瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

講演に使ったパワーポイント資料をアップしていこうと思います。

 前回は金毘羅詣での参拝客を多度津に取り込むために、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」流布・信仰センターとして白方奥の院の整備を進めたこと。それに対して、本家本元の善通寺誕生院が海岸寺に対して「弘法大師生誕地」「屏風浦」の使用禁止、産盥堂の建設差し止めなどを丸亀藩に提訴したこと。これに対して海岸寺は、自らの主張を譲らずに、調停は行き詰まったことをお話ししました。
 丸亀藩の指導を海岸寺が受けいれることはなかったのです。海岸寺は多度津藩に属していて丸亀藩の主権が及ぶところではありませんでした。
こうなると、善通寺に残された道は、海岸寺の本寺に訴え出て適切な指導をお願いする以外になくなります。
海岸寺の本寺とは、京都嵯峨の大覚寺で超大物寺院です。善通寺が直接交渉できる相手ではありません。善通寺も自分の本寺を通じて、交渉を行うことになります。善通寺の本寺は同じく京都の随心院でした。しかし、本格寺と随心院では格が違います。政治力がまるでちがうのです。例えば、大覚寺と随心院は同じく門跡寺とは言っても
①大覚寺は法親王が住職される宮門跡
②随心院は摂関家の子弟が住持する摂関門跡
です。その教団規模も、大覚寺には井関、野路井(二軒)衣笠、三上など十数軒の坊官がいますが、随心院には本間、芝、岡本、長尾の四軒があるだけです。讃岐国内を見ても、大覚寺の末寺には大窪寺、宝蔵院、八栗寺、弘憲寺、国分寺、三谷寺、竜灯院(滝宮)、地蔵院など大きなお寺が多いのに比べて、随心院末寺は善通寺以外にはありません。讃岐国内での影響力も大きな格差があったのです。善通寺には、
「本寺の随心院に頼んでも、嵯峨(大覚寺)と対等の話い合いができるわけでない」

という諦めというか歎きもあったようです。大覚寺の政治力の前に、善通寺の主張が通じるだろうかという疑念でもあります。逆に、海岸寺からすれば本寺同士の交渉ならば、大覚寺が悪いようにはしないという目算もあったようです。ある意味、大船に乗っていられるということでしょうか、それが分かっていたので、海岸寺は国元での善通寺の要求を強く拒むことが出来たのかもしれません。ここまでは、海岸寺の「読み勝」になるようです。
さらに、随心院と大覚寺の間には、善通寺をめぐって古くから反目する気持があったようです。
 それは大覚寺の後宇多法皇が、それまで荒廃していた善通寺の堂塔修理のために、多くの供養田を寄進しました。そのため大覚寺門跡が代々善通寺別当を兼任していたのが、暦応四年(1311)の勅裁により、善通寺が大覚寺を離れて随心院の所属となります。大覚寺には、善通寺を随心院に奪われたという気持ちがあったようです。古いことですが僧侶達は、このような経緯をきちんと学習しています。このため交渉に出てきた大覚寺の僧侶達の中には、随心院や善通寺に対して反感を持つ者もいたようです。

海岸寺との交渉経過は、当事者の詳しい記録が善通寺に残っています。それが善通寺市史に載せられています。
それに従って京都での交渉経過を見ていくことにします。
 文化12年(1815)の末に、京都で本寺同士の随心院と大覚寺の交渉となり、智積院が仲介に入ることになります。善通寺からは、子院の観智院、玉泉院、行願院などが上洛して智積院に滞在します。ここを拠点に、情報収集や関係有力寺院への支援要請を行っていきます。どんな情報が入っていたのかを一部紹介します。
  交渉経過   1816年
1月21日、嵯峨の坊官三上民部が善通寺の交渉団が滞在する智積院に来て、次のように言い残していったと記します。
「誕生所という名目は差止めます。しかし、産盥のことは、御住職のお頼みだから、せいいっぱいやってみるけれども、止めさせられるかどうか分らない。そのうち、明王院、海岸寺が上京して、光照院まで掛合に来ることでしよう」

27日、観智院、三泉院が九条家へ参殿。芝氏とゆるゆる相談。また二条家の人江五郎右衛門方へもまいる。
28日、行願院、玉泉院、所用に付、大坂へ下る。高野へも登山のつもり。
2月朔日、行願院、玉泉院が高野登山。智蔵院に相談して、京都で片付かない場合は、高野山に御厄介をかけることにになると思うので、前もってお聞さおき下さいという意味の「口上書」を、年預坊に差し出す。
2月12日、伊賀国の諦仁師、四国巡拝の途次、善通寺を訪ね、香山と会談、一件について次のような意見を述べる。
江戸の公裁になれば海岸寺は流罪、軽くても追放だろう。このことを海岸寺側の者によく言い聞かせたなら、早く折れて来るのではないか。建石も海岸寺が勝手にたてたものだから、領主に断るまでもなく、本山から言い聞かせて取払うことができるのでないか。嵯峨に、正気があるなら江戸へ出る気遣いはない。

五月朔日 秀明師が次のように伝えます。
「明王院と海岸寺は、産盥のことでは、善通寺の言うことを聞く考えは全くない、『江戸へ出てでも争う』と言っている」

以上から分かることは、大覚寺の支援を受けた海岸寺が石器(産盥)に関しては、決して譲れないと踏ん張っていることです。
今風に云えば「弘法大師生誕地」という「商標」が認められなくなれば、その商標が使われていた商品も販売できなくなるのが当然の法解釈ですが、仏教界ではそれが通らない社会だったようです。

 例えば次のような京都仏教界の空気を示す記録が残されています。
 文化12年(1815)の末、善通寺交渉団の滞在先である智積院に、東寺のすぐ側の隣の実法院が見舞いに来て、次のように話します。
此度之一件、京都二而御落着被成候時ハ、兎角京ハ物件キレイニ不被成候而ハ不宜候。先ツ御勘孝可被成候。江戸工事卜申物ハ誕生院之御格式二而江戸詰メト申時ハ、物入一ケ年百五十金位ハ費べ可申候。其上随分早ク御裁許御座候所、二年ハ掛り可申候。然ル時ハ三百金ハ手軽ク入可申候。其金子之半分位営院エ入候得ハ、手際キレイニ出来可申与奉存候。拙老杯茂毎度江戸掛り合二者参候事故、馬御心得御噂中候

意訳すると
 京都では何でも金を使わないと、物事はきれいに治まらない。江戸での裁定になれば、滞在費だけでも大変で、善通寺の格式からすれば一年に一五〇両の出費になる。早くすむ時でも二年はかかるだろうから三〇〇両、その半分を私方へ納めてくれたら手際よく片附けてあげます

と持ちかけられたようです。それを玉泉院は、日記に何でもないことのように書き留めています。これが当時の「仏教界の相場」であったようです。

 また、争論に決着が付いた後の文政元年(1818)4月16日 に、お世話になった京都の関係者のお礼に、玉泉院が出向いています。たそして、宿舎となった智山へ銀子10枚と進物品を届けています。
また、一条家佐々木大監を訪ねると、大監は、次のように云ったようです。
御礼銀は、上様へは銀二〇枚、外に諸大夫五人、用人二人、六位一人、これらは重役だから相当のお礼が必要だし、下役、奥向の女中などへも心付けをするのでないと、私はようお世話しない。善通寺ではどう考えているのか」

と言う対応ぶりです。そのくらいは持ってこいという言い方のです。玉泉院は「この頃、寺では色々物入り多く、そうそうはお礼銀も差し上げられない」と断っています。京都では金と政治力が幅をきかすことを改めて学んだ善通寺の僧侶達だったようです。 
 幕藩体制のなかで、寺院は土地人民を治めてゆく支配機構の末端組織でした。それは為政者の側に立ち、大小さまざまの世俗的な権力と冨を持っていました。そのために本来の使命である仏法の護持ということを忘れて、実際的な利益に走る気風が京都ではより強く働いていたことがうかがえます。
 事件を金で片附けるという考えは、善通寺の側にもあったようです。
当時、善通寺に香山という老僧がいました。善通寺所蔵の古い書付類から先例を探し出して、書式など考えるのも香山の役目でした。京都滞在の観智院や玉泉院に手紙でいろいろと先例や意見を書き送っていて、それは事件の進展に大きな影響力を与えたようです。世間的な経験も豊かで、末寺の住職達からも信頼されていました。その香山が京都滞在中の観智院と華蔵院に宛てた手紙が残っています。
 嵯峨御所御寄附物と云事、世上の人々如何可有哉と万茶羅、天真沙弥等毎度申出事二候。是も尤なる事に候。しかし、うまうまと行く事ならば、夫れも不苦、七十五日也。
 尤合戦中二ヲ持込候事者、先達而桃陽(出釈迦寺)被中候通、温屯之跡の蕎公切にて、馳走ニハ不相成候。且又此方之腰ヨハク相見へ可申候

意訳すると
「うまくゆくなら、嵯峨へ金を送って事件を善通寺の考え通りに運ばせるのもよいと思う。人がどうこう言うのも、諺どおり七五日だけだと思うが、今は交渉の最中だから、こんなときに○(金)を持込んでも効果はなく、そのうえこちら側の腰が弱いと見抜かれてしまうだろう」

と、饂飩(うどん)と蕎麦に掛けて「金」での解決の方法も示しています。善通寺の側からは、大覚寺がこの交渉を通じて「和解・調停金」を求めているために交渉が長引いていると察していたことがうかがえます。
 交渉に進展がなく、滞在は長引きます。しかし、打切ることも出来ません。
仲介に入っている智積院は、善通寺が破談を主張しても、それをそのまま大覚寺へ通告することはしてくれなかったようです。交渉が長引くにつれて、こちらに向いては善通寺の立場を理解している態度を示し、同じように嵯峨へ向かっては嵯峨の言い分をもっともだと言っているのかもしれないと、善通寺の使節団僧侶たちは疑うようになります。
8月29日、三宮寺と玉泉院(善通寺子院)が智山へ出向き次のように申し入れます。
「きっぱり破談にしたい。嵯峨からの書付は、みながみな海岸寺の申出ばかりを書取り、善通寺から差し出した書類の趣は全く取入れられていない。このようなものには到底請書できない」

「もはや破綻にする外ない」との立場を貫くと、9月5日に妙徳院がやってきて、
「今になって破談というのでは、智山僧正をはじめ、我々も面日を失うことで困ってしまう」

と泣きついてきます。しかし、善通寺としても嵯峨(大覚寺)の提示案では、同意できないことを改めて強く伝えます。そこで調停者の立場も考えて、嵯峨から来た案については、善通寺では知らぬ体にして、なんとか破談だけは取り止め、調停者の面目が立つようにすることになります。こうして、調停書(口達之覺 )を受け取ります。
その内容は次の通りです。
口達之覺    (意訳)                           
昨年12月に、弘法大師御誕生所について差障の件について、小野御殿への書付をお届けした所、当山の僧正承之は気の毒に思い、穏便に取りはからうように小野御殿へ伝えられ、相手方の本山である嵯峨御殿へ取り次ぎました。この度、嵯峨御殿から海岸寺並びに本寺明王院をお呼びになり、次のような決定を伝えました。
一 縁起  一 勧進帳  ― 建石之事   
一 船問屋から差出候案内切出之事
に関しては、國元の丸亀藩に願出ること
一、御誕生之霊跡  一、御降誕生之霊地  一、御初誕之地 
一、御産生所
以上の八ケ條については、海岸寺の使用を差し止めるように申しつけました。
一別館之事  一、産盥之事  一、屏風浦之事
以上の三ケ條については、国元に関わることでなので藩主の裁断を仰ぐように指示しました。決定は以上の通りです。このことについて、ご承知ください。
以上。
文化十三年間八月           智山鑑事 妙徳院 印
讃州 善通寺 御役者中

上の8項目については、使用差し止め処分となりましたが別館之事 、産盥之事 、屏風浦之事」については、国元のことなので藩主の裁断を改めて仰げということです。海岸寺としては、ある意味納得できる内容であったと思われます。しかし、善通寺にとっては何のために京都までやって来たのかという思いの方が強かったかもしれません。
 しかし、後は丸亀藩に任せるほかないのです。
お世話になった関係者への挨拶とお礼を済ませて、高瀬舟で京を去ります。
こうして、、厳蔵一行を乗せた下津丼船が九亀西川口へ着船したの9月22日、夜九ッ時のことでした。その夜は、一行は福島北渚亭に泊まり、翌日に、丸亀家老や寺社奉行など関係者に帰国・経過報告をしています。 
ここから丸亀藩に任された「別館・産盥・屏風浦呼称」の3項目についての裁断に向けた準備が始まります。丸亀藩は、どんな判断を下すのでしょうか。それは、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 


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