5讃岐国府と国分寺と条里制
 讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。私もこれまでに何回かとりあげましたが、今回は視点を変えて地名から地理的なアプローチを行っている研究を紹介します。

  最初に『綾氏系図』をもとに悪魚退治伝説を意訳したものを紹介します。
 景行天皇23年、土佐の海に鰐のような姿をした大きな悪魚がいた。船を飲み込み、人々を食べた。また舟が転覆するため諸国から都へ運ばれるはずの税が海の中へと消えていった。天皇は兵士を派遣したが、兵士たちはことごとく悪魚に食べられてしまった。天皇が息子であるヤマトタケルに悪魚退治を命じたところ、ヤマトタケルは15歳になる自分の息子・霊公(別名神櫛王)に命じて欲しいと言った。天皇は喜び、ただちに霊公に命じた。
 霊公はわずか10日で土佐に到着、そこにとどまった。悪魚は阿波の鳴門へと移動、24年1月に霊公も鳴門へ向かった。3月1日、讃岐の槌の門に悪魚が現れ、船や積んでいた税を飲み込み、人々を食べた。2日後、霊公は讃岐に移動し、軍船をつくって1,000人の兵士を集めた。
 25年5月、霊公らは船を漕いで悪魚へと立ち向かうが、大口を開けた悪魚に飲み込まれてしまった。兵士は悪魚の胎内で酔って倒れたが、霊公は倒れず10日経っても平然としていた。そして霊公は胎内から火を焚いて悪魚を焼き殺し、剣を振るって肉を裂き、胎外へ出た。
   悪魚の死体は福江湊の浦へと流れ着いた。
そこで一人の童子が波打ち際に現れ、瓶に入った水を霊子に碑げた。霊公がこの水を飲んでみるとせ露のように美味だった。霊公が「この水はどこにあるのか」と問うと、童子は「八十場の水です」と答えた。霊公は「早く私をそこに連れて行って欲しい。そしてその水を兵士たちに飲ませ、元気にさせてやりたい」と言った。霊公と童子は水をくみ、悪魚の死体を破り、兵士に水を飲ませた。すると兵士達はすぐに目を覚ました。
5月5日14時、霊公は兵士を連れて上陸した、
 霊公は薬師如来の威神力で悪魚を退治することができた。霊公は病を除け九横の難を排することを誓い、浦の陸地に精舎を建てて薬師如来像を安置し、法勲寺と名付けた。以後、人々は貢物をおさめられるようになり、船舶や船員の煩いはなくなった。
 童子は日光菩薩が姿を変えた横潮明神であった。この童子の姿にちなみ浦を児ヶ浜と名付けた、水は瑠璃水、瓶は薬壷であるため、薬壷水と言った。
 霊公は鵜足郡に移住し、兵士たちから讃留霊公(讃留霊王)と呼ばれた。また、井戸の行部、田比の里布、師田の宇治、坂本の秦胤の四人の将軍がいた。人々は彼らを四天王と呼んだ。
 霊公は三男一女をもうけた。現在の首領、郡司、戸主、長者たちは、すべて三男一女の子孫である霊公の胸には阿耶の黒点があったため、子孫は綾姓を名乗った。仲哀天皇8年9月15日、霊公は123歳で亡くなった。
  讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話を要約すると 
讃留霊王は、もともとは景行天皇の子・神櫛(かんぐし)王でした。
①景行天皇時代に南海や瀬戸内海で暴れまわる巨大な怪魚がいて、神櫛王がその退治に向かった
②しかし、逆に軍船もろとも一旦これに呑み込まれた。そこで大魚の腹のなかで火を用いて弱らせ、團を切り裂いて怪魚を退治した。
③その褒賞で讃岐の地を与えられ、坂出市南部の城山に館を構えた。
④これにより諱を「讃留霊王」(讃岐に留まった霊王)と呼ばれる
⑤彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 子孫は綾姓を名乗った。
⑥彼が讃岐の国造の始祖である。
読んでいて面白いのは①②です。しかし、この話を作った人が一番伝えたかったのは、④と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
 悪魚退治伝説は中世末から近世にかけての讃岐のいくつかの史料に載せられるようになります。
このうち最も古いのは『綾氏系図』です。この系図は、景行天皇に連なる綾氏の系図で、その前段に綾氏の成立にかかわる悪魚退治伝説が載せられています。この成立時期は15世紀中葉から17世紀後葉で古代に遡ることはありません。神櫛王という名前は紀記にはありますが、悪魚退治伝説はありません。つまり、この伝説は中世讃岐で作られたお話なのです。
 しかし、この中には綾氏の歴史が語られている部分もあるのではのではないかと考える研究者もいます。つまり、綾川流域を地盤としていた古代の豪族・綾氏の「鵜足郡への進出」を深読みするのです。その仮説につきあってみることにします。その際にポイントになるのは地名のようです。
3坂出湾1
「綾氏系図」の悪魚退治説話は、伝承を重ねいくつもの書に書き写され姿を変えていきます。そのために記載内容が少しずつ異なるようになります。その辺りを含んだ上で登場する地名を見ていきましょう。
  悪魚の登場場所は? 槌の門
 悪魚出現地には土佐、鳴門、水崎などもありますが12の史料に共通するのが槌の門(椎門、槌途など)です。槌の門とは、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡のようです。確かに、小さな円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。瀬戸内海を行く船からすれば、異界への関門のように思えたかもしれません。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。同時に、この物語が書かれた中世においても、多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。
 退治された悪魚が流れ着く場所は9/12の史料が福江としています。
残りの4史料でも悪魚の死骸が埋められるのは福江です。つまり「悪魚の最期の地は福江」ということになります。福江については前々回に紹介しました。「古・坂出湾」の西部で、西の金山・常山、東の角山に挟まれた現在の坂出市福江町周辺で、近世の埋め立て以前には大きく湾入し、瀬戸内海に面する湊がありました。
 童子の姿をした横潮明神は11/12の史料で登場し、いずれも福江の浜に登場します。
 その童子が持ってくる蘇生の水はすべての史料で八十場(安庭、八十蘇など)の水です。
現在の坂出市西庄町にある八十場の湧水は、『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年、1847)で「国中第一の清水」と評されており、近世には広く知られていたようです。
  ここまでで、多くの史料に共通するのは、槌の門、福江、八十場の地名です。
これらの地名を地図上でみると阿野郡の沿岸地域にすべてあります。ここからは、この伝説を聞いた人たちは、少なくとも槌の門、福江、八十場の地名とその位置関係
を知っていたと推測できます。そうでないと説話は時代を超えて伝わりません。

3坂出湾2
 悪魚退治伝説で、イヴェントが発生する回数が多いステージは福江です。
①悪魚の死骸がなんらかの理由で福江にあり、
②横潮明神の化身である童子が現れて倒れた兵士を蘇生させ、
③魚御堂、もしくは法勲寺が建立される、
④讃留霊王が悪魚退治後に上陸したのも、文脈からは福江のようです
ここからは福江が伝説における重要ステージと考えられます。

福江 中世
坂出市史から
 
次に福江について、考古学の発掘調査を見てみることにします。
坂出市西庄
坂出市史より

 考古学者は「福江の景観復元」を次のように述べます「角山北東麓から西に伸びる浜堤げ前縁を縄文海進時の海岸線とし、以後の陸地化も遅く、古代にも浅海が広がる景観

『玉藻集』(延宝5年、1677)には天正7年(1579)、香川民部少輔が宇多津に着いて、そこから居城の西庄城に帰るくだりがあります。そこには、次のように記されています。
①「中道」と呼ばれる海側の浜堤を、潮がひいていたのでなんとか渡ることができたこと
②「中道」と陸地側の浜堤Aとの間が足も立たない「深江」であること
坂出の復元海岸線3

 浜堤Aには文京町二丁目遺跡と文京町二丁目西遺跡があります
文京町二丁目遺跡からは7世紀前葉以降の製塩土器と製塩炉や8世紀の須恵器も出土しています。文京町二丁目西遺跡では、8世紀中~後葉を中心とする土器や、畿内産の9世紀の緑粕陶器や中世後半までの土器、さらに多量の飯蛸壷が出土しています。飯蛸壷漁が行われていたのでしょう。
 両遺跡の調査結果からは、陸地側の浜堤上では7世紀前半に製塩活動が行われ、やや地点を違えて7世紀後半に飯蛸壷漁が開始、8世紀までは続きます。この間、8世紀中~後葉には、生産用具(飯蛸壷)に加えて日用雑器(須恵器など)が増えてきます。ここからは東西を山に挟まれて北向きに湾入する復元景観も含めて考えれば、8世紀中葉以降には港湾機能をもった集落がここにはあったと研究者は考えているようです。それは、『綾氏系図』にも[福江湊浦]と記されているので、これを書いた作者は福江を港として認識していたことと符合します。
坂出の復元海岸線2

下川津遺跡との関係は?
   文京町のふたつの遺跡(福江湊)から約1.5km南西の大東川下流の右岸には下川津遺跡があります。復元図のように、古代以前には下川津遺跡は直近まで海岸線が湾入し、大束川の河口に近い場所だったと研究者は考えているようです。
この遺跡は坂出IC工事に伴う発掘調査の結果、大規模で異色な集落群が出てきて注目を集めました。遺構は、周りを低地帯に挟まれた四つの微高地の上に次のように展開します。
①6世紀後葉に集落が出現
②7世紀中葉には建物が急速に増加、企画性をもつ大型建物も出現
③8世紀後半から9世紀にかけて集落規模が縮小
④9世紀後葉以降には再び建物群が再出現
建物規模や配置の企画性などから、②と④の時期は官街的な性格持ち郡衙跡とも考えられているようです。また②の時期には土師器や飯蛸壷の製作、鍛冶、紡織などの諸生産活動が活発に行われていたようです。
鎌田池2
古代の旧大束川は坂出に流れ出ていた

 浜堤A(福江湊?)と下川津遺跡を合わせてみるとどんなことが分かるの?
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下川津遺跡に集落が出現した時点、浜堤A(文京町)は製塩の場でした。下川津遺跡が官街的性格をもつ7世紀後葉~8世紀中葉には浜堤Aで飯蛸壷漁が行われると同時に港湾機能が充実し活発化したとみられます。「断絶期」を挟み、再び官管的性格が下川津遺跡に現れるのはれた9世紀後葉です。その時期も浜堤Aは継続して利用されたようです。ここからは、7世紀から中世まで両者が共に活動を続けていたことが分かります。
 ふたつの遺跡は直線距離で約1.5kmしかありません。途中に大束川(旧河道)がありますが郡衙とその外港のような関係にあったという「仮説」は考えられます。それは、国府と林田湊、善通寺と白方湊のような関係を私に思い描かせてくれます。
 この仮説を頭に入れて、再び悪漁退治伝説をみてみましょう。
悪魚退治伝説は『綾氏系図』に記され、主人公である讃留霊王もしくはヤマトタケルは綾氏の祖先とされます。このことから悪魚退治伝説は、綾氏によって生み出されたと研究者は考えているようです。綾氏は7世紀後半には有力豪族であり、8世紀にかけて阿野郡で大きな力を持っていたようです。国府が阿野郡に設置された背景には、綾氏の政治力の影響があったとも考えられます。
伝説の共通する槌の門、福江、八十場がいずれも阿野郡にあるのは、伝説と綾氏との関連性を裏付けるものです。
 一方、『綾氏系図』には法勲寺や鵜足郡の地名が出てきます。
これは綾氏の「鵜足郡への進出」が表現されていると考える研究者もいます。また
①嶋田寺本「讃留霊公胤記」にも「讃留霊王が鵜足に居住した」
②『讃岐国大日記』では「讃留霊王が鵜足津(宇多津)へ上陸」
③嶋田寺本「讃留霊公胤記」では「法勲寺か登場」
④『綾北問尋鈴』でも「悪魚の霊を鎮めるために魚御堂または法軍寺を建てた」
とあります。
法勲寺は現在の丸亀市飯山町上法軍寺・下法軍寺にあたります。この地には飛鳥時代~奈良時期の建立とされる寺院跡があり、この寺院跡が古代の法勲寺であった可能性は高いようです。『讃岐国名所図会』では、この地を法勲寺跡とし、福江にあった魚御堂を移して法勲寺としたという内容を『宇野忠春記』から引用しています。

 法勲寺が『綾氏系図』に登場することから「法勲寺は綾氏の氏寺ではないか」と考える研究者もいるようです。法勲寺跡と国府の開法寺跡からは、同文の軒瓦が出土していることも、「」法勲寺=綾氏の氏寺」説を補強します。
 福江湊の位置づけ役割については?
古代の阿野郡には、福江のほかに現在の綾川河口付近(坂出林田町)にも港湾施設があったことは前々回にお話ししました。ふたつの湊の位置を比較すると福江は阿野でも西端に位置し、国府との距離があります。しかし、福江は鵜足郡や下川津(郡衙跡?)へのアクセスが便利です。鵜足郡を流れる大束川は、古代は川船輸送にも使われていたと考えられています。そうすると大束川へ陸揚げルートとしても重要であったはずです。つまり、悪魚退治伝説で福江が重要視されているのは、福江が阿野郡と鵜足郡をつなぐ地であったからと研究者は考えているようです。綾氏が国府のある阿野郡に本拠地をもちながらも鵜足郡への影響を強めていたとするならば、伝説の中で福江が強調されていても不思議ではないというのです。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄

以上を仮説も含めてまとめると次のようになります。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた
②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある
③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。
④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した
⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。
⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。

このように考えると古墳時代の川津周辺の前方後円墳の立地などもしやすくなります。大束川の河口から流域沿いに開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。その入口が福江湊だったというストーリーが描けるようになります。
 もうひとつ曖昧なのは、宇多津の位置づけです。宇田津が港湾機能を発揮するのはいつ頃からなのでしょうか。宇多津と福江と下川津遺跡の関係はどうなのか?
 その辺りは、また別の機会に
 参考文献
乗松真也
「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか