海岸線が高松藩から金毘羅さんに寄進された!    
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江戸時代の後半の文政八年(1825)の2月に、高松藩は金毘羅大権現へ宇足津の寄洲を寄付します。高松藩からの通知には、次のようにあります。
「此度、殿様御心願在らせられ候二付き、鵜足郡土器村川裾より阿野郡堺迄之内海辺砂州 金毘羅神領御供用二土地寄進遊ばさるべきべき旨仰せ出され候二付き、其の段金光院え申し渡し畝間、郡奉行所役人指しだし取調の上、際面札立て右土地引渡申すべく候」
殿様(松平頼恕)の心願によって海辺砂州が寄付され、金毘羅大権現の金光院に寄付されたという札が立てられたようです。寄州とは、河口や海岸などに、土砂が風波で吹き寄せられてできた州のことで、宇多津には大束川河口に広い寄州があったようです。
その範囲はどのくらいなのでしょうか?
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「年来実録」には次のように示されています。
南境は都て浪打ち際 東西長六百三拾三間、西境は土器村海手一開水門より弐拾間東にて北江五拾弐間除地見通し長三百八拾間、東境は川口番所裏西石垣より西江拾四間除地見通し長弐百九拾間、北境「東西見通し長五百八拾八間」
これによると南側は全て波打ち際での長さが約1,3㎞の海岸線です。北側は西は土器村の水門から東は川口番所裏の石垣まで約1,2㎞、両横の長さは約0・6㎞×0・76㎞のいびつな長方形で、相当に広い土地です。現在の宇多津駅から役場辺りまでのエリアになりそうです。その年の九月二七日には高松藩役人と金光院役人との間で引き渡しが行われ四方に杭打ちが行われました。
しかし、この土地は「鵜足津浦海辺、南境波打際・・」とあるように海浜です。
鵜足津湊、道場寺 第四巻所収画像000015
宇多津湊 道場寺(郷照寺) 金毘羅名所参拝絵図より
そんな海岸を高松藩は、金毘羅さんにどうして寄進したのでしょうか?
文書には続けて次のようにあります。
「鵜足津御寄付土地、追々開き立て(開発)候て、百姓共住宅井びに土地支配の義共、鵜足津村役人にて取り扱わせ、川口出入り等の義ハ、時々村役人より申し越し候ハ切手等指し出し申さるべく」
「収納方の義は、開発の上追て申し達すべく候」と「開き立て」=「開発・埋立」して、百姓=住民達の住宅にして「川口出入」=「新港」構想があったようです。
 この時期の讃岐をめぐる状況を見て見ましょう。
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幕末の丸亀湊 福島と新堀の二つの湊が整備されている
お隣の丸亀藩では、延享元年(1744)に金毘羅参詣船が就航して以来、上方からの金比羅参詣客が増えます。それに対応して文化三年(1806)には福島湛甫を完成させ、参拝客の急増に対応し、丸亀が参詣の湊として急速に発展していく時期です。丸亀湊の賑わいを見て、高松藩にも金刀比羅参拝の拠点湊を開き観光振興策の一つにしようとしたのではないでしょうか。そこで白羽の矢が立ったのが宇多津。宇多津は高松藩内では、金毘羅に最も近い湊です。ここを参詣客の玄関口として発展させようとする計画が生まれたと考えても不自然ではありません。
 その際に、取られたのが開発方法は高松藩が直接に工事を進めるものではありませんでした。「海岸線」を金毘羅に寄進し、埋立から開発までを「民間資本」の活用で進めようとしたのです。こうして、この年九月二十七日に高松藩の役人と金毘羅の別当・金光院の双方の重役が立ち会い土地の引渡が行われます。そして「間数四方へくい木打ち廻り」が行われたのです。

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  ところが、この土地は思わぬ方向に動き始めます
稲毛家文書の文政八年二月廿日に、次のような記事が見えます。
「金毘羅神領御寄附二付き、郷中金毘羅信こふの者より材木明俵等寄進致し候由ニテ日々賑々敷」
鵜足郡内で金毘羅信仰の厚い者達が寄進された土地を埋め立てようと材木や土砂の入った空俵などを持ってきて賑わうようになったというのです。
 これに対して藩側は
「全ク寄進致し候 事口ゆへ指留め候儀二「及ばず」とし「若者共はて成る衣類位の品ハ見免しあまり増長致さざる様」
にと、若者らに対しては派手な衣類などにならないようにと指示しただけで、作業を黙認します。その結果、次第に
「若者共そめき上方に流行の砂持ち様の真似ヲ以て花美過ぎ候」
と、寛政元年(1789)に大坂で起こった砂持明神騒ぎの様相に似てきたのです。
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大坂で起きた砂持明神騒ぎとはなんでしょうか
 大坂の港や堀は上流からの土砂堆積で少しずつ埋まっていきます。そのため定期的に土砂などを浚える必用がありました。この作業を「砂持ち」と呼びました。
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 こうした大工事には、古代に古墳の石室の巨石や石棺の運搬や大坂城築城の巨石運搬と同じように修羅を大勢の人間が曳く作業が伴います。
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これは昔から土木作業という範囲を超えた祭礼行事の側面を持っていました。都市で修羅を曳くのは、お祭りなのです。近世の砂持ち作業も単なる土木作業に留まることはありませんでした。都市住民は、この機会に囃子屋台や仮装行列が繰り出し祭礼行事化していきます。
川や堀ざらえで取り除いた土砂はどうしたのでしょうか。
各町組の氏子らが川ざらえで出た多量の土砂は、最初は寺社の整地に使われていたようです。それが新開地の埋立に使われるようになり大規模化します。
下の絵は寛政元年(1789)5月下旬から大坂玉造稲荷で熱狂的な賑わいで行われた「砂持」の様子を描いたものです。
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この絵は、町単位でそろえられた纏と法被(はっぴ)が描かれています。砂持ちに参加した人々は、砂持ち大明神を担ぎ出し、町毎の幟を立て、太鼓や鉦を打ち鳴らして加勢します。ここからは、砂持ち大明神のパレードに町々が競い合った様子がうかがえます。
 川ざらえの土砂運搬である「砂持」は、しだいに祝祭的な要素を加えていきます。
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 「砂持」は、さらえた土砂を新開地や神社へ運ぶという作業を祭礼行事(パレード)に変えて行きました。人々は鳴り物入りで踊りながら熱狂してパレードした様子が伝わって来ます。さらに時代が進むと山車も登場しますし、「仮装」も行われ、祭礼空間が産みだされています。
 広島も太田川の河口にデルタ地帯の上に造られた城下町です。
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ここでも川底に堆積する土砂を除く川ざらえが欠かせません。絵図は幕末の文久2年(1862)に広島城下の町衆が砂持加勢の土ざらえの土砂を運搬する手伝いと称し、新しいお祭りを作り出します。この絵図は、城下の各町による仮装行列を描き出したもので、互いに趣向を競い合った「砂持ち風流」の様子が見て取れます。
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このような砂持ち大明神と埋立がリンクして役人から見れば「不穏な動き」が醸し出される要素があったのです。
 当時の宇多津の動きを「歴世年譜」は次のように記します。
「城下ノ者ハ土俵ヲ車輿牛馬二積ミ 各邑ノ旗幟ヲ建テ種々ノ紛議ヲ演ジ 鉦鼓管弦且ツ奏シ且ツ行キ往来織ルカ如夕日夜絶エズ」
各村々がのぼり旗を立て、仮装行列化し、鉦や太鼓で囃し立てる光景です。大坂で風流として流行していた風俗が宇多津にも現れていたことが分かります。高松藩の為政者には「統制できない不穏な動き」の前兆と写ったことでしょう。「まずい」というのが正直な反応だったと思います。以後、高松藩は厳しい申し渡しなどで規制を強めます。その結果、騒ぎは次第に収まっていったようです。しかし、民間の力による埋立開発=新港建設という計画は頓挫してしまいます。「歴世年譜」には
「後、藩政二窮乏ヨリシテ 埋立ノ議ハ亦止ミテ行ハレス」と記されています。
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嘉永五年(1852)に金光院は次のように再度の開発計画を高松藩に申請します
「先年源態様ヨリ御寄付二相成り候 宇足津村寄洲、此の度御一手ヲ以て御開発の義、先達て御書面ヲ以て御伺の趣」。
 これに対して高松藩の回答は以下のようなものでした。
(前略)右場所先年御寄付相成り候義二付き、今度御開発成され度き段は、御尤もの義二これ在り候処、天保十三寅年異国舟渡来の節、海岸防禦の義二付き、公辺より格段厳重の仰せ出されこれ在り。国々海岸の絵図取り調べ、井びに浅深も相量り、船付きの場所より城下陣屋迄の里数、或は兼ねて人数指し出し置き候台場遠見番所の類迄も、認メ加へ指し出し候様二と御指図これ在り。則ち巨細の絵図面出来、公辺え御届け相成る。
 右二付き此の御領分東西御人数、御備台場等の義迄御届け二相成り、右寄洲の場所は御領分境の義、別して厳重の御備場所二相成り居り候間、当時二おゐてハ、同所御開発の義は、兎角御挨拶及び難き義二御座候。先ず暫く御見合わせ相成り候様致し度く御座候。」
意訳すると「天保13(1842)年の異国船渡来により幕府は、海岸防御のため各地の沿岸の実情調査し絵図作成を命じた。高松藩もこれに応じて詳細な数字を書き込んだ絵図をすでに提出している。また宇足津寄洲は丸亀藩との境にあって重要な場所となっている。このような状況下においては開発を許可することはできない」との回答です。

 こうして高松藩の「民間活力の導入」という宇多津新港の建設は「砂持ち大明神」さわぎと異国船到来という事態中で立ち消えとなったのです。
小藩ながら新湊建設を成し遂げたのが幕末の多度津藩です。
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幕末に完成した多度津湊
この結果、多度津湊には幕末から明治にかけて金毘羅参拝客が急増します。
同時に新港に出入りする船舶も急速に増加し、明治には讃岐第1の港湾施設に成長していきます。そこで資本蓄積を行った地元資本は多度津七福神と呼ばれ、景山家の下に結集し新たな投資先を求めて行くようになります。それが多度津の近代へ脱皮・成長へとつながります。そういう意味では、新港計画が挫折した宇多津と成功させた多度津のターニングポイントはこの辺りにあったのかも知れません。
参考文献 丸尾寛 宇多津への金比羅神領寄進の影響について