瀬戸の島から

2022年04月


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弥谷寺下の八丁目大師堂
本山寺から弥谷寺への遍路道の最後の上り坂に八丁目大師堂があります。この大師堂には、台座裏面には寛政10年(1798)の墨書銘がある弘法大師坐像が安置されています。

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八丁目大師堂の弘法大師座像

坐像が造られた18世紀末と云えば前回お話ししたように、弥谷寺が参拝客誘致のために周辺の遍路道を整備し、接待所を設け、そこに大地蔵などのモニュメントを設置していた時期とかなさります。「弥谷寺周辺整備計画」の一環として大師堂が建立され坐像が安置されたようです。
弥谷寺 遍路道
大師堂付近は「大門」の地名が残る

 私が気になるのは、この大師堂一体に「大門(だいもん)」の小字名が残っていることです。かつての弥谷寺の大門がこのあたりにあったと伝えられています。そうだとすれば当時の弥谷寺境内は、このあたりから始まっていたことになります。さらに、この坂を県道まで下りていった辺りは「寺地」と呼ばれています。弥谷寺の寺領と考えられます。明治の神仏分離に続く寺領没収以前には、、かなり広い範囲を弥谷寺は有していたようです。
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八丁目大師堂からの遍路道
今回は、弥谷寺の八丁目大師堂付近にあったという大門について探ってみたいと思います。テキストは「弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会」です。P1150049
八丁目大師堂より上の道 かつては両側に子院が並んでいた
『多度津公御領分寺社縁起』(明和6年(1769)には、次のように記されています。
「上古は南之麓に大門御座候て、仁王之尊像を安鎮仕候故、深尾より祈祷地への通ひ道を仁王道と申し候、然る所寛永年中(1624~1643) 大門致大破候故、仁王之尊像をは納涼坊へ移置候、於干今大門之旧跡御座候て、其所をは大門と名つけ、礎石等相残居申候、先師達、大門之営興之念願御座候得共、時節到来不仕候、其内有澤法印延宝九年(1681)、先中門に再建仕候て二王像を借て本尊と仕候て、諸人誤て仁王門と申候得共、実は中門にて御座候、往古は中門に大師御作之多聞・持国を安鎮仕候、其二天は今奥院に有之候」

意訳変換しておくと
「昔は南の麓に大門があり、そこに仁王尊像を安置していたので、深尾より祈祷地への道を仁王道と呼んでいた。ところが寛永年中(1624~1643)に大門が大破し、仁王像は納涼坊へ移された。以後は大門跡なので、大門と呼んでいた。礎石などは残っていたので、先師達は、いつか大門再建を願っていたが、その機会は来なかった。そうしている内に、有澤法印が延宝九年(1681)、先に中門を再建し、二王像を向かえて本尊とした。そのため人々は、誤ってここを仁王門と呼ぶようになった。実はここは中門で、往古は大師御作とされる多聞・持国天が安置されていた。その二天は今は奥院におさめられている。」

ここからは次のようなことが分かります。
①本来の大門には二王像が安置されていたので仁王門と呼ばれていたが寛永年間に大破したこと、
②大門はそれ以降再建しておらず、「大門」の地名だけが残ったこと
②中門が再建され「仁王像」が安置されたので、「中門」が仁王門と呼ばれるようになったこと。

それでは大門はどこにあったのでしょうか。
 「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には「大門跡」が描かれています。

弥谷寺全図(1844年)2
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)

この絵図が書かれた時期の金毘羅さんを見ると、丸亀や多度津に新港が整備され金比羅参拝客が激増します。その機運の中で3万両と資金を集め、巨大な金堂(現旭社)が完成間近になっていました。それに併せるように石段や玉垣なども整備され、芝居小屋も姿を見せるなど、参拝客はうなぎ登りの状態でした。そのような中で当寺の弥谷寺の住職も、金毘羅詣での客を自分の寺にどのように誘引するかを考えたようです。それが前回お話しした曼荼羅寺道の整備であり、伊予街道分岐点近くの碑殿上池への接待所設置であり、ここを初地(スタート)とするシンボルモニュメントである初地地蔵菩薩の建立でした。

弥谷寺 初地菩薩
初地菩薩(現在の碑殿上池の大地蔵)からの曼荼羅寺道
そしてゴールの弥谷寺境内には現在の金剛拳菩薩が姿を現し、その前には二天門が新たに建立されたことは前回お話ししました。

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ゴールの金剛拳菩薩(建立当初は大日菩薩)
 そして、この絵図を見るといくつもの堂宇が山の中に建ち並んでいる姿が見えます。18世紀末から整備されてきた弥谷寺のひとつの到達点を描いた絵図とも云えます。金毘羅詣でを終えて、善通寺から弥谷寺にやってきた参拝客もこの伽藍を見て驚き満足したようです。善通寺よりも伽藍に対する満足度は高かったと言われます。
 さて本題にもどります。大門跡付近を拡大してみましょう。

弥谷寺 八丁目大師堂
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)の大門跡付近拡大

絵図の右下隅に「南入口」とあり「是ヨリ/本堂へ八丁」とあります。その先に「大門跡」の立札があります。「是ヨリ/本堂へ八丁」とあるので、八丁目大師堂のあたりに大門があったことが裏付けられます。ちなみに大門跡前の坂道を参拝客が登る姿が描かれています。その下の参道左側にお堂が描かれています。これが現在の「八丁目大師堂」の前身だと研究者は推測します。その根拠は「八丁目大師堂」の弘法大師坐像の台座裏面に記された寛政10年(1798)の墨書銘です。この坐像が安置された大師堂も、同時期に建立されたはずです。それから約50年後の天保15(1844)年の「讃岐剣御山弥谷寺全図」に、「八丁目大師堂」が描かれていても不思議ではありません。現在の大師堂も参道の左側にあります。ここに描かれた建物が現在の八丁目大師堂だとすると、大門はその青木院跡前の参道の右側付近にあったことになります。

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八丁目大師堂から上の参道 子院が並んでいた周辺

この絵図を見ていて私が驚いたのは、参道両側に仁王門に至るまでいくつもの「院房アト(跡)」が記されていることです。ここからは、これだけの僧侶が弥谷寺を中心に活動していたことが分かります。その中には修験者や高野聖・念仏僧などもいたはずです。彼らが周辺の郷村に、念仏講を組織し、念仏阿弥陀信仰を広めていたことが推測できます。彼らは村の鎮守祭礼のプロデュースも果たすようになります。そして、都で流行していた風流踊りや念仏踊りを死者を迎える盆踊りとして伝え広めていきます。
 その成果として弥谷寺に建てられているのが、仁王門の上に建っている「船墓(ハカ)」です。
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仁王門上に建つ船ハカ
この船形の石造物は、今は摩耗してかすかに五輪塔が見えるだけです。
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しかし、この絵図には「南無阿弥陀仏」と刻まれていたことが分かります。これは念仏阿弥陀信仰の記念碑であることは以前にお話ししました。
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船ハカ(レーザー撮影版)左に五輪塔が浮かび上がる
これを建てる念仏阿弥陀信仰者の講があり、それを組織した念仏僧が弥谷寺にいたことが分かります。今は弥谷寺は四国霊場の札所で空海の学問所とされています。しかし、中世には郷村へ念仏阿弥陀信仰を広める拠点で、人々は磨崖に五輪塔を彫り、そこに舎利をおさめ念仏往生を願ったのです。この寺の各所に残る磨崖五輪塔は、その慰霊のモニュメントだったようです。そこに近世になって弘法大師伝説が「接ぎ木」されたことになります。

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本堂横の磨崖に彫られた五輪塔 穴にはお骨がおさめられた
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会
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鳥坂峠の上池(右)と大池(左) 背後は我拝師山
鳥坂峠は古来から丸亀平野と三野平野を結ぶ重要な峠です。鳥坂峠の手前で、伊予街道と分かれて弥谷寺に伸びる遍路道が分岐して、歓喜池(上池)の堤防を北に伸びていきます。

善通寺市デジタルミュージアム讃岐遍路道 曼荼羅寺道 - 善通寺市ホームページ

上池の堤防を渡りきった所に、かつての遍路宿があり、その庭に大きな地蔵さんが立っています。

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上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)
初めてこの地蔵に出会った時には、びっくりしました。大きいのです。讃岐の中では一番大きな地蔵さまのように思います。なんで、こんなところにこんな大きな地蔵さんが立っているの?という最初の出会いで思った疑問でした。
なかなかこの答え見つけられずにいたのですが、弥谷寺調査報告書2015年を読んでいると、この謎がやっと解けてきました。そこには、弥谷寺の経営戦略があったようです。今回は、どうして碑殿町の歓喜池(上池)のほとりに大きな地蔵が建てられたのかを見ていくことにします。
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 上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)

碑殿の上池に大地蔵は、いつ、だれによって建てられたのでしょうか?
寛政2年(1790)2月に、碑殿村の片山半左衛門は、次のような寄進状を残しています。
「上池之北山下畑の分畝有、残らず右地蔵尊御敷地、永代差し上ケ申し候」(「片山半左衛門寄進状」、文書1-15-55)、

意訳変換しておくと
「上池の北山下の畑地は、残らず地蔵尊御敷地として、永代寄進いたします。」

ここからは大地蔵の敷地を1790年に、片山半左衛門が寄進したことが分かります。このころから地蔵尊建立のための準備が進められていたようです。3年後の寛政5年に弥谷寺へ、常住寺から「上池尻石樋の西東」にある田1畝27歩(高3斗1升3合)が「永代譲り渡す田地」として、次のような文書が提出されています。

「此の度地蔵田二成され度思し召し二て、御所望の由仰せ聞かされ、至極御尤もの御儀二付き、早速御譲り申す」

ここからは弥谷寺の要望によって「地蔵田」が寄附されていることが分かります。この地蔵田に課せられる藩からの「諸役掛り物」は、弥谷寺が納めることになっています。以上から寛政5(1793)年には石地蔵菩薩は、現在地に姿を見せていたと研究者は考えています。

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大地蔵の台座側面

地蔵菩薩立像は花崗岩製で、高さが約3m、台座・台石と合わせると約4,9mになります。台石には次のように記されています。
(正面) 歓喜墜
(左面) 五名の戒名 泊浦宮本清二郎
(右面) 六名の戒名 与島岡崎
ここからは塩飽本島の泊浦の宮本氏と坂出市与島の岡崎氏が、この大地蔵を奉納したことが分かります。彼らは塩飽の有力人名衆になるようです。
 この地蔵菩薩立像は、『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))に、次のように記されています。
「穴薬師堂門を出て左手にあり、是より左へ山路を行。石地蔵尊 長二丈斗の石仏麓にあり」

弥谷寺 初地菩薩
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には、地蔵菩薩立像が描かれていて、右横に「東入口初地菩薩 石像御長一丈六尺」と記されています。
この「初地」とは、菩薩の修行段階である十地(じゅうじ)の第一位のことで、十地とは「歓喜地・離啓地・発光地・焔慧地・難勝地・現前地・遠行地・不動地・善慧地。法雲地」で、「初地」とは、「歓喜地(かんぎじ)」のことになるようです。
また「弥谷寺全図」に描かれた「初地菩薩」の横に3間×4間の入り母屋造りの建物が見えます。よく見ると、正面には2間の扉が描かれているように見えます。お堂や庵のようにも見えますが、これが弥谷寺が建てた接待所だったようです。

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なお現在、地蔵菩薩立像(大地蔵)の横にある建物は、地元での聞き取りからは、旧雨峯小学校であったことが分かっているようです。私は遍路宿とばかり思っていましたが先入観でした。

この地蔵菩薩立像の前には、灯籠が1基建てられています。
灯籠竿部に刻銘文があり、寛政12年(1800)に亡くなった真蓮栄範信士の供養灯籠で、享和元年(1801)に造立されています。刻銘文には、「弥谷寺現住無縛代」とあり、無縛は弥谷寺中興第八世(1807寂)です。ここからは18世紀後半には、弥谷寺の影響範囲がここまで及んでいたことがうかがえます。

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この大地蔵は、単独で作られたものではなく、新たな接待所のシンボルモニュメントとして建立されたようです。
寛政4(1792)年3月に、碑殿村の上池尻に接待所を設置することが弥谷寺から多度津藩に願いでられています。
「往来の四国辺路え茶施し申し願い出」(「続故事謂」、「諸願書控。文書2-104-4)

とあるので、弥谷寺が参拝者へのサービス提供のために、遍路道の整備や接待所などの設置などに務めていたことがうかがえます。その接待所の前に設置されたのが大地蔵になるようです。接待所の敷地に課せられる年貢は、弥谷寺から納めることになっています。接待所と大地蔵の建立は弥谷寺の手で進められたことが分かります。
 接待所と大地蔵が建てられてから60年近く経った安政4年(1857)になると、その管理と世話が問題となります。そこで弥谷寺住職の維那は、碑殿村役所と茶堂庵講中へ次のような依頼をしています。「地蔵守之書付入」、文書1-17-40)。
上池の「大仏地蔵尊」は先の住職菩提林が造立し、碑殿村の勘蔵に田地を譲って「香華」の世話させていた。ところが田地を売り払って年を経るに随って世話が疎かになっている。そこで、このたび弥谷寺が管理することにする。就いては、その世話を「同所茶堂庵講中」に世話を頼みたいたい」

ここからは、安政4(1851)年頃には、接待所は茶堂庵と呼ばれて、それを維持するために「茶堂庵講中」が組織されていたことが分かります。
この背景には18世紀末ころから金毘羅大権現の伽藍整備が進み、東国からの金毘羅詣で急増することがあります。金毘羅船で丸亀港にやってきた参拝客は金比羅を往復するだけでなく、善通寺や弥谷寺・海岸寺など「七ケ寺めぐり」をするのが一般的になります。これには巧みな参拝者誘引のための手法があったことは、以前にお話ししました。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
丸亀港にやってきた参拝客に配布された案内図

 18世紀末から金比羅船で丸亀や多度津港にやってくる金比羅詣客は急増していきます。その参拝客を金比羅だけでなく自分の所へも導いてこようと周辺の寺社は、あの手この手の広報戦略を駆使します。例えば、丸亀港に降り立った参拝客に配布された案内図は「金比羅参拝図」とは記されていません。「丸亀・金比羅・善通寺・弥谷寺参拝」と表題が書かれ、この4つの社寺をめぐるルートが描かれています。
丸亀街道 E27 ことひら5pg

 この案内地図を手にして金比羅詣でにやって来た弥次喜多コンビも弥谷寺に参拝しています。そして、天霧山を下って海岸寺・道隆寺を経て丸亀港から帰路に就いています。 また、東北からやって来た人の中には「伊勢神宮 + 高野山 + 金比羅 + 宮島厳島神社 + 西国三十三ヶ寺巡礼」という参拝の旅を行っている人も多かったようです。今のように目的地だけを目指すというものではなく、「金比羅詣でも四国巡礼も宮島もこの際ついでに、まとめて参拝」という感じなのです。そのような庶民の参拝気質を見込んで、「呼び物」と「参拝道」を整備すれば、人はやってくるというのが当時の寺社の広告戦略です。それを弥谷寺の住職たちは見抜いていたといえるかもしれません。

善通寺・弥谷寺
五重塔があるのが善通寺 そこから弥谷寺への遍路道が見える

 金比羅までやってきた参拝客をいかにして、自分の所まで誘引するのか。それがあらたな名所作りであり、シンボルモニュメントを登場させることであったようです。その一環として弥谷寺の住職が取り組んだのが、伊予街道から分岐する遍路道の整備であり、その分岐点近くに弥谷寺直営の接待所を設置し、そこに大きな地蔵をモニュメントとして建立するというプランだったようです。このプランはこれだけでは留まりません。さらに大きな仕掛けを考えていたようです。

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弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ曼荼羅寺道

天保11(1840)年の「続故事諄」には、次のように記されています。
「東、碑殿坂を以て十地の位に当たる、今此の盤石上の石仏を安置する所なり、則ち初地歓喜の像なり」
意訳変換しておくと
「東の碑殿坂が十地の位に当たる。今、この盤石上には石仏が安置されている、それが初地歓喜の地蔵菩薩である」

ここには碑殿の上池は弥谷寺まで「十地の位」に当たる場所なので、ここにスタート地点として「石像地蔵菩薩(初地歓喜像)」が造立されていると記されています。

また「剣五山弥谷寺記」には、次のように記されています。
「前住菩堤林及び法嗣霊苗、嘗つて行基の意を原ね、碑殿歓喜池の上の石像地蔵より、法雲橋頭に至るまど、離垢発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す、(中略)、
僅かに第十地に金剛拳菩薩を建て、以て其の梗概を示すのみ、二天門内丈六の鋳像、即ち此れなり」
意訳変換しておくと
「弥谷寺の前住職・菩堤林とその法嗣霊苗は、かつての行基の意を汲んで、碑殿歓喜池(上池)の石像地蔵より、弥谷寺境内の法雲橋頭に至るまで、離垢発光等の諸位の仏像を遍路道の路傍に安置して、十地の道しるべにしようと考えた。(中略)、しかし、第十地に金剛拳菩薩を建てただけに終わった。二天門内の丈六の鋳像がそれである。」
ここからは弥谷寺の住職によって、碑殿の石像菩薩から弥谷寺境内の法雲橋までの間の遍路道に、十の仏像を安置するプランがあったことが分かります。しかし「剣五山弥谷寺記」の書かれた弘化3年(1846)には、弥谷寺の境内の第十地に金剛拳菩薩(丈六の鋳像)が残されているだけだと記します。丈六の鋳像が、現在の金剛拳菩薩のようです。

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潅頂川にかかる法雲橋(弥谷寺)

つまり上池の大地蔵は、弥谷寺境内にある金剛挙菩薩とセットで建立されたものだというのです。
それをまとめてみると
①上池の巨大地蔵(石地蔵菩薩)から弥谷寺までの遍路道に、十の仏像を安置する計画があった
②そのスタート(初地)が歓喜池(上池)で、第十地(ゴール)が弥谷寺境内の金剛拳菩薩である。

これは鳥坂峠で伊予街道と分かれた遍路道の整備計画でもありました。今に残る金剛挙菩薩と石地蔵菩薩とは、その計画のスタート地点とゴール地点に立っていることになります。しかし、なぜこんなの大きな仏像を建立したのでしょうか?                      
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金剛挙菩薩
次に弥谷寺境内の金剛挙菩薩を見てみることにしましょう。
この菩薩は「大日如来」として建立されたものが、いつの間にか金剛挙菩薩とされてしまったようです。その理由はよく分かりません。とにかく建立に向けた動きを追ってみます。

「銘曰く、寛政三辛亥起首願主先師菩堤林文化八辛来年成就幻住法印零苗代、鋳物師紀州住人蜂屋薩摩塚源政勝、右年号並びに時代、仏像の脇これそ記すなり」

とあって、住職菩堤林が寛政3年(1791)に建立のための募金活動に取りかかり、20年ほど後の、文化8年(1811)に完成したことが分かります。

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金剛拳菩薩(最初は大日如来として建立された)

弥谷寺には、寛政元年(1789)の 「灌頂仏募縁疏」の版木が残っています。
これは住持の菩提林によって書かれた大日如来造立のための募金趣意書に当たります。そこには次のように記されています。

弥谷寺の灌頂川の法雲橋の西の大岩の上には、かつては一丈六尺の金銅の大日如来があった。それを「第十地ノ菩薩」として再建を行いたい

 この再建のために、菩堤林と講中が勧進を行おうとした趣意書の版木です。この版木には寛政元年正月と記されているので、大日如来の造立の動きは寛政元年に始まっていたことが分かります。

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              金剛拳菩薩
また「五山弥谷寺記』には、次のように記されています


「碑殿歓喜地の上より法雲橋の頭に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す。」
意訳変換しておくと
「碑殿の歓喜池が初地にあたり、弥谷寺の法雲橋に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を遍路道沿いに安置し、十地の階級を示したい。」

「讚岐剣御山弥谷寺全図」には「東入口初地菩薩石像一丈六尺」とあります。
弥谷寺 初地菩薩
「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた初地菩薩

初地は別名「歓喜地」で、そこから第十地「法雲地」に至るまでに、十地各地に仏像を安置する計画があったことになります。しかし、今あるのは先ほど見た「初地」として碑殿の上池に「初地菩薩」、第十地「法雲地」とされる「法雲橋」の金剛拳菩薩だけです。

弥谷寺 金剛拳菩薩jpg
「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた丈六金仏(金剛拳菩薩)
 「金剛拳菩薩」は寛政3年(1791)に募金活動が始まり、完成したのは、文化8年(1811)ですから22年かかっています。
ふたつの間には仏像が造立された気配はないので、十仏像を設置するという計画は頓挫したようです。また、「法雲橋_|と「金剛拳菩薩」の間にあった「二天門」は、昭和6年(1931)の「諸堂建立年鑑」によれば文政12年(1829)に再建されています。この計画の一環として建立された可能性を研究者は指摘します。
弥谷寺 参道変遷
金剛拳菩薩の出現で変更された参道 

 「金剛拳菩薩」は、もともとは大日菩薩として建立されたことが資料で確認できます。
完成前年の8年の「灌頂仏再建三百人講」や、文政2年(1819)の「四国巡拝日記」では、大日如来と記しています。ところがそれから約30年後の弘化3年(1840)の記録には「金剛拳菩薩」と記されています。つまり大日如来として作られたが、その後に金剛拳菩薩へと変更されたことになります。その理由については、私にはよく分かりません。
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弥谷寺に残された史料の中に、「灌頂仏再建三百人講」があります。これは文化7年8月に弥谷寺の維綱がまとめたもので、大日如来(金剛拳菩薩)建立の経緯が次のように記されています。
「丈六の金仏を再建せんと思へとも、衣鉢乏しく少なくして自力に及びかたし、故に善男善女を勧進して、三百人講をいとなみ、此の浄財を以て大日尊を再建し奉らんと希ふ」(中略)
「此の尊に帰依して浄財を郷ち、早く再建の願いを遂げ、万代不朽の巨益を成就せしめん輩ハ、現世にハ子孫繁昌し福徳豊穣にして、快楽自在ならん、当来にハ摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率任意往生せん、猶又施主家の姓名先祖の法名等大日尊の蓮座に彫り付け、永代毎歳の灌頂に廻向するなり」
意訳変換しておくと
「丈六の金仏(大日如来)を再建したいと願っても、資金に乏しく自力ではできない。そこで善男善女を勧進して三百人講を組織し、その寄付で大日尊を再建しようと計画した」(中略)
「この大日尊に帰依して浄財を寄進し、再建の願いが実現したあかつきには、万代不朽の巨益を手にした者達は、子孫繁昌し福徳豊穣で、快楽自在となろう。そして来世では摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率で必ず往生する。さらに施主家の姓名先祖の法名などを大日尊の蓮座に彫り付け、永代に渡って毎年、灌頂廻向を行うことを約束する」
ここからは、三百人の寄附によって「丈六の金仏」を再建すること、寄附者の現世の御利益を説くとともに、その名を大日如来の「蓮座」に記すとしています。この大日如来の再建には銀25貫600目が必要であったようです。この序文に続けて大見村から始まって、多度津藩・丸亀藩の村々からの寄進者の名が記されています。施主一人前で金1両です。一番多いのは大見村庄屋の大井助左衛門の7人前で、次いで4人前の大見村の三谷恒右衛門。同三谷甚之丞。同三谷源六。同辻市郎右衛門となっています。その他はほとんどが一人前であり、二人で一人前の場合もあります。これらを郡ごと、村ごとに施主人前に整理したのが下表です。

弥谷寺 金剛拳菩薩趣意書
一番多いのは地元の大見村の77人前、次いで隣村の松崎村の42人前で、郡ごとでは三野郡が190人前と多いようです。全体で271人前となっています。施主1人前金1両とされていたので、金271両の寄附があったことになります。「三百人講」だったので、目標金額は300両です。それには達しなかったようですが、目標の9割を越える金額を集めています。大日如来(金剛拳菩薩)の建立には地元の大見村や松崎村をはじめとして、多度津藩。丸亀本藩領内、またそれ以外の各地の人々の支援によって行われていたことが分かります。
 完成した大日如来の像や蓮弁等には、先ほど見たように寄進者の名前等が刻まれています。
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以上をまとめておきます。
①18世紀末に、弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ遍路道の整備が行われ、伊予街道との分岐点近くに接待所と大地蔵が姿を現した。
②ここには仏像造立という宗教意味だけでなく、弥谷寺の経営戦略があった。
③それは金比羅参りの参詣者を、善通寺を経て弥谷寺へ誘導するという広報戦略の一環だった。
④その広報戦略の目玉として考えられたのが、上池をスタートとしてゴールの弥谷寺までに十の仏像を安置するプランであった。
⑤そのスタートに初地地蔵、ゴールに金剛拳菩薩が建立された。
⑦金銅制の金剛拳菩薩は、三野郡を中心とする富裕層の寄付金によって建立された。
⑧しかし、残りの仏像は資金難で建立されることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 弥谷寺調査報告書2015年 香川県教育委員会
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