今は四国霊場の本堂に落書をすれば犯罪です。しかし、戦国時代に退転していた霊場札所の中には、住職もおらず本堂に四国辺路者が上がり込んで一夜を過ごしていたこともあったようです。そして、彼らは納経札を納めるのと同じ感覚で、本堂や厨子に「落書き」を書き付けています。今回は500年前の四国辺路者が残した落書きを見ていくことにします。
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浄土寺
浄土寺
伊予の49番浄土寺の現在の本堂を建立したのは、河野水軍の河野氏です。
河野通信が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。この時に熊野水軍が500隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍はその半分の250隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。その保護を受けて再興されたようです。

空也上人像と不動明王像の説明板 - 松山市、浄土寺の写真 - トリップアドバイザー

この寺の本尊の釈迦如来はですが秘仏で、本堂の厨子の中に入っています。
浄土寺厨子
浄土寺の厨子

その厨子には、室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることを押さえておきます。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線照射版)
本尊厨子には、この他にも次の落書があります。
D 金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国
E 金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年二月九日
F 左恵 同行二人 大永八(1528)年八月
ここからは次のようなことが分かります。
④翌年2月には、金剛峯寺(高野山)山谷上の善空という僧が6人で四国辺路を行っていたこと
⑥同年8月にも左恵が同行二人で四国辺路をしていること。
「本尊厨子に、書写山や高野山からやって来た宗教者が落書きをするとは、なんぞや」と、いうのが現在の私たちの第1印象かも知れません。まあ倫理観は、少し横に置いておいて次を見ていきます。

土佐神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
土佐神社(神仏分離前は札所だった)

30番土佐一宮拝殿には、次のような落書きが残されています。
四国辺路の身共只一人、城州之住人藤原富光是也、元亀二年(1571)弐月計七日書也
あらあら御はりやなふなふ何共やどなく、此宮にとまり申候、か(書)きを(置)くもかたみ(形見)となれや筆の跡、我はいづく(何処)の土となるとも、
ここからは次のようなことが分かります。
①単身で四国遍路中だった城州(京都南部)の住人が、宿もなく一宮の拝殿に入り込み一夜を過ごした。
②その時に遺言のつもりで次の歌を書き残した。
この拝殿の壁に書き残した筆の跡が形見になるかもしれない。私は、どこの土となって眠るのか。

同じ年の6月には、次のような落書きが書かれています。
元亀二(1571)年六月五日 全松
高連法師(中略) 六郎兵衛 四郎二郎 忠四郎 藤次郎 四郎二郎 妙才 妙勝 泰法法師  為六親眷属也。 南無阿弥陀仏
 元亀2年(1571)には高連法師と泰法法師とともに先達となって六親眷属の俗人を四国辺路に連れてきています。法師というのは修験者のことなので、彼らが四国辺路の先達役を務めていたことがうかがえます。時は、長宗我部元親が四国制圧に乗り出す少し前の戦国時代です。最後に「南無阿弥陀仏」とあるので、念仏阿弥陀信仰をもつ念仏聖だったことがうかがえます。そうだとすれば、先達の高連法師は、高野の念仏聖かも知れません。

国分寺の千手観音
千手観音立像(国分寺) 
80番讃岐国分寺(高松市)の本尊千手観音のお腹や腰のあたりにも、次のような落書きがあるようです。
同行五人 大永八(1528)年五月廿日
①□□谷上院穏□

同行五人 大永八年五月廿日
四州中辺路同行三人
六月廿□日 三位慶□

①の「□□谷上院穏□」は消えかけています。しかし、これは先ほど見た伊予の浄土寺「金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四国」と同一人物で、金剛峯寺惣職善空のことのようです。どこにでも落書きして、こまった高野山の坊主やと思っていると、善空は辺路したすべての霊場に落書をのこした可能性があると研究者は指摘します。こうなると落書きと云うよりも、納札の意味をもっていた可能性もあると研究者は考えています。
ちなみに伊予浄土寺の落書きが5月4日の日付で、讃岐国分寺が5月20日の日付です。ここからは松山から高松まで16日で辺路していることになります。今とあまり変わらないペースだったことになります。ということは、善空は各札書の奥の院などには足を運んでいないし、行も行っていないことがうかがえます。プロの修験者でな節もあります。 
 讃岐番国分寺には、本尊以外にも落書があります。
落書された本堂の板壁が、後世に屋根の野地板に転用されて残っていました。
①当国井之原庄天福寺客僧教□良識
②四国中辺路同行二人 ③納申候□□らん
④永正十年七月十四日
ここからは次のようなことが分かります。
①からは「当国(讃岐)井之原庄天福寺・客僧教□良識が中辺路の途中で書いたこと。
②良識が四国中辺路を行っていたこと
③「納申候□□らん」からは、板壁などに墨書することで札納めと考えていた節があること
④永正十年(1513)は、札所に残された落書の中では一番古く、これを書いたのが良識であること。

①の「当国井之原庄天福寺客僧良識」についてもう少し詳しく見ていくことにします。
「当国井之原庄」とは讃岐国井原庄(いのはらのしょう)で、高松市香南町・香川町から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
岡舘跡・由佐城
天福寺は中世の岡舘近くにあった
「天福寺」は、高松市香南町岡の美応山宝勝院天福寺と研究者は考えています。この寺は、神仏分離以前には由佐の冠櫻神社の別当寺でした。

天福寺
天福寺

天福寺由来記には、次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。

 次に「天福寺客僧教□良識」の「客僧」とは、どんな存在なのでしょうか。
修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことのようです。ここからは、31歳の「良識」は修行のための四国中辺路中で、天福寺に客僧として滞在していたと推察できます。
 以前にお話ししましたが、良識はもうひとつ痕跡を讃岐に残しています。
白峰寺の経筒に「四国讃岐住侶良識」とあり、晩年の良識が有力者に依頼され代参六十六部として法華経を納経したことが刻まれています。
経筒 白峰寺 (1)
良識が白峰寺(西院)に奉納した経筒

 中央には、上位に「釈迦如来」を示す種字「バク」、
続けて「奉納一乗真文六十六施内一部」
右側に「十羅刹女 四国讃岐住侶良識
左側に「三十番神」 「檀那下野国 道清」
更に右側外側に「享禄五季」、
更に左側外側に「今月今日」
経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。ここからは、1513年に四国中辺路を行っていた良識は、その20年後には、代参六十六部として白峰寺に経筒を奉納していたことになります。
 さらに、良識はただの高野聖ではなかったようです。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」のことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老 良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老 良識(讃州之人)
第32長老 良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれば、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、良恩を継いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、また「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。

以上から、良識は若いときに、四国辺路を行って讃岐国分寺に落書きを残し、高野山の長老就任後には、六十六部として白峰寺に経筒を奉納したことを押さえておきます。有力者からの代参を頼まれての四国辺路や六十六部だったのかもしれませんが、彼の中では、「四国辺路・六十六部・高野聖」という活動は、矛盾しない行為であったようです。

以上、戦国時代の四国辺路に残された落書きを見てきました。
ここからは次のようなことがうかがえます。
①16世紀は本尊や厨子などに、落書きが書けるような甘い管理状態下にあったこと。それほど札所が退転していたこと。
②高野山や書写山などに拠点を置く聖や修験者が四国辺路を行っていたこと。
③その中には、先達として俗人を誘引し、集団で四国辺路を行っているものもいたこと。
④辺路者の中には、納札替わりに落書きを残したと考えられる節もあること。
⑤国分寺に落書きを残した天福寺(高松市香南町)客僧の良識は、高野聖として四国辺路を行い、後には六十六部として、白峰寺に経筒を奉納している。高野聖にとって、六十六部と四国辺路の垣根は低かったことがうかがえる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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