火力を強める風を炉に送る道具がフイゴです。
 鍛冶屋でのフイゴ祭りのことが次のように記されています。

観音寺茂木町 フイゴ祀り
フイゴ祭り

  フイゴ(鞴)を使う鍛冶屋では、鍛冶屋の神様として守護神金山彦命(かなやまひこのみこと)と迦具土神(かぐつちのかみ)を御祭りしました。大正10年(1921年)頃の記録では、毎年11月8日には仕事を休みんで、フイゴ鞴場の清掃をして注連縄を張り餅等を供え、夕食時にはお祭りの料理を整えて、出入りの職人たちをを招き、家付きの徒弟等も交えて酒宴を催し、近所の子供達にも蜜柑を配ったりしたのでした。(中略)
観音寺茂木町 フイゴ3
黄色マーカーで囲んだのが箱フイゴ

 また近郷村への「日役」の際に、鍛冶屋が使った火口は牛小屋に吊すと、牛が病気をしない魔除けとして信じられていて珍重されたようです。
 三豊の農家の人たちを支えた鍛冶の活動は戦争によって、引き裂かれます。
総動員体制の「全てのモノを戦場へ」のかけ声の下に、鉄は国家統制の対象となり、鍛冶屋の親方や徒弟は軍事工場に徴用されます。鍬や鎌作りから武器作りへと国家によって「配置転換」されます。
 鍛冶屋が一番盛況を極めたのは、戦後復興の時期だと云います。
食糧生産のために開墾・開田が行われ、山の中まで満州帰りの開拓者たちが入った時です。彼らのとって、農具は生きるための生活必需品でした。鍛冶屋の鉄を打つ音が財田川沿いの鍛冶屋に響いたそうです。しかし、それもつかの間です。耕耘機が登場し、農機具が機械化されるようになると、鍬やとんがは脇に置かれ、出番は少なくなります。同時に鍛冶屋の仕事も減っていきます。幹線道路が広くなり、生まれ変わった茂木町の街並みの中に鍛冶屋の痕跡はなにもありません。しかし、ここでは、鉄を打つ音が高く響いていた時があるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

(瀬戸内海歴史民族資料館年報「西讃の鍛冶職人」(丸野昭善)参照)   観音寺市史874P

室本 麹


酒造りだけでなく、味噌や醤油など日本の発酵製品で欠かせないのが麹です。麹と云えば、私にとっては甘酒です。高度経済成長が始まる前までは、西讃の田舎のわが家では秋祭り以外にもよく甘酒を作っていました。それを年寄りは楽しみにしていました。
室本 地図
観音寺市室本

その麹は、室本からもたらされたものでした。地域で一括して代表者が室本の麹屋に発注し、届けて貰って分けるというシステムで、当時はお店では販売していなかったように思います。西讃エリアの麹は、古くから室本がまかなっていたようです。今回は、室本の麹について見ていくことにします。テキストは、室本麹と専売権  観音寺市史222P」です 
セール 特価 370000香川 「西讃府志 全(昭和4年)」旧丸亀藩京極家 藤田書店 B6 125544 日本超高品質  -www.coldwellbankersamara.com

幕末に、丸亀藩が各村の庄屋たちに原稿提出を求めて作られた「西讃府志」には、室本の麹について、次のように記されています。
室本村ノ人、古ヨリ是ヲ製ルヲ業トシテ、国内二売レリ、香川氏ノ時ヨリ、三野那ヨリ西ノ諸村二、醴(甘酒)又 味噌ナド造ルニ、此村ヲ除キテ外二製ルコトヲ許サズ、香川之景ノ制書、今尚彼村二伝ヘリ。                 (西讃府志巻之五十)
意訳変換しておくと
室本村の人々は、古くから麹を製ることを生業とし、讃岐国内で販売してきた。(戦国時代の讃岐守護代であった)香川氏の時に、三野郡から西の諸村では、醴(甘酒)や 味噌などを作るときに麹については、室本以外には製造・販売を認めずに独占権を与えた。その香川之景の認可状が、この村には伝えられている。                 (西讃府志巻之五十)

ここからは、室本には三野・豊田郡の麹の独占製造販売権が、戦国時代に西讃守護代の香川氏から認められていて、それが幕末まで続いていたことが分かります。
室本浦里img000007
室本浦里

「香川之景ノ制書、今尚彼村二伝ヘリ」とされるものが、永禄元年(1558)の香川之景の判物で、次のように記されています。

室本 麹特許
讃岐国室本地下人等申麹商売事、先規之重書等並元景御折紙明鏡上者、以其筋目不可有別儀、若又有子細者可註中者也、例状如件、
水禄元 六月二日                                      (香川)之景 花押
王子大明神
別当多宝坊
意訳変換しておくと
讃岐国の室本の地下人の麹商売について、先書や元景の折紙で明示したように、その筋目をもって別儀を行う事を認めない。もし子細に問題がある場合には申し述べること、例状如件、
水禄元 六月二日                                      (香川)之景 花押
王子大明神
別当多宝坊
この史料からは次のようなことが分かります。
①之景の先代である元景の時代から、室本では麹商売の独占的生産と売買権が与えられていたこと
②それを永禄元年(1558)に香川之景が改めて認めたこと
③多度津を拠点とする香川之景の勢力が観音寺室本まで及ぶようになっていたこと
④室本の麹行者は座を組織し、王子(皇子?)大明神を本所としていたこと
⑤王子(皇子?)大明神の管理権は、別当多宝坊が保持していたこと
⑥麹が永禄年代には室本の専売品として中讃・西讃地域に売りさばかれていたこと
室本 皇子神社
皇太子(王子)神社 観音寺市室本
ここで注目しておきたいのは④⑤の「王子大明神」です。
これは、現在の皇太子神社のことののようです。この神社では、今でも年頭弓射神事は、左右両講中の宮座によって行われています。この宮座が麹組合のものであり、室町期まで遡れることがうかがえます。

  室町時代の麹座をめぐる状況を知るために、当時京都で起きた事件について見ておきましょう。
 室町時代には、酒蔵が使う麹は麹屋が卸していました。酒蔵はまだ麹造りを行っておらず、「麹屋」という麹の製造から販売までを担う専門業界が別個に存在していたようです。
例えば京都で、麹の製造販売を独占していたのが北野天満宮でした。北野天満宮の下には、「麹座」と呼ばれる麹屋の同業者組合(北野麹座)が結成され、麹の製造や販売の独占権を取り仕切っていました。幕府が北野天満宮の麹座に麹造りの独占権を認めていたため、酒蔵が勝手に麹を造ることはできなかったのです。次の史料は足利義持下知状(1419年)です。

室本 足利義持下知状
 足利義持下知状
この「下知状」は、北野天満宮ゆかりの西京神に麹製造・販売の独占権を認めるものです。西京神人以外の京の酒屋には麹をつくらないと誓約させ、幕府の前で麹道具を壊して廃業させたことを記録しています。しかし、この独占は長く続きませんでした。
 しかし、15世紀中ごろに幕府の権力が低下すると、資本力のある酒蔵の中には麹造りに取り組む者も現れます。酒蔵の意を受けて麹販売権の規制緩和や撤廃を求めて圧力を掛けたのが延暦寺です。延暦寺と北野天満宮の対立はエスカレートしていきます。幕府は延暦寺からの抗議に折れた形で、北野麹座の独占権の廃止を認めます。これに反対する麹座の面々は北野天満宮に立て籠もり抵抗しますが、幕府側に鎮圧され、この事件(文安の麹騒動)により社が焼失します。
 この事件の結果、麹屋は没落して酒造業へ組み入れられ、奈良の「菩提泉(ぼだいせん)」や近江の「百済寺酒」、河内の「観心寺酒」などの僧坊酒が台頭する一因になるようです。
 ここでは、15世紀初め頃までは北野天満宮の神人たちが形成する座が、麹の独占権を幕府から認められていたこと。それが15世紀半ばになると台頭する酒蔵の意を受けた比叡山によって打破され、麹座の独占は破棄されたことを押さえておきます。
 香川之景の室本麹座免許状が出されているのは、それから約百年以上経った16世紀半ばです。
讃岐では、麹座の特権が守護代の香川氏によって認められていたようです。同時に、室本の麹座の本所が皇子神社に置かれ宮座としても機能したことを改めて押さえておきます。

室本 鑑札
室本の麹商売の許可鑑札

この香川之景の室本麹座免許状を室本の麹座は、その後も大切に保管していたようです。
麹組合の古文書の中には享保16(1731)年の室本浦「麹之儀御尋被為遊候ニ付差上口上書控え」というものがあります。そこに引用されているのが「香川之景の室本麹座免許状」なのです。
室本浦 糀室之儀御尋被為遊候二付差上申口上書控
香川之景 書付之通二候得者 重書並ビ二元景之折紙可有之物紛無之右之子細二而モ可有之卜被遊御意候由 右之景之御書付 則御家老様方迄モ御覧二御入被為遊候旨 向後者下札可被遣トノ御義二而夫ヨリ以来 御下札被為下来り由候
意訳変換しておくと
室本浦の麹室についてのお尋ねについて、以下の通り返答を差し上げた口上書の控である。
香川之景の書については、別添えの通りです。元景の折紙については紛失して子細は分かりませんが、その意は景之の書付とほぼ同一であると思えます。御家老様方にも御覧いただき、今後は鑑札を下札していただけるようになりました。
享保16(1731)年は、西讃地域は飢饉がつづき、住民はわら餅・松皮餅まで食べた伝えられています。そのため麹をつくる材料が手に入らないありさまになったようです。そこで麹組合として、香川之景の許可状を証拠に申し立てています。それに対して丸亀藩は、麹商売の許可札を下付します。使用する玄米については、中籾(籾米)・悪米(青米)を材料にして製造するように指示すると同時に、無税で販売をすることが許されているます。

室本 皇子神社2
 江甫山と皇太子神社(観音寺市室本)
麹組合には、次のようなことが云い伝えられていると観音寺市史は記します。
①昔は、「籠留(かごどめ)」・「棒留(ぼうどめ)」などと云って、 飢饉の際に一時期な米や麦の運搬停止命令が出た時でも、麹は生き物で使用日数に限りがあるので、鑑札を下付されて、それを持参していれば自由に糀の運搬ができる特典が与えられていたこと、
②西讃地域内での専売権があるので、他の者には麹製造や販売が認められていなかったこと
③無断で商売をする者がれば上訴するのは当然のことであり、無視する者には鍬・鋤を持って侵害者の家や庄屋に出向き中止させるよう実力行使をしたことも、たびたびあったこと
室本 鑑札札
室本の麹販売の鑑札

上訴した内容については、書控として次のような7件が残されています。
1705年(宝永2)乙酉年三野郡上之村(現香川県三豊郡財田町上)に糀室を作ろうとした時の対応。
室本 麹控訴経路

室本村の庄屋善右衛門が三野郡奉行に差し止めを願いでて、それが上ノ村の属する多度津藩家老まで伝えられています。そして停止命令が、三野奉行所に下され、上ノ村の大庄屋に伝えられて停止措置がとられたのでしょう。その経過を上ノ村庄屋は、室本村が属する豊田郡坂本村の大庄屋に伝え、そこから室本の庄屋に下りてくるという伝達経路になります。
  1731年(享保16)辛亥年6月19日 のことです。
丸亀城下の山之北・土器両八幡宮の「ふく酒糀」を、それまでは室本村の源七が納品していました。それを停止して、丸亀城下通町の糀屋徳右衛門が、造酒のため以外の糀商売を城下でできるように請願したときの対応表が次の通りです。

室本 麹控訴経路2
以上をまとめておくと
①永禄元年(1558)の香川之景の判物で、観音寺室本の麹座に対して、麹の独占販売権が既得権利として認められていること
②16世紀半ばに、室本の麹座は三野郡以西の麹独演販売権を持っていたこと
③室本の麹座は皇子神社の宮座として集結していたこと
④江戸時代になっても丸亀藩に麹の独裁権を再確認させていたこと
⑤多度津藩や丸亀城下町でも麹の独占権を拡大させていたこと
⑥独占権の擁護のために、違反者に対しては控訴や実力行使を繰り返して行っていたこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    室本麹と専売権  観音寺市史222P

道隆寺本堂
道隆寺本堂
  四国霊場の道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江の管理センター的な機能を持ち、備讃瀬戸に向けて開けた寺院でした。この寺には多くの中世文書が残されていますが、その中に「道隆寺御影堂作事人日算用帳」という帳簿があります。これは、天文21年(1552)に御影堂再建にかかった経費を記録した帳簿です。この中には「番匠・かわら大工・人夫手伝い・番匠おかひき(大鋸引)・鍛冶」などの職人が登場してきます。今回は職人たちに焦点を当てて、御影堂再建を見ていくことにします。

番匠
職人絵図 番匠(大工)

御影堂再建にかかった経費は15貰421文です。そのうちの工賃が次の通りです。
番匠101人に  5貫50文
かわら大工23人 1貫150文 
番匠(大工)と瓦職人一人あたりの手間賃が50文、
これ以外に飯米として、それぞれに1升2合が支払われ、酒が振る舞われています。また人夫手伝いとして767人に一人当たり4合、かわら取り付け人夫に3合、しほたへの人夫に六合の飯米が支払われています。ここからは建築経費の内、職人への手間賃が約4割を占めていたことが分かります。それ以外にも飯米・酒代の支出が必要だったようです。
  まず驚かされるのが職人の数の多さです。「番匠(大工)101人、瓦大工23人」とあります。最初は延人数なのかと思いましたが、そうではないようです。これだけの職人が関わっていたのです。これらの大工職人を、どのようにして集め、組織していったのでしょうか? 今の私には分からないことだらけです。
5.瓦屋根の細部の名称-鬼瓦とか(屋根の雑学知識)
 
瓦大工については、馴染みが薄いので補足しておきます
それまでの瓦屋根は、軒先の瓦に釘を打って瓦が滑り落ちるのを防いでいました。これだと腐食した釘が釘穴の中で膨張して瓦を割ったり、修理のとき瓦を破損したりしてしまいます。そこで中世の瓦職人が考えだしたのが、釘を使わなくても滑り落ちない軒瓦です。軒先の木に丈夫な引っ掛かり部分をつけ、そこに瓦に設けた突起部分を引っ掛ける仕組みになっています。これは瓦の歴史の上で画期的な発明です。瓦大工が瓦を焼いていたかどうかは分かりませんが、瓦を葺く専門の大工であったようです。もちろん当時は、瓦葺きの屋根は寺院などの限られた建物に限られていましたから、瓦の需要はそれほど多くはなかったはずです。相当の広範囲のエリアを活動地域としていたことが考えられます。

帳簿には、次のようにも記されています。
「三貫三百文 大麻かハらの代」    大麻からの瓦代金
「八百八十文 しはくのかハらの代」     塩飽からの瓦代金
ここからは御影堂の瓦は、善通寺の大麻と塩飽で4:1の割合で焼かれた瓦が使われたことが分かります。塩飽からは海を越えて船で運ばれ、大麻からは川船で運ばれたのでしょう。同時に大麻や塩飽には、瓦を製造職人がいたことがうかがえます。大麻は大麻山の麓に開けたエリアで、古墳時代には積石塚古墳の集中地であり、忌部氏の氏寺とされる大麻神社が鎮座します。近くに善通寺があり、古くから善通寺で使用する瓦の製造を行う職人集団が存在していたことは、以前にお話ししました。

塩飽本島絵図
塩飽本島周辺(下が北)

塩飽は、九亀市の塩飽本島のことです。本島にも瓦職人集団がいたことがうかがえます。
 塩飽は近世になると、船大工や宮大工で活躍する職人を多数輩出します。高見島などは、幕末の戸籍調査によると戸数の1/3が大工でした。かつては、船大工として活躍していた人たちが、元禄期以後の「塩飽造船不況」で、宮大工に「転職」したとも云われました。しかし、それ以前から塩飽には「宮大工」の流れを汲む職人たちがいたような気配がします。どちらにしても、中世末の塩飽本島には、「建築総合組合」的な集団があり、備讃瀬戸沿岸からの寺社のさまざまな建築物発注に応える体制が出来あがっていたのではないでしょうか。これが近世における塩飽の宮大工の広域的な活動基盤になっていると私は考えています。
  下表は中世の道隆寺明王院の院主が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表です。

道隆寺 本末関係
道隆寺明王院が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表
導師として出席とすると云うことは、道隆寺がこれらの寺社の本寺にあったということになります。
6塩飽地図

そのエリアは塩飽本島から白方、詫間、荘内半島、粟島・高見島など備讃瀬戸にある寺社と本末関係にあり、末寺の信者集団も傘下に組み入れていたことにあります。大きな寺院が専属の建築者集団を持っていたように、中世の地方有力寺院も本末グループ全体で「建築職人集団」を持っていた可能性もあると私は考えています。
 そうだとすると、道隆寺グループの末寺の改修工事等は、道隆寺と契約関係にある建築集団が行っていたことになります。道隆寺は、讃岐守護代の香川氏の保護を受け発展していました。それに連れて道隆寺に属する職人集団も成長して行くことになります。こうして16世紀には、道隆寺を中心とする職人集団が香川氏のお膝的の多度津や、塩飽衆の拠点である本島には形成されていたという仮説は出せそうです。
200017999_00161道隆寺
道隆寺 江戸時代後半
道隆寺の御影堂建立から約30年後のことです。
土佐の長宗我部元親が讃岐平定の祈願と成就御礼のために、金毘羅(松尾寺)に三十番社と仁王堂を寄進しています。
天正十一年(1583)、讃岐平定祈願のために、松尾寺境内の三十番神社を修造。
天正十二年(1584)6月  元親による讃岐平定成就
天正十二年(1584)10月  元親の松尾寺の仁王堂(二天門)を建立寄進
当時の金毘羅(松尾寺)は、長宗我部元親が土佐から招聘した南光院(宥厳)が、院主を任されていました。「元親管轄下の松尾寺体制」で、元親の手によって、松尾寺の伽藍整備が進められます。そして、讃岐平定が完了した年に、成就御礼の意味が込めて寄進されたのが仁王堂(門)です。二天門棟札が讃岐国名勝図会には、次のように載せられています。

二天門棟札 長宗我部元親
金毘羅大権現二天門棟札(讃岐国名勝図会)
右側が表、左側が裏になります。まず表(右)側を、書き写したものを見ていきましょう。
真ん中に
「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
左右に
大檀那大梵天王長曽我部元親
大願主帝釈天王権大法印宗仁
とあって、その間には元親の息子達の名前が並びます。天霧城の香川氏を継いだ次男の香川「五郎次郎」の名前も見えます。ここで注目したいのは、その下の大工の名です。
「大工 仲原朝臣金家」
「小工 藤原朝臣金国」
仲原と藤原という立派な姓を持つふたりが現場責任者で棟梁になるのでしょう。
左側(裏)には、「別当権大僧都宥厳(南光院)」の下に、6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、「土佐占領下」の土佐修験道のメンバーだと私は考えています。
 その下には、職人たちの名前が次のように記されています。
「鍛治大工  多度津 小松伝左衛門」
「瓦大工  宇多津 三郎左衛門」
「杣番匠□□    圓蔵坊」
多度津や宇多津の鍛治大工や瓦大工が呼ばれていたことが分かります。多度津は、長宗我部元親と同盟関係にある香川氏の拠点です。松尾寺の伽藍整備には、香川氏配下の職人が数多く参加しているようです。これらの職人は、香川氏の保護を受けていた職人たちとも考えられます。この時期の松尾寺の伽藍整備が、実質的には香川氏によって進められたことがうかがえます。
その左には、次のように記されています。
「象頭山には瓦にする土はないのに、本尊が安置されている寺内から(瓦作りに相応しい)粘土があらわれた。この奇特に万人は驚いた。これも宥厳上人の加護である。」
 ここからは新たに発見された粘土を用いて、周辺に作られた瓦窯で瓦が焼かれたことがうかがえます。先ほど見た道隆寺の御影堂の瓦は、大麻や塩飽から運ばれ来ていました。それが松尾寺の場合には、「瓦大工 宇多津三郎左衛門」が請負って、松尾寺山内の土を使って焼かれたとあります。

 中世末には地方の有力寺院の建立には、多くの職人が組織され働いていたことが分かります。その組織がどのようにして組織され、運営されていたかについてを語る史料は、讃岐にはないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号
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大水主神社 髙松写真庁
明治時代の水主神社
15世紀初頭の大内郡は、水主神社と与田寺を中心として仏神事が行われていて、独特の宗教空間を形作っていたことは以前にお話ししました。「北野社一切経」書写事業には、虚空蔵院(与田寺)から増範、増継、良仁、増密、賢真らが携わっていたとが奥書に記されています。その中の良仁と賢真は、次のように名乗っています。

「讃州大内郡与出虚空蔵院筆良仁」や「讃州大内郡大水主社良仁」

「讃州大内虚空蔵院賢真」「讃州大内大水主社住僧賢真」

二人は虚空蔵院(与田寺)とも、大水主社僧とも名乗っています。これは神仏混淆で、虚空蔵院(与田寺)が大水主社の神宮寺であったためでしょう。両者は一体化していて、水主神社の運営管理も与田寺の社僧達が行っていたのです。与田寺の工房に属していていた職人たちを今回は見ていきます。テキストは、「唐木 中世讃岐における宗教と文化  香川史学1989年」です。
水主(みずし)神社には、中世に書写された大般若経が二部伝えられています。
本殿内陣に安置されていた600巻 (内陣大般若経)
外陣に安置されていた570巻 (外陣大般若経)

 このうち、内陣大般若経は、1函に10巻ずつ、計60個の経函に収納されています。これらが一括で、国指定重要文化財となっています。今回、取り上げるのは大般若経ではなくて、それを入れてある箱=経函です。経函のうち32個の底には墨書があり、奉加帳や縁起などが記されています。その内の101〜160巻を収める6函には、至徳3年(1386)の経函制作・修復の奉加帳があり、勧進者の仲善寺亮賢によって次のような墨書が記されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
                   (『香川県史』古代・中世史料)。
意訳しておくと
1 箱の周りの木は、全て阿波吉井の木が用いられ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
3 番匠の助成は、別所番匠が行った

ここからは、次のような事が分かります。
①経函に使われた材木が全て阿波国吉井から供給されたこと、
②その用材を運送してきたのは「北内越中公・原上総公」であること
「北内・原」は水主の地名にあるので、そこの住人のようです。わざわざ名前が記されているので、ただの人夫ではないと研究者は考えています。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事するものか、あるいは、海上輸送を生業とするものと推測します。水主神社の置かれた地理的環境を加味すると、馬車か車借とします。
第26回日本史講座まとめ①(商工業の発達) : 山武の世界史

これらを材料にして、ひとつの物語を考えて見ましょう
水主神社の経は、伊予の石鎚社から牛に背負われて水主神社に運ばれてきたので「牛負大般若経」と呼ばれていました。それを保管してた経函が傷んだので、新しいものに換えることになりました。その檜用材が阿波吉井から提供されたようです。用材を運んできたのが馬借の水主神社の周辺信徒である「北内越中公・原上総公」ということになります。そうだとすると、彼らは日常的には何を運んでいたのでしょうか?

そこで思い出すのが時代は百年下りますが兵庫北関入船納帳(1445年)の三本松船の積荷です。

兵庫北関入船納帳 引田・三本松船の積載品
兵庫北関入船納帳 讃岐船入港数上位船籍の積荷一覧
引田・三本松船は讃岐NO4・5の入港数を数えますが、その特徴は小型船が多いことです。その中で三本松船には290俵の材木(燃料材)があります。三本松の後背地は与田川沿いのエリアです。このエリアから切り出された薪材が三本松に集積されて、船で畿内に運ばれていたことが分かります。山から三本松港までの輸送にあたっていたのが「北内越中公・原上総公」の馬借・車借ではないかという仮説は考えられます。
水主神社やその別当寺の与田寺の職人集団の存在が見えてきます。 
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社の別当寺・与田寺には職人集団が属する「番匠中」があったこと。
④与田山の宰相公は、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたこと。 
 実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。これは中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。
建保職人歌合 塗仕
職人絵図 塗師

ここには「水主神社+与田寺」をとりまく周辺には、木工や大工・漆工芸などの職人集団がいたことが分かります。
水主神社の国指定重要文化財には、次のようなものがあります。
倭追々日百襲姫命坐像
倭国香姫命坐像
大倭根子彦太瓊命坐像外女神坐像四体
男神坐像一体、
木造狛犬一対

P1120164 水主神社 ももそひめ
倭追々日百襲姫命坐像(水主神社)

P1120208水主神社 狛犬
木造狛犬一対(水主神社)
P1120111 大内 水主神社 大倭根子彦
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)
これらは、いずれも平安時代前後のものです。
大水主神社獅子頭  松岡調
木造獅子頭(松岡調 作画)
この外にも、県指定有形文化財の木造狛犬一対、木造獅子頭があり、どちらも室町時代の逸品です。この獅子頭が讃岐に残る一番古い獅子頭とされます。香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはありません。
 これらの神像制作は、坂出の神谷神社のように中世の村落に神社の本殿が姿を現し、信仰対象として偶像が設置されていく時期にちょうどあたります。これらの木像は、別当寺の与田寺の工房の職人たちによって作られたと私は考えています。そして、周辺の神社からの「発注依頼」に応えたのも。与田寺の工房ではなかったのでしょうか。大内郡は水主神社と与田寺の神仏混淆体制の中で、独特の神祇信仰の隆盛を迎えていたのです。
 別当寺の与田寺には、増吽作とされる十二天版木が残されています。
十二点 風神 与田寺版
十二天の風天
 十二天の中の風天はその名のとおり風の神で、脚を交差させて後方を振り返るポーズには躍動感があります。顔に刻まれたしわや、風になびくあごひげが細かく表現されています。靴のヒョウ柄で台座には獅子が描かれます。彩色は後で、筆でおこなっているようです。なにかしら現代的なイメージがして、漫画家が描いたイラストのようにも私には見えます。
 与田寺の十二天版本は桜材の板に、五枚は両面に、三枚は片面に彫られています。その中の梵天像の武器の柄に、つぎののような文字が彫られています。
 讃州大内郡与田郷神宮寺虚空蔵院 
応永十四丁亥三月二十一日敬印
十二天像以憑仏法護持央 大願主増吽 同志嘘凋聖宥
ここからは次のような事が分かります。
①応永十四(1407)年3月21日に制作されたこと
②与田郷神宮寺虚空蔵院(与田寺)で作られたこと
③増吽42歳の時の作品であること。
与田寺は室町時代初期には、神宮寺虚空蔵院と呼ばれていたことも分かります。神宮寺とは、水主神社に対しての神官寺(別当寺)のことでしょう。このように与田寺の版本は開版場所、開版日時、開版目的、願主、制作者などが分かり、その大きさとともに全国的にも貴重な遺品であると研究者は指摘します。

水主神社 讃岐国名勝図会
江戸時代後期の水主神社

 同時に、与田寺には書経センターだけでなく、仏画などの工房センターもあり、全国からの需要に応える体制ができたことがうかがえます。そのために、塗師や摺師などのスタッフがいる工房があったことがうかがえます。また大般若経書写の際などには、これが写経センターに変身してフル稼働したと私は考えています。そのような体制の大締め(先達)として活躍したのが増吽だったのです。

P1120226 与田寺 薬師如来
薬師如来坐像(与田寺)

  前回は、本山寺の仁王像の制作に、弥谷寺周辺の大見の仏師と、善通寺の絵師が関わっていることを見てきました。それが与田寺では、工房センターや写経センター的なものが存在し、そこに職人たちが集まられ、組織化され、神像や仏画版画などを提供する体制が出来上がっていたようです。彼らは職人であり、僧侶であったかもしれません。どちらにしても水主神社や与田寺への信仰で職人たちが結びつけられていたことが分かります。
以上をまとめておくと
①水主神社の「牛負大般若経」は石鎚神社から牛に背負わせて運ばれてきたという由緒がある。
②ここからは五流修験や石鎚信仰など熊野行者や修験道のネットワークの中に、中世の水主神社があったことがうかがえる。
③水主神社の別当は与田寺であり、与田寺の社僧達によって水主神社は管理されていた。
④「牛負大般若経」の経函作成の用材は、阿波吉井から水主神社周辺の信者である馬借によって運ばれてきている。
⑤その用材を与田寺の工房で加工し作成されている。
⑥この工房には、大行く・木工・漆職人・仏師などの職人(僧侶)がいたこと
⑦水主神社の重要文化財指定の神像等は、この工房で製作されたこと
⑧さらにこの工房では、周辺寺社からの求めに応じて神像などを提供したこと
⑨与田寺のネットワークは、阿波から備中、仁尾にいたるや東瀬戸内海に広がっていたこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

古代や中世の職人は一か所に定住せず、流浪の民でした。
鎌倉時代から手工業技術の進歩にともない、さまざまな職人が登場するようになります。室町時代になると、技術が一層発達し、社会的分業が進むにつれて、技術の担い手としてさまざまな職人が現れます。その職人の姿を紹介したのが「職人歌合」で、絵画史料として職人たちのいきいきとした姿を私たちに伝えてくれます。

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15世紀に作成された「三十二番職人歌合』では、登場する職人は32種でしたが、室町時代末期の『七十一番職人歌合』では142種にまで増えています。ここからも技術の発展ととともに、社会分業がすすんでいることがうかがえます。

建保職人歌合 鋳物師
 建保職人歌合 鋳物師
 例えば工匠の場合には15世紀後半から、鋳物師は16世紀になると特定地域に定住して営業を行うようになります。それまで遍歴をしていた職人たちが定着化して、職人集団を形成し「産地」となっていきます。そのような中で、讃岐にも職人たちが登場してくるようになります。
そこで史料に出てくる「中世讃岐の職人」たちを追いかけて見ようと思います。今回は絵師を見ていくことにします。
 保元の乱に破れた崇徳上皇が讃岐に流されてくる8年前の宝治2年(1148)2月のことです。弘法大師信仰の高まりを受けて、高野二品親上が善通寺の大師御影の模写を依頼してきます。しかし、讃岐には受戒した浄行の仏師がいないため、京都から仏師鏡明房成祐を招き模写させています。つまり平安末期の讃岐では、絵師がいなかったのです。

建保職人歌合 中世の職業・職人・商人 仏師
建保職人歌合 仏師
 ところが鎌倉時代末期になると、讃岐にも絵師がいたことが史料から分かります。
四国霊場の本山寺の本堂は、昭和28年2月からの解体修理の際に、礎石に次のような墨書銘が書かれていることが発見されました。
「為二世恙地成就同観房 正安二年三月七日」(1300年)

ここから、鎌倉時代後期の正安2年(1300年)の建築物であることが分かり、国宝に指定されています。本堂に続いて正和二年(1313)からは仁王門が建立され、そこに二天像が収められます。

イメージ 5
本山寺二天門の二天王像
その像の中の墨書銘には、次のような職人たちの名前が記されています。
①「仏師、当国内大見下総法橋」
②「絵師、善通寺正覚法橋」
①の仏師・下総法橋は大見の住人と記されています。
大見は三野郡下高瀬郷に属し、西遷御家人で日蓮宗本門寺を建立した秋山氏の拠点です。三野湾は、中世には本門寺辺りまで入り込んできていて、その浜では秋山氏によって塩浜が開発され、西浜・東浜では製塩が行われていました。作られた塩は、宇多津や平山(宇多津)・多度津などの輸送船がやってきて畿内に運んでいたことが兵庫北関入船納帳から分かります。三野湾沿岸は、それらの輸送船が行き交う瀬戸内海に開かれたエリアで、外部からも多くの中世仏像がもたらされていることは以前にお話ししました。そのような大見に、仏師・下総法橋がいたことになります。

c_iyataniji弥谷寺全図
弥谷寺
大見の東に位置する天霧山の山中には、山岳寺院として多くの修験者や高野聖等が活動していた弥谷寺があります。弥谷寺は廻国行者や高野聖など活動拠点で、山門周辺には彼ら庵がいくつも点在していたことが絵図から分かります。また、周辺には阿弥陀信仰の拡がりをしめす石造物がいくつかあります。ここを拠点に高野聖たちは、大見への「布教活動」を行っていたようです。そのような高野の聖たちの中に仏師・下総法橋の姿もあったのかもしれないと私は考えています。そして、本山寺などの求めがあれば、仏像を制作していたのでしょう。彼の作った仏像が、まだまだ讃岐のどこかには残されているのかも知れません。

弥谷寺 四国遍礼図絵1800年
弥谷寺(四国遍礼名所図会)

②には「絵師、善通寺正覚法橋」とあります。正覚法橋は善通寺のどこに住んでいたのでしょうか。
そのヒントを与えてくれる史料が善通寺には残されています。
善通寺一円保絵図 1

善通寺一円保絵図 原図
「讃岐国善通寺近傍絵図」で「一円保絵図」と呼ばれています。幅約160㎝、縦約80、横6枚×縦2枚=計12枚の紙を貼りあわせた大きな絵図で、墨で書かれたものです。この絵図は五岳山の山容のタッチとかラインに大和絵風の画法が見て取れると研究者は指摘します。素人の農民が書いたものではないようです。これだけの絵図を書ける絵師が善通寺にはいたのです。それでは誰が描いたのでしょうか。
一円保絵図 全体
善通寺一円保絵図(トレス図)

表紙をあけたところに、次のように記されています。
「徳治二年(1307)丁未十一月 日 当寺百姓烈参(列参)の時これを進(まい)らす」「一円保差図」

差図(指図)とは絵図面のことです。ここからは、この絵図が鎌倉時代末期の徳治二年に、善通寺寺領の農民たちが京都の随心院に「烈参(列参)」した時に提出したものであることがわかります。これは、本山寺の二天王像の彩色を絵師・正覚法橋が行った6年前のことになります。以上を考え合わせると、善通寺が一円保絵図を書かせて、それを百姓たちが京都の本山・随心院への陳情時に持参させた、その一円保絵図を書いた絵師も、正覚法橋であったとことが考えられます。
 一円保の領主である善通寺は、農民の実状がよくわかっていたはずです。絵図の作成ばかりではなく、農民らの上京にも協力したのではないでしょうか。鎌倉後期の一円保では、名主層を中心に、用水争論などで力を合わせる村落結合が形成される時期になります。善通寺は領主であると同時に、その「財源」となる村落を保護支援する役割を果たしていたようです。同時に農民たちの精神的拠りどころにもなっていたのかもしれません。そのために善通寺は、配下の絵師に「一円保絵図」の作成を命じたとしていおきましょう。

史料からは、中世の善通寺には次のような僧侶達がいたことが記されています。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。

 絵図に記されている僧侶名を階層的に区分してみましょう。  (数字は、絵図上の場所)
 善通寺については平安後期に、「寺辺に居住するところの三味所司等」(「平安遺文』3290号)とあります。現在の赤門前周辺が寺院関係者の住居が集まっていたようです。これに対して、下側(北側)が、百姓の家々ということになります。それを絵図上で拾っていくと、次のような表記があります。

一円保絵図 中央部
善通寺一円保の僧侶の居住地点

寺僧以上が           (地図上の番号と一致)
「さんまい(三味)」 (7)
「そうしゃう(僧正)」    (8)
「そうつ(僧都)」        (11)
「くないあじゃり(宮内阿闇梨)」 (12)
「三いのりし(三位の律師)」      (14)
「いんしう(院主)」          (15)
「しき□あさ□(式部阿閣梨か)」  (10)
 下級僧が
「あわちとの(淡路殿)」          (1)
「ししう(侍従)」                (9)
「せうに(少弐)」                (16)
「あわのほけう(阿波法橋)」      (17)
 残念ながら「あわのほけう(阿波法橋)」はありますが「絵師・正覚法橋」の表記はないようです。正覚法師は出てきませんが、彼も善通寺の東院周辺に庵を構えて生活していたことが見えてきます。
 僧侶の房の位置から分かることは、位の高い寺僧たちの房は伽藍の近くにあり、下級僧の房はその外側に建ち並んでいることです。東院からの距離が、僧侶間の身分・階層関係を空間的にも示していると研究者は指摘します。その他にも、堂舎・本尊・仏具の修理・管理のための職人(俗人姿の下部)が、寺の周辺に住んでいた可能性はあります。例えば、鎌倉初期の近江石山寺辺では、大工、工、檜皮(屋根葺き職人)、鍛冶、続松(松明を供給する職人)、壁(壁塗り職人)らがいたことが分かっています(『鎌倉遺文』九〇三号)。絵師や仏師などの職人が善通寺周辺にいたのです。

善通寺一円保絵図
西院と東院

 現在の善通寺の院房は、東院と西院の間に密集して並んでいます。
これが見慣れた景観なので、昔からそうだったのだろうと私は思っていました。しかし、西院が姿を現し、善通寺の中核を占めるようになるのは中世の後半になってからのことです。中世以前までは東院が中心で、その東側の赤門前に、僧侶たちは生活していたことを一円保絵図は教えてくれます。

   以上をまとめておくと
①平安末期の宝治2年(1148)2月には、善通寺の大師御影の模写のために京都から仏師鏡明房成祐が招かれているので、讃岐には絵師がいなかったこと
②徳治二(1307)年の「善通寺一円保絵図差図」は、大和絵の技法が見られプロの絵師によってかかれていること。
③その6年後1313年に、本山寺の二天王像の彩色を「絵師、善通寺正覚法橋」がおこなっていること
④ここからは鎌倉末期の14世紀初頭の善通寺には絵師がいたこと
⑤絵師は、他の僧侶たちと同じように善通寺東院の東側の赤門周辺で、他の僧侶集団の中で生活していたこと。
⑥同時期に三野の近江には仏師がいたこと。その背景には三野湾の交易と弥谷寺の僧侶集団の形成があったこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

兵庫北関入船納帳 讃岐船の港分布図
兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐の港

中世前半期ごろまでは荘園の年貢の海上輸送は、「梶取(かじとり)」と呼ばれる人々によって行われていました。
彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」する立場でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。 
讃岐の梶取について触れた史料はありませんが、当然いたはずです。
弘安二年(1279)の記録に「讃岐国林田郷並梶取名内潮人新開田」とあります。
阿野北平野の林田郷と梶取名内の潮人新開田は八坂神社領でした。ここからは、潮入新開に塩浜が開かれ、生産された塩は八坂神社へと送られたことが分かります。「梶収名」の名から梶取が林田郷にいたことがうかがえます。林田地区には現在でも「梶取」の地名が残っているのは以前にお話ししました。
 ここでは梶取は、荘園内で給田が与えられ、梶取名と称し名田経営をするとともに、名田作人を使って塩の生産も行ったいたと研究者は考えています。船長から名田主、そして塩浜経営と多角経営に乗り出す姿が見えてきます。
兵庫北関入船納帳 積載品目別積載量
兵庫北関入船納帳 入港した船の積載品

 兵庫北関入船納帳に出てくる60品目にも及ぶ積載品目を見ると、この時期の輸送船が年貢物輸送から商品輸送に移行していたことが分かります。それにつれて「梶取」は荘園に従属した「専属契約者」の立場から、船頭と呼ばれる立場に地位を向上させていくことは先ほど見たとおりです。専門の水運業者の登場です。兵庫北関入船納帳には、讃岐船籍の船頭が100余人登場します。今回は塩飽船の船頭について見ていくことにします。テキストは「橋詰茂   瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権所収 」です。  

表11が船頭別の入関一覧表で、塩飽に22名の船頭がいたことが分かります。
兵庫北関入船納帳 塩飽船頭一覧
兵庫北関入船納帳 塩飽船籍の船頭一覧表
1445年の1年間に6回やって来ている太郎兵衛船については、次のようなことが分かります。
①積載品は塩が主体であること
②塩だけの時には積載量は400石なので、400石以上の大型船の船頭であったこと
③2月~12月の間に6回、ほぼ定期的に兵庫北関に入関していること
④2・9月は、塩の単独輸送だが、その他は穀類を少量合わせ載せていること
今度は、水沢船を見てみます
⑤積荷は塩が主であるが、穀物類・魚類・紙も混載していること
⑥3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていること
⑦5月19日の塩300石が最大積荷なので、350石程度の船であったこと
⑧太郎兵衛船の問丸は道裕で、水沢船は衛門九郎で両船の発注者が異なる。
①⑤からは太郎兵衛船と水沢船ともに、「讃岐船の積荷の8割は塩」と云われるように塩飽も塩輸送が中心の船団であったことが分かります。塩飽の塩生産については後で見ることにして、船の大きさを見ておきましょう。
讃岐船の規模を船籍毎に分類したのが下表です。
兵庫北関入船納帳 讃岐船の規模構成表

塩飽の欄を見ると、年間37隻が入港しています。その中で最も大きい船は400石以上で3回の入港です。②と併せて考えると、これが太郎兵衛船になるようです。350石が5回の入港で、⑦からこれが水沢船なのでしょう。ここからは一番多く入港している太郎兵衛船と水沢船が、塩飽船の中では一番大型船だったことが分かります。塩は最も利益があがる輸送品で、そこに島一番の腕利きの船頭と、新鋭大型船が投入されていたようです。
兵庫北関入船納帳 港地図
兵庫北関入船納帳に出てくる港
③の太郎兵衛船の入港間隔を見ると、約2ヶ月毎に兵庫関に姿を見せています。
塩飽と兵庫北関(神戸)は、潮待ち・風待ちを入れても普通は、1週間以内には着きます。片道1ヶ月はかかりません。そうすると、2ヶ月の間隔が空くというのは、塩浜での生産に関係がありそうです。2ヶ月待たないと次に出荷するだけの塩が生産できなかった、別の言い方をすると、太郎兵衛船を一杯にするだけの塩を確保するためには約2ヶ月かかった。季節によって塩の生産量は上下するので、太郎兵衛船の塩積載量もその都度変化したという仮説は出せそうです。そう考えると、真夏後の9月8日の積載量が400石が一番多いのも頷けます。2月9日便も400石の塩が積まれているのは、12月以後3ヶ月分だから・・・としておきましょう。

兵庫北関入船納帳 月別入港回数
兵庫北関入船納帳 讃岐船月別入港数
表2は、讃岐17港の船籍地ごとの月別の入港回数の一覧表です。
この表からは、次のようなことがうかがえます。
A冬期(12~2月)は北西偏西風が強く、瀬戸内海航路は休止状態にあったこと。運航しているのは嶋(小豆島)船にほぼ限定される
B8・9月も台風シーズンで運航が少ないこと
C11月が45回と最も多いのは、年末年始の物資輸送のため。
D7月29回、3・5月26回と、比較的に海上の穏やかなで順風時期に輸送が集中していること

近世後期の金比羅船の運行状況を見ても冬場には欠航や風待ちのための遅延で、なかなか船が大坂を出港せずに、船頭と喧嘩になった記録がいくつか出てきます。また、引田船など東讃の船は、夏場は淡路島の西側航路を使っていますが、冬が近づくと北西風を避けて東側航路に変更して、航行していたことが史料からも分かります。中世の瀬戸内海では冬期に長距離を航行する船はいなかったようです。
  そのような中で塩飽船の中に2月に航行した記録があります。これを先ほど見た表11で確認すると、太郎兵衛船と次郎五郎船で、2隻が同日の2月9日に入港しています。季節風の強い時期に、他の船頭が出港を控える中で船を出しています。ここからも船頭・太郎兵衛の腕がしっかりとしていたことがうかがえます。
 同日に2隻が入港している例を、他で見ておきましょう。
表11をもう一度見てみましょう。
兵庫北関入船納帳 塩飽船頭一覧
水沢船が3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていました。水沢が2艘の船を同時に操ってやってきたということではないようです。これは水沢が船頭ではなく、船主としてもう一艘を引き連れて入港してきたと研究者は考えています。船頭として自ら操船する場合と、雇船頭としての輸送があったことが分かります。水沢は2隻の船を持って、塩飽と畿内を定期的に行き来していたようです。水沢以外にも太郎左衛門も2月26日に、山崎ゴマと塩を積んで小型船で2回入関しています。彼の名前は、兵庫北関入船納帳には「泊 太郎左衛円」「かうの 太郎左衛門」と記されています。泊とかうの(甲生)は、現在も本島にある港名です。ここからは、太郎左衛門が船主で、泊・かうの両港の雇船頭を雇っていたことがうかがえます。
 7月16日の便船には「太郎左衛門枝船 浄空かうの」と記されています。これも「浄空」が甲生(かのう)の港の太郎左衛門の雇われ船頭だと研究者は考えています。水沢・太郎左衛門は、年間を通じて定期的に塩や穀類を運んできています。
 それに対して、年1回しかやって来ない船頭も多くあります。その積載品は大部分が塩ですが、山崎胡麻だけを積載している次郎五郎の船があります。これが山崎胡麻船と呼ばれた塩飽船だと研究者は考えています。山崎胡麻だけを専門に輸送する船でした。1回しかやって来ない船は、ほとんどが積載量が少ない小型船です。
以上から塩飽船の船頭を、研究者は次のように階層分けします。
①太郎兵衛のような有力船頭
②水沢のような船主と船頭を兼ねた者
③太郎左衛門に雇われた雇船頭
④年に一回しかやって来ない小型船の船頭
荘園に従属していた「梶取り」身分から階層分化が進んでうたことがうかがえます。
兵庫北関入船納帳 問丸

次に塩飽船の問丸について見ておきましょう。
  荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などでした。それが室町時代になると梶取りと同じように問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者や輸送業者へと脱皮していきます。問丸は年貢輸送・管理・運送人夫の宿所提供までの役をはたすようになります。その一方で、倉庫業者を営み、輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。そして港湾や主要都市では、物資の管理や中継取引を行う業者が現れてくるようになります。
『兵庫北関入船納帳』には、53名の問丸が出てきます。問丸は階層区分すると4グループに区分されるようですが、塩飽船の問丸はどうだったのでしょうか? 讃岐船の問丸を船籍毎に一覧表化したのが表12です。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
兵庫北関入船納帳 讃岐船の問丸一覧

讃岐の船籍地と問丸との関係について、表12からは次のようなことが分かります。
①讃岐船の問丸は、「ひとつの港に一人の問丸」体制が多く、一人の問丸によって独占されていることが多い。。
②複数の問丸が関係している場合も、折半という関係は見られず、独占的な問丸を核として、残りの問丸が少量の物資を取扱っている。
③宇多津は、法徳の独占
④嶋(小豆島)船は道念の独占
⑤引田・三本松船は衛門太郎   衛門太郎は東讃岐の船を中心に取扱いを行っていた問丸?
⑥平山は、二郎三郎
⑦豊後屋は観音寺・丹穂(仁尾)船を独占的に収扱っていて、西讃岐を拠点とした問丸
⑩道裕は塩飽諸島のすべての物資を取扱っており、問丸の間において集荷地域を再編成したものと研究者は考えています。

改めて塩飽船の問丸を見てみましょう。
塩飽船は、道裕が24回、衛門九郎が8回、三郎二郎が5回で、道裕が中核の問丸で、それに衛門九郎と三郎二郎が食い込んでいます。②のパターンになるようです。
このうち道裕は、兵庫北関に入る船のすべての物資を扱う大型の問丸で、瀬戸内海ほぼ全域を商圏としていた超大物の問丸のようです。讃岐では、多度津・さなき・手嶋船も取扱を独占しています。多度津は守護代の香川氏の「専用港」的な性格を持っていました。香川氏は守護代特権である「国料船・過書船」の関税フリー特権を活かして、問丸の道裕と結んで海上交易の利益を上げていたと考えられる事は以前にお話ししました。
 塩飽での道裕は先ほど見た太郎兵衛船だけでなく、大蔵船などその他の船を使っても塩飽産の塩を畿内に輸送しています。また11月7日には、船頭の太郎衛門を詫間に派遣して「タクマ塩100石」とマメやゴマを積み込ませて畿内に輸送させています。多くの塩飽船が道裕の問丸ネットワークの中で動いていたことがうかがえます。
 塩飽船では、問丸の衛門九郎の占める割合も大きく、船頭水沢の船の6/7を扱っています。
  道裕が太郎衛門専用の問丸であったように、衛門九郎は水沢専用の問丸だったようです。ここからは、塩飽産の塩も、エリア毎に所有者が異なり、それに伴い集荷される港も異なること。当然、そこに馴染みの問丸も異なり、輸送に使用される船も違っていたことが推測できます。これは、小豆島北部の塩浜で生産された塩を牛窓船がとりあつかい、南部の内海・池田の塩浜の塩を地元の小豆島船が輸送していたことを裏付けるものと私は考えています。
 最後の問丸・三郎二郎は、5件だけの取扱で、しかもで塩飽船だけに登場します。塩飽船だけを取扱う小規模な問丸だったことが分かります。
本島集落

最後に塩飽での塩作りについて見ておきましょう。
本島では早い時期から塩作りが行われていました。7月14日の御盆供事に、「三石 塩飽荘年貢内」とあって、藤原摂関家領であった塩飽荘から塩が年貢として上納されています。その内の塩三石は、法成寺の盆供にあてられています。寺社の行事には、清めなどに塩が大量に必要とされました。塩飽の塩は宗教的な行事にも使われています。
 中世には塩飽(本島)のどこで塩が生産されていたのでしょうか。
これもはっきりとした史料はありません。ただ、島の北部にある砂浜地帯に「屋釜」という地名があります。これは塩を煮た釜を推測できます。また南部の泊の入江付近は、かつては海岸部が内側に入り込んでいて、干潟が広がっていたようです。その干潟を利用して塩浜が開かれていたと研究者は推察しています。

以上をまとめておきます
①塩飽では古代以来、塩作りが盛んで中世にも小豆島と並んで大量の塩が生産されていた。
②塩飽産の塩を運んだのは、塩飽船籍の船頭たちであった。
③五郎兵衛船は、塩飽塩300~400石を積んで、2ヶ月毎に畿内を往復している。
④それ以外の船も何隻もが塩飽塩の輸送に関わっている。
⑤塩飽塩の多くは、大問丸の道裕にチャーターされた塩飽船で運ばれ、道裕の管理下に置かれた
以上からは、この時代の塩飽側の船頭や船主は、問丸の道裕に従属的であったことがうかがえます。
 この商取引に宗教が入り込んでくると、問丸が信仰していた宗教が、その配下にあった瀬戸の港町にも浸透してくることになります。その典型的な例が以前にお話ししました牛窓の本蓮寺や宇多津の本妙寺の建立になります。日蓮宗門徒となった兵庫・尼崎港の問丸と牛窓や宇多津の海運業者を結ぶネットワークを使って、布教活動が展開されていったのです。同様の動きは、禅宗や浄土真宗などにもみられるようになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂    瀬戸内水運と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田政権所収
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兵庫北関入船納帳に出てくる船籍地は、全部で106ヶ所で、その内で讃岐の港は17港です。それを入船の多い順に並べたのが次の表です。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表
17の船籍地は、現在のどの港になるのでしょうか。
すぐには分からないのが、入港数ベスト3に入る「嶋」です。この嶋船籍の船が大量の塩を運んでいるので、研究者は「嶋」は小豆島と判断していることは、以前にお話ししました。
 「嶋」のように兵庫北関入船納帳は、島の港はすべて島名で記されています。例えば塩飽(本島)には泊や笠島などいくつかの港があったはずですが、それらが一括して島船と表記されています。瀬戸内海の海民たちは、昔から港名よりも島名で呼ぶ方が多かったようです。「嶋・塩飽・手嶋・さなき」は島であって、港ではありません。「塩飽・手嶋・さなき」の三島は塩飽諸島の島で、塩飽は本島のことで、さなきは佐柳島のことでしょう。
上から6番目に「平山」が出てきます。
研究者の中には、平山を備中真鍋島とする人もいるようです。しかし、宇多津の平山という説が強いようです。今回は、その理由を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂  瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権」です。
平山船の入港回数は年間19回です。それでは平山船は何を運んでいたのでしょうか。
兵庫北関入船納帳 船籍別の積載品目一覧
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積載品一覧表

表4の平山の欄を見ると(塩)2290石とあります。これは生産地が記された産地特定の塩のことです。「讃岐船の積荷の8割は塩」で、讃岐船は塩専用船化していたと云われます。平山船にもその傾向が見えます。
 一番右側の欄の全体合計数を見ると「塩13413石」「(塩・地域指名)12055石」とあります。両方併せると25468石の塩を讃岐船は畿内に向けて運び出していたことになります。しかし、これは讃岐船の塩輸送量であって、讃岐の塩の生産量ではありません。なぜなら他国の船が讃岐にやって来て大量の船を積み込んでいたからです。前回見たように、小豆島で生産された塩の半分以上は牛窓船が輸送していました。讃岐船の塩輸送総数25468石の内の1/10程度の2290石を平山船が運んでいることを押さえておきます。
ます。
それでは、平山船はどこの塩を運び出していたのでしょうか
 私はすぐに、坂出や宇多津、丸亀の塩田を思い浮かべて、ここからの塩を運んでいたと思ってしまいました。しかし、これらの塩田は近世になって開発された塩田で、中世には姿を見せていませんでした。平山船が運んできた塩には「タクマ塩」と記されています。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
兵庫北関入船納帳 讃岐産塩を運んでいた船の船籍地一覧
表8は地名指定商品(塩)が、どこの船で何回、兵庫北関を通過したが示されています。
詫間(塩)を運んできた船は36回で、その積載量の合計が6190石となります。詫間周辺では中世に大量の塩が生産されていたことが分かります。詫間塩を積み込みにやって来た船は、宇多津17、平山12、多度津3、香西2、牛窓1、塩飽1です。詫間の塩は、宇多津・平山・多度津の船で畿内に輸送されていたのです。ここで私が疑問に思うのは、詫間港の船が出てこないことです。製塩地には、それを運ぶ輸送船がいたはずなのですが、それが詫間には現れません。他所の港からの輸送船に頼っています。もうひとつは、仁尾の船もやってきていません。このあたりが今の疑問です。
 先ほど見たように、平山船の塩の総輸送量は2290石でした。平山船の一回当たりの輸送量は200石前後になり、小型船が使われていたようです。平山船は兵庫北関に19回やってきていますが、その内15件が積荷は塩です。そして12件が詫間塩を積んでいます。詫間塩は、平山船にとっては大きな商売相手だったことになります。
 視点を塩の生産地・詫間に変えてみます。詫間や三野湾に塩田があったことは史料から分かります。

三野湾中世復元図
          三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
「秋山家文書」には、次のような塩浜が相続の際の譲渡対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここからは本門寺から西側の東浜や西浜には塩田が並んでいたこと、その塩田の薪の確保のために「汐木山」が指定されていたことなどが分かります。詫間や三野湾では大量の塩が生産されていたのです。
 詫間塩を運んでいるのは、いずれも讃岐船です。ここからは、平山船も讃岐船であると研究者は考えています。
それでは平山とは、どこにあった港なのでしょうか.
兵庫北関入船納帳 平山
宇多津湾の中世復元図 太実線が想定海岸線
地図を見ると備讃瀬戸に突き出た聖通寺山の西北部に平山が見えます。現在は埋め立てられて宇多津と一体化していますが、中世の地形復元図では、海岸線が内陸部まで入り込んでいたことは以前にお話ししました。平山のある聖通寺山と宇多津のある青ノ山の間は海が入り込み隔てられていました。
湾を隔てて向かい合う宇多津と平山は、「連携」関係にあったと研究者は考えています。
 上図で中世の平山の集落がどこにあったかを見ておきましょう。
聖通寺山から伸びる砂堆2が海に突き出し、天然の防波堤の役割をはたします。その背後に広がる「集落5」と、聖通寺山北西麓の「集落6」が中世の平山集落に想定できると研究者は考えているようです。「集落5」が現在の平山、「集落6」が北浦になります。これらの集落に本拠地を置く船主たちが、小規模ながらも港町が形成していたようです。集落5の山裾からは、多くの中世石造物が確認されているのが裏付けられます。
①平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)
②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
『兵庫北関入船納帳』からは、平山に本拠地を置く船主いて、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。平山の交易活動は、宇多津よりも沖合いに近い立地等を活かして近距離交易を中心としたものでした。つまり、平山の船が周囲から集めてきた近隣商品を、宇多津船が畿内に運ぶという分担ができていたとします。
6宇多津2
中世宇多津復元図

「南海通記」によれば、管領細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が貞治元年(1362)高屋合戦の武功で鵜足・那珂の二郡を賜り、応仁の頃(1467~68)には聖通寺山に城を築いたとあります。その後天正十年(1582)、讃岐攻略を目指す長宗我部元親の軍勢の前に、奈良氏は城を捨て、勝瑞城の十河存保のもとへ敗走します。南海通記の記述が正しいとすると、奈良氏が城を築いていた頃に、その聖通寺山の麓の港で交易活動を展開していたのが平山の住人達だったことになります。


 一方、宇多津は、後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。

宇多津周辺図
宇多津と大束川周辺
大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業集団がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港でもあったようです。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。宇多津は、川津荘の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。  
このように宇多津は後背地の広いエリアからの集荷活動を行う一方
、塩飽諸島、児島を経由して備前に通じる備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する要衝に位置します。その利点を最大限に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

以上から、宇多津と平山の関係を研究者は次のように指摘します。
①両港は相互補完的関係にあり、「棲み分け」共存ができていた。
②平山は坂出の福江・林田・松山・詫間などを商圏とし、宇多津は西讃から備讃瀬戸全域を商圏としていた。

常大坊旦那分書立写に「一、さぬきのくにうたづ ひら山一円」とあります。
常大坊輩下の先達によって導かれる檀徒集団が、宇多津と平山にいたことが分かります。檀徒集団がいたということは、多くの人々がいて、町並みを形成していたのでしょう。平山は聖通寺城の麓という位置から考えても、軍港的役割を果たす港であったと研究者は推測します。
 宇多津の目と鼻の先に平山湊がありました。しかし、宇多津と平山は商圏エリアが異なっていたこと、平山は、御供所と同じく、阿野郡(坂出市周辺)の福江・林田などの港物資を集積する港であると同時に、三野郡詫間の塩を輸送していたいうのです。そう考えれば、隣接して二つの港があったことも説明がつきます。こうして、平山は備中真鍋島ではなく、讃岐平山とします。

もうひとつ平山を特定する根拠があります。海産物の鯛です
もう一度表4を見ると、鯛(干鯛・塩鯛)は、宇多津・平山・塩飽船だけが運んでいます。それも4・5月に限定されています。今は番の州工業地帯で陸続きとなっている瀬居島付近は鯛の良魚場で、ここで獲れる鯛は「金山魚」と呼ばれて評価が高かったようです。加工された金山魚を、瀬居島に近い宇多津・平山・塩飽船の船が淀魚市場へ輸送して商品魚となったと研究者は推測します。ここにも平山と宇多津の連動性が見えます。平山は真鍋島ではないとする根拠のひとつです。

 近世の平山については、以前にお話ししました。
秀吉から讃岐一国を拝領した生駒氏は、丸亀城の築城を開始します。その際に城下町形成のために、鵜足郡聖通寺山の北麓の平山と御供所から「漁夫」280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に「移住」させたと史料には出てきます。これをそのまま「漁夫」と捉えると何も見えなくなります。平山に住んでいたのは、「海の民」で梶取り(船長)や船主などの海運業者や流通商人たちです。そのため城下町に移住させた狙いは、次のような点にあった研究者は考えています。

①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫編成
②瀬戸内海交易集団の拠点作り
③商業資本集団の集中化
 丸亀城の北の砂浜には、平山・御供所の加古(船員)集団が移住してきます。彼らに割り当てられたエリアは、下図の通りです。
丸亀三浦3
丸亀城の御供所・平山住人の移転先 土器川西側の海岸線

江戸時代半ばまでの丸亀港は土器川河口にありました。そのため平山住人の移住先は港に続く一等地として、繁栄するようになります。金毘羅船で大坂からやってきた参拝客は土器川河口に上陸して、御供所・平山の宿に泊まっています。彼らが丸亀の「商業資本」に成長して行きます。
以上をまとめておきます
①兵庫北関入船納帳に、寄港した船の船籍地として「平山」が出てくる。
②「平山」は、次のような根拠から宇多津の「平山」であると研究者は考えている。
③「平山」には、中世に交易活動を行う「海民集団」が定住していたこと
④宇多津と商圏の棲み分けを行って、宇多津港の補完的な役割を果たしていたこと
⑤詫間・三野湾では、塩浜があり大量の塩を生産されていたこと
⑥詫間産塩を主に運んでいるのが「宇多津・平山・多度津」船であったこと
⑦平山船のほとんどが詫間産塩の輸送のために、兵庫北関に入港していること
⑧瀬居島の鯛は加工されて、宇多津船と平山船が運んでいること
以上から兵庫北関入船納帳に出てくる平山船は、宇多津の平山の船であったと研究者は考えています。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 



前回に15世紀末の小豆島では、塩浜での製塩が活発に行われていたことを見ました。小豆島で生産された塩が、畿内に向かって大量に輸送されていたことが兵庫北関入船納帳(1445年)からは分かります。しかし、生産されていた塩の量と、運び出されていた塩の量に大きな差があるようです。今回は、その点を見ていきたいと思います。テキストは、 「橋詰茂  瀬戸内水軍と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田権力」

製塩 小豆島1内海湾拡大
中世の内海湾の塩浜

前回に見た旧草壁村の塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産量は次の通りでした。
利貞名(大新開) 浜数六十五  生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、  生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
3つの塩浜の合計生産高は94石7斗2升です。15世紀末の草壁エリアの塩の生産高は年間百石足らずだったことを最初に押さえておきます。
それから約半世紀後には、どれだけの塩が小豆島から運び出されていたのでしょうか?
兵庫北関入船納帳 塩の通関表
兵庫北関入船納帳に「塩」と記されてた船荷の通関量を示したものが表7になります。ここからは、塩飽・嶋(小豆島)・引田・平山・方本・手嶋船籍の船が塩輸送をおこなっていたことが分かります。嶋が小豆島のことで、1年間の入管回数は25回、通関量は5367石です。これが嶋(小豆島)船籍の船が1445年に、小豆島産の塩5357石を積んで兵庫北関を通過したことが分かります。小豆島は、塩飽と並ぶ塩の大生産地だったようです。しかし、小豆島で生産されていた塩はこれだけではないのです。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
上表に「積荷欄記載地名」とあります。兵庫北関入船納帳には、船の積荷に「嶋330石」などと出てきます。これが「嶋産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。産地によって塩の価格が違うので、掛けられる関税も違っていました。そのためこのような表記になったようです。つまり「嶋○○石」と表記されていれば、小豆島産の塩を他の港の船が運んでいたことになります。
上表8からは、嶋(小豆島)塩について、次のようなことが分かります。
①「嶋(塩)」を積んだ他国船が54回入港したこと
②その合計積載量は7980石になること
③嶋(塩)を、積みに来島したのは牛窓39、連島12、地下1、尼崎1、那波1であること
ここからは、小豆島船で運ばれた量よりも、さらに多くの塩が牛窓船などで運び出されていたことが分かります。


兵庫北関入船納帳 船籍地毎の塩通関
上表9からは次のようなことが分かります。
④小豆島船以外の牛窓船が嶋(小豆島)塩の5910石を運んでいること
⑤牛窓船の塩の全輸送件数は43件の内の39件が嶋(小豆島)塩を運んでいいること。
⑥牛窓船の嶋(小豆島)塩占有率9割を越えて、牛窓船は「嶋塩専用船」ともいえること
小豆島船は、小豆島で生産された塩を運んでいるけれども、それだけで輸送できなくて対岸の備前牛島の船が小豆島に塩輸送のためにやって来ていたようです。以上から小豆島から運び出されていた塩の総量は次のようになります。

牛窓船他での塩輸送・7980石 + 小豆島船での塩輸送・5367石=13347石

ここからは約1、3トンの塩が小豆島から運び出されていたことになります。
本当に一万石以上の塩が、小豆島で生産されていたのでしょうか?
15世紀末の明応年間の地検帳から「大新聞・方城・午き(馬木)」で、生産されていたのは塩は年間約95石しかありませんでした。内海湾以外の池田・土庄地区でも生産されていたとしても、当時の小豆島での生産量を千石程度と研究者は推測します。50年後の兵庫北関入船納帳が書かれた時代には、それが1,3万石に増えていたことになります。
  慶長12(1607)の草壁部村宛人野治長大坂城人塩請取状には、草壁村全体で910石の塩の生産があったことが記されています。草壁一村で千石足らずなので、小豆島全体では1万石近い数値になるかもしれません。しかし、それは150年後のことです。明応年間から50年足らずで100石が900石に、生産量が拡大できたのでしょうか。
 これに対して研究者は、次のように考えているようです。
①明応年間の塩の生産高は地「大新聞・方城・午き(馬木)」など内海湾の一部のエリアの集計にしか過ぎない。
②内海湾周辺意外にも土庄・池田や北岸地域でも生産されていたことが考えられる
③小豆島では近世に入って多くの塩田が開かれており、中世にもある程度の塩田が各地区に存在した。
④江戸時代最盛期の小豆島の塩生産高は4万石近くあったので、中世の生産高も1万石を越えることもあったと推定できる。
小豆島 周辺地図 牛窓
牛窓と小豆島の関係
そして、島の北部海岸でも製塩が行われていたのではないかという仮設を出します。
それをうかがわせるのは、牛窓船の存在です。内海湾や池田・土庄などの南部の海岸には、嶋(小豆島)船籍の船が担当し、屋形崎や小江や福田集落など北部から西部の塩輸送には牛窓船や連島船が担当したというのです。確かに地図を見れば分かるように、小豆島北部は牛窓とは海を通じてつながっていました。牛窓船が伊喜末や小梅・福田などの港を、自己の活動エリアにしていたというのは説得力はあります。あとはこれらのエリアで中世に製塩が活発に展開されていたことをしめす証拠です。残念ながら、それはないようです。

小豆島 地図

 内海や池田など小豆島の南側の港が、髙松や志度・引田とつながっていたことは、小豆島巡礼の札所にもでてきます。小豆島の南側にある札所には、東讃の人たちからの寄進物が数多く残されています。また嶋の寺社の年中行事にも東讃の人々が自分たちの船に大勢乗り合わせてやって来ていたようです。ここからは、小豆島の南側は海に面して、東讃と一体化した経済圏を形成し、北側は備前との経済圏を形成していたことがうかがえます。
 中世も嶋(小豆島)塩の輸送には、次のようなテリトリーがあったことはうかがえます。
①北部海岸で作られる塩は牛窓の船
②南部海岸で作られる塩は、小豆島の地元船
小豆島の南と北では、別の経済圏に属していたということになります。そして、中世から製塩が北部や西部の集落でも行われ、そこに牛窓や連島の船がやって来て活発な交易活動が行われていたという話になります。

南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に、讃岐で初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」
というあまり目出度くない記事ですが、これが讃岐では獅子の登場としては一番が古いようです。
この縁起の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面を塗り直した」と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。その財力の背景に、島一帯に広がっていた製塩があり、廻船業があったとしておきます。製塩は嶋の一部だけでなく、全域に拡がり1万石を越える塩を生産していたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献

小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。鎌倉時代に入ると「宮寺縁事抄」神事用途雑例の中に「御白塩肥土」と記されています。
舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー
小豆島肥土荘 肥土八幡神社と歌舞伎小屋
肥土とは、石清水八幡宮の荘園であった肥土荘のことです。
この「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡官は、京都石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。肥土八幡宮の縁起によれば「依以肥上庄可為八幡宮御白地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。
肥土荘の荘域は、土庄町の伝法川に沿ったエリアで、 一部に小豆島町西部が含まれます。この海岸部では、製塩土器が発見されているので、古くから製塩が行われていたことがうかがえます。以後の製塩を裏付ける史料はありませんが、江戸時代にいち早く土庄・淵崎付近で塩田が開かれたことから考えても、中世以来の製塩が行われていたことが推測できます。

製塩 小豆島1内海湾
中世塩浜があった地区
室町期になると内海湾の安田周辺で製塩が行われていたことが史料から分かるようになりました。今回は、16世紀初頭の明応年間の三点の文書を見ていくことにします。テキストは「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」です。 

川野正勝氏が小豆島町安田の旧家赤松家文書から発見したのが次の3つの文書です。
Ⅰ 明応六年(1497)正月日    利貞名等年貢公事算用日記
Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記
Ⅲ 年末詳(Ⅱと同時期)     利貞名等田畠塩浜日記(冊子)
史料Ⅰは、前半が荘園内の諸行事に関する各名の負担を示したものです。後半は各名の荘園領主に対する負担分を記した算用の性格を持ちます。
史料Ⅱは利貞名をはじめとする六名の公田・田畑・塩浜・山の所在地・作人名を記したものです。利貞名は岩吉名を売買によって自分のものとするだけでなく、他名に大きな権益を持っていました。各名でも自分の権益について明確にする必要があり、その実体把握のために作られた文書のようです。
史料ⅢはⅠ・Ⅱと同じ内容のものを何年かにわたって覚書的に綴ったもので、文書中に種々の書き込みがあります。
小豆島 製塩 塩浜史料

Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

ここには塩浜として「大新開、方城、午き」の地名が出てきます。現在の何処にあたるのでしょうか
①大新開は、早新開
②方城は片城
③「午き」は早馬木
で、現在の小豆島町の草壁や安田で、近世にも塩田があった場所になるようです。

製塩 小豆島1内海湾拡大
史料Ⅱに出てくる①早新開②片城③早馬木

①の大新開は、その地名からして明応以前に開発された塩浜のようです。新開という地名から類推すると②方城、③午き(馬木)などの塩浜は、大新開以前からあったと推察できます。小豆島の塩浜の起原は、15世紀以前に遡れるようです。
製塩 小豆島 塩浜の地積表
        利貞名外五名田の地積表 塩浜があるのは3つ

塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産額を集計します。
利貞名(大新開) 浜数六十五、生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
久未分浜数十七、 十四石四升
   合計  浜数一一六
   生産高  九十四石七斗二升
六名のうち利貞・岩古・久末三名が塩浜を所有しています。.利貞名六五・岩吉名一六・久末名三五 計116の塩浜と3の荒浜があります。また「国友の屋くろ」「末次と久末との屋とこ」と記されています。ここには塩水を煮詰める「釜屋」があったことがうかがえ、塩浜であったことが裏付けられます。

製塩 小豆島 塩浜の地積表2
   明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

久末名畠坪在所之事の中に、次の記事があります。
①「午き(馬木) 十代 国友ノかまやくろニ在 久末下人太夫二郎作」、
②「午き(馬木) 末次ノかまやくろニ久末ノかまやとこかたとこ在、つほニ在、此つほ一 末次百姓三郎五郎あつかり」

これも塩浜が午き(馬木)付近にあったことを裏付けます。
さらに①の太夫二郎は、久末名塩浜作人にもその名が出てきます。釜屋と製塩の結びつきを示すものです。また、「つほ二在」は製塩用の壺のこと、利貞名出坪在所之事の中に「釜屋敷 十代 入新開在 但下人共作」とあつのは、釜屋敷の名から見て大新開にも塩釜があったことが裏付けられます。

製塩 自然浜
中世の塩浜

「大新開、方城、午き」の塩生産額を集計すると
九十四石七斗二升
になります。これは旧草壁村エリアの利貞名主の勢力範囲だけでの生産高です。これに池田、淵崎、土庄などの塩浜を併せると約700石程度の塩生産が行われていたと研究者は推測します。

15世紀末の明応期の塩浜生産方式については、次のようなことが分かります。
①矢張利貞、岩吉、久未などの有力名主の所有する下地を、下作人として後山の八郎次郎、かわやの衛門太郎などが小作していたこと
②有力名主は「三方の公方」に、生産高の1/3を年貢として収めている
③「三方の公方」は領家である三分二殿、三分一殿、田所殿の三者のことだが、これが誰なのかは分からないこと
④ここからは塩浜の地下中分されていたことが分かる
⑤名主の小作に対する年貢率は、まちまちで名主の勢力関係に依る
⑥68%の年貢を収めさせている岩吉名の利貞名主の圧力が強かったことがうかがえる。

網野善彦氏は、塩の生産者を次の3つに類型化します
①平民百姓による製塩
②職人による製塩
③下人・所従による製塩
この類型を小豆島の場合に適応するとどうなるのでしょうか。
 塩浜作人で田畠を持っているのはわずか4人です。利貞名では兵衛二郎、岩古名では四郎衛門、久末名では助太郎・大夫二郎です。そのうち利貞名に見られる大西兵衛二郎は、大西垣内として屋敷を所有する上層農民です。兵衛二郎以外は少数の田畑を所有するにすぎません。つまり名主が塩浜の権益を有し、作人の多くは名主の支配のもとで、請負による製塩を行っていたと研究者は考えています。小豆島の場合は、3類型の全てが混在した形態だったようですが、おおくは小作であったようです

 塩浜作人は塩山を所有していました。
弓削島荘では、塩浜が御交易島とともに均等に住民に分割保有されるようになります。その時に塩山も分割されました。この結果、塩山・塩浜・塩釜・畠がセット結合した製塩地独特のレイアウトが出来上がり、独自の名主経営が成立します。
 それを見てみると、各名には屋敷の垣内の周辺には畠、前面の海岸地帯に塩浜、後背地には塩山というレイアウトが姿を現すようになります。これは小豆島も同じようです。
 例えば、岩吉名には山が四か所あります。そのうちの一つである西山について「ま尾をさかいにて南ハ武古山也」と記されています。明応七年の岩吉名浜作人に「西山武吉百姓四郎衛門」とあり、西山に四郎衛門所有の塩山があったことが分かります。同じ様に、利貞名山のうちで、
天王山に成末
かいの山に米重・武古
岩古名山竹生に重松と
浜作人として成末百姓大夫郎・武古百姓新衛円・重松八郎二郎
利貞名に、米重百姓孫衛門・助太郎が久末名にあります。
これらは塩山として浜作人が所有していたと研究者は指摘します。
 山のすべてが塩山ではなかったかもしれませんが、製塩に使う燃料として使う木材がここから切り出されていたことは間違いありません。讃岐でも早くから塩山があたことが知られています。小豆島の史料に見られる山も塩山だったと研究者は考えています。
利貞名においても、屋敷の周辺に余田があり、屋敷地とされる場所の前に塩浜が広がります。その後背地に塩山という配置です。これは、弓削島荘と同じです。
研究者が注目するのは史料の中に何度も出てくる「一斗七升ニ延而」という数字です。
「延而」は平均してで、「定」はきめて(規定)の意味です。では「 十七升」とは何なのでしょうか。「一斗七升」は「年貢一反きた中」とあるので、一反当たりの年貢基準を示す数値と研究者は考えます。これは弓削島荘の御交易畠における塩の麦代納と、おなじ性格で、本来畠にかかる年貢を塩で代納していたことが分かります。弓削島荘では、畠一反当たり麦斗代は一斗~一斗五升でした。小豆島では麦斗代が弓削島よりも少し高い一斗七升だったようです。

またⅡの史料には「三方ノ公方」とあります。
名主が「三方ノ公方」へ年貢を上納しています。「三方ノ公方」とは、三分二殿・三分一殿・田所殿の三名です。建治九年(1275)以前に、領家方(東方)と地頭方(西方)とに下地中分されて、領家方は三分二方、三分一方に分かれ、田所も自立した状況であったようです。この三者を「三方ノ公方」と称していと研究者は指摘します。

中世の瀬戸内海の島々では、田畠・塩浜・山が百姓名に編成され、百姓たちにより年貢塩の貢納が請負われるようになります。
東寺領である弓削島荘の場合は、百姓が田畠・塩浜を配分された名を請負って製塩を行い、生産された塩を東寺へと送っています。小豆島では明応九年(1500)の「利貞名外五名円畠塩浜等日記」に、六つの名の円畠・塩浜・山の所在地・作人名が記されていました。塩浜は測量されずに、浜数を単位としています。また作人は百姓・下人・かわやといったいろいろな階層が見られます。これは弓削島も岩城島・生名島、備後国因烏、備後国歌島も同じです。塩を年貢として収めてる場合は、これらの島々と同じようなスタイルがとられていたのです。ここから塩飽も同じ様に百姓による塩浜の経営で、田畠・塩浜・山を百姓が共同で持ち、製塩を行っていたと研究者は推測します。

以上のように15世紀末の小豆島では塩浜での製塩が活発に行われていたことを押さえておきます。
こうして生産された塩が船で大量に畿内に運び込まれていたのです。それが兵庫北関入船納帳(1445年)に登場する小豆島(嶋)船籍の船だったのでしょう。こうして、小豆島には「海の民」から成長した製塩名主と塩廻船の船主や問丸が登場してきます。彼らの中には前回お話ししたように「関立(海賊衆=水軍)」に成長するものも現れていたのでしょう。

瀬戸内海の海浜集落に中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることは、以前にお話ししました。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田の動きについて、もう一度確認しておきます。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、大きな経営に発展していくことは姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑤製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。
⑥畑作農家への転進を助けたのは近世中期以後の甘藷の流入である。食料確保ができるようになると、段畑をひらいて人口が増加する。
⑦そして、時間の経過と共に海から離れて「岡上がり」していく。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところの可能性が高い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」
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讃岐の守護代は、讃岐東方守護代が安富氏で、西方守護代が香川氏で二人の守護代が置かれていました。前回は、西方守護代の香川氏とともに守護細川氏に仕えていた西方関立(海賊衆=水軍)の山地(路)氏についてお話ししました。
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書1997)の「海賊と関所」で、次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。「関立」とは海賊のことのようです。西方関立(海賊衆=水軍)があったのなら、東方関立があっても不思議ではありません。
さて讃岐に東方関立はいたのでしょうか?
 史料には、東方関立と記載されたものはないようです。しかし、小豆島にはそれらしき存在がいたようです。東方関立かも知れません。今回は小豆島の海賊衆を見ていきます。テキストは、「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。

小豆島航路
小豆島は瀬戸内海南航路の中継基地として機能
 紀伊から紀伊水道を渡り、讃岐・伊予の沿岸沿いを経て瀬戸内海を西に抜けて行く航路は、古代紀伊氏によって開かれた海のルートです。中世になると、そこに熊野水軍の船が乗り入れてきます。その船には、熊野行者たちが乗り込み、熊野信仰の布教活動や熊野詣・高野山詣のルートとして使用されるようになります。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に形成された修験集団が児島五流です。
 この集団は13世紀になると活発な活動を展開するようになります。彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想」を共有するようになります。

五流 尊瀧院
五流修験道 尊瀧院
五流を拠点に熊野の交易船や熊野行者たちは、次のような所に新たな拠点を開いたことは以前にお話ししました。
①塩飽・本島 
②多度津・堀江  道隆寺
③引田      与田寺
④芸予諸島大三島 大山祇神社
⑤伊予石鎚山   伊予、太龍寺 三角寺
 五流修験道は、熊野信仰の瀬戸内海ネットワークを形成していきます。
五流 備讃瀬戸
五流修験道のネットワーク拠点 
これらの港を熊野海賊衆(水軍)の船が頻繁に出入りするようになります。こうして、児島湾周辺は、熊野信仰が根強い地帯になっていきます。そんな中で南北朝抗争期には、熊野勢力は南朝方を担ぎます。熊野行者たちも、南朝方の支援活動を展開するようになります。

小豆島 佐々木信胤2
佐々本信胤の廟(小豆島町)

そんな中で五流修験の影響を受けた備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動するようになります。信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、東瀬戸内海制海権を掌握しようとしたようです。戦前の皇国史観では、忠君愛国がヒーローとしてもてはやされたので、讃岐では信胤も楠正成とならぶ郷土の英雄として扱われたようです。しかし、佐々本信胤に従ったとされる小豆島の海賊衆が記された史料はありません。

小豆島 佐々木信胤
佐々木信胤廟の説明版

その後の室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下に置かれ、守護代の安富氏が管轄するようになります。『小豆島御用加子旧記』には、小豆島の海賊衆は細川氏の下で加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
 塩飽では、細川氏の下で安富氏が代官「安富左衛門尉」が派遣し管理していてことは前回見ました。その管理形態は緩やかで、塩飽衆を管理しきれず野放し状態になっていました。同じようなことが小豆島
でも云えるようです。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表

兵庫北関入船納帳(1445年)の中に出てくる通行税を納めるために兵庫北関に入港した讃岐船を一覧表にしたものです。
ここで「島」として登場するのが小豆島だとされています。讃岐ベスト3の入港数を小豆島船籍の船は数えます。畿内との活発な交易活動を行っていたことが分かります。その積荷を見ておきましょう。
3 兵庫 
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積荷一覧
   讃岐船の積荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の8割は塩です。塩の下に(塩)の欄があります。例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、児島産の塩という表記です。「地名指示商品」という言い方をしますが、これが塩のことです。塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。これを見ると讃岐船は「塩輸送船団」のようです。塩を運ぶ舟は、大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。小豆島船も塩を大量に運んでいます。
小豆島では、中世に塩は作られていたことが史料から分かります。
明応九(1500)年丁己正月日の赤松家の祖・利貞名家吉によって書かれた地検帳の中に内海の3つの塩浜が記されています。
その浜数と塩生産額は次の通りです。
 利貞名(大新開)浜数65、生産高53石5斗1升
 岩吉名(方城) 浜数16、生産高13石6升
 久未名(午き) 浜数利貞分18、生産高14石1斗1升
    合計  浜数116 生産高94石7斗2升 
「大新開は早新開」「方城は字片城」「午きは早馬木」になるようです。ここに記された塩浜のあった場所は、内海湾に面するエリアで、利貞名家吉の勢力下の塩浜だけに限られています。内海より西の池田、淵崎、土庄地区の塩浜についての記述がないのは、利貞名主家吉が内海湾に面する安田在住の土豪であったからでしょう。彼の力の及ぶ範囲は内海地方に限られていたとしておきましょう。
小豆島 地図
小豆島
そう考えると、小豆島南側の内海湾から土庄にかけては15世紀には塩田がならび、それを畿内に運ぶ塩船団がいたことが分かります。これらを運営していたのは「海の民」たちの子孫でしょう。彼らは、塩生産やその海上運輸・商業活動などに関わるようになり、船主や問丸などに成長して行きます。その富が港には蓄積して、寺社の建立が行われることになります。
本蓮寺 | たびおか-旅岡山・吉備の国-
牛窓の本蓮寺

小豆島の対岸の備中
牛窓の本蓮寺の建立について見ておきましょう。
本蓮寺建立については、石原氏の貢献が大きかったようです。牛窓の石原遷幸は土豪型船持層で、もともとは
荘園の年貢輸送にかかわるた「梶取(かじとり)」だったようです。彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」していました。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、畿内の問丸の手が必要となるのです。
 荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
 このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。地方の梶取りや船持ちなどは、この問丸の発注を受けて荷物を運ぶ者も現れます。また兵庫や尼崎の問丸の中には、日蓮宗の日隆の信徒が多くいたようです。そして、「尼崎・兵庫の問丸ネットワーク + 法華信仰」で結ばれた信者たちが牛窓や宇多津で海上交易に活躍します。彼らは、そこに「信仰+情報交換+交易」などの拠点として寺院を建立するようになります。日隆の法華経は、このようにして瀬戸内海に広がって行ったのは以前にお話ししました。宗派は異なりますが小豆島の池田でも同じような関係が摂津との間で行われていたと私は考えています。
 交易がもたらすものは、商売だけにとどまらないのです。服装や宗教などの「文化情報」も含まれています。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、宗教や祭礼などの文化が瀬戸内海に広がって行ったとしておきましょう。

小豆島 明王寺釈迦堂4
小豆島霊場 明王寺
   小豆島島遍路の札所に明王寺があります。
この境内に釈迦堂が建っています。もともとは、この建物は高宝寺の釈迦堂だったようです。高宝寺は明王寺以下、池田庄内11カ寺の諸法事勤仕の会座堂でしたが、江戸時代初め無住となります。そのため釈迦堂は、明王寺が管理するようになり、現在に至っているようです。
小豆島 明王寺釈迦堂
       明王寺の釈迦堂(重文指定 室町時代)

この釈迦堂は室町末期の建築で、戦前は国宝でしたが、今は文字瓦と棟札・厨子とともに重要文化財に指定されています。
 釈迦堂に保管されている文字瓦は、現在23枚あります。
小豆島 明王寺瓦文字3
明王寺釈迦堂の文字瓦
その1枚に「為後生菩提百枚之内」と記されているので、もともとは平・丸・鬼瓦合わせ百枚あったと研究者は考えているようです。瓦の大きさは、
丸瓦が長さ約26cm、径約22,7cm。
平瓦は縦 約29cm、横約23cm、厚さ約20cm
刻印された文字瓦には、年月日・瓦大工名・寄進者・願主と簡単な言葉が箆書きされています。その中で文字の多い瓦を見ておきましょう。
小豆島 明王寺瓦文字2
大永八年と 大工四天王寺藤原朝臣新三郎の名前が見える

「千時大永二年壬子歳此堂立畢 同大永八年二月廿三日より瓦思立候也願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎」

意訳変換しておくと
釈迦堂は大永2(1522)年に着工。大永8(1528)年2月23日から瓦葺開始。願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎

ここからは、建立年代や願主、瓦大工が分かります。注目しておきたいのは、摂津四天王寺から瓦大工の藤原朝臣新一郎がやってきて瓦を葺いていることです。文字瓦の中には「四月廿七日 天王子寺主人永八天」と記されたものもあるので、天王寺主も関係があったようです。どちらにしても、小豆島海賊衆と四天王寺や天王寺などの有力者との日常的な交易関係がうかがえます。
 残された文字瓦の字体は、共通点が多く寄進者がそれぞれ書いたのではないようです。寄進者の思いを受け止めて、本願の池田庄円識坊や権律師宥善らが書いたものと研究者は考えています。こうしてみると、この文字瓦は釈迦堂建立の浄財を集めるための手段でもあったようです。それに応じている人たちは、信仰心とともに小豆島の海賊衆(水軍)とも何らかの関係を持っていたことがうかがえます。
 釈迦堂が大永2年(1522)年に地頭・須佐美氏の子孫である源元安入道盛椿(せいちん)によって着工され、11年かかって完成したことを押さえておきます。

小豆島 明王寺釈迦堂 厨子
釈迦堂内の厨子
最も長い文章が書かれている瓦を見てみましょう
  大永八年戊子卯月二思立候節、細川殿様御家大永六年より合戦始テ戊子四月二十三日まて不調候、島中関立翌中堺に在津候て御留守之事にて無人夫、本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年二十七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

意訳変換しておくと
  大永8(1528)年戊子卯月に寄進を思立った。その間、細川晴元殿様が大永六(1526)年から合戦を初めたために戊子4月23日まで、島中(小豆島)の関立(海賊)は動員され、堺にとどまった。そのため島は留守状態となり、人夫も集まらず、本願も瓦大工などへの気遣もできず、工事は思うようにすすめることができていない。阿弥陀も哀れと思し召し、後生の善所と堪忍してただきたい。
このように申し上げるのは池田庄向地の住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年27 このように書き置くも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

ここからは次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)に細川晴元が四国の軍勢を率いて堺へ渡り、細川高国と戦ったこと。
②その際に晴元は、小豆島の関立(海賊衆)に兵船動員を命じていること
③小豆島海賊衆は晴元に従い、1年余り堺に在陣して小豆島を留守にしていたこと
④そのため建設中の釈迦堂の工事が停滞していることを河本三郎太郎吉国が瓦に書き残したものです。小豆島の海賊衆が管領細川晴元の支配下におかれていたこと
以上から、讃岐の東方と西方に関立(海賊衆)がいて、下のような関係にあったと云えそうです。
讃岐東方守護代 安富氏 ー 東方関立 ー 小豆島(島田氏)
讃岐西方守護代 香川氏 ー 西方関立 ー 白方 (山路氏)
釈迦堂が建設されていた頃の畿内の情勢を見ておきましょう。
文中の細川殿様とは細川晴元のことです。

細川晴元

大永6(1526)年頃、晴元は四国勢力を背景に、京の細川高国と争っていました。大永7(1527)年に四国の兵を率いて堺へ渡り、和泉を制圧して高国に対抗します。翌年の大永8(1528)年に、和議が成立しています。Bの史料には、「島中関立(海賊)翌中堺に在津」のため「島の兵船も晴元に従い堺に出陣」し「御留守之事にて無人夫」とあります。こうした状況から、釈迦堂は大永2年に棟上したが、細川氏の同族の内紛が続き、瓦の製作など思いもよらない状態になったこと、大永8年になってやっと瓦製作を思い立ち、棟札に「奉新建立上棟高宝寺一宇天文第二癸巳十月十八日」とあるように、天文二(1533)年にやっと完成したことが分かります。。
 この瓦の寄進者は、「池田荘向地住人 河本三郎太郎吉国・吉時と記されています。
池田荘の住人であることが分かります。その文中には「阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕」とあります。瓦大工や本願が寄進した瓦にも「為後生善所……」「諸人泰平 庄内安穏……」「南無阿弥陀仏……」など彼等自身や池田庄内の無事泰平を祈願しています。同時に「極楽ハはるけきほとゝききしかと つとめていたる所なりけり」や「心たに誠の道に叶なは、いのらずとても神やまもらん」など記され、彼らが阿弥陀・浄土信仰の持ち主であったことがうかがえます。ここには池田荘に阿弥陀・浄土信仰が高野聖たちによっても田あされていたことが見えてきます。彼らを通じて、摂津の四天王寺や天王寺・堺と池田はつながっていたのかもしれません。そして秀吉の時代になると、東瀬戸内海の海軍司令長官として小豆島を領有するようになるのが、堺出身の小西行長です。行長は小豆島を神の国にするべく宣教師を呼び寄せています。池田や内海でも布教活動が行われます。そして、秀吉の宣教師追放令以後には行長は高山右近をここに匿うことになることは以前にお話ししました。
小豆島 明王寺釈迦堂3

以上をまとめておきます
①中世の小豆島は備中児島の五流修験(新熊野修験)の修行場として、数多くの行場やお堂が開かれた。
②南北朝抗争期には、備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動した。
③信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携し、東瀬戸内海の制海権を支配しようとした。
④小豆島は、引田や志度などの東讃の港の中継港の性格も帯びてくる
⑤15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、小豆島の船が大量に塩を畿内に運んでいたこと。塩が生産されていたことが分かる。
⑥こうして港の経済活動によって池田や内海は、海賊衆(水軍)の拠点として発展していく。
⑦彼らは守護細川氏に従うことを条件に、交易活動の特権を得ていく。
⑧16世紀には、細川晴元の畿内遠征に輸送船を提供している。それだけの船と水夫達がいたことうかがえる。
⑨この畿内遠征と同時進行で建立されていたのが池田荘の明王寺釈迦堂である。
⑩この建立は、池田の海賊衆リーダーによって行われたものであるが、瓦大工は摂津四天王寺からやってきていて、畿内との密接なつながりがうかがえる。
⑪文字瓦には「阿弥陀・浄土信仰」がみられ、高野聖などの活動がうかがえる。この時期に、熊野行者から高野聖へのシフトが考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」
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   室町期に活発化するのが海民の「海賊」行為です。
その中で「海の武士」へ飛躍したのが芸予諸島能島の村上氏です。この時代の「海賊」には、次の二つの顔があったようです。
①荘園領主の依頼で警固をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園押領(侵略)を行う海賊
このような「海賊=海の武士団」は、讃岐にもいたことを以前にお話ししました。多度津白方や詫間を拠点とした山地(路)氏です。

3弓削荘1
芸予諸島の塩の島・弓削島

山地氏は燧灘を越えて、芸予諸島まで出掛けて、塩の島と云われた弓削島を押領していることが史料から分かります。そこには押領(海賊)側として、「さぬきの国しらかたといふ所二あり。山路(山地)方」と記されています。「さぬきの国しらかた」とは、現在の多度津町白方のことです。ここからは15世紀後半の讃岐多度津白方に、山地氏という勢力がいて、芸予諸島にまで勢力を伸ばして弓削島を横領するような活動を行っていたことが分かります。そのためには海軍力は不可欠です。山地氏も「海賊」であったようです。

京都・東寺献上 弓削塩|弓削の荘
弓削は東寺の「塩の荘園」であった 

 今回は、山地氏がどのようにして香川氏の家臣団に組織化されていったのかという視点から見ていきたいと思います。テキストは 「橋詰茂  海賊衆の存在と転換 瀬戸内海地域社会と織田権力」
です。
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山路氏は、『南海通記』に「西方関亭(立)中」として出てくることは、以前にお話ししました。
  香西成資の『南海通記巻七』(享保三年(1718)の「細川晴元継管領職記」の部分です。ここでは管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について、当時の情勢を香西成資が次のように説明しています。その内容は、3段に分けることが出来ます。
1段目は、永正17年(1520)6月10日に細川澄元が亡くなり、その跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。
 2段目は「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用しています。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」

日付は7月4日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭(立)中」です。3段目が引用した晴元書状についての説明で、「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。
この文章で謎だったのが2段目の宛先「西方関亭(立)中」と山地氏との関係でした。これについては、以前に次のようにお話ししました。
①関亭は関立の誤記で「関を守るもの」が転じて海の通行税を徴収する「海賊衆」のこと
②山地氏は、能島村上氏とともに芸予諸島の弓削島を押領する「海賊衆」であったこと。
③山地氏は、多度津白方や詫間を拠点とする海賊衆で、後には香川氏に従うようになっていたこと
細川晴元が讃岐の海賊衆山地氏に対して、次のような意味で送った文書になるようです。
「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、そちらに送る。船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」

 この書状は細川晴元書状氏から山地氏への配船依頼状で、それが「讃州西方山地右京進、其子左衛門督」の家に伝わっていたようです。逆に山路(地)氏が「関亭中への命令」を保存していたと云うことは、山地氏が関亭中(海賊衆)の首であったことを示しています。
 ①守護細川氏→②守護代香川氏 → ③海賊衆(水軍)山地氏
という命令系統の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。

関亭は関立で海賊のことだとすると、「西方関立中」とは何のことなのでしょうか?
西方とは、讃岐を二つに分けたときに使われる言葉で、讃岐の西半分エリアをさします。守護代も「讃岐西方守護代」と呼ばれていました。つまり讃岐西方の海賊衆ということになります。文中に「此書は讃州西方山地有京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と記されています。最初に見たように寛正3年(1463)の弓削島を押領していた白方海賊衆山路氏が出てきました。その末裔がここに登場してくる山地氏だと研究者は考えています。「西方関立=海賊衆山路(地)氏」になるようです。そして、海賊衆山路氏は細川晴元の支配下にあったことが分かります。
 文書中に「香川可申候」とあります。この香川氏は讃岐西方守護代の香川氏です。
当時、西讃岐地方は多度津の香川氏によって管轄されていました。「香川氏も連絡済みで、承知している。」とあるので、細川氏は守護代の香川氏を通じて山路氏を支配していたことがうかがえます。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津船の活動
 文安2年(1445)の『兵庫北関入松納帳』には、守護細川氏の国料船の船籍地が、もともとは宇多津であったのが多度津に移動したことが記されています。また過書船は多度津を拠点とし、香川氏によって運行支配されていました。 つまり多度津港は、香川氏が直接に管理していた港だったようです。香川氏は多度津本台山に居館を構え、詰城として天霧城を築きます。香川氏が多度津に居館を築いたのは、港である多度津を掌握する目的があったと研究者は考えています。そうして香川氏は経済力を高めるとともに、これを基盤として西讃岐一帯へ支配力を強化していきます。山路氏のいる白方と多度津は隣接した地です。香川氏の多度津移動は山路氏の掌握を図ったものかもしれません。つまり海賊衆である山路を支配下におくことで、瀬戸内海の海上物資輸送の安全と船舶の確保を図ろうとしたと研究者は考えています。
3 天霧山4
香川氏の天霧城

香川氏は、永正16年(1519)、細川澄元・三好之長に従って畿内へ出陣しています。
しかし、五月の京都等持寺の戦いで細川高国に敗れて降伏し、その後は高国に属するようになります。その後の享禄元年(1528)からの高国と晴元の戦いでは、阿波の三好政長に与して晴元に属し高国軍と戦っています。その年の天王寺の戦いでは、香川元景は細川晴几の武将として木津川口に陣を敷いています。めまぐるしく仕える主君を変えていますが、「勝ち馬」に乗ることが生き残る術です。情報を集め、計算尽くで己の路を決めた結果がこのような処世術なのでしょう。
 これらの畿内への出陣には、輸送船と護衛船が必要になります。
その役割を担ったのが海賊衆の山路氏だったと研究者は考えています。文安年間(1444)以降は、山路氏は細川氏から香川氏の支配下に移り、香川氏の畿内出陣の際に活動しています。

多度津陣屋10
       多度津湛甫が出来る前の桜川河口港(19世紀前半)

晴元が政権を掌握した後、西讃岐の支配は香川氏によって行われています。
香川氏と細川晴元の関係を示すものとして次のような史料があります。
其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠与相談、無落度様二調略肝要候、猶右津修理進可申候、謹言、
卯月十二日                            (細川)晴元(花押)
奈良千法師丸殿
発給年は記されていませんが、天文14、15年のものと研究者は推測します。宛て名の奈良千法師丸は誰かは分かりませんが、宇多津聖通寺城主の奈良氏が第1候補のようです。奈良氏は細川四天王の一人といわれていますが、讃岐での動向はよく分からないようです。この史料はわずかに残る奈良氏宛のものです。文中に「香川弾正忠与相談」とあります。守護の細川晴元は、守護代の香川弾正忠に相談してすすめろと指示しています。ここからは、次のような事が推測できます。
①それだけ西讃エリアでの香川氏の存在が大きかったこと。
②奈良氏の当主が幼少であったために、香川氏を後見役的立場としていたこと
奈良氏の支配領域は、鵜足郡が中心で聖通寺山に拠点をおいていました。香川氏にわざわざ相談すせよと指示しているのです。最初に見た山路氏の文章にも、香川氏には連絡済みであると記されていました。ここからは、細川晴元にとって香川忠与は頼りになる存在であったことがうかがえます。逆に言うと、香川氏を抜きにして西讃の支配は考えられなかったのかもしれません。それほど香川氏の支配力が西讃には浸透していことがうかがえます。内紛で細川氏の勢力が弱体化していることを示すものかもしれません。この時期には香川氏の勢力は、西讃岐だけでなく、中讃岐へも及んでいた気配がします。どちらにしても、細川氏の弱体化に反比例する形で、香川氏は戦国大名化の道を歩み始めることになります。
  以上をまとめておきます
①多度津白方や詫間を拠点として、芸予諸島の弓削島を押領していたのが山路(地)氏である
②山地氏は、海賊衆(海の武士団)として、管領細川氏に仕えていたことが史料から分かる。
③多度津からの讃岐武士団の畿内動員の際には、その海上輸送を山地氏が担当していた。
④多度津港は、香川氏の直轄港であり守護細川氏への物資を輸送する国領・過書船の母港でもあった。
⑤多度津港は、瀬戸内海交易の拠点港として大きな富をもたらすようになり、それが香川氏の成長の源になる。
⑥このような海上輸送のための人員やノウハウを提供したのが山地氏であった。
⑦細川家の衰退とともに、香川氏は戦国大名化の道を歩むようになり、山地氏も細川氏から香川氏へと仕える先を換えていく。
⑧その後の山地氏の一族の中には、海から陸に上がり香川氏の家臣団の一員として活躍する者も現れる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  「橋詰茂  海賊衆の存在と転換 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

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