瀬戸の島から

2022年10月

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三好市三野町田野々の庚申塔
阿波のソラの集落のお堂めぐりをしていると、必ず出会うのが庚申塔です。
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田野々の集落を見下ろす岡の上に建つ庚申塔
庚申塔には、いろいろな姿の青面金剛像や三猿が彫られていて、見ていて楽しくなります。だんだんと庚申塔に出会うのも楽しみになってきました。
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青面金剛が彫られた庚申塔(田野々)
ソラの集落では、お堂の近くに庚申塔が残ります。これは江戸時代後半頃から明治頃に流行した庚申信仰の痕跡のようです。

地域の相互扶助に根付いた庚申信仰 0982アーカイブ(2016・2月) | 0982株式会社・0982charmer
「庚申祭者名簿」(庚申講のメンバー)

集落の信者たちが「庚申講」を組織して、60日に一度の庚申待ちをお堂で行っていたことを示します。そして彼らが庚申塔を建てたのです。それが流行神としてもっとも盛んになるのが幕末期のようです。そこで、今回は改めて庚申信仰と庚申塔、そして青面金剛について、見ていきたいと思います。テキストは「五来重 石の文化」です。

楽天ブックス: 石の宗教 - 五来 重 - 9784061598096 : 本

 なぜ「庚申待」をするかについては、道教の立場から「三尸虫説」が説かれてきました。                 
  
庚申信仰 三戸虫
三尸虫

人間の体には三尸虫というものが潜んでいて、それが庚申の夜には人間が寝ている間に、身体をぬけ出し天に上り、その宿り主の60日間の行動を天帝に報告する。そうするとたいていの人間は天帝の罰をうける。
庚申待2
庚申待のいわれ
そこで寝ずに起きいれば、三尸虫は抜け出せない。そのためには講を作って、一晩中、話をしたり歌をうたったりしているのがよいということになります。この種の庚申待は、祀るべき神も仏もないので「庚申を守る」・「守庚申」と云われました。話だけでも退屈するので詩や歌をつくり、管弦の遊びもします。俗に「長話は庚中の晩」とも云われるようになります。

庚申待ち2
江戸時代の町方のでの庚申待の様子。真剣に祈っているのは2人だけ
 町方の富裕層の間では中国からの流行神の影響を受けて、60日に一度徹夜で夜を明かすことが広がったこと、そして後には、宗教行事でも何でもなく、ご馳走食べての夜更かし、長話の口実になったようです。確かに町方では、そうだったかもしれません。
 しかし、この説明ではソラの村での庚申信仰の広がりや熱心な信仰の姿を説明しきれません。

『女庭訓宝文庫』より「庚申待ちの事」

これに対して庶民信仰の「荒魂の祭」で「祖神祭りの変形」という視点から五来重氏は次のように捉えます。
 もともと古代から日待(ひまち)や月待(月待ち)の徹夜の祭が、庶民の間にはありました。
①日の出を待って夜明かしする行事を「日待」、
②決まった月齢の夜に集まり、月の出を拝む行事を「月待」
それを修験者たちは庚申待に「再編成」していきます。「日待・月待」が「庚申待」に姿を変えていく過程には、先祖の荒魂をまつる「荒神」祭が前提としてあったこと。それが「荒神 → 庚申」へと転化されること。
太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art on Twitter:  "新型コロナウイルスの拡大防止を祈念して、葛飾北斎が20代後半に描いた珍しい仏画をご紹介。青面金剛という庚申信仰のご本尊。病魔や病鬼を除く力があるとされています。下には、見ざる言わざる聞かざるの三猿が  ...
青面金剛(太田記念美術館)
そして、最後に庚申待の神を仏教化して、忿怒形の青面金剛として登場させます。


「日待」「月待」は、もともとはなんだったのでしょうか?
日待は農耕の守護神として正月・5月・9月に太陽を祀っていました。これが後になると伊勢大神宮の天照皇大神をまつるようになります。夜中に祭をするというのは、太陽の祭ではなくて祖霊の荒魂の祭であったことを示します。月待ちで7月23日に夜の月をまつるのもお盆の魂祭の一部で、荒魂の祭で、夜待(夜祀り)です。

 庚申待が先祖祭の痕跡を残すのは、一つには庚申待には墓に塔婆を立てたり、念仏をしたりすることからうかがえます。これが庚申念仏といわれるもので、信州などでは庚申講と念仏講は一つになり、葬式組の機能もはたしているようです。

庚申講の祭壇(長野県)
庚申講は、どんな風に行われていたのでしょうか。
 庚申講の流れを、見ておきましょう。
①庚申の晩に宿になった家は、庚申の掛軸(青面金剛)を本尊として南向きに祭壇をかざり、数珠やお経を出し、御馳走をこしらえて講員を待ちます。
②全員が集まると御馳走を頂戴してから、水や椋の葉で体をきよめます。
③それから講宿主人の「先達」で般若心経を読んでから「庚申真言」
(オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ)
を108回唱えます。
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唱えるときには、立ち上かってからしやがんで、額を畳につける礼拝をくりかえします。これは、六十日間の罪穢れを懺悔する意味があるとされます。これは大変なので後には、一人の羽織を天井から紐で吊り下げておいて、これを引いて上下させ、礼拝に代えるようになります。しかし、どこの庚申帚でも、この「拝み」があったようです。これは庚申本尊(青面金剛)に懺悔することによって、災いから護ってもらえると信じたからでしょう。

青面金剛1
祭壇正面に掲げられる青面金剛
 庚申塔の説明
庚申塔の青面金剛と構成要素
これは先祖祭の精進潔斎にも共通するものです。もともと祖先の荒魂に懺悔してその加護を祈っていました。それが「荒魂→荒神」として祀るようになります。さにこれを山伏が「荒神(こうじん)→ 庚申(こうしん)」として、修験道的な青面金剛童子に代えたと研究者は考えているようです。
流山三町物語散策➂ : 漫歩人の戯言

 流山三町物語散策➂ : 漫歩人の戯言

最後に「申上げ」として、南無阿弥陀仏の念仏を21回ずつ3度となえます。念仏を唱えることに研究者は注目します。
これは念仏行者や聖などの修験者による「念仏布教の成果」ともとれます。中世後半には霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)など野念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動を展開していたことは以前にお話ししました。阿波の高越山や、讃岐の弥谷寺などはその代表でしょう。伊予新宮の熊野神社や仙龍寺や三角寺などを拠点とする修験者たちもそうだったかもしれません。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していく原動力になったのではないかと、私は考えています。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、テリトリーを示すのではないかという思いです。
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庚申講と念仏の関係を報告した書
また、庚申講で念仏が唱えられる意味は、念仏講が庚申講が結合したことを示しています。
これによって庚申講は遠い先祖と近い祖霊の両方を祀ることになります。1年に庚申の日はだいたい6回まわってきますが、十数年に一度、7回庚申の日がまわってくる年があります。この年を「七庚申」と呼ぶようです。七庚申年を迎えると念仏によって供養された祖霊が、神になったことをしめすために、「弔い切り塔婆」である庚申塔婆が建てられるようになります。「弔い切り(上げ)」というのは、年忌年忌の仏教の供養によって浄化された霊は、三十三年忌で神になり、それ以後は仏教の「弔い」を受けないという庶民信仰です。
 これと庚申塔出現の過程を簡単にまとめておきます。
①神になった祖霊神は、神道式のヒモロギ(常磐木の梢と皮のついたままの枝)で祀られる。
②これを仏教や修験道は塔婆と呼び、庚申塔婆へと変化する
③やがて塔婆は「板碑」(いたび)になり、これに青面金剛が浮彫された庚申石塔が登場する。
簡略化すると次のようになるのでしょうか。
「ヒモロギ → 塔婆 → 庚申塔婆 → 板碑 → 青面金剛の庚申塔」

庚申信仰が庶民に広く、深く浸透していった背景を見ていきました。
そこには念仏聖や高野聖などの修験者の存在が浮かび上がってきます。
それを五来重氏は「石の文化」の中で、次のようにも記します。

 庚申待は、庶民信仰の同族祖霊祭が夜中におこなわわていたところに、道教の三尸虫説による守庚申が結合して、徹夜をする祭になった。そして、この祭りにはもとは庚中神(実は祖霊)の依代(よりしろ)として、ヒモロギの常磐本の枝を立てたのが庚申塔婆としてのこったのです。これがもし三尺虫の守庚申なら、庚申塔婆を収てる理由がない。しかしこの庚申塔婆も塔婆というのは仏教が結合したからで、庶民信仰のヒモロギが石造化した場合は自然石文字碑になり、仏教化した塔婆が石造化した場合は、青面金剛を書いた板碑形庚申塔になったものと、私は理解している。
そして、庚申信仰を次のように捉えます。
①庚申信仰は、仏教でも神道でも道教でもない素朴な庶民信仰を基盤に持つ。
②庚申信仰は修験道を媒介として、仏教、神道、陰陽道に結合する
③修験道は、庚申信仰の神をまつるのに、仏教も神道も道教も混合して、すこしも嫌わない
④庚申信仰の青面金剛や庚申真言も山伏がをつくりあげた。

以上からすると、ソラの集落に残る庚申塔は、修験者(山伏)たちによって広げられたということになります。『修験宗神道神社印信』にも、次のように記します。
庚申待大事 無所不至印
ヲツコシンレイコシンレイ マイタリ マイタリ ソワカ
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
摩利支天印 宝瓶印
ヲンマリシエイ ソワカ                 
各地の庚申講では、この印信を受けている所が多いようです。これは、山伏がもたらしたものであることが分かります。ここからも庚申信仰を村々に担ってきたのが山伏たちであることが裏付けられます。

踊り念仏の風流化と勧進聖 | 大森 惠子 |本 | 通販 | Amazon

庶民の願いである「現世利益と来世安楽・祖先供養」などを、受け止めたのが、聖だったのかもしれません。彼らは、祈祷や念仏や踊りや和讃とともに、お札をくばるスタイルを作り出します。弘法大師師のお札を本尊に大師講を開いてきた村落は四国には数多くあります。また、高野聖は念仏札や引導袈裟を、持って歩いていました。ここからは、庶民信仰としての弘法大師信仰をひろめたのが高野聖であったことが分かります。庚申信仰も、彼らが組織していったことがうかがえます。
二所山神力院史 | 研究成果一覧 | 長岡造形大学 卒業・修了研究展

高野聖と里山伏は非常に近い存在でした。
修験者のなかで、村里に住み着いた修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 また、高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったとする研究者も数多くいます。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たし、庚申講も彼らによって組織されたとしておきます。
 しかし、解けない謎はまだあります。阿波のソラの集落にはお堂があり、そこで庚申待ちが行われ、庚申塔が数多く見られます。ところが讃岐の里の集落にはお堂も、庚申塔もあまりありません。庚申信仰の痕跡が余り見られないのです。これはどうしてなのでしょうか?
庚申信仰が庶民に流行するのは、江戸時代後期になってからです。それをもたらしたのは修験者(山伏)でした。そこで、私は次の2つの背景を考えています。
①阿波では高越山・箸蔵山など修験者勢力が強かった。
②讃岐が浄土真宗王国となり、修験者たちの活動が制限された。
讃岐では真宗興正寺派のお寺が多く、活発な活動を展開します。真宗は「鬼神信ずるべからず」という方針を打ち出すので、庚申さまの信者となることは排斥されたことが考えられます。つまり熱心な真宗信者は、庚申信仰を受けいれなかったという説です。
そんなことを考えながらのソラの集落への原付ツーリングは続きます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献      五来重 石の文化
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 周防大島沖家室地下

周防大島の姿は、頭を西にして、尾っぽを東に振る金魚に例えられるようです。二つに分かれる下側のちぎれた尾っぽの先にくっついているのが沖家室島です。この島は、九州諸大名の参勤交代のときの寄港地で、海の荒れたときには御座船がここに船を着け、泊清寺を宿所にしたといいます。泊清寺は、海の本陣だったことになります。そして、幕末の頃には、千軒近い民家のある賑やかな浦だったようです。今回は、「宮本常一 私の日本地図 周防大島」に導かれて、沖家室を訪ねて見た報告です。
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沖家室大橋
島の南側の車道を走ってくると、島にかかる橋が見えてきました。
橋を渡った橋桁の下に、ドッグ跡のようなようなものがありました。
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説明版には次のように書かれています。
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御船倉跡
これを要約しておくと
①沖家室島は阿波からの一本釣り漁法をはやくから取り入れ、浦(漁港)として発展してきたこと。
②さらに九州の諸大名の参勤交替の御座船の寄港地ともなり、津(交易港)としても成長したこと
③そのために毛利藩は、沖家室島に船番所を設置して、公用船を常備させ行き交う船の管理監督を行ったこと
④18世紀のサツマイモの普及によって、幕末には人口が十倍に増え3000人近くになったこと
⑤そのため集落背後には、山の上までサツマイモ畑が開墾され「耕して天に至る」光景が見えたこと
こうして沖家室は、瀬戸内海屈指の漁村で、家室(かむろ)千軒といわれるようになります。
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沖家室の早舟
ここには早舟が常備され、火急の時には対岸の地家室や、本土の大畠まで海上を漕いで知らせたと書かれています。この港が毛利藩の重要拠点であったことが分かります。

それでは、中世の沖家室はどうだったのでしょうか?
戦国時代後半の16世紀終り頃には、ここは無人島でした。それが伊予河野氏の滅亡によって、その家臣(海賊衆)たちがこの島に「亡命」して来て住むようになります。本浦の泊清寺(はくせいじ)は、寛文三(1664)年頃の創建ですが、よく整理せられた過去帳がのこっていて、家々の系譜を正しくたどることができます。それは年代別だけでなく、家別のものも作られているからです。伊予からこの島に渡って来た古い家には、石崎・友沢・柳原などがあります。

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沖家室の本浦と洲崎 黄緑は段々畑の分布

地図を見ると島には、本浦と洲崎の二つの集落(地下)があります。文字の通り、本浦の方が早く開けます。上の地図を見ると、本浦の山裾がほぼ等間隔に海岸から山に向つて分けられ、段々畑が重っています。いまは、自然に帰って畠は見えませんが林の中には、段々畑の跡が残っています。近世初期には、この縦割の数と同じだけの人家があった、つまり、初期には移住者に均等に土地が配分されたと研究者は考えています。これは、以前にもお話ししましたが瀬戸の島々の初期開墾時には良くみられる光景です。その区画を数えると40少々なので、はじめは40戸足らずの人家によって開墾がはじまったと研究者は推測します。
沖家室本浦

それでは近世初期以前には、この島には人はいなかったのでしょうか?
伝承では、昔は海賊がいたと伝えられます。実際に、古い墓が本浦の家の上の畑の隅にあるようで、研究者は五輪搭のかけらをいくつも採集しています。この中には「国東塔の変形」のようなものもあると研究者は指摘します。さらに石質は凝灰岩で国東半島から来たもので、年代的に見れば江戸時代より古いものだと考えています。そうだとすれば、沖家室島は、中世には国東塔を残すほどの勢力を持った者がいたこと、そして国東半島と深い関係をもっていたことが推測できます。それがいつの頃かに、無人島になったようです。浮島とおなじように、厳島合戦のとき陶氏に属し、敗れて毛利氏によって島を追われたという説を研究者は考えています。そうだとすれば、それから50年ほど経って、江戸時代になって平和な時代になってから伊予からの河野氏や村上氏の海賊衆の末裔が住み着くようになったのかもしれません。
 無人島となっていたこの島に、まず畑作農業のために人々が住み着き本浦を開きます。その後、島の中で阿波の堂浦へいって、一本釣の漁法を習って来て一本釣をはじめる者が現れます。沖家室の南は千貝瀬・小水無瀬島・大水無瀬島などのよい漁場にめぐまれていて、漁浦として発展します。こうして、本浦の西に洲崎という漁民の浦が現れます。
 元禄11(1698)年になると、この島には鼠が異常発生して畑作物を食いあらし、島民が飢餓に襲われます。そこで庄屋の石崎勘左衛門は、紀州(和歌山県)からイワシ綱を招いてイワシをひいて飢をしのぐ方策を実行します。この計画はうまくあたります。こうしてこの島は「農業+漁業」のミックスした島として成長していくことになります。これに拍車をかけたのが、この島が九州諸大名の参勤交代のときの寄港地になったことです。海の荒れるときなど大名は、ここに船を着け、泊清寺を宿所にします。泊清寺は、「海の本陣」の役割を果たすようになります。

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沖家室島の案内図
本浦の泊清寺に行って見ることにします。
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泊清寺
港からの坂道を登るとすぐに見えて来ました。


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泊清寺の井戸
大きな石垣の上に境内はあります。その下にはしっかりとした井戸が見えます。瀬戸の港にとって、井戸は最重要なものでした。これを制する者が地域の有力者です。寄港する船もきれいな水を求めます。それを提供できる勢力が船乗りにとっては、第1の交渉相手となることは古代以来の定めです。この井戸を見るだけで、この寺の果たした役割がある程度はうかがえます。
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泊清寺山門
山門は竜宮城をイメージするような形で「海の寺」であることを主張しているように思えます。P1200920
泊清寺本堂
今の視点からすると周防大島の中でも辺境の地にあるお寺にしては立派と思ってしまいます。しかし、瀬戸内海が海のハイウエーであった時代は、人とモノの流通路にこの港はあり、多くの富も出入りしたようです。
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泊清寺
本堂横には「参勤交替本陣跡」の石柱が建てられていました。「海の本陣」としての格式を備えた寺院だったようです。この港が大名の御座船の潮待ちの際の寄港地だったことを裏付ける史料を見ておきます。
肥後熊本藩は「海の参勤交替」を行っていたことは以前にお話ししました。阿蘇を越えて大分から船で瀬戸内海を渡っていました。藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を以前に見ました。彼の乗る船は、桜満開の旧暦3月8日(新暦4月上旬)に大分を出港して、そのまま北流する潮の流れに乗って、周防上関に入ります。そして、満潮で東流する潮に乗って、周防大島周辺を以下のように航海していきます
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室(沖家室)の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路と伊予の島々

 上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。

上関 → 大津浦 → 加室(沖家室) → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

この時は沖家室には、潮待ちのために入港し滞船しただけで、
上潮を待って夜中に出港しています。しかし、非常時には上陸し、その際には泊清寺が本陣として使用されたようです

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泊清寺のフカ地蔵堂
この本堂の隣に建っているのがフカ地蔵堂です。この地蔵さまは、いろいろの伝説があります。その一つを紹介すると

昔、下関に山形屋庄右衛門という商人いた。その娘と船で上方から戻って来る途中、沖家室の沖で船がとまって動かなくなった。よく見ると大きなフカが船底についている。これは船に乗っている者をほしがっているのではないかと人々はささやきあった。そこで誰をほしがっているのかそれぞれ手拭を海にうかベてみた。すると山形屋の娘の手拭が沈んでしまった。親子は大変おどろき、かなしんだ。船に乗っている人の一人が、「沖家室にはフカ地蔵といって霊験あらたかな地蔵様がある。その地蔵様に祈ってみてはどうか」と言った。そこで親子の者は 心になって祈り、「命を助けて下さるなら、孫子の代まで代々地蔵様を造って寄進します」といった。するとフカが船からはなれ、船は動き出した。そこで親子は、泊清寺のフカ地蔵にお礼参りして、下関へ帰ってからから石地蔵を送り届けた。そして代の変るごとに地蔵の寄進が続いたので、、いまは五体ならんでいる。最も新しいものは昭和14年5月とある。地蔵様は、真中のものが一番大きい。だんだん小さくなっているのは信仰心のうすれてきたのかもしれない。と島の人達は噂しているといいます。

ここからは庶民たちの信仰心を捉える流行神を作り出す「経営努力」を、この寺が続けていたことや、瀬戸内海の交易ルートの要衝にあって、広域的に多くの信者を抱えていたことがうかがえます。

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沖家室の漁師は、一本釣りでタイとハマチを釣るのが上手でした。
タイは沖家室の沖にもいましたが、漁期をすぎると、 隧灘の魚島へ釣りに出かけます。そこに鯛が集まり出すからです。中には讃岐の与島まで釣りにいく者もいました。塩飽では6月頃まで釣れるからです。それから宇和島沖へも行きます。戻って来ると盆です。盆から秋祭りまでの一月は島の付近で釣り、祭がすむと北九州へ下っていきます。
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本浦港
 博多組、唐津組、伊万里組などという組がありました。明治になると壱岐や対馬へも進出するようになります。さらに台湾組というのもできて、台湾の南端ガランピにまで進出し、分村を作っています。明治10年頃からはハワイにも渡って、ホノルルを中心にした漁場は沖家室人が開いたともいわれます。
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本浦港
 漁師たちは一人前の漁師になるために親方につきます。親方が、こ一人前と見れば漁船を造ってやって独り立ちさせます。とは云っても船代は親方からの借金です。米や薪も親方に借ります。そのため釣って来た魚は、全て親方に渡します。親方は盆と暮れに勘定して釣りあげた魚の価格から貸した金や米塩代を差引いたものを漁師に渡すという流儀です。これにはいかがわしい勘定もあったようで、「搾収」もあったようです。しかし、借金することのできることを誇りに思っていたくらいの風土ですから、漁民たちはあまり苦にせず、問題にもならなかったようです。

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沖家室島の本浦港へ帰ってくる漁船

旅することを苦にしない人たちなので、ハワイがよいとなると皆押しかけていきます。そしてホノルルで漁業に従った者もいましたが、甘藷畑で働き、そのままハワイにとどまった人達も多かったようです。それでもふるさととの心の縁はきれないで、ふるさとの寺や神社の修復工事の時には、ハワイヘ寄付を依頼すると、多額の金が送られて来たといいます。
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蛭子神社
今度は、港を見下ろす所に鎮座する蛭子神社に行ってみましょう。
この島も氏神様のすぐ近くに小学校が作られていたようです。子ども達は神社の境内も含めて遊び場にしていたことでしょう。

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本殿にお参りして、港を眺めます。ここから瀬戸内海はいうに及ばず、東シナ海や台湾方面にまで船乗りは出かけ、そこに定住したものも多かったようです。
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狛犬が本殿の柱にロープでつながれています。

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その礎石には、「高雄沖家室同郷会」と刻まれています。高雄とは、台湾の台北の外港です。戦前には、沖家室の同郷会があり、故郷の鎮守に立派な狛犬を寄進する力があったことが分かります。
   神社の玉垣にも海外在住者の名前が多いのに驚かされます。敗戦後の物不足の時も、ハワイからいろいろの物を送ってくるので物資には困らず、あり余ったほどだったという話が伝わっています。

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沖家室本浦の高札場

沖家室は、お寺や神社をめぐっていても、いろいろな発見がある所でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

私の日本地図 9 瀬戸内海 Ⅲ周防大島 宮本常一著作集別集(宮本常一 香月洋一郎 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本 の古本屋

参考文献「宮本常一 私の日本地図 周防大島」
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村上武吉の墓
前回は讃岐から松山まで原付ツーリングで行って、三津浜港から周防フェリーで伊保田港に渡り、村上武吉とその次男の墓参りをお伝えしました。その中で、武吉の晩年は失意に満ちたものであったことをお話ししました。
 関ヶ原の戦い後に、毛利氏は大幅減封されて存続することになります。毛利氏に仕えていた村上武吉も、それまでの石高から比べると1/20に大幅に減らされ、与えられて領地が周防大島東部の和田や伊保田でした。ここに、武吉に従って竹原からやってきた家臣団は、35家でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。石高千石に、家臣46家は多すぎます。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書が出しています。

「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、長男以外の多くの若者たちが仕官先等を求めて、周防大島を去って行きます。
 その中に武吉の手足として働いた家老職的な島吉利( よしとし)の長男や次男たちもいました。
島吉利の経歴については、以前にお話しした通りです。吉利は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)7月8日に森村で亡くなっています。彼の顕彰碑が、伊保田港を見下ろす墓地にあると聞いていました。伊保田港附近で「島吉利の顕彰碑は、どこですか」と聞いても分かりませんでした。そこで「まるこの墓」は、どこですかと訪ねると、「郵便局の近くにある集団墓地」と教えてもらえました。それを手がかりにして探します。
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伊保田の油田郵便局周辺
こんな時に原付バイクは小回りが効くので便利です。行き過ぎれば、すぐにUターンできますし、停車もできます。老人のフィルドワークには最適です。
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まるこの墓(伊保田)
墓地が見えて来たので近づくと説明版がありました。
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一通り読んで登っていきます。
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墓域の中の最上級のエリアの中に、海を向いて立っていました。

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島吉利顕彰碑(正面)
正面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。これが島吉利の顕彰碑のようです。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱で、あまり大きいものではありません。P1200650
島吉利顕彰碑(右面)
造立年は、文化4(1804)年とあります。死後すぐに立てられたものではないようです。建立者は「周防 島信弘 豊後 島永胤」の名前があります。この石造物は墓として建てられたのではなく、死後約200年後に子孫の豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、文化4年に造立したものになるようです。顕彰碑の文章を採録し、意訳しておきます。
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  島吉利顕彰碑(左側)

君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍

意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
村上島氏系図1
 村上島氏系図(碑文の人名番号は、系図番号に符合)
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           島吉利顕彰碑(裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈

意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
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 右側
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
偉大である。いわんや殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために島永胤が婦兄に諮り、一族の家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。

  200年間音信不通になっていた島家の子孫が再会した結果、この顕彰碑が建てられたということになります。

大島を出た島吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟の行方については、以前に述べました。それを簡略にまとめておきます。
①村上氏の同族である久留島(来島)康親(長親)が治める豊後森藩に180石で仕官。
②豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、藩の普請奉行として大坂で活動。
③島原の乱が起きると兵を率いて出陣し、その功で家老に任ぜられ400石を支給
④しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」、その後追放。
⑤時の当主は、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住み、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め
⑥それが認められ杵築松平氏から速見郡八坂手永の大庄屋役に任命
こうして、杵築藩の八坂本庄村に居宅を構えることになります。八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯です。勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。周防大島を出た島吉利の子ども達の子孫は、森藩仕官を経て、杵築藩の大庄屋となったことになります。
 大庄屋となった勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
勝任は、享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
 顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖の吉利顕彰のために建碑を思い立ちます。
 その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、慰霊碑建立に備えています。そうした上で文化三年に、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたようです。
   
この顕彰碑を建てた豊後の島永胤の墓にも、お参りに行こうと思います。
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徳山港に入港する周防フェリー
今度は、周防大島から徳山港までいって、竹田津行きの周防灘フェリーに乗ります。
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徳山湾を出て真っ直ぐ南に進むと、姫島と海に突き出た国東半島の山々が見えて来ました。

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2時間ほどの船旅でした。周防灘の広がりと姫島の航路上における重要性が印象にのこりました。

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六郷満山の山脈を越えて、杵築までの原付ツーリングです。
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やってきたのは大分県杵築市です。杵築城の直ぐ下を流れる八坂川を遡っていくと、干拓で開かれた穀倉地帯が広がります。
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千光寺
この穀倉地帯の治水灌漑整備に、島氏は大庄屋として尽くしたようです。稲刈りの進む水田の向こうに見えてくるのが千光寺です。

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千光寺山門
 八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっているようです。
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これだけの情報で、山門をくぐります。
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禅宗の寺院らしい趣のある庭が広がります。本堂にお参りして、背後の竹藪の中の墓域に入っていきます。

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墓石が建ち並ぶという感じではなく、各家毎に墓域が固まって散財しているという感じの配置です。そして、奥くまで続いています。これは見つけられるかなと不安になります。しかし、大庄屋であったなら最もいい位置にあるはずという予測で、本堂の真裏の墓を当たっていきます。
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すると出会えたのがこの墓です。
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           「嶋勝任妻」の墓
勝任は島家に養子に迎られ、娘伝と結婚しています。すると、これが伝の墓になります。
勝任は享保元年(1716)に、父の継いで大庄屋となって以後は、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。

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島氏の墓
「島」という名前が見えます。右面を見てみます。
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島永胤の墓
年号が「文政十(1827)年三月」とあります。周防大島に顕彰碑を建立したのが文化四(1804)年のことでした。それから約20年後に亡くなった島家の当主の墓です。これが島永胤の眠る墓のようです。 襲ってくるヤブ蚊と戦いながら周防大島の顕彰碑にお参りしてきたことを墓前で報告をしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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  村上武吉2
「村上武吉公永眠の地」碑
阿波と伊予のソラの集落を原付ツーリングしているうちに、自信をつけたおじさんは四国の外を、原付で徘徊することにしました。行き先は周防大島です。ここには、海賊大将の村上武吉が眠っています。また、その子孫の墓域もあるようです。さらに、武吉に仕えた有力家臣の島氏の墓もあります。この墓参りに行こうと思い立ちました。その記録を残しておきます。

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松山の三津浜港からの出港
  讃岐から周防大島に原付で行くために、松山の三津浜を目指します。ここから山口県の柳井に向けてフェリーが出ています。その中の何便かが周防大島東端の伊保田港に寄港します。事前に讃岐から原付で、あっちこっちを寄り道しながら7時間かけて、松山のホテルに入ります。
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忽那諸島を行く周防フェリー
 翌朝に三津浜9:40発の伊保田港寄港のフェリー「しらきさん」に乗船します。船は三津浜港を出ると忽那諸島(くつなしょとう)の南側の航路を西に進んでいきます。  70分の公開で伊保田港に到着です。
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上陸して見つけた「周防大島村上水軍史跡」と書かれた説明版を見ると、次のことが分かります。
①の元正寺に村上武吉の墓
②の岩正寺に村上一族の墓
③の伊保田に村上武吉の家老職だった島吉利の顕彰碑
武吉に敬意を示して、この順番で訪ねることにします。まず、めざすは内入にある①元正寺です。
村上武吉公永眠の地へ | 日々の出来事

内入の旧道を走っていると「村上武吉公記念碑」という看板を見つけました。これに導かれて入っていきます。
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        元正寺(周防大島の内入)
内入の海と集落を見下ろす岡の上に元正寺はありました。ここに導いて下さったことに感謝して参拝。
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村上武吉の墓
本堂のすぐ横に、白壁に囲まれた墓があります。お参りを済ませて、説明版をのぞき込みます。
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ここからは次のようなことが分かります。
①塔身156㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
②銘文が正面の左右輪郭にあり、慶長9(1604)年の年号が彫られていること
③武吉の墓石の後(塀の外側)に「室(三番目の妻)」の墓があること
④室の墓も、塔身113㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
⑤ふたつの宝篋印塔は、年号が記されたものでは大島ではもっとも古い墓であること
墓参りしながら思ったのは、墓が五輪塔ではなく宝篋印塔であること、凝灰岩製でなく安山岩製であることです。
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慶長九年の年号が読み取れる(左側銘文)
以前にお話しした同時代に造られた弥谷寺の生駒家や山崎家の墓石は、凝灰岩製(天霧石)の五輪塔でした。宝篋印塔は多くの如来が集まっているという考えなどから、お墓として先祖供養を行うだけでなく、子孫を災害から守り、繁栄へと導くという考え方もあるようです。そんな願いが込められたのかもしれません。

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村上武吉の宝篋印塔(安山岩)
 以前に見た写真には、お墓の周りの土壁がむき出しになっていました。それが白壁になっています。近年修復されたようです。
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白壁には、こんなプレートが埋め込まれていました。大島に村上氏の子孫の方がいらっしゃるようです。
村上武吉石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
村上武吉像(村上水軍博物館)

晩年の村上武吉の置かれた状況を見ておきましょう。
村上武吉は芸予諸島の能島を本城とした能島村上氏の当主で、海賊大将として有名でした。しかし、天下人となった秀吉に睨まれ、海賊禁止令以後は不遇の時を過ごします。小早川隆景の家臣となって筑前に移って、秀吉没後は竹原にもどってきます。隆景没後は毛利家臣となり、関ヶ原合戦のときには嫡男元吉が伊予へ攻め入ったが討死。こうして村上家は、元吉の子元武が継ぎ、武吉が後見を務めます。
 関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島東部の1500石への大幅減となります。しかもこの内の500石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際には千石以下に減らされてしまいます。
 村上氏の領地となったのが周防大島東部の和田村や伊保田村です。そこへ武吉は、残った家臣団を引き連れてやってきます。地元の人達は「海賊がやってくる」と怖れたと云います。その後、村上氏の求める負担の大きさに耐えきれなくなった住民等は次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったとも云います。 
 村上武吉と子の景親らが大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書を出しています。
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

  兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、多くの者が武吉のもとを去って行きます。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。
 こうした中で武吉は、和田に最後の住み家を構えます。
そして関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰ることはありませんでした。武吉の墓は、次男景親が建立しています。

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武吉の妻の墓

武吉の墓の後には、妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻になります。 武吉の最初の妻は、村上一族・来島通康(来島右衛門大夫通康)の娘・ムメで、早くに亡くなったようで、能島・高龍寺に墓があります。後妻は、同じ来島通康の次女・ハナとされ、長男・村上元吉と、次男・村上景親の母のようです。3番目の妻が、武吉を看取って、その2年後に亡くなったことになります。彼女については、朝鮮攻めの武功で与えられた朝鮮の娘という説もあります。しかし、これは次男の朝鮮の両班出身の側室と混同しているように思えます。ここでは周防大島の女としておきます。

村上景親
 関ヶ原の戦い後に、減封された毛利藩が武吉に与えた領地は、周防大島東部の和田や油宇・伊保田でした。
ここに、竹原から武吉の家臣団がやってきました。領地があたえられた陪臣の数は35人でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。その陪臣を見ると、苗字のない者を除いては伊予越智郡からの家臣が多いようです。岩本・石崎・小日・島・浅海・俊成・小島などの姓を持つ者です。新たな支配者が伊予からやって来たこと、地理的にも中国地より四国に近いこと、などもあって、出稼ぎ・通婚・通学・通商なども伊予松山とのかかわりあいの方が強かったようです。近代になっても伊予絣などを、和田や伊保田の農家ではたくさん織っていて、それが松山に送られて伊予絣の商標で売り出されていたと云います。
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村上武吉の墓から見える内入集落と海

武吉の墓の前に広がる海を見ながらボケーと考えます。どうして武吉は、家臣団から離れてここに居を構えたのだろうか? 一族の墓がここにないのは、どうしてなのだろうか? どちらにしても晩年の不遇さが感じられる所です。勝者と敗者のコントラストも浮かび上がります。
村上景親石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
 村上景親(武吉の次男)

      次に目指すのが 武吉の次男の村上景親一族の墓域です。
景親については「小説村上海賊の娘」のお兄ちゃんと云った方が今では通りがよくなったようです。その墓があるのが和田集落です。
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和田の正岩寺

和田の正岩寺にやってきました。この寺も集落背後の岡の上にありました。本堂にお参りします。しかし、村上家の墓所は、この境内にはありません。
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村上景親の墓域入口
境内の南に池に沿って南へ続く道路を進み、丘の反対側へ回り込もうとするところにお地蔵様がいらっしゃいます。ここから階段を上ると墓所がありました。

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村上景親一族の墓所
 まず、戸惑ったのがいくつもの墓が散在していることです。どれが村上景親のものか最初は分かりませんでした。

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一番新しいのは、1979年に造立されたこの墓です。その後に、一番大きい宝篋印塔が2つ並びます。
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これを見ると「法経塔」とあるので、墓ではないようです。このような場合は、一番奥に初代の墓があることが多いようです。そのセオリーに基づいて、一番上の墓を見てみます。

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この真ん中が村上景親の墓のようです。
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村上景親の墓
父の武吉の墓も宝篋印塔でしたが、それよりも少し小さい感じがします。その後の墓は五輪塔になっています。ここで、私が見ておきたいと思っていたのがもうひとつの墓が、景親の朝鮮出身の妻の墓です。
村上景親は文禄の役に兄・元吉と共に吉川広家に従って朝鮮に渡っています。
そして、茂渓の戦いで、景親は攻め寄せる孫仁甲の軍を負傷しながらも撃退し、数百人を討ち取り、勇名を馳せます。景親の活躍を知った細川忠興や池田輝政は、家臣に誘いますが、景親は元就以来の毛利氏の忠誠を理由に辞退しています。

村上景親の妻の墓
景親の朝鮮出身の妻の墓
  景親は文禄・慶長の役で捕虜にした朝鮮貴族(両班)の娘を側室とします。それがこの墓とされるようです。確かに、くるりと巻いた髪のような頭部が載っていて、余り見かけない墓です。捕虜として異国の地で果てた女性に合掌。

 ここにお参りして分かったのは、ここは村上景親を祖とする分家一族の墓域であることです。武吉の本家の家筋は、他にありました。その墓域も他にあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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塩塚高原展望台
阿波の小歩危から白川谷川沿いに原付スクーターで、林道を詰めて塩塚高原までやってきました。
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展望台より東方 剣から三嶺への稜線も望める 下は駐車場
この日は快晴。東は三嶺から剣山に続く稜線、西は手箱や筒上山まで姿を見せています。ここでおにぎりの昼食。
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塩塚高原
ススキの塩塚高原を走り抜けていきます。
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愛媛県川の四国中央市新宮町の田之内集落に下りてきました。
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積み上げられた石垣の上に白壁の土蔵が建ちます
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田之内集落
家の周りを緑濃いお茶畑が囲みます。その向こうには法皇山脈の山脈(やまなみ)が東西に走ります。ここで生産された茶葉の買付に、仁尾から商人たちが入ってきていたことが史料からは分かります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、塩を行商で伊予や土佐・阿波のソラの集落に入り込み、その引き替えに質の高い茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたことは以前にお話ししました。お茶が栽培されているソラの集落のエリアが、仁尾の行商人たちの活動エリアでした。
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ぽつんぽつんとある家を見ながら下りていくと、前方に空色のお堂が見えて来ました。お堂が「おいでおいで」と呼んでいます。
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田之内集落のそばに建つお堂のようです。
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田之上堂
正面に立って眺めてみます。空色の屋根で壁があって閉鎖型です。羽根を広げて飛び立ちそうで、軽みがあって格好いいお堂です。周囲には、庚申塔は見つけられませんでした。
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田之内堂の内部
扉が開いたので中に入って、光明真言を唱えてお参りさせていただきます。そして、ここに導いていたことに感謝。

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田之内堂の鐘
 その後、外の縁台に腰掛けて、ボケーとします。こんな時にいろいろな思いが湧いてきます。この時間を大切にしたいと思っています。

グーグルにでている「大西神社」を探しながら林道を下りていきます。
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旧西庄小学校入口(新宮町)
すると現れたのが、この建物です。それまで地図上では、小学校があることに気づいていなかったので、一瞬驚きました。神社に行くにしても、校庭を通らないと行けないようです。坂を下りていきます。
鳥居の前には、こんな光景が広がっていました。

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旧西庄小学校と狛犬
神社の境内と校庭が「共有化」されています。狛犬が校舎を守っているようにも見えました。秋の日差しをあびて、校舎が輝いています。
今でも子ども達の声が聞こえてきそうです。

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旧西庄小学校講堂と稲茎(大西)神社拝殿
鳥居から見ると、拝殿と講堂が仲良く並んで建っています。
ソラの集落をめぐっていると郷社的な神社の近くに、小学校が建てられているのを目にしますが、これは典型的な「小学校校庭=神社境内」の例です。そして、美しく調和しています。手入れも良くされているので見ていても気持ちがいいです。ホクホクした気分になれます。
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  下にある二階建ての建物が校舎なのでしょう。教室が3つ上下に並んでいます。

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上が講堂なのでしょう。
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校舎と講堂は、渡り廊下で結ばれています。木の香りがいまでもしてきそうです。
神社にお参りにいきます。

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稲茎神社
拝殿は、明治になって周囲の小社を合祀した際に建立されたものなのでしょうか、近代的な雰囲気がします。お参りした後で、後の本殿に廻ります。
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素樸ですっきりとした流造本殿です。
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その横には、合祀された摂社が大切に祀られています。
明治の神仏分離以前には、この神社も別当寺の社僧によって祀られていたはずですが、その別当寺がどこだったのかは私には分かります。ただ気になったのは、グーグルにはこの神社は大西神社と記されています。
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しかし、鳥居や拝殿の扁額は「稲茎」神社と記されています。大西神社は、摂社です。稲茎神社は、前々回に紹介した新宮町上村の安楽寺の隣にもありました。「状況証拠」から推測すると、安楽寺が両方の稲茎神社の別当寺であったことがうかがえます。そして、上村には神社と安楽寺がセットであり、すぐ近くに寺内小学校がありました。神社と小学校の「併設」という点でも似通っています。

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校舎の入口には、こんなモザイク絵が掲げられていました。閉校時に子ども達が、制作したものなのでしょう。この小学校と神社は、私の印象に強く残りました。

ソラの集落の寺社とお堂と庚申塔を訪ねての原付ツーリングが続きます。今回は山城町の白川谷川沿いに、塩塚高原を越えて新宮へのソラの集落をたどるツーリングです。グーグル地図を見ると「小歩危展望台」が追加されています。寄っていくことにします。

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小歩危展望台
三好市では、こんな展望台をあっちこっちに作って、新名所にしようとしているようです。なかなか面白くて、外れがありません。

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 正面真下を吉野川が流れます。この方向から吉野川が見える展望台は初めてです。
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ホワイトウオーターの中を、ラフテングボートが下って行きます。
ここで、休憩して白川谷川に沿って塩塚高原を目指します。

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白川谷川
 開放的で明るい白川谷川をさかのぼって行きます。本殿と拝殿が国の登録有形文化財になっている大日孁(おおひるめ)神社があるのでお参りして行くことにします。川を渡って向こう側の小高い山の上にあるようです。
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当然、長い階段が待ち受けています。一瞬、引き返そうかと思いましたが、そんな失礼はできないと・・覚悟を決めて登り始めます。
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       大日孁(おおひるめ)神社 拝殿
そして姿を現したのがこの拝殿。神域の森の中にひっそりと鎮座して雰囲気があります。河原から運び上げた青石の基壇の上に、すっきりとした拝殿が建ちます。近づいてみます。
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向背虹梁には、見事な龍が巻き付いています。お参りを済ませて、説明版を確認します。
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拝殿の説明版

ここには次のような事が書かれています。
①創建当初は大蛇大明神
②神仏分離後の1874年に大日るめ神社と改名
③拝殿・本殿ともに、1898年に香川県三豊郡の宮大工高橋貞造・棟梁次田弥八の作
④拝殿は、細部まで高度で特徴的な彫刻が施されていること。
背後に回り込み本殿にもお参りします。
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       大日孁神社 本殿


こちらの彫刻も独創的です。手の込んだ造りです。説明版で確認します。
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本殿説明版

①二軒社流造の銅板葺
②尾垂木付の三手先で軒を伸ばして、腰組を出組で受けている。
③頭抜木鼻には人物面が、破風には龍が巻きつく
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大日孁神社本殿
拝殿と本殿に参拝して一番注目したいのは、讃岐三豊の大工が呼ばれて建立していることです。三豊の大工が土佐の嶺北地方で、仕事をしていたことは以前に次のように紹介しました。
  長宗我部元親の阿波への侵攻が本格化する天正八(1580)年の史料に次のように記されています。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。
 天正八庚辰年造立
 大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎
この時の阿弥陀堂建立の大檀那は森右近尉、本願僧侶は宥秀です。彼らが招いたのが「讃州仁尾浦善五郎」のようです。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。ここからは、四国・讃岐山脈を越えて仁尾との間に日常的な交流があったことがうかがえます。讃岐西部-阿波西部-土佐中部のエリアは、仁尾商人や大工たちが入り込み、広く営業活動を展開していたようです。
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           本殿の三手先と彫刻
それが明治になっても、地域の小社を統合してあらたな社殿と拝殿を建てる際に、三豊の宮大工たちが招かれています。ここからは、近世を通じて三豊と阿波西部には日常的な交易活動が明治になっても続いていたことがうかがえます。そして三豊の宮大工は、「大蛇大明神」と呼ばれてきた神社のために、龍(蛇)のデザインで空間を埋めます。
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                 大日孁神社本殿の龍(蛇)のデザイン

 この神社も神仏混淆の時代には、別当寺の社僧が祭礼を担当していたはずです。彼らは真言系修験者でもありました。中世には、彼らと三豊の修験者も教学面などでつながっていたことを示す史料があります。
  三好市池田町の吉野川と祖谷川の合流点に鎮座する三所神社には、応永9年(1402)の大般若経600経が保管されています。
祖谷口の山所神社
三所神社の大般若経の説明版

その中の奥書に、次のように記されたものがあります。

「讃州三野郡熊岡庄八幡宮持宝院、同宿二良恵」

ここからは、祖谷口の山所神社の大般若経の一部が「三野郡熊岡庄八幡宮」の別当寺「持宝院(本山寺)」に「同宿(寄寓)」する「良恵」によって書写されたことが分かります。
良恵は住持でなく聖のようです。与田寺の増吽が阿波の修験者たちとネットワークを形成し、大般若経書写をやっていたのと同じ動きです。讃岐三豊の持宝院(本山寺)と、阿波池田の山所神社も修験道・聖ネットワークにで結ばれていたのでしょう。同時にこのような結びつきは、「モノ」の交易を伴うものであったことが分かってきました。
仁尾覚城院
仁尾覚城院
 仁尾覚城院の大般若経書写事業には、雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。
与田寺氏の増吽で見たように、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるものです。覚城院と雲辺寺は、写経ネットワークがつながっていたことが分かります。その背景には、雲辺寺が天台・真言の両派の学問寺であったことあるようです。雲辺寺は、西土佐・三豊・新宮・土佐嶺北の学問寺で、写経センターであったと私は考えています。そして、雲辺寺で学んだ密教系僧侶は、「卒業」して各地の寺社に「赴任」していきます。こうして、雲辺寺(後には萩原寺)や覚城院を中心とする密教系修験者のつながりが形成されていたという見通しです。熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
 15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。
彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。
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 社殿に背を向けて帰ろうとすると、眼に入ってきたのが鳥居の隣のお堂です。
最近改修されたようですが、神社の神域の中に建つ観音堂です。神仏分離以前には、これは当たり前の姿でした。それがこの国の伝統だったです。お堂にも参拝します。そして、ここに導いてくれたことを感謝します。
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  白川谷川をさらに上流に進み、とびの巣渓谷と仏子の分岐を右に折れて塩塚高原を目指します。

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仏子の水車
仏子の水車を越えて、原付を走らせます。10年以上乗っている娘のお下がりのバイクですが、喘ぎ喘ぎながらも急な登りを上がって行ってくれます。そして阿波側の最後の集落である落尾の家々が姿を見せ始めます。
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尾又のソラの鐘
ソラの鐘を見上げながら進むとお堂が姿を見せます。
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尾俣のお堂

隣には大きな銀杏。ここからはソラの集落がよく見えます。
尾俣からは植林された杉林の中を登っていきます。台風で落ちた枝などが林道に積もるように落ちています。暗い杉林の中を抜けると、塩塚高原に抜け出たようです。
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塩塚高原のススキ
快適なスカイラインを走って、展望の開けた所で原付を止めます。

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背後の山が雲辺寺です。そして、荘内半島から三豊平野がよく見えます。このエリアのソラの集落が三豊と「塩とお茶と修験者」によって
つながっていたことを改めて実感させてくれる眺めでした。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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伊予新宮上村のハゼ
 熊野行者の痕跡と庚申塔を求めて、阿波山城から伊予新宮へのソラの集落めぐりを続けています。その中で出会った新宮の木造校舎を2つ紹介したいと思います。ひとつは、四国中央市新宮町上山の安楽寺を目指せして原付スクーターを走らせていた時に出会った校舎です。
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           伊予新宮上村の寺内
あじさいの里から天日川沿いに森を抜けて行くと、棚田が現れ、収穫の終わった稲藁が「ハゼ」にして干されています。コンバインで刈り取ってしまう中では、もう見られなくなった風景がありました。すこしワクワクしながら坂を登ると、突然現れたのがこの建物です。
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旧寺内小学校
門碑には「寺内小学校」とあります。安楽寺の「寺内」という名称なのでしょう。バイクを下りて、運動場から拝見させていただきます。

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旧寺内小学校
石垣の上に赤い屋根の校舎が長く伸びます。教室が6つあるようなので、1年生から6年生の教室が一列に並んでいるようです。里山の緑と赤い屋根がよく似合います。
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旧寺内小学校
正面に廻ってみます。校舎のすぐ裏側を町道が抜けています。
はい忘れ物やで、と母親が道路側の窓から忘れ物を渡すようなシーンが思いかびます。
グーグルで見ると「新宮少年の家 寺内分館」と記されています。今は、少年の家の施設として使われているようです。手入れも行き届いています。
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こんな素敵な雰囲気の中に身を置いていると、ここで子ども達が元気に活動していた頃のことを、想像せずにはいられません。しばし、いつものようにボケーとしていました。
ここを訪ねたのは、この上にある安楽寺にお参りするためです。
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安楽寺
山門の向こうに本堂が見えます。
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安楽寺本堂
近づいて気づいたのは、軒下に一面の彫刻があることです。何が彫られているのでしょうか?お参りを済ませた後に、拝見させていただきます。
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軒下に彫られた雲龍

龍と雲です。四方の軒下を龍がうねっているのです。
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東側軒下
ゆっくりと四方をめぐって、龍の動きを見ます。
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正面
宮大工の真剣さと遊び心が随所に感じられます。この時の宮大工は、楽しみながら彫っているのもよくわかります。腕が進みすぎて怖かったのではないでしょうか。
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説明版を見てみると、幕末の作品のようです。住職からの依頼に応えたのか、自ら申し出て住職が快よく許したのか、持てる力を存分に発揮しています。決して精緻で技術的に高いとは云えないかも知れませんが、その表現意欲は伝わってきます。見ていて気持ちのいい作品です。こんな思いもかけない「宝物」に出会えるので、ソラの集落の寺社めぐりは止められません。縁台に腰掛けて、のんびりと雲龍を眺めてポットに入れたお茶を飲みます。私にとっての「豊かな時」です。

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さて、本来の業務に戻ります。庚申塔捜しです。本堂の前には、いくつものお地蔵さんなどの石仏が並んでいます。しかし、ここにはありません。
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本堂前の庚申塔(一番右側)

ありました。境内の一番外れになります。
庚申塔の説明
庚申塔
庚申塔は、青面金剛が三猿の上に立つ姿が刻まれています。
 青面金剛が邪鬼を踏みつけ、六臂で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で、頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いています。また、どくろを首や胸に掛けたりもします。彩色される時は、青い肌に塗られます。青は、釈迦の前世に関係しているとされます。そして青面金剛の下には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像がいます。

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安楽寺の庚申塔

 庚申塔があるということは、ここで庚申の夜に、寝ないで夜を明かす庚申待が行われていたことになります。60日に一度訪れる庚申の日に、集落の人達が庚申待をおこなっていた証です。今は、地蔵さんに主役を奪われていますが、2ヶ月に一度やって来る庚申待は、集落にとっては大きな意味のある行事でした。ここで光明真言が何千回も唱えられ、その後にいろいろなことが語られ、噂話や昔話なども伝わっていったのです。

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隣の泉田集落の庚申塔

 この庚申信仰をソラの集落に広げたのが修験者たちだったと、私は考えています。
修験者たちは、庚申講を組織し、庚申の日にはお堂に集い光明真言を唱える集会をリードすることを通じて、集落そのものを自分の「かすみ(テリトリー)」としていきます。こうして修験者たちの密度が高かった西阿波や伊予宇摩地方は、今でもお堂が残り、その傍らに庚申塔も立っていることが多いのです。安楽寺にも庚申塔はありました。
 では、讃岐ではお堂や庚申塔をあまり見かけないのはどうしてでしょうか?
それは浄土真宗の広がりと関係あると私は思っています。浄土真宗は、他力本願のもと六寺名号を唱えることを主眼としますので、庚申待などは「邪教」として排除されます。江戸時代になって、寺院制度が固まってくると、浄土真宗の教えが民衆レベルにまで広まるにつれて、讃岐では庚申信仰は衰退したと私は考えています。
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安楽寺の隣の茎室神社
安楽寺の隣には、大きな銀杏と拝殿が見えます。道一つ挟んで神社が鎮座しています。
立派な拝殿です。後にまわりこんで社殿にお参りします。

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近代以後のものでしょうが、手の込んだ細工が施されています。社殿の周囲にはいくつかの小さな摂社が並びます。

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この神社と安楽寺の今に至る経過を、私は次のように推測します。
①吉野川沿いに張り込んだ熊野行者が、この周辺の行場で修行を行い、定着してお堂を構えた。
②谷川の水量が豊かな土地が開かれ、そこに神社が勧進され、周辺の郷社へ成長した。
③有力な修験者が村から招かれ、安楽寺が建立され、神社の管理も行う神仏混淆体制が形成された。
④安楽寺の歴代住職は密教系修験者で、「熊野信仰+修験道+弘法大師信仰」の持ち主でもあった。
⑤彼らは代々、三角寺や雲辺寺、萩原寺などの密教系寺院とのつながりを保ち、大般若経写経などにも関わっていた。

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こんなことを考えながら「寺内」の里を離れました。岡の上から振り返ると、お寺と神社と学校が合わさった場所であることが分かります。小学校をどこに建てるのかは、地元の関心が高く政治問題化します。その中で宗教的・文化的な地域のセンターであった寺内が選ばれたのでしょう。郷社的な地域の中核寺院のそばに小学校が建てられているというパターンは、ソラの集落ではよく見かける光景です。
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寺内地区の上は、茶畑と白壁の家
 これで寺内ともお別れだと思っていると、もうひとつ驚きが用意されていました。
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泉田の高灯籠
目の前に現れたのがこの建物です。まるで燈台のようです。今まで見てきたソラの灯籠の中では、最大のものです。どうして、ここにこんな大きな灯籠が作られ、灯りを灯したのでしょうか。それは、ソラの集落の燈台の役割を果たしたのではないでしょうか。寺内はお寺があり、神社のあるところですが谷状になっていて、外からはよく見えません。
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泉田からの眺望
しかし、ここは尾根の先端部で周囲からはよく見えます。「心の支えとなるお寺と寺院があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰が自然と湧いてきたのかもしれません。

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泉田の棚田

 ちなみにこの上には、和泉集落のお堂があり、庚申塔もありました。泉田集落の人々の心を照す燈台だったのかも知れません。
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ここにも刈り入れを終えたばかりの藁束が吊されていました。
こんなことを繰り返しながらソラ集落めぐりを原付バイクで行っている今日この頃です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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大西(池田)城跡 

 前回は戦国時代末から3代にわたって、池田城の城番として、池田の地を治めてきた中村氏について見てきました。中村氏三代の墓が菩提寺の桂林寺に残されていました。三代の墓にお参りして、墓地をぶらぶらと歩きました。すると次のような点に気づきました。

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           大西城城番の初代中村重勝の五輪塔(桂林寺)

①墓数が少ないこと、つまり檀家が少ないのでしょう。これはこの寺が蜂須賀藩の家老職で池田城主であった中村家の菩提樹として建立された寺であるという性格からきているようです。宗派も中村家の信仰したの禅宗の臨済宗です。そのためその後も、門徒は増えなかったようです。

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馬宮家の墓域(桂林寺)
②もうひとつは、墓域の中に大きな区画を持ち、そこに多くの歴代の墓がならぶスペースがあることです。その墓碑には「馬宮・武川・長浜・谷」の姓が並びます。

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武川家の墓域(桂林寺) 後は讃岐山脈
彼らは、どんな人達なのでしょうか。この人達と、桂林寺や中村氏と関係はどうなっているのでしょうか? これを今回は見ていくことにします。テキストは「池田士について 阿波郷土研究発表会紀要第26号」です。
中村家失脚後に、池田の統治を委任された池田士
 「池田士」というのは、三名士(さんみょうし)や、海部士、判形人(はんぎょうにん)、岡崎の十衆らとともに蜂須賀藩時代に、その地域の自治権を与えられながら国境警備警にあった藩士のことのようです。もともとは、池田城の城番だった中村氏に仕えていたようですが、阿波藩は中村氏が失脚後に、主人亡き跡をその家臣たちに任せたようです。具体的には、「馬宮・武川・長浜・谷」などの各氏になります。彼らが「池田士」と呼ばれるようになるようです。

池田士の祖先は、どこからやってきたのでしょうか 
史料1 井口家成立書并系図共(初代太郎右衛門)
天正之頃福聚院(蜂須賀)様尾州龍野江被遊御座候砌御奉公仕罷在候(下略)
史料2 馬宮家成立書并系図共(初代四郎兵衛信光)
天正之頃福聚院様尾州被遊御座候節御奉公仕(下略)

史料3 武川家成立書并系図共(初代三右衛門氏倶)
天正之頃福聚院様播州龍野ニ被遊御座候節御奉仕罷在(下略)

史料4 谷家成立書并系図共(初代又兵衛好久)
播州平田之城主谷大膳一族ニ而大膳討死後福聚院様播州龍野ニ御座被遊候砌御随身仕候ト申伝候(下略)

史料5 長浜家成立書并系図共(初代与五郎長則)播州山崎ニ居住仕罷在候処秀吉公播州御出張之砌召出―中略―数度之合戦勲功有之候趣申伝候(下略)

 これらの史料からは、次のようなことが分かります。
①井口、馬宮両家の祖先は、蜂須賀正勝(福聚院様)の尾張在住時代からの家臣
②武川家の祖は、正勝が播州竜野に封ぜられた時から家臣
③谷家の出自は、もともと播州平田城主の一族だったのが、平田落城後に竜野に入った正勝に仕えるようになったこと
④長浜家も播州山崎に居住してが、秀吉の中国平定戦の際、その家臣となって戦功を重ね、竜野の領主となった正勝の家臣となったこと
 三名士は、もともとその土地の土豪でした。しかし、池田士の出自はバラバラですが、すべて阿波国外の人間であったことが分かります。
大西城(徳島県三好市)の詳細情報・周辺観光|ニッポン城めぐり−位置情報アプリで楽しむ無料のお城スタンプラリー
大西(池田)城跡(三好市池田保育園)

阿波来国の時期とその理由を「馬宮家成立書」には、次のように記します。
 為長曽我部元親御征伐瑞雲院様(蜂須賀家政)従播州龍野被遊御出陣候節御身附五拾人之内ニ相篭御供仕罷越、処々御合戦御勝利ニ相成御入国(下略)

意訳変換しておくと
 長曽我部元親を征伐するために瑞雲院様(蜂須賀家政)は、播州龍野から出陣した際に、中村氏の率いる50人ほどの軍勢に入り、諸合戦に勝利して阿波に入国した(下略)

 ここからは、次のようなことが分かります。
①秀吉の四国平定の一環として、蜂須賀家政は播州竜野より出陣したこと
②井口らはこのとき、蜂須賀家政に従って阿波へやってきたこと
ここからは、蜂須賀家政が阿波の領主になるに及んで、その家老職の中村氏に従って阿波に来住したことを押さえておきます。
それでは池田には、いつやってきたのでしょうか
・井口家成立書には、次のように記します。
中村右近(重勝)ニ御指添、海部ニ罷在、其後大西(池田)江御指替被遣候節相添罷越申候(下略)

秀吉の四国平定後の処置は、次の九州平定と朝鮮出兵を見据えての大名配置であったことは以前にお話ししました。そのために秀吉から求められたのは、海軍力や海上輸送力の整備強化と、土佐の長宗我部元親への供えでした。阿波の蜂須賀氏は、讃岐の生駒氏と連携をとりながら、対長宗我部包囲網を形成していきます。

阿波九城a.jpg
阿波九城

 その一環としてとられた防衛措置が、領内の要地9カ所の城の維持管理で、そこに重臣を配置します。これが「阿波9城」で、鞆城(海部)には中村重勝(しげかつ)、大西(池田)には牛田掃部頭を城番とし、それぞれ手勢300人を配備しています。播州から家政に従軍してきた井口らは、中村重勝の配下に配属され、海部城に入ります。間もなくして、重勝が大西城代に配置換えになったので、これに従って池田へ移ります。
池田士とよばれるようになった時期とその理由は?
 阿淡年表記録(嘉永4年に編集された藩の公式記録)の明暦2年(1656)の項に、次のように記されています。

7月 中村美作 淡州在番中  京大坂へ忍行遊興其余不届之義有之閉門被仰付。
10月5日 中村美作 不心得ニ付職禄被召放仁宇山へ山篭被仰付。
意訳変換しておくと
7月に中村美作(可近)が淡路に在番中に、京大坂へ忍行して遊興を重ねていたことが発覚し、閉門を仰付られた。
10月5日 中村美作については、不心得な行いのために職録を召し上げて、仁宇山への山籠もりを命じた。

ここからは中村家三代目の中村美作(可近)が、淡路での在勤中に職務を抜け出して、上方で遊興に耽っていたのが発覚し、職録を召し上げられたのが分かります。

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中村家三代目の中村美作(可近)の墓(桂林寺)

桂林寺に残る墓標で、一番小さいのがものが中村美作(可近)のものであったのも、こんな背景があるようです。これでお取り潰しかと思ったのですが、そうではないようです。蜂須賀家を支えてきた中村家を取り潰すには、忍びなかったのでしょう。四代目の近照は、洲本の在番に「左遷」し、存続させています。それでは、中村家に仕えていた家臣たちはどうなったのでしょうか?
「中村美作家来」のあつかいについて、次のような史料が残されています。
 10月25日 中村美作家来
  高 250石  井口長左衛門
  同 200石  馬宮清左衛門
  同 100石  谷五左衛門
  後 絶家  橋本五郎左衛門
  高 150石  長浜弥五右衛門
  同 100石  武川角左衛門
  被召出其侭池田住居被仰付

 「池田住居被仰付」とあります。ここからは、中村家の家臣であった井口氏ら5名は、主君中村美作の失脚後、藩の直臣に召し出され、藩命によって池田に居住し、特別な任務が与えられたことが分かります。これが「池田士」の誕生の経緯のようです。

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阿波池田城跡の遠望
池田士に与えられた任務とは、何だったのでしょうか?
  徳島城内への正月詣でに不参加の理由を、池田士の馬宮氏が提出した文書の控えです
史料18 寛文3(1663)年正月(阿淡年表秘録)
 池田士之面々へ被仰出三好郡大西口ハ土州予州讃州三国之御境目猶以白地渡口之儀は他国よりの通路第一御大切之御場処ニ付池田士両人宛月番可相勤候右当番之面々八五節句又ハ如何様之儀有之候共御山下へ罷越義無用之旨被仰出。
 
意訳変換しておくと
 池田士の面々へは次のように仰せつかっている。三好郡大西(池田)口は、土州予州讃州三国の境目で、特に白地渡口については、他国よりの通路として最も重要な要衝である。よって池田士両人は月番を決めて、この地に当番として詰めるように命じられている。そのため八五節句の会合がある場合でも、当番に当たっている者は、参加する必要はない仰せつかっている。

ここからは次のようなことが分かります。
①三好郡の白地渡口には、検番が設けられていて池田士が当番を決めて詰めていたこと
②白地渡口御番の月番として勤役中の馬宮豊太郎が、年頭のあいさつのため徳島へ登城せず、欠席することを届け出ていること
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阿波池田市街地
この史料を裏付ける次のような史料が、馬宮家文書の中にはいくつか残っているようです。
史料19 覚(馬宮家文書)
 御隣国万一異変等の砌、遠近何者ニよらず私共下知ニ相従候様兼而被仰付置被下候ハバ徳嶋表へ御人数参候迄御境目御堅出来可仕様在役候 以上
  仲間 5人
意訳変換しておくと
 隣国で万一の異変がおきた場合には、徳島の城までは遠いので、現場の私共の命令に従うように仰せつかっています。そして徳嶋表から応援部隊が到着するまでは、境目を堅守することが任務とされています。 以上
  仲間 5人
ここからは、池田士の任務について次のようなことが分かります。
①国境警備として、土佐・伊予・讃岐などの隣国から、万一進攻されたとき、徳島表からの軍勢が到着するまでの間、池田士がその周辺の手勢を指揮して防戦につとめるという任務
②白地渡し場の管理と通行人の検問
③巡検使の警備
 こうして井口・馬宮・長浜・武川・谷・橋本の六氏(橋本は1代かぎりで絶家)が、池田士とよばれるようになります。
寛文3年(1663)に、藩主光隆が武川角左衛門氏(3代目)に与えた御判物が、武川家所蔵文書の中にあります。
分国阿波之内於所々高都合百石 目録役付 在別紙 事遣之条全可領知依状如件
寛文3正月28日
  光隆花押
  武川角左衛門どのへ
この時に武川角左衛門に与えられた家禄100石についての内訳は次の通りです。
一 高 五十石 三好郡金丸村
  人数之内 1人 本百姓
     1人 奉公人
     1人 間人
     1人 子甥下人
一 高 三十石六斗 那東郡島尻村
  人数4人之内  二人 百姓
     二人 子
一 高 一四石四斗 新開 麻植郡瀬詰村
  1高 5石 新開 名西郡西覚円村
  高都合100石
   人数合12人但60歳から15歳迄役に入分右定役3人也
二百石を給せられた馬宮家は、次のように記されています。
 一 高 200石 三好郡賀茂村   人数 28人
 一 高 40石  同郡金丸村    人数 10人
 一 高 23石7斗7合勝浦郡前原村 人数 8人
 一 高 13石9斗1升7合 新開  板西郡大寺村
 一 高 10石8斗4升4合 同  勝浦郡柴生村
 一 高 4石3斗8升5合 同  麻植郡喜来村
 一 高 4石2斗5升4合 同  美馬郡岩倉村
 一 高 2石8斗9升3合 同  麻植郡三嶋村
  高 都合200石   人数合46人 老若共

ここからは家禄として領有する地域は、三好郡の外、阿南市や小松島市から板野郡、名西郡、麻植郡、美馬郡と、県内各地に散在していたことが分かります。この史料は、当時の藩士の家禄の拝知の状況を知るうえで極めて価値の高いと研究者は評します。

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阿波池田のうだつの街並み
 それでは池田士の家屋敷は、どれほどの規模だったのでしょうか。
武川家所蔵文書の中に、次のような記録があります。
元文6年(注・1741)酉3月5日 武川弥太郎氏定(5代目)家屋敷相改帳
屋敷
  西東21間、北南27間半、坪数585坪但西東北籔アリ
   2間ニ2間半 座敷
   萱葺板敷天井アリ、但南之方半間ニ2間半瓦庇板椽天井有
   3間半ニ7間 
本家 萱葺板敷
  門 3間ニ4間 天井アリ
  門 2間ニ3間 土座アリ
  但シ南之方 半間ニ2間 瓦庇板椽
   北之方 半間ニ4間 枌庇板椽
  戸数9枚 障子5枚 襖4枚
  2間4方 カマ屋 萱葺土座 戸数1枚
  2間4方 物置 萱葺 竹座
  2間4方 土蔵 板敷 戸数1枚
  2間ニ7間 長屋 萱葺 戸数3枚
  長2間 門 萱葺 戸数2枚
  1間ニ1間半 湯殿 戸数1枚
  樹木品々大小 29本 
これは武川角左衛門氏尚(6代目)が、父弥太郎の死亡によって家督相続した際に、福屋甚太兵衛宛に提出したものです。家禄百国石程度の藩士の居住した家屋敷は約600坪、本家の外、座敷、カマ屋、土蔵、物置、湯殿、長屋などの建物がすべて萱葺であったことが分かります。これは、徳島城下に比べると破格の広さになります。
 彼らは陣屋周辺に、住居を構えていたはずです。それがかつての大西(池田)城周辺だったのでしょうが、今の私にはどこか分かりません。
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以上を整理しておきます。
①池田士たちは、天正13年(1585)蜂須賀家政の阿波入国の際、家老の中村右近大夫重友の与力として阿波にやって来た。
②中村氏は最初は海部鞆城に入り、その後大西(池田)城へ移動したため、それに池田士たちの祖先もそれに従って池田に居住し、国境警備や白地口検番に当たるようになった。
③明暦2年(1656)10月、中村家3代目の近照が不心得の廉で職禄を召上げられた。
④阿波藩は、阿波西部エリアについて精通していた中村氏の家臣達を、蜂須賀の直臣化して従来通りの職務に当たらせた。
⑤寛政12年(1800) 平士に昇格し、御仕置支配となった。

主君が失脚すると、浪人になるのが普通です。しかし、蜂須賀藩は直臣に取り立てています。それは、阿波西部の国境防備を担っていた彼らの功績を評価してのことでしょう。徳島城内から新たな役人を派遣しても勤まらないと判断したから、従来のスタッフを直接雇用し任務に当たらせたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      「池田士について 阿波郷土研究発表会紀要第26号」

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