幕末期における仏教への不満や批判が高まった背景は?
 明治維新に「神仏分離」が廃仏毀釈運動へと過激化した背景には、寺院僧侶への反発・批判があったようです。それがどうして生まれてきたのかを徳島藩と高知藩の史料に探って見ましょう。
鐘楼

 江戸時代の寺院の財政的基盤を見ると、
檀家制度、寺請制度によって、お寺は地域住民と深く結びつくようになります。人びとはお寺に宗門帳に登録してもらう引き替えに、法要などで多額の布施や寄進をしました。また寺院の修復などには、賦役や寄進が求められたようです。寺のなかにはこうして得た金を高利で人に貸すなどの副業をするものも出てきます。記録には、借金が返せなくなった農民の土地や屋敷をうばったり、妻子を奴婢として使うなどの例も見られるようになります。
 藩主の菩提寺ともなれば、寺院は禄を与えられ、藩主の家族に準じる扱いをうけました。多くの藩では菩提寺は一つではなく、いくつかの宗派にまたがって数か寺ありました。これは藩主が他家から養子をむかえたり、身分の高いところから奥方を迎えたりして、実家の宗派に気を使う必要があったためです。また、家臣の菩提寺にもその身分に応じて格式がありました。
一方、村々にある寺院も、その多くがかなりの寺領をもつ地主的性格の側面があり、さらに檀家からの勧化銀や葬祭時の臨時収入もありました。そのため寺院経営は安定していたようで、一般の農民よりも遙かに裕福だったようです。イメージとしては、庄屋の家に並ぶ豊かさという感じがします。
 次に寺院の社会的な地位を見ると、
宗門改や戸籍編製など任務を与えられることによって、寺院は宗教的な教化活動よりもむしろ村支配のため末端行政機関としての機能を果たしていました。徳川の泰平が続くにつれて、かつて一向一揆の先頭に立ちむしろ旗を振った一向宗のお寺の住職の末裔達も、官僚的な性格を強め、安定した生活に安座するような風潮が強まってきたようです。そして、村の住職さんは庄屋などの村役人たちと同じく、地域における社会的な地位も高かったようです。
img_0_m安楽寺
馬町の安楽寺山門

 例えば徳島藩の美馬町に安楽寺があります。
この寺は、西本願寺興正寺派に属し、戦国時代から近世にかけて讃岐山脈を越えて土器川・綾川沿いに布教団を送り込み「讃岐への浄土真宗布教センター」の役割を果たした寺院です。そのため、数多くの末寺を中讃地方に持っていました。
そこに次のような文書があります。
 一札之事     加判相頼、一札指上申所如件
                                                         
私儀先達而より御寺勧化銀等 毎々差出し不申罷有候二付、
万一不宗門二而無之哉 之御疑有之御札し被仰付、御趣意夫々奉恐入、御尤至極二奉存候、然上者以後心底相改め、御寺且又御口?口等之節者外御門徒講中同様、相当之割銀等無違背御請可仕候、尚此上御寺法通り堅く相守可申心底二付、嘉次郎殿一席承知之      
  文化十三子十二月十一日                   悦五郎 印
                                                      孫之丞 印                                      嘉次郎 印
安楽寺様
 この史料は、檀家(信徒)である3人の百姓が檀家料としての勧化銀が納められていないことを認め、「以後心底相改」て、今後は寺の定めを堅く守る所存であることを仲立人を立てて誓って押印しています。
その際に、寺の切り札になっているのは「不宗門」処分です
つまり、寺籍から除籍されることは戸籍がなくなることで、日常生活に差し支えが出るばかりかキリシタンとして取り調べられる可能性も出てきます。それは命も危うくなるということです。宗門改業務などを背景に、お寺が檀家に対して、どれだけ強い立場にあったかをよく示している史料です。
宗門人別帳1
 寺院の信徒への「動員権」は、慶長一八年(1613)の「宗門御制法」に由来します。
「(前略)旦那役を以て、夫々寺の仏用、修理、建立を勤めさすべし
(中略)僧の勧を不用輩は、能く可遂吟味事(下略)」
とされ、お寺の建立や修理などは旦那(信徒)たちの義務としています。そして、僧侶の指示に従わない者は、処罰の対象とすることが明記されています。ここからは、江戸時代のお寺は、お寺の用事のためには信徒達を法的に動員できるようになります。当時の寺の建立や修繕は、募金やボランテイアではなく義務だったようです。

檀家制度

 幕府の「宗門御制法」を受けて、徳島藩では「御代官之被仰出覚」が享保七年(1722)に出されています。
「郷中寺社之儀、寺領、社領有之賦又は旦那或氏子等多寺社修理掃除等二至迄相応二可相調(下略)」
と郡奉行に触書が出されます。これは、村のお寺や神社の修理・掃除などに檀家や氏子の動員を強制できることを認めるものです。中にはこれを拡大解釈して、寺の田畑の管理・運営を檀家に任せるお寺も現れます。これは専門用語では「賦役の強制」で「労働地代」にあたるもので、「農民からの中間搾取を寺院に認める」ことだと研究者は云います。

江戸時代のお葬式

 僧侶の世俗化に拍車をかけることになった要因の一つに、貧しい庶民が、その子弟を出家させようとする風潮があったようです。
t_tikurinji44土佐竹林寺

例えば、高知藩の五台山竹林寺の脇坊である南坊の僧純信と、長江の鋳掛屋新平の娘お馬とのロマンスです。
これはペリーが浦賀にやって来た翌年の安政二年(1855)のことで、「よさこい節」に
「おかしなことよな はりま屋橋で、坊さんかんざし買うを見た」
として歌われ有名になりました。これも「寺院や僧侶の世俗化の氷山の一角が露見」したと言えるのかも知れません。
 これに対して高知藩では、藩内寺院へ次のような警告を出しています。
「出家の儀は別して行状相慎しむべき筈の処、惣じて風儀よろしからず
 暮方惰弱にて専ら社務宗学怠り、その甚だしきは破戒に至り候族も少なからず、不埓の至に候、向後猶又きっと穿盤を遂げ、行状善悪の品により不時の移転、進退、曲事仰付けられ候事」
 このような状況は、徳島藩においてもあったようで、天保十年(1839)に「諸寺院僧侶風儀取究申達書」に次のようにあります
(前略)近年風儀不宜 御制禁等相犯候僧も有之 自然且家者不帰依に相成候 
 得共自分之不徳を不顧 施物相貪 法用勤方差略仕候 趣且諸宗之内郷分は真言多有之所 近頃弟子法緑等申立 若僧へ住職附属仕候様相聞
 (中略)嗣法付属之儀は器量を相撰み 兼而御法度之通金銭を以後住之契約仕間敷事(後略)」
意訳すると「ここには近頃は風儀が良くない僧侶が増え、禁制を犯す者までいる。その者達は自分の不徳を顧みず施しを相貪り、法要は簡略化する始末である。阿波では真言宗寺院が多いが、近頃では弟子登録の際に、若僧(経験や知識の十分でない僧侶)を申請する者がいる聞く。(中略)
後継者指名の際には、器量を優先し、禁止されている賄賂などを受け取ることがないように改めて通達する。」
 真言宗は妻帯を認めていないので、住職に子どもはいません。そのため住職は世襲制ではなく、後継者を選ぶ必用がありました。それが金銭によって決定されていると指摘し、そんなことのないようにという通達が出されているのです。住職の地位がお金のやりとりで決められているという風潮が、人々の噂となり、批判・不満の対象となるのは当然かもしれません。幕末のお寺さんや、お坊さんには、きびしい世間の目が向けられていたようです。
 
c高知 明年間刊「都名所圖會」巻1の伽藍図
 これに拍車をかけたのが、当時の社会・経済状況です。
高知藩にその例を見てみましょう。
馬詰彦右衛門という下級藩士が「游民論」を天保一四年(1843)に書いています。そのなかに「出家並びに寺社の事」という一文があります。
游民のもっとも甚しきは 出家にて御座候。其身大厦巨屋の内に安座住り候て、耕織の勤労なく、上にして御蔵の米を麿爛し、下にして衆庶の助力によりて飽食暖衣仕り候上、ややらすれば愚民を欺惑仕り候ては 己が貪欲をばしいままに仕り候。却て国を害し、政を乱し、化を乱し候事また甚しき者に御座候・・(中略)…誠に游民の甚しき者と存じ奉り候……
 まず行状を乱り法戒を破る者等を一々還俗させ候て、各々その本貫に返し、郷民に仰付けらるべく候」
坊主の妖怪
と厳しく僧侶を弾劾する意見書を、藩に提出しています。
この主張は、僧侶たちの世俗化を批判し、破戒僧の処分を要求するものです。この時点では、まだ「廃仏思想」には至っていませんが、「法戒を破る僧侶の還俗」を主張しています
これは後の、神仏分離令につながるものを感じます。
馬詰彦右衛門のような意見を持つ者が潜在的に数多くいたことが明治の「御一新」の際に、「神仏分離令」を発火点にして「廃仏毀釈」へとつながっていくのかもしれません。
妖怪 大坊主

当時の経済状況を、藩の財政危機と寺院政策という視点から見ておきましょう。
 最初に見てきたように、信徒達は旦那としてお寺に奉仕する義務を課せられていました。それは「農民からの中間搾取」とも言えるもので、百姓達にとって次第に、その負担を重く感じるようになっていました。そのような中で幕末期における天明・天保の大ききんをはじめ、たびたびの大凶作のために百姓一揆が各地に頻発します。江戸初期の「寺院修覆などは檀家の負担において行わせる」という寺院政策自体に無理が来ていたようです。今であれば国会で「農民救済」のため改革案が審議され、二百年以上守られてきた祖法が修正される道もあります。しかし、当時の幕府や各藩にはそのような柔軟性はありませんでした。各藩が行ったのは、農民からの貢租増収を図るために、寺院の風紀是正指導と圧迫強化策だったようです。
安政の大地震の被害

 ペリー来航後の動乱期の日本は安政の大地震とよばれる地震が各地で連発します。
高知藩も甚大な被害を受けたようで、安政2年に藩内の寺院に対して対応策として次のような通達を出しています。
「寺柄により、自坊をはじめ境内の堂宅に至るまでそれぞれ御作事仰付けられ、広大結構の御仕備え御手に行届きがたく、殊に去冬以来別して右の費莫大の事に候、只今の御時節それぞれ御再建御修理相調ひがたく候に付、寺院は当時留致し置き 追々手狭に取縮め候儀もこれあるべく仏体等は相成るだけ本堂へ移し、堂宇等は当時取毀ち、時節を以て再建の儀も仰付けらるべく、
かつ只今熟田の場所等に建て置く寺々も、追々近在中然るべき場所へ御詮議の上移住仰付けられる儀もこれあるべき事」
2絵金筆 安政大地震絵本大変記
ここには、地震被害が甚大で、各寺院において境内や堂宇の復旧のために、農民達に多くの「作事(賦役)」が課せられていること、しかし、被害の規模が大きく今だ十分でなく、費用もかさんでおり、今の時点での再建復旧は無理であること、そのため寺院は現状保存として、将来的には縮小することも考えなければならない。また、各堂の仏像は本堂へ移し、壊れた堂宇は取り除き、時期を見て再建することを考えるべきである。また、水田にできる場所に建っている寺院については、近くの適当な場所に移ることを申しつける場合もある。」
安政の大地震の被害にあった寺院の復旧対策に、農民達が動員され過重な負担となっていることに対して、農民保護や藩財政建て直し上からもブレーキをかける内容です。
images安政の大地震の

 以上のように、明治維新後の神仏分離令が政府の思惑越えて廃仏棄釈運動にまで、拡大してい背景には、幕末期の寺院をめぐる人々の不満があったことがひとつの要因であったようです。
三好昭一郎 四国諸藩における廃仏毀釈の展開 幕末の多度津藩所収