前回は伊予の松山三津濱と大洲から奉納された玉垣について見てきました。そのなかで、玉垣を奉納した人たちのつながりや職業、経済的な活動が見えてくることが分かりました。
 今回は阿波の人たちの奉納した玉垣と敷石を見ていくことにします
大門を入って五人百姓の傘の間を抜けると桜馬場と呼ばれる真っ直ぐでフラットな参道が広がります。その桜馬場左右の玉垣(T-2・3)は阿波の人たちの奉納玉垣です。

4 玉垣桜馬場211

各親柱には「阿波藍師中」とあります。そして奉納者の名前が続きます。
4桜馬場1

これだけではよく分かりません。最初と最後の親柱に奉納団体や年月日・世話人住所などが刻まれているというのがお約束ですから、一番最後の親柱を見てみましょう。
4 玉垣桜馬場21

  ラストの親柱14には 「阿州穴吹 阿波屋政藏 澤屋伊兵衛」の名前が大きく掘られ、その下に4名の名前があります。これだけでは、この人たちが世話人であるかどうかは分かりません。しかし親柱11から以後は、親柱に地名が「阿川村 船底」「別枝村」「桑村」「穴吹」とあります。 

「阿波藍師中」という団体名からは、藍産業に関係ある人たちであると云うことは推察できますが、それ以上は私には分かりません。少し調べてみると次のような事が分かってきました。
   藍師は、原料となる葉藍から染料の藍玉をつくる製造家のことで、阿波藍師中とは阿波国の藍玉製造家仲間ということになるようです。

 阿波で藍が大規模につくられるようになるのは近世以後で、吉野川の中・下流付近が藍作に適し、藩が特産物として奨励したため急速にひろまっていきます。寛永十二年(1635)には藍方役所が置かれ、宝暦五年(1755)には藩の専売制となります。
 しかし、藍作はひろがりますが実際に利益を上げたのは上方の藍玉問屋だったようです。彼等は藩に運上金を納め、直接藍作人から葉藍を買い集め加工するというシステムで利益を吸い上げていきます。そのため葉藍をつくる阿波の藍作人の生活は向上せず、むしろ専売制により貧しさを助長することになります。
 一八世紀の中頃になると、革新官僚を中心に藩でもこのような現状を憂い、地元に利益が落ちる方策が考えられるようになります。そのために、地元藍師の育成・組織化が進められます。藍玉の取り引きを藍方役所が監督し、徳島市中で行うように改め、大坂商人の藍玉積み出しも禁止します。こうした「地元資本」育成政策は地元藍師の成長をうながし、藩内に利潤が落ちるようになります。阿波の藍師は地元の利をいかし、葉藍から藍玉の製業をするばかりでなく、肥料の前貸しなどにより土地を集め、豪農に成長していきます。そして、彼らのなかには自分の廻船をもち、各地に出かけて商するなど商業資本として活動する者も現れます。
   天保十五年(一八四四)に桜馬場に玉垣を奉納した「阿州藍師中」とは、当時の阿波藍の主導的役割をはたした地元の藍師中のことのようです。この玉垣奉納の4年後の弘化五年(一八四八)藍方役所から命ぜられ、代官所の相談役として苗字帯刀を許された者がでてきます。その中には、この玉垣に名前がある人たちがいるようです。
 名東郡北新居村 久次米兵次郎、
 同郡南新居村  渡辺弥兵衛、
 同郡中村    手塚甚右衛門、
 名西郡高原村  元本平次兵衛、
 同郡桜間村久米 曾左衛門
     (西野嘉右衛門編『阿波藍沿革史』参照)
  この玉垣に名を連ねた人々は、当時の代表的な藍師だったようです。彼らは完成を翌年に控えた金堂完成間近の金毘羅さんに、お参りして玉垣を奉納したのかもしれません。
阿波の人たちの金毘羅さんへの奉納品
 阿渡は讃岐山脈を背中合わせにして金毘羅に近く、金毘羅信仰のさかんな土地でした。そのため奉納品も数多く寄進されています。例えば石燈龍は、安永八年(1779)をはじめとして、十三基奉納されています。その中には、文政三(1820)年、阿波藩主十二代蜂須賀斉昌からのものもあります。石鳥居も、嘉永元年(1848)に吉野川上流の村々から阿波街道に奉納されていることは以前にお話ししました。

4 玉垣桜馬場321

  桜馬場の敷石も阿波の人たちからの奉納で敷かれています
 敷石奉納の奉納石版には、次のように刻まれています(Q-1)
4 敷石桜の馬場1

ここからは最初の奉納が、徳島の敷石講中二百人に及ぶ人々によって奉納さたれことが分かります。これが阿波の敷石奉納のスタートで、文久二年(1862)です。
続いて奉納石版(Q2)です。
4 敷石桜の馬場21

慶応元年(1865)に、井川・白地・辻・池田など徳島県西部の三好郡の敷石講中160人の名前があります。 
これらの村々は三野町芝生、三加茂町加茂、井川町辻・井川、池田町池田・馬路・白地・佐野・脇津・州津・西山・川崎・中西・大利、山城町川口・黒川・国政・大野・小川谷・信正・政友など、吉野川とその支流伊予川に沿った村々です。
 奉納世話役の中心は、池田町の山下国三郎や山城町の米屋儀八・大野辰次・西屋時三郎といった人々で、奉納者に池田町と山城町の人々が多いようです。昨日見た玉垣奉納者よりもさらに西の地域の人々です。
最後は桜馬場詰に近いところでの奉納石版(Q3)です。
4 敷石桜の馬場221

Q2の翌年の慶応二年(1866)に奉納されています。地名を見ると「辻・川崎・祖谷・馬路・山城・山城谷・白地・大利」と、三好郡のさらに奥の方まで伸びているようです。
阿波からの桜馬場への玉垣や敷石の奉納からは、次のような動きが見えてきます
①文政三年(1820)阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848)阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860) 石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862) 阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
ここからは、殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという流れがうかがえます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことが分かります。三好の敷石講は、は五年間をかけて完成させています。
 取次は全て、児島屋卯兵衛・源兵衛が務めています。敷石ごとに世話人も異なり、時期も幕末の騒動期で、お山と奉納者のあいだにたって取次に苦労したことが察せられます。
 こうしてみると桜馬場の敷石や玉垣の殆どは、阿波国の人々たちの奉納だったようです。しかも、その地域は先ほど云った吉野川流域に限られています。桜馬場を現在のように歩きやすく、また美しくしたのは阿州の人々の力が大きかったと云えるようです。そして、ここの玉垣の美しさは、石段や敷石ととよく調和した雰囲気を出しています。