前回は、うどんのルーツを探ってみました。史料にうどんが登場するは次の通りでした。
①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」、
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎学林で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」として、「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」と説明しされています
⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも「饂飩」とあります
ここからは「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれた「うどん」が、登場するのは14世紀半ば以降であることが分かります。つまり、空海が唐から持ち帰ったという伝説は成立しないようです。今回は、近世の絵図に「うどん屋」がどのように登場し、描かれているのかを追いかけて見ようと思います。テキストは「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年 1 月」です

  「うどん屋」が風俗画に描かれるようになるのは江戸時代になってからのようです。
江戸時代以前に描かれた「洛中洛外図屏風」には、うどん屋は登場しません。うどん屋が描かれるようになるのは国立歴史民俗博物館(歴博)が所蔵する「洛中洛外図屏風」の一つ(歴博D本、17世紀前期)が一番古いと研究者は考えているようです。
1 うどん屋 洛中洛外
     「洛中洛外図屏風」(歴博D本、17世紀前期)

ここには相国寺とおもわれる寺院の前の家に、軒に突き出した棒の先に、「うとむ」と書かれた看板が見えます。その下に細長いひもが何本もぶら下がっていて、これが当時のうどん屋の看板だったことが分かります。まるで私には「烏賊の干し物」のように見えます。
 しかし、うどん屋の内部は描かれていません。描かれているのは、店の入口で半裸の男が杓子を振り上げて怒っているのを止めにかかっている女達。その外では険しい顔の白い服を着た女が男を指さしているように思えます。研究者はこれをうどん屋の夫婦げんかと考えているようです。
1 うどん屋の看板qjpg

 戦塵の余韻さめやらぬ江戸時代の初期の風俗画には暴力的な場面もしばしば描かれます。その際に、うどん屋の主人がその役を担わされることが多いと研究者は指摘します。その背景は後に考えることにして先に進みます。

古いうどん屋の絵図として、研究者が次に挙げるのは「築城図屏風」 (六曲一隻、名古屋市博物館蔵)です。

1 うどん屋 築造屏風図

この絵図は慶長12年(1607)の駿府城築城を描いたとされ、近世城郭の築城風景を描いた資料として貴重な絵画です。制作時期は、慶長年間の中頃ころとされ、盛んに城下町建設が行われていた時代のものです。この中にも、築城工事の現場近くにうどん屋、餅屋、飯屋の三軒の飲食店が描かれています。うどん屋と分かるのは、先ほど見た「烏賊の干し物」と同じ看板がかかっているからです。
1 うどん屋2 築造屏風図

店内では、 半裸の男がのし棒で生地を伸ばし、その右では朱色の椀を手にした男がうどんををすすっています。見世棚には、外が黒で内側が朱の椀や、全体が朱の椀、盆が重ねて置かれ、栓のある樽もあります。これはお酒でしょう。うどんの他に酒も売っていたようです。
 また、ここでも店の前では喧嘩が起こっています。うどん屋の主人自体が関わっているのではありませんが、「うどん屋=暴力」というイメージがあったことがここからもうかがえます。

うどん屋の光景を、最も詳しく描いているのは 「相応寺屏風」(徳川美術館所蔵)だと研究者は指摘します。

この絵は初期の妓楼遊楽図でさまざまな遊楽の情景が描かれた近世風俗画の名作で、寛永年間(1624~44)頃のものとされます。この屏風にも、遊里の町並みの一画にうどん屋が描かれています。
店の中では、主人が上半身裸でうどんの生地を伸ばしており、その傍にうどんが入った椀がもう一つ置かれている。客の上に描かれた軒先の部分には、例の「烏賊の干し物」のようなうどん屋の看板が掛けられています。
 この絵で研究者が注意するのは、うどん屋の看板の上にさらにもうひとつサインが記されていることです。木の枝を組んだ先には、中央部分を括った形の酒林があり、その下には、ヘラ状のものが下げられ「みそ有」と書かれている。これは擂り鉢から中の物を掻き出すのに用いられる 「せっかい (狭匙、 切匙)」の形です。味噌を連想させる物として、味噌屋の看板に使用されていました。酒と味噌は、両方ともに醸造によって作られます。一つの店で扱かっているのは必然性があります。さらにそこでうどんも提供する、という営業スタイルだったことがうかがえます。当時は醤油がまだ普及していませんでした。そのためうどんの汁も、味噌味であったことを考えると説得力が増します。また、狭匙の柄の部分のまわりには円形のものが描かれています。これは酢の看板です。酒から酢が作られるので、それも販売していたことが分かります。
6「江戸図屏風」 (国立歴史民俗博物館)
江戸図屏風 | 家や学校で楽しむれきはく | こどもれきはく(国立歴史民俗博物館)

この屏風は、明暦の大火(1657)以前の江戸のことが分かる数少ない絵画資料として貴重なものです。この屏風には7軒の「うどん屋」の看板が見えるようです。まず  ①不忍池の南側を見てみましょう。
江戸図屏風(湯島、湯島天神、東照大権現宮、不忍池)
「江戸図屏風」不忍池と寛永寺 
不忍池の南には、道の両側に計七軒の店舗が描かれています。これらの店は寛永寺の参詣客や遊覧客に飲食を提供する茶店のようです。その七軒の内、三軒に例の「烏賊の干し物=うどん屋の看板」が掲げられているのが見えます。向こう側の五軒の両端と、店内は見えない手前側の一軒で、どの店も看板は竹竿で掲げらています。
1 うどん屋の看板1 不忍池 2jpg

店内が描かれた向こう側の店について詳しく見てみましょう。
1 うどん屋の看板 不忍池 2jpg

右端の店には、うどんの生地と「のし棒」が描かれ、うどん屋であること分かります。見世棚を見ると、生け花と徳利と椀、そして角樽が置かれています。酒も出す店のようです。
1 うどん屋の看板 不忍池 3jpg

左端のうどん屋には、店内に黒い角盆に乗せた赤い椀状の食器二つと小皿があります。見世棚にも同様のセットと花器が置かれています。
その右隣の店には酒林が掲げられています。そして店内には徳利と角樽、 見世棚には、赤い盃と、中が赤で外が黒の塗椀もあります。ここも酒と、うどんなどの食事も提供する店であることが分かります。
1 うどん屋の看板 不忍池42jpg
不忍池の左側のうどん屋 竹竿に掲げられた看板があげられている。 
不忍池界隈のお店は、酒も飲めるうどん屋が多かったとしておきます。

近世初期の風俗画に描かれたうどん屋について、まとめておきましょう。
①安土桃山時代の絵図には、うどん屋は登場しない。
②慶長年間の中期ころからうどん屋は描かれ始める
③店の立地としては、寺社門前、遊興地、街道沿い、普請現場、河岸などの多くの人が通る場所が多い
④営業スタイルは、酒屋および味噌・酢販売の店を兼ねていることが多い。
この時期のうどん屋は、江戸の「外食産業」 の走りだった研究者は考えているようです。
食事を提供する店舗としては、 明暦の江戸大火 (1657)からの復興とともに現れた「煮売り茶屋」が有名です。うどん屋の出現と流行は、それよりも半世紀ほど早いようです。大火後の復興で外食産業が発達したとすれば、うどん屋登場の背景は、近世都市の建設に伴う人口流入が考えられます。
1うどん

「築城図屏風」の普請場近くにうどん屋などの飲食店が描かれていることが、それを象徴していると研究者は指摘します。現場労働者は、外から流入した「単身赴任者」が多かったはずです。うどん屋などの「外食産業」発展のチャンスだったのかもしれません。「京都や大坂・江戸の以外の城下町でも、近世初期の都市の拡充と人口の流入・増大は目覚ましいものがありました。それまでの顧客を中心にした営業スタイル違った新しい飲食店が数多く現れたことが想像できます。それが酒と一緒にうどんのような簡単な食事を出したり、味噌も一緒に販売するようなお店だったと研究者は考えているようです。どちらにしても背景には、都市の膨張と都市への流入人口の増加、新たな外食産業の発展という動きが見えてきます。17世紀に入ってから突然うどん屋が現れ、普及していったのは、こんな背景があったとしておきましょう。
1うどん 『諸国道中金の草鞋』より

 元禄時代(17世紀末)に狩野清信の『金毘羅祭礼図屏風』の中にも、うどん屋の看板をかかげた店が門前町に3軒見えます。

1 金毘羅屏風の饂飩屋

1軒目は、右端です。天領の榎井方面から高松街道をやってきた頭人行列の一行が新町の鳥居をくぐったあたりです。
DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや

藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
1 うどん屋2 金毘羅祭礼屏風
2軒目は内町です。こちらでは包丁で、うどんを切っているようです。例の看板が掛かっています。
1 うどん屋3 金毘羅祭礼屏風

3軒目です。これは、何をしているのでしょうか?麺棒らしき物を持っているので、うどん玉を伸ばしているのでしょうか。ここにも、うどんを伸ばす男の上には、看板がかかっています。江戸や大坂の看板が17世紀初めの金毘羅大権現の門前町には、広まっていたことが分かります。これが讃岐で一番古い「うどん史料」になるようです。
1 うどん屋の看板jpg

ところで「烏賊の干し物」のようなうどん屋の看板は、江戸時代中頃になると京都でも江戸でも、姿を消してしまいます。そして地方の街道宿場などでしか見ることが出来なくなっていきます。どうしてなのでしょうか。それは又の機会に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年
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