琴平と高松の人達を案内して、満濃池を「散策学習」することになりました。そのために説明に使う絵図をアップしておきたいと思います。これらの絵図をスマホで見ながら、説明等を行いたいという目論見です。まず、ため池の基本的な施設を確認しておきます。

ため池の施設
ため池の施設
蓄えた水は、③ユル→② 竪樋→③底樋→④樋門を通じて用水路に流されます。また、満水時のオーバーフローから堤防を守るための「うてめ(余水吐け)」が設けられています。

 底樋1
              仁池の底樋

現在のため池に使われている底樋です。コンクリート製なので水が漏れることもありませんし、耐久性もあります。しかい、江戸時代はこれが木製でした。満濃池の底樋や 竪樋の設計図が残されています。

満濃池底樋と 竪樋

文政3年の満濃池の設計図です。底樋にV字型に 竪樋がつながれて、堰堤沿いに上に伸びています。その 竪樋の上に5つのユルが乗っています。別の図を見てみましょう。

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       讃岐国那珂郡七箇村満濃池 底樋 竪樋図
同じ構造ですが、
底樋には木箱のような樋が使われていたことが分かります。そして堤防の傾斜にそって 竪樋がV字型に伸ばされ、丸い穴が見えます。その穴の上にユルからのびた「スッポン(筆の木)」と呼ばれる大きな詮がぶら下がっています。これで穴を塞ぐというしくみです。底樋や竪樋は、当時の最先端技術でハイテクの塊だったようです。畿内から招いた宮大工達が設計図を書いて、設置に携わりました。


満濃池樋模式図
満濃池の底樋と竪樋・ユルの模式図

この模型がかりん会館にはあります。

満濃池 底樋・ 竪樋模型
満濃池の底樋と竪樋・ユル(かりん会館)
水が少なくなっていくと、上から順番にユルが抜かれていきます。満濃池のユルは、どれくらいの大きさがあったのでしょうか
 大正時代のユル抜きシーンの写真が残されています。

大正時代のユル抜き 池の宮
取水塔が出来る以前のユル抜きシーン 後が池の宮

 この写真でまず押さえておきたいのは、ユルの背後に池の宮(現神野神社)の拝殿があることです。池の宮の前に、ユルがあったことを押さえておきます。ユルに何人もの男達が上がってユルを抜こうとしています。赤や青のふんどし姿の若者達が 竪樋に長い檜の棒を差し込んで、「満濃のユル抜き どっとせーい」の安堵に合わせて、差し込んだ棒をゆっくりと押さえて、てこの原理で「スッポン(筆木:詮)」を抜き上げたようです。それを多くの人たちが見守っています。
 ユルがなくなったのはいつなのでしょうか?

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満濃池の取水塔(1914年)
 取水塔ができるのが大正3年(1914)で、今から約110年前です。それまでは木製ユルが使われていました。

満濃池赤煉瓦取水塔 竣工記念絵はがき1927年
満濃池の赤レンガ取水塔

 次に満濃池の歴史を見ていくことにします。
満濃池は空海が築いたとされます。それを描いた絵図を見てみましょう。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海の満濃池改修の想定画(大林組)

 大手ゼネコンの大林組の技術者たちが描がいたものです

A 空海が①岩の上で護摩祈祷していますこの岩は後には、「護摩壇岩」と呼ばれることになります。

B アーチ状に伸ばされてきた堤防が、真ん中でつながれ、③底樋が埋められています工事も最終局面にさしかかっています。

C 池の内側には ④竪樋と5つのユルが出来上がっています。

D 池の中の⑤採土場からは多くの人間が土を運んでいます。E 堤防は3人一組で突き、叩き固められています。

堤防の両側は完成し、その真ん中に底樋が設置されています。 竪樋やユルも完成し、すでに埋められているようです。
 日本略記によると空海が満濃池修復を行ったのは弘仁(こうにん)2年821年の7月とされます。
約1200年前のことです。ところが
、空海が再築した満濃池も、平安末期には決壊して姿を消してしまいます。そして、池のあった跡は「再開発」され、開墾され畑や田んぼが造られ、「池之内村」が出来ていたようです。ここでは、中世の間、約450年間は満濃池は存在しなかったことを押さえておきます。
 17世紀初頭に、その様子を描いたのが次の絵図です。

まんのう町 決壊後の満濃池

 満濃池跡 堰堤はなく、内側には村が出来ている

A ①金倉川には、大小の石がゴロゴロと転がります。

B 金倉川をはさんで左側が④「護摩壇岩」、右側が②「池の宮神社」

C ③が「うてめ(余水吐)」跡で、川のように描かれています。

D 堤防の内側には、家や水田が見える。これが⑤「池之内村」。ここからは、池の跡には村が出来ていたことが分かります。

ここに満濃池を再築したのが西嶋八兵衛です。

西嶋八兵衛

西嶋八兵衛
西嶋八兵衛の主君は、伊賀藩の藤堂高虎です。当時は、西嶋八兵衛は生駒藩に重臣として出向(レンタル)を主君から命じられていました。このような中で、讃岐では日照りが続いて逃散が頻発します。お家存続の危機です。これに対して、藤堂高虎は農民たちの不満や不安をおさめるためにも、積極的な治水灌漑・ため池工事を進めることを西嶋八兵衛に命じます。こうして、西嶋八兵衛のもとで讃岐各地で同時進行的に灌漑工事が進められることになります。彼の満濃池平面図を見ておきましょう。

西嶋八兵衛の平面図2

西嶋八兵衛の築造図

①護摩壇岩(標高143㍍)と西側の池之宮(140㍍)の丘をアーチ型の堰堤で結んでいる。

②底樋が118m、竪樋41m 堤防の長さは約82m

③その西側に余水吐きがある。

こうして西嶋八兵衛によって、満濃池は江戸時代初期に450年ぶりに姿を見せたのです。彼の業績は大きいと私は思っていますが、その評価はもうひとつです。江戸時代は忘れ去れた存在になっていたようで、そのため正当な評価はされていなかったことが背景にあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴(まんのう町教育委員会)
こうして西嶋八兵衛によって、阿讃山脈の山麓に巨大な池が姿を現します。これは文人達にも好んでとり上げられるようになり、あらたな「観光名所」へと成長して行きます。そして池の俯瞰図が描かれ、その背後に詩文が添えられたものが数多く発行されるようになります。

当時の底樋や竪樋は木製でした。そのため定期的な改修取り替え工事が必要でした。

満濃池改修一覧表
満濃池改修工事一覧表 21回の工事が行われている

底樋を取り替えるためには、堰堤を一番底まで掘り下げる必要があります。そのためには多大の人力が必要になります。満濃池普請には、讃岐全土から人足が動員されました。
その普請作業の様子を見ておきましょう。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池
御普請絵図
この時の嘉永年間(1848~54)の改修工事は、底樋石造化プランを実行に移す画期的なものでした。そのため工事の模様が数多く残されています。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(護摩壇岩) - コピー
満濃池
池普請 高松藩と丸亀藩の監視小屋

①護摩壇岩側には、「丸」と「高」の文字が掲げられた高松藩・丸亀藩の監督官の詰所

②軒下に吊されているのが「時太鼓」。朝、この太鼓が鳴り響くと、周辺のお寺などに分宿した農民たちが、蟻のように堤防目指して集まってきて仕事に取りかかった。
③小屋の前で座って談笑しているのが、農民達を引率してきた庄屋たち。藩を超えた話題や情報交換、人脈造りなどががここでは行われていた。
④四国新道を築いた財田の大久保諶之丞も、明治の再築工事に参加し、最新の土木技術などに触れた。同時に、長谷川佐太郎の生き様から学ぶことも多かった。それが、後に彼を四国新道建設に向かわせる力になっていく。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(底樋) - コピー
底樋に使う石材が轆轤でひかれています

下では石を引いたり、整地する人足の姿が見えます。彼らは藩を超えて讃岐各地から動員された農民達で、7日間程度で働いて交替しました。手当なしの無給で、手弁当で周辺のお寺や神社などの野宿したようです。自分の水掛かりでもないのに、なんでここまえやってきた他人さまの池普請をやらないかんのかという不満もありました。そんな気持ちを表したのが「いこか まんしょか まんのう池普請」でというザレ歌です。
現場を見ると、底樋の石材化のために四角く加工された石柱が何本も運び込まれています。牛にひかせたもの、修羅にのせたものをろくろを回して引っ張りあげる人夫達。川のこちら側では、天下の大工事をみるために旦那達がきれいどころを従えて、満濃池の普請見物にやって来ているようです。

満濃池決壊拡大図 - コピー
満濃池の中を一筋に流れる金倉川と「切堤防」
ところがこの時の底樋石材化プランには、工法ミスと大地震が加わり、翌年夏に堰堤が決壊してしまいます。そして、その後明治になるまで、決壊したまま放置されるのです。上の絵図は、空池となった満濃池跡を金倉川流れている姿です。
IMG_0010満濃池決壊と管製図
満濃池堰堤決壊部分、下が修理後の姿
満濃池が再築されるのは、幕末の混乱を終えて明治になってからです。
再建の中心として活躍したのは榎井の庄屋・長谷川佐太郎でした。
彼は「底樋石材化」に代わって、「底樋隧道石穴化」プランで挑みます。それは、うてめ(余水吐け)部分が固い岩盤であることを確認して、ここに隧道を通して底樋とするというものです。成功すれば、底樋のメンテナンスから解放されます。

軒原庄蔵の底樋隧道
明治の満濃池底樋隧道化案
この経緯については、以前にお話ししたので省略します。完成した長谷川佐太郎の平面図を見ておきましょう。

長谷川佐太郎 平面図
満濃池 明治の長谷川佐太郎の満濃池平面図

①旧余水吐き附近の岩盤に穴を開けて底樋を通した

②そして竪樋やユルも堤防真ん中から、この位置に移した。

③そのため一番ユルは、池の宮前に姿を見せるようになった。

④余水吐きは、現在と同じ東側に開かれた

大正時代になると、先ほど見た取水塔が池の中に姿を見せます。

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満濃池
取水塔(1914年)

約90年前に姿を見せた取水塔です。この取水塔によって、 竪樋やユルも底樋に続いて姿を消すことになります。引退した後のユルの一部がかりん会館にありますから御覧下さい。


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ユルの先に付けられていたスッポン(筆木)
実際に見てみると、その大きさに驚かされます。また下の 竪樋は厚い一枚板が使用されています。ここからごうごうと、水が底樋を通じて流れ出ていました。
 江戸時代と現在の満濃池の堰堤を断面図で比べて見ます。

満濃池堤防断面図一覧
満濃池堰堤の断面図比較

戦後1959年になると、貯水量の大幅増が求まれるようになります。そのために行われたのが堰堤を6m高くし、横幅も拡げ貯水量を増やす工事でした。断面図で比較しておきましょう

①が西嶋八兵衛 ②が昭和の大改修 が1959年の改修です。現在の堰堤が北(右)に移動して、高くなっています。この結果、池之宮(標高140m)は水の中に、沈むことになります。それよりも高い護摩壇岩(標高143m)は、今も頭だけ残しています。これも空海信仰からくるリスペクトだったのかもしれません。

満濃池 1959年版.jpg2
959年改修の満濃池平面図

①護摩壇岩は小さな島として、頭だけは残した。

池の宮は水没(標高140m)し、現在地に移転し、神野神社と呼ばれるようになった。

③堰堤の位置は、護摩壇岩の後に移され、堤防の長さも81㍍から155㍍へ約倍になった。

そして堰堤のアーチの方向が南東向きから南西向きに変わりました。この結果、堰堤に立つって讃岐山脈方面を見ると正面に大川山が見えるようになった。
最後に、明治初年に満濃池が再建される際に書かれた分水図を見ておきます。

満濃池分水網 明治

満濃池水掛村々之図(1830年)

これを見ると満濃池の分水システムが見えて来ます。
満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は「水路」ではなかったようです。
②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。そして、水掛かりの天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。

③私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時代が長くありました。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされたピンク領土を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。

④丸亀平野全体へ用水路網が整備されていますが、丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部に位置し、水不足が深刻であったことがうかがえます。

まんのう町・琴平町周辺を拡大して見ましょう。

満濃池分水網 明治拡大図


①満濃池から流れ出た水は、③の地点で分水されてます流れを変えられました。ここに設けられたのが水戸大横井です。現在の吉野橋の西側です。パン屋さんのカレンの裏になります。

②ここでは、コントロールできるだけの水量を取り込んで④四条公文方面に南流させます。一方、必要量以上の水量は金倉川に放水します。そのため夏場は、ほとんどの水が④方向に流され、金倉川は涸川状態となります。④方面に流された水は、五条や榎井・苗田の天領方面に、いくつもの小さな水路で分水されます。この絵図から分かるのは、この辺りの小さな水路は満濃池幹線から西に水がながされていることです。

③さらに④の高篠のコンビニの前で分水地点でされます。④南流するルートは公文を経て垂水・郡家・田村・津森・丸亀方面へ水を供給していきます。

⑤一方、④で北西に伸びる用水路は天領の苗田を経て、⑤で再び金倉川に落とされます。そして、⑥でふたたび善通寺方面に導水されます。
 当たり前のことですが用水路が整備されないと、水はきません。西嶋八兵衛の活動は、満濃池築造だけに目がいきがちですが、同時に用水路整備も併行して行われていたはずです。

西嶋八兵衛の満濃池と用水路

西嶋八兵衛の取り組んだ課題は?

 中世までの土器川や金倉川・四条川は幾筋もの流れを持つ暴れ川でした。これは、下の地図からもうかがえます。それをコントロールして、一本化しないと用水路は引けないのです。

満濃池用水路 水戸
国土地理院地形図 土地利用図に描かれた水戸周辺の河川跡
そのための方法が、それまで土器川と併流していた四条川を③の水戸大横井で西側へ流すための放水路としての「金倉川」の整備です。そして、それまでの四条川をコントロールして、「満濃池用水路化」したと私は考えています。「消えた四条川、造られた金倉川」については、新編丸亀市史の中でも取り上げられています。
さらに推測するなら、空海もこれと同じ課題に直面したはずです。
つまり、用水路の問題です。空海の時代には、大型用水路は以前にお話ししたように丸亀平野からは出てきていません。出てきてくるのは、幾筋もに分かれて流れる土器川、金倉川です。また、条里制も川の周囲は放置されたままで空白地帯です。土器川をコントロールして、満濃池からの水を何キロにもわたって流すという水利技術はなかったと研究者は考えるようになっています。そうすると空海が満濃池をつくっても丸亀平野全体には、供給できなかったことになります。空海が改修した満濃池は、近世に西嶋八兵衛が再築したものに比べると、はるかに小さかったのではないかと私は考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 満濃池史 満濃池土地改良区50周年記念誌
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