震度7の地震で発生した「液状化現象」とは - ウェザーニュース

巨大地震に液状化現象はつきものと、今では認知度は高いのですが、江戸時代には大地が割れ、水が湧き出すのはまさに「天変地異」で人々を驚かしたようです。残された記録には、液状化現象が次のように記録されています。
 「翁謳夜話」
  地裂水湧 漂所爆稲瀕 河海軟沙地特甚
 地面が裂け、水が地面から湧きだした所は、瀬のようなった。河や海付近の地盤が軟らかい地では特に被害が激しい
     「消暑漫筆」
 土地われて白キ水流れ出 後二鼠色成何共合点不行髭生候由(中略)其土地に生へたる髭のやうなる物にて小児輩とりて翫ひと遣しよし合点のゆかぬものなりとなり
土地が割れて白い水が流れ出て、その後にねずみ色の髭のようなものが生えてきた。その土地に生えた髭のもので、子ども達が玩具のように遊んでいるが、これが何か分からない。
  示神野夜話
  地割白水流レ 後地鼠色二成 毛なとはへ申候
 三つの史料には、地面が裂け、水が噴き出す液状化現象が記されています。しかし、「消暑漫筆」・「小神野夜話」には、「鼠色」のなんとも分からない「髭」・「毛」が生えていると記します。「消暑漫筆」には、「鼠色の髭」を子供達がとって遊んでいるともあります。「鼠色の髭」状のものとは何でしょうか?
「地震時に砂が地下水とともに噴出する噴砂現象」
と研究者は考えているようです。宝永地震の時には高松でも、液状化現象や噴砂現象が海岸・河川付近の軟らかい土地で発生したようです。


詰田川橋付近では地割れが起こり、液状化被害が発生した?
地割被害については、次のように具体的な地名も記録されています。
 「翁謳夜話」
 地裂水湧漂所爆稲瀕河海軟沙地特甚 故木田冷(詰田)川東大路柝六尺  余山下堅厚粘土雖柝不甚

 先ほどの液状化現象の続きには、具体的な地名が「木田冷(詰田川」と記されています。現在の高松市木太町の「詰田川」です。その次の「東ノ大路」は、江戸時代初期、高松藩初代藩主松平頼重の時に整備された「志度街道(下往還)」になるようです。
 意訳すると次のようになるのでしょうか。
詰田川の東側の志度街道が裂けて、液状化か起こり水が湧き溢れている。その地割れの広さは、六尺(約一八〇センチ)余にもなる。

 「翁嬉夜話」(松平家本)
 山田郡木太(木田)郷冷(詰田)川橋東半町許大道
 柝水溢広六尺余 余親見之 
 几海浜河辺沙上 多柝若山下粘土則否
 同じ「翁謳夜話」ですが写本の際に、加筆が行われたりして細部が異なるものがあります。この「翁謳夜話」(松平家本)では、地割れが発生した場所は「木太(木田)郷冷川(詰田)側橋東半町許の大道」とあり、詰田川橋の東側約55㍍付近の志度街道と、より詳しく記されています。そして、「余親見之」とあり、筆者自身が見に行って、その状態を観察したと記しています。
「翁謳夜話」の筆者である菊池武賢(黄山)は、讃岐の歴史を代々調査研究していた木太村の増田一族の出身です。「三代物語」を編纂した増田雅宅(休意)の弟になります。養子に出る前は、菊池武賢も本太村に在住し、生活をしていたのでしょう。菊池武賢は元禄十(1697)年生まれなので、10歳の時に宝永地震に出会ったことになります。家の近所で起こった地割れを実際に自分の目で見たのでしょう。それを後に記述したという事になります。
HPTIMAGE高松

  なぜ詰田川橋で液状化現象が発生したのでしょうか?
 高松市木太町内を通る志度街道(現在の県道155号牟礼中新線)は、現状からは考えにくいのですが、高松市内から屋島へ海岸沿いに伸びる街道でした。江戸時代以前の天正年間の復元図を見ると、現在の高松城と屋島の間は「玉藻浦」と呼ばれる入り江で、その奥には「遠干潟」が広がりっていました。入り江は高松市南部に食い込み、現在の本太町の内陸部付近まで海岸線が入り込んでいたようです。
高松天正年間復元図1

 「遠干潟」は、どのように「新田」開発されたのかを史料は、次のように語ります
 「翁謳夜話」(松平家本)
(寛永)十四年 築堤障海水為田 
 福岡木大(木田)滑浜冨岡春日村小地名是也
 今並為熟田民大頼其利到于今称之
  意訳すると
 (寛永)十四年に堤防を築き海を塞ぎ、新田にした。
 福岡・木大(木田)・滑浜・冨岡・春日村の地名となっているところがそうである。いまは美田となって民は大いに潤っているが、その利益はここに始まる。

野原・高松復元図カラー
入江の奥が屋島の潟元(方本)、その対岸が詰田・春日川河口 

 寛永年間には旱魃や自然災害で飢饉が多発して、生駒藩は危機的な状況に追い込まれます。その打開のために生駒藩の幼い藩主の祖父で「後見人」であった伊賀藩主藤堂高虎家は、西島八兵衛を讃岐に派遣します。そして、新田開発や数多くのため池を造らせて、藩内を一つにまとめ危機打開を図ります。その時に、それまで遠浅の海岸であった場所に防潮堤を築き、海水の流入を止め、新田を開く工事が行われます。それが現在の高松市上福岡町、木太町付近で、寛永十四(1637)年のことになるようです。
 史料の「木太滑浜」とは、現在の木太町洲端地区になります
「洲端」という言葉のとおり、ここは川が海へ流れ込む際に形成される「洲の端」であったようです。西島八兵衛の干拓事業により、遠浅の海岸付近が田地に変り、今では大いに稲作が行われていると、この史料には記されています。

宝永地震における高松藩の被害状況
初代高松藩主松平頼重の新田開発
「英公外記」
此年松嶋すべり之沖より潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松島木太春日之潟新開成る 
下往還より南手之新開ハ先代之時西島八兵衛が築し所なり
 文頭の「此年」とあるのは、寛文七(1667)年で、高松藩初代藩主の松平頼重の治政になります。西は松島から東は潟元までという長い防潮堤を築き、大干拓を行ったことが分かります。これで沖松島・本太・春日の地に新たに田地が開かれます。
 2行目には、下往還(志度街道)より南に作られた「新開」は、松平頼重の時に作られたのではなく、それ以前の寛永年間に西島八兵衛が行った干拓事業の際に、作られた場所であると記されています。松平頼重は、生駒家が出羽国へ転封した後も防潮堤を築き続け、さらに大規模な干拓・新田開発の事業を行ったようです。

高松野原 中世海岸線
 「翁謳夜話」
修山田郡下大路 寛永十四年 西嶋之尤築堤 障海水為稲田 其隠曰下往還今又修之為大路
 松平頼重は西島八兵衛により作られた下往還(志度街道)を大規模改修し、藩内の街道整備も行います。志度街道は「翁謳夜話」の慶安元(1648)年の記事によると、干拓の為に造られた防潮堤上を通っていました。
 つまり、180㎝の地割れを起こした詰田川橋付近は、かつては遠浅の海岸付近であったのです。その地を人口的に埋め土地を形成し、その上に堤を作り街道を通しました。そのために軟弱な地盤が地震による激しい震動で、地割れや液状化被害が発生したようです。現在でも液状化現象が起きているのは、臨海部の埋め立て地帯です。埋め立てから何十年も経つと、そこが海であったことを忘れてしまいますが、地下水脈は脈々と生きています。現在の地形だけを見て、安全だと判断は出来ないようです。こんな所にもハザードマップ作成の必要性があるようです。
高松地質図

 讃岐でも津波被害はあった?
  「翁嬉夜話」
  来日夜小震数矣 潮汐高于恒五六尺堤防多潰
その日の夜に小さな揺れが何度も起きて、潮位がいつもより5・6尺(180㎝)ほど高くなり、上がり堤防が多く壊れた。
とあります。
  「消暑漫筆」
  高潮来り平地之上深事六尺
  通常の潮位より六尺程高い潮が来たと
記されているます。ここからは巨大な地震では、瀬戸内海にも高さが約180㎝の津波が押し寄せ、港の堤防の多くを破壊したことが分かります。ちなみに、この年の秋台風で大雨・洪水で高松では、堤防が壊れたり、人家の浸水被害が出ていました。そのダメージから回復しないところへ追い打ちをかけるように、津波が襲いかかってきて、堤防の多くを壊したようです。

高松 地震の被害
液状化現象が起きやすい場所
以上をまとめておきます。
①寛永地震では高松でも液状化現象や津波が発生している
②液状化現象が発生しているのは江戸時代に開かれた「新田」に集中している
③詰田川周辺の「新田」は、江戸時代以前は干潟であった
④夜になっても余震が続き、180㎝の津波も発生。多くの防波堤が壊された。

おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 芳渾直起 宝永地震における高松藩の被害状況 香川県文書館紀要18号 2014年