瀬戸の島から

2022年11月

仙龍寺 三角寺奥の院1800年
仙龍寺「四国遍祀名所図会」(1800年)
前回は、19世紀初頭から明治末までの仙龍寺を描いた絵図を見ました。そして、仙龍寺の繁盛の要因を次のようにまとめました。
①本尊弘法大師像が大師自作され、信者の崇拝を集めたこと
②本尊開帳を夜8時として、参詣者に通夜を許したこと、
③通夜施設として、通夜堂を開放し無料で提供したことや、風呂の無料接待も行ったこと
④「女人高野山」として女人の参詣を認めたこと
  こうして明治末期になっても、仙龍寺には多くの参拝者がやってきて通夜を送っていました。その隆盛は大正から昭和になっても続いたようです。今回は、それを大正時代に描かれた「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」で見ていくことにします。

最初にこの版画のデータなどを見ておきましょう。
①一枚刷(洋紙銅版墨刷)。縦26㎝、横36、5㎝。
②上部中央枠内に右横書きで「伊豫国宇摩郡興之院仙龍密寺境内之略図」
仙龍寺 大正期 仙龍密寺境内之略図

構図は次の通り
①絵図中央 仙龍寺境内の本堂、通夜堂、庫裏の高楼建物
②上部(北側) 三角寺からの峠越えの険しい山道である三角寺奥院道と清滝周辺
③下部(南側) 境内を流れる清滝川と蟹淵、銅山川周辺まで
よく見ると、参道、境内、清滝などには参詣者の姿が書き加えられています。そして左下枠内に、仙龍寺の由緒文が記されています。
本図の作者については、左端に「岡山博進館彫刻部」とあります。
同じく岡山博進館彫刻部作成の鋼版絵図「第41番霊場龍光寺境内之図」があります。これには「明治35年(1902)(高橋義長刻成)」と制作年と作者があります。しかし、仙龍寺のものには、作成年の記載はありません。そこで、研究者は次のように推測します。
①霊場札所寺院では、明治30年代に参拝記念土産品として境内を描いた銅版画作成がブームとなったこと
②仙龍寺では、明治後期に裏山に新四国霊場を開設して清滝への参道整備が行われてこと。絵図中に清滝付近に参拝者の姿と清滝の不動尊と見られる仏像が描かれているので、この参道整備後に描かれたものと考えられること。
③現地調査を踏まえて、不動堂・茶所付近に描かれた「八丁」と刻まれた大きな標石は願主中務茂兵衛によって明治34年(1901)建立の遍路道標石であること。
④境内の大地蔵に通じる石段は大正6年(1918)、上段の玉垣が大正7年(1917)に整備されているが、これらが絵図には描かれていないこと。
以上から、描かれている景観年代は明治34年以降~大正4年以前とします。
次に絵図をA~Fのエリアに区分して細部を見ていくことにします。
仙龍寺中心部 大正時代 
       仙龍寺(境内・伽藍の中心部)
①【本堂】 宝形造瓦葺き。現在の本堂は近代に改修
②【通夜堂】 入母屋造瓦葺き懸崖造。現在の通夜堂は昭和12年に大改築)
③【庫裡】 入母屋造草葺き。懸崖造で煙突あり
④【瀧澤宮】 切妻造瓦葺き、空海が封じ込めた龍神
⑤【客殿】 入母屋造草葺き
⑥【納屋】 寄棟造草葺き
⑦【待暁庵】 入母屋造瓦葺き
⑧【花苑】
⑨【廟所】
⑩【蟹淵】 現在の蟹淵はコンクリート製アーチの下を流れる
⑪【橋】 現在はコンクリート屋根なし橋
⑫【清滝川】 銅山川の支流
⑬【夫婦岩】 現在は新宮ダムに沈む
⑭【銅山川】 吉野川の支流
⑮【渡舟】 両岸に綱掛けて渡舟で往来
仙龍寺境内 大正時代
境内エリア
【天堂】 六角堂。瓦葺き
【四社明神】 高野山の鎮守として祀られる四柱の神
【橋】 屋根付き。現在は屋根なしの無明橋(昭和47年再建)
【手洗所】 切妻造瓦葺き、清浄水
【鐘楼堂】 入母屋造瓦茸き
【茶所】 切妻造瓦葺き。現在なし
【仙人堂】 宝形造瓦葺き
【本地堂】 宝形造瓦葺き、現在は弥勒堂
【釈迦ノ滝】【釈迦ノ岳】
仙龍寺上部 大正時代
三角寺奥院道・不動堂周辺
【玄哲坂】 標石「後藤玄哲坂」現存
【不動堂】 入母屋造瓦茸き、現在は宝形造瓦葺き
【茶所】 切妻造瓦葺きの建物2棟)
【八丁】 入母屋造瓦葺きの建物は現存せず。隣の「八丁」標石は願主中務茂兵衛義による明治34年建立の遍路道標石
【護摩ノ岩屋】護摩窟。現在は入口に「大師修行趾護摩岩窟」の標石、仙龍寺本尊弘法大師の石仏安置、

これを見ていると、描かれている範囲が広く、建造物や名所旧跡の注記もあって、明治後期の仙龍寺の様子がよく分かります。

仙龍寺 由緒文大正
仙龍寺の由緒文
図中の由緒文を見ておきましょう。
抑金光山仙龍寺は世人常に称して奥の院と云ふ其由来を尋るに延暦十二年弘法大師二十一歳の御時始めて此地に法道仙人と避近し此山の附嘱を受け玉ひ 其後鎮護国家の秘教を停んが為に入唐遊ばされ御婦朝の後人皇五十二代 嵯峨天皇の御宇弘仁六年大師六七の厄運に当たり再び此山に踏りて岩窟に息災の護摩壇を築き三七日の間厄難消除の秘法を修し遂に金胎両部の種子曼茶羅を自ら其窟の岩壁に彫刻し玉ひ猶末代の衆生結縁の為にとて御自作の肖像を安置し且瀧澤権現を勧請して擁護の鎮守となし―字の梵刹を御草創あり
乃(スナハチ)誓願して曰く 争末歩を此山に運んて我形像を拝する輩は我三密の加持力を以て諸の厄難及び一切の障りを除き四重五逆の重罪を減し有縁の浄土に送らんと加之(シカノミナラズ)此岩窟の梵文を篤して守護(マモリ)とし受持講供する者は永穀を害する一切の悪贔を除き五穀成就の大利益を得せしめ玉ふ
 蓋当山は大師入定留身の高野山に模し芳縁を近きに結び利益を普く及し玉ふ善巧方便なれば古より女人の参詣を遮せざる故に営山を女人の高野四国の奥の院と中停て四時登嶺の人絶ることなし現営二世の両益を家る男女枚琴に追あらず是れ偏に我大師三密の加持力と当山勝地の霊徳なるに由る
動「草創の縁由を録して十方有縁の信者に示すと云爾但し当山は諸國より日々参籠する人絶ることなければ毎夜本尊の開扉並に説教の修行あり
    意訳変換しておくと
金光山仙龍寺は、奥の院と呼ばれるが、その由緒は延暦12年弘法大師21歳の時に、始めてこの地を訪れ、法道仙人と出会って、当山を譲り受けた。(弘法人師一回日巡錫)。
その後鎮護国家の秘教を学ぶために入唐し、帰国後の嵯峨天皇の弘仁六(815)年、大師六七の厄運(42歳)の時に再び、当山にやってきて、岩窟に息災の護摩壇を築き37日の間厄難消除の秘法を行い、金胎両部の種子曼茶羅を自ら其窟の岩壁に彫刻し、末代の衆生結縁の為にと自作の肖像を安置した。さらに瀧澤権現を勧請して擁護の鎮守とした。(弘法大師二回目巡錫)

 そして、次のように誓願された。当山にやって来て私が彫った自像を礼拝すれば、三密の加持力で厄難や一切の障りを除き、四重五逆の重罪を減じて、有縁の浄土に往生できる。それに加えて、この岩窟の岩窟の梵文を信仰し守護(マモリ)とする者は穀物を害する一切の悪霊を除き、五穀成就の大利益を与える。
 当山は弘法大師入定の高野山に模してきたが、古より女人の参詣を認め、「高野、四国の奥の院」とも伝えられてきた。いつも参詣人が絶えることなく現当二世の両益を受けることができる。数えきれない男女の参詣者は、偏に弘法大師の三密の加持力と当山の霊徳によるものである。また、当山派、諸国よりの参籠者が多いため、毎夜本尊の御開帳と説教の修行を行っている。
由緒文に出てくる場所を、絵図で挙げると次のようになります
法道仙人関係は【仙人堂】【法道仙人登天地】
弘法大師関係は【本堂】【瀧澤宮】【護摩ノ岩屋】
遍路・参詣者関係は【通夜堂】

仙龍寺23
大和国の仏絵師西丈が描いた仙龍寺(19世紀中頃)

由緒文から見える仙龍寺の特色について、研究者は次のように整理します。
2016年四国逆打ち遍路3日目その2「65番三角寺~61番香園寺、別格13番仙龍寺~12番延命寺」 気ままに過ごす。さんのお遍路道中記 四国八十八箇所  お遍路ポータル
仙龍寺入口正面

①奥院の位置付け
三角寺の奥之院とせず「四国の奥之院」としています。現在は「四国総奥之院」と称しています。四国総奥之院の称号は、寛永15年(1638)に後陽成天皇の第二皇子で嵯峨大覚寺門跡尊性法親王が参詣し、帰京後に大覚寺末として賜ったことに始まるとされています。しかし、今では多くの研究者は、これは偽書と考えています。根本史料となる澄禅「四国辺路日記」、真念『四国邊路道指南』、「四国遍謹名所図会」には「奥院」、寂本「四国霊場記」には「当寺(三角寺)の奥院」と表記されています。江戸時代の四国遍路案内記には、どれも「四国総奥之院」とは記されていないことを押さえておきます。
 寛政5年(1793)の〔大覚寺門跡奉行連署書状〕からは三角寺末寺だった仙龍寺が大覚寺門跡直末となったことが分かります。三角寺を離れた仙龍寺は、明治以降になると「四国の奥之院」を名のるようになったようです。そのためこの絵図にも、三角寺の奥之院とは書かれていないと研究者は指摘します。

四国中央巡り7】オススメ!幽玄の世界『奥の院 仙龍寺』 : 【エヒメン】愛媛県男子の諸々
仙龍寺入口(土足禁止)

②弘法大師の修行地と厄除け大師
三角寺奥之院、四国の奥之院として明治後期には「女人高野」と称された仙龍寺。由緒文には、弘法大師は入唐前の延暦13年、21歳の時に法道仙人に出会い、当山を譲り受け、帰国後の弘仁6年(815)の42歳時に仙龍寺へ登山して修法したとされています。つまり伝説上では、法道仙人ゆかりの聖地で弘法大師が2度も修行した山岳霊場が仙龍寺であったというのです。
 本尊の弘法大師像は大師42歳の厄運にあたり厄除けと虫除け五穀豊穣の秘法を修して自作の肖像を安置したもので「厄除け大師」、「虫除け大師」として多くの人達のから信仰されてきました。

  遍路記でもっとも古い澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)は、仙龍寺のことを次のように記します。
奥院(仙龍寺)ハ渓水ノ流タル石上ニ二間四面ノ御影堂東向二在り。大師十八歳ノ時此山デト踏分ケサセ玉テ、自像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。又北ノ方二岩ノ洞二鎮守権現ノホコラ在。又堂ノ内陣二御所持ノ鈴在り、同硯有り、皆宝物也。寺モ巌上ニカケ作り也。

ここには弘法大師が「自像ヲ彫刻」したのは18歳の時と記されています。そして弘法大師が再度ここを訪れたとはどこにも記されていません。ところが江戸時代後半になると、弘法大師は2回訪れ、42歳の時に自像を彫ったことになります。この背景には当時の厄除信仰の拡大策として、大師の年齢を18歳から厄年の42歳に「変更」したと研究者は考えています。「厄除大師」へのリニュアル策です。このような「機転」が寺院経営には必要なのでしょう。庶民が求める「流行神」を積極的に取り入れていくことが四国霊場の寺には求められていたともいえます。こうして四国霊場札所の多くが、その由来に弘法大師42歳の時に開山・中興されたする寺が多くなります。
仙龍寺 松村武四郎
仙龍寺(松浦武四郎)
 四国八十八箇所の霊場にお参りするときには、最初に本堂の本尊に礼拝します。
その後で、大師堂の弘法大師像にお参りするというのが習いとなっています。ところが仙龍寺の場合は、本堂の本尊が大師自作とされる弘法大師像なのです。これは弘法大師信仰の信者にとって、何にも代えがたい信仰対象となります。善通寺誕生院が江戸時代になって「弘法大師空海の生誕地」として、弘法大師稚児像や父母像を信仰対象として参拝者を集めるのと同じような動きを感じます。
③女人高野
仙龍寺は高野山を摸したが女人禁制とせずに、古より女人の参詣を遮らず「女人高野山」と称されたと由緒文には記されています。しかし、江戸時代の真念などの四国遍路案内記には女人高野の記述は見られません。それが見えるようになるのは江戸時代後期になってからのことです。遍路日記には女性の遍路が仙龍寺に参ると高野山に参詣したのと同じ価値があると考えていたことが記されています。
 安政3年(1856)に三角寺道(四国中央市中曽根町)に建てられた遍路道標石には次のように記します。
(大師像)(手印)遍ん路道 是ヨリ 三角寺三十丁
奥之院八十八丁  (略) 施主 当初 観音講女連中

「施主 当所 観音講女連中」とあるので、道標の設置者が観音講を母体とした女性であることが分かります。ちなみに三角寺の本尊十一面観世音菩薩像なので、それにちなんだ講名のようです。
仙龍寺の「女人高野」について触れたものを見ておきましょう。
 明治41年(1908)の知久泰盛『四国人拾八ケ所霊場案内記」には次のように記されています。
昔、高野山は女人禁制なりしが当山は女人高野と申して女人の参詣自由なりし故、今は女人成仏の霊場と伝へて日々参詣者群集す

明治43年(1910)の此村庄助『四国霊場八十八ヶ所遍路獨案内』

「本奥の院を一に女人高野と云ふて、女人参詣殊に多し」

ここからは明治後期には、女人参詣で賑わい、女人高野と称されていたことが分かります。
 ここでは、江戸時代前半の史料からは、仙龍寺が「女人参拝」を認めていたことは示せないこと。「高野高野」と言われ女性参拝者が急増するのは明治以後のことを押さえておきます。

金光山仙龍寺弘法大師空海座像(四国別格二十霊場第十三番) / 黒崎書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
弘法大師(仙龍寺)

私が最も興味があるのは、毎夜の本尊御開帳と通夜堂です。
仙龍寺の本尊は、弘法大師自作の大師像でした。それは弘法大師信仰の信者にとっては最高の「聖遺物」です。是非ともお参りしたいという吸引力があります。しかも、この本尊開帳はいつの頃からか夜8時の開帳となりました。そのために三角寺からの険しい山道を登り下って、仙龍寺で「通夜」する必要がありました。
 これに対して仙龍寺は通夜堂を宿泊所として開放したのです。この通夜での共通体験は強烈だったようです。それまでの艱難困苦の山道を越えてきた事への成就感や、信仰する「お大師さん」の手彫り本尊を開帳でき、そのまま夜の護摩行に参加し、朝まで語り通す。これは、現在で云うなら中高年の登山の山小屋体験とも似ています。女性達にとっては非日常的で、貴重な体験だったはずです。四国巡礼者以外にも多くの信者が仙龍寺に参拝にやって来るようになった背景が分かるような気がしてきます。

文政三(1820)年に、ここを訪れた土佐の新井頼助は次のように記します。
日参通夜の衆、老若男女其数不知、我等一所の通夜五百人計。御燈明銭を上げよという。御開帳銭を上げよという。米壱升たき申に拾文。御守は虫退乱御手判五穀成就。御守難有事也。 ・・・

意訳変換しておくと
仙龍寺に日参通夜をした老若男女の数は数え切れない。私たちと一緒に通夜したのは五百人ばかり。その人たちが「御燈明銭を上げよ。御開帳銭を上げよ。」と連呼する。米1升焚いたのが拾文。御守は、虫退乱御手判五穀成就。御守難有事也。 ・・・今晩の人々からはにて七百貫目の銭が、この寺に納るはずだ・・・

 一晩のお勤めをしたひとが500人ということは、貸切バスだと10台以上分の人数です。この日は、お大師さんの縁日の翌日ですが、お大師様の正御影供(2月21日)や前夜の通夜衆はもっと集まっていたはずです。
 現在の仙龍寺にお参りすると、その建造物群に驚かされます。なんでこれだけ大きな建物があるのか、以前からの私の疑問でした。しかし、この様を見ると、2月の寒中にこれだけの人達が集まって、一夜を超す施設が必要であったことが分かります。また、それを支えるだけの浄財を集まるシステムもあったことがうかがえます。

 明治期の仙龍寺には、夜の本尊開帳後に服部錢海が講話を行って、弘法大師信仰を鼓舞したと伝えられます。これに共鳴する先達達も現れ、「仙龍寺支援隊」とも云えるグループが生まれるようです。

仙龍寺 中務(司)茂兵衛
中務(司)茂兵衛

そのひとりが中務(司)茂兵衛(なかつかさもへえ)のようです。
彼は弘化2年(1845)4月30日に周防國大嶋郡椋野村(現山口県周防大島町)で生まれ、22歳頃に周防大島を出奔します。そして明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝します。その数279回と言われます。この巡拝回数は歩き遍路最多記録で、今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とされます。茂兵衛は42歳(明治19年(1886)、88度目の巡拝の頃から標石建立を始めます。標石は確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されています。
中務(司)茂兵衛と仙龍寺は、縁が深かったようです。彼の建てた標石221基中の10基(阿波3・土佐0・伊予5・讃岐2)に、仙龍寺への参詣通夜を勧誘した文が刻まれ、愛媛以外の県にまで配置しています。中務茂兵衛は、仙龍寺の「応援団員」と云えそうです。それも相当の熱が入っています。
参考までに奥院仙龍寺まで八丁地点に建てられた標石の刻文を見ておきましょう。
三角寺 中務(司)茂兵衛標石
       奥の院 是より五十八丁
毎夜御自作厄除大師尊像乃御開帳阿り 霊場巡拝の輩ハ参詣して御縁越結び 現当二世の利益を受く遍し                    中司義教謹識
明治36年(1903)に四国巡礼198度目を記念して三角寺道(四国中央市中之庄町)に建てた遍路道標石は
「金光山奥乃院は毎夜御自作厄除弘法大師尊像の御開帳阿リ 四国巡拝の制に盤参詣して御縁を結び現当二世乃利益を受く遍し」

明治37年(1904)に四国巡礼202度mを記念して64番前神寺の参道(西条市洲之内甲)に建てた遍路道標石には
「金光山仙龍寺ハ厄除弘法大師御自作の尊像□て毎夜開帳阿り四國巡拝の輩には参話して御縁を結び現当二世之利益を受くべし」

このように明治後期に建てられた中務茂兵衛の遍路道標石には、仙龍寺への参詣を誘う「宣伝広告」が記されています。仙龍寺は茂兵衛の定宿でなじみの深い札所であったことがわかっています。ここからは、中務茂兵衛のような仙龍寺を支援・応援する先達グループがいたことがうかがえます。それがさらなる参拝者の増加につながったようです。
仙龍寺宿坊2
仙龍寺宿坊
最後に戦後の仙龍寺の様子を見ておきましょう。
 昭和35年(1960)の紫雲荘橋本徹馬『四国遍路記』には、通夜に要する経費は一人前25円で有料であったこと、風呂や食事への不満、人手不足で肝心なご開帳が中止となったことなどが記されています。宿泊環境が整備されると、それまでの宿泊無料の通夜堂から有料の宿泊施設(宿坊)へと「転換」することが多いようです。そのような流れが仙龍寺にもあったようです。
 昭和37年(1962)の荒木戒空『巡拝案内 遍路の杖』には、仙龍寺の宿泊収容数は300名迄と記されています。ちなみに前後の札所の65番三角寺が100名、66番雲辺寺が50名(通夜堂完備)ですから、仙龍寺の宿坊が飛び抜けて大きかったことが分かります。その規模の大きさは、毎夜開帳された本尊弘法大師像への信仰(すなわち厄除け弘法大師への信仰)が盛んであったこと示すもの研究者は指摘します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「今付 賢司  仙龍寺「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」

      四国別格13番 仙龍寺
金光山仙龍寺
金光山仙龍寺は、四国八十八箇所の札場霊場ではありません。しかし、17世紀に書かれた澄禅「四国辺路日記」、真念「四国邊路道指南』、寂本「四国霊場記」などにも紹介されています。プロの宗教者である修験者たちの行場にあった山岳寺院は、近世になると「四国遍路」となり、札所寺院廻りに姿を変えていきます。それにつれて、山の奥にあった霊場は里山に下りてきます。そして、行場は「奥の院」と呼ばれるようになり、訪れる人は少なくなっていきます。ところが仙龍寺は現在に至るまで、多くの参拝者を集め続けている「奥の院・別院」なのです。それを示すのが、かつては400人が泊まった大きな宿坊です。これだけの施設を作り出していく背景は、どこにあったのでしょうか。
仙龍寺宿坊
仙龍寺の宿坊
図書館で最近に出版された三角寺と仙龍寺の調査報告書を見つけました。今回は、その中に紹介されている仙龍寺の絵図を見ながら、その歴史を追いかけて行きたいと思います。
テキストは「今付 賢司  仙龍寺「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」です。
奥之院仙龍寺】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
仙龍寺堂内入口

  弘法大師信仰が高まりを見せるようになると、善通寺の弘法大師御影のように、その遺品には霊力があり、何事も適えてくれると説かれるようになります。こうして弘法大師の遺品が人を惹きつけるようになります。
  澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)は、仙龍寺の弘法大師遺品について次のように記します。
 峠から木の枝に取付テ下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院(仙龍寺)は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。ここに弘法大師が18歳の時に、自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。
 
 ここからは仙龍寺は大師自作の弘法大師像が本尊で、鈴や硯も宝物として安置されていたことが分かります。中には、三角寺にお参りすることが目的ではなく、仙龍寺の「自作大師像」にお参りすることが目的の人達もいたようです。そのためには法皇山脈のピークの平石山(標高825m)の地蔵峠(標高765m)を越えて行かねばなりませんでした。これが「伊予一番の難苦」で、横峰寺の登りよりもしんどかったようです
報告書には仙龍寺の景観を描いた両帖、絵図類が以下の6つ紹介されています。
①寛政12年(1800)「四国遍祀名所図会」の図版「金光山」
②江戸時代後期、西丈「中国四国名所旧跡図」収録の直筆画
③弘化元年(1844)松浦武四郎「四同遍路道中雑誌」
④明治2年(1869)半井梧奄『愛媛面影』の図版「仙龍寺」)
⑤明治時代後期「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」
⑥大正~昭和時代頃「金光山奥之院仙龍寺」
仙龍寺 三角寺奥の院1800年
①の「四国遍礼名所図会」1800年 (個人蔵)
これは、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)の遍路記を、翌年に書写したとされるもので仙龍寺の挿絵がはいっています。ここには、仙龍寺への参道として次のようなものが描き込まれています
①三角寺からの地蔵峠
②雲辺寺道との分岐点となる大久保村
③仙龍寺まで7丁の地点にある不動堂
④そこから急勾配の難所となる後藤玄鉄塚
⑤道の左右に見える護摩窟、釈迦岳、加持水、来迎滝、道案内の標石、手洗水
などが細かく描き込まれ臨場感あふれる景観になっています。
山道を下った仙龍寺の境内では、懸造の本堂と庫裏、蟹渕(橋下の川)、鎮守社、阿弥陀堂、仙人堂などが並びます。崖沿いに建てられた高楼造りの仙龍寺本堂を中心に、深山の清滝、三角寺からの険しい奥院道の景観まで、江戸時代後期の仙龍寺の景観をうかがい知れる貴重な絵画史料と研究者は評します。
「四国遍礼名所図会」の本文は次の通りです
  是より仙龍寺迄八十町、樹木生茂り、高山岩端けはしき所を下る。難所、筆紙に記しがたし。庵本尊不動尊を安置す、是より寺迄七丁、壱町毎に標石有り。後藤玄鉄塚道の右の上にあり、護摩窟道の左の下、釈迦岳右に見ゆる大成岳なり、
加持水 道の右にあり、来迎滝橋より拝す、蟹渕 橋の下の川をいふ也。金光山仙龍寺 入口廊下本堂庫裡懸崖作り、本堂本尊弘法大師。毎夜五ツ時に開帳あり、大師御修行の霊地なり、本尊自作の大師也。大師四十二歳時一刀三礼に御作り給ふ尊像也、一度参詣の輩ハ五逆十悪を除給ふとの御誓願也。終夜大師を拝し夜を明す、阿弥陀堂 庫裡の上にあり。仙人堂 廊下の前に有り。
意訳変換しておくと
  三角寺から龍寺までは八十町、樹木が生い茂り、高山の岩稜が険しい所を下っていく。難所で筆舌に尽くしがたい。不動尊を安置する庵から仙龍寺までは七丁、1町毎に標石がある。後藤玄鉄塚は、道の右の上にある。護摩窟は、道の左の下にある。釈迦岳の右に見えるのが大成岳。
加持水は、 来迎滝橋より参拝できる。蟹渕は、橋の下の川のこと。
 金光山仙龍寺の入口廊下と本堂・庫裡は懸崖作りである。本堂本尊は弘法大師で、毎夜五ツ時(8時)に開帳する。ここは大師修行の霊地なので本尊は、大師自作の大師像である。大師が42歳の時に、この地を訪れ―刀三礼で作られたという尊像である。一度参詣した人達は、五逆十悪が取り除かれるという誓願がある。終夜大師を拝して夜を明す。阿弥陀堂は、庫裡の上にあり。仙人堂は、廊下の前にある。
ここで私が注目するのは、次のような点です。
①それまで大師18の時の自作本尊弘法大師像が42歳になっていること
②8時開帳で終夜開帳され、参拝者が夜通しの通夜を行っていること
①については「厄除け」信仰が高まると、「厄除け大師」として信仰されるようになったようです。そのため大師の年齢が18歳から42歳へと変更されたようです。
②については参拝者の目的は、本尊「大師自作の大師像」にお参りするためです。その開帳時刻は、夜8時だったのです。そのためには、仙龍寺で夜を過ごさなければなりません。多くの「信者の「通夜」ために準備されたのが宿坊だったのでしょう。それを無料で仙龍寺は提供します。これは参拝者を惹きつける経営戦略としては大ヒットだったようです。以後、仙龍寺の伽藍は整備され宿坊は巨大化していくようになります。それが絵図に描かれた川の上に建つ懸崖作りの本堂や宿坊なのでしょう。仙龍寺は、本尊の弘法大師像の霊力と巧みな営業戦略で、山の中の奥の院でありながら多くの参拝客を近世を通じて集め続けたようです。

仙龍寺23
大和国の仏絵師西丈が描いた彩色画帖「中国四国名所旧跡図」
(愛媛県歴史文化博物館蔵)
この絵図は一番下に「与州三角寺奥院金光山仙龍寺図」とあり、東西南北の方位が表記されています。城壁のような岩壁の上に横長の楼閣のような白い漆喰壁の建物(本堂、通夜堂、庫裏)が並び立ち、まるでお城のような印象を受けます。その廊下の四つの窓には全部で9人の人物が見えます。
その奥に瓦葺入母屋の屋根の大きな建物が二軒あります。張り出した岸上に瓦葺人母屋の屋根の漆喰塗り連子格子窓の建物があります。
 渓流の向こう側の西の文字のある左側の場面には岩場が広がり、さらに一段上がった崖上の端には、桧皮葺入母屋屋根の社のような建物があります。これがかつての行場の象徴である仙人堂なのでしょう。その前に小さな小屋があります。西側崖と東側崖の間には川があり、上流から水が勢いよく流れ、手前には屋根付き橋の大鼓橋が掛っています。川沿いには石垣をもつ瓦葺の建物が建っています。奥にも屋根のない太鼓橋が掛り、橋のたもとには石塔が建っています。

仙龍寺 松村武四郎

松浦武四郎「四国遍路道中雑誌」1844年(松浦武四郎記念館蔵)
 松浦武四郎は雅号を北海道人(ほっかいどうじん)と称し、蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案したほか、アイヌ民族・アイヌ文化の研究・記録に努めた人物です。彼も仙龍寺にやって来て、次のような記録とスケッチを残しています。
金光山遍照院仙龍寺
従三角寺五十六丁。則三角寺奥院と云。阿州三好郡也。本尊は弘法大師四十弐才厄除之自作の御像也。夜二開帳する故二遍路之衆皆此処へ来リー宿し而参詣す。燈明せん壱人前拾貳銅ヅツ也。本堂、客殿皆千尋の懸産二建侍て風景筆状なし易からず。大師修行之窟本堂の東二在。此所二而大師三七日護摩修行あられし由也。其時龍王:出て大師二対顔セしとかや。中二自然の御手判と云もの有り。是を押而巌石の御判とて参詣之人二背ぐ、尚其外山内二いろいろ各窟名石等多し。八丁もどり峠の茶屋に至り、しばし村道二行て金川村越えて内野村越而坂有。
意訳変換しておくと

金光山遍照院仙龍寺は、三角寺より五十六丁で、三角寺奥院と云う。阿波三好郡になる。本尊は弘法大師42才の時の厄除の自作御像である。夜に開帳するので、遍路衆は皆ここでー宿して参詣する。燈明銭として、一人十二銭支払う。本堂、客殿など懸崖の上に建ち風景は筆舌に表しがたい。 大師修行の窟は本堂の東にある。ここで大師は三七日護摩修行を行ったという。その時に龍王が出て大師と向かい合ったという。この窟の中には、大師の自然の御手判とされるものもある。この他にも各窟には名石が多い。八丁もどって峠の茶屋に帰り、しばらく村道を行くと金川村を越えて内野村越の坂に出る。

 松浦武四郎は、仙龍寺について「阿波三好郡にあり」としていますが、伊予新宮の間違いです。この地が阿波・讃岐・伊予の国境に位置し、他国者にとっては分かりにくかったようです。他に押さえておきたいことを挙げておくと
①本尊は弘法大師42歳の厄除け自作像であること、18歳作ではないこと。
②夜に開帳するので「遍路之衆」はみなここで1泊すること
③照明代に一人12銭必要であること

三角寺道と雲辺寺道の分岐点となる大久保村付近から仙龍寺までの険しい山道の様子、清滝、崖沿いの舞台造りの諸堂が簡略なスケッチで描かれています。描画はやや詳細さに欠けるが、仙龍寺の全体の雰囲気をよく捉えていると研究者は評します。

仙龍寺 明治2年
幕末期の地誌である半井梧巻『愛媛面影』(慶応2年(1866)
ここには図版とともに、次のように記載されています。。

仙龍寺 馬立村にあり。奥院と名づく。空海四十二歳の時の像ありと云ふ。山に依りて構へたる楼閣仙境といふべし。

左手に切り立つ崖沿いの懸造りの建物(本堂、通夜堂)と深い渓谷がに描かれています。空からの落雁、長い柱の上に建つ舞台から景色を眺めている人物なども描き込まれ、まさしく深山幽谷の地で仙境にふさわしい仙龍寺の景観です。
仙龍寺 『伊予国地理図誌

明治7年(1874)『伊予国地理図誌』
ここにも仙龍寺の記述と絵があります。仙龍寺図には、渓谷に掛かる橋や懸造の建物、そして反対側には清滝が描かれ、次のように記されています。
馬立村
仙龍寺 真言宗 法道仙人ノ開基ニシテ嵯峨天皇御代弘仁五年空海ノ再興ナリ 険崖二傍テ結構セル楼閣ノ壮観管ド又比類無シ 本堂十四間六間 客殿十二問四間 境域山ヲ帯デ南北五町東西九十間
清滝 仙龍寺ノ境域ニ在リ
明治末の仙龍寺について、三好廣大「四国霊場案内記」(明治44年(1911年)を見てみましょう。この小冊子は、毎年5万部以上印刷されて四国巡拝する人に配布されたもので、四国土産として知人に四国巡拝を推奨してもらうために作成された案内記だったようです。その中に仙龍寺は次のように紹介されています。

 奥の院へ五十八丁、登りが三十二丁で、頂上を三角寺峠と云ふて瀬戸内海は一視線内に映じ、山には立木もなく一帯の草原で気も晴々します、峠から二十六丁の下りで、此の間の道筋は石を畳み上八丁下ると不動堂のある所に宿屋あり。こヽまで打戻りですから荷物は預け行くもよろしいが、多くの人は荷を寺まで持て行きて通夜することとする。寺には毎夜護摩修行があり、本尊の御開帳があり、住職の御説法があります。寺には風呂の設けもありて参詣者に入浴を得させます
  奥の院 金光山 仙龍寺(同郡新立村)
本尊は大師四十二歳の御時、厄除祈願を込めさせられ、一刀三祀の御自作を安置します。昔高野山は女人禁制でしたが、当寺では女人の高野山として、女人の参詣が自由に出来ました故、今に女人成仏の霊場と伝へて、日々数多の参詣通夜する人があります。御本尊を作大師と申されまして、悪贔退散厄除の秘符を受くる者が沢山あります。
ここには奥の院道の三角寺峠から見た瀬戸内海の眺望や草原風景の素晴らしさ、石畳道、打戻りの地点の不動堂にも宿屋があったことが記されます。また、打戻りの際に荷物を宿屋に預けず仙龍寺まで持参せよとアドヴァイスしています。
 注目したいのは、毎夜に本尊弘法大師像の御開帳があり、そこで護摩修行が行われること、入浴接待が受けられ宿泊費用は無料であったことなどです。そのため百十年ほど前の明治末になっても仙龍寺で通夜する遍路が多かったことが分かります。
明治10年(1877)に幼少期の村上審月は、祖父に連れられて四国遍路を行っています。その時の様子を後年に「四国遍路(『四国文学』第2巻1号、明治43年(1910)に次のように綴っています。

三角寺の奥の院で非常な優待を受けて、深い谷に臨んだ京の清水の舞台の様な高楼に泊らされたが其晩非常の大風雨で山岳鳴動して寝て居る高楼は地震の様に揺いで恐ろしくて寝られず下の仏殿に通夜をしていた多数の遍路の汚い中へ母等と共に下りて通夜をしたことがあつた。

三角寺奥の院にある高楼に通されたのですが、晩に大風雨となり、地震のように揺らぐ高楼で寝られません。そこで多数の遍路と仏殿で通夜したことが記されています。高楼の宿泊部屋とは別に、階下の仏殿で通夜する遍路が数多くいたことが分かります。仏殿は無料の宿泊所である通夜堂として遍路に開放され、いろいろな遍路がいたことがうかがえます。

 番外札所の仙龍寺であったが多くの参拝者を集めている理由をまとめておきます。
①本尊弘法大師像が大師自らが厄除祈願を込めて自作されたものであること
②毎日夜に本尊を開帳し、参詣者に仙龍寺での通夜を許したこと、
③通夜施設として、大きな宿坊を準備し無料で提供したことや、風呂の接待も行ったこと
④「女人の高野山」として女人の参詣ができたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「三角寺と仙龍寺の歴史 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」      

  「郡庁」というのは、今の私たちにとっては馴染みのない言葉です。今の郡は、単なる地理的な区割りとしてしか機能していません。しかし、明治の郡には、郡長がいて郡庁もありました。例えば仲多度郡にも郡庁があり、それは善通寺に置かれていたというのですが、それがどこにあったのかについては、私はよく分かっていませんでした。善通寺市史第三巻を見ていると、仲多度郡郡庁の変遷や当時の写真なども掲載されています。そこで今回は、仲多度郡の郡庁を追いかけてみようと思います。テキストは、「近現代における行政と産業 仲多度郡役所 善通寺市史第三巻58P」です。

 香川県は、愛媛県から独立し「全国で最後に生まれた県」です。その香川県に、現在の郡が登場してくるのは、1899(明治32)年4月1日の次の法律によってです。
 朕帝國議會ノ協賛ヲ経タル香川縣ド郡廃置法律ヲ裁可し茲二之ヲ公布セシム
御名御璽
明治三十二年三月七日
内閣総理大臣侯爵山縣有朋
内務 大臣 侯爵 西郷従道
法律第四―一琥(官報三月八日)
香川縣讃岐國大内郡及寒川郡ヲ廃シ其ノに域ヲ以テ人川郡ヲ置ク
香川縣讃岐國大内郡及山田郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ木田郡ヲ置ク
香川縣讃岐國阿野郡及鵜足郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ綾歌郡ヲ置ク
香川縣讃岐國那珂郡及多度郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ仲多度郡フ置ク
香川縣讃岐國三野郡及豊田郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ三豊郡ヲ置ク
附 則
此ノ法律ハ明治三十二年四月一日ヨリ施行ス 
 これに小豆郡と香川郡の二つの郡と、高松市と丸亀市を加えて、香川県は二市七郡で構成されることになります。こうして現在の私たちに馴染みのある郡名が出そろうことになりました。そして丸亀平野では、那珂・多度郡の統廃合と同時にその一部を割いて丸亀市が置かれることになります。
それでは、仲多度郡の郡庁は、どこに置かれたのでしょうか?
それまでは、那珂郡・多度郡の2郡にひとつの「那珂多度郡役所」は、城下町のあった丸亀に置かれていました。従来の政治機能が丸亀に集中していたので、その方が色々な面でやりやすかったのでしょう。
 この法律によって生まれた仲多度郡役所は、善通寺村に置かれると決まっていました。しかし、当時の善通寺は十一師団設置にともなう建設ラッシュ中で、地価急騰と建設費も急上昇中でした。郡庁舎を建設する財源もなかったようです。そこで、城下町だった丸亀市に今まで通り「仮住まい」ということになります。
 郡庁舎は、いつから善通寺に置かれたのでしょうか?
『仲多度郡史』には、1903(明治36)年2月6日の記録に、次のように記されています。

「大字上吉田(停車場の西方)の民家を借用して其の事務を執れり」

「停留場」というのは、善通寺駅のことです。ここからは日露戦争が始まる前年には、善通寺駅の西方の民家に郡庁舎が丸亀から移ってきていたことが分かります。

11師団 航空写真 偕行社~騎兵隊
        駅前通り南側の航空写真(1920年代)
そして、日露戦争後の1906(明治39)年12月28日には、次のように記されています。
本郡役所を、善通寺町大字生野(輜重隊兵営の南側)に移す。前に丸亀より移転し約五筒年間仮舎に在りしも、執務の不便言ふへからさるものありしか爰に梢々官署的借家成るに及び此の日を以て移転せり」
 
  意訳変換しておくと
本郡役所を、善通寺町大字生野(輜重隊兵営の南側)に移す。以前に丸亀より移転し約5年間仮舎住まいであったが、執務上の不便さも増してきたので、今回「官署的借家」に、移転することになった。

ここから次のようなことが分かります。
①「丸亀より移転し約五筒年間仮舎に在り」とあるので、丸亀からの移転が1901年であったこと
②善通寺駅西側から輜重隊の南側に、「官署的借家」を確保して移転してきたこと

「輜重隊」は、現在の「郵便局+自衛隊の自動車教習所+あけぼの団地」のエリアになります。その南側となりますから現在の東中学校あたりになります。
さらに1908年1月の香川新報は、郡役所庁舎の落成を次のように報じています。
「同郡役所は既記の通リ善通寺町の字條字治郎氏が同町輔重兵南側に建築中の処落成、旧所移転せしか、昨四日移転式と新年祝賀会を行ふ、出席者は土屋師団長、小野田知事以下百餘名なりし

意訳変換しておくと
「仲多度郡役所は既報の通り、善通寺町の字條字治郎氏が輔重隊南側に建築中の建物が落成したので、旧所から移転した。昨日四日に移転式と新年祝賀会を行われた。出席者は土屋師団長、小野田知事始め、百名あまりであった。

 十一師団長の方が、知事よりも前に来ています。当時は師団長の方が格上であったようです。
十一師団配置図3
十一師団配置図(1922年)
「1912(明治45)年7月2日の『香川新報』には、「善通寺町の火事」の見出しで次のような記事があります。

「普通寺町生野糧秣吉本商會事吉本乙吉の倉庫より三〇日午后六時四〇分頃発火せしが秣(まぐさ)は乾燥し居れば見る見る大火となり其ノ前は道路を隔てて輜重隊あり而も手近く火薬庫あるより……又仲多度郡役所は直の隣なるを以て類焼ありてはと御真影を始め諸書類器具を出す事に大に雑踏せしが……」

意訳変換しておくと
「普通寺町生野糧秣(りょうまつ)吉本商會の吉本乙吉氏の倉庫より30日午後6時40分頃に出荷。馬用の秣(まぐさ)は、乾燥していて見る見るうちに大火となった。倉庫の前は道路を隔てて輜重隊で、近くには火薬庫ある。(中略) また仲多度郡役所は、すぐ隣ななので類焼の恐れがあるために御真影を始めとする諸書類や器具を運びだしたりして、周辺は火事場の騒ぎとなった。」

 とあり続いて、鎮火は八時半、損害倉庫3棟全焼一棟半焼、株2万6000貫で被害額は5000円、火災の原因は不明と結んでいます。仲多度郡役所への類焼は免れたようです。
広島の建築 arch-hiroshima|広島市郷土資料館/旧陸軍糧秣支廠缶詰工場
陸軍の糧秣缶詰工場(広島郷土資料館)
 糧秣とは、兵員用の食料(糧)及び軍馬用のまぐさ(秣)を指す軍事用語のようです。輜重隊は師団に必要な食料から一切のものを調達するのが任務でした。そのため缶詰や乾パンなどの食糧も民間から購入していました。出火した「糧秣吉本商會事」も、輜重隊に「糧秣」を納めていた会社だったのでしょう。そのため輜重隊南側(現在の東中学校)に、全部で4棟の倉庫を持っていたことが分かります。輜重隊の周辺には、師団御用達の酒屋や八百屋、衣料品店などが軒を並べるようになったことは以前にお話ししました。吉本商會も糧秣を納める会社であったようです。
偕行社航空写真1922年
輜重隊周辺(南側が現東中学)

この記事から次の2点に注目して郡庁舎の位置を類推してみます。
①道を隔て、軸重隊があり、近くに火薬庫がある
②吉本商會の倉庫に隣接して仲多度郡庁舎がある
①の火薬庫跡は、現在のシルバー人材センターになるようです。以上から、仲多度郡郡庁や吉本商会は、現在の東中学校附近にあったことが分かります。
1916(大正5)年4月1日 郡役所は、生野から上吉田の皇子の森に新築移転します。『仲多度郡史』は、その経緯を次のように記します。
「1915(大正4)11月7日、本郡庁舎及議事堂建築工事に着手す。郡庁舎の建築は多年の.懸案なりしも其ノ機容易に熱せさりしか、昨年通常縣會に於て之か議決を見るに至り、漸く宿望を遂くるの機運に到達するや本郡に於ても、今上陛下御大礼の記念事業として議事堂新築の議を可決し爾来位置の選定土地の買収設計の作製、工事請負人札等に数月を費し、此に交通最も便利なる面かも老松森々として高燥なる皇子の森の地を得て、此の同地鎮祭を挙げ以て其の工事を起すに至れり」。

意訳変換しておくと
「1915(大正4)11月7日、本郡庁舎と議事堂の建築工事に着手した。郡庁舎の建築は多年の懸案であったが、その機はなかなか熟さなかった。そのような中で昨年、通常県会で建設に向けての議決が行われた。これを受けて、今上陛下御大礼の記念事業として議事堂新築議案を郡会議でも可決し、位置の選定・土地の買収・設計の作製、工事請負人札等などに数ヶ月を費してきた。善通寺駅に近く、交通も便利で、老松森々生い茂る皇子の森の地を得て、ここに地鎮祭を挙げ起工式に至ることができた。

 新たに郡庁と議事堂が建設されることになった「皇子の森」とは、どこにあるのでしょうか?

皇子の森2
  仲多度郡庁が新設された皇子の森
今は児童公園になっていますが、どうしてここにこれだけの広さの土地が公園として確保されているの以前から疑問に思っていたところです。旧郡庁跡だったと言われると納得です。
 1916(大正5)年3月には、郡役所庁舎の落成と庁舎の規模等について次のように記します。  
「三月三十一日新築郡聴舎落成に至りたれは、本部役所を皇子の森に移転し、四月一日より新庁舎に於て事務を執れり。四月二六日御大礼記念事業として新築したる、本郡議事堂既に竣工し、郡役所も亦新廃合に執務する等総て完成を告けしかは、此の日議事堂に於て、其ノ落成式を行ひたり。来賓として若林知事、蠣崎師団長を始め、各郡市長縣郡会議員町村長及び地方各種団体名望家等三百余名の参列ありて、壮大なる式を挙げ、記念絵はがき郡案内記を配布し盛宴を開きたるに、各自歓を盤して本郡の発展を祝せり。

仲多度郡議事堂
仲多度郡議事堂
今建物の概要を挙くれは、議事堂は其の敷地二百六十五坪、本館木造平家建てにて、建坪百八坪、附属渡廊下一棟、厠一棟、正門及び周囲の石垣、土畳等、総工費6978円を要せり
仲多度郡役所
仲多度郡庁舎
 郡庁舎は其ノ敷地六百六十七、本館木造平屋建にして百二十七坪、附属小使室、物置二棟、渡り廊下、厠各二棟。倉庫一棟、掲示場一。門一。土畳及盛土等総て費金一万一千二百十四円餘を要せり。
(郡庁舎敷地は、元官有地なりしを善通寺町に払受けて寄附したるものなり)而して建物の地形は土を以て築き、屋上には塔及窓を設けて室内の換気を能くし蟻害豫防の為め背面の床下を開放し、避雷針を設くる等、構造堅牢にして、採光通風共に十分なり。敢て輸奥の美なしと雖も結構全く備はれり。又多数庭樹の寄贈ありて、春光秋色執務の疲労を資くるに足るへく実に縣内有数のものと云ふへし」。
こうして完成した仲多度郡の庁舎と議事堂ですが、その役割は短いものでした。郡制が廃止され、郡長や郡役所が不用になってしますのです。香川県に郡制の施行されたのは1899(明治32)年7月1日のことでした。以来、郡は地方自治団体として郡会を開いてきましたが、徴税権がありませんでした。そのため町村が郡費を分担して負担してきました。
 一方で、町村側から見れば郡はほとんど仕事らしい仕事をしておらず「無用の長物」と見えました。そのため廃止すべきという意見が年々高まります。香川県市町村長会でも1920(大正19)年11月、衆議院・貴族院両院議長、内閣総理大臣、内務大臣に宛てて「郡制廃廃止二関スル請願」を行っています。これを受けて1921(大正10)年に、郡制廃止法案が衆議院で可決されます。その提案理由は、次の通りです。
①郡制施行以来、郡自治にはみるべきものがない。
②模範にしたプロイセンとは異なり、我が国では住民の自治意識が弱く、必要性が少ない。
③各郡事業を府県や町村に移せば、事務を簡略化できる
④郡費負担金がなくなり、町村財政にプラスになる。
「郡制廃止二関スル法律」が公布されたのち、その施行期日は1921年4月1日と定められます。しばらく郡長や郡役所は存続しますがが、1926年7月には、それも廃止されて、郡は単に地理的名称となります。つまり、仲多度郡庁の建物は作られて実質5年で、その存在意味を無くしたことになります。
しかし、新築の建物にその後の使用用途はありました。
1928年6月1日からは、庁舎は善通寺警察署として使用
1932年9月1日からは、議事堂は香川県善通寺土木出張所が1960年まで使用。

最後に郡庁舎の移動変遷をまとめておくと
①仲多度郡成立後も、しばらくの間は丸亀に置かれていた
②1901年に丸亀から移動し、善通寺駅の西方の民家を5年間庁舎としていた
③1906年に輜重隊の南(現在の東中あたり)の貸屋に移った
④1916年に庁舎と議事堂が完成。場所は皇子の森
⑤1926年7月に郡制が廃止され閉庁
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「近現代における行政と産業 仲多度郡役所 善通寺市史第三巻58P」

四国霊場の三角寺と、その奥院とされる仙龍寺建立の母胎になったのは、熊野行者であることは以前に次のようにお話ししました。
①阿波に入った熊野行者は吉野川を遡り、旧新宮村の熊野神社を拠点とする。
②さらに吉野川支流の銅山川を遡り、仙龍寺を行場として開く
③そして、三角寺を拠点に妻鳥(めんどり)修験者集団を形成し、瀬戸内海側に進出していく。
これらの動きを史料で補強しておきます。

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熊野神社(旧新宮村)

①の旧新宮村の熊野神社は「四国第一大霊験権現」とされ、四国の熊野信仰第一の霊場として栄えました。旧新宮村の熊野神社は縁起によると、大同2年(807)に紀伊国新宮から勧請されたと伝えます。熊野信仰拡大の拠点と考えられる神社です。
新宮の熊野神宮に残された棟札を見ておきましょう。
永禄5年(1562) 「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵」、
慶長15年(1610)「大阿閣梨三角寺□処」、
元禄2年(1689) 「遷宮導師三角寺阿閣梨倉典」
宝永7年(1710) 「遷宮導師三角寺権大僧都法印盛弘」
延享3年(1746) 「遷宮導師三角寺大阿閣梨瑞真」
天明2年(1782) 「遷宮導師三角寺現住弘弁」
天明6年(1786)「遷宮導師三角寺現主一如」
文化14年(1817)「三角寺当職一如」
文政7年(1824)「遷宮導師三角寺上人重如」
嘉永2年(1849)「遷宮師三角寺法印権大僧都円心」
熊野神社の棟札には、遷宮導師として三角寺住持の名前があります。
  遷宮とは、新築や修理の際に一時的に神社の本殿などご神体を移すことで、その導師をつとめるのは最高責任者です。ここからは神仏分離以前には、新宮熊野神社は三角寺の社僧の管理下に置かれ、社僧(修験者)達によって運営されていたことが分かります。近世の旧新宮村や阿波西部の三好郡の社寺も山川村も同じような状況にあったことが推測できます。これは、多度津の道隆寺が多度津から荘内半島、そして塩飽に至る寺社の遷宮導師を務め、備讃瀬戸エリアを自己の影響下に置いていたのと同じような光景です。三角寺は「四国第一大霊験権現」である新宮の熊野神社を管理下に置くことで、広い宗教的なネットワークや信者を持っていたことがうかがえます。
P1190589
熊野神社(旧新宮村)
『熊野那智大社文書』の「潮崎稜威主文書」永正2年(1505)3月20日には、次のように記されています。
「熊野先達は妻鳥三角寺、法花寺、檀那は地下一族」

「米良文書」にも「熊野先達には妻鳥三角寺、法花寺」と記されています。ここからは、三角寺は熊野信仰の先達をつとめたいたことが分かります。

1三角寺 文殊菩薩 胎内名

近年、三角寺の文殊菩薩騎獅子像の胎内から墨書が発見されたことは以前にお話ししました。
この像は、文禄2(1593)年に三角寺住僧の乗慶が施主となり、薩摩出身の仏師が制作したものです。研究者が注目するのは、この墨書の中に「四国辺路之供養」の文字があることです。ここからは、かつて熊野先達として活動していた妻鳥三角寺の修験者たちが16世紀後半には「四国辺路」を行っていたことが分かります。かつての熊野先達を務めていた修験者が、巡礼先を「四国辺路」へと換えながら山岳修行を続けている姿が見えてきます。そのような修験者たちが三角寺周辺には数多くいて、彼らが旧新宮村から山川村周辺の熊野信仰エリアを影響下に置いていたということになります。

今日の本題に入ります。
三角寺の由来となった「三角」とは、何を表しているのでしょうか?
 三角寺の縁起は、次のように伝えます。

弘法大師が巡錫、本尊十一面観音と不動明王像を彫刻し、更に境内に三角の護摩壇を築き、21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して降伏護摩の秘法を修行。三角の池はその遺跡で、寺号を三角寺と称するようになった

 修験道や密教では、護摩祈祷を行います。普通は四角に護摩壇は組まれます。これは「国家の安泰と万民の福祉を祈念」するためのものです。ところが、弘法大師はここでは「三角の護摩壇」を築いています。これは、呪誼や降伏など、悪いものを鎮め、封じ込めるときのもので、特別な護摩壇です。

三角寺 三角護摩壇
護摩壇各種
何を封じ込めるために空海は三角護摩壇を築いたのでしょうか。『四国偏礼霊場記』の三角寺の挿絵を見てみましょう。

三角寺 四国遍礼霊場記
『四国偏礼霊場記』の三角寺
 
三角寺背後に竜玉山(龍王山)があります。龍王山と言えば「善女龍王」の龍の住む山です。龍はすなわち水神です。水源神として龍王がまつられ、その本地を十一面観音とします。龍王は荒れやすく「取扱注意」の神なので、これを鎮めるための三角の護摩壇が作られた。その結果、水を与え、農耕を護る水神(龍)となったという信仰がもともとあったのでしょう。これが弘法大師と結びついて、この縁起ができたと研究者は考えています。
 そうすると三角寺の縁起には、弘法大師が悪い龍を退治・降参させて、農民のために水を出しましょうと約束させたという処が脱落していることになります。それを補って考えるべきだと研究者は言うのです。
三角寺 三角護摩壇2
三角寺 三角池の碑文

 『四国偏礼霊場記』の挿絵をもう一度見てみましょう。本堂の前に「三角嶋」があります。これが三角の護摩壇に由来するようです。しかし、現在はここには龍王ではなくて、弁天さんを祀られています。現在の三角寺の弁天さんからは、龍(水神)につながるものは見えて来ません。
1三角寺の護摩壇跡
三角池に祀られた弁天(三角寺)

  それでは龍神信仰は、どこに行ったのでしょうか?
龍王山の向こう側にあるのが仙龍寺になります。

仙龍寺 三角寺奥の院
仙龍寺
遍路記でもっとも古い澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)で、三角寺と仙龍寺を見ておきましょう。
此三角寺ハ与州第一ノ大坂大難所ナリ。三十余町上り漸行至ル。
三角寺 本堂東向、本尊十一面観音。前庭ノ紅葉無類ノ名木也じ寺主ハ四十斗ノイ曽也。是ヨリ奥院ヘハ大山ヲ越テ行事五十町ナリ。堂ノ前ヲ通テ坂ヲ上ル。辺路修行者ノ中ニモ此奥院へ参詣スルハ希也卜云ガ、誠二人ノ可通道ニテハ無シ。只所々二草結ビノ在ヲ道ノ知ベニシテ山坂ヲタドリ上ル。峠二至テ又深谷ノ底エツルベ下二下、小石マチリノ赤地。鳥モカケリ難キ巌石ノ間ヨリ枯木トモ生出タルハ、桂景二於テハ中々難述筆舌。木ノ枝二取付テ下ル事二十余町ニシテ谷底ニ至ル。扱、奥院ハ渓水ノ流タル石上ニ二間四面ノ御影堂東向二在り。大師十八歳ノ時此山デト踏分ケサセ玉テ、寺像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。又北ノ方二岩ノ洞二鎮守権現ノホコラ在。又堂ノ内陣二御所持ノ鈴在り、同硯有り、皆宝物也。寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。昔ヨリケ様ノ無知無能ノ道心者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハー日モ堪忍不成卜也。其夜爰に二宿ス。以上、伊予象国分十六ケ所ノ札成就ス。
  意訳変換しておくと
三角寺は伊予第一の長い坂が続く大難所である。ゆっくりと30町ほど登っていくと到着する。
三角寺の本堂は東向で、本尊は十一面観音。前庭の紅葉は無類の名木である。寺主は四十歳ほどの僧侶である。ここから奥院は大山を越えて50町である。堂の前を通って。坂を上がって行く。辺路修行者の中でも、奥院へ参詣する者はあまりいないという。そのためか人が通るような道ではない。ただ所々に草結びの印があり、これを道しるべの代わりとして山坂をたどり登る。峠からは今度は深し谷底へ釣瓶落としのように下って行く。小石混じりの赤土の道、鳥も留まらないような巌石の間から枯木が生出ている様は桂景ではあるが、下って行くには難渋である。
 木の枝に取付て下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。こここには弘法大師が18歳の時に、やって来て自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。
 寺は、巌上に建つ懸崖造りである。ここには乗念という本結切の禅門僧が住持している。昔ながらの無知無能の道心者のようで、「六字ノ念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は、堪忍ならず」と、言って憚らず、阿弥陀念仏信仰に敵意をむき出しにしている。その夜は、ここに宿泊した。以上で伊予国分十六ケ所の札所を成就した。

ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀中頃には、三角寺から仙龍寺への参道を歩く「辺路者」は少なく、道は荒れていた。
②弘法大師の自像・鈴・硯などが安置され、早い時期から弘法大師伝説が伝わっていたこと。
③御影堂は「石上の二間四面」で、伽藍は小規模なものであったこと
④住持は禅宗僧侶が一人であり、念仏信仰に敵意を持っていたこと
⑤伽藍全体は小さく、住持も一人で、この時期の仙龍寺は衰退していたこと
ちなみに作者の澄禅は、高野山の念仏聖で各札所では念仏を唱えていたことは以前にお話ししました。「念仏禁止令」を広言する仙龍寺の禅宗僧侶を苦々しく思っていたことがうかがえます。
三角寺奥院 仙龍寺 松浦武四郎
仙龍寺 

 ここからは奥院が辺路修行の霊場で、修行者は仙人堂で滝行や窟寵りをしていたことが分かります。そして、仙龍寺には弘法大師伝説が早くから伝えられていました。そして仙龍寺の経営者達は、最初に見たように熊野行者であった妻鳥修験者たちです。彼らは時代が下ると、仙龍寺までは遠く険しいので、平石山の嶺を越えてくる遍路の便を図って、山麓の弥勒菩薩をまつる末寺の慈尊院へ本尊十一面観音を下ろします。これが三角寺へと発展していくようです。
 こうして生まれた三角寺には最初は、「三角嶋」が作られ空海による龍王封じ込め伝説が語られたのかも知れません。しかし、もともとは仙龍寺を舞台とした伝説のために三角寺では根付かなかったようです。三角嶋は、いまでは善女龍王にかわって弁天さま祀られていることは前述したとおりです。
三角寺 奥の院仙龍寺
仙龍寺 
一方、行場の方も仙人堂を仙龍寺として独立します。
そして、谷川の岩壁の上に舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化します。仙龍寺の大師は、今は作大師として米作の神となっているのは、水源信仰の「変化形」のひとつと研究者は考えています。

以上をまとめておくと
①吉野川の支流銅山川一帯には、古くから熊野行者が入り込み新宮の熊野神社を拠点に活動を展開した。
②銅山川上流の行場に開かれて仙龍寺には水神信仰があり、それが弘法大師伝説を通じて龍神信仰と結びついた。
③そのため仙龍寺には、弘法大師が三角の護摩壇で龍神を封じ込めたという言い伝えが生まれた。
④その後、本寺が仙龍寺から里に下ろされ、三角寺と名付けられたが、龍神を封じ込めた三角護摩壇という言い伝えは、伝わらなかった。
⑤そのため現在の三角寺には「三角嶋」はあるが、そこには龍神でなく弁天が祀られている。
参考文献
三角寺調査報告書 愛媛県教育委員会2022年

11師団の成立過程を追いかけています。今回は、次の2点に絞って「善通寺陸軍病院」を見ていこうと思います
①「おとなとこどもの医療センター」の原型が、どのようにしてつくられたのか
②設立されたばかりの病院が日露戦争に、どのように対応したのか
テキストは「陸軍の病院から国立善通寺病院ヘー善通寺衛戊病院の移り変わリー  善通寺市史NO3 602P」です。

まず11師団の各隊の供用年代を下表で確認しておきます。
十一師団建築物供用年一覧


表の一番最初に「丸亀衛戌(えいじゅ)病院」明治30(1897)年7月5日と供用開始年とあり、明治37(1904)4月1日に善通寺衛戌病院と改称されたことが記されています。衛戍とは、軍隊が駐屯することを表す法律用語で、英語のGarrison(駐屯地)の訳語になるようです。
11師団配置図
⑨が善通寺病院 ⑩が練兵場

善通寺師団の創設決定が1896(明治29)年に決定されると、その7月に病院用地として伏見に27000㎡(8100坪)の土地⑨が買収されます。病院建物については、政府は各営舎が出来た後に着手する予定でした。しかし、「兵士入隊後では不都合」と軍の方から突き上げられて、着工が決まります。そのためか用地もすこし奥まった伏見の地が選ばれます。そして翌年の1897(明治30)年4月着工し、7月には、善通寺丸亀衛戍病院の名称で開院することになります。これは建物の一部だけだったようで、11月に第一病棟、翌年に、さらに土地を買収して35000㎡(10700坪)となり、二病棟、炊事棟が完工。1899年に2階建の本館、被服庫、平屋の三病棟、五病棟、病理試験室等が姿を見せ、病院としての体裁をととのえていきます。
「善通寺陸軍病院(伏見分院)」と名称変更。(昭和初期の絵葉書)
善通寺衛戍病院
当時の陸軍病院の建物設計については、陸軍軍医部によって定められていた「鎮台病院一般の解」という設計基準書があったようです。これに基づいて、日本陸軍工兵第三方面(隊)が、軍医部やフランス軍事顧問団などから助言を受けながら設計していたようです。
現在明治村に一部が移築されている「旧名古屋衛戍病院」(1877年竣工)について、研究者は次のように述べています。

名古屋衛戍病院(明治村)
名古屋衛戍病院(明治村)
  管理棟と病棟に共通する仕様は、切石積の基礎、木造大壁造漆喰塗、寄棟桟瓦葺、上げ下げ窓、病室の四周を囲む回廊付き、である。漆喰壁の下地は名古屋鎮台歩兵第六聯隊兵舎と同様に木摺り斜め打ちで、一部に平瓦が張られて下地となっている。
管理棟正面には、桟瓦葺で緩い起(むくり)破風の玄関が突き出され、玄関の柱はエンタシスのある円柱である。広い玄関ホール中程から板床に上がり、その高さのまま各室、中庭の回廊へ連絡している。管理棟内には、医局、薬剤室、理化学研究室などがあった。背面回廊に面する窓は引き違いである。
名古屋衛戍病院病棟(明治村)
名古屋衛戍病院の病棟
病棟は寄棟屋根に換気用の越屋根を載せる。病棟外部回廊の大半は創建当初吹き放ちの手摺付であったが、後に改造され、ガラス入り引違い戸が建てこまれている。換気装置は病棟内の天井に畳2枚ほどの広さの回転板戸があり、開けると、越屋根までの煙道が通る仕掛けである。病室の外壁下部に床上換気口があって、病室内と外部回廊の通気を行うことが出来る。
中庭を囲む渡廊下、各病棟四周の回廊は、全て独立基礎に木柱を立て、木造高床桟瓦葺で、低い手摺が付いている。調査によれば、創建工事の際、竣工直前まで手摺を付ける計画はなかったが、或る軍医の提案により、全ての回廊と渡廊下に手摺が設置された。渡廊下の屋根は病棟や管理棟に比べ一段と低い。(西尾雅敏)
善通寺衛戍病院についての史料は、あまりないようです。名古屋衛戍病院を見てイメージを膨らませることにします。

十一師団 陸軍病院
衛戍病院の建物群
日露戦争による負傷兵に、どのように対処したのか
出来上がったばかりの衛戍病院は、平時は患者も僅かで静かな所だったようです。ところが設立7年目にして、その様子は一変します。日露戦争が勃発したのです。善通寺からも多くの兵士達が戦場へと出兵していきます。そして、負傷者が数多く出ます。病院では、開戦後4ヶ月後の6月10日に初めて戦地からの戦傷患者を受けいれています。その後も旅順の203高地をめぐる戦闘で、患者はうなぎ登りに激増し、五棟あった病棟はすぐに収容人数をオーバーします。記録によると1904(明治37)年12月13日の収容忠者数は6498名となっています。これだけの負傷者を、どのようにして受けいれたのでしょうか?
善通寺陸軍病院分室一覧
分院や転地療養地の一覧(善通寺市史NO3)

 これは増設(=分院建設)以外にありません。師団の各連隊で利用できる空地が選ばれて、そこに仮病棟が次々と建てられていきます。これを分院と呼びました。増設された各分院を見ておきましょう。
①第1分院    被服庫(四国管轄警察学校)に8病棟
②第2・3分院  練兵場西側(おとなとこどもの医療センター)
③第4・5分院  丸亀市城東町の練兵場(丸亀労災病院)
④伝染病隔離病棟 四国少年院西北の田んぼの中
以上で急造の病棟は114棟になりますが、それでも負傷者は収容しきれません。そこで、「転地療養所」が琴平・津田・塩江などの神社、寺院、民家等を借りて開かれます。琴平を見ると、現在の大門から桜の馬場にかけての金毘羅さんの広大な寺院群が崇敬講社になっていましたが、利用されていいない部分がほとんどでした。そこが宮司の琴綾宥常の申し出でで、「転地療養所」として活用されたようです。
善通寺地図北部(大正時代後期)名前入り
練兵場(=おとなとこどもの医療センター + 農事試験場)

練兵場に建てられた「第2、第3分院」は、どんなものだったのでしょうか。
「分院」建設地として目が付けられたのが練兵場でした。こうして練兵場に「善通寺予備病院第二・三分院」が建てられ、使用が開始されるようになるのが日露戦争中の1904(明治37)年9月2日のことでした。第二分院の概念図を見てみましょう。

善通寺陸軍病院 第2分室
         善通寺予備病院第二分院の概念図(1905年)
敷地の西側(左側)を流れているのが弘田川になります。位置は練兵場の南西隅にあたり、現在のおとなとこどもの病院の南側にあたります。回廊で結ばれた病棟が「10×2=20」建ち並んでいたことが分かります。これが第二分院ですから、もうひとつ同じような規模の第3分院がありました。

善通寺陸軍病院 第2・3分院
 第2分院の西側に第3分院が建てられます。

おとなとこどもの医療センターの新築工事の際に、発掘調査が行われました。その時に、第3分室の18病棟と、炊事場跡がでてきています。炊事場跡のゴミ穴が見つかり、そこからは軍用食器・牛乳瓶などが数多く出ています。
善通寺陸軍病院 第2分室出土品


牛乳瓶(2~4)2は胴部外面に「香川懸牛乳協合」「第六彊」「森岡虎夫」「電話善通寺一二四番」と陽刻され、背面には「高温」「殺菌仝乳」「一、人扮入」、頚部には「1.8D.L.」と陽刻されています。王冠で栓がされたままのものも出てきています。佃煮瓶(1)には、胴部外面下部に「磯志まん」の陽刻があります。負傷兵には牛乳が毎日出されていたこと、それを飲まずに廃棄していたものもいたようです。
分院の建物はどんな構造だったのでしょうか?
善通寺陸軍病院 第3分室 病棟柱穴跡

 発掘調査からは、礎石立ちの掘立柱建物が出てきています。永続的なものではなく、臨時の仮屋としての病棟だったことがここからもうかがえます。これが分院の病棟跡だったようです。
 ここで注意しておきたいのは、この2つの分室は、永続的なものではなかったことです。「臨時の分院」ということで、戦後の1906(明治39)年には閉鎖・撤去されます。下の写真は、昭和初期の練兵場を上空から撮ったものです。
十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場航空写真(善通寺市史NO3)
練兵場は「現在のおとなとこどもの医療センター + 農事試験場 + その他」です。その範囲は東が中谷川、西が弘田川、北西部は甲山寺あたりまでの30㌶を越える広さでした。ここで押さえておきたいことは、昭和初期には練兵場には病院はなかったということです。
それでは練兵場に再び病院が姿を現すのは、いつなのでしょうか?
それは1936(昭和11)に日中戦争勃発以後のことです。上海事変などで激戦が続き、負傷者が増大します。それを伏見の病室だけでは収容しきれなくなります。
十一師団西側
歩兵隊跡=「護国神社+乃木神社+中央小学校+西中・旧西高」

そこで最初は、中央小学校講堂に収容します。しかし、学校施設をいつまでも占有するわけにもいかず、歩兵連隊が徳島に移った後の兵舎を代用病室とします。それでも間に合いません。日露戦争の時と同じような状況がやってきたのです。このような中で事変がはじまって3か月後の9月には、再び練兵場に分院を建築することになります。各地から大勢の大工が集められ昼夜をとおしての突貫工事で分院建築がはじまります。こうして年末には、練兵場に17棟の病棟が再び姿をあらわします。残り半分の17棟や衛生部員の兵舎、倉庫などの付属建物が完成するのは1928(昭和13)年5月1日でした。こうして日露戦争後に撤去された分院が、24年ぶりに練兵場に姿を見せます。今度は「善通寺陸軍病院臨時第一分院」と呼ばれることになります。

善通寺陸軍病院 分院宛手紙
善通寺陸軍病院第1分院宛に宛てられた父親からの手紙
消印は昭和13年で12月18日、第23病棟の第1号室宛てになっている。
善通寺陸軍病院への手紙
第1分院の規模は次の通りでした。
病院敷地    129495㎡(39241坪)
病棟数       34棟
一箇病棟面積  683㎡(207坪)
伏見の本院と併せて、3500名の入院患者を受けいれることになります。これが戦後の善通寺国立病院となり、現在のおとなとこどもの医療センターへと発展していくことになるようです。
以上をまとめておくと
①十一師団設置の際に、師団の付属病院である「衛戍病院」が伏見に建設された。
②日露戦争の際には、約1万人の負傷兵を受けいれるために、各地に分院を建てて対応した。
③練兵場西南部にも、第2・3分室(計38病棟)が建てられたが、日露戦争後には撤去され更地なり、再度練兵場の一部として使用されていた。
④日中戦争勃発後の負傷者激増に対応するために、再び練兵場には大規模な分室が建てられた。
⑤この分室は、戦争の長期化とともに撤去されることなく戦後を迎え、善通寺国立病院へと姿を変えていく。
⑥「こども病院」へと特化した伏見の本院と、統合され現在はおとなとこどもの医療センターへと成長した。
⑦その際の発掘調査から弥生時代から古墳時代にかけての遺物が大量に出てきて、この地が善通寺王国の中心地であったことが分かった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
善通寺陸軍病院 伏見

参考文献
    陸軍の病院から国立善通寺病院ヘー善通寺衛戊病院の移り変わり
                                                              善通寺市史NO3 602P

  庵治町の文化財協会の人達をご案内して、以下のコースを巡ってきました。
大墓山古墳→宮が尾古墳→偕行社→、騎兵連隊跡の四国学院→乃木館→赤煉瓦倉庫→善通寺→農事試験場に残る出水群→宮川製麺

空海につながる佐伯直一族、旧練兵場遺跡群、近代になって片田舎だった善通寺村が大規模な軍都に瞬時に生まれ変わる様を、今に語る建物群など見てまわったことになります。
 お話をした後で、気になったことがあったのでバスを見送った後に、図書館で善通寺市史NO3を借りだして家で開いて見てみると、十一師団設置に関する3枚の地図や航空写真が挟まれていました。今まで見ていた善通寺市史にはなかったので、私にとっては始めて見るものばかりです。今回は、それを紹介しようと思います。
善通寺航空写真 1922年11月
陸軍統監部飛行隊撮影の善通寺市街地と十一師団
まず、「大正十一(1922)年十一月 統監部飛行隊調整」と書かれた航空写真です。これはこの年に善通寺周辺で行われた陸軍大演習用に、陸軍が作成したもののようです。練兵場が臨時の飛行場となり、演習のために飛行機が善通寺にもやってきていたようです。その時に撮られた写真を貼り合わせたもののようで、一部整合性に欠けます。分かりやすいように朱色で各隊の位置を書き込んでみました。
 師団設置が決まって、すぐに行われたのは用地買収だったことは以前にお話ししました。それは、次のようなプランで進められます。
①駅前から善通寺東院の南大門の前まで一直線に線を引いて、駅前通りを造り、
②その南側を約200m幅で買収。
③善通寺南大門から南へ道を作り、その両側約300mを買収
④そこに各連隊や部隊を配置していく
この配置については、早い段階から決まっていたと思っていました。ところが今回見つけた善通寺市史NO3の地図には、明治29年に書かれた次のような配置図案があります。
十一師団 遊郭用地

これを見ると各連隊の設置場所と、完成時のものを比べると次のうな点がちがいます。
11師団配置図

 現在地                  M29年度案     実際配置
①四国学院                 砲兵隊          騎兵隊
②護国神社・消防署・施設隊    練兵場          歩兵・兵器敞
③自衛隊                          歩兵 隊        山砲隊
この案では、練兵場が②の砲兵隊と歩兵隊の間に予定されています。練兵場を別の所に、取得するつもりはなかったようです。その後、この案では練兵場は狭すぎる、もっと広い場所が必要だという陸軍からの要望・圧力を受けて、現在の農事試験場や善通寺病院に別個に練兵場を設置することになったことがうかがえます。その結果、駅から一番遠くに設置予定であった騎兵隊が①の四国学院の地に変更され、後は玉突き的に動いたことが考えられます。

11師団配置図 遊郭
遊郭用地予定地が書き込まれた地図(明治29年)
 もうひとつ気がついたのは、この地図には香色山北側の麓に赤く塗られたエリアです。
よく見ると「遊郭用地壱万五千坪」と読めます。師団設置が決まるとと同時に、遊郭設置もその計画書には書き込まれているのです。旧日本軍が「娼婦を連れた軍隊」と云われることに納得します。善通寺はここに遊郭が設置されることには反対はしなかったのでしょうか? 反対しても、それが聞き入れられることはなかったかもしれません。

航空写真を拡大して各連隊を見ていきます。
11師団 航空写真 偕行社~騎兵隊
11師団各連隊の拡大写真
駅前から西に真っ直ぐ伸びる駅前通りの北側は、旅館やお店の小さな屋根が密集しているのが見えます。師団設置決定から2,3年で田んぼだった所が市街地になりました。
駅から順番に西に向かって各隊を見ていきましょう。
①駅前には旧河道跡が見えます。
かつて金倉川支流は、尽誠高校あたりからこの流路を通って北流していたことがうかがえます。
偕行社と北側の出水
偕行社南側 出水があったことがわかる (1922年陸軍大演習)

偕行社の裏側(南側)にみえるのは出水だったことが写真からも確かめられます。また、偕行社前には、師団全体の水源となる出水があったようです。この伏流水の豊かさが善通寺へ師団設置の要因の一つであったことは以前にお話ししました。偕行社の東側の女学校は、現在の善通寺一高になります。

偕行社航空写真1922年
②輜重隊は正面付近は、現在の郵便局で記念碑が建てられています。その背後は、自衛隊の自動車教習コースと市営団地になっています。現在は道を挟んで東中学があるあたりになります。ここもかつては河原跡で、掘ったら川原石が一杯出てくるそうです。生野町一帯は、氾濫原で水持ちが悪く水田化は遅れたようです。この時代も尽誠高校当たりまでは、森が続いていたという記録もあることは以前に紹介しました。
11師団 騎兵隊

③現四国学院は、かつての騎兵隊があった所です。
東側に並んでいるのが馬舎群で、ここに軍馬が多数飼われていたようです。馬舎といっても丈夫で立派な建物なので、「庶民よりいい建物に、陸軍さんの馬は飼われている」と云われた代物です。四国学院も設立当初は、教室に改造して使用していたと聞いています。広い乗馬場で、ロシアのコサックと戦うための訓練がされていたのでしょう。①・②と番号を打った建物のうちで②の建物が現在でも残されています。四国学院の短大の施設として利用されていた2号館です。
DSC05070
四国学院2号館(旧騎兵隊兵舎)
この2号館は、国の登録文化財の指定を受けたルネッサンス様式の数少ない軍の建物です。
十一師団西側

善通寺の南側にあった歩兵隊については、1920年代の国際協調・軍備縮小の機運の中で廃止されます。その跡地には、現在は次のようなものが建っています。
東側に護国神社と乃木神社
西側に中央小学校
南側に旧善通寺西高校・善通寺西中学校
11師団配置図 兵器敞

歩兵隊の南側は兵器敞(部)で、航空写真からも大きな倉庫が建ち並んでいるのが見えます。
この内で残っている赤煉瓦倉庫が①②③の3棟です。明治末から大正時代にかけて建てられたもので、幅14m×60mの2階建ての大型倉庫です。

DSC05162
兵器敞跡の赤煉瓦倉庫

分からないのは、工兵隊の隣の工兵作業場です。
ここでどんな訓練が行われていたのか、またその道を挟んで北側の「陸軍監獄」というのが今の私にはよく分からないところです。今後の調査対象としたいと思います。
HPTIMAGE
1920年代の十一師団配置と善通寺市街
航空写真は、そこに建っていた建物までみえてくるので、各隊の雰囲気まで伝わってきます。練兵場については、また別の機会にお話ししたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

善通寺市 仙遊寺 - WALKER'S

私がいつも御世話になっているうどん屋さんのひとつに、善通寺病院近くの宮川製麺があります。その駐車場のそばに「この先 弘法大師幼児霊場仙遊寺」という看板が出ています。歩いて1分足らずで境内につきます。境内の東側にはひろい農事試験場の畑が拡がります。   
  仙遊寺周辺は、空海(真魚)が幼い頃に泥で仏像を造り、それを小さな仏堂に納めて遊んでいた場所とされます。そのため旧蹟とされ、近世になると延命地蔵が建てられ、四国霊場の番外霊場となりました。
仙遊寺 再建前
更地化した仙遊寺の基壇 仮堂の中に本尊
しかし、近年はお堂がなくなり、基壇だけが残され、そこに建てられた仮屋に稚児大師と延命寺蔵だけが祀らていました。

仙遊寺の本尊
 仙遊寺本尊の弘法大師稚児像と延命地蔵
それが2年ほど前に、白壁の立派なお堂が再建されました。来年2023年は大師誕生1250年に当たるようです。その整備事業の一環として再建されたようです。仙遊寺 内部
新しいお堂の中に安置された仙遊寺の本尊
お堂の前の説明書きには、仙遊寺の由緒が次のように記されています。
仙遊寺縁起
仙遊寺縁起

文体がすこし古いようなのでので、読みやすいように現代語訳して、それに「高野大師行状図画」の絵を合わせて紙芝居風に見ていきます。
弘法大師 行状幼稚遊戯事
  幼少期に泥仏を作り拝む場面   高野大師行状図画「幼稚遊戯事」

そもそも当院は弘法大師幼時の霊場で、大師は幼くして崇仏の念が深く、5、6歳の頃から外で遊ぶ時は泥土で仏像を造り、小さい御堂も造って仏像を安置し、礼拝していたと伝わっています。

  できだぞ! 今日もりっぱな仏様じゃ。早う御堂に安置しよう。真魚(空海幼名)は、毎日手作りの泥仏を作って、祀ります。その後は、地に伏して深々と礼拝します。兄弟達もそれに従います。

弘法大師 大師行状図画 蓮華に乗り仏と語る
仏達と雲上の蓮にのって語らう真魚
真魚が5、6歳頃に、いつも夢の中でみることは、八葉の蓮花の上に座って、諸仏と物語することでした。しかし、その夢は父母にも話しませんでした。もちろんその他の人にも。
父母は大師を、手の中の玉を玩ぶように慈しみ、多布度(貴とうと)物と呼びました。
弘法大師 「四天王執蓋事」〉
「四天王執蓋事」 真魚の姿を見て驚き下馬し、平伏する役人

ある日、中央から監察官が屏風ヶ浦(善通寺)に巡視にやってきます。その時に遊んでいる大師の姿を見て、馬から飛び降り、うやうやしく跪(ひざまず)いて大師に敬礼しました。
弘法大師 行状四天王執蓋事
真魚の頭上に天蓋を差しかける四天王「四天王執蓋事」
それを見た随員(部下)の人々は大変怪しみ、その訳を尋ねると「この子は凡人ではない、四天王が天蓋を捧げて、護っているのが見える」と言ったそうです。
以来、遠近の里人は大師を神童と称えて、後世にその礼拝した土地を仙遊ヶ原として、此処に本尊・地蔵菩薩を安置して旧跡としました。この本尊は「夜泣地蔵」と申し、各所より沢山の人が礼拝に訪れます。
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードが加えられていきます。例えば、我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
弘法大師  高野大師行状図画 捨身

 六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。

これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」といわれるもので、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来します。
 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっています。
   幼年期の真魚を描いた絵図は、時代が下ると独立してあらたな信仰対象になっていきます。

弘法大師 稚児大師像 与田寺
稚児大師像(与田寺)

それが「稚児大師像」です。幼年姿の空海の姿(真魚)がポートレイト化されたり、彫像化され一人歩きをするようになるのは、以前にお話ししました。
 つまり、近世の稚児大師信仰の高まりとともに、真魚の活動舞台とされたのが仙遊寺周辺なのです。江戸時代には、真魚は粘土で仏を作り、それを小さな手作りのお堂に安置して遊んでいた、そこが仙遊ケ原だったと言い伝えられるようになっていたことを押さえておきます。
 4善通寺御影堂3
 「弘法大師誕生之地」と書かれた誕生院御影堂の扁額

 現在は誕生院の御影堂の扁額には「弘法大師之生誕地」と書かれています。しかし、13世紀頃に成立したいろいろな空海絵伝には、その生誕地が誕生院と書かれたものはありません。誕生院が姿を見せるのは13世紀になってからのことです。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡と善通寺・仲村廃寺・南海道・郡衙の関係図

佐伯氏の氏寺である善通寺には、先行する寺院があったことは以前にお話ししました。
それが仲村廃寺で、現在のホームセンターの当たりになります。飛鳥の蘇我氏と氏寺である飛鳥寺の関係を見ても、建立者の舘周辺に氏寺は建てられることが多いようです。そうだとすると、佐伯直氏の舘も、仲村廃寺周辺にあったことが考えられます。それを裏付けるように、旧練兵場遺跡では古墳時代後期には、その中心域が病院地区から農事試験場の東部の仲村廃寺周辺に移動していることが発掘調査からは分かります。
 それが7世紀末になると、南海道が東から真っ直ぐに伸びてきて現在の四国学院を通過するようになります。その周辺に郡衙や新たな氏寺である善通寺が建立されることは以前にお話ししました。この時期には、郡司である佐伯直氏の舘もこの周辺に移動していたことが考えられます。古代には現在の誕生院には、佐伯直氏の舘はなかったと私は考えています。
DSC04034
再建された仙遊寺
  話が遠いところまで行ってしまいました。仙遊寺にもどります。
仙遊寺の本尊は、延命地蔵と稚児大師です。
   そしてセールスポイントは、稚児大師でしょう。旧蹟という大きな石碑も建っています。そうだとすれば、それをもう少しアピールした方がいいように思います。それは、江戸時代の善通寺が江戸や京都などで出開帳する際に、出品した品々が参考になると思います。元禄時代の善通寺は金堂再建の費用を集めるために大規模な開帳をおこなっています。
弘法大師稚児像
稚児大師像(善通寺)

その際の目玉の一つが「弘法大師生誕地」としての「稚児大師」でした。そして、ファミリーを目に見える形にするために、父親や母親の像を造り展示しています。
空海父 佐伯善通
真魚の父 佐伯善通像(戸籍的には 父は佐伯田公)
また、ここで紹介した真魚伝説にかかわる絵図も魅力あるものです。これらを展示することで「真魚の寺」という面を前面に出していくという広報戦略を私は「妄想」しています。要らぬお節介でした。
旧練兵場遺跡地図 
仙遊寺周辺の古代遺跡

  最後にもう一度、説明版を見ておきます。私が気に掛かる部分は、次の部分です。
  また、かつて日本軍の第十一師団の練兵場を造るに当たり、仙遊ヶ原の旧跡も他に移転しましたが、時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すよう言われたため、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存し、現在に至っています。

世界広しといえど、恐らく誰も練兵場内に仏堂があったとは知らないことでしょう。なお、昭和26年7月7日を以って寺名を、旧跡に因んで仙遊寺と呼称することになりました。

この記述について検討しておきます。

善通寺航空写真 1922年11月
善通寺航空写真(1921年)と練兵場
練兵場は現在の仙遊町で「善通寺病院 + 農事試験場」の範囲
現在の仙遊町は、約14万坪(×3,3㎡)=46万㎡が11師団の陸軍用地として買い上げられ練兵場となります。
十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺(善通寺市史NO3)
練兵場中央の北辺にあったのが仙遊ケ原でした。ここにあったお堂も軍に接収されます。伝承では師団長乃木将軍は夢の御告げによって古跡のことを知り、軍用地接収を中止させたと伝えます。この説明版も、それに従っているようです。しかし、これは後に神格化された乃木将軍への追慕から生まれた「伝説」のようです。

善通寺地図北部(大正時代後期)名前入り
善通寺練兵場周辺地図(1920年代)
1909(明治42)1月に、善通寺住職は陸軍大臣宛に次のような要望書を提出していることを善通寺市史は載せています。
「善通寺練兵場中古霊跡仙遊ヶ原地所借用願」
右霊跡仙遊ヶ原ハ弘法大師御誕生所屏風浦別格本山善通寺古霊跡随一二シテ大師御幼少ノ時御遊戯ノ場所トシテ大師行状記二下ノ如キ文アリ
昔ハ公ヨリ御使ヲ国々へ下サレテ民度ノ苦ヲ問ハセケリ 其故ハ君ハ臣フ持テ外トス民ハ食フ以テ命トス穀尽クヌレハ国衰民窮シヌレハ礼備り難シ疫馬鞭ヲ恐レサルガ如シエ化モ随ハス利潤二先ンシテ非法フ行ス民ノ過ツ所ハ吏ノ咎トナリ吏ノ不喜ハ国主ノ帰ス君良吏ヲ澤ハスシテ貪焚ノ輩ヲ持スレバ暴虐ヲ恣ニシテ百姓フ煩ハシム民ノ憂天二昇り災変ヲナス災変起レバ国上乱ル此ノ上ノ講ナルヨリ起り下奢ンルヨリナル国土若シ乱ナバ君何ヲ以テカ安カラン此故二民ノ愁ヲモ間ヒ吏ノ過リヲモ正サンガ為ノ御使ヲ遣ハサレケリサレバ勅使ノ讃岐国へ下サレタリクルニ大師幼クンテ諸々ノ童子二交ハリテ遊ビ給ヒケルプ身奉ッテ馬ヨリヨり礼拝シテロク公ハ几人二非ス共故ハ四人王白傘ヲ取リテ前後二相従ヘリ定メテ知ンヌ此レ前世ノ聖人ナリト云ワ事フト其後隣里人驚キ御名フ貴物トゾ中ケル如斯昔ロヨリ四方ノ善男善女十方信徒熱心二尊敬供養スルノ古霊跡二御座候間南北二拾間、東西に拾間ヲ二拾年間御貸与ノ程別紙図面相添へ懇願仕候間直々御許可願上候也
理  由
右霊跡元当本山所属地二有之候処第十一師団練兵場卜相成候付テハ仮令練兵場ノ片隅二有之候卜雖モ御省御管轄ノ地所卜相成り候故多大ノ信者参拝アルフ以テ明二拝借シ置キ度候也
目的
偉大ナル古聖人ノ霊跡故千古ノ霊跡ヲ保持シ万たみ二占聖偉人ノ模範ヲ示ン無声ノ教訓ヲ与へ度候
設備
一、弘法大師児尊像之右像、地蔵尊石像及人塚碑名等古来ヨリ存在セン通リニ樹木等生殖致居候
讃岐国善通寺町別格本山善通寺住職
中僧正  佐伯 宥楽
右本山信徒総代
田辺 嘉占
                宮沢政太郎
明治四拾一年壼月拾三日 
陸軍人佐 寺内正毅殿
意訳変換しておくと
善通寺練兵場の古霊跡である仙遊ヶ原地所についての借用願
仙遊ヶ原は弘法大師の誕生地である善通寺の旧蹟地で、大師が幼少の時に遊んだ所です。「大師行状記」には、次のように記されています。
昔は、民の愁いを問い、官吏の誤りを糺すために、巡察使を中央から地方に派遣していました。(中略)
讃岐へ派遣された勅使が、善通寺にもやってきました。大師が幼い時のことで、周りの子ども達と一緒に遊んでいました。それを見た巡察使は突然に、馬を下りて、礼拝してこう云いました。
「あの方は、尋常の人ではありません。四天王が白傘を持って、前後に相随っているのが私には見えます。あの方の前生は聖人だったことが私には分かる」と。
その後、隣里の人々は、この話を伝えて、大師を神童ど呼ぶようになりました。
このように昔から四方の善男善女の多くの信徒が熱心に尊敬・供養してきた旧蹟です。ついては、南北二十間、東西十間を別紙図面の通り、貸与許可していただけるよう申請します。
理  由
この霊跡はもともとは、善通寺に所属する土地であったものが、練兵場となったものです。練兵場として陸軍省管轄地となりましたが多くの信者がいますので、借用を申し出る次第です。
目的
偉大な古聖人の霊跡ですので、その旧蹟を保持して信仰することは偉人に接する模範を示すことになり、多くの教訓となると考えます。
設備
弘法大師稚児像、地蔵尊石像と人塚碑名などの昔からあるものの他に、樹木などを植栽する。
讃岐国善通寺町別格本山善通寺住職
中僧正  佐伯 宥楽
右本山信徒総代
田辺 嘉占
                宮沢政太郎
明治四拾一(1908)年1月13日 
陸軍人佐 寺内正毅殿
   ここからは日露戦争後に、善通寺住職が旧蹟周辺の土地借用を、陸軍大臣に願いでていることが分かります。つまり、説明版にある「時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すよう言われたため、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存」とあるのは事実ではないことになります。
善通寺誕生院院主の申請に対して、善通寺町役場を通じてもたらされた陸軍の回答は、次のようなものでした。
「善通寺住職宛」
善通寺町役場
本年一月十三日付ヲ以テ出願サラレタル練兵場内占跡仙遊ケ原敷地借用ノ件別紙写ノ如キ趣ヲ以テ本願書却下二相成候條此段及返却候也
社第六五八号一 明治四十一年八月十八日
仲多度郡役所 公印
善通寺町助役殿                                             ・
其部内善通寺住職ヨリ第十一師団練兵場内占跡仙遊ケ原敷地借用ノ件出願ノ所今般其筋ヨリ砲兵隊ノ編成改正ノ為メ野砲ヲ常二練兵場二於テ使用スルコトト相成現在ノ練兵場既二狭除フ告ケ其筋へ接張方申請二付キ仮令少許ノモツト雖モ練兵場内二介在スルハ秒カラサル障害アルヲ以テ右使用ノ義協議二應シ難キ趣被越候旨ニテ書面却下相成候二付返戻相成度候                         
以上
     明治四拾一年壼月拾三日 
意訳変換しておくと
本年1月13日付で出願された練兵場内の旧跡仙遊ケ原敷地借用の件について、別紙写通り本願書は却下となったこと伝える。
社第六五八号一 明治四十一年八月十八日
仲多度郡役所 公印
善通寺町助役殿                                             ・
善通寺住職からの第十一師団練兵場内の旧蹟跡仙遊ケ原敷地借用の件出願について、11師団の意向は次の通りである。砲兵隊編成改正のために野砲を日常的に練兵場で使用することになっている。そのため現在でも練兵場は手狭になっており、拡張計画を進めているところである。ついては、すこしばかりの面積と雖も練兵場に障害ができるものの設置は協議に応じがたいとのことであった。ついては、書面却下となったので返却する。
以上
  ここからは練兵場での訓練に障害の出るようなものの設置は認められないとの十一師団の意向を受けて、陸軍省は願書を善通寺に送り返していることが分かります。
このような「事実」があるにも関わらず「伝説」は生まれてきます。神話化した乃木大将について、そのような物語を民衆が欲していたからかもしれません。

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仙遊原古跡の碑(仙遊寺)
以上をまとめておくと
①14世紀以後に書かれる弘法大師の絵伝類には幼年時の空海(真魚)が仏像遊びなどをしていた場面が描かれ、稚児大師信仰が生まれる。
②この場所が現在の宮川製麺の南側で、地元では「仙遊が原」と呼ばれるようになる
③そこに弘法大師信仰の高まりとともに、近世になると稚児像と延命地蔵が祀られ旧蹟となった。
④明治になって、この地は11師団の練兵場として整地され、旧蹟もその中に取り込まれた。
⑤これに対して、善通寺住職は旧蹟の借用願いを陸軍省に申し出たが、現場の反対で実現することはなかった。
⑥しかし、今も伝承としては「乃木大将の夢に出てきて、返還されたと」とされている。
⑦仙遊寺が建立されるのは、戦後のことである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史第2巻 第十一師団の成立 練兵場
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旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡とその周辺

弥生時代にの平形銅剣文化圏の中心地のひとつが「善通寺王国」です。その拠点が現在のおとなとこどもの医療センター(善通寺病院)と農事試験場を併せた「旧練兵場遺跡」になります。
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2
瀬戸内海にあった平形銅剣文化圏
今回は、ここに成立した大集落がその後にどのようになっていったのか、その推移を追いかけてみようと思います。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
1 弥生時代中期から古墳時代初期までです。
①弥生時代後期前半期から竪穴式住居が現れ、その後は集落が継続的に存続していたこと
②掘立柱建物跡は、その柱穴跡直径が大きいことから、倉庫か、望楼のような高床か高層式建物。「善通寺王国」の形成
③古墳時代になると、住居跡の棟数が減少するので、集落の規模縮小傾向が見られること。


旧練兵場遺跡地図 
弥生末期の旧練兵場遺跡 中心地は病院地区

2 古墳時代中期から古墳時代終末期まで
  古墳時代になると、住居跡や建物跡は姿を消し、前代とは様子が一変します。そのためこの時期は、「活発な活動痕跡は判断できなかった」と報告書は記します。その背景については、分からないようです。この時期は、集落がなくなり微髙地の周辺低地は湿地として堆積が進んだようです。一時的に、廃棄されたようです。それに代わって、農事試験場の東部周辺で多くの住居跡が見つかっています。拠点移動があったようです。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺

3 奈良時代から平安時代前半期まで
 この時期に病院地区周辺を取り巻くように流れていた河川が完全に埋まったようです。報告書は、次のように記されています。

「これらの跡地は、地表面の標高が微高地と同じ高さまでには至らず、依然として凹地形を示していたために、前代からの埋積作用が継続した結果、上位が厚い土砂によって被覆され、当該時期までにほぼ平坦地化したことが判明した。」

 川の流れが消え、全体が平坦になったとします。逆に考えると、埋積作用が進んでいた6~7世紀は、水田としての利用が困難な低地として放棄されていたことが推察できます。それが8世紀になり平坦地になったことで、農耕地としての再利用が始まります。農耕地の痕跡と考えられる一定の法則性がある溝状遺構群が出てくることが、それを裏付けると研究者は考えています。
 この結果、肥沃な土砂が堆積作用によってもたらされ、土地も平均化します。これを耕作地として利用しない手はありません。佐伯直氏は律令国家の手を借りながら、ここに条里制に基づく規則的な土地開発を行っていきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡と南海道・善通寺の関係
 新しい善通寺市役所と四国学院の図書館を結ぶラインは、南海道が走っていたことが発掘調査からは分かってきました。南海道は、多度郡の条里遺構では7里と6里の境界でもありました。南海道を基準にして、丸亀平野の条里制は整えられて行くことになります。そして、南海道に沿うように善通寺も創建されます。善通寺市街地一帯のレイアウトも出来上がっていくことになります。

稲木北遺跡 多度郡条里制
 この時期に掘られた大規模な溝が、善通寺病院の発掘調査でも出てきました。
この溝は、善通寺エリアの条里制地割のスタートになった土木工事だと研究者は考えているようです。善通寺の条里型地割は、善通寺を中軸に設定されたという説があります。そうだとすれば、この溝は善通寺周辺の関連施設設置のための基軸線として掘られた可能性があります。
  また、古墳時代には病院地区には、住居がなくなっていました。それが奈良時代になると、再び多くの柱穴跡が出てきます。これは奈良時代になると、病院地区に集落が再生されたことを示します。

 次に中世の「善通寺一円保差図」には、このエリアはどのように描かれているのかを見ておきましょう。一円保絵図は、15世紀初頭に書かれたものです。
一円保絵図の旧練兵場遺跡
一円保絵図(柿色部分が善通寺病院敷地)
   中央上の黒く塗りつぶされたのが、この時期に築造されたばかりの有岡大池です。そこから弘田川が波状に東に流れ出し、その後は条里制に沿って真北に流れ、善通寺西院の西側を一直線に流れています。それが旧練兵場遺跡(病院地区)の所から甲山寺あたりにかけては、コントロールできずに蛇行を始めているのが見えます。弘田川は現在は小さな川ですが、発掘調査で誕生院の裏側エリアから舟の櫂なども出土しているので、古代は川船がここまで上がってきていたことがうかがえます。河口の海岸寺付近とは、弘田川で結ばれていたことになります。また、地図上の茶色エリアが発掘された善通寺病院になります。旧練兵場遺跡も弘田川に隣接しており、ここには簡単な「川港」があったのかもしれません。
金倉川 10壱岐湧水
一円保絵図(善通寺病院周辺拡大図)

一円保絵図に描かれた建築物は、善通寺や誕生院に見られるように、壁の表現がある寺院関係のものと、壁の表現のない屋根だけの民家があるようです。描かれた民家を全部数えると122棟になります。それをまとまりのよって研究者は次のような7グループに分けています
第1グルーフ 善通寺伽藍を中心としたまとまり 71棟
第2グルーフ 左下隅(北東)のまとまり  5棟
第3グルーフ 善通寺伽藍の真下(北)で弘田川東岸まとまり11棟
第4グルーフ 大きい山塊の右側のまとまり  15棟
第5グルーフ 第4グループの右側のまとまり 17棟
第6グルーブ 第5グルーブと山塊を挟んだ右側のまとまり 6棟
第7グループ 右下隅(北西)のまとまり   7棟

第1グループは、現在の善通寺の市街地にあたる所です。創建当時から家屋数が多かった所にお寺が造られたのか、善通寺の門前町として家屋が増えたのがは分かりません。
今回注目したいのは第3グループです。
このグループが、現在の善通寺病院の敷地に当たるエリアです。その中でも右半分の5棟については、病院の敷地内にあった可能性が高いようです。この地区が「郊外としては家屋が多く、人口密度が高い地域」であったことがうかがえます。
一円保絵図 東側

善通寺病院の敷地内に書かれている文字を挙げて見ると「末弘」「利友」「重次四反」「寺家作」の4つです。
この中の「末弘」「利友」「重次」は、人名のようです。古地図上に人名が描かれるのは、土地所有者か土地耕作者の場合が多いので、善通寺病院の遺跡周辺には、農業に携わる者が多く居住していたことになります。
 また「四反」は土地の広さ、「寺家作」は善通寺の所有地であることを表すことから、ここが農耕地であったことが分かります。以上から、この絵が描かれた時期に「病院地区」は、農耕地として開発されていたと研究者は考えているようです。
以上からは、古代から中世には旧練兵場遺跡では、次のような変化があったことが分かります。
①弥生時代には、網の目状に南北にいく筋もに分かれ流れる支流と、その間に形成された微高地ごとに集落が分散していた。
②13世紀初頭の一円保絵図が書かれた頃には、広い範囲にわたって、耕地整理された農耕地が出現し、集落は多くの家屋を含み規模が大型化している。

 室町時代から江戸時代後半期まで
ところが室町時代になると、旧練兵場遺跡からは住宅跡や遺物が、出てこなくなります。集落が姿を消したようなのです。どうしてなのでしょうか? 研究者は次のように説明します。
①旧練兵場遺跡は、条里型地割の中心部にあるために、農業地として「土地区画によって管理」が続けられるようになった。
②そのため「非住居地」とされて、集落はなくなった。
③条里型地割の中で水路網がはりめぐされ、農耕地として利用され続けた
そして「一円保差図」に書かれた集落は、室町時代には姿を消します。それがどんな理由のためかを示す史料はなく、今のところは何も分かならいようです。
 最後に明治中頃に書かれた「善通寺村略図」で、旧練兵場遺跡を見ておきましょう。

善通寺村略図2 明治
拡大して見てみます
善通寺村略図拡大
善通寺村略図 旧練兵場遺跡周辺の拡大図
旧練兵場遺跡(仙遊町)は、この絵図では金毘羅街道と弘田川に挟まれたエリアになります。仙遊寺の西側が現在の病院エリアです。仙遊寺の東側(下)に4つ並ぶのは、現在も残る出水であることは、前回お話ししました。そうして見ると、ここには建造物は仙遊寺以外には何もなかったことがうかがえます。そこに十一師団設置に伴い30㌶にもおよぶ田んぼが買い上げられ、練兵場に地ならしされていくことになります。そして、今は病院と農事試験場になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   旧練兵場遺跡調査報告書 平成21年度分


  以前に中世の弥谷寺には、どんな「僧」たちがいたのかをお話ししたことがあります。それを振り返っておくと次のようになります。
①行人・聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、行場が中心で善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかった
②弥谷(寺)は、善通寺の「別所」で、阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいた
③行人層は、自分の生活は自分で賄わなければならなかったので、周辺のムラで托鉢行や布教活動も行った。
④治病や死者供養にも関わり、わかりやすい言葉で口称念仏を広めた。
⑤弥谷寺や白峯寺は高野聖たちの阿弥陀信仰の布教拠点となった。
 地方の有力寺院の僧侶は、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていました。
学侶(学頭)は、僧侶身分の最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する学頭も中央の大きな寺院にはいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。それに対して、ほとんどは「衆徒(堂衆)」だったと研究者は考えています。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般に衆徒は武装し、僧兵としても活動する者も多かったようです。中世の白峯寺や善通寺に僧兵がいたことは充分に考えられます。
 13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②「勤行次第」を書いた薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③「勤行次第」は、重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
A白峰寺の子院の多くが高野聖などの修験者が管理運営者であったこと
B子院やそこに集まる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。類は類をよぶで、廻国の宗教者たちにとっては、人気のある行場があり、しかも立ち寄りやすい施設がいくつもあったのでしょう。

白峯寺 別所拡大図
白峯寺古図に描かれた「別所」

 中世の白峯寺には「別所」と呼ばれるエリアがあったことは、以前にお話ししました。
「別所」は、本寺とは離れて修行者の住む宗教施設で、後には念仏信仰の聖たちの活動拠点となります。白峯寺の別所も「浄土=阿弥陀信仰」の念仏聖たちの活動拠点であった可能性があります。ちなみに白峯寺の別所は、かつての行場で現在は奥の院に最も近い位置にあったことが分かっています。

白峯寺 別所3
白峯寺の本堂と別所跡
このような別所や子院では、衆徒に奉仕する行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。
白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成していたことが考えられます。そして、衆徒の中にも行人と一緒に修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、その区分も曖味だったようです。また、彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったようです。そのために、雲辺寺・小松尾寺・金倉寺などは、中世には真言と天台の両方の「学問寺」であったと伝えられます。
観音寺山を愛する会
伊吹山観音寺の伽藍図(明治29年)
長浜城主であった羽柴秀吉が鷹狩りで立ち寄った際に、寺の小僧をしていた石田三成を「三碗の才」で見出したことで有名な話です。この舞台となった伊吹山観音寺は、修験道の拠点の一つでした。その僧侶構成を見てみましょう。
①学僧(清僧すなわち独身者)・
②衆徒(妻帯)・
③承仕・
④聖(本堂聖・鎮守聖・太鼓聖・鐘撞聖・灯明聖)
④の聖とは堂衆にあたる職掌です。ここの出てくる学僧以外は、妻帯者でした。修験道の拠点寺院では、衆徒たちの多くは妻帯し、社僧などもしばしば妻帯していたことを押さえておきます。
   伊吹山観音寺の1303(乾元2)年の文書には、次のように記されています。
「(衆徒集団が)寄進地の坊領や修正行、大師講などの宗教活動のための料田としての配分や分米等を掌握」

 こうした事例からすると、中世の白峰寺や弥谷寺なども、衆徒にあたる人々が中心に運営が行われていたと考えるのが自然のようです。中央の門跡寺院や本山クラスの大寺とちがって、清僧の学侶を多数置く必要性がありません。「白峰陵の護持」が存在理由だったとすれば、学侶がいなくてもなんら不都合はないはずです。むしろ、バイタリティのある衆徒達が意思決定権を持っている方が、中世の時代に自力で維持運営をするには好都合だったかもしれません。
以上をまとめておくと
①中世の讃岐の山岳寺院は、学僧的な僧侶はほとんどいなかった。
②寺院は子院の連合体で、集団指導体制であった。
③その院主達は、衆徒出身で修験者にかぎりなく近く、妻帯しているものも多かった。
④また彼らは武装している入道も多く僧兵としても働いた。 
④については中世の善通寺には、武装した僧侶がいたことを以前にお話ししました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡と吉野ヶ里遺跡の面積比較 ほぼ同じ
旧練兵場遺跡は、吉野ヶ里遺跡とほぼ同じ50㌶の大きさがあります。町名で云うと善通寺市仙遊町で、明治に11師団の練兵場として買収されたエリアです。そこに戦後は、善通寺国立病院(旧陸軍病院)と農事試験場が陣取りました。国立病院が伏見病院と一体化して「おとなとこどもの医療センター」として生まれ変わるために建物がリニューアルされることになり、敷地では何年もの間、大規模な発掘調査が続けられてきました。その結果、このエリアには、弥生時代から古墳時代までの約500 年間に、住居や倉庫が同じ場所に何度も建て替えられて存続してきたこと、青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではなかなか出土しない貴重品が、次々と出てくること、たとえば青銅製の鏃(やじり)は、県内出土品の 9割以上に当たる約50本がこの遺跡からの出土ことなどが分かってきました。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺(善通寺市史NO3)

 つまり、旧練兵場遺跡は「大集落跡が継続して営まれることと、貴重品が多数出土すること」など特別な遺跡であるようです。今回は、発掘したものから研究者たちが旧練兵場遺跡群をどのようにとらえ、推察しているのかを見ていくことにします。
旧練兵場遺跡の周りの環境を下の地図で押さえておきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡周辺図

  遺跡は、善通寺の霊山とされる五岳の一番東の香色山の北側に位置します。五岳は現在でも余り変わりませんが、川は大きく変化しました。古代の丸亀平野の川は、扇状地の上を流れているので網の目のように何本にも分かれて流れていました。それが発掘調査や地質調査から分かるようになりました。

扇状地と網状河川
古代の土器川や金倉川などは、網目のような流れだった
 旧練兵場遺跡には、東から金倉川・中谷川・弘田川の3本の川の幾筋もの支流が流れ込んでいたようです。その流れが洪水後に作り出した微高地などに、弥生人達は住居を構え周辺の低地を水田化していきます。そして、微高地ごとにグループを形成します。それを現在の地名で東から順番に呼ぶと次のようになります。
①試験場地区
②仙遊地区
③善通寺病院地区
④彼ノ宗地区
⑤弘田川西岸地区
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡周辺遺跡分布図
 上図で鏡の出土した所をよく見ると、集落内の3つのエリアから出土しています。特に、③病院地区から出てきた数が多いようです。そして、仙遊・農事試験場地区からは出てきません。ここからは、旧練兵場遺跡では複数の有力者が併存して、集団指導体制で集落が運営されていたことがうかがえます。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
旧練兵場遺跡群 拡大図

その中心が病院地区だったことが裏付けられます。これが古墳時代の首長に成長して行くのかもしれません。このように研究者は、青銅器を通して旧練兵場遺跡の弥生時代の社会変化を捉えようとしています。

旧練兵場遺跡の福岡産の弥生土器
 旧練兵場遺跡出土 福岡から運ばれてきたと思われる弥生土器
最初に前方後円墳が登場する箸塚の近くの纏向遺跡からは、吉備や讃岐などの遠方勢力からもたらされた土器などが出てきます。同じように、旧練兵場遺跡からも、他の地域から持ち込まれた土器が数多くみつかっています。そのタイプは次の2つです。
①形も、使われた粘土も讃岐産とは異なるもの
⑥形は他国タイプだが粘土は讃岐の粘土で作ったもの
これらの土器は、九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られるもので、作られた時期は、弥生時代後期前半(2世紀頃)頃のものです。
旧練兵場遺跡 搬入土器・朱出土地
搬入土器や朱容器の出土地点
土器が歩いてやって来ることはありませんので、土器の中に何かを入れて、運ばれてきたことが考えられます。「移住」「交易」などで滞在が長期に渡ったために、その後に善通寺の土を使って、故郷の土器の形を再現したものと研究者は考えているようです。どちらにしても、人の動きによって旧練兵場遺跡にもたらされたのです。ここからも、当時の人々が瀬戸内海という広いエリアの中で活発に交流していたことがうかがえます。

1善通寺王国 持ち込まれた土器
他地域から善通寺の旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
 このような動きは、同時代の讃岐の遺跡全てに云えることではないようです。旧練兵場遺跡が特別な存在なのです。つまりこの遺跡は、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。
旧練兵場遺跡 鍛冶炉

旧練兵場遺跡では、鍛冶炉(かじろ)が見つかっています。
そこで生産された鏃(やじり)・斧・万能ナイフである刀子(とうす)が多量に出土しています。
旧練兵場遺跡 銅鏃

鉄器生産には、鍛冶炉での1000℃を超える温度管理などの専門的な技術と、朝鮮半島からの鉄素材の入手ルートを確保することが求められました。そのため鉄器生産は「遠距離交易・交流が可能な拠点的な集落」だけが手にすることがができた最先端製品でした。鉄生産を行っていた旧練兵場遺跡は、「拠点的な集落」だったことになります。旧練兵場遺跡の有力者は、併せて次のようなものを手に入れることができました。
①鉄に関係した交易・交流
②鏡などの権威を示す器物
③最先端の渡来技術や思想
 これらを独占的に手にすることで、さらに政治権力を高めていったと研究者は考えています。以上のように鏡や玉などの貴重品や交易品、住居跡からは、人口・物資・情報が集中し、長期にわたる集落の営みが続く「王国」的な集落の姿が浮かび上がってきます。
 BC1世紀に中国で書かれた漢書地理志には、倭人たちが百余りの王国を作っていたと書かれています。この中に、旧練兵場遺跡は当然含まれたと私は考えています。ここには「善通寺王国」とよべるクニがあったことを押さえておきます。

旧練兵場遺跡 朱のついた片口皿
旧練兵場遺跡の弥生終末期(3世紀)の土器には、赤い顔料が付いたものが出てきます。

「赤」は太陽や炎などを連想させ、強い生命力を象徴する色、あるいは特別なパワーが宿る色と信じられ魔除けとしても使われました。そのため弥生時代の甕棺や古墳時代の木簡や石棺などからも大量の朱が出てくることがあります。
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旧練兵場遺跡から出てきた朱には、次の2種類があるようです。
水銀朱(朱砂)とベンガラ

①ベンガラ(酸化鉄が主原料)
②朱(硫化水銀が主原料)
 ①は吉備地方から持ち込まれた高杯などに装飾として塗られています。今でも、岡山のベンガラは有名です。②は把手付広片口皿の内面に付いた状態を確認しているようです。把手付広片口皿とは、石杵や石臼ですりつぶして辰砂を液状に溶いたものを受ける器です。この皿が出てくると言うことは、旧練兵場遺跡で朱が加工されていたことを裏付けます。
旧練兵場遺跡 阿波の辰砂(若杉山遺跡)
阿波の若杉山遺跡(徳島県阿南市)の辰砂
 辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として知られるようになりました。
瀬戸内海から阿波西部には、古くから「塩の道」が通じていたことは、以前にお話ししました。その見返り品の一つとして朱が吉野川上流の「美馬王国」から入ってきていたことがうかがえます。

弘安寺同笵瓦関係図

 郡里廃寺(美馬市)から善通寺の同笵瓦が出土することなども、美馬王国と善通寺王国も「塩と朱」を通じて活発な交流があったことを裏付けます。このような流れの中で、阿波忌部氏の讃岐移住(進出)なども考えて見る必要がありそうです。そう考えると朱を通じて 阿波―讃岐ー吉備という瀬戸内海の南北ラインのつながりが見えて来ます。
このように善通寺王国は、次のようなモノを提供できる「市場」があったことになります。
①鍛冶炉で生産された銅・鉄製品などの貴重品
②阿波から手に入れた朱
それらを求めて周辺のムラやクニから人々が集まってきたようです。

以上、善通寺王国(旧練兵場遺跡)の特徴をまとめておくと次のようになります。
① 東西1km、南北約0.5kmの約50万㎡の大きな面積を持つ遺跡。 
② 弥生時代から鎌倉時代に至る長期間継続した集落遺跡。弥生時代には500棟を超える住居跡がある。
③ 銅鐸・銅鏃などの青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が出土する。 青銅製の鏃は、県内出土の9割以上に当たる約50本が出土。
④ 弥生時代後期の鍛冶炉で、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土。
⑤朝鮮半島から鉄素材の入手のための遠距離交易・交流を善通寺王国は行い、そこで作られた鉄器を周辺に配布・流通。
⑥九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸エリアで見られるスタイル土器が出てくることから善通寺王国が備讃瀬戸エリアの物・人の広域な交流の拠点であったこと。
⑦辰砂を石杵や石臼で摺りつぶして液状に溶いたものを受ける把手付広片口皿から朱が検出された。これは、善通寺王国で朱が加工・流通していたことを裏付ける。 
⑧朱の原料入手先としては、阿波の若杉山遺跡(阿南市)で産出されたものが善通寺王国に運び込まれ、それが吉備王国の楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)などへの埋葬にも用いられたと推測できる。ここからは、徳島―香川―岡山という「朱」でつながるルートがあったことが浮かび上がって来る。 
⑨ 硬玉、碧玉、水晶、ガラス製などの勾玉、管玉、小玉などの玉類が多量に出土する。これらは讃岐にはない材料で、製作道具も出てこないので、外から持ち込まれた可能性が高い。これも、他地域との交流を裏付けるものだ。
⑩旧練兵場遺跡は約500年の間継続するが、その間も竪穴住居跡の数は増加し、人口が増えていたことが分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県埋蔵文化財センター 香川の弥生時代研究最前線  旧練兵場遺跡の調査から 
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 善通寺村略図2 明治
名東県時代の善通寺村略図
善通寺市史NO2を眺めていて、巻頭の上の絵図に目が留まりました。この絵図は、十一師団設置前の善通寺村の様子を伝えるものとして貴重な絵図です。この絵図からは次のような事が読み取れます
①五岳を霊山として、その東に善通寺と誕生院(西院)が一直線にあること
②善通寺の赤門(東門)から一直線に伸びが参道が赤門筋で、金毘羅街道と交差すること
③その門前には、門前町といえるものはなかったこと
以上から、十一師団がやって来る前の善通寺村は「片田舎」であったことを、以前にお話ししました。今回は、この絵図で始めて気づいたことをお話しします。
それは、絵図の右下部分に描かれた「4つの柄杓」のようなものです。
善通寺村略図拡大

善通寺村略図の拡大:右下に並ぶ「4つの柄杓?」
これは一体何なのでしょうか?
位置的には、善通寺東院の真北になります。近くの建造物を拡大鏡で見ると「仙遊寺」とよめそうです。そうだとすれば「4つの柄杓」は、仙遊寺の東側に並んで位置していることになります。ということは、西日本農業研究センター 四国研究拠点仙遊地区(旧農事試験場)の中にあったことになります。
旧練兵場遺跡 仙遊町
     旧練兵場=おとなとこどもの病院 + 農事試験場

そこで、グーグルでこのあたりを見てみました。赤枠で囲まれたエリアが現在の仙遊町で、これだけの田んぼが11師団の練兵場として買収されました。そして、周辺の多くの村々から人夫を動員して地ならししたことが当時の史料からは分かります。さらに拡大して見ます。

旧練兵場遺跡 出水群
農事試験場の周りを迂回する中谷川
青いラインが中谷川の流れです。赤が旧練兵場の敷地境界線(現在の仙遊町)になります。これを見ると四国学院西側を条里制に沿って真っ直ぐに北に流れてきた中谷川は、農事試験場の北側で、直角に流れを変えて西に向かっていることが分かります。
最大限に拡大して見ます。
旧練兵場遺跡 出水1
善通寺農事試験場内の出水

 農事試験場の畑の中に「前方後円墳」のようなものが見えます。現地へ行ってみます。宮川うどんの北側の橋のたもとから農事試験場の北側沿いに流れる中谷川沿いの小道に入っていきます。すると、農事試験場から流れ出してくる流路があります。ここには柵はないのでコンクリートで固められた流路縁を歩いて行くと、そこには出水がありました。「後円部」に見えたのは「出水1」だったのです。出水からは、今も水が湧き出して、用水路を通じて中谷川に流れ込んでいます。善通寺村略図を、もう一度見てみます。「4つの柄杓」に見えたのは、農事試験場に残る出水だったのです。
旧練兵場遺跡 出水3
善通寺農事試験場内の3つの出水
グーグルマップからは3つの出水が並んであるのが見えます。

それでは、この出水はいつ頃からあるのでしょうか?
旧練兵場遺跡の最新の報告書(第26次調査:2022年)の中には、周辺の微地形図が載せられています。カラー版になっていて、旧練兵場遺跡の4つの地区がよく分かります。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡微地形図(黄色が集落・黒が河川跡)
この地図で、先ほどの出水群を探してみると、仙遊地区と試験場地区の間には、かつては中谷川の支流が流れていたことが分かります。その支流の上に出水はあります。つまり、その後の条里制に伴う工事で、旧中谷川は条里にそって真っ直ぐに北に流れる現在の姿に流路変更された。しかし、伏流水は今も昔のままの流れであり、それが出水として残っている、ということでしょうか。

宮川製麺所 香川県善通寺市 : ツイてる♪ツイてる♪ありがとう♪
豊富な地下水を持つ宮川製麺

 そういえば、この近くには私がいつも御世話になっている「宮川うどん」があります。ここの大将は、次のように云います。

「うちは讃岐が日照りになっても、水には不自由せん。なんぼでも湧いてくる井戸がある。」

 また、この出水の北側の田んぼの中には、中谷川沿いにいくつも農業用井戸があります。農作業をしていた伯父さんに聞くと

「うちの田んぼの水が掛かりは、この井戸や。かつては手で組み上げて田んぼに入れよった。今は共同でポンプを設置しとるが、枯れたことはない」

と話してくれました。旧流路には、いまでも豊富な伏流水がながれているようです。川の流れは変わったが、伏流水は出水として湧き出してくるので、その下流の田んぼの水源となった。そのため練兵場整備の時にも埋め立てられることはなかったと推測できます。そうだとすれば、この出水は弥生時代以来、田んぼの水源として使われて続けてきた可能性があります。「農事試験場に残る弥生の米作りの痕跡」といえるかもしれません。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図 真ん中が旧中谷川
最後に地図を見ながら、以前にお話ししたことを再確認しておきます。
①旧練兵場遺跡には、弘田川・中谷川・旧金倉川の支流が網の目状にながれていた。
②その支流の間の微高地に、弥生時代になると集落が建ち並び「善通寺王国」が形成された。
③古墳時代にも集落は継続し、首長たちは野田院古墳以後の首長墓を継続して造営する
④7世紀末には、試験場南に佐伯直氏の最初の氏寺・仲村廃寺が建立される。
⑤続いて条里制に沿って、その4倍の広さの善通寺が建立される。
⑥善通寺の建立と、南海道・多度津郡衙の建設は、佐伯直氏が同時代に併行して行った。

ここでは①の3つの河川の流れについて、見ていくことにします。古代の川の流れは、現在のように一本の筋ではなかったようです。
旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡の流路(黒が現在の流れ、薄黒が流路跡)
古代の丸亀平野を流れる土器川や金倉川などは、網目状に分かれて、ながれていたようです。それが弥生時代になって、稲作のために井堰や用水路が作られ水田への導水が行われるようになります。これが「流れの固定化=治水・灌漑」の始まりです。その結果、扇状地の堆積作用で微高地が生まれ、居住域として利用できるようになります。 例えば、旧練兵場遺跡の彼ノ宗地区と病院地区の間を蛇行して流れる旧弘田川は、次のように変遷します。
①南側の上流域で、治水が行われ水流が閉ざされたこと
②その結果として微高地が高燥環境に移行し、流路埋没が始まる
つまり、上流側での治水・灌漑が微高地の乾燥化を促進させ、現在の病院周辺を、生活に適した住宅地環境にしたと研究者は指摘します。
 流路の南側(上流側)では、北側(下流域)に先行して埋没が進みます。そのためそれまでの流路も埋め立てられ、建物が建てられるようになります。しかし、完全には埋め立てません。逆に人工的に掘削して、排水や土器などの廃棄場として「低地帯の活用」を行っています。これは古代の「都市開発」事業かも知れません。

以上をまとめておくと
①明治前期の善通寺村略図には、善通寺村と仲村の境(現農事試験場北側)に4つの柄杓のようなものが書き込まれている。
②これは、現在も農事試験場内に残る出水を描いたものと考えられる。
③この出水は旧練兵場遺跡では、旧中谷川の流路跡に位置するもので、かつては水が地表を流れていた。
④それが古代の治水灌漑事業で上流で流れが変更されることで乾燥化が進んだ。しかし、伏流水はそのままだったので、ここに出水として残った。
⑤そして、下流部の水源として使用されてきた。
⑥そのため明治になって練兵場が建設されることになっても水源である出水は埋め立てられることなく、そのままの姿で残った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 旧練兵場遺跡調査報告書(第26次調査 2022年発行)

    善通寺11師団 地図明治39年説明
 第十一師団配置図
十一師団の建築物めぐりの続きです。前回は①偕行社 → 四国学院内の騎兵連隊の②兵舎・③本部を見てきました。今回は、④乃木館と⑤兵器敞倉庫を見学します。
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。早速に用地買収が進められ、建造物工事が行われ、下表のように供用が開始されます。

ここでは同時に数多くの建物が着工して、善通寺は建築ラッシュであったことを押さえておきます。乃木館は、十一師団の司令部だった建物で、12月1日に師団司令部が開庁しています。
11師団司令部開庁通知
乃木第十一師団長本月二十八日早朝     
着任来ル十二月一日師団司令部開庁
相成候此段及御通牒候也
    明治三十 年十一月一十五日
門手続きを済ませて、門から貝塚の植えられた長いアプローチを進んで行くと司令部の建物が迎えてくれます。竣工直前の写真と比較しながら見てみましょう。
11師団司令部.(善通寺市史)
 旧十一師団司令部庁舎(現乃木館)

 写真は、完成間際のもののようで、よく見ると車寄ポーチがまだありません。屋根を見ると四つの越屋根がついています。これは雨漏りの原因として、後に撤去されたようです。外観で変わっているのは、ここだけです。石柱はありませんが三角ペディメントは、ここにも登場します。当時の師団建築物はルネッサンス様式で貫かれています。

11師団司令部
戦前の十一師団司令部
 先ほど見てきた四国学院の騎兵連隊本部と比べて見ると、規模が大きく重厚な感じがします。偕行社の軽やかな感じとも違います。司令部として雰囲気を感じます。
  10月号特集企画】乃木館の魅力 - 善通寺市ホームページ
乃木館のケヤキの正面階段
 屋根と内部に少しの模様替はありますが、玄関正面の欅の大階段をはじめ、廊下、天丼、壁、建具はすべて建築当初のものです。屋根裏の合掌材や垂本は腐食しておらず、桧の棟木札もはっきりと読み取れると報告されています。棟札には次のように記されています。

十一師団司令部棟札
乃木館の棟札
中央上部 第十一師団司令部
右側   明治三一年四月一日着手
左側   同年十一月三〇日竣工
下部には、
右から建築請負人・九亀町(市)材木商水長事、
         小野長吉  
   担当人   木下幾治郎 
と記されています。地元の丸亀市の請負人の手で建設されたことが分かります。明治31年4月1日に着工して、その年の11月30日に竣工しています。 当時は、十一師団の建物の建築ラッシュでした。
そのため司令部等の建物は人札しても予算が超過し、再入札随意契約となりました。そのような経過を経て、丸亀の業者が落札したようです。
 建築資材は多度津港に陸揚げされて鉄道で善通寺駅まで運ばれます。そこからは荷馬車などに頼ったようですが、これが馬車や人夫不足でボトルネックになって資材が現場に届かず、工事は遅れます。そこで対応策として、9月になると善通寺駅から各隊建築の現場に軽便鉄道を走らせることになります。司令部の工事が本格化したのは、軽便鉄道によって資材運搬等が容易となってから以後でした。工期に間に合わせるための突貫工事が続いたようです。

陸上自衛隊善通寺駐屯地資料館 - Wikiwand
現在の乃木館 
この建物は、敗戦後は郵政省簡易保険局が使用していましたが、1961(昭和36)に陸上自衛隊に移管されました。旧陸軍の師団司令部の建物が、そのまま自衛隊が使用しているのは、善通寺駐屯地一カ所だけのようです。
乃木館 ~ 陸上自衛隊善通寺駐屯地にて: 答えはひとつじゃない! by あおき工場長
乃木館の師団長室
  記念館の2階にある師団長室は、乃木資料室になっています。ここが1番人気のようですが、それ以外にも旧第十一師団関係の資料が陳列されています。

十一師団配置図3
師団司令部の前が兵器敞

 乃木館を出て西側にあるローソン前の信号機の前まで行きます。
ここは善通寺のビューポイントのひとつです。赤煉瓦の倉庫と善通寺の五重塔が見えます。
DSC05065
赤れんが倉庫の向こうに五重塔
ここから善通寺の南大門に向けては、「ゆうゆうロード」と名付けられた整備された歩道が続きます。そぞろ歩きには最適です。

IMG_8746

 この左手に広がるのが善通寺自衛隊の中核施設第一キャンプです。
この区画は、第十一師団が善通寺に設置された際に、丸亀にあった野戦砲兵聯隊が移転してきた処です。それが1922(大11)年に、山砲兵第十一聯隊と改称されます。砲兵には、野砲・重砲・臼砲・迫撃砲・機関砲・速射砲などの大隊小隊がありました。
 戦後、警察予備隊が創設されると、善通寺町はすぐに誘致運動を始めます。ここには旧十一師団の広い敷地がそのまま残っていたので、四国駐屯地はこの旧山砲兵聯隊跡に決定し、ここが陸上自衛隊善通寺駐屯地となりました。この西側の住宅地から四国少年院にかけては 工兵第11大隊があった所です。

ローソンの前が自衛隊の施設隊です。
ここは兵器敞のあったところで、赤煉瓦の倉庫が三棟残っています。
完成した年代を見ておくと、次のようになります。
①一番手前が1909年(明治42年)
②その北側が1911年(明治44年)
③その横の東西方向のものが1921年(大正10年)
これらはどれも2階建ての赤レンガ造りで、明治期の①②は幅14m×奥63m、大正期の③は幅14m×奥90mの細長い倉庫です。設計者の名前は分かりませんがドイツ人技師とされ、屋上の○型と△型のモニュメントは、銃の「照門」と「照星」を表しているようです。
赤れんがの屋根
       銃の照準モニュメントが載っている屋根
ここで押さえておきたいのは、兵器敞の赤煉瓦倉庫は、11師団設立時にはなかったということです。完成年を再度確認すると、日露戦争が終わって数年経ってからのことです。確かに乃木将軍の陸軍大臣の現状報告書には、次のように記されています。
七、新設兵営官衛及病院等ノ構築未夕概ネ半途ニシテ就中兵器支廠及火葉庫ノ如キハ未夕着手ニモ至ラス。練兵場及小銃射撃場ノ開設ハ各兵ノ教育ヲ快キ土エニ従事セシメ、高知二於テハ僅二之ヲ使用シアルモ丸亀衛成即チ善通寺屯在部隊二於テハ射撃教育ノ為メニハロ々殆ド一里ヲ隔ツルノ地二往復スルノ止ムヲ得サル現況ナリ。同所練兵場ハ附近人民ノ篤志二依り四千九百七十人ノ補助工カヲ以テ今日使用シ得ルニ至レリ
意訳変換しておくと
七、新設の兵営や病院の建物については建設途上である。その中でも兵器支廠や火薬庫に至っては着工にも至っていない。練兵場や小銃射撃場の開設については、各兵の教育訓練のために不可欠であるが、高知では一部が使用出来るようになった。しかし、善通寺屯在部隊では射撃教育のために一里(4㎞)離れた射撃場に往復しなければならないのが現況である。練兵場については周辺住民約5000人を動員して整備し、使用できるようになった。

 ここからは乃木希典の時代には、兵器敞や火薬庫はなかったことが分かります。この3つのレンガ倉庫が善通寺に姿を見せたのは明治末から大正にかけてのことで、約110年前のことになるようです
十一師団 レンガ倉庫
           建設中の兵器庫
建設途中の兵器庫の写真を見ておきましょう。
①手前に、運ばれてきたレンガが積み上げられている
②足場が組まれて壁のレンガが組み上げられ、屋根の瓦葺き作業にかかっている
③後に筆の山(?)が見えているので、建物の向きが東西方向である。
ここからは、この写真は1921(大正10)年に建てられた最後の倉庫であることが分かります。
大正10年に建てられた一番大きな倉庫
この倉庫は、外からは見えにくいので見逃してしまいがちですが、長さが90mもある一番大きな建物です。そのため建物の強度を図る工夫がいろいろなところに施されていて、他の2棟とは細部が異なっているようです。
  道路際の2棟を近くから見て驚くのは、その大きさと堅牢な造りです。
IMG_8741

屋根は切妻造の瓦ぶきで、天井は高く屋根裏もある2階建てす。屋根裏は当時の最新設計の合掌造りで、構造は煉瓦造りです。
DSC05166

長さ60mを超える壁には全部で100ヶ所前後の縦長の窓があり、花崗岩のひさし台と鉄製の両開きの扉がついています。それぞれ微妙に異なるデザインも見所のようです。道路に面した2棟は同規模・同規格で造られています。これは各地に建てられた旧軍の煉瓦倉庫と共通点が多く、当時の標準規格に基づいて設計されたものと研究者は考えています。
DSC05162

私が気になるのは、この倉庫に使われた赤煉瓦がどこで作られたのかです。
 「観音寺の財田川河口に創立されたレンガ工場で作られたものが、船で多度津に運ばれてきた」と以前に聞いたことがあります。そのレンガ工場とは、1897(明治30)年に創業した讃岐煉瓦です。確かに、丸亀の連隊の他に瀬戸内海沿岸や大坂などに煉瓦を供給しているようです。

丸亀連隊兵器庫基礎
 丸亀連隊兵器庫の基礎

丸亀市役所南館の建設の際に出土した遺構からは、丸亀連隊の兵器庫の基礎が出てきています。ここには観音寺の讃岐煉瓦刻印の煉瓦が使われています。丸亀に引き続いて、善通寺の兵器倉庫にも使用されたことが考えられます。しかし、善通寺の煉瓦倉庫からこの印のある煉瓦が使われているとの報告書は私は読んだことがありません。未だに状況証拠のみです。
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ゆうゆうロード
 赤煉瓦倉庫の周辺には桜、「ゆうゆうロード」には銀杏などの街路樹が植えられ、反対側には中谷川の流れを利用した水辺の歩道が続き、気持ちのよい散歩道です。この道を五重塔めざして歩いていくことにします。次の目標は善通寺東院です。
十一師団工兵隊工事完成M31年

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

DSC01192
善通寺の東院と西院

前回までに東院の「見所?」を紹介しました。今回は善通寺の西院にお参りすることにします。
 始めて善通寺を参拝する人が不思議に思うのは、「どうして東院と西院のふたつに分かれているの?」という疑問のようです。それは、西院の成り立ちから説明できます。

善通寺遠景
善通寺誕生院(御影堂)と東院(金堂と五重塔)香色山より
 佐伯直氏の氏寺として建立されたのが善通寺です。
しかし、佐伯直氏の本流が中央貴族として、平城京や平安京・高野山に居を移すと善通寺は保護者を失うことになります。そのため中世の善通寺は「弘法大師生誕地の聖地」を全面に押し出して、中央の天皇や貴族の保護を受けて存続を図るようになります。その際のアイテムとなったのが「弘法大師御影」で、これが都の弘法大師伝説形成の核になります。
弘法大師御影(善通寺様式)
 このような戦略を推し進めたのが「誕生院」です。
誕生院は、建長元年(1249)に流刑中の高野山の学僧・道範(1178~1252)によって弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 そこに「善通寺中興の祖」といわれる宥範(1270~1352)が入り、諸堂の再建・修理に勤め伽藍整備おこないます。誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたと云われるようになり、その権威を高めていきます。こうして、誕生院が諸院の中で大きな力を持つようになります。ここでは、誕生院は中世になって生まれた宗教施設であること、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院であったことを押さえておきます。

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善通寺一円保絵図の東院と西院
中世の善通寺には30人近くの僧侶がそれぞれ院房をもち、彼らの集団指導体制で運営されていたことは以前にお話ししました。一円保絵図を見ると、善通寺周辺には、その僧侶たちの院房が散在していたことが分かります。東院の北側には「いんしょう(院主)」の院房も見えます。
 そのひとつが誕生院で、善通寺の西側に小さな伽藍が描かれています。後に流れているのが弘田川で、前には用水路があります。これらが多度郡の条里制に沿って流れていることを押さえておきます。
 中世以後は、この誕生院の院主が指導権を握ります。近世の善通寺復興をリードしていくのも誕生院院主です。誕生院は丸亀藩の保護を受けながら近世寺院への脱皮を計り、新たな伽藍を作り上げ「西院」と呼ばれるようになります。その他の院主は、善通寺と誕生院の間の空間に「集住」し、寺院を構えるようになります。こうして、善通寺は次のような3構成が出来上がります。
①古代からの善通寺(東院:伽藍)
②誕生院によって近世になって伽藍が形成された西院
③東院と西院の間の院房寺院群
そして近世の間に進行したことは、①の金堂や五重塔のある東院は「儀式のエリア=セレモニーホール化」し、日常的な宗教活動は誕生院で行われるようになったようです。そのためか今では、八十八ヶ寺の霊場巡りの中には、西院裏の駐車場に車を止めて朱印をいただくと東院の金堂にはお参りせずに、次に向かう人達も見かけます。現在の善通寺の宗教活動の中心は誕生院(西院)で、東院は金堂と五重塔のあるセレモニー空間になっている印象を受けます。

善通寺東院と西院2

誕生院が中心になっていったのは、どうしてでしょうか
それは西院の御影堂の変遷を見てみると分かります。近世前半に書かれた上の善通寺の絵図を見てみましょう。東院の東門から一直線に参道が誕生院に延びています。その延長線上に建立されたのが御影堂です。御影堂の本尊は、弘法大師伝説の核となる弘法大師御影です。そして、その延長線上には、佐伯氏を祀る廟が岡の上に建っていました。これらの配置を整えたのも誕生院でしょう。ちなみに佐伯廟のあった岡は、いまは駐車場となっています。

善通寺誕生院(拡大9
誕生院(西院)拡大図

 この絵図で見るように御影堂は、当初は小さな建物でした。それが近世を通じて何回も建て直されて次のように大型化していきます。
1回目は、方三間から方五間(17世紀中頃)
2回目は、方五間から方六間(17世紀後半)
3回目は、方八間規模(19世紀前期)
2回目の時には、御影の安置場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。17世紀の西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げる動きが見えます。18世紀前期になると、広がった御影堂前に拝所と回廊が設けらます。18世紀後期には、西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置され、十王堂(18世紀後期)、親鸞堂(19世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実整備が行われます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺誕生院(19世紀中頃)

 さらに近代になると、護摩堂・客殿が加わり、数多くのお堂が建ち並ぶ伽藍構成になります。つまり、善通寺の宗教活動は誕生院中心に展開され、東院は儀式の場としてのみ活用されることになったようです。現在でも西院は参拝する度に、新たな建物が加わったりして「成長」している感じを受けます。それに比べると東院は時間が止まった感じがするのも、そんな所からきているのかもしれません。このような西院の原型ができたのが17世紀末だったことを押さえておきます。
1 善通寺 仁王門
西院に入る前に、山門を守る仁王さまを見ておきましょう。
1 善通寺 金剛力士阿形
善通寺西院 金剛杵をとる阿形
  向かって右は、口を開き、肩まで振り上げた手に金剛杵をとる阿形像です。左足に重心をかけて腰を左に突き出し、顔を右斜め方向へ振っています。

1 善通寺 金剛力士吽形
善通寺西院 金剛力士吽形 

  左の吽形は、口を一文字に結び、右手は胸の位置で肘を曲げ、掌を前方に向けて開きます。こちらは右足に重心をかけて腰を右に突き出して、顔を左斜め方向に振っています。
この仁王さんたちは、いつからここにいるのでしょうか?
修理解体時の時に像内から次のような墨書銘が見つかっています。
大願主金剛佛子有覺
右意趣者為営寺繁唱
郷内上下□□泰平諸人快楽
□□法界平等利益故也
應安三(1370)年頗二月六日
ここからは次のような事が分かります。
①1行目に仁王像製作の発願者が有覺であること
②2~4行目に、寺と地域の繁栄・仏法の興隆を願う文言が記されていること
③5行目に応安三(1370)年の年記があること
  ここからは、この仁王さんは南北朝時代のものであることが分かります。
それでは、御影堂にお参りして、戒壇廻りを楽しみ、宝物館を参観してきて下さい。後ほどまたお会いしましょう。
4善通寺御影堂3
御影堂の扁額「弘法大師誕生之地」
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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善通寺東院の金堂
前回は、金堂や五重塔などの東院伽藍のスター的な存在を見てきました。しかし、これらは近世以後のモノばかりです。善通寺は「空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建した」といわれます。空海の時代のものを見たり、触れたりすることはできないのでしょうか。今回は、古代善通寺の痕跡を探して行きたいと思います。

 まず「調査」していただきたいのは、金堂基壇の石垣です。
現在の金堂は元禄時代に再建されたものであることは前回お話ししました。その時に作られた基壇の石組みの中に、変わった石が紛れ込んでいます。
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善通寺金堂基壇(東側)
基壇の周りを巡って見ると東西南北の面に、それぞれ他とは違う形をした大きな石がいくつか紛れ込んでいます。

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           善通寺金堂基壇(北側)
この石について「新編香川叢書 考古篇」は、次のように記します。

正面・西側・東側に組み込まれた礎石は径65cmの柱座をもち、北側礎石は径60cmの柱座を持つ。西側礎石は周囲に排水溝を持ち心礎と思われる。正面・北・東の3個は高さ1cmの造出の柱座を持つ。西側礎石の大きさは実測すると160×95cmで内径68cm幅およそ2.5cm、深さおよそ1cmの円形の排水溝を彫る。

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      善通寺金堂基壇(西側:1/3は埋まっている)

  もう一度見てみると、確かに、造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。また、大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。これらの石は古代寺院に使われていた礎石のようです。よく見ると、特に西側のものは大型です。これを五重塔の心礎と考える研究者もいるようです。そうだとすると、善通寺には古代から五重塔があったことになります。以上からは次のようなことが推測できます。
①白鳳期に建立された古代の善通寺は中世に焼け落ち、再建された。
②中世に再建された伽藍は、戦国時代に焼け落ちて百年以上放置された。
③元禄年間に再建するときに、伽藍に散在した礎石を基壇に使った
 このように考えると、この礎石は空海時代の金堂に使われていた可能性が高くなります。古代善通寺の痕跡と云えそうです。触って「古代の接触」を確かめてみます。

1善通寺宝物館10
「土製仏頭」(善通寺宝物館)

もうひとつ、元禄の再建の時に出てきたものがあります。
宝物館に展示されている「土製仏頭」です。
これは粘土で作られた大きな頭で、見ただけでは仏像の頭部とは見えません。
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        「土製仏頭」(善通寺宝物館)
研究者は「目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭」と推定します。私には、なかなか「白鳳の仏像」とは見えてこないのですが・・。
印相などは分かりませんが、古代の善通寺本尊なので薬師如来なのでしょう。また小さな土製の仏のかけらもいくつかでてきたようです。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれています。
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         「土製仏頭」(善通寺宝物館)
 この「土製仏頭」が古代善通寺の本尊薬師如来であるということを裏付ける資料があります。
 鎌倉時代初期に高野山での党派闘争の責任を問われて讃岐に流刑となった道範は、善通寺に滞在し『南海流浪記』を書き記します。その中で、善通寺金堂のことを次のように記しています。
◎(平安時代に)お寺が焼けたときに本尊なども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある
◎金堂は二層になっているが裳階があるために四層に見える
◎本尊は火災で埋もれていた仏を堀り出した埋仏
ここからは、平安時代に焼けた本堂が鎌倉時代初期までには再建されたこと、そして本尊は「火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏」が安置されていたと記しています。
 その後、戦国時代の兵火で焼け落ち、地中に埋もれていたこと、それが元禄の再建で、掘りだされ保存され、現在に至るという話です。そうだとすれば空海が幼い時に拝んでいた本尊は、この「土製仏頭」のお薬師さまということになります。
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善通寺の白鳳期の瓦(宝物館)

 古代善通寺のものとして宝物館に展示されているのが瓦です。
 藤原京に瓦を供給した三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されていたことは以前にお話ししました。この時代には、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われてました。

善通寺古代瓦の伝播
善通寺瓦の伝播
 仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏は、丸亀平野の寺院造営技術の提供者だったことは以前にお話ししました。その中には7世紀末から8世紀初頭の白鳳期のものもあります。善通寺の建立は、この時期まで遡ることが出来ます。
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善通寺の白鳳瓦

「7世紀末の白鳳瓦」と「善通寺=空海創建説」とは、相容れません。空海が生まれたのは774年のこととされるので、生まれた時には善通寺はあったことになります。考古学的には「善通寺は空海が創建」とは云えないようです。

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善通寺金堂
このことについて五来重は「四国遍路の寺」で、次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。善通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。
 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が31歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。

善通寺の古代寺院としての痕跡の4つ目は、条里制との関係です。
  中世に書かれた善通寺一円保絵図を見てみます。

一円保絵図 テキスト
善通寺一円保絵図(全体)
 右(西)に、五岳の山脈と曼荼羅寺や吉原方面、左に善通寺周辺が描かれます。黒く塗られているのが一円保の水源となる有岡大池でそこから弘田川が条里制に沿って伸びています。左上には2つの出水があり、そこからも用水路が伸びています。ここで、見ておきたいのは多度郡の条里制のラインが描かれていることです。善通寺の境内部分を拡大して見ます。
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善通寺一円保絵図(拡大)
①境内は二町(212㍍)四方で塀に囲まれています。ここが多度郡条里の「三条七里17~20坪」の「本堂敷地」にあたる場所になります。
②東院境内の上方中央の長方形の図は(G)南大門で、傍に松の大樹が立っています。
③南大門を入ったところに点線で二つ四角が記されています。これが五重塔の基壇跡のようです。五重塔は延久二年(1070)に大風のために倒れてから、そのあと再建されませんでした。
④中央にあるのは(A)金堂で、『南海流浪記』には
「二階だが裳階があるので四階の大伽藍にみえる」
とあります。この絵図では三階にみえます。その後には(E)講堂もあります。
 この絵図には、東院には様々な建築物が描かれています。そして敷地を見ると、4つの条里で囲まれているのが分かります。1辺は約106mですから、4つ分の面積となると212×212mとなります。ここからは善通寺が多度郡の条里の上にきれいに載っていることが分かります。ここからは、条里制整備後に善通寺は建立されたことになります。
善通寺条里制四国学院 
多度郡条里と善通寺・南海道の関係
丸亀平野の条里制は、南海道が先ず測量・造営され、これが基本ラインとなって条里制が整備されていきます。南海道は、多度郡では6里と7里の境界線になり、四国学院の図書館の下を通過していたことは以前にお話ししました。そして、善通寺も三条七里の中に位置します。
古代善通寺地図
   古代善通寺概念図(旧練兵場遺跡調査報告書2022年)
ここに至る経過を整理しておきます。
①7世紀末の南海道の測量・建設 
②南海道に沿う形で条里制測量
③多度郡衙の造営
④佐伯氏の氏寺・善通寺建立
①②③の多度郡における工事は、郡司の佐伯直氏が行ったのでしょう。これ以外にも、白村江の敗北後の城山城造営などにも、佐伯氏は綾氏などと供に動員されていたかもしれません。これらは、中央政府への忠誠を示すためにも必要なことでした。

 最後に、空海が生まれた8世紀後半の善通寺周辺を想像して描いて見ましょう。
岸の上遺跡 イラスト
鵜足郡の郡衙(黒丸枠)と南海道・法勲寺の関係
額坂を下りてきた南海道は、飯野山の南に下りてきます。南海道に接して北側には、正倉がいくつも並んで建っています。これが鵜足郡の郡衙(岸の上遺跡)です。その南には法勲寺が見えます。これが綾氏の氏寺です。南海道は、西の真っ直ぐ伸びていきます。そのかなたには我拝師山が見えます。南海道の両側に、整備中の条里制の公田が広がります。しかし、土器川や金倉川などの周辺は、治水工事が行わず堤防などもないので、幾筋もの川筋がうねるように流れ下り、広大な河川敷となっています。土器川を渡ると那珂郡郡司の氏寺である宝幢寺(宝幢寺池遺跡)が右手に見えてきました。金倉川を渡ると右手に善通寺の五重塔、左手に多度郡の郡衙(善通寺南口遺跡)が見えて来ます。ここが佐伯直氏の拠点です。
 ここからは南海道は、丸亀平野の鵜足・那珂・多度の3つの郡衙を一直線に結んでいたことが分かります。そして、その地の郡司達は郡衙の周辺に氏寺を建立しています。当然、彼らの舘も郡衙や氏寺の周辺にあったことが考えられます。

 今回は、普段は目に見えない以下の古代善通寺の痕跡を見てまわりました。
①金堂礎石
②「土製仏頭」(古代本尊の仏頭?)
③白鳳時代の善通寺瓦
④条里制の中の善通寺境内と南海道や郡衙との関係
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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善通寺五重塔と自衛隊前の道
今回は善通寺街歩き研修会資料の善通寺東院編です。自衛隊の赤煉瓦倉庫から五重塔に導かれて善通寺の境内へ歩いて行くと大きな門が迎えてくれます。
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善通寺南門

この門については、日露戦争の戦勝記念として再建されたとの記録が残っていました。近年の改修で1908年3月と記載された屋根瓦が見つかり、それが確かめられました。高麗門で、開口が高く開いて5,7mもあります。
どうして、こんなに高い門が作られたのでしょうか?
それは11師団の凱旋を迎えるためだったようです。戦場から帰ってきた部隊は、駅前からここまで部隊旗や戦勝旗を掲げてパレードしてやってきます。金堂に向かって帰還報告をして、境内で記念式典が開かれたようです。その際に、この門をくぐる時に、軍旗にお辞儀をさせたり、下ろしたりするのは見苦しいという「美意識」があったようです。
 それも15年戦争とともに戦争が日常化すると、凱旋パレードが行われることもなくなっていきます。ひとつの時代が終わろうとしていました。
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善通寺東院の金堂
善通寺東院の歴史的な見所ポイントとして、やはり五重塔と金堂は外せません。まず、金堂から見ていきましょう。
  戦国時代に東院は焼け落ちます。そして百年以上も金堂も五重塔もない状態が続きました。世の中が落ち着いきた元禄年間になって、やっと再建の動きが本格化します。金堂は勧進僧の活動などで元禄22年(1699)に棟上されます。そこに安置される本尊が次の課題になります。
DSC04200 善通寺本尊薬師如来
善通寺金堂本尊 薬師如来

ここの本尊は丈六の大きな薬師さんです。誰の手によって作られたのでしょうか?
善通寺には、京都の仏師との発注についての手紙が残っています。相手の仏師は、全国的にも名前が知られていた運長です。彼は1699年12月「像本体、光背、台座」などについて、デザインや素材から組立費、金箔押しの仕様までの「見積書」を善通寺に提出しています。こんなシステムがあったので、全国の顧客(寺院)を相手に取引が行えたのです。
 善通寺側のOKが出ると、制作にかかります。寄来造りですから分解が可能です。出来上がると、頭部、体幹部、左右両肩先部、膝部の5つのパーツに分けて梱包されます。その他に台座、光背などの小さな部材もあわせると全部で33ケ仮箱が必要だったようです。京都で梱包作業された箱は、船で大坂から積み出され、丸亀か多度津の港で陸揚げされ、善通寺に運びこまれたのでしょう。
 この輸送には、運長の弟子が二人ついてきています。彼らが組立設置などの作業もおこなったようです。作業終了後には、仏師二人に祝儀的な樽代八十六匁が贈られています。こうして、金堂に京都で作られた薬師さんが1700年の秋までには、善通寺の金堂に安置されます。以後約320年間、この薬師さんは善通寺を見守り続けています。

1 善通寺本尊3

 お参りのあとに、薬師さんの周りを一周してみて下さい。そして、寄せ木造りの継ぎ目がどこにあるかを探してみてください。300年前の仏師の息づかいが聞こえてくるかも知れません。

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善通寺五重塔(4代目)
一方、五重塔は受難の連続でした。
   善通寺の五重塔も本堂と同じように、戦国時代に焼失します。その後、元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間(19世紀初頭)です。ところが3代目の五重塔は、完成後直後の天保11年(1840)に、落雷を受けて焼失してしまいます。
 その5年後の弘化2年(1845)に着手したのが現在の五重塔です。そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工します。五重塔としては案外若い建物です。
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善通寺東院の金堂と五重塔
どうして完成に60年もかかったのでしょうか?
これは、同時期に建立されていた本山寺の五重塔と同じで、資金が集まらないのです。当時は、勧進をしながら工事を進めます。資金が底を突くと工事はストップします。この繰り返しが続きます。
 この時の五重塔建設の初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。彼は善通寺の前に、39歳で備中国分寺五重塔を完成させたばかりでした。彼にとっては、2つめの五重塔になります。この頃の貫五郎は、中四国で最高の評価を得た宮大工だったようです。彼は同時期に建設中だった金毘羅山の旭社や、岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。

善通寺五重塔2
善通寺五重塔
 貫五郎は、この塔に懸垂工法を採用しました。
この塔の心柱は、五重目から鎖で吊り下げられています。そのため心柱は礎石から60mmの所で浮いています。
善通寺五重塔心柱は浮いている
善通寺五重塔の心柱は6㎝浮いている
この工法は、従来は「昔の大工が地震に強い柔工法を編み出した」とされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して、心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間できるのを防ぐ雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 彼の死にあわせるように、資金不足と幕末の動乱で10年間工事は中断します。世の中が少し落ち着いて、資金が集まった明治10年に工事は再開します。結局、1902(明治35年)になってやっと五重塔の上に宝塔が載せられます。塩飽大工三代によって、この五重塔は建てられたことになります。発願から完成まで62年がかかっています。
 
四国・香川県の塔 善通寺五重塔
外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力があります。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。
芯柱は6本の材を継いで使われています。一番上ががヒノキ材、その下2つがマツ材、そして一番下の3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。

善通寺五重塔3
善通寺五重塔
 各階には床板が張られていますので、階段で上っていくこともできます。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたので、各層で時代の違い違いを見ることができます。
以前に、文化財協会の視察研修でこの五重塔に登る機会がありました。
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善通寺五重塔の柱の奉納者名
 善通寺の五重塔の内部の柱には、寄進者の名前が大きく墨書されていました。その中には、まんのう町の庄屋であった次のような名前も見えました。
真野村の三原谷蔵
吉野上村の新名覚□
近隣の有力者たちも組織的に、この五重塔建立に寄進していたことがうかがえます。その人々の「作善」の積み重ねて完成した塔であることを改めて感じました。

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善通寺の東院と西院
東院境内には、今はほとんど忘れ去られていますが江戸時代には、大きな役割を担っていた神域があります。

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雨乞いの神様である善女龍王を祀る社です。

真言の雨乞祈祷法が讃岐に最初にもたらされたのは善通寺だったようです。17世紀後半に、院内改革のために善通寺院主が高野山から高僧を招いて、研修会を夏に開いていました。その年は大干ばつで雨が降らず人々が困っているのを見て、高僧は「それでは私が善女龍王に祈って進ぜよう」ということになったようです。そして、空海が京都で空海が行った雨乞の修法を行い雨を降らせます。

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善女龍王東院の龍王社
そこで善通寺ではここに龍王社を建立し、善女龍王を祀るようになります。丸亀藩主は旱魃になると善通寺の僧侶に雨乞祈祷を命じます。

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それを見て髙松藩は白峰寺に、多度津藩は弥谷寺を雨乞いのための祈祷寺に指定します。このような各藩の善女龍王信仰の動きを見て、各地の真言宗の主要なお寺が、龍王社を勧進し雨乞い修法行うようになります。こうして讃岐では、善女龍王は雨を降らせる神として知られるようになります。
綾子踊り 善女龍王
雨乞い踊り「綾子踊り」の善女龍王の旗
 善通寺東院の龍王社は、一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。讃岐の善女龍王信仰の原点は、この小社にあります。
善通寺東院伽藍図
善通寺東院の伽藍図(金毘羅参詣名所図会) 金堂の後に龍王社

 空海が雨乞いを祈祷した善女龍王とは、どんな姿をしていたのでしょうか。これには次の3つの姿があるようです。
2善女龍王 神泉苑g
空海の前に現れた子蛇と龍
①子蛇 → 龍  古代
善女龍王 本山寺
本山寺(三豊市)の男神像の善如(女)龍王
②善如龍王 男神像(高野山に伝わる唐の官服姿で服の間から尻尾がのぞく姿)
善女龍王

③善女龍王 女性像(醍醐寺主導で広められたもの)
善通寺東院と西院2

   今回は、金堂や五重塔など目に見える善通寺東院の「見所」を紹介しました。次回は、もう少しデイープに目に見えない東院の見所を紹介しようと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


   ある町の文化財保護協会を案内して、善通寺の遺跡や建物を巡ることになりました。そのために今までの史料や写真を再構成して説明パンフレットらしきものを作っておくことにします。それを資料としてアップしておきます。事前に読んでおいてもらえれば、当日の説明がよりスムーズになるという思惑もあるのですが・・・。それは参加者に重荷にならない程度にと思っています。
 さて今回は、十一師団が善通寺に設置されるまでの経緯と、今に残る師団関係の建築物についてです。
 日清戦争後に、次の日露戦争に備えて軍備増強が求められます。その一環として四国にも師団が設置されることになります。それまでの師団は、広島や姫路、熊本など大きな城跡が選ばれています。ところが讃岐では、丸亀城も高松城も飽和状態で大規模な師団設置はできませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが善通寺です。当時の善通寺は小さな門前町で、市街地もなかったことが次の地図からはうかがえます。
善通寺村略図2 明治
十一師団設置前の善通寺村略図
なぜ善通寺に師団が置かれることになったのでしょうか。
 担当者の頭の中にあったことを想像すると次のようになります。
①次の戦争は大陸でおきる。迅速な軍隊の移動のために、近代的な港と鉄道が整備されていることが必須条件だ。香川県NO1の港湾施設は多度津港だ。多度津港と鉄道で結ばれているのは善通寺だ 
②善通寺には多くの出水があり、豊富で清潔な飲料水が確保できる
③周囲には演習地として利用できる五岳・大麻山が隣接してある
これは善通寺市かない。
というところでしょうか。
 ちなみに師団建設に使われた煉瓦は、観音寺の財田川河口に新設された工場で焼かれ、船で多度津へ輸送され、そこから列車で善通寺に運ばれています。当時の輸送が、海運と鉄道に依存していたことがよく分かります。

善通寺11師団 地図明治39年説明
1907年の善通寺
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。
担当者がまず行ったのは、用地買収です。第1次計画として善通寺駅前から善通寺南門までまっすぐに線を引いて、この線から南の幅約200mのゾーンを買収していきます。今回見学する偕行社から四国学院、そして乃木神社・護国神社のゾーンです。この結果、地元で起こったのは地価の高騰でした。香川新報(四国新聞の前身)には、次のように報じています。(現代文意訳)

1次買収の総買収面積は「百八町八反五畝二十五歩」(一町=約0.991㌶)である。(中略)もともと田地は一反70円の相場があったが、(師団設置が決まると)300円まで上がり、最近では700円という有様である

 地主によって売り惜しみが横行し、地価が10倍近くまで高騰したようです。さらに2次計画が進んだ1898(明治31)年には、1800円までにうなぎ登りに上がっていきます。いつの時代もそうですが土地買収で大金を手にした地主達が大勢現れました。彼らの中には、駅前通の北側に店を出して新たな商売をはじめ者が出てきます。また、あらたな「市場」に、琴平などから移ってきたり、支店を構える者も現れます。特に駅前通には、ずらりと旅館がならんだようです。
 各連隊の工事が一斉に始まると、3000人近くの工事関係者が全国からやってきました。師団が出来ると四国中から新兵が入隊してきます。それを見送るための家族や妻も善通寺にやってきて宿泊します。旅館はいくらあっても足りません。

善通寺駅前の旅館

         駅前通りの北側にあった旅館

わたや・広島屋・山下屋・朝日屋・吉野屋・万才屋・高知屋・塩田旅館・大見屋などの第十一師団指定の旅館が並び、各地から面会に来る大勢の家族が利用しました。また召集のかかった時などは、旅館だけでは間に合わず近くの間数の多い家に割当られました。
善通寺駅前通りの店
駅前通りの店
 さらに11師団の兵士総勢は1万人とされました。彼らの食べる食材などを準備する店も必要です。こうして、それまで田んぼが広がっていた駅前通の南側には11師団の軍事施設が並び、その反対側の北側には、師団へのサービスを提供する様々な店が並び、たちまちの内に市街地が形成されていったのです。それまで3000人少々の門前町が、軍人と住民を併せると2万人を越える「大都会」に成長するのは、あっという間でした。善通寺は師団設置の大建築ラッシュで、短期間で大変貌したことを押さえておきます。
こうして1897(明治30)年には、第一期工事として、次の各営舎が完成します。これらの配置関係を地図で確認しておきましょう。

11師団配置図
①偕行社(1903年)     北側は出水で水源 
②輜重兵第十一大隊(1898年)  現郵便局・免許コース
③騎兵第十一連隊(1897年)   四国学院・裁判所
④歩兵第四十三連隊(1897年)  護国・乃木神社・中央小
⑤兵器敞                               現自衛隊
⑥山砲兵・歩兵第二十二旅団司令部  現自衛隊
⑦工兵第十一大隊(1898年)    アパート
⑧第十一師団司令部(1898年)一部警察学校
⑨伏見病院
⑩練兵場           農事試験場+善通寺病院
十一師団建築物供用年一覧
 これらの建物の完成を待って、十一師団は開庁されます。多度郡善通寺村に送られた通牒には、次のように記されています。

11師団司令部開庁通知

乃木第十一師団長本月二十八日早朝     
着任来ル十二月一日師団司令部開庁
相成候此段及御通牒候也
    明治三十 年十一月一十五日
①初代師団長は乃木希典で、28日早朝に着任すること
②明治31年(1898)12月1日師団司令部が開庁すること
そして12月8日に、丸亀の東練兵場で閲兵分列式が行われたようです。
そして、1920年代になると各隊の配置は、つぎのようになります。
HPTIMAGE
1921年最新善通寺市街図(善通寺市史NO3)

善通寺十一師団の現在に残っている建築物を巡っていきます。
旧善通寺偕行社|スポット・体験|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット

まず訪ねるのが①の偕行社です。
偕行社とは、陸軍の将校の親睦共済団体です。「偕行」とは「一緒に進む」という意味で「詩経」に出てくる言葉のようです。将校の社交場として建てた建物も偕行社と呼ばれました。師団の置かれたところには、どこにもあったのですが、残っているのは現在では6ヶ所だけです。朝ドラのカムカムエブリボデイの中で、岡山の偕行社が出てきて、話題になっていました。岡山の偕行社は、十七師団の偕行社として1910年に建てられたものです。善通寺の方が7年早いことになります。改修されて重文に指定されていますが、その方向は「地域の社交場」として活用しながら残していこうというコンセプトのようです。ここでも喫茶レストランが新たに増築されています。また、会合などにも貸し出されています。今回は、ここで昼食です。

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偕行社正面 ルネッサンス様式のポーチ
 19世紀のヨーロッパはナポレオン3世に代表されるように、ルネサンス様式が大流行した時代です。それが明治期のこの国にも、このような形でもたらされます。正面中央に車寄せのポーチがあります。これがこの時期の西洋建築物のお約束です。見て欲しいのは、このポーチの柱です。当時、コンクリートはまだなかったので、石柱です。ドーリア(ドリス)式角柱で三角ペディメントを受けています。古代ローマは、ギリシア建築をコピーして、ペディメントのある建築を作りましたが、それが19世紀のルネッサンス様式に当然のように取り入れられます。現在のアメリカのホワイトハウスも、この様式です。しかし、西洋風はこの部分だけ、窓などは洋風ですが、屋根には瓦が載っています。これを「和洋折衷」と云うとしておきましょう。

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偕行社裏側(南側)
南側に廻ってみると、印象は大きく変わります。屋根が日本的な印象を与えてくれます。そしてホールから芝生広場にはテラスを通じて、そのまま下りていけます。運用面でも工夫が見られます。

偕行社平面図
偕行社平面図(建設当初)

    中に入ってみると、明治時代にタイムスリップしたような気分になれます。廊下や窓、照明など、随所に明治時代の趣ある装飾がみられます。最大の見どころは大広間。高い天井に大窓が並ぶ開放的な空間で、舞踏会や社交クラブなどかつてここで開かれたという説明に納得します。
偕行社と市役所
新善通寺市役所と偕行社

善通寺市は、新しい市役所を偕行社の西側に建設しました。
偕行社を目玉にして、善通寺をアピールしていこうとするねらいがあるようにも思えます。新市役所の2Fは図書館で、広いテラスがありくつろぎスペースにもなっています。外部の人も自由に利用できます。
偕行社2
市役所2Fの図書館テラスからの偕行社
ここに置かれた椅子に座って、偕行社の建物を上から眺めて楽しむことも出来るようになりました。
図書館より輜重
善通寺図書館西側の窓際からの眺め
 図書館西側は「五岳の見える窓際」です。ここからは11師団の輜重隊や騎兵隊・歩兵隊跡を眺めることができます。私は郷土史コーナーの「持出禁」の本や史料を、ここで読んだりしています。いろいろなイメージが広がって、私にとっては楽しいお勧めの空間です。

善通寺航空写真(戦後)
戦後直後の善通寺航空写真

     次に訪ねるのが四国学院大学のキャンパスです。
 それを戦後直後の航空写真で見ておきましょう。
善通寺の背後にあるのが霊山の五岳で、その盟主が我拝師山です。その霊山に東面して建てられているのが善通寺であることがよく分かります。この位置は、古代以来変わっていません。善通寺の南門の南側から真っ直ぐに東に伸びているのが駅前通です。この南側に十一師団の各連隊が設置されていたことがよく分かります。今から目指すのは四国学院です。ここには騎兵11連隊が置かれていて、軍馬がたくさん飼われ訓練されていた所です。この写真の護国神社の東側が騎兵連隊です。拡大して見ましょう。
善通寺騎兵隊 拡大
騎兵隊周辺(現 四国学院)
  現在は駐車場となっている東側に馬舎が4棟、その南側と西側に乗馬場が広がっています。護国神社側に西門が見えます。騎兵隊本部は、このあたりにあったようです。そして、さきほど見た2号館も見えます。2棟あって、そのうちの東側の1号館は、後に取り壊されたようです。もう少し後の別の角度からの写真も見ておきましょう。
騎兵連隊跡 四国学院

この写真を見ると、四国学院の東隣にあった輜重隊には自動車学校のコースが作られています。そして4棟あった馬舎は姿を消して陸上コースになっています。
それでは2号棟を見に行きましょう。
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2号館の正面です。
私は、学校の木造校舎に正面ポーチがつけられたというイメージがします。先ほど見た偕行社の入口の顔と比べてみてください。長い2F建ての木造に瓦の屋根が載ります。
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「4本のドーリア(ドリス)式石柱が支える三角ペディメント」というルネッサンス様式は、お約束のようにここでも見られます。

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偕行社は三角柱でしたが、ここでは立派な円柱の石柱です。これは塩飽の広島産と聞いていますが確かな史料は私は知りません。「この柱一本で、普通の家が一個建つ」とも云われたようです。公的な建物としての威風を生み出しているのかもしれません。

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 香川県で84番目の登録文化財になっています。

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正面の入口ポーチを取り去ってしまえば、どこか戦前の木造校舎にも見えて来ます。このような公的な大型建物がモデルとなって、後に中学校や小学校の木造校舎に「転用」されていくのかもしれません。

もうひとつここには、騎兵連隊本部として使われていた建物があります。
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                         騎兵連隊本部だったホワイトハウス
我拝師山をバックに背負って、白く輝いています。今はホワイトハウスと呼ばれています。小さくても「三角ペディメントと車寄席」という様式は踏襲されています。
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2F建てで、少し華奢な感じもします。ここは本部でも事務方の建物だったようです。

ホワイトハウス
旧騎兵連隊本部と図書館の間の道付近が旧南海道(推定)
ちなみに隣にならぶのが図書館です。この間を抜ける道附近に、古代南海道跡が通っていたことが発掘から分かっています。讃岐富士の南側、現在の飯山高校北側から真っ直ぐに我拝師山にむけて伸びているようです。この南海道が最初に測量・建設され、それを基軸に丸亀平野の条里制は整備されていきます。空海(真魚)も、きっとこの道を歩いたはずです。
善通寺条里制四国学院 
多度郡条里制と四国学院の中を通る南海道
 多度郡の条里遺構の中に善通寺と四国学院を置いてみると上図のようになります。四国学院は三条七里にあり、南海道は七里と六里の境界であったと研究者は考えているようです。

四国学院側 条里6条と7条ライン
四国学院を通る南海道と多度郡衙跡(推定)の関係
 四国学院の南の旧善通寺西高校グランドからは、多度郡の郡衙跡と推定される遺跡が見つかっています。さらに、この北西には善通寺が7世紀末には姿を見せます。この辺りが、佐伯氏の拠点で古代多度郡の中心であったことが推測できます。

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讃岐護国神社
四国学院の西門の向こう側には、今は護国神社と乃木神社が並んで鎮座しています。深い神域の中にあるので、古いようにも思えます。ところがここは、もともとは歩兵第四十三連隊(1897年)があったところです。それがなくなったのは、1920年代の協調外交による軍縮でした。ひとつの連隊が軍縮で姿を消したのです。その後に、地元の誘致で護国神社と乃木神社が建立され、現在に至っています。この間の道を琴参の路面電車は走っていました。この停留所の名前は、護国神社前で、ここを電車が通過するときには、常客は帽子を取り最敬礼をしなければならなかったと、私は聞いています。
DSC03916善通寺師団 配置図
十一師団配置図
十一師団の建築物めぐり、今回はここまでです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史 558P 第十一師団の創設
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女木島遠景
髙松沖に浮かぶ女木島
女木島は高松港の赤燈台のすぐ向こうに見える島です。
映画「釣り場バカ日記」の初回では、ハマちゃんはここに新築の家を持ち、早朝の釣りを終えてフェリーで髙松支店に通勤していました。  高松港から一番近い島です。今は「瀬戸芸」の島として名前が知られるようになりました。
女木島丸山古墳2
女木島の丸山古墳
この島の見晴らしのいい尾根筋に丸山古墳があります。

女木島丸山古墳1
女木島丸山古墳3
説明版には、次のような事が記されています。
①5世紀後半の円墳で、直系約15m
②埋葬施設は箱式石棺で、岩盤を浅く掘り込んで石棺を設置し、その後に墳丘を盛土し、墳丘表面を葺石で覆っている。
③副葬品としては曲刃鎌、大刀と垂飾付耳飾が被葬者に着装された状態で出土している。
女木島丸山古墳5

研究者が注目するのは、被葬者が身につけていた耳飾りです。
この垂飾付耳飾は「主環+遊環+金製玉の中間飾+小型の宝珠形垂下飾」という構成です。この耳飾りの特徴として、研究者は次の二点を指摘します。
①一番下の垂下飾の先端が細長く強調されていること
②中間飾が中空の空玉ではなく、中実の金製玉であること
この黄金のイヤリングは、どこで造られたものなのでしょうか?
 
 高田貫太氏(国立歴史民俗博物館)は、次のように述べています。

「ハート形垂飾付き金製耳飾りは日本では50例ほどが確認されているが、本墳の出土品は5世紀前中葉に百済で作られたもので、日本ではほかに1例しか確認されていない。被葬者は渡来人か、百済と密接な関係を持った海民であろう」

   5世紀半ばに、百済の工房で作られたもののようです。それを身につけていた被葬者は、百済系の渡来人か、百済との関係を持っていた「海民」と研究者は考えているようです。それは、どんな人物だったのでしょうか。
今回は、丸山古墳の被葬者が見た朝鮮半島の5世紀の様子を見ていくことにします。テキストは「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」です。

女木島

 丸山古墳からは髙松平野だけでなく、吉備地域の沿岸部がよく見えます。
女木島は高松港の入口にあり、備讃瀬戸航路がすぐ北を通過して行きます。この周辺は、塩飽諸島から小豆島にかけての多島海で、狭い海峽が連続しています。一方、女木島は平地も少なく、大きな政治勢力を養える場所ではありません。この地の財産と云えば「備讃瀬戸の航路」ということになるのでしょうか。それを握っていた人物が、自分の財産「備讃瀬戸航路」を見回せる女木島に古墳を造営したと研究者は考えているようです。
そしてその人物は「海民」で、次の2つが考えられると指摘しています。
①在地集団の首長
②朝鮮半島百済系の渡来人
 ①②のどちらにしても彼らが朝鮮半島南部に直接出かけて、百済と直接に交流・交易を行っていたということです。
倭人については、次のような見方もあります。
季刊「古代史ネット」第3号|奴国の時代 ② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡
対馬海峡の両側を拠点に活動していた海民=倭人
古代国家成立以前には、「国境」という概念もありません。船で自由に海峡を行き来していた勢力がいたこと。その一部が瀬戸内海にも入り込み定着します。これを①の在地の海民集団とすると、②は朝鮮半島に留まった海民集団になります。どちらにしてもルーツは倭人(海民)ということになります。
 従来の学説では、ヤマト政権下に編成され、管理下に置かれた海民達が朝鮮半島との交易を担当していたことに重点が置かれてきました。しかし、女木島の丸山古墳に眠る被葬者は、海民(海の民)の首長として、ヤマト政権には関係なく直接に百済と関係を持っていたと云うのです。朝鮮半島との交渉に、倭の島嶼部や海岸部の地域集団が関わっていたことを示す事例が増えています。女木島の丸山古墳に眠る百済産の耳飾りをつけた人物もそのひとりということになります。
 瀬戸内沿岸の諸地域は5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を採用しています。
今は陸続きとなった沙弥島の千人塚も、その系譜上で捉えられます。沙弥島千人塚
沙弥島千人塚(方墳)
瀬戸内海には女木島や沙弥島などの海民の拠点間で、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていたと研究者は想定します。それは別の視点で云うと、朝鮮半島からの渡来集団の受入拠点でもありました。女木島の場合は、その背後に岩清尾山の古墳群を築いた勢力がいたとも考えられます。あるいは吉備勢力とも、関係をもっていたかもしれません。どちらにしても、丸山古墳の被葬者は朝鮮半島と直接的な関係を持っていたことを押さえておきます。
女木島丸山古墳4

朝鮮半島の西・南海岸地域からは「倭系古墳」と呼ばれる古墳が出てきています。
倭系古墳1
南西海岸の倭系古墳
倭系古墳の特徴は、海に臨んで立地し、北部九州地域の中小古墳の墓制を採用していことです。その例として「野幕古墳とベノルリ3号墳」の埋葬施設を見てみましょう。
倭系古墳 竪穴石室

何も知らずにこの写真を見せられれば、日本の竪穴式石室や組石型石室と思ってしまいます。ベノルリ3 号墳の竪穴式石室は両短壁に板石を立てている点、平面形が 2m × 0.45m と細長方形で直葬の可能性が高い点などが、北部九州地域の石棺系竪穴式石室のものとほぼおなじです。
 次に副葬品を見てみましょう。 
韓半島出土の倭系甲冑
 朝鮮半島出土の倭系甲冑
野幕古墳(三角板革綴短甲、三角板革綴衝角付冑)、
雁洞古墳(長方板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑 2点)
外島1号墳(三角板革綴短甲)
ベノルリ3 号墳(三角板革綴短甲、三角板鋲留衝角付冑)
いずれの古墳からも倭系の帯金式甲冑が出てきます。
野幕古墳やベノルリ3号墳の2古墳から出土した主要な武器・武具類については、一括で倭から移入された可能性が高いと研究者は考えています。このように、野幕、雁洞、外島 1・2 号、ベノルリ3 号の諸古墳は、外表施設、埋葬施設、副葬品など倭系の要素が強く、倭の墓制を取り入れたものです。そして築造時期は、5世紀前半頃です。つまり、これは先ほど見た女木島丸山古墳の被葬者が活躍した年代か、その父親世代の年代になります。
このような「倭系古墳」の存在は、かつては日本の任那(伽耶)支配や高句麗南下にからめて説明されてきました。
しかし、 西・南海岸地域には朝鮮在地系の古墳も併存しています。これはこの地域では「倭系古墳」の渡来系倭人と朝鮮在地系の海民首長が「共存」関係にあったことを示すものと研究者は考えています。
「倭系古墳」の性格は、どのようなものでしょうか。
これを明らかにするために「倭系古墳」の立地条件と経済的基盤を研究者は見ていき、次のように指摘しています。
①「倭系古墳」は西・南海岸地域の沿岸航路の要衝地に立地する。
② この地域はリアス式の海岸線が複雑に入り組んでおり、潮汐の干満差が非常に大きく、それによって発生する潮流は航海の上で障害となる。
③ 特に麗水半島から新安郡に至る地域は多島海地域であり、狭い海峽が連続し、非常に強い潮流が発生する。そのために、現在においても航海が難しい地域である。
 ここからは西・南海岸地域の沿岸航路を航海するためには、瀬戸内海と同じように、複雑な海上地理や潮流を正確に把握する必要がありました。それを熟知していたのは在地の「海民」集団であったはずです。 
 高興半島基部の墓制を整理した李暎澈は、M1、M 2 号墳を造営した集団について、次のように記します。
  埋葬施設がいずれも木槨構造であり、副葬品に加耶系のものが主流を占めている点から、その造営集団は「高興半島一帯においては多少なじみの薄い埋葬風習を有していた集団」であり、「小加耶や金官加耶をはじめとする加耶地域と活発な交流関係を展開していた集団」

この集団が西・南海岸沿いの沿岸航路や内陸部への陸路を活用した「交易」活動を生業としていた「海民」のようです。このような海上交通を基盤としていた海民集団が西・南海岸地域には点在していたことを押さえておきます。
彼らは、次のようなルートで倭と百済を行き来していました。
①漢城百済圏-西・南海岸地域の島嶼部-広義の対馬(大韓・朝鮮)海峡-倭
②栄山江流域-栄山江-南海岸の島嶼部-海峡-倭
 倭からやってきた海民たちも、このルートで百済や栄山江流域などの目的地を目指したのでしょう。朝鮮半島からの渡来人たちが単独で瀬戸内海を航海したことが考えにくいように、西・南海岸地域を倭系渡来人集団だけで航行することは難しかったはずです。円滑な航行には複雑な海上地理と潮流を熟知する現地の水先案内人が必要です。そこで倭系渡来人集団は、西・南海岸地域に形成されていたネットワークへの参画を計ったことでしょう。そのためには、在地の諸集団との交流を重ね、航路沿いの港口を「寄港地」として活用することや航行の案内を依頼していたことが推測できます。倭の対百済、栄山江流域の交渉は、西・南海岸の諸地域との関わりと支援があって初めて円滑に行えたことになります。
 その場合、倭系海民たちは航行上の要衝地に一定期間滞在し、朝鮮系海民と「雑居」することになります。そのような中で「倭系古墳」が築かるようになったと研究者は考えています。逆に、朝鮮半島の海民たちも倭人海民の手引きで、瀬戸内海に入るようになり、女木島や佐柳島などの陸上勢力の手の届かない島に拠点を構えるようになります。それが丸山古墳の黄金イヤリングの首長という話になるようです。
 朝鮮半島系資料の分布状況を讃岐坂出周辺で見てみると、沙弥島に千人塚が現れます。そして、綾川河口の雌山雄山に讃岐で最初の横穴式石室を持った朝鮮式色彩の強い古墳が現れます。このように朝鮮半島系の古墳などは、河川の下流域や河口、入り江沿い、そして島嶼部などに分布しています。これは当時の海上往来が、陸岸の目標物を頼りに沿岸を航行する「地乗り方式」の航法であったことからきているのでしょう。このような状況証拠を積み重ねると、百済から倭への使節や、日本列島への定着を考えた渡来人集団も、瀬戸内の地域集団との交流を重ね、地域ネットワークに参加し、時には女木島や沙弥島を「寄港地」として利用しながら既得権を確保していったと、想定することはできそうです。古代の交渉は「双方向的」であったようです。

倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や朝鮮半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルも古代の日朝関係には存在したようです。

以上をまとめておきます
①高松港沖の女木島には、百済製の黄金のネックレスを身につけて葬られた丸山古墳がある。
②この被葬者は、瀬戸内海航路を押さえた海民の首長であった。
③当時の瀬戸内海の海民たちは、5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を一斉に採用していることから、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていた。
④その拠点のひとつが女木島の丸山古墳、沙弥島の千人塚である
⑤彼らは鉄や進んだ半島系文化を手に入れるために、独自に百済との通商ルートを開いた。
⑥そのため朝鮮半島西南部海域の海民との提携関係を結び、瀬戸内海との相互乗り入れを実現させた。
⑦その交易の成果が丸山古墳の被葬者のイヤリングとして残った。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」
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