瀬戸の島から

2022年08月


 金毘羅神は近世始めに、西長尾城主の長尾氏出身の宥雅によって、生み出された流行神です。
土佐の長宗我部元親の侵攻の際に宥雅は堺に亡命します。無住となった松尾寺伽藍を元親は、土佐の有力修験者であった南光院(宥厳)に与えて、讃岐支配のための拠点宗教施設にしようとします。元親撤退後も宥厳とその弟子であった宥盛は、金比羅を「修験道=天狗道」の拠点にしていきます。その信仰の中心に据えたのが「金毘羅神」です。中心施設も松尾寺の本堂から「金毘羅堂」へ移っていきます。それまでの本堂観音堂の場所に、金比羅堂が移築拡張されます。それが現在の本殿になります。そして、金比羅神を祀る神社としての金毘羅大権現、その別当寺としての松尾寺という関係が生まれます。この時期には、多くの有力修験者がいて、子院を形成していたようです。その中で最も有力になっていくのが金光院です。宥盛の時代に金光院は、生駒家の力を背景に、その他の子院や三十番社などの宗教勢力と抗争を繰り返しながら、金毘羅における支配権を握っていくことは以前にお話ししました。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗・烏天狗 

このように近世初めの金毘羅は、権力者(長宗我部元親や生駒親正)の保護を受けた有力修験者によって「天狗道の聖地」として形成されたようです。「海の神様」というのは、近世末になって云われ出したことです。金毘羅は、崇徳上皇が天狗となって棲む白峰寺と同じような天狗たちの住処と世間では思われていたことを押さえておきます。
 こうして、「天狗道のメッカ」である金比羅には全国から数多くの天狗(修験者)たちが修行にやってきます。それを育成保護し、組織化したのが金光院宥盛です。彼の下からは有力な修験道の指導者が沢山生まれています。


佐川盆地周辺の城跡
仁淀川と佐川・越知周辺の中世古城跡
 その中に、後に多聞院を開く片岡熊野助がいました。
今回は、この片岡熊野助(初代多聞院)を見ていきたいと思います。
彼の出自については前回見たように、土佐の仁淀川中流域の片岡や黒川を拠点に活動していた国人武将の片岡氏の一族です。

片岡氏 片岡
仁淀川中流の片岡周辺

 『佐川郷史』は、片岡光綱が長宗我部元親に対してとった戦略について次のように記します。
①長宗我部元親の佐川盆地攻略にまっ先に恭順の意を表して軍門に下ったこと
②近郷諸族降伏の勧誘をも行ない、元親の信第一の将として「親」の一字を賜って親光と改名したこと
③家老職に補されて高岡郡の支配と周辺国人の監督連携の要の役を託されたこと
以上から、片岡光綱(親光)が佐川盆地周辺の実質的な支配を長宗我部元親から託されたと研究者は考えています。 片岡氏は長宗我部元親に帰順することで、佐川盆地の支配権を手に入れ勢力を拡大していきます。
この時期が片岡家にとっての「全盛期」になるようで、片岡一族も長宗我部元親に従って四国平定戦に活躍しています。 そんな中で熊野助は、片岡氏の分家一族である片岡直親の子として、天正14(1586)年に父徳光城で生まれています。
  「南路志」南片岡村の片岡氏系図には、当時の片岡家の棟梁は、熊野助の父の伯父である親光と記します。そして親光の父直光は、長宗我部元親の叔母を妻に迎えています。婚姻関係から見ても、片岡家は長曾我部氏と深いつながりがあったようです。
 ところが四国平定戦の最終局面になって、片岡家には不幸が重なります。
片岡家の棟梁・親光が伊予遠征中に秀吉軍と戦い戦死します。さらに翌年には熊野助の父が、秀吉の九州平定に動員された長宗我部軍として豊後に遠征します。この時の島津軍と戸次川の戦いは、「四国武将の墓場」と言われた戦いで、島津軍の巧妙な戦術で多くの讃岐武将たちも命を落としています。熊野助の父も戦死します。熊野助は、生まれてすぐに一族の棟梁と父を亡くしたようです。その後、片岡家がどのように運営されたのかはよく分かりません。
 転機はそれから14年後の1600年の関ヶ原の戦いです。
長宗我部氏が領地没収となった後に入国するのが、山内氏です。これに対して、旧長宗我部の家臣団や国人武将達は、激しい抵抗を見せます。しかし、これも山内氏によって押さえ込まれていきます。このような中で14歳になっていた熊野助は、どんな道を選んだのでしょうか。
『吾川村史』は、次のように記します。
「熊野助は慶長5(1600)年の山内氏入国後 (中略)
松山へ逃れ、更に仏門に入って、讃岐金比羅別当寺(宥盛)に弟子入りする。大坂夏の陣の際に還俗して片岡民部と名乗り豊臣方へ参戦。生き永らえた彼は、上八川(現伊野町)へ逃げ帰った。その後(略)下八川深瀬で、祈祷師として身をかくし、17年の歳月を隠忍した」
ここには記されていることを補足・要約しておきます。
①関ヶ原の戦い後に、14歳の熊野助は仏門に入り、金毘羅の金光院宥盛に弟子入りしたこと
②そこで宥盛のもとで修験者として「天狗道」や武術を身につけたこと
③1615年に大坂夏の陣が起きると、長宗我部一統と連絡を取り合っていた多聞院は、還俗して片岡民部と名乗り大阪城に入り豊臣方として参戦
④戦後は土佐八川深瀬に祈祷師(修験者)として、17年間潜伏。
⑤1632年に、土佐藩主二代・山内忠義の許可を得て、ふたたび金光院に復帰。
⑤の経緯を『讃州多聞院流片岡家由緒』は、次のように記します。
「宥盛の後を嗣いだ宥睨より、金光院の門外である小坂の地に宏大な宅地を賜わり、なお宥盛より竜樹作の多聞天像を与えられていたほどの愛弟子であったため多聞院と号することとなった。万治二年(1659)4月2日、74歳で逝去した。」

しかし、この史料に対して③④⑤については何も触れていない史料もあります。
多聞院の後世の院主が残した「古老伝旧記」には、次のように記されています。
多聞院元祖片岡熊之助、当地罷越金剛坊宥盛法印之御弟子に罷成、神護院一代之住職も相勤候、其後宥盛法印之御袈裟筋修験相続之事、慶長年中訳有伊予罷越、本国に付土佐国へ帰参、寛永八年宥現法印より使僧を以、土州僧録常通寺と申へ国暇之義被申入候て、則首尾能埓明、当地へ引越、元祖多聞院宥醒法印、寛永八年間十月、土州役人中連判之手形迂今所持候也、当地へ着、新ん坊と申に当分住居、追て唯今之屋敷宥睨法印より御普請有之被下、数代住居不相更代々当地之仕置役相勤候事、具成義別紙に記有之也、
(朱)多聞院居宅柱は古の鳥居の柱つが木梁引物等、今石の鳥居挽しゅら等取合普請給候也」
意訳変換しておくと
 多聞院元祖の片岡熊之助が当地金比羅にやってきて金剛坊宥盛法印の弟子になった。そして、神護院の一代住職として相勤め、その後は宥盛法印の袈裟筋の修験を相続した。そのような中で、慶長年間に訳あって伊予へ行き、その後本国の土佐国へ帰参した。これに対して宥盛の跡を継いだ宥睨は、寛永8(1631)に使僧を派遣して、土州僧録常通寺へ申し出て、讃岐金毘羅への帰山を申し入れた所、首尾よく受けいれられた。そこで、熊野助は金比羅へ再度やって来ることになった。こうして、熊野助は元祖多聞院宥醒法印と称し、寛永八年間10月、土州の役人から連判手形の発行を受けた上で当地へやってきて、しばらくは新ん坊と呼ばれて生活した。その後、今の屋敷を宥睨法印より新たに普請し与えられた。この屋敷は、数代に渡って代わることなく多聞院が代々に渡って当地の仕置役を相勤ていることは、別紙にも記した通りである。
(朱)多聞院居宅柱は古の鳥居の柱つが木梁引物等、今石の鳥居挽しゅら等取合普請給候也」
古老伝旧記には、次のことは何も触れられていません
①大阪夏の陣に参戦したこと
②敗戦後に土佐八川で潜伏生活を17年送ったこと
③土佐藩主と親密な関係があったこと
29歳の熊野助が大坂夏の陣に参戦したのかどうかは、分からなくなります。多聞院の子孫にとって、先祖が徳川方と戦ったということを秘めておいた方が無難だと判断したので「訳あって」とぼかしているのかも知れません。しかし、土佐からの帰讃手順については具体的でリアルです。どうとも云えないようです。これについては、置いておくことにして、その他について見ていくことにします。
まず①の熊野助が金毘羅にやって来たのは、どうしてなのでしょうか?
仁淀川上・中流域は、橫倉山を中心に修験者の活動が活発なエリアであったことは以前にお話ししました。そのため有力武将の一族からは、修験者となって指導的な地位についていた者がいたことが史料からもうかがえます。長宗我部元親は、そのブレーンや右筆に修験者たちを組織して使っていたと云われます。彼らは修験者として、四国の聖地や行場を「行道」し修行を積んでいて、四国各地の交通路やさまざまな情報にも通じていました。これは「隠密」としては最適な条件を備えています。
 片岡家の一族の中にも修験者がいたはずです。そんな中で熊野助の今後を考えると、義経が鞍馬寺に預けられ、鞍馬天狗に鍛えられたように、どこかの修験者に預けて一族の再興を願ったことが考えられます。また、金毘羅の松尾寺は土佐出身の南光院(宥厳)が金光院院主として支配していました。宥厳は、幡多郡の修験者を束ねるほどの存在でもあったことは、以前にお話ししました。また、その弟子である宥盛も修験者としては、名声を得るようになっていました。そこで、片岡家の熊野助は、金毘羅金光院にの宥盛に弟子入りすることになったと私は考えています。

②については、金毘羅にやってきた熊野助が、宥盛から何を学んだのかということです。
 師の宥盛は、指導力や育成力もあったようで、全国から彼の下に修験者が集まってきています。そして有能と認めれば「採用・雇用」し、様々なポストも与えています。そのような中でも、熊野助は有能であったようです。そのために、土佐に身を置いていた熊野助は、後に呼び戻されたとしておきましょう。
  
 片岡氏 八川
仁淀川支流の八川深瀬

④大阪籠城戦後に、土佐の八川深瀬に祈祷師(祈祷師)として潜伏したとあります。
前回に見たように片岡氏の拠点は、仁淀川中流域の片岡や黑嶋でした。八川は、その周辺エリアになります。つまり、熊野助は幼年期を過ごした仁淀川中流流域エリアに帰ってきて、山伏として隠れ住んでいたことになります。もしそうなら、それを周囲の山伏たちや住民も知りながら、山内藩に密告することなく守り続けたことになります。

江戸時代後期にまとめられた『南路志』の吾川郡下八川村の条に、片岡家が篤く信仰していた正八幡社には、次のように記されています。
「金幣一振 讃州金毘羅多聞院寄進」
「十二社東宮大明神 右八幡同座弊一振 多聞院寄進」
ここからは、金毘羅の多聞院が下八川村の正八幡社に奉納品を送り続けたいたことが分かります。その背景には、片岡家の出身地であり、金毘羅から帰国した熊野助の活動拠点でもあったのではないかとも考えられます。
それを裏付けるのが、多聞院由緒書の次の記述です
「(範清は)寛永六年四月一日、土佐吾川郡下八川深瀬に誕生」

範清とは、熊野助の実子です。ここからは、潜伏中の熊野助は、下八川深瀬に潜伏し、妻子がいたことが分かります。多聞院の子孫は、先祖の霊に祈るために金幣を寄付していたようです。ちなみに、下八川の氏子達は、今でも「片岡さま」と呼び、なにかと話題が語り継がれていると報告されています。また、片岡家の墓参りをする人もいるようです。
⑤については、山内藩の2代藩主・山内忠義から厚い信頼を熊野助は受けるようになっていたようです。
 藩主や家臣のために祈祷を行うと共に、藩内での配札も許されていたと云います。17年間の潜伏布教活動で、周辺の有力者の信仰を集めると共に、藩主からも信頼を得る存在になっていたことがうかがえます。それを裏付けるのが次の史料だとされます。
①山内家二代忠義公から熊野助宛の二通の手紙が、片岡家の宝として保存されていること
②寛文頃の桂井素庵の日記には、土佐で滞在する多聞院が、土地の名士と交わっている様子が記録されていること
③「南路志」には、元禄七年の「口上之覚」には、土佐の修験で山内公にお目通りができるのは、金毘羅の多聞院だけとかかれていること
   ここからは、多聞院が金毘羅で要職を務めながらも、土佐山内藩においても藩主の保護を受けて、修験者として大きな力を持っていたことがうかがえます。しかし、その背景に何があったのかはよく分からないようです。どちらにしても、土佐の金毘羅信仰は、多聞院によってこの時期に土佐に持ち込まれたという仮説は立てられそうです。ところが実際にそれを史料裏付けようとすると、なかなかうまくマッチングしません。
片岡家のかつての拠点である仁淀川中流域に、全毘羅信仰が定着したがいつころなのかを追ってみます。
16世紀末の「長宗我部地検帳』には、金毘羅信仰を示す堂社は一つもありません。また江戸時代中期の『土佐州郡志』には、吾川村と高岡郡東分をあわせても、山奥の「用居村」(現・仁淀川町)の条に、「金毘羅堂 在船方村」がひとつあるだけです。さらに、江戸時代後期になっても『南路志』の用居村に、「金毘羅 舟形 木仏 祭礼三月十日」とあって、この時期になっても吾川郡では、ここしか金毘羅はありません。
 ところが昭和6年刊行の竹崎五郎著『高知県神社誌』には、用居集落を含めた池川町には琴平神社が五つあります。周辺で、これほどまとまって琴平神社があるところはありません。池川町は、多聞院ゆかりの下八川方面からは、西へ峠を一つ越えた所になります。
 以上からは、多聞院が江戸時代から自分の出里に金毘羅信仰を広げようとした形跡をみつけることはできません。これは今後の課題としておきましょう。

最後に見ておきたいのが仁淀川流域の修験者を廻る宗教情勢の変化です。
江戸時代に入ると、幕府は修験道法度を定め、修験者を次のどちらかに所属登録させます。
①聖護院の統轄する本山派(熊野)
②醍醐の三宝院が統轄する当山派(吉野)
そして、両者を競合させる政策をとります。この結果、諸藩でこの両派の勢力争いが起きるようになります。土佐では山内藩の保護を受けたのは本山派でした。そして、当山派は衰退の道を歩み幕末には土佐から姿を消す事になります。熊野助が属したのは、師宥盛から伝えられた醍醐寺の当山派でした。
 また幕府は、修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。全国の行場を渡り歩く事が出来なくなった修験者は、各派の寺院に所属登録されます。村や街につながれた修験者は、それぞれの地域の人々によって崇拝されている山岳で修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになっていきます。そして、村々の加持祈祷や符呪など、いろいろな呪術宗教的な活動を行うようになります。そのような中で、八川深瀬に潜伏していたのが熊野助だったといえるのかもしれません。

橫倉山
 仁淀川から見る橫倉山

仁淀川中流の修験者の聖地は横倉山です。
安徳天皇伝説が伝える「阿波祖谷の剣山 →  物部の高板山 → 土佐横倉山  」というのは、いざなぎ流修験道の活動ルートでした。行政的には、「物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町」になるこのルートは、いざなぎ流の太夫たちの活動領域ではないのかと私は考えています。そして彼らは醍醐寺に属する「当山派」で、山内藩においては冷遇・圧迫される立場でした。そのため横倉山は、江戸時代には、山内家・家老深尾家の祈願所として、その命脈は保ちます。しかし、この山から修験者の姿は消え、後にはこの山が修験の山であったことまで忘れられていきます。熊野助も当山派に身を置く修験者でした。そのような中で、宥盛の後を継いだ院主から「金比羅の修験道について、お前にはまかせるのでやって来ないか」という誘いを受けて応じたと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
連記事
 

 「町史こんぴら」の金毘羅宮の歴史を見ていると、多聞院のことがよく出でてきます。近世の金比羅は、金光院が宗教的領主として支配する幕府の朱印地でした。その意味では金光院院主は、僧侶であると同時に、お殿様でもあったことになります。そして、NO2の地位にあったのが多聞院のようです。
多聞院については、次のようなことが云われています。
①初代金光院院主の宥盛の弟子として、信頼を得ていた片岡熊野助が多聞院初代である。
②片岡熊野助は、長宗我部元親に仕えた土佐の国人武将・片岡家出身である。
③片岡熊野助は、大坂夏の陣の際には還俗して大阪城に入り豊臣方について戦った。
④戦後に土佐に隠れ住み、修験者や祈祷などで生活していた。
⑤隠密生活から17年後に、土佐藩主から赦され、金毘羅に復帰し、多聞院初代となった。

このように片岡熊野助(多聞院)は、若くして宥盛に弟子入りして、修行に励み、その信頼を得て多聞院を宥盛から名告ることを許されます。この多聞院は、金光院に仕える子院の中でも特別な存在で、金毘羅の行政にも大きな影響力を行使しています。そして、江戸期を通じて全国からやってくる天狗道信者の統括・保護や、金毘羅信仰の流布などに関わっています。今回は、この多聞院初代の片岡熊野助の出身地と、片岡氏について見ていくことにします。
テキストは、「小林健太郎  戦国末期土佐国における地方的中心集落  高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年

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仁淀川から見た片岡(越知町)

片岡氏の最初の拠点は、仁淀川中流の越知町片岡にあったようです。
仁淀川は、今では「仁淀ブルー」で、有名になりラフテングや川下りのツアーも行われるようになりました。「永遠のカヌー初心者」である私が川下りを楽しんでいた頃は、ほとんど人に会うことがない静かな川でした。1年に一度は、越知中学校前の沈下橋からスタートして、V字に切れ込む谷を浅野沈下橋・片岡沈下橋を経てあいの里まで、のんびりと下っていました。

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上流から見た片岡と沈下橋
その中でも片岡は、沈下橋とともに絵になる光景が拡がり、上陸して集落をよく散策していました。なになく雰囲気のある集落だという印象を持っています。後でもお話ししますが、仁淀川は中世から越知や支流の柳瀬川を通じて川船が遡り、河川交通が盛んに行われた川だったようです。今では、時代の中に置き去りにされたような片岡集落も、かつては川船の寄港する川港として賑わいを見せていたようです。
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片岡沈下橋
 この地が片岡氏のスタート地点だったようです。
『片岡物語』には、片岡氏の由来を次のように記します。(現代語要約)

片岡氏 片岡
片岡周辺と法厳城跡

①平家の減亡後に別府氏のもとに身をよせていた坂東大郎経繁が、この地域の土豪矢野和泉守俊武を討って吾川山庄を手中におさめ、出身地上野国の荘片岡の地名をつけた。
②その後、南北朝時代には経繁の子孫である経義・直嗣の兄弟が北朝方として活動した。
③室町前期には片岡直之が黒岩郷代官を務め、その跡を嗣いだ直綱は柴尾城に拠って勢力を拡大した。
④文明16年(1484)に、直光が継ぐと柴尾城を廃して、その上流に黒岩城を築いて拠点とした。
④永正17年(1520)に直光の後をついだ茂光は、翌年の大永元(1531)年に徳光城下にあった台住寺を黒岩城西方の山麓に移して累代の蓄提をとむらう一方、越知に支城清水城を設けて以北の守りとした。
 ここからは、片岡氏が片岡を拠点に勢力を蓄えて、「片岡(宝厳城 → 柴尾城 → 黒岩城」と仁井淀川を遡り、その支流である柳瀬川流域の黒岩方面に勢力をのばそうとしていたことがうかがえます。さらに柳瀬川を遡り南方に進むと豊かな佐川盆地です。ここを片岡氏は目指します。
佐川盆地周辺の城跡
佐川盆地周辺の城跡


しかし、この頃の佐川城(のちに松尾城と改称)には、三野氏(のち中村氏を称す)が拠点を置いていました。さらに
佐川盆地一帯を見渡してみると
①南部の斗賀野城には米森氏
②西部の尾川城には近沢氏
③黒岩城との中間庄田には中山氏
が割拠して、蓮池城主大平氏のもとに属しています。
このような中で天文15年(1546)に、中村の一条氏が大平氏を滅して高岡郡に進出してきます。すると、佐川盆地の国人たちの多くは、一条氏の勢力圏下に組み込まれていきます。これに対して、永隷6年(1562)になると、長宗我部氏が仁淀川東岸の吉良域を奪取して、西進してきます。この結果、仁淀川西岸以西を勢力圏とする一条氏と長宗我部元親は、佐川盆地をめぐって対峙するようになます。

 元亀元年(1570)になると、長宗我部元親は一気に佐川盆地の攻略を進め、片岡氏を初めとする佐川盆地の国人たちはその軍門に下ります。佐川盆地平定後、元親は佐川盆地に重臣の久武内蔵助親直を入れています。久武氏は石ノ尾城(佐川城)を修築して、ここを佐川盆地支配の拠点とします。この際に、黒岩城主の片岡光綱は、それまでの本領を安堵されます。
 元親は、佐川盆地制圧4年後の天正3年(1574)に、公家大名一条氏を征服し、翌年には甲浦城を攻略して土佐一国を統一します。そして四国制覇にのりだしていきます。元親傘下に入った片岡氏以下の佐川盆地の国人たちも、これに従って四国各地に出陣することになります。そして、天正13(1584)年に片岡光綱は、遠征中の伊予国金子陣で戦死します。この年に長宗我部元親は秀吉に降って、土佐一国のみを安堵され、翌年1585年には秀吉の九州征伐に従軍させられます。この時に薩摩島津氏と戦った豊後戸次川の戦いは「四国武将の墓墓」とも云われ、多くの四国の武将が戦死します。片岡光網の子光政(一説甥)も、ここで亡くなっています。片岡氏は連続して、当主を失ったことになります。
 この前後に生まれたのが後の金毘羅の多聞院(幼名片岡熊野助)です。熊野助が生まれたときには、片岡氏は、佐川盆地周辺の有力国人であったことを押さえておきます。

片岡氏がこの地域で大きな勢力を持っていたことを見ておきましょう。
 その所領を示す「片岡分」が高岡・吾川両郡の北部山地から中部丘陵地帯にかけて千町歩余りが『地検帳』に登録されています。その本拠である黒岩城そのものは、検地の対象外とされたようで『地検帳』に記されていませんが、黒岩古城については、次のように記されています。
黒岩古城詰門外タン共二           同(黒岩村)次良大夫居
一 (所)壱反拾七代一分   下屋敷   同じ(片岡分)
ここからは天正18(1590)年に検地が行われた時には、このエリアが古城と呼ばれる廃城になっていたことが分かります。

片岡氏 黒岩城周辺
黒岩城周辺 南を流れるのが仁淀川支流の柳瀬川

この黒岩は現在では黒岩小学校敷地となって、わずかに土塁の一部を残しているだけです。

片岡氏 黒岩居館跡
黒岩城周辺の土地割

 明治前期の地籍図からは、小字「黒岩」の北部にその居館遺構があったことが分かります。その規模は東西南北の最大幅約70mです。これが片岡氏の居館跡と研究者は考えています。
これを裏付けるのが『地検帳』で、黒岩古城(居館跡)について次のように記します。
片岡氏 黒岩地検帳1

ここからは、このエリアが片岡分の「御土居=居館跡」であると記されています。その背後には給主片岡右近が居住する総面積一反四一代一分の屋敷が、またその南には片岡右近に給された総面積四三代一分の屋敷があったことが記されています。この「御土居」が、検地の時点での片岡氏の本拠である居館と研究者は指摘します。
 
『地検帳』は、その他にも片岡氏が多くの土地や要衝の地を手にしていたことを示します。佐川盆地から高知平野に向う出入口にあたる日下川上流河谷の加茂永竹村にの大谷土居ヤシキ(片岡治部給、主居)を片岡分としています。
片岡氏 三野古城跡
三野古城(居館跡)
また、三野古市については次のように記されています。
片岡氏 地検帳2


ここからは、佐川盆地中央部の西佐川にあった三野氏の居城が片岡氏のものになったことが分かります。また、長宗我部氏に亡ぼされた米森氏の居城があった斗賀野も、片岡分に編入されていたことが記されています。
以上を整理して、研究者は次のように指摘します。
「元亀元年に長宗我部氏の軍門に下った片岡氏が、その居城である黒岩城は廃城化されたものの、その東方に「御土居」を構えて本領を安堵されたうえ、さらに佐川盆地中央部や日下川上流河谷にも所領を拡大して、かつてそれぞれの地区を基盤に成長してきた小領主の上居をも支配するようになった。換言すれば、片岡氏は長宗我部氏に降ることによって、かつては片岡氏と措抗する小領主の支配下にあった佐川盆地中央部などへも進出して、この地域最大の地域的領主にまで成長し、長宗我部氏による領国支配の一環を構成するようになった。
『佐川郷史』は、片岡光綱が長宗我部元親に対してとった戦略について次のように記します。
①長宗我部元親の佐川盆地攻略にまっ先に恭順の意を表して軍門に下ったこと
②近郷諸族降伏の勧誘をも行ない、元親の信第一の将として「親」の一字を賜って親光と改名したこと
③家老職に補されて高岡郡の支配と周辺国人の監督連携の要の役を託されたこと
以上から、片岡光綱が佐川盆地実質的な支配を長宗我部元親から託されたと研究者は考えています。
それでは、佐川エリアに配された久武氏との関係はどうなるのでしょうか。
久武氏は元親の厚い信任を受けていた重臣で、伊予攻略では軍総代に任じられている有力武将です。しかし、『佐川郷地検帳』には、その所領は約4町歩しかありません、ここから研究者は、久武氏の佐川城は片岡氏に対する目付的な機能をもっていたにすぎないと推測します。
長宗我部氏の地域的領主としての地位を片岡氏が握るようになって、発展するのが「黒岩新町」だと研究者は推測します。
片岡氏は長宗我部氏に下ることによって、その居城である黒岩城は廃城になり、封建領主としての独立性は失われます。しかし、その代償として、佐川盆地とその隣接地域の多くを片岡氏は所領に組み込んでいきます。そして、地域的領主としての地位とそれを支える経済基盤を拡大します。こうして片岡氏は、それまで佐川盆地中央部の永野や沖野で開かれていた市場機能を、自らの居館「御土居」のある黒岩新町に吸収統合して、地域の経済的な中心にしようとしたと研究者は推測します。これを裏付ける直接的な史料はないようです。

 片岡氏盛期の黒岩城下が賑わっていたことは、『片岡盛衰記』に次のように記されています。
「今の本村は帯屋町とて南北一筋の町あり、中にも和泉屋勘兵衛とて茶屋あり、其時代は他国入込にて、大坂より遊女杯数多下り、新居浜(仁淀川河口)迄舟通いければ、夜毎にうたいさかもり殊の外賑々しく今に茶園堂と申伝候」
 
意訳変換しておくと
「今の本村は帯屋町と呼ばれて南北一筋の町で、その中には和泉屋勘兵衛の茶屋があった。ここに他国から多くの人々がやって来た。大坂から遊女も数多く下ってきて、新居浜(仁淀川河口)まで川舟が通行していたので、夜毎に宴会が開かれ、謡いや酒盛り開かれ賑々しかった。これが今の茶園堂と伝えられている。

ここからは、佐川までは川船が運航していて「本村」は、その川港として大いに賑わっていたことがうかがえます。
それでは、ここに出てくる「本村」とは、どこのことなのでしょうか
『佐川郷史』は、最初に見た仁井淀川北岸の片岡本村の宝厳城下のこととしています。しかし、先ほど見たように仁淀川が深いV字谷を刻んで東流していて、その北岸には河道に沿った狭い場所があるだけです。「南北一筋の町」が立地するスペースはありません。
そこで研究者は、本村とは黒岩城下について記したものと推察します。
この黒着新町(本町)も、片岡氏の最盛期を築き上げた光網・光政が相次いで戦死した後に作成された『地検帳』検地段階にはやや衰退に向っていたようです。地検帳には町並の南端で、六筆の屋敷地が耕地化され、一筆は空屋敷になっていたことを伝えます。片岡氏の最盛期には、黒岩新町は仁淀川水運を通して、大阪からの遊女たちも多数やって来て賑わいを見せる広域的な川港でした。それが片岡氏の衰退とともにその地位を失い、「大道」をつなぐ周辺の領域内だけの流通エリアをもつ「地方的中心集落」に転化していきます。黒岩新町の衰退は、広い意味では、当時進行しつつあった長宗我部氏の新城下町大高坂建設と密接に結びついていたと研究者は指摘します。
 市場集落の近世化と新設域下町の登場は、地域経済に大きな影響を与えます。小商圏の中心である各地域の市が、大高坂城下町の建設で、その一部分を吸収されていきます。それは、現在の市町の商店街がスロート現象で、県庁所在地などの都市圏に吸い上げられ、衰退化していったのと似ているようにも思えます。
 このように黒岩新町も、江戸時代に入ると急速に衰退し、一面の水田と化してしまいます。
その時期や経過については、よく分かりません。しかし、山内氏入国後の佐川と越知の発達が、黒岩新町の衰退要因のと研究者は考えています。長宗我部氏によって佐川城主に任じられた久武氏がその城下に新市を開設したことは、『佐川郷地検帳』に、次のようになることから裏付けられます。
新市                    本田村
一 (所)弐反弐拾代 出弐反拾四代三歩才下   久武内蔵助給
ここには、「新市」が本田村に作られたことが記されています。この佐川の「新市」は、片岡氏が大きな力を持っていた時には、黒岩新町には適いませんでした。ところが、慶長5年(1600)年の関ケ原合戦後に、長宗我部氏が領国を没収されてその後に山内一豊が入国します。その翌年には一豊の国老格をもって呼ばれた深尾重良が佐川郷一万石の領主として佐川城に入ります。このとき、黒岩村は藩主山内氏の直轄地として深尾氏の領地でした。深尾氏がその城下に現在の佐川町中心市街の前身となる町場を建設した際に、黒岩新町はこの町場に吸収されます。それ以後は佐川が佐川盆地唯一の町場として発達するようになります。
 なお、越知の発達は佐川よりもやや遅れます。
17世紀中葉に推進された土佐藩の殖産興業政策の一環として、仁淀川流域の林産物開発が進められます。その輸送のために仁淀川水運の整備が行なわれた際に、その拠点として町立てが行なわれたのが越知のようです。

以上、戦国時代の片岡氏についてまとめておきます。
①片岡氏は、仁淀川中流の片岡を拠点に、上流に向かって勢力を伸ばし、居城を移して行った。
②戦国時代には、上流の黑嶋に居館を構え、佐川につながる河川交易ルートを押さえて勢力を拡大した。
③片岡氏は長宗我部元親と一条氏の抗争では、長宗我部方の付いて佐川盆地における勢力拡大に成功した。
④その後、片岡氏は長宗我部元親の四国平定戦に従軍し活躍したが、当主を伊予の戦いで亡くした。
⑤また、秀吉の九州平定にも長宗我部軍の一隊として参加し、戸次川の戦いで当主を亡くした。
⑤片岡熊野助が生まれたのは、このような時期で片岡家が長宗我部支配下の国人武将として活動し、その居館のある黑嶋が大いに賑わっていた時期でもあった。

この後、関ヶ原の戦いで豊臣方に付いた長宗我部氏は土佐を没収され、家臣団は離散します。代わって山内氏が新たな領主としてやってきて、長宗我部に仕えていた旧勢力と各地で衝突を繰り返します。このような中で、14歳になっていた片岡熊野助は、土佐を離れ出家し金毘羅にやってきます。そして、金光院宥盛に弟子入りして、修験者としての道を歩み始めるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「小林健太郎  戦国末期土佐国における地方的中心集落  高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年

P1160349
新猪ノ鼻トンネル 阿波側出口の池田町西山込野

 国道32号の新しい猪ノ鼻トンネルが開通して、阿波方面へのルートが大幅に短縮されました。このトンネルを使うと、今までヘアピンカーブの連続だった峠道を通ることなく、一直線のトンネルを10分足らずで一気に通り抜けることができます。夏はトンネル内は涼しくて、フルスロットルで走っていると肌寒くなるほどです。いつものように阿波と讃岐を結ぶ峠道の散策のために、トンネルを込野で下り旧32号を箸蔵寺方面に原付を走らせます。

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旧R32号に立つ坪尻駅への看板
ここには、坪尻駅への看板が立っています。この入口から急な坂道を下っていくと、土讃線の坪尻駅です。

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JR坪尻駅入口のバス停
土讃線が開通した昭和の初めには、この周辺の集落の人たちもこの道を使って坪尻駅へ向かっていたのでしょう。ここを通り過ぎて、箸蔵寺への道に入ったところに展望台があります。P1160169
秘境駅坪尻駅が見える展望台
「撮鉄」ファンのために地元の人たちが、設置したのでしょうか。
かつて、写真撮影に夢中になった「撮鉄」ファンが滑落死したことがあるようです。そのために地元の人たちによって設置された展望台のようです。
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こんな看板もあります。そうです。命が一番大切です。写真を撮るのに命懸けになって、命を失ってはいけません。その通りと相づちを打ち、地元の人に感謝しながら展望台に上がります。

P1160170
坪尻駅
いい景色です。込野集落のソラの家との高低差がよく分かります。周辺人たちは、この高低差を上り下りして、列車を利用していました。

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坪尻駅
ズームアップすると駅舎と線路がよく見えます。向こう側が猪ノ鼻トンネルの出口で讃岐側です。ここから眺めているといってみたくなりました。予定を変更して、坪尻駅に向かいます。この変わり身の早さというか、いい加減さというか、我ながら尻軽と思います。

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込野からの坪尻駅への入口 看板には1㎞と表示あり
今回は傾斜の緩やかな込野からアプローチします。入口から1㎞15分ほどの下りです。
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込野から坪尻駅への道
道は整備されていて、ゆるやかな下り道です。込野の人たちが列車利用のために使った道のようです。しっかりとしています。

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坪尻駅
鮎苦谷川(あゆくるしたに)の沢音が聞こえ、沢に向かってどんどん下りていきます。そして平地になると、森の中から突然のように坪尻駅が姿を見せました。駅の周りは線路があるだけで、他には何もありません。ここにはもともとは、駅はなかたようです。駅の登場は、戦後になってからのことで、それは猪ノ鼻トンネルと大きな関わりがあります。
 1923(大正12)年5月21日に、土讃線は、琴平から讃岐財田駅までが開通します。
 猪ノ鼻トンネル(延長3,845m)は1922年10月に着工します。この工事は、7年後の1929(昭和4)年4月に開通しています。開通当時は中央本線の笹子トンネル(明治36年開通、=4656m)に次いで全国第2位の長さを誇る長大トンネルで、郷土の誇りでもあったようです。工事中に死者10人、負傷者2000人の犠牲者を出す「土讃線最大の難工事」でもありました。

猪ノ鼻隧道琴平方坑口附近(国道23号線と猪ノ鼻トンネル)
 猪ノ鼻トンネル琴平方坑口附近(国道32号線と猪ノ鼻トンネル)

  当時の香川新報は、開通の喜びを次のように伝えてきます。
見出し (現代表記に改めた)
『岩切通し、猪の鼻の巌を貫き、歳月を閲する7年、海抜2千尺の高峯をぬきて阿讃の連絡完成す』
『明治、大正、昭和と元号三転の間に、何と日本の交通機関は急テンポで目まぐるしく回転したことであろうか。わずか60年の音、倶利加羅紋々の雲助共によってエイホーの掛声勇ましく東海道五十三次を早きも十余日、増水の御難に逢へば二十数日を要した。それがわずかに十時間のうたた寝の夢一つ終らぬ間にもう着こうという変り方である。全くスピードの時代と言はなければならない。しかるに我が四国は山多くして、鉄道に恵まれず、四国循環線、縦貫線共にその一部の開通を見たのみである。予讃の両地はかろうじて鉄道連絡が可能であるが、阿土、予上の間は重畳たる四国アルプスの連山に遮られて、今日文字通り岩切り通し山を抜き、断崖をめぐりて延長9哩1分、距離遠からずと雖も、瞼峻猪の鼻峠を貫きて、完全なる阿讃の連絡が完成したのである。まさに四国交通の幹線の一部をなすのであるとともに、中国、山陰、阪神方面二の連絡に力強き一歩を進めたものと言える。空にプロペラのうなりをきく自然征服の時を迎へても、羊腸の如き峻坂を攀づるにあらざれば越すに越されぬ猪の鼻の瞼を、一瞬にして乗り切る事が可能となったのである。特に香川、徳島両県人にとっても感慨深くも万限りなき歓びであると言はなければならない。
興奮気味に、土讃線の阿波池田までの開通を報じています。財田駅から池田までは、約20㎞には6年と6ヶ月の年月を要したことになります。
 讃岐財田駅から佃駅間の建設概要を見ておきましょう。
土讃線 財田・佃駅建設概要

線路ノ状勢
本区間線路ハ香川県三豊郡財田村地内既設讃岐財田停車場ノ南端多度津起点弐拾四粁百九拾七米八二二起り 南進シ右折左転シテ起伏セル数多ノ山脚ヲ開撃三戸川隧道(延長二百弐拾七米九〇)ヲ貫キ土佐街道(国道)卜併進シ登尾ニ至り鋼飯桁径間七米六弐フ架シテ土佐街道(国道)ヲ越へ谷道川二鋼飯桁径間九米壱四フ架設シ進デ阿讃ノ国境猪之鼻ノ崚険二(延長参粁八百四拾五米〇九)四国第一ノ大隧道ヲ穿ッテ徳島県三好郡箸蔵村地内二入り州津川二鋼飯桁径間拾八米三フ架シ左折漸ドシテ坪尻隧道(延長武百九拾五米七弐)フ穿チ右折左転シテ 坪尻二出デ茲に坪尻信号場(多度津起点参拾壱粁八百九拾米)ヲ設置シ疏水隧道フ設ケテ州津川ヲ付換へ左転シテ馬ノ背隧道(延長弐百参拾七
米参八)及落隧道(延長弐百六拾八米五六)フ貫キ右折シテ落橋梁鋼飯桁径間九米壱四、式連フ架シ箸蔵隧道(延長百弐拾四米七弐)ヲ穿チ猶漸下シテ箸蔵橋梁鋼鋲桁径間九米壱四、壱連、六米壱、壱連フ架シ左転シ太円隧道(延長参百拾八米八五)及井関隧道(延長参百拾参米八弐)ヲ貫キ蔵谷二至り疏水隧道フ設ケ蔵谷隧道(延長百四拾弐米八参)フ穿チ左折シテ国道卜並進シ字東州津ノ部落ヲ過ギ土佐街道(国道)二跨線橋フ設ケ三好郡箸蔵村字州津地内ニ至り箸蔵停車場(多度津起点参拾五粁百参拾米)ヲ設置シ山麓二沿ヒテ東進右転シテ昼間町地内二入り尚山麓二沿ヒ汐入川フ渡ルニ鋼鋲桁径間拾八米参、四連、拾式米弐、壱連フ架設シ一大環状ヲ画キテ右転シ昼間町ヲ横断スル処撫養街道二跨線橋ヲ設ケ南道シテ吉野川沿岸ノ平圃二出テ吉野川ニハ鋼飯桁径間拾八米、参拾六連構鋼桁(スルー型)径間六拾壱米、四連(延長五百七拾壱米弐)ノ一大橋梁フ架シ辻町二入り右転シテ徳島街道フ横断シ此処二佃信号場(多度津起点参拾八粁五百参拾八米九八)フ設置シテ徳島線二連絡ス
此間線路延長 八哩七拾弐鎖八拾九節四分(拾四粁参百四拾壱米壱五)
最急勾配   四拾分ノ壱(千分ノ弐拾五)
曲線最小半径 拾五鎖(参百米突)
工事竣功   昭和四年四月
線路実延長  拾四粁参百四拾壱米
最小半径   参百米
猪ノ鼻トンネルと坪尻信号所のところだけを、意訳変換しておくと

阿讃の国境である猪之鼻峠には四国最大のトンネルを通し、三好郡箸蔵村に抜ける。そして、州津川に架橋し、左折して坪尻隧道(延長武195m)を通して、右折左転して、坪尻にでる。ここに坪尻信号場(多度津起点31、890㎞)を設置して、疏水隧道を設けて、州津川(鮎苦谷川)を付け替えて左転して・・

ここからは次のようなことが分かります。
①坪尻駅は猪ノ鼻トンネルの次のトンネルである坪尻隧道の出口にあること
②ここは、もともとは鮎苦谷の川底で、そこにトンネル掘削で出た残土処理場として、埋め立てられ更地となった。
③開通時には停車場(駅)はなく、信号所(通過待合所)が作られた

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JR土讃線 坪尻トンネル出口方面
トンネル工事中は、飯場などの施設がここには建ち並んでいたようです。工事が終わると、それらも撤去されます。そして、ここは「信号所」として、列車の待合所となります。しかし、駅ではないので常客の乗り降りは出来ません。地元住民にとっては、線路は通って、列車は見えるのにそれを利用できない状態が戦後まで続きます。それが地元の要請で、駅が設置されたのが1950年になります。ここでは、坪尻駅が戦後に新設された新駅であることを押さえておきます。

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左が本線、右が駅への導入線

 この駅はスイッチバックの駅として有名です

その理由として、急勾配克服のために導入されたと書かれた本もあります。しかし、それは誤りのようです。スイッチバック採用の原因は
次の通りです
①もともとここが川を埋め立てる難工事の末に確保された場所であったこと
②トンネルの出口にあったこと
以上の理由から2本の線路が併行して確保できる広さに限界があった
ためのようです。つまりスイッチバックは、行き違いの待避線路用で
急勾配対策ではなかったことになります。
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坪尻駅通過列車の時刻表 「停車」ではありません。
今、この駅のホームに入り込んでくるのは、一日に数本だけの普通列車と、四国真ん中千年物語の観光列車だけです。多くの特急列車は谷底の坪尻駅の本線を走り抜けていきます。それは信号所だったころの坪尻駅に先祖返りしているようにも思えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



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木屋床への山道
坪尻駅には
 
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木屋床方面の入口に残された家屋
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      諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
                   
中世以来、子松・真野・吉野郷で郷社に奉納されていた風流踊りが「那珂郡七か村念仏踊り」でした。
これは東西2組で構成され、二百人のを越える大部隊で編成されました。この2つの踊り組の西組は、下司(芸司)や子踊り・棒振・薙刀振・棒振りを佐文村が占めていて、佐文を中心に編成されていた組です。ところが19世紀末に、滝宮への奉納を廻って、なんらかのトラブルがあったようで西組は廃止され、1編成だけになります。そして佐文村のスタッフは、「棒付10人」だけに大幅に縮小されます。ここからは佐文をめぐって何らかのトラブルや不祥事があり、その責任をとらされたことがうかがえます。
 今まで踊りの中心を担っていた佐文衆にとって、これはある意味で屈辱的なことだったと思われます。それに対して、佐文が起こしたアクションが、新たな踊りを雨乞い踊りとして出発させるということです。こうして雨乞い踊りは生まれたのではないかというのが私の仮説です。
それでは綾子踊りは、どのようにして作り出されたのでしょうか。
新たな踊りを考える際に参考にしたのは、それまで自分たちが参加してきた「那珂郡七か村念仏踊り」です。もう一度、真野郷の諏訪大明神(諏訪神社)に奉納されていた「念仏踊図」を見てみましょう。この絵と現在の綾子踊りの共通点を挙げてみましょう。

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「七か村念仏踊り」の芸司(下司)と子踊り
①花笠をかぶった芸司が「月と星」の団扇をもって踊っている
②赤い花笠を被った六人の子踊り(稚児)がそれに従っている
③棒振と薙刀振が試技や問答を行っている
④棒付きが場内警備について踊り区域を確保している。
⑤幟持ちがいる。
ここからは佐文がメンバーとして参加していた「那珂郡七か村念仏踊り」から多くのものを学び、綾子踊りに引き継いでいることがうかがえます。荒っぽく云うと、役目や衣装は、「七か村念仏踊り」そのまんまです。ちがうのは、まわりに建てられた宮座衆の「見物小屋」だけとも云えそうです。この見物小屋を消して「これが江戸後期の綾子踊りです」と云われても「ああそうですか」と答えそうになります。ここでは、綾子踊りの役目や衣装・持ち物は「七か村念仏踊り」から引き継いだものであることを押さえておきます。DSC01887
七箇村念仏踊図の棒振りと薙刀振り

問題は、この絵図の題名が「諏訪大明神念仏踊之図」とあり、歌われていた風流歌は念仏系であったことです。
現在の綾子踊りは、以前にお話ししたように「瀬戸内海の港町ブルース」のように、男と女の情話が数多く歌われる風流踊歌です。これが「七か村念仏踊り」で歌われていたとは思えません。この風流踊歌は、どこからやって来たのでしょうか。
 
ここで思い出されるのが以前に紹介した、高瀬町上栂の昔話に伝えられる「綾子踊り」です。
そこには次のようなことが語られています。
①時代は、東山天皇の時代とされるので、17世紀後半の元禄年間のこと。
②綾子踊りを伝えたのは、流刑で流された京都の公家の娘・綾子姫。
③綾子姫が船で向かう途中に嵐にあって金毘羅神に救われ、高瀬の上麻に住み着いた。
④旱魃が続いたときに、人々はいろいろな雨乞祈願をしたが効き目がなかった
⑥そこで綾子姫は「京の雨乞い踊り」を、上栂で踊ることを思い立つ。
その制作過程を、次のように記しています。

 「雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました」
 
ここからは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」が上麻の上栂に導入され経緯がうかがえます。
畿内で踊られていた「雨乞い踊り」とは、どんなものだったのでしょうか。
風流舞には、つぎのような融通性があったことは前々回にお話ししました
      「疫病神送りの乱舞には、何を歌ってもよかったから」

これは、雨乞い踊りにも適応されます。綾子姫が踊った踊りも、当時の流行っていた風流踊りであったことが予想されます。また、「綾子」という伝説上の人物を、取り去ってしまうと、当時の仁尾や観音寺・多度津などの港町で歌われていた風流踊歌が雨乞い踊りの中に「転用」されたことが考えられます。
 「上栂綾子踊り」の起源については、綾子自体が17世紀の人物になります。
また、「金毘羅神=海の神様」として登場します。金毘羅神が海上安全祈願の対象として世間に認知されるのは19世紀になってからであることは以前にお話ししました。ここからは、この物語が江戸時代後半になって作られたものであることが分かります。
 また京都や奈良などでは、雨乞いは真言僧侶や修験者(山伏)など呪力のある修行を積んだ人物が行うもので、雨が降った時にそれに感謝して踊るのが雨乞踊りでした。人々は「雨乞い祈願」のために踊っていたわけではないようです。「雨乞成就感謝」のために、自分たちが普段踊っていた風流踊りを踊ったのです。これは滝宮念仏踊りも同じです。坂本念仏踊りの由来には「菅原道真が祈願して雨が降ったことに感謝して踊る」と記されています。ここでも「降雨成就感謝踊り」であったことが分かります。
 ところが、「上栂綾子踊り」は、京から流刑された綾子姫が京都の雨乞い踊りを参考にして「創作」した踊りで、その目的は「雨乞い祈願」だったというのです。ある意味、民衆による民衆の手による雨乞いがここに生まれたと云えるのかもしれません。18世紀後半から19世紀にかけて上栂では、雨乞いのために綾子踊りが踊られるようになったとしておきます。
 以上をまとめておきます
①「上栂綾子踊り」の起源は、18世紀末から19世紀にかけてのものであること。
②綾子踊り以前に、すでに「善女龍王信仰」などの雨乞祈願の行事が行われていたこと
③先行する雨乞行事があるにもかかわらず、あらたな百姓主導の雨乞い踊りが導入されたこと
④そして、それは時宗念仏系の踊りではなく、近畿で流行っていた風流系のものあったこと。

上栂には、この「上栂綾子踊り」の祈念碑が戦後に建てられています。
そこには、佐文より前から綾子踊りを踊っていたことが記されています。綾子踊りの本家本元は上栂であるとの主張にも読み取れます。そうだとすると、上栂から佐文へはどのように移植されたのでしょうか。
 尾﨑傳次氏が書き写したという綾子踊りの由来には、弘法大師伝説が語られています。
それは旅の僧(弘法大師)が綾子に、踊りを伝授したという内容です。しかし、綾子踊りは中世の風流踊りで、歌われている歌も風流歌です。弘法大師のずーと後に作られたものです。弘法大師が生まれた時には、こんな歌や踊りもなかったのです。
 また「善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。」と雨乞いの神として善女龍王の力を讃えますが、この神も讃岐にもたらされるのは近世になってからであることは以前にお話ししました。つまり、この由来は古代にまで遡るものがなにもないことになります。描いた人物は弘法大師信仰をもつ山伏か聖が考えられます。
 
以上の状況証拠の上に、想像力を膨らませて綾子踊り誕生物語を描いて見ましょう。
山伏 七箇村念仏踊りの件の顛末については、聞きましたぞ。大変なことになりましたな。
庄屋 わたしども佐文にとっては厳しいお裁きです。棒付十人の参加しか認められなくなりました。
山伏 それは村の衆も気落ちしていることでしょう。
庄屋 その通りです。念仏踊りへ芸司や子踊りを出すのは佐文の誇りでもありまたので。若衆の中   には、棒振りや薙刀振りは憧れでもありました。それが出せないのは辛いことです。村の空気も沈んでしまします。
山伏 それでは、新しい踊りを佐文だけで始めてはどうですか。
庄屋 そんなことができるのですか
山伏 わたしがよく通う上栂では、新しく綾子踊りという雨乞い踊りを近頃、踊るようになっています。お上も毎年踊る盆踊りには目くじらたてて取り締まりも行いますが、日照りの時の「雨乞い踊り」と云えば、見て見ぬ振りをしているようです。
庄屋 はいはい、そのことは隣村なので知っております。それを佐文で踊るというのですか?
山伏 もちろん隣村で踊られているのを、そのまま佐文に持ってきて踊るのでは芸がありません。
庄屋 それでは、どうするのですが。
山伏 佐文には、今まで参加してきた「七か村念仏踊り」のやり方が伝わっています。衣装もあります。それを使って、踊りや歌はまったく別のものにするのです。上栂綾子踊りで歌われているものや、近辺の村々の盆踊りなどで踊られている歌や踊りを使えばいいのです。それは私が考えましょう。
庄屋 それはありがたいことです。村の衆の気持ちも、晴れるでしょう。よろしくお願いします。
こうして、佐文単独の雨乞い踊りである綾子踊りが、山伏の手でプロデュースされていきます。
    高瀬町史には、 寛政二年(1790)に大水上神社(二宮神社)に奉納された「エシマ踊り」が次のように記されています。
 羽方村のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷の文書(森家文書「諸願覚」)
 右、旱魅の節、右庄屋え雨請い願い、上ノ村且つ御上より酒二本御鯛五つ雨乞い用い候様二仰せ付けられ下され候、尤も頂戴の役人初め太左衛門罷り出で候、代銀二て羽方村指し上げ口口下され候、雨請いの義は村々思い二仕り候様仰せ付けられ候、
右に付き、七月七日 ニノ宮御神前、千五百御神前、金出水神二高松王子エシマ踊り興行いたし、
踊り子三十人計、ウタイ六人計、肝煎、触れ頭サシ候、村中奇今通り、百姓・役人・寺社・庄屋立ち合い相勤め候、寺社御初尾米一升宛御神酒御神前え上げソナエ候、寺社礼暮々相談の故、米五升計差し出し候筈二申し談じ候、右支度の覚え
1 大角足  飯米四斗計
1 一酒壱本
1 昆布 干し大根 にしめ 壱重
1 同かんぴょう 椎茸 壱重
1 昆布 ゴマメイワシ 壱重
    但し是 金山水神高松王子へ用候
    是御上より御肴代下され候筈、
 右、踊り相済み、バン方庄屋処二て壱踊り致し、ひらき申し候
意訳変換しておくと
 羽方村(高瀬町)のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷に関する文書(森家文書「諸願覚」)
 旱魃の時に、羽方村の庄屋へ雨請いを願い出た。その際に上ノ村(財田町)と、お上から酒二本と御鯛五つが雨乞いのためにと捧げられた。頂戴の役人と太左衛門が罷り出で、代銀で羽方村に下された。雨請いについては、村々でそれぞれのやり方で行うようにと仰せ付けられた。そこで、7月7日、ニノ宮社の神前、千五百御神前、金出水神二高松王子でエシマ踊りを興行した。踊り子は30人ほどで、歌い手は6人、肝煎、触れ頭サシ、村中は今通りで、百姓・役人・寺社・庄屋が立ち合って奉納した。寺社は御初尾米一升宛と御神酒を御神前え供え、寺社への礼については相談の上で、米五升ほどを送ることを協議手して決めた。この神前への支度供えについては次の通りである。(以下略)

ここには、干ばつの時に、村役人に願い出て雨乞い踊りが興行されたことが記されています。それに対して、藩からもお供え物が送られ、雨乞い祈祷のやり方については、それぞれの村のやり方で置こうなうように指示されたとあります。

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大水上神社境内の千五百王皇子祠

そこで、羽方村では二宮神社、境内の千五百王皇子祠と金出水神、上土井の高松皇子大権現に「エシマ踊り」を雨乞のために奉納したとあります。ここからは雨乞祈願に関しては、踊りを踊ることも含めて各村の独自性に任されていたことが分かります。
エシマ踊りの編成については「踊り子三拾人計、ウタイ六人計」とあり、綾子踊りの編成に近いことが分かります。
どのような踊りか、歌詞の内容なども伝わっていないので分かりません。しかし、盆踊としても当時三豊周辺で踊られいた風流系小歌踊の可能性が高いことは、財田の「さいさ踊り」と、綾子踊りに共通する歌がいくつもあることから推測できます。ここからは次のような流れも考えられます。

①京の風流踊り
②瀬戸内海の港町で女達が踊った風流踊り
③港町の後背地への風流踊りの拡大
④雨乞い踊りへの転用とエシマ踊りの誕生
⑤高瀬町麻上栂の「綾子踊り」
⑥佐文綾子踊り

以上をまとめておくと
①「七ヶ村念仏踊り」の中心的な存在を追われた佐文は、新たな雨乞い踊りを作り出した
②その際に役目や衣装、隊系などは今まで参加していた「七ヶ村念仏踊り」を継承した。
③一方、踊りや歌に関しては、高瀬の二宮神社に奉納されていた「エシマ踊り」のものを採用した。
④その結果、服装や役目など見た目には「七ヶ村念仏踊り」に近い形で、歌や踊りは風流系のものが採用されることになった。
こうして、綾子踊りは「七箇村地か念仏踊り + エシマ踊り」というスタイルになった。

こうして誕生した綾子踊りは、次のように今までにない風流踊りの性格をもちます。
①雨乞成就感謝の躍りではなく、農民が雨乞い祈願のために踊る雨乞祈願の踊りであること。
②宮座制でなく、盆踊りのように誰でもが参加できる風流踊りであること。
②については、綾子踊りの由緒書きの中に、次のように記します。
    降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯から、昔も今も綾子踊りに側踊りの人数に制限はない。

ここにも、中世的な宮座制から村人全員参加制への転換が、この機会に行われたことがうかがえます。以上は、私の推論であくまで仮説です。事実ではありませんので悪しからず。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

真野郷の郷社であった諏訪神社には、幕末に奉納された風流踊りの様子を描いた絵図が「諏訪大明神念仏踊図」が残されています。
そこには、芸司が大きな団扇を持って、その後には六人の女装した子踊りや薙刀振りや棒振りが描かれていることは以前にお話ししました。これは、現在の綾子踊りの形態とよく似ています。綾子踊りが、諏訪神社で踊られていた風流踊りから大きな影響を受けていることがうかがえます。
それを裏付けるのが、諏訪神社での風流踊りには佐文村も参加していたことです。
中世の郷社は、郷村内の村々の信仰の中心でした。この時期には、まだ村ごとの神社は姿を見せていません。村ごとに村社が建立されるようになるのは18世紀になってからです。その後、中世の祭礼に代わって獅子舞や太鼓台などが主役になっていきます。ここに描かれているのは、それ以前の郷社の祭礼様式です。それを、各村々から選ばれた踊り手たちが、郷社である諏訪神社に集まって踊りを奉納しています。そして、この数日後には牛頭明神を祭る滝宮天皇社(滝宮神社)にも奉納されます。これを私はかつては「雨乞い踊り」と思っていました。それは、現在の滝宮念仏踊りが雨乞い踊りとされているからです。しかし、「滝宮念仏踊り」は、次の二点から雨乞い「祈願」の踊りとは云えないと私は考えるようになりました。
①坂本念仏踊りの由来には、「菅原道真の雨乞い成就へのお礼のため踊られた」とあること。つまり、祈願ではなく成就への感謝のために踊られたとされている。
②中世の「雨乞い踊り」とされてきた奈良のなむて踊りなども、同様で「雨乞い成就祈願」であること。中世には雨乞祈願ができるのは験のある僧侶や修験者のみが行うものとされていたこと。
③「那珂郡七か村念仏踊り」の幕末の記録には、旱魃で給水作業が忙しいので、今年は「念仏踊り」を延期しようと各村々の協議で決めていること。つまり、踊り手たちも自分たちが踊っている踊りが雨乞い祈願のために踊られているとは思っていなかったこと。
以上からは「那珂郡七か村念仏踊り」は、もともとは雨乞い祈願の踊りではなく、ただの風流踊であったと考えるようになりました。それが近世になって、高松藩主松平頼重が踊りを再開するときに、ただの風流踊りではまずいので、社会的公共性のあるが「雨乞い踊り」として意味づけされたのではないかと考えています。

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見物人の背後に建つ桟敷小屋(見物小屋)

それでは中世の念仏踊りは、何のために踊られていたのでしょうか。

その謎は、この絵の周囲に建てられた桟敷小屋からうかがえます。これは踊りを見物するために臨時に建てられた見物小屋です。そして、小屋には、所有者の名前が記入されています。真野村の大政所(大庄屋)の三原谷蔵の名前もあります。つまり、この見物小屋は中世以来の宮座を構成するメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象でもあったことは以前にお話ししました。
 また、芸司などの演じ手の役目も、宮座のメンバーで世襲されています。ここからは、この踊りが中世に遡る風流踊りで、真野・吉野郷と小松庄の宮座メンバーによって諏訪大明神(神社)に奉納されていたことが分かります。ここでどんな踊りが踊られていたのか、またどんな風流歌が歌われていたのかも分かりません。ただ絵の題目には「那珂郡七か村念仏踊り」とあるので、風流系の念仏踊りが踊られたいたようです。
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桟敷席には、それぞれ所有者の名前が記されている

それを真野村の有力者が桟敷小屋の高みから見物します。そして、庶民はその下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な風流踊りだったようです。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。
 これに対して、各村々に姿を現すようになった鎮守では、新たな舞が奉納されるようになります。

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それが獅子舞です。
獅子舞は、宮座制に関係なく百姓たちが参加できました。次第に、祭りの主役は夏祭りの「風流踊り」から秋祭りの獅子舞や太鼓台へと主役が交代していきます。そして、農民たちの全員に参加権与えられた獅子舞は、年々盛んになります。
 一方、各村々の有力者による宮座制で運営されたいた風流踊りは、踊り手の確保が困難になり運営が難しくなります。こうして明治になると、滝宮大明神に奉納されていた風流踊り(念仏踊り)は、姿を消して行きます。「那珂郡七か村念仏踊り」が姿を消した原因を挙げておくと
①中世以来の郷社に奉納された祭りで、各村々からの踊り手たちによって編成されていたため、村々の協議や運営が難しく、まとめきれなくなったこと
②運営体制が宮座制で、限られた有力者だけが踊り手を独占し、開かれた運営体制ではなかったこと
③各村々に村社が整備されて、秋祭りに獅子舞や太鼓台が現れ、祭礼の中心がそちらに移ったこと
 滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
「那珂郡七か村念仏踊り」の構成表を見ておきましょう。
ここからは次のようなことが分かります。
①役目が各村々に振り分けられ、どこの村からどんな役をだすのかが決まっていたこと
②真野郷と小松荘の各村々から踊り手や役目が出されて編成されている
③踊りの中心である下知(芸司)は、真野村から出されている
④全体のスタッフが2百人を越える大部隊で編成されたいたこと
⑤鉦打ちが新旧併せて60人と最も多いこと。
⑥子踊り・ホラ貝・薙刀振り・棒振り・幟など、現在の綾子踊りの構成と共通する役目が多いこと
ここでは、佐文村も江戸時代末期まで、「那珂郡七か村念仏踊り」のメンバーであったことを押さえておきます。
 次に寛政2(1790)年の「那珂郡七か村念仏踊り」(福家惣衛著・讃岐の史話民話164P)の佐文のスタッフ配分は、次のようになっていました。
下知1人、小踊6人、螺吹2人・笛吹1人、太鼓打1人と鼓打2人、長刀振1人、棒振1人、棒突10人の計25人。

先ほどの表では約40年後の文政12年(1829)には棒突10人だけになっています。このことは、佐文村に配分されていたスタッフ数が大きく削られたことを示します。
 問題はそれだけではありません。七箇村組の構成そのものが、大きく変化しています。
編成表を比較してみると、寛政2年には踊組は東と西の二組の編成です。そして、下知は真野村と佐文村から各1人ずつ出されています。ここからは1790年までは「那珂郡七か村念仏踊り」には、次の2つの踊組があったことが分かります。
①東組(真野村中心)
②西組(佐文村中心)
②の西組における佐文の役割を見ておきましょう。
6人一組になって踊役を勤める小踊は、踊りの花でもあります。
それが東組では西七箇村から1人、吉野上下村から3人、小松庄四ヶ村から2人の計6人で構成されていました。ところが、西組は佐文村は単独で6人を出しています。
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念仏踊りの花形 棒振りと薙刀振り

さらに、佐文から出されていた役目を挙げておくと、子踊りと並んで花形の薙刀振りや棒振りも次の通りです。
長刀振が真野村と佐文村から1人、
棒振も吉野上下村と佐文村から1人
棒突は西七箇村四人。岸上村三人、小松庄四ヶ村3人の計10人に対して、ここでも佐文村は、10人を単独で出しています。
ここからも滝宮念仏踊の那珂郡南組は、佐文村が西組の中心的な存在であったことが裏付けられます。それが何らかの理由で、中心的な位置から10人の棒付きを出すだけの脇役に追いやられた事になります。どんな事件があったのでしょうか?
 想像を膨らませて、次のような仮説を出しておきましょう。

  佐文村が不祥事(事件)を起こし、その責任を取らされて西組は廃止され、さらに佐文は「役目枠縮小」を余儀なくされ、「棒付き10人」のみを送りだせるだけになった。

この仮説を支える材料を探して見ましょう。
 高松藩・丸亀藩・池御料の三者に属する村々には日頃の対立感情がありました。「那珂郡七か村念仏踊り」が中世に真野郷社の諏訪神社や、小松荘の大井神社に奉納するためにスタートした頃は、郷村の団結のための役割を果たしていました。

那珂郡郷名
真野郷と子松庄

ところが近世になって、この地域は次の三つに分断され行政区が異なることになります。所属する藩が次のように違うようになったのです。
①小松荘が天領の榎井・五条・苗田と丸亀藩の佐文に分割
②真野郷の真野・東七箇村+吉野郷などの高松藩領
③真野郷の西七箇村(旧仲南町)などの丸亀藩。
ここで一番いばったのは①の天領となった村々です。ただ小松荘で天領とならなかったのは佐文です。①の天領の村々からは、運営権を握っていた佐文や真野に対して、何かと文句が出たようです。また、②の親藩髙松藩に属した村々も、外様小藩の丸亀京極藩の住人に対して優越感をもち、見下すような言動があったことは以前にお話ししました。その中で西組の中心でありながら、丸亀藩に属し、他村からの批判を受けがちな佐文は、とかく過激な行動を取ることが多かったようです。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と別当の龍燈院

  享保年間(1716~36)には、滝宮への踊奉納の際に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順位のことで、東西の踊り組の間で、先後争いが起こしています。そのために元文元年(1736)年以後は、念仏踊は一旦中止され、七箇村組は解体状態になります。それから3年後の元文4年の6月晦日に、夏に大降雹(ひょう)があって、東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を受けます。これは滝宮念仏踊を中止したための神罰であるという声が高まり、関係者の間から念仏踊再興の気運が起こります。龍灯院の住職快巌の斡旋もあって、寛保2(1742)年から滝宮念仏踊は復活します。滝宮龍灯院の斡旋案は、踊奉納をした七箇村組に対して「今後は御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避ける」というものでした。しかし、東西二組編成は、再度の紛争が起こる危険をはらんでいました。
 文化五(1808)年7月に書かれた真野村の庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」の7月24日の龍燈院宛の報告には、次のように記されています。

 七箇村組の行列は、下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人の一編成になっている。取遣留の七月廿五日の龍灯院からの御神酒樽の件は、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」と口上を述べ終わると、御神酒樽は龍灯院へ預かって直ちに持ち帰り、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を書院に招待して御神酒を振る舞った。

 ここからは、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院は接待準備しているのが分かります。この時点で、東西2組編成だったのが1組になり、佐文のスタッフが大幅に減らされたようです。それは、寛政2(1790)年から文化5(1808)年までの18年間の間に起こったことと推察できます。
 あるいは、佐文村の内部に何かの変化があったのかもしれません。それが新たに佐文独自で「綾子踊り」を行うと云う事だったのかもしれません。どちらにしても南組が二編成から一編成になった時点で、佐文は棒振り10人だけのスタッフとして出す立場になったのです。

  以上をまとめておきます
①初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、那珂郡南組(七箇村組)は東西2編成で出場していた。
②その西組は佐文村を中心に編成されていた。
③しかし、藩を超えた南組は対抗心が強く、トラブルメーカーでもあり出場が停止されたこともあった。その責任を佐文村は問われることになる。
④その対策として那珂郡南組は、1編成に規模を縮小し、佐文村のスタッフを大幅に縮小した。
⑤これに対して佐文村では、独自の新たな雨乞い踊りを始めることになった。
⑥それが現在の「綾子踊り」で、念仏踊りに対して風流踊りを中心に据えたものとなった。
⑤⑥は、あくまで私の仮説です。事実ではありません。悪しからず。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P
関連記事

綾子踊りユネスコ登録
 綾子踊りのユネスコ登録が間近と言われます。それは全国の「風流踊」のひとつとして登録されるようです。雨乞い踊りも風流踊りのひとつのジャンルとして分類されていることをおさえておきます。綾子踊で歌われている歌も風流踊歌のひとつということになります。
たまさか
綾子踊歌 たまさか(邂逅)
 前回までの綾子踊歌を見てみて気づいたことは、歌詞の中に雨乞いについての内容は、ほとんどないことです。
ほとんどが瀬戸内海を行き交う船と、船乗りと港の女達の恋歌や情歌で、まるで演歌の世界でした。その内容も、わかったような、分からない歌が多いのです。その理由のひとつが、歌詞の意味を伝えようとするのが主眼ではなく、当時流行の風流なフレーズが適当に繋がれているからでしょう。まるで、サザンオールスターズの歌詞のようです。意味不明で、適当な固有名詞やフレーズが雰囲気を作り出していくのです。そのため、解釈せよと云われても、「解釈不能」な歌も数多くありました。最初は、もともとの歌詞が歌い継がれる中で、崩されり、替え歌となって、こうなったのかと思っていましたが、そうではないようです。どうしてこんな歌詞が雨乞い踊りとされる綾子踊りに歌われるようになったのでしょうか。

綾子踊り風流パンフレット

風流踊歌には、次の3系統があると研究者は考えています。
①田楽系統
もともとは広島の囃子田のように太鼓を打ってはやす田の行事が、丘に上がって風流化したもの
②念仏踊系統
中央に本尊を置いて、その周りを念仏を唱えながらめぐる一遍の念仏踊りが風流踊となったもの
③疫病神送り乱舞が風流踊化したもの
  風流踊りの特徴の一つが、老若男女が誰でも参加して踊るという点にあります。  それは以上の3つの系統が入り交じっていることが、それを可能にしていると研究者は指摘します。風流踊については①②については、なんとなく知っていました。しかし、③の「疫病神送り乱舞が風流踊化したもの」という系統については、私は知りませんでした。この系統について見ておきましょう。

京都やすらい踊り

風流踊りでよく知られているのは、京都の「やすらい花」です。
 春に花が散る際に疫神も飛び散ると言われ、その疫神を鎮める行事として行われきたと言われます。現在の行事について、今宮神社のHPには次のように記されています。
 (前略)
 祭の中心は「花傘」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)位の大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿を挿して飾ります。この傘の中に入ると厄をのがれて健康に過ごせると云われています。
祭礼日は町の摠堂に集まり「練り衆」を整え街々を練りながら当社へ向かいます。春の精にあおられ陽気の中で飛散するといわれる疫神。「やすらい花や」と囃子や歌舞によって疫神を追い立てて、風流傘へと誘い、紫野社へと送り込みます。花傘に宿った疫神は、摂社疫社へと鎮まり、この一年の無病息災をお祈りしています。
    今宮神社の境内では、2組8人の大鬼が大きな輪になってやすらい踊りを奉納します。桜の花を背景に神前へと向かい、激しく飛び跳ねるように、そしてまた緩やかに、“やすらい花や”の声に合わせ安寧の願いを込めて踊ります。
 ここからは、花を飾った風流花傘を中心に行列を組み、町の辻々で踊りながら今宮神社境内の疫神社に送るというものであることが分かります。
やすらい祭

この祭りの起源については、鳥羽法皇が亡くなり、保元の乱が起きた1156年3月に京中の子ども達が柴野神社に参って、太鼓や笛を鳴らして乱舞したのが始まりとされます。風流の花笠を指し飾って、みんなが声を揃えて次のような風流歌を歌いながら踊ったとあります。
はなやさきたるや やすらい花や
やとみくさの花 やすらい花や
 梁塵秘抄口伝集巻第十四「花笠、歌笛太鼓」には、柴野神社の踊りが次のように記されています。
「ちかきころ久寿元年(1151年)三月のころ、京ちかきもの男女紫野社へふうりやうのあそびをして、歌笛たいこすりがねにて神あそびと名づけてむらがりあつまり、今様にてもなく乱舞の音にてもなく、早歌の拍子どりにもにずしてうたひはやしぬ。その音せいまことしからず。
傘のうへに風流の花をさし上、わらはのやうに童子にはんじりきせて、むねにかつこをつけ、数十人斗拍子に合せて乱舞のまねをし、悪気(原註:悪鬼とも)と号して鬼のかたちにて首にあかきあかたれをつけ、魚口の貴徳の面をかけて十二月のおにあらひとも申べきいで立にておめきさけびてくるひ、神社にけいして神前をまはる事数におよぶ。
京中きせん市女笠をきてきぬにつつまれて上達部なんど内もまいりあつまり遊覧におよびぬ。夜は松のあかりをともして皆々あそびくるひぬ。そのはやせしことばをかきつけをく。今様の為にもなるべきと書はんべるぞ。」
意訳変換しておくと
「久寿元年(1151年)3月頃、京周辺の男女が紫野社へ風流踊り服装で、歌や笛太鼓、摺鐘などを持って「神あそび」と称して群がり集まっている。今様でもなく、乱舞の音もなく、早歌の拍子どりともちがって歌い囃す。その調子は今までに聞いたことがない。
傘の上に風流の花を指して、童子に「はんじり」を着せて、胸に「かつこ」をつけて、数十人で拍子に合せて乱舞のまねをして、悪気(悪鬼)という鬼の姿をした赤い垂れを首につけて、魚口の貴徳の面を被って12月の鬼洗いのような姿で現れ、わめき叫び狂う。そして神社に参り、神前を回ること数度におよぶ。
京中の貴賤が市女笠を被って、この様子を見に来る。夜は松のあかりを灯して、皆々が遊び狂う。その時に歌われることばをここに書き付けておく。それが今様の為になるかもしれない。」
柴野の今宮さんは、もともとは疫病神でした。
疫病神を祀って疫病が流行らないことを祈ったことになります。これがやがて年中行事になります。その季節が、花の散る頃なので「鎮花(はなしずめ)祭」という雅な言葉で呼ばれるようになります。平安の現実と、それを伝えるフレーズはかけ離れていることに、驚かされます。
ここで注目したいのは「はなさきたるや」の風流踊歌です。
この歌はもともとは、美濃の田歌だと研究者は指摘します。どうして田歌が、疫病神送りに歌われるようになったのでしょうか? これに対して研究者は次のように答えます。
  「疫病神送りの乱舞には、何を歌ってもよかったから」

  この答えには、私は拍子抜けしてしまいました。疫病神送りには、それなりの「テーマソング」が考えられ、そのテーマに沿った歌詞が歌われているものという先入観があったのです。しかし、当時は、参加者のよく知っている流行歌でもよかったのです。そのために疫病神送りに、「はなやさきたるや やすらい花や」という雅な歌が歌われたのです。このミスマッチが「鎮花(はなしずめ)祭」という名称とともに、私たちにシュールさを感じさせるのかも知れません。一昔前なら、村の盆踊りに、流行の昭和演歌が歌われ踊られたのと似ているようにも思えます。
鹿島踊り(伊豆)
鹿島踊り(伊豆)
もうひとつ「鹿島踊り」を見ておきましょう。
 鹿島踊は鹿島神宮の信仰に関係があるようですが、今では茨城県鹿島神宮では踊られていません。相模湾沿いに小田原市から伊豆東海岸一帯にかけて21ケ所の神社で伝承されていますが、本家の茨城県鹿島神宮には今は伝承されていません。伊豆の鹿島踊りは、歌も、踊りも、衣装も、よく似ているので、そのルーツは一つのようです。白丁という白装束で、踊り手がけがれない白の乱舞を見せてくれます。
 鹿島踊りのルーツは、その名の通り常磐の鹿島地方にあるようでが、ここでは、疫病神や疱瘡神を送るために弥勒歌が歌われていました。弥勒歌とは、弥勒の来訪を賛美する祝歌です。弥勒信仰にちなむ芸能で,弥勒歌などを歌いながら踊るのですが、その発祥の地が鹿島なので鹿島踊りとも呼ばれたようです。疫病神送りに、祝歌というのもミスマッチのような気がしますが、ここでも先ほどの「参加者が知っている歌ならなんでもOK」というルールが適用されたようです。

現在伝わっている風流踊歌の中には、次のような点が見えると研究者は指摘します。
①踊り手自身がアドリブ的に、互いに歌い返すタイプ
②音頭的に、歌詞がどんどん継ぎ足されて、延々と詠い踊られるタイプ
こんなタイプは、踊り手と歌い手が一緒なので、踊るだけでなく、歌も満足しようとする気持ちが強かったようです。そのため踊歌には長いものが選ばれる傾向があります。そして、その延長線上には、知っている歌なら何でも、歌って踊ってみようということになります。これはかつての田舎の盆踊りと一緒です。最初はお決まりの歌詞がありますが、次第に飛び込みでアドリブ的な歌が歌われ、その内に流行演歌などが歌われるようになります。先祖供養というよりも「デスコ的雰囲気」が生まれ、「なんでもありあり」状態になります。これが雑多な庶民性で、新たな創造物が生まれ出す源になったのかもしれません。
  「疫病神送りの乱舞(風流踊)には、何を歌ってもOK」という指摘を受けて、綾子踊りの成立について、次のような過程を考えてみました。
①瀬戸内海を行き来する船乗りと港の女の恋歌や情歌が風流歌として、各港を中心に広がった。
②多度津や仁尾・観音寺などの港町の女達が歌った風流踊歌がその後背地に拡大した。
③そして郷村の盆踊りなどに、風流踊歌が「転用・混在」することになった。
④その例が、真野郷の郷社である諏訪神社に奉納された「那珂郡七か村念仏踊り」で、これは念仏系の風流踊りであった。
⑤この踊りは真野郷の村々で編成され、宮座によって運営された。
⑥「那珂郡七か村念仏踊り」、各村々の鎮守社にも奉納され、最後に牛頭天王を祭る滝宮神社にも奉納されるようになった。
⑦については、三豊市財田町のさいさい踊りの歌詞の中に、綾子踊りと共通するものがあることなどからもうかがえます。同じような風流踊りが中世の三豊やまんのう町周辺では歌い踊られていたのでしょう。それが盆踊歌に「転用・混合」されて入り込み、神社などに奉納されるようになった。
 南北朝統一から応仁の乱、明応の政変と戦乱の中で庶民が力を蓄えるようになります。そんななかで、一遍が普及させた踊り念仏が、庶民の民間信仰に娯楽を伴う念仏長田となり、盂蘭盆会と結びつくようになります。そして、それは当時の人の意表をついた派手な様相である風流(ふりゅう)とも合流し、いろいろな風流踊りが誕生します。さらに、江戸時代になると盆踊りに風流踊歌が取り込まれていくようになります。そのような流れの中で綾子踊りも生まれたようです。

風流踊り

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  本田安次「風流踊考」
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     綾子踊り 塩飽船
 
綾子踊り 塩飽船
しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ 津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ 津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
塩飽船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も塩飽船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われています。
港に入ってくる碇泊した塩飽船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりだというのです。

「梶を押へて名告りあふ」の類例を、見ておきましょう。
①しはくふね(塩飽船)かや君まつは 風をしづめて名のりあをと 花ももみぢも一さかり ややこのおどりはふりよや見よや いつおもかげのわすられぬ…(天理図書館蔵『おどり』・やゝこ)
②しわこふね(塩飽船)かやきぬ君松わ かち(梶)おをさへてなのりあう(越後・綾子舞、嘉永本.『語り物風流二』・常陸踊)
③イヨヲ 塩飽船 彼君まつわ/ヽ イヨヲゝ梶をしつめて名乗りあふトントン(土佐手結・ツンツクツン踊歌・塩飽船)
④四百(塩飽)船かよ君まつは 五百舟かよ君まつは 梶をしづめて名のりあふ(『巷謡編』安芸郡土佐おどり・十五番 おほろ)72
⑤しわこおぶね君待つは 風をひかえておまちあれ(兵庫。加東郡・百石踊・しわこ踊『兵庫県民俗芸能誌』)

「名告りあお」は、船同士で、相手を確かめる約束事だったようです。
説教浄瑠璃「さんせう(山椒)太夫」では、夜の直江浦沖で、人買船同志が相手をたしかめあう場面があります。そこでは自分を名告り、相手の存在もたしかめています。

「塩飽船かや君待つは」の展開例を、研究者は次のように挙げられています。
①兵庫県・加東郡・東条町秋津 百石踊(『兵庫県の民俗芸能誌』
一、しわこおぶね(塩飽船) 君待つは 風をひかえておまちあれ
二、心ないとはすろすろや 冴えた月夜にしら紬
三、抱いて寝た夜の暁は 名残り惜しやの 寝肌やうん
四、君は十七 俺ははたち  年もよい頃よい寝頃
五、こなた待つ夜の油灯は 細そて長かれとろとろと
港の女と船乗りが奏でる港町ブルースの世界につながりそうです。

  ここで思い出されるのが「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」です。
法然上人絵図 室津の遊女
「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」
 この絵図は、讃岐に流刑となる法然上人の舟が室津を出港する場面を描いているとされてきました。この絵図からは、次のようなことが分かります。
①当時の瀬戸内海を行き来していた中世廻船が描かれている。
②船には、法然一行以外にも、商人たちなどが数多く乗船している。
③この船は塩飽までいくので、塩飽廻船として瀬戸内海を行き来していたのかもしれない。
一隻の小舟が近寄ってきます。乗っているのは、友君という遊女です。当時室津の町は、瀬戸内海でも有数の港町で、都からの貴人を今様や朗詠などで接待することを仕事とする遊女が多くいたようです。友君も、源平合戦で没落した姫君の一人とされます。

法然と友君の間で次のような事が話されたと伝えられます。
友君が遊女としての行く末への不安を拭うことができず、法然上人に、次のようにを尋ねた。
「私のこれまでの行いによる罪業の重さは承知しております。どうすればこのような身でも、死後の救いの道は開かれるのでしょうか」
法然上人は、「たしかに、あなたの罪は軽くない。ほかに生きる道があれば生き方を変えるのもひとつ。もし変えることができないのであれば、阿弥陀さまを信じてひたすらにお念仏を申しなさい。阿弥陀さまは罪深いものこそ救ってくださるのです。決して自分を卑下してはいけません」
友君はその答えに涙を流して喜んだ。その後、彼女は出家して、近くの山里に住み念仏一筋に生きて往生を遂げたとされる。
   つまり、この場面は出港する法然上人が船上から友君を教化する場面だとされます。高僧に直接話しかけることが難しかったため、友君は舟に乗って上人のもとまで向かったというのです。

法然上人絵伝を読む - 歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー
 
しかし、「塩飽船」の歌詞などから推測できるのは、このシーンは「出船」ではなく、「入港」場面ではないのかという疑問です。
つまり、「しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ」シーンが描かれているのではないかということです。 
  神崎も、神埼川と淀川の合流地として、また瀬戸内海と京を結ぶ港として栄えた港町です。平安時代には「天下第一の楽地」とまでいわれていました。ここでは法然と遊女の話が次のように伝えられます。

 神崎の湊に法然さまが乗った舟が着いたときのことです。宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました。舟には他に吾妻・刈藻・小倉・大仁(あるいは代忍)という四人の遊女が乗っていました

 ここで注目したいのは、「宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました」とある点です。これも見方を変えると「君まつは 梶を押へて名乗りあふ」のシーンになります。そういう目でもう一度、室津の遊女船を見てみると、梶を押しているのは、女(遊女)です。

道行く人たち―法然上人絵伝 : 座乱読無駄話日記live
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
以上から、これは瀬戸の港町で一般的に見られた遊女船の名告りシーンと私は考えています。
当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。
遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 舵を取ったのは一番の年長者の「老」で、少が一座の主役「若」に笠を差し掛けます。主役の遊女は、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘うのです。
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このような場面を歌ったのが「塩飽船」ということになります。
 そうだとすると、遊女は法然上人に身のはかなさを身の上相談しているのでなく、船のお客に対して「どうぞお上がりになって、休んでいかれませんか」と「客引」していることになります。

法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
そういう目で船上の法然を見てみると、確かに説法をしているようには見えません。困惑している様子に見えます。

港に入港する船は、「塩飽船」→「堺船」→「多度津船」の順番に詠われます。塩飽と多度津は備讃瀬戸の海上交通の重要な港町でした。堺は繁栄ずる瀬戸の港町の頂点に立つ町です。綾子踊りで一番最初に踊られる「水の踊り」にも、登場していました。

三味線組歌では、次のような類例があります。
堺踊りはおもしろや、堺踊はおもしろや、堺表で船止めて、沖の景色をながむれば、今日も日吉や明日のよやあすのよや、ただいつをかぎりとさだめなのきみ(『日本伝統音楽資料集成』(3)

瀬戸内海の港町へ、船が入港しそれを出迎える遊女船の出会いシーンがうかがえます。今までに見てきた綾子踊歌の中の「四国船」「綾子」「小鼓」「花籠」「たまさか」「六調子」、「塩飽船」は、この続きになります。そういう意味では、瀬戸内海を行き来する船と港と船乗りと女達の「港町ブルース」であると私は考えています。廻船の航海活動が風流歌から連続性をもって見えてきます。


『巷謡編』土佐郡神田村・小踊歌・じゆうごかへり踊・豊後(『新日本古典文学大系』・64巻)には、塩飽が次のように歌われます。
○備後の鞆をも今朝出して ヤアー 今は塩飽の浜へ着く
○塩飽の浜をも今朝出して  ヤア今は宇多津の浜へつく
  広島県の鞆の浦 → 塩飽へ → 讃岐宇多津へと、潮待ちしながら航海を続ける廻船の姿が歌われています。

室津の遊女
揚洲周延筆「東絵昼夜競」室の津遊女(江戸時代)

以上をまとめておくと
①「塩飽船」に歌われる「梶を押へて名乗りあふ」というのは、入港する船とそれを迎える遊女船の名乗りのシーンを歌ったものである。
②当時は入港する船を、遊女船が出迎え招き入れたことが日常的に行われていたことがうかがえる。③江戸時代の御手洗などでも、このような風習があったので近世になっても遊女たちが「梶を押へて名乗りあふ」ことは行われていた。
④そういう目で、「法然上人行状絵図」の室津での遊女教化場面は、「見送りシーン」でなく、遊女の名告シーンとも思える。

  どちらにしても「塩飽船」というフレーズが、中世には瀬戸内海を行き来する廻船の代名詞になっていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 綾子踊り 六調子
綾子踊り 六調子

五嶋(ごとう)しぐれて雨ふらはば  千代がなみたと思召せ    千代がなみたと思召せ
ソレ リンリンリンソレリンリンリンソレリンリンリン

八坂八坂が七八坂 中の八坂が女郎恋し 中の八坂が女郎恋し
ソレ リンリンリンリンリンソレリンリンリンリンリン

雨もふりたが水も出た 水も出た 渡りかねたが横田川 渡りかねたが横田川
ソレ リンリンリンリンリンソレリンリンリンリンリン
意訳変換しておくと
(一)女 あなたが帰ってゆく道中、時雨が来たら、それは、わたし(千代)が、別れを惜んで流す涙だと思って下さい。
(二)男 道中の坂を越えるたびに、あなたへの恋しさが募るばかり)
(三)男 帰りの道中、横田川を渡りかねています。そのわけは、雨が降り水量が増したからばかりではなさそうです。あなたの宴でのおもてなしが、とてもたのしかったから、お別れがつらいのです。

六蝶子には「勇ましくうたう。速い調子でうたう。」という注がついています。
「六蝶子」は「六調子」です。1番の歌詞から見ていきましょう。最初に出てくる「ごとう=五島」のようですが、九州長崎の五島列島を中心とする島々なのかどうか、よく分かりません。登場する「ちよ」は女性名で、後朝(きぬぎぬ)の別れの台詞です。千代が名残惜しんで歌います。「ちよ」は、この歌の歌い手(自身)です。
2番の「七坂八坂と越えて行く」の歌い手は、「ちよ」と別れてゆく男の科白です。七坂八坂と越えて分かれていく「千代」との別れを詠います。
3番目では、大雨となって道中の横田川が増水して超すに越せない状態になったようです。恋の名残が暗にうたわれているようです。千代と別れて帰る男の道行。別れが辛くて恋しさが募ってくるという所でしょうか。

  ○ごとう(語頭)がしぐれて雨ふらす 
  これもをどり(踊り)のご利生かや

◎千代の男を送り出す別れ涙が雨となった。別れ雨は「涙雨」で、「七坂八坂」の坂を、別れ難くて、越えかねるというの心情が伝わってきます。この心情は、現在の演歌で詠われる「酒は女の涙か、別れ雨」的な心情に受け継がれてきています。こんな歌が、どんな場面で歌われたのでしょうか?
六調子は「酒宴歌謡」で、中世には宴会で踊り付で詠い踊られたと研究者は考えています。
①「ごとうしぐれて」 =送り歌
②「八坂八坂」 =立ち歌
③「雨もふりたつ」 =立ち歌
さらに酒宴の送り歌と立ち歌の関係で見ると、次の通りです。
○もはやお立ちかお名残り惜しや もしや道にて雨などふらば(大分県・直入郡・送り歌)
○もはや立ちます皆様さらば お手ふり上げて ほろりと泣いたを忘りようか(同。立ち歌)
宴会もお開きとなり、招待側が送り歌を歌い、見送られる側が席を立って「立ち歌」を歌います。

「六調子」は、次のように各地に伝わっています。
①広島県・山県郡・千代田。本地・花笠踊・六調子(本田安次『語り物風流二』)
②広島県・山県郡加計町「太鼓踊」。六調子(同)
③広島県・安芸郡田植歌の六調子。(『但謡集』)
④山口県・熊毛郡・八代町・花笠踊・六調子踊(本田安次『語り物風流二』)
⑤熊本県・人吉市・六調子は激しいリズムで、ハイヤ節の源流ともされる。
⑥鹿児島県・熊毛郡の六調子。岡山県の「鹿の歌」の歌を「六調子」と呼ぶ。(『但謡集』)
六調子は、調子(テンポ・リズム)のことで、綾子踊の「六調子」は「至って勇ましく(はやい調子)」でうたわれる記されています。

中世の酒宴の流れを、研究者は次のように図解します。
綾子踊り 六調子は宴会歌

酒宴(酒盛)は歌謡で始まり、やがて座が盛り上がり、時が流れて歌謡で終わります。祝いやハレの場の儀礼的な色合いの濃い酒宴においては、次のように進行されます。
①まずめでたい「始め歌」があり、人々の間にあらたまった雰囲気を作り出す
②次にその時々の流行小歌や座興歌謡として、参加者によって詠われる。
③宴もたけなわになると、酒宴でのみ歌うことを許されている卑猥な歌やナンセンス歌謡、参加者のよく知っている「思い出歌謡」なども詠われる。
④最後に終わ歌が詠われる。

①では、迎え歌に対して、招いてくれた主人やその屋敷を讃めて挨拶とする客側の挨拶歌謡があって、掛け合いとなります。
②の終わ歌は、送り歌と立ち歌が詠われます。これも掛け合いのかたちをとります。

 このように中世の宴会場面で歌われたものが16世紀初頭に当時の流行歌集『閑吟集(かんぎんしゅう)』に採録されます。
   南北朝から室町の時代になると白拍子や連歌師、猿楽師などの遊芸者が宮中に出入りするようになり、彼らの歌う小歌が宴席に列する女中衆にも唄われるようになります。それらを収めたのが『閑吟集』です。流行歌集とも言える閑吟集が編纂されたのは、今様集『梁塵秘抄』から約350年後の室町時代末期(16世紀初頭)のことです。  
 巫女のような語り口調で謡わているのが特徴のようですが、後の小唄や民謡の源になっていきます。これらの小唄や情歌は宴会歌として、人々に歌い継がれ、船乗りたちによって瀬戸の港町に拡がり、風流踊りの歌として、「盆踊り」や「雨乞い踊り」などにも「転用」されていったようです。
綾子踊の「六調子」は「至って勇ましく(はやい調子)」でうたうと注記されています。ここまでの歌と踊りは、緩やかですがこの当たりからアップテンポにしていく意図があるのかも知れません。詠われる内容も「別れの浪が雨」で「大雨となって川が渡れない」です。雨乞い歌に「転用」するにはぴったりです。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」

 DSC07257
綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)
綾子踊りに詠われている歌詞の内容について、前回までは見てきました。そこには中世の小歌などに詠われた瀬戸内海を行く船や港町の様子、そして男と女の恋歌が詠われていました。雨乞い踊りの歌なので祈雨を願う台詞がでてくると思っていたので、ある意味期待外れの結果に終わっています。
 さて今回は6番目の「たまさか(邂逅)」です。
たまさか
綾子踊り たまさか(邂逅)

一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ

二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが  アラシャ

三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに  たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが   アラシャ

意訳変換しておくと
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ

一番の「解釈」を見ておきましょう。
「おれ」は中世では女性の一人称でしたから、私の思いはつたえたのに、あなたの心は「芋の葉の露 ふりしやり」のようと比喩して、女が男に伝えています。これは、芋の葉の上で、丸い水玉が動きゆらぐ様が「ぶりしやり」なのです。ゆらゆら、ぶらぶらと、つかみきれないさま。転じて、言い逃れをする、男のはっきりしない態度を、女が誹っている様のようです。さらに場面を推測すると、たまに気ままに訪れる恋人(男)に対して、女がぐちをこぼしているシーンが描けます。用例は次の通りです
○かづいた水が、ゆりゆりたぶつき(『松の葉』・巻一・裏組・賤)
○許させませよう 汲んだる水は ゆうりたぶと、とき溢れる(広島市・安芸町・きりこ踊『芸備風流踊り歌集』)
この歌の題名は「たまさか(邂逅)」ですが、これは「たまたま。まれに」という意味のようです。
○恋ひ恋ひて、邂逅に逢ひて寝たる夜の、夢は如何見る、ぎしぎしと抱くとこそ見れ(今様・『梁塵秘抄』・四六〇番、
○思ひ草 葉末にむすぶ白露の たまたま来ては 手にもたまらず
(『金葉和歌集』・巻七・恋・源俊頼)
○恋すてふ 袖志の浦に拾ふ王の たまたまきては 手にだにたまらぬ つれなさは(『宴曲集』・巻第三・袖志浦恋)
○枯れもはて なでや思草 葉末の露の、玉さかに 来てだに手にも たまらねば(同・巻第二・吹風恋)
以上を見てみると「たまさかに」は、港や入江の馴染みの女達・遊女たちと、そこに通ってくる船乗りたちの場面だと研究者は推測します。なじみの男に、対して話しかけたことばが「たまさかに」で、女達の常套句表現だったことがうかがえます。
○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)
この歌は何気なく読んでいるとふーんと読み飛ばしてしまいます。しかし、研究者は「恐縮するほど野趣に富んだ猛烈な歌謡である」と評しています。何度も読み返してみると、なるほどポルノチックにも思えてきます。それを堂々と詠っているのが中世らしい感じがします。「たまさかに」という言葉は、当時は女と男の間でささやかれる常套句で、艶っぽい言葉であったことを押さえておきます。

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綾子踊り
  それを理解した綾子踊りの歌詞を改めて見てみましょう。
1番が「たま坂(邂逅)にきて 寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ」で、たまたまやってきた男と、夜明けの鐘が鳴るまで・・・」とあからさまです。
2番の歌詞は、「ここに寝よか ここに寝よか さて菜の中に しかも御寺の菜の中」と続きます。アウトドアsexが、あっけらかんと詠われています。丸亀藩の編纂した西讃府志には、初期のものには載せられていますが、後になると載せられていません。艶っぽすぎで載せられなかったと私は考えています。そして、この歌詞をそのまま直訳して載せることは、町史などの公的な機関の出す刊行物では、できなかたのかもしれません。それほど詠われている内容はエロチックを越えて、ポルノチックでもあるのです。
綾子踊り たまさかに2
遊女と船乗りの男との「たまさか」の世界を見ておきましょう。
たまさかは、遊女達が男たちに対して、口にしていた常套句でした。酒盛りや同衾する男へ、遊女がその出逢いを、「たまさかの縁」「たまさかに来て」と言った伝統があるようです。
『万葉集』以来の雨乞風流踊歌・近世流行歌謡に出てくる「たまさかの恋」の代表的なものは次の通りです。
古代
○たまさかに我が見し人をいかならむ よしをもちてかまたひとめ見む(『万葉集』・巻十一・二三九六)
中古中世
○恋ひ恋ひて 邂逅(たまさか)に逢ひて寝たる夜の 夢は如何見る ぎしぎしぎしと抱くとこそ見れ(『梁塵秘抄』・二句神歌・四六〇番
中世近世
〇たまさかに逢ふとても、猶濡れまさる袂かな、明日の別れをかねてより、思ふ涙の先立ちて(『艶歌選』・3番)
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綾子踊り
3番の歌詞に出てくる「せはせはと」を見ておきましょう。
「閑吟集』には、次の小歌があります。
○男 わごれうおもへば安濃の津より来たものを をれふり事は こりやなにごと(77)
○女 なにをおしやるぞ せはせはと うはの空とよなう こなたも覚悟申した(78)
意訳変換しておくと
男「おまえのことを思って、安濃の津よりわざわざやってきたのに、その機嫌の悪さは何事か」
女「何をおっしゃるのか せはせはと・・」と女が言い返しています。
「せはせはと(忙々)」とは「せわせわしい人。しみったれて こせこせしており その態度のいやらしい人」の意味で使われています。言いわけをしたり、しみったれたことを言ったして、なかなかやって来なかった男をなじっているようです。それが小歌になって、宴会の席などで詠われていたのです。ちなみに、このやりとりからは、男は安濃の津の船乗りで、その女は馴染の人、または遊女かそれに近い存在と研究者は推測します。
せわせわの類例を見ておきましょう。
○何とおしやるぞ せわせわと 髪に白髪の生ゆるまで  (兵庫県・加東郡・百石踊・『兵庫県民俗芸能誌』)
○うき人は なにとおしやるぞ せわせわと 申事がかなうならば からのかゝみ(で)、ななおもて  (徳島県・板野郡・嘉永四年写『成礼御神踊』)


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綾子踊り
佐文に近い三豊市財田町「さいさい踊」には、「豊後みさきおどり」が伝承しています。
ぶんごみのさき からのかがみは のをさて たかけれど みたいものかよ のをさて 
ぶんごみのさき ぶんご女郎たち 入江入江で 船のともづなに のをさて 針をさす
船のともづなに のをさて 針をさすよりも あさぎばかまの のをさてひだをとれ なおもだいじな のをさて すじの小袴
意訳変換しておくと
豊後の岬 唐の鏡は美しく磨かれ 高価だけれども 見たいものよ、 
豊後の岬 豊後女郎たちは 入江入江で 船のともづなに  針をさす
船のともづなに  針をさすよりも 浅黄袴ひだをとれ なおもだいじな  すじの小袴

詠っているのは、船乗りの男です。詠われている「ぶんご女郎」は、豊後の入江入江の港に、入港する船を待っている女達です。船乗りたちからすると、恋女であり、馴染の女性で、つまり遊女です。研究者が注目するのは、「船のともづなに針をさす」という行為です。これには、どんな意味があったのでしょうか?
参考になるのが 三豊郡和田雨乞踊歌「薩摩」の、次の表現です。
①薩摩小女郎と 一夜抱かれて朝寝し(て)起きていのやれ ボシャボシャと薩摩のおどりを一踊り
②薩摩の沖に船漕げば 後から小女郎が出て招く 舟をもどしやれ わが宿へ 舟をもどしやれ わが宿ヘ
この歌に詠われているのは、港町での船乗りの男達と、港の女達との朝の別れの場面です。船出した舟を曳き戻し、船乗りの男を我がもとに留めておこうとする遊女の姿がうたわれています。そのひとつの行為が、船のトモ綱に針を刺す「呪術」だったと云うのです。男たちを行かせまいと、遊女は船のとも綱に針を刺し留めようとしたのです。これは遊女達の間に、受け継がれてきた「おまじない」だったのでしょう。遊女が男の心意と行動を、恋の針でしっかりと刺して、射とめる呪的行為としておきましょう。こんな行為は、歴史の表面や正史には現れません。浦々の女達の、その世界だけの「妖術」とも云えます。そんな行為が、風流歌には「化石」となって残されています。綾子踊歌「たまさか」は、瀬戸内海を行き来する廻船と女達の「入江の文化」を、伝えているといえそうです。
 これらの小歌が讃岐の港町でも宴会の席などでは、船乗りと女達の間で詠われたのでしょう。
観音寺や仁尾・三野の港町に伝えられた小歌や風流踊りが、背後の村々にも伝えられ、それが盆踊りとして踊られ、神社に奉納されるようになったと推測できます。中世の郷社では、この風流踊りの奉納は宮座によって行われていました。そのため神社の境内には、宮座を形成する有力者が桟敷小屋を建てる権利を得ていたことは以前にお話ししました。今では村の鎮守の祭りは、ちょうさや獅子舞が主流ですが、これらが登場するのは近世後半になってからです。中世の郷社では、風流踊りが奉納されていたことを押さえておきます。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪神社の風流踊り(まんのう町真野 19世紀半ば)

 それを示すのが財田の「さいさ踊り」や綾子踊りであり、諏訪神社(まんのう町真野)の風流踊りということになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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今までに12ある綾子踊歌の4つを見てきました。
「1水の踊り」「2 四国船」は、瀬戸内海航路の港や難所、そして、水夫たちが歌われて「港町ブルース」の世界でした。「3綾子」には、綾子の恋の歌で、「4小鼓(こづつみ)」は、情事を詠った艶っぽい歌でした。ここまで見る限りは、雨乞いを一生懸命に祈る、願うというような歌は見当たりません。そろそろ「雨乞い歌」らしい台詞が出てくるのでしょうか。
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花籠

今回は5番目に踊られる「花籠」を見ていくことにします。

綾子踊り 花籠
綾子踊り 花籠
一、花寵に 玉ふさ入れて もらさし人に しらせしんもつが辛苦の つんつむまえの ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ ソレ うきや恋かな せうたいなしや うきや恋かな たまらぬ ハア とに角に
二、花寵に 我恋いれて もらさし人に 知らせしん もつがしんくの つむ前の ヒヤ 一花つむ前の ヒヤ ソレ  つきや恋かな せうたいなしヤ  うきや恋かな砲まらぬ ハア とに角に
三、花寵に うきなを入れて もらさし人に しらせしん もつが辛苦の つむ前の ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ うきや恋かな  せうたいなしや  うきや恋かなたまらぬ ハア 兎二角に
意訳変換しておくと
花籠に恋文を入れて、人には知られないようにと、秘めておくのは、辛いことだよ。しかし、花籠では、すぐに漏れてしまいますよね.

花籠に入れるものが「たまふさ(恋文)→ わが恋 → 浮き名」と変化していきます。この花籠の原型は、 『閑吟集』の中にあると研究者は指摘します。
中世の歌謡 『閑吟集』の世界の通販/真鍋 昌弘 - 小説:honto本の通販ストア

『閑吟集(かんぎんしゅう)』は、16世紀初頭に成立した、当時の流行歌集です。 室町時代に流行した「小歌」226種と、「吟詩句(漢詩)」「猿楽(謡曲)」「狂言歌謡」「放下歌(ほうかうた」などを合わせて、311首が収録されています。
座頭 - Wikipedia
座頭
これらは座頭などの芸能者が宴席などで詠っていた歌とされます。そのため艶っぽいものや時には、ポルノチックなものまで含まれています。また自由な口語調で作られた小歌で、実際に一節切り、縦笛によって伴奏され、口謡として歌われたものです。内容的には、恋愛を中心として当時の民衆の生活や感情を表現したものが多く、江戸歌謡の基礎ともなります。
没後50年、松永安左エ門 「電力の鬼」の信念を支えた茶の心|【西日本新聞me】

『閑吟集』の最後を締めくくるのが、「花籠」です。
①花籠に月を入て 漏らさじこれを 曇らさじと 持つが大事な(三一〇番)
②籠かなかな 浮名漏らさぬ籠がななふ(三一一番)
①を意訳変換しておくと
縁側の花籠に 月の光が差し込む
この光を逃さないように 遮るものがないように  この貴重な時間を出来るだけ長く保ちたい
(男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・・)
 花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性、という幻想的なイメージも浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。

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「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があるようです。
そうすると、漏らすまいとしているものは何なのでしょうか、それを持つ(持たせる)事が大切なようです。つまりは、性行為の比喩を描いていると研究者は指摘します。
『閑吟集』は、宴席での小歌なども再録されているので、掛け言葉・縁語を交えての猥歌も出て当然なのです。今で云うとエロチックで、ポルノ的な解釈ができる場面が沢山出てきて楽しませてくれます。
 別の見方をすれば、遊女の純愛の歌と解釈することも出来ます。

愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、

 さらには、“月”は男女の間の愛情とか、自分の幸福とか、つかめそうでつかめない、努力しなければすぐに網目をすり抜けいってしまう、そんなもの比喩と考えても意味が通りそうです。
 エロチックでポルノチックで清純で、幻想的で、いろいろに解釈できる「花籠」は、戦国時代には最も人気があって、人々にうたわれた流行小歌でした。それが各地に広がって行きます。そして、花籠には「月」に代わっていろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。綾子踊りの花籠では、花籠に次のものが入れられています。
1番に 玉ふさ(玉章)で「書状=恋文」
2番に わが恋
 3番に  浮き名
綾子踊り 花籠3

前回見た「小鼓」と同じように、『閑吟集』の小歌に遡ることができます。綾子踊歌が中世小歌の流れの上に歌い継がれていることが分かります。

佐文周辺でに伝わる「花籠」を見ておきましょう。
①花籠に浮名を入れて 洩らさでのう人に知らせしん もつがしん     (徳島県板野郡・神踊・花籠)『徳島県民俗芸能誌』
財田 さいさい踊り
財田町石野のさいさい踊

香川県三豊市財田町石野・さいさい踊の「花籠たまずさ踊」では次のように歌います。
②花籠にたまずさ(恋文)入れて ひんや 花籠にたまずさ入れて む(も)らさじの人にしらせずや ア もとがしんく(辛苦)で つむわいの つむわいの
③花籠にうきなを入れて(以下同)
④花籠に匂ひ入れて (以下同)
ここからは、佐文の近隣の財田でも、「花籠」が歌い踊られていたことが分かります。佐文だけに伝えられたのではなく、風流歌として、三豊一帯で謡い踊られていたようです。
つぎの「漏らさじ」とは、「人に知らせまいとして、大事に、秘めやかに・・」という意味です。
311番の類歌には、次のような歌われます。
竹がな十七八本ほしやま、浮名や洩らさじのな籠に組も(『松の葉』・巻一・裏組・みす組)

 以上をまとめておきます
①『閑吟集』には、座頭などの芸能者が宴席などで詠っていた歌などが311首載せれている。
②これは自由な口語調で作られた小歌で、縦笛によって伴奏され、口謡として歌われた。
③これが風流歌として各地に拡がり、この小唄を核にして替歌や、小唄の合体などを行われ各首の風流歌が生まれた。
④綾子踊りの花籠と財田のさいさ踊りの「花籠」の歌詞は、よく似ているので、西讃一帯で歌われていたことがうかがえる。
⑤盆踊りなどでは、最初は先祖供養のオーソドックスなものから始まり、時を経るに連れて次第に猥雑な歌詞も歌われた。
⑥郷社では小屋掛けがされて風流歌が盆踊りとして踊られた。その中に人気のあった「花籠」なども紛れ込んだ。
⑦雨乞成就のお礼のために踊りが奉納されるときに、盆踊りが「転用」された。
こんなところでしょうか。
どちにしても、綾子踊りに「花籠」が詠い踊られている事実は、その由来で述べられている「綾子踊り=弘法大師伝授」説とは、次の点で矛盾します。
①歌われている歌詞が16世紀までしか遡ることは出来ない。
②弘法大師が、こんな艶っぽい歌を綾子に伝えたとは、考えられない。
あくまで弘法大師伝授というのは、伝説のようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」

        
前回までは綾子踊りに謡われる風流歌が「港町ブルース」のように、当時の瀬戸内海の港町や行き交う船の船乗りや港などを舞台にした歌詞が作られていることを見てきました。
今回は、一転して「恋の歌」です。雨乞い踊りに、どうして恋の歌が歌われるのかと疑問に思いますが、少し付き合ってください。 
綾子踊りで3番目に踊られるのは「綾子(綾子踊)」で、歌詞は次の通りです。

綾子踊り 3綾子の歌詞
「綾子踊り 綾子」の歌詞

一、恋をして 恋をして ヤア わんわする 親の ヤア 知らずして
あんあの子は いんいつも ソレ 夏やせをする ウンウノヤ あらんや 夏やせをする ウンウノヤ 
あんあじきなや ヒヤ ひうやに ひうやに ヤア やらに やりうろ やりうろ
二、我が恋は 我が恋は ヤア 夕陽にむこう 沖の石 ふんふみかやさんされて ヤア ソレ ぬるぬるそで エンエンエノヤ あらんや ぬるぬるそで エンエノヤ あんあじきなや ヒヤ ひうやに ひうやに ヤア やらに やりうろ やりうろ
三、我が恋は我が恋はヤアほん細谷川の丸木橋ふんふみかやさんされて ヤアぬれぬる袖エンエンエノヤあんあじきなやひうやにひうやにヤア やらにやりうろ や
意訳変換しておくと
綾子は恋をして、その心は、いつも「わんわ」して、身は細ります。親はそれと知らず、夏痩せをしているのであろうと思っている。実は恋の痩せなのです。

2.3番は、 一転して失恋の「袖の涙」が歌われます。和歌の類型表現でです。そして全てに「さて雨が降り候」を加えて、雨乞風流踊であることが強調されます。内容を詳しく見ていきます。

「綾子」が身も細るほどの恋をしたようです。
「恋をして 恋をして ヤア わんわする わか恋は」の「わんわする」とは、恋に夢中になり、心奪われてしまっている状態をさすようです。次のような表現例を、研究者は挙げています。

①恋をせば 峰の薬師お参りやれ 峰の薬師は恋の神
           (柏崎市・越後綾子舞「恋の踊」)

恋の踊には、「一つとや」「二つとや」と歌ってゆく数え歌系があります。その例になるようです。「あんあの子は  いんいつも ソレ 夏やせをする」というのは、夏痩せと思えたのは、実は恋のためであったということです。

二番の「沖の石 ふんふみかやさんされて  ぬるぬるそで 」の「沖の石」についての例は次の通りです。
②我恋は潮千に満ちぬ沖の石、何時こそ乾く暇もない(備後地方・田植歌『哲西の民謡』)
③わが袖は汐千に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間ぞなき(『千載和歌集』・巻十二恋二こ二條院讃岐。
④沖の石とはおろかの沙汰よ乾く間もなきわが涙…(『落葉集』・第七・「沖の石」)
⑤見るにつけ聞くにつけ、胸に迫りし数々の、袖も乾かぬ沖の石(吟曲古今大全)
⑥汐千に見えぬ沖の石の乾く間もなき袖の露…(同・沖の石)
意訳変換しておくと
「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。

「沖の石」というのは、片思いのキーワードのようです。
三番の「細川谷の丸木橋」が謡われる例としては、次の通りです。
①我恋はほそ谷川のまろ木ばし(丸木橋) ふなかへされてぬるヽ袖かな (「平家物語』巻九・小宰相。『淋敷座之慰』。通盛口説木遣)
②我が恋は 細谷川の丸木橋 ふみかへされては ぬるんるゝ袖かや(『松の落葉』巻第六・四十四 地つき踊.)
③我が恋は  細谷川の丸木僑 ふみかへされてぬるる袖かな
(山口県・南條踊歌、「但謡集』)
④わが恋は細谷川の丸木橋 渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ(大阪府・泉大津・念佛踊歌. )

わが恋が「細川橋の丸木橋」に例えられています。自分の気持ちを伝えなければ届かないし、それを伝えることは怖いし、躊躇する乙女心という所でしょうか。「細川橋の丸木橋」といえば、自分の思いを告げようか告げまいか悩む乙女というイメージが当時の人たちにはあったようです。ここでは、綾子の「わが恋」が「「細川橋の丸木橋」と云うことになるのでしょうが、見てきた通り、ここにも雨乞い的な雰囲気は一切ありません。 「綾子」は、秘めた恋心に苦しむ恋歌としておきます。
研究者が注目するのは全てに出てくる「あんあじきなやひうやにひうやに」の「あじ(ぢ)きなや」です。
このことばは「中世小歌全体の抒情にかかわることば」で「中世小歌の常用の心情語」と研究者は指摘します。『日葡辞書』には、次のように記します。
「アヂキナイ」 情けないこと あるいは嫌気を催させたり、気落ちさせたりするようなことにかかわって言う。あぢきなく あぢきなう」

帚木119-3】古文単語「あぢきなし」とは | 源氏物語イラスト訳で受験古文のイメージ速読

「中世小歌」のキーワードのようです。用例を見ておきましょう。
①沖の門中(となか)で舟漕げば 阿波の若衆に招かれて あぢきなや 櫓が押されぬ(「閑吟集』・一三三)
②北野の梅も古野の花も 散るこそしよずろヽ あぢきなや(『宗安小歌集』‐50)
③見るも苦しみ 見ねば恋しし あぢきなの身や(隆達節)
④吉野のさくら花見る姫も あんじきなあや こしもとこしもと いざやたちより花を見る(香川県三豊郡、さいさい踊・「吉野のさくら踊」)

  次は、4番目が小鼓(つづみ)です。この歌は、もう少し艶っぽい内容になります。
一、君は 小津々み(小鼓) 我しらず ヒヤ 川(皮)をへだてて 恋をめす ソレ うんつんつれなの 君の心に、 イア さて 雨が降り候
二、こまにけられし道草も ヒヤ 露に一夜の宿をかす ソレ うんつんつれなの 君の心にゃ ヤア さて 雨が降り候
三、水にもまれし うき草も ヒヤ 蛍に 一夜の宿をかす ソレ うんつんつれなの 君の心にゃ ヤア さて雨が降り候
意訳変換しておくと
わたしが恋するあなたは、「小鼓」のようなもの。わたしは、その小鼓を打つ演奏者だよ。鼓の皮を打つと美しい音色を奏でます。それなのに、いつもつれないね。

この「小鼓」は、『言継卿記(ときつぐきょうき)』紙背と『宗安小歌集(そうあんこうたしゅう)』に、次のように載せられています。
『言継卿記』(大永七(1527・五月十四日条の紙背。)
①身(私)は小つヽみ きみはしら(調)へよ  川(皮)をへたててね(寝)にをりやる
「宗安小歌集』(一一五番)
②おれ(私)は小鼓 とのは調めよ 皮(川)をへだてて ね(音)におりやある ね(寝)におりや
『言継卿記』と『閑吟集』は、ほぼ同じ16世紀前半の成立です。①・②はともに、女性が自分を「小鼓」だと歌っています。「ね」は「音と寝」を掛けます。二人は川(皮)に隔てられているので、川を越えて、川の道を通って逢いに来るです。恋人(男性)は、鼓の緒を締めたりゆるめたりする奏者であるということ。「皮」は鼓に張られた皮に「川」を掛けています。「寝におりやる」とあるので、人間の肌の皮を暗示して、艶っぽい歌です。まさに「艶歌」に通じます。

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もう少し用例を楽しんでおきましょう。
①我は小鼓ノ 殿御は調よ かはを隔てて  かはを隔てて ねにござる 花の踊りをノ 花の踊りを 一踊り(『松の葉』・巻一・浮世組)
②いとし若衆との小鼓は締めつ緩めつノ調べつつ ねに入らぬ先に 鳴るか鳴らぬか なるかならぬか(同)
③手に手を締めてほとほとと叩く 我はそなたの小鼓か(隆達節二八九)
④きみはこつゞみ しらべの糸よ いくよしめてもしめあかぬ(『延宝三年書写踊歌』・やよやぶし)
⑤そもじやこつゝみ われはしらべよヒヤア かはをへだてゝ のうさて かわをへだてゝ ねにござれ(駿河志太郡徳山村・盆踊歌)
⑥おれは小鼓 殿は知らぬ 川を隔てゝげに呼ぶ ホチヤラニ/ヽ ヮーローヒューヤラーニ
(阿波国神踊歌 徳島県 板野郡 神踊歌 『徳島県民俗芸能誌』)
⑦そもじやこつゞな われらはしらべよ かわをへだてて のふきて かわをへだててねにござれ(静岡県 榛原郡 徳山盆踊歌)
  ⑥には「おれ」とありますが、中世はこれが女性の一人称だったようです。女性のことです。「ぬしの小鼓となりたい」なんていうのは、江戸の小歌の中にもよく出てきます。

二番の「こま(駒)にけ(蹴)られし道草も  露に一夜の宿をかす」を見ておきましょう。
「駒」は馬で、駒に踏みにじられた道草も、露に一夜の宿を貸す、ということでしょうか。転じて路傍の草のように、相手を思うやさしい心を持ちなさい。私の恋心「下心」を、わかって受け入れて下さいという口説き文句になります。その他の用例を見ておきましょう。
人にふまれし道芝は 一路に一夜のやとをかす あら堅そんじやこの宿は(滋賀県草津市上笠・雨乞踊)
3番の「水にもまれし うき草も  蛍に 一夜の宿をかす」の用例を見ておきましょう。
  我が恋は 水に燃えたつ蛍々 物言はで 笑止の蛍 (閑吟集59)

意訳変換しておくと 
私の恋は、水辺で燃え立つ蛍のよう。物も言えない哀れな蛍よ

 「笑止の蛍」の「笑止」というのは、現在ではあざ笑うとか、失笑や冷笑の意味で使いますが、もともとの意味は気の毒なとか、かわいそう、痛ましいことといった意味だったようです。「水に」には「見ずに」がかかります。
  「蛍」は「火垂」で「思い(火)」の縁語として使われます。 
現在の演歌の歌詞のキーワードが「酒と女と涙」のように、「蛍」も閑吟集の決まり文句であったようです。この歌を「鑑賞」すると、多分、忍ぶ恋をしているのでしょう。恋しい人の顔を見ることも出来ず、好きとも言えず、ただじっと耐え忍んで思い続ける恋心の切なさ。なんてかわいそうな私……。そう言ってため息をついているのでしょうか。自分の柄とも思えない忍ぶ恋をしてしまった、そんな自分自身を仕様がないとひっそりと嗤っている、そんな姿が描けそうです。
「道草」と「露」、「浮草」と「蛍」の恋の情をうたう部分は、古浄瑠璃『上るり御前十二段』(浄瑠璃御前十二段)・「まくらもんたう(枕問答)」に次のように記されます。
○さてもそののち御さうし(御曹司)は、かさねてことばをつくされける、いかに申さん上るりひめ(浄瑠璃姫)、むかしかいまにいたるまでたけのはやし(竹の林)かたか(高)いとて とうりてん(塔利天)まてとヽかぬもの、たに(谷)のたかいとてみねのこまつ(峯の小松)にかけささず、九ちようのとう(九重塔)かたかいとて、いかなるいや(賤)しきてうるい(鳥類)つはさ(翼)か、はねうちたてゝと(飛)ふときは、九ちうのとう(九重塔)をもした(下)にみる。こま(駒)にけられしみちしば(道芝)も、つゆ(露)に一やのやと(宿)はか(貸)す。みつ(水)にもまれしかわやなぎ(川柳)も、ほたる(蛍)に一やのやどはかす、かせ(風)にもまれしくれたけ(呉竹)もことり(小鳥)に一やのやと(宿)はかす、
たんだ(只、)人にはなさけあれ、なさけは人のためならず、うきよ(浮世)はくるまのはのごとく、めぐりめぐりてのちのよわ、わがみのためになるぞかし
(『浄瑠璃御前十二段』元和寛永頃古活字版。「古浄瑠璃正本集』第一)
意訳変換しておくと
それでも御曹司は、重ねて次のように言われた。どう言ったらいいのはよく分かりませんが、お聞き下さい(浄瑠璃姫)、昔から今に至るまで竹の林が高いからといって、塔利天までには届きません。谷が深いと云っても峯の小松)に影は指しません。九重塔か高いとて、空飛ぶ鳥たちは翼を持ち、羽ばたいて飛べば、九重塔をも下に見ます。駒に蹴られた道芝も、露に、一夜の宿は貸します。水にもまれる川柳も、蛍に一夜の宿は貸します。風にもまれし呉竹も小鳥に一夜宿は貸します。
 只、人にはなさけがあります。なさけは人のためだけではありません。浮世はまわる車輪のように、めぐりめぐりて後の世、我が身のためになることもあるのです。
ここには、「恋の情けを尊しとすべし」ことが御曹司の口を借りて説かれています。こういう発想・表現が中世の風流踊歌の一つの特質だと研究者は指摘します。
 綾子踊りの「小鼓」には、当時流行していた風流歌の「恋歌」が「頭取り」され、三連ともに最後に「雨が降り候」の一句を「接木」して、「雨乞踊歌」としています。ここまでを整理しておきます。
①16世紀前半に成立した閑吟集などに収められた恋歌が「流行歌」として世間に広がった。
②風流踊りの中に「恋歌」が取り込まれて踊られるようになる。
③風流踊りが盆踊りや雨乞い踊に「転用」されて踊られるようになる。
④こうして、中世に読まれた恋歌が「雨乞い踊り」の歌詞にアレンジされながら歌い継がれることになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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庄内半島 三崎灯台
荘内半島の先端と三崎灯台 右奧が紫雲出山 左側(北)が備讃瀬戸

前回は綾子踊りの最初に謡われる「水の踊」を見てみました。そこには「堺・池田・八坂」の町が登場していました。今回は二番目に踊られる「四国船」の歌詞内容を見ていくことにします。

綾子踊り2 四国船
綾子踊り 2四国船 
一、四国 箱の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす 匂いやつす ヒヤヒヤ
ニ、四国 阿波の鳴門の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
三、四国 土佐の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
意訳変換しておくと
四国、箱の岬(阿波の鳴門、土佐の岬)の、潮の流れの速いことよ。この灘を航海する船は、ここぞとばかり、全身全霊で、辛さを堪えて越えてゆくよ。
最初に出てくる「箱の岬」というの現在の荘内半島の最西端の岬ことのようです。まず庄内半島のことを角川の地名辞典423Pで押さえておきます。
①七宝山脈の一部をなす陸繋島で、大浜と鍋尻の間はかつて海であったのが、土砂の堆積と隆起により、陸続きとなった。
②ここを船は運河で、あるいは台車に載せられ越えていて、そこに鎮座していたのが船越八幡神社である。
③古くは三崎(御崎)半島と呼ばれたが、明治23年の荘内村(大浜・積・箱・生里)の成立とともに荘内半島を呼ばれるようになった。
④江戸期は丸亀藩の支配下で、六浦二島で荘内組を構成した。
ここからは荘内半島が明治以前には「三崎(御崎)半島」や「箱の岬」と呼ばれていたことを押さえておきます。

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  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。
「箱御埼(三崎)。讃州の西極端にして、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と相対し、二海里余を隔つ。塩飽諸島は北東方に碁布し、栗島最近接す。埼頭に海埼(みさき)明神の祠あり。此岬角は、西北に向ひ、十三海里にして備後鞆津に達すべし。其間に、武嶋井に宇治島、走島あり。
  『鹿苑院(義満)殿厳島詣記』(康応元年)に、鞆の浦の南にあたりて、宇治、はしり(走)など云、島々あり、箱のみさきと云も侍り。へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
など云へるは、実に正確の状也。
 水路志云、三埼は、讃岐国の西北角にして、塩飽瀬戸と備後灘とを分堺す。即東方より航走し来る者、此に至り北して三原海峡、南して来島海峡、其分るヽ所なり
荘内半島と鞆
荘内半島の位置

意訳変換しておくと
箱御埼(三崎)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。足利義満の『鹿苑院殿厳島詣記』(康応元(1389)年には、次のように和歌に詠まれている。
へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
これはまさに正確な記録と云えよう。水路志には、次のように記されている。
 三崎(荘内)半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
②14世紀末に、足利義満が安芸の宮島参拝の帰路に、鞆から荘内半島に至る笠岡諸島を通過している。
③荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
海埼(みさき)明神の祠があったこと、鞆・尾道航路と来島・九州航路の分岐点であったことを押さえておきます。
庄内半島と鞆

『金毘羅参詣名所図会』(弘化四(1847)2月刊)には「箱ノ岬」として、次のように記します。
荘内半島 箱の岬 大浜神社 金毘羅参詣名所図会

「仁保(仁尾)の浦より西北の方にあり。本山の荘よりつゞきて、其間七里の岬なりと言。海上に突出ること抜群にして、左右にくらぶるものなし。箱浦ともいふ浜の方に御崎(三崎)明神の社あり。村中の生土神(うぶすな)なり」

意訳変換しておくと
仁保(仁尾)の浦の西北の位置する。本山荘より続く、七里の岬である。海に突出しているので、左右に障害がなく展望が開ける。箱浦という浜の方には、御崎(三崎)明神の社があり、村中の生土神(うぶすな)となっている。

ここにも「御崎(三崎)明神」がでてきます。しかし、その場所は「箱浦の浜」とされています。

『古今讃岐名勝図会』(嘉永七(1854)年には、「御崎(三崎)明神」について次のように記します。

「讃岐国中、西へ指出たる端なり(中略)
祈雨に験あり祈雨神とも称へり。社の二丁北に、海中に大石あり大幸石といふ。今は絶えたり。又曰く、赤頸の狼等を神使と言い、毎月十九日に見ゆと云。」

ここからは次のようなことが分かります。
①三崎大明神は「祈雨に験あり。祈雨神とも称へり。」とされ、雨乞信仰の神でもあったこと
②三崎神社の社の北の海中には、大幸石という大石があって神の使いとされる「赤首の狼」とされ、毎月19日は、海中から現れたこと。
ここでは、神霊としての信仰対象として、「大幸石」があり「赤首の狼」伝承があったことを押さえておきます。
なお「大幸石」については、「今は絶えたり」とあります。現在は「大幸石」に代わって燈台の沖の「御幸石」が名所となっているようです。

庄内半島 御幸石.3jpg
三崎灯台の下の御幸石

  『全讃史』(明治13年刊)には、「箱の岬」について、次のように記します。
箱御崎。生利(なまり)の浦に有。長く海中へ出る事、三里といへり。御崎(三崎)大明神の祠有 往来の舟、皆、帆を下け、拝して過れり。
打わたす御崎の神はわたつみを幾千代かけて守り給はん 

ここには「往来の船、皆、帆を下け、拝して過れり」とあります。海を行く船人達が、海路安泰を願って、帆を下げて、御崎(三崎)大明神を拝みながら通過していったことを伝えます。これは、古代以来の船人たちの河川や海の境界に鎮座する神への礼拝エチケットだったのかもしれません。庄内半島だけのことではなく、古代以来多くの船が行ってきた習俗だったと研究者は考えています。

日本海事慣習史(金指 正三) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
金指正三『日本海事慣習史』(昭和42年刊)には、「船行」の中で次の文を引用しています。

「霊神ノ立玉フ峰ノ麗ヲ過ニハ、帆ヲスルト云テ、帆ヲ八分ニサグベシ。霊神ヲ敬フ心ナリ」

意訳変換しておくと

霊神が鎮座する峰の麓を船で航行するときには、帆を八部にまで下げることが慣例であった。これが霊神を敬ぶ心である」

 瀬戸の島の断崖の上や、岬の先端に祀られた祠に対して、静かに礼拝をしながら船乗りたちは船を通過させたようです。そして、荘内半島の先端に鎮座する三崎神社に対しても、船乗りたちはこの礼をとっていたことが分かります。
今度は中世の三崎神社を、修験者の海の行場という視点で見ておきましょう。
四国霊場形成史 八幡信仰に弘法大師伝説が「接木」されている観音寺の『讃州七宝山縁起』 : 瀬戸の島から
讃州七宝山縁起
  観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、次のような事が書かれています。
 空海が仏宝を観音寺から庄内半島に続く山塊に納めたので、七宝山と号すること、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいうこと。また七宝山にある7つの行場を33日間で行峰(修行)する中辺路ルートがあることが記され、その行場として、次の寺が挙げられています。
初宿 観音寺(琴弾神社別当寺)
第二宿は稲積神社(高屋神社)
第三宿は経ノ滝(不動の瀧)
第四宿は興隆寺(本山寺奥の院)
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺(三崎神社の別当寺)
結宿は曼荼羅寺我拝師山。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路の宿泊寺院
 こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
DSC00417
神正院(詫間町生里)
 その第六宿が荘内半島の神宮寺です。
 この寺は現在の神正院(詫間町生里)で、三崎神社の別当寺であったようです。三崎神社の管理・運営は、このお寺の社僧がおこなっていたことになります。
DSC00409
神宮院の三崎大権現のお堂 
権現からは修験者の拠点であったことがうかがえます。

彼らは山林修行者で修験者でもありました。行場での修行のひとつが、海に突きだした岬と、山の断崖を何度も行き来し「行道」することでした。荘内半島の三崎神社も「七宝山中辺路」ルートの行場として、多くの修験者たちを集めていたのでしょう。
 そして、五来重の説くように、岬の先端では修行の一環として大きな火が焚かれたはずです。それが「龍燈」で、沖ゆく船の船乗りの信仰を集めることになります。つまり、三崎神社は修験者たちの行場であると同時に、船乗りたちの航海安全を願う神社であり、その別当寺を神正院が務めていたことになります。
庄内半島 三崎神社3
三崎神社とその先の三崎灯台(荘内半島先端)
以上から三崎神社の性格や役割をまとめておきます。
①備讃瀬戸・備後灘・燧灘を分ける境界に位置する宗教施設
②岬の先端の行場としての宗教施設
③龍燈が焚かれる「燈台的な機能」や「海運情報センター」
④雨乞いに験がある権現で、管理は別当寺の社僧
燈台のある三崎の先端に向かって四国の道を歩いて行くと三崎神社の手前に、注連柱が立っています。
荘内半島 関の浦
注連柱と「関の浦」の説明版
その注連柱には「廣嶋縣御調郡吉和漁■」と刻まれています。「御調郡吉和」は、現在の尾道市西部にあたります。尾道の漁民たちによって奉納されたことが分かります。三崎神社は、荘内半島周辺だけでなく、遠く尾道や三原などの人々の信仰をも集めていたようです。
 それでは安芸の信者たちは、どのようにして三崎神社に参拝に来たのでしょうか。それを教えてくれるのが、ここに立っている四国の道の
説明板で、次のように記されています。

関ノ浦
 この道を二百メートルほど下ったところに、関ノ浦と呼ばれる砂浜のきれいな小さな入江があります。その昔、鎌倉・室町時代に、沖を通過する船舶から通行税をとっていた所で、山口県の上関【かみのせき】、中関【なかのせき】、下関【しものせき】と共に四大関所と呼ばれるほど重要な関所でした。
 また、明治、大正、昭和の初期までは、漁船が水の補給をしたり潮待ちのための休けい所となってにぎわいました。特に盛漁期には、酒、菓子、日用品などを販売する店が開かれていたといいます。きれいな砂浜の近くには、今でも真水が湧き出ている井戸が二つあり、当時をしのばせています。時は流れ、現在では三崎神社の夏祭の時以外訪れる人もなくひっそりとしていますが、入江の美しさだけは昔のままです。
荘内半島 三崎神社と関の浦

三崎神社の北側の浜には「関の浦」という「浦(港)」があり、
ここには沖ゆく船に飲み水を提供する井戸があり、潮待ちの休息所となっていたこと、さらに中世には「海関」で関銭を徴収していたというのです。尾道の船乗りたちも、ここに立ち寄り潮待ちをしていたのかもしれません。そして大祭などには、船を仕立ててやってきて、関の浦に船を着け、三崎神社に参拝したことが考えられます。

荘内半島 関の浦の井戸
関の浦に残る井戸跡
海の関所を設置し、通行税を徴収していたのは、どんな勢力でしょうか。
それは関銭を山口県の上関・中関・下関を支配下に置いていた海賊衆(海の武士たち)が想定できます。具体的には、芸予諸島に拠点を置き、備讃瀬戸までをテリトリーにした村上海賊衆です。16世紀前半に、村上衆は九州の大友氏に味方して、その功績として塩飽を支配下に置いています。備讃瀬戸南航路を行き交う船の関銭を、ここで徴収していたことは考えられます。そうだとすれば、ここには村上水軍の部隊が常駐していたのかもしれません。それは、讃岐を支配する守護の細川氏にとっては目障りな存在であったはずです。そのために細川氏は、仁尾を西讃岐の海上警備拠点として整備・組織していこうとしたのかもしれません。
 また、海上交通の要衝には宗教施設が建設され、僧侶たちが「管理センター職員」として服務するようになります。
その手法からすれば、ここに鎮座する三崎神社(大権現)は、関の浦(港)の管理センターであり、情報提供センターでもあったはずです。それを別当寺の神宮院が統括していたことになります。
 秀吉の海賊禁止令で、海の関所は取り払われました。しかし、関の浦はその後も潮待ち港として利用され、その山の上に建つ三崎神社は行き交う船の船乗りの信仰を集め続けたのでしょう。それは、この神社の信仰圏の拡がりからうかがえます。

庄内半島 三崎神社
三崎神社の参道石段
 どちらにして三崎神社に続く石段の立派さなどを見ると、辺境の岬に建てられたものとは思えない風格があります。それは、備讃瀬戸の航路に面した宗教施設で、瀬戸内海を行き来する船全体から信仰を集めていたことが背景にあることを押さえておきます。
四国別格二十霊場(二)・第7番札所 出石寺: ORANGE PEPPER
四国霊場別格 出石寺

同じような性格の寺院としては、愛媛県の三崎半島の付け根の山にある出石寺が挙げられます。
 孤立した山の上で出石山が繁栄した理由としては、次のようなことが考えられます。
①古代以来の霊山として、人々の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝で、九州を含め広い信者を集めたこと。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったのです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。
 そう考えると、庄内半島の三崎神社も同じようなことが考えられま

 どちらにしても、庄内半島の北側は、備讃瀬戸の重要航路で、この付近の島々の港はその「黄金航路」と直接的に結びついていて、「人とモノとカネ」が行き交う大動脈があったことは押さえておきます。 
庄内半島 三崎神社2
三崎神社の石段
少し寄り道をしすぎたようです。
四国船の歌詞である「箱の岬の潮の速さに沖漕ぐ船はにほひやつす」に近い他の表現を、研究者は次のように挙げます。
①伊豆や三島に沖こぐ船は泊る夜より枕も揺り驚かす(奈良県吉野郡・篠原踊歌)。
②徳島県鳴門市大麻町神踊歌の「四国踊」には、
「此処はどこぞととひければ音に聞こえし」の型で、「阿波の徳島」「土佐の高知」「伊予の道後」、そして「讃岐の字多津」がうたわれています。
「にほひやつす」については、次の2つを研究者は考えています。
①沖を漕いでゆく船(船人)が、難所を全力を出しきって、苦労難儀して通過して行く様子をうたっている
②「箱の岬、阿波の鳴門、土佐の岬」などの難所で、そこに祀られている神へ祈念して、ここぞとばかりに威勢良く水夫達が漕いでゆく様を謡っている
このような中で綾子踊りの四国船では、鳴門や室戸とともに三崎(荘内)半島が取り上げられ、その最初に謡われていることになります。中世の西讃地域の人々にとって、三崎半島は重要な意味をもつエリアで、そこに鎮座する三崎神社の知名度は高かったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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綾子踊り 全景
綾子踊り まんのう町佐文賀茂神社
綾子踊歌は、次の十二の組踊歌から成っています。
1水踊。 2四国 3綾子 4小鼓。 5花籠  6鳥籠  7邂逅(たまさか)8六調子(「付歌」を含む)。 9京絹 10塩飽船 11しのび 12帰り踊り

綾子踊りは雨乞い踊りなので、歌詞の内容は、降雨祈願のことが謡われているものとかつては思っていました。小さい頃は、何が謡われているのかも気にせずに佐文の住人として、この踊りに参加していました。ところが年月を経て、歌詞の内容を見てみると、雨乞い的な内容のフレーズは、ほとんど見当たらないことに気づきました。出てくるのは艶っぽいオトナの情愛の歌と、瀬戸内海航路を行き交う船と港のことばかりです。まるで「港町ブルース」の世界なのです。どうして、こんな艶っぽい歌が、雨を切実に祈願する綾子踊りで謡われ、踊られていたのか。また、この風流歌の起源はどこにもとめられるのか。それが長年の疑問でした。
 それに答えてくれるのが、「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」です。これをテキストにして、綾子踊歌の起源と内容を見ていくことにします。

綾子踊りで、最初に謡われるのは「水の踊り」です。
綾子踊り 水の踊


一、堺の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ  しつぽとぬうれて ソレ 水か水か サア こうちござれ こうちござれ
二、池田の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ雨が降ろと ままいの ソレ しつぽとぬうれて ソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ
三、八坂の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ しつぽと ぬうれてソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ

「さかひ(堺)の町、池田の町、八坂の町」の3つの町が登場します。

頭の町の名前が変わるだけで、後のフレーズは三番まで同じです。三つの町に雨が降ること、その雨に「しつぽと濡れる」ことが謡われます。これを「人々の雨を乞う願い、雨を降らせようとする強い気持ちで包まれた歌」と研究者は評します。
 ここに出てくる「堺・池田・八坂」の町は、現在のどこに当たるのでしょうか?
「さかい(堺)」は、南蛮貿易や商工業で栄えた堺市でしょう。瀬戸内海交易の最大拠点で、西の博多とともに中世には繁栄していた港町でした。瀬戸内海を行き来する廻船のゴールでもあり、文化の中心地で、憧れの地でもあったようです。
堺の港が、登場すると風流歌や雨乞い踊歌を挙げると次の通りです。
○あれに見えしはどこ浦ぞ 立目にきこえし堺が浦よ 堺が浦へおしよせて    (香川県三豊郡・和田・雨乞踊歌)
○さかへおとりわおもしろやヽ さかへさかへとおしやれども 一化の都にますわゑな      (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
○堺の浜を通りて見れば あらうつくしのぬりつぼ竿や  (徳島県阿南市・神踊・殿御踊歌)
○堺ノ浦ノ千石船ハ ドナタヘマイルタカラブネ  (徳島県名東郡・佐那河内村・神踊歌)
○ここは堺か面白やア かたにおろしてあきないしよ あきなゐおどりはひとおどり(徳島県徳島市。川内町あきない踊り
こうしてみると堺の港は、瀬戸内海を行き交う船にとって象徴的な町として、風流歌の中に取り込まれて各地で謡われていたことが分かります。それでは、「池田」「八坂」は、どうなのでしょうか。考えつくのは
池田の町=阿波池田?
八坂の町=京都の八坂?
ですが、どうもピンときません。これらの町も「堺」とともに、めでたく豊かさを象徴する町として出てくるとしておきましょう、その中でも「堺の町」は、瀬戸内海文化エリアの中で繁栄する港町のイメージとして登場し、謡われていることを押さえておきます。
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綾子踊り 団扇には「雨乞い」裏が「水」

次に「広いようで狭い」「しっぽと濡れて」です。

この類型句を挙げて見ると次の通りです。
○堺の町は広いようで狭い 一夜の宿を借りかねて 森木の下で夜を明かす 夜を明かす  (順礼踊『芸備風流踊歌集』)
○遠州浜松広いようで狭い 横に車が二挺立たぬ(『山家鳥虫歌』・遠江)
○遠州浜松広いよで狭い 横に車が横に卓がやんれ 一丁も二丁目三丁目も…  (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
ここに出てくる「広いようで狭い」という表現は、その街道が狭いこと云っているのではなく、むしろ、道も狭いと感じさせるほど、町が繁盛し人々で賑わっていることを伝えていると研究者は指摘します。浜松は、東海道のにぎやかな海道の要所です。18世紀後半の『山家鳥虫歌』に、このような表現があるので、近世民謡の一つのパターン的な表現方法のようです。いわば現在の演歌の「恋と涙と酒と女」というような決まり文句ということでしょうか。綾子踊「水のおどり」は、その決まり文句が入ってきているとしておきます。

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次は「しつぽと」についてです。
『宗安小歌集』に、次のような表現があります。
「しつぽと濡れたる濡れ肌を今に限らうかなう まづ放せ」(一七五番)
艶っぽくエロチックな表現です。しかし、「濡れ肌」でなく「町がしっぼと濡れる」です。これは堺の町など三つの町が、めぐみの雨によって、十分にしっとりとうるおい、蘇ったありさまを表現していると研究者は評します。しかし、それだけではありません。
 中世の『田植草紙』系田植歌には、色歌・同衾場面をうたう情歌にもよく出てきます。こんな表現を民衆は好みます。だから風流化として各地に広まったのでしょう。そして、その根っこでは、人間の「繁殖」と稲の豊穣を重ねて謡われていたと研究者は評します。ここでは、豊作を願う農民たちの祈り歌の思いが込められていたとしておきます。
どうして綾子踊りの最初に、「水おどり」(雨のおどり)が踊られるのでしょうか?
それは綾子踊の目的が雨乞いにあるからと研究者は指摘します。雨が降って身が濡れること、夕立雲が湧き出てくる様子も、豊穣の前兆としてうたわれます。「水おどり」も歌謡・芸能の風流の手法として、農耕の雨を呼ぶ「呪歌」であると云うのです。雨が降ることを確信を持って謡うこと、また祈願が叶って雨が降ったときの歓喜が「雨よろこび」の歌となります。
西讃府志 綾子踊り
西讃府志 『雨乞踊悉皆写』
幕末に丸亀藩が編纂した『西讃府志』・巻之三の『雨乞踊悉皆写』には、「綾子路舞」について、次のように記します。

佐文村二旱(日照)ノ時、此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏神ノ社トニテスルナリ」

これに続いて、祭礼の人数・役割・位置・衣装等が詳しく記されます。
西讃府志 綾子踊り3
西讃府志 『雨乞踊悉皆写』 最後に踊りの順番が記されている
その一番最後に、踊の順を次のように記します。
 其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠、次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ馴日、次ナルヲ忍び 次ナルヲ帰り踊 ナドト、十二段ニワカテリ
ここでも「水の踊」が全十二段の、最初に置かれています。
綾子踊りは、雨を呼ぶための呪術的祭礼歌謡です。そのために、雨を期待し、表明する歌謡として伝承されてきました。
しかし、雨乞い踊りと云われる中に、雨が降ったことに感謝するために踊られるものもあります。
例えば、滝宮神社に奉納される坂本念仏踊りには、「菅原道真の祈雨成就に感謝して踊られる」と、その由来に書かれています。雨乞い踊りではなく、もともとは「雨乞成就への感謝踊り」なのです。
 奈良大和の「なむて踊り」も、雨乞い踊りではなく、降雨感謝の踊りです。そして、その踊りは、風流盆踊りが借用されたもので、内容は風流踊りでした。これが雨乞い踊りと混同されてきたようです。

綾子踊り 善女龍王
綾子踊り 善女龍王の幟

 中世では素人が雨乞いを祈願しても神には届かないという考えがあったようです。
丸亀藩が正式に雨乞いを命じたのはは善通寺、髙松藩は白峰寺だったのは以前にお話ししました。そこでは、高野山や醍醐寺の雨乞い修法に則って「善女龍王」に、位の高い僧侶が祈祷を捧げました。村々でも、雨乞は山伏や近郷の祈祷寺に依頼するのが常でした。自ら百姓たちが雨乞い踊りを踊るというのは少数派で、中世においては「異端的で、先進的」な試みだった私は考えています。
 そういう意味では、佐文の綾子に雨乞い踊りを伝授したという僧侶は、正式の真言宗の僧侶ではありません。それは、山伏や高野聖たちであったと考えた方がよさそうです。雨乞いは、プロの修験者や真言僧侶など霊験のあるものが行うもので、素人が行うものではないという考えが中世にはあったことを、ここでは押さえておきます。

綾子踊り 善女龍王2

 以上見てきたように「水の踊」に登場するのは「堺・池田・八坂」です。讃岐近郊の地名は登場しません。この歌が瀬戸内海を行き交う船の寄港地などで風流歌として歌われ、それが盆踊りに「借用」され、讃岐でも拡がったこと。佐文では、さらにそれをアレンジして「雨乞踊り」に「借用」して踊られるようになったことが考えられます。
最後に意訳変換しておくと
繁昌する堺の町(池田の町、八坂の町)は、広いようで狭いよ。雨乞踊の祈願が叶って雨が降り、人々は蓑よ笠よと騒いでいるが、田も野もそして町も、しっぽりと濡て潤い、蘇りました。この「水が水が」とうたう水の歌が、佐文に水を呼ぶ。うれしいことだよ、めでたいことだよ。

 「雨乞踊の最初に、願いどおりの結果になつたことを、前もってうたい、世の中を祝った予祝歌謡」と研究者は評します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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綾子踊|文化デジタルライブラリー
綾子踊り 棒振と薙刀振り(まんのう町佐文 賀茂神社)

綾子踊りは、踊りが始まるまでは、次のような流れで進められて行きます。
①踊り役が入場する前に、龍王宮を祭り、左右に榊をもって露払をする
②台傘持が入り、幟持四名が続き、その後唐櫃、龍王の御霊、柱突、棒振、薙刀振、山伏姿の法螺貝吹、小踊、芸司、太鼓、鼓、笛、地唄、側踊の順に入場して、それぞれの位置につく。
③初めの位置取りは、棒と薙刀が問答を行うため、地唄、警固などが神前定位置に進み、その他は神社の随身門を入ったところに、社前に広場を作る。
④棒振と薙刀振の所作(棒振が進み出て四方を払い、中央で拝して退くと、薙刀振が出て中央で拝し、薙刀を携えて西東北南と四方を払い、再び中央を払い、また四方を払う。薙刀の使い方には、切りこむ形、受けの形、振り回す形などがある。)
⑤棒振と薙刀振とが中央で向かい合い、掛け合いの問答をする
⑥台傘持が来て、棒振と薙刀振の頭上に差掛けると、二名は退場。

綾子踊り 薙刀
綾子踊り 薙刀振り
③④⑤の棒振と薙刀振によって行われる問答は次のようなものです。
棒 暫く暫く 先以て当年の雨乞い 諸願成就 天下泰平 国土安穏 氏子繁昌 耕作一粒万倍と振り出す棒 は 東に向かって降三世夜叉 
薙 抑某(ソモソレガシ)が振る薙刀は 南に向かって輦陀利(ぐんだり)夜叉 
棒 今打ち出す棒は 西に向かって大威徳(だいいとく)夜叉 
薙 又某が振る薙刀は 北に向かって金剛夜叉
棒 中央大日大聖不動明王と打ち払い 薙 切り払い 棒 二十五の作物 薙 根は深く
棒 葉は広く 薙 穂枯れ 棒 虫枯れ 薙 日損 水損 風損なきように 
棒 善女龍王の御前にて 悪魔降伏と切り払う薙刀 柄は八尺 身は三尺 
薙 神の前にて振り出すは 棒 礼拝切り 薙 衆の前は 棒 立趾切り 薙 木の葉の下は 
棒 埋め切り 薙 茶臼の上は 棒 廻し切り 薙 小づまとる手は 棒 違い切り 
薙 磯打つ波は 棒 まくり切り 薙 向かう敵は 棒 唐竹割り 薙 逃る敵は 
棒 腰のつがいを車切り 薙 打ち破り 棒 駈け通し 薙 西から東 棒 北南 薙 雲で書くのが 棒 十文字 薙 獅子奮迅 棒 虎乱入 薙 篠鳥の 棒 手を砕き 雨の八重雲 雲出雲の 池湧きに 利鎌を以って 打ち払い 薙 切り払い 棒 今神国の祭事 薙 東西 棒 南北と振る棒は 陰陽の二柱五尺二寸 薙 ヤッと某使うにあらねども 棒 戸田は 薙 三つ打ち 棒 自現は 薙 身抜き刀軍 古流五法の大事 命

問答の最初に登場するのは、東西南北の守護神と不道明王の五大明王たちです。これらは、修験者たちの崇拝する明王です。続く問答も、山伏たちの存在が色濃くします。
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宇和島藩の旧一本松村増田集落の「はなとり踊」を見てみましょう。
「はなとり踊り」には、山伏問答の部分「さやはらい」があります。「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、踊りの最初に増田集落では修験者がやっていたと伝えられます。山伏と民俗芸能の関係を考える際の史料になるようです。
増田はなとりおどり】アクセス・イベント情報 - じゃらんnet
    はなとりおどり(愛南町増田)
「さやはらい」の問答部分は次の通りです。
善久坊  紺の袷の着流し、白布の鉢巻、襟、草履ばき、腰に太刀と鎌をさし、六尺の青竹を手にしている。
南光坊  同じいで立ちだが、鎌はさしていない。南光坊が突っ立ち、行きかける。善久坊をやっと睨んで声をかける。
南光坊  おおいそもそもそこへ罷り出でたるは何者なるぞ。
善久坊  おう罷り出でたるは大峰の善久坊に候、今日高山尊神の祭礼にかった者。
南光坊  おう某は寺山南光院、’今日高山尊神の御祭礼の露払いにかった者、道あけ通らせ給え。
善久坊  急ぐ道なら通り給え。
南光坊  急ぐ急ぐ。
 南光坊行きかける。善久坊止める。両者青竹をもって渡り合う。鉦・太鼓の囃子、青竹くだける。これを捨て南光坊は太刀、善久坊は鎌で立ち廻る。善久坊も刀を抜いて斬りむすぶ。勝敗なく向かい合って太刀を合掌にした時、[さやはらい]一段の終りとなる。
 ここからは「さやはらい」に登場するのは山伏で、はなとり踊が山伏の宗教行事であることが分かります。はなとり踊りの休憩中に希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打って、さいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。

  行事全体を眺めると、この踊りをプロデュースしたのは山伏だったことがうかがえます。
里人の不安に応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは山伏たちだったのです。この視点で、讃岐の佐文綾子踊りを見てみると、行列の先頭にはホラ貝を持った山伏が登場します。行列が進み始めるのも、踊りが踊られ始めるのもホラ貝が合図となります。また棒振と薙刀振が登場し、「さいはらい」を演じます。これらを考え合わせると、綾子踊の誕生には山伏が関与していたことがうかがえます。

山伏(修験者)武術と深く関わっていた例を見ておきましょう。
 幕末に、まんのう町の公文の富隈神社の下に護摩堂を建てて住持として生活していた修験者がいました。木食善住上人です。上人は、石室に籠もり断食し、即身成仏の道んだことでも有名です。
  また上人は修験者として武道にも熟練して、その教えを受けていた者もたくさんいたといいます。特に、丸亀藩・岡山藩等の家中に多く、死後には眼鏡灯(摩尼輪灯)2基が、岡山藩の藩士達が、入定塔周辺に寄進設置されています。このように山伏の中には、薙刀や棒術、鎖鎌などに熟練し、道場的な施設を持つ者もいたのです。そういう視点から見れば、山伏たちが雨乞い踊りや風流踊りをプロデュースする際に、踊りの前に武術的な要素をお披露目すすために取り入れたのかも知れません。
市指定 お伊勢踊り - 宇和島市ホームページ | 四国・愛媛 伊達十万石の城下町
伊勢踊り
もうひとつ綾子踊りと共通するものが宇和地方にはあります。
 伊勢踊りです。これは旧城辺町僧都の山王様の祭日(旧9月28日に)に行なわれる踊りです。男の子供6人が顔を女のようにつくり、女の長儒絆を着て兵児帯を右にたらし、巫子の姿をして踊ります。これも山王宮の別当加古那山当山寺の瑞照法印が入峯の時に、伊勢に参宮して習って来て村民に伝えたといわれています。
「男子6人の女装での風流踊り」という点が、綾子踊りとよく似ています。それを、村に導入したのが、山伏であると伝わります。綾子踊りも、このようなルートで導入された可能性もあります。

綾子踊|文化デジタルライブラリー
綾子踊り 6人の子踊り
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
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綾子踊り11
綾子踊り(まんのう町佐文) 賀茂神社への行進

2年に一度公開されている綾子踊りも、前回はコロナ禍で中止されました。今年は3年ぶりの開催が予定され、佐文では準備が始まっています。そこで、この際に綾子踊りについて、日頃から疑問に思っていたことを洗い出して、調べて行こうと思います。
 テキストは最近発行された「祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史」まんのう町教育委員会 平成30年」です。この冊子は、全国の風流踊りを一括してユネスコの文化遺産に登録するために、教育委員会が編集・発行したもので、専門家による綾子踊りの分析が行われています。

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綾子踊り 賀茂神社
まずは、綾子踊の起源と由来を押さえておきます。
綾子踊りの国の文化財指定で大きな決め手になったのが、踊りの歌詞や由来などについて記した記録でした。これは、戦前に佐文の華道家の尾﨑傳次(号清甫)氏が、古文書を書き写したものです。
尾﨑傳次について、最初に紹介しておきます。
彼は明治3年3月29日に佐文に生まれています。傳次が生まれた翌年明治4年に、宮田の法然堂の住職を務めたいた如松斉は法然堂を出て、生間の庵に隠居して華道に専念するようになります。その庵に多くの者が通い如松斉から未生流の流れをくむ華道を学んだ。如松斉から手ほどきを受けた高弟の中に、佐文の法照寺5代住職三好霊順がいました。霊順は、如松斉から学んだ立華を、 地元の佐文の地で住民達に広げていきます。尾﨑傳治も若いときから法照寺に通い霊順から手ほどきを受け、入門免許を明治24年12月に21歳で得ています。その際の入門免許状には「秋峰」とあります。後の七箇村長で国会議員を務めた増田穣三のことです。
 この前年には、如松斉の七回忌に宮田の法然堂境内に慰霊碑が建てられます。この免状からは、穣三が未生流から独立し「如松流」の第2代家元として活動していたことが分かります。尾﨑傳次は、その後も熱心に如松流の華道の習得に努め、増田穣三が代議士を引退後には直接に様々な教えを学んだようです。
 尾﨑家には、傳次が残した手書きの「立華覚書き」が残されています。孫に当たる尾﨑クミさんの話によると、祖父傳次が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあると話してくれました。
 傳次はその後も精進を続け、大正九(1920)年には、華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任しています。大正15年3月に師範免許(59歳)を、続いて昭和6年7月に准目代(64歳)、最後に昭和12年6月には会頭指南役の免状を、「家元如松斉秋峰」(穣三)から授かっています。傳次は、そういう意味では田舎にありながら「華人」であり「文化人」でもあったようです。失われていく綾子踊りの記憶を、きちんと残しておこうという使命感と能力があったのでしょう。傳次は戦中の昭和18年8月9日に73歳で亡くなります。
 亡くなる前年2月に、長男である沢太(号湖山)に未生流師範を授けています。沢太は小さい頃から父傳次より如松流の手ほどきを受けていたというから、代替わりという意味合いもあったのかもしれない。
 その後、沢太は戦後の昭和24年9月には荘厳華教匠、昭和25年10月には嵯峨流師範と未生流以外の免状を得て、昭和27年には香川司所評議員、33年には地方幹事に就任し、未生流のみならず香川の華道界のために尽力した。一方、沢太は父傳次の残した文書を参考に、戦後の綾子踊り復活に際して、芸司としても中心的な役割を果たすことになります。これも、華道を通じて尾﨑家に養われてきた文化的な素養の力があったからだと私は考えています。
尾﨑傳次が書き写したという綾子踊りの起源についてについて、見ておきましょう。(現代訳版)

佐文村に佐文七名という七軒の豪族、四十九名がいた。昔、千ばつがひどく、田畑はもちろん山野の草や木に至るまで枯死寸前の状況で、皆がとても苦しんでいた。その頃、村には綾という女性がいた。ある日、四国を遍歴する僧がやって来た。僧は、暑いので少し休ませてもらいたいと、綾の家に入った。綾は快く僧を迎え、涼しい所へ案内をしてお茶などをすすめた。僧は喜んでお茶を飲みながら、色々と話をした。その中で、旱魃がひどく、各地で苦しんでいるが、綾の家ではどううかと尋ねられた。そこで綾は、「自分の家ももちろん、村としても一杓の水も無い状況で、作物を見殺しにするしかない。本当に苦しい」と答えた。
すると僧は、「今雨が降ったら、作物は大丈夫になるか」と尋ねたので、「今雨が降ったら、作物はもちろん人々は喜ぶでしょう」と綾は答えた。その答えに僧が「それでは私が今、雨を乞いましょう」と言う。綾は怪しみ、「いくら大きな徳がある僧でも、この炎天下に雨を降らせるのは無理と思います」と答えた。すると僧は、「今、私の言うようにすれほ、雨が降ること間違いなしです」と言う。そこで綾は「できる限りやってみます」と答えた。僧は「龍王に雨乞いの願をかけ、踊りをすれば、間違いない。この踊りをするには多くの人が必要なので、村中の人たちを集めなさい」という。
 そこで綾はあちこちと村中とたずね歩いたものの日照りから作物を守ろうとするのに忙しく、だれも家にはいない。帰ってきた綾が、誰もいないことを僧に話すと、「では、この家には何人子どもがいるか」と尋ねる。「六人」と答えると、「ではその子六人と綾夫婦と私の九人で踊りましょう。その他親族を集めなさい」と言う。綾は、走って兄弟姉妹合わせて四・五人呼ぶと、僧が「まず私が踊るので、皆も一緒に踊りなさい」と踊り始めた。

 二夜三日踊って、結願の日となっても雨は降りません。なのに僧侶は「今度は蓑笠を着て、団扇を携えて踊りなさい」と言う。綾は「この炎天下に雨が降るわけでもないのに、蓑笠は何のためですか」と怪しんで訊ねます。
「疑わず、まず踊りなさい。そして踊っている最中に雨が降っても、踊りを止めないこと。踊りをやめると、雨は少なくなるので、蓑笠を着て踊り、雨が降っても踊りが終わるまで止めずに、大いに踊りなさい」と僧は云います。綾は「例えどんな大雨が降っても、決してやめません」と答えた。まず子ども六人を僧の列に並べ、僧自らが芸司となって左右に綾夫婦を配置しました。親類の者には大鼓、鉦を持たせてその後ろに配し、地唄を歌つて大いに踊った。すると、不思議なことに、踊りの半ばには一天にわかに掻き曇り、雨が降り出したのす。 みんなは歓喜の声を上げながら踊りに踊った。雨は次第に激しくなり、雨音が鉦の響きと調和して、滝のように響きます。ついには山谷も流れるのではないかと思う程の土砂降りとなり、踊るのも大変で、太鼓の音も次第に乱れていきました。終わりの一踊りは、急いでしまい前後を忘れ、早め早めの掛け声の中で大いに踊った。 降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯から、昔も今も綾子踊りに側踊りの人数に制限はありません。善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。
踊りが終わってから、歌や踊りの意味などを詳しく教えてもらいたいと僧に乞うと、詳しく教えてくれ、帰ろうとした。
綾や子どもたちが、名残を惜しむようすを見て、僧は心動かされ、「今後どのような千ばつがあっても、 一心に誠を込めてこの踊りを行えば、必ず雨は降る。末世まで疑うことなく、千ばつの時には一心に願いを込め、この雨乞いをしなさい。末代まで伝えなさい」と言って、立ち去った。見送っていると、まるで霞のような姿だったので、この僧は、弘法大師だと言い伝えられるようになり、深く尊び崇まれるようになった。佐文の綾子踊りと言うのは、この時から始まり、皆の知るところとなった。千ばつの時には必ずこの踊りを行うこととなり、綾子踊りと言うのも、ここから名付けられた。

ここには次のようなことが分かります。
①雨乞い踊りを伝えたのは、四国巡礼の旅の僧侶で弘法大師であったとする弘法大師伝説の1パターンであること。
②「龍王に雨乞いの願をかけ」とあり「善女龍王」信仰による雨乞いであること。
③雨乞い踊りを2夜3日踊ったのは、綾子の一族だけであったこと
④雨乞い踊りの内容や謡われた歌については何も書かれていないこと。
⑤雨を降らせるための雨乞い踊りが綾に伝授されたこと

 綾子踊りは、中世の風流踊りの流れを汲む雨乞い踊りです。
それは16世紀初頭に成立した「閑吟集」に載せられた歌がいくつも、歌詞の中に登場することからも分かります。つまり、綾子踊りは中世の風流踊りが地方伝播に伝播し、それが雨乞い踊りに「転用」されたものと研究者は考えています。そうだとすると、弘法大師の時代にまで綾子踊りの起源を遡らせることはできません。中世以来伝わってきた風流踊りが、弘法大師伝説の拡がりとととに空海に結びつけられたとしておきます。

空海が雨乞いの際に祈願した「善女龍王」が讃岐にもたらされたのも、17世紀後半のことです。
「浄厳大和尚行状記」には、次のように記します。

浄厳が善通寺で経典講義を行った延宝六年(1678)の夏は、炎天が続き月を越えても雨が降らなかった。浄厳は善如(女)龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦すること一千遍、そしてこの陀羅尼を血書して龍王に捧げたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。

ここには、高野山の高僧が善通寺に将来された際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されています。それが善女龍王です。善女龍王が讃岐に勧進されるのは17世紀になってからのようです。以後、善女龍王は三豊の威徳院(高瀬町)や、本山寺(豊中町)にも安置され、信仰を集めるようになります。逆に言うと、真言寺院では雨乞い祈祷は善女龍王を祀る寺院で、修行を積んだ験の高い選ばれたプロの宗教者が行うもので、素人が雨乞いなどを行っても効き目はないと考えられていたのです。
 それでは、綾子踊りと空海を結びつける「弘法大師伝説」を作り出したのは誰なのでしょうか?
  それがこの由来に登場する「四国を遍歴する僧」なのでしょう。遍歴僧とは、具体的には高野聖や六十六部廻国僧・修験者・山伏などが考えられます。例えば高野聖たちは、善通寺や弥谷寺や白峰寺などを拠点に、周辺の郷村への布教活動を展開し、浄土阿弥陀信仰や弘法大師伝説を広げていました。あるものは、郷村に建立されたお堂や神社に住み着く者もありました。歌人として知られる西行も「本業」は、高野聖で勧進聖でした。そのため善通寺周辺に逗留し、我拝師山での修行もおこなっています。
 彼らは布教の手段として、「芸事」を身につけていました。
それが見世物芸であったり、風流踊りや歌のでもあり、西行の場合は短歌であったともいえます。連歌師のなかには、漂泊の高野聖たちも数多くいたようです。ここで押さえておきたいのは、高野聖や修験者たちはプロの宗教者であると同時に、人々への布教や人寄せのために「サイドビジネス」として芸事を身につけたいたということです。  それが寺の勧進や、定期的な開帳などには演じられ、人寄せに大きな力を発揮していたのです。
 江戸時代になると廻国の修験者や高野聖たちが移動を禁じられ、定住を強制されるようになります。
あるものは、帰農して庄屋に成っていくものもいますし、あるものは薬草の知識を活かして、漢方薬の製造や販売を手がけるようになるものも現れます。しかし、多くのものは、郷村の神社やお堂に住み着き、お寺の住職や神社の神主たちと棲み分け、分業しながら野地域住民たちの宗教世界をリードしていく道しか残されていませんでした。例えば、現在は神社から配布されている蘇民将来のお札などは、神仏分離以前は山伏たちの収入源でもありました。
山伏たちがどんな風に、村々に入り込み、どんな活動をしていたのかを見ておきましょう。
 高松市の南部で仏生山法然寺がある香川郡百相(もあい)村に残る庄屋文書を見ておきましょう。今から200年ほど前の文政6(1823年)、この年は田植えが終わった後、雨が降らなかったようです。大政所の残した「御用日帳」には、5月17日に次のように記されています。
  「干(照)続きに付き星越え龍王(社)において千力院え相頼み雨請修行を致す」

日照りが続いたために、農作物へ悪い影響が出始めたようです。そこで「千力院」に依頼して、星越龍王社で「雨乞修行」を行っています。「千力院」は、修験道者(山伏?)のようです。最初に雨乞い依頼をいているのが山伏であることを押さえておきます。
 「千力院」の雨乞い祈祷は、効き目がなかったようです。そこで4日後の21日には、今度は大護寺の住職にも雨請を依頼しています。大護寺というのは、香川郡東の中野村にあった寺院で、高松藩三代藩主恵公が崇信し、百石を賜り繁栄した寺です。
  それでも雨は降りません。そこで6月からは鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法を命じています。童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか?
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。深い縁で大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りを招き、雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが各地で行われています。

  ここからは次のようなことが分かります。
①まず最初に、山伏による祈祷
②次に寺院による祈祷
③最後に、鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法
③については、ひとつの村だけでなく、各村々から当番が参詣し、雨が降るまで雨乞いを行うもので中世の郷村的な雨乞い行事でもあり、大規模かつ継続的なものであった。
ここからは村の雨乞祈願については、段階があり、だんだん規模が大きくなっていたようです。これらの雨乞祈願の中に山伏が入り込んでいることをここでは押さえておきます。

今度は、1939(昭和14)年の佐文での雨乞い祈願の記録です。
この時に綾子踊に参加した白川義則氏(17歳)が、その様子を日記に次のように残しています。(現代語要約)
 この年は、春から雨が降らず、五月は晴天続きで雨はわずか一日、半日の降雨が二回のみで、あとはすべて晴れであった。六月に入ってもまとまった雨は降らず、曇で少雨の日が五回であった。
七月になっても梅雨の雨はなく、しかたなしに池の水を使って、田植えを始めた。田植えは終わったが雨降らず、溜池の水が十日には乏しくなってしまう。
七月の記録では四日に少雨、十八日に夕立少しあり、新池の水も干上がる。二十四日に佐文の上地域のみで夕立の少雨、連日晴天続きであった。雷雲近づくも音だけで降雨なし。
28日に龍王山上の祠の前に雨乞い用の拝殿を建てる。
  この日より、京都から招いた行者が降雨祈願のお籠りに入る。
30日には、水田が乾燥によってひび割れを生じ、稲の葉が巻く。
21日は、青年団員が金刀比羅官に赴き、雨乞い用の聖火を貰い受けてくる。この日、地域住民が龍王山上にわら東を持って登り、大火を焚き総参りをする。
8月も晴天続きで、多少の雨も降ったが焼け石に水。1日に、ため池からの水を一分割にする相談があり、二日には雨乞いの食事の当番が我が家にもあたり、龍王祠まで弁当を持っていく。三日には住民が総参りをして、善女龍王に降雨を願ったところ、朝のうちに少雨があったので、金刀比羅官へ聖火を戻しに行く。
 6日は自分も早朝七時から夕方七時まで、龍王山上の拝殿でお籠りをして、行者の祈祷にあわせ雨を念じる。
9日は、地区全体で綾子踊をする相談をした。
出演者の役割が決まり、自分は地唄よみをすることになる。10日は、米が取れそうにないので、救荒作物のイモづるを挿すが乾燥がひどく、収穫は期待できない。11日から16日まで綾子踊の練習。
地唄よみの衣装である袴を我が家で準備する。16日は、踊り手が全員神社に集まり、明日にそなえて練習の仕上げをする。
17日は、午前8時に王尾村長宅に集合し、行列してここから出発。まず神社で一回踊る。行列を整えて、龍王山上に登り、祠の前で一回踊り、それから神社に引き返して、お旅所と神前でそれぞれ1回踊った。神社には大勢の見物人がやってきて、大変賑やかだった。
18日、笛の木池の水をすべて放出して、池が空っばになった‥
23日、地区で一番大きい空池(そらいけ)と井倉池が干上がった。
底水に集まった小魚を皆で獲って持ち帰った。
24日、琴平町から東方面では雷雨があったが、佐文地区にはまったく雨の気配すらない。
25日、救荒作物のコキビの種を蒔いた。
30、立ち枯れた田んぼの稲は、真白く変色した。

  ここでも綾子踊りの前に、次のような雨乞い修法が行われていたことが分かります。
龍王山上の祠の前に雨乞い用の拝殿を建て、京都から招いた行者が降雨祈願のお籠りに入っています。そして、21日は、青年団員が金刀比羅官に赴き、雨乞い用の聖火を貰い受けています。その日のうちに、地域住民が龍王山上にわら束を持って登り、大火を焚いて総参りします。それでも雨は降らないので、最後の手段として、綾子踊りの準備にかかります。ここでも最初から綾子踊りを踊っているのではないことを押さえておきます。最初は、山伏による祈祷なのです。
  その山伏が戦前には佐文にはいなくて、京都から呼び寄せたというのも初耳でした。現在でも綾子踊りの編成の中には、ホラ貝を吹く山伏の姿が見えます。
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 秋祭りに舞われている獅子舞は、江戸時代後半になって各村々に登場してきたものであることは、以前にお話ししました。
各村々で、登場する獅子に特徴がありますが、踊りにも流派があるようです。その流れを遡るとまんのう町(旧仲南町)や、高瀬町の獅子舞は、五毛(まんのう町)に発すると云われます。これもどうやら獅子舞を持芸とする山伏が五毛にいたようです。そのため各地の獅子舞が指導者(山伏)を招き、それぞれの流派を伝授されたようです。ここにも村祭りなどのプロデュースを山伏が行っていたことがうかがえます。
 そういう目で見ると、佐文の綾子踊りも山伏によるプロデュースではないかと私は考えています。それが由来では、弘法大師伝説で空海により伝えられたとされたと思うのです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
    「祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史」まんのう町教育委員会 平成30年」
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 讃岐の中世遺跡の発掘調査によって分かってきたことのひとつが、平安時代末から鎌倉時代にかけての時期が、新田開発の一つの画期があったことです。新田開発を進めたのは、その多くは武士団の棟梁であったり、有力な農民たちです。中には、西遷御家人としてやってきた東国の武士たちが進んだ治水技術で、水田化した所もあります。その代表が高瀬郷にやってきた秋山氏で、残された秋山文書から水田や塩田開発の様子がうかがえます。
 こうして新たに拓かれた新田には、新たな集落が形成されていきます。そして、村の安全と豊穣を願って氏神、産土神、鎮守や村堂、あるいは、五穀成就を祭る社祠への奉仕を厚くしたり、新たに祭神を勧請するなどの宗教活動が盛んに行われるようになります。
 
今回は中世の小松荘(現琴平町)の神社を見ていくことにします。
テキストは「小松庄・櫛梨保住人の宗教生活 町史ことひら166P」です。

琴平 本庄・新庄
琴平の本庄と新庄

小松荘は、藤原氏の本流である九条家の荘園として立荘されます。

琴平町内には現在も「本庄」という地名が残っています。これは、琴平町五条の金倉川右岸で、現在の琴平中学や琴平高校周辺になります。この地域の農業用水は、大井八幡神社の出水を水源地としています。ここからは大井八幡神社は古代以来の湧水信仰に基づき、その聖地に水神が祀られ、中世になって社殿などの建造物が建てられるようになったことがうかがえます。
 大井神社から南を見ると買田峠の丘の上には、かつては古墳時代の群集墳が数多くあったようです。また、現在の西村ジョイの南側の買田岡下遺跡からは郡衙跡的な遺構も出ています。さらに、東南1㎞の四条の立薬師堂には、白鳳時代の古代寺院の礎石が並んでいます。そして、丸亀平野の条里制施行の南限に位置します。古代には大井神社付近に、丸亀平野の有力氏族がいたことがうかがえます。
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榎井の春日神社の出水と水神社

 早くから開発されたこの地域は立荘化され、本庄となります。その後、新庄が開発されたようです。そのエリアは金倉川の伏流水が流れる榎井の春日神社の出水を農業用水として利用するエリアです。それは、榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域のようです。
琴平 本庄・新庄2
石川城跡と小松庄新庄

 現在は春日神社と呼ばれています。俗説では「立荘の際に藤原氏の氏神である奈良の春日大社を勧進」したからと説明されます。しかし、社伝には「榎井大明神」と記され、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿の造営なども次のような人たちが関わっていたようです。
寛元二年(1244)、新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、
貞治元年(1362)、新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)、石川将監が社殿を造営
新庄氏・本庄氏については、観応元年(1350)十月日付宥範書写(偽書)といわれる『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などと出てくる宮座を構成する有力メンバーの一族の者のようです。もともと、小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として戦国期に活動したことが、残された感状などからも分かります。
 こうして見てくると、この春日神社は新庄氏や、後の石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたことがうかがえます。

石井・大歳・櫛梨・富隈神社
金毘羅街道沿いの神社 (金毘羅参詣名所図会)
石井神社も、もともとは旧金倉川の出水を水神として祭る神社です。
社伝では、そこに天元5年(982)8月、左大臣源重信(清和源氏)が宇佐八幡神を勧請して石井八幡宮と称したとされます。八幡信仰の流行が見られるのは、十世紀のことだとされるので、八幡神勧請が伝承どおりでも不思議ではありません。しかし、社伝にある左大臣源重信が讃岐へ拠ったとある天元二年(979)には、彼は、まだ左大臣ではなく大納言であり、皇太后宮大夫を兼任していた時期で、讃岐にはいません。
石井神社と金刀比羅街道
石井神社周辺拡大(金毘羅参詣名所図会)

 石井神社周辺の地侍たちによって、水神を祀る石井神社に、八幡神が「接木」されたようです。讃岐各地の八幡さまは、このようにもともとあた地主神に「接木」されている場合が多いようです。これで小松荘の3つの神社を見てまわりました。本題は、これからです。

大般若経転読法要(興福寺) - 奈良寺社ガイド

 神仏混淆の進んだ中世の郷社的神社では、別当寺の供僧よって大般若経の転読が神社で行われるようになります。
大般若経が村々を回って、お経を転読するさいの「般若の風」が疫病神を払い、郷村に繁栄と平和をもたらすとされました。そのため地方の有力寺社は、こぞって大般若経六百巻を書写し、保管するようになります。その書写方法は、僧侶のネットワークを利用したもので、各地の何十人もの僧侶が写経には関わるようになります。それを組織したのが与田寺の増吽のような有力な「勧進僧侶」でもあったようです。
石井神社と春日神社は、中世後半期に両社で大般若経を共有保管していました。それが分かる史料があります。
金井町 - Wikiwand
佐渡郡金井町

新潟県佐渡郡(佐渡島)金井町の大和田薬師教会に、比叡山の僧朗覚が延暦寺大講堂落慶に際して、元徳四年(1332)から延元5年(1340)にかけて写経をした大般若波羅蜜多経六百巻が所蔵されています。その巻四以降の巻数に移管した時の註記が記され、そこに次のような文言が後補されています。
① 「讃州仲郡子松庄 石井八幡榎井大明神宮 両社御経也」
② 「両社 御経」
③ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡宮 榎井大明神宮 為令法久住読之坊中」
④ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡榎井大明神宮」
⑤ 巻二十四の巻頭には「讃州財田庄八幡宮流通物也」
ここからは次のようなことが分かります。
A 仲郡小松荘の石井八幡宮と榎井大明神(春日神社)に保管されていた大般若経の一部が、佐渡島まで伝来したこと
B 春日神社は「榎井大明神宮」と呼称されていたこと
C ⑤からは、石井・榎井神社に所蔵されていた時に、その欠落巻を「讃州財田庄八幡宮」から補充したこと。
Cの財田庄八幡宮は鉾八幡神社(三豊市財田町)のことで、鎌倉時代の木造狛犬を所蔵する古社です。ここにも大般若経が収蔵され、転読が行われていたことがうかがえます。

第980話】 「般若の風」 2015(平成27)年3月11日-20日 | 曹洞宗 光明山 徳本寺

佐渡の金井町文化財指定の解説は、次のように記されています。

「この写経は、叡山より讃州仲郡子松庄(香川県琴平町)石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社に伝わり、所有していたが、慶長十年(1605)、法印快秀の手によって畑野町長谷寺にもたらされた。長谷寺から大和田薬師に伝来したのはいつであるか不明である。」

ここからは佐渡に渡った大般若経六百巻が、南北朝以降から慶長十年までの間は、もともとは小松庄の石井・榎井神社(春日神社)に共有の形で所蔵されていたことが分かります。地方の有力寺社では、毎年期日を決め、恒例行事として転読が行われていたのは先ほど述べた通りです。
次に疑問になるのは、転読を主催していた「石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社」のことです。これはどこのお寺だったのでしょうか?

比叡山と石井八幡宮と榎井大明神宮の関係についてはよく分かりません。小松庄の近辺の木徳荘は延暦寺領でした。16世紀末の讃岐の戦国時代の中で、焼き討ちや押領で衰退した別当寺が手放したことは考えられます。それを周辺の比叡山に関係する僧侶が手に入れ、持ち帰り、それが法印快秀の手に渡り、佐渡にもたらされたという仮説は考えられそうです。ちなみに、小松荘に隣接する真野荘は、智証大師(円珍)の園城寺領でした。また、叡山僧→延暦寺比叡山座主慈円→九条家→小松荘という関係も考えられます。

まんのう町の郷
真野郷と小松郷の関係

榎井大明神や三井八幡の別当寺として私が考えるのは、隣接する真野郷岸上の光明寺です。
光明寺については以前にもお話ししましたが、金毘羅大権現の出現以前の丸亀平野南部において、大きな勢力を持っていたと考えられる真言系密教山岳寺院です。ここは「学問寺」でもあり、多くの僧侶を輩出してています。高野山の明王院の住持を勤めた岸上出身の2人が「歴代先師録」に、次のように記されています。
勝義は「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」

忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房と呼ばれ、勝義の弟子で、光明院と兼務」

「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」
 多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったようです。  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らを輩出した岸上の光明寺は「学問寺」としてもが繁栄していたこと
③それが金毘羅大権現が現われると、その末寺に組み込まれ衰退していったこと

まんのう町岸の上 寺山
岸上村に残る寺山・寺下の地名 光明寺跡推定地

   当寺の真言系僧侶は学僧だけでは認められませんでした。
行者としても山岳修行に励むのがあるべき姿とされました。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。岸上の光明院の行場ゲレンデは、次のような辺路ルートが考えられます。
①金毘羅山(大麻山)から、善通寺背後の五岳から七宝山を越えて観音寺までの「中辺路」ルート
②大麻山から尾野瀬寺や仲村廃寺の奧の大川山、あるいは萩原寺を経て雲辺寺など
近世になって、大麻山に金毘羅神が現れ、松尾寺別当金光院が生駒家からの手厚い保護を受けるようになると、丸亀平野南部の宗教地図は大きく塗り替えられていきます。中世に栄えた山岳寺院が衰退していくのです。これは、金光院院主宥盛の修験者としての力にもよるものなのでしょう。多くの天狗(修験者)たちが彼の下に集まり、周辺山岳寺院を圧迫吸収していったようです。それは、尾背寺(まんのう町新目)をめぐる抗争からもうかがえます。そして、自分の腹心の修験者を送り込み、最終的には廃寺化させています。その際には、仏像・仏具・聖典などが、金光院に運び込まれたことが考えられます。
 明治になって神仏分離の際に、金刀比羅宮禰宜だった松岡調の日記には、大量の仏像・仏具・聖典類がオークションで売られ、残ったものは焼却したことが記されていることは以前にお話ししました。これらは、近世初頭に周辺寺院から金光院に集積されたものが数多く含まれていると私は考えています。その中に、尾背寺や光明寺のものもあった。
 さらに想像を加えると、榎井大明神(春日神社)や石井八幡社の別当寺は、光明寺ではなかたのかということです。光明寺の聖典類も売却されます。ちなみに、岸上は真野荘に含まれ、智証大師(円珍)の園城寺領でした。この縁から圓城寺を通じて畿内に運ばれ、それが佐渡にもたらされたという「仮説」を私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  小松庄・櫛梨保住人の宗教生活 町史ことひら166P
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南北朝初期の康永元年(1342)ごろの善通寺の寺領目録には、次のような寺領が記されています。
善通寺々領目録
①壱円(善通寺一円保)
②弘田郷領家職善通寺修理料所
③羽床郷萱原村誕生院領
④生野郷内修理免
⑤良田郷領家職
⑥櫛無郷内保地頭職 当将軍家御寄進
己上
この目録によると善通寺領の一つとして⑥に「櫛無郷内保地頭職当将軍家御寄進」と記されています。ここからは善通寺が「櫛無郷内保地頭職」を所有し、それが「当将軍=足利尊氏」の寄進によるものだとされていたことが分かります。この寺領の由来や性格について、今回は見ていくことにします。テキストは「 善通寺誕生院の櫛無社地頭職  町史ことひらⅠ 135P」です。

⑥が誕生院に寄進されたときの院主は、宥範になります。
宥範については以前にお話ししましが、櫛無郷で生まれた名僧で、「贈僧正宥範発心求法縁起」によると、彼は善通寺の衆徒たちに寺の再興を懇願されて、次のような業績を残しています。
元徳三年(1321)7月28日に、善通寺東北院に居住
建武年間(1334~38)に誕生院に移り
暦応年中(1338~42)より、五重塔並びに諸堂、四面の大門、四方垣地などをことごとく造営
こうして宥範は善通寺中興の祖といわれます。
その宥範が観応元年(1352)7月1日に亡くなる5日前の6月25日に、法弟宥源にあてて譲状持を作成しています。そのなかに次の一項があります。
一、櫛無社地頭職の事、去る建武3年(1336)2月15日将軍家ならびに岩野御下知にて宥範に成し下されおわんぬ。乃て当院の供僧ならびに修理等支配する者也

  意訳変換しておくと

一、櫛無神社の地頭職については、去る建武3年2月15日将軍家と岩野氏の御下知で宥範に下されたものである。よって誕生院の供僧や修理などに供されるものである。

ここからは誕生院の持つ櫛無保の地頭職は櫛無社地頭職ともいわれ、建武3年(1336)2月15日に、足利尊氏と「岩野」家より宥範に与えられたものであることが分かります。ここで「岩野」家が登場してきます。これが宥範の実家のようです。これについては、後で触れることにして先に進みます。
建武の新政 | 世界の歴史まっぷ

建武三(1336)年2月の讃岐を取り巻く情勢を見ておきましょう。
この年は鎌倉から攻め上った足利尊氏が京都での戦に破れて九州に落ちていく時です。尊氏は後備えのために中国・四国に武将を配置します。この中で四国に配されたのが細川和氏、顕氏で、彼らには味方に加わる武士に恩賞を与える権限が与えられます。和氏、顕氏はこの権限を用いて各地の武士に尊氏の名で恩賞を約し、尊氏方に従うよう誘ったのです。讃岐においても、細川顕氏が高瀬郷の秋山孫次郎泰忠に対して次のように所領を宛行っていたことが秋山文書から分かります。
讃岐国高瀬郷領家職の事、勲功の賞として宛行わる所也、先例を守り沙汰致すべし者、将軍家の仰によって下知件の如し
建武三年二月十五日        兵部少輔在御判
           阿波守在御判(細川顕氏)
秋山孫次郎殿            
日付を見ると、誕生院宥範が櫛無社地頭職を与えられたのも同じ日付です。ここからは、この宛行いも目的は同じで、顕氏・和氏が有力な讃岐の寺院である誕生院に所領を寄進して、その支持を取り付けようとしたものであることが分かります。
櫛無郷

ここで疑問に思えてくるのが島津家が持っていた櫛無保の地頭職との関係です。
貞応三年(1324)以来、櫛無保守護職は薩摩守護の島津氏が地頭職を得ていたはずです。これと誕生院が尊氏から得た櫛無保内地頭職(櫛無社地頭職)は、どのような関係にあるのでしょうか
このことについて、別の視点から見ておきましょう。
「善通寺文書」のなかに、建武五年(1328)7月22日に、宥範が櫛無保内の染谷寺の寺務職を遠照上人に譲った譲状があります。
染谷寺とは持宝院のことで、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。この寺伝には、文明年中(1469~86)に奈良備前守元吉が如意山に城を築く時に寺地を移したと伝えられます。もともとは、この寺は、島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中ににあったようです。譲状の内容を要約して見ておきましょう。
染谷寺(持宝院)は宝亀年中(770~80)の創立で、弘法人師御在生の伽藍であるが、年を経て荒廃していたのを、建久年間(1190~98)に、重祐大徳が残っていた礎石の上に仏閣を再建した。さらに嘉禎(1235~37)に至り、珍慶が重ねて伽藍を建立した。これより以来「偏に地頭家御寄附の大願所として」、珍慶・快一・尊源・公源・宥範と歴代の住持が御祈躊を重ねてきた。
 宥範も寺務職についてから多年御祈躊の忠勤を励んできたが、老齢になったので、先年門弟民部卿律師に寺務職を申し付け、努めて柴谷寺に住して「地頭家御所願の成就を祈り奉る」よう命じていた。ところが、民部卿律師はこの十数年京都に居住して讃岐の寺を不在にして、宥範の教えに違背した。そこで改めて奈良唐招提寺の門葉で禅行持律の和尚であり密宗練行の明徳である遠照上人を染谷寺寺務職とし、南北両谷の管領、田畠山林などを残らず譲与することにした。しからば、長く律院として、また真言密教弘通の寺院として興隆に努め、「天長地久の御願円満、殊に地頭家御息災延命御所願の成就を祈り奉るべき也」

「嘉禎(1235~37)に至り、珍慶が重ねて伽藍を建立」とありますが、この年は島津忠義が櫛無保の地頭に任じられてから12年後のことになります。「地頭御寄附の大願所」とあるので、珍慶の伽藍建立には、地頭島津氏の大きな援助があったことがうかがえます。荘園領主や地頭が、荘民の信仰を集めている荘園内の神社や寺院を援助、保護する、あるいはそれがない時には新たに建立することは、領主支配を強化する重要な統治政策です。島津氏も染谷寺に財物や寺領を寄進して再建を援助することで、信仰のあつい農民の支持を取り付け、また自身の家の繁栄を祈らせたのでしょう。  また「南北両谷の管領、田畠山林などを残らず譲与」とあるので、持宝院は周囲の谷に広がる田畑や山林を寺領として持っていたようです。
櫛梨
持宝院(現在は廃寺)
こうして見ると「⑥櫛無郷内保地頭職当将軍家御寄進」というのは、櫛梨保全体のことではないようです。
善通寺寺領の「⑥櫛無郷内保地頭職」は、櫛梨保の一部であったものが、染谷寺(持宝院)が島津氏によって建立された際に、寺領としてして寄進されたエリアであると云えそうです。そのため櫛無保における誕生院の地頭職と島津氏の地頭職は、互いに排斥し合うものではなく両立していたと研究者は考えています。
 そうだとすると誕生院の「櫛梨社地頭職」というのは、櫛無保の一部を地頭職の名目で所領として与えられたことになります。また「櫛無地頭職」ともあるので、櫛無神社の社領であったところでもあるようです。荘園の一部が荘内の寺院、神社に寄進されて自立した寺社領となることは、よくあることでした。櫛無神社は、神櫛皇子を祭神とし、「延喜式」の神名帳に載る式内神社です。
 この推測が当たっているとすれば、神仏混淆が進んだ南北朝・室町時代には、櫛無神社も誕生院の管領下にあったことになります。つまり櫛無神社の別当寺が善通寺で、その管理は善通寺の社僧が行っていたことになります。櫛無神社の祭礼などのために寄進された田地は、善通寺が管理していたようです。
 讃岐忌部氏の氏寺で式内社の大麻神社が鎮座する大麻神社の南には、称名寺というお寺がありました。
宥範も晩年は、この寺で隠居しようと考えた寺です。この寺も善通寺の末寺であったようです。善通寺で修行し、後に象頭山に金比羅堂を建立した宥雅も、称名寺に最初に入ったとされます。彼は西長尾城主の弟とも伝えられ、長尾一族の支援を受けながら称名寺を拠点に、象頭山の中腹に新たな宗教施設を造営していきます。それが金毘羅大権現(現金刀比羅宮)の始まりになります。
 私は、称名寺・瀧寺・松尾寺などは、善通寺の「小辺路」ルートをめぐる修験者たちの行場に開かれた宗教施設が始まりと考えています。櫛梨の公文山にある持宝院も、広く見ればその一部であったと思うのです。それらの管理権は、善通寺が握っていたはずです。例えば、江戸時代になって善通寺誕生院が金毘羅大権現の金光院を自分の末寺として藩に訴え出ていることは以前にお話ししました。これも、当寺の善通寺が管理下に置いていた行場と辺路ルートにある宗教施設を考慮に入れないと見えてこないことです。

  最後に宥範と実家の岩野家について見ておきましょう。
  14世紀初期の善通寺の伽藍は荒廃の極みにありました。そのような中で、善通寺の老若の衆徒が、宥範に住職になってくれるように、隠居地の称名寺に嘆願に押し掛けてきます。ついに、称名寺をおりて善通寺の住職となることを決意し、元徳三年(1331)7月28日に善通寺東北院に移り住みます。そして、伽藍整備に取りかかるのです。
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櫛梨城跡から南面してのぞむ櫛無保跡 社叢が大歳神社 

そして、建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
 これは先ほど見たように「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」です。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であったことがうかがえます。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、経済的保護者がいたことが考えられます。宥範には有力パトロンとして、実家の岩野一族がいたことを押さえておきます。

 櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧が管理運営していたようです。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからは、大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。

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       琴平町上櫛梨小路の「宥範僧正誕生之地」碑
 別の研究者は、次のような見方を示しています。

  「大歳神社の北に「小路(荘司)」の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

櫛梨保の現地管理人として島津氏が派遣した「保司」が居館を構えていた跡に大歳神社が建立されたと云うのです。そして、宥範の生地とされる場所も、この周辺にあります。つまり、岩野氏は島津氏の下で、櫛梨保の保司を務めていた現地の有力武将であったことになります。当寺の有力武将は、一族の中から男子を出家させ、菩提を供来うとともに、氏神・氏寺の寺領(財産)管理にも当たらせるようになります。宥範もそのような意図を持って、岩野家が出家させたことが考えられます。
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    「宥範墓所の由来」碑(琴平町上櫛梨)背後の山は大麻山
 善通寺の伽藍整備は暦応年中(1338~42)には、五重塔や諸堂、四面の大門、四方の垣地(垣根など)の再建・修理をすべて終ります。こうして、整備された天を指す五重塔を後世の人々が見上げるたびに「善通寺中興の祖」として宥範の評価は高まります。
 それを見て、長尾城主もその子を善通寺に出家させます。それが、先ほど見た宥雅で、彼は一族の支援を受けて新たな宗教施設を象頭山中腹に造営していきます。それが現在の金刀比羅宮につながります。

   以上をまとめておくと
①鎌倉時代の承久の変後に櫛無保地頭職を薩摩守護の島津氏が得て「保司」による支配が始まった
②島津氏は櫛梨保の支配円滑化のために式内社の櫛無神社を保護すると共に、新たな信仰拠点として、持宝院を建立し寺領を寄進した。これが「櫛無郷内保地頭職(櫛梨社地頭職)」である。
③その後「櫛無郷内保地頭職」は、南北朝動乱の中で細川顕氏・和氏が有力な讃岐の寺院である誕生院宥範のの支持を取り付けようとして、誕生院に寄進された。
④その寄進に対して、宥範の一族である岩野氏も同意している。
以上からは、岩野氏が櫛梨保の「保司」あるいは「荘司」であり、宗教政策として櫛梨保内の寺社などの管理権を一族で掌握し、ひいては善通寺に対する影響力も行使していたことがうかがえます。宥範の善通寺伽藍再興も、このような実家である岩野氏の支援があったからこそできたことかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  善通寺の僧侶たちにとっての課題は、自前の寺領を確保し、本寺である随心院から自立していくことでした。
それが実現するのは、南北朝末期の明徳4年(1392)のことでした。善通寺誕生院が、本寺随心院によって善通寺奉行、弘田郷所務職、同院主職に補任されたのです。その補任を守護細川頼元が安堵した文書には、次のように記されています。
讃岐國善通寺奉行并びに弘田郷所務職、同院主職以下の事、本所随心院の捕任等に任せ領状相違有る可からずの状件の如し。
明徳四年二月廿一日              右京大夫在判(守護細川頼元)
誕生院法印御房                     
文中にある「善通寺奉行」の具体的内容については分かりませんが、誕生院の有快譲状に「当寺一円奉行別当代事」とあります。ここからは、善通寺一円保と境内を含む別当代官のことのようです。この補任によって善通寺が得たものは次のようなものでした。
①本寺から派遣された別当の下にあった管理運営権が、代官としての地元誕生院の手に委任されたこと、
②年貢徴収などの権利が委ねられたことで、実質的支配権を誕生院が行使できるようになったこと
これは誕生院にとってだけでなく、善通寺の歴史の上でも、画期的な出来事と研究者は評価します。

それから約20年後の応永17年(1410)には、誕生院は随心院の善通寺領請所に指定されます。
請所というのは荘園領主(随心院)に対して毎年一定の額の年貢の納入を請負うかわりに、荘園管理を全面的に委任される制度です。鎌倉幕府は、平家方についた没収官領に御家人を恩賞として地頭に補任して請所を行わせる地頭請所(地頭請)を進めます。請所の請料は、作柄の豊凶に関わらず毎年一定とされたので、請負者が納入の約束を果たす限りは、領主側も確実な収入確保が見込めるので都合が良い仕組でした。しかし、時が経つに随って、請負者の未進や不正が発生し、領主との間に訴訟などのトラブルが多発するようになります。

誕生院が随心院の善通寺領請所に指定された時の請文(うけぶみ=誓約書)を見ておきましょう。
請け申す。善通寺御年貢の事
右、明年十卯自り、毎年三十五貰文分、早水損に依らず、堅く備進せしむ可し。此内五貫文に於ては、二月中其沙汰致す可し。残り三十貫文、十二月中所の如く運送仕り候。若し此の請文の旨に背き、或は損凶と云い、或は未進(と云い)、絆を左右に寄せ(いろいろ理由をつけて)不法の義を致さば、不日(やがて)所務職を召放たるるの日、此の未済分、欺き申すに依って閣かると雖も、不義に至りては、悉く員数(そのたか)に任せて御譴責に頂る可く、其時一言の子細中す可からず。乃って請文の状件の如し。
応永十七(1410)年十二月十七日                        
                  椎律師宥快
意訳変換しておくと

来年の応永18年から年貢として、毎年銭35貫文を、たとえ日照り、水損で収穫がないことがあっても確実に納入する。35貫目の内で5貫文は、2月中に運上し、残り30貫文は12月中に送付する。もしこの請文の内容に背いたり、自然災害を理由に年貢を納めないときには、所務職を解任された時に未納額に応じて責任を追及されても不服は云わない。

 こうして随心院は、年貢35貫文の確保とひきかえに現地から手を引き、かわって誕生院が寺領支配権を手に入れました。
この請文に署名している権律師有快と何者なのでしょうか?
彼は宥範より二代後、つまり三代目の誕生院住持職の地位にあった人物のようです。応永21年(1414)4月21日付の有快の譲状に、次のように記されています。
新宮小法師丸(五代宥栄僧正)に譲与する誕生院住持職

そして善通寺所領として、従来からの櫛無地頭職、萱原村領家職の次に次の2つが追加されています。
一所 当寺院主職事                                                  
一所 弘田郷領家職事         
これは請所となった寺領が誕生院住持の相伝所領なっていたことを示すと研究者は指摘します。また善通寺奉行についても、次のように記されています。
一 当寺一円奉行別当代の事、本所の計として契約する所也。

ここからは、善通寺の別当代官に誕生院が任ぜられていることが裏付けられます。相伝所領のなかには、櫛無地頭職のように有名無実のものもありましたが、宥範によって基礎がすえられた誕生院の在地領主としての地位は、この宥快の時に確立したと研究者は評価します。

ところが、誕生院の在地領主と地位は長くは続かなかったようです。
応永29年(1422)本寺随心院は、弘田郷領家職、寺家別当奉行などの所職を、それまでの誕生院から一方的に天霧城の香川美作入道に換えています。これを見ておきましょう。
讃岐國善通寺弘田郷領家職并びに一円保所務職、寺家別当奉行等の事 仰せ付けられるの上は、寺役以下先例に任せて遅滞なく其沙汰致す可し。殊に内外の秘計を廻らし、興隆を専らに可く、緩怠私曲有る可からず。将に亦、御年貢早水損を謂はず、毎年四十貫文憚怠無く沙汰致す可し。其中伍貫文に於ては二月中に運上せしむ可し。残り5貫文は、十二月中運上す可し。万一不法仰怠の儀出来せば不日召放さる可し。共時一言子細中す可からず候。働て請文の状件の如し。
應永廿九年正月十六日                                沙弥道貞判
随心院政所殿
意訳変換しておくと
讃岐國善通寺弘田郷領家職・一円保所務職、寺家別当奉行等の事に任じられた上は、寺役以下先例のように遅滞なく役目を果たします。寺領運営については、内外の運営方法を参考にして、スムーズな運営ができるように務め、遅漏や私利私欲のないようにします。また旱魃や日照りになろうとも、約束した毎年40貫文は憚怠無く納めます。その内、5貫文については二月中に運上し、せしむ可し。残り35貫文は、12月中に納入します。万一これを破るようなことがあれば、契約解消されても文句は言いません。共時一言子細中す可からず候。働て請文の状件の如し。
應永廿九年正月十六日                       沙弥道貞判(香川入道)
随心院政所殿
この請書と応永17(1410)年に、誕生院の宥快が随心院と結んだものを比べて見ると次のようなことが分かります。
①年貢の請負額が、誕生院が毎年35貫文であったのに対し、香川美作入道は40貫文
②請所が弘田郷領家職だけでなく一円保所務職が加わっていること
一円保は、善通寺の寺領としては最重要の寺領です。一円保が加わって五貫文の増加では、あまりにも少なすぎる感じがします。わずか五貫文の請負額の差で、誕生院はながい苦労のすえにやっと獲得した寺領管理の地位を、在地武士(香川入道道貞)に奪われてしまったことになります。武士たちが請所になると、時を経るに従って約束された請負額も納めなくなり、横領されるのが時の流れでした。それが分かっていながら本所の随心院は、香川入道に切り替えたようです。地侍たちの「押領」が、どうにもならない所まできていたことがうかがえます。
この出来事から4か月後の応永29年5月14日の日付の善通寺に伝わる文書を見ておきましょう。
細川右京大夫(讃岐守護細川満元)
讃岐國善通寺領弘田郷領家職并一円保所務、西山安養院井びに寺家別富奉行の事、今年二月十二日随心院補任の旨に任せて領掌相違有る可からずの状、件の如し。
應永廿九年五月十四日         沙弥判(讃岐守護細川満元)
随(誕?)生院御房
冒頭に記された細川右京大夫とは、讃岐守護細川満元です。差出人の沙弥も満元のことでで、受取ったものが心覚えに袖に名前を記しておいたと研究者は推測します。文書の内容を意訳変換しておくと
善通寺領弘田郷領家職と一円保以下の所職を、2月12日の随心院の補任に任せて、随生院御房に安堵する

さて、この文書をどう解したらよいのでしょうか。弘田郷領家職は、先ほど見たようにすでに正月16日に、香川美作入道が補任されたばかりです。また受取り側の随生院御房とは、一体誰のことなのでしょうか。「随生院御房」は、善通寺や弘田郷の管領を委ねられたのだから、在地の僧のようです。そうとすれば、これは「誕生院御房」の誤字では?と研究者は疑います。その仮定の上に研究者は物語を次のように展開します。
①突然に思いがけず相伝の所職を随心院に召し上げられ、香川美作入道に奪われた誕生院は、驚いて本寺随心院に再任を訴えでた。
②その際に、請負額を美作入道同じ額の40貫文にあげてよいと契約条件の見直しを提示する一方、在地武士の請所によって、所領が押領される危険性を随心院に強調した
③善通寺の指摘に随心院は、あわてて所領を香川入道から取り返し、善通寺に返そうとした。
④ しかし、香川美作入道はいったん手に入れた有利な権利を手放すはずがない。
⑤そこで誕生院は、美作入道の主君である細川満元に頼んで安堵状をだしてもらったが、その効力はなかった。
この後、美作入道は応仁の乱を間にはさんで以後約50年の間善通寺領に居すわり続けたようです。
5月14日の文書の請所のなかに「西山安養院」の事が付け加えられています。
これは道貞の補任状にも付記として「西山安養院事、同じく御奉行有る可し」とでていたものです。そしてまた応永21年の宥快の譲状をみると、その中に次のように記されています。
一当寺安養院坊数名田畠等事

ここからはこの時期には、安養院は誕生院の管理下にあったことが分かります。安養院は、徳治の絵図の香色山の麓に描かれている小院です。誕生院は弘田郷その他の請負が香川氏の手に渡ったとき、この寺の管理権も失ったことになります。ここからは香川入道が善通寺の小院の支配権を握っていたことがうかがえます。以前に見たように、中世の善通寺の院の中には武装化する者や、武士たちの拠点となっているところがあり、境内では乗馬訓練も行われていたことを見ました。この史料からも、中世善通寺が武士たちの軍事拠点としても帰農していたことが裏付けられます。

こうして香川美作入道は、善通寺の別当奉行および弘田郷・一円保などの請所を握るようになります。
彼は最初のうちはともかく、応仁の乱のころになると、随心院に上納することを請負った年貢を、全然納めなくなったようです。これは美作人道に限ったことではなく、武士の請所になった荘園はどこも似たり寄ったりの状態でした。あまりの年貢末進にたまりかねた随心院は、幕府などにも助けを求めています。そして、文明5年(1472)のころには、弘田郷代官の地位を香川美作入道(その後継者)から取り上げています。東西両軍の総大将であった細川勝元、山名持豊が相次いで没し、応仁の乱もようやく終りの兆がみえてきた時期です。しかし数十年の長期間にわたって請負代官の地位を利用して寺領内に根をはってきた香川氏の勢力が簡単に排除できるはずがありません。
 文明6年(1473)年2月の室町幕府奉行人の奉書に「同じく帯刀左衛門尉競望未だ休まず」と、随心院の訴えが載せられています。
香川美作を解任したものの、今度は同じ香川一族の帯刀左衛門尉が、その後任に任ぜられることを強く求めてやまないというのです。これは、「希望している」ということではなく、実際には帯刀左衛門尉が実力で現地を抑えていたと研究者は推測します。そして彼は故美作入道とつながりのある人物だったのでしょう。文明6年の文書の後、随心院領弘田郷について語っている史料はないようです。ないと云うことは、随心院の力が及ばなくなったということです。

香川美作入道の請所となった一円保は、どうなったのでしょうか。
彼の請所が成立した年から8年後の永享2年(1430)頃ろ、善通寺雑掌から「同所田所職并得一名」を寺家に返付してほしいという訴えが出されます。同年12月25日にその返付を実施して雑掌に沙汰するように善昌という人物が香河(川)下野入道に命じています。善昌は讃岐守護の家臣であり、守護の命令を奉じて香川下野に伝えたようです。田所職とは、荘官の一人である田所に属した所領です。これと得一名田とがどこにあったのかは分かりません。
 「善通寺雑掌中同所……」という表現から一円保ではないかと研究者は推測します。一円保は善通寺を含んだ寺領だからです。一円保には、田所も置かれていました。しかし、これらの所領がどういう形で寺の手を離れていたか分かりません。香川美作入道が持っていた一円保所務職との関係も分かりません。香川下野入道が香川美作と同族であることは分かります。が、それ以上の具体的な両者のつながりは分かりません。この田所職と得一名が果して命令どおり善通寺雑掌の手に返ったかどうか、これも分かりません。
応仁の乱の間、善通寺一円保は兵糧料所として守護に召し上げられていました。
それが応仁の乱から7年後の文明16年(1484)に随心院門跡の強い要求で、ようやく守護の奉行人と思われる高松四郎左衛門から随心院の雑掌宮野にあてて次のような寺領返却の書状がだされています。
随心院御門跡領讃岐國善通寺寺務領一円保領家職の事、一乱中兵粮料所と為て預下され候と雖も、御門跡と為て子細候之間御返渡し申し候。然らば当年貢自り御知行有る可きの状件の如し。
文明十六年正月二十三日            高松四郎左衛門   文知判
雑掌宮野殿
兵糧料所であった間、 一円保から上る年貢は、兵糧米として武士に給与されていたようです。おそらく守護は有力家臣に預けて保の支配をさせたはずです。その有力家臣として考えられるのは、西讃守護の香川氏です。寺領の返却が書状の命令通りに実行されたかどうかも分かりません。それは、この書状が随心院領一円保の名がみえる最後の文書だからです。 一円保も、香川氏など周辺の武士の争奪のうちに、善通寺の手を離れていったようです。

時代の形勢は、地方の一寺院が独力で所領を確保できるような状態ではなくなっていました。
誕生院自身、長禄二年(1558)には、その領有する萱原村領家職を、在地の武士滝宮実長に委ねざるをえなかったことが次の史料からは分かります。
預り申す。萱原領家方御代官職の事
長禄二年戊宙より壬午年まて五年あつかり申候。大師の御領と申天下御祈格料所の事にて候間、不法榔怠有る可からす候。年に随い候て、毛の有色を以て散用致す可く候。御領中をも興行仕り、不法の儀候はすは、年月を申定め候とも、尚々も御あつけあるへく候。働て頂状件の如し。        
長禄二年成寅七月十日                        瀧宮豊後守 賞長(花押)
誕生院
預り状として一応契約のかたちをとっているものの 年貢の納入は、「毛の有色」つまり作物のでき具合を見て故用=算用するとあります。所領を預かる期間も、五年間と定めてはありますが、不法のことがなければ、「年月を申し定め候とも、尚々も御あつけあるへく候」とあって、実質的には無期限と同じ契約内容です。これでは契約の意味はありません。誕生院領萱原村は、滝宮氏の手に渡ってしまったことを暗示する内容です。
善通寺の所領、良田郷領家職、生野郷内修理免などは、弘田郷や一円保以上に不安定な要素をかかえていました。これらの所領もまた、一円保や萱原村などと同じ道を、それらよりももっと早くたどつていったと研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
①南北朝末期の明徳4年(1392)に、善通寺誕生院は本寺随心院から善通寺奉行、弘田郷所務職、同院主職を得て、経済的自立への路のゴールに近づいた。
②応永17年(1410)には、誕生院は随心院の善通寺領請所に指定された。
③こうして宥範によって基礎がすえられた誕生院の在地領主としての地位は、宥快の時に確立した。
④しかし、応永29年(1422)本寺随心院は、誕生院の領主的地位の基盤であった弘田郷領家職、寺家別当奉行などの所職を、一方的に香川美作入道に換えてしまった。
⑤そこで誕生院は、讃岐守護の細川満元に頼んで安堵状をだしてもらったが、その効力はなかった。
⑥この後、美作入道は応仁の乱を間にはさんで以後約50年の間善通寺領に居すわり続けた。
⑦美作入道は、応仁の乱のころになると、随心院に上納することを請負った年貢を、全然納めなくなった。
⑧そこで文明5年(1472)には、弘田郷代官の地位を香川美作入道(その後継者)から取り上げた。⑨文明6年(1473)年2月には、今度は同じ香川一族の帯刀左衛門尉が、その後任に任ぜられることを強く求めた。
文明6年の文書の後、随心院領弘田郷について記された史料はなく、随心院の力が及ばなくなったことがうかがえる。善通寺領は西讃守護代の香川氏やその一族によって横領されたようだ。このような押領を繰り返しながら、香川氏は戦国大名の道を歩み始める。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 香川氏の善通寺領侵略 善通寺市史566P

南北朝の動乱が勃発してから10年余り過ぎると、南朝方の勢力はすっかり衰え、戦乱は終結に向かうように見えました。ところがそれが再び活発になり、さらに50年近く戦乱が続くのは、争いの中心が、
南朝と北朝=幕府の政権争いから、守護や在地武士たちの勢力拡大のための争いに移ったからだと研究者は指摘します。

歴史秘話ヒストリア 5月16日 | バラエティ動画視聴 Tvkko

 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)を契機として、守護・在地武士は、ある時は南朝方、ある時は尊氏方、また直義・直冬方と、それぞれ、自分の勢力の維持や拡大に都合のいい方へついて、互いに戦いを続けます。
.観応の擾乱

 薩摩守護の島津貞久が尊氏方についたのも、大隅・日向の支配をめぐって対立していた日向守護畠山直顕が、直義方であったことが大きな要因のようです。これを好機と見て動いたのが讃岐守護細川顕氏です。
アベノ封印解除記4】~龍王の眠るところ~ | 螢源氏の言霊
細川顕氏
顕氏は直義方だったので、島津氏が尊氏側に立ったのを見て、櫛無保の島津の代官を討取るか追放するかして、櫛無保を支配下に入れたようです。こうして、島津氏の櫛無保の地頭職は細川氏に奪われます。
尊氏と直義の和睦によっていったんおさまったように見えた観応の擾乱は、まもなく尊氏・義詮と直義の対立があらわになって、再び燃え上がります。

島津家系図
島津家系図 貞久は5代目
 康安二(1362)年6月、薩摩守護の島津貞久は再び幕府に提訴状を提出しています。
その内容の前半2/3は、半済の撤回を繰り返して求めたものです。後半の1/3は、讃岐国櫛無保が中国大将細川頼之に押領されていることを次のように訴えています。
進上 御奉行所  
嶋(島)津上総入道 (貞久)々璽謹言上
(中 略)
 讃岐国櫛無保地頭職は、曾祖父左衛門少尉藤原忠義、去る貞応三年九月七日、勲功の賞と為て拝領せじめ、知行相違無きの処、(頼之)近年中国大将細河典厩押領の条堪え難き次第也、道璽御方に於て数十ケ度の軍功抜群の間、恩賞に預るべきの由言上せしむる上は、争でか本領に於て違乱有るべきや、就中九州合戦最中、軍忠を抽んずる時分也、然らば則ち、彼両条厳密の御沙汰を経られ、御教書に預り、弥忠節を致さんが為め、言上件の如し、
康安二年六月 日              
意訳変換しておくと
讃岐国櫛無保の地頭職は、曽祖父の忠義が勲功の賞として拝領した由緒のある所領である。ところが近年中国大将の細川典厩(頼之)が押領しており許しがたい。私(貞久)は幕府の味方として数十度の合戦に抜群の働きをしてきた。恩賞に預かるべきが当然なのに、どうして本領の櫛無保が押領されてよいであろうか。

将軍義詮はこの訴えを受けて、次のような書状を讃岐守護の細川頼之に送って、押領を止めるよう命じています。
嶋(島)津上総入道々雪申す讃岐国櫛無保地頭職の事、道璽鎮西に於て近日殊に軍忠を抽ずるの処、譜代旧領違乱出来の由、歎き申す所也、不便の事に候歓、相違無きの様計り沙汰せしむべき哉、謹言
十一月二日               (花押)
細河稀駐頭殿             
意訳変換しておくと
嶋(島)津上総入道が訴える讃岐国櫛無保地頭職の件について、島津氏は、鎮西において近頃抜群の軍忠を示したものであるが、譜代の旧領が違乱されていることについて、対処を求めてきた。不便な事でもあるが、相違ないように計り沙汰せよ。
十一月二日              将軍義詮 (花押)
細河稀駐頭(細川頼之)殿 
島津氏は、櫛無保以外にも、下総・河内・信濃などの遠国に所領を持っていたことは前回に見たとおりです。南北朝時代も後半になると、守護や地頭が遠国に持っている所領は、その国の守護や在地の武士たちによって押領されるようになります。島津氏も同様だったと思うのですが、特に讃岐の櫛無保の押領だけを取り上げて幕府に訴え、所領として確保しようとしています。この背景には、櫛無保が島津氏にとって薩摩と畿内を結ぶ中継基地として重要な所領であったことを示している研究者は指摘します。
押領停止の将軍の命が出された頃の讃岐は、どのような状勢だったのでしょうか?
細川氏系図
細川氏系図
  讃岐守護細川顕氏は、頼春の戦死に遅れること四か月余りで病死し、子息の繁氏(しげうじ)があとを継ぎますが、彼も延文四年(1359)六月に急死してしまいます。
『太平記』によると、繁氏は九州で征西軍と戦っていた少弐頼尚を救援するため九州大将に任じられて自分の分国讃岐で兵力を整えていましました。その際に崇徳院御領を秤量料所として取り上げたので、崇徳院の神罰を受けて、もだえ死んだと伝えられます。
  それはともかく繁氏死去の後、しばらく讃岐守護の任命がなく、讃岐の守護支配は一時空白状態になったようです。
一方、京都では、延文三年(1358)4月20日、足利尊氏が没し、義詮が征夷大将軍になります。
義詮は細川清氏(きようじ)を執事に任命します。

細川清氏 - Wikipedia
細川清氏 白峰合戦で敗れる

清氏は頼春の兄和氏の子で、観応の擾乱以来たびたび戦功を挙げ、義詮の信頼を得ていたのです。しかしまもなく佐々木道誉らの有力守護と対立し、謀反の疑いをかけられて若狭に逃れ、その後南朝に帰順します。康安二年(1362)の初め、清氏は阿波に渡り、 そして守護不在となってきた讃岐に入ってきます。讃岐は前代からの顕氏派、頼春派の対立がまだ尾を引いていたようです。そこを狙って、清氏は進出してきたようです。
 『南海通記』によると、清氏はまず三木郡白山の麓に陣を置いて帰服する者を招きます。これに応じたのが山田郡の十河・神内・三谷らの諸氏です。清氏はこれらを傘下に入れて、阿野郡に進み、白峯の麓に高屋城を構えて、ここを拠点とします。
これに対して将軍義詮は、清氏の討伐を細川頼春の遺子頼之に命じます。
細川頼之」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
頼之は、そのころ中国大将に任ぜられていました。彼は、九州から中国に渡って山陰の山名氏などの援助を得て勢力をふるっていた足利直冬と備中で戦っていました。将軍義詮の命を受けて讃岐に渡り、宇多津に陣を置いて、清氏の軍と対峙します。
 先ほど見た、薩摩守護の島津貞久の櫛無保押領の訴えは、この時に出されたものになります。細川頼之は、阿野郡に拠点を構えた清氏に対抗するために、父頼春の死後ゆるみかけた中・西讃の支配を固め直す必要があると判断したのでしょう。そのための行動の一つが、南朝方に帰属していた島津氏櫛無保の押領し、兵糧米確保や味方する諸将に与えることだったと推測できます。これが島津貞久から訴えられることになったと研究者は考えています。
どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
白峰合戦
康安二年(1362)7月23日、頼之は高屋城を攻撃して、清氏を敗死させます。これが中世讃岐の合戦は有名な白峯合戦です。那珂郡辺りの武士は、頼之に従ってこの合戦に参加したようです。この時に、清氏に味方した南朝方中院源少将が守っていた西長尾城(満濃町長尾城山)は、庄内半島の海崎城にいた長尾氏に与えられています。櫛無保も同じように戦功のあった者に与えられた可能性があります。
 こうして白峰合戦に勝利した細川頼之を、足利義詮は讃岐守護に任命します。同時に、先に挙げたように書状を送り、守護として責任を持って櫛無保の押領を止めるように命じたのです。この書状を手にした細川頼之は、どのように反応したのでしょうか。
将軍足利義詮の命令通りに、「押領」を停止して櫛無保の守護職を島津氏に返却したのでしょうか。それとも無視したのでしょうか。それを示す史料は残っていないようです。

島津家五代の墓
島津家五代の墓(出水市)
島津貞久は、貞治二(1363)七月二日、九十五歳で戦いに明け暮れた生涯を終えます。
その3ケ月前の4月10日に、薩摩国守護職を師久に、大隅国守護職を氏久に分与します。これによって島津氏は二流に分かれることになります。師久のあとを総州家といい、氏久のあとを奥州家と云います。
島津家五代の墓2

櫛無保は師久への譲状の中に、次のように載せられています。
譲与  師久分
薩摩国守護職
同国薩摩郡地頭職
(中略)
讃岐国櫛無保上下村
公文名并光成
田所
(中略)
右、代々御下文以下證文を相副之、譲り与える所也、譲り漏れの地においては、惣領師久知行すべきの状件の如し
貞治弐年卯月十日     道竪      
しかし、櫛無保の名はこれ以後の島津氏の所領処分目録には見えなくなります。南北朝末期には島津総州家は衰退に向かい、次第に薩摩国内の所領すら維持が困難になるような状態に落ち入っています。讃岐櫛無保の地頭職も島津家の手に還って来ることはなかったようです。

島津貞久の墓
 島津貞久の五輪塔
一方、讃岐国では、白峯合戦に勝利した讃岐守護細川頼之が、領国支配を着々と固めています。
島津家領の櫛無保も、細川頼之の支配下に収まったと見るのが自然です。荘園領主法勝寺の櫛無保支配については、関白近衛道嗣の日記『愚管記』の永和元年(1375)4月11日の条に、法勝寺領櫛無保をめぐって法華堂公文実祐と禅衆とのあいだに相論があったことが記されているので、南北朝末期まで法勝寺の支配が続いていたことがうかがえます。しかし、地頭職をだれが持っていたのかなどについては、他に史料がなくよく分からないようです。

どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
細川頼之の宇多津守護所
 以上をまとめておくと
①櫛無郷は古代末に、白河天皇が建立した法勝寺の寺領となり、櫛無保が成立した
②鎌倉時代の承久の乱の功績として、薩摩守護の島津氏が櫛無保の地頭職を獲得した。
③以後、島津氏は歴代の棟梁が櫛梨保守護職を引き継いできた
④南北朝混乱期に、南朝方について讃岐守護となった細川顕氏は島津氏の櫛無保を奪った
⑤白峰合戦に勝利して、讃岐守護となった細川頼之も島津氏の櫛無保を押領した。
⑥これに対して、薩摩守護の島津氏は室町幕府に、押領停止を願いでて将軍の停止命令を出させた。
⑦しかし、その将軍の命令が実行された可能性は低い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

讃岐丸亀平野の郷名の
古代の櫛梨郷
   古代の那珂郡櫛無郷は、東が垂水、南が小松、西が生野、北が木徳郷に接して郷の北部に式内神社の櫛梨神社が鎮座し、西側を金倉川が北に流れていきます。
櫛無郷

古代の櫛無郷は現在の次のエリアを併せたものになります。
①上櫛梨(無) 琴平町
②下櫛梨    琴平町
③櫛梨町    善通寺市
櫛梨郷は古代末には櫛梨保となり、中世にはその地頭職を薩摩守護の島津氏が持っていたようです。今回は櫛梨保の成立とその地頭職を島津氏が、どのように相続していたかを見ていくことにします。テキストは「法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P」です。
 櫛梨保が最初に登場する史料は、『経俊卿記(後嵯峨院に仕えた吉田経俊の日記)』の正嘉元年(1257)4月19日の次の記事のようです。
十九日雨降、参院、奏條ヽ事、(中略)
正嘉元年四月十九日源雅言 奉
法勝寺條ヽ
(中 略)
櫛無保年貢事、
仰、於寺用者、地頭抑留不可然之由、先度披仰下了、任彼趣重可被仰遺武家、
(図書寮叢刑)
この日記には、後嵯峨院の評定での記録が記されています。この日の記録には天候は雨で「法勝寺条々」が議せられ、その審議の中に「櫛無保年貢事」が出てきます。ここから櫛無保が京都の法勝寺の寺領だったことが分かります。また、鎌倉時代には、櫛無保の地頭が年貢を送ってこなくなり「抑留」していたことも分かります。この日の院評定で、櫛無保の年貢を抑留している地頭に、幕府に命じて止めさせるよう議定しています。
櫛無保 法勝寺1
法勝寺町バス停 地名として残っている
ここに出てくる法勝寺とは、どんなお寺だったのでしょうか?
法勝寺のあったのは、平安神宮の南側、岡崎一帯で、現在では京都国立近代美術館、京都市美術館、京都会館、京都私立動物園、都メッセなどの文化施設が建ち並ぶエリアです。
法勝寺

この地は、平安時代の後期、白河天皇が建立した寺院が大伽藍を並べる地域でした。その最初は、白河天皇が藤原師実から別荘地を譲り受け、1075年(承保2年)に造営を始めたのが法勝寺です。

法勝寺の説明版
 法勝寺の説明版
 白川天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との考えの下に、仏教を保護して統治する金輪聖王(転輪聖王)にならって法勝寺を建立したと伝えられます。この寺を、慈円は「国王の氏寺」と呼んでいます。それは天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する「日本国の王の寺院」ということのようです。白河には法勝寺に続いて次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれるようになります。法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものでした。法勝寺には、金堂、五大堂、講堂、阿弥陀堂などが建ち並び、約四町という広大な寺域を誇っていました。
法勝寺の塔
①が法勝寺の大塔 ②が東寺五重塔 ③醍醐寺五重塔

1083年(永保3年)なると、高さ約80mという当時の高層建築である八角九重塔が建立されます。ちなみに現存する日本最大の塔は、東寺の五重塔で高さ55mです。

法勝寺八角九重塔 CG復元図

 また、白河には他にも次々と天皇の寺院が作られ、六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺)と総称されました。しかし、文治元年(1185)の大地震で法勝寺の諸堂の大半は倒壊し、八角九重塔もかろうじて倒壊は免れたものの垂木はすべて落ちるという状態でした。1208年には落雷で八角九重塔も焼失し、一部は再建されましたが、1342年の火災で残る堂舎も焼失しました。鎌倉時代になると寺領からの年貢が途絶え、伽藍維持が困難になり衰退していきます。現在は遺跡をとどめるのみです。
 以上からは法勝寺は、11世紀末に白川天皇によって建立された「国王の氏寺」で、栄華を誇った寺院であったこと。それが鎌倉時代には、維持管理が出来なくなり衰退していったことが分かります。これだけの寺院の維持管理のためには、大きな経済的な基盤が必要です。そのために櫛梨郷もどこかの時点で、「櫛無保」に指定され法勝寺領になったようですが、その過程は史料がないのでよく分からないようです。ただ「保」という用語がついています。
保は、本来は国衛領のなかの特別行政区域になります。
 律令制が傾いてくると、封戸からの租税の徴収が困難になってきます。そこで封戸の代わりに田地を定めて、そこから納められる租税(官物・雑役)を封主に与えることになります。このような代替給付を行うことを便補といい、定められた田地が保と呼ばれるようになります。(便補保)。
 法勝寺も、落慶供養の6日後の12月24日に、1500戸の封戸が寄せられています。寺は出来ても経済的な基盤を保証されないと「持続可能」にはなりません。この封戸が何処にあったのかは分かりませんが、櫛無郷が便補保とされたのが法勝寺領櫛無保ではないかと研究者は考えているようです。

法勝寺跡
白川院・法勝寺跡

  島津忠義は、宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任された
 貞応三年(1324)9月7日付で、鎌倉幕府の北条泰時が藤原(島津)忠義を櫛無保地頭職に任命した開東下知状には次のように記されています。     
可令早左衛門少尉藤原忠義(忠時) 、為讃岐國 (那珂郡)櫛無保地頭職事、
右人為彼職、任先例可致沙汰之状、依仰下知如件、
貞應三年九月七日
                                                       武蔵守不(花押)   (北条泰時)
読み下しておくと
早く左衛門少尉藤原忠義をして、讃岐国櫛無保地頭職と為すべき事。右の人彼の職と為し、先例に任せ沙汰致すべきの状、仰に依て下知件の如し、
貞応三年(1324)九月七日
武蔵守平(花押)    (北条泰時) 
藤原忠義は忠時ともいい、薩摩国守護島津氏の第二代当主のことです。
忠時の父忠久は、本姓は惟宗氏で、摂関家近衛家の家人です。近衛家の荘園である薩摩国島津荘の荘官となり、文治二年(1186)、源頼朝から島津荘惣地頭職に補せられて島津氏を名乗るようになります。藤原氏を称することもあったようですが、主家藤原氏(近衛氏)との関係を強調して家柄を高める意図があったのではないかとされます。これは古代綾氏の流れを汲むとされる讃岐藤原氏も同じようなことをやっています。

島津家系図
島津家系図

 島津氏は建久8年(1197)に、薩摩・大隅の守護職に任ぜられ、さらに日向の守護も兼ね勢力を拡大していきます。ところが建仁3年(1203)、二代将軍源頼家の外戚比企能員とその一族が反逆を起こし、北条時政によって滅ぼされたれます。(比企氏の乱)、この時に島津氏は破れた比企氏側に味方したために三か国守護職及び島津荘惣地頭職を没収されます。しかし、その後に薩摩国守護職だけはほどなく返され、建暦三年(1213)には、島津荘惣地頭職も返されています。ここでは比企氏の乱で、「勝ち馬」に乗れなかった島津氏が領地を大きく削られたことを押さえておきます。

承久の乱 (1221年)【政広】 - 居酒屋与太郎

島津忠義に復活のチャンスはすぐにやってきました。承久の乱です。
先ほど見たようにその3年後に、櫛梨保の地頭職が島津氏に与えられています。ここからは、この補任は承久の乱の功賞によるものと推測できます。島津忠久、忠義も承久の乱の当時は鎌倉に在住し、上京の軍勢に加わって戦功を挙げたようです。『吾妻鏡』の承久3年6月18日の記事には、14日の宇治川の合戦で敵を討ち取った戦功者98人の名が挙げられています。そのなかに「島津二郎兵衛尉(忠義)(辻袖離一ゑ)」の名前もあります。幕府は後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を配流し、上皇方についた貴族や武士の所領を没収して、戦功のあった武士たちに恩賞として与えました。島津忠義も宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任されたとしておきます。

地頭職

鎌倉幕府が武士に所領を与えるのは、当寺は地頭に任命する形をとりました。
「綾氏系図」には、讃岐藤原氏の頭領であった羽床重基が、承久の乱の際に讃岐国の軍勢を率いて後鳥羽院の味方に参じ、敗戦で所領を没収されたことが書かれています。また『全讃史』には、綾氏の嫡流綾顕国が羽床重員とともに院方として戦ったと記されています。院方について破れた勢力は、当然領地没収されました。その跡に、東国武士たちが地頭として送り込まれたわけです。承久の乱で、地頭が置かれたことが明らかなのは、櫛無保のほか法勲寺、金倉寺、善通寺などです。讃岐の地頭のほとんどが承久以後になって現れる東国武士であることは、以前にお話ししました。
地頭が新恩の地に補任された時は、前の領主の所領・得分を受け継ぐのが原則です。承久新恩地頭の場合は、前領主の所領・得分が少なく、またはっきりとした基準がなかったので、やってきた地頭地頭に対して幕府は新しく所領・得分の率を次のように定めています。
①荘園全体の田地に対して11町について1町の割合で与えられる給田
②一段ごとに五升の加徴米徴収権
これを新補率法と呼びます。承久の乱後に地頭になったものを一般に新補地頭と呼んでいますが、厳密な意味では新補率法が適用される地頭が新補地頭になるようです。 これに対して、前領主の所領・得分を受け継いだ地頭を本補地頭と呼びます。島津氏が補任された櫛無保地頭職は、承久の乱後の地頭なので、本補地頭になるようです。
櫛無保は、封戸から転じた便補保ですので、地元に保司(ほうし)という保を管理する在庁官人がいて、租税を徴収して保の領主に送ります。したがって、保司は保全体に対して強い支配力を持つようになります。櫛無保にもこうした保司(武士団)がいて、保領主の法勝寺とは無関係に後鳥羽上皇方につき、所領没収の憂目を見たと研究者は推測します。

島津氏が前保司から受け継いだ櫛無の所領は、給田・給名などの限られた田地ではなく、上村・下村といった領域的な所領です。
さらに公文名や田所名を所有しています。これは下級荘官の公文や田所の所領名田です。地頭島津氏は、公文や田所の所職も兼ねていたことがうかがえます。公文は文書の取り扱い、年貢の徴収に当たる役人、田所は検田などに当たる役人で、これらの下級荘官は実際に田地や農民に接して検地や徴税に当たります。彼らの権限を掌握することは、地頭が荘園を支配する上で重要な意味を持ていました。ちなみに、櫛梨町には公文という地名が今も残ります。このあたりに公文名や彼らの舘があったことが推測できます。

島津氏は三代久経までは鎌倉に在住し、その後は薩摩国守護として薩摩に本拠を置いていました。
そのため櫛無保には、一族か腹心の家臣を代官として派遣して支配したようです。そして、今見てきたような背景から考えて、その支配力はたいへん強力なものであったと研究者は考えています。

最初に挙げた『経俊卿記』正嘉元年(1257)4月19日の記事には、この日の院評定で、法勝寺に納入すべき櫛無保の年貢を地元の地頭が送ってこないのを、幕府に命じて止めさせるよう議定されていました。地頭はもともとは土地管理、治安維持、租税の徴収などを職務とする役職で、所領を与えられたものではなく「領主」ではありませんでした。しかし鎌倉時代の中ごろから、地頭たちは次のような「不法行為」を次第に働くようになります。
①徴収した年貢を荘園領主に送らず自分のものとしたり(年貢抑留)
②給田以外の田地を押領したり
③規定外の租税を農民から徴収したりなどの手段で、荘園全体を支配下に置こうとする動き
櫛無保地頭島津氏も、①の年貢抑留という手段によって、櫛無保内の領主権をさらに強化しようとしていたことがうかがえます。
 隣接する善通寺領良田郷では地頭が年貢抑留に加えて農民の田地を奪い、永仁6年(1298)には、領主善通寺と土地を分け合う下地中分になっています。三野郡二宮荘でも、地頭の近藤氏と領家とのあいだで下地中分が行われています。さらに鎌倉幕府が倒れた元弘の乱の時には、荘園領主分の年貢をことごとく押領していたことは以前にお話ししまします。櫛無保以外でも讃岐各地で地頭の荘園侵略が進んでいたのです。
島津家系図

元寇前の文永二年(1265)、島津忠義(時)の嫡子久経が父のあとを継いで薩摩国守護となります。
文永四年(1267)12月に、忠義(忠時)は譲状を作っています。そのなかで、「櫛無保内光成名給米百石」については、次のように記されています。
こけふん (後家分)
さつまのくに みついゑのゐん
しなのゝくに かしろのかう
さぬきのくに(讃岐国)くしなしのほう(櫛無保)の内
みつなり名(光成)給米百石  一 このちはすりのすけ(修理免久経)
ここからは次のようなことが分かります。
①久経の母尼忍西に「後家分」として、「櫛無保内光成名給米百石」が給米として与えること
②百石という年貢はたいへん多いので、光成名は大きな名田で、荘官の給名田だったこと
③この給米は、彼女の死後は嫡子久経に返すように指示されていること
建治元年(1275)、それまで鎌倉にいた三代目の久経は、文永11年(1274)に、蒙古軍の再度の来攻に備えて九州にやってきています。そして弘安4年(1281)の弘安の役では、薩摩の御家人を率いて奮戦しています。久経は元寇後の弘安七年(1284)に没し、嫡子忠宗が4代目を継ぎます。
それから34年後に文保二年(1318)二月十五日に、忠宗は次のような2つの譲状を書いています。
    〔史料A 島津道義(宗忠)譲状〕
 〔島津道義譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
    ちやくし(嫡子)三郎左衛門尉貞久
さつまの國すこしき(薩摩国守譲職)
十二たうのちとうしき(地頭職)
さつまこほり(薩摩郡)のちとうしき(地頭職)
山門のゐん
いちくのゐん
かこしま(鹿児島)のこほり 同なかよし
さぬき(讃岐)の国くしなしのほ(櫛無保)上村・下村
しなのゝ(信濃)國太田の庄内南郷
下つさの國さむまの内ふかわのむら、下黒
ひうか(日向)の國たかちを(高千穂)の庄     
ふせん(豊前)の國そへたの庄
右所ヽ、貞久にゆつりあたうる(譲り与える)所也、女子分子なくば其一この後ハ、そうりやう(総領)貞久可知行之状□□
文保二年二月十五日     沙爾道義(花押)
 (島津家文書)
   〔史料B 島津道義納譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
女子大むすめ御せん分
さぬきの國くしなしのほう(櫛梨保)のうちくもんみやう(公文名) 同たところみやう(田所名)
右、大むすめ御せんにゆつりあたうる所也、但、子なくハ、一この後ハ(死後は)、そうりやう(総領)貞久ちきやうすへし(返還すべし)、乃状如件、
文保二年三月十五日      沙爾道義(忠宗)(花押)
史料Aは、忠宗が、嫡子貞久に譲ったすべての「領地」の中に、讃岐国櫛無保の上村・下村も含まれています。上村・下村は現在の琴平町上櫛梨・下櫛梨(一部善通寺市櫛梨町)の地になります。
 ところが忠宗は同じ日に、史料Bの譲り状を書いています。そこには「女子大むすめ御前」に櫛無保内の公文名・田所名を譲り、ただしこれについては、その死後には惣領貞久に返す定めであると記されています。このように所領を生きているあいだ(一期)に限り認め、死後は一族の惣領(家督を継いだもの)に返  す規定は、領地分散を防ぐための方策で、鎌倉中期以後武家領のあいだでは一般的になります。特に女子は、そのままでは婚嫁先に所領が移ってしまうので、この規定が設けられるようになったようです。櫛梨保地頭職は、島津氏出身の女性たちに一代限りで認められ、死後は総領に返却され、島津家のものとして相続されたことがうかがえます。
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文元年(1356)8月6日に、足利義詮が島津貞久に与えた安堵下文には、櫛無保上村・下村のほか、公文名・光成名が加わっています。ここには公文名とともに貞久に返されるはずの田所名がありませんが、その所有については分かりません。

櫛無郷2
櫛梨(明治39年地形図)

 貞久は、鎌倉幕府が滅亡する2年前の元徳三年(1321)八月九日に嫡子生松丸(宗久)に、薩摩国薩摩郡以下の所領を譲っています。
そのなかに櫛無保については次のように記されています。
さぬきの国くしなし(櫛無)の保上村・下村 此内上殿給ハ、資久一期之後可令知行之
同くもんみよう(公文名)
同みつなりみやう(光成名)
これによると上村・下村のうちに「上殿給」というのがあって、当時は貞久の弟である資久がそれを知行していたことが分かります。そしてこれは「資久一期」のもので、資久の死後は宗久が知行することになっています。しかし、宗久は父貞久に先立って死んでしまいます。 すでに老齢に達していた貞久は、その後二男師久、三男氏久とともに貞治二年(1363)、95歳で亡くなるまで、南北朝動乱を戦い抜くことになります。その混乱の中で、島津家も櫛無保の地頭職を押領され失っていくようです。
以上をまとめておくと
①櫛無郷は延喜式の櫛梨神社一帯に成立した古代の郷である。
②櫛無郷は白川天皇が造営した法勝寺の保に指定され櫛無保となった。
③鎌倉時代の承久の乱後に、櫛無保の地頭職を得たのが島津氏である。
④島津氏は地頭として、領主である法勝寺への「抑留」などを行いないながら、実質的な支配権を獲得していった。
⑤櫛無保は、一時的には女性の一代限りの相続を経ながらも、基本的に島津氏の棟梁が相続して引き継がれて行った。
⑥しかし、南北朝の動乱期に「押領」を受け、島津氏の支配から脱落していく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

善通寺 生野郷 
善通寺周辺の古代郷    
仲村郷は、平安時代には善通寺の免田か散在していました。それが鎌倉時代になると 一円保に含まれた部分をのぞいて、高野山金剛峰寺の塔頭寺院の一つである一心院の寺領である仲村荘となります。

善通寺寺領 鎌倉時代
良田郷と弘田郷の間が仲村郷

 一心寺について最初に見ておきましょう。
 高野山の登山ケーブルの高野山駅から発車するバスの最初の停留所が「女人堂」です。高野山が女人禁制であった頃は、女性はここより先の立ち入りは許されず、この女人堂からはるかにみえる堂塔を拝んだようです。そこから坂を少し下ったところが一心院谷とよばれているエリアになります。一心院は、鎌倉時代の初期に、行勝上人(1130~1217)によってこの地に建立されました。
高野山一心院
高野山一心院跡
茲に故行勝上人、方丈草庵を当山に結び、(中略)、遂に多年の宿願に依って、忽ち一伽藍を建立す。堂塔、僧坊、鐘楼、経蔵成風の構権を接し、土木の功甍を並ぶ。即ち之を一心院と号す。

また、江戸時代の後期文化年間に和歌山藩が編さんした「紀伊続土記」の記事には次のように記されています。

行勝上人は、妙法蓮華経の五字を形取って五カ坊を建立し、五智を取り合わせて妙智坊、法料坊、進智坊等々と称した。 一心院は五坊の総称であり、その名は坊の近くの一心の字によく似た池にちなんだものだった。


 さらに「続風上記」には、その後の一心院の変遷が次のように記されています。
 五坊のうち妙法違花の四坊は次第にすたれ、経智坊のみ残った。建保五年(1217)に行勝が没すると、貞暁がそのあとを継いで経智坊に住した。貞暁は鎌倉法印ともいわれ、源頼朝の三男で、仁和寺で出家し、勝宝院、華蔵院を領していたが、行勝の徳を慕って高野山に登り彼に師事した。兄の三代将軍実朝が暗殺された後、母の政子が自ら高野山の貞暁を訪れ将軍職につくことをすすめたが、辞して動かなかった。貞暁は貞応二年(1232)寂静院を建立し、それ以後寂静院が一心院を代表することになった。
 
一心院という寺院は、朝廷や幕府などとも親交のあった行勝上人によって創建されたと伝えられているようです。
しかし、実質的な創建者は、源頼朝の三男で鎌倉法印と呼ばれた貞暁のようです。源氏一族が権力闘争の中で次々に命を落とす中で、貞暁は
高野山という世間と隔絶した中で修行に励み、人々の尊崇を集めるようになります。
その晩年には遂に政子も貞暁に帰依し、彼に源氏一族の菩提を弔わせるべく援助・出資を行なうようになります。これを受けて貞暁は、高野山の経智坊に丈六堂という阿弥陀堂を建立、この中に安置した阿弥陀如来座像の胎内に父・頼朝の遺髪を納めて供養したほか、異母弟である3代将軍実朝に対しても五輪塔を設営して追善を行なっています。
【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その3
高野山西室院に残る「源氏三代供養塔」

このように一心院は政子の庇護を受けて源氏の菩提寺として大きな伽藍を誇っていたようです。しかし、
寺院自体は、江戸時代頃にはすでに衰退してしまい、現在は寺院としては存在しません。「一心院口・一心院谷」という地名として残っているのみです。
 大きな威勢をもった一心院(寂静院)は、多くの荘園が寄進されていました。讃岐国多度荘もその一つのようです。しかし、これは荘務権をもった荘園ではなく、安楽寿院領であった多度庄の領家分のうち百石をとり分けて寂静院の寺用に配分するというものでした。そのため地頭の妨げによって運上が思うように行えず、天福2年(1224)になって摂津国武庫下荘がかわりにあたえられることになります。
道勝の奏状は、仲村郷が一心院領となった由来を次のように記します。
茲に仲村郷は、去る建永年中、國司当院に寄付し佛聖以下の寺用に配す。(中略)
件の郷弘法大師経行の地為るに依って、当山領為るの條、由緒有るに依って、代代の宰吏、己に富郷を以って当院領為る可きの由國宣を成すの後、三十餘年を経畢んぬ。
意訳変換しておくと
ここに仲村郷は、建永年中(1206~07)、讃岐国司が一心院に寄付し寺領となった。(中略)
仲村郷は弘法大師生誕の地で、当院の寺領となるのは、その由緒からもふさわしく、代々の国司が仲村郷を当院寺領とする旨の國宣を下した。それから三十餘年を経た。
ここでは、仲村郷は建永年中(1206~07年)に国司によって一心院に寄附されたとあります。「代々の国司が仲村郷が一心院領であることを認めた国宣を発している」とあります。
承久三年(1321)8月の讃岐国司庁宣(寂静院蔵)に、次のように記します。
庁宣一 留守所
早く中村郷を以って、永代を限り、高野一心院御領と為す可き事
右、彼村を以って、永代を限り、 一心院御領と為す可きの状、宣する所件の如し。在庁官人宣しく承知して違失す可からず。以って宣す。
承久三年八月 日
               大介藤原朝臣(花押)
意訳変換しておくと
庁宣  讃岐国司の留守所
中村郷を永代、高野一心院御領となすべきこと。
このことについて、仲村郷を永代に渡って、 一心院御領とすべきことについて、国司の庁宣を下した。讃岐在庁官人は、宣しく承知して違失なきように、よろしく取り扱うこと。以って宣す。
  承久三(1321)年八月 日            大介藤原朝臣(花押)
  讃岐国司庁宣からも一心院領であったことが認められていたことが裏付けられます。
承久三年は、「紀伊続風土記」によれば、貞暁が経智坊に住していたときになります。
しかし、庁宣の文は、すでに与えられている領地を安堵・承認するというより、この時にはじめて中村郷が一心院に寄進されたことを示しています。「続風土記」にも次のように記されています。
「山史、承久三年八月、源義国、讃州中村郷を以って永く、 一心院経智坊に寄附せらると云々」

ここからは中村郷全体が一心院領となったのは、貞暁が一心院を継いだ後のことだったようです。ここに出てくる「源義国」は、当時の讃岐国主と研究者は考えているようです。

朝廷による一心院の仲村郷領有の承認は、どのように行われたのか     延応元(1239)年太政官牒所引道勝の奏状は、次のように続きます。
而して今庄琥の綸旨を下され、向後の牢籠窮迫を断たんと欲す。望み請うらくは天恩、 先例に因り准して、当院を以って御祈願所となし、兼て讃岐国仲村郷を以って永代を限り当院領と為し、四至を堺し一膀示を打ら、 一円不輸の地と為し、伊勢役夫工大嘗会召物以下大小勅院事等、永く皆免ぜられ、而して領家職は、道勝の門跡として相樽せしむべきの由、勅裁を蒙らんことを。

意訳変換しておくと
今、庄琥の綸旨が下され、今後の混乱が起きないように願う。そのため望み請うことは、先例に随って、一心院を御祈願所として、讃岐国仲村郷を永代に渡って当院領とすることを。
 そのために四至を境に膀示を打ち、 不輸不入の地として、伊勢役夫工大嘗会召物など大小勅院事等をすべて免除してされんことを。そして領家職は、道勝の門跡として世襲的に引き継ぐことができるように、勅裁を蒙らんことを。

仲村郷は国司の寄進によって一心院領になりました。しかし、国司が交替すれば、その特権をとり消されるかもしれません。そこで獲得した領有権を永続的なものとするために、次のようなことが誓願されています。
①朝廷に願いでて、 一心院をおおやけの御祈願所にしてもらうこと、
②そして祈願新地の寺領として、仲村郷の荘園化を朝廷に認めさせること
③従来国衛が仲村郷から徴収していた官物雑事、あるいは伊勢遷官や人嘗会の費用などのために課していた国役を一切免除してもらうこと
 こうして獲得した仲村郷の領有権(仲村郷領家職)を、一心院の相伝とするというのがこの奏状の目的のようです。
 この奏請は朝廷によってうけいれられます。延応元年二月の大政官牒は、 一心院を公家御祈願所とするように治部省に指示しています。また同じ日附で、仲村郷の四至を定め膀小(境界のしるし)を打ち、これを高野一心院領とするようにとの官宣旨が讃岐国に下されています。 
 一心院領仲村荘の四至―東西南北の境界線は、次の通りです。
東は吉田、葛原両郷を限り、
西は弘田郷を限り、
南は善通寺一円を限り、
北は三井郷を限る
善通寺寺領 鎌倉時代

一心院の仲村荘領有が朝廷によって承認されてから60年近くを経た永仁4年(1296)11月のことです。
仲村荘の百姓達の申状が、一心院を代表する寂静院にとどけられました。それには次のように記されています。

讃岐國仲村御庄価家御米の内高野運上百姓等謹しみて言上
早く申状の旨に任せて、御成敗を蒙らんと欲す大風損亡の子細の事
件の損亡の子細、先度、御山と云い当御庄と云い一体の御事為るの間、 一紙を言上せしめ候の処、寺用御方目りは、御使両人を差し下され、損亡の実に任せ御計を蒙る雖も、半分の御免除を蒙らずば争(いかで)か安堵せしむ可けん哉の由、重ねて言上せじむる者也。所詮損亡顕然の上は、寺用御方の如く御免除を蒙らんが為め、乃って粗言上件の如し。
永仁四年十一月二日                                  寂静院御方百姓等上
全宗(花押)
有正(略押)
有元(花押)
武安(花押)
真久流丸(略押)
清 量(略押)
意訳変換しておくと

(この永仁四年という年は大風が吹いたため作物に相当の被害があった。)
そこで仲村荘の百姓達は年貢の減免を領主の高野山一心院に願いでた。それに対して、寺用御方からは二名の使者が讃岐に下向してきて、被害実態を調べた上で減免の計らいをした。しかし百姓達は半分(残り半分の寂静院御方)免除も得なければ安堵できないと決議した。そこで、この度は寂静院御方に属する百姓の連名で、寺用御方のごとく免除の処置をしてくれるようお願いしたいと言上した。讃岐國仲村郷の御庄価家御米の内 高野山に運上する百姓等が謹んで言上します。
一度読んだのでは内容がなかなか理解できませんが、この文書からは、仲村荘から納入される領家米は、「寺用御方と寂静院方」のふたつに配分されて納入されていたことが分かります。そのため「寺用御方」分は半額免除になったが、寂静院方については、何ら対応してくれないのでわざわざ高野山まで百姓たち代表7名が出向いて誓願したようです。
研究者が注目するのは「寺用御方」で、これがどこの寺用なのかという点です。
「御山と云い当御庄と云い一体の御事為るの間」とある文を、寺用方と寂静院方とは、御山においても仲村荘の領有においても一体の関係にあることだから、双方への訴えを一紙にまとめて言上したという意味に解するとすれば、両者は密接一体の関係で、寂静院方は寂静院自身の用途、寺用方は一心院全体の寺用にあてて配分支配していたのかもしれません。
また署名している七名の百姓は、寂静院に対して年貢納人の責任者である名主たちでしょう。
名前の下に花押が書かれているのでただの農民ではありません。下人や小百姓を従えた土豪的有力農民なのでしょう。「西讃府志」にのっている中村の小地名のうちに、連署中の名主の名と同じ武安という小字が残っています。仲村の薬師堂周辺で、このあたりに武安が所有していた名田の武安名があったと研究者は推測します。武安から県道をへだてた西南の地域は「土居」と呼ばれ、地頭の屋敷があったとされる所です。このあたりは旧弘田川の伏流水が地下を流れ、出水が多い所です。木熊野神社の周囲にも出水がいくつもあり、これらを水源として稲作が古くから行われていたエリアのようです。

善通寺仲村城2
仲村城跡周辺(善通寺の山城より)

「全讃史」(1828年)には、このあたりに仲行司貞房の居城である仲村城があったと記します。
「外堀」となづけられた出水や土塁、土井の地名も残ります。仲行司貞房といえば、元暦元年(1184)の「讃岐国御家人交名」にでてくる名です。この仲行司貞房、またその子孫が仲村の地頭と推測も出来ますが、異論もあるようです。とにかく地名から推測すると仲村にも地頭がいたようです。善通寺領良田郷などの地頭と同じように、仲村の地頭も自己の領主権の拡大のために荘園領主である心院と対立し、一心院を悩ませたのかもしれません。鎌倉後期の頃には、一心院はまだ被害調査のため使者を派遣しています。ここからは実質的な領主権を、この時期までは確保してことがうかがえます。
善通寺仲村城1
仲村城跡(善通寺市)
 この段階では、仲村荘の百姓の年貢減免要求は、名主による領主への懇願という比較的隠やかな形をとっています。しかし、鎌倉末から南北朝期と時代が下るにつれて、次第に農民の抵抗が拡大強化されていきます。一心院の支配も、対農民体側の免でも経営が困難になっていったと研究者は考えています。
南北朝動乱期の源氏の菩提寺としての一心院・寂静院の立場は複雑です。
 一方で南朝の後醍醐天皇、後村上天皇から戦勝祈願の御祈騰を頼まれているかと思うと、 一方では足利幕府から所領の安堵状や裁許状をもらったりしています。両勢力の間にあって、その地位を保つために苦心したことが想像できます。一心寺に残るこの時期の文書には次のように記されています。
一心院造営新所讃岐國仲村庄以下の事、興行の沙汰を致し、専ら修造せらる可きの由、申す可き旨に候也。偽って執達件の如し。                                           
四月五日                                       権大僧都秀海奉     
謹上 寂静院衆僧御中                                               
意訳変換しておくと
高野山一心院の建物に荒れがめだつようになった。それは造営料があてられていた仲村荘からの年貢納入が思うようでないからである。そこで仲村荘の支配をたてなおし、収入を確保して、院の修造に専念するように寂静院に命ぜられた。

この文書の差出者は権大僧都秀海です。しかし、彼が命令をだしたのではなく、彼の仕えている上級者の命令を受けて、それを寂静院に伝えたもののようです。そうすると仲村荘を管領している寂静院の上に、命令することが出来る上級支配者がいたことになります。またこの文書は、書状形式をとっているため、月日のみで年がないので、いつごろのことか分かりません。
この書状の文面からは、 一心院の仲村荘支配が次第におとろえていることはうかがえます。おそらく南北朝の動乱のうちに、仲村荘は一心院の手を離れていったと研究者は考えています。明徳二年の足利義満の寂静院所領安堵の御教書の中にも仲村庄の名はありません。この地も天霧城の守護代香川氏が戦国大名化を進める中で、侵略押領を受けて消えていったと研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    高野山一心院領仲村庄 善通寺市史592P
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讃岐・金倉寺 - SHINDEN

金倉寺の所領についての一番古い記録は、享保19年(1734)に寺僧了春僧都が著した「鶏足山金倉寺縁起」のようです。
そこには弘仁初め(810年頃)と仁寿二年(852)の二度にわたり、和気宅成が父道善の建立した自在王堂(金倉寺前身)を官寺として租税を賜わらんことを奏請し、この希望が許されて、田園32町が寄せられたと記します。さらに延長六年(928)には、それまで道善寺と称していた寺名を金倉寺と改め、金倉・原田・真野・岸上・垂水の租税を納めて寺領としたとも記されています。
 寺に古くから伝えられていることのようですが、この史料は江戸時代に書かれたもので同時代史料ではありません。和気氏の氏寺である金倉寺や、佐伯直氏の善通寺が官寺になったことはありません。寺領についてこれをそのまま信じることはできません。またこれを裏付ける史料もないようです。
その後の寺領について手がかりとなるのは「金蔵寺立始事」で、その後半は主に所領関係のことが次のように箇条書きで記されています。
一 宇多天皇御宇(智證)大師御入寂、寛平三年十玄十月廿九日年齢七十八。
一 村上天皇御宇天暦年中、賀茂御油田御寄進、応徳年中里見に除く。
一 土御門御宇建仁三年十月日官符宣成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。
一 亀山法皇御宇文永年中、良田新開官符宣御下知状下し賜い畢んぬ。
一 徳治二年、金銅薬師如来出現し給う事、天下其の隠れ無き者也。
一 高氏将軍御代貞和三年七月二日、小松地頭職御下知状給い早んぬ。
一 管領細河弘源寺殿御代永享二年九月廿六日、良海法印御申有るに依って、諸公事皆免の御判成  され畢んぬ。寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                                                
一 細川右京大夫勝元御時、享徳二年十二月廿八日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
意訳変換しておくと
① 宇多天皇の治政、(智證)大師が、寛平3(892)年10月29日に78歳で入寂。
② 村上天皇の治政の天暦(947~57)年中に、賀茂御油田が寄進された、応徳年中里見に除く。
③ 土御門の治政、建仁三年十月日官符が下され、上金倉の寺の敷地が寺領となった。
④ 亀山法皇の治政文永年中に、良(吉)田新開の官符がくだされ寺領となった
⑤ 徳治二年、金銅薬師如来が出現し、天下に知られるようになった。
⑥ 高氏将軍の治政の貞和3年7月2日、小松庄の地頭職下知状が下賜された。
⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                         
⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
ここに書かれている金倉寺の寺領を今回は見ていくことにします。テキストは「金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P」です。    
まず最初に②の天暦年中(947~57)に寄進を受けたとあるの「賀茂(鴨)御油田」を見ておきましょう。
讃岐國多度郡鴨庄南方内金蔵寺御油畠
合参段者
右件の御燈油は、往古従り本器五升得りと雖も、自然の慢怠致すに依って、当年自り本器七升七合に改め、御燈油之を定め、毎年榔怠無く弁進す可く候。若し少分未進致し候はば、罪科に処せ被る可く候者也。乃って請文の状件の如し。
延文六年卯月五日                                   時光(花押)
意訳変換しておくと
讃岐國多度郡鴨庄南方の金蔵寺御油畠について
合計3段の御燈油は、古くから本器五升を金倉寺に納めていたが、次第に慢怠になってきた。当年からは本器七升七合に改め、毎年怠りなく納めるように定める。もし、不足や未進があれば、罪科に処せられる。乃って請文の状件の如し。
延文六(1361)年卯月五日            時光(花押)
ここからは次のようなことが分かります。
①賀茂御油国(畠)があったのは、多度郡鴨庄南方であること
②ここに金倉寺に燈油を納入する畠二段が定められていたこと
③納入額は昔から五升と決められていたが、納入を怠ることが多かったので、延文六年に七升七合に値上げされたこと
④時期は南北朝混乱期で細川頼之の讃岐統治以前のこと
金倉 鴨
葛原郷鴨庄の北鴨と南鴨

鴨庄は、多度津の道隆寺の記録「道隆寺温故記」には、次のように記されています。
嘉元二(1304)年
鴨之庄地頭沙彌輛本西(堀江殿)、寄田畠百四町六段、重修造伽藍」

ここからは鴨庄が、道隆寺のある葛原郷北鴨と南鴨のあたりにあった荘園であったことが分かります。領主は、その名称から賀茂社で、その地頭を堀江殿が務めていたようです。葛原郷には、すでに賀茂社領葛原郷がありましたが、それとの関係は分かりません。
 この御油畠は、金倉寺が直接所有しているのではなく、鴨庄内に指定された三段の田から収穫される燈油五升を、金倉寺分として送付されるにすぎないこと、そして燈油の徴収と送付は鴨荘の役人によって行われたこと、この請文を提出した時光が、その役人であると研究者は考えています。
所有形態は分かりませんが、鴨庄からの御油の収納は、天暦年中という寄進の時期が事実とすれば、平安時代の前期から南北朝・室町時代のころまで、時おり「憚怠」があったとしても、ながく続いたことになります。

善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺の寺領

次に良田郷にあった金倉寺の寺領です
④には亀山法皇の文永年中に、良(吉)田新開が寺領となったとあります。
これは「善通寺文書」の建冶二年の院宣や弘安四年の官宣旨の中にもでてくるので裏付けられます。弘安の官宣旨では、次のように記されています。
凡そ同郷(良田郷)内東寄田畠荒野三十餘町は、国領為りと雖も、去る文永五年始めて智證大師生所金倉寺に付せらるるの刻、宣旨を下され畢んぬ。

ここからは、寄進地が良田郷東側の国衙領で、面積は田畑・荒地を含む30町であったことが分かります。ちなみに良田郷西側は、善通寺の領家職だったことは以前にお話ししました。
「金倉寺立始事」に「良田新開」とあるのは、寄進地に荒地が多く、開発によって開かれたことを示しているようです。寄進は官宣旨によって行われたと記されているので、善通寺良田郷と同じように、智証大師生所という理由で金倉寺から申請があり、亀山天皇の承認によって行われたと研究者は考えています。
 嘉慶の「段錢請取状」や善通寺領良田郷「良田郷田敷支配帳」の記載にも「金倉寺領良田郷」は出てくるので、この寺領が室町時代にも存続していたことは分かります。「支配帳」に「一金蔵寺分定田十二丁大四十歩」となっているのは、さきに寄進された田畠荒野30町余のうち段銭賦課の対象となる田地が12町余りあったということで、「請取状」の田数は、嘉慶二年に実際段銭が納入された分のようです。
次に室町時代ころの金倉寺寺領について分かる史料を見ておきましょう。
(追筆)
「法幢院之講田壱段少  大坪」
拾ケ年之間可有御知行年貞之
合五石者 
右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。
                                           金蔵寺法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日                   
   澁谷殿参
これは借金(米)の証文のようです。明応四年(1495)12月、金倉寺法瞳院が渋谷殿という人物に負債がありました。その返済方法として、良(吉)田石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が納入する年貢米を毎年五石ずつ10箇年間渋谷へ渡すことを契約しています。また大坪助左衛門屋敷・同太郎兵衛屋敷一段小を抵当に入れ、返済ができなかった時はそれを引渡すことにしています。
 法瞳院は金倉寺の塔頭一つです。
金倉寺文書の一つに応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があり、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺のなかにはこれら多くの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。他の史料にも一乗坊、東口坊などの名があります。法憧院はこれらの僧坊の中心で、善通寺における誕生院のような地位にあったようです。

良田郷石川
良田郷石川周辺 現在の善通寺東部小学校周辺

 この法憧院の証文中にある「石川方」については、現在稲木地区に石川という地名が残っています。
「石川名」という名田だったのだが、明応のころにはすでに地名化していて、太郎二郎、彦太郎という二人の農民が耕作し、年貢を法憧院に納めていたと研究者は推測します。大坪の助左衛門屋敷、太郎兵衛屋敷は、もとはこれらの農民の住居があったところかもしれません。
 文書の追筆に「講田」とあるので、この頃には開発され田地となり、法蔵院の講会(こうえ)の費用に充てられる寺田となっていたことが分かります。しかし、この講田は、この時には質流れしていたようです。それが30年後の大永8年(1528)に、渋谷の寄進によって再び法憧院の手に返ります。

16世紀初頭の永正6年(1509)ごろの法憧院領について、次のように記されています。 
法憧院々領之事
一町九段小 供僧 
ニ町三段大   此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田
護摩供 慶林房
三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩
一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也
己上
岡之屋敷二段 指坪一段
已上 五町四反余ァリ
永正六年八月 日
一 乗坊先師良允馬永代菩提寄進分
一、②護摩供養 慶林坊 三段半
  此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也
一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也

ここからは、次のようなことが分かります。
①法憧院領のうち二町五段は供僧(本尊に供奉(くぶ)する供奉僧たち)の管轄する領地であること、
②そのうち渋谷に質入れされている講田と、これも人手に渡っている護摩供(護摩供のための費用のための田地)をのぞく一町九段あまりが現有地であること
③寺の学事を統轄する学頭に付せられた学頭田が2町3段大(240歩)あること
金倉寺は道隆寺と並ぶ「学問寺」であったされますが、それが裏付けられる史料です。
 ②の「護摩供養 慶林坊」は、護摩供田で慶林房の手に渡っているようです。
実は供僧田の「他所ニア」る講田、護摩供も、この護摩供三段六〇歩も入れないと院領合計が5町4反余にならないようです。ということは、これは別の寺田ということになります。
④の「岡之屋敷二段」は、同じ金倉寺の塔頭である一乗坊の良允から寄進されたもので、ここには家が建っていたようで、屋根の部分で分割線が記されています。
以上から法憧院は5町4段あまりの院領を持っていたことが分かります。他の僧坊もそれぞれ何程かの所領をもっていたことは、 一乗院が岡屋敷を法憧院に寄進したことからもうかがえます。これらの院や坊の所領は、金倉寺領と別の所にあったとは思えないので、法憧院領良田石川方は金倉寺領良田郷の一部と研究者は推測します。そうすると金倉寺領は、このころには寺内の僧坊の分散所有となっていたことになります。時はすでに戦国時代に入っています。寺領が鎌倉時代の状態そのままで存続していたとは考えられません。寺内の院坊がそれぞれ作人に直結した地主になることで、かつての金倉寺領はその命脈を保らていたと研究者は考えています。これは、善通寺も同じような形態であったことと推測できます。
讃岐丸亀平野の郷名の
丸亀平野の古代郷名
金倉寺は、小松荘に地頭職を得ていたときがあるようです。
「立始事」には、貞和3年(1347)7月、足利尊氏が将軍であった時に、小松地頭職の寄進をうけたと記します。小松荘は、那珂郡小松郷(琴平・榎井・四条・五条・佐文・苗田)にあった藤原九条家の荘園です。
 貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進もそのあらわれかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。地頭職といっても、南北朝時代のころにはその職務や身分とは関係なく、所領そのものでした。嘉慶二年の段銭請取状にみえる「子松瀬山分七段」は、この時寄進された小松地頭職の一部のようです。
 ところで細川頼之の末弟満之の子頼重が、応永12年(1405)に将軍義満から所領安堵の御教書をもらっています。
讃岐国の所領は、子松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同公文職となっています。満之、頼重は備中守護ですが、讃岐のこれらの所領は、おそらく頼之が讃岐守護であった時に細川氏の領有となったものでしょう。細川氏の小松荘領有がどんな形のものであったかは分かりません。少なくとも頼之末年の嘉慶二年のころは、金倉寺は小松荘内に地頭職を持っていました。

「立始事」の終りの二ケ条は、幕府から寺領ついての諸公事を免除してもらった内容です。
⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                 
⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
段銭というのは田畠の段別に課せられた税で、一国平均役につながるものです。だから本来は朝廷―国衙に賦課、徴収権があり、大嘗会や伊勢神宮造営などの費用のための臨時税だったはずです。ところが室町時代には幕府が賦課の権限を握り、徴収は守護が行うようになります。また、その取りたても臨時的なものから次第に恒常的なものとなり、さらに守護自身の守護段銭がこれに加わって課せられるようになります。このため負担者である領主・農民にとっては耐え難い重圧でした。そこで室町時代には荘園領主や農民がさまざまな形で段銭徴収に抵抗するようになります。金倉寺も良海、有海などの運動が成功して、幕府から諸公事段銭免除の御判をもらっています。金倉寺にとっては大変な喜びだったことでしょう。しかし、この免除の約束がはたしてどこまで効力をもったかについては研究者は懐疑的なようです。
それは、在地武士による寺領侵入や押領が日常的に繰り広げられる時代が丸亀平野にも訪れていたからです。
金倉寺の寺領上金倉での段銭徴収の文書を見てみましょう。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。
二月九日                                       元景(花押)
三嶋入道殿
これは上金倉に段銭が課せられてれて「不便」なので免除して欲しいという申し入れに対して、従来から賦課の対象になっている定田のとおりに今後も取りたてるように、 元景が三嶋入道に指示したものです。ここで研究者が注目するのは、書状の署名者です。
天霧山・弥谷山@香川県の山
香川氏の山城があった天霧山

元景というのは、西讃守護代の第二代香川元景と研究者は推測します。

彼は長禄のころに、細川勝元の四天王の一人といわれた香川景明の子で、15世紀後期から16世紀前半に活躍した人物です。元景は守護代でしたが、「西讃府志」によれば「常二京師ニアリ、管領家(細川氏)ノ事ヲ執行」していたので、讃岐には不在でした。そのため讃岐には守護代の又代官を置いて支配を行っていたとされます。書状の宛名の香川三嶋人道が、その守護又代官になるようで、元景の信頼の置ける一族なのでしょう。上金倉荘の段銭を現地で徴収していたのはこの三嶋人道で、金倉寺の要望を無視して、守護代の元景は従来どおりの段銭徴収を命じたことが分かります。
段銭

 段銭は幕府・守護の重要な財源でした。
守護は段銭徴収を通じて荘園や公領に、領主支配権を浸透させていきます。そのため幕府が寺領段銭を免除しても、守護たちにとっては、そう簡単に従えるものではなかったようです。段銭徴収権は、封建領主化の強力な挺子でした。そこにますます地域で不協和音がおきる温床がありました。
 金倉寺領のその後は分かりませんが、香川氏が戦国大名化していく中で、その支配下に組み込まれていったことが予想できます。つまり、金倉寺や善通寺の寺領は、香川氏に侵略横領されて入ったと研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P

     讃岐の郷名
讃岐の古代郷名 
金倉郷は那珂郡十一郷のひとつです。
東は那珂郡柞原郷、
南は那珂部木徳郷
西は多度郡葛原郷
に接し、北は瀬戸内海になります。古代には金倉郷より北に郷はなかったことを押さえておきます。

讃岐丸亀平野の郷名の
丸亀平野の古代郷名
 江戸期の天保郷帳では、金倉郷域は次の2つに分かれていました。
①丸亀藩領の下金倉村と上金
②高松藩領の金寺村
また、中世には、上金倉村と金蔵寺村を合わせた地を、下金倉と呼んでいました。幕末に編纂された西讃府志には、下金倉は中津とも呼ばれていたとあります。ここからは金倉川河口付近の中津も下金倉の一部であったことが分かります。

丸亀市金倉町
丸亀市金倉町

 上金倉村は、現在の「丸亀市金倉町+善通寺金蔵寺町」になります。 金蔵寺町には六条という地名が残っていますが、これは那珂郡条里6条で、その部が多度郡の1条に突き出た形になっています。ここからもともとは現在の6条の東を流れている金倉川は、条里制工事当初はその西側を流れていて郡界をなしていたと研究者は考えています。
善通寺金蔵寺
善通寺市金蔵寺町

 建仁3(1203)年に、金倉郷は近江の園城寺に寄進されます。
このことは善通寺文書の貞応三年の「東寺三綱解」に次のように引用されています。
右東寺所司(寛喜元年五月)十三日解状を得る云う。(中略)
況んや同国金倉荘は、智証大師の生所也。元是れ国領の地為りと雖も、去る建仁三年始めて園城寺に付せらるの刻、宣旨を下され畢んぬ。然らば則ち、彼は寄進の新荘也。猶速かに綸旨を下さる。此れ又往古の旧領也。争でか勅宣を賜はらざらんや。
東寺の訴えは、園城寺領金倉荘を引合にだして、善通・曼奈羅寺も金倉寺と同じように寺領確認の勅宣を賜わりたいといっています。ここからは次のようなことが分かります。
①国領の地であった金倉郷が、建仁2年に、智証大師円珍が延暦寺別院の園城寺(俗に「三井寺」)に大師生所のゆかりという由縁で寄進されて、金倉荘と呼ばれるようになったこと、
②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。
③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること


4344103-26円珍
円珍

建仁3年から5年後の承元2年にも、園城寺は後鳥羽上皇から那珂郡真野荘を寄進されています。金倉荘の寄進もおそらくそれに似たような事情によったものと研究者は推測します。こうして成立した金倉荘は「園城寺領讃岐国金倉上下庄」と記されています。
 ところが建武三年(1336)の光厳上皇による寺領安堵の院宣には「讃岐国金倉庄」とだけります。ここからは、金倉庄は、上下のふたつに分かれ、下荘は他の手に渡ったことがうかがえます。

園城寺は寄進された金倉上荘に公文を任命して管理させました。
それは、金倉寺に次のような文書から分かります。
讃岐國金倉上庄公文職事
右沙爾成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。
弘安四年二月二十九九日                     寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位       (以下署名略)
意訳変換しておくと
讃岐國金倉上庄公文職について
沙爾成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきたので、依って子々孫々に至りまで公文職を命じすものである。
弘安四年(1280)2月29日                (圓城寺)寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位
これは弘安3(1280)年10月に、沙弥成真が任命された金倉上荘公文の地位を、成真の子孫代々にまで保証した安堵状です。沙弥成真は、「重代の仁」とあるので、すでに何代かにわたって園城寺に関係があったことがうかがえます。沙弥というのは出家していても俗事に携さわっているものを指し、武士であって沙弥と呼ばれているものは多かったようです。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍坐像(金倉寺)
それでは現地の金倉寺は、金倉荘にどんな形で関わっていたのでしょうか?金倉寺の僧らの書いた「目安」(訴状)を見ておきましょう。
目安
金蔵寺衆徒等申す、当寺再興の御沙汰を経られ、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□
右当寺は、智證大師誕生の地(中略)
而るに、当所の輩去る承久動乱の時、京方に参らず、天台顕密修学の外其の嗜無きの処、小笠原二郎長を以って地頭に補せらるの間、衆徒等申披(ひら)きに依って、去る正応六年地頭を退けられ早んぬ。然りと雖も、地頭悪行に依って、堂舎佛閣太略破壊せしむるの刻、去る徳治三年二月一日、神火の為め、金堂。新御影堂。講堂已下数字の梵閣回録(火事のこと)せしめ、既に以って三十余年の日月を送ると雖も、 一寺の無力今に造営の沙汰に及ばざるもの也。(下略)
意訳変換しておくと
金蔵寺の衆徒(僧侶)が以下のことを訴えます。当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□ 当寺は、智證大師誕生の地で(中略)
ところが、金倉寺周辺の武士団は承久動乱の時に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されやってきました。この間、衆徒たちは、反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
この文書に日付はありませんが、徳治3年から約30年後のこととあるので南北朝時代の始めのころと推測できます。誰に宛てたものかも分かりません。こうした訴えが効を奏したものか、「金蔵寺評定己下事」という文書によると、法憧院権少僧都良勢が院主職のとき、本堂・誕生院・新御影堂が再建され、二百年にわたって退転していた御遠忌の大法会の童舞も復活しています。南北朝時代の動乱も治まった頃のことでしょうか。この頃に金倉寺の復興もようやく軌道にのったことがうかがえます。とすると保護者は、南北朝混乱期の讃岐を守護として平定した細川頼之が考えられます。頼之は、協力的な有力寺社には積極的に保護の手を差し伸べたことは以前にお話ししました。
 研究者が注目するのは、この「目安」の中の正応六年に地頭を退けたとある文に続く「当職三分二園城寺、三分一金蔵寺」という割注です。当職というのは現在の職ということのようです。幕府の地頭を退けたあとの当職だから、これは地頭職のことで、地頭の持っていた得分・権利を金蔵寺と荘園領主園城寺が分けあったことになります。
 ところが、同じ金倉寺の嘉慶2年(1388)の「金蔵寺領段銭請取状」の中には、金倉寺領として「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」と記されています。この「同上庄参分一」は、先の「当職、三分一金蔵寺」と同じものと研究者は考えています。上荘というのは金倉上荘で、その面積からいって、「三分の一」というのは地頭領の三分の一ではなく、荘園全体の三分の一になります。
 また「三分の一」が独立の段銭徴収単位になっていて、金倉寺が領主となって納入責任を負っているのですから、金倉寺は金倉上荘において、園城寺とならぶ形で、その三分の一を領していたことになります。これは強い権限を金倉寺は持っていたことになります。

金蔵寺
金倉寺
それは、どんな事情で金倉庄は金倉寺領となったのでしょうか?   金倉寺文書の「金蔵寺立始事」を研究者は紹介します。これは室町時代の康正三年(1456)に書かれた寺の縁起を箇条書きにしたものでで、次のように記されています。
 土御円御宇建仁三年十月 日、官符宙成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。

ここには上御門天皇の代、鎌倉時代初期の建仁3年(1203)に、官符宣(官宣旨?)によって上金倉の寺の敷地が寄進されたとあります。金倉寺の敷地は、現在地からあまり動いてはいません。そうだとすればその敷地のある上金倉とは、丸亀市の上金倉ではなく、金倉上庄(善通寺市)のことになります。寺の敷地とありますが境内だけではなく、かなり広い田畑を指しているようです。とすればこの文書が金倉上ノ庄1/3の寺領化のことを指していると研究者は推測します。
 縁起は寺の由来を語るものです。そこに信仰上の主張が入るし、さらに所領のこととなると経済上の利害もからんできます。そのため記事をそのまま歴史事実とうけとることはできません。しかし、さきに見た「衆徒目安」や「段銭請取状」の記載とも適合します。

4344103-24金蔵寺
金倉寺

研究者は、これを一定の事実と推測して、次のような「仮説」を語ります。
①建仁三年に園城寺領金倉荘の寄進が行われていること。
②この寄進のとき、その一部が金倉寺敷地として定められた。
③「金倉上庄三分一」とあるので、金倉上荘領主園城寺との間に何らかの縦の上下関係はあった。
④後の状況からみてある程度金倉寺の管領が認められ自立性をもった寺領であった
以上から、次のように推察します。
A善通寺市金蔵寺の周囲が、金倉寺領(金倉上荘三分の一)
B園城寺直轄領は、丸亀市の金倉の地(残りの三分の二)
金倉寺は、Aの「三分の一」所領の他にも、上荘内に田畠を所有していました。
その一つは、貞冶二年(1363)卯月15日、平政平によって金倉寺八幡宮に寄進された金倉上荘貞安名内田地参段です。八幡宮は「金倉寺縁起」に次のように記されています。
「在閥伽井之中嶋、未詳其勧請之来由」

これが鎮守八幡大神のようです。平政平は木徳荘地頭平公長の子孫と研究者は考えています。もちろん、神仏混淆の時代ですから鎮守八幡大神の別当寺は金倉寺であり、その管理は金倉寺の社僧が務めていたはずです。
私が注目するのは、金倉寺への「西長尾城主 長尾景高の寄進」です
その文書には次のように記されています。
(端裏書)
「長尾殿従り御寄進状案文」 上金倉荘惣追捕使職事
右彼職に於いては、惣郷相綺う可しと雖も、金蔵寺の事は、寺家自り御詫言有るに依って、彼領金蔵寺に於ては永代其沙汰指し置き申候。子々孫々に致り違乱妨有る可からざる者也。乃状件の如し。
費徳元年十月 日
長尾次郎左衛円尉 景高御在判
意訳変換しておくと
長尾殿よりの御寄進状の案文 上金倉荘の「惣追捕使職」の事について
この職については、惣郷全体で関わるが、金蔵寺に関しては、寺家なので御詫言によって免除して貰った。この領について金蔵寺は、これ以後永代、この扱いとなる。子々孫々に致るまで違乱妨のないようにすること。乃状件の如し。

「惣追捕使」というのは、荘役人の一種で、「惣郷で相いろう」というのは、郷全体でかかわり合うということのようです。この文はそのまま読むと「惣追捕使の役は、郷中廻りもちであったのを、金倉寺はお寺だからというのではずしてもらった」ととれます。しかし、それは、当時の実状にあわないと研究者は指摘します。惣追捕使の所領を郷中の農民が耕作していて、その役を金倉寺が免除してもらったと解釈すべきと云います。
 さらに推測すれば、惣追捕使領の耕作は農場のようにように農民が入り合って行うのではなく、荘内の名主にいくらかづつ割当てて耕作させて年貢を徴収していた。そして、金倉寺も貞安名参段の名主として年貢の負担を負っていたと研究者は考えています。その負担を「金倉上荘惣追捕使長尾景高」が免除したことになります。これで、田地の収穫は、すべての金倉寺のものとなります。これを「長尾殿よりの寄進」と呼んだようです。こうして金倉寺は惣追捕使領内に所有地を持つことになりますが、その面積は分かりません。
 注目したいのは寄進者の「金倉上荘惣追捕使長尾景高」です。        長尾景高は、長尾氏という姓から鵜足郡長尾郷を本拠とする豪族長尾氏の一族であることが考えられます。ここからは、応仁の乱の20年前の宝徳元年(1449)のころ、彼は金倉上荘の惣追捕使職を有し、その所領を惣郷の農民に耕作させるなど、金倉上荘の在地の支配者であったことがうかがえます。また彼は金倉寺の保謹者であったようです。そうすると、長尾氏の勢力は丸亀平野北部の金倉庄まで及んでいたことになります。
 これと天霧城を拠点とする香川氏との関係はどうなのでしょうか? 16世紀になって戦国大名化を進める香川氏と丸亀平野南部から北部へと勢力を伸ばす長尾氏の対立は激化したことが想像できます。そして、長尾氏の背後には阿波三好氏がいます。
 そのような視点で元吉合戦なども捉え直すことが求められているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献           金倉寺領および圓城寺領金倉荘     善通寺市史574P    

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