瀬戸の島から

2023年11月



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オリンピック青少年センター
明治神宮に隣接するオリンピックセンターからバスで移動してきたのは
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日本青年館
全国民俗芸能大会にお呼ばれしてやってきました。この大会には、第40回大会にも参加しています。今回が第70回と云うことなので、約30年ぶりの参加になります。前回には、小学生の小踊りで参加していた子ども達が、いまは保存会の中心として担っていく存在になっています。

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午前中の10:30からリハーサルなので、9時に楽屋入りして着付けや化粧を開始します。

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日本青年館の楽屋での着付け
今年は4回目のお呼ばれ公演なので、着付けなどの準備もなれてきて、スムーズに進みます。


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後部客席からの入場
今回も入庭(いりは:入場)は、客席側からです。リハーサルなのでお客さんは入っていません。
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露払いを先頭に、ステージを一周して後方に一列に並びます。全国民俗芸能大会1
佐文綾子踊由来口上(保存会長)
この大会では、公演だけでなく「記録に残す」ということも目的のひとつになっているようです。そのため保存会長の口上などもリハーサルでは省略なしで、全部読み上げられました。できるだけ本番に近い形で、記録にのこしておきたいそうです。

綾子踊り由来昭和14年版
       雨乞踊由来(尾﨑清甫書:昭和14年版)
これを全部読み上げると、6分少々かかるので、短縮バージョンで対応することになりました。次は、棒と薙刀が踊る場所を演舞で確保します。そして、問答がはじまります。これも修験者たちの流儀を受け継いでいることは以前にお話ししました。民俗芸能を媒介した修験者や聖の存在が垣間見えます。

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棒と薙刀の問答
棒薙刀問答 尾﨑清甫まとめ版
棒薙刀問答(尾﨑清甫筆:昭和14年)
 いよいよ踊りのはじまりです。

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芸司(げいじ)の次の口上とともに踊りが始まります。
薙刀問答4 芸司口上1
芸司口上(尾﨑清甫筆:昭和14年)

普段は小踊りの子ども達は6人なのですが、直前にインフルエンザ感染などで、3人で踊ることになりました。

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「善女龍王」などの幟も2本、総勢34名でいつもの半分程度の編成になっています。
民俗芸能大会2
芸司の周囲に左から太鼓・鉦(僧服)・拍子(大団扇)・一番右が姫姿の大踊りが配されます。

民俗芸能大会4
芸司の左側

民俗芸能大会5
下手で待機する薙刀・露払い・幟持ち・法螺貝吹


民俗芸能大会6

本番の時間は50分です。最後に本番に向けての入場・立ち位置の確認が行われました。

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花笠を脱いで、最後の踊りの確認

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地唄の音量調整も行われます。
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余裕の笑顔です。準備完了

控室に帰って弁当を食べていると、記録のための係員がやってきて、用具や楽器を見せて下さいとのこと。廊下の床に団扇などを並べて寸法をはかり、イラストに書き上げていきます。

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団扇の寸法をはかり、イラストを仕上げていく記録員
研究者に聞くと、写真よりもイラストの方が特徴がよく掴めるそうで、図版に残しておくのも大切な作業のようです。

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質問を受ける太鼓
一方で、太鼓や笛・地唄などは、いろいろな質問を受けていました。
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質問を受ける笛
昼食後13:00開演。そのトップが佐文綾子踊りでした。残念ながら本番の写真は撮れていません。50分の公演後に、別室で文化庁や青年館などから表彰を受けました。

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いただいたペナントや感謝状
ペナントには第70回とあります。

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帰ってきて前回の平成2年にいただいたものを見てみると「第40回」とあります。佐文綾子踊りが、踊り継がれていることを実感できる記念品でもあります。30年間の間に、継承関わった人たちに感謝しながら青年館を後にしました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  まんのう町の教育委員会を通じて、町内の小学校から綾子踊りのことについて話して欲しいという依頼を受けました。綾子踊保存会の事務局的な役割を担当しているので、私の所に話が回ってきたようです。4年生の社会科の地域学習の単元で、綾子踊りを取り上げているようです。「分かりやすく、楽しく、ためになるように、どんな話をしたらいいのかなあ」と考えていると、送られてきたのが次の授業案です。

綾子踊り指導案

これを見ると6回の授業で、讃岐の伝統行事を調べています。
その中から佐文綾子踊を取り上げ、どのように伝えられてきたのか、どう継承していこうとしているのかまでを追う内容になっています。授業方法は子ども達自身が調べ、考えるという「探求」型学習で貫かれています。私の役割も「講演(一方的な話)」が求められているのではないようです。授業テーマと、その展開部を見ると次のように書かれています    
綾子踊りが、どうして変わらずに残ったのか考えよう。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
→ 何かで途絶えるかもしれないとおもったからじゃないかな
→ 忘れないようにしたかったから 口だけだと忘れてしまいそうだから
→ でも、どうしてここまでして残そうとしたんだろうか
→ それを保存会の方に聞いてみよう!
この後で、私の登場となるようです。さて、私は何を話したらいいのでしょうか?
尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊りの文書

ここで私が思い出したのは、1934(昭和9)年に、尾﨑清甫が書残している「綾子踊団扇指図書起」の次の冒頭部です。

綾子踊団扇指図書起
綾子踊団扇指図書起
 綾子踊団扇指図書起
 さて当年は旱魃、甚だしく村内として一勺の替水なく農民之者は大いに困難せる。昔し弘法大師の教授されし雨乞い踊りあり。往昔旱魃の際はこの踊りを執行するを例として今日まで伝え来たり。しかしながら我思に今より五十年ないし百年余りも月日去ると如何なる成行に相成るかも計りがたく、また世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。
 また人間は老少を定めぬ身なれば団扇の使う役人、もしや如何なる都合にて踊ることでき難く相成るかもしれず。察する内にその時日に旱魃の折に差し当たり往昔より伝来する雨乞踊りを為そうと欲したれども団扇の扱い方不明では如何に顔(眼)前で地唄を歌うとも団扇の使い方を知らざれば惜しいかな古昔よりの伝わりし雨乞踊りは宝ありながら空しく消滅するよりほかなし。
 よりてこの度団扇のあつかい方を指図書を制作し、千代万々歳まで伝え置く。この指図書に依って末世まで踊りたまえ。又善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
                                    昭和9(1934)年10月12日
 綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
   綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

小学4年生に伝わるように、超意訳してみます。
 今年は雨がなく、ひでりが続いて、佐文の人たちは大変苦しみました。佐文には、弘法大師が伝えた雨乞い踊(おど)りがあります。昔からひでりの時には、この踊りを踊ってきました。しかし、世の中の進歩や変化につれて、人の心も変わっています。そんな踊りで雨が降るものか、そんなのは科学的でない、と反対する人達もでてきて、佐文の人たちの心もまとまりにくくなっています。そして、ひでりの時にも、雨乞踊りがおどられなくなります。そのまま何十年も月日が過ぎます。そんなときに、ひどい日照りがやってきて、ふたたび雨乞踊りを踊ろうとします。しかし、うちわの振(ふ)り方や踊り方が分からないことには、唄が歌われても踊ることはできません。こうして、惜(お)しいことに昔から佐文に伝えられてきた雨乞踊りという宝が、消えていくのです。
 そんなことが起きないように、私は団扇のあつかい方の指導書を書き残しておきます。これを、行く末(すえ)まで伝え、この書によって末世まで踊り伝えてください。善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
ここには、「団扇指南書」を書き残しておく理由と、その願いが次のように書かれています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
   尾﨑清甫「綾子踊り団扇指南書」の伝える願い
  綾子踊りの継承という点で、尾﨑清甫の果たした役割は非常に大きいものと云えます。彼が書写したと伝えられる綾子踊関係文書のなかで最も古いものは「大正3年 綾子踊之由来記」 です。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊り由来記
ここからは、大正時代から綾子踊りの記録を写す作業を始めていたことが分かります。
次に書かれた文書が「団扇指南書」で、1934(昭和9)年10月に書かれています。ちょうど90年前のことになります。この時点で、綾子踊りの伝承について尾﨑清甫は「危機感・使命感・決意・願い」を抱いていたことが分かります。彼がこのような思いを抱くようになった背景を見ておきましょう。
1939年に、旱魃が讃岐を襲います。この時のことを、尾﨑清甫は次のように記しています。

1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
  字佐文戸数百戸余りなる故に、綾子踊について協議して実施することが困難になってきた。ついては「北山講中」として村雨乞いの行列で願立て1週間で御利生を願った。(しかし、雨が降らなかったので)、再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが、利生は少なかった。そこで旧暦7月29日に大いなる利生があった。そこで、俄な申し立てで旧暦8月1日に雨乞成就のお礼踊りを執行した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中(国道377号の北側の小集落)」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

先ほど見た「団扇指南書起」には、次のようにありました。
「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見と行動が分かれていたことがことが見て取れます。そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
尾﨑清甫
尾﨑清甫
5年後の1939(昭和14)年に、近代になって最大規模の旱魃が讃岐を襲います。
その渦中に尾﨑清甫はいままでに書いてきた「由来記」や「団扇指南書」にプラスして、踊りの形態図や花笠寸法帳などをひとつの冊子にまとめるのです。この文書が、戦後の綾子踊り復活や、国の無形文化財指定の大きな力になっていきます。

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尾﨑清甫の綾子踊文書を入れた箱の裏書き
最後に、小学校4年生の教室で求められているお題を振り返っておきます。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
これについての「回答」は、次のようになります。
①近代になって科学的・合理的な考え方からすると「雨乞踊り」は「迷信」とされるようになった。
②そのためいろいろな地域に伝えられていた雨乞い踊りは、踊られなくなった。
③佐文でも全体がまとまっておどることができなくなり、一部の人達だけで踊るようになった。
④それに危機感を抱いた尾﨑清甫は、伝えられていた記録を書写し残そうとした。
尾﨑清甫は、佐文の綾子踊りに誇りを持っており、それが消え去っていくことへ強い危機感を持った。そこで記録としてまとめて残そうとした。
讃岐には、各村々にさまざまな風流踊りが伝わっていました。それが近代になって消えていきます。踊られなくなっていくのです。その際に、記録があればかすかな記憶を頼りに復活させることもできます。しかし、多くの風流踊りは「手移し、口伝え」や口伝で伝えられたものでした。伝承者がいなくなると消えていってしまいます。そんな中で、失われていく昭和の初めに記録を残した尾﨑清甫の果たした役割は大きいと思います。

綾子踊り 国踊り配置図
綾子踊り隊形図(国踊図)
これを小学4年生に、どんな表現で伝えるかが次の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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塩分補給のために深山から岩礁に飛来するアオバト
 四国山脈の奥に棲むアオバトは、塩水を飲むために海の岩礁に下りてきます。野鳥観察が趣味だったころに、豊浜と川之江の境の余木崎にやってくるアオバトたちを眺めによく行きました。波に打たれながら海水を飲むアオバトを、ハラハラしながら見ていたのを思い出します。アオバトと同じように、人間にとっても塩は欠かせないものです。そのため縄文人たち以来、西阿波に住む人間はアオバトのように塩を手に入れるために海に下りてきたはずです。弥生時代の阿波西部は、讃岐の塩の流通圏内だったようです。その交換物だったのが阿波の朱(水銀)だったことが、近年の旧練兵場遺跡の発掘調査からわかってきたことは以前にお話ししました。
 つまり、善通寺王国と阿波の美馬・三好のクニは「塩=朱(水銀)」との交換交易がおこなわれていたようです。阿讃の峠は、この時代から活発に行き来があったことを押さえておきます。
 7世紀後半に丸亀平野南部に建立された弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺の白鳳時代の瓦は、同笵瓦でおなじ版木から作られていたことが分かっています。ここでも両者の間には、先端技術者集団の瓦職人集団の「共有」が行われていたことがうかがえます。以上をまとめると次のようになります。
①弥生時代の阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていた
②善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が運ばれ、加工・出荷されていた。
③丸亀平野南部の弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われている。
 このような背景の上に、中世になると阿波忌部氏の西讃進出伝説などが語られるようになると私は考えています。 
 そのような視点で見ていると気になってきたのが国の史跡となっている三加茂の丹田古墳です。今回はこの古墳を見ていくことにします。

丹田古墳 位置
           三加茂の丹田古墳
 三加茂から桟敷峠を越えて県道44号を南下します。この道は桟敷峠から落合峠を経て、三嶺ふもとの名頃に続く通い慣れた道です。加茂谷川沿の谷間に入って、すぐに右に分岐する町道を登っていきます。
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丹田古墳手前の加茂山の集落
 加茂山の最後の集落を通り抜けると、伐採された斜面が現れ、展望が拡がります。そこに「丹田古墳」の石碑が現れました。
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           丹田古墳の石碑 手前が前方部でススキの部分が後方(円)部 
標高220mの古墳からの展望は最高です。眼下に西から東へ吉野川が流れ、その南側に三加茂の台地が拡がります。現在の中学校から役場までが手に取るように分かります。この古墳から見える範囲が、丹田古墳の埋葬者のテリトリーであったのでしょう。

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丹田古墳からの三加茂方面 向こうが讃岐山脈

 この眺めを見ていて思ったのは、野田院古墳(善通寺市)と雰囲気が似ていることです。
2野田院古墳3
     野田院古墳 眼下は善通寺の街並みと五岳山

「石を積み上げて、高所に作られた初期古墳」というのは、両者に共通します。作られた時期もよく似ています。彼らには、当時の埋葬モニュメントである古墳に対してに共通する意識があったことがうかがえます。善通寺と三加茂には、何らかのつながりがあったようです。

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帰ってきてから「同志社大学文学部 丹田古墳調査報告書」を読みました。それを読書メモ代わりにアップしておきます。
丹田古墳調査報告 / 森浩一 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

丹田古墳周辺部のことを、まず見ておきましょう。
①丹田古墳は加茂山から北東にのびる尾根の先端部、海抜約220mにある。
②前方部は尾根の高い方で、尾根から切断することによって墳丘の基礎部を整形している。
③丹田古墳周辺の表土は、丹田の地名が示すように赤土である。
④丹田古墳南東の横根の畑から磨製石斧・打製石鏃・打製石器が散布
⑤加茂谷川右岸・小伝の新田神社の一号岩陰からは、多数の縄文土器片が出上
 丹田古墳とほぼ同じ時期に築かれた岩神古墳が、加茂谷川の右岸高所に位置します。丹田古墳と同じ立地をとる古墳で、丹田古墳の後継関係にあった存在だと考えられます。前期古墳が高い所に作られているのに対して、後期古墳は高地から下りて、流域平野と山地形との接触部に多く築かれるようになります。すでに失われてしまいましたが、石棚のある横穴式石室をもった古墳や貞広古墳群はその代表です。貞広古墳群は、横穴式石室の露出した古墳や円墳の天人神塚など数基が残っています。
 以上から三加茂周辺では、初期の積石塚の前方後円(方)墳である丹田古墳から、横穴式石室をもつ後期古墳まで継続して古墳群が造られ続けていることが分かります。つまり、ひとつの継続した支配集団の存在がうかがえます。これも善通寺の有岡古墳群と同じです。

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                                丹田古墳の後円部の祠
丹田古墳の東端には、大師の祠があります。この祠作成の際に、墳丘の石が使われたようです。そのため竪穴式石室にぽっかりと穴が空いています。

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石室に空いた穴を鉄編みで塞いでいる

古墳の構築方法について、調査書は次のように記します。
①西方の高所からのびてきた尾根を前方部西端から11m西で南北に切断されている。
②その際に切断部が、もっとも深いところで2m掘られている。
③前方部の先端は、岩盤を利用
④後円(方)部では、岩盤は墳頂より約2、2m下にあり、石室内底面に岩盤が露出している
⑤墳丘は、岩盤上に積石が積まれていて、土を併用しない完全な積右塚である。
⑥使用石材は結晶片岩で、小さいものは30㎝、大きなものは1mを越える
⑦石材の形は、ほとんどが長方形

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墳丘に使用されている石材

⑧くびれ部付近では、基底部から石材を横に5・6個積みあげている
⑨その上にいくに従って石は乱雑に置かれ無秩序になっていく。
⑩墳丘表面は、結晶片岩に混じって白い小さな円礫が見えます。これは、下の川から運び上げたもののようです。築造当初は、白礫が墳丘全面を覆っていたと研究者は考えています。

国史跡丹田古墳の世界」-1♪ | すえドン♪の四方山話 - 楽天ブログ
            白く輝く丹田古墳
そうだとすれば、丹田古墳は出来上がった時には里から見ると、白く輝く古墳であったことになります。まさに、新たな時代の三加茂地域の首長に相応しいモニュメント墳墓であったと云えそうです。

⑪古墳の形状は、前方部先端が一番高く、先端部が左右に少しひろがっている箸墓タイプ
⑫墳形については、研究者は前方後方墳か、後円墳か判定に悩んでいます。
次に、埋葬施設について見ておきましょう。
 先ほども見たように、石室部分は大師祠建設の際に台座の石とするために「借用」された部分が小口(30㎝×50㎝)となって開口しています。しかし、石室字体はよく原状を保っていて、石積み状態がよく分かるようです。
丹田古墳石室
丹田古墳の縦穴式石室

①右室底面の四隅は直角に築かれて、四辺はほぼ直線
②規模は全長約4,51m、幅は東端で約1,32m、西端では約1,28m
③石室の底面は、東のほうがやや低くなっていて、両端で約0,26mの傾斜差
④この石宝底面の傾斜は、尾根の岩盤をそのまま、利用しているため
⑤高さは両端とも1.3mで、中央部はやや低く約1,2m
⑥石室底面は墳頂から約2.2m下にあり、石室頂と墳頂との間は約0,85m
⑦石室の壁は墳丘の積石と同じ結品片岩を使い、小口面で壁面を構成する小口積
⑧底部に、大きめの石を並べ垂直に積み上げたのち、徐々に両側の側面を持ち送り、天井部で合わせている。
⑨つまり横断面図のように合掌形になっていて、 一般的な天井石を用いた竪穴式石室とは異なる独特の様式。
⑩については、丹田古墳の特色ですが、「合掌形石室」の類例としては、大和天神山古・小泉大塚古墳・メスリ山古墳・谷口古墳の5つだけのようです。どうして、このタイプの石室を採用したのかは分かりません。
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ここで少し丹田古墳を離れて、周囲の鉱山跡を見ていくことにします。
①からみ遺跡 海抜1300mの「風呂の塔かじやの久保」にある銅鉱採堀遺跡
②滝倉山(海抜500m)
③三好鉱山(海抜700m)跡
①風呂塔かじやの久保は、奈良朝以前の採掘地と研究者は考えているようです。鋳造跡としては長善寺裏山の金丸山があります。ここの窯跡からは須恵器に鋼のゆあか(からみ)が流れついている遺物が発見されています。
 また三加茂町が「三(御)津郷」といっていたころは東大寺の荘園でした。その東大寺の記録に「御津郷より仏像を鋳て献上」とあります。ここからは加茂谷川の流域には、銅鉱脈があり、それが古代より採掘され、長善寺裏山の鋳造跡で鋳造されていたという推測ができます。残念ながら鋳造窯跡は、戦中の昭和18年(1954)に破壊されて、今は一部が残存するのみだそうです。

三加茂町史 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 三加茂町史145Pには、次のように記されています。

かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  つまり、丹田古墳の被葬者が三加茂地域の首長として台頭した背景には、周辺の銅山開発や銅の製錬技術があったいうのです。これは私にとっては非常に魅力的な説です。ただ、やってきたのは「漢民族」ではなく、渡来系秦氏一族だと私は考えています。
本城清一氏は「密教山相」で空海と秦氏の関係を次のように述べています。(要約)
①空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
②泰氏の基盤は土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
③その中には鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
④空海は民衆の精神的救済とともに、物質的充足感も目指していた。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑤空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内にある。
⑥例えば東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神)。これも秦氏を意識したものである。
空海の満濃池改修も、秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑧空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。例えば秦氏族出身の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑨平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が8名もいる。
⑩讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した寺社である。
⑪金倉寺には泰氏一族が建立した新羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係も深い。

2密教山相ライン
  四国の密教山相ラインと、朱(水銀)や銅などの鉱脈の相関性

以前に、四国の阿波から伊予や土佐には銅鉱脈が通過しており、その鉱山開発のために渡来系秦氏がやってきて、地元有力豪族と婚姻関係を結びながら銅山や水銀などの確保に携わったこと。そして、奈良の大仏のために使用された銅鉱は、伊予や土佐からも秦氏を通じて貢納されていたことをお話ししました。それが、阿波の吉野川沿いにも及んでいたことになります。どちらにしても、阿波の加茂や郡里の勢力は、鉱山開発の技能集団を傘下に抱えていたことは、十分に考えられる事です。

丹生の研究 : 歴史地理学から見た日本の水銀(松田寿男 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 松田壽男氏は『丹生の研究』で、次のように記します。

「天平以前の日本人が「丹」字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は「に」と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ「そほ」には「赭」の字を当てた。丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう。

丹田古墳の「丹田」は赤土の堆積層をさします。
ここには銅鉱山や、朱(水銀)が含まれていることは、修験者たちはよく知っていました。修験者たちは、鉱山関係者でもありました。修験者の姿をした鉱山散策者たちが四国の深山には、早くから入っていたことになります。そして鉱山が開かれれば、熊野神社や虚空蔵神が勧進され、別当寺として山岳寺院が建立されるという運びになります。山岳寺院の登場には、いろいろな道があったのではないかとおもいます。  
 同時に、阿波で採掘された丹=朱砂は、「塩のルート」を通じて丸亀平野の善通寺王国に運ばれ、そこで加工されていました。善通寺王国跡の練兵場跡遺跡からは、丹=朱砂の加工場がでてきていることは以前にお話ししました。丹=朱砂をもとめて、各地からさまざまな勢力がやってきたことが、出てきた土器から分かっています。そして、多度津の白方港から瀬戸内海の交易ルートに載せられていました。漢書地理志に「分かれて百余国をなす」と書かれた時代の倭のひとつの王国が、善通寺王国と研究者は考えるようになっています。善通寺王国と丹田古墳の首長は、さまざまなルートで結びつきをもっていたようです。
以上をまとめておきます
①阿波の丹田古墳は高地に築造された積石の前方後方(円)墳である。
②すべてが積石で構築され、白い礫石で葺かれ、築造当初は山上に白く輝くモニュメント遺跡でもあった。
③これは、丹田古墳の首長が当時の「阿識積石塚分布(化)圏」に属するメンバーの一人であったことを示すものである。
④特に、三加茂と善通寺のつながりは深く、弥生時代から「塩=鉱物(銅・朱水銀)」などの交易を通じて交易や人物交流が行われていた。
⑤それが中世になると、阿波忌部氏の讃岐入植説話などに反映されてきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳島県教育委員会 丹田古墳調査報告書
三加茂町史 127P 丹田古墳

石堂山3
石堂山
前回までは、阿波石堂山が神仏分離以前は山岳信仰の霊山として、修験者たちが活動し、多くの信者が大祭には訪れていたことを押さえました。そして、実際に石堂神社から白滝山までの道を歩いて見ました。今回は、その続きで白滝山から石堂山までの道を行きます。

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笹道の中の稜線歩き 正面は矢筈山
白滝山と石堂山を結ぶ稜線は、ダテカンバやミズナラ類の広葉樹の疎林帯ですが、落葉後のこの季節は展望も開け、絶景の稜線歩きが楽しめます。しかも道はアップダウンが少なく、笹の絨毯の中の山道歩きです。体力を失った老人には、何よりのプレゼントです。ときおり開けた笹の原が現れて、視界を広げてくれます。

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正面が石堂山


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  白滝山から石堂山の稜線上の道標
「石堂山 0,7㎞ 白滝山0,8㎞」とあります。中間地点の道標になります。
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振り返ると白滝山です。
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白滝山から東に伸びる尾根の向こうに友納山、高越山
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矢筈山と、その奥にサガリハゲ
左手には、石堂山の奥の院とされる矢筈山がきれいな山容を見せてくれます。そんな中で前方に突然現れたのが、この巨石です。

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近づいてみると石の真ん中に三角形の穴が空いています。

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中に入ってみましょう。
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巨石の下部に三角の空洞が開いています。
これについて 阿波志(文化年間)は、次のように記します。

「絶頂に石あり削成する如し 高さ十二丈許り 南高く北低し 石扉あり之を覆う 因て名づけて石堂と曰う」

意訳変換しておくと
石堂山の頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにもある。南側の方が高く、北側の方が低い。石の扉があってこれを覆う。よって石堂と呼ばれている。

  ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんで巨石があり、北側の方が高い。
②巨石には空間があり、石の扉もあるので石堂と呼ばれている

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北側から見た石堂
この石堂が「大工石小屋」で、この山は石堂山と呼ばれるようになったことが分かります。同時にこれは、「巨石」という存在だけでなく「宗教的遺跡」だったことがうかがえます。それは、後で考えることにして、前に進みます。

石堂山6
 石堂と御塔石(石堂山直下の稜線上の宗教遺跡)
石堂(大工石小屋)からひとつコルを越えると、次の巨石が姿を見せます。
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お塔石(おとういし:右下祠あり) 後が矢筈山 
山伏たちが好みそうな天に突き刺す巨石です。高さ約8mの方尖塔状の巨石です。これが御塔(おとう)石で、石堂神社の神体と崇められてきたようです。その奥に見えるのが矢筈(やはず)山で、石堂神社の奥の院とされていました。

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御塔石の石祠

御塔石の右下部には、小さな石の祠が見えます。この祠の前に立ち「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。そして、この祠の下をのぞくと、スパッと切れ落ちた断崖(瀧)になっています。ここで、修験者たちは先達として連れてきた信者達に捨身行をおこなわせたのでしょう。それを奥の院の矢筈山が見守るという構図になります。

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石堂山からのお塔岩(左中央:その向こうは石堂神社への稜線)
先ほど見た阿波志には「絶頂に石あり 削成する如し」と石堂のことが記されていました。修験者にとって石堂山の「絶頂」は、石堂と御塔石で、現在の山頂にはあまり関心をもっていなかったことがうかがえます。

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お塔石の前の笹原に座り込んで、石堂山で行われていた修験者の活動を考えて見ました。 
 修験者が開山し、霊山となるには、それなりの条件が必要なでした。どの山も霊山とされ開山されたわけではありません。例えば、次のような条件です。
①有用な鉱石が出てくる。
②修行に適した行場がある。
③本草綱目に出てくる漢方薬の材料となる食物の自生地である
①③については、以前にお話ししたので、今回は②について考えて見ます。最初にここにやってきた修験者が、天を突き刺すようなお塔岩を見てどう思ったのでしょうか。実は、石鎚山の行場にも、お塔岩があります。
石鎚山と石土山(瓶が森)
 伊豫之高根  石鎚山圖繪(1934年発行)
以前に紹介した戦前の石鎚山絵図です。左が瓶が森、右が石鎚山で、中央を流れるのが西の川になります。左の瓶が森を拡大して見ます。

2石鎚山と石土山(瓶が森)
    石鎚山圖繪(1934年発行)の左・瓶が森の部分 

これを見ると、瓶が森には「石土蔵王大権現」とあり、子持権現をはじめ山中に、多くの地名が書き込まれています。これらはほとんどが行場になるようです。石鎚山方面を見ておきましょう。

石鎚古道 今宮道と黒川宿の繁栄様子がはっきり記されている
石鎚山圖繪(1934年発行)の右・石鎚山の部分

 今から90年前のものですから、もちろんロープウエイはありません。今宮から成就社を越えて石鎚山に参拝道が伸びています。注目したいのは土小屋と前社森の間に「御塔石」と描かれた突出した巨石が描かれています。それを絵図で見ておきましょう。
石鎚山 天柱金剛石
「天柱 御塔石」と記されています。現在は「天柱石」と呼ばれていますが、もともとは「御塔石(おとういし)」だったようです。石堂山の御塔石のルーツは、石鎚山にあったようです。この石も行場であり、聖地として信仰対象になっていたようです。こうしてみると霊山の山中には、稜線沿いや谷川沿いなどにいくつもの行場があったことがうかがえます。いまでは本尊のある頂上だけをめざす参拝登山になっていますが、かつては各行場を訪れていたことを押さえておきます。このような行場をむすんで「石鎚三十六王子」のネットワークが参道沿いに出来上がっていたのです。

 修験道にとって霊山は、天上や地下にあるとされた聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝は天界への道、
④奈落の底まで通じる火口、断崖(瀧)
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界とされました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったようです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされます。境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。
 その山が、年に一度「開放」され「異界への入口」に立つことが出来るのが、お山開きの日だったのです。神々との出会いや、心身を清められることを願って、人々は先達に率いられてお山にやってきたのです。そのためには、いくつも行場で関門をくぐる必要がありました。
 土佐の高板山(こうのいたやま)は、いざなぎ流の修験道の聖地です。
高板山6
高板山(こうのいたやま)

いまでも大祭の日に行われている「嶽めぐり」は、行場で行を勤めながらの参拝です。各行場では童子像が迎えてくれます。その数は三十六王子。これも石鎚三十六王子と同じです。

高板山11
          高板山の行場の霊像

像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。一ノ森、ニノ森では、入峰記録の巻物を供え、しばし経文を唱えます。
高板山 不動明王座像、四国王目岩
               不道明坐像(高板山 四国王目岩)
そして、各行場では次のような行を行います。
①捨て宮滝(腹這いで岩の間を跳ぶ)
②セリ岩(向きでないと通れないほど狭い)
③地獄岩(長さ10mほどの岩穴を抜ける、穴中童子像あり)
④四国岩、千丈滝、三ッ刃の滝などの難所
ちなみに、滝とは「崖」のことであり水は流れていません。
行場から行場への道はまるで迷路のように上下曲折し、一つ道を迷えば数ヶ所の行場を飛ばしてしまいます。先達なくしては、めぐれません。

高板山 へそすり岩9
高板山 臍くぐり岩
石鎚山や高板山を見ていると、石堂山の石堂やお塔石なども信仰対象物であると同時に、行場でもあったことがうかがえます。

 それを裏付けるのがつるぎ町木屋平の「木屋平分間村絵図」です。
木屋平村絵図1
        木屋平分間村絵図の森遠名エリア部分

この絵図には、神社や寺院、ばかりでなく小祠・お堂が描かれています。そればかりか村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。その中には,村人がつけた河谷名や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数も含まれます。それを登場数が多い順に一覧表にまとめたのが次の表です。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観一覧表

この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。そして、巨岩にはそれぞれ名前がつけられています。固有名詞で呼ばれていたのです。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
          三ツ木村と川井村の「宗教施設」
 ここからは、木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。同じようなことが、風呂塔から奥の院の矢筈山にかけてを仰ぎ見る半田町のソラの集落にも云えるようです。そこにはいくつもの行場と信仰対象物があって「石堂大権現三十六王子」を形成していたと私は考えています。それが神仏分離とともに、修験道が解体していく中で、石堂山の行場や聖地も忘れ去られていったのでしょう。そんなことを考えながら石堂山の頂上にやってきました。

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石堂山山頂
ここは広い笹原の山頂で、ゆっくりと寝っ転がって、秋の空を眺めながらくつろげます。

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しかし、宗教的な意味合いが感じられるものはありません。修験者にとって、石堂山の「絶頂」は、石堂であり、お塔石であったことを再確認します。
 さて、石堂山を開山し霊山として発展させた山岳寺院としては、半田の多門寺や、井川の地福寺が候補にあがります。特に、地福寺は近世後半になって、見ノ越に円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺院に成長していくことは以前にお話ししました。地福寺は、もともとは石堂山を拠点としていたのが、近世後半以後に剣山に移したのではないかというのが私の仮説です。それまで、石堂山を霊山としていた信者たちが新しく開かれた剣山へと向かい始めた時期があったのではないかという推察ですが、それを裏付ける史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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石堂山
石堂神社から石堂山まで
つるぎ町半田の奥にそびえる石堂山は、かつては石堂大権現とよばれる信仰の山でした。
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標高1200mと記された看板
 現在の石堂神社は1200mの稜線に東面して鎮座しています。もともとこの地は、半田と木屋平を結ぶ峠道が通じていたようです。そこに石堂山の遙拝地であり、参拝登山の前泊地として整備されたのが現在の石堂神社の「祖型」だと私は推察しています。県道304号からアップダウンの厳しいダートの道を越えてくると、開けた空間が現れホッとしました。東向きに鎮座する本堂にお参りして、腰を下ろして考えます。

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 スチールの鳥居が白く輝く石堂神社

 かつて石堂山は、明治維新の神仏分離までは、石堂大権現と呼ばれていました。金比羅大権現と同じように、修験者が信仰する霊山で、行場や頂上には様々な神々が祀られていました。

石堂山2
石堂神社からの石堂大権現の霊山
そのエリアは、風呂塔 → 火上山 → 白滝山 → 石堂山 → 矢筈山を含む一円だったようです。このエリアを修験者たちは行場として活動していたようです。ここで修行を積んで験を高めた修験者たちは、各地に出向いて信仰・医療・広報活動を行い、信者を増やし、講を組織します。そして、夏の大祭には先達として信者達を連れて、本山の石堂大権現に参拝登攀に訪れるようになります。それは石鎚参拝登山と同じです。石鎚参拝登山でも、前神寺や横峰寺など拠点となった山岳寺院がありました。同じように、石堂大権現の拠点寺となったのが井川町の地福寺であり、半田町の多門寺であることを前回にお話ししました。
 先達山伏は、連れて来た信者達を石堂山山頂近くの「お塔石」まで導かなければなりません。そのためには参拝道の整備ととともに、山頂付近で宿泊のできる施設が必要になります。それはできれば、朝日を浴びる東向きの稜線上にあることがふさわしかったはずです。そういう意味では、この神社の位置はピッタリのロケーションです。

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明るく開けた石堂神社の神域
  現在の石堂神社には、素盞嗚尊・大山祇尊・嵯峨天皇の三柱の祭神が祭られているようです。

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石堂神社拝殿横の祠と祀られている祭神
しかし、拝殿横の小さな祠には、次のような神々が祀られています。
①白竜神 (百米先の山中に祭る)
②役行者神変(えんのぎょうじゃ じんべん)大菩薩
③大山祇命
どうやらこの三神が石堂大権現時代の祭神だったようです。神仏分離によって本殿から追い出され、ここに祀られるようになったのでしょう。
役行者と修験道の世界 : 山岳信仰の秘宝 : 役行者神変大菩薩一三〇〇年遠忌記念(大阪市立美術館 編) / ハナ書房 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
役行者(えんのぎょうじゃ)

②の役行者は修験道の開祖とされる人物で、「神変」は没後千年以上の後に寛政2年(1799年)に光格天皇から送られた諡号です。
③の大山祇命(オオヤマツミ)の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味で、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くでも主祭神として祀られています。石堂大権現に祭る神としては相応しい神です。

問題は①の白竜神です。竜は龍神伝説や善女龍王伝説などから雨乞いとからんで信仰されることがあるようですが、讃岐と違って阿波では雨乞い伝説はあまり聞きません。考えられるのは、「白滝山」から転じたもので、白滝山に祀られていた神ではないのかと私は考えています。「百米先の山中に祭る」とあるので、早速行って見ることにします。

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石堂山への参道登山口(石堂神社の鳥居)
 持っていく物を調えて、参拝道の入口に立つ鳥居をくぐります。もみじの紅葉が迎えてくれます。

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最初の上りを登って振り返ると、石堂神社の赤い屋根が見えます。
そして前方に開けてきたのが「磐座の広場」です。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群

石灰岩の大小の石が高低差をもって並んでいます。古代神道では、このような巨石には神が降り立つ磐座(いわくら)と考え、神聖な場所とされてきました。その流れを汲む中世の山伏たちも磐座信仰を持っていました。
金毘羅神
天狗姿で描かれた金毘羅大権現
 修験者は天狗になるために修行をしていたともいわれます。そのため天狗信仰の強かった金毘羅大権現では、金毘羅神は天狗姿で描かれているものもあります。修験者にとって天狗は、憧れの存在でした。

天狗 烏天狗
霊山に宿る仏達(右)と天狗たち(左)
聖なる山々に棲む天狗が集って集会を開くのが「磐座の広場」でした。決められた岩の上に、決められた天狗たちが座するとされました。修験者には、この磐座群に多くの天狗達が座っていたのが見えたのかもしれません。それを絵にしてイメージ化したものが金毘羅大権現にも残っています。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
 金毘羅大権現と天狗達(金毘羅大権現の別当金光院が出していた)

つまり、石堂神社の裏手の山は上の絵のように、石堂大権現と天狗達の集会所として聖地だったと、私は「妄想」しています。そうだとすれば、石堂大権現が座ったのは、中央の大きな磐座だったはずです。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群(石堂神社裏)

ここも修験者たちにとっては聖なる場所のひとつで、その下に遙拝所としての石堂神社が鎮座しているとも考えられます。
下の地図で①が石堂神社、②が白竜神の磐座です。

石堂神社

ここから③の三角点までは、標高差100mほどの上りが続きます。しかし、南側が大規模に伐採中なので展望が開けます。

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南側の黒笠山から津志獄方面
南側の山陵の黒笠山から津志獄へと落ちていく稜線がくっきりと見えます。
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黒笠山から津志獄方面の稜線

いったん平坦になった展望のきく稜線が終わって、ひとのぼりすると③の三角点(1335、4m)があります。

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三角点(1335、4m)
この三角点の点名は「石小屋」です。この附近に、籠堂的な岩屋があったのかもしれません。
 この附近までは北側は、檜やもみの針葉樹林帯で北側の展望はききません。その中に現れた道標です。

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林道分岐まで2㎞とあります。分岐から石堂神社までが1㎞でしたから、石堂神社から1㎞地点になります。
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          小さな二重山陵がつづく
この附近は南側(左)がミズナラやダケカンバの広葉樹、北側(右)が檜やモミなどの針葉樹が続きます。その間に小さな二重稜線が見られます。これは矢筈山の西側稜線にも続いています。 二重稜線とは、稜線が二重に並走し,中間に凹地が出来ている地形で、時に沼沢地や湿地などを生み出します。そのため変化のある風景や植物環境が楽しめたりします。
 標高1400mあたりまでくると大きなブナが迎えてくれました。

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ブナの木
この山でブナに出会えるとは思っていなかったので、嬉しくなって周辺の大きなブナを探して見ました。石堂山の大ブナ紹介です。

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後は黒笠山

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稜線上のブナ 私が見つけた中では一番根回りが太い

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ブナ林の中から見えた吉野川方面
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拡大して見ると、
直下が半田川沿いの集落、左手が半田、右が貞光方面。その向こうに連なるのが阿讃山脈。この範囲の信者達が大祭の日には、石堂山を目指したはずです。

石堂神社

④のあたりが大きなブナがあるところで標高1400mあたりの稜線になります。④からは急登になって、南側からトラバースするようにして白滝山のすぐ南の稜線に出て行きます。そこにあるのが⑥の道標です。
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白滝山と石堂山の分岐点。(林道まで3㎞:
地面におちた方には「白滝山 100m」とあります
笹の中の歩きやすい稜線を少し歩くと白滝山の頂上です。
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白滝山頂上
白滝山頂上は灌木に囲まれて、展望はいまひとつです。あまり特徴のない山のように思えますが、地図や記録などをみると周辺には断崖や
切り立った岩場があるようです。これらを修験者たちは「瀧」と呼びました。そんな場所は水が流れて居なくても「瀧」で行場だったのです。白滝山周辺も、白い石灰岩の岩場があり「白滝」と呼ばれていたと私は考えています。つまり、石堂山系の中の行場のひとつであったのです。そして、この山から北に続く火上山では、修験者たちが修行の節目に大きな護摩祈祷を行った山であることは以前にお話ししました。
石堂山から風呂塔
北側上空からの石堂山系俯瞰図
 今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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11月の連休は快晴続きで、9月末のような夏日の日が続きました。体力も回復してきたので、久しぶりに稜線を歩きたくなり、あっちこっちの山々に出没しました。前回紹介した石堂山にも行ってきたので、その報告記を残しておきます。この山は明治の神仏分離までは「石堂大権現」と呼ばれ、修験者たちの修行の場で、霊山・聖地でした。
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石堂山直下の 「お塔石」
頂上直下の 「お塔石」がご神体です。また、山名の由来ともなった石室(大工小屋石:石堂)もあります。「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には多くの白衣の行者たちが、この霊山をめざしたことが記されています。彼らが最初に目指したのが、つるぎ町半田と木屋平の稜線上に鎮座する石堂神社です。グーグルに「石堂神社」と入れると、半田町経由の県道304号でのアプローチルートが提示されます。指示されるとおり、国道192号から県道257号に入り、半田川沿いに南下します。このエリアは、かつて端山88ヶ所巡礼のお堂巡りに通った道です。見慣れたお堂に挨拶しながら高清で県道258号へ右折して半田川上流部へと入っていきます。

半田町上喜来 多聞院.2

上喜来・葛城線案内図(昭和55年5月5日作成)
以前に端山巡礼中に見つけた43年前の住宅地図です。
①は白滝山を詠んだ歌です。
八千代の在の人々は 
   仰げば高き白滝の映える緑のその中に 
小浜長兵衛 埋けたる金が 
   年に一度は枝々に 黄金の色の花咲かす
このエリアの人々が見上げる山が白滝山で、信仰の山でもあり、「黄金伝説」も語り継がれていたようです。実際の白滝山は③の方向になります。石堂山は、白滝山の向こうになるので里からは見えないようです。
②は石堂神社です。上喜来集落の岩稜の上に建っていたようです
⑥の井浦堂の奥のに当たるようですが、位置は私には分かりません。この神社は、稜線上にある石堂神社の霊を分霊して勧進した分社であることは推察できます。里の人達が白滝山や石堂山を信仰の山としていたことが、この地図からもうかがえます。
⑦には「まゆ集荷場」とあります。
現在の公民館になっている建物です。ここからは1980年頃までは、各家々で養蚕が行われ、それが集められる集荷場があったということです。蚕が飼われていたと云うことは、周辺の畑には桑の木が植えられていたことになります。また、各家々を見ると「養鶏場」とかかれた所が目立ちます。そして、いまも谷をつめたソラの集落の家には鶏舎が建ち並ぶ姿が見えます。煙草・ミツマタ・養蚕などさまざまな方法で生活を支えてきたことがうかがえます。

多門寺3
多門寺とサルスベリ
この地図を見て不思議に思うのは、多門寺が見えないことです。
多門寺には室町時代と伝えられる庭と、本尊の毘沙門天が祀られています。古くからの山岳信仰の拠点で、この地域の宗教センターで会ったことがうかがえます。

多門寺
多門寺の本堂と庭
前回もお話ししたように、石堂大権現信仰の中核を占めていた寺院が多門寺だと私は思っています。その寺がどうしてここに書き込まれていないのかが私には分かりません。県道258号を先を急ぎます。

P1260067
風呂塔・土々瀧への分岐点
多門寺の奥の院である土々瀧の灌頂院への分岐手前の橋の上までやってきました。ここで道標を確認して、左側を見ると目に見えてきたのが次の建物でした。
半田川沿いの旅籠
          土々瀧への分岐点の旅館?
普通の民家の佇まいとはちがいます。拡大して見ると・・

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謎の旅館
旅館の窓のような印象を受けます。旅館だとすると、どうしてこんなところに旅館が建っていたのでしょうか。
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謎の旅館(?)の正面側

私の持っている少ない情報で推察すると、次の二点が浮かんできました。
①石堂大権現(神社)への信者達の参拝登攀のための宿
②多門寺の奥の院灌頂院への信者達の宿
謎の旅館としておきます。ご存じの方がいらっしゃったらお教え下さい。さらに県道258号を登っていきます。

四眠堂
四眠堂(つるぎ町半田紙屋)
 紙屋集落の四眠堂が道の下に見えてきます。
ここも端山巡礼で御世話になったソラのお堂です。これらのお堂を整備し、庚申信仰を拡げ、庚申講を組織していったのも修験者たちでした。
 霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)などの念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動をおこなうようになります。阿波の高越山や石堂山周辺が、その代表です。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していきます。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、そのテリトリーを示すものではないかと私は考えています。

端山四国霊場 四眠堂
端山四国霊場68番 四眠堂
四眠堂の前を「導き給え 教え給え 授けたまえ」と唱えながら通過して行きます。半田川から離れて上りが急になってくると県道304号に変わります。しかし、県道表示の標識は私は一本も見ませんでした。意識しなければ何号線を走っているのかを、気にすることはありません。鶏舎を越えた急登の上に現れたのがこのお堂。

庚申堂 半田町県道304号
半田小谷の庚申堂
グーグルには「庚申堂」で出てきます。

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           半田小谷の庚申堂

   高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったと考える研究者もいます。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たしていたのです。その核となったのがこのようなお堂だったのです。
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最後の民家
 上に登っていくほどに県道304号は整備され、走りやすくなります。植林された暗い杉林から出ると開けた空間に出ました。ススキが秋の風に揺らぐ中にあったのがこの民家です。周囲は畑だったようです。人は住んでいませんが、周辺は草刈りがされて管理されています。「古民家マニア」でもあるので拝見させていただきます。

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民家へのアプローチ道とススキP1260095
庭先から眺める白滝山
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庭先からの吉野川方面
この庭先を借りて、お茶を沸かして一服させていただきました。西に白滝山が、北に吉野川から讃岐の龍王・大川、東に友納山や高越山が望めます。素晴らしいロケーションです。そしてここで生活してきた人達の歴史について、いろいろと想像しました。そんな時に思い出したのが、穴吹でも一番山深い内田集落を訪れた時のことです。一宇峠から下りて、集落入口にある樫平神社でお参りをして内田集落に上がっていきました。めざす民家は、屋号は「ナカ」で、集落の中央という意味でしょう。この民家を訪ねたのは、屋敷神に南光院という山伏を祀(まつ)っていることです。先祖は剣周辺で行を積んでいた修験道でなかったのかと思えます。
 村里に住み着いた修験者のことを里山伏と呼ぶことは先ほど述べました。彼らは村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 この家の先祖をそんな山伏とすれば、ひとつの物語になりそうな気もしてきます。稜線に鎮座する石堂大権現を護りながら、奥の院である矢筈山から御神体である石堂山のお塔岩、そして断崖の白滝山の行場、護摩炊きが山頂で行われた火揚げ山を行場として活動する修験者の姿が描けそうな気もします。

石堂山から風呂塔
     矢筈山から風呂塔までの石堂大権現の行場エリア
ないのは私の才能だけかもしれません。次回はテントを持ってきて、酒を飲みながら「沈思黙考」しようと考えています。「現場」に自分を置いて、考えるのが一番なのです。
 この民家を後にすると最後のヘアピンを越えると、道は一直線に稜線に駆け上っていきます。その北側斜面は大規模な伐採中で視界が開け、大パノラマが楽しめる高山ドライブロードです。

石堂山
県道304号をたどって石堂神社へ
稜線手前に石堂神社への入口がありました。

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県道304号の石堂神社入口
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石堂神社への看板
ここからは1㎞少々アップダウンのきついダートが続きます。

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石堂神社参のカラマツ林
迎えてくれたのは、私が大好きな唐松の紅葉。これだけでも、やってきた甲斐があります。なかなか緊張感のあるダートも時間にすればわずかです。

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標高1200mの稜線上の石堂神社
たどりついた石堂神社。背後の木々は、紅葉を落としている最中でした。
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拝殿から鳥居方向
半田からは寄り道をしながらも1時間あまりでやってきました。私にとっては、快適な山岳ドライブでした。これから紅葉の中の稜線プロムナードの始まりです。それはまた次回に。

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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地福寺(井川町井内)
以前に、地福寺と修験者の関係を、次のようにまとめました。
①祖谷古道が伸びていた井内地区は、祖谷との関係が深いソラの集落であったこと
②馬岡新田神社と、その別当寺だった地福寺が井内の宗教センターの役割を果たしていたこと
③地福寺は、剣山信仰の拠点として多くの修験者を配下に組み込み、活発な修験活動を展開していたこと
④そのため地福寺周辺の井内地区には、修験者たちがやってきて定着して、庵や坊を開いたこと。それが現在でも、集落に痕跡として残っていること
③に関して、剣山は近世後半になって、木屋平の龍光寺と、井川の地福寺によって競うように開山されたことは以前にお話ししました。見ノ越の剣神社やその別当寺として開かれた円福寺を、剣山の「前線基地」として開いたのは地福寺でした。
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地福寺が見ノ越の円福寺の別当寺であることを示す

地福寺は、箸蔵寺とも緊密な関係にあって、その配下の修験者たちは讃岐に信者たちを組織し「かすみ」としていたようです。そのため讃岐の信者達は、地福寺を通じて見ノ越の円福寺に参拝し、そこを拠点に剣山での行場巡りをしていました。そのため見ノ越の円福寺には、讃岐の人達が残した玉垣が数多く残っています。丸亀・三豊平野からの剣山参詣の修験者たちの拠点は、次のようなものであったと私は考えています。
①金毘羅大権現の多聞院 → ②阿波池田の箸蔵寺 → 
③井川の地福寺 → ④見ノ越の円福寺」
そして、この拠点を結ぶ形で西讃地方の剣山詣では行われていたのではないかと推測します。

それでは③の地福寺が剣山を開山する以前に、行場とし、霊山としていたのはどこなのでしょうか。
それが石堂山だったと私は考えています。
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石堂山山頂
石堂山

石堂山は、つるぎ町一宇と三好市半田町の境界上にあります。

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石堂山のお塔岩

頂上近くにある 「お塔石」をご神体とする信仰の山です。石鎚の行場巡りにもこんな石の塔があったことを思い出します。修験者たちがいかにも、このみそうな行場です。

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         石堂山のお塔岩の祠
お塔岩の下には、小さな祠が祀られていました。この下はすぱっと切れ落ちています。ここで捨身の行が行われていたのでしょう。

この山には、もうひとつ巨石が稜線上にあります。
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阿波志(文化年間)には、次のように記されています。
「絶頂に石あり削成する如し高さ十二丈許り南高く北低し石扉あり之を覆う因て名づけて石堂と曰う」
意訳変換しておくと
頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにも達する、北側の方が低く、石の空間があるので石堂と呼ばれている。


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石堂山の石堂

ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんだ巨石が並んで建っている。
②その内の北側の方には、石に空間があるので石堂と呼ばれている
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大工小屋石
つまり石堂山には山名の由来ともなった石室(大工小屋石)があり、昔から修験道の聖地でもあったようです。

「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には白衣の行者多数の登山者が、この霊山をめざした記されています。
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また石室から西方に少し進むと、御塔(おとう)石とよばれる高さ約8mの方尖塔状の巨石がそびえます。これが石堂神社の神体です。また石堂山の南方尾根続きの矢筈(やはず)山は奥院とされていました。この山もかつては石堂大権現と呼ばれ、剣山を中心とした修験道場の一つで、夏には山伏たちが柴灯護摩を修行した行場であったのです。

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石堂山方面からの白滝山

 白滝山(しらたきやま 標高1,526m) は、東側の頂上直下附近は、石灰岩の断崖や崩壊跡が見られます。修験者たちは、断崖や洞窟を異界との接合点と考えて、このような場所を行場として行道や瞑想を行いました。白滝山周辺の断崖は、行場であったと私は考えています。
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              白滝山山頂
 白滝山からさらに北に稜線を進むと火打山です。
火上山・火山・焼ケ山というのは、修験者たちが修行の区切りに大きな火を焚いて護摩供養を行った山です。石堂山からは東に流れる吉野川が瀬戸内海に注ぎ込む姿が見えます。火打山で焚いた護摩火は海を行く船にも見えたはずです。
 火打山につながる「風呂塔」も、修験者たちが名付けた山名だと思うのですが、それが何に由来するのかは私には分かりません。しかし、この山も修験者たちの活動する行場があったと思います。こうして見ると、このエリアは次のような修験者たちの霊地・霊山だったことがうかがえます。
「風呂塔 → 火上山(護摩場) → 白滝山(瀧行場) → 石堂山(本山) →矢筈山(奥の院)」から

ここを行場のテリトリーとしていたのは、多門寺(つるぎ町半田上喜来)が考えられます。
多門寺
多門寺(つるぎ町半田上喜来)
このお寺は今でも土々瀧にある奥の院で、定期的な護摩法要を行い、多くの信者を各地から集めています。広範囲の信者がいて、かつての信徒集団の広がりが垣間見えます。この寺が山伏寺として石堂神社の別当を務めたいたと推測しているのですが、史料はありません。また、最初に述べた地福寺からも、水の口峠や桟敷峠を越えれば、風呂塔に至ります。つまり、地福寺が見ノ越を中心に剣山を開山する以前は、地福寺も石堂山を霊山として、その周辺の行場での活動を行っていたというのが今の私の仮説です。

 最後に石堂山から東に伸びる標高1200mの稜線に鎮座する石堂神社を見ておきましょう。
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石堂神社

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東面して鎮座する石堂神社
この神社も神仏分離以前には、石堂大権現と呼ばれていたようです。そして夏には、山伏たちが柴灯護摩を修行していたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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