瀬戸の島から

カテゴリ:東かがわ市の歴史 > 引田

 
正保元年(1644)に幕府は、各藩に「正保国絵図」の制作を命じます。慶安初年1648)にかけて国絵図が、国毎に作られ幕府に提出されます。ちなみに讃岐国の担当大名は、松平讃岐守頼重でした。
 この時期の讃岐国は、寛永17年(1640)に生駒高俊が封地の讃岐国を収公され、翌18年に西讃岐五万石の領主として山崎家治が、翌19年に松平頼重が讃岐高松12万石の領主として移封を命じられています。生駒藩一国体制から、高松藩と丸亀藩の二藩体制への移行期でした。山崎藩・藩主家治は、九亀城を居城として、廃城となっていた丸亀城の修築を始めます。つまり正保国絵図には、生駒家が讃岐一国の領主であった時期の讃岐国開発の最終的な姿が、描かれていると研究者は考えているようです。
 それでは引田はどう描かれているのでしょうか。
まずは「正保国絵図」(国立公文書館)の大内郡の様子を見てみましょう。
引田 大内郡 正保国絵図
①古城山(引田城跡)の背後の入江には引田濱があります。
②馬宿川の河口と、馬宿村には舟番所が置かれています。
③遠見新番所も、後から設置されたようです。
④高松・阿波街道が引田濱を通過しており、西に向かうと大坂峠を経て阿波へ
⑤東には白鳥を経て、高松へ
⑥引田濱の注記には次のように記されています。
「是より庵治へ七里二十三町 磯より沖の舟路まで十七町 西北風に船掛かりよし
ここからは引田浦が後背地や街道に面して、交易湊として栄える地理的な条件を持っていたことがうかがえます。何より、海に開けた港があり、讃岐では最も大坂に近い所だったのです。生駒氏が讃岐にやって来たときに、最初の城を構えようとしたのも納得がいきます。生駒氏の引田城造営については、以前にもお話ししましたので、今回は別の視点から引田城下を見ていくことにします。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
 絵図をもう少し拡大して見ましょう。
「正保国絵図」の引田城跡の周辺部の拡大図です。
引田 小海川流路変更

この絵図から読み取れることを挙げておきます。
①中央左手に「古城山」と記入されている山が引田城跡。
②右上から流下している小海川が「古城山」の西側を流れ海に流れ込んでいる
③その河口西側に安戸池がある
④引田濱を高松・阿波街道が通過している
⑤高松街道の小海川には橋が架かっている
⑥橋の東側の高松街道沿いに●が2つついている。これが一里塚の印であった。
下図は、約200年後の「天保国絵図 讃岐国」の大内郡のエリアを切り取ったものです。
引田 大内郡 天保国絵図

天保国絵図は、幕府の命により作られた最後の国絵図になるようです。完成は天保9年(1838)とされるので、さきほどの正保国絵図の約二百年後の引田が描かれていることになります。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に閲覧可能です。

  画面を引田にズームアップしていきます。
引田 大内郡 天保国絵図拡大

まず気づくのは、①小海川の流路の変化です。正保国絵図では、古城山の西麓を通り、安戸池の西側で海へ注いでいました。ところが、天保国絵図では、小海川は、古城山の東麓を流れて海に注いでいます。安戸池側には流れていません。現在の河道と同じです。
 また、旧河道跡には⑤「塩濱」(塩浜)と記されています。「正保国絵図」後に、小海川の河道は変更されていることが分かります。つまり、江戸時代に小海川の川筋は付け替えられたのです。
その付け替えが行われたのは、いつのことなのでしょうか。
その資料として研究者は、ほぼ同じ時期に描かれたとされる2つの絵図を比較します。

引田 小海川流路変更2
①共通するのは、引田城(城山)と誉田八幡が鎮座する宮山と引田浦の間は海として描かれている②右の「高松国絵図」では、小海川の河道は宮山の西側を通り「安穏池」(安戸池)は、川の一部として描かれています。つまり、小海川の河道は安戸池側にあったことを示しています。ここからは、この二つの絵図が書かれた時には、小海川は安戸池側に流れていたことが分かります。

【図5】は引田の「地理的環境説明図」(木下晴一氏の作成)です。
引田の地理的環境

流路変更前の小海川の河道を、上図でたどってみましょう。
①小海川は、内陸部の条里型地割と山地のエリアでは、真っ直ぐに北へ流れてきます。
②それが潟湖跡地にはいると蛇行し、
③海岸部の砂嘴・浜堤に沿って両方へ流れを変え、
④誉田八幡の南部を経て、城山西麓(安戸池)海へ注いでいた。
その復元図を見てみましょう。
HPTIMAGE.jpg引田

【天保国絵図】にあった塩浜は、城山西麓のかつての干潟に当たるようです。
【図4】のふたつの絵図では、城山と宮山との間は海で隔たれていました。そして、城山と誉田八幡との間もかつての潟で、満潮時には海水が流入していたようです。この場所は、一番最初に見た「正保国絵図」では陸続きとして描かれていたので、それまでに埋積されたのでしょう。
引田城下町復元図
それでは、小海川の付け替えの目的は、どこにあったのでしょうか
① 小海川の現在の河道は、古川に向かって低くなる方向には流れず、最も高いところを流れている。
②これは河道を入為的に固定していることを示す。
③北側の丘陵の裾部に沿って直線状に流れ、砂嘴と西から延びる舌状の丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいる。
④狭い部分から下流の河道左岸側には高さは低いが幅広の堤防が築かれている。
以上のように、小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に海に排水することを目指したもので、小海川のルート変更を行う事で、砂嘴上にある引田の水害防止策がとられたと研究者は考えているようです。
1引田城3


その時期は現在の所は、正保国絵図が作成された後から、天保国絵図の作成までの200年間の間としかいえないようです。生駒時代に行われたものではないようです。
5引田unnamed (1)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)


5c引田

引田の中世の賑わいぶりや近世の引田城には、これまでも何回かお話ししてきました。今回は、引田の城下町について書かれた論文を見ていきたいと思います。テキストは「木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討 香川県埋蔵物文化材調査センター紀要Ⅶ  1999年」です。

5引田3
近世城下町の特徴について、研究者は次のようなポイントを挙げます。
①兵農分離と商農分離が進められ、城・重臣屋敷・一般武家屋敷・足軽屋敷・寺社・商人町・職人町が綿密な都市計画(町割)によって配置されている。
②同業者を集住させるため「鍛冶町」「大工町」といった町名がある。
③防御要地や城郭弱点に寺町が「要塞」として配置される
④街路幅が狭く、T字路・カギ型・喰違や袋小路がある。
⑤城下町全体を堀や上塁などによって囲む。
⑥京都の町割をまねて、碁盤日状の整然とした町割を形成
⑦長方形の街区が街路に面して並び、奥行の深い短冊形の町屋敷が続く
⑧街路両面に町屋敷が一体となって町を構成する両側町の形態をとる
以上の8点が指摘されています。 
これらの特徴が引田城に見られるのでしょうか。各項目をチェックしていきましょう。
⑦の町割・屋敷割りを、まず見てみましょう。

5hiketaHPTIMAGE

 砂嘴の上に立地していますので少し湾曲していますが、長方形の街区が積み重ねられた構造です。敷地は街路に面する間口が狭く奥行の深い短冊形の屋敷割になっています。長方形街区の長辺の方向は一定ではありませんが、全体としては計画的な町割となっています。ここからは、誉田八幡官付近から南方の足谷川付近までの町割は、同時期に普請されたと研究者は考えているようです。

1引田城下町4
②の町名を見てみましょう。
 引田の街は現在は「引田町引田○○番地」で登記されていますが、「松の下」などの町名が残っているところもあります。それを、住宅地図などから挙げると
「松の下」「魚の棚」「久太郎町」「大工町」「草木町」
「北後町」「南後町」「北中の丁」「南中の丁」「寺町」
「大道一~四丁目」「本町一~五丁目「本町六丁目浜」
「本町六丁目岡」「本町七丁目」

などがあります。このうち「大工町」は各地の城下町に見られる職人町名です。また南北の「中の丁」のみ「町」ではなく「丁」の字を使っています。生駒親正によって建設された高松城下や九亀城下では,侍屋敷を一番丁、二番丁と呼んでいます。全国的にも武家町が「丁」、町人町が「町」を用いていた例があるようです。引田町も「丁」は武家町であった可能性があります。
 「中の丁」には近世に大庄屋であった日下家があり、他地域に比べると屋敷面積が広いようです。重臣たちの住居エリアであったことがうかがえます。
第7図は、研究者が地域の人たちからの聞取調査で作成した「町」の範囲のようです。「松の下」と「魚の棚」がひとつになって「松魚」と呼ばれたりして正確でない所もあるようですが⑧の両側町のスタイルであることが見て取れます。

1引田城下町5

③の寺町については、積善坊・善覚寺・高生寺の三寺が一列に並び「寺町」を形成します。
第9図で見ると、寺町の位置は、高松からの讃岐街道が引田の街に入る入口付近になります。
寺社が要地や城郭の弱点と思われる場所に複数まとまって配置
という寺町の規定に当てはまる要衝になる場所です。この3つの寺院の沿革についてはっきりしたことは分からないようです。しかし、三寺はすべて真言宗の寺院です。生駒親正は、讃岐に入部するにあたり讃岐が弘法大師生誕の地であることから真言宗に改宗したことが知られています。真言宗派による国内統治策の一貫だったのかもしれません。
また、誉田八幡宮の南には別当寺で真言宗の城林寺がありました。
 しかし、明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。この寺の唐破風造りの玄関が寺町の積善坊に移築されています。その差物上部には生駒家家紋の「生駒車(波引車文)」の彫物があります。この家紋は『讃羽綴遺録」よると文禄・慶長の役以降に生駒家が使っていたものです。誉田八幡宮別当寺の城林寺は、生駒家ゆかりの寺であったことがうかがえます。
次は④の「街路幅が狭く,街路をT字路・カギ型・喰違いにしたり袋小路にしたりしている」です。
敵の進入路と第1に考えられるのは街道筋です。引田城の場合は、
A 高松側や阿波側から街道筋を通り
B 御幸橋で小海川を渡り
C 引田城へ
というルートになります。
第9図A地点を見ると、それに備えて二つのT字路が造られていのが見て取れます。また道幅は狭く、十字路の多くは筋違いになっているため周囲の眺望がききません。砂嘴が湾曲していることもあって見通しが効かず、よそ者は道に迷いやすい街並みです。これらは城下町として、生駒氏が意図的に造りだした可能性が高いと研究者は考えているようです。


1引田城下町3

  砂嘴を開削した小海川河口部は、次のような点から内堀としての性格をもつと考えられます。
①誉田八幡神社の南側が城主の居宅や上級家臣の居住区である可能性が高い
②河川は砂嘴を横切っており、砂嘴を最短距離で開削していない。これは両岸の町割の方向と合致する
つまり、砂嘴を通した小海川が内堀で、その北側が重臣たちの居住区エリアであり、そこに港もあったということになります。そして、城下町の建設と流路変更は同時期に行われた可能性を指摘します。

第8図は「沖代」の地籍図の部分です

1引田城下町6

ここには周囲の地割とは異なる細長い地割が積み木のように重なっています。これは何を意味するのでしょうか?研究者は

「周囲の水路とは異質な幅広の堀状の水路が存在」

を読取り、これを「堀の痕跡」であると推察します。堀状の地割の方向は、城下町の地割の方向と一致します。そして、南側の条里型地割や潟湖跡地の水田地割とは不連続です。このことも城下町外側の堀の痕跡説を補強します。
 城下町南端を区切るように足谷川という小河川が流れています。
 この流れも一部丘陵を開削開削した人工河川だと研究者は指摘します。足谷川の河道はもとは第2図Cの位置であったと推定され,第8図の細長い地割がその痕跡と云うのです。そうであれば小海川や古川の流路固定と同時期に足谷川も流路が変更・固定され、周辺の水田開発が進行ます。そして、その後に現在の流路に付け替えられたことが地割の前後関係から推察されるようです。足谷川は、城下町建設以後に流路変更が行われたことになります。

5hiketaHPTIMAGE
   以上から引田城の囲郭ラインは次のようになります。
①東は瀬戸内海
②北と西は砂嘴背後の低湿地という自然地形を利用し,
③砂嘴を開削した小海川河口部が内堀
で総構えの構造となっていたと推定できます。このような構造は戦国末・織豊期の特徴です。
 引田の街は城下町としての性格を持っていることが分かります。

1引田城下町7

                 
10図は現在の小海川の流路南側の10cm等高線図です。これは各水田の標高をもとに作られたもので微起伏が等高線で示されています。小海川は左から右へ流れています。ここからは、次のようなことが読み取れます。
①現在の小海川は古川に向かって流れてる
②しかし、低い所に向かって流れるのではなく、一番高いところを通過している
 これは何を意味するのでしょうか。
もちろん、天井川となって周囲に土砂が堆積して標高が高くなっているということもあるでしょう。しかし、これは河道が人の手によって作られ固定されたことを示していると研究者は考えています。
 もう一度確認すると現在の流れは、北側の丘陵の裾に沿って直線状に流れ、砂嘴と西からの丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいるのです。一番狭くなっている所から下流の河道左岸には、幅広の堤防が築かれています。このような小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に排水することを目指したものと推察できます。

 小海川の旧河道であった安戸・松原には明治末年まで塩田が拡がっていました。
5引田3

白鳥町の教蓮寺の享保11(1726)年の教蓮寺縁起には,天正15(1587)年に生駒親正が旧任地の播州赤穂郡の人たち数十人を白鳥松原に移住させ、製塩を始めたことが記されています。また寛永19(1642)年の「讃岐国高松領小物成帳」には松原・安戸に塩222石3斗が課せられています。ここからはこの地域で製塩が行われていたことが分かります。引田に近い阿波国撫養でも天正13(1585)年に、播州龍野から阿波に転封された蜂須賀家政が,播州荒井から2人の製塩技術者を招き塩田開田を始めています。近世初頭の瀬戸内海沿岸の大名にとって製塩は、最重要の殖産事業でした。
引田町歴史民俗資料館に「旧安堵浦及浜絵図」が保管されています。
1引田城下町8

これは引田塩政所(庄屋)であった菊池家が所蔵していたもので「天明八年」(1788年)の記載から18世紀後半以降の安堵(戸)浦の塩田が描かれています。絵図中央に「大川」という(旧)河川が右から左へ流れ、左の河口部には塩田を守るために石垣堰堤が築かれています。
そして(旧)と括弧書きにしてあります。これが小海川の旧河道である大川の当時の姿のようです。大川は締め切られて現在の小海川と連続していなかったことが分かります。  川のひとつの流れは誉田八幡と引田城の間から引田港へ抜け、河口部は「江の口」と記されています。
1引田城下町9

写真6は、河口付近を拡大したものです
大川の河口部沿岸は堤が築かれ、各所に石水門やユルが描かれています。満潮時に大川を上がってくる塩水を引き入れる入浜系塩田が開かれていたことが分かります。引田の塩田開発当初の状況がうかがえます。ここからは、小海川の流路を変更することによって、淡水の流入や洪水による被害を防止し、本格的な塩田開発が行われたことがうかがえます。小海川のルート変更は、
①引田城の防衛ラインである内堀
②引田城下町の洪水対策
③旧河口(大川)の安堵への本格的製塩の殖産
という「一挙三得」を実現したものだったようです。
5引田unnamed (1)


以上のように,引田城下町は小海川のルート変更とともに備された可能性が高いと研究者は考えます。
 生駒親正は引田に入部した翌年に、高松城の築城を開始します。しかし、引田城がこの時に1年未満で完成したとは云えないようです。生駒親正が本格的に高松城の築城を始めるのは、発掘調査の瓦の出土量などから関ヶ原以後であることが分かってきました。それ以前の政治情勢を考えると
①秀吉生存中は、朝鮮出兵で多額の戦費が係り、藩主も不在であったこと
②天正年間では大名たちの国替えが頻繁に行われ、腰を落ち着けての国作りや城作りに着手していないこと
というこたが指摘されます。慶長2(1597)には、支城として丸亀城を築き、嫡子・一正に守らせています。高松城だけでなく支城を築き一門を配しています。引田城も同様の性格があったようですが、ここに本格的な城が築かれるのも関ヶ原以後のことになるようです。
白鳥町の与田神社の『若一王子大権現縁起』は享保年の記載があることから18世紀以降のものとされますが、ここにはつぎのようなことが記されています
「 銀杏樹在 寒川郡奥山長野。因国君生駒讃岐守俊正公弟,
生駒甚助某受 封於大内郡而居引田与治山城
慶長十九年 応大坂召予兵而往拠城 明年元和元年夏五月七日城陥。於是甚助逃帰而匿奥山
俊正公属関東 故尋求執而誅之 葬諸銀杏樹下
意訳すると
銀杏の木が寒川郡の奥山長野にある。讃岐国藩主生駒俊政の弟・生駒勘助は、大内郡引田与治山城を治めていたが、慶長十九年の大坂の陣に豊臣方を支援し、大阪城に参陣するも破れ、明年元和元年夏五月七日に大阪城が陥落すると讃岐に逃げ帰り、引田の奥の山に逃げ隠れた。藩主俊正は関東の家康方についたので、弟での勘助を探索し捕らえ誅殺した。そして銀杏樹下に葬った。

とあります。「讃羽綴遺録』にも、生駒甚助が大坂夏の陣の際に、豊臣方につき元和元年に讃岐国において誅殺されるという記載があります。
 ここからは生駒甚介(三代藩主正俊の弟)は、引田城主として、東讃岐を支配してことが分かります。そして大坂夏冬の陣には、大阪城に立て籠もったというのです。生駒藩藩主の兄弟の間にも「路線対立」があったようです。大阪城陥落後は、引田に戻りますが、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。
 その所領を継いだのが生駒隼人になります。
 生駒隼人は、四代藩主壱岐守高俊の弟になります。引田城は代々藩主の弟が守るお城であったようです。彼の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しています。これは引田城の「城主」であったからでしょう。彼の下に配された侍数は26人ですが、生駒騒動の際には、その全てが集団ボイコットに参加し、生駒家を去っています。讃岐に根付いていない在地性弱い外来の侍集団であったことがうかがえます。
どちらにして、生駒藩では知行地制が根強く残り、引田城は藩主の弟が「城主」として治められていたことがわかります。つまり、関ヶ原以後に、「城主」となった「藩主の弟」たちがお城はともかく、城下町については整備したとも考えられる余地は残ります。

  関ヶ原前後に高松城も含めて、近世的城郭を3つ同時に整備する背景には何があったのでしょうか?
生駒親正の構想は
中央に高松城、
西讃の丸亀城
東讃の引田城
を配して、讃岐防衛と瀬戸内海交易ルートの確保にあった思われます。しかし、3つの城の建設が関ヶ原の戦いの前か、後かで仮想敵勢力は変わってきます。
①関ヶ原の前に築城されたとすると、秀吉の死後の東西抗争に備えてということになります。
②関ヶ原の後だとすると、家康の意をくんで毛利や島津の西国大名への備えのため
ということになるのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①生駒親正は讃岐における最初の拠点を引田に置いた
②引田城の本格的な整備は関ヶ原の戦い前後に始まる
③引田は、マチ割り、寺町・職人町・街路構造等に近世城下町の要素もつ
④引田城下町の整備は小海川の付け替えと密接に結びついている
⑤新しく開削された小海川は「内堀 + 運河 + 洪水対策 + 旧河道河口の塩田化」など多くのプラス面をもたらした。
⑥生駒藩では、引田城には藩主の弟が入り大内郡を「城主」として治めた。
⑦引田城主の生駒勘助は大坂の陣では豊臣方について参戦し、大阪城落城後に逃げ帰り切腹した。

ここからも生駒藩では知行制が温存され「城主」や家臣団の「自由度」が高かった気配が感じられます。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討     


桶狭間の戦いが行われて数年後の永禄九(1566)年、備中新見から京都までの移動記録があります。「備中国新見庄使入足日記」です。高梁川を遡った新見は、京都の東寺の荘園でした。そこでこの荘園と東寺との間には人とモノの行き来があり、それを記録した文書ももたくさん残されています。この文書は新見荘を管理するために派遣されていた役人が、都へ帰ってくるときの旅費計算記録です。だから途中でいくらかかった、どこに泊まっていくらかかったという旅費計算がしてあります。お金が絡むことなので、丁寧に書かれています。しかし、残念ながらそれ以外の記述は何もありません。実に実務的な文書ですが、このコースの中に何故か讃岐が出てくるのです。
 戦国時代の旅費計算書を見てみましょう。
新見庄を出発して高梁川を下って松山、それから高山、それから倉敷、塩飽、引田、兵庫、堺、大坂、守口、枚方、淀、八幡(石清水八幡宮)というルートです。
引田 新見1

永禄九年(1566)備中国新見庄使入足日記
教王護国寺(東寺)文書
永禄九年九月廿一日使日記
廿一日、二日 十六文  新見より松山へ参候、同日休み
廿八日     三文 人夫 高山より舟付迄

 「永禄九年九月廿一日使日記」、これがタイトルのようです。
9月21日に新見を出発しています。歩いての移動ではありません。高梁川の川船で下っていくのです。
高梁川3
廿一日、二日、二日間で十六文、日付の後には費用が書かれます。ここでは松山の宿代のようです。
「新見より松山へ参候、同日休み」
とあります。松山は「備中松山」で今の高梁のことです。ここで休憩のようですです。

高梁川1
高梁と高梁川
どうして松山で休息し、長逗留するのでしょうか。
当時は、松山に備中の国の守護所がありました。そこで、挨拶に上がったようです。守護所関係者に黙って通過というわけにはいかないのでしょう。ちなみに当時の備中守護は京兆家の細川氏で、本家の方の讃岐の宇多津に守護所を構える細川家の分家筋にあたるようです。そのため備中と讃岐の間に開ける備讃瀬戸は、細川氏の支配下にあったことになります。つまり、瀬戸内海の海上交通を細川家は真ん中で押さえることができていました。
備中松山というと、ずいぶん内陸に引っ込んでいるように見えますが、実は高梁川を使っての川船で瀬戸内海につながっていたことが分かります。

高梁川2
廿八日 三文 人夫 高山より舟付迄
「廿八日三文」、これは人夫賃です。荷物を運んでもらってます。
舟付というのは船着場のことです。高山は総社市高山城(幸山城・こうざんじょう)の近くにあった川港のようです。標高162mの山城からはゆっくりと流れ下る高梁川は眼下に見えます。重要輸送ルートである高梁川防備の戦略的な位置にあります。倉敷の手前までやってきたようです。
「廿八日夕、九日朝、四十文、旅籠、舟付迄」。
28日は高山に泊まって、翌日に旅籠をでて船着場に向かい、再び川船で倉敷に向けて下っていきます。

1 塩飽本島
塩飽本島(上が南)

倉敷から塩飽へ
廿八日 百五十文 倉敷より塩鮑(塩飽)迄
九月晦日より十月十一日迄、旅篭銭 四百八十文 
          十文つゝの二人分
十二日 十二文 米一升、舟上にて
  高山を朝に出て、高梁川を下り、その日のうちに倉敷から塩飽へ出港しています。倉敷より塩鮑(塩飽)迄の百五十文と初めて船賃が記されます。高梁川の川船の船賃は書かれていません。
ここまでは、船賃が請求されていないのはどうしてでしょうか?
高梁川は、新見庄の舟で下ってきたようです。鎌倉時代の史料から新見庄には、荘園に所属している水夫がいたことが分かります。カヌーで高梁川を下ると分かるのですが、この川は緩やかな川で初心者クラスでも川下りが楽しめます。特に高梁から下流は瀬もほとんどなく、ゆったりのんびりとした流れです。ここを昔は川船が行き来たことが納得できます。新見・松山・高梁と倉敷は高梁川でつながっていたことがよく分かります。
十文つゝの二人分
というのは二人で移動しているので経費はすべて二人分です。宿賃はどこの宿も十文です。そして150文が倉敷から塩飽までの二人分船賃です。宿代に比べると船賃が高いという気がします。塩飽のどこに着いたのかは何も書かれていません。しかし、当時の様子から考えると本島北側の笠島集落が最有力のようです。

本島笠島
「九月晦日より十月十一日迄、旅寵銭」、
9月29日から10月11日まで、塩飽での長逗留です。
ここで疑問
①なぜ塩飽にやって来たのでしょうか? 
牛窓方面から室津と山陽道沖合航路を進まないのでしょうか?
②なぜ塩飽で11日間も留まるのでしょうか。
①は、倉敷から塩飽への船賃は150文と記されますが、塩飽から次の寄港地までの船賃はありません。ここから先ほどの川船と同じように東寺の持舟を利用したことが考えられます。
本島笠島3

②については
当時は「定期客船」などはないので、商船に便乗させてもらっていました。当時の塩飽諸島は瀬戸内海という交易ハイウエーのサービスエリア的な存在で、出入りする商船が多かったのでしょう。そこに寄港する便のある東寺所属の商船の到着を待っていたのかもしれません。
十二日 十二文    米一升、舟上にて
 同日  五文     はし舟賃
十三日 舟二文    旅篭 引田
十四日  二文    同所    
十五日  二文    同所
   四十二文   米三升五合 たうの浦にて
十六日より十九日迄  同所
十九日 十文     宿賃
廿日より廿四日迄 百六十文   兵後(兵庫)にて旅篭
 壱貫百五十文 しはくより堺迄の舟賃
塩飽(本島)から引田へ
12日になって「舟の上で米を1升買った」とあります。ここから12日、塩飽のどこかの港から出港したことが分かります。
同日12日の「五文 はし舟(端舟)賃」とは、
端舟は、はしけのことのようです。港まで入港できず沖で待つ客船への渡賃が五文のようです。どこに着いたのかは翌日の旅籠代の支払先で分かります。なんと引田です。

引田 新見2
京都に向かうのにどうして引田へ?
  引田は讃岐の東端の港町です。今では香川の「辺境」と陰口をいわれたりしていますが視点を変えて「逆手にとって発想」すると、近畿圏に一番近い港町ということにもなります。そして、背後には古代のハイウエー南海道が通ります。そのため、都と讃岐の往来の一つの拠点が引田でした。
例えば
①平家物語の屋島合戦への義経ルート、
②鎌倉時代の南海流浪記の道範ルート、
など、讃岐への入口は引田です。

siragi
   引田の地理的な重要性について
引田は、南海道と瀬戸内海南航路という陸上交通と海上交通が連結ポイントになっていたようです。讃岐の人が都へ上ろうと思ったら、引田まで行けばいいわけです。そこまで行くのは、自分で歩いいく。これは、ただでいけます。そして引田から舟に乗るのです。宇多津あたりから乗ると、宇多津から引田までの船賃がかかります。だからなるべく東の方へ、東の方へと歩いて行く。そして、引田から乗るというのが中世の「作法」でした。
中世の和船
 「兵庫関雑船納帳」に出てくる引田舟を見てみましょう
当時、兵庫津(神戸港)には、海の関所が設けられていました。これを管理していたのは、東大寺です。後に春日大社、興福寺も加わります。この文書は、東大寺の図書館に残っていたもので、室町時代の終わり頃の文安二年(1455年)のものです。ここには、小さな船についての関税の台帳が載っています。一艘につき一律四五文の関税が課せられています。
『兵庫関雑船納帳』(東大寺図書館所蔵)
(文安二年(一四四五)七月)廿六日(中略)
四十五文 引田 人舟 四十五文 大木五六ハ 人舟 引田
四十五文 引田 四郎二郎    大木ハ五ハ
「人舟」とあるのは、人を運ぶ船、
「大木五十ハ」の「ハ」は一把二把の把だそうです。一束が一把になります。
大木五十把とは、何を運んでいたのでしょうか。
この舟は薪を運んでいたようです。都で使うための薪が、瀬戸内海沿岸の里山で集められ、束にして船で都に運ばれていたのです。木を運ぶ船という意味で木船と呼ばれていたようです。都の貴族達の消費生活は、燃料までもが地方からの物品によって支えられていたことが分かります。日常品が大量に瀬戸内海を通じて流通していたのです。
兵庫北関1
   兵庫北関を通過した舟が一番多い讃岐の港は?
  この表からは宇多津・塩飽・島(小豆島)に続いて、NO4に引田が入っていることが分かります。その数は20艘で、宇多津や塩飽の約半分です。
兵庫湊に入ってきた讃岐船の大きさを港毎に分類したのが下の表です。
兵庫北関2
200石を越える大型船が宇多津や塩飽に多いのに対して、引田は50石未満の小型船の活動に特徴があるようです。
  どんなものが運ばれていたかも見ておきましょう。
兵庫北関3
  積み荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の八〇%にあたります。
ちなみに塩の下に(塩)とあるのは塩の産地名が記入されていたものです。例えば「小豆島百石」と地名が書かれていて「地名指示商品」と研究者は呼んでいるようです。これが塩のことです。塩が作られた地名なので、( )付きで表しています。

中世関東の和船
  関東の中世和船
 こうしてみると讃岐の瀬戸内海港とは「塩の航路」と呼べるような気がしてきます。古代から発展してきた塩田で取れた塩を、いろいろな港の舟が運んでいたことが分かります。塩を中心に運ぶ「塩輸送船団」もあったようです。それは片(潟)本(古高松)・庵治・野原(高松)の船で、塩専門にしており、資本力もあったので、持船も比較的大きかったようです。
 話を引田に戻すと、引田にも中世から塩田があったので、地元産の塩を運ぶと同時に、周辺の塩も運んでいたようです。こうして引田湊は、港湾管理者としての役割を担っていた誉田八幡神社を中心に、商業資本の蓄積を進めていきます。この旅行者達がやってきてから20年後には、秀吉のもとで讃岐領主となった生駒親正は、この引田に最初の城を構えます。それは、東讃一の繁栄ぶりを見せていた湊の経済力を見抜いたからだと私は考えています。
   引田で長居しすぎたようです。結局10月12日に塩飽からやってきて、19日まで引田に逗留していたようです。引田の交易上の重要性を再確認して、今日はこれくらいしにします。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 県立文書館紀要3号(1999年)

                          

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