「こんぴらさん」は、江戸時代後半の19世紀になると全国からの参詣者が集まる聖地となります。その一方で、こんぴらさんの鎮座する象頭山も景勝の地としても知られるようになります。その背景には、象頭山を景勝地として売り出すための巧みなプロデユース戦略があったようです。
象頭山を景勝地として売り出すために、どんな戦略をこんぴらさんはとったのでしょうか。それを今回は見ていきましょう。
 金刀比羅宮には、象頭山の十二の景勝をテーマとする詩絵がいくつか残されています。作者によって内容は異なりますが、四季折々のお題は同じで、次の12題です
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 左右桜陣 後前竹囲 前池躍魚 裏谷遊鹿 
 群嶺松雪 幽軒梅月 雲林洪鐘 石淵新浴 
 箸洗清漣 橋廊複道 五百長市 萬農曲水
例えば「運林洪鐘」というテーマで絵と漢詩がセットで作品を構成します。
この場所は、現在の旭社(旧金堂)周辺の境内です。現在の賢木門をくぐって右脇にある遙拝所は、神仏分離以前は鐘楼でした。その鐘が雲のかかった象頭山に鳴り響くシーンが詩と絵画で描かれていくという趣向です。それが全部で12枚でセットになります。
狩野時信筆「象頭山十二景図のうち雲林洪鐘図」(金刀比羅宮所蔵) 画面上から本社(1659)、鐘楼(1620)、鳥居(1659)、二天門(1660年に改称)、多宝塔(1673)が描かれている。かっこ内は建立年
      狩野時信筆「象頭山十二景図のうち雲林洪鐘図」
 上絵には画面上から次のような建物が描かれています
本社(1659)
鐘楼(1620)
鳥居(1659)
二天門(1660年に改称)
多宝塔(1673)
(かっこ内は建立年)
いくつかある12景図の中で注目したいのが「象頭山一二景図」です。
この絵は幕府の奥絵師であった狩野安信(1613ー85)と息子の時信(1642ー78)が) 十二景を六幅ずつ描いています。そして、幕府の儒官であった林鳶峰と息子の鳳岡が六景ずつ詠んだ詩が各図に記されています。これだけ見ると、江戸で評判の学者と絵師が、訪れた象頭山の美しさに心打たれて筆をとった合作のように思えます。所がそうではないようです。
 享保三年(一七一八)に高松藩儒の菊池武雅が記した「象頭山金毘羅神祠記(しんしき)」によれば、次のような過程を経て制作されています。
①金光院別当(住職)の宥栄(ゆうえい)が、象頭山の十二景を選んで鳶峰と鳳岡に詩作を依頼
②それとは別に安信と時信に図を依頼
③金毘羅の楽人で書に優れた上左兵衛に命じて各図に林父子の詩を書き写させる。
 鳶峰らが詠んだ詩の原本は、「讃州象頭山十二境」と題する寛文十一年(1671)の詩巻として別に伝来しています。各六詩を自筆したもので、「想像彼境、倣着題体」という奥書から、二人は象頭山を訪れることなく、題に応じて想像しながら詩作したようです。

 一方、やはり金刀比羅宮に伝わる「象頭山十二境図巻」は、高松藩初代お抱え絵師の狩野常屏が描いたもので、安信と時信が描いた十二景とほぼ同じ図が二巻の画巻に収められています。常屏は安信の門人で、安信と金光院の間の取り次ぎ役もしていたようです。「状況証拠」から考えて、この團巻は幕府奥絵師の安信らが江戸にいながら象頭山の景観を描けるよう「参考史料」として常屏が描いて渡したものだと考えられます。この二作品の存在は、先の「神祠記」の記述を裏付けるものになります。
それにしてもなぜ、金毘羅大権現の最高責任者である宥柴は、このような手間をかけてまで「象頭山十二景」をひとつの作品に仕上げようとしたのでしょうか。
当時の金毘羅の境内を取り巻く状況を見てみましょう。
慶安元年(1648)幕府朱印地指定以後に初代高松藩主松平頼重の寄進が続く
万治二年(1659)本社造営をはじめ諸堂の移転や改築が進む。
寛文八年(1668)頼重が以後、毎年棟梁が二基ずつ寄進する
延宝元年(1673)頼重寄進の多宝塔完成
 こうして、金毘羅は頼重の寄進により境内の景観が大きく変わりました。「象頭山十二景図」が描かれたのは、こうした主要な建物の造営・改築をひととおり終えた時期にあたります。そういう目でこの十二景を見ると「雲林洪鐘図」には本社や鐘楼、二天門のほか、頼重寄進によって寄進されたばかりの多宝塔が描かれています。見方を変えれば、この図は完成間もない建物が意識的にとりあげられていることに気がつきます。それは新たに整えられた境内の姿を、詩歌に詠まれる地という伝統的な景勝イメージの中に位置付ける「広告戦略」かもしれません。
 そのために、金光院の別当宥栄は、境内が整ったこの時期に自分の手で象頭山の景勝を12選んだのです。そして「象頭山十二景図」として完成させます。
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その狙いとは、
幕府儒官と奥絵師という当代随一の学者と画家に合作させることで作品の評価を高めることでしょう。そして、変化を遂げた境内と象頭山の素晴らしさ融合させると同時に権威付けようとするねらいがあったのではないでしょうか。
 似たような試みは各地で行われていました。
近江八景や宮島八景などの景勝に習って、全国に無数の八景や十景、十二景が創り出されていました。それらを題林に江戸・京都他で活躍する学者や画家たちに依頼した詩書画作品が数多くのこされています。作品の名声が高まれば、後世の学者や文人たちが詩や歌に詠むことでその景勝地の知名度は広がっていきます。それは、現在の観光地の売出方法にも通じるものがあるようです。
 こうして世に送り出された「象頭山十二景」は、その後も折々に京都五山の学僧や文人たちによって詩画に表され、金毘羅に新たな価値を与え続けました。それは「金毘羅信仰」とはまた違うオーラーを象頭山にもたらすことになります。高名な詩人や歌人の作品の舞台となった金毘羅を訪れたいと思う気持ちと、現在の映画のロケ地の聖地巡りとは相通じる部分もあるように思います。
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 明治維新を迎えて象頭山が琴平山に改名されると、すぐに「琴平十二景」が創られます。神仏分離令により神社に変身した金刀比羅宮は、再び大きく変化させた境内の姿を新たな「お題」によって詠み描かせています。時代の変化にあわせて景勝を創出することが、観光地として生き残っていくひとつの戦略なのです。それを怠り、世間から忘れ去られていく旧跡や名勝は数多くありました。
金刀比羅宮は自らの新しい姿を表現し、時代にあったニューイメージを作り上げてきたようです。そして、その手法は今も受け継がれているように思います

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  参考文献 松岡明子 景勝を創る 金比羅宮と象頭山一二景  香川歴史紀行156P